平安時代にはまとも軍隊もなかったのに

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1日本@名無史さん
なぜそれなりの統治ができてたのか?
藤原氏が楽しそうに暮らしてるのを見て、
反乱を起こす人がもっといてもよかったのでは?
語ってくだされ。
2日本@名無史さん:04/12/24 12:45:34

絶えず起きてますが何か?
3日本@名無史さん:04/12/24 13:30:21
外国が攻めてこないと軍隊の必要性は薄いかもな
4日本@名無史さん:04/12/24 13:59:56
平安時代の主な地方での反乱。

935-940 平将門
939-941 藤原純友
1028-1031 平忠常
1050-1062 安倍頼時・貞任
1093 平師妙・師季
1108 源義親
1156 保元の乱→源平の争乱へ

後三年の役は清原氏の内紛なので除外。
他にあれば、要追加。
上記全部足して24年間。絶えず起きてるといえるか?
特に794〜935年の間。
5日本@名無史さん:04/12/25 05:51:16
貴族は傭兵雇ってたから軍隊イラネ(゚听)
6日本@名無史さん:04/12/25 07:57:19
全然統治出来てないような
7日本@名無史さん:04/12/26 01:02:39
>>4
外国から、大海賊団が着ただろ
8日本@名無史さん:04/12/26 12:15:01
774年 3月、新羅大使が大宰府に着いたが、無礼の為しりぞける。
811年12月、新羅の賊船が対馬近海に出没するので、警備させる。
813年 2月、新羅人百人余、肥前小近島に来て土民を殺傷する。
814年10月、新羅商人が長門に漂着、また帰化を求めて博多にも来る。
816年10月、新羅人180人が帰化する(このころ新羅人の帰化が多い)。
820年 7月、新羅人40人が帰化する。
863年11月、丹後・因幡に漂着した細羅人・新羅人に兵糧を与えて返す。
864年 2月、石見に漂着した新羅人を返す。
869年 5月、新羅の海賊、博多で掠奪する。
     12月、新羅の海賊に備えて諸国の俘夷を大宰府に在番させる。
893年 5月、新羅の賊、肥前・肥後を襲う。
894年 4月、新羅の賊来る。大宰府に討たせる。
1049年 9月、対馬、高麗の漂民20人を送り返す。
1080年 3月、高麗国、医者を求める。10月、日本、断る。
9日本@名無史さん:04/12/27 13:08:35
実際に交戦したのは、

894年 4月、新羅の賊来る。大宰府に討たせる。

のみ??
逆に言えば、俘夷を集めたような軍でもそれなりにやれたってこと?
10昔、名無しありけり:04/12/27 17:11:06
狩人が守ってくれていたんだろ
11日本@名無史さん:04/12/27 18:45:01
北面の武士とか西面の武士という集団がいたんではないのかね?
12日本@名無史さん:04/12/27 20:42:14
>>11
せいぜい、御所の警備程度だろう。
13日本@名無史さん:05/01/03 04:49:59
>>3
権力抗争に伴う武力クーデタの方が、時の政権には身近な危惧だったろうし、現に
810年の薬子の変では、武力衝突には至らなかったが、薬子を自殺に追い込む軍の
出動があったはず。その後も9世紀では蝦夷制圧軍も出動してるのに、その正規軍
組織はその後どうなったのかな。
14日本@名無史さん:05/01/03 13:03:02
平安前期は天皇、あるいは摂関家が一声かければ、
正規軍がすぐに編成、出動できる状態にしてあったのだろうか。
そうであれば、すばらしき政府組織。
武士の時代への過渡期にいかにそれがグズグズになってしまったのか。
15日本@名無史さん:05/01/03 13:17:52
>>1が言う「軍隊」というのは、ええと俺専門用語とかわからないんだけど
中央軍隊というか国営軍隊というかそういうのがないのに、という感じじゃ
ないかなぁ?

中央政府は軍務(責任者なり)につくものを命じているけれど、
その配下として軍事行動するのは「私兵」なんじゃないの?

>>14さんがいうような「正規軍」の制度ってあったんですか?
古代には、防人とかはいた気がしますが。
16日本@名無史さん:05/01/03 14:20:17
>>14
律令時代は諸国に軍団があり、農民から兵士を徴発していた。
しかし、財政難のため平安初期に廃止し、志願制の健児に切りかえたが、
それもいつしかあやふやになって「私兵」の時代へ移行していった。
17日本@名無史さん:05/01/03 14:32:43
>>15
>中央政府は軍務(責任者なり)につくものを命じているけれど、
>その配下として軍事行動するのは「私兵」なんじゃないの?
それは、源平に代表される在地武士が発生してからだろ。10世紀前半の純友の乱討滅
軍を率いた宮廷貴族の小野氏がそういった「私兵」を有していたとは思えないよ。
18日本@名無史さん:05/01/03 15:07:24
押領使とか追捕使というのは、地方豪族が「私兵」を率いているの?
19日本@名無史さん:05/01/03 15:22:56
>>17
桓武天皇による延暦年間の数次の征夷軍の最高指揮官には、紀古佐美とか
大伴弟麻呂といった律令以前の武門豪族出身者が選出されてるね。奈良期
以降も族兵というか私兵を持っていたんだろうか。
20日本@名無史さん:05/01/03 18:34:25
>>19
律令体制下で私兵養いは不可能だろ。紀氏、大伴氏には伝来の軍事技術が期待
されたんだと思う。
21日本@名無史さん:05/01/04 00:13:07
>>19
征夷軍の征東大使には、武門でない藤原氏の藤原南家継縄727〜796や
藤原北家小黒麻呂733-794も任命されてるね。
歴代の征夷大将軍一覧 ttp://s-mizoe.hp.infoseek.co.jp/m043.html
22日本@名無史さん:05/01/04 20:01:48
>> 16

摂関政治の時代に国軍の兵士調達費などをケチったのが、
私兵の時代、武家政権の時代への呼び水となったと考えてよい??

律令時代に機能していた兵士徴発ができなくなった、「財政難」の原因は?
教科書どおり荘園の発達のせい??
23日本@名無史さん:05/01/04 20:41:39
gh
24日本@名無史さん:05/01/04 20:57:51
>>22
律令制度自体が当時の生産力に比べて分不相応なんですよ。
25日本@名無史さん:05/01/04 21:08:10
無理して作った律令制度下の国軍の残滓が
平安前期は多少なりとも機能しており、
地方に対して睨みが利いていたのであろうか。
それとも平安前期は「善政」が行われており、
地方豪族に不満もなく、反乱も少なかったと見るべきか。
26日本@名無史さん:05/01/04 21:18:49
「律令制度」だの、「尊皇攘夷」だの、「富国強兵」だの、「構造改革」だの、
この国の歴史で四文字熟語が踊る時代は、後から見てろくな時代ではない。
27日本@名無史さん:05/01/05 00:52:31
>>25
>平安前期は「善政」が行われており...
朝議の場で、晩年の桓武帝の前で「方今、天下の苦しむ所は軍事と造作と
なり。この両事を停めば百姓安んぜむ」と帝に諫言した青年参議藤原緒嗣
もいたからねえ。
28日本@名無史さん:05/01/05 01:32:03
>>11
北面はともかく、西面は後鳥羽天皇の時代。
29日本@名無史さん:05/01/05 02:50:46
>>26
「文明開化」だの、「神武景気」だの、「昭和元禄」だの、いい時代もありますよ。
30日本@名無史さん:05/01/05 03:00:53
>>29
その三つのうち「文明開化」以外は単なる事象であって
スローガン的要素はない。
31日本@名無史さん:05/01/05 05:44:41
>>16
軍団廃止(ただし辺要の地をのぞく)は、財政の圧迫もあるだろうが、
ちょうどこの頃唐や新羅が国内混乱で衰退し、国際的な緊張が
緩和されたことが大きい。

また財政の圧迫も、要するに班田農民の没落によるものであり、
それは同時に軍団の担い手の減少も意味する。
32日本@名無史さん:05/01/05 05:45:05
国際的な緊張の緩和は、律令体制のゆるみをもたらし、
土着国司らの富裕層にも私兵が「横行」、ついに反乱を
起こすようになる。。それらは騎馬や軍船など、機動力の
高い兵団であり、それまでの歩兵中心の軍制では対処
しきれなくなっていた。

しかしここで国衙は、党と呼ばれたそれらの
私兵集団の一部を組織化し、新たな軍制をしいた。
これらの国衙軍は、平安末期に至るまで
(特に西国においてよく)機能した。
33日本@名無史さん:05/01/05 05:57:53
ただし東国における反乱は大規模で頻度も高く、
9世紀末には深刻な争乱状態が発生するに至る。
そこに桓武平氏らの貴族・皇族の末裔が下向し、
独自に群党を組織し、中央貴族とのつながりを維持する中で
国衙と対等の地位を有する辺境軍事貴族の立場を築いた。

彼らの存在が、摂関の、ついで王権そのものの権威が低下するに
至って、武士の自立をもたらすことになる。東国で特に
反乱が頻発しかつ大規模であった原因としては、
朝廷の支配化に入ってよりの年月が十分でなかったことが考えられる。
34日本@名無史さん:05/01/05 06:04:07
>>22
やっぱり班田農民の没落だろう。
荘園が発達したのも、富裕層が「党」を形成し得たのも、
過酷な班田制のもとから逃亡した農民が大勢いたからだ。
35日本@名無史さん:05/01/05 10:38:23
班田農民の没落の原因は?
36日本@名無史さん:05/01/05 16:16:28
>>35 事実上の私有財産の否定だったから。
要するに働いても働いても天皇の物なので、自分の所得にならん。
さすがにそれで律儀に働く人はおらんでしょう。
37日本@名無史さん:05/01/05 16:47:00
>>27
その「徳政争論」は、最初から結論ありきの
桓武天皇の演出、出来レースだったと言うのが通説。
38日本@名無史さん:05/01/05 17:08:47
>>35,36
税の重さも半端無かったんだと思う。
39日本@名無史さん:05/01/07 09:39:36
以上をまとめると...

律令制度の下、農民から兵士を徴発。国軍を整備。

@当時の生産力が律令制度に見合わず、農民への負担が大
A私有財産否定に無理があった
以上の理由から律令制度を支える班田農民が没落、逃亡。

農民の没落が財政を圧迫。国際的な緊張の緩和などもあり、
軍備に金をかけなくなる。

財政難のため徴発による国軍は平安初期に廃止。志願制へ。

律令体制のゆるみにより、土着の富裕層に私兵が横行。

国衙は私兵集団の一部を組織化し、新たな軍制をしく。
(平安前期までは全国的に割合機能していた?)

西国では国衙軍は、平安末期までよく機能した。

東国は古来から独立志向が高いため、
私兵による大規模な反乱を起こすことになる。
(平将門や、陸奥の反乱)

私兵を有した武家が政治的優位に。
武家政権へ。


これでよい??
40日本@名無史さん:05/01/07 13:54:38
私有財産の否定って、あの時代にはもともと「自作農」なんかいないだろ。
41日本@名無史さん:05/01/07 17:49:36
>>40
いみわからん。自作農の定義は?
42日本@名無史さん:05/01/08 01:09:30
>>33
>東国における反乱は大規模で頻度も高く、 9世紀末には深刻な争乱...
って、どの国での反乱を指してるんですか?
43日本@名無史さん:05/01/08 03:15:28
>>42
イ就馬党(しゅうばのとう)の人達とか。
44日本@名無史さん:05/01/08 03:35:20
>>26

構造改革は、まだ、後の時代になってないから、判断できないのでは?
45日本@名無史さん:05/01/08 04:26:03
死刑も廃止だったんだよね?
46日本@名無史さん:05/01/08 11:30:31
律令制の時代に完全に公地公民が行われたと思ったら大間違いだよ。
各地に跋扈する豪族の存在を完全否定することなんかできないだろ。
地方豪族の多くは郡司に任命されたけど、支配のフリーハンドをかなり認められていた。国司は徴税官と同じだった。
従って律令期の軍隊も事実上地方豪族である郡司の軍である。
律令崩壊は郡司である地方豪族走の没落が原因である。支配民が逃散し、国府役人である在庁官人や国司の私領に逃げ込む。
旧豪族層は没落し、中央下級貴族の天下りが多い新豪族層が育った。新豪族は国司と密接に関係を持っていたので国司の権限が大きくなり受領化し、強引な徴税でトラブルが増えていった。
47日本@名無史さん:05/01/08 11:59:15
>>46
悪代官のような郡司により農民が苦しめられ逃走...、
という水戸黄門のようなお決まりのストーリーだが、
郡司も皆が皆馬鹿ではないので、
自分が没落するほど農民を苦しめるだろうか。
46のようなことが全国一律に起きるとは信じられない。
郡司が没落した本当の理由はなんでしょう?
48日本@名無史さん:05/01/08 12:07:14
49日本@名無史さん:05/01/08 12:08:16
旧豪族と下級貴族が通婚して融合したのではないのか?
50日本@名無史さん:05/01/08 12:59:34
>>46
>旧豪族層は没落し、中央下級貴族の天下りが多い新豪族層が育った...
没落でなく、>>49による改名だろう。平安末期の清和源氏や藤原氏を名乗る有力
東国武士はすべからくその類なのでは。在京下級貴族が地方官の官職を得て、下向
し免官後も定住するにしても家族だけでは、到底有力武士にはなれなかっただろう。
平安末期の西国有力武士団もそうだったのかな。
51日本@名無史さん:05/01/08 16:44:41
>>50
藤原秀郷の後裔を称している下野の小山氏なんかそうかもね。
城内に祇園神社を祀っていたりして明らかに疑わしい。
52日本@名無史さん:05/01/08 18:27:49
>>50
日本史板に来てまで、「すべからく=すべて」のような日本語の誤用はやめなされ。
すべからく、というのは「すべからく〜すべし」という漢文の「須」という文字の読み下しで、
「〜すべきだ」というほどの意味。
すべて、をかっこよく言いたいんなら、軒並み、とか、ことごとく、とかでどう?
ふつうに「すべて/みんなといってよいほど」とか。
53日本@名無史さん:05/01/08 22:16:21
>>46,49
通婚による下級貴族との融合が正しそうだが、
仮に郡司の没落で、国司の権限が大きくなったとしても、
それがすぐに律令崩壊とはならないだろう。
国司は律令制度の役職であり、
国司が全国一律に無茶した、と考えるのは無理がある。
54日本@名無史さん:05/01/08 22:32:21
国司の権限拡大が郡司層の没落になったのでは?「百万町歩の開墾計画」とかで郡司を無視した動員とかが可能になって国司は自分の私領の開墾だけに勤しんだとか?
55日本@名無史さん:05/01/08 22:55:03
>>54
>国司は自分の私領の開墾だけ...
在京国司が任地に私有地をどうやって持ったのですか?
56日本@名無史さん:05/01/08 23:15:02
オーソドックスなのは地元の小金持ちからの寄進。
57日本@名無史さん:05/01/08 23:49:24
>>56
その寄進地の租は、誰が誰に納めるのですか?
58日本@名無史さん:05/01/09 15:46:59
>>57
平安以降の国司は実質的には徴税請負人だから、自分の土地は事実上不輸田。
59日本@名無史さん:05/01/09 19:21:33
>>54
私領ではなくて国司直営田みたいのか?代々の国司が報酬みたいな形で上がりをもらうやつ。
60日本@名無史さん:05/01/09 19:27:06
平安時代の推定人口ってどんぐらい?
朝廷の統治範囲って
畿内から西ぐらいでしょ、平安時代は
61日本@名無史さん:05/01/09 19:34:23
>>60
福島県の白河関以南は一応統治範囲じゃないの。
62日本@名無史さん:05/01/09 22:15:52
伊沢城〜秋田城を最北と考えると、今の盛岡〜秋田ラインが支配範囲。
63日本@名無史さん:05/01/09 22:19:25
平泉までだから。蝦夷へは武田とかが
進出するまではあまり関心がなかった。
64日本@名無史さん:05/01/11 09:36:25
東国の民がはるばる京都まで租税を送るメリットなんて感じられんからな。
中央政権が公共事業でもやってくれれば別だが。
65日本@名無史さん:05/01/11 16:46:09
国司は常陸のような大国でも在庁官人を含めて70人くらいしかいなかったらしい。
中国では宋代に県(日本の郡に相当)でも官+吏+役で100人以上いたというから、その上の府州だともっといただろう。
66日本@名無史さん:05/01/22 06:38:44
江戸時代だって代官所にはほとんど人いなかったし
67日本@名無史さん:05/01/24 23:14:02
奥州って柵だけで城だしなぁ・・・でも戦国時代でも伊達と芦名
くらいしか知られてないし
68日本@名無史さん:05/01/24 23:45:00
東国人の俺から言わせると西国の戦国大名出知られているのは島津と毛利、龍造寺ぐらいだな。
まして西国で城って・・・大野城の後無くなり名護屋城で復活??て感じだよ。
69日本@名無史さん:05/01/24 23:55:03
70日本@名無史さん:05/01/25 00:28:19
東夷
71日本@名無史さん:05/01/25 09:39:41
>> 67
平安時代の城は一般に簡単な柵と堀だけでしょう。
盛岡の志波城跡に行ってきたことがあるが、
4,5mくらいの高い土塀が再現されていた。
この復元の学問的根拠がどのくらいあるかわからんが、
当時の武器を考えると十分、防御機能がありそうな城でした。
http://homepage1.nifty.com/isla3/010614.htm
72日本@名無史さん:05/01/27 21:07:54
>68 古代平安時代に北九州とか城塞だらけになります。
環濠と山城だらけ。鎌倉期に水城とか築かれてるけどこれって
もう既に平安期から技術があったらしいよ。元寇で一気に巨大化
したんじゃなくて昔からある程度下地があったとのこと。


西国は、人名録とかスデにあったり、大名関係は、かなり当時から知られていた。
武田信玄が九州の武将に手が出したりしてたりするのもそういうこと。

奥州は・・・まじで芦名と伊達しか知られてなかった。
73日本@名無史さん:05/01/27 21:54:30
京都扶持衆
伊達、葦名、白河、石川、小野寺、南部など

自分の無知をさらけだすのは恥ずかしいよ
74日本@名無史さん:05/01/28 07:58:34
沼足柵、多賀城、秋田城、志波城、徳丹城、城輪柵、雄勝城、桃生城・・・
自分の無知を自慢するのはやめたほうがいい
75日本@名無史さん:05/01/28 10:31:06
日本史において大要塞を必要とした巨大な相手自体があんまりいない。
76日本@名無史さん:05/01/29 17:24:11
>>51
下野の小山氏の自称は、秀郷流でなく粟田関白藤原道兼流でなかったか。
77日本@名無史さん:05/01/29 23:56:21
伊達、芦名・・・以下はその眷属だと思われていた。
戦国期にそれが現実のものとなるのだが。
78日本@名無史さん:05/01/30 11:16:39
>>55
本人がいかないだけだろう>在京国司
79日本@名無史さん:05/01/30 11:52:30
城に関しては東北の状況は寒々しいね。
80日本@名無史さん:05/01/30 12:14:12
それ別に城に限ったことじゃないから。
81日本@名無史さん:05/01/30 19:08:48
>>79
いつの話しをしているのかわからないが、平安初期に「城」と呼ばれる公的施設があったのは東北と北九州だけだけど?
82日本@名無史さん:05/01/31 00:00:31
本当に平安時代だったんだな(初期から中期)
83日本@名無史さん:05/01/31 20:49:55
いや全然平安じゃない。遷都の理由が暗殺がらみだし。
反乱や遠征、大土木。悪政のオンパレードで反乱続発。
84日本@名無史さん:05/02/01 09:19:37
>>83
だから、その反乱がどんなんで、どーやって鎮圧したんだよ。
平将門の乱以前について。記録を示せ。
参照→4
85日本@名無史さん:05/02/01 11:26:03
都以外は
その地方の有力な豪族が仕切ってたんじゃないの?
86日本@名無史さん:05/02/01 14:32:00
>>85
その豪族が反乱しまくることがなかったのはなぜ、
というのが議論の流れ。
87日本@名無史さん:05/02/01 14:39:57
>>46 発展途上国というか、今のイラクなんかと似てるな。本当だとしたら。
中央政府が地方の既存勢力と手を結んで妥協し、トラブルが起きるというのはよ
くある話なんだよね。
地方勢力が形式上消滅した明治維新というのは非常に特異なケースなんでしょう。

>>45 死刑は無かったけど手を切り落とすとかはあったみたいっす。

>>86 質問し返すようで悪いが、真に天皇を敵に回して戦った連中がいない
というのも不思議だ。
88日本@名無史さん:05/02/01 15:13:00
>87
>真に天皇を敵に回して戦った連中がいないというのも不思議だ。

まさに。
89日本@名無史さん:05/02/01 20:59:12
基本的に有志による討伐です。悪人を倒せば
罪を帳消しにするので基本的に悪人です。
平将門を倒したのも流人。官軍じゃないし。
藤原の海賊団も総司令官の小野が行く前に
倒されていた。

土蜘蛛とか酒呑童子も要は反乱勢力。騙し討ちに
してるのが後の武士の原型。人を殺せば
祟られるという妙な風習があったので人以外のモノに
擬されているが実在の人間だろう。アテルイなども。
ただ自殺は、祟り信仰外のようで長屋王時代から
自決と言うことにしている点が興味深い。
90日本@名無史さん:05/02/01 21:14:16
天皇が戦場に行かないだけなんじゃないかな・・・。前の時代の仲哀とか行ってる
天皇は、結構あっさり戦死してるし。平安時代は、貴族もそうだけどとにかく上級将官がいいかげん。
プラス動員兵も役立たず。重装歩兵の軍団はコスト高で小回りが利かないから平安末期には
有名無実化。弓馬を持って機動力のある武士の時代になる。、
91日本@名無史さん:05/02/01 21:17:27
馬鹿なことを言う。
自殺こそ恨みを呑んで死んでるんじゃないの。
92日本@名無史さん:05/02/01 21:27:18
最後に殺した人間が祟られますから。

あと自分で死んだ場合、祟神にならない。
93日本@名無史さん:05/02/01 22:25:22
>>87
やっぱ近代になって通信、交通手段が発達する前は一つの政府が全国を治めるのは無理だったんかな。
平安時代の朝廷も鎌倉幕府や江戸幕府みたいに、地方の有力者を権威で従わせる程度だったですかね。
>>90
清の末期みたいだね。
正規軍が役に立たなくなって、李鴻章とか曽国藩の私兵で治安が保たれてたのと似てる。
94日本@名無史さん:05/02/01 22:42:39
義勇兵の方が安上がりだからねぇ・・・。勝手に私費で軍隊作って
勝手に領土広げてくるし。源義朝ってそのまんま自分で部下に
領地やって棟梁になったやつだし。
95日本@名無史さん:05/02/01 23:24:49
>>94
>源義朝ってそのまんま自分で部下に領地やって...
って自分の領地はどこの地方に持っていたのですか?義朝って、国司に
任命されたことってあったのですか?
96日本@名無史さん:05/02/02 10:41:31
>土蜘蛛とか酒呑童子も要は反乱勢力。

あんまり根拠ねーよな。推測の域。
反乱勢力というより、盗賊、山賊クラスのような気が。
97山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/02 14:05:34
伝説の成立した時代が下り過ぎ、根拠と成り得る史実も確認出来ませんからね。
高橋昌明先生の疫神説などを考えた方がよさそうな。
98日本@名無史さん:05/02/02 21:10:20
ただ渡辺綱とか実在の人物がいるのも事実。
99日本@名無史さん:05/02/03 00:50:22
>>90
>天皇は、結構あっさり戦死してるし....
どの天皇のこと?
100日本@名無史さん:05/02/03 02:30:00
蝦夷(奥州)追討に連れて行かれた兵隊って、

・どっから、どういう義務で集められるんですか?
・そのまま駐屯ですか?
・任期ってないんですか?
・給料ってないんですか?
・誰が受け取るんですか?
・そのまま屯田(開拓土着)するとして、女どうするんですか?
101山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/03 21:10:51
>>98
初出は『古今著聞集』(1254年)。創作上の人物の様です。
そろそろ石井進先生の国衙兵制についての研究が出てもよさそうですが。
102日本@名無史さん:05/02/03 22:16:08
山ほど子孫がいる人物だが・・・伝説ってことでヨロ
103山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/03 22:23:51
系譜関係も曖昧で、渡邊党が系譜伝承を創作したと考えた方がいいのでは。
104日本@名無史さん:05/02/03 22:24:42
>100 そのまま任地にいついちゃったみたいだな。ローマ軍と
基本的に同じ。ブリテンからルーマニア戦線に行った連中は、やっぱ
二度と戻ってこなかった。領土が拡大すると辺境から辺境に移動して
そのままという現象が起こる。戻るコストより新たに派遣した方が安上
がりになってくる。膨張限界点ということだな。輸送の革新がなければ
その傾向がさらに強まる。東だけでなく西に行った防人とかも同じ。
現地徴募すればよさそうなものだけど・・・それやると現地勢力と結びついて
反乱軍になるから。結びつかないような遠国から派遣する。戻るコストが
高くなるからそのまま放置。
105日本@名無史さん:05/02/03 22:26:23
渡邊一族って本当に多いよね。名前が一文字なのも
綱からの伝統らしいけど・・・。
106日本@名無史さん:05/02/03 22:27:43
          r‐、   __ __
        /   ̄`ヽ /
      // /   、 V}
      N从リハヽハ iハ
      / ic> <c| l|イ〉
      んへ i ̄! ノ从j   金太郎はー!?
       /⌒Y⌒`ヽヽ.
107日本@名無史さん:05/02/04 15:02:50
>>105
綱以前から一文字だよ
108日本@名無史さん:05/02/13 20:56:49
>>87
>真に天皇を敵に回して戦った連中がいない...
戦を文字通りの武力抗争に限っても、古くは吉備氏、葛城氏から恵美押勝、北条義時、
足利尊氏といるが。政治抗争に広げれば、枚挙にいとまないが。
109日本@名無史さん:05/02/13 21:10:21
>>100
・どっから、どういう義務で集められるんですか?
奈良末には現仙台以南は律令政府の完全な支配下にあったので主に現福島宮城から集められた兵隊を主力に関東からの増援部隊で戦った。

・そのまま駐屯ですか?
基本的には戦が終われば原隊である軍団に帰還するけど、長引けば駐屯です。家族ごと移民の屯田兵もいた。

・任期ってないんですか?
兵役は税の一種ですから任期はあります。防人は3年交替、衛士は1年交替が原則。

・給料ってないんですか?
無給です。武器や食料も原則自弁です。

・誰が受け取るんですか?
無給なので誰も受け取れない。

・そのまま屯田(開拓土着)するとして、女どうするんですか?
山形、秋田、宮城北部、岩手南部には城柵と呼ばれる施設が作られ、兵士が常駐し、中に家族も住んでいたようです。周囲を開墾して農業も営んでいたようです。
110日本@名無史さん:05/02/13 22:30:56
>>108
挙げられた例は全部平安時代じゃないし...

仮に平安時代という枠を外しても、
武士が天皇を倒して自分が天皇に、という戦いは日本ではなかった。
(南北朝は両方天皇だから...)
外国ではよくあることなのに。
独立戦争という意味では、平将門くらいかねぇ。
111日本@名無史さん:05/02/13 22:34:35
>>110
万が一、平将門が勝利していたとしても、
平将門も天皇家の傍系に過ぎないわけで、
ルーツの系図作ろうとしても、高見王とか出てきて、
結局は万世一系となってしまう予感。
112日本@名無史さん:05/02/13 22:46:28
承久の乱
武家政権に全国支配を出来る実力がなかったので新天皇を立てたけど
113日本@名無史さん:05/02/13 23:12:20
平治の乱は天皇VS上皇だから一応「天皇」に真っ向から戦いを挑んでる。
114日本@名無史さん:05/02/13 23:33:01
元弘の乱も天皇ボロ負けで簒奪されて隠岐に流されたな
115日本@名無史さん:05/02/13 23:45:01
アビニョン補囚みたいだな。
116日本@名無史さん:05/02/14 01:12:09
鎌倉幕府は、清和源氏の直系である頼朝・頼家・実朝までは天皇系の権威が
あったが、北条氏になるとそれがなくなるため、京都から摂家将軍・親王将軍
を戴き、幕府の権威づけを行った。
歴代幕府は常にこういう権威づけを必要とした。
117日本@名無史さん:05/02/14 09:37:46
いずれにせよ新王朝を立てるような戦いにはならんかったわけだ。
118日本@名無史さん:05/02/14 09:43:15
>>116
そこまで必死にお飾りを連れてこなくても自分が将軍になってもよさそうだけど、
日本だとそうはいかないんだね。
119日本@名無史さん:05/02/14 17:58:45
>>118
江戸幕府なんかは、徳川が「源朝臣」を捏造して将軍になったわけだが、
それでも権威づけのために朝廷との関係を深めた。幕府にとってはこの
権威づけが非常な重大事で、これがなされないと諸大名を統率できなかった。
120日本@名無史さん:05/02/14 21:55:34
>>117
朝廷が幕府にすり寄ってヘコヘコしていたからその必要性はなくなったわけだ。
後醍醐みたいに幕府に謀反を起こすと簒奪されて配流されるけどな。
室町以降になると朝廷は完全に武家政権の寄生虫と化するからな。施しを受ける代わりに権威を与えるというギブアンドテイクだな。
121日本@名無史さん:05/02/15 00:53:04
>>50
概ね同意。

>>76
それは宇都宮。

>>91-92
なんとなく「もののけ姫」思い出した。
122日本@名無史さん:05/02/15 10:21:27
わたしの>>100での質問に答えてくださった方、ありがとうございました。
スレ活性化のために、と思いつついろいろ書いてみました。

さて、皆さんの御好意にまた甘えてみたりなんかして。
また質問なんですけど

・鎮守府とかの「将軍」って、種類どれぐらいあるんですか?
 その差はなんななんですか?
・将軍以下の将は、やっぱり任命されるんですか?
 それとも将軍が自分で選抜するんですか?
・将(候補)に軍事を教える学校なり、養成機関はあったのですか?
・じゃあ兵卒は軍事訓練(錬兵)ってどうしてたんですか?
・兵は手弁当、無給ということですが、
 武器防具はどうしてたんですか?
123日本@名無史さん:05/02/15 19:28:45
ちょっと質問の答えからずれるが、
私の知ってる限りで古代には、中国からもらった称号として、

438年、倭王珍が安東将軍
478年、倭王武が安東大将軍
479年、倭王武が鎮東大将軍

段々出世してるようだが、さらに上には征東将軍があるようだ。
124日本@名無史さん:05/02/15 19:39:52
日本国内の役職に戻ると、平安以前には、

陸奥鎮東将軍
征蝦夷将軍
征越後蝦夷将軍
左将軍
右将軍
持節征夷大将軍
隼人征討将軍
出羽鎮狄将軍
陸奥鎮守将軍
征東大将軍
征夷大将軍

などの役職があるようです。いくつかかぶってるかも。
125日本@名無史さん:05/02/15 19:48:53
時代が下ると、征夷大将軍以外には、

鎮守府将軍(平良将・貞盛、藤原利仁、藤原秀郷、源頼信・義家、
足利尊氏、北畠顕家・顕信)
征西将軍(南朝の懐良親王、良成親王)

があるよう。
126日本@名無史さん:05/02/15 19:56:41
将軍以外にも鎌倉時代以降は、

六波羅探題
奥州探題(斯波氏、大崎氏、伊達氏)
羽州探題(最上氏)
大宰少弐(少弐氏)
鎮西探題
中国探題(足利直冬)
九州探題(一色氏、渋川氏、今川貞世)

なんかも重要ポストか。
127日本@名無史さん:05/02/15 20:44:03
朝鮮より渡来して来た最強の軍隊である、サムラビ達の活躍によるものが大きいからです。
ですから軍隊など必要なかったのです。
そのあまりの活躍に憧れ
サムラビ→サムライ
となったのは世界で有名な話しです。
日本だけは今も捏造を続けていますけどね。
128日本@名無史さん:05/02/15 21:49:37
将軍について
 常設の将軍は本来的には鎮守(府)将軍のみ、長官である将軍の下に判官の軍監・主典
の軍曹が有り。制度として固まる以前には副将軍・権副将軍等が存在していたこともある
そうです。他に事務官の府掌、技術関係の医師・陰陽師・弩師等の下役がいました。
 なおこれらの属官は当然中央が直接任命するものです。指揮下の中隊長クラス以下は、
現代の軍で言えば下士官のようなものですので将軍に任命権があったものと思います。
 おそらく軍団に準じて校尉(200人長)、旅帥(100人長)、隊正(50人長)、火長(10人
長)等が存在したと思われます。
 また鎌倉幕府成立までは、単に将軍と言えば鎮守将軍でした。
 どの本で読んだか忘れましたが、護衛かなにからしいケン(イ+兼)仗は将軍が自由に
任命できたようです。

 鎌倉幕府成立後、鎮守将軍はは事実上廃絶(確認される最後の将軍は1179年11月離任の
藤原範季)していたようです。ちなみに1198年に軍曹が任命された例があるようです。
 後に建武の中興の際の足利尊氏の任命で再興。その後北畠顕家が尊氏に変って将軍とな
り、参議以上での兼任のため鎮守大将軍と称しています。

 天平年間に太宰府が廃止され、その後一時的に鎮西将軍以下の鎮西府が置かれたことこ
ともあります。
 将軍・副将軍・判官二名・主典二名、軍監・軍曹でなく判官・主典なんところが意味深。

 非常設のものとしては、陸奥鎮東将軍・征越後蝦夷将軍・征東大使(征東大将軍)・持
節征東将軍等が鎮守将軍・征夷大将軍の前史として存在しています。
 また出羽方面には鎮狄将軍が置かれたこともあります。
 中央では前後騎兵大将軍、御前御後騎兵将軍・副将軍、左右将軍・副将軍、検校兵庫将
軍、禁守兵庫将軍等が置かれたことも有りますが、皆一時的なものです。
129日本@名無史さん:05/02/15 21:50:28
 以上は概ね奈良時代以前のもので、平安時代では鎮守府将軍のほかでは、将門・純友
対応の征東・征西大将軍の藤原忠文くらい?
 この時期に置いても幹部は中央の任命ですが、高級幹部が家臣を私的に幕僚にすること
はあったと思います。

 建武から南北朝期には、征東将軍(足利尊氏)・征西将軍(懐良親王)等が任命された
こともあります。

 士官学校のようなものは、ローマ帝国や唐でさえないのですから、あの時代の日本にあ
るわけないです。
 士官教育も練兵も指揮官が独自に行っていたものでしょう。

「令義解」によると、1万人以上の軍で将軍1・副将軍2・軍監2・軍曹4・録事4、5
千人以上で将軍1・副将軍1・軍監1・軍曹4・録事2、3千人以上で将軍1・副将軍1
・軍監1・軍曹2・録事2、三軍を統べるために大将軍を置き、三軍の官員は大将軍1・
将軍2・副将軍4・軍監4・軍曹10・録事8となるそうです。
130日本@名無史さん:05/02/15 21:51:48
参考になりそうな本
 近藤出版社「日本史小百科25将軍」高橋富雄著:平成2年1月10日初版発行
 新人物往来社「歴史読本昭和五一年臨時増刊号人物中心日本の組織図」所収の「坂上田
村麻呂と古代の軍事組織」高橋富雄著
 新人物往来社「歴史読本昭和五四年臨時増刊号征夷大将軍系譜総覧」
 新人物往来社「別冊歴史読本官位と組織のしくみがわかる本」2001年4月13日発行に所
収の「坂上田村麻呂と征夷大将軍のしくみ」高橋崇
 中公新書「征夷大将軍」高橋富雄著:昭和62年3月25日発行
 中公新書「古代国家と軍隊」笹山晴生:昭和50年7月25日初版発行
 東京大学出版会「日本古代衛府制度の研究」笹山晴生:1985年4月25日初版発行
 教育社歴史新書「防人と衛士」野田嶺志:1980年1月20日発行
 吉川弘文館「律令国家の軍事制」野田嶺志:昭和59年4月20日初版発行
 講談社学術文庫「新訂官職要解」和田英末著・所功校訂:1983年11月10日初版発行

上とかなりダブってますが、今更書き直すの面倒くさいのでそのまま投下。
131日本@名無史さん:05/02/16 08:22:38
将軍    その作戦・方面の軍事統括者
大将軍   ↑より権力が大きい。行政にまで踏み込む?

鎮守府将軍 常設。在日米軍長みたいなもん?
征夷大将軍 非常設。イラク作戦総責任司令官みたいなもん?
132日本@名無史さん:05/02/16 10:54:18
江戸時代には鎮守府将軍はいなかったのかな。
明治維新以後の海軍には、横須賀、呉、佐世保、
舞鶴に鎮守府が置かれ、
そこの司令長官は海軍大将であったようだけど。
133日本@名無史さん:05/02/16 13:12:44
>>131、鎮守府大将軍もいたよ-->北畠顕家
134日本@名無史さん:05/02/16 13:55:54
>>131
将軍と大将軍は日本の律令制度においては単なる上下の差、どうやら率いる兵数によって
区分された模様。
征夷大将軍と征夷将軍は本質的には違いがない。

>>132
北朝側は任命していない模様。これは征夷大将軍を相対化する存在である為だと思う。
南朝側は顕家以後も任命したかもしれないけど良くわからない。
どっちにしろたいして重要でなかったため概説書程度では不明なのだと思う。
続いていたにしろ、どのみち南北朝の合一で消滅。
あくまで仮定の話ですが、もしかして戦国時代に伊達家あたりが朝廷に献金して成りたがる
ことがあったら、与えると言う結論が出たかもしれない。
135日本@名無史さん:05/02/16 18:21:59
>>122
将軍については概出なので省略
・将(候補)に軍事を教える学校なり、養成機関はあったのですか?
家伝に近かった。従って武専門の軍事貴族である秀郷流藤原氏とか清和源氏とか桓武平氏が出てくる

・じゃあ兵卒は軍事訓練(錬兵)ってどうしてたんですか?
平安前期の律令制が残っている頃は兵役で集められた正丁は各地の軍団で軍事訓練を受けていた。平安後期に武士が登場すると、武士は当然日常的に自己で訓練するし、郎党や戦時に動員する直属する隷属的な身分の小者にも訓練はほどこしていたと思われる。

・兵は手弁当、無給ということですが、 武器防具はどうしてたんですか?
原則として食料武器は自弁、無給というのは明治維新まで続くルール。例外はあるけど。室町時代から出現した足軽は臨時雇用の傭兵だから給料はあった。ま、恩賞を歩合給と見なすと給料有りになるけど。(w
ただし、いつの時代でも戦時には食料だけは支給されたようだ。戦国時代以降は刀などの個人装備以外の武具、具足を兵に支給する例が多くなるな。
平安時代の兵役は一戸から正丁何人という決まりがあったから、使い回しをしていたんだろうね。たとえば兄貴が使った武具を弟が使うとかね。
136日本@名無史さん:05/02/16 22:12:43
兵隊は正丁総員が十組に分かれて10日間の訓練を交代で受けてなかったっけ?一年で30日、多い組で40日、年間で訓練していたと記憶してます。
137日本@名無史さん:05/02/16 22:26:38
健壮がいたじゃないか!
138日本@名無史さん:05/02/17 21:15:41
>>130
>中公新書「古代国家と軍隊」笹山晴生:昭和50年...
>東京大学出版会「日本古代衛府制度の研究」笹山晴生:1985年...
前者はともかく、後者は¥5,460と高価な上、品切だから下記の方がよいと
思う。武門の豪族たる大伴氏の軍事力零落の推察記事もあり。
古代国家と軍隊―皇軍と私兵の系譜 笹山晴生 講談社学術文庫 2004/06
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061596616/qid=1108641583/sr=1-17/ref=sr_1_2_17/250-2907611-2910627#product-details
139日本@名無史さん:05/02/18 00:49:03
>>90
>弓馬を持って機動力のある武士の時代に...
なり、武具も発達したようだ。
中世的武具の成立と武士 近藤好和 吉川弘文館 2000-03刊 \12,600 ISBN:4642027882
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9973334930
140日本@名無史さん:05/02/19 15:29:15
近藤好和著「騎兵と歩兵の中世史」&「弓矢と刀剣 中世合戦の実像」
 ともに吉川弘文館歴史文化ライブラリー 1800円くらい
元木泰雄著「武士の成立」吉川弘文館日本歴史叢書 2500円くらい
高橋昌明著「武士の成立・武士像の創出」東京大学出版会 5500円くらい
141日本@名無史さん:05/02/20 19:37:15
いちいち動員するより志願兵を送った方が早いってことだな。
承平天慶
142日本@名無史さん:05/02/20 19:48:39
というより脱走が多くてダメダメだったらしい。
143日本@名無史さん:05/02/27 18:20:39
北朝の内輪もめの時に院宣で足利直義が鎮守府将軍に任命されたことがあるようですね。
これが最後の鎮守府将軍でしょうか?
144日本@名無史さん:05/02/28 01:44:58
徳川将軍って、鎮守府将軍も兼任してませんでしたっけ?
145日本@名無史さん:05/02/28 17:45:17
戊辰戦争で親王達が鎮守府将軍になってたよ
146日本@名無史さん:05/03/10 22:29:40
徳川家は源氏の長者もやってたような気がする。平安趣味やな。
147日本@名無史さん:05/03/12 15:16:12
大宝律令はまだ廃止されていないので
現代でも本当は日本人は3年間の防人の任につく義務がある。
148日本@名無史さん:05/03/12 16:29:00
それじゃあ班田を支給される権利もあるわけ?
149日本@名無史さん:05/03/13 20:59:41
俺は班田もらったよ。
150日本@名無史さん:05/03/13 21:54:55
俺、衛士に選ばれたよ。所属は衛門府だって。羅生門は鬼がでるっていうから、配置は朱雀門か大極殿がいいなぁ。
151日本@名無史さん:05/03/14 22:13:07
俺は開墾してる。班田じゃやる気にならない。開墾して私財にするんだ。
152日本@名無史さん:05/03/15 01:31:16
藤原秀衡が死んだ後に一族から鎮守府将軍に任じられたやついなかったんですか?
153日本@名無史さん:05/03/15 22:36:41
藻前ら日本の法律を知らんなあ
大宝律令なんか、とっくに死文化してるだろうが
日本人なら養老律令に従えよ
154日本@名無史さん:05/03/15 23:18:23
プ!お前らな・・・。日本で最も権威ある法律は貞永式目だぞ。
155日本@名無史さん:05/03/16 00:20:59
俺は御家人じゃねえから関係ねえよ
156日本@名無史さん:05/03/19 22:30:42
御家人って地頭とか税の徴収権もってる職を貰えるんだっけ?
157日本@名無史さん:2005/03/22(火) 06:30:25
押領使と追捕使の違いについて。
初心者スレで火付盗賊改めと町奉行と同じと教えて貰いましたがどんなもんでしょうか。
博識な皆様におききしたいです。
よろしければ参考になる書籍なども。
158日本@名無史さん:2005/03/22(火) 10:33:34
>146
源氏の長者というのは、象徴的な意味において、武家の代表者ということ。
別に源氏、平家には関係ないのです。
家康から秀忠に将軍が譲られたときにも、征夷大将軍は変わっても源氏の長者は
しばらく家康が務めたということもある。(小説ネタだが)
159日本@名無史さん:2005/03/22(火) 10:44:42
>>157
東と西
160日本@名無史さん:2005/03/22(火) 14:52:31
>>156
事実上死法化していましたが、律令の建前上は土地は国家のものです。
御家人の受ける最大の恩恵は、自分の所領の所有権を鎌倉が認め、
保護してくれるということです。
161日本@名無史さん:2005/03/23(水) 05:02:53
>>159
ありがとうございます
つまり同じ役割でありながら肩書きが違うだけということでしょうか?
すると、一国に押領使と追捕使が置かれることはなかったと…。
(東:藤原秀郷=押領使・西:小野好古=追捕使)
では、国検非違使はどういう運用であったのでしょうか?

162日本@名無史さん:2005/03/24(木) 17:32:00
国検非違使は警察官。
押領使・追捕使は軍事指揮官。
163日本@名無史さん:2005/03/24(木) 19:40:11
|┃三      , ‐'" ̄` '⌒ `''‐、
|┃     /     ミ〃    \
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|┃三  L.H ,‐=・‐ lニl ‐・=-、トL.! <  畠山は名門。松平はそうでもない
|┃   /ハ{ ` ― ‐'  `― ‐ ' lハ.〉  \
|┃   { l_.|   ,.ィ′  :、   jク/       ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|┃三三 ヽ._l   / 'ーー'‐' ヽ.   Lノ
|┃      !    -──- l  /
|┃      |.ヽ         ' |
|┃三   /:ト、 ` ー---‐ '´/|\_ ガラガラッ
164日本@名無史さん:2005/04/09(土) 23:36:18
なんで?
165日本@名無史さん:2005/04/10(日) 22:08:28
NHKアナウンサーネタ。 松平はお殿様だが乱暴狼藉で
たまに自分がニュースになる。

畠山は、かむかどうかで実況で話題になる正当派アナ。
鎌倉室町期の名門中の名門 畠山の血筋。
166日本@名無史さん:2005/04/10(日) 23:08:30
畠山スレに来い、と
167日本@名無史さん:2005/04/13(水) 23:59:19
武士って役職でもなんでもなくて自ら始めた商売なんでしょ?そんな律令制
違反の職業の人が国を治めたのって変じゃない?それに建前上は貴族に逆らえ
ないんでしょ?
168日本@名無史さん:2005/04/14(木) 19:59:48
源氏も平家も貴族だから。あと大江とか頭のいい貴族がついたのよ。
169日本@名無史さん:2005/04/14(木) 22:42:35
>>167
それはえらい勘違いですな。
北面の武士て知ったはります?
それから、「侍」というのは「侍(さぶら)ひ」、つまり皇族や貴族、寺社に
「お仕えする(侍ふ)」人のことですわ。
170日本@名無史さん:2005/04/14(木) 23:15:31
それは由緒正しい正式な武士で、私兵業から身を興した者も多いよ。
171山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/14(木) 23:21:36
元々、六位の人間を指したものです。>侍
10世紀には、今日「軍事貴族」と呼ばれる4〜5位の、諸大夫層の中でも
武芸・殺生を専門家した「兵の家」が成立します。
11世紀末になると、彼らと地方に点在する彼らの末裔である在地領主達
が「武士」と呼ばれる様になりますが、彼らの儀礼・故実は元々中央から生
じたものであって(一説)、「武士」としての公認は、ただの武装に止まらず、
朝廷や国衙への奉仕にあったのではないかという説があります。
故石井進先生が、国衙軍制について色々と書いてらっしゃいますよ。
172日本@名無史さん:2005/04/14(木) 23:40:53
なんか納得いかんのは、平家とかの武家が京都で身分が上のはずの公家を
退けて政権を取ってしまう事なんだが・・・天皇の直接的な承認を得ていれば
公家も武家も関係ないのか?
173山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/14(木) 23:51:13
公家とか武家とかいう区分自体、あの頃ちょうど生じ始めたものですからね。
元々公家といえば天皇・朝廷を指した言葉ですし、対立概念と考えない方が。
地位が低かったのは確かですが、清盛の場合は妻の実家が公卿も輩出してい
た所謂堂上平家の出身で、その助けもあった。
武力と聞くと、何やら高圧的な支配のイメージが先行してしまいますが、武
力による「安全保障」が必要とされていた事も、想起する必要があります。
清盛がのし上がれたのも、頼朝が承認されたのも、「静謐」をもたらせる人間
がほかにいなかったからで。
174山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/15(金) 00:07:55
逆に言えば、源義仲の場合は、そうした信頼性とか支持といったものが、ま
るで得られ無かった。その点、京での記憶のある頼朝の方が有利です。
奢りや個人レベルの贅沢や粗暴だけで政権は倒れません。
それに代ってよりましな政権を樹立してくれそうな勢力が現れませんと。
で、義仲の場合は「後よりも先よりもましでない」と判断されてしまった。
175日本@名無史さん:2005/04/15(金) 00:21:25
武士という言葉自体は『続日本紀』にもありますが、、、
宇多天皇(887−895)のときに置かれた滝口の武士 あたりが所謂正式な武士のおこりですね。
蔵人所に属する禁中警護を主な目的とし六位以上の武勇(特に弓術)に優れた者が選ばれ雑役も行いました。
>北面の武士
平安後期に白河上皇が院の御所の北面においた院警固の武士。
上皇は応徳3年(1086)の院政開始後まもなく身辺を警固したり御幸に供奉するものたちをおいた。
この人々は北面とよばれ、その中の武士が北面の武士である。
のちに後鳥羽上皇が新設した西面の武士とともに、院直属の武力として有名。
北面は院庁の一機関としての性格をもち、定数はなかった。
のち上下の別ができ、上北面は四位、五位などの諸大夫以上、下北面は五位、六位の侍層で、
白河上皇の晩年には80余人をかぞえたという。
役割は院・上皇の日常的な警備だけでなく雑事もおこない、僧兵の強訴などを阻止するために動員される場合もあった。
176山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/15(金) 00:32:05
言葉だけなら『万葉集』にもありますし、有名な『古今和歌集』の序にも
「猛き武士」とありますよ。10世紀〜11世紀前半にかけての場合は、兵
(つはもの)と表記する場合が多い。
177日本@名無史さん:2005/04/15(金) 19:43:16
律令制度に正式な役職として記載されていないため強引な話、武士とは豪族が今日からオレらは武士だ
と名乗れば武士になれたんでは?画家や漫画家と一緒で。
178日本@名無史さん:2005/04/15(金) 20:33:33
京と地方では違うだろ。
京では、授刀舎人から中衛・近衛ときて、衛門府に検非違使、蔵人所に滝口、院に北面だし、
地方では、受領層とその郎党とか荘園警護のゴロツキとかだし。
また、どちらともいえない僧兵とか神人の類もいるしさ。
179日本@名無史さん:2005/04/15(金) 21:07:45
平安時代の甲冑や武器の詳細な変遷はどういった感じ?
180日本@名無史さん:2005/04/15(金) 23:35:26
ちょっと乱暴だが、地方の武士団は広域暴力団と同じ
181山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/16(土) 00:12:17
>179
とりあえず、『伴大納言絵巻』に、古風な鎧が出て参りますよ。
大鎧は11世紀初頭に成立したものです。

>180
説話世界では恐怖が煽られていますが、実際には支配者でもあったという事
で、彼らの実力を恐怖以外に「保証」の面から見る試みがあります。
182日本@名無史さん:2005/04/17(日) 01:26:11
開発地主だからちょっと違うよ。貴族に奉仕したのは、土地の権利を
確保するため。民法とか整備されてないから相続とかで同族同士でも争うし
いわゆるお墨付きが必要だった。
183日本@名無史さん:2005/04/17(日) 03:45:44
開発した土地を寄進して管理人として実質支配するって形式ですな。
あと、受領階級の土着化の動きも盛んだよな。
現地で稼いだ金で現地で投資して、土着化って。
184日本@名無史さん:2005/04/19(火) 21:49:20
大和朝廷が統一したものが、再び分裂して行く過程ですね。
列島の住民は、基本的に分国的な状態を好むようです。
185日本@名無史さん:2005/04/19(火) 22:16:15
>>181
源平の争乱時のような甲冑が普及するのは
具体的に何時ごろから?
186山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/20(水) 03:04:56
『伴大納言絵巻』が制作されたのが、後白河院のサロンです。
『前九年合戦絵巻』も、原本はこの頃の成立。
187日本@名無史さん:2005/04/20(水) 17:31:45
>>186
絵巻物が成立した当時の鎧で描かれているのでしょうか?
188山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/20(水) 18:34:39
逆です。当時の風俗が反映されていない方がおかしい。
少なくとも、10世紀当時のものとは考えられません。
近世以前に描かれた絵で、対象とした時代を再現しようとしたものは、皆無
と言っていいのでは。
『伴大納言絵巻』自体、『宇治拾遺物語』と同一原拠と見られ、内容も史実では
なく、後世成立した説話を題材にしたものです。
189日本@名無史さん:2005/04/20(水) 20:33:24
>>188
前九年の役の時の甲冑はどのようなものだったのでしょうか?
190日本@名無史さん:2005/04/21(木) 06:11:21
東北の人々の武装がどのようなものだったのか、
どのような社会でどのような軍事組織を持ち、
どのような戦術をつかったのかよく解る本はないものですかね。
蕨手刀の影響で日本刀が生まれたという説は、
素人ながら、説得力があると思う。
初期の、毛抜型太刀は刀身は直刀で、柄と刀身の境界のところが主に大きく反っていて、
まさに蕨手刀の形ですよね。
段々、刀身の部分が反っていく。
その変遷を見ていくと、まさに日本刀のルーツは蕨手刀と思える。
律令体制下の軍は弩を装備する部隊もいたそうですし、
これもいわゆる、武士とはかなり違う感じですね。
古代から中世の武具の変遷とか、軍事組織の変遷というのを理解する本があれば教えてください。
感じとしては、律令体制の正規軍が廃止された後に、自警団的に発生したのが武士だと思うのですが、
前者と後者の間にどのような関係、変遷の歴史があるのか、
ちょっと歴史好き程度の史学の素人にはわかりません。
191日本@名無史さん:2005/04/21(木) 08:27:29
>自警団的に発生したのが武士

かなり古びた説です。
192日本@名無史さん:2005/04/21(木) 09:53:14
>>191

他人のカキコにちゃちゃ入れるだけで、自説をもたない(書けない)典型的2ちゃん厨
193日本@名無史さん:2005/04/21(木) 23:39:37
はい、私には自説などありません。
学会の常識にのっかってるだけです。

194日本@名無史さん:2005/04/23(土) 00:51:12
>>190
>東北の人々の武装がどのようなものだった
残念ながらわかりません

>蕨手刀の影響で日本刀が生まれたという説
定説化していますね

195日本@名無史さん:2005/04/29(金) 12:23:01
まぁ単純に刃を片方にした方が作るのが
簡単だってのがあったらしいよ。

斬るときも片方でしか使わないし。
196日本@名無史さん:2005/05/01(日) 22:21:52
でも実戦では必ず刃こぼれが生じるから両刃の方が実戦的な気がする
197日本@名無史さん:2005/05/02(月) 10:58:31
いや実践に使うと刃こぼれを修復するのに研ぐから
片方のみの方がいいわけ。

両刃だと両方研いで強度的に摩耗とか。
実際切るのは一方向だからメンテナンスも一方向だけで
済む方がいいし。

そのへん包丁が両刃じゃなくて片刃なのと理屈は同じ。
198日本@名無史さん:2005/05/03(火) 04:45:47
諸刃(両刃)の剣というは相手だけでなく自分にも刃が向いているわけで・・・
199日本@名無史さん:2005/05/03(火) 22:04:28
単純に片刃で充分だからだろ
200日本@名無史さん:2005/05/03(火) 22:37:29
>>193
自分は>>190氏では有りませんし、煽りでも無く、単純にスレの流れを見て、
現在の主流の学説に興味を持った者ですが、
現在での学術研究で、主流とされる武士の成り立ちと言うのはどんな形ですか?
201日本@名無史さん:2005/05/03(火) 23:01:36
地方下りの下級貴族が在庁官人として土着化し、地元の武装勢力を配下においていく。
それら在庁官人も国司級の貴族と主従関係を結んで大樹の陰によっていく。
乱暴な区分けだと在庁官人クラスでは藤姓秀郷流や平姓高望流なんかが多いね。清和源氏は国司クラス。
202日本@名無史さん:2005/05/03(火) 23:50:13
>201
>>193氏かな?レス有難う御座いました。大筋では自分の認識と同じでしたね。
>>191で、”自警団的に発生したのが武士”と言う部分を否定されて居たので、
てっきり↑で書いて有る

>地元の武装勢力を配下においていく。

の”地元武装勢力”の存在自体を否定されている新説が有り、それが主流なのかな?
と思い質問させて頂きました。
203日本@名無史さん:2005/05/04(水) 15:27:24
摂関家全盛期は日本の暗黒時代
204日本@名無史さん:2005/05/04(水) 21:58:43
わりと勝手に自治やってるけどね・・・。名目だけ摂関家や寺院にして
税金レスなとこが多かったそうな。
205日本@名無史さん:2005/05/04(水) 22:19:46
それが荘園だろ。国衙領だと国司がケツの穴の毛まで抜いて行くから、毎年名義料払っても荘園にしたほうがマシだったのだろう
206日本@名無史さん:2005/05/04(水) 22:25:41
実際は、国司は名目だけらしいよ。把握率が低くて検知とかもしてないからいい加減。
遠国になればなるほどそうだから、みんな畿内とかを任官希望してたとか。
逆に在地官僚と結託してそのまま帰ってこない連中も多い。
207日本@名無史さん:2005/05/09(月) 04:17:53
>国司は名目だけ
>遠国になればなるほど

摂関・院政期はむしろ受領の時代。
遠近は関係ない。熟国かどうかが重要。
208日本@名無史さん:2005/05/09(月) 06:43:13
僧兵が悪さして手におえなくなったから武士と組むしかなかった。
でも武士は僧兵よりもヤバかった。
209日本@名無史さん:2005/05/14(土) 00:56:24
左翼を押さえるために宗教と手を組んだらいつのまにかカルト宗教に支配されていた某自民党と同じ
210日本@名無史さん:2005/05/14(土) 09:46:09
何と幼稚な‥‥
211日本@名無史さん:2005/05/29(日) 00:54:13
え?
212日本@名無史さん:2005/06/19(日) 21:21:14
健児の制 ほしゅ
213日本@名無史さん:2005/06/22(水) 21:55:01
え?
214日本@名無史さん:2005/06/22(水) 22:11:34
ホント、よくも恥ずかしげもなく
215日本@名無史さん:2005/06/23(木) 06:12:59
許されるのも北面の武士が寛容なうちだけじゃぞ
216ノリキヨ:2005/06/23(木) 12:21:11
あ〜やだやだやだ!
この世も勤めも家族も嫌になった。
217日本@名無史さん:2005/07/02(土) 00:40:38
969年 安和の変

覚え方:く(9)るしいシックスナイン(69)、アンナ(安和)変になっちゃう(*゚∀゚)=3
218日本@名無史さん:2005/07/11(月) 22:26:35
反乱とかは流刑人に任せます。

勝っったら許してやるよ。

本当に将門を倒す藤太がカッコヨスギ
219日本@名無史さん:2005/07/16(土) 19:53:42
最近の武士論については、例えば次を見ろ。

「武士=職業的殺し屋」説ってどうよ?
http://mentai.2ch.net/history/kako/993/993371399.html
220日本@名無史さん:2005/07/17(日) 09:19:03
生産に寄与しない豚だろ。
221日本@名無史さん:2005/08/14(日) 18:11:10
222日本@名無史さん:2005/08/14(日) 19:21:17
222ダ━━━<`∀´ >━━━ !!!!!
223日本@名無史さん:2005/09/03(土) 15:28:01
224日本@名無史さん:2005/09/03(土) 15:36:03
まとも軍隊w
225日本@名無史さん:2005/09/14(水) 05:37:11
>1
軍隊がなきゃ統治できないと思ってる時点でドキュ
226日本@名無史さん:2005/09/14(水) 20:57:22
まぁ・・まともじゃない軍隊が蝦夷征伐したり(騙し討ちっぽいよな)
司令官が、和歌詠みながら物見遊山っぽくゆっくり行軍してたら、
現地勢力があっさり反乱軍を鎮圧(恩賞とか特赦とか貰えるから)してたり
するのが平安時代。
227日本@名無史さん:2005/09/19(月) 09:42:25
    _  、 _   ________ 
    |_ゞ⌒゙⌒ゞ|  /            
    ∇|从」」|」」<  義経空気読まなすぎ
     |ト(l!.゚ ヮ゚ノ|  \            
    iJ⊂)}介lつレ    ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     ⊂_7_,_,_,ゝ^
        じ'ノ
228日本@名無史さん:2005/10/06(木) 00:47:33
229日本@名無史さん:2005/10/06(木) 20:59:38
平安時代で外敵から侵略された件はどれだけあるの?
刀伊の入寇のみ?
230日本@名無史さん:2005/10/12(水) 01:02:13
ある意味蝦夷も外敵だと思うけど…
231日本@名無史さん:2005/10/16(日) 11:20:32
蝦夷から見れば、奥州藤原氏とか侵略者だろ。鎌倉があっさり
平泉を落とせたのは、地元の支持がなかったから。
232日本@名無史さん:2005/10/16(日) 11:52:52
結構、蝦夷とか西国東国で乱は起きていると思うんだが・・・
233日本@名無史さん:2005/10/23(日) 14:33:09
まともな軍隊がなかったって、薬子の変、純友の乱を鎮圧した坂上田村麻呂、小野好古は
どこの軍兵を率いていたんだ?
234日本@名無史さん:2005/10/23(日) 14:55:23
>>178
>授刀舎人から中衛・近衛ときて...
中衛府・近衛府って、衛兵組織として機能してたのか。そもそも指揮官たる
貴族層に武力に長じた武官がいたんだろうか。物語にでてくる近衛大将は
優雅で、とても武官には思えないんだが。
235日本@名無史さん:2005/10/24(月) 02:58:26
>233
坂上田村麻呂は、律令制での軍団を率いてたんじゃ無いかな?
健児の制の制定直後だったけど、それは辺境地域以外の国に対してみたいだから、
思いっきり国境紛争をして居た彼には軍団が配備されたんじゃ無いかな?

純友の乱は、もう時期的に武士団が中心な気がしますね。

薬子の乱はどうなんでしょうね?

自分は平安時代で、軍団から武士団に移行する過渡期が、
どう言う風に移行したのかが興味有ります。
236日本@名無史さん:2005/10/24(月) 03:26:57
平将門、平貞盛、源経基、藤原秀郷、藤原純友など反乱した方も鎮圧した方も彼らの一族は鎮守府将軍、国司、押領使など朝廷の軍事担当の貴族。
237日本@名無史さん:2005/10/24(月) 04:00:02
昔は朝鮮に支配されていたからでつ >>1

 ttp://members.at.infoseek.co.jp/koreawatcher/docs/jushin/daejusin04.jpg
238日本@名無史さん:2005/10/24(月) 12:20:12
小野は、物見遊山してたら、乱の方が自滅した。将門もそうだが、身内から討たれる。
239日本@名無史さん:2005/10/25(火) 12:26:06
>>237
笑ったw
ハン板か何かがそーす?
240日本@名無史さん:2005/10/25(火) 22:00:36
>>235
>平安時代で、軍団から武士団に移行...
保立道久が、武士団叢生本を何冊か書いていたと思う。
241日本@名無史さん:2005/10/29(土) 18:42:01
>>234
>貴族層に武力に長じた武官...
紀氏は、平城期はむろん平安期になっても武人を輩出してるぞ。古佐美など。
むしろ平城期に比べ、大伴氏を超えて武門貴族の雄じゃないかな。
紀氏の系図 ttp://homepage2.nifty.com/ihmm/sub25.html
242日本@名無史さん:2005/10/30(日) 08:48:24
検非違使の随兵と言うのが良くわかりません?
あれは追捕尉の郎等ないし、私的影響下にある武士ですか?
それとも別個に検非違使に組織された中小武士でしょうか?
また後者の場合、随兵は経験が浅い場合で、
経験を積めば尉に昇進可能だったのでしょうか?
あと放免って火長・看督長の昇進可能だったのでしょうか?
そうでない場合、火長等の人材ってどこから調達したんでしょう。
243日本@名無史さん:2005/11/05(土) 17:09:41
>>241
小野春風など小野氏もいるな。
平安前期の政治史の研究 阿倍猛 高科書店 1990
244日本@名無史さん:2005/11/06(日) 20:42:08
>>242
非人
245日本@名無史さん:2005/11/14(月) 05:30:08
>>242
検非違使の随兵って火長・看督長でしょ。
だったら官制上の部下でしょ。
でもって、放免とは全然違う。歴とした職員、いちおう。
姓を見る限り畿内及び地方の中小豪族出身者のよう。
246日本@名無史さん:2005/11/14(月) 10:53:06
>検非違使の随兵って火長・看督長でしょ。
 随兵は乗馬の武士で自身郎等(乗馬)を従えるような存在で、徒歩で従う火長・看督長とは違う。
>だったら官制上の部下でしょ。
 火長・看督長は確かに官制上の部下だが、随兵に付いては官制上の位置付けが良くわからない。
 北面の武士だと解説されていることもあるようだが、廷尉との私的関係で動員されているのか?
それとも院の指示で廷尉に従っているのか?あるいはどちらでもあるのだろうか?
247日本@名無史さん:2005/11/14(月) 13:49:04
健児は何時の間にか自然消滅したってことでいいの?
248日本@名無史さん:2005/11/21(月) 08:32:39
ああ、絵巻物なんかで検非違使尉に従ってる連中かい。
あれは府生とか案主長だよ。稀には志もいるかな。

>>247
名称自体はかなり後まで残るけどね。仕丁とかも。
249日本@名無史さん:2005/11/25(金) 17:35:14
そうか、志・府生は明法道の人だけかと思っていたけど武士も居たのか。
回答ありがとうございます。
250日本@名無史さん:2005/12/02(金) 16:31:30
251日本@名無史さん:2005/12/07(水) 19:46:44
「李氏朝鮮には中期以降まともな軍隊もなかったのに」
なぜそれなりの統治ができてたのか?
安東金氏が楽しそうに暮らしてるのを見て、
反乱を起こす人がもっといてもよかったのでは?
 に変えても全然違和感ないな。板違いだけど。
252日本@名無史さん:2005/12/21(水) 15:15:35
age
253日本@名無史さん:2006/01/03(火) 00:40:34
>>167
>武士って役職でもなんでもなくて自ら始めた商売なんでしょ?
252 :金魚 :04/03/24
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 武士の起源としては
1,在地領主的武士論
 有力農民が、自衛のために武装していったという説。
2,職能的武士論
 都の下級貴族が、ヤクザや狩猟民等、戦闘能力を持った人々を率いて、
地方に下っていったという説。

 司馬遼太郎先生は1の在地領主論派なのだが、近年は、職能的武士論が
有力である。しかし、少し考えれば解る事だが、1と2は排他的なも
のではなく、両者が融合して武士階級を作っていったと考える方が自然だろう。
 中世においては、生産力の多くが土地によっていたため、強力な中央政府が
無ければ、このような私武装勢力が、土地の利権、縄張り、相続等をめぐって
争うのは当然の成り行き。この土地争いが、江戸幕府成立までの武士の戦いの
メインテーマなんだよな。
平家はなぜ脆かったのか
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1070426356/252
254日本@名無史さん:2006/01/03(火) 02:12:38
平安時代に入って国家が直属の常備軍隊を持つことを止めた。
常備する必要性がなくなったこととコスト削減のため。
その代わり、何かあったときは、中央貴族のうちから適当な人物を総司令官に任命して、徴兵できて指揮でき
る強力な権限を与えるだけで、それ以外のことはすべて、その人物に丸投げ。
一方、諸国では普段から武力として動員可能な国内の有力豪族を把握していて、中央から追討官符などが
届いたら、直ちに国内の有力豪族に動員をかけ、中央からきた総司令官を迎える。
中央政府では、軍隊の維持に全くコストをかけず、それらはすべて動員をかけられる豪族に任せてしまう。
うまいやり方。
でも、この軍隊と中央政府の関係の薄さと、国家の軍隊としてのまとまりのなさが、武士同士の私的な主従
関係を基礎とする独自の社会を作り始めて、中央政府から自立し始める。
255日本@名無史さん:2006/01/03(火) 10:57:29
>>253
269 :256:04/03/25 15:22
下向井・川尻・元木は国衙軍制論に基づいている。
武装した人=武士ではない。
朝廷によって武装ならびに軍事力の行使を認められ、
それを世襲した人々を武士という。
元木は武士の前段階として「兵段階」を想定しているが、
これは下向井が痛烈に批判している。
平家はなぜ脆かったのか
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1070426356/269
256日本@名無史さん:2006/01/04(水) 23:05:34
律令制では建前では今で言う兵士、下士官、将校を国家が編成することになっていた。
健児の制が施行されると、現実追認で地方豪族が将校となり、その郎党が下士官として軍勢を編成することとなった。
257日本@名無史さん:2006/01/05(木) 11:07:06
>>256
それでは、律令制以前の豪族割拠体制と同じってことか?中央政権が
国造を廃して任命した国司や郡司には、軍事権はなしってことですか。
258日本@名無史さん:2006/01/05(木) 18:21:14
>>254
>常備する必要性がなくなった...
9世紀初頭の薬子変での武力行使対決以後も政変は起きたのに、武力に訴えて
でも時の藤原氏政権を没落させようとする対抗勢力が出ないと政権側が考え、
対抗勢力側も武力行使を企てなかった理由は何だったのだろう。
259日本@名無しさん:2006/01/05(木) 20:49:55
前九年の役の前哨戦に、鬼切部の合戦がある。
陸奥守・藤原登任と蝦夷・安倍一族の合戦で、結果は陸奥守軍が大敗した。
陸奥守軍はかき集めても5千人余。(蝦夷の安倍軍は数万)
坂上田村麻呂が築いた胆沢城も、城兵が数百だったといわれている。
この頃から、朝廷の軍事組織は弱り、武士の力にすがるようになったと思う。
260世界@名無史さん:2006/01/09(月) 00:25:59
平安時代に国軍はなかったのですか!!??
261日本@名無史さん:2006/01/09(月) 07:39:34
あったら武士は台頭せぇへんがな。
262日本@名無史さん:2006/01/09(月) 16:58:57
>>260
律令制下、地方豪族を郡司に任命しその支配領域を郡として支配させていた。
軍制も事実上、地方豪族である郡司が自分の支配領域から兵士を集め、中央政府や軍団に差し出していた。
263日本@名無史さん:2006/01/10(火) 09:43:20
健児って制度はともかく武士の肩書きとして残ってもいいような気がするけど残らなかっ
たってことは、肩書きとしても魅力がなかったんだよな。どういう点が魅力に賭けてたん
だろう?
264日本@名無史さん:2006/02/05(日) 23:11:18
動員兵だから。
265日本@名無史さん:2006/02/06(月) 06:52:11
健児って各国で10〜100人くらいしか割り当てないんだよね
266日本@名無史さん:2006/02/06(月) 20:38:33
吉川弘文館「中世日本の諸相上」所収の「古代末期の傭兵と傭兵隊長」福田豊彦著
健児の国別定員
(延暦11年6月14日官符)                (延喜式)
324人                          陸奥
200人 陸奥・近江                     常陸・近江
150人 下総                        武蔵・下総
105人 武蔵
100人 伊勢・相模・上総・美濃・信濃・上野・下野・越前   伊勢・相模・上総・美濃・信濃・上野・下野・越前
     越後・出雲・播磨                  越後・出雲・播磨・讃岐
60人  遠江                        遠江・紀伊
50人  尾張・駿河・能登・越中・丹波・但馬・因幡・伯耆   尾張・三河・駿河・甲斐・加賀・能登・越中・丹波・但馬
     美作・備前・備中・備後・長門・讃岐・伊予      因幡・伯耆・美作・備前・備中・備後・周防・長門・伊予
40人                           山城・安芸
30人 大和・河内・摂津・山城・伊賀・三河・伊豆・甲斐   河内・摂津・伊賀・志摩・伊豆・安房・飛騨・若狭・佐渡
     安房・若狭・丹後・石見・隠岐・安芸・周防・紀伊   丹後・石見・隠岐・淡路・阿波・土佐
     淡路・阿波・土佐
25人 和泉
20人                           和泉
     51国3155人                  57国3964人
267日本@名無史さん:2006/02/06(月) 20:41:34
吉川弘文館「中世日本の諸相上」所収の「古代末期の傭兵と傭兵隊長」福田豊彦著
健児の国別定員
      (延暦11年6月14日官符)                    (延喜式)
324人                                       陸奥
200人  陸奥・近江                              常陸・近江
150人  下総                                   武蔵・下総
105人  武蔵
100人  伊勢・相模・上総・美濃・信濃・上野・下野・越前        伊勢・相模・上総・美濃・信濃・上野・下野・越前
       越後・出雲・播磨                           越後・出雲・播磨・讃岐
60人   遠江                                   遠江・紀伊
50人   尾張・駿河・能登・越中・丹波・但馬・因幡・伯耆        尾張・三河・駿河・甲斐・加賀・能登・越中・丹波・但馬
      美作・備前・備中・備後・長門・讃岐・伊予             因幡・伯耆・美作・備前・備中・備後・周防・長門・伊予
40人                                        山城・安芸
30人  大和・河内・摂津・山城・伊賀・三河・伊豆・甲斐         河内・摂津・伊賀・志摩・伊豆・安房・飛騨・若狭・佐渡
      安房・若狭・丹後・石見・隠岐・安芸・周防・紀伊        丹後・石見・隠岐・淡路・阿波・土佐
      淡路・阿波・土佐
25人  和泉
20人                                         和泉
      51国3155人                              57国3964人

268日本@名無史さん:2006/03/18(土) 00:33:41
>>190
>古代から中世の武具の変遷とか、軍事組織の変遷というのを理解する本・・・
神戸大の高橋教授の「武士の成立」が、平易で読み易い。
武士の成立 武士像の創出 高橋昌明 東京大学出版会 1999 ¥5,460 (税込)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4130201220/249-6070911-2635549
http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0199824542
269日本@名無史さん:2006/03/18(土) 01:47:07
>>241
>紀氏は、平城期はむろん平安期になっても武人を輩出・・・・
その紀氏も平安中期以降は、下級文官家に下降。
紀氏の歴史の軌道 ttp://homepage2.nifty.com/ihmm/sub16.html
270日本@名無史さん:2006/03/32(土) 23:58:42
  
271日本@名無史さん:2006/04/27(木) 21:50:33
>>268
噂の電波本
272日本@名無史さん:2006/05/16(火) 22:00:19
   
273日本@名無史さん:2006/05/16(火) 23:25:01
>>206
確かに遙任国司という意味では本来の役目を果たしていないけど。
国司は任国が収入源なんだから目代にきちんとやらせてる。
検地はちゃんとやってる。太田文がそう。
274日本@名無史さん:2006/05/17(水) 01:53:17
この時代の田堵大名とかいうのは、後の守護大名や戦国大名の原型みたいなものでしょうか
275日本@名無史さん:2006/05/17(水) 05:22:36
原型って言葉にどれだけ広がり持たせるかによるけど
まあしかし、ちがう、ってのが常識的な答だろな
276日本@名無史さん:2006/05/17(水) 06:27:35
>>229
894年9月に対馬が新羅軍兵2500人・船45隻による侵攻を受けている。
この時は文室善友率いる日本軍が弩で新羅軍300余人を射殺して撃退。
新羅船11隻を拿捕。
277日本@名無史さん:2006/05/17(水) 13:22:26
>>274
大名という名称の由来ではあるかな
278日本@名無史さん:2006/06/05(月) 06:03:48
日本と新羅は終始交戦状態であったということ?
279日本@名無史さん:2006/06/07(水) 02:05:54
結局、名の実態って何だったの?
280日本@名無史さん:2006/06/07(水) 05:00:22
平安時代に課税基準が人から土地に転換したことにともなって、田堵(負名)が
国衙や荘園領主に申請して所当公事などの納入を請負った田畠のまとまり。
畿内の例では、名は単一の経営体ではなく複数の経営を含み込んでいた。

11世紀以降、荘園や公領で検注などに基づいて編成され、年貢・公事の
徴収単位となった田畠のまとまり。名田とも。名の規模は地域差が大きく、
畿内の百姓名はだいたい小さく、それに対して遠隔地の領主名といわれる
ようなものは大きいものが目立つ。性格・機能がやや異なるのであろう。

要するに課税単位。経営単位とは一致しない。というのがここ何十年の定説。
281日本@名無史さん:2006/06/07(水) 23:19:21
>>267

平安時代はまともな軍隊がないのに、よく平将門の乱を平定できたな。
どうやって平定したんだろうか?
282日本@名無史さん:2006/06/07(水) 23:30:12
近所に住んでる別の武将にシメられただけ。
283日本@名無史さん:2006/06/08(木) 00:16:21
くだらん
284日本@名無史さん:2006/06/08(木) 00:20:45
事実なのだが
285日本@名無史さん:2006/06/08(木) 01:01:58
中世日本の軍隊(健児)の総人数。
日本全国51国で3155人。
  
286日本@名無史さん:2006/06/08(木) 01:13:10
平安時代は貴族全盛期。
貴族といえば軟弱で遊楽に耽るイメージが強いが、
当時は学があり、才能があるものがみな貴族となって日本(京)の政治の指揮を執っていた。
京の外の武士=賊党、不良農民などの荒くれ
京の武士=貴族の下に統治された規則正しい軍隊
京の町が賊に襲われれば、中将など貴族達は馬に跨り太刀を帯び、
最新鋭の装備、用兵学をもって明確な指揮系統のもと
警備の兵(武士達)を率い、治安維持に務めた。
平安太平の400年悠々と受け継がれてきた。
平安中期〜末期、次第に京から離れた辺境の山賊、荒くれどもが学を覚え、
武士という規則、規律を伴い集団化していく事により力を持ちはじめた。
その力を無視できなくなっていくのは周知の事実だろう。
平将門、源頼朝はその棟梁だった。
287日本@名無史さん:2006/06/08(木) 01:16:43
それがどーした。
288日本@名無史さん:2006/06/08(木) 01:28:04
平将門の時代はまだ武士の集団が乱立し、関東の一地方の中ですら
結束するほどの支配力も無かった。
源頼朝の時代になると貴族と同じく武士という一つの階級として認知され、
日本全国の武士が系統に分かれ集結するようになっていた。
その力は最後には貴族の支配力を凌ぎ、ついには平安時代は終わりを迎える事となった。。。。

というのが 通 説 。
289日本@名無史さん:2006/06/08(木) 02:34:02
たまに健児は平安時代の軍隊だって主張するやつがいるが、
日本全国51国で3155人の軍隊って、まともな軍隊じゃないよね。
290日本@名無史さん:2006/06/08(木) 02:35:35
>>286

>京の外の武士=賊党、不良農民などの荒くれ
>京の武士=貴族の下に統治された規則正しい軍隊

京都以外に軍隊はなかったってこと?
291日本@名無史さん:2006/06/08(木) 03:43:47
>>286
>>288

通説は知っているよ。
質問内容は平安時代はまともな軍隊がないのに、具体的にどうやって平将門の乱を平定したのか?っていうこと。
健児は日本全国51国を合計しても3155人しかいないことが、延暦11年6月14日官符に証明されているだろ。
3155人の軍隊で平将門を平定したのか?
292日本@名無史さん:2006/06/08(木) 04:29:40
282に答えかいてあるじゃん
293日本@名無史さん:2006/06/08(木) 08:15:21
平将門は奇襲を受けた。
家来達は農民が多く、武士として集まっていればみなの農地が荒れる。
人望のある平将門は有事があれば再結集するすることを約束して
みんなを帰らせていた。
将門を討ったものは関東にいた藤原何とかともう一人の軍団。
討たれたときの将門軍はわずか数十人〜多くても数百人と推測する。
武士としてのあり方、結束力がまだ整っておらず、
貴族のほうが力があり、学に長けていた。
当然だ。
武士と言う役職(職業)で食っていけるものなど数えるほどしかいなかった。
残りは農民、賊など。
次第に武士に転職(?)し本腰をいれ学を成していくという認識が正しい。
奇襲を受けた資料は何だったか、少し調べれば出てくる。
294日本@名無史さん:2006/06/08(木) 19:43:43
平将門を討ったのは、平国香。
朝廷は軍を派遣していない。
なぜなら、当時の日本に軍隊はなかったからだ!!
295日本@名無史さん:2006/06/08(木) 20:44:44
将門の乱なんて関東のヤクザの抗争と同じだよ
296日本@名無史さん:2006/06/08(木) 21:08:08
実際にヤクザの抗争と同じだろう。
ただ、現在と違うのは、政府がヤクザよりも低い軍事力しか持っていなかった。
ヤクザの抗争に口出しできない政府がいて、関東のヤクザをまとめた源頼朝の要求を拒否できなかった。
その後、関東の独立を認めて、秀吉の時代になると荘園がなくなる。
297日本@名無史さん:2006/06/08(木) 23:36:58
平国香は承平五年に将門に敗北して死んでるよ。討ったのは息子の貞盛と盟友の藤原秀郷。
298日本@名無史さん:2006/06/09(金) 00:13:01
>>293
秀郷も知らんのかw
299日本@名無史さん:2006/06/09(金) 00:30:38
平将門の乱に対して、朝廷は派遣する軍隊もなかったのか。
300日本@名無史さん:2006/06/09(金) 01:59:43
まるで噴飯モノのスレタイだが、自分も幼少期には素朴な疑問として持って
いました。スレ主の言う「軍隊」とは、律令体制の朝廷が直轄する軍事組織
という事と思いますが、地方では農民を兵力とした軍団制が、平安時代書記
まではあったと申せましょう。言わば徴兵制的な形態です。敵対勢力は蝦夷
や、仮想敵として唐や新羅などがあった訳ですが、坂上田村麻呂の蝦夷平定
があり、九世紀後半には唐が衰退の兆しを見せ外地侵攻の危機も希薄になった
事(そう言った意味では、菅公の遣唐使廃止は正鵠を射ていました)などに
より、軍団制は健児制へ転換して行ったのでしょう。今風に言えば「軍縮」と
申せましょう。更には辺境地下向の国司に大幅な軍事権の委譲と言う形で、
俘囚や富豪層を配下に組織していった結果が、源氏や平氏などの軍事貴族の
萌芽となったものと推察します。十世紀に入ると、組織に反した俘囚や富豪層
が群党として坂東各地に蜂起した訳ですが、個々の規模は小さくとも広範囲で
同時多発的に発生し、健児を主とした兵力では鎮圧は困難であり、その主力と
なったのが平高望や藤原利仁と言った軍事貴族の組織した武力であった訳です。
彼等は同時に中央の朝廷とも密接な関係を構築していたので、反乱を起こす
など思案の外、反体制勢力を鎮圧して対価の報償を得る方が、遥かに現実的
な選択であった訳です。これは、承平・天慶の乱で鎮圧した者には条件を
問わず相当の位階に叙する、と言う太政官符の発布で理解できるでしょう。
301日本@名無史さん:2006/06/09(金) 02:51:14
吉川弘文館「中世日本の諸相上」所収の「古代末期の傭兵と傭兵隊長」福田豊彦著
健児の国別定員
      (延暦11年6月14日官符)                    (延喜式)
324人                                       陸奥
200人  陸奥・近江                              常陸・近江
150人  下総                                   武蔵・下総
105人  武蔵
100人  伊勢・相模・上総・美濃・信濃・上野・下野・越前        伊勢・相模・上総・美濃・信濃・上野・下野・越前
       越後・出雲・播磨                           越後・出雲・播磨・讃岐
60人   遠江                                   遠江・紀伊
50人   尾張・駿河・能登・越中・丹波・但馬・因幡・伯耆        尾張・三河・駿河・甲斐・加賀・能登・越中・丹波・但馬
      美作・備前・備中・備後・長門・讃岐・伊予             因幡・伯耆・美作・備前・備中・備後・周防・長門・伊予
40人                                        山城・安芸
30人  大和・河内・摂津・山城・伊賀・三河・伊豆・甲斐         河内・摂津・伊賀・志摩・伊豆・安房・飛騨・若狭・佐渡
      安房・若狭・丹後・石見・隠岐・安芸・周防・紀伊        丹後・石見・隠岐・淡路・阿波・土佐
      淡路・阿波・土佐
25人  和泉
20人                                         和泉
      51国3155人                              57国3964人

302日本@名無史さん:2006/06/09(金) 03:51:03
古墳・飛鳥時代は朝鮮半島に2万5千ぐらい派遣してたのにな
303日本@名無史さん:2006/06/09(金) 09:42:43
あの時代は天皇や貴族も武人的性格が残ってたから。
304日本@名無史さん:2006/06/10(土) 00:52:13
>>286
むちゃくちゃ。
>>288
なにが通説なんだか。。。
>>291
健児(騎兵)は精兵主義が反映されてるものだと言われてるけど
健児自体は守備兵程度。


律令の軍団制は「労多くして実利少なし」みたいなもん。
唐の府兵制を真似しても、日本の場合は地方が担ってたわけで、
唐とは違ったものだったし。
305日本@名無史さん:2006/06/10(土) 01:30:53
平安時代は、軍事を民間に委託していたってことでしょうかね。
まともな軍隊がなかったのではなくて、国家直属の常備軍が存在しなかったということでは。

軍隊の司令官クラスの人材だけを朝廷が把握していて、有事には、それらの候補の中から
適当な人物を指揮官に任命して、兵力、武装などはその指揮官が調達する。但し、諸国の
国司に命令して国衙が把握している国内の武士を参陣させるというサポートは行う。

軍事訓練などまともな軍隊としての軍事活動は、個々の武士に任せる。
朝廷は軍事行動を指示するだけ。
306日本@名無史さん:2006/06/10(土) 01:39:04
>>286
>>288
>
>通説は知っているよ。
これって、通説なの?
子供の作文みたいだけど。
307日本@名無史さん:2006/06/10(土) 02:04:56
> 貴族といえば軟弱で遊楽に耽るイメージが強いが、
> 当時は学があり、才能があるものがみな貴族となって日本(京)の政治の指揮を執っていた。
平貞盛も藤原秀郷も貴族だし、藤原顕光みたいな無能もいたし。
むちゃくちゃですね、言っている事が。

> 京の外の武士=賊党、不良農民などの荒くれ
三浦や大庭なんかの関東の武士の多くは荘官だったりするんだけど。
この人たちも賊党、不良農民などの荒くれなんですかね。

> 京の武士=貴族の下に統治された規則正しい軍隊
意味不明。

> 京の町が賊に襲われれば、中将など貴族達は馬に跨り太刀を帯び、
> 最新鋭の装備、用兵学をもって明確な指揮系統のもと
> 警備の兵(武士達)を率い、治安維持に務めた。
京の町が賊に襲われると近衛の中将がおでましになるんですか?
近衛府の担当範囲は内裏と天皇くらいじゃなかったっけ?
検非違使と勘違いしているのか。

> 平安中期〜末期、次第に京から離れた辺境の山賊、荒くれどもが学を覚え、
> 武士という規則、規律を伴い集団化していく事により力を持ちはじめた。
またもや、意味不明。
武士が、学を覚えて集団化するってのは、笑うところですか?

> 平将門、源頼朝はその棟梁だった。
平将門って武門の棟梁だったっけ?
308日本@名無史さん:2006/06/10(土) 02:08:18
日本史板のレベル

938 名前:日本@名無史さん :2006/06/10(土) 00:50:40
東宮って「ひがしのみや」「とうぐう」どっち?

「とうぐう」ならなんで皇太子だけ「ナンタラ宮」って読まないんだろうね

939 名前:日本@名無史さん :2006/06/10(土) 01:37:20
>>938
いまでも称号は浩宮ですよ。

941 名前:日本@名無史さん :2006/06/10(土) 01:43:00
>>939
じゃ東宮って何?
309日本@名無史さん:2006/06/10(土) 02:17:06
> 平将門の時代はまだ武士の集団が乱立し、関東の一地方の中ですら
> 結束するほどの支配力も無かった。
武士の集団って、児玉党とか丹党とかのこと?
だったら、将門の時代じゃないな。

> 源頼朝の時代になると貴族と同じく武士という一つの階級として認知され、
> 日本全国の武士が系統に分かれ集結するようになっていた。
頼朝の時代は、まだ、貴族の中に武門の家柄があるという時代じゃなかったか。
公家と武家の二項対立はもっと後の時代だと思うが。
頼朝も公家であり武士だったわけだし。

> その力は最後には貴族の支配力を凌ぎ、ついには平安時代は終わりを迎える事となった。。。。
平安時代は終わりだが、平安末の体制は、鎌倉時代も引き続き存在していたわけで。
310日本@名無史さん:2006/06/10(土) 02:24:59
> 武士と言う役職(職業)で食っていけるものなど数えるほどしかいなかった。
武士という役職(職業)があったというのは初耳だ。
敢えて言うなら武士という職能か。

普通、武士と見なされている家柄の出身者がつくのは、検非違使とか、滝口とかの
治安、警備関係の職が多かったと思うが。
311日本@名無史さん:2006/06/10(土) 14:02:31
>>304

>健児(騎兵)は精兵主義が反映されてるものだと言われてるけど
>健児自体は守備兵程度

健児が騎兵とは初耳だな。
その根拠は?

それに健児が精兵主義?
それも初耳だな。
どの文献に載っていたんだ?

適当なことばっかり言ってんじゃねーよ。
312日本@名無史さん:2006/06/10(土) 15:17:26
健児が騎兵ってのはウソだろうな。
当時の日本に騎兵の概念はない。
さらに、山地や森林の多い日本の地形では騎兵は活躍しない。
健児は警備などが主な仕事ってのは正解だろうな。
313日本@名無史さん:2006/06/10(土) 23:01:22
吉川弘文館「中世日本の諸相上」所収の「古代末期の傭兵と傭兵隊長」福田豊彦著
健児の国別定員
      (延暦11年6月14日官符)                    (延喜式)
324人                                       陸奥
200人  陸奥・近江                              常陸・近江
150人  下総                                   武蔵・下総
105人  武蔵
100人  伊勢・相模・上総・美濃・信濃・上野・下野・越前        伊勢・相模・上総・美濃・信濃・上野・下野・越前
       越後・出雲・播磨                           越後・出雲・播磨・讃岐
60人   遠江                                   遠江・紀伊
50人   尾張・駿河・能登・越中・丹波・但馬・因幡・伯耆        尾張・三河・駿河・甲斐・加賀・能登・越中・丹波・但馬
      美作・備前・備中・備後・長門・讃岐・伊予             因幡・伯耆・美作・備前・備中・備後・周防・長門・伊予
40人                                        山城・安芸
30人  大和・河内・摂津・山城・伊賀・三河・伊豆・甲斐         河内・摂津・伊賀・志摩・伊豆・安房・飛騨・若狭・佐渡
      安房・若狭・丹後・石見・隠岐・安芸・周防・紀伊        丹後・石見・隠岐・淡路・阿波・土佐
      淡路・阿波・土佐
25人  和泉
20人                                         和泉
      51国3155人                              57国3964人


314日本@名無史さん:2006/06/11(日) 00:07:36
健児は現在の概念で敢えて言えば騎乗指揮官。
配下に数人の騎乗下級指揮官がいてその下には徒歩の兵卒がいるというような。
315日本@名無史さん:2006/06/11(日) 01:06:11
>>214

それも初耳。
根拠の文献は何?
316日本@名無史さん:2006/06/11(日) 03:12:03
>>214

>健児は騎乗指揮官。配下に数人の騎乗下級指揮官。その下には徒歩の兵卒


指揮官の数が51国3155人なら、騎乗下級指揮官は何人いるの?
その下には徒歩の兵卒は何人いるの?
指揮官の数だけ詳しく書いてある資料なんてありえない。

ソースは何?
おまえの脳内妄想か?



317日本@名無史さん:2006/06/11(日) 04:49:33
おちつけ
318日本@名無史さん:2006/06/11(日) 05:49:35
長江健児
.
.
.
合衆国でも連邦軍と州兵があるように、中央集兵分だけじゃないんじゃないかなー
江戸時代だってまともな軍隊なんてねーだろ。旗本が適当に食っちゃ寝してるだけで。
今の日本にも軍隊はいません。ウヨサヨ話ではなく、軍隊あるがは国内向けではない。
国内で叛乱起こすやつのことなんて予想しちゃいない。
結論:敵のないとこに軍隊は置かない
以上
319日本@名無史さん:2006/06/11(日) 15:21:49
>>318

>合衆国でも連邦軍と州兵があるように、中央集兵分だけじゃないんじゃないかな

中央ってどこ?京都?国府?
320日本@名無史さん:2006/06/12(月) 00:30:35
武士ってのは軍人なんだから鎌倉幕府も室町幕府も江戸幕府も軍事政権ってことだろ。
だったら、江戸時代に軍隊がないなんてありえない。逆に、全国、軍隊だらけの時代じゃないのか。

321日本@名無史さん:2006/06/12(月) 00:36:40
>>311
ソース探すの厄介&説明面倒。
『日本の歴史04』から
P309
健児(弓馬に秀でた精兵)

>>312
例えば
坂東九国軍三万人教習騎射
殷富百姓才堪弓馬者

>>319
地方の軍団も、中央の衛府の人材も、地方が担ってた。
軍団制崩壊後も根本は同じ。
>>320
だな。実戦経験の差があるが。
322日本@名無史さん:2006/06/12(月) 00:46:27
>>320

江戸時代???
平安時代の話だろ。
323日本@名無史さん:2006/06/12(月) 02:16:29
あまり当り前のこと言うな。
江戸時代の実体がまともな軍に相当するようなモンじゃなかっただろう、という意味に決まってる。
身分が武士なんだから兵士に決まってんだろ。だがまともな軍隊はない。招集される機会ねえし。実際江戸総攻撃のとき集まらなかったし。
それから比べたら平安時代を無軍隊と憂慮するほどの話じゃない。

...
連邦と州つってんだから朝廷と国府だろ
324日本@名無史さん:2006/06/12(月) 02:29:24
『将門記』「将門の私の君太政大臣家」とあるが、
それは将門も太政大臣藤原忠平一族と公的な主従関係とは別な
私的な隷属関係を結んでいたという事であろう。

解説文の一部コピペ
325日本@名無史さん:2006/06/20(火) 01:48:52
将門の兵の多くは、彼の所領の領民を徴発して集めた兵隊かな。
一種の雑役みたいなものか。
326日本@名無史さん:2006/06/25(日) 19:58:02
吉川弘文館「中世日本の諸相上」所収の「古代末期の傭兵と傭兵隊長」福田豊彦著
健児の国別定員
      (延暦11年6月14日官符)                    (延喜式)
324人                                       陸奥
200人  陸奥・近江                              常陸・近江
150人  下総                                   武蔵・下総
105人  武蔵
100人  伊勢・相模・上総・美濃・信濃・上野・下野・越前        伊勢・相模・上総・美濃・信濃・上野・下野・越前
       越後・出雲・播磨                           越後・出雲・播磨・讃岐
60人   遠江                                   遠江・紀伊
50人   尾張・駿河・能登・越中・丹波・但馬・因幡・伯耆        尾張・三河・駿河・甲斐・加賀・能登・越中・丹波・但馬
      美作・備前・備中・備後・長門・讃岐・伊予             因幡・伯耆・美作・備前・備中・備後・周防・長門・伊予
40人                                        山城・安芸
30人  大和・河内・摂津・山城・伊賀・三河・伊豆・甲斐         河内・摂津・伊賀・志摩・伊豆・安房・飛騨・若狭・佐渡
      安房・若狭・丹後・石見・隠岐・安芸・周防・紀伊        丹後・石見・隠岐・淡路・阿波・土佐
      淡路・阿波・土佐
25人  和泉
20人                                         和泉
      51国3155人                              57国3964人



327日出ずる処の愛国者:2006/06/25(日) 21:19:16
>>1

平安時代は軍隊が廃止されていました。その結果どうなったかというと
治安はめちゃめちゃ、まったくの無法地帯それで都には検非違使という
警察謙軍隊が置かれましたが地方はほったらかし
そのため各地の住民は自警団を作りました。これが武士です。
ちなみになんで軍隊を廃止したのかというと都の名前を平安京としたからです。
何のことかというと『平安京』とは『平和の都』という意味です。
つまり都の名前を平和と名づけた以上世の中も平和になるに違いない
だから軍隊はいらないということです。
なんてバカなことをと思うでしょうが、今でもやっています。
『平和宣言都市』『非核化宣言都市』『暴力追放宣言都市』あっちこっちに
看板がかかってますよね、で、この都市は、平和のため非核化のため
なにかやっているのでしょうか、やってるところもあれば
やってないところもあります。この『なにもしないけど宣言だけはする都市』
『犯罪対策は何もしないけど平和の都と名づけた平安京』から千年
ぜんぜん進歩していません。
328日本@名無史さん:2006/06/25(日) 23:59:51
また、変なのが現れたw
329日本@名無史さん:2006/06/26(月) 03:00:17
現代では治安機関と軍は別なんですけど。
330日本@名無史さん:2006/06/26(月) 10:18:50
いい世の中じゃねーか、治安機関がなく、無法地帯の平安京。
女は辻で捕まえて自分のものにできる。
小学校時代に1年半ほど道場に通って6級の腕前で、
172cm体重74kg体脂肪率36%の俺様にしてみたら、
世紀末覇王のような生き方ができるいい時代だとしか思えねーぜ。
331日本@名無史さん:2006/06/26(月) 11:43:47
>そのため各地の住民は自警団を作りました。これが武士です。
何十年前の学説だよw

>>324
公的な主従関係って何だよw
332日本@名無史さん:2006/06/26(月) 12:02:02
>>329
だが、軍がなければ治安も糞もないのも事実。孔子とて、国が成り立つのに必要不可欠な三大要素の一つにまず軍隊を挙げている。
333日本@名無史さん:2006/06/27(火) 08:58:59
>>314
こいつら「健児」
のお給料が政府から出なくなって、
その末裔が「武士」化したのですか?≒民営化?
334日本@名無史さん:2006/07/02(日) 00:56:35
wをつけるのはアホの証明
335日本@名無史さん:2006/07/03(月) 18:08:42
一個までならギリギリセーフ
336日本@名無史さん:2006/07/08(土) 01:59:25
動員兵は、意外と役にたったようだけど領土が広がったので赴任や復員の
コストが増大し、そのまま復員せずに赴任先に居着いちゃった事例が多いようだ。
ローマ帝国と同じだね。
337日本@名無史さん:2006/07/14(金) 21:08:23
帰還率が低いのは、任務で死亡ではなく帰還する手段がなかっただけ
338日本@名無史さん:2006/07/15(土) 00:28:31
現地解散は、ヒドすぎない?
339日本@名無史さん:2006/07/15(土) 03:20:03
いや、ローマ帝国の場合、マリウス軍政改革以前は市民が必要に応じて編成する形式で、
マリウス以降、ローマが帝政になってからは、
志願兵制で、兵役期間が長期にわたり、現地妻を持ってしまうのと、
長期の赴任中に、その土地に根付いてしまう。
ローマ帝国も、辺境の国境地域に、退役者がいづいて、ローマ人による都市人口の増大と、
耕作地の拡大を意図していた。
復員のコストなんて大したことじゃないだろ。
帝政時代よりも貧乏な共和制時代は、いちいちイタリア半島に帰ってたんだから。
340日本@名無史さん:2006/07/15(土) 15:18:14
ローマは、任地から帰還しても失業者だから。ポリス市民の義務に納税というのがあるのだが
失業者はそれを実行することができない。義務を遂行できない者に権利はない。

わざわざ失業者になるために復員はしない。
341日本@名無史さん:2006/07/15(土) 15:34:43
ローマ市民に納税の義務はない。
血の税=兵役だけが市民の義務だ。
属州民は納税の義務があるけどな。
あと、ローマ帝国では兵役を満期除隊すれば退職金が給付される。
この退職金で駐屯地近辺の農地と奴隷を購入し、
辺境で退役後の第二の人生を始める。
というのが一般モデル。
退職金を手に大都市に行って小さい商売を始めるものもいる。
日本史板ではまともなローマの知識もないのか
342日本@名無史さん:2006/07/15(土) 16:31:52
いやローマ本国では、非常時以外軍隊に招集されんわけだから・・・満期除隊って10年近くなかったか?
平均寿命から言ってかなりレアだったはず。じゃなきゃ恩給で財政が破綻する。したんだっけ?

たしか給与の遅配と士気の弛緩が滅亡の要因だったと理解しているが
343日本@名無史さん:2006/07/15(土) 16:58:56
非常時のみ編成するのは共和制末期までだ。
広範な領土を統治するようになる共和制末期・帝政以降は職業軍人の時代になる。
大体、ローマ本国で軍団編成してガリア北部やパレスチナに軍を送るのは不都合だ。
前線に駐屯基地を設けて、常備軍で対処する。
それから、ローマは帝政末期まで財政状態は健全だ。
財政状態が悪化するのは、蛮族の侵入が騎兵化、大規模化してからだ。
蛮族が騎兵化、大規模化するまで、
防衛ラインと駐屯基地の間に退職者がドンドン農地を広げていった。
これが蛮族の騎兵化と共に、この耕作地が放棄されるし、
通商に支障をきたし始める。
しかし、そんな帝政の末期頃になると、
イタリア本国で志願して辺境に赴任するローマ兵なんかまずいない。
ローマ兵は赴任し、駐屯し、退職したローマ兵の子孫が、
ローマ式の都市を形成し、その出身者によって、ローマ軍団は編成されてる。
平均寿命は低くても、10歳まで生き残った人間は普通に50代まで生きてる。
10歳までに死ぬ数が平均寿命を押し下げてるだけ。
344日本@名無史さん:2006/07/15(土) 17:04:38
あ、そうそう、ローマの志願兵の兵役は15年な。
共和制時代は16〜45が兵役義務がある。
非常時には、くじでこの年齢の中から徴兵される。
345日本@名無史さん:2006/07/15(土) 17:11:37
hello
346日本@名無史さん:2006/07/16(日) 02:14:28
センチュリオンもイイけど、日本のヘイタイさんの話を頼みます。
軍団制廃止後の軍制がこのスレの本旨なわけだけど、
そもそも軍団制・・・律令制以前の軍制ってどうなってたの?
磐井の反乱鎮圧や、壬申の乱、半島派遣などの軍隊ってどうやって集められたの。
これは軍事に限ったことではないけど、律令以前と律令崩壊後の社会の違いが、
イマイチよく分からない。
取りあえず「以前」の軍制はどうなってたのか、詳しい方お願いします。
347日本@名無史さん:2006/07/16(日) 08:33:40
律令制以前ねぇ。
よーわからんが、氏族社会ごとのまとまりで軍事力というか、
動員をするような感じの社会だったんだろうなぁ。
年齢階梯制の、西日本の若者宿みたいなのが、社会にあって、
それが軍制っていう感じじゃないだろうか?
氏族社会だと。
348日本@名無史さん:2006/07/16(日) 08:45:41
>>346
律令以前

それこそ、まともな軍隊など無かった時代。
349日本@名無史さん:2006/07/16(日) 10:21:07
物部氏

雄略天皇七年八月
 (前略)天皇、是の語を聞きて、物部兵士卅人を遣はし、前津屋并びに族七十人を誅殺す。

雄略天皇十二年十月壬午
 天皇、便はち御田が其の采女を奸すを疑ひ、自ら將に刑せんと念ひて、物部に付く。

雄略天皇十三年三月
 狹穗彦の玄孫齒田根命、竊かに采女の山邊小嶋子を奸す。天皇聞きて齒田根命を以て、物部目大連に収けて責讓せしむ。

雄略天皇十三年九月
 天皇、因りて嘖讓して曰はく「何處奴、不畏朕、用不貞心妄輙答」。仍りて物部に付けて野に刑せしむ。

雄略天皇十八年八月戊申
 物部菟代宿祢・物部目連を遣はし、以て伊勢朝日郎を伐つ。

繼体天皇九年二月是月
 (前略)故に物部連、舟師五百を率い、直に帶沙江に詣る。

繼体天皇二十年秋八月辛卯朔
 天皇、親ら斧鉞を操り大連に授けて曰はく「長門以東は朕が制す。筑紫以西は汝が制せよ。賞罸は専行し、頻奏を煩はす勿れ。
十一月甲子
 大將軍物部大連麁鹿火、親ら賊帥磐井と筑紫御井郡にて交戰す。
350日本@名無史さん:2006/07/16(日) 12:39:21
平将門はじめ兵たちが上京して、関白忠平以下の摂関家一門を皆殺しにすれば、
一挙に覇権が握れそうな気もするのだが、そうはいかないものもあるみたいだね。
351日本@名無史さん:2006/07/16(日) 23:07:42
反乱してた連中は、京に興味ないやつらばっかだから。
木曽義仲がいかにイレギュラーかと
352日本@名無史さん:2006/07/19(水) 17:26:36
平将門の乱に平安京の大和朝廷は日本国軍を派遣したか?

平安時代には軍隊がなかったから、私兵である「北面の武士」「西面の武士」を組織したんだろう。
353日本@名無史さん:2006/07/19(水) 17:56:46
まともな軍隊もいらず、400年の政権

施政者にとってはパラダイスだろうなぁ
354日本@名無史さん:2006/07/19(水) 22:03:16
>>352
将門の乱と中央政府の対応



征東軍の副将軍に、平清幹(安房平群郡司)など坂東の『兵=つわもの』が任じられてる。
征東軍が東進していく道々で、諸国の兵の参加も増え、征東軍は膨れ上がっていく。
征東軍は残党追捕で活躍してる。夷(東国人)をもって夷を制す、でもある。

『群盗』『凶賊・強盗』。例えば、泰和2年(899)の太政官符に全てみられる。
藤原秀郷(下野)、橘近保(駿河)、藤原玄明(常陸)。代表的な群盗勢力。

群盗勢力=『弓馬に便なる富豪層』こそが国衙の軍事力。
別に坂東に限った事じゃないが。
355日本@名無史さん:2006/07/19(水) 22:06:38
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              ,;'  ';, ,.,.,,.,.,    ,,
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             ;      ( _ ,   ● .;
             ,'、       `ー'   ;'  小野好古はもっと優雅だよ。
             ;' ,             .,; '
                              本軍が到着前に解決してるし
356日本@名無史さん:2006/07/19(水) 22:27:34
>>354

なるほど。
本当に日本の平安時代には軍隊がなかったんですね。
派遣した軍隊が盗賊とは・・・。
357日本@名無史さん:2006/07/19(水) 22:35:23
>>356
まぁ、それでもいいけど(w

中央の軍事力が地方頼みの屁タレだからさ。
358日本@名無史さん:2006/07/19(水) 23:34:20
中央の軍がいく前に地方勢力が倒しちゃうんだよ。恩賞目当てで。
359日本@名無史さん:2006/07/20(木) 00:40:01
平安時代に国家有事には今で言えばヤクザや民間警備会社を召集していたようなもの
360日本@名無史さん:2006/07/21(金) 01:17:49
>>354

じゃあ、武士は元々盗賊ってこと?
俺が聞いたのは武装農民だったけどね。
まあ、どっちにしろ日本の平安時代に軍隊がなくて、治安が悪い。
だから、自衛のために武装しなければ殺された。
その武装した農民や盗賊が武士の起こりってことだね。
361日本@名無史さん:2006/07/21(金) 06:41:54
それを領主論と呼ばれる古典的説。
それでは出現期武士の殆どが下級貴族であった事の説明が出来ない。
その後、職能論と呼ばれる学説が提唱される。
これは軍事を職能とした下級貴族が武士になったというものだけどこれでは郎党や所領開発について説明が出来ない。
もっと詳しく知りたいなら本を読め
362日本@名無史さん:2006/07/21(金) 14:29:33
任命された下級貴族が任期切れてもそのまま居ついちゃった(地縁ができて)
って場合が多いから。縁戚が増えるから一族的になってその係累で郎党も。

任地から復員するのは、トップの偉い人だけ→トップも下向しなくなる
→名代。→そのまま地下化→名目上のみの領国

下級貴族は戻っても下級なので復命を無視してそのままも多い。
一応罪だが任地でのサボタージュじゃなくて待機のサボタージュなので
放置される。任命されることもないんで中央にとってはポスト配分しなくても
済む。で反乱討伐とかに従軍すると恩賞で任命されたり罪の免除のメリットが
大きいのでみんな参加する。

戦乱時には、任命とか赦免とか人事権がけっこうアバウト。
だから武士の棟梁が権威を持つことに。
363日本@名無史さん:2006/07/21(金) 20:49:04
>>360
凶賊とか表現されるのも中央から見た視点、だからともいえる。
貞盛や秀郷みたいな王胤貴種の末裔(留住貴族、辺境軍事貴族)も、群盗みたいなもの。

毒(反乱勢力)にも薬(国衙の軍事力)にもなる。兵=つわもの。
つわもの=弓馬に長けた富裕な輩が、後の武士達の先祖でもある。
364日本@名無史さん:2006/07/22(土) 00:41:49
健児が武士になったとか言っているやついなかった?
あれはやっぱりウソだったの?
365日本@名無史さん:2006/07/22(土) 00:53:06
健児も弓馬を操れる郡司子弟が選ばれたわけだからウソって事でもないんだろうけど、
健児は人数が少ないから武士に繋がる説明にはならないだろう。
366日本@名無史さん:2006/08/11(金) 14:15:10
宮廷の正月行事に「賭弓」ってのがあって、「近衛」と「兵衛」が左右対抗で弓を競うわけだけど、
何で「衛門」はハジケなの?可哀想じゃん。
367日本@名無史さん:2006/08/18(金) 01:55:04
公式行事だっけ?
368日本@名無史さん:2006/08/19(土) 17:11:59
>>363
>つわもの=弓馬に長けた富裕な輩・・・・
平安期の藤原保則も渡辺綱も同じく兵ってこと?
369日本@名無史さん:2006/08/19(土) 17:21:11
国司は官職としては江戸時代までは続いたけど国衛はどうなったの?
370日本@名無史さん:2006/08/19(土) 18:09:21
>>366
衛門は宮外官司。閤門(内郭・内門・内重)・宮門(中門・中郭・中重)・
宮城門(外門・外郭・外重)のうち、一番外を守る。
371日本@名無史さん:2006/08/19(土) 18:11:04
>>368
有位者の貴族階級の人間と無位無官の人間をいっしょには出来ない。
372日本@名無史さん:2006/08/25(金) 20:09:00
弓馬や楽曲にしても芸合わせは身内の余芸にすぎない。
373日本@名無史さん:2006/08/25(金) 21:34:10
>>370
なるほど。じゃあ、検非違使の本官が衛門府なのもそこら辺が理由かなあ。
>>372
余芸じゃなく、政を司る者として「身に付けるべきコト」じゃないの。
蔵人少将とか頭中将とか、エラクなるにはやはり「軍歴」も必要と。
374日本@名無史さん:2006/08/27(日) 13:56:47
伝承技能になって技芸の優劣は問われていない。いわゆるお家芸だな。家内での優劣は
重要かもしれないが、後生になって秘伝伝授っぽくなるとやはり技能自体が廃れていく。
(忠実に伝承されている可能性もあるが)弓馬などは必要性自体が洛中ではほとんど
なくなったので・・・。それらが必要になったのは、辺境の最前線や任地でそれを生かすには
都外に赴任することになる。


古今伝授とか家ごとに専門っぽくなって失われたり意外と原形のまま残ってたりする。
歌学とか数学的な意味合わせなどは、薄れたりもしてるが多数に膾炙されたことで
ある意味伝承に成功している。故事を恋愛に結びつけて恋文に援用されたのが大きい
375日本@名無史さん:2006/09/16(土) 01:27:22
検非違使とか武士が大活躍するのだ
376日本@名無史さん:2006/09/16(土) 03:17:17
>>373
近衛なんか軍歴ではない。(兵衛も衛門もそうだが)
近衛は閤門内、つまり内裏の一番内側を担当。
蔵人次将は殿上人・侍臣を統括する、いわば内廷の人的関係を担当。
蔵人弁は諸司・諸国とのやりとりなど、統治・行政方面を担当。

377日本@名無史さん:2006/09/16(土) 04:13:05
まあ猫をみてなごめ。

http://cgupload.dyndns.org/~upuser/up3/img/1157362085449.jpg


  _,,..,,,,_
/ ,' 3  `ヽーっ
l   ⊃ ⌒_つ
`'ー---‐'''''"
378日本@名無史さん:2006/10/02(月) 08:18:14
軍隊がなかったから、権力を握った上皇たちは「北面の武士」や「西面の武士」などの「私兵」を組織したのだろう。
軍隊があったなら、それを掌握すれば済む話だ。
379日本@名無史さん:2006/10/02(月) 20:56:12
軍隊はなくてもみんな武装して歩いていたからな
380日本@名無史さん:2006/10/03(火) 22:02:54
       ,ィ                      __
      ,. / |´ ̄`ヽー- 、 ト、         , -‐、/./.- 、
    / | |    ヽ   l l         ( チ◇ス ノ 戦国時代はまとも
  /o ̄`ハ._.ゝ===┴=く.ノ- 、       ノ ◇ ◇ (
  /o O / l´ ノ      ヽ lo ',ヽ       ( 山◇モ }
  \___/. ト、  ●    ● ハ  ∧      `⌒/7へ‐´
 / ,イ   レ_⊂⊃ 、_,、_, ⊂ミl~T--‐彡    /./
/ ̄ ̄l.  彡、   (__ノ  ノ'l  l::::::::::彡ー7⌒つ、
彡:::::::::::l  ト、___    /|  l::::::::::::ミ  {,_.イニノ
彡ソ/ノハ   ト、 \  / ,イ  川ハ ヾー‐'^┴
381日本@名無史さん:2006/10/10(火) 20:41:51
いやそれはない
382日本@名無史さん:2006/10/22(日) 23:56:34
>>366-370
でも衛門>兵衛じゃない?
383日本@名無史さん:2006/10/24(火) 23:58:04
敵もまともじゃないからな
384日本@名無史さん:2006/11/15(水) 11:48:17
重装歩兵から騎兵への過渡期
385:日本@名無史さん :2006/11/15(水) 12:54:05
簡単なこと。
田村麻呂の遠征が東側の蝦夷に武器等の軍事力の普及をもたらし、
土地の土豪や後の大名を生んだから。平安の朝廷の治める地域が
全然狭かった。
386日本@名無史さん:2006/11/19(日) 10:39:29
古代:遠くの弥生よりも近くの縄文。結束!
中世:遠くの親戚よりも近くの他人。結束!

それが日本。
387日本@名無史さん:2006/11/20(月) 13:32:26
いや平安期の権力は、尋常じゃないよ。なんでこんなにと思うくらい。
動員する権限とか派遣できちゃう人事権とか
388日本@名無史さん:2006/11/20(月) 18:30:32
当時の人口と律令制くずれの統治システムなんて鼻糞だよf^_^;
389日本@名無史さん:2006/11/20(月) 19:21:58
だれも逆らわないけどね。反逆者は、中央から大義名分を与えられた身内にやられる。
390日本@名無史さん:2006/11/21(火) 08:29:10
国司と群司、地方税と国税?
391日本@名無史さん:2006/11/21(火) 10:44:17
地方豪族は文化の香りに弱い。

自分が圧制され、搾取されていることに気付かず、
空疎な大義論を信じ、二束三文の賞を頼りにその走狗と化す。
392日本@名無史さん:2006/11/21(火) 12:16:00
実際は、豪族って身内内でのパワーバランスで中央を必要としていたので共存だけどね。
奥州藤原や九州勢力でも同じ。逆に宇佐神宮とかのプレイヤーに中央が振り回される事例も
あるんでアリソンとかの第三モデルっぽい分析がいいかも。
393日本@名無史さん:2006/11/21(火) 22:47:56
国ガの建物は、官有の恒久的な建物があったのでしょうか?
それとも、赴任した国司が住む屋敷がその都度国ガになるのでしょうか?
遙任国司の目代と、赴任してる「介」とでは、どっちが偉いのでしょうか?
「介」や「ジョウ」にも遙任して「介の目代」や「ジョウの目代」を置くことはできるのでしょうか?
394日本@名無史さん:2006/11/21(火) 23:34:24
平安前期までは恒久的な国府の官衙が存在。
平安後期になると、国司の館が事実上の国府となる。
平安後期には介、ジョウ、目は在庁官人の有力者が任ぜられることが多いようだ
395日本@名無史さん:2006/11/22(水) 00:01:37
ご教授ありがとうございました。ようやくイメージがつかめました。
396日本@名無史さん:2006/11/25(土) 18:41:03
超亀レス。>>89くらい
土蜘蛛や呑天童子のモデルは平安よりもっと昔の「まつろわぬもの」だと思う。
397日本@名無史さん:2006/11/25(土) 22:42:19
いや盗賊とかそんなの。人でないものなら殺生にならないって思想。
本当は人だろう。人に仇成す者は人以外にない。
398日本@名無史さん:2006/11/26(日) 12:18:42
>>396
てんてん童子って何だよ……
酒呑童子だ。

俵藤太の百足退治は神々の争いだが、秀郷がそれに介入できるのは
僭称とはいえ神に通じる新皇将門を倒した武人だからか。
399日本@名無史さん:2006/11/26(日) 12:30:28
え、桓武天皇5世の孫は別に疑う事ないんじゃないの?
400日本@名無史さん:2006/11/26(日) 14:52:25
僭称というのは新皇のことで、桓武天皇5世の孫を疑ってるまけではないと思いますが・・・

質問であります。
人の死体とか血液を穢れとして忌避する習慣のために、「つわものの家」自体が
公家からは差別の対象だったのに、皇孫である源経基みたいに皇親が早々と
武士に「なりさがった」事情がよく分かりません。
同じように受領になっても、武士化することなく、ちゃっかり私腹を肥やして
都に帰る公家も多くいたのにと。
401タイガーマスクのテーマ経基編:2006/11/26(日) 15:07:46
暖かい芋のお粥も 胸を打つ昇殿の感動も 
知らないで育ったぼくは皇孫さ
強ければそれでいいんだ 力さえあればいいんだ 
ひねくれて弓を握った ぼくなのさー
ああ だけど そんなぼくでも 郎党は慕ってくれる
それだから みんなの幸せ祈るのさ
それだから みんなの幸せ祈るのさ ♪
402日本@名無史さん:2006/11/26(日) 15:38:01
>>400
ちょっと井沢史観に影響され過ぎのような気が。
平安時代の貴族って以外と血生臭いですよ。
403日本@名無史さん:2006/11/26(日) 23:52:32
藤原秀郷は、普通の人だよ。将門もムカデ程度の扱い。桓武係累でも
家主義ですからそんなに意味ないです。一族の棟梁、頭、長というのが重要で
将門はどれでもない。叔父殺してるし
404日本@名無史さん:2006/11/26(日) 23:56:49
武士は自ら手を汚す。
王朝貴族は裏で手を回しやらせる。
405日本@名無史さん:2006/11/30(木) 11:38:13
武士は一族間の仲が悪いからな
406日本@名無史さん:2006/11/30(木) 12:08:55
自昔ソデイ躬カン甲冑跋渉山川不遑寧處東征毛人五十五國西服衆夷六十六國
渡平海北九十五國
407日本@名無史さん:2006/11/30(木) 21:00:07
なんか血なまぐさい文章だね、甲冑を着て各地を転戦するなんて、
きっと身分卑しい奴の話だろう。
408日本@名無史さん:2006/12/01(金) 16:37:49
釣りミエミエ(笑)。
その文の意味が分かるのに、誰が書いたか分からんはず無いだろう。
もしかして自作自演?
409日本@名無史さん:2006/12/02(土) 00:11:42
みりゃ分かるだろ
分からないからって妄想や自作自演にするのは
よくないぞ
410日本@名無史さん:2006/12/02(土) 01:09:40
「甲冑を着て各地を転戦」なんて武人なら誰でもやってる事じゃん。
足利尊氏なんて関東から九州に至る各地で戦っているし、神話だけど倭健命も九州→関東だよね。
日本で一番エライ人のご先祖だってこと知ってて、冗談言ってるんだろ。
411日本@名無史さん:2006/12/02(土) 11:21:03
蛮族の大王
412日本@名無史さん:2006/12/02(土) 11:28:32
何が言いたいかよくわからんなw
自分の知ってることを言いたいだけか?
413日本@名無史さん:2006/12/02(土) 11:45:30
いや、言いたいことが確としてある訳じゃない。
ボケに対して突っ込み入れただけ。「漫才」みたいなモンだ。
414日本@名無史さん:2006/12/02(土) 12:43:31
日本に武士が横行して、武力による圧政が続いたのは、
律令制の軍事制度が崩れてしまったからだ

中央にも地方にも公式の軍隊を置いて治安維持していれば、武士なんて湧いて
こなかった筈
415日本@名無史さん:2006/12/02(土) 13:27:34
律令軍事制度といっても、その本質は地方出身者を掻き集めたもの。
416日本@名無史さん:2006/12/04(月) 21:49:16
>>382
当初の官位相当は衛門>兵衛、改訂後は同等だけど。
そい言う経緯があるから、律令が一応機能していた時期でも、
衛門>兵衛という意識は存在したかも。
平安中期くらいになると、督・尉は衛門>兵衛、佐はほぼ対等、権佐は兵衛>衛門となる。
どういうわけか衛門権佐は二流のエリートコースだった。
417日本@名無史さん:2006/12/15(金) 22:51:33
平安時代の武装は、重装備で集団戦。方陣を組んで叩き合う。もしくは弓で打ち合う。
鐙の形状や装飾から馬は戦闘に用いられていないと考える方が自然だろう。
418日本@名無史さん:2006/12/16(土) 00:02:29
>>417
プギャーと言うべきか
419日本@名無史さん:2006/12/16(土) 00:05:24
平安→律令制度崩壊でまともな軍隊なし
戦国→各地の軍閥が勝手に暴れまわっているだけ
江戸→平和すぎて武士が事務職と化す
大日本帝国→政府の言うことを聞かず勝手に動く暴走軍隊
現代→憲法解釈上では自衛隊は軍隊でないらしい

日本史上まともな軍隊があった時の方が珍しいな
420日本@名無史さん:2006/12/16(土) 01:25:57
律令制の軍隊が弱体な件
421日本@名無史さん:2006/12/16(土) 01:29:36
平安→律令制度軍団制の軍隊。重装歩兵。長大な矛や弓兵の集団運用。
鎌倉→弓馬の道。機動力重視と大鎧と野太刀の個人戦。
戦国→銃火器の普及による戦術の一変。歩兵と銃兵、騎兵、末期には砲兵が加わる。
江戸→幕末に近代戦術が入り、大村、大鳥などの戦略戦術家が他を圧倒する。
大日本帝国→国民による軍隊。最終総力戦により滅亡するまで連戦連勝。
現代→防衛省へ昇格。世界有数の近代兵力を保持。

422日本@名無史さん:2006/12/16(土) 01:39:23
下向井龍彦 国衙軍制
423日本@名無史さん:2006/12/16(土) 17:38:31
知行国主は、その国の税収を与えられたと言いますが、全額を与えられたんでしょうか?
それともやはり何割かは朝廷に納めたのでしょうか?
知行国主の権利には期間の限定はあるのでしょうか?
一度国主になったら、子孫まで国主の権利を承継したのでしょうか?
424日本@名無史さん:2006/12/16(土) 19:08:48
親子で同じ国の知行国主ってこともあったような気がするけど、
本来は世襲を前提としたものではないはず。
少なくとも自動的に受け継ぐようなものではない。
鎌倉殿の場合は世襲みたいな気がするけど、公的に世襲が認められてたのかな?
425日本@名無史さん:2006/12/16(土) 19:48:42
関東御分国と鎌倉殿知行国ってどう違うんだろう。
摂家将軍や宮将軍も世襲したのかな?
426日本@名無史さん:2006/12/16(土) 23:36:07
国司の館は、何人ぐらいの武士が護衛してたんだろう?
幕末に天誅組が襲撃した大和五条の代官所には、武士が3人しかいなかった
ので、一たまりもなく全滅したと司馬遼太郎の本に書いてあった希ガス
427日本@名無史さん:2006/12/16(土) 23:51:26
>>422
図書館で読んだことあるけど、意味ワカランカッタ。
軍団制廃止=武力の放棄、ではないって事ぐらいだったな分かったの・・・
428日本@名無史さん:2006/12/18(月) 23:58:07
太宰府とかは常時1000人規模だけど、奥州とかはどうだろうね・・・
429日本@名無史さん:2006/12/22(金) 02:30:12

                 _
               /´  `フ
         , '' ` ` /      ,!         ブワァー
.        , '      レ   _,  rミ
        ;          `ミ __,xノ゙、 
        i     ミ   ; ,、、、、 ヽ、    ○  坂上田村麻呂ーッッ!!
      ,.-‐!       ミ  i    `ヽ.._,,))
     //´``、     ミ ヽ      ○  ○  ○
.    | l    ` ーー -‐''ゝ、,,))
     ヽ.ー─'´)                ○
430日本@名無史さん:2006/12/24(日) 21:31:20
今の軍隊の基礎の形態は
まさしくその問題にによる
維持コストとの兼ね合いだったと思うが。
それから、北方征伐はわかるが
太宰府になぜ言及したかと言うと
動員と遠征の構造が違うからですよ。
税の代わりであって志願兵の概念ではありませんよ。

軍制と後の武士につながる騎馬兵はきわめて興味深いので
詳細を研究している方は教えてください。

繰り返しますが騎馬運用などの概念は基本的にありません。
歩兵による集団戦です。
431日本@名無史さん:2006/12/25(月) 04:01:53
何を今更だが、まともな軍隊ってなんだろう、
何をもって軍隊じゃないといえるのか……?
反乱とか藤原氏というのならば冬継や純友は「国賊」でいいのだろうか……
432日本@名無史さん:2006/12/25(月) 18:32:30
>>430
ん?
433日本@名無史さん:2006/12/25(月) 22:47:46
>>431
統一された中央集権国家の下でシビリアンコントロールの取れた玉虫色解釈のない正真正銘の軍隊
434日本@名無史さん:2006/12/25(月) 22:54:12
軍隊なんだから武人が率いるんでいいんじゃね?
435日本@名無史さん:2006/12/30(土) 23:01:08
統帥権は現地司令官に。
436日本@名無史さん:2007/01/06(土) 07:22:35
三河流軍政や武田流軍政はいつできたんだろか
437日本@名無史さん:2007/01/07(日) 22:56:44
三河ができてからじゃない。
438日本@名無史さん:2007/01/11(木) 23:49:16
平安末期の乱、旱魃による養和飢饉(1181年)では鴨長明の「方丈記」の一節による
と、飢えと病に命尽きた屍骸が道路に散乱しているのを、仁和寺の隆曉法印が屍骸を
見るごとに額に阿字を書いて、四、五両月に数え、頭はすべてで42,300余りあったという。

その300年後の寛正飢饉(1406)では、「洛北の一僧が木片の卒塔婆84,000をつくり、死骸
に一つ一つ置いていったところ二ヶ月で残り2,000になった」と記されている。

これらを当時の京の人口から推定すると三人の一人の死亡率になりヨーロッパの黒死病
のそれに相当する。

・・・・軍事どころではない。
439日本@名無史さん:2007/01/12(金) 19:19:49
>>436
軍学は江戸中期
実戦経験者がいなくなってから出来た妄想の産物
440日本@名無史さん:2007/01/12(金) 20:16:13
平家物語や太平記とか軍記物が軍学の走り
441日本@名無史さん:2007/02/10(土) 19:34:33
どうも江戸初期の軍学は、
軍事についての有職故実的イメージしかないなあ。
442日本@名無史さん:2007/02/12(月) 17:55:28
エンターテインメントですよ。牛の角にたいまつとか
443日本@名無史さん:2007/02/16(金) 13:13:08
>>442
そのへんの元ネタは中国の史書関係じゃないのか?
444日本@名無史さん:2007/02/17(土) 07:50:34
平家物語の木曽義仲だよ。
445日本@名無史さん:2007/02/17(土) 08:42:21
古代中国の話、
戦国時代に斉の田単が敵国・燕の名将楽毅を策略で追放し、
楽毅の居ない燕軍へ夜陰に乗じ1000頭の牛の角に
松明を付け[火牛の計]で、斉軍を大勝に導きました。紀元前の話です
 
446日本@名無史さん:2007/02/17(土) 10:22:06
不様な負けは事実
447日本@名無史さん:2007/02/17(土) 10:47:40
軍学者なんて客商売なんだから、客に受けるようににおもしろおかしく脚色するのは当然だな。
どうせ客の方もそれに突っ込めるような知識なんかないし。
448日本@名無史さん:2007/02/17(土) 14:45:56
京の都には魔物がいるでおじゃるって言ってた時代だから
軍人よりも陰陽師の求人が多かったんだって ハロ-ワ-クでさっき調べてきたよ(嘘
449日本@名無史さん:2007/02/17(土) 18:32:07
そーいや、武士による化け物退治(鬼、鵺、大百足、九尾の狐・・・)って平安時代の話なんだよな。
鎌倉時代になるとその手の話聞かなくなるな。
化け物も幕府軍が恐かったのかね。
450日本@名無史さん:2007/02/17(土) 19:55:50
斉の話をなんで琵琶法師が知ってるんだよw
451山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2007/02/17(土) 20:11:36
>牛の角に松明を付け
剣ですよ。火種は曳かせたものです。
長門本『平家物語』が、田単の故事を引用している。
伊勢長氏も使用したといいます。
ハンニバルも、カリクラ峠の戦いで牛の角に松明をつけている。

>>449
>九尾の狐
内容はともかく、成立したのは室町時代になってからです。
それに、岩見重太郎の狒々退治など、鎌倉以降、江戸期に至るまでの
化け物退治譚も、山ほどあると思いますが。

>>450
琵琶法師が作った訳ではないでしょう。
作者については『臥雲日件録抜書』などに諸説が記されていますが、
最初に出て来るのは『徒然草』の藤原行長。
博学で知られたものの、徳目を聞かれた際に五つしか答えられなか
ったため、「五徳冠者」とあだ名され、隠棲した人物です。
それを保護したのが慈円ですが、『平家物語』の作者は慈円の兄の
『玉葉』や『愚管抄』を読んでいたらしく、この辺りで制作された
のではないかというのが、有力な説です。
第一、一度読んでみれば中国も含めた故事来歴に詳しいのは一目瞭
然でしょうに。
452日本@名無史さん:2007/02/17(土) 21:50:43
言われりゃそうだ(笑)。武蔵も妖怪退治してるし。
でも成立年代はあまり関係ないよ。鵺の平家物語だって鎌倉時代でしょ。あくまで舞台。
中世の妖怪退治は知らないのでちょっと調べてみようと思います。
御伽草子とか仮名草子に出てくるのかな。
453山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2007/02/17(土) 21:58:20
>中世の妖怪退治
『土蜘蛛草子』や『大江山絵詞』の成立も室町時代。
聖徳太子などの活躍する鬼退治も中世後期の成立で、画題と内容が
豊富になった中世後期の方が、勿論後の時代の方が史料がよく残っ
たということもありますが、妖怪譚は豊富です。
中世の異類の呼称は、鬼と天狗ぐらいで、中世後期に河童が加わり
ますが、基本的に鬼が妖怪の総称でした。
種類ごとに分けて言われるのは、江戸時代からのようです。

>あくまで舞台。
歴史でやるのであれば、記録の成立年代でやるべきでしょう。
平安時代の歴史的事実として存在した訳ではない。
あくまでも、生み出したのは室町時代の人間であって、その時代の精
神的営為の所産です。
454日本@名無史さん:2007/02/17(土) 22:11:20
今で言う 漫画みたいなもんかもしれんねぇ
455日本@名無史さん:2007/02/18(日) 05:12:15
むしろ○曜サスペンス
456日本@名無史さん:2007/02/18(日) 06:15:30
竹取物語はまじで古いらしい
457山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2007/02/18(日) 07:24:44
>>454
単なる娯楽用というより、仏神の加護や前世の因縁も説かれたもので、
化け物譚も本地物になっている場合が多いですからね。
真面目かつ宗教的な面が強い。中世の精神的営為と宗教は不可分です。

>456
どういう意味か分かりませんが、現在の『竹取物語』の原型になった
漢文学作品(『今昔物語集』所収話に近い)のことですか?
458日本@名無史さん:2007/02/18(日) 15:30:25
かぐや姫って妖怪?
459山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2007/02/18(日) 16:53:52
現存する『竹取物語』では、「鬼でも神でもない」と。
『今昔物語集』には、月の人云々もなく、最後まで正体は知られなか
ったとあります。
460日本@名無史さん:2007/02/18(日) 19:04:29
近い時代で近場の話だと化け物退治にリアリティがないんでしょう。
辺境や過去の話なら、さもありなんということになる。
461日本@名無史さん:2007/02/19(月) 08:07:19
坂本龍馬はカッパを退治した逸話がある。
462日本@名無史さん:2007/02/19(月) 15:41:47
1000年後くらい人間が 今の漫画を見つけて
昔の人間は宇宙に対する知識が無く神秘的に考えたから…宇宙人がいるって思い込んでた って言われるかもしれんね

463日本@名無史さん:2007/02/19(月) 19:20:46
ファンタジーの舞台は異世界・外国・過去・超未来・他の星とかが多いのと同じ。
非日常の話は現実離れしている方が話を作りやすい。
現在の日常的世界に持ち込むのはかなり力量が必要。
464日本@名無史さん:2007/02/20(火) 01:12:52
シバテンは河童とはちょっと違うのだが・・・・・
四国、九州では、河童は冬の間は山の天狗になり、春になると川に下りてくると
いう具合の正体不明の妖怪。柴天狗
465日本@名無史さん:2007/02/21(水) 20:05:30
>>451
北条五代記での伊勢宗瑞の描写とかあからさまに漢籍のからの引用だしなあ。
中世はインテリは漢籍から引用するという伝統でもあるのかも?
466日本@名無史さん:2007/02/21(水) 20:32:25
河童自身が証言してるからこれは、真実だろ。
467日本@名無史さん:2007/03/08(木) 03:09:27
シバテンで大人をおどかしてたって逸話だな
468日本@名無史さん:2007/03/24(土) 09:27:02
子供がシバテンのふりしておどかしてたら
龍馬はまったく気にぜずに捕まえた
469日本@名無史さん:2007/03/24(土) 09:47:47
日本の技術を学んで帰った通信使

室町時代前期の1429年、日本にきた朴端生は、次のように復命していた。
それによると「日本の農人水車の設けあり」として、
学生の金慎に「造車の法」を精査させて模型を作り、鍍銀(銀めっき)、
造紙(紙漉)、朱紅、軽粉等の製造法を報告している。
この時の復命では、日本の貨幣経済の実態や店舗商業の発展等にも及んだが、
その中で技術に言及していたのは、
渡航前に世宗から「倭紙堅靱、造作の法また宜しく伝習すべし」と、
日本の技術を導入するよう命じられていたからである。
だが残念なことに、それらの技術はいずれも朝鮮の風土に定着しなかった。
灌漑施設としての水車の優秀性は、その後も何度か提議されていたし、
造紙のほうも17世紀になり、柳馨遠が「倭楮の軽沢精緻に如かず」と、
日本の楮(こうぞ)である倭楮を使った紙の製造を提唱しているからだ。
これらの事実は、朝鮮側には日本の技術を受容し維持するだけの土壌が
整っていなかったことを示している。
これに対して日本では、朴端生が日本を訪れる百年以上も前に、
水車を利用して離宮に川の水を汲み上げた話が『徒然草』(第五十一段)に記されている。
その水車が農民たちの手で取り付けられていたことを考えると、
当時、日本と朝鮮の間には相当の技術格差があったことがわかる。
したがって、韓国の歴史教科書にあるように「技術を学ぶのに苦労していた」のは、
日本側ではなくむしろ朝鮮の方であったのである。
そして、この現実は後世、実学者と呼ばれた人々が日本や清との技術的格差を深刻に捉え、
その導入方法に苦慮していたことでも明らかなように、
近世に入っても変わりがなかったのである。

朝鮮ってこの程度だよ。日本が20世紀に朝鮮総督府おいたときの農業水準日本の10cレベルだった。
認めないのは朝鮮人だけ。
470日本@名無史さん
平家はペルシャ移民だった