◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART13

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1橿原一派
◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART13

邪馬台国や狗奴国はどこ? 大和朝廷との関係は??
西日本に統一政権はあったか? 統一されたのはいつか??
どのような過程を経てそれらが進行していったのか??

倭人伝の信憑性や如何に? 記紀はどこまで真実を伝えているのか??
最新の発掘状況と最新の資料解釈を元に、古代王権の正体を推理する!!

根拠を明記した意見交換・情報提供・問題提起で活発に議論しよう!!

前スレ
◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART12
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1097632577/

2橿原一派:04/11/10 14:53:12
3橿原一派:04/11/10 14:54:11
「吉備、山陰、東部四国、丹後、河内、奈良盆地、東海、琵琶湖周辺、越、南関東など
これらの公益圏が倭国大乱(2世紀末まで)終結後に連合化して、原ヤマト連合を形成した。
(但し連合化の順番や内部での力関係は諸説ある。)」

これを3世紀の列島情勢だとする通説を採用したい。それを踏まえて
@(畿内説)この連合が倭人伝に言う倭国であり、邪馬台国連合である。
また後の大和朝廷の基礎となったのであろう。
魏への朝貢は、北九州を併合又は合併した後に行われたと考えられる。
卑弥呼は畿内纏向に居たとの説が中心だが、それ以外の土地に居た可能性も十分にある。
A(九州説)倭人伝に言う邪馬台国は、本州連合とは別の九州連合であろう。
後の大和朝廷との関連については、継続説と断絶説がある。
魏への朝貢は、狗奴国(南九州説と本州連合説がある)との対立や貿易権確保が目的である。
卑弥呼擁立時には原ヤマト連合とは合併していないとの見方が多数。
少数ながら原ヤマト連合を支配下においていたとの見方もある。
なお、卑弥呼の居館及び邪馬台国の位置は諸説ある。


なお大和朝廷との繋がりにおいては
a)邪馬台国は原ヤマト連合に滅ぼされたか吸収された。
b)九州連合と本州連合合併後、イニシアチブを執ったのが九州連合。
c)連合に際して血縁関係を結び、同族として融合化したのち派閥化した。
d)あくまで合併を拒み7世紀頃まで自治独立化した(九州王朝説)。
などが主な説であるが、畿内説論者でも邪馬台国と大和朝廷の断絶を支持する
考え方をしている者も少なくない。
また後世の壬申の乱や大化の改新などによる大和朝廷内の派閥争いの結果
記紀編纂時に恣意的な編集が見られると指摘するする動きも、九州、畿内支持に関わらずやはり根強い。
(神武東征、欠史八代、倭人伝の神功紀注釈への挿入、各天皇の即位状況、継体天皇問題
 聖徳太子と蘇我氏、物部氏の役割、藤原氏の意図など、問題は山積である)

このため単純に畿内説や九州説といったカテゴリーでは括れないのが現状である。

4日本@名無史さん:04/11/10 15:42:20
4様
5日本@名無史さん:04/11/10 20:13:39
ここまでの長きに渡る議論で到達した限りなく真実だと思われる説は

「邪馬台国は北九州豊前一体。3世紀後半に畿内王朝と合併」

こうなりました。なお畿内説は前スレまでの議論で完全敗北を喫し
消滅しました。
6前スレ重要発言:04/11/10 23:16:24
>宇佐説も含めて九州説の人へ

もし宇佐や北部又は中部九州に邪馬台国があったのなら
畿内、山陰の文化影響が顕著に見られる(と言うより
本州連合の出先機関だとの説が有力な)3世紀の遺跡である
大分県日田市の「小迫辻原遺跡」なんかはどう説明するの?

ここから出土する土器は纏向式やら庄内式が主流だし
建築様式も他の九州型環濠集落とはまったく違う纏向タイプだし
何より3世紀初頭に突如として建築され、末期にこれまた唐突に廃棄されて
いるあたりの事実を踏まえた上で、どのような説が成り立つのか
理性的に考えてみてくださいよ。
いわゆる「まともな九州説論者」はこの遺跡に関しては
必ず何らかの見解を発表している。決して無視などしていない。
これは次スレへの九州説提唱者への宿題として、受け取ってくれよ。
7前スレ重要発言:04/11/10 23:16:58
>それと東遷論者へ
2世紀末から4世紀半ばまで纏向が「防衛施設も軍隊も無しに」栄えた
事実からして、この時期の九州からの軍事東征は有り得ない事は明白ですよね。
また東遷にしても土器がほとんど発見されないほど少数の軍人の移動では
吉備、山陰、丹後、近畿、東海の連合を支配するのは、現実的ではないでしょう。
纏向建設以前に時期を求めても、奈良盆地から九州特有の土器や建築様式、
そして何より祭祀である大型の銅剣や銅矛が発見されないのは、これまた不自然ですね。
ちなみに、銅鐸消滅とほぼ同時期に北九州の銅剣、銅矛も終焉を迎えているのはご存知ですか?

現在では、大和岩雄氏や関裕二氏の「邪馬台国とヤマト連合の合併説」などが
唯一生き残っている東遷説と言えるのかも知れませんね。
僕はこの説を採りませんが。
8日本@名無史さん:04/11/10 23:35:04
↑そういきりたたなくても前スレでちゃんと結論はでています。
畿内と九州に交流があったのは事実です。しかし交流があったと
いうだけで別の国だったでしょう。交流があったので九州の
遺跡から畿内の考古学上の物証がでてきてもなんら不思議ではありません。
東遷の件も邪馬台国が畿内王朝に変わって政権を奪取したのではなく
畿内王朝と合併したと考えるのが妥当です。お互いの利害関係の一致でね。
9前スレ重要発言:04/11/10 23:56:53
騎馬民族制服王朝は存在したのでしょうか。
最近の半島での発掘成果により騎馬民族国家説が見直されていると聞きます。
日本より300年前に北朝鮮で前方後円墳が作られていたとか。
そのあたりどうなんだろう。
北九州に上陸した騎馬民族に邪馬台国は瞬殺されたことになるのか。
10日本@名無史さん:04/11/10 23:58:09
すいません、>>9は前スレ重要発言ではなく今思ったことです。
11日本@名無史さん:04/11/11 00:08:48
>>9
元寇のときを思い出してください。
馬はデリケートな生き物なので
海上での運搬は極めて困難。
なので将官クラスしか馬にのっていなかったそうです。
しかも日本では大陸のような大草原もないし
馬を養うだけの土壌がありません。しかも当時の日本に
整備された街道もないでしょうし、馬など実用化できないでしょう。
12日本@名無史さん:04/11/11 00:14:32
あと邪馬台国の位置に関してですが、
中国の史書の厳格さを考えるとやはり
北九州にあったというのが正しい結論でしょう。
1万2千里とはっきり書かれている時点で
もう疑いようもなく九州です。いくら考古学上の遺跡から
畿内有利と叫んでみたところでそれが邪馬台国だと
強弁するのは早計というものです。
13日本@名無史さん:04/11/11 00:28:13
>>6

>ここから出土する土器は纏向式やら庄内式が主流だし
>建築様式も他の九州型環濠集落とはまったく違う纏向タイプだし
>何より3世紀初頭に突如として建築され、末期にこれまた唐突に廃棄されて


ソースを出せよ。
出土する土器は、北九州式が多い。
建築様式の遺構は、古墳時代以後のものもある。
3世紀初頭という根拠はどこから?

ttp://www.e-obs.com/top/heo/heodata/n130.htm
14日本@名無史さん:04/11/11 00:28:22
魏国が日本に注目してるとは思えない。
しかも日本には当時字がなかった(ような気がする)
ということは、ヤマタイコク=ヤマトコクのような気がする。
それも、日本の王権がどうのこうのと言うより、
日本列島では「ヤマト」という言葉がどうやら国の事らしいと、
「抽象名詞か固有名詞かわからないけどまあいいやヤマトなら仮にヤマトにしとけ」
みたいに命名されたんではないかという仮説です。
15日本@名無史さん:04/11/11 00:42:13
>>6
「小迫辻原遺跡」が、3世紀初頭まで遡れる証拠となるのは、
弥生時代の、須玖式土器が出土するからだが、それは北九州で主流の土器。
布留式土器(畿内式)が見つかるのは4世紀頃から。
建築遺構は、ずっと新しい時代のもの。

4世紀、九州と本州が連合する過程での出張所くらいの意味でしかない。
都合よく脳内でデータを捏造するデンパに惑わされるなよ。

16日本@名無史さん :04/11/11 01:01:59
>>12
>中国の史書の厳格さを考えるとやはり

明史日本伝

 日本にはもと王があって、その臣下では関白というのが
一番えらかった。当時、関白だったのは山城の守の信長で
あって、ある日、猟に出たところが木の下に寝ている奴が
ある。びっくりして飛び起きたところをつかまえて問いた
だすと、自分は平秀吉といって、薩摩の国の人の下男だと
いう。すばしっこくて口がうまいので、信長に気に入られ
馬飼いになり、木下という名前をつけてもらった。

 信長の参謀の阿奇支(あけち)というなが落ち度があっ
たので、信長は秀吉に命じて軍隊をひきいて攻めさせた。
ところが突然、信長は家来の明智に殺された。秀吉はちょ
うど阿奇支を攻め滅ぼしたばかりだったが、変事を聞いて
武将の行長らとともに、勝ったいきおいで軍隊をひきいて
帰り、明智を滅ぼした。
17日本@名無史さん:04/11/11 02:30:34
>>16を考えると
邪馬台国は小さい国だったかもしれないね。
18日本@名無史さん:04/11/11 07:27:39
>>16
時代が違う。
時代を下るほど正史は信用度が低くなっている。
19日本@名無史さん:04/11/11 09:07:09
>>16
そんな否定の仕方って…
何にでもそう言えてしまうではないか
20:04/11/11 09:07:48
間違った、>>18だった
21日本@名無史さん:04/11/11 10:25:02
邪馬台国論争って、明史に基づいて「阿奇支」が誰なのか
必死に考えてるようなモンかも知れんな。
22日本@名無史さん:04/11/11 10:31:58
政府間の交流がなかったんだからこんなモンだろう
23日本@名無史さん:04/11/11 11:15:11
卑弥呼=天照大神が皇祖神となってるとこから察して、
崇神王朝から応神王朝への転換は、畿内から邪馬台への
政権の転換を示していて、古来より畿内の中心部族だった
物部氏をのちに藤原氏が追放することによって、応神の先祖を
そのまま天皇のご先祖だと記紀に書けるようになった。
24日本@名無史さん:04/11/11 12:14:55
ところで、魏志倭人伝って何でこんなに金科玉条視されてるんですか?
どう見ても、又聞きの又聞きを適当に書いてるようにしか思えないんですが。
25日本@名無史さん:04/11/11 12:46:21
都合が悪くなると、倭人伝の信憑性を問う香具師が必ずいる。
あいもかわらず繰り返し。
26日本@名無史さん:04/11/11 13:11:04
ところで、考古学上の遺跡って何でこんなに金科玉条視されてるんですか?
どう見ても、考古学者が邪馬台国を無理やり畿内にもっていこうと
してるとしか思えないのですがw
27日本@名無史さん:04/11/11 13:34:36
これ以上議論の余地はない。文献・考古学両面からみて、
倭人伝から邪馬台国は九州で確定。考古学から邪馬台国と
畿内は3世紀に合併で確定。隋書から邪馬台国は大和朝廷で確定。
28倭人:04/11/11 14:21:00
まず邪馬台国をどのように読んでるのか?これは日本人が漢文と呼んでいる中国語
で書かれたものです。また日本のアホ学者は中国読みと朝鮮読みと倭人読みと、都合よく
読み分けていることをご存知ですか?(おそらくアホ学者はそれすら気付いていない)
九州西都の邪馬台国は、畿内の秦とともに新羅により大和朝廷としてまとめられた。
漢文を読むときは学者の勝手な読み方を鵜呑みにしないことです。
29日本@名無史さん:04/11/11 14:23:27
別に都合悪くないんですけどね。九州・畿内どっちつかずのただの素人ですし。
倭人伝の記述に誤りや事実かどうか疑わしい記述があるのは間違いないと
思うんですが、そうすると、考古学上の研究成果や記紀などの他の資料と
倭人伝を照らし合わせて事実を推測するのが科学的な態度だと思うんですが、
絶対的に倭人伝が優先すると考えるのはどういう理由からなのですか?
30日本@名無史さん:04/11/11 16:15:36
倭人伝は魏の正式な官吏である張政が
実際に邪馬台国を訪れ調査したことを元に
書かれてますので信憑性は高いです。
考古学のほうが私にとっては信憑性に疑問が残ります。
3世紀の魏の鏡が畿内からでてきたから畿内が
邪馬台国だという主張をしている人の思考回路が理解できません。
後からもちこまれたものであったり、いろいろな
可能性があるのに・・
31日本@名無史さん:04/11/11 19:43:18
考古学の信憑性に疑問って・・・

>3世紀の魏の鏡が畿内からでてきたから畿内が
>邪馬台国だという主張をしている人の思考回路

↑この思考回路は俺も理解しないが、3世紀の魏の鏡が畿内から
出土したという事実は信憑性高いだろ。
まぁ、ゴッドハンドみたいな奴もいるわけだが。

一方、倭人伝の場合は、「帯方郡から12000里と書いてるから
絶対に九州以外にない」という思考回路が理解できないだけでなく、
「帯方郡から12000里」という記述そのものの信憑性に疑いがあるって
ことだ。
32日本@名無史さん:04/11/11 22:05:44
>>31
大月氏を朝貢させた当時の政敵・曹真の功績に対抗する意味で、
司馬懿が邪馬台国を実際以上に遠方の巨大国に描かせたというのは、
ありそうな話。晋では当然、司馬懿の功績を称えるため、
邪馬台国の記述が採用された。
正史とはいえ、倭人伝にしろ日本書紀にしろ、その当時の政局の影響は
避けられないのであって、余り金科玉条にするのは間違い。事実誤りが多いし。
倭人伝が妙に具体的にリアルっぽく書かれているから、
「倭人伝の記述だけから邪馬台国の場所が分かるみたいな」錯覚、願望を持ってしまう。
33日本@名無史さん:04/11/11 23:06:56
>>32
たとえそうだとしてもわざわざ12000里という記述を
捏造する必要はないだろ。畿内じゃなくて九州にみせかける
必要があったのか?
34日本@名無史さん:04/11/11 23:21:15
>>33
12000という数字がどこから出てきたかを考える必要があるだろ。
当時直接12000里という距離を測る方法はない。
だから、細かい里数を足し合わせたものだというのは異論があるまい?

倭人伝に出てくる里数を足し合わせれば、1万と700里。
残り1300里+αはどこから出したんだろうね?

倭人伝には残りは水陸2ヶ月行が残る。
これが1300里+αの情報源と考えるのは普通だろ。

つまり、情報としては不彌国までの10700里と、不彌国〜邪馬台国の2ヶ月が存在した。
その最後の2ヶ月を【中国】で里数に換算して加えられたのが一万二千余里というわけさ。

1300里/60日=約22里/1日。

換算レートとしては至極まともだな。

九州説の最後の砦、1300里とか1500里だが、その実態は水陸2ヶ月行だったというわけだ。
35日本@名無史さん:04/11/11 23:26:25
方角も畿内じゃめちゃくちゃじゃないですか?w
36日本@名無史さん:04/11/11 23:29:52
九州・邪馬台国は倭人伝の中だけにあります。

3世紀に実際に魏に遣使したのは、三輪山の斎王を共立した初期ヤマト政権。
37日本@名無史さん:04/11/11 23:32:38
畿内・邪馬台国は考古学者の頭の中だけにあります。

3世紀に実際に魏に遣使したのは、北九州連合が共立した豊前にいた卑弥呼。
38日本@名無史さん:04/11/11 23:35:21
>>35
方角については、

邪馬台国論争に終止符をうつスレ
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1094919829/

の54〜65、80〜95に書いてあるから読んでね。
本当は、>>34もあっちに書くつもりのネタだったんですけどね。
スレが伸びてるからそのまま放置しちゃった。
39日本@名無史さん:04/11/11 23:46:49
>>37
また宇佐厨(大分県出身)が現れたか…

郷土愛も大事だけど、邪馬台国や大和朝廷発祥の地を宇佐に持って来ないと
気が済まないというのは、歪んでるなあ。
大分県にももっと誇るべきものがあるだろ?
40日本@名無史さん:04/11/11 23:50:25
>>28
>また日本のアホ学者は中国読みと朝鮮読みと倭人読みと、都合よく
>読み分けていることをご存知ですか?

三国時代の漢字の発音は上古音か中古音か、またはその中間か
確定していません。
朝鮮とか日本の古い文献から推測する以外に方法はないのです。
41日本@名無史さん:04/11/11 23:59:29
>>32
岡田英弘氏の説ですね。
42日本@名無史さん:04/11/12 00:03:17
>>33
大雑把に言えば、
洛陽〜大月氏が17000里ほど。
洛陽〜帯方郡が5000里くらい。
差の12000里を、帯方郡〜邪馬台国の距離に捏造した。
43日本@名無史さん:04/11/12 00:06:10
>>19
何を言いたいかよく分からん。
明代のもっとも信憑性の高い資料は明実録じゃないの?
44日本@名無史さん:04/11/12 00:40:54
>>39
あなたが宇佐厨と呼んでいる人が自分なら
37は「25歳♂投馬国王の子孫」やその他の名を
名乗っていた人と思うが。

それはよいとして、都合が悪いと今度は距離捏造説?
>倭人伝に出てくる里数を足し合わせれば、1万と700里。
原文を読んでいる? そんなにきちっとはいいきれまい。
それぞれの間は、七千余里などと「余」が書かれている。
つまり、「余」を除いて譲歩して、最大千三百里ってこと。
残りは、千里かもしれないしもっと少ないかもしれない。
しかも、壱岐と対馬の間が千余里である。
畿内まで、千三百里としても遠すぎるのは明らか。
あなたのは詭弁にすぎない。

「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、みな倭種」
「侏儒国の東南に船行一年で至る裸国・黒歯国が有る」
「棺あって槨なし。」
などもう一度読みなおせば。
4539:04/11/12 00:54:01
>>44
前半はいいとしても、後半は誰に対して言ってるの?
46日本@名無史さん:04/11/12 00:57:30
>>44
>あなたが宇佐厨と呼んでいる人が自分なら
正直キモい。
被害妄想の人ですか?
47日本@名無史さん:04/11/12 01:05:48
倭人伝の信憑性を問われると、九州説の人がヒステリックになる

ということは分かりました。
48横やりだが・・・:04/11/12 01:07:53
>>44

西の大月氏とのバランスを考慮して、女王國までの路程が算出されたと言う意見は多い。
そんなことをした理由については、司馬氏の功績誇示のためだという説が強い。
はたまた、司馬には関係なく、単なる中華思想の賜物なのかもしれない。

ところで、倭人伝を読むと同種のものに対して、ことなった用語や表記法が用いられている場合がある。
顕著な例としては、「女王國」と「邪馬台国」、「東南陸行五百里」と「陸行一月」などである。
なぜ、異なった表記法が混在しているのか「もう一度」考えてみては如何でしょうか?
49日本@名無史さん:04/11/12 01:26:44
>>44
12000のほうも12000【余】里なんだが。

七千余里の『余』などのよくわからない半端分が12000余里の『余』に押し込められていて、
引き算で相殺する。あたりまえだろ。

>「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、みな倭種」

伊勢から東に行けば、いくらでも倭人の国はあるだろ。何が言いたいんだ?

>「侏儒国の東南に船行一年で至る裸国・黒歯国が有る」

これがなぜここに出てくるのかサパーリわからん。

>「棺あって槨なし。」

何度言ってもわからないんだね。

中国人のいう郭は棺の外箱。
考古学用語にいう『石郭』などの郭は中国でいう『郭』じゃない。
50日本@名無史さん:04/11/12 04:36:46
>>49
>伊勢から東に行けば、いくらでも倭人の国はあるだろ。何が言いたいんだ?
「海を渡る千余里」ですぞ。東海・関東は陸続きでわざわざ「海を
渡る」とは書くまい。そもそも畿内から伊勢に出るには山がある。

裸国・黒歯国は比定する地がないでしょう。
棺の外箱って墓室そのもの。畿内には槨あり。
51日本@名無史さん:04/11/12 04:52:38
使節は邪馬台国まで行っているのか?
どうも伊都国以降記述が伝聞くさいんだが。
行程における記述が皆無だ。
52日本@名無史さん:04/11/12 04:58:54
まあ奴国、不弥国までは足を伸ばしたと思うが。
仮に邪馬台国まで行ってないとすると模写される
習俗、風習が九州地方のものであったとしても邪
馬台九州説の根拠にはならんと思うな。
53日本@名無史さん:04/11/12 08:47:43
魏使は邪馬台国に行っている。

ただ、倭人伝を書いたのは魏使ではなく、後に
誰かが複数の文献を編集したと考えられる。
54日本@名無史さん:04/11/12 10:11:49
九州説のひとは、もちつけ。もちついて考えてみなさいよ。
もし魏志倭人伝の記述、特に邪馬台国に至る距離や方角が正しいのなら
なぜ「同じ九州説どうしでさえ」邪馬台国の位置が違うのですか。

vs畿内説に凝り固まるより先に、まずそこから考えなきゃ。
「自分だけが真実を知っている」とかの驕り高ぶったオカルト思考に嵌ってませんか
55倭人:04/11/12 10:13:00
もっとも日本と関係の深かった朝鮮の資料は併合時代に、その多くが日本に略奪されたか処分
されています。(皇国史観にとって都合がわるいから)古事記、日本書記などを基に中国の史書を解釈しようとするから相変わらず、不毛な
議論が絶えないのですね。日本の著名な学者は「たとえ嘘の歴史でもそれを信じることが重要だ」というような
ことを言っているのをご存知ですか?
卑弥呼は公孫度の娘ですから(史書をよく見てください)そこから考えてみてはいかがでしょう?
56日本@名無史さん:04/11/12 10:22:13
>朝鮮の資料は併合時代に、その多くが日本に略奪されたか処分
もしそのような資料があれば、とっくの昔に研究されていますよ。
元からそういう物が無いため、古代史家は苦労しているのです。
>日本の著名な学者
そんなアホな発言をするような学者は、かまいませんので「実名」を晒して下さいな。
ウヨサヨ関係なく失脚させるべきでしょう。
>卑弥呼は公孫度の娘ですから(史書をよく見てください)
私も様々な資料を読んでおりますが「初耳」です。
何と言う名のどこで編纂された史書なのか、是非ご教授下さい。
57日本@名無史さん:04/11/12 10:35:20
そんな程度の「伝承」なら台湾には「アマテラスは始皇帝の三女」なんてのもあるわいw
58日本@名無史さん:04/11/12 10:52:20
>>13
おお、僕はネットでは見つけられなかったのですが、流石ですね。
これは内容からして91年頃にまとめられた日田市教育委員会の発表の要約ですね。
この後(99年あたり)に1号遺構が3世紀初頭あたりであると考えられるとの
発表がありました。根拠は年輪年代法による土器編年の繰上げです。
また同時に、3世紀末頃に4号遺構が火災による被害を受け、そのまま放棄された
可能性があることも示唆しています。
土器については纏向U式やV式、続いて布留式、また遠賀川式と布留式が融合したと
考えられる土器片が特に居館跡から主流となって出土しています。
それに対し、純粋な九州式は周辺や側溝後から多く発見されています。

引用されたHPには
>小迫辻原遺跡の居館跡は、 卑弥呼(ひみこ) の死からわずか数十年しか経ておらず
とありますが、もう少し時代が遡ると現在では考えられています。
なおソースは前スレでも揚げましたが、日田市教育委員会発行の小迫辻原遺跡に関する報告書です。
確認されるのならば、最寄の埋文又は考古資料館にて閲覧するか研究員にお聞き下さい。
59日本@名無史さん:04/11/12 10:54:46
「侏儒国の東南に船行一年で至る裸国・黒歯国が有る」

これって、倭人伝のいい加減さの証拠でしかないと思うんだが。

九州説では、これを事実としてとらえてるのか?
こんなの、九州、畿内にかかわらず説明つかんだろう。
珠儒国なんて、当時、本当にあったのか大いに疑問だし。
ちっさいオッサンの骨が大量出土でもしない限りは。
こないだ発見されたインドネシアの新種の人類のことだとでも言うのかも知れんが。
元ネタは倭国か中国内の伝説で、それを倭人伝にはり付けたんだろう。
少なくとも、魏の官吏が現地に行ってないことは間違いないんだし、
だとすると、明らかに伝説ないしは伝聞に基づく事項を、事実として
他の倭国内の国々と区別せずに記載してることになる。
とすると、どこまでが伝聞による記事か分からないから、文献としての
信憑性はその分落ちるんだよ。
60日本@名無史さん:04/11/12 10:59:42
>日本の著名な学者

たぶん西尾幹二のことじゃないかな(w
>>55は脳内ウヨクと戦う白丁だからまともに相手しない方がいいよ。
61日本@名無史さん:04/11/12 11:05:09
畿内説を主張するなら、2世紀に西日本全域に渡り
倭国大乱という大規模な戦争が長期的に行われて
いた考古学上の物証を示してください。示せないなら
邪馬台国は九州です。
62日本@名無史さん:04/11/12 11:08:00
>>日本の著名な学者
>たぶん西尾幹二のことじゃないかな(w
池沼が馬鹿に噛み付いているだけだったのね、結局。
63日本@名無史さん:04/11/12 11:14:47
>>61
物証を示すのは簡単なのですが、あなたの考え方がよく判らない。
倭国大乱の事実は、別に畿内説に有利に働くわけじゃないですよ。
また倭国大乱の物証が示せないのなら九州であるとの論旨も理解できません。
何か根本的なところで勘違いされていませんか?
出来ればあなたの仮説内容と根拠をお聞かせ下さい。
拝読した後に、物証が発掘されている遺跡群を紹介いたします。
64日本@名無史さん:04/11/12 11:22:12
>>63
では私の説を述べますと、
・倭人伝の記述からは畿内にあったとは読めないので九州にあった。
・考古学的にみて九州は最後に畿内勢力に加わったことがわかるので
 やはり九州。
・5世紀に畿内大和朝廷による統一がなされていることと、隋書による
 邪馬台国と大和朝廷は同一だという記述から、邪馬台国は畿内政権に
 吸収合併の形で取り込められた。

文献・考古学・歴史上の事実、すべてから判断してこれが正しいと思いますが。
65日本@名無史さん:04/11/12 11:30:31
>>50
それは当時の交通事情をまったく理解していないたわごとだね。
当時、陸上交通網が整備されていたと思ってるのかい?

古代の主線は水上交通なのだよ。
それは、遺物の分布が証明している。

>そもそも畿内から伊勢に出るには山がある。

あ〜あ。言っちゃった。知〜らないっと。
君はこの一言で、九州説のほとんどを否定してしまったのに気づいてるかな?

『東の海に出るのに、間に山があってはいけない』

これを認めると、だ、九州東海岸以外は九州説全滅だぞ。
安本の甘木も、誰かさんの吉野ヶ里も、多くが支持してる筑後川流域説も、
わずかにいるらしい熊本説も、全部な。

ま、ウサ君とサイト君は泣いて喜ぶだろうけど。
しかし、ウサとサイトでは九州説ご自慢の方位はアウトだな。サイトは1300里もアウトだ。

それ以前に考古学的な裏づけが皆無だから、ウサとサイトは、はなから相手にされてないからな、
君の一言で、九州説全滅ってことだ。

>裸国・黒歯国は比定する地がないでしょう。

九州説でもないだろ。東南に一年だぞ。

>棺の外箱って墓室そのもの。

まだ言ってる。妄想。辞書引け。
辞書が嫌いなら直接原典で用例を洗え。
66倭人:04/11/12 11:33:49
略奪された史料が普通に見られるわけありませんね?略奪した意味がありませんから、
併合時代に帝大の連中が朝鮮で何をしたかよく調べてみては?
中国史料を読むにはまず漢文の読み方をちゃんとしないと正しく読めませんよ、
中国人からも様様な誤訳を指摘されているが、そのようなことはおおやけにはならないようですね、
江戸時代にも同じような論争がありましたが、なぜか本居宣長の本ばかりが出回って
ますね、真実を伝えることは本当に大変ですね、
67日本@名無史さん:04/11/12 11:44:25
それはそれで一つの仮説として結構なのですが
倭国大乱の舞台がが西日本一帯であってはいけないのですか?
瀬戸内から畿内、北陸や東海、関東に至るまで一気に伝播した
高地性集落の存在などはどう考えておられます?
また妻木挽田遺跡群 (鳥取県・大山/淀江)の環濠跡から発掘された
90人近い戦乱の犠牲者の人骨や、吉野ヶ里遺跡(佐賀県・神埼郡)における
武器貯蔵庫跡、また今話題の池上曽根遺跡(大阪府・泉大津)の倉庫貯蔵量などを考慮すると
継続した戦争かどうかは別にして、1世紀近くもの間、小競り合いを含む抗争と冷戦が
西日本一帯にて発生していたと考えるほうが自然だと思われます。
68日本@名無史さん:04/11/12 11:44:43
箸墓から親魏倭王の金印がでてくるまで畿内にあったとは信じませんw
69日本@名無史さん:04/11/12 11:45:32
>>64
>・倭人伝の記述からは畿内にあったとは読めないので九州にあった。

読めない理由と、九州と読めるという理由を、
この爺にもわかるように書いてくださらんか?
70日本@名無史さん:04/11/12 11:49:29
つーか、倭国大乱って、大和勢力の九州征服事業じゃダメなの?
記紀にもそう書かれてるんだし。
西日本全域で戦乱があったという必然性が理解できないんだが?
71日本@名無史さん:04/11/12 11:50:24
畿内説論者に聞きますが
狗奴国はどこになるんですか?
邪馬台国と拮抗した勢力を保っていたようですが・・
72日本@名無史さん:04/11/12 11:50:39
>>67>>64宛てですね。
>>68 >親魏倭王の金印
魏志倭人伝の晋への朝貢記事が事実なら
多分その金印はもうすでにこの世には無いと思われますが。
何故そうなるかは、説明せずともお解りいただけますよね。
73日本@名無史さん:04/11/12 11:56:18
>>69
読めない理由
・1万2千里という距離は畿内はおろか本州にすら届きません。
・方角的にみてすべて曲解しなければ畿内説は成立しません。
読める理由
・南に水行10日、陸行1月というのは邪馬台国へいたる全日程のことである。
・距離・方角ともに九州を指し示している。
 
74日本@名無史さん:04/11/12 11:59:33
>>70
非常に簡単にいえば、畿内も九州にしても他の地域を圧倒して征服するだけの
軍事力などその時代には有していなかった為です。
何故か皆こぞって勇ましい戦闘国家を想像するので、そういう誤解が広まっているのですがね。
>>71
現時点で最も誠実な回答は「判りません。そこまで調査が及んでいません。」ですね。
ただ仮説としては南九州、東海及び中部日本の一部、丹後半島から北陸一帯といった
ものがあります。いずれも呉の強い影響が発掘遺物より考察される地域です。
75日本@名無史さん:04/11/12 12:01:24
このスレの九州派って、九州、九州って連呼するだけで、結局、邪馬台国がどこなのか
答えないんだよね。宇佐太郎は別として。
どこか特定すると、唯一のより所である倭人伝調和しないし、考古学的裏付けもほとんどないし。
76日本@名無史さん:04/11/12 12:09:57
>>73
>1万2千里という距離
これって短里説ですよね、明らかに。ではなぜ長里説では不都合なのかを論じて下さい。
>方角的にみてすべて曲解
九州説も同様ですよ。伊都国(平原遺跡)から奴国(唐津付近)への方向は
倭人伝では「東南」になっていますが、実際は「東北東」です。是非地図でお調べください。
>南に水行10日、陸行1月というのは邪馬台国へいたる全日程
ああ、随分古い説ですね、榎説ですか。
過去にどのような説が論じられてきたか、一度整理して勉強することをお勧めします。
平凡社発行の「邪馬台国論争総覧集T〜V」などが便利です。
77日本@名無史さん:04/11/12 12:10:13
畿内に邪馬台国があったなら、統一して
いきなり魏に朝貢するなんていう外交センスは生まれない。
それまで中国に朝貢してたのは九州で畿内が朝貢した
なんて記述はないのにさ・・
78日本@名無史さん:04/11/12 12:11:58
>>74
>畿内も九州にしても他の地域を圧倒して征服するだけの
>軍事力などその時代には有していなかった

山陰や九州では一応戦争を伺わせる発掘結果が出てたと思いますが
倭国大乱はなかったってことですか?
確かに規模的には大乱と呼べるか疑問は残りますし、倭人伝の記載そのもの
にも疑問は有りますが。
79日本@名無史さん:04/11/12 12:12:36
>>73
やれやれ。
むなしい作業じゃのう。。。。

あんたはんは、このスレのもそっと上のほうを読んでから出直してくだされ。
80日本@名無史さん:04/11/12 12:16:48
>>75
そうなんですよ。具体的に言うと叩かれるものだから言わないようですね。
もしくはその辺の邪馬台国オカルト本を何冊か読んだだけなので
根本的な知識に欠けるのが露呈するのを恐れているかですね。

かなり叩かれはしましたが、九州王朝提唱派や宇佐主張派のほうが
そういった意味では真摯な態度ですね。まあ玉砕してしまいましたが。
81日本@名無史さん:04/11/12 12:20:46
畿内邪馬台国を主張するならなぜ記紀では
卑弥呼=神功皇后になってるのでしょうか?
自分の国の歴史もよくわからないのでしょうか?w
82日本@名無史さん:04/11/12 12:27:03
>>78
いやいや、>>68も僕の発言なので併せてお読み下さい。
要するに「何らかの理由によって」(あえてここでは内乱理由の仮説を省略します)
西日本一帯が無秩序状態になった。これが1世紀末から2世紀末にまで及ぶ「倭国大乱」である。
そしてこの混乱が長期化した大きな要因として
「他の集落や集団を駆逐や征服出来るほどの強大な軍事力など、この時代の列島には存在しない。
 それは各遺跡から発掘される武器の素材や形状から見て、明らかである。」と言うことです。
83日本@名無史さん:04/11/12 12:30:17
>>81
倭人伝がポンチ記事で間違いだらけだから、何の話かよく分からなかったんだろう。
何でそんなこと質問しないと分からないんだ?
84日本@名無史さん:04/11/12 12:33:06
>>82
ああ、なるほど。
すると統一国家邪馬台国が出現するのはいつ頃考えますか?
私見では、巻向の建設が始まる2世紀後半から3世紀前半頃と考えています。
85日本@名無史さん:04/11/12 12:39:08
>>77
なんつーか、北九州と畿内(もしくはその他の地域)が情報すら断絶していたと
お考えのようですね。3世紀初頭には少なくとも丹後半島や能登では
北九州を介さないで半島や大陸との貿易を行っていたのですよ。
ちなみに九州と近畿は別の「国家」でも「民族」でもありません。
あくまでも地域の首長レベルです。(この集合体を最近では判り易く「クニ」と表記します)
「○○国」といった倭人伝表記に先入観を持たれぬ事です。
>>81
正解は
@その通り、判らなかった。
A判ってはいたが、故意に隠蔽した。
どちらをとっても畿内説には矛盾しません。@なら白石説。Aなら森説などですね。

ほかにご質問は?
86日本@名無史さん:04/11/12 12:44:49
>>84
全く同意です。
それと訂正です。>>85にて
×@なら白石説
○@なら遠山美津男説
でした。申し訳ないです。
87日本@名無史さん:04/11/12 12:57:25
ちなみに学会を始めとして、民間の古代史家や研究者が
こぞって畿内説を唱える最大の理由は
「九州島内で投馬国(5万戸)や邪馬台国(7万戸)などの超大型遺跡が
 発掘される可能性が極めて低い。もうそれだけの規模の未発掘の土地が無い。」
と言う点に尽きるのです。
もし「5万や7万でなくとも、それ以下でもいいじゃん」と言われるのなら
倭人伝の記述を根拠無しに変更しないと言った、九州説の根幹に矛盾します。
畿内説は極端に言えば「倭人伝は、風俗習慣記事は優れているが、距離方向の信憑性に欠ける」との立場です。
88日本@名無史さん:04/11/12 13:34:18
この夏あたりからスレを読み出した古代史素人なのだが
それまでは畿内説と九州説が拮抗していると言った漠然な感じで捉えてたが
現実は圧倒的に畿内説有利だったのをここで知った。
それまではなんとなく九州だろうなぐらいに考えていたので、すごく勉強になった。
これは全ての参加者に対して深く感謝してる。

そんでもって外野からの注文だが、畿内説のほうが理論的に説明しているのに対して
九州説は感情露わに吼えまくりって感じなので、もっと考古学的にも
文献学的にもきちっと論理的な九州説論者を希望するよ。
今のままでは畿内説が圧倒的過ぎて、少々面白みに欠ける。
8988の続き:04/11/12 13:46:12
俺がそういった印象を受ける理由としては
このスレで九州説の立場に立って畿内説に質問すると
けっこう親切かつ根拠のあるレスが返ってくるんだよ。
中には参考文献や遺跡を具体的に教えてくれたりする。
ところが九州説に質問すると
無視するかはぐらかすか、ひどい時にはアホ呼ばわりだったりする。
これじゃあ誰だって支持出来るわけないよな。そこを改善してほしいのさ。
俺の言いたかったことはそれだけ。
けっこう楽しみに読んでますんで、皆さん頑張ってね。
90日本@名無史さん:04/11/12 14:10:45
前はいたんだよ。もっとまともな九州論者が。
宇佐太郎のイメージで、九州論者を見ないでやってくれ。
俺もまともな九州論者が現れるのを期待してるんだ。
91日本@名無史さん:04/11/12 14:54:46
>>90
確かpart5あたりだったかな。日食厨の荒らしが落ち着いた頃。
>>3 で示されたように邪馬台国生き残りの最終手段としての朝貢だったという
論者だったと思うが、彼の九州説はなかなか説得力があった。
文献、考古ともに精通していたようだし、畿内纏向派とのやりとりもかなり専門的だった。
あの後、一時ぐちゃぐちゃになってから一瞬まともに戻りかけたのに
九州王朝や西都が乱入して、更に低レベルに拍車をかけたんだったなあ。
このあたりから本当にまともな九州説はおろか畿内説もスレから逃げ出していたっけ。

今ようやくまともに戻りつつあるようなので、この流れを大切にして欲しいよ。
92日本@名無史さん:04/11/12 16:43:37
結局、倭人伝はどの程度信用できるのですか?
93日本@名無史さん:04/11/12 16:57:25
【まともな九州説の条件】

@魏志倭人伝を金科玉条の如く崇めたりしない。
 九州説も距離や方向に弱点がある事を公平に理解している。
A最新の考古成果との整合性がある。
 発掘品やその埋設状況を正しく理解し、自説に反映させている。
Bむやみやたらと記紀や地名での語呂合わせをしない。
 記紀の内容の真偽は継続審議中なので、自分に都合の良い箇所のみを
 抜き出したりはしない。地名にしても果たして3世紀まで遡れるか否かは
 いまだに証明されていないので、あやふやな説を元に話を膨らませない。
C誰かの受け売りを得意になって書いていない。
 このスレの古参には、内容を一読すれば元ネタを類推することが可能な
 「邪馬台国ヲタ」が多数いる。
 生兵法は怪我の元。付け焼刃は恥の元。ポーの一族萩尾望都。
D根拠の無い否定だけの一行レスをしない。
 自信が有るからこそ理由と根拠を述べることが出来る。
 同様に反論に対する用意もあるからこそ、丁寧な態度で相手に接することが出来る。
 要するに、大人であり立派な社会人である事。

畿内説の自戒の意味も込めて、こういう論者を強くキボンヌ
94日本@名無史さん:04/11/12 17:05:53
>>92
風俗や習慣に関する記述は、埋文結果からもかなりの信憑性がある。
但し北九州限定の紀行文であろうとの見方が主流だね。
国家形態(邪馬台国その他)に関しての記述は、決して虚偽を書くつもりは
無かったのだろうが、著しい齟齬があると考えたほうが良い。
記載されている年号や朝貢記事についてはかなりの信憑性がある。
つまりガイドブックとしては
歴史、風俗OK、政治状況ややOK、地理及び交通まるで×ってとこかな。
95日本@名無史さん:04/11/12 17:18:52
>>94
卑弥呼、台与その他の登場人物は?
96日本@名無史さん:04/11/12 17:26:24
>>95
それが架空だと断ずる証拠は何も無い。
しかし記紀と照らし合わせても無駄だと言うのは既に全員のコンセンサス済み。
今のところ、発音や表記に問題はあるが、否定すべき材料は無い。
97日本@名無史さん:04/11/12 17:29:47
てかなんでみんなこんな詳しいの?
ここいる人って歴史の先生とかばっかり?
98日本@名無史さん:04/11/12 17:37:49
>>97
たぶんほとんどの参加者は素人さん。
しかし開設当初から2ちゃんの学問板は理系文系とも激しく高レベルだった。
この辺が昔のパソ通やyahooの掲示板との違いだったりする。
99日本@名無史さん:04/11/12 17:51:25
>>93
いまどきポーの一族なんて、わかるやついるのか・・・・

>要するに、大人であり立派な社会人である事。

ま、まずい・・・・クリアできんぞこりゃ・・・・
100一応九州王朝説:04/11/12 18:01:10
ひさしぶりに覗いたら、相変わらず決めつけと罵倒の連続ですね・・・・・(゚Д゚)y─┛~~
厨房板並みのレベルは、何でですかね。内容そのものは>>97さんも言うように結構
専門的なのにね。

まあ私は別に>>80さんの言うごとく玉砕したわけでもなければ、そもそも信者でも無
いですし、別に九州じゃなかってもいいしw

ただ、>>93さんのような正統的なテンプレではなく、荒らしが貼ったテンプレと、数人
の粘着荒らしのせいでいささかおっくうになってしまっていたわけでして。まあ忙しい
のもありましたが。

とにかく>>93氏の【まともな九州説の条件】 を全ての説に置き換えて、紳士的に進め
ること、荒らしは徹底的にスルー、これをやれば良いスレだと思うのですが。テーマと
しても、大和政権の経歴如何に関わらず重要なテーマですし。

>>92
それも難しい質問ですよね。その資料の性格付けの問題ですが、結局倭という辺境
をどう見るか、それに訪問者の見聞能力、又聞きなのか、等多くの問題があるわけで。
ただ、学者さんが断定してそれを元に他を批判するというスタンス自体、この資料すら
乏しい古代史にあってはなじまないのでは、とは思います。
私は、やはり秦帝国以来の内戦状態で、三国とも周辺諸国への拡大が急務であった
時代ですから、少なくとも掲載意図自体は軽い物ではないと思いますよ。軍事的に機
密資料も含むのではないでしょうか。もしこのような内容を呉が知れば・・・というのも
あるし。統一晋になってからは公開してもかまわないということで。
10197:04/11/12 18:03:19
>>98
そうなんですか。
一応、邪馬台国論争に関する自説を開陳しようと
やってきたけど引き上げます。
102日本@名無史さん:04/11/12 18:12:17
>>100
いやあお久しぶり。
>【まともな九州説の条件】 を全ての説に置き換えて、紳士的に進めること
>荒らしは徹底的にスルー、これをやれば良いスレだと思う
激しく同意なので、たまには書き込んでくださいよ。
>>101
そんな事言わないで、矛盾を指摘されたら訂正すれば良いだけなんだし。
気楽に考えて開陳してみたらどう?良いチャンスじゃん
103日本@名無史さん:04/11/12 18:14:46
>>94
北九州限定の紀行文であるとする根拠はどんなことですか?
104日本@名無史さん:04/11/12 18:28:18
>>103
魏使が伊都国までしか行っていない為ですね。その根拠は・・・
伊都国までの紀行文は「草木云々〜」や「滋味たるを知らず」など
異例とも言うべき詳細さと、これまた異例以外の何者でもない「感想文」であることなんです。
報告書としての定型文から逸脱してると言って良いほど、描写的なんです。
ところが伊都以降は、距離すら判らず伝聞と思われる日数を書くのみ。
具体的な描写どころか、まあなんつーか温度差が全く違うのです。
もしかすると奴国や不弥国にはいったのかもしれませんがね。

邪馬台国(女王の都する所)がどこにあったにせよ
そこまで行っていないと言う読み方が一般的な解釈です。
105日本@名無史さん:04/11/12 18:41:53
>>104
>「滋味たるを知らず」

これは、伊都国までじゃないだろ。

>報告書としての定型文から逸脱してると言って良いほど、描写的なんです。

だから情報源は報告書ではない、とは考えないのか?

>そこまで行っていないと言う読み方が一般的な解釈です。

そんなことはない。
すくなくとも、梯儁、張政は、その役目上『女王の都する所』へ行かねば復命できない。
106101:04/11/12 18:47:04
>>102 それじゃお言葉に甘えて自説を。
自分は邪馬台国は福岡だったと思います。
最初にやってきた中国人が現地の人にここはどこか?と
尋ねたんでしょう。
言葉が通じなかったんで、このあたりはどこだという意味で
指を指したら、たまたま指の先に山があったんだと思います。
「ああ、あれは山たい」と福岡弁で答えたのを
中国人は国名と勘違いしたんじゃないでしょうか。
107日本@名無史さん:04/11/12 18:48:00
>>105
時間が無いので手短に書くね。
前二つの指摘は解釈の違いともとれるが
>『女王の都する所』へ行かねば復命できない。
これは女王の正体(権限や実像)に密接に関係するので一概には言えない。
卑弥呼は神託機関であり、為政機関ではないとの説も有力だよ。
後のレスはまた後日。

108日本@名無史さん:04/11/12 18:50:39
>101さんへ
もし福岡なら「ああ、あれは山バイ」になるよ。
北九州市なら「山ちね」になる。
いずれもダメ(w
109日本@名無史さん:04/11/12 18:51:47
>>108
そっか。勉強しなおしてきます。
110日本@名無史さん:04/11/12 18:56:36
>>107
あのさ・・・・梯儁は卑弥呼の名前入りの詔勅を持ってきたんだよ。
卑弥呼本人に確実に渡すように、わざわざ派遣されたんだろ。
その他下賜品と一緒に難升米に託すこともなく。

卑弥呼の都する場所に行かずしてどうする。
111一応九州王調説:04/11/12 19:01:45
ああ、その説の本も読みましたよ。なかなか実証は難しいけど、面白いとは
思います。山国ならありそうな名前ですし、臺という貴字も問題になるし。
方言の寿命についてもまだまだこれからの分野だと思いますが(言語学よく
知らないので・・・・・)、言葉の寿命そのものは決して馬鹿に出来ないです。
実は昔に行くほど百年前があり得ない昔だったりするw

でも研究が進むに従って言葉も地名なども相当長い寿命を持っていることが
わかってきたようなので、一見トンデモ説ですが、なかなかどうして、馬鹿には
出来ません。

図書館で読んだ本なのでよく覚えてませんが、また機会があったら読んでみ
ます。
112日本@名無史さん:04/11/12 19:49:26
邪馬台国が畿内だとすると、九州〜畿内に
渡る統一国家の建設が行われたのは、3世紀卑弥呼の時代。
107年の時点で九州連合の師升が後漢に朝貢して
そのあとすぐに倭国大乱に入るので、これは間違いない。
113日本@名無史さん:04/11/12 20:11:37
少なくとも壱与の時代までは
共立王の時代だったということです。
実際は卑弥呼の弟が王で、卑弥呼は
連合国共立の象徴ということを言う人が
いますが、それは倭人伝を読む限り
違う気がします。確実に世襲制になるのは
応神天皇の時代からでしょう。
114完全理論武装論者:04/11/12 20:15:31



畿内説派は出もしない金印をさっさと発掘して見せろよwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
天皇が金印持ってないのに畿内から金印なんか出るわけないしwwwwwwwwwwwwwww


115完全理論武装論者:04/11/12 20:21:51


畿内説派は卑弥呼=神功皇后なんだろ?
だったら邪馬台国の金印はどこにいったのかな?
まさか後の天皇が三種の神器より価値がないので古墳に埋めましたとかいうなよwwwwwww


116完全理論武装論者:04/11/12 20:27:13


大和朝廷は記紀も日本書紀も銅鏡も邪馬台国風に都合よく捏造はできたが
肝心の金印は実物を見てないのでさすがに捏造はできなかったわけかwwwwwwwwww


117:04/11/12 20:29:08
卑弥呼の記事が日本の古書に載っており中国の古書に載っていない→大和説が正
卑弥呼の記事が日本の古書に載っておらず中国の古書に載っている→九州説が正
118完全理論武装論者:04/11/12 20:37:05


大和朝廷が一度でも魏に朝貢してれば邪馬台国と同じタイプの金印を
拝謁できてコピーして持ち帰れたが、魏に朝貢してないから
金印がどんな形状のものなのかも知らなかっただろう
そりゃあお得意の捏造技術を使っても無理だわ
本物の金印を見たことないのだからwwwwwwwwwwwwwww

さてと畿内説派の反論を待ってみるかwwwwwwwwww
119完全理論武装論者:04/11/12 21:04:13
>>72
>多分その金印はもうすでにこの世には無いと思われますが。
>何故そうなるかは、説明せずともお解りいただけますよね。

スイマセン金印がない理由がわからないので説明してもらえませんか?
魏からもらった金印と銅鏡のうち
銅鏡は日本でも後々コピー品が作られて地方の豪族に権威の証しとして与えたのに
どうして金印はなくなったらコピーして作り直さなかったのですか?
畿内説派は、卑弥呼=神功皇后で邪馬台国→大和朝廷なんでしょ?

だったら正統な邪馬台国後継者の大和朝廷の、卑弥呼の子孫の天皇が銅鏡は大量に
コピーして作ったのに、金印はコピーしなかったのでしょうね?不思議だなぁ
だいたい金印ってそんなに粗末に扱って紛失するものですか?天皇家の一級家宝でないの?
畿内説派の人の考えには矛盾に満ちすぎてますね
120日本@名無史さん:04/11/12 21:35:56
倭国大乱があってから、卑弥呼が共立された
倭国大乱の痕跡は瀬戸内の高地性集落に多数残っている
九州、大和には倭国大乱の痕跡が残っていない
この点からも倭国大乱のあった瀬戸内地方に邪馬台国があった
と考えるのが至当
まさか、富山県で大乱があって、青森県に邪馬台国は作らないだろう
12125歳♂九州説最強の刺客:04/11/12 22:22:31
みなさん、お久しぶりです。邪馬台国は畿内説が
圧倒的に有利なのは変わらないそうですが、私は
あえて九州説を主張しつづけます。
12225歳♂九州説最強の刺客:04/11/12 22:30:10
畿内説の疑問点として、九州から畿内へいくときに
水路を使っていることです。当時街道も整備されてなく
馬もいなかったらしいので水路による移動しかなかったと
考えられますが、果たして当時の造船技術で九州から畿内へ
何十日もかけて移動が可能だったでしょうか?特に当時は
現在よりも気候が寒かったらしいので12月〜2月にかけて
何十日も水路で移動など自殺行為に思えますし、源義経が
九州へ水路で行く際難破にあってますし、元寇のさいもご存知の
とおり嵐にあってます。8月〜10月にかけて台風シーズンに
水路で何十日も移動するのも無理があるでしょう。そう考えると
九州〜畿内へ移動できる時期は極めて限られてしまうことになります。
このような状態で果たして、九州〜畿内にいたるまでの統治が
可能だったのでしょうか?魏に朝貢していざというとき軍を貸して
もらうときも魏の軍隊数万が水路で畿内まで移動するつもりだったのでしょうか?
魏は水軍に弱いと三国志で読みましたが・・
12325歳♂九州説最強の刺客:04/11/12 22:34:48
次の疑問点として、壱与が266年に朝貢して以来
413年の讃まで、朝貢した形跡がみられないことです。
邪馬台国が畿内にあり、そのまま大和朝廷になったならば、
なぜ150年近くの間朝貢しなかったのでしょうか?
これほど長い期間朝貢をやめてしまった理由が見当たりません。
中国が乱れていたとしても東晋は健在でしたし、
全くもって空白期間の謎がとけません。
124日本@名無史さん:04/11/12 22:37:16
港港へ寄りながら行けばいいじゃない。天気待ちしながら。
沿岸航行なんだし。

で、現実に物は動いていて、物証が残っちゃってるんだから、
言葉だけで否定しようったってどうにもならないよ。
125:04/11/12 22:38:25
>>123殿
う〜ん! 貴殿は本当に最強なのかい?
126日本@名無史さん:04/11/12 22:39:35
>>122 ハイエルダールのコンティキ号漂流記なんか読むと
筏で太平洋横断してるくらいだから普通に可能でしょ。
気候が寒いといったところで、当時は貫頭衣とか着てたわけだから
それなりに寒さにはつよかったんじゃないですかね。
あと当時の交易範囲ってかなり広いんじゃないですか?

あと魏が軍を貸してもうら可能性より、魏が軍を貸してもらう可能性の
ほうが少ないながらもあったと思いますけどね。
12725歳♂九州説最強の刺客:04/11/12 22:47:27
九州で大規模な反乱が起きたとしたら
それを鎮めるために畿内から大軍を
送らなくてはなりません。その当時
水路で万の軍勢の移動が可能だったでしょうか?
補給の問題もありますし現実味がないですね。
128日本@名無史さん:04/11/12 22:48:39
朝鮮半島に出兵してるくらいだから余裕で可能だろう
129日本@名無史さん:04/11/12 22:55:39
>>127
大規模な反乱を鎮圧するために万単位の兵力を
派遣するような、中央集権体制が当時あったということですか?
自分はどっちかというと連合体のようなものをイメージしてるんで
いまいちピンとこないです。
130日本@名無史さん:04/11/12 22:56:59
>>127
そのために大率がいるだろ。
それに畿内から送らなくても、近くの同盟諸国に動員をかければ済む話。
131日本@名無史さん:04/11/12 23:07:07
>>123
最初は国内での征服戦の大義名分に中国の権威付けを利用していたけれど、
国も統一されてその必要が無くなった。
150年ほど経って国力も充実して国外に色気を出すようになって、今度は
朝鮮での征服戦の大義名分に中国の権威付けを利用しようとした。
ってのはどう?
132日本@名無史さん:04/11/12 23:09:14
まあ九州でも奈良でも遠方に違いはないけどね。その部分だけでどっちが
大王かは決め難いかと。
ただ、朝鮮への派兵については九州の方が有利ではある。情勢の急変に
大和ではついていけないし、かといってそんなに常時九州に駐屯するのも
無理がある。半島戦争自体はずっと継続していたようだから。
大仙古墳のようなものを作っている一方で他国との戦争をだらだら続ける
というのは相当難しいと思われる。
13325歳♂九州説最強の刺客:04/11/12 23:19:47
邪馬台国が畿内だとしたら、崇神王朝の時代に
あたるということですか?倭人伝によるとたしかに
卑弥呼が邪馬台国の女王であり共立王であると
書かれてますし、大和朝廷のシステムとはえらく違いますねw
弟が政治を補佐したとありますがこれが天皇ですか?
134日本@名無史さん:04/11/12 23:23:50
スマンが、妄想以外の九州説で頼む。
135日本@名無史さん:04/11/13 00:27:39
まともな九州説の人はいないのか…
136文献偏重派九州説:04/11/13 00:42:45
邪馬台国が九州にあったとすると

膨張を続ける畿内王権があって、圧迫を感じていたことは間違いない。
従って、朝貢を大陸に求めたのは「畿内王権の圧迫を免れるための最終手段」と
考えれば、まあそれなりに話としては成り立ちそうである。

批判を受けるのを覚悟で「狗奴国=畿内王権」と比定してみたいと思う。
137文献偏重派九州説:04/11/13 01:57:38
邪馬台国がどこにあろうが、大和朝廷が邪馬台国の後身とするならば
「出雲」という問題には必ず取りかからなければならない。

「出雲」とは一体何だったのか、と。

出雲の源流にあたるのはスサノオ、
そしてスサノオのモデルこそが狗奴国の男王であると思う。

スサノオはしばしばアマテラスを困らせた。あげくアマテラスは岩戸に隠れた。
これは何を反映したものだろうか?はたして日食だけだろうか?

もっと深い意味があると思う。
138日本@名無史さん:04/11/13 02:08:36
>>137
出雲神話って比較的新しいんじゃなかったっけ?
それにスサノオがアマテラスを困らせたのが、卑弥呼と
狗奴国の男王の関係ってのは、いくらなんでもメタファーとしては
稚拙すぎないか?
139日本@名無史さん:04/11/13 02:12:08
鵺池碑
我源朝臣松平紀伊君在京之日家臣太田毎資亦来居焉其宅後有
一池日鵺池俗伝以為頼政卿嘗滌射鵺鏃之地矣今毎資者道潅七
世之孫而頼政卿遠裔也故聞斯事喜適居其地且懼其就泯減因使
予録其事上石鳴呼追遠之心不亦美乎遂書銘曰
怪鳥当射 志不可敵 休矣邦彦 其声大逖
元禄庚辰三月望日 松崎正祐記
140日本@名無史さん:04/11/13 05:18:19
>>135
前スレでおおよそ結論でてたよ。

1、九州の土器は畿内に持ち込まれていない=九州と機内は連合していない
2、外国との窓口は九州
3、よって、朝貢していたのは九州勢力=邪馬台国

どうしてこなんな単純なことを畿内論者は認めないのか?
141日本@名無史さん:04/11/13 06:44:43
高天ヶ原は畿内、芦原中津国は関東。
天孫降臨は尾張族の移住体験が神話に取り込まれたもの。
142日本@名無史さん:04/11/13 08:39:50
>>87
>ちなみに学会を始めとして、民間の古代史家や研究者が
>こぞって畿内説を唱える最大の理由は
>「九州島内で投馬国(5万戸)や邪馬台国(7万戸)などの超大型遺跡が
>発掘される可能性が極めて低い。もうそれだけの規模の未発掘の土地が無い。」
>と言う点に尽きるのです。

畿内説の東を南ととるのは極端だが、末慮国(唐津)から伊都国(糸島郡)を東南と
していることや、後の中国の地図より、当時の認識として、確かに45-60度程度の
狂いがあったとは考えられる。
そこで、玄界灘から関門海峡は南東に進むことになり、関門海峡からはまさに
南に進むことになる。
そして、その左岸、つまり広島側が投馬国、右岸(豊前)が邪馬台国と説明可能
である。
143日本@名無史さん:04/11/13 08:40:09
問題の戸数であるが、畿内説でも当時これだけの戸数があったとは,証明
できないであろうし、もっとも戸籍のない時代であり、魏になめられない
ように、倭国が過大に教えたものと思う。
しかし、もちろんそう比喩される人口があったのも事実であろう。
投馬が広島のみでなく、吉備も領域としていたとすれば、5万戸に相当する
多くの人口があったとしても、おかしくないし、場合によっては出雲も
含んでいたかもしれない。
邪馬台国も宇佐だけでなく、北九州から国東までを領土としていれば、
7万戸に相当する人口があった可能性は否定できない。
この地域には、縄文時代からの遺跡や豊前国府跡があり、3世紀の前方
後円墳もある。
確かに吉野ヶ里のような大規模な遺跡はないが、多くの遺跡が点在する。
吉野ヶ里は約2000年以上もの間、全く気づかれず今では過疎ともいえる
田舎の田畑に埋もれていたのである。それが工事中にほじくり返して
いたところ、たまたま偶然に見つかったのである。
一方、豊前中津平野は、西九州に比べ、高速道路も開通していないなど
まだまだ掘り返されていない田園の平野が延々とある。
昔、日豊本線を引くために沢山の古墳がつぶされたという話もあり、
この地域の発掘は、まだまだこれからであると考えられる。
144日本@名無史さん:04/11/13 08:50:33
>>140
1.魏の鏡は持ち込まれている。たとえレプリカであったとしてもそれを
  たくさん作って喜んでいる。
2.外国との窓口は丹後から越に至るまで独自に存在した。
3.よって連合していなくても朝貢の可能性有り

ド素人の俺に簡単に解答されるようなこと書くなってば
145日本@名無史さん:04/11/13 09:28:35
>>76
73ではないが
>>1万2千里という距離
>これって短里説ですよね、明らかに。ではなぜ長里説では不都合なのかを論じて下さい。
何度も書いてきたが、帯方郡から末盧国(唐津)まで約一万里。
つまり、末盧国(唐津)から邪馬台国まで二千里。対馬−壱岐の間が、千里余。
よって、長里は成り立たず、短里ではほぼぴったり。

方角については上記参照。
ちなみに伊都国は平原遺跡でいいとして、奴国は唐津ではなく博多が
通説だと思うが、何か意図があるのかな?

>>南に水行10日、陸行1月というのは邪馬台国へいたる全日程
自分は不弥国から水行10日または陸行1月とした方が前後の文脈と
してもいいと思うし、豊前説は説明可能である。(隋書・東西5月行より)
146一応九州王朝説:04/11/13 09:31:23
>>138

出雲神話が新しいというのはどの説でしょうか。柱ぶったてたり諏訪と戦ったり、結構
縄文にも繋がる気がしますが。それに黒曜石貿易というのが力の源泉なら少なくとも
弥生の農業生産が発達した時代には力を失うわけですし。

それと確かに単純すぎるかも知れませんが、神話というのは得てしてそう言う物でも
あるわけで、>>137氏の説も無碍には出来ないと思います。

>>143

よく出てくる戸数問題ですが、発掘によって理論(笑)が覆されてきた歴史を学者さん
達はなんと思ってるんでしょうねw あなたの言うとおりだと思いますよ。
それと、戸数の由来ですが、仮に倭人伝が軍事報告書であっても、各国がその戸籍
の正確な台帳を公開するとは考えにくいので、やはり見た目の印象ではないかと思う
のですが、どうでしょうか。当時の北九州は博多湾岸から遠賀川流域、筑後川流域と
一大稲作地帯が広がっていたわけで、山が多い朝鮮半島から温暖な九州に来た旅行
者にとって、見た眼以上に大きく感じたとしても無理はないでしょう。それに当時全戸が
環壕集落と限りませんし。
東夷伝では夫余が八万戸、高句麗が三万戸ですから、九州だろうが畿内だろうがやは
り多すぎるとは思いますが、それらの国と人口密度も違いますし、稲作の北限を考えて
も、ソウルの緯度が仙台と同じですから。
147144よりも素人:04/11/13 09:39:44
丹後や越よりも、九州の方が半島へのアクセスは楽なはず
でも敢えて丹後や越を窓口にするのは、
九州に強力な勢力があったということになりませんか?
148日本@名無史さん:04/11/13 09:50:53
>>59
>「侏儒国の東南に船行一年で至る裸国・黒歯国が有る」
>これって、倭人伝のいい加減さの証拠でしかないと思うんだが。
豊前を邪馬台国とするならば、「東西五月行」「南北三月行」
(隋書倭国伝など)で、距離はぴったり説明可能。

侏儒国は宮崎南部・大隅地方、もしくは高知西部。
裸国・黒歯国は、やや方向はずれるが距離的には、薩南・琉球諸島
で問題ないし、後に王国として中国と貿易するわけで、既に認識されて
いたとしてもおかしくない。当然、暑いから裸の字もしっくりくる。

畿内説では、無理に佐渡や北海道としても、距離的に本土から近い上、裸の
字はしっくりこないし、国ともいえない。
14925歳♂九州説最強の刺客:04/11/13 09:58:28
ほんと勘弁してくださいよw
畿内説の人は、距離や方角については
いいように解釈するのに、5万戸や7万戸とか
都合のいいとこだけは鵜呑みにしちゃって。
こっちのほうが信憑性に欠けると思いますけどね。
奴国が2万戸ですし、豊前全体で7万は不可能じゃない
気がしますけどね。
15025歳♂九州説最強の刺客:04/11/13 10:00:20
158年に日食事件が起きこの直後
倭国大乱が起きています。
248年にも日食事件が起きこの直後
卑弥呼が死んでいます。
果たしてこの2つは偶然なのでしょうか?
批判を承知で言ってみますw
151日本@名無史さん:04/11/13 10:02:26
日本の人口については、奈良時代で6〜7百万人の人口があったとすれば、
3世紀ごろに、3、4百万人程度の人口と考えられる。
邪馬台国が大国ならば、7万戸(1戸あたり4、5人として30万人程度)というのは
過大な数字ではない可能性がある。
15225歳♂九州説最強の刺客:04/11/13 10:14:08
邪馬台国が大和朝廷ではないよ。
邪馬台国の時代は大和朝廷は崇神王朝の時代。
倭人伝には男王がいたが治まらないので
女王卑弥呼をたてたと、男王も女王も共立王
だったことが書かれてる。これは大和朝廷と
ぜんぜん違う統治システムじゃありませんか?
153一応九州王朝説:04/11/13 10:20:55
>>150

最強なら少しぐらい調べられてはいかがかw

実際ぴったり合うのでアマテラス=卑弥呼という説も結構有力だよ。
で、2回目は予言し損なって殺された、とかw
154日本@名無史さん:04/11/13 10:23:31
>>149
ほんと勘弁してくださいよw
九州説の人は、5万戸や7万戸とかの戸数については
いいように解釈するのに、南とかや東とか
都合のいいとこだけは鵜呑みにしちゃって。
こっちのほうが信憑性に欠けると思いますけどね。
155日本@名無史さん:04/11/13 10:27:50
>>149
>奴国が2万戸ですし、豊前全体で7万は不可能じゃない
>気がしますけどね。
十分ありうると思います。
156日本@名無史さん:04/11/13 10:33:42
>>143
>邪馬台国も宇佐だけでなく、北九州から国東までを領土としていれば、
>7万戸に相当する人口があった可能性は否定できない。

邪馬台国の北にあるはずの投馬国5万はどうするの?
157日本@名無史さん:04/11/13 10:38:43
>>151
邪馬台国は、それまでの男中心の武力や経済力を基盤とした社会から
女性的な融和と呪術的な力で諸国連合を統率されたのであるから
そこまで大国ではなかったのかもしれない。
15825歳♂九州説最強の刺客:04/11/13 10:39:40
崇神天皇の時代が邪馬台国の時代だとすると、
崇神天皇は四道将軍とかいって、吉備・出雲・北陸・東海に
それぞれ兵を出兵してるのですが・・
つまりこのころの三輪王朝はまだ畿内限定の小規模な
ものだったんじゃないですか?こんな状態で果たして
九州まで力が及んでいたかどうか・・・
景行天皇の子供であるヤマトタケルの時代になると
熊襲や東といった広範囲にわたり遠征してるので
このころになってようやく九州から関東にかけて
大和朝廷の勢力が伸びたと考えるのが妥当でしょう。
159日本@名無史さん:04/11/13 10:41:51
157続き。
勿論、連合国倭国全体は結構大きかったであろうが。
160日本@名無史さん:04/11/13 10:47:43
>>156
>>142に書きました。
ちなみに投馬国は水行二十日、一方、邪馬台国は水行十日・陸行一月で
投馬国の方が南方になります。
しかも、邪馬台国は「陸行」より、陸づたいでも行けることが分かる一方、
投馬国は「水行」のみとなっており、関門海峡をわたる必要がある広島・吉備
などの中国地方を見事に言い表しています。
161日本@名無史さん:04/11/13 10:51:19
投馬国はどこぞから南に水行してつくはずだが。
広島・吉備ではいったいどこから南に水行してくるのやら。

だめだな。
16225歳♂九州説最強の刺客:04/11/13 10:57:24
いいですか。崇神天皇の時代
吉備にも兵を派遣して争っているのですよ。
吉備=投馬国だとしたら、瀬戸内海を通って
畿内邪馬台国までいく連合国家体制なんて
ものが当時ありえなかったものがわかるでしょ。
倭人伝に書いてあることはすべて北九州での出来事です。
崇神天皇の時代から徐々に勢力を広げて、それで
邪馬台国を吸収したのがおそらく4世紀前半でしょうね。
163日本@名無史さん:04/11/13 10:57:25
>>142
>畿内説の東を南ととるのは極端だが、末慮国(唐津)から伊都国(糸島郡)を東南と
>していることや、後の中国の地図より、当時の認識として、確かに45-60度程度の
>狂いがあったとは考えられる。

これをご都合主義といわずして、いったい何というのか。
おくちあんぐりですな。
164日本@名無史さん:04/11/13 10:58:44
160続き。
>投馬国の方が南方になります。
断定的に書いてしまいましたね。すみません。

分かりやすくいうと、前述のように
「帯方郡から末盧国(唐津)まで約一万里。つまり、末盧国(唐津)
から邪馬台国まで二千里。対馬−壱岐の間が、千里余。」
と考えると邪馬台国は、やはり九州を出ることはないと考えられます。

よって「水行十日・陸行一月」は、「水行十日の後、陸行一月」と解釈
すると遠すぎ、水行十日または陸行一月」と理解すべきと思います。
16525歳♂九州説最強の刺客:04/11/13 11:03:33
中央集権化を推し進めるため奔走してるのが
3世紀半ば〜後半の大和朝廷です。
巫女を共立王にすえた、西日本全域に渡る
連合国家体制などありうるはずがないw
166日本@名無史さん:04/11/13 11:04:48
>>163
東を南とする畿内説の方が、もっと無謀なのにな。
167日本@名無史さん:04/11/13 11:05:42
>>160
>ちなみに投馬国は水行二十日、一方、邪馬台国は水行十日・陸行一月で
>投馬国の方が南方になります。

えっと・・・・これは両方とも帯方基点だと思っていいのかな?
で上陸地点は、北九州の小倉あたり?

とすると、帯方−小倉が10日で、小倉−岡山も10日?
そんなはずねぇだろ。。。。。どんな地図だよそれ。

168日本@名無史さん:04/11/13 11:08:52
>>166
方角は間違わないと主張するなら、徹底しないとな。
都合が悪いとこだけ、狂いがあり得るなんて・・・・・・言葉を失いますな・・・あきれて。
169日本@名無史さん:04/11/13 11:11:17
156=151=163
はいつもの難癖ばかりで、反論できなくなるとすぐ話題をそらして
けむに巻く。
相手にしない方がいいぞ。
170日本@名無史さん:04/11/13 11:16:21
>>144

素人以前に基地害ですか?

畿内に邪馬台国があって、九州と連合せずに、魏に朝貢をしてたと?
で、魏からの使者は、機内と連合してない九州に立ち寄るわけですか?

ここの畿内論者が、魏志倭人伝もろくに読んでないということが露呈したな。


171日本@名無史さん:04/11/13 11:20:53
>>167
不弥国(もしくは伊都・奴国)を起点としての放射説です。

以上。
172日本@名無史さん:04/11/13 11:21:45
>>171
それじゃあ、南じゃないじゃん。

以上。
173172:04/11/13 11:26:40
もう落ちるよ。じゃあね。
174日本@名無史さん:04/11/13 11:32:21
175日本@名無史さん:04/11/13 11:36:13
>>168
アホな。なんで徹底する必要がある。
九州説が、更に畿内説に近い説をとっても成り立つことが分かったのに
勝手だな。
176日本@名無史さん:04/11/13 11:37:28
>>170
>素人以前に基地害ですか?
それ余計。
177日本@名無史さん:04/11/13 11:55:15
日本国内で陸行一月もかけていくような所はない。
「水行十日・陸行一月」の部分は何らかの文章の誤りがあると思う。
あえて読むなら、「水行ならば十日、陸行ならば一月」以外に合理的な読み方はない。
178日本@名無史さん:04/11/13 12:05:17
よく、畿内説の方は「九州には古い遺跡がない。」と言いますが、
古くからずっと継続して同じ場所に人が住み続けていたら、そもそも発掘など
できないですよね。遺跡の上で生活都市が更新され続けたら遺跡としての価値は
下がってしまいますが、でもだからといってそこの地下に古い遺跡が無い、とは
言い切れないのではないでしょうか。
もちろん、発掘によって証明できない物を“あった”と言い張るのも無理がある、
とは思いますけど。
179日本@名無史さん:04/11/13 12:18:08
>>177

それを説明可能にするのが、隋書倭国伝などの「東西五月行」。
当時の日本の東西の距離を五月とするもの。
隋の頃の倭国は東の果てが日本アルプスで、その東は蝦夷地と
考えられるから、九州西端から中部までが五月と考えられる。
180日本@名無史さん:04/11/13 12:27:46
>>178
地下にあるならまだしも、大和時代のような遷都がなかったとすれば
今の日本のように同じ場所に建物を建てては壊しを繰り返した可能性
もある。

そうなると当然地下にも何も残らないし、絶望的だなあ。
18125歳♂九州説最強の刺客:04/11/13 12:53:46
畿内説の唯一のよりごころの
三角縁神獣鏡も全国で500枚ほど
見つかってるようですし、卑弥呼がもらった
100枚とは数が合いません。景初4年のものも
見つかっているし、大陸のほうで出土していない
ことから、国内産と見るのが妥当でしょう。
18225歳♂九州説最強の刺客:04/11/13 13:04:24
卑弥呼がもらった鏡があったのでしょうけど、
畿内王朝と九州邪馬台国が合併した際にその
鏡も友好のしるしに畿内に進呈して、こうした
流れから鏡は各国友好の証として各地に献上される
ものとなったのでしょう。なので卑弥呼の鏡の
オリジナルを元に国内で鏡が製造されたと。
183日本@名無史さん:04/11/13 13:05:11
>大月氏を朝貢させた当時の政敵・曹真の功績に対抗する意味で、
>司馬懿が邪馬台国を実際以上に遠方の巨大国に描かせた
と考えれば、短里説なんて【仮説】を持ち出さなくてもいいわけで。
白髪三千丈とか言うお国柄だし。
魏が短里を採用していたという確固たる証拠ってあるの?
184日本@名無史さん:04/11/13 13:26:21
>>183
中国の学会では、「魏晋朝の短里採用」説についてどう考えているのだろう?
185日本@名無史さん:04/11/13 13:38:22
>>176
それで?

>>140に、ちゃんと合理的な反論してみせれば?

1、九州の土器は畿内に持ち込まれていない=九州と機内は連合していない
2、外国との窓口は九州=魏の使者も九州に滞在して女王国をレポートしてる

九州勢力=邪馬台国でしかありえないだろ。

186日本@名無史さん:04/11/13 13:42:06
>>184

中国の学者もよくわからんのだろう。
もう、何十年も一緒に研究してるはず。
しかし、中国の学者が、畿内説を支持してるという話は聞かない。
これが、すべてを物語っている。
187一応九州王朝説:04/11/13 13:51:41
>>177

江戸時代「一日十里」と言ったそうです。40km弱。徒歩ですが、馬でも大して変わらないでしょう。
ならば、1ヶ月なら1200km。これなら福岡から東京まで行ってしまうw

まあ官製大道もない、所によって踏み分け道もあったでしょうし、実際はもっとかかったのは間違い
ないでしょうが。当時は有明海の泥沼もずっと上流まであったので、そこを通過するだけで10日か
かったという説もありますし。

一例として、空海が福州から長安までの距離を48日、途中水行もしますがこれが約2000kmとし
て、やはり一日約40kmです。他にも例はありますが、大体一日の移動距離は旅行ならそんなもの
のようです。
「水行十日陸行一月」というのは、だから私自身にはよくわからない部分です。起点問題にしても、
総里程にしても文章的な問題はあるし、短里説でも全て整合的というわけでもないですから。

結局、距離も日で表した倭人の情報をそのまま?書いたというところじゃないでしょうか。
188日本@名無史さん:04/11/13 13:57:16
>>187
謙虚な文章で、昔、荒らしをしていた人間と同一人物とは思えない。
189144:04/11/13 14:00:58
>>185
だから魏の人は邪馬台国までは行けてないんじゃないの?
魏の人「大和まで行きたいんだけど」
九州の人「ウチは大和と交流ないし。あっちまで行くの途中結構物騒らしいよ。」
    「大体の情報教えてあげるから、ウチでしばらく遊んでなよ。そのおみやげちょうだい・・」
190一応九州王朝説:04/11/13 14:10:29
これはこれは。他の人と勘違いですかね?荒らしが嫌で消えてたんですが。
以前は畿内説の強烈な荒らしが常駐していたんですが、どっかいったようですね。

まあ私もそんな偉そうなこと言える人間でもないですから、暴言の1度や2度は
許してくださいよ、2ちゃんだしw
191日本@名無史さん:04/11/13 15:21:23
>>190
7世紀の話に粘着していたのを忘れたか
192一応九州王朝説:04/11/13 15:27:42
それも他の人なんだが。

まあスルーしとこう。
193日本@名無史さん:04/11/13 16:50:38
>>186
王仲珠が畿内説なのを知らない?

△鏡呉系国産鏡説だけど、畿内説。だから、

>>181
>畿内説の唯一のよりごころの三角縁神獣鏡も・・・・

っていうのも認識不足。
19425歳♂九州説最強の刺客:04/11/13 18:59:30
畿内説によると卑弥呼=ヤマトトヒモモソヒメですよね?
とすると、崇神天皇の時代ということになりますよね?
魏志倭人伝によると、卑弥呼を共立王とした連合国家体制を
とってるようですが、崇神天皇の時代は、各地に兵を派遣して
領土拡大をおこなっていますよね?狗奴国との戦いで
いっぱいいっぱいのはずなのに、なぜこんなことができるのでしょうか?
195日本@名無史さん:04/11/13 19:29:36
>>148
>侏儒国は宮崎南部・大隅地方、もしくは高知西部。

どうも珠儒国の存在を信じてるらしいキミに是非とも
オススメしておきたいのだが、身の丈3〜4尺の人々の国が3世紀に
あったなんて分かったら人類学上の桁外れの大発見になるから、
邪馬台国論争なんてやめて、今すぐ宮崎か高知に堀りに行った方がいい(w
196日本@名無史さん:04/11/13 19:35:55
>>194
姫彦制でやってたんじゃないの?
日本武尊の時代も倭姫命が武器渡したり知恵授けたりしてたし。
崇神と卑弥呼の両者が畿内人だったかどうかはともかくとして。
197一応九州王朝説:04/11/13 19:56:31
>>195

絡むのはいやなんですが・・・。
あなたこそ勉強なさった方がいいですよ。最近になって、現世人類とは別系統の類人猿が1万年ぐらい前まで
いた可能性があるっていう発見、知りませんか?他にも世界中で小人伝説があるし、特にアジア太平洋地域
には色濃く残っている事は、その発見のエリアとも重なるし面白いと思うんですがね。
まず疑ってかかれというのが学問の原則だと思いますが。
198日本@名無史さん:04/11/13 20:37:46
一応九州王朝氏を弁護しておくけど
7世紀にこだわってスレをぐちゃぐちゃにした上に
捨て台詞の越して去って行ったのは「なんとなく九州王朝説」氏。
一応氏は常識ある論者だと思いますよ。たまに毒吐くけどね。

・・・と持ち上げておいてなんだけど
>>197 はいただけませんね。論理が飛躍しすぎですよ。
そんな見当違いの例えを出しちゃあ、あなたの株が下がってしまう。

ついでに「25歳♂氏」に苦言。
邪馬台国に関する本を何冊かお読みにはなっておられるようですが
察するに魏志倭人伝や記紀などの原資料を研究した経験は無いようですね。
また遺跡、遺構、埋文に関する考古造詣も心もとない。
そのあたりの資料を当たってみてから、発言してはいかがでしょうか。
あなたの質問のほとんどは、>>3を読まれればおのずと回答がでますよ。
ちなみに>>3をまとめたのは私です。内容には責任を持ちます。
199畿内説系纏向首都、血族融合、恣意編集派:04/11/13 20:59:12
遅レスですが>>110
最初の2行をそう言い切るのは危険ですね。
>>196氏が提示した「姫彦制」(これは遠山説。「卑弥呼の正体」に詳細あり)を
否定する材料はどこにも無いのですよ。
卑弥呼の連合内での真の地位や権限は、正直不明なのです。
前すれに4項目ぐらい仮説を箇条書きしておいたのですが
もう見れないようですのでまとめ直しますね。

>>119の完全氏。
魏の跡に晋に朝貢しているのですから
その際に金印は返還していると考えるほうが自然でしょう。
「親晋倭王」を新たに賜ったかどうかは疑問ですが。
後の倭の五王達が拝命した役職から察するに、倭王認定は見送られたようにも思えますしね。
200日本@名無史さん:04/11/13 21:24:04
>>199
意味わからん。言い切るも何も>>110の最初の一行は史料上の事実だぞ。
まあ、まとめが上がるのをしばらく待つか。
201畿内説系纏向首都、血族融合、恣意編集派:04/11/13 21:26:42
【卑弥呼の正体についての仮説】
@倭人伝記述通りの倭国連合の女王。連合内にて共立された巫女。
 それを踏まえて、
 a)邪馬台国(畿内、九州問わず)土着のよく当たると評判の巫女。
 b)特殊器台から考えて、吉備出身の巫女(畿内説限定)。
 c)連合各地の首長ゆかりの女性を一箇所に集めた、神託専門の機関の代表。
 d)北九州の女王国を連合のシンボルとした(九州説限定)。
 e)連合運営の為に首都「邪馬台国」を新設した際に、意見調整及び司法担当の役割を与えた。
A男王(大王、為政の代表)とワンペアの巫女(皇后、祭祀の代表)。
B男王が実質的な支配者で、あくまで卑弥呼は神託系のアドバイザー。
C東方の「女島」伝説を拡大解釈した、魏の勇み足。

通常は@のカテゴリーで論じられることが多いが、ABの場合でも
女性が政治に係わる事を「亡国」としていた当時の中華思想からして
たとえ神託系のアドバイザーでも、男王に意見する者がいるのなら
そいつは実質的に「女王」になるのではないかと、魏が解釈した可能性も大。
この誤解にはCの伝説も密接に関係してくる。

他の説もありましたら、是非補足願います。

ぶっちゃけた話、卑弥呼の正体についてはまだまだ研究段階であり
不明だと言った方が、誠実かつ学問的な態度だと思います。
202日本@名無史さん:04/11/13 21:28:16
このあいだ、太平洋のどこの島だったか、身長1メートルくらいの
大量の骨が見つかったって新聞で読んだよ
不思議な話だね という感想だったが
うろ覚えで、毎日新聞だったか、、よく覚えていないが。
203畿内説系纏向首都、血族融合、恣意編集派:04/11/13 21:38:17
>>200
待っていただいてありがとう。
私の基本的な考え方は、比較材料に乏しい資料の記述を
確定事項として扱うことの危険性を危惧するということなのです。
「そんな事言ってたら、倭人伝も記紀も参考に出来ねえってことかよ!」
と仰るでしょうが、同時代の列島内の政治体制を考察する資料があまりに乏しい現状では
それらを前提にする論旨は、何万通りにも展開できます。
それこそが邪馬台国関連の仮説が混沌化した理由でしょう。

考古学が万能だとは全く思いませんが、文献記載事項は疑ってかかったほうが良いかと思うのです。
204日本@名無史さん:04/11/13 21:57:44
>>201
それとこの話は関係ないだろ。
対外的には、倭王は卑弥呼だよ。

国内的にどいういう体制であったとしても、
勅命を受けた梯儁が卑弥呼という名の『倭の女王』に
詔書と印綬を渡さなければ梯儁の首が飛ぶ。

それに、魏志には「拜假倭王」と、梯儁が卑弥呼(*)に拝謁したと記されている。
(*)原文は倭王だが、詔書の冒頭に「親魏倭王卑彌呼に制詔す」とあるとおり、ここでは倭王とは卑弥呼のことを指す。

>ぶっちゃけた話、卑弥呼の正体についてはまだまだ研究段階であり
>不明だと言った方が、誠実かつ学問的な態度だと思います。

卑弥呼が死んで、(卑弥呼の代わりに)男王が立ったと、魏志にはあるんだけど、
(2)(3)(4)の場合どうするつもりなんだろ。

なんか付き合いきれない感じ。九州説だけでも大変だってのに・・・・
まあ、がんばってね。
205一応九州王朝説:04/11/13 21:59:49
これはこれは。少々言い過ぎましたか(ボリボリ)。

しかし、見当違いというのはどうでしょうか。まだ発見されたばかりで詳しい分類は不明ですが、
結構人類史的にはショッキングな発見ですよね。18000年前と言えば、生物史的にはほんの
ちょっと前ですから。弥生が10000年前か等と言われている現今、これはもう文化史の範囲で
しょう。
実際発見したグループはその地域の言い伝えからAD1500年まで生存していた可能性もある
と言っていますし、そう思えば同種の話は東南アジア、ハワイにもあるわけで。

これはむしろ侏儒国とも直結する話ではないでしょうか?他にも土蜘蛛などもあるわけで。少彦
名命、黄泉醜女、一寸法師にキジムナー、みんなそうですよね。コロポックルについても、かつて
の御用学説も流石に死滅しているでしょうし、アイヌではないそういう人たちが原住民の一分に存
在したという説を唱えても罪にはならいと思います。
206日本@名無史さん:04/11/13 22:09:44
>>198=>>3

あなたは、冷静で学識のある方のようだから、お伺いしますが、

1、九州の土器は畿内に持ち込まれていない=九州と畿内は連合していない
2、外国との窓口は九州=魏の使者も九州に滞在して女王国をレポートしてる

上2点を踏まえれば、邪馬台国は九州でしかありえません。
畿内説は、どのような反証を持っておられるのか?



207畿内説系纏向首都、血族融合、恣意編集派:04/11/13 22:10:42
>>204
仰る事は重々承知していますよ。ただ
>詔書と印綬を渡さなければ梯儁の首が飛ぶ
これを言い切るのはどうかと思うわけです。

ABCのケースについては
巫女神託制廃止派と存続派の調整期間だとも
次期巫女(トヨちゃんね)擁立主体を巡っての首長間の派閥争いだとも考えられますし。

・・・とここまで言っておいてナンですが
もちろん直接渡した可能性も否定していないですよ。
曖昧な奴だなと思われるでしょうが、まだまだ仮設提示の段階にしか過ぎないと思うのです。
208畿内説系纏向首都、血族融合、恣意編集派:04/11/13 22:24:48
>>206
持ち上げていただくと照れくさいですね。
1、は「畿内」を「纏向」に訂正願います。畿内のいたるところで北九州式土器は発掘されていますので。
問題は連合の次期なんですよ。最初の朝貢以前に北九州が連合参加したと考えるのが畿内説の骨子。
その時点では九州首長連合は原ヤマト連合とは融合していないというのが九州説。
本州や四国の首長たちが連合する以前から、お互いに活発な通商交流はありましたし
3世紀以前の大陸との一番太いパイプを持っていたのが、北九州の首長だというのは明白なのですが
倭国大乱後にどう変化したのかは、証拠不足のためどちらとも言えない。
よって1、はどちらの説を採るにしても根拠とも反証ともならない訳です。
2、も同様ですね。朝貢時に北九州が原ヤマト連合に参加していたかどうかですね。

ちなみに纏向からも少量ですが北九州式の土器は出土しています。
まだ1%程度しか調査されていない遺跡ですから、今後ひっくり返る可能性もありますが。
20925歳♂九州説最強の刺客:04/11/13 22:28:17
どうも邪馬台国の時代は吉備と畿内は敵対関係に
あったようなんですよね。こんなんで瀬戸内ルートが
確保されてたとは思えませんね。
210畿内説系纏向首都、血族融合、恣意編集派:04/11/13 22:34:10
>>205
土蜘蛛については記紀伝承から推定するしかないので、ちょっと置いといて。
>少彦名命、黄泉醜女、一寸法師にキジムナー
これらは(言葉が悪いのは承知していますが)
畸形を貴種もしくは変革の前兆とみなす習慣と密接に関係するのではないでしょうか。
戎(ヒルコ)信仰や柳田民俗学に多く見られるように。
そういえば件(くだん)伝説も瀬戸内土着の畸形伝承ですね。
211畿内説系纏向首都、血族融合、恣意編集派:04/11/13 22:36:40
>邪馬台国の時代は吉備と畿内は敵対関係にあったようなんですよね
えっ?2世紀末から3世紀中期にかけて、そのような痕跡はありませんが・・・
どなたの説ですか?
212日本@名無史さん:04/11/13 22:39:06
>>208

九州と畿内(纏向)の連合が、卑弥呼の時代より前か後か?
という部分が現在の所、「不明」という状況なのですね?
よくわかりました。

それでは、九州日田市の小迫辻原遺跡については、どうお考えですか?
畿内勢力が進出してきたような遺物が発掘されてるようだけど、
なぜ日田に留まっていたのか?

博多湾や筑紫に別の勢力があって、防備のために日田から様子を伺うしかなく、
小迫辻原遺跡が存在していた間は、九州と畿内は連合できなかったということでは?
21325歳♂九州説最強の刺客:04/11/13 22:43:57
>>211
いや、崇神天皇の四道将軍ってやつで
吉備に向けて山陽道にも兵を派遣してるので
畿内三輪王朝に服従していないのかと思いまして・・
214畿内説系纏向首都、血族融合、恣意編集派:04/11/13 22:58:31
>小迫辻原遺跡
これ、畿内説でも意見が分かれているのですよ。
まず@原ヤマト連合と北九州連合が融合した故に建設された物流基地。
これはバリバリの畿内説論者が提唱していますね。
A融合以前から九州と本州の架け橋の役割を持っていた調整的な役割の首長が治めていた場所。
Bこういった特殊な遺構は現在のところ「小迫辻原遺跡」しか認定されていないが
 今後他の遺跡の調査が進むにつれて、この傾向を持った集落がまだまだ報告されるのではないか。

私はBの意見です。両連合の首長グループは必ずしも一枚岩ではなかったと考えます。
この後に急速に広まる前方後円墳にしても、真っ先に取り入れた地域と
そうでない地域が九州はもとより、北陸、山陰、越、更に畿内丹後地方でも確認されています。
東海や南関東では前方後方墳が4世紀末頃まで建造されていますしね。

各首長達は利害関係と内乱回避の為に連合化したのみに過ぎず
その中の一派が台頭して大和朝廷の基礎を築くのはもう少し後でしょう。
それ故に畿内説であっても邪馬台国(原ヤマト連合)と大和朝廷には
政治的な断絶があると考える論者も少なくないのです。
215畿内説系纏向首都、血族融合、恣意編集派:04/11/13 23:11:54
>>213
なるほど「邪馬台国が畿内だとしたら、崇神王朝の時代にあたる」と畿内説が考えていると思われている訳ですね。
基本的に現在の畿内説は記紀の記述に当てはめる作業はしていないのですよ。
これは考古学の範疇から外れて、文献史学や古代民族学などの見地から論ずるべきなのですが
彼らは考古学の発掘成果待ちの態度を固持しているのです。
たまに考古学畑の某センセが先走った発言をされるので、いらぬ誤解を与えてますが
まあ・・・色々な理由がありましてねぇ、そのあたりは(苦笑)

ちなみに纏向最盛時には景行天皇を当てる説もありますよ。
崇神天皇の四道将軍については、そのような武力征伐が本当にあったのかどうか、かなり疑問です。
なにしろそういった武力衝突を連想させる痕跡を持った3世紀以降の遺跡が報告されていませんので。
21625歳♂九州説最強の刺客:04/11/13 23:23:01
ヤマトトヒモモソヒメは崇神の叔母にあたりますからね。
そうすると卑弥呼と同時代の人だと思うのです。
しかし倭人伝を読む限り、邪馬台国王は共立制です。
卑弥呼の前も男王がいたと書いてありますし、卑弥呼の死後も
男王をたてたと書かれています。これはまがいなりにも
万世一系を建前とする大和朝廷とは国家の仕組み自体が
違うような気がしてならないのです。
217日本@名無史さん:04/11/13 23:27:40
>>214
>今後他の遺跡の調査が進むにつれて、この傾向を持った集落がまだまだ報告されるのではないか。
>私はBの意見です。両連合の首長グループは必ずしも一枚岩ではなかったと考えます。

では、九州に現れる古墳を見てみましょう。
古墳は、ほぼ、発見しつくされてますよね。

4世紀の段階では、北部九州より九州南部に非常に大きな前方後円墳があります。
日向などに多く集中しています。
3世紀前までは、北九州が文化的に優位だったのに、
4世紀では、南九州に大和朝廷の影響が多く見られるということです。
このことからも、大和朝廷は、先に南九州と連合し、
北九州を追い詰めていった歴史が伺えると思いますが?

北九州が畿内と早期に連合していたなら、
3世紀初頭から北九州に大きな古墳群が見られるはず。
しかし、実際は、南九州(日向)から先に前方後円墳が発達しています。


21825歳♂九州説最強の刺客:04/11/13 23:37:54
邪馬台国は畿内ではないという決定的な証拠を
大和朝廷自らが記紀の中で示していると思うのは
私だけでしょうか?それは卑弥呼=神功皇后と
書かれていることです。なぜ二人は生きてる時代も違うし
もちろん別人であるのに、同一人物にしなければ
ならなかったのか?それは3世紀当時、日本の中心が
畿内ではなく九州にあったということがばれては
困るからでしょう。なんとしてでも3世紀においても
日本の中心は大和だったことを主張するために
記紀において捏造する必要があったと考えれば筋が通ります。
219畿内説系纏向首都、血族融合、恣意編集派:04/11/13 23:39:12
>万世一系を建前とする大和朝廷とは国家の仕組み自体が違うような気が
実は私もそう思います。3〜5世紀の埋文資料があまりにも記紀と一致しない為ですが。
しかしそこから踏み込んで、記紀編纂時のエピソード捏造を断定するだけの確証もありません。

ここからは仮説に継ぐ仮説になりますが
記紀(特に日本書紀)は万世一系と王朝開始時の遡りを古く提示する事が主目的のため
かなり無理しているのではないでしょうか。
また欠史八代にしても、古く見せかけるためだけでなく
原ヤマト連合の構成メンバー達を完全に無視できなかった為とも考えられますし
(だからといって葛城王朝だとは考えていませんが)
神武天皇の発祥を九州に求めたのも、古くから栄えた九州首長のブランドが目的かもしれませんし
また首長血族どうしが婚姻や入り婿、または極道よろしくの義兄弟の契りみたいなものを結んだ過程で
その子供や孫遺構の世代が「元は九州の歴史ある一族の出身です」と名乗っても
まあ嘘にはなりませんものね。
繰り返し言いますが、ひとつの仮説です。
証明する手立ては今のところありませんが、無きにしも非ずってところですか。
220日本@名無史さん:04/11/13 23:42:34
>>217
それは事実誤認。
九州で一番はやく前方後円古墳が出現するのは北部九州。
すぐ消えちゃうんですけどね。
221日本@名無史さん:04/11/13 23:44:41
>>218
それが書いてあるのは本文じゃなくて、註。
いつ、だれが付けたかもわからない。
222日本@名無史さん:04/11/13 23:50:24
>>220
最近の研究では、宮崎の古墳群が前期に遡ることがわかっていますが、
ご存知ですか?

生目三号墳は、前期のもので、大きさは150メートル。
北九州の最大の前期古墳は石塚山で120メートルです。
全国100位にも入りません。
ttp://www.asukanet.gr.jp/tobira/kofun/kofun100.htm
223畿内説系纏向首都、血族融合、恣意編集派:04/11/13 23:57:51
>>218 こういう考え方も出来ますよ。
@卑弥呼=神功皇后と書かれているのは注釈であって、本文ではない。
 よって後世の書き足しである可能性もある。
A編纂者は倭人伝に言う卑弥呼が誰なのか、本当に判らなかった。
 なぜならば3世紀に女帝ないしは皇后治世の伝承が無かったからである。
 仕方なく伝承の残っていた神功皇后の項に「倭人伝が言ってるのはコレのこと?」
 程度の注釈をつけた。

Aの説を採るならば、権力断絶が真っ先に浮かびますが
繰り返し述べているように、姫彦制や神託アドバイザー機関説に立つならば
女性巫女についての伝承を残す必要がありません。

もちろん恣意的に隠蔽した可能性もあります。
しかし仮説の根幹に持って行くには、少なくとも上記二説を論破せねばならず
実質現時点ではそれは不可能だと思います。

「判らんワカランばっかり言いやがって」とお思いでしょうが
なぜ畿内説は記紀や倭人伝を根拠にしないのかとの質問に対する回答でもあります。
文献資料や地名はあくまで「状況証拠」であって「物証」ではありません。
それ故に「傍証」とするしか手立てが無いのですよ。ホントもどかしいですね。
22425歳♂九州説最強の刺客:04/11/13 23:58:41
私は邪馬台国は北九州にあり、
狗奴国との戦いで弱体化して、
3世紀の終わりに大和朝廷と同化したと考えます。
そして仲哀〜応神のときに天皇家の血統を
邪馬台国の王族側がのっとったのではないかと考えています。
対外的には万世一系なので公式記録にはそんなこと書けませんけどね。

眠いので今日はこれにて落ちますw
225畿内説系纏向首都、血族融合、恣意編集派:04/11/14 00:00:18
ああ>>221氏とかぶった・・・
226日本@名無史さん:04/11/14 00:01:52
九州の古墳の総数は、およそ560基。
そのうち3割の150基ほどが日向に手中しています。

北九州と大和朝廷の連合が早い時期なら、
3世紀前から文化的に先進し、大陸との交易の窓口である、
筑紫平野に多くの古墳が見られてよいはずですが、
実際はそうではありません。
227日本@名無史さん:04/11/14 00:07:56
>>222
前期でしょ。
北部九州は箸墓と相前後する時期にあっちこっち出てくるのよね。
那珂八幡一号主体なんかは箸墓よりも古いともいわれている。
微妙なとこだけどね。
228畿内説系纏向首都、血族融合、恣意編集派:04/11/14 00:08:36
基本的に25歳♂氏は三王朝交代説の影響もあるように思いますね。
もし続けてそれを主張されるのならば水野祐氏の著作を読まれてはいかがでしょうか。
もしくはちょっと目先を変えて、大和岩雄氏とかも。

私自身も長ったらしいコテで、ぐちゃぐちゃと能書きを垂れておりますが
この問題、判らないから面白いんです。
どうか様々な説に触れて、可能性の選択肢を広げてください。
そうすればきっと、もっと面白くなります。お付き合い感謝。
229畿内説系纏向首都、血族融合、恣意編集派:04/11/14 00:12:56
>>227
これ難しい問題ですよねぇ。
築造時期はについてはホントに明日にでも新証拠が出てくる可能性が大なので
今のところ突っ込んだ発言を控えています。

卑怯者と言われてもしょうがないので、その罵声には甘んじます(苦笑)
230日本@名無史さん:04/11/14 00:13:51
>>226
前期後半〜中期にかけて宮崎の勢力が力を持ったというだけのこと。

>筑紫平野に多くの古墳が見られてよいはずですが、

だからね、前にも書いた通り、北部九州の古墳て箸墓と同じくらいの時期に
パパパッと造られてすぐ消えちゃうんだよね。

だから、北部九州各地は最初は結構優遇されてたんだけど、比較的速い時期に
力を削がれて失速していった可能性がある。

まあ、今のところ可能性だけで深く突っ込まれても反論のしようもないんだけどね。
231一応九州王朝説:04/11/14 00:14:28
>畸形を貴種もしくは変革の前兆とみなす習慣と密接に関係するのではないでしょうか。

民俗学的アプローチですね。
私的には権力関係論に還元しがちな傾向があるので、グレーな部分は少々苦手・・・。
でも、蛭子大神については、障害者では無い、と思います。
とにかく単に列挙しただけなので、自分自身も一つにくくれると思ってませんが、、ある一つ
のこ事実を色々な形で伝承することはあり得ることだとは思います。

で、個別的には、
・少彦名命・・・・熊野から常世の国へ行った。熊野・紀伊半島も侏儒国との説がある。実際に
          小人だったかどうかはわからないが、大己貴とともに国土を作った大変な神
          で、まあ少なくとも古い神であることは確か。海から寄り来る神と言う部分は、
          南方の海の民を想起する。流れ着いたのも加太の淡島とも言われる。
・一寸法師・・・・これって実は由来がよくわからないんですよねw でも、お椀の舟でやってく
          る、鬼と戦う(スクナヒコも小さいのに何故か武の神)など、もちろん小さい事
          など類似点があり、俗には少彦名命のモデルとよく言われます。
・黄泉醜女・・・・これは逆に諸説紛々で、よくわからないw ただ、黄泉の国=縄文文化圏と
          考えるのは面白いかな、と。そこから更に飛躍して、縄文とはまた別の、実際
          に小人民族がいたら・・・・・とは考えられないか。
・キジムナー・・これは子供のような・・・なので大人かも知れません。決して悪い神ではなく、
          むしろ人なつっこい。この辺りもなんか臭いますが。あと、水木しげるの漫画
          では毛むくじゃらでした。これはこれで「猿人」っぽくてw 沖縄は東南アジアと
          隣接地域と言ってもいい場所ですし。

他にもかぐや姫に桃太郎、瓜子姫などもありますね。かぐや姫はヒマラヤ起源とも言われ、
東南アジアにも広く分布する話なので、やはり例の新種とは重なるかもしれません。      
232日本@名無史さん:04/11/14 00:18:24
>>229

あなたも、本当に卑怯な人だね。
文献を出してる人には、状況証拠はあてにならないといい、
古墳という物的証拠を出せば、新証拠が出てくる可能性が大だから沈黙するという。

それでは、あなたは、どういう論拠で畿内説をとっているのか?
デンパと同じ個人的思い込みでしょう?
233日本@名無史さん:04/11/14 00:18:44
>>221
日本書紀が、2つの定点、つまり神武即位(紀元前660年)と卑弥呼の魏への遣使(239年)
を基準にして、年代を当て嵌めていったという説はどうなんでしょう?
234一応九州王朝説:04/11/14 00:21:18
>>230

放射年代測定結果では相当古いようですね>九州の古墳
ただ九州の考古研自体が古くなると都合が悪いようで・・・。

そのことから、ひな形が九州に出来て、それが広がる過程でシンボリックな巨大化を辿った、
とは考えられないでしょうか。「我こそは九州王権を引き継ぐ者ぞ!」って感じで。
235畿内説系纏向首都、血族融合、恣意編集派:04/11/14 00:23:34
>>231
博識ですね、興味深く読ませていただきました。
ただこの話題、微妙にスレと言うか板違いになりそうなので
今は拝聴させていただく立場に留まっておきます。
せっかく面白い話を振っていただいたのに、申し訳ない。
236日本@名無史さん:04/11/14 00:26:31
>>230
まるで答えになっていない。

>だから、北部九州各地は最初は結構優遇されてたんだけど、比較的速い時期に
>力を削がれて失速していった可能性がある。

それは、連合とはいえない、大和朝廷の九州征服があったという意味か?
連合というシナリオ以上に征服というシナリオは無理がないかね?
征服・植民があれば、それこそ古墳が大量に出来るだろ。



237日本@名無史さん:04/11/14 00:27:38
>>232
古代史は不明な点が多く、謙虚な態度こそ必要だと思うが。
九州説の人はヒステリックな人が多い。それだけ追い詰められているということか。
>>229は、このスレでは珍しく良識的な人のようなので(お前とは違って)、
余り絡むなよ。
238畿内説系纏向首都、血族融合、恣意編集派:04/11/14 00:31:20
>>232
あくまで「現時点での発掘成果」が基本です。
誤解を与えたようですが「ひとつの仮説にこだわらずに、他の可能性も探ってみようよ」との
メッセージを25歳♂氏に言いたかったため、前記のような表現となりました。
ちなみに>>230で述べられた事項には全く同意見です。

239日本@名無史さん:04/11/14 00:34:23
>>236
連合それ自体は古墳の築造よりももっと前。
全国に前方後円墳が展開する箸墓の時期に畿内型の古墳が入ってるから、
これは首長祭祀の形式を共有する連合に組み込まれていた証拠。

そのあと、別に征服されたわけじゃなく、
権限が縮小されていって古墳の築造が許されなくなった可能性があるということ。
240日本@名無史さん:04/11/14 00:36:53
>>237
>>238
都合のいい資料には目を向け、都合の悪い資料には沈黙する、
これが、畿内説論者ですかね?

北九州の力が、外部からそがれたなら、征服者が古墳を作るとは考えないのか?




241畿内説系纏向首都、血族融合、恣意編集派:04/11/14 00:37:28
お気遣い感謝します。ただ弁護していただくのは大変有難いのですが
>力を削がれて失速していった可能性
これは北九州の「経済力」についての考察かと思われます。
おそらく>>230氏も武力征服があったとは考えておられないでしょう。
242日本@名無史さん:04/11/14 00:40:16
>>239
>権限が縮小されていって古墳の築造が許されなくなった可能性があるということ。

ならば、宮崎・日向の多量の古墳群はどう説明するのか?
古墳を作ることを許された豪族が、北九州よりも多く存在したのか?
考えを聞かせてもらいたいね。
243畿内説系纏向首都、血族融合、恣意編集派:04/11/14 00:46:20
>>240
239氏は「権限が縮小されていって古墳の築造が許されなくなった可能性」
とも述べておられますが、こういう見方も出来ますよ。
「北九州は前方後円墳以外の墓制を維持する権限を得た。」または
「北九州で尖兵的な役割を果たし、前方後円墳を建造した首長が、他地域の領土を得ることが出来た」
(うーん、ちょっとこれは話を飛躍させすぎかな・・・)
しかしながら経済的な没落は、やはり非常に有力な説だと思います。
244一応九州王朝説:04/11/14 00:48:53
>>235

こちらこそ。私もいっちょかみの横レスだったので全然OK!です。
この話題は倭人伝の信憑性というカテゴリーの問題ですから、全くのスレ違いと言うことは
ないですが、やはりおっしゃるとおりでw
ただ、侏儒国や裸国・齧歯国の話になると一笑に付すことが果たして科学的かどうか、とい
うことが言いたかっただけです。

さて。

>基本的に現在の畿内説は記紀の記述に当てはめる作業はしていないのですよ。
  これは考古学の範疇から外れて、文献史学や古代民族学などの見地から論ずるべきなのですが
  彼らは考古学の発掘成果待ちの態度を固持しているのです。

この部分についてですが、その理由についてお聞かせ願えますか?勿論文献学も考古学も独立した
経緯を辿って同じ結論にたどり着くのがベストですが、実際には双方の仮説・検証のクロスオーバー
も大事だと思うのですが。これは、記紀の信憑性について相変わらず津田史学的スタンスを克服でき
ないからなのか、単にごちゃごちゃするのがいやなだけなのかw、 少なくとも畿内説の中でも記紀に
対するスタンスは全員が同じと言うことはあり得ないと思いますが。
245日本@名無史さん:04/11/14 00:49:46
>>243
>しかしながら経済的な没落は、やはり非常に有力な説だと思います。
それなら、
なぜ、宮崎・日向が突如として経済的優位になった(古墳が多量に出来た)のかと、
セットで答えてもらう必要があるよね?
246畿内説系纏向首都、血族融合、恣意編集派:04/11/14 00:56:26
>>242
墓制を進んで受け入れた地域と、そこまで積極的でなかった地域との温度差じゃないでしょうか。
前方後円墳の建造に関しては、当時としては最新の土木技術がセットになってついてくる訳ですから。
また半島経由の様々な資源や情報の供給ルートに係わる事が出来るようになる特典もあったでしょうし。
東海や関東でもこのあと長らく前方後方墳を維持しておりますし。
すべてを一気に統一するだけの権限も武力も、原ヤマト連合には当時無かったように思います。

247畿内説系纏向首都、血族融合、恣意編集派:04/11/14 01:05:01
>>244
>単にごちゃごちゃするのがいやなだけなのか
これが本音じゃないですかね。文献史学はピタっと発言を止めてますので。
>>245
個人的な仮説でよければ。
前方後円墳体制を受け入れたことに対する原ヤマト連合の経済的バックアップがあったのかもしれません。
なにしろ銅鏡(魏鏡、国産どちらの説を採るにしても)をコピーしてまで
体制を広げようとしていますし、お互いの利害が一致したケースではないでしょうか。
248日本@名無史さん:04/11/14 01:08:28
主だった畿内説の人の主張は、
鉄ルート獲得のため、大和、吉備、東海、丹波、北陸などが大同団結し、
北九州勢力を屈服させたとみる。
そう考えると、マキムクの搬入土器の件や、欠史八代と連なる四道将軍の記述なども興味深い。
つまり、北九州は征服されたとまでは言えなくても、政権中枢には参画することが出来なかった。
大ヤマト連合への参加表明が遅れたため、発言権を失ったと想像する。
北九州諸国は一大卒に監視されながら、艱難辛苦に耐えていたのだろう。
4世紀末、高句麗南下に伴う半島情勢の激変までは…
249日本@名無史さん:04/11/14 01:17:56
>>245
日本全国の古墳築造を時系列でみていくとね、
それまで古墳が継続して築造されていた地域からある時期を境に古墳が消えたりとか、
それまで古墳がなかった地域に突然古墳が出現してくるなんて例はけっこうあるんですよ。
それにいちいち理由を答えろといわれても、文献のない時代のこと、答えられるわけがないでしょ。
分からないことはわからないというしかない。

可能性としてはいくつか考えられる。

目鼻の聞くヤツが一人出てくれば、あっというまに大勢力になるなんてことはいくらでもある。
中央政府有力者との婚姻関係で、突如力を持つこともある。

あと、宮崎の場合考えられるのは、熊襲対策。

ただ、証拠はないので、分からないと言っておくしかないね。
事実は事実として粛々と受け止めて。
250日本@名無史さん:04/11/14 01:20:22
>>246

少なくとも貴方は、積極的に日向は墓制を受け入れ、
大和朝廷と連合する道をとった、と解釈するわけですね?

一方、北九州は、経済的に力を失ったから古墳が作られなくなった。
大和による征服ではない。
連合はしても、墓制を受け入れなかっただけ。と。

それは、全国的にみて、よくある現象とお考えなのですかね?
251畿内説系纏向首都、血族融合、恣意編集派:04/11/14 01:25:54
>政権中枢には参画することが出来なかった
私は3世紀末頃、晋の建国あたりには北九州の中枢参画はなされていたのではないかと考えます。
畿内説を採るにしても、伊都国が外交窓口として大きな役割を果たしていた事は否定しないからです。
ただそれまでの北九州独占状態からしてみれば、北九州勢力が屈辱にまみれていたとは考えられますね。

しかしその後の巨大古墳建造時には、派閥同士の血族融合がかなり浸透していたと考える立場でもあります。
例えは悪いですが、球界再編1リーグ化みたいなイメージを思い浮かべてください。
252日本@名無史さん:04/11/14 01:30:01
>>248

それらの体制が、2世紀終わりまでに完了したというわけだね?
で、古墳が出来始めたのは、3世紀末で、
最初に古墳を作ってもらったのが、卑弥呼というのが、畿内説ですか?
253畿内説系纏向首都、血族融合、恣意編集派:04/11/14 01:31:40
>>250
>>249氏が代弁してくれました。
一番ありえそうな仮説を採択しているとの立場です。
ただし北部及び中部九州が早い時期に発言力を取り戻したとの立場でもあります。

このあたりになると「そういった可能性」でしか語れないのですが。
254日本@名無史さん:04/11/14 01:35:26
>>253
「そういった可能性」で、片付くなら、
畿内説も、「そういった可能性」でしかないということも認めますね?

255日本@名無史さん:04/11/14 01:41:08
>>251
倭人伝の一大卒の記述から、前倭国王であった北九州は、畿内政権から危険視されて
いたと思いますが。
256畿内説系纏向首都、血族融合、恣意編集派:04/11/14 01:43:54
>>254
そのツッコミはディベートの約束事からしたらルール違反ですよ(笑)
実際「畿内説で確定した」と断ずる段階ではないでしょう。
同様に「九州説で確定した」訳でもありません。

この発言を捉えて「畿内説がギブアップした」なんて見方は嫌ですよ。
そういった姑息な手段は採られないと信じておりますが
257日本@名無史さん:04/11/14 01:45:24
>で、古墳が出来始めたのは、3世紀末で
古墳時代の幕明けはもうちょっと前でしょう。
卑弥呼の時代は既に古墳時代に突入していたと考えます。
258日本@名無史さん:04/11/14 01:50:02
>>256
当然、九州説も可能性の一つと考えてます。
しかし、九州説は、畿内説より辻褄が合うと考えてますがね。
畿内説からの反論は、「そういった可能性」ばかりですからね。

では、あらためて、
>>248の体制が、2世紀終わりまでに完了したというわけだね?
で、古墳が出来始めたのは、3世紀で、
卑弥呼より以前にも、古墳を作ってもらった王がいたということですね?

259畿内説系纏向首都、血族融合、恣意編集派:04/11/14 02:03:30
>>258
なるほど、そこが畿内説に対する不満の根源ですか。
しかし煽るつもりではなくあえて言いますが
この時代の実情について述べる際に、これで確定だと言い切るだけの材料は今のところ無いでしょう。
「可能性」や「仮説」との用語を使うのは、その事実に対して出来るだけ誠実でありたいと思うためです。
このスタンスに対してのご理解をいただきたい。
260日本@名無史さん:04/11/14 02:17:40
>>259
>「可能性」や「仮説」との用語を使うのは、その事実に対して出来るだけ誠実でありたいと思うためです。
聞こえはいいけど、こちらから出してる証拠に対して、頭から否定してますが?


宮崎・日向に、北九州より古い古墳が多いのは事実。
大和朝廷の力が及んでいたのは、北九州より南東側と見るのが、
物証をもとにした考古学的態度ではないのか?
それを「空想とこじつけ」で否定していたのは、畿内論者の方。

261畿内説系纏向首都、血族融合、恣意編集派:04/11/14 02:42:27
>宮崎・日向に、北九州より古い古墳が多いのは事実
どの形式のどの遺跡を指すのか文脈から判別できないのですが
西都原を指すのなら、調査も出来ない現状では本当にコメント出来ないんですよ。
それと先ほども指摘しましたが、ディベート術を競うスレではありませんので
落ち着いて書き込んでください。
私は明日休みなので、お酒をクピクピ飲りながらやりとりを楽しんでおります。
過去に嫌で未熟な畿内説論者から無視やら揚げ足取られた経験がおありのようですが
そういう奴ばかりではないですよ。
もう夜更けですのでまた時間のあるときで結構ですから
貴君の説をお聞かせ下さい。出来れば番号ハンで結構ですのでどなたの発言か区別できるように願います。
262日本@名無史さん:04/11/14 03:30:40
>>261
>西都原を指すのなら、調査も出来ない現状では本当にコメント出来ないんですよ。
堀らなくても、古墳の形状からも古墳時代前期という年代を割り出せますが?
今後の調査でも、年代がさらに古くなることが予想される。
西都原には、中期最大の古墳があるが、
生目三号墳という、前期の巨大古墳があり、石塚山よりも大きい。
北部九州より、宮崎・日向に前期の巨大な前方後円墳がつくられ、
持続的に古墳が作られ続けているという事実は、
畿内説をとる考古学者も認めるところ。

このことから、北九州には、大和朝廷と連合しない勢力があったと考える。
外国の使者は持続的に北九州に来ていたのだから、
邪馬台国は北九州にあったと考えるしかない。

問題は、北九州勢力がいつ畿内と連合したのかということだろう。2世紀か、4世紀か?
2世紀の段階で、巫女が死んだくらいで混乱するような脆弱な体制で、
九州〜畿内までの連合国家が存在出来たとは、想像も出来ないが。
瀬戸内海では高地集落が作られ、常に戦争におびえていたのにだ。

貴方は、畿内説をとる以上、
2世紀に北九州が畿内と連合したという論拠を示して欲しい。
出来れば検証可能な考古学的資料を中心にお願いしたい。

263日本@名無史さん:04/11/14 03:46:17
一気に読んだよ、すんげえハイレベルの応酬じゃん
ここは神々が集うスレかよ!ほんとに素人か、あんたら
めちゃくちゃおもしろいじゃねーか
どっちもガンガレ
264日本@名無史さん:04/11/14 04:41:02
そうか?
血気盛んな学生と、それをめんどくさいから軽くいなしている老教授の会話みたいだぞ
265日本@名無史さん:04/11/14 05:33:46
ソースも無く「わしはこう思う〜」じゃ、暖簾に腕押しだな。
266日本@名無史さん:04/11/14 06:44:56
要するに確定事項じゃないと喋れないって姿勢みたいだね、畿内説。
正直面白味に欠けるけどある意味納得する部分もある。
学会主流であるが故の慎重派だと自負しているような印象を受けた。
九州説はまさに玉石混合の様相を呈しているようだ。
最後まで食い下がっていた香具師はカナーリまともな九州説っぽいが
余裕ないのかと言われてもしょうがない態度は減点1。
けれど他の邪馬台国糞スレに比べて双方ハイレベルなのは事実だし
荒れない程度にエキサイトしてやっとくれな。
267一応九州王朝説:04/11/14 07:10:56
ギブアップして快眠・・・・・。しかし本物の研究者は流石に落ち着いておられるw

>そうか?
血気盛んな学生と、それをめんどくさいから軽くいなしている老教授の会話みたいだぞ

まったくそんな風情で、私も「学生」の方に分類されるわけですが、「老教授」は恣意編集
派(どういう意味?)氏に失礼かも。

>過去に嫌で未熟な畿内説論者から無視やら揚げ足取られた経験がおありのようですが
  そういう奴ばかりではないですよ。
  もう夜更けですのでまた時間のあるときで結構ですから
  貴君の説をお聞かせ下さい。出来れば番号ハンで結構ですのでどなたの発言か区別で
  きるように願います。

実際にそういう強烈な荒らしが畿内派にいて、妄想とかキチ○イとかの連発だったので・・・・・w
気持ちはわかります。でも、そういうのは無内容な一言レスなので、見ればわかるんですが。
なのでスレ限定の立場表明コテ推奨だったはずなのですが、もうそんなのはないのかな?

268日本@名無史さん:04/11/14 07:32:11
>>197
その話は>>59にも書いてあるでしょ。
あなたこそスレをよく読んで下さいよ。
小人伝説は私も興味ありますし、コロボックルくらいは知ってますけど、
九州や四国にあるんですか?しかも、3世紀ですよ?
いずれにしても、>>148は、3世紀の九州か四国に身の丈3〜4尺の小人の集落が
あったと言う記載を事実と捉えているらしいんで、その痕跡でも発見できれば、
人類学的には大発見だと言ったまでですよ。


269日本@名無史さん:04/11/14 07:43:45
>>266
>要するに確定事項じゃないと喋れないって姿勢みたいだね、畿内説。

そんなことはない。
三角縁神獣鏡の件も、中国では1枚も見つかってないのに、舶来品だと決め付けている。
中国の学者も呉の職人が日本で作ったという認識。
あの、中華思想にこり固まった中国様が、
「三角縁神獣鏡は、中国のものではない」と言っているのに、畿内説では卑弥呼の鏡だと譲らない。
古学的にはトンデモの部類だよ。

これまで発掘された鏡は4000枚以上あるが、
中国製と判別されたものは1000枚程度。 残り3000枚は国産。

270日本@名無史さん:04/11/14 08:12:52
>>269
ああゴメンゴメン、これは書き方が悪かった。
昨夜登場した畿内説系纏向首都、血族融合、恣意編集派ともうひとりの畿内説って書けばよかった。
そういえばふたりとも鏡については何も言ってなかったようだが
どんな考えかたしているのか聞いてみたい。
27125歳♂九州説最強の刺客:04/11/14 09:33:56
タイムマシーンがあったら実は
馬鹿にしていた日食が歴史を動かしてたりする・・かもw
272一応九州王朝説:04/11/14 09:36:51
読んでますよw

まあスレ違いなんではっときますが、十分大発見ですよ。

http://news16.2ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1098927987/l50

ただ、スタンスとして実証できないことを「無かった」とするのはどうかな、と。
同じ地理情報でも、ネットで地図検索はおろか地図自体も無い時代にあっては、地理的情報は
決して軽くないかと思いますよ。地名だってそれ自体地理科学ですし。

まあその話題をだすだけでトンデモ扱いする荒らしが多いのでいっちょかみしてしまいました。
申し訳ありません。
27325歳♂九州説最強の刺客:04/11/14 09:45:33
卑弥呼がヤマトトヒなら壱与は誰??
274日本@名無史さん:04/11/14 09:46:31
良識ある畿内説派なら、もう三角縁神獣鏡は決定打にならないことを承知してるから。
275日本@名無史さん:04/11/14 11:22:19
西都原古墳群は、掘って無いからわからないけど、
古い古墳は、纏向より古そうだという噂。


276日本@名無史さん:04/11/14 11:40:53

噂の真相みたい
277日本@名無史さん:04/11/14 11:41:18
>>275
マジっすか?
278最古の古墳からは呉鏡が出てますよ:04/11/14 12:03:06
桜井のホケノ山古墳 最古の前方後円墳
3世紀中ごろ 卑弥呼の時代と一致、邪馬台国論争に一石
桜井市箸中、纒向遺跡東南部の前方後円墳、ホケノ山古墳(全長約80m)が、
のちの大型古墳につながる要素を持った最古の古墳であることが分かり、
二十七日、調査をしていた大和(おおやまと)古墳群調査委員会
(委員長・樋口隆康県立橿原考古学研究所長)が発表した。

九州説にも有利
ホケノ山古墳は、邪馬台国畿内説に有利に働きそうな墳墓だが、もちろん反論もある。
高島忠平・佐賀女子短大教授(考古学)は「邪馬台国論争に大きなインパクトを与えるが、
結論が出るかとなるとそうではない。九州説にも有利な証拠となる」とする。
ホケノ山古墳で出土した画文帯神獣鏡は、古代中国の呉と関係が深い鏡とし、
卑弥呼が使いを送った魏とつながる鏡は北部九州に多く分布することや、
邪馬台国時代に中国との交易でもたらされた鉄製品が、近畿より九州で多く出土することをあげ、
「古墳だけでなく、文化全体的なあり方で判断すべき。
ホケノ山古墳は、奈良盆地南部地域の王権が成立する状況を示すもので、
邪馬台国より大きなクニがあったと考えてもいい」と話している。
279日本@名無史さん:04/11/14 12:25:10
八咫鏡を見せてもらえればなあ
280日本@名無史さん:04/11/14 12:27:21
邪馬台国東遷説は、やっぱりアウトか…
281日本@名無史さん:04/11/14 12:27:42
安徳帝と一緒に壇ノ浦に沈んだのは3つ神器の内のどれでしょうか
282日本@名無史さん:04/11/14 12:31:54
だいたい大化の改新以前は大和朝廷というのは最有力豪族に過ぎなかったのではないでしょうか?
283日本@名無史さん:04/11/14 12:35:24
邪馬台国もしかりです
284日本@名無史さん:04/11/14 12:37:47
黒岩重五も本居宣長説を支持していますし間違いないでしょう
285日本@名無史さん:04/11/14 12:50:46
新井白石みたいな偉い学者が卑弥呼は神功皇后だと
いっておられるのに、おまえらみたいな無学な連中が
どうこういうのはおこがましいわっ
286日本@名無史さん:04/11/14 12:54:29
日本書紀に釣られてますよ。
28725歳♂九州説最強の刺客:04/11/14 13:11:48
応神天皇の時代になると突然、巨大古墳が出没したりしてて
妙だとは思いませんか?これは明らかに権力・勢力の拡大が
あったと解釈できます。九州勢力が畿内王朝に完全に組み入れられた
とみるのが妥当でしょう。それまでは連合国家体制をとっていた
ということです。九州邪馬台国が応神の代に畿内王朝の皇位を
のっとり、畿内・九州は統合されたと思えませんか?
288ゴジンム:04/11/14 13:21:51
のっとりは無いよ。
289日本@名無史さん:04/11/14 15:04:06
>>287
で、あんたは九州邪馬台国はどこにあったと思っているの?
290日本@名無史さん:04/11/14 16:54:51
三国志魏書東夷伝倭人の条

邪馬台国という記述はないんだが

正しくは「邪馬壹国」である。
だから卑弥呼が住んでいた国は「やまたい国」ではなく
「やまい(やばい)国」ということになる。
291日本@名無史さん:04/11/14 16:57:34
天照大神自体が男神だというしね。

292日本@名無史さん:04/11/14 16:59:24
なぜ、天照大神は女神にされたのか。
古事記や日本書紀は、持統天皇と藤原不比等によって作られた。
藤原不比等は、全体を天武王朝の正当性を主張するために、
これら歴史書を作成した。

特に、当時、持統天皇は孫である軽皇子(後の文武天皇)
の天皇就任に執念を燃やしていた。
不比等は、これに答えるべく女帝から子・孫への天皇継承を
ことさら正当化すべく天照大神を持統天皇に比定して女神としたのである。

古事記や日本書紀を作成するに当たり、
日本にある神々が議論され、天武王朝に都合のいいように配列され、
神話が構成されていったものと思われる。
293日本@名無史さん:04/11/14 17:02:38
天照大神自体が男神

それに使える巫女

ということでしょう。
294日本@名無史さん:04/11/14 17:04:15
天照大神は、男神だった。
実は、日本の神々の多くは男なのである。

そして、これら神様の奥さんは「人間」というパターンが多い。

女神や人間の女が太陽の光を受けて受胎する話が多いが、
このことは太陽が男であること意味している。
295日本@名無史さん:04/11/14 17:05:02
伊勢神宮の社殿にも天照大神が男神であるという証拠がある。
伊勢神宮の内外宮の正殿に高さ1メートルほどの柱が、
床下中央に立っていて、5色の絹が巻かれている。
これを、心御柱、天の御柱、天の御量柱と言う。

実は、社殿を造るときに、最初にこの天の御柱を立て、
夜半に土地の娘達により篝火を焚いて神儀を行うのである。

これは、天の御柱を「男根」と考え、
その周りを女が踊り回ることが想像される。

すなわち、男神・天照大神に「妻」を捧げる神儀とも考えられるのである。
しかも、この儀式は、伊勢神宮の高官である斎王や禰宜(神主)
がおこなうのでなく土地の娘が行っている。
296日本@名無史さん:04/11/14 17:07:28
天照大神が男であるということを、「天の岩戸」を引き合いに出し説明した。

すなわち、「古事記や日本書紀では天の岩戸という話で出てくるが、
これとて、天照大神が男であるなら、話になるのである。

なぜなら、ストリップショーを見て喜ぶのは男であり、女ではない。
ストリップショーを見るために岩戸を開けることが、
期待されるのは男の場合である。
297日本@名無史さん:04/11/14 17:10:40
イザナギ・イザナミの話は、もともと紀伊半島の話であるが、
イザナミの死後の「黄泉の国」は出雲に設定された。

スサノウの大蛇退治も、もともと博多地方の話が、
出雲の話とされたのである
298日本@名無史さん:04/11/14 17:11:08
西暦80年から90年ころ

倭国が出現

最初の男子の王こそ、
記紀が大和朝廷の祖とする、カンヤマトイワレヒコ(神日本磐余彦)、
すなわち神武なのである。
299日本@名無史さん:04/11/14 17:13:11
西暦57年に金印

300日本@名無史さん:04/11/14 17:14:05
聖徳太子(1899-1948)
1926年、昭和天皇の摂政として全権を掌握。
1936年、天皇名代としてヒトラーと会談、日独防共協定に調印。
1948年、第2次世界大戦の主要謀議者として処刑された。
301日本@名無史さん:04/11/14 17:15:04
「後漢書」に西暦57年(弥生時代)

時の皇帝光武帝が奴国の使者に印綬を授けたことが書いてあります。
302日本@名無史さん:04/11/14 17:18:13
西暦57年に金印貰うぐらい発達してるから

それ以前の歴史も凄そうだね。
30325歳♂九州説最強の刺客:04/11/14 17:23:20
日食が古代日本を動かしていた!
304日本@名無史さん:04/11/14 17:30:44
『三国志魏書東夷伝倭人の条』によると

西暦0070  倭国誕生


ここの間を埋めてみようか。 一世紀あるが


西暦0160  倭国内乱
305日本@名無史さん:04/11/14 17:31:30
西暦57年に金印貰う

これは九州なわけだが
306日本@名無史さん:04/11/14 17:32:06
倭国誕生した初代の王って神武

307日本@名無史さん:04/11/14 17:35:00
神武は架空、これ定説
308:04/11/14 17:39:48
お前の脳内だけよ。
309日本@名無史さん:04/11/14 17:40:20
倭国誕生した初代の王って神武

西暦 70年のことである。
310日本@名無史さん:04/11/14 17:40:54
1世紀の話をしようぜ。
311日本@名無史さん:04/11/14 17:41:14
初代 神武天皇〜126代

まで男系で続いてきた事実

女系を認めると

ギネス更新ができなくなる危惧

男系が途切れるということは、Y遺伝子が途切れるということ。

Y遺伝子にのってるやつは男にしか伝わっていかないので
男系のチェックに使われている
312日本@名無史さん:04/11/14 17:44:40
神武天皇が実在なんてバカですか?
313日本@名無史さん:04/11/14 17:47:07
後漢書光武帝本紀では、「東夷倭奴国王が、使いを遣わして奉献した」とあるように、
倭国という用語はまだ用いられていません。

ところが、後漢書安帝本紀には「冬十月、倭国が使いを遣わして奉献した」とあります。
すなわち、倭奴国王が光武帝に貢を捧げて朝賀し、倭人の国を代表する王と認められたことによって、
倭国という用語が用いられるようになった訳です。

したがって、「隋書倭国伝」にある通り、
光武帝が「漢委奴国王」印を与えた王の後継者が倭国王帥升なのです。

言い換えれば、「旧唐書倭国伝」などに「倭国は古の倭奴国である」とある通り、倭奴国王が即倭国王なのです。

314日本@名無史さん:04/11/14 17:47:53
初代 神武天皇〜126代

まで男系で続いてきた事実

女系を認めると

ギネス更新ができなくなる危惧

男系が途切れるということは、Y遺伝子が途切れるということ。

Y遺伝子にのってるやつは男にしか伝わっていかないので
男系のチェックに使われている
315日本@名無史さん:04/11/14 17:48:54
倭奴国王が即倭国王なのです。

西暦 57年
316日本@名無史さん:04/11/14 17:58:37
博多周辺の酋長みたいなものだろ>倭奴国王
317日本@名無史さん:04/11/14 18:01:59
>>316
いや、全然。

はるかなる日本人の結論は、九州から来た弥生人と、昔からいた縄文人が戦争し
せめぎあって、近畿に大和政権ができたって言ってるぞ。

相撲取りの埴輪

騎馬民族の儀式
318日本@名無史さん:04/11/14 18:02:36
>>316
倭国と認められてるからね、中華人民共和国に。

西暦57年

319日本@名無史さん:04/11/14 18:04:11
相撲取りの埴輪

騎馬民族の儀式



モンゴルだな。
320日本@名無史さん:04/11/14 18:05:34
初代 神武天皇〜126代

まで男系で続いてきた事実

女系を認めると

ギネス更新ができなくなる危惧

男系が途切れるということは、Y遺伝子が途切れるということ。

Y遺伝子にのってるやつは男にしか伝わっていかないので
男系のチェックに使われている
321太国:04/11/14 18:48:58
天照大御神、それ超ミスユミバース級の神々しい美女であります。
去年でしたか?12CHの昼間放映された新スーパーマンTのロイス・レーンに
ちょっと似た感じの気高い美人です。また卑弥呼ではありません。
32225歳♂九州説最強の刺客:04/11/14 19:30:11
いろいろ本を読んで勉強していくうちに
畿内のほうがやはりしっくり来るきがしてきてしまったw
266年にイヨが朝貢してからその約20年後に
倭が新羅を攻めたと新羅紀に書いてあります。
また4世紀にも朝鮮に攻めたという記述もありますし、
すでに畿内を中心に国家がまとまっていたきがします。
また考古学上、畿内〜九州〜朝鮮にいたる瀬戸内九州ルートが
3世紀に確立されていたことが実証されているそうです。
投馬国=吉備、邪馬台国=マキムク。こう考えるのがやはり
妥当かな。九州説の刺客とか言っておきながらぐらぐらと意見を
変えてすいませんけどねwもう少し勉強してきますわ。
323日本@名無史さん:04/11/14 19:45:56
とりあえずちらしの裏で整理してから書き込んでホスイ
324日本@名無史さん:04/11/14 20:11:46
投馬国はアヅマつまり関東、邪馬台国は大和だと思う。
吉備まで、九州から水行二十日もかからんよ。
325日本@名無史さん:04/11/14 20:30:03
邪馬台国東遷があったのではなく、西(九州)征伐、
西征があったのではないか?
326日本@名無史さん:04/11/14 20:46:21
あっちょんぶりけ!
327日本@名無史さん:04/11/14 22:02:53
>>325
景行天皇の九州征伐
328日本@名無史さん:04/11/14 23:57:14
九州説はデンバが多いから学会から嫌われるけど、
畿内説も、証拠があるわけじゃあない。

鏡について言えば西暦200年を境に、北九州で中国製鏡出土が多かったのが、
畿内で国産の鏡が多くなる。
これは、力関係が畿内に移ったように見えるが、
畿内で、国産の鏡を量産する能力を得たということであって。
わざわざ中国から高価な鏡を輸入する必要が無くなったということ。
古墳の副葬品にしても、王の傍らに置かれる鏡は、実は国産が多く、
三角縁神獣鏡などは、周囲に飾りとして埋められている。大量生産品だからだ。
この事実をもって、畿内説でも、三角縁神獣鏡を卑弥呼の鏡だと言うものは居なくなった。

土器については、200年以後も、九州の土器が畿内に持ち込まれることは無かった。
これは「東征」が現実のものではないことを意味する。
一方、機内・東海の土器は、吉備までは流通するものの、北九州に入荷することはなかった。
北九州勢力が、半島貿易を重視し続けていたことの証である。
329日本@名無史さん:04/11/15 00:17:46
>>328
三角縁神獣鏡が国産であるのはいいとして、景初3年銘のものがあることを
どう考えるのでしょうか。
トヨが晋に遣使した以降、あえて魏の年号の鏡を作る必要はないように思いますが。
330日本@名無史さん:04/11/15 00:23:07
北九州でみられる大型の前期古墳は、石塚山古墳が知られるが、
瀬戸内海からの勢力の古墳であり、北九州勢力とは呼べない。
博多湾に近いところでは、那珂八幡古墳があるが、
北九州でもっとも栄えていた筑紫平野で大型古墳が作られることもなく姿を消した。

北九州と畿内の連合が、双方が必要とした緩やかなものではなく、
北九州勢力の衰退という結果を招いたものであることは明白である。
3世紀初頭には誕生した畿内大和朝廷は、北九州を討つ必要があったのである。
しかし、3世紀中期までは、大陸と貿易していたのは、確実に博多湾沿岸なのである。
このような歴史的事実関係について、畿内説は何も語ろうとしない。
331日本@名無史さん:04/11/15 00:27:29
>>328
突込みどころも多いのだが、ここだけ。

>一方、機内・東海の土器は、吉備までは流通するものの、北九州に入荷することはなかった。

おいおい・・・・・・・
東海はともかく、畿内の土器は入ってるよ。

入るだけじゃなくて、直接の技術移転がなされたとしか考えられないような、
庄内式筑前型甕なんて物まで作られている。

庄内式は拡散力の強い土器だが、主に動いているのは河内型であるのに対し、
この筑前型甕は大和型を規範として作られはじめる。

大和からの直接の技術移転が想定できるわけだ。

>>330
>北九州でもっとも栄えていた筑紫平野で大型古墳が作られることもなく姿を消した。

これもデマだなぁ・・・
博多・比恵遺跡群〜春日にかけてや三雲の大遺跡群には、
筑紫平野はとても比肩できないというのが事実。
332日本@名無史さん:04/11/15 00:31:25
>>329
その回答は想像の域ですが、畿内が九州・魏と敵対していたわけではないので、
九州から畿内にかけて、2世紀前後に魏の年号を借用していたとしても不思議ではない。
景初4年の鏡を作ってしまった理由にもなる。
現在、われわれも、西暦を借用しているわけだし。
333日本@名無史さん:04/11/15 00:35:32
>>331

こっちは、200年前後の話をしていますが?
なぜ、後世の話を持ち出すのかねえ?

3世紀後半に畿内勢力が北九州に上陸すれば、そのような結果になるだろう当然。
334日本@名無史さん:04/11/15 00:39:12
>>333
おいおい。

>土器については、200年以後も、九州の土器が畿内に持ち込まれることは無かった。
>これは「東征」が現実のものではないことを意味する。
>一方、機内・東海の土器は、吉備までは流通するものの、北九州に入荷することはなかった。
>北九州勢力が、半島貿易を重視し続けていたことの証である。

この一行目で200年以後の話になってるじゃないか。
これで三行目を『200年前後』に限定しろというほうがむりだよ。
335日本@名無史さん:04/11/15 00:40:29
>>334
あ、それから前にも出てたけど、九州の土器は河内には入ってるからね。
それ忘れないように。
336日本@名無史さん:04/11/15 00:43:13
>>334

4、5世紀まで組み入れるなよ。もっと常識的なツッコミをしろよ。
その理屈だったら、21世紀まで入ってくるぞ。
337日本@名無史さん:04/11/15 00:45:13
>>336
何で4,5世紀が出てくるんだ。
>>331は庄内期、3世紀の話だぞ。
338日本@名無史さん:04/11/15 00:45:20
畿内説派は、話をはぐらかすことに必死だが、

>3世紀初頭には誕生した畿内大和朝廷は、北九州を討つ必要があったのである。
>しかし、3世紀中期までは、大陸と貿易していたのは、確実に博多湾沿岸なのである。
>このような歴史的事実関係について、畿内説は何も語ろうとしない。

結局、この部分に合理的な答えは出せないんだよ。
339日本@名無史さん:04/11/15 00:53:45
>>338
3世紀中ごろといわず、博多湾岸は半島・大陸との交易の拠点だからあたりまえじゃないか。
畿内説だからといって、博多湾岸を素通りして文物が東に流れたなんて馬鹿なことは言わないよ。
340339:04/11/15 01:00:18
悪いけどもう寝るよ。明日からまた仕事なんでね。
君らみたいに明け方までは付き合えない。
341日本@名無史さん:04/11/15 01:26:09
この問題は、北九州が大和朝廷と連合したのが、
卑弥呼政権誕生の頃の3世紀初頭以前か?
卑弥呼崩御後の3世紀末頃か?ということ。

確かに、畿内で鏡が量産されるのは、3世紀初頭である。
では、鉄器はどうか?
3世紀の鉄器の出土量は、依然として北九州が優位であり、
吉備・畿内で鉄器が多く出土されるようになるのは4世紀以後である。
博多湾が経由地だから、という理由だけでは説明できない。

342日本@名無史さん:04/11/15 03:58:00
いっきにスレが進んでますね。

>>262
邪馬台国豊前説を信じる自分としては、前にも述べましたが、豊前と日向の
権力には連続性があったと考える方がいいと思っています。
そして、その話を描写したのが天孫降臨だと思います。
(大和朝廷も飛鳥や長岡、平城京や平安京といわゆる遷都癖ともいえるものが
あったと思いますが、その源流が天孫降臨や東征にあるのではないかと思い
ます。)

つまり、卑弥呼・台与が亡き後、孫(2代後の王-必ずしも直系とは限らない)が、
熊襲に対して全国力を挙げて対峙するために、主力を豊前から日向に移したと
思うのです(本拠地も移したかもしれません)。
だから、豊前には、九州最古級の古墳が宇佐や苅田にありながら、その後、西都原
よりは古墳の数が少ないのだと思います。
(誤解されると困るのですが、その後、宇佐から古墳が全く無くなったのではなく、
川部・高森古墳群には、6基の前方後円墳の他、多数の方形周溝墓や円墳が6世紀
まで築造されており、その後も一部の権力は残っていたと思われます。)
343日本@名無史さん:04/11/15 03:58:53
342続き

古墳の年代はまだ確定されていないとのことですが、大きさは、必ずしも経済力
のみでなく、古さも表しているのではないでしょうか?
つまり、豊前でまず、小規模の前方後円墳が築かれた後、西都原で発展し、
中規模のものがつくられ、最後に畿内で仁徳陵などの大規模なものに
つながったと思うのです。

なお纏向は、九州の邪馬台国に並行して存在したのかもしれません。
つまり九州邪馬台国とお互いに古墳など影響を与えつつ、木枠の墓室
など独特の古墳を造り、邪馬台国東征後に両者の文化が融合し、
大規模陵に完結したと。

話を戻しますが、宮崎県に古くからある家系では、「うちの土地は、宇佐神宮の
荘園だった」と聞いたことがあるかもしれません。
宇佐は九州内に本御荘十八箇所と呼ばれる広大な土地をもっており、特に日向に
集中してました。
これこそ天孫降臨の名残だと思います。
344日本@名無史さん:04/11/15 04:19:23
豊前(宇佐)には、考古学的に大集落がないことが、邪馬台国の
可能性を低くするといいます。

遺跡が見つかってない理由の一つは、この地域で高速道路などの
広範な大規模工事がなされず、古くからの田園が手を着けられず
数多く残っていることと、もう一つが、この天孫降臨により
卑弥呼・台与以降、主力勢力が日向に移ったためと考えます。

しかし、川部・高森古墳群が位置する宇佐・駅館川流域には、
弥生時代前期の大規模な 環濠をもつ拠点的集落として 東上田遺跡
が形成された他、弥生時代前期〜中期の高居遺跡、一盃田遺跡、
後期になると 上原遺跡、終末期以後の拠点となる大集落である
ことが予想される別府遺跡があります。

東上田遺跡の周辺には、弥生時代中期を中心に300基を優に越える
大集団墓をもつ野口遺跡 、約130基からなる集団墓の御幡遺跡
をはじめ、約80基の集団墓である樋尻道遺跡、女鹿遺跡など多くの
大規模な墳墓遺跡が集中しています。
別府遺跡の朝鮮式小銅鐸、上原の銅鏡や銅鉾、小向野の銅鉾など
青銅器 の出土が集中し、この一帯に有力な集団がほぼ間断なく存在
したことが分かります。
345日本@名無史さん:04/11/15 04:23:02
弥生後期、鉄は板状に加工されたものが半島から博多湾に輸入されていた。
いちはやく北九州では、農具は石器から鉄器へと代った。

畿内では古墳時代になり墳墓から鉄器が見つかるようになるが、
農具としての鉄器は数が少ない。 まだ鉄が貴重なものであったからである。

北九州についで、鉄器を多く所有していたのは鳥取地方である。
弥生後期、鉄器の出土状況を見ても、まだまだ畿内は遅れをとっていた。
この考古学上の実態をみても、西暦200年頃に、
畿内勢力が北九州で貿易の実権を握っていたとは考えられない。

畿内説では卑弥呼就任によって畿内から九州までの連合国家が出来たと考えているようだが、
それを証明するためには、畿内にある卑弥呼の時代の遺跡から、
少なくとも吉備に負けないほどの大量の鉄器が見つからなくてはならない。
実際にそれを願ってやまないのが畿内説をとる考古学者達なのである。

畿内説派が、発掘成果が出るまでは、沈黙するしかないという理由はここにある。
九州説派は、機内の古墳年代が古くなることを危惧しているようであるが、
考古学的な見地に立てば、問題は次の一点に絞られるのだ。

「機内が自由に鉄を手に入れられた年代はいつか?」

これが、邪馬台国論争の行方を決める本質なのである。

346日本@名無史さん:04/11/15 04:38:21
畿内説派の人は頭がいいから、自分からシッポを出さないようにしてるみたいだけど、
やっぱり鉄器の問題が、最大のウィークポイントなんだよね。
ここを突かれたら、「今後、発掘されるかもしれないから」と逃げるしかない。
ディベートも、ここで終了というわけなんだ。
347日本@名無史さん:04/11/15 07:18:13
畿内に鉄器の出土が少ないのは、弥生遺跡の多くが低地にあるため、
地下水の影響で溶けてしまったからじゃワレ!
九州では台地の遺跡発掘が多いため鉄器が残りやすい条件があんじゃアホ!


34825歳♂九州説最強の刺客:04/11/15 08:58:01
287年の倭国の朝鮮出兵の解釈は?
九州邪馬台国がおこなったものなら、
朝鮮出兵は負けてるのでその後東遷する力が
あったとは思えない。イヨが266年に朝貢してから
287年までに東遷を完了させて、朝鮮に兵を
送るのもわずか20年では早い気がする。
349日本@名無史さん:04/11/15 09:00:32
そのまえに、東征があったという証明をしろよ。
350日本@名無史さん:04/11/15 09:05:32
弥生時代には畿内での鉄出土は少ないが
古墳時代に入って激増している。
35125歳♂九州説最強の刺客:04/11/15 09:13:30
九州・畿内の天下分け目の決戦があったという
文献・考古学上の証拠が何かあるのでしょうか?
応神東征くらいしか思い浮かびませんが・・
35225歳♂九州説最強の刺客:04/11/15 09:19:37
思うに、狗奴国=熊襲でほぼ決まりならば、
九州に邪馬台国があったら3世紀末に朝鮮出兵は
できないきがする。本国の兵を朝鮮に向けるだけの
余裕があったかどうか・・
353完全理論武装論者:04/11/15 09:53:03
こんにちは歴史愛好家のみなさん。そしてさようなら歴史愛好家のみなさん。
私はこのスレから撤退することにしました。でもロムったりはしますけど。

ずっと自分なりに考えていました、そして答えがわかったのです。
歴史の真実が私の理論で明らかにされても、歴史愛好家のみなさんは頑としてその真実を
認めようとしないのかがわかりました。

歴史愛好家のみなさんは永遠のミステリーハンターたちなのです。
あなたたちは謎を見つけて謎を追い、謎を究明することなく死んでいく人たちなのです。
謎を研究して楽しんだり、自らの知性を向上させようと謎を利用しているのです。

ですから謎が解明されては困るのです。
謎が解明されてしまえば、謎を研究する楽しみがなくなります。
謎が解明されてしまえば、自らの知性を向上させるための新しい謎を
歴史の中からまた新しく見つけ出さないといけないからです。
邪馬台国以上に興味をそそられる歴史の謎なんてそうそうありません。

ですから邪馬台国の謎を解明しないように、真実には目をつむり黙殺して
みんなでだらだらと同じ議論をしつくすのです。それが楽しいからです。

ですからひとつの歴史の謎を解明させて、また次の歴史の謎を解明してやろうと
考えている私と、永遠のミステリーハンターでいたいあなたたち歴史愛好家の、
みなさんとでは目的が全く違うのです。

というわけで私はこのスレから去ることにしました。
ではみなさん今日も知性の向上のためにがんばって議論して励んでください。さようなら
354日本@名無史さん:04/11/15 10:45:35
>>353
>歴史の真実が私の理論で明らかにされても、歴史愛好家のみなさんは頑としてその真実を
>認めようとしない

申し訳ないが、貴殿の話は難解で理解ができなかった。
分かりやすく、そしてそれぞれの話の根拠となる引用をしてくれれば
最後まで読んだであろうが残念。
355日本@名無史さん:04/11/15 11:16:55
>>348
東遷は、無かったんだよ。

九州に邪馬台国があった→朝鮮出兵で敗北→畿内大和王朝が倭国を主導

畿内に邪馬台国があった→九州勢力が出兵して敗北→畿内大和王朝は無関係
35625歳♂九州説最強の刺客:04/11/15 13:35:26
 倭地の様子を尋ねると、海中の島々の上にはなればなれに住んでおり、あるいは離れ、あるいは連なりながら、それらを経めぐれば、五千余里にもなるだろう。


倭人伝のこの記述に注目します。海中の島々に離れ離れに住んでおり
というのは九州・本州・四国と周辺の島々のことを言うのではないでしょうか?
これらの連なりは5千里と書かれていることが結構重要な気がします。
つまり狗耶韓国から倭国に至るまでが7千里、あと倭国全体を5千里だと
認識してたのではないでしょうか?すると邪馬台国までの1万2千里と
ぴたり一致するのです。
35725歳♂九州説最強の刺客:04/11/15 13:43:57
やはり3世紀の時点でマキムクが日本のイニシアチブを
とっていたということですか・・
九州に邪馬台国があったら、畿内政権・狗奴国という
国内勢力を無視して朝鮮出兵なんていう暴挙に出るのは
ありえないですしね。九州説が負けるのか・・・w
358日本@名無史さん:04/11/15 13:49:58
>>357
>>348にも書いているが
>287年の倭国の朝鮮出兵の解釈は?

とはなにを根拠にいっている?
359日本@名無史さん:04/11/15 14:08:07
というか、狗奴国が畿内政権なら倭人伝の方位・距離を有力な根拠とする九州説が
そもそも成り立たんではないか。
360日本@名無史さん:04/11/15 14:35:14
>>357
はチョン
361一応九州王朝説:04/11/15 21:14:02
25歳♂九州説最強の刺客さん。

チラシの裏で整理されましたか?
連投するなとは言いませんが、いろいろ整理されてはいかが。
お答えしようにも難しいw

例えば、半島戦争の問題ですが、
・畿内と九州は敵対
・〃  と 〃 は連合
・〃  と 〃 は主従関係
・〃  と 〃 は相互に無干渉

これだけでも結論は変わるでしょう?半島戦争も侵略なのか、既得権益擁護なのか、半島からの要請に
よる援軍なのか。金官加羅はどのような位置関係にあったのか・・・。派兵規模も、数百単位なら東西対決
には大した影響もないだろうし、むしろ東の勢力が強大化したがための鉄の確保だったかも知れません。
とりあえずつぶやき四郎はやめよう・・・・・。
36225歳♂九州説最強の刺客:04/11/15 21:26:54
>>358
新羅紀に書いてあります。
287年に倭国の朝鮮攻撃が始まったと。
始まったと書いてあるので比較的長期間に
渡って攻撃を受けたのでしょう。
>>361
3世紀の畿内産の銅鐸・鏡が畿内を中心に
山口・佐賀・朝鮮に渡って出土しているそうです。
つまり3世紀にはすでに瀬戸内ルートは存在して
畿内〜朝鮮に渡る交流があったことを示しています。
よって邪馬台国はやはり畿内??

九州説の刺客なのにいつのまにか・・・ww
36325歳♂九州説最強の刺客:04/11/15 21:43:03
三角縁神獣鏡に関しても、
国内産とはいえ、オリジナルの
見本がなければ239年の鏡は
作れないでしょうね・・
1番多く出土している畿内がますます怪しいw
364日本@名無史さん:04/11/15 23:03:00
>>363
>見本がなければ239年の鏡は
>作れないでしょうね・・

三角縁神獣鏡に見本がある?
いったい何を根拠に「見本がある」なんて思えたんだろう?

書かれてる漢詩の脚韻が、中国人の作詞ルールから外れてて、
日本人が漢語を真似て書いたみたいな文章になってて、
畿内説でも答えが出せないって知らないだろ?
365日本@名無史さん:04/11/16 00:06:04
>>364
三角縁を卑弥呼の鏡と強弁する気はないが、舶載銅鏡の銘文が漢詩でなければ
ならないという理由はあるのか?

>いったい何を根拠に「見本がある」なんて思えたんだろう?
たぶん、同笵鏡のことを言ってるのだろう。

それよりあなたには、239年の紀年鏡があることをどう考えるのか聞きたい。
366日本@名無史さん:04/11/16 00:30:34
三角縁神獣鏡と一緒に大量の鉄器が出土しないことの方が問題だよなあ。
367日本@名無史さん:04/11/16 00:37:03
あんまり熱くなるなよ。

つうか25才クンのたわごとにマジレスするなって。
思いつきなんだから。
368日本@名無史さん:04/11/16 00:43:06
椿井大塚山で何が出土したか知らない香具師がいるスレというのはここですか?
369日本@名無史さん:04/11/16 01:05:39
>>368
まさか鏡の話じゃないよね?
370日本@名無史さん:04/11/16 01:11:21
>>369
鉄のことだと思います。
371日本@名無史さん:04/11/16 01:19:51
椿井大塚山周辺は、高句麗系渡来人の入植地でもあるから、
天皇家の始祖とも関係してくるね。

372日本@名無史さん:04/11/16 02:45:32
三角縁神獣鏡は日本製だろう?
多量の鉄が出たのか?
まあ、この時代の九州の古墳から鉄が出るのは
さほど珍しくないのに、畿内では大騒ぎだね。
373日本@名無史さん:04/11/16 04:28:24
せっかくまともな畿内説が出てきても
尻馬に乗ってデムパを撒き散らす妄想畿内説が汚しまくる。
もちろん九州説にしても同様。
だからいわゆるまともな人たちが嫌気をさして撤退し、スレのレベルが落ちる。
延々この繰り返しじゃない。
まともな九州説はバカ九州説を、そしてまともな畿内説はアホ畿内説を
まずそれぞれが掃除してから論議を戦わすべきだと思う。
374日本@名無史さん:04/11/16 04:49:55
新羅から鉄を持って若狭湾に天孫した集団が大和に根付いたんだよ。
九州は百済の植民地だったんだから、九州討伐も説明付くし。
37525歳♂公務員試験勉強中:04/11/16 08:16:58
ヤマトタケルが熊襲征伐をしてるので
この時代ではすでに北九州は大和朝廷の
支配下にあったと思われます。
376日本@名無史さん:04/11/16 11:18:10
朝鮮正史「三国史記」の、新羅第四代王・脱解尼師今の記述には、
倭人が海を渡って新羅王になったことを書いている。

「昔、倭国の東北千里にある多婆那国の王が、女国の王女をめとって妻とし、生まれた
大卵を不詳なことと言い、捨てるように言ったが、妻は忍びず箱に入れて海に流した。
その箱は初め金官加羅国(任那)に着いたが、再び流されて辰韓(後の新羅)
に着いた。その箱を開いて出てきたので脱解と名付けられた。」(要約してます)
多婆那を弥生時代末〜古墳時代初期に栄えた丹波と見る説がある。

倭国の東北千里にある多婆那国=丹波
畿内は、倭国の中心とは見られていなかった。

377:04/11/16 11:35:07
事実として、日本の地名(アイヌ系等もわずかにあるが)のほとんどは、朝鮮
三韓の地名遷移です。多婆那にしても百済の地名ではないですか?
まあ、なにを言っても歴史洗脳教育がききすぎて、聞く耳もつひとはすくないでしょうが。
日本の支配者たちの思う壺だね
378日本@名無史さん:04/11/16 11:57:21
神武天皇の軍隊はなぜ弓矢の違いで敵味方を識別できたのか?

書紀のくだりに神武が邇邇芸の軍と交戦し、
邇邇芸軍の歩靭 (かちゆき)、天羽羽矢 (あめのはばや) が味方の物であることを確認して戦闘を中止、
邇邇芸は神武に降伏したとある奇妙な記述があります。

このくだりからも神武、邇邇芸軍とその敵との間に弓の種類の相違があったことが伺えます。
神武は倭国軍であり、畿内に東征に向かう途中だったのですから、
畿内の勢力は倭国ではなかったということもこの一文から伺えるでしょう

37925歳♂公務員試験勉強中:04/11/16 12:06:40
結論、邪馬台国はなかった。全部陳寿の妄想。
380日本@名無史さん:04/11/16 12:13:40
脱解だけではない。その重臣瓢公も倭人と書いてある。
そしてその倭人王脱解の下、倭人重臣瓢公に発見されたのが
慶州金氏の祖閼智である。
381日本@名無史さん:04/11/16 12:46:20
とりあえず>>374-380は畿内説側で掃除しておきます。

>>374 その時代に巨大客船と貨物船でもあったのか?
>>375 >>379 だからまずチラシの裏に・・・。
>>376 >>377 >>380 ここ、あまり釣れませんよ。 
382日本@名無史さん:04/11/16 13:29:48
南朝鮮と北九州は、北九州と畿内よりも関係が深かったのは事実。
南朝鮮も倭と呼ばれていたし。
倭国といえば、南朝鮮・北九州連合のことだろう。
383日本@名無史さん:04/11/16 14:55:00
>>381
他のはともかく>>374などを掃除対称にするのはかわいそうかもな。
確かに未熟で幼稚な意見には違いないが、デムパや荒らしとは違うようだし。
いきなり追い込むってのも少々酷かも知れん。

だからと言ってなあ、テメエの妄想垂れ流して良い訳じゃないぞ!
おまいらリア厨って訳でもなかろう。普段は立派な社会人だろうが。
今まで企画書や報告書のひとつも作成したことくらいあんだろ!
内容の不出来はともかくとしてだ、まず人様に読んでもらえる文章を書け!
真偽以前の問題だ。いいか!意見を文章にて伝える能力が必要不可欠なんだ!
>>382! 1,2行目から何故唐突に3行目を結論として導き出せるんだ?
頭の中で一度整理して、文章そのものに矛盾が無いか遂行してから送信しろ!

どれほど素晴らしいアイデアであろうとも、表現できなければ屑と同じだ。


384日本@名無史さん:04/11/16 15:03:49
そもそも日本書紀や古事記を真面目に検証して何か出てくるのか?
385日本@名無史さん:04/11/16 15:13:42
>>384
いや、ここそういうスレじゃないし・・・
ってか記紀解釈の検証なんてスレどころか板違いだろうが。
ここで今更そんなこと聞いてどうするつもり?
386日本@名無史さん:04/11/16 15:17:10
>>382
実際、半島は胡族の北と倭の南を一緒にして
一つの国にしようとしてきたから無理があった、という面はあるね。
半島南部にいた倭人がふんばって、そのまま日本となれば
自然だったのだろうけど、
倭人は中国北部から東征、南下してきた胡族の侵略に負けたのだ。
朝鮮半島での被差別階級の白丁とかは、半島に取り残された
倭人だったと思われ。
387日本@名無史さん:04/11/16 15:34:16
朝鮮半島南部が倭と呼ばれてた事実はないし
あの辺は明らかに韓族の原住地
大和政権の軍事進出によって日本人が多数移住してはいただろうが
388日本@名無史さん:04/11/16 15:46:14
>>378
>神武が邇邇芸の軍と交戦し

ハァ・・・・
これだけで読む価値なくなるんだよね。
389日本@名無史さん:04/11/16 15:47:08
>>387
だから韓人もいれば倭人もいたんだよ。 
390日本@名無史さん:04/11/16 15:51:12
>>387
さらに言えば、倭人というのは、もともと中国南部(長江流域とか。
華北ではない所)に居た民族が、海人として半島南部や日本の西部に
拡散したのが倭人だからね。元は新羅でもない。
391日本@名無史さん:04/11/16 15:51:34
>>386 4行目まではまあ良いが、その後がまるでだめ。
第一自信たっぷりに「胡族の侵略に負けたのだ」と言い切れる神経がすでに古代史に向いていない。
>>387 1行目は言い切るには早すぎるかもしれない。2行目は通説なので問題なし。
しかし3行目がすべてをぶち壊し!「軍事進出」ってアンタ・・・。
海を越えて大軍を派兵する事が可能かどうか、輸送手段、食料、補給、戦力などを
頭にインプットしてシミュレートしてごらんよ。おのずと答えは出てくるだろう。
392日本@名無史さん:04/11/16 15:56:09
日中韓の歴史資料に日本軍が朝鮮半島に進出したことが記されてるんだけどね
朝鮮人は否定したいらしいが
393日本@名無史さん:04/11/16 16:09:16
>>392 イデオロギーはどうでもいいの、そんなの糞の役にも立たないから。
資料にある「進出」をどういった根拠で「大和政権の軍事進出」だと解釈したの?
まさか「それしかあんめえ!」とかの安直な連想かい?
それは出土品から類推される武器や防具の威力、人的資源の育成と確保、物資の補給と輸送形態なんかを
総合的に考えて出した結論なのか? そうとはまったく思えないが。
394日本@名無史さん:04/11/16 16:12:49
歴史資料をかたくなに否定するほうがイデオロギーだろ
何も朝鮮人のようにありもしない妄想を言ってるわけでない
395日本@名無史さん:04/11/16 16:28:04
>歴史資料をかたくなに否定する
逆だよ、資料なんてそんなに簡単に信じちゃいけないんだ。
文献史学の連中がどれほど多岐にわたる資料比較を行うか知ってる?

時代は随分後になるが、江戸中期辺りにもなるとひとつの事件に対して
それこそ百や二百を超える資料と照らし合わせたうえで
尚且つ当時の政治経済状況やその他、ありとあらゆる可能性を照査したうえで
やっと「仮説」として提出できるんだよ。

古代史は比較検討が困難な為、よけいにそういった作業が重要なんだ。
資料を鵜呑みにするなって。
396日本@名無史さん:04/11/16 16:49:46
弥生時代にはすでに半島に移民してる倭人の存在が証明されてますが
397日本@名無史さん:04/11/16 16:59:15
>>396
それはまた別の話だし、おそらく事実だろう。
問題はそれを「大和政権の軍事進出」と言いきる事にあり。
398日本@名無史さん:04/11/16 17:13:34
誰も弥生時代に軍事進出したなんていってないし
もしかして広開土王碑文も日帝が改ざんしたとか思ってるんじゃないだろうな
399日本@名無史さん:04/11/16 17:24:20
>弥生時代
そんなこと分かってるって、心配するな。
要は3世紀末から4世紀を経て5世紀にかけての半島状況だ。
>広開土王碑文も日帝が改ざんした
有り得ない。調査し尽くした結果、その痕跡はみられない。
君も同じ意見のはずだよ。

君と僕の論点は「倭軍の戦闘力」の評価であり
実際に武力制圧が可能なほどの「戦闘能力」を有していたか否かの問題。
400日本@名無史さん:04/11/16 17:39:09
横レスすまんこってす。
実は俺もずっと知りたかったのでちょうどこの機会に聞きます。
倭国大乱とは、具体的にどんな装備でどんな戦争をしていたんだ?
集団戦か一騎打ちなのか、戦闘員どうしの戦いなのか
非戦闘員をも巻き込むのはありだったのかとか
そんな戦場の実情ってのがどのくらいわかっているのか教えてくれないか。
401一応九州王朝説:04/11/16 18:01:24
>382 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/11/16 13:29:48
  南朝鮮と北九州は、北九州と畿内よりも関係が深かったのは事実。
  南朝鮮も倭と呼ばれていたし。
  倭国といえば、南朝鮮・北九州連合のことだろう。

まあまあw
元のレスはこれですね。その前は・・・・・件の25才クンですか。

この人の論旨はそれほど間違ってないから、あんまり揉めてもしょうがなさそう。
ただ、半島南部が「倭」かどうかはまだ確定してませんが。

ところで、「倭」が3つも4つも出てくるので、従順な民族に冠した一般名詞だという説もありますが、
どうでしょうか?騎馬民族説の論拠の一つでもありましたが。
402日本@名無史さん:04/11/16 19:37:32
ひとにまかせる(ゆだねる)、だもんなぁ・・・ヒトって当然漢民族なんでしょうね。
キョウド(←変換しない)ですら何系なのかはっきりしないのに難しいかなぁ。

でも漢字一文字の塞外民族って聞いたこともないし民族名なのか国名なのか
どっちなんでしょう?いちおう漢民族のグループに入っていた南方系の海洋
国家名が転用されたようなシロウトのかんがえです。
403日本@名無史さん:04/11/16 19:48:54
>>400
こないだ図書館から借りた本(数年前に出た本)に、それについて書いてあった
出土した、兵士と思われる人骨を調べてみると、矢などの飛び道具に当たってなくなったものが多い。
たまに首のない人骨も発見されるが、死後に切断されたような痕跡を残しているらしい。
そして、出土する人骨の数などから推測される、当時の戦法は
遠距離攻撃がメインで、精度もそれほどよくないため、戦死者が少なく、勝負が決しづらかったのではないかということです。
よって、国同士の戦いは長引く傾向にあったのではないか、とのことでした。
404日本@名無史さん:04/11/16 20:23:15
>384
>そもそも日本書紀や古事記を真面目に検証して何か出てくるのか?

記紀は天皇家のコマーシャルソング 歴史資料的価値は無い。
405日本@名無史さん:04/11/16 20:26:24
>>404
鵜呑みにするのは論外だが、だといってそこまで軽視するのもおかしい。
406日本@名無史さん:04/11/16 20:29:43
>>404
ずいぶん進歩的な考えをお持ちなようでw
407日本@名無史さん:04/11/16 21:05:22
>406
進歩的ではなく、現実的なだけよ
40825歳♂公務員試験勉強中:04/11/16 21:36:36
その当時の兵の運用能力は?
九州から畿内へ東征があったとしても
どれくらいの兵力で行えたのか?
数千くらいで畿内を征服できたとは思えませんけどね。

40925歳♂公務員試験勉強中:04/11/16 22:04:49
檜山良昭氏の「戦乱邪馬台国」という本を読みました。
魏の使者に本国の場所を正確にわからなくするために
わざと遠回りをしたのであのような倭人伝の記述に
なったとのことでした。
410日本@名無史さん:04/11/17 00:03:45
半島南部は倭の領土だったのに、なんで否定するの?
任那って知らないの?
チョソのデンパに洗脳されちゃったの?
411日本@名無史さん:04/11/17 00:21:23
↑ お前はこのスレには来ない方がいいようだ
412日本@名無史さん:04/11/17 01:34:16
>>410

それは皇国史観で、明治政府がねつ造して、国民を洗脳したんでしょ。

413日本@名無史さん:04/11/17 07:15:30
史料が信用できないなら、何を信用するのやら。
「歴史の真実」を電波で受信するのかね?
414こんなものが:04/11/17 08:13:45
「邪馬台国論争に終止符をうつスレ」より

228 名前: 25歳♂公務員試験勉強中 投稿日: 04/11/16 21:42:07
ひどい・・頑張って書いたのにw
でもまあ邪馬台国が九州だったとしても
東征はなかったでしょうね。
攻めるほうが兵力運用の面で不利ですし
補給の問題、本国の防備等の問題もある。
狗奴国の存在もあったし東征ができたとは
思えない。かといって大和朝廷に吸収併合されたという
伝説もどこにも残っていない。ちなみに
私は人の話をよく聞き、公務員試験も上級を目指してる
旧帝大院卒の真面目な人間ですよw

↑ もともとこいつの立てたゴミスレだが、晒し上げられているのをわからんらしいw
415日本@名無史さん:04/11/17 08:24:46
畿内より、北九州のほうが鉄器が多いから何だというのか?

邪馬台国畿内説の多くの人は、北九州からの鉄素材奪取戦争の勝利として、
倭国大乱・卑弥呼擁立を考えているわけではない。
だから、鉄の出土量の差は、邪馬台国が九州にあった決め手にはならない。



41625歳♂公務員試験勉強中:04/11/17 09:12:54
任那日本府はなかったというのが定説らしいです。
邪馬台=ヤマトと普通に解釈して、隋書で大和朝廷=邪馬台国。
といってるのでやはり畿内にあったと考えるのが正しいのかな・・
417日本@名無史さん:04/11/17 09:50:30
纏向遺跡から、北九州の土器が出てこないから何だというのか?

北九州の窯は畿内の職人が入って、
庄内式が作られるようになったんだ。
3世紀初頭に、北九州と畿内は連合してたんだから当然のこと。
41825歳♂公務員試験勉強中:04/11/17 09:57:39
邪馬台国が九州だったとしても東征はない。
九州だったら狗奴国は熊襲だし、熊襲の勢力は
4世紀以降もなおも健在。こんな状態で本国の
兵を畿内に向けるなんて自殺行為だ。
419日本@名無史さん:04/11/17 10:44:41
うん、東征はない。
420日本@名無史さん:04/11/17 11:35:39
瀬戸内海の高地性集落が3世紀の間続いていたから何だというのか?

見晴らしのいい高台で、豊かな生活を楽しんでいただけだろう。
畿内〜吉備〜九州は、すでに連合していたのだから、
侵略や抗争や略奪などに備えていたということは考古学的にもありえない。
421日本@名無史さん:04/11/17 12:18:26
>>420
調子に乗りすぎ。高地性集落の衰退は2世紀末から3世紀初頭。ただし
>侵略や抗争や略奪などに備えていた
備えていたのかも知れんが、実際に交戦があったとされる遺跡は本当にごく僅か。
ほとんどの高地性集落は戦争を体験せずに放棄されている。
>>403が答えているように剣や槍を持った勇ましい軍隊同士が
肉弾戦や殲滅戦を行っていた訳ではないことが考古学的に証明されている事実。
学者が東征を事実だと考えていないのは、まさにこれが根拠である。
同様に倭国大乱が鉄資源の「奪い合い」だと考えている学者も少ない。
白石太一郎氏くらいじゃないかな。
ほとんどの学者は食糧危機による混乱と見ている。
422日本@名無史さん:04/11/17 13:05:21
25歳♂は軍隊とか敵対とか、いっぺんそういうものから離れて
食料や貿易といった経済的見地から考察しなおしてみな。

どうもここはえらく詳しい人(なんか素人とは本当に思えない)が
常駐しているようで、その人達が再三言うように
3世紀の時点では強大な軍事力や戦闘力など端から存在せず
軍事国家などは当然ありえないというのが真相のような気がする。
423日本@名無史さん:04/11/17 13:27:36
>3世紀の時点では強大な軍事力や戦闘力など端から存在せず
>軍事国家などは当然ありえない

なんでそんなことがいえるんだ?なにか根拠でもあるのか?
42425歳♂公務員試験勉強中:04/11/17 13:28:26
では邪馬台国7万戸を北九州で養えたのでしょうか?
投馬国も5万戸で九州にあったとしたらこれもかなりの
数字だと思いますが・・
425日本@名無史さん:04/11/17 13:29:36
2世紀末の倭国の大乱は、北九州の鉄資源の奪い合いではありません。
その証拠に、機内から3世紀の鉄器は出土していません。
倭国連合が出来ていたので、戦わなくてもいいので、鉄は不要でした。

で、4世紀になって畿内から鉄の武器が多量に出てくるのはなぜ?
42625歳♂公務員試験勉強中:04/11/17 13:36:02
倭国大乱は、朝鮮半島のほうの力関係が崩れたのが
九州にも影響して、畿内をも巻き込んだ覇権争いに
発展したらしいですよ。
427日本@名無史さん:04/11/17 13:40:45
>>423
過去スレや上のほうで再三言われてるよ。
出土品(特に青銅器や鉄器)には人体を殺傷できるほどの強度が無い。
または対人兵器として有効な形状を成していないって。
実物や写真は書籍等で確認しておくれ。
>>425
鉄の武器なんてほとんど出てないよ。農耕具が主体。
僅かに出る武器類も先に述べてとおり実用的ではない。
むしろ装身具と考えられている。
428日本@名無史さん:04/11/17 13:51:47
>>426
だから「覇権争い」だとかの発想から離れろって!
北九州は畿内を制圧する意思なぞはなっから無いのだし
本州の連合も元はといえば、経済互助組合か生協程度のものだと考えられているのだから。

自分では人の意見を聞いてるように思ってるのだろうが
全くもってダメダメなの、あんた。
「掲示板という公共の場を思いつきのメモ帳代わりにする
君の公共心の無さ」に皆はいらだっているんだ。
そういう人間は公務員にふさわしくない。改善出来ぬなら受験するな。
42925歳♂公務員試験勉強中:04/11/17 16:20:35
ひどい言われようですなあw
まあいいですけど、九州に邪馬台国があったとしたら
何か九州にそれらしき伝説や民話が残ってるはずなんじゃないですか?
430日本@名無史さん:04/11/17 16:28:06
もう相手してもしょうがないし、透明アボーソしる
431日本@名無史さん:04/11/17 16:32:38
学界ではすでに畿内で決着しています。
素人がああだこうだ言おうが、プロの
学者が畿内だと言ってるのだから畿内で決定でしょ。
草野球のチームがプロ野球チームには勝てませんよ。
432日本@名無史さん:04/11/17 17:15:38
というわけで、卑弥呼とは一体誰だったのか考えてみるか。
433日本@名無史さん:04/11/17 18:52:24
畿内で決まりでしょ。
・邪馬台=ヤマト=大和
・隋書曰く「邪馬台国=大和朝廷」
・3世紀時の畿内の銅鐸・古墳・鏡が
 中国地方・九州地方・朝鮮に渡り存在。
 すなわち3世紀時に瀬戸内ルートが存在しており
 九州〜畿内までの連合国家体制が成立していた。
・7万戸を収容できるのは当時畿内だけだった。
434日本@名無史さん:04/11/17 18:53:01
・東征は狗奴国の存在があったから実質的に不可能。
 東征した証拠もない。大和朝廷により吸収併合された
 伝説も残っていない。
・倭人伝の12000里は朝鮮〜倭国入国までが7000里、
 倭国入国から島々の連なりは5000余里に及ぶと書かれてる。
 つまり最終目的地の邪馬台国までが倭国入国から5000里。
・明代の地図には本州は九州の南に書かれている。
・卑弥呼の時代の年号が入った鏡が畿内で大量に出土。
 国内産かどうかは不明だか、卑弥呼に縁がなければ
 こんなものはでてこない。


ここまで言ってもまだ邪馬台国は九州だったと言えますか?w
435日本@名無史さん:04/11/17 19:03:14
公務員試験は?
436日本@名無史さん:04/11/17 19:14:35
古代日本が強大な軍事国家になったのは
巨大な前方後円墳を作れるようになったころだろうな。
すなわち4世紀以降。
437日本@名無史さん:04/11/17 19:16:24
応神からだな。
古墳の規模から考えても
大和朝廷が強大になったのはな。
それまでは連合国家体制。
438日本@名無史さん:04/11/17 20:30:10
>431
プロはプロでも歴史改ざん、捏造のプロの学者チームの話は信用できんよ
戦前の現人神、万世一系なんてのも、プロの偉い大学者先生たちが
推奨したものだよ
戦前からちっとも進歩してない日本人も、まだまだ多いようだね。
439日本@名無史さん:04/11/17 20:35:13
民族派も唯物派ももう少し冷静に書き込みしてくれ。
喧嘩腰は見ている者の体に悪い。
440日本@名無史さん:04/11/17 21:11:59
>>436
違う、巨大な前方後円墳の始まりは
卑弥呼の墓説が有力な箸墓から。
441日本@名無史さん:04/11/17 21:33:51
>>438

だからそういうのはスルーしとけって。学会は云々でもの言ってる奴は自分が
馬鹿だっていってるのといっしょだからなw
自分の考えを書けないんだよ。
442日本@名無史さん:04/11/17 21:52:03
記紀の記載のアウトラインには一定の信頼性を認めたい。
その見地から、九州勢力の東征はあったと思うな。銅鐸が消えた理由も説明出来るし。
ただ、倭の大乱で、九州勢力が東征して、邪馬台国を畿内に作ったという可能性もあるんじゃねーか?
結局、纏向遺跡の年代を決め手にするしかないんだけど、現段階では何も言えんよな。
443日本@名無史さん:04/11/17 22:39:28
>>442
東征ってどうやってやるの?
九州に家族を残して男たち数千人で
海を舟で渡って、周辺諸国を制圧しながら
畿内を制圧したわけ?女・子供を残して本国は
大丈夫なの?数千人を養うだけの補給の問題は?
九州から畿内までの補給路の確保はできたの?
444日本@名無史さん:04/11/17 22:56:00
>>443
記紀だと、神武は日向を出て、あちこち何年もとどまったりしてから、畿内に入っている。
東征が170年頃だったとしたら(畿内説)、熊襲に追いやられて本国を捨てたのかもしれん。
東征が300年頃だったとしたら(九州説)、宇佐の旧邪馬台国勢力の後方支援を受けていたかもな。
445日本@名無史さん:04/11/17 23:08:32
>>444
たしかに2世紀に九州勢力が畿内に入った可能性はあるね。
しかし4世紀の東征はないと思う。
446日本@名無史さん:04/11/17 23:12:53
2世紀に九州勢力が大和に入り、
3世紀に畿内〜九州に渡る連合国家ができていたのも
九州勢力が畿内に入ったからスムーズにいったと
考えられるな。
447日本@名無史さん:04/11/17 23:30:50
2世紀に九州勢力が畿内に入ったとしても、倭人伝からすると
邪馬台国はどうも豊前臭い。

だとすると、九州邪馬台国が熊襲に手こずる間に、分家・親戚の畿内が
着々と国家を築きあげたということ?
だとすると納得できるな。
448日本@名無史さん:04/11/17 23:38:39
>>447
考古学的に見て卑弥呼の時代には
すでに畿内〜九州はつながりがあったんじゃなかったっけ?
だとしたら倭人伝に畿内についてもう少し
詳しい描写があってもいいはず。
449日本@名無史さん:04/11/17 23:40:42
畿内も投馬国に含まれていたのではないの?
450日本@名無史さん:04/11/17 23:41:09
>>416 :25歳♂公務員試験勉強中 :04/11/17 09:12:54
>任那日本府はなかったというのが定説らしいです。

任那日本府は無かった、という説を後押ししたのは
朝鮮系の圧力団体。
しかし、世界の考古学界では、
日本の勢力が、鉄利権獲得で
当時の半島南部に進出していたのは、
完全に定説化している。
451日本@名無史さん:04/11/17 23:43:41
25歳♂公務員試験勉強中
は、何気に
在日朝鮮人じゃないのか?
そういえば、在日の圧力で
朝鮮人でも日本の公務員になれるように
なったんだよね。
452日本@名無史さん:04/11/17 23:43:54
丹波と投馬って似てない?
丹波っていつごろから呼ばれていたんだろう?
453日本@名無史さん:04/11/17 23:44:43
>>449
邪馬台国7万戸に対し、
投馬国は5万戸。
九州邪馬台国のほうが畿内より人口面でも
上だったと?
454日本@名無史さん:04/11/17 23:46:08
任那日本府は
日本国内では皇国史観として
否定されようとしたけど
外国の東アジア研究では
中国の史書に、倭が海を越えて半島南部を支配していた
記述が、たぶんに出てくる。
455日本@名無史さん:04/11/17 23:50:08
>>453
魏には自分(九州邪馬台国)の方が大国だと信じさせようとしたのではないかな。
不弥国以降は伝聞のようだし、多少畿内が魏と通じていても
距離的には九州の方が大陸に近いし、貿易量が九州の方が
多ければ、魏も信じたのでは?
456日本@名無史さん:04/11/17 23:50:11
7万戸というと一戸あたり4,5人が住んでると仮定しても
およそ30万人前後。弥生時代にこれほどの人口が北九州の
一地域にいたとは考えられない・・
457日本@名無史さん:04/11/17 23:52:10
>>456
そうはいっても、やはり倭人伝からは畿内が邪馬台国だとは
到底読めないしねえ。
458日本@名無史さん:04/11/17 23:56:59
>>456
しかし、日本の稲作の始まりが
1000年遡れるとしたら
おのずと話が変わってくる。
俺は、弥生時代の初期に、日本の人口は
400万人くらい居たとみる。
459日本@名無史さん:04/11/17 23:58:15
倭人伝を読む限り戦のレベルは千人規模のもの。
そんなに多くの人口がいたとは思えないな。
460日本@名無史さん:04/11/18 00:00:57
>>459
倭人伝のどの辺?
461日本@名無史さん:04/11/18 00:06:50
倭国を経りめぐれば5000里余りとかいう記述も
明らかにおかしいし、末櫨→伊都までが東北なのに
東南と書いてるし、距離も方角も倭人伝はでたらめw
462日本@名無史さん:04/11/18 00:12:19
>>460
倭では女王の死後男王を立てたが、国中が服従せず、互いに殺し合い、このとき千余人が殺されたという。


国中が争っても千人しか死なないじゃんw
463日本@名無史さん:04/11/18 00:19:20
>>261-262
25歳♂くん、コテハン消してもばればれですぞ。
464日本@名無史さん:04/11/18 00:20:19
すまん。
>>461-462ですな。
465日本@名無史さん:04/11/18 00:25:48
邪馬台国が九州なら投馬国も九州。
水行20日で朝鮮半島から南にいくとなると
現在の熊本あたりか・・熊襲(狗奴国)の
勢力圏と重なりませんか?また5万戸も収容できる
スペースがあったのでしょうか?
466日本@名無史さん:04/11/18 00:25:57
>>461
以前書かれていたけど、地図を見てみて。
末櫨→伊都より60度くらい回転させると
豊前も丹波もほぼ南だよ。

5000里余というのも、畿内から九州まで含めると無謀だが
北九州なら妥当なとこだし。
467日本@名無史さん:04/11/18 00:30:30
対馬〜末路往復だけでもう四千里
末路〜伊都往復で千里。

五千里はこれで終わり。
ちゃんちゃん。

周旋=一周が間違いだろ。
468日本@名無史さん:04/11/18 00:44:44
ヤマトタケルが熊襲征伐にいってるんだけど
このとき北九州なんて完全に無視されてるんだけどw
年代的に見て4世紀前半。つまりこの時点ですでに
北九州は大和朝廷の支配下。
469日本@名無史さん:04/11/18 00:45:37
倭人伝の距離、方角から邪馬台国の所在地を確定しようとするのは無理。
あえていえば、九州説にやや有利かもしれんが、決め手、有力な根拠には、なりえんだろ。
労力をつぎ込むだけ無駄だと思うぞ。
470日本@名無史さん:04/11/18 00:50:10
>>468
それは300年頃に、邪馬台国が東征したという説と矛盾しないじゃん。
471日本@名無史さん:04/11/18 00:52:24
>>470
7万戸、人口推定約30万人まるごとお引越しですか?w
兵を東に向けるほどの余裕があったのですか?
狗奴国(熊襲)が健在で邪馬台国本国を苦しめてるのに・・
472日本@名無史さん:04/11/18 00:54:20
>>462
そういうのは記述の仕方によるだろうがW
ちなみに、戦国時代でも
実際の死者は、そんなに多くない。
だいたい、農耕社会での戦争は、
全兵力の数パーセント死ぬだけで全軍が崩壊して、離散する。
つまり、千余人の死者と考えると
2,3万の兵力同士の戦だったと思われる。
その戦死者の数を信じるなら...

戦国の時代の九州の戦争では
島津、大友、竜造寺の戦争で動員される兵力は
それぞれ2〜3万くらい。
(戦国時代の日本全土の人口は1500万くらい)

戦死者の数が膨大になったのは
近代戦争から...
473日本@名無史さん:04/11/18 00:55:44
3世紀の日本の人口は400万人ぐらい?
474日本@名無史さん:04/11/18 00:59:15
一つ聞いておきたい。
東遷とやらをする理由がなにかあったのか??
475日本@名無史さん:04/11/18 01:00:03
>>471
邪馬台国の一部勢力が東征したと考えれば十分だろ。
3世紀後半には、倭国は何度も朝鮮出兵する余裕があったぞ。
熊襲もある程度落ち着いていたはずだ。
476日本@名無史さん:04/11/18 01:02:25
>>472
誅殺って戦闘行為なのか?
477日本@名無史さん:04/11/18 01:02:33
>>475
一部勢力ごときの東征で
吉備・出雲・畿内の連合軍を
打ち破れましたかね?w
更には朝鮮にまで出兵?
狗奴国にも目をくばったり忙しいですなあww
478日本@名無史さん:04/11/18 01:04:13
>>473
弥生時代、古代の人口は明白なことは分からない。
ただ、2300年前に農耕が急激に伝わったという説なら
日本の人口は、西暦1世紀の段階だと数十万人程度になるけど、
最近、有力になった、4000年〜3000年以上前から
徐々に伝わったとなると、
紀元1世紀の数百万人居たことになる。
479日本@名無史さん:04/11/18 01:04:18
5万戸とか、7万戸とか、誇張に決まってるだろ。
戸籍も無い時代の伝聞を真に受けるなよ。
距離のほうが、よほど信頼性がある。
方位は、若干信頼できない面もあるが。

それで、畿内説の人は、九州から畿内まで瀬戸内ルートがあったという訳?

纏向遺跡は、交易の中心だったのに、
纏向遺跡から、北九州の土器だけが見つからないのをどう説明するのか?
纏向遺跡から、大量の鉄器が出てこない理由は何か?

いろいろこじつけることは出来ても、
北九州と、纏向は交易が密接では無かったと考えるほうがシンプル。
北九州は半島貿易に忙しく、瀬戸内海市場にどういう魅力があったのか?
畿内の巫女に神託を仰ぐ必要がどこにあるのか?=連合する必要があるのか?

これらの疑問を畿内説派から聞いてみるといい。ロクな答えは返ってこない。

480日本@名無史さん:04/11/18 01:05:00
さすがに東征はなかたっと思うが
大和朝廷か狗奴国により滅ぼされた
可能性は若干あるんじゃないか?
481日本@名無史さん:04/11/18 01:08:33
>>479
まず、君の考えで間違っているのは
古代、弥生時代の交易を
近代以後の工業化社会の交易と同じ様に考えていること。

だいたい、工業化社会の前は、基本的に経済は
環境・気候や、それから導かれる農耕生産量と
それによって養える人口によって導かれる。

交易が経済における比重が高まったのは、
化石燃料(石油・石炭)を多く必要とした工業化社会からである。
482日本@名無史さん:04/11/18 01:11:13
邪馬台国は北九州。4世紀前後に大和朝廷と合併。
応神のとき東征し、第一次大和朝廷を滅ぼし
九州・畿内を統一した第二次大和朝廷を成立させる。

これですべて矛盾なく説明できますか?
483日本@名無史さん:04/11/18 01:11:48
九州説派も、大規模な東征があったという伝説を信じるなよ。
実際は東征は無く、畿内勢力が力をつけて、北九州を滅ぼした。

東征が事実とすれば、九州の一部の豪族が、武力で制圧という方法ではなく、
交易をしながら何年もかけて九州から畿内に移動して、
徐々に力をつけて、指導力を買われて畿内の王権の座についたということだろ。
484日本@名無史さん:04/11/18 01:12:06
>>479
>北九州は半島貿易に忙しく、瀬戸内海市場にどういう魅力があったのか?

この考え方自体、近代・現代での交易や経済の考え方だ。
江戸時代までは、国力の源は、
農耕生産量であり、それによって養える人口である。
現在みたいに、人口の大半が、沿岸部や大都市に居住する時代だが、
農耕社会では、人口の80〜90%は農村におり、
沿岸部に固まらず、内陸から沿岸と広範囲に居住している。
485日本@名無史さん:04/11/18 01:13:03
>>481

弥生時代の交易が、どのようなものか、説明してくれ。
話はそれからだ。
486日本@名無史さん:04/11/18 01:13:11
>>481
では邪馬台国7万戸、投馬国5万戸、奴国2万戸。
誇張が多少あったとしてもこれだけの人口を
九州のみで当時養えたのでしょうか?
487日本@名無史さん:04/11/18 01:13:51
>>477
なんで連合軍なんだ。九州説からすれば、出雲はすでに支配下だし、
神武は吉備に8年も滞在しているぞ。はじめから、奈良が敵だったわけではなかったかも。
ちなみに、倭国は300年に朝鮮と和平を結び、345年までは友好関係だぞ。
488日本@名無史さん:04/11/18 01:15:14
>>483
邪馬台国ほどの国が滅ぼされたということが
文献も伝説も何も残っていないのはいかに??
489日本@名無史さん:04/11/18 01:17:35
>>487
神武=崇神だとしても4世紀に当てるのは無理がある。
4世紀後半に応神が存在したことがほぼ実証されてるから。
490日本@名無史さん:04/11/18 01:20:06
>>485
弥生時代の交易や、それにおける経済への影響力は
基本的に、江戸時代や戦国時代などと大差ないと思われる。
この時代、例えば、中国から絹織物や陶磁器が輸入されなくても
別に民は困らないないだろう。(無いよりはマシという程度)
民が何で生きているかというと、やはり食料であり、
自分の近くで取れた農産物である。
農産物が多くとれれば、人口が増え、それだけ経済活動の量が多くなる。

しかし、現在は化石燃料(石油など)を大量に輸入して、その動力を
ふる回転させて経済が成り立っているので、
現代の場合、交易がストップされると
たちまち、経済活動が減速し、大混乱が起こる。
491日本@名無史さん:04/11/18 01:20:26
>>481>>484

弥生時代の交易が、農産物だから、
北九州勢力も、瀬戸内海と交易する魅力があったと言うのか?

では、聞くが、大切な農産物を北九州に売っておきながら、
畿内は鉄器を買い付けなかったということか?
吉備は買っていたようだが。
492日本@名無史さん:04/11/18 01:20:36
実証?
493日本@名無史さん:04/11/18 01:21:01
可能性としては
@邪馬台国=畿内で大和朝廷に発展。
A邪馬台国=北九州で大和朝廷と合併。

現実味のある可能性はこの2つかな・・
494日本@名無史さん:04/11/18 01:24:05
>>490

畿内から鉄が乏しいのは、畿内の農業生産量では、
北九州から鉄器を買い付ける余裕がなかったということだよ。
つまり、畿内に「王」がいて交易をコントロールしていたというような証拠は無いのだ。
反証してみろよ。

495日本@名無史さん:04/11/18 01:24:52
関裕二さんの言うように、
北九州に邪馬台国はあったけど、
畿内と合併したという結論で
よろしいのでは?
496日本@名無史さん:04/11/18 01:29:21
>>491
別に、そういう意味ではない。
弥生時代の交易でも、色々な物が交易されていたが
現代のような石油や原子力を使って
人間の力を超えた動力で経済を回転させているわけではないということ。

なぜ、近代、中国が世界最大の経済大国から転落したか...って話になる。
近代以前は、経済規模=農耕生産量=人口だったのが、
近代以降の、工業化革命(化石燃料を消費した動力で経済を回す)では、
人の力を超えた革命だったので
必ずしも、経済規模が人口に比例しなくなった。
そんななか、人口の多くを海上輸送交易に適さない内陸に抱えている中国が
日本や西欧のような人口の大半が海上輸送に適した沿岸に近いところにある国々に
遅れをとるようになった。
497日本@名無史さん:04/11/18 01:29:32
大和朝廷の王位は最初から世襲制だったか?
これが重要なキーだと思いますよ。
498日本@名無史さん:04/11/18 01:36:47
>>494 :日本@名無史さん :04/11/18 01:24:05
>畿内から鉄が乏しいのは、畿内の農業生産量では
>北九州から鉄器を買い付ける余裕がなかったということだよ。

北九州から鉄器を買い付けるのに
畿内は農産物をうって獲得するわけがないW
現在社会での 工業国が農業国から食糧を買うのとは異なる。
基本的に、畿内だろうが九州だろうが
生存に必要な食料は自給できるし、自給できないと
飢餓がおこり、自然的に人口が調節されるだけだ。

鉄器は、人口に任せて大軍を動員して
圧迫をかけて、支配するだけだろう。
499日本@名無史さん:04/11/18 01:37:27
>>496
それが>>479の答えになってるのか?

>北九州は半島貿易に忙しく、瀬戸内海市場にどういう魅力があったのか?

北九州は、瀬戸内海貿易にどういう魅力があったんだ?
畿内は、北九州と交易していたなら、どうして鉄を買い付けなかったんだ?



500日本@名無史さん:04/11/18 01:39:45
>>498

ようするに、3世紀の間は、北九州と畿内は連合していなかったということだね。
501日本@名無史さん:04/11/18 01:41:27
>>499
鉄の買い付けは
戦国時代の鉄砲の買い付けに似ているね。
最初に鉄砲が伝わったのは九州だけど
人口に任せて大軍を動員して
日本全土を平定したのは畿内・濃尾平野の勢力。
502日本@名無史さん:04/11/18 01:44:41
>>500
連合しているかどうかは
基準が明確じゃないしな...
どこからどこまでが連合で
どこからどこまでが統一か...
日本という国家は、昔から地方分権だし
江戸時代、戦国時代、それ以前だって
統一と分裂の間くらいの関係。
503日本@名無史さん:04/11/18 01:49:26
>>501

実際に畿内は4世紀以後急成長するけど、
それ以前は、北九州の鉄を買えなかった。
瀬戸内海や日本海の商人伝いに鉄を買うしかなかった。
鉄は畿内に流通するまでに、高騰したことだろう。

3世紀の畿内王権は、北九州から安く鉄を買いつけられるほどの力は無かったということ。
考古学的で、素直な見解だよ。
504日本@名無史さん:04/11/18 02:18:27
いや、正直なところ、古代重要視されたのは土地より労働力であって、
人間がいれば開墾できるような土地は無限と思える程存在していた。
おそらく、倭国が鉄を入手するために半島に支払っていた代価は、奴隷だったと思う。
米とかの物資は輸送が困難だけど、人間なら足があるから自分で歩いて行ってくれるし。

あとさー。中世の大友(博多)vs細川(堺)の例で考えてみても、その時代でも堺は
日本のヴェニスと言われる程栄えていたんだから。
半島からの交易船が瀬戸内海を通じて畿内と直接交易しても、別に不思議はないと思う。
要は半島の奴隷商人が九州以外に畿内と交易したいと思ってもいい訳で、九州より多くの
奴隷と、鉄を交換してくれるなら、それもありだろ? 北九州勢力が貿易船を沈める
なんてことはなかった(出来なかった)だろうし。
不条理に人を奪われ続けた鬱憤が募り、それが大ヤマト連合→北九州からの交易権の奪取
に繋がったとすれば、大連合形成の動機も人情的に理解できる。
505日本@名無史さん:04/11/18 02:28:10
>>504

おおむね同意。

>大ヤマト連合→北九州からの交易権の奪取

ようするに、これが実行されたのは、3世紀初めか、3世紀末かということ。
3世紀初めってことはないよな。
北九州は3世紀の間でも鉄で栄えていたんだから。
506日本@名無史さん:04/11/18 02:37:44
おいおい、なんでまた中世なんてずっと後のことを持ち出すのかな。
時代が全くちがうじゃん。
だんだん、宙に浮いた方向に進んでるぞ。
507日本@名無史さん:04/11/18 03:04:12
>>506
時代が違うから話にならないというのは、お前の頭が固いから。
与えられた条件が同じなら、ある程度の結果、歴史法則が推定できる。
少なくとも、お前の脳内妄想よりはマシ。
508日本@名無史さん:04/11/18 04:05:39
>与えられた条件が同じ
お前、アホか?
馬や進んだ船をを乗り回す時代と全然違うだろ。

それこそ中世と、飛行機がある現代を比べるようなもんだろ。
509日本@名無史さん:04/11/18 06:26:47
議論の焦点が次々に入れ替わったり繰り返されたりするばかりで
ちっとも深まっていかないね。このスレは。
510日本@名無史さん:04/11/18 06:41:19
>>468
ヤマトタケルの本名はクマソタケルですよ
511日本@名無史さん:04/11/18 09:24:10
邪馬台国は北九州。3世紀末に朝鮮出兵したのは畿内。
このとき朝鮮出兵のために北九州を押さえる必要があったので
邪馬台国と合併した。しかし畿内崇神王朝の血筋が4世紀末に
絶えたので、邪馬台国の王族をひっぱりだして畿内の王位に就けた。
これが応神。応神のときに九州・畿内は完全に1つとなった。
ゆえに巨大な古墳等を作る力が応神・仁徳にはあった。
512日本@名無史さん:04/11/18 09:26:11
>>509
全く同意。
>>507みたいにのけしかける香具師がいる限り、レベルが上がらんな。
513日本@名無史さん:04/11/18 09:28:35
>>511
>3世紀末に朝鮮出兵
って本当にあったんだろうか?
514日本@名無史さん:04/11/18 09:32:47
>>513
朝鮮側の資料に書いてある
515日本@名無史さん:04/11/18 09:34:52
それは知っているが、信憑性はどうなんだろう?
516日本@名無史さん:04/11/18 09:35:09
応神・仁徳のときに突然巨大な古墳ができるのを
説明するには勢力拡大以外ありえない。
農業生産力が突然はねあがることなど考えられないし、
九州一体が完全に畿内の傘下に入ったとみるべき。
517日本@名無史さん:04/11/18 09:37:37
>>515
信憑性は高いんじゃないの?
4世紀以降たびたび朝鮮出兵してるし
3世紀末からやってても不思議じゃない。
518日本@名無史さん:04/11/18 11:16:52
卑弥呼=日巫女=天照大神で決まりでしょ。
こう仮定するとすべてが一本の線につながる。
天照の子供の天忍穂耳命の妻は万幡豊秋津師比売命。
この名前の中に入ってる、豊=トヨ=台与。比売=宇佐神宮の比売大神。
その4代後が神武。年代的に見て応神と一致。
仁徳は日向の髯長媛を妻に娶っていることから日向との関わりも深い。
519日本@名無史さん:04/11/18 11:35:27
>>518
その通り。
道鏡事件のとき、朝廷から宇佐神宮に神託を求めたことが
すべてを物語っている。
520日本@名無史さん:04/11/18 12:02:52
>518
卑弥呼は歴史上の人物
天照は神話上の人物
まったく関係は無い
521日本@名無史さん:04/11/18 12:28:33
>>519
道教事件って・・・君ちゃんとスレ読んでますか?
神託の話はもう明確に否定されてしまい、宇佐説を採る論者も
まともな人はその話は無関係だと気づいているので決して言わない。
神話大好きなのだろうけど、歴史の謎を探るにはそれだけでは不十分。
語呂合わせや勝手な当てはめは、九州説にも畿内説にとってもすごく迷惑なのさ。
このスレにもたまに>>518みたいな「神話語呂合わせ大好き」が来ているが
ことごとく鼻で笑われている事実に、そろそろ気づいて欲しいな。

ここは本物の研究者や、プロ並みのアマが多いところだから
下手な妄想は、世界中に恥をさらす羽目になる。


522日本@名無史さん:04/11/18 12:33:57
>>518
ちょっと違うと思う。
比売がつくのは沢山いるが、宇佐神宮は比売大神。
そんじゅうそこらの比売とは違い大がつく大神。
つまり比売大神=天照大御神。
台与=豊受大神でしょう。

523日本@名無史さん:04/11/18 12:42:42
>>521
道教事件も別にまともに論破されたのは見てないが。
524日本@名無史さん:04/11/18 12:44:04
この時代の国力を図る上での指標。

産業革命以前のGDPは、自然環境の影響が決定的です。
前近代社会では、1名の労働で何名の食料が生産可能かが問題になりますが、
これが人口増加率と文化の発展の度合いに影響を及ぼします。
農業先進国から順に工業化に成功したことを忘れてはなりません。

この数値は、イネ、小麦など特定の生産性の高い植物に依存します。
この結果、中緯度地帯の人口が多くなるのです。
日本はというと、中緯度としては例外的と言えるほどの降水量があり、
これは多くの米の収穫と、それによる産業活動の余裕を生み出しました。
525日本@名無史さん:04/11/18 12:47:07
>>520
つまり全くもって神話はフィクションだと?
だとしたら神話を書いた人はすごい想像力ですなあw
526日本@名無史さん:04/11/18 12:48:42
応神王朝からGDPが激増したのも
九州・畿内の完全融合で決着。
527日本@名無史さん:04/11/18 12:51:58
>>523
簡潔に纏めると・・・
@(宇佐に神託を確認した理由)そもそも道教自身が「自分を天皇にせよと
宇佐から神託があった」と言ったので、ホンマかいな?とばかりに清麻呂を
遣わせて確認した。だから宇佐が特別なので聞きに行った訳ではない。
A第一、その時代の宇佐神宮の第一神は八幡大神(応神天皇)であり
比売大神は隅に追いやられていた。もちろん道教のお告げも
清麻呂が確認に行ったのも、八幡大神である。

なので例え邪馬台国=宇佐説であっても、道教事件は無関係だと考えられている。
528日本@名無史さん:04/11/18 12:58:24
248年の日食。
卑弥呼=日巫女という名前。
天照の岩戸隠れの神話。
万幡豊秋津師比売命の中に入っているトヨと比売。
神武東征と応神東征、両者の天照からの系譜の一致。
仁徳王朝と日向の婚姻関係。

ここまで言ってもまだすべて偶然の一致であり神話は無関係だと言うのですか?w
529日本@名無史さん:04/11/18 12:59:44
>>527
それだけでは論破には至らないと思うが。
@宇佐に力がないならむきにならずに無視すればよかった。
ところがそれを気にしてわざわざ使いを送っていることから
して、ほっておけないほどの神だった可能性がある。
A宇佐神宮としては、応神の方が先に祀られたが、それ以前より
比売大神は地元で敬われていた。当時の神宮の状況がわからない
以上、隅に追いやられていたかどうかは不明。
530日本@名無史さん:04/11/18 13:00:06
倭、大倭→大和
なんで「やまと」と読ませるんやろな?
531日本@名無史さん:04/11/18 13:02:13
>>527
道教が斉明天皇から邪馬台国=宇佐を聞いていたから
「自分を天皇にせよと宇佐から神託があった」と言ったかもよ

漏れは畿内説、東遷は邪馬台国時代より数世紀前説なわけだが
532日本@名無史さん:04/11/18 13:03:20
>>528
神話は偶然とはいわないが、万幡豊秋津師比売命=台与と比売は疑問
っていうこと。>25歳♂君。
533日本@名無史さん:04/11/18 13:06:21
>>531
なにも斉明天皇から聞かずとも当時は常識だったのかも。
534日本@名無史さん:04/11/18 13:09:40
>>530
邪馬台国=ヤマト国を中心として大いに和す。
これこそ邪馬台国が東遷した証拠。
535日本@名無史さん:04/11/18 13:14:33
>>529 >>531
いやいや、道教にしてみれば
「まさか確認に行くとは思っても見なかった」のだろう。
嘘の神託なのは明白だが、別に住吉でも伊勢でも良かったはずなのに
わざわざ宇佐を引き合いに出したのは、単に都から遠かったためだよ。
事実道教は、清麻呂に対し「宇佐がそう言った事にしておいてくれ」と
清麻呂に対して懐柔している。結局断られ、清麻呂はそれで道教の怒りを買い
穢麻呂(きたなまろ)と解明させられて一時追放されたんだから。
だから宇佐の由緒や地位と、このエピソードは無関係なんだ。
邪馬台国問題の証拠としてはお門違いのお話だよ。
536日本@名無史さん:04/11/18 13:19:55
>>535
もちろんそういった可能性も一つとしては考えられるが、
だがらといって、仮定に基づいたものである以上、道教事件と
宇佐の関係を論破するものではない。
この件では、グレーゾーンといったところでしょう。
537日本@名無史さん:04/11/18 13:22:03
>>535
>事実道教は、清麻呂に対し「宇佐がそう言った事にしておいてくれ」と
>清麻呂に対して懐柔している。
反対の見方をすると、なぜそこまで宇佐のいうことを気にしたのかとも
とり得る。
538日本@名無史さん:04/11/18 13:23:43
>>528
当時小氷河期だった列島で、夜明け近くや日没寸前の日食が
「晴天状態」で両方とも観測できた確率は極めて低いのだよ。
それに卑弥呼=日巫女なのか姫尊なのか日鉾なのか、まだ確定して無いだろうが。
それと東征や東遷は3世紀はおろかそれ以前や以降も、考古学的に否定された。
つまり物的証拠と全く一致しないことが明白だからなんだよ。
詳しくはスレの上のほうを読めばわかる。それくらいはいい加減認めようよ。
539日本@名無史さん:04/11/18 13:25:16
歴史と神話、味噌と糞を一緒にして混ぜ合わせても、クサーイ!だけ
540日本@名無史さん:04/11/18 13:28:28
>>538
東征というのは語弊があった。
崇神王朝の血筋が絶えたので
九州の邪馬台国一族が王に迎えられただけの話。
応神王朝期に統一国家ができ国力が
激増したのも、九州・畿内の力の合併があったから。
それまでは連合体制だった。
541日本@名無史さん:04/11/18 13:31:04
>>537 >>538
グレーゾーンだとしてもだ、だからこそ証拠にするには不十分だと言うことが判るよね。
可能性だけで有罪だと論ぜられたら、君だって堪らないでしょ?
それと他の有力神社(伊勢や住吉など)が「道教はダメ!」って言っても
何故宇佐だけが「道教マンセー」なのか確認しなきゃならないんだよ。
つまり皆が一致するのが原則であって、ひとつだけ違うって事はあり得ないと
考えていたのが当時の自然な神道解釈だと思うけど、どうかな。
542日本@名無史さん:04/11/18 13:39:34
古事記によると仲哀天皇が死んだのは九州に熊襲征伐に
出かけているとき。仲哀8年の9月に九州で死去。
応神が生まれたのは仲哀9年の12月。仲哀が死んでから
1年4ヵ月後に応神が生まれたことになる。こんなことは
ありえません。つまり仲哀と応神の間に血のつながりはない。
葛城氏あたりが九州の邪馬台国から王をひっぱりだしてきたのが
真相だろう。大伴家持が継体を福井からひっぱってきたのと同じようにね。
543日本@名無史さん:04/11/18 13:40:16
>>540
そのタイプの融合はあり得ると思う。
崇神王朝の血筋が途絶えたのかどうかは
武烈天皇のエピソードの信憑性に関わるから、棚上げしとくとして。
お互いに入り婿や婚姻があったであろうというのは
邪馬台国の位置問題とは別に、ほとんどの研究者が認めている。
その時期がいつなのかと言うのが、九州説と畿内説の違い。
また畿内説論者でも、あなたの言う通り最終的に九州出身の首長が
大和朝廷の権力を握ったと考える人もいる。
たいていは血族融合により、皆が親戚状態になったと考える人が多いのだが。
544日本@名無史さん:04/11/18 13:57:14
>>541-543
ちょっと落ち着こうよ。
あまり断定はしない方がいいと思うよ。
545日本@名無史さん:04/11/18 14:13:33
おまいら、邪馬台国もいいけど、最低限の日本史くらい勉強しれよ。
道鏡がなんで宇佐を担ぎ出したか本当に知らんのかよ。
そもそも、>>519のメール欄見れ。

しかし、大分出身の郷土愛に溢れた人は、まだ諦めてなかったのか(w
546日本@名無史さん:04/11/18 15:01:15
>>1-545
何か(考えが)浅いな
違うのは誰が見ても分かるやろ
547日本@名無史さん:04/11/18 15:04:01
でも、神話絡みの話題のほうが、スレとしては活気が出るな。

考古学的な九州説を論ずると、畿内派は反論できずに沈黙するだけだから。
548日本@名無史さん:04/11/18 15:17:37
>>547
>考古学的な九州説を論ずると、畿内派は反論できずに沈黙するだけだから

いや煽ってる訳じゃないのだが、まったく逆じゃないべさ?
オイラはどっちの味方でもないけど、誰が見たってそれ嘘だべさ。
549日本@名無史さん:04/11/18 15:21:14
>>548

あっそ。じゃ、↓に答えてくれる?


3世紀に、纏向遺跡は、交易の中心だったのに、
纏向遺跡から、北九州の土器だけが見つからないのをどう説明するのか?
纏向遺跡から、大量の鉄器が出てこない理由は何か?


北九州と、纏向は交易が密接では無かったと考えるほうがシンプル。
北九州は半島貿易に忙しく、瀬戸内海市場にどういう魅力があったのか?
畿内の巫女に神託を仰ぐ必要がどこにあるのか?=連合する必要があるのか?
550日本@名無史さん:04/11/18 15:24:40
そういう嘘でしか自分を守れないんだよ
悲しいな一部の九州説は・・・

あっ、もしかして鉄のことを言ってるのか?
それならいっぺん発掘に参加してみればいい。
どこの土地でもいい。そうすれば地下水による侵食の影響を
肌で感じられるだろうから。
551日本@名無史さん:04/11/18 15:42:14
>>549
考古学を引き合いに出すからもっと高度な議論をするかと思えば、この程度かい。
>北九州の土器
わずかながら見つかっている。だが
>北九州と、纏向は交易が密接では無かった
これは同じ考えだよ。お互い矛盾してないじゃない。
>鉄
>>550が書いてるが、たとえ北九州の遺跡でも
地下水の影響を受けていない台地上のところだけ
鉄器が発見されるんだ。三雲なんかがそうだね。
畿内はほとんど低湿地。しかし金属による木材加工の跡は
山陰、北陸、畿内、東海、関東とすでに1世紀辺りの遺跡から
続々見つかっている。当然知っているよね。
>半島貿易
その貿易が半島混乱と大陸の覇権争いで上手くいかなくなったからこそ
半島ルートでの輸出入に影響が出たんだろうが。
墳墓の副葬品が一気にしょぼくなるのは、独占輸入どころか
ルートそのものを絶たれた可能性すらあるんだ。
つまり北九州は後漢滅亡後から緩やかに衰退を始め
公孫滅亡で経済的困窮に立たされたと見たほうがシンプルじゃないか?
同様に本州の米や作物、ヒスイなどの産物も買取れなくなったかも知れない。
例え邪馬台国が九州にあろうとなかろうと、九州島だけの作物生産では
クニは養えないんだ。貿易なんてまず無理。
552日本@名無史さん:04/11/18 15:49:33
橿原考古学研究所に就職したいんですが無理ですか?
553日本@名無史さん:04/11/18 16:09:50
親魏倭王の金印を持っていったら、すぐ就職させてくれるよ
必死で探しな
554日本@名無史さん:04/11/18 16:24:55
>>549は沈黙か・・・
無理も無い、一瞬で論破されたのだから心の傷はさぞかし深いだろう。
やはりまともな九州説、早く出てきてホスイ。
555日本@名無史さん:04/11/18 17:05:31
ヤマトって山のあるところっていう意味と違ったか
556日本@名無史さん:04/11/18 17:57:31
ある神主はヤマトとは、山に留まる人 という意味だ
とか言ってた 本当かどうかは知らんが
山はヤマ トは留まるのト という解説だった
山人くらいかな 原義は
557日本@名無史さん:04/11/18 18:06:51
あのう、ホケノ山古墳から鉄器多数出ているんですけど……?
なんで、こんな話になるの???
纏向四世紀説とっている人は全然構わないだろうけど、
これまで地下水による侵食で説明していた畿内派は、都合が悪いから無視??
558日本@名無史さん:04/11/18 18:25:40
>>557
無視はしていない、ただ出土状況がまるで違う。
ホケノ山古墳のケースは石室内。比較的保存性が高かった。
畿内に限らず3世紀と目される墳墓はまだ調査段階だよ。
鉄器出土例は墳墓より集落跡が圧倒的に多い。
その集落跡が台地に多いのが九州なんだ。
一概に出土数だけじゃ言い切れないのさ。
しかしこんなこと本を書くくらいの人なら絶対に知ってるはずなのに
安本とかはわざと隠して、いびつな九州説を唱えているのが罪作り。
559日本@名無史さん:04/11/18 18:27:19
なぬ!ボケノ山 知らんぞボケ

560日本@名無史さん:04/11/18 18:35:59
ボケの山 とは、邪馬台国機内論者の集いのことです
お誤りの無きように・・・・・・・・。
561日本@名無史さん:04/11/18 18:42:59
>>558
オッ、あんた詳しそうだね。
安本ついでに聞きたいんだけどさ。
ホケノ山の「石囲い木槨」は、倭人伝の「棺あって槨なし」という記述に反する、
という安本の批判に対しては、畿内説の立場からは反論ないの?
562日本@名無史さん:04/11/18 19:18:16
ここの人ら、彼女いる?
563日本@名無史さん:04/11/18 19:49:25
彼氏ならいる
564日本@名無史さん:04/11/18 21:16:06
変人ならいるよ
565日本@名無史さん:04/11/18 22:24:21
彼女の前でかっこつけて邪馬台国のうんちく話したら
「頭大丈夫?」って言われた。
566一応九州王朝説:04/11/18 22:43:48
なんか凄いことになってますねw

活気があるのはいいことだけど、下手にレスつけると思いっきり叩かれそう・・・・・。

25才クンは名無しで参加かな?せっかく頑張ってきたんだから通し切れよw
と言っても、歴史板から考古板から、ずっとあっちゃいったりこっちゃいったりでしんどいかもしらんが、
それでも通しきらないと本物になれないから・・・・・。

さて。鉄器の話ですが。
外国では鉄器=製鉄が普通だそうですが、弥生時代の製鉄が国産だったかどうかで全然違う話ですよね、
これって。畿内説の言うように錆びてしまったのなら、余計に粗鋼の生産地も突き止められないし。
確かに現状では3世紀以前は圧倒的に九州での出土が多いですが、何と言っても畿内では発掘禁止の古
墳が多く、不利な面もありますし・・・・・。まだこのことだけで九州説確定とは言いにくいと思いますが。これ
からの発掘次第で変わる可能性もありますよね。
ただ、青谷上寺地の事から強引に鉄は九州だけではなかった、だから畿内説・・・なんて拡大解釈する人も
いたのは笑っちゃいましたがw
>>558さん
>安本とかはわざと隠して、いびつな九州説を唱えているのが罪作り。
これは言い過ぎかと。データとしてまとめられたものは安本氏以外でも沢山あるし、見解として弥生期の九
州の鉄器の優位性を言ってるのは九州説の人だけに限らないと思いますが??それに鉄器=邪馬台国で
はないかもしれないし。

>>551さん

<公孫氏の滅亡=九州勢力の経済的困窮>というのはどなたの説?
邪馬台国については、当初公孫氏への朝貢の予定が滅亡のため、魏に行ったのは途中で予定変更だった
という説もありますが、ともかく親魏倭王の印綬も貰うことが出来、地域的にも一時的には安定したので、交
易はスムーズになったのでないでしょうか。
ヒスイについては、ガラスという最先端技術を獲得したから必要なくなった、ではだめ?原料のガラスは無理
だったにしても、技術も漢や魏との関係の深さの証明と思うけど。

567日本@名無史さん:04/11/18 22:59:02
邪馬台国は北海道。180度方位が違う。
568日本@名無史さん:04/11/18 23:02:07
>>508
>お前、アホか?
>馬や進んだ船をを乗り回す時代と全然違うだろ。

>それこそ中世と、飛行機がある現代を比べるようなもんだろ

アホはお前。外洋航海が出来る程の技術がありながら、なぜ内海である瀬戸内海を
航行できなかったのか、論理的に答えてみてよ。
569日本@名無史さん:04/11/18 23:07:20
占い師に聞いたところ
邪馬台国は静岡県浜松市。
570日本@名無史さん:04/11/19 01:02:49
4世紀になり、畿内が繁栄を始めると、北九州は急速に衰退している。
鉄の問題を絡めて、畿内説の説明では、
大陸の混乱で半島貿易が途絶えたからだという。

問題1
しかし、大陸の混乱は紀元前から断続的に続いており、
それでも半島とは鉄器貿易を続けていた。
朝鮮半島南部と北九州は、局地的な貿易であり、大きな影響があるとは考えられない。

問題2
北九州から鉄が輸入されなくなったとしたら、畿内の鉄はどこから手に入れたのか?
日本の製鉄の歴史は、古くても5、6世紀からだと言われている。
貿易の窓口を出雲などに変更したのか? ならばなぜ変更したのか?
畿内説では、北九州は、3世紀から畿内と同盟していたというのに?
なぜ急に、4世紀から北九州の鉄が、畿内勢力に奪われてしまったのか?

問題3
北九州では、4世紀以後、大きな古墳が作られなくなったのはなぜか?
北九州の王が没落したためと見られるが、
畿内説では、3世紀から畿内と同盟していたはずである。
半島との貿易が途絶えただけでは説明できない。
むしろ、日向などの南九州で、巨大古墳が多くつくられている。
北九州は、4世紀に畿内連合により滅ぼされたのである。

問題4
4世紀の朝鮮半島派兵は、なぜ行われたのか?
それまで、数百年も朝鮮半島と交易をしていた倭国が、
4世紀になって急に半島経営に乗り出すという政策転換は、
政権交代が4世紀に起きたことを示す。
571日本@名無史さん:04/11/19 01:07:14
畿内説は、考古学上のあらゆる矛盾を説明できない。

3世紀の日本では、北九州の邪馬台国、畿内の大和政権が並列で誕生し、
4世紀に、北九州が畿内勢力によって滅んだと考えたほうが、
すべてを簡単に説明できる。

572日本@名無史さん:04/11/19 01:19:47
「衰退した」という前提そのものが違うんだよ。

土器編年、古墳編年と推定だけで年代比定してるから、途中の部分がごっそり抜けてしまってる
だけ。実際最近になって考古研が名古屋大に依頼したいくつかのサンプルは、遺構がずっと連続
していた可能性を示している。だから従来は一端滅んで、大和朝廷時代に復活という説明では無
理になってきている。それに、北九州とでは土器編年の時代区分も違う(九州の方が古い)という
結果も出てきている。編年は畿内説の金科玉条だから必死に隠蔽しようとしてるが、放射年代の
精度が十分に上がってきた今では否定できるはずがない。終いには土器編年自体トンデモ扱いされ
るよw あれはあれで凄いものなのにね。理系に無知な日本の歴史研究者大杉

         この部分(従来はカットされていた)
           ↓
−−−−−・・・・・・・・・・・・・−−−−−−−−

 弥 生     古 墳      飛  鳥

−−−−−・・・・・・・・・・・・・−−−−−−−−

          
  
573日本@名無史さん:04/11/19 01:22:41
畿内説は、とにかく、畿内で一番古い遺跡=纏向=邪馬台国にしたいらしい。
先に結論ありきという姿勢は、石器捏造体質となんら変わらない。

一方、九州に邪馬台国があったという結論がなくても、
3世紀では、北九州優位という事実は変わらないのである。
纏向遺跡からも、北九州の土器は発掘されず、交易が無かったことを示す。

それでも、畿内説は、3世紀の纏向には、北九州を支配できる王権が誕生しており、
大量の鉄器を畿内に輸入していたという。
しかし、その鉄器が発掘されないのは、湿地帯だったゆえに溶けてしまったからだとい。
噴飯ものの反論しかできないのである。

574日本@名無史さん:04/11/19 01:25:55
邪馬台国って沈んだしまのことなんじゃないの?
575日本@名無史さん:04/11/19 01:32:05
問題を整理して考えてみるといい。
3世紀の北九州は、考古学的に、畿内よりも繁栄していたのである。

考古学的な「事実を無視」し、
「本当は大量の鉄器が畿内に輸入されていた」という仮定を持ち出し、
なんの証拠も無いまま、「邪馬台国=纏向」に決め付けている。
これが、畿内説なのである。
576日本@名無史さん:04/11/19 01:51:53
事実誤認している人が多いみたいんなんで、とりあえず事実関係を確認しておきますよ。
1.三世紀頃の半島との交易ルートとして、北九州ルートの他に山陰ルートがあった。
2.鉄製の刀剣類や鏃が、纏向遺跡内の黒塚古墳やホケノ古墳で発掘されている。
3.纏向遺跡の古墳では、吉備地方の土器が多いが、北九州地方の土器も発掘されている。
577日本@名無史さん:04/11/19 02:18:53
>>576
1>北九州にくらべて小規模なルートでしかない

2>生活農具用の鉄器が多く流通していなければ、交流があっとはいえない。
(鉄器が溶けて残らないという反論は、石器捏造と同じく考古学的とはいえない仮説)

3>それでも北九州の土器は、ごくわずかでしかない。

自分で資料をつき合わせて見ることだね。
578日本@名無史さん:04/11/19 02:48:27
以上のことから、邪馬台国畿内説の根拠となるのは、
魏志倭人伝の「水行十日、陸行一月」の記述だけなのだ。
さらに、方位を修正して、やっと「纏向が邪馬台国かもしれない?」という程度のもの。
考古学的な裏づけは、実は何も無いのである。

考古学的には、3世紀の纏向に(北九州を除く)初期の王権の存在を類推できる程度。
3世紀に繁栄していた北九州勢力と、畿内勢力が並立して存在したということは言えても、
畿内に中央集権的な連合国家があったとまでは言えないのである。

これが、正しい考古学の考え方である。

579日本@名無史さん:04/11/19 03:18:52
魏志倭人伝の記述に重きをおくなら、「倭国大乱」を畿内説ではどう位置付けるのか?

畿内の遺跡からは、「大乱」があったという証拠は出てこない。
むしろ、北九州の弥生時代の遺跡のほうが、遺骨の状況から戦乱の後が顕著に見られる。
比較的平和だった畿内で、「大乱」を収束するために巫女を立てるということがあったのか?
580日本@名無史さん:04/11/19 03:31:15
では、百歩譲って、畿内に鉄器が搬入されたのが3世紀だとしてみよう。

そうした場合、石包丁などの石器が鉄器に置き換わるという流れになるはずである。

はたして、畿内では、3世紀から急速に石器が消滅したというデータがあるのか?
そのような資料があれば、ぜひ提示してもらいたい。
581日本@名無史さん:04/11/19 03:55:48
>>580
勝手に百歩譲っといて、「ぜひ提示してもらいたい」とは
あんた嫌な奴だね
582日本@名無史さん:04/11/19 04:14:26
倭国大乱なんて、そもそも無かったんだよ。
583日本@名無史さん:04/11/19 04:51:10
>>580
あんたの立場がわからんから議論にならないんだよな。
邪馬台国はどこだったの? 九州のどこ? 卑弥呼は誰?

鉄器がないと批判されたのは、弥生中・後期の唐古・鍵遺跡の話だよ。
弥生時代の北九州や出雲の遺跡では、大量の鉄器が出土していたのに、
弥生時代の奈良の遺跡からはほとんど出土していなかった。
でも、纏向遺跡はかつては4世紀の遺跡と理解していたから、多量の鉄器が出るのは当然なんだよ。
それが3世紀に遡ったところには問題があって、議論の余地があることは確かだけどね。
ホケノ山古墳からは、鉄剣・鉄鏃・鉄農具など鉄製品130点以上 が出土している。
安本先生のホームページhttp://yamatai.cside.com/tousennsetu/hokenoyama.htm
この点、唐古・鍵遺跡と纏向遺跡の連続性が乏しいことから、他の地域の豪族が纏向に進出したと
考えるのが妥当なところじゃないかな。吉備あたりが一番怪しいけど、これは推測の域を出ない。
あっ、それから箸墓古墳のヤマトトトヒモモソヒメは、日本書紀にも出てくる有名な巫女ですよ。
584日本@名無史さん:04/11/19 04:54:12
それから、出雲地方の最近の発掘データは勉強している?
弥生時代の青谷上寺地遺跡では、大量の鉄器とともに、戦争で負傷したと思われる人骨も多量にでている。
北九州の他に出雲でも出ているのは、倭国の大乱が九州にとどまらなかったという一応の証拠となりうる。
畿内で出ていないのは、戦場じゃなかったというだけの理由かもしれん。
いずれにせよ、出雲地方は研究が遅れているから、畿内、北九州、出雲の三角関係がもう少し解明されなければ、
倭国の大乱の実態はわからんだろうな。
青谷上寺地遺跡のデータhttp://www.hamanoya.jp/kamijithiiseki.htm

他にここら辺はチェックしておいた方がいいだろうな。
「邪馬台国を推理する」http://www7.ocn.ne.jp/~sui-yama/index.htm(初心者向け)
桜井市のホームページhttp://www2.begin.or.jp/sakura/index.html(発掘データ豊富)
邪馬台国大研究http://www.inoues.net/index.html(個人研究、情報量豊富)

ちなみに、俺はどっちでもない。日和見派にすぎない。
纏向の時代測定が決定しないと、議論のしようがないと思っている。
585日本@名無史さん:04/11/19 05:23:47
>>583
>あんたの立場がわからんから議論にならないんだよな。
>邪馬台国はどこだったの? 九州のどこ? 卑弥呼は誰?

「考古学的」に、繁栄していた地域はどこかという、検証を積み重ねるのが先だろう。
邪馬台国がどこにあったかは、その先の問題。
卑弥呼が誰などということは、なおさら空想するしかないこと。
記紀神話から推理するなんてことはしたくない。

少なくとも、3世紀の間は、北九州は栄えていた。
畿内から出土する鉄は乏しい。これは、誰でも認めていることだ。

考古学的な物証が乏しいにも関わらず、畿内に邪馬台国があったという、
3世紀初頭から、畿内〜北九州まで連合した国家があったとか、
仮説の域を出られないにも関わらず、強引な解釈で、
邪馬台国=畿内を前提とする説を批判してるだけ。

考古学的に考えれば、魏の使者が邪馬台国と認識した国は、
畿内よりも、北九州と考えたほうが合理的だ。

たしかに畿内は、3世紀から栄え始めていただろう。
だからといって、畿内中心に、北九州まで巻き込んだ連合国家だとは言えない。

邪馬台国畿内説は、考古学的に不合理で、説得力が無いんだよ。
それこそ、吉備が邪馬台国だったとした方が、まだ聞く耳持てるというもの。
586結論はこれで決まり:04/11/19 09:28:58
卑弥呼=日巫女=天照大神で決まりでしょ。
こう仮定するとすべてが一本の線につながる。
天照の子供の天忍穂耳命の妻は万幡豊秋津師比売命。
この名前の中に入ってる、豊=トヨ=台与。比売=宇佐神宮の比売大神。
その4代後が神武。年代的に見て応神と一致。
仁徳は日向の髯長媛を妻に娶っていることから日向との関わりも深い。


587日本@名無史さん:04/11/19 09:56:08
>>586
取り敢えず、キミは道鏡事件をチラシの裏にまとめてから全てを再考しなさい。
588日本@名無史さん:04/11/19 10:11:26
>>585
そこまで分かっていながらなぜ九州説を採るのかなぁ?たぶん
>3世紀の間は、北九州は栄えていた
ここを勘違いしてるんだろうな。
3世紀初めから中期にかけて、北九州の墳墓から出土する副葬品は
次第に貧相になり、墳墓の規模そのものも縮小されていくのだよ。
同時に2世紀には隆盛を誇っていたと見られる平原・三雲遺跡(伊都国)なども
過疎化が進み、3世紀末にはほぼ放棄された状態になっている。
鉄に関しては>>583氏の6〜8行目が公平な見方だろうね。
それと鉄器が酸化したって見方は決して「噴飯もの」ではないよ。
1世紀あたりの弥生遺跡、特に関東や中部地方で多く確認されている
木製農耕具や建造物には明らかに鉄器での加工跡が認められる。
しかし鉄器そのものはごくわずかしか出土していない。そのわずかな出土例も
少しでも力を入れようものなら砕け散ってしまうくらいに酸化しているんだ。
これらの事実から、ごく自然に導き出された仮説なんだよ。
589日本@名無史さん:04/11/19 10:17:55
それでも、北九州勢力が畿内で共立された巫女に
「ハイ、従いましょう」という外交に出るほど、
2世紀末の段階では、北九州は弱っていなかっただろう。

2世紀末の北九州は、繁栄の絶頂期。武装も完璧。
どういういきさつで、畿内に主権を譲ることになったのか?
考えられる理由は……さっぱりわかりませんな〜。
ご存知であれば、ぜひ拝聴したいものですな。
590日本@名無史さん:04/11/19 10:36:23
鉄器について判明していることをまとめてみる。

@現在の出土例は北九州500余り、近畿100余り
Aその時代区分は北九州が1〜3世紀中頃までが多く、近畿は3世紀末から4世紀が多い。
ただし畿内遺跡のうちホケノ山などは従来4世紀と考えられていたのが、年輪年代法によって
土器編年が遡られたので3世紀に区分されるとの説が有力視されている。
B九州、近畿以外の地域(関東、東海、上越、山陰、中部など多数)で1世紀の弥生遺跡から
鉄製品による木材加工跡が次々と報告されている。
C出土する鉄器の多くは、台地上の遺跡跡か墳墓石室内等の比較的保存条件の良い場所にて発見されている。
低湿地に隣接する遺跡からわずかに出土する鉄器は、ぼろぼろに錆びている。
D全国的に未調査墳墓が多数あり、特に陵墓指定された古墳が多い近畿では十分な調査が行われていない。
よって鉄器の発掘分布データから、当時の貿易状況や各クニの国力を推測するのは極めて困難である。
591日本@名無史さん:04/11/19 10:51:13
>>589
>「ハイ、従いましょう」
これは極端だなぁ、やむにやまれぬ理由があったと思うよ。
その理由なのだが、考えられるのが貿易立国だった北九州連合の
貿易高の減少による穀物貿易の発言力の低下だと思う。
>2世紀末の北九州は、繁栄の絶頂期。武装も完璧。
うーん実情はかなりヤバかったと思うよ。もともと北九州の繁栄は
後漢をバックにした半島貿易での優位性にあったのが
後漢滅亡後には群雄のひとつにしか過ぎなくなり(この辺りが理由で
主導権が奴国王から伊都国王に移ったとも考えられる)実際北九州内でも
例えば吉野ヶ里などは2世紀末には明らかに衰退している。
北九州連合内で貧富の差が明白になり、決して一枚岩ではなかったと考えられる。
それと繰り返し書くけど、武装とか軍隊とかそんな侵略が可能なほどの戦力は無いよ、当時の列島には。
592畿内説纏向派(あと長いので省略):04/11/19 12:46:23
最近のログをざっと読んでみて
>>570 571 573 575 578 579 580 585
以上はおそらく同一人物の書き込みだと推測されますので
「3世紀における北九州邪馬台国連合と原ヤマト連合の並立説」と解釈します。
(出来ればコテハンにしていただきたいのは、こうやってこちらで意見を抽出して
 纏めねばならないからです。そちらも言いたい事が正確に伝わらないですしね)

さてこの説、実は高嶋説といいまして現在考古学会で唯一といって良いほど
唱えられている九州説とほぼ同じ内容です。
ただ惜しむらくは高嶋氏に比べて事実認識の齟齬が多く見られる点です。
その辺りの指摘は>>583-584 >>588 >>590-591が行っていますので
それらと高嶋説、更には森浩一氏の著作などを参考にされれば、より精緻な説に成り得るかと思います。
ちなみに考古学会でも高嶋氏の九州説を否定してはいません、確かに少数派ですが。
現時点での発掘成果から言える事は、二説共々決め手に欠けるという事です。
しかしその決め手を銅鏡や鉄器に求める事もしません。あくまで決め手は墳墓そのものです。
纏向古墳群の調査結果が待たれるのは、そういう理由からなのです。
593日本@名無史さん:04/11/19 13:09:37
>585
>邪馬台国畿内説は、考古学的に不合理で、説得力が無いんだよ。
>それこそ、吉備が邪馬台国だったとした方が、まだ聞く耳持てるというもの。

いや、585はかなり鋭いことを言ってるよ。
594日本@名無史さん:04/11/19 14:16:36
>>592

高嶋説って、ググっても引っかからない。
人の名前だったら、フルネームか本の名前おしえてくれませんか?


595日本@名無史さん:04/11/19 14:58:29
高島忠平氏 ( たかしまちゅうへい ) (佐賀女子短期大学教授)

 1939年(昭和14年)福岡県飯塚市生まれ。1964年(昭和39年)熊本大学法文学部文化東洋史専攻卒業。
同年、奈良国立文化財研究所に入り、平城京跡発掘調査部、文部技官として活躍。
1974年(昭和49年)佐賀県教育委員会文化課に入り、名護屋城調査研究室長、県立博物館・美術館副館長、
吉野ケ里遺跡保存対策室長、佐賀県教育委員会副教育長、県立名護屋城博物館館長など歴任後、1999年(平成11年)から現職。
1989年(平成元年)話題をよんだ吉野ケ里遺跡の発掘調査、保存整備の総指揮をとった。また邪馬台国九州説派の第一人者。
主な著書に「日本城郭史大系 佐賀」(新人物往来社)、「古代史発掘 土器の作り方」(講談社)、「吉野ケ里と古代遺跡」(学習研究社)、
「日本通史 古代1 吉野ケ里」(岩波書店)、「吉野ケ里」(佐賀県教育委員会)、「縄文の宇宙・弥生の世界」(角川書店)など。

596日本@名無史さん:04/11/19 17:19:38
なんだか、その人もデンパの匂いがするな。
597日本@名無史さん:04/11/19 17:31:05
高島さんは吉野ヶ里発掘と保存の功労者。
これは尊敬すべき素晴らしいこと。
でもって学会唯一の九州説提唱者。
これはどちらかというと失笑を買っている。
598日本@名無史さん:04/11/19 18:16:56
学会たって御用学者の集まりではないの?
学閥と派閥でガンジガラメになってんだろ?
なんせ、現人神を創り出した連中の系譜だからな
創造力と妄想力は持ってるようだな
599日本@名無史さん:04/11/19 18:20:57
>>598
そういうのはいくら匿名掲示板でも、ちゃんと調べてから書いたほうがいいと思う。

あっもしかして、キミ「ユダヤの陰謀」とか信じてる人?
600日本@名無史さん:04/11/19 18:31:24
ユダヤの陰謀は信じていないが
ユダヤの陰毛を持ってるよ。
601日本@名無史さん:04/11/19 18:36:22
>>596-600
ハゲシクワロタ 幕間のコントみたいw
それでは後半戦スタート!がんばってください!
602結論はこれで決まり:04/11/19 18:57:38
あの日、あいつはピーターパンになった・・
603日本@名無史さん:04/11/19 21:53:02
あんたの権威主義的決めつけはもういいよ。
別にここは学会じゃないし、古代史学会が如何にアホぶり晒して世間に迷惑と混乱を
もたらしてるかということだろ?高島説が唯一って、それがどうしたって?
多様な意見を認めず、可能性を排除しておいて権威を持ってくる、それは学問じゃない
だろ。でもって異端視された説が真実といわかっても誰も責任取らない。頭下げること
もしない。これを世間では恥知らずっていうんじゃない?

実際都合の悪いレスは無視してるよな。学会の態度そのものw
604日本@名無史さん:04/11/20 00:12:10
つーか、九州畿内の決着はつかんでしょ。古墳が全部調査できないし。

邪馬台国が九州畿内どっちにあったとしても関係ないな、
それより天皇陵とか古墳とか調査させろといいたい。
605日本@名無史さん:04/11/20 00:24:58
>>604

それ同意。むしろその方が大事だと思う。日本という国の最初の形がどんなだったかが
さっぱりわからないんだからね。

ただ、畿内派の中には学者の癖に発掘反対って言うヤシもいるらしいから・・・・・。
606日本@名無史さん:04/11/20 00:42:38
>>603
そりぁ、現状で決着つけるのは無理だけどさ。
ここにいるのは学者じゃないんだから、現在の資料を分析して、
どれだけ説得力のある仮説を打ち立てることができるかという
知的ゲームを楽しめたら、それでいいんじゃないの?
607606:04/11/20 00:53:07
>>603じゃなくて>>604の誤りでした。

608日本@名無史さん:04/11/20 02:53:56
お???
珍しく瞬間風速的に良スレ化してるな。すぐ糞スレに戻ると思うけどw
609日本@名無史さん:04/11/20 03:00:50
「3世紀における北九州邪馬台国連合と原ヤマト連合の並立説」は
学問に配慮しつつ九州説を成り立たせるためのギリギリの踏ん張り。

大和岩雄・安本美典あたりの「一見、九州説。実質は東遷説に名を借りた畿内説」
もこれに近いんじゃないのかな。

どれにしても、そういうむりやりなアクロバットを駆使しないと
九州説は成り立たないところに追いつめられていると。
610日本@名無史さん:04/11/20 03:05:15
「3世紀における畿内邪馬台国と北九州連合説」は
学問に配慮しつつ畿内説を成り立たせるためのギリギリの踏ん張り。

寺沢薫などの論説は痛いほど保守的で、畿内派の典型。

畿内の鉄は溶けて消えたなどと、むりやりなアクロバットを駆使しないと
畿内説は成り立たないところに追いつめられていると。
611日本@名無史さん:04/11/20 03:13:33
>>604&605
天皇陵や古墳は最高権力者の個人的墓だから、
いろいろな諸国や外国からの献上貴重品や輸入品が一緒に
収められているわけで、逆に単にもらったものなのか
作ったのか判別しにくいという面がある。

だから発掘が許可されたらいいとは思うけど、それで明確な
答えがでると期待しすぎない方がいい。
むしろ大規模なエリア単位の発掘(遺跡)の方が、当時の
勢力図の反映が正確にみられる。
612日本@名無史さん:04/11/20 03:21:42
そもそも、これって中国の史書から始まった論争だよね...
邪馬台国が、畿内か九州か分からんけど

仮に九州だとしたら、邪馬台国って、大友・島津みたいなもんで
それと同時期に、織田みたいな大和朝廷があったつーこと?
それとも、九州の邪馬台国が、その後、畿内へ進出して
大和朝廷になったということ...

または邪馬台国が畿内だとしたら
そのまま邪馬台国が大和朝廷になったということか?
それとも、また別の政権が畿内で誕生し
大和朝廷になったということか?

数通りの場合が考えられ
邪馬台国が畿内か九州かという二元論では決して無いことが分かる。
613日本@名無史さん:04/11/20 03:22:59
学会は、革新的な考えは受け付けない体質があるからな。

三内丸山の巨大木柱は、ほったて柱か、建築物かとか、
稲作の始まりは縄文時代かとか、
稲作の伝来は朝鮮半島経由か、中国南方から直接入ったか、
科学的データは、革新的な考えを支持しているが、
保守的な学会は「そういう説も一部にある」程度の認識でしかない。
614日本@名無史さん:04/11/20 03:59:05
畿内説の学者は、纏向遺跡の古い方の古墳は、
三世紀前半に築造といっているようだけど、
年輪年代法による鑑定結果だと、
二世紀末で決まりのはずなんだよね。
遺跡の築造の開始が二世紀後半だと、
倭の大乱の終結の時期に重なり、辻褄が合うはずなのに、
あえて三世紀前半と主張するのは、
土器の時代測定が疑われることになり、
これまでの自分らのさまざまな研究の土台が崩れてしまうという、
自己保身的な思惑によるものと理解して、OKかな?
615日本@名無史さん:04/11/20 06:45:02
安本説を曲解してるやつがいるようだな。
616 出土地不明:04/11/20 07:43:01
倭人伝の邪馬台国が:
九州北部を中心とする後漢鏡配分統治システムの時代、
畿内を中心とする魏鏡を含有する舶載、ほう製鏡を配分統治する
システムの時代---この2つの時代のいずれに最も近いかという
ことであろう。
問題は倭人伝の編集方針においてどれだけ同一時代の事実を
既述したかによるところが大きい。
方向、歴史観が魏と敵対関係にあった呉を相当意識しているのが
記述にある程度のバイアスがかかっていたことを示唆している。
当時としては異例の援助にも似た鏡の流れとこの記述のバイアスには
関係がないとはいえないのではなかろうか。
すなわち、時代は畿内の時代であったとしてもおかしくはないということだ。
617 出土地不明:04/11/20 07:56:11
北部九州から古代舟で一月そこそこのところで鏡分配の中心地
を探すとすれば畿内をおいて他はない。
618日本史@名無しさん:04/11/20 08:24:47
609 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 04/11/20 03:00:50
「3世紀における北九州邪馬台国連合と原ヤマト連合の並立説」は
学問に配慮しつつ九州説を成り立たせるためのギリギリの踏ん張り。

大和岩雄・安本美典あたりの「一見、九州説。実質は東遷説に名を借りた畿内説」
もこれに近いんじゃないのかな。

どれにしても、そういうむりやりなアクロバットを駆使しないと
九州説は成り立たないところに追いつめられていると。

↑ 痛すぎるな。こんな駄レスが出現するからすぐ糞スレ化するわけだが。

>学問に配慮しつつ九州説を成り立たせるためのギリギリの踏ん張り。

なんだろうね、これ。少なくとも学問じゃないよね、こんな言い方。

>大和岩雄・安本美典あたりの「一見、九州説。実質は東遷説に名を借りた畿内説」

言葉で捏造すればいいのか?こいつってどんな風に世の中が見えてるんだろう?

>どれにしても、そういうむりやりなアクロバットを駆使しないと
  九州説は成り立たないところに追いつめられていると。

アクロバット?追いつめられてる?脳大丈夫か?
619 出土地不明:04/11/20 08:39:27
魏志倭人伝の大きななぞは邪馬台国ではなくむしろ投馬国にある。
本来九州にあった鏡・太陽文化が畿内においては巨石、石積みなど
古墳文化に成長しているが、その基層には鉄器の使用の移動がある。
山陰地方の影響を受けて畿内の弥生土器が庄内土器に変化をする。
播磨灘から山陰にかけての一帯に投馬国というものがあり、それが
大和に南遷したと考えたいところだ。いきなり九州から畿内への東遷
ではなく、朝鮮半島南部の倭地を視野に入れた二等辺三角形のような
移動を考えてみたいものだ。
620日本@名無史さん:04/11/20 09:52:12
>>619
直線読みだと、九州から畿内まで水行で一月(水行二十日、水行十日)かかることになるが、
そんなにはかからないと思うが。


621日本@名無史さん:04/11/20 10:02:23
横レスだけど律令制が整ったころ(8世紀〜)に大宰府〜畿内が海路30日と定められているよ
622日本@名無史さん:04/11/20 10:09:07
隋書では、大和は東西5月行と記されている。
つまり、対馬から東海までが5月。
623日本@名無史さん:04/11/20 10:10:53
失礼。
長崎から東海の間違い。
624日本@名無史さん:04/11/20 10:16:35
陸路・海路ともに整備された時代の話だから3世紀は当然もっとかかったはず。
625日本@名無史さん:04/11/20 10:16:54
>>620
それは畿内説に有利な連続説をとった場合だけのはなしでしょう。
626日本@名無史さん:04/11/20 10:24:35
>>614
纏向遺跡の古い方の古墳って石塚古墳や勝山古墳のことですか?
あそこから出土した木製品は年輪年代測定にかけられていないはずですが?
だいたいからして小さく加工された木製品に対して適用できる測定法じゃないし
池上曽根と混同してませんか?

627日本@名無史さん:04/11/20 10:24:56
月はもともとは、邪馬台国の時代、実際に移動にかかった時間を
基にした距離だったのかもしれないが、その後は時間とは切り離されて
独立した距離の単位として用いられたのであろう。

>>624
いくら3世紀でも、長崎-東海を5ヶ月以上かかったとは思えないし
6世紀ごろに5ヶ月かかったとは思えない。
むしろ、3-4世紀当時で5ヶ月とされ、そのまま語り伝えられたので
あろう。
628日本@名無史さん:04/11/20 10:29:34
>>625
放射説を取るにしても陸行一月を説明しなければいけませんよ。
水行ならば二十日、陸行ならば一月というのは、かなり苦しい解釈でしょうし。
629日本@名無史さん:04/11/20 10:33:41
長崎-東海が5月だから、これを5等分すると1月。
ちょうどいい距離でしょう。
630日本@名無史さん:04/11/20 10:35:46
水行20日、陸行1月というのは狗耶韓国から
邪馬台国へいたる1万2千里のことです。
631日本@名無史さん:04/11/20 10:36:43
そういえば、投馬国の話ではなかったっけ。
水行ならば二十日、陸行ならば一月って邪馬台国のことじゃん。
南北3月行だから問題なし。
632日本@名無史さん:04/11/20 10:39:24
>>630
不弥国から邪馬台国までで問題なし。
豊前説で説明可能。
633日本@名無史さん:04/11/20 10:44:10
>>622
この説は面白い。実際の地形はどうであれ
隋書の編者クラスの知識人達はそう考えていたってことだから。
3世紀の陳寿も同様だとは言い切れないが、可能性はある。
634日本@名無史さん:04/11/20 10:51:46
ちょっと整理してホスイ
一口に九州説といってもみんな邪馬台国の位置だと考えている場所が違うんですよね?
>>632は豊前説なのはわかったけどほかの人はどこだと考えてるの?
むしろどこだと考えているからこう解釈するとか書かないと全然意味ないじゃん。
635632:04/11/20 10:55:31
622,623,627,631も私です。
636日本@名無史さん:04/11/20 10:59:22
>>634
宇佐にあったが途中で日向に移動。
神武が日向から宇佐を通って東遷してるのも
これで納得。
637::04/11/20 11:00:57
>>636
理解していただきありがたいです。
638日本@名無史さん:04/11/20 11:02:46
オレは異端派だからw
佐賀あたり(魏略)→鹿児島あたり(魏志)→日向・西都原(卑弥呼以後)
639日本@名無史さん:04/11/20 11:10:39
畿内説は結構具体的なことを書いているので
それに対する反論を読んでみて、畿内説の弱点も分かってきた。
でも九州しかありえないって書く人って、全然具体的なことを書いてくれないね。
九州のどこなの?邪馬台国って。
たたかれはしているけど、マキムクとか宇佐とか西都原とか九州王朝とかみたいに
自分の意見を述べている人に比べると、ちょっと、いやかなり卑怯なんじゃない?
学会を批判している人なんて、邪馬台国がどうと言うより、批判のみが目的でここにいるだけに見えるし。
客観的に見ると、候補地を明示している人たち相手に
まともな論争しても勝てないから反対!だけ言ってる共産党みたい。
特に九州がどうたらって言う人に多いよ。
もう一度聞くけど九州のどこなの?もう遺跡が残ってないんでしょ、九州には。
それと山口県や愛媛県の可能性はないの?少なくとも九州よりはありそうだけど。
なにがなんでも九州じゃないと駄目なのかしら。

で、本当に九州のどこなの?邪馬台国は。
640::04/11/20 11:13:56
>>639
豊前説>>342-344
641日本@名無史さん:04/11/20 11:15:56
639です。
みなさん呼びかけに答えてくれたんですね。
失礼なこと言ってごめんなさい。
でも本当に分からなかったんですよ。
何人かの人がいうように、コテハン化して欲しいのですが無理なんですか?
642日本@名無史さん:04/11/20 11:18:30
神武東遷でほとんど敵と戦っていないことに注目。
これは単なる王を畿内に迎い入れただけのこと。
643日本@名無史さん:04/11/20 11:24:36
応神が畿内の王に迎え入れられたことを
神武東遷という神話の中に投影したものと
考えられる。
644日本@名無史さん:04/11/20 11:27:13
>>641
確かに名無史のままじゃ論争にならん罠。
コテは叩かれるから遠慮したい香具師も多いのだろうが
豊前説氏、一応九州王朝説氏の説などはかなり勉強になるし
マキムク氏なんかは本物の研究者っぽい。
邪馬台国候補地は棚上げでもかまわんので、ここは老舗スレらしく
自説を述べる際はコテハンとのローカルルールを制定すべきじゃないかな。
645日本@名無史さん:04/11/20 11:31:40
>>642
それはどうだろう。
記紀が史実を元にしているとすると、日向より宇佐、筑紫と至り
ここで1年滞在(倭人の暦だから実際は半年だったと思われるが)
と時間をかけて、更に時間をかけながら畿内に向かっている。

ただ迎え入れるだけで、そこまで時間をかける必要があっただろうか。
いわれているような遺跡がないならば、全面戦争とはいかなかったかも
しれないが、ある程度の武力を背景にした小競り合いや交渉を背景に
したと考えた方が自然な気がする。

また遺跡が出ていないのを理由にするのは非常に危険だと思う。
宮崎の東九州道の建設で次々と遺跡が出てきているようだが、
地方に行けば、掘り返されていない土地など無尽蔵にある。
646日本@名無史さん:04/11/20 11:31:43
25歳♂君のように叩かれまくって
結局名無しに舞い戻るのがおち。
647日本@名無史さん:04/11/20 11:33:16
>>645
継体天皇のときも畿内に何年も入れてもらえなかった。
それと似てるとは思わないか?
648日本@名無史さん:04/11/20 11:41:51
>>647
何も筑紫で半年待つ必要があっただろうか。
畿内周辺や吉備(もし畿内説のように広域連合が出来上がっていたなら)
で待たせてもよいのでは。

日向、宇佐、筑紫のいわゆる邪馬台国連合軍が結成され、合同訓練を
行ったような気がします。
649日本@名無史さん:04/11/20 11:42:14
>>609-610
>「3世紀における北九州邪馬台国連合と原ヤマト連合の並立説」
>「3世紀における畿内邪馬台国と北九州連合説」

それってほとんど同じだよね。
650日本@名無史さん:04/11/20 11:44:52
25歳♂君はコテだから叩かれたんじゃなくて・・・
いや死者に鞭打つのはやめとこうw
651日本@名無史さん:04/11/20 11:45:20
在日工作員の私としては、邪馬台国は九州だったが
実は半島に支配されていたという結論に持っていきたいのだが、
古代史が苦手なのと、この板のレベルが高くて書き込めないのです。
652日本@名無史さん:04/11/20 11:48:14
>>639
はぁ?何いってるの?

畿内説が疑わしいという指摘に対して、
じゃあ、九州のどこ?なんて聞き方は子供の喧嘩レベルだろ。

まだ「わからない」が、謙虚で学問的な姿勢なの。
どうして無理やり仮設を立てて、九州のどこそこと決めないといけないのだ?
四国だって候補地になりうる。
653日本@名無史さん:04/11/20 11:49:55
日向・宇佐・吉備が絡んでくるところから察して
神武東征とは応神の東征のことだな。
654日本@名無史さん:04/11/20 11:53:55
なんだかややこしくなってきたぞ。
>まだ「わからない」が、謙虚で学問的な姿勢なの
これには禿胴だけど
では君は畿内説でも九州説でもなくて、まだわからない説ということかい。
でもって候補地を挙げる香具師に対して反論するのが専門なわけかい。
655 出土地不明:04/11/20 11:58:04
横レス失礼。逆に神武も継体と同様で先行する弥生首長系統(磯城県主)
に何らかの系譜をペーストしたものかな。

神武の場合は論理的には墳墓、祭器形態の異なる広域文化圏の全国統合後の
初代がその辺ということで考古学的な図式と記紀編者のコンセプトがたまたま
一致しているようで、簒奪はないようであるが。
656日本@名無史さん:04/11/20 11:59:33
>>654
でも、具体的な遺跡の候補地といえば、やはり纏向しかないんじゃねえのか?
まさか、吉野ヶ里をあげる人はいないだろうし。
そういう意味では、畿内対九州の対立というより、
纏向対アンチという議論になってしまうのは止むを得ないじゃん。
657日本@名無史さん:04/11/20 12:01:06
三王朝交代説とまではいかないが、
応神、継体のところで王朝は変わってるだろうね・・
658日本@名無史さん:04/11/20 12:04:06
>>652
>>639を読むと、畿内説が疑わしいと指摘する行為については別に何も言ってないだろう。
むしろ指摘する者のスタンスの問題を提示しているのではないか。
単なるいちゃもんや難癖をつけるのは誰だって出来るが
それが正しい知識や信念に基づくものかどうか判別できないのが問題なのであって
だからこそコテハン化を希望するのだと俺は解釈したが。
659日本@名無史さん:04/11/20 12:05:44
邪馬台国西遷説を高らかに宣言します!!
660日本@名無史さん:04/11/20 12:09:41
確定的なことがいえないのに、仮説を持ち出してくるやつには、
まず中身を吟味して信憑性を問うのが学問だろ。

畿内説は、もっと発掘しないと確かなことは言えないと認めながら、
畿内説に決まりという態度に出ているのがおかしい。
大いに批判されるべきこと。
661654:04/11/20 12:10:16
>畿内対九州の対立というより、纏向対アンチ
なるほど対立構図としてはそれが大正解だわ。
と言う事は、例えば宇佐説を唱えたとすればアンチの正体は
それ以外の九州説と畿内説の連合軍になる訳か。
おいおい、キッツイなぁw
662日本@名無史さん:04/11/20 12:10:51
在日工作員の私としては、2世紀から古代大和に強大な王権が
あったとは認めたくないので、とにかくアンチ纏向で充分なのです。
大和の人間にふんぞり返らせるなんてくやしいじゃないですか。
お仲間の皆さん、せいぜい大和王権の権威を貶めてやりましょう。
663日本@名無史さん:04/11/20 12:19:29
九州説は、考古学を捏造しなくても、
3世紀の北九州が繁栄していたという事実から、
当然のごとく導かれること。

北九州に邪馬台国があり、同時に畿内に大和文化が芽生えても何の問題も無いのに、
畿内説は、魏志倭人伝のたった数文字の、
「水行十日、陸行一月」をよりどころにして邪馬台国は畿内だと言っているだけ。

では、畿内の邪馬台国の出先機関が北九州にあったのか?
残念ながら、そういう証拠もなにもない。
積極的に畿内説を支持する理由が見当たらない。
664654:04/11/20 12:23:38
>畿内説は、もっと発掘しないと確かなことは言えないと認めながら、
>畿内説に決まりという態度に出ているのがおかしい。
>大いに批判されるべきこと。

まったくもってその通りなのだが
これ畿内説を九州説に置き換えてもなんら問題ないよね。

君がどういう理由で畿内説憎しに凝り固まったのかは知らないけど
スレを読む限りでは「確定ではないが、と断っている九州説」や
「ここから先は仮説になるが、と断ってる畿内説」も 居るでしょうが。
どっちも立派な学問的態度だと思うし
「○○説に決まりという態度に出ている」香具師って別に畿内説だけじゃなく九州説も多いぞ。

前にも書いたが、俺は日和見なのでどちらでもいいのだが
俺には君が「畿内説に対して少なからぬ憎しみを抱き、反発せずにおれない男」にしか見えないのだよ。
よかったらそこまで固執する理由を教えてよ。冗談抜きで学会から嫌がらせされたとかなのか?
665日本@名無史さん:04/11/20 12:27:22
>662
大和の地は泉じゃない欲張りすぎなんだよ。その方が都合が良いのは認めるが。
666日本@名無史さん:04/11/20 12:30:46
>>664

こっちは、ただ、真実を知りたいだけだよ。
仮説と妄想はうんざりしてるだけだ。
667日本@名無史さん:04/11/20 12:32:39
>>626
勝山古墳、石塚古墳の年輪年代測定結果
http://www.kashikoken.jp/from-site/2001/katuyama4b.html
668654:04/11/20 12:35:32
>>663
またスレを読まずに書き込む香具師が・・・

>3世紀の北九州が繁栄していたという事実
畿内説は明確に否定してるぞ。繰り返し唱えてないで否定への反論を書けよ。

>「水行十日、陸行一月」をよりどころにして邪馬台国は畿内
そんなことよりどころにしている畿内説なんていないと思うが
畿内説論者どうよ?俺は少なくとも見たことない。

>畿内の邪馬台国の出先機関が北九州にあったのか
だから強弁はやめて小迫辻原遺跡の畿内説側の解釈に対する反論を書けっつーの。

660氏よ、こんなの見たら「情けないなぁ、九州説は・・・」とか思わねえか?
俺みたいな日和見野郎が、畿内説に説得力を見出したとしても無理なかろう。
669日本@名無史さん:04/11/20 12:43:59
畿内説派の話では、鉄器の出土が畿内で少ないという事実では、
倭国の乱は鉄器の争奪戦ではないという仮説を持ち出すし、
3世紀の畿内では、東海や吉備の土器が集中してるから中心地だという論旨の裏で、
実は北九州の土器は少ないという事実を隠したりとか、
非常に真面目な歴史本でも、そういう作為が見られるのが、腹が立つといえば立つな。

上の方のスレでも書いたが、畿内が繁栄するには、鉄器を使い農具を発達させ、
農業を効率化し、人工を増やさなければならない。
すなわち、3世紀までに「石器」が失われなければならない。
そういう資料を探しているが、まったく見つからん。
知ってるなら出して欲しいものだ。明確な資料があれば畿内説に1ポイントあげるよ。
670654:04/11/20 12:46:41
>>666
真実なんてそんなの当分分かるはずないでしょう。
古代史関連なんてあと50年や100年程度で結論が出ると思えませんよ。
ましてや2ちゃんで真実探ってどうするんですかw

しかしあなたのスタンスはなんとなく理解できました。
要するに「根拠のない妄想や、虚偽の情報を混ぜて展開する仮説を批判する立場」ってことでFA?
671日本@名無史さん:04/11/20 12:52:43
>>670
>要するに「根拠のない妄想や、虚偽の情報を混ぜて展開する仮説を批判する立場」ってことでFA?

そうだね。 空想にはそろそろ飽きてきた。もう少しマシな証拠が欲しい。

だから、畿内から出土する石器に注目したいわけ。石器なら水にとけないからな。
3世紀初頭に、畿内から急速に石器が失われていったなら、
鉄器が普及し始めたという証拠になるだろ。

672654:04/11/20 13:03:13
>>669
>倭国の乱は鉄器の争奪戦ではないという仮説
1世紀には全国的に鉄器が行き渡っていたという事実や
小氷河期による穀物や漁業の不作が各クニの経済基盤を揺るがせたなどから
鉄器争奪の争いではなく、食糧危機による騒乱とみる説のほうが説得力ありますよ。

>実は北九州の土器は少ないという事実を隠したりとか
畿内から北九州の土器が出ると盛んに言ってるのは、畿内説論者の方ですよ。

>鉄器を使い農具を発達させ
上記の通り1世紀には全国的にかなり発達しています。

>すなわち、3世紀までに「石器」が失われなければならない
えっ?なんで?石器と併用して使っちゃ駄目なの?
鉄器のほうが便利だって言うのは単なる誤解でしょう。

>そういう資料を探しているが、まったく見つからん
たぶん無いと思います。第一そんなこと考えてる畿内説そのものが無いでしょうから。
673日本@名無史さん:04/11/20 13:07:10
>>672

>>そういう資料を探しているが、まったく見つからん
>たぶん無いと思います。第一そんなこと考えてる畿内説そのものが無いでしょうから。

あらら。これは、痛いね。
674日本@名無史さん:04/11/20 13:34:19
663ではないが・・・

>だから強弁はやめて小迫辻原遺跡の畿内説側の解釈に対する反論を書けっつーの。

出雲や畿内の影響を受けたと思われる土器が出土しているということであり、
畿内のものそのものとは断定されていないはず。
遺跡よりかなりの建築物があったとされるが、畿内説でいわれるように
畿内政権の出先だったとして、その象徴ともいわれる前方後円墳があっても
よさそうだが、周辺には関連が強いと思われる墳墓があるものの、
当時の前方後円墳が存在しない点が腑に落ちない。
(日田地方で前方後円墳が出来るのは更に後世)

もちろん、畿内勢力の出先であった可能性もあるとは思うが、
北九州の影響が、畿内に広範囲に見られるのと引き換え
今のところこのような遺跡が、九州では日田だけというのも
その影響力が狭い地域に限られていたとも考えられるし、
あるいは、主がたまたま物好きで、比較的瀬戸内に近い土地柄、
畿内と貿易を独占的に行い、利益を得ていたのかもしれない。

逆説的な見方をすれば、九州でも山に囲まれた盆地である日田で、
他の九州と違った独自の文化を作り出し、その一族が畿内に
その文化を持ち込んだ可能性も否定できない。

よって、この件だけでは、九州説、畿内説ともに断定することは
不可能と思う。
675日本@名無史さん:04/11/20 13:48:28
鉄器は、紀元前に既に日本中に広まっていたみたいだ。
しかし、そういうことは、邪馬台国所在説や農耕生産量の増大とは
さほど関係ないと思う。

ここのスレに
鉄器の発達=農耕生産量の増大
と解釈している人が多いが
近代以前の農業なんて、基本的に環境(気候、平野面積など)が全てで
農具や肥料などで飛躍的に生産が増大した出したのは
近代になってからでしょう?
倭国大乱の頃は、基本的に食料の収奪が激しくなる時期になっていたと思う。
農耕時代は、同じ事を定期的に繰る返していたと考えるのが妥当。

よって、倭国大乱は、後の
壬申の乱、源平合戦、南北朝時代、戦国時代など
定期的に発生した、歴史の循環に過ぎないと思われ。
676日本@名無史さん:04/11/20 13:52:10
古代などの歴史解釈での大きな間違いは
近世から近代への時代への移行に起こった
歴史の変化の速度を
そもまま、古代に当てはめてしまうことだと思われ。
677 出土地不明:04/11/20 13:58:52
生産量は耕地面積、人口、天候などの変数だが、鉄はむしろ生産性、すなわち、
古墳建設などへの余剰労働力・・・それと石材、木材加工による慮増、運搬、居住
等の向上をもたらしたと見たいがね。
678 出土地不明:04/11/20 14:00:06
貯蔵って言う字が間違ってる。スマソ。
679654:04/11/20 14:03:22
674
素晴らしい・・・そういうしっかりした反論を聞きたかった。感謝。
>>675ー-676
うん「鉄ルートの簒奪」とか「征服欲」とかのマンガチックな理由じゃないと思う。
もっと地味な極々当たり前の理由で、小規模抗争が続いていたのが真相だと思う。
680日本@名無史さん:04/11/20 14:07:15
抗争といえば食料の奪取だろ。
防衛のためには、武器がいる。
竹槍よりは、弓矢が有効。
で、殺傷力のある鏃の素材は?ということになるのだが。
681654:04/11/20 14:22:38
>竹槍よりは、弓矢が有効
その弓矢って命中率はどうなの?
そういった武器としての有効性をまず考慮すべきだと思う。
>鏃の素材
殺傷力はある程度の硬度があれば全く変わらない。それより「命中させる事」が重要。
弓道経験者には判るだろうが鉄の鏃を装備した矢は、極端に命中率が落ちる。
矢自身の重さとのバランスが取れなくなるためだ。
それより先端を削った木製の矢のほうがずっと使いやすく、当てやすい。
仮に北九州に豊富な鉄があったとしても
当たらない矢を実戦で使い捨てするほど裕福かつ間抜けだとは思えない。
682日本@名無史さん:04/11/20 15:13:46
>>674続き

自分で書いていてなんなんだが、読み返していると小迫辻原遺跡は
むしろ畿内説に不利な気がしてきました。

小迫辻原遺跡は結構な権力があったにもかかわらず、かつ
畿内との結びつきが強いと考えられるにも関わらず、
周辺にある当時の墓は前方後円墳ではない墳墓です。

一方で、その近くの宇佐には、今のところ当時の畿内の影響は
見当たらないのに同時期に既に九州最古級の前方後円墳が誕生して
います。

もし、畿内説のごとく、宇佐が畿内政権の九州進出の足掛かりだと
すれば、同様の遺跡があってもよいと思います。
しかし、弥生末期の別府遺跡にそのような影響があったとは聞いたことが
ありません。
また、小迫辻原遺跡が足掛かりだったとしたら、むしろこちらに先に
前方後円墳が出来るべきだったと思います。

しかし、実際は関係が薄いと思われる宇佐に、先に前方後円墳が
出来ているのであり、宇佐の前方後円墳は、畿内の影響とは
関係なく築かれた可能性が高い気がします。
そして、これは豊前説を補強することになるのではないでしょうか?
683日本@名無史さん:04/11/20 15:38:51
>>682

 『宇佐の前方後円墳は、畿内の影響とは関係なく築かれた可能性が高い気がします。』

 肝心の赤塚古墳からは、椿井大塚や桜井茶臼山のやつと同笵の三角縁が出土してるよ。
684日本@名無史さん:04/11/20 16:00:11
日本書紀には豊葦原中津国、豊葦原宇佐とある。
豊(台与)の国・豊前・大分県の中津と宇佐に間違いない。


685日本@名無史さん:04/11/20 16:09:20
>>683

小迫辻原に比べ関係が薄いということ。
日田と畿内で交易があったのだから、宇佐で同笵鏡がでてもおかしくは
なかろう。
香春岳の銅でつくった物かもしれないしね。
686日本@名無史さん:04/11/20 16:09:35
そういえば、ポルトガルから鉄砲が伝わったのは
九州南部が最初だよな...
でも、日本を統一したのは
九州では無く、畿内の勢力。
687日本@名無史さん:04/11/20 16:13:27
ふーん。
688日本@名無史さん:04/11/20 16:14:35
畿内?
尾張でしょ。
689日本@名無史さん:04/11/20 17:45:06
>>681
>弓道経験者には判るだろうが鉄の鏃を装備した矢は、極端に命中率が落ちる。
>矢自身の重さとのバランスが取れなくなるためだ。
>それより先端を削った木製の矢のほうがずっと使いやすく、当てやすい。

実戦と弓道を一緒にするなよ。無知を晒して恥ずかしくないのか?
戦国時代を見ても弓矢の戦法は、的にまっすぐ狙うのではなく、空に向けて打つ。
当然、先が重い方が良い。

>ttp://kkuramoto.web.infoseek.co.jp/yayoijidai.html
>矢の先に付ける矢尻(鏃)には石鏃・銅鏃・鉄鏃・骨鏃・木鏃・貝鏃があります。縄文時代からある打
>製石鏃は重さが平均1,2gだったものが弥生時代の前半では2~3g,中期には5~6gと重く
>なります。これは重量化して殺傷力を増す為の変化と思われます。

>弥生時代後期には九州は鉄鏃+銅鏃、近畿は銅鏃が主体でした。


690日本@名無史さん:04/11/20 18:08:43
>>672
>>そういう資料を探しているが、まったく見つからん
>たぶん無いと思います。第一そんなこと考えてる畿内説そのものが無いでしょうから。


下の人は九州説みたいだけど、畿内の石器が減少することについて言及している。
データとしては存在するんじゃないのか? 畿内説の人も、もっと勉強すれば?

>ttp://kkuramoto.web.infoseek.co.jp/yayoijidai.html
>近畿の後期における石器の一気の減少・退化と後半には無くなると言う現象も(これを鉄
>器の普及の結果として結び付ける考え方もありますが)
691日本@名無史さん:04/11/20 19:54:16
弥生時代には九州の鉄器が卓越していたが
卑弥呼の時代など古墳時代には畿内が逆転していたから
問題はないだろ。
692日本@名無史さん:04/11/20 22:06:17
諸葛孔明=神武天皇 説を高らかに宣言します。
劉禅に見切りをつけた孔明は天下四分の計を
実行すべく日本に渡り、その天才的な知略で
あっさり日本を統一。神武を名乗ります。
693日本@名無史さん:04/11/21 00:51:52
これだよこれ!
両説とも具体的なデータを出し合って仮説提示する。
その結果お互いに高めあう展開になってるじゃん。
久々にイイ雰囲気だ。
694日本@名無史さん:04/11/21 01:05:28
そこで質問。
鉄器の出土数が九州のほうが圧倒的に多いのは事実だよね。
でその他の地域は酸化して溶けたってのは正直苦しい説明だと思うが
ひとつだけわからない部分がある。
1世紀の段階で鉄による加工跡がみられる木製品が全国的に出土しているというのは事実なのですか?
これが事実だとすると畿内説の言うように酸化したってのも、まあうなずけるが
同様に九州で加工した木製品が伝播したとは考えられないだろうか?
それともうひとつ、弥生末期に鉄の再利用、つまり加工鋳造技術はあったのだろうか?
青銅の技術は確認されているそうだが、そのまま鉄にも応用できるものなの?
695日本@名無史さん:04/11/21 01:31:04
>>694
>1世紀の段階で鉄による加工跡がみられる木製品が全国的に出土しているというのは事実なのですか?
数や分布を示した資料はあると思うが、探してみる。

>同様に九州で加工した木製品が伝播したとは考えられないだろうか?
土器も伝播されていたなら、一緒に流通した「可能性」はあるだろう。

>それともうひとつ、弥生末期に鉄の再利用、つまり加工鋳造技術はあったのだろうか?
加工技術はあったらしい。半島から北九州に鉄板の状態で輸入されていた。
畿内では鉄を鋳潰して再利用を繰り返していたのかも知れない。
いずれにせよ、畿内で鉄は貴重品だったことには変わらない。


696日本@名無史さん:04/11/21 02:58:03
そういえば豊前説のもう一つの根幹をなす香春岳については
まだ触れていませんでした。

香春岳は、現在の筑豊地方にあり、豊前の北西端となります。
この香春岳の銅で奈良の大仏は造られており、それを全面的に
バックアップしたのが宇佐神宮といわれています。
その後も、この香春岳により豊前の銅の生産高は10世紀においても
長門と並び、日本での最高位を保持していました。

さて、その香(鹿)春ですが、銅の採掘・精錬などに従事したのが
渡来氏族集団秦氏であり、この地を拠点とし更に宇佐まで広がった
と考えられます。
697日本@名無史さん:04/11/21 02:59:03
さて、その香(鹿)春ですが、銅の採掘・精錬などに従事したのが
渡来氏族集団秦氏であり、この地を拠点とし更に宇佐まで広がった
と考えられます。

宇佐には渡来人により道教が伝えられていたようだが、道士にとって
必要なものは道(銅)鏡であり、これで吉凶を占ったと思われます。
そして、御輿の発祥とされる宇佐の放生会以前に、銅鏡奉送の
儀礼が原型としてあり、その原点は、香春から宇佐へ、更には
魏から邪馬台国へのものであったのではないかとさえ思えます。

秦氏が本格的に入植したのは、1説では5世紀以降ともいわれますが
宇佐では弥生後期の上原遺跡で発見された銅鏡や銅鉾、まだ末期の
別府遺跡では朝鮮式小銅鐸が発見されていることを考えると、もっと
古い時代に大陸と香春、そして宇佐を繋ぐ線があった気がします。

そしてあくまで推測にすぎませんが、香春でこれだけ銅が産出されながら
豊前でも銅鏡がそこそこ発掘されるものの、周囲の筑紫や畿内に比べ
少ないのは、むしろ豊前が国内産の銅鏡を配る立場にあり、豊前自体が
本拠地であるため、そこまで鏡にこだわる必要がなかったのに対し、
豊前の流れを引く地域では、勢力の正当性の背景を鏡に求める必要があった
からとの気もします。
698日本@名無史さん:04/11/21 02:59:42
奈良の大仏の話に戻りますが、聖武天皇の大仏造立に際し、宇佐八幡が
託宣を下し、天神・地祇を率い誘い、如何なる難事であろうとも、
大仏造立を必ず実現させるであろう、との支持と援助の意向を表明して
います。
そして、以上の点から香春の豊富な銅ならびに秦氏の高度の技術が、
東大寺大仏造営に投入されたと見るべきだと思います。

ところでこの託宣には、注目すべき点があります。
第一に、「天神地祇を率い誘いて」とありますが、天神の中で最高位に
あったのは、天皇家の祖先神である天照大神のはずです。ところが宇佐神宮は、
大仏造立について天照大神の上位に立つことを宣言し、聖武天皇もこれを
承認したと考えられるのです。つまり道鏡事件のみならず、ここでも宇佐が
伊勢神宮の上位とみなされているのです。たとえ、銅の産出と製銅技術を
背景にしたとしても、ただの1地方神にそのような権限を与えたでしょうか?
699日本@名無史さん:04/11/21 03:00:03
第二に、日本全国の天神地祇は宇佐八幡の主導により、大仏造立の支援体制に
組み入れられたのです。宇佐八幡は天神地祇のなかで、仏教接近の最先端に
位置しており、この事実は天神地祇の識るところであったが、大仏造立を
契機として、天神地祇は同じ目標の下に整序せられることとなったのです。

そして第三に、天神地祇、つまり日本の神々は、仏教帰依・仏法擁護の方向に
秩序づけられ、その方向は固定化せられたのです。九世紀になって、神宮寺・
神前読経の慣行が全国的規模でひろがるが、ともあれ神々の仏教接近を決定的
にしたのは、宇佐八幡の託宣であったのです。
700日本@名無史さん:04/11/21 03:11:46
以前宇佐の荘園、本御荘十八箇所について触れましたが、
平安時代の宇佐八幡宮領は豊・筑・肥・日・隅の各国に
わたって百余ヵ所を数え、八千町歩を越える規模でした。
701一応九州王朝説:04/11/21 08:15:13
盛り上がっていますね。ご同慶の至りでw

なにやら邪馬台国比定論争になっているのかな?このスレの本旨ではないけど。

私はまだ何処と断定する勇気はありません。平原、山門郡、天木、八幡、太宰府など、何処も
一長一短あって、よくわからない。まあ距離問題を言い出すと全部アウトの可能性もありますし。

ただ、宇佐説は距離・里程問題から言えば結構有力ですね。

一連の濃いレスの方は、宇佐説ってコテ使って貰ってもいいのかな?
宇佐は現皇室の皇祖神ですし、「何か」があったことは間違いないと思います。
誉田天皇の伝説は、私は九州王朝の、仏教を国教化した王だと思うのですが、問題はそれ以前
からこの地が相当開けていたのは間違いないと言うことです。私は、八万神の伝説は、この地に
仏教の聖地を作る宣言であり、広く流布するための創作ではないか、と。八百万の神を集めて仏
教に宗旨替えさせたw
で、八頭の竜が登場する、初めから神仏混交なども、卑弥呼の後継者として神格を継ぐ王が仏教
も具現する聖王になったということではないかと思うのですが、もしかすると実際に宇佐が邪馬台
国の根拠地だから直接それを意味しているのかも・・・・・。

いずれにしても、伊勢神宮より格が上ですし、伊勢があまり大事にされていなかったのは、一方の
八幡様の隆盛と対照的で、宇佐が邪馬台国のみならず大和朝廷とも密接な関わりがあるのは間
違いないと思います。
702日本@名無史さん:04/11/21 11:25:53
日田のワンダラ古墳からは、豪華絢爛な漢の時代の鉄鏡が出土している。
日田は日下部氏を生んだ土地であり、文字通り太陽に縁がある。
弥生時代には日巫女がいたことだろう。

畿内には太陽にまつわる地名や豪族がいるのか?いや、いない。
703豊前説:04/11/21 11:30:43
>>701

自分の考えからすると、宇佐とすると狭い範囲になってしまうので
豊前説とさせていただきます。

宇佐神宮は、延喜式神名帳では「大帯姫廟神社」と廟の字が
当てられています。
廟は墓の他に霊を祀るところの意味もありますが、神社である以上
霊を祀るのは当然であるにもかかわらず、神名帳では宇佐のみ
更に廟の字が当てられているのです。

実際、宇佐神宮の亀山は古墳であるとの言い伝えがあり、実際に
石室も目撃されているようです。
704豊前説:04/11/21 11:31:28
大帯姫とは神功皇后を指すようですが、神功皇后の存在自体
いまだに疑問視されている上、実在しても大和朝廷の皇后の墓が
宇佐にあるとは考えがたく、また、奈良の五社神古墳が神功皇后陵
とされていることを考えると・・・。

日本書紀で神功皇后を卑弥呼に見せかけていることや、宇佐神宮の
真の主神が比売大神であることを考えると、やはり卑弥呼の墓では
ないかと思っています。
705日本@名無史さん:04/11/21 11:51:15
>>722

日下部氏、○○部系の氏(多くは部民の長)ですね。

『記』では、仁徳天皇が皇子大日下王(おおくさかのみこ)の御名代として大日下部を、
皇女若日下部王(わかくさかべのみこ)の御名代として、若日下部を定めたとあるね。

『姓氏録』では、日下部は開化天皇系で山背・丹波に多い。
首姓、連姓などもあるが日田は君姓だったかな。
706日本@名無史さん:04/11/21 15:00:29
宇佐説の人も、まともなことを書いてるなー。
郷土愛に凝り固まった人みたいに書いて、ごめんなさいm(__)m
707豊前説:04/11/21 15:15:27
>>706
いえいえ、まあ凝り固まっているというのは当たってるようなんで・・・。
708一応九州王朝説:04/11/21 17:12:55
コテありがとうございます。
ここは邪馬台国スレほどではないにせよ、荒らしのターゲットになりやすいので・・・。

私も亀山は卑弥呼の墓として有力なものの一つではないかと思います。例の百体神社の存在も
ありますし。これだけ土地柄もサイズもインパクトもぴったりの墓もあまりないですよね。
ただ、このサイズのものはあまり古墳と思われずにスルーされている所は全国に沢山あるのも間
違いないですが。神社の裏山など未発掘はまだしも、すでに破壊されたところも沢山あると思いま
す。

比売大神が主神というのは、現地の人の中では普通に思われていることなのでしょうか。

祀ることで万世一系を維持してきた日本の皇統の中でも、もし比売大神が卑弥呼(ひめこ?)なら、
卑弥呼は最高位にあると言うことになりますよね。仏教を広める為にも改めて主神格に卑弥呼を最
高位にすえて祀ったということで。ならばやはり天照なのか・・・?

今日はたまたま息子の七五三に行って来たんですが、やはりというか祝詞は「ちくしの ひむかの 
かむろぎの・・・・・」やっぱり筑紫の日向なんですよね。湊川神社に行ったのですが、考えてみれば
こんな新しい神社でも筑紫なのか、とw(ちなみに「つくしの」というのは私は神社では聞いたことがあ
りません。)
八幡が一説には日本の神社の半分近くという話もありますが、案外神社というのはそのまま古い形
を残しているのでないかと改めて思いました。もし畿内王権が政治的にもずっと畿内であったという
なら、捏造の書と言われる日本書紀で筑紫神話を抹殺すればいい話なんですが、それはやはり、祀
るという事の意味を考えても、出来なかったんじゃないのかな、と。ここは畿内説の人にも是非聞きた
いところですが、何故大和(奈良)や河内の神話が起源になっていないのか、或いは何故畿内の覇権
が確定しても新作神話を作らなかったのか?
神主の知人に聞くと、「それはやっぱりたたったらいかんし・・・」と言ってましたがw

東遷か東征か、或いは九州宗家も残っていたのか・・・そのあたりはともかく、八幡様が日本の神道
の最大勢力であり、かつ成立時既に神仏混淆であるという事自体が、日本という国の形ではないか
と思います。
709日本@名無史さん:04/11/21 19:26:29
邪馬台国は北九州。
じゃなかったら応神王朝から
突然巨大古墳が出現する理由がわからない。
誰か説明して。
710日本@名無史さん:04/11/21 19:32:44
>>709

>古墳巨大化についてはたぶんこうだろ。
>
>倭の半島進出、高句麗南下で半島は混乱。
>多くの難民が大阪にくる。
>難民管理と治水等生産性確保のための公共事業
>の必要。それらをかねたのが巨大古墳築造だと思う。
>事実この時期記紀には渡来人を使役しての土木工
>事、およびその他の土木工事の記述がたくさんある。
>そしてその個所は古墳が巨大化する個所とかなり
>かぶる。

これだろ。
711日本@名無史さん:04/11/21 21:30:50
話をぶった切りますが、
最近興味を持つようになった人間からの質問です。

邪馬台国があったとされる根拠は中国の史書だけですか?
もし、そうだとすると書物に載っているという事実だけで
邪馬台国は存在していたと学問的に認められるのですか?

書物に載っているだけの国なんてアトランティスとか
たくさんあるように思えるので、気になります。
712日本@名無史さん:04/11/21 21:35:51
>>711
当に至言だね。
713一応九州王朝説:04/11/21 22:05:00
質問の意図はよくわかりますが。
例えば漢帝国。もし出土品だけなら、名前も何もわからなかったでしょう?大昔
漢という国があって、連綿と歴史書が綴られているから年代測定で漢代の物と
わかるわけです。
日本で言うと、
1、中国も含めて記録や金石文には存在しない → 「唐子」「池上曽根」「吉野ケ里」と仮につける。
2、中国史だけに登場
 a、遺跡が存在
 b、遺跡無し
3、日本の史書にも登場
 a、遺跡が存在
 b、遺跡無し

実は中世や近世でも1も3もあるわけです。名もない磨崖仏、由来のわからない神社・・・。市井の
庶民の記録なんて明治時代でも極めて僅か・・・。
もちろん物的裏付けはあった方がいいわけですが、遺跡だけと記録だけとどちらが説得力があるか
は十分な資料批判の中で洗い出された文献なら分かり易いのは間違いない。
邪馬台国の場合、中国正統王朝に遣使、印綬を貰った、それが後代にも正式な国として記録され続
けているということから、十分な信憑性はあります。中国の歴史書も時代により質の上下はあれど、
下手うてば首が飛ぶことには違いないですからw 
ただ、その記録自体場所の比定まで仕切れないから困っているわけで、実際には既に発掘されてい
るかも知れないし、盗掘や破壊によって残っていないかも知れません。

神話や伝承の類でも、時代が下るほど逆に明確になることも多いのは、その時代には共通認識であ
っても後代の人間には意味がわからないという事もあるわけです。昔の中国でも倭人や倭国は知っ
ていても、実際の邪馬台国の場所や風俗など知っている人の方が少なかったわけで、女王国の存在
や詳しい風俗などが残されただけでも奇跡的と言っていいかも知れません。もっと近隣の周辺民族で
も記録などない所もゴロゴロあるわけですから。
あと、アトランティスは有力な比定地は出てきていますよ。

714豊前説:04/11/21 22:43:05
>>708
>比売大神が主神というのは、現地の人の中では普通に思われていることなのでしょうか。

井沢氏の説で、真ん中に祀られていることは有名になりましたが、
それだけではなく、社前に門「勅使門」があり、参拝者は中に入れず、
この門を通してお参りすることになるのですが、この門は、真ん中の
比売大神のものだけ、明らかに大きいです。
更に、比売大神だけは、一之殿の左脇にさらに北辰神社という
脇殿まで持っています。

また宇佐には、
「宇佐に參るなら大元(御許)に参れ」という意味で歌われる歌があり
裏にある御許山にある奥宮・御許神社を指しますが、ここは比売大神が
「降臨」した地といわれ、将に比売大神が祀られています。

俗っぽい話では、宇佐の神様は女性だから、カップルでいくと
神様が嫉妬するので、いかない方がいいという話もあるようです。
715豊前説:04/11/21 22:54:22
>今日はたまたま息子の七五三に行って来たんですが、やはりというか祝詞は「ちくしの ひむかの 
>かむろぎの・・・・・」やっぱり筑紫の日向なんですよね。

それはおめでとうございます。
神武記を意識していわれていると解釈してよいでしょうか?
この部は、記では「豊の国の宇沙」、紀では「筑紫国の菟狭」と
書かれているものの他、そのものずばり「豊葦原の中国のうさ」
としているものもあるし、「速吸之門」は「速吸の瀬戸」つまり
佐賀関で間違いないと思います。

祝詞については、推測でしかないですが、神主さんを一元的に養成
する際(現在の明治神宮のようなところで)、「ちくし」をとったのでは
ないかと思うのですが。
716日本@名無史さん:04/11/22 00:01:36
>>710
応神になってから突然中国のへの朝貢の頻発。
巨大古墳の出現。勢力域の拡大。
単なる渡来人の増加だけで突如としてこのような
現象は起きません。
717日本@名無史さん:04/11/22 00:06:21
>>716
公共事業だろ。
718鳴海孝之:04/11/22 00:21:28
私の調査によると邪馬台国は
千代大海の故郷であります。
719日本@名無史さん:04/11/22 02:08:45
>>711

http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/syuraku/syuraku.html#makimuku

纏向が邪馬台国とみられています。

まず、邪馬台国と大和国の発音の類似性。
卑弥呼の塚と古墳の関係性。
720日本@名無史さん:04/11/22 02:21:00
>>708
>東遷か東征か、或いは九州宗家も残っていたのか・・・そのあたりはともかく、八幡様が日本の神道
>の最大勢力であり、かつ成立時既に神仏混淆であるという事自体が、日本という国の形ではないか
>と思います。

神社は、すべて同じ系統ではなく、稲荷は古くからの農耕系、
八幡は、新しい秦氏系の氏神を祀るもので、数の多さと日本建国の歴史は関係ありません。

渡来系技術集団の秦王国が国東にあったので、その窓口として宇佐があったのでしょう。
邪馬台国の時代より、ずっと後の話です。
721日本@名無史さん:04/11/22 02:22:58
>>717
「公共事業」と一言で切り捨てるのはどうかと思うがな。
応神以前と以後で、政治的混乱、外交政策の転換があったことは記紀にも記されているし。
王朝交替があったという確証はないけど。
葛城氏の台頭による馬見古墳群の出現、吉備の古墳巨大化などからも、色々な政治的
変化が推定できる。応神以降の大王位の父子相続→兄弟相続への変化も興味深い。
継体が応神の末裔を称したことや、後世の八幡神信仰を見ても、応神のブランドは
重要視された。やっぱり応神は特別な大王だったと思える。
河内に古墳を築いたのは、前王朝の奥津城に立ち入ることが出来なかったというのが
真相ではないだろうか?
722日本@名無史さん:04/11/22 05:27:24
河内に築いたというのは
外国使節に見えるようにということだろう。
巨大古墳の出現には、国家の威信を示さなければならないような
何らかの理由があったんだろうな。
723一応九州王朝説:04/11/22 06:23:59
豊前説さん、レスありがとうございます。
「ちくしのひむか」と言えば、やはり神武記を意識しないわけにはいきませんよね。
それについてはあなたと同意見です。他にも「豊」が冠に付く言葉が非常に多いですよね。
豊秋津州とか。
それと、畿内説の人は「つくし」という言い方が好きなような気がします。知り合いの橿原研
の研究員だった人は「つくしが正しい。みんなそう言っている」と言うのですが、ちくしの方が
古形だと思います。
それと、大和朝廷から1400年は経っているのに何で全国津々浦々で「やまとのかしはらの」
とか「かわちのなにわの」、或いは京都、三輪、伊勢、何処でもいいと思うんですが、なんで
筑紫なのかな?と。

>>720

根拠を示して頂ければ。苦しいときの秦氏頼みというのもありますからw
むしろ秦氏=邪馬台国説もあるくらいですし、秦氏が応神以前の宇佐八幡の主神という説もあ
り、秦氏が王権そのものではないかとも言われるわけで、なかなか一筋縄ではいきません。そ
れ以外にも秦氏に関わる神社は相当古いと言われていますね。

八幡が広がったのは源氏だと思いますが?ただ、じゃあ何故八幡なのかと言うところが大事か
な、と。仏教が国教化して後の時代でも現世神である八幡大菩薩が崇拝され、国家鎮護の神と
して広められたことからも、出雲や筑紫の天孫降臨の神よりも遙かに近く、新しい守護神として
認識されていたのではないでしょうか。出雲、筑紫をしっかり祀り、卑弥呼も祀り、仏教導入の
応神も祀った、神様の正統後継者という事だと思います。

>>719

(゚Д゚)y─┛~~ ググってはっ付けただけじゃねえの?まあいけど。
724鳴海孝之:04/11/22 09:20:54
天照大神=卑弥呼であり、スサノオ=卑弥呼の弟であります。
725日本@名無史さん:04/11/22 11:01:10
天照≠卑弥呼

天照はBC100年ごろ活躍
卑弥呼はAD200年ごろ活躍

ナポレオン=ヒトラーみたいな勘違いはいけません
726日本@名無史さん:04/11/22 11:24:37
>>725
>天照はBC100年ごろ活躍

根拠は?
727≠725:04/11/22 12:17:24
>>726
崇神の5代前だから・・・・
728日本@名無史さん:04/11/22 17:04:13
なるほど、では倭国の大乱は天照以降となりますが、
それに当てはまる記述は記紀にあるのでしょうか?
729727:04/11/22 18:47:25
>>728
つか、欠史八代は後世の系図の焼き直しだと思うに。
崇神−開化−孝元−孝霊−孝安 が、
桓武−光仁−施基王−天智−舒明 にマッチし、
孝安の兄弟のアマタラシヒコ国押人命の子(つまり孝安の従姉妹)
である押媛命が、天照と呼ばれた巫女。
系図では、天照=押媛命=皇極(斉明)女帝、
アマタラシヒコ国押人命=押坂彦人大兄皇子 に相当。
これでいくと、ヤマトトヒモモソヒメ=持統女帝 となったりする。
また、この系図の焼き直し技法は神代にも適用されている。
つまり、
天照−オシホミミ−ニニギ−山幸彦−ウガヤ−神武
アマタラシヒコ国押人命−押媛命(孝安の后)−孝霊−孝元−開化−崇神
押坂彦人大兄皇子−皇極・斉明(舒明の后)−天智−施基王−光仁−桓武
の3連ちゃんコピーになっているのだ・・・・・。
で、ニニギの兄ニギハヤヒは、=天武で後に皇統を天智系にゆずる。

なんちゃってね。


730日本@名無史さん:04/11/22 20:06:07
藻前のなんちゃって話はどうでもいい。
731日本@名無史さん:04/11/22 21:48:21
妄想炸裂ですな
732日本@名無史さん:04/11/22 21:50:35
豊前宇佐説だったら、ここが面白かったな。
ttp://www.din.or.jp/~washi/yamataikoku/paper/index.html
神武=崇神で東征説なんで、安本説に近い。
ただ、最近の議論の動向を考えた場合、自説の論証だけだと、説得力に乏しい。
纏向説をしっかり検証、批判しなければ、面白い仮説で終わってしまう。
733727:04/11/22 22:07:32
神武=崇神 と仮定して系図を睨み、天照に相当する人を探してみた。
そしたら、アマタラシとかそれらしい名前が出て来るじゃん。
ワクワクしたよ。
734鳴海孝之:04/11/22 23:30:18
神武=応神 です。
735日本@名無史さん:04/11/23 00:18:54
神武=崇神=応神なんじゃねえの?
736老教授@畿内説纏向派:04/11/23 00:26:22
>一応九州王朝説氏
まずは御子息の七五三のお祝いと共に今後のご健勝をお祈りいたします。
>豊前説氏
大変興味深く読ませていただきました。
これほどの論客がいらっしゃるとは・・・流石2ちゃんの日本史板。
一応氏と共に、スレ屈指の九州説を展開される知識と力量に
正直畿内説の私めも唸らされるばかりです。

では>>711氏の疑問に一応氏が文献学の立場でお答えされていますので、考古学的見地から補強をば。

倭人伝の記述のうち、その実在を証明するはずの位置や道程にはかなりの瑕疵があると考えられます。
異論がある方も大勢居られるでしょうが、未だに確定していない事から実在の証拠としては心許ない。
むしろ風俗習慣記事と考古学成果をつき合わせた場合に
(倭人伝)潜水漁法についての記述→「鮑おこし」と呼ばれるテコの原理を応用した道具が多数出土している。
 また発掘遺骨より潜水病の一種である外耳性骨腫の痕が湾岸部を中心に多く確認されている。
(倭人伝)弓は下を短く、上を長く持つ→銅鐸に刻まれた絵柄と一致する。
(倭人伝)生野菜を食す→寄生虫の卵の化石が各地の遺跡跡から発見されている。
(倭人伝)鯨面文身(イレズミ)→人面土器や土器の絵柄に該当するものあり。
 また再葬時、生前を思わせるかの様に朱丹で装飾を施した頭骨が多数出土。
この他に、動植物の記述が完璧とは言えないものの高い一致性が見られる。
生活習慣(上戸・下戸のやりとりなど)が後世までの列島習慣に一致している。

これらの点から、単なる伝承や推定だけでは記述できない具体性があると考えられます。
737日本@名無史さん:04/11/23 00:38:56
見大人所敬、但搏手以當跪拜
「大人の敬する所見るに、ただ手を打って以って跪拜に当てる」

これなども今でも神社でやっているだろう。
738日本@名無史さん:04/11/23 01:27:55
大分の人が「日本書紀は何故荒唐無稽な本にしたか」という本を出しています。
陸士卒の方というと、よく自説の邪馬台国本を出しますが
今ひとつ世間の耳目を集めぬまま消えてゆくのも少なくない。
ところが、この本は結構面白かった。

卑弥呼は天照大神、邪馬台国は九州、
しかし卑弥呼は魏に処刑されてしまったので
子孫が近畿に逃げた、倭の五王は近畿、ということです。
一大卒を置いてたのは魏、とか、ハッとする部分がありました。
739日本@名無史さん:04/11/23 01:36:02
道で下民が大人(支配階級)に出会うと、端によけて膝をつき手を数回打って頭を下げる。
大人どうしで身分に上下がある場合は、下の者がその場に片膝をついて2度手を打つ。
卑弥呼に謁見する場合は、高殿の前庭に進み出て、両膝をつき2礼4拍手1礼をもって拝する。

740日本@名無史さん:04/11/23 03:32:30
>>736

畿内説さんへ

>むしろ風俗習慣記事と考古学成果をつき合わせた場合に
>(倭人伝)潜水漁法についての記述→「鮑おこし」と呼ばれるテコの原理を応用した道具が多数出土している。
> また発掘遺骨より潜水病の一種である外耳性骨腫の痕が湾岸部を中心に多く確認されている。
>(倭人伝)弓は下を短く、上を長く持つ→銅鐸に刻まれた絵柄と一致する。
>(倭人伝)生野菜を食す→寄生虫の卵の化石が各地の遺跡跡から発見されている。
>(倭人伝)鯨面文身(イレズミ)→人面土器や土器の絵柄に該当するものあり。
> また再葬時、生前を思わせるかの様に朱丹で装飾を施した頭骨が多数出土。
>この他に、動植物の記述が完璧とは言えないものの高い一致性が見られる。

このような、畿内説有利に見える論拠を示されるのもよろしいが、
同時に「北九州ではこれらの状況証拠は見られないのか?」という疑問があります。
北九州は、漁業はしていなかったのか?
北九州の弓は、上下が同じ比率だったという証拠があるのか?
北九州には寄生虫はいなかったのか?
イレズミは、むしろ南方系風俗ではないか?

これらの問題を棚上げして、あたかも畿内悦有利のように導く、
そのレトリックが、素人をうまく騙すサギ商法と同じだという自覚はおありなのか?


741日本@名無史さん:04/11/23 03:47:17
>>740
畿内説さんは、邪馬台国が架空のものではないかという>>711の疑問に答えただけで、
畿内説の論拠を示したわけじゃないと思うぞ。
742日本@名無史さん:04/11/23 03:57:04
>>741

そうかもしれないが、畿内説の優位性を語ってるようにも見える。
こっちもむやみに煽りたくは無いが、反論はせざるをえない。

畿内説でも、九州説でも、
証拠を比較しながら語ってくれると、
こっちも理解を深めやすいのだが。

例えば、魏志倭人伝には、倭の地は「周旋五千里」とあるが、
果たしてこれも距離の誤りなのか?
本州全体を倭の地と考えるより、九州のみを示していると考えたほうが妥当ではないのか?



743老教授@畿内説纏向派:04/11/23 04:32:43
>>742
いやあ、まったくそういう意図はなかったんですがね。
銅鐸を引き合いに出したからそう見えるのかも知れませんね。
それ以外は列島各地で確認されている事項ですよ。

>倭の地は「周旋五千里」
あえて誤解を恐れずに畿内説の基本的スタンスを述べます。

「倭人伝の方向及び距離に関する記事の信憑性は、かなり疑わしい。」

これは東を南と誤記(誤写)したなどという大昔の見解によるものではありません。
現在ほぼ位置が確認されている対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国への行程記事が
方向的には反時計回りに30度〜65度ものズレがあること。
また距離的にも(長短里論争は置いといても)相当な誤差があること。
この2点がネックになっているためです。

その時代に正確な測量なぞ望むべきではないので、仕方のない事なのです。

念の為に・・・上記根拠は畿内説にとって決して有利ではありません。
むしろ列島内のどこにでも比定出来る分、更に混迷化するのですが無視する訳にはいきません。




744豊前説:04/11/23 05:35:42
>>743

当方素人の気ままさにて、気楽に書かせて頂いてますゆえ
とんだ見当違いもあろうかと思いますが、宜しくご教示
ください。

なお、邪馬台国の方位については、以下のように考えています。
>>142-143,>>160,>>164
745日本@名無史さん:04/11/23 06:54:18
>>743

「方位や距離が疑わしい」という認識であれば、
当然、「邪馬台国7万戸」という記述も疑わしいと見るべきですよね?

実際は、女王国は、大きなクニではなかったも知れません。
集落の規模でも、邪馬台国の位置は決められないということで、
共通認識を持たれますか?


746老教授@畿内説纏向派:04/11/23 07:31:24
>>745
記述に一致するに越したことはないのですが、同意ですね。
私自身も纏向のみで7万戸もあったなどと図々しい事は考えていません。
畿内説の立場に立つならば、畿内全域プラスアルファの数字に成らざるを得ませんから。
かといって集落跡以外の場所を想定するのもやや困難かと思います。
例えば豊前説氏の提唱する範囲などは充分考えられます。
これは投馬国の五万戸も同様です。奴国の2万戸さえも実数だとは言い切れないかもしれません。

ところで伊都国の1千戸についてはどうお考えでしょうか?
私は三雲、井原、平原の規模からして魏略の1万戸の方が正しいのではないかと考えていますが。
また末盧国も宇木汲田、桜馬場などから、少なめに書かれているように思えてなりません。
倭人伝記事が作為のある水増し報告ではなく、単なる事実誤認ではないかとの気がしてなりません。
747鳴海孝之:04/11/23 08:56:58
東征しても邪馬台国じゃ畿内には勝てない。
748一応九州王朝説:04/11/23 09:28:24
おはようございます。愚息がもう一度千歳飴くれといって五月蠅い朝ですw

>>740=>>742さん、巻向さんはそんな方じゃないですよ。宜しければスレコテ作って
頂ければ。(こう言い過ぎて人が散ってしまってもあれですがw)
でも、スレが落ち着いてきてように感じます。
749日本@名無史さん:04/11/23 09:42:24
人口標記については、玄海諸国の実態を基に倭人からの伝聞も加味した推定値だと言う説があっただろう。

  玄海六カ国 < 投馬 < 邪馬壹  このような人口伝聞があったと仮定すると

所見により判定した小国(對馬千、一大三千、末盧四千、伊都一千、不彌一千)の合計が一万余
さらに、奴は小国5カ国の合計よりもっと大きい(郡使等所見) → 推測値 二万余
投馬は、玄海六カ国の合計より、さらに大きい(倭人より伝聞) → 推測値 五万余
邪馬壹国は、投馬国より、さらにさらに大きい(倭人より伝聞) → 推測値 七万余

こうすると  玄海六カ国 三万 < 投馬 五万 < 邪馬壹 七万 となり
中国人好みの三・五・七の完成です。
750豊前説:04/11/23 12:01:51
陰陽5行説ですね。七五三の後に持ってくるとは心憎い演出ですね。

ストレートに3・5・7となっていれば、明らかに数合わせと分かるのですが
3が合算しないと出てこないので、本当のところどうなんでしょうね。
偶然にしては確かに出来すぎの気もしますが。
751豊前説:04/11/23 12:31:32
纏向氏(やはり以前のマキムク氏は同一の方なのですね。その節は
ありがとうごさいました)は、伊都国などを遺跡の規模から推定されて
いますが、素人の自分には見当がつきません。
以前一応氏がいわれたように、見た目の印象なのかもしれませんね。
752豊前説:04/11/23 12:39:00
>>740さん、一応氏も言われているように、多くの畿内説の方が、
倭人伝の信憑性を否定する中、(おそらくはむしろ畿内説には不利と
なるのも承知の上で・・・私の思い込みかもしれませんが)纏向氏は
客観的な事実からこれを肯定しているだけです。
そして、それは考古学的裏付けにもとづいて邪馬台国の存在を
考えるという氏の真摯な態度の表れと思います。

むしろ、自説の主張のため、倭人伝の一部が怪しいからすべて怪しいと
したり、逆に一部が正しいからすべて正しいと短絡的に結びつけたり
する本末転倒な態度こそ、自分もお互いに含めべき戒めていくべきこと
と思います。
753豊前説:04/11/23 12:41:56
ありゃ・・・
自分も含めお互いに戒めていくべきことと思います。
754日本@名無史さん:04/11/23 12:59:18
なぜ倭人伝だけが戸数・里数を信用できないといえるんだ?
それなら三国志ぜんぶの数字が信用できないだろう。

基本的にありえないよ。
755日本@名無史さん:04/11/23 13:01:07
>自説の主張のため、倭人伝の一部が怪しいからすべて怪しいと
>したり、逆に一部が正しいからすべて正しいと短絡的に結びつけたり

そんな奴いるのか?
すべてあやしかったらそもそも倭人伝からの推測はできないじゃん。
すべて正しいのならなんの議論もおこらないはずだし。
756一応九州王朝説:04/11/23 14:05:00
>そんな奴いるのか?

いるから困るw
まあ津田史学の欠陥と言うよりは、それを乗り越えるべき学者さん達が、ただ尻馬に乗って
おいしいとこ取りするから記紀研究がぐちゃぐちゃになってしまった面が多分にあるわけで。

もし記紀がなかったら、倭人伝がなかったら、と考えると、ずいぶん貧困なものでしかなかっ
たでしょうね。古代のイメージも。出来れば風土記全部残して欲しかったですが。

中国の混乱期の4、5世紀に古代日本のイメージが乏しいのも、いかに文字の記録が大切か
ということの裏返しです。
要は、正しい資料批判の元、使える部分は使うというのが正しい資料の扱いかと思います。
残念ながら未だに学者さんの本でも記紀はいい加減で、とか、捏造が多すぎて、とかいって
無視する人もおられるわけで。
757日本@名無史さん:04/11/23 15:20:54
>>754
時の実力者の都合で、元となる資料を書き換えることはよくあることらしいよ。

当時の魏の皇帝の配下に、曹真、司馬懿という二人の有力者がいた。
そのうち曹真が西域に遠征し、大月氏国(アフガンの王朝)に朝貢させた(二二九年)。
大月氏国は洛陽から一六三七〇里、戸数十万とされ、「親魏大月氏王」に任命される。
これに対抗して、司馬懿が朝鮮半島の軍閥を倒し、卑弥呼に朝貢させた。
大月氏国の朝貢に並ぶものとすべく、
司馬懿は手に入れた使者の旅行記の里数、戸数を水増ししたのではないか?

すみません。受け売りです。武光誠著「邪馬台国がみえてきた」参照。
758日本@名無史さん:04/11/23 15:39:46
>>757

水増し説は賛成。
倭人が申告した数が水増しだったかも知れないし。
759一応九州王朝説:04/11/23 19:22:24
戸数問題は里程と並んで難解ですね。
<東夷伝>
東沃沮   ・・・長細い三角形?千里   五千戸   
高句麗   ・・・方二千里           三万戸   北朝鮮辺り 
夫餘     ・・・方二千里           八万戸   旧満州辺り
馬韓     ・・・(五十余国)        十万余戸   朝鮮南西部
弁韓・弁辰 ・・・(二十四国)       4、五万戸   朝鮮中・南東部 
倭国     ・・・(旧百余国)        十五万戸   九州?西日本?

現在の韓国の面積が約10万平方`、九州・四国・中国・近畿が約12万平方`。
国数的にも三韓国と匹敵しており、これが正しいなら畿内説?或いは、中国、四国は
属国とも考えられますが。投馬國、邪馬台国は配下の国を合わせた総戸数ということで。
一戸当たり6人(後漢、西晋の戸数と人口の商)として、90万人。三国時代の蜀と同じぐらい。

・・・・・・・・・Σ(゚Д゚)  デカ!

これが当時の魏指導部に実数として考えられていたとすれば、烏丸や凶奴等の騎馬民族とは
違った意味で馬鹿にならない脅威と考えられていてもおかしくはないですね。三韓と倭で30万
戸、これなら呉と取り合いになるのもうなずける話だし、卑弥呼の遣使も大変な歓待を受けた可
能性大ですねw
760日本@名無史さん:04/11/23 22:02:59
匈奴
761日本@名無史さん:04/11/23 23:31:37
水増しして立派に見せた割には卑弥呼=卑しい巫女とか、
狗とか、扱いがいかにも東蛮なのは何故?
762日本@名無史さん:04/11/23 23:40:27
大阪は弥生文化(朝鮮文化)の海路での終着点。大和に都がおかれたのは
防衛上の為。生駒山がとりでの役割をはたしていた。
763日本@名無史さん:04/11/23 23:46:41
邪馬台国の謎が溶けた!

つまり、卑弥呼、台与の邪馬台国(大和)を宮崎辺で勃興した現天皇家の祖先が
侵略したんじゃない?4世紀ぐらいに。一種のクーデター。

そして、卑弥呼はアマテラスとして神話になったと。
764日本@名無史さん:04/11/24 01:28:17
>>763
関裕二氏っぽいね、それ
実は俺もそれに近い考えなんだ
765764:04/11/24 01:29:40
あ、違うか、邪馬台国がヤマトになってるもんな
766日本@名無史さん:04/11/24 01:57:00
>>765

邪馬台国はマキムクで。そこに卑弥呼を中心とする国があって3世紀に
栄えていたのが、4世紀に入り天皇家に滅ぼされ、政権を乗っ取られた
のでは?
767日本@名無史さん:04/11/24 03:04:52
「邪馬台国は大和朝廷になったのか?」
スレタイ的には「ノー」だろう。

アマテラスが卑弥呼なら、どうして神代の話にする必要があるのか?
そのまま神武のご先祖様にして、中国よりも歴史の古さを誇ればいい。

「アマテラス→天下り→神武(日向)→神武(大和)」という流れは、
王権が畿内出身で無いことを、何重にも物語っている。

卑弥呼がアマテラスなら、邪馬台国=畿内はありえない。
邪馬台国=畿内なら、大和朝廷≠邪馬台国ということ。

邪馬台国が畿内にあったなら、3世紀末に天皇家によって滅ぼされ、
「ヤマト」と名前だけ継承されたということだな。

天皇家は、邪馬台国の時代より数百年前に九州から畿内へ移動してきた豪族で、
丹波か伊勢あたりで邪馬台国に仕えていたのだろう。

768日本@名無史さん:04/11/24 03:16:14
邪馬台国は琉球王朝の分国

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<訃報>井伊文子さん87歳=琉球王朝最後の尚泰王のひ孫

 井伊文子さん87歳(いい・ふみこ=琉球王朝最後の尚泰王のひ孫、故井伊直愛・元滋賀県彦根市長の妻)
22日、急性心不全のため死去。葬儀は24日午後0時半、同市古沢町1100の清凉寺で。自宅は同市松原町515。
喪主は孫岳夫(たけお)さん。72年には社会奉仕団体「仏桑花の会」を結成。歌人として活動した。
(毎日新聞) - 11月23日18時28分更新

Yahooニュース:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041123-00000026-mai-peo
769日本@名無史さん:04/11/24 04:20:49
邪馬台国は熊襲(琉球)系で、狗奴(毛野)国はアイヌ系で
神武は騎馬民族系渡来人。
邪馬台国は三国志の弥烏邪馬国(上伽耶)
狗奴国は狗邪韓国(下伽耶)と関係があったのでは。
770鳴海孝之:04/11/24 08:48:30
仁徳の妻は日向の髯長媛。
その子供が日下王。

日向と日本の国名の元になった日下。
仁徳王朝には神話と、日本の原点に
なるなにかがあったと思われます。
771日本@名無史さん:04/11/24 11:01:23
>>767

ようするに、明治維新と同じ。九州の田舎者が江戸を乗っ取り、明治政府を
建てたと。

この江戸にあたるのが、卑弥呼のマキムク邪馬台国。九州の田舎者が
天皇家。
772日本@名無史さん:04/11/24 11:02:49
そして、暗黒の4世紀に乗っ取りが行われたのでは?
773鳴海孝之:04/11/24 11:04:52
逆です。
4世紀に九州の邪馬台国が
畿内の天皇家をのっとったんです。
応神・仁徳王朝と日向の関係を
よくみてください。
774鳴海孝之:04/11/24 11:13:21
邪馬台国が畿内マキムクなどという
寝言をいまだに言ってる人がいるのが
信じられません・・北九州の宇佐で
ほぼ決着なのですよ。応神・仁徳が
邪馬台国の出身であり、宇佐神宮に祭られているのです。
775鳴海孝之:04/11/24 11:20:35
天照大神=卑弥呼の時代には邪馬台国は北九州。
卑弥呼は248年の皆既日食により権力の座から
失墜し殺されます。壱与は宇佐神宮に祭られている
比売大神のことであり、その子供が二二ギノミコトで
日向に都を移します。4世紀後半に畿内王朝の血筋が
絶えたので、畿内の王に、神武=応神が招かれるのです。
これで完璧でしょう。
776日本@名無史さん:04/11/24 11:25:06
日本人は卑弥呼の事を知らない人はいないだろう。卑弥呼は
3世紀前半に存在した邪馬台国という国の女王で、魏に使いを送り
「親魏倭王」の称号を受けた実在の人物である。


一方天照大神はどうだろうか?天照は天皇家の祖で、太陽の女神と
言われた伝説上の人物である。日本書紀には詳しい詳細が
書かれているが、客観的に見て到底信じがたい。

しかし最近、卑弥呼=天照大神という説がにわかに浮上している。
その根拠として
777日本@名無史さん:04/11/24 11:25:44

1.卑弥呼の名の漢字は中国が作成した物であって、元は 
  「日巫女」あるいは「日神子」というような名前だった可能性が強い。
  
  卑弥呼は元々太陽とコンタクトをし、宗教のよって国を治める
  シャーマン的な人物だったが、これは太陽神である天照と
  非常に良く似ている

  また天照大神は日本書紀には「oo-hirume-muchi」の名でも
  記されているが、ooとmuchiという尊称部分をのぞけば「hirume」となる。
  これは卑弥呼(himiko)の語源とまったく同じ。
  
  中国の発音では「hirume」を「himiko」と称してしまい、
  そのため取り違えて記した可能性が高いと言われている。


2.卑弥呼には政治を助ける弟がいた。天照大御神にも、
  須佐之男の命、月読の命という弟がいる。

778日本@名無史さん:04/11/24 11:27:25
3.『古事記』には、「天照大御神、高木神の命をもちて」などの記述がみられる。
  この意味は「高木神は天照大神の所にしばしば出入り、一緒に命令を下したり
  などしている」 という事になるが、
  
  これは魏志倭人伝の、女王の命を伝えるために出入りしている一人の男と
  高木神とが符合する。

4.統計学的手法によって天皇の平均在位年を求めると、
  丁度卑弥呼が生きていた時代に、天照大神が生きていた計算になる。

5.卑弥呼が死去した年である西暦248年に、北九州で皆既日食が
  観測されたことが天文学的計算より明らかになっている卑弥呼の
  世継ぎに男の王が即位したが戦いが収まらず、台与という王女が即位し
  再び平和が訪れたと魏書により確認されているが、

  これは古事記・日本書紀に、天照大神が天岩戸隠れた為、世界が暗闇に
  包まれたが、その後再び天照が戻り、再び世界に日が差したという記述と
  見事なまでに合致している
779日本@名無史さん:04/11/24 11:28:19
卑弥呼が『古事記』『日本書紀』での天照大御神であると考えると、
これは神武天皇の東征前である。

日本書紀によると神武天皇は日向で生まれ、東に向け出発したと
記されている。ここで非常に興味深いのは日向とは九州の地名だと
いうことである。もっとも自然に解釈すれば、

当時の邪馬台国は九州にあって、そこから政権中心者の血筋を引く
神武天皇が東征し、近畿地方で一大勢力となったと考えると、
日本の資料と中国の資料がうまく組み合わせて解釈できる。

さらに邪馬台国(yamatai-koku)と、神武天皇が創った大和国(yamato-koku)
と語源が似ているのも注目したい。
780日本@名無史さん:04/11/24 11:28:54
しかし現在日本では初代神武天皇〜9代開化天皇は史実が存在せず、
伝説上の人物であったという見方が強い。実在した初代天皇は
10代崇天皇で、神武天皇はこの崇神天皇をモデルにして作られた
可能性が非常に強いと言われている。

つまり現在の説では神武天皇=崇神天皇だと一応確定しているのだ。

10代崇神天皇が生きていた時代は、3世紀後半から4世紀始め頃だと
言われている。そして卑弥呼が生きていた時代は3世紀前半。
つまり卑弥呼の数代後裔が近畿地方で
一大勢力となった考えると、年代的にもつじつまが合う

神武(崇神)は南九州出身のようだが、その先祖の出身は高天原から
降臨して来たと日本書紀や古事記によって記されている。はたしてそこは
どこだろうか?


最も自然に解釈すれば高天原こそ大和朝廷の全身である邪馬台国で、
天照大神こそ邪馬台国の女王、卑弥呼ではないだろうか?
781日本@名無史さん:04/11/24 12:31:46
日本書紀の崇神紀に出てくる、箸墓に葬られた
ヤマトトビモモソ姫命が、卑弥呼のことだと思われますが。

782日本@名無史さん:04/11/24 13:16:54
日食、日食って、騒いでるけど、
部分日食なら、日本でも数年おきに起きてること。
しかも、1日中暗闇になるわけじゃなくて、せいぜい1時間くらい。

なんで、日食ごときで卑弥呼が死ななきゃならんのだ。アホ抜かせ。
783鳴海孝之:04/11/24 14:42:13
当時は太陽信仰が盛んだったので
日食は大事件です。卑弥呼は日食で
殺されました。神武は架空の人物です。
崇神は実在していましたが邪馬台国とは
なにも関わりはありません。単なる
畿内周辺の王にすぎません。畿内政権が
全国区になったのは応神王朝からです。
784日本@名無史さん:04/11/24 16:59:55
>>776ー780
鳴海君と間違えそうだから、コテをよろしく
私は「安本」を推奨します
785日本@名無史さん:04/11/24 18:18:17
どっちにしても、畿内の遺跡から魏の鏡がでているから、畿内が邪馬台国
なのはほぼ確実です。
国産というのは、九州論者おとくいの苦し紛れの説にすぎません。

魏と関係ないのなら漢字の遺物はでてきません。

纏向が終了する時期がちょうど東征された時期。
786鳴海孝之:04/11/24 18:50:23
>>785
それは早計でしょう。
魏の鏡が出てきたから
畿内が邪馬台国なのではなくて、
全国各地に鏡は散らばっているので
その根源がどこからきたのかという
問題でしょう。
787一応九州王朝説:04/11/24 23:43:52
偉くまた断定的な御仁がわんさとw

鳴海君は、このスレと関係ないコテですが、何の意味があるのかな?トリップないし、つうか
そんなコテ無理・・・。ここでは立場コテ推奨。
「安本」というのも一般的すぎるので、もう少し限定して頂ければ・・・。

>>782
言葉は慎まれたし。実際古代に於いては天文に関する知識や予言は重大でした。日食の予測を間違って
首が飛んだ例など中国ではふつーw
それと、皆既日食と部分日食は衝撃度に大きな差があることぐらいわからんかな?部分食はたいして暗く
もならないし、太陽を直視するのもしんどい。気が付けば終わってるよ。

私も最終的に太陽信仰が確定するのが天照だと思います。出雲など柱立てて縄文の神様ですから、おそ
らく弥生の農業の爆発的発展が産み出した物だろうと。2世紀の皆既日食はだからこそ大事件だったわけ
で、もしかすると誰かが中国の知識を元に予言したかも知れないし、鏡の儀式をうまく演出したかも知れな
い。で、そのようなことがあって、魏から沢山鏡を仕入れたのに、日食を上手く予言できなかったので巫女の
宿命として殺害されたのではないか? 余りにも時期が重なりすぎるというのがその根拠で、実際の所はわ
かりませんが、無視しがたい説ではあります。

>>785
すごく簡単に言っておられますが・・・(゚Д゚)
まあ実際畿内説の学者は「学会ではうんたらかんたら」で論争をうち切ろうとする人もいるし、そんな言い方
もしょうがないのかな・・・・・。でも、景初四年鏡が山ほど出てこようが、稚拙な銘文の三角縁神獣鏡が幾ら
出てきてもそれで卑弥呼の授けられた鏡の証明にはならないわけで。
あなたの考え方なら鹿児島から群馬まですべて魏と関係があったことになりますが?
景初三年鏡の方は2枚しか出てきていないし、本当に卑弥呼の使いが持ち帰ったとおぼしき鏡はその内の出
雲からでている方だけではないか、とも言われます。
一方の九州は漢鏡からずっと連続しており、三角縁神獣鏡から突如大量に出土する畿内は果たして邪馬台
国なのかどうか。少なくとも鏡の出土状況からは大陸との交流は九州の方が優位なのは明白ですが。
788日本@名無史さん:04/11/25 01:48:56
>>787
>部分食はたいして暗くもならないし、太陽を直視するのもしんどい。気が付けば終わってるよ。

おっしゃるとおり、287年の日本の日食は、
たいして暗くならない気が付けば終わってる部分日食ですが、何か?

789日本@名無史さん:04/11/25 01:50:05
あれ?
247年だったか。
790日本@名無史さん:04/11/25 06:52:11
>>787

魏の鏡もそうだけど、卑弥呼の時代に大和では巨大古墳が作られています。
これは、強大な権力がないと作れない代物です。
また、その古墳のある地域の名称が大和と邪馬台国と似ているのも邪馬台国
大和説の根拠の一つです。

また、箸墓古墳など発掘できないので、研究も進みません。
九州説はその畿内説の弱点につけこんで、カリスマ性みたいな宗教がかった
力で勢力を拡張しているように思います。

やはり、畿内説だと日本全体が関西に頭が上がらなくなるところが九州説
支持の源でしょうか。
791日本@名無史さん:04/11/25 08:11:58
>やはり、畿内説だと日本全体が関西に頭が上がらなくなるところが九州説
>支持の源でしょうか。

邪馬台国が畿内にあったというだけで、なぜ関西に頭が上がらなくなると
考えなければならないのでしょうか?
ちょっと稚拙ではありませんか?

そもそも、確かに畿内には考古学的根拠はありますが、それとてまだ断定
できるレベルのものでもないし、文献的には多くの点で矛盾が指摘されて
いるから、皆頭を捻っているわけです。
792日本@名無史さん:04/11/25 08:20:27
>>791
どれだけの根拠が集まれば、断定出来るんですか?
やっばり、金印がでなきゃダメですか? いや金印でもダメかな?
793鳴海孝之:04/11/25 08:54:01
3世紀の考古学的遺跡=邪馬台国
と結論付けようとするのはどうかと
思いますけどね。
794ゴジンム:04/11/25 09:20:40
>>775 オカシイ!!!
>>780 大マチガイ!!
795鳴海孝之:04/11/25 10:30:54
白黒はっきりしようとしすぎのような
気がしますね。実際はグレーくらいだったように
思われます。国という概念もあいまいで、
畿内も九州も連合体制にあり、王族同士の
婚姻等により緩やかに合併していったと考えるのが
自然でしょう。邪馬台国の位置はさして重要な
問題だとは思いません。最終的に畿内を中心に
国がまとまったというだけの話です。
796日本@名無史さん:04/11/25 11:25:48
>>792

だから、畿内から鉄がわんさか出土すれば、十分な証拠になるんだよ。
鉄を掘ってこい。
797日本@名無史さん:04/11/25 12:14:54
半島で大戦争している倭人の国が、鉄の(ほとんど)ない畿内だと考えるのはおかしい。
798日本@名無史さん:04/11/25 16:57:09
>>795
北九州と畿内に並行して大国があった気はするが、倭人伝が
どこを指してるかを知りたい。やはり北九州の気がする。
ねえ、25歳、あ、いや鳴海さん。
799鳴海孝之:04/11/25 19:17:19
>>798
私は20歳のファミリーレストラン店員ですが・・
それはさておき、倭人伝は北九州を指してますね。
畿内だと仮定して倭人伝を読んでみましょうか。
投馬国。北九州から水行20日で到着するそうですが
ここはどこでしょう?有力なのは出雲か吉備。
瀬戸内ルートのほうが有力なので吉備と仮定しましょう。
20日もかかるでしょうか?まあ20日かかると仮定して
ここから水行10日陸行1月で畿内に到着します。
水行10日、これはまだわかりますが陸行1月??
おそらく河内あたりに上陸することになるのでしょうが
そこから奈良まで1月もかかるでしょうか?いくら古代だから
といって河内から奈良まで一月はありえないでしょうね。
800日本@名無史さん:04/11/25 19:59:27
邪馬台国吉備説の可能性はどのようなものでしょうか?

投馬=出雲
邪馬台国=吉備
狗奴国=大和(邪馬台国の分家)

卑弥呼=?
卑弥弓呼=崇神
801日本@名無史さん:04/11/25 21:01:23
>>799

投馬を出雲か但馬にするとぴったりあてはまります。

丹波の険しい山を荷物を持ってこえるには1月はかかるでしょう。
802日本@名無史さん:04/11/25 21:31:23
× 陸行1月
○ 陸行1日
なんの、ご遠慮などなさらなくても・・・・・
いつものアレでまとめちゃって下さいましな。
803日本@名無史さん:04/11/25 21:34:09
投馬は但馬
邪馬台国は吉備
狗奴国は高知(クコチヒコ、こうちひこ)+南九州
でピッタリあてはまるよ
卑弥呼は神宮皇后
男弟は武内すくね
だろう
804日本@名無史さん:04/11/25 21:50:28
オキナ=老人
オトナ=成年
スクナ=青年
オグナ=少年

武内すくね=館の内に出入する青年
805日本@名無史さん:04/11/25 22:06:36
>スクナ=青年
これだけがひっかかるなり
806日本@名無史さん:04/11/25 22:17:03
邪馬台国の記述と古事記の内容が似てる理由として、
古事記は魏誌を参考に作られた可能性はないの?
807日本@名無史さん:04/11/25 22:25:31
邪馬台=大和、狗奴=熊野。
畿内の前支配者である葛城王朝が紀伊水軍を用いて瀬戸内海航路を海上封鎖。
三輪王朝は窮地に陥った。
熊野と和睦するため、邪馬台は丹後からの日本海航路で魏へ遣使し、熊野との仲介を
求めたのだろう。
熊野に伝わる太陽信仰、スイゼイ天皇の人喰い伝承など、熊野は興味深い地域
だと思います。
808日本@名無史さん:04/11/25 22:40:09
>>807
三輪政権 VS 葛城政権
大和川水系と紀ノ川水系の争いだったりして。
809日本@名無史さん:04/11/25 23:15:57
>>808
紀ノ川水系には、「鬼」に親しみを感じさせる祭りが多いんですよね。
「陀々堂の鬼走り」とか。
記紀の神武東征では、紀ノ川水系の人々が積極的に協力したように読めます。
三輪王朝に迫害され、山間部に逃げ込んで「鬼となった」葛城王朝残党が
応神(=神武)の畿内東征に助力したのではないかと妄想します。
応神以降、紀(鬼)の血を引き、尚且つ葛城王朝最後の大王・孝元の末裔・武内スクネ
一族が、朝廷内で発言力を増したのでは。
葛城ソツヒコは紀伊水軍を率いて、半島で活躍したみたいですし。
810日本@名無史さん:04/11/25 23:19:39
葛城の血を引く蘇我入鹿も、斉明天皇を呪う鬼になったみたいですね。
811日本@名無史さん:04/11/25 23:23:34
磯城族が三輪山を回りこんだラインに防御線を張っている所を見ると、
三輪王朝(政権かな?)の主体は磯城?
神武東征に関してね。
812日本@名無史さん:04/11/26 00:04:46
>>805
「スクナ」だけなら単なる形容名詞だよな。
813日本@名無史さん:04/11/26 01:15:47
なぜ記紀が触れていないのか?
なぜ太陽神が女性なのか?
大乱は、何を争ったのか?
なぜ纏向に人が集まったのか?
814日本@名無史さん:04/11/26 01:28:35
>>799
九州からはみ出るのは確実
倭人伝からは特定出来ない
815日本@名無史さん:04/11/26 02:49:19
>>814
よく、そう簡単に断定できますなあ。
帯方郡から邪馬台国まで一万二千余里。
帯方郡から末盧国(唐津)まで約一万里。
つまり、末盧国(唐津)から邪馬台国まで二千里。
普通に考えて対馬−壱岐の間が、千里余だから
邪馬台国は九州を出ない。
816日本@名無史さん:04/11/26 07:05:37
>>805
スクナビコナのスクは「スガの国」出雲を表すのだ。
武内スクネ、蘇我氏も然り。
新羅王家の昔(ソク)氏もこいつのことだ。
817日本@名無史さん:04/11/26 07:48:56
三角縁神獣鏡は、連合国家の証として卑弥呼が配布したという、
考古学者の主張は根拠が無いということも知っておくべき。

宝物というのは、配下の者が王に献上するものであって、
賜るという習慣は日本の歴史には無い。
あったとしても、首長が死ねば王に返却するものであって、
地方の首長が自分のものとして墓まで持っていくことはありえない。

出土した鏡は、王から賜ったものではなく、各地の首長が自分で入手したもの。
国産の鏡が隣国同士で売買された結果、一様に広まってるようにみえるわけ。

魏から貰ったという三角縁神獣鏡も、年号が入ったものはわずか。
ほとんどは、様式を真似て日本で作られたコピー。
大陸の鏡職人を日本に招いたことは、日本の歴史から十分ありえる。
818鳴海孝之:04/11/26 09:06:44
畿内ならわざわざ山陰ルートでいくのは遠回り。
瀬戸内ルートをとると考えたほうが自然です。
ということで陸行1月を畿内説の方々は
瀬戸内ルートから説明をしてください。
819日本@名無史さん:04/11/26 10:22:41
年号鏡の出土地を考えれば山陰ルートもあながち無視出来ないかもね。
820日本@名無史さん:04/11/26 11:16:22
その時代は日本海側の方が先進地帯です。
821鳴海孝之:04/11/26 11:30:04
山陰ルートをとったと仮定しましょう。
投馬国は出雲でいいですね?
ここから水行10日、京都の北のほうにでも
上陸するのでしょうか?ここから南下して
奈良まで1月、これでも1月は長い気がする。
その前に方向を考慮せずに話を進めてますがねw
822日本@名無史さん:04/11/26 11:33:14
丹後半島あたりにも由緒ある神社があります。
823日本@名無史さん:04/11/26 12:12:30
陸行2週間とか書いててくれたら分かりやすかったな
824日本@名無史さん:04/11/26 12:16:52
水行10日または、陸行一カ月という説あったよな。
吉備(瀬戸内ルート)または出雲(山陰ルート)から、
陸行一カ月だったら、納得出来るんじゃね?
水行の場合は川を遡ることも含めて考えれば、説明できないか?
出雲の場合は、敦賀、琵琶湖経由というのは無理か?

方向をご都合主義で理解するのは、しょうがないじゃん。
きっちり理解しようとしたら、北九州説だって成り立たないし。
825日本@名無史さん:04/11/26 12:20:23
http://ex8.2ch.net/test/read.cgi/k1/1100952300/l50#tag480
↑のスレでまたまた犯罪予告!

こええーーーーーー。
826日本@名無史さん:04/11/26 12:20:41
神功、応神をも脇に従えるほどの大神である比売大神。
そして、道鏡事件における朝廷への宣託。
邪馬台国は宇佐を中心とする豊前。間違いない。
827日本@名無史さん:04/11/26 12:26:12
比売大神が奈良や大阪で祭られていたというのは本当ですか?
828日本@名無史さん:04/11/26 12:45:45
>>817
>宝物というのは、配下の者が王に献上するものであって、
>賜るという習慣は日本の歴史には無い。

いいかげんなことをいうべきではない。
大名や武将が家来に刀などを与えることはよくあったこと。

また卑弥呼の時代に、魏から鏡を賜れたのだから、当時の
邪馬台国がその風習をまねても全く不思議でない。
829日本@名無史さん:04/11/26 12:53:44
>>827
石清水八幡で祀られているね。
830日本@名無史さん:04/11/26 13:55:02
枚岡神社の主神は比売御神。
神社の縁起によれば、創建は神武3年だから、宇佐より古い。
この神こそ卑弥呼に間違いない。
だから、邪馬台国は東大阪。
831日本@名無史さん:04/11/26 18:04:44
神社の創建なんてアテになるか。
7世紀以降の捏造だろ。
それ以前は神社なんてなかったんだから。
832一応九州王朝説:04/11/26 18:44:28
こんばんは。今日は早く帰ってこれますた。

>>831さん。
神社はあなたが思ってるほどいい加減じゃないとおもいますよ。あとで祭神を付け足したり、時には
変更もあるようですが、そんな簡単には出来なかったでしょうし。それこそ大和朝廷が無理矢理に
行うでもしない限り、そんな易々と出来る物ではない。そのときでも、必ず大々的に祀ったりしたでし
ょうね。神とは儒教で言う先祖の霊であり、地神であり、それをないがしろにすることは古代に行くほ
ど恐ろしいことですから。
未だにのろいとか祟りとか言ってるのがその証拠でもありますよね。

枚岡神社は、私も行ったことありますが、河内の一宮で、地元でも相当古いのは間違いないと言われ
ています。ちかくにニギハヤヒや可美真手を祀った神社もあり、この辺り一帯が長脛彦の本拠地だっ
たということも関係あるのかもしれません。もしかすると、もとは長脛彦神社とでも言ったのかも。
あと、八幡三神を祀った所も沢山あり、宇佐との関係も深いと思われます。
833鳴海孝之:04/11/26 18:54:57
水行10日陸行1月は邪馬台国までいたる
12000里の日数。方角も倭人伝のとおりで正しい。
宇佐神宮に応神・神功・壱与が一緒に祭られてるのは
同じ一族だから。
834日本@名無史さん:04/11/26 19:48:16
枚岡一帯に宇佐との関係の深さを伺わせるほど八幡宮多いなんてことないですよ。

ちなみに、河内地区の八幡宮は八幡大菩薩を奉じていた河内源氏に因むものが多く
八幡三神とか、ましてや比売大神なんて全然関係ないと思います。
あ、「みんなが知らないだけで、八幡大菩薩は比売大神を主神とする八幡三神のことだ」
とかいう反論は辞めてくださいね。

あと、上の方で大仏建立の頃は伊勢が軽んじられていて宇佐の方が格式が高かったとか
言ってる人がいましたけど何を根拠に言ってるのか理解できません。
大仏建立に際して、まず、天皇が伊勢に参ってるんですけど、知らないのでしょうか?

宇佐が宣託を出して、大仏建立に協力したのも、当時、神仏習合が最も進んでいた
といってもいい宇佐を仏教派が利用したという推測も成り立ちますし、安易にこのことを
根拠に宇佐が最高神だったとか断定するのはよしたほうがいいですね。
また、神仏習合思想においても、八幡神は菩薩、天照は大日如来に比せられることからも
宇佐が、その後、最高神の立場に立ったというのも正しくありません。

835日本@名無史さん:04/11/26 20:25:52
>>834
宇佐神宮が天皇家から重要視されたのは8世紀以降。
「伊勢より格式が上」とか全く根拠がないって、このスレでも大分前に結論が出ていた
と思うが。
まあ、邪馬台国宇佐説は完全に否定は出来ないけどね。
836日本@名無史さん:04/11/26 20:29:35
豊前にあったのは邪馬台国ではなく、
応神天皇(=神功皇后)が半島から連れてきた、秦氏の国。
秦(ハダ)氏の祭神、八幡(ヤハダ)神とは、応神天皇のこと。
837日本@名無史さん:04/11/26 20:39:13
>833
もう見飽きたな、そのコピー。

 南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌副曰彌彌那利 可五萬餘戸
 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 〜略〜 可七萬餘戸

投馬國の場合と全く同じ書き方なんだから、一方だけが総路程と言うわけにゃいかんだろう。
総路程の表記は「自郡至女王國萬二千餘里」だけで十分に思える。
838日本@名無史さん:04/11/26 20:46:16
>>836
八十物部(ヤソモノノベ)とか言いますしね。

しかし八幡(ヤハタ)と邪馬台(ヤマタイ)の音が類似していて、「神功皇后=卑弥呼」
という紀の記述もあるのは、どうなんでしょうか?
8世紀、大神比義が宇佐神の神威を高めることを画策し、九州に縁のある応神を主神として
迎え、その際倭人伝の卑弥呼伝承を利用したのではないでしょうか。
839日本@名無史さん:04/11/26 21:25:56
>>787
>稚拙な銘文の三角縁神獣鏡が幾ら出てきても
京産大の教授の説でしたっけ、それ?
ただ、三角縁の銘文が漢詩であるというのは確定なんですか?
それがなければ、韻律が無茶苦茶という議論も成り立たないと思うのですが。
840鳴海孝之:04/11/26 22:08:52
神功皇后は架空の人物。
応神は九州人。
朝鮮人は九州に渡来していただけ。
841日本@名無史さん:04/11/26 22:15:48
>>840
あんた、根拠を書かないと、ただの電波だよ。
電波なら早々に立ち去ってもらおう。
842日本@名無史さん:04/11/26 22:26:22
>>824
牧岡神社一帯は、出雲井という地名。
843鳴海孝之:04/11/26 22:31:17
>>841
古事記によると仲哀天皇が死んだのは九州に熊襲征伐に
出かけているとき。仲哀8年の9月に九州で死去。
応神が生まれたのは仲哀9年の12月。仲哀が死んでから
1年4ヵ月後に応神が生まれたことになる。こんなことは
ありえません。つまり仲哀と応神の間に血のつながりはない。
よって神功は万世一系の建前を守るために創作された架空の人物。
844鳴海孝之:04/11/26 22:37:50
邪馬台=大倭=大和=ヤマトという当て字は
邪馬台国が東遷した証拠。応神仁徳王朝と
神話に出てくる日向との関わりは深い。
仁徳天皇の妃は日向の媛。その子供は日本の
国名の元となった日下の王。よって応神は
九州邪馬台国一族の末裔。
845鳴海孝之:04/11/26 22:58:27
本当の神功皇后は邪馬台国の巫女。
夫が朝鮮人。両者の子供が応神、なので父親のほうは歴史の闇に
葬り去られてる。必然的に母親のほうをクローズアップして
過大評価せざるをえなかった。ゆえに皇后なのに神の文字が
入ってるし別格扱いされている。
846鳴海孝之:04/11/26 23:01:23
神功の夫が朝鮮人の王だったので
応神王朝からは渡来人の力を借り
国力倍増。巨大古墳出現。
九州・畿内の統一。

とまあこんな流れで歴史は進んだのでしょう。
847日本@名無史さん:04/11/26 23:04:21
俺、応神は神功皇后と武内スクネの間にできた子だと思ってたよ
848日本@名無史さん:04/11/26 23:11:41
>>845
住吉大社に、応神が神功と住吉神との間の子であるという秘話がありますよね。
八十嶋祭といい、4世紀末、河内王朝の実在について、もっと言及があっても
良いと思われますが。
849日本@名無史さん:04/11/26 23:31:23
>>848
おれ、河内人だけど、
河内王朝ってのは信じられない。
850日本@名無史さん:04/11/27 00:06:27
大阪から見るといつも奈良の方は曇っているよ
851:04/11/27 00:09:33
仲哀天皇即位9年2月6日 仲哀天皇崩御
仲哀天皇即位9年12月14日 応神天皇出生
852一応九州王朝説:04/11/27 01:10:14
>>834
これは失礼。

確かに各八幡神社の由来は色々かも知れません(詳細は教えて頂ければ)。ただ、何処も大概はそうですが、東大阪の八幡様は
やはりほとんどが八幡三神のようですよ。鴨高田神社は実は違うようですが。
いずれにしても、古代に遡りそうな相当に古い神社が多いので、やはりそれなりに古代に栄えた土地であることは間違いないとは思
います。日下とか盾津とか。

>あと、上の方で大仏建立の頃は伊勢が軽んじられていて宇佐の方が格式が高かったとか
  言ってる人がいましたけど何を根拠に言ってるのか理解できません。
  大仏建立に際して、まず、天皇が伊勢に参ってるんですけど、知らないのでしょうか?

いや、そういうことも言われるという程度に止めておくべきでしたか。根拠は・・・それほどお詳しいあなたなら知らない話ではないと思
いますが?
それと、天皇というのは聖武天皇ですよね?それは大仏建立のお願いではないのでは・・・・・。行基の派遣はそれですが。それまで
に伊勢に行ったのは天武だけ、あとは持統、明治天皇、こんなもんですかね。大正時代にも出雲大社の方が上だと皇室内ですら揉
めたわけですが、なんなんですかね、これは。私は現天皇家にも既に正確な歴史がわからなくなっていると思います。
何か秘伝のようなものがあるのかもしれませんが、そのような論争が起こること自体がその証明だと。

確かにあなたの言われるような、天皇家の仏教帰依に際しての宇佐の利用はあったと思いますが、それが余りにも唐突で、常識的に
言われるように記紀編纂の後八幡神が成立したとはとても思えないのですが。何故応神なのか、ヒメ大神が真ん中なのか、或いは何
故伊勢神宮でそれをやらなかったのか。
少なくとも私自身は従来の学者の通説では納得できません。

>>835
あれで確定ですか?
853日本@名無史さん:04/11/27 03:46:55
>>834
>また、神仏習合思想においても、八幡神は菩薩、天照は大日如来に比せられることからも
>宇佐が、その後、最高神の立場に立ったというのも正しくありません。

八幡神も、天照も、創作された神だったという証拠だな。
実在の人物だったら、仏に置き換えることは出来ない。
祟りが怖くて神社に祀るのだから。
854日本@名無史さん:04/11/27 05:04:55
邪馬台国の首都は何と呼ばれていたのでしょう?
ヤマト?
855835:04/11/27 05:13:37
>>852
>あれで確定ですか?
何はともあれ、記紀に宇佐神宮の記述が無いのは何故なんでしょうか?
由来によれば欽明の時に応神を祀ったんでしょ?
伊勢、出雲、大神(三輪)、諏訪とかは書かれているのに。
このことから、宇佐神宮は紀紀編纂以降に皇室から尊崇されたというのが通説であって、
あえてそれを否定できるだけの根拠をあなたが示しているとは思えません。
>>838で書かれているような事はあったのかもしれませんね。

>天皇家の仏教帰依に際しての宇佐の利用はあったと思いますが、それが余りにも唐突で
院政期に流行った熊野詣とかの例もありますし。宗教にも当然、流行り廃りがある訳で。
まあ、熊野の宗教的権威にも、何らかの歴史的裏づけがありそうですけど。
856日本@名無史さん:04/11/27 08:16:00
あまりかみあわないようですね。天皇の行幸の話はスルーですか?
>>838は自演かな?スレコテないからわからないYo

まあ通説以上のことを言っておられるようでもないですし、その通説を補強されておられるようでも
ないみたいなので、かみ合わないのも当然かもしれませんが、お互いの意見を交流しあう、批判し
あう、などがないと、ちょっと、ね・・・・・。異説を全部トンデモと片づけていても進歩はないかと。
ポイントは、
・何故宇佐が天皇家の枢要に関わる事項に重要な関与をしたのか。
・記紀以前の宇佐についての考古学的検証。
・何故三神なのか、何故比売大神が最高神のように祀られているのか。(>>714
・比売大神とは何者か?
・何故応神なのか?神功皇后なのか?
・宇佐が神仏習合の先進地域になった理由。
・御宣託事件で何故伊勢ではなく宇佐が選ばれたのか。
・何故一品に叙したのか。

これらの事項について確定して初めて通説が俗説の域を超えて確定するわけです。「あった」という
ことより「無かった」と言うことの方が何倍も難しく、往々にして日本の学会は権威を元に無かった、違
うなどと断定しがちなところが最大の欠点です。欧米では自然科学の分野でさえそんなものが、という
論文も沢山あるそうです。

それと、記紀に登場しないのは必然的に二つの意見を導き出すわけですが・・・・・。そう書いたつも
りだったんですがね。あなたが記紀についてどのようなスタンスかが前提になるわけですが。
私は特定の意図をもって書かれており、全部捏造ではなく、その視点から読めば一級資料だと思っ
ています。
857一応九州王朝説:04/11/27 08:16:41
あ、上の私ね。スマソ
858鳴海孝之:04/11/27 09:48:55
捏造集団の考古学界の言うことを信用して
畿内説を唱えている人は、ヨン様相手に
ぎゃーぎゃー騒いでるおばちゃんたちと変わりませんよw
859日本@名無史さん:04/11/27 11:17:17
どうして奈良を中心に日本が建国されたってことを信じられないんだろう?
なんでそんなに自分に自信を持てないの?
日本人として悲しくなります。
860日本@名無史さん:04/11/27 12:48:19
奈良が中心?
金印と阿蘇山のあるところが、中心でしょう。
861日本@名無史さん:04/11/27 14:48:07
阿蘇厨ウザイ!
862ウザイなら否定しろ:04/11/27 20:09:47
隋書[イ妥]國傳
「有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以爲異、因行祷祭。」
863日本@名無史さん:04/11/27 20:11:54
阿蘇は関係ないだろ。
富士山の方が格が上。
864日本@名無史さん:04/11/27 22:06:53
阿蘇山は昔も今も日本にあるだろう。
865日本@名無史さん:04/11/28 00:27:26
>>841
記紀は何を根拠にしている述べてください。
866日本@名無史さん:04/11/28 00:52:32
揚げ足取りの足の引っ張り合いはよせ。
867日本@名無史さん:04/11/28 09:53:29
何か議論が混迷しているね。九州説の人は、独りよがりの人が多いみたいだな。
通説とか言っても、何を指しているかわからんし、何のための議論かが見えて来ない。

初期大和朝廷と応神王朝の間には断絶があった。
記紀にある応神の不自然な出生の話は、それを示唆している。
九州説に立って、応神を卑弥呼の末裔とするのは、根拠のない妄想だろ。
応神は、渡来人あるいは九州地方の豪族と見るのが無難なところ。
権威付けのために、応神は邪馬台国=初期大和朝廷と関連のある比売大神と合祀された。
したがって、スレタイ的には、邪馬台国の血筋は、応神王朝で途絶えたということかな。
868鳴海孝之:04/11/28 10:21:44
単なる渡来人か九州の豪族が
大和朝廷の王に抜擢されるわけがない。
九州連合を統一していた邪馬台国の王族の
末裔が応神とみたほうがすっきりする。
869日本@名無史さん:04/11/28 10:22:32
あんたも独りよがりに見えるがなw
870日本@名無史さん:04/11/28 10:43:16
>>868>>869
確かに、舌足らずだった。スマソ

俺の前提とする立場は、邪馬台国=纏向説。
ただし、邪馬台国の起源は九州にあり、倭国の大乱で東遷し、
大和に邪馬台国=初期大和朝廷を打ち立てたという立場。
比売大神は、九州時代の邪馬台国の祖。

記紀の不自然な記述を読み解くと、九州の豪族(?)の応神が、
仲哀天皇の軍を打ち破り、天皇を殺害したうえ、
神宮皇后あるいはその娘と結婚した、という仮説が成り立つ。
これだと、その後、応神が畿内の初期大和朝廷を打ち破り、
天皇の系統を受け継いだという理解が、スムーズにでてくるんじゃないかな。
871日本@名無史さん:04/11/28 10:45:42
×神宮皇后
○神功皇后、ね。
872日本@名無史さん:04/11/28 11:12:36
>>871
まずその仮定が成り立たつのか疑問だし、
それを結論に持っていこうとするの、やめてくれないか
873日本@名無史さん:04/11/28 11:25:28
妄想を語り合ってるだけじゃ楽しくもなんともないだろう。
もっと、万人に受け入れるよう、具体的に検証可能な事象に絞ってくれんかな。
874日本@名無史さん:04/11/28 11:38:54
>>具体的に検証可能な事象に絞ってくれんかな。

それが簡単にできたら苦労はしない、
というか、発掘データ、あるいは、記紀や魏志倭人伝以外の文献を解読して、
膨大な量の論証をしない限り、検証は不可能だろう。
とても、2チャンには書き込めないな。この程度が限界じゃないの? 
なんだったら、お手本を示してくれ。
875日本@名無史さん:04/11/28 12:23:07
なんだ偉そうにいって結局たいしたことないじゃん

>>867のレベルが見えたなw
876日本@名無史さん:04/11/28 12:43:52
867も独りよがりの内の一人だったと・・・
877日本@名無史さん:04/11/28 15:14:41
>>870
>応神が畿内の初期大和朝廷を打ち破り、

これ、ときどき見かける妄想だけど、
日本書紀のどこに応神が身内と戦ったという記述があるんだよ?
878867:04/11/28 16:20:20
検証は不可能だけど、もう少し自説を具体的に説明してみる。
まず、俺の立場の骨子は、
@邪馬台国纏向説・二世紀東遷説、
A応神が仲哀天皇を殺害したという説、である。

これは井沢元彦の「逆説の日本史」を前提に、それを批判的に検討したものといえる(かな?)
井沢氏の場合、九州邪馬台国説、応神東遷説をとっているわけだが、
上記の本は90年代前半に書かれていて、纏向四世紀説を前提としている。
最近の考古学的研究成果を採り入れて、纏向三世紀説をとった場合、
魏志倭人伝にある二世紀後半の倭国の大乱と、
それを平定した邪馬台国・卑弥呼は結びつける必要があるし、
他方、纏向と北九州に二大勢力が併存したという仮説は、疑わしい。
なぜなら、弥生後期の大規模な遺跡が、北九州、畿内に限らず、
東海、中国地方からも発見されており、
しかも、戦死したと思われる人骨が、吉野ヶ里だけでなく、
山陰の青谷上寺地遺跡からも、発掘されているため、
倭国の大乱は全国規模のものだったと考えられるからである。
それを収拾したのは、当時最も進んでいた九州地方の豪族であって、
記紀の神武東征は、その史実を元に作られたフィクションと理解すべきである。
また、このように考えてこそ、銅鐸の消えた謎も、時代的に無理なく説明できる。
したがって、@邪馬台国纏向説・二世紀東遷説が導かれる。
879867:04/11/28 16:21:29
次に、Aだが、記紀の記述がいかにも不自然であることから、
井沢氏は仲哀天皇は殺害されたと主張しており、この点には賛成である。
問題は誰が殺したかである。
まず、軍を率いた天皇が殺害されたのだから、@戦争により、仲哀天皇の軍が壊滅的打撃を受けたか、
あるいは、A毒殺などの方法で内部の者によって殺害されたか、のいずれかの可能性が高い。
いずれにせよ仲哀天皇を殺害した者が、その後の実権を握ったと考えるの自然である。
とすれば、@であれば、応神天皇であり、Aであれば、応神側と組んだ神功皇后になるだろう。
なお、記紀の記述では、当時、神功皇后の懐中に応神がいたことになっているが、
それがいかにも不合理な記述であることは疑いがない。
記紀の年代、生没年の記載はかなり誤魔化しがあることは誰もが認めるところである。
そこで、仲哀天皇が死亡した時、応神はすでに成年であり、
神功皇后、応神天皇の親子関係は、万世一系の神話を作り上げるための創作と理解する。
なお、記紀では、神功皇后が幼い応神天皇を連れて大和に凱旋し、
反乱を起こした仲哀天皇の息子二人を鎮圧したことになっているが、
これは、応神が初期大和朝廷を打ち倒した話と考えることができる。
880鳴海孝之@四王朝交代説:04/11/28 16:48:25
>>867
だから言ってるでしょw
応神東征=神武東征だってね。
応神が邪馬台国の一族だという証拠は
ここで話題の宇佐神宮でしょ。
比売大神が卑弥呼か壱与だから
これにて決着。
881835:04/11/28 17:11:52
>>856
>それと、記紀に登場しないのは必然的に二つの意見を導き出すわけですが
だから、その二つの意見を聞きたい訳なんですが。
記紀に宇佐神宮が登場しないのは、編纂時に皇室からは重要視されていなかったと
考えるのが一番しっくりくると思いますよ。

>天皇の行幸の話はスルーですか?
「伊勢はもともと豊受神を祀っていた神社だ」という思いが、皇室関係者にはあった
のかもしれないですね。
天皇が行幸した回数が一番多いのは何神社なんでしょうか?
882日本@名無史さん:04/11/28 20:37:33
日本で作られた古銭の中に、神功開弥というのがあるな
和気清麻呂が揮毫したということになっている
神功皇后は、実在していた可能性が強いように思えるが、、、、、。
883日本@名無史さん:04/11/28 20:55:43
>>879
そういえば、<オオクニヌシの国譲り>も<神武東征>も<応神東遷>も

アマテラス側の進攻に対して「二人の兄弟」が対抗する、

という形になっているのだな なぜか。
884日本@名無史さん:04/11/28 22:14:14
「神」の名のつく天皇は全て同一人物と考えた方が良いですよ。
日本の神様はいくらでも分身します。
885867:04/11/28 22:23:17
>>鳴海氏
血筋が途絶えたから、応神が大和朝廷に招かれたというのは、
記紀の記述とかけ離れるし、説得力がない。
ちなみに、記紀によると、神武天皇は、東征にあたって、宇佐に立ち寄っているが、
御馳走になっただけで、すぐに立ち去っている。その簡潔な記述から、
宇佐=高天が原=邪馬台国を導くのは困難に思える。
886ゴジンム:04/11/28 22:33:18
>>880 あなたは 神武=崇神=応神なのか?
ならば神功が男だったら
      神武=崇神=応神=神功
といいだすに決まっているな。(www
887ゴジンム:04/11/28 22:35:42
>>884さん >>886 はあなたにもあてはまる。(www
888日本@名無史さん:04/11/28 23:00:01
>>856
>・何故三神なのか、何故比売大神が最高神のように祀られているのか。(>>714
宇佐の比売大神、伊勢の豊受神、神田の平将門にしろ、中央から押し付けられた神
に対して地方の人々は反発したということなのだろう。
比売大神は恐らく宇佐津姫であって、もともとは宇佐津姫と宇佐津彦の二神を祀る神社
であったのが、後世、応神やら神功、仏教を取り入れて、また中央政界に取り入ることで
大神社にのし上がった。十分有り得る推定だと思うが。
889日本@名無史さん:04/11/28 23:12:10
>>839
:日本@名無史さん :04/11/26 21:25:56
>>787
>稚拙な銘文の三角縁神獣鏡が幾ら出てきても
京産大の教授の説でしたっけ、それ?
ただ、三角縁の銘文が漢詩であるというのは確定なんですか?
それがなければ、韻律が無茶苦茶という議論も成り立たないと思うのですが。

大学教授の説がこんなに簡単に論破されるものなんですか?
凄く説得力があると思っていたのに…
誰か反論して下さいよ。
890日本@名無史さん:04/11/29 01:40:53
余が与えた鏡を複製し、部下に与えるとは、許せんな
891鳴海孝之@四王朝交代説:04/11/29 10:00:22
248年の日食事件=天岩戸=卑弥呼(天照大神)の死

なので大和朝廷の皇祖神が卑弥呼なので応神は邪馬台国の
一族ですね。これにて一件落着。
892豊前説:04/11/29 12:31:04
>>878
>他方、纏向と北九州に二大勢力が併存したという仮説は、疑わしい。
の理由が
>しかも、戦死したと思われる人骨が、吉野ヶ里だけでなく、
>山陰の青谷上寺地遺跡からも、発掘されているため、
>倭国の大乱は全国規模のものだったと考えられるからである。
だけですか?

法整備がなされていなかった当時は、多かれ少なかれ、あちこちで
戦いがあったと考えても不思議ではないし、たとえ全国規模のもので
あったとしても、そのうち西部のものを制圧したのが九州勢、東部の
ものを制圧したのが畿内勢と考えることも出来ると思います。
893豊前説:04/11/29 12:41:04
>>881
>記紀に宇佐神宮が登場しないのは、編纂時に皇室からは重要視されていなかったと
>考えるのが一番しっくりくると思いますよ。

しっくりくるかどうかは、一応氏がいわれるように解釈する立場により
かわるものです。
畿内説をとれば、宇佐は重要視されていなかったと解釈することが
できるし、豊前説をとれば大和朝廷の正当性を記述する上で不都合が
生ずるため書けなかったと解釈できます。
したがって、この件のみでは、やはり白黒つけることはできません。
894日本@名無史さん:04/11/29 14:05:01
宇佐神宮はもとは耶馬溪にあったらしいですよ。
895834:04/11/29 14:57:48
>>852
遅くなりましたが、一応お答えします。

>ただ、何処も大概はそうですが、東大阪の八幡様はやはりほとんどが八幡三神のようですよ。

八幡三神を祀っているのは、ほとんどが廃仏毀釈以降のことではないかと思っています。
ちょうど、牛頭天皇とスサノオの関係みたいなモンですかね。

>それと、天皇というのは聖武天皇ですよね?それは大仏建立のお願いではないのでは・・・・・。
>行基の派遣はそれですが。

こりゃ、その通りですね。失礼しました。
ま、宇佐より先に伊勢に勅使が行ってるということで。

>それまでに伊勢に行ったのは天武だけ、あとは持統、明治天皇、こんなもんですかね。

まぁ、そうなんでしょうけど、上の方で言われている熊野の例もありますし、
行幸の回数と格式が相関関係にある訳ではないと思いますけどね。
いずれにしても、伊勢は平安期の二十二社(畿内ばっかりですけど)の筆頭ですし、
宇佐より軽んじられていたという根拠はないのではないですかね。

>大正時代にも出雲大社の方が上だと皇室内ですら揉めたわけですが、

これは、できれば詳細を教えて貰いたいですけどスレとあんまり関係なくなっちゃうんで
やめときます。
896834:04/11/29 14:58:35
上の続き

>確かにあなたの言われるような、天皇家の仏教帰依に際しての宇佐の利用はあったと
>思いますが、

私が言いたいのは、そういう推測も容易に成り立つということです。

>それが余りにも唐突で、常識的に言われるように記紀編纂の後八幡神が成立したとは
>とても思えないのですが。
>何故応神なのか、ヒメ大神が真ん中なのか、

そんなに唐突ですかね?九州に勢力のあった宇佐が隼人との関係上、徐々に中央からも
重視されていったように思えます。
想像が許されるなら、隼人の討伐のために豊前で信仰されていたヒメ大神を祀る宇佐神宮に
軍神として応神を迎え、徐々に八幡神の名声が高まって、宇佐が八幡宮になり、
真ん中がヒメ大神なのは昔の名残。とも言えますね。
結局、真相は全く謎としか言いようがないです。

>或いは何故伊勢神宮でそれをやらなかったのか。

勢力のある神社の中で、宇佐が最も仏教と関係が深かったからでしょう。
仏教派が利用したのか、宇佐が自ら手を上げたのかは分かりませんが、宇佐は大仏建立の件といい、
道鏡事件といい、政治的な臭いが非常に強くて、これらの事件において果たした宇佐の役割をもって、
を天皇家のルーツと結びつけるには抵抗がありますね。

ちなみに、私は、畿内、九州、どっちつかずの日和見派の単なる素人です。
897日本@名無史さん:04/11/29 15:16:02
>畿内説をとれば、宇佐は重要視されていなかったと解釈することが
>できるし、豊前説をとれば大和朝廷の正当性を記述する上で不都合が
>生ずるため書けなかったと解釈できます

強引だなぁ。

宇佐が重要視されていなかったと解釈するのに、畿内説とかそういう前提は
いりませんよ。
正当性云々の解釈は、豊前説という前提が必要ですけど。
898日本@名無史さん:04/11/29 18:25:13
どっちにしろ、魏誌倭人伝をみれば、邪馬台国は北九州から一月以上
かかるようなすごい遠いところにあるって書いてあるでしょ
899日本@名無史さん:04/11/29 19:08:36
遠回りして案内されたわけでしょう
900日本@名無史さん:04/11/29 20:09:32
そんなわけないだろ
901日本@名無史さん:04/11/29 20:26:07
崖と藪を避けたのでしょう
902鳴海孝之@四王朝交代説:04/11/29 21:09:38
さきほどテレビの力という番組を見ていましたが
大阪から奈良までは40分足らずで目と鼻の先とのこと。
陸行1月は畿内説でもやはりあてはまらない気が・・
やはり北九州説のほうが正しい気がしますね。
陸行1月も邪馬台国へいたる全行程のことで、
4世紀末まで邪馬台国は九州にあったのでしょう。
応神のときに畿内大和朝廷と完全に合併・統一を
果たしました。よく名前を見てください。
「神になることを応じる」ゆえに応神なのです。
つまり崇神王朝の血筋が絶えたので邪馬台国の
一族に王になるように要請して邪馬台国側が
それに応えたということです。
903日本@名無史さん:04/11/29 21:32:40
佐世保から博多は北東方向なのは肉眼でも分かります。
それを魏志倭人伝が南東と書いているのは、何か政治的恣意があったのか、
日本列島が本当にそういう形で、後に大陸移動したかです。
904鳴海孝之@四王朝交代説:04/11/29 21:58:30
>903
当時は獣道だったんでくねくねしてて
南東に最初進んだはずだったけど
着いてみたら北東だったというだけの話。
905日本@名無史さん:04/11/29 23:44:08
方向が一律、南に90°程づつずれているのは何故でしょう。
水行には獣道もクソも無いです。
906豊前説:04/11/29 23:59:51
>>896
>結局、真相は全く謎としか言いようがないです。

結論をいうと現況ではそうなってしまいます。でも、そう言ってしまうと
邪馬台国関連のスレは止まってしまいますので・・・。

>>897
>正当性云々の解釈は、豊前説という前提が必要ですけど。

そうでしょうか?
たとえば、神功皇后が卑弥呼を意識させるように書かれていながら
卑弥呼とは書かれていないことなどは、どのように解釈されますか?
907日本@名無史さん:04/11/30 01:16:41
邪馬台国に銅鐸はあったのでしょうか?
908豊前説:04/11/30 03:30:01
906の続き
また、神武天皇をまともに計算すると、まだ大和朝廷が形をなしていない
と考えられる弥生時代まで遡りますが、なぜそのような書き方をしたので
しょうか?
909豊前説:04/11/30 04:05:32
>>907
銅鐸というと畿内しかないような印象を受けますが、必ずしも
そうではなく、小銅鐸が朝鮮半島の他、九州の弥生時代の遺跡で
見つかっていますし、吉野ヶ里では畿内と似た銅鐸が発掘されて
います。

したがって、畿内に邪馬台国があったなら銅鐸を使った可能性は
あるかもしれませんし、九州にあったとしても、銅鐸を使用して
いた可能性は否定はできないと思います。
910豊前説:04/11/30 04:19:07
>>903
佐世保って出てきましたっけ?

>>905
90度とは言い過ぎで、45-60度程度です。
そして、前述しましたが、その程度では、むしろ豊前説では更に
適地となります。
>>142-143,>>160,>>164
911鳴海孝之@四王朝交代説:04/11/30 09:58:55
天皇の名前に注目してくださいよ。
名前にはちゃんと意味があるんですから。
天智・天武は殷周革命が名前の由来だし、
後醍醐とかは醍醐天皇の延暦の時代へ戻れという意味があるし
歴史を紐解くヒントになってるんですよ。
継体というのはちゃんと血統がつながってますよ。
という意味があるのでこういう名前をつけざるをえないと
いうことは裏を返して血統のつながりはないということですし
応神というのは、前にも書いたように、天皇になることを
応じた。受諾したという意味があると思います。
まあ宇佐神宮とこの応神という名前からだいたいおおよその
歴史は推理するに固くないでしょう。
912日本@名無史さん:04/11/30 10:22:27
邪馬台国が宇佐だとしたら、狗奴国はどこになるのでしょう。
913日本@名無史さん:04/11/30 10:48:14
熊襲にきまってるじゃん。
914897:04/11/30 11:16:41
>>906
>たとえば、神功皇后が卑弥呼を意識させるように書かれていながら
>卑弥呼とは書かれていないことなどは、どのように解釈されますか?

倭人伝の卑弥呼が誰か分からなかったんでしょう。
しかし、>>897とどういう関係が?

>また、神武天皇をまともに計算すると、まだ大和朝廷が形をなしていない
>と考えられる弥生時代まで遡りますが、なぜそのような書き方をしたので
>しょうか?

分かりませんね。
しかし、>>897とどういう関係が?


915日本@名無史さん:04/11/30 14:24:17
>>912
>>913

狗奴国=熊襲=隼人=邪馬台国の敵=大和朝廷の盟友
916日本@名無史さん:04/11/30 15:22:42
このスレも無限ループですか?
917日本@名無史さん:04/11/30 16:23:27
投馬=イヅモ(語頭脱落)狗奴=ケナノ(毛野)の方が自然だと思いますが。
投馬国が広島あたりというのもかなり無理があります。
918日本@名無史さん:04/11/30 17:04:52
>>917
毛野の由来はそうじゃなかったような…
ごめん、調べてからまた来ます
919鳴海孝之@四王朝交代説:04/11/30 21:26:17
投馬国は日向でしょ。
邪馬台国が狗奴国の攻撃受けて
衰退したんで九州連合の中心を
宇佐から日向に移したんですよ。
倭人伝見ても2番目に大きいとこだからわかるでしょ。
920:04/11/30 22:13:05
>>906殿 (問)
どの文献のどのへんに、神功皇后が卑弥呼を意識させるように書きこまれているのか?
921豊前説:04/11/30 22:59:11
>>914
>倭人伝の卑弥呼が誰か分からなかったんでしょう。

では、なぜ分からない曖昧なことなのに、卑弥呼と神功皇后をあたかも
同一人物のように、国家の正史に記したのでしょう?

もちろん仮説に過ぎませんが、宇佐神宮や神武天皇のことも含め、
大和朝廷の正当性を主張するためと考えると以上のことは、
無理なく解釈することが可能です。
922豊前説:04/11/30 23:21:25
>>920
神功紀の分注に魏志で倭の女王が朝貢したことを引用しています。
また、干支や時代を一致させてもいます。
923豊前説:04/11/30 23:46:28
921続き

記紀には邪馬台国の名も全く出ていません。
邪馬台国は大和朝廷になったとむしろ正々堂々と書いたはずです。
922にも書いたように、魏志倭人伝のことは当然知っていたはず
なのになぜないのでしょうか?
(逆に後の隋書では、同一であると書かれているのですが)

それは、魏に朝貢した邪馬台国は、中国の配下と考えられ、それを
正史に記すのは都合が悪かったのだと考えられるます。

もし、どこかに卑弥呼の墓があったならば、たかだか数百年後の
ことであり、まだ人々はそのことを知っていたと思います。
しかし、邪馬台国と大和朝廷は関係ないという立場をとる以上
卑弥呼の墓のある場所は書く必要がなかった(書けなかった)のです。

よって、当説としては、宇佐神宮を卑弥呼の墓として考えていますが
邪馬台国や卑弥呼と同様に宇佐の名も記すことが出来なかったと
考えるのです。
924日本@名無史さん:04/11/30 23:50:29
毛野は当時の発音は正確には解らないが「ケヌ」に近いものだったろう。
ヌは鳥の鵺(ぬえ)の事で夜に怪しく鳴いて凶事を知らせると言われた鳥、ケは解で昼間をさす。
つまり東国の要衝にあって、その動静を知らせる鳴き鳥と目された土地なのだ。
狗那国とは見当違い。
925日本@名無史さん:04/12/01 00:30:28
>>921
914さんではないですが…
日本書紀は対中国を意識して書かれている以上、倭人伝の邪馬台国の記述を
無視出来なかった、ということなのでしょう。
私は宇佐=邪馬台国を否定するつもりはありません(出来ません)。
ただ、3世紀邪馬台国→8世紀以降の大和朝廷までの数百年間、脈々と皇統が
受け継がれてきたという主張は、到底納得し難いものがあります。
王朝交替、王殺し、王位簒奪、各地の諸国王の離合集散、血腥い政権闘争の延長線上に、
漸く現在の天皇家が誕生したのではないでしょうか?
卑弥呼が天皇家に連なる先祖であったなら、紀に堂々と記述したと思いますよ。
あえて、博多湾周辺に伝承されているオオタラシ姫(神功)伝承と卑弥呼を絡める
必要はなかったのでは?卑弥呼が誰か分からなかった(直接の先祖ではないから)ので、
偽装してしまった、と考えるとスッキリします。
思えば、敢えて分注に神功=卑弥呼と記述するあたりに、紀編纂者の自信の無さ、
史家としての謙虚な態度が窺えます。
>>923
>それは、魏に朝貢した邪馬台国は、中国の配下と考えられ、それを
>正史に記すのは都合が悪かったのだと考えられるます。
どうなんでしょうか?分注にしろ、神功=卑弥呼と書いてますし、隋や唐も
大和朝廷を邪馬台国の後継であると認識しているみたいですよね。
926:04/12/01 00:31:48
>>922
「神功皇后が卑弥呼を意識させるように書きこまれている」というより、
紀の作者が神功皇后の記述の中に卑弥呼らしい?者を意識させて書きこんでいる、
という方のが正確かな?あの文は知ってはいたが、意識とは解釈の問題で、まあ
可能性としては(作者)言えないわけでもないが?解釈のとり方の差異だろうな?
927日本@名無史さん:04/12/01 00:46:40
倭の5王は、畿内でしょうか?
倭の5王も記紀に書いていないようですが
邪馬台国について書かれていないこと関係あるのでしょうか?
928一応九州王朝説:04/12/01 00:47:45
>>834さん
どうも。疲れてて読む間もなくてw
さて、八幡様ですが、廃仏毀釈の時にはむしろ忌避されたのでは?“本家”の石清水八幡さえ男山神社と改称し
たぐらいですし。まあ東大阪に行ったついでにでも調べてきます。

>勢力のある神社の中で、宇佐が最も仏教と関係が深かったからでしょう。
 仏教派が利用したのか、宇佐が自ら手を上げたのかは分かりませんが、宇佐は大仏建立の件といい、
 道鏡事件といい、政治的な臭いが非常に強くて、これらの事件において果たした宇佐の役割をもって、
 を天皇家のルーツと結びつけるには抵抗がありますね。

もし巷間言われるように仏教改宗の為に宇佐を利用したと言うことなら、そもそもその必要があったのでしょうか。
当時既に伝説化していた厩戸王子初め、すでに十分奈良には仏教の伝統があったというのに。政治臭が強い、
というより政治そのものであったのではないでしょうか。聖武の伊勢行幸も、実態は軍事パレードだったらしく、道
教の事件と言い、宇佐が無視できないからこそそのような事が必要であったわけで、言われるような対隼人とか
ただの仏教先進地帯というだけならむしろ余分な外部勢力として無視しておくにしくはない。また、先進地帯なら
何故記紀になんの記述もないのか。さして違わない時代なのですが。
私は、一つにはその本尊であるヒメ大神の存在とともに、もしかしたら実際に大仏も提供したのではないか、と思
っています。いや、ある人の説の受け売りでしかありませんが。単に協力しただけならそれこそ僻遠の地に指導
を仰ぐ必要もない。仮に邪馬台国や九州王朝があったとしても、既に世は畿内の時代、なんで片田舎に頭を下げ
る必要があろうか。もしかしたら、実際にブツ(仏 w)も提供したのではないのか?或いは設計図か建造のノウハ
ウか?
929一応九州王朝説:04/12/01 00:48:06
>まぁ、そうなんでしょうけど、上の方で言われている熊野の例もありますし、
 行幸の回数と格式が相関関係にある訳ではないと思いますけどね。
 いずれにしても、伊勢は平安期の二十二社(畿内ばっかりですけど)の筆頭ですし、
 宇佐より軽んじられていたという根拠はないのではないですかね。

格式自体は単に神宮と呼ばれる伊勢が最高でしょう、それは。ただ、その伊勢が実は天皇家にあまり大事にされ
ていないこと、実際に足を運んでいないことも有名ですよ。聖武、持統も実は参拝しておらず、正味の参拝者は明
治天皇が最初。伊勢は天皇家にとって事実上の禁足地だったわけで、そのことからも伊勢のご本尊が伺えるとお
もうのですが。格がないというのは、もしかしたら付けられないということかも。恐れかしこみたてまつる、一種の祟
り神ですねw 
一方石清水八幡の行幸は、物の本によると70数回だそうです。

比売大神・・・卑弥呼=天照
応神、神功・・・現政権の始祖で、卑弥呼の末裔

これらを本地垂迹説でまとめたことが聖武の描いた大和政権のグランドデザインであり、実際現存する神社の内半
数以上とも言われる八幡、また仏教勢力も後々まで天皇家の有力な基盤・・・、これは結果的に大成功だったので
はないでしょうか。伊沢元彦ではないが、これが日本という国の骨格ではないかと。

それに比べれば、同じく数多いが影の薄い天神様とは対照的でもあります。
930豊前説:04/12/01 00:55:54
>>917
>投馬国が広島あたりというのもかなり無理があります。

書き方がまずかったですね。
正直、まだ投馬は私もどこだと思うといえる程の知識も持ち合わせて
いません。
しかし、水行のみで記されていることや、邪馬台国と同方向でありながら
同一直線上ではなさそうなことを考えて、中国地方のどこかといいたかった
わけで、別に広島に限定した意図はありません。
吉備や出雲、丹波(但馬などを含め)かもしれませんし、それらの複数を
含んだかもしれないとも思っています。
931日本@名無史さん:04/12/01 01:11:49
神功皇后=卑弥呼なら壱与は、
932豊前説:04/12/01 01:15:00
>>925
>卑弥呼が誰か分からなかった(直接の先祖ではないから)ので、
>偽装してしまった

直接の先祖ではなければ、触れなくてもよかったと思うし、触れても
全く別の政権だとはっきり記せばよかったのではと思います。
(中国でも政権が次々と代わっているのですから)
それを敢えてしなかったのは、やはり政権としてのつながりがあった
からなのではと思います。
ただし、応神出生の話など怪しい点がありますので、血のつながりに
関しては、?としておきます。
933日本@名無史さん:04/12/01 01:15:25
まだ十六だから。
934豊前説:04/12/01 01:38:23
>>925
>分注にしろ、神功=卑弥呼と書いてますし、隋や唐も
>大和朝廷を邪馬台国の後継であると認識しているみたいですよね。

そうなんです。結局は、中国にはバレバレだったわけです。
で、あくまでも自分の解釈ですが・・・

邪馬台国と大和朝廷は別物と見せかけたが、編纂者はあとあと
ばれることを恐れた(ばれる可能性が高いと思っていた)。
よって、もしばれたとしても、神功紀に分注として卑弥呼を匂わせる
ことにより、神功を卑弥呼に思わせようとした。
そうすることにより、魏の配下であったのは、天皇ではなく、あくまで
皇后であったから、国として従ったのではないというように思い込ませ
ようとした、と思うのです。
935日本@名無史さん:04/12/01 01:39:20
最初に八幡社が出来たのは8世紀初頭
神仏習合(本地垂迹説)を最初にとったのは宇佐だった
これが聖武に受けた

936日本@名無史さん:04/12/01 01:42:13
>>929
>その伊勢が実は天皇家にあまり大事にされ
>ていないこと、実際に足を運んでいないことも有名ですよ。
何も「伊勢大神が皇祖神として昔から大事にされていた」と主張するつもりは
ありませんよ。
元々伊勢大神は豊受神であって、東海地方の土着神だったと思います。
大和政権の勢力拡大に伴い、畿内周辺限定の神話から倭国全体の神話の創作が要請され、
その中で伊勢=聖=アマテラスとなったのではないでしょうか?
逆に、出雲=穢=オオクニヌシとなったと。
伊勢がアマテラスとされたように、8世紀以降に宇佐も応神とされたことは
十分に考えられる事かと思います。
前者が記紀編纂以前の話で、後者が編纂以後という話なだけで。
937897:04/12/01 01:48:22
>>921
>では、なぜ分からない曖昧なことなのに、卑弥呼と神功皇后をあたかも
>同一人物のように、国家の正史に記したのでしょう?

書紀が中国を意識して編纂されたことは否定しませんよね?
瑣末な話に思えるんで詳細は省略しときます。

>もちろん仮説に過ぎませんが、宇佐神宮や神武天皇のことも含め、
>大和朝廷の正当性を主張するためと考えると以上のことは、
>無理なく解釈することが可能です。

結論から言えば、豊前説さんの主張は循環論法なんですよ。
「邪馬台国は豊前にあった。」
だから
「比売大神は卑弥呼。」あるいは、「宇佐は重視されていた。」
だから
「邪馬台国は豊前にあった。」
だから・・・・・以下ループ。
条件を与えて結論を導くには、前提としてその条件が少なくとも有力でなければ
話になりません。その条件に根拠が乏しいだけでなく、豊前説さんの場合は、
しばしば、条件と結論をひっくり返して互いに双方を補強しようとしているから論理が
循環しているんですよ。もちろんこれは仮説かどうかなんて関係ありません。
豊前説さんの主張しようとする結論は邪馬台国豊前説ですよね。であるならば、
その条件にすぎない宇佐重視説の前提に邪馬台国豊前説をもってくることは
できないはずです。
938897:04/12/01 01:49:34
私がレスをつけたのは>>893に対してなんで、話を戻しますけど、記紀に宇佐神宮が
書かれていないことを前提条件なしに読めば、宇佐神宮は重視されていなかったと
読むほかありません。
書いていないということは、1.なかった 2.どうでもよかった 3.隠した 
一般的には、この3者しかありませんが、このうち前提条件が必要なのは3だけです。
まぁ、何でもいいんですけど、
「記紀にコカコーラのことが書いてないのはなかったからだ。」
コカコーラアメリカ20世紀発祥説とかいりませんよね。
「記紀にご飯のおいしい炊き方が書いてないのはどうでもよかったからだ。」
朝廷ご飯の味軽視説とかいりませんよね。
「記紀に宇佐神宮が書かれていないのは隠したからだ。」
この場合は、隠したという根拠が前提条件に必要です。さらにその条件として
邪馬台国豊前説をあげることは豊前説さんの論理の構造上難しいことは前述の
とおりです。
939日本@名無史さん:04/12/01 01:58:06
分かり切ったことは書かなかった、っていうのは駄目?
940日本@名無史さん:04/12/01 02:00:01
>>929
>一方石清水八幡の行幸は、物の本によると70数回だそうです。
まあ、近かったからでしょうなあ。
941一応九州王朝説:04/12/01 02:00:34
豊前説さん、こんばんは。 また明日がありますよw

>それは、魏に朝貢した邪馬台国は、中国の配下と考えられ、それを
  正史に記すのは都合が悪かったのだと考えられるます。
                              ↑
                            ( ´_ゝ`)

これ、よく言われる説なんですが・・・・・。そんな国粋主義的大義名分論が、果たした当時あったのかどうか、
すこぶる疑問でして。実際朝貢貿易してて、遣唐使もお世話になりまくり、そんな尊大な考え方はどう考えて
も無かったのではないかと思われます。むしろ邪馬台国の直系なら、魏−南朝という中華の正統王朝に仕え
たことは誇るべき事ですし。まあ隋唐は北朝ですが。
白村江での大敗〜敗戦国として進駐軍を受け入れる、その後に書かれた正史でそんな視点を書くのは非常に
具合が悪いのではないでしょうか。半島の橋頭堡を放棄したとはいえ依然として最大最悪の脅威ですし。中国
の配下である方がステータスは上だったわけで、それが東アジア柵封体制ですよね。

私はこういった視点は後世の人間の考え方(水戸史学以来の朱子学)だと思います。

私は、やはり文字通りヤマトは邪馬台国の直系の子孫国家ではなく、簒奪者だから書けなかったのだと思いま
す。だから忌避し祭り上げる対象にして伊勢に押し込めた。それが天照=卑弥呼。あるいは元々の伊勢は先住
者の聖域だったのかも知れません。有り難がって伊勢参りとか喜んでいるけど、実際は内宮には入れませんよ
ね。そんな神社なんて他にはありません。みんなから柏手打って祈って貰えないなんてこれほど不幸なことも無
いでしょう。そこまでする必要があるほど卑弥呼って呪詛の力が強かったんですかね。まあ勿論天津神全部の代
表として祀ったのもあるでしょうが。
「その人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以て対えず。故に中国焉(こ)れを疑う。」 とあるように、あからさまな嘘
を書くのも、倭国以来の日本観をちゃんと引き継いでいる唐に詰問されでもしたらすぐばれるし、この辺りが手の
打ち所というのが卑弥呼=神功をそれとなくほのめかす書き方。
942豊前説:04/12/01 02:16:11
>>937
参りましたなあ。
私は専門家でもありませんし、完璧な論をもって屈伏させようという
意図で書いているわけでは毛頭ございません。
また現況では、結局は様々な根拠を基に推定し、最も矛盾なく
説明可能な説をみつけるしか、真実に迫れるのは難しいのでは
ないかと思っています。

よって、こう書くとずるいと思われるかもしれませんが、
この神功紀や邪馬台国記載の件についても、他に述べて
きた論の補強の一つとして私は捉えており、矛盾がなけれ
ばよし、もし矛盾を指摘されれば、これをよい機会と捉え
再考し、前進できるのではないかと思うのです。
よって、当方の説を否定していただくのは結構ですが、
できれば、どの辺がどういう風におかしいと、具体的に
示していただければありがたく思います。
943豊前説:04/12/01 02:30:29
>>941
どうもです。
>私は、やはり文字通りヤマトは邪馬台国の直系の子孫国家ではなく、
>簒奪者だから書けなかったのだと思います。

説明が足りなかったようです。
私も、全くの直系であったとは思っていません。どこの国家でも
見られたように、恐らくは、皇室・政権内での内部抗争が幾度も
起こっており、そのために外部からも新たな血が入っていると
思います。
ただ、政権として流れを引き継いでいるというまでの意味で
かいたのであって、大和朝廷を引き継いだのが、あるいは九州
に残ったのが本家であったのか分家であったのかまでの結論
には、自分としては達していません。
944日本@名無史さん:04/12/01 03:41:23
>>938
記載が無いからとばっさり切り捨てるのは、なんかなあ。
897氏が自説を展開しない以上、簡単に切り捨てるのは
ずるいだろう。

そういう論調だと、せっかく良スレ化していたのに、
結局、みんないなくなるぞ。
945日本@名無史さん:04/12/01 05:56:24
>>941
>私は、やはり文字通りヤマトは邪馬台国の直系の子孫国家ではなく、簒奪者だから書けなかったのだと思いま
す。

同意。
日本の事情をよく知らない中国人は、「大和朝廷は邪馬台国のこと」だと書いてはいるが、
日本書記で、「大和朝廷は邪馬台国のこと」と書けないはずはない。

大和朝廷の官僚さえも、邪馬台国がどこの国なのか解らなかったということ。
つまり、天照は卑弥呼ではない。
946日本@名無史さん:04/12/01 06:42:59
>>942
>よって、当方の説を否定していただくのは結構ですが、
>できれば、どの辺がどういう風におかしいと、具体的に
>示していただければありがたく思います。

豊前説氏の説を評価する以前の問題だと、>>937(897)氏は言ってるわけで。
つまり、豊前説氏の論理は「循環」してるのです。

宇佐が邪馬台国であったと結論付けるために、「宇佐が重要な土地だった」と、
豊前説氏が唱えるならばその「根拠」が必要でしょ?
しかし豊前説氏は、「宇佐に卑弥呼が祀られているから」という「仮定」を持ち出しています。

たとえば、宇佐から「親魏倭王」の金印が出たとか、
3世紀初頭に繁栄した遺跡が発見されたとか、
そういう誰しも納得しうる「根拠」を提示するなり、自分でもっと調べてください。
今まで豊前説氏が出した理由は、自分では整合性があるように思えてるかも知れませんが、
他人から見て「仮定」でしかないのです。
947日本@名無史さん:04/12/01 07:02:19
>>たとえば、宇佐から「親魏倭王」の金印が出たとか、
>>3世紀初頭に繁栄した遺跡が発見されたとか、

無茶苦茶言うなよ。こんなの書けるわけないじゃん。
自分で調べるにしても、学者じゃないんだから、限界はあるし、
結局、学者や研究者が提示した資料や仮説を検討して、
その仮説を補強、発展、修正する程度のことしかできんだろ。
948日本@名無史さん:04/12/01 07:11:23
それは、空想を楽しむということか?
949日本@名無史さん:04/12/01 07:12:51
第三者ぶっているが897=937=946だろ。
以前も同じこと言っていたが粘着だな。
目の敵にしてるみたい。

自分こそ>>896で仮定ばかりしているのによくそんなことが
いえるもんだ。
950日本@名無史さん:04/12/01 07:23:50
>他人から見て「仮定」でしかないのです。
って、邪馬台国なんてどの説もみんな仮定なのは当たり前じゃん。
951日本@名無史さん:04/12/01 07:51:09
たとえば熊本の向野田古墳も女王が祀られている。
4世紀以後も九州地方は、女性の王を擁立する慣習があったのだろう。
ヒメ大神も、宇佐地方の女王の一人だったかも知れない。
女だからといって邪馬台国の卑弥呼と結びつける根拠にはならないよ。
952日本@名無史さん:04/12/01 08:02:07
>慣習があったのだろう。
>だったかも知れない。
また、推測かよ。

豊前氏は、宇佐神宮以外に倭人伝や遺跡、銅など多方面から
アプローチしているだろう。
少しは、あんたもまともな説を出しなよ。
953日本@名無史さん:04/12/01 08:28:00
>>951
>4世紀以後も九州地方は、女性の王を擁立する慣習があったのだろう。
それって九州に卑弥呼がいたって証拠じゃないのかい?
954鳴海孝之@四王朝交代説:04/12/01 09:29:00
神功皇后は邪馬台国の巫女。
955日本@名無史さん:04/12/01 09:46:09
九州に邪馬台国があったとしても、
宇佐だとは決められないだろ。
日田かも知れないし。
956鳴海孝之@四王朝交代説:04/12/01 09:46:41
PART13なのに、スレの流れは毎回一緒なんですよねw
PART1からほとんど変わらないんじゃないですか?
もうこれ以上の議論は無駄かな・・
957日本@名無史さん:04/12/01 09:47:37
だって、過去スレ読めないんだよ。
過去スレウプしる。
958日本@名無史さん:04/12/01 09:59:25
卑弥呼の「ミコ」と「巫女」を結びつけて考えるAHOが多いけど、倭人伝には狗奴国の男王卑弥弓呼と言うのが出て来る。
「卑弥呼」は「卑」+「弥呼」ではないんだ。「卑弥」+「呼」なんだよ。

そして「呼」は当時「コ」とは読まれなかったから「弥呼」と「巫女」を結びつけて考えるのはやめにしたほうが良い。
「呼」は「ふぉ」のような発音と考えられるから「王」だった可能性があるんじゃないか?
959老教授@畿内説纏向派:04/12/01 10:00:34
テンプレを作成して20〜30レスあたりに貼り付けておくと良いのではないでしょうか?
各説の主張内容を2レスほどに箇条書きして、あと質疑応答を「良くある質問」の如く追記するなど。
作成に関しては各説の主張者にお任せするとして
質疑応答については過去レス参照の元に纏め上げるなど。

これがある程度機能すると、ループ質問に対し「>>??を読んでから発言願います」の一文で対処できますよ。
ほとんどの長寿スレで採用され、一定の効果をあげているようです。
960日本@名無史さん:04/12/01 10:10:11
じゃあ次スレは959が立ててくれ。頼んだよ。
961老教授@畿内説纏向派:04/12/01 10:16:50
質疑応答に関してはQ&A形式がシンプルに纏まります。

Q、畿内説が「南」を「東」に読み替えるのは強引ではないか?
A、東を南と誤記(誤写)したなどという過去の文献史学見解によるものではなく
  現在ほぼ位置が確認されている対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国への行程記事が
  方向的には反時計回りに30度〜65度ものズレがあることを考慮している。
  但しこれは畿内説肯定や九州説否定の材料には成り得ない。倭人伝記事への史料批判によるものである。

こんな感じでいかがですか?
これだと上記アンサーへの反論も展開しやすくなり、より議論が深まります。
962老教授@畿内説纏向派:04/12/01 10:20:34
>>960
やってみます。ただスレ立てに失敗した時の保険のため
当スレにコピペ用の空きレスを残しておいて下さい。
963日本@名無史さん:04/12/01 10:24:07
>>958
同意。
古代の発音は現代とは違う。
魏志倭人伝には「狗古智卑狗(きこちひく?)」「卑弥呼(ひみこ?)」という役職が出てくるが、
「卑狗」「卑弥」は、「ひこ」「ひめ」に対応すると考えるべきだね。

つまり、卑弥呼を日巫女と考えるのは間違い。
だから、オオヒルメムチ=アマテラスが卑弥呼だと言う根拠は無くなるわけ。

964:04/12/01 10:29:10
天照大御神は男神説→天照大御神≠卑弥呼を意味することになる。卑弥呼は女性だから。
天照大御神=卑弥呼→天照大御神≠男性を意味することとなる。  同上 
(正解)卑弥呼≠天照大御神 どちらも女性

965老教授@畿内説纏向派:04/12/01 10:38:24
うーん「このホストではしばらくスレッドが立てられません」との事です。
LANシステムと関係あるのでしょうかね?
次レスより基本3項目をコピペしますので、どなたかご協力お願いします。
966老教授@畿内説纏向派:04/12/01 10:39:12
◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART14


邪馬台国や狗奴国はどこ? 大和朝廷との関係は??
西日本に統一政権はあったか? 統一されたのはいつか??
どのような過程を経てそれらが進行していったのか??

倭人伝の信憑性や如何に? 記紀はどこまで真実を伝えているのか??
最新の発掘状況と最新の資料解釈を元に、古代王権の正体を推理する!!

根拠を明記した意見交換・情報提供・問題提起で活発に議論しよう!!

前スレ
◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART13
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1100065905/l50
967老教授@畿内説纏向派:04/12/01 10:40:07
968老教授@畿内説纏向派:04/12/01 10:42:21
「吉備、山陰、東部四国、丹後、河内、奈良盆地、東海、琵琶湖周辺、越、南関東など
これらの公益圏が倭国大乱(2世紀末まで)終結後に連合化して、原ヤマト連合を形成した。
(但し連合化の順番や内部での力関係は諸説ある。)」

これを3世紀の列島情勢だとする通説を採用したい。それを踏まえて
@(畿内説)この連合が倭人伝に言う倭国であり、邪馬台国連合である。
また後の大和朝廷の基礎となったのであろう。
魏への朝貢は、北九州を併合又は合併した後に行われたと考えられる。
卑弥呼は畿内纏向に居たとの説が中心だが、それ以外の土地に居た可能性も十分にある。
A(九州説)倭人伝に言う邪馬台国は、本州連合とは別の九州連合であろう。
後の大和朝廷との関連については、継続説と断絶説がある。
魏への朝貢は、狗奴国(南九州説と本州連合説がある)との対立や貿易権確保が目的である。
卑弥呼擁立時には原ヤマト連合とは合併していないとの見方が多数。
少数ながら原ヤマト連合を支配下においていたとの見方もある。
なお、卑弥呼の居館及び邪馬台国の位置は諸説ある。

なお大和朝廷との繋がりにおいては
a)邪馬台国は原ヤマト連合に滅ぼされたか吸収された。
b)九州連合と本州連合合併後、イニシアチブを執ったのが九州連合。
c)連合に際して血縁関係を結び、同族として融合化したのち派閥化した。
d)あくまで合併を拒み7世紀頃まで自治独立化した(九州王朝説)。
などが主な説であるが、畿内説論者でも邪馬台国と大和朝廷の断絶を支持する
考え方をしている者も少なくない。
また後世の壬申の乱や大化の改新などによる大和朝廷内の派閥争いの結果
記紀編纂時に恣意的な編集が見られると指摘するする動きも、九州、畿内支持に関わらずやはり根強い。
(神武東征、欠史八代、倭人伝の神功紀注釈への挿入、各天皇の即位状況、継体天皇問題
 聖徳太子と蘇我氏、物部氏の役割、藤原氏の意図など、問題は山積である)

このため単純に畿内説や九州説といったカテゴリーでは括れないのが現状である。
969日本@名無史さん:04/12/01 11:02:28
そういえば、天照大御神はどうして女神って呼ばれるようになったの?
性別の記載はどこにも無いよね?
970日本@名無史さん:04/12/01 12:14:21
スサノヲが、アマテラスを姉御と呼んでる。
971日本@名無史さん:04/12/01 12:26:21
だめだ。漏れのホストもはじかれた。
誰か頼む。
972日本@名無史さん:04/12/01 12:49:16
立てときました。
973老教授@畿内説纏向派:04/12/01 13:28:06
>>972
有難うございます。
あと当スレはdat落ち防止のため、書き込みを控えて頂ければありがたいです。
豊前説氏や一応九州王朝説氏も、まとめを次スレに記載したいのではないかと思いますので。
974鳴海孝之@四王朝交代説:04/12/01 22:56:42
>>973
私は完全に貴方にとっては透明な存在ですか?w
975日本@名無史さん:04/12/01 23:26:16
今日、NHKでドナウ・ラインの旅というのをやってましたが見ましたか?

神聖ローマ帝国の皇帝はハプスブルグ家だというのは有名ですが、
神聖ローマ帝国はもともと先帝候による選挙王政でした。
そして、この番組によれば、ハプスブルグ朝の初代ルドルフ1世が選ばれて王となったときには、
ハプスブルグというのは地方の一弱小領主に過ぎず、有力諸侯は弱小領主を王にしとけば、
自分たちの自由になると考えていたということです。
ところが、このルドルフ1世が結構優れもので王位にある間に確固たる権力を築いてしまったということです。

卑弥呼が共立されたときに事情も案外こんなものだったかもしれません。
都を定めるのに、力を持っている吉備とかを都にすると一悶着あるのは見えてるから、
それじゃあ、有力者のとくにいない大和にしとけっていうんで、纏向に都を置いた。

ところが卑弥呼とそのブレーンは結構優秀で、卑弥呼存命中に確固たる王権を作り上げてしまった。
ほかの地域が地団駄踏んでも後の祭・・・・

・・・・とか。
976日本@名無史さん:04/12/02 00:00:03
◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART14
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1101872567/
977梅に:04/12/02 17:27:01
978日本@名無史さん
いまさらだが、この流れなら言える
>>957
初代スレドゾー
ttp://makimo.to/2ch/academy2_history/1045/1045719732.html