1 :
日本@名無史さん:
埼玉古墳群・稲荷山古墳から出土した鉄剣金錯銘。
「今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮」
これのどこが、畿内の長谷朝倉宮にいた大泊瀬幼武
(後代の漢風諡号=雄略)なのか?!
今年のセンター試験でも自明の理として登場した。
古田武彦氏の『関東に大王あり』で関東説が脚光を浴びたが、ほかにも
井上秀雄(東北大名誉教授/朝鮮古代史)・鶴岡静夫(青学大名誉教授/日本古代史)
・故金達寿(作家)各氏らが同様の立場であった。
関東説・畿内説をとわず建設的・生産的な議論をお願いしたい。
粘着・荒らしはスルーでよろしく。
×長谷朝倉宮
○泊瀬朝倉宮
同音ながら誤字にてご寛恕を…
3 :
日本@名無史さん:05/01/16 20:22:24
>1乙!
学会に巣食う、列島内「王統」一元史観よ、早く滅んでください。
4 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/17 03:43:39
関東平野に大王あり。・・・・・ケノ・ムサ・ヒタ
関東平野に大王なし。・・・・・フサ
ケノ(上ケノ こうづけ・下ケノ しもつけ)
ムサ(ムサ上 さがみ・ムサ下 むさし)
ヒタ(ヒタ上 ひたか・ひた下 ひたち)
フサ(上フサ・下フサ)
稲荷山古墳鉄剣銘【いなりやまこふんてっけんめい】
埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣(国宝,さきたま資料館蔵)の剣身
表裏に金象嵌された銘文。ほぼ全文が判読された115文字は,5世紀代の最も
基準的な金石文史料。冒頭の〈辛亥年〉は471年,また大王名〈獲加多支鹵〉
(ワカタケル)は,倭王の武,記紀のオオハツセワカタケ(雄略天皇)にあたる。
乎獲居(オワケ)が〈奉事〉の〈根原〉を記すとする内容は,〈上祖〉意富比(オオヒコ)
からの8代の系譜と,その一族が〈杖刀人首じょうとうにんのおびと〉として代々仕えた
ことである。ワカタケル大王の寺が〈斯鬼宮しきのみや〉に在る時,その〈治天下〉
を〈左たす〉けたことを強調する乎獲居を関東の豪族とみるか,中央の廷臣と
みるかは,説が分れる。 [株式会社岩波書店 岩波日本史辞典]
6 :
三浦義連:05/01/17 18:21:28
7 :
日本@名無史さん:05/01/17 21:37:44
ケヌの王の墓は群馬にある。
8 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/18 01:34:20
>>6 ぼくにとって現地調査が必要ねすね。
「毛野・・ケヌ」は「筑紫・・チクシ」と同じですね。
「鬼怒川・・ケヌガワ」が正しい現地読みですか?
>>7 ヒタの王は那珂にいた。
9 :
日本@名無史さん:05/01/18 08:43:45
>>7 北武蔵にまで毛野が進出していたとは考えられませんか?
一例として鈴製品の出土
>>8 現在では「きぬがわ」ですね。
常陸国風土記か何かに「毛野河」との表記があったはず
10 :
日本@名無史さん:05/01/18 08:59:01
関東の大王・・・・・・将門のことか?
11 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/18 19:55:08
>>10 んにゃ。
7世紀以前についての話題です、
稲荷山古墳の前方後円墳体制全体における位置づけというのは考古学的にどうなんでしょう?
時代は倭王武が列島の東西を征服した時代です。
ですから、稲荷山を含む北関東文化圏が、畿内を中心とする前方後円墳体制に「飲み込まれている」のか否かによって、関東王朝説成立の可否が決まって来ると思いますが。
古田武彦の本を買ってみようと思ってるんですが
初心者はどの本から始めるといいんでしょうか。
朝日文庫から出てる『古代は輝いていた』というのが概論的な感じなんでしょうか?
14 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/30 11:27:42
>>12 稲荷山古墳が5世紀後半か6世紀前半かには疑問をもっていますが、
関東圏は畿内勢力の文化的影響下には組み込まれていたと見ています。
だからといって、獲加多支鹵が雄略とみなすことはできません。
関東勢力には前方後円墳と出土品に鏡があることから畿内と共通文化をもつ進出勢力とみなせます。
畿内天皇勢力が九州から進出したにも関わらず、九州から独立していたように、
関東の勢力も近畿天皇勢力から独立していたと見ますので、
獲加多支鹵は関東の大王でしょう。
九州の倭王武の勢力範囲も、東に毛人66国からみて、
山口・広島・愛媛・島根・鳥取と見ています。
又、畿内勢力の範囲も、岡山・兵庫南部・大阪・奈良・京都南部・滋賀と見ています。
九州王朝が最大の権力を持っていても、大王は全国に割拠していたのでしょう。
それらは、九州・畿内・東海・関東・北陸・新潟・東北に3〜4大王と推測しています。
中には大王と言うには小さな地方権力者とみなせる大王もいたのではと推測します。
と言うところが僕の5世紀後半〜6世紀初頭の日本列島の概念です。
15 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/30 11:34:25
>>13 朝日文庫から出てる『古代は輝いていた』が比較的広い範囲を網羅していると思います。
サンクス。実は二日前に我慢できずに買ってきましたw
>>15 面白かったら『邪馬台国はなかった』も探してみようと思います。
17 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/30 13:21:41
>>16>>13 『邪馬台国はなかった』は古田氏の研究手法を知るには良いと思います。
『失われた九州王朝』(朝日文庫)が面白かったように記憶しています。
初版本を修正改定していなければ、現在では間違っている部分もありますが。
>>14 私見では、5-6世紀は、大雑把に、大和飛鳥のほかにも、
毛野,越,吉備,出雲,九州諸国あたりがいわゆる「くに」でしょう。
7世紀の壬申年の大乱の時でも、尾張が東国勢ですもんね。
19 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/31 19:02:01
>>18 >>1
関東が倭国に統合されたのはかなり時代が下ってから、
6世紀末から7世紀初頭と思います。
西暦600年前後までは関東勢力は独立していたと思われます。
古田氏が紹介した「筑紫の舞」にそのことを暗示するようなものがあります。
翁の舞があるのですが、3人立、5人立、7人立と3種類の翁の舞です。
3人立は筑紫の翁、出雲の翁、肥の翁の構成で、
5人立は上記3翁に難波の翁、越の翁の構成に、
7人立は上記5翁に尾張の翁、夷の翁となります。
そこで、7人立の成立が西暦600年前後と推定しています。
5人立の成立は難波の翁がでてくることから応神の頃(5世紀)になりますね。
応神は九州王朝の征東将軍のようなものでしょうか。
そして畿内への北陸反乱勢力である継体が九州に対して反乱。
継体の死後、欽明により畿内を九州王朝傘下に。
関東大王(王朝)は少なくとも6世紀後半までは存在していたのではないでしょうか?
それも、2大王、西及び北関東地域(ムサ・ケヌ)と南及び東関東(ヒタ[那珂]・フサ)地域に。
>>14 さん
>だからといって、獲加多支鹵が雄略とみなすことはできません。
>畿内天皇勢力が九州から進出したにも関わらず、九州から独立していたように、
この2つの主張の「純粋に考古学的な」根拠は何ですか?
私は文献の解釈だけの議論に飽き飽きしているのです。古墳の型式とか土器の分布、流入などによる根拠をお願いします。
21 :
日本@名無史さん:05/02/01 00:18:03
この2つの主張の「純粋に考古学的な」根拠が必ず存在するはずだ、
という思い込みは何に由来しますか?
私は文献を無視したヤマト=邪馬台議論に飽き飽きしているのです。
22 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/01 16:26:06
>>20 12さん
古墳・祭器の形式です。
関東においては、古墳の形式がムサ(ムサシ)からケヌ方面に変わっていっていることと、
古墳・副葬品・埴輪が畿内型(太刀・三種の神器の1つ)で畿内と共通の文化であること。
ヤマトタケルノミコトの遠征話では、南部ムサ(サガミ)とフサ止まりで遠征に成功せず引き返している点で、
継続的な畿内支配でないこと。又遠征の主目的は静岡で遠征の主は尾張の勢力と見られること。
尾張勢力(交流はあったが畿内の支配下でない)を飛び越えて畿内勢力が関東に進出できるはずがないこと。
以上、古墳の形式や土器埴輪の分布だけが根拠ではありません。
畿内においては、三種の神器は北部九州と共通するも、古墳の形式が九州と異なってしまったこと。
畿内は円墳・帆立型墳から前方後円墳に発展したのが、九州では九州中部型古墳から装飾古墳になっていった。
宗教が近縁であっても異なることから互いに独立した勢力であったとみなせる。
23 :
日本@名無史さん:05/02/24 21:09:52
毛野大王age
25 :
日本@名無史さん:2005/03/28(月) 00:49:56
こういうのが出てくるから埼玉の国指定史跡級の縄文遺跡とやらも壊されるわけね。
変なもんが見つかる前に破壊すれば疑問も生まれないからな。
26 :
日本@名無史さん :2005/03/28(月) 19:53:21
>>3 >>25 早い話、日本の歴史学会は、天皇家が登場して以来の古代史では、地方の独自性を示すものは、
すべて天皇中心近畿中心史観に押し潰されてきたってことだろ?
その歴史観の最大の支持者は常に近畿の人間であり、今も学会の中心にいて古代史を歪曲し続けていると。
近畿地方以外の日本人は、長い間、天皇=近畿中心史観に気づかず、騙されつづけていると言ってもいいだろう。
27 :
日本@名無史さん:2005/04/16(土) 21:29:42
ひでえね
28 :
日本@名無史さん:2005/04/19(火) 16:52:36
稲荷山鉄剣銘の辛亥年五三一年説は、最近どう展開してるんしょうか。
欽明天皇の即位年(たしか上宮聖徳法皇帝説では辛亥年)とか宮の名(磯城嶋
金刺宮)や、「継体紀」末尾引用の「百済本記」記事など、関連しそうな事例
はあるのに、なんとも影が薄い説だ。
29 :
日本@名無史さん:2005/05/08(日) 16:52:09
家康の入封以前に関東第1の都市だってのってどこ?
小田原?鎌倉?武蔵府中?
30 :
日本@名無史さん:2005/05/11(水) 23:09:04
小田原でそ
ダントツで小田原でしょうね。むしろ二番目以下のほうを知りたい。
32 :
日本@名無史さん:2005/05/27(金) 03:11:33
上野の由来って、上+毛野なの?
>>32 上+毛野→かみつ+けぬ→こうずけ(上野)現在の群馬県の範囲(上州、上毛も群馬県の範囲を指す)
下+毛野→しもつ+けぬ→しもつけ(下野)現在の栃木県の範囲
漏れは常陸在住だが
35 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 09:22:28
相模は、なにか+上?
昔から、ムサ+上(相模)、ムサ+下(武蔵)説があるがあやしい
相模・武蔵同様のあやしい説、常陸・日高。
ヒタ+下(常陸)
ヒタ+上(日高)
ヒタは宮城に近い方が上、遠い方が下、他の西側が上、東側が下とは逆転。
ついでにまとめて
上+フサ(上総)
下+フサ(下総)
上+毛野(上野)
下+毛野(下野)
ムサ+上(相模)
ムサ+下(武蔵)
ヒタ+下(常陸)
ヒタ+上(日高)
38 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 06:46:59
日高ってどこ?
ここも馬鹿スレかw
40 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 10:21:08
稲荷山古墳て、昔の何郡?
九州王朝=先住民族ヤマト=平氏
現政権=渡来人出雲=源氏
らしい。
九州は今でも源氏が平氏を差別してる。
県知事、市長を調べた限り源氏の系統ばかり
市会議員、県会議員もそうかもしれない。
おそらく、焚書坑儒が行われている。
関東の人は気づかないのかね?
42 :
日本@名無史さん:2005/07/09(土) 05:56:10
万世一系思想は源氏ツングースの野望、
ツングースは東アジアを彼らの子孫で埋めるつもり
アーリア人の思想を踏襲、平氏は差別の対象として
絶滅させる気、韓国がなぜ、金、朴などの姓だけなのか・・・
ツングースの野望。平氏一族(先住民族)よ今こそ立ち上がれ
関東にも少なからずいるはずだ。
43 :
日本@名無史さん:2005/07/09(土) 07:31:51
ムサかバイ(遅れているよ)
と西九州では言いますが、これは関東に住んでいる遅れた人
を指していた言葉かもしれません。
44 :
日本@名無史さん:2005/07/09(土) 07:35:06
源氏政権により封印された九州王朝の謎
を是非解き明かしていきましょう。
45 :
日本@名無史さん:2005/07/09(土) 07:37:56
ムサかバイとは遅れているという意味以外に
髪の毛ぼさぼさで汚い格好してるね。という意味もあります。
九州人からみた関東人のイメージだったのかもしれません。
46 :
日本@名無史さん:2005/07/09(土) 12:07:39
そんな深読みせずともスタンダードに
今獲加多支鹵=ワカタケル=雄略でいいよ
47 :
日本@名無史さん:2005/07/09(土) 13:56:36
>>46 今=?
獲=ワ
加=カ
多=タ
支=ケ
鹵=ル
なのか?
獲をワと読んだり支をケと読んだりしないと思うが
48 :
日本@名無史さん:2005/07/09(土) 19:27:34
むさ苦しいやつだな、ムサカ(西九州語)
六平、牟佐か、撫佐か、何かヒントにはならないか・・
>>38 「日高」は茨城県北部と福島県南東部。
古い地図では名称が残っています。
今の地図では、日立市日高しか認められません。
「日高」の範囲は茨城県日立市から福島県いわき市(植田・小名浜・平)です。
50 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 19:57:55
なぬ〜
51 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 20:37:32
獲加多支鹵大王→幼武大王→倭王武→雄略天皇
52 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 04:27:17
ミコミコナース!
>>26 つーか、平安朝後半以来関東にはさんざん悩まされて来たからなー。
公家の謀略政治の一貫なんだろw
鎮守府から征夷大将軍、幕府と言う流れで東国が朝廷の鬼門なんてのは明白だろ。
平安期以前は尚更そうだったろうな。
54 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 06:17:45
大和律令体制下では普通に大和政権になってるのに、
ずっと後になっていきなり未開人(蝦夷)扱いだもんな
不自然過ぎる。歴史ねつ造すんな。
55 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 17:09:26
>平安期以前は尚更そうだったろうな。
一応律令制が引かれているから支配圏には入ってるんじゃない?
東北や関東がどういった形で近畿と接していたかはよくわからないが・・
ちなみに九州だって謎だらけ、いきなり畿内から官吏が派遣されてくる。
武蔵は関東全域の高麗人を移住させられた。
武蔵国は昔から台地ばかりだから農耕には適さなかった。
いまでも東京都と埼玉県の武蔵野台地は宅地以外はほぼ畑。
この畑ですら江戸時代以前は玉川上水などがなかった。
水が確保できなかったため雑木林や雑草が生い茂っていて
農耕できない。
もちろん高麗人の移住とはそんな苛酷な環境への移住なので
あまり良い地域を与えられたとはいえない。
57 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 22:48:40
しかしこの高麗人たちが
関東の武士たちになった可能性は高い。
甲斐・駿河・相模・上総・下総・常陸・下野の
高麗人が武蔵に移住した。
そして東国といえば騎馬という伝統を彼らが作っていった。
その後、平安末期に朝廷に反旗を翻したのももちろん彼らだろう。
58 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 01:45:27
「高麗人が武蔵に移住した」と「高麗人が武士になった」には開きがある。
高麗人の子孫の誰もが武士化したわけでもあるまいに。
つーか、武蔵の牧と高麗人の移住先ってそんなに重なっているのか?
59 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 02:08:51
『続日本紀』霊亀二年(七一六)五月辛夘
駿河・甲斐・相摸・上総・下総・常陸・下野七國の高麗人
千七百九十九人を以て、武藏國に遷し、始めて高麗郡を置く。
『続日本紀』神護景雲二年(七六八)六月癸巳
武藏國橘樹郡人の飛鳥部吉志五百國・・・
飛鳥部吉志は百済姓
60 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 02:13:06
武蔵國"高麗"郡 武蔵國"新羅"郡age
61 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 02:13:35
そういえば関東は肌のつるんとした人が多いな・・
62 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 02:16:51
>>58 >>57は、もともと武装集団だった高句麗(高麗)人が関東の武士になったと
言いたいんじゃないのかな。
63 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 02:21:33
なぜ、日本はこれだけ、渡来人を受け入れたと思う?
64 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 10:35:15
高句麗以前に古墳時代から既に東国は西国に比べて
馬文化を受け入れていたとか読んだ覚えがあるが。
律令時代には蝦夷人も騎馬化してたそうだし。
65 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 19:49:55
武蔵といえば武蔵七党に代表される中小武士団だと思うのだが、
高麗郡て、七党の根拠地から微妙にズレてるよね。丹党だけかな。
周辺が武装していくなかで高麗郡の住人も自衛のための武士になった
者達がいることまでは否定せんが、いかにも高麗人の子孫が武士の伝
統を作り上げていきました、なんて文章を見ると萎えるよ。
>>57はちょっと発想が飛びすぎ
66 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 19:58:26
ただ武士のあのチョン(朝鮮)マゲって朝鮮の人のマゲではあるらしいね。
>>62 ないだろ。高麗はもともと北朝鮮起源の政権だが、
武士階級が公家と分化したと言う社会構造ではない。
高麗の建国は918年。
>>56 本国北朝鮮の方が遥かに過酷だよ。
南朝鮮でも冬季は11-12月でも零下10度にもなるはず。
だからオンドルが必要になる。
68 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 18:16:12
>>66 そうか?
明治期になって前代の風習をバカにする意味で丁髷(ちょんまげ)呼ばわりするようになったと某本で見たのだが。
朝鮮人をチョン呼ばわりするようになったのはもっと後だ。
つーか、そんなに関東武士を朝鮮人にしたいのか。
朝鮮人に日本人が長い間支配されてきたと言いたいのか。
朝鮮人の57や66としてはそのほうが気持ちいいのだろうな。
69 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 18:32:31
お互い様かも、今まで西の方を朝鮮人呼ばわりしてたの
殆ど関東の御用学者じゃん。
>>67 高麗(駒、コマ)は高句麗であって、高麗(コウライ)ではない。
所在地も高麗(コウライ)は朝鮮、高句麗は満州。
高麗(コウライ)の建国者は高句麗滅亡後、朝鮮半島に逃れて
高麗を建国したことになっている。
71 :
日本@名無史さん:2005/08/22(月) 02:26:59
72 :
日本@名無史さん:2005/08/22(月) 03:14:06
高麗郡も元は別の地名があったんでしょうね。
クマ郡とかだったかも、九州に多い地名。
73 :
日本@名無史さん:2005/08/29(月) 22:56:02
なぜ高麗と書いてコマと読むのだろう
74 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 19:15:59
最終レスが8月21日の秩父事件スレが落ちたか。
アゲとくか
>>73 コリョとはぜんぜん違う別物なんだ、間違えんなよという強い意志を表している
76 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 23:58:39
ん?
77 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 07:19:03
>>49 「日高」=ひだかみ(上)
「常陸」=ひだしも(下)
だね。
いかん、
>>37と同じことを書いてしまった、、、、、、、、
79 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 23:50:38
チチブage
80 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 01:05:12
7世紀頃に関東の豪族が大和朝廷に反乱を起こしたような。
まだ半島人やふ囚が移住してくる前の話。
81 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 01:15:56
関東・東北と九州は逆賊の宝庫
まだ服属してないなら逆賊とは言わんでしょ。
獲加多支鹵
支=シ 鹵=は「鹵獲」のロ
ゆえに「バカたしろ」と読む。
「今、バカ田代」が正しい!!!!
84 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/10/30(日) 12:54:50
>>80 反乱のソースは何?
反乱の相手は大和朝廷ではないでしょう。
大和朝廷は畿内以外に力を示すことは未だ無理。
大和朝廷は未だ尾張に対してさえ支配が及んでいないのだから。(672年以前)
まだ半島人やふ囚が移住してくる前の672年以前だから、
関東平野内での抗争か九州王朝に対しての反乱と思われるが。
85 :
例の反乱話の奴=俺:2005/10/30(日) 13:05:59
8世紀以降に関東に移されたふ囚の反乱と勘違いしているのかも。
86 :
85:2005/10/30(日) 13:17:29
ソースなんて言えるものはありません。
何故かというと蝦夷関係か隼人関係の本に書いてあったような・・・
という我ながらいい加減なものです。
隼人は畿内とそこから少し外れた地域に移住させられたようですから、
関東には来ていませんね。
87 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 13:47:32
隼人の一部は関東にも移住したろ?
薩摩・大隅→畿内→関東
日本書紀534(安閑1)に武蔵国造の笠原直使主と小杵が国造職をめぐり
それぞれ倭王、上毛野氏と組んで抗争したと伝える。
笠原直の本拠は鴻巣市笠原付近で、墳墓は埼玉さきたま古墳群。
89 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/10/30(日) 22:01:30
>>80 >>85-86 >>88 抗争を起したのは小杵と上毛野氏で、
武蔵国(夷?)に対する反乱で、九州王朝と笠原直使主に対してだと思います。
笠原直使主は既に九州王朝と同盟関係にあり、
北関東の上毛野氏(毛野王権・地域独立王権)は未だ西日本文化圏内(前方後円墳等)に入っていない時代ですから。
この抗争で北関東の上毛野氏が敗退し、その後北関東に前方後円墳も広まっていったのではないでしょうか?
未だ詳しくは調べていない上での考察です。
90 :
80:2005/10/30(日) 22:47:36
91 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/10/31(月) 00:46:05
>>80 535年は磐井の乱後の一時的な九州王朝弱体化の時期ですから、
それに乗じて毛野王権が武蔵に反撃をしかけたこと示しているのではないでしょうか。
その後、九州王朝派遣である欽明よる継体朝畿内政権の平定、
6世紀中盤の九州王朝の再安定化時期(九州元号「兄弟」)と共に、
武蔵九州王朝同盟国「夷」の北関東進出が本格化し、
それが6世紀末の前方後円墳の北関東への拡大となっていると見ます。
92 :
(´,_ゝ`)東皇帝ジーモン・ジョーカー@南武蔵◇1966DD2006BB:2005/11/01(火) 01:02:11
俺は皇帝に即位した。
大和朝廷にも唐朝廷にも従わん。いずれは全国制覇する。
93 :
80:2005/11/01(火) 01:54:43
>>91 ありがとうございます、全く知らなんだ。
私は飛鳥時代には既に大和王権が東北と後の鹿児島県以外
の地域に影響力を持ち、形式的にせよ地方豪族たちを
服属させていたものだと思い込んでいました。
95 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 21:48:15
このスレではド田舎東京は除外ですか
96 :
日本@名無史さん:2005/11/07(月) 02:56:49
東京はド田舎以下の無人地帯。
水の無い台地、低湿地と干潟、
人の住めるところが無い。
せんそう‐じ【浅草寺】‥サウ‥
東京都台東区浅草にある聖観音宗(天台系の一派)の寺。
山号は金竜山。本坊は伝法院。628年、川より示現した観音像をまつったのが
始まりと伝え、円仁・頼朝らの再興を経て、近世は観音霊地の代表として
信仰を集めた。浅草あさくさ観音。
[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]
98 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/11/07(月) 22:33:09
>>97 江戸湾岸は全くの無人地帯ではなかったでしょう。
漁民が少しはいたと思います。
彼らは干魚等を荒川を遡って埼玉方面に売りに、
又、埼玉方面から買い付けに来たりしたのでしょう。
勿論穀物との物々交換であったでしょうが。
埼玉地方は権力の中心地として人口も抱えており、
その淡白質の供給地として江戸湾岸は重要であったと考えられます。
その湾岸の中心地として、荒川河口の浅草は江戸湾岸の人々が集まるところであったと。
その浅草に628年迄に仏教が伝わっていてもおかしくありません。
荒川河口の浅草から埼玉権力者への蛋白質供給が無ければ、
武蔵埼玉王権が北関東の毛野王権を凌駕できなかったでしょう。
99 :
保守:2005/11/27(日) 02:02:21
★守護・地頭の実態−坂東武者の全国拡散★
1 :日本@名無史さん :2005/10/08(土) 08:23:07
自慢のように聞こえるし、他の地方の人間にとっても周知の事実だと思っていたので
今までは黙っていたが、藻前らがやたら関東を叩いたり、その認識に?を付けたくなったり
するんで、言及するとするが、
鎌倉時代の守護・地頭の実態は、北は東北から南は九州まで、関東甲信(特に関東のいわゆる坂東武者)
の全国津々浦々への拡散だぞ。
当時関東在住の、守護として血筋のはっきりした豪族だけでなく、弱小の豪族までが、それこそ今の市町村長の
ような形で知行地を貰い、移住して行った。主に惣領以外の次男・三男坊だけどな。
その子孫で歴史上の偉人も多い。
日本史が中国・朝鮮史と違うのは、ヨーロッパと同様に封建時代があったからだと言われているのは周知の事実。
それもこれも坂東武者、即ち関東の人間のおかげなんだぞ。
当時、関東以外の地ははっきり言って王朝国家の惰眠を貪りつづけていた。武士は単なる貴族らの使いっ走りに過ぎなかった。
文化の伝播についても、九州などの西からだと考える香具師が多いようだが、こういうことで、関東の影響が全国に広がって
行ったというのが実際だ。
言いたかないが、藻前ら本当は関東に足を向けて寝らんないんだぞ。
(鎌倉・室町の両時代は坂東武者の、江戸時代は三河遠江を初めとする中部地方の人間の全国拡散と言えよう)
100 :
日本@名無史さん:2005/11/28(月) 23:06:58
101 :
日本@名無史さん:2005/12/18(日) 23:44:12
さいたまスレが伸びてる
川越に嫉妬する浦和人
102 :
日本@名無史さん:2005/12/19(月) 00:04:37
古代東海道が通ってた所じゃないところに集中的に渡来人を入植させてるね(武蔵とか相模北部)
ま人が少なかったし発展してなかったんで当たり前か。なぜ相模や下総、上総が細分化されてて
武蔵が大きいままなのかを見れば分かるが。
103 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/12/20(火) 03:08:15
武蔵の地域が広いのは、
この地の勢力が東京湾北岸から荒川沿いの地域(利根川の西側)であったから。
104 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 17:23:50
age
105 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/12/23(金) 01:49:38
>>103の補足
武蔵:
関東平野で最も経済力大きいのは荒川流域。
穏やかな川で流域は水稲澱粉エネルギーの生産力が大きく、
又東京湾から魚介類淡白質の供給を受け、栄養分豊富な地域。
それが武蔵経済圏。
毛野:
それに対して利根川は坂東太郎の暴れ川、流域に安定した水稲耕作は望めず。
又その流域は東京湾からも遠く、魚介類淡白質の供給も受けにくい。
その弱い経済力で毛野は常陸よりも早く武蔵に破れ、その鈴文化を失い前方後円墳文化となる。
常陸:
水稲澱粉にも魚介類淡白質にも比較的恵まれ、その経済力で前方後円墳文化の支配に最後まで抵抗できた。
常陸国風土記の地名説話で、個々の地名が現代の地名と一致率が高いことは、
常陸が比較的新しい時代に下ってからの被支配化であることを物語っている。
食料の面から捉えてみました。
106 :
日本@名無史さん:2005/12/23(金) 15:11:57
age
107 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 03:45:35
大好きさん応援 蛋白質age
108 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 03:56:24
風土記はいつの時代に誰が書いたの?
109 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/01/15(日) 04:56:56
110 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/01/15(日) 05:39:28
>>109の参考に出てくる倭武天皇は、
九州王朝の倭の五王の武のことではないかと思われます。
九州王朝歴史書に常陸国大王の事跡を武の逸話として盗用したものではないでしょうか?
単なる楽しい推測ですが。
ウソ教えんなよ
112 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/01/15(日) 20:03:58
>>111 はい、すみません。
>>109の参考資料は破棄してください。
僕も支持しているものではありませんので。
毛野なんていうくらいなんだから、草原ばかりだったんだろうな
115 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/01/24(火) 02:53:31
>>113 武蔵、常陸、毛野の勢力範囲について。
3地域の境界線は利根川
古利根川は、現在の江戸川と江戸川と利根川の分流点(茨城県猿島郡境町)より上流の利根川です。
武蔵:古利根川の南西側
常陸:古利根川の東側
毛野:古利根川の北側
最も高い効率である農業の水田耕作生産力から経済力を判断すると。
毛野の水田耕作適地は谷中遊水地周辺のみ。
又毛野の高密度淡白供給地は谷中遊水地のみ。武蔵は東京湾、常陸は霞ヶ浦等湖水と太平洋が淡白供給元。
よって
経済力:武蔵>常陸>毛野
面積(山間原野を含む):毛野>武蔵>常陸
>>114 水の少ない草原と森林が平野面積の大部分。
水田適地は谷中遊水地周辺と利根川渡良瀬川間の地域のみ。
>>115 関東平野の谷地・小平野は軒並み火山灰土特有のリン酸欠乏がひどいので
水稲稲作には決して適した土地じゃないよ。
葉は茂っても実が付かないから稲作には致命的。藁しか出来ないからね。
そしてこのリン酸欠乏は火山灰土のためなので
箱根・富士に近い古利根川西岸の武蔵国のほうが酷い。
もちろん赤城・榛名などに近い毛野も酷い。
火山から遠い常陸は少しだけマシ。だが常陸は寒流の海に面するので
冷害という深刻な問題がある。風土記にさえ記述されているくらい。
押並べて関東平野は稲作にはどこも適していない。
弥生時代以降関東が一気に後進地域に転落した最大の原因はこれだ。
(戦後になって化学肥料が普及して初めて豊かな農地になった)
武蔵や相模、あるいは上野が比較的発展していたように見えるのは
単純に畿内に通じる主要な道の入り口付近に当たったからだろう。
117 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/01/24(火) 17:04:23
>>116 弥生時代に関東が後進地域に転落した原因はその理由の通りです。
しかし関東弥生末期(西日本古墳初期)に西日本人(主に尾張から)の相模武蔵進出(ヤマトタケル東征話等)がありました。
彼らが持ち込んだのは革新的水田農業技術です。
この技術によって米の増産が計れ経済規模が拡大し古墳時代に入れたのです。
魚粉屑や人糞による水田へのリン肥料の投入です。
火山灰地でも河川反乱のない低湿地があれば水稲耕作が可能になったのです。
このリン肥料によって水稲を飛躍的に増産できたのは、
東京湾を後背に持つ武蔵、鹿島灘と沼沢地(霞ヶ浦手賀沼現利根川下流域等)のある常陸、それに相模湾の相模です。
しかしながら毛野は谷中遊水地の様に豊富な魚資源のある沼沢地がありません。
戦後の燐安肥料普及まで、海の魚資源は人への淡白質供給のみならず水田へのリン肥料の供給元として非常に重要であったのだと思います。
>>117 そりゃ無理大杉の仮定だよ。
日本の最先進地(畿内)で人糞が肥料として用いられ始めたのが
やっと中世になってから。魚肥の普及に至っては近世後期になってから。
肥料と言っても単純な話では無いわけで、
人糞や家畜の糞でもそのままでは肥料にならず、そのまま撒けば有害だ。
寝かして十分醗酵させるというプロセスを経なければならない。
牧場にして放っておき家畜の糞が土に返るのを待つという方法ではなく、
人為的に糞を集めて発酵させる肥料が普及し始めたのは
世界的に見てもかなり後世になってからのこと。
魚肥に至ってはとった魚をそのまま食べるより
明らかにカロリー上も労力上も非効率なわけだから
漁獲法が長足の進歩を遂げてかなり大量の余剰が生まれない限り
決してあり得ない。魚網を使った大規模なイワシ漁法が生まれた
江戸時代になってからようやく肥料に回せる余裕が生まれたわけだ。
水田稲作の優秀さというのは、水を普通は川から常時引き込むので
流水が泥と一緒に肥料分を持ち込んで田に堆積するため
施肥せず連作してもそれなりに収穫が見込めるというところにある。
関東のリン酸欠乏の土地はこの利点を悉く帳消しにしてしまうので
古代の稲作にとっては本当に不毛の地だったんだよ。
仕方ないので焼畑で灰を肥料分として供給する畑地を開発する他は無かった。
古代の武蔵野が一面の茅野だったのは頻繁に火入れをしていたから。
草っ原じゃだめなの?草っ原がいいのにい
まあ古代から焼畑農業は日本でもあちこちで行われていたが、
奈良時代の段階で森林が回復せず一面の草原になるほど
火入れが頻繁に行われていたのは全国でも関東平野の特に武蔵野だけ。
中世末にはすっかり植生が貧弱になる畿内や西国の山々でさえ、
奈良時代には鬱蒼とした照葉樹を主体とする森林だった。
武蔵の在地権力を支えていたのは収奪的な焼畑畑作かもしれないね。
それでも生産性の点で東海以西とりわけ畿内には全く及ばなかったわけだが。
121 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/01/25(水) 22:35:05
>>118>>120 確かに
>>117は無理大杉。
人糞肥料は何時の時代からでしょうね。江戸期には既にありましたが。人糞発酵肥料も古くからあると思います。
発酵堆肥肥料は発酵食品と同じぐらいの歴史があると思いますから、人糞発酵肥料も同じくらいの歴史があるのでは?
子供の頃、田圃のあぜ道にあった人糞発酵用肥田子に落ちたことがありますが、よく発酵していたのでそれほど臭くはありませんでした。
江戸時代に肥料として良好な発酵状態かをみるのに味見した学者がいましたね。
網による漁業は何時の時代からかはよくわかりませんが、海洋民である弥生人の時代までは遡れるのではないでしょうか?
6世紀の武蔵が毛野を凌駕できたのは、毛野に優った経済的背景があったからでしょう。
それが何かはまだわかりませんが。
焼畑では武蔵と毛野に差は出来ません。
畿内のから照葉樹林が消えていったのは弥生時代末期から古墳時代です。
照葉樹林が松杉等のヤニの多い針葉樹林に変わりました。
聖徳太子について書かれた時代では、燃料木は既に煙のよく出る針葉樹林に変わっていることを示しています。
その時代には完全燃焼すれば煙の出ない照葉樹燃料木は既に針葉樹燃料木に変わっていたのでしょう。
7世紀の畿内や九州では照葉樹は里山には既に少なく奥山にしか生えていなかったのでしょう。
>>121 人糞肥料が普及したのは鎌倉時代からと言われる。
土地を休ませる必要が減って二毛作が始まった(畿内)のもこの時期だ。
そもそも人為的な施肥という概念そのものがかなり高度な農法概念なので
農耕文化が相当進歩しないと生まれてこないわけで。
畿内の森林資源の衰退は確かにもう少し早かったね。
中世末というのは畿内山林の禿山化の最終段階に近いわけで。
だが、武蔵野の草原化は奈良時代には歌に詠まれる通り
明らかに行き着くところまで行っていたので
全国的に見ても異様な植生衰退が起きていたんだよ。
毛野と武蔵の違いは可耕地面積の差に尽きるだろう。
特殊な集約農業である水田稲作を主体とする日本では
耕地面積の差より農地への労働力投入の差のほうが重要であると言われるが
粗放焼畑農業の場合、絶対的な可耕地面積は決定的な意味を持つ。
武蔵のあまりにも広大な台地は粗放農業には不可欠だったのだろう。
毛野は山がちで武蔵ほどの広大な可耕地面積は得られない。
123 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 23:24:41
古代関東では高級なヒエやアワは食ってないし、育たない。
やつらは万年、シジミを食って、牛馬の放牧をしていたのさ。
高句麗でしていたようにね。
ヒエやアワが高級〜?
125 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 23:36:57
126 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/01/26(木) 13:11:16
>>122 武蔵と毛野の差は可耕面積の差がひとつ。
もうひとつは海魚淡白供給量の差ですね。
どちらも、武蔵>毛野
下毛野の平野部は水が乏しいところが多いので(森林では保水できるが)、
平野面積差以上に可耕面積差が大きくなります。
それに対して武蔵の平野部は荒川流域から利根川西岸まで水が比較的豊富で殆ど可耕地。
127 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 21:48:38
なるほど、古代関東人は遊牧民族であった・・・
128 :
ぐんま:2006/01/28(土) 12:00:55
129 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 20:45:42
毎日、しじみ汁だったのね〜!! 貝塚ができるほど〜!!
関東には甘藷と南京豆があるからいいや。
130 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 20:55:29
もまいら、富士・浅間山を忘れていないか?
この活火山は戦国末期頃まで活発に噴火を繰り返していた。
ある意味、関東平野は富士山が吹き上げる火山灰が溜まってできた灰土平原
だぞ。亜硫酸ガスでも噴出せば、風にのって関東一円は死の荒野と化してい
た。
そんなところでのんびり農業や魚釣りやってる暇があるわけない。
131 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 20:58:06
>>129 甘藷は江戸時代〜
ピーナッツは戦後〜
関東にそもそも固有の農作物なんてありません。
ある意味じゃなくても、関東ローム層は富士山の火山灰ですが。
133 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 22:33:14
毎日シジミ汁を食いたい。
134 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/05(日) 01:25:11
>>129 >毎日、しじみ汁だったのね〜!! 貝塚ができるほど〜!!
それは武蔵南部の話だろう。
>>130 農業に火山の影響なんて10年20年、そんなにいつまでも重大な状況が続くものでない。
大正に噴火した桜島でも美味い大根ができるのだから。
火山灰の影響が続きやすいのは武蔵野のような水の少ないところ。
水の豊富な荒川流域の武蔵では問題なし。
大規模河川周辺で農業は無理だろうと小一時間(ry
136 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 01:44:25
今はアサリよりシジミは高い。
137 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/05(日) 02:36:30
>>135 それで坂東太郎利根川流域では農業の発達は難しかった。
温和な荒川流域では農業OK。
>>137 おいおい。一応関東について語るなら
関東の古地理についても勉強しておいてくれよ。
当時利根川と荒川は武蔵国北東部を数kmも離れず流れていて(古利根川、元荒川)
最終的には合流して(正確には乱流デルタ状態)東京湾に注いでいたんだが。
今の荒川流路には入間川が別の川として流れていた。
今の利根川中下流の流路には下野方面からの鬼怒川・小貝川だけが流れていて
霞ヶ浦の前身となる湾(香取海)に注いでいた。
139 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 09:33:23
毛野は毛人の野(土地)という意味で、もともとアイヌ(蝦夷:毛人)の土地と
いう意味だぞ。遊牧民系の渡来高句麗人はその後だろが。
140 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 10:02:48
>>130 鹿児島は桜島の西にあるから、季節風のおかげでそう被害がないだけ。東側
が海だからいいのだ。
富士山は休火山の今と違って、当時は毎日煙を上げていたんだよ。時々、大
噴火も起こして。それは富士だけではなく浅間や赤城もそう。活動期だった。
今のプレート型地震だけではなく、火山性地震ももっと多かったハズ。
また火山のタイプも異なり、富士山系の火山は86年11月の伊豆大島三原山
のように大爆発でなくとも有毒な硫化ガスを噴出させる事が多く、動植物
に致命的な打撃を与えます。
少なくとも、大根をのんびり植えてる時代ではないですね。
141 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 10:09:33
殺生石って、確か火山性ガスかなんかで人や獣を殺したんだったっけ?
あれは那須だったかな?
142 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/05(日) 14:33:59
>>138 縄文期や弥生期では同じ認識です。
古利根川については以前書いております。
関東平野中央部から東京湾にかけては、
河川流路が網の目のように変化する乱流デルタ地帯です。
現在の谷中湖のように遊水湖沼地帯が平野中央部南部全体に広がっていました。
武蔵が毛野を上回る経済力を持つようになったのは、
荒川が平野最西ルートを流れ入間川と合流する安定した河川ルートになったからでしょう。
>>140 6世紀迄の火山活動は全国的にみれば現在と変わるところはありません。
又、ある地方で致命的火山活動があっても、
火山活動が活発に継続するのは精々数年。
活発な活動収束後20年もたてば自然は回復します。
>>142 荒川を入間川に付け替えたのは1629年だよ。
はっきり記録が残っている。
台地を掘り割って流路そのものを変更する江戸時代らしい大規模工事。
放っておくと関東平野中央部に集中する水を四散させるという
徳川幕府初期の利根川・荒川・鬼怒川水系の大土木工事の一環。
144 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 15:57:48
>139禾(け=穀類)、または毛(稲毛の毛、稲穂や麦穂のトゲ)の野と教わりましたが???
毛=草じゃなかったっけ?
146 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/05(日) 19:46:09
>>143 現荒川を熊谷で和田吉野川に付け替え合流させ、入間川に合流しています。
大宮台地の西側を南下しています。
旧荒川は入間川と合流せず、大宮台地の東側を流れて東京湾に流れこんでいました。
以上確認訂正します。
4〜5世紀頃、利根川は行田付近で南下し旧荒川と網目の様に流れていたのが進路を変え、
現在のようにそのまま東進するようになったのではと思います。
その為谷中湖近辺の遊水地が発達し、渡良瀬川流域で発展した毛野は相対的に衰え、
利根川が南下しなくなり、荒川流域だけになった武蔵は発展できたのでしょう。
又、荒川だけとなった武蔵は東京湾との水運を発展することもできるようになったのでしょう。
147 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 19:52:59
大宮台地は僻地
氷川社家も新興勢力
大宮東バレー負けたか
大宮商も負けたか
毛人がアイヌなら、越の人はどよ。
>>146 今度は1641年の利根川赤堀掘削を否定する気か?
利根川が銚子に向かうようになったのは1641年のことで
さらにそれ以前に前提として渡良瀬川水系と利根川水系を北側で結ぶ工事が
1590年代に行われている。いずれも徳川家康江戸入城後の話。
利根川、荒川、渡良瀬川水系が全部大宮台地の東側を通って東京湾に注いでいなかったら
中心が激しく褶曲沈降する関東平野において河川が埋め立てる土砂が足りず
東京湾は現在でも春日部付近まで入り込んでいただろうよ。
この辺りはものすごく沖積層の厚い陥没した湿地帯で相互往来が非常に難しく
今でも木曽三川デルタ地帯や親不知に匹敵する方言上の決定的な境界線となっている。
150 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/05(日) 20:54:20
151 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 21:09:22
古利根川は中川だべ
152 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 21:45:21
毛人=蝦夷ですな。
153 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/05(日) 21:57:12
古利根川は何本もある。
中川もそのうちの1本。
154 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 21:04:46
古代関東は、アイヌ達を高句麗の騎馬軍団達が荒らしまわっていたんだろうね。
古代騎馬民族は関東へ送り込まれた渡来人だったに違いない。
草の生える程度の灰土平原なら遊牧に最適。彼らは馬や山羊の肉も食ってたん
だろう。そして後世、"チョン"髷を結う武士へと変貌していったのだろう。
155 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/08(水) 19:53:56
関東平野に牧畜のできる灰土平原はありません。
平野の中央低地部は湖沼の点在する広大な遊水地。
平野周辺部は土地が凸凹の水のない潅木地帯。
耕作適地は渡良瀬川と荒川上中流の流域のみ。那珂川下流域も。
156 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 20:04:59
馬の産地ではある。「馬」が付く地名は多いぞ。
将門の大結馬牧、長洲馬牧
159 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/11(土) 18:08:55
将門の時代は新しすぎる。
舞台は4〜6世紀です。
関東平野で馬を本格的に生産するのは7世紀後半白村江敗戦以降でしょう。
160 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 19:26:59
4〜6世紀? 紀元前から関東に馬はいたが?
161 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/11(土) 22:31:37
>>160 馬は紀元前からいたでしょう。
日本での馬の本格的生産は、
白村江敗戦後の対唐戦に備えた、
軍備力強化の時からでしょう。
生き物としての馬そのものは、確かにいたやな。
問題はそれを軍用として飼い慣らしていたかどうかと、
その規模、って話だろ?
>>161 日本での、ではなくて「関東地方での」という条件で書かないと、このスレ的には無意味。
できれば鐙や鞍なんかの発掘実績込みで頼む
163 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/22(水) 14:41:18
>>162 発掘実績から説明することは難しいことですね。
旧入間川流域の古墳群出土品から見て、
武蔵への軍用馬の導入は西日本に遅れることなく4世紀末から5世紀初頭頃でしょう。
西方より古墳文化を持った人々が武蔵に移住したときに軍用馬としてつれてきたのでしょう。
又この馬を使った軍事力が毛野を圧倒していった大きな要因(東京湾からの魚介淡白質供給同様)となったのでしょう。
又5世紀中頃には、群馬県白井遺跡群に馬の多量のヒズメの跡が残っていました。
これは武蔵が上毛野を支配した時期です。榛名山の噴火で上毛野が弱体化した時期でもあります。
だからと言って軍用馬の生産を大規模したとはいえません。
埼玉県大宮台地等に残るオオマキ等の馬に関わる地名からみて、
軍用馬の本格的生産は白村江敗戦後の天武期(全国一斉)からでしょう。
馬の生産には塩が必要不可欠で重要ですから、
東京湾から馬飼育用塩の調達が出来ない上下毛野が、
武蔵に先駆けて馬の生産をすることはありえません。
164 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 20:41:04
軍用ではなく騎馬民族の高句麗がそのまま渡来しただけ。関東は遊牧だよ。遊牧。
165 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/22(水) 22:42:59
関東平野には遊牧できる環境スペースがない。
高句麗は騎馬文化も持ち込んだであろうが、
定住生活であった。
蛇足:高麗=駒と思います。 高句麗=高駒麗
>>164 ところで、高句麗の武蔵入植はいつ頃とみますか?
166 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 00:16:38
167 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/23(木) 01:51:56
>>166 話はずれていません。
>>164 高句麗人の武蔵入植は8世紀初頭です。
高句麗人の関東平野への進出は早くても668年以降です。
高句麗人が難民として日本へ来た頃、日本では牧による軍用馬の本格生産が始まったのです。
高麗神社は出世守護と見せかけて実はかの法則発動体のようだね。
若槻首相にしてもライオン宰相にしても人気は高かったが
経済政策も明らかに間違っていたし最期も悲惨だ。
首相に参拝してもらっては本当に困る神社かもw
それはさておき、縄文中期の関東縄文文化を支えたのは
カシ類(おそらくシラカシ)の大森林のどんぐりだったのだが、
それが奈良時代には武蔵野の風物詩とは「見渡す限りの大草原」に大変貌している。
気候は少々寒冷化しただけで森林が消失するほどの乾燥化が進んだことはあり得ないので
人為による強力な森林劣化と植生改変の結果であることは明らかだ。
九州王朝大好き氏はこの理由を牧畜(牧場)と焼畑畑作農業の
どちらに起因するとお考えかな?
どちらと見るかによって上代武蔵国の経済構造はかなり異なるものになる。
169 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/23(木) 16:42:22
>>168 660年代からの馬牧畜によるローム層台地の森林荒廃ですね。
660年代よりの「牧」政策により、その牧畜の担い手は牧畜技術を持った難民高句麗人でしょう。
8世紀に入り国内情勢も安定し軍用馬の必要性も少なくなり、又、関東原住民と高句麗人との軋轢も起き、
武蔵を中心とした関東ローム層台地に散らばっていた高句麗人を高麗川流域に集め、
定住化させ、馬牧畜から水稲作等の農業へと高句麗人の生業を転化したのでしょう。
西日本の農耕牛に対して、東日本の農耕馬はこの時代の高句麗人による起源となるのでは。
170 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/24(金) 01:04:33
>>168 武蔵(大宮台地)は8世紀になると蝦夷制圧の為の軍馬生産の拠点となったようです。
武蔵野の風物詩としての「見渡す限りの大草原」とは、大宮台地ではないでしょうか。
大宮台地ってどの辺のことですか?
172 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/24(金) 09:37:48
>>171 現荒川と元荒川に挟まれた地域。
さいたま市の市域に概ね相当。
浦和区、緑区、中央区、大宮区、北区の地域。
【大宮台地】
武蔵の武士団発生地から外れてる、いわば武蔵国の辺境が足立郡。
足立氏本拠地は桶川説と大宮説。
与野本町、南与野、中浦和あたりで坂があるから
あの辺りが大宮台地の切れ端か。
大宮だと埼玉栄の西側の坂。
45万部のベストセラー『嫌韓流』の第2弾
『嫌韓流2』発売中
駄作か傑作かは、買って自分で確かめよう
175 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/25(土) 14:07:10
>>171 大宮台地の追加説明
大宮台地飛地:川口北部の東北自動車道沿い北は埼玉スタジアム近辺までの細長い地域。
両台地中央部の見沼と見沼用水の低地は、古荒川古利根川によって、大宮台地が侵食されたものです。
現在の大宮台地は、ひとつ河岸段丘であった古大宮台地が見沼低地によって東西に分断されたものです。
中央に水の豊富な低湿地(見沼)を挟んだ2つの大宮台地は馬の放牧には最適地だったのではないでしょうか。
現在の武蔵野の地域(東京都・埼玉県南端)は馬放牧をするには水が貧弱で大宮台地に劣る。
【大宮台地】
埼大道りを北浦和方面へ向かうと、17号線を越えたあたりから上り坂になる。
旧ロジャースのあたり。
大宮台地は水利に乏しく畑作中心。
県南は江戸時代まで埼玉の後進地帯。
県北西部は平安から戦国に至るまで勇猛な武人を多数輩出。
177 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/02(木) 00:50:12
>>176 あの坂は大宮台地西端の断層の東面にできた坂だよ。
178 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 23:18:03
毛野の国は大きかったらしいね
でも獲加多支鹵大王は雄略だよ
斯鬼=磯城だし
179 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/03(金) 01:18:59
でも、武蔵との争いに敗れました。
180 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/03(金) 01:25:44
>>178 獲加多支鹵大王は九州王朝の7人の弟大王の1人です。
>>169 俺とは意見が違うようだなあ。まあ地層中の花粉を調べれば解決することだが
俺は武蔵野の草原化はもっと古くから起こったんだろうと思っている。
関東平野(武蔵野)に最初に入植した弥生人は出雲系だったことはほぼ明らかなんだが、
出雲系は北方アジア的な雑穀農業系文化に馴染みが深い。
だとすれば、初歩的稲作のための水利としては条件が非常に悪い関東平野では、
北方アジアと同じように森を焼畑で開いて粗放的な畑作を始めたことは想像に難く無い。
縄文人は縄文後期から晩期に関東平野では人口崩壊を起こしているので
大した軋轢無く出雲系弥生人は森を切り開いてしまっただろう。
関東平野は満州ほど広くないのでw
あっと言う間に森を切り尽して見渡す限りの草原にしてしまった。
武蔵の在地権力が強かったと言っても数百年の短い期間で永続的とはいえず
しかも主要な根拠地が「広大な」武蔵国を短期間に北へ南へと大きく移動するのは
粗放農業のため地味の低下が激しく移動または興亡(勢力交代)を
余儀なくされたからだと思われる。
182 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/03(金) 02:59:17
出雲人の関東入植は大国主の国譲り以降なのだけれど、
そんな彼らが焼畑粗放農業とは?
>>182 粗放というのは驚異的な集約農業である水田稲作と比較して粗放だということだよ。
焼畑粗放農業自体は、朝鮮半島などでは19世紀までごく当たり前だったわけで
上代の日本では全く驚くようなことではないよ。
日本の稲作文化はかなり長期に渡って複数文化の渡来と内在的発展を繰り返した
重層的なもので、弥生時代に完成品が一層で渡ったものではないと考えている。
弥生早期に朝鮮経由で伝わったらしい水田稲作は後世の日本式稲作の一部要素でしかない。
これは北アジア的畑作雑穀農耕と深い関係があったらしく、
水田稲作技術とセットで畑作技術も携えていたことは確実だ。
彼らが関東平野に入り、手の施しようがない大河川の氾濫原・大湿地と
火山灰土で生産性が絶望的に低い谷地、そして広大な台地を見た時、
手持ちのツールの中から「畑作雑穀農業」を選択して
台地の焼畑化を進めることにしたことはごく自然なことだと思うけど。
184 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/03(金) 03:30:34
出雲人は関東入植後、常陸の国鬼怒川下流域では水稲定住農業をしていた様に見えるが。
>>184 そりゃ出来るところでは水田をひらくだろうよ。稲作は収量が多く魅力的だからね。
だが、それでは足りず、または東日本太平洋側特有の冷害被害などもあるわけで
粗放的畑作をメーンに据える方が、当時の関東平野とりわけ武蔵国では
自然条件と入植者の農法ツールから見て有利だったということだろう。
武蔵>毛野、常陸となった理由はこの状況を前提とした場合の総体的生産力が、
台地が多い武蔵が圧倒的有利だったということによるのだろう。
だがそれは徹底した森林破壊と度重なる勢力興亡という副作用を生み、
もちろん畿内政権の国力には全く歯が立たなかった。
出雲人の関東入植がガセだろう
187 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/04(土) 01:48:58
>>186 関東平野の神社の祭神を調べれば。
>>185 貧栄養土壌で水の無い台地部では澱粉質穀類芋類の生産は無理。
澱粉質を含まない低カロリーの野菜しか育たない。
台地部の焼畑で育てられる澱粉質は精々麦類、それも極端な低収量。
火山灰土の少ない地域でしか澱粉質穀類芋類は収穫できない。
もし日本の古代に薩摩芋やじゃが芋があれば歴史は全く異なっていたと思う。
>>187 焼畑なら森林土壌が蓄えていたリン酸がまだ残っているから
開墾して数年の間なら蕎麦や雑穀程度なら何とかなるわけで。
収穫量が落ちてきたらまた他の森を切り開くことになる。
谷地での稲作はこうはいかないのは、
水田稲作は粗放的にどうしても出来ないという事情があるから。
葦原を焼き払ってもその直後に播種できるわけじゃない。
まず水田に水を張るための水利をきっちり確立しなければならないからね。
それだけの時間と労働力投入が必要なのに、
数年内にすぐにリン酸不足になって小水田は使い物にならなくなる。
【大宮台地】
他地域でも無理だし、稲作は無理。
大規模河川周辺で農業開発は近世以降。
江戸時代でも大宮台地の村々は畑作農家多し。
武的要素は埼玉の他地域よりも薄い。特に浦和は。
190 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/04(土) 11:08:03
焼畑はカルシウムのイオン化作業。
カルシウムイオンで酸性土壌を中性化するのが目的。
耕作により土壌が再酸性化すれば土地の放棄。これが焼畑農業。
水稲は比較的酸性土壌環境でも生育するので焼畑作業の必要性なし。
燐酸は森林を焼いても土壌に補給されない。
木は殆ど燐酸を含有していないから。
燐酸の土壌への補給は、動物の糞尿死体と上流から河川水。
原生林大宮台地への燐補給は鳥の糞と小動物。
非人為的な燐の再生は不可能。
>>190 いやいや、リン酸が再生不能だからこそ「1回限り」になったわけで
それで武蔵野の森林破壊が加速度的に進んだのジャマイカ。
焼畑の肥料的意義は基本的に草木灰供給によるカリウム分の補給だよ。
窒素とリン酸は既存の森林土壌からそのまま受け取ることになる。
火で燃やすというのは木材を使うという目的が無い限り
古代においては最も効率的に森林を切り開く方法なので
肥料補給だけの問題でもないけどね。
192 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/04(土) 17:44:51
>>191 栄養学的にはカリウムの補給には異存なし。
焼畑の最大の目的は酸性土壌の中性化です。
酸性土壌では多くの農産物が育たないし育っても収量は少ない。
日本では土壌の酸性化を防止する為に、雑穀畑作農業においても集約農業にならざるをえなかったのです。
縄文期の西日本の人口過疎は雑穀畑作集約農業技術がまだなかったからと思います。
酸性土壌の日本だからこそ水稲が急速に普及したのです。
本題に戻って、8世紀の武蔵野の草原化は焼畑農業によるものでないでしょう。
仮に一度草原化しても、50年も経てば森林は回復し始めますから。
193 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/04(土) 18:15:04
>>191 参考:
日本の弥生時代の始まりは水稲を含めた穀類集約農業技術が入ってきた頃(縄文末期〜晩期)ではないかと思います。
縄文文化の発展した平野地域は、酸性土壌の火山岩地帯ではなく、中性土壌の水成岩地帯であることが関連していると思います。
中国春秋時代に、大陸中部から水稲集約農業技術が、大陸北部から雑穀集約農業技術が前後して日本に入ってきたのではと思います。
>>193 ん?縄文文化の発達した地域は火山灰地が中心だよ。
関東平野、中部山岳(八ヶ岳山麓)、熊本平野などなど。
縄文末に朝鮮経由で九州に渡来した北方系の稲作+畑作の農耕文化を
粗放というか集約というかは程度の問題なのかもしれないけどね。
田植え法、稲作儀礼、餅食、稲藁文化、庭での多様な植物栽培といった
複雑な日本式稲作文化体系はもっと複雑な受容と発展の後に
完全な形としては中世頃確立したものと思われる。
要素渡来は弥生早期ではなくもっと前のものともっと後のものがあったようで
長く見る必要があるように思うよ。弥生時代の中国からの渡来は疑問視している。
ともかく、
武蔵野の草原化のとどめを刺したのが牧場政策だったことは俺も否定しないよ。
切り開かれて疲弊した土地がこれ幸いと牧場に利用され草原化は完成したんだろう。
下草がほとんど生えない照葉樹林をいきなり牧場化するということは
あまりにも考えづらい。
195 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/04(土) 23:30:45
「縄文文化の発展した平野地域」とは、人口の多い、
福井、青森のような巨大遺蹟を残す権力があった地域を意味して書いたつもりでした。
多数の人口を抱えていない縄文集落のことではありません。
196 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/14(火) 16:36:29
>>194 疑念について説明します。
>下草がほとんど生えない照葉樹林をいきなり牧場化するということはあまりにも考えづらい。
牧草地に作るにも土壌の中性化を図り、
牧草が良く生えるようにしなければなりません。
樹林を焼くことにより牧草を生育しやすくするのです。
樹林を伐採して牧草地化するのではありません。
ですから樹林を焼けば、
翌年から樹林の牧草地化が、特別の手を加えることもなく始まります。
(牧草の種付けは自然に任せるか人為によるかの差はありますが。)
既に牧草地であっても、新芽の芽吹き始める前の2月頃に野焼きをし、
その年の牧草の生育を促します。
>>187 もともとの武蔵国造は阿倍姓
出雲系を称したのはあと
198 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 22:38:10
今月のムーに
関東の大王が藤原京を手本に大里京を作ったっていう
話が載っていたけど
あれってトンデモ説?
199 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/14(火) 23:51:11
>>197 関東の出雲系は、出雲の国譲りで東方に逃げだした難民の一派である外来者。
関東で出雲系と名乗るには相当実力を蓄えてからでないと関東内では不利。
武蔵が九州王朝の一つの大王国(夷)となれば出雲系と名乗るメリットがある。
九州王朝内大王国順位は@筑紫A出雲B肥C浪速D越?E尾張?F夷であり、
武蔵が九州王朝大王国となった頃には実力No1大王国は肥であったから。
継体が九州王朝実力者の応神五世の孫と言って虚勢を張ったのと同様。
>>198 トンデモ説かどうかは知りません。
検証に値するものかもしれません。
今月のムーはまだ読んでいないのですが、
条里制を示すものが発掘されたのですか?
仮に手本から大里京を作ったのであれば、
その手本は倭京(大宰府)でしょう。
藤原京の手本も倭京です。
浪速(大阪)では第一次浪速京があります。
あと、尾張(美濃)・出雲・越(福井)にも京址が発見される可能性があります。
倭京が「大宰府」であるのに対し、第一次浪速京や大里京は「宰府」の位置づけになるのでしょう。
ただし、平城京は倭京を凌ぐものとして建設されたものでしょう。
阿倍(稲荷山鉄剣)⇒出雲(旧事紀)⇒物部(氷川)
201 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/16(木) 03:01:56
>>200 >阿倍(稲荷山鉄剣)⇒出雲(旧事紀)⇒物部(氷川)
夷(関東)大王国(武蔵)の支配者が、安部→出雲→物部と変わっていっただけですね。
これは畿内朝廷の見方か九州王朝の見方によるかによって変わっているだけかもしれません。
たとえば、7世紀(九州王朝の認識・毛野半島派兵)では関東大王国の中心が武蔵でなく毛野になっています。
これは現在の下総と呼ばれる地域の北部が8世紀(畿内朝廷の認識・常陸国風土記)では常陸に含まれていたように、
7世紀での武蔵北部地域は毛野に含まれていたと考えられます。
8世紀(畿内朝廷の認識)では武蔵北部地域は毛野ではなく武蔵になっています。
さきたま古墳群のある現在の行田市の地域が時代によって毛野か武蔵であるかの決定をしなければならないでしょう。
僕の認識では、行田市の地域は7世紀までは毛野で、8世紀からは武蔵です。
氷川神社のあるさいたま市の地域は変わりなく武蔵でしょう。
もうひとつ注意すべきは出雲系の分布が、関東平野南部低地部から常陸方面であることです。
結論は場所の移動による変化
阿倍(稲荷山鉄剣):毛野南部(武蔵北端) ⇒ 出雲(旧事紀):武蔵中部低地部 ⇒ 物部(氷川):武蔵中部低地部
202 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 19:32:01
ムーを買ってみた
埼玉県北部、旧大里町に大里京はあったと著者は推論している
国宝「延喜式」の「紙背文書」の裏側に記された大里郡坪付によると
大里条里は南北9条東西10条に渡り存在したという。
これは大里町を中心に熊谷市や行田市に跨る条里遺構に該当すると言う
大里を内裏と推定したり宮郭という地名からそこに宮殿があったなど
かなり強引なこじつけが多いことから作者の妄想ともとれるが
下田町遺跡からは掘建て式の小屋郡に混じり大型の建築物の遺構が見つかり
溝や建物が東西南北の四方に向け整然と方向つけられていることから
ここに豪族当たりの館と集落ががあったことは確かなようだ
203 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/17(金) 04:47:43
大里京存在の可能性は否定できませんね。
元荒川と和田吉野川に挟まれた水利(井戸)の良い台地地域ですから。
残念なことに江戸初期の荒川付け替え工事で、
条里制が残っていたかも知れない地域の真ん中が破壊されていることです。
又、宮址部分が完全に破壊されていると思われることです。
著者の論より西よりに大里京があれば、条里の東部分が破壊されているだけで、
宮址はそっくり地下に眠っていると期待したいです。
条里制の痕跡が残っていないかと衛星写真で調べようとしましたが、
丁度この地域の解像度が悪く調べられませんでした。
下田町遺蹟の上にできた工場は解像度の高い部分の北端にばっちり写っていたのですが。
下田町遺蹟を発掘している頃、仕事で行田駅を降りたことがあるのですが、
その時知っていれば下田町遺蹟や大里町の方面に足をのばしたのに。
204 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 18:27:14
いや、関西だろ
205 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/04/20(木) 21:43:46
>>201の補足
毛野と武蔵の境界の変更
行田市〜熊谷市〜大里郡の地域が毛野国から武蔵国に編入されたのは、
武蔵国が秩父国を含む21郡に編成された717年です。
九州王朝大好き氏は、さいたま市民?
207 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 16:15:21
確か、奈良県のご出身だったような
208 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/04/22(土) 16:59:26
鹿児島生まれの奈良出身です。
学校は奈良神戸東京でした。
子供の頃は天皇御陵に入って遊んだこともありました。(戦後は入れた時期がある)
仕事の出張の折には足を延ばして、鹿児島から北海道まで現地調査で回ってきました。
今は阪神間に住んでいます。
209 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 22:16:47
ホロン部って頭のいい人いなさそうだね
九州王朝大好きは、さいたーまの地形に詳しいですな
212 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/04/23(日) 12:21:33
>>209 怪しげな説なら下記のほうがましじゃないかな?
武蔵←ムサシ←ムサシモ←ムサ下←ムサ
相模←サガミ←ムサカミ←ムサ上←ムサ
常陸←ヒタチ←ヒタシモ←ヒタ下←ヒタ
日高←ヒタカ←ヒタカミ←ヒタ上←ヒタ
>>210 「ホロン部」とは何ですか?
>>211 関東には住んでいたましたし、四十数年前から最近まで、
休日には関東平野のあちこちに車でドライブやオートバイでツーリングをしていました。
213 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 13:22:38
そろそろ大好きさんの著作出版に期待していいですか?
>>212 >「ホロン部」とは何ですか?
日本人に対して、「韓国人・朝鮮人・韓国・北朝鮮は優越である」という
メッセージを発信している人達。また、在日韓国人・朝鮮人の擁護レスを
組織的に書き込んでいる人達。日本語に難有りなケースも見受けられる。
又、日本及び日本人に関する全ての事象のルーツを朝鮮半島に求める変てこ
な理論の普及・啓蒙活動も精力的に行っている。
以下、コピペ
>ホロン部 【名・形】
>
>一定時間帯(主に夕方)になると一斉に擁韓・媚韓レスを付ける在日工作員
>および電波レスをする人のこと。
>書き込みが可能な時間が決まっているのか、ある時間になると一斉にレスを
>しなくなることから、 半島系学校のクラブ活動ではないかと噂されている。
>ある時そういう電波の一人が、日本語で「日本は滅ぶ」と書こうとしたとこ
>ろ、 「日本はホロン部」とミスったままレスをしてしまったために、「ホ
>ロン部」と呼ぶようになった。
>
>用例:
>「〜はホロン部」
>「はいはい、ホロン部ホロン部」
>
>別形態として
>「気味タッチ部」「heppy部」等が確認されている。
>
>最近のホロン部の傾向は
>・僕は〜人(日本だったり、海外在住のとかいったり)
>・直接罵るのではなく、印象操作を試みる
>というのがあるな。
>でもやり方が稚拙で、何の効果も上げられていない。
>>209みたいな電波は、ある意味、ホロン部wの限界を示しているな。
日本語のある単語の語源が朝鮮語だと主張するなら、その朝鮮語の
語源は何なのかまで示すべきなのに、それをしないし、出来ない。
まさか、彼等は朝鮮半島こそが人類発祥の地だとでも思っているのか!?
人類の全ての文化は朝鮮半島発祥とでも言うのか!?
天動説もいい加減にして欲しいもんだ。
>>212 その怪しげな説だと疑問が生じる。
何故武蔵の古語である「无邪志」に「下」の字が入ってないのか?
という疑問。怪しげな説に従うのなら、「无邪下」となるのでは?
また、ムサシモ→ムサシと変化したなら、何故ヒタシモ→ヒタシでは
ないのか?等々。
まだモサシ→无邪志→(多支鹵→武・ニ文字化政策)→武蔵の説のほうが
解かり易い。
217 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/04/23(日) 23:52:46
>>216 武蔵←无邪志←ムサシ←ムサシモ←ムサ下←ムサ 語尾消え
常陸←ヒタチ←ヒタシ←ヒタシモ←ヒタ下←ヒタ 語尾消え発音し易く
こんなんでどうでっしゃろか?
>>217 では、无邪志の古語である身刺は何と説明するの?
どっちにしても、「下」という字が当てられてないわけだけど・・・。
賀茂真淵の上下説は同じ語から発すると推測した地名が結果的に、
「武蔵」「相模」と全く別の漢字が当てられているという事実を
無視しているように思えて仕方ない。
>>218 別漢字はその通り。
勝手な想像だが、
武蔵←无邪志←身刺←mssaシ←mssaシモ←mssa下←mssa
相模←saガミ←mssaカミ←mssa上←mssa
とも考えられる。
西日本的発音であれば、musaかmisaになり、mssaは無い。
武蔵←无邪志←mssaシ←mssaシモ←mssa下←mssa
武蔵←身刺←mssaシ←mssaシモ←mssa下←mssa
では、九州王朝大好き氏に訊きたいけど、上毛・下毛にはちゃんと上下の
漢字が当てられていることをどう思う?
また、上毛・下毛は最初に上下が付いてる。つまり、上(下)+毛(野?)
だよね。
なのに、
>>212>>217>>219-220の例はムサ+上(下)というように、
後に上下が付く。隣接している地域なのに、何故、上下の付き方が違うのか?
日本語の構成としては、方角や位置は名前の前に来るのが普通じゃないかな?
遠い江→遠江とか、近い江→近江みたいに。或いは、現在の地名でも、
下高井戸とか、北鎌倉とか。だから、上毛・下毛はスンナリ納得出来るけど、
「ムサの下」というのは変だと思わない?
上毛・下毛・上総・下総しかり。
しかしこれは8世紀畿内天皇朝廷になってからの分割命名です。
7世紀までは「ケヌ」「フサ」で上下に未分割。
「相模」「武蔵」と「常陸」「日高」に分かれたのは、
5世紀以前と古いとも考えられる。
もうひとつ奇妙なことは、
武蔵・相模は西南が「上」で東北が「下」とケヌ・フサと同じ、
一方日高・常陸は東北が「上」で西南が「下」である。
矛盾だらけです。
なお「日高」は茨城県北部から福島県南西部ですが、
仙台平野を中心地とした「日高見国」(8世紀迄)と関係があるのでは???
日高見←ヒダカミ←ヒタカミ←ヒタ上????
想像だけが膨らみます。
う〜む、大好きさんがこれほど古代関東マニアだとは!
224 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/04/25(火) 12:33:03
興味が湧いたところはどこでもマニアです。
奈良出身で、郷土史マニアになれないので。
>>224 何故?
やはり、奈良はいろいろと面倒臭い部分があるのですか?
226 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 22:06:38
>大好きさん
好人物
>性牛くん
変態
>>222 >7世紀までは「ケヌ」「フサ」で上下に未分割。
いや、「フサ」については知らないけど、毛野は5世紀に分かれたはず。
>武蔵・相模は西南が「上」で東北が「下」とケヌ・フサと同じ、
>一方日高・常陸は東北が「上」で西南が「下」である。
その「あやしい説」の上下は、もしかしたら方向を表している
わけではないのかもね。
こうは考えられないかな?上毛・下毛の上下は方向を表しているので
語頭に来るけど、「ムサ」&「ヒタ」の上下は方向以外の意味で使われて
いるので語頭に来ない。
それだったら、武蔵・相模と日高・常陸の上下の位置が違うのも理解出来る。
ただやはり、「あやしい説」はちょっと強引な説であると思う。
>>219>>220 昔の方言の音韻は現代語の感覚で考えてはいけないという問題があるからねえ。
ズーズー弁は縄文語の名残だなどというどうしようもない電波説があるが、
ズーズー弁は16世紀末には存在しなかったらしいことが
ポルトガル宣教師文献や数少ない日本語の音韻文献などから伺える。
関東方言の母音の弱さはこの16世紀末のポルトガル語文献にも記されているので
ズーズー弁よりは歴史が古いだろうが、どこまで遡れるかは分からない。
奈良時代の東歌の万葉仮名表記には母音脱落の痕跡は見られない。
九州王朝説によって北部九州で歌われたと説明される記紀の古歌は
今の関西弁以上に明瞭な開音節の母音中心言語であったことが明らかで
これは今の福岡県博多以西の方言の特徴とは似ても似つかない。
229 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/04/26(水) 16:03:30
>>227 ケヌの上下分けの時期については簡潔に説明できるまで待って下さい。
>上毛・下毛の上下は方向を表しているので語頭に来るけど、
>「ムサ」&「ヒタ」の上下は方向以外の意味で使われているので語頭に来ない。
同意。
前後の方向性は畿内からを示していますが、
上下の方向性は何処からを示しているのでしょうね?
否定できる明確な根拠がないので、今後の宿題でもあり、あやしい説です。
>>228 毛野の現地古音「ケヌ」
ケヌ←ken(n音が非鼻音)
ケノ←ken(n音が非鼻音)
「ケノ」「ケヌ」「キヌ」は、「kn」を曖昧母音付きで発音したのではないでしょうか。
万葉仮名は西方文化だから東歌といえども西方言語で歌われたと思いますよ。
万葉仮名は現在の標準語で発音する以上に関西弁的発音がしっくりするのです。
標準語で発音すると違和感を覚えるのです。
西方言語(万葉言語)は九州王朝言語であり現在の関西弁に近いものと思います。
関西弁は、開音節というよりも標準語やその他の方言に比べて
語尾の母音をはっきり発音するのがひとつの特徴です。
又、韓国の慶州方言と関西弁が似た感じであることもひっかります。
同じマクドナルドの略し方でも、関東ではマック。関西ではマクドぉ。
現代でも母音の違いがハッキリしている。
昔なら尚更だろうね。
>>229 上代平城京方言がアクセント面では平安末の京都方言とほとんど変わらず、
これが現代畿内方言にかなり保守的にひきつがれていることには全く同意しますが
私が主張したいのは、この万葉語と同じ音韻特徴を持つ記紀の古歌謡が
今や関西弁とは似ても似つかない音韻特徴の方言を持つ北部九州で
歌われていたらしい(九州王朝説)ということ。
これは現代の方言差を古代へ不用意に敷衍させてはいけないことを
雄弁に物語ります。例えば古代大宰府の方言は現在の「ちっごべん」とは
似ても似つかない明瞭な開音節言語だった。
同様に、今の関東方言の特徴を古代へ不用意に敷衍させてはいけないのです。
東歌に残る古代東国方言は、音韻上は畿内と同じく母音の甲乙を使い分けており
その上で「ふろよき(降る雪)」「にの(布)」のような「訛り」が記述されている。
つまりこれは当時の東国方言の音韻をかなり正確に音写したことを示唆します。
しかも畿内語から見て奇妙な字足らず・字余りは存在しない。
ということは音節構造も畿内語とほとんど変わらなかったらしいということです。
もし母音の脱落や閉音節が頻発していれば、現地音の音節のカウントがずれてしまい
畿内語の万葉仮名読みから見て奇妙な字足らず・字余りが頻発するはずなのです。
231の続きなんだけど、
朝鮮語のアクセントと日本語のそれは「他人の空似」の域を出ませんよ。
今では南東部と北東部の一部にしか残っていない
朝鮮語のアクセント体系は「上がり目」をメルクマールとするもので
東京式の丁度逆。システムが京阪式とは全然違う。
しかも対応するとされる単語の間にもアクセントの対応関係が無い。
日本語の古アクセントについては、対応するとされる他の言語としては
オーストロネシア語族のタガログ語のアクセントと
初拍に限っては偶然以上の一致を示すようですが。
初拍アクセントの重要さについては
京阪式アクセント体系をご存知の方ならすぐ分かると思います。
233 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/04/27(木) 21:17:00
>>231 現代の方言差を古代へ不用意に敷衍させてはいけないことには同意します。
しかし日本語は歴史的に開音節言語であり続け、
方言においても閉音節言語であったことはありません。
万葉歌謡においても、方言が開音節であるかぎり単語の音節数が同じであれば、
字余り現象は起き得ません。
時代地域によって母音の強弱があるだけです。
現代語の「〜です。」の例をとれば、
関西語:〜desu 〜デスゥ
標準語:〜des
標準語ではs音につながる母音が弱くて曖昧で、
語尾音は閉音節言語のように聞こえる弱い母音。
>>230の例では
関西語:マクドォ マックゥ
標準語:マクド マック(語尾音は閉音節言語のように聞こえる弱い母音)
語尾母音を強く発音したり弱く発音すると
マックゥやマクドでは発音しにくくなりますね。
関西では「マクドォ」と発音しても「マクド」と書きます。
開音節言語であるかぎり古代方言は万葉仮名で書けたのです。
慶州方言(慶州南道)については朝鮮語について論じているのではありません。
関西語の様に語尾母音を強く発音することに注目しているのです。
234 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/04/27(木) 21:28:59
>>233 関西語式の高低アクセントでないと語尾母音を強く発音しにくいです。
マクド
低高低
/\
>>233 鹿児島方言が余りにも有名ですが、それ以外にも豊前豊後を除く
九州の大部分の方言はすでに「閉音節」と言ってもよい状況ですよ。
薩摩弁の「くぎ」は「クッ」で1音節の閉音節です。
東京方言などについても「です」を[desu゚](最後の記号は無声化音)ではなく
[des]と発音するとするならすでにこれは「閉音節」となっているということ。
関西の場合無声化は確かに少ないのですが、語尾は実は結構飲み込む要素が強く、
「のや」→「ねん」のように撥音になったり、「おます」→「おまっ」のように
声門閉鎖音を使って正真正銘の閉音節が出現していたりします。
「ねん」はモーラは2つですがシラビーム単位では全くの1音閉音節です。
「です」を「ですぅ」と文字通りの発音をするのは
これが関西弁にとって東京からの外来語だから。
「よそ行き語」で「こなれていない」ので「*でっ」にはならない。
近年では「〜でっせ」「〜でっか」までは「こなれつつ」ありますが。
それに、東京の「マック」の「ク」はあまり無声化しません。
「撒く」の「く」はほとんど母音脱落で[mak]に近づきますが、
「マック」は促音が逆に最終音節の母音発音を丁寧にさせる働きをします。
236 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/04/28(金) 16:06:20
>>235 鹿児島方言は江戸時代に江戸幕府からの閉鎖性を作る為に、
人為的に変えられた言葉として閉音節が多くなったのでしょう。
「九州の大部分の方言はすでに「閉音節」と言ってもよい状況」とはよく知りませんでした。
畿内朝廷と関係の深い豊を除く九州の全ての地域で閉音節化をしているのは興味深いことです。
8世紀初頭に畿内朝廷による九州王朝派狩が行われました。
その時畿内の追手から逃れる為に非九州王朝語化した結果閉音節化したのではないか、と想像を広げてしまいます
又、8世紀以降も畿内朝廷に抵抗し続けた肥の人達、
特に肥後人の特別な関西弁嫌いはその反畿内の影響ではないかと思われます。
豊を除く九州の人は全国的に比較すると関西弁嫌いです。
「です」の発音は、東京語では「desu゚」で語尾母音は無声化音又は弱音ですね。
NHK語(特にナレーション)は完全に「des」で閉音節化していますね。
237 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 01:36:30
>宇佐比乃禰
うざいのね?
238 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 02:20:00
陸奥(道奥)國が置かれる以前は、常陸(常道)國は仙台市南方迄の広大な国だった。
のち北部の宇多・行方・標葉・磐城・菊多(=キタ.常陸多珂郡の北部を割く)5郡を分けて石城國を設置。その石城國も、陸奥國が新設されると西隣の石背國と共に吸収された。
「ヒタチ」は常陸の枕詞であり、「ヒタチの常陸(つねみち)」と言った。
扨て、このヒタチだが、私は日高路(ひたかみち=ひたかぢ)の訛化ではないかと考えています。
239 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/05/14(日) 00:52:44
>>238 「ヒタチ」の言葉の歴史はそのような新しいものでないと思えます。
常道国は712年に畿内朝廷によって仙台平野南部以南の太平洋沿岸部地域に設置されたものです。
中心地は相馬orいわき?
(仙台平野北部は日高見国に対する前線として724年多賀城国府設置。
最初の多賀城政庁設置は7世紀初頭の九州王朝系勢力。
日高見国中心地は仙台平野から日高見(北上)川中流域まで既に北退。
日高上国は親九州王朝、反畿内朝廷?)
ヒタチは日高見路(ヒタカミミチ→ヒタカミチ)が語源かもしれませんね。
しかし6世紀末まで独立勢力がいたヒタチがヒタカミチと言うのも変ですし?
枕詞であれば「ヒタチのツネミチ」で「ヒタチ」の語源も8世紀として合理的になりまね。
7世紀以前には、「常陸」は「ツネミチ」と読まれていたことになりますね。
240 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/05/14(日) 03:38:16
間違い修正
誤:最初の多賀城政庁設置は7世紀初頭の九州王朝系勢力。
正:最初の政庁設置は7世紀初頭の仙台郡山遺蹟で九州王朝勢力。
241 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/05/14(日) 03:54:24
最初の政庁設置は7世紀初頭の仙台郡山遺蹟で九州王朝勢力=日高見国
日高見国が九州王朝に参画したのは7世紀初頭か?
242 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 21:06:17
道奥(→陸奥、みちのく→むつ)と常道(→常陸)の道(みち)は、同じ幹線道路(日高路・日高見路)、又は行政区域としての道(ドウ)を指しているのでしょうか?
243 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/05/14(日) 22:12:23
「ミチ」は行政区画を示していたと考えざるをえないです。
陸奥(ミチノク)・常陸(ツネミチ)・常道(ツネミチ)は其々陸奥国・常陸国・常道国として存在していたからです。
「ヒタチ」が枕詞であることは僕にとって新しい知見です。
244 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 22:38:23
ヒタチを『日(太陽)の立つ(昇る)処』(= 東の果て)と解釈して、彼の地の日立銅山(日本鉱業梶ィ現・款゙ャパンエナジー)、引いては茨城縣多賀郡日立町(現・茨城県日立市)が名付けられました。
鉱山の電機修理部門が、のちの日立製作所です。
245 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 23:54:53
>243「敷島の大和」も枕詞ですよね。
「長谷の初瀬(泊瀬)」(ながたに の はつせ)から、長谷をハセと呼ぶようになったようなものですね。
246 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/05/17(水) 18:09:55
>>238 >「ヒタチ」は常陸の枕詞であり、「ヒタチの常陸(つねみち)」と言った。
枕詞としての「ヒタチ」の出典を教えていただけませんか?
探してみましたが、見つけられませんでした。
247 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/05/20(土) 11:43:45
>>238 >「ヒタチ」は常陸の枕詞であり、「ヒタチの常陸(つねみち)」と言った。
「ながたに の はつせ」(長谷の初瀬)が「はせ」(長谷)になったことが判るように、
「ひたち の つねみち」(ヒタチの常陸)が「ひたち」(常陸)になったことが判る資料でもかまいません。
248 :
日本@名無史さん:2006/06/20(火) 23:48:27
へえ
249 :
日本@名無史さん:2006/06/20(火) 23:51:51
へ
え
えへ
251 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/06/26(月) 05:15:52
>>198-203 大里京(熊谷市大里町)が確認できました。
衛星写真の精度が上がり、大里京の痕跡が認められるようになりました。
大里町中心部集落が大里京条里制の範囲内に入っていますね。
周辺の農地も農地改良で農地区画が変更されていますが、
この地域の農地だけが特異的に正確に南北に区切られているので、
これは条里制の影響でそうなったものと思われます。
農地改良前の航空写真が手に入れば、
南北9条東西10条の範囲も正確に特定できると思います。
現地発掘できれば駄目押しで確定できるのですが。
252 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 16:29:27
九州弁、琉球方言、東北弁、北海道弁…なんか、似てる気がするのは漏れだけ?
253 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/06/28(水) 02:59:44
>>198-203 大里京(熊谷市大里町)が確認できました。
衛星写真の解像が上がり、大里京の痕跡が認められるようになりました。
大里町中心部集落が大里京条坊制の範囲内に入っていますね。
周辺の農地も農地改良で農地区画が変更されていますが、
この地域の農地だけが特異的に正確に東西南北に区切られているので、
これは条坊制の影響でそうなったものと思われます。
農地改良前の航空写真が手に入れば、
南北9条東西10坊の範囲も正確に特定できると思います。
現地発掘できれば駄目押しで確定できるのですが。
以上修正
254 :
唐松山:2006/06/29(木) 19:55:08
電子国土、gis、で検索してね゜
255 :
唐松山:2006/06/29(木) 21:43:55
相模は、寒川神社・・サムカワカミ・・サムカミ
むさしは、西暦500年頃の富士山の噴火で引っ越した。
多摩、野毛より引っ越した。引越し先は、さきたま。
ふじ の意味は゛火地゛万葉集4437だったか あしふふく 葦火ふくとあります。
゛ひ゛は干 干枯れるの意味で使うので土地の名前にはあまり使われません。
藤蔓 焼畑後の荒地によく生えます。 落葉松、浅間山によく生えています。別名藤松
フヂは焼畑用語だ
他には、ホド、ナラ、ヒラ など地名を調べればどの辺から人か゜住み着いたかわかります。
問題は、産業の米・鉄です。キダイ鉄に頼る限り独立はありえない。
武蔵のカナサナ 常陸のカナサ 下野の加蘇山 甲斐の金桜 信濃の篭川[地名]
どこが一番産出量が多かったか?
256 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/06/30(金) 22:40:14
google maps での検索が良い。
257 :
唐松山:2006/07/01(土) 00:12:54
258 :
唐松山:2006/07/01(土) 01:18:41
鴻巣はこくふのす(下) ・す・には・下の意味があります。安曇野市穂高に嵩下
(たけのすとよみます)があります。
岩井堂、岩井堂観音 浅草寺の観音様も元は秩父の岩井堂観音です長野県から関東地方にいくつも有ますが
これは九州ですか?
259 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/07/01(土) 17:13:17
260 :
唐松山:2006/07/02(日) 07:09:55
大里は大砂土じやー
むかしむかし大宮という所の東を大川(見沼代用水)が流れていました。
ある年の大雨のときこの川が流れを変えて(元荒川)大きな川原が出来ました。
その土地を見た地元民はこの土地を いな(伊奈)と名づけて農業をはじめました。
大針小針。木の鍬や鋤で葦原を開墾することを思うと天国と地獄。
大宮の宮司(都の出)は、この天の恵みの地を 大砂土と名づけて農業をはじめました。
高い土地に砂町を川底近くに土呂町を開き大いに繁盛したので、この宮に名前をつけることを考え
禰宜に向かって聞きます
宮司(川が干上がって栄えたので干川はどうでっしゃろ?)
禰宜(ひかわ、はよいのですが干川はちょっと・・)
宮司(じゃあ日川・・ダメ、ほな氷川にしまひょ)
氷川神社の始まりです。
なお大砂土の南の台地の上ではこれまでどうりの農業が続きます。風度野(火土野)、フは、ひ、だー
イナ、は砂より砂土か? 砂ならサナだもんなー
おーい稲毛のー稲城のー教えて?
261 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/07/03(月) 05:25:00
>>260 場所が違うよ。
熊谷市大里町(旧大里郡大里町)・・・・現在では小さな村落が点在する地域
江戸時代以前では荒川と和田吉野川に挟まれた台地部。
江戸時代1629年に、伊奈氏が大里の台地を開削、荒川を和田吉野川に付替えた(新川)。
付け替え前の荒川は現在の元荒川である。
この工事により、大宮の東方の見沼等の埼玉県東部低湿地は広大な穀倉地帯となった。
以上、上記昔話背景の解説。
大里は、大規模な集落が有った地域に付けられることが多い地名。
262 :
唐松山:2006/07/03(月) 10:44:18
砂町、土呂町・・町田 律令時代
大針・・・・・・治 播 墾
これらの字が使われる前に付けられた地名では??
263 :
唐松山:2006/07/03(月) 11:24:37
用水が引かれて水田となったのは、江戸時代
それまでは陸田がほとんど
はじめは用水がないので、桶で水田に給水この時代まだ木の桶はありませんから細かく編んだ籠に
泥や水藻で水漏れを少なくし給水します゜
田圃1枚2mx2m 5cmとして200L毎日の給水です、給水時の泥に含まれる養分で稲は育ちますので
用水(養分がない)よりよく育ちます。
川には、まだ土手が有りませんからこれだけの大川から用水は引けません。だからはじめの入植者は
山際の小さな小川のあるところへ入植します。
264 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/07/03(月) 12:30:06
1629年に荒川中流で荒川の水を他水系(和田吉野川経由入間川=現荒川)に流すことにより、
元荒川下流の沼沢湿地帯は水が引き、
天然の水田地帯になったことを
>>260は語っている。
265 :
唐松山:2006/07/03(月) 23:14:44
元の荒川と陸の境目は現伊奈町と蓮田の境を流れる見沼代用水 超える丘は、瓦葺だけ
この位の丘なら1500年前は越えていたかも
そうであれば荒川を上ってきた船の停泊地として最適、現在の状態だと良くて船の行き止まり。
大宮の出来た頃はカワラフキを荒川が流れていたと思います。
そうすると岩槻あたりに大きなダムが必要。
5000年位前まではこの辺まで海が入っていた、海の退潮により自然堤防が築かれそれが
この時代に崩れた、崩れた原因はダムを守っていた葦原を焼き払ったため弱くなって、大水に耐えられなかった。
なんて堂でしょう。
266 :
唐松山:2006/07/04(火) 03:07:49
267 :
日本@名無史さん:2006/07/04(火) 03:27:26
烏帽子族だ!
当て字だけど・・・・・
268 :
唐松山:2006/07/04(火) 16:14:18
田園調布に塚立てた ン? 知らないやっぱり
269 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/07/08(土) 15:13:29
>>265 @1629年迄の荒川の流路は元荒川。
A元荒川の更に古い流路は、小針新田付近で分岐して現・綾瀬川に。
B更にAよりも古い荒川流路は、更に西の現・原市沼川を経て現・綾瀬川に合流。
C更にBよりも古い荒川流路は、更に南西の見沼を通過する現芝川。
Cの荒川は利根川と合流した川とも考えられます。
大宮台地の形成は縄文前期の海水面の高い頃に堆積した土砂によるものです。
縄文中期以降の海水面低下により、荒川利根川合同流の現芝川により侵食され、
大宮台地は侵食部の見沼で東西に分断されたものです。
更に時代が下がり、荒川はBの流路になりました。
ですから、基本的に瓦葺の丘を越えて流れる荒川が存在した時代はありません。
勿論上記以外に荒川が現荒川の流路であった時代もありますし、
洪水による河川反乱の時には荒川(現・原市沼川)が瓦葺の丘を越えて流れることも否定はできません。
見沼・柴川沿いにある氷川神社の存在は、出雲系の関東移住時代には、
柴川が荒川利根川合同流の大河であったことを示していると思われます。
又、小針新田付近の神社の点在は、関東平野西方型古墳文化(騎馬文化を含む)の形成開始時期(4〜5世紀)に、
荒川がAの綾瀬川ルートを流れていたと類推させます。
270 :
唐松山:2006/07/08(土) 21:34:51
現在の地形からは、瓦葺を本流が流れた後は(唐松山にとって)残念ながら確認できません。
見沼代用水は東大宮駅の辺りを何メートルくらい掘り込んで流れているか、 しりましぇーん。
発見 カワラフキとフキアゲは、二対で合体できる
カワラフキ 大水のとき水に浸かる土地
フキアゲ 大水のとき手前まで水が押し寄せてくる土地・・陸地
瓦葺の U字形と吹上町と大里町を付けたとき現荒川上に U字形ができます、ほとんど同じに見える。
これが元荒川に本流のあった時の吹上町のカワラフキ(地形)だと思うのですが、
残念ながら開削されて今はこの境界線が何メートルの所にあったか判らない。 残念
271 :
唐松山:2006/07/09(日) 13:30:23
蓮田市の両岸を元荒川と綾瀬川が流れている。
これは、荒川付け替え時に本来なら(水を抜いたとき)蓮田の中央を流れるはずであるが、
蓮田(大沼沢地)開発のため土手を築いて両岸に流したものと思います。
理由 伊奈町などこの沼沢地の水を利用していた権利を保障 そのかわり沼沢地上にあったであろう
境界線を(沼沢地の)水際までとし、水の退いた沼沢地を有償で払い下げる(開発費用に充てる)
こんな所で。
4、5世紀 葛飾郡は未だ水の中 八潮、三郷は湖 越谷は沼沢地 岩槻、春日部は陸・・こんなところでしょうか。
訂正 二対→2体 二体で一対
272 :
唐松山:2006/07/10(月) 23:22:43
訂正
こうのす→こくふの下より こうのす→河の下
理由
千葉県流山市に こうのす台の地名がありました。
市川市こうの台位なら、、、、ごめんなさい。 河野様をはじめ関係欠く方々にお詫び申し上げます。
3380: 埼玉の津に居る船の風をいたみ綱は絶ゆとも言な絶えそね
1744: 埼玉の小埼の沼に鴨ぞ羽霧るおのが尾に降り置ける霜を掃ふとにあらし
273 :
唐松山:2006/07/13(木) 19:08:49
274 :
日本@名無史さん:2006/07/13(木) 20:16:11
275 :
日本@名無史さん:2006/07/15(土) 16:49:49
日本健は、河内師木を本拠地(宮)とし3人目の妻 弟橘比賣 に若建王を生ませる。
武蔵の国橘郡はこれか?
剣が九州と武蔵にあってもおかしくない。 鉄は、大陸中国製。
276 :
唐松山:2006/07/18(火) 01:02:22
名前を調べました。
用水路のはじめ
巨勢田朝臣 雄柄宿祢四世孫稲茂臣之後也 男荒人。天豊財重日足姫天皇[謚皇極。]御世。
遣佃葛城長田。其地野上。漑水難至。荒人能解機術。始造長。川水灌田。天皇大悦。賜田臣姓也
642年ころ 未だ大川はむりだよ 関東では、7世紀やっと溜池、堤くらいかな?
天皇家?
新良貴 彦波瀲武草葺不合尊男稲飯命之後也 是出於新良国。即為国主
稲飯命出於新羅国王者組合 日本紀不見
おおひこ
タカリスクネ 先祖代々くらいの意味
タカハシワケ 高椅神社 茨木県にあり 膳系
高橋朝臣 阿倍朝臣同祖 大稲輿命之後也 大稲腰命之後也
景行天皇巡狩東国供献大蛤。于時天皇喜其奇美。賜姓膳臣。天渟中原瀛真人天皇[謚天武。]十二年改膳臣賜高橋朝臣
膳大伴部 大彦命孫磐鹿六雁命之後也 阿倍朝臣同祖
景行天皇巡狩東国。至上総国。従海路渡淡水門。出海中得白蛤。於是磐鹿六雁為膳進之。故美六雁賜膳大伴部
高橋連 饒速日命十四世孫伊己布都大連之後也
笠原真人 真人 磯城親王之後也
277 :
唐松山:2006/07/18(火) 19:18:50
新しすぎた
笠原真人 真人 出自謚天武皇子浄広壱磯城親王之後也
278 :
唐松山:2006/07/26(水) 20:04:36
訂正 高橋神社 栃木県小山市 祭神はイワガムツカリノミコト 膳大伴部でした。
倭建は河内の志紀に倭都を持つ(白鳥陵所在地)、伊都は建内宿禰に任す
倭建命、娶、・・・布多遲能伊理毘賣命、・・・又娶、其入海弟橘比賣命、
生御子、若建王。〈 一柱 〉。・・・・・・故、帶中津日子命者。治天下也。
次、稻依別王者、・・・。故、上云若建王、娶飯野眞黒比賣、生子、須賣伊呂大中日子王。〈 自須至呂以音。 〉
此王、娶淡海之柴野入杵之女、柴野比賣、生子、迦具漏比賣命。故、大帶日子天皇、娶此迦具漏比賣命、生子、大江王。〈 一柱 〉。
此王、娶庶妹銀王、生子、大名方王。次大中比賣命。〈 二柱 〉。故、此之大中比賣命者、香坂王、忍熊王之御祖也。
ワカタケルは、成人になっている。
高橋神社は、九州吉井にもある。
日本武は、九州王朝の東征・・・・
なんとかならんか?
日本武は、九州王朝の東征と言うよりも、
九州王朝尾張大王国の東征。
静岡東征話と南関東東征話をくっ付けたもの。
と考えると合理的。
280 :
唐松山:2006/07/30(日) 17:35:11
到能煩野之時、思國以歌曰、
夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯(K031)
其磯之時、歌曰、
波麻都知登理 波麻用波由迦受 伊蘇豆多布(K038)
やまとは くにのまほろば・・・九州のヤマトでは、他人の都を思って歌う?死の間際に。
河内のシキの宮にて送る歌
浜千鳥 ・・・ 磯づたう
九州へ魂の帰ってゆく歌・・・ 伊勢ですか、能煩野の隣の
常陸風土記では、日本武尊天皇・・・らしい。
武蔵の国造 小杵と比企の間の戦い らしい。
男衾郡 今の大里町から西、長瀞町 らしい。
大里郡 行田市プラス熊谷市
281 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/07/30(日) 20:16:55
>常陸風土記では、日本武尊天皇・・・らしい。
倭武天皇のこと?
倭武天皇=常陸の大王
>>279 ぉぃぉぃ何でも九州王朝起源にするなよ。朝鮮「ウリジナル」じゃあるまいし。
近畿憎しのあまり「畿内には全く何も無かった。日本史の全ては九州なのだ」という
おまえさんもフォースの「皇国史観面」に堕ちていないかね?
最近の九州王朝論者は日本史の全てを九州起源で考えるから困る。
九州王朝がいきなり尾張を支配出来たりはしないよ。
「時空を歪めて遠隔地を隣に移動させられる偉大な金日成主席」じゃあるまいし。
濃尾地方は畿内皇室(北九州勢力の分家ではあるが)が、
最も重要な後背地として最重視した地方で(巻向遺跡の出土品からも明らか)、
尾張氏はそのための姻戚関係を結んだ重要な現地豪族となる。
畿内勢力が東海・東山道双方の事実上の起点となる濃尾平野を押さえたことが、
その後畿内皇室が列島の統一覇者となる上で最も重要な要素の一つになる。
斎藤道三の格言「美濃を制するものは天下を制する」は確かに正しかったわけだ。
筑紫からでは濃尾平野にはどう足掻いても直接には全く手が届かない。
北日本の日本海側なら海路を使ってある程度の影響力を行使することが出来るが。
283 :
唐松山:2006/07/31(月) 20:39:11
その時の歌をもうひとつ
到能煩野之時、
伊能知能 麻多祁牟比登波 多多美許母 幣具理能夜麻能 久麻加志賀波袁 宇受爾佐勢 曾能古(K032)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・へぐりのやまの くまかしがわを ・・・
たける の名前は熊襲健のものでもある。
だから 兵隊の何割かは、熊襲健から譲られた者 その者たちが歌ったから九州?の地名が入った。 とも取れないことはないが・・・ 受けにさせ その子
その後 その子= 幼い若武 を連れて倭武軍は、九州へ帰ります。
ワー どうやってダ埼玉へ行き着こう ウウウ
366年斯摩宿禰は卓淳国王からこの話を聞いて、さっそく従者の爾波移(にはや)という者を卓淳人の過古(わこ)に付けて百済に派遣した。
にはや と かざはや 似た名前だ
372年七支刀
だんだん 時間軸が狂ってゆく・・・ク ク苦しいー
284 :
日本@名無史さん:2006/07/31(月) 23:47:40
ねぇねぇ、オワケの臣って、大分の君と関係ないの?
285 :
唐松山:2006/08/01(火) 18:10:28
オー わけんねえ・・・。
286 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/08/01(火) 22:57:28
>>282 >ぉぃぉぃ何でも九州王朝起源にするなよ。
崇神から仲哀までは九州から独立した畿内大王国。
畿内は尾張と手を繋ぎ後を固め、吉備を落としいれ支配、
そして九州王朝に攻め入り返り討ちに遭う。(源九州王朝:筑紫・出雲・肥)
一方尾張は九州・畿内対立を尻目に静岡・南関東に勢力伸長。
応神により畿内は九州王朝の傘下になり、それは武烈まで続く。(浪速大王国の成立)
(九州王朝の成立:筑紫・出雲・肥・浪速・越の5大王国)
継体の九州王朝に対する反乱を尻目に、
尾張の南関東勢力(武蔵)は毛野に対抗できるほどに伸長。
欽明による九州王朝の畿内制圧に、
尾張の自己保身が尾張・武蔵の九州王朝参画に向かわせる。(尾張大王国・夷大王国の成立)
武蔵は九州王朝参画により西方を固め、敵対毛野を滅ぼす。(夷大王国の大勢力化)
九州王朝は大王国の緩い連合体である。
仲哀・継体の様に武力衝突さえしなければ、
九州王朝の構造は九州の名目的形式的支配が成立すればよいにすぎない。
あたかも中国の周辺蛮夷に対するように。
7世紀になると日高見[北上]大王国(阿武隈川北上川流域仙台平野)も九州王朝に参画。(蝦夷大王国)
7世紀の九州王朝低落後の日本の主要大勢力は畿内と日高見であったことが重要。
8世紀になると、畿内の侵攻に対する日高見の抵抗となっていく。
畿内の侵攻も盛岡止あたりで息切れするが。
九州王朝は、筑紫・出雲・肥・浪速・越・尾張・夷・蝦夷の最大構成8大王国の時に亡んだ。
なお、九州王朝の盟主国は肥と筑紫。
287 :
唐松山:2006/08/03(木) 13:37:34
若武を九州へ持っていった獲居
とりあえず 古田説を採用
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jkiki/jkiki2.html 多加披次獲居 多沙鬼獲居 半弖比 加差披余 乎獲居臣 と続くわけですが、
多加披次獲居と多沙鬼獲居は、倭武の臣として”獲居”という官名を(大和朝廷より)賜る。
半弖比 加差披余・・・官名が無い
之をどうとるか、1落ちぶれた。 2大和朝廷の手の届かない所にいた。
ということで2を採用 大和朝廷の手の届かない所 九州 にしました。
これで 七支刀を知り、文字を刻んで記念とすることを知る。
似たものが、九州からも出土する 何らかの繋がりがあった。
チャイナの鉄である。
ここまで、すべてクリアできます。
第三の選択肢が有りましたら、ご教示を。
288 :
唐松山:2006/08/06(日) 09:21:37
・・・・ポコポコ グワーン ・・・ポコポコ
たたいま 修行中 ・・・・
大王寺 ウン 時宗・・・ だから おおきみのとき と読んでください。
・・・・瞑想 名僧 迷走 ・・・・グワーン ポコ
Zz Z ZZZ ・・・
なむー 景行天皇聖寿いっぴゃくさんじゅっさい・・・・ポコ
辛未 壬申 癸酉・・・以下 下記の計算式で・・・ポコ A欄西暦 B欄下記式・・・・
= CHOOSE(IF(A1 >10,MOD((A1 +6),10)+2," ")," ","甲","乙","丙","丁","戊","己","庚","辛","壬","癸")&
CHOOSE(IF(A1 >10,MOD((A1+8),12)+2," ")," ","子","丑","寅","卯","辰","巳","午","未","申","酉","戌","亥")
辛亥年 辛亥年と 故古波倭国 倭乃古余見 やまとのこよみ ・・・・グワーーン
ぶつ ブツ 仏 ・・・・ZZZ
注意 玉手箱のふたは、決して開けないでください。
289 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/08/06(日) 23:44:48
よくわからん。
突っ込み処が無い。
290 :
唐松山:2006/08/07(月) 19:05:33
判りにくくて すみませんです。
判らないのは、当時の大和の暦
これが判らないと、辛亥年 の文字を彫れない
まさか 今の学者さまのように 西暦から換算してよいのか?
大和の暦=九州の暦=百済の暦=チャイナの暦 じゃないから ・・さてどうしよう。
これ(玉手箱)をとばしたら ただの昔話になってしまうンデスヨ。
大王寺で盛大な追善供養でも・・・と思っていたんですけど。
291 :
唐松山:2006/08/08(火) 18:28:12
玉手箱の鍵と思われる ミカサフミ の一文
ミ07112 ヒトセこれ ヱトにはんべる
ミ07113 ミソのカミ ヒビにかわりて
ミ07114 ムソカもる ムワのナメコト
ミ07115 ウツロヰの トシこえセマエ
ミ07116 ヲヲミソカ ハツムカソヨカ
ミ07117 サのミソカ すへヒトセもる
ミ07118 ナメコトぞこれ
ミ07119 かくヱトの トさきのユエは
ミ07120 アメミヲヤ ノリしてヱカミ
ミ07121 フユのもり トカミはナツの
ミ07122 ゾロをもる ながくヒトクサ
ミ07123 うるおせば カミになぞらえ
ミ07124 トのタマに なつくヤマトの
292 :
唐松山:2006/08/10(木) 19:46:17
293 :
唐松山:2006/08/12(土) 20:17:28
玉手箱の鍵が開きました。
サのミソカ すへヒトセもる サの30日 末一年盛る。
6月30日 末一年盛る。 干支が替ります。
ヒビにかわりて ムソカもる
フユのもり
ゾロをもる
上記三行は、細かくて大変なのでそのまま。
その代わり、上記三行の調整があります。
とりあえず エクセルで二倍暦の表を作ってください。下に作り方を表示します。
A1:数字 B1:太歳 C1:西暦 D1:干支前 E1:干支後 F1:記事
C欄 数式
=IF(A2<1,"",A2/2-203)+B2
D欄 数式
= CHOOSE(IF(A2 >10,MOD((A2 +6),10)+2," "),
" ","甲","乙","丙","丁","戊","己","庚","辛","壬","癸")
& CHOOSE(IF(A2 >10,MOD((A2+8),12)+2," "),
" ","子","丑","寅","卯","辰","巳","午","未","申","酉","戌","亥")
E欄 数式
= CHOOSE(IF(A2 >10,MOD((A2 +7),10)+2," "),
" ","甲","乙","丙","丁","戊","己","庚","辛","壬","癸")&
CHOOSE(IF(A2 >10,MOD((A2+9),12)+2," "),
" ","子","丑","寅","卯","辰","巳","午","未","申","酉","戌","亥")
294 :
唐松山:2006/08/12(土) 20:20:41
その2
数字 F欄 記事
612 六十八年癸酉(みづのととり)日本足彦国押
628 八十三年戊子(つちのえね)秋八月丁巳(ひのとみ)の
崇神天皇元年(甲申 太歳甲申
1088 崇神天皇 天皇御歳、壹佰陸拾捌歳。〈 戊寅年十二月崩。
1266 仁徳天皇 天皇御年、捌拾參歳。〈 丁卯年八月十五日崩也。
1364 雄略天皇 天皇御年、壹佰貳拾肆歳。御〈 己巳八月九日崩也
表が出来ましたら、こんな感じで、打ち込んでください。
数字は、偶数で打ち込むこと。
これで 二倍暦の出来上がり。 ただし、これでは、只の二倍暦 使い物になりません。
ここからが、重要
上記の表が、出来たらお知らせください。 次へ進みますので。
295 :
唐松山:2006/08/26(土) 00:57:22
玉手箱の中を覗いてみました。
なんと、くもの巣だらけ、だれかが引っ掻き回したらしく巣が、糸のようになって出てくるので、
慌ててふたをしました。
倭武に戻ります。
倭武、 16歳で熊襲武より名をもらう?
これって、2倍暦? 普通暦?
普通暦なら、継体あたりが適当かと 531年日本天皇、皇子ともに…
「稲荷山鉄剣」の時代には既に先祖の修飾があるわけじゃん?
(オオヒコは開化天皇の兄で阿部氏らの祖にもあたる)
『古事記』をみると、孝元・開化の二代周辺はとかく紀伊〜尾張ラインの勢力との婚姻が多い。
孝元と穂積氏の祖・内色許男命の妹の間に生まれたのが開化で
内色許男命の娘・伊賀迦色許賣命と孝元の間に生まれた比古布都押之信命は
尾張連や紀伊国造と婚を結んで建内宿禰らを生んでいる。
開化は開化で、父孝元の妃・伊賀迦色許賣命との間に崇神を生み、崇神が皇嗣になっている。
これって、この時代の大王というか首長は穂積・紀国造・尾張の一族
(太平洋岸に前期古墳=発展して前方後方墳=を造った勢力)で
記紀の編纂時に男系を女系に書き換えただけなんじゃない?
崇神以降はオケ(意祁・袁祁。顕宗・仁賢と同じ名)・息長氏や丹波・但馬の勢力が出てくるが
これは中期古墳=前方後円墳=と関係あるんでは?
297 :
唐松山:2006/09/17(日) 12:16:49
ついに発見 ?
安康、雄略以降 日本書紀は普通暦 古事記は2倍暦
西暦前後西暦干支
533丙午丁未繼體天皇天皇御年肆拾參歳。【丁未年四月九日崩也。】御陵者三嶋之藍御陵也癸丑
534戊申己酉安閑天皇元年 あんかんてんのう 甲寅 きのえ とら 1194 534 甲寅
まだ途中ですが、とりあえず
298 :
唐松山:2006/09/17(日) 12:30:08
書き直し
ついに発見 ?
安康、雄略以降 日本書紀は普通暦 古事記は2倍暦
西暦 前 後 西暦干支
533 丙午 丁未 繼體天皇天皇御年肆拾參歳。【丁未年四月九日崩也。】御陵者三嶋之藍御陵也 癸丑 古事記
534 戊申 己酉 安閑天皇元年 あんかんてんのう 甲寅 きのえ とら 1194 534 甲寅 日本書紀
まだ途中ですが、とりあえず
299 :
唐松山:2006/10/17(火) 16:57:08
先だってはお騒がせしました。前回の暦の話はとりけし
ほつま伝の暦を見ています
ホ28257 コヨミなを アスズとせんやむへなりと アススにきわめフソヒホの キナエのハルは
アスス暦 年号より干支を割出す 式ができましたので、途中ですが発表します。
=CHOOSE(MOD((B3+69),10)+2," ","き","き","つ","つ","お","お","さ","さ","ね","ね")
&CHOOSE(MOD((B3+71),12)+2," ","あえ","あと","みえ","みと","やえ","やと","しえ","しと","なえ","なと","のメ","のネ")
この式で神武を見ると 眼からウロコ
11,12年目訂正よろしく。
3代目からあとは、書記とおなじ。
300 :
唐松山:2006/10/17(火) 17:14:01
追加
21が、アスス初年となります。
51サナト 橿原元年
134ツアト カヌカワミミ
170ネアト トキアスズ モモナソネアトアフミミカミコシギヒトの トシミソミ
アマツヒツギをうけつぎて タマテミアメ
301 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 23:35:37
関東は土居中
302 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/11/16(木) 22:16:34
九州王朝関東東北事情
蝦夷(日高見国):九州王朝8番目の弟王大王国
7世紀の倭における畿内朝廷勢力に劣らぬ巨大勢力。
主な統治地域は、仙台平野・北上川流域・阿武隈川流域。
中心地(都)は宮城県仙台郡山。
7世紀前半九州王朝を構成する大王国(蝦夷)として参画。
8世紀の畿内朝廷の侵食により縮小しながら9世紀前半には北上川上流地域以北に追いやられる。
畿内朝廷軍に8世紀末13年にわたり応戦したアテルイがおり、彼と共に処刑されたモレがいる。
モレが日高見国の大王か?
夷(毛野:武蔵勢力):九州王朝7番目の弟王大王国
6世紀中頃までは武蔵地域の勢力。
6世紀中頃より7世紀末にかけて毛野旧勢力(鈴文化)を制圧。
7世紀初頭に常陸国を制圧。
中心地(都)は埼玉県熊谷大里。
朝鮮半島南部戦争への出兵により弱体化し、
701年畿内朝廷成立時にはその配下に編入される。
倭京が大宰府なら、郡山京と大里京は宰府。
303 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/11/16(木) 22:18:08
九州王朝関東東北事情
蝦夷(日高見国):九州王朝8番目の弟王大王国
7世紀の倭における畿内朝廷勢力に劣らぬ巨大勢力。
主な統治地域は、仙台平野・北上川流域・阿武隈川流域。
中心地(都)は宮城県仙台郡山。
7世紀前半九州王朝を構成する大王国(蝦夷)として参画。
8世紀の畿内朝廷の侵食により縮小しながら9世紀前半には北上川上流地域以北に追いやられる。
畿内朝廷軍に8世紀末13年にわたり応戦したアテルイがおり、彼と共に処刑されたモレがいる。
モレが日高見国の大王か?
夷(毛野:武蔵勢力):九州王朝7番目の弟王大王国
6世紀中頃までは武蔵地域の勢力。
6世紀中頃より6世紀末にかけて毛野旧勢力(鈴文化)を制圧。
7世紀初頭に常陸国を制圧。
中心地(都)は埼玉県熊谷大里。
朝鮮半島南部戦争への出兵により弱体化し、
701年畿内朝廷成立時にはその配下に編入される。
倭京が大宰府なら、郡山京と大里京は宰府。
304 :
唐松山:2006/12/07(木) 18:30:40
ご無沙汰しています
ついに 新しい暦の読み方が解りました。
ほつまの 暦には、増しがある と書かれています
もし 景行が 西暦239年からだとすると
治世 成太子 成天皇 <間> 世継誕生 立太子 死亡
60年 18才 81才 5年目 86才 126才 140才 これから`前57` ‘中20‘‘後10‘ を引く
29年 18才 24才 5年目 29才 49才 53才
増し 景行の年号より次の年を引く
中 6,7,8,9,13,14,15,16,28春=40冬、 後 47より51、55年死亡より60
崇神 西暦184年 24年間 後5年くらい縮められる
垂仁 西暦219年 27年間 後7年くらい縮められる
景行 西暦239年 29年間 後8年くらい縮められる
後漢光和年中(西暦178〜183年)、倭国大乱起る。 崇神の 国内引き締め
239景初三年、女王卑弥呼、魏に都市牛利(かしくい)、難升米(なしま)らを遣わす。
タジマモリ トコヨの国に行く
247倭女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭載斯烏越(倭世子大江)らを遣わして郡に相攻撃する
景行による クマソ討伐
檄を為りて之を告諭す。狗奴国対女王国海戦は難升米将軍の大勝利となる。直後に卑弥呼死す。大いに冢を作る。
ホ38232 18年 ソヤヤヨヒ ...クマノガタ ヲサクマツヒコ...さとさしむ しかれどこばむ かれころす
ホ38273 アフミヨカ ツクシチのチの タカタミヤ ヲホミケたをれ
卑弥呼の宗女壱與(いよ、比売多多良伊須気余理比売)
ホ38300 20年 フソサミヱ キサラギヨカに ヰオノヒメ クスコウチミコ
28年コウス16才九州へ 休むまもなく 関東下向
これが 増し でみた 景行です。
305 :
肥国狗古智卑狗末裔・武蔵国新羅郡住民:2006/12/20(水) 13:07:34
ムサシモ・ムサカミ説に興味があります。
但し相模には出雲系神社が少ない事を考えると一考せざるを得ません。
武蔵の権力中枢が前期は荒川以北(さいたま市周辺か?・後期が荒川以南(多摩郡)
であった事は武蔵の東山道から東海道への移行にも現れています。
また前期武蔵は出雲系であり、毛野の出雲系とも密接な関わりが見えます。
但し、武蔵と毛野の出雲氏族の移住時期には時間差があると考えられます。
証左として武蔵系がスサノオを祭祀するのに対し、毛野ではオホナムチを祭祀している。
306 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/12/22(金) 00:51:43
>>305 >ムサシモ・ムサカミ説に興味があります。
>但し相模には出雲系神社が少ない事を考えると一考せざるを得ません。
ムサ(ムサ上・ムサ下)が成立するとすれば、
その歴史は出雲系神社よりももっと遡るのとおもいます。
出雲系神はムサシになってからのもの。
南関東相模が中心地だった頃、
縄文後の経済的に低落した中西部関東(ムサシ)に入植したのが出雲系ではないかと思います。
ムサ・ケヌ・フサ・ヒタの中心地がカミ、シモは後期晩期縄文時代に衰退した地域。
以上ムサカミ・ムサシモ仮説が成立する場合の推論です。
307 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 20:19:25
倉入防止揚
308 :
日本@名無史さん:2007/01/31(水) 16:25:48
>305
亀レスですが、相模は寒川神社と大山寺(修験)が勢力を張っていたと思います。
309 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 16:17:06
なるへそ
310 :
婆 ◆HKZsYRUkck :2007/03/19(月) 19:13:13
お、詳しい人がいっぱいいそうなスレ発見。
ひょんなことから氷川神社の名前について調べています。
ネット上では「氷川いうのは出雲の簸川(斐伊川)から転じた」という説明が
多いのですが、これってどのくらい信憑性があるのでしょうか?
出雲系が武蔵に来たのは正しそうだけど、鳥越憲三郎の「出雲神話の誕生」
なんかを読むと斐伊川流域(出雲平野西部)が開拓されたのは時代が下がって
からだそうで、つじつまが合わない気がするんです。
ついでに古事記の安閑紀の条に出てくる「多氷」の屯倉を「多未」の誤記として
多摩に比定している説も多いけど、これにも何か裏づけがあるのでしょうか。
飛鳥・奈良のあたりは気温が低く、また
>>116も書いてるように寒流の影響も
あったんだから、川に氷がはりまくっても不思議じゃない気がするんです。
そうすっと、相模一ノ宮の寒川神社もそれっぽいし。
311 :
火国狗古智卑狗末裔・武蔵国新羅郡住民 :2007/03/29(木) 14:26:06
寒川神社の祭神は氷川神社の祭神と同一であるという説があります。
武相の地は北は利根川で毛野と境し、東は旧利根川で総と接しています。
また荒川以北・多摩川以北・以南と別れています。
いずれの地域も出雲系神社が有力社で氷川神社・大国魂神社・寒川神社です。
また毛野も出雲系神社が有力社です。
ヒタ・フサのみ鹿島・香取という大和朝廷よりの神社です。
考え得るに大和朝廷が伸張して来た時代に関東ではヒタ・フサが朝廷側についていた証左ではないかと思われます。
312 :
婆 ◆HKZsYRUkck :2007/03/31(土) 00:29:55
>>311 くわしい説明ありがとうございます。
>>310を書いてからいろいろ調べたら、いつの頃からかはわからないけど、
出雲系の人たちが武蔵に住み着いたというのは間違いなさそうですね。
とはいえ、社伝に出てくるイベントは以下の3つ
・孝昭天皇三年四月中の未の日、素盞嗚尊・稲田姫命・大己貴命三神を祀った。
・景行天皇の皇子・日本武尊東征の折り、当社を祈願所にしたことにより、相殿に日本武尊を祀る。
・成務天皇の御代、出雲族の兄多毛比命が武蔵国造となり、当社を奉崇した。
3つめは「先代旧事紀」が元ネタだと思うんですけど、いずれにしてもこれらの時代の
出雲は平野東部の意宇川が中心で、斐伊川流域の杵築神社(出雲大社)は
できてなさそうです。
313 :
婆 ◆HKZsYRUkck :2007/03/31(土) 00:30:32
となると、古い時代にできた神社を、出雲族が武蔵進出をしたときに
リニューアルして素盞嗚尊の社にし、同時にもともとの名前である氷川に
斐伊川を充てる操作がなされたんじゃないかという気がしています。
んで、そのもともとの「氷川」の由来については、神社・仏閣板で
「氷川本紀」を教えてもらいました。その中の、「池中蓴菜を繁生す、
三冬の比今も御手洗に堅氷を結ぶ、 故に氷と云ひしを今は氷川と云ふなり」
というのは、古墳・飛鳥・奈良ごろの気候を考えればありうるかなと。
<続き>
寒川神社についても、もともとの祭神は寒川比古命だったけど、
出雲族の進出にともなって素盞嗚尊が加わったんじゃないかという気がします。
まとめると、
・もともと寒かったから、「氷川」「寒川」「多氷」みたいな地名がついて神社ができた。
・出雲族がやってきて住みついた。
・もとからあった神社の祭神を付け替えた。
・氷川はたまたま似た斐伊川があったので縁起にしたが、寒川は似た言葉がなかったので
そのまんま(だからメインの祭神も寒川比古命のまんま)。
みたいな感じ。
そんでもって、後半部分についてはよくわかりません。
たとえばフサと言っても下総の一宮は寒川神社だったりするし、
大和朝廷の進出と神々の勢力分布図とは簡単に対応していない
ような気がしています。
>>313 あう、変なところに<続き>が入ってた… orz
現在でもチバラキや毛野の方が与党寄りで、中央政府で活躍する人材が多いな。
316 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/14(土) 10:13:22
>>311 >ヒタ・フサのみ鹿島・香取という大和朝廷よりの神社です。
香取は出雲系だよ。元は在地系だと思うが。
鹿島の摂社末社から見て、鹿島はヒタ在地系が出雲系に更に大和系に変遷したものと思います。
一言主神社もあり、これは出雲系か大和系かどちら系としてフサに進出したのか?
>>311>>316 氷川のような100%誰の目にも疑いようのない明確な出雲系ではないが、
鹿島と香取は微妙に違うところがある。
香取神宮は、いろんな言い方があるが要するに"put"神を祀っているわけで
これは確かに石上神宮などと同じ。だが、もう少し古い層があるような気もする。
房総半島の持つ、東関東と西関東の中間的性質を良く示していると思う。
鹿島は、香取とはかなり毛色の違う神社で、
今の祭神はたしかに朝廷系つまり天津神系。
だが、ここは香取よりさらに先住民の神の雰囲気が濃厚で、
本来は、出雲系弥生人ではなく
真正の先住民である縄文系の聖地だったのではないかと思われる。
行けば分かるが、ここは本来は見事な地下水脈上にのる水の神だ。
出雲系を挟まずに、縄文系の基層の上に天津神が直接乗っていて、
その意味では、西関東ではなくたしかに東北的だね。
318 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/14(土) 11:58:15
>>317 鹿島神宮本体は、出雲系を挟まずに、縄文系の基層の上に、
天津神が直接乗っているのでしょう。
常陸国風土記から、基層は縄文以来の現地系であったと推測できますね。
さらに、ヒタは関東平野中部西部よりも東北との関連が深かったようですね。
>>318 鹿島神宮に関しては、大生神社(元鹿島伝承あり)の件もあって難しいけどね。
個人的には、大生神社がイカヅチ神を祀る本来の天津神系神社であって、
その後、多氏による常陸支配が安定した後
大昔の縄文系の水神・石神の聖地であった今の鹿島神宮の位置に
祭神まるごと引っ越したと考えている。
水脈や要石などの自然物が引っ越すことはないが
渡来者の神の座は当然引っ越すことが出来る。
多氏の系譜問題はあるが、総じてあまり出雲色は感じられない。
在来系と言えば、俺はいわゆるアラハバキ神が何者か、
よく分からないんだけどね。本当に在来の縄文神なのかはやや疑わしい。
石神井(ミシャグジ神)と並んで、関東西部の出雲以前を解く鍵の一つだとは思うが。
>>319とか
西関東(武蔵野)では、縄文期は栄えていたのに弥生遺跡は少なくて、
古墳時代まで人の気配が薄いですよね。もちろん台地だから水田に不適だったと
からでしょうが、それなら縄文時代が続いてもよかったはずだけど、
遺跡はぱったり無くなる。
で、その空白期の理由はやっぱり
>>313に書いたようにすげー寒くなった
からじゃないかと考えています。もちろん縄文末期は地球は寒冷化したし、
それが縄文→弥生交代の要因でもあるんだけど、関東地方の寒冷化は平均に
比べて半端なく冷え込んだんじゃあるまいか、という仮説です。
根拠は上に書いたような地名もそうだし、海底に降り積もったプランクトンの死骸から
海流の履歴を再現する研究からも、2500-2000年くらい前に房総沖の黒潮が衰退した
時期があったっぽいし(鎮西,1987)。
321 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/15(日) 05:36:36
縄文晩期寒冷期はBC1300〜BC600で、縄文後期より平均気温が3〜4℃低くなったそうです。
食料難でギリシャ文明は衰退し、日本九州では水田耕作が始まった時期です。
関東平野の縄文生活サイクルが破綻し、
以降それに変わる生活サイクルが成立せず関東縄文の衰退をもたらしたものと思います。
冬の関東平野では-10℃近い乾燥寒風が吹き荒れたことも多かったのでしょうね。
雪がないと気温が下がり縄文生活サイクルは破綻せざるをえないですね。
>>320>>321 冬の「乾燥寒風」では、
縄文後期晩期の関東の人口崩壊状態の説明は出来ないよ。
主要な植物栄養源であるナラ属の落葉樹(つまりどんぐりの木)は
かなり冬の寒さに強いし、むしろある程度冬は寒いほうが良い。
寒さ指数が照葉樹林ゾーンに楽々入るようになると、
コナラやミズナラなど沢山どんぐりを付ける落葉ナラ属の林は
遷移のスピードが上がってシイやシラカシなどの
どんぐり生産力の低い照葉樹林に早々に入れ替わってしまう。
遷移スピードは寒いほどゆっくりなので、寒いほうがナラ林は楽に維持できる。
反対に、冬の寒さだけで、落葉のナラ属を生えなくするのは大変だ。
コナラやミズナラを枯死させるには北海道道東レベルの寒さが必要、
カシワなどはもっと寒さに強い。北海道の海岸地帯の主要防風林はカシワだ。
これらを完全に追い出すには、タイガ地帯並みの寒さが必要になるわけで、
小氷河期程度では無理。ヴュルム氷期の最厳氷期でやっとギリギリそのレベル。
まあ、関西在住の九州王朝大好き氏あたりだと
体感的に全く理解出来ないことだとは思うが、
>>320氏の言うような
房総沖の黒潮の北上の衰退が起きると
真っ先に関東の気候で変化することは、
冬の寒さではなく(後述するがこれは全く関係ない。雪の量は増えるが)
夏の極端な冷夏だ。冷たい東風・北東風の日が増えることになり、
特に梅雨から夏にかけて気温低下と日照不足が確実に増える。
これは稲作にとっては致命的なのだが、
縄文的生業に関してはどうなのかは微妙なところだ。
なお、
冬の寒さと房総沖の黒潮の南下とはほとんど関係を見出せない。
そもそも北西季節風の風下の海がどうなろうと関係ない。
もし関東の冬の乾燥寒冷化が進む要因がどこかの海にあるとするなら、
それは日本海を流れる対馬海流が弱まり、日本海の海水温が下がって、
日本海側が寒冷化し、その余波で太平洋側も寒冷化するということなら
考えられないこともない。だがそれだと「関東限定」にはならず、
太平洋側でもフェーン現象の小さい畿内や西日本のほうが気温低下は著しいはずだ。
324 :
婆 ◆HKZsYRUkck :2007/04/15(日) 20:31:36
>>321-323 興味深い話をありがとうございます。
海流については、銚子にある「海鹿島」の地名も傍証になりそうですね。
黒潮衰退時の気候については
>>323氏の言うとおり、東北のヤマセ的な
感じだと思いますが、そうすると福島から宮城、岩手にかけての海岸線に
弥生の水田遺構が出てくる説明が難しいんだよなぁ。
ちなみに火炎土器で有名な信濃川中流域も弥生になったらパタっと
人が居なくなるのですが、こっちは積雪深の増加が主因っぽいですよね。
足の短いイノシシが生存できなくなる。いずれにしても、姿を消した縄文人たちが
どうなったのか(死んじゃったのかどこかに移住したのか)というのは気になりますね。
なんだか元ネタの祭神の話から離れちゃってすみません。
325 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/16(月) 07:43:24
縄文晩期低温期の関東平野内陸部は日本列島としては特異な状況です。
この低温が関東縄文人に食料面で大きな影響を与えたことは言えますが、
どの様な影響を与えたのかはまだ十分に精査できていません。
得異な気候とは、冬の乾燥低温です。
つまり積雪がなくて土壌がむき出しの状態で零度以下に冷やされることです。
積雪があれば雪が断熱材となり、気温がマイナスになっても、土壌は氷点温度以下にはなりません。
つまり、土壌中の根・種子・芽は積雪があれば細胞凍結から保護されますが、
積雪がないと土壌中のそれらの細胞は凍結して死滅します。
縄文人の食料は栗胡桃(落葉ナラ属の種子)だけではありません。
芋豆野菜雑穀も大きなウエイトを占めています。
それらの収量が冬季土壌凍結によって減少したことは十分に予想できます。
縄文晩期の関東平野の低温は、現代の道東より暖かかったのですが、
縄文晩期の関東平野は無積雪により土壌温度は現代の道東以下になっていたのではないかと推定します。
>>323 関東には40年近く住んでいましたよ。関東内陸部の冷え込みも経験しています。
関西関東の二股生活が殆どでしたので、実質は20年ほどの関東生活ですね。
黒潮問題が仮にあっても、縄文食料には大きな影響を与えないですよ。
水田は無理だけれど。
今年は桜の満開が2週間ほど続いた。一昨日の雨風でやっと葉桜になった。
桜満開2週間は人生初めて。秋の桜の満開は経験あるけれど。
326 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/16(月) 08:04:24
桜の満開期間を指折り数えたら、10日間だった。上記レス修正
やっぱり人生最長の10日間。
>>325 住んでいたら分かると思うんだが、
1984年の冬は関東に滞在していたかね?
論より証拠、あれが明確な実例だよ。
関東地方程度の冬の気温の場合、
寒冷化すると南岸低気圧の降雪がむしろ増え、
しかも雪が事実上の根雪になって、プチ日本海側状態になる。
雪の性質と降り方の問題もあるんだが、
関西などの太平洋側の冬型のおこぼれ雪よりもしつこく地面に残る。
寒冷化すると関東の雪は増えるのか減るのか、
気象板で議論になったことがあるが、
直近で最も明確な寒冬年であった1984年の事例と、
小氷河期であった江戸時代後期の江戸の気象資料を分析すると、
南岸低気圧が発達する事例が増えて、冬の降雪・積雪は増えるというのが結論。
一見、例えば仙台付近のように冬の降水量が減りそうにも思えるが、
実は逆に雪の量が増えることになるのは、
関東は東北太平洋側と違って東と南の2方向が海になっているから。
328 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/17(火) 00:11:49
1984年の大雪はよく覚えています。
あの大雪は関西に住んでいてもニュース等で記憶に残るほどの大雪でしたから。
年末から3〜4回あった様な記憶です。
けれども関東平野南部の冬の大雪も、春4月に降る雪と基本的に同じです。
暖かいから降る雪ですよ。
あの雪は関東南岸太平洋上を通過する低気圧によって降ります。
寒気が南に張り出していて、太平洋水温が低いと、
低気圧は沿岸から遠く離れた太平洋上を通過し、関東平野南部に雪を降らせません。
強い低温の寒気でも勢力の弱い南への張り出しの弱い寒気で、太平洋上の水温も高いと、
低気圧は沿岸近くを通過し、寒冷化した関東平野南部に大雪を降らせます。
縄文晩期寒冷期に比べて、現代日本列島は比較的暖かいから、低気圧が南岸近くを通過すると大雪が降るのです。
なお雪の降る地域は低気圧のコース沿いの関東南部・東海・鹿児島になります。
関東が南と東に2方面で海に面しているからではありません。
和歌山・四国南岸では、近畿中部・瀬戸内までしか寒気が流れ込めないので、
低気圧が通過しても雨にしかならないのです。
低気圧が沿岸にかなり接近して通過した場合は関西中部・瀬戸内にも雪が降ります。
でも西日本では寒気が弱いので雨になることが多いです。
蛇足:鹿児島と近畿中部では鹿児島の方が雪が多い。
>>328 >暖かいから降る雪
まさにその考え方について、気象板で議論がされていたんですよ。
だが、どうも真実は、その常識的な推測とはかなり異なるらしいんだな。
1984年もそうだし、江戸時代後期から明治にかけてもそうなんだが、
東京あたりでは、意外にも、寒冬年のほうが雪が多い。
というのはどういうことかと言うと、
どんなに寒い年でも、ぶっ通しでシベリア高気圧が張り出すことは無く
かならず日本付近を低気圧がそれなりの回数通過することになるんだが、
暖冬の年だと、日本海を通過しやすくなって関東は大高温になる。
だが、寒冬の年だと、日本海まで北上できず、南岸低気圧が増える。
結果、気圧の谷が通過するごとに関東は大雪ということになる。
そして、寒気が強い分、マクロの気圧の傾きが大きくなり、低気圧は発達しやすくなる。
江戸後期などの江戸の記録からは、
寒気を巻き込んで強力になった南岸低気圧が来た形跡が明らかにみられ、
2尺程度の積雪はごく当たり前だった時期があったらしい。
南が海だからと言ったのは、東北南部あたりだと、
南岸低気圧だと雪雲が届かないことがあるから。
地形の関係から、北関東あたりを低気圧が通過することはあまりない。
それから、スレタイには関係ないけど付け足し。
鹿児島で雪が意外に多いのは、鹿児島は西側に遮る山脈がないため
東シナ海から冬型の雪雲が直接やってくるから。長崎や福岡と同じなんだが、
鹿児島と大陸の間はかなり広いので、
東シナ海で雪雲が生まれるくらいの強い寒気になると、
朝鮮半島との海上距離が短い博多あたりを凌ぐ勢いで雪が降る。
冬の気象板は雪ヲタばかりだから、こんなことがあると、
冬型では滅多に雪が降らない関東をネタに、煽り煽られの大騒ぎになる。
「鹿児島でも大雪なのに、快晴の関東プギャー」ってやつだね。
南岸低気圧では、さすがに鹿児島で雪が降ることは滅多に無い。
緯度が低過ぎるからね。ただ、南岸に共通して、冬場でも南岸低気圧の降水量は多め。
南岸低気圧が来た時、どこで雪が降りやすいか、
どんなメカニズムが想定されるかは、気象板の雪ヲタたちが
地域ごとに詳細に分析しているよ。結構面白い。
だが、基本はやませと同じパターンなので、中部山岳より東で雪になるのが普通。
331 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/17(火) 13:44:15
>>329 縄文晩期の気候がどのようだったのかは、ココのスレタイと大いに関係あるのでもう少し書きます。
>暖冬の年だと、日本海を通過しやすくなって関東は大高温になる。
>だが、寒冬の年だと、日本海まで北上できず、南岸低気圧が増える。
>結果、気圧の谷が通過するごとに関東は大雪ということになる。
現代気候においては上記のとおりです。
しかし縄文晩期の気候は平均気温で現在より2〜3℃低いのです。
縄文寒冷期の頃の暖冬では、南岸低気圧が増え雪が降ります。
縄文寒冷期の頃の寒冬では、低気圧が遥か南方太平洋上を通過するので関東平野には雪が降りません。
江戸時代の小氷期は現代の寒冬程度でしたから関東平野に雪が多かったに過ぎません。
江戸時代の小氷期の通常の冬は、縄文寒冷期の暖冬程度で、雪が多かったのです。
縄文寒冷期の通常の冬では、低気圧は遥か南方海上を通過するから、
関東平野は乾燥低温化するだけで雪は殆ど降りません。
「氷川」「寒川」「多氷」の名前は、2400〜2200年前の弥生小氷期に由来するのではと思います。
弥生小氷期の一時期は期間は短いですが縄文晩期に匹敵するほど気温が下がっています。
>>320の「海流の履歴を再現する研究からも、2500-2000年くらい前に房総沖の黒潮が衰退した
時期があったっぽいし(鎮西,1987)。」は弥生小氷期のことを指しているものでしょう。
332 :
婆 ◆HKZsYRUkck :2007/04/17(火) 21:13:33
話題をふっといて議論に参加せずにすみません。
>>329-330の見方も
>>331の見方も、なるほどもっともな感じで、私には判断できません。
ただ、縄文文化を破壊するだけのインパクトと
いう点では
>>331かなぁと。
そこでちょっと別の視点として、当時の陸と水面との比率について考えてみたいと
思います。 縄文海進が終わった時点で現在の海岸線が確定したわけではなく、
古代ではけっこう広い面積が海か湖沼か湿地(ようするに水面)だたことが
わかっています。
たとえば↓このページの図はちょっと大げさですが、けっこうわかりやすい図を載せています。
http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/kasi/k3_mgw1.htm 鹿島、香取、氷川、寒川などの一宮をはじめ、ほとんどの施設が標高6m上に並んでいます。
もちろん6mのところまですべて海だったわけではないでしょうが、ともかくこれより下は
沼地だったり湿原だったりして、人が住んだり建物を建てたりするのが不適な地だった
ということでしょう。局地気象における水面の働きはとしては、夏場は蒸発による気象緩和
が知られていますが、冬はむしろ最低気温を上げる効果になります(というのは
>>329にも
>>331にも釈迦に説法でしょうがw)。ただし、海に比べれば微々たる物とはいえ
水蒸気の供給源ですから、降雪量増加には寄与するかも知れません。
水面に関してもうひとつ考えられるのは、現在の霞ヶ浦が海とつながっている点だと
思います。鹿島・香取両神社に挟まれた湾口が北東からの親潮を受け止めて、
内陸深くまで低温の海が入り込んでいる。この地形によって、今と同じ気象総観場でも
違った気象状況になっていた可能性はある気がします。
そういうわけで水面の効果が昇温なのか寒冷化なのか判断はつきませんが、
このへんのところは領域気象モデルにでも突っ込んでシミューレーションしてみたら面白そう。
いずれにしても
>>331 >「氷川」「寒川」「多氷」の名前は、2400〜2200年前の弥生小氷期に由来するのではと思います。
というのは同意です。実際に神社ができたのはもう少し後かもしれませんが、
各地の一之宮がことごとく当時の水辺にあり、とくに鹿島と香取が寒流の入り口を
はさんで建っているというあたり、両神社が備えている「敵」は蝦夷ではなく
海とヤマセかも知れません。…とかなんとか妄想を入れてみるw
334 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/18(水) 10:34:32
>>332 >
http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/kasi/k3_mgw1.htm 上記の図は非常に興味深いですね。
弥生海進期(AD1c〜2c)の様に思えます。後期縄文海進期では神社群が海に水没することになるので。
西日本の戦乱期に、西日本から逃れて移住して来た人々(神武の様な多数のグループ)が関東平野沿岸に定着した様にみえます。
海岸線沿いにプロットされている神社は、その時彼らが持ってきた神社群の様に見えます。
となると、「氷川」「寒川」「多氷」の名前は、古墳寒冷期に由来するものとなりますね。
出雲系の関東進出もこの時期か、それより少し遅れた時期かも?
上記の図は新しい視点を与えてくれそうです。
ありがとうございます。
>>334 >海岸線沿いにプロットされている神社は、その時彼らが持ってきた神社群の様に見えます。
>となると、「氷川」「寒川」「多氷」の名前は、古墳寒冷期に由来するものとなりますね。
その点は私はちょっと慎重で、地名を付けたのが誰かというのが気になります。
やってきた人たちが川に手を突っ込んで「うー、冷たい」と思ったから氷川、寒川になったのか、
地元の人に「何ていう川?」と聞いたのか。
それはさておき、注文してた「古代東国の風景」(原島礼二)が届いたので、
これから酒を飲みながら読書するざんすw
>>231 南岸低気圧がいわゆる「お辞儀」をするか発達コースを取るかどうかは、
実は寒気の強さというよりも、偏西風の蛇行コースの問題なんだよ。
もし、東谷西谷関係なく、冬を通じて南岸低気圧を寄せ付けないほどの
強力な寒気が毎年ぶっ通しで大陸から南下するほどの寒冷化が起きれば、
それは、関東よりも先に、大陸に近い西日本を直撃して気候を激変させるよ。
関東と言うのは、北西季節風が、日本海が一番大きく開いた部分を通り、
さらに日本で一番高い脊梁山脈を場合によってはいくつも越えて
何度も弱いながらもフェーン現象を起こした後でやってくるところなので、
大陸の寒気の影響は、日本列島弧で一番緩和される地方にあたる。
朝鮮半島があるため海の距離が短く、大陸の影響をまともにうける九州北部などは
大陸が寒冷化すると劇的に気温が下がる道理だし、
寒気がなべ底ルートで降りてくると、九州西岸や四国の西部も雪国化する。
>>332>>333 それは俺も気になっていた。重要な着眼点だよね。
「香取湾」という「もう一つの関東内湾」があることによる、
関東への気候の影響は計り知れないと思う。
まず、やはり夏の寒冷化は否めない。
指摘どおり、香取湾は東京湾と違って親潮側の外海に開いているので、
夏でも湾内の海水温は低いはずで、
これは、やませの時のみならず、通常の海風の源としても重要だ。
かなり涼しい東風が、普通の夏の日であっても
関東のかなりの内陸部深くまで入り込むことになる。
まあ余談だが、現在においても「香取湾」が健在だったら、
東京近郊も含めて首都圏の夏の猛暑は随分緩和されただろうね。
今の東京湾の海水は、真夏の気温を27度くらいまでしか下げないが、
「香取湾」の海水だったら、気温を23度くらいまで下げる能力が今でもあるはず。
338 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/19(木) 10:29:59
>>336 @関東平野と北部九州では、どちらが多雪でどちらが寒冷か比べてみよう。
A道東と道西ではどちらが多雪でどちらが寒冷か比べてみよう。
B放射冷却について調べてみよう。低湿度大気と高湿度大気の放射冷却を比べてみよう。
放射冷却の気温下降とフェーン現象の気温上昇ではどちらが大きいか調べてみよう。
C道東の低温化の仕組を調べてみよう。
蛇足:「雪が降ると暖かく、天気が良いと寒い。」と雪国で言われている言葉をご存知ですか?
「フェーン現象の日の夜は涼しい。」を体験したことがありますか?
>>337 香取湾があれば佐倉近辺の高温化はなくなるでしょうね。
香取湾と東京湾の入り込みで、熊谷あたりの高温化は少し緩和される程度ではないでしょうか?
夏には、埼玉と茨城西部・千葉北部は湘南の様な気候になると思いますね。
339 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/19(木) 11:48:03
>>337 北海道や東北と違って、関東平野に、強い「やませ」が吹くことはあまりないですよね。
20〜25年位前に強力なやませが吹いた記憶があります。
関東ではその夏は寒くて夏中スーツが手放せませんでした。
その夏は一度も暑い日がなかった。寒い日が続いたのは15年位前の冷夏以上でした。
ところが、関西では暑くて半袖ワイシャツでないと仕事にならなかった。
東京と大阪を行ったり来たりしていたのでよく覚えています。
>>338 ん?なんだか分かっているような、まるで分かっていないような。
要するに、40年前の民間俗説から未だに抜け出ていないんじゃないかなあ。
当時はアメダスも未整備で、データも気象台や大学止であって、
一般人は細かい気象現象の科学的数値を知る由も無かった。
まず、太平洋側が日本海側よりも冬に明確に寒くなるのは、
今の気候で北海道だけ。本州北端でも、津軽と南部は統計上はほぼトントン。
それより南になると、太平洋側沿岸のほうが暖かくなる。弱いフェーンと日照のためだ。
ところが、十勝まで寒くなると、すでに地表は根雪が覆う地帯になる。
つまり
>>325の仮説「積雪が無くて土壌が剥き出し…」に矛盾してしまうんだな。
いくら関東が太平洋側だと言っても、東シベリアや満州のような
冬季の完全な無降水状態というのはあり得ない。
それに、放射冷却は、北西季節風が強まると起きなくなる。
関東地方は、とりわけ北西季節風で気温が特に『下がりにくい』地帯だ。
夜間でも、新潟で0℃前後なのに、前橋では5℃近くあることがよくある。
だから、季節風が強まると、関東の夜間の気温は上がる。
そして、放射冷却が起きる時は、冬型が弱まっている時だから、
日本海側も晴れる。日本海側も同じように放射冷却で気温が下がる。旭川のように。
最後に、
「フェーン現象の日の夜は涼しい」には、さすがに『珈琲を吹きました』よ。
フェーン現象が発生した真夏の北陸で、大都会でも無いのに
夜半を過ぎても気温が33℃前後の熱風が山から吹き降りる地獄のような状況に、
心底悶絶した経験が何回もあるからね。
フェーン現象に昼夜は全く関係ない。
海風が入らず暑い盆地が、夜は放射冷却で冷えるのと勘違いしていないかね??
341 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/20(金) 01:32:12
>>340 論点が外れている。
>>325をよく読め、読み間違えている。
縄文晩期小氷期と現代の状況を区別できていない。
一派一絡げ読みになっているよ。
前橋の件は昼間の現象、太陽も照っており暖めている。
夜になると-5℃以下に下がっていく。
昼間は暖かくても、夜の-5℃以下の強風の寒さを知らないな。
放射冷却は夜におこり最低気温になるのは夜明け前。
北陸は昼間38℃で夜になって33℃でも明け方には30℃を切る。(富山平野内陸部)
これは放射冷却による現象。 湿度が低いから涼しいよ。
海風が入らず暑い盆地が、夜は放射冷却で冷えるのは当たり前。
海風が入り続けたら、海風で暖められ続けるから、放射冷却現象が起きていても、気温は下がらない。
>>341 全部筋を繋いで読んでほしいんだけどなあ。
簡単に言えば、
1 太平洋側が日本海側よりも特に極寒になるためには、
今の関東の気温より最低でも5℃以上は低下する必要がある。
2 ところが、必ず少しは冬の降水がある日本列島では、
1を満たす気温になると、少ない降水がすぐに根雪になり地表は雪で覆われる
3 雪の保温効果があるので土壌の深部までの凍結は免れ
>>125のようなことは起きない。
(現に、十勝ワインの産地では、土に埋めてしまえばブドウの枝でさえ越冬する)
休眠中のヤマノイモの根茎が枯れるなどという状況には
日本国内では小氷期でもあり得ないクラスの乾燥寒冷が必要だよ。
それに、本来は関係ない議論だが、フェーン現象が起きる時は、
昼夜問わず、全く同じ方角から風は吹き続けている。
明け方の若干の気温低下は、夜間であるため、風上側が25℃前後に下がるために
フェーン効果を加味しても28℃から29℃前後になるだけ。
風上側も同じ風が吹いており、フェーンの風上では曇で降水があり、放射冷却ではない。
夜間で太陽の熱供給が無いため、太平洋の海水温程度の本来の気温になるだけ。
空気は乾いているが、重苦しく息苦しい風でたまらない。25℃と29℃の差は大きい。
気象に関して論ずるなら、気象学の勉強をするまでいかなくても、
気象板でしばらく議論をするか、
最低でも、何年間か、時々で良いのでアメダスの実況に触れることを勧めるよ。
今はサイトでリアルタイムの詳細な情報が簡単に閲覧できる。
単なる体感や、昭和時代の古い新聞天気予報レベルの常識とは
かなり異なる状況が展開されていることが良く分かる。
縄文時代くらいなら、地形は海の出入り以外は変わらない。
もう一つ、単純な乾燥寒冷化によるという説の反証となるのは、
縄文中期の、縄文文化最盛期のかの有名な八ヶ岳山麓は、
小氷期の関東程度の乾燥寒冷の気候だったということ。
今の遺跡群の地域が、照葉樹林帯に入ったという証拠は全くなく、
最も暖かい時期でも一貫してナラ林帯植物の花粉しか出ない。
今よりやや暖かい程度で、今の東北北部の太平洋側程度だったとされる。
ここは信州でもすでに中部山岳の風下にあたり、
谷が北西から南東へ抜けているため、
冬型では雪は降らず、乾燥した寒風が直撃して吹き抜ける。
つまり、ここは「寒冷化関東」の一つのシミュレーション地域たり得るのだ。
その当の信州が、縄文最盛期の縄文王国だった。
そして、この信州縄文人と、関東平野の関東縄文人は、
密接に交流していたことが遺物からうかがえるわけだ。
縄文晩期に寒くなった時に、信州縄文人が困って山を降りたのは当然だが、
関東縄文人が激減して、残りも西を目指したのは、
別の理由がなければいけないだろう。「信州並み」で乗り切れたはずなのだ。
344 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/20(金) 07:31:54
>>343 内容は同意ですが、乾燥寒冷化の反証になっていないと思います。
その信州縄文人や関東縄文人は何処へ消えたのでしょうね。
食料難から自滅的人口減?
それともどこかに移住?
移住先は寒冷湿潤な地域?
それとも温暖な地域へ?
>関東縄文人が激減して、残りも西を目指したのは・・・
どの様な事実に基づいて「西を目指した」となるのですか?
345 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/20(金) 10:19:24
>>342 1.縄文晩期の関東平野の冬季夜間気温は、乾燥化の為現代より5℃以上低下していたとみられます。
2.縄文晩期には全体的に現代より気温低下していましたから、
関東平野を冬季通過南岸低気圧は現代の様に沿岸を通過しないで、
はるか南方太平洋上を通過するので、関東平野に水分を補給できず積雪をもたらしません。
現代でも低気圧が南下しているときには夜間は低温化しています。
昼間は太陽熱の供給を受けかなり暖かいですが。
3.積雪が無いので土壌の夜間冷凍化は避けられません。
縄文晩期寒冷化といえども、昼間は太陽熱で0度以上に上昇し、
一時的に積もった雪も融解し蒸発します。
山芋はわりと低温に強いですね。里芋や豆類その他野菜穀物はどうでしょうね。
低湿度30℃未満は涼しいのでは?
個人的な感覚に支配されることがらですが。
富山の知人達が「富山は蒸し暑い」と口をそろえて言うのですが、
僕にとっては快適な暑さでしたね。
(東京よりは蒸し暑かったかな? と言うより気温が高い、しかし湿度は低い)
そのうちの一人が大阪の蒸し暑さ(瀬戸内も同じ)を経験し、
「死にそうだった。」と言ってましたね。
最近の気象についてのアドバイスありがとう。
どうでもいい部分だけど、ちょと。
>>340 >フェーン現象に昼夜は全く関係ない。
実は「北陸のフェーンは夜に吹く」らしいですね(荒川正一『局地風のいろいろ』成山堂)。
細い平野を挟んで海岸線と脊梁山脈が平行に走っているもんだから、
昼のフェーンは海陸風と相殺して弱まるけど、夜は加速すると。
ちなみに、稲は夜間にフェーンにあった方が被害が大きいそうで、
砺波平野に点在する風の神の祠(風宮)は、その脅威を物語ってるのでしょう。
そんでもって話は戻りますが
>>334 >西日本の戦乱期に、西日本から逃れて移住して来た人々(神武の様な多数のグループ)が
>関東平野沿岸に定着した様にみえます。
ちょっと古い(1978)ですが、山本武夫「気候と歴史』(朝倉書店)は
歴史上繰り返されたこのようなダイナミズムを、気象の観点から考察していますね。
生産力に制限を加える要因を、東日本は気温、西日本は降水であると
規定して、そこにトレードオフの関係があるとしています。つまり、
温暖期には東日本の生産力が上がる一方で西日本は旱魃になるし、
逆に寒冷期には西日本は大丈夫だけど、東日本は冷害になると。
かなり単純化したモデルだし、例示している期間も10,11,12世紀(承平・天慶の乱から
鎌倉幕府成立まで)だけですが、けっこう「うんうん」と思ってしまう。
347 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/20(金) 22:36:55
>>346 山本武夫「気候と歴史』(朝倉書店)は存じ上げていませんでしたが、同じような見方です。
AD1c2cの西日本戦乱の原因は旱魃だと見ています。
魏志倭人伝の倭人の風土についての記述は、
温暖期ピークを過ぎた頃の九州の温暖な気候を示しているように見えます。
卑弥呼を共立できたのも、旱魃ピーク後に旱魃対処に目処がたったことを意味していると思います。
関東最古の神社といわれる鷲宮神社も出雲系だっけか?
349 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/21(土) 10:58:46
鷺宮
>>348 実は恥ずかしながら鷲宮神社というのをよく知らなかったのでちょっと調べたら、
けっこう面白いですね。
http://www21.big.or.jp/~tetsuki/hokan/washinomiya.html たとえば↑など、いくつかのページには「古くは浮き島大明神」と呼ばれた
という記述があります。これは
>>349とも絡んで歴史地理的に興味深いのですが、
出典が不明なので措いとくとして、とりあえず縁起です。
上のページにも書いてあるように、出雲系の天穂日命と武夷鳥命父子が
やってきて神崎神社を建立して大己貴命を祀ったのが始まりとなっています。
で、神崎神社といえば香取神社のお膝元、千葉県香取郡神埼町の神埼神社。
http://www.kaiun-goriyaku.com/12j-009.htm ここの祭神も鷲宮神社の武夷鳥命と同一神とされる天鳥船命でして、
この二つの神埼神社は同じものと言えそうです。それでもってこの
香取の方の神埼神社は7世紀の創建となっています。これまた出典は
不明なのですが、しかし7世紀というのが興味深い。
鳥越憲三郎の「出雲神話の成立」で詳しく考証されているように、
7世紀前半までは出雲族の中心は平野東部の意宇川流域にあり、
これが出雲大社のある斐伊川流域に移るのは7世紀後半なんだそうです
(ちなみに出雲国造が移ったのは記紀成立とほぼ同じ8世紀初頭)。
ところがべつに平野西部が無人の荒野というわけではなく、大小の
豪族がすでにいたわけです。たとえば神門郡には出雲国造臣から
別れた神門臣が住んでいたわけで、そこに本家が来れば譲らざるを得ないでしょう。
ようするに、出雲の国譲り神話の唯一の典拠である記紀が書かれている
まさにそのころ、出雲では「プチ国譲り」ともいえる事態が起きていたと。
その結果として初めて斐伊川流域を舞台にした記紀神話が完成するのですが、
それはスレ違いなのでさておいて、ともかくもともと斐伊川流域に住んでた
豪族が玉突き的に追い出されて関東に向かった。 とすれば、上の神埼神社の
7世紀につながります。
ここまで踏まえた上で鷲宮神社に戻ると、どうやら出雲族に係る神埼神社が
発祥というのはどうやら嘘らしい。では元々の由来はなにかというと、
神社の中にある堀内遺跡が浮かんできます。
http://syokoukai.or.jp/kankou/washimiya/pg.htm 縄文晩期以降、人の気配がぱったり途絶える武蔵において、
縄文・弥生・古墳と住み続けてきた鷲宮には古来からの神様が座して
いたのでしょう。そこに後からやってきた出雲族が出雲の神様を奉り、
そのうちそちらが元祖になってしまった。そんな感じがします。
このあたりの事情は、民俗・神話板の質問スレで話題になった大宮の
氷川神社と同様の構造がある気がします。社殿に「景行天皇の御代に
日本武尊がやってきてテコ入れした」というのがあるのも共通ですし、
何かしら出雲族の移入を古くしたい操作の存在を感じるのでした。
長々と書いちゃってすみませんでしたが、鷲宮神社からの妄想ネタだけで、
ご飯三杯くらい食べられそうな気配ですねw 先に書いた「浮き島大神宮」も
突っ込んでみたいですし。 いいネタをありがとうございました。
353 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 20:21:20
良スレage
354 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 22:01:01
誰か推測でもいいので下総国造について教えてクレ。千葉の歴史スレであの辺は縄文遺跡の上に弥生・古墳遺跡が立ってて全国的にも非常に希少とのこと。なのに正体がわかっていないんだ。頼む。
355 :
354訂正:2007/04/21(土) 22:04:26
あの辺(×)→市川の国府台のあたり(○)
下総国造なんていない。後に下総国の管轄下になる郡にはいた。
(これは日本どこでもそう。大半の国造は後の郡規模。)
例えば千葉国造、印旛国造、上下の海上国造、そして香取。
関西人なのでよくしらんが、市川は葛飾郡で、一番近いのは千葉国造かな。
確証は無いけど川筋つながりで印旛じゃねーかな。
千葉国造が何時成立したのか知らないけど、地勢的には菊麻国造領の分割。
>>357 君原礼二「古代東国の風景」(吉川弘文館)によると、6世紀になって
市川・松戸・我孫子あたりに新興勢力出てきて千葉国造につながるそうですね。
その前の旧海上国やそれが分裂してできた諸国の中では、辺境の田舎だったっぽい。
それが下総の国府が置かれるようになったんだから、それだけ千葉国造の
勢いがよかったということでしょうね。
んで、6世紀前半というと、「日本書紀」の安閑記に出てくる武蔵国造のゴタゴタも
同時期(もう少し遅いという説もあり)だし、「続日本後紀」には、畿内の豪族の
物部小事が坂東を征した勲功で匝瑳郡を与えられたとか出てくるし、
なんかいろいろ目まぐるしい。
もうひとつ、たとえば千束の鷲神社のような 天日鷲命を祀る神社が
東京の東側と千葉の西側にいくつかあるのも気になります。こちらは阿波の忌部氏。
ただし、千束の鷲神社は江戸名所図会(1832)には記載がないそうなので、
安易に古代に結びつけるわけにもいかない気がしますが。
359 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/25(水) 15:22:36
360 :
348:2007/04/25(水) 16:02:35
361 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/26(木) 06:36:28
>>360 ありがとうございます。
特にアーバンクボタです。これから利用できそうです。
この種の資料は検索が大変です。
362 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/26(木) 11:39:43
>>360 flood mapも参考に使わさせていただきます。
ただflood mapは樹頂等が標高になっているところがあり、
ベース地図は、国土地理院の2万5千分の1の地図等から引き起こさなければと思います。
363 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 12:43:20
【わきもと】札幌市民に企画有り!【しげゆき】
364 :
婆 ◆HKZsYRUkck :2007/04/26(木) 22:26:31
>>360 ありがとうございます。flood mapは面白いですね。
小一時間遊んじゃいましたw
市川の下総国府に絡んで、現在の東海道やそれに接続する水戸街道、
成田街道などのルートがいつできたのか、というのが疑問に思えてきました。
武蔵国が正式に東山道から東海道に変わったのは771年ということから
「古代から奈良時代までは浦賀水道の海路がメインルートであった」
という記述がwebでも多く見られます。ですが、下総の中でも西のはずれにあたる
市川が国府になるということは、100年以上前の7世紀半ばの時点ですでに
都内を通るルートが盛んに使われるようになっていたということだと思います。
もちろん全部が陸路というわけでなく、江戸時代でも「矢切の渡し」があった江戸川
周辺は船だったでしょうが、それでも房総半島の半ばまで回るよりもずっと早い。
そう考えると、8世紀はじめに書かれた古事記の日本武尊が浦賀水道を渡っているのは
ちゃんと時代考証ができているということなのか、単に当時も浦賀水道ルートも
メジャーだったからなのか…。
365 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 20:52:48
良すれgae
縄文気候の変動の話が非常に興味深いのですが
>>331にある
>縄文寒冷期の頃の暖冬では、南岸低気圧が増え雪が降ります。
>縄文寒冷期の頃の寒冬では、低気圧が遥か南方太平洋上を通過するので関東平野には雪が降りません。
>江戸時代の小氷期は現代の寒冬程度でしたから関東平野に雪が多かったに過ぎません。
の2行目、「低気圧が遥か南方太平洋上を通過」に関する論文やデータなどありますか?
366 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/30(月) 06:15:57
>>365 論文やデータと言うより、現代でも冬季には日常的に発生しています。
天気予報士の方々にとっては常識的なレベルのことと思うのですが。
367 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 16:33:55
>>366 わたしは天気予報士ではないので…
たとえば近年では何年の何月何日ごろがそうだったとか例をあげてください。
おねがいまします。
369 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/01(火) 06:36:40
>>367 「南岸低気圧」でググって下さい。
見つかるのではないかと思います。
ただ、南岸低気圧が沿岸部に近づいた場合に雪が降るったことの記載が殆どでしょう。
南岸低気圧が沿岸部から離れた場合の記載はなかなか見つかりにくいと思います。
雪が降らないで普通に寒いのでニュース性がありませんから。
寒冬になれば「何故雪が降らないのか」とニュース性がでるので記載が増えると思います。
しかしながら、この20年暖冬が続きで、南岸低気圧が沿岸部から離れて通過する場合があまりないようです。
自分は栃木出身で毛の字が入った苗字なんだけど
なんか関係あるのかな?
371 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 01:19:16
372 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 03:36:52
まあ普通に朝鮮人が来る前から関東にも縄文系の国家があったってことでしょ。
九州の隼人や出雲、東北の三内丸山みたいに。
んで第一次朝鮮移民では平和的に、出雲辺りで朝鮮系移民と縄文が
融合していったと。
第二次朝鮮移民が、いわゆる天孫降臨で、北部九州からどんどん東進して、
出雲以外の全ての関西圏を掌握。東の限界は日本アルプスまで。
いわゆるフォッサマグナだな。
この時点で、朝鮮系と日本系のバランスがしばらく続いて、
九州南部、出雲、そして日本アルプスより東が縄文系。
西側が朝鮮系の支配する領域になった。
そして、朝鮮系が更なる東進を始めて、関東、そして東北を支配下におさめたと。
しかし、関東以東は田舎だということで、朝鮮人は住みたがらず、
代官だけを置いて、税金を徴収して、縄文系の地元豪族に実質の支配は任せた。
朝鮮人が直接住んだのは大体名古屋まで。
また、関西圏でも山岳地帯に日本人が逃げ込んで残っていたために、
時代と共に徐々に朝鮮系と、縄文系が緩やかに混ざっていった。
っていうのが大体の流れだよな?
373 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 01:45:02
誤解されないように言っておく。
半島にとどまって、ツングース系女真族やら高句麗系と混血して、
新羅統一以降に出来たのが「朝鮮民族」。
だから、「朝鮮人」が日本列島に移民移民してきたわけじゃない。
半島倭人(ないし原日本人)の一派が日本列島へ移民してきた、
というほうが近い。
半島に留まったやつと、渡ってきた奴ね。
結局それ以前に遡れば一緒なわけね。
376 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 09:03:19
秦氏や漢氏などは一族で日本に帰化してるので、
半島に残った人間(今の半島人)とは根本的に違う。
377 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 11:09:00
373や376の意見って最近2chを中心によく聞くんだが、古代半島人と現代朝鮮人が完全に違うということは無いと思うんだがなあ。滋賀県人と朝鮮人との顔・体型の余りの類似度!柳美里や椎名英姫とおんなじ顔がゴロゴロ。あそこは古代半島人の入植地でしょ?
378 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 12:51:20
「古代半島人」と言ってる時点でダメ。
379 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 12:58:34
んじゃ「古代朝鮮人モドキ」ならOKなのか?
380 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 13:34:57
「韓民族」という想像の民族の伝統を主張するために、
扶余・高句麗・百済・韓・新羅・加耶、といった諸集団を
「韓民族」の祖先だとするのが、韓国では一般的です。
381 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/31(木) 15:30:17
>>380 でも、民族として最大の文化である言語では、
「新羅語」が朝鮮語の基本祖語なんですよね。
「高麗語」になると殆ど「朝鮮語」とみなして良いし。
扶余・高句麗・百済・韓・加耶の言語が殆どわからないこともあるが。
高句麗語の数詞が日本語に近いので、(高句麗語と新羅語は全くの別言語)
扶余・高句麗・百済・韓・加耶の言語グループに日本語も入っていると見て間違いないと思います。
扶余・高句麗・百済・韓・加耶が、「半島に留まったやつと、渡ってきた奴ね。」に分かれたのでないかな。
15世紀のハングル文字の発明と朝鮮語に漢字1文字の訓読みが無い事が、
15世紀になってやっと半島の言語統一が為されたことを示していると思います。
382 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 16:53:29
>>381 >数詞が日本語に近いので
それはもう、日本人はどこから来たか論の話でしょうね。
やれバイカル湖がどうだこうだの…
383 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 08:33:01
384 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/06/10(日) 11:57:18
385 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 08:06:34
386 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/08/26(日) 18:03:02
上げておきます。
関東平野の海岸線と神社のプロットはまだ出来ていません。
最近は魏志倭人伝の読み直しに嵌ってしまいましたので。
九州の1〜3世紀の気候地形等を踏まえて読み直すと新しい発見が数多く出てきています。
実質的に天皇家(大和朝廷?)が関東を支配下に治められたのは大政奉還以降とみなしてよいのでしょうか?
388 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/08/27(月) 00:08:53
>>387 畿内天皇朝廷が関東を支配したと思ったのは8世紀。
秩父和銅の件が、やっと支配できたと思い喜んだ最初の出来事だろうな。
蝦夷征伐が継続してできたのも、関東から兵士と食料を調達してたから。
また、平家が勃興できたのも関東と言う豊かな土地があったから。
これを考えると、それ以前に、朝廷と張り合える大王いたとしても不思議じゃない。
と寝れないので書いてみる。
390 :
日本@名無史さん:2007/09/15(土) 22:02:08
あげ
391 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/10/16(火) 00:00:40
>>383 遅レス
国造を廃し、国司を置いた時点で、
武蔵は大和朝廷の支配化になった。
それは、8世紀の始め、何年か忘れた。710〜720年頃?
おいおい、当時の状況でそんな余力が中央にあったとは思えない
393 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 16:22:54
>>392 >当時の状況でそんな余力が中央にあったとは思えない
地方支配を進めるだけの余力は持ち始めていたことが、続日本紀に記載されている。
*九州及び各地の鎮圧完了
*太宰府を核にした九州支配の達成
*各地の国造からの献上
*隼人や半島人等の東国北国への移住開始
*日本書紀の編纂開始
*風土記の編纂開始
394 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/01/20(日) 20:22:08
九州王朝揚げ
395 :
日本@名無史さん:2008/01/20(日) 21:21:32
上尾
396 :
日本@名無史さん:2008/01/20(日) 23:47:32
倭王武(雄略)は、
「六国(@倭A新羅B任那C加羅D秦韓E慕韓)諸軍事
・安東大将軍・倭王」を
中国(宋)の順帝から授かっている。
ヤマト朝廷は、当時の日本は間違いなく抑えていたと見ていいだろう。
397 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/01/21(月) 16:22:13
>>396 >倭王武(雄略)は、
それでは、倭武天皇(常陸國風土記)は誰になるの?
398 :
日本@名無史さん:2008/01/21(月) 18:26:10
ヒタチハラハラ
399 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/01/23(水) 09:53:29
以前のレスに出た「南岸低気圧」が今日の雪だよ。
縄文晩期の暖冬では、今日の様に南岸低気圧が通過し雪が降る。
雪が降るときは暖かく気温は-2℃〜+2℃。
縄文晩期の関東平野では平年の冬には、
シベリア高気圧はもっと張り出し南岸低気圧は太平洋上に南へ後退。
連日晴天が続き、夜間気温は放射冷却とあいまって-10℃以下は普通。
関東平野には雪が積もらないので、現在の道東以上の厳しい冬となる。(土壌凍結)
これが縄文晩期に関東平野で縄文人が希薄であった理由。
400 :
女王國はどこか?:2008/02/22(金) 01:26:25
之止ってる
地球温暖化によって今から1500年前くらいに関東にも人が住め
るようになったんですね。
今は東北南部までが雪に埋もれることなく生活できる地域だけれ
ど、今世紀中にも北海道まで雪に埋もれない地域が広がりそうです。
そのため、海面上昇によって領土を失ったり、暑くて住みにくくなった
土地を捨てた民が大移動を開始することになります。
日本人も、やはり、生まれ故郷であるバイカル湖の東岸まで戻ると
いいですね。
402 :
九州王朝大好き:2008/02/23(土) 22:51:15
>>401 1500年ではないよ、2500年だよ。
>>401 >地球温暖化によって今から1500年前くらいに関東にも人が住め
>るようになったんですね。
井草、稲荷台や夏島みたいな10000-6000年前の縄文遺跡は無視ですか?
404 :
九州王朝大好き:2008/02/27(水) 02:23:41
>>403 >井草、稲荷台や夏島みたいな10000-6000年前の縄文遺跡は無視ですか?
縄文晩期から弥生前期への移行期のこと。
縄文晩期には関東平野では縄文人の人口激減していたのが、
弥生前期にはいると縄文人と弥生人が共生し始め人口が増大した。
縄文晩期の人口減少の要因は気候の変動より
疫病の流行が疑われます。このころから弥生人
との交渉が増えてきて、免疫のない疫病が瞬く
間に広がったのかもしれない。
407 :
九州王朝大好き:2008/02/29(金) 21:03:01
>>406 疫病の流行は殆ど可能性はないと思う。
縄文晩期の寒冷化時に縄文人の人口が減少し、
時間をおいて弥生人の登場だよ。
諏訪も同様。
>>405 グラフを見ても一目瞭然としないよ。日本のデータがないよ。
日本の生体酸素同位体及び海水位面から判断すると、中世末から江戸時代の小氷期より前3世紀弥生小氷期のほうが気温が低いよ。
自然薯は低温に強いから取り上げるのは無駄。生産性の高い里芋ではどうなるかな?
ドカ雪は南岸低気圧が接近通過して暖かい時に降るんだよ。
寒冷期ではドカ雪は早春と晩秋に多く、温暖期には降っても真冬。
408 :
日本@名無史さん:2008/02/29(金) 22:20:52
「九州の火山の大爆発で西の縄文人は死滅して東に多くなった」とかNHKの番組で言ってたけど、
それなら、富士山なんか300年?ごとに噴火してるのに、関東はもっと減ってないとおかしい。
あれは、西を新参の渡来系の侵略者にでっち上げて、
東を「平和を愛する縄文人」に仕立てようという工作、関東のプロパガンダだった。
現実には、関東人こそ新参の渡来人。
朝鮮から渡来したのは明らか。裏づけもある。
この事実を全く扱わなかったのは、製作者が関東プロパガンディストだったから。
409 :
日本@名無史さん:2008/02/29(金) 22:36:38
>>九州王朝が最大の権力を持っていても、
>>大王は全国に割拠していたのでしょう。
>>それらは>>九州・畿内・東海・関東・北陸・新潟・東北に
>>3〜4大王と推測しています。
それ、言ってて恥ずかしくない?
たとえ仮に大王を称する人物や政権が
地方に群在したとしても、
系譜が現在の皇室に繋がらないような政権は
「私政権」とみなすのが常識じゃないでしょうか?
もし地方の非大和系の政権を「王朝」として認めるのなら、
日本国王名義で明との交易を行った大内氏も王ですな(失笑)
俺はあなたみたいに闇雲に合理主義だけで
日本固有の歴史観を破壊しようとする人物は軽蔑しますね。
410 :
日本@名無史さん:2008/02/29(金) 22:41:04
もし地方に独立政権の実態があったとして
それをどう解釈するのか、その姿勢が問題じゃないでしょうか?
俺は抗議しますよ。ヒド過ぎる。
411 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 00:45:45
>>408 >「九州の火山の大爆発で西の縄文人は死滅して東に多くなった」とかNHKの番組で言ってたけど、
>それなら、富士山なんか300年?ごとに噴火してるのに
自分で答え書いてるじゃないかw
九州の火山は大爆発、富士山は噴火って。
412 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 02:00:53
>>411 言葉尻をとらえるくらいしか能が無い、つまらん奴が湧いてきた。
大和朝廷にしてみれば、大和以外に大王なんかいては困るわけで、
正史である記紀にそんな記述を残すはずがありません。
414 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 12:55:37
>>大和朝廷にしてみれば、大和以外に大王なんかいては困るわけで、
>>正史である記紀にそんな記述を残すはずがありません。
なるほど、ようやくいいたいことが理解できました。
要するにこの説の方々は、
当時、「大王と称する者」たちが、大和王権以外の地域にも
複数名存在した、ということですね?
つまり俺とみなさんとの立場の相違は、その大王たちを
古代天皇家の大王たちと同列の「王権」であると認めるか否か、
というあたりになりそうですね?
俺の立場は古代天皇家との系譜上の繋がりを持たぬ「大王」たちは
「自称大王」に過ぎないと考えますが、この説の人たちは
その大王たちにも、大和王権の王と同列の地位を与えよ、
という立場なのですね?
415 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 12:58:48
これはある意味、非常におもしろく、新鮮な説ですね。
これら複数の「王権」は、ある時期、
畿内政権に吸収されてしまった。
別に古代においては、複数の王権があろうと
特段に困る事情はありませんでしたね…。
すいませんでした。
関東プロパガンディストなる気違い被害妄想よりマシ
417 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 13:40:40
NHKは、歴史モノで関東人のルーツを深く掘り下げて追求したことがない。
関東の古代史はタブー。
朝鮮にルーツがあるという事実が、ばれてしまうからな。
418 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 13:53:38
>>関東の古代史はタブー。
>>朝鮮にルーツがあるという事実が、ばれてしまうからな。
朝鮮といっても関東に入植したのは
百済かの移民だろう?
当時、百済とか南朝鮮、あるいは沿岸部の住人は
そうとう倭人と近い人種だったと推定されてるんだぞ。
少なくとも、今の朝鮮人とは別人種だぞ(笑)
419 :
名前:日本@名無史さん:2008/03/01(土) 13:58:32
>>418 高麗郡や新羅郡は無視?
数千人で充足するような狭い集落ではなかったんだぞ。
420 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 14:08:41
確かにそう言われればそうだが、
そこまで厳密にいうなら、長い目でみた場合、
朝鮮の血が関東だけに限定される、というのは傲慢じゃないか?
正直、他の地域の日本人にも、そうとう濃く、
朝鮮人の血は移植されてると思うぞ...
たぶん、あなたの中にも、入ってるぞ(笑)
しかし朝鮮人って、結構優秀な民族だと思うよ。
421 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 14:38:21
古代においては
半島に残留→カス、戦争好き
日本に移住→優秀、平和主義
422 :
九州王朝大好き:2008/03/01(土) 14:46:11
新羅、高句麗、百済の難民が日本に逃れてきただけよ。
その移住者は関西に比べれば関東は少ない。
関東の難民の多くは7世紀末から8世紀に入ってからの関西からの再移住。
これら移住してきた高麗(高句麗)人、新羅人、百済人は倭人に近い人々で朝鮮人ではない。
423 :
九州王朝大好き:2008/03/01(土) 14:49:17
半島に残留したのは支配階級ではなく、下層階級だろうね。
424 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 15:02:06
現代においては
半島に残留→カス、戦争好き
日本に移住→カス、火事場泥棒
半島も仮の住処。
もとはといえば、揚子江文明を源流とし、越や呉の国を興した中国の王族の子孫
が(部族を引連れて)出雲の国、越前越後から関東平野に移り住んだわけだし、
集団稲作を持ち込んだのも彼ら。東国の祖ともいえる人たちです。
426 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 16:26:00
日本に移住→戦争好き=関東武士
427 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 16:41:49
朝鮮半島から渡来してきた人間が大量にいて、しかもそれが我々日本人の祖先に含まれるというのは事実なんだから
20世紀〜21世紀の日本と朝鮮半島の関係、しかも感情的な対立をもって当時の社会情勢を分析してもナンセンスだろ。
ばかじゃなかろうかw
>>408とか
>>417とかは完全な気違い。
428 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 21:00:20
>>427 朝鮮からの渡来の本場が関東だったのに
関東含む東国が渡来系ではなく縄文系だとかなんとかいうキチガイが多い。
九州に半島の属国あり。
>>428 5、6世紀以前の記録に残らない朝鮮半島からの渡来人は畿内に多い。
432 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 04:10:58
渡来人の子孫だから頭がおかしいのです
433 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 04:56:17
関東の大王は太田に住んでたよ
434 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 23:20:38
>>422 高句麗(北朝鮮)の有力者、高麗若光や背奈福徳は、高句麗から直接関東に移住した。
朝鮮難民の移住先は、フロンティアの関東、武蔵だった。
435 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 23:58:25
>>430 「記録に残らない」のに、なぜ多いとわかる?神の声か?
436 :
九州王朝大好き:2008/03/03(月) 02:02:21
>>434 高麗若光や背奈福徳は関東の先住高句麗人の地に移住した。
すなわち彼らは関東の一番乗り高句麗人ではなかった。
そして関東に散らばる高句麗人をまとめ、高麗(コマ)地方で発展した。
背奈福徳は畿内にワンクッションおいて関東に行ったのでは?
また、高麗若光は高句麗王族である背奈福徳一族に呼び寄せられたと見ている。
高麗若光来関東後の8世紀における高麗地方の灌漑米作による発展は目を見張るものがあるからね。
埼玉県に高麗川、越辺川に囲まれた地域は幡羅郡と呼ばれ、
その名が示すように、朝鮮半島から渡来した秦氏(新羅系)
が中心になって拓かれたところである。秦氏の渡来は5世
紀の半頃といわれるから、7世紀に武蔵國が置かれる以前
から、この地方には渡来文化がやってきたようだ。
この地域には、深谷市の「原郷」や「唐沢川」(唐は古代朝
鮮半島南部のカラ=加羅)、「幡羅(ハタラ)町」、熊谷市の上
奈良・下奈良、奈良神社など、いたるところに渡来文化のな
ごりをとどめる地名が残っている。
ただし、上毛野国を支配していた毛野氏は=高麗人では
なさそうです。豊城入彦命の曾孫にあたる御諸別命が祖と
言われていますから、出生は定かでないにしろ崇徳天皇の
子孫ということになります。まあ、先住民も多かったわけだし、
源氏も朝鮮半島から渡来した騎馬民族だったと思われます。
438 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/03/06(木) 11:00:27
>>437 もう少し正確に書いてね。
>朝鮮半島から渡来した秦氏(新羅系)
秦氏は新羅(シラキ)系で半島倭人。
新羅(シンラ)は朝鮮人の国。(挹婁人もしくは濊人の国)
私は新羅(シンラ)が挹婁人の国と思う。
『挹婁 鏃皆施毒中人即死便乘船好寇盜』後漢伝
『挹婁 鄰國人畏其弓矢卒不能服也其國便乘船寇盜』三国志魏書
とあるように挹婁は南下し、濊を滅ぼし、次いで倭人の国である新羅(シラキ)を滅ぼし、新羅(シンラ)を建国。
新羅(シラキ)の秦氏は列島倭に亡命した。
>毛野氏は=高麗人ではなさそうです。
毛野氏は関東の夷だ。
高麗人≠高句麗人
高麗人は朝鮮人[古朝鮮語を話す人。新羅(シンラ)も古朝鮮語]。
高句麗人のつもりで高麗人と書いたのではないの?
関東の高麗(コマ)は高句麗のこと。
>>438 正確に書けといいながら妄想垂れ流すなヴォケ
440 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 10:34:55
>>438は妄想ではないな。
一理あり。
否定は出来ぬ。
>>438 新羅系秦氏について
まず、渡来の経緯から大きく3つに分けられると思います。
1.徐福集団の秦氏
2.新羅の秦氏
3.任那の秦氏
1.徐福集団の秦氏・・徐福出港(BC219)
ただし、徐福自身、秦の始皇帝の血を引いているわけではなく、
秦に滅ぼされた斎の国の出身ですし、徐福が連れてきたのは、
職能集団でしょう。
2.新羅の秦氏・・呉の滅亡(BC472)、越の滅亡(BC334)
秦は、始皇帝の死後間もなく崩壊し、さらに、呉や越も楚によっ
て滅ぼされるわけですが、その一部は、朝鮮半島に一時とどまっ
たものの日本に渡来して、我こそ秦王朝の正統と名乗ったのが
新羅系の秦氏ということです。
3.伽耶の秦氏・・伽耶諸国滅亡(AD562)
いわゆる任那秦氏は、馬韓など伽耶諸国に住み着いた集団で、
これも民族的には混血が進んでおり、ある特定の血族だと考え
ると誤ると思います。
442 :
438:2008/03/10(月) 16:09:24
>>441 2.は、新羅(シンラ)の勃興よって新羅(シラキ)が滅亡し、日本に再脱出した秦氏のことですね。
白木屋と関係あるんですかね?
444 :
438:2008/03/10(月) 17:05:29
>>443 新羅(シラキ)の南部は4世紀から任那と呼ばれるようになった。
シラキは志羅紀とも書くらしい。
白木と新羅(シラキ)は植物のシラキ繫がりで関係があるように思える。その関係の否定ができない。
渡来人と言うのは、少数例外を除けば難民。
関東ローム層地域へ入植したのは
言い方悪いけど「棄民」みたいなもの。
数代で絶滅したろう。
446 :
日本@名無史さん:2008/03/27(木) 00:16:17
>関東ローム層地域へ入植したのは
>言い方悪いけど「棄民」みたいなもの。
>数代で絶滅したろう。
高麗(コマ)は絶滅していない。
447 :
日本@名無史さん:2008/03/27(木) 12:47:56
今でも高麗神社は賑わってますぜ!
448 :
日本@名無史さん:2008/03/27(木) 16:01:42
摂津源氏は牛(かっこつけて)牛の文化で牛とともに発展した
449 :
日本@名無史さん:2008/03/27(木) 16:05:53
摂津源氏は牛!ンモモモモモおおおおお牛に乗った武士団がやってきます
牛に乗ったトライさむらいがあああああ
450 :
日本@名無史さん:2008/03/27(木) 16:10:32
んもももももみみをすませてごらんきこえてくるだろう?牛に乗った侵略者。
鉄の刀を持ち鉄の矢じりを持った大軍のざわめきが!んももももももも
451 :
日本@名無史さん:2008/03/27(木) 16:14:09
たいへんたいへんしんりゃくしゃがきた神戸和牛にのっている!てつのやじりを
もっている!
452 :
日本@名無史さん:2008/03/27(木) 16:46:56
いかだにふんどしの大筏団が!・・・わたし(かみつけぬ)はあのような大編隊
をまだみたことがありませんいったいどうなるのでしょう・・・ひとつきいていいか?
…かれらは うみにんか?
453 :
日本@名無史さん:2008/03/27(木) 16:51:03
う〜ん国家として侵攻したとどこにもなさそうなのでうみにんのしゅうだん
でしょう
454 :
日本@名無史さん:2008/03/27(木) 17:12:35
わたくしかみつけぬとしてはちゅうごくの大商人以外は皆丸木うみにん
なのではないかと・・・
まるで丸太を抱いているような石女は嫌じゃ。
やっぱり虞美人がいええのう。
456 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 23:39:23
鈴木氏の分布をみれば、出雲由来の毛野氏がいかに大きな集団だったかが理解できると思います。
457 :
日本@名無史さん:2008/04/22(火) 20:06:21
テレ東京見てみな。
関東の歴史が変わるぜ。
458 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/22(火) 20:42:30
見れない。
テレ東京しか放送していないから。
459 :
日本@名無史さん:2008/04/22(火) 21:55:34
日テレ見たけど、日本国って関東だったのね。
460 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 02:36:23
461 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 02:47:03
古代社会において、良民とされるのは農民であって、それ以外の職能集団は
賎人だった。朝鮮帰化人も王族貴族をのぞけば、その殆どは最下層の民だった
のである。続日本紀に出てくる雑戸、雑色の類である。今は民族問題とか
複雑な問題があり、誰も深く言及したがらないのだけれども、少し文献を読めばすぐわかる。
古代ローマのガリア戦記をよめ、あそこに書かれているのは、虐殺と奴隷狩りの
記述あるのみである。日本書紀には直接的表現ない。これはガリア戦記と違って
正史としての体面を重んじたからであろう。悲しいことに、わが先祖も例外ではない。
ローマ兵士と同じことを三韓で繰り広げたのである。
462 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 03:23:05
いまの価値観で古代社会を語るな、てことだ。徳川の士農工商制度は別に
徳川幕府が発明したのではなく、昔からの慣習を継承したにすぎないのである。
もっともこの時代は貨幣経済が浸透した後なので、身分にそれ程差があったわ
けではない。貨幣が浸透していなかった古代社会において、農民はオオタカラノタミと
して良民とされ、残りはおうざっぱにいえば賎民だったのである。
参勤交代も古代九州王朝の制度を真似たらしいです。
九州大宰府を守るため、各地の大王は大宰府周辺に
陣屋を建てて、そこに一定期間ごとに移り住んだ。そし
て防人として自国の領民を住まわせて大宰府の防衛
に当たらせていたとか。
さらにそれは、日本中の神々が集まる出雲の神無月
に由来するものという説まであります。
464 :
唐松山:2008/05/05(月) 15:33:27
九州王朝大好きさん その他の皆様にも 大変ご迷惑を掛け申し訳ありませんでした。
やっと編年が出来上がりましたので 少しは論に加われると思います、
戻ってきても 宜しいでしょうか?
465 :
ファッションセンターしまむら:2008/05/05(月) 17:41:34
はい
466 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/05(月) 18:37:10
ネタがあればいつでもどうぞ。
ネタがあれば・・ね
468 :
日本@名無史さん:2008/05/06(火) 15:09:22
さいたまー
470 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 17:30:01
>464
編年って、何に関しての編年ですか?
この編年、ちょっと変ねん
472 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/10(土) 18:55:37
私の 編年は、書記の長すぎる年数を 読める 年数に直すこと、
そして 稲荷山の 辛亥年 を求めること。
結果は 辛亥年は 応神か仁徳時代に求めないと 年数が合わない。
丁度 関東の騒がしい頃。
473 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/12(月) 00:56:04
稲荷山の 辛亥年 は、まだ詰めが進行しない。
平凡だが、最有力候補は辛亥年531年説。
次いで、471年。
411年も捨てきれないところがある。
関東の騒がしい頃は534年のことではないの? (笠原直使主と小杵[back上毛野氏]の勢力争い。)
榛名山の噴火により毛野が弱体化し、
武蔵と毛野の勢力バランスが崩れたことが原因と推測します。
474 :
日本@名無史さん:2008/05/12(月) 02:38:12
>>469 日本王国?
もしかして渡来人が開拓した時代の事か?
475 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/12(月) 19:39:14
笠原直使主より 以前に蝦夷の造反があり 軍を派遣していますよ。
現在 この時代の 暦は、3種類ある
@中国の暦
A天皇家の暦
B古事記=出雲の暦
476 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/12(月) 19:58:36
168年 ホ32138 ヰホセミナ ウチウツシコメ うむミコは ヤマトアエクニ ヲヲヒコぞ
196年 ナツキコカ ヲヲヒコをして コシのオシ
196年 タケヌナガハを ホツマオシ
230年 垂仁?25年 タケヌガワケ アヘタケヌガ 伊勢に入る 風早国
248年 景行12年 ヲホのタケモロ 九州へ
255年景行40年 日本武尊 関東遠征
256年ミサシクニ サカムノクニと モトヒコに ナつけたまわる
ナもアツマモリ ヲホイソに ヤシロをたてゝ カミまつリ
カワアヒのノに ヲホミヤを たてゝまつらす ヒカワカミ
イクサウツハは チチブヤマ
258年 景行53年ムツカリ カシハトモべと ナをたまふ ヲホヒコのマゴ イワカなり
261年 成務天皇 … 264年 仲哀天皇
273年神功皇后… 323年 応神天皇
366年仁徳天皇 … 400年 履中天皇
途中 略す。
457年 雄略天皇
意冨比こ→多加利足尼→弖巳加利獲居→多加披次獲居→多沙鬼獲居→半弖比→加差披余→乎獲居臣
168年→→188年→→→208年→→→→228年→→→→248年→→→268年→→288年→→308年
20年で繋ぐと こんなもの。
ムツカリは、現在 高橋神社に祀られている。
継体朝 笠原使主と同族小杵の争い。使主勝ち武蔵国造となる。
477 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/13(火) 19:03:01
>>475 >笠原直使主より 以前に蝦夷の造反があり 軍を派遣していますよ。
蝦夷の造反記事は日本書紀のどこに書かれているものですか?
478 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/13(火) 21:17:23
仁徳五十五年 蝦夷叛之 遣田道令撃 則爲蝦夷所敗 以死于伊峙水門 時有從者 取得田道之手纒與其妻
乃抱手纒而縊死 時人聞之流涕矣 是後 蝦夷亦襲之 略人民 因以 掘田道墓 則有大蛇
發瞋目自墓出以咋 蝦夷悉被蛇毒 而多死亡 唯一二人得免耳 故時人云 田道雖既亡 遂報讎 何死人之無知耶
六十年冬十月 差白鳥陵守等充役丁 時天皇親臨役所 爰陵守目杵 忽化白鹿以走
於是 天皇詔之曰 是陵自本空 故欲除其陵守 而甫差役丁 今視是怪者 甚懼之 無動陵守者 則且
授土師連等
六十七年冬十月庚辰朔甲申 幸河内石津原 以定陵地 ○丁酉 始築陵
この辺は どうでしょう 丁度白鳥陵=日本武尊も出てきますし、
ただし 私的には、まだ干支の決定が出来ていません。
479 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/13(火) 21:40:58
西暦381年辛巳は 古事記=出雲暦辛亥年に当たります。
480 :
日本@名無史さん:2008/05/14(水) 19:57:25
実は、渡来人のほとんどは半島からの出戻り屯田兵。
481 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/15(木) 12:10:38
渡来人のほとんどは半島における 傭兵、及び捕虜。
482 :
日本@名無史さん:2008/05/15(木) 13:31:19
加羅や百済や高句麗の亡国移民も多数
483 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/15(木) 22:01:41
亡国移民 絶対数では 少数
つれてこられた捕虜が まず応神、仁徳稜の建設に当たる。
役目を終えた 捕虜は 各地の王に配布され 関東にも 入植。
上毛族は、それ以前から 長野の手力男 の下で農業に携わっていた蝦夷や初期弥生人。
484 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/16(金) 09:40:15
>>478 唐松山 ◆V0F34EbmQAさん
今のところ、僕とは全く話がかみ合わないので、論争もできません。
すみません。
485 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/16(金) 09:44:01
>>480 >実は、渡来人のほとんどは半島からの出戻り屯田兵。
>>481 >渡来人のほとんどは半島における 傭兵、及び捕虜。
半島支配階級の亡命もあるよ。
486 :
日本@名無史さん:2008/05/16(金) 15:32:06
埼玉県日高市の高麗神社の由来もその証拠。
487 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/16(金) 20:59:47
そうですね 私の編年が トンデモ物ですから
ただし 古事記でも読める事も事実ですし。
履中以後は、皇暦と同じですよ。
488 :
日本@名無史さん:2008/05/16(金) 23:06:14
大阪の半分は、朝鮮半島からの移民でできています。
そして残りの半分は・・・
残りの半分はというと、奴隷として東国や東北から
都につれてこられた俘囚。そいつらが逃げ出して
難波のドヤ街に住み着いた。
491 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/29(木) 17:21:28
墓標を 出雲暦で見る 没年
63〜76 皇暦 神沼河耳命/綏靖A 壬子年5月10日50
77〜87皇暦 玉手見命/安寧B 庚寅年12月6日49
88〜91皇暦 鉏友命/懿徳C 甲子年9月8日65
93〜118皇暦 訶惠志泥命/孝昭D 戊子年8月8日67
119〜145年 國押人命/孝安E 戊午年1月9日77
145〜163年 賦斗迩命/孝霊F 丙子年2月8日55
164〜180年 國玖琉命/孝元G 癸巳年9月3日46
183〜190年 大毘毘命/開化H 癸卯年4月9日40
元年は、私の書記による編年 参考です。
ここからは責任もちません。
360年 品陀和気命墓(棺) 甲午年九月九日75
386年 大雀命墓、己未年八月十五日、83
399年 伊邪本和気命墓、壬申年一月五日64
405年 水歯別命墓(棺)、戊寅年七月五日59
423年 若子宿禰命墓、癸巳年一月十四日61
481年 木梨軽王命墓、甲午年五月十二日41
483年 穴穂命墓、丙申年八月九日41
506年 大長谷若建命墓、己未年八月七日62
出雲暦のラインで干支が読める様になりました。
492 :
日本@名無史さん:2008/05/29(木) 17:28:38
鉏
いきなりあれなんですけど毛野って毛奴とも書けますね。科野も しな奴・・・
ひたち はなんでしょう。いたち なんて言葉はまだ無かったですか。むさし
はなんとなく朝廷よりという感じで悪い響きは無さそうですが案外虫からきて
いるのかもしれないです。もしも毛奴、科奴、鼬、蓑虫なんて名前だったら(僕は)
楽しいですね。ま、こういう蔑称じみた言葉使いはどこから来ているのか。
彼らの性格でしょうか。僕にとって他人の性格を正確に把握するのは難しいので
性格はおいといて、魏史の言葉づかいに似ていると思います。遣隋使や遣唐使とか
当時の朝廷は文字の使い方を隋や唐から吸収?したのかもしれないと思うのであります。
さて金印です。どういう順番でまとめればこんがらがらずにうまくまとまるのでしょう
少しだけそのものズバリをあれすると、・・とまず適切かつ正確な文章表現になるか自信は
ないのですが、
漢に貢物を奉るという行為は漢に服属することであり、大和朝廷が漢に服属するということはあってはならない
ことであるから、大和朝廷が朝貢をした事実はないと考える人たちが、江戸時代に存在した。
あるいはまだ公開されていない、ある程度以上権威を待った古書物の中に、はっきり漢への服属の記録が
記されていてそれを江戸時代にある人たちが読み知り、紆余曲折を経て服属の記録を根絶させることに決めた。
金印は本居宣長が古事記伝をまとめている最中に発見された。
金印は志賀島で見つかっていて、大和朝廷の所有物が九州で見つかった例は多分一度もないしこれからもない
ことから邪馬台国と大和朝廷は異なるものであることは疑いがない。
こんがらがりそうなので
朝廷が外国に服属することはあってはいけないと思う人はいつの時代にもいるかもしれないしそう考えた人は
一人もいないかもしれません。僕には本居宣長が何を考えていたかは分かりません。
それにしても明治政府は清に対してどの程度だったのでしょう。魏志倭人伝て日本人が考えたっぽい
ようにも思えてあれが偶然なら誰でも簡単にセットアップ&DEATHね
つまり漢に服属したのは九州に存在し大和国に名前がよく似ている邪馬台国で大和
朝廷とは一切合財全然関係がない0パーセントナッシング。という意図が僕には
あるいは僕だけに見えてくるのであります。・・・漢の倭 の中の奴国?それとも
漢の奴国(漢とは別の倭の領土内にある)?漢の倭ならこの金印・・持つべきものは
テンプレートとアドインDEATHね
おかげさまで服属国になれました。なんてやっぱり何かが危ないんでしょうか?
鉄と銅かな。関東の鉄と銅はどうなんでしょう。鉄はないですか。和銅なんて
年号は興味深いですね。とにかくやたらと捏造したがるという感じを強く受けます。
ある特定の人たちをかなり狙い絞って濡れ衣を着せるやり方が目立ちます。
そういうやり方の結果は戦争→ヒロポン→カラーテレビと新聞屋→70年代はなんでしょう?
色々ありそうですが端折って80年代前半もありそうですね→株価の下落→破防法の適用→
と大雑把に見てもいいこと一つもないんですけど教授室には余波が来ませんか。
RCは丈夫です。銅と鉄です。
昨日、紳助の番組を見ていたら、
群馬県は、県民一人あたりの自動車保有台数が全国一位。
椎名山に一大勢力を築いた車持氏の地元群馬県。
300メートル先でも車で行くし、車なしの生活は考えられない
とか・・
歴史とはこういうものです。
498 :
唐松山:2008/06/10(火) 20:10:05
285 戊寅 皇872 壬辰 五百木入日子命/景行子 戊寅年6月3日46、239生 46才
312 乙巳 皇918 戊寅 若建王命/小碓子 戊寅年11月6日55、257生 55才
318辛亥 皇924 甲申
若建王と辛亥年
やっと見つけました。
499 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/11(水) 00:59:15
榛名山が5〜6世紀の頃2回噴火しています。
この噴火によるC14のデーターによると、
辛亥年は471年か531年になります。
辛亥年→稲荷山古墳建造→榛名山噴火→毛野在地勢力衰退(武蔵国造の乱・6世紀末の前方後円墳建造)
の時間経過なので、辛亥年は471年説が有力と考えられます。
辛亥年471年とすると、獲加多支鹵大王は倭武(倭五王武)となります。
500
501 :
唐松山:2008/06/11(水) 11:40:42
雄略を倭王武とするには、
治世 474〜506年になります
498年 出雲歴 辛亥年
502 :
唐松山:2008/06/11(水) 11:44:38
当然 7代を読み替えるのだが タカハシワケ等 齟齬が生じる。
7代を読み替えないためには、318年
503 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/11(水) 13:25:35
>>501 倭王武は九州久留米に都を置いた大王のことです。
504 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/11(水) 19:44:05
このままだと 完全に平行線を辿りそうなので 今回は、
この辺でお開き また何か面白い物が見つかったら 持ち込みます。
倭王武は関東の大王。これですべての謎が解けた!
10代崇神の子、豊城入彦の孫御諸別が武力を伴わず、
平然と関東に天下った理由がこれで分かる。
>>505 倭王武が関東の大王として、西暦450年〜500年頃でしょう?
10代崇神は、繰り下げても、250年〜300年頃だから、
その子、豊城入彦の孫、御諸別、とは時期的にずれるのでは?
507 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/12(木) 17:40:23
>>506 倭王武は470年前後から510年前後迄の『宋書』倭国伝上の人物です。
関東の大王でも、雄略でもありません。
倭王武(倭武[イブ])の次の九州大王は磐井(倭王ワイ)になります。
508 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/12(木) 19:29:38
古事記の干支で 雄略の没年を見ると、506年没に成ります。
☆473..丙戌...1133........丙戌年12月8日 18..小長谷若雀命/武烈25
☆506..己未...1166........己未年8月7日 62..大長谷若建命/雄略21
墓標の干支から今 こんな 数字を考えています。
509 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/13(金) 21:16:15
補足
出雲干支と 皇歴干支 西暦400年位から この差です。
その時は 皇歴干支=西暦干支です。
473 丙戌 1133 癸丑 小長谷若雀命/武烈25
506 己未 1166 丙戌 大長谷若建命/雄略21
白瀬が長谷の遠祖だということに気がつけば、
歴史の見方も変わってきます。
511 :
日本@名無史さん:2008/06/24(火) 20:55:18
関東の大王と足利氏の関係は?
東松山
513 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/25(水) 20:00:27
>関東の鉄
諏訪の自然鉄、これより前は無いと思う
自然鉄(沼地に出来る)の名称=さなぎ 銅鐸と同じ呼称です。
振るとカラカラ音がする、茶色、
採取地=池のクルミ 聞いたこと有りますか?
霧ヶ峰です。
しかし、葦の原にバクテリアの作用でできた褐鉄鉱(かってっこう)、
これを原料に鉄器を作ったという説は、なるほどと納得できますが、
それを武器や農機具として大量生産できたかというとそうではなかった
と思われます。あくまで、司祭の道具でしかなかったのではないでしょうか?
日本に本格的な鉄器時代をもたらしたのは、やはり「たたら式」の鉄づくりが
伝わってからだと思われます。
515 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/25(水) 23:53:39
>>514 褐鉄鉱の産出量が多ければ鉄の大量生産はできる。
3世紀半島弁辰の鉄原料も褐鉄鉱。(非タタラ製鉄が行われた)
長野県でも大量の褐鉄鉱の採取可能。
第二次大戦中には、阿蘇リモナイト(褐鉄鉱)のように、
長野県産の褐鉄鉱(黒姫山麓)も製鉄の原料とした。
阿蘇リモナイトは装飾古墳の赤色である鉄ベンガラの原料。
石棺の中から大量のベンガラが発掘された。
消臭剤として使用されたものと思われる。
阿蘇では弥生の鉄遺蹟が多くあるが、そこではタタラ式でない製鉄が行われたと思われる。
製鉄の手順
褐鉄鉱(リモナイト)→[第一工程脱水]→酸化第二鉄(ベンガラ)→[第二工程脱酸]→金属鉄
タタラ製鉄は第二工程に相当。
516 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 16:55:22
TBS(笑)
517 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/29(日) 18:37:34
自然鉄ですから 量は少ないと思います。
日光やその他いくつかの神社で神宝として、伝わっているはずなのだが、
以前ネットで調べたときは、出てきたが今調べても出てこない。
テレ東のぁゃιぃ歴史ミステリー番組で、さきたま古墳の稲荷山鉄剣の斯鬼宮を
栃木県藤岡町の大前に比定する説がでていたけど、このスレの人はどう考えているのでしょうか?
番組のかなりの部分はdでも説が多いけれど、この部分だけはなかなか面白いと
素人目には思ったのですがどうでしょう?
藤岡は、明治の渡瀬川改修以前は西を渡良瀬川、東を思川の低湿地に挟まれた
岬状に飛び出した台地で、上野、下野、武蔵、下総を睨む戦略的にも好立地だと思って見ていたのですが。
斯鬼宮栃木藤岡説は古田武彦氏の説だったと思うけど、どうなんだろうね。
むしろ考古学的には『毛野』という概念に反して渡良瀬川を境に
出てくるものが違うみたいだが。
藤岡の隣に岩舟町というところがあって、平野ばかりの土地になぜ?
と思わせる謎の地名です。みかも山公園(三毳山) という地名もあり、
加茂や毛野氏を連想させます。
昔、渡良瀬湿地帯は大きな湖で、古代の河川交通の要所にあった。
岩舟町大字静。静は瀞(トロ)と同義で、水の流れが静かなところ
を指します。船着場があったと思われます。トトロも同じです。
523 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/07/19(土) 11:51:29
>>521の説に同意する。
渡良瀬遊水地は縄文前期には古東京湾の最北端になる。
(渡良瀬遊水地南部の谷中湖湖底は現在の海水面より低い。)
谷中湖の南側にあたる海は、縄文中期以降に利根川の堆積物によってせき止められ、
谷中湖以北に南北15〜20km東西30〜50kmの湖(古谷中湖)が形成された。
この湖水は渡良瀬川の堆積物により徐々に埋め立てられ、
最後に残ったのが渡良瀬遊水地と谷中湖である。
岩舟町に残る水にちなんだ地名(静・戸・島)は、この巨大湖にかかわるものとみなせる。
又、岩舟山は湖に突き出して船の様に見えたことから付けられた名前とも考えられる。
524 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/19(土) 15:36:45
斯鬼宮
河内?のシキは、日本武尊の土地。
ワカタケが其の後を嗣いだ。
>>524 栃木県には河内郡という地名があって、宇都宮市も旧河内郡でした。
つまり、河内とは川の内側という一般名詞ではないかと考えられます。
また、宇都宮は池辺郷、つまり、鬼怒川に繋がる大きな池のほとりに
ありました。宇都宮二荒山神社の主祭は崇神の四世孫豊城入彦であ
ることからも、河内イリ王朝との深いつながりが伺えます。
527 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/07/20(日) 01:10:30
>>525 「静」は、古谷中湖中の現富士山などの3島より成り立つ群島の西の入江あたる場所である。
「静」は、東は上記群島、北は岩舟山湖岸、西は三カモ山湖岸に囲まれたところ。
528 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/07/20(日) 01:13:54
三カモ山→三毳山
渡良瀬川の谷中湖だけではなく、古代利根川や鬼怒川にも大きな湖や池がたくさん
あって、諏訪湖ももっと大きかったらしいし、松本湖があったと伝えられています。
その古東京湾沿岸やそこに繋がる河川や湖沼を支配していた豪族がいたはずなん
だけれど、その正体が見えてきません。それは、縄文時代中期以降、海面の後退が
早く、船着場が干上がって、港の支配者は勢力を維持すうことができなかったことが
原因ではないかと思うのだけれど、消えてから千年以上たった勢力の足跡を追うの
は難しそうです。
地球温暖化による環境変化も、早すぎると、大きな変革をもたらすことになるでしょう。
530 :
日本@名無史さん:2008/07/22(火) 16:18:38
関東平野では、縄文晩期寒冷期に縄文人達はほとんどいなくなってしまっているからね。
古東京湾最北部の縄文人で弥生時代まで継続できたのは鷲宮だけのようだ。
531 :
日本@名無史さん:2008/07/23(水) 17:52:45
活火山富士山や浅間山が近いからな。
火山大噴火→火山灰降灰・堆積→食糧難→人口激減→新参渡来人移住・定着→人口増大→火山大噴火→以下ループ
というループにより、古代から定住していた古代人(縄文人)が殆ど残らなかったのが関東。
532 :
日本@名無史さん:2008/07/23(水) 19:41:12
実際、縄文文化とは、かけ離れた騎馬文化が栄えた。
朝鮮から馬を連れて来た民族が馬と共に増殖したのは明白。
今の群馬県の住人は東山道や碓氷峠を越えて入ってきた秦人が中心ですからね。
しかし、少数ながら縄文時代からの住民も住んでいると思います。
その違いを明らかにしたいと思っているのですが、混血もすすんでいるし、難しそうです。
徐福の子孫の血をひくらしい児玉党の福田氏も秦氏の血が相当混じっているような気も
するし、うーーん、どうなんですかね?
534 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/07/23(水) 23:55:35
相模の縄文人は弥生人と共生して、
縄文人の縄文晩期の人口激減もなく、
縄文から弥生への移行をしているから、
富士山の噴火は影響ないようだよ。
縄文晩期低温期の人口激減は関東平野中部北部だけだから、
人口減の原因は富士浅間の噴火ではないとみなせるよ。
縄文晩期人口の激減は海水面の低下や気温の低下によるものだと考えられる。
東山道や碓氷峠を越えて入ってきたのは、
出雲系弥生文化を持つ人々と思われる。
関東平野低地の海辺川辺の神社には、出雲系祭神が多い。
徳川家康がなぜ東照大権現として祭られたか、その理由が重要です。
徳川とは、『下野国日光山開闢之事』の中で「赤城山」対「二荒山」が戦って
勝利し古代関東を支配していた豪族の末裔だということです。
では、ムカデ(古代諏訪王の象徴)を破ったのはだれか?出雲の武甕槌とい
うです。つまり、徳川幕府は出雲幕府ということがわかります。
536 :
日本@名無史さん:2008/07/29(火) 22:32:52
個人的妄想
ニギハヤヒ王朝(旧出雲王家)
神武王朝(旧奴国王家)
崇神王朝(旧馬韓王家)
応神王朝(旧辰韓王家)
雄略王朝(旧毛野王家)
継体王朝(旧越王家)
天武王朝(旧ニギハヤヒ王家)
桓武王朝(旧崇神王家)
537 :
日本@名無史さん:2008/07/31(木) 23:04:10
自分の知っている古代王朝と倭の五王を無理やり結び付けても意味がない。
538 :
日本@名無史さん:2008/08/01(金) 00:28:40
早めに考えても、畿内には文武以前に王朝などありえない。
王朝の体をなしていない。
539 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/08/01(金) 11:07:09
律令、元号と首都のない国家体制を王朝とは言えない。
王朝と呼べる国家体制は、
九州では西暦517年(磐井)から、(倭武までは大王国)
畿内では西暦700年(文武)から。(持統までは大王国)
アフリカ西部で生まれたミトコンドリア・アダムとイブと呼ばれる新人類集団の
誕生からまだ5万年前しかたっておらず、現在の人類の共通の祖先から分化
したネグロイド、コーカソイド、モンゴロイドも外見上の差異はあれど、知的能
力の差は個体差を越えてはいないと言われています。
恐竜の歴史3億年に比べて、人類の歴史5万年は、遺伝的な進化には短か
過ぎることを考えれば当然のことです。
したがって、現状では、どの民族も能力差はないとみてまず間違いない。
支配者となるのは個体差によるもの。つまり、国の統治能力は、何代も続いて
優性遺伝することはありえないということです。
それが分かれば、権力や家業の世襲制が長続きせず、数百年以内に滅んだ
理由を理解できると思います。
遺伝的な進化には時間が短すぎるだろうけど、
生存競争的な遺伝子の取捨選択には充分な時間があったと思う。
542 :
日本@名無史さん:2008/08/03(日) 07:48:36
出てくりゃなんでもかんでも天皇家の〜と結びつけちまうのがガン。
ノストラダムスの予言が当たった!てのと同じw。
縄文後期から、弥生時代を通じて存在したといわれる古東京湾、古鬼怒湾、
谷中湖、利根川、荒川、渡良瀬川、鬼怒川、小貝川、古代関東の水上交通
を支配していた大王が居たはずなんだが・・・
その大王は、足柄、伊豆、清水、岡崎、奈良にも拠点を置き、大和朝廷との
繋がりがあった。
544 :
日本@名無史さん:2008/08/03(日) 23:03:19
>大和朝廷
大和の朝廷ができたのは、早めに考えても8世紀以降。
縄文・弥生時代には大和朝廷など影も形もなかった。
545 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/08/03(日) 23:24:19
>古代関東の水上交通を支配していた大王が居たはずなんだが・・・
いましたよ。
それらは、後世のムサシでありケヌであり、移住してきた出雲系の人達です。
8世紀に成立した大和朝廷とは何の関わりもありません。
筑紫舞「七人立ち」では、その関東の大王を「夷の翁」といいます。古田説引用
546 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/08/03(日) 23:26:05
筑紫舞「翁舞 七人立ち」
その関東の大王は、伊治公痣麻呂やアテルイといった東北の蝦夷
以上に記録が残っていない。いつ、どのようにして大和朝廷の軍門
に下ったのか、もしくは、大和朝廷を支配していたのか?
紀伊や三河の勢力との関係は?
香取や鹿島を支配していた勢力との関係は?
つまり、徳川幕府は、関東の大王の復古ではないかと推測し、
いろいろ調べているのですが、これがなかなか難しいのです。
548 :
日本@名無史さん:2008/08/04(月) 00:30:11
距離が遠いと、支配する・支配されるといった関係になるとは限らないのでは?
>>544 崇神天皇の子、豊城入彦命は上毛野氏の遠祖といわれており、
赤城神社や宇都宮二荒山神社に祭られているけれど、豊城入彦命も
その子八綱田命も孫の彦狭島命も東国には行っていない。そして、
次代の御諸別命が景行朝に至って初めて東国に赴き治めることにな
るが、御諸別のお国入りで争いが起きたといった記述は見当たらない。
つまり、崇神朝以前に東国は、大和朝廷の支配下にあったことがうか
がえます。
もしかしたら、ワケ王朝とは、関東の大王が河内に移って起こした政権
ではないかといった推測もできます。
そこらへんは鵜呑みにすべきとろろではないんでないの
記紀だけでは全くの論外で関東も考古学的な見地からも
考えるのが妥当でしょう。ただ、今の編年じゃあ無意味な
のでもう一度、現代の測定方法での調査のし直しが要求されるよね
イマジネーションを膨らませるのは結構だけどね
言われており、とか記述が無いから諍いも無かったとか幼稚すぎ
>>550記紀を鵜呑みにしているわけではありません。
記紀以外にも、風土記や神社や地域に伝わるさまざまな伝承、
その他民俗学的な類似性、加えて、先土器、縄文、弥生時代の
遺跡の分布、古墳やその出土物など歴史的事実から総合的に判断
して、そういう結論に至ったのです。
どれもこれも決定的証拠になりえませんが、すべての事実が一つの
帰結に繋がる。歴史の解釈とはそういうものなのです。
稲荷山鉄剣の銘文に登場する乎獲居臣(をわけのおみ)とは誰か?!
これが関東の古代を説く最大のカギであることは、異論はないと思います。
ズバリ、獲加多支鹵大王とは雄略、この時代「をわけ」といえば、崇神の5
世孫、荒田別ということになる。
だから違うっつーの
茨城・栃木に地図を見ると、星宮神社があまりにも多いことに驚かされる。
それは、大和朝廷がこの地を支配する前に、この地域を支配していた大王を
祭っていたからです。その名を「甕星香々背男命(みかほしかかせおのみこと)」
というらしい。
星の信仰といえば妙見、渡来系の大王ではないかと思われます。七夕まつり
の風習の残る平塚や仙台まで、広い地域を支配していた可能性があります。
555 :
日本@名無史さん:2008/08/16(土) 15:40:21
なんで関東の剣に、畿内人の名前があるはずがあろうか?
6世紀後半ですら、大和国は播磨国を支配できていなかったほど、
ヤマトの領土は狭かった。
獲加多支鹵大王がアレキサンダー大王だというのなら一理あるが(笑、
雄略である可能性は、サダム・フセインである可能性と同じ程度にすぎない。
まあ、アレキサンダー大王自身が、アジアの小国まで遠征したとは思えないが、
アレキサンダー大王一人が戦ったわけではなく、小隊ごとに指揮官がいた
はずで、中には、そのまま帰らなかったものがいても不思議ではない。
その一人が、須佐能であり猿田彦であり獲加多支鹵だったという設定は、
SF漫画の設定としては面白いかも知れない。
557 :
日本@名無史さん:2008/08/17(日) 21:15:04
星宮神社や鷲宮神社、旧河川沿いの神社等を調べていくと、
縄文末期から弥生時代の面白いことがわかってきそうだね。
あまりにも課題が大きすぎるので、関西在住の僕は調べられないが。
>>557 良い視点ですね。それと「たかお神社」、たかおとは「高」という字に、
「お」(この字は、雨冠の下にロが3つ、その下に龍という字がつく難しい字です)。
この神社もやたらと多いのです。
そのほかに、なぜか琴平神社も多くて、これらの神社がどのような過程で広がっ
ていったのか調べていけば、古代関東の勢力がわかるはずです。
稲荷山鉄剣の謎も、もっと古い時代から延々と続く関東の歴史を追っていく中で
おのずと解き明かされると思うのですが・・・
559 :
日本@名無史さん:2008/09/12(金) 06:48:46
鉄剣の大王と雄略天皇が別人なんじゃなくて、
雄略天皇が元々関東の大王なんじゃなかろうか。
それが全国統一。
だから、そもそも読み方がこじつけだという話なんだけど
それが何故か定着しちゃってるんだよね
雄略は越の王。中国大陸から移り住んだ姫氏。
562 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/13(土) 13:12:23
獲加多支鹵大王を雄略とすると 大彦から7代で繋がらない
繋ぐ為には日本武尊の子ワカタケルしか居ない。
563 :
日本@名無史さん:2008/09/13(土) 14:26:49
都はどこにあったの?
埼玉古墳群がある行田の辺り?
564 :
日本@名無史さん:2008/09/13(土) 15:15:28
馬鹿大杉
565 :
日本@名無史さん:2008/09/13(土) 15:38:42
蓮
566 :
日本@名無史さん:2008/09/13(土) 17:35:03
567 :
日本@名無史さん:2008/09/14(日) 09:45:40
獲=バ
加=カ
多=タ
支=シ
鹵=ロ
これだ!
あの家康の福耳、伊達政宗も耳がでかい。
福耳といえば劉備玄徳。その子孫が、日本
に渡来して新しい国を打ち立てようとしたの
ではないだろうか?
569 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/17(水) 13:34:35
獲=ヷ
加=カ
多=タ
支=シ
鹵=ロ
これじゃネ。
570 :
日本@名無史さん:2008/09/17(水) 15:24:09
奈良時代よりも前の文献にある「支」はキ(甲類)、ケと読むのが正しい。
たとえば万葉集4113番の和歌では
「於保支見」と書いて「おほきみ=大君=天皇」と読ませている。
ちなみに台湾、東南アジアで使われているアモイ語方言で
「支、枝、肢」は今でもすべてkiと発音する。
これは三国〜六朝前期の中国語音の系統。
支佐加比売(きさかひめ)【出雲国風土記】
支豆支の御埼(きづきのみさき)【出雲国風土記】
支閇(きへ)の岡【播磨国風土記】
「支」をシと発音するようになったのは
遣隋使以降(隋唐中古音)のことだ。
「壱岐」魏志倭人伝は「壹大」と書いている。
魏志倭人伝の古写本は「支」を「大」又は「丈」のような
書体で書いてあったのを唐宋以降の写本筆者が
見誤って「壹大」と書いたものだ。
それが隋唐になるとシと変化したので旁に「支」を持ち
なおかつキという音が残存していた「岐」に換えたのだ。
稲荷山古墳から出土した鉄刀と江田船山古墳から出土した鉄刀をセットで考えないといけない
>>555 播磨は外様
埼玉、熊本は親藩、譜代
572 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/17(水) 23:38:25
>>570 ボケさせて下さい。
若者⇔ヷカモノ⇔バカモノ
ご苦労様。
知っています。
もう、その話は耳にタコですよ。
そもそも弥生以降の古代史において
関東地方は、極論すれば「東海勢力の、波状的な植民進出先」
でありつづけたんだけどね。
この場合の「東海」とは、ほぼ今の中京(名古屋)圏と同じ地域を指す。
基本的に、弥生以降の東日本文化の出発点はこの地域にある。
畿内勢は、東海勢からみればまったくのお隣さんだ。
だから、東海勢の植民先で、人的繋がりを残していたであろう当時の関東住民が
畿内首長の名を知っていても全く不思議ではないだろう。
関東に独立した勢力があるなどと、「関東中心に考える」から話がおかしくなって、
「王朝割拠」のような末期古田史観のような妄想を抱くことになる。
古田史観が忌み嫌う「畿内からの影響」を除いても、
東海→関東の流れは掃いて捨てるほどあるが、
関東→東海の流れは、歴史上、弥生以降2500年で
鎌倉時代と近代東京遷都後のたった2回しかない。
575 :
日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:37:32
「関東に独立した勢力が有った」と考える事が、
「関東を中心に考える」事と、どう結ばれる?
「北海道に独立した勢力が有った」と言ったら、
「北海道を中心に考える」事に為るのか?
古田史観が妄想でも何でも構わんが、
お前の言ってる事も、妄想で無いと良いんだがな。
東海から関東進出と軽く言うけれど、
実際には、天竜川、太田川、菊川、大井川、安倍川、富士川を
渡らないと関東には着かなかった。しかし、三河は海人ではなく
騎馬民族だから、東進できなかったのです。
その間に勢力を広げたのが、越から碓氷峠を越えてやって来た
勢力。海人のほうは、茨城の鹿島大社のほうを本拠地にしてい
た。
三河の勢力が関東に至ったのは、橋を作る技術が確立したずっ
とあとの世代、奈良時代以降かな。
>>575 「関東に大王がいた(独立した勢力があった)」というのは、
地域史の切り口として、著しく鈍いものなんだよ。
幕末に「北海道に独立国があった」というところから議論をすすめても、何も生まれない。
そもそも、榎本武揚が江戸の幕臣で、幕府と京都の朝廷や西国諸藩との確執があり、
奥羽越列藩同盟があって、という話を脇に置いて
「北海道に独立国」なんてタイトルを付けて、ここを出発点に議論してもほぼ無意味だろ?
それと同じことなんだよ。
考古学的に、弥生から古墳時代にかけて、東日本太平洋側では
東海→関東、関東→南東北という、人と文化の流れは一貫しかつほぼ完全な一方通行。
東海的文化要素は、宮城県南部あたりまで明確に達しているので、
東日本太平洋側の古代史は、「東海勢の東方進出」の一言で、ほぼ説明可能だ。
畿内・筑紫・出雲・吉備などのように、双方向的な複雑な交流と確執をしているわけじゃない。
双方向の最も明確なものは、巻向の畿内(大和)と東海(伊勢尾張)だけどね。
このスレも尾張みたいですね。つまんない。
>>577 お前の言いたい事は良くわかった。
どの地域でもそうだが、お国可愛さの為か、著しく公平性を欠く見方をする人間が居る。
「関東を中心に考える」と言う部分を強調してたので、お前こそ、その手合いと同類なのじゃないのかと思った。
今読んだ限りでは、そう言った意味合いは感じられないから、単なる文章表現の問題なのだと分かった。
「北海道に独立国」なんてタイトルを付けて、ここを出発点に議論してもほぼ無意味だろ?」
俺も基本的には賛成だ。始めに結論ありきな、TVの特集の様なものを見せ付けられても困るしな。
ただ、趣向の問題も有るし、無意味とも取れるかも知れないが、そこから生まれる事も有る。
極論に走りさえしなければ、それでも良いじゃないかと思ってる。
と言う事で、勝手ながらロムに戻るよ。
もともと書き込まないタチなので、誤解の無い様に文章を考えるのは骨が折れる。
関東は出雲系じゃないの?
物部氏の一族の矢作(やはぎ)氏、
先日の洪水で有名になった愛知県岡崎市の矢作川。
矢作という地名を調べると、九州に上陸した弓削・矢作氏が、矢じりという
武器を媒体に物部氏とともに勢力を広げていった様子がよくわかります。
(九州)福岡県久留米市草野町矢作、佐賀県唐津市半田矢作
(東海)愛知県岡崎市矢作町、恵那市上矢作町、
(関東甲信)山梨県笛吹市一宮町下矢作、
神奈川県小田原市矢作、茨城県坂東氏矢作、
茨城県土浦市矢作、千葉県香取市本矢作、
千葉県千葉市中央区矢作町
(東北)福島県郡山市片平町矢作、宮城県柴田郡大河原町小山田字矢作、
宮城県 登米市 石越町南郷 矢作、陸前高田市矢作町、
青森県青森市矢作
(北陸)新潟県西蒲原郡弥彦村矢作、石川県石川郡野々市町矢作
香取大明神は物部、鹿島大明神は出雲?
通りすがりで失礼します。
>香取大明神は物部、鹿島大明神は出雲?
タケミナカタだったら出雲系でしょうが
鹿島はタケミカヅチを祭っていますよね
583 :
日本@名無史さん:2008/10/08(水) 03:38:23
>>574 >>577 関東にある東海地方がルーツの神社とかって何ですかね?
関東人のルーツが東海地方からのものが一番多いんなら、
当然、東海地方の信仰が一番多く持ち込まれてる筈だと思うんだけど。
584 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/08(水) 10:17:42
>>577 関東で東海ルーツを示すものは何なんでしょう。
神社から見ると、低地部の出雲ルーツ、台地部の縄文以来の在地ルーツしか見えないのだが。
585 :
日本@名無史さん:2008/10/08(水) 13:43:52
そもそも今の日本国、大和朝廷を作ったのは渡来民族だろ。
秦氏抜きに大和が成立できたか?
その前にいた縄文系の民族は日本列島全域に広がっていた。
彼らが王国を持っていたとしても別に何の不思議もないと思うが。
>>583>>584 その観点から見るなら、俺に言わせれば「雑」ではあるが、明確な答えがあるよ。
関東地方(をはじめ、東日本太平洋側)にひろく分布する
「いわゆる『出雲系』神社」こそが、おそらく東海系神社の末裔だ。
今の祭神がスサノオや大国主であるような、ごく平凡な「出雲系神社」だね。
伊勢神宮が鎮座した伊勢国は措いておくにしても、
三河・遠江はもとより濃尾平野においても、主要な神社は軒並み「出雲系」なんだ。
真清田や熱田も、よくみると実は出雲系だったりする。
証拠はと言われると、やや板違いになりかねないので、このへんにするが。
(こういう面に踏み込まざるを得ないので、神社の話は敢えてしなかった)
逆に言えば、山陰の一地方の祭神が、東日本全域を席捲するなんて
常識的に考えておかしいんだよ。考古学とも繋がらないわけで、
何かのトリックか政治的改称がある。だが、関東の「出雲系神社」は、
少なくとも濃尾平野までは地理的に連続して、かつ考古学と矛盾せずに連続する。
こういう問題意識に関しては、俺は有名サイト「坂東千年王国」と部分的に共有する。
結論は大きく異なるけどね。
俺の考えている「政治的トリック」とはこういうこと。
天孫系神話を持つ律令国家が、東日本を含む大和全域を統一した時、
神話の上での「マイノリティー」、つまり大和朝廷に対する「野党」の概念が整理された。
このとき、いわば『野党』という十把一絡げの総称が、「出雲」で代表されたんだ。
社民党も民社党も民主党も共産党も自由連合も新進党も太陽党も日本新党も
スポーツ平和党も何もかも、
とりあえず「野党の総称」として、『社会党』に代表させられてしまったような状態。
しかも、律令期の「与野党の具体的権力状況」が反映しているからさらに厄介だ。
「出雲系(祭神大国主またはスサノオ)」「国つ神」というのは、
「野党」という総称でしかないと考えたほうがいい。
そして、濃尾以東の東日本は、大和からはやはり「在野の国」であったから、
この地方の種族と祭神は、軒並み「出雲系」として整理されてしまった。
かならずしも、山陰の一地方を出自とする部族であるわけではないだろう。
そういうと、三輪山や大和神社はどう説明するのかと言われそうだが、
これは、天孫族が大和に入ったときの元の部族の祭神。
何なのかはよくわからない。土地によりいろいろだろう。
やはり祭祀上を破却できなかったということ。
しかし、これも天孫族から見れば「在野」だから、「出雲系」ということになった。
畿内などにおいても、地主神が軒並み「出雲系」になっているのは
こういうこと。被征服者は、古今東西「野党」に決まっているわけで。
出雲と安曇は同族だったと考えるとわかりやすい。
現在、伊豆、泉、和泉、安曇、安住などの地名は、出雲との関連が伺える。
日本海側に展開した出雲族が出雲で、太平洋側が安曇だったと考えれば、
わかりやすい。会津は「あ伊豆」、東(あずま)=安曇だった可能性さえある。
590 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/08(水) 23:13:10
>>586-588 低地の神社は出雲系すなわち野党なのはわかるが、
台地の神社は関東在地系のままであることの説明が出来ていないね。
>>590 まあ在地系と言ってもかなり不便なところだけだけどね。
関東の僻地に残る「在地系」は、
大和人がどうしても理解できない部族の、組み込めなかった祭神が生き残ったもの。
だが、このことこそが、おまえさんの「コテハン」にも通じる、
大和政権の重要な性質に関わるんだよ。
俺が「野党」に例えたのには、それなりの理由があるんだ。
あくまで国会での「野党」であって、「非合法政党」ではない。
大和政権としても、在野ではあっても広い意味での同族である認識があった。
一応、彼らの歴史も知り、話も通じる相手であったわけだ。
だから、神話を書き換えて「出雲系」というポジションに組み込むことが出来た。
アテルイやモレの世界ではない。シャクシャインの世界ではない。
これは、「どうして弥生以降の西南日本稲作文化圏において、
『西南日本の外れ』にあるはずの関西地方の土豪(後の皇室)が覇権を握れたのか?」
という、よく考えれば不思議な謎の答えにつながる。
地理的に見れば、農業のための地勢のスペックと言う点でも、
当時の先進地だった大陸との交通の面でも、
資源的な面でも、畿内は決して好条件ではない。
制御困難なラグーンや沼沢と、切り立った断層山塊が連続した当時の畿内は、
稲作を行うだけでも、西南日本において優位な地方とは言いがたい。
大陸に近い筑紫や、豊富な稲作適地を持つ吉備に負けて当然のはずだったのだ。
この答えは、「畿内が東国の隣接地だったこと」これに尽きる。
畿内勢は、東海勢に隣接していて、彼らとの交渉を独占的に持つ地位にあった。
紀伊半島の山塊は巨大で、西国勢は東海にはどうしても手出しが出来ない。
しかも、東国勢は均質な開拓民で、濃尾と話をつける交渉スキルをマスターすれば、
濃尾平野から仙台平野まで、一気に繋がりを持つことが出来た。
これだけの地域を後背地につければ、いくら後進地でも圧倒的な優位に立てる。
593 :
日本@名無史さん:2008/10/09(木) 20:55:17
道祖神を祭る神社の分布を調べると新たな発見があるかも。
ものがものだから、金山神社と名乗っていなくても、ご神体を
合祀している神社が関東から東北南部にかけて相当数見ら
れます。
その由来は、鳥越 憲三郎のいうところの黄河・長江文明を
作った古代中国の倭族との関係が伺えます。
594 :
日本@名無史さん:2008/10/09(木) 21:04:14
田の神
その頃に関東に入ってきた人って、碓氷峠越えが多いんじゃないの?
596 :
日本@名無史さん:2008/10/10(金) 02:26:33
関東と東海ねー。
言葉が全然違くないか?
弥生や古墳どころか、江戸なんてたかだか400年前の三河勢の移封先だろうに三河弁の匂いなんて全然しないぞ(学者レベルで細かいこといえば別なのかもしれないが)。
もっとも江戸期は基本、三河の武士階級が移ってきただけかもしれんが、
上のレスでは古代は民衆レベルでやって来たんだろ?
597 :
日本@名無史さん:2008/10/10(金) 03:03:49
>>595 弥生時代後期の銅鐸の分布の中心は静岡県だから
東海地方には独自の政治勢力があって通過しにくかったかも
それに天竜川・大井川・安倍川と越えていくのは大変だよ
598 :
日本@名無史さん:2008/10/10(金) 03:15:25
てか南関東と北関東は、関東と東海とか、東海と近畿というのと同等にほとんど別ブロックだとオモ。
599 :
日本@名無史さん:2008/10/10(金) 07:00:41
俺は関東の大王なんだけど?
600 :
日本@名無史さん:2008/10/10(金) 07:03:47
それより何より王政復古が成就したら最大の功臣たる俺が太政大臣になって、
さらに准王なる一代限りの身分を創出←もち俺
准王=皇太子など皇族男子に準ずる立場
602 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/10(金) 14:42:53
>>591 >関東の僻地に残る「在地系」は、
僻地ではないよ、関東平野中央部の台地にも「在地系」があるよ。
関東平野台地部とは縄文温暖期に陸地であったところ。
関東平野低地部とは縄文温暖期に海であったところと古河川(古荒川・古利根川・鬼怒川・那珂川等)沿いの低地部。
>>596 言葉に関しては、東京を含む西関東は甲信の方言とほぼ一体だよ。
東関東(栃木茨城)は、東北弁そのものといっていいが。
(むしろ、この「古利根川越えの断層線」のほうが、重大な問題を孕む。
古代においては意外にも頻繁に交流していたようだけど)
ただ、東海に関しては完全に畿内語化した伊勢はもとより、
濃尾であっても、表面的だが強烈な京都語の影響を受けているので、
今の状況では、本来の基層を探るのはやや難しい。
名古屋あたりでも、よくみると基層は明らかに「東」なんだけどね。
これは今では文化全般に言えることではある。
なお、今の「三河弁」なるものの特徴的な語尾や助動詞は、
ほぼすべて江戸時代以降に成立した要素だから全く参考にならない。
>>595 碓氷越えでも結局一緒。信州に西から入るルートは、濃尾をスタートとするしかない。
まさか立山黒部アルペンルートや、白山を越えた挙句ああ野麦峠なんてあり得ない。
言葉方言で思い出したが若干スレ違い気味ではあるが書かせてもらいます
山陰の中の出雲地方、島根県の一部ですが
この地域だけが東北地方と同じズーズー弁を話すんですよね、確か…
ズーズー弁や出雲方言というのが確率されたのが、いつの時代かわかりませんが
かなりの地域を隔て話す言葉が何故か東北と出雲だけ一緒だという不思議がありますね
605 :
596:2008/10/11(土) 11:57:27
>>596を書いてた時、正に思っていたのがその東北弁と出雲弁の一部に共通するズーズー弁w。
確か松本清張の小説にもあったよな。
三河弁でいえば「じゃん、だら、りん、だどー」等が東京弁に無いのでその疑問を上に述べた。
「じゃん」は横浜弁に共通するがアクセントが違うし、何故に東京ではなしに横浜?と思ってしまう。
これは多分違う起源なんだろうなと思う。
>>605>>606 実は、ズーズー弁といわれる特徴が、日本語の一部方言に生じたのは
江戸時代以降と言われているんだよ。歴史は全然古くない。
ズーズー弁といわれる要素は、
1、イ段、ウ段母音が中舌化する
2、旧かなづかいの「四つ仮名問題」が1つに混同する(しとすの区別が付かなくなる)
3、濁音が鼻にかかり、語中の清音が有声音化する
の3つに分解されるが、
歴史的に見ると、これらすべて少なくとも17世紀以降の新しい変化であるとしか、
変化の順序の上で論理的に考えられない。
細かい話は、日本語の音韻史の問題になるけどね。
松本説は所詮、怪しい説同士を無理にジョイントした訳で、やはり門外漢だよ。
ただ近代以降に発生したズーズー弁が東北という広範囲な地域で話されたは説明つきますが
そのズーズー弁が中国地方の極一部だけが周辺の話す言葉と違うズーズー弁を自然発生させた
と考えるのも難しいのでは?
薩摩弁のように江戸期に出雲では他地方とは違う方言で話さねばならない事情でもあったのでしょうか?
地域性や環境が東北地方と似ていて同じような発音、言葉になったなら山陰地方全域がズーズー弁を話してないと不思議なのでは?
山陰の中で出雲地方だけズーズー弁が自然発生した
と考えるのは難しいのでは?
608 :
日本@名無史さん:2008/10/11(土) 18:21:13
↑その出雲の中のさらに一地方だよ、ズーズー弁話すのは
そんなに狭範囲なんですか?
初耳でした
610 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/12(日) 20:46:24
ズーズー弁を話すのは、伯耆と出雲の一部です。
なぜこの地域だけにズーズー弁があるのでしょうね。
でも言葉は東北と全く異なります。
昔からの疑問です。
40年位前、ズーズー弁を話すお婆さんがきっと寒いからじゃないかと言っていました。
ところで、50年位前、津軽のお婆さんが関西弁のイントネーションで話すのを聞いて、びっくりしたことがありました。
>>610 スレチ気味ではあるんですが関東の出雲系神社の謎解きには
やはり出雲そのものの謎解きもいるという事で質問させてもらいます
出雲と伯耆の一部となると、ちょうど出雲の遺跡が存在する範囲内という事と解釈してよろしいですか?
612 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/12(日) 22:04:46
>>611 ズーズー弁の地域は、伯耆と出雲東部ですから、出雲の遺跡との関連の有無はわかりません。
考古学的なものとの関連は薄いのではないでしょうか?
久伊豆神社と白髭神社が気になる今日この頃
614 :
日本@名無史さん:2008/10/13(月) 13:45:11
>>610 >50年位前、津軽のお婆さんが関西弁のイントネーションで話すのを聞いて、びっくりしたことがありました。
北前船の影響と思われ。
俺のひいばあさんは北海道の江刺という所の出身なのだが、俺の母(ひいばあさんの孫)によると言葉に関西弁が入っていたそう。
お礼を言うときも、「どうも」とか「ありがとう」でなしに、「おおきに」と言っていた。
615 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/13(月) 15:13:23
>>614 >北前船の影響と思われ。
そのお婆さんは、弘前よりもっと田舎の方の人だったので、北前船の影響ではないでしょう。
十三湊とか鰺ヶ沢とか深浦とかから嫁いできた可能性はあるんじゃない?
アズマは「吾つ間」
東国に住んでいた人の自称
それが畿内から見て東の方角だったので
東をアズマとも読むようになった
という説を最近、上毛新聞で読んだ。
618 :
日本@名無史さん:2008/10/17(金) 14:06:42
あとは倭健命の逸話だっけか?
619 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 10:22:46
日本書紀に、アメノヒポコに先立ち伽耶から渡来したツヌガアラシトという皇子
の名がみえる。このツヌガアラシトとは、「角がある人」の意。
兜に角状の装飾があったため、そう呼ばれたという説があります。
敦賀(つるが)も津軽(つがる)も、このツヌガアラヒトに由来すると思われます。
ツングース族系の扶余族の言葉と関係がありそうです。
中国大陸から朝鮮半島から日本海側を繋ぐ環日本海海上交通網は、
2000年以上の歴史があります。出雲や津軽もその重要な港町、北前船はそ
の名残です。
620 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 20:37:14
福岡や佐賀って結構ズーズー弁。
佐渡や山形は結構関西弁っぽい。
>>619 そう言えば高句麗語と日本語は類似点があるとかないとか
古代では大和と蝦夷で言葉が違うんですよね
坂東は万葉集などから、もちろん日本語を話してますが
坂東の農民の中に蝦夷と話せる今で言うバイリンガルみたいな人もいたと
なんかの文献にあったような
622 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 21:39:52
日本語の起源は南インドのタミル語。
>>619 「ツヌガアラシト」=「角がある人」は
俺も駄洒落で考えたが
まさかマジで言ってる人間がいるとは…
625 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/12/06(土) 14:20:19
大揚げ
626 :
日本@名無史さん:2008/12/06(土) 14:46:43
古田武彦と金達寿というだけで眉に唾だなwww
関東には、物部氏、出雲氏、忌部氏、賀茂氏、秦氏、毛野氏(物部)など、
大和や出雲にいたメンバーと同じ顔ぶれが進出している。
雄略の頃は列島のかなりの範囲を制覇していたと思われるから不思議なかんべw
出雲に関東に九州に北陸にと進展していたのだろう。
俺は稲荷山よりもむしろ江田船山の鉄剣の名前の方が怪しいと思う。
あれは無理にワカタケルと読まなくても、
天皇の名に比定するならミズハワケで良いと思う。
そうでなければ、磐井の祖先だ。
稲荷山鉄剣のあの名前は、
無理に雄略天皇にするより欽明天皇の方が可能性高いんじゃないの
629 :
九州王朝大好き:2009/01/31(土) 02:35:26
@
稲荷山鉄剣の名前『獲加多支鹵大王』と
江田船山鉄刀の名前『獲□□□鹵大王』が違うなら、
両者はそれぞれ関東の大王と肥の大王の名前である。
A
稲荷山鉄剣の名前『獲加多支鹵大王』と
江田船山鉄刀の名前『獲□□□鹵大王』が同じなら、
両者は筑紫の大王の名前である。
その大王の名は『倭興』か、兄の死後即位したばかりの『倭武』である。
その名前を「ワカタケル」と読むならば、新進の若者である倭武が相応しい。
倭武の推定治世:560年代後半〜510年代前半 およそ45年間
(倭武の次の大王は磐井)
630 :
九州王朝大好き:2009/01/31(土) 12:11:47
>>629の修正
倭武の推定治世期間:460年代後半〜510年代前半 およそ45年間
(倭武の次の大王は磐井)
漢籍から確認できる倭武の在位期間は477年〜502年の25年間。
推定治世期間のソースは?
632 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/31(土) 23:26:03
>>631 推定治世期間の推論過程
倭武から磐井への移行は、元号継体の数(餘)年前、即ち510年〜515年頃。517年の百余年前。
継体元年517年から遷京前年617年まで丁度100年。北方(倭京)への遷京は618年。
倭5王系列大王の都は300年間(317年頃〜617年)同じ場所にあった。317年頃は菊池川流域勢力(横穴式石室装飾墓(古墳)勢力)の筑紫進出時期。
随書によれば、倭5王系列大王以前卑彌呼まで同じ場所で遡れる。
『此地帝都近気於今在一百餘歳一百年竟遷京北方在三百年之後』「聖徳太子伝暦」推古二五年条(617年)
取敢えずここまで半分だけ。期間のスタート時期推論は又後で。
633 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/02/05(木) 00:29:32
>>632の修正 読み直すと意味不明瞭な為
>>631 推定治世期間の推論過程
『此地帝都近気於今在一百餘歳』
倭武から磐井への移行は、元号継体の数(餘)年前、即ち510年〜515年頃。これは617年の百余年前になる。
此地帝都:久留米市南部に帝都があった
『一百年竟遷京北方』
継体元年517年から遷京前年617年まで丁度100年。北方(倭京)への遷京は618年。
遷京北方:倭京(久留米北方の太宰府)
『遷京北方在三百年之後』
倭5王系列大王から多利思北孤大王までの都は、300年間(317年頃〜617年)同じ場所にあった。
317年頃は菊池川流域勢力(横穴式石室装飾墓(古墳)勢力)の筑紫進出時期。
三百年之後:318年倭京への遷京前300年から数えて300年後
随書によれば、倭5王系列大王以前卑彌呼まで都は同じ場所で遡れる。
『此地帝都近気於今在一百餘歳一百年竟遷京北方在三百年之後』「聖徳太子伝暦」推古二五年条(617年)
取敢えずここまで半分だけ。期間のスタート時期推論は又後で。
稲荷山古墳に埋葬された豪族は、東国六腹の一人、大野朝臣東人の集団だったのではないでしょうか?
635 :
日本@名無史さん:2009/04/20(月) 22:48:52
>>621 数詞対照表
古代日本語 高句麗語 新羅語 高麗語 中期朝鮮語 現代朝鮮語
1 Φi1to2 −− hっtっn hっtっn hΛnah hana
(一等) (河屯)
2 Φuta −− tu¨pっ¨l tuβっr tulh tu:l
(二尸) (途孛)
3 mi1 mil siet sei s∂ih se:s
(密) (悉) (洒)
4 'jo2 −− −− nei n∂ih ne:s
(廼)
5 'itu 'utsu −− ta∫us tasΛs tasっs
(于次) (打戍)
6 mu −− −− 'jul∫us 'jっsΛs 'jっsっs
(逸戍)
7 nana nanun −− 'ilkup nilgub 'ilgob
(難隠) (一急)
8 'ja −− −− 'jultap 'jっdщlp 'jっdっl
(逸答)
9 ko2ko2no2 −− −− 'ahop 'ahob 'ahob
(鴉好)
10 to2'wo t∂k −− 'jっl 'jっlh 'jっ:l
(徳) (噎)
※古代日本語の[i1]はイ列甲類、[o2]はオ列乙類。[っ]は母音[?]の代用。
高句麗語の数詞「5」については村山説を挙げたが、
李基文や板橋義三は再構語形を[uc]としている。
「三国史記」に記された高句麗の故地名の音訓併用表記
新羅意訳 高句麗語
三餐郡 密波兮 「み(つ)はけ」(中国語フォントでは餐が山+見になる)
五谷郡 于次-呑忽 「いつたに/たむ」
七重県 難隠-別 「ななへ」
十谷県 徳頓忽 「とたに/たむ」
兎山郡 烏斯含達県「うさぎだけ?」
海曲/海西県 波旦県 「わた」
三 mit (jap.み(つ))
頂上が平らな山 pua-kei (jap.はけ、はげは山梨・神奈川でまだ使われているようです)
五 (h)u-tsi (いつ)
谷 ta/on-mut (呑忽 = 頓忽) (たに、たむ?)
七 nan-in (Tungusic nadan)
重 in-pet,pet
十 to/ek (と(を))
兎 o/u-si/e-g/ke/am (をさぎ)
山 d/ta
海 pua-dan(波旦)? (Korean pada / Jap.わた)
水 買 mai (Jap.*mi-)
深 伏斯 b/puk-si/e(ふかし?)
谷 呑,旦 (たに)
鉛 乃勿 nai-mut (Korean nab) (なまり?)
口 忽次 kut-tsi (くち)
640 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 20:47:18
けのもんた
「川原もの」に相対する言葉として「道のもの」という言葉がある。
これは、駕篭かき、飛脚、旅籠の客引き、坂道での押し屋、
香具師、大道芸人・・から賭け将棋の胴元、スリや置き引き、
ゴミ広いまで含めた士農工商という身分制度に含まれない
人達だった。
「みの」も道のもの、口達者な大道芸人の子孫だったのかも
しれない。
【四道将軍】オオヒコノミコト【稲荷山鉄剣】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1244377043/ スレの
>>999 >提示できないから負けか。
>子供の相手は疲れるよ。
>なんで口伝が変わらないとか、言い切れるのか理解に苦しむ。
お前の根拠として提示したユーカラにしても誕生してから変わってないとか本気で思ってる?
さんざん、ユーカラを初めとする世界中の口承・口伝の正確さについて指摘する学者・専門家の存在を明記しているのに、
それに反論する(口承の不正確さを主張する)ならするで、
その具体的な出典・論拠の提示を求められているのに(当然だ!ここは学問板なんだからw)、
一切それを示せないばかりか、↑のような見苦しい言い訳ばかり言って強情を張るお前みたいなのを『子供』というんだよ (´_ゝ`)...
てかお前、リアルゆとりか?
ゆとりに多いんだが、
学問板にも関わらず、お前みたいに出典・論拠も示せずに我を張ってばかりいる手合いはなw!
(学問板で具体的なソースも)
「提示できない」のに他人に説得力持たせられる「とか本気で思ってる?」www!
643 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 20:24:22
とりあえず保守
毛野は、「けの」と普通読まれるが「けぬ」という説も有力。
栃木、茨城方言では、「い」と「え」の逆転があるというが、
であれば、
「きぬ」の現地発言が「けぬ」で、「絹の国」つまり養蚕が盛んな国
という意味だ、ということになりそうだが、どうだろうか。
違う。
鬼怒川とは紀ノ川。
姫氏の流れをくむ荒河戸畔の女を母に持つ豊城入彦が幼いころ遊んだ
故郷の紀ノ川を懐かしんでそう名付けた。
ところが、その領民はみんななまってから、
けのかわ、けぬがわ、鬼怒川になっていったんだべ?
646 :
日本@名無史さん:2009/08/18(火) 23:55:24
それもちょっと違う。
北関東は「き」の国。
このことは筑波山の山名由来に関連して吾妻鏡に引用文がある。
大本の記載は常陸国風土記だったかな?
「の」は接続詞。
「け」「ぬ」は「き」「の」がなまったもの。
この訛り方は、北関東以北では常道。
由来が「紀の国」からなのは正しいと思うが、
川名よりも国名が先だろう。
「きの国」を流れている川だから「きの川」→「きぬ川」
豊城入彦が幼いころ遊んだのは、今の渡良瀬川。
ちなみに、関東は北が「き」の国、南が「さ」の国。
「き」は「上つキ」「下つき」に分かれ、
「さ」は「むさ」「ふさ」に分かれ、さらに
「むさ下」「むさ上」、「上ふさ」「下ふさ」に分かれた。
「むさ下」→武蔵、「むさ上」→相模、
「上ふさ」→上総、「下ふさ」→下総
さの国の由来は本居宣長が引用している。
647 :
日本@名無史さん:2009/08/19(水) 09:51:05
北関東弁は東北弁だよな。
つまり、北関東は地域ブロックとしては関東でも、
民俗・文化的にはむしろ東北と一体で、南関東とは明らかに別ブロックに見える。
>>647 利根川が境になってるね。あと北関東が東北ブロックなんじゃなく、北関東を兵站基地にして、陸奥に進出して行ったんだが。
649 :
日本@名無史さん:2009/09/08(火) 23:52:47
>「むさ下」→武蔵、「むさ上」→相模、
これよく聞くけど本当にそうなんかね。
なぜ武蔵相模だけ上下の接頭詞が接尾詞なんだろう。
なぜ正しい当て字をしなかったのだろう。
謎は深まるばかり。
650 :
646:2009/09/09(水) 01:08:48
>649
それは俺も思ったが、よく考えればわかる。
「しもむさ」「かみむさ」にすると「しもうさ」「かみうさ(かずさ)」
と区別がつかないからだろう。実際、声に出してみればわかる。
遠国ならまだしも、隣国でこれはまずいだろう。
これは俺の憶測だけど。
越後、越前や備後、備前のように
前後の場合は後ろにつくのが普通だし、
前にするか、後ろにするかのこだわりは、
特別、なかったんじゃないだろうか。
また、国名は2文字と決められたので、
下牟狭、上牟狭にできなくて、音で適当な吉字を当てはめたのだと思う。
651 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 01:25:52
>650
前後で付けるのは漢風だろ。
和語のカミシモとは由来が違うのでは。
適当字を当てるにしても普通合わせないか?
武上・武下でムサガミ・ムサシモと呼べばいいのであって。
相模がサガミと読める方が不思議だし。
よく考えてもなあ。これが正だと言われれば
どんな事情でもそりゃ納得ぽく見える。
652 :
646:2009/09/09(水) 01:45:56
補足すると、
国名は前後で分けるのが普通で、
上下で国名を分けるのは関東特有なんだよね。
郡名なら普通だけと。
逆に、郡名を前後で分けている例は少ないと思う。
これをよく調べると、
上下で分けているのは、国であろうが、郡であろうが、
同族支配なんだよね。
前後で分けている場合は、おそらく違う。
武蔵と相模の国造も兄弟が始祖。
上毛、下毛も兄弟が始祖。
このことも、「むさ下」「むさ上」の状況証拠になると思う。
653 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 01:59:51
前後はただ地域を分けただけで、
上下は本当に階差があるんじゃないの?
上り下りの意味じゃなくて。
近江と遠江みたいなのもあるし、
丹後丹波とかゆうよくわからんのもあるし。
上野上総が下野下総より上位国なのは偶然なんだろうか。
あと『むさがみ』『むさしも』が「むさし」「むさが」あるいは
「さがみ」「さしも」にならなかった理由がどうしても気になる。
そして漢字が独自なことも。
654 :
646:2009/09/09(水) 02:17:59
>653
それは、単に、言いやすい方に転嫁したからだとおもう。
地名に限らず、言いにくい方に転嫁することは、まずない。
「むさしも」「むさがみ」を声に出してみるとわかるとおもう。
上下も、前後と同じで、都に近い方が上でいいんじゃないかな。
このことについては疑問に思ったこともないので、何とも言えないが。
655 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 15:38:41
>654
「ムサ」という言葉の形跡がなさすぎてなあ。
「フサ」ってのはまああるんですよ。必ずしも関連するとは限らないだろうけど。
でも「ムサ」という地名があまりにも無い。
ところがひとつ「ムサ」を聞いた言葉がある。
映画の『武士-MUSA』。ハングルでの武士はムサ。
中華読みでは wu-shi だからムサにはならないね。
もし 武蔵相模=ムサ だとすると、
武士という言葉は古来ムサの人を表した言葉なんじゃないの?
それなら一般化されすぎて地名に残らなくてもおかしくない。
656 :
646:2009/09/12(土) 01:37:48
>「ムサ」という言葉の形跡がなさすぎてなあ。
荒川はもともと「ムサガワ」と読んだ。
「ムサカワ」に荒川の字を当てたら、
いつの間にか「アラ川」になってしまった。
古代、ムサは「乱雑、荒れた」という意味もあったので、
(今でも「乱雑な、荒々しい」ことを「むさ苦しい」と言う。)
荒の字をあてた。
云われは存じませんが相模一宮寒川神社に「むさゆみ」と言う儀式がありますね。
年始に行われる初弓の式典で「武佐弓」と書きます。
荒れ放題でむさくるしい土地をムサシと呼んだわけですね?
その荒れた土地へ土木技術や農業技術を持つ朝鮮半島からの移民を住まわせたのでしょう。
(歌もの語り風土記)
当時の武蔵国入間郡は、国民も少く田畑も荒廃し、これを歎いた御諸別王は、天皇に奏上して、
大和、山城、河内、伊賀、伊勢の五国の多里人・八百九十七人を武蔵国入間郡に移住させ、
多里郡(大里郡)を置いたとあります。
ここでいう天皇とは、景行天皇(大足彦忍代別天皇)であり、多里人の王だったのではないでしょうか?
大和飛鳥地域を含む高市郡は、別に今来の郡とも呼ばれた。
宝亀三年(七七二)、坂上苅田麻呂が、
高市郡内には朝鮮渡来の人々がみちみちており、
「他姓の者は、十にして一、二」と述べたくらいである。
大和の飛鳥文化がそれらの人々によって推進されたことは、
まぎれもない事実であった。
河内の飛鳥文化もそうである。
(上田正昭 京都大学教授)
660 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 19:13:58
>>657 ああ、
寒川はムサの音位転倒かもしれないね。
>荒れ放題でむさくるしい土地をムサシと呼んだわけですね?
これは逆じゃないの?
ムサの国が事実だとして、そこから形容して ムサい→むさ苦しい なのでは?
フサの場合は、房→ふさ、総→ふさ。布佐という地名もあるし、
富津(ふっつ)→フサ津や福生(ふっさ)→三多摩はあまり関係ないかも知れないが、
とにかく由来しそうなものが多い。
寒川はありうるけど、他にはムサという言葉は表現のムサい以外ほとんど残ってないんだよね。
それが不思議。
あと、何話すのも差別とカラめなきゃ話せない近畿の人?は
本当に心寒い。
日本を誇る近畿の感覚は後進国の自画自賛となんら変わらない。
関東の朝鮮帰化人が日本を造ったんなら
朝鮮は多分日本より上だろうね。
近畿以外の日本と朝鮮と中国で組んで
差別ばっかしてる近畿地方はいらないんじゃね?
ミカドもあきれて捨てた土地
663 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 19:30:44
明治維新で新しく西洋文化取り入れていく上で文化的に成熟しきった上方ではなく
土人の土地だった江戸をそのまま政治的中央に定めたんだろうけどバ関東の土人を
治めるにあたって徳川家の代わりの重石が必要だったんだろ
そんなことはどうでもよくてよ、
論理的話題にまで貴賎観を持ち出さなきゃ会話が出来ない
近畿人の非合理性を言ってるわけ。
そんな発想、今日び世界でアングロネオナチと近畿人くらいだよ。
いらないんじゃない?この民族
665 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 19:44:24
寒河江の寒河を「サガ」と読むことから、
寒川も元は「寒河(サガ)」だった線も捨てがたいよな。
相模川も近いし。
そうすると
サム上→相模 という読みも捨てがたい。
なんか寒河江というとアイヌ語っぽいイメージがあるね。
667 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 19:50:02
>>664 相変わらず都合のいいときだけおりこうさんになるね
>>667 形容が先なのか国名が先なのかどっちだよ。おかしいだろ。
669 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 20:16:39
荒川の当て字がムサ川なら、荒む=スサむがその読みだけど。
スサノオに武蔵との関連てあるんだろうか。
おもしろい着眼ではあるが、
一応、音韻を語る時は、言語ごとの歴史的音韻変化の基礎の基礎くらいは学んでおこう。
まず、茨城栃木+東北の今の方言の「音韻」の特徴は、
高々200年程度の歴史しかない。
藤原秀衡どころか、伊達政宗すら、現代人の思う「東北弁」とは無縁だったことは確実だ。
その意味で
>>646の「北関東以北では常道」は、ぜんぜん駄目だ。
次に、
>>655、これはもっと酷いwwwwwww
「士」の朝鮮音の母音がAになったのは、19世紀以降だ。
それ以前は全く別の音で、
現に、戦後の改正前の「歴史的諺文綴り」ではきっちり書き分ける。
こんな話は、「ウリナラのサウラビは日本の侍の起源ニダ」と言っている
韓国の馬鹿と変わらん。
671 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 20:31:14
どうでもいいよ。
武士でも武者でも同じことだ。
『士』の字の方の問題じゃなくて「武」の音の方言ってんだから。
ムとかブは中国じゃねえだろ。北方なまりなんだろ?
672 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 20:38:15
あのね
フサとムサで国が違うっつってんのに、
"スサむ"が当て字だったり、"ブシ"のブだったり
肝心なとこが変わりすぎてるね、って話してるわけよ。
そんなに"ム"の部分が音韻変化するなら、
前提の、「カミふさ」は読みやすいからアリ→「カズサ」
「カミむさ」は読みづらいなら無し→「むさガミ」がふっ飛んじゃうだろ?
>>671 頼むから、少しは勉強してくれww
武の頭子音は、古くは鉄板でMだ。これを疑う者は中国語音韻学者でだれもいない。
今でも広東語ではmouと発音する。これが呉音の「ム」。
これが隋唐の長安訛りでMBとなって漢音「ブ」になる。
なぜか福建語や台湾語に残っていて、B(bu)となる。
これが、後世になってさらに緩んでV(vu)となり、客家語の発音に残る。
さらに緩んで、現代北京語のW(wu)になったと推測される。
674 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 21:12:28
>>673 ふ〜ん
じゃあ日本の音読みの方が古来漢語に近いんだ?
アンタよくいろいろ調べてくれて親切だね。
それじゃ北方系じゃなくて本場中華読みで
どっちにろ武士武者に近いんでしょ?
武蔵人が武士なんじゃないの?
てゆうか大体みんなそう感じてんでしょ?過去の人物もみんな。
675 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 22:15:19
結論がそれか。関東の人間はほんとに人間がダメなんだな
676 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 22:27:15
この結論が引っかかってんのか。
じゃあ違うでもいいけど。遠回りするだけのような気が。
シモもカミもマ行終わりで、マ行同士がぶつかるから
シモムサ・カミムサはムサガミ・ムサシモにしたっていうのはわからなくないけど。
フサとムサの語感が近すぎて別国名としてはちょっときびしい。
全部フサだったんじゃないの?
上フサ下フサ中フサとかあって、中フサが渡来人居住地。
上下フサは畿内人移住地。とか
677 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 22:34:19
基本関西弁ではあまり子音調和しないからフサはフサのままだけど、
関東語だと接頭詞が付くとフサはブサに子音調和する。ブサならムサと同じ。とかそんな感じで
>>677 あのなあ、言語学用語をデタラメに使わないでくれ。
素人の生兵法は、見ていてあまりにも痛々しい。
音韻の分析は、古代ギリシア以来、「必ずデタラメ類推に至るお約束ツール」として、
知的営みとしてはきびしく警戒され、時には軽蔑されてきたものだ。
洋の東西を問わず、素人が思いつきでやっても、
99.9999%は嘘で、ほぼ絶対に正解に至らないからな。
679 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 23:25:30
>>678 そんなのはいいからよ、
ただ、出発点の サの国→フサ&ムサ→ムサガミ&ムサシモ ってどうなのよ?
そっちの方が生兵法じゃねえのかよ?
お前は、お前と同じ批判を持ってる俺に食い下がってるだけなわけ。
その違いは、お前は無礼で俺は丁寧に指摘してるだけ。
680 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 23:27:25
これでこいつが納得しなかったら近畿のクソ決定だな。
百パーセント矛盾してるエセ科学論者だ。
西欧の文化人類学と同じレベルの。
本居宣長は言語学者でもなんでもねえだろ。そんな推論合ってるのかよ。近畿クソ
>>679 俺はその「出発点」自体、全く支持していないんだが。
>>670は「着眼点」が面白いねえ(笑)と言っているだけで、支持するとは一言も言っていない。
大体、奈良時代の東歌を、畿内音と中国語音と照らし合わせて音韻分析した結果を、
まずは国名と照らし合わせることが、
信憑性を判断する基礎の基礎の基礎なんだが、
>>670が、そんなことなど全くできていない。
自分の趣味で適当に「現代読み」の国名を切り刻んで、
20世紀生まれの爺さんの「関東地方の訛り」で類推しているだけで、
これでは、万葉集は、近代朝鮮語の慶尚道方言で読めると言い放った、
イ・ヨンヒという韓国の電波ゆんゆんおばさんと何も変わらない。
683 :
646:2009/09/12(土) 23:35:51
>670
>茨城栃木+東北の今の方言の「音韻」の特徴は、
>高々200年程度の歴史しかない。
>その意味で
>>646の「北関東以北では常道」は、ぜんぜん駄目だ。
いくら2CHでも、でたらめが過ぎるな。
「き」「の」が「け」「ぬ」になまるのは、
寒冷地の常道。日本以外も含めて。
寒冷地では、口を大きく開く発音や、息を吐く発音は、
口の開き加減が小さくなり、
あまり息を吐かなくてもいい発音に転化する。
冷たい空気をたくさん吸うと、体が冷えるからと言われている。
古墳時代以前の北関東は、今よりずっと、寒かった。
>>683 ぅぁあああああ(AA略
俺は真正のうんこを触ってしまった気がする。
こりゃどうしようもない。
知的な議論をできるというレベルじゃないので、
俺はこのスレから消えざるを得ない。
じゃあな。
そのレベルでも、自費出版したら、
田舎の好事家を騙して1万円分くらいは売れるかもしれんから、
まあ頑張ってくれ。
685 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 23:56:11
>>682 そうか。
>>684 いや、お前(近畿)の言いたいこともわからんでもねえけど、
鬼怒川が毛野川由来なんてのは地元じゃ常識なんだよ。
でフサがムサとは別語には成らなさそうってのも、
こっちで暮らしてりゃわかる話だから
だから尋ね合わせてるんであって。
地名で千葉県側にもムサ的なものがあることも。
本居宣長は近畿の学者だろ?だからそうゆう感覚的なことはわからねんだよ。
学問の問題じゃねえよ。文化の一方的な優位視点断定と独善性の押し付けが話をややこしくしてんだよ。
こりゃ地理学の話なんだから。
まあ、突き放すのも悪いから、少しだけマジレスするとだなあ。
中学1年の英語の教科書から復習だ。
口を大きく横にも縦にも開いて、息をシッカリ出して、
CAT
唇が割れそうなくらい横にシッカリ開いて、大きく息を出して
MEET
これが、北緯53度で生まれた言語の発音だ。
北関東なんて、高々北緯36度だからな。
未だに昭和の井戸端会議レベルの俗説なんて、21世紀にもなって信じるかねえ。
>>685 >>646はおいといて、おまえさんとは、話が出来そうだと思う。
地元伝承だから正しいとは限らないんだよ。
地元民でも、語呂合わせのような滅茶苦茶なことを真顔で言うのは、
地名詮索では、世界中で普通のこと。
「き・ぬ」と「け・の」を結びつけるには、
最低でも、音韻法則に基づいた母音変化を証明しないといけない。
本居宣長ではなく、近代の言語学の法則だ。
そして、当然上代8母音説と、これを支える上代以前の連母音変化について
どのような考え方を取るのか、でもこれは奈良時代畿内語の復元だから、
そしてそれが東国ではどうだったのかまで、きちんと論証しないといけない。
「き」の母音は甲乙どちらなのか。「木」なら乙類(クィ)で、koe「こ乙=コェ」が古い形だとされる。
これと「毛」はどう結びつくのか。エ段は合成母音起源とされるが、
合成母音(連母音融合)なら、何と何とが融合したのか。
そして、「の」は乙類で「オェ」のような音だったのに、なぜ「ぬ」になるのか。
そこにはどういう変化があるのか。
ここまでやらないと駄目なんだよ。
688 :
日本@名無史さん:2009/09/13(日) 00:18:37
>>670 >まず、茨城栃木+東北の今の方言の「音韻」の特徴は、
>高々200年程度の歴史しかない。
>藤原秀衡どころか、伊達政宗すら、現代人の思う「東北弁」とは無縁だったことは確実だ
これ、前にも目にしたけど流石にちょっと信じられんなぁ。
逆に言えば、
栃木茨城あたりから青森(いや正確には渡島半島あたりまでか)までの広大な地域が、200年くらい前に突如(ズーズー弁としての)同質性を持った言語・方言に一斉に変わってしまうものなの?
689 :
日本@名無史さん:2009/09/13(日) 00:21:54
>>687 語呂だけで考えるとな。
ただ地元にゃ地元特有のスラングや言い回しや地名人名いろんな要素があって、
これはアリだろうけどこれはどうかな、ってのがあるわけよ。
まあ今いる書き込みのどれが近畿でどれが地元かわからんけど。
もちろん途中から間違った由来が入り込んで思い込まれてるものもあるだろうけど。
俺は南関だから必ずしも北関東感覚が全部わかるわけじゃないけど、
そうゆうモンなのか?
鬼怒川毛野川は確証まではねえのか。結構感覚的にはわかるけど。
691 :
日本@名無史さん:2009/09/13(日) 13:27:55
本居宣長は有名な立派な人だろ。
そのマトモな人が関東に関しちゃこんなテキトーなこと言ってるわけよ。
これがもし逆だったらどうなる?
関東の学者が近畿についてここまでの浅論を断定したら関西人は猛然と反発するだろ。
これが文化差別だ、っつってんの。
ついでに言うならこの差別は、実は中国朝鮮も日本に向けて行ってるわけ。
もちろん実社会上では日本が中韓を差別しているけど。
それとは別にこの部分は反論する必要があるわけ。
世の反亜論者の感情的な要因にもなってるわけ。
もっとも連中は馬鹿だからその潜在要因に気付いてないけど。所詮ネウヨだから。
関東とは、中国や朝鮮半島にあった国が次々と滅び、そのたびに大陸から直接、
もしくは、朝鮮半島を経由して移り住んだ亡命者や難民が開拓した土地です。
秦、前漢・後漢、呉・越、任那・伽耶、高句麗、新羅・・・大王やその親族クラスも
たくさん来ているし、関東の農業、土木、建築、工業、交通、文化、社会制度、
どれをとってもこれらの帰化人なしには成り立たなかったものです。
関東は人種のるつぼ、フロンティア、政争に敗れた亡命貴族が再起をかける
土地だったのです。
693 :
日本@名無史さん 日本@名無史さん:2009/09/14(月) 21:56:37
小さい頃、昭和40年、50年代、埼玉や千葉、東京下町辺りは
栃木や茨城のイントネーションでしゃべる人が大量にいたけどね。
下町言葉というのは、基本的に北関東弁ですから。
江戸川や隅田川の水運を支配していたのは、北関東系の昔からの江戸っ子。
徳川幕府になってから三河や京都方面から越してきた公家や大名家とは混交
しなかったし、山手に住宅街ができたのは明治以降です。
695 :
日本@名無史さん:2009/09/14(月) 22:18:24
東北と関東は延長だからね。
今でも農村部行きゃ変わらないよ。
埼玉の農家の老人は
県北より県南の方が訛り方が泥臭かったりする
697 :
日本@名無史さん:2009/09/15(火) 01:50:33
下町言葉北関東弁ってのはちょっとアレだけどなw
まあ北も南もそんなに大きな違いはない。
やっぱり上っていくほど濃さが上がって行くだけで。
そりゃ、昨今の茨城の南北差とか(筑波-水戸。茨城県南は千葉側より標準語化)、
南房三浦伊豆の移民語混合の浜言葉とか
少し違った存在はあるけど、総じて連続的な変化。
>>695 >>697 そりゃないよ。伝統的方言に着目する限り、連続ということはない。
断絶線は、大雑把に言うと古い利根川の経路と重なる。
足利と浦安を結ぶ線の東西の方言差は、
関ヶ原、親不知、関門海峡の東西に匹敵する、強烈なものだ。
三代下町の江戸っ子は、山梨県甲府の古老の言葉は8割方分かっても、
ずっと近い茨城県水海道の老人の発音は、2割も聞き取れない。
関東平野は、この大断絶線で東西に分断されるので、
方言学では、「西関東」、「東関東」という、聞き慣れない表現を使う。
厳密に言うと、東関東でも千葉は中間地帯になるが。
699 :
日本@名無史さん:2009/09/15(火) 04:57:11
>>698 そりゃそうだろw茨城は方言キツいから。
また江戸下町と栃木言葉なんて似ても似つかぬ言葉。
>下町言葉というのは、基本的に北関東弁ですから。
↑これを俺はやんわりと否定してるわけ。
俺とお前の違いは、お前は無礼で俺は丁寧に指摘してるだけ。
前にもお前に同じこと言わなかったか?
700 :
699:2009/09/15(火) 05:05:14
実際の方言差は多分、南北方向よりむしろ海山方向での差の方が多いと思う。
ただし水海道と江戸の方言差はお前の言う江戸川ラインの境界とは全く関係ない。
なにより、東京標準語圏の影響が一番で、
伝統方言の境界差なんて吹っ飛ぶほど影響がデカい。
筑波の東京化の理由は研究学園都市にTXが開通したことだからな。
下町=北関東弁 を言った人物は必ずしもデタラメを言ったんじゃなくて、
江戸浅草はチバラギ人の、上野は東北人のそれぞれ上京先で、
文化的交流を言ってるだけだろ。
どうして学問だけで話すお前が事実を知ってる地元の俺を否定すんだよ?馬鹿か。
ちょっと軽度の発達傷害ないかお前。
再三言うが一発でわかるほどのヨソモンが決めるな
何考えてんのお前ら?
絶対近畿人だろ。そのデタラメ断定癖
江戸川左右の方言差が関ヶ原に匹敵!?
関ヶ原って関東関西方言境界の関ヶ原?
1000%有り得ねえ。
捏造をするな歪曲をするな断定をするなしゃべんな関東に来るな
703 :
日本@名無史さん:2009/09/15(火) 05:29:54
>>670 >まず、茨城栃木+東北の今の方言の「音韻」の特徴は、
>高々200年程度の歴史しかない。
>藤原秀衡どころか、伊達政宗すら、現代人の思う「東北弁」とは無縁だったことは確実だ
これの論拠、出典が聞きたい。
だれが唱えてる説なの?
704 :
日本@名無史さん:2009/09/15(火) 06:18:50
江戸っ子弁も北関東弁も
ルーツは縄文語だろう
大和言葉ではないよ。
705 :
日本@名無史さん:2009/09/15(火) 12:09:39
関東の方言は他地域みたいにデジタルに色分けできるモンじゃねんだよな。
明確な境界があるのは一部だけで、都道府県単位ではっきり言葉が違うとかは
まず考えられない。
またどこの地域でも、若者と地元のオッサンが話す地元言葉と、
勤め人の社会人語(標準語)が共存する。極論すれば都内だってその例にもれない。
北関・三多摩(東関東・西関東?)の違いの例は加藤茶と志村けん。加藤は福島かもしれんけど。
あんな感じ。あれでなんかイメージってわくか?
706 :
茨城県人:2009/09/15(火) 14:58:42
ごじゃぺえってんじゃねえよ。(語気を強く、喧嘩腰で)
これ、茨城の標準的な言葉です。
茨城の言葉は全てが喧嘩語
先日も近所の茨城居留地で茨城人が殴り合ってました
正直イバ栃一緒っつうイメージも微妙にわからんけど。
下館下妻とかナマんのはわかるんだけど、
栃木の方がもっとのっぺりしたイメージがあんだよな。>野州常陸人
結局、距離の近いトコはともかくとして、
北関三県は街道筋が全部割れてるからそれぞれ違うんじゃないの?
奥州道常磐道・・・イバ栃、中山道・・・群馬、とざっくり二種類ってだけで。
709 :
茨城県人:2009/09/15(火) 15:55:47
茨城よりも栃木の方が、言葉は柔らかいです。
鬼怒川を越えた結城辺りだと、下館と比べ栃木色が強くなり、岩瀬笠間方面に向かうと
水戸に出るまでに、方言の独自性が変化する。
水戸は別に海へ至れば
語気と荒さが益々高まり、茨城海岸言葉へと
>>222 >もうひとつ奇妙なことは、
>武蔵・相模は西南が「上」で東北が「下」とケヌ・フサと同じ、
>一方日高・常陸は東北が「上」で西南が「下」である。
西日本からの侵入ルートの順ではないの?
と3年以上前の書き込みにレスをつけてみる
古い利根川なんて今は当時と違って大した河川じゃないからな。
足立と葛飾の区境を流れていた事も地元の人でも知ってる人はあまりいないだろう。
712 :
日本@名無史さん:2009/09/15(火) 20:53:06
利根川が坂東太郎と呼ばれ恐れられていたことなど、今の都民は知る由もない。
その弟分に、筑紫次郎(つくしじろう=筑後川)、四国三郎(しこくさぶろう=吉野川)がいる。
713 :
日本@名無史さん:2009/09/15(火) 21:14:38
俺とお前と大五郎
714 :
日本@名無史さん:2009/09/16(水) 00:09:05
>茨城よりも栃木の方が、言葉は柔らかいです。
そうだね。そんなイメージ。
そうそう、海側と山側の差と言っても本当の浜まで出てしまうとまた違う。
浜言葉は全体的にちょっと違う。
イバ弁は殺伐としてる感じで栃木は平坦。でも水戸や北茨はあんまわかんねえなあ。
ちょっと面白いコピペ
だっぺよだけで感情を使い分ける高度言語「茨城弁」
http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51481091.html 千葉をこうだと人に説明したことがある。
「そろそろ行くべ」→自発・勧誘・観察、全部これ。
語尾が曖昧てゆうのは東京や近畿の都会では通用しないだろね。
「それはキミの意志?それともオレに言ってんの?」なんて聞き返されんだろな。
>>714 >そろそろ行くべ
それは茨城弁でも優しい表現です。
日常的には、語気を最初から強め「早ぐ行ぐべ」
主に筑波山北部周辺地域語ですが、「催促」
716 :
日本@名無史さん:2009/09/16(水) 01:11:21
>>715 へ〜茨城はやっぱキツいんだ。
あとはやたら短く切ったりとか
「けっぺか?」(帰っぺか)
を略して
「か?」「んべ」
東北弁は日本一短い会話とか言って
「け!」 食え 召し上がれ
「く!」 食う 頂きます
とか言うらしいけど。
おんなじノリかな。
>>716 あと、周りを促す意味も込めて
「はーけえっぺけえっぺ」(そろそろ帰ろう)
当事者は普通の会話なんだが、周囲からは喧嘩してると
だべ?
719 :
日本@名無史さん:2009/09/16(水) 21:31:48
だべ。
720 :
日本@名無史さん:2009/09/16(水) 21:33:27
反射しちまった。
>>717 うん、イバは荒いw
栃木はわりとのんびりしたイメージだ。
まあ茨城に限らんけど、関東地元のオッサンは
敬語とか全然使わん奴も多かったりするな。
茨城はとにかく早口で語気を強くして話すから、
周りからすれば何を行ってるんだかさっぱり分からないようだ。
まー早口が故に短気者が多いから、なるべく茨城県人とは揉め事は避けた方が無難かも?
車の運転だって全国有数の荒さじゃないかな?
むやみにクラクションなんて鳴らそうものなら
「テメーこの野郎〜何考えてんだ!ぶっちゃっしゃあぞ!(潰しちゃう)」
と、言われる。
早く来い→はっこ
723 :
日本@名無史さん:2009/09/17(木) 12:02:52
そうゆうトコは都会っぽいんだな。
クラクションで怒声って。
千葉だと口より先に手なのかな。まあ普通揉めねえしw
724 :
301:2009/09/19(土) 16:05:59
test
725 :
日本@名無史さん:2009/09/19(土) 16:07:07
失敗
吾妻とかの地名って日本武尊ゆかりだから
大昔は中央政府に逆らう豪族がいたんだろうな関東にはたくさん
727 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 12:41:31
へえ
ほう
大甕神社・・創祀年代は不詳ですが由緒は古く神代とされて、御祭神は 武葉槌命(たけはずちのみこと)。
大甕山に陣取る悪神甕星香々背男(みかぼしかかせお) を討伐して、此の地に留まり常陸地方を治めたといわれています。
日立研究所・・日立製作所グループの研究部門として、電力・機電開発研究所と合せて 世界の最先端を行くハイテクノロジーの研究開発が行われています。
日立グループと関係ありそうです。
>>729 ところによっては須佐之男と合祀されていることが多い神様ですよね。
ともに悪役キャラと言うことで、もしかしたら、元は同一かもしれないですね。
三貴神が天照・月読・甕星のセットであったのなら、日神・月神・星神のトリオになって面白い。
731 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 07:38:24
なんで毛野氏の子孫が宮内庁長官などやっているの??
しかも蘇我入鹿の天皇に対し無礼な態度をとったと激怒!
歴史は繰り返す。
>>731 宮内庁長官って毛野氏の末裔なのか。
まぁ、毛野氏は皇別氏族だから別に不思議じゃないんじゃないの。
733 :
日本@名無史さん:2010/02/21(日) 09:38:51
ほー
毛が名前に生えてたらとにかくすごいんだな
毛利氏と毛野氏は関係あるのでしょうか?
>>735 人間皆兄弟的な考えでいけば関係あるかもしれんけど
一般的に言えば関係ないと思われる
昔の「ケヌ」という発音に対して毛野という音の漢字をあて、
一方で「モウリ(モリ)」という発音に対して毛利という音の漢字をあてた。
結果的に毛の漢字が当てられただけ。
737 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 10:49:04
ふーん
「毛野」は「ケノ」だよ。古代の文献を読むなら上代仮名遣いぐらい覚えとけ。
>>738 なにが「ケノ」だよ?
とぢぎ県民は「けぬ川」って発音すんだよ。
だから何
訛ってんのは、そのまま文字化されんだよ。そのくらいわかっぺ?
なんで万葉集には「わかっぺ」って語彙がないの
>>743 固有名詞だから、土地の発音のまま文字化される
述語は都言葉でも書けるだろ
栃木の人って1300年前から「わかっぺ」って話してたの?
すごいねー
長万部、留辺蘂、芦別、江別、登別、
岩手県には安比(アッピ)、宮城県にも鬼首(オニコウベ)等の地名が残っており、
「っぺ」、「べ」・・というのはアイヌ系の言語の名残だということがわかります。
ズバリ、栃木県民はアイヌだべ?
おもしろいね
栃木の地名でもそれっぽいものは残っているかな
過去の文献を全く確認せずに
語呂だけでアイヌ語云々と言い出す奴が多過ぎだろ。
北東北以外のアイヌ語地名については何の根拠も無いのが現状。