1 :
日本@名無史さん:
2
3 :
日本@名無史さん:04/10/29 22:38:12
4 :
日本@名無史さん:04/10/29 22:39:06
5 :
日本@名無史さん:04/10/29 23:04:50
7 :
日本@名無史さん:04/11/02 08:18:08
前スレ埋め記念あげ
8 :
日本@名無史さん:04/11/02 17:48:43
9 :
日本@名無史さん:04/11/03 23:59:01
ゲーム『斬』シリーズに出ていた朝倉道景(1565年以降に登場)という人物は誰の息子ですか?
10 :
日本@名無史さん:04/11/05 09:21:45
諸説ある。
三代貞景の子で波多野氏(丹波波多野氏ではない)の養子となった道郷の子
とする説と、宗滴−景紀(養子)−景恒−道景のラインとする説がある。
どちらにしても朝倉義景の従弟となる。
ちなみに、主家滅亡後道景は、織田家に圧迫された一向宗門徒とともに、
加賀国より海岸沿いにのがれ、 勝平海岸(現在の秋田県)に上陸し、下浜
方面に移住して本敬寺を建立したという話が残っている。
しかし「斬」ってなつかしいな。軍団がそれぞれ勝手に日本全国を移動して、
敵部隊とぶち当たったら戦闘するというものすごいシステムだった気がする。
11 :
日本@名無史さん:04/11/05 14:58:01
宗滴−景紀(養子)−景恒−道景のラインとする説の場合は
「従弟」じゃなくて「甥」じゃないかい?
波多野氏説でも「子」じゃなくて「孫」だったような気がするが。
12 :
日本@名無史さん:04/11/05 15:17:20
宗滴=景紀┬景【土光】
└景恒─道景
13 :
日本@名無史さん:04/11/05 17:08:19
>>11 義景の父の四代孝景と景紀は兄弟だから血のつながりで考えると甥なんだけど、
宗滴は二代氏景(義景にとっては曾祖父)の兄弟だから、「系図上」ではその
養子の景紀は義景にとって大叔父、景恒は叔父、道景は従弟となる。
14 :
日本@名無史さん:04/11/05 18:19:56
景【土光】の子供はどうなったんだろう?
15 :
日本@名無史さん:04/11/05 18:44:50
景垙の子供は「日下部朝倉家系図」では「景友」と記載がある。
景垙が死んだ時に2歳で景紀が引き取って育てたらしい。朝倉滅亡時
には11歳のはずだが、その後どうなったんだろうな。
あと、道景については、
>>10の本敬寺建立説がある一方、上記の
系図では刀禰坂の戦い(1573年)で討死したとあるので詳細は不明。
16 :
日本@名無史さん:04/11/05 22:28:53
一体どの系図が正しいのかわからん
17 :
日本@名無史さん:04/11/06 22:51:12
景紀って姉川の戦いに参加したという史料がありますが
本当ですかねえ?
18 :
日本@名無史さん:04/11/07 08:32:26
ちょっと考えにくいけどどうなんだろ・・・。
永禄7年には、既に景恒に敦賀郡代を譲って引退しているし、もし参戦していた
のなら、姉川の戦いで序列が下の景健が総大将を務めるのもおかしい気がするが。
ちなみにそれは何に載ってたの?
19 :
日本@名無史さん:04/11/07 15:58:00
20 :
日本@名無史さん:04/11/07 18:13:24
>>19 にしても同名衆筆頭で70歳を超える老臣の景紀が先鋒で、景健が総大将はあり得ない
気がする。
開城したといっても信長の退却で取り返してるし、一気に序列が下がってたってこと
もないだろう。
なお「信長公記」や「朝倉始末記」には景紀の参陣は載ってないが、「浅井三代記」
には載ってる。ただし三代記は江戸時代成立の軍記物で元亀3年8月の戦いに景紀が
登場してるくらいだから信憑性はかなり低い(景紀は同年5月に病没している)。
21 :
日本@名無史さん:04/11/07 22:43:23
では、陣立ては如何なるものであったのでしょう?
22 :
日本@名無史さん:04/11/07 22:47:44
小和田哲男氏の書いた本で浅井長政の
送り仮名はあざいとなっているのですが
やっぱり読み見方はあざいなのでしょうか?
23 :
日本@名無史さん:04/11/08 00:04:22
あざいです。
24 :
日本@名無史さん:04/11/08 00:33:49
あざいはうざい
25 :
日本@名無史さん:04/11/08 23:20:26
足利義昭の上洛要請を拒否した理由は何だったんでしょう?
義景なりに何か考えがあって義昭を迎えたんだと思うのですが。
26 :
日本@名無史さん:04/11/09 12:44:05
上洛した以上、現地(京洛)を掌握・治安維持しなきゃいけない。
当然、周辺諸侯に命令できるほどの軍事力を維持しなきゃいけない。
幕府や朝廷にかかる行事費用を負担しなくてはいけない。
加賀に一揆&富樫+甲斐家残党、
国内北部に一揆、
奥越(奥越前)に不安定勢力・平泉寺、
美濃・近江に織田、
若狭に武田残党、
そんな状況では、応仁の乱当時や
それ以後の宋滴京都支配時代のような無茶はできないでしょ・・・
27 :
日本@名無史さん:04/11/09 22:21:24
しかし義昭を擁して上洛した信長にしたところで、領内盤石ではなかった
わけで。まあ要はそれらの万難を排してでも、上洛し天下に号令するという
ことの重要性と旨味を見い出せた信長とそこまでの先見性と決断力が無かった
義景の差ということだろうね。
この辺りが、義景が献帝を招き損ねた袁紹に擬せられる所以だな。
28 :
日本@名無史さん:04/11/10 06:23:17
それ以前に
岐阜〜京都
一乗谷〜京都
の、道中(地理)の問題だと思います。
柴田も負けた木の芽峠。
正直越前側から見たら、あれ越えて軍事行動起こすの
いやになっちゃいますよ。
木の芽峠の向こう側の敦賀に駐屯したら、なんか
独立気分と言うか見捨てられ感を抱くと思いますし・・・
29 :
日本@名無史さん:04/11/10 15:36:03
>>28 行ったこと無いけど、木の芽峠ってそんなに凄い難所なのか?
距離だけで考えたら岐阜からとそんなに変わらないような気がするんだが。
30 :
日本@名無史さん:04/11/10 17:57:14
難所だし、降雪期にはにっちもさっちもいかなかっただろう。
武田信玄が朝倉義景を罵倒した書状があるが酷過ぎると思ったよ。
31 :
日本@名無史さん:04/11/10 18:10:24
>>22 日本歴史の座談会か何かで今の地元民があざいと読んでいるから
あざいなのだと言っていた。
それでは、戦国時代もそうだったということの確実な証にはならんのではないか?
>>22 日葡辞書とか宣教師の書いたものがあれば決め手になるが
>>27-28 本とかで読んだだけだと、どうしても27みたいに
思っちゃうよね。
34 :
日本@名無史さん:04/11/17 23:06:17
浅井か・・・。
35 :
日本@名無史さん:04/11/18 02:30:46
浅井朝倉は戦国最長の同盟だけど何年から始まってるの?尾張は両家滅亡の1572年
ということははっきりしてるけど。2番目に長いのは清洲同盟(1561〜1582年)
そんなに長くないよ
そもそも同盟かどうかすら疑わしい
朝倉と六角が組んで浅井攻めてた時期もある
浅井が朝倉に従った(半従属みたいな形)のは六角と縁切りした前後じゃないかな?
37 :
日本@名無史さん:04/11/18 03:58:59
>>36 対等な同盟かどうかはともかく、清洲同盟より長いのは確かだろう。
朝倉と六角が組んで浅井を攻めたというのは「当国御陳(陣)之次第」の中の
「大永五年乙酉五月十九日、宗滴江州小谷御出陳」のことを言ってるんだろう
けど、これは同年に六角定頼に城下まで攻め込まれた浅井方の救援を意図した
出陣である可能性が高い。つまりそのころから浅井朝倉の同盟は続いていると
いうこと。
根拠は、
・明らかに優勢な六角が朝倉に援軍を求める理由がない。朝倉にも応じる必要がない。
・初代亮政は何度も六角に逐われるが、その都度復帰。これは後盾無しには困難。
・小谷城の郭や刈安、長比の砦に朝倉の築城技術が使われている。
・小谷城の遺構には朝倉宗滴の名を取った郭がある(金吾丸)。
・一乗谷に「浅井殿」と記された屋敷跡がある。
といったところ。
>>37 「古文状」で大永六年七月十日付の、六角定頼から三反崎氏宛の書状の記載あり。
その中で朝倉宗滴の北近江出陣に対しての謝意が書かれてる訳だが。
んで、この時に浅井亮政は小谷を放棄して、一時美濃へ退避してるんだが。
浅井氏救援に来た朝倉氏族に、どうして宗滴の出陣の謝意を書いた書状送るんだ?
>・明らかに優勢な六角が朝倉に援軍を求める理由がない。朝倉にも応じる必要がない。
優勢なら援軍は必要無いと?当時の六角と朝倉の関係と、浅井の位置付けなら
別に朝倉が援軍送っても不思議でない。
>・初代亮政は何度も六角に逐われるが、その都度復帰。これは後盾無しには困難。
京極氏という立派な名目があった訳だが。また美濃に多く逃れてるから、美濃からの支援も考えられるが?
逆に一度も越前に入ってない。これは立派に後ろ盾としてない証拠。
>・小谷城の郭や刈安、長比の砦に朝倉の築城技術が使われている。
織田との争いの最中に、何度か朝倉勢が小谷入城してるが?
>・小谷城の遺構には朝倉宗滴の名を取った郭がある(金吾丸)。
金吾丸があるが、それが「朝倉宗滴の名を取った」かどうかの確認は?
>・一乗谷に「浅井殿」と記された屋敷跡がある。
それでとしか言いようが無い。いつ作られたかもわからんのに。
39 :
つづき:04/11/18 05:55:01
>>37 宗滴が浅井救援に行ったと書いてあるのは、浅井三代記・朝倉始末記の軍記物。
しかも成立年代からいえば、とても信頼できる物じゃない。
だが、宗滴が六角氏援助の為に、小谷の浅井亮政攻めたと、永禄十二年成立の朝倉家伝記にも
しっかり明記してある。
浅井と朝倉が同盟と言うか、誼を通じてると確認出来る最初の史料は
脇坂文書に、朝倉景紀から浅井久政宛に、若狭出陣の折に書状を
度々送ってきた事についての謝礼が述べられてる書状がある。
これ、日付はないが、内容は武田義統救援の事が詳しく述べられてるので
状況から永禄五年六〜八月ではないかとされてる。
これ以前は、朝倉が浅井を支援してたような行動の記録、書状、一切無し。
といったところ。
40 :
日本@名無史さん:04/11/18 13:03:41
>>38>>39 佐藤圭氏の説だな。それは知ってるんだけど、いくつか疑問もある。
>優勢なら援軍は必要無いと?当時の六角と朝倉の関係と、浅井の位置付け
>なら別に朝倉が援軍送っても不思議でない。
大永五年当時の朝倉六角の関係がそれほど親密だったという話は聞かない。
美濃斉藤氏や若狭武田氏とは縁戚関係があり、援軍を送っても不自然ではない
が、六角氏との間にはそういった関係は見られないし、援軍を派遣することに
は何の得もない。
この時期の浅井氏は朝倉の脅威となりえるような存在ではなく、むしろ越前の
安定を図る意味では、六角の勢力伸長を抑えるため浅井を援助する方が自然。
大永五年の出兵に関しては、表面上はともかく、調停役を果たして浅井亮政を
無事落ち延びさせることが真の目的だったのではなかろうか。定頼の書状も調停
に対する礼と考えると説明がつく。
>京極氏という立派な名目があった訳だが。また美濃に多く逃れてるから、美濃
>からの支援も考えられるが?逆に一度も越前に入ってない。これは立派に後ろ盾
>としてない証拠。
既に傀儡状態の京極氏に復帰を援助する力があったとは思えないが。第一、京極氏
の国政を壟断している浅井氏の復帰に尽力するのも不可思議だ。
また美濃を潜伏先に選んでいるのは、地理的なものもあると思われる。当時の浅井
氏の地盤は浅井郡と坂田郡で、伊香郡の豪族は磯野氏、阿閉氏をはじめとして未だ
傘下に収まっていない。地盤に近い美濃を潜伏先にしたほうが再起には都合がよい。
41 :
日本@名無史さん:04/11/18 13:14:44
城郭のに朝倉氏の影響が見られると言う点に対する反論には頷ける。
確かに遺構に朝倉氏の影響が見られるからといって、亮政の時代
から交誼があった証明にはならないよな。
ただ、同盟関係にあるとはいえ、他家の城郭内に自らの技術を用いた
郭や砦をつくるのは、異例のことであり、このことから一朝一夕の関係
ではなく、長年の緊密な関係があったと推測できると思うが。
いずれにせよ、佐藤説で最大の疑問は、「ではなぜ浅井氏は信長を裏切った
のか」という事なんだが。
42 :
日本@名無史さん:04/11/19 21:49:38
先に信長が浅井を裏切ったという見方はできないのかな?
43 :
日本@名無史さん:04/11/20 12:02:34
浅井久政も朝倉義景も六角氏からきた養子だって説は本当なの?
44 :
日本@名無史さん:04/11/20 18:50:39
「六角佐々木系図略」ではそうなってる。
通説では、六角家の嫡流は高頼−定頼−義賢−義治となっているが、実は
高頼−氏綱−義久−義秀という嫡流があって、定頼系はその代理。
この義久の子が義景や久政であるとしている。
ただしこの氏綱系は「信長公記」など一般に知られた資料にはほとんど出て
こず、「江源武鑑」という江戸期に成立した日記スタイルの六角家の資料に
出ている。ちなみにこの資料には妖怪や超常現象が出てきたりする。
>>44 thanks.
すると義景の義、久政の久は実父義久からもらったんだね。
46 :
日本@名無史さん:04/11/21 09:51:23
いやそうと決まったわけでは・・・。一部にはそういう説もあるというだけ。
大体、久とか義とかよく使われる字だし。(特に義は足利将軍家の関係で)
しかし、そう考えると辻褄が合うことも多い。
六角定頼の花押と久政の花押が非常によく似てることや、久政の代に六角家
に従属したこと、浅井家内での久政の不人気と突然の当主交代劇など。
47 :
日本@名無史さん:04/11/21 19:11:51
>>46 知らなかったんだけど、
亮政と久政の関係は明らかな親子じゃないの?
48 :
日本@名無史さん:04/11/21 20:51:10
偽系図作りが作成した資料だよ・・・
49 :
日本@名無史さん:04/11/21 20:54:08
義景の「義」は足利将軍家からもらったものだってばっ!
50 :
日本@名無史さん:04/11/21 23:23:26
>>49 嘘付け!
普通貰うなら『輝』とか『晴』とかだろ、
『義』を直接貰うなんて聞いたことねえぞ。
51 :
日本@名無史さん:04/11/22 04:49:40
だから義景の場合は特別なんだってば!
「朝倉義景のすべて」その他読んでみなよ。
背景がわかるから。
52 :
日本@名無史さん:04/11/22 04:50:32
53 :
日本@名無史さん:04/11/22 05:01:27
「朝倉義景のすべて」
本です。
54 :
日本@名無史さん:04/11/22 05:23:47
何で特別なの?
徳川家が『家』与えるのと同じ感覚だろ。
やっぱり、普通はありえません。
途中で義昭からでも、直接拝領して改名でもしてれば別だけど・・・。
そんな話聞いたことも無いし。
55 :
日本@名無史さん:04/11/22 05:49:04
普通は無いんだけど、義景の場合は特別だったんだよ。
頼むから「朝倉義景のすべて」を読んでくれ。
56 :
日本@名無史さん:04/11/22 05:57:29
こんな時間に普通にこんなことを会話しているのも変なんだが、
そんな本今は手に入れられません。
浅井長政の『長』は信長由来だった気がするし・・。
・義景の『義』の由来について
覚えてる部分か、誰か知ってたらレス希望。
単なる元福井県民です。
57 :
日本@名無史さん:04/11/22 14:57:56
>>54>>56 「朝倉義景のすべて」は読んだこと無いけどおおよその事情はこうです。
義景の父四代孝景の時代、朝倉家は将軍家の要請に応じて度々畿内や美濃に出兵
するなど将軍家のために粉骨砕身していた。このため当主孝景は、永正十三年に
は将軍足利義稙より白傘袋ならびに毛氈鞍覆を免ぜられた。また大永八年には
将軍義晴の御供衆に加えられ、天文四年に塗輿御免となり、同七年には相伴衆に
列するなど破格の待遇を得る存在であった。
義景についても、当初「延景」と名乗っていたが、天文二一年、将軍足利義輝
から偏諱を受け「義景」と名乗るに至った。
ちなみに浅井長政の「長」を信長の偏諱とみる説はよく見かけるが、それを示す
有力な史料は特になく、本当かどうかは定かではない。個人的には、父の名が
「久政」であることから父を超える武将という意味をこめて「武運長久」から
「長」の字をとったのではないかとも思う。
58 :
日本@名無史さん:04/11/22 21:41:31
長政の前名の賢政は本当なの?
59 :
日本@名無史さん:04/11/23 02:04:29
本当。元服当時は六角家に従属している時で、義賢(承禎)の偏諱を受けた。
60 :
日本@名無史さん:04/11/23 02:07:24
京極氏は何してたの?
61 :
日本@名無史さん:04/11/23 02:14:52
>>57 ありがとう、参考になりました。
でも、やっぱり『義』は変だし、将軍に失礼な気がするんですが?
毛利は『輝』貰ったんでしょ。
なんで、『義』をあげたんだろう?
大内とか大友、はては島津の『義』も由来はそこなの?
そこらと一緒ならかなりの名門の部類に入りますけど?
62 :
日本@名無史さん:04/11/23 02:17:51
>>57 あと、『延』は何処から来たの?
聞いてばっかりですが、興味あるから聞いてるんですよ。
63 :
日本@名無史さん:04/11/23 02:18:42
>>61 なんで失礼なのかわからん。
毛利輝元は今川義元と同じ名前は不吉だとかいうので下の名前にしたという説がある。
その今川も将軍家から貰ってる。
大内、大友、嶋津も同じ。
足利義晴は礼金によってどちらの文字をあげるか変わったともいうし。
64 :
日本@名無史さん:04/11/23 03:17:31
>>63 いや、名前の挙げ方ってもっと作法的なものはあると思っていたから、
『義』は少なくとも将軍家では先祖から受け継いでるでしょ。
それを勝手に家臣にあげても、先祖になんとも思わんのかなあと思ったわけだ。
例えば徳川家光が『家』あげたら、大権現が夢に出そうだとか・・・。
思いませんかそういう風に。
というか、何かで家臣に名前を与える部分でそのような記述を読んだ気がして・・・。
明確には覚えていないんですが。
自分の妄想を書き連ねてスレを荒らす質問厨が粘着してやがるな
うざいから消えろ
66 :
日本@名無史さん:04/11/23 09:09:06
67 :
日本@名無史さん:04/11/23 09:31:07
朝倉家はアワビ食べないんだって。
コピペ
朝倉氏は但馬日下部氏の出とされており、
この日下部氏の守護神が赤淵大明神です。
一乗谷にも下城戸付近と山城本丸の近くに在りましたが、
この赤渕神社のご神体がアワビというわけです。
ここよく見るんだけど、いま、アワビと朝倉が下の方で並んでます。
ttp://okhome.hp.infoseek.co.jp/ 時期的な偶然なんですが・・・。
68 :
日本@名無史さん:04/11/23 21:46:57
武田義信の義も将軍家から貰ったもんだったはず
69 :
日本@名無史さん:04/11/23 22:47:14
乱発しすぎ・・・。
ありがたみの無さが室町幕府とだぶる。
お金なのか、気を使っていたのか・・。
朝倉の子孫を名乗る人に会ったことがありますが、ぐぐると
『朝倉の子孫宣正は徳川忠長に仕えて遠州掛川を領したが、主人に連座して断絶した。』
こいつ誰?
その後、旗本とかでいたの?
でも、織豊時代に朝倉の苗字を維持できた一族はいないよね?
70 :
日本@名無史さん:04/11/24 01:06:04
いやいるよ。歴史に埋没してしまったが上杉氏や足利義昭の
ところにいてお家再興を狙っていたのがいる。
71 :
日本@名無史さん:04/11/24 01:38:44
>>69 朝倉宣正の子孫って、土井家の家臣として存続したんじゃなかったっけ?
72 :
日本@名無史さん:04/11/24 01:45:30
73 :
日本@名無史さん:04/11/24 02:02:08
遠江の朝倉って、一族は一族だけどけっこう離れてるんじゃなかったっけ。
斯波氏が遠江も守護だったから、そこにくっついていったやつだったと思う。
75 :
日本@名無史さん:04/11/25 00:17:05
朝倉の子孫の話は前スレで既出だった気がするが・・・。
76 :
日本@名無史さん:04/11/25 03:03:30
>>74 朝倉 宣正 (あさくら のぶまさ:1573-1637)
1.宣政とも。藤十郎、筑後守。
2.土壇場で義景を見限った景鏡の甥。父在重(在宣)は義景のいとこにあた
るが、越前から駿河に移って徳川家に仕えたという。いつの話だ?
3.宣正は秀忠に仕えて大番を務める。関ヶ原の戦いでは真田昌幸の籠もる信
濃上田城攻めに加わり、小野忠明(御子神典膳)、斎藤信吉らとともに上
田の七本槍と謳われるが、軍令違反により上野吾妻に蟄居させられた。
4.1621年、一万石を与えられて駿河大納言忠長(家光の弟)の附家老となる
(のち遠江掛川二万六千石)。忠長には奔放の振る舞いが多かったが、諫
言しなかったことを問われて酒井忠行に預けられた。このときは忠長の懇
願により赦免されたが、1632年、忠長が改易(のち切腹)されると、宣正
も所領を召し上げられて大和郡山に蟄居した。
77 :
日本@名無史さん:04/11/25 03:24:45
今日は何の日
11月25日 織田信長、赤座吉家(「赤座小法師」)へ越前国内に前波長俊(「桂田播磨」:越前国守護代)の書出の如く
新知を宛行う旨を通達。〔『古案』坤〕
裏切り者が裕福になりました。
朝倉は知れば知るほど凄い存在なのがわかった。若狭武田氏は結局朝倉に屈服し、江北の浅井は
朝倉の与力大名の様なものだったといわれるし、北の加賀もかなりの部分を占領し顕如は九州の
門徒まで呼ぶほど追い詰めている。織田家一の猛将柴田勝家は加賀に侵攻したが4年もの間、越前
国境付近で足止めを食った。朝倉は加賀に進撃すると瞬く間に中部辺りまで占領した。一向宗さえ
いなかったら朝倉は天下にもっとも近い存在だったに違いない
79 :
日本@名無史さん:04/11/26 22:39:58
でも肝心の当主に天下を狙う気が無かったからねえ。
80 :
日本@名無史さん:04/11/27 13:31:01
勢いの落ち方がすごいね。
義景の後半だけで↓
81 :
日本@名無史さん:04/11/29 23:28:24
朝倉で残ったといえば超マイナー大名溝江氏を忘れちゃダメだ
越前一揆で滅びかけ→息子が豊臣大名になるも関が原で西軍→井伊藩士
82 :
日本@名無史さん:04/11/30 06:51:52
結局、大名として残ってないじゃん。
83 :
日本@名無史さん:04/11/30 07:19:42
大名が偉いのかー。
滅んじゃ駄目なのかー。
と煽ってみる
84 :
日本@名無史さん:04/11/30 21:02:44
一般的に言えば偉いし駄目だろうなと釣られてみる。
85 :
日本@名無史さん:04/11/30 22:58:57
浅井氏の本ってあまりないね。
「戦国武将のこころ」は読んだが。
新人物往来社あたりから
「近江浅井一族」みたいなのだしてくれないかね
86 :
日本@名無史さん:04/12/01 09:32:32
「朝倉義景のすべて」は学術的価値のある良質の本だな。2800円は高いけど買っても
損は無い。
88 :
日本@名無史さん:04/12/04 19:14:53
>>87 どういう内容が記載されてるのか項目だけでもあげてくれない?
89 :
日本@名無史さん:04/12/05 17:24:54
>>88 ネットでぐぐれ。
しかしこのスレの伸びの悪さ。
もう終わりなんだろうな・・・。
90 :
日本@名無史さん:04/12/05 23:53:50
朝倉景高は西国没落して、その後、どうなったのか知ってる人います?
91 :
日本@名無史さん:04/12/10 20:57:11
どうやらいないようですね・・・
92 :
日本@名無史さん:04/12/11 05:13:40
93 :
日本@名無史さん:04/12/11 07:44:20
94 :
日本@名無史さん:04/12/11 10:38:00
>>93 本当だ、嘘つきとは何事だ、この野郎
死ね、変態ホモ野郎
95 :
日本@名無史さん:04/12/11 13:21:10
>>95 史料見たわけじゃなくて、
インターネットの検索で引っかかっって、
誰のレスも無いので載せて、正確な情報を引き出して貰おう(煽ろう)と
思っただけです。ごめんなさい。
ttp://web.kyoto-inet.or.jp/people/sn-dos/sengoku/l_a.htm 朝倉景高(あさくら かげたか) ????〜????
○孫八郎 右衛門大夫
◇父:朝倉孫次郎貞景 室:烏丸冬光女 子:朝倉景鏡、景次、在重
越前・朝倉氏一族。1517年、美濃・土岐頼芸に敗れて越前に逃れてきた
土岐政頼を支援し、総大将として3千の兵を率い美濃を攻めるが敗れる。
その後、朝倉氏の要職大野郡司を務めた。
1540年頃、不和となった兄孝景に背いたことから、国を逐われ、一向一揆と結んだという。
その後帰参したか、1555年には病に倒れた一族の重鎮宗滴に代わり、
加賀一向一揆との戦いの総指揮をとる。
一方で公家の娘を室とし、公家との文化交流盛んな風流人でもあった。
ただ、景鏡もかなり若い時期から朝倉の軍事行動に参加しているみたいだし
これで在重が義景に遣えている話が見つかれば、上記の確実性は高いと思うんですが?
私の空想です。スレ汚しごめん。
ちなみに、94は私ではない。
日本語が俺よりもかなり変な奴と一緒にされるのだけは勘弁。
97 :
日本@名無史さん:04/12/12 08:46:55
>その後帰参したか、1555年には病に倒れた一族の重鎮宗滴に代わり、
>加賀一向一揆との戦いの総指揮をとる。
これ間違ってるよ。総指揮をとったのは、「景高」じゃなくて「景隆」。
98 :
日本@名無史さん:04/12/12 08:55:37
やっぱりね。そんなところだと思ってました。
99 :
日本@名無史さん:04/12/12 09:09:51
で、景高の末路は如何に?
100 :
日本@名無史さん:04/12/13 13:46:40
92 :日本@名無史さん :04/12/11 05:13:40
>>90 復帰。一揆勢と戦う。
101 :
日本@名無史さん:04/12/13 17:37:34
93 :日本@名無史さん :04/12/11 07:44:20
>>100 嘘つけ、この野郎
102 :
日本@名無史さん:04/12/14 03:26:07
94 :日本@名無史さん :04/12/11 10:38:00
>>93 本当だ、嘘つきとは何事だ、この野郎
死ね、変態ホモ野郎
103 :
日本@名無史さん:04/12/14 12:43:18
104 :
日本@名無史さん:04/12/15 04:18:53
>>103 誰も書き込まないから寂しくて・・・。
このまま無くなっちゃうんじゃないかと不安で・・・。
すいません、ほんの出来心だったんです。
105 :
日本@名無史さん:04/12/15 22:46:41
景高の末路は誰もわからないようですね。
遠江の朝倉氏についてなにか史料はあるんでしょうか?
静岡県西部の人、どうですか?
106 :
日本@名無史さん:04/12/16 00:04:03
朝倉景高は、幕府で重用されてて、
その辺が当主の気に入らなかったらしいですね。
西国に逃れて、その後医者になった一族がいたはずですが・・・
遠江朝倉はよく知りませんが、
旧主家「斯波氏」の領国が越前・尾張・遠江であったことを
考えると、早期に(斯波氏の治世が機能している頃)分家した上で
現地派遣→土着した一族ではないでしょうか?
あと、北条氏にも「越前朝倉の流れをくむ」とされる朝倉氏がいますね。
ちなみに越前朝倉氏の末端は、越前国内にて名主クラスとして存続。
現在に至っています。
107 :
日本@名無史さん:04/12/16 00:06:43
甲斐氏も越前・遠江両方に根を張っていることですし。
108 :
日本@名無史さん:04/12/16 06:28:10
しかし、朝倉宣正(駿河大納言の家老)は在重の子で、
在重は景高の子といわれている。
朝倉在重でぐぐると、江戸町奉行朝倉在重が1658年に卒去している。
こいつ誰?既出でも教えて。
109 :
日本@名無史さん:04/12/16 18:19:04
在重は在重の孫?教えて偉い人
110 :
日本@名無史さん:04/12/17 02:47:41
存重−在重−宣正
111 :
日本@名無史さん:04/12/17 07:08:01
存重−宣正−在重?
112 :
日本@名無史さん:04/12/17 11:12:24
113 :
日本@名無史さん:04/12/17 12:27:41
>>112 そうだが、
寛政年代と書いてあるからかなり子孫です。
しかし旗本って、宣正の直系は土井家老じゃないんですか?
114 :
日本@名無史さん:04/12/18 14:38:53
分家したとか
115 :
日本@名無史さん:04/12/18 16:09:35
>>114 いい加減なこと書き込むなよ
ヴァカか、おまえは?
もう氏ねよ、冬厨クン
116 :
日本@名無史さん:04/12/18 17:28:36
実は越前朝倉氏ではなく、但馬朝倉氏が奉行になったとか
長政タソの知名度は奥さんと娘達のおかげな気もする
118 :
日本@名無史さん:04/12/24 01:56:28
でも、お市の方と長政ではどちらが有名かは微妙。
俺的には
淀>>長政>お市>お江与
かな。
>お初
119 :
日本@名無史さん:04/12/24 08:57:15
120 :
日本@名無史さん:04/12/24 22:20:12
残っていた、というより但馬の方が本家。
121 :
日本@名無史さん:04/12/25 12:11:49
>>120 だから残っていたんだろうけど、山名氏配下に朝倉氏はいたのでしょうか?
日下部氏はいたっぽいけど。
123 :
日本@名無史さん:04/12/25 13:18:01
八木氏は残っていたどころか山名四天王。
但馬の朝倉は残ってないでしょ
124 :
日本@名無史さん:04/12/25 14:27:56
125 :
日本@名無史さん:04/12/26 02:41:13
でも但馬に”朝倉氏”はいない。
126 :
日本@名無史さん:04/12/26 07:44:34
越前に一族で移るきっかけは何?
但馬の領地は南北朝期に維持できなかったのか、
それとも八木氏が全て領有して、朝倉氏だけ越前に引っ越したのかな?
詳しい史料知っているエロい人いる?
127 :
日本@名無史さん:04/12/26 22:17:17
そこらへんがどうもはっきりしないんだよねえ
128 :
日本@名無史さん:04/12/29 00:47:07
保全
129 :
日本@名無史さん:04/12/29 00:56:38
一乗谷炎上の作者に謝罪と賠償を
130 :
日本@名無史さん:04/12/29 20:56:27
131 :
日本@名無史さん:04/12/30 14:17:31
132 :
日本@名無史さん:04/12/31 22:52:05
一乗谷は一面雪化粧かな。
義景もこんな寒い日は熱燗で一杯やってたのかな。
133 :
日本@名無史さん:05/01/01 07:27:04
134 :
日本@名無史さん:05/01/01 09:23:26
見てきたんですか?
軍記物に毒されちゃいけませんよ
正月から何必死になってんだ
136 :
日本@名無史さん:05/01/01 11:23:29
必死にならなかったから義景公は敗れたのでしょう
常在戦場!!!!
137 :
日本@名無史さん:05/01/01 21:59:26
一乗谷は今日も雪ですか?教えて地元の人
138 :
日本@名無史さん:05/01/02 05:54:35
>>137 武生市はすごい雪らしいから、一乗谷はもっとすごい雪。
去年は福井は滅びそうな年だったから、今年はマシな年になりますように!
139 :
日本@名無史さん:05/01/02 15:34:09
× 武生市
○ 越前市
140 :
日本@名無史さん:05/01/02 17:02:48
嘘!もう変わったの?
っていうか越前市って何よ。『府中』入れろよ。
越前市。。。_| ̄|〇
喜連川町がなくなったくらいのショックかも知れないです(笑
144 :
日本@名無史さん:05/01/03 14:02:25
>>143 リンク見た。武生ってやっぱりアホな市だな・・・。
それも、よりによって越前市って・・・。
越前菊人形、越前高校、越前駅、越前羽二重餅・・・。
福井の何処にあるのかさっぱりだな。
全国的知名度以前に、福井人にすらイメージが湧かない名前だ。
益々帰りたく無くなる。
145 :
日本@名無史さん:05/01/08 16:23:34
こんな日は小谷城も寒いんだろうなあ
146 :
日本@名無史さん:05/01/09 22:44:05
小谷城の主郭は大嶽っていうんですか?
何故ここに朝倉軍が陣取っていたのか
よくわからないんですけど。
浅井は朝倉の家臣ってことでいいんですか?
148 :
日本@名無史さん:05/01/11 10:15:22
それで終わりかい!
149 :
日本@名無史さん:05/01/12 14:39:36
>>146 大嶽城は小谷城と峰続きだけど一応違う山の上に建つ砦。小谷城の本丸を
見下ろすかたちで建てられていて背後の抑え的役割。
なお、禁制や遺構等から浅井を朝倉の家臣(郡代クラス)と見る説もあるが、
六角家への従属や織田家との婚姻を見る限り家臣とは言いづらく、従属に近い
同盟関係ではないかと思われる。詳しいことは過去ログ参照。
150 :
日本@名無史さん:05/01/13 22:50:08
朝倉景鏡ってなんでナンバー2になれたの?
過去ログ読んだけどどうもわからない
151 :
日本@名無史さん:05/01/18 09:13:47
景鏡;官位−式部大輔(正五位下)
母−烏丸冬光女、父親謀反人
大野郡司
景恒;官位−中務大輔(正五位上)
母−知らん。貞景の弟筋で宗滴の養子
敦賀郡司
ということで、敦賀>>大野で景恒の勝ち
あと、下記のようなことが堂々と他スレで言われていますが・・・
土橋に改名しても『朝倉』の家名は存続したいえるのか?
朝倉景鏡は自分が『次の正統』、だと思う意識があったのか?
どうでしょう?
ttp://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1092927606/ 65 :日本@名無史さん :04/11/18 18:16:10
朝倉景鏡は家名を存続するため朝倉義景を切腹させる事で責任を回避した。
景鏡は信長配下の森と坂井を討ち取っても、信長には守護任命を赦されている。
152 :
日本@名無史さん:05/01/19 00:41:09
>>151 >景恒=貞景の弟筋で宗滴の養子
景紀のこととごっちゃにしてる。
宗滴=景紀(孝景の弟)−景恒
153 :
日本@名無史さん:05/01/19 05:51:03
>>152 ごめん、頭の中では消化してたつもりでも、
書いたら間違ってた。
貞景の弟筋⇒貞景の子供としては弟筋。
154 :
日本@名無史さん:05/01/21 22:19:20
>景鏡は信長配下の森と坂井を討ち取っても、信長には守護任命を赦されている。
森を討ち取ったのは景健の兵じゃないか?
守護任命は前波吉継じゃなかったか?
155 :
日本@名無史さん:05/01/22 00:22:03
156 :
日本@名無史さん:05/01/22 10:26:22
157 :
日本@名無史さん:05/01/22 10:58:12
>>156 煽りイカ?
他スレのことをここで、おまけに『?』使って言ってる
しょうも無い人間に道を教えてあげないと。みんな馬鹿になっちゃうでしょ。
158 :
日本@名無史さん:05/01/22 19:25:58
159 :
日本@名無史さん:05/01/22 19:30:11
160 :
日本@名無史さん:05/01/22 23:01:07
浅井・朝倉が銅閣寺に何の関係が
161 :
日本@名無史さん:05/01/23 08:02:09
162 :
日本@名無史さん:05/01/23 09:47:02
そういえば、美濃の斎藤氏って最初浅井と結んでいて、後から六角に乗り換えたんだよね?
道三死後だろ
164 :
日本@名無史さん:05/01/30 13:00:27
龍興の母親は浅井氏だったよな?
165 :
日本@名無史さん:05/01/30 13:11:45
それより景健の活躍を詳しく。
166 :
日本@名無史さん:05/01/30 22:26:32
>景健の活躍
1.加賀一向一揆戦で活躍
2.姉川の合戦で敗北
3.志賀の陣で活躍
4.小谷城救援で活躍
5.刀根坂の合戦で活躍、義景自刃で信長に降伏
6.越前一向一揆に妥協的な態度をとる
7.6がもとで信長に殺される
あと、詳しい人よろしく
167 :
日本@名無史さん:05/01/31 12:27:22
1.景健⇒景隆?
2.敗北するも、織田・徳川連合軍に追撃できないほどのダメージは与える。
3.信長の弟の信治や森可成らを討ち取る。
4.京都まで包囲。義昭が和議なんぞ持ち出さなければ、信長あぼーん。
5.殿を努め、義景を逃した後、安居城まで無事撤退。
6+.がしかし、越前における一向一揆軍の大将、下間 頼照を討ち取る。
7.その首を持参したが、信長は使い道の無い蝙蝠は大嫌いなので・・
168 :
日本@名無史さん:05/02/01 01:29:36
1.景隆・景健父子
169 :
日本@名無史さん:05/02/05 06:09:40
景健の話題はこれでお終い?
170 :
日本@名無史さん:05/02/05 11:58:58
>>169 聞きたいことがあるなら質問する。
知っていることがあるなら書き込む。
♂ならどちらかにしろ!
171 :
日本@名無史さん:05/02/05 23:54:39
では、景健の話は終わりにして・・・
誰の話をしよう?
尾張の浅井氏との関係について。
遠祖はともかく、長政のころには全く別の家。
近江の浅井氏は鎌倉期の竹生島文書に浅井氏の名前が記載されていることから
かなり古くから江北で勢力を張る豪族(地頭クラス?)だったようだ。
その後尾張浅井氏が近江から分家したのか、尾張浅井の荘から出自して偶然に
同じ浅井氏を名乗ったのかはわからんなあ。
174 :
日本@名無史さん:05/02/07 21:29:07
>その後尾張浅井氏が近江から分家したのか、尾張浅井の荘から出自して偶然に
>同じ浅井氏を名乗ったのかはわからんなあ
そのあたりがわかれば嬉しいんだけどね。誰か尾張浅井氏をテーマに研究する
人はいないか?いないか、そうですかそうですか。
175 :
日本@名無史さん:05/02/08 09:30:56
尾張の浅井氏も「あさい」じゃなくて「あざい」なの
読みも同じなら同族の可能性も高まるが
176 :
日本@名無史さん:05/02/08 12:04:20
>>174 一宮市の苅安賀城は、築城者浅井新八郎政高(政澄の父)と伝えられている。
浅井亮政の子であった父傳兵衛が某に殺害されたため、父の仇を討つため尾張
に来て、この地に城を築き、毛利(旧姓 森)の娘を娶って織田家に仕えたと
いうのが「尾陽雑記」「張州府志」の記載。
・・・・・ちょっと眉唾もの。
177 :
日本@名無史さん:05/02/08 12:04:20
尾張浅井自体は歴史的には重要性は無いんじゃないの?
田宮丸にしても、秀吉が陥れるほど本当に優秀だったのか?
178 :
日本@名無史さん:05/02/08 14:55:35
『彦坐王外敵討伐の時船が難破し、九穴の鮑がそれを助けたので、その鮑を養父郡枚田の赤渕神社に祀った」
と『赤渕神社由緒』に残している。
彦坐王は日下部氏の先祖で、この物語は日下部一族にとっで重要な伝承だったらしく、養父郡一円の日下部氏は現在も鮑を食さないと言い、
朝倉氏も同様に、鮑には『とっても大きなご恩』があるから食べれない。
179 :
日本@名無史さん:05/02/12 17:54:23
180 :
日本@名無史さん:05/02/12 23:21:24
親父の名前は何ていうの?
181 :
日本@名無史さん:05/02/13 04:03:24
>>179 価値無さそうだね。
しかし、父親は信忠の家老で本能寺の変でも行方知れずなのに、
何ゆえ世襲と断言するの?
>>180 それぐらいはぐぐれ、新八郎!
182 :
日本@名無史さん:05/02/13 07:13:42
浅井新八郎何てゆーの?
183 :
日本@名無史さん:05/02/13 09:22:56
184 :
179:05/02/13 10:07:59
>>181 あれ、親父は信忠の家老だっけ?
普通に信雄の家老と勘違いしていた。
185 :
日本@名無史さん:05/02/13 12:10:56
186 :
日本@名無史さん:05/02/13 22:40:17
尾張浅井氏のためにageておこう
187 :
日本@名無史さん:05/02/14 04:23:57
>>185 その前に戦国時代における『家老』の定義が必要じゃないか?
江戸時代であれば重臣の中でも渦中の武士を統率し、
家務を遂行した統轄したものが家老で、通常世襲制。
残念ながら戦国時代は室町からの移行期なので、『管領や家宰』という名称から
『家老、重臣』といった名称に変わってきているみたいです(詳しくはエロイ人)。
そして、
>>185のリンクにあるように(直りんは重くなるから禁止じゃないの?)
本能寺の変後、信忠の尾張の領地と家臣が信雄にそのまま引き継がれたようですから、
そのまま世襲制で田宮丸が家老へと移行したとても不思議ではない。
織田家の武将の中でも1580年には軍団制になっているので、
柴田や丹羽の家老と比較しても
家格(城も複数保持で一宮市の浅井町一帯を支配していれば結構な領域)
でいって、家老になっている可能性は十二分と勝手に推測。
ちなみに浅井新八郎某は1581年に亡くなったそうなので、
本能寺の変の前に田宮丸へと代変わりしているようです。
ttp://www.city.iwakura.aichi.jp/koho/20030315/20.pdf
188 :
日本@名無史さん:05/02/15 06:20:36
それにしても「田宮丸」はないよなあ。
まだ童形だったの?
>>190 まあ、一応右代表だから。(w
別に1/20のF-1でもWLの「大和」でも構わないんだけどね。
192 :
日本@名無史さん:05/02/15 20:01:51
本当のところ田宮丸って何歳だったんだろう?
193 :
日本@名無史さん:05/02/16 01:03:52
この人に質問してみれば?
ttp://www.138jp.com/bbs/hr1/ 安土城を建て始めたので信長は本拠地を岐阜城からそちらに移ります。
この頃の西尾張は
・尾張と美濃は信長の嫡男、信忠の領地となります。
・苅安賀城主で赤母衣衆の一人、浅井新八郎は信忠の配下となります
(悲劇の人、田宮丸はこの時5歳)
信忠に岐阜城を譲ったのが天正3年(1575)〜4年で、
1584年に呼び出されて手討ちされたならば、14-5歳。
大人ではあるが・・・。
194 :
日本@名無史さん:05/02/16 23:29:30
何で信雄はそんな餓鬼んちょを手打ちにしたのかな?理解に苦しむ。
195 :
日本@名無史さん:05/02/16 23:47:29
秀吉の企みという説もあります。
196 :
日本@名無史さん:05/02/17 06:17:38
信雄=餓鬼
・伊勢長島の一向一揆攻めで初陣し負け
・信長に黙って勝手に伊賀に侵攻し、敵のゲリラ戦に翻弄され大敗
・本能寺の変の時に京に一番近い所にいたはずなのに、岡山の秀吉の出し抜かれる
・山崎の合戦後、安土城に入ったが不始末で焼失。
・秀吉に簡単に乗せられ、岐阜城の信孝を攻めて自害させる。
・秀吉台頭に危機感を感じ(自分の蒔いた種)、秀吉と内通の噂がある三家老(田宮丸含む)を殺害。
・小牧長久手で家康勝利も、信雄は勝手に単独講和。
・小田原後、徳川家の旧領への転封を拒否⇒改易
信雄の手討ちは普通で、それに仕えた奴が悪い。
197 :
日本@名無史さん:05/02/17 10:03:45
>信雄の手討ちは普通で、それに仕えた奴が悪い。
言い過ぎだよw
>>196 > 信雄の手討ちは普通で、それに仕えた奴が悪い。
自分から信雄に仕えたいと言って仕えたのならその解釈でも良いが、信長から命じられて
仕えさせられたのならいわゆる「サラリーマンの悲劇」だろ。
それとも、もっと遡って「織田家に仕えたことが悪い」とでも?(w
199 :
日本@名無史さん:05/02/17 14:57:27
>>199 > 反論が甘い!
> もっと突っ込まないと俺が恥ずかしいだろ・・・。
ならば、ここは逆切れしてみるべきでは?
201 :
日本@名無史さん:05/02/17 17:55:58
うほっ
に応えなかったから、じゃないの。普通に。
202 :
日本@名無史さん:05/02/17 20:37:31
>うほっ
信雄が田宮丸に迫ったってか?
203 :
日本@名無史さん:05/02/18 01:07:57
尾張浅井家
尾張を統一できなかった時点で負け組。所詮土豪の一つ。
204 :
日本@名無史さん:05/02/18 03:22:39
じゃお前の先祖も
205 :
日本@名無史さん:05/02/18 07:37:51
>尾張を統一できなかった時点で負け組。所詮土豪の一つ。
当たり前だ。斯波氏・織田氏を乗り越えて尾張統一など出来る訳が無い。
206 :
日本@名無史さん:05/02/18 07:48:34
愚民ども・・
一番えらいのは島津義弘だよ。。。。
207 :
日本@名無史さん:05/02/18 11:22:27
>>204 うちの先祖は織田信長に蹂躙されたであろう
武生で、かつ浄土真宗の百姓だ。
208 :
日本@名無史さん:05/02/18 21:51:59
浅井親子の頭蓋骨で造った杯で乾杯したって本当ですか?
信長って人間じゃないな!
眺めて肴にしただけだろ
210 :
日本@名無史さん:05/02/18 23:06:39
212 :
日本@名無史さん:05/02/19 12:32:19
織田氏は越前発祥な訳だが・・・。
213 :
日本@名無史さん:05/02/19 13:18:41
守護斯波氏の老臣の織田大和守家の老臣に過ぎない存在だった。
信長の家は、斯波氏の家来で織田大和守家の家来の織田家
893 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/02/18 08:42:58
越後に落ち延びた朝倉家の子孫の人が名古屋で部品製造の社長やってるね。
894 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/02/18 09:51:42
それは偽ry
895 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/02/18 17:18:19
福井に西光寺て言うお寺があって、新潟に西遊寺という分家的なお寺があります。
そのお寺は朝倉義景の子供、愛王丸が落ち延びて建てた寺で住職さんは苗字が朝倉
です。ちなみにそこの地名が越前浜です。その社長さんそこのお寺出です。
-------------------------------------------
波乱が起きました。
愛王丸が生きていた!?
-----------------------------------------------
福井西光寺は確かに少々、朝倉とは関わりがある。
だけどね・・・
わざわざ危険分子を逃す信長ではない。
おまけにその新潟の寺の伝説、不自然過ぎ。
・家臣に抱えられて火中に消えた愛王丸は実は浄瑠璃人形(アホか)
・織田軍や一揆、落ち武者狩りをかいくぐり(無理)
・三里浜から出帆(・・・三里浜ってどんなとこか知らないとみた)
・愛王丸を連れた主従28人が逃げて(大人数ですね・・・)
・所縁のない新潟の山の中腹へ定着し
(本物の遺児なら、他にすること、頼るとこあるでしょ)
・ほとぼりが冷めたら海岸に土着し(地元の同意は?)
・いきなり寺をおったてた(どうやって・・・地元は納得するんかい)
無理あり過ぎ。
朝倉主従が落ちてきた、となったら、
地元上杉とかも何らかのアクション起こしてもおかしくないんだけどなぁ。
217 :
日本@名無史さん:05/02/19 17:56:56
902 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/02/19 17:24:33
>>901 どんなに調べたって
「我らは朝倉主従である」と言い張る(根拠なし)の落ち武者集団が
無人地帯に集落を作った。
という珍説以上のことは出てこないんじゃない?
愛王丸が本当に生き残ってたとしたら、江戸時代に越前の朝倉や
幕府のところの朝倉家と交流がないわけないじゃん。
あと、上杉家が放置しとくわけないじゃん。
903 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/02/19 17:26:43
あとこういうのは日本史板スレで聞いたほうがいい
904 名前:朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA 投稿日:05/02/19 17:38:56
古河藩家老朝倉(在重系)、水戸藩士朝倉(政景系)、幕臣朝倉(同左)、出羽朝倉(道景系)、越後朝倉(直系)、土佐朝倉(?)
英林塚を掘り起こして一斉にDNA鑑定してもらいましょう(笑
愛知の朝倉って、渥美郡に拠った一族があったですね。
伊勢朝倉もそうですがたしか日下部系譜でななかったはず。
帰ったら調べてみよー。
905 名前:朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA 投稿日:05/02/19 17:41:41
右京進が上杉で朝倉再興しようとしてたのを思い出したり。
へーへーへー。
愛王丸ってば。
まとめてみましたので訂正よろしく
古河朝倉・・・朝倉景高 貞景の子。宗家と不和になり逐電(追放)長男が景鏡。
朝倉存重 景高の子(と言われている)。中村一氏、徳川家康に仕える。小牧長久手で功あり。
朝倉宣正 在重の子。駿河大納言忠長の附家老。掛川2万6千石。
忠長に連座除封。土井利勝と縁戚だったため子孫は古河藩へ。
朝倉在重 石見守。江戸町奉行。多分ここの一族。
水戸朝倉・・・朝倉時景 義景1st.の子。織田城主。宗家に反乱を企て、失敗。
のち小田原北条に使える。その後備前岡山へ移ったとも言われる。
以下の政景の父「秀景」と同一人物か?
朝倉政景 北条氏に仕える。経歴略。
朝倉政元 彦四郎。右京進。北条氏滅亡後、秀吉、秀次に使える。
秀次に連座して浪人。1603年、家康に出仕。
紀州家、次いで水戸家に仕える。
幕臣朝倉・・・朝倉政明 政元の子。秀忠の旗本となり500石
土佐朝倉・・・朝倉友景 阿波の細川真之のところに亡命
のち土佐にて一両具足となる。
孫の代、山内忠義の頃、商人になる。
高知に朝倉町という地名ができる。
出羽朝倉・・・朝倉道景 朝倉義景の従弟。朝倉景恒の男。彦四郎。
刀禰坂で討死。享年17歳
・・・しかし生き残った説もあり、以下の伝承を残す。
「宗家滅亡後、信長に圧迫された一向一揆衆と加賀より出帆。
秋田に辿り着き本敬寺を創設。」
(・・・ちょっと無理?)
http://www.inankuru.com/jitennsya12.html 越後朝倉・・・朝倉愛王丸 説明は過去レスに譲る。
道景の件を鑑みるに、どうも日本海沿岸に
「朝倉落武者が若様連れて土着伝説」がパターンとしてあるみたいですね。
それも一向一揆系で。
越前朝倉・・・庄屋 江戸期を通じて現代まで福井郊外・旧社村に存続。大地主。
家紋はまさにこれ。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/asakra_k.html 江戸時代になんの由来もなく、そんな名は名乗れないと思われるので
なんらかの関わりがあると思われるが詳細は不明(不勉強ですいません)
221 :
まとめ:05/02/19 20:03:17
行方不明・・・朝倉景綱 越前織田城主。刀禰坂での大敗後、本家命令
を無視して真っ先に敗走。織田城に帰る。
織田に帰順。
1575年の越前一向一揆で七里三河らに攻め
寄せられ、籠城するも籠城軍を見捨て、
妻子を連れて逃亡。 以後行方不明。
朝倉貞紀 朝倉景紀の末男。滅亡後、前田家に仕官した朝倉旧臣青山氏に仕える。
朝倉景善 貞紀の子。
子孫がいてもおかしくない系統。でも知識不足。
・・・朝倉景恒 元僧籍。還俗して景紀家を継ぐが、手筒山城の陥落を恥じて
永平寺に蟄居。同年死去。
朝倉景胤 景連の子。越前一揆に加担。
朝倉景泰 景胤の弟。越前一揆に加担せず。
鳥羽景忠 知識不足ですんません。
222 :
武衛山:05/02/19 20:04:25
しかし「滅びる」って寂しいねぇ。
さぁバスさん訂正よろしく。
223 :
日本@名無史さん:05/02/19 20:34:12
>>219 水戸朝倉・・・朝倉時景 義景1st.の子。
孝景1st.の子の間違いだと思う。
224 :
日本@名無史さん:05/02/22 22:56:35
俺もそう思う。
225 :
日本@名無史さん:05/02/23 07:24:51
226 :
日本@名無史さん:05/02/23 08:50:44
>>225 なにこの電波????
新潟朝倉より性質悪い捏造系図で先祖巡りですか。
227 :
日本@名無史さん:05/02/24 19:25:59
>>225 溝江姓なんて福井ではいくらでも居るんだが。
228 :
日本@名無史さん:05/02/24 22:19:40
>>225 系図にない人物を勝手に作って「俺と系図」を繋げる。
よくある&初歩的な系図創造ですよね。
懐紙に書いて差し出した奴と同じような・・・(笑)
「どの系図にもいないよ」
「じゃ捏造じゃん」
って思えないのかねぇ。自分のことだとさ・・・。
229 :
日本@名無史さん:05/02/25 00:59:36
蠣崎が武田の血筋なら、青森の溝江が朝倉の血筋と名乗ってもいい気がするのは
俺だけなのか?
言っておくが信じきっているわけでは無いぞ。
230 :
日本@名無史さん:05/02/25 04:14:48
蠣崎って系図に実在する人物から分脈してないかい?
青森の溝江電波は・・・”そういう人”っぽいし・・・
231 :
日本@名無史さん:05/02/25 08:46:26
分かった。電波として認定しよう。
しかし、淀君やお江の方のいる浅井と異なり、朝倉を名乗っても何の利用価値も無いはずなのに
朝倉を名乗って津軽に仕官した理由なんぞ思いつかないだろう?
朝倉の血筋を名乗るぐらいなら畠山だって武田だって滅んでるんだから
そっちを名乗った方が使い心地が良いと予想されるのだが・・・。
朝倉存重なんかが朝倉を名乗ったのも理由があるのかな?
232 :
日本@名無史さん:05/02/25 10:07:16
仮にも越前若狭を支配下に置き、織田信長を追い詰めた朝倉ですよ。
その一族でーす!と言えば名声充分でしょう。
「溝江」ぐらいなら津軽くんだりじゃ(笑)誰にも真偽はわからないだろうし。
そもそも
「朝倉の本流の弟が溝江」
って津軽溝江本人らにも朝倉のことよくわかってないじゃん・・・
>朝倉存重
>>220のような関係らしいけど、実際はどうかわからない。
伊勢や尾張のほうに、越前朝倉とは別系統の「朝倉氏」が
いたと聞いたことがある。
その辺は渦中さんが詳しいかと。
するとその辺の子孫なら
「俺の先祖、マイナー過ぎ。
ならいっそ”昔、越前国主だった”一族ってほうが通りがいいよなぁ・・・」
って感じで系図いじったのかもね。
233 :
日本@名無史さん:05/02/25 11:25:27
越後朝倉は「愛王丸は生きていた!」と言ってますが・・・
235 :
日本@名無史さん:05/02/25 23:42:39
地元に伝わる「下へ下へ」という唄に、なにかそれをにおわすようなことがあるらしから、
よけいにそう思ってしまうんだろうなー。
236 :
日本@名無史さん:05/02/27 09:53:15
みんな肥のせい。
237 :
日本@名無史さん:05/03/03 18:39:02
義景には越前幕府の構想があったんじゃないかな。
238 :
日本@名無史さん:05/03/04 01:15:52
釣るにしても他の言い方があると思います。
239 :
日本@名無史さん:05/03/04 09:08:26
240 :
日本@名無史さん:05/03/04 10:27:18
昨日信長の野望を久しぶりに朝倉でプレイしたんだが
四方八方から一乗谷に攻めこまれて
惨殺された
多分漆塗りの髑髏杯にされたことであろー
241 :
日本@名無史さん:05/03/04 11:32:14
>>240 少なくとも本願寺以外には攻められようが無い。
下手糞過ぎて三戦板にも行けないんだろ。
242 :
日本@名無史さん:05/03/04 11:42:12
>>240、241
どうでもいいがゲームの話しは他所でやれ。
厨房
243 :
日本@名無史さん:05/03/09 22:49:54
>>237 >義景には越前幕府の構想があったんじゃないかな。
「堺幕府」のようなものを考えていてもおかしくはない、と思うがどーよ?
244 :
日本@名無史さん:05/03/10 01:57:25
>>243 どーよと言われてもなぁ。
本人に聞け、としか・・・
246 :
日本@名無史さん:05/03/10 14:46:41
義景って穴熊、もしくはもぐらたたきのモグラでしょ?
堺はありえないし、やっぱり京だろうな。
織田にまぐれで勝って、かつかなり運に恵まれて京を取ったとしても、
三好や六角に良いようにやられて穴熊に戻る。
朝倉の天下なんぞありえない。
by 越前府中市市民
248 :
日本@名無史さん:05/03/10 17:51:51
だからそこで「越前幕府」ですよw
天下を取ることには執着しなかったけど、
義昭を擁して一乗谷を根拠地として
近隣の守護大名連合を作る。
これだね、義景の考えていた路線は!
249 :
日本@名無史さん:05/03/10 23:36:52
>>247 釣りか?福丼、京都支配、謙虚・・・・。
あと、信長を追い詰めたのは朝倉だけではない。
信長は人生のなかでその程度の危機には多く出会っている。
まあ、最後は謙虚さを無くし過ぎてあボーンだけどね。
>>248 ifを通り越して、異次元の世界の話しだね。
義景が信長程度でもリーダシップがあれば、家臣にもっと恵まれれば、
言い出したらきりが無いけど、あの時代に自分への権力集中を抑えるように
親戚を優遇し過ぎたんだから、信長がいなくても朝倉政権 in 越前の未来は
予想が付く。
>>249 まちBBSでは「福丼」と書かれるぞ?
京都支配は事実。一時期でしかないけど。
福丼人が僻みやすく、一見”謙虚に見える”のも事実。
「まぁどうせ俺たち福丼だからさ・・・無理無理」
と他県人に言われるより先に、自分たちで言い出すのが福丼人。
信長を追い詰めたのは朝倉だけではないが、
それはつまり「朝倉が何度か信長を追い詰めたことがある」のも事実
>>248 信長の近隣だからなにをやろうがアウト。
化け物にはいつか食われる。
251 :
日本@名無史さん:05/03/11 16:39:35
同じ「福丼人」wでも越前と若狭では気質が異なるように
思えるけどどーですか?
252 :
日本@名無史さん:05/03/12 15:11:37
朝倉義景の子孫、朝倉弘文さん(故人)
253 :
日本@名無史さん:05/03/14 10:28:40
>>251 越前は朝倉。少なくとも福丼に対する愛着がある。
若狭は武田。所詮よそ者。京都にしか興味なし。
ちなみに教育、人口、産業 全てにおいて 越前>>>>若狭
254 :
日本@名無史さん:05/03/14 19:40:31
旧国が吸収合併された形の地方の人は
やはり複雑な思いがあるのだろうか。
他にも
岐阜県飛騨地方の人とか
石川県能登地方の人とか
255 :
日本@名無史さん:05/03/14 19:58:22
あざい・あさくら
長政は久政に押し切られて裏切った?
256 :
日本@名無史さん:05/03/14 21:02:21
多分、自分の意志でしょう。
小谷城の「京極丸」の由来教えてください。
258 :
日本@名無史さん:05/03/15 09:02:56
>>257 ググればすぐ判るんだけど・・・。
大永3年(1523)15代当主京極高清の跡目相続について、家臣団の協議(梅本坊公事)が
行われるが、長男・高延を立てようとする浅井亮政派と、次男・高慶を立てようとする
父高清,上坂信光派が対立する。
協議の結果、跡目は次男高慶に決定するが、次男高慶擁立の中心となっていた上坂氏が
権勢をかさに横暴に行ったので、反感を持った浅井亮政らは次男・高慶派を排除すること
を画策する。
大永4年(1524)、浅井亮政らは上平寺城の京極高清,上坂信光を攻め、高延を救出。
更に上坂氏の今浜を攻略して上坂氏を追放、京極家中の実権を握る。
その後の派内抗争をも制した浅井亮政は、名目上は京極家の家臣ながらその実力で京極家
を傀儡とし、自らが擁立した高延と、前当主の高清を小谷中腹の郭に迎え入れ、事実上軟禁
した。
以降、京極父子が20数年軟禁されていたこの郭を京極丸と呼ぶことととなった。
こんな感じかな。
あんなとこに20年軟禁、はやだなぁ。
260 :
日本@名無史さん:05/03/15 22:23:53
冬は寒かったろうなあ・・・
261 :
日本@名無史さん:05/03/17 03:28:30
1534年近江清水谷で浅井亮政に饗応された京極父子は高延・高秀父子
との説もあるようです。高清・高慶親子は放浪し
そして、高慶⇒高吉となり足利義輝に繋がると。
京極高吉 きょうごくたかよし 1508〜1581
京極高清の男。高延の弟。別に高慶・高佳。官途は長門守・中務少輔。
近江上平寺城主。妻はマリアといい(1544〜1618。浅井亮政の娘とも言われるが、未詳。
享年75歳が事実だとすると、久政が若い頃にもうけた娘となる)、
1581年夫婦揃ってキリシタンに受洗したとゆう。
1523年の政変の際父高清とともに近江を追われ、尾張へ退去。
1528年六角氏の支援のもと、上坂信光らとともに浅井氏と戦うが敗退。
1538年六角高頼による小谷攻めではこれに参加して今浜の鳥羽上城を攻略した。
しかし、間もなく頼みの六角氏ももはや京極氏の擁立を諦め、高吉は将軍家の近習となった。
義輝に仕え、その暗殺後は義昭の将軍就任に奔走した。
義昭と信長が不和となると信長の嫌疑を受け、一子小法師(高次)を人質に出して上平寺城に蟄居した。
262 :
日本@名無史さん:2005/03/24(木) 18:54:21
あげ
263 :
日本@名無史さん:2005/03/29(火) 16:08:34
保守
264 :
日本@名無史さん:2005/04/07(木) 05:42:45
義景の弟っていたんですか?
265 :
日本@名無史さん:2005/04/07(木) 15:35:11
景弘なんていません
266 :
日本@名無史さん:2005/04/07(木) 17:00:12
「朝倉義景のすべて」で佐藤圭さんがいかにもいるような書き方をしてるぞ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
/ C \
/ _______ヽ
l:::. |::(●)::::::::::::::::::::(●)| ̄
|:::::: | |
|:::● | (○ ○) |
ヽ::::::::ノ \ \__/ / |
| ̄ ヽノ / ここが俺のスレか?
| \;;;;;;;;;;;;;;;;;;/
_,;-'"´´`ヽ、 ` - 、, ノ``-;,_
_,;-'"´ r‐-‐-‐/⌒ヽ '"´ ``-、_
// ヽ、 |_,|_,|_,h( ̄.ノヽ ヽ ヽ
| | ー-ヽノ| `~`".`´ ´"⌒⌒) ', i
| ヽ、// ノ |ヽ、_入_ノ|´ ̄ ノ |
ヽ / / \ _ ,/ | _ , イ y ノ
ト、l イ /C A R P /____|
ヽ、 ノ | /|____,,ゝ
\__/ | 6 | | |V
268 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 13:32:15
なんだこいつ?
269 :
寒:2005/04/12(火) 03:01:02
渦中はいるかな?
宮増丸ってどういう人物っすか?
270 :
日本@名無史さん:2005/04/16(土) 19:23:02
宮増丸ねえ・・・わからん
271 :
日本@名無史さん:2005/04/16(土) 22:13:43
佐藤圭先生に訊けば。いや、松原先生の方がいいかな?
>>268 広島カープの浅井選手じゃないか?
どうせなら
阪神の浅井捕手、中日の朝倉投手も出して欲しいもんだ。
273 :
日本@名無史さん:2005/05/01(日) 17:28:31
宮増丸は武田にいたみたいっすね。詳細は明日にでも。
275 :
日本@名無史さん:2005/05/05(木) 01:47:16
おーい、渦中
某所でものすごい誤爆を;;;;
そしてトナメでワーワーやってたため遅れました。スマンス
さて、宮増丸が一体誰でどのような人物だったかという手がかりは、
一通の書簡しか残されていないため中々難しいところです。
とりあえず書簡の内容をうpしてみますので、解釈を交えながら検証してみましょう。
(ママ)(ママ) 朝倉
武田形部太輔 宮搖ロ
御宿所
態以使札啓達、抑公儀入洛爲御行、太守御出馬播州表、始上月落居、被得大利之旨、珍重存候、
随而義景不慮以來、如御存知爲仁者無之故、上意并輝元江得貴意儀無御座候、兄三郎喜三切腹候、
弟三人相殘候、若輩尤憚多存、菟角罷過候、於御味方中可相續名字躰無之候、然者、
乍出物沙汰對與三家督之儀被仰出候樣ニ、元春江有御入魂、隆景ヘ被仰談、
如何樣共御才覺奉ョ存候、於然者、集諸勞人至于越前亂入、不可存由斷、與三以愚札雖可申入候、
越府之路次無合期候間、先以一札令申候、畢竟有御心中事ニ候、偏ニョ存外無他事候、
於子細者佐々木源兵衞尉方江申渡候間、不能曲筆候、恐々謹言、
十二月七日 宮搖ロ
武田刑部太輔殿
御宿所
「吉川文書」
277 :
日本@名無史さん:2005/05/06(金) 00:56:26
若狭武田で六角と一緒にいたの?楽しみ〜。
宮増丸が毛利家に宛てた書状です。
出された年代が不明ですが、「太守御出馬播州表、始上月落居、被得大利之旨、珍重存候、」と
上月落城の祝辞が述べられている事から、この戦役からほど遠くない時期、天正6年と特定できます。
その天正6年当時、「義景不慮以來」「仁者」のない宮増丸は弟三人と共に
「武田形部太輔」方に逗留しており「御味方中可相續名字躰無之候」の今、
朝倉「家督」を継ぐために何とか毛利家の力添えをお借りしたいと。
「偏ニョ存外無他事候」このあたりに宮増丸の悲痛な叫びが見て取れますね。
さて文中の「武田形部太輔」とは一体誰なのか。これは「刑部少輔」の間違いでしょう。
安芸国郡守護の武田家の当主が代々刑部少輔を継いでいますから、
恐らく安芸武田直系の人物ではないかと推測できます。
安芸武田は銀山城を追われて刑部少輔信実以降は不明ですが、
安芸安国寺には伝刑部少輔信実の墓があり、この地に細々と命脈を保っていたことが伺えます。
>>277 若狭武田の一族は天正6年当時若狭に居たとはいえ、無禄の上織田の勢力下で警戒されています。
また官途の中で「刑部少輔」に該当する人物がいないため、若狭の可能性は低いのではないかとオモウですね。
んで、整理してみますと、、、
-----------------------------------------------------------------------
朝倉与三某。宮増丸。???〜???
主家滅亡後安芸旧郡守護武田家に潜伏。朝倉家再興を企図し1578(天正6)年頃、
佐々木源兵衛尉を使者に毛利家へ力添えを依頼。
通称が伝わっていないため、彼が朝倉家のどの系統に属した人物かは不明。
三人の弟もいたらしいが、彼らのその後の消息は途絶えている。
-----------------------------------------------------------------------
こんなところでしょうか。
279 :
277:2005/05/06(金) 08:14:03
武田信廉の可能性があるんじゃない?
信廉;1532-1582, 天文元〜天正十. 親族衆, 孫六・信綱・刑部少輔・逍遙軒
信長は六角次郎(佐々木義治)を匿ったとして恵林寺を焼き、正親町天皇から大通智勝の国師号を頂く、快川和尚を焚殺する。
修行僧数百名と宝泉寺の雪峯、東光寺の藍田、長禅寺の高山等を山門に追い上げ、残忍にも寺の周囲に薪を積んで火をかけ、
生身を火であぶり、焼き殺す。この時、山門の四方には軍兵が槍や刀を構え囲んでいたとされる。
【本朝高僧伝】
佐々木源兵衞=六角義治説
ttp://blog.sasakitoru.com/200504/article_14.html こうなると、この朝倉宮増丸が宣正に繋がる可能性も出てくるわけだ。
280 :
日本@名無史さん:2005/05/06(金) 21:18:05
六角が絡んでくるところを見るとやっぱり安芸じゃなくて
甲斐武田のところにいたんじゃないかと思います。
281 :
日本@名無史さん:2005/05/06(金) 22:07:11
>>278は荒らし。知識もググル程度のものしかない
282 :
寒:2005/05/06(金) 22:47:22
佐々木と六角が絡むと、「義景、六角からの養子説」も絡んできますねふふふ・・・
まぁ「対信長地下連合」という結びつきかもしれませんが。
それにしても安芸武田へ逃げる意味がわからんっす。
283 :
日本@名無史さん:2005/05/06(金) 23:04:07
だから荒らしは放置しろって
285 :
日本@名無史さん:2005/05/09(月) 20:21:24
甲斐武田家に逃げて結局ともに滅亡ですか?>宮増丸兄弟
越後上杉家にも身を寄せた一族がいたと思うがそっちはどうなったのかな?
まず始めに、「宮搖ロ」の略歴に付いて訂正を。。。
>>278 >通称が伝わっていないため、彼が朝倉家のどの系統に属した人物かは不明。
の部分を「高景末裔の朝倉庶流の一族。」に訂正しておきます。
調べてみたんですが「一乘録」第二冊巻三に高景の裔として「與三」、與三の兄「三郎」の名が見えます。
すなはち「右一乘族人姓名傳于世者」として挙げられた「茂景、久景、弼景、三郎、與三、月庭、
久家、景友、景重、弥七郎、四郎左衛門、勘解由左衛門、六郎左衛門、権頭、掃部、出雲守」
ですです。
----------------------------------------------------------------------------
※ ちなみにこの「一乘録」はその紹介記事など見ますと、
朝倉広景以下歴代の庶子一族の事蹟(なにっ!!?)、
巻四には朝倉家臣123家(なんと!!!)を挙げて枚挙した列伝まで盛り込まれてるという、
ここの住人さんには何とも垂唾モノの内容ですね。全文の翻刻が待たれるところです。
----------------------------------------------------------------------------
んで武田刑部少輔が誰か、また宮増丸がどこに居たかということですが、、、
確かに逍遥軒信廉も刑部少輔を名乗っていたので、一応推測はしてみてたんです。
ただ毛利の「御才覺奉ョ」ってお家再興という重要な任務を遂行するために「越前亂入」を企てている以上、
甲斐から遥か遠国にあり、現地の動静を逐一把握できない状況下で毛利を頼るよりも、
毛利の膝元でその動きをつぶさに照覧できる安芸にあったからこそ、現実味を帯びた企てになったとオモウです。
また安芸国郡守護である刑部少輔信実は若狭武田からの入嗣であり、
若狭方面の勢力も少なからず期待できる事から、ここに安芸→播磨→若狭→越前という
宮増丸の侵攻ルートが想定できるわけです。
最後に「佐々木源兵衞」についてですが、どうやって彼を六角義治と見なしたんでしょうね。気になります。
287 :
日本@名無史さん:2005/05/10(火) 10:33:22
で武田刑部大輔=武田信実で足利義昭と一緒に行動していた可能性・・結論)安芸 は?
それだ!
今までのをまとめると
-----------------------------------------------------------------------朝倉与三某。宮増丸。???〜???
高景末裔の朝倉庶流の一族。
主家滅亡後武田刑部大輔信実の元で足利義昭と一緒に行動していた。
朝倉家再興を企図し1578(天正6)年頃、佐々木源兵衛尉を使者に毛利家へ力添えを依頼。
三人の弟もいたらしいが、彼らのその後の消息は途絶えている。
-----------------------------------------------------------------------
これでまた一つ朝倉家にトリビアが生まれた
修正
-----------------------------------------------------------------------
朝倉与三某。宮増丸。???〜???
高景末裔の朝倉庶流の一族。
主家滅亡後武田刑部大輔信実の元で足利義昭と一緒に行動していた。
朝倉家再興を企図し1578(天正6)年頃、佐々木源兵衛尉を使者に毛利家へ力添えを依頼。
三人の弟もいたらしいが、彼らのその後の消息は途絶えている。
-----------------------------------------------------------------------
291 :
日本@名無史さん:2005/05/10(火) 23:36:54
えーと、
武田刑部大輔信実は毛利氏に追い払われた後、幕府に直参してて、
その後、足利義昭の都落ちに従っていた。
宮増丸はそこに居候していたということですか?
292 :
日本@名無史さん:2005/05/16(月) 00:39:01
武田刑部大輔信実・・・どんな生涯を送った人だろう・・・同名異人がいた?
293 :
日本@名無史さん:2005/05/16(月) 22:16:54
浅井氏は高島郡に勢力を伸ばしていた時期があるのですか?
294 :
日本@名無史さん:2005/05/17(火) 13:45:38
磯野氏が臣従してたから高島郡にも勢力を伸ばしていたんだろう
>>289 >毛利の膝元でその動きをつぶさに照覧できる安芸にあったからこそ、現実味を帯びた企てになったとオモウです。
天文10年銀山城落城後、11年の一族の伴氏が再起を賭けた挙兵が討伐されてしまい、組織的な力はないよ。
家臣団は毛利に与するか、帰農している。
>>287 「永禄六年諸役人附」見ました見ました。オレ武田には詳しくないものですから、
吉川文書に現れる「武田形部太輔」が義昭随行の「武田刑部大輔信実」なのか
もしくは旧安芸国郡守護の「武田刑部少輔」なのか、もしくは全くの別人かは正直良くわかりません。
ともかくいずれの武田を頼ろうとも、安芸あたりに潜伏していたとみるのが妥当なカンジですね。うんうん。
>>290さんのを修正です。
以下「一乘録」巻之三より抜粋、
高景四子、長氏景、次茂景、久(一作冬)景、次弼景、茂景称阿波賀但馬守、法諡曰不昧、
又有三郎者?、天正三年二月、弟與三従一揆據鉢伏、久景称向駿河守法諡曰月庭、
子久家、亦称駿河守
「一乘録」
これを見ると「三郎」「與三」兄弟は「阿波賀但馬守」すなはち朝倉茂景の系統だということがわかります。
しかも「與三」は「従一揆據鉢伏」とあるように、「天正三年二月」頃一揆勢に与していたようです。
「據鉢伏」とは、鉢伏に據(よ)ると読めば但馬国鉢伏山に籠ったと解釈できますがいかがなものでしょう?
んで総括すると、、、
---------------------------------------------------------------------------------
朝倉与三某。宮増丸。但馬守???〜???
高景の子阿波賀但馬守茂景の末裔。朝倉庶流の一族。 [一乗録]
主家滅亡後兄三郎は敗死、1575(天正3)年2月、但馬国鉢伏山にて一揆勢とともに蜂起。[一乗録]
その後弟三人とともに武田刑部大輔(信実?)の元で安芸に潜伏。[吉川文書]
朝倉家再興を企図し1578(天正6)年頃、佐々木源兵衛尉を使者に毛利家へ力添えを依頼。 [吉川文書]
それ以後、彼らの消息は途絶えている。
---------------------------------------------------------------------------------
>>295 ふむふむ。とすると彼らが寄宿していたのは、やはり武田刑部大輔信実方ということになるのかな。
297 :
日本@名無史さん:2005/05/24(火) 03:14:59
福井県にも鉢伏(山)城はあるじゃん
ttp://www.ikedakai.com/shincyokoki4.html 八月十五日、夜に入り、府中龍門寺、三宅権丞楯籠り候構へ忍び入り、乗っ取り、近辺に放火候。
木目峠・鉢伏・今城・火燧城にこれある者ども、跡を焼き立てられ、胆を潰し、
府中をさして罹り退き候を、羽柴筑前守・惟任日向守両人として、府中の町にて、
賀州・越前、西国の一揆二千余騎斬り捨てらる。手柄の程、是非に及ばず。
阿波賀三郎・阿波賀与三兄弟、御赦免の御侘言申し上げ候と雖も、御許容なく、
原田備中に仰せ付けられ、生害させられ候。
赦免を許可されずに、原田備中守直政に手討ちですか・・・。
景健同様、武生大虐殺被害者の会に入れるのも恥ずかしいかも・・・。
299 :
日本@名無史さん:2005/05/24(火) 06:53:18
>阿波賀三郎・阿波賀与三兄弟、御赦免の御侘言申し上げ候と雖も、御許容なく、
>原田備中に仰せ付けられ、生害させられ候。
三郎と与三が死んでいたとすると、渦中が持ってきた手紙の与三は誰?
300 :
日本@名無史さん:2005/05/24(火) 08:21:43
---------------------------------------------------------------------------------
朝倉与三某。宮増丸。但馬守???〜???
高景の子阿波賀但馬守茂景の末裔。朝倉庶流の一族。 [一乗録]
主家滅亡後一向宗に加担、1575(天正3)年2月信長の越前一向一揆討伐のとき、
越前国鉢伏山にて一揆勢とともに蜂起[一乗録]。兄三郎とともに原田直政に討たれるとあるが[信長公記]
その後弟三人とともに武田刑部大輔(信実?)の元で安芸に潜伏。[吉川文書]
朝倉家再興を企図し1578(天正6)年頃、佐々木源兵衛尉を使者に毛利家へ力添えを依頼。 [吉川文書]
それ以後、彼らの消息は途絶えている。
---------------------------------------------------------------------------------
>>295 安国寺!安国寺!
安国寺の家臣団って、旧武田家の家臣でできてるんじゃないんですか?
・・・と思いたいねぇ(涙)
303 :
日本@名無史さん:2005/05/25(水) 22:38:24
若狭で頑張ってた武田信方が甲斐武田に匿われていたのだから
甲斐にいた朝倉氏もいたに違いない 多分・・・
>>303 武田さんと武田さんは親戚
朝倉さんと甲斐武田さんはせいぜい同盟者
305 :
日本@名無史さん:2005/05/26(木) 07:42:16
しかし山梨市に日下部の地名?があるのはなぜだ?
そういや天目山で勝頼は信勝に対して「奥州に落ち延びよ」
って言ったそうだけど南部に匿ってもらうつもりだったのかな?
307 :
日本@名無史さん:2005/05/26(木) 10:48:51
>>306 芦名とか。
・・・小笠原も、芦名に世話になってたような。
309 :
日本@名無史さん:2005/05/27(金) 05:43:23
>>303 別にこのスレではどうでもいいんだが、
武田信方が甲斐に逃れたなんて何処に書いてあるの?
さてさて、朝倉宮増丸こと阿波賀余三のことが詳らかになったので次行きましょう。
>>232さん
伊勢朝倉氏は本貫三河国とされる伊勢の国人で、官途(通称)から備後守・兵庫助の二系統が確認されているようです。
また渥美郡に拠る朝倉の一族は朝倉勘解由左衛門尉貞茂という者が「伊勢貞宗譲状」に確認でき、
彼の分領である伊勢国保々御厨の記述が同状に確認されるところから、
朝倉貞茂も上記伊勢朝倉氏と同族である事が想定されます。
312 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 22:31:32
違うんじゃないの?
>>313 伊勢朝倉⇒旗本朝倉も確定情報じゃないと思うけど・・。
どうしてそう言えるの?
315 :
日本@名無史さん:2005/06/22(水) 10:42:09
捕手
316 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 12:12:28
保守
317 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 11:36:24
捕手
318 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 18:32:46
「近江浅井氏の研究」(小和田哲男先生著)
注文しました。けど高いねえ。
319 :
日本@名無史さん:2005/07/20(水) 09:25:51
しゃーない
320 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 08:59:38
値段の割には内容が物足りなかった。
特に朝倉氏との関係についてが。
姉川の合戦も志賀の陣もさらっと書いてあるだけ。
321 :
日本@名無史さん:2005/08/04(木) 17:04:26
捕手
322 :
日本@名無史さん:2005/08/10(水) 13:01:26
あさい? あざい?
323 :
日本@名無史さん:2005/08/10(水) 17:32:20
「あざい」が正解
324 :
日本@名無史さん:2005/08/11(木) 12:22:27
浅井亮政の出自は?
正親(ry
326 :
日本@名無史さん:2005/08/15(月) 19:42:30
朝倉宗滴の実子って仏門に入ったのですか?
327 :
日本@名無史さん:2005/08/15(月) 20:28:13
328 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 13:21:55
長政が信長につき従っていれば、大大名になれたか?
329 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 23:04:00
多分、無理だろうな・・・
もらえても越後より北だろうな
331 :
日本@名無史さん:2005/08/21(日) 23:39:07
朝倉か六角の旧領ぐらいは貰えただろうから、
本能寺まで起これば、丹羽ぐらいまでいったでしょう。
>>331 織田家に臣従した旧六角家臣団の領地は貰えないだろう
333 :
日本@名無史さん:2005/08/26(金) 17:09:36
浅井長政、黒田長政、浅野長政の
三長政の長老として秀吉に臣従w
早川長政と山田長政もね
>>311 むぅ。も少し伊勢朝倉氏の話題で引っ張ってもらえるかな?と思ったけど
あっさり指摘されてしまいました(笑
ご指摘の通り、伊勢朝倉氏は日下部とは関係ありません。
>>310のほかに史料をあたってみると色々出てきましたので、年次・差出人・所収を挙げてみます。
1453(享徳2)年11月 朝倉備後入道常英書状 三通 「醍醐寺文書」
(守護一色と九鬼の対立仔細を醍醐寺に伝える文書)
1475(文明7)年. 2月 朝倉勘解由左衛門尉平貞茂書状 一通 「文明年中内宮引付」
(三河国神戸本領地頭貞茂と伊勢神宮との神役履行状)
1544(天文13)年8月 朝倉兵部大輔賢茂 三通 「曇花院殿古文書」
(伊勢国小向庄を巡る曇花院との訴訟問答三状)
337 :
日本@名無史さん:2005/09/04(日) 22:15:54
既出だけど義景の弟って本当はいたの?
338 :
日本@名無史さん:2005/09/18(日) 20:04:53
朝倉播磨守景弘
339 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 05:50:18
スマソ。
過去ログ是非見たいんだけど、どこかにうpされてないかなぁ?
子孫のアタクシが通りますよ…(´◇`)
342 :
339:2005/09/20(火) 11:24:46
343 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 00:42:14
344 :
あまちゃん:2005/10/06(木) 01:00:57
うはww浅井ネタ発見!wwはじめまして!雨森弥兵衛の子孫でーす!wなんか自分に自覚がないので軽いですがあしからず(>_<。)
345 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 01:46:57
バカボンのパパの声やってた人と親戚ですか?
346 :
あまちゃん:2005/10/08(土) 23:34:46
さーもりあがってまいりましたー!
\(>_<。)
347 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 22:45:21
え?
348 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 23:03:44
渦中、戻って来い
リアル子孫も戻って来い
>>348 戻ってみました。(笑
ついでにおみやげ置いてきます。
「一乘録」第二冊巻四より印牧能信の項
印牧能信、称弥六左衛門尉、刀祢之敗、爲岐阜将不破光治臣原加左衛門所虜、岐阜主検首虜、
召前波吉継富田長秀、使其奏其名氏、主問曰、彼何人也、吉継曰、印牧弥六左衛門尉能信也、
主乃進之、問曰、汝非知名之士邪、何故爲禽、対曰、軍敗主危、身数奮闘、気力倶疲、
又傷其膝、是以至于此也、主曰、壮士也、一言不偽、諭之令仕、属以郷道、能信謝曰、
大恵不敢忘也、唯臣生于越前、世受其禄、况身居重職、從不能交死于君前、荳忍貪生事仇哉、
且因君之恵、暫免其死、何以能保百年乎、浮生如夢耳、願速刎首、吉継曰、君憐吾子、
特命食菜如故、吾子奉命可也、能信嗔目詈曰、叛賊、汝亦是世臣、且深忝今主之恩、
唯汝不肖得罪乎君、遂以怨望謀畔、夫忠臣不事二君、我荳習汝非人之所爲邪、終不聴、
行刑者乃引去、将斬首、能信曰、弓折刃摧、身爲囚虜、固是兵家之常、未足爲辱、唯死同卒伍、
良爲恥也、願賜自殺、主曰、志士也、使検使解縛、賜短刀自殺、能信十字割其腹、抉其腸、
以拗之、行刑者乃斬首、時人惜之、又有丹波(一作後)守能俊者、鉢伏城主、
誤字を自己訂正です。。。
「一乘録」第二冊巻四より印牧能信の項
印牧能信、称弥六左衛門尉、刀祢之敗、爲岐阜将不破光治臣原加左衛門所虜、岐阜主検首虜、
召前波吉継富田長秀、使其奏其名氏、主問曰、彼何人也、吉継曰、印牧弥六左衛門尉能信也、
主乃進之、問曰、汝非知名之士邪、何故爲禽、対曰、軍敗主危、身数奮闘、気力倶疲、
又傷其膝、是以至于此也、主曰、壮士也、一言不偽、諭之令仕、属以郷道、能信謝曰、
大恵不敢忘也、唯臣生于越前、世受其禄、况身居重職、從不能效死于君前、豈忍貪生事仇哉、
且因君之恵、暫免其死、何以能保百年乎、浮生如夢耳、願速刎首、吉継曰、君憐吾子、
特命食菜如故、吾子奉命可也、能信瞋目詈曰、叛賊、汝亦是世臣、且深忝今主之恩、
唯汝不肖得罪乎君、遂以怨望謀畔、夫忠臣不事二君、我豈習汝非人之所爲邪、終不聴、
行刑者乃引去、将斬首、能信曰、弓折刃摧、身爲囚虜、固是兵家之常、未足爲辱、唯死同卒伍、
良爲恥也、願賜自殺、主曰、志士也、使検使解縛、賜短刀自殺、能信十字割其腹、抉其腸、
以抛之、行刑者乃斬首、時人惜之、又有丹波(一作後)守能俊者、鉢伏城主、
訳してちょー
では意訳してみたりします。
印牧弥六左衛門尉能信、刀禰坂の合戦で敗れ、信長方の不破光治家臣、原加左衛門の所に捕われた。
信長は捕虜を調べるため、元朝倉方の前波吉継、富田長秀を召し、その素性を問わせた。
信長は問うた「この者は何人だ?」
吉継いわく「印牧弥六左衛門尉能信にございます」
信長はさらに問うた「聞かぬ名じゃ、何ゆえ死なずに捕われた?」
能信は答えた「戦敗れ主は危機に瀕し、やれる限り奮闘致したが気力とも消耗致した。
また膝を負傷したゆえ、こうして捕われの辱めを受けてござる」
信長は言った「一言も偽りを吐かぬとは壮士じゃ。令を守り、余に従うがよい」
能信はこれを謝し「信長様の格別な計らい夢々忘れませぬ、しかし越前に生まれ禄を受け
重き役を務めた者が主の前で死ぬこと適わず生き永らえ仇をなすことがどうして出来ましょうや?
また信長様の恩を受け死を免れれば、我が名をどうして未来に保てましょう。 願わくば速やかに首を刎ねて頂きたくござる」
吉継はそれを聞き言った。「信長様は格別な計らいで申されておるのじゃ。信長様の命を奉るべきじゃ」
能信は目を閉じたまま「叛賊め、主上の大恩を受けながら己の過失で罪を得ると主を逆恨みし
遂に謀略に走り、二君の不忠に及びおって。貴様のような非人の行為になんぞ習うべきことがあろうか」
能信の言は最後まで聞かれず、兵が能信を引きずり早く首を切ろうとしたところ
「弓折れ刃こぼれ捕われ、足がやられては死んだも同然が兵法の常になれば、
引きずられるのはよい恥さらしにござる。願わくばこの場で割腹賜りたくござる。」
信長は言った。「能信は志士よ」
そして兵に能信の縄を解かせ、短刀を渡された。
能信は十字に切腹し、腸を掴み放り投げると、首を刎ねられた。
皆、能信の死を惜しんだという。
彼の一族に鉢伏城主印牧丹波(丹後とも)守能俊という者もあった。
> 朝倉渦中
三戦板の某スレで「朝倉軍談」を天正時代に成立していたとしてるけど、
朝倉軍談って慶長期じゃないの?
あのスレはあんまり係わり合いになりたくないので、ここで聞いてみた
しかし大名として滅んだ割りに、朝倉関連史料って多いよな
355 :
日本@名無史さん:2005/10/28(金) 22:56:23
大名として滅んだからこそ、史料が多いのではないか?
幕臣の朝倉さんが捏造したんじゃん?
357 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 00:36:11
某漫画で有名になった鐘巻自斎との関係は?
ひさびさにレスがよく付く日だ(笑
>>354 天正年間成立とされるのは「朝倉家記」の方でした。失礼しますた。
「朝倉軍談」は「始末記」系諸本の記述を広く収集した形の構成とのことで、
成立は当然後代と考えられるわけですが
「朝倉軍談」の記述に「始末記」早期の異本にみられる特徴を有しているところから、
朝倉家興亡の流れを見る上では価値の高い史料なんでしょーね。
359 :
寒:2005/10/29(土) 21:36:05
>>358 朝倉始末記に異本あるとは知らなんだ、なるほどー
どうも始末記って、事実誤認が多い史料って認識があるもんで、あんまりいいイメージないんだよなぁ
朝倉家記と比較してもどーもね
それでも朝倉渦中の言うように、流れを見る上では欠かせない史料なんだろうけど
細部っつーか、かなりの差異もあるしなぁ
361 :
日本@名無史さん:2005/10/31(月) 00:43:46
何でもかんでも義景のせいにしやがって>朝倉始末記
どなたか真柄兄弟について教えてください。
お願いします
ぐぐって調べたのですが朝倉氏の史料で市販で手に入るのは朝倉始末記だけなんでしょうか?
偉い人よろしくお願いします
365 :
日本@名無史さん:2005/11/01(火) 20:20:15
一乗谷の土産物屋か一乗谷朝倉氏遺跡資料館に行けば何かある、多分。
366 :
日本@名無史さん:2005/11/01(火) 20:41:58
練馬の不動産業者による一家五人殺害で死刑になった朝倉幸二郎と
越前の朝倉家はなにか関係あるんですか?
>>366 在日が滅びた大名の苗字を(権威借りに)通名とすることはよくある話。
>>360 始末記関係をあげときます。始末記には原本なるものが存在せず、
各記によって記述も年代もバラバラだそーです。
その中では「小出本」が早期に成立してるようですが、
だからといって内容が古いかというとそうでもないというわけで、
このあたりは「信長公記」のように、研究を難しくさせる要因になってるみたいっすね。
「朝倉始末記」(小出本)天正4年成立
「朝倉始末記」(集覧本)天正年間成立
「朝倉始末記」(心月寺本)寛文年間成立
「朝倉始末記」(福井本)
>>364 いちおう軍記系のみをサラサラっと集めてみました。
この中で市販されてるのはいわゆる流布本の始末記、藤居氏の口訳始末記、富山県が出してる家録、
このあたりでしょう。現在販売されてるかどーかはよく知りません。
◆始末記系
「加越闘諍記」
「越州軍記」
「義景記」
「朝倉記」など
◆家録系
「朝倉軍談」
「朝倉家記」
◆「一乗録」
369 :
364:2005/11/02(水) 15:03:14
370 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 11:08:10
浅井備前守長政
浅倉左衛門督義景
浅井下野守久政
371 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 21:14:47
誤字・脱字に気を付けよう。
372 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 22:10:28
冨田勢源に鐘巻(印牧)自斎
越前朝倉には剣豪も多い。
[ 富田勢源(とみた せいげん) 生没年不詳 ]
中条流剣法の達人で小太刀の名手。30代半ばから目を患い、ほとんど失明に近い状態になる。その後、家督を弟の景政に譲り、
出家して勢源と号していた。斎藤義龍の人質として身を置いていた、朝倉成就坊に会うため美濃に赴いた際、
関東の剣豪梅津坊に仕合を申し込まれるがこれを断わる。しかし義龍のたっての頼みに折れ、
その仕合で梅津坊を軽く討ち果たし、義龍を大いに喜ばした。
さあ、成就坊とは誰?
374 :
日本@名無史さん:2005/11/08(火) 20:50:06
375 :
日本@名無史さん:2005/11/08(火) 21:43:47
叔父坊子って何だよw
376 :
日本@名無史さん:2005/11/08(火) 22:19:54
炎上する小谷城で切腹した浅井父子の首級がどうして2つとも信長の手に渡ったのだろう?
やはり内通者がいたんだろうか?
天守閣みたいなのではありませんから
当主がいた屋敷の切腹した場所ぐらい、間取なんかでわかるでしょ
378 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 01:02:59
小谷城って炎上したのか?
379 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 01:33:44
斎藤義竜ごときに人質交換?それも朝倉姓?
向こうから人質としてきていた斉藤もそんなに偉いのか?
朝倉ったって、末端までいますから・・・
どなたか英林孝景の子、時景と
その子孫である北条家玉縄衆の朝倉政景、
その後備前に落ち延びたと言われる朝倉氏について詳しい方いらしゃいましたら
詳しい情報や参考文献等教えて頂けませんか?
383 :
あぼーん:2005/11/13(日) 08:15:42
あぼーん
花山院定好の母が義景の娘という系図が有るのですが、どなたか関連情報をご存じ
無いでしょうか。往来社の日本史総覧記載の公家系図の内容なので、どの資料にか
ら来たのかは分かりませんが。
定好が1599年生まれなので年齢差が微妙ですが。もし、義景の娘だとしても、
20代後半での出産?
親は定熙か・・・
難しい課題が出たなぁ・・・
渦中はいるかいな?>渦中
386 :
384:2005/12/01(木) 12:22:54
追記
公卿補任の定好の項目では母は空白でしたね。
387 :
384:2005/12/02(金) 12:47:06
朝倉家と花山院家にもう一つ縁戚関係があるのですね。
朝倉義景─娘
│
本願寺教如─娘
├─────野宮定逸
花山院定煕─花山院忠長
└花山院定好
・・・ちゃんと表示されるかな?
教如の娘が朝倉腹かは分かりませんが。
388 :
日本@名無史さん:2005/12/02(金) 16:30:50
往来社本の元ネタはおそらく「諸家知譜拙記」では。
390 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 16:33:21
渦中〜 出番だぞー
391 :
384:2005/12/04(日) 13:53:07
説明書きでは「華族系譜」「公卿家伝」「華族履歴」を底本とし、
「系図算用」「増補諸家知譜拙記」「尊卑文脈」「諸家伝」「地下家伝」
「現代華族譜要」「昭和新修華族家系大成」その他で補ったとあるので、
どこから引っ張ってきたのかわかりませんねえ。
漁る資料が多過ぎるwwwwwww
出典は
>>389氏の想像通り「諸家知譜拙記」っすね。
すなわち、、、
号霜松院 實公朝公男 元家雅 寛永九左大
定熈
母經右公女 臣從一位同十一年十二 七十七
号淳貞院 万治三從一位寛文元左大臣同十三年七五
定好
母朝倉美景女 七十五
えーと、とりあえず報告のみ。
ありがとうございました。渦中様。
近いうちに中央図書館に見に行こうかなと思っていたのですが。
これが当主の義景の事なのか、あるいは当時別に美景と云う人が
居たのかわかりませんね。。
395 :
寒:2005/12/06(火) 00:08:53
396 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 09:46:29
age
397 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 21:32:07
北近江や越前、凄い豪雪ですね。
朝倉義景が冬には必ず撤退したのもわかる気がする。
信玄に罵倒されてもこっちはこっちの事情があるということで・・・
>>398 こりゃまた・・・
そこには1555年土着、とありますね。
越前国内では1567年に堀江vs朝倉で争いがあり、
堀江一族は国外追放されているので、
その時の難民団の一部かもしれません。
初代孝景の子供の朝倉時景という人が
家内騒乱で破れたのち、北条氏に寄食しています。
(のちの”駿河大納言忠長付家老・朝倉政元”の先祖とされています。)
その子とされる人物が、三浦半島あたりを領有しています。
おなじ「反・朝倉宗家」としてなんらかの交流があったとすれば、
頼って落ちていっても不思議ではないかもしれません。
また、遡りますが朝倉氏はその少し前、
結城氏が足利持氏の遺児を掲げて反乱した「結城合戦」に
出陣していて、持氏遺児(春王丸とあと誰だっけ?)を捕縛する、という活躍をしております。
つまり、朝倉の周辺では、関東での土地勘も多少はあった、と思われます。
400 :
日本@名無史さん:2005/12/23(金) 09:29:09
age
>>399 情報どうもありがとうございます。
政元は水戸徳川家に仕官した朝倉家でしたっけ?土井家家老は在重系でしたっけ?
でも、結城合戦について初めて聞きました。
面白いのでググってみます。
402 :
日本@名無史さん:2005/12/24(土) 08:07:52
age
土着の年とされる1555年、越前の堀江氏は武田氏姉妹を介して義景との義兄弟となっており
他国へ避難するような要素はなかったのではないかと。
一応堀江の分派には遠江堀江氏もいて、そちらの可能性もあるかと思います。
といっても斯波氏の遠江支配は大永年間の今川侵攻によりそれを失うわけですから、
1555年とは、そこから30年のタイムラグがありますね。
謎ですね、中野の堀江さん(笑
404 :
日本@名無史さん:2005/12/26(月) 04:05:30
確か新田氏の一族で堀江氏っていなかったか?
405 :
日本@名無史さん:2005/12/26(月) 22:17:35
いるよ。奥富敬之氏が研究している。
なるほど。。。
ちなみに遠江の堀江氏は堀江石見守家嫡流とされてます。
407 :
日本@名無史さん:2005/12/31(土) 00:48:07
age
408 :
日本@名無史さん:2005/12/31(土) 14:15:17
栃木県の足利市の月谷という所に堀江景忠の子孫という一族がいますが、
どういうことか分かりませんか?
そこの堀江氏は、昭和62年5月に堀江中務丞景忠四百年祭を開催して
おります。祭誌も出版され、滝川一益が関東管領で来た時に添役で来たと
あります。武州神流川にて小田原北条方北条安房守との合戦に参加、負傷
して野州行道山下月谷郷に隠れ住んだが、追手の手によって討ち死に、
その日が一月四日であったというところから、今もお正月の門松を
一月四日の早朝にとりはずしてしまう習慣が残っています。
409 :
日本@名無史さん:2005/12/31(土) 15:57:13
410 :
日本@名無史さん:2006/01/01(日) 09:06:41
一乗谷も小谷城も雪が深いだろうなあ
あけましておめでとうございます
411 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 13:36:23
>>411 乙
でも、朝倉景健が刀禰坂で死んだことになってるよ。
413 :
日本@名無史さん:2006/01/09(月) 10:14:20
>>412 上の段と下の段を間違えてコピー&ペーストしたっぽいです。
・・・つってもなんのこっちゃわかりませんよね、
俺の手元のメモです
正・・・道景、景行
なんで、正しといてください>誰か
あと残りも、うろ覚えをメモ帳に書き散らして、それを
適当に書いただけですので訂正よろしく。
414 :
日本@名無史さん:2006/01/09(月) 12:37:58
もっと朝倉関連記事書き込んで。
415 :
日本@名無史さん:2006/01/09(月) 21:45:46
416 :
日本@名無史さん:2006/01/11(水) 11:13:26
417 :
日本@名無史さん:2006/01/11(水) 11:14:36
普通に考えて紀伊土橋氏の流れだろうね。
しかし、なんで景鏡の子孫なんて名乗ったんだ?
ついでに、土橋城と大野城は別ですか?
>>416 姉川の総大将は景健では?
あと『景鏡だって、生きたい。家臣を養っていかねばならない。』
これ蛇足。
質問です。
富田や前波って、姉川で寝返った時に領国内の一族はどう扱われたのでしょうか?
特に富田長繁の富田ってかなり大きな一族ですよね?
420 :
日本@名無史さん:2006/01/11(水) 14:59:04
421 :
日本@名無史さん:2006/01/11(水) 14:59:47
>景鏡だって、生きたい。家臣を養っていかねばならない。
当時の武士なら、これ大事だろ
422 :
日本@名無史さん:2006/01/11(水) 15:14:33
423 :
日本@名無史さん:2006/01/11(水) 19:52:00
今こそ光栄史観を正すとき。
それから朝倉義景の項目に小笠原流免許皆伝って入れといて。
424 :
日本@名無史さん:2006/01/12(木) 00:07:33
>>423 自分で入れなよ。
よっぽど文才がない奴以外は、自分でやれ
>>416に頼るなよ。
あれ、最初はびびるけど、どうってことない。<編集
425 :
日本@名無史さん:2006/01/12(木) 23:32:11
>>419 見たら訂正されてた。419の仕事か?
GJ
次行こう、次。
426 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 17:47:58
wikiの義景の項目を読んでいて、あまりにもよわよわに書かれてるのを感じ、
朝倉なめんな!とばかりの憤怒の思いで訂正してくれよう!
と思い立ったのはいいが、、、
あまりにも文才がない俺
無理。スマソ
427 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 22:52:04
えーと「織田信長家臣人名辞典」によると
朝倉与三について載ってまして、以下抜粋。
正確には与三郎か。朝倉氏の一族。景健と行動を共にし、一向一揆に加担したか。
天正三年八月信長軍の柴田勝家、丹羽長秀に砦を陥とされている。(高橋源一郎氏文書)
この後、逃れて宮増丸ら三人兄弟で生き延びたらしい。(同六年カ)十二月七日、弟・宮増丸が
武田信景を通じて、当時毛利の食客となっていた足利義昭に、兄与三に朝倉の名跡を
継承させるよう。請求している。(吉川家文書)
以上。この伝だと過去ログの与三と宮増丸は別人のようですが。宮増丸も与三?
428 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 01:13:51
>>427 GJ!
猛烈にGJ!
(生きている)兄弟が同じ「与三郎」というのはあり得ないんでない?
というか宮増丸が、「自分を担いで朝倉を」と言ったのではなく、
「兄を担いでください!」という交渉役だったんですな
429 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 20:03:28
430 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 20:36:07
安芸の武田
えけいの親戚
431 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 20:40:13
土橋信鏡
安居景健
織田景綱
掛川藩主で忠長の付家老宣正は信鏡の甥
432 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 22:04:28
織田景綱
↑
こいつ誰?
434 :
日本@名無史さん:2006/01/18(水) 10:39:18
織田城主 朝倉景綱のことでしょ?
435 :
427:2006/01/19(木) 00:37:17
勉強中の身なので大した事は言えませんが、手元の本によると
若狭武田氏に信景がいます。でもって、義統の弟になります。
系図的には信豊の三男のようですが。
なるほど、織田町にいたから朝倉織田氏か。
コンガラガルナ・・。
437 :
日本@名無史さん:2006/01/19(木) 08:59:20
一応、
>>300あたりの結論も参考にしなよ。
系図上、信景の弟、武田信実も関与しているし。
439 :
日本@名無史さん:2006/01/19(木) 17:40:52
3人兄弟か4人兄弟か・・・
440 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 21:26:20
wikiの朝倉景高の項、全面改訂していい?
441 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 21:48:33
442 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 22:49:06
やりましたよ〜
443 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 23:43:22
光栄史観を変えるのは今。
444 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 01:03:30
446 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 23:33:59
>>442 早速改訂版を見ました。
ついでにテンプレを置いてきましたので、
知ってる項目あったら埋めといてください。
wikiはりロードしないと、古いのが表示されることが多いっす
いやっほぅ
孝景の項目訂正してたら
パソ落ちた・・・俺の虫ほどの知識フル稼働したのに・・・もう書く気しねぇ orz...
(,,゚Д゚) ガンガレ!
(,,゚Д゚) ガンガレ!
宗淳孝景の項目、書き換え終了です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E5%AD%9D%E6%99%AF テーマは「実はすんごい人」ですwww
数日前の淡白なのと比べてみてください。
「こいつおよび貞景から既に文化人」、「既に自ら出兵する習慣がない」、
ということを書いておかないと、義景復興運動につながらないから、先にやりました。
それと義景、お前六角からの養子!!??ということ。
ただし実はもともとこの時代に自信がありません。
にわか勉強ですから、かなりい加減です。
バグ取りよろしく>誰とはなく
追伸・宗淳孝景の室の武田氏についてですが「いつ婚姻?」「年齢は?」というの
どなたか教えてください。
そしたら場合によっては「その歳で義景産むの、ちょっとおかしくね?」となるからです。
>>450 乙、読んで感動した。
やっぱり義景はどこぞからの養子なのかな?
そうすると景鏡の最後の寝返りとかも納得してしまう(景高の遺伝もありそうだけど)。
義景養子説は、渦中やバロンその他の物知りが来ないと
素人には危険物ですぜ
wikiに信玄とかバカ文章足したの、誰だよ・・・
義景の項目書いた奴はこの中にいる!
>>453 お前だ!
信長包囲網の放棄は、義景を語る上で欠かせないことだろ
12月に放棄したのは勘弁してやれよ。
今年の大雪なんて非じゃなかったかもしれないだろ
いくら雪がひどくても、あんなタイミングで帰るボケがどこにいる
460 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 00:30:34
信玄の歩みが遅いのが悪い!
461 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 00:38:39
武田信玄は二股城で二ヶ月も足止めをされるほどのヘタレ
朝倉義景がその報告を受け来年また来ようと思ってしまってもおかしくは無い
朝倉義景の越前に撤退は悪くは無い
自分の寿命もわからん信玄こそが愚将だ
義景のキチガイみたいな振る舞いで、信玄の寿命が縮んだんだろう
ちなみに新田次郎の漫画「武田信玄」では、
信玄が「義景めが!」と絶叫した直後に吐血して昏倒している
>愚将
この手の単語は、日本史板では禁句です。
>>462のような頭に虫が沸いてる発言とか
義景の項目から、信玄云々という頭の悪い記述をカットしておきました。
およびその段落、
>>444が来るまでの暫定推敲しときました。
465 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 22:39:53
朝倉景高を全面改訂したものですが、他の朝倉氏に関する記述も
同様に直してよろしいでしょうか?今夜は無理ですが
いいんじゃね?
俺もやる。
義景だけ
>>444に任せた。
宗淳孝景の間違いがあったら訂正も頼む。
467 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 00:33:07
Wikiは日本史板の住人だけのもんじゃねえぞ
義景とか朝倉氏とかだけの問題じゃなく、どの項目についても
全面改訂は気軽にやっていいものではない
全面的に間違ってる、歪んでる記述の場合は別にいい
そっちが全面改訂しなおしたあとで、
こっち側でまた全面改定させてもらう事があるかもしれないが、そのときはよろしく
Wikiは百科辞典ではないのでね
>Wikiは百科辞典ではないのでね
歴史専門の辞典とでもいいたいのかな
まあある程度まとまった記述が既にある場合は
即削除の前にまずはノートで問題提起ってのが基本だよ
知名度ある人物のときは特に
編修合戦はするな、てのが鉄則
>>470 「全面改訂したものが正しい」場合でも、戻しちゃうんだ?
内容関係ないんだ?
戦国の巨獣・信玄とか書かなきゃダメなんだ?
473 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 01:36:50
>>470 >ウィキペディアは自由にご利用頂ける百科事典です。
ちゃんと、一行目から読むことをお勧めする
467=470の人気に嫉妬
>>450がやった孝景なんて感動ものだがな
元々あった文を最大限利用して主観の排除と年表と周辺諸事情記述
あくまで孝景を中心にしかし客観的に記述
450と444は別人か?
まあ誰が全面削除しようと自由なら、誰がしてもいいよね
そのうち編集合戦になれば誰かが保護かけてくれるでしょ
>>472 どんな理由があっても編修合戦はダメってのがあそこのルール
例外は足利義勝のページみたく明らかなイタズラのときだけ
>>475 あれは感動もの
なんせオレが前にちょこっと書いたヘボ文から
あそこまで膨らませたんだからw
ちょっと説明が不正確だったかな
「他人の記述削るときはノートで問題提起」が原則
投票にかける、って手もあるよ、たしか
孝景いま読んだ
すげー
そして義景も履歴読んだ
信玄厨バカ過ぎwwwwww
470に嫉妬
孝景、主観や感情論が入ってないのがいいね
信長包囲網は義景がぶち壊した
これは客観的事実
景鏡が当主ならもっとまともにやってただろうな
>>484 ぶはははははは、は、あーあ・・・
お前のような奴がいるからいつまでもry
朝倉義景養子説については、自分はただの系図オタなのでよくわかりません。
おそらく出所は旗本建部賢明が批判してる「大系図評判遮中抄」にある大系図
なのでしょうが、あの系図はさすが系図オタでもひく内容ですから・・・。
>>486 まだ荒唐無稽に分類される説ではあると思います。
最初はありがちですが、福井の郷土史家が言い出したらしいです。
wikiの義景の項目の最後の段に、いろいろ書いてあったはずです。
ご参考にドゾー。
>あの系図はさすが系図オタでもひく内容ですから・・・。
読みたいですよそれwwwww
でも六角の名残が義景にたくさんあるなら、
そういう説が出てくるのもわからんでもないな
なんでいきなり六角?って唐突さはあるが
>>488 それはある。
それまでの六角-朝倉間は、どっちかというと”仲悪い”ほうだと思う。
かつ、スレタイと絡めると・・・
浅井の小谷城の「京極丸」って、結局なんで「京極」なんだろ?
「大系図評判遮中抄」は続群書類従完成会の『史籍雑纂』3巻の収載されて
ますので、大きめの図書館に行けばあると思いますよ。
「大系図評判遮中抄」は佐々木氏の子孫である建部賢明が、当時、流布して
いた「大系図」や「江源武鑑」を偽書として批判した資料です。
一般的には六角氏は久頼−高頼−近綱(早世)=定頼(近綱の弟)−義賢−義治
と相続したとしますが、
「大系図」では、
久頼−高頼−氏(近)綱−義実−義秀−義郷−氏郷
が嫡流としています。
同系図の「朝倉系之内」よれば、義景は氏綱の子としていますが、没年すら
誤っています。他にも「(若狭)武田系之内」では義統の父は六角高頼の子で
義統の子は実は義実の子だったとか、織田信長の母は六角政頼の娘だとか、
氏郷の母は織田秀信(三法師)の娘だとか、散々な内容です。
「大系図評判遮中抄」を基に義実嫡流説を唱える人たちは何故かそこらへん
には触れません。
492 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 11:48:59
何かのサイトで朝倉滅亡の際に上杉を頼った朝倉景嘉ってのが出てきたんだけど何者?その後どーなったの?
山崎吉延っていたなぁ
496 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 21:28:09
wikiの朝倉関連ページ、かなり修正が入ってるね
しかしまだ朝倉見直しの決定打に欠けるな
無理に見直さなくていいんだよ
499 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 00:09:08
大いに見直す必要があると思うが
見直されて、大河ドラマにでもなるなら価値はあるだろうけど、
ありえないし・・。
501 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 22:58:27
浅井とセットであり得るかもしれん
聡明な浅井長政、於市の方や淀君を不幸に巻き込む、アホ大名がいたというお話ですね?
503 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 23:28:55
君、頭毒されてるよ・・・
何で長政は義景なんかに付いたかね
俺なら信長に付くが
久政がなんかゴチャゴチャ言ってきたら、城に軟禁して閉じ込めとく
スレ全部読んでから書き込めよ・・・
506 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 23:21:52
浅井長政は最初から二股かけていたのですよ。
507 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 23:26:36
どくろの金張りの杯今あったらいくらなんだろ?
DNA鑑定で朝倉家とは縁も所縁も無い偽者と判明
「一乗谷」とでも銘打って英林孝景〜義景までの5代分を大河で!
妄想だけどさ・・・
510 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 20:21:28
wikiの朝倉氏関連ページ、今度は朝倉景紀のページが大改造だ
ますますよくなってくね グッジョブ!
>>509 藤原三代で大河やったんだからあってもよさそうだが
まず誰か原作小説書かないと
512 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 23:28:55
浅井、朝倉の子孫はいますか?
この二人ってできてたんじゃない?
514 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 08:59:53
大友、龍造寺の子孫はいますか?
いるけどスレ違い
516 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 23:03:17
朝倉の分家って斯波の遠征と伴に広がったの?
517 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 00:22:38
越前の守護代だからな。
518 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 00:26:08
百年続いたし一乗谷遺跡もあるし将軍もかくまったし意味はあった人だよね
519 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 00:27:01
杯にもなったし
520 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 00:43:21
朝倉が大河ドラマになれば最終回は髑髏の杯だなw
一乗谷でそのままロケもできるぞ。
521 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 01:55:35
義景と考景の生まれてきた順番が逆なら、朝倉家は幕末まで続いていただろうな
また光栄歴史の申し子がキター
524 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 16:04:27
525 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 15:46:25
朝倉義景と浅井長政の子孫はいますか?
526 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 16:03:10
俺なら頭蓋骨に小便した後に、粉々にしてニワトリの餌にするがな。
527 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 20:58:22
もう決めた。
予備軍になれ、というのである。
されば御辺は、朝倉勢にあたられよ。
されど敵は多い。欲しいだけの人数を申されよ。将の名を名指しされよ。
528 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 21:35:19
wikipediaで朝倉と斎藤の関連記事書いて一段落。
このスレの人はもう読んでいるかもしれませんが
現在発売中の歴史群像に朝倉氏の記事が載ってます。
なんか中途半端なボリュームだけど。
一族の来歴とかもう少し詳しかったらよかったけど。
もしかしたらこのスレのコテハン連中&wiki退治組のほうが詳しいかもしれないwwwwww
532 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 03:46:06
wiki記事益々充実中
533 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 06:54:32
>>532 どこを改訂したか、ちゃんと報告してくれるとありがたい。
みんなでバグ取りできるじゃん。
GAVVA っての、ここの奴か?
お前ちょっと走り過ぎ。
諸説あるものを、一本道で爆走したらダメダメ。
土岐の項目とか、まともな土岐研究の人でも
説がわかれるのに、どっかの丸写しで突っ走ったらダメダメ。
537 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 19:33:30
>>535
536の言うとおり自分の意見があるならそれこそwikiで反論すればいいことだろう。
こんなところでダメダメ言っててもしょうがないだろうが。建設的じゃない奴だな。
wikiに迷惑かけるな
wikiは先にまとまった量の文章書いちゃった方が勝ちだからね
GAVVA氏のは
・一方的過ぎる
・丸写し過ぎる
・どこか一箇所のサイトに書いてあった新発見(彼なりに)を
即座に反映させてしまう(裏を取ってない)
熱意は評価する。が、しかし
とね坂とか孝景とか書き直した奴とは別人だよな?
541 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 17:51:30
GAVVA氏の情報は郷土史家の本からだと思う
それをいくつかまとめて読んで彼なりに取捨選択はしているようだ
どこかの一箇所サイトにそんなに詳しく書いてないw
彼だったらとね坂や孝景はいずれ修正するんじゃないか?
関連項目の土岐氏のあたりとかな、ざっと検索しても諸説割れてるのに
「俺はこう書く。俺が読んだ本にはこう書いてあった」で書かれたら怒られるぞ。
で、どこの奴だと辿られたら朝倉関連かよ、と
朝倉の一族系図ですら諸説あるのによ・・・
「日下部系図に載ってたから追加!」
ダメだろそれじゃ・・・
まして、いままでない項目に「下書き」追加するならまだしも、
とね坂や孝景は、先住神がほぼ仕上げているのであれでもういい。
新事実でも見つからない限りもういい。
まあある人がもう十分と思ってても他の人がそう思うかどうかはまた別なわけで
目障りならノートに引きずり出して存分に叩いて相手がトンズラしたと思ったら修正すればよし
こんなところでぶつぶついってないでwikiに行けよ
545 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 20:28:02
>>543 そうやってwikiが腐っていき、
「クソ朝倉スレの奴が」と言われることになり
協調性なく暴走する奴は共同作業には向いてない
ただ迷惑だわな
wikiに行けったら
wikiに行けって言ってるだろ!
>>545 あんたが憤る理由がようわからんが、直接イチャモンつけてくれば?
単に先を越されたから怒ってるってだけなら意味ないぜよ
そいつがここに降臨しているらしいから、憤る奴はここで文句
言いたい気持ちもわからんでもないが。
しかしすっかりダメスレ&ダメwiki項目になったなぁ、、、
渦中もバロンも武衛も帰ってこないし
言っても無駄じゃん?
GAVAが話聞くような奴なら、あんなバカ文垂れ流さないよ
おちけつ
>>542-553 お前らは
・2ヶ月、当スレ出入り禁止
・wiki出入り自粛勧告(GAVVA含む)
とする。
守れ。
大学で土岐氏研究してる友達に聞いて今北産業
おもしれーーなぁおまえらwwwwwwwww
>>556 じゃ俺とお前もな。俺、今来た、そして即禁止wwwwうぇw
俺も混ぜろ
559 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 02:16:18
みんなsageてるのに昨晩に限ってたくさんお客さんが来たみたいだな
質問して良いでしょうか?
「朝倉記」が活字になってて、図書館等で読めるものはありますか?
>>560 「越前一向一揆関係資料集成」という本に翻刻が載ってるです。
渦中さんへ
今回の騒動について一言コメントを頂けませんか?
それからGAVVA氏の記事について感想をどうぞ
朝倉過中の解析結果
朝倉過中の54%は勢いで出来ています
朝倉過中の42%はアルコールで出来ています
朝倉過中の4%は気の迷いで出来ています
>>562 んー。wikiの記事の事はwikiのルールに則して、あっちで解決するべきだと思います。
他のサイトの内容を検証したり討論するのはたまにここでもやりますし、
ネタにもなりますからそれはそれで良いとは思います。
しかしここは「浅井・朝倉を語るスレ」ですから、どうしても記事・執筆者のことを語る必要があるなら、
watch板でやるとか考えた方が良いかも知れませんねー。
渦中、バロン、武衛、その他名無しさん>>>>>>>>>>>>>>>>GAVVA
いいからwikiへ行け、頼む
567 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 23:44:52
GAVVAという人は何故たたかれているのです?
568 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 23:55:49
569 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 00:05:57
wikiの記事読んだけど、何故たたかれるかわからない
571 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 01:10:59
あさくらよしかげのおそろしさおもいしれー
先越されて書かれたからといってGAVVA氏を責めるのは良くない
はいはい後はwikiでやれって
誰が朝倉貞景の項を修正するか楽しみ
575 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 03:39:19
貞景だけ手を抜いてるよね>wikiの記事
GAVVAを擁護する理由がわからない
本人以外
>>574 このスレに出入りする奴はやるな
GAVVAのことはもう止めよう
お前ら俺に先越されたからって嫉妬するなよ
お前らにはwiki記事書けるほどの知識もないんだからな
つれなかったなw
乗り遅れた・・。
じゃ俺もこことwikiと出入り自粛にしよう。
三ヶ月ほどさらば。
584 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 01:59:09
近いうちに朝倉貞景の項修正します
585 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 06:59:49
586 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 07:01:29
588 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 01:19:33
GAVVAが跳梁闊歩してますよ・・・
589 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 23:20:16
越前朝倉氏の系図を見て少し疑問に思った
のですが。
朝倉中務大輔景恒の子である権守道景は、
なぜ「景」の字が下なのでしょうか?
特に意味はありませんかね??
教えてくださいエロイ人。
590 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 00:50:21
道景は景恒の子じゃないよ。
朝倉氏の系図って落とし穴が方々にあるから気をつけて。
孝景の弟で波多野氏を継いだ道郷の孫らしいよ。
592 :
589:2006/04/24(月) 12:34:53
>>590 そうだったのですか。
調べてみると確かに「日下部氏朝倉系図略」には、
誤りが多いようですね。無知でした・・・orz
戦国人名図鑑見ながらwikiで系図作ってたら、GAVVAが入ってきた
はじめは余計な事すんなと思ったが、
よくよく見たらこの図鑑に載ってた系図めちゃくちゃだった
ちゃんと確認してから書かなきゃだめだな
594 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 04:33:59
間違いは誰にでもあるさ
GAVVA本当に空気嫁
GAVVAに習い皆でwikiを充実させよう
やめれ。GAVVAがこの世からいなくなるまで、やめれ。
なんであいつあそこまで意固地になって垂れ流ししてるんだろ・・・
余命幾許も無いから
599 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 15:53:56
最低でも、土岐の項目は白紙に戻してくれ>GAVVA
頼むわ
まずノートで問題提起をどうぞ
ノートに書いて言うこと聞くような奴じゃないな
そういうことは実際に書いてから言わないとね
何故GAVVAは嫌われてるの?理由がわからん
>>599 土岐頼武の記事は俺的には参考になったんだが他に有力な説があるの?
教えてください
604 :
日本@名無史さん:2006/04/28(金) 01:48:38
GAVVAのことはもうよろし!
朝倉義景の嫡男阿君丸を毒殺したのは誰あるか?
605 :
日本@名無史さん:2006/04/28(金) 02:14:55
髑髏盃は残っていないのですか?
GAVVA以外にGAVVAを擁護する奴はいない。
擁護しちゃいない。
ウィキのやり方で抗議しろと言ってるだけ。
まあ何だかんだ言って、GAVVAと張り合えるもの持ってるのは
このスレには居ないんじゃないの
GAVVAキター
610 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 19:58:27
さて信長の野望をやっていて疑問に
思ったのですが。
丹波鬼の異名をとった波多野宗高の
列伝をみてみると、「朝倉氏の援軍として
越前に赴き戦死。」とありますが。
どういった経緯でどの戦にでて戦死した
のでしょうか。
>>610 「・・・と言われている」程度。
ただし
・朝倉はそもそもそっちの地方の出なので、縁があったのかも
・越前土着の波多野氏(丹波波多野との関係は不明)や、朝倉係累の波多野氏と混同してるのかも。
wiki訂正はありがたいんだけど
あれは百科事典であって、歴史辞書じゃないんだよ。
読ませる能力のない奴が書くな、と言いたい
オレモナー
>>611 自己解決しました。wikiによると。
「1570年に盟友朝倉氏が織田信長と敵対するのを食い止めるために
越前に赴く途中、乱戦に巻き込まれて死んだといわれている。」
だそうです。ちょっとカワイソス。。。
結局どの戦かはわかりませんでした。金ヶ崎あたりかな??
そういえば、波多野宗高(というより氷上系)については、郷土史家の研究
により存在自体が疑わしいらしいよ。
>>613 wikiの戦国武将の項目の参考文献は武将ファイルってのが通説だからあんま当てにすんなw
>>614 そうなんですよね。
そもそも丹波が当時、どういう勢力が、どういう風に勢力を持っていたかすら
よくわかってない。
ゲーム等では波多野が丹波の盟主、残りは臣下として扱われてますが、
なかなか疑問が多く。
例えば皆さん信長の野望でご存知の、丹波の青鬼こと籾井教業。
彼なんぞ「実在しなかった」説があるぐらいで。
>>613 前述のように越前には、
「永平寺に道元を呼んだ波多野氏」や「朝倉一族としての波多野氏」
なんかがいます。
その辺の人物と混同されてるのかもしれません。
現在も波多野姓はたまに見うけられます。
>>614 そうだったのですか。
どうりで意味不明な死にかたをしているわけだ。
教えて頂きありがとうございました。
618 :
617:2006/05/02(火) 22:58:15
むむ・・・書き込むまでの間にレスが多数・・・
>>615 げえ!知りませんでした。てことはコーエーによって疑問に思い、コーエーによって
解決したと思わされていたということですか。。。オレアホスwwwww
>>617 やはり混同されている可能性はありそうですね。
それにしても青鬼までいないかもしれないなんて・・・
ゲームで初めて波多野家を見たときに「すげぇ!鬼がいっぱい!!」なんて思ってたのに。あ〜あ・・・
wikiの朝倉貞景の項を修正する
GAVVAならまじでやめろ。空気嫁
みんな来なくなったのはお前のせい。
wikiはGAVAの日記帳なんじゃね?
もうwikiのことは放棄しよう
多数をよそおうならもうちょっとひねらないと
皆さんおはようございます。
連休最終日に足を伸ばして野村古戦場跡に来てみました。
改めて思うのは、一緒に参加した朝倉方が布陣した三田村の地に、碑がないのが非常に淋しいってことです。
今からでも遅くないので福井市は浅井町から土地を買ってぜひ碑を建ててもらいたいです。(笑
ついでに写真を撮ったんですが、あいにくの雨で画像が見にくいのはご容赦願います。
歴史検証が進み、俗に言う「姉川合戦」の再認識が行なわれてる現在、
ここの重要性が見直されて、将来教科書から消える日が来るかも知れませんね(笑
http://p.pic.to/3jp9f
627 :
武衛山:2006/05/07(日) 16:06:47
あ、浅井町が建ててくれればいいと思うw
某氏には既出記事の改変より、新規投稿の方に力を注いで欲しいもんだ
まだまだ赤リンクも多いしな
>>628 あれはもう無理
他人を認知する、関わる能力がないんだと思う。
某氏ってGAVVA?
一色氏や吉良氏の記事書いてるよ
「自分が気に入るように編集」しないと気が済まないんだろうな。
wikiのことはもういいよ。あいつの好きにさせとけばいいじゃん。
本人とか言われるの覚悟で言うよ
GAVVAのおかげで随分勉強になってる
ありがとうございます
これからも頑張って赤リンク埋めてください
土岐氏の項も納得してますよ
釣れたwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
GAVVA乙!
空しいやりとりだなw
636 :
633:2006/05/07(日) 19:28:53
何とでも言って下さいw
本人じゃないんですから
なんかくだらんスレになったね
GAVAのせいでこんなことに
639 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 18:43:55
何故個人攻撃をするんだ?
GAVAの解析結果
GAVAの66%は罠で出来ています
GAVAの26%は歌で出来ています
GAVAの4%は気の迷いで出来ています
GAVAの3%はお菓子で出来ています
GAVAの1%は言葉で出来ています
GAVAって何だよ?GAVAってw
GAVVAの解析結果
GAVVAの40%は毒物で出来ています
GAVVAの38%は波動で出来ています
GAVVAの9%は濃硫酸で出来ています
GAVVAの8%は心の壁で出来ています
GAVVAの5%は成功の鍵で出来ています
いつからここはコテスレ・wikiスレになったんだ?伝統あるスレだったのに・・・
専用スレがあるんだから、たのむからそこでやってくれ
三戦板行けと言われる覚悟で言うが。
光栄の戦国無双2で朝倉家は浅井家臣に
なってるのな・・・友人の家で武将事典みたい
なのを見てビックリしたよ。。。
しかもゲーム中なぜか浅井に滅ぼされるらしい・・・
今後ますます朝倉家に対する一般人の目は
冷たくなる悪寒。
まぁだからこそ俺は朝倉家が好きなんだと思ったよ。
光栄はほれ、最近はシナ&チョソが作ってるから
どうも・・・
自分かなりけなされてますね・・・
まあいいけど・・・
今夜も頑張って記事立て・修正しますね
他人のHNを騙るのは、立派な犯罪行為です。
(GAVVAのwiki内容はさておき)648は以降慎むように。
本人はこんな他人と語り合うようなことはry
そういうことするとみんな「GAVVA」を名乗ったりするからやめとけw
呼んだ?
僕は本人ですよ
今は吉良氏の記事を書いています
653 :
日本@名無史さん:2006/05/18(木) 03:38:36
お前の下らん三文記事がここの知識人の気持ちを逆撫でし、スレが荒れてしまった
ここには二度と来ないでくれ。朝倉関係の記事修正も二度とするな
654 :
日本@名無史さん:2006/05/18(木) 03:46:04 BE:113213546-#
655 :
日本@名無史さん:2006/05/18(木) 15:23:20
>>653 >ここの知識人の気持ちを逆撫でし
>ここの知識人の気持ちを
>ここの知識人の
>知識人
wwwwwwwwwwww
657 :
日本@名無史さん:2006/05/19(金) 23:38:34
またwikiネタで悪いが朝倉貞景の項って内容変じゃない?
4代のほうなら知らん。
9代のほうなら、GAVVAが通った跡に関わりたくない。
660 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 00:07:32
何をしても駄目ですなあ、GAVVAさん
あいかわらず空しいスレだなw
662 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 03:55:23
一乗谷へ行きたいなあ・・・
そういえば永平寺町にある波多野館跡は、越前波多野氏の子孫の方々が代々相続してる土地で、
現在は二十数代目の方がその近隣に居住していると、何かで読んだことあります。
(城跡考だったか城郭体系だったか失念)
波多野氏といえば八上に拠った波多野氏よりも、
「吾妻鏡」に出てくる隻眼の驍将、波多野義重の印象の方が強いっすね。
世間的な波多野氏の知名度は、やっぱ波多野・香西・柳本いわゆる波多野三兄弟の方なんすかね。
柳本ってあれだけ大暴れしたわりには知名度低いな
Wikiも赤リンクのままだし
>>663 波多野は福井県にはそこそこ多い苗字。普通にいる。
世間が思う波多野といえば、丹波の波多野だよな。
666 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 18:10:32
福井県に朝倉姓って多いの?
「俺、越前の元領主の子孫!」
・・・さすがに信長、秀吉、松平の世の中じゃ憚りがあるだろ。
福井市郊外に一軒あるが、
それは代々、藩公認(っていうのか?)の名主だったらしいので、
リアルに子孫ではないかと推定。
668 :
日本@名無史さん:2006/05/23(火) 12:27:42
>福井市郊外に一軒あるが、
>それは代々、藩公認(っていうのか?)の名主だったらしいので、
>リアルに子孫ではないかと推定。
へえ、凄いな。家系図とか古文書あるんだろうなあ。
調査したら新発見があったりして。
鞍谷氏はどうなったのかな?
鞍谷氏って足利義満から出たって言うけれど斯波義敏は奥州から来た
斯波氏の一族だって書いてたと思うんだけど・・・
渦中さんはじめ、えらい人わかりますか?
鞍谷はまだ説が安定していないっす。
ま、多分こうでしょ、という有力なのはあるんだけど・・・
670 :
日本@名無史さん:2006/05/23(火) 18:28:43
斯波家譜ってどこで見れます?
またGAバカが暴れ出したぞ。
お前の手元の資料だけで、全部白黒つけようとするな>GA馬鹿
wikiの系図のことなら僕は何もしてないよ 最近朝倉氏の記事はいじってません
てか、あれ内容が当主の記事と噛み合ってない
暇見て修正するよ
673 :
日本@名無史さん:2006/06/01(木) 17:15:38
朝倉時景の謀叛ってどんなものだったんです?
系図作る奴と当主の記事書いた奴は別なんだからしょうがないだろうに
系図自体はズラっと一族の名前並べられるよりは便利なんだが
あの系図、各記事の内容見て作ってる割に杜撰だわ
ああwikiの話題になるとまた荒れるよ・・・
具体的にどこがおかしいか書けや
修正するから
漠然とブーたれるだけじゃわかんねーよ
それから修正はGAVVA以外の奴に頼みたいんだが、このスレの住人的にはどうだろうか?
貞景は一人っ子。少なくとも他に男児はいなかった。
679 :
日本@名無史さん:2006/06/01(木) 21:39:21
>>677 そんなこと訊くなよ。荒れる元だろ?wiki関連はもういいよ。
じゃあこのスレで「wiki」はNGワードって事でいいか?
682 :
日本@名無史さん:2006/06/01(木) 21:55:22
GAVVAとWIKIは禁止。特にGAVVAはこのスレの住人の知的プライドを逆撫でした
おかげでまともなやつがみんな居なくなった
じゃあもうみんなwikiの話題禁止ね
あとGAVVAは斯波氏とかに引きこもっててくれ
また荒れるから朝倉氏とかにはこないように
でもなあ、知的プライドってなあ・・・
685 :
日本@名無史さん:2006/06/01(木) 22:31:08
>>682 >おかげでまともなやつがみんな居なくなった
ワハハ! お主もまともじゃないのう!俺もだがな!
686 :
日本@名無史さん:2006/06/02(金) 00:46:35
もう一遍お尋ねします。
朝倉時景の謀叛ってどんなものだったんです?
688 :
日本@名無史さん:2006/06/02(金) 17:55:48
wiki、GAVVAがNGというから他の話題を出したのに
そういう言い方は無いだろう?
ぐぐってみてわからないから話題として取り上げたんだよ
どっちにしてもこのスレは荒れるのか?!
理由は不明らしいが、なんか親父ともめたらしいな
まあ単に馬が合わなかっただけだろ、俺もそうだったし
691 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 00:47:21
日本一すごし安い福井県民らしいエピソードだろ?
692 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 17:21:02
朝倉氏って美濃に度々侵攻してるけどどの道を通ったのかな?
徳山谷を通ったの?温見峠を越えたの?
もともと、温見峠越えた現在の岐阜県側は「越前」でした。
694 :
日本@名無史さん:2006/06/05(月) 20:10:25
どのあたりまで「越前」ですか?
越中の日本海味噌の宣伝をこのところdと見ない、健在か?
と思ってAsk.jpでWeb検索したら「穴の谷霊水みそ」がHITした。
無事そうで何よりだ。
697 :
日本@名無史さん:2006/06/06(火) 18:15:48
何ですか?そのローカルな話題は?
;゚д゚)<ゆきちゃんの日本海味噌の話題をここでみるとは
(゚Д゚;エーッ!!毎日食べてます。
699 :
日本@名無史さん:2006/06/07(水) 00:29:13
味噌はやっぱり八丁味噌
日本海味噌は、越中の産物です。(歌詩を思い出せ)
スレ違い。
朝倉氏ってどんな食事取ってたんだろ
義景の時代なんて貴族化してたし、相当贅沢なもの食ってそうなイメージがあるが
702 :
日本@名無史さん:2006/06/07(水) 18:42:07
鮑は絶対食べなかったんだよね
>>702 何か理由があるのかな?
単に個人的に嫌いだったからかな?
705 :
日本@名無史さん:2006/06/07(水) 22:52:29
一族だけでなく谷に住んでる人みんなに強要したのかな?<鮑
強要するまでもない。
「支配者家が禁としてるなら、俺らも食べるのやめとこうぜ」・・・これ普通。禁止するまでもない。
「あーお前らは食べてもいいよ、これ我が家の風習だから」・・・これだったら”優しい君主”
実際、一乗谷発掘調査でからは鮑は見つかっていない(とどこかで読んだ)
一乗谷って内陸の山里ですよね。
もともとそういう環境であわびを食べられるのは非常に限られた人々では?
そうでもないのかな?
いやいや、日本海で獲れた魚貝類を川を上って納めていたらしいよ
話ぶった切ってすみません、皆さんなんで朝倉が好きなんですか?
ちなみに自分も朝倉の端くれですが 親戚一同鮑を食べてるところを見たことが無いです。まあ…偶然でしょうが
愛知県人だけど何故か義景に愛着があるのよ
というか、暗君の代名詞みたいに言われているけど
ちょっと調べるとそうでもないことがわかって好きになった
研究者(松原先生、佐藤先生)の著作が丁度うまい時期に
出たというのも好きになった理由の一つ
一乗谷で食されていたもの
鹿、真鯛、ホウボウ、サザエなど
珍しいところではイルカ、ふぐなどもある
意外にも淡水魚が少なく、海の魚が多い
鮑も出土している
朝倉氏は「優しい君主」だったんだね(はあと)
高志書院『戦国大名朝倉氏と一乗谷』より
一乗谷の武家屋敷の便所跡から鯛の骨が出土したという記事が2、3年前出てましたね。
城下からはアワビも出土してることから、仮に朝倉家がアワビを食べない家訓を守ってたとしても、
それ以外の人々は普通に食べていたと思われます。
他の海産物についてはサザエ、赤ニシ、蛤、鯏、イガイ、真牡蠣の貝類や、
鮫、鱸、鰤、河豚、鰈、鱈、イルカなど様々な食材が一乗谷に運ばれていたようです。
>>670 たしか翻刻はないはずなので、宮内庁書陵部で申請の上、閲覧させてもらってください。
715 :
日本@名無史さん:2006/06/16(金) 16:29:14
貞景は一人っ子(少なくとも他に男児はいない)だったんですよね?
鮑は女性器を表し、不食というのは女人に溺れるな、ということ
これを守らなかった義景は子に恵まれず当代で終焉を迎えた
717 :
日本@名無史さん:2006/06/16(金) 20:46:16
馬鹿言え、5人も子供がいて何が子に恵まれずだよw
718 :
日本@名無史さん:2006/06/16(金) 21:49:54
子宝に恵まれず、とはどこにも書かれていないなw
719 :
日本@名無史さん:2006/06/16(金) 22:14:09
文脈から言うと
子に恵まれず=子宝に恵まれず
の解釈でいいと思う。
仮にそういう解釈はおかしいとしても、阿君や愛王丸、3人の女児が
不器量だったとかいう話は無いので
>>716の子に恵まれずというのは
こじ付けではないか。
>鮑は女性器を表し
去年、某旅館に宿泊したとき
漏れが鮑は食わず嫌いだと仲居さんに言ったら
鮑の膳だけオネーチャンが運んできて
前後はオバチャンだった
人が飯食っている最中に余計な配慮をするんじゃねぃ
想像しちまったじゃねぃかorz
少しネタを。
千利休の師、古渓宗陳。朝倉の一族と言われてますが魚住氏流の説もあります。
722 :
日本@名無史さん:2006/06/19(月) 21:16:47
>>719 義景の年なら子供は20越えた若武者のはずだけど童じゃねー
子に恵まれないってのは色んな意味で通ずるよ
723 :
日本@名無史さん:2006/06/19(月) 21:38:33
>>722 じゃあ義景の父ちゃんの孝景はどうなるw
鮑食っちゃった祟りかえ??
そこで六角義景説ですよ
異端じゃ〜、異端じゃ〜
六角と朝倉って、浅井を挟んで敵対関係にあったんじゃないのか
727 :
日本@名無史さん:2006/06/19(月) 22:16:23
いや六角と同盟して新興勢力である浅井を牽制してた
敵対関係となったのは六角義弼が美濃の斎藤と同盟してから
729 :
日本@名無史さん:2006/06/19(月) 23:58:41
信じてる人もいるんだよなー
>>729 否定する有力な材料もなく、
肯定するこれ以上の材料もない。
所詮負け組。現存するものが少なくて・・・
731 :
日本@名無史さん:2006/06/22(木) 13:43:47
>>728 この人の著書、買おうと思ってアマゾンに注文したけど入手不可の回答が返ってきたよ・・・
733 :
日本@名無史さん:2006/06/23(金) 20:03:11
735 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 18:12:32
さっそく買おう
736 :
日本@名無史さん:2006/07/08(土) 20:00:08
あれ?落ちた?
737 :
日本@名無史さん:2006/07/08(土) 20:00:38
なんだ〜落ちてないやん
738 :
日本@名無史さん:2006/07/17(月) 17:53:07
買ったよ
739 :
日本@名無史さん:2006/07/17(月) 22:04:44
【朝倉景健】
朝倉家中でも屈指の猛将
姉川の戦いを始めほとんどの戦いに従軍した
特に姉川の戦いでは出陣を嫌がる義景に変わって一万の兵を率いる総大将となり徳川勢を苦しめた。
結果的に敗れたとはいえ信長軍にも小谷城に攻め込む余力は残っていなかったのだから
十分援軍の勤めは果たしたといえるだろう。
さらに宇佐山城の戦いでは信長の弟信治と森可成を討ち取り、その後も信長軍を苦しめた
多くの武将が出陣を拒否した近江出陣でも景健は義景に従軍し
刀禰坂で義景が大敗したときも奮戦し義景の危機を救っている
しかしその後義景が自刃したため景健もやむなく降伏、本領を安堵されるが
1574年一向宗が蜂起し、さらに内部では富田長繁の反乱が起こり
進退窮まった景健は一向宗に降伏、翌年首謀者の下間頼照の首を取り二心の無かった事を示すが許されず処刑された
この越前一揆騒動は旧朝倉家臣を粛清するための信長の策略という説もある、使える主君を間違えた悲劇の将であった
猛将
もう夏休みなんだな。
日本史板が「○将」という単語であふれかえる季節。
741 :
日本@名無史さん:2006/07/18(火) 00:11:57
悲劇の愚将 朝倉義景
742 :
日本@名無史さん:2006/07/18(火) 01:28:17
小谷城のふもとの温泉に行ったよ。なかなかよかったよ。
743 :
日本@名無史さん:2006/07/18(火) 01:45:38
朝倉は初期天皇からの血筋だから、朝倉なのかな?
>>739 たまには山崎長門守のことも思い出してあげて
ください。
そういえば織田九朗と森三佐を討ち取ったのは
誰の兵だっけ?
なんかの軍記物で見たような気がするが、気のせい
かな??
あと富田与太郎長繁があの若さにしてあれだけの勢い
(味方)を得ることが出来たのは、なぜでしょうか?
当時の平均寿命を考慮したらありえない若さではない
もののどうもしっくりこないんですよね。
745 :
日本@名無史さん:2006/07/21(金) 08:23:34
>>744 お前のレスの方が流れに対してしっくりこない。
自演するなら他所でやれ。
>>745 ちょっとまってくれ。
おまいが嫌いな奴に俺がレスしたってだけで
自演だと決め付けるのはよしてくれ。
浅井茶々=痴将
748 :
日本@名無史さん:2006/08/10(木) 23:55:35
ん?
群書系図部集収録(6巻148-149貢)の越智系図内に稲葉光通というが居て、
「後母方の姓朝倉東菴弘景ト号。」
と記されています。
稲葉塩塵─良通─貞通─光通─一通
となっています。
関連する事柄をご存じの方居られるでしょうか?
朝倉弘景
751 :
日本@名無史さん:2006/08/28(月) 00:05:42
文筆家だからペンネーム
とも考えられるわけで。
土佐にはちょっと怪しい、傍系の末裔がいましたな。
そーいや居ましたね、友景サン(笑
>>749 稲葉は詳しくないのでアレですが、まず稲葉光通の父が貞通であり、光通の子が一通としてることから
光通は二代臼杵藩主の稲葉典通の変名であることが推測出来ます。
それが正しいかどうかはともかく「寛政譜」などを見ると典通の母は斎藤道三女としてますし、
また貞通の室を見ても織田信秀女、前田玄以女とあるだけですね。
典通の兄弟には光通という人物は見当たりません。念のため典通の兄弟姉妹の母方を見てみると…
典通…斎藤道三女、臼杵藩主
女子…斎藤道三女、赤座弥助室
女子…某氏女、中坊秀政室
秀方…織田信秀女、忠次郎、逐電す
通孝…織田信秀女、修理亮
某……織田信秀女、大学、早世
女子…織田信秀女、織田(三吉)信秀室
女子…織田信秀女、柴田勝豊室
このように母方には朝倉の「あ」の字も出てこないっすね。。。
さて今度は朝倉方を洗ってみましょう。実は関連する記述があるんです。
醍醐水本報恩院「日下部系図」に義景公の妹として
女 妙雲、稻葉酒通室────────弘景 初ハ稻葉喜菴光通後ニ東菴
とあります。しかしこの系図は義景公の弟に愛王丸を挙げてたり、
また上記の記述も他の系図には認められないことから少し注意が必要かも知れません。
一般に知られる義景公の妹としては、始末記系の「日下部氏朝倉系図」に出て来る大野三河守室がおり、
この他には該当ないっすね。そもそも稲葉が朝倉を継ぐ意味合いは薄い気がします。
ちなみに浅羽本「日下部系図」に至っては義景公の兄弟姉妹を伝えてません。
系図以外に傍証が得られる史料がないので、要はヨクワカンネということです(笑
ま、系図の時点で史料とする場合もあるわけで。
>>749 >稲葉塩塵
稲葉エンジン?
755 :
749:2006/08/29(火) 00:16:19
前回の書込にちょっと間違いが
稲葉塩塵─良通─貞通─光通─一通
としていましたが
稲葉塩塵─良通─貞通─典通─光通─一通
でした。
それと同系図に稲葉酒通も登場しています。
稲葉塩塵─一徳─鷃智─家通─酒通
詳しいことは該当箇所を見て貰ったら解ると思いますが、
荒川休也┬女─稲葉家通
└朝倉義景室
という縁戚関係があり、家通は幼少より越前の荒川氏旧宅に蟄居しており、
義景滅亡後、叔母を連れて逃亡し、稲葉良通の援助を受けて若狭に居たそうです。
于時廿余歳。そして信長が滅んだ時に喜んで明智光秀に拝謁したため、良通から
追い出されて紀伊に移ったそうです。
家通(長左衛門。於山城国嵯峨而卒。法名号宗圓居士)
とだけ記されて居り、朝倉氏との縁故は見あたりません。
そして、上記の光通に(為酒通子)と記されています。
可能性としては、家通と共に逃亡した義景室に娘が居て、酒通に嫁いだと云うこと
でしょうね。光通が養子となると、養母の姓を称したと云うことになりますね。
登場人物の年代を整理すると
稲葉良通1515-1589
稲葉典通1566-1626
稲葉光通1590年代?-
稲葉家通1550頃-
稲葉酒通1580頃-
朝倉義景1533-1573
ほう荒川休也の記述が。
義景公の室(近衛氏の前)に荒川休也女と伝える系図は確かに存在します。今度類従本見てみよっと。
情報サンクスですが、朝倉方の情報は残念ながらもう出てこないんじゃないかなぁ(笑
稲葉エンジンはともかく、酒通はないだろ、酒通は・・・。
酒をみきと読む慣習はあったと思うが
みきみちなら、なくもない
みっちゃんみきみち(ry
「酒」の字を使った名前、他に例はあるんですか?
荒川休也という人は朝倉家の家臣か何かだったのですかね?
知らないなあ・・・
>>757 >稲葉エンジンはともかく、酒通はないだろ、酒通は・・・。
”酒”字自体は、特に縁起が悪い(”死”とか”敗”とか)じゃないので名前に使わないとは断言できないと
思いますが。
もっとも私も”酒”が付いた名前の人物とか思い浮かばないけど。
官職名では”造酒正”など使われているので、後世の人が名前と一字取り違えたとかの
可能性もないわけではないと思う。
私がこりゃすごい名前だと思ったのは”松平康安”。ヤスヤスなのかなー。
違う読み方をどっかで見た記憶があるんですが。
>>792 ヤスヤスw あだ名っぽくてかわいいなwww
>>762 大草松平?
数代前に昌安がいるので、ヤスヤスで正解かと。
ま、どうせ普段「読まれる」ことのない名前だし。
スレ違いスマソ
稲葉道通ってのもいたぞ
もちろんミチミチではなかった
767 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 12:29:21
朝倉景茂ってなんと読むんでしょうか?よろしくお願いします
768 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 10:19:02
浅井なんていう、マイナーと一緒だからスレがその2でとまる。
769 :
日本@名無史さん:2006/10/20(金) 02:21:41
過疎過ぎだからあげますよ。
>>767 普通によんだら【かげしげ】じゃない?嘘だったらごめん。
歴史の話を口に出す機会なんて滅多にないから、ルビがよくわからない
人物って多いよなw
>>768 最近はほんとに流れが止まってるな。朝倉氏関連の話は出尽くしたから、
しかたがない気もするが。
かといって浅井は特に語る要素が見当たらないし・・・
そうだ!!若狭武田氏を(ry
770 :
日本@名無史さん:2006/11/03(金) 18:49:25
京極あたりでいいじゃん
773 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 23:00:43
「安芸・若狭武田一族」という本が出るそうだが、朝倉のことも少しは載ってるのかな?
774 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 05:20:48
甲斐氏がいるぞ、甲斐。
朝倉のせいで、完全に埋もれた甲斐氏が。
>>773 もう出てるんじゃね?
こないだアマゾンで見て「お?」って思ってた気がする。
>>774 甲斐氏かぁ・・・そういえば朝倉氏に駆逐されたあとはどうなった?
776 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 17:16:34
朝倉宗滴話紀第五十五条
「人から受けた恩は常に忘れてはならぬ。また、つねに人に恩をしかけるようにつとめるのが良い。
しかし、人に恩をしかけたことを忘れずにいるならば、いつもそのことばかり心に浮かばせ、
前にしかけた恩も無駄になり、人との間は必ず義絶に終わるものである。」
甲斐宗運の甲斐氏はなぜあんな所まで・・・・?
778 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 19:01:49
「越前朝倉一族」新装版 祝・発売!
779 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 19:14:46
>>775 >>777 越前と肥後の甲斐氏っていちおう同族なんだよね?
越前の甲斐氏は以前も書いたけど子孫が中学のクラスにいたよ。
福井県の一番北のあたりだけど。
宇都宮もいたけど、あれはなんだったんだろう。
780 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 19:49:34
浅井氏族は渡来人かな?
781 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 23:57:26
あさって両親と小谷城に行きます。これだけは見ておけという遺構を教えてください。
782 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 09:41:13
>>781 ロープウェイ
を使わないで登山。
あと、近隣の浅井朝倉、織田の出城・構築陣地を見て回るか、
小谷から見て「あーあの山か」とか思うといい。
両陣営の詰め将棋みたいな、息詰まる攻防が見られる。
ってもう遅いか。
>>779 「越前北部の甲斐氏」なら、本物かもね。
肥後、というか日向の甲斐氏は、
越前斯波執事の甲斐氏とは別系統だったかと思います。
越前・・・関東出身。下野の出(佐野?)と言われるがよくわからない。
日向・・・菊池氏の下の三田井氏(この人たちは無名状態でカワイソス)のさらに下
菊池と阿蘇氏の関係から、阿蘇氏に深く関わる事になる。
こんな感じではなかったかと。
>>775 越前北部の領土で抵抗をするが、徐々に駆逐され、
加賀の一向一揆と手を組んで、再三朝倉領に突っ込んできている(九頭竜川とか)
敗者の歴史なので、なかなか資料もないものだけど。
そもそも「斯波の領土、俺たち家臣で守護代になって分けちゃおうぜ」の際には
越前・・・(のしあがった、越前を実力でもぎ取った)朝倉
尾張・・・(実力をつけた)織田
遠江・・・(落ち目だった)甲斐
という分け方をしたはずで。
でも遠江には元々、甲斐の勢力はあまりなく、徐々に駿河今川に圧され、
甲斐氏自体も越前にこだわったため、遠州ではぱっとせず・・・
余談ですけど、甲斐氏の家紋(旗印)は「井」の字だったそうで。
のちに遠州の小豪族出身で、井の字の家紋(旗印)を使う家が、
一人の男の実力でのし上がりますね。
その人もまぁ、たまたま名前も井の字がつくんですが、
幕府や朝廷の覚えも高く、斯波氏の縁戚で遠州含む三ヶ国の守護代だった、
そんな著名な甲斐氏の「権威をも利用した」可能性もありますね。
可能性、ですけどね。
遠州出身のその家を、井伊さんと言うのですけれど。
>>784 肥後の甲斐氏は、菊池氏の出で
鎌倉時代後期に相続争いで敗れ、甲斐に流罪。(ここで名字が菊地から甲斐に)
南北朝時代に、肥後菊地氏に対抗するため、足利氏が呼び戻して肥後に出兵させる
敗れて日向に土着、(伊東氏などの配下になる)
室町時代後期に、相続争いに負けて日向に亡命したきた阿蘇氏を支援して、肥後に復帰させる
その功績で阿蘇氏の重臣にな
最後は、佐々成政に対抗した肥後国衆一揆に参加して滅亡
といわれています。
787 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 10:34:30
「越前朝倉一族」買おうかどうか迷うな。学術的価値のある良書ではあるけど、
「朝倉義景のすべて」と内容が結構被ってるし。できれば義景以前の当主をもう少し
掘り下げて欲しかったところ
788 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 22:16:00
買えばいいと思うよ
789 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 22:25:02
>>785井伊家は藤原姓で、鎌倉御家人ですよ。
つまり、甲斐家や松平家なんかよりも家格はかなり高いわけで…
790 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 22:57:00
甲斐氏っていうのは、阿蘇家に仕えていた甲斐氏とはまったく別?
791 :
麻田:2006/12/20(水) 17:49:37
つまらない質問ですが、摂津麻田藩の3代青木重成や安房北条藩の流れの旗本屋代家等は、
朝倉宣正(宣親)の子供ではないのですか。
>>791 青木重成は朝倉宣親の子であってるはずだよ。
他に関しては知らないや。
知識不足ですまん・・・誰か知らないか?
>>790 別。
肥後甲斐氏は菊池氏の庶家。
鎌倉時代甲斐国にいたから甲斐を名乗るようになった。
794 :
日本@名無史さん:2007/01/09(火) 17:59:36
朝倉に近づいたのが
浅井の滅亡への道
>>789 当時のランキングなら
古い家柄の現地土豪<<<<守護代<守護
でしょ。
796 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 10:16:10
797 :
日本@名無史さん:2007/01/31(水) 08:48:33
歌集が見つかったぞー!
798 :
日本@名無史さん:2007/01/31(水) 10:29:49
青木や青山は在日が多いのでしょうか
800 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 23:56:40
801 :
日本@名無史さん:2007/02/06(火) 18:56:50
義景公の歌集が見つかったのですか???
802 :
日本@名無史さん:2007/02/07(水) 00:41:26
803 :
日本@名無史さん:2007/02/08(木) 00:49:44
大した発見でもないじゃん
群書類従で既出だし
それより新発見の宴会中の武田信玄像が気になる
佐々生光林坊→香林坊ネタ(福井新聞)とどっちがマシなんだろ…
805 :
日本@名無史さん:2007/02/08(木) 22:58:00
佐藤圭氏はああいうお顔だったのか!
>>61 大友・大内の場合は、何代も前から、「義」の字を拝領しています。
もちろんそれ相応の献上品あってのことですが。
(大友義右・義長・義鑑・義鎮・義統)
室町時代初期には、通字ではない下の字「氏」等をもらっていますが、
勢力や財力が安定して、なおかつ幕府の威信が低下してくると、「義」の
字も与えられています。
だから、朝倉義景の「義」の字が将軍家から与えられたのも、それほど不自然じゃありません。
807 :
日本@名無史さん:2007/02/11(日) 01:51:41
age
>>791 「寛政重修諸家譜」によると、
青木重成(摂津麻田藩三代藩主)
駿河大納言忠長家臣朝倉越後守宣親(宣正長男)の子。父が早世した為、外祖父の小浜藩主酒井忠勝に養われ、後青木重兼の養子となる。「諸家譜」の朝倉家の項では宣成の名で記載があり、養子に行くまで三百俵の旗本であったようだ。
屋代忠興(安房北条藩二代藩主)
朝倉宣正の四男で屋代忠正の養子となる。先代死去後、襲封するが急死。
屋代忠位(安房北条藩三代藩主)
朝倉宣季(宣正三男)の長男で、忠興の甥。万石騒動の不手際で改易されるも、先祖の勲功により旗本として復活。
>>791 「寛政重修諸家譜」によると、
青木重成(摂津麻田藩三代藩主)
駿河大納言忠長家臣朝倉越後守宣親(宣正長男)の子。父が早世した為、外祖父の小浜藩主酒井忠勝に養われ、後青木重兼の養子となる。「諸家譜」の朝倉家の項では宣成の名で記載があり、養子に行くまで三百俵の旗本であったようだ。
屋代忠興(安房北条藩二代藩主)
朝倉宣正の四男で屋代忠正の養子となる。先代死去後、襲封するが急死。
屋代忠位(安房北条藩三代藩主)
朝倉宣季(宣正三男)の長男で、忠興の甥。先代危篤の際、急遽養子となり襲封。万石騒動の不手際で改易されるも、先祖の勲功により旗本として復活。
>>791 「寛政重修諸家譜」によると、
青木重成(摂津麻田藩三代藩主)
駿河大納言忠長家臣朝倉越後守宣親(宣正長男)の子。父が早世した為、外祖父の小浜藩主酒井忠勝に養われ、後青木重兼の養子となる。「諸家譜」の朝倉家の項では宣成の名で記載があり、養子に行くまで三百俵の旗本であったようだ。
屋代忠興(安房北条藩二代藩主)
朝倉宣正の四男で屋代忠正の養子となる。先代死去後、襲封するが急死。
屋代忠位(安房北条藩三代藩主)
朝倉宣季(宣正三男)の長男で、忠興の甥。先代危篤の際、急遽養子となり襲封。万石騒動の不手際で改易されるも、先祖の勲功により旗本として復活。
>>791 「寛政重修諸家譜」によると、
青木重成(摂津麻田藩三代藩主)
駿河大納言忠長家臣朝倉越後守宣親(宣正長男)の子。父が早世した為、外祖父の小浜藩主酒井忠勝に養われ、後青木重兼の養子となる。「諸家譜」の朝倉家の項では宣成の名で記載があり、養子に行くまで三百俵の旗本であったようだ。
屋代忠興(安房北条藩二代藩主)
朝倉宣正の四男で屋代忠正の養子となる。先代死去後、襲封するが急死。
屋代忠位(安房北条藩三代藩主)
朝倉宣季(宣正三男)の長男で、忠興の甥。先代危篤の際、急遽養子となり襲封。万石騒動の不手際で改易されるも、先祖の勲功により旗本として復活。
808-811です。誤って重複させてしまいました。平にご容赦の程をorz
麻田の青木氏はその後、宇和島伊達から養子が入っています。
>>813 土人の家系にな手しまったか。いと哀れ。
いやそもそも、朝倉宣正が越前朝倉の家系かどうかはぁゃιぃのである。
>>813 九代青木一貫だね。ただ正室は養父の一新の娘で、次の一貞は二人の間の子なので血統的には女系だけど続いている。その後青木家は十三代藩主の時に奥平家から養子を迎えるが十四代重義は十一代重竜の実子なので、幕末まで青木(=朝倉)の血は残したと言っていいだろう。
>>815 宣正の話は、
>>730の六角義景説同様に否定も肯定もできないんじゃないかな?
景高の動向も証如上人日記位しか分からないし。九州のどこに落ち着いたとか、その後の西国での生活を示す史料があればいいのだが。
浅井長政の子孫が、大分県国東にいるそうだ。
いくらかの供養料名目の農地をもらったりして、
現在まで続いているみたいだ。
それは余計にぁゃιぃだろ
819 :
日本@名無史さん:2007/03/12(月) 02:20:42
「花の乱」時専放送中なんだな。
820 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 23:43:14
孝景はかっこいい。
822 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 01:51:00
宣正の話のついでに。今までのレスを読み返すと宣正は景高の孫というのが定説になっている。
だが、「系図纂要」や「寛永諸家譜(=寛政重修諸家譜)」では、ひ孫にあたるようだ。
景高 右衛門大夫、1495−没年不詳
|
(初代)在重 彌六郎、河内守
越前より駿河国安倍郡柿島に住す、生没年不詳
|
(二代)在重 彌六郎、六兵衛尉、在宣・宣守とも
徳川家康・中村一氏に仕える、1545?−1615
|
_______|
| |
| |
| 宣正 藤十郎、筑後守、掛川二万六千石
| 徳川忠長の付家老として仕える、1573−1637
|
(三代)在重 仁左衛門、石見守
江戸町奉行を務める、1583?−1650
※?にしているのは没年の年月日と年令しか記載がなく、そこから単純に逆算したためで生年はその前後年。
景高の生年はwiki参照
自分としては、ひ孫説のほうが正しいのではないか、と感じている。
今までの景高ー在重ー宣正だと在重は景高の50の時の子供になり、年令的に疑問である。
また、寛永家譜はまだ宣正がまだ付家老をやっていた頃の作成であろうし、宣正改易後も弟の石見守など旗本として残った朝倉家もある。
当然そこから幕府へ資料を提出しているはずで、そこで編纂された系図の方が信憑性はあると思われる。
>>822 ・北条のとこにいた朝倉氏
・伊勢にいた朝倉氏(別氏族)
という説もこのスレ過去にある。
824 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 23:47:34
>>823 ここでもまとめで既出だったり、wikiの子孫に出ている説ですね?
後北条氏に仕えた朝倉政元に関する寛政重修諸家譜の中に興味深い記述を見つけましたので、載せておきます。
秀 景 孫三郎、三郎左衛門、朝倉弾正左衛門尉敏景が二男。
| 足利義政に仕え、しばしば戦功あり。法名宗運。
|
|
玄 景 孫太郎、右衛門尉
| 伯父朝倉孫右衛門尉氏景と不和のことあり、これによりて越前国をさりて駿河国にゆき、今川治部大輔氏親に属す。
| 法名宗観。
|
政 景 因幡守
|
|
政 元 北条氏政、豊臣秀次に仕える。徳川家康に拝謁の後、はじめ紀伊頼房に付けられその後水戸頼房に仕える。
|
|
政 明 旗本五百石。
注目して欲しいのは、玄景のところである。景高同様当主と揉めて、越前から落ち延びている。
そして、その落ち着き先が駿河の今川ということである。
もしこれが事実ならば、景高もその前例がある話は知っていた可能性がある。
最初は本願寺証如や若狭武田氏の言われるがままに九州へ落ちようとしたが、縁の無い土地に行く位なら玄景を頼って駿河に行った可能性は十分ある。
そのうち甲斐武田の駿河侵攻で、政景系は後北条家に仕え、景高系はそのまま駿河柿島に土着し後徳川家康に仕えたのではないだろうか?
確かに、朝倉孫三郎秀景なる人物が現段階での朝倉系図に見られないようなので今後の解明が待たれるが、景高と駿河を結びつける手掛かりにはなる話だろう。
ちなみに政明の死後、後継断絶により一旦改易となるも、青山忠俊の斡旋で政明の姉の子豊明を養子にして復活し、後に千石取りの旗本になっている。
但し、家紋は三ツ木瓜よりもむしろ丸に三笹を使っていたようであるが。
825 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 00:04:38
826 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 18:33:51
越前府中の者だが中国人が増えて困っている。
松下の工場が雇っているようだ。即刻、解雇できないなら越前から撤退しろ。
中国人を雇う企業など越前府中に必要ない。
827 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 17:07:02
「越前朝倉一族」
旧版持ってるんだが新装版買うべき?
どの程度加筆訂正してあるんだろう
828 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 17:40:51
福井はバカだな
829 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 22:23:12
原発で暮らしてる連中だから。
讃岐高松松平讃岐守家中に朝倉十左衛門と云う人がいるようですが、
どの家系の方なのでしょうか。
常陸下館で召抱えと云うことですが。
去年の夏に京都から松任の実家にチャリで帰省しました。
道中の武生で観光しようと思い街中にへ。
自転車がパンクして修理屋をさがしていると鈴木自転車店を発見。
修理を待っている間に近所の寺を見学。朝倉孝影に所縁があるらしかった。
鈴木自転車店に戻り、お幾らですかと聞くと、4000円と言われた。
ただのパンク修理なのに。福井は金に汚いガメツイ人ばかりなのですか?
>>831 福井では、それだけ自転車が貴重品だってことだよ。
仙台じゃ同じ修理頼むとその場で現金払いできないほどの請求をされたことがあるから4000円くらいたいしたことないな。
鈴木自転車店は確かに存在するようですね。
834 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 01:35:20
シャレにならない糞田舎 それが福井 心が醜く金に汚い
事前に修理代金の見積もりもせず、事後に明細の確認もしない
netでしか文句が言えないチキンが粘着しているスレはここですか?
真照寺のことかな…。
4000円もとられる奴がアホ。
837 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 01:29:50
松任は石川か。
838 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 05:07:15
チューブ交換すればそれぐらいいく。
貧乏人は旅行するな。
つーか、チャリで旅行するのにパンクの修理キットも持ってないってどういうことよ。
840 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 19:38:26
加賀モンが怨みの書き込みか。
福井関連スレはどこも糞ですな
842 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 20:26:45
将来的に見ると、朝倉氏遺跡は日本最大の戦国テーマパークになるかもな。
843 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 22:43:48
石川県人の粘着うざい
844 :
京都人:2007/05/04(金) 09:21:17
一乗谷には、有力一族・家臣の屋敷がなくて、世間で思われているほど
家臣団の移住が進んでなかったという話を聞いたんだが。
実際のところどうだったの?
846 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 20:43:24
加賀モンが福井を馬鹿にして喜んでるだけだろ。
847 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 23:34:06
パンク修理に四千円ねぇ...
ここの住人には既出かもしれませんが、
京都の壬生郷士の八木家は朝倉義景末裔を自称しているそうですね。
ちょっとぱらぱらと立ち読みした八木家の現当主が書いた本に書かれていた。
福井をアホにすると許さんでな
福井のパンク修理の適正価格についての話題>>越え難い壁>>朝倉・浅井の話題
851 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 20:49:39
越前は大国やざ!!!
アホにすると許さんでな!!!!
852 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 21:45:04
ほやほや!福井は歴史あるでな!
853 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 23:04:23
加賀モンがスレを潰したな
シベリア寒気団長を呼んでくるぞ。
855 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 20:17:09
浅井・朝倉スレなのに朝倉ばっかだな。
朝倉なんて5代しか続かなかったし、
福井を代表する有名人てわけでもないだろ。
浅井のことも語れよ。
856 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 09:56:47
越前は大国やざ!
857 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 18:29:51
858 :
日本@名無史さん:2007/05/23(水) 16:14:43
浅井って何代よ?
859 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 00:43:43
福井をアホにすると許さんでな
おめーら福井の恥、曝すなって。
一条谷の朝倉遺跡でも行ってきねや。
でも、朝倉義景と浅井長政って、親子くらいに年離れて
たんかな?
それにしても、朝倉はウンコやわ。
某ゲームでもめっちゃウザいもん。
浅井・朝倉より、福井やったら柴田勝家とお市やろ。
まぁ、浅井長政はお市の最初の旦那やけどさ。
861 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 01:46:15
ほしゅあげ
862 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 21:44:56
ここで越前自慢しとっけのぉ〜
863 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 21:22:45
ほやほや!
864 :
信長:2007/06/09(土) 03:10:59
とりあえずドクロの杯にでもなってろや
865 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 04:39:48
まだそんな余汰話、信じてるのか?
866 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 06:35:19
越前くらげ
朝倉義景はアホでバカ しかも間抜け
868 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 01:27:33
はよ越前自慢やろっさ!
869 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 17:08:11
北近江の守護京極氏は浅井氏によって領地を追われたけれど、
浅井長政の姉が京極氏に嫁ぎ、
浅井長政の次女おはつ(母はお市)が京極高次に嫁いでいる。
浅井氏の姻戚関係ってどうなっていたのかな?
長政とお市はあまりに有名だけれど。
>>869 追われたのではなくて祭り上げられたんじゃなかった?
871 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 16:24:14
ここは越前自慢のスレやでな
872 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 17:45:17
>870
祭り上げられた?
京極氏は、室町幕府から命じられた北近江の守護だったはずだけど。
ちがうの?
織田家に於ける斯波家と同様に
名目だけ主家で実権ナシ。
>>872 >>873さんの御説明通り。
守護のような偉い人だから「祭り上げる」わけだよ。
「祭り上げる」というのは大人の世界では今も使われているよ。
875 :
日本@名無史さん:2007/06/18(月) 08:25:29
浅井氏はいつから北近江の実質的な
権力者になったの?
大人用語の「祭り上げる」は
最初から形式上上に立ってた者には
使わない気もするけどね
朝倉義景の舅である鞍谷氏の始祖に関して足利義嗣説と斯波義廉説があり
最近では後者が有力と聞きました。ところが元々義嗣流の鞍谷家があって
そこに斯波氏が養子に入ったという説もあります(wikiその他)。
この養子説にはとても信用出来ないレベルであっても何か史料的裏付けが
あるのでしょうか?それとも両説を融合するための全く根拠のない折衷説
なんでしょうか?
決定付いてない説を、決定項のように書いているwikipediaが悪い。
説がいくつかあるなら、優劣つけずに併記すべき。
879 :
土橋信鏡の子孫?:2007/07/06(金) 14:22:21
土橋信鏡が使っていた家紋って何でしょうか?
もしくは土橋信鏡の子孫と名乗っている人たちの家紋は何でしょうか?
知ってる人はいませんか?
もしかすると、うちは土橋信鏡の子孫かもしれません。
もし近畿圏で土橋氏なら、
一揆勢力の有名人の土橋氏のほうが可能性はあると思いますな。
882 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 18:02:11
朝倉義景は
戦国1の過少評価武将だな
883 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 21:13:50
884 :
日本@名無史さん:2007/07/20(金) 22:54:49
日本システムバンク
885 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 00:16:05
数年前笑っていいともに浅井長政の子孫の方が出ていたことがあったけど、数百年の間隔があるにもかかわらず長政公の画像に雰囲気が非常に似ていたのには驚くというより感動した。タモリさんや観客の方たちもその点で非常に驚いているようであった。
886 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 00:24:45
>>885 どんな画像だったん?
長政って本当はデブだったんでしょ?
887 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 01:46:47
子孫の方は長政公と違って太ってはいなかったがよく似ていました。
デブといっても多分堅肥りだろうからものすごく強いぞあれ
889 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 17:22:33
どの系統で子孫が残ってるんだよ
890 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 22:13:58
長政の従兄の甥の嫁の祖父の兄の孫の従妹の子の祖父の他人
>>889 家光以降の徳川家はれっきとした浅井の子孫ですが
誰か一人ぐらい浅井家再興してくれてもよかったのに
って無理かw
そりゃあ家継で絶えてるわけだし。
織田勢に負けたあたりで謀反の印を押され、生き残ってる自体が異例なので遺族としても浅井復興なんて恐れ多くて出来んだろうよ
895 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 10:50:30
しかし長政の評価は異常。
三女が秀忠に嫁いだおかげで、
タダのデブが美少年(イケメン扱い)、あの時代はあれが良かったのか?
朝倉の従属大名でしかなく、終始朝倉の足をひっぱったのに、
逆の扱い(姉川織田軍11段破りとかの偽造)
家臣団に裏切られまくりの無能大名なのに、
(元々担がれたのもあるが)
なぜか義を重んじる忠義の男扱い。
長政は戦国時代一番の過大評価大名だ。
896 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 12:29:49
淀やお江与は一大名としての浅井家を再興させようと思わなかったのかね。
>>895 己は信念を貫き妻と子を無事逃がさせたところに美を感じるんじゃなかろうか?
898 :
日本@名無史さん:2007/08/17(金) 00:17:54
ポイント@天下人織田信長公の妹が嫁ぐ
Aその妹お市の方は、絶世の美女
B娘は名門京極家・天下サル秀吉・天下人徳川家康の息子である征夷大将軍に嫁ぐ
↑これらがなければ、義に生きた将とか悲劇の名君とかの"伝説"も生まれない。
波多野家並の雑魚扱いだろ。
899 :
日本@名無史さん:2007/08/17(金) 00:34:55
>>897 >己は信念を貫き妻と子を無事逃がさせたところに美を感じるんじゃなかろうか?
と言う風に偽造された、と追加を入れないとw
第一長政がつらぬいた信念って何よ?w
900 :
日本@名無史さん:2007/08/17(金) 01:37:50
長政ってよく、楠木正成に比類されるけど、
な ん で や ね ん。
>>899 久政に説得されてだけど代々続いてきた朝倉への恩義を裏切ることはしなかったでしょ?
902 :
日本@名無史さん:2007/08/17(金) 10:19:37
>>895 長政はデブという記述も、朝倉の足を引っ張ったという記述も無いがな。
ていうか、家臣団が裏切るなんて戦国時代において日常茶飯事なんだが?
姉川の11段破りも誇張とされるが、偽造と証するに足る文書ものこっとらんしな。
その辺りどうよ?知ったか夏厨よ。
903 :
日本@名無史さん:2007/08/17(金) 12:15:16
>知ったか夏厨よ。
自己紹介乙です。
904 :
日本@名無史さん:2007/08/17(金) 12:29:31
>>902 長政は肖像画やらなんやらデブばっかり。
記述でも大男として書いてあるはず。
(当時はもしかしたら、そういう大男(デブ)がもてたのかも知れないけど)
>家臣団が裏切るなんて戦国時代において日常茶飯事なんだが?
負け戦や敗戦濃厚の場合なら仕方ない(誰でもそうだろう)
けど長政の場合は戦闘中に
家臣団の武功一番の磯野に裏切られるってこれどうよ?
しかも磯野がさんざん援軍要請してるの無視して
磯野の母親をぶち殺すって人間かよw
義を重んじるヤツが家臣の母親殺すのかよ・・
>姉川の11段破りも誇張とされるが、偽造と証するに足る文書ものこっとらんしな
それを言うなら「本当にやったという証拠がない」だろ
ウソだという証拠がないなんて、そんな言い方ならなんだってOKだぞw
で最後、朝倉の足を引っ張ってないとあるが
最後の最後、朝倉滅亡のきっかけとなる
刀根坂の敗戦、これを作ったのは
いったいどこの誰の軍だよw
援軍頼んでおいて裏切るなんて・・
誰の裏切りのせいで朝倉軍が撤退したかわかってるのか?
コーエー房はこれだからw
つまらんスレだな
906 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 00:28:26
信長妹を、のちに秀吉と勝家で奪い合わなければ、
娘がたまたま徳川に嫁いでなければ、
ここまで評価されなかった。
せいぜい丹波の波多野並の扱い
これにはものすごく同意。
つかそこまでも評価されないんじゃない?
907 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 18:28:22
長政は謀反さえしてなきゃ方面軍団長任されてたのはほぼ確実
近畿方面担当かな
908 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 22:22:33
長政は・・・。
野良田の戦いで勝っただけ・・かもしれないし。
於市が嫁いだ時期は斉藤が一番の敵だった時代だし・・・。
長政の器量はほとんど関係なく、浅井の力>>>>>長政の評価の時期かもね。
信長も身内の嫁に認めるくらいだからそこそこ評価高かったんじゃないか>長政
910 :
日本@名無史さん:2007/08/22(水) 19:39:31
美濃遠藤にすら、身内を嫁に出してるぞ。
911 :
日本@名無史さん:2007/08/22(水) 22:50:24
>>909 長政と市の婚儀のときに、
本来なら嫁を貰う側が物を持っていくしきたりなのに、
喜びの余り動転して、嫁を送り出す信長が物を持って行った位だからね。
浅井が貧乏だから用意できなかった
913 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 10:05:01
>>912 アホだろ、当時の近江は日本最大級の穀倉地帯だぜ?
914 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 10:11:30
>>911 そんなことして結局離反されるって信長ってよほど人の心を読むのが下手なんだなw
北条氏政みたい
長政があそこで裏切らず、一緒に朝倉を滅ぼしてたら、当然優遇されるんだろう
けど、家康と被るよね。どうなったんだろうか。
917 :
日本@名無史さん:2007/09/13(木) 21:28:29
途中までは、
朝倉、浅井、諸仏教などの連合軍のほうが
圧倒的に優勢だったんだよ。
918 :
日本@名無史さん:2007/09/17(月) 21:03:58
>>909 長政の人物よりも、北近江という場所だよ。
信長の目的はなんといっても京を奪うことだったから、
その通り道になる近江はぜひとも手中にしたかった。
隣国美濃は舅斎藤道三の国だったはずだが、
謀反の息子に渡ったため自力で滅ぼさねばならなかったが、
浅井が妹婿になって、戦なしに京へ通してくれるならありがたい。
ほかの連中が京へ攻め込もうとしたとき、
少なくとも近江に関しては、浅井が通せんぼをしてくれれば、
信長にとってはなおさらありがたい。
婚姻によって北近江通過権を手に入れたと合点した信長は、
自分の天下が近づいたと思い、うれしかったのだろう。
>>917 いくら優勢でも肝心な時に朝倉が”雪降って寒いからお家に帰る”w
なんで帰しちゃったんだろうな
あのバカをひっつかまえて監禁しとけばよかった
あとは景鏡あたりが指揮をとればいい
だが朝倉の気持ちもわかる、日本海側は世界でも有数の豪雪地帯
戦で出張ってる最中に雪で本国との交通が遮断されたらたまらない。
922 :
日本@名無史さん:2007/09/20(木) 00:34:00
義景が頑張ろうと思っても部下がへたれちゃったんだろね
逆だな
あれで家臣みんなの心が完全に離れた
戦続けてたら続けてたで離れてたと思うけど
信玄シカトしても大丈夫なだけの余力があるなら別だが
あそこで帰って何の利があるのかとみんな思ったろうよ
でも頑張って戦ってたら本国への道がシャットダウンされてたわけで
そんなことになったら武将クラスはともかく雑兵クラスの統制なんて取れなくなる
武田に声かけられた時点で八方塞がりになってた希ガス
謙信も勝家も冬は雪で動けなかった
朝倉義景が謙信や勝家以上の猛将じゃなかったから
と言って誰が責められようか?
まあ朝倉は素直に織田に臣従しとけ
でも中途半端に名家だからそれも出来ないw
信玄軍がいる限り、越前になんて簡単に手を出せない
兵力分散させられて、信長はどうしようにも身動きとれなくなってるんだから
義景が自分の首と胴が薄皮一枚で繋がってる状態だと自覚していれば
兵卒に混乱が起こる事を踏まえてでも踏ん張らなければいけなかった
その織田が四方八方に兵力を分散させてるときですら
虎御前山を抜けなかったんだが、浅井朝倉もうダメポ。
>>928 朝倉にどうやったら正解なんてねーよ
何をやってもどう立ち回っても絶対潰れる
存在自体が不正解
>>919 イマドキこんなこというの、信玄厨しかいねーぞ。
932 :
日本@名無史さん:2007/10/09(火) 02:18:36
しんげんくんって、
2万程度でなにがしたかったの?
わきめもふらずに京都突入?
933 :
日本@名無史さん:2007/10/12(金) 05:16:33
約束破って、期日守らず、
結果として朝倉を滅ぼした張本人。
その名は信玄。
934 :
日本@名無史さん:2007/10/13(土) 18:56:19
≫932
信玄西上戦は将軍義昭の檄によるもの
で仏敵信長征伐の意味合いが強い。
徹底的に家康との戦闘さけてたしな
935 :
日本@名無史さん:2007/10/14(日) 15:28:31
越前は大国やでな! 越前自慢やろっさ!
936 :
日本@名無史さん:2007/10/14(日) 19:24:21
明智光秀は軍師になりたいと思って
朝倉に仕えていたの?
朝倉に取り入れられた理由が良くわからん
937 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 01:00:00
仕えちゃいないと思う。
あくまで義秋お供の客人。
>>937 仕えてるよ。
光秀が朝倉義景に仕えるのは義昭とは全く関係ない。
光秀の母方が若狭武田家だったからだよ。
その後越前で、光秀は義昭に出会うことになる。
939 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 02:19:56
義景は、一門系から支持が薄かったし、
一門が陰湿な殴り合いしてるし、
本家の直轄勢力が小さいし。
なので、外からでもどんどん登用して、
自分の勢力拡大と、
相対的に一門それぞれの影響力低下を狙ってたんでしょ。
吸収したばっかりなの若狭武田を(直轄の)支配下にするにも好都合だし。
そんな全国に名前を轟かせる朝倉の当主と、
京都、つーか天下に名前を売りたい、
夢見る流浪の光秀とは、利害が一致するよね。
940 :
七騎:2007/10/31(水) 20:56:05
駿河柿島名主の朝倉六兵衛河内守在重の菩提寺は
長妻田(旧柿島村村域)の曹源寺で、
ちなみに三男の六兵衛景年は、紀州頼宣の
御旗奉行衆使番として700石の禄を食んだそうです。
941 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 04:45:18
駿河大納言とこの朝倉は、
越前とは別系統かも知れない。
詳しくは過去ログ参照。
942 :
南蔵:2007/12/10(月) 00:46:05
南越前町(今庄)湯尾にある、長慶寺(真宗出雲路派)の住職が
一族の子孫らしいです。
今庄町史にも出ている話ですが、その中で、
・景恒が金ヶ崎を落ちる途中に宅良慈眼寺に寄って今庄に居ついた
→永平寺にて落ちて、没する
・景恒の子(孫)に道景をつっている(系図が載っている)
→道景は道郷の孫
とあるので、眉唾以外の何者でもないですが。。。
旧・今庄町
長慶寺
慈眼寺
毫摂寺(越前市清水頭町、出雲路派の本山)
と、滅亡後の一族との繋がりがあれば教えてください。
943 :
日本@名無史さん:2007/12/10(月) 19:32:30
子孫であるなら、
後の支配者(柴田、福井藩)から
なんらかの認定があるはず。
944 :
松平越前守慶民→松平宮司永芳:2007/12/10(月) 23:03:15
認知はむずいと思いますよ
945 :
日本@名無史さん:2007/12/11(火) 15:27:24
同時代史料に出てこない以上、信憑性は低い。
勝家の実子ではなく、
柴田一族(勝家には姉と妹がいたことがわかっている)
の末裔ならいるかもしれないが。
946 :
日本@名無史さん:2007/12/12(水) 18:53:52
年内にその3に移行すると思っていたが難しいようだね
947 :
日本@名無史さん:2007/12/14(金) 15:44:32
要は朝倉ネムが当主になって、朝倉家を動かせばよかったんだな!?
駿河の朝倉の話はこのスレでも散々既出じゃね?
949 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 02:13:54
駿河の朝倉?
950 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 18:58:59
「浅井氏三代」読んだ?
阪神の浅井、中日の朝倉について語ろう
プロ野球板へどうぞ。
953 :
日本@名無史さん:2008/04/11(金) 01:45:33
写真家の浅井について話そう
954 :
日本@名無史さん:2008/04/17(木) 12:02:28
浅井備前<<<<<<<<<遠藤直経
音夢
956 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 10:49:25
957 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 23:07:45
越前は大国やでな
958 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 23:51:54
ほやのー
959 :
日本@名無史さん:2008/06/02(月) 21:02:55
朝倉総理
960 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 01:47:03
クソスレ
熱田神宮で真柄の大太刀を見たのですが、捏造の匂いがしました。
新ネタを持ってきました。
義景末裔情報。
江戸時代京極宮家に仕えた朝倉為央という人物が義景六代末葉を称する。
1687年生。従六位下左衛門少尉。
1687年-1533年=154年/6代=1代25.6年
となるので蓋然性は有。ただし、息子の朝倉恭景が病の為、辞官位記返上と
なっているので子孫は伝わらず。
出典:地下家伝
963 :
962:2008/07/14(月) 13:31:05
しかし冷静に考えて
これだけ日本各地にたくさん子孫を名乗るやつが出ているってことは、
それなりに優秀だったとしか考えられんね。
ちょっと間違えばこんな評価もあったのかも
(事実を元にした妄想ね)
戦においては連戦連勝、本願寺撃滅(加賀平定)、若狭武田の諜略等、頭脳外交も手腕を発揮。
最大にして最強の敵信長にも連戦連勝負け無し。
義景の進行を止めることができたのは帝のみ。
愚将にして弱小の浅井家すらも助けるほど(わざわざ遠征軍を率いてまで)の義に厚い大名
信長包囲網も解釈を強引に変えれば←ココかなり妄想
本願寺、武田信玄等、信長には勝てないと悟った負け犬軍団を面倒見る懐の広さ。
又は本願寺、武田、等も自分たちより上と認める器量の大きさ。
そして戦乱の世に日の本一の都市を作り上げる経済的、政治的手腕。
誰かが小説で書いていればこういう評価も十分にあったかも
当然だが妄想全快なので異論は認めるw
力がものを言う戦国時代において強大な兵力を擁しながら
他国に侵略することなく自国内を平和に治め繁栄させた
敵対する織田信長の息の根を止めることもできたが天皇の命を守って和睦
最後は圧倒的な力をつけた織田軍の数の力にねじ伏せられるも
膝を屈する事なく命を散らす
こんな感じか
一瞬だけど、京都を軍事制圧しているんだよ。
「天下」という感覚がなかったんだろうな。
三好長慶とかと一緒で、さ。
まあ平和で豊かな領地があるのに
戦乱で苦しむ他国にちょっかい出して
面倒見てやろうなんて気が起きないのも当然だわなw
968 :
日本@名無史さん:2008/08/13(水) 20:34:02
>>966 でも将軍家とは敵対していたから天下とれなかったと。
969 :
日本@名無史さん:2008/08/14(木) 03:25:19
将軍なんか廃止。
この発想が、
常識人三好朝倉と、狂人織田との違い。
朝井と浅倉
971 :
日本@名無史さん:2008/09/09(火) 01:15:13
浅井長政の子孫はいるのかえ?
972 :
日本@名無史さん:2008/09/10(水) 04:12:02
長政の子孫は、女系でなら、、、
一応親戚筋(三好)と、多分遠い親戚なんじゃないかなぁ、って家(尾張浅井)が、
幕臣として残っている。
つか直系に近いのが残っていれば、秀忠の時代に取り立てらてれるはずだよ。
それがいないもので、、、
973 :
日本@名無史さん:2008/09/16(火) 22:36:20
age
vb
976 :
日本@名無史さん:2008/09/19(金) 03:56:45
あ「ざ」い?
あざい
あまご
おおども
かもう
978 :
日本@名無史さん:2008/09/19(金) 19:37:55
近江の三雲一族のその後が知りたい
979 :
日本@名無史さん:2008/09/20(土) 01:03:34
980 :
日本@名無史さん:2008/09/20(土) 03:06:06
age
981 :
日本@名無史さん:2008/09/20(土) 03:20:56
982 :
日本@名無史さん:2008/09/20(土) 11:51:56
age
983 :
日本@名無史さん:2008/09/20(土) 20:40:58
「朝倉義景」「浅井氏三代」は読んでるよね?
浅倉南
989 :
日本@名無史さん:2008/09/21(日) 19:36:40
age
990 :
日本@名無史さん:2008/09/21(日) 21:56:51
次スレ立てますか?
いらないと思うに一票
992 :
日本@名無史さん:2008/09/21(日) 22:52:27
993 :
日本@名無史さん:2008/09/21(日) 22:54:29
994 :
日本@名無史さん:2008/09/21(日) 23:37:05
無料学習ゲームサイト”ソレ★スタ”
URL : soresuta.jp
もしくはgoogleから”ソレスタ ゲーム”で検索
995 :
日本@名無史さん:2008/09/21(日) 23:41:12
996 :
日本@名無史さん:2008/09/21(日) 23:43:08
997 :
日本@名無史さん:2008/09/21(日) 23:44:19
998 :
日本@名無史さん:2008/09/21(日) 23:45:50
999 :
日本@名無史さん:2008/09/21(日) 23:48:01
unko大名
1001 :
1001:
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。