上杉謙信VS島津義弘どっちが勝つ

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1日本@名無史さん
共に勇猛果敢だけに川中島以上の激戦となろう。
結果的に軍事の天才謙信の勝利と思われ
2日本@名無史さん:05/02/15 11:59:23
戦う場所にもよるけど謙信のほうが強いと思う
3日本@名無史さん:05/02/15 12:02:48
鹿児島県人をおびき寄せようとしているのが
明らかすぎて来ないんじゃないか?
4日本@名無史さん:05/02/16 01:11:39
いくらなんでも明らかに謙信の勝ちだろ
こんなクソエサで鹿児島人が釣れるかよ
5日本@名無史さん:05/02/16 07:43:58
謙信がきたーーーーーー!で島津軍は大混乱。
龍の旗の合図で島津本陣が集中攻撃され、島津軍総崩れ。
いや、島津は強いよ!敬意を表するが・・・
激突してみないとわからんけどね。
6日本@名無史さん:05/02/17 09:45:50
釣り野伏せVS車がかり 謙信は島津の釣り野伏せを事前に見破り、壊滅的な
打撃を与えたであろう。
7日本@名無史さん:05/02/17 10:22:52
鉄砲の装備率が違いすぎるからなあ。
8日本@名無史さん:05/02/17 11:12:58
信玄だったら信長を倒せた?
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1108262931/l50
9日本@名無史さん:05/02/17 21:16:37
車がかりは創作
10日本@名無史さん:05/02/17 21:35:18
上杉謙信は古い
島津義久は朝鮮の役で鍛え上げた精鋭を持っている
朝鮮軍がシマンズと恐れた戦国最強の部隊だろう
謙信がもたもたしてる間に、あっという間に上杉軍壊滅だろう
11日本@名無史さん:05/02/17 21:42:56
信長は義理で動かず理にかなった考えが最強の武器 時代が考えについてこれなかった 
12日本@名無史さん:05/02/17 22:18:01
朝鮮の役の主役は島津義弘だけどね 家臣の心をつかむ統率力、戦術の創造力、冷静な判断力がある 大砲に釘などをつめて散弾銃のように使っていたらしい その時の活躍がなければ日本軍は崩壊してそのまま攻めてこられて来たかもしれない危機をすくっている     
13日本@名無史さん:05/02/18 20:36:35
謙信ほどの武将なら時代が変わっても鉄砲や大砲をいち早く導入し天才的な戦術で打ち破っただろう。
14日本@名無史さん:05/02/18 20:47:31
上杉軍10人VS島津軍3万で謙信WIN
15日本@名無史さん:05/02/18 21:17:52
島津義久は我が軍の精鋭は、1人で敵軍の10人に相当すると
石田三成に豪語してるよ
石田三成に関が原の参戦部隊が5000人とは少なすぎると
とがめられたときに、、、。
上杉謙信が神さんに祈祷してるときに、もう首が飛んでるだろうよ
16日本@名無史さん:05/02/18 22:02:17
それでも隆景には勝てまへんな
17日本@名無史さん:05/02/18 22:16:11
>>14
どうやって勝つの?
18日本@名無史さん:05/02/18 22:44:25
関ヶ原では薩摩芋のほとんどは討ち取られて犬死に。
雑兵300ばかりとなって落ちのびた。
19日本@名無史さん:05/02/18 23:41:59
>>15
>1人で敵軍の10人に相当すると
こんなこと言ってるから地方大名のまま終わるんだよ。
20日本@名無史さん:05/02/18 23:42:58
>>18
退却戦とはいえそのときの奮戦があってこその本領安堵だろう。
犬死にではない。
21日本@名無史さん:05/02/19 00:22:48
>>15
豪語しているというだけですごいのか。おめでたいな。
22日本@名無史さん:05/02/19 08:30:04
まあ所詮家康に屈して減封、転封された上杉みたいなヘタレと島津とじゃ格が違うけどな。
無能を養子にせざるを得なかった時点で謙信の負け。
23日本@名無史さん:05/02/19 09:18:26
なぜ謙信の姉の息子景勝と他家から来た養子の景虎が二分して御館の乱を起きるきっかけを残してるのかが分からない 謙信の軍事力、政治力を教えて下さい また有名な話や人柄など
24日本@名無史さん:05/03/01 16:57:46
俺、島津も謙信も両方好きだけど冷静にその時代の軍備や技術向上の差を考える
と島津だと思う。
25日本@名無史さん:05/03/01 17:54:59
>>22
島津は僻地。
大勢に影響がないからほっといたと考えられんか?
26日本@名無史さん:05/03/01 18:46:50
長年に渡って武田との決着がつかない程度の上杉では、
九州最強チームである島津には勝てんよ。
27日本@名無史さん:05/03/01 19:13:03
>>15
島津 関ヶ原 1000人

>>18
1000→押し寄せる敵を撃退→300人程度
敵中突破→数十人となり本国へ帰還
28日本@名無史さん:05/03/01 19:14:21
長年に渡って九州一つも統一できない程度の島津では、
戦国最強グループである上杉には勝てんよ。
29日本@名無史さん:05/03/01 19:43:23
>>28
元々長尾家は領土が広いので。
30日本@名無史さん:05/03/01 21:14:51
鹿児島は日本の外れです。
その先に文化が違う琉球国があります。
中央から見て、参勤交代まじめにやれよ!
刃向わなければ、勝手に遣ってろ!な場所です。
31日本@名無史さん:05/03/01 21:24:13
琉球王国
32日本@名無史さん:05/03/01 21:38:57
>>27
あんたバカァ?

島津の前進退却とはいうけど、
あれば別に敵中突破とか敵の大軍を突っ切って退却したわけではない、
単に敵兵のいないとこを前に駆け抜けて退却したただけ、
基本的には勝ち戦に酔う東軍は傍観するか石田隊の追撃をするばかれで島津の前進退却は無視してた。
暫くして井伊直政らが追ってきて、それで大分損害は出したけどね。
33日本@名無史さん:05/03/01 21:40:56
確かに島津マンセーな小説なんかには
まるで関ヶ原の島津が十万の東軍を突き抜けて退却したみたいに
書いてあるものがあるが、
そんなの良く本気に出来るなあと思う。
34日本@名無史さん:05/03/01 22:05:06
でも時代とか鉄砲装備率を見る限りでは
島津の方が上だろう。

別にどちらが名将とか言ってるんじゃない。
鉄砲装備率は戦国の短い時期に飛躍的に上がってて、
大阪の陣の伊達なんて40%の装備率だしさ。
単純に時代が新しく、鉄砲の領内生産などで鉄砲装備率の高い島津の方が上だと言ってるだけ。

もしもまったく同じ条件という土俵にあげたらどちらが勝つかわからない。
35日本@名無史さん:05/03/01 22:09:42
>>11
冷静に考えるとそれが正解。
最強は織田、豊臣、徳川。
経済を整え大軍をようする事の出来る武将が最強。
現に島津は豊臣に負けている。

結局、戦争は経済戦。
戦場指揮の技術など
小手先の技量でしかない。
36日本@名無史さん:05/03/01 23:32:07
関ヶ原にいた全将兵は、

「明軍20万を5000人で返り討ちにした島津」

に正面からぶつかりたくなかっただけだよ。

必死で島津軍の進路を避けて、背後からならどうにか井伊が追う気になっただけ。

猛将として名高い福島正則でさえ、関ヶ原では自分の部隊に島津への手出し禁止していた。
37日本@名無史さん:05/03/01 23:47:15
叩くというより、薩長に対して負け犬丸出しの遠吠えばかり繰り返す気違いが暴れていただけという雰囲気だったが。
薩長を叩きたければもっと効果的な戦術があるよ。
38日本@名無史さん:05/03/01 23:50:15
>>36
おーい「5千で20万」とか、そんなのマジで信じてんの?
話しにならねえ。

確かに島津の武名も恐れただろうけど、
前進退却のさい、西軍と戦闘していた各部隊が敗退した西軍部隊への追撃にやっきになって
桃配山の徳川軍との間に間隙があいたのもあるし、
島津と戦う事にあまり意味がなかったというもある。
ましてや勝ち戦であまり無理に動かない部隊と闘う必要もなかったしね。
南宮山で動かなかった毛利、長宗我部、安国寺、長束も攻撃されなかったし。

それでも勿論、島津は凄いと言えない事はないけど、
最初の部分があまりにもデムパ。
39日本@名無史さん:05/03/01 23:51:23
「20万を5000人で返り討ち」なんて眉唾
島津兵自身が信じちゃいないだろw
そもそもそれなら逃げる必要ないじゃん
40日本@名無史さん:05/03/02 00:05:59
40倍の兵力に勝てるのなら、
関ヶ原の1500の島津勢は6万に匹敵する筈。
なら西軍、勝ってたじゃん。

でも40倍の兵力に勝ったというのは
あくまで弱体の明軍だから。
日本の軍ならそうでもないのかもしれない。
41日本@名無史さん:05/03/02 00:20:41
シセンの戦いは狭い範囲に密集した明軍が鉄砲の反撃でパニック状態に陥り自壊 
多くは味方に踏み殺されて圧死(火事の時に逃げようと入り口に押し寄せて死んじゃう
ってやつね)したっつーのがホントのところじゃないか。

いくらなんでも明側の死者3万数千に対して島津側の死者0人(物の本によると死者1名)
っつーのはキルレシオ比が異常すぎる罠
42日本@名無史さん:05/03/02 00:42:01
>>41
だからあ。そういう数字を額面通りに信じるのが異常。

実際は島津の兵力は1万。
明軍は明軍3万4千+朝鮮2千。
そして死者は明、朝鮮軍が数千〜1万程度。
島津軍については不明。

勿論、これでも滅茶苦茶凄いと思うのだが。
「20万」なんて無茶苦茶。慶長の役で明が投入した兵力は16万。
しかも3軍に分けていたのに20万なんてどこから出てくるのか。
43日本@名無史さん:05/03/02 00:46:16
あと慶長の役の明軍は徴兵された者の多くが、
嫌がって山奥に逃げたのを山探しまでして捕まえて
無理矢理、軍に入れて朝鮮に送ったそうで、
士気は最低だったとか。

島津の反撃にパニックを起こして勝手に壊走してのも無理ない。
44日本@名無史さん:05/03/02 01:18:19
つーか、こんなスレは三戦向きだ。
学問的にレスすると>>35が正しいのだが。
45日本@名無史さん:05/03/02 01:26:20
島津を追い払った。
大友の国崩し二門が最強だと思うが。
46日本@名無史さん:05/03/02 01:48:57
>>42
死者0〜1名っつーのはちゃんとした記録だよ。
47日本@名無史さん:05/03/02 02:16:16
明と朝鮮はヘタレだけどね。
48日本@名無史さん:05/03/02 02:43:41
>>46
ちと信じられない。
49日本@名無史さん:05/03/02 03:02:49
打者の打率と同じ。謙信の勝率は10割。従って、謙信の勝つ可能性が高い。
50日本@名無史さん:05/03/02 07:57:43
芋くさいとかいわれそうだが
長篠のように白兵戦を行なわず一斉射撃で相手が自壊すれば死者0は可能でしょう
51日本@名無史さん:05/03/02 09:04:16
謙信軍の方が強いと言う人達は謙信の詳しい情報を知っているのだろうか 詳しい理由を書かないと話にならないですよ
まずは謙信について教えて下さい。軍事、政治、人柄など
52日本@名無史さん:05/03/02 09:57:27
馬鹿だね
まず、実数がどうであるのかなんて無関係に、当時の日本人にとって島津軍は

「5000人で明軍20万を返り討ちにした最強軍団」

以外の何者でもない。
島津の部隊がそういう目で見られていたのは事実であり、
福島ほどの猛将が避けて通る程の存在だった事には変わりない。

次に、明軍の実数は3万どころではない。
支那では自軍の兵力を数倍に自称する事を「号する」と呼ぶが、
あまりに実数からかけ離れると嘘が露骨なので、ほとんどの場合2〜3倍程度に留めておくものだ。
日本共産党の大会に集まったと主催者側から発表される人数が、いつも係数をかけたように警察発表の数字の約2.5倍である事と同様の事情だろう。
つまり明側が20万と号していたのであれば、最低でも7万人は居た筈となる。
朝鮮に渡った島津軍は1万だが、全員が歴戦の末でも一人残らず無傷で明軍を迎え討ったとは考えられないので、
交戦時の兵力は5000程度とみなすのは妥当だ。
53日本@名無史さん:05/03/02 10:16:03
謙信は軍略の天才。相手の装備や地形の把握など当たり前。それゆえの生涯無敗。
島津芋ごときじゃ3分で討ち取られて終了だろ
54日本@名無史さん:05/03/02 10:26:44
>>48
鹿児島県に行ったときに地元で発行してた資料に載ってた。
最初、その数字を見たとき、俺もちょっと信じられなかった。
まあ普通の戦闘でなかったことは確かだろうなと思って41のような
ことを想像してみたんだよな。
55日本@名無史さん:05/03/02 10:33:23
5000人で明軍20万を返り討ちにした最強軍団が
なんで関ヶ原であそこまでボロボロに討ち取られるの?
相手の明が弱すぎたんだと思うけど
56日本@名無史さん:05/03/02 10:40:22
激弱の明軍よりは日本の弱小大名のがまだ強い罠
57日本@名無史さん:05/03/02 10:45:11
関ヶ原にいた島津勢は1500人で、明軍よりも精強な東軍約10万(実数)が殆ど無傷で島津に兵力を集中可能な状況だからな。
58日本@名無史さん:05/03/02 11:40:22
最初に無理矢理自分でこうありたいという
意図する方向に理論を導かない。誤りの元。
第三者としてみる。先入観で勝手に方向付けるのは誤り。
59日本@名無史さん:05/03/02 14:50:44
おいおい、ここは日本史板なんだから三戦板みたいな程度の低い解釈は止めよう
よ。謙信の強さなんて殆どが造作じゃないか、第4次川中島の戦闘すら判別でき
無いような状態で最強とはおこがましい。

謙信は戦闘より寧ろ死後の蓄財の多さこそ褒められるのじゃ無いのか?
60日本@名無史さん:05/03/02 16:28:50
確かに川中島については信用性のある史料にとぼしい
謙信から家臣にあてられた感状が数点残ってるので
恐らく実際あった戦いなのだろうが、規模や被害などは正確にはわからない
(まぁ詳しくわかるのがマレだが)
戦闘の流れにしろ啄木鳥や車懸かりが利にかなわず、創作である可能性が高い
ただ武田側が一門筆頭の信繁をはじめ名のある武将が討たれている
一門が討たれてることから推察するとかなり武田側の陣形が崩され
押されているのは想像に難くない
軍鑑の記述どおりではないにしろ戦術は上杉、戦略は武田の勝利をいう
評価は妥当だと思うが
61日本@名無史さん:05/03/02 20:13:41
謙信が雑魚なら手取川の合戦で情けない負け方をした
柴田勝家率いる織田家の軍団は雑魚中の雑魚ですな。
織田方の雑魚武将達
安藤守就、稲葉一鉄、氏家直通、金森長近、斎藤利治、佐々成政、柴田勝家、滝川一益、丹羽長秀、羽柴秀吉(途中で退却)、原正茂、不破光治、前田利家
信玄が雑魚なら三方ケ原の戦いで
糞ひねり出し自害寸前まで追い込まれた家康はウンコにたかるハエということになりますな。
62日本@名無史さん:05/03/02 22:12:55
謙信軍が強かった理由マジレス

・為影の代から内乱続きで兵が戦慣れしていた
・日本海側最大の港であった新潟港を領有し、佐渡金山の収入で豊かであった
・長槍で編成された足軽
・家臣団の力が弱く、謙信に権力が集中したため、謙信が思うように兵の編成できた
・信長軍や武田軍以上に残酷。皆殺しが当たり前。敵に恐れられる対象となった。(一向宗相手ばかりであったのもあるだろうが)
63日本@名無史さん:05/03/02 23:57:19
川中島以来、信玄は謙信との戦闘を嫌がってるよね。
後北条氏も逃げ回ってる感じだ。
64日本@名無史さん:05/03/03 07:03:32
謙信>>>>世論の壁>>>>>島津軍>>>>明軍>>親分子分の壁>>朝鮮軍
65日本@名無史さん :05/03/03 09:40:04
>>60
>第4次川中島の戦闘すら判別でき無いような状態で最強
を批判してる訳で川中島を否定してる訳じゃない。また信繁達が討たれたのは1
回の戦闘かどうかも判別できない。更に言えば「甲陽軍鑑」では信玄、謙信の衝
突は5回でなく12回とかになる。
>>61
手取川の合戦に至っては殆ど造作、織田軍が軍事行動をしたのは確かだが上杉軍
と衝突したような形跡は見当たらない。七尾城が陥落し援軍を止め撤退しただけ
の事だろう。
66日本@名無史さん:05/03/03 15:24:27
大体、謙信と義弘じゃ時代が違うだろ。

大日本帝国と北朝鮮が戦争やるようなもんだ。
67日本@名無史さん:05/03/03 17:04:14
>>66
大日本帝国が勝つじゃん
68日本@名無史さん:05/03/03 17:28:50
統率する大将も大事だが部下なしでは語れないよね
69日本@名無史さん:05/03/03 21:17:15
島津と上杉が戦うなら鍵になるのは鉄砲じゃないかい?
貿易と鉄砲製造能力を備えた島津には上杉謙信といえど勝てないと思うけどな。
地形学を利用した戦術で上杉が島津を引き込んで戦闘を行うことが出来れば
勝機はあるかも知れんけど、経済力が違うだろ。
70日本@名無史さん:05/03/03 23:01:57
同時代の島津貴久と上杉謙信を比べるべき
71日本@名無史さん:05/03/03 23:39:37
だからもしもって話しだろ。
上杉家(長尾家)って謙信以外ぱっとしない気がする。
それに比べれば島津は、貴久、義久、義弘、歳久、家久・・・・ばか殿がいない。
総合力から言っても島津は強い。
しかも九州での戦は全て寡でもって衆を倒す戦ばかり。戦略的には?でも戦術的には
相当な力を持っていたのでは?
ま、謙信も八千人程度の軍隊を運用するのは上手かったみたいだけど、大軍をうごか
した小田原城攻めは見事に失敗してるよね。
72日本@名無史さん:05/03/03 23:47:22
島津の戦った九州にはあの鍋島直茂のいた龍造寺と立花道雪がいた大友家がいたんだよ。
しかもそれだけの相手に覇権を確立する寸前までいってたんだから、信州さえまともに
平定出来なかった謙信より義弘の方がやれたと思うよ。
でも、謙信が美濃辺りにいたら信長もあそこまでやれなかったかもとは思うけど。
73日本@名無史さん:05/03/03 23:49:29
島津は、貴久、義久、義弘、歳久、家久・・・・ばかだらけ
74583:05/03/04 00:11:11
島津は兄弟それぞれ、多少の不協和音はあったにしても、
そろって家を盛り立てたイメージがある。

それに比べて謙信は兄を廃して家督継承。
一門譜代、代々にわたる抗争を抱えて孤軍奮闘だったイメージがある。
75日本@名無史さん:05/03/04 00:23:39
まあ、島津にわけの分からん薩摩弁でまくし立てられたら、
どんな武将も引いてしまうと思うぞ。謙信とて例外ではあるまい。
76日本@名無史さん:05/03/04 00:52:55
謙信にも信玄、氏康、一向宗という強敵がいたが
77日本@名無史さん:05/03/04 01:12:07
薩摩隼人って、何人だと思われるんだろう・・・。
78日本@名無史さん:05/03/04 04:04:39
そもそも謙信に領土的野心が無かったんだから
信州平定もクソも無いと思うが
79日本@名無史さん:05/03/04 04:48:10
むしろ島津の勝利の方が胡散臭くないか?
放蕩禿げと肥満の熊が勝手に自爆して負けただけだし
戦国の名将と評価された信玄や氏康と互角以上に戦いあった謙信の方がはるかに凄い
あと国力的にも
越後>>薩摩国+大隈国だよ
80日本@名無史さん:05/03/04 05:04:31
島津は戦国大名としては、他に類を見ないくらいしっかりした資料が多く在るの
だが。
それに比べて上杉には越後軍記・越後治乱記・上杉軍記・川中島合戦辨と講談物
が史実の様に扱われしまいには領土的野心が無かった等々、史実を歪曲する発想
が主流となる始末ですな。
81日本@名無史さん:05/03/04 05:20:36
島津は他に類をみないくらい正史から捏造入ってるしな。
だから朝鮮に行った時に同胞いっぱい引き連れて帰って来るんだよ。
82日本@名無史さん:05/03/04 12:35:23
>>81
お前、他に類をみないくらいの捏造挙げてからしゃべれや。
83日本@名無史さん:05/03/05 03:05:23
>>80
>それに比べて上杉には・・・
ってまるで軍記物か捏造史料しかないかのような書き込みっぷりだが、
上杉家の古文書群も、上杉氏、長尾諸氏それぞれに中世から近世まで、
原形のまましっかり箪笥に保管されて、
古文書学の研究には欠かせんし国宝指定だけど。

史実を歪曲する発想が主流って、そういう著書しか読まんの?
84日本@名無史さん:05/03/05 09:37:10
古文書学の研究、国宝指定の書物は謙信に興味を持っている人しか見ないですよ
普通に売っているのですか国が保管しているところに行って見るのでは
世間、一般の人が知っている情報しか知らないのでその本に載っている内容
詳しく教えて下さい
85日本@名無史さん:05/03/05 19:52:37
「島津家文書」も国宝。
頼朝からの書状など、鎌倉時代に記されたものからあり、膨大な量らしい。
古文書の中ではかなり信用度が高いって聞いたけど、捏造だらけの国宝なの?
86日本@名無史さん:05/03/08 19:52:18
軍神とまで言われた男と、たかだか鬼止まりの男とを
比較すること自体無理ある
87日本@名無史さん:05/03/08 20:34:41
誰に言われたの
88日本@名無史さん:05/03/08 21:12:39
上杉謙信 武力100
島津義弘 武力84

武将風雲録より抜粋


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜終了〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
89日本@名無史さん:05/03/08 21:46:30
謙信の方は生涯戦績大体わかるみたいだけど
義弘はどうなの?謙信並の戦績なの?
ググってもでてこない・・・
90日本@名無史さん:05/03/08 21:47:10
うわ〜三戦臭ぇ もうちょっとレベル高い話しなよ
91日本@名無史さん:05/03/08 22:57:31
上杉軍は、伝説とか幻想につつまれすぎてて、実態がイマイチつかめないな。まあ、寒い地方で戦えば勝てるんじゃない。
92日本@名無史さん:05/03/08 23:39:36
>>89
島津はポコポコ負けてるよ
93日本@名無史さん:05/03/09 00:29:55
>>91
君の資料調査能力がないだけ
94日本@名無史さん:05/03/09 14:45:47
上杉謙信よりも島津義弘よりも、生涯無敗の朝倉宗滴こそが最強と言ってみる…
95日本@名無史さん:05/03/09 15:09:22
>>93
そんな風にいうなら君が解説してよ
96日本@名無史さん:05/03/09 15:30:46
偉そうなだけの人だから
聞くだけ無駄だよ
97日本@名無史さん:05/03/09 15:33:33
>>95=91?
93じゃないけど伝説とか幻想につつまれすぎてて、って意味不明なのだが・・・
別に一次史料じゃなくても、
新人物○来社とかムックとかのデムパ系ばかりでなく、
上杉関係なら高志書院とかの本を読んでみるべし。
・・・にしても不毛なスレだなオイ。上杉も島津もどっちも好きだ。
98日本@名無史さん:05/03/19 12:53:28
謙信の墓ってどこにある?
まじで。
99日本@名無史さん:05/03/20 01:22:09
一対一なら義弘だろ。強いと言っても謙信は女性なんだから。
100日本@名無史さん:05/03/20 02:11:56
謙信の墓は何処にあるか聞いてるんだよ!

俺を誰だと思ってるんだ!?
101日本@名無史さん:05/03/20 02:20:53
米沢じゃねーの?棺おけ掘り起こして移したって聞いたけど。
102日本@名無史さん:05/03/20 10:19:40
>>100
誰?
103日本@名無史さん:05/03/21 00:59:40
だ か ら 俺だっての!

舐めると本気でヤバイらしい
じゃあ明日米沢な。コネェ奴は飛ばすぞ!
104日本@名無史さん:05/03/21 02:58:07
島津って結局立花道雪にも宗茂にも勝ってないから
いまいち九州最強と思えないんだよな〜

志賀親次にも追い払われてるし

105日本@名無史さん:2005/03/21(月) 17:27:57
領土的野心がない謙信はそもそも最強でもなんでもない
106日本@名無史さん:2005/03/21(月) 17:39:36
>>104
今の大相撲みたいに、一人勝ちばかりが目立って
ガチンコ勝負が延々と続くような時代が少ないって事か
107日本@名無史さん:2005/03/21(月) 21:42:58
俺が勝つ。
108日本@名無史さん:2005/03/24(木) 04:04:05
必ず最後に愛が勝つ…
109日本@名無史さん:2005/03/24(木) 05:07:08
謙信は野戦をほとんどしてない。
だから弱い
これが事実
110日本@名無史さん:2005/03/24(木) 07:32:37
上杉謙信に野戦を挑むような勇者は、そもそもあまりいない。
111日本@名無史さん:2005/03/24(木) 07:44:22
ここは三戦板ですよね!
対戦相手として島津義弘を挙げているところなんか、三戦板住人のスキルの高さに感動です!!
112日本@名無史さん:2005/03/24(木) 12:53:26
>>108
ならば、上杉の勝ちだ
113日本@名無史さん:2005/03/24(木) 13:03:56
>>112
直江兼継か
114日本@名無史さん:2005/03/24(木) 18:01:31
ばっきゃろーーーーーーーーーー!
謙信が負けるわけねえだろーーーーーーーーーーーーー!

俺は謙信の生まれ変わりだから良く分かる。
115日本@名無史さん:2005/03/28(月) 20:22:30
頭が痛くなるスレだな。
116日本@名無史さん:2005/04/17(日) 15:48:21
島津姓の奴はどいつもこいつもデカイ。
遺伝なんだろう。
だから島津が勝つんじゃないかな。
117日本@名無史さん:2005/04/17(日) 16:08:52
>>114
で、今回も女性ですか? 今回は男性ですか?
118日本@名無史さん:2005/04/17(日) 16:13:11
>>116
プロレスじゃないからw
119日本@名無史さん:2005/04/17(日) 17:11:21
島津は佐竹ぐらいじゃない?
120日本@名無史さん:2005/04/18(月) 09:50:12
佐竹ってK−1の?
121日本@名無史さん:2005/04/18(月) 13:15:46
私も島津姓ですが、やはり身長は高い(181cm)です。
家族も大きい人が多いです。

気になって「島津 身長」でググってみたところ、
いきなり190cmの人や172cmの女子バレーボール選手(もちろん島津姓)がヒットしてびっくりですw

島津=巨人族!?
122日本@名無史さん:2005/04/18(月) 17:37:10
>>121
隼人の国だからかな
123日本@名無史さん:2005/04/18(月) 22:38:57
おそらく謙信の方が強い。でも戦争が長引いて謙信が死ねば間違いなく
島津が勝つ。
124日本@名無史さん:2005/04/18(月) 22:41:55
毘沙門天の生まれ変わり=上杉謙信
上杉謙信に一票!
島津は所詮 九州の田舎大名
125日本@名無史さん:2005/04/19(火) 10:34:00
九州=田舎って言うのは現代人の先入観でしかないよ。
だいたい、鉄砲やカメラみたいな最新機器が真っ先に導入されてる。
126日本@名無史さん:2005/04/19(火) 10:55:57
現代において田舎なんだよ
127日本@名無史さん:2005/04/19(火) 11:27:37
いくら謙信が強いといっても所詮は女性の身、一対一なら間違いなく島津義弘が勝つ。
128日本@名無史さん:2005/04/19(火) 11:38:07
>>126
現代においても島津の本拠地は九州ですか?
129日本@名無史さん:2005/04/19(火) 17:27:47
九州は戦国時代当時は最先端地域だけど北陸は今も昔もド田舎じゃん。
130日本@名無史さん:2005/04/19(火) 17:38:40
しかも北陸は冬は兵動かせない。
131日本@名無史さん:2005/04/19(火) 17:53:51
北陸(笑)
132日本@名無史さん :2005/05/21(土) 17:01:20
上杉軍は冬季に何度も関東侵攻をしている
積雪3メートル以上の三国峠ごえをして。
九州が最先端?
鉄砲が最初に伝わったのが種子島であるにもかかわらず
すぐに近畿が生産の中心地になったことからみても後進的ですね
133日本@名無史さん:2005/06/06(月) 19:31:19
義弘、三州統一の頃から敗走ばっかじゃん
134日本@名無史さん:2005/06/07(火) 22:39:55
初めは島津も頑張るが、
最後は総動員令ラッシュで謙信の勝ち。
135日本@名無史さん:2005/06/08(水) 00:33:09
最初は謙信が押し捲るが、生理痛で生理休暇に入っている間に島津が逆転勝ち。
136日本@名無史さん:2005/06/13(月) 01:11:27
上杉謙信に決まってるだろ
137日本@名無史さん:2005/06/13(月) 02:19:37
関が原で見られたように、上杉が仕掛け島津が凌ぐ展開しか考えられない
138名無しさん:2005/06/13(月) 09:24:00
義弘に勝たせてやりたいが、やっぱり謙信だろうね。
139日本@名無史さん:2005/06/19(日) 07:34:20
関が原のことでひとつ島津が中央突破した後本多忠勝と井伊直正が追撃した
追撃の途中で島津は釣り伏せを使って追っ手を食い止めてそのときの鉄砲の弾で井伊は
負傷したその傷がもとで井伊は無くなるのだがな。
 そもそも、島津は東軍につくことを家康にいうてたんだが、なぜか無視されてやむなく西軍についた
んで自分からは責めずに攻めてきた敵のみを打ち払ってたんで兵が減った西軍が破れたあと
島津だけが残って中央突破した(家康を討ち取ることも可能だったからな)そのことをわからせた上で
退却したんだよ。
 それから島津の兵がすくなっかったのは当時の藩主に島津義久が兵を送らなかったからだよ。
140日本@名無史さん:2005/06/19(日) 14:41:35
>>139
だから何?
141日本@名無史さん:2005/06/19(日) 18:57:22
だから、漏れは島津が勝ったと思う
142日本@名無史さん:2005/06/20(月) 01:32:37
謙信って第三者の立場で横槍いれてたから優位だったわけで
別に格段に強いわけではない。

島津はそこが違う。
義久が当主になった時なんて回り敵だらけだぞ。
そんな不利な状況から九州のほとんどを制覇した島津が上杉より下なわけがない。
だいたい上杉って圧倒的大軍に勝ったこともないしね。
島津は何回もある。
143日本@名無史さん:2005/06/20(月) 02:02:48
↑無意味だなw
まず時代がずれるし、社会情勢やら戦闘形態やら地域状況やら、
なにかと違いがありすぎる。直接戦う状況でないとはっきりはわからない。
大鵬と北の海と千代の富士と貴乃花と朝青龍の誰か強かったかなんて、
それぞれ同時期に存在して直接対決しないとわからないと同じように、
はっきりいって意味はない。柏戸は昔の時代に生まれたからガッツも
あったろうが、現代に生まれていたらハングリーなんて無いだろう。
144日本@名無史さん:2005/06/20(月) 02:17:02
毛利に勝った大友を撃破した島津。
やっぱ強いのは島津だろ。

上杉って謀略に優れた奴が敵だと戦わずに撤退させられる羽目になってるから
毛利にも勝てないと思う。
毛利が隣だったら尼子みたいに内部分裂がもっと酷いことになってたんじゃないだろうか。
145日本@名無史さん:2005/06/20(月) 02:25:56
義弘はタイマンも強い。
伊東家の槍の達人、柚木丹波守を一騎打ちで討ち取ってる。
槍をもてば戦国最強の男ではなかろうか。
130足らずで3000に突っ込んで死なないんだからめちゃくちゃ強いよ。
146日本@名無史さん:2005/06/20(月) 23:57:53
上杉は謀略をしないで、真っ向から立ち向かうタイプだから信玄に苦労した
信玄は謀略を駆使してたたかうタイプで野戦も強かった・・
島津は竜造寺、大友などを激破した、漏れ的には秀吉軍を激派してくれればよかったんだが(w
147日本@名無史さん:2005/06/21(火) 00:00:56
九州って立花道雪や鍋島直茂がいたし、高橋紹運もいたな、そうい紹運の子供が立花宗茂だったな・・
148日本@名無史さん:2005/06/21(火) 19:27:42
>>146
じゃ秀吉最強ということで。
149日本@名無史さん:2005/06/21(火) 23:12:15
>>148
 秀吉って劉邦てきな人物だと思うのだが・・秀吉自身が優れてたのではなく家臣がすぐれててんで
そこから吸収をしたりして強くなったと思われ。
 というか小牧長久手だと秀吉は結果的には負けてるし。
150日本@名無史さん:2005/06/24(金) 16:38:46
そういや、謙信って正攻法で責めるのが得意だったんだよね
 敵が退却してることろを襲うとかしなかったらしいね
151日本@名無史さん:2005/06/24(金) 21:30:39
トップと家臣が優秀でないと何事もうまくいかないぞ=天下は取れないぞ
152歴史博士(自称)つーさん:2005/06/24(金) 22:47:43
やっぱり上杉だろ・・・
ってゆうか竜造寺VS佐竹の方がもっと解からん。
みなさんはどう思う?。
153日本@名無史さん:2005/06/25(土) 03:14:44
>>144
毛利に勝ったとは?大友と小競り合いをやったのは、毛利勢の中の
弱兵である小早川の一部で隆景が周りの国人と契約を結ぶ以前のことで
あろう。しかも大友が大内より強かったのか?島津も攻城戦、籠城戦に
実績があれば、毛利勢に対抗できるかと思うが、また九州で吉川勢に
勝った事があればの話。
中国勢は、運もあったが(古来兵法にある運も実力のうち)秀吉勢に
負けておらん。特に吉川氏は不敗。上杉等は問題外。
野戦中心の東国が攻城籠城戦の多い西国と比べても仕方が無い。
戦術に差がつきすぎる。野戦は勢いで幾度は思うよう行くこともあるが、
常ではない。野戦重視の徳川思想は東国の後進性であるが、
所詮秀吉が武田の軍法を評し田舎者の合戦の仕方(城攻めの拙劣)と
川角三郎左衛門が記している。
154日本@名無史さん:2005/06/26(日) 01:37:59
>>153どこが小競り合いだよ。
数万以上同士が1年近く戦って小競り合いか?
どっちにしろ九州の毛利領が大友領になったんだから大友の勝ちじゃん。
どう解釈すれば毛利の勝ちになるんだ?
多々良浜の戦いなんか大友の大勝利だろ。
それいがいにも大内輝弘を使って背後を脅かしたり謀略面でも勝ってる。
よって毛利は大友より弱い。
155日本@名無史さん:2005/06/26(日) 02:01:03
とはいっても、毛利は九州が本拠じゃあないしな。
イギリスのノルマン領や日本の任那を見ても。
離れ地を維持するのは難しい。
156日本@名無史さん:2005/06/26(日) 07:11:32
>>154
数万以上が1年近く小競り合いを繰り返した。

普通1年も戦してるといいかげん腹もすくし、飽きるだろ?
だから毛利勢はわざと帰国した。

山内氏は東照大権現様より土佐の国を下賜されたが
君はこの事を以って山内某が権現様に勝利したと主張するのか?

大内輝弘は御味方に惨敗し、切腹に追い込まれた。
これ即ち毛利方の大勝である。

結論。毛利は大友に大勝した。

157日本@名無史さん:2005/06/26(日) 10:46:38
戦においても経済の点に関しても謙信が上だと思う。
某ゲームの影響で戦馬鹿なイメージが定着してるが、それはとんでもない。
毎年1万近い軍勢を率いて関東に出陣していたのだから軍を維持するだけでも
かなりの経済手腕が必要。
越後では謀反が相次いで起こったりしたが、これは難民や移民を受け入れ爆発的に
人口が増えた事や国土の広さから言えば仕方がない。ちなみに新潟の地名で他の県とやたら
同じ地名が多いのはその地名から移民してきたからである。
謙信が死亡した直後、越後には二万七千両もの金が蓄蔵されていたが、
金山の開発は景勝の代になってからであり(金山の開発がされてたとしてる甲陽軍艦は江戸期に書かれた創作書物)
父の為景時代は赤字だった事から、その経済手腕はかなりのものだったと思われる。
ちなみに、そのうちの二万両は一五九八年に秀吉に上納金として巻き上げられたヽ(`Д´)ノウワァァァン


島津が強いって言っても総合的に勝つのは無理じゃ?
158日本@名無史さん:2005/06/26(日) 14:09:46
あの当時は戦の仕方も大事だけど、装備が一番決めてだったんだろうね。
 島津の鉄砲隊はたしか、雨でも攻撃ができたはずだしね。
 貿易の中心的な都市をもってた秀吉がかなり有利だろうがね。漏れ的には秀吉は統一する
前はよかったが、統一したあとがいかんから好きじゃない。
 
島津は明とかそれ以外の国と貿易とかしてたから結構財力あったんかも

謙信も金山をもってたから強かったのかもしれませんね。信玄みたいに使いまくったわけではないから
159日本@名無史さん:2005/06/26(日) 18:21:32
>>154
1年近く?永禄4年大友軍が門司城を攻撃隆元、隆景がこれを
破った。以来、永禄6年毛利軍は、松山城を攻めた大友軍を撃退。
将軍義輝の命で和睦し、大友は輝元に義鎮の娘を嫁すことを約す。
しかし永禄10年に講和が破れた。

「永禄12年4月下旬毛利軍九州遠征し、5月1日立花城攻撃大友軍と
交戦し、5月3日立花城陥落、籠城兵全員を助命。5月18日には、
大友軍の首級数百をあげる。
10月11日大内輝弘、大友義鎮の後援を得、秋穂に上陸、
翌日山口に乱入、高嶺城攻撃。10月15日守将を残し、夜、
立花城を撤退。10月20日元春兵1万を率い山口に向かう。
10月21日立花城守備兵撤退。10月25日元春、大内輝弘を破る。
輝弘自刃。10月28日元就、長府本陣撤収、厳島神社に戦勝を謝す。」

どこが、毛利より強いんか。しかも毛利が尼子勢や四国遠征時に
こそこそとちょっかいを出してくる。毛利の強敵は尼子勢であり、
大友や長宗我部等はさほどの敵では無い。
160日本@名無史さん:2005/06/26(日) 19:09:56
毛利厨って必死すぎ。
どう見ても大友の勝ち。
元就が凄かったのはわかるが領地取られてるんだから負けじゃん。
途中まで押してたかもしれんが立花道雪の活躍で一気に逆転。
戦略でも領地失ってるんだから大友の勝ち。
領地失ってなんで勝ったことになるのかね?
161日本@名無史さん:2005/06/26(日) 20:09:24
>>160
改易された大友が明治以後まで残った毛利にどう見れば勝ったといえるんだろうか・・・
162日本@名無史さん:2005/06/26(日) 21:03:45
>>160
領地取られたってどこが?
九州に毛利領は存在しなかった訳だが

大内の遺領を大友が抑えてたのを、毛利が侵攻して、北九州の沿岸押さえたのが事実なんですが
163日本@名無史さん:2005/06/26(日) 21:24:19
高橋氏や秋月氏などの筑前の諸豪族は、大友と大内の両方に従属してて
大内滅亡後に独立しようとし、毛利に後ろ盾頼んで、それで毛利が介入した。
大友にすりゃ、博多を含めた勢力圏の維持の為に毛利と戦ったんであって、
毛利からすりゃ、瀬戸内や響灘の制海権を確保する為、下関の対岸の門司を押さえた。
筑前の豪族は大友の影響下から脱却したかった。
それだけの話。
164日本@名無史さん:2005/06/26(日) 22:04:49
なんか毛利厨が凄い見苦しいんですけど。
165日本@名無史さん:2005/06/26(日) 22:06:28
10年近くも兵を送っといて何も得るものが無かったヘボい毛利。
まるでベトナム戦争のアメリカですね。
166日本@名無史さん:2005/06/26(日) 22:08:47
↑10年もずっといねぇよ。
とか揚げ足とらないでね。
167日本@名無史さん:2005/06/27(月) 00:38:32
領土失ったとか適当デタラメ言い出して、論破されたら見苦しいとか痛すぎる
何も得るものなかったとか、門司や北九州沿岸押さえて、瀬戸内や山陰の日本海航路の水運を独占してるんだが

ま、144=154=160=164=165=166が知識不足ひけらかしただけだったか

毛利厨と言ってるが、こんなの厨じゃなくても知ってる程度の九州の初歩知識だがねぇ
168日本@名無史さん:2005/06/29(水) 22:53:14
ここは不識庵謙信様と維新入道義弘様のスレです
169日本@名無史さん:2005/06/30(木) 01:25:32
不識庵謙信と法号やらきちんと書いてるのに

どうして義弘は“維”新入道義弘なんだ?
170日本@名無史さん:2005/07/15(金) 12:10:08
惟新ってどう読めばいいのだ
「いしん」か?
171これは無駄かな:2005/07/16(土) 06:11:57
謙信の政治力は既出だが、他にも二度に渡る上洛による莫大な出費やたびかさなる関東遠征の支度に相当な資金を要する
その問題には諸役の免除や特産品の「あおそ」の奨励など臨機応変な良政で切り抜けた
なかでも「あおそ」は経済を大きく助けた。
ちなみに柿崎景家も斉藤などと並び4人の奉行として謙信政下の内政面で活躍してるんだよ
172日本@名無史さん:2005/07/16(土) 07:47:12
イメージだけなら謙信だな。なんすっげぇ強ぇーって感じで、そういう噂だよな。
島津?ああ、徳川の仲間に入れなくて焼け糞で逃げた奴らだね。運が良かったねって噂だよな。
173日本@名無史さん:2005/07/22(金) 00:08:12
上杉って言う奴らは歴史を知らない糞だ
174日本@名無史さん:2005/07/22(金) 00:13:33
島津は地方競馬、上杉は中央競馬。
なんせ頼山陽の詩で有名だしね。
175日本@名無史さん:2005/07/22(金) 00:51:37
島津は、アジア・ヨーロッパまで睨んだ世界の島津。
上杉は、日本の本州の一地方の大将。
176日本@名無史さん:2005/07/22(金) 01:06:16
日本の、ちまちました戦にさほど興味のなかった島津義弘と、
必死になって戦国時代を戦ってた上杉ぐらいを比較したところで、
スケールが違いすぎ
177日本@名無史さん:2005/07/22(金) 01:18:21
ここ初めてだけど
俺が学生時代の教科書の1560年代、旧大内領が毛利領になってたな。(九州)
いろいろ本あさってみたがあんだけ肩入れしてて何も得るものが無かったんだから
毛利の負けだと思うな。

>大内輝弘は御味方に惨敗し、切腹に追い込まれた。
>これ即ち毛利方の大勝である。
別に大友からすれば大内の蜂起が失敗しようが毛利を追い払えれば
大友の戦略目的は達成なわけでしょ。
なんで毛利の大勝利になるの?
178日本@名無史さん:2005/07/22(金) 01:54:32
>>177
北九州の地方豪族と大友の争いに毛利が介入しただけ。
>159にもあるよう立花城も陥落させたわけで、しかも、
籠城兵全員を助命にしてあげたのに、どうしてからむのか?
大友も、尼子ぐらい強ければよかったのに、残念としかいいようがない。
179日本@名無史さん:2005/07/22(金) 09:20:50
はい、ここも旧大内領は毛利領になってます。
ttp://www5.airnet.ne.jp/samrai/war_jp16c/idx/idx1570.htm
あれで毛利領にならないんなら
織田領なんかも穴だらけの勢力図だよね。
あと上杉の本庄繁長、武田の木曽なんかもそうなるな。
尼子11カ国の太守。竜造寺6カ国の太守なんかも突っ込まなくちゃね。

>大友も、尼子ぐらい強ければよかったのに、残念としかいいようがない。
ん?〜
小早川隆景がいながら多々良浜の戦いで負けてんじゃん。
それと記憶が曖昧だが吉川元春もいたよね?
素直に立花道雪が勝ってたとなんで思えないのかね?
大内輝弘を使って背後を脅かしたり、尼子と挟撃したり戦略でも五分以上に
展開してるじゃん。
んで結局九州から撤退。
一体毛利は九州戦で何か戦略目的を果たしたのか?
180日本@名無史さん:2005/07/22(金) 09:33:03
>大友も、尼子ぐらい強ければよかったのに、残念としかいいようがない。
ほんとに歴史って、かってな解釈ができるもんだな。
まあ>>1が謙信の勝利と思われとか言ってる程度のスレだしな
181日本@名無史さん:2005/07/22(金) 22:26:56
>>179
立花城が、陥落しているのに、どうして大友勢が勝ったといえるのか?
多々良浜の戦闘で毛利勢の損害数は?立花城が陥落していることから、
毛利勢への打撃といえるほどでは無いであろう。
大友勢の負け戦を、あたかも勝ったようにいうとは。しかも籠城兵の
命を助けてあげたのに、毛利勢が撤退した後に、こそこそやるのは、
戦略というより、恩を仇で返し姑息な手段で、この程度の豪族に大名を
名乗る資格はあるのか。のち大友が島津に破れ豊後の住民が、奴隷として
肥後あたりで売られた責任は大友氏にある。領主失格で毛利とは関係ない。
毛利は、北九州の地元豪族の要請で遠征したまでで、四国の河野氏救援に、
長宗我部を撃破し、隊を引き上げ、その後長宗我部が、四国を統一した
ので毛利は長宗我部に負けたことになるのか?馬鹿らしい。
182日本@名無史さん:2005/07/23(土) 00:08:56
島津が強いなんぞ、片腹痛い。
九州などという地方戦では勝者かもしれないが、秀吉、秀長が軍を
率いて攻め込むや、多少の抵抗はしたが、当主の義久が頭を丸めて
「ゆるしてください」と陳謝するしまつ。
信玄や氏康(晩年には織田とも)と戦っていた謙信と比べると、
島津が勝った相手は戦上手とは思えない連中ばかり、釣り野伏せなんて
この3人からみたら幼児レベルの戦術。
183日本@名無史さん:2005/07/23(土) 01:37:29
>>179
毛利は北九州で大友と戦った結果、北九州沿岸を押さえ、瀬戸内から日本海までの航路を確保しました
これにより対尼子戦で瀬戸内の警固衆を投入できるようになり、長期的な籠城も可能となった為
月山冨田城への長期包囲が出来た

毛利の主目的はあくまで、山陰の尼子

そして毛利が筑前の占拠経営を考えてなかった証拠に、毛利の禁制はおろか
秋月氏などの反大友勢力に対してすら、一切の指示等を出していない
ここが織田や尼子と決定的に違う、所領安堵の朱印状なぞないからね
この違いが理解できないから、教科書やショボいサイトを根拠に持ってくるのだろう

対して大友は、北九州での毛利との争いの結果
元来、大友氏族であった高橋氏や、秋月氏、立花氏などが次々に反乱し
結果、支配体制が崩壊し、再構築せねばならず、立花道雪や高橋鎮種の派遣となった

この対毛利によって日向・肥前・肥後・筑後に対する影響力の低下を招き、島津・龍造寺の台頭の一因となった
184日本@名無史さん:2005/07/24(日) 18:29:03
>>183
おめーよぉ
何万もの兵を動かすだけでいくらの金に兵糧消耗するとおもってるんだ?
毛利厨はほんと痛いな。
真面目に戦ってないわけねーだろ。
ここは毛利厨の巣窟か?
>大友も、尼子ぐらい強ければよかったのに、残念としかいいようがない。
こんなこといってるレベルだもんな。
おまえの方こそ勉強してきな。
185日本@名無史さん:2005/07/24(日) 21:42:37
>>184
なら実際どのぐらいの金を必要としたのですか?
当時の毛利家の収入から言えばどのぐらいを占める割合の軍事費ですか?
妄想だけじゃない明確な数値を教えて下さい
186日本@名無史さん:2005/07/24(日) 22:38:18
はぁ?
いくらかかったかなんか知るわけねーじゃん。
お前って、あんだけの大軍何年にもわたって動かして財政にまったく
影響無かったって考えるてるの?
現在で20000万人動かすとして、一人一日食費1500円として3億円。
10日で30億。一ヶ月で90億。一年で1080億。
めちゃくちゃ金かかるよな。
もうここレベル低すぎて相手してらんない。
大友とは真面目に戦ってないなんてよく言えるよな。
せいぜい脳内妄想ではそう思ってな。
さよ〜なら〜
187日本@名無史さん:2005/07/25(月) 18:05:22
>>186
はぁ?
当時の毛利の話してるんだが?
なに現代の話してごまかしてんだよ。

>もうここレベル低すぎて相手してらんない。

>せいぜい脳内妄想ではそう思ってな。
>さよ〜なら〜

勝利宣言出して逃亡ですかw
188日本@名無史さん:2005/07/25(月) 18:59:51
>>184
何万の兵を動員とは?

つか、対尼子戦には、日本海側の水運の確保は必須だったんだが
尼子は、山陰を押さえ日本海航路を抑えてるので、勢力が弱まったとはいえ
毛利にとっては、まだまだ強力だったんだよ
だからこそ門司城などを占領し、瀬戸内から日本海側への水運を押さえ
尼子が独占していた日本海航路を封鎖する必要があった

で、>>184は真面目に戦ったなどと抽象的な言葉でしか語れないんだけど
毛利も尼子も大友も、真面目に戦ったに決まってる
その戦略的目的、政治的意図はどこだったかを述べてるんだよ
こんなのも理解できないの?アホ?

大友は対明貿易の中心地、博多の絶対確保
毛利は日本海航路から瀬戸内までの西日本における水運の独占
これに大内の遺領問題が絡んでの戦争だったんだよ
189188:2005/07/25(月) 19:14:05
ていうか、184の相手してる人は結構いるぞ

誰も毛利が真面目に戦ってないと書いてないし
177=179=184は
>いろいろ本あさってみたが
と書いて

>あんだけ肩入れしてて何も得るものが無かった
>あれで毛利領にならないんなら織田領なんかも穴だらけの勢力図だよね。
>小早川隆景がいながら多々良浜の戦いで負けてんじゃん。
>それと記憶が曖昧だが吉川元春もいたよね?
>素直に立花道雪が勝ってたとなんで思えないのかね?
>尼子と挟撃したり
>毛利は九州戦で何か戦略目的を果たしたのか?
こんな低レベルなレスしてるから突っ込まれるんだろ
いろいろ漁った本の程度が知れる
190日本@名無史さん:2005/07/25(月) 22:51:46
もう手取川とか神憑かってるもの。
釣り野伏とかそんな次元の戦じゃないもの。
191日本@名無史さん:2005/07/27(水) 04:28:18
攻め戦なら謙信 防戦なら義弘
軍神や鬼神も不得手はある。
192日本@名無史さん:2005/07/27(水) 09:21:54
>>191
攻め戦
攻め戦
攻め戦
193:2005/07/27(水) 13:03:53
義弘は朝鮮でわずか6000の兵で50万の敵を粉砕した。
194日本@名無史さん:2005/07/27(水) 13:17:11
上杉謙信>真田幸村>鈴木重秀>本多忠勝>伊達政宗>柿崎景家>島津義弘
くらいだろう。
195日本@名無史さん:2005/07/27(水) 13:29:33
伊達政宗は入らないだろ。
芦名や佐竹などのローカル大名には勝っているが、
上杉との対戦(松川の戦い)では3,500対20,000(伊達)で完敗している。
196日本@名無史さん:2005/07/27(水) 14:01:40
上杉謙信の騎馬隊など、昔ながらの戦法は天下一だと思う。
ただ、あまりの勇猛さのせいで、巨視感がないと思う。実質、局所では勝ち続けたけど、武田信玄には攻め入られるばかりで、信玄が死ぬまでじわじわと侵食されたわけだし
その点、義弘は明軍に対してやったような、釣り込みによる大砲での一網打尽や機を見ての総攻撃など、機を見て、罠を張り、効率よく戦意喪失させる、戦全体をみる巨視感がある。
話題にちらほら出てるけど、関が原の捨てかまりやホウシ戦陣など鉄砲と人をうまく使う点{徳川武将が負傷させられてるし}など、人を大事にしすぎる謙信にはできないと思う。
戦は仲間を如何に死地へ置けるかが重要だからね{孫子等曰く}
197日本@名無史さん:2005/07/27(水) 14:07:13
>>194 忠勝は関が原の退け口で義弘に打撃受けて敗退してるよ。
榊原や井伊も負傷させられてるし。それに幸村は守勢だけだし。父の昌幸ならいい勝負しそうだけど
柿崎出す時点で、>>194は戦での武将の価値知らずがわかっちゃうよ。柿崎は猛将だけど武将としてそこに名を入れられるような「将」じゃないし
・・・・・謙信より鈴木重秀のほうが守りで短期決戦なら強いぞ。義弘も短期の守勢相手なら負けるだろうし
198日本@名無史さん:2005/07/27(水) 14:12:21
引き分け。
最初は上杉が勝って、
後半は島津が勝つ。
でも、戦死者は島津のほうが多いと思う。
199日本@名無史さん:2005/07/27(水) 14:16:43
>>193そーいえば島津は朝鮮の武将に「島津勢は強敢にしてけい敵」って
いわれてたっけ。
200日本@名無史さん:2005/07/27(水) 14:21:33
>>195
>上杉との対戦(松川の戦い)では3,500対20,000(伊達)で完敗している。

ww その数字、あり得ないよ(笑)

上杉の大本営を鵜呑みにしてるだけだろw ソースは何?
福島の地元作家の電波小説や「奥羽永慶軍記」じゃないことだけ祈るよ。


201日本@名無史さん:2005/07/27(水) 15:00:03
>>200
軍勢の数は軍記ものではいい加減なものが多いが(奥羽永慶軍記もそうかも)、
本庄繁長 vs 伊達政宗で政宗が完敗したという基本構図は変わらないだろ。
景勝が後詰するまでもなかった、弱い武将ってことさ。
ちなみに、「武辺咄聞書」では5,000対15,000になっている。
202日本@名無史さん:2005/07/27(水) 15:18:32
>>201
そもそも根本的に誤解しているよ。君の「完敗」という判定が一体どこから出てくる
のか意味不明。ま、「アンチ政宗君」ということは分かるが。

>景勝が後詰するまでもなかった、弱い武将ってことさ。
 これは君の主観な。

関ヶ原時の家康と政宗との約定は、「上杉を牽制せよ」「積極的に兵を動かすな」に
尽きる。厳密に言えば白石城攻略も、家康的には出過ぎた軍事行動となる。
で、福島城の場合でも、伊達は本庄繁長をちょっと叩いてみたというレベルに留まっ
ている。(わずか1日で撤退) このとき伊達の本陣の陣幕を奪ったという話は嘘だ。

結局のところ、上杉と伊達は全面的な戦闘は行っていない。が、政宗と家康は戦略目的を
成功させた。上杉は会津にまんまと封じ込められ小山へも出れなかったわけだ。
203日本@名無史さん:2005/07/27(水) 20:11:18
現実を認めない伊達厨必死だなwwww
204日本@名無史さん:2005/07/27(水) 21:22:47
>>203
現実も何も、関ヶ原戦の対伊達に関する上杉方の資料は「古老咄」の類。
「…であったそうな」という間接話しなのが特徴だ。よって却下ねw
205日本@名無史さん:2005/07/27(水) 23:10:54
>>203
伊達正宗が侵略しようと動くのを、結城{次男}が見張ってて、手が出せなかったという話を聞いたことある。
正宗が侵攻しようとしたら、詰問の使者が・・・・って。
まあ、小説家{二、三人}の話だから「古老咄」同様、あまり信用できるものじゃないけどね
206日本@名無史さん:2005/07/27(水) 23:18:43
松川の戦いだか、福島城だかで、(上杉が誇らしげに)
伊達本陣の陣幕を奪ったという話を喧伝しているが、
実は伊達成実の小荷駄隊のものだったりする事実。
207海音寺:2005/07/28(木) 12:00:54
いずれにしても、どちらも戦国史上稀有の武将です。ただ、どちらが勝つかとなれば
なれば武田信玄もいったといわれるように謙信は日本一の大将。
戦上手の点では右に出る人はいません。
現代のようなハイテク装備があるわけではないし、当時の銃の多さで判断でき
るものではありません。
長篠は謙信に通用しません。謙信が一蹴するでしょう。
208日本@名無史さん:2005/07/28(木) 12:15:35
謙信の場合歴史に残るような激戦経験しとるの
絶体絶命の死地から抜け出すというような戦経験しとるの
川中島なんかガキの陣取り合戦に見えるがノン
209日本@名無史さん:2005/07/28(木) 12:30:45
>>207
まだ長篠の勝因が鉄砲だの言っている香具師がいるのか?

しかしそれ以前に背後で領地を脅かすような外部からの侵略や内紛が起きれば元も子もないな。
局地戦の戦術以前の問題だよ。
210日本@名無史さん:2005/07/28(木) 14:43:46
>>207
論点違いかもしれないが、島津の強みは、銃と言う新しい兵器を最大限に活かす戦法・兵を育成したことにある。
繰り返しになってしまうが、関が原はじめ、朝鮮での兵と銃の使い方は類を見ないものがある。
また、謙信公の戦い方は騎馬による所が大きい。騎馬においては信玄でも敵わない、まさしく日本一の武将だと思う。
だが、騎馬に対しては、島津、特に義弘公は銃を使って有効な迎撃方法を開発している。
その陣を崩すには如何に日本一の騎馬軍団でも、相当の犠牲が必要になることと考えられる 。故に、同数なら得手不得手から義弘公が勝ち、圧倒的な差が無い限り負けないと考えられる。

誤解ないように言いたいのは、対義弘公の場合、得手不得手から謙信公は不利なのであって、武将としての能力や戦略眼は同等以上だと思う
211日本@名無史さん:2005/07/28(木) 15:37:02
>>202
言ってることが支離滅裂。
松川の戦いは関が原の戦いから二十日あまりも経過してるよ。
それが上杉への牽制だなんて、お笑いだ。
火事場ドロボーをしようとしたら、本庄に負けて引き上げただけだろう。

政宗は、大阪の陣でもかつて景勝の家臣だった真田信繁に三千対一万で
負けている弱い武将だ
212日本@名無史さん:2005/07/28(木) 16:40:19
>>211たしかに、騎馬鉄砲隊の弱点をつかれたからね。
213日本@名無史さん:2005/07/28(木) 17:15:40
>>212
漏れ、その辺詳しくないんだけどよければ教えてくれない?
214日本@名無史さん:2005/07/28(木) 17:20:06
>>211
>言ってることが支離滅裂。

 何が支離滅裂なわけ?

>松川の戦いは関が原の戦いから二十日あまりも経過してるよ。
>それが上杉への牽制だなんて、お笑いだ。

「松川の戦いが」ではなく、伊達と最上連合の上杉への牽制は、「小山会議」
辺りですでに外交的に十分な効力を発揮していたわけだよ。上杉は、背後で
伊達・最上が圧力をかけたために、結局、身動きが取れなかったよね? 

>火事場ドロボーをしようとしたら、本庄に負けて引き上げただけだろう。
戦後の福島城、松川などの戦闘は、伊達、上杉双方にとって「小競り合い」
の意味合いしかもたない。そこまで「完勝」と断定的に論じるなら、まず
ソースを出すのが筋だけど。できるの?

家康のそもそもの「お墨付き」の意味は、「兵を動かさず、国境線に上杉を釘
付けにすれば加増する」というもの。だから、戦後の総攻撃は明白な約定違反と
なり、家康の不興を買う行為へ直結する。
これが、この戦闘で伊達側が淡泊に引き上げている理由だ。

>政宗は、大阪の陣でもかつて景勝の家臣だった真田信繁に三千対一万で負けている弱い武将だ
 双方痛み分けだな。この戦いで、政宗の本陣が総崩れにでもなって、甚大な損害でも被ったわけ?

感情でものを発言しない方がいいね。アンチ君w?
215日本@名無史さん:2005/07/28(木) 18:07:00
>>213伊達政宗が考えた、戦法で馬を走らせながら鉄砲を撃つという戦法。
東北は名馬の産地だから、伊達家の特権だな。この戦法は長篠の戦いで
信長が鉄砲の三段撃ちでこれを倒したことをヒントに考え出されたという。
大阪の夏の陣ではこの戦法で後藤又兵衛などの首を挙げた。
が、この後続が真田幸村。幸村は兵を茂みに隠し、騎馬隊をひきつけ、
(接近戦にさせた、)槍で一斉につかせたので、騎馬鉄砲隊は
退却を余儀なくされた。
政宗は雪辱に燃えた。しかし、幸村はもう松平忠直らにたおされ、
戦国の世は終った。騎馬鉄砲隊は完全に消滅したのである。
216日本@名無史さん:2005/07/28(木) 18:17:23
>215
レスサンクス!流石幸村だな。
217日本@名無史さん:2005/07/28(木) 19:01:57
>>214
> 「松川の戦いが」ではなく、伊達と最上連合の上杉への牽制は、「小山会議」
>辺りですでに外交的に十分な効力を発揮していたわけだよ。

なになに、「松川の戦いが」ではなくだって、
ほう、君は松川の戦いが、牽制の意味での戦いでないと認めるのかい。
それだと202での、松川の戦いは牽制で「福島城の場合でも、伊達は本庄繁長を
ちょっと叩いてみたというレベルに留まっている」というのと矛盾するね。

218日本@名無史さん:2005/07/28(木) 19:10:05
こいつ、なに興奮してんの?
219日本@名無史さん:2005/07/28(木) 19:15:34
>>217
詳しく
220日本@名無史さん:2005/07/28(木) 19:24:13
話割るようですまないけど漏れの祖先、謙信公と関係あったっぽいw
今新潟県在住なんだけどなんか本家の方々の話聞くと漏れの家は元々上越の方にあったらしいが
上杉家が米沢に移るとき、山形(当時は羽州か)を嫌って脱走したらしいw今は下越在住。
中世以前って地方領主が勝手に家来に苗字を与えたりってあったの?
221日本@名無史さん:2005/07/28(木) 20:16:20
長井秀和風に言えば、201のソースは、おそらく

『奇策〜北の関ケ原・福島城松川の合戦』(著者:風野真知男)

間違いない(藁)
222日本@名無史さん:2005/07/28(木) 20:20:46
>>220
>漏れの祖先、謙信公と関係あったっぽいw
謙信公に尻でも突かれたのか?
223謙信大好き:2005/07/28(木) 20:50:15
だが、島津義弘の強さはそれ以上だと思う。強すぎる!
224日本@名無史さん:2005/07/28(木) 20:57:11
関ヶ原で日和見してただけの義弘。
225日本@名無史さん:2005/07/29(金) 01:44:42
>>224
もともとは東軍派。でも、鳥居と篭城すると言ったら、断られ、仕方なく西軍に属したってのが通説。
本多正信の陰謀という話もある。
まあ、そうじゃなきゃ、いくら強豪とは言え、家康が西軍に属した島津家に加増なんかしないと思うのだが
226日本@名無史さん:2005/07/29(金) 03:21:47
>>217
>なになに、「松川の戦いが」ではなくだって、
 ほう、君は松川の戦いが、牽制の意味での戦いでないと認めるのかい。
 それだと202での、松川の戦いは牽制で「福島城の場合でも、伊達は本庄繁長を
 ちょっと叩いてみたというレベルに留まっている」というのと矛盾するね。

何ら矛盾もない。文意が錯綜して激しく勘違いしているようだが、福島城の本庄繁長と
伊達の「小競り合い」が松川の戦いなんだが、意味、理解できてる?
 大体ソースが上杉の「古老咄」とは…(w)

「本庄様があまりに強かったので、さすがの政宗殿も、家康様がこの戦いをどう思われるか、
帰路、大変気になさっていたということじゃ」と上杉の古老が回顧するあれ、だw

とりあえずは、この「福島城下の松川の戦い」における家康や伊達側(せめて「治家記録」)
のソースも出さなければ、不公平というものだ。ま、ないわけだから、出しようもないがw

要するに、家康が会津から反転した時、上杉景勝は家康をついに追撃できなかった。
これほど効果的な「牽制」もない。目的は達成されたわけで、10月時点の「松川の戦い」など
どうでもいい一掃討戦に過ぎない。OK?w
227日本@名無史さん:2005/07/29(金) 10:28:09
>1の馬鹿の狙いは、
義弘と無理やり比較することで、
謙信の凄さを強調させたいんだろうが、
例えて言うなら、
ヒョードルと永田さんを比較して、
天才永田さんが勝つと思われとか言ってるレベルのスレなんだよな。。
呆れるというか、むなしすぎる
 
228日本@名無史さん:2005/07/29(金) 15:25:40
>>222
なんか苗字が長尾なんだよw
謙信公の苗字(まあ謙信の時代からかなり昔だろうが)頂けるぐらい
昔はガンガッタのかなあw<漏れの先祖
229日本@名無史さん:2005/07/29(金) 17:55:11
>>228
話しから推測すれば上田長尾家辺りの分家の末裔なんじゃない?
ちなみに上田長尾家とは長尾政景の一族
もしくは明治時代に勝手に名乗り始めたとか
230日本@名無史さん:2005/07/29(金) 19:43:51
長尾いっぱいあるよなあ

でも何か話残ってるなら教えてよ
教えてー
231日本@名無史さん:2005/07/29(金) 19:55:33
漏れの同級生も長尾だったな。まあ、上田長尾はセクース大好きだから多いんだがな
乞食でさえ長尾姓w
232228:2005/07/29(金) 22:25:31
>>230
漏れがリア厨のときに親父から昔は上越で武士やってたって聞かされて、最初漏れも嘘だと思ったけど
本家改装した時に地下から槍やら刀やらぞろぞろ発見されたらしくて地元の民俗資料館に寄贈したとか。
詳しい話はその資料館に行くなり本家に行かないと分からんがとにかく足軽ではなかったらしい。部将とまでは行かないと思うがw
江戸時代は地元の大地主(新潟県は巨大地主王国)に寄生して小銭をためたらしいが今は没落w
233日本@名無史さん:2005/07/30(土) 22:58:45
他のスレにも似たような話しがあったが、伊達厨は何故に必死なんだ??



390 :日本@名無史さん :2005/07/30(土) 06:22:01
>>231
>陪臣ではあるが本庄繁長もすごい。
 関が原の戦いのあと20日ばかりして、信夫郡福島城に2万の兵力で攻め込んで
 きた伊達軍に対してわずか3,500の兵で迎撃し、これを撃破(松川の戦い)。

その記述は「軍記物語」のものであり、勝敗の経緯は全部「ガセネタ」だな。
10/7、伊達勢が相当な人数で来襲してきたのは事実だが、この戦闘で上杉・
伊達は、鉄砲の猛烈な撃ち合いだけで終了。伊達勢はたった1日で北の目城へ引
き上げている。9月末日に家康から「徳川軍大勝」の書状が届いており、以降の
長期対陣での攻撃は軍律違反(いうまでもなく伊達と上杉の私戦ではない)とな
る恐れがあると判断した形跡がある。10月8日、伊達政宗は家康に福島城攻撃の
報告を直接注進している。同日部下には総力戦をしたいが、大御所の手前できない
のでとりあえず鉾を収めておくという意味の文書を残して兵を退いている。

   「今少残多キ様に候得共、時節柄之事ニ候條、…」
               (十月八日 桑折宗長宛伊達政宗書状)

>伊達軍は本陣の幔幕を奪われ、自身も槍を入れられ落命の危機であった。
 (死傷者2,000以上)

 よって、その死傷者数もでたら目であり、政宗本人が「落命の危機」は妄想の類。
 また、上杉が拾ったとされるされるものは、「伊達政宗本陣の陣幕」ではなく、
 車丹波という豪傑侍が、伊達の小荷駄隊のものを拾ったのか捕獲したものだ。
 もし「本陣の陣幕」が残ってるとすれば、見せ物小屋で展示されてる「河童の木乃伊」
 のようなものでしかない。
234日本@名無史さん:2005/07/31(日) 04:16:26
どっちかというと、同じネタを何度もふっては木っ端微塵に論破されるアンチの存在が必死に見える
235日本@名無史さん:2005/07/31(日) 13:44:19
このスレ自体が必死だからな
236日本@名無史さん:2005/08/02(火) 11:57:43
謙信ナウい
237日本@名無史さん:2005/08/02(火) 13:07:08
そもそも○○VS○○っていうタイトルのスレで厨房相手に熱弁ふるってどうするんだ?
自分の博学ぶりを自慢する相手がほしいのか?
238日本@名無史さん:2005/08/02(火) 17:17:14
「武辺咄聞書」じゃなぁ。ソースはでっちあげ。数字も適当。
いくら2chでも、これじゃ馬鹿にされても仕方ないよ。
239日本@名無史さん:2005/08/03(水) 11:55:46
そんなに必死にならなくても.....
戦国時代の合戦などでも、教科書にものっているような戦いが、実は軍記物や
固陋話が出所などということも、かなりあるし、両者が自分が勝利したと主張
しあっている場合も多い。一方の記録では大勝となっているのに、相手方の
記録では小競り合いとなっている場合もある。自軍の大敗は記録したくない
ので、記録から削除したり、扱いを小さくする場合も当然ある。

結局わかっているのは、関が原(9月14日)後に、福島城で本庄繁長と
伊達政宗が戦い(10月6日)、伊達側が撤退したということだけだ。

まあ、結論としては、伊達政宗は関が原戦後に、福島城(上杉領)や南部領に
ちょっかいを出して100万石の約束がパーになったアホな武将でいいじゃん。
240日本@名無史さん:2005/08/03(水) 12:02:36
>>234
同意
241日本@名無史さん:2005/08/03(水) 12:16:35

>伊達軍は本陣の幔幕を奪われ、自身も槍を入れられ落命の危機であった。
 (死傷者2,000以上)

爆笑。この自己申告したのは確か、牢人の岡野左内だったけ?(笑)
自分は政宗と一騎打ちをしたが、戦っている最中は誰とも分からなか
ったが、あとでそれが政宗殿と知って大いに驚いたという(マヌケな)
逸話を残している。もちろん嘘なのだが。

アンチのこの1行は恥ずかしいよね。悔しいんだろうけど、今後もネタ
にはされるだろうw
242日本@名無史さん:2005/08/03(水) 12:22:11
いつの間にか、伊達が「完敗」したという記述が消えているね。>>239
243日本@名無史さん:2005/08/03(水) 12:41:55
>>239
>100万石の約束がパーに

このアンチは書けば書くほど、墓穴を掘るってるな。
(感情丸出しで「アホな武将でいいじゃん」などと言ってるし。
 確かに「そんなに必死にならなくても…」w)

ちなみに、家康は政宗に「100万石の約束」など一切していない。
「お墨付き」とされる例の証書は、ただの「覚書」にすぎない。

「覚」とあるから、文書をよ〜く確認してごらん。

「約束」を保証した「領地宛行状」では決してないわけだ。
また、論理が破綻したな。和賀の件になると詳しくなさそうだから、
そこはつっこまないでおくよ。
244日本@名無史さん:2005/08/03(水) 14:29:15
んもう・・・仙台は100万都市を超えているんだから昔のことはいいじゃんw
百万円たまる貯金箱みたいに考えているんかねえ?
245日本@名無史さん:2005/08/03(水) 14:45:33
必死の伊達厨が多いな、このスレは。
口約束のレベルかしらんが、伊達、刈田・伊達・信夫郡などの7郡を
貰えると思って、ぬか喜びしていたのは事実だ。
だいたい、まだ天下もとってなく、立場が秀頼の代理にすぎない家康が
正式な宛行状など出せるわけがないだろ。
246日本@名無史さん:2005/08/03(水) 15:04:03
>>245
>ぬか喜びしていたのは事実だ。

見方が甘いな。この「覚」は、むしろ伊達、刈田・伊達・信夫郡などの7郡
を実力行使されて攻略されるのを心配した家康が、政宗に与えた懐柔策の意味
合いが濃い。「消極的な牽制役」を買って出てくれた伊達の態度にほっとして
喜んでいたのは、むしろ家康の方だね。
247日本@名無史さん:2005/08/03(水) 15:23:42
>>246
なるほど、家康に手玉に取られたというわけか。
しかし、福島城攻撃や和賀一揆など、
葛西一揆の時のように暗躍?していたように見えるのだが。
248日本@名無史さん:2005/08/03(水) 15:38:04
>>247
手玉に取られる→狐と狸の化かし合い、と言い換えた方がいいね。

249日本@名無史さん:2005/08/04(木) 00:08:05
>>248
むしろ田舎大名が一人で馬鹿試合をやっただけであろう。
250日本@名無史さん:2005/08/04(木) 06:16:22
政宗が手玉に取られたって見方で正解と思うねえ。
ほぼ家康の傀儡、徳川の犬状態だもの。
251日本@名無史さん:2005/08/04(木) 06:22:08
とりえあえず、まとめてみるなw

1.関ヶ原時の上杉軍は「最上より弱かった」。これ事実ね。

最上義光は、1601年庄内討伐(志田修理らを潰走させる)したが、
上杉は全くなすすべなく敗北。あれほど固執した庄内地方約33万石
を一気にかっさらわれている。戦後最上は57万石へ躍進。上杉は
30万石へ転落。庄内での敗北は、家康の心証を一層悪くしたに違いない。
伊達の南下に怯えて、福島方面に力を注ぐあまり、老獪な義光にしてやら
れたと解釈もできる。いずれにしろ上杉は最上以下だw

2.福島城の戦いの「上杉大勝説」は上杉方のデマという事実。

「本陣の陣幕を奪った」のは嘘。岡野左内の政宗との馬上での
一騎打ち(笑)、これはもはや伝奇小説以下の嘘。
(上杉びいきでも、さすがに恥ずかしくて反論もできないだろう)

問題は、「完勝」「撃退」というものの、一切のデータなしに宣伝
していることだろう。
その証拠に「伊達方の名だたる将校級の武将は誰1人として死んでいない」。
伊達にとっては、葛西大崎一揆の宮崎城の戦い以下の「損害」だ。
伊達成実クラスの武将が戦死した、というのであれば、話は別だが。

「松川の戦い」は上杉側の「与太話」だということがよく分かる。
252日本@名無史さん:2005/08/04(木) 10:56:21
>>1

せめてどこで戦うか書けよ

それもわからずに

「○○が勝つ」

とほざけるおめえら

最高におめでてえなw
253日本@名無史さん:2005/08/04(木) 11:04:59
>>252
じゃあ、川中島と耳川でシミュレートしてみて
254日本@名無史さん:2005/08/04(木) 11:32:50
>>251
> 1.関ヶ原時の上杉軍は「最上より弱かった」。これ事実ね。

最上より弱い上杉に木っ端微塵の伊達。(w
255日本@名無史さん:2005/08/04(木) 11:53:30
と、120万石の大大名から30万石の中小大名へ転落した上杉が
悔し涙を流しております(w
256日本@名無史さん:2005/08/04(木) 12:59:00
越後時代の上杉家も謙信が在陣していない戦は派手に負けてるからね。
小田原包囲後、謙信が先に厩橋へ戻り残された越軍は手痛い反撃を食らってるし。
越中方面でも直江・河田らが一揆勢に攻め立てられ越後国境まで追い払われた事もある。
その翌年から謙信が本格的に関東から越中方面に目を向けた途端、
一年で能登七尾を経て加賀まで達すると。
257日本@名無史さん:2005/08/04(木) 17:50:52
朝鮮の役のころ、朝鮮や明は鉄砲を装備していましたか?
258日本@名無史さん:2005/08/04(木) 18:31:52
時代が違うんだから比べるのは無理なような
259日本@名無史さん:2005/08/04(木) 20:32:53
>>256そうそう。謙信いる時といない時の差がはげしいよね。 合戦時の強さだけで見たら本州最強は(四国含む)謙信。日本最強は義弘だと思う。
260日本@名無史さん:2005/08/04(木) 20:50:16
上杉家では、有能な武将が育たなかったのでしょうか?柿崎くん、斎藤くん、遅れて直江兼続くんがいましたが?
261日本@名無史さん:2005/08/04(木) 21:34:30
>>256、259
ひとつの事柄だけで決め付けるのはどうかな。謙信のいない越後兵は弱いと言ってるけど
越中攻めは柿崎にやらせて落としてるし、斉藤は圧倒的に劣勢でありながら死ぬまで越中を
織田の猛攻から防ぎきってます。
それと、不思議に思ったのですが、家臣が負けるのは上杉に限らず、どこの家でも頻繁にあったのでは?
もしかして島津は家臣も全員無敗なんですか?
262日本@名無史さん:2005/08/04(木) 21:39:18
>>260 あんまり参考にならないけど、徳川家と比べてみると、謙信があまりに有能すぎたせいだと思う。
家康は個人としてすごいけど、部下の力に頼る部分が結構ある。
それに比べて、謙信は戦略や政治に関して部下を当てにする部分が少なかった。宇佐美氏くらいにしか相談などした形跡ないしね。
それと、中央で覇を唱えるよりは、地方で室町幕府のために活動するのが主眼だったみたいだから、武断派以外の政治家を必要としなかったせいじゃないかな。
直江兼続の時代までになったら、その必要性が感じられただろうけど、その前は一応の権威が有効だったから・・・・・・
263日本@名無史さん:2005/08/04(木) 21:41:17
       / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
       | >>999 アホ!
       \
          ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
                   ∧_∧      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
         ∧_∧      (・∀・)    < >>998 ウンコ!
         ( ゚Д゚ )   /⌒    ⌒ヽ    \_______
        /,  /   /_/|     へ \
       (ぃ9  |  (ぃ9 ./    /   \ \.∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
        /    /、    /    ./     ヽ ( ´Д` )< >>997 鼻くそ!
       /   ∧_二つ (    /      ∪ ,  /   \_______
       /   /      \ .\\     (ぃ9  |
      /    \       \ .\\    /    /  ,、    ((( )))  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     /  /~\ \        >  ) )  ./   ∧_二∃    ( =Д= ) < >>996 バァ━━(`L_` )━━キャ!!
     /  /   >  )      / //   ./     ̄ ̄ ヽ    (ぃ9  )  \_______
   / ノ    / /      / / /  ._/  /~ ̄ ̄/ /   /    ∧つ
  / /   .  / ./.      / / / )⌒ _ ノ     / ./    /    \   (゚д゚) 1000?
  / ./     ( ヽ、     ( ヽ ヽ | /       ( ヽ、   / /⌒>  )  ゚(  )−
(  _)      \__つ    \__つ).し          \__つ (_)  \_つ   / >
264日本@名無史さん:2005/08/04(木) 22:11:49
謙信の強さの秘密は軒猿ら忍者の使い方じゃないかな。
常に敵を己の掌に入れて戦うべし。傷つく事なし…だっけ。
川中島も八幡原の情報戦においては謙信の放った忍びが一帯を掌握して始まったし。
もっとも謙信本人まで策敵が天才的に上手かったそうだし。
普通の戦国大名とは違い過ぎる。女だし。
265日本@名無史さん:2005/08/04(木) 22:42:21
>>261いや越後兵は弱いとは思わないけど、朝鮮での明の大軍相手の大勝利の話を考えると島津義弘と薩摩兵の強さは度が過ぎると思う。狂った強さでしょ。越後兵も相当強いがね。
266日本@名無史さん:2005/08/05(金) 00:02:56
>265
その明の大軍とやらもこのスレを初めから読むと眉唾物のようだが。

眉唾物ついでに聞きたいんだけど。
ある騎馬武者を刀で追い掛け回し、背中の母衣を斬り壊すも討ち果たせず
後に敵の大将だったと知らされ、
取り逃がした武将はその時刀ではなく槍を用いていればと悔いた。

この騎馬武者って村上に大敗した信玄だっけ?
慶次に襲われた政宗だっけ?
聞いた事ある人いませんか?
267日本@名無史さん:2005/08/05(金) 00:21:08
眉唾どころか明らかな嘘だし
268日本@名無史さん:2005/08/05(金) 00:25:21
まあ口伝にしろ、でっちあげにしろ誰の話だっけ?
269日本@名無史さん:2005/08/05(金) 05:37:54
武士の逸話が満載された文芸書である「武辺咄聞書」は、吉川英治ばり
の記述で、確かに臨場感があって面白い。三題咄的な「オチ」もつく。
以下が、伊達政宗が松川にて「落命の危機」に陥ったとされるシーンだ。

 >政宗も先手へ加り手を下し戦ふ。岡野は角栄螺の甲にそぼろの立物打て
  猪首になし、猩々緋の羽織に鹿毛の馬に乗、川涯にて引下り防戦。
  政宗能敵と見保て馬を乗付、左内を二太刀切付られ、左内訖と驚振返り、
  丁と切。政宗甲の真向より具足の胸板鞍の前輪迄切付、二の太刀にて政宗
  甲の錣を半分切落し、余太刀にて政宗太刀の鐔本より薙折て右の膝口迄切
  付る。太刀の先にて政宗馬おどけて飛しさり物わかれする。其隙に左内は
  川へ乗込退く。政宗拾騎計にて追掛「比興者返して勝負せよ」と呼れは左
  内ふり返り「眼の明たる剛の者は大勢の中へは返さぬ者そ」と罵りて南の
  岸へ駆上る。

 >武具殊外見苦き故、政宗とは夢にも不知。後聞て残念かりたる由。

読後、ふと疑問がよぎる。岡野左内が戦っていた武将は一体誰だったのか?…と。
270日本@名無史さん:2005/08/05(金) 06:31:52
なお、この「武辺咄聞書」には、伊達の陣幕云々の件にも触れている。

 >其後天下太平に治り、諸大名へ将軍家御成有。景勝館へ成御の時は
  公方御馬立杉垣にて縦に立其前に打取にしたる伊達の重代看経幕九曜
  星の幕を打也。政宗は秀忠将軍家の御酒の御相手にて毎度御相伴に御
  供成し故、此由を見て無念たくひもなしとかや。

よほど嬉しかったのかどうか、上杉家では松川の戦いで拾った伊達家の
陣幕を、これみよがしに江戸の藩邸に陳列しており、それを聞いた政宗が
「無念じゃ!」と悔しがったとか何とか…という逸話である。
しかし、秀忠との酒の席である。秀忠:「上杉も大人げないよのう」
政宗:「さもありなん」程度の会話はあったかもしれない。

以上が、>>233
 >伊達軍は本陣の幔幕を奪われ、自身も槍を入れられ落命の危機であった。
  (死傷者2,000以上)

の怪しげなソースということになるわけだ。
271日本@名無史さん:2005/08/05(金) 09:18:07
これまで読んで見ると伊達の動きって不自然な行動だな。
二万もの兵を動かして福島城を攻めておきながら
たった一度撃退を喰らっただけでアッサリ引き上げてしまう。
中には内府からの指示を守りたかったから、とする人もいるようだけど
膨大な兵を動かし現地に着いた後「家康にこう言われているから」
といった思考を俄かにするだろうか?

大将が命からがらと言った大敗を喫したとかいう話なら
この中途半端な侵略>撤退も分かる気がするけど。
火の無い所に煙は立たないからねえ…
272日本@名無史さん:2005/08/05(金) 09:45:29
>>262
ツッコミ入れてスマンが、宇佐美は国を二分しかけた旧長尾政景派として
一時期対立した時があったので、忠誠を誓ってはいたものの、
謙信が心から信用していたのは直江景綱です(ちなみに柿崎、色部も元長尾政景派)
重要な政治や、特に外交面では景綱が中心となって活動をしています。
それを挽回しようとして宇佐美が独断で政景を暗殺したとも言われてます。
宇佐美が謙信の相談役といったイメージが強いのは、映画「天と地と」の影響じゃないかと。
273日本@名無史さん:2005/08/05(金) 12:12:50
伊達本陣の陣幕奪取+一騎打ちは、まあネタなわけで。
274日本@名無史さん:2005/08/05(金) 12:48:40
まあ似たような状況にはなったんだろう。
275日本@名無史さん:2005/08/05(金) 20:27:11
>>272
宇佐美定満は永禄五年に武蔵上尾原で討死してる、永禄七年に野尻湖暗殺はおかしい
276日本@名無史さん:2005/08/05(金) 23:14:04
>>275
その戦死説は、江戸時代に宇佐美定祐が「北越軍記」「越後軍記」を書いたとする説を
前提にした場合であって断言はできない。まあ、どっちもどっちだがね。
277日本@名無史さん:2005/08/06(土) 00:42:06
>>276
はぁ?北越軍記と越後軍記が野尻湖で長尾政景と共に死んだとしてるんだけど
宇佐美定祐が宇佐美定行として、名前さえ違ってるのだが
278日本@名無史さん:2005/08/06(土) 00:50:34
しかも北越軍記では信濃の野尻湖で定行が政景を船に乗せ、酒飲ませて刺し殺し沈めたとなってる
でも政景が死んだ野尻湖とは越後魚沼郡の坂戸城にも近いトコロにある、同じ名前の野尻湖

北越軍記の著者以前に、内容が違うんだよ

つか北越軍記や越後軍記は宇佐美定祐が著者で間違いない
問題視されてるのは、上杉将士書上や川中島五箇度合戦之次第が、清野助次郎・井上隼人正の著書とされてるが
どこまで宇佐美定祐が関わってるかどうかぐらいだよ
279日本@名無史さん:2005/08/06(土) 07:33:47
最上には大敗し、伊達にはおちょくられ。
挙げ句には、戦後、一騎打ちなどの勝手な捏造話をでっちあげ。
謙信の威光が消えた関ヶ原の上杉は、まったく踏んだり蹴ったりですね。


280日本@名無史さん:2005/08/06(土) 08:08:12
いやいやw
戦えば連戦連敗、大敗し続けていたのは最上だから。
関ヶ原の結果を知った上杉本隊が会津に引き上げた後安心して出てきただ〜け。
本気で上杉領を切り取ろうと闖入するも鎧袖一触アッサリ跳ね飛ばされた伊達。
その後の行動から壊乱状態で引き上げていったと考えるのが自然ですな。
281日本@名無史さん:2005/08/06(土) 08:57:29
>>280
>本気で上杉領を切り取ろうと闖入するも鎧袖一触アッサリ跳ね飛ばされた伊達。
その後の行動から壊乱状態で引き上げていったと考えるのが自然ですな。

上杉必死だな〜(w
日本戦史などの資料を調べてみても、伊達が「あっさり跳ねとばされた」事実はなし。
福島−松川では、岡野左内、斉藤道二(手持ち勢150騎)、本荘らが2回敗走し、福島
城へ逃げ込んでいる。左内にいたっては、霧の中から突然現れた伊達軍に驚愕し、瀬上
で退却。なお、この時の伊達の主力は片倉景綱、茂庭綱元、屋代勘解由。松川で岡野を
叩いた主力が茂庭綱元だ。(綱元を政宗と早合点したのかな?w)

で、逃げ込んだ福島城へ伊達軍が銃を乱射して、北目城へ帰還した。これが福島−松川
の戦闘の経緯であり、伊達は首級300を捕獲。負けたのは上杉軍だよ。
脳内では勝利したようだけどね。

反論OK。お待ちしてます。伊達軍が負けたというソースがあれば、是非聞きたいのでヨロw
(ただし、講談は茶話噺のソースはNG)

で、質問だが、(A)この戦いで戦死した伊達の重臣は存在しますか? それは誰ですか?
282日本@名無史さん:2005/08/06(土) 09:43:34
おいおい…今度は日本戦史かよ(呆)
ありゃ日本陸軍が都合が良いようイメージ化した下らんゴミ資料じゃねえか。
他にも軍閥などの思惑が絡んででっち上げられたもんだろ。
>伊達は首級300を捕獲。
どちらかが敗走したとして双方の規模を考えれば首級300じゃ少な過ぎ
とか普通思う筈だがな。
この戦いは上杉に追い払われた伊達軍、主君政宗を置き捨てて我先にと大敗走。
上杉の手強さを知ったので大規模且つ意味不明な軍事行動も一度限りで終了。
これで辻褄が合うっしょ。
283日本@名無史さん:2005/08/06(土) 10:11:44
>>282
そう揚げ足とるだろうと思った。しかも突っ込みがそこしかないとは…。
その1冊は、資料の中の例に挙げてるだけだよ。大体参謀本部云々は
この版では、指摘されるまでもなく常識以前のことだし。
そもそも「などの」と念を入れて書いてるよ? 

>この戦いは上杉に追い払われた伊達軍、主君政宗を置き捨てて我先にと大敗走。
 上杉の手強さを知ったので大規模且つ意味不明な軍事行動も一度限りで終了。
 これで辻褄が合うっしょ

まさに、上杉のご都合主義もいいところだ(w 
で、それほどの大敗を喫していながら「戦死した重臣」の部分はスルーですか?w
ちなみに白石城では1日で上杉方を陥落させているが、伊達の名だたる武将の被害も相当数記録
されている。仮に政宗本陣が危機に陥っていたとすれば、相当数の重臣にも死傷者がでて当然の話。
それとも、伊達成実、片倉景綱、指をくわえて主君の危機を見てたわけ?

辻褄は確かにあってるんだが。それは上杉の脳内での話だな。
感情的にならずに、もう少し客観的にこの戦いを語ってくれないかな。
やはりまともなソースはないのかな?
284日本@名無史さん:2005/08/06(土) 10:31:49
この時期の成実は身を挺してまで政宗を守るだけの義理があるかねぇ?
成実出奔に対する政宗の処遇は戦国の習いとはいえ非情すぎ。
その一部始終を他の家臣たちも見てた訳だし。
重ねて秀吉の築いた太平な世で伊達もすっかり鈍ってたんでしょ。

大敗走時に重臣達が命を落としてまで主君を守り抜くとは限らないからね。
名だたる武将が殆ど討たれず大将が危機に陥った大敗走なんて掃いて捨てるほどあるでしょ。
川中島の越軍もそう。本当にあったとして手取川もそう。
大坂の陣における家康も見捨てられちゃった。

まあ下らない屁理屈なんかどうでもいいから一つ教えて欲しい。
>で、逃げ込んだ福島城へ伊達軍が銃を乱射して、北目城へ帰還した。
この時の伊達が優勢だったとして結局何がしたかったと思う?
わざわざ関ヶ原が終わった後に城を包囲、落城させるまでも無く
鉄砲打ちかけて退散って…政宗の意図が分からない。
「おちょくった」とか程度の低い煽り文句でなく伊達側から見た都合の良い解釈を拝聴したい物です。
これだけは幾らググっても「侵略の挫折」と評するサイトしかなく、訳が分からない。
285日本@名無史さん:2005/08/06(土) 10:44:51
>>284
ふむ。ではお互い煽り抜きにしよう。この政宗の不可解な行動については
諸説ある。で、俺なりにいろいろ推論して見たことがある。それはちと長
くなるので後で書きます。今出先なもので(笑)
286日本@名無史さん:2005/08/06(土) 16:51:33
義弘が完全に勝つのは難しいな。
雪降るから。
287日本@名無史さん:2005/08/06(土) 17:14:20
挨拶もなしに余所のスレに居座るとは伊達厨も噂に
違わぬ厚顔だわい
でも続けていいよ、面白いから
288日本@名無史さん:2005/08/06(土) 19:20:39
>>287
いや、失敬、失敬(笑)。まあ、大目に見てくれていいではないの?島津厨の方々には
申し訳ないが、「上杉」がらみってことでしばらく滞在させて頂く。で、議論再開。

>>284
>この時期の成実は身を挺してまで政宗を守るだけの義理があるかねぇ?
 男気だろうね。そもそも成実は、政宗を「一諸侯の器として終わる君主にあらず」
 とまで称える心酔者。屋代に家族、重臣を皆殺しにされ放火されようが、景勝から
 の5万石の扶持さえ辞退し、最終的に政宗に帰参したわけだ。

>秀吉の築いた太平な世で伊達もすっかり鈍ってたんでしょ。
伊達軍が、いわゆる京文化に毒されて脆弱になったとは思えない。政宗の京都滞在時代
(1591〜1598)は、桃山文化の極盛期に当たってはいるが、伊達家としては葛西大崎
一揆、九戸の乱、朝鮮への従軍とつづき、文禄2年まで相当血腥い時期を過ごしている。
そしてとどめは文禄4年(1595)の秀次事件への連座だ。死罪か遠島という修羅場を首の
皮1枚で、くぐり抜けるが、並の大名なら政治的に抹殺されていただろう。伊達家が中央
の干渉から比較的自由になっていたのは、 慶長期元年〜3年程度。この時期の前後に、
母義子の2度目の出奔(仙台市史の新解釈)、重臣の伊達成実、国分盛重の出奔と、伊達家
はお家騒動のような危機的な状況に陥るが、軍事的な力が低下したわけではない。
事実、関ヶ原前半戦の7/24日の白石城攻防戦では、700余の首級を討ち取り、登坂式部等を
翌25日に一気に降伏開城させたことからも。(その様子は今井宗薫から逐一家康へ報告されたが)

ご託が長くてすまんが、次に伊達政宗の福島城進撃の意図について。本題に入る。
(とりあえず、文が長くなるので一端ここまでw)
289日本@名無史さん:2005/08/06(土) 20:37:55
(上記のつづき)
この福島城攻撃に関しては、否定的な見解が実に多い。政宗びいきの研究者ですら疑問符
をつけている。
最もステロタイプに戯画化されたものだと、旧領回復に目がくらみ、猪突猛進に突っ込
んでみたものの体よく上杉に撃退され、尻尾を巻いて無様に撤退。家康からも不興を買い、
「百万石のお墨付きを」自らフイにした1.5流の、近視眼的なマヌケそのものの、ド田舎
大名(w)という事態にすらなるw。しかも、だ。(呆れたことに)この福島城下の戦い
では、実は伊達軍は総くずれ状態に陥るほどの大敗北を喫し、本陣の陣幕は奪われるは、
政宗本人も命からがら逃げ帰るは、不様そのものの大失態を演じていた(らしい)。
これぞ「政宗の暴走」「フラストレーションの暴発」に他ならない無益で馬鹿な進攻で
あろうww、…etc。「図星だろうが!」とアンチが手を叩いて大喜びしそうな
記述。(書いていて苦笑するしかないが)

で、真相はこの通りなのか? 政宗は目先の「百万石」に目がくらんで、10/6
の時点になって、この無謀とも思える福島城攻撃を命じたのか? 
結論からいえば、NOとなる。(つづく。結論まで長いわw)
290日本@名無史さん:2005/08/07(日) 02:13:48
>>290
まあ否定的な見解というより単なる失敗と見ている人が殆どだわねえ。
それまでも政宗の戦略自体「ちゃっかり」「小ずるい」ってイメージが強く
成功しているなら見栄えもいいんだが結局失敗ばかりだし。
福島城攻撃もそんな所じゃないかと。
あまりそれ以外の見解にはお目にかかった事がないので楽しみです。

俺様妄想で終始しない為にも出来れば参考にした資料なども合わせて書いて頂けると有り難いです。
291日本@名無史さん:2005/08/07(日) 06:30:16
>>290
「伊達政宗の福島城攻撃」を考えるにあたって、政宗関連の市販されている資料は、
郷土史家のものも含め、相当数目を通していると思っている。んで、ここに列挙した場合、
とんでもない量になってしまう(苦笑)また、引用資料は、公平を期し、できるだけ1
次資料に依って立ちたい。当然だが、軍記物語の類は無視。最も重視しているのは
1600年9〜10月の伊達政宗の心理を知る意味で格好のテキストである「今井宗薫宛対
家康11ヶ状の申し出」だ。また(原文で読んだわけでもないが)、「伊達治家記録」
「最上義子の手紙」「伊達政景宛て文書」の要約文書も念頭に置いている。

「伊達政宗の福島城攻撃」へ話を戻すと−(無論徹底的に「伊達サイド」からの論理展
開ではあり、いかなる突っ込みも歓迎するw 文が長くなるので骨子の形で書いていく)

(前提条件)
さて、家康の俗にいう「百万石の恩賞手形」の条件は、上杉を牽制し、南下を防ぐこと。
同時に伊達の軍事行動を厳しく封じ込める意図で「兵を動かさないこと」であり、10/6
の時点で政宗はこの用件をすべてクリアしていた。(白石城攻めの後は最上の後方支援
に徹した)
何も、福島表まで出張って実力行使せずとも、黙っていれば49.5万石は自然に転がり
込んでくる算段だった。こうした政治的な取引にことの他抜け目なく、積極的な口実
にして既成事実化する才能(?)に優れた政宗が、あえて戦後に、軍律違反を犯してま
で危険な侵略行為にでるのは、そろばんを弾いてみれば、このリアリストにとっては
「合わない計算」となる。

また、上杉領内に進攻したものの、体よく撃退され「上杉の強さに舌を巻いた」という
レスがあったと思うが、政宗は上杉軍の頑強さは相当熟知尽くしており(片倉景綱ら
との共通認識だった)、体力バカの体育会系福島正則よろしく、猪突猛進の力攻めが上
杉に通用しないこと等、十分了解していたことも付加しておく。

292日本@名無史さん:2005/08/07(日) 06:32:15
(つづき)
(1)では、伊達政宗にとって、この福島城への大規模かつ1日限定の進攻・撤退の意味は何
だったのか? 一見すると姑息な旧領土奪還行為(家康の約束手形が信用できずに出兵+濡れ
手に粟の「火事場泥棒」w)に映るが、名目上は「対上杉追討・掃討戦の延長」としての出兵
であり(→対最上への2次支援)、同時に(この線も濃厚だが)、南部国境で発生させた和賀
兵乱の家康への牽制、攪乱、情報戦の意味も兼ねていたことが伺える。

(2)福島城−松川の戦いは、戦闘で見る限り別に伊達は大敗を喫していないが、上杉方の反撃
も相当凄まじかった。(>>281参照。松川での戦闘で上杉は敗退し、その軍勢は福島城へと撤収。
ここまでが前哨戦。福島城の戦いは接近戦ではなく銃撃戦である。政宗は羽黒山の本陣から銃撃
戦を指揮)

(3)「福島城の戦い」は総括すれば、当初目標であった梁川城、福島城攻略が不発に終わった
まま兵を退いたため、戦略的には中途半端で失敗と解釈もできる。

(4)福島城攻撃を1日で中止した理由(→以下次回につづく。まあ気長に書いていくw)
293日本@名無史さん:2005/08/07(日) 17:56:18
と、ここまで、書いてみて、…ふとあることに気がついて相当シラケている。
最初からどうも話しがかみ合わないわけだ。(俺なりに一生懸命になって)ここで
論じている「福島城攻防戦」とは、関ヶ原の一般的な年表に必ず記載されている
「1600年10月6日」の戦役の方だ。実際、アンチ自身も次のように書いているよな?

 @> 関が原の戦いのあと20日ばかりして、信夫郡福島城に2万の兵力で攻め込んで
  きた伊達軍に対して
 A>わずか3,500の兵で迎撃し、これを撃破(松川の戦い)。
 B>伊達軍は本陣の幔幕を奪われ、自身も槍を入れられ落命の危機であった。
  (死傷者2,000以上)

なんとなく、スーっと読める文章で、初めて読んだ人はおそらく「そうだったんだろうな」
「勢い付けて攻め込んできた伊達は、10/6日大敗したんだな」と思うだろう。
俺も、「妙だな?いくら調べても10/6で伊達が大敗したデータがない」と悩んでいた。
ところが、@は確かに10/6の「福島城の戦い」に違いないのだが、ABでちゃっかり
結論がすりかわっていることが分かってしまったのだ。
ここで伊達政宗が「撃破」され、「本陣の陣幕」が奪われ、「落命の危機」に瀕したとい
う記述は、「10/6の松川の戦い」と全く関係ない代物だ。
これ(AB)は、通常の関ヶ原史や年表では完全に黙殺され、まともな研究者から相手
にもされていない文芸本「「武辺咄聞書」のものだからだ。同書はこう記述する。

慶長6年(1601)4月17日に「2万5千の兵力」で白石を発進した伊達軍は、
4月26日松川で激闘。「政宗は岡野左内に斬りつけられてあやうく一命を落と
すところであった」「伊達軍の死傷者は1,300を数えたという」「このとき分捕
られた伊達家の本陣の陣幕は、長く上杉の誇りになったという」

…っておいおい(笑)。

294日本@名無史さん:2005/08/07(日) 20:16:22
(つづき)
一言で言えば、「福島城の戦い」は、伊達の掃討戦だった。(家康との約定はすでに十分
守った上で攻略へ出たというのが、政宗の論理)
関ヶ原の終戦が届いたのは、9/29。直江兼続は10/1日には撤退を開始し、
2日には米沢へ帰還してしまった。一気に流れが、上杉不利に展開したため、伊達
政宗は隙をついて仙道方面へ追い打ちをかけたということになる。

(4)伊達は何故1日で「福島城」攻撃から撤退したのか。
史実として判明していることを、重要な部分から順に列挙する。

・敵中深く入り込んでおり、戦闘が長引けば上杉後詰の部隊に、前後から挟撃される
 恐れが出てきたため、一端兵を退くこと。福島城の攻略にも相当日数がかかると判断
 した。(「治家記録」における伊達政宗の見解)
・長期対陣した場合の家康への明らかな配慮があったこと。
 10/19日に発せられた「家康への11ヶ条申し出」に、伊達軍の福島への「出兵」
 についての弁明がある。約定違反を明らかに気にした様子で、(疑いがおありなら)
 今後会津方面へ、徳川方の要人を置いて伊達を監視して頂きたいとのべている。
・伊達方の兵の損傷もそれなりに多かったこと。
・梁川城の内応工作が不調に終わり、梁川城攻撃が中止になったこと。

辺り。(和賀兵乱への情報攪乱説は「IF」の領域でもあり、今回は省略。)
以上、長くはあったが、「10/6日福島城の戦い」に関して伊達サイドより発言させ
ていただいた。なお、島津厨の皆さん、大変、お騒がせしましたm(_ _)m。
295日本@名無史さん:2005/08/07(日) 22:05:18
壮大な思い込み乙。
296日本@名無史さん:2005/08/08(月) 13:00:39
上杉の嘘ばれちゃったね。
297日本@名無史さん:2005/08/09(火) 01:28:14
風俗に行ってボられた、まで読んだ
298日本@名無史さん:2005/08/09(火) 05:27:56
>>292
日本戦史というのは殆どが旧参謀本部の捏造、作り話だとの見方が最近強いですよね。
戦争の模様を克明に書き出しているとは言っても
桶狭間、長篠の戦い等有名な戦でさえ完全な捏造、創作である事は今や常識です。
その描写は「こうなる筈だ」「こうゆう見解だと都合が良い」と勝手に描かれた絵空事。
そんな彼等、旧参謀本部が福島城攻防戦だけ真相を書けるとは到底思えません。
そんな資料を一番に持ち出してきても説得力は生まれないと思いますよ?

一方よく叩かれている「武辺咄聞書」ですが
「武辺咄聞書」内で松川の戦いっぽい物語を吐露しているのは
岡野左内ではなく杉原親清でしょ?
杉原常陸介親憲に仕えていた親清が岡野左内から配置されていた方面の模様を聞き、
それをさらに親清(彦左衛門)から物語されたのが「武辺咄聞書」の記述。
そして国枝清軒が1680年編纂して出来上がったものです。
つまり又聞きしてさらに又聞きに又聞きを重ねて生まれたもの。

その又聞きの過程で年月日を勘違いor失念したり、清軒あたりが勝手に書き加えた結果
誤った記載になった可能性は充分考えられます。
しかも関ヶ原の役から100年も経っていない1680年の書物である事。
時の大老酒井忠勝の一番初めに名前が出てくる事。
滅多な大嘘を書いて伊達家からの反駁を呼び、大事になった暁には切腹じゃ済まされません。
物語している親清本人が山形戦争時に親憲からの「羽州最上表の比類なき働き感じ入り候」といった
感状が残っている程の猛将である事。

これら書かれた背景をいちいち鑑みると「武辺咄聞書」の福島城攻防戦を書いた部位が
根も葉もない捏造であるとは考えにくい。
少なくとも「日本戦史」などという絵空事と並列するほどまでは堕ちていないと思います。
299日本@名無史さん:2005/08/09(火) 05:32:01
>>298
時の大老酒井忠勝の一番初めに名前が出てくる事。

これじゃ何言ってるか分かりませんね。
時の大老酒井忠勝の名前が一番初めに出てくる事。に訂正します。
300日本@名無史さん:2005/08/09(火) 08:24:17
>>298
>そんな資料を一番に持ち出してきても説得力は生まれないと思いますよ?

というか、「武辺咄聞書」の場合、あなたが仰る通り、

   >上杉方の言い分100%で
   >又聞きしてさらに又聞きに又聞きを重ねて生まれたもので、
   >その又聞きの過程で年月日を勘違いor失念したり、
   >清軒あたりが勝手に書き加えた結果、誤った記載

満載の文書だからこそ、「都合が良い」解釈の絵空事ばかりの「日本戦記」に「すら」
完全スルーされ(失礼)、専門の研究者や学者から、一顧だにされない最大の理由だと
思いますよ。

301日本@名無史さん:2005/08/09(火) 09:15:43
日本戦史にならスルーされた方が逆に信憑性は増すって話だな。
>専門の研究者や学者
これら先生方がいかに適当な連中である事か。
今まで習ってきた教科書や国民の戦国史に対するイメージは日本戦史によって
毒され続けてきた。歪まされてきた。
今現在でさえその間違った解釈や情報を矯正できない。
日本戦史の存在の為に定着してしまった。
この流れ(教科書作成、歴史ドラマなどの考証)を推進してこられたのが他ならぬ
専門の先生や学者と言われるお偉いさん達。
302日本@名無史さん:2005/08/09(火) 09:20:46
日本戦史にならスルーされた方が逆に信憑性は増すって話ですな。
>専門の研究者や学者
これら先生方がいかに適当な連中である事か。
今まで習ってきた教科書や国民の戦国史に対するイメージは
日本戦史によって毒され、歪まされ続けてきた。
今現在でさえ日本戦史の存在の為に定着してしまった
その間違った解釈や情報を矯正できない。

この流れ(教科書作成、歴史ドラマなどの考証)を推進してこられたのが他ならぬ
専門の先生や学者と言われるお偉いさん達。
彼等が今もって尚「日本戦史」を振りかざし福島城の戦を語るならばとんだお笑い種だ。
303日本@名無史さん:2005/08/09(火) 10:10:31
大体、「武辺咄聞書」のいう慶長6年(1601)4月26日松川で激闘って話も、相当嘘くさいなあ。
何しろ、政宗の念願だった仙台入府が4月14日だもの。しかも建設の真っ最中。それに5月上旬まで、
岩出山から全住民を仙台へ移動させるなど、頭の中は「新都建設」で一杯。4月16〜18日頃「千代」を
「仙台」と改名したり。

25000人の大軍勢引き連れて、今更上杉と一大決戦する必要性も全くないし。
304日本@名無史さん:2005/08/09(火) 12:55:54
前科がある日本戦史は100%否定しきれる。
が「武辺咄聞書」なら所々の落ち度、誇張はあっても大まかになら信じていいかもしれんね。
305日本@名無史さん:2005/08/09(火) 15:40:12
>>304
 ちょっと質問なんだけど、いいかな? 「武辺咄聞書」の著者は、
 はっきりと関ヶ原の翌年の「慶長6年4月26日」に、松川で
 上杉と伊達勢が一大合戦を行ったと書いてますね。

 >上杉景勝会津に被籠て不随。政宗とひたと取合、翌年迄の弓矢也。
 >関ケ原御陣翌年慶長六年四月廿六日也。

この戦闘は、その所々の「誇張」「落ち度」ってやつの一例?
この時期(慶長6年4月下旬)にいたって、こんな大戦闘が行われたとすれば、当然、徳川にも
情報は入ったはずだ思うが、これを傍証する資料って、他に何かあるの?
別に煽りではないので、知っている範囲でいいから教えて欲しい。

306日本@名無史さん:2005/08/09(火) 16:18:40
上杉厨、ちと苦しくなってきたね。やっきになって「日本戦史」の全否定に
論点ズラそうとしてるけど…。
問題は、以下にある。「武辺咄聞書」で伊達の大敗北と特定している時期が、

   慶長5年10/6ではなく、慶長6年4/26日

としているところ。何故か半年以上も時間差がある。本荘繁長の福島城での威光と武勇を
讃えるため(関ヶ原の福島城の戦役で伊達を撃退という伝説をつくる)には、絶対に
「慶長5年10/6」でなければならないはずだよね? 
307日本@名無史さん:2005/08/09(火) 17:02:42
もともと関ヶ原が初陣の酒井忠勝が1634年〜小浜城主時代杉原親清に命じて北の関ヶ原。
つまり会津戦争の実態を掴む為資料収集、情報整理等をさせた事が始まり。
実際戦場にいて、めざましい働きをした杉原親清が仕えている訳だからこの人選は当然と言える。
その四年後に酒井忠勝は大老になる訳だが。
この間杉原以外にも関ヶ原時の生き残りが存命である中、作り話を執筆すると言うのは常識で考えて有り得ない。

杉原親清と生前親交のあった国枝清軒によって校訂、加筆された「武辺咄聞書」は延宝八年。
1680年だから当然酒井も杉原も没した後。

酒井讃岐守忠勝家来杉原彦左衛門(杉原親清)物語に〜で始まる問題の話に
国枝が年月日等ある程度加筆した事実は充分考えられる。
だからと言って杉原彦左衛門(杉原親清)物語る、と言っている以上
そして杉原親清の生涯を考えれば、これを創作として割り切ってしまうのは乱暴この上ない。

対して日本戦史を創作と断じてしまう人がいても不思議な事ではない。
308日本@名無史さん:2005/08/09(火) 19:12:42
>>298
>日本戦史というのは殆どが旧参謀本部の捏造、作り話だとの見方が最近強いですよね。
そんな話、初耳だけどな

>桶狭間、長篠の戦い等有名な戦でさえ完全な捏造、創作である事は今や常識です。
これは大日本戦史の捏造ではなく、大日本戦史に採用された資料を基に検証した結果しかないはずだが?
ていうか大日本戦史読んだことないでしょ?二部存在して、一部が史料を基にした解釈、
もう一部がその採用した史料の掲載、こういう構成

大日本戦史が捏造・作り話というのはアンタのデタラメ
これは採用した史料・逸話が、史料的価値が低く信憑性が薄いというだけ
桶狭間は甫庵信長記の奇襲説をまんま採用し、参謀部の検証結果、実現性に乏しいとなり
長篠合戦では信長公記を採用し、三段撃ちとなっただけ

大日本戦史の内容は史料に記載があるから、陸軍参謀本部の捏造じゃあないね
アンタ説得力ないよ
ていうか、かなりの嘘吐き野郎だな
309日本@名無史さん:2005/08/09(火) 19:25:13
俺も>>298>>307氏へ質問をしておくか。

>作り話を執筆すると言うのは常識で考えて有り得ない。

むろん、「武辺咄聞書」が100%正しいという前提で話しを進めてもらっても、こちら
としては何ら構わないよ。(そもそも「日本戦史」の元ネタは、白石城陥落までは、政宗
と家康の間で交わされた書簡、長谷堂支援は政宗が政景へあてた書簡、福島城への進撃と
撤退は「伊達治家記録」をベースにした節がある。)通史への意義申し立てOKですよ。

で、双方の資料の真贋価値で対立しても埒が明かないので、話しを進めるね。
俺が知りたいのは、10/6の福島城−松川での上杉方の防衛の実態なわけだ。
質問は2点ある。単純なこと。上杉サイドから答えてもらってOK。

(1)肝心の「武辺咄聞書」には、10/6の福島城の戦闘に関して、何と書いてあるの?
 何故か上杉びいきの本(小説)でも、上杉方の「善戦」の箇所は、本荘繁長が福島城
 を堅守し ぬいたこと。及び、梁川城の須田長義・車丹波が伊達の小荷駄隊を襲撃した
 こと程度情報しか載っていないが?

(2)「武辺咄聞書」によれば、慶長6年4月17日、伊達勢は25000という大軍勢を福島
 へ派遣して、26日上杉と大激闘が交わされた。
 しかし、この時期にこんな戦闘あったの?

310日本@名無史さん:2005/08/10(水) 05:05:04
>>309
> 撤退は「伊達治家記録」をベースにした節がある。

それが一番捏造されてるだろが。(w
311日本@名無史さん:2005/08/10(水) 06:30:59
>>310
「日本戦史」の次は「伊達治家記録」への異議申し立てですか。

というか、上杉大勝説の唯一の拠り所が「武辺咄聞書」でしょ?
だからこそ、(1)(2)の質問に対して答えて欲しいと言ってるだけのことです。
簡単なことでしょ? 10/6の伊達の敗北箇所の記述を引用すればいいだけの話で。
それに「武辺咄聞書」の、

     >関ケ原御陣翌年慶長六年四月廿六日也。

 この記述はかなり決定的(致命的)な意味をもっていますよ。
どういうことですかね、これは? 4/14日に政宗は仙台に入府し、仙台城の普請
がピークに達している時期。もはや伊達家の一存で数万の大群で福島へ攻め上ること
等状況的には考えられませんし。これ、事実なんですか?
312日本@名無史さん:2005/08/10(水) 11:09:40
>>309
>>311
どうも話が通じないな。「武辺咄聞書」というのは筆者が一人ではないのだよ。
もともと様々な口伝を国枝清軒(おそらく彼だけじゃない)が収集し、
(ここからが重要)加筆したものとして認知されている。
よって日付等が間違っていたり、明らかに史実と相反する部分が所々散見されるという事。

しかし「武辺咄聞書」の中でもどこの馬の骨とも分からない「老人物語に」のような部位ならまだしも
実際深い交流のあった杉原親清の物語をわざわざ一から創作しなければならない理由が国枝にあっただろうか。
資料の信憑性というのは伝える当人が「どのような人物」で
「その事件(戦)の時にどこで、何をしていた」かが重要視される。
それ故、資料的価値の高い「信長公記」でさえ本能寺の変を描いた部位は信憑性がないとされている。
筆者の太田牛一が本能寺現場にいないにも関わらず、さらに伝聞との断りすらなしに
(勿論伝聞先すら明かさず)本能寺の模様を事細かに書き記しているからだ。

翻って「武辺咄聞書」の場合、国枝清軒が伝言ゲームの真ん中に入ってしまい、
多少の歪みを発生させてはいるものの実際その戦場にいた杉原親清から伝え聞いたと言う形を取っている以上
年月日の誤りを差し引いても資料的価値は充分ある。そう考えるのが自然ではないか。
313日本@名無史さん:2005/08/10(水) 11:13:09
第一日本戦史説を採ると
>>294氏が早速混乱しているようにおかしな所が多々出てきてしまう。

>家康との約定はすでに十分守った上で(福島城)攻略へ出たというのが、政宗の論理
確かに共に出陣した武将や兵数を見るにつけ牽制の規模ではない。
最上が一番苦しかった時期には3000程度と伝えられている一方、
この時期に万の兵を動かしている訳だから明らかに福島城攻略を意図した軍事行動だろう。
しかし
>10/19日に発せられた「家康への11ヶ条申し出」に、伊達軍の福島への「出兵」についての弁明がある。
約定違反を明らかに気にした様子
と直後に書かれてしまう始末。
一体約定を守った上での総攻撃という認識なのか。やはり約定違反を気にしながらの攻撃だったのか。
ここに大きな齟齬が生まれている。
この間、政宗を弱気にさせてしまう大きな出来事があったと考えられても仕方のない変節ぶり。

もっとも
>「福島城の戦い」は、伊達の掃討戦だった。
等と書いてしまう「掃討戦」の意味も分からない彼では混乱してしまうのも無理のない話だが(苦笑)
314日本@名無史さん:2005/08/10(水) 15:02:58
日本戦史って明治35年だっけか。
薩長閥が力を持ってる状況下で会津関連の歴史考証をマトモにやる訳ねえだろ。
315日本@名無史さん:2005/08/10(水) 15:34:57
>>313
頭が固いというか…。>>313氏は話をずらしてばかりいるなあ(苦笑)。
それにしても、なぜ、「慶長6年4月26日」のデータという指摘には耳をふさぎ、
明言を避けつづけるのだろうか? やはり「武辺咄聞書」が「日付等が間違っていた
り、明らかに史実と相反する部分が所々散見される資料」であるからだろね。
まあ、この調子では、いくら「年月日の誤りを差し引いても資料的価値は充分ある」
「そう考えるのが自然ではないか。」と力説されても何ら説得力もないよ。
結局、数値的な資料価値の部分では、信憑性に疑問符がつくだけに、自分でも自信が
ないわけだろ?
何も、そんなに突っ込みを怖がらなくても大丈夫だよ?(笑)何も、君を虐めて愉しん
でいるわけでもない。要は、10/6の本荘繁長の大活躍の部分が「武辺咄聞書」では
どのように記述されているのか、「上杉サイド」から説明願えないかといっているだけ
の話に過ぎない。
316日本@名無史さん:2005/08/10(水) 15:36:47

>この間、政宗を弱気にさせてしまう大きな出来事があったと考えられても仕方の
 ない変節ぶり。

あのさ…(苦笑)。だから、その辺を「武辺咄聞書」ではどう描いているのか、教えて
欲しいわけだよ。仮に、通史に反して政宗は上杉に大打撃受け、徹底的に本荘に痛め
つけられて逃げ帰ったとしよう。しかもその部分を、小狡いことに「日本戦史」や
「治家記録」は捏造・改竄し、切り捨てていると(君の主張は畢竟そうなる。)
そこの反駁が無ければ、次に進めないだろ?
★つまり、本荘は繁長は、どのように伊達と戦い、どう撃退したのか?伊達に与えた
 損害はどのくらいのものだったのか?
特に「武辺咄聞書」の立場から通史の矛盾点をつき、説明して欲しい。
時系列的に、具体的にね。(もうこれで2回目だからね。)


*あと(2)の7ヶ月の時間的ズレの説明についてもお忘れ無く。史実的にも、伊達・
 最上・上杉間の抗争は、関ヶ原後の1601年4月下旬まで継続していたことを補説
 しておく。この「武辺咄聞書」に明記された(2)の戦闘は、もちろん、1601年4
 月下旬に松川で発生したものと考えてもいいわけだよね? 確認ヨロ(w
317日本@名無史さん:2005/08/10(水) 15:45:01
>>316への追加

慶長6年4月26日の戦闘で、伊達が2000〜25000人程度の大規模な
総力戦のような戦いを、松川で行ったのか、という意味ね。
318日本@名無史さん:2005/08/10(水) 15:46:54
2000〜25000人→20000〜250000な。
319日本@名無史さん:2005/08/10(水) 16:43:04
福島城攻防戦に参陣していた武将から話を聞いただけの他人が後年になり日付を書き加えた物が武辺咄聞書だという話でしょ?

>316以下の人は何故同じ事ばかり繰り返し質問してるの?
320日本@名無史さん:2005/08/10(水) 17:29:47
>>319
とゆーか、福島城攻防戦が2回あったって話、知ってた?
321日本@名無史さん:2005/08/10(水) 19:09:24
>>314
>会津関連の歴史考証をマトモにやる訳ねえだろ。
おまいさんは、どうしても大日本戦史を捏造本にしたいらしいが
史学出来立ての頃の、史料選別などままならない頃のだから
選んだ史料の信憑性などを考慮してないのはしょうがない

つか、大日本戦史を参謀本部の捏造と大嘘書いたと思えば、根拠もなく会津ネタと絡ませての否定か、はぁ

>翻って「武辺咄聞書」の場合、国枝清軒が伝言ゲームの真ん中に入ってしまい、
>多少の歪みを発生させてはいるものの実際その戦場にいた杉原親清から伝え聞いたと言う形を取っている以上
杉原親清から伝え聞いたと言うのは確証は何もないが?
親交があったのかさえ疑問、宮川尚古が親交あったのは裏づけが取れるけどね

国枝清軒が会津陣物語を書いた際に、杉原親清が書いた軍談(というか、小浜藩は関ヶ原始末記を編纂した
酒井忠勝の藩なのだから、関ヶ原関連の史料が豊富なのは言うまでもない)を基にしたというのが妥当な判断


今現在、大日本戦史で採用されてる話をそのまま取るのは確かに間違い
しかし武辺咄聞書をそのまま採用するのも、また間違い

322日本@名無史さん:2005/08/10(水) 19:59:34
>>298

痛すぎるな。結局、>>308氏のコメントにはまともに反駁すらできずに口閉ざしてるし。
323日本@名無史さん:2005/08/10(水) 20:21:56
松川の合戦はネット上どう調べても伊達が撃破された事になってるようだが。
繁長 福島城 伊達で検索してほぼ全てのサイトは伊達の敗退。(上杉側の撃退)
松川の戦いでも同じ。
松川の合戦でも同じ。
ヒットしたほぼ全てのサイト見回っても繁長が撃退したって内容だけ。
>>281
こんな内容は一つとしてお目にかかれなかった。
ここでは一顧だにされないとか言われてる武辺咄聞書の説を皆取り入れてるようだね。

伊達好きの知ったかぶった書き込みも当てにならないもんだ。
324日本@名無史さん:2005/08/10(水) 20:26:30
>>323
ここでの議論は、勝った負けたの「次元」じゃないよ。
お前は三戦板がお似合いだな(w
325日本@名無史さん:2005/08/10(水) 20:35:53
>>324
笑えるなぁ。
>>281
負けたのは上杉軍だよ。脳内では勝利したようだけどね。って書いてるじゃん。
>>281の脳内だけで伊達が勝ってるようにしか見えないぞw
326日本@名無史さん:2005/08/10(水) 20:43:50
>>325
その辺は、どうぞ>>281氏とご議論下さいw

>ここでは一顧だにされないとか言われてる武辺咄聞書の説を皆取り入れてるようだね。

「ほぼ全てのサイト」を回ったとか。たとえば、どの本?

327日本@名無史さん:2005/08/10(水) 20:49:41
つーか資料よりもネットのサイトを重視する奴を俺は始めて見た。
328日本@名無史さん:2005/08/10(水) 20:55:25
ん?ここに福島城の戦いを紹介したサイトを片っ端に載せろってか?
言いたい事がよく分からん。
つーか自分で調べろ。
結構簡単に見つかるぞ。
329日本@名無史さん:2005/08/10(水) 21:00:51
>>328
そんな無茶は言わないから大丈夫。サイトの文章のコピペの抜き書きでもいいよ。

何なら書籍の名前だけでもいいから、1冊あげてごらん。
330日本@名無史さん:2005/08/10(水) 21:12:10
いちいちコピペするの面倒臭え。
いいから言われた通り
「繁長 福島城 伊達」で片っ端から読んでけ。
331日本@名無史さん:2005/08/10(水) 21:24:00
やっぱり、怖いかな? 突っ込み、結構鋭いからね〜(笑)
それじゃ、おやすみ厨房ちゃん(w
332日本@名無史さん:2005/08/10(水) 23:05:28
悪い。島津だけど…
いい加減伊達厨は自分のHPでも作って
そん中で思う存分爆発したら。
333日本@名無史さん:2005/08/11(木) 08:56:55
>>331
キモイっす。
334日本@名無史さん:2005/08/11(木) 09:27:48
論拠がなくなったら、サイトに載ってるから!!とはな
夏厨全開だな

サイトに載ってたら事実だと思い込んでる頭が悪い
だったら今山合戦を含む大友との龍造寺の戦いも、龍造寺の勝ちになるな
335日本@名無史さん:2005/08/11(木) 10:41:11
>>334
伊達側は初めからやけに攻撃的且つ挑発的なカキコが目立つ。損してるからやめれ。

>論拠がなくなったら、サイトに載ってるから!!とはな
上杉側が持ち出してきている武辺咄聞書には321で突っ込みが入ってるとはいえ否定し切れていない。
よって上杉側の論拠がなくなったようにはちょっと見えない。

>サイトに載ってたら事実だ
俺も見てみたけど、川中島合戦のように評価が分かれているなら分かる。が、
松川合戦評が10あったら10のページで伊達軍は散々な目に会ってた。
これらの論評は普通なら無視できないんじゃないかな。

>夏厨全開だな
君も文面から見ればあまり人の事は言えないって。
336日本@名無史さん:2005/08/11(木) 11:48:36
漏れは>>334さんじゃないけど。

まあ「武辺咄聞書」「会津陣物語」等は上杉の武勇をこれでもかと称えた文書なんだけど、
福島城で、結局「本荘繁長は強かった。伊達を撃退した。」と叫んでいるだけだな。
(とにかく具体的な説明がなく、まったく中身がない。ソースも怪しい)
この二書を下敷きにしたと思われる「日本外史」(さらに信憑性薄いが)でさえ、

  >政宗進んで福島を攻む。本荘繁長、城を守り、撃ってこれを卻く。

  だもの。たった1行(苦笑)。いい加減伊達厨もいらついてくるでしょう。
「だから、一体、本陣の陣幕奪って、政宗に槍入れて逃げ帰らせたのは、戦いの
どの局面なわけ? 頼むから上杉厨、早く答えてくれよ」って催促してるのに、
なぜか上杉厨は沈黙。挙げ句は「ネットにそう書いてある」だと(脱力)

極めつけは、口伝を元に校正に校正を重ねて、最終的に成った「武辺咄聞書」が、
「上杉が伊達の本陣の陣幕奪って、政宗を命からがら逃げ帰らせた」のは「慶長6年
4月下旬です」って断定しちゃてる始末。いくらなんでも関ヶ原の翌年って…。
事実としても、政宗、仙台城にかかりっきりで、戦争なんかまともにやる気ない
だろうよ? 常識で考えても。まあ、わかってるのは、本荘繁長はとにかく奮闘して
福島城を死守した。また伊達は伊達の都合だかなんだかでわずか1日でさっさと帰ったと。
上杉からすれば「撃退」、伊達からすれば「撤退」で互いに対立してるだけだ。

伊達厨は伊達中なりに「伊達の立場」で論をはったんだし、こんどは上杉が「福島城
の真相」を語る番だと思うけどね。ネットでなく、自分の意見でさ。

337日本@名無史さん:2005/08/11(木) 13:29:36
>>336
スレを読み直す限り、この論争の発端から上杉厨は武辺咄聞書等を元にして同じ論を張ってるでしょ。
少なくとも>>281程度の局面説明なら。
>福島城で、結局「本荘繁長は強かった。伊達を撃退した。」と叫んでいるだけだな
武辺咄聞書の一節はこんな薄い内容じゃなければ上杉だけの書物でもないw
ここで頓珍漢な事を言い出した挙句、
直後の文章では誰一人話題にしていない日本外史の一行を持ってきて
「政宗進んで福島を攻む。本荘繁長、城を守り、撃ってこれを卻く」=「本荘繁長は強かった。伊達を撃退した。」
まるで武辺咄聞書=日本外史だとでも言いたげな誘導は卑怯だねえ。
一体誰が、何時、こんな一行描写で伊達厨を苛つかせていたか提示して欲しい。
要するに貴方の主張は妄言、言いがかりの類。

「慶長6年 4月下旬」という日付が変。という指摘に対する答えは
上杉厨から(伊達厨からでさえも)散々出尽くしているにも関わらず、今もって
>>政宗、仙台城にかかりっきりで、戦争なんかまともにやる気ないだろうよ?
この考察にしがみ付く意味が分からない。ここまで話が通じないと会話にならんね。

>伊達は伊達の都合だかなんだかでわずか1日でさっさと帰ったと。
福島城を落とす意欲で大軍を発したのに(伊達厨の言い分では)落城寸前で退却。
ないなに?既に家康との約定を守った上で侵略するも家康との約定を気にして退却だって?w
伊達厨なりに捻り出した矛盾だらけ&稚拙極まりない論を上杉厨に幾ら力説した所で
「撃退」した武辺咄聞書等の資料を持っている彼等としてはただただ呆れ返る他ないだろう?
338日本@名無史さん:2005/08/11(木) 16:32:06
>>337
あなた、何か必死だよ。大丈夫? あなたは、「日本戦史」での思いこみを>>308氏に
かなり鋭く指摘されて黙り込んじゃった人だよね。結局、反論すらできず、>>308
の意見に降参したけれども。そんな人だから、冷静な議論もできようもない。
焦って、興奮してヒステリックになって、われを忘れて口汚い罵りに堕落する。
以下の文章は、もはや批評ではなく、ピントのずれた醜い中傷だよ。

   「頓珍漢」「妄想」「言いがかりの類」「誘導」「矛盾だらけ」
   「卑怯だねえ」「ただ呆れかえる他はない」
   「話が通じない」「稚拙極まりない」

それに、その「妄想」とやらの>>288>>294のレスで述べた福島攻防戦は、一応例
に挙げた「資料」をベースに組み立て、特に伊達政宗の発言−「戦況報告」「撤退理由」
を順を追って再構築したものに過ぎない。同時に、これは徳川家康が追認した福島の役
の経緯でもある。よって、政宗の言動に「自家撞着」「矛盾」がおありであれば、それ
こそ上杉方の視点で論じて欲しい。いつでも、歓迎しますよ。ただしご冷静に。

福島の役:参考資料(以下5点):
   「伊達治家記録」「今井宗薫宛対家康への11ヶ条申出」(慶長6年10月)
   「伊達政景宛て政宗文書」「政宗宛最上義子文書」(慶長6年9月)「日本戦史」

339日本@名無史さん:2005/08/11(木) 16:33:37
(つづき)
冷静に物事を論じられないというのは、結局、上杉ファンにとっても決して好まし
ことではない。実際本荘繁長を過大評価するあまり、以下のようについ「うっかり」
書く人が続出してしまうわけだ。(★部分に特に注意)

 >陪臣ではあるが本庄繁長もすごい。
 >関が原の戦いのあと20日ばかりして、信夫郡福島城に2万の兵力で攻め込んで
 >きた伊達軍に対してわずか3,500の兵で迎撃し、これを撃破(松川の戦い)。
★>伊達軍は本陣の幔幕を奪われ、自身も槍を入れられ落命の危機であった。
★ (死傷者2,000以上)
 >また、これより十数年前の、十五里原合戦(対最上)でもわずか3,000の兵で
 >1万を超える最上軍(当事は庄内地方も支配)を撃破、なんと死傷者は3,000
 >以上という大勝であった。
 >これ以降、最上氏は庄内の支配を失った。
 >福島城の前の城代は水原親憲で、水原では心もとないというので本庄に城代を
  交代させたわけだが、その水原親憲でも、
★>大阪冬の陣では2万の大阪方に5000の上杉軍で迎撃し(鴫野の戦い)
★>完全に撃破しているので並みの武将ではない。
 >伊達は、景勝が後詰めにいくまでもなく、しっぽを巻いて逃げ出すくらいだから
 >全然強くないでしょう。

福島の役の「時期の誤認」はここで検証したとおり完全な勘違い。
次の大坂冬の陣の「完全に撃破」という表現に至っては…(以下ry)

340日本@名無史さん:2005/08/11(木) 17:17:52
上杉厨にとって、本荘繁長って武将は、不可侵の領域。ある意味、信仰の対象なんだよ
341日本@名無史さん:2005/08/11(木) 17:36:12
>>338
俎上にさえ上がってない資料まで持ち出されて
意味不明な批難を受ければやっとられん気分になるだろ。
>>336が書いた
「武辺咄聞書」「会津陣物語」の解釈だって叩かれて当然。
ただ言質だけとって醜い中傷呼ばわりする君の方が、ピントがずれまくってる。
342日本@名無史さん:2005/08/11(木) 18:08:23
別スレつくれば?
343日本@名無史さん:2005/08/11(木) 18:15:11
このスレの展開を楽しみにしていたんだが、少しガッカリした。
冷静に話そうぜ?馬鹿みたいな煽りや中傷はしないでさ。
同じ歴史者好き同士、また〜りいきましょうや。
344日本@名無史さん:2005/08/11(木) 19:07:14
誰も「武辺咄聞書」「会津陣物語」の中味を否定する事は出来ない。
年月日が不自然という程度では否定できる部分も限られてくる。

伊達好きが主張している内容は、政宗の判断を匂わす発言、手紙、家康への
申し開きくらいであって、実際行われた松川合戦が、どのような物であったのか
説得力の生じる資料が希薄。その為我々は上杉側の一武将が残した
「武辺咄聞書」「会津陣物語」により具体的な戦闘状況、出来事を知る運びとなる。

つまり視点の高さが違う。一方は福島城下の山河を駆け巡り、戦った武者が
口伝し、残した現場状況。もう一方は、大将としての見通し、戦略を窺わせる物。
これでは初めから話が噛み合う筈も無く、双方ズレが生じ、苛立ちが募ったまま
推移するだけ。堂堂巡り。

伊達好きは「武辺咄聞書」「会津陣物語」を打ち消す事など未来永劫出来ず。
上杉好きに政宗の本音が何処に有ったのか確定し切れる日など絶対訪れ得無い。
345日本@名無史さん:2005/08/11(木) 21:16:26
まあ、確かにマタ〜リ「日本史版」らしく検証した方がいいね。上杉・伊達とも、双方
の主張を声高に叫んでも永久に話はかみ合わない(幕末の某スレでもなし)。ここは
帰納的に、小石を積み重ねるように残された資料から類推してみるのがベターかもね。
(何故かスレタイとはズレちまったが)

実際、この「福島の役」は相当謎が多いため、非常に憶測が入りやすい。中央からすれば、
関ヶ原以後の奥州の動きなど省略の対象でしかないわけだし。ましてや、1600年10月上旬
〜1601年4月下旬に至る「上杉・伊達の小競り合い」ともなると、わからないことだらけだ。
(特に、この時期の伊達の出兵意図など、面白いテーマではある)

小説なども、双方でそれぞれの主張を言い合っている。ほんの一例だが、
 
 ・「独眼流政宗」(津本陽)/立場:「日本戦史」「治家記録」「関ヶ原役(蘇峰)」(?)
 ・「伊達政宗」(山岡壮八)/立場:      〃

 ・「直江兼続」(江宮隆之)/立場:「武辺咄聞書」「会津陣物語」
・「常羽有情」(土居輝雄)/立場:      〃  +「日本外史」

伊達、上杉、佐竹の三者間で180度評価が違うから笑える。互いに「英雄」と「極悪人」
の間を往還するので、まあ贔屓の読者からすれば、それぞれ面白く痛快ではあるが。
346日本@名無史さん:2005/08/12(金) 07:43:11
>>338
例えば>>294
1:>福島城の攻略にも相当日数がかかると判断した。
2:>約定違反を明らかに気にした様子
3:>伊達方の兵の損傷もそれなりに多かったこと。
これらを>>281の経過と比較すると腑に落ちない事ばかり。
これだけ伊達勢が終始圧倒しているのに何故伊達方の兵の損傷が多くなったのか?
その情報、描写がまるっきり欠落している。
城攻めを期して福島城へ大挙来襲し、野戦で上杉方を撃滅し、
反撃させる余力を大きく削って城に追い込んだ。という政宗としては願っても無い展開。
懐に飛び込んだ好機であるのに2,3日城を包囲し降伏勧告もせずに撤退。
ではそれまで伊達方で損傷した(?)多くの兵は犬死ににも等しい。
伊達はわざわざ兵を損傷させる為だけに福島城へやってきたのだろうか?
つまり>>281の「逃げ込んだ福島城へ伊達軍が銃を乱射して、北目城へ帰還した。」
で終わってしまったのでは伊達が何をしに福島城へやって来たのか
現存する資料だけでは意味が通じなくなる。
347日本@名無史さん:2005/08/12(金) 07:48:00
会津陣物語にも松川合戦における上杉方の敗走は書かれていて、(尤も二回あったという事になっているが)
城へ向かって逃げ惑う上杉方は槍を捨て武具を捨て、逃げ遅れて討たれ、
松川から福島城の道は上杉方の死骸と武具で埋め尽くされたと書かれている。
これでは敗走というより壊走だろう。
ただしこれで終わらず、それまで優勢だった伊達は梁川城から須田の急襲を後方に受けて小荷駄隊が壊滅、
さらに須田は福島城攻撃に向かった政宗の不在だった陣屋も襲って伊達家の陣幕を奪ったとされている。
その後伊達の後陣を破った須田と城側の本庄とで城下の伊達を挟撃→伊達側大被害という流れ。
この会津陣物語に書かれた部分を読めば「なるほど伊達側の損傷も多い訳だ」と納得できるし
上杉側の思わぬ反撃に重ねて、景勝来援の報に接した政宗が一日で攻撃を取りやめて退却する。
これらは伊達側の記録だけでは到底埋まらない不可思議な部分。謎とされてきた部分。
いわばジグソーパズルにおける空白だったピースを綺麗に埋めて一枚の絵に仕上げている。
2:>約定違反を明らかに気にした様子
だが、福島城攻撃から日が経っているという事もあり、実際撤退を決意した政宗に浮かんだ思考ではなく
福島城下で手痛い撃退を受けて北目城に引き上げた後「自らの手で多く切り取る」方針の挫折を知った彼が
従来の「家康の心証を良くして領地を貰う」方針に立ち返っただけなのではないか。 と憶測してみる。
348日本@名無史さん:2005/08/12(金) 10:02:32
須田大炊介は小荷駄隊を襲って兵糧、弾薬も奪ったらしいね。
伊達政宗が一日で撤退せざろうえなかった理由になったのかも。
349日本@名無史さん:2005/08/12(金) 12:36:19
しかし「会津陣物語」と「日本戦史」では、相当な食い違いが見られますな。
(1)までの流れは、ほぼ両書とも一致してます。問題は(2)と(3)の部分。
 見事なまでに真逆です。

>(1)それまで優勢だった伊達は梁川城から須田の急襲を後方に受けて小荷駄隊が壊滅
 →小荷駄奉行の宮崎内蔵助のこと? 相当数の人足討たれたらしいのは確か。
  いわゆる「伊達の陣幕」が奪われたのは、このポイント。

 問題は、ここから。この後の経緯は「会津陣物語」では、

(2)さらに須田は福島城攻撃に向かった政宗の不在だった陣屋も襲って伊達家の陣幕を奪ったとされている。
(3)その後伊達の後陣を破った須田と城側の本庄とで城下の伊達を挟撃→伊達側大被害という流れ。

一方「日本戦史」では、こうなる。

(2)(上記に関連した記述全くなし)
  →かわりに、瀬上での敗報に動揺した本荘義勝(繁長の次男)は松川に出るものの、
   片倉景綱、茂庭綱元、屋代景頼と激突して敗北を喫し、福島城へ撤退する。

(3)(上記に関連した記述全くなし。)


結局「日本戦史」では(1)以降の伊達方の損害の記述は一切無く、最後に、政宗の撤退理由
として、「さらに羽黒山に進んだが、福島城がたやすく落とせないことを見とおし、景綱が撤退
をすすえめたのを機会に退却と決めた。」と淡々と記述するのみ。

>>347さんは、この食い違い(「会津物語」伊達側が大被害を出した。「日本戦史」は一切無視)
をどう思う?あるいは「会津陣物語」の(2)(3)の部分は信憑性に疑問をもたれたため、
カットされてしまったのではという疑念も生じますが。
350日本@名無史さん:2005/08/12(金) 13:19:01
「武辺咄聞書」「会津陣物語」も著者は同じ
351日本@名無史さん:2005/08/13(土) 00:10:56
こりゃ「日本戦史」の編纂者の素性を洗う必要がありますな
352日本@名無史さん:2005/08/13(土) 00:48:30
方向が逆の羽黒山に進軍してる時点で日本戦史の信憑性が低くなった気がした。
どうでもいいが大宝寺義勝ってあのあともちゃんと上杉家臣やってたんだな…
353日本@名無史さん:2005/08/13(土) 07:23:05
日本戦史のあらまし
伊達側の茂庭が長倉町を戦わずして捨てた上杉方小田切安芸隊を撃退し、
残兵を鎌田で殲滅。斬獲した首は「頗る多かった」と。
瀬上へ援軍に来ていた岡内、齋藤は伊達の大軍を見、衆寡敵せずとして、これ又戦わずに撤退。
交代で殿を務めて福島城の帰路に着く。これを伊達軍が追撃した描写はない。

しかし「瀬上の敗報」を聞いた福島城内が色を失う程だから岡内と齋藤も大打撃を受けたのだろう。
これを聞いた繁長の息子義勝が数十騎で出陣、途中瀬上から敗退してきた残兵と会って一緒に松川へと向かう。
岡内、齋藤本人らも義勝の援軍には心強くなって、Uターンでもしたのだろうか。
しかし伊達軍の政宗、茂庭、片倉、屋代は松川を既に渡っており、
先を争って進みながら義勝軍を蹴散らす。

松川が羽黒山(現・信夫山)南麓を流れていたとすれば福島城(現・福島県庁)との距離は1.23キロか。
義勝は松川で敗退>城内に入る、と簡単に逃げ込んだように戦史では書かれてはいるものの、
先述のように伊達軍は渡河した後、先を争って進軍し、義勝を蹴散らした訳だから
松川〜福島城1キロ間で行われた追撃戦は凄惨を極めた事だろう。

さて、先を争って進軍して来た筈の片倉は急に悠々と城側の反抗を観察しだしたぞ。
どうやら実は遥か後方の伊賀崎、桑折方面から茂庭、屋代らとは別行動を取っていたようだ。
そろそろ自分も戦に参加しようと駆けつけた時には城外で反抗していた上杉方は屋代によって蹴散らされ
城に逃げ込もうとしている!
これを追った片倉は何と城の外郭を制圧し、その上杉側の死者は隊長格も含め、これまた「頗る多かった」
354日本@名無史さん:2005/08/13(土) 07:24:03
素晴らしい戦果を挙げ続ける優秀な伊達軍は1キロ以上も離れた羽黒山南から福島市内を銃撃だ。
射程距離100m、飛んでも500mと言われる当時の銃で撃たれたら叶わない。
上杉側は皆城内へ逃げ込んでしまった。
しかし、この虚仮おどしが城側は相当悔しかったようで、
この銃撃をした砂金実常が一番手薄な所を攻めてきても激しく抵抗して、見事追い返した。
さあ政宗はと言えば松川を渡った後、やる事が無かったらしく、再び松川を渡り直して羽黒山へ登山。
福島城の外郭を破った片倉を何とか羽黒山まで呼び出して今後の方針を相談。
片倉の考えでは白石城陥落の時と違い、福島城側が降伏するとは考えられなかったようだ。

かたくら「もっと攻めれば城は陥とせるだろうけど、兵が多く死ぬので止めときましょう」
まさむね「後ろに置き去りにしてきた荷駄も奪われたようだし、
梁川に何の抑えもしてこなかったから後方の連絡も閉ざされるかもしれないな。よし、帰ろう!」

その撤退中、夜陰に紛れ福島城内齋藤兵部なる者から内応を知らせる密書が届いた。
まんべんなく名前を登場させてあげたい心優しい政宗は今度は石川昭光に城攻めの再開を相談してあげる。
「今日勝ったのは運が良かっただけ」「城側と梁川の挟撃を受けますぞ」とにべも無い。
結局伊達軍は朝から戦ってほぼ全てに圧勝し、城の外郭も破り、内応者まで出たにも関わらず引き返しましたとさ。

間違ってる点があれば指摘してください。
355日本@名無史さん:2005/08/13(土) 16:25:23
確かに大日本戦史読んだ時、
伊達の武将がまるで白浪五人男、プロパガンダ映画に似た物を感じた。
瀬上では綱元が大暴れ、松川〜福島城外で景頼が席巻し、
いよいよ城内に攻め込む盛り上がり所で、景綱が大活躍。
伊達政宗も松川を渡った後、大将として軽く受け取られるのが嫌だったのか
慌てて、後方の羽黒山に登っちゃってるし。
ま、こっちの方が確かに大将らしいけどね。
實常の威嚇射撃も、明治時代の軍人が好みそうな、机上の空論っぽい。
最後に昭光が
これ以上攻めたら、反撃を受け、今日の戦功がなくなるから駄目。
とか言って政宗を止める台詞が多分あったと思う。
何も得られずに引き上げたあの時点で、戦功も何も有ったもんじゃない(笑)
356日本@名無史さん:2005/08/13(土) 18:54:00
>>344
長文乙。参考にさせて頂きます。ここで、気になるのは伊達が装備していた
鉄砲の数だね。何丁程度で、副島城を銃撃したのか? 伊達政景3000人
の部隊にもたせた鉄砲が1200丁というから、仮に20000人規模の部隊
とすれば、半端じゃない膨大な数だったのは確かだろう。

>>355
どうだろうか…。「日本戦史」の記述には、武勇伝的な要素はあまりないよ。
別に伊達、上杉のいずれかに肩入れすることもなく、状況を淡々と描写している
だけで。それに、「日本戦史」は直江兼続の最上の退き口など、日本の戦役史上
希に見る優れた撤退戦、といった位置づけで、どちらかといえば、上杉中心の
小説などでよく引用されている。伊達を揶揄する材料として「日本戦史」を
ことさら貶める必要もないかと。
とにかく、福島城の扱いは、全体的に伊達有利の展開・記述ではあるし、編者の
力点が「福島城」ではなく、最終的に片倉景綱の調略がうまくいかなかった「梁川
城」の方に力点が置かれている印象だ。
357日本@名無史さん:2005/08/14(日) 11:00:52
>>356
羽黒山南から超遠距離射撃をし、上杉方の将兵を尽く城内に逃げ込ませる事に成功した
その偉大なる砂金実常の鉄砲隊は数十騎だったそうな。(この時城の外郭は片倉によって破られた後。)
500mから1k離れた大きな目標を撃てば味方にも当たっちゃうかもしれない。
こんな魔法的な戦術をやるには数十騎が限界でしょ。
一人も死なないだろうけど、城を囲んでいる膨大な伊達軍から怪我人が出てしまう。

>武勇伝的な要素はあまりないよ。
10月5日から書かれる松川合戦の記載は伊達の第一軍から第六軍に配置された武将の仰々しい列挙から始まる。
華々しい武将の列挙の後、その他大小30隊と謳い上げ、その数二万。
対して上杉側の勢力は「福島城は繁長の兵一千(!)で水原親憲と共に守る。」
「梁川城は須田長義と横田大学が本丸、二の丸は車丹波で総勢六百」だそうな。
幾らなんでも、恣意的と勘繰られても仕方がないくらい兵力が少なすぎ。
伊達を防ぐ為に著名な武将を送り込んだ筈の福島城・梁川城が、兵数合わせて1600人の勢力。
日本戦史がこれから一体何を書きたがっているのか、なんとなく分かりそうなもの。

>状況を淡々と描写している
前田桑折間に置いてけぼりを食った伊達の荷駄隊は梁川城を発した車丹波の率いる100人の兵に奪われる。
ここでは戦の記載はなし。
梁川城を発した後は淡々と「(阿武隈川を渡った車丹波は)輜重を奪い帰る」とのみ表現。
伊達の荷駄隊には100人を追い返すだけの守兵が配備されていなかったようだ。
第一二万の兵を養う輜重ともなれば膨大な量だと思うが、車丹波は百人の兵で大河を渡りこれを輸送したのだろうか。
あっさり帰還してしまうと言う魔法使いぶり。
358日本@名無史さん:2005/08/14(日) 11:23:22
瀬上に援軍に出した岡内、齋藤軍は各々150だそうで合計300!戦わずに逃げ出すのは当然だ。
しかし、折角福島城に帰って来たのに義勝率いる50騎(!)の兵と共に松川へとUターンw
岡内、齋藤軍がまったくの無傷だったとしても義勝らと合わせて兵数400で松川へ布陣。
一方政宗麾下と合流した伊達軍諸隊は川を越えた後「先を争うて進み、義勝の兵と戦い、之を破」ったそうな。
直後に「義勝即ち城に入る」と非常に淡々と書かれてわいるが、よく生きて帰ってこれたもんだ。
上杉側の将士が討ち死にしたという記述も一切なし。みんな無事に城内へ逃げ込んだのだろう。本当によかった。
これが日本戦史の書いた「松川合戦」。上杉軍には敵の半渡を討つ余裕など到底有りませんでした。

逃げ帰ってきた義勝らを収容した福島城は、残った兵を繰り出し屋代隊と城下で戦うも当然撃退される。
さらに城へ入ろうとした所を追ってきた片倉隊に外郭を攻め破られる。「隊長以下戦死する者頗る多し」
抗う兵力が初めから無かった哀れな上杉の虐殺ショーが淡々と描かれていく。
この時点で城内の兵力がどれだけ矮小な物になったのか、と考えるにつけ涙を禁じえない。
そして数十騎を率いた砂金の銃撃に恐れをなし、城内に閉じこもる上杉勢。だけど手薄な所をしっかり守っちゃう。
この淡々とした描写はさすがだ。さすが日本戦史。非常に説得力がある。

>最終的に片倉景綱の調略がうまくいかなかった「梁川城」の方に力点が置かれている印象だ。
調略は成功している。片倉は梁川城内で内応する横田大学の書を政宗に見せるも、桑折口を進むとの方針を変えず却下。
その政宗本人が福島城を撤退する理由として俄かに梁川城を警戒しだす描写は非常に不思議。
10月5日〜6日の瀬上〜福島城の戦いは5ページに渡って記載されている中、
梁川工作を示す文章は横田大学と家康の関係を紹介する2,3行と上の政宗と片倉のやりとり部分(2行)
しか割かれていないよ。大して力点なんか置かれてない。
359日本@名無史さん:2005/08/14(日) 18:30:49
>>358
>調略は成功している

いや、失敗した。念のため調べ直した方がいいよ。ここで「力点を置いた」と
するのは、そもそも10/6の攻撃は、参謀片倉景綱のプランでは当初から
梁川城にあったため。その景綱主導の下に横田大学との調略工作を進めていたが、
最終的に、横田の梁川城内の兵との意見が不一致となり、調略は失敗した。
これが10/7伊達が撤退する一要因になったことは確実だ。

また、政宗は終始羽黒山に布陣しており、みずから福島城下へ直接本陣を移動して、
接近した上で戦うような危険も冒していない。その必要もなかったといえる。

以上が「日本戦史」の記述。
360日本@名無史さん:2005/08/14(日) 21:48:15
>調略は失敗した。
じゃあこれはどう読むの?10月5日の記述
<大学ハ初メ家康ト約スル所アリ 家康鞍馬銃器旅費等ヲ給シ
会津ニ下リ仕ヘシム 是ニ至リテ其約束ヲ履ミ 
欵ヲ景綱ニ送リ内応ヲ為ス 而シテ城中未タ之ヲ知ラス>
【大学は家康と繋がっていた 家康は道具、金を与え
上杉に仕えるよう命じ会津に送り込んだ 今このような状況(伊達が上杉を攻めに来た)になったので
内応を知らせる密書を景綱に送った。 この事を城中で気付いている者はいない。】

10月6日早々の記載。上の文からたったの五行後
<景綱ハ大学ノ書ヲ政宗ニ送呈シ 今日梁川ニ向フヘシト勧ム
政宗既ニ桑折口ニ進軍シタルヲ以ッテ 聴カス>
【景綱は大学の内応承知の密書を政宗に見せながら 今日は梁川を攻めようと勧めた。
政宗は 既に軍が桑折方面へ向かってしまっていたので この意見を退けた。】
(伊達崎→桑折方面を進んだのは景綱 という記述が後述される事から
政宗の言い訳は意味不明)

>政宗は終始羽黒山に布陣しており
じゃあこれは何なの?10月6日松川を伊達軍が渡る描写
<綱元景綱景頼ノ兵 皆松川ヲ渡リ(随分簡単に渡っちゃうもんだ…)
政宗ノ麾下モ又 至リ
共ニ先ヲ争フテ進ミ 義勝ノ兵ト戦ヒ 之ヲ破ル(15000超 VS 350人の戦いw)>
これって【渡河した綱元景綱景頼の兵と本隊とが、共に先を争って進んだ】って意味でしょ。

はっきり言ってこの「松川合戦」は非現実的な事をサラリと書きすぎていて
下手な軍記物より笑える部分、微笑ましい部分がかなり多い。
ここの一部の方達から、好評を得ている淡々とした語り口だが、
単に詳しく書いちゃうと破綻するから、こういった書き方しか出来ない、というのが真相だろう。
突っ込み所が山のように有って、実に愉快な書物でした。
361日本@名無史さん:2005/08/15(月) 06:46:59
>>360
●「梁川城」調略工作は失敗した
(上段の2行の部分)これは、10月6日早朝までの情勢。家康の息のかかった横田大学
と片倉景綱との間で内応工作が着々と進んでいたことが、逆に明白に分かる部分だ。

>政宗の言い訳は意味不明
 なぜこれが「政宗の言い訳」になるのか、意味不明。横田の内応工作が届き、景綱の
進言が発せられたのは「既に軍が桑折方面へ進軍している途中」とすれば適切な状況
判断といえる。内応が見られる梁川城は内部崩壊する可能性もあるだろうし、返す刀
で翌10月7日に行えばよい。

さて、翌10月7日にいたって、結局、横田の内応は工作は城内で上手くいかず挫折
した。これにより10月7日に予定していた梁川城攻撃は中止となり、伊達軍は北目城
へ帰陣した。つまり、景綱が進めてきた「調略は失敗した」わけだ。そういう意味。

●「福島城」の真下まで伊達本隊は接近するような危険行為は犯していない。
 そこでとりたてて白兵戦など戦っていない。

>綱元景綱景頼ノ兵 皆松川ヲ渡リ政宗ノ麾下モ又 至リ共ニ先ヲ争フテ進ミ
  義勝ノ兵ト戦ヒ 之ヲ破ル
 それは、本荘義勝の軍勢を蹴散らし、松川を渡河した時の記述。で、その後羽黒山から
数千丁の鉄砲での大銃撃戦。上杉方は城に立て籠もって必死に耐えている。結果的に
伊達が1日で撤退してくれたおかげで、壊滅を逃れたわけだ。政宗本人が、何もわざわざ
馬で福島城の真下までのこのこ出掛けていく戦況でもなかったことが、ここで如実に証明
されている。
362日本@名無史さん:2005/08/15(月) 06:48:18
>単に詳しく書いちゃうと破綻するから
「日本戦史」における 「淡々」というのは「主観」を入れて記述していないという
こと。この福島城攻防の経緯は恐ろしいほど「詳細」に描かれており、当時の戦況が
見えてくるだろう。おそらくここまで読んできた人は、「おや?」と思っただろう。
新鮮な発見だったかもしれない。
なにしろネットなどで流されている「福島城では、本荘繁長が圧倒的に強かった
はず」という言説に反し、「日本戦史」には関連記述がほとんどないことに、だ。
それは以下の理由による。「松川の合戦」は実は2回あったのだ。 

1回目:慶長5年10月6日「松川の合戦」
2回目:慶長6年4月26日「松川の合戦」

*慶長6年4月までの伊達政宗と上杉方の武将が盛んに小競り合いを繰り返した。
慶長6年1月(二本松)、2月(川俣)3月(伊達・信夫)
慶長6年4月26日「松川の合戦」

 慶長5年のものは資料が示すように伊達の圧勝。上杉はせいぜい小荷駄隊から陣幕を奪って「勝利宣言」するしかなかった状態である。
 慶長6年のものは(4月26日という期日に特に注目してもらいたい。4月14日は
政宗の仙台入府の日)、なぜか伝によれば、上杉の大活躍する様が描かれており、
岡野左内が直接政宗と大立ち回りを展開。政宗は左内の陣羽織を2回斬りつけるは、
左内も政宗の兜を撃つはの組み討ちがあったとされている。ここで本陣の陣幕も奪わ
れたと。(眉唾以前の「伝説」ではあるが。)

つまり、この福島城の戦いではこの「慶長6年にあったとされる2回目の松川の戦い」
が誤ってリンクされ、本荘繁長伝説が補強され、そう信じ込んでいる人間もまた多い
ということを、指摘しておきたい。

363日本@名無史さん:2005/08/15(月) 19:38:00

要するに日本戦史が伝えたかった事って
×「梁川城」調略工作は失敗した
○「梁川城」調略工作は政宗の優柔不断で頓挫した
でしょ。
貴方も信奉してる日本戦史を読み返さなくちゃ。
10月6日の記述中「景綱は伊達崎を経て桑折に至る」って書いてある。
つまり早朝景綱が軍を発した位置は伊達崎より以北だったんだよ。
それなのに一日の方針「今日は梁川城を攻めるべし」を政宗に勧めた場所が
桑折にも達っしようとする場所だったらまるでコントだよw
景綱と政宗が相談してる最中、主を置いて兵達だけ勝手に桑折に進む筈がない。
よって桑折口に進軍していたのは、
後の文章で景綱隊より先行していた事が判明する茂庭、屋代隊だと普通分かるでしょ。
例え伊達崎まで南下した場所において景綱が献策したとしても、
桑折口なら充分彼らの馬首を巡らせられる位置である事は言うまでもない。
「ちょっと先に進んでしまった部隊があるから、内応者が出た城があっても無視するしかない」
こんな思考、冷静に考えて有り得ると思う?

>内応が見られる梁川城は内部崩壊する可能性もあるだろうし
そこまで梁川を舐めている政宗が何故福島城からの撤退理由に梁川を挙げるの?
福島城の落城を目前にして
急に「梁川に後方を絶たれるかもしれない」等と不安になり撤退してしまう政宗w なんだそりゃ。
梁川城が横目に見える位置を進んでいる時には「先の部隊が進んでしまったから」と素通り。
さらに貴方の言い分では「内部崩壊するかも」等と馬鹿みたいな楽観主義。
ここまで酷い描写だと逆に政宗が哀れに思えてくる。参謀本部乙といった所か。

その日、二万の伊達諸隊は奮戦し、たった1000人前後しかいない上杉勢を葬り続けるも徒労。撤退。
この脚本を書いた参謀本部は、総大将が愚物だと、例え内応に成功しようが、
諸将がいかに努力しようが、全て水泡に帰す悪例だ、とでも位置付けたようにも見える。
364日本@名無史さん:2005/08/15(月) 19:38:55
>「福島城」の真下まで伊達本隊は接近するような危険行為は犯していない。
松川を渡ったのだから福島城は目と鼻の先。
鉄砲が届く位置だと勘違いしてしまう者が伊達軍の中から出てきてしまうくらい近い。
その間を本隊と茂庭屋代片倉隊が競争したって書いてあるんだからさ、
「本隊は城下に接近していない。」なんてとても言い切れないよね。

>本荘義勝の軍勢を蹴散らし、松川を渡河した時の記述。
義勝が布陣した位置が小坂後方だって「日本戦史」は言ってるしw
松川を渡河して、先を争って進み、義勝を蹴散らした時の記述。
勢いから政宗本隊も義勝追撃に参加したと見るのが自然でしょ。もうそこは福島城。

>その後羽黒山から数千丁の鉄砲での大銃撃戦。
こらこら。「日本戦史」ですらそんな記述は何処にもない。 届 か な い し。
届いたとしても伊達軍の頭上にもバラバラ落ちてくるだけ。
当時の日本で砂金実常だけが所有していた新式銃、数十丁でもって福島城内だけを狙い撃ちしたと。
さらに砂金はゴルゴ13真っ青の射撃技術を持った人材にまで恵まれていたと。
それらの技術がその後伝わらなかったのが非常に残念ですね。
365日本@名無史さん:2005/08/15(月) 19:39:31
>「日本戦史」における 「淡々」というのは「主観」を入れて記述していない
下手な情報操作をしてる時点で充分肩入れしてるんだよ。
福島城1000人?梁川城600人?馬鹿馬鹿しいにも程がある。
梁川〜瀬上への援軍が300人?荷駄隊を襲った梁川勢は100人?…アホか。
日本戦史は自ら墓穴を掘ったんだよ。

>この福島城攻防の経緯は恐ろしいほど「詳細」に描かれており
それじゃ松川で上流中流下流から渡河した伊達軍一万五千と戦った義勝軍350人が
いかに城まで帰って来たのか詳細に説明して欲しいもんだよ。
650人に減った福島城側がその直後、城外に兵を一体何人繰り出して万単位の伊達軍と戦ったのか。
何故繰り出したのか?その戦闘の模様は?その寡兵を率いてた武将は誰?生きて帰ってこれたのか?
普通全滅だわな。その後片倉隊の追撃を城内にまで受けてる訳だし。
はっきり言ってこんな自殺行為は有り得ない。「撃退セラレ」で済ますな日本戦史w

桑折で梁川勢100人に奪われる荷駄隊の様子も詳細に知りたいね。
政宗は後陣も配せず福島へ猪のように向ったようだけど、それだって普通救援に向う部隊が居るだろうと。
100人に負けたの?車丹波は阿武隈川をどうやって邪魔もされずに膨大な荷駄を運べたの?

あと砂金実常の鉄砲は元込め式だったのかな?
日本戦史があまりにも淡々と書くものだから、知りたい事が沢山ありすぎて困ってしまうw

>「日本戦史」には関連記述がほとんどないことに
伊達側の記録主体で書いてる筈なのに
繁長が城内で槍を揃えさせ、搦め手から突撃させる寸前の描写があるんだよね。何故だろう?
まるで通説にある繁長反撃の一歩手前の部分がさ。もっとも通説では繁長隊は二千人。
対してこれまで日本戦史の挙げた数字、描写を考えると
この時点で戦闘行為可能な兵は多く見積もっても400人前後しか城内には残っていない。
伊達が退却していなければ繁長による城内カラッポ攻撃は行われていたようだが…
本当にね。馬鹿馬鹿しい。有り得ないの連続。日本戦史バンザーイ!!
366日本@名無史さん:2005/08/15(月) 21:56:04
「大日本戦史」を信じてる人は松川の合戦で焼かれたとされる信夫山の社寺をどう説明するんだろう。
信夫山といえば政宗の本陣。
「大日本戦史」に書かれた戦闘経過を読む限りでは
上杉の兵はとても信夫山に近づける状態ではなかったようだが。
367日本@名無史さん:2005/08/15(月) 21:58:38
まあチョチョイのチョイでしょう
368日本@名無史さん:2005/08/15(月) 22:12:54
大日本戦史の基の資料で論じ合えば?そうじゃなきゃ話にならんと思うが
「武辺咄聞書」は史料的価値低いし、「会津陣物語」も同様だし

大日本戦史は、あくまで史料の解釈による概要だから

別の史料はないの?


ところで参謀部の捏造と書いた>>298が、いまだに何食わぬ顔してレスしてるが
捏造の件はどう説明すんの?
369日本@名無史さん:2005/08/16(火) 02:54:50
>>368
何言ってる。 「武辺咄聞書」も「会津陣物語」も「伊達治家記録」よりは余程史料価値が高いぞ。
とにかく政宗は松川で危なく命拾いするほどの大敗を喫してるんだ。
これは、郡山の対陣で佐竹の捕虜になったのを見逃してもらったこと、領地に戻る時に相馬に謀殺されそう
になったのを土下座して帰国させてもらったのに続く失態だな。
370日本@名無史さん:2005/08/16(火) 05:17:09
まあ、政宗じゃないだろうけど
他の武将(小十郎or勘解由)だった可能性はあるよね。
武辺咄聞書や会津陣物語は創作された部分とそうでなさそうな部分を
嗅ぎ分けながら読むと面白い。
伊達治家記録内の福島城攻防戦は誰が書いたのだろう?
これって結構重要な事だと思う。
371日本@名無史さん:2005/08/16(火) 05:53:47
>>369
>何言ってる。 「武辺咄聞書」も「会津陣物語」も「伊達治家記録」よりは余程史料価値が高いぞ。

  「聞き書」「物語」VS「記録」。さてどちらが創作色が濃いか…(以下ry

>とにかく政宗は松川で危なく命拾いするほどの大敗を喫してるんだ。

ところが、いくら調べてもその記述は見あたらない。上杉びいきの小説
 ですら「本荘が撃退」程度。そして、ここが重要なポイントだが、
 「武辺咄聞書」で景気よく描かれているのは何故か慶長6年の4月下旬。

>これは、郡山の対陣で佐竹の捕虜になったのを見逃してもらったこと、

 話を勝手に捏造しないでくださいな 

 >領地に戻る時に相馬に謀殺されそうになったのを土下座して帰国させてもらった

 与太話をここで持ち出されても。


372日本@名無史さん:2005/08/16(火) 09:14:56
「日本戦史」は他の資料や言い伝えを意識的に否定しにかかっている気がする。
本庄側に虚を突かれた伊達政宗が信夫山へ後退した、と俗に言われているが
「日本戦史」では、政宗はいつのまにか羽黒山に移っての小十郎景綱との軍議&
本庄突出直前に伊達撤退と、完全に差し替えている印象。

あったとされる須田と本庄の挟撃も、
「日本戦史」内では、わざとらしく登場した石川昭光が予見し諫言する都合の良さ。
(それまで「日本戦史」が経緯説明した梁川城と福島城の矮小な兵数では
挟撃すら出来ないと思うが)

>>366でも書いてある、追い詰められた政宗本陣への上杉勢による焼き討ち。
上杉から三方より信夫山を攻め立てられた政宗は、
寺寂光院に守られ、裏山よりほうほうの体で北目城へ帰ったとされている
その時、信夫山にある建物は民家も含め焼失した、と地元でも言い伝えらる。
これも「日本戦史」では
10/7に上杉兵が三方より来るが伊達は遠く兵を引いていた
等と記述。
このように「日本戦史」では
伊達が負けたとされる情報を何とか打ち消そうと躍起になっている様が
所々見受けられる。が、
その打ち消し方があまり上手じゃないから
殆どの人から相手にされていない、というのが実情。
373日本@名無史さん:2005/08/16(火) 09:31:07
>>372
訂正
寺寂光院に守られ>別当寺寂光院で守られ
374日本@名無史さん:2005/08/16(火) 13:46:57
でさぁ、大日本戦史で採用されてる史料で話をしないのはあれか?わざとか?
大日本戦史を否定しても、「武辺咄聞書」「会津陣物語」の肯定にはならんしさ

陸軍参謀部戦史研究科の捏造説まででっち上げてる時点で、かなり説得力ないけどな

ちなみに
「武辺咄聞書」「会津陣物語」「伊達治家記録」の史料的価値、信憑性から言えば
全然「伊達治家記録」の方が上、んなもん普通に論文等で使用されてるか否かで判断できるぞ
というか、「武辺咄聞書」「会津陣物語」の上杉の話は滅茶苦茶なもの多いじゃん
家康の会津征伐の迎撃構想とか、辻褄の合わないものばかりだし

それでも「伊達治家記録」は、あくまで伊達側の記録だから、割り引いて読む必要はあるのだけどね
375日本@名無史さん:2005/08/16(火) 15:16:00
>>374
上杉側が松川合戦をネットで検索してみろと言えば
伊達側は論文での資料的価値はこっちが上と言い返す始末。

んなもん伊達治家記録内での松川合戦のくだりは一体誰が書き残した物なのか、
もったいぶらず書けばいいだけだ。
武辺咄聞書と会津陣物語は筆者と編纂した奴の素性は明らかになんだし。
これを読む大抵の奴は江戸時代に手を加えられた物だと知って読んでるよ。
書いてある全てが100%正しくない=全部嘘だ、なんて普通思わんて。
そうやって情報を差っぴきながら読まれても尚、
武辺と会津陣に書かれた説の方が世の中に容れられてるって事。
376日本@名無史さん:2005/08/16(火) 15:31:53
福島城の戦いは、政宗が1日で撤退したから歴史の謎とされているだけで、大日本戦史が
記述するように、別に上杉に大敗したわけでもないことは歴然としている。
逆に上杉の自慢話に都合良く尾ひれがついて伝わったものが「武辺咄聞書」「会津陣物語」。

大日本戦史の記述を捏造と全否定するのは、さすがに無理があるね。
377日本@名無史さん:2005/08/16(火) 19:58:54
こうして見ると大日本戦史も充分変だ。
戦闘の記載といい、政宗の判断といい、確かに無茶が多すぎる。
負けずに引き帰して行ったのなら途中で梁川城を攻めればよかったのに。
戦の概観も眉唾物なら一日で撤退する動機もおかしい。

信じられる部分があんまりないね。
378日本@名無史さん:2005/08/16(火) 22:37:20
>>375
>伊達治家記録内での松川合戦のくだりは一体誰が書き残した物なのか
>もったいぶらず書けばいいだけだ
え?これは藩史で、編纂に関わった人間は多数いるから、誰がというのはわからないが
綱村の時に編纂されたのは事実だが
で、内容をいえば「伊達治家記録」の書かれてる内容は、伊達家文書などで確認取れるのが多数あり
信憑性が高く認知されてる

「武辺咄聞書」「会津陣物語」も延宝八年に国枝清軒が校訂したという事になってるが
どこまで校訂してるのかは知れず

>武辺と会津陣に書かれた説の方が世の中に容れられてるって事。
残念、君の世の中はどうか知らないが、多くの論文・研究本で「伊達治家記録」を論拠として
使用し、「武辺咄聞書」「会津陣物語」は使用されてないのが現状
もっとも、大日本戦史捏造をでっち上げした時点で説得力皆無だけどね

では、「武辺咄聞書」「会津陣物語」を論拠に取り上げてる研究本とか紹介して
信憑性高いのを証明すれば良いんじゃないの?
「武辺咄聞書」「会津陣物語」を題材にした本ではないよ、論拠だからね

俺としては伊達日記に、この件の事、またはこの時期の事がどう書かれてるか気になるところだけど
>>371の人が読んでたら聞きたいね
わからなければ、自分で図書館行って見てみようかと思うけど
379日本@名無史さん:2005/08/16(火) 22:42:23
盛り上がってるねえ
どっちにも地縁・血縁のない俺のような野次馬には面白い
毎日ROMしてる人結構いるんじゃないかな
380日本@名無史さん:2005/08/16(火) 23:22:27
耳川合戦・・・島津軍3万 対 大友軍4万5千

こんな大規模な野戦をガチでやって結果が大友軍の戦死者2万にも達するという
一方的な大勝利を収めている。
稀な大勝利、武田信玄 対 上杉謙信 の川中島合戦に比べるとその大勝利ぶりが
際立っている

木崎原合戦・・・島津軍300 対 伊東軍3000

この圧倒的な戦力差を凌ぎ奇跡的な大勝利を得ている

泗川合戦・・・島津軍5千 対 明・朝鮮連合軍 20万

圧倒的な戦力差を逆に利用し相手を上手に誘い込み、再起不能になるまでに
叩き、戦果として3万8千人の首を上げ、島津軍の犠牲は2人という大勝利を挙げる

関ヶ原合戦・・・8万の大軍に囲まれた中に取り残された300の兵で中央突破に成功し
        大坂城に残された妻を取り戻し、薩摩へ無事帰還する

沖田畷合戦・・・島津軍3000 対 竜造寺軍 5万7千
        
        竜造寺隆信を巧く誘い込み、見事に討ち取り5万の大軍を総崩れにさせる

戸次川合戦・・・九州に上陸してきた豊臣軍第1軍を壊滅させる
        長宗我部信親など討ち取る
        沖田畷でも大名・竜造寺隆信を討ち取るが指揮官を討ち取るというのは
        野戦では珍しく、それを何度もやり遂げている島津家久は戦国一の戦上手であろう
381日本@名無史さん:2005/08/16(火) 23:26:12
「武辺咄聞書」「会津陣物語」は信憑性低い
「伊達治家記録」は伊達側の記録だから、差し引いて考えるべき
「大日本戦史」は史料ぜはなく資料、引用元で議論すべき

だから、松川合戦を伝える他の史料は?となるのだけどね
伊達日記や伊達家文書など、伊達関係は活字化されてる史料多いから、その辺の状況はどうなの?
上杉関連の史料見ようにも、戦国史料叢書の上杉史料集で他に載ってるのは
「北越耆談」や「上杉将士書上」だし、碌なもんじゃない
上杉系で良質の史料求む、本当に少ない
382日本@名無史さん:2005/08/17(水) 03:56:54
>>381
素朴な疑問だが、「大日本戦史」というのは「日本戦史」(参謀本部編)とは別物なの?
383日本@名無史さん:2005/08/17(水) 06:24:57
「伊達治家記録」の資料的価値は相当高い。否定しきるには
それ相応の根拠を示す必要があると思う。

一方、伊達家にとって「武辺咄聞書」「会津陣物語」に相当する
ものは、「東奥老士夜話」(仙台文書)辺りだ。
これは、伊達藩の古老からの「聞き書き」をまとめたものだが、奥山大炊
(1615〜1689)が語り部となって登場する。

ここには元和期の伊達謀反という世情を反映されていたとみえ、対幕府へ
の伊達藩の対応策が「御内試」として論じられている。広瀬川、名取川の堰
を切り、幕府軍を迎撃、松島の瑞願寺を城郭として迎撃。誇り高き政宗はそ
こで腹を切ることまでが想定されていた、と。

>>381氏がいうように、松川の合戦は上杉方の「良質の史料」から論じる必要が
あるだろう。いくら力説しても「夜話」「古老咄」の域を出ないために。
384日本@名無史さん:2005/08/17(水) 06:26:16
>>378
つまり伊達治家記録において松川合戦を記述した人物は不明ということか。
その記録した人物が松川の戦場に居たとも限らず、実は本国に居た可能性まである訳だ。
福島から戻ってきた敗残兵の作り話を鵜呑みにし、藩史としたのかもしれないと。

つーか、本当に日本戦史に書かれてるような事が伊達治家記録に書かれているのかと。
堕とせる要素が揃っていた梁川城にも関わらず、不可解な理由で素通りした、たった数時間後、
その梁川城に後方を寸断されると恐れだす哀れな政宗が描かれてるんだろうか?

持矢倉の10倍近い距離を、敵味方関係無く射撃したとされる砂金実常の勇姿も描かれてる?

守兵も後陣も置かず、人足と共に置き捨てられた桑折の荷駄車はどう表現されてるんだろう?
万一これらが伊達治家記録に書かれてないとすれば、一体日本戦史は(本庄繁長が槍を短く切り揃えさせながら檄を飛ばす場面も含め)
一体どの資料に拠った物なのか、皆目見当がつかなくなるね。

>多くの論文・研究本で「伊達治家記録」を論拠として使用し
その松川合戦研究本とやらの名前を何故書かないの?
これだけ「政宗は撃退された」「逃げ帰った」とされる見方が定着してるんだからさ。
それらを翻す研究本があるのなら初めから挙げて欲しいもんだ。
385日本@名無史さん:2005/08/17(水) 06:50:43
>>383
信長公記だって全体的に信憑性は高いといわれているよ。
しかし本能寺の記述は低いとされている。筆者がその場に居ないとされてるからね。
根拠も無しに資料の全部を信じ込むというのは大きな誤り。
伊達治家記録だって膨大な量なんだから。
その伊達治家記録内で出来事を書いた各文章毎に、検証や考証、根拠が求められるのは当然の話。
「その部分だけ嘘」という可能性は幾らでもある。
それを受けて伊達日記と照らし合わせたい人が出てくる訳でしょ。
上杉側の資料も本庄氏文書や愛宕公園一帯に残された伝聞の元資料(各神社が保有してると思うが)
これらに一般人も接する事が出来れば良いのだが。
386日本@名無史さん:2005/08/17(水) 09:35:11
>>384
>これだけ「政宗は撃退された」「逃げ帰った」とされる見方が定着

 寡聞にして、上杉を主人公にした小説本の中でしか聞いたことがないけど。
「武辺咄聞書」「会津陣物語」側に立った研究者って誰かいるの?
387日本@名無史さん:2005/08/17(水) 11:12:34
>>384
会津陣物語同様、書いた人物が戦場に居ない
どういう経緯で書かれてるかは謎だが、残されてる書状等で確認できる箇所多数なので信憑性が高く
研究本等の論文で論拠として使用されてるのが現状

>堕とせる要素が揃っていた梁川城にも関わらず、不可解な理由で素通りした、たった数時間後、
>その梁川城に後方を寸断されると恐れだす哀れな政宗が描かれてるんだろうか?
どんな史料でもそうだが、合戦の内容などは信憑性薄い
そして、落とせる要素がそろっていたというのは、あくまで君の文面での判断でしかなく、
通常、こういう場合は、伊達は、どういう理由で無視したのかという理由を考える

>その松川合戦研究本とやらの名前を何故書かないの?
松川合戦の研究本なぞ、自分の知る限りありません
極局地的な、大勢に影響のない事象のみを扱う研究本は稀です
地元の郷土研究家が自費出版してるかも知れないが
でも伊達や奥羽等の研究には、確実に使用されます>「伊達治家記録」

翻って、「武辺咄聞書」「会津陣物語」は使用されてない
使用されているなら、それを紹介して欲しいと書いたが、そこは無視と
大日本戦史捏造や「武辺咄聞書」「会津陣物語」の説が一般に受け入れられてる等、
とんでもないですね
ちなみに伊達日記と照らし合わせてと書いたのは自分
1史料のみで語ってもしょうがないからね
「武辺咄聞書」「会津陣物語」は話にならないけど、上杉側のこの辺りの良質な史料は聞かないよなぁ
宇佐美定祐が悪いのだけど

>>382
大日本戦史が正式名称、日本戦史とは簡略化された再販本でしょ
日本戦史は読んだことないから知らないけどね
388日本@名無史さん:2005/08/17(水) 13:18:30
>>387
> 大日本戦史が正式名称、日本戦史とは簡略化された再販本でしょ

ぐぐると、「大日本戦史」っていうのは高柳光寿氏が編集して三教書院から昭和12年〜17か18年頃まで
刊行されたシリーズの模様。一方、「日本戦史」は参謀本部が編纂して明治末年に刊行されたシリーズ
なので、前者を要約したのが後者というのは物理的にありえないんだが。

> 日本戦史は読んだことないから知らないけどね

ちなみに、「日本戦史」の方は昭和40年代に徳間書店、50年代に村田書店から復刻され、一部が徳間文
庫で地図を割愛した形で復刻されています。故にこちらの方が現在は圧倒的に読まれていると思われ。
また、今年発刊された「日本の合戦」の創刊号〜6号くらいまでに特別付録として地図が1枚ずつついて
います。
389日本@名無史さん:2005/08/17(水) 13:48:37
>>388
ぐぐって高柳氏監修の本もちだされても、あっそとしか答えられないんだけど
都道府県レベルの自治体の図書館に行って、実際に見てきてら?
陸軍参謀部編纂の大日本戦史が置いてあるから

復刻版は読んだことないね
だから、どう校訂されてるかは知らない
復刻版読んだのなら、基の資料紹介や、中で使われてる書状等の活字化は勿論されてるよね?
大日本戦史では、そうなってるから

というか、こんなレス返ってくるとは思わなかった
釣りかな?
390日本@名無史さん:2005/08/17(水) 13:51:39
>>385
つまりこうゆう事か。
○その戦に参加していた者○
福島城攻防戦→杉原親清(会津陣物語の原作者)
本能寺の変→本城惣右衛門(光秀軍の一人として記録を残した)
■戦に参加していたか疑わしい者&していない者■
福島城攻防戦→伊達治家記録の筆者&国枝清軒(会津陣物語の校正)
本能寺の変→太田牛一(信長公記の筆者)
やはり戦全体の流れを掴む為、「会津陣物語」を、ある程度参考にするのは、あながち間違った行為でもないな。
391日本@名無史さん:2005/08/17(水) 14:19:33
>>390
杉原親清が書いたと言われてるのであって、事実は不明
杉原親清が参加していたかすら確認が取れません
親清が伝承を収集編纂したとも言われてる

甲陽軍鑑だって、春日虎綱著が原作、甥と名乗る春日惣次郎がそれを書き継いで、
編纂は小幡景憲となってるが、実際のトコは不明と似たようなもの
宇佐美定祐と同レベル>春日惣次郎

>伊達治家記録の筆者&国枝清軒(会津陣物語の校正)
筆者という意味がわからないが、少なくとも「伊達治家記録」は現存してる書状等の一級資料から
裏付けが取れる内容だし、編纂時には伊達家の記録から編纂してるのは間違いない

逆に「会津陣物語」の裏付けが取れる記述はあるの?誤差などの間違いが甚だしいのだけれど
それと校正だと誤字や脱字だけを国枝清軒が直した事になるが、いいのかいな?

ちなみに「本城惣右衛門覚書」は信憑性は?だぞ
伏見城の件といい、他の史料と余りにかけ離れてる内容だから
内容確認して発言しないと恥晒すよ
現状では史料の所在が不明になってて、武功夜話よりタチが悪い
392日本@名無史さん:2005/08/17(水) 14:37:47
>>389
釣るほど暇じゃないんですが。
393日本@名無史さん:2005/08/17(水) 14:46:50
>>392
あら、マジレスでgoogleで調べたらって言い返してきたのか…orz
ごめん、もう勘弁してください
394日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:02:06
>>393
国立国会図書館の蔵書索引なわけだが。

検索条件: タイトル=大日本戦史
結果件数: 和図書 6件
タイトル順著者・編者順出版年順 正順逆順 / 20件50件100件200件
--------------------------------------------------------------------------------
和図書 1−6(6件)
1. 大日本戦史. 第1至6巻 / 井上一次,辻善之助[他]. -- 三教書院, 昭12至15
2. 大日本戦史. 第1-8巻 / 高柳光寿[他]. -- 三教書院, 昭和17-19
3. 大日本戦史. 第1-2巻 / 高柳光寿. -- 三教書院, 1942
4. 大日本戦史. 第4巻 / 高柳光寿. -- 三教書院, 1942
5. 大日本戦史. 第6巻 / 高柳光寿. -- 三教書院, 1942
6. 大日本戦史大観 / 日本歴史研究会. -- 日本歴史研究会, 昭11

検索条件: 著者・編者=参謀本部 and タイトル=日本戦史
結果件数: 和図書 4件
タイトル順著者・編者順出版年順 正順逆順 / 20件50件100件200件
--------------------------------------------------------------------------------
和図書 1−4(4件)
1. 日本戦史. 〔第1,2〕 / 参謀本部[他]. -- 元真社, 1911
2. 日本戦史. 小田原役 / 参謀本部. -- 元真社, 大正3
3. 日本戦史. 朝鮮役 / 参謀本部. -- 偕行社, 大正13
4. 日本戦史 / 参謀本部. -- 元真社, 明26-44
395日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:04:52
はぁ…自分で足運んで確認してね
もうそれしか言いようがないから
396日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:13:54
>>395
首都圏某県の県立図書館の蔵書索引なわけだが。

検索条件: 【書名='*大日本戦史*'】
--------------------------------------------------------------------------------
■書名をクリックすると詳細情報を見ることが出来ます。No 資料区分 書名 著者 出版者 出版年 分類 資料種別
1件目 図書 大日本戦史 第1巻 高柳光寿/著 三教書院 1937 391  
2件目 図書 大日本戦史 第2巻 高柳光寿/著 三教書院 1938 391  
3件目 図書 大日本戦史 第3巻 高柳光寿/著 三教書院 1939 391  
4件目 図書 大日本戦史 第4巻 高柳光寿/著 三教書院 1938 391  
5件目 図書 大日本戦史 第5巻 高柳光寿/著 三教書院 1938.11 391

検索条件: 【書名='*日本戦史*'】 AND 【著者='*参謀本部*'】
--------------------------------------------------------------------------------
■書名をクリックすると詳細情報を見ることが出来ます。No 資料区分 書名 著者 出版者 出版年 分類 資料種別
1件目 図書 日本戦史 〔1〕 参謀本部/編 村田書店 1977 210.4  
2件目 図書 日本戦史 〔2〕 参謀本部/編 村田書店 1977 210.4  
3件目 図書 日本戦史 〔3〕 参謀本部/編 村田書店 1977 210.4  
4件目 図書 日本戦史 〔4〕 参謀本部/編 村田書店 1978 210.4  
5件目 図書 日本戦史 〔5〕 参謀本部/編 村田書店 1978 210.4  
6件目 図書 日本戦史 〔6〕 参謀本部/編 村田書店 1978 210.4  
7件目 図書 日本戦史 〔7〕 参謀本部/編 村田書店 1978 210.4  
8件目 図書 日本戦史 〔8〕 参謀本部/編 村田書店 1978 210.4  
9件目 図書 日本戦史 〔9〕 参謀本部/編 村田書店 1979 210.4  
10件目 図書 日本戦史 〔10〕 参謀本部/編 村田書店 1979 210.4  
11件目 図書 日本戦史 〔11〕 参謀本部/編 村田書店 1979 210.4  
12件目 図書 日本戦史 〔12〕 参謀本部/編 村田書店 1979 210.4  
13件目 図書 日本戦史 〔13〕 参謀本部/編 村田書店 1980 210.4

「日本戦史」の元本の「大日本戦史」ってあなたの脳内図書館蔵?(w
そうでなければ所蔵館を具体的に明記してくださらんかなぁ。
397日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:17:05
煽りも結構、どうぞネット検索で悦に入ってくださいね
398日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:18:03
>>397
勝利宣言でつか?(w
399日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:18:08
俺も「日本戦史」で検索して、書庫から引っ張り出してもらった記憶があるな。
大日本戦史とは別物だよ。
400日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:23:57
>>399
それは、全てあなたの思い込みです
勝手に悦に入ってくださいね
401日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:26:33
あらら、煽るだけじゃなく、ついに騙りまで始めたよ>>400
402日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:28:40
>>399-401
自作自演うざい。
403日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:29:28
騙りまでやり始めたから、>>400-401を自演とするかもね
404日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:31:18
どんぴしゃ…>>402

荒らす気みたいね、「会津陣物語」を妙に推すヤシのやり口わかったから、もういいや
まともな話するきじゃないようだ
405日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:34:13
「日本戦史」の元本になったという「大日本戦史」の所蔵館を明記できないヤシのやり口わかったから、もういいや
まともな話するきじゃないようだ
406日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:37:28
明日にでも図書館行って撮ってくるよ、ぐぐるだけで、足運ばない人間相手にはそれしかないから

まぁ捏造したりする輩だから、煽り騙りや自演は日常茶飯事なんだろうな
407日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:45:09
>>406
今時稀少本を初めて見に行くのに、最初に蔵書検索をかけて所在の有無を確認しないんですか!?
行き当たりばったりで出かけて、なかったら回れ右して帰ってくるんですか。
随分効率の悪い調べ方をなさるんですね。
ああ、できたら首都圏の図書館で置いてあるところを教えてくださいよ。
蔵書検索でないのがわかってる国会図書館と都立図書館とS県立図書館でお願いしますね。
408日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:46:10
>>407
訂正
> 蔵書検索でないのがわかってる国会図書館と都立図書館とS県立図書館でお願いしますね。
                          ↓
蔵書検索でないのがわかってる国会図書館と都立図書館とS県立図書館以外でお願いしますね。
409日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:50:15
>>407
その図書館で初版か第三版読んでるから、そこで撮ろうかと思ったんだけど?
百聞は一見にしかずでしょ、何か問題あるのかな?
なんかやけに絡むなぁ、あぁ捏造して煽り騙り好きな輩か、どうりでねぇ

ついでに上杉系の良質な史料が“あれば”、見てこようかと思うが
どうもなさそうね、捏造する輩は、「武辺咄聞書」「会津陣物語」しか出さないし
ま、調べてきますよ
410日本@名無史さん:2005/08/17(水) 16:16:05
>>409
いやぁ、近所の図書館にそんな本があれば是非後学のために拝見したいと思ったもんで。
ところで、「大日本戦史」って当然「日本戦史」の元本なんだから当然明治中期以前に編纂された本な
んでしょ?
個々の資料の内容を捏造する人はよくいるけど、資料自体の存在を捏造する人は珍しいなぁと感心し
ているところですよ。
411日本@名無史さん:2005/08/17(水) 17:42:20
資料の内容を捏造する人は少ない

もっとも
>>298
>日本戦史というのは殆どが旧参謀本部の捏造、作り話だとの見方が最近強いですよね。
>戦争の模様を克明に書き出しているとは言っても
>桶狭間、長篠の戦い等有名な戦でさえ完全な捏造、創作である事は今や常識です。
>その描写は「こうなる筈だ」「こうゆう見解だと都合が良い」と勝手に描かれた絵空事。
>そんな彼等、旧参謀本部が福島城攻防戦だけ真相を書けるとは到底思えません。
>そんな資料を一番に持ち出してきても説得力は生まれないと思いますよ?

>>369
>何言ってる。 「武辺咄聞書」も「会津陣物語」も「伊達治家記録」よりは余程史料価値が高いぞ。
と書いて、最後には煽り騙り自演して、後学の為…、誰が信じるんでしょうねぇ

というか
>個々の資料の内容を捏造する人はよくいるけど、
これは自分がやった捏造にを、よくある事とする布石ですか?

まぁいいや、「武辺咄聞書」「会津陣物語」の内容の裏付けを取れる上杉側の文書等はないのかな?
ここにいる上杉を推してる輩(約1名)は捏造するし、知ってるとは思えんけどね
伊達は、有名所で「伊達日記」あるしなぁ
福島在住の人がいたらいいんだけどね、郷土史の叢書があって、ちょっとした寺社関係の文書あったりして
それに載ってたりしたりするんだけど
412日本@名無史さん:2005/08/17(水) 20:22:30
>>411
だから、早く「日本戦史」の元本になった方の「大日本戦史」を所蔵している図書館をいくつか教えてよ。
413日本@名無史さん:2005/08/17(水) 20:51:57
日本戦史の元本なんだ>大日本戦史

再販本とは書いた覚えあるけどな

それと、知らない図書館の事なんか知らない
自分で探せば?捏造君
414日本@名無史さん:2005/08/17(水) 21:38:34
>>413
単なる「再販」じゃなくて「簡略化された再販」ならば元本じゃないか。まったく等質のものじゃないんだから。
自分で>>387に書いておいて曖昧なこと言っちゃいけないねぇ。
415日本@名無史さん:2005/08/17(水) 21:56:30
>>414
地図簡略化、関ヶ原役では文書を簡略化してるのでは?
これを簡略化して再販と言わないのか?
それを元本とは言わないけどな

もう少し日本語勉強したほうがいいな、国語辞典で「元本」とは何か調べるといい

>日本戦史というのは殆どが旧参謀本部の捏造、作り話だとの見方が最近強いですよね。
これの言い訳考えた方が(ry

>「武辺咄聞書」「会津陣物語」
の裏付け取れる書状等なんかも探したら?

論点ずらして、揚足取ろうと必死なのはわかるがね
416日本@名無史さん:2005/08/17(水) 22:24:50
IDが出ないから誰と誰が言い争ってるのかわからん
たった一人の自作自演による壮大な釣りのような気がしてきた
417日本@名無史さん:2005/08/17(水) 22:47:08
あの〜伊達側だって羽黒山から数千丁の鉄砲射撃しただの。
政宗は羽黒山にずっと居て動かなかっただの。
脳内日本戦史を捏造してたんじゃ…まぁいいや。くわばらくわばら

渡邊三省が書いた「正伝 直江兼続」って本の中にも松川合戦の事が書かれているけど
日本戦史内の無茶苦茶な描写をバッサリ無かった事にして、
あとは会津陣物語っぽかったけど、微妙に全然違う描写も混入してるんだよな。
「福島陣之人数」(本庄家文書)など部隊の構成なんかも書かれていて、かなりリアリティがあった。
同氏が書いた「本庄氏と色部氏」と合わせて「本庄家文書」も是非目を通してみたい。

あと伊達治家記録か日本戦史だか分からないけど
政宗が信夫山まで攻め立てられ、羽黒山別当慶陰にかくまわれ落ち延びた事にならないと
慶陰が羽黒山を一時期離れたとされる切っ掛けがなくなってしまうのだけど…
そこらへんの日本戦史(伊達治家記録?)との矛盾点はどうなるんだろう?
418日本@名無史さん:2005/08/17(水) 23:19:13
まあ、少し冷静になった方がいいよ。何かわけわからん状態だな(苦笑)
おそらく一般的に、一番普及したと思われるタイプの奴(文庫)を持っている
が、内容はこんな感じだ。

   「旧参謀本部編纂 日本の戦史 関ヶ原の役(監修:桑田忠親・山岡荘八)」
    徳間文庫 定価¥590
    1994年1月15日初刷/1996年7月31日4刷

 ・福島城の戦闘状況は、p301〜303までの約2.5ページに記載されている。
 ・サブタイトルは「政宗、梁川城攻撃に失敗」
 ・松川の戦いで上杉を圧倒したこと。陣幕が奪われたこと。
 ・福島城の長期攻略化を憂え、銃撃指示後退却指示。
 ・梁川城への内応工作が失敗したため、梁川城の攻撃を中止したこと
  (=梁川城攻撃「失敗」の件)が記載されている。
  ・編者の視点は、梁川城に始まり、梁川城に終わっている。
  ・福島城での戦いの記載はほとんどなく、本庄繁長の「ほ」の字すら出
   て来ない。

この文庫本は手軽だし、「大坂の役」と一緒に購入して読んだ人は多いはずだ。
が、これを読んでも「本庄が伊達を撃退した」などという印象・感想を持つこと
など到底できないだろう。

本庄最強伝説は、何らかの小説で誇大に誤った形で流布されたものだと考えられる。
419日本@名無史さん:2005/08/17(水) 23:27:43
上の文は、>>384の「これだけ「政宗は撃退された」「逃げ帰った」とされる見方が定着
してるんだからさ」へのレス。この文庫本はそうした見方・世論形成は果たさなかったと
意味において。
420日本@名無史さん:2005/08/17(水) 23:46:40
そりゃ全然説得力ないからねえ。参謀本部の受け売り+αじゃ、ね。
たった一日が長期化とか言われてもピンとこないし。
福島城を引き上げても梁川城は兵数が600人、後顧の憂い(福島城)を折角絶って来たのに
内応が発覚しただけで攻めません。
それじゃ内応者が出ていない、兵数も多い、天然の要害である福島城を何故攻めたのか?
説明つかない部分が多すぎる。
この伊達軍の行動は現実味が無い。
421日本@名無史さん:2005/08/18(木) 05:01:24
>>420
>参謀本部の受け売り+α

  えっ? この本って「参謀本部の受け売り」なの?
  それに大体、「参謀本部」の何が問題なわけ?

  自分でも、おそらく、言っている「意味」わかって
  書いてないと思うが…
422日本@名無史さん:2005/08/18(木) 09:29:35
「旧参謀本部編纂」って書いてるでしょ。
参謀本部が参考にしたと言われてる「伊達治家記録」も
文書、他資料で裏を取れる記載が幾ら多い所で、全てを
信じる訳にはいかない。これは逆に出鱈目が書いてある
資料、著者でも全部を否定できない事にも繋がるという
事だが。それは置いといて…

資料とは一つ一つ書かれた、その行為の信憑性、整合性、
地域伝聞との一致等が求められる。が、「日本戦史」=
「伊達治家記録」の場合、この多くの部分が矛盾、破綻、
非現実的な描写で満ち満ちている。
「伊達治家記録」を庇いたいが為、政宗の行為が「謎」等
という訳の分からない結論でお茶を濁す輩まで出てくる始末。
別の記載で正しい情報が書かれている、だからその余勢で、
この部分も正しい。何故なら「伊達治家記録」なのだから。
こうゆう考え方は駄目。

政宗が梁川城に固執していたとする場合、何故内応者が出た
時点で攻めなかったのか?充分軍を向わせる事が出来る位置
にありながら、何故あえて福島城へ向ったのか?
みすみす内応者の登場、といったチャンスを見送ったのか。

この本の中で、それらを一体どのようにして弁明されているか
知りたい物だ。
423日本@名無史さん:2005/08/18(木) 11:06:53
>>422
全ての謎は、簡略化される前の「大日本戦史」に答えが載ってるんだろ。(w
424日本@名無史さん:2005/08/18(木) 17:39:00
悪いな、今日図書館いけなかったよ
明日には行くように確実に明けたから、辛抱汁

>「伊達治家記録」の場合、この多くの部分が矛盾、破綻、
>非現実的な描写で満ち満ちている。
これは当然の指摘だ、だから他の史料との検討をと書いてる

>別の記載で正しい情報が書かれている
この別の記載で正しい情報というのがわからない

「伊達治家記録」だけをもって肯定するのは間違い
しかし>>422がいう事は、そのまま「武辺咄聞書」「会津陣物語」にも当てはまる
だから、双方とも他の史料のは?と書いてるが、誰も何もその件について述べない

伊達側には、伊達日記と伊達文書(文書は多分、福島か宮城在住じゃないと、
活字化された資料見るのは困難だ)があるが、上杉には?
「武辺咄聞書」「会津陣物語」という、多くの部分が矛盾、破綻、
非現実的な描写で満ち満ちている軍記物では、根拠にならない

というか、「伊達治家記録」の描写は「多くの部分が矛盾、破綻、
非現実的な描写で満ち満ちている」と指摘して、「武辺咄聞書」「会津陣物語」には
触れない理由が知りたいね
425日本@名無史さん:2005/08/18(木) 19:29:27
まだ「伊達治家記録」と「日本戦史」との比較をしていないから
「伊達治家記録」をこきおろすのは抵抗を感じる。
(上杉側の詳細な兵数といい、本庄繁長の言動といい、当時伊達家が分かる筈の無い情報まで書かれているから)

「武辺咄聞書」「会津陣物語」は読み物として面白くさせる為の脚色を除けば、
その中に描かれた政宗の行動、思考に不自然さは感じないんだよね。
つまり「謎」と言われる物が少ない。
伊達の小荷駄隊にも護衛がついてるし、松川での上杉側の混乱も嘘っぽくない。
大敗北を喫して、城に逃げ込もうとするも、背負った旗が邪魔して入れないなど
なかなかリアル。

ただ渡邉三省の研究本「正伝 直江兼続」との描写が若干異なる。
本庄軍が城門を開き、密集体形を取り、短い槍でもって伊達軍へ一気に猪突する。
須田率いる梁川城側が、松川を渡りきっていなかった伊達軍を後ろから襲い、
川中で壊滅させる。
こんな描写は「会津陣物語」には書かれていない。
しかし渡邉三省が書いた他の本、他の考察を読む限り、何か裏付けがあって書かれたようにしか思えない。
まったくの空想で物を書くようなスタイルの人ではない、と感じる。
氏は、「本庄氏と色部氏」という昔書いた本の中で、既に一度詳細を書いているから、
そこから引用する。といった事を書かれている。
実際「正伝 直江兼続」にはよく(本庄家文書)(本庄家資料)といった注釈をよく目にする事が出来る。

自分もこの繁長が行った反撃の拠り所となった資料を目にしてみたいが
どうやら「本庄家文書」も閲覧は難しく、「本庄氏と色部氏」という本でさえ
どこの大学図書館にすら置いていないというのが現状。

そして上杉軍により劣勢に立たされた政宗が信夫山に「かくまわれた」事を顕す本として
福島県の考古学者梅宮茂氏の著作「信夫山めぐり ほんとの信夫山の歴史」がある。
しかしこれも他府県では読めず、今では入手も困難。
福島県の図書館内でしか見る事は不可能なのだそうな。
426日本@名無史さん:2005/08/18(木) 19:49:55
>>425
> まだ「伊達治家記録」と「日本戦史」との比較をしていないから

違う。比較するのは「大日本戦史」だろ。
孫引きと比較してどうするんだよ。少しでも一次資料に近い方を比較対象にしなけりゃ。
427日本@名無史さん:2005/08/19(金) 05:55:39
>>425
>「武辺咄聞書」「会津陣物語」は読み物として面白くさせる為の脚色を除けば、
 その中に描かれた政宗の行動、思考に不自然さは感じないんだよね。
 つまり「謎」と言われる物が少ない

実際、こんなことを本気で語っているとすれば、まずはその神経を疑わざるを得ない。
内容、数字とも出鱈目な「武辺咄聞書」「会津陣物語」に立脚点を置いているため
結局伊達厨の1人すら納得させることもできていない。
たとえば、同書には以下のようなことがまことしやかに描かれているが、記述のあまりの恥ずかしさに
口を閉ざすしかないだろう。いかなる上杉ファンであろうと。

  慶長6年4月26日、25000の軍を率いた伊達軍と甘粕・杉原らの6000
  の兵が激突。「福島城の柵ギリギリまで接近した伊達政宗は、青木兵衛という
  武者に槍を付けられ、落命の危機に陥った」という。
 
同日、岡野左内にも斬りつけられ「落命の危機」に陥ったとのことではあるそうなので、
政宗は短期間に2回生命の危機に瀕したという話になる。

ともあれ、まずは大日本戦史と伊達治家記録の検証が先だろう。この上杉マニアのお
手並み拝見といったところだ。期待して待ちたい。
428日本@名無史さん:2005/08/19(金) 06:31:17
 ×青木兵衛>○青木新兵衛

青木新兵衛は、小説『奇策』(風野真知雄著)では、時空を超え、慶長5年
10月6日に福島城で槍を入れたことになっているが、原著では慶長6年。
伊達政宗の兜は有名は三日月の弦月だが、それも分からずに槍を入れ、
あとで「あれは伊達政宗だぞ」との指摘に「なにっ」と地団駄を踏んで悔しがる
という「オチ」までつく。
429日本@名無史さん:2005/08/19(金) 18:24:26
書物全体が上杉礼賛に彩られ、必要以上に政宗を貶める手法により、
景勝を持ち上げる形を取っている面は否めない。

よって、脚色が強すぎる場面も見受けられるが、
だからといって、他の場面や出来事全体の流れを否定する事は出来ない。
大部分の場面における描写は自然であり、現場に居た者ならではの息吹きが感じられる。
そして戦の流れを掌る、重要な政宗の決断にも日本戦史に見受けられるような「不自然さ」
いわゆる「ブレ」や「揺れ」が見受けられない。

「会津陣物語」に登場するオッチョコチョイな政宗が似合うのは、実は「日本戦史」の方ではないか。
内応者が出ても重要な城を攻めないばかりか、抑えの部隊すら置かなかったり、
小荷駄隊を十キロ近く後方へと引き離した挙句、孤立させたり、
北方から数回の合戦を経て福島城に至り、外郭まで攻め落とし、敵の数も寡少だと分かった上で
軍をその日、たった一日で撤退させてしまう。
その理由は梁川城w
双葉山南から見下ろせば、福島城など小指の爪ほどにしか見えないだろうに、
そこから射撃をし、何の意味も無い弾薬の浪費をする砂金隊を、後方の本陣から見つめる政宗(苦笑)
しかも松川を行ったり来たりした挙句、登山した後の出来事。

福島から帰る道すがら、大好きな梁川城(600人)を、無敵且つほぼ無傷の伊達軍二万で攻めれば良かったのに。
優しくてオッチョコチョイな政宗は、城内で内応者が一人発覚しただけで尻込み。 何のこっちゃ。
福島城の戦いを読む限り、上杉軍は伊達軍の発する甘い匂いにでも惹き付けられてしまうのか、
三桁の兵力でもって、五桁の敵兵が待つ城下へと幾度も出て行ってしまうようだ。柵の意味なしw
そんな素晴らしい戦法を持つ「日本戦史」の政宗は、どうして梁川城を攻めなかったのだろう。

列挙したように「日本戦史」の描く福島城攻防戦というのは、一行読み進める毎に狂った世界が広がっている。
こんな物で納得出来る上杉ファン(戦国時代ファン)は誰一人としていない。
430日本@名無史さん:2005/08/19(金) 18:29:09
>>429
訂正
双葉山南から見下ろせば→羽黒山南から見下ろせば
431日本@名無史さん:2005/08/19(金) 21:18:20
大日本戦史の報告マダー????
432日本@名無史さん:2005/08/20(土) 06:27:19
>427
軍記物なんて話半分で読むものだし。あまりムキになって突っ込むもんでもな
いと思う。ただ当たらずとも遠からじ。で、落命の危機にあったのは伊達政宗
ではなく他の有力武将だったかも知れず。伊達政宗が自ら刀を抜かなければな
らない状況になっていたという事なのかも知れず。
書いてある事を額面通りに受け止め、アリかナシか二極選択するのはどうかな。
それは日本戦史を否定し続けている上杉厨にも言える事なんだが。要するにど
っちもどっちだな。
433日本@名無史さん:2005/08/20(土) 10:18:29
>>432
> それは日本戦史を否定し続けている上杉厨にも言える事なんだが。

誤:日本戦史
    ↓
正:大日本戦史
434日本@名無史さん:2005/08/20(土) 10:53:27
そういえば、小和田哲夫氏などの学者にさえ、「武辺咄聞書」「会津陣物語」は
軽くスルーされているよな(苦笑)
435日本@名無史さん:2005/08/20(土) 12:33:36
これ何人の自演?
436日本@名無史さん:2005/08/20(土) 14:16:15
結局大日本戦史と日本戦史の違い分かったの?
まぁ俺もそのうち大学図書館行って覗いてくるつもりだけど。
437日本@名無史さん:2005/08/20(土) 15:07:02
>>436
うん。基本的には同じもの。大日本戦史の記述や図表を簡略化したのが日本戦史。
粘着してた1人以上数人未満には、この場を借りて居所・実名を晒した上で謝罪してもらいたいな。
438日本@名無史さん:2005/08/20(土) 17:52:01
いかに言い逃れしようが、上杉景勝が戦略眼のない、臆病者の口先だけの
ヘタレ三流武将であることには変わりはない。未来永劫に。

要するに、家康が小山へ反転した時点で、一気に結城秀康軍を撃破し、関東へ
出て、江戸を占領する位の大勝負に出なければならなかった。景勝はみすみす西軍
の足を引っ張ったのだ。あれだけ「直江状」でタンカを切っておきながら。
そもそも会津は捨てなければならなかった。当然、がら空きになった会津は
最上・伊達に蹂躙され尽くされるだろう。問題はここだ。このスレタイの一流武将・
上杉謙信ならば、当然会津をガラアキにし、一気に結城秀康を撃破、江戸へ進撃しただろう。
そして歴史は大きく変わったはずだ。景勝はある意味馬鹿正直な武将とも言える。

家康は、ヘタレ景勝など、伊達・最上の牽制が怖くて決して西上はできないと、初めから舐
めてかかったわけだ。そして、その見通しどおりになった。景勝は見当違いな最上攻めなど
をして自滅してしまった。なお、福島城の攻防の同時期、伊達に力を注ぐあまり、上杉の庄内の
勢力範囲は、最上義光にいいように蹂躙され尽くし、ほとんど「草刈り場」と化していた情けない
現実も記述しておかなければなるまい。

無論「武辺咄聞書」「会津陣物語」には、最上義光のこの武勇には一行も触れていないだろうも。
439日本@名無史さん:2005/08/20(土) 19:02:46
どうかねえ。
景勝と家康・秀忠親子って憎み合ってる様には見えない。
会津に帰っても良いと言ったのは家康、その帰路、江戸で歓待しようとした秀忠。
家康は元々名家好きで朴訥で武骨な人物を好む。本音では下手に媚びる大名を嫌う人じゃないかな。
秀吉在命時、顔を合わせていた頃は案外ウマが合ったんじゃないかと思う。
確かに小山反転では直江の主張通り、追撃して欲しかったけどね。
ただ伊達も思っていただろうけど、
西軍と東軍の戦いが関ヶ原のような短期決戦で終わらず、長期化すると睨んでたんじゃないかな。
そうすれば伊達と講和状態にあった上杉が最上領を併呑した場合、
佐竹・最上・上杉・伊達と一大勢力で徳川、石田らを圧迫する事が出来た。
関ヶ原が長期化していれば西軍東軍、双方から落伍して国に戻ってしまう大名も出てきただろうし。
そうなれば応仁の乱再びという事で。
家康が何も得られず、疲弊して江戸に戻ってきたその時、
東北&北関東がスクラム組んでジワジワと徳川領&堀領を侵食していたとしたら。
天下の中心に東北の諸侯が立つ時代が来ていたかも。
その前に九州を纏めた如水、島津連合軍と一大決戦が待っていただろう。
そこで初めて上杉と島津、伊達と黒田どっちが強いか?というスレタイ通りの展開になる。
440日本@名無史さん:2005/08/21(日) 17:06:51
まだ>>424の住む世界では8月18日(木)なんだろうか。
441日本@名無史さん:2005/08/21(日) 17:29:21
それより直江兼続と島津家久はどっちが勝つか決めようぜ
442日本@名無史さん:2005/08/21(日) 20:22:39
>>440
粘着ウザい。
443日本@名無史さん:2005/08/22(月) 09:11:06
もし島津義弘が指揮する島津軍団が会津にいたとしたら、果たして家康は
小山から易々と反転できたかどうか。

1600年時点での戦闘力は、圧倒的に島津が上をいくだろう。
444日本@名無史さん:2005/08/22(月) 11:23:53
>>443
義弘が討って出ようとしても義久は止めただろう。
土壇場で極力危ない橋を渡らなかったという意味では上杉と似たような物。
豊久と義弘を見殺しにしてまで、本国を固める方針を選択していた。
445日本@名無史さん:2005/08/22(月) 22:26:29
>>441
何故直江
446日本@名無史さん:2005/08/22(月) 23:52:22
>>443の状況を、どうやって作るのかワカランゾー。
会津征伐に島津が先発して出立してたとなっちゃうよ。

最悪、東軍につく罠。
447日本@名無史さん:2005/08/23(火) 01:00:51
>>445
おれが上杉家は景虎と景勝と兼続しか知らないから
448日本@名無史さん:2005/08/23(火) 08:42:56
この頃の上杉で活躍した武将は直江の他には杉原、安田、上泉、甘粕、前田くらいか?
確かにパッとしないな。
特筆すべきなのは本荘と須田が3000の兵で伊達二万を幾度も叩きのめしたくらいか。
449日本@名無史さん:2005/08/23(火) 10:30:09
>>448
おそらく伊達の幻影におびえて、上杉にはそう見えたのだと思う。
それほど、上杉にとって伊達は恐ろしい対象でありつづけたわけだ。
まあ、松川でも霧の中から伊達の影がみえただけで遁走する部隊だ。
言ってみれば、水鳥の羽音におびえて逃げまくった平氏に近かったに違いない。

450日本@名無史さん:2005/08/23(火) 12:59:27
>>449
>松川でも霧の中から伊達の影がみえただけで遁走する部隊

つーか「日本戦史」にすらそんな事書かれてないんだが。
またデマかよ。
451日本@名無史さん:2005/08/23(火) 16:45:07
>>448
>3000の兵で伊達二万を

苦笑
452日本@名無史さん:2005/08/23(火) 18:53:11
>>450
「大日本戦史」には書かれているよ。簡略化する時に伊達家の陰謀で削られたんだな。
453日本@名無史さん:2005/08/23(火) 19:48:06
>>450
>つーか「日本戦史」にすらそんな事書かれてないんだが。

いいや。上杉の狼狽の有様は、その「日本戦史」には書かれている。

  このときあたりは朝霧が立ちこめ、一寸先も見えない見えぬあり
  さまであった。しかし、霧がはれると、伊達の先鋒が上流で川を
  渡っているのを発見し、後方を断たれるのを恐れて(岡野左内と
  斉藤道二は)退却した。

いずれにせよ、揃いも揃って、情けない武将どもではある(w

  福島城中は瀬上の敗報を聞いて、おおいに動揺した。
  綱元・景綱・景頼の兵は松川を渡り、(本庄)義勝の兵と
  戦ってこれを破った。

上杉、弱すぎ(苦笑)
454日本@名無史さん:2005/08/23(火) 23:08:47
島津も上杉も伊達も強いで納得できる大人はいないのか
455日本@名無史さん:2005/08/23(火) 23:24:18
>>453
この時、伊達軍総勢二万の先鋒は茂庭、屋代隊で数千。
対する岡内、齋藤軍は各々150。合計三百だと日本戦史では書かれている。
数千VS三百で戦えば後方を断たれる等と懸念するのは当然の事で、
これをもって「情けない武将ども」と評する馬鹿は普通いない。

>>449の馬鹿さ加減はそこだけに留まらず、この撤退が行われた場所は松川ではない、
といった事さえ分かっていない惨めさも窺える。

岡内、斎藤軍は当初梁川城〜瀬上への救援部隊であった事。
この文章の直前に瀬上宮代を守る小田切敗退の描写がある事。
伊達軍(茂庭、屋代隊含む)による松川渡河の様子は別に書かれている事。
以上から岡内、齋藤軍が引き返した場所は摺上川ではないか。
と、日本戦史を実際読んでいる者なら誰でも思い至る。
つまり福島城から松川を隔てて、まだ遠く、信夫山の脇を抜けた先の位置に摺上川はある。
こういった位置関係を知っていて尚、
福島城を守る僅か千の兵から割かれた、岡内齋藤軍三百の摺上川における撤退を嘲う者がいれば、
そいつは逆に他人から評されねばならない。
お前は真性の馬鹿だと。
456日本@名無史さん:2005/08/23(火) 23:48:17
×綱元・景綱・景頼の兵は松川を渡り、
政宗も渡ってるっつうのに。
皆松川ヲ渡リ 政宗ノ麾下モ又至リ 共ニ先ヲ争フテ進ミ
伊達の米沢方面への抑えを差し引いたとしても一万五千は渡河したという事になる。

>本庄)義勝の兵と戦ってこれを破った。 上杉、弱すぎ(苦笑)
アホ?
義勝率いる兵は五十。瀬上から帰ってきた兵(岡内齋藤軍)は三百
あわせて義勝軍三百五十。 伊達は一万五千以上。これで負けてどうする政宗w
ま、これでも政宗は結局信夫山に追い詰められて山伏に匿われる醜態を演じる訳だが。
457日本@名無史さん:2005/08/24(水) 02:21:17
上杉は、上山で最上に目を覆うばかりの大敗を喫した弱兵集団。
白河口へ出る勇気すらなく、関ヶ原の敗報を聞いて米沢へすぐに遁走したり、速いのは逃げ足だけ…w
政宗にも相当馬鹿にされていたんだろう。

無論、戦争の経緯は日本戦史、大日本戦史の記述の通りで間違いはない。
458日本@名無史さん:2005/08/24(水) 09:16:02
>>456
>政宗は結局信夫山に追い詰められて山伏に匿われる醜態を演じる訳だが。

妄想乙w ほほう、そのソースは?(勿論「武辺咄聞書」「会津陣物語」以外で)
まともなソースを出せない限り、所詮独り相撲で誰にも相手にされないと思う。

459日本@名無史さん:2005/08/24(水) 09:16:36
この前の日曜、図書館行ったついでに日本戦史を書庫から出してもらって読んだよ。
書いてある事が本当ならば、この戦場にいた伊達政宗は愚物に類する武将。
上杉に負けた説を採っても愚物。
伊達優勢だった日本戦史説を採っても愚物。
どっちにしても政宗にしては愚かしい采配ぶり。
460日本@名無史さん:2005/08/24(水) 09:28:08
松川の合戦で、上杉は霧の中を右往左往して逃げまどい、大敗した挙げ句
福島城へ逃げ込み、鉄砲の音におびえていたという歴史的事実。

さすがの上杉厨もこわれたようだw
461日本@名無史さん:2005/08/24(水) 10:29:33
歴史的事実を見れば、
上杉と島津の武勇比べの間に伊達が割って入ることはありえないw
唯一の特技の姑息さですら、間抜けの部類に入る伊達がw
462日本@名無史さん:2005/08/24(水) 10:41:15
上杉は戦術面では「最上」以下。戦略面では「島津」に遠く及ばない。
伊達は最上の後方支援でいわば高見の見物をきめこんだ。

さて、戦後、島津は武勇と共に巧みな恫喝外交を展開。領土の一片
すら、徳川に手を付けさせなかった(実に見事である)。
一方、上杉は直江が平謝りの末、120万石〜30万石の中小大名へ
転落。挙げ句は、大坂の陣では家康の使い走り状態。

さて、上杉の「義」とやらはどこへ行ったのか?w
463日本@名無史さん:2005/08/24(水) 11:26:34
直江が平謝りするのは当然。そもそも三成に挙兵を促されたのは直江でしょ?結果として直江が上杉を巻き込んだ(家康の専横に異を唱えた景勝を利用した)。上杉の「義」の問題じゃない。直江は身命を賭して上杉をまもらなきゃならなかったんでないかな。
464日本@名無史さん:2005/08/24(水) 11:50:28
日本戦史に書かれてある事は実際有り得ない事ばかり。
辛うじて読めるのは伊達各隊の進軍経路くらいで。(そこにも矛盾があるけど)
これをそのまま信じてしまう人って思考力がないんだろう。
釣りのつもりで始めたんだろうけど…哀れすぎる。
465日本@名無史さん:2005/08/24(水) 11:58:23
>>464
だから、「大日本戦史」読めって。真実はここにある。
466日本@名無史さん:2005/08/24(水) 12:01:56
>>464
残念ながら、史実は大日本戦史が記述する通り。上杉にとっては、
ふがいない戦争であり、「そうあって欲しくない現実」なのだろうが、
現実には「そうあった」。

そして、この大日本戦史を覆すには、古老咄ではない、まともなソース
で反駁しなければならないのも紛れもない事実。
467日本@名無史さん:2005/08/24(水) 12:39:15
>>462
仮に島津と上杉の領土が逆だったとしても同じ処分じゃないかな。
会津と江戸(関東)の距離、薩摩とのソレを比較すれば、
双方の処分に差が出てくる事くらい、分かりそうなもんだが。
>>466
本庄が大反抗に転じ、伊達を撃退した説は何も杉原親清の書物だけじゃないから。
本庄家文書、本庄氏資料、信夫山一帯の神社に伝わる羽黒山別当慶陰の伝記。
これらの資料を徹底的に研究した学者が何人もいて、
松川合戦は結果的に伊達の惨敗という事実が浮かび上がった。
その中でも、貴方が古老咄と断じている杉原親清の書は、ほんの一部しか扱われてないよ。
468日本@名無史さん:2005/08/24(水) 12:48:28
>これらの資料を徹底的に研究した学者が何人もいて、
>松川合戦は結果的に伊達の惨敗という事実が浮かび上がった。
それならば論文紹介できますな。

本の名前と論文書いた研究者名どうぞ。
469日本@名無史さん:2005/08/24(水) 13:05:17
いよいよ福島城の戦いの核心に迫ってきたのかな。
漏れも非常に興味があるので、資料の紹介よろしく。>>467
470日本@名無史さん:2005/08/24(水) 13:17:18
本庄家文書は16点しかないけど、松川合戦の状況を窺えるのが含まれてるとは知らなかった。
471日本@名無史さん:2005/08/24(水) 13:22:24
>>468
まず何度も上に書かれてはいるが
渡邉三省著作「本庄氏と色部氏」
上記の本から平易に書かれた一部転載物なら「正伝 直江兼続」
あと
元福島県考古学会会長
福島県文化財保護審議委員をされていた故・梅宮茂
著作「復刻・信夫山」「信夫山めぐり」
472日本@名無史さん:2005/08/24(水) 13:34:34
>「本庄氏と色部氏」
この本は、史料引用が不明確で、とても徹底的に資料研究したと認識するには遠い本だと記憶してるが。

>「正伝 直江兼続」
読んでないので不明。

>「復刻・信夫山」「信夫山めぐり」
同上、しかしタイトルから史料引用などされてないように窺えるけど。
473日本@名無史さん:2005/08/24(水) 14:15:48
で、>>424は「大日本戦史」(参謀本部編の方の)を閲覧できたのかよ。全然その報告がないようだが。
474日本@名無史さん:2005/08/24(水) 14:28:55
>>471
学者が何人もいるという割には2人だけ?

>著作「復刻・信夫山」「信夫山めぐり」

これって、地元の郷土史家の人の紀行文かエッセイのような気もするが。
それに考古学が専門とすれば、戦国とはジャンルが違うんじゃないのか。
たとえば、この書ではその伊達の惨敗についてどう触れているのか、
具体的に紹介してもらえると有難い。
475日本@名無史さん:2005/08/24(水) 15:17:43
>史料引用が不明確
今までの流れを読んでると、まさに日本戦史がこれだよな〜。
各文章毎に一体何を参考にして書かれた物なのか不明確な部位だらけ。
上杉側の詳細すぎる兵力や城内の様子なんて、一体どこに書かれた物なんだろう。
476日本@名無史さん:2005/08/24(水) 18:17:16
>>474
俺としては「日本戦史」に幾つもある伊達軍の謎を学者レベルで研究して欲しいよ。
477日本@名無史さん:2005/08/24(水) 19:02:11
>>471
ちょっと質問だけど。以下の本は最近のものといえるわけだけど、

>正伝 直江兼続─別篇 関ヶ原戦縦横─  渡邊三省 著
  上杉謙信・景勝に仕え、文武両道を極め、越後・会津・米沢を舞台に、名執政として
  経世済民の策を実行し、戦国の世を正々堂々と生きた武将、直江兼続伝の決定版。
 A5判上製箱入り/448頁/1999年6月刊 5,800円 

福島城の攻防は一体、どう描かれてるのかな? 大日本戦史との違いとか。
教えてくれませんか?
478日本@名無史さん:2005/08/24(水) 22:18:46
日本戦史は嘘臭い記述だらけ。いわゆる「謎」。
多くの記述が「謎」(嘘?)で、どれを信じていいか分からないくらい酷い資料。

1:伊達の小荷駄隊一人ぼっち
伊達軍の荷駄は、政宗が本陣を置いたとされる場所から10km後方で百人の上杉軍に奪われる。
この襲撃に気付いた伊達側の部隊は無し。
つまり梁川勢百人は阿武隈川を渡って二万人分の輜重を奪い、
大河を渡り直して悠々と城へ帰ってしまう。政宗は後陣、護衛を配さなかったのか?

2:砂金実常の有り得ない遠距離射撃
羽黒山南から数十丁で福島市街を射撃とあるが、福島城〜羽黒神社は2km。
羽黒山南端でさえ1K2,300mある。当時の火縄銃の殺傷能力は100mまで。
弾が飛ぶ距離はせいぜい500m。
この射撃で福島城側の兵士は尽く城内に逃げ込んだらしい。
この距離で弾が届いたのか?銃撃の音すら微小にしか聞こえないと思うが。

3:二万の兵を前に篭城しない数百の上杉
350人前後の本庄義勝軍が松川で敗れて、義勝が福島城内へ逃げ戻った後、
何と上杉側は新手(数百人)を城外に繰り出し、伊達軍屋代隊(数千)と対決。当然敗れる。
堪らず城内に逃げ込む所を景綱隊に追われ、城の外郭を破られたそうな。
ここでも本庄親子、杉原、岡内、齋藤、小田切ら誰一人死なず。
さらに死んだ武者頭レベルの名前さえ聞かれない。こんな戦闘本当にあったの?
479日本@名無史さん:2005/08/24(水) 22:20:05
4:政宗、内応者が出た目前の梁川城を攻めず
伊達崎以北で景綱より進言された梁川城の内応。伊達崎から梁川城へは4、5km。福島城へは12、3km。
しかし「部隊が桑折口に向ったから梁川へは向かわない。」という政宗の意味不明な決断。
桑折口は伊達崎の目と鼻の先。政宗が屋代、茂庭隊に進軍変更を命じられなかったのは何故?
ちなみに、梁川勢が伊達の小荷駄隊を襲った場所は前田桑折間。
福島城は天然の要害。兵数も梁川城の倍近く。内応者もいない。そんな敵地深くの福島城へ何故?

5:その数時間後、梁川城を恐れて福島城を撤退。
この日伊達軍は、松川で350人の部隊を破り、さらに城下で新手と戦い之を破り、
城の外郭を攻め、ここも討ち破ってしまった。
当初千人の兵しかいない福島城側は、再三の敗戦で風前の灯だったはず。
そんな伊達軍が、俄かに撤退をした理由が「これ以上攻めたら兵を損失する」からだそうな。
そして中でも異常なのは「後方を梁川城に裁断される」と恐れ出す政宗の思考。
4:の政宗とはまるで別人。
戦国時代これだけ優勢だった城攻めを、たった一日で撤退したアホな軍勢は伊達軍くらいか?

6:悠然と帰路に着いた伊達軍、梁川城を攻めず
前日、伊達軍は連戦連勝。上杉と戦って兵を損失した戦場も、日本戦史では殆ど見受けられない。
福島城の戦闘力を大幅に削ったその帰路、たった六百人が篭る問題の梁川城が、政宗の目前に再び。
周囲は平地。福島城から挟撃される心配も無い。伊達軍は二万。
しかし梁川城内の内応者が一人発覚しただけで政宗は攻撃中止。これも無茶苦茶。
本当は「攻めなかった」のではなく、「攻める余裕がなかった」のでは?
政宗敗退説のルートとされる信夫山の裏口から国見山伝いでは、とても梁川城なんて拝めないしなあ。
480日本@名無史さん:2005/08/24(水) 22:30:42
残っている飼料では事実の再構成は無理なようだな
タイムマシンが欲しいな 俺は行かないけどな
481日本@名無史さん:2005/08/25(木) 06:49:53
福島城攻防で上杉に大勝した後、状況を適切に判断し、さっさと兵を退いた
政宗は実に賢明な武将だったといえるだろうね。まあ「勝ち逃げされた」上杉
はさぞや悔しく、地団駄を踏んだに違いないが。

「日本戦史」をよく読めば、相手が必死になった城を落とすのが如何に難しい
かわかるだろう。最上勢が立てこもる長谷堂城を兼続は力攻めで攻め抜いたものの
何度も空しく撃退されたことなども、良い参考事例になったかもしれない。

 17日、兼続は銃隊で長谷堂を攻撃させたが、落とすことはできなかった。

結局、上杉は長谷堂を「10日以上かかっても」陥落させることもできなかった。
焦った挙げ句に、上泉泰綱まで戦死させるという大失態すら演じて。
他山の石ということわざもある。
482日本@名無史さん:2005/08/25(木) 09:02:50
>>481
これだけ追い詰めた話が真実ならニ、三日包囲して降伏勧告くらい出すよ。どうもウソっぽい。
「日本戦史」はキャッチセールスやカルト宗教と同じ手口じゃないかな。適当な情報を数多く列
挙して押し通せば、例え話全体の整合性が滅茶苦茶でも、相手が馬鹿なら騙す事が出来る。
個人的な謎を付け加えると政宗本隊が松川対岸に「至った」かと思えば、その数行後には国見山
から羽黒山に「至った」政宗はそこで福島城攻防戦を終始観望していたかのような書き方を始め
る。>>479にある政宗の変貌のように、前後の文章で噛み合ってないケースが目立つ。情報が氾濫
しているだけで右往左往しっぱなし。
勝ち逃げって言われても…結果として上杉は領地を失ってないからね。地団駄踏んで悔しがるのは
寧ろ政宗の方で、何も得られなかった空しい御出陣何度もご苦労さんといった所でしょう。
483日本@名無史さん:2005/08/25(木) 09:17:11
>>482
>結果として上杉は領地を失ってないからね

福島城の防衛に力をそそぐあまり、これ幸いとばかりに、手薄になった
庄内地方を義光にがっさりもってかれているって(苦笑)。33万石も。

いかに伊達が怖くて神経を使ったのか、よく伺えるね。
484日本@名無史さん:2005/08/25(木) 09:40:47
>>482
>「日本戦史」はキャッチセールスやカルト宗教と同じ手口じゃないかな

 おいおい、言うに事欠いても…。 結局、何度催促しても、まともな
 ソースすら出せないんだな。
 「復刻・信夫山」「信夫山めぐり」も相当怪しくなってきたぞ。
485日本@名無史さん:2005/08/25(木) 10:05:30
「大日本戦史」もまともなソースには到底見えないような…
あれだよ。
きっと政宗は福島城を奪う振りを見せて梁川城に兵糧弾薬をプレゼントしに来たんだよ。
そろそろ突っ込まれっぱなしな「大日本戦史」の引用元を詳しく知りたいんだが。
486日本@名無史さん:2005/08/25(木) 13:04:52
日本戦史というのは一つ一つの描写も変だし
脈絡も繋がっていない。
これは「伊達治家記録」と他の資料(何かは分からないが)を闇雲に混入した結果
数多くの齟齬や矛盾が生じている感じがする。
来週にならないと大学図書館へ行けないから確かな事は分からないけど。(大日本戦史の謎も含めて)
>>474
今晩か明日の晩にでも倉庫から「復刻・信夫山」か「信夫山めぐり〜ほんとの信夫山の歴史〜」
どっちか引っ張り出してココに書いてみるよ。
487日本@名無史さん:2005/08/25(木) 16:04:35
>>485
いや、高柳光寿氏の「大日本戦史」は信用できないが参謀本部編の「大日本戦史」は正確無比だ。
「日本戦史」に簡略化する時に、様々な圧力がかかって記述の正確さを欠いたのだ。
488日本@名無史さん:2005/08/25(木) 23:17:03
>>483
庄内地方がどこなのかもよく分かってない馬鹿がいるなあ。

西軍が敗れ、いつ徳川が南から攻め込んでくるか分からない時分
遥か北の飛び地を救援できる訳ないだろ。

別に伊達が怖いとか関係ないからw

お宅、頭おかしいんじゃない?
489日本@名無史さん:2005/08/26(金) 01:43:52
読解力が無い為か、自分が信奉してる資料さえ改鼠しちゃう人だし。
地理的背景や勢力分布、取り巻く状況なんて彼の頭に無いって。
摺上川と松川を混同。その挙句
後方を截たれると判断した。→驚いて逃げ出した。なんて幼稚な解釈、
どこにも載ってない事を書き込むしな。
数十丁とはっきり書いてある實常の鉄砲が、いつのまにか数千丁に増えてしまう脳内お花畑。
碌に資料を読みもせず「政宗は羽黒山を動かなかった」と力説するも、簡単に論破され。
もうね…彼が語ってるのは参謀本部編の「日本戦史」なのか、
それとも全然別の「大日本戦史」とやらなのか、理解しがたい。

この参謀本部編「日本戦史」だって明治期に書かれた物。
そんなに「日本戦史」に拘泥したいのなら、最低
「伊達治家記録」に拠った記述とは思えない部分くらい、いい加減ソースを出せば。
上杉の兵数、色を失った城内、繁長の突撃準備etc…伊達に分かるわけ無いわな?
ただでさえ支離滅裂した八方破れの資料なんだからさ。
490日本@名無史さん:2005/08/26(金) 04:55:22
このスレ面白い。上杉厨の相当痛い部分を衝いたため、これだけ釣れているw
>>488などは顔を真っ赤にしているに違いない。

白石城の陥落の後、最上戦での上山大敗、長谷堂城の敗退、最上による庄内討伐戦とたてつづけ
に負け続けの上杉家。最悪なのが、よりにもよって、一番厭な相手伊達にさえ、福島城、松川でも
大敗北を喰らい、勝ち逃げされていた事実まで指摘され、面子丸つぶれなわけだw

大日本戦史を捏造と否定するも、その根拠も示せず。無理もない。ソースは古老咄のみだから
説得力のかけらすらないw
491日本@名無史さん:2005/08/26(金) 07:08:34
上杉は蔭では最上に裏工作をして(金まで与えて)何とか中立を保って貰いたかったのが本音だ。
それをすげなく断られたのは有名な話。これで頭に血が上った景勝が見当違いな最上侵攻を図った
上、格下とみていた最上に負けてしまった。家康がこれを見てどう思ったかは、
戦後の島津と上杉との扱い方を見れば、歴然としている。

そもそもスレタイ自体がナンセンス。武勇の面では(知力の面においても)、上杉景勝など、島津とは
比較の対象にすらならない。伊達にも負けたことでもあるし。
492日本@名無史さん:2005/08/26(金) 07:09:40
おや失礼。謙信だったねw
493日本@名無史さん:2005/08/26(金) 07:11:11
と、荷駄を「持ち逃げ」され地団駄踏んだ政宗君が書き込みましたとさ。
494日本@名無史さん:2005/08/26(金) 08:44:35
資料だけじゃなくて、地元になにか口伝って残ってないのかな?
絶対的な資料じゃなくて参考までに聞いてみたいです。
495日本@名無史さん:2005/08/26(金) 10:53:52
信夫山の神社一帯(現・愛宕山広場)は1600年の兵火で上杉に全社寺、民家共に焼き払われた。
と地元では伝わってる。
大日本戦史にはここが激戦区になったとは一言も書かれていないんだがね。
496日本@名無史さん:2005/08/26(金) 11:52:13
>>495
> 大日本戦史にはここが激戦区になったとは一言も書かれていないんだがね。

その大日本戦史は、参謀本部編のものと高柳光寿編のもののどちらですか?
497日本@名無史さん:2005/08/29(月) 01:25:57
オレは伊達厨だが・・・島津厨の人はこのスレの流れ・・・これでいいの?w
498日本@名無史さん:2005/08/29(月) 08:46:26
島津厨的には、鉄砲装備率が違い過ぎるんでスレタイの勝敗は、
見えてると思ってるから別に気にしてない。
兵の士気とかその他の要因は、有意なほど共に差は、無いだろうし。
499日本@名無史さん:2005/08/29(月) 14:03:41
島津厨の人の心は寛大だな。この差が幕末で(ry
500日本@名無史さん:2005/08/29(月) 16:57:43
>>496
当然参謀本部編に決まっているでしょ。
501日本@名無史さん:2005/08/29(月) 18:06:47
頼山陽も、上杉の古老咄を吟味もせずに信じ込んで、恥ずかしい文章を後世
に晒すことになった。これも慶長6年の4月の話だという。実際3月で事実
上、伊達・上杉のセコイ小競り合いは終了していたという説もあるのだが。

 六年(一六〇一)二月、政宗また来り侵す。繁長また撃って、これを卻く。
 政宗、転じて逢隈河を渡って梁川を攻む。城将須田大炊、四伏を設け、与
 に戦ってこれを破る。四月、政宗、兵を留めて須田に備へ、還って本荘を
 攻む。本荘出でて松川に拒ぐ。敵を侮って備えず。政宗、暁に乗じて済り、
 撃ってこれを敗る。本荘走って福島に入る。須田これを聞き、逢隈河を済
 ってその兵を破る。遂に政宗の軍後を襲い、本荘と夾み撃ってこれを走らす。
 景勝、乃ち自ら将として出づ。政宗驚いてその軍を舎て、独り十余騎と間道
 より白石に走る。

政宗は何度も何度も、上杉の「挟撃」にあい、会津の「間道」を疾風のように走
り抜けたらしい。さぞや政宗もいたずら小僧のように、愉しかったに違いないw
しかし本荘の活躍は、これだと1601年4月になってしまう。1600年10/6の
「大活躍説」がまたまた嘘くさくもなる訳だ。
502日本@名無史さん:2005/08/30(火) 01:46:47
「復刻・信夫山」「信夫山めぐり〜ほんとの信夫山の歴史」両方見つかったので内容を書
いてみる。この著者は伊達側の資料では「伊達治家記録」上杉側の資料では「上杉家記」
「慶長上杉軍記」「東国太平記」黒沼神社(政宗本陣)の記録として「御山村誌」等を参考に
している模様。ここには「本庄氏と色部氏」を著した渡邉三省が参考にした「本庄家文書」
「本庄氏記録」といった資料名は見られない。

梅宮茂氏が「伊達治家記録」に拠った文章は、まず戦の日付(10/6)。瀬上の柵、宮代の
古城、鎌田、本内両砦これらの戦。摺上川渡河の様子。そして政宗本隊を除く伊達軍各隊
の進軍経路(景綱、景頼、綱元そして米沢との連絡を絶った伊達別働隊)。砂金実常による
羽黒山南からの砲撃(治家記録内では「鉄砲による射撃」とあるが)福島城から出た内応者
(元藤田信吉の家来)+町人による永井川の橋引き落とし。国見山へ退却する政宗。上杉
の夜襲を恐れ、一杯森に茂庭。小山荒井に陣取る成実の様子。最後は本庄繁長による伊
達の追撃は結局出来ずに終わった、と治家記録通り書いている。

それどころか「東国太平記」(会津陣物語と同じ著者)に書かれてある政宗大敗走ルート、
政宗本人と十騎ばかりの飯坂→茂庭→白石敗走説は地理上に矛盾があると指摘、景勝が
福島へ援軍に来た記述も併せて「有り得ない」と否定している。そして政宗が寂光寺に匿わ
れた話も、後世の民話だと切り捨てている。が、ここは梅宮茂氏も後年思う所があったのか、
1941年初版であるこの「(復刻)信夫山」と違い、1990年に出版された「信夫山めぐり」では
「羽黒山別当慶印に守られ〜寂光寺にかくれ〜茂庭経由で仙台へ帰ったと伝えられてい
る。」説のみ紹介。逆に上杉説&民話説よりへと文意が変化している。
503日本@名無史さん:2005/08/30(火) 01:51:25
ほぼ全ての内容で治家記録を参考にした梅宮茂氏だが、戦の要所では上杉側の記述も
織り交ぜている。松川合戦(上杉軍が松川北岸、南岸に分散した戦術の不徹底、乱れ)
の様子。「東国太平記」に書かれてあると紹介した、岡左内が羽黒山麓で旗を立て、松
川で敗れた軍を立て直す様子。梁川城主須田大炊が阿武隈川を渡り、(治家記録では
車丹波のみ荷駄を奪って帰る)伊達勢の後備を急襲。竹に燕紋の帷幕、兵糧、玉薬類
を奪い取る。その攻撃に動揺した伊達軍へ城側の齋道二が斬り込み、政宗は危うく難を
逃れた。とし、この上杉の手厳しい反抗を受けた政宗は国見山へ退却。そこで夜襲を警
戒する。といった地家記録の流れへと繋げている。

景綱が外曲郭を攻め破り、その後政宗への諫言。「間も無く福島城は落ちますが、我が
軍も兵を多く損ないましたので撤退しましょう」(日本戦史とは若干違う)それを聞き、梁川
城に後方を絶たれる事を案じ出す政宗。これら治家記録内の描写を梅宮氏はカットした
代わりに政宗本陣への急襲。といった上杉側の記述を挿入している。

明治9年の「御山村誌」によると、政宗が本陣を置いた黒沼神社裏手には上杉氏と伊達氏
が合戦し、その戦死者が埋まった塚が、開拓した今猶12有る。と書かれ、梅宮氏本人も
戦後、8基の小円墳を実際その目で確認している。現在は道の拡幅工事その他で塚は全
て取り壊されたそうだ。他にも信夫山山上まで当時の刀が発見されるなど、政宗本陣周辺
が主戦場であった可能性が非常に高まって見える。

この戦で信夫山の社寺、山伏村、民家が全て上杉により一字も残さず焼き払われ、山上の
宮人、六供坊らすべての山伏が仙台に移り住み、信夫山の古名「青葉山」がそのまま青葉
城になったのだと「寂光寺因縁記」「残月台本荒萩」といった書を交えて解説している。伊達
家と信夫山の関りは古く、圧倒的な軍勢で終始優勢だった政宗が黙って社寺の焼き討ちを
見ている筈も無い。
やはり両軍、信夫山を舞台に死力を尽くし戦ったとする説は非常に説得力がある。そして伊
達軍に比べ20分の一とも言われている上杉軍が奮戦勇躍。互角以上の戦いを繰り広げ
た結果、伊達軍国見山への退却を見事勝ち取ったと言えるのではないだろうか。
504日本@名無史さん:2005/08/30(火) 03:35:24
>>502
>政宗本人と十騎ばかりの飯坂→茂庭→白石敗走説

 これらの上杉の史料では、いずれも日付の矛盾とダブリを説明できない
 (慶長5年10.6と慶長6年4.26の2回にかけて、政宗は十騎ばかりで
  白石へ走っていることになる)

上杉方は盛んに伊達を撃退した喧伝するものの、奇妙なことに、福島城の戦いでは、伊達方の名の
ある有力武将(陣代や軍奉行クラスの将校)はただの一人も死んでいない事実。
実際は、10.7に退却に入った伊達の小荷駄隊を追尾し、人足、雑兵を急襲して、陣幕を奪うのがや
っとであったろう。

伊達の史料では、総崩れ・撤退の記録は、後にも先にも、天正16年の大崎合戦(中新田城攻防)
の1回きりしかない。
505日本@名無史さん:2005/08/30(火) 05:12:40
伊達治家記録では景綱の武者頭、国分外記が町内にて戦死。
須田助総がその兄と相働くも討死。その死骸を兄が引き揚げる。とあるが。
506日本@名無史さん:2005/08/30(火) 07:27:43
>>505
それだけ? ちなみに、天正18年の葛西・大崎一揆鎮圧時の宮崎城の戦いでは、伊達が総力を
挙げた戦いだった(総兵力24000人)が、先陣を切った重臣の伊豆景隆が討ち死にしている。

浜田は、大崎合戦の軍団責任者で陣代をつとめた大物だ(この下に、二将として留守政景、
泉田重光、軍奉行・小山田筑前、目付・小成田重長がいた)

伊達軍は、決死の覚悟で籠城を決めた敵の怖ろしさは十分知り尽くしている。
福島城への攻撃が長期化することを憂え、力攻めを中止したのも、片倉らの意見の通りで
正しい判断だったといえるだろう。
507日本@名無史さん:2005/08/30(火) 09:43:17
まさか、籠城なんて初めから計算内でしょ。
結局は上杉が撃退したことになる。
508日本@名無史さん:2005/08/30(火) 12:46:15
その日の内に退却した先が、国見山ってのもな。
一日中押し気味だったにしては、あまりにも北過ぎるし性急すぎる。
勝ち戦だけだったら普通ここまでは下がらないと思う。
509日本@名無史さん:2005/08/31(水) 00:32:17
503さん乙!俺の中では、ある程度答えが出た感じで嬉しい。
しかし良識ある伊達ファンじゃなく、良識ない伊達厨はキモイな。
都合の悪い文はスルーで、揚げ足取り連携で満足か?
圧勝じゃなくていいじゃん。お互い死力を尽くしたでさ。
510日本@名無史さん:2005/08/31(水) 14:50:48
>>509
そんなんで納得する連中ならココまで伸びないよ(w
イタイ上杉厨とキモイ伊達厨ががんばった結果
511日本@名無史さん:2005/08/31(水) 16:08:38
そして参謀本部編「大日本戦史」の謎が残った。
512日本@名無史さん:2005/08/31(水) 16:19:56
>>504
それは上杉も同じ。本庄繁長は勿論、その子義勝、杉原、斉藤、岡野、小田切、須田、車等
伊達治家記録内では圧勝を謳っている割に、
上杉側の各隊を率いた、これら野戦軍の武将達が討ち取られていない不自然さ。

伊達勢が大坂夏の陣で真田に撃退された誉田の戦において
一説によると八百mも後退した事になっているが
「陣代や軍奉行クラスの将校」は誰か討たれたか?

戦で敗走状態になる度に、軍奉行がいちいち討たれる訳がない。
まして陣代ってw
513日本@名無史さん:2005/08/31(水) 16:22:33
>>503
 >これら治家記録内の描写を梅宮氏はカットした
 代わりに政宗本陣への急襲。といった上杉側の記述を挿入している。

 おいおい、また、上杉に都合の良い捏造か(w
514日本@名無史さん:2005/08/31(水) 16:25:37

 慶長6年4月26日の松川の合戦? 伊達と上杉が戦闘?
 何、それ?(苦笑)
515日本@名無史さん:2005/08/31(水) 16:41:53
>>513
いや、何も伊達治家記録だけが100%正しいとは限らない。
伊達の記録だけでは政宗本陣裏にあったとされる夥しい戦没者塚を説明できない。
その部分が上杉の記述と合致しているのなら、
それをもって補完するのは理に適っている。
どちらかが丸々真実で、どちらかが全て嘘と言い切ってしまう単純な思考こそ
人から嘲笑されるべき。
516日本@名無史さん:2005/09/01(木) 15:31:20
>>491
おいおい笑わせるなよ。
上杉の軍勢はわずか2週間で長谷堂城と山形城を除いて最上領を席巻。
これのどこが最上の勝ちなんだ?

城なんてのはいかなる攻撃を受けても数ヶ月〜数年は持って当たり前。
岩屋城の高橋招運はわずか八百の手勢で4萬の島津郡相手に数ヶ月闘い続けて、数千の兵を道連れに玉砕。
長篠城の奥平はわずか五百の兵で武田1万5千相手に奮闘し続けた。
秀吉も中国攻略の時、中小の城を落とすのに数ヶ月〜2年かけてるぞ。

ヘタレの最上の城を落とすごときに数ヶ月もかかるまい、
あと1、2週間、関ヶ原が遅ければ、長谷堂城も山形城も落ちて最上は滅亡してた。
517日本@名無史さん:2005/09/01(木) 15:49:00
>>516
北条氏康が対上杉謙信に使った、城を捨てることで勢力を分散させ、軍を集中させる戦法もある。
北条の例になっちゃうけど、最後は小田原城だけになったけど、上杉軍が進軍できずに攻め寄れなくて引き上げる結果になった。
さらに、引き上げと同時に、奪取された土地をほぼ奪い返し、秀吉の小田原攻めまで関東を支配してる。
止めを刺されなければ、巻き返せるから、大局的には負けにはならない。
それに最上も領土を取り戻したし{その後家康に改易されたけど}勝ち負けで言えば、追い返して領土の維持をしたから勝ちに入る。
千早城の楠木正成の例もあるし、城攻めは城ごとによって難易度が全然違う。
その辺も考慮するともっと面白い意見になると思うよ。
読んでて>>516の考察がなんか勿体無い気がする
518日本@名無史さん:2005/09/01(木) 16:00:38
>>491
>格下とみていた最上に負けてしまった
本当に格下として侮っていたの?最上に攻めざる終えない状況にされたんじゃないの?
景勝の内政とか見てると武派だけど、そんな浅慮な人に見えないんだけど
>戦後の島津と上杉との扱い方を見れば、歴然としている
力を温存し、部名を上げて「戦闘態勢」で引き篭もってる島津
力を奪われ、降参を示している上杉
島津とは和議。上杉は敗戦国の処分。
扱いと持っていた実力の関係を示すには説明にならないと思うんだけど
519日本@名無史さん:2005/09/01(木) 17:41:41
>>516
>城なんてのはいかなる攻撃を受けても数ヶ月〜数年は持って当たり前。

白石城はわずか1日で陥落w 
520日本@名無史さん:2005/09/01(木) 19:41:39
景勝は戦わずして土下座w
521日本@名無史さん:2005/09/01(木) 20:34:06
>>519
まあまともに守らないと岐阜城(稲葉山城)みたいな名城でも半日で落ちる事あるね。
そういう意味では城で粘った最上は評価できる。

>>517
もしも戦国期の状況なら最上は上杉に1、2ヶ月で滅ぼされているような状態だったよ。
確かに上杉の最上領攻めは関ヶ原の合戦が一日でケリがついて、あぶなくなった上杉は速攻で撤退したけど、
そこまで最上が完璧に計算していたとは思えないが?
東軍・西軍の抗争がもうちょっと長期化していたらヤバかったんだしね。

そんな事言ってたら、わずか八百の兵が篭る岩屋城を4万の大軍で数ヶ月落とせず、時間を稼がれ
結果として大友を滅ぼせず豊臣軍上陸を許して、危うくお家滅亡になりかけた島津はもっとヘタレだよ。
522日本@名無史さん:2005/09/01(木) 21:17:43
上杉の家臣の一人、本庄繁長にも勝てないのが最上。

h
ttp://www.iwafune.ne.jp/~osyagiri/tenjihin/bunpu.htm
523517:2005/09/01(木) 21:18:15
>>521
>結果として大友を滅ぼせず豊臣軍上陸を許して、危うくお家滅亡になりかけた島津はもっとヘタレだよ。
その時の義久公の采配はまさしく「ヘタレ」だったと私は思ってる。
自軍を過信し、戦費を惜しまぬ位攻めする秀吉の認識不足。
僻地での情報戦に負けてしまったのが原因の一つだけど、あれだけを取れば、上で言った最上にも劣る作戦だったと思っている。
その後、義弘公がこの情報活動を活発にしてるけど結局はぎりぎりだったし。
ちなみにだけど、最上の動きは家康の指示だったと聞いたことがある。
本来は、もっと積極的に上杉を翻弄する予定だったらしいが、そこまでの実力が無かった。
故に秀忠のときに改易・・・・・真の所で実力があるかどうかが、島津との分かれ目


524日本@名無史さん:2005/09/02(金) 00:25:09
>>520 戦わずして土下座w
って母親まで人質にしてさっさと徳川傘下に走った前田利長みたいな人のことじゃないの?
強者に擦り寄って家を守る侍の本能上等、寄らば大樹の影で上手く乗り切ったよなー、あそこは。
それにしてもやっと上杉と島津の話題に
525日本@名無史さん:2005/09/02(金) 00:32:20
>>511
見て来た。案の定別物だったよ。
ただ「大日本戦史」の関ヶ原の巻が残ってなかったんで、長篠の巻で比較したけど。
「大日本戦史」には川中島、姉川、三方が原、長篠、石山、手取川などが一冊の本に載せてあった。
それぞれの合戦評を別々の一個人が書いており、長篠の戦は42頁足らずw
「日本戦史」は丸々一冊「長篠役」として存在。(239頁)
本の構成、一章ごとの中味、戦を紹介した文章。全て違っていた。
「日本戦史」が「大日本戦史」の簡略化された再販本というのは伊達厨のデマでした。
526日本@名無史さん:2005/09/02(金) 01:49:27
何かね〜、関ヶ原の奥羽戦線を見る限り、上杉家ってのは立ち回りがヘタだよな。
外交下手というか、「馬鹿正直」というか。何、最上相手にムキになってるのかと。
上杉は畑谷城を落とすまではよかったが、上山城で最上の奇襲攻撃でいきりなり大敗
を喫するなど(笑)、「武力面」でも相当な疑問符がつく。これをみて、伊達政景
の部隊が最上領へ前進する。
最上、伊達というコンビは、謀略能力、狡賢さ、老獪さにかけては、筋金入りだ。
上杉などより一枚も二枚もうわ手の相手であり、これを戦術的に潰すことなどまず
不可能な話だ。福島城を「防衛」したと自称する上杉など、政宗からすればおめでたい
相手でしかないだろう。
527日本@名無史さん:2005/09/02(金) 09:36:52
最上など上杉にとって一ヶ月あれば踏み潰せるような存在。
ただ二週間では駄目だったというだけの話。
528日本@名無史さん:2005/09/02(金) 09:51:07
最上、蒲生は改易。
伊達は怪しい動きで百万石ならず、ある程度の石高でとめおれた挙げ句、
政宗は実際は関ヶ原戦後はお家の維持のために激務をこなし胃腸まで壊した(ソース、NHKの歴史番組)。
また領民に対しても商業を禁止しわずかの手付け金と引き替えに全ての脳作物や特産品を奪い、領民は相当苦しんだ。

上杉は家臣をリストラする事もなく、直江兼続の内政により実質50万石といわれる豊かな藩となり、
のちに嫡子が絶えて石高半分に減封されたものの、これはむしろ当時としては寛大な処置だし、
上杉鷹山の善政により藩政は安定した。
天保・天明の飢饉で東北諸藩が地獄絵図となっている時も上杉領では一人の餓死者も出さなかった。

ついでに島津は表高より低い実高や多すぎる武士人口に幕末まで苦しんだ。
確かに倒幕はなしとけだが農民や琉球の民には地獄だった。
529日本@名無史さん:2005/09/02(金) 09:59:22
伊達家は全ての脳作物や特産品を藩で買い取って、農民に勝手に余剰物資を売り買いする行為を禁止して、
藩で江戸に米や特産品をもっていくなどの商売を行い多額の商業利益を手にした。
これは始めは農民にとっても良かった。藩が買い取ってくれるので簡単かつ楽であった。

が、しかし・・・
物価というのはどんどん上昇するものだ。
現代なら物価が上昇しても同時に給料も上昇するのであまり問題はない。
しかし伊達家の場合はどれだけ物価が値上がりしようと農民からの作物買付料を値上げはしなかった。
そういうわけで、時代が下るに従い買付料と作物の価値がアンバランスになり、
農民の生活は圧迫されていった。
530日本@名無史さん:2005/09/02(金) 12:26:35
>>525
389 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 13:48:37
>>388
ぐぐって高柳氏監修の本もちだされても、あっそとしか答えられないんだけど
都道府県レベルの自治体の図書館に行って、実際に見てきてら?
陸軍参謀部編纂の大日本戦史が置いてあるから

復刻版は読んだことないね
だから、どう校訂されてるかは知らない
復刻版読んだのなら、基の資料紹介や、中で使われてる書状等の活字化は勿論されてるよね?
大日本戦史では、そうなってるから

というか、こんなレス返ってくるとは思わなかった
釣りかな?

ということで、一番の釣り師は>>389でした。
早く「参謀本部編の『大日本戦史』」を所蔵している図書館を紹介しろよ。実際に読んだって>>408
書いてるんだから。

397 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:17:05
煽りも結構、どうぞネット検索で悦に入ってくださいね
406 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:37:28
明日にでも図書館行って撮ってくるよ、ぐぐるだけで、足運ばない人間相手にはそれしかないから

他人をこうまで決め付けておいて、軽快にスルーでつか?
531日本@名無史さん:2005/09/02(金) 16:09:11
謙信公亡きあと ある合戦で越後勢の勇猛果敢さが褒めたたえられると
越後勢いわく 謙信公の下ではこんなヤワな戦いは無かったと。
蛇足、太平洋戦争で一番強かったのは、東北の師団(兵隊になれば三度の
メシが食えた 当時としてはコレ重要)
上方の兵は弱かった(又も負けたか 丁稚連隊 大阪の連隊 当時の世界
水準でいけば 上方兵も世界最強)
当時世界最強は 日本兵とグルカ兵。
532日本@名無史さん:2005/09/02(金) 17:28:30
>>531
大坂冬の陣、鴫野の戦いで戦功を挙げた時の杉原親憲ですね。
司馬遼太郎氏がわざわざ墓を訪ねたくらいお気に入りの武将。
533日本@名無史さん:2005/09/02(金) 22:21:04
>>531
ひょっとしてそんな田舎武者の大風呂敷を真に受けてんの?w
534日本@名無史さん:2005/09/02(金) 23:27:32
上杉側の資料三公外史に「(福島)城の内に そゝそやきの橋など云う名所あり、政宗出
張の節討捕る首ども、大手の門外に埋め置き、上に大石これある由」といった記述など、
戦没者塚を著わす文章がある。実際一昔前の福島市内には松川合戦時の戦没者塚が多
方面に存在していた。即ち五十辺と曾根田に有った、これらの塚の存在から梅宮氏は激
戦地を著書の中で特定されている。その塚群の中で最も規模が大きい戦没者塚が黒沼神
社裏手にあったとの事で福島城側による政宗本陣への急襲説を、氏は採用している。一方
で伊達冶家記録に戦没者塚を示す記載は一切ない。

結局「福島市史」における松川合戦の内容が、上杉側の資料に大きく傾いているのも、こう
いった地元における史跡に沿った内容を選別した結果だろう。

上杉側が伝える感状の側面から見ても、冶家記録の姿勢として、都合の悪い事柄を意図
的に削除する志向が見受けられる。上杉年譜等によると、貝原勘解由以下十名が松川合
戦以降侵入して来た伊達軍を撃退した旨、その感状を直江兼続から貰っている。さらに後
日梁川の戦いでも小島豊後守、蓬田寒松齋、青柳隼人佐、小田切安芸らに同様の感状が
あったと、その感状の文面を併せて記している。日本戦史にすら松川合戦の記述(10/6,7)
に引き続き書かれてあるこれらの事象が、冶家記録内には匂わす文面が見当たらない。

治家記録内での松川合戦は、上杉側の説を知り、それにいちいち反駁する箇所といい、福
島城内の様子を雑賀の子供に頼ったとする注釈といい、少なくとも上杉側以上に年月を経
た後、筆記された物だと窺い知る事が出来る。資料的価値として疑問を持たざろう得ない。
福島城に篭った杉原親憲。その部下であった杉原親清が会津陣物語等を書き残す上での
参考資料の一つ、三公外史が「年号月日ともに別段なり、慶長五年か六年か覚束な」くなっ
たのも、上杉領に侵入しては毎度同じように撃退され続け、結局一群一城も奪えず、何の
進展も得られなかった政宗の粗漏さ、伊達軍の弱兵さに起因してはいないだろうか。
535日本@名無史さん:2005/09/03(土) 01:51:58
>>531
> 蛇足、太平洋戦争で一番強かったのは、東北の師団(兵隊になれば三度の
> メシが食えた 当時としてはコレ重要)

大嘘つきめ。日本最強は広島第五師団だ。東北の鈍重師団なんぞ物の役にたたん。
536日本@名無史さん:2005/09/03(土) 05:57:41
>>534
>上杉領に侵入しては毎度同じように撃退され続け、結局一群一城も奪えず、何の進展も
得られなかった政宗の粗漏さ、伊達軍の弱兵さに起因してはいないだろうか。

これは、上杉へ対する当時の伊達の認識だろう。上杉の場合、最上攻めに固執したものの、
「羽州街道にて9.16上山で大敗」兼続自身が9.16より長谷堂城を攻撃するも、はかばかし
い戦果が得られず、膠着状態が続き、9.29には上泉泰綱が戦死。
結局白河口へ出ることもならず、最上の長谷堂城も奪えなかった。この上杉の奥州関ヶ原
での致命的な蹉跌は、「何の進展も得られなかった景勝の粗漏さ、上杉軍の弱兵さに起因
してはいないだろうか。」と伊達と最上は認識したわけだ。

537日本@名無史さん:2005/09/03(土) 05:59:59
さて、治家記録と比較すれば、後世の史家や学者、軍人から、上杉の資料が
「物語」以上の「資料的価値として疑問を持たざろう得ない」扱いをされてき
たのは、その自己矛盾の故だ。上杉が残した「慶長6年4月26日にあったとい
う第二次松川の合戦」は上杉の史家が冷静に頭を冷やして再検証してみる価値
のある戦役ではあるだろう。(この時期に行われたとすれば、前代未聞の戦い
ということになるw このスレで検証されたように1600.10.6松川の合戦は上杉の
大敗。これに意趣返しのつもりなのか、1601.4.26の第二次松川の合戦は伊達の
大敗であったと、上杉の古老は古を偲ぶ)

なお三公外史が「年号月日ともに別段なり、慶長五年か六年か覚束な」くなった
のは、心理学的な説明をすれば、伊達政宗本隊の進撃、その強兵にいかに当時の
福島が蹂躙され尽くしたか、また福島の住民に深い印象とトラウマを残していった
か、の間接証明でもあるだろう。投降した城兵への伊達軍の残忍さ、とくに老若男女
含めての大殺戮は、とりわけ小手森城、宮崎城、佐沼城の陥落時の際の牛馬へいたる
までの撫で切りで全国的にも有名であったし、まして肌身で伊達の武略をしる福島の
住民にとっては、どれほどの恐怖だったことか計り知れない。伊達軍来襲ともなれば
「慶長五年か六年か覚束ない」ほどの恐怖感に襲われるのも無理もない話なのだ。
これが上杉方の、奇妙な記述、頓珍漢なブレにつながったと考えれば、全て合点がいく。
538日本@名無史さん:2005/09/03(土) 08:01:29
>>537
御宅にとっては、鬼の首でも獲ったかのように拘泥したがっている年月日の話だが、
今に始まった話でも何でもない。
松川合戦を研究した各学者達によって、年月日の混乱なら著書の中で散々指摘されている。
しかし資料自体がつまびらかにしている年月日の不正確さをもって、
書かれた全記述を打ち消す愚行などは犯していない。
それどころか非常に重要な点(城側による伊達本陣への急襲)において、
別のアプローチ(戦没塚、社寺の焼失、感状)に拠り、肯定する立場を採っている。
これらを勘案する事もなく、いきなり心理学的な説明(苦笑)を始めてしまう馬鹿馬鹿しさ。
挙句の果てに、福島の住民までが精神のバランスを欠いた等と言い出す始末。
歴史を語る以前にコントの台本でも書いている方がお似合いだよ。
539日本@名無史さん:2005/09/03(土) 08:22:22
>>538
>松川合戦を研究した各学者達

 地元の郷土史家2名だけ(苦笑)
540日本@名無史さん:2005/09/03(土) 08:31:57
>>536
内応者が出たとされる梁川城一つ落とす事すら出来なかった政宗。
しかも慶長5年、6年と連年出兵した結果で、この体たらく。
短期間で山形、長谷堂、上山以外の城、全て落とした上杉軍とは対照的。
これで福島城を攻めた伊達軍同様「進展がない」とするのは片腹痛い。
しかも撤退戦では最上義光の兜に銃痕を穿つなど、敵本陣を壊乱せしめている。
大事な神社一帯を燃やされ、本陣跡に多くの屍を残し、荷駄を奪われ、
たった一日で何一つ得られないまま信夫山から逃げ帰った政宗とは大違い。
541日本@名無史さん:2005/09/03(土) 09:00:58
ジャングル戦なら最強は台湾の高砂族部隊だぞ。普通に強いなら海軍陸戦隊や近衛師団だろ。
542日本@名無史さん:2005/09/03(土) 09:11:44
>>540
>短期間で山形、長谷堂、上山以外の城、全て落とした

落としたのは、雑魚城ばかりw 何せ慧眼な景勝のことだ。
西軍が死力を尽くして関ヶ原で戦っているのを尻目に
「長期間かけて」山形、長谷堂、上山の城を落とそうと
考えていたのだろうw
543日本@名無史さん:2005/09/03(土) 10:20:57
これまで唯一の自慢だった、福島城・松川の戦いも、事実上は上杉方の
敗戦で終了。挙げ句は捏造資料によるパッチワークにも等しい「撃退説」
までデッチ上げる、紅顔無知さには恐れ入るしかない。
まあ、ここまで暴露、論破されてしまえば、仕方あるまいがw
544日本@名無史さん:2005/09/03(土) 10:33:24
>>543
どう見ても伊達が上杉を論破してるようには見えないんだが…
むしろ逆に見えうわ、何をすくぁwせdrftgyふじこ
545日本@名無史さん:2005/09/03(土) 10:39:43
このスレの如く、伊達は本戦で活躍できず痴呆のゲリラ戦で活躍する祭好き?
546日本@名無史さん:2005/09/03(土) 10:59:18
伊達相手に上杉も相当善戦したのだろうが、政宗と岡野左内が
一騎打ちした上、双方槍を入れあったなどと話が拡大してくると、
さすがに創作だろ?とは思えてくるな。
547日本@名無史さん:2005/09/03(土) 11:06:40
蛇足 サイパン、テニアンの戦闘のどちらか忘れたが、米国第一海兵師団の
大隊長が私の望みは、日本陸軍の大隊を率いて戦うことだと、戦記にある。
548日本@名無史さん:2005/09/03(土) 12:31:55
蛇足 朝鮮戦争で、日本の士官学校を出た、韓国軍将校が日本語で
《突撃》といったら共産軍はあわてて退却した。
戦記にあるかどうか、ワシャ知らぬ。
549日本@名無史さん:2005/09/03(土) 12:50:09
薩摩隼人の方が強そう。
550日本@名無史さん:2005/09/03(土) 14:41:34
389 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 13:48:37
>>388
ぐぐって高柳氏監修の本もちだされても、あっそとしか答えられないんだけど
都道府県レベルの自治体の図書館に行って、実際に見てきてら?
陸軍参謀部編纂の大日本戦史が置いてあるから

復刻版は読んだことないね
だから、どう校訂されてるかは知らない
復刻版読んだのなら、基の資料紹介や、中で使われてる書状等の活字化は勿論されてるよね?
大日本戦史では、そうなってるから

というか、こんなレス返ってくるとは思わなかった
釣りかな?

397 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:17:05
煽りも結構、どうぞネット検索で悦に入ってくださいね

406 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:37:28
明日にでも図書館行って撮ってくるよ、ぐぐるだけで、足運ばない人間相手にはそれしかないから
551日本@名無史さん:2005/09/03(土) 15:02:04
どっちにしろ最上の上杉に対する戦いは
城に篭って時間を稼いだだけだから、こんなのを勝利といわれてもな。
朝鮮の役で朝鮮の連中が「我々の勝利だった」と言っているのと同じ。
552日本@名無史さん:2005/09/03(土) 16:10:49
>>551 最上のは勝利軍に貢献したという意味でだと思うよ。
朝鮮の屈折した考えとは、背景がかなり違うよ。
まあ、その部分だけみたら、朝鮮同様見苦しいけどね
553日本@名無史さん:2005/09/04(日) 02:03:04
「信長記」を大久保彦左衛門が評するに「三分の一は本当。三分の一は似た事
があり、三分の一はなかった。」という事らしい。
特定の文献のみ無条件で信じ込んでしまう行為よりも、ある程度裏付けが取れる
描写を紡いでいく方がより真相へ近付いて行く気がする。伊達上杉双方の文献が
各々矛盾をさらげてしまってる以上、事跡(出来事、事件があった跡)に合った文
面をジグソーパズルのように、一つ一つ嵌めていく作業こそ必要ではないだろうか。
554日本@名無史さん:2005/09/04(日) 02:05:59
別スレ立てたら
555日本@名無史さん:2005/09/04(日) 06:36:59
白石城の落城の際、留守にしていた城将甘粕景継への景勝の態度は怒りは
戦後もおさまることがなった。刈田郡を伊達に奪われたことが許せず、
相当根に持っていたようだ。哀れに思った家康が2万石で甘粕を招聘
しようとしたが、景勝はそれに横やりをいれ、断った。

その後、甘粕は不遇をかこう身となり、その二人の息子は、禄をはむ
こともできず、津軽を漂流したという。(『続武者物語』)
556日本@名無史さん:2005/09/04(日) 10:27:03
>>555
『続武者物語』って信憑性どうなの?

甘粕景継は、慶長六年の転封で、米沢に6,666石知行されてるんだけど。
で、その10年後に死去。
寺は米沢の林泉寺(上杉家菩提寺)。
法名は大応寺殿本休徹無大居士。

557日本@名無史さん:2005/09/04(日) 10:44:38
>>555
俺が覚えてる話と若干違うな。
家康の誘いを甘粕が
「どんな理由にせよ城を獲られたからには今の不遇は当然」
「主家は上杉のみ」みたいな事を言って断った。
それを聞いた家康が「そんな男だからこそ俺は家臣にしたっかった」
っつー話だったような。うろ覚えだから自信ないけど。
558555:2005/09/04(日) 14:06:51
>>557
漏れの勘違いだったかも。多分君の言うとおり。不遇をかこっているのは
自分の責任。「あえて主(=景勝)を怨まんや」と。
ただ、徳川2万石を断ったのは、やはり景勝への遠慮があったのでは
ないのかな? 他家へ招かれた上杉家臣は、それなりにいたわけだが。
559日本@名無史さん:2005/09/05(月) 20:07:46
上杉マニアが挙げた要点を読む限り伊達軍は本陣を襲われたようにしか見えないな。
結局本荘に撃退されたとされる説も間違ってなかったという事か。
560日本@名無史さん:2005/09/05(月) 20:42:35
>>559
上杉に「そうみえた」だけの話だよ。それは証拠ではなく憶測であり、
正確な資料はおそらく上杉からは永久に出せないだろう。あれば見たい。

実際は伊達は松川で上杉を徹底的に蹴散らした上に、首級300を挙げて、
凱歌をあげ、さっさと兵を退いただけに過ぎない。上杉は6日の夜だか翌7
日だかに、伊達の補給線に何とか追いつくのが精一杯で、そこで小荷駄隊を
襲い、陣幕を奪ってせめてもの抵抗と考えたのだろう(治家記録、大日本戦史)。
まあ、兼続のように、長谷堂城で10日以上も不様に膠着するような愚は、伊達
としても犯したくないとも考えたに違いないだろう。

なお本庄等の華々しい「空前絶後」の活躍は、政宗の仙台入府の慶長6年の4月らしい(笑)。
ここで政宗との一騎打ちをはじめ、伊達の本陣の陣幕を奪ったというのだから、開いた口が
ふさがらない。このお目出度い話を「信じてる」のも、精神衛生上はいいのかもしれないが。
その辺は、上杉の資料でよく確認するといいだろう。そう上杉が書いているわけだしw
561日本@名無史さん:2005/09/05(月) 21:00:08
389 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 13:48:37
>>388
ぐぐって高柳氏監修の本もちだされても、あっそとしか答えられないんだけど
都道府県レベルの自治体の図書館に行って、実際に見てきてら?
陸軍参謀部編纂の大日本戦史が置いてあるから

復刻版は読んだことないね
だから、どう校訂されてるかは知らない
復刻版読んだのなら、基の資料紹介や、中で使われてる書状等の活字化は勿論されてるよね?
大日本戦史では、そうなってるから

というか、こんなレス返ってくるとは思わなかった
釣りかな?

397 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:17:05
煽りも結構、どうぞネット検索で悦に入ってくださいね

406 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:37:28
明日にでも図書館行って撮ってくるよ、ぐぐるだけで、足運ばない人間相手にはそれしかないから
562寺尾:2005/09/05(月) 21:24:58
義弘〜島津当主説はどれくらい信憑性あるの?
563日本@名無史さん:2005/09/05(月) 23:29:00
なんか打通みたいな奴がいるなw
564日本@名無史さん:2005/09/06(火) 17:54:35
389 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 13:48:37
>>388
ぐぐって高柳氏監修の本もちだされても、あっそとしか答えられないんだけど
都道府県レベルの自治体の図書館に行って、実際に見てきてら?
陸軍参謀部編纂の大日本戦史が置いてあるから

復刻版は読んだことないね
だから、どう校訂されてるかは知らない
復刻版読んだのなら、基の資料紹介や、中で使われてる書状等の活字化は勿論されてるよね?
大日本戦史では、そうなってるから

というか、こんなレス返ってくるとは思わなかった
釣りかな?

397 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:17:05
煽りも結構、どうぞネット検索で悦に入ってくださいね

406 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:37:28
明日にでも図書館行って撮ってくるよ、ぐぐるだけで、足運ばない人間相手にはそれしかないから
565日本@名無史さん:2005/09/07(水) 07:57:19
もう↑みたいな基地外が煩いから>>389はさっさと証拠出して論破してこの話題終わらせろよ。
これだけ公言したからには嘘や思い違いってことはないんだろうし。
566日本@名無史さん:2005/09/07(水) 12:39:24
大日本戦史より抜粋「長篠の戦」項の目次(223頁〜265頁)
長篠の戦……渡邉世祐
一、序説  ニ、戦争の経過  三、武器としての鉄砲の利用
四、鉄砲利用の新戦術 五、結論

参謀本部編日本戦史「長篠役」目次
第一遍、戦役前ノ形勢
  第一章 武田徳川織田三家ノ行動
  第二章 東軍ノ兵力
  第三章 西軍ノ兵力〜其一、徳川 其二、織田
第二編、作戦
  第一章 長篠城ノ攻守
  第二章 両軍ノ計量措置〜其一、西軍 其二、東軍
  第三章 地理
  第四章 戦闘〜其一、鳶巣山ノ襲撃 其二、設楽原ノ決戦 其三、長篠城外ノ掃蕩
第三篇、戦後ノ動静及結果
  第一章 織田徳川二家ノ進取
  第二章 甲軍ノ保守
  第三章 武田ノ滅亡
領地図、城図、戦図、進軍図、将士表、地名箋、補博
567日本@名無史さん:2005/09/07(水) 23:53:37
>>566
その大日本戦史は参謀本部編じゃない>>389的に言うと偽物の方だね。
参謀本部編の大日本戦史マダー!!(AAry 図書館で撮ってきたんじゃないの?>>389
568日本@名無史さん:2005/09/08(木) 00:16:58
>>560
なんか必死になって長文レスしてくれたみたいだけど
内容がアホっぽいよ。
「そうみえた」とか訳分からん。
569日本@名無史さん:2005/09/08(木) 06:17:04
>>568
そのアホっぽいレスすら反駁できない上杉の情けなさ。
要は、治家記録に論理的に対抗できる上杉方の資料がないことが原因だろう。
出てくるのは地元の人間による上杉を好意的に解釈した憶測記事ばかりだし、
年号・内容とも出鱈目なのが痛い。

このスレの展開と決着は、事実上、治家記録の勝利宣言通りの展開になった。
570日本@名無史さん:2005/09/08(木) 06:32:14
本荘繁長は慶長6年4月下旬に福島城を防衛、岡野左内は松川で政宗の命をあと一歩
で奪いとるほどの大殊勲をあげたいうことで、上杉厨の皆さんも納得すればいいのでは
ないかなw 上杉の資料は、しっかり小説にも引用されているわけだしw

  慶長6年(1601)、なかでも4月の「松川合戦」は政宗自身が岡野左内と
  太刀打ちするほどの激戦となった。このとき政宗は左内の陣馬織を2度斬り、
  左内も政宗の兜を撃ち、しころを薙いだ。
  「あの粗末な武具をつけた武者が政宗だと分かっていたら、組んでも討ち
  取っていたものを」
 と、左内は後年まで口惜しがった。

  (岳宏一郎『群雲、関ヶ原へ』)
571日本@名無史さん:2005/09/08(木) 06:43:59
他にもあった。

  福島城の本荘繁長、甘粕清長、杉原親憲らの6千の兵と(慶長6年)
  4月26日に松川付近で激闘した時、政宗は上杉方の岡野左内に斬りつけ
  られ危うく一命を落とすところであった。また、政宗が福島城の柵際
  に近づくと青木新兵衛に槍をつけられ、兜の立物に辺り政宗は逃走した。
  この時の伊達軍の死傷は一千3百を数えたという。

  (土居輝男『常羽有情』第4巻)

このように小説では『会津陣物語』の世界は今日にも受け継がれているw
572日本@名無史さん:2005/09/08(木) 07:30:24
なお、上記の秋田の郷土作家土居輝男氏の引用部分は、風野真知雄『奇策〜北の関ヶ原福島城 松川の合戦』では、
慶長5年の10月6日の出来事として語られる混乱ぶり。

松尾芭蕉と弟子の曽良等が、古の戦場で思いをはせるという小説構成のため、風野氏の勘違いか、意図的な演出が
図られたに違いない。

上杉の資料の忠実な引用という点では、土居輝男氏が正しい。
573日本@名無史さん:2005/09/08(木) 10:39:55
>>569
>>560この文章こそ憶測 (というか毎度おなじみの間違い) だらけ。
冶家記録中、宮崎旨元率いる小荷駄隊が襲われたのは、隊が(福島城攻撃へ向った政宗の)
「御跡より福島表へ来る。」その途上の出来事としている。冶家記録内で福島城攻防戦の後こ
の記述がされているから、その後→つまり6日夜以降(苦笑)だとおそらく自分勝手に憶測した
んだろう(苦笑)残念ながら今回も大間違い。この文章の示す時間的経過は伊達の各隊南進
〜福島城攻防戦と平行しているんだよ。日本戦史でも政宗が羽黒山から戦況を傍観している
最中、既に小荷駄隊が襲われた事を耳にしていた。とし、梁川勢に後方を寸断される恐れを
抱くきっかけのように位置付けている。冶家記録と日本戦史。二つの文献の何処をどう読んで
も六日夜or七日なんて日時は考えられない筈。それとも「大」日本戦史とやらには「六日夜」と
でも書かれているのかな?

この戦によって政宗本陣周辺の全社寺、全民家の焼失といった事件や政宗本陣跡に残された
夥しい戦没塚群は、上杉の兵にとって「そうみえた」とか憶測といった類の物ではない。冷静に
考えて、上杉と伊達どちらの文献にも組しない第三者的記録。伊達冶家記録がこれらの事跡
と相反した記述だらけである以上、資料として正確なのは「年月日だけ」という事も充分考えら
れる。逆に「年月日」が正確ならば、全ての記述が正確だ。とでも言わんばかりの理屈は御目
出たい限り。この件について反証もせず、意図的に逃げ回りながら抗弁した所で、とても説得
力なんて生じない。

もっとも年月日記述について「覚束なし」とする上杉側の注釈も無視。松川合戦四月説に程度
の低い執着ばかり。その反論材料の乏しさ。極め付けは惨めなオレ流冶家記録、「大」日本戦
史を披露してしまうようでは取り付くしまが無い。そこへ来て苦し紛れの勝利宣言とは情け無い。
574日本@名無史さん:2005/09/08(木) 11:17:58
>>573
>冷静に考えて、上杉と伊達どちらの文献にも組しない第三者的記録。

 必死にこの資料に拘泥する辺り、全然「冷静」に考えていないようだ。
 大体、福島市にありながら「上杉と伊達どちらの文献にも組しない第三者
 的記録」とは?苦しい言い訳にもほどがある(苦笑)。その第三者とは
 誰なのかの記述すらない。形勢から判断する限り、伊達の死傷者ではなく、
 上杉方の大量の死傷者を捏造した可能性するあるだろう。
575日本@名無史さん:2005/09/08(木) 11:50:11
>>574
松川合戦四月説に程度の低い執着ばかり。

いやその部分にとりわけ「伝承」という形で固執しているのは
「上杉の資料」なんだが(苦笑)。秀忠の御成時に、景勝が
陣幕を誇らしげに見せたとまで、話に尾ひれまで付けて。
まあ、まともな学者からは完全に黙殺されている部分だから、
何をか況やであるけれど。別に個人攻撃をしているわけでもない。
攻撃ととっているようだが、その意味も理解できないようだ(苦笑)
576日本@名無史さん:2005/09/08(木) 12:16:45
松川合戦四月説を唱えているのは「会津陣物語」。徳川も刮目する、
天下を揺るがす合戦だったのかもしれないねw
577日本@名無史さん:2005/09/08(木) 14:02:04
>>576
最低の田舎大名同士の小競り合いのどこが天下を揺るがすんだよ。
だったら、一方の主役だけでもまともな大名な和賀一揆の方がよっぽど天下を揺るがす合戦だ。
578日本@名無史さん:2005/09/08(木) 17:20:42
まあ、どこの家でも都合の悪い事は書かないから
双方とも信憑性は薄い
ハッキリと分かることは伊達が福島攻めたが落とせなかったと言う事だけ
それだけでいいだろ
579日本@名無史さん:2005/09/08(木) 18:07:21
>>578
まあ、ここの連中は、そんなことは百も承知じゃね? 問題は以下のような
ことを平気で書く馬鹿がいるから、突っ込まれるわけだし。
これは松川合戦四月説だね(笑)

>陪臣ではあるが本庄繁長もすごい。
 関が原の戦いのあと20日ばかりして、信夫郡福島城に2万の兵力で攻め込んで
 きた伊達軍に対してわずか3,500の兵で迎撃し、これを撃破(松川の戦い)。
 伊達軍は本陣の幔幕を奪われ、自身も槍を入れられ落命の危機であった。
  (死傷者2,000以上)
580日本@名無史さん:2005/09/08(木) 20:24:29
>>579
「関が原の戦いのあと20日ばかり」って言うんだから四月ってことはありえないだろ。
それとも四月は四月でも、四月一日かな?
581日本@名無史さん:2005/09/08(木) 20:56:40
上杉に痛い所を突っ込まれた途端レスが一気に伸びたなw
それも短期間に。
必死なのは分かるがもう少し落ち着け、伊達。
と高みの見物。戦国最強はやっぱりSHIMAZU。
個人で言えば立花宗茂。敵ながら天晴れ。
582日本@名無史さん:2005/09/08(木) 22:16:21
伊達ワロス
583日本@名無史さん:2005/09/08(木) 22:17:02
>>1
上杉のが強い
584日本@名無史さん:2005/09/08(木) 22:23:53
【伊達厨】 特殊技能 挑発、扇動、連携、伏兵、自演
【上杉厨】 特殊技能 罵声、逃避、妄想
585日本@名無史さん:2005/09/08(木) 22:39:33
>>584 コーエーだったら強そうだ
586日本@名無史さん:2005/09/08(木) 22:49:37
>>581
痛いところ衝かれたのは上杉だろ?w 
つーか、おまえだろ? >>579で指摘されてたマヌケはw
笑いの壺は、松川4月説。ここがポイントだねw
587日本@名無史さん:2005/09/08(木) 22:54:12
>>573
年月日の矛盾を指摘する事に全てを賭けていた伊達厨。
実は、彼自らが日時を捏造したって事でFA?
しかも読み違いって…ダメじゃん…

そら必死にもなるわ。
588日本@名無史さん:2005/09/08(木) 22:54:45
>陪臣ではあるが本庄繁長もすごい。
 関が原の戦いのあと20日ばかりして、信夫郡福島城に2万の兵力で攻め込んで
 きた伊達軍に対してわずか3,500の兵で迎撃し、これを撃破(松川の戦い)。
 伊達軍は本陣の幔幕を奪われ、自身も槍を入れられ落命の危機であった。(死傷者2,00以上)
 また、これより十数年前の、十五里原合戦(対最上)でもわずか3,000の兵で
 1万を超える最上軍(当事は庄内地方も支配)を撃破、なんと死傷者は3,000以上という大勝であった。
 これ以降、最上氏は庄内の支配を失った。
 福島城の前の城代は水原親憲で、水原では心もとないというので本庄に城代を交代させたわけだが、
 その水原親憲でも、大阪冬の陣では2万の大阪方に5000の上杉軍で迎撃し(鴫野の戦い)完全に撃破
 しているので並みの武将ではない。
 伊達は、景勝が後詰めにいくまでもなく、しっぽを巻いて逃げ出すくらいだから
 全然強くないでしょう。


     苦 笑
589日本@名無史さん:2005/09/08(木) 22:56:50
>>587
本人が降臨したようだねw
590日本@名無史さん:2005/09/08(木) 22:59:45
出たw

陪臣ではあるが本庄繁長もすごい。
関が原の戦いのあと20日ばかりして、

→慶長5年10月6日

信夫郡福島城に2万の兵力で攻め込んで
きた伊達軍に対してわずか3,500の兵で迎撃し、これを撃破(松川の戦い)。
伊達軍は本陣の幔幕を奪われ、自身も槍を入れられ落命の危機であった。(死傷者2,00以上)

→慶長6年4月26日(笑)
591日本@名無史さん:2005/09/08(木) 23:02:52
こいつは「会津陣物語」を誤読したようだw
592日本@名無史さん:2005/09/08(木) 23:06:53
どうどう伊達厨。キモいよw必死杉wwwwww
593日本@名無史さん:2005/09/08(木) 23:10:14
>>587
意味わかる?w
594日本@名無史さん:2005/09/08(木) 23:11:42
これは痛烈な皮肉だ罠。
慶長6年4月26日説を書いている上杉厨がいたなんて…(苦笑)
595日本@名無史さん:2005/09/08(木) 23:14:19
誰に向って、何の話を必死になって訴えているのか、全然分からない。
596日本@名無史さん:2005/09/08(木) 23:15:27
問題はこの部分w

>信夫郡福島城に2万の兵力で攻め込んで
 きた伊達軍に対してわずか3,500の兵で迎撃し、これを撃破(松川の戦い)。
 伊達軍は本陣の幔幕を奪われ、自身も槍を入れられ落命の危機であった。(死傷者2,00以上)

 だ・か・ら、上杉本=「会津陣物語」では→慶長6年4月26日(笑)
 

597日本@名無史さん:2005/09/08(木) 23:19:30
>>595
よくスレをよむんでご覧。つまり、

 本荘は慶長5年10月6日に伊達を「撃退」らしい(?)ようだが、
 さすがに、慶長6年の4月26日の資料をくっつけるのは
 「会津陣物語」の作者に失礼だし、ルール違反じゃないのか?

と当たり前の指摘がされているだけだよ。w
598日本@名無史さん:2005/09/08(木) 23:25:24
一体お前は何番のレスに向って誰相手に話をしているの?
>よくスレをよむんでご覧。
取り合えず落ち着け。
自分のレスを書き込む前に一度読め。
深呼吸をしろ。
599日本@名無史さん:2005/09/08(木) 23:32:12
>>598
>取り合えず落ち着け。
 自分のレスを書き込む前に一度読め。
 深呼吸をしろ。

まずは、おまえがな。まさかあの慶長6年説の?
本人以外ならスルーできると思うが(以下ryw)

さすがに漏れも、腹痛いというか、
上杉の必死さ、痛々さに言葉を失っている(w)
600日本@名無史さん:2005/09/08(木) 23:32:40
意味わかった。

あれだ、慶長5年10月6日の話をしてたら、撃退した証拠として慶長6年4月26日の記述を持ってきたから
皆からはぁ?と指摘してるんでしょう?
601日本@名無史さん:2005/09/08(木) 23:37:44
>>599
そんなに詰め寄られても…(;^^
怖すぎる。どうした?不安な事でもあるのか?
602日本@名無史さん:2005/09/08(木) 23:40:23
>>600
つまり、そういうこと。「会津陣物語」はちゃんと「翌年の慶長6年4月」
と書いているわけで。ただ、この時期って、政宗は仙台城で茶でも飲んで
る時期じゃないかな。伊達が数万の大軍率いて福島城など出掛けている
場合でもないと思うよ。
603日本@名無史さん:2005/09/09(金) 00:26:18
>>602
ちょいと調べたけど、慶長6年4月14日に伊達政宗は仙台城に移ってるようで。
4月26日に出陣してるのは無理あり過ぎる様な気がする。

慶長5年10月6日の話はどうなのよ?
604日本@名無史さん:2005/09/09(金) 07:43:59
>>603
慶長6年4月説を仮にあったものとすると、さまざまな矛盾が出てくる。
(上杉の古老が、痴呆による年号の勘違いを犯した可能性が推察されるが)
前年の慶長5年の白石城攻めの際は、

  7月21日北目城→22日岩沼城→24日白石城平山着陣(北目〜白石まで4日)

というコースをたどった。4日かかっている。慶長6年説は、伊達軍は4月17日に
白石を発したという。が、ただし、7月14日に政宗は仙台入府したので、仙台から
北目を経由して白石城まで3日で行ったことになる。が、物理的に不可能なことが
ここではっきりする。しかも25000という大軍勢を引き連れてw そもそも
北目城から白石へまっすぐ向かえばいいところを、14日逆方向の仙台へと向かった
ことになる。「会津陣物語」は、日付け・軍の動員数など突っ込みどころ満載だ。
  
慶長6年の話は「伊達治家記録」と上杉方の民間伝承では、このスレ通り180度
見解が違う。1日で伊達が兵を退いたため、方や「撤退」方や「撃退」と言い合っている
状況だ。
福島城攻撃を中止し、総引き揚げ命令が下された後、これを追ってきた梁川城の須田大炊が、
小荷駄隊奉行の宮崎内蔵助を急襲、ここでおびただしい数の人足が討たれ、陣幕が奪われた。
宮崎内蔵助も討ち死にした。上杉に残っている伊達の戦没者塚の死傷者は、これらの死傷者を
指しているのかもしれない。
とにかく、伊達本陣の陣幕を奪い、政宗に槍を入れた件はこの慶長5年の話ではないので、
これを立証するには、慶長6年4月説を完全に補強し、納得あるものにしなければならないが、
まあ「古老の勘違い」故、それは難しい作業ではあるだろうね。
605日本@名無史さん:2005/09/09(金) 07:51:16
× 慶長6年の話
○ 慶長5年10月6日の話
606日本@名無史さん:2005/09/09(金) 16:17:25
>>604
>伊達本陣の陣幕を奪い、政宗に槍を入れた件はこの慶長5年の話ではない
慶長五年の話としても何ら問題はない。書かれてある内容、参加している武将、戦死する上杉、伊
達双方の武者頭、そのエピソード(形見の陣羽織)、主戦場等。これらは冶家記録中の記述とほぼ
一致しており、その慶長5年と同じ合戦を書いている事は明白。上杉側の資料は単に年月日の扱
いが疎漏、不正確という事であって、これを判断出来ぬまま松川で二回の大合戦があった、と判断
する者はまずいない。(ここの掲示板にいるくらいな物)会津陣物語始め東国太平記の元となる資
料をを筆記した、とされる杉原親清(彼は杉原親憲の部下であるから松川合戦に参加していた可
能性は非常に高い)彼の著作には所々の箇所において、上杉家資料に拠っていると梅宮氏の著
書の中でも指摘されている。その上杉家資料の中には「慶長5年か6年か覚束なし」とする上杉文
書も含まれており、この注釈を杉原親清なり、後年編纂した者が削ってしまった等、如何様にも考
えられる。

>慶長6年4月説を完全に補強し、納得あるものにしなければならない
各々立場の違った文献を数多く参考にした上で、松川合戦の実態を補強し、納得あるものにしなけ
ればならない。上杉、伊達どちらか一方の文献が年月日含め、内容も全て正確だとするのはナン
センス。上にも発言があったように両家の記録だけでは「都合の悪い事は書かない」為、冶家記録
も意図的に書かれなかったり削除された記録がある、といった事は充分有り得る。現に1667年の
富田(黒沼神社神主を代々継いだ家)文書における政宗本陣周辺の全社寺焼失。江戸〜明治に書
かれた「御山村史」「信達二郡村史」内に記された各戦没塚群の実態。これらは上杉方の民間伝承
ではなく、一方は黒沼神社の記録、もう一方は上杉とは既に何の関わりも無い村落の記録。こうい
った上杉、伊達の資料ではない第三者の記録と、「政宗小山の陣所を尽く焼き払った」とする会津
陣物語等は符合している。一方、冶家記録内には、信夫山周辺に残された、これらの事跡が生じ得
る合戦の描写は全く見られない。
607日本@名無史さん:2005/09/09(金) 16:20:20
>>604
それより「総引き揚げ命令が下された後、これを追ってきた梁川城の須田大炊が」こんな、いかにも
「自分は資料を読解できない」旨、自ら吐露してしまうような訳文を書き込んでしまう事こそ問題。普通、
間違いを指摘されたら確認くらいするだろうに。あと戦没塚群は政宗本陣跡だけでなく、東隣の五十
辺、福島市西の曾根田。他にも荒井にまであったとされる。平地に戦没塚が沢山あったのに、わざわ
ざ山麓の政宗本陣跡まで運び、登ったとは考えにくい。しかも「開拓して猶12基」もあった本陣跡の戦
没塚群を埋めようとするならば、死体の山が必要。この場で激しい戦闘があった確たる証拠だと見な
されている。
608日本@名無史さん:2005/09/09(金) 16:48:26
389 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 13:48:37
>>388
ぐぐって高柳氏監修の本もちだされても、あっそとしか答えられないんだけど
都道府県レベルの自治体の図書館に行って、実際に見てきてら?
陸軍参謀部編纂の大日本戦史が置いてあるから

復刻版は読んだことないね
だから、どう校訂されてるかは知らない
復刻版読んだのなら、基の資料紹介や、中で使われてる書状等の活字化は勿論されてるよね?
大日本戦史では、そうなってるから

というか、こんなレス返ってくるとは思わなかった
釣りかな?

397 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:17:05
煽りも結構、どうぞネット検索で悦に入ってくださいね

406 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:37:28
明日にでも図書館行って撮ってくるよ、ぐぐるだけで、足運ばない人間相手にはそれしかないから
609日本@名無史さん:2005/09/09(金) 20:26:59
>>606
>上杉側の資料は単に年月日の扱いが疎漏、不正確という事であって、これを
 判断出来ぬまま松川で二回の大合戦があった、と判断する者はまずいない。

いや、「会津陣物語」は、上杉がいかに何度も何度も伊達の侵略を撃退したかを
自画自賛する物語ゆえ、この第二次松川合戦4月説は外せない。これが物語の白眉
に当たる部分だから。
実際、上杉びいきの小説家は、10月の福島城の戦いは「本荘が固く守って防衛した」と
さらっとした記述にとどめているのに反し、こと慶長6年4月の松川合戦は「あったもの」
と判断して、健筆ぶりを発揮している。
例をあげればきりがないが、「大軍師直江山城守」(中村晃)などがその好例だろう。
610日本@名無史さん:2005/09/09(金) 21:00:24
>>586
うはw基地外キタ!!!!!!
痛すぎるぞお前。
611日本@名無史さん:2005/09/09(金) 22:34:39
>>610
うはw遅レスキタ!!!!!!
痛すぎるぞお前。
612日本@名無史さん:2005/09/09(金) 22:43:27
603だけど、会津陣物語には慶長5年10月のと慶長6年4月の2回あるんだよね?
上杉方の肩持つ人は、会津陣物語の慶長5年10月の話をなかった事とし
慶長6年4月の話を10月とする理由は>>606でいいの?

読む限り、注釈を削ったと考えられるなど、強引な解説な気がするが。
613日本@名無史さん:2005/09/13(火) 01:39:14
>>612
慶長五年十月から翌六年四月まで上杉、伊達は盛んに小競り合いを繰り返しているので、多少の
年月日の混乱は仕方がない面もあると思う。貝原勘解由以下十名が伊達軍を撃退した旨、その感
状を直江兼続が発している。「去(慶長五年十月)二十ニ日桑折表において政宗兵と相戦い、各鑓
下にて敵首数多討捕り、手柄ども御感候」翌年(二月説、三月説あるが)梁川の戦いでも小島豊後
守、蓬田寒松齋、青柳隼人佐、小田切安芸らにも感状があった。「今度信夫に向って正宗出張の
処、その地見届け、半途に乗り切り、走り廻り高名の由、神妙に思し召され候」これらの戦は参謀
本部編集日本戦史にも松川合戦の直後、両方記載されている。

他にも慶長六年二月七日本庄義勝が池甚五左衛門、小田切切所左衛門、布施次郎右衛門らを率
いて、伊達の郡左衛門尉、伊達宗景と戦い、之を「追い崩」している。同二月二十八日一部隊を率
い、信夫郡に侵入して来た伊達の木幡四郎右衛門が「岡佐渡守掛け合い〜直取に討ち取」られて
しまう戦も上杉文書に記されている。一方で伊達冶家記録上、こういった小競り合いは殆ど書かれ
ておらず、慶長五年十月十三日、直江兼続が二本松に到着。その報に接した政宗以下諸将が白
石城で軍議を開いた、程度しか書かれていない。

当初上杉、伊達の小競り合いについて上杉年譜、上杉家記、上杉文書、小出風土記、信達一統志
等上杉側の資料は、この会津陣物語を含め記述に統一感が無く、決め手が薄いとされてきた。上
杉文書や杉原親清が年月日を混乱してしまう位、頻繁にあったとされる松川合戦を含めた、上杉と
伊達の抗争。その上杉軍の勝利。これらが本当にあった戦なのか、疑問視される向きも確かにあっ
たようだ。
614日本@名無史さん:2005/09/13(火) 01:45:30
しかし昭和四十年九月。福島県史(市史の方ではない)調査において「高橋よしい家文書」が発見さ
れる。この中に小手六十三騎の資料が保存されていた。小手六十三騎とは小手領内の豪農から選
出された六十三人の事で、松川合戦及びその前後に起こった出羽方面、伊達との合戦において梁
川城主須田大炊らに従い、めざましい活躍をしたとされる伝承の存在「だった」。それまで小出風土
記、信達一統志に書かれた彼らの記述は資料として信じるに足りず、「伝承」の域を越えなかった。
とされてきた。が、それも高橋よしい家文書の登場で一変する。

慶長三年(1598)小手郷一円の割元役として、総取締りを務めた高橋清左衛門の子孫。その家で
発見された一冊は、村名と氏名及び略歴ともに内容が整い、さらに清左衛門の子孫太郎右衛門
1638年の署名捺印。つまり川面代官であった、彼の署名捺印がある事で、前述の伝承を裏付ける
資料とされ、慶長五年、六年の梁川城周辺における状況を知る為の、有効な手掛かりになっている。
須田大炊から賞された慶長六年四月十日の黒印状まで現存しており、松川合戦の年月日を慶長六
年四月と誤認した上杉文書に書かれた慶長六年二月七日の戦や日本戦史など二月、三月両方の
説がある政宗の梁川侵攻。これらの裏付けとして、六十三騎が懸田、行人担、鶴田、城野倉へ出動
したとする高橋家文書内の「略歴」が符合している。

そして同年四月の梁川城主須田より六十三騎(の一人高橋)への黒印状も、これら一連の合戦の論
功行賞によって下付された物だ。と、「川俣史談」で鈴木俊夫氏が明らかにしている。
615日本@名無史さん:2005/09/13(火) 07:04:24
伊達家にとって、慶長5年10月以降6年4月までの上杉への「出兵」の意図を考えてみると、
敗者上杉への「嫌がらせ」「当てつけ」以外の何物でもないだろう。
そのやる気のなさ、一貫性のなさを見ても。この辺が戦史にも残らぬ小競り合い的な域を
出ないものとしてしか評価されない理由だ。
なお、慶長6年1月に徳川に和賀一揆煽動の証拠を握られたため、伊達家にとっては、和賀
を5月に謀殺するまでの2〜4月は、薄氷を渡るような危ない時期であった。
よって2〜4は大合戦などはおこせる道理もなく、ちまちました武者同士の
小競り合い、「一騎揆討ち」なども行われたに違いない。ここで岡野左内などは、伊達の葉武者
を「伊達政宗」だと誤認したのだろう。
616日本@名無史さん:2005/09/13(火) 08:30:51
389 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 13:48:37
>>388
ぐぐって高柳氏監修の本もちだされても、あっそとしか答えられないんだけど
都道府県レベルの自治体の図書館に行って、実際に見てきてら?
陸軍参謀部編纂の大日本戦史が置いてあるから

復刻版は読んだことないね
だから、どう校訂されてるかは知らない
復刻版読んだのなら、基の資料紹介や、中で使われてる書状等の活字化は勿論されてるよね?
大日本戦史では、そうなってるから

というか、こんなレス返ってくるとは思わなかった
釣りかな?

397 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:17:05
煽りも結構、どうぞネット検索で悦に入ってくださいね

406 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:37:28
明日にでも図書館行って撮ってくるよ、ぐぐるだけで、足運ばない人間相手にはそれしかないから
617日本@名無史さん:2005/09/13(火) 09:28:46
伊達政宗の所要の甲冑は「黒漆五枚胴具足」で有名な弦月の前立てがついており、
一廉の武者なら間違いようもない。

 「あの粗末な武具をつけた武者が政宗だと分かっていたら、組んでも討ち
  取っていたものを」(左内談)

この岡野左内の証言は、彼が伊達の葉武者と格闘していたことを暗示する。
618日本@名無史さん:2005/09/13(火) 16:01:52
>>617
ヘタレだから、わざと普段より粗末な具足をつけて葉武者に紛れていたんだろ。
左内は変態だがプライドは高いから、根拠のないでたらめを言うとは思えんが。
619日本@名無史さん:2005/09/13(火) 16:23:54
>>618
「大軍師直江山城守」(中村晃)によると、左内はその武者と接近戦を「15分」に渡って
展開したらしい。それでも全く気がつかない左内。はて、あの武者は?

大方、この手の悪趣味が好きな、屋代景頼あたりに一杯かつがれたんだろうw
620日本@名無史さん:2005/09/13(火) 17:35:25
なんか資料名を積極的に挙げてる上杉に比べて
伊達は歴史小説しか突っ込んでないね。

>敗者上杉への「嫌がらせ」「当てつけ」以外の何物でもないだろう。
梁川城のある伊達郡、信達地方は伊達氏のルーツ。
和賀一揆の支援なんて余計な事をしたばかりに加増が怪しくなったと気付き
慌てて梁川城だけは実力行使で奪おうとしたのだろう。
この時期はまだ、上杉の領地なら切り取り次第だったしね。
結局思いのほか上杉の結束が強く侵攻が進まないまま敗退。

父祖伝来の地、先祖墳墓の地を取り戻す絶好の機会だったのに。
伊達政宗はさぞや地団駄を踏んだと思うよ。
621日本@名無史さん:2005/09/13(火) 17:43:51
>>620

 上杉の武者の手柄話はすべて「講談」レベルだから仕方ないw

>この時期はまだ、上杉の領地なら切り取り次第だったしね。

 ほほう、新説だね。
 一体、家康が政宗に、いつそのような「切り取り自由」の約定を与えたのか?
 という話になるが。十月に行われた西軍への大規模な沙汰がなされた後ということ
 になると、いつ頃だろうか? 丁寧にご説明願いたいものだ。
 家康の「覚」とは全く違う内容だけに興味がある。煽りではなく、
622日本@名無史さん:2005/09/13(火) 18:50:08
>>621
東軍として働いた政宗が梁川城を取った場合
それを家康が自分に寄越せなんて要求を出すとは思えない。
上杉に返せなんて事もありえないだろうし。
下手に攻めあぐんでいれば退却を指示する手紙くらいはあったかもしれない。
もっとも攻めあぐむ以前の段階で追い払われたようだけど。
>上杉の武者の手柄話はすべて「講談」レベルだから仕方ないw
そんなレベルの話じゃないように見えるが…負けちゃったんだし仕方ないね。
623日本@名無史さん:2005/09/13(火) 19:04:11
>>620
>なんか資料名を積極的に挙げてる上杉に比べて伊達は歴史小説しか突っ込んでないね

 そもそも、山形の地元作家・中村昇氏の歴史小説のソースが「会津陣物語」だからねw
624日本@名無史さん:2005/09/13(火) 19:33:41
>>622
 君の主観を聞いているわけではないw せめて家康の書簡くらい出さないと
 説得力はない。ちなみに、伊達が10月6日に、松川で上杉を蹴散らして大勝
 したにもかかわらず 1日で撤退したのは、家康との約定があったからだ。
 切り取り自由であれば、無論福島城など落城は容易だったし、長期対陣もし
 ていたはずだからね。
625日本@名無史さん:2005/09/13(火) 19:47:58
上杉が−90万石もの大領地を喪失したのは、慶長6年まで徳川に無駄な抵抗をしたために、
印象を悪くしたからに他ならない。残念ながら、上杉の思惑とは逆に働いたわけだw
慶長6年の初頭から5月にかけて、伊達などは、その頃ビスカイノなども感嘆した仙台城下
の整備に全力を傾注しているし、上杉だけがはかのない抵抗をつづけていたわけだ。
すべては徒労に終わったが。
626日本@名無史さん:2005/09/13(火) 19:57:45
>>624
いや本陣襲われて逃げ帰ったんでしょ。
幾つか証拠も挙がってるし。
政宗は松川合戦一日で信夫山から国見山の15キロを上り下り。
往復30キロだぞw
上杉に追い立てられたようにしか見えない。
627日本@名無史さん:2005/09/13(火) 19:58:07
伊達厨の特殊技能 挑発が発動しました
628日本@名無史さん:2005/09/13(火) 20:06:40
>>625
上杉の処分は慶長6年とか関係ないから。
徳川領の真上に大大名をそのまま置く訳がないだろw
徳川の犬を拒否して意地を通したんだからこの処分は仕方がない。

>仙台城下の整備に全力を傾注している
伊達郡に出兵する度に散々討ち破られてる以上
町作りしかする事ないわなw
629日本@名無史さん:2005/09/13(火) 20:15:35
>>628
 いやいや、慶長15年末に話をつけていれば、最上への−33万石程度で
 すんだろう。つまり上杉90万石の線だな。それを無駄に抵抗をした
 ものだから「会津60万石没収」(笑)。軽く伊達の58万石以上だから
 政宗も仙台城の大広間で片倉景綱ならと苦笑していただろう。
630日本@名無史さん:2005/09/13(火) 20:18:55
その点、島津はさすがに頭がいいな。
631日本@名無史さん:2005/09/13(火) 20:22:26
>伊達郡に出兵する度に散々討ち破られてる以上
>町作りしかする事ないわなw
正確には子作りのついでに町を作っていたが正解。
1603年に伊達宗綱、伊達宗信が生まれ、その後も子作りに精を出しまくる。
11人の内、6人が仙台城を作った後に生まれていますね〜〜w
30後半で必死に子作り・・・プ(ゲラ
632日本@名無史さん:2005/09/13(火) 20:25:52
>>629
そんな事考えてるのはお前だけw
会津に90万石?狂ったか伊達厨。
もはや挑発にすらなってない。ただの安い釣りに堕ちてるぞ。
もっと頑張れ。
633日本@名無史さん:2005/09/13(火) 20:28:03
実際、最上に負け、松川では伊達に大敗した上杉の場合、
仙道まで明け渡したら、もはや集団自殺するしかない。

伊達の影に慶長6年間までおびえつづけた理由がそこにある。
634日本@名無史さん:2005/09/13(火) 20:34:10
>>633
はいはい伊達伊達。
政宗も松川では長躯敗走。山登り大好きw
悲願だった伊達郡すら奪えなくて残念だったね。
635日本@名無史さん:2005/09/13(火) 20:34:34
>>613-614
ありがとう。
分かり易く、読みやすかったよ。

「高橋よしい家文書」が決め手となった訳だね。
たぶん貴方は何方かの拙論を読まれてかと思うのですが
良ければ論文紹介されてる出版物を教えて貰えると有りがたい。
この「川俣史談」というのに紹介されてるのかな?
636日本@名無史さん:2005/09/13(火) 20:37:52
>>631
 上杉景勝が愛人相手に、子作りしたのは米沢移封の3年後。
 実に50歳の爺さんになってから、種つけをしていたことになるw
 キモっ(w

 御母は四辻大納言公遠卿の御女にて、往年ひそかに…
 (「上杉家記」)
 
637日本@名無史さん:2005/09/13(火) 20:38:44
>>635
 自演乙
638日本@名無史さん:2005/09/13(火) 20:43:45
まあ、いいだろう。家康から90万石を大削減されたとはいえ、
30万石(苦笑)は残ったわけだしw せいぜい上杉の自慢話
くらい大目に見てやれや。
639日本@名無史さん:2005/09/13(火) 20:46:45
上杉がんばれw 
640日本@名無史さん:2005/09/13(火) 20:59:21
不利な書き込みが出ると速攻お決まりの

スルーと挑発

が発動するなw伊達必死だなw

おっと、俺もレス消費の作戦に釣られてしまったようだなw
641日本@名無史さん:2005/09/13(火) 21:19:27
ちょっと可哀想なってきた。
俺はもう良いや。
>実に50歳の爺さんになってから、種つけをしていたことになるw
歴史(戦国時代)が大好きなんだな。
これくらい殺伐としてる方が戦国期らしい。
勉強になったし、なかなか面白かったよ。
上杉厨と伊達厨に感謝。

んじゃな。
642日本@名無史さん:2005/09/13(火) 21:36:38
ここのところ伊達厨が痛すぎ。
643日本@名無史さん:2005/09/14(水) 00:54:33
>>635
そう。川俣町地方史研究会が出した小冊子。川俣史談創刊号。故鈴木俊夫氏は編纂室長をされ
ていた。その中にある「巷説小手六十三騎を正す」といった四ページ(付随されている高橋家文書
は五ページ)の一節に書かれてある。一見「正す」なんて部分を読むと、小手六十三騎の存在を否
定する内容だと思いがちだが、中味はその真逆。巷説にある小手六十三騎の活躍を、証明する
物だった。「正」しているのは高橋家文書の一冊に書かれた、六十三騎の名は殆どその子か孫で
あり、自己の略歴(功績)を直接披露している事を示す、「私」の文字が見られるのは、僅か八騎
だけであると。

問題なのは巷説、つまり年代として後の世に書かれた小出風土記、信達一統志、小出濫觴(らん
しょう)記等に見られる六十三騎の名は、間違っている。といった指摘だった。須田が贈った黒印
状の宛名も(文化元年刊 松藩捜古によれば)佐久間帯刀になっているそうだが、高橋家文書内
の六十三騎一覧表には、佐久間次郎左衛門の名で記されてある。勿論、略歴に「私」は書かれて
いない。「親妻子梁川篭城」のみ。これが子や孫ではなく、本人が記入した場合、「私ノ親妻子梁川
篭城」と書かれてある。と、氏は主張している。

他府県では、まず読む事が出来ない冊子だと思うので、最寄の自治体が管理する図書館に行き
取り寄せてもらう以外、読む術はない気がする。持ち出し禁止のケースもあるので、所蔵されてい
る福島県内の図書館を調べ、直接電話で問い合わせてみる必要もあるかもしれない。
644日本@名無史さん:2005/09/14(水) 01:04:10
伊達最上は丁度良いサンドバック代わりなんだよ。
目の前に出されると叩きたくなっちゃう。
屈強な大男と良い感じのサンドバックを並べられると、
やっぱサンドバックに行っちゃうよね。
だって人間だもの。
もし伊達最上も屈強な大男なら、
上杉も腹括って関東にゴーしちゃう。
やっぱ何が凄いって、そこまで考えて念を入れる家康だよね。
645日本@名無史さん:2005/09/14(水) 09:17:31
>>644
 関ヶ原ネタのサンドバックは、何と言っても上杉だろう。(w
 
646日本@名無史さん:2005/09/14(水) 11:07:40
>>643
>所蔵されている福島県内の図書館を調べ、直接電話で問い合わせてみる必要もあるかもしれない。

 是非、お願いする。この資料だけでは、伊達の挑発に上杉が必死に抵抗と小競り合いを繰り返した
 だけという、それ以上でもそれ以上のことしか判明しないから。
647日本@名無史さん:2005/09/14(水) 17:31:06
>>646
>伊達の挑発に上杉が必死に抵抗と小競り合いを繰り返した

伊達の侵略が挑発だとする資料って存在してるの?
政宗は上杉を挑発して何をしようとした?
「相手を挑発して○○をする」この○○の部分が抜け落ちてる限り
この戦が挑発行為だった〜なんて解釈は普通出てこない。
挑発という言葉を使いたいのなら、その後の行動や狙いが問われてくる。
その挑発とやらで伊達は何か得る物があったろうか?
何もないよね。そんな資料は読んだ事がない。おそらく貴方の憶測や妄想の類。
実際の政宗は貪婪に領土拡張を狙うも、その都度上杉に撃退された。
分かってるのはそれだけ。
648日本@名無史さん:2005/09/14(水) 19:56:31
上杉への進攻は、どう見ても、侵略ではなく「挑発」だろうね。
なぜ、そういきり立つのか、さっぱり理解できない。
やはり格下の最上に競り負け、松川合戦で300首もの首級を討た
れた事実があるからだろうか…。
伊達への怨念、ルサンチマンは、中国人が日本人に抱く気持ち
にも似ているのだろうね。まあ、伊達に塗炭の苦しみを味わわされた
わけだから、地元の人間の気持ちも心情的には理解し同情できるが。
649603:2005/09/14(水) 20:44:12
>>643
度々ありがとうございます。

本日、最寄の図書館で「川俣史談」を問い合わせてみたが、やはり雑誌扱いなので
貸し出し出来ないようでした。
なので、一部コピーで送ってもらうよう手配したもらいましたよ。
貴方の具体的な内容で、どの辺りのコピーを取ればいいか、相手方に伝える事が出来て
非常に助かりました、マジ感謝です。

上杉方の論拠は、自分にははっきり判ったし、後は自分の目で読んで判断するけど
伊達方の論拠は、「伊達治家記録」以外、何かないのかな?
今の所、相手への具体的な根拠も無い否定レスばかりしかない訳だけど。
合戦の状況を知る史料、または論説などはないのでしょうか?
650日本@名無史さん:2005/09/14(水) 23:27:25
素人なんだけど両方の言い分を聞いてると

政宗が大軍で福島城を攻めたけど繁長が善戦。
難儀しそうだと思った政宗は家康から命令された景勝の牽制はしたし
以前に白石城を落として収穫もあったので無理しないで撤退。

こんな感じなんじゃないかなと思ってきた。
ただ、両方とも名前の有る武将が戦死したわけでもない(らしい)からどっちかの完勝とするのはなあ・・・

↓何事もなかったかのように再開
651日本@名無史さん:2005/09/14(水) 23:44:52
伊達・上杉より島津兄弟と真田親子はどっちが強いかのほうが気になる
652日本@名無史さん:2005/09/15(木) 00:36:31
頼朝から与えられ「伊達」を名乗る由来となった信達地方。
政宗だけでなく家臣達もが、言うも愚か、喉から手が出るくらい取り戻したかったのだ。
出兵の間隔を見ても尋常じゃない。
その意気込みが、現代の我々にさえ痛いほど伝わってくるではないか。
それは未練。未練でもって慶長5年6年と数度に渡り、攻め続けたがしかし

やんぬるかな…尽く上杉に弾き返されてしまった…(´・ω・) カワイソス
653日本@名無史さん:2005/09/15(木) 01:18:44
389 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 13:48:37
>>388
ぐぐって高柳氏監修の本もちだされても、あっそとしか答えられないんだけど
都道府県レベルの自治体の図書館に行って、実際に見てきてら?
陸軍参謀部編纂の大日本戦史が置いてあるから

復刻版は読んだことないね
だから、どう校訂されてるかは知らない
復刻版読んだのなら、基の資料紹介や、中で使われてる書状等の活字化は勿論されてるよね?
大日本戦史では、そうなってるから

というか、こんなレス返ってくるとは思わなかった
釣りかな?

397 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:17:05
煽りも結構、どうぞネット検索で悦に入ってくださいね

406 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:37:28
明日にでも図書館行って撮ってくるよ、ぐぐるだけで、足運ばない人間相手にはそれしかないから
654日本@名無史さん:2005/09/15(木) 07:31:24
>>652
>政宗だけでなく家臣達もが、言うも愚か、喉から手が出るくらい取り戻したかったのだ。
 出兵の間隔を見ても尋常じゃない。
 その意気込みが、現代の我々にさえ痛いほど伝わってくるではないか。
 それは未練。未練でもって慶長5年6年と数度に渡り、攻め続けたがしかし

 残念ながら、これは上杉の古武士達が信じたかった「物語」、ストーリーでしかないんだよ。
 勇猛果敢な「撃退」伝説に水をさして、誠にお気の毒ではあるが。まずは上のスレで上杉信者
 自身が慶長6年の4月6日の「第二次松川合戦」は誤認であったこと、なかったことと認め
 てしまったのは、非常にばつが悪いことになったようだ。(数度とは何度だろうか?)
 慶長5年以降の「小競り合い」は上杉の神経を逆なでする挑発でしかなく、所詮レベルの低い
 争いでしかない。伊達の幻影に上杉も徒に神経をすり減らしただけだろう。
 慶長5年の家康の「覚」(=兵を動かさず、上杉の牽制役に徹してくれれば旧領を与える。
 ここで家康は兵を出すな、動かすなと2度も言っている)を、最上支援のみで果たした伊達は、
 その条件を果たした。別に出兵する道理も必要もない。まして慶長6年など笑止の極み。
 なお、政宗が加増2万石でうやむやにされたのは、上杉とは何ら関係もない。
 あくまで和賀兵乱を断罪されたためだ。

 この辺の恩賞交渉の経緯は、このスレの前の方で出ていた「宗薫への慶長5年10月中旬書状」
 を見るとよくわかる。政宗は上杉を牽制した功で家康の100万石の「覚」の履行は当然と考え
 たうえに、さらに仙台築城+上方に15〜20万石の堪忍料を頂きたいとまで述べている。

    上方ニテ二十万石カ十五万石ホドノカンニン分申シ請度事
655日本@名無史さん:2005/09/15(木) 07:39:17
×慶長6年4月6日→○慶長6年4月26日

この時期、実際、政宗は仙台城に入府していたという冷厳な事実。
まあ、この「第二次松川合戦」を立証するのは、絶望的に不可能だろうね。
上杉の幻覚、勘違いだから、仕方ないか(苦笑)
656日本@名無史さん:2005/09/15(木) 08:41:01
伊達はなんで仙台にいたの?
本庄に大敗して逃げ帰ってたんじゃないの?
657日本@名無史さん:2005/09/15(木) 09:04:00
>>656
落ち着け(w 
まずはこのスレの流れをよく読め。
658日本@名無史さん:2005/09/15(木) 10:05:15
政宗は繁長と戦ってもなんとか討ち死には免れたんだから
誇りに思っていいと思うよ。
659日本@名無史さん:2005/09/15(木) 12:44:58
大軍で攻めても落とせなかったと言うのも事実なわけだが
660日本@名無史さん:2005/09/15(木) 13:01:13
ところで、慶長5年10月以降だが、上杉は、威勢が良い割には
なんで白石城すら奪い返さなかったの? 奪われたままでw

やはり、片倉景綱が怖くて手だしできなかったわけだな。
661日本@名無史さん:2005/09/15(木) 14:06:11
>>654
懸命になって反論しているようだが、
要するに書いた文章の殆どがお前の思い込みっつー話だわな。
「挑発」とか意味不明のまま。
>614等、都合の悪い書き込みに対して完全に耳ふさいでるし。
662日本@名無史さん:2005/09/15(木) 14:41:42
上杉は、関ヶ原後、最後に伊達に一発痛烈な蹴りを入れられたため、
いまだに伊達を恨んでるんだろう。おそらく。
慶長6年もごたごたがあったとすると、それは伊達の新兵訓練か、
銃の射撃訓練用に、上杉をいたぶり、挑発したに違いない。
政宗自身は、その報告を北目城と仙台城で聞いてほくそ笑んでいたと。
663日本@名無史さん:2005/09/15(木) 15:02:01
伊達は相手の立場が弱いと見ると、これを徹底的に
いたぶるから、相当性格が悪いともいえるが。
664日本@名無史さん:2005/09/15(木) 15:11:41
徹底的にいたぶろうとして攻め込んだら逆に徹底的に弄ばれて
悔し紛れにセクスしてたんだっけ。
665日本@名無史さん:2005/09/15(木) 15:54:05
>>664
 それは、長谷堂城に攻め込んでみたものの、(格下相手の)最上に
 逆に反撃されて恥をさらした弱小上杉軍の姿だよ。 西軍敗北の報で、
 転がるようにして米沢へ遁走。とにかく惨めすぎる。
 挙げ句は10月6日、松川で伊達に大敗だ。
666日本@名無史さん:2005/09/15(木) 20:56:15
>>665
政宗は現・信夫山公園に本陣を定めるも、
須田に後備を攻め崩された挙句、先祖代々崇めてきた羽黒、黒沼両神社を焼失。

戦前まで残された、本陣跡裏手の夥しい戦没塚が、乱戦を如実に語っている。
政宗が国見山へと逃げ出すのはこの直後。
別当慶印に付き添われ、一時山頂に逃れたとも伝えられており、
それを証明するかのように、山陰の清水尻、山の神付近にまで同様の塚があった。

ちなみに政宗の味方をして住処を失った別当慶印ら山伏達は、
伊達の敗軍に付き従い、北目へ移住する事となった。

(東国太平記、黒沼神社社家富田文書、仙臺棟札、御山村誌)
667日本@名無史さん:2005/09/15(木) 20:59:52
>>666
おいおい、今度は「東国太平記」かよ(苦笑)
668日本@名無史さん:2005/09/15(木) 21:06:12
っぷうぷぷうぷぷppっぷぷぷぷp
伊達厨にはソースが無いw
669日本@名無史さん:2005/09/15(木) 23:23:34
ていうか何処のおうちも自分らに都合の悪いことは書かんだろ。
川中島だって武田と上杉の両方とも自分らの勝ちだと主張してたっぽいし
670日本@名無史さん:2005/09/16(金) 00:28:21
>>654
あれは覚え書きなんだってば。いわばメモ。
政宗だってこの守一枚で旧領貰えるなんて信じ込むほどバカじゃないよ。
家康の異常な吝嗇は秀吉在命時から有名。
もし自分が家康だったら、と考えれば東北の地に百万石?
非現実的すぎる。夢物語。そこまで政宗が馬鹿な武将だったとは思えない。
まして関ヶ原終了の報に接して二万五千〜の軍を催す。一説には三万。
「兵を動かすな。兵を出すな。」なんて所の騒ぎじゃない。
政宗、片倉、茂庭、石川、屋代、高野、桑折、成実。その他大小30隊。
何をしに福島城まではるばるやって来たのかは明白。
伊達家とその家中にとって、何よりも代え難い旧領。伊達郡と信夫郡。
伊達の全力を挙げて奪い返しに来たのだ!
しかし撃退されてしまった!
うっかり本陣を襲われてしまった!信仰対象の神社も焼かれてしまった!   …(´・ω・) カワイソス
671日本@名無史さん:2005/09/16(金) 00:29:34
×この守一枚
○この紙一枚
672日本@名無史さん:2005/09/16(金) 01:04:11
島津は、鉄砲なければ弱い。
上杉は、柿崎、鬼小島、前田慶次、直江など、腕力に優れる。
673日本@名無史さん:2005/09/16(金) 01:15:47
つまり上杉は筋肉バカだらけって事?
674日本@名無史さん:2005/09/16(金) 01:37:53
上杉も島津も、結局強くない。

信長、秀吉、家康が天下を作ったのだから。
675日本@名無史さん:2005/09/16(金) 01:47:04
毛利元就は?
676日本@名無史さん:2005/09/16(金) 01:51:11
何故ここまで真田がスルーされるのかが分からない。
677日本@名無史さん:2005/09/16(金) 02:19:31
お前らゲームの話してるだろw
678日本@名無史さん:2005/09/16(金) 02:42:46
>>670
 10月6日のケースだが、政宗がわずか1日で兵を退いたのは、あくまで家康の思惑を
 気にしたためだよ。家康の手前、兵を退いたということ。(勝ち逃げされて残念w)
 本気で攻め潰すなら、孤立し、落城寸前の福島城をそのままにしておくわけもない。
 事実は、それ以上でもそれ以下でもない。上杉は命拾いしたわけだ。
 
 奥州関ヶ原では、上杉は、伊達の喉元につきつけるように配置していた軍事的な
 重要な要衝「白石城」を陥落させられた、という事実だけが残った。
 上杉は、伊達に具えて城を補強したが、それを逆に奪われた。そしてそれを二度と
 永久に、手中にすることが出来なかった。ここに片倉の凄さがあるし、上杉の無念も
 かいま見える。
679日本@名無史さん:2005/09/16(金) 02:54:31
>>670
>何をしに福島城まではるばるやって来たのかは明白

無論、一気に攻略するためにきまっている。だが、それは長期対陣
になることが明らかに予想された。ここで、政宗は、上杉攻略と徳川
との政治的な駆け引きの、メリット・デメリットを天秤にかけ、後者
を優先した。つまり、仮に福島城を陥落させた場合でも、約定違反という
いいがかりも免れ得ない。政宗は、内心、家康の報復を相当恐れていた
ものと思われる。この件については出兵意図などをいちいちと報告をいれ
ていることからも、細心の注意を払っている。

ま、本陣奪ったのだの「与太話」はもういいから、まずは白石城を奪還出来
なかった弁明でも聞きたいものだ。
680日本@名無史さん:2005/09/16(金) 15:09:44
>>678
>あくまで家康の思惑を気にしたため
冶家記録には撤退した理由を
「強テ攻入ラバ〜御人数多費ユヘシ、先ツ引揚ラレ、然ルベシ」と言っている。
「強いて攻め入れば〜兵が多く死ぬだろう、もう引き揚げるしかない。」って事。
これが真相なのかどうかは怪しいが、
少なくとも戦場での判断に「家康」という要素は一切登場しない。
>家康の手前、兵を退いたということ。
家康の一体何の手前なのかが曖昧。
東軍の武将は皆、20万〜30万石加増される事くらいは予見できる状況。
政宗も将来約束されている梁川、福島を自ら奪いに行った所で何の問題もない。
この時点で与えられるか、自分で奪うかの選択肢があるだけ。
>勝ち逃げ
この言葉が好きなようだが、戦国時代「逃げた」時点で、それは勝ちでも何でもない。
兵(生産力)を数多く死なせた上、領土が奪えないのだから。見るべき所も無く、割に合わない。
例えば川中島のように侵略してくる武田へ大打撃を加え、その侵攻を止めた。
北進の方針を転回せしめる一材料になった。等といったケースなら多少通じるけど。
>孤立し、落城寸前の福島城をそのままにしておくわけもない
孤立していないからこそ、政宗は梁川勢の急襲を後備〜本陣に受け、その場に死体の山を築いた。
「梁川表御用心」として配された片倉隊は、持ち場を離れて福島へ。
高野隊は「知ラ不」つまり行方不明。(冶家記録)
翌日は上杉の援軍が三方から攻め寄せて来る。(日本戦史)
結果、万単位の軍勢を統御出来なかった政宗の疎漏さ、これこそ伊達軍敗因の一つ。
681日本@名無史さん:2005/09/16(金) 15:14:52
>>679
>無論、一気に攻略するためにきまっている。
阿武隈川を天然の堀に利用した、要害福島城を一気に(一日で)攻略できる。
政宗はそう判断したと、そう言いたい訳か。とんだ愚将だな。
>それは長期対陣になることが明らかに予想された。
落城するのは「頃時ナルヘシ」=間も無くだ、(冶家記録)と景綱が政宗に予想している。
もっとも記述上の、こんな主従における応酬なんて、信用が置ける物でもないが。
>福島城を陥落させた場合でも、約定違反といういいがかりも免れ得ない。
その約定とは「兵を動かさなければ」上杉領七郡を与える〜といった内容。
約定?自体が正式の物ではないし、守らなかったら報復されるといった類の物ではない。
しかも西軍が存在し、上杉が江戸を牽制していた状況下で発せられた要求。
家康が政宗に七郡を与える方針を示している中、二郡を奪いに行く行為が問題に繋がるだろうか。
慶長6年における数回の侵攻>負け戦は何故行われたのだろうか?
家康を気にしているとは到底思えない頻度で出兵しているものの、冶家記録は何一つ触れていない。
>出兵意図などをいちいちと報告をいれていることからも、細心の注意を払っている。
その出兵意図とやらを聞きたいもんだ。出兵意図キボン。
実力で奪えなかったが為、当初の口約束にすがるしかなくなった苦し紛れの行動にも見える。
それを伊達家の方針にして「大神君(!)へ御注進」を家康の死後、冶家記録に書きまくる。
散々媚を売った後で「この約定は?」と満を持して幕府に催促するも、目の前で燃やされてしまう。
>まずは白石城を奪還出来なかった弁明でも聞きたいものだ。
これこそが与太話。状況や地理が分かっていない。
「庄内地方を守れなかった」と言い放った人と同じ思考回路。
上杉は伊達と和議を結んで最上を攻めた。関ヶ原の敗報を聞き、本国の守りを固める為に撤退。
これより南から攻め込んでくるのは、徳川の大兵力といった状況下で、北進する余裕が何処にある。
島津が会津にいたらお咎めなしだった。慶長5年で恭順していれば90万石でいられた。
散々こんな与太話をした者が、県考古学会会長を虚仮にするんだから。大したもんだよ。
682日本@名無史さん:2005/09/16(金) 16:27:32
>>681
>「この約定は?」と満を持して幕府に催促するも、目の前で燃やされてしまう。

 この「覚」は燃やされた訳でもなく、現在でも仙台市に実在している。
683日本@名無史さん:2005/09/16(金) 16:31:47
上杉謙信=項羽
684日本@名無史さん:2005/09/16(金) 16:55:27
>>682
井伊直孝が焼いたのは写しとか言われてるね。
685日本@名無史さん:2005/09/16(金) 17:26:37
「写し」とすれば、徳川幕府もコケにされたわけだ。
686日本@名無史さん:2005/09/16(金) 23:09:15
>>685
大老直孝と記録マニア伊達は仲が良かったから。一応それなりの配慮はしたんじゃね?
神君が書いた本物の書状を焼くのも恐れ多い。
曖昧かつ効果的な方法で幕閣の意志を伊達に伝えたんでしょ。
687日本@名無史さん:2005/09/17(土) 15:18:20
ここって上杉謙信と島津義弘どっちが強いか、のスレだよね?
今議論されてるのは景勝の話ですよね?
688日本@名無史さん:2005/09/17(土) 17:25:52
389 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 13:48:37
>>388
ぐぐって高柳氏監修の本もちだされても、あっそとしか答えられないんだけど
都道府県レベルの自治体の図書館に行って、実際に見てきてら?
陸軍参謀部編纂の大日本戦史が置いてあるから

復刻版は読んだことないね
だから、どう校訂されてるかは知らない
復刻版読んだのなら、基の資料紹介や、中で使われてる書状等の活字化は勿論されてるよね?
大日本戦史では、そうなってるから

というか、こんなレス返ってくるとは思わなかった
釣りかな?

397 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:17:05
煽りも結構、どうぞネット検索で悦に入ってくださいね

406 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:37:28
明日にでも図書館行って撮ってくるよ、ぐぐるだけで、足運ばない人間相手にはそれしかないから
689日本@名無史さん:2005/09/17(土) 18:13:02
相当カリカリしている上杉厨(苦笑)に、二、三コメントをしておこうか。
>>680>>681

>徳川の大兵力といった状況下で、北進する余裕が何処にある。

これだから、景勝は、「優柔不断」「臆病者」に加え、大局観に欠けた、無骨だけがとり
えの武将という印象を強化する。つまり10月6月、伊達に松川で大敗を喫したため、
追撃する余力がなかったことの証拠だね。片倉景綱が怖いのも理解できるが、相当だら
しがない。片倉が白石城で上杉をにらみつけていたため、政宗は余裕で北目城へと帰還
できた。むろん、勝ち逃げという形で。白石城くらい奪ったらどうだろうか?

>慶長6年における数回の侵攻>負け戦は何故行われたのだろうか?
 家康を気にしているとは到底思えない頻度で出兵しているものの、冶家記録は何一つ
 触れていない。

このスレで4月26日の松川合戦が「幻影」「勘違い」だと上杉方が認めてしまった以
上、これらは相当怪しい戦い。(あったかどうかも不明)仮にあったとすれば、上杉
への悪質な挑発、からかいだね。確かに、上杉が現在でも根に持つわけだ。



690日本@名無史さん:2005/09/17(土) 18:15:28
>約定?自体が正式の物ではないし、守らなかったら報復されるといった類の物ではない。
家康が政宗に七郡を与える方針を示している中、二郡を奪いに行く行為が問題に繋がるだろうか。

大いなる認識不足だね。伊達は勝手な「切り取り自由に基づく侵略」を徳川から警戒
されまくっていたため、表だった軍事行動などできるわけもない。政宗は7月24日に
家康の命令を無視するような形で白石城を勝手に陥落させたため、家康を慌てさせた。
8月2日、使者が飛んできて、「すみやかに兵を納めよ。そして上杉を監視だけして
欲しい」と告げる。ここで「覚」が出る。「大人しくしていてくれれば、加増を約束する」
と。一種の警告だったろう。これで10月6日の軍事行動がいかに危険なものだったか
が分かるだろうし、福島城を叩き潰すことが可能だったにもかかわらず1日で撤退した
理由でもある。ついでに、徳川の情報網は、早くも和賀兵乱の動きをつかんでいたた
め、伊達は家康の監視下にあったといえる。これが「家康の思惑を気にして、撤退した
とする根拠だ。無論、上杉としては勝ち逃げされた結果となったわけだが。
691日本@名無史さん:2005/09/17(土) 18:16:45
>その出兵意図とやらを聞きたいもんだ。出兵意図キボン。

伊達政宗一流の諧謔にみちた家康への申し開き(弁明)が残っているので、その箇所を
資料としてあげておく。
いずれにしても、約定に触れる「軍事侵攻」に関しては、家康への異常な気のつかいぶ
りが見て取れる。上杉の自慢する慶長6年の「軍事侵攻」など、伊達にすれば非現実な
「寝言」(会津陣物語)の類となる。
で、肝心の福島城攻撃だが、相馬と直江が不穏な動きを見せているため、この掃討を
目的として福島表へ進攻する。なお、約定に背いての軍事進攻、切り取りを意図した
ものではゆめゆめないので、不安でおありなら、是非徳川で監視役を置いても構わな
いということを述べている。(四、五)
さりげなく、和賀兵乱にも言及している(三、六)

   内 覚

  三、岩崎城之事(口上)
  四、八月二十八日相馬ヨリ手切可仕由必定ニ付テ、直江(直江山城)人数催シ、
フク島江参候事(口上)
  五、会津ニ御手前(徳川)之衆置キ申シ事
  六、南部之事

(慶長六年十月十九日、宗薫宛伊達政宗書状)
692日本@名無史さん:2005/09/17(土) 18:21:19
×(慶長六年十月十九日、宗薫宛伊達政宗書状)
○(慶長五年十月十九日、宗薫宛伊達政宗書状)

693日本@名無史さん:2005/09/17(土) 18:31:29
まあ、この辺は>>289>>292でも書いたので、改めて復習していただきたい。
694日本@名無史さん:2005/09/18(日) 06:22:56
>>689
東軍の勝利を聞き、最上領から兵を引いた景勝。
何故すぐに伊達の白石城を攻めなかったのか?
それは景勝が「優柔不断」「臆病者」「大局観に欠けた」「無骨だけがとりえ」だから〜
だそうな。
常人には付いていけない思考だ。晒すだけで充分かな。

>伊達に松川で大敗を喫したため、追撃する余力がなかったことの証拠だね。
ここで又、自ら墓穴を掘る。
はじめから福島と梁川には、追撃するだけの兵力など置かれていない。
伊達なら三千足らずで両城を守る事が出来る。というのが、上杉の見通し。
現に、その通りの結果で収束した。
伊達など眼中に無く、徳川を念頭に置いた上杉の防衛構想が垣間見える。

>4月26日の松川合戦が「幻影」「勘違い」だと上杉方が認めてしまった以上
「挑発」「勝ち逃げ」の次は「幻影」か。一体誰が「幻影」なんて書き込んだのだろう。
これまでも、文献の何処にも見られない出来事を、勝手に脳内で作り出し、
その度に上杉側から訂正されていたが。
この「幻影」とやらもそれに沿った物か。

>これらは相当怪しい戦い。(あったかどうかも不明)
怪しいとするなら、挙げられた資料に対抗しうる証拠を提示すれば良いだけ。
歩き回って資料をかき集め、心血を注いだ方達が出した結論を引っくり返したらいい。
何処の何様なのかは知らないが、かなり自信があるようだ。
せいぜい裸の王様にはならないようにね。
695日本@名無史さん:2005/09/18(日) 06:27:25
>>690
>伊達は勝手な「切り取り自由に基づく侵略」を徳川から警戒されまくっていたため、
いやはや。 どっちが大いなる認識不足なんだか。
この時期、徳川が警戒したのは「伊達の切り取り」ではない。
伊達が抜け駆けをして上杉領へ侵入した結果、大敗する事を恐れていた。
伊達の旗色が悪くなった場合、東北における東西の勢力バランスが崩れる。
このような事態に陥った場合、関東の徳川諸隊から上方へ割く兵数も制限されてしまう。
東北情勢の悪化次第では、家康の江戸出立さえ雲行きが怪しくなる事態も予想しただろう。
家康としては、伊達軍敗戦なんて充分予見できる事象。これに足を引っ張られたくない。
だから「戦はするな」と命じた。

>10月6日の軍事行動がいかに危険なものだったかが分かる
政宗もこういった家康の思惑を理解していたのだろう。
禁を解かれたように大軍を催し、その主力を上杉領へ注ぎ込んだのは、まさに関ヶ原の後。
家康は上方の決戦を短期で終了させた事により、懸念していた事態も起こり得なくなった。
これを受けた政宗は、既に約束された七郡の内二郡だけは確実にモノにすべく、行動に移した。
>>690の言動がいかに事の経緯を把握していないかが分かるだろう。

>徳川の情報網は、早くも和賀兵乱の動きをつかんでいた
>伊達は家康の監視下にあったといえる
福島城攻防戦は十月六日。
南部利直が和賀一揆の報を受け、山形から帰国。三戸に到着したのは十月三日。
十月八日花巻へ出陣。事の顛末を家康に訴え出たのは翌年慶長六年の五月。
慶長五年十月六日には既に、岩崎一揆の件について徳川の監視を政宗は受けていた?
初めて聞いた。その論拠は一体何?
松川合戦中、徳川から一揆荷担の疑いを向けられてる事を知りつつも、
慶長六年四月四日まで白石宗直の家来、鈴木将監を南部と戦わせていた事になるが。
696日本@名無史さん:2005/09/18(日) 06:35:48
>>691
或る時は、福島城を奪うつもりだったと言い、
或る時は、合戦から13日も後に出された書状通り、切り取りは意図していないと。
詭弁の羅列である事くらい、誰の目にも明らか。
嘘八百で陰謀発覚を取り繕い、生き延びてきたのが伊達政宗。
家康は勿論、政宗の人生を俯瞰で知る我々も、こんな書状に真相や本音が書かれているとは思わない。
ましてこの時でさえ、岩崎一揆は進行中。
それを思えば、約定違反を気にするような素振りなど、野心的思惑を絡んだポーズでしかないだろうに。

ここで見方が分かれているのは、政宗は「徳川家康領知覚書」の内容全てを信じていたのか。
それとも話半分として受け取り、やはり己が力量に訴え、領土拡張を企図したのか。
「約定違反を恐れていた」と考える者は前者だろう。
信達二郡を得る寸前。この絶好機を自ら逃してまで、約定通りの七郡加増に執着したと。
『論外なのは、兵を動かした約定違反で、家康による報復を恐れたとする>>679。話にならない。
仮に本庄繁長が息子と共に松川へ赴き、その隙に城中の斉藤兵部が内応。
福島城が伊達の物になっていたら、家康の報復があったとでも言うのだろうか?』

「約定などあてにせず行動するも、すがる道も残した」これが後者。
岩崎一揆への策動。梁川福島へ度重なる侵攻も敗退。
自ら犯した失策の為に、有利な状況は一気に暗転した。
書状では軍を退かざろうえなくなった事実を歪曲し、恭順を示す行動だとすり返る。
徳川家の者を送ってくださいとゴマをする。
そんな最中にも、無念極まりない気分を慰めるように、伊達郡へ騙し騙し出動。
白石城に続く二匹目の泥鰌でも願っていたのだろうが、悉く撃退される。
この挫折と屈辱は、政宗老いた時の目標となり、幕府を困らせる事となる。が、遂に果たせず。
信達地方一帯に埋められた伊達の兵士達。彼等はあまりに哀しすぎる。
697日本@名無史さん:2005/09/18(日) 09:12:18
何か上杉が哀れでもあり、可哀想になってきたな。ここまで、松川合戦を否定されて満身創痍、
腹が立つのも分かるが。ただし、現実は最上に大敗した上に、伊達にも翻弄され尽くしたこと
は変わりない。だから、ほとんどが過大報告なうえ、上杉の自己PRでしかない会津陣物語を信
じ、それで溜飲を下げるのも自由であり、その心の領域にまで踏み込むつもりもない。
ただし、批判精神をもたないと、以下のようにフィクションと事実の境界もつかなくなる。

>>696
>この挫折と屈辱は、政宗老いた時の目標となり、幕府を困らせる事となる。が、遂に果たせず。

酒の席の一興に出されたような物語と、歴史的事実は区別した方がいいと思うけどね。
その10年前に、関ヶ原の加増の件は、政治的に決着しているわけで。家康と政宗の間で手打ち
の意味で行われた、伊達秀宗の宇和島10万石に封ぜられたことがそれに当たる。

で、上杉「進攻」ではなく、上杉「牽制」を依頼した家康の判物、俗にいう「百万石のお墨付」
は仙台市博物館に所蔵されている。
698日本@名無史さん:2005/09/18(日) 15:27:17
>>697
慶長5年に兵を収めていれば景勝も90万石で居られたって言った人?
景勝が白石城を攻めなかったのは「大局観が無い」って矛盾してるんじゃ。
言を左右にしてるだけじゃ単なる煽りでしかないよ。
699日本@名無史さん:2005/09/18(日) 15:33:57
>>697
あ〜あと近くの図書館で日本戦史を読んで来た。
上杉厨が突っ込みを入れた内容のまんまだった。
伊達厨の書き込んだ内容と日本戦史はかなり違ってた。
700日本@名無史さん:2005/09/18(日) 16:00:31
>>699
 その場合、「まんま」などと中学生的な印象を書くのではなく、短くてもい
 いから、自分なりに論をまとめて発表してごらん。どこが「かなり違っていた
 のか」? わざわざ図書館へ行ったのであれば、勇気を出して書いてごらん。
 確かに、煽りとか、感情的な勝ち負け論に流れるムキもあるだろうが、それば
 かりでもない。ここでは、ブレながらも、この地味な局地戦を検証しているので
 そこへ一石を投じても何も問題はないよ。
701日本@名無史さん:2005/09/18(日) 16:21:28
>>699
 できれば「日本戦史」と「大日本戦史」の差異をふまえて
 要約・発表してくれれば、対立点が明確になるだろうな。
702日本@名無史さん:2005/09/18(日) 16:32:48
>>700
悪かった。それじゃ改めて書いてみる。
「羽黒山の上から鉄砲数千丁で射撃」と伊達厨は言っていた。
「それは数十丁だ」と突っ込んだ上杉厨が正解。
「伊達の小荷駄隊が攻撃を受けたのは総軍退却の後だ。」
こう伊達厨が書いた点も誤り。
「政宗は羽黒山を引き揚げる前に報告を受けていた。」
これも上杉厨と日本戦史は同じ内容だった。
703日本@名無史さん:2005/09/18(日) 17:15:50
いやいや、伊達厨に騙されるところだった。
704日本@名無史さん:2005/09/18(日) 18:22:41
鉄砲隊は島津でしょ。 種子島の領地があるからね
705日本@名無史さん:2005/09/18(日) 18:31:26
なんか伊達軍の残忍さに住民がトラウマになった。とか言ってたような気もする。
これも実は正反対。会津陣物語でも日本戦史でも
農民、町民らは初めから伊達に協力してた。筵旗振って合図したり、橋落としたり。

ちょっと考え直した方がいいよ。当てずっぽう過ぎて酷いと思う。
706日本@名無史さん:2005/09/18(日) 18:34:53
なんで伊達の話ししてんの?
707日本@名無史さん:2005/09/18(日) 20:43:00
落ち目だった上杉に勝てなかった件が悔しくて堪らない伊達厨は「上杉」と
聞けばどのスレにでも現れる。
708日本@名無史さん:2005/09/18(日) 22:43:37
なるほど じゃあ伊達のスレつくればって感じ
709日本@名無史さん:2005/09/18(日) 23:06:18
伊達厨すっかり壊れちゃったようだし三戦板に行ってくれ。
710日本@名無史さん:2005/09/19(月) 07:38:27
>>702
>「それは数十丁だ」と突っ込んだ上杉厨が正解。

おまえ「日本戦史」読んだなんて嘘つかない方がいいぞ。ちなみに、そんな記述
(「数十丁」)はただの1行も書かれていないぞ。さすがにちょっと酷い。 
「日本戦史」の方だと上杉が松川で大敗した記述は、2頁ほどの量しかないから
確認するのは簡単なことだと思う。

>>702はうっかり、学研か何かの本を誤読したのだろう。さあ、もう1回図書館へ
走ってくるんだな。できれば10円払ってコピーとって。
711日本@名無史さん:2005/09/19(月) 09:45:06
>>710
何を威張っているのやら。
「日本戦史」 三百三頁
伊達ノ士砂金實常ハ
数十騎ヲ率イテ
羽黒山ノ南ヨリ福島市中ヲ射撃ス

「伊達治家記録」
砂金右兵衛實常、
数十騎ヲ率ヒ、
羽黒山南ノ麓ニ張陣シ、福嶋町ノ内ヘ鉄砲ヲ撃入ル。

>>361
>その後羽黒山から数千丁の鉄砲での大銃撃戦。
確かに「数十丁」とは書かれてないが、この一文を読んで「数千丁」と判断する奴の方が異常。
712日本@名無史さん:2005/09/19(月) 10:10:01
ちなみに松川へ出撃する本庄義勝の描写。

繁長ノ次子 義勝 年十七
自ラ請フテ 松川ニ出ツ
数十騎之ニ従イ

義勝が父繁長へ出撃を願い出た時には「汝一人デ打出ヨ」(治家記録)
と叱られ、義勝は「一人乗出ス」(治家記録)まとまった兵を与えられていない。
これも>>361的解釈では数千人という事になる。
713日本@名無史さん:2005/09/19(月) 10:56:27
ただ303頁と書いただけでは、他人には何の事やらわからない。
最低限の常識として、版元、発行年、編纂者などの情報は書いた方がいい。
714日本@名無史さん:2005/09/19(月) 11:15:31
>>702
>これも上杉厨と日本戦史は同じ内容だった。

? ここでほとんど1人で頑張っている>>771>>712は、以下の>>298の発言した
人物と同一人物かな。確か伊達厨の鋭い突っ込みがあったはずなので下記の文に
も一応コメントつけなきゃ。

>>298
 日本戦史というのは殆どが旧参謀本部の捏造、作り話だとの見方が最近強いですよね。
 戦争の模様を克明に書き出しているとは言っても
 桶狭間、長篠の戦い等有名な戦でさえ完全な捏造、創作である事は今や常識です。
 その描写は「こうなる筈だ」「こうゆう見解だと都合が良い」と勝手に描かれた絵空事。
 そんな彼等、旧参謀本部が福島城攻防戦だけ真相を書けるとは到底思えません。
 そんな資料を一番に持ち出してきても説得力は生まれないと思いますよ?

 一方よく叩かれている「武辺咄聞書」ですが
 「武辺咄聞書」内で松川の戦いっぽい物語を吐露しているのは
 岡野左内ではなく杉原親清でしょ?
 杉原常陸介親憲に仕えていた親清が岡野左内から配置されていた方面の模様を聞き、
 それをさらに親清(彦左衛門)から物語されたのが「武辺咄聞書」の記述。
 そして国枝清軒が1680年編纂して出来上がったものです。
 つまり又聞きしてさらに又聞きに又聞きを重ねて生まれたもの。  

715日本@名無史さん:2005/09/19(月) 11:23:25
確か、この人物は以下の>>308氏への反論をスルーしてる件だな。

>日本戦史というのは殆どが旧参謀本部の捏造、作り話だとの見方が最近強いですよね。
そんな話、初耳だけどな

>桶狭間、長篠の戦い等有名な戦でさえ完全な捏造、創作である事は今や常識です。
これは大日本戦史の捏造ではなく、大日本戦史に採用された資料を基に検証した結果しかないはずだが?
ていうか大日本戦史読んだことないでしょ?二部存在して、一部が史料を基にした解釈、
もう一部がその採用した史料の掲載、こういう構成

大日本戦史が捏造・作り話というのはアンタのデタラメ
これは採用した史料・逸話が、史料的価値が低く信憑性が薄いというだけ
桶狭間は甫庵信長記の奇襲説をまんま採用し、参謀部の検証結果、実現性に乏しいとなり
長篠合戦では信長公記を採用し、三段撃ちとなっただけ

大日本戦史の内容は史料に記載があるから、陸軍参謀本部の捏造じゃあないね
アンタ説得力ないよ
ていうか、かなりの嘘吐き野郎だな


716日本@名無史さん:2005/09/19(月) 11:50:58
ところでなんでココの人たちって中間を取るっていう見方をしないの?
717日本@名無史さん:2005/09/19(月) 12:06:56
>>716
すると伊達厨が挑発を始める。圧勝じゃないと納得できないのさ
718日本@名無史さん:2005/09/19(月) 12:10:38
>>716
上杉厨は梅宮と鈴木って人の説を信用してるんでしょ。
んで、この人達は伊達、上杉、地元神社の情報をMIXしてるらしい。

伊達の記録だけが正しいと言い張ってるのは伊達厨。
だけならまだしも、三つ四つ話を作っていると。
只今突っ込まれ中。
719日本@名無史さん:2005/09/19(月) 15:37:18
>>710
いきなりおまえ呼ばわりされてもな〜。
ま正しい言い方をするなら「上杉厨の解釈の方が正確」
「伊達厨の数千丁(他数点)はデタラメ」こんなとこ。

参考資料のコピーが必要なのは(これ書いた)伊達厨でしょ。
ボロ出しまくって他人を煽ってばかりじゃ薄っぺらいよ。
720日本@名無史さん:2005/09/19(月) 15:42:29
島津義弘がつえ〜に決まってるだろ!!ぶぉけ!!
721日本@名無史さん:2005/09/19(月) 19:24:44
城攻め失敗するのなんか良くあることじゃねーの。
忍城だって三成吉継昌幸信繁の4人がかりで落とせなかったけど
別に甲斐姫がこいつらより上な訳じゃねーだろ。
繁長>政宗とか政宗>景勝とか言ってるわけじゃないのに何でココまで必死なのかわからん。
722日本@名無史さん:2005/09/19(月) 19:27:51
まあさすがに家督ついでから5年で奥州統一した政宗を雑魚呼ばわりするのはどうかと思うけどな。
夏だからしょうがなかったんだろ。
723日本@名無史さん:2005/09/19(月) 19:51:29
結局誰が最強なんだよ
724日本@名無史さん:2005/09/19(月) 20:56:40
朝倉教景
725日本@名無史さん:2005/09/19(月) 23:21:42
読んでると。
伊達厨はどこか政宗を中心に世の中が回っていたと信じてるきらいがある。
公平な立場に立てないままバランスある歴史考証を行う事は難しい。
伊達が好きで仕方が無い故独自の考えを曲げない。
その主張は徐々に乱れを見せて矛盾を引き起こした。
戦国末期。。。100年前ですら把握しきれない事件があるというのに。
新事実を知った際の余裕くらい持って楽しめないものだろうか。
726日本@名無史さん:2005/09/19(月) 23:44:10
信玄なんて6回も城攻めに失敗してるんだぜ!
義清相手に二度も大敗してるんだZE!
それに比べたら政宗ファンは気が楽さ。信玄厨より
727日本@名無史さん:2005/09/20(火) 06:56:19
>>722
奥州統一?
陸奥の半分程度だが?
728日本@名無史さん:2005/09/20(火) 07:14:06
>>727
ごめん。俄かだから許して。
まあ、どっちにしろ雑魚呼ばわりは無いと思う。
729日本@名無史さん:2005/09/20(火) 08:43:23
伊達も景勝を闇雲に雑魚扱いして自爆してるしなぁ。
俺には釣り行為に必死だった伊達の方が悪質に見えた。
730日本@名無史さん:2005/09/20(火) 09:50:58
まあ、福島城では双方血みどろの死闘が行われたことは確かなんだろ。
731日本@名無史さん:2005/09/20(火) 10:23:22
>>730
政宗が本陣を据えた(黒沼神社)傍にさえ多くの戦没者塚があったくらいだから。
合戦の推移は大混乱を極めたように見える。
市内周辺、他の様々な地域にも同じような塚が残されていたようだし。
後年になり、開拓の為各戦没者塚を掘り返す度に
枯骨や兵仗(刀の柄や鑓)が出てきたと「信達二郡村史」に書いてあった。
732日本@名無史さん:2005/09/20(火) 14:00:33
>>715
で、あなたが擁護しているのは「日本戦史」と「大日本戦史」のどちらなんだ? それとも両方か?
参謀本部編集なら「日本戦史」のはずだが参謀本部編集の「大日本戦史」もあるのか?
あるならどこの図書館で読んだのか明示しておくれ。
733日本@名無史さん:2005/09/20(火) 14:36:46
スレを読む限り、>>731の記述の戦没者塚が明示するように、上杉の抵抗で伊達
にも相当数の被害が出たらしいことは分かるが、それが1日で兵をひいた決定的
な理由にもならない。今後、それをさらに一歩進めて検証した方がいいね。

撤兵理由は、家康への思惑が8割方、上杉の抵抗2割方と見るのが妥当だろう。
734日本@名無史さん:2005/09/20(火) 16:49:08
>>733
その家康への思惑とやらが具体的に何だったのか。
その検証の方が本陣襲撃説より材料が足りていない感じ。
>>695-696のように「約定違反を恐れた撤退」を
否定した意見にすら、今の所反論できていないもの。
735日本@名無史さん:2005/09/20(火) 17:41:44
>>734
本陣跡に多くの戦没者塚があった=(イコール)本陣を襲撃したと
安易に結びつけるのもどうかな? とは思うけどな。
736日本@名無史さん:2005/09/20(火) 18:45:38
政宗は当初、七日も引き続いて信達地方の攻略を予定していた。
この戦略立案の時点では家康への遠慮なんて見られない。それなのに
何だかよく分からない「家康への思惑」とやらと
撤退理由とを、俄かに結び付けてしまうのは強引じゃないかなと思う。
737日本@名無史さん:2005/09/20(火) 20:09:42
>>735
(須田が)政宗の陣屋に攻め寄せて〜とする上杉側の資料は一切スルー。
伊達に都合の良い資料だけ採用するってのも、おかしいよね。
738日本@名無史さん:2005/09/20(火) 20:17:13
家康への思惑の方が、上杉攻略よりも遙かに重要である。上杉と全面戦争に
突入したとしても、長期に渡る。1〜2ヶ月激闘しても互いに勝敗はつかな
いだろうし、徳川の支援も全く期待できない。

伊達の参謀の判断は、その辺だろう。
739日本@名無史さん:2005/09/20(火) 20:27:20
酒豪の謙信が酒盛りをしている最中に島津が突撃して勝利って感じだな。
740日本@名無史さん:2005/09/20(火) 22:37:19
信玄に負けた謙信と秀吉に屈した義弘
ところで義弘と家久はどっちが強いの?
741日本@名無史さん:2005/09/20(火) 23:10:10
>>738
はじめから伊達郡攻略の意図が無かったのなら
政宗本人や景綱、茂庭綱元まで軍に加わえないだろう。
戦場に着いた先で家康の顔が浮かび、コロコロと方針でも変えたんだろうか。
ちょっと非現実的だなあ。
742日本@名無史さん:2005/09/21(水) 01:00:20
家久のほうが強い。大友も竜造寺も家久が潰した。
743日本@名無史さん:2005/09/21(水) 01:37:47
>>733
>>731が明示しているのは単なる伊達の被害ではない。
この場合伊達の本陣が襲われたという重大な意味を内包している。
本陣を襲われた形跡と
それに応じた記録までが存在する以上、
政宗が一日で退却するしかなくなった決定的根拠として充分成り立つ。
744日本@名無史さん:2005/09/21(水) 03:31:54
>>743
本陣跡に多くの戦没者塚及び記録があった=この場合伊達の本陣が襲われた
という重大な意味を内包しては「いない」。激戦があったにせよ。

憶測から一歩も出ていない以上=政宗が一日で退却するしかなくなった
決定的根拠としては充分「成り立たない」。決定力+説得力に欠ける。


745日本@名無史さん:2005/09/21(水) 05:27:49
>>741
>戦場に着いた先で家康の顔が浮かび、コロコロと方針でも変えたんだろうか。

 状況に応じて「コロコロと方針を変える」のは、政宗にはよくあることで、
 さして珍しいことでもない。無理はせず、深入りは避け、軽業師のように
 敵を翻弄する。臨機応変、当意即妙のなせる業であろう。
746日本@名無史さん:2005/09/21(水) 05:30:12
本陣跡に多くの戦没者塚及び「政宗本陣〜へ押寄」という記録があった=伊達の本陣は襲われた
という重大な意味を内包して「いる」。
実際に記録まであるので、当然憶測などとは言えない。
本陣跡で激戦があった。=本陣が襲われたから激戦になった。=裏手に多くの塚が出来た。

本陣跡と塚のある場所は高地。
=他から大量の死体を本陣跡に運んで来るのは困難。
上杉や伊達の資料に記された激戦地近くには、戦没塚の存在がほぼ確認出来ている。
=他から大量の死体を本陣跡に運んで来る必要はない。

記録と跡地(その位置)ともに、政宗が一日で退却するしかなくなった決定的証拠。
747日本@名無史さん:2005/09/21(水) 05:42:15
>>745
>「コロコロと方針を変える」のは、政宗にはよくあること
なら、よくあることを幾つか書き込まなくちゃ。
福島城一日敗退と似たようなケースを列挙してごらん。

「政宗びいきの研究者ですら疑問符をつけている」らしい敗退劇。
よくあること とは思えないのだが。
748日本@名無史さん:2005/09/21(水) 06:01:19
>>746
本陣跡に多くの戦没者塚及び「政宗本陣〜へ押寄」=伊達の本陣は襲われ
たという重大な意味を内包して「いるように見える」だけであり、牽強付
会的な解釈に過ぎない。よって、憶測・憶見の域をでない。(以下同)

>>747
「一日敗退」ではなく「一日撤退」ゆえに、似たようなケースを列挙
することはできないだろう。根拠不足の「敗退」を理由をもう少し
考えて書き込んでごらん。

>「政宗びいきの研究者ですら疑問符をつけている」

 って、誰? 非常に興味が湧くところではある。
749日本@名無史さん:2005/09/21(水) 06:58:52
>>748
>「いるように見える」だけであり、牽強付会的な解釈に過ぎない。

いや「押寄(攻撃=襲撃)」は憶測で俺が書いた訳じゃないんだから。
そして本陣跡にあったとされる夥しい塚。
この二つを結び付けて出た答えが「本陣襲撃」。これが牽強付会かね。
牽強付会…道理に合わないこじつけ。意味分かって使ってる?

>「一日撤退」ゆえに、似たようなケースを列挙することはできない。
根拠不足の「一日撤退」にしたって似たケースを挙げられないんでしょ。

>無理はせず、深入りは避け、軽業師のように敵を翻弄する。
こんな漠然とした内容で政宗を称えられても唖然とする以外ない。
実例を出さずにまくし立てられても説得力なんてない。
自分の思い入れを人に押し付け、「よくあること」だと言われて納得すると思った?
750日本@名無史さん:2005/09/21(水) 07:10:33
>>748
>って、誰? 非常に興味が湧くところではある。
知らないふりしてるのかな?
台詞回しが似てたので同一だと思った。

以前そう言ってた伊達ファンがいたなと。
スレ内検索すればすぐ見つかるよ。
751日本@名無史さん:2005/09/21(水) 07:20:08
ほほう、大分必死に食い下がっているが、所詮それは一資料。>>746の資料
は、激戦を示すだけのもので、「本陣襲撃」の決定的な証拠にもならない。
この程度の「思い入れたっぷり」のがさつな論(苦笑)程度では、失笑
されても仕方あるまい。筋道を立てて人を説得するのであれば、この論を
もう少し発展させることが必要だ。思いこみは極力捨てないとね。
残念ながら、他人には「単なる地元びいき一上杉ファンの私感」としか見えない。
しかも、この論をふまえた「伊達びいきの研究者の意見」とやらはスルー
のままだから、さらに説得力が薄い。是非、引用をお願いしたい。できれば
の話だがw
752日本@名無史さん:2005/09/21(水) 09:18:32
>>751
>激戦を示すだけのもので、「本陣襲撃」の決定的な証拠にもならない。
「政宗本陣〜へ押寄」
資料にはこう書かれているのに、漠然とした他地域での激戦だった等と
なぜ誰もしないような手前勝手な解釈をする?
牽強付会はどっちだろう。
本陣跡の塚群は記述を裏付ける証拠と成り得る。
五十辺で激戦あったと記述あれば(治家記録)五十辺に塚あり。
松川で激戦あったと記述あれば古松川河岸に塚あり。
羽黒山の麓で戦いあった(治家記録)と記述あれば荒井に塚あり。
松川〜福島間が上杉の資料通り死体で埋まったとすれば曾根田にも塚あり。

それと同様、政宗本陣に梁川勢押寄せる記述があれば本陣跡に多くの塚あり。

>残念ながら、他人には「単なる地元びいき一上杉ファンの私感」としか見えない。
他人からは信夫山の研究者としては右に出る人はいない。
と評価されている方の本を参考にしている。
残念ながら、私感ではないよ。

>「思い入れたっぷり」のがさつな論(苦笑)程度では
>>無理はせず、深入りは避け、軽業師のように敵を翻弄する偉大なる政宗様。
>>臨機応変、当意即妙の政宗様。
これよりは遥かにマシだと思うが?思いこみは極力捨てないとね(苦笑)
753日本@名無史さん:2005/09/21(水) 10:32:07
>>742
じゃ「上杉謙信VS島津家久どっちが勝つ」のほうがよくない?
754日本@名無史さん:2005/09/21(水) 10:38:21
>>752
>「政宗本陣〜へ押寄」

 これは一体誰が、いつ頃、書いたものなのですか? 信憑性はありますか?
 その辺の情報なくして、「決定」などとは到底言うことはできないでしょう。
 
 地元の一研究者が、個人的に発表しただけのものでしょう。俄には信じられ
 ないですよね、これでは。歴史学会とまでは行かないにせよ、他の研究者は、
 この資料に対してどのような態度をとられているのか、教えて下さい。

 >他人からは信夫山の研究者としては右に出る人はいない。
  と評価されている方の本を参考にしている。

 その方は専門は考古学者ではありませんか? しかも地元福島の。
 何を苦笑しているのか理解に苦しみますが。

 ともかく、激闘を示す資料ではあるでしょうが。このままでは「本陣襲撃」
 も単なる仮説ですね。歴史のロマンに浸るのは、ご自由ですが。
  
755日本@名無史さん:2005/09/21(水) 10:41:53
で、この人々はよくある夏の風物詩に何でこんな必死なんですか?
756日本@名無史さん:2005/09/21(水) 10:51:48
>>752
>政宗本陣に梁川勢押寄せる記述があれば本陣跡に多くの塚あり。

 数万規模の伊達の正規軍に対して、しかも本陣に向けて、一体、「何人の梁川勢」が
 押し寄せたのやら? まさか500〜600人程度の人数ではあるまいが(w)
 ま、完膚無きまで叩かれ、撃退されるのが落ちだろう。
 伊達勢が「去った後の本陣付近」に殺到したのだろうな。そうすれば「本陣に押し寄せ」
 ということになるね。白石城を奪われた甘粕のような目には合いたくないから、上杉
 も必死に抵抗はしたこと自体まで、否定するものではない。

757日本@名無史さん:2005/09/21(水) 10:54:23
島津義弘だったか、朝鮮の役で、明軍と朝鮮軍二十万人を一万人で壊滅させたと
「島津はしる」池宮彰一郎著?に書いてあるけど、本当ですか?
758日本@名無史さん:2005/09/21(水) 18:26:12
>>754
>これは一体誰が、いつ頃、書いたものなのですか?
長谷堂合戦で仕えていた杉原親憲(松川合戦時福島城篭城)より
「羽州最上表の比類なき働き感じ入り候」
及び知行250石を加増するという感状を与えられた杉原親清によって書かれた。
新庄藩系図書によると彼の生没年は1583〜1631という事なので
酒井忠勝の意向によって筆記した時期は、1600年(松川合戦)より30年も経っていない。
親清の記述は様々な上杉家資料に拠っているといった指摘もある。
これらの資料群の中にも「政宗本陣襲撃」の記述が同様に見られる場合、
その成立年次第では尚一層、松川合戦から日を置かず書かれた事になるだろう。
対して伊達治家記録内の記述は一体誰が、いつ書いたのかは不明。
上杉側の文献に挙げられた諸説に反駁する形式を見る限り、
上杉の資料群以降に筆記された可能性まで考えられる。

>地元の一研究者が、個人的に発表しただけのものでしょう
本の巻頭において推薦文を連ねている面々は
福島県郷土研究室主任 水口昇氏
福嶋市長(1987当時) 吉田修一氏
福島市史編纂室長 大村三良氏
彼等の支持を受けているという事だから、
「一研究者が個人的に発表しただけのもの」というレベルではない。公が推薦した著書。
759日本@名無史さん:2005/09/21(水) 18:28:56
>>754
>他の研究者は、この資料に対してどのような態度をとられているのか
上記の研究者以外にも福島県議会史、川俣町史作成に中心的役割を担われた
鈴木俊夫氏の各論文内容は、梅宮氏の考察を容れながら筆記されている。
他に松川合戦を膨大な資料に基づき考証した史学者自体、渡邉三省氏以外聞かない。
彼も梁川勢による本陣襲撃説を採っている。

>その方は専門は考古学者ではありませんか?
県考古学会会長も兼ねていたというだけで、
実際は黒沼神社社家から歴史調査を依頼され、その保有する全資料を手渡されるなど
歴史学者と呼んで一向に差し支えない御仕事も沢山されてきた方。
考古学関係の略歴を除いても第一次県史編纂委員、県史及び各市町村史編纂委員を歴任。

>何を苦笑しているのか理解に苦しみますが。
政宗へのがさつな思い入れに苦笑している話と
梅宮氏の話とを混ぜ合わせてしまうのは理解に苦しみます。

>激闘を示す資料ではあるでしょうが。このままでは「本陣襲撃」も単なる仮説ですね。
その資料内容を読めば、何処で行われた激闘なのかは一目瞭然。
「本陣襲撃」は後世の人間が勝手に唱えた「仮説」ではなく、当時の武士が残した「記録」。
本陣跡戦没塚群はそれを裏付ける証拠。
760日本@名無史さん:2005/09/21(水) 18:38:38
>>756
>数万規模の伊達の正規軍に対して、しかも本陣に向けて、
梁川城方面を抑えていた伊達軍は皆無。
これは何ら抗戦出来ぬまま殲滅された小荷駄隊の描写がある
伊達治家記録さえ認めている。
当初配された片倉隊は勿論、高野隊までが福島に来てしまったのか?と疑問符。
この後高野隊数千人は行方不明という驚きの記述を読む事が出来る。

となれば梁川城から政宗本陣(愛宕山広場)の間は、ほぼガラ空き状態。
小手六十三騎等を率いる須田が一気に南下する話も頷ける。
もっとも上杉側は須田が阿武隈川を渡る際、中目、柴田らの各隊が
梁川抑えとして川向こうに待ち受けていた、としている。
いずれにせよ渡河点を知った須田の急襲を受け、混乱の内に敗走。
次いで須田は、大軍ゆえに松川を渡り切っていない伊達軍を
川中に追い詰めた後、政宗本陣へと向かう。
761日本@名無史さん:2005/09/21(水) 19:28:09
>>757

20万と号する明軍を壊滅させたのは事実。
実数は、明軍4万弱、島津5千強だったらしいが。
762日本@名無史さん:2005/09/21(水) 19:59:50
九州勢力が、大陸勢力に強いのは、防人時代など昔からだろ。
ノウハウが蓄積されてる。

島津自体が、倭寇みたいなもんだろ。
763日本@名無史さん:2005/09/21(水) 20:00:26
>>760
>いずれにせよ渡河点を知った須田の急襲を受け、混乱の内に敗走。
 次いで須田は、大軍ゆえに松川を渡り切っていない伊達軍を川中に
 追い詰めた後、政宗本陣へと向かう。

 随分景気のいい話だが、ありえないって(笑) 梁川城守備の須田勢は600人程度だよ。
 いや、6000人だったら、まあ納得もするけど、600人だから。本陣へ向かう前に全員蜂
 の巣状態だろう。大体、600人のうち何人が本陣へ向かうことができたことやら。
764日本@名無史さん:2005/09/21(水) 21:14:18
あれ?
防人って東北人じゃなかった?
765日本@名無史さん:2005/09/21(水) 23:12:15
>>763
確かに日本戦史(ほぼ全ての情報源が治家記録)には梁川城六百人、福島城千人と書いてあるが、
伊達治家記録には(福島城は)其勢数百騎篭るとしか書かれていない。
本庄家文書を研究した渡邉三省氏は、同資料群にある「福島陣之人数」によって
二千人という数字を把握し、軍編成まで明らかにしている。
梁川城の研究でも鈴木俊夫氏が信夫郡、伊達郡の石高を割り出しているが
福島城のある信夫郡1万1千石に対し、梁川城のある伊達郡は二万石と算出。
当時の豪農は妻子眷属の他に名子下人を隷属する大家族構成をとっていた。
飯野町、川俣町、月舘町で構成されていた小手六十三騎だけでも当主一騎につき
十人前後付き従っていたと考えられている。
村に帰れば一人一人が検断(大庄屋)で、村の指導者的立場である事から力を持っていた。
伊達郡には他にも桑折、伊達、国見、梁川、保原、霊山各町もある。が、、
或いは伊達軍についてしまった村も多く、上杉側も瀬上等の柵、砦に動員していたので
梁川城に配された兵力は小手郷、梁川城周辺(梁川、保原、霊山)を主力にした千人。
これに佐竹からの援軍車丹波隊と直江兼続から増強された兵を加えた構成だった。

岡左内が羽黒山麓で旗を立て、松川で敗れた軍を立て直したとする軍と合流すれば、
相当数で目前にある黒沼神社政宗本陣へと乱入する事は十分可能だったろう。
この本陣襲撃の激闘の末に黒沼神社、羽黒山神社などが全焼してしまった。
というのが上に書いた黒沼神社社家富田氏から歴史調査を依頼された梅宮氏が導き出した結論。
これは勿論今でも黒沼、羽黒山両神社の歴史として紹介されている。
766日本@名無史さん:2005/09/22(木) 06:17:03
>>765
 この辺の資料は読んでいると面白いね。非常に興味深い。
 ただ、仮定の話となると別だが。

>岡左内が羽黒山麓で旗を立て、松川で敗れた軍を立て直したとする軍と合流すれば、
 相当数で目前にある黒沼神社政宗本陣へと乱入する事は十分可能だったろう。

 無理無理。彼我の兵力差(10〜15倍以上だったか)では「十分可能だったろう」とは到底
 いえない。したとすれば自殺行為でしかない。 

>(1)この本陣襲撃の激闘の末に
 (2)黒沼神社、羽黒山神社などが全焼してしまった。

 その机上の空論、可能性の前提の上に、いつのまにか「本陣へ襲撃」し「激闘」
 したことにされている。この辺りの苦しさは「十分可能だったろう」の一文
 に集約されている。(1)は唯の可能性であり、(2)の黒沼神社、羽黒山神社全焼
 の直接原因とは結びつかない。強引なひいきの引き倒しもほどほどにしないと、その
 戦果の極端な過大性ゆえに、壮大なファンタジー、上杉の大本営発表(「東国太平記」
 「会津陣物語」)にしか見えない。
 誰かがいっていたように、双方「痛み分け」の中間説におちつけた方がいいかもしれない。
767日本@名無史さん:2005/09/22(木) 06:53:42
あの島津の退き口でも、大激闘・大激闘の末に1500名→80名ほどに磨り潰されている。
梁川の部隊600〜1500名としても、数万規模の伊達隊に対して、しかも政宗本陣へ突入
をかけて、何人が生存しえたか?という話にもなる。
摺上原でさえ、伊達23000対葦名16000規模の軍事衝突で、ぎりぎりまで勝敗がもつれた。
768日本@名無史さん:2005/09/22(木) 10:17:48
>>761
あ、実数は、そうですか?
どうもありがとう。
769日本@名無史さん:2005/09/22(木) 15:01:07
>>766
>彼我の兵力差(10〜15倍以上だったか)では「十分可能だったろう」とは到底いえない。
伊達の各隊は松川を越え、福島市内外に広がっている。治家記録説を採れば屋代隊は腰野浜へ。
ここで上杉の桑折か、伊達の桑折かと攻撃をためらっているので、桑折隊も渡河していたのだろう。
当初梁川御用心だった片倉隊も諸隊の後方から追い付いて福島城下へ。高野隊まで福島に来た
可能性を示唆している。信夫山西方の道を取った大部隊も「御人数大半は庭坂、佐崎野、荒井(小
山荒井とは別)、大森」福島城から見て西部と南部の広範囲に布陣して米沢、会津との間道を遮断
していた。上杉側の説でも、松川から福島城下への道を成実隊、屋代隊、茂庭隊が雪崩込み、後
の記述では桑折隊と羽根田隊も茂庭、屋代と合わせた四軍として城下に迫っている。どちらの説を
採っても伊達の主力、その大多数は愛宕山本陣から松川を隔ててしまっており、自然本陣周辺は
手薄。孤立している状況が窺える。これにより彼我の兵力差は10〜15倍以上という事は考えられ
ず、3〜5倍程度が妥当。
「十分可能だったろう」と書いたのは、単に「攻め込むのが十分可能」という意味ではない。「相当数
で」攻め込むのが十分可能だったという意味。孤立した愛宕山を急襲する兵数が、千人〜二千人
規模になる検証と記述が揃っているという意味。この奥まった小山へ「押寄」せ、夥しい戦没塚を築
く激戦が行われた記録も現実味を帯びる。どちらかと言えば、かなり広範囲に展開してしまった伊
達軍の描写を、資料からは読み取れるのに愛宕山本陣に万単位も残っていた、とする仮説の方が
机上の空論、壮大なファンタジーだろう。

>双方「痛み分け」の中間説におちつけた方がいいかもしれない。
初めから上杉側の資料も完勝を謳っている訳ではない。松川では大敗。これは間違い無い。多くの
武者頭が枕を並べて討ち死にし、その結果大敗走。福島城への道を死体の山で埋め尽くす。といっ
た情景を描いている。
770日本@名無史さん:2005/09/22(木) 17:08:43
>>769
>孤立した愛宕山を急襲する兵数が、千人〜二千人規模

 その程度の規模では到底、政宗本陣は揺るがないんじゃないかな?
 また戦線が拡大した状況下での敵の迂回攻撃や挟撃攻撃などには、相当用心
 していただろうし。

 仮に上杉2000VS政宗本陣2000の対決になったとしても、上杉の被害はただではす
 まないだろう。双方の鉄砲の装備率、戦意とかも含めて、浮き足立つ理由もない。
 足軽鉄砲で梁川勢は殲滅かな? 本陣突入(あったとして)時の上杉の兵力は、伊達
 よりは少なかったはずだし、いずれにせよ、この本陣襲撃説は最も無理のある「仮説」
 なことは確かだね。
771日本@名無史さん:2005/09/22(木) 17:26:03
>>769
 この手の修羅場は伊達軍も相当くぐっているが、負けたことはないね。
 本陣が危うくなっても総崩れということもない。郡山合戦の場合がいい
 例かもしれないが、伊達政宗600 vs 佐竹義重・蘆名義広等4,000の戦い
 で、山王に本陣を置いた政宗は、窪田砦で連合軍を阻止。(伊達方の被害
 70人程度、佐竹等連合軍200人程度) 

 愛宕山で政宗が600人程度であろうが、まあ食い下がり、踏みとどまるだろう。
772日本@名無史さん:2005/09/22(木) 20:48:40
>>770
こうゆう場合、両軍の疲労度も計算に入れる。
十月六日この日政宗が出発した場所は白石城。
そこから国見山を経て、本道に出、信夫山を迂回しながら黒沼神社へと登る。
白石城址〜黒沼神社は直線距離にして29.252km。緯度経度も秒単位だから正確だと思う。
勿論、直線でなど行ける筈がない。蛇行した本道や高低差も考えて+5km。
往路だけで実に約35km近く行軍した事になる。
35kmとはどれくらいの距離か、ネット地図なりで自分の住んでいる場所から計ってみるといい。
太陽暦にして十一月十日。しかも第二小氷期だから現在よりも気温は非常に低い。
さらにこの日は濃霧であったと記述に見えるから、さぞかし行軍は難渋した事だろう。
東北の冷たい霧に鎧と衣服を濡らしながら35km。主従共に疲労困憊で着陣。
そこへ元気一杯の梁川勢から思いがけない襲撃を受けたからには一溜まりもない。

>敵の迂回攻撃や挟撃攻撃などには、相当用心していただろうし。
全く用心していなかったからこそ、梁川城の抑えだった片倉、高野二隊まで福島城攻めに投入。
政宗個人を考えれば六日深夜午前二時に、景綱と手紙の交換をしている事から極度の寝不足。
睡眠不足と重度の疲労。これらは結果として采配や判断を誤らせてしまった一因になっただろう。
この後、治家記録に書かれてある通り国見山へ戻るとなれば+約20km。
往路復路合わせて約55km移動した事になる。
戦後、福島県の研究者達が茂庭山を経て逃げ帰った、とする上杉説をわざわざ紹介するのも、
一日の移動距離としては、あまりにも現実味がない。と治家記録を判断したからではないだろうか。
773日本@名無史さん:2005/09/23(金) 01:18:47
>>772の文章は、憶測・推測中心で文学臭が強くなっているため、相当トーンが
 ダウンしてきているが。つまり、

  「疲労困憊で着陣」「極度の寝不足」「睡眠不足と重度の疲労」
  これらが、「結果として采配や判断を誤らせてしまった一因」。
  そこへ元気一杯の梁川勢から思いがけない襲撃を受けたからには
  一溜まりもない。

と素朴な判断を下されてもなあ(苦笑)。なぜ「一溜まりもない」のか?
正直、意味が分からない。伊達の場合、若い頃から、何度となく奇襲をくらったり、
四方を包囲されたり、城門を開けて飛び出てきた城兵と白兵戦を展開したりの
繰り返しで、綱渡りで生き抜いてきた主力部隊が健在だ。スケール的(伊達の窮地度)
にみても、>>772の状況などは佐沼城の戦いなどと比較しても、どうといったことも
ないものにしか映らない。ここに、梁川勢と伊達勢の本隊が具体性にどう激突し
たかという描写がないから、リアル感に欠ける「物語」「伝聞」「武勇伝」の類として
の印象を抱かせるのかもしれない。伊達方からすれば、「よく言うよ…」だな。
774日本@名無史さん:2005/09/23(金) 10:42:26
泥沼になってきたな
775日本@名無史さん:2005/09/23(金) 14:09:37
上杉の伝によると、個人的な武者がやたらと威勢がよく、超人的な活躍を
繰り広げる。しかも何かにつけて政宗本陣深くに突入しては、政宗に二太刀
まで斬り付けたり(一齋道二)、命を落とす寸前まで斬りつけたり(岡野左内)、槍を
入れたり(青木新兵衛)するから驚かされる。その後、政宗は必ず白石方面へ
逃走することに相場が決まっている…。

政宗個人が城壁などへ接近しすぎた例は、寡聞にして聞かない。天正19年の宮崎城
攻めの際に、浜田伊豆が戦死した激戦の最中、馬に銃弾が命中したこと位だろうか。
776日本@名無史さん:2005/09/23(金) 16:03:44
>>773
思い入れに溺れたまま「憶測・推測中心で文学臭が強くなっている」のはそっち。
ある合戦を評するのに、今までの戦はこうだったから大丈夫。こんな馬鹿げた話も無い。
経験豊富だから、この程度の危機なら持ち堪えるだろう。
こんな理屈が通るなら、元亀二年の織田、大阪城の徳川、竜造寺、武田、今川etc
死線を潜り抜けた彼らの本陣が小勢力に壊乱させられる史実も嘘になるのだろうか。
海千山千の戦国大名でも圧倒的優勢な状況下で、あっけなく敗北する例は幾らでもある。

以前レスをする対象に、伊達本陣は戦意も浮き足立つはずが無いくらい充実していた
といった事を意味する一文を見かけた。それに対して自分は「憶測・推測」ではない、
伊達軍一人一人の兵士に課せられた具体的な移動距離。当時の気候。その日の気象条件を提示。
強い兵や軍を弱くする要素は何か。戦意を下げる因子。それは疲労や油断ではないだろうか。
いかなる勇士、豪傑も疲労に勝つ事は出来ない。これらは彼らにとっての大きな足枷となる。
山間部を含めた約35kmを歩き、濃霧に閉ざされ、増水した摺上川始めとする川を渡河する度に
ずぶ濡れとなり、夏ならまだしも季節は冬。
急襲や伏兵に備え緊張感を持したまま、超長距離を行軍。心身ともに疲弊するのが道理。
上杉如きに緊張感など持って進軍するか。等と煽り言葉が返ってきそうだが、
それは油断を自ら表した事になる。実際持ち場を離れる数部隊、小荷駄を襲われ奪われ、などは
伊達軍全体に油断が蔓延していた動かぬ証拠だろう。

こういった要素を踏まえれば伊達本陣と梁川勢。どちらが戦意が高かったのかは答えが出てくる。
日本戦史にも、政宗の麾下が片倉、茂庭、屋代と共に渡河したという意味深い記述が見られる。
城攻めに備え、鉄砲隊を城下に派遣していた見方まで出来る中、
襲撃された時点での政宗本陣における軍編成はとても把握し難い。梁川勢もまた然り。
よって、分かる範囲内で「思い入れ・憶測・推測」を排し、両軍の強弱を考える事になる。
結論として政宗本陣には動かしがたい大きなハンデ、負ける要素、敗因が梁川勢より多く見られる。
777日本@名無史さん:2005/09/23(金) 17:54:28
終了
778日本@名無史さん:2005/09/24(土) 06:22:17
>>776
この論法は、諸刃の剣であり、勝敗の証明には全然なっていない。
見方を変えれば、この状況下で、壊滅的な打撃を受けたのは、実は伊達よりも有利と
考えて攻め込んできた上杉方の可能性すら出てくる。敵兵は疲労していると安易に
判断し、本陣近くへ攻め込んだため、逆に一網打尽にされ、莫大な損害を出したのでは。
(無論、上杉としては、到底、断固として認められないだろうが)
つまり「大きなハンデ、負ける要素、敗因が多く見られる側が、逆に勝利を収めケース
など、枚挙にいとまがない」と切り返すことなど容易にできるためだ。

一例を挙げれば、天正期の相馬攻めの際なども、伊達は城攻めに昼夜連続5日ぶっとお
しで攻めつづけ、疲労困憊の極に達していた。昼間から疲労のためウツラウツラと熟睡
しかけている伊達勢を見てとった相馬勢は、木戸を開け、特攻に近い形で城兵が打って
出てくるが(その姿はまさに福島城の本庄らの姿と酷似している)、これは伊達の仕組
んだ巧妙な罠だった。相馬勢は伊達が「油断し、弛緩した蔓延した」と思いこんで突撃を
かけたものの、一網打尽に完全包囲された挙げ句、一気に殲滅させられた。
(単なる一事例に過ぎないが、>>776論とは真逆)

政宗の本陣跡に残された死者の山が上杉のものだったか?あるいは伊達のものだったか。
状況から具体へと、より明確な論を展開する必要があるだろう。
779日本@名無史さん:2005/09/24(土) 11:56:03
上杉は返り討ちにあったということだな。
780日本@名無史さん:2005/09/24(土) 19:12:45
>>778
鉄砲の装備率と言われた時も思ったのだが
この時、政宗本陣はそういった、当時の未熟な鉄砲性能を引き出す備えなど充分出来ただろうか?
防御陣の為の柵であったり、壕等を用意する時間はあったのだろうか?
白石城からちょっとした旅をしてきた政宗に、陣地を小要塞化する余裕があったとは考えにくい。

本陣は現・愛宕山広場から黒沼神社にかけて置かれたといわれている。
今でこそ簡便にこの両方を行き来できるように、整備されてはいるが、
それは明治時代に愛宕山を大きく削り公園化した結果であり、この当時は標高差があった。
愛宕山広場の目の前は当時松川が流れており、黒沼神社の北側は現在でさえ等高線が引かれている。
明らかにこの本陣は対福島城を意図して存在しており、南北からの攻撃には強いが、
横合いから攻めてきた敵を包囲するだけのスペースは無く、自由な軍展開を著しく制限されている。
狭隘地と丘とを結ぶ間道、それに大河で構成されており、平野のような大軍有利な合戦など行えない。
本陣東端である黒沼神社へ守兵を置き、愛宕山への間道を塞いでいれば、強固な本陣かもしれない。
が、治家記録によると政宗はここに居た。
真っ先に梁川勢から襲撃を受けてしまう位置に、政宗が居場所を定めた事からも、数々の失策と同様、
その視線の先は福島城攻撃に注がれ、「迂回攻撃」など想定していなかったようにしか見えない。
仙台青葉山寂光寺羽黒権現因縁記の「上杉諸将勢を揮ひ地を動し金鐵(刀や鑓)錚々として以って鳴る」
と襲い掛かってきたのを陣中の慶印が必死になって防戦する描写も、まさにこの時だろう。

>山王に本陣を置いた政宗は、窪田砦で連合軍を阻止。
これも
>これは伊達の仕組んだ巧妙な罠〜一網打尽に完全包囲された挙げ句、一気に殲滅
これも、攻撃に対する砦などの備えや、敵の突撃を意図した陣形があって初めて可能な合戦。
しかし数々の資料を読んでも、黒沼神社が砦化していた記述は一切見られない。それに
包囲陣形を敷くのも到底不可能な地形でもある。全く当てはまらない合戦例を挙げた所で仕方がない。
781日本@名無史さん:2005/09/25(日) 05:37:16
>>780
>全く当てはまらない合戦例

誤読しているようだが、この戦例は、伊達軍の強靱さを示すものとして挙げたものだ。
当時の伊達の武将達は、寒中を飲まず食わずで2〜3日徹夜行軍しようが、別に音を上
げるとも思えない。すなわち>>772「東北の冷たい霧に鎧と衣服を濡らしながら35km。
主従共に疲労困憊で着陣。」などは柔な現代人が考えそうな「素直すぎる見解」といえ
るだろう。また仮に、不意打ち・奇襲を受けようが、初陣武将でもあるまいに、一々
慌てふためくような「ウブな部隊」ではないことも付け加えておきたい。

>その視線の先は福島城攻撃に注がれ、「迂回攻撃」など想定していなかったよう
 にしか見えない。

上杉方にそう「見えた」ということは、逆に伊達側の思う壺だったことになる。
狡猾な罠の常套手段は、いかに相手に「隙」を見せる振りをするかにかかっており、
この手の策謀と罠の仕掛け方は、伊達の最も得意とするところだ。
上杉軍が500人位ならまだしも、山麗から1000〜2000人もの大規模な部隊で攻め上がっ
てきたとすれば、その情報はいち早く伊達の物見、斥候から本陣へ筒抜けになっていた
ことは間違いない。下方からはい上がり肉薄してきた上杉軍は、待ちかまえていた伊達
軍から徹底的に銃撃の集中砲火を浴びられせ、死傷者が続出した末に撃退されたのだろう。
2000人近い上杉の奇襲部隊のうち、さて生存者が果たして何人いたか? 興味深くはあるが。

と、上杉の「伝承」を逆なでするような見解を記しておく。
782日本@名無史さん:2005/09/25(日) 23:33:17
389 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 13:48:37
>>388
ぐぐって高柳氏監修の本もちだされても、あっそとしか答えられないんだけど
都道府県レベルの自治体の図書館に行って、実際に見てきてら?
陸軍参謀部編纂の大日本戦史が置いてあるから

復刻版は読んだことないね
だから、どう校訂されてるかは知らない
復刻版読んだのなら、基の資料紹介や、中で使われてる書状等の活字化は勿論されてるよね?
大日本戦史では、そうなってるから

というか、こんなレス返ってくるとは思わなかった
釣りかな?

397 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:17:05
煽りも結構、どうぞネット検索で悦に入ってくださいね

406 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:37:28
明日にでも図書館行って撮ってくるよ、ぐぐるだけで、足運ばない人間相手にはそれしかないから
783日本@名無史さん:2005/09/26(月) 05:59:35
>>781
いや、まさか「昼夜連続5日ぶっとおし」に主眼が置かれていたとは思わなかったから。
疲れたように見せかけ(疲れた兵をわざと晒し)、敵を誘き出し、包囲殲滅する罠だったというお話。
前回のレスで、それは政宗本陣を襲撃した梁川勢に対して難しい戦術。その違いと根拠を説明した。
話の内容から言って、単に伊達の超人的強靭さを示すだけの意図で書かれたようには思えないが。
不可思議な言い分は一先ず置いておくとして、
「城攻めに昼夜連続5日ぶっとおしで攻めつづけ」たのが、同じ兵士だった確証はあるの?
「伊達軍の強靱さを示すものとして挙げ」たいのなら、
伊達の各隊が日毎、或いは半日毎の交代で、城攻めを受け持った可能性くらい否定しきらなくては。
毎度おなじみ、今回も資料の何処にも書かれていない出来事を作り上げてるような気もするが。
「伊達軍」全体で昼夜連続5日ぶっとおしで攻めたのかもしれない。これは有り得る話。
兵の配置を代える事くらい、伊達に限らず他の大名も普通にやっていた事だろう。
例えば、この時間帯は○○隊の兵士に攻めさせ、先程戦った隊は後方で休ませるといった采配なら。
この場合、五日間の内に待機、休息がある訳だから、さして強靭と評価するには当たらない。
しかし、同一の「伊達の兵」が昼夜連続5日ぶっとおしで戦い続けた?城を攻め続けた?無理がある。
少しでも想像力があれば、そんな長時間同じ人間が「城攻め」を出来るなどとは思わないだろう。
784日本@名無史さん:2005/09/26(月) 06:02:43
>>781
>武将達は、寒中を飲まず食わずで2〜3日徹夜行軍しようが、別に音を上げるとも思えない。
凄い凄い。具体的な例を挙げたら?そんな行軍をした記録なんて何処にも無いだろうけど。
伊達への思い入れが昂じるあまり、非現実的な妄想を書き込みたいなら一人でやってくれ。

>不意打ち・奇襲を受けようが、初陣武将でもあるまいに、慌てふためくような「ウブな部隊」ではない
毎回思うのだが、何故伊達だけは違う。という意識で居られるのだろう。
不意打ち・奇襲を受け、慌てふためいた数々の合戦例には初陣武将だけしかいないのか(苦笑)
伊達と同じか、それ以上の評価をされている名将達も、慌てふためいた戦史を残しているだろうに。

>その情報はいち早く伊達の物見、斥候から本陣へ筒抜けになっていたことは間違いない。
「間違い無い。」なら証拠をどうぞ。物見、斥候が捕らえられる事なぞ珍しい事ではない。
抑えの各隊さえ引き揚げてしまう大らかな武将なのだから、物見を出していたのかさえ非常に疑わしい。

>待ちかまえていた伊達軍から徹底的に銃撃の集中砲火を浴びられせ、
何度も言うがこの日は濃霧。
霧は山林等の場合、立ち込めて濃さを増し、尚一層視界を閉ざす。
川下のように山から吹き降ろされる風で飛ばされる事もないから、長時間停滞してしまう。
鉄砲万能、鉄砲礼賛、鉄砲信者には悪いが所詮火縄銃。命中精度、射程、射撃間隔、全てが頗る悪い。
銃弾に当たっても怪我程度で死なない逸話も多い事から、破壊力も今一。
現在の鉄砲の認識で考えてしまうのは、いい加減止めた方がいいと思う。

>2000人近い上杉の奇襲部隊のうち、さて生存者が果たして何人いたか?
須田の被害は軽微なものだろう。彼の主力、小手郷の部隊から死傷者が出ていない事からも窺える。
この部隊は松川合戦でも大功績を残したとあるが、慶長六年の戦にも各々が参加している。
戦没塚が黒沼神社の裏手にある事からも、政宗本陣手前で寄せ手が撃退されたとは考えにくい。
この塚群の位置が、梁川勢の攻め込んだ東側の真逆、西側に多く分布していた事からも、
本陣深く乱入したと考えられている。そして伊達氏歴代の尊信を集め続けた黒沼神社が焼き払われる。
785日本@名無史さん:2005/09/26(月) 07:44:10
>>784
>須田の被害は軽微なものだろう。彼の主力、小手郷の部隊から死傷者が出ていない事からも窺える。
>この部隊は松川合戦でも大功績を残したとあるが、慶長六年の戦にも各々が参加している。

 上杉の資料は臆面もなくこんなことを書いているため、ここの伊達厨の揶揄の対象と
 なっている(苦笑)。上記の長々とした文も、両軍を取り巻く状況説明(主に気象条件)
 で、結局は何も言っていないに等しい。

 しかも上記レスで、松川合戦で上杉は負けたと書いておきながら

>>769 「初めから上杉側の資料も完勝を謳っている訳ではない。松川では大敗。
 これは間違い無い。多くの武者頭が枕を並べて討ち死にし、その結果大敗走。
 福島城への道を死体の山で埋め尽くす。といった情景を描いている。」

「松川合戦でも大功績を残した」とし、挙げ句は「慶長六年の戦いにそれぞれが参加
している」と書く。まさか慶長6年4月26日ではあるまいが(微苦笑)

786日本@名無史さん:2005/09/26(月) 07:49:25
「福島城への道を(上杉の)死体の山で埋め尽くす。」とすれば、これだろうね、
大量に発見された戦没者塚の正体は。上杉兵に合掌しなければならない。
787日本@名無史さん:2005/09/26(月) 16:04:02
イ´| ̄`ヽr<´ ̄  ̄`ヾ´ ̄ `ヽx''´ ̄「`丶、
     / _|ノ   ├〈,.-―     ;. _  ,ゞ--'、:\___lヽ
     ,':∨::\  /´ ̄  ̄`ヽ ヽ/´  `ヽ、-.、 \::::::::::',
      |、_;/ /  /´   ,.     、  、  \. \ \―|
      ’、  /  /  ,.  / / ,ハ ',.  ヽヽヽヽ  \ヾ/
      \_/:/:/:./ , / .,' / // | l | , l: | ', ',. ! l  :',!|
          |/:/::/:/:/:! l | { /|:!  l l } !ノ|::,!l | :| |::|:::::::|ノ
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       _ /     li : . ',.`ヽ、 _ ,.イ´ /.ノ::l|  ヽ \____
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        |      /; ´     ` ‐  ,     ヽヾ   ! \|
       |    /       ヽ::/      `ヽ |
      |     ,'        `         ', ! 同じ板にコピペするとそのままだけど、
.       |   |::: ヾ             ヾ  .:| .| 違う板にコピペするとおっぱいがポロリと
        |   '、:::.:.. .     ―       . .:.:::,' ! 見える不思議なギガバイ子コピペ。
       ',.     \_:::.: : :_二二二:_: : : : .:.:.:.:::/ ,'
       ':、   ト、 ̄ ´.:.:.::::::::::.:.:.:.` ―┬ '′ /
        \  |l ヽ            l|  /
.           `/,'  ヽ \         ',/
788日本@名無史さん:2005/09/26(月) 17:10:56
389 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 13:48:37
>>388
ぐぐって高柳氏監修の本もちだされても、あっそとしか答えられないんだけど
都道府県レベルの自治体の図書館に行って、実際に見てきてら?
陸軍参謀部編纂の大日本戦史が置いてあるから

復刻版は読んだことないね
だから、どう校訂されてるかは知らない
復刻版読んだのなら、基の資料紹介や、中で使われてる書状等の活字化は勿論されてるよね?
大日本戦史では、そうなってるから

というか、こんなレス返ってくるとは思わなかった
釣りかな?

397 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:17:05
煽りも結構、どうぞネット検索で悦に入ってくださいね

406 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:37:28
明日にでも図書館行って撮ってくるよ、ぐぐるだけで、足運ばない人間相手にはそれしかないから
789日本@名無史さん:2005/09/26(月) 19:00:00
>>785
>両軍を取り巻く状況説明(主に気象条件)で、結局は何も言っていないに等しい。
「銃撃の集中砲火」なんて無邪気な妄想を否定するには充分だろう。
簡単ではあるが、火縄銃の性能、不便さ、弱点も併せて指摘したつもりだし。
それに本陣跡戦没塚の位置を正確に分かってないようなので、位置関係まで書いたつもりだが。

>しかも上記レスで、松川合戦で上杉は負けたと書いておきながら
何か勘違いしてるようだが、慶長五年十月六日の戦いを総称して松川合戦と呼ばれている。
この日だけで
瀬上、宮代、鎌田、五十辺、松川、荒井、腰浜、曾根田、福島城。
そして黒沼神社&愛宕山と、激戦地は幾つもある。
上記における殆どの地で、戦没塚が確認されている。これら合戦の総称が「松川合戦」
義勝と伊達が戦ったり、梁川勢が五十辺で後備を追い崩したり、荒井でも激闘があったり、
松川河岸で上杉、伊達が幾度も衝突を繰り返した。
現に、信夫山公園(愛宕山本陣跡)の遺構を紹介する際も(松川ではないのに)「松川合戦古戦場」としている。
>>松川では大敗。
これは「松川合戦」中の本庄充長(義勝)軍対伊達軍の戦いを限定して書いたつもり。
普通に意味くらい通じているだろうと思ったが、一から説明しなければならんのかね。

>挙げ句は「慶長六年の戦いにそれぞれが参加している」と書く。
いちいち説明し直すのは面倒なので>>613ー614を参考にしてくれ。
この資料を否定できるなら福島市にも手紙なり書いて伝えたらどうだね。
市史編纂室にも人は詰めているから、自分の思いの丈をぶつけたらいい。

>大量に発見された戦没者塚の正体は。
松川〜福島城間に曾根田と古松川河川段丘の戦没塚があるのに、
わざわざ松川を渡って愛宕山の裏手黒沼神社まで死体を担ぎ上げるかね。
揶揄してるつもりらしいが、言う事為す事、非現実的で頓珍漢な例えや無茶過ぎる考証だらけ。
悪いけど、お粗末な揶揄だな。
もっとも摺上川と松川。この全く違う二つの大河を混同していた時点でアウトなんだけどね。
様々に説明する相手が、地名の位置関係すら把握してないようでは、正直呆れかえる他ない。
790日本@名無史さん:2005/09/27(火) 07:14:27
>>789
>もっとも摺上川と松川。この全く違う二つの大河を混同していた時点でアウト

 自分の書き方が悪いと思うが。それに「阿武隈川」「摺上川」「松川」(「旧松川」
 含む)は全く違う川だし。常識以前の話。

>これは「松川合戦」中の本庄充長(義勝)軍対伊達軍の戦いを限定して書いたつもり。  
 限定する必要もない。この戦いで上杉はズタぼろに叩かれて壊滅状態に陥
 ったわけだし。これが実質的な「松川の戦い」といえるだろうから。
 それ以後の「本陣襲撃」「松川合戦」とやらにいたっては、ただの伝承で
 あり、ガセネタだろうね。ありえないし。大体伊達本陣を襲撃した上杉の
 損害が「軽微だった」などと公言するに至っては…。
 (こんなことを本気で信じているのは、地元民だけだろうが)
 実際、本庄は上杉謙信にあやかったのか、「キツツキ戦法」よろしく、
 信夫山沿いに伊達の背後にまわり挟撃を図ったと(苦笑)。
 片倉や横山などには児戯にも等しい見え透いた策略であり、さぞ揶揄し
 ていたことだろう。ただし「伝承」として読む限り、本陣襲撃以降の
 上杉の大活躍は痛快だし、時代劇の立ち回りを見るようで興味深くは
 ある。
791日本@名無史さん:2005/09/27(火) 17:46:32
>>790
>自分の書き方が悪いと思うが。
?齋道二の一時退却した位置は松川だ、等とでっち上げたのは>>449
この>>449の文頭には幼稚っぽい口癖「そう見えた」も書かれているから、同一人物なんだろ?
しかし実際は、どの資料を読んでも摺上川。松川じゃない。
地理の位置関係、合戦の流れを把握していない上、作り話まで何度も混入する。
結局、松川〜福島城間にある死体を同じ平地にある塚群には埋めず、
わざわざ遠く松川を隔てた小山の裏(政宗本陣)にまで担ぎ上げた、とする愚かしい仮説も
福島市の地理を全く理解していない証拠だ。
挙句の果てに、自らの壊れた言動を相手のせいにするとは、一体どんな神経をしてるのか。

>ガセネタだろうね。ありえないし。
ありえないと思うなら、そう思った部分を書き出せばいい。
今まで書き込んだ「ありえない」とする理由が、既に否定された結果
「ガセネタ」「ありえないし」なんて、子供のような発言で押し切ろうとする姿勢は頂けない。
高橋家文書によれば小手六十三騎の一人、斎藤又左衛門は50人の兵を率いて篭城。
これは小手郷だけで63×50近くの兵数が見込めた、という事を表している。
一方伊達の梁川抑えの隊は持ち場を離れ、政宗本陣まで背後がガラ空き。
伊達の各隊が松川を隔ててしまった以上、頼りとなるのは大小30隊。 なのだが、
全ての兵を振り分け信夫山の西方に進軍。 会津米沢対策へと向かい、本陣からは遠い彼方。
本陣を襲撃する梁川兵力。伊達軍各隊の配置。本陣の東側、黒沼神社に居たとする政宗。
極め付けは攻め込む側から見て、反対側に出来た夥しい戦没塚。
これらを鑑みて尚、「ありえない」とする理由を聞きたいものだ。

>こんなことを本気で信じているのは、地元民だけだろうが
お次は地元民と自治体の認めた研究家達まで馬鹿にし出す。しかし否定できる論拠はなし。
単に自分が偉くなった気分に浸りたいだけ。 「俺はバカな地元民や研究家とは違う!」ってか。
とんでもないお偉いさんだ。立派立派。
792日本@名無史さん:2005/09/27(火) 19:12:07
>>791
ま、その上杉に肩入れした「研究」ゆえ普遍性、説得力のかけらもない。
よって敵である(苦笑)仙台市や、その関係者から、現在でも完全にスルーされ、
黙殺され続けているのも仕方ない。


  桑折付近での戦闘で上杉勢は潰走して福島城に退却しました。伊達、信夫の
  両郡は伊達氏の長い間にわたる根拠地であり、政宗に内応するものも多く、
  福島は完全に孤立状態になり、落城をまつばかりです。しかし政宗は、敵中に
  深くはいるのは危険であると察知し、攻撃を中止して北目城に帰陣しました。

  関ヶ原の合戦が終結、戦後処理が行われ、敗軍の三成方に心を寄せた上杉家は
  百二十万石から三十万石に減封され、相馬家も上杉家に荷担した科で、領地没
  収の憂き目に遭います。
                        (伊達宗弘「上杉征伐」)

政宗の主導で福島城の攻防は終了したわけだ。上杉には気の毒で情け容赦もない話では
あるが。上杉信者は、以上の文章などに、せいぜい「個人攻撃的」に八つあたりでもして、
溜飲を下げるしかないだろう。
793日本@名無史さん:2005/09/28(水) 01:04:39
虎千代ってフェラ○オっぽいよな
794日本@名無史さん:2005/09/28(水) 06:15:08
>>792
福島市史に普遍性や説得力が無いとは驚きだ。

>敵である(苦笑)仙台市や、その関係者から、現在でも完全にスルーされ
「敵」だって…福島市はそんな程度の低い事なんか思っちゃいないから。
飯野町史や川俣町史を含む信達地方の歴史、黒沼神社と信夫山一帯の歴史。
これらを著わす膨大な資料群は、福島県内にある。
仙台市が、福島市内で起こった松川合戦を検証、公表する場を設けるだろうか。
また仙台市にそれをやる必要はあるだろうか。
「信達一統志」「信達二郡村誌」「小手風土記」「高橋ヨシイ家文書」「富田家文書」等々…
全て福島県の郷土資料。
研究家達がこれらを精読し、中世における信達地方の内情を纏め、各市町村史が編纂された。
松川合戦の概観もそれに沿ったもので、これら資料に負う部分はかなり大きい。

この福島市や各町の成し遂げた作業に、仙台市が向き合う機会自体、あまり無いと思う。
本当に仙台市が福島市史について、「完全にスルー」「黙殺」といった姿勢を鮮明にしているのであれば、
それは仙台市の意識を疑う。
まず今回も毎度おなじみ、気の向くまま適当にでっち上げた煽り文句だろうけど。
795日本@名無史さん:2005/09/28(水) 06:16:19
>>792
>伊達宗弘「上杉征伐」
伊達宗弘=仙台藩一門・登米伊達家現当主 この情報だけで充分だろう。出自が偏りすぎ。

  福島城を守る本荘繁長は、米沢会津の援軍をえて防戦した。世にいう松川の合戦である。
  五十辺・小山荒井・曾根田付近で激斗があり、その間に上杉方である梁川城の援兵が
  政宗の本陣愛宕山を側面からついた。政宗本陣の守兵は、多くの戦死者を出し、政宗は
  信夫山の山上から茂庭をへて北走した。

  この時の敵味方の戦死者塚は、黒沼神社裏山の林中にたくさんあった。明治九年の
  「御山村誌」に、「追年開拓セシガ今猶十二有リ」と記されているが、終戦後に破壊されて、
  一基も残っていない。
                               (梅宮茂「伊達政宗本陣跡と戦死者塚」)

本陣を急襲され、ほうほうの体で逃げ帰ったという訳だ。
また政宗信者が興奮して無茶苦茶な事を言い出しそうな気もするが。これが真相だ。甘受せよ。
つらい現実から目を逸らさんが為、偏った一資料一作家へと逃避するのは良くない。
796日本@名無史さん:2005/09/28(水) 06:33:18
資料合戦になってきたな。
797日本@名無史さん:2005/09/28(水) 07:01:22
>>795
>政宗本陣の守兵は、多くの戦死者を出し、政宗は信夫山の山上から茂庭を
 へて北走した。

あらら、そのまま山上から政宗帰陣しちゃったの?(というか北目城への凱旋でしょ。)
すると、福島在住で相当この戦いを研究している地元作家の風野氏の立場はなくなって
しまうね。(以下信夫山奇襲攻撃のくだり)やはり、この辺は「小説」だからかな?

  伊達軍の混乱もおさまってきて、逆に責め立ててきた。こうなると
  伊達軍は強い。木陰をつたいながら、続々と攻め降りてくる。その
  攻撃の凄まじさに、少人数だった鉄砲隊はひるみ、逃げ腰になった。

  信夫山を駆け下りて、平地で陣形をたてなおそうとする伊達軍と、
  押し寄せた上杉軍が、麓あたりで激突した。このあたりから凄まじい
  白兵戦がはじまった。
          (風野真知男「奇策 北の関ヶ原・福島城の合戦」)

なお、この直後、岡野左内が政宗に斬りつける一騎打ちへ発展する。
福島県内でも、いかに松川合戦の資料の解釈、意志統一がばらばらという格好の
見本だね。
798日本@名無史さん:2005/09/28(水) 07:40:19
>>797
愛宕山(政宗本陣)も信夫山の一部だから。
愛宕山という小山を羽黒山南と呼ぶ人もいれば信夫山南麓と表現する人もいる。
愛宕山広場=信夫山公園だし。
俺はその本読んでいないけどね。
799日本@名無史さん:2005/09/28(水) 08:28:09
>>798
両軍の戦闘シーンは松川の河原です。
800日本@名無史さん:2005/09/28(水) 11:27:15
福島県民同士で内ゲバかw
801日本@名無史さん:2005/09/28(水) 12:28:47
このスレ凄い食いつきがいいね。
日本史板ってどこもそうなの?
802日本@名無史さん:2005/09/28(水) 18:39:47
>>797
そんな事言い出したら>>792だって
>桑折付近での戦闘で〜福島城に退却しました。
完全に松川や福島城の戦いを飛ばしてる。
どちらも定められた原稿に収まるように書いただけでは。
>福島は完全に孤立状態になり
>敵中に深くはいるのは危険である
「完全に孤立」しているなら、敵中に深くはいるとは言えないと思うんだが。

事実福島城は孤立なんてしてなかったんだけど。
803日本@名無史さん:2005/09/28(水) 19:05:08
>>802
宗弘氏の場合は、おそらくそうだろうが、風野氏の「奇策」の場合は違うな。
このシーンに思い入れがあるのか、何せ「1章」分使って書いているからね。
風野氏によれば、>>795の「政宗本陣の守兵は、多くの戦死者を出し、政宗
は信夫山の山上から茂庭をへて北走した」というのは「真っ赤な嘘」。
上杉の奇襲で、伊達軍は混乱したものの、損害は軽微なものだ。すぐに逆襲
に転ずる。ちなみに伊達の損害は、


   「本陣近くにいた部隊長たちのうち何人かが撃たれて、命を落としたり、
    重傷を追った。」(同書)


以上(笑) 梅宮茂「伊達政宗本陣跡と戦死者塚」は、風野氏には完全に無視され
ているようだ。風野氏は、上杉の困惑をさらに描写する。


  少人数だった鉄砲隊はひるみ、逃げ腰になった。
  鉄砲隊が逃げる気になったら、もはや射撃は不可能である。 
  「退け、退け!」
  義勝はいったん隊を信夫山から下へしりぞかせることにした。(同書)

 
本陣付近で奇襲した上杉軍は、政宗から山頂からたたき落とされたようだね(w

804日本@名無史さん:2005/09/30(金) 03:47:58
えーと、盛り上がってるトコ悪いけど、ここは上杉謙信VS島津義弘スレじゃなかったっけ?

なぜに伊達政宗が出てくるんだ?
805日本@名無史さん:2005/09/30(金) 07:37:05
最初の方で鉄砲装備率の差で義弘勝利の結論が出たんで正宗と景勝の対決スレとして再利用中です。
806日本@名無史さん:2005/09/30(金) 08:23:55
389 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 13:48:37
>>388
ぐぐって高柳氏監修の本もちだされても、あっそとしか答えられないんだけど
都道府県レベルの自治体の図書館に行って、実際に見てきてら?
陸軍参謀部編纂の大日本戦史が置いてあるから

復刻版は読んだことないね
だから、どう校訂されてるかは知らない
復刻版読んだのなら、基の資料紹介や、中で使われてる書状等の活字化は勿論されてるよね?
大日本戦史では、そうなってるから

というか、こんなレス返ってくるとは思わなかった
釣りかな?

397 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:17:05
煽りも結構、どうぞネット検索で悦に入ってくださいね

406 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:37:28
明日にでも図書館行って撮ってくるよ、ぐぐるだけで、足運ばない人間相手にはそれしかないから
807日本@名無史さん:2005/09/30(金) 11:47:45
正宗てだれ
808日本@名無史さん:2005/09/30(金) 19:34:30
上杉は、捏造だらけだね。
809日本@名無史さん:2005/10/01(土) 20:48:25
>>807
有名な刀工だろ。知らんのけ?
810日本@名無史さん:2005/10/02(日) 09:15:35
敗者側の上杉を、特に直江に対して、伊達政宗がどう認識していたかは、
慶長5年11月中旬頃の興味深い発言が残っている。この時期、上杉が
「二本松表出馬」の噂があったものの、もはや家康に詫びを入れている
状況の上杉家には、もはやそんな余力はないだろうとにべもない。
ただし、と政宗はと付け加える。

   「されど手負いの猪の死に狂いと申すこともあり」

万が一そのような事態になれば伊達家としても出馬せぬこともないだろうと。
もっとも、「結城少将秀康朝臣」より、政宗自らが「合戦いたすをかたく控え
よとの仰せ」あるにつき、上方よりの指示がない状態で出陣するのは「いかがか
と存ずれば」、「しばらく(戦)は控えなければならない」と述べている。
(石川昭光あて)
また同月家康より、徳川直々に「会津の儀は来春出馬せしめ成敗いたすべく候」
との書状が届く。家康曰く、伊達家は手落ちなきよう「御分別専一に候」。

伊達家の福島城の1日のみの限定攻撃と撤兵は、あくまでも徳川家への思惑を優先
に考えていたことを裏付けているといえるだろう。
811日本@名無史さん:2005/10/02(日) 12:56:18
389 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 13:48:37
>>388
ぐぐって高柳氏監修の本もちだされても、あっそとしか答えられないんだけど
都道府県レベルの自治体の図書館に行って、実際に見てきてら?
陸軍参謀部編纂の大日本戦史が置いてあるから

復刻版は読んだことないね
だから、どう校訂されてるかは知らない
復刻版読んだのなら、基の資料紹介や、中で使われてる書状等の活字化は勿論されてるよね?
大日本戦史では、そうなってるから

というか、こんなレス返ってくるとは思わなかった
釣りかな?

397 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:17:05
煽りも結構、どうぞネット検索で悦に入ってくださいね

406 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:37:28
明日にでも図書館行って撮ってくるよ、ぐぐるだけで、足運ばない人間相手にはそれしかないから
812日本@名無史さん:2005/10/05(水) 19:41:16
坂の上の雲という小説には、騎兵について書かれているけど
戦国時代末期に鉄砲がさかんに用いられるようになったからといって
それで騎馬隊が無用の長物になったとは考えられにくい。
まあ、上の小説を信ずればの話だが。
813日本@名無史さん:2005/10/13(木) 20:39:57
389 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 13:48:37
>>388
ぐぐって高柳氏監修の本もちだされても、あっそとしか答えられないんだけど
都道府県レベルの自治体の図書館に行って、実際に見てきてら?
陸軍参謀部編纂の大日本戦史が置いてあるから

復刻版は読んだことないね
だから、どう校訂されてるかは知らない
復刻版読んだのなら、基の資料紹介や、中で使われてる書状等の活字化は勿論されてるよね?
大日本戦史では、そうなってるから

というか、こんなレス返ってくるとは思わなかった
釣りかな?

397 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:17:05
煽りも結構、どうぞネット検索で悦に入ってくださいね

406 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:37:28
明日にでも図書館行って撮ってくるよ、ぐぐるだけで、足運ばない人間相手にはそれしかないから
814日本@名無史さん:2005/10/13(木) 22:40:16
燃料投下

上杉

当主:長尾景虎
渾名:軍神、聖将
主力:騎馬隊じゃないかな
得意戦法:車懸かりって聞いた
有力家臣:直江兼続、長尾政景、柿崎景家
主な実績:川中島の合戦、手取川の戦い
親族関係:後継争いが起きるなど険悪っぽい
ライバル:武田晴信、北条氏康
後継:上杉景勝

島津

当主:島津義弘
渾名:鬼
主力:鉄砲隊だと思う
得意戦法:釣り野伏せ、捨てがまりだよね?
有力家臣:島津歳久、島津家久、種子島時尭
主な実績:朝鮮の役、関ヶ原島津の退き口
親族関係:この時代には例を見ないほど強固と言われるような
ライバル:竜造寺隆信、大友宗麟
後継:DQNな方の島津家久

突っ込んでスレ動かせ
815日本@名無史さん:2005/10/14(金) 06:38:45
>>814
空気嫁
816日本@名無史さん:2005/10/14(金) 22:56:29
>>815じゃあ、誰もいないから…糸冬 了
817日本@名無史さん:2005/10/15(土) 21:03:47
伊達厨は逃げ出した
818日本@名無史さん:2005/10/15(土) 23:22:18
伊達厨〜、伊達厨〜、殿のお召しであるぞ!
819日本@名無史さん:2005/10/15(土) 23:45:19
っていうかさあ、伊達は本庄に完敗し、総大将自ら褌一つで仙台まで敗走、
悔し紛れに街づくりに精を出したってことでもう結論でてんじゃん。
伊達厨は何が不満なの?
820日本@名無史さん:2005/10/16(日) 02:58:20
レベルの低いのが入ってきたな。
821日本@名無史さん:2005/10/16(日) 03:31:18
元々低い奴しかいないだろ
822日本@名無史さん:2005/10/16(日) 06:32:42
>>817>>818>>819>>821
 自演乙
823日本@名無史さん:2005/10/16(日) 08:05:43
>>821
おまえ中学生だろ? いいから三戦板へかえれw
824日本@名無史さん:2005/10/16(日) 15:49:34
>>820>>822>>823
自演乙wwwww
825日本@名無史さん:2005/10/16(日) 16:05:34
>>824
 低脳ちゃん、図星かな?w
826日本@名無史さん:2005/10/16(日) 17:03:47
>>824
>>810に対するコメントマダー?チンチン
827日本@名無史さん:2005/10/16(日) 19:38:10
>>824の軽いオツムでは、学研のM文庫程度が関の山だろw
828日本@名無史さん:2005/10/19(水) 19:32:25
389 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 13:48:37
>>388
ぐぐって高柳氏監修の本もちだされても、あっそとしか答えられないんだけど
都道府県レベルの自治体の図書館に行って、実際に見てきてら?
陸軍参謀部編纂の大日本戦史が置いてあるから

復刻版は読んだことないね
だから、どう校訂されてるかは知らない
復刻版読んだのなら、基の資料紹介や、中で使われてる書状等の活字化は勿論されてるよね?
大日本戦史では、そうなってるから

というか、こんなレス返ってくるとは思わなかった
釣りかな?

397 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:17:05
煽りも結構、どうぞネット検索で悦に入ってくださいね

406 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:37:28
明日にでも図書館行って撮ってくるよ、ぐぐるだけで、足運ばない人間相手にはそれしかないから
829日本@名無史さん:2005/10/20(木) 06:29:44
つまり、戦略、外交政策の失敗のみならず、軍事的な側面からみても、
上杉景勝は局地戦で敗北し、失策を重ねつづけたわけだ。
830日本@名無史さん:2005/10/21(金) 21:53:19
てかなげえよ!いつまで伊達いるんだよ島津を忘れんじゃねえ!
そんなに上杉、伊達の戦語りたかったらはやく専用スレ立てろや!
久々にきて見てて腹たったよ、みんな島津と上杉の話ししる!

いいか?
831日本@名無史さん:2005/10/21(金) 22:12:34
もう無理っしょ?
本来のこのスレはもう伊達厨の方々に荒らされてごらんのありさま。上杉の方々も応戦したおかげですっかり島津厨は放置プレー忘れ去られる。

伊達厨の皆さんがそろそろ奥州の方に帰っていただけませんとなんともなあ…
832195:2005/10/22(土) 01:08:38
ごめん・・・まさかココまで食いつきがいいとは思わなかったwwwww
833日本@名無史さん:2005/10/22(土) 08:21:28
まるでスレ内で島津厨に対した下剋上だな、さすが伊達厨だ、すっかり島津厨は息を潜めた!
834日本@名無史さん:2005/10/22(土) 18:05:33
島津に完敗した上杉厨がこいつよりは、マシっていって持ち出したのが伊達だし。
835日本@名無史さん:2005/10/23(日) 14:22:26
http://www.asahi-net.or.jp/~gr3t-tkhs/profile/column/date.html

伊達厨は政宗がラキ珍だということを認めるべし。
こうやって証明されてる。
836日本@名無史さん:2005/10/23(日) 18:34:30
何事か?と思って>>835のHP読んでみたけど、トホホだな(苦笑)。このHPの誰かさんは
伊達政宗について相当勉強(?)したとは言いつつ、痛すぎる…。消防だよね。

  小学生の時に渡辺謙の『独眼竜政宗』を観たり、本を読んだりしていて
 「ホントにこの人ってスゴい人なの?」という疑問が浮かび、自分なり
  に調べてみて以下の結論に達したのだ。

その結果、そのショボイ「結論」を出すに至ったソース元が『難波戦記』(爆笑)
多分、この人の読んだものは、講談本や架空戦記、ムロタニツネゾウの「伊達政宗」
程度じゃないかなあ?「伊達治家記録」位は目を通しなさい。少年よと助言しておく。
837日本@名無史さん:2005/10/23(日) 19:49:09
一番痛いのは、私的な個人サイトで証明されてると持ち出してくる>>835
838日本@名無史さん:2005/10/24(月) 14:07:06
389 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 13:48:37
>>388
ぐぐって高柳氏監修の本もちだされても、あっそとしか答えられないんだけど
都道府県レベルの自治体の図書館に行って、実際に見てきてら?
陸軍参謀部編纂の大日本戦史が置いてあるから

復刻版は読んだことないね
だから、どう校訂されてるかは知らない
復刻版読んだのなら、基の資料紹介や、中で使われてる書状等の活字化は勿論されてるよね?
大日本戦史では、そうなってるから

というか、こんなレス返ってくるとは思わなかった
釣りかな?

397 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:17:05
煽りも結構、どうぞネット検索で悦に入ってくださいね

406 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:37:28
明日にでも図書館行って撮ってくるよ、ぐぐるだけで、足運ばない人間相手にはそれしかないから
839日本@名無史さん:2005/10/25(火) 22:14:50
>>837
ハハハ、まあまあ837さん、さすがにマジな史板でこんな馬鹿いないでしょ〜。
きっとウケねらいで場を和やかにしようとしたんだろ。835君のスレを想う気持ちは確かに伝わったよwwww
や〜笑った笑った

万が一マジレスならHPのヤツ消えた方がいいよなwww
840日本@名無史さん:2005/10/26(水) 16:33:33
389 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 13:48:37
>>388
ぐぐって高柳氏監修の本もちだされても、あっそとしか答えられないんだけど
都道府県レベルの自治体の図書館に行って、実際に見てきてら?
陸軍参謀部編纂の大日本戦史が置いてあるから

復刻版は読んだことないね
だから、どう校訂されてるかは知らない
復刻版読んだのなら、基の資料紹介や、中で使われてる書状等の活字化は勿論されてるよね?
大日本戦史では、そうなってるから

というか、こんなレス返ってくるとは思わなかった
釣りかな?

397 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:17:05
煽りも結構、どうぞネット検索で悦に入ってくださいね

406 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:37:28
明日にでも図書館行って撮ってくるよ、ぐぐるだけで、足運ばない人間相手にはそれしかないから
841日本@名無史さん:2005/10/28(金) 16:14:04
389 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 13:48:37
>>388
ぐぐって高柳氏監修の本もちだされても、あっそとしか答えられないんだけど
都道府県レベルの自治体の図書館に行って、実際に見てきてら?
陸軍参謀部編纂の大日本戦史が置いてあるから

復刻版は読んだことないね
だから、どう校訂されてるかは知らない
復刻版読んだのなら、基の資料紹介や、中で使われてる書状等の活字化は勿論されてるよね?
大日本戦史では、そうなってるから

というか、こんなレス返ってくるとは思わなかった
釣りかな?

397 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:17:05
煽りも結構、どうぞネット検索で悦に入ってくださいね

406 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:37:28
明日にでも図書館行って撮ってくるよ、ぐぐるだけで、足運ばない人間相手にはそれしかないから
842日本@名無史さん:2005/10/28(金) 23:18:08
ウィキペディアで上杉氏で検索したら、
こんな一言が…!

>なお、宮城県仙台市に上杉(かみすぎ)という地名があるが、上杉氏とは一切関係がない。

伊達厨の陰謀だと思いまつ。タイチョ-く(゚Д゚;)
843日本@名無史さん:2005/10/30(日) 06:44:48
389 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 13:48:37
>>388
ぐぐって高柳氏監修の本もちだされても、あっそとしか答えられないんだけど
都道府県レベルの自治体の図書館に行って、実際に見てきてら?
陸軍参謀部編纂の大日本戦史が置いてあるから

復刻版は読んだことないね
だから、どう校訂されてるかは知らない
復刻版読んだのなら、基の資料紹介や、中で使われてる書状等の活字化は勿論されてるよね?
大日本戦史では、そうなってるから

というか、こんなレス返ってくるとは思わなかった
釣りかな?

397 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:17:05
煽りも結構、どうぞネット検索で悦に入ってくださいね

406 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:37:28
明日にでも図書館行って撮ってくるよ、ぐぐるだけで、足運ばない人間相手にはそれしかないから
844日本@名無史さん:2005/10/31(月) 17:36:40
389 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 13:48:37
>>388
ぐぐって高柳氏監修の本もちだされても、あっそとしか答えられないんだけど
都道府県レベルの自治体の図書館に行って、実際に見てきてら?
陸軍参謀部編纂の大日本戦史が置いてあるから

復刻版は読んだことないね
だから、どう校訂されてるかは知らない
復刻版読んだのなら、基の資料紹介や、中で使われてる書状等の活字化は勿論されてるよね?
大日本戦史では、そうなってるから

というか、こんなレス返ってくるとは思わなかった
釣りかな?

397 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:17:05
煽りも結構、どうぞネット検索で悦に入ってくださいね

406 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:37:28
明日にでも図書館行って撮ってくるよ、ぐぐるだけで、足運ばない人間相手にはそれしかないから
845日本@名無史さん:2005/11/05(土) 13:50:01
しかし、奥州って、強いって前評判はよく聞くのに
なんでいつの時代も中央の軍事力に負けるんだろうね。
強い兵は、だいたい九州、東北と言われるのに…。
846日本@名無史さん:2005/11/06(日) 00:00:16
389 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 13:48:37
>>388
ぐぐって高柳氏監修の本もちだされても、あっそとしか答えられないんだけど
都道府県レベルの自治体の図書館に行って、実際に見てきてら?
陸軍参謀部編纂の大日本戦史が置いてあるから

復刻版は読んだことないね
だから、どう校訂されてるかは知らない
復刻版読んだのなら、基の資料紹介や、中で使われてる書状等の活字化は勿論されてるよね?
大日本戦史では、そうなってるから

というか、こんなレス返ってくるとは思わなかった
釣りかな?

397 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:17:05
煽りも結構、どうぞネット検索で悦に入ってくださいね

406 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:37:28
明日にでも図書館行って撮ってくるよ、ぐぐるだけで、足運ばない人間相手にはそれしかないから
847日本@名無史さん:2005/11/06(日) 01:10:00
政宗最弱。伊達厨最低でFA?
848日本@名無史さん:2005/11/06(日) 10:44:41
だな。>>835でも検証されてるし、2chの低脳の雑音よりは信憑性ある
849日本@名無史さん:2005/11/06(日) 18:35:53
まだ秀吉が相手だったかよかったけど
信長が生きてたら伊達なんて問答無用にぶっ潰されたろうな
850日本@名無史さん:2005/11/07(月) 08:13:34
>>849
ハァ?これだから上杉厨はバカだなwwwww
信長存命なら尻を献上して二百万石ゲットしたよ!!
851日本@名無史さん:2005/11/07(月) 09:48:46
↑ プッ!嫌いじゃないなこれ♪お相手は輝クンそれとも政チャン
852日本@名無史さん:2005/11/07(月) 12:19:09
政宗はキモ面だから無理だろ
853日本@名無史さん:2005/11/07(月) 21:45:29
バック専用なら問題ない
854日本@名無史さん:2005/11/08(火) 07:52:11
秀吉に尻献上→減封
家康に尻献上→加増

政宗「上杉に勝てないよパパン」
家康「よしよし。上杉は潰してあげような。フンフンフン」
855日本@名無史さん:2005/11/08(火) 18:02:00
それにしても、上杉厨の見苦しく往生際の悪いことよ(w 
856日本@名無史さん:2005/11/09(水) 17:01:49
389 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 13:48:37
>>388
ぐぐって高柳氏監修の本もちだされても、あっそとしか答えられないんだけど
都道府県レベルの自治体の図書館に行って、実際に見てきてら?
陸軍参謀部編纂の大日本戦史が置いてあるから

復刻版は読んだことないね
だから、どう校訂されてるかは知らない
復刻版読んだのなら、基の資料紹介や、中で使われてる書状等の活字化は勿論されてるよね?
大日本戦史では、そうなってるから

というか、こんなレス返ってくるとは思わなかった
釣りかな?

397 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:17:05
煽りも結構、どうぞネット検索で悦に入ってくださいね

406 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:37:28
明日にでも図書館行って撮ってくるよ、ぐぐるだけで、足運ばない人間相手にはそれしかないから
857日本@名無史さん:2005/11/21(月) 00:08:32
植え過ぎだな
858日本@名無史さん:2005/11/21(月) 10:04:32
3ヶ月にらみ合って終わりだろ。
ルール決めなきゃ。
期限無し、有り。
平地戦とか、山地戦とか、水上戦とか、謀略戦
国力、兵力を、何年に取るかとか…




859日本@名無史さん:2005/11/21(月) 16:59:08
389 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 13:48:37
>>388
ぐぐって高柳氏監修の本もちだされても、あっそとしか答えられないんだけど
都道府県レベルの自治体の図書館に行って、実際に見てきてら?
陸軍参謀部編纂の大日本戦史が置いてあるから

復刻版は読んだことないね
だから、どう校訂されてるかは知らない
復刻版読んだのなら、基の資料紹介や、中で使われてる書状等の活字化は勿論されてるよね?
大日本戦史では、そうなってるから

というか、こんなレス返ってくるとは思わなかった
釣りかな?

397 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:17:05
煽りも結構、どうぞネット検索で悦に入ってくださいね

406 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:37:28
明日にでも図書館行って撮ってくるよ、ぐぐるだけで、足運ばない人間相手にはそれしかないから


857 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2005/11/21(月) 00:08:32
植え過ぎだな
860日本@名無史さん:2005/11/22(火) 09:13:30
鹿児島藩:幕末最強藩。佐幕派も倒幕派も無論幕府もその動向に戦々恐々。
禁門の変後、全国で吹き荒れた尊攘派弾圧もこの藩だけは例外。
久光上洛より戊辰戦争終結まで終始主導権を握る。
米沢藩:藩主上杉氏と言っても謙信の子孫でも何でもない。
遅れをとって歴史の表舞台に現れた米沢藩は薩長の偽官軍を口実に身のほど知らず
にも仙台藩とともに奥羽越列藩同盟の盟主になる。その弱体さは各同盟藩の失望を
招いた。最後は大儀名分だった会津擁護から薩長支持に鞍替えし会津征討の先鋒を
努める。

861日本@名無史さん:2005/11/22(火) 11:34:47
薩摩はその後の顛末があるだろ
862日本@名無史さん:2005/11/22(火) 21:40:36
389 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 13:48:37
>>388
ぐぐって高柳氏監修の本もちだされても、あっそとしか答えられないんだけど
都道府県レベルの自治体の図書館に行って、実際に見てきてら?
陸軍参謀部編纂の大日本戦史が置いてあるから

復刻版は読んだことないね
だから、どう校訂されてるかは知らない
復刻版読んだのなら、基の資料紹介や、中で使われてる書状等の活字化は勿論されてるよね?
大日本戦史では、そうなってるから

というか、こんなレス返ってくるとは思わなかった
釣りかな?

397 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:17:05
煽りも結構、どうぞネット検索で悦に入ってくださいね

406 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:37:28
明日にでも図書館行って撮ってくるよ、ぐぐるだけで、足運ばない人間相手にはそれしかないから
863日本@名無史さん:2005/11/24(木) 16:46:14
>>862
で、>>406の「明日」っていうのはいつなんだ? この日から世間は3ヶ月以上経過しているのに、>>406はまだ1日経過
していないのか?
864日本@名無史さん:2005/11/25(金) 00:24:58
上杉厨の粘着っぷりがヒドス。
865406:2005/11/25(金) 16:47:54
>>863
13月32日のことじゃないかな
陸軍参謀部編纂の大日本戦史も読んだことがないような人は、真面目に相手にする気にはなれないね
煽りも結構、どうぞ粘着で悦に入ってくださいね
866日本@名無史さん:2005/11/25(金) 18:57:52
>>864
レスするな
論破されて必死だから
867日本@名無史さん:2005/11/26(土) 09:57:18

  福島城は本荘出羽守が守備していた。ところがどんなわけか、10月6日
  伊達軍は1日だけ福島城攻撃を行っただけで、7日には鉾先を収め、
  北目城に引き上げている。伊達軍総力戦であるので徹底的に攻めれば、
  攻略は朝飯前であったろう。……本気で戦えば上杉とて恐れる伊達では
  ないのである。やはり、江戸への思惑から、急いで鉾先を収めたと
  解釈すべきであろう。おそらく、鉄砲の撃ち合いの中で、政宗の心は
  急速に、軍律違反の影が、恐怖の形となって胸に突き上げてきたにちがい
  ない。……10月8日、政宗は福島城攻撃の様子を家康に注進した。9日、
  桑折宗長、大條宗直にあてた書状に「今少シ残リ多キ様ニ候得共、時節柄
  之事ニ候條、能ク候ト存シ候」(残念だが仕方がない。この位でよしとし
  よう、の意)と書き送っている。

                  (紫桃正隆「故地へ攻め入る」)
868日本@名無史さん:2005/11/28(月) 07:34:13
>>865
不誠実なやっちゃな、おまい。
869日本@名無史さん:2005/12/12(月) 08:20:46
389 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 13:48:37
>>388
ぐぐって高柳氏監修の本もちだされても、あっそとしか答えられないんだけど
都道府県レベルの自治体の図書館に行って、実際に見てきてら?
陸軍参謀部編纂の大日本戦史が置いてあるから

復刻版は読んだことないね
だから、どう校訂されてるかは知らない
復刻版読んだのなら、基の資料紹介や、中で使われてる書状等の活字化は勿論されてるよね?
大日本戦史では、そうなってるから

というか、こんなレス返ってくるとは思わなかった
釣りかな?

397 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:17:05
煽りも結構、どうぞネット検索で悦に入ってくださいね

406 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:37:28
明日にでも図書館行って撮ってくるよ、ぐぐるだけで、足運ばない人間相手にはそれしかないから
870甲斐犬:2005/12/17(土) 20:43:06
戦争に勝つためには、中央集権を進めて、意志の統一のできる体制にするのが良い。
しかし、体制が整い、集権が進むと、個々の兵の勇や将の器が低下しやすい。
1,領主同士の争い、村対村の争い多発
2,国人領主達の団結による秩序。国一揆。
3,優れた領主が、2のリーダーとなり、少しだけ中央集権が進んだ戦国大名。

雑賀は1の段階にあり、島津や上杉も2と3の中間だったのではないかな。
雑賀は統一されず、村対村、領主対領主の対立が続いた。隣村や川向こうとの対立
と緊張が戦闘力を高めたのだろう。
島津は朝鮮や関ヶ原の意思統一ができずに、義弘が見放されるという珍事が起こる。
上杉は配下の離反どころか、君主が出家するとサボタージュする始末。
戦国大名としての未熟さが、個々の武勇や器を鍛えたため、戦闘は強かったの
だろう。
871甲斐犬:2005/12/17(土) 20:52:29
つまり、信長に率いられた3万人の中には、戦いたく無い者もたくさん
いたが、島津義弘に率いられた1500人は本気で戦う気のある者ばかり。
そゆこと。
872日本@名無史さん:2005/12/18(日) 22:58:45
389 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 13:48:37
>>388
ぐぐって高柳氏監修の本もちだされても、あっそとしか答えられないんだけど
都道府県レベルの自治体の図書館に行って、実際に見てきてら?
陸軍参謀部編纂の大日本戦史が置いてあるから

復刻版は読んだことないね
だから、どう校訂されてるかは知らない
復刻版読んだのなら、基の資料紹介や、中で使われてる書状等の活字化は勿論されてるよね?
大日本戦史では、そうなってるから

というか、こんなレス返ってくるとは思わなかった
釣りかな?

397 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:17:05
煽りも結構、どうぞネット検索で悦に入ってくださいね

406 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:37:28
明日にでも図書館行って撮ってくるよ、ぐぐるだけで、足運ばない人間相手にはそれしかないから
873日本@名無史さん:2005/12/19(月) 15:06:17
389 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 13:48:37
>>388
ぐぐって高柳氏監修の本もちだされても、あっそとしか答えられないんだけど
都道府県レベルの自治体の図書館に行って、実際に見てきてら?
陸軍参謀部編纂の大日本戦史が置いてあるから

復刻版は読んだことないね
だから、どう校訂されてるかは知らない
復刻版読んだのなら、基の資料紹介や、中で使われてる書状等の活字化は勿論されてるよね?
大日本戦史では、そうなってるから

というか、こんなレス返ってくるとは思わなかった
釣りかな?

397 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:17:05
煽りも結構、どうぞネット検索で悦に入ってくださいね

406 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:37:28
明日にでも図書館行って撮ってくるよ、ぐぐるだけで、足運ばない人間相手にはそれしかないから
874日本@名無史さん:2005/12/21(水) 20:02:28
age
875日本@名無史さん:2005/12/21(水) 20:09:56
島津って長曽我部に倒されたんだっけ?
876日本@名無史さん:2005/12/21(水) 21:35:49
>>875
そうそう。
877日本@名無史さん:2005/12/21(水) 22:03:53
こんな糞スレによくここまでレスがついたよな
878日本@名無史さん:2005/12/22(木) 19:07:17
389 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 13:48:37
>>388
ぐぐって高柳氏監修の本もちだされても、あっそとしか答えられないんだけど
都道府県レベルの自治体の図書館に行って、実際に見てきてら?
陸軍参謀部編纂の大日本戦史が置いてあるから

復刻版は読んだことないね
だから、どう校訂されてるかは知らない
復刻版読んだのなら、基の資料紹介や、中で使われてる書状等の活字化は勿論されてるよね?
大日本戦史では、そうなってるから

というか、こんなレス返ってくるとは思わなかった
釣りかな?

397 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:17:05
煽りも結構、どうぞネット検索で悦に入ってくださいね

406 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:37:28
明日にでも図書館行って撮ってくるよ、ぐぐるだけで、足運ばない人間相手にはそれしかないから
879日本@名無史さん:2005/12/25(日) 14:48:52
389 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 13:48:37
>>388
ぐぐって高柳氏監修の本もちだされても、あっそとしか答えられないんだけど
都道府県レベルの自治体の図書館に行って、実際に見てきてら?
陸軍参謀部編纂の大日本戦史が置いてあるから

復刻版は読んだことないね
だから、どう校訂されてるかは知らない
復刻版読んだのなら、基の資料紹介や、中で使われてる書状等の活字化は勿論されてるよね?
大日本戦史では、そうなってるから

というか、こんなレス返ってくるとは思わなかった
釣りかな?

397 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:17:05
煽りも結構、どうぞネット検索で悦に入ってくださいね

406 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:37:28
明日にでも図書館行って撮ってくるよ、ぐぐるだけで、足運ばない人間相手にはそれしかないから
880日本@名無史さん:2005/12/29(木) 11:51:14
昨日、中央道→長野道→上信越道→北陸道→関越と走った。
中央道・甲府→長野道・川中島と快調に走ったけど、県境と
上越はもちろん、越後はほとんど雪雪雪吹雪吹雪吹雪雪雪雪雪・・・

あーーなんだこの雪の壁は!これでは冬は謙信は動けんのう・・・
信玄は動けるんだなあと実感したのであった。諏訪湖は少し凍っていた。
881日本@名無史さん:2005/12/30(金) 10:56:13
上杉謙信様じゃぁぁあ!
882:2005/12/30(金) 13:01:09
島津家は熊じゃあ!
883日本@名無史さん:2005/12/30(金) 13:48:57
上杉謙信に決まってるだろ。
>>1はバカ?
884日本@名無史さん:2005/12/30(金) 16:58:04
立花宗茂に決まってるじゃん
885日本@名無史さん:2005/12/30(金) 17:19:57
島津は鉄砲
上杉は馬
886日本@名無史さん:2005/12/30(金) 21:48:56
平地での戦闘なら馬もありかもしれない。アラブ馬なんかは戦闘に耐えれるだろう。
音に怯え馬格が小さく戦闘に馬は向かないし、更に山地などでは騎馬戦なんてどうやるんだろうか。
887日本@名無史さん:2005/12/31(土) 09:45:35
>>880
関東で略奪を繰り広げ、その雪山を越えて輸送をしたんですよ!!
常識で考えれば分かる事だがネットでは略奪のための関東と広まっている・・・・・小田原ぐらいしかソースねえのに。
888日本@名無史さん:2005/12/31(土) 12:18:11
吹雪の雪山越えか・・・
ガッツありまくりだな上杉軍。強ぇわけだ。
889日本@名無史さん:2006/01/02(月) 00:09:55
389 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 13:48:37
>>388
ぐぐって高柳氏監修の本もちだされても、あっそとしか答えられないんだけど
都道府県レベルの自治体の図書館に行って、実際に見てきてら?
陸軍参謀部編纂の大日本戦史が置いてあるから

復刻版は読んだことないね
だから、どう校訂されてるかは知らない
復刻版読んだのなら、基の資料紹介や、中で使われてる書状等の活字化は勿論されてるよね?
大日本戦史では、そうなってるから

というか、こんなレス返ってくるとは思わなかった
釣りかな?

397 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:17:05
煽りも結構、どうぞネット検索で悦に入ってくださいね

406 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:37:28
明日にでも図書館行って撮ってくるよ、ぐぐるだけで、足運ばない人間相手にはそれしかないから
890日本@名無史さん:2006/01/05(木) 09:54:02
もうすぐ風林火山というドラマをテレビでやるけど、ちょっと楽しみだな。
史実どーのというより、謙信をババンとカッコ良く演出してあるかな?が問題。
891日本@名無史さん:2006/01/09(月) 08:03:34
スレタイ謙信vs義弘ってことはタイマンなのか?
タイマンなら義弘が強そう。
892日本@名無史さん:2006/01/09(月) 09:02:10
島津派はいないの?
893日本@名無史さん:2006/01/09(月) 12:52:13
朝鮮出兵でかんばった訳だが、朝鮮陶工のスカウトとかで
現在の雰囲気では、それらがネックとなって持ち上げられないのかな?

腕っ節ならシマズマンだろうけど、技なら、
ライダー・・・ケンーシン・・・トゥ!!だろう。
894日本@名無史さん:2006/01/09(月) 16:07:05
島津って少人数じゃないと強くない気が。まあ、謙信は謙信で船戦は駄目だろうが。
どちらも一長一短。比較のしようも無いよ。
世代、場所がずれているから鉄砲に対するアプローチも違うんだろうし。
895島津>>>>>>>>上杉:2006/01/09(月) 18:05:46
木崎原の戦い ○義弘軍200 対 ●伊東軍3000
島津のお家芸、釣り野伏で見事勝利。 この戦いでミリタリーバランスが島津に傾く。

耳川の戦い  ○島津軍20000 対 ●大友軍45000
九州の覇者を賭けた戦い。最初は大友が押しまくるが、義弘の冷静沈着な側面攻撃と家久の同時攻撃で勝敗が決定。
こんな大規模な野戦をガチでやって大友軍の死者2万人、武将多数戦死という一方的な大勝利を収めている。
稀な大勝利、武田信玄 対 上杉謙信の川中島合戦と比べるとその大勝利ぶりが際立っている。
以後、大友は衰退。

沖田畷の戦い ○家久・有馬連合軍5000 対 ●龍造寺軍60000
龍造寺はこの戦いで隆信、四天王を失い島津の傘下に入る。
戸次川でも長宗我部信親・十河存保を討ち取るが、指揮官を討ち取るというのは野戦では珍しく、それを何度もやり遂げている島津家久は戦国一の戦上手といえよう。

戸次川の戦い ○家久軍10000 対 ●豊臣四国連合軍
寄せ集めにすぎない連合軍は歴戦の勇将・家久の敵ではなかった。
この戦いで長宗我部信親・十河存保戦死。 長宗我部元親、ショックで廃人になる。

泗川の戦い ○義弘軍7000 対 ●明・朝鮮軍200000
慶長の役の末期に秀吉が死んだので、 朝鮮にいる将たちに帰国命令が下りる。 それを知った明軍・朝鮮軍は20万の軍勢を日本軍の中央を守る義弘の泗川に向ける。
義弘は、泗川にいくつかあった支城を破棄、泗川に新たに築いた城に立て籠もる。
ここで敵を引きつけるだけ引きつけてから鉄砲の一斉射撃ののち突撃し散々に打ち破った。
明軍の死者は8万。

露梁津の海戦 ○義弘軍 対 ●朝鮮水軍
この時も義弘は水軍を率いて活躍。
順天の小西行長を救出し、さらに全軍の殿を務め、朝鮮の名将・李舜臣と交戦し見事討ち取る。日本軍退却成功。
もし義弘が朝鮮出兵に参加してなかったら日本軍は朝鮮で全滅してた。
秀吉は大名の領地加増を禁止してたが 島津だけはあまりの戦功の大きさに加増された。

関ヶ原退却戦 ○義弘軍300 対 ●東軍80000
福島隊を突破、追撃してきた井伊直正と松平忠吉に重傷を負わせる。 この傷が元で2人は数年後死亡。
大阪城に残された妻を取り戻し、薩摩へ無事帰還。家康は島津を恐れ、関が原後も減封する事が出来なかった。
896日本@名無史さん:2006/01/09(月) 22:39:12
>>895
どこにでも出没するな。ここでも論破されたいのか?
897日本@名無史さん:2006/01/10(火) 15:36:59
>>1
これってどう見ても、1対1の対決に見える。
女の子の謙信が負けちゃうね。
898日本@名無史さん:2006/01/10(火) 22:54:14
え、青髭で大酒飲みじゃないの
899日本@名無史さん:2006/01/11(水) 01:56:28
上杉がどんなに頑張っても気合で落ち延びるのが義弘。
但し勝つことはない。
900日本@名無史さん:2006/01/11(水) 12:40:38
指揮、タイマン、酒のトライアスロンで決めればいいじゃない
901日本@名無史さん:2006/01/11(水) 22:48:23
旗を巻いてコソコソ逃げた所を追撃され殺されかけた義弘
902日本@名無史さん:2006/01/12(木) 22:21:08
毛利が最強


有田中井手の戦い  ○毛利軍1500 対 ●武田軍7000
元就の初陣。 当時の毛利家の領土は3000貫といわれ、15000石〜25000石ぐらいといわれているほど少ないものだった。
初陣、そして圧倒的劣勢にもかかわらず圧倒的な戦力差を華麗な戦術ではねのけ、総大将武田元繁を討ち取り軍団を総崩れにさせる。
元就の天才ぶりはこの時から発揮されていた。
後世西国の桶狭間と呼ばれる。(状況を考えれば桶狭間以上の大勝利)

佐東銀山城死守戦  ○毛利尼子連合軍 対 大内軍
有田合戦で敗れた武田氏が尼子の力を借りようとし、友田興藤は武田氏の援助を受けて、桜尾城を奪った。
一方の大内義興は自ら出陣し桜尾城を包囲した。そして息子の大内義隆と副将・陶興房に銀山城を攻撃させた。
元就はまだ尼子方の武将だったので、銀山城死守するようにと尼子経久に言われていた。
劣勢に陥った尼子武将。
見かねた元就は軍義で夜襲を提案、意表をつかれた大内軍は大混乱に陥り城の包囲を解かざるをえなかった。

吉田郡山城の戦い  ○毛利軍3000 対 ●尼子軍30000 
圧倒的な数の軍勢を率いる尼子軍を巧みな篭城戦でこれを撃退する。
その後尼子は衰退する。

折敷畑の戦い  ○毛利軍3000 対  ●陶軍7000
山に布陣した倍以上の敵軍を下から攻撃し、大将宮川長房を戦死させ完勝を収める。
地理的にそして兵数的にも不利な状況ながら、総大将を討ち取るという完勝っぷりは元就、そして息子達の戦上手ぶりが垣間見れる。

宮尾城攻防戦  ○毛利軍500 対 ●陶軍16000
圧倒的な敵の大軍の大攻勢に耐え抜き、厳島合戦への足掛かりを作る。

厳島の戦い  ○毛利軍5000 対 ●陶軍25000
自身の頭脳を駆使して厳島へ上陸した陶軍を壊滅させ、西国無双と呼ばれた陶晴賢を自刃へ追い込む。
運だけの桶狭間とは違い、自身の頭脳を駆使した完璧な戦だった。
この戦だけでも元就の凄さが分かると思う。
この合戦後、元就は戦国随一の勢力になる。
903日本@名無史さん:2006/01/13(金) 06:04:51
>>902
信長の戦歴と比較すれば「屁」のようなものだ。
904日本@名無史さん:2006/01/13(金) 16:21:44
信長(笑)
905日本@名無史さん:2006/01/13(金) 16:24:39
島津>毛利>織田>上杉>徳川>北条>伊達>真田>武田>長宗我部
906日本@名無史さん:2006/01/13(金) 19:37:23
上杉謙信は越後国から敵を遠ざけるため、信濃や関東へ度々出陣した。
実際、武田・北条の大軍は謙信時代には越後国内へ入っていない。これはすごいことだ。

謙信死後は、内戦があったとはいえ、武田・北条・織田軍の侵攻を許してしまった・・・
907日本@名無史さん:2006/01/17(火) 08:53:44
>>906 ......武田、北条、もちろん織田もだが、
都から遠くて寒い越後なんてわざわざ触手伸ばしたいとは思わないと思うぞ。
都を押さえて天下統一を狙う段階になったら別だろうが。
908日本@名無史さん:2006/01/17(火) 14:16:32
>>907
越後は港があるから実は都との距離が近い。
国も大きく商業的にも魅力大きい。当時の
海運は日本海が中心だからね。

少なくとも信玄は真剣に越後を欲した時期があるだろう。
909日本@名無史さん:2006/01/18(水) 17:06:11
木崎原の戦い ○義弘軍2百 対 ●伊東軍3千
島津のお家芸、釣り野伏で見事勝利。 義弘、槍の達人柚木丹波を一騎打ちで討ち取る。 この戦いでミリタリーバランスが島津に傾く。

耳川の戦い  ○島津軍2万 対 ●大友軍4万5千
九州の覇者を賭けた戦い。 義弘の冷静沈着な側面攻撃と家久の同時攻撃で勝敗が決定。 こんな大規模な野戦をガチでやって大友軍の死者2万人、 重臣多数戦死という一方的な大勝利を収めている。
稀な大勝利、武田信玄 対 上杉謙信の川中島合戦と比べるとその大勝利ぶりが際立っている。 以後、大友は衰退。

沖田畷の戦い ○家久・有馬連合軍5千 対 ●龍造寺軍6万
龍造寺はこの戦いで隆信、四天王を失い島津の傘下に入る。 戸次川でも長宗我部信親・十河存保を討ち取るが、指揮官を討ち取るというのは野戦では珍しく、それを何度もやり遂げている島津家久は戦国一の戦上手といえよう。

戸次川の戦い ○家久軍1万 対 ●豊臣四国連合軍
寄せ集めにすぎない連合軍は歴戦の勇将・家久の敵ではなかった。 この戦いで長宗我部信親・十河存保戦死。 長宗我部元親、ショックで廃人になる。

泗川の戦い ○義弘軍7千 対 ●明・朝鮮軍20万
慶長の役の末期に秀吉が死んだので、 朝鮮にいる将たちに帰国命令が下りる。 それを知った明軍・朝鮮軍は20万の軍勢を日本軍の中央を守る義弘の泗川に向ける。
義弘は、泗川にいくつかあった支城を破棄、泗川に新たに築いた城に立て籠もる。
ここで敵を引きつけるだけ引きつけてから鉄砲の一斉射撃ののち突撃し散々に打ち破った。 また自らも刀を振るって奮戦した。 明軍の死者は8万。

露梁津の海戦 ○義弘軍 対 ●朝鮮水軍
この時も義弘は水軍を率いて活躍。 順天の小西行長を救出し、さらに全軍の殿を務め、 朝鮮の名将・李舜臣と交戦し見事討ち取る。日本軍退却成功。
もし義弘が朝鮮出兵に参加してなかったら日本軍は朝鮮で全滅してた。 秀吉は大名の領地加増を禁止してたが 島津だけはあまりの戦功の大きさに加増された。

関ヶ原退却戦 ○義弘軍3百 対 ●東軍8万
福島隊を突破、追撃してきた井伊直正と松平忠吉に重傷を負わせる。 この傷が元で2人は数年後死亡。
大阪城に残された妻を取り戻し、薩摩へ無事帰還。 家康は島津を恐れ、関ヶ原後も減封する事が出来なかった。
910日本@名無史さん:2006/01/18(水) 17:08:24
織田>徳川>島津>上杉>北条>伊達>真田>武田>長宗我部>毛利
911日本@名無史さん:2006/01/18(水) 18:46:11
資料から判断すると普通に島津>上杉。
「島津の戦歴は眉唾物だから謙信の勝ち」という理論は理解できない。
912日本@名無史さん:2006/01/18(水) 18:47:35
>>891
そのカードだけでドームが満員になるなw
913日本@名無史さん:2006/01/19(木) 09:44:52
釣り野伏せって効果は絶大なんじゃないの?
914日本@名無史さん:2006/01/19(木) 10:00:39
あれって下手すれば包囲戦術になるから少数でも戦ってる数は
島津軍のほうが多いという・・・
巧みに釣り野伏せに持っていくのが義弘の真骨頂。
それを謙信の才でどうはぐらかすかが天王山になりそう。
知識が古いので車懸りは存在していたのかはわからないけど、
謙信のスタイルに持ち込むのは一苦労だね。
兵力の差は最大動員で島津3万5千、上杉2万5千といったところかな。
さらに古くから鉄砲の扱いに島津の兵は長けていたから
結局、上杉は圧倒的に不利だね。兵の質は互角でしょう。
織豊の寄せ集めではない。
915日本@名無史さん:2006/01/19(木) 10:58:36
斎藤 道三に勝るもの無し。織田が強いと見るなら、武田と上杉はその上になる。
島津の相手はそんなに強いと思わない。
916日本@名無史さん:2006/01/19(木) 12:58:11
秀吉が一番
917日本@名無史さん:2006/01/20(金) 01:29:01
フロイスに「カエサル」と例えられた熊さん大軍団を破ったり、
九州最大の大友さんを追い込んだりしてるから相手がショボいとは思わないな。
ただ、上杉も武田も島津も所詮地域大国。
武田なんか滅ぼされてるし、上杉も島津も秀吉に従属。
中央には適わんな。
918日本@名無史さん:2006/01/20(金) 18:34:56
悔しかったら島津に匹敵する謙信の戦歴上げてみろよ、謙信厨w
919日本@名無史さん:2006/01/20(金) 19:34:07
明らかに秀吉が実権握った後に、
騒ぎを起こして討伐された島津は頭悪いw
920日本@名無史さん:2006/01/20(金) 19:59:44
こうしてちびちびと島津をこきおろすしか手段はないのか orz
921日本@名無史さん:2006/01/20(金) 20:31:20
>>918
無理
謙信は島津には到底及ばないから
922日本@名無史さん:2006/01/20(金) 20:32:23
【義弘】戦国最強 島津家【家久】
http://game10.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1136862146/
923日本@名無史さん:2006/01/20(金) 20:45:23
>>921
つうか、まじな話、謙信が出てくるとたいてい相手が逃げちゃって
結局謙信の戦の大半が攻城戦なんだけどね。

北条も武田もそうだ。

まあ逃げようとした織田を追い討ちにしたりとかもあったけどw

会戦してもらうだけ幸運だったと思いなよw
924日本@名無史さん:2006/01/20(金) 21:15:08
謙信厨は妄想でしか語れないのか
925日本@名無史さん:2006/01/20(金) 21:17:13
俺達謙信信者も戦国最強島津兄弟を持ち出されると黙り込むしかないな
格が違い過ぎる
926日本@名無史さん:2006/01/20(金) 21:19:40
> つうか、まじな話、謙信が出てくるとたいてい相手が逃げちゃって

わーすごいw
927日本@名無史さん:2006/01/20(金) 22:20:21
>>925
謙信は戦上手だけど島津には足元にも及ばないからね
現実は辛いよ
928日本@名無史さん:2006/01/20(金) 23:04:18
3万の明軍を20万と脚色する島津・・・・・・プ(藁
後方から逃げようとして追撃されて討ち取られる島津軍・・・・・・プ(藁
そして本国では敵中突破とのたまう始末・・・・・・・・ププ(藁
929日本@名無史さん:2006/01/20(金) 23:10:21
オレは島津厨だがこうもあからさまだとアンチに見える。
上杉にも公称10万の兵(実際4〜5万か?)を連れて北条領を荒らし回ったり、渡河退却中の織田勢を追撃して溺死させたりと見所はあるだろうに。
930日本@名無史さん:2006/01/20(金) 23:21:54
木崎原の戦い ○義弘軍2百 対 ●伊東軍3千
島津のお家芸、釣り野伏で見事勝利。 義弘、槍の達人柚木丹波を一騎打ちで討ち取る。 この戦いでミリタリーバランスが島津に傾く。

耳川の戦い  ○島津軍2万 対 ●大友軍4万5千
九州の覇者を賭けた戦い。 義弘の冷静沈着な側面攻撃と家久の同時攻撃で勝敗が決定。 こんな大規模な野戦をガチでやって大友軍の死者2万人、 重臣多数戦死という一方的な大勝利を収めている。
稀な大勝利、武田信玄 対 上杉謙信の川中島合戦と比べるとその大勝利ぶりが際立っている。 以後、大友は衰退。

沖田畷の戦い ○家久・有馬連合軍5千 対 ●龍造寺軍6万
龍造寺はこの戦いで隆信、四天王を失い島津の傘下に入る。 戸次川でも長宗我部信親・十河存保を討ち取るが、指揮官を討ち取るというのは野戦では珍しく、それを何度もやり遂げている島津家久は戦国一の戦上手といえよう。

戸次川の戦い ○家久軍1万 対 ●豊臣四国連合軍
寄せ集めにすぎない連合軍は歴戦の勇将・家久の敵ではなかった。 この戦いで長宗我部信親・十河存保戦死。 長宗我部元親、ショックで廃人になる。

泗川の戦い ○義弘軍7千 対 ●明・朝鮮軍20万
慶長の役の末期に秀吉が死んだので、 朝鮮にいる将たちに帰国命令が下りる。 それを知った明軍・朝鮮軍は20万の軍勢を日本軍の中央を守る義弘の泗川に向ける。
義弘は、泗川にいくつかあった支城を破棄、泗川に新たに築いた城に立て籠もる。
ここで敵を引きつけるだけ引きつけてから鉄砲の一斉射撃ののち突撃し散々に打ち破った。 また自らも刀を振るって奮戦した。 明軍の死者は8万。

露梁津の海戦 ○義弘軍 対 ●朝鮮水軍
この時も義弘は水軍を率いて活躍。 順天の小西行長を救出し、さらに全軍の殿を務め、 朝鮮の名将・李舜臣と交戦し見事討ち取る。日本軍退却成功。
もし義弘が朝鮮出兵に参加してなかったら日本軍は朝鮮で全滅してた。 秀吉は大名の領地加増を禁止してたが 島津だけはあまりの戦功の大きさに加増された。

関ヶ原退却戦 ○義弘軍3百 対 ●東軍8万
福島隊を突破、追撃してきた井伊直正と松平忠吉に重傷を負わせる。 この傷が元で2人は数年後死亡。
大阪城に残された妻を取り戻し、薩摩へ無事帰還。 家康は島津を恐れ、関ヶ原後も減封する事が出来なかった
931日本@名無史さん:2006/01/20(金) 23:25:14
毛利が最強
上杉、島津、織田、北条、武田、長宗我部、伊達、徳川は雑魚

有田中井手の戦い  ○毛利軍1500 対 ●武田軍7000
元就の初陣。 当時の毛利家の領土は3000貫といわれ、15000石〜25000石ぐらいといわれているほど少ないものだった。
初陣、そして圧倒的劣勢にもかかわらず圧倒的な戦力差を華麗な戦術ではねのけ、総大将武田元繁を討ち取り軍団を総崩れにさせる。
元就の天才ぶりはこの時から発揮されていた。
後世西国の桶狭間と呼ばれる。(状況を考えれば桶狭間以上の大勝利)

佐東銀山城死守戦  ○毛利尼子連合軍 対 大内軍
有田合戦で敗れた武田氏が尼子の力を借りようとし、友田興藤は武田氏の援助を受けて、桜尾城を奪った。
一方の大内義興は自ら出陣し桜尾城を包囲した。そして息子の大内義隆と副将・陶興房に銀山城を攻撃させた。
元就はまだ尼子方の武将だったので、銀山城死守するようにと尼子経久に言われていた。
劣勢に陥った尼子武将。
見かねた元就は軍義で夜襲を提案、意表をつかれた大内軍は大混乱に陥り城の包囲を解かざるをえなかった。

吉田郡山城の戦い  ○毛利軍3000 対 ●尼子軍30000 
圧倒的な数の軍勢を率いる尼子軍を巧みな篭城戦でこれを撃退する。
その後尼子は衰退する。

折敷畑の戦い  ○毛利軍3000 対  ●陶軍7000
山に布陣した倍以上の敵軍を下から攻撃し、大将宮川長房を戦死させ完勝を収める。
地理的にそして兵数的にも不利な状況ながら、総大将を討ち取るという完勝っぷりは元就、そして息子達の戦上手ぶりが垣間見れる。

宮尾城攻防戦  ○毛利軍500 対 ●陶軍16000
圧倒的な敵の大軍の大攻勢に耐え抜き、厳島合戦への足掛かりを作る。

厳島の戦い  ○毛利軍5000 対 ●陶軍25000
自身の頭脳を駆使して厳島へ上陸した陶軍を壊滅させ、西国無双と呼ばれた陶晴賢を自刃へ追い込む。
運だけの桶狭間とは違い、自身の頭脳を駆使した完璧な戦だった。
この戦だけでも元就の凄さが分かると思う。
この合戦後、元就は戦国随一の勢力になる。
932日本@名無史さん:2006/01/20(金) 23:27:21
>>928-929
妄想上杉厨乙

>>931
妄想毛利厨乙
933日本@名無史さん:2006/01/21(土) 07:36:49
上杉は畑谷城などのザコ城は落とせても、長谷堂城は落とせなかった。
上山でも大敗しており、戦術的にも「最上以下」なことは証明済み。
934日本@名無史さん:2006/01/21(土) 08:25:03
島津はなんで関ヶ原で
あんなにボロボロになって逃げるほう選択したの?
圧倒的多数相手に勝ってる戦があって噂程強いなら
戦えばいいじゃん(・ω・)

真田の信繁ちゃんや
毛利の勝ちゃんの方が
まだ戦上手な気がする
935日本@名無史さん:2006/01/21(土) 10:03:27
また九州下部人がはしゃいでるな
936日本@名無史さん:2006/01/21(土) 12:56:49
薩摩藩>>>>>米沢藩
937日本@名無史さん:2006/01/21(土) 13:02:54
>>934
謙信は?
938日本@名無史さん:2006/01/21(土) 13:30:25
薩長最強
939日本@名無史さん:2006/01/21(土) 13:30:37
敗走を戦略的撤退といってごまかす謙信厨
940日本@名無史さん:2006/01/21(土) 15:22:54
>>933
アレは直江のせいだろ。
どっちにしろ謙信には関係ない。
941日本@名無史さん:2006/01/21(土) 21:41:10
竹中半兵衛じゃねえの?十面埋伏の陣で、信長・秀吉軍を撃破してるし。

あと、本多忠勝。500で、10万の秀吉軍本隊を牽制してるし。
942日本@名無史さん:2006/01/21(土) 22:08:23
昔、誰が書いた小説か忘れたけど、上杉謙信の一物は子供並みに小さかったと書いてあった。
兄にそのことをバカにされてコンプレックスになっていたとか。
これってホント?
943日本@名無史さん:2006/01/21(土) 22:21:39
>>934
戦局が変わって怯えて逃げようとした所を見つかったから。
既に書かれているけど逃げる時は旗指物も捨てたり巻いたりして、コッソリ逃げようとしてたんだよ。
しかも一番手薄な所から。
それを目ざとく狙った井伊は・・・・・困った奴でもある。流れ弾で自身が負傷してたんだから無理せず島津を見逃してやれやと。
944日本@名無史さん:2006/01/21(土) 22:25:48
その後の帰国のために、武器防具を売って金のない兵の旅費にした話しこそ伝えて欲しいんだがな。
なんで敵陣突破した!だの嘘を広めたんだか。今までの戦歴で十分強いってのにさ。
945日本@名無史さん:2006/01/21(土) 22:32:12
島津の粗を探しても上杉は強くならないお
946日本@名無史さん:2006/01/21(土) 23:03:38
関東も結局北条に取られ
北信濃も結局武田に取られ
後継者争いで越中と能登も織田に取られた戦略性0の男

それが上杉謙信
947日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:11:56
島津厨必死だな(藁
948日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:27:04
949日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:44:46
謙信信者は川中島で単騎突入して信玄と一騎打ちとか
北条勢が城を包囲する中、数騎で城に駆け込むとか
三国志演戯と同レベルの話を本当の事だと思ってる池沼
950日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:48:06
そろそろこのスレも終わりか
結論を出そうか


島津>>>>>織田、徳川、豊臣の天下人3人>>九州の覇者大友、カエサルに例えられた龍造寺>>>>>>>上杉、武田、長宗我部、伊達、北条、毛利辺りの地方の雑魚大名
951日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:50:36
鳥羽伏見の戦いで5000の薩摩軍は15000の幕府に圧勝
つまり島津>>>>徳川×3
952日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:52:09
龍造寺隆信は宣教師にカエサルに例えられた
つまり島津>>>>>>>>>>>>>カエサル
953日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:02:40
オレ謙信ファンだけどゲームでも謙信の能力値を見直すべきだと思ってる
統率87 武勇72くらいがいいと思う

逆に島津は戦歴を考慮して
義弘、家久共に、統率120 武勇120がいいと思う
954日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:03:48
江戸幕府を倒したのは薩摩藩
江戸幕府を倒したのは薩摩藩
江戸幕府を倒したのは薩摩藩
江戸幕府を倒したのは薩摩藩
江戸幕府を倒したのは薩摩藩
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955日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:04:51
http://www.m-network.com/sengoku/sendai01.html
第1位 島津家(忠良・貴久・義久・義弘)
日本の戦国時代において、名君続出の大名家といえばまず島津家があげられよう。
後に「島津に暗君なし」と言われることになるが、これは決して誇張表現ではない。

島津家は鎌倉以来の名家であったが、室町時代後半には本家と分家の対立が激しくなってきた。
その時分家の伊作島津家に忠良が登場し、彼の策謀から子の貴久を島津本家に送り込むことに成功したのだが、ここから「薩摩隼人」として広く知られている島津の家風が生まれてくるのである。
島津忠良は後に日新斎(じつしんさい)と号し、島津家の心得とも言うべき「いろは歌」を作り家臣たちを教育した。
忠良はこういった功績から薩摩人の間では後に神格化されている。

さて、後を継いだ貴久は政治に力を入れ着々と足場づくりを固めていったが、分家やまわりの豪族たちとの抗争は絶えなかった。
貴久は陣頭に立って果敢に攻め込んでゆくタイプではない。合戦の際は彼の4人の優れた子たちの力が大きかったのである。
長男の義久、次男の義弘、三男の歳久、四男の家久とそれぞれ個性的な子たちに恵まれた。

義久は軍政両面、特に統率能力や状況判断力に優れ、義弘は戦国屈指の猛将で無敗の強さを誇っていた。歳久は知謀に富み、家久も勇猛無比な武将として知られ、かの沖田畷の合戦では龍造寺隆信5万の大軍にわずか三千人あまりで戦いを挑み、撃破した上にその首を挙げている。
義久の代になって秀吉軍と衝突するが、彼は家中の反対を押し切り、かなわぬと知るやあっという間に頭を丸めて降伏したのである。
これは臆病卑怯な行為ではない。彼は島津家の存続を第一に考え、最善の方法を瞬時に考えて行動したのである。

後に関ヶ原の際、行きがかり上やむなく西軍についたが、戦後素早く詫びを入れ本領を安堵している。これも義久の判断と指図である。とにかく政治力に優れた人物であった。
義弘の代になっても兄弟仲はすこぶるよく、こういう家は戦国では非常に珍しい。そのおかげで戦国の荒波をうまく乗り切れたのであろう。
剣術においても東郷重位により薩摩示源流が広まり、その強さは後々まで天下にとどろき渡った。
「島津に暗君なし」…この言葉には誰も異論はないと思う。
956日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:07:11
泗川の戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%97%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

背景
豊臣秀吉が死んで、朝鮮半島に侵攻中の日本軍にも撤退命令が下っていたが明と朝鮮の連合軍が黙って撤退を許すはずもなく戦闘は継続されていた。そんな状況の中で董一元率いる20万と称する明軍が泗川城に攻め寄せる。
泗川城は船舶の運航を守るために築かれた城で落とされたら退路を断たれて日本軍が全滅する危機にあったが駐屯していたのは島津義弘と島津忠恒率いる島津軍7000のみだった。
宗氏や立花氏が援軍を申し入れるが義弘は何故か断り、島津家の軍勢だけで明・朝鮮の大軍を迎え撃つことになった。

経過
泗川には文禄に築かれた泗川古城と、慶長の役の時に築き上げてまだ完成していなかった泗川新城の二つがあって、古城に500の兵を置き、義弘忠恒親子は新城に駐屯していた。
明軍は古城に殺到。明軍に5000の損害を出るものの守備隊も150の損害を出して古城から撤退。古城陥落から二日後に明軍は新城を攻撃するが明軍の陣営の中にあった弾薬庫が爆発するという事件がおきる。
鉄砲の流れ弾が火薬にあたって引火したという説と島津兵が火薬庫に火をつけにいったという説があるがどちらなのかはわからない。
(また爆発したのは泗川古城の食料庫で、食料庫に蓄えられていた食糧を燃やすことによって籠城戦を断念させて短期決戦にに持ち込むために撤退時に爆破させたという説もある)

いずれにせよ明・朝鮮連合軍は混乱に陥り、その隙をついて島津軍は外に打って出た。
猛烈な勢いの前に明軍は後退するものの1万の別働隊で城の手薄な部分を襲わせるが、別働隊の接近に気づいた島津忠長が100騎だけでこれを迎撃。
苦境に陥るものの味方の援軍が間に合って迎撃に成功。義弘や忠恒も自ら刀を振るって敵兵を切り殺すほどの乱戦になるが島津軍の優位のうちに戦況は進み、明・朝鮮連合軍は京城までの後退をよぎなくされた。
この結果、連合軍は島津軍の報告では38717人、明の報告書によれば8万あまりの戦死者を出したという。この戦いにより島津義弘は「鬼石蔓子」と恐れられた。
957日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:08:17
勝敗の原因
明軍の敗因は短期決戦を選んでしまったことにあるだろう。
島津の軍勢は万にも満たない小勢であり、短期決戦を選んでも勝てると判断したのだろうが相手は日本一の強兵の島津兵であり確実を帰すのなら籠城戦を選択するべきだった。
いくら島津兵であっても食料が尽きれば戦うことができなかった。
ただ、明軍が短期決戦を選んでしまったのは島津軍が短期決戦をさせるように誘導していった節がある。
つまりは島津軍が得意とする釣り野伏せに明軍は引っかかってしまったというわけだ。

その後の影響
泗川を落とされていたら出口をふさがれたことになり、最悪の場合は日本軍が全滅していただろう。明軍を防いで陸路の安全を確保したことは大きな功績になった。
その事は五大老たちから高く評価されて文禄・慶長の役唯一の加増に預かったがそれ以上に重要なのは島津兵の強兵ぶりを天下に知らしめたことである。
後に関が原の戦いで西軍について存亡の危機に立たされたが本領安堵を勝ち取った原因の一つが泗川での戦功にあったことは言うまでもない。

また小林市では戦勝を記念して輪太鼓踊という舞踊が今に伝えられている。
958日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:08:55
関ヶ原で驚異的な強さを見せた島津義弘の年齢は64。
これだけでも島津の強さは伺える。
のちに徳川に恨みを持った薩摩は大久保利通や、西郷隆盛などの偉人達を輩出し、
で徳川幕府を倒すことになるのである
959日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:13:43
をいをい、信玄との一騎打ちは創作だぞ。
江戸時代の講談じゃねえんだから・・・。
960日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:16:35
薩摩最高!
鹿児島最高!
961日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:19:15
あと、明軍20万は島津が捏造したんじゃなくて明軍自体がそう称してたんだよ。
島津厨も上杉厨もひどいな。
962日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:21:11
薩長なんぞ水戸藩のオマケだよ
水戸学の副産物
963日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:23:01
>>959
謙信厨はそれを本当の事だと思い込んでるんですよw
964日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:25:45
天狗党カクイイ!
965日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:26:06
謙信信者は車懸かりの陣を本当にあった陣形と信じている
966日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:28:26
謙信の戦歴って死傷者出しまくりの川中島と
元々戦う気が無かった相手を追撃しただけの手取川くらいしか誇るものが無いね
967日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:30:34
島津には誇るべき薩摩芋があるもんね
薩摩揚げとか
968日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:31:31
いやいや、戦う気のない北条さんを小田原に引き籠もらせて城下で略奪を働いた実績がありますよw
969日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:31:33
島津の相手は雑魚ばかり
武田、北条、織田、一向宗を相手にした上杉謙信様に勝てるわけがない
970日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:33:06
越後にあるのは、ちりめん問屋のみ。
謙信あほ、新潟くたばれ。

島津こそ日本の黎明期を支えた偉大なる藩です。
971日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:33:46
そういや、何で長野氏を見捨てたんだろう?嫌いだから?
972日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:35:37
>>969
武田 長野と村上に兵で勝っていながら大敗した雑魚 ていうか武田に北信濃取られてるし
北条 滅亡寸前の里見に大敗した雑魚 ていうか北条に北関東取られてるし
織田 手取川は戦う気が無かった ていうか能登と越中取られてるし
973日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:37:31
島津が雑魚なら雑魚にボコられた大友を倒せなかった毛利も雑魚、
天下を取りながら雑魚の毛利を滅ぼせなかった秀吉も雑魚、秀吉に従った上杉も雑魚だな。
974日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:37:40
>>969
その辺と同時に相手にしたっていうのが謙信の戦略性の無さと外交能力の無さを証明してるね
975日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:39:10
御館の乱は後継者争いでも最悪の例
976日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:40:15
島津も人身売買してたらしいが「義将」謙信たまも人身売買・略奪・放火を心から愛してましたね。
977日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:41:50
むしろ関東遠征はそれが目的
義将ねえw畠山や越中の豪族から領地を奪ってるのに
978日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:43:27
謙信は北陸にはマジで取り掛かってただろう。
そうでなきゃ北条と同盟を結ぶなんてできない。
979日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:44:03
謙信のオナニー癖は有名。想像していた裸体は・・・
980日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:46:39
今川、北条が塩留めしてるのに塩の交易を止めない協調性皆無の名将
それを「敵に塩を送る」とほざく義将
981日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:47:07
>>972
島津 滅亡寸前の大友家の出城(立花城)を落とせなかった雑魚 
   ていうか立花に追撃されて出城2つ奪われたし

982日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:50:01
そうそう、追い詰めながら城を奪還される島津は雑魚。
戦に勝ちながら領土を取られるという離れ業をやってのけた上杉は神
983日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:50:39
謙信は佐野昌綱の唐沢山城を何回も攻めたけど落とせませんでした
984日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:53:06
謙信が領民から慕われていたという史料が見つからない。
むしろ一向一揆に苦しめられるくらいだから、領民の反発が大きかったか?
985日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:54:27
ていうか、謙信は何で戦争してたの?
北条武田は領土増やしてるけど上杉は減る一方、
お家を維持せしめたのは景勝。
986日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:55:32
自暴自棄になり、何も考えず大名をやめて隠居しようとする自分勝手な男
987日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:56:18
>>985
趣味
988日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:56:53
◆郷土食が支えた最強の島津軍団

戦国時代、勇猛で強い軍団といえば、武田信玄の甲州軍団、上杉謙信の越後軍団、三河武士(徳川軍団)があげられるが
忘れてはならないのは命知らずの島津軍団である。秀吉、家康でさえ島津と戦う事を避けたほどだった。

島津一族を強力な戦闘軍団につくりあげたのが、島津中興の祖、島津日新斎忠良である。
日新斎は、古代国家の頃、その荒々しさで都人に恐れられた熊襲の子孫、隼人族(猛人ともいう)
を家臣としてとり立てて、軍団の核としていた。

この島津軍団の兵糧のひとつに「ちまき」がある。ちまきは本来保存食で、兵糧などの携帯食料として使用されていたが
薩摩のちまきは一風変わっていた。
(中略)
薩摩のちまきは、灰汁でつくることから「あくまき」呼ばれる。ゆうに二,三ヶ月はもち、しかも高カロリーなのだから、理想的な食料だったのだ。

また鹿児島の特産品「かつお節」も高タンパク、ビタミンB郡を多く含み、保存性の高さはピカ一。「武教全書詳解」にも
「かつお節は、薬にあらずといえども、時にして飢えに及ぶときには、これを噛めば性気を助け、気力を増し、飢えをしのぐのみならず、役に立つものなれば
必ず用意すべき事なり」とある。

鹿児島県では、豚や鶏は、歩く野菜といって食べてきた。これら古代以来の野趣に富んだ郷土食が、薩摩武士の体力を強靭にそ、最強の島津郡団を支えたのだ。
989日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:58:38
>>983
謙信に唐沢山城を攻められては、降伏するを繰り返したような・・・。

結局、謙信が家臣の色部勝長を唐沢山城にとどめさせたと思ったぞ。
990日本@名無史さん:2006/01/22(日) 03:00:18
要するに謙信は馬鹿だった?
991日本@名無史さん:2006/01/22(日) 03:00:28
いや、
なんかさ
秀吉や家康としては島津とかどうでもよかったの…
秀吉も九州征伐の後は忘れちゃってたし
家康も伏見城守将にするとかいって忘れて帰っちゃったし
992日本@名無史さん:2006/01/22(日) 03:00:32
上杉を評価出来るのは三河武士や薩摩隼人を凌駕する戦馬鹿っぷり。
領民や近隣の民の迷惑を屁とも思わずほいほい遠征する姿勢は見事。
993日本@名無史さん:2006/01/22(日) 03:01:13
上杉謙信は酒飲みまくり、塩分取りまくりの健康の事を何も考えない食生活をしたために、便所で野垂れ死んだ
後継者の事を何も考えてなかったために御館の乱勃発し、家は大きく衰退

島津義弘が86歳まで生きたのと対照的だ
994日本@名無史さん:2006/01/22(日) 03:01:53
あれだけ無意味に攻めまくって潰れなかった上杉は神
995日本@名無史さん:2006/01/22(日) 03:03:28
>>993
長生きしたからって何もしなかったけどなw
もうろく爺になっただけ
996日本@名無史さん:2006/01/22(日) 03:03:59
謙信のアホー
997日本@名無史さん:2006/01/22(日) 03:05:08
九州を統一寸前まで持っていった島津
どんどん領土が減っていく上杉
998日本@名無史さん:2006/01/22(日) 03:05:10
>>991
なるほど。
どうでもよかったから秀吉は島津兄弟を交替で上方に滞在させ、家康は接近をはかったんだね。
納得のいく説明だ。
999日本@名無史さん:2006/01/22(日) 03:05:46
軍神上杉謙信公
毘沙門天の化身
戦国最強
1000日本@名無史さん:2006/01/22(日) 03:05:59
結論

島津>>>>>>>上杉
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