薩摩島津家について

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1日本@名無史さん
語ろうと思ったけど、やめた。
2日本@名無史さん:05/02/15 16:44:43 ID:KnVXTvxe BE:73815375-
削除依頼しとけよ
3日本@名無史さん:05/02/15 16:50:57
若島津について語るスレに変更します。
4:05/02/15 16:53:34
このスレ島津(始末)しておけよ!ウヒャヒャヒャヒャヒャ
5日本@名無史さん:05/02/16 14:34:15
そんな駄洒落いうやつは島津におえない
6日本@名無史さん:05/03/03 09:40:52
島津(しまっ)た。
7日本@名無史さん:05/03/10 19:09:39
島津貴子
8日本@名無史さん:05/03/10 20:22:52
5代目じゅう島津師匠。
9日本@名無史さん:05/03/10 20:32:45
じゅう島津住職でしょ
10日本@名無史さん:05/03/10 20:37:46
(≧3≦)=3 プッ
11日本@名無史さん:05/03/10 21:15:07
もともとが、始末屋、暗殺部隊、ヒットマンの末裔だよ
島津は 明の国の兵隊が鬼シマンズと恐れるわけさ
日本で一番凶暴な氏族だよ 明治維新を見ればよくわかるだろう
12日本@名無史さん:05/03/10 21:34:22
もともとは歌人の家の出
島津家始祖の忠久の父の惟宗広言は後白河院に今様の名人として
近仕した
私撰集『言葉集』を編纂。家集『惟宗広言集』がある。
千載集初出(5首)。勅撰集には計6首入集。
13日本@名無史さん:05/03/11 15:40:06
>>11
m9(^Д^)プギャーーーッ
14日本@名無史さん:05/03/16 19:13:06
忠久は広言の子ではない
忠康だったかな
15日本@名無史さん:05/03/18 22:10:33
忠康って誰だよ?
系図では広言になっているぞ
16日本@名無史さん:05/03/18 22:15:21
確かに広言みたいな文人の子ではしっくりこないな。通字も違うし。
17日本@名無史さん:05/03/18 22:19:28
島津といえば義弘をイメージするから勇ましく感じるのだろうけど
島津家歴代すべてが勇ましかったのか?というと
よく知らないが、たぶん勇ましくなかった人もいたんじゃないの?
18日本@名無史さん:05/03/18 22:20:55
室町時代、一度しか上洛しなかった島津。
19日本@名無史さん:05/03/18 22:25:39
戦国時代の島津義久は古今伝授を受けた秀でた歌人だし
島津義弘もよく和歌を詠んでいたそうだから
目立たないけれど島津家には歌人としての伝統が流れているような感じがする
20日本@名無史さん:05/03/18 22:33:45
武士は知識階級なんだから、歌ぐらいは普通に作る
21日本@名無史さん:05/03/18 22:36:01
古今伝授は普通には受けられないだろw
22日本@名無史さん:05/03/18 23:26:47
>>15-16
確かに通字の問題から島津忠久の実父は惟宗広言ではないと言う説も有力です。
九州の別の武将で惟宗広言を先祖とする一族がおり
鎌倉時代にはお互いの系図が偽書だと言いあい、既に争論になっております。

と言うのをどこかの論文で読んだ(w
23日本@名無史さん:05/03/20 14:25:37
>>22
>鎌倉時代にはお互いの系図が偽書だと言いあい、既に争論になっております。

島津家では忠久は頼朝のご落胤で惟宗広言は養父になっているので
そういう論争は起こり得ないのではないの?
24日本@名無史さん:05/03/20 14:44:07
薩摩守忠度=無賃乗車
島津とは関係ないか
25日本@名無史さん:05/03/20 19:51:56
>>23
今私たちが見る島津の系図は色々伝えられてきたものを
寛永年間に徳川幕府の命令で提出するときに編集したものが元になっているからね。

鎌倉時代の島津の系図は今私たちが見る物とは一寸違う可能性有。
26日本@名無史さん:2005/03/26(土) 00:16:40
>>23
>島津家では忠久は頼朝のご落胤で惟宗広言は養父になっているので
>そういう論争は起こり得ないのではないの?

頼朝落胤説が出てくるのは15世紀以降。
>>22 が言っている争論は、13世紀(鎌倉時代中期)の話し。
27日本@名無史さん:2005/04/09(土) 02:48:41
いつの間にかまともな話になりつつある。期待しているよ
28日本@名無史さん:2005/04/16(土) 15:00:49
あげ
29日本@名無史さん:2005/04/16(土) 15:11:36
島津忠義の娘は美人が多いだけではなく長生きも多い。
六女貞子96歳、十女為子92歳等。
30日本@名無史さん:2005/04/16(土) 15:17:00
信長の野望などの戦国シミュレーションでは島津を選ぶと超有利

・背後から攻められる心配が無い
・有能で長生きな人材が多数
・ふんだんな鉄砲
・海戦もイケル
・かっこいい
31日本@名無史さん:2005/04/16(土) 16:28:19
>>29
へぇ
ところで忠義氏の正室氏(二人とも斉彬の娘だったと思うが)は次々と夭折したと記憶してるのだが
となるとこの娘さん達はいわゆる側室との間の子と言うことになるの?

>>30
つ ttp://hobby5.2ch.net/warhis/
32日本@名無史さん:2005/04/16(土) 16:58:27
sage
33日本@名無史さん:2005/04/17(日) 13:53:39
道南に島津姓が多いね。 なんで?
34日本@名無史さん:2005/04/17(日) 14:58:21
>>33
移住した
35日本@名無史さん:2005/04/17(日) 15:06:18
何で移住したんだろ?
とうほぐの藩のような事情はないはずだが
36日本@名無史さん:2005/04/17(日) 17:05:24
>>35
開拓使に関係あるんじゃないの?
37日本@名無史さん:2005/04/17(日) 17:33:04
島津家って、実は挑戦系だと聞いたことがあるが本当?
38日本@名無史さん:2005/04/17(日) 18:02:26
>>36
北海道は寒かろうに・・・
39日本@名無史さん:2005/04/18(月) 03:13:55
島津だからって薩摩だけとは限らんだろ
40日本@名無史さん:2005/04/18(月) 04:38:34
>>37
本姓惟宗なので、遡れば秦氏、すなわち新羅系。
但し、そんなん言い始めたらキリがない。田村麻呂や津軽氏や
現在いる村主さんとか勝さんとかいう苗字の人とか、錦織さんとか
大友、丹波、秋月、大蔵、早良、原田、赤染、菅野、真野、三善、‥‥
赤染衛門や三善清行なんて、日本人とするのが自然。
41日本@名無史さん:2005/04/18(月) 13:06:33
「島津 北海道 開拓」ググってみた。
明治に分領制とやらで北海道の開拓を、強制的に幕府から命じられたらしい。
一度は断って、二度目はその負い目から相当本気で開拓に取り組んでたみたい。


エロイ人、補足してください。
42日本@名無史さん:2005/04/18(月) 17:20:03





島津久永氏 佐土原藩主・子爵家の次男




43日本@名無史さん:2005/04/18(月) 17:36:36
>>31
はい。忠義の正室の産んだ子は死にました。なので成人された方は皆側室腹だと思います。
44日本@名無史さん:2005/04/18(月) 17:40:36
現当主は島津修久さんでしたっけ?
45日本@名無史さん:2005/04/18(月) 17:50:09
>>43
d楠

>>44
pipon
46日本@名無史さん:2005/04/18(月) 18:06:35
>>45
47日本@名無史さん:2005/04/18(月) 18:09:32
Why do you have a pen ?
48日本@名無史さん:2005/04/20(水) 19:06:45
良子皇太后が長生きだったのは島津の血のおかげ?
49日本@名無史さん:2005/04/20(水) 19:54:58
島津の血すげーw
長生きするわ体躯はでかくなるわ、
本格的に研究したら生体兵器が作れるんじゃね?ww
50日本@名無史さん:2005/04/20(水) 21:21:05
>>48
時代のせいもあるかと

>>49
>体躯はでかくなるわ
そーすぷりーず

長生きの家系かどうかと言うと短命な藩主もいる罠
確か宝暦治水を命じられたときの藩主(重豪の伯父と父だったか)は2代に渡って20代の若さで死んでたかと
しかし他藩と比べると一度も他家から養子を迎えたことが無く、強靱な血脈を護ってるのは確か。
51日本@名無史さん:2005/04/20(水) 21:23:34
重豪はもの凄い長生きだけど。
52日本@名無史さん:2005/04/20(水) 22:05:22
義久、義弘の祖父である日新の肖像は漫画みたいだが、誰も怒らな
かったのだろうか?
53日本@名無史さん:2005/04/21(木) 00:29:05
>>52
し〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ
あれは見なかったことにするのよ!(w
54日本@名無史さん:2005/04/21(木) 01:24:44
>>17
島津と言えば田舎武士、勇猛というイメージがあるが
実際は地方の名家なんてのは武田とかもそうだが地方貴族的な側面もあり文化に憧れていた。
良く今川義元をお歯黒ダヌキとか文弱に流れたなんてこんにちでは言われてるが地方の名門武士はみんなそんなものだった。
和歌を習い、茶道を楽しみ、貴族ふうの格好をし、合戦の時も高貴な格好でのぞんだ。
島津家久は合戦の時はお歯黒を欠かさなかったというが、他の者たちもそんなもんだろうね。
55日本@名無史さん:2005/04/21(木) 01:32:52
>>33
明治の名字令の時にたくさんの昭和新姓が生まれた。
薩摩のある村では全員が「島津」という名字が良いと希望し全員島津姓になったという。
そんなふうに島津家とは縁もゆかりもない連中が島津姓にあこがれたり何か良い事あるのではないかと
島津を名乗った連中もたくさんいる。

少し関係ないが、政府が武田家嫡流を認定しようとしたさい、
多数の「わが家こそは」という立候補がありその中には
単に名字が「武田」というだけの連中もたくさん応募していたとか。
56石川県人:2005/04/21(木) 01:42:56
俺も前田だし県内には「前田」という名字は多いけど、別に周囲に何も言われないし、
俺自身、自分の家系が前田の殿様と関係あるのかなんて思った事一度もないな。単に平凡な名字だからだろうがな。
明治の名字必称令で地元の殿様と同じ名字、名乗った家って多いと思う。
57日本@名無史さん:2005/04/21(木) 07:18:25
>>55
将軍と同じ「徳川」を名乗った連中もいる
58日本@名無史さん:2005/04/21(木) 18:39:07
>>50
ソースは探し中。
とりあえず「島津 身長」でググってくれ。
なぜか島津姓はどいつもこいつも長身だから。
59日本@名無史さん:2005/04/21(木) 19:34:02
島津家の人が長身っていうのは初耳だな。
島津に醜相なしはよく聞くけどね。
60日本@名無史さん:2005/04/21(木) 21:02:20
失礼な話だが、皇室の顔立ちの傾向を変えた香淳様は?

それと関係なしに肖像画なんだけど、
一般に知られてる義弘のあれは典型的弥生人に見える。
61日本@名無史さん:2005/04/21(木) 23:29:23
>>55
> 薩摩のある村では全員が「島津」という名字が良いと希望し全員島津姓になったという
この部分のソース教えてくれ。

殿様の姓を取るなんて封建的な鹿児島では考えられんが。
以前鹿児島に住んでて何人か島津姓の人と会ったことあるが、皆旧藩主一族の人だった。

鹿児島の新姓の話だと、薩摩半島に鰻温泉というところがあるのだが、そこら辺の住人が皆苗字を鰻にしたという話は聞いたことがある。
ただ、あまりにおかしいということで後で改姓した家が多かったらしいが。
一応今でも鰻姓は少しだがいる。

鹿児島は士族の苗字があまりバラエティに富んでないので苗字で旧身分が分かることがあるんだよね・・・
62日本@名無史さん:2005/04/22(金) 16:14:12
鹿児島は「園」が付く苗字が多いよな。
63日本@名無史さん:2005/04/22(金) 18:16:01
>>62
「院」じゃなくて?
64日本@名無史さん:2005/04/22(金) 21:28:57
花村紅緒さんの婚約者、伊集院忍少尉も薩摩の後裔?
65日本@名無史さん:2005/04/23(土) 00:18:28
>>64
マンガ上の架空の人物を語るのも何ですが(w

設定では伊集院家は官軍側、花村家は幕府側と言うことだったので
伊集院家は薩摩藩士の後裔とされていた可能性もありますね

あとは「懐かしマンガ板」当たりに行けば回答返ってくる鴨
66日本@名無史さん:2005/04/23(土) 09:56:57
島津製作所は関係あるの?
67日本@名無史さん:2005/04/23(土) 10:45:13
アニメで見たら、伊集院家は「公家屋敷」なんて表現で呼ばれていて、
薩摩武士の伊集院伯爵が公家の家に婿入りしたようなニュアンスだったが。
68日本@名無史さん:2005/04/23(土) 10:53:51
NHKの女子アナ、島津有理子は埼玉生まれだけど薩摩と関係あるのかな
島津だったら家紋はやっぱり○に+なんだろうか?
69日本@名無史さん:2005/04/23(土) 11:40:51
>>66
ttp://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1111659035/11

>>68
明治維新以降、鹿児島から関東に移住した島津一族は多い。
但し、後北条氏に仕えていた島津氏もいたらしいんだよね。
上杉に仕えていた信濃在住島津氏(薩摩島津氏の遠い親戚)もいるし。

ということで、引き続き島津有理子アナ情報募集(w
70日本@名無史さん:2005/04/28(木) 12:42:21

在日さんが、その土地のメジャーな武将苗字を名乗るのはよくある話でして。

71日本@名無史さん:2005/04/28(木) 22:01:21
72日本@名無史さん:2005/04/28(木) 22:07:13
>>71の島津義弘の軍功記の作者(?)島津修久って誰?
73日本@名無史さん:2005/04/28(木) 22:09:42
島津は秦氏系の朝鮮人
74日本@名無史さん:2005/04/28(木) 22:19:59
>>72 「島津修久」でぐぐれ
>>73 をいをい 秦氏が渡来したのって1300年は前の話だぞ
75日本@名無史さん:2005/04/28(木) 22:21:25
秦氏というのは任那でしょう?

それと、惟宗氏というのは秦氏説が高いけど
実は、出自が曖昧であり、
また、島津氏の初代当主の忠久の実の父親も分かっていないわけで。
76日本@名無史さん:2005/04/28(木) 22:22:48
あと、秦氏というのは
当時の日本では
あくまでも漢系として分類されていた。
77日本@名無史さん:2005/04/28(木) 23:29:11
1300年前に朝鮮ってあったの?w
78日本@名無史さん:2005/04/28(木) 23:38:30
>>61
俺は>>55ではないが俺も確かそういう話しは「戦国ものしり事典」みたいな
一般向けにおもしろおかしく書かれた本で読んだ事はある。
ただ薩摩とは書かれてなかったかも。
7978:2005/04/28(木) 23:45:37
ソースが見つかった。
主婦と生活社「戦国時代ものしり事典」P252
80日本@名無史さん:2005/04/29(金) 00:26:04
秦氏は新羅からの渡来人。要するに朝鮮人ね。
朝鮮人島津が南方土人ハヤトを支配する国…
昔から言われてきたことだけど、
やはり薩摩は日本における異境だね。
81日本@名無史さん:2005/04/29(金) 00:33:11
>また、島津氏の初代当主の忠久の実の父親も分かっていないわけで。

えっ、下手すると完全に無関係ってことにもなるのか。
82日本@名無史さん:2005/04/29(金) 01:23:14
>80
歴史とは皮肉なもんでな、何れ中国はそこをついてくるだろ。
83日本@名無史さん:2005/04/29(金) 01:45:00
秦氏は朝鮮人とは関係ないよ。
朝鮮半島経由で日本に移住した「秦朝の末裔」を自称する部族だ。
それが事実かどうかは疑問だが、そもそも秦朝とは西域のアーリア系民族が支那方面に勢力を拡大して支配層となった民族の政権だ。
朝鮮半島というのは、通過した人間を片っ端から朝鮮人に変成する作用を持っている場所という訳ではない。
だから秦氏が本当に秦朝の末裔であれば、秦氏は朝鮮人ではない。
84日本@名無史さん:2005/04/29(金) 01:52:48
島津の先祖は古代では秦氏を自称し、藤原氏が勢力を拡大すると藤原氏を自称するようになり、
武家社会になると源氏を自称して現代に至る。
つまり先祖代々そういう連中なのであれば、そもそも秦氏かどうかさえ怪しいとも言える。
85日本@名無史さん:2005/04/29(金) 02:24:42
朝鮮半島経由で日本に移住したといえば、ソフトバンクの孫正義氏が頭に浮かぶ。
86日本@名無史さん:2005/04/29(金) 02:50:22
あれは華僑を査証した在日朝鮮人。
87日本@名無史さん:2005/04/29(金) 02:50:52
査証×
詐称○
88日本@名無史さん:2005/04/29(金) 03:04:58
>>77
5000年の歴史だと姦国人で言っている。
あやしいもんだ!
89日本@名無史さん:2005/04/29(金) 03:10:01
つまり島津家の人間が朝鮮人、もしくは朝鮮人の先祖を意味するような出自を自称した事は一度も無い。
しかしその時その時でコロコロと身分詐称するインチキ臭い習性は朝鮮人を連想させるという訳だな。
90日本@名無史さん:2005/04/29(金) 03:11:41
>>87
むしろ、僭称(せんしょう)の方が適切。
91日本@名無史さん:2005/04/29(金) 09:27:42
真偽はともかく、源頼朝のご落胤が公式な系図なんでしょ。
だったら本当のことなんかわからんよ。
92日本@名無史さん:2005/04/29(金) 09:31:09
古代の日本の中で、渡来人の出身選別では
秦氏は漢人系(中国系)として分類されている。
その分類では、任那系、百済系、新羅系などとは別待遇だった。
よって、秦氏は終始一貫、中国系とされている。

島津氏の先祖の可能性がある惟宗氏は秦氏説が高いが
これとて、確証的なことはない。
ましてや、島津氏の初代の忠久の実の父が誰か?という確証的な資料も無い。
源頼朝の落胤は嘘くさいし、後白河天皇の落胤も嘘くさい、
養父だと見られる惟宗広言は有名な文化人ではあるが、
この人物との親子関係も、近年は完全に否定されている。
可能性が高いのは、惟宗忠康とかいう無名の下級貴族だが、
これは単純に、この人物の名前に「忠」の字があるから
という推測の域を出ない。

島津家のことで確かなのは、鎌倉初期から幕末までの800年間、
終始、藤原摂家筆頭の近衛家の家臣という立場だったこと。
関が原の時も、島津義弘は近衛家に助けてもらっているし、
江戸時代も近衛家と島津家は婚姻関係を結び、
また、島津氏は主君である近衛家に財政援助したりしている。
そもそも、島津の領国は、近衛家の元荘園であり、
島津家を語る上で、近衛家の存在は絶対的なものである。
93日本@名無史さん:2005/04/29(金) 09:53:04
もともとは惟宗姓(秦氏)を名乗ってたんだから島津はチョソ。
その後藤原、源氏などと姓をころころ変えてるけど、
これは典型的なチョソの習性だよ。
94日本@名無史さん:2005/04/29(金) 12:01:40
織田信長も豊臣秀吉も姓はころころ変えてる罠
95日本@名無史さん:2005/04/29(金) 12:45:02
今日17時30分 NHK衛星第2 BS特集高松宮妃が語る昭和
96日本@名無史さん:2005/05/03(火) 02:36:02
>>93
お前には読解力というものが備わっていないのか?
97分家:2005/05/09(月) 00:08:47
島津家の第10代から12代ぐらいのことを関東地方で良く知ることが出来る
方法って何かありますか?

国会図書館で古文書を漁るしかないのでしょうか?
できたら、兄弟や分家などを調べられればと思っています。
98日本@名無史さん:2005/05/09(月) 00:35:09
>>97
とりあえず国立図書館逝って『島津氏正統系図』見るところからかな
あと『寛政重修御家譜』の島津氏の系図は見ました?これはちょっと大きい図書館にはあると思うけど
99日本@名無史さん:2005/05/09(月) 15:25:17
>>66
都城島津家の当主がやってる会社
ttp://www.marujyusangyo.jp/
100日本@名無史さん:2005/05/09(月) 19:24:40
卑しい一族島津
101日本@名無史さん:2005/05/09(月) 20:55:38
島津は韓国人島津の父より朝は韓国人清和日王は韓国人韓無日王は韓国人神武日王は韓国人
ながすね彦わ制服された倭奴
102日本@名無史さん:2005/05/09(月) 22:55:58
薩摩に食糞の習慣があったって本当ですか?かなりショック。
103日本@名無史さん:2005/05/09(月) 23:05:55
>>102
薩摩人は赤犬を好んで食べる。
104日本@名無史さん:2005/05/09(月) 23:23:39
境内に 響く大声 手に丸木
  練った分だけ 太くなりけり
105日本@名無史さん:2005/05/09(月) 23:35:03
ホロン部の皆様はこんな過疎スレに居着かず巣に帰るように。
106日本@名無史さん:2005/05/10(火) 23:06:23
>>101
捏造の激しい韓国人は消えろ。
107日本@名無史さん:2005/06/05(日) 12:31:50
いやや
108日本@名無史さん:2005/06/05(日) 18:12:28
  ♪ダサツマになるよ〜
    ◎−◎   ◎−◎
 ((∩∴)д∴)∩∴)д∴))))
   〉     _ノ 〉     _ノ
  ノ ノ  ノ  ノ ノ  ノ
  レ´(_フ   レ´(_フ

  _■_ ________________
 |∵∴∵|:::ー-ーーー-ー─ーー--ーーーー-ーー-ー,||
 |∵∴∵|::::    ダサツマの系図          i ||
 |∵∴∵|::::                      ; ||
 |∵∴∵|:::: 檀 君-──┬──文鮮明    :; ||
 |∵∴∵|::::         │            | ||
 |===|:::: 山  窩──白丁隼人       ! ||===-3
 |∵∴∵|::::           │         ; ||
 |∵∴∵|:::: マレー系土人─李氏朝鮮   |  ||
 |∵∴∵|::::              │         i  ||
 |∵∴∵|::::         島 津 家     | ||      ◎−◎;
 |∵∴∵|:::ーーー ーー- -ーー-ーー-ーー-ーー─||     (∴д(∴)  <これがバレたらマズいでゴワス
   ̄■ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
          【ダサツマの秘密】

上野の西郷さんが連れている犬はおべんとう
109日本@名無史さん:2005/06/05(日) 18:29:01
名門島津家も近衛家だけには頭があがらないかもな
110日本@名無史さん:2005/06/10(金) 09:24:37
島津家の葬式にイスラエル大使館の人間が列席した話を聞いた事がある。
家紋が十字架なのは古代ユダヤと関係があるとの話も聞いた事がある。
詳しい人、腱鞘炎にならん程度に、お導きを。
111日本@名無史さん:2005/06/25(土) 15:45:08
島津忠義の子は誰と誰が同腹なんだろうか。
112日本@名無史さん:2005/06/25(土) 22:21:53
>>111
漏れも知りたい
これはさすがに霞会館の例の本にも載ってなさそ。
113日本@名無史さん:2005/06/28(火) 18:57:22
俔子(1879生)、正子、忠重(1886生)の生母は寿満さんのはず。
114日本@名無史さん:2005/06/28(火) 19:27:58
どうでもいいだろう、薩摩なんて蛮族は。
115日本@名無史さん:2005/06/28(火) 21:08:43
>>113
d楠
寿満さんの出身は何家なのでしょうか?
ぐぐっても分からなかったので、教えてチャンでスマソ・・・
116日本@名無史さん:2005/06/28(火) 21:23:03
島津は朝鮮人
117日本@名無史さん:2005/06/28(火) 23:31:07
黒田清子(実質長女、明治4年生)から4男忠重(実質長男、明治19年生)まで1男7女は
みな続けて寿満子一人。
跡取りを産んで、やっとお役御免になったみたい。

忠重弟忠備以降の生母が一人かどうかは知らない。
寿満子の子は、みんな美形ぞろいだね。
特に忠重は眉目秀麗という言葉がぴったりだ。
118日本@名無史さん:2005/06/29(水) 11:50:21
>>117
久邇宮妃倶子妃は「・・・」な写真しか見たこと無いんだが(汗
ちなみにドイツに行ったときに梨本宮伊都子妃達と並んで撮った写真。

忠重さんはこんな写真しか転がってなかったw
ttp://www.minc.ne.jp/shimadzu/event/ph0001.jpg
119日本@名無史さん:2005/06/29(水) 17:53:11
>>117
9女徳川正子さんは?
120日本@名無史さん:2005/06/29(水) 17:56:51
>>118
常子妃に似ていますね。
121日本@名無史さん:2005/06/29(水) 18:34:06
徳川知子さんは美しい。
122日本@名無史さん:2005/06/29(水) 18:47:40
戦前の貴族院は機能していたんでしょうか?(今の参議院ぐらいは・・)
123日本@名無史さん:2005/06/29(水) 18:51:43
そげんこつは関係無か!
124日本@名無史さん:2005/06/30(木) 00:42:05
朝鮮人の島津は源頼朝の落胤という大嘘で偽源氏のチャンピオンになりました。
125日本@名無史さん:2005/06/30(木) 01:42:38
卑族・島津
126日本@名無史さん:2005/06/30(木) 22:28:41
>>119
正子さんは、須磨子さん腹の最後の女子。
127日本@名無史さん:2005/07/01(金) 00:41:18
新人物往来社『皇族・華族古写真帖』つうのを借りてきた

・・・ヤパーリ倶子さんは微妙だったなw
他には
・島津忠義
・島津の奥方(名前不明)と姫(7〜10歳ぐらい、名前不明)
・山階王菊麿王妃・常子さん
・徳川頼貞夫人・為子さん
辺りがご出演されていたが常子さんと為子さんは今でも通用する美人かと
忠義さんはつり目があの沖田浩之に似ていて微妙w 久光には似てないね。
128日本@名無史さん:2005/07/01(金) 18:44:46
黒田清子さんから久邇俔子さんまで8年間で7人の娘が生まれている。
寿満子さんは多産であると同時に女腹なんだな。
そしてその子孫同士で結婚する人もいる。
129日本@名無史さん:2005/07/01(金) 18:46:30
男竿
130日本@名無史さん:2005/07/01(金) 22:28:34
>>128
戦国時代から島津は同族内結婚が多いからね。

ところで寿満子さんって何家のご出身?
『平成華族家系集成』?には載ってなかった。
131日本@名無史さん:2005/07/02(土) 13:19:44
島津斉彬の娘寧姫は明治12年に忠寶という子を産んでいるが(漢字あってる?)忠寶が成人したら島津家を継いでいたと思う。
暐姫は明治2年に房という娘を産んだらしいが暐姫も寧姫も出産で死んでいる。
132日本@名無史さん:2005/07/02(土) 13:24:38
忠義次女充子は産後4ヶ月で池田詮政と離縁してるのはなぜ?あと出戻り後の充子がどうなったか知りたい。
133日本@名無史さん:2005/07/02(土) 13:27:24
>>117
正子さんまでなら1男9女になるが誰か寿満子さん腹じゃない人がいるの?
134日本@名無史さん:2005/07/02(土) 15:01:14
日本の肖像旧皇族・華族秘蔵アルバムっていうのもってる人いる?
135日本@名無史さん:2005/07/02(土) 16:52:12
>>130
島津久永さんと貴子さん、島津斉視さんと朝子さん等近親婚が多いですね。
136日本@名無史さん:2005/07/02(土) 17:27:34
明治時代から戦前にかけての人名にさん付けするのはやりすぎ。
137日本@名無史さん:2005/07/02(土) 17:47:23
>>132
『平成新修旧華族家系集成』によれば
年度は分からないが松平直亮(元松江藩)と再婚している。
138日本@名無史さん:2005/07/04(月) 19:32:26
>>137
松平直亮の妻は島津允子となっていたが充子の間違い?
139日本@名無史さん:2005/07/04(月) 23:27:30
>>138
ちょっと信用度は薄くなりますがw
『皇族・華族古写真帖』(新人物往来社)でも島津忠義の次女の名前は「充子」となっていました。
140日本@名無史さん:2005/07/05(火) 19:00:24
>>139
次女充子の写真を!
141日本@名無史さん:2005/07/05(火) 19:01:25
歴史捏造ファンタジー大名
142日本@名無史さん:2005/07/05(火) 19:57:57
>>140
もってねーよw
期待に添えなくてすまんな

図書館でこの辺りの本を見たら載っているかも知れないのでヒントだけころがしとく
『薩摩島津古写真集』
『日本の肖像 旧皇族・華族秘蔵アルバム』
143日本@名無史さん:2005/07/06(水) 12:38:02
久光製薬のマークが島津の家紋と一緒なのは関係があるの?
144日本@名無史さん:2005/07/06(水) 13:25:18
>>143
島津久光が創ったから
145140:2005/07/06(水) 18:51:34
>>142
いえいえ。無理を言ったこちらが悪いです。うちは田舎なのでこういう本はなさそうですね。探してみますけど。
そのかわり図書館である本に徳川家の集合写真に4女知子が載っていました。すごく美人でした。
その本の別のページに島津家のことも載っていて島津家のひとは何々印と呼ばれていたのだが誰がどう呼ばれていたのか忘れました。

>>144
本当驚きましたけど単純なネーミングですね。
146日本@名無史さん:2005/07/06(水) 19:13:26
>>145
知子はかなり美人だよね
147日本@名無史さん:2005/07/06(水) 20:22:50
>>143-144
公式HPを見ると違うようだが
ttp://www.hisamitsu.co.jp/company/enkaku.html
148日本@名無史さん:2005/07/07(木) 19:52:17
常子知子俔子為子の顔は知っているが他の人もやはり美人なの?俔子はここでは微妙な評価だが俺は美人だと思う。反対に為子は美人と普通の中間あたりで微妙。
常子はかなりの美人。知子は最高の美人。
149日本@名無史さん:2005/07/07(木) 23:51:39
>>148
正子(徳川家正夫人)はまん丸顔。瓜実顔の多い忠義子女の中で異色の風貌。
貞子(久松定謨夫人)はピンぼけの写真しか見たこと無い。系統は常子、知子に近いと思うが…
150日本@名無史さん:2005/07/08(金) 01:32:01
>>149
>正子(徳川家正夫人)はまん丸顔


そうかぁ?まん丸を上下に少し伸ばした感じだと思うが
151日本@名無史さん:2005/07/09(土) 15:10:01
正子は、若い時の写真は瓜実顔。きれいな二重まぶたで、鼻筋が通った
シャープな顔立ちの美人と思う。
中年になった頃の写真は、肥満のせいか丸顔に写っている。

家正さんが、年を取っても若い頃と容貌が変わらず貴公子然としていたの
をみると、不釣合いな感じがするね。
152日本@名無史さん:2005/07/09(土) 15:33:50
関係ないが家正さんは母親似?
153日本@名無史さん:2005/07/09(土) 16:32:21
>>152
家達夫妻、家正夫妻の集合写真を本で見たが
家正氏は目の辺りは父親似だが、全体としては母親似とお見受けした。

その集合写真、どう見ても家達夫人の方が家正夫人(正子)より若く見えるんだ罠
154日本@名無史さん:2005/07/09(土) 16:56:04
家正・正子夫婦の長男家英さんは東北帝大在学中に亡くなったみたいだね
155日本@名無史さん:2005/07/09(土) 17:13:50
なぜ東北?
都落ちか?
156日本@名無史さん:2005/07/11(月) 18:33:29
家達夫人(近衛忠房長女泰子)は母も祖母も島津家出身ですね。ただ泰子や近衛忠房が嫡出であるかどうかは知らないですけど。
157日本@名無史さん:2005/07/12(火) 18:48:54
島津久子さんは久範さんの3番めの妻で久子さんの子は久永さんだけらしい。
158日本@名無史さん:2005/07/12(火) 23:29:11
久範さんは婿養子なんだな。
鹿児島藩(本家)から分家の佐土原藩家に入ったという形。
最初の奥さんと次の奥さんは先代佐土原藩家当主の娘。
159日本@名無史さん:2005/07/13(水) 12:11:21
ちょっと前から気になっていたんだが、
ノーベル賞受賞した田中さんのいる島津製作所(京都)と、大名の島津氏って関係あるのか?
島津家の家紋と会社の社章が同じデザインなんだが。
160日本@名無史さん:2005/07/13(水) 12:55:15
161日本@名無史さん:2005/07/15(金) 11:26:49
近衛家つながりで津軽氏との関係も深いの?
ほぼ最北端と最南端。
162159:2005/07/15(金) 15:32:13
>>160
薩摩島津氏と血縁関係は無いけど、関わりがあったと言う事ですね。
163日本@名無史さん:2005/07/15(金) 17:11:03
>>159=>>162
島津氏側には記録がないので、島津源蔵(島津製作所創設者)家側の一方的な言い分かも知れない
但し、島津氏は一時期豊臣秀吉から播磨に1万石の飛び地をもらっていたこと、
また、播磨に島津氏の分家がいたこと(赤松氏の配下だったらしい)は事実。

>>161
江戸時代には島津氏、津軽氏の間に深い交流があった形跡が伺えない
島津氏が津軽氏から正室をもらったこともないし
逆に津軽氏が島津氏から正室をもらったこともない。
164日本@名無史さん:2005/07/15(金) 21:39:29
八戸藩2万石には島津重豪の息子が養子で入っているね
九代藩主南部信順がその人
そういう島津との縁で、奥羽越列藩同盟には結局入らなかったらしい
165日本@名無史さん:2005/07/25(月) 02:57:43
陸奥守の多い島津家
166日本@名無史さん:2005/07/25(月) 08:58:01
武田信玄、上杉謙信と呼ばれるなら、島津伯龍と呼ばれないのはなぜ?
167日本@名無史さん:2005/07/25(月) 12:06:29
出家したあとは、する前と比べて
あんま大した事してないからじゃね?
「義久」の名の方が皆様の記憶に残ったと。
168日本@名無史さん:2005/07/25(月) 12:41:30
>>167
プニュ( ´∀`)σ)Д`)ノシ

>>166
質問の意図がよくワカラン
ちなみに天正16年以降、文書の自署署名は全て「龍伯」になっている。
友人でもあり、平安末期から関係の深かった近衛家の当時の当主・近衛前久の出家名「龍山」
にあやかった物かも知れないが、命名の由来を明記した史料はなく、詳細は不明。
169日本@名無史さん:2005/07/25(月) 14:51:42
>>168
平安末期に近衛家はまだ無いと思うが。
島津家系図が源頼朝から始まるわけだし。
170日本@名無史さん:2005/07/25(月) 15:34:07
細かいつっこみするなあ・・・

後に近衛家となる藤原摂関家の家司であった惟宗氏の後裔が島津氏
171日本@名無史さん:2005/07/25(月) 20:42:21
>>168
なんで現代では、武田信玄や上杉謙信は武田晴信、上杉輝虎じゃなくって坊主名で呼ばれる事が多いのに、
同じく坊主の島津義久はこいつらと違って俗名で呼ばれる事が普通なのかって疑問じゃねーの?

ってか、もれ>>167なんだが何で殴られてんのかよくわからん
172日本@名無史さん:2005/07/25(月) 21:03:57
島津家は今何代目?
173日本@名無史さん:2005/07/25(月) 22:11:21
>>172
義久から数えて義弘も当主に入れると忠秀氏で16代目
174日本@名無史さん:2005/07/25(月) 22:21:01
公爵に島津から2家は多すぎ。国父とかいって
久光がいばってる。生麦事件反省しろ。
175日本@名無史さん:2005/07/25(月) 23:21:45
久光は大名ですらないのにな。
でも無位無官で勅使の護衛名目で江戸に来て、復路に生麦事件。
176日本@名無史さん:2005/07/25(月) 23:37:36
>>171
ああ、そういう意図だったのか。

出家して龍伯となった後は、”対外的に”島津家の当主と見られていたのは弟の義弘だったため
島津”龍伯”の印象は後世の歴史家には薄かったのだろう。
実際には義久が出家した後も島津家の家臣の中では
「島津家全体の当主は義久」と考えていた人の方が圧倒的に多かった。

>>174
そんなあなたに。
ttp://www.ndl.go.jp/portrait/datas/106_1.html
177日本@名無史さん:2005/08/02(火) 20:17:21
『島津』って名前が付く人は皆、島津家に由来する人なんでしょうかね??
178日本@名無史さん:2005/08/02(火) 20:37:04
>>177
荒らしはイラネ
179日本@名無史さん:2005/08/02(火) 22:20:37
荒らしと言うより
このスレを最初から読みましょう。まだ179件しかレスのないスレです。
あなたが真の2ちゃんねらーなら苦痛じゃないはずだw
180日本@名無史さん:2005/08/02(火) 22:51:04
島津と名乗る人
1.薩摩の元藩主と親戚の一部
2.福井・長野等の元土豪の一部(1の鎌倉時代に分かれた遠い親戚)
3.1が借金する時に苗字を与えた家系(島津製作所はこれ)
4.明治以降に勝手に名乗った人
181日本@名無史さん:2005/08/23(火) 01:21:06
>3.1が借金する時に苗字を与えた家系(島津製作所はこれ)

いつの時代の話?
182日本@名無史さん:2005/08/23(火) 09:06:57
>>181

安土桃山。
183日本@名無史さん:2005/08/30(火) 18:10:57
忠重生母(つまり寿満子さん)は山崎拾女らしい。誰か山崎拾について知る人いる?
184日本@名無史さん:2005/09/03(土) 15:52:44
義久の人物画がないとか、義弘が家督を継いだという話は、
義弘の息子、家久(忠恒)が画策した事だと思う。
185日本@名無史さん:2005/09/03(土) 20:22:39
>>184
『島津義久』(PHP文庫)のあとがきの話だね。

義久の肖像画に関しては三戦史板のあるスレ(既にdatおち)で
義久没後に高野山に義久の木像が納められた(「島津世家」という史料に出てくるらしい)
が、当該寺院が何回も火災にあったため
現在、木像の消息ははっきりしないらしいことが指摘されている。

義弘の”家督相続”については、
確かに忠恒(家久)の工作(自分の正当性を強調するため)でしょうな。
186京の都:2005/09/07(水) 02:37:21
今の島津家当主はなんかの会社の社長らしいな。
187日本@名無史さん:2005/09/07(水) 02:41:19
その会社はもともと御用商人の作った店だ。
検地か何かで藩に貢献したので島津姓を下賜されただけ。
188日本@名無史さん:2005/09/07(水) 03:23:53
鹿児島で島津興産?とかいう会社やってなかったっけ?
189日本@名無史さん:2005/09/07(水) 03:51:39
>>188
島津興業ね。あれやってるのは分家だよ。
190島津:2005/09/07(水) 03:55:53
「オイたちゃ薩摩隼人ち言いもしてな。
 け死んかたも見事じゃったっど」
「きのうの台風なんだわっぜかったど」
191日本@名無史さん:2005/09/07(水) 09:03:33
大阪に島津寿司ってあるけどこれは?
192日本@名無史さん:2005/09/10(土) 02:32:08
知り合いの島津さんが出張で鹿児島に行ったら大歓迎の殿様扱い・・・全然薩摩島津とは関係ないようだが。。。
193日本@名無史さん:2005/09/10(土) 11:50:38
知子さんは大変な美人
194日本@名無史さん:2005/09/13(火) 13:25:13
島津家書翰集と島津家文書だと、どちらがいいでしょうか?
島津家文書は値が張るし、島津家書翰集は読むの辛そうだし。
195日本@名無史さん:2005/09/13(火) 13:32:15
どういう観点から「いい」か「悪い」か判断したら良いんだろう?
>>194の観点が分からないからなんとも。

両方とも図書館で確認してから購入を判断したら如何
最も島津家文書はマイクロフィルムで
しかもエルメスのカバンが何個も買える恐ろしい値段だったと思うが。
196日本@名無史さん:2005/09/15(木) 19:33:52
島津忠義きれいな顔してるなぁ
側室の寿満は目がくぼんで長い顔のイメージだけど
若い頃は綺麗だったんだろうか
197日本@名無史さん:2005/09/15(木) 20:15:44
>>196
忠義はどちらかというと橋幸夫顔で
美形なのはその息子のほうかと

ところで忠義側室の寿満の写真ってどの本に載っていたのですか?
198日本@名無史さん:2005/09/16(金) 19:54:55
>>197
1億人の昭和史13昭和の原点 明治(中)です。
寿満がやや遠慮がちに子供達とおさまってる
写真が何枚かあります。
確かに息子達も可愛い顔してますね〜
幼少の頃の忠重など神々しいほど美しい。

忠義は橋幸夫顔すか?w
↓これなんか、なかなかのイケメンだと思うけどなー
ttp://www.tetsureki.com/home/library/bakumatu/shashin/shimadu.html
199日本@名無史さん:2005/09/16(金) 20:27:16
>>198
今、旧皇族・華族秘蔵アルバムで確認したけど、
幼少の忠重は本当に神々しいまでに美しいね

大人になって口ひげはやしてからは普通のおっさんだけど
200日本@名無史さん:2005/09/16(金) 22:04:49
久光はやっぱDQ顔だな
201日本@名無史さん:2005/09/17(土) 00:33:27
>>198
d楠 『1億人の昭和史』13かぁ。図書館で探してみるか。

忠義が橋幸夫な顔をしているのは『薩摩島津古写真集』(新人物往来社)に載っていた
乗馬中の写真(明治初期頃)です。
また>>198さんが紹介したのとほぼ同じ頃に撮られたとおぼしき写真が
『皇族・華族古写真帖』(新人物往来社)に載っているが、ちょっと違う雰囲気で写っている。

忠重については家庭教師をしていたエセル・ハワードが回想録『明治日本見聞録』で
その美貌をべたぼめしているらしい。
202日本@名無史さん:2005/09/17(土) 00:43:17
現当主の修久氏は近衛文麿の孫でもある
203日本@名無史さん:2005/09/17(土) 01:15:38
高野山に島津の家紋を使ってる寺があったけどそれも関係あるの?
204日本@名無史さん:2005/09/17(土) 14:22:49
>>203
そのお寺が蓮金院ならば関係あり 江戸時代に島津家の菩提寺でした。
205日本@名無史さん:2005/09/17(土) 14:30:10
確か恵光院だか恵徳院だかそんな名前
206日本@名無史さん:2005/09/17(土) 14:53:41
島津家ってなんかグループ企業やってるけど、
今もかなりの資産家?
207日本@名無史さん:2005/09/17(土) 16:27:45
>>205
「恵光院」は存在している
ttp://www.mapion.co.jp/c/f?uc=4&pg=1&ino=BA441661&grp=cat02
確かに紋所として「まるじゅう」を使ってるみたいね
ttp://www-kyoryu.scphys.kyoto-u.ac.jp/ss2001/ekohin-sketch.html
全く島津と関係のない塔頭でもないようだ
ttp://www.wpa.or.jp/keikouin.html
208日本@名無史さん:2005/09/18(日) 16:40:18
為子の生母の幾刈久(?)について知りたい
209日本@名無史さん:2005/09/18(日) 20:11:23
幾印
と呼ばれてた事意外知らないなぁ
210日本@名無史さん:2005/09/18(日) 20:38:54
×幾刈久
○菱刈久

だと思う
211日本@名無史さん:2005/09/18(日) 22:28:47
エセル・ハワードの回想記に出てくる三人の姫君

「成人していて西洋風の服装」→常子
「十五歳くらいの女学生」→正子
「五歳くらいの美しい少女」→為子

で、おk?  
212日本@名無史さん:2005/09/19(月) 14:15:56
忠重は伊楚子との間に何人子供がいた?
213日本@名無史さん:2005/09/19(月) 16:05:34
>>212
4男1女
214日本@名無史さん:2005/09/19(月) 16:10:31
>>211
知子のことは?
215日本@名無史さん:2005/09/19(月) 18:42:03
>>214
エセル・ハワードが来日する前に
娘達はほとんど結婚しており
残っていたのが上記の三人だったようです。
216日本@名無史さん:2005/09/19(月) 19:06:39
武家屈指の名門・島津家も
元をたどれば近衛家の家来筋だから
近衛家恐るべし


まぁ島津家にとっては初代は頼朝の落胤ということだから
認めたくないだろうけど
217日本@名無史さん:2005/09/19(月) 19:15:37
>>211
>>215
既出だったかも知れないが

この時代にしたら常子行き遅れてる(失礼)と言う印象がある。
結果としては山階宮の後妻になるわけだけど
妹たちがどんどん結婚していってる中、つらい物があったんじゃ無かろうか。
何か事情があったんだろうか。
218日本@名無史さん:2005/09/19(月) 22:56:22
>>216
近衛家だけには頭が上がらないってことか
219日本@名無史さん:2005/09/20(火) 08:50:13
現近衛家当主は男系では細川家なんだよね。
元首相の弟。
220日本@名無史さん:2005/09/20(火) 13:25:54
駄菓子歌詞
その文麿の娘はマスコミを騒がせる大騒動の果てに忠秀氏と離婚されたわけで

現在の島津家と近衛家の関係って日本史上一番悪いんじゃ無かろうか と勝手に想像
野口昭子氏は去年亡くなられたようだが、島津氏の関係者で葬式に行った香具師はいるのか?
221日本@名無史さん:2005/09/20(火) 15:13:05
近衛家はけっこうリベラルな家風で
その中で育ってきた昭子氏にとって
封建的な島津家の家風は嫌だったらしい
222日本@名無史さん:2005/09/20(火) 16:45:00
>>220
昭子と忠秀との子供は行ったでしょう
ただ喪主は昭子と野口さんとの子供らしいからかなり複雑
忠Wの曾祖母は忠重の姉で母温子は昭子の妹だからむしろ近いと思う
>>217
忠W夫人の妹や俔子の曾孫のようにひどい醜女じゃ無いのに(むしろ超美人)なんでなんだろうか。
正子の生年は知らないけど忠重の姉で1909年結婚なら結構遅いと思う
>>213
ありがとう。経子、忠秀、晃久、斉徳、後1人は?

為子は平成元年没だけど一体何年生まれなの?

223日本@名無史さん:2005/09/20(火) 18:08:47
>>221
      ☆ チン     マチクタビレタ〜
                        マチクタビレタ〜
       ☆ チン  〃  ∧_∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
        ヽ ___\(\・∀・) < ソース!ソース!
            \_/⊂ ⊂_ )   \_____________
          / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /|
       | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|  |
       |          |/

>>222
・・・ということは修久氏は行ったのかな>葬式
『平成新修旧華族家系集成』では忠秀氏が再婚した様子はなく
忠秀氏の子女は昭子元夫人との間の2男1女だけみたいです

あと、忠重氏の子息でそこに出てないのは矩久氏かな。
224日本@名無史さん:2005/09/20(火) 18:32:43
近衛前久は本願寺と信長の講和の使者、関ヶ原後の島津家本領安堵のとりつけなどをやったが、
丁度文麿の子文隆が本願寺の大谷家、昭子が島津家の人と結婚している。
さらに近衛前久と文麿次女が嫁いだ細川家の幽斎は島津義久に古今伝授しているから、
やはり名族というものはどこかで縁があるものだね。
225日本@名無史さん:2005/09/20(火) 20:30:41
>>222
為子は明治30年5月生まれ
226日本@名無史さん:2005/09/20(火) 20:38:29
島津家の昭子の子供達にとったら
どこの馬の骨かわからないのが異父兄弟なんて嫌だろう


ダイアナがアラブ人との間に子供をつくったら
やばいとイギリス王室が危機感を抱いたことを思い起こす
227日本@名無史さん:2005/09/21(水) 13:43:16
島津矩久って
層化大の理事をつとめ
層化系の潮出版の社長していた。
228日本@名無史さん:2005/09/21(水) 21:48:28
>>226
どこの馬の骨というのは失礼でしょうが
少し新興宗教的なにおひがしますね>野□整体
2代目貴の花もまんまとはまってしまいましたし。
(最も貴の花がはまったのは野□整体とは別のマッサージだが)
>>227
「島津矩久」でぐぐったらけっこうおもしろかった
229日本@名無史さん:2005/09/22(木) 20:15:53
>>228
え?桜田○子?
230日本@名無史さん:2005/09/23(金) 14:18:08
薩摩age
231日本@名無史さん:2005/09/24(土) 18:41:17
島津って狐顔だよね
232日本@名無史さん:2005/09/24(土) 21:48:05
美人な知子さんの画像うpしてください!
233日本@名無史さん:2005/09/25(日) 19:57:49
おしえて。
島津義弘の頃あたりの、定番歴史小説っていったら何?
貴久、義久、義弘あたりを知りたいんだけど。
234日本@名無史さん:2005/09/25(日) 21:22:07
いま出たところなのは
『島津義久』PHP文庫
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569664199/250-8647206-1979460
235日本@名無史さん:2005/09/25(日) 22:08:46
PHP文庫『島津義久』を書いた桐野作人という方、
『織田武神伝』とか『反・太閤記―光秀覇王伝』とかってのを
書いちゃってるから心配なんだけど、大丈夫?

読んでもないのに、こんなこと言っちゃって申し訳とは思ってるんだけど。
236日本@名無史さん:2005/09/25(日) 23:11:11
貴久、義久、義弘時代で三人の妻(島津家の女性)を主題にした本ありますかね。
この三人の中で皆さんが知っている本も全部、教えてください。
237日本@名無史さん:2005/09/26(月) 01:50:04
>>235
ちらっとたち読みした限りではそんなDQN本ではなかった。
しかし、内容が重い。
あと
ttp://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1111659035/364-
あたりにも感想がちらほら。

>>236
三人の妻をまとめて扱った本はないのではないか。
あと、島津本に関しては以下のサイトに膨大なまとめがある。
ttp://www4.plala.or.jp/uzuland
238日本@名無史さん:2005/09/26(月) 08:21:04
>>237
そういうアナタは何を読みました?
237のスレでは「この本はあそこをよく描いてる」とか「あそこがちゃんと
描かれてない」って言ってるけど、それって何の元ネタ(小説とか史料?)を
基準にしてるんだろう?
239日本@名無史さん:2005/09/26(月) 09:09:56
236です。
237さん。ありがとう
詳しい情報がつまってました
他にも知っている情報(貴久、義久、義弘に関連)
があったら教えてください。
240日本@名無史さん:2005/10/01(土) 12:03:27
徳川元子氏の『遠いうた』を読んで、
今まで憧れていた知子に幻滅したorz
241日本@名無史さん:2005/10/01(土) 12:07:22
>>240
゚・(ノД`)ヾ(д゚ ..)ナクナ
242日本@名無史さん:2005/10/01(土) 15:32:22
>>240
知子のどこに憧れてたのかな
243日本@名無史さん:2005/10/02(日) 00:36:59
>>242
むしろそれが知りたいw
244日本@名無史さん:2005/10/05(水) 14:47:02
お由羅の血統を継いだ紀宮様
245日本@名無史さん:2005/10/05(水) 20:58:08
島津の方々は護貞候の葬儀には出るのだろうか。
246日本@名無史さん:2005/10/05(水) 21:07:35
紀宮に様付けは不要。どうせクロダの嫁になるババア。
247日本@名無史さん:2005/10/05(水) 21:17:56
島津本家と島津久永は近い親戚?
248日本@名無史さん:2005/10/06(木) 00:00:52
>>246
通報しますた

>>247
 +−島津忠重−忠秀−修久
 |
 +−島津久範−久永
249日本@名無史さん:2005/10/06(木) 18:17:27
忠義長女の黒田清子はどんな顔でいつ結婚して何人子供産んだの?

それと名前の読み方も
250日本@名無史さん:2005/10/06(木) 18:41:25
倒幕の密勅では、久光親子を『源久光 源茂久』と記してあるから
島津が源氏であることは間違いない
251日本@名無史さん:2005/10/06(木) 18:58:40
島津忠済って年取ってからの子供が多くない?
252日本@名無史さん:2005/10/06(木) 22:38:04
   ∩___∩         |
   | ノ\     ヽ        |
  /  ●゛  ● |        |
  | ∪  ( _●_) ミ       j
 彡、   |∪|   |        J
/     ∩ノ ⊃  ヽ     >>250
(  \ / _ノ |  |
.\ “  /__|  |
  \ /___ /
253日本@名無史さん:2005/10/08(土) 10:15:29
>>244
こうやってみるとお由羅ってすごいね。
あとお由羅の子孫同士で結婚してるのずいぶん多いね。
254日本@名無史さん:2005/10/08(土) 11:24:19
>>153
おそらくそれと思われる写真を見たが正子より泰子のほうが若く見えるね。
正子も釣り目で面長だけどなんか他の姉妹と顔が違うね
泰子が若々しく美しいのは高齢出産のおかげ?
あと島津忠済娘量子が結構可愛かった
255日本@名無史さん:2005/10/08(土) 12:57:08
正子の顔は面長というより卵形かも
256日本@名無史さん:2005/10/08(土) 14:17:57
【幕末】薩摩藩主・島津斉彬が進めた幕末の産業近代化を展示…尚古集成館改修オープン
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1128743065/l50

 幕末に薩摩藩主の島津斉彬が進めた鋳鉄や紡績工場などの産業近代化
事業を紹介する博物館「尚古集成館」(鹿児島市)が8日、改修を経て
オープンした。
 同館は1865年に建てられた石壁造りの機械工場跡で、1923年に
博物館として開館。今回約1億5000万円をかけて展示内容を大幅に
改めた。大砲を鋳造した反射炉や琉球との交易に使われた琉球船の
模型、紡績機械など、薩摩藩の歴史や産業近代化への取り組みを
紹介している。
 館内は茶色を基調にした落ち着いた雰囲気。江戸時代末期に薩摩藩
で作られた繊細なガラス細工「薩摩切子」の技術を使った照明器具など、
鹿児島独自の素材も使われている。

ソース(共同通信)
http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=RANDOM&PG=STORY&NGID=home&NWID=2005100801000352
写真(改修オープンした尚古集成館で反射炉の模型を見る中学生)
http://flash24.kyodo.co.jp/photo/PN20051008/PN2005100801000544.-.-.CI0002.jpg
尚古集成館 
http://www.minc.ne.jp/shimadzu/heritage/shuseikan/shuseikan.htm
257日本@名無史さん:2005/10/08(土) 14:37:14
>>256
行きたい・・
258日本@名無史さん:2005/10/08(土) 16:19:45
>>256
国宝・重文がすべてじゃないけど
全く無いね
259日本@名無史さん:2005/10/08(土) 22:08:40
確か鹿児島は数少ない国宝のない県の一つだったかと(涙
あと、昭和初期の大恐慌で松方コンチェルンが倒産したとき?に
大株主だった島津家も連帯責任をとり、島津家文書など国宝級の
物を大量に売却したので・・・

恐慌さえなければ・・・
260日本@名無史さん:2005/10/08(土) 23:11:27
賢侯斉彬はコロリか赤痢で死んだとされているが
暗殺説も有力。
斉彬の子供達も一人残らず「病死」というのも不可解
お由羅−久光派の陰謀??
賢侯の死後実権を握ったのは「ジゴロ」
西郷が久光を嫌っていたのは
久光の狭量さだけでなく
お由羅−久光派が斉彬とその子供達を暗殺したと信じていたからか?
261日本@名無史さん:2005/10/09(日) 11:23:20
嫌っていたのは久光公のほうだろ
262日本@名無史さん:2005/10/09(日) 21:34:11
斉彬の子、典姫はわりと長生きしたよ。明治39年没。

263日本@名無史さん:2005/10/09(日) 23:06:07
斉彬の子供達も一人残らず「病死」というのも不可解
     ↓
斉彬の男児も一人残らず「病死」というのも不可解

西郷が斉彬に仕えていたとき
お由羅を「奸女!!」と罵ってたと言われてるが
久光は「ジゴロ!!」
264日本@名無史さん:2005/10/10(月) 17:04:57
島津なんて秀吉に負けて以来、踏んだり蹴ったり。
朝鮮出兵の活躍で旧領5万石を返してもらえたが
なぜか豊臣新恩で大名に出世した伊集院の専横。
四兄弟も2人死んで、残りで仲違い。
検地で、内部からの不平不満がひっきりなし。
家内はバラバラだった。
秀吉に降伏しておけば、三州安堵されたものを。身の程知らずが!
265日本@名無史さん:2005/10/10(月) 20:34:06
はいはいくまくま
266日本@名無史さん:2005/10/10(月) 20:35:05
運命は、そんな簡単に計れるものではないぞ。
九州全土を手に入れられる器量が島津家にはあるのに降伏して三州安堵
されるよりましなのでは、後で後悔するよりはいいと思う。
相手が強いからといって何もしなければ、相手のやりたい放題の考えで
事が進む事だってあるぞ。災いをなくす為にも自分がある程度、優位な
立場を執れるように俺は戦うけどね。 
267日本@名無史さん:2005/10/11(火) 18:43:29
いいや。ちがうな。
要するに、周りが見えてなかったんだよ、島津の猪武者どもは。
目の前の小さな九州しか見てなかったから、大局を見ることができなかった。
もしくは、武闘派と慎重派に分かれた家内を抑えて、即座の決断をするほどの
器量がそのときの島津にはなかったんだよ。

結局、大友との戦いで中央を無視してた時点で負けてたんだよ島津は。
それなのに、勝つ見込みのない戦いをわざわざした。
これは、戦後外交を意識したのではなく、単なる勝ち戦続きによる慢心から出たもの。
先見の明のなさによるむだいくさ。
する価値はまったくなかった。
268日本@名無史さん:2005/10/12(水) 12:54:52
ならば、真っ先に秀吉に恭順しながら、筑前・筑後を取り上げられた大友宗麟は
いったい・・・。
269日本@名無史さん:2005/10/13(木) 00:03:16
268 お馬鹿様。
270日本@名無史さん:2005/10/13(木) 00:32:55
>>268
たしか、耳川で負けて以来大友は国人衆の離反が相次いで
龍造寺は筑後に進出する気配を見せ始めたんじゃなかった?
そんで、沖田綴り以後島津が龍造寺を肥前に押しとどめて
筑前筑後半分、肥後のほぼすべてを勢力下において大友を追いつめた。
そのときには大友は六州の守護て言っても事実上豊前豊後にしか
勢力をもってないわけで、秀吉にとられても文句は言えなかったんでは?
271日本@名無史さん:2005/10/13(木) 00:34:54
>>270
揚げ足とってわるいが
「沖田畷」な。
普通に入力したら変換されると思われ。

一応学問文系の板なので、その辺は厳しくよろしく
272日本@名無史さん:2005/10/13(木) 00:41:10
なわて、なのか…。
(´・ω・`)ショボーン
273日本@名無史さん:2005/10/13(木) 00:45:30
>>240-243
本日図書館で『日本の肖像 旧皇族・華族秘蔵アルバム』8巻見て>>240の気持ちはよくわかったw

島津とは関係ないが、
後半にのっていた肥後細川家の細川護久夫人(鍋島宏子)の若いときと晩年のあまりの落差に orz
まあ夫の女関係で苦労された+息子が日露戦争で戦死 じゃ仕方ないのかも知れないが。。。
274日本@名無史さん:2005/10/13(木) 01:44:55
それどころか大名家としてすら残れなかった事考えると島津に降伏した方が
良かったんじゃね?>大友家
275日本@名無史さん:2005/10/13(木) 01:58:22
>>273
君にもわかってしまったか(´・ω・`)
276日本@名無史さん:2005/10/13(木) 23:48:07
>>275
あの本では知子が一番写りが良い(w

故・忠秀氏があまりにもジェンキンズ氏に似ているので更に orz
島津家の当主は大変だ罠と盛大な集合写真を見て思った。。。
277日本@名無史さん:2005/10/14(金) 19:24:31
忠義の娘では知子が一番美人だね

>>273
細川宏子の晩年は知らないけど若い頃は確かに美しかったね。夫や娘は不細工で息子もいまいちだったけど。
278日本@名無史さん:2005/10/16(日) 17:31:36
おまえら、中世・近世の大名としての島津家を語れよ。
明治以降の一私人にすぎない女どもなんて、歴史的には虫けら以下の存在だろ。
279日本@名無史さん:2005/10/16(日) 17:44:42
>>278
そういうあなたからまずはネタふり
しかし戦国ネタなら三戦板へ逝って良し
280日本@名無史さん:2005/10/16(日) 17:56:08
誰も戦国ネタなど一言も言っていないが。

でも、戦国時代の方が明治以降のただの女の容姿を論評するより歴史板にふさわしいがな。
281日本@名無史さん:2005/10/16(日) 18:28:54
可哀想に
文句垂れるだけでふれるネタもないのか。
282日本@名無史さん:2005/10/16(日) 19:34:31
>>281
ネタがないからといって女の容姿なんか問題するやつが貧困なんだろ。
煽るくらいならスレの削除依頼でもすればいい。ネタがないんだから
スレいらない。
283日本@名無史さん:2005/10/16(日) 20:00:04
>>282
餓鬼かお前は。
284日本@名無史さん:2005/10/16(日) 20:20:07
まあ、島津とか薩摩関係のスレはたまにこういう人が湧くので
気にせず以下スルーと言うことで
285日本@名無史さん:2005/10/16(日) 22:36:28
久光みたいな藩主経験の無い隠居が実験を握った藩はあるの?
幕府でも一橋治済は贅沢しても実験は握ってないですよね。
スレ違いだからスルーしてもらってもいいです。
286日本@名無史さん:2005/10/16(日) 23:41:28
>>284
一体、おまえはどっちの立場に立ってるんだ?
調子こいて、すましてスルーなんて言ってるんじゃねえよ。

>>285
明治以降のどうでもいい女の顔の話より、よほどスレにふさわしいですよ。
287日本@名無史さん:2005/10/16(日) 23:42:48
みっともないよ
288日本@名無史さん:2005/10/16(日) 23:44:11
んだんだ
289日本@名無史さん:2005/10/17(月) 07:44:57
みっともないのは女の顔だがな
290日本@名無史さん:2005/10/17(月) 11:18:53
>>286はせっかく>>285がネタふりしてるのに話しを続けられないとは。ヤパーリ単なる厨か。
291日本@名無史さん:2005/10/17(月) 13:29:07
>>290
で、自分はなんなんだ?
ただ煽ってるだけじゃないか。
292お訊ねですが、:2005/10/17(月) 21:44:48
島津家の通字は「久」(「忠」も)で、これは初代・忠久から来てるけど、
この「久」の由来・典拠は何?

もうひとつの通字「忠」は、忠久の烏帽子親・畠山重忠が由来だけど。
293日本@名無史さん:2005/10/17(月) 22:43:42
久保利明
294日本@名無史さん:2005/10/17(月) 23:35:50
>>292
寡聞にして知らず
誰か知ってる人がいたら教えて

ちなみに学会では島津忠久の忠は惟宗忠康の忠と言うのが有力な説になっている

>>293
ぐぐった私は負け組です orz
295日本@名無史さん:2005/10/18(火) 00:33:47
>>292
それは「島津斉彬の彬はどこからきたの?」というのと同じで明確な答えはないんじゃないか
296日本@名無史さん:2005/10/18(火) 03:26:43
十三里
297日本@名無史さん:2005/10/18(火) 09:41:57
久光は光久の名前を逆にしただけなの?
光久の光は将軍家光の光だよねえ。

関係ないけど伊達政宗なんて2人いる。
298日本@名無史さん:2005/10/18(火) 18:02:01
よく知ってる  島津義弘 島津家久 島津光久
全然知らない  島津綱貴 島津吉貴 島津継豊 島津宗信
知ってる    島津重年 島津重豪 島津斉宣 島津斉興
よく知ってる  島津斉彬 島津忠義
もっと知りたい 島津忠重 島津忠秀 島津修久氏  
299日本@名無史さん:2005/10/18(火) 23:27:23
忠義って「茂久」って名乗ってた時期があるよね?
綱貴以降、将軍から偏諱を受けるときに「久」を使った例はないのになぜ突然「茂久」なんだろう?
逆にいえば、斉彬までずっと2文字目を「久」にしてこなかった理由は何なんだろう?
300日本@名無史さん:2005/10/18(火) 23:51:47
ヒント
島津家の代々の当主はハゲに悩んでいた。
島津家は機を見るのに敏である。
301日本@名無史さん:2005/10/19(水) 01:36:53
島伝いに日本にやってきた島津はさすがに機敏であったとさ
302日本@名無史さん:2005/10/19(水) 21:52:53
・・・いや、光久の知名度は余り・・・と思われ
忠義も「久光の息子」としての知名度が高くて本人は orz

>>300
くわしく 特に禿についてソース
303日本@名無史さん:2005/10/22(土) 18:59:24
光久の知名度は低いよね。
島津は家久(忠恒)までが有名でそのあと有名なのは重豪で、
その間の当主は世間的にほとんど無名といってもよい。

けど島津光久は磯庭園を造園した当主で有名だよね。
俗説かもしれないが、光久のときに隣国の大藩・細川藩と不仲(ライバル?)になったというが。
光久の肖像画は元々ないの?焼失?
304日本@名無史さん:2005/10/22(土) 19:43:29
どうも元から無いようだ
戦国時代以前の当主の肖像画は西南戦争の際に消失したようだが
305日本@名無史さん:2005/10/22(土) 21:57:50
>>302
島津は代々よく茂った頭髪にあこがれていた。
都合よく家茂が将軍になった。
ここぞとばかりに幾久しく茂った頭でいられるようにと
茂久という名をチョイスしてみた。
306日本@名無史さん:2005/10/22(土) 23:34:36
父親も不明なのになぜ守護職がもらえたのだろう?
307日本@名無史さん:2005/10/23(日) 11:30:39
>>305の座布団全部もってってちょーだい
308日本@名無史さん:2005/10/23(日) 23:25:32
>>306
薩摩、大隅、日向の守護職を貰えたのは
この3カ国にまたがる荘園「島津荘」の領主だった近衛家と島津氏の関係が深かったからといわれている。

その後、大隅・日向の守護職は比企氏の乱に乗じて執権北条氏に取り上げられてしまったらしい。
これを取り返すのは室町時代になってから。
309日本@名無史さん:2005/10/24(月) 17:12:25
家定正室・広大院(島津重豪女)は結構現代的な美人だったようですね
あの時代じゃどうだったか分からないが
ttp://www5f.biglobe.ne.jp/~simarisuko/hone.html
310日本@名無史さん:2005/10/24(月) 18:09:34
>>309
天璋院でしょ?
あの時代でも十分美人で賢い人でしたって文献には書いてあるよ
311日本@名無史さん:2005/10/24(月) 19:53:05
広大院と天璋院は全くの別人だ。
312日本@名無史さん:2005/10/25(火) 12:29:59
>>309
家定正室は斉彬の養女だし。
313日本@名無史さん:2005/10/25(火) 12:47:03
>>312
orz

・・・検索ぐらいする癖を付けてくれ
一応ここ学問板なので。
314日本@名無史さん:2005/10/25(火) 12:48:34
あ、309はもしかしたら家定と家斉を間違ってるね
ソースから見て判断
315日本@名無史さん:2005/10/25(火) 13:08:36
>>240
俺もそう思った。なので購入しなかった。
316日本@名無史さん:2005/10/25(火) 13:13:47
故島津朝子
317日本@名無史さん:2005/10/25(火) 19:42:48
維新後、歴代の当主は忠義、忠重、忠秀と「忠」の字を通字にしてきたのに、
現当主が「修久」になったのは不思議であったが、よく考えれば「久」の字が
通字だったので、本来の名乗り方にもどったのかもな。

「忠」の字は封建的なイメージで、現代に合わないからやめたのだろうか?
318日本@名無史さん:2005/10/25(火) 22:06:16
>>317
修久氏には兄上がいたが早世した。
兄の名前は「忠敬」。

ちなみに修久氏の子息も「忠裕」なので、明治以来の原則は守られている。
319日本@名無史さん:2005/10/26(水) 17:32:57
320日本@名無史さん:2005/10/26(水) 23:18:43
通字の件は詳しく知りたいね。

○通字「久」の由来は?
○なぜ明治以降それまでの「久」から「忠」へ通字が変わったのか。

誰か尚古集成館に行く機会がある人は、学芸員(松尾千歳氏とか)に訊ねてみては?
あたしゃ遥か県外で行く機会がないので。

>>318
清水小学校のとき錦江湾横断遠泳の水泳同好会で島津忠裕君といっしょでした。(練習を参観に来た父・修久氏もそのとき拝見しました)
現在32〜33歳で結婚して子供がいてもおかしくない歳ですので、もし男子がいればその子も「忠」の通字なんでしょうね。
321日本@名無史さん:2005/10/27(木) 11:17:26
>>318
へぇ今も鹿児島に住んでるんだ
都内に住んで学習院あたり通ってるのかと思った
322日本@名無史さん:2005/10/27(木) 12:55:44
子孫ネタうぜえ。
323日本@名無史さん:2005/10/27(木) 17:24:40
>>319
朝子女王って美男美女の両親に比べたら随分ブ○だね。斉視氏は前見たときは島田紳介に似ていると思った。
斉視氏の名前は通字を使っていないね。視の字は多分岩倉具視だろうけど。
324日本@名無史さん:2005/10/27(木) 18:07:47
島津本家はいまでも鹿児島で同族会社を経営している。HPもある。
325日本@名無史さん:2005/10/27(木) 18:33:29
>>324
資産多そうだ
326日本@名無史さん:2005/10/27(木) 23:20:04
「忠」も「久」も昔から普通に島津家の通字だ。
由来は初代当主「島津忠久」から。
『島津氏正統系図』など島津側史料に寄れば「忠」は烏帽子親・畠山重忠からもらったと言うことだが
学会では「元から惟宗氏の忠久の先祖の通字だったのでないか」という説が主流になりつつある…らしい。

江戸時代初期までは島津一族は傍系の伊集院、北郷etcですら「忠」か「久」を名前に入れている。
しかし江戸時代中期以降は藩主の締め付けが厳しくなり、各家の当主じゃないと「忠」か「久」を入れては
いけなくなった。
一方藩主の方は、元服後の初名には「忠」か「久」が入っている物の、将軍家から一字を拝領する特権?に
預かったためかどうか19代綱豊以降は「忠」も「久」も入らない人がほとんど。

明治時代以降、宗家では長男は「忠○」次男以降は「○久」「久○」と命名されているようだ。
『平成新修旧華族家系集成』参照

327日本@名無史さん:2005/10/28(金) 01:15:19
>>326
綱豊って誰だよw


通字を久から忠に変えたことは結構興味深いよね。
島津に限らず、下の字を通字にしてた家が幕末に上の字に変える例があるよね。
毛利は元の字を上につけるようになったし、鍋島も茂から直に変えた。
大藩で下の字のままなのは伊達の宗と上杉の憲くらいかな?
328日本@名無史さん:2005/10/28(金) 08:56:08
>>327
綱豊は6代将軍家宣の甲府宰相時代の名前ですが
329日本@名無史さん:2005/10/28(金) 10:49:22
正直すまんかった
徳川スレも見ていたので綱貴と綱豊を間違えた
反省はするが謝罪は(ry

>通字を久から忠に変えたことは結構興味深いよね。

「忠」も「久」も島津家の”通字”だとしつこく言ってみる
ttp://nekhet.ddo.jp/people/japan/simazu01.html
ttp://www002.upp.so-net.ne.jp/wataruko/tuuji.htm
330日本@名無史さん:2005/10/28(金) 13:53:42
>>329
謝罪と賠償を!
331日本@名無史さん:2005/10/28(金) 15:19:38
篤姫はガタイよかったの?
332日本@名無史さん:2005/10/28(金) 15:50:00
>>329
ほんとにしつこい厨だねぇ。
「忠」の字がかつて島津家の通字であったのはあたりまえのこと。
が、戦国以降は使われず、分家の通字に成り下がっていた。
で、当主の名に久しく使われていなかった「忠」の字が
なぜ幕末になって再び使われるようになったのか、という話を
毛利や鍋島の例もあわせてしているのに。
333日本@名無史さん:2005/10/28(金) 16:02:03
>分家の通字に成り下がっていた
はてさて。
だから
ttp://nekhet.ddo.jp/people/japan/simazu01.html
を貼ったのに。
334日本@名無史さん:2005/10/28(金) 16:42:45
>>333
???
どういうこと?
335日本@名無史さん:2005/10/28(金) 17:33:01
「ハイカラさんが通る」・
336日本@名無史さん:2005/11/03(木) 09:38:12
薩摩守=忠則=ただ乗り
337日本@名無史さん:2005/11/03(木) 11:26:33
忠度じゃなかったっけ 平忠度は教養人だったそうだけどね。
草葉の陰で無賃乗車の隠語になっているのをどう思ってるのやら。
338日本@名無史さん:2005/11/03(木) 12:06:48
島津綱貴は名君
339日本@名無史さん:2005/11/03(木) 17:36:16
>>298 :よく知ってる  島津義弘 島津家久 島津光久
全然知らない  島津綱貴 島津吉貴 島津継豊 島津宗信
知ってる    島津重年 島津重豪 島津斉宣 島津斉興
よく知ってる  島津斉彬 島津忠義
もっと知りたい 島津忠重 島津忠秀 島津修久氏  

凄く知りたい  島津有理子
340日本@名無史さん:2005/11/03(木) 19:25:57
伊集院家を滅ぼしたときの汚いやり口は納得できん!
341日本@名無史さん:2005/11/03(木) 20:50:26
裏切り者には、死有るのみ。
342日本@名無史さん:2005/11/03(木) 20:54:52
朝五時から七時までNHKに出演している女子アナはこの家系ですか?
343日本@名無史さん:2005/11/03(木) 21:18:49
>>298の「よく知ってる」の中に島津光久が入ってると言うのが非常に疑問なのだが・・・
もしかしてマンガつながり?

島津家久はこのスレ的にはあの家久なのだろうが
世間一般で行くとあっちの家久の方が知名度高そうな気がする

>>340
伊集院一族がやってきたやり方をそのまま島津忠恒にやられたような気がする
ともかく兄貴のしわ寄せ食ったお下さんは可哀想だ

344日本@名無史さん:2005/11/04(金) 18:42:16
忠義長女黒田清子はかなり顔長い
345日本@名無史さん:2005/11/04(金) 21:43:36
斉興の肖像画が総髪なのはなんで?
大名は月代剃ってないとまずいんじゃないの?
346日本@名無史さん:2005/11/05(土) 02:10:15

島津も長曽我部と同じく秦氏。
秦氏は中国系。朝鮮系ではありません。
347三瘡宮:2005/11/05(土) 02:13:40
秦氏は(始皇帝の)秦の末裔ってホント?
348日本@名無史さん:2005/11/05(土) 14:17:14
>>345
月代剃ってなかったらまずいかどうかは知らないが
あの時代にしたら異例の姿ではある罠。
『国史大事典』の重豪と斉興の肖像画を並べると
見事に「遊び人のじーさま」「じーさまが残した借金を返済するのに苦労する孫」
と言う構図になっているのが笑える。

>>346-347
ttp://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/hata
秦氏に関しては本でもネットでもその起源に関してはデムパ説の方がよく聞かれるのが何とも。
この話題は以下のスレの方が適当かも。
渡来人とその子孫
ttp://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1033117171/l50
帰化人か渡来人か
ttp://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1033255236/l50

349日本@名無史さん:2005/11/07(月) 22:11:32
島津千百子の子どもは忠義の他に誰がいたの?
忠済や珍彦は千百子の子ども?
350日本@名無史さん:2005/11/07(月) 22:17:15
江戸時代、現役の大名や旗本は月代を剃ってないといけなかった。
総髪にする場合は病気などを理由に総髪届を出す必要があった。

隠居したら総髪も剃髪も自由だったから、重豪や斉興の肖像画は隠居後
の姿だろう。
351日本@名無史さん:2005/11/08(火) 12:48:05
元服前だったのかもしれない。

とつまらいボケsage
352日本@名無史さん:2005/11/08(火) 18:59:50
侍はもとから一番はげる部分を剃ってるんだから
ハゲで悩むはずない。
353日本@名無史さん:2005/11/09(水) 14:00:02
ハゲて髷が結えず、頭巾をかぶる許可を求めたなんて話があったような
354日本@名無史さん:2005/11/15(火) 08:29:26
旧佐土原藩島津家の島津久永氏は民間人ではないと声を大にして言っておこう
355日本@名無史さん:2005/11/15(火) 11:38:21
島津久永氏ってさあやが勤めてた鳥研究所の理事かなんかやってなかったっけか?
356日本@名無史さん:2005/11/15(火) 12:19:37
>>355
ttp://www.yamashina.or.jp/riji_message/riji_goaisatu.html
このすぐ後に紀宮様は寿退職されているので
余り一緒に仕事はされてないかと。

ところでぐぐってたらえらいデムパサイトに捕まったのだが
ttp://www2u.biglobe.ne.jp/~kamomax/satsumaochi/maedake.htm
357日本@名無史さん:2005/11/16(水) 09:49:52
島津の姫様と同級生だったガキの頃。
世が世なら口も聞けなかったなぁ。
358日本@名無史さん:2005/11/18(金) 15:36:14
>>357
へぇ〜(゚д゚)
詳しく
359日本@名無史さん:2005/11/19(土) 02:49:57
島津って実在するの?
360日本@名無史さん:2005/11/19(土) 16:09:17
>>349
忠済の生母は山崎武良子。
忠済夫人竹内田鶴子は竹内惟忠の姉妹?
361日本@名無史さん:2005/11/20(日) 01:39:40
禿
362日本@名無史さん:2005/11/20(日) 10:20:06
細川のバカ殿は今何やってんの?
363日本@名無史さん:2005/11/20(日) 14:07:24
>>362
スレタイも読めないお前がバカ呼ばわりするなよ。
364日本@名無史さん:2005/11/20(日) 23:52:00
>>363
>>362は島津に嫁に行って出奔したおばさんが細川家出身だから出てきたんではないかと
365日本@名無史さん:2005/11/21(月) 00:01:01
現在当主となった細川元首相は、陶芸の道に進んでいます。
仕事をする気はないようです。
366日本@名無史さん:2005/11/21(月) 00:07:07
>>364
…間違ってるぞ…
間違う理由は分からなくもないが。
367日本@名無史さん:2005/11/22(火) 19:27:52
>>198
超遅レスだけどこないだ『1億人の昭和史』13を見てきた。かなりボロボロでくたびれていた。
忠重は噂どおり神々しいね。写真を見る限りだと次女充子が一番美人だと思う。山崎寿満子は美人“だった”という顔だね。
菱刈久の写真もあったけど小さすぎてよく見えなかった。
あと忠秀初節句の写真があったのだが島津家や嫁いでいった娘の子供たちのほかに山階宮の範子妃の子供たちや家正の妹たち、忠済の子供たちもいて少し驚いた。
他に個人的には黒田清子と長礼母子の顔が長過ぎて靴底のような印象をもった。
368日本@名無史さん:2005/11/22(火) 20:52:46
島津家は薩摩隼人ですか?
369日本@名無史さん:2005/11/22(火) 20:57:30
渡来人の惟宗氏
370日本@名無史さん:2005/11/22(火) 23:19:21
>>367
あの初節句の写真見ると得した気分だね。
ちなみに忠秀は病気で写真に写ってないw
島津家の姉妹は一人一人それぞれの侍女達と独立して暮らしてたらしく
たまに集まっても打ち解けあう様な事は、なかったらしいですね。
371日本@名無史さん:2005/11/23(水) 01:11:43
徳川元子の本にもたまに家に来ても兄弟ではなくお客様という感じだったと書いてあった

常子は先妻範子の子どもを実の子どものように接したらしいけど知子と先妻鏡子の子どもはどのような関係だったのだろうか
恵子が生まれる前に嫁いだ人もいるらしいから気になる
372日本@名無史さん:2005/11/25(金) 09:05:57
>>371
知子ってなーんもしない人だったらしいから
無関心だったんじゃない。

>>220の近衛忠Wの曾祖母は忠重の姉
とは充子なんですねぇ。
373日本@名無史さん:2005/11/26(土) 10:12:35
近代以降の子孫ネタは禁止
374日本@名無史さん:2005/11/28(月) 00:56:55
なんで?
マズイことでもあるの?
375日本@名無史さん:2005/11/30(水) 16:21:20
薩摩age
376日本@名無史さん:2005/11/30(水) 19:21:00
日本史板である以上、まずは中世・近世の島津家を語るのが筋。
一私人になった現代の子孫など、どうでもいい。
377日本@名無史さん:2005/11/30(水) 19:33:25
>>376
ネタ投下汁
できないなら出てくるな
378日本@名無史さん:2005/11/30(水) 21:42:01
現代の子孫ネタしかないならスレが落ちた方がマシ
379日本@名無史さん:2005/11/30(水) 22:12:08
と思っているなら書き込まなければいいのに書き込んで保守している珍童ハケーソ
380日本@名無史さん:2005/12/01(木) 10:51:22
700年も続いた大名など、島津以外にどこがあるというのか。
どこにもないのである。
しこうして、皇室に月一度の割合にて宴席に呼ばれることとなる。
ここに皇室と島津の縁が出来たのである。
381日本@名無史さん:2005/12/01(木) 11:59:18
佐竹とか・・・
382日本@名無史さん:2005/12/01(木) 17:31:26
歴史だけなら佐竹氏のほうが古いね。 新羅三郎義光以来だから。
ただ頼朝から守護職を与えられて幕末まで同じ領地をまっとうできたのは島津氏だけ
だよね。
383日本@名無史さん:2005/12/01(木) 17:38:24
天皇の血縁で守護職についた香具師はどうなるの?
384日本@名無史さん:2005/12/01(木) 17:40:26
守護は中断なかったっけ?
385日本@名無史さん:2005/12/01(木) 17:49:17
島津と佐竹だけか?
386日本@名無史さん:2005/12/01(木) 19:03:14
対馬の宗さんがいます。
あそこも惟宗の系統で、「朝鮮と付き合うには苗字が一文字の方が都合がいい」
という理由で変えたところです。

鎌倉時代の比企氏の乱で大隅・日向の守護職を取り上げられてから、
足利尊氏による大隅・日向の守護職の島津への返還までは、薩摩一国の守護です。
中断はなかったと思います。
(今川了俊が島津との対立時にそのような文書を出した可能性はありますが、
 足利義満が彼を警戒し左遷したため、彼の出した文書は全て無効になりました。)
387日本@名無史さん:2005/12/01(木) 19:51:25
伊東とか相良も地味に長く続いてるな。
388日本@名無史さん:2005/12/01(木) 19:59:52
大関、相馬あたりも
389日本@名無史さん:2005/12/01(木) 20:06:34
>>387
島津も伊東も相良も東国からの下向ということになっているね
(島津はやや疑わしいところがあるが)

ただ残念なのは
伊東は一時期日向を島津に追い出されて領国支配を中断している時期がある
(その後祐兵の実力で取り返したのは見事だけど)

情けないのが相良で
現在の子孫は血縁的にご先祖と全く無関係になってしまっている。
この原因は家臣があまりにも強すぎることにあり、
しかも血縁無関係の殿様の登場で藩内の統制は取れず
ますます家臣の暴走が加速していったようだ。

390日本@名無史さん:2005/12/01(木) 20:06:38
島津の当主が室町時代を通じて上洛したのはたったの一度だそうですが、何で?
391日本@名無史さん:2005/12/01(木) 20:37:49
>>389
>現在の子孫は血縁的にご先祖と全く無関係になってしまっている

こんな家いっぱいあるだろ。
むしろご先祖とつながってる家の方が少ないんじゃない?
392日本@名無史さん:2005/12/01(木) 23:43:34
>>390
九州と関東の守護は在京原則が免除されていたため。
それ以外の守護は、在京が原則。
そのため、応仁の乱以後、守護代などに領国をのっとられてしまう。
九州で下克上が起こりづらいのはこのためかと。
393日本@名無史さん:2005/12/01(木) 23:50:12
>>391
だがしかし、相良の場合はその養子を取るに至った経緯があまりにも情けないわけで
394日本@名無史さん:2005/12/02(金) 18:48:04
大河ドラマ「島津義弘」(案)
1月〜3月 子供時代から島津勝久・実久との攻防、薩摩平定戦
4月    肝付氏及び伊東氏との戦い、大隈平定・日向侵攻
5月〜6月 大友氏・竜造寺氏との決戦 耳川・沖田畷
7月上旬  筑前・豊前侵入 丹生島城・岩屋城攻防戦
7月下旬  関白秀吉に敗れる 戸次川の戦い 高城戦
8月    豊臣政権下の島津氏、家久の死・龍伯との確執
9月    文禄・慶長の役 泗川の戦い・露梁津戦 (朝鮮の役は李舜臣を評価
      する形で描く 義弘は悪役秀吉の命にやもえず出兵する。実際もそう
      だけど) 歳久・久保の死
10月   秀吉死す。 家康と三成の対立に困惑ぎみの義弘。伊集院の乱。
11月   関ヶ原の戦いまで・・・。 豊久戦死。
12月   関が原戦後、家康に外交勝利。忠恒の琉球侵攻(触れる程度)。
      大阪の陣・秀頼救出(フィクション)龍伯・惟新義弘の死。
 完
 ・・・って、どう? 政宗・信玄・元就に劣らず面白そう。
        
395日本@名無史さん:2005/12/02(金) 19:00:29
>>394うーーん!やっぱ子供時代は無理じゃね?朝鮮半島当りから始まって敵中突破で終わりって感じ。
396日本@名無史さん:2005/12/02(金) 20:37:19
幕末のバカ殿、島津久光
397日本@名無史さん:2005/12/02(金) 21:14:52
功名が辻(山内一豊と千代の生涯)が大河ドラマに出来るなら
全く問題ないでしょう。
はっきりいって歴史に興味がある人しか、山内一豊の事、知
らないと思う。
398日本@名無史さん:2005/12/03(土) 14:27:27
>>394
8月に梅北の乱を入れてほしい。
「朝鮮出兵前期に、出兵のために編成されていた梅北配下の島津軍が
 梅北の独断で熊本県南部芦北地方を占領し、
 市民の疲弊を理由に朝鮮出兵を否定したが暗殺された」
というもので、
東京の左翼系の連中は「石饅頭の残虐性を強調するのに都合が悪い」
と言って事件自体を無視し、
在野歴史家は「島津の侵略性を強調するために広めるべきだ」
と言って、梅北らの行動が葦北地域で支持されていた点を意図的にスルーしている。

朝鮮出兵は日本の市民にとっても負担が多く、出兵には批判的だったことを示すには
一番良い事件なのではないか。
399日本@名無史さん:2005/12/03(土) 18:53:29
400日本@名無史さん:2005/12/03(土) 19:12:15
>>397
視聴者の大半が歴史など知りません。
「功名が辻」も「利家とまつ」のような家庭ドラマになるのでしょう。
401日本@名無史さん:2005/12/12(月) 01:31:54
微妙なスレ違いだが前田家と山内家の当主は従兄弟同士
402日本@名無史さん:2005/12/12(月) 09:55:27
>397
高知県民も知ってるでしょ。
403日本@名無史さん:2005/12/12(月) 23:42:00
島津有理子が好きだ
404日本@名無史さん:2005/12/12(月) 23:45:24
>>403
着せ替え人形的な雰囲気あるよな、人間なのに。
405日本@名無史さん:2005/12/13(火) 00:18:07
島津氏の家系じゃないんでしょ。
406日本@名無史さん:2005/12/13(火) 00:34:07
徳川家より価値があるよな。隼人の血は
407日本@名無史さん:2005/12/13(火) 08:16:32
島津製作所は義弘公から賜った島津の名を汚さないように!
408日本@名無史さん:2005/12/13(火) 12:55:52
島津なんて朝鮮人の子孫じゃんw
409日本@名無史さん:2005/12/13(火) 13:02:23
誉田党の鍛冶屋
410日本@名無史さん:2005/12/19(月) 01:36:48
維新入道義弘は忠平時代に足利義昭から「義」字の偏諱を受けてますが、
その時に名乗った「義珎(義珍)」は何て読むのでしょうか?
411日本@名無史さん:2005/12/19(月) 09:28:52
珍彦は『うずひこ』と読むので、よしうず?
412日本@名無史さん:2005/12/19(月) 11:59:43
413日本@名無史さん:2005/12/19(月) 12:07:18
葦津珍彦
414410:2005/12/19(月) 23:28:36
よ、よしまさですか…。読めない割には普通の名前で拍子抜けです。
それはさておき、レスありがとうございました。
415日本@名無史さん:2005/12/20(火) 00:59:34
>>408
そーゆーアンタは馬の骨
416日本@名無史さん:2005/12/20(火) 13:07:13
もし斉彬公が長寿だったら、どんな薩摩藩だったんだろう。
慶永や勝海舟が絶賛してた方だし西郷も心酔してたみたいだから、雄藩連合みたい
な全く別の、実際の殺伐とした歴史とはまた違っていたかもしれませんね。
吉田松陰・阿部正弘・梅田雲浜・橋本左内らとともに早すぎた死ですね
417日本@名無史さん:2005/12/20(火) 18:27:35
島津久範の最初の妻は島津忠麿娘?
418日本@名無史さん:2005/12/20(火) 18:28:03
島津斉彬など幕末のバカ殿だよ。
早死したから名君扱いだが、
日本の歴史のためには長生きしなくて良かったよw
419日本@名無史さん:2005/12/21(水) 01:02:08
>>418の言うところの名君って誰だろ(0・∀・)ワクテカ
420日本@名無史さん:2005/12/21(水) 02:47:26
西郷が心酔してたのは藤田東湖大先生だっぺよ
421日本@名無史さん:2005/12/21(水) 03:33:49
>>419
尾張宗春です
422日本@名無史さん:2005/12/21(水) 19:46:24
age
423日本@名無史さん:2005/12/21(水) 19:50:12
>>420
藤田東湖は殿様じゃねぇだろ

>>421
ネタとして時代を外しすぎ
笑えるネタを提供するよう更なる修行を命ずる
424日本@名無史さん:2005/12/22(木) 16:27:53
>>419
脱藩大名。
425日本@名無史さん:2005/12/22(木) 19:50:29
脱糞大名?
426日本@名無史さん:2005/12/22(木) 21:26:07
家康のことか?
427日本@名無史さん:2005/12/23(金) 01:15:30
脱藩大名支持者は、現実逃避型。
いわゆるニートから支持があつまりやすい
428日本@名無史さん:2005/12/23(金) 15:55:24
age
429日本@名無史さん:2005/12/26(月) 01:57:33
島津久光の実母・お由羅の方は「お由羅騒動」の後どうなったんでしょうか。
騒動の黒幕という話しもある割に、
その後の処罰なはネットで検索した限りでは分かりませんでした。
また、お由羅騒動などが書いてある一般向けの本をみても、
お由羅の方のその後について触れている物はみあたらなかったので・・・
430日本@名無史さん:2005/12/30(金) 23:35:38
年末あげ
431日本@名無史さん:2005/12/31(土) 13:20:20
慶応年間まで生きてたはず>お由羅
432日本@名無史さん:2006/01/08(日) 03:47:58
木崎原の戦い ○義弘軍200 対 ●伊東軍3000
島津のお家芸、釣り野伏で見事勝利。 この戦いでミリタリーバランスが島津に傾く。

耳川の戦い  ○島津軍20000 対 ●大友軍45000
義弘の冷静沈着な側面攻撃と家久の同時攻撃で勝敗が決定。
こんな大規模な野戦をガチでやって大友軍の死者20000人、武将数名戦死という一方的な大勝利を収めている。
稀な大勝利、武田信玄 対 上杉謙信の川中島合戦の比べるとその大勝利ぶりが際立っている。
以後、大友は衰退。

沖田畷の戦い ○家久・有馬連合軍5000 対 ●龍造寺軍60000
龍造寺はこの戦いで隆信、四天王を失い島津の傘下に入る。
戸次川でも長宗我部信親・十河存保を討ち取るが、指揮官を討ち取ると言うのは野戦では珍しく、それを何度もやり遂げている島津家久は戦国一の戦上手といえよう。

戸次川の戦い ○家久軍10000 対 ●豊臣四国連合軍
寄せ集めにすぎない連合軍は歴戦の勇将・家久の敵ではなかった。
この戦いで長宗我部信親・十河存保戦死。 長宗我部元親、ショックで廃人になる。

泗川の戦い ○義弘軍7000 対 ●明・朝鮮軍200000
慶長の役の末期に秀吉が死んだので、 朝鮮にいる武将たちに帰国命令が下りる。 それを知った明軍・朝鮮軍は20万の軍勢を日本軍の中央を守る義弘の泗川に向ける。
義弘は、泗川にいくつかあった支城を破棄、泗川に新たに築いた城に立て籠もる。
ここで敵を引きつけるだけ引きつけてから鉄砲の一斉射撃ののち突撃をし散々に打ち破った。
明軍の死者は8万。

露梁津の海戦 ○義弘軍 対 ●朝鮮水軍
この時も義弘は水軍を率いて活躍。
順天の小西行長を救出し、さらに全軍の殿を務め、朝鮮の名将・李舜臣と交戦し見事討ち取る。日本軍退却成功。
もし義弘が朝鮮出兵に参加してなかったら日本軍は朝鮮で全滅してた。 秀吉は大名の領地加増を禁止してたが 島津だけはあまりの戦功の大きさに加増された。

関ヶ原退却戦 ○義弘軍300 対 ●東軍80000
福島隊を突破、追撃してきた井伊直正と松平忠吉に重傷を負わせる。 この傷が元で2人は数年後死亡。
大阪城に残された妻を取り戻し、薩摩へ無事帰還。家康は島津を恐れ、関が原後も減封する事が出来なかった
433日本@名無史さん:2006/01/08(日) 18:34:35
>>432
「お正月にもさつま揚げ」
まで読んだ。
434日本@名無史さん:2006/01/08(日) 21:56:59
芋焼酎飲みたいな
435日本@名無史さん:2006/01/09(月) 20:32:29
おいはかるかんば喰いたい。
436日本@名無史さん:2006/01/10(火) 01:00:49
かるかんって余り歴史のあるお菓子じゃないんだよね
島津斉彬の命で作ったと言うから100年ちょい。

ちなみに私(母親が鹿児島出身)とバイト仲間(鹿児島出身)との間で
かるかんまずいという論議で意気投合し盛り上がったことが・・・
加治木饅頭ウマー
437西郷どん。:2006/01/10(火) 20:38:16
>436
おのれ順聖院殿をたばかるとは。
さてはきさん、さぶろうが配下の加治木の芋侍か。
438日本@名無史さん:2006/01/10(火) 20:55:24
泗川の戦いってのは歴史的に見て規模とかはどうなの?
439日本@名無史さん:2006/01/10(火) 21:17:46
個人的にあくまきは・・勘弁
440日本@名無史さん:2006/01/11(水) 01:57:23
ねったぼ最強伝説
441日本@名無史さん:2006/01/17(火) 08:18:07
家久と義弘ってどっちが強いの?
おれ家久が好きなんだけど。
442日本@名無史さん:2006/01/17(火) 12:43:29
どっちの家久かな?(・∀・)ニヤニヤ
443日本@名無史さん:2006/01/23(月) 19:04:26
天皇も細川元総理も黒田長久氏も筑波常遍氏も徳川家広氏も島津治子も皆お由羅の子孫w
444日本@名無史さん:2006/01/31(火) 21:35:52
445日本@名無史さん:2006/01/31(火) 21:47:35
家久のほうが強いらしいよ。

大友も竜造寺も家久が潰した。
446日本@名無史さん:2006/01/31(火) 22:46:34
確かに戦国時代の島津氏の躍進に果たした役割は義弘より家久の方が大きいんだよね。。。
傍目から見た限りではあるが。
447日本@名無史さん:2006/02/01(水) 22:07:40
平和に暮らしていた沖縄を侵略した島津!
448日本@名無史さん:2006/02/01(水) 22:17:07
都城市は島津市と改名汁!
だいたい『都城城』て何よw 京都都みたい
449日本@名無史さん:2006/02/01(水) 22:26:03
>>448
「都城城」という城は存在しない。
もともと「都城」(みやこのじょう)という城があって、それがいつのまにやら地名になった。
450日本@名無史さん:2006/02/02(木) 10:51:25
もと龍造寺の配下だった佐賀県民です。
憎き島津ですが、まあ戦国九州の覇者に相応しいのはどう見ても彼らですね。
そんな島津fanの方々に、島津家関連の小説その他を少し紹介しておきます。
1. 佐賀が誇る郷土史小説家 滝口康彦 氏 の短編の中に、日新斎の母親を主役として取り上げたものがあります。
 (タイトルは忘れてしまいました。申し訳ない。でもこの作品だけではなく、彼の小説はもっとメジャーになってほしいです。)
 どこまでが史実かは分かりませんが、かなりドラマティックな人生です。
 島津家を大河に取り上げるなら、四兄弟ばかりでなくこの辺りから始めても面白いかも。
2. 鹿児島が誇る海音寺潮五郎には「二もとの銀杏」という薩摩藩関係の有名作品がありますが、エッセイなどには色々と興味深い話を残しています。
 その中でも面白いのが、島津宗信を取り扱った「お大名」という小品。
 全く無名な彼ですが、胸のすくような逸話を多く残しているようです。2時間ドラマなどの題材としては面白いかな。
個人的には戦国九州を大河で取り上げるとしたら、立花宗茂を選んでほしいところです。
もっとも彼を主役にすると、島津fanとしてはあまり面白くない面が書かれてしまいますが。
451日本@名無史さん:2006/02/02(木) 14:43:23
島津軍=火縄銃標準装備。琉球や倭寇も支配。制海権を掌握。
島原キリシタンも戦力。

こうやってみると、九州・沖縄って凄いな。魏志倭人伝の国の半数は九州だろ。

九州の各地域が国家レベルの力を標準装備している。
弱点はまとまりがないこと。
452日本@名無史さん:2006/02/03(金) 00:39:40
島津家ってほんとに近衛から出たのか?

どうもうまくできすぎっつーかさ

後の権力握ったからって系図を誤魔化してない?
453日本@名無史さん:2006/02/03(金) 01:15:51
何今ごろそんなデフォルトなこと書いてるんですか

つかちょっと認識違いが
454日本@名無史さん:2006/02/03(金) 01:21:44
>>451
秀吉にはあっちゅーまに降ったくせにw
九州がスゴイんじゃなくて朝鮮がショボイだけ
455日本@名無史さん:2006/02/04(土) 13:57:55
栃尾刈谷田川の戦い ○謙信軍 対 ●反乱軍
謙信の初陣。病弱な兄、晴景に変わって出陣した。
実戦経験の無い謙信だったが、油断していた敵を畳掛け、初陣とは思えない華々しい勝利を飾った。
これによって家中の期待が高まり、上杉家は謙信が継ぐ事になった。

北条征伐 ○上杉軍 8万人 対 ●北条軍 9万
関東管領として、北条を征伐した戦。 関東豪族のほとんどが上杉謙信の側についた。
北条軍は撃破されまくり、殺されまくりで小田原城に追い詰められる。
北条軍は小田原城落城寸前まで追いやられるものの信玄が助けに入ったため助かる。
関東管領として始めての戦であった。

川中島の戦い ○上杉軍1万3千 対 ●武田軍2万
無敵の武田騎馬軍団も毘沙門天の化身上杉謙信には勝てるわけがなかった。
啄木鳥戦法も軍事の天才謙信には見破られ、武田軍は山本勘助や弟ら重臣を失う。
車がかりの陣で武田軍は追い詰められ、死者四千六百三十人、負傷者七千五百人を出す大被害を追った。
謙信は単騎特攻して信玄と一騎打ちするなど大活躍を見せた。

唐沢山城救援戦 ○上杉軍13 対 ●北条軍3万 
上杉側の関東の豪族、佐野昌綱を救援するため、北条の大軍の中を数騎で特攻。
謙信の威勢に恐れをなした北条軍は怯えて近づく事が出来なかった。

手取川の戦い  ○上杉軍2万 対 ●織田軍4万8千
最大勢力の織田も軍神上杉謙信の前では赤子同然だった。
能登畠山を軽々と滅ぼし、謙信に怯え逃げる織田軍を追撃。
織田軍は二千人近くの死傷者を出して、大敗する。
信長自身、近習ら数十騎とともに命からがら美濃へ逃げ帰ったという。
もし謙信が寿命で死んでいなかったら信長は滅んでいただろう。

松川の戦い ○上杉軍2千 対 ●伊達軍4万
この20倍にも及ぶ戦力差を本庄繁長の巧みな戦術で克服し、奇跡的な大勝利を得ている。
伊達軍は大量の死傷者を出して大敗、撤退する。
この戦いを捏造と言う伊達厨がいるが、もちろん負け惜しみから来る妄想なので注意が必要である。
456日本@名無史さん:2006/02/05(日) 06:17:23
なんで上杉?
457日本@名無史さん:2006/02/05(日) 15:44:25
日本史板とか三戦史板とかでばらまかれている釣り餌
気に寸名
458日本@名無史さん:2006/02/19(日) 03:23:32
>>394-398
大河ドラマである以上、原作はどうするよ?
『島津奔る』(池宮彰一郎)は盗作容疑で出版停止、
『島津義弘の賭け』(山本博文)『島津義弘』(江宮隆之)『島津義弘』(加野厚志)
『島津義弘』(徳永真一郎)しかないが。
459日本@名無史さん:2006/02/19(日) 03:31:32
間違っても大河とかないから
460日本@名無史さん:2006/02/19(日) 03:43:27
鹿児島県でのみ高視聴率、主人公が鹿児島に引きこもる大河・・・。
461日本@名無史さん:2006/02/19(日) 04:13:54
島津さん、テニス部だったな‥。
付属戦の時見に行った‥。
462日本@名無史さん:2006/02/20(月) 00:42:34
島津製作所と島津家ってなんか関係あり?
463日本@名無史さん:2006/02/20(月) 01:46:20
>462御先祖が、殿様から家紋家名を貰ったんだよ。
464日本@名無史さん:2006/02/20(月) 01:52:54
意外にも鹿児島では惟信入道の人気は大したことないらしいね。
465日本@名無史さん:2006/02/20(月) 04:41:15
西郷どん最強
466日本@名無史さん:2006/02/20(月) 10:01:38
   ∧_∧
   (´・ω・`) <俺とて島津家の男だ無駄死にはしない・・島津王国に栄光あれー なーんてな!!
  /J   J
  し―-J
467日本@名無史さん:2006/02/20(月) 12:30:47
講和の場で歳久辺りに戦艦ごと吹き飛ばされてそう
468日本@名無史さん:2006/02/20(月) 18:22:12
│島津?攻城や籠城に巧みでなく、中国地方では通用すまい。
│正面攻撃も琉球で苦戦したように強くはない。持久戦が出来んことは
│致命的なことじゃ。
└───────────v──────────────
   m n _∩                    ∩_ n m
  ⊂二⌒ __)    /\___/ヽ       ( _⌒二⊃
     \ \   /''''''   '''''':::::::\     / /
       \ \  |(●),   、(●)、.:|  / /
        \ \|   ,,ノ(、_, )ヽ、,, .::::|/  /
          \ .|   ´トェェェイ` .:::::::|  /
           \\  |,r-r-| .::::://
             \`ー`ニニ´‐―´/    
             / ・ 人 ・ /
             / 三  三 /
469日本@名無史さん:2006/02/20(月) 19:22:06
琉球戦では苦戦したのか?
俺の読んだ本では、長年戦慣れしていない琉球兵が3千の薩摩兵を前に
戦わずして次々敗走したと書いてあったが。
470日本@名無史さん:2006/02/23(木) 19:34:22
徳川家康が晩年、自分の側近にこう言ったらしい、、、

『みずからは働かず、人を働かす事が大将だ、、、
          その点、島津義久におよぶ者はいない!、、、、』 とね、、、
471日本@名無史さん:2006/02/23(木) 19:48:47
>>470
内閣総理大臣にもあてはまる気がする
472日本@名無史さん:2006/02/23(木) 21:28:17
家久の急死は豊臣秀長が毒盛ったとか言われ取るが
義久によるものということもあるかもしれん
473日本@名無史さん:2006/02/23(木) 22:16:26
その話は日本史板でも三戦史板でもよくネタにされるが
言い出しっぺは原昭午氏という学者らしい。
実際にその論文を読んでみたが、確たる証拠もなく
手紙の前後関係からのかなり勝手な推測と言っても差し支えない物だった。

島津義久を酷評している学者としてあの山本博文氏がいるが
山本氏でもこの原氏の説についてはかなり懐疑的だ。
474日本@名無史さん:2006/02/24(金) 06:41:59
>>473
日本の政治評論家と歴史学者ほどアテにならないものはない!!(笑)

475日本@名無史さん:2006/03/02(木) 11:35:20
45万部のベストセラー『嫌韓流』の第2弾

『嫌韓流2』発売中

駄作か傑作かは、買って自分で確かめよう
476日本@名無史さん:2006/03/04(土) 13:16:33
花火を打ち上げたんだって?
477日本@名無史さん:2006/03/11(土) 23:47:59
>>473
虫はどこいったんだ、、、、、、、、
478日本@名無史さん:2006/03/12(日) 01:23:55
山崎寿満子が色弱ということは忠重も色弱?
寿満子の孫で俔子妃の息子二人以外に色弱はいたの?
479日本@名無史さん:2006/03/12(日) 01:59:55
>>469
琉球は、島津侵入の約200年前に武器を捨てていて、
明に貢ぎ物をして独立を許されていた国家だよ。
まあ朝鮮と一緒だ。だから、鉄砲も見たことがなかったそうな。
結果は一方的なものだった。
480日本@名無史さん:2006/03/12(日) 08:46:28
>>479
しょーもない釣りだが・・・

尚真王の刀狩りは単に武器を中央に集めただけ。
戦争を知らない平和な島云々は戦後地元のサヨ教師がこさえた捏造史観。
鉄砲が琉球経由で大量に取引されていたことは地元新聞が報じている。

薩摩勢は開戦当初那覇港に攻め込もうとしたが、そこには両側に
三重城、屋良座森城という対倭寇用の城砦が在り、鎖を張って石火矢(中国式青銅砲)
を撃ってきたので無理な突入をあきらめ、本島北部の運天港から上陸して南下し
主力のいない首里城を包囲して落とした。 
陸戦は一方的だったが海戦では手こずった、というだけの話。
481日本@名無史さん:2006/03/12(日) 11:54:45
>>477
誤爆?
482日本@名無史さん:2006/03/12(日) 19:47:42
>>480
それも半分違うけどな。
金丸の反乱以降、実際琉球には大きな内戦などなかった。
結局は実践経験の差が歴然だったんだよ。
そこから生まれたのが、平和な島史観だ。
483日本@名無史さん:2006/03/14(火) 03:38:12
実戦経験もそうだが、そもそも戦国末期時代の軍事力で持ってすれば大抵どこでも落とせる。
琉球はちょい規模の大きい対馬みてーなもんだ。

久光は斉彬と敵対してたわけじゃない。寧ろ積極的に兄の事績を踏襲してるし。
お由羅派の黒幕は斉興しょ。賢候と呼ばれた斉彬も史料見ると結構策動してる。
急死したのは確かだが年齢考えれば普通に死んでもおかしくない歳。

かるかんも加治木饅頭も好きやだけど伊集院饅頭だけは好かんw
484日本@名無史さん:2006/03/15(水) 20:25:09
幕末の島津隊
1.薩英戦争      世界最強の英艦隊に敗れるも、大打撃を与える。
2.禁門の変      御所に攻め込み勢いづく毛利勢に突撃、これを壊滅させる。
3.万国博覧会の妨害  援助を求める為、フランスに赴いた幕府使節団は薩摩琉球国
            の妨害に遇いフランスからの支援を受けられなかった。
4.鳥羽・伏見戦    討薩に燃える徳川勢1万5千を3千の兵で撃破。
5.上野戦争      黒門にて多くに死傷者を出すも、徳川勢を破る。
6.白河城攻略     2千強の列藩同盟軍の篭る白河城を7百の寡兵で攻略。
            その後の戦局を一方的なものとした。
7.平潟上陸作戦    平潟海岸に強襲上陸。同盟軍頼みの伊達隊の総崩れ・上杉隊
            の戦線離脱で同盟軍は次々と降伏。
8.長岡城退却     長岡藩河井の作戦で包囲された島津隊(毛利隊含む)。
            敗走するも、同盟軍に激しく抵抗し前線に赴いた河井を
            負傷させる。 その後、長岡を再占領。
9.会津侵攻      必死に抵抗する松平・丹羽隊を圧倒、帰趨を決する。

  ※ 西南戦争は薩摩を中心とした不平士族の反乱であって、島津隊ではない。                 
485日本@名無史さん:2006/03/16(木) 07:10:38
また会津の電波人か
486日本@名無史さん:2006/03/16(木) 11:08:43
忠義五女晋姫、八女和姫、次男徳之助、三男邦丸の生母は寿満子?
487日本@名無史さん:2006/03/19(日) 18:46:11
島津をドラマにするとしたら、沖縄侵略を
圧政から開放するための正義の戦いだったと
捏造する必要があるなw
488西郷どん。:2006/03/21(火) 23:06:48
いや、清国の暴政から国土を取り返した英雄にしたてるのはいかがであろうかの。
489日本@名無史さん:2006/03/25(土) 14:13:25
>>458
一番面白かったのは
池宮彰一郎なんだけどねぇ・・・・・・・・・・
490日本@名無史さん:2006/03/25(土) 15:55:27
うん、一匹逃げ出しそうになったのが作品をだめにした感があるが、割と良く出来てた。
491日本@名無史さん:2006/03/25(土) 16:12:09
>>458
ひとつ最新の作品を忘れてるような気がする。
492日本@名無史さん:2006/03/32(土) 14:03:09
保守ついでに記念ぱぴこ
日付はどうなる?
493492:2006/03/32(土) 14:03:44
やった、3/32になってるw
494日本@名無史さん:2006/04/03(月) 23:04:38
『城郭の縄張り構造と大名権力』今頃になって読みました。

島津家の項目では少々つっこみたい部分もありましたが
城銀座wの東海・近畿の城に比べて地味な九州(なぜか周防長門含む)の縄張りを比較することで
一般的に「でかすぎる外様大名」が多いといわれる九州大名の権力の裏側?を分析したのは
おもしろい観点かと。
495究極の劣等の民だよ〜ん:2006/04/04(火) 20:23:17
恨の民、劣等種のDNA蝦夷・・・・・・・恐るべし!
496日本@名無史さん:2006/04/08(土) 22:53:22
米印と幾印が誰だかわかりますか?
497日本@名無史さん:2006/04/09(日) 08:09:00
九州以外にも島津
498日本@名無史さん:2006/04/09(日) 08:18:27
499日本@名無史さん:2006/04/09(日) 15:24:44
>>498
誤爆か。
500日本@名無史さん:2006/04/09(日) 17:11:49
500ゲット

>>497
では小田原北条氏家臣といわれる島津運久の息子について
501日本@名無史さん:2006/04/10(月) 13:27:13
島津運久?相州家の運久と違うのか?!
島津って勝久・忠良・家久・忠辰・忠清みたいに同名の人物が結構いるよな。
久豊と豊久、元久と久元みたいな組み合わせも紛らわしいし。
502日本@名無史さん:2006/04/10(月) 13:46:05
>>501
お察しの通りで総州家・島津運久の息子(らしい)
子孫は徳川幕府旗本になったらしいが。
503日本@名無史さん:2006/04/10(月) 15:23:17
>>503
調べてびっくり。そうなんだね。
別の運久という人物の息子かと思った・・・。
運久が忠良を養子にしたために彼は歴史の表舞台から抹殺されたんでしょうな。
504日本@名無史さん:2006/04/10(月) 15:24:33
>>502
調べてびっくり。そうなんだね。
別の運久という人物の息子かと思った・・・。
運久が忠良を養子にしたために彼は歴史の表舞台から抹殺されたんでしょうな。
505502:2006/04/10(月) 18:17:33
誤:総州家
正:相州家

一字違いで大違い
鬱市
506日本@名無史さん:2006/04/12(水) 05:32:25
声にしたら同じだ 欝
507日本@名無史さん:2006/04/15(土) 12:32:33
肝属一族はどうなったの?
508日本@名無史さん:2006/04/16(日) 15:39:07
本宗家は100石で島津家家臣
100石はあまりにも少ないと思えるが
水飲み百姓レベルの士族が多い島津家中では100石でももらえるだけかなりましなレベル
ただし、血統は江戸時代初頭に断絶している。

分家は一所持格(領主レベル)になったところもある。
509日本@名無史さん:2006/04/17(月) 01:06:55
ひどい治政
510日本@名無史さん:2006/04/17(月) 01:14:17
つ シラス台地
511日本@名無史さん:2006/04/17(月) 22:47:18
「つくる会」新会長に種子島氏。
種子島領主末裔か?
512日本@名無史さん:2006/04/18(火) 20:52:55
種子島家ももう少しがんばっていれば、鉄砲とジエットエンジンで
日本史に名がのこったのに・・。
513日本@名無史さん:2006/04/18(火) 22:14:48
鉄砲はともかくジェットエンジンはよくワカランなあ
514日本@名無史さん:2006/04/19(水) 20:34:08
戦国がもうチョット長かったらジェットの時代だったのさ。
515日本@名無史さん:2006/04/23(日) 11:26:41
>513
種子島大佐 ネ20でぐぐってみ
516日本@名無史さん:2006/04/25(火) 02:08:48
島津の相手は最強クラスばかり


大量の支城と小京都と呼ばれた城下町を持ち隆盛を極めた伊東
同じく隼人の血を持つ肝付
名将甲斐を抱える阿蘇
毛利を九州から撤退させ、北九州の覇者となった大友
名将だらけの立花一族
フロイスに世界最高の英雄カエサルに例えられた肥前の熊龍造寺
比興表裏一体の筑紫
朝鮮の名将李瞬臣
517日本@名無史さん:2006/04/25(火) 02:10:37
明軍20万の追撃軍
518日本@名無史さん:2006/04/25(火) 02:13:40
ぶっちゃけ九州勢とか毛利とか伊達とかってしょせん地方政権だったんだよ
なんか変に幻想持たれてるけどさ
現に秀吉の前になすすべが無かったじゃん
あっさりやられてる
519日本@名無史さん:2006/04/25(火) 02:25:54
http://www.m-network.com/sengoku/sendai01.html
第1位 島津家(忠良・貴久・義久・義弘)
日本の戦国時代において、名君続出の大名家といえばまず島津家があげられよう。
後に「島津に暗君なし」と言われることになるが、これは決して誇張表現ではない。
520日本@名無史さん:2006/04/25(火) 04:31:12
>516
肝付の出目は地場のハヤト系か?
521日本@名無史さん:2006/04/28(金) 05:03:52
島津家が家康に負けた?
傘下に入ってるのは何故かい?
522日本@名無史さん:2006/04/28(金) 06:27:00
>>521
家康と義久のネンゴロ関係。
523日本@名無史さん:2006/04/28(金) 23:18:46
>>520
えーと、肝属さんちは「在地平氏」です。
律令制時代、開発しても全てが朝廷所有にされてしまうため
全く進まなかった農地開拓が、
律令制の崩壊によって急速に進行し農地が増大しますが、
それを担ったのが「武士」でした。
肝属さんちは、開発農民としての武士だったんですよ。

開発しただけでは国主に見つかって律令制に組み入れられちゃいますから、
京都の有力なところ(摂関家とか有力寺院)に金品を定期的に納めて、
そこの荘園、ということにしちゃいます。
南九州の場合、それが近衛さんちだったため、
近衛家の被官だった惟宗さん改め島津さんが入ってくることになったのですよ。
524日本@名無史さん:2006/04/29(土) 07:39:29
>>479
朝貢国と言うと誤解されがちだが、
あれは中国の王朝に形式的な服従でちょっとだけ特産物を送る代わりに
中国の王朝から多大な物資や財宝を受け取れるシステムで
徳をするのは朝貢国の方なんだが。

何でこんな奇妙なシステムなのかと言うと
中国の王朝が周りの国から侵略を受けないように
するためのシステムなんだよ。
中国王朝は代々、周りの野蛮(と思っている)な国や民族の
侵攻に多大な金を使ってきたから、
こうやって金をやる代わりに形式的な服従をしなさい。
というシステムが出来たの。
琉球王国もそうやって朝貢して儲けていたわけ。
525日本@名無史さん:2006/04/29(土) 07:40:43
上げないと
526日本@名無史さん:2006/04/30(日) 09:41:49
都城が島津家発祥地だったが、戦国初期は伊東に取られていたのでしょうか?
527日本@名無史さん:2006/04/30(日) 09:48:24
>>55-56
封建時代が崩壊したばかりの折に
殿様と同じ苗字を名乗るというのは・・・よく近所の士族が怒らなかったものと思うのですが?
殿様のもってた権威まで、そう簡単に崩壊したのですか?
528日本@名無史さん:2006/04/30(日) 10:29:07
>>523
うちは藤原だったみたいで本名のあとに藤原〇〇とついてました。惟宗島津に討たれた後に下士家臣として仕えたんでしょうかね。
幕末には東北討伐で伊知地軍下に働き、村田新八姻族にあたりますが在地藤原ではなさそうで、豊後の秀郷流に連なるような系図です。
桓武平氏渋谷系東郷氏も外来族ですよね。
鹿児島藤原由来と島津氏の確執経緯をご存知でしたら教えて下さい。
529日本@名無史さん:2006/04/30(日) 12:41:28
>>526
戦国初期は島津氏分家の北郷氏領
530日本@名無史さん:2006/04/30(日) 15:02:53
久光ごときが左大臣になり、公爵家が2家もでき、近衛さまとの関係
はどうだったのだろう?
531日本@名無史さん:2006/04/30(日) 16:00:38
>>530
戦後最大?のタブーをこじ開けようとされるのかや?
なんかあってもしりまへんえ
532日本@名無史さん:2006/04/30(日) 16:18:05
祝吉御所は発掘されて存在が確認されていないの?
533日本@名無史さん:2006/04/30(日) 21:20:19
>>527
ソースは「戦国ものしり事典」の252p

それと石川県には前田なんて名前はゴロゴロあるよ。
534日本@名無史さん:2006/05/21(日) 19:09:43
明治以後に勝手に名乗ったわけ?
535日本@名無史さん:2006/05/22(月) 18:22:06
島津家と半家の竹内家はどういう関係だったの?
536日本@名無史さん:2006/05/22(月) 18:46:16
名家の堤家となら関係大ありだが。。。
また何でそげな質問をなさるのだ?
537日本@名無史さん:2006/05/23(火) 12:47:30
>>519
あー、俗に言う「島津に暗君なし、伊達に名君なし」ってやつでしょ?
538日本@名無史さん:2006/05/23(火) 19:40:11
竹内治則の娘が久光の養女になっていたから
539日本@名無史さん:2006/05/23(火) 21:21:03
>>538
ほうなるほど

でも竹内家と島津家との間には知ってる限りじゃ通婚関係はないねぇ
敢えて言えば京都の島津藩邸と竹内家邸のある場所が近いと言うことぐらい?
(烏丸今出川角)
お力になれずにスマソ
540日本@名無史さん:2006/05/23(火) 21:27:19
おまけ 島津家と関係のある公家

・摂家 近衛家
 島津家の創始からつながりがあるらしいが
 婚姻関係を結ぶようになったのは江戸中期から。
 島津家の姫が近衛家に嫁に来る形式で、
 近衛家の姫が島津家に来たことは(江戸時代は)一度もない。
・名家 平松家+交野家
 平松時庸の養女(時庸の弟・交野時貞の娘)が島津光久の後妻となる。
 これは時庸養女の妹「山の井」が後水尾上皇の女官であり、
 宮中情報を狙った政略結婚だったと考えられる。
 このとき光久(42歳)にはすでに側室がわんさかおり、二人の間に子供は無し。
541日本@名無史さん:2006/05/23(火) 21:30:45
・名家 清閑寺家
 徳川吉宗からの押しつけ嫁・竹姫の実家がここ。
・名家 甘露寺家
 徳川重豪の側室→正室昇格した綾姫(多千姫)の実家。
・名家 堤家
 島津重豪の側室で島津斉宣を産んだお千万の方の実家。

72万石の大名の割には余り上位の公家とは関係していない(除く近衛家)のが不思議。
542日本@名無史さん:2006/05/24(水) 19:04:40
竹内治則の母親は甘露寺家出身。
543日本@名無史さん:2006/05/24(水) 20:35:39
>>542
間接的に親戚ということか
d楠
544日本@名無史さん:2006/05/25(木) 22:59:54
明治以降になると分家含め結婚相手ががらりと変わるね
545日本@名無史さん:2006/05/26(金) 10:24:14
なんやかんや言われつつも社会構造ががらっと変わったんでしょうな
明治維新で

ところで島津忠義の妾・山崎寿満子って鹿児島の出身なの?
546日本@名無史さん:2006/05/26(金) 21:14:44
それは知らないが忠義が生きていた頃は忠重や正子と鹿児島で暮らしていた

あと為子等の生母の菱刈久はあの菱刈氏の出身?忠義との年齢差は?
547日本@名無史さん:2006/05/26(金) 21:16:37
島津家は昭和時代になっても近親婚がおおい
548日本@名無史さん:2006/05/26(金) 21:33:52
>>547
どういう例がありますか?
549日本@名無史さん:2006/05/27(土) 08:15:12
島津貴子サン
550日本@名無史さん:2006/05/27(土) 13:13:38
>>546
>それは知らないが忠義が生きていた頃は忠重や正子と鹿児島で暮らしていた
忠義が死んだ後は忠繁たちは東京に上京させられたんだけど
寿満子はどうなったんだろう。鹿児島に置き去り?
カワイソウダケド、置き去りにされても文句は言えない立場ではあるが…。
551日本@名無史さん:2006/05/27(土) 14:45:34
寿満子も一緒に上京したんじゃない?
ところで宮中某重大事件の頃は寿満子はいきていたのだろうか。
元を正せば寿満子の色弱(女性の色弱は稀)が原因なんだから。
それと寿満子の孫で色弱はどれぐらいいたの?
552日本@名無史さん:2006/05/27(土) 19:40:43
>>551
>ところで宮中某重大事件の頃は寿満子はいきていたのだろうか。
墓石見たら没年が…と思ったが、常石の墓所は一般人立入禁止だったっけ

>それと寿満子の孫で色弱はどれぐらいいたの?
それこそプライバシーが絡むから、永久に謎じゃない?
イギリス王室は血友病保有者じゃなかったのにビクトリア女王の母方から
血友病保因者になったというのは有名だけど…
これが原因の一つでロシア帝国吹っ飛んだんだから遺伝病も恐ろしいです罠
553日本@名無史さん:2006/05/27(土) 19:43:32
それと色弱自体に誤解をお持ちの方も多いと思われるので
板違い承知でこういうHPも紹介しておきます
ttp://www.mainichi.co.jp/universalon/clipping/200310/359.html
554552:2006/05/27(土) 19:54:16
常石→常安
訂正しておきます
555日本@名無史さん:2006/05/30(火) 22:53:07
>>547
北白川家もそう
556日本@名無史さん:2006/06/01(木) 16:35:54
北白川宮は近親婚あった?
もしかして道久王の娘が?
557日本@名無史さん:2006/06/01(木) 18:19:15
>>549
貴子氏は佐土原藩主の伯爵家
558日本@名無史さん:2006/06/01(木) 19:14:24
島津一族であれば分家でも嫁いだ娘の子孫でもかまわない
559日本@名無史さん:2006/06/04(日) 16:55:20
>>558
?イミフメ
560日本@名無史さん:2006/06/04(日) 23:58:30
>>551さん 寿満子は昭和2年2月17日、75歳で亡くなっているようです。その事件当時は生存してます、一体どう思ったんでしょうか…
561日本@名無史さん:2006/06/06(火) 21:47:08
>>560
551じゃないけど、よく分かったなあ。
>一体どう思ったんでしょうか…
遺伝病は母親の責任とされる時代だった+妾という立場
おそらく肩身狭かったんじゃ無かろうか。。。
562日本@名無史さん:2006/06/07(水) 02:01:31
>561ソースは「朝日新聞でみる昭和史」だったと記憶してます。別件を調べていて、たまたま見つけたのをメモっていました。
本当に気の毒ですが、結果として孫が皇后になったのを見届けたのだから、幸せな一生という気がします
563551:2006/06/07(水) 20:29:14
貴重な情報ありがとうございます。数え年か満年齢かわかりませんが日韋姫や寧姫と同年代だったんですね。
香淳皇后はこのあと寿満子のように女の子ばかり産みその後今の天皇が生まれるのですが寿満子はそれを知らずにこの世を去ったわけですね。
寿満子の人生をドラマにしたらすごくおもしろそうです。
564日本@名無史さん:2006/06/12(月) 23:02:11
忠重夫人伊楚子も側室腹なのか?
565日本@名無史さん:2006/06/17(土) 21:23:04
キレちゃってるよなぁw
566日本@名無史さん:2006/06/21(水) 23:02:48
>>537
>「伊達に名君なし」
聞いたことない…
567日本@名無史さん:2006/06/22(木) 10:30:15
初心者の質問ですみません
チェストが薩摩の掛け声って最近はじめて知りました
これ語源は何なんですか?
568日本@名無史さん:2006/06/22(木) 10:32:03
>>566
じゃ、いたとでも?w
569日本@名無史さん:2006/06/22(木) 10:46:48
今日はだと?ふざけるな!

こんちわッスだと?、ふざけるな!

んちゃーッスだと?、ふざけるな!

チャーッスだと?、ふざけるな!

チゥースだと?、ふざけるな!

中略

チェストー?ざけんな!

チェストー?

チェスト!
570日本@名無史さん:2006/06/22(木) 12:28:45
コ・ミ・ニ・テ・ィ・・・ チエストー!!!
571日本@名無史さん:2006/06/22(木) 13:14:48
>>567
今度公開される映画のサブタイトルからw




というのは冗談だが
薩摩のかけごえっつーか示現流の気合いとして有名だ罠
ホントの所を言うと特に意味はない物と思われ
572日本@名無史さん:2006/06/22(木) 15:03:57
よいしょっと!月の家猿叫です。
573日本@名無史さん:2006/06/22(木) 17:56:17
567です。
辞書引いたら「外来語とされているが語源は不明」とありました。
574日本@名無史さん:2006/06/22(木) 19:10:13
とりあえず「猿叫(えんきょう)」でぐぐってみれば?
575日本@名無史さん:2006/06/22(木) 21:54:54
>>567じゃないが
「猿叫」でぐぐるとなぜかシナ様語の信やぼ解説ページが多数引っかかる件
576日本@名無史さん:2006/06/27(火) 12:15:20
ワイがオイにワイっちゅうでオイもワイにワイちゅうとよ
577日本@名無史さん:2006/06/27(火) 18:17:49
なぁにごじゃぺぬかしくさてやがる。こんデレスケが!!!
578日本@名無史さん:2006/06/30(金) 18:57:21
【戦国】薩摩島津家総合スレッド【最強】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150122337/
579日本@名無史さん:2006/07/02(日) 00:58:39
愛したい
580日本@名無史さん:2006/07/02(日) 13:26:47
>>579
           やさしくしてネ♥
     ∧_ ∧
     ( ・ω・` )
       (⊃⌒*⌒⊂)
       /__ノωヽ__)
581日本@名無史さん:2006/07/08(土) 21:19:01
こんよかぶいがっ!
582日本@名無史さん:2006/07/11(火) 00:55:03
は?
583日本@名無史さん:2006/07/23(日) 13:40:18
薩摩弁?
584日本@名無史さん:2006/07/24(月) 01:06:12
だよ。ええ格好しいがっていう様な意味だよ
585日本@名無史さん:2006/07/24(月) 02:15:15
586日本@名無史さん:2006/07/24(月) 06:38:10
何か、島津ってあまりいい印象ないのかな?

島津好きの俺としては少し寂しいな。
587日本@名無史さん:2006/07/24(月) 08:06:21
昔から日本史板では薩摩の人気に嫉妬してる長州ヲタが約1名粘着してるんだよ。
588日本@名無史さん:2006/07/24(月) 08:30:56
薩摩は芋臭いし田舎臭いし閉鎖的で排他的な印象
589日本@名無史さん:2006/07/24(月) 08:40:39
↑マジで常駐してるよw
590日本@名無史さん:2006/07/24(月) 08:56:00
芋と言えば、国旗まで日本そっくりの超親日国として有名なパラオ共和国の大統領が鹿児島を訪問したんだよね。
パラオでも芋焼酎を地元の名産品に育てたいから薩摩の技術を参考にしたいんだって。
パラオみたいな親日国の為に薩摩の伝統文化が貢献できるのは素敵ですね。

長州人も他県の誹謗中傷ばかりに必死になってないで世間のお役に立つ事を何か考えてみたら?
591日本@名無史さん:2006/07/24(月) 09:15:57
子供の頃龍馬や高杉には経歴知らなくても好ましい感じしたが
薩摩の印象はなんか芋臭くて排他的で暗いって印象受けたな
592日本@名無史さん:2006/07/24(月) 09:35:45
必死だな。
593日本@名無史さん:2006/07/24(月) 09:45:23
薩摩に対する粘着質な嫉妬は幕末からの伝統らしいよ。
蛤御門でブザマに蹴散らされたら下駄に薩摩や会津の名前を書いて欝憤晴らししていたなんて有名な逸話じゃん。
チョンの血を引く蛮族はやる事なす事キムチ臭い。
594日本@名無史さん:2006/07/24(月) 09:48:23
長州ネタうざい
スレ違いだろ
595日本@名無史さん:2006/07/24(月) 11:12:20
>>593
薩摩芋好きってよっぽどチョン好きなんだな〜チョンの子孫がおおいから?
596日本@名無史さん:2006/07/24(月) 12:19:44
薩摩を罵倒すればするだけ長州人の品性下劣さを晒してる現実を自覚できないあたりが朝鮮の血だな。
597日本@名無史さん:2006/07/24(月) 12:42:40
チョン州ネタは何回同じやりとりを繰り返すと気が済むんだ?
同じ話でループしてる時点で頭の悪さを宣伝するだけだぞ。
598日本@名無史さん:2006/07/24(月) 12:48:14
日本をだめにしたのは長州と薩摩!
大東亜戦争、満州、台湾、朝鮮、竹島を失った責任はすべて長州と薩摩の責任。
長州と薩摩は日本の政治経済から排除されるべき。
599日本@名無史さん:2006/07/24(月) 14:35:13
確かに薩摩のせいで・・・
600日本@名無史さん:2006/07/24(月) 14:43:19
すべて薩摩芋のせいで
601日本@名無史さん:2006/07/24(月) 15:38:44
誰だよゴキブリを召還したのは
それとも自作自演か?
602光源氏:2006/07/24(月) 18:58:13
すべて鬼門のせいだな

いろいろバレきたけどネ(藁
603日本@名無史さん:2006/07/24(月) 23:29:44
長州は嫌われ者だから色々必死なんだよ。
努力のポイントがいつも間違ってるけど。
604日本@名無史さん:2006/07/24(月) 23:59:41
俺ん家士族の家系だった。ひゃっほ〜!
605日本@名無史さん:2006/07/25(火) 00:39:51
島津は江戸時代には石高の割りに士族が多かったらしいが、
人口の3割くらいか?

こういった江戸期の内政面を知るには何がいいですか?
606日本@名無史さん:2006/07/25(火) 01:13:14
島津(特に戦国時)ってやたらマンセーする人が多い気がする
(しかも島津には悪いとこないですつーか最強です的な)

このスレではちゃんと叩いてるやつもいるんだな
安心した
607日本@名無史さん:2006/07/25(火) 02:42:34
>>605
士族はもっと多いはず。何かいいのないかね?
608日本@名無史さん:2006/07/25(火) 10:16:47
>607
武士を城下士のみにするなら三割でよいのでは?
 郷士は武士といえばそうなんでしょうが
609日本@名無史さん:2006/07/25(火) 10:40:10
>>605
一般的な概説書では『鹿児島県の歴史』(山川出版社)ぐらいかねぇ
これもあくまで概説書なので表面的なことしか書いてないし。
島津家文書専門家(?)山本博文氏も寛永までの島津しか興味ないのか
その後のことについて研究している論文は未見だし。

戦国〜江戸初期と幕末の島津研究は多いのだが
その間がずぼっと抜け落ちているんだ罠
デムパ大名として著名な島津重豪も芳則正『島津重豪』がいまのところ最初で最後の専門書だし。
610日本@名無史さん:2006/07/25(火) 11:13:16
江戸中期に関する文献とかが無くて、研究ができない訳ではないんだろう。

研究者自体が、義弘とか特定の人物に思い入れが強いのかな?
611日本@名無史さん:2006/07/25(火) 11:51:02
島津家文書もあるし、幕末に古文書をまとめた『薩藩旧記雑録』もあるから
むしろ江戸時代以降の方が史料は多いんだよね。
つまり、研究者の怠慢と言うことかなw

幕末の島津斉彬の時には、逆に遺言で大量に文書類を焼却処分したので
分からないことも多いようだが・・・
612日本@名無史さん:2006/07/25(火) 22:34:17
なるへそ
613唐松山:2006/07/30(日) 20:27:48
島津氏の創め・・・の頃
鎌倉時代の初めの領地は、信州小県塩田の庄
元寇のとき薩摩へ移動
塩田には、北条氏が入る
信州に残留した、島津氏の末裔は、長野の長沼に入る
戦国時代 川中島の戦いに出てくる島津氏がこれです。
614日本@名無史さん:2006/08/01(火) 12:07:50
2008年の大河主人公に関係者が決まったのでageますね
http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20060801-OHT1T00074.htm
615日本@名無史さん:2006/08/01(火) 18:01:24
大奥モノなのか・・・島津の篤姫ってけっこう重要な
感じだが和宮とか誰がやるんだろう。

西園寺とか
616日本@名無史さん:2006/08/01(火) 18:23:29
生まれも育ちも鹿児島の俺に決まってるがね
617日本@名無史さん:2006/08/01(火) 19:57:25
翔ぶが如くみたいに字幕がつくんだろうな
618日本@名無史さん:2006/08/01(火) 19:59:02
おいどんは薩摩士族の末裔ですたい。
619日本@名無史さん:2006/08/01(火) 20:33:09
ひっとべ!!
620名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/01(火) 20:52:39
今CSで「翔ぶが」を見てるが、字幕ったって単語に注訳がテロップで出る程度じゃねえか。
621日本@名無史さん:2006/08/01(火) 21:55:31
なこよかひっとべじゃ!
622日本@名無史さん:2006/08/07(月) 06:43:27
明治の徹底的な廃仏毀釈のせいで重要な古文書や貴重な歴史資料が
仏寺から消失または散逸したのが痛い
この点において文化財の破壊具合は他府県の比ではないくらいに多い

率先して法令遂行するにしても島津氏の菩提寺までぶっ壊す徹底ぶりはどうなのよ
623日本@名無史さん:2006/08/08(火) 11:10:33
>>622
これとても不思議です。島津久光ってとても保守的な人物だったんでしょう?
なぜよりによって薩摩でこんなことになったのですか?
624日本@名無史さん:2006/08/24(木) 17:28:32
薩摩の影響か日向国でも廃仏毀釈がすごかったんだよなあ。
625日本@名無史さん:2006/08/24(木) 17:35:14
何か隠された目的でもあったんじゃないか?
勘ぐりたくもなるなw
626日本@名無史さん:2006/08/25(金) 01:51:58
「廃仏毀釈」の意味がわからんたい!
627日本@名無史さん:2006/08/25(金) 17:27:35
単純な話、藩の年収が十数万両だってのに500万両もの借金を踏み倒すとか、やっていいことにもほどがあるとおもうんだが・・・
628日本@名無史さん:2006/08/25(金) 17:38:50
今の日本の財政累積赤字の方が恐ろしい
これ踏み倒したら世界恐慌になるからインフレを使うのかな?
薩摩藩の借金なんか一部の人にしか影響してないだろ
629日本@名無史さん:2006/08/25(金) 22:00:55
西南戦争さえ起こさなければ薩摩もそんなに嫌われてなかったろう
征韓論と征台はアホすぎるw
あの金玉デブさえいなければな・・・・
630日本@名無史さん:2006/08/31(木) 23:50:34
薩摩の廃仏毀釈はね、複合的な要因があるのよね
久光にしても茂久にしてももう関与しねーよ状態だったし
知識のある上級士族の東京流出も大きく響いた

知っての通り薩摩では庶民の信仰する一向宗は幕末まで弾圧されてた
薩摩地方には隠れ念仏と呼ばれるものが各地にある

島津氏の菩提寺である福昌寺を始め日新寺とか坊津の一乗院やら
徹底的にぶっ壊されたこれらの寺は曹洞宗やらの宗派が多い

廃仏毀釈の後は民衆支持が基盤の浄土真宗の寺がたーくさん出来た
今じゃ鹿児島のお寺の9割ぐらいは東西本願寺の浄土真宗

で、下級士族と民衆が率先して寺ぶっ壊して回ったわけだが
伝来・保管してあった史料価値なぞ分かるわけも無く
商家に安くで売り渡して私腹肥やしたりタダで配ったりしたそうだ
631日本@名無史さん:2006/09/06(水) 05:46:15
たしか鎌倉に島津家始祖の墓があったと思うけど、あれは意味ないのか?
632日本@名無史さん:2006/09/06(水) 06:34:25
分かってないね。
西南戦争こそが薩摩最大の萌え要素。
633日本@名無史さん:2006/09/06(水) 12:27:10
>>631
あれは江戸時代中期にゴージャスバブル淫乱蘭癖デムパ殿様・島津重豪が
源頼朝墓とともに 勝 手 に 整備した物
実際に島津忠久のお骨が入っているかどうかはアヤシイといわれていたかと。

ちなみに忠久の墓は鹿児島県にもあるが、
忠久自身は実際には鹿児島に行ったことがないのでは、と言う説が有力らしい。
634日本@名無史さん:2006/09/06(水) 14:24:52
鹿児島出身だが大久保利通を悪し様に口汚く罵る人なんて爺婆の世代でもおらんよ
薩摩で大久保が嫌われてるってことはない
注目度と知名度が西郷>大久保ってだけ
あとは判官贔屓の日本人気質かな

そいや西郷、大久保の子孫が懇親会か何かで対面したらしいね
冬だったか春だったか
635日本@名無史さん:2006/09/06(水) 14:25:29
そう言えば島津のスレだった。西郷、大久保は関係ないね。スマソ。
636日本@名無史さん:2006/09/07(木) 00:16:23
でも島津家の当主って、元寇までは鎌倉に住んでたわけで
しかも頼朝の抜擢がなければ、まあ話しにならないでしょ?
そう考えると、墓の怪しさは置いておくとして
やっぱり頼朝となんらかの関係を認めたほうがスッキリしないか?
637日本@名無史さん:2006/09/07(木) 13:03:23
そこらへんは北条氏との関係はどうなんかな。
まあ島津氏はだいたい一貫して源氏方だから義理か何かあるんだろうね。
薩隅には平氏勢力の駆逐ってことで先に家臣を下向させてるけど。
638日本@名無史さん:2006/09/07(木) 16:43:56
すんません。
親王ご誕生ということで、ふと思ったんですけど、
薩摩島津家の家格ってどんくらいなんですかね?
宮家、旧宮家は別格としても、元公家などと比べると、
やはり武家ってことで家格は下になるんでしょうか?
639日本@名無史さん:2006/09/07(木) 19:12:04
公家は知らんが細川家よりは下なのは確実
640日本@名無史さん:2006/09/07(木) 20:37:51
>>637
北条氏とは表面上は良くもなく悪くもなくという関係ではないかと
以下の史実から推測

鎌倉幕府発足初期の「比企氏の乱」に連座して
島津忠久は薩摩・大隅・日向の守護職を取り上げられ
大隅と日向は北条氏一門に与えられている。
その後島津氏は北条氏と和解したらしく薩摩守護職には再任されたが、
大隅と日向の守護職は鎌倉幕府崩壊まで北条氏が独占。
641日本@名無史さん:2006/09/07(木) 21:04:53
>その後島津氏は北条氏と和解したらしく薩摩守護職には再任されたが、

これには、承久の乱で九条家が上皇側につき、
近衛家が幕府側についたことへの見返りだった、という説がある。
島津氏は近衛家の縁者だった、と考えれば、別に源頼朝との血縁は考慮する必要はあるまい。

南北朝以降の島津氏による北条勢力掃討は、鎌倉時代初期の領土への復帰を意図したものだろう。
642日本@名無史さん:2006/09/07(木) 21:15:26
そーいやー藤原将軍とも何か関係あるんだっけ?
643日本@名無史さん:2006/09/08(金) 10:30:26
>>639
プニュ( ´∀`)σ)Д`)ノシ
644日本@名無史さん:2006/09/08(金) 22:49:24
むしろ、鎌倉幕府が九条家から征夷大将軍を招かなくなったのは、
上皇と九条家との接近に伴う、九条家からの拒否が原因。

承久の乱で上皇側が敗北し、北条市は皇族を征夷大将軍として連れ帰り、
事実上の人質とするようになった。

承久の乱で、藤原将軍は皇族将軍に替わる。
645日本@名無史さん:2006/09/09(土) 00:08:26
>>644
時系列があってないんじゃない?
646日本@名無史さん:2006/09/10(日) 18:14:43
>>638
島津家は公爵だから五摂家・徳川宗家と同格
ただし偉勲だが
647日本@名無史さん:2006/09/16(土) 19:21:55
室町中期の兄・忠国と弟・用久との争いがあったみたいだけど。

国内の内乱に失望して用久に薩摩守護を任せるも、用久の活躍に嫉妬。
将軍・義教の弟・義昭が落ち延びてきた所を追手を使って殺害、そして用久を守護から解任させて復帰。
それに不満をもった用久が抵抗・・・という流れでOK?
大覚寺義昭殺害の功績での琉球統治権?の確約はデマ?

交戦ってあったのでしょうか?
当時、伊集院熙久という強敵が内部にいたから戦局が長くなれば、伊集院に漬け込まれる恐れもあっただろうし・・・
648日本@名無史さん:2006/09/19(火) 08:24:58
総州家と奥州家が別れてから島津氏はずっと内訌の歴史
649日本@名無史さん:2006/10/03(火) 15:54:56
犬食い薩摩野郎がどうしたって?
650日本@名無史さん:2006/10/03(火) 16:49:34
栄光の歴史を歩んだらしい。
651日本@名無史さん:2006/10/03(火) 23:39:47
地名が薩摩で家紋がまるじゅう。琵琶湖岸にそういう町があります。
652日本@名無史さん:2006/10/04(水) 13:39:49
こらこら洞はいかんぞw
と思って検索するとここのことか
http://www.google.com/search?hl=ja&c2coff=1&q=%E8%96%A9%E6%91%A9%E3%80%80%E6%BB%8B%E8%B3%80%E7%9C%8C&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=
地名の由来は検索した限り不明
653日本@名無史さん:2006/10/04(水) 17:09:47
由来知っとるやつはおらんの?古い町なので何らかの関係はあると思われる。彦根の薩摩は商人の町。
654日本@名無史さん:2006/10/04(水) 18:06:39
鹿児島ってほとんど全てが遺伝学的には朝鮮系だし

僻地の劣悪な人間の代表に価値なんぞ無い罠
655日本@名無史さん:2006/10/04(水) 19:20:14
彦根は関ヶ原と近いから何か因縁があったのかもね。
あるいは島津製作所の先祖が轡紋を下賜された件かも
656日本@名無史さん:2006/10/04(水) 19:36:12
井伊直政の死因にもなった因縁がある薩摩の人間が関ヶ原の合戦をキッカケとして彦根に住み着いたとは考えにくいなあ。

小早川秀秋の家臣が大谷刑部の城下に移住したみたいな話じゃん。
657日本@名無史さん:2006/10/05(木) 15:04:54
前々から思ってたんだけど鹿児島と朝鮮を無理やり結び付けたいヤツって何なんだろうなw
自ら日本史の知識ゼロって開陳してるようなモンだし恥ずかしくないのかねw
658日本@名無史さん:2006/10/05(木) 22:30:58
九州南部、東北北部や北海道は渡来人の血があまり及んでない地域なのに
そんなこともしらんやつがいるのかね?
日本では他の地域はどこも混血だぞ。
659日本@名無史さん:2006/10/06(金) 09:14:51
在日朝鮮人の数が徳島と並んで全国最下位の鹿児島県。

>>658
他板でも見かけるよ。気持ち悪いったらありゃしねえ。
実況板でもたまに鹿児島の話題出るとドサクサ紛れに嘘のコピペが貼られたりする。
小泉の親父は部落民とか。
660日本@名無史さん:2006/10/06(金) 12:47:47
だいたい鹿児島には在日集落ないし
661日本@名無史さん:2006/10/06(金) 20:42:50
周りに在日の人いないから話についていけないな。
どこか知らないところにいるんじゃない?とかいわれるけど
本当にいない。 あまり信じてもらえないけどね。
662日本@名無史さん:2006/10/07(土) 00:07:55
薩摩焼の陶工集落って東市来とか加治木だったっけ?
663日本@名無史さん:2006/10/10(火) 00:03:05
忠義側室寿満子はかなりの長身
664日本@名無史さん:2006/10/10(火) 21:03:34
西郷って結局悪人だったわけ?
665日本@名無史さん:2006/10/10(火) 21:07:42
悪人だと思う根拠が無いからな。
666日本@名無史さん:2006/10/10(火) 21:13:06
ごめん。
けど朝鮮(だっけ)に戦争か何かを持ちかけようとしたのは西郷ともう一人じゃなかったっけ
彼に失望した覚えがある。歴史で少し習った程度なんだが、詳しく教えてくれないか。
667日本@名無史さん:2006/10/10(火) 21:41:24
作家キプリングは19世紀の国際情勢をザ・グレートゲームと呼んだ。

欧米列強が有色人種を家畜扱いして支配する植民地獲得競争は500年程続いたが、
19世紀に入るとイギリスとロシアの2強の国力が突出するようになり、
あたかも英露が他の国を駒として動かすチェスゲームのような状況だった。

阿片戦争によって英露が極東侵略を競い始めた事に気付いた薩摩は長州を説得して討幕運動に協力させたが、
その目的は一貫して欧米、中でも英露の侵略を撃退するのが主たる目的と言える。

明治維新で改革に消極的な幕府を打倒した西郷達は味方を強化する為に日本と同じ脅威が迫る朝鮮や清国に維新を輸出しようとした。
朝鮮や清でも既得権にしがみつく余りに改革に消極的な抵抗勢力が国内にのさばっていて、
放置すれば確実に植民地化されてしまうからだ。
例えば当時総人口1300万人ほどの朝鮮では僅か2000人しか軍隊を持てない程貧困を極めており、
しかも武器は弓矢や槍ばかりで火縄銃すら皆無に近かった。

世界最強のロシア陸軍が本気で朝鮮に攻め込んだら一瞬で征服される。
だから日本としても朝鮮に近代化して貰う必要があったが、朝鮮は西洋化を野蛮化だと考え日本の説得を拒んでいた
668日本@名無史さん:2006/10/10(火) 21:42:28
むしろ、板垣退助が派兵論で、
西郷隆盛は、板垣の軍事侵攻論は性急に過ぎるとし、
自らを政府代表として派遣して政府間交渉をせよ、と主張した。

これが政府の方針として決定した後、大久保利通が帰国し、
伊藤博文の協力のもと、全てを白紙化した。
政府の方針を否定された板垣・西郷は下野することになった。

これを征韓論論争という。

その後、江華島事件が起こる。
669日本@名無史さん:2006/10/10(火) 23:58:05
>>664-668
すれ違い
西郷丼は専用スレがあるよ
つ http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1156441365/l50
つ http://academy4.2ch.net/history2/ (関係スレ多数)
670日本@名無史さん:2006/10/14(土) 13:06:57
島津が本姓惟宗氏で渡来系だからチョンだって騒いでるんじゃねの?
671日本@名無史さん:2006/11/02(木) 15:15:34
◇鹿児島の在日朝鮮人の数は全国で下から2番目の46位◇

民潭のHP参照 → ●民団と在日同胞の統計 → 9.地域別分布状況−2004年
ttp://www.mindan.org/toukei.php#09
46位 鹿児島 556人 0.09%
47位 徳島_ 427人 0.07%

鹿児島県には以前より薩摩焼の陶工集落はあったが(東市来や加治木の河川流域)、
上記データが示すようにそもそも在日朝鮮人の数が少ないため在日部落などといったものは存在しない。

◇鹿児島県加世田の正しいトリビア◇

鹿児島県の加世田市(現南さつま市)は島津氏中興の祖、島津忠良(1493〜1568)が伊作亀ヶ城より
1550年に隠居地として加世田城に移ったことにより発展した城下町。
市上部を流れる万之瀬川の恵みにより付近一帯の米収穫量が他地域より比較的多く江戸薩摩藩時代は島津氏の直轄領だった。

小泉純一郎の父、小泉純也(旧姓鮫島)は加世田中心部より西に位置する旧東加世田村・万世(ばんせい)小松原地区の出身。

小松原は古くは海運や貿易港として栄えた商人の町であり、坊津や笠沙の片浦といった港と同じ役割を担っていた。
鮫島氏は代々小松原に住し、秀吉の朝鮮征伐時には鮫島宗政は、この港から出陣した。 帰国すると家督を弟の宗行に譲り身分を捨て、
自ら貿易商として「権現丸」「伊勢丸」の二隻の大型船(千石船)を建造し小松原を根拠として巨大な富を築いたと言われている。
鮫島氏は江戸年間も島津氏の家臣として従事し、明治期以降は士族として存続した。万世の地には小松原を中心に鮫島姓が多数残っている。

◇小泉純也(1904〜1968)◇
小泉純也氏は鹿児島実業〜日本大学法学部政治学科の夜間部卒。上京した後、逓信大臣などを務めた小泉又次郎の長女・芳江と恋仲になり
駆け落ち同然に家を出て同棲、又次郎又次郎のほうが折れて純也が代議士になれたら一緒になることを許すとして認め小泉家に婿入りした。
第2次鳩山内閣の法務政務次官、第1次佐藤内閣の防衛庁長官を歴任。
672日本@名無史さん:2006/11/03(金) 16:54:28
加世田は忠良前から。万の瀬川は確かに豊かな農地をもたらしたが、それ以上に河口部が海外貿易の拠点・貿易港となっていたことが大きい。唐仁原・当房(とうぼう・唐坊)はかつての中国人居留地。
中国から奄美や沖縄の島々、坊津・加世田・平戸などへと繋がる海上交易を理解しないと、また国内だけ見ていては加世田の繁栄は理解できない。
673日本@名無史さん:2006/11/03(金) 18:24:34
加世田の繁栄は古代から万之瀬川に拠るところが大きい。
古事記で阿多の地名が出てくるのは海上→陸上の物流輸送において重要な位置だったから。

小松原は江戸期の享和2年(1802)の大洪水で万之瀬川の河口部は元の相星川から
現在の新川と呼ばれている場所に大きく移動(約3〜5km)し、貿易港としては廃れた。
中世においては海上交易とともに倭寇の拠点だったというのはどこの港も同じ。

鮫島氏の本家は日置郡金峰町宮崎の貝殻崎城を拠点としており薩摩半島西部の海岸線に勢力を張っていた。
小松原中心に万世に多く残る鮫島姓は武士をやめた商人系の子孫。

加世田文化史年表
ttp://www3.synapse.ne.jp/hantoubunka/kasedainfo/chronicle.htm
674日本@名無史さん:2006/11/06(月) 08:58:45
加世田を含む南薩を手にするかしないかで、島津氏内部の勢力基盤が
塗り替えられていることがある。
南北朝時代から室町前期、薩摩国守護の総州家と大隅国守護の奥州家が争った時、総州家の内紛で南薩の支配が奥州家に移ると、奥州家は急速に衰退している。
また島津日新と島津実久の争いでも、日新が加世田を攻略したのを境に、攻守逆転している。
それだけ南薩は重要だった。

675日本@名無史さん:2006/11/09(木) 21:55:47
島津は忠久から修久まで男系?
676日本@名無史さん:2006/11/10(金) 08:28:36
すべて男系です。本家筋は、15代貴久と29代忠義が前当主の養子だが、実父はそれぞれ島津忠良と島津久光。
677日本@名無史さん:2006/11/10(金) 09:08:42
ほう、繁殖力が強いな
678日本@名無史さん:2006/11/11(土) 01:49:32
まあ南薩攻略したら後顧の憂いが無くなるしな。
万之瀬川を挟んで運久のいた阿多城のすぐ目の前が加世田。
忠良は加世田の後、鹿篭・川辺・勝目とかは苦戦しなかったのかな。
まだかなり実久側の城はあったはずだけど。
それと揖宿とかまで抑えるのは結構時間掛かりそうだけどなー。
薩摩半島東部は頴娃氏の他にはどこの家が勢力張ってたんだっけ?喜入氏?
679日本@名無史さん:2006/12/13(水) 14:59:38
スレがまともになったら進行が止まってしまった
保守
680日本@名無史さん:2007/01/03(水) 12:41:44
島津て男系かと思ったら勝久〜貴久で女系なんだね
681日本@名無史さん:2007/01/05(金) 01:13:53
>>680
プニュ( ´∀`)σ)Д`)ノシ
682日本@名無史さん:2007/01/08(月) 12:43:17
勝久〜貴久で女系?何で?
貴久は勝久の娘婿じゃないぞ。
683日本@名無史さん:2007/01/31(水) 00:34:25
保守
684日本@名無史さん:2007/01/31(水) 07:04:13
685日本@名無史さん:2007/03/17(土) 16:30:27
ほほー
686日本@名無史さん:2007/03/20(火) 01:49:55
>>671
帰化されちゃうと数字としては出ない。
687日本@名無史さん:2007/04/03(火) 23:31:14
久光の正室千百子の父、忠公は斉宣の子で「母は鈴木氏お蘭の方」とかいてあったのをみつけたけど、斉興の生母、鈴木氏は《お八百》の方。

この二人は同母?
ググッても、図書館で調べたけどわからない。

わかる人、教えてください。
教えてチャンでスマソ
688日本@名無史さん:2007/04/06(金) 02:15:04
そのデータがどこから持ってきた物か分からないが、それ間違い。
斉興の生母は鈴木氏お八百で間違いないが
忠公の母は中根氏お蘭。

お八百の方は側室になってからすぐに経歴詐称を取りざたされ
お蘭の方は鹿児島下向を拒否し(拒否理由は表向きは病気となっている)
本来なら座敷牢に閉じこめられるか死罪になるところを斉宣の温情で離縁となった
2人ともかなり曰く付きの側室。

簡単にデータだけみたいなら
『島津氏正統系図』(国立国会図書館と鹿児島県立中央図書館には確実にある)
詳細な話を知りたいなら
『鹿児島県史料』薩藩旧記雑録追録6〜7、斉宣公・斉興公史料(県立中央図書館で所蔵してるかも)
あたりをガサ入れされてみては。
689687:2007/04/06(金) 08:08:41
>>688さん ご丁寧にありがとうございますm(__)m

ず〜っと疑問で調べてもわからないため、レスしたのですが詳細な内容まで本当にありがとうございます。

これは個人のブログで拾いました。(きっと間違えたのでしょうね)

それにしても斉宣は家族運と女性運、よくないみたいですね。
690日本@名無史さん:2007/04/22(日) 11:40:30
忠恒に「家」の字なんか与えんなよ家康
叔父と間際らしい
せめて康久にしろよw
691日本@名無史さん:2007/04/22(日) 11:56:00
俺は島津は頼朝の落胤だと信じる。
最初はそんなこと言ってなかったという意見があるが、北条氏の時代にそんな
こと言ってたら危険なわけで大っぴらにしてなかっただけだと思う。
信じる根拠は日本史は非常によくできているからだ。
頼朝の子孫の島津と広元の子孫の毛利が手を組み徳川を倒したのだ。
そうに決まっている。
692日本@名無史さん:2007/04/22(日) 12:05:42
ロマンだな。
693日本@名無史さん:2007/04/22(日) 13:49:57
そして大江広元は藤原光能の子なのである。つまり明治維新とは天智天皇と
鎌足の子孫が天下を取り返したのである。大化改新の明治版、故に明治維新なのである。
694日本@名無史さん:2007/04/22(日) 21:28:53
 もう一つ、記憶に強く残ったのは、島津義弘(義久の弟)で、朝鮮出兵時、彼はわずか6,7千の兵力で、明と朝鮮の合同軍20万を打ち破り、敵側の死者は10万人におよんだという話。
この快挙があって、朝鮮からの撤退が可能だったこと、しかも、義弘は殿(しんがり)を受け持ち、引き上げを無事に完了させた。以後、朝鮮では、「シマーズ」は泣く子も黙る鬼神のごとく
恐れられたという。関が原でも、兄の義久は優柔不断だったが、弟の義弘は西方についたものの勝機が見出せぬことを看破するや、敵中突破を敢行、生きて帰国できたのは、国から出た
1千の兵士のうちたったの80人だった。西方についたにも拘わらず、この男の勇気と武力が絶賛の的となり、結果的に所領を安堵できた。
http://ameblo.jp/hustler/entry-10030423792.html

695日本@名無史さん:2007/04/22(日) 21:32:06
何で義久は悪く言われているんだろ
696日本@名無史さん:2007/04/27(金) 13:53:35
>>686
帰化してもしなくても田舎の鹿児島にゃほとんど関係ねーよ。
外部からの流入者ってのは都市部に寄生するからな。
近畿や関東の実数や比率見てみりゃ在日or帰化云々言わなくても一目瞭然。
だいたい0.1%以下なんて数字以前の問題だよ。
少し考えれば誰でも分かると思うけどね。

それにそのコピペは小泉の親父が加世田の朝鮮部落出身だとか
吹聴してるバカがいるから対抗して作られたもんだぜ。たぶん。
697日本@名無史さん:2007/05/05(土) 14:28:22
まあ義弘の系統が島津本流になったわけだし
698日本@名無史さん:2007/05/15(火) 19:58:57
亀レス

>>111-117
忠重氏の弟忠備さん(実質次男、明治24年生)から為子さん(末子、明治30年生)まで
4男1女の生母はみな菱刈久(菱刈実近女)
忠弘さん(実質三男)と久範さん(同四男)は『皇族華族古写真帖』の為子さんによく似てる

>>486
yes

>>208-209
小ネタ。
菱刈久の生没年はわからないけど昭和20年代に撮影された写真があるので
その頃まではご存命みたい

>>349
久光氏の子供は忠義、久治、珍彦、忠済まで島津千百子、
忠経(早世)と忠済は山崎武良子の所生
699日本@名無史さん:2007/05/15(火) 22:30:57
遅すぎる神降臨
でもd楠

菱刈久は苗字から見ておそらく鹿児島藩士の出身だと思うのだが
山崎寿満子の父・山崎拾は何ものなのかがさっぱり分からない
エセル・ハワード『明治日本見聞録』に載っている写真では「島津寿満子」と紹介されていたが
3番目の妻(板倉棲子)が亡くなった後、忠義晩年に入籍されることがあったんだろうか。
例の霞会館の家系図には寿満子の名前のかけらも載ってないが。
700日本@名無史さん:2007/05/16(水) 03:57:53
忠義の3人目の夫人棲子は明治19年に亡くなっているみたい
忠義は明治30年に亡くなっているから籍をいれるのは可能だろうが(第二夫人まで入籍できた時もあるし)どうなんだろう

寿満子が亡くなった時の新聞記事も「島津寿満子、芝白金三光町の自邸で死去」とあった
皇后の外祖母だし、忠義夫人としてではなく、島津姓を名乗っていたのかな?(忠重生母でもあるし)

>>698さん 貴重な情報ありがとうございました
維新以降に関しては本当情報が少ないので嬉しいです(*^-^*)
701日本@名無史さん:2007/05/16(水) 18:06:58
208 :非公開@個人情報保護のため :2007/05/16(水) 13:32:03
霧○市の市長の公用車運転手妻との不倫、旦那にばれて慰謝料を自分の選挙の後援会
から払わせたこと(政治活動の支出として処理)、自分の後援者への不明朗な資金流出、
協議会旅費での海外視察(復命の必要がないため、海外でやりたい放題)を調べています。
この人は、自ら現場にでかけ、同行した業者に設計をさせ、その業者に入札させるとんでも
ないおじさんです。
702日本@名無史さん:2007/05/16(水) 23:31:35
忠義の側室、山崎寿満子と久光の側室で忠経、忠済生母の山崎武良子は同じ一族なのだろうか?
意外と伯母と姪とか?
703島津兵庫頭入道惟新義弘:2007/05/17(木) 22:07:22
かるかんおいしいよかるかん
704日本@名無史さん:2007/05/17(木) 23:05:41
義弘たんの時にはかるかんないよかるかん

かるかんの歴史
http://www.akashiya.co.jp/karukan100/syurui.htm
705日本@名無史さん:2007/05/18(金) 13:37:51
今月号の『歴史読本』「藩主全伝」
http://jinbutsu.jp/rekidoku/0706m.htm
・・・島津家は尚古集成館の松尾千歳氏が担当していたが・・・
総花的というか誉めるところがない藩主も無理矢理誉めようとしているというか・・・
いまいちの内容だったw
(歴読に期待するな!・・・というつっこみはなしで)

島津家じゃないが、佐賀藩最後の当主の幼少時のご尊顔が拝見できたのが収穫
島津忠重幼少時に匹敵する神々しさ。父の直正公に似なくてヨカッタネw
(ただ中年以降になるとこの人も劣化がすごいのだが)
706日本@名無史さん:2007/05/22(火) 12:54:44
金生饅頭おいしいよ金生饅頭
707日本@名無史さん:2007/05/24(木) 20:53:00

側室の情報は少なくて山崎寿満子の家族についても詳細不明

ただ忠重成年祝いや忠秀初節句の記念写真に
山崎寿満子だけで菱刈久は写っていないことを考えると
寿満子は内部で実質継室扱いされてたのかも
全くの憶測ですが

>菱刈久は苗字から見ておそらく鹿児島藩士の出身だと思うのだが
同感。
708日本@名無史さん:2007/05/24(木) 20:56:03

維新以降の島津家、で言えば
>忠重は伊楚子と見合い結婚だった
らしいです。
忠重日記に“徳大寺家の人と会った”(会食した)と記されていて
それがどうやらお見合だったもよう。
明治期華族の結婚については
梨本宮伊都子の親同士が勝手に婚約を取り決めて(伊都子が)愚痴をこぼした。とか
徳川正子(忠義九女)の天璋院が島津本家から嫁を貰うように言い残していた。とか
そんなのばかり印象に残ってたから
お見合いはちょっと意外でした
709日本@名無史さん:2007/05/24(木) 22:05:11
>>708
>徳川正子(忠義九女)の天璋院が島津本家から嫁を貰うように言い残していた
なんで正子さんが仇敵視されているはずの徳川本家に嫁に行けたのか疑問だったのだが
そういうことだったのか。
「竹姫の遺言」の逆バージョンだ。

正子さんの孫娘の一人で尾張徳川家・義知夫人の正子さん(誤字じゃなくて本当に同じ名前)が
『徳川さん宅の常識』に写真+エピソードが掲載されていたが、
おばあさんそっくりの御デ、じゃない「豊満な女性」wでしたね・・・
婿養子の義宣氏曰く「おやつが片時も離せない人」だったらしい。
島津正子さんも兄弟の中でただ一人だけ肥満体質だし・・・
710日本@名無史さん:2007/05/25(金) 00:11:36
尾張徳川家・義知夫人の正子さんは松平恒雄次女で秩父宮妃妹
義知夫人正子さんの兄嫁が島津正子さんの長女
松平正子さんは島津正子さんの孫娘じゃないよ
711日本@名無史さん:2007/05/25(金) 00:20:30
松平正子→まさこ
島津正子→なおこ
712日本@名無史さん:2007/05/25(金) 20:45:28
>>709-711
これを見て徳川正子さんは一時期二人いたことに気付いた
松平正子さんは他にいることはしってたが
黒田清子さんも一昨年再び現れたことだしw
でも他の華族にも伊楚子さんはいないだろう
その伊楚子さんの生母は側室の勝田八重子?
713多摩霊園よりコピペ:2007/05/25(金) 22:03:07
徳大寺實則を父とし、山内嘉年子を母とした子供は以下である。

徳大寺公弘(継承)、高千穂宣麿、順子(夫:公爵 鷹司熙通)、祚子(夫:佐竹義生)、蓁子(夫:三井高縦)、則麿(分家・男爵)、治子(夫:松平頼孝)、彬麿(分家・建築家)、伊楚子(夫:公爵 島津忠重)。 

【徳大寺家の墓所】 正面に「徳大寺實則」の墓石が建ち、その左側に實則生母の「徳大寺竹島」(M34歿)の墓石が建つ。
右側には實則の妻の「山内嘉年子」(M12歿)の墓石が建つ。  
正面から左側には、實則御妾の「勝田八重子」、早死した三人の子供である「徳大寺篤麿」(六男)、「徳大寺裕子」(五女)、「徳大寺泰麿」(四男)の墓が並んでいる

これを見るかぎり山内嘉年子の子のようだがどうなのか
ところで徳大寺實則と西園寺公望は同母? 公望の母は斐子というらしいが、源氏名がわからん
714日本@名無史さん:2007/05/26(土) 02:12:43
伊楚子の生年はしらないが明治12年に死んだ嘉年子が明治19年生まれの忠重の妻を産んだとは思えない
715こんなんみつけた:2007/05/26(土) 21:22:42
尚古集成館紀要に御祭祀提要という資料が紹介されています。
島津久光公の生母である於遊羅様は〈慶応二年十月廿八日卒七十二才〉とあります。よくもこんなに詳しい物が資料化されているとはびっくりでした。(側室もかなり網羅されています)
お由羅の方の亡くなった日って一般図書には載ってないよね? びっくりした
716日本@名無史さん:2007/05/27(日) 12:13:36
明治の人間、しかも故人に「さん」づけして語ってる系図オタクはキモい。
717日本@名無史さん:2007/05/27(日) 14:27:43
ふうん
718日本@名無史さん:2007/05/30(水) 20:02:47

忠重の日記によると山崎寿満子は
「(母上は…)昭和2年2月17日77歳にて逝去せられた」
らしい。77歳は数え年か?

>徳川正子(忠義九女)の天璋院が島津本家から嫁を貰うように言い残していた。とか
は「花葵 徳川邸おもいで話」に掲載されてる逸話
家達泰子夫妻がメインの談話集だが
母親である正子さんの話もチラホラと
興味のある方は一読あれ。
719日本@名無史さん:2007/05/30(水) 20:06:52

「伊楚子さん」はさすがに1人だろう
徳大寺伊楚子は明治21年1月東京生まれ
生母は側室の勝田八重子で即日死去
(てる姫、寧姫と同じパターン)
たぶん下の三人が伊楚子と同母

徳川さんと松平さんは同姓同名の確率が高そう
ちなみに明治期の徳川為子さんは忠義十女の為子だけ?

忠義長女の黒田清子の名前は「きよこ」さんでいいらしい
「1億人の昭和史 日本人 三代の女たち 上」に
<薩摩藩主島津家息女・清子>と注釈されてる写真がある
これはたぶん忠義長女の清子だと思う

>>715
幾印の生没年も載ってるのかな
720日本@名無史さん:2007/05/30(水) 21:50:23
>>718山崎寿満子の死去時新聞では75歳とあったことに関すること?
柳原二位局が亡くなった時新聞は享年85歳とあったけど、実は89歳らしい 
あの頃の戸籍は結構いいかげんだから、息子の忠重が書いているのが正しいとおもう(数えでなく満で数えるようになったのは昭和20年代とか)


>>719 菱刈久の生年はムリかもしれないが没年はあるとおもう
721日本@名無史さん:2007/05/31(木) 21:37:03
徳川喜久子も2人いる
一人は高松宮妃、もう一人は厚男爵の長女(いとこ同士)
厚男爵の長女の方は自由恋愛の末平民になったらしいがどうも幸せにはなれなかったみたい
21歳で亡くなっている
姓名判断はあたるのか考えさせられるよ

徳川為子が他にいるかどうかは知らないがきいたことはない
722日本@名無史さん:2007/06/01(金) 23:04:39
近衛泰子の生母も貞姫?
723日本@名無史さん:2007/06/06(水) 00:58:37
朝日新聞の『宮家の時代』を偶然見つけたので借りてきた

久邇宮妃倶子の隣の写真が東伏見宮妃周子って
編集者の意図が露骨であまりにもひどすぎるw
724日本@名無史さん:2007/06/06(水) 02:08:51
>>723 それは酷いw
島津家の現当主夫人は西郷隆盛の曾孫らしい まさかお由羅・久光の子孫に西郷隆盛の曾孫が嫁ぐとは・・ビックリした ま、時代の変化だろうが
725日本@名無史さん:2007/06/06(水) 03:08:25
周子妃の妹は俔子妃の弟に嫁いでいるね
その人も美人だけど周子妃ほどエキゾチックではない。
だがその息子は島田紳介に似ている。
その妻は俔子妃の孫だけどこれまた(以下自粛)
726日本@名無史さん:2007/06/06(水) 03:42:25
薩摩も長州もどちらも武士道を語る資格のない卑怯者
727日本@名無史さん:2007/06/06(水) 11:20:58
>>724
しかも仲人は大久保利通の孫だったりする。

>>725
えらくお詳しいですね
戦後の元皇族・華族関連の写真は調査が難しいと思うのだが
新聞か何かで探されたのですか。
728日本@名無史さん:2007/06/08(金) 23:20:11
>>719
>「1億人の昭和史」
借りて読んでみた。
実は大昔に一度読んだ本だったw 昔すぎて忘れてた。
清子は常子系統のなかなかの美人だが、それよりあまりにもひどい着付けに
「これでも大名の姫かよ」と愕然。・・・あの時代、アレが流行してたとはいえ酷すぎる。

伊楚子夫人のウエディングドレスの写真も載ってたのは収穫だった。
729日本@名無史さん:2007/06/09(土) 13:08:25
>>718
『花葵』読んだ

なんか幕末の対立を引きずってて正子さんは気の毒な人だったようね。
「正子」とかいて「なおこ」と読むとは知らなかった。
あの時代の人名は難しい・・・。
730日本@名無史さん:2007/06/13(水) 06:21:59
行政管理室に電話をしました。中渡瀬氏のことも聞くために。
担当者、西氏と電話が繋がりました。
流出の件を聞くと、担当の者(上の者)がいないと言われました(まただw)
担当者は、何名いるのか聞くと4名だと回答をもらいました。
中渡瀬氏については、今回の処分で最終だということでしたが、任天堂のROMの件。
被害者女性の画像を削除しないで、自分だけの画像を削除した件や、県の職員が第一発見者なのか聞いた所、私個人はそこまでわかりませんという回答でした。

中渡瀬氏に電話を代わるように伝えると、えつだ氏という人が電話にでました。(さっき上の方はいないといってましたが、いましたね。また嘘ですか^^;)
中渡瀬氏は、行政管理室にいないので代われないと言われました。
熊毛支庁に電話をすれば対応してもらえるみたいです。

今回の1300名〜1400名の情報流出と裏金の資料について問い詰めました。
そうすると調査中とのことでした。
情報を流出した疑惑の人についても事実確認と調査中との回答でした。
電話は、17分(録音済み)しましたが、まぁ予想通りの回答でした。
流出した件についての対応はどうするのか聞くと、個人については、対応を検証中。
流出した情報は一生ネット上で出回りますが、どう対処するのか聞くと、それについてはそのような専門部署があるのでそちらでと言ってました。

嘘で固められた鹿児島。
身内擁護の鹿児島。
県民の皆さんには大変失礼ですが、この鹿児島県庁は、本当に終わっています。
腐れすぎです。
今後も間違いなく、流出は続くと断定しておきます。
http://www.mudaijp.com/wp/?p=405
731日本@名無史さん:2007/06/23(土) 21:23:04
清子は顔が長すぎて美人とは思わなかった
清子の息子もかなり顔が長い
732日本@名無史さん:2007/06/23(土) 22:38:17
>>731
福岡黒田侯爵家は鳥類学者一家になったんだっけ
ということは某鳥類学者は顔が長い・・・(ヲ

ところで福岡藩と言えば重豪が66の時に作った息子・長溥が養子入りしたところだが
現在のご子孫にはつながらないようだ。
父親は子沢山だったのに長溥は実子なしか。
733日本@名無史さん:2007/06/24(日) 23:03:04
>>729
あれを読むと、彼女が早々に老けてしまったのも解る気が。


忠義側室・寿満子は1850年7月生まれ
やはり享年77が正しいみたい

>>699-700
幾印も「島津久」と紹介されてたりするから名前は関係ないと思う
入籍について、少なくとも明治25年の家族名鑑には忠義の名前しか無い

>>251
実質長男の忠承が次男、実質長女の薫子が次女と記されてるので
上の子どもは早世したのでは?
734日本@名無史さん:2007/06/24(日) 23:05:06
>>727
725じゃないけど
つ よみうり写真館

『昭和モダンの風景』に
709の尾張徳川家・義知正子夫妻の結婚写真や
725のの妹二人が載ってたよ


清子息子・侯爵黒田長礼は輪郭が母親譲り
でもその息子は母親譲りの面立ち。長くない..(ボソ
735日本@名無史さん:2007/06/25(月) 12:39:54
>>734
d楠

よみうり写真館みたよ
久邇朝子さん・・・・・・・・・・
その夫は伸介にも似ているがせめて現横浜市長と言ってあげてくださいw
736日本@名無史さん:2007/06/26(火) 23:52:26
追記
久邇朝子さんは早死にだったんだね
死因不詳
参考文献 平成新修旧華族家系大成
737日本@名無史さん:2007/06/27(水) 20:46:48
>>733
ということは忠重は寿満子が数え37歳の時の子だね
寿満子頑張ったねぇ・・・

ところで島津朝子には子供はいたのか?かなり近親婚なので気になる
738日本@名無史さん:2007/06/27(水) 23:25:59
斉視長男忠視 昭和41年7月24日生まれ
斉視先妻朝子 昭和39年8月21日没

参考文献 平成新修旧華族家系大成
739日本@名無史さん:2007/06/27(水) 23:29:34
あ、送信してしまったorz

「平成新修旧華族家系大成」には斉視の子供は忠視しか載ってないです。
他の子供はプライバシーの問題+書き落としなどで掲載してないこともあるようですが。
740日本@名無史さん:2007/06/28(木) 16:37:56
いいかげん近代板に池
741日本@名無史さん:2007/06/30(土) 12:10:08
菱刈久は昭和35年没
一億人の昭和史13巻より
742日本@名無史さん:2007/07/12(木) 01:20:30
>>941GJ! 月日がわからないけど孫の久永氏に貴子内親王が嫁ぐのは決まってたし、もしかして見届けたかもしれないね。
寿満子の血筋ばかりが表舞台にでていたから嬉しかっただろうな
743742:2007/07/12(木) 01:23:40
×941
〇741 スマソ
744日本@名無史さん:2007/07/12(木) 16:44:30
薩摩age
745日本@名無史さん:2007/07/15(日) 21:08:20
寿満子の父親が色盲であった
746日本@名無史さん:2007/07/16(月) 01:58:42
これマジ?
10 名前:日本@名無史さん 投稿日: 01/10/11 05:52
徳川頼貞、旧侯爵で紀州徳川家を滅亡に追い込んだドキュン、奥さんは最後は生活保護
徳川頼貞夫人って為子さんだよね?公爵の令嬢、香淳皇后の叔母なのに・・・
747日本@名無史さん:2007/07/16(月) 02:45:21
香淳皇后の義理姉の松浦薫子なんて
生保&層化、足立区のアパートで孤独死
748日本@名無史さん:2007/07/16(月) 03:00:06
没落華族の末路は悲惨だよな
それこそものすごい名家なら今でも
日本○×会とか企業や財団の会長職にもなれるが
中途半端な家柄だと庶民の中に埋もれちまうからなぁ
749日本@名無史さん:2007/07/19(木) 19:31:06
>>746
美人の為子さんは最後は生活保護?
孫娘は建築家になったらしいけど
750日本@名無史さん:2007/07/19(木) 20:32:51
紀州徳川家はものすごい名家だと思うけどw
そんな頼貞夫妻の写真ハッケン
ttp://www.vories.co.jp/column/upload/1151051602_0.jpg
ttp://www.vories.co.jp/column/index.php?command=detail&pno=14
751日本@名無史さん:2007/08/04(土) 12:04:20
頼貞がミュージック徳川と言うあだ名をつけられてワロタ
752日本@名無史さん:2007/08/06(月) 12:59:38
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1122691383/509
ちっと興味深かった
竹内家は一応公家(半家)なんだね
あまりにも平凡な苗字なので今まで何者なのかと。。。(汗
753日本@名無史さん:2007/08/11(土) 00:22:03
忠義九女正子と徳川家正の婚姻は
天璋院の「家達の跡取りは島津家から嫁をもらえ」の遺言だと。
754日本@名無史さん:2007/08/17(金) 02:23:11
天璋院は尊敬している。徳川家を救った女傑だし、しもじものことにも気をくばったらしいから。
スレチになるが、来年の大河は宮崎あおいが天璋院役とわかったからみない。がっかりだよ
755日本@名無史さん:2007/08/17(金) 15:04:40
宮崎あおいは天璋院よりアヒルと遊んでる役やらしとけばいい。

しかし御台所なんて五摂家や宮家出身者がほとんどだろうに
島津家の分家とは身分がかなり低いよなあ。
756日本@名無史さん:2007/08/17(金) 20:52:54
いちおう五摂家の養女として嫁いでるw
757日本@名無史さん:2007/08/17(金) 23:22:36
宮崎あおいはハチを降板した理由で俺は嫌いになった
天璋院は深津絵里や常盤貴子、瀬戸朝香や天海祐希のほうがよかった
758日本@名無史さん:2007/08/18(土) 02:15:13
アンチあおいスレになっとるw

>>755-756
でも元の出自は当然バレバレなわけで
水戸斉昭すら「ちょっと(御台所には)身分低すぎなんじゃないの?」と苦情いってるね。
斉彬もその辺は承知していたようで、幕府にはバレバレなのを承知で「篤姫は自分の実子」として届け出てます。
759日本@名無史さん:2007/08/18(土) 09:42:00
外様大名で嫁がせてるのは島津だけなんでしょ
スゲーよ
760日本@名無史さん:2007/08/19(日) 10:37:30
チェストー!
761日本@名無史さん:2007/08/19(日) 23:24:59
>>759
黒田も嫁がせようとしましたがシパーイしましたな
時代も違うけど。
762日本@名無史さん:2007/08/20(月) 12:53:39
奄美から搾取した極悪藩
763日本@名無史さん:2007/08/22(水) 13:38:38
家系図だけ見たら島津久子女史はすごく複雑な人生に思える

スレ違いだけど
764日本@名無史さん:2007/08/22(水) 17:55:40
>>763 島津久子って貴子さんの義母?確か高倉永則の娘で広幡忠礼の娘、直子が母親だよね 久範の3番めの夫人だけど久子が複雑なの?
765日本@名無史さん:2007/08/22(水) 19:38:59
久子の生母直子は早くに他界。父永則は藤堂侯爵家から後妻を迎え異母弟妹が次々と生まれる。
婚期が遅れ同母弟のほうが早く結婚してようやくその同母弟の夫人(忠義長女清子の次女)の叔父である久範と結婚するが、久範は養父の娘、その死後はその妹と結婚しており
姉のほうが長女、妹は次女、三女、長男を産んでおりしかも姉妹の母は存命でその母は久子の継母の兄弟藤堂高紹の夫人の姉だった。
その後久範の四女と次男(久永氏)を産むが久範も早くに亡くなり久子は女手一つで実子と継子を育てることになるなど複雑な前半生を送ることになる。
しかし後半は久永氏が島津貴子と結婚して110歳近くまで生きるなど幸せな後半生を送った。
766764:2007/08/22(水) 20:53:34
>>765そーなんだ そりゃあ複雑だな 詳しく説明してくれてありがとう☆彡
767日本@名無史さん:2007/08/30(木) 09:58:04
調所広郷の改革
借金500万両を無利子で250年の年払いって奴
もしまじめに払ってたら
現在も支払いの真っ最中なんだねw
500万両って今の5億円超?だとか
768日本@名無史さん:2007/08/30(木) 11:45:08
一般的に言われる1両=10マソエソで換算すると5000億円かな
さすがに5億円相当ならいくら借king島津家でもとっとと返済できていると思う

それを基準に考えると、今の日本政府が抱えている赤字って・・・すごいな。
769日本@名無史さん:2007/08/31(金) 00:20:52
この家の人は、人に感謝するって概念ないのかな。
見下すばっかりで。
それがお殿様家系というものなのね。当然か。
770日本@名無史さん:2007/08/31(金) 10:03:20
>>769
プニュ( ´∀`)σ)Д`)ノシ
771日本@名無史さん:2007/08/31(金) 10:03:23
>>769
なにかあったのか
772日本@名無史さん:2007/08/31(金) 10:05:01
>>770-771
ケコーン

>>767-8
返済期限は208×年だとかw
あるあr…生きて ねーよwwww
773日本@名無史さん:2007/09/01(土) 02:19:06
調所広郷は藩の財政再建に尽くし責任を果たしたが
最後は自殺に追い込まれた。
島津の為に生きて島津の為に死んだ。
>>762の言う人々を苦しめたり無謀な仕事をしたけど
やるしかなかったんだろう。
774日本@名無史さん:2007/09/01(土) 14:52:39
広郷は家老になんかなりたくなかったけど
際だって目立つやりくり上手だったので
ゴージャスバブル淫乱殿様の重豪に
「おまえ家老になってうちの藩の借金返済せんかい、さもないと(ry」
と個室に呼び出された上に斬り殺されそうになるほどに脅されたらしいからな

「武士の家計簿」の猪山一家レベルで目立たないようにしておけば良かったんだろうけど。
775日本@名無史さん:2007/09/01(土) 19:16:00
苦労してやっと作った蓄えを重豪に似た斉彬に
浪費されてはかなわんと調所が久光派になったのも
しかたないと思う。
776日本@名無史さん:2007/09/02(日) 01:00:08
斉興は斉彬の生母周子(弥姫)が池田治道の正室育姫(伊達重村の娘)の所生であったことにコンプレックスがあったらしい。自身の生母、お八百は身分が低かったから。
それもあってお由羅の産んだ久光を溺愛した
生母の身分が高いことも場合によっては不幸だね
777日本@名無史さん:2007/09/02(日) 01:07:39
周子の生母は周子を産んですぐ死んだらしい
778日本@名無史さん:2007/09/02(日) 14:17:11
斉興は、江戸で育ちお国言葉を話せない斉彬よりも
手元で育てた久光の方が単純に可愛かったからじゃねーの
779日本@名無史さん:2007/09/02(日) 16:49:32
>>778
でも斉興も参勤交代してるから、斉彬と久光(忠教)を1年交代に眺めてたはずなんだがなぁ。

>>776
確かに正室周子よりは下だが、一応旗本出身なんだが>お八百
でも何故か身分ロンダリングしてるとか難癖付けられたことがある。
確かに他家に養女になってから側室になったという経緯ではあるのだが・・・
780日本@名無史さん:2007/09/03(月) 16:18:26
遅レスだが重豪が幕末の布石を打っていたと言えなくもないな
アクセル(開明浪費路線)もブレーキ(その後の財政再建路線)も利かせすぎで、後世の内紛の種も蒔いたわけだがね
781日本@名無史さん:2007/09/03(月) 22:51:12
>>780
重豪がああいう幕末を理想としていたとは思えないんだが、結果としてそういうことになりましたね
ともかく金の使い方から女遊びまで文字通りのゴージャスなオヤジだから>重豪

ところで>>769のその後について
782日本@名無史さん:2007/09/07(金) 10:12:40
重豪は異国の文化、学問に強い関心があり
オランダ語や中国語までも話したって本当かねw
しかも長生きしすぎ
当時の一般庶民の寿命なんて30代だろうに
90近くまで生きてんだから どんだけ
783日本@名無史さん:2007/09/19(水) 23:57:56
>>782
やりたいこと(後先考えず)やりまくって
ストレスフリーの人生の結果として長生きがついてきたとw
・・・そのつけは大きすぎましたけどね・・・

ところで>>769はその後どうなったんだ?
ヤパーリ東郷重位が示現流で即殺か?
784日本@名無史さん:2007/09/28(金) 23:56:26
以前このスレで紹介された『一億人の昭和史』明治(中)やっと借りてきた。

これはこのスレの住人的には興味深いね。
今までいろんなスレで紹介された本を借りてみたけれど、『〜昭和史』は珍しい写真が多い。
解説を見ると、尚古集成館か鹿島晃久氏(忠重の息子)のコレクションのようだが・・・
菱刈久の写真(集合写真で無茶苦茶小さいが)が見られるのはこれくらいじゃないかな。

忠秀初節句の集合写真に
・「本日の主人公」たる忠秀がなぜかいない
・真ん中の一番いい場所で将来を予感させるニヤニヤ笑いの久邇宮朝彦王
に爆笑。
785日本@名無史さん:2007/10/02(火) 19:12:41
忠秀は発熱の為
欠席になってしまったとか
786日本@名無史さん:2007/10/02(火) 22:02:03
787日本@名無史さん:2007/10/02(火) 22:03:53
間違った送信してしまったorz

>>785
熱で欠席かー(w
d楠

子供にはありがちな話だけど、
この後も終戦直後のノラ騒動とか
人生の要でアクシデントに出くわす率高いねぇ>忠秀
788日本@名無史さん:2007/10/03(水) 02:14:26
薩摩最強でごわす
789日本@名無史さん:2007/10/04(木) 21:27:00
>>765
島津久子さん、人間宣言をしたといってもまだ「現人神」だった
記憶のほうが長い昭和帝の末娘を嫁にしたのは
普通の嫁姑関係以上の人には言えない苦労があったと思う。
孫息子禎久氏が、なにかハンディキャップを持ってたことは
事実らしいし、(あの時代一人しか産んでないし)外国に行って
外国人と結婚しちゃったし。長生きも必ずしも幸せではないという
こともあるかも。
790日本@名無史さん:2007/10/05(金) 23:25:56
やっと書き込めるようになった
大規模な規制に巻き込まれちまった(´・ω・`)

>>789
そうなんだ。。。外人と結婚したのは鍋島や徳川宗家ばかりじゃないってか
いちおう世間では写真家として知られているよね>禎久氏

ところで、例の「平成新修旧華族家系大成」で佐土原本家にも次世代がいない件
佐土原家も女系で何とかつないできたが、遂に断絶か?それとも載せてないだけ?
791日本@名無史さん:2007/10/06(土) 19:18:31
おなじく巻き込まれた(´・ω・`)

745さんとおそらく同じ本読んだよ
寿満子の父親と明記されてなかったけど
同本の記事から憶測すれば
黒田侯爵家に嫁いだ清子?が産んだのは息子ひとりじゃないだろうか
だから島津久子さんの義妹とは異母兄妹じゃないだろうか
逆に、上の子と年の離れた松平/徳川/久松伯爵家の末子
および少し離れた久邇ノ宮三男は上と同母弟妹なのか
憶測なのであしからず
792日本@名無史さん:2007/10/07(日) 00:16:28
>>745さんと同じ本
微妙に誤爆か?
793日本@名無史さん:2007/10/07(日) 01:30:37
やはり巻き込まれた(´・ω・`)

>>784の本は古本市にて300円でゲトした
初節句の集合写真の2列目中心に久邇宮山階宮の子供たちが椅子に腰掛け
3列目は黒田松平の姉さんらを左に押しのけて常子が中央に位置してる
親戚と言えども宮様の扱いは特別なんだね
あと29年の写真に天璋院と同じような経緯で
近衛忠房に嫁いだ光蘭院貞姫が写ってて凄いと思った
794日本@名無史さん:2007/10/08(月) 09:56:11
なあ・・・近代史板にスレ立ててやれよ・・・
795日本@名無史さん:2007/10/08(月) 13:52:13
普通に黒田・松平・徳川・久邇の末子は普通に清子・充子・知子・俔子が産んだと思っていたが
清子の息子と久子の義妹は20歳離れているけど清子と久子の義妹は38歳しか離れていないからよって久子の義妹の生母は清子と確定
もしかしたら間に長女の他に夭折した次男や三男もいるかも知れないし
あと禎久氏が一人っ子なのは単に島津貴子が子供出来づらい体質だったと思う
禎久氏が生まれるまで3年かかっているし
796日本@名無史さん:2007/10/08(月) 21:49:50
     ズザザザーーッ        _         _
                     /::::::;ゝ-──- 、._/::::::ヽ
 ─ = ニ ニ _三 三      ヾ-"´       \:::::::|
             `  (⌒ 、_/              ヾノ
- - ── = ニ 三   `>  /     _     _ ヽ
   (⌒)ヽ     (⌒ -、./   |    /::::::ヽ    /::::::ヽ | 
  ─ == ニ 三 ヽ:::::::    ヽ  (::>::ノ  ▼ヽ::<::)l 
 (⌒) .。; ゚ ,,     \      `''⌒)   (_人_)   ノ'⌒)  くこかあああああああ
(⌒・⌒ ・ = ニ 三 三` -、  、.:::::,,.r' .   ヽノ   /_,,.r'  
 '';:. ,、,,・:・ 、、,,==ニニニニ` ー三----`''ー―─‐'"´
797日本@名無史さん:2007/10/11(木) 04:16:12
柳生新陰流 対 薩摩示現流
798日本@名無史さん:2007/10/17(水) 19:32:55
反日本親朝鮮の記事捏造アサヒる新聞は日本から出て行け。
799日本@名無史さん:2007/10/17(水) 19:58:05
>>797
飛天御剣流などと書いてみる
800日本@名無史さん:2007/10/17(水) 20:30:32
薬丸自顕流もありまっせ。
801日本@名無史さん:2007/10/18(木) 16:30:03
>>758
>天璋院の身分が歴代将軍正室に比べて低い件

将軍家定は1人目、2人目の正室と死に別れていて、3人目の正室だということで目をつぶったようだね。
当時32歳になる家定には子がなく、子沢山で有名な11代将軍家斉の正室が
島津家出身だった(近衛家養女)という理由で白羽の矢が立てられたようだね。
幕府の側でも家斉にあやかろうと、島津家出身の正室に望んだいきさつがあったようだよ。
実際には、島津家当主斉彬が若かったので、分家の娘を差し出すことになったが。
篤姫は、家斉正室同様、近衛家の養女になって将軍に輿入れした。
もっとも、家定は、家斉と異なり、篤姫含め生涯どの女性との間にも子ができなかったが。
802日本@名無史さん:2007/10/18(木) 19:41:50
>>801

801番にあやかり、ここは「アッー」ネタで迫って欲しかった。。。
803日本@名無史さん:2007/10/19(金) 07:30:46
>>801
斉彬が若かったじゃなくて子供は次々と死んでいたから篤姫が養女になった

斉彬の長女は篤姫より年上だった気がする
804日本@名無史さん:2007/10/19(金) 21:59:18
来年のNHK大河ドラマ篤姫で最初の一回二回と平幹二郎扮する調所広郷がかなり活躍するらしい。
805日本@名無史さん:2007/10/19(金) 23:54:18
平幹ということは、おそらく妖怪系になってしまうんだろうか>調所笑左衛門

>>803
斉彬の養女候補は篤姫以外にもいろいろ挙がっていたようだね
島津家と親戚だという理由で八戸南部家の姫さえ挙がっていたらすぃ
806日本@名無史さん:2007/10/20(土) 13:41:09
平幹は調所広郷の肖像画にも似てるし功罪半ばする妖怪家老にはぴったりだけど篤姫の宮崎あおいはちょっとね。
807日本@名無史さん:2007/10/26(金) 08:47:39
埼玉県に薩州島津家の末裔がいらっしゃって、自分の方が本宗家だとおっしゃってますが、どうなんですか?
808日本@名無史さん:2007/10/26(金) 11:49:25
>>807
kwsk!!!!!
ネットの情報があればそれもうp汁!

※薩州島津家は秀吉によって改易させられ、子孫はいない…はず
 (正確に言うと傍系子孫はいるようだが)
809日本@名無史さん:2007/10/27(土) 06:34:00
チェストー!
810日本@名無史さん:2007/10/27(土) 19:31:51
篤姫が御台所にするには身分が低すぎる、という件だが
あの山本博史著『徳川将軍家の結婚』(文春新書)によると、
やはり当時の幕閣からもそうみられていたようで、斉彬の申し出に対し、ある老中から
「御簾中(正室)ではなく御部屋之方(側室)としての縁組の可能性もある」と知らされたらしい。
それに対し斉彬も「公家の名家でも上臈御年寄だから島津家からの入輿では御部屋相当だろう。
実子届けを出しても、実は一門の娘だということは自然と扱いに影響する。届けを出し、御部屋と
幕府から仰せだされたならば、近衛殿から厳しく仰せ立てて貰い、近衛家の御養女であることを強調
してもらうこともできるだろう」と考えていた(鹿児島県史料)らしい。
 篤姫を、バレバレなのに斉彬の実子として届け出たのも、養女をまた養女に出すことが禁じられていた為。
篤姫を近衛家の養女にするためにも斉彬の養女に知ることは出来ず、実子でない子を実子届けを出すことは
老中・阿部正弘にも許可をもらっていたらしい。
近衛忠煕と斉彬は義兄弟だが、近衛は大奥にも工作したようで、彼の働きなくして篤姫の御台としての婚姻は
成し遂げられなかった。
811日本@名無史さん:2007/10/28(日) 00:37:20
てst
812日本@名無史さん:2007/10/28(日) 13:39:53
島津家初代が頼朝の長庶子との説は学問的には否定されてますが、全く根拠はないのでしょうか?
813日本@名無史さん:2007/10/29(月) 21:48:01
摂関家の一つ九条家の平安末期・鎌倉初期の当主・九条兼実の日記「玉葉」には、
岩清水八幡の流鏑馬神事において、摂関家筆頭・近衛家の代表として惟宗(島津)忠久が参加した、との記述がある。
つまり、彼はこの頃近衛家の人間であり、元服間もない若武者であった、ということになる。

これは源頼朝の年齢を考えると、少し接近しすぎているような気がする。
814日本@名無史さん:2007/10/30(火) 22:32:41
島津は祖国の朝鮮半島に帰れ( ・∀・ )
815日本@名無史さん:2007/10/30(火) 22:36:37
琉球VS朝鮮【先進国だったのはどっち?】
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/korea/1193691574/l50
816日本@名無史さん:2007/11/04(日) 14:23:03
薩州島津家は実久の父・忠興の代で内紛起こしてるよね
忠良の祖父・久逸は薩州家分家・島津昌久の弟・忠福に加勢して加世田で討死
817日本@名無史さん:2007/11/08(木) 18:20:15
忠義の娘の名前をみていて夭折した場合 〇姫
成長し嫁いだ場合 〇子
となっているのに気付いた もともとは皆、〇姫だったのかな?
818日本@名無史さん:2007/11/10(土) 21:42:27
819日本@名無史さん:2007/11/10(土) 21:49:19
ちぇすと
820日本@名無史さん:2007/11/23(金) 21:07:12
島津斉彬の死因が父斉興の指示により家老島津豊後久宝の手の者による毒殺との話がありますが、どうなんでしょうか?確か当時、公式にはコレラとかだったと思いますが、伝染病で一人しか死なないのも変だし。
821日本@名無史さん:2007/11/25(日) 12:42:18
>>820
斉彬は確か火葬のはずなので
今となっては遺骨を発掘しても推測不能としか

ただ、斉彬の周辺は(斉興・久光サイドにとっては)タイミング良く人が死んでいってるんだよな
斉彬の男子は全員夭折
斉彬の正室(一橋家出身)は斉彬の死後わずか2ヶ月で江戸にて死去
唯一成人した3人の女子も忠義に嫁いだ娘2人は出産と同時に子供と同時に死去
分家の珍彦に嫁いだ典姫のみ無事生涯全う
結果、島津本宗家から斉彬の血統は抹消された・・・

久光の子供はほとんど夭折してないことと考え合わすと
何か陰謀があったと考えられても不思議ではない状況
822日本@名無史さん:2007/11/25(日) 13:31:03
鹿児島のど真ん中、桜島を正面に見る城山の麓に斉彬を祀る照国神社がある。最後の藩主でもないし、何故あの一等地に作られたか。久光、及び、その血を継ぐ当主達が申し訳ない気持ちと、たたりを恐れる気持ちから建立したとは考えられないか。
823日本@名無史さん:2007/11/25(日) 14:06:38
斉彬自体は維新前から評価されていて神格化が進んでいたから
それはどうかな
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC#.E5.AE.98.E8.81.B7.E4.BD.8D.E9.9A.8E.E5.B1.A5.E6.AD.B4

ちなみに照国神社のある場所は元々東照大権現が招聘されていた
幕府がぶっつぶれるより前に、東照大権現をつぶしていた薩摩藩って。。。
(斉彬も久光も反幕ではなかったようだけど)
824日本@名無史さん:2007/11/25(日) 20:45:28
その維新期神格化自体に当時の久光血統島津家の斉彬に対するうしろめたさが起因してるとは言えないのでしょうか?
825日本@名無史さん:2007/11/26(月) 15:44:08
曰く付きの人を神社に祀られる=祟りしずめ
・・・って考えたいのは分かるけど梅原史観に毒され過ぎw
826日本@名無史さん:2007/11/27(火) 12:28:11
神社の件はともかく斉彬の死因に疑問が残るのは確かだろう。
827日本@名無史さん:2007/11/29(木) 23:38:05
図書館行って『炉辺南国記』(島津忠重の回想録)『しらゆき』(島津忠重夫妻の追悼文集)読んできた
特に『しらゆき』のほうは『日本の肖像』(毎日新聞社)と重複する物が多いが所収写真量が多いので興味深い
あと忠重の子供達の回想文がなかなか興味深い。
晩年の忠重はややデムパがかってきていてw
特に初めての内孫・忠敬が亡くなった後には「あの世からの声が聞こえる」とか平然として話してたとか・・・

ああ、この本、禁帯出で借りられないんだよなぁ orz 忠秀氏の直筆サイン入りだったのが理由かなぁ
828日本@名無史さん:2007/11/30(金) 00:55:31
忠重公というのは、照国神社の隣りに建つ銅像ですか?
あの神社は凄いツクリですね。天皇参拝を前提とした銅像配置。いやあ、凄い神社です。
829日本@名無史さん:2007/11/30(金) 08:46:27
あのあたり斉彬と久光の銅像しかなかったはずだけど。
830日本@名無史さん:2007/11/30(金) 14:58:44
>>828 m9(^Д^)プギャー
831日本@名無史さん:2007/11/30(金) 16:04:57
洋服着てまっせ(笑)
832日本@名無史さん:2007/11/30(金) 16:21:05
追記
東郷平八郎は帽子を被ってなくて、忠重公は似たような洋服で帽子を被って気を付けをしてたと思う。今、調べてみたが、古い市内観光地図には載ってないですね……なんでだろ〜?
833日本@名無史さん:2007/11/30(金) 16:56:31
>>828=831=832はたぶんものすごい勘違いをしているのだと思われ
ああ、こんな指摘をするなんてなんて優しいんだ漏れw
834日本@名無史さん:2007/11/30(金) 19:25:04
どんな韓違いや、説明しろ、偽札照国レッテル貼るな、あほう
835日本@名無史さん:2007/11/30(金) 19:44:36
偽札照国レッテル貼った奴、俺に謝れ、えらいことになっても知らんぞ
あ方の人よ
836日本@名無史さん:2007/11/30(金) 19:47:09
薩摩隼人をなめやがって。
だから阿ほうの人やっちゅうねん
837日本@名無史さん:2007/11/30(金) 19:50:29
偽札照国レッテル貼った奴、俺に謝れ、川内?
838日本@名無史さん:2007/11/30(金) 19:54:15
阿呆な>>828,831,832に涙がこぼれる。
少し調べればよいのに。

ヒント1:東郷平八郎銅像は照国神社境内にはなく、鹿児島市稲荷町多賀山公園にあります。
ヒント2:照国神社境内には銅像は建っていません。
839日本@名無史さん:2007/11/30(金) 19:56:09
誰がKだいっちゅうた、あほう
偽札照国レッテル取り消せ
840日本@名無史さん:2007/11/30(金) 19:59:23
お前、ほんまにデマゴーグ鋼鉄ジーグジャマタイ国やの、偽札照国レッテル貼るわ、Kだいぬかすわ
薩摩隼人なめんのも大概にせえ
841日本@名無史さん:2007/11/30(金) 20:01:53
お前が謝るまでZ旗降ろさんからな、覚悟せえ
842日本@名無史さん:2007/11/30(金) 20:05:16
なんだ、照国じゃなくて会津厨か
843日本@名無史さん:2007/11/30(金) 20:44:37
ミキティに忙しくて一時Z旗ズドーンと下がってた。
844日本@名無史さん:2007/11/30(金) 22:47:12
こういう分かりやすいのも久しぶりだな。
この手の人種は日本史板からは駆除されたと思っていたのだが
ハソ板に飛来するニダさんでも今はこんな見事にファビョーンしない。
845日本@名無史さん:2007/12/01(土) 00:17:31
ああ久しぶりだ、照国神社に行かせていただいたのは。
846日本@名無史さん:2007/12/01(土) 00:50:21
無礼な奴め、謝れ、事実捏造事実歪曲論理のすり換え、謝れ、都合が悪くなるとレッテル貼り、謝れ、ミキティでZ旗ズドーンと下がってたが許した訳ではなく、おどれのような奴はミキティの太股にかけて討ち果たしてやる。
847日本@名無史さん:2007/12/01(土) 01:02:15
833:日本@名無史さん :2007/11/30(金) 16:56:31 [sage以後照国神社厨はスルー]
>>828=831=832はたぶんものすごい勘違いをしているのだと思われ
ああ、こんな指摘をするなんてなんて優しいんだ漏れw

これは酷いやないか、優しい漏れさんよ。
848日本@名無史さん:2007/12/01(土) 01:04:45
838:日本@名無史さん :2007/11/30(金) 19:54:15 [sage]
阿呆な>>828,831,832に涙がこぼれる。
少し調べればよいのに。

ヒント1:東郷平八郎銅像は照国神社境内にはなく、鹿児島市稲荷町多賀山公園にあります。
ヒント2:照国神社境内には銅像は建っていません。

これかて……Z旗ズドーンと下がるほどのミキティに遥かに劣るやないか。
849日本@名無史さん:2007/12/01(土) 01:28:26
ミキティ字戦法で気持よく果てよう思うたら、これや。
844:日本@名無史さん :2007/11/30(金) 22:47:12 [sage]
こういう分かりやすいのも久しぶりだな。
この手の人種は日本史板からは駆除されたと思っていたのだが
ハソ板に飛来するニダさんでも今はこんな見事にファビョーンしない。

何が言いたいねん。
850日本@名無史さん:2007/12/01(土) 01:43:48
834:日本@名無史さん :2007/11/30(金) 19:25:04
どんな韓違いや、説明しろ、偽札照国レッテル貼るな、あほう

ああ、誤字やな、テイセイしとくわ
「韓違い」→「勘違い」

大阪で何が嫌かゆうたら、韓国人・朝鮮人・台湾人・中国人に勘違いされるのが面倒臭いことや。
851日本@名無史さん:2007/12/01(土) 01:51:48
忠重公への誹謗中傷とかを俺は怒ってるのではなく、下手なレッテル貼りが許せん。ミキティ字戦法で討ち果たしてやる。
852日本@名無史さん:2007/12/01(土) 02:04:18
おまいがっ!
839:日本@名無史さん :2007/11/30(金) 19:56:09
誰がKだいっちゅうた、あほう
偽札照国レッテル取り消せ

こんなトコロにも誤字が。K大って誤読しますな、こりゃ(笑)。
「Kだい」→「境内」
スーパーK、スーパーZ、の時事ネタと個人情報をミックスした誤字を含む文ですな。
853日本@名無史さん:2007/12/01(土) 03:07:00
ミキティの太股で安らかになってる俺に、喧嘩売った偽札照国神社デマゴーグの、
黒幕って一体誰?
黒幕って一体誰?
854日本@名無史さん:2007/12/01(土) 09:51:18
833:日本@名無史さん :2007/11/30(金) 16:56:31 [sage以後照国神社厨はスルー]
>>828=831=832はたぶんものすごい勘違いをしているのだと思われ
ああ、こんな指摘をするなんてなんて優しいんだ漏れw

優しい漏れ、謝れ。
855日本@名無史さん:2007/12/01(土) 10:14:29
833:日本@名無史さん :2007/11/30(金) 16:56:31 [sage以後照国神社厨はスルー]
>>828=831=832はたぶんものすごい勘違いをしているのだと思われ
ああ、こんな指摘をするなんてなんて優しいんだ漏れw

優しい漏れ、「俺たちに嘘言ってたんか、謝れ〜謝れ〜」
856日本@名無史さん:2007/12/01(土) 14:56:14
ええーい!まだ謝らんか!清盛をなめやがって!
857日本@名無史さん:2007/12/01(土) 15:06:01
ええーい!まだ謝らんか!重盛をなめやがって!
858日本@名無史さん:2007/12/01(土) 18:25:24
ようやく就寝したか
859日本@名無史さん:2007/12/01(土) 20:36:17
829:日本@名無史さん :2007/11/30(金) 08:46:27 [sage]
あのあたり斉彬と久光の銅像しかなかったはずだけど。

謝罪しろ。ゴロつきめ。
860日本@名無史さん:2007/12/01(土) 20:40:48
829:日本@名無史さん :2007/11/30(金) 08:46:27 [sage]
あのあたり斉彬と久光の銅像しかなかったはずだけど。

謝罪しろ。地五郎め。ミキティ字戦法で討ち果たしてやる。
861日本@名無史さん:2007/12/01(土) 20:44:49
おっぐ
862日本@名無史さん:2007/12/01(土) 20:54:16
秦氏なの?
863日本@名無史さん:2007/12/01(土) 23:16:20
842:日本@名無史さん :2007/11/30(金) 20:05:16 [sage]
なんだ、照国じゃなくて会津厨か


「無礼者めッ!五郎左を呼べッ!で・あ・る・か…」
864日本@名無史さん:2007/12/01(土) 23:29:56
862:日本@名無史さん :2007/12/01(土) 20:54:16 [sage]
秦氏なの?


「おかんのはたにて無礼働くっとは許っせんッ!こん五郎左がッ!」
865日本@名無史さん:2007/12/01(土) 23:36:16
862:日本@名無史さん :2007/12/01(土) 20:54:16 [sage]
秦氏なの?


「キャアーッ!」
どなたか徳のあるお方よ、近代史に生麦事件スレを…
866日本@名無史さん:2007/12/01(土) 23:51:16
844:日本@名無史さん :2007/11/30(金) 22:47:12 [sage]
こういう分かりやすいのも久しぶりだな。
この手の人種は日本史板からは駆除されたと思っていたのだが
ハソ板に飛来するニダさんでも今はこんな見事にファビョーンしない。


生きた鳥居をうんぬん
867日本@名無史さん:2007/12/02(日) 12:07:55
チェストー!
868日本@名無史さん:2007/12/02(日) 23:46:42
『sage以後照国神社厨はスルー』へ

「謝れ〜謝れ〜」
869日本@名無史さん:2007/12/02(日) 23:54:37
こんなスレのタイトルも読めないうえに
銅像の主や所在地まで間違えるようなような香具師に
ファソになられたんじゃ安藤美姫がかわいそうじゃ
だから昨日優勝のがしたのか
870日本@名無史さん:2007/12/03(月) 00:03:46
↑○弁○○山か(爆)

薩長の士よ!平松じゃ!
871日本@名無史さん:2007/12/03(月) 00:04:37
銅像が建っているところは公園で、照国神社境内ではありません。
その東にある白木作りの神社も、照国神社ではありません。

何故この程度のことも調べないのだろう。
872日本@名無史さん:2007/12/03(月) 00:06:50
示現流でごわす。
873日本@名無史さん:2007/12/03(月) 00:08:22
山下ね。親戚じゃな。
874日本@名無史さん:2007/12/03(月) 00:34:40
薩長の士はさすが早いのう。
おっぐ
875日本@名無史さん:2007/12/03(月) 01:10:26
871:日本@名無史さん :2007/12/03(月) 00:04:37 [sage]
銅像が建っているところは公園で、照国神社境内ではありません。
その東にある白木作りの神社も、照国神社ではありません。

何故この程度のことも調べないのだろう。


誰が境内ってゆうた、捏造すんな、ゴットハンドめ。
876日本@名無史さん:2007/12/03(月) 01:18:06
汚い文章やの…ほんま…
銅像ってどの銅像のことゆうとるねん(笑)、逃げ道ばっかり作りやがって(笑)、
伊敷生まれの川路利良の銅像か?
877日本@名無史さん:2007/12/03(月) 01:22:32
和銅元年開山の泰平寺で、俺に謝れ、↓。
871:日本@名無史さん :2007/12/03(月) 00:04:37 [sage]
銅像が建っているところは公園で、照国神社境内ではありません。
その東にある白木作りの神社も、照国神社ではありません。

何故この程度のことも調べないのだろう。
878日本@名無史さん:2007/12/03(月) 01:30:25
出版業界かY田方面の奴か?(笑)↓
871:日本@名無史さん :2007/12/03(月) 00:04:37 [sage]
銅像が建っているところは公園で、照国神社境内ではありません。
その東にある白木作りの神社も、照国神社ではありません。

何故この程度のことも調べないのだろう。
879日本@名無史さん:2007/12/03(月) 01:53:29
せんでとおっぐ
880日本@名無史さん:2007/12/03(月) 02:09:33
加治木氏はどうなった?
881日本@名無史さん:2007/12/03(月) 08:13:25
遅くなったの、長田八郎邸じゃな。
882日本@名無史さん:2007/12/04(火) 11:04:39
いちいちageんなhage
883日本@名無史さん:2007/12/04(火) 15:25:55
タダ、タダ、「謝れ!」hage
884日本@名無史さん:2007/12/05(水) 04:49:36
北郷氏
885日本@名無史さん:2007/12/05(水) 05:42:20
小西真奈美氏
886日本@名無史さん:2007/12/05(水) 10:02:03
830:日本@名無史さん :2007/11/30(金) 14:58:44 [sage]
>>828 m9(^Д^)プギャー

ただ「謝れ!」
887日本@名無史さん:2007/12/05(水) 21:43:32
882:日本@名無史さん :2007/12/04(火) 11:04:39 [sage]
いちいちageんなhage


「謝れ」ただ。
888日本@名無史さん:2007/12/05(水) 21:49:18
「謝れ!」ただ。

871:日本@名無史さん :2007/12/03(月) 00:04:37 [sage]
銅像が建っているところは公園で、照国神社境内ではありません。
その東にある白木作りの神社も、照国神社ではありません。

何故この程度のことも調べないのだろう。
889日本@名無史さん:2007/12/05(水) 21:57:52
捏造すんな。「謝れ!」ただ。

869:日本@名無史さん :2007/12/02(日) 23:54:37 [sage]
こんなスレのタイトルも読めないうえに
銅像の主や所在地まで間違えるようなような香具師に
ファソになられたんじゃ安藤美姫がかわいそうじゃ
だから昨日優勝のがしたのか
890日本@名無史さん:2007/12/05(水) 22:06:34
大口叩くな、面倒臭い奴やの、「謝れ!」ただ。


871:日本@名無史さん :2007/12/03(月) 00:04:37 [sage]
銅像が建っているところは公園で、照国神社境内ではありません。
その東にある白木作りの神社も、照国神社ではありません。

何故この程度のことも調べないのだろう。
891日本@名無史さん:2007/12/05(水) 23:55:03
東(トウゴウ?)の白木(白○?)なんかどうでもええ、「謝れ!」ただ。


871:日本@名無史さん :2007/12/03(月) 00:04:37 [sage]
銅像が建っているところは公園で、照国神社境内ではありません。
その東にある白木作りの神社も、照国神社ではありません。

何故この程度のことも調べないのだろう。
892日本@名無史さん:2007/12/06(木) 00:13:34
文意を読めず、この程度の作文か、「謝れ!」ただ。


871:日本@名無史さん :2007/12/03(月) 00:04:37 [sage]
銅像が建っているところは公園で、照国神社境内ではありません。
その東にある白木作りの神社も、照国神社ではありません。

何故この程度のことも調べないのだろう。
893日本@名無史さん:2007/12/06(木) 00:18:46
勘違いしてるのは、お前や、ただ、「謝れ!」。


833 日本@名無史さん sage以後照国神社厨はスルー 2007/11/30(金) 16:56:31
>>828=831=832はたぶんものすごい勘違いをしているのだと思われ
ああ、こんな指摘をするなんてなんて優しいんだ漏れw
894日本@名無史さん:2007/12/06(木) 00:37:03
東支那海に沈めたろか、「謝れ!」ただ。

833 日本@名無史さん sage以後照国神社厨はスルー 2007/11/30(金) 16:56:31
>>828=831=832はたぶんものすごい勘違いをしているのだと思われ
ああ、こんな指摘をするなんてなんて優しいんだ漏れw
895日本@名無史さん:2007/12/06(木) 11:38:40
ご、ごめんなさい。
896日本@名無史さん:2007/12/06(木) 12:33:28
なんじゃこりゃ
897日本@名無史さん:2007/12/07(金) 23:11:02
島津斉彬は過大評価されてる。久光の方がまともだ。
898日本@名無史さん:2007/12/10(月) 07:39:49
島津氏と豊後大神氏は敵対関係ですか?
899日本@名無史さん:2007/12/10(月) 14:36:04
ただ、「謝れ!」


833 日本@名無史さん sage以後照国神社厨はスルー 2007/11/30(金) 16:56:31
>>828=831=832はたぶんものすごい勘違いをしているのだと思われ
ああ、こんな指摘をするなんてなんて優しいんだ漏れw
900日本@名無史さん:2007/12/15(土) 22:16:20
テレ東の「美の巨人たち」に結城了悟氏出演中
『鹿児島のキリシタン』などで島津光久の曰く付きの祖母をおそらく初めて一般に紹介した人

手元がふるえてられたので、パーキンソン病なのだろうか
随分お年だと思うので心配
901日本@名無史さん:2007/12/16(日) 18:21:36
光久の祖母って、どんな祖母すか?
902日本@名無史さん:2007/12/16(日) 23:28:48
>>901
母方の祖母だが
キリシタン。
明石全登の息子もその縁でかくまっていた。

ちなみに父方祖母は島津義久の娘。
903902:2007/12/17(月) 21:48:08
まちがった
正確に言うと
母方の祖母の一人(母の母)がキリシタン
母方の祖父をたどると島津義久の娘につながる(母方の曾祖母が島津義久長女)

しつれいしました

904日本@名無史さん:2007/12/17(月) 23:21:30
ありがとうございました。また宜しくお願い致します。
905日本@名無史さん:2007/12/20(木) 11:53:33
薩摩藩も土佐藩みたいに郷士みたいな存在、外城士と云う身分制度があったらしいが知ってる人いますか?
906日本@名無史さん:2007/12/20(木) 13:24:57
戊辰戦争と西南戦争の隊編成を調べてみ
907日本@名無史さん:2007/12/20(木) 13:34:24
城下士が1割で下級武士と言っても西郷や大久保は城下士である以上、下級武士と言っていいか疑問。中村半次郎などの郷士も含めて下級武士と言うのは変だと思う。
908日本@名無史さん:2007/12/20(木) 19:42:01
>>907
外城士は下級武士ではない。むしろ地域の委任者として登場する。
(まあ、田舎者扱いされる場合も多かったが。)
西郷、大久保は城下士の中でも最下級であったので、下級武士であることに間違いはない。
909日本@名無史さん:2007/12/26(水) 00:28:57
島津家の歴代三大当主、三大家老は誰かな。私は16代義久・25代重豪・28代斉彬と平田ゆきえ・調所広郷・小松帯刀。
910日本@名無史さん:2008/01/03(木) 16:56:55
篤姫の放送が始まったらこのスレは賑わうのかな
911日本@名無史さん:2008/01/04(金) 01:15:39
身分でいえば城下士>外城士でしょう
http://www.kagoshimakenjinkai.ne.jp/motto/re/rekishitanpou7.htm
912日本@名無史さん:2008/01/04(金) 02:35:52
>>911
史料を読み違えた暴論乙

そも、外城士は地域を委任された武将とその部下であり、直参との間に身分的な差はない。
そして西郷の一族は江戸期以降に肥後から流れてきて、浮浪者同然の労務者として
甲突川の川浚いのために川縁に食うや食わずで住んでいた一家だ。

どちらが下級武士だったかといえば、西郷の一家ということになる。
913日本@名無史さん:2008/01/04(金) 02:47:43
納得。それで出水の郷士、例えば今の伊藤知事の先祖の家とかも残ってますが、皆とんでもない邸宅ですものね。城下の家老クラス以下の家はしょぼかったみたいですしね。
914日本@名無史さん:2008/01/04(金) 21:59:57
この、薩摩における外城士と城下士との関係を曲解する言説は、
土佐の山内侍と長會我部侍との関係を何も考えずに外城士と城下士に当てはめたもので、
どこをどう考えても不可解陳腐な言説と言えよう。

早乙女貢あたりは、「西郷隆盛は城下士だから無条件で上級武士で民衆を搾取していたに違いないのさ、俺達のように」
と主張し、薩摩と同様に藩内に重臣の私領を多く抱えていた南部藩・伊達藩の地域史家からも呆れられている。
915日本@名無史さん:2008/01/05(土) 00:15:35
>城下の家老クラス以下の家はしょぼかったみたいですしね。
具体的データも出さずに、それもまた暴論だと思う
城下士の底辺クラスと郷士・陪臣の家老クラスを比較すること自体が比較の仕方として間違い。

>早乙女貢
ドリーマー早乙女とはこれまた酷いのを例に出してきたなw
916日本@名無史さん:2008/01/05(土) 02:01:51
外城士でも激しく貧富の差がある点
田舎の武家屋敷にはある程度の身分の高い侍が住んでいたのは明らか
郷士でも例えば川路利良や二才時代の桐野などは西郷以下の生活だっただろうに
917日本@名無史さん:2008/01/05(土) 02:17:34
桐野が若い頃唐芋侍と嘲られたのは知ってるけど中村半次郎の家は郷士だったの?
918日本@名無史さん:2008/01/05(土) 07:07:23
桐野家は城下士
919日本@名無史さん:2008/01/05(土) 12:26:36
私は鹿児島人ですが小さな頃から城下士と外城士(郷士)との身分の違いはかなり大きかったと年寄り達から聞いてました。作家の桐野作人という人が以前、郷士も含めて武士とすると城下士は上位1割に入るので下級武士と呼ぶのはおかしい。と言ってたそうです。
920日本@名無史さん:2008/01/05(土) 14:49:45
>>919
会津人乙
921日本@名無史さん:2008/01/05(土) 15:02:29
外城士と城下士に身分の差はない。
ただ、江戸時代後期になると藩政は城下士が統括することが多く、
外城士は世間知らずの田舎者扱いされていた。

生活は千差万別。
城下士でも、西郷や桐野の家は労務者紛いの最下層であり、上級武士とはいえない。
外城士で最下層だったといえば、川路利良あたりが該当する。

西郷が上級武士となったのは、城下の青少年互助会・思想集団「誠忠組」の顔役となったところを
島津斉彬に認められ、京都における工作員の一人に抜擢したことに始まる。

西郷はこのことを終生忘れず、島津斉彬に信仰にも似た絶対忠誠を尽くした。
922日本@名無史さん:2008/01/05(土) 16:56:00
地方はその土地の地頭を筆頭に中身は中央とほぼ同じなんだから
外城士の生活も地域によって千差万別。誰でも想像つく。
うちの地域の下級武士は鍛冶仕事なんかして糊口を凌いでたってさ。
923日本@名無史さん:2008/01/06(日) 21:29:05
篤姫見たが、どこまで事実なのかね。調所は百姓から搾取したというより、別の面が主体で財政再建したはずだが。また今和泉島津家は調所に財政再建頼み込む手紙出してるくらいだから調所派だろう。
924日本@名無史さん:2008/01/06(日) 21:40:47
訂正。今和泉島津家当主が調所広郷の部下・海老原清煕に出した手紙に、なんとか笑左衛門(調所広郷)に財政再建の相談にのってくれるようにお願いする。と頼んでる内容の手紙が残ってるんだった。
925日本@名無史さん:2008/01/06(日) 23:18:19
>>923-924
朝の連ドラにつっこみ入れちゃ駄目ですよ・・・(つ_`;)

というのはともかくとして
おそらく同じ原作者の大河『義経』の例を考えると、今回も 史実<原作 で重視されているだけのような気がするが。
(ちなみに当方宮尾登美子の原作は未読なのでつっこまないようにw)
926日本@名無史さん:2008/01/07(月) 10:30:39
借金の250年賦なんて商人を舐めるのも大概にせい。
927日本@名無史さん:2008/01/07(月) 14:18:15
表向き踏み倒されたような形だが、近代になって発見され黎明館に持ち込まれた手紙などから、密約があり、商人たちは密貿易品を扱うなどして、元は取っていたことが判明している。
928日本@名無史さん:2008/01/07(月) 15:48:13
ちょい考えれば当たり前ですな。生き馬の目を抜く大坂商人達がなんの交換条件もなしに踏み倒し同然のこと認めるわけない。密貿易品さばくのにも商人必要だし相互依存関係にあったことは間違いない。
929日本@名無史さん:2008/01/07(月) 16:21:25
>>927-928
自演っぽい。
930日本@名無史さん:2008/01/07(月) 16:30:18
続きのつもり
931日本@名無史さん:2008/01/08(火) 02:47:12
ちょい考えると、幕府も黙認してたんだろうな。幕府は九州を治める自信はないし、薩摩藩を潰した跡を治める自信はもっとない。そう考えてみてはどうか。
932日本@名無史さん:2008/01/08(火) 17:47:55
潰さずとも生かさず殺さずだろう
島津も前田も伊達も
933日本@名無史さん:2008/01/08(火) 22:08:39
為子タソハァハァ
934日本@名無史さん:2008/01/10(木) 08:40:02
調所は切腹でなく服毒自殺したのは何故ですか?家老が切腹だと大事になりすぎるから、病死で済ませるよう調所が気を利かせたとか誰かどっかで書いてたけど。
935日本@名無史さん:2008/01/10(木) 23:03:18
なんか篤姫のスレが宮崎あおいオタクとアンチ宮崎の低レベルな争いになってるから、こちらで語ってみるかな。
936日本@名無史さん:2008/01/11(金) 00:46:55
たぶんこっちにも厨がくるだけだと思われ
でも、残り70切ってるからまあいいかw

ちなみに明日は朝6時辺りから12時間止まるらしいから>2ちゃん
937日本@名無史さん:2008/01/11(金) 21:56:02
篤姫の原作者来てたなそういえば
938日本@名無史さん:2008/01/12(土) 09:58:07
なかなか面白いスレになってきましたね。篤姫のおかげですね。
ところで、江戸期の武士身分の話しが出ていましたが、城下士、郷士の身分差ですが
制度上は城下士の最下層の御小姓組と郷士は同格であったと思います。
ただし、元を辿れば郷士の中でも中士程度の者も多かったのではないでしょうか。
そのような経緯があればこそ、重豪期のリストラ政策で身分差が明確になり、城下士の
大半を占める最下層クラスの者達と折り合いが悪くなり、維新後も遺恨を残したのでは
ないでしょうか。
土佐とは違い、郷士も島津家の立派な家臣だったのですから、同じルーツをもつ家臣同士で
差別意識が生まれたのは何だか悲しいですね。
それと、前にも出てきましたが桐野利秋家は城下士、川路利良家は士分ではなく卒身分の
与力です。
939日本@名無史さん:2008/01/13(日) 22:18:52
先程の篤姫で阿部老中が「薩摩藩家老 調所広郷!」と詰め寄る場面があるが、薩摩藩という呼称は会話ではあったのだろうか?本藩金工云々とかの文化文政期の文書があるんで、藩という言葉はあっただろうが。
940日本@名無史さん:2008/01/14(月) 10:24:28
>>939
脚本家はそこまで綿密な時代考証してないよ。
941日本@名無史さん:2008/01/14(月) 10:31:04
「松平薩摩守家中」って呼んでたんだっけ?
942日本@名無史さん:2008/01/14(月) 23:09:49
今和泉島津家は財政再建を調所広郷に頼み込む手紙が残ってるほど調所派。その後再建軌道に感謝もしてる。篤姫もドラマの様に調所を慕ってた可能性あり。さらに徳川に嫁いでしばらく薩摩藩に対し冷たい態度なのは調所を葬った事に対する意趣返しと言えないだろうか?
943日本@名無史さん:2008/01/14(月) 23:12:39
いきなりスイーツ(笑)大河を史実と信じている香具師がここに・・・
大河ドラマ板に帰って下さりますか?

それと犬HKには本当に死んで欲しい、マジで。
944日本@名無史さん:2008/01/15(火) 04:30:09
別に大河・篤姫を史実とは言ってないと思われ。大河では今和泉島津家は反調所で描いてるから。原口先生も尚古集成館、黎明館の学芸員が書いた書物にも、史実は今和泉島津家が調所派だったことを述べている。
945日本@名無史さん:2008/01/15(火) 11:47:22
>篤姫もドラマの様に調所を慕ってた可能性あり
と言う所が、大河に毒されてる

あの時代の高級武家(特に鹿児島藩)の男女関係とか上下関係とか分かった上で書いてますか?
あと
>さらに徳川に嫁いでしばらく薩摩藩に対し冷たい態度
はソースを求める。カゴメやブルドックは禁止。
946日本@名無史さん:2008/01/15(火) 21:03:51
チェスト!!
947日本@名無史さん:2008/01/15(火) 21:05:29
イナズマン
948日本@名無史さん:2008/01/15(火) 21:34:39
一橋英姫は子供は産んだのか?
949日本@名無史さん:2008/01/15(火) 22:13:10
>>948
生んだけど夭折
950日本@名無史さん:2008/01/15(火) 23:25:44
>>949
詳しく
951日本@名無史さん:2008/01/16(水) 00:01:17
詳しくといわれても出典の本を忘れてしまったものw
毎日新聞かなにかの華族本シリーズだったような記憶があるのだが。

そんなのより『島津家正統系図』見たらばっちり載ってるんだろうけどな。
・・・でもこれ1マソ円もするよ(しかも送料別)orz
952日本@名無史さん:2008/01/16(水) 15:44:15
薩摩藩英国留学生15名について。
953日本@名無史さん:2008/01/16(水) 19:38:32
篤姫の腹違いの妹、於才は
どこに嫁いだかわかりますか?
954日本@名無史さん:2008/01/16(水) 19:58:12
写真で見る幕末の島津図書ってかっこいいよな
955日本@名無史さん:2008/01/16(水) 20:16:42
>>953
『平成新修旧華族家系大成』男爵・今和泉島津家の項には記載無し

>>954
久光の次男だ罠
最期はあまりにもかわいそう
956日本@名無史さん:2008/01/16(水) 22:14:41
島津家臣の禄高見てると、川上とか新納とかの家老クラスでも100石とか200石とかが結構いるね。
なんでこんなに少ないの?
957日本@名無史さん:2008/01/16(水) 23:11:29
おそらく江戸初期から藩主命による上納が多かったことは一因だと思うが。。。
あと初期の藩主(家久・光久)が子沢山で、そっちに領地を分け与えなければいけないために
家老家クラスにしわ寄せが来た可能性もあるか。


・・・誰かもっと詳しい人来ないかなw
958日本@名無史さん:2008/01/17(木) 01:09:42
単純に藩士の数が多すぎるからじゃないの?
959日本@名無史さん:2008/01/17(木) 06:29:15
本郷とか種子島とか肝付とか数万石〜数千石のもそれなりにいるのに・・・。
960日本@名無史さん:2008/01/17(木) 07:18:14
北郷(ほんごう)だろ。江戸時代以前の分家や種子島、肝付など古い土着の家は私領を相続していたから石高はかなりある。新しい分家は本宗家との近い血縁から家老にもなるが功績がないと石高は上がらない。島津家と血縁関係なく家老になって実権握ったのは調所広郷のみ。
961日本@名無史さん:2008/01/17(木) 07:25:05
ちなみに調所は天保期で千五百石、弘化年間に加増され自害時で三千七百五十石。門閥以外では、きわめて例外的である。よほど有能で藩主からも評価されていたのだろう。
962日本@名無史さん:2008/01/17(木) 08:27:20
>>960
上で上がってる川上新納は古い家系。
963日本@名無史さん:2008/01/17(木) 11:45:03
これのことかな?(ウィキペディアより)

川上氏本家は各地の地頭職を歴任し、600石の家禄を得ていた。
また昌久の孫にあたる久利の家も本家とは別に403石を拝領している。
庶流である久朗の家は237石を得て代々家老・目付の要職にあった。

新納本家は大隅桑原郡三躰堂村で350石を領している。
忠元の家は薩摩伊佐郡大口木氏村にて150石を領し、大目付・家老などの要職にあった。
また旅庵の家は薩摩川辺郡川辺神殿村にて240石を領し、旅庵から数代家老の職にあった。
964日本@名無史さん:2008/01/17(木) 12:11:57
川上とか新納とが山田もだけど初代は古いけど妾腹だかは島津姓もらえなかったんだよ。山田なんか長男だったけど。だから正妻の子供からの島津姓の他の分家とは扱いが違う。ただ江戸時代中期以降は妾腹でも当主が気に入ったかなんかで島津姓のままのもある。
965日本@名無史さん:2008/01/17(木) 14:54:10
・・・中世でも妾腹出身で島津姓の分家あるんだが・・・
しかも島津通なら知っているはずの超有名どころで。
966日本@名無史さん:2008/01/17(木) 17:20:28
川上新納山田
こいつら九州征服戦で功績上げた連中だよな。
それでも数百石ってまじ?なんか悪いことやって石高減らされたとかか?
967日本@名無史さん:2008/01/17(木) 18:41:47
秀吉の九州征伐の煽りを食って減収などのリストラされたんだと思われ >>966のあげた人たち
968日本@名無史さん:2008/01/17(木) 19:09:35
大藩の家老が100石では体面が保てんのじゃあないかw
969日本@名無史さん:2008/01/17(木) 19:22:20
ま、家老は複数いるからね
格式とかうるさそうな場面では
宮之城島津家とか日置島津家みたいな
歴代家老職・○千石レベルの人を表にたてとけば無問題!


・・・と思っていたかどうかはしらないが。
970日本@名無史さん:2008/01/17(木) 20:13:43
本当に百石の家老なんかいたの?
百石って言ったらほんの数人しか家来いないんじゃないか?
葉武者に毛が生えたレベルじゃないか。
971日本@名無史さん:2008/01/17(木) 20:21:58
>>970
与力とかいっぱい付いてたんじゃねーの?
知らないけど。
972日本@名無史さん:2008/01/17(木) 20:31:15
てゆーかさあ、たった100石とか言うけどそもそも100石っていうのが実はそれほど貧相な禄高レベルじゃねんじゃねーの。
俺たち現代人は大河とかの影響でまず万石以上の大名にばかり目がいくけど、武士階級全体で見れば100石なんてはるかに届かない連中のが多かったんじゃまいか?
973日本@名無史さん:2008/01/17(木) 20:37:06
ただの武士ならね。
薩摩藩の家老としては少ないのではないのか、という話。
974日本@名無史さん:2008/01/17(木) 20:37:49
百石は間違いだろ。天保期の薩陽武鑑みたら川上は450石だったぞ。
975日本@名無史さん:2008/01/17(木) 20:45:45
>>963
川上分家(久朗系)237石
新納分家(忠元系)150石
新納分家(旅庵系)240石
976日本@名無史さん:2008/01/17(木) 20:50:27
200石って軍役何人?
977日本@名無史さん:2008/01/17(木) 21:11:22
家老就任時には加増されるはず。
978日本@名無史さん:2008/01/17(木) 21:36:40
島津家は日本で唯一、鎌倉時代から連綿と脈打つ由緒ある武家の家柄。

979日本@名無史さん:2008/01/17(木) 21:48:55
いいえ、三州守護家としての島津家は戦国時代に滅びました。
その後の島津家は「一応」庶流とされる伊作家が新しくおこした新興のお家です。
980日本@名無史さん:2008/01/17(木) 22:02:23
>>979
その言い方も違う

伊作家が鍋島氏張りに乗っ取ったというのが                            うわ何を(ry
981日本@名無史さん:2008/01/17(木) 22:03:03
どこも正妻の長男を嫡流とすると三代くらいしか続かないから、傍流が本家乗っ取ったり、本家の娘婿と先代の弟の男系が跡継ぎ争いしたり妾腹の末っ子が優秀で父親がそちらを跡継ぎにしたがったり、今でも旧家では起こってることで、けっこう面白い。
982日本@名無史さん:2008/01/18(金) 00:52:22
>>978
つ 相良、伊東、秋月、松浦、宗、小笠原、佐々木(京極)、諏訪、伊達、佐竹、相馬、岩城、安藤(秋田)etc…

結論:結論ある
983日本@名無史さん:2008/01/18(金) 01:05:51
ただ、相良は途中で中の人が全く無縁の人に変わってしまったよね(´・ω・`)
佐竹も代わってしまったが、こっちは血縁関係はあったかな。
984982訂正:2008/01/18(金) 01:32:08
結論:結論ある(×)
結論:結構ある(○)

>>983
まあ本当に男子直系だけで言ったら、上にあげた中にも居ないかもしれないしね。
養子等でも正当な手続きを経た上でなら、家としては続いてるとみなして良いんじゃないかと。
985日本@名無史さん:2008/01/18(金) 04:49:34
小笠原は勝山千束以外は男系絶えてないはず。唐津も結局戻ってるし。
986日本@名無史さん:2008/01/18(金) 05:19:18
薩摩の島津義久は79歳まで生きながら無嗣のまま没したというから
定めし男色好きだったのでありましょう。
されど、実際に彼の衆道相手となった小姓や稚児の名前は
何かの文献・文書類に伝わっているのでしょうか?
誰ぞ詳しい御仁は居られませぬかのう。
987日本@名無史さん:2008/01/18(金) 06:43:33
その甥の島津豊久は妻子さえ全く居なかったのかゑ?
988日本@名無史さん:2008/01/18(金) 09:46:16
製作所
989日本@名無史さん:2008/01/18(金) 09:47:08
京都
990日本@名無史さん:2008/01/18(金) 09:49:02
990
991日本@名無史さん:2008/01/18(金) 10:47:51
次スレたてられんかった
誰か宜しく
992日本@名無史さん:2008/01/18(金) 11:43:56
まあ伊作家が本宗家になったから当たり前の話なんだけど
賊徒扱いの実久はかなりの悪玉として書かれてるよね
実久が実権握って実行支配を強めたあたりの詳細やら知りたいんだけど
そこらへんどの資料に当たればいいのだろう?
993日本@名無史さん:2008/01/18(金) 11:50:40
>>987
旧かなをいい加減に使うのやめてください。お願い。
 胸が悪くなるんです。

>>991
俺とこも規制にかかっている。誰かお願い。
994日本@名無史さん:2008/01/18(金) 11:54:24
1 名前:日本@名無史さん 投稿日:05/02/15 16:33:01
語ろうと思ったけど、やめた。


2 名前:日本@名無史さん 投稿日:05/02/15 16:44:43 ID:KnVXTvxe ?
削除依頼しとけよ
995日本@名無史さん:2008/01/18(金) 11:54:49
4 名前:1 投稿日:05/02/15 16:53:34
このスレ島津(始末)しておけよ!ウヒャヒャヒャヒャヒャ


5 名前:日本@名無史さん 投稿日:05/02/16 14:34:15
そんな駄洒落いうやつは島津におえない


6 名前:日本@名無史さん 投稿日:05/03/03 09:40:52
島津(しまっ)た。
996日本@名無史さん:2008/01/18(金) 11:56:37
ノーベル賞
997日本@名無史さん:2008/01/18(金) 12:00:11
西南の雄?
998日本@名無史さん:2008/01/18(金) 12:01:48
998
999日本@名無史さん:2008/01/18(金) 12:06:07
1000
1000日本@名無史さん:2008/01/18(金) 12:07:21
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