『朝倉家伝記』が『夜話』のアンチョコになってると見ていいのかな?
245 :
238:2009/11/10(火) 21:01:09
>>244 『朝倉家伝記』は朝倉家中の仏事法事向け、『朝倉宗滴話記』は戦時訓と成立の背景が
違うと思いますので、どの程度関連性があるかは、自分としては判断しかねるところです・・・。
すみません。
246 :
238:2009/11/10(火) 21:26:54
以降の宗滴の行跡も『朝倉家伝記』にて追って行きますと、
「宗滴為師奉行若州囲逸見城、一戦ノ後帰陣ス」
若狭逸見城包囲戦に出陣
「宗滴為師奉行攻丹後高橋城、一戦ノ後以扱破城二ヶ所ノ儀ハ武田ヘ為合力也」
武田元信に助勢のため丹後高橋城を攻略
「宗滴為師奉行為六角合力ノ江州北郡浅井小谷ノ城攻之、浅井以扱出城、越兵帰陣也」
六角定頼に助勢のため、近江小谷城を攻め浅井亮政と交戦
247 :
238:2009/11/10(火) 21:37:00
「宗滴師奉行トシテ為細川道永合力入洛、柳本ヲ六条ノ法花堂ニ囲ム
於善勝寺口与三好四国衆大戦」
細川高国に助勢のため京都入り、柳本賢治を六条法花堂に包囲、四国の三好氏らと交戦
「宗滴為師奉行乱入賀国、敵大ニ討死」
加賀に攻め入り大勝
と、宗敵は上記の合戦に全て”師奉行”として出陣、このことから朝倉家中軍事面で
かなりの重責を担っていた事が分かります。
248 :
238:2009/11/12(木) 21:35:11
その他、宗滴の軍事活動を示す文献として、
『古今消息集』『徳川美術館所蔵文書』に収録されている斉藤道三や長井秀元の
書状に、「朝倉太郎左衛門」の名でその活動が記されています。
これは天文十三年(1544)、朝倉氏が美濃に出兵して斉藤氏と戦った時のもので、
この合戦にも何らかの形で宗滴が関わっていた事が伺えます。
さて、同時代の宗滴評ですが、まず参考となる史料としては、『月舟和尚語録』があります。
桂室永昌(宗滴の実母)の永正十七年(1520)の法事の際、建仁寺の月舟寿桂による
香語(弔辞)の中に、
「大姉遂に家事を以って李子教景に付す。教景克く家を起こし、名四海に馳す。
文を好み、武を好み、仏法に金湯たり。天資より出ずといえども、且つ家訓に由る」
との記載があり、桂室永昌の訓督によって、教景という優れた将が生まれた事を賞賛しています。
250 :
238:2009/11/12(木) 21:55:10
ただこれは、桂室永昌を褒めるための引き合いに出されただけとも考えられますのでw
少々割り引いて読む必要があるかとも思います。
しかし、実母の功績を顕彰する為に教景(宗滴)の名を出しているという事自体は、
ある程度注目して良いかも知れません。
反応ないとつまらんかもしれんのでカキコ
読んでるぞー
252 :
238:2009/11/14(土) 15:21:36
>>251 ありがとうございます。今後もボチボチ書いていきますので、宜しくお願いします。
253 :
238:2009/11/14(土) 15:35:34
朝倉家以外の同時代史料としては、『羽賀寺年中行事』という文献があります。
これは若狭の羽賀寺が周辺に起こった出来事を書き留めていった文書で、その中の、
天文二十一年(1552)に発生した若狭武田氏の内紛の顛末に、宗滴が絡んでたという
記録があります。
武田氏の一族で、朝倉氏とも縁戚関係にある武田信孝が、主君の武田元光、信豊親子に
反旗を翻した事件で、この時、朝倉宗滴、景紀父子が信孝を説得して反乱を思いとどまらせた
という事柄が記載されています。
(このことから、朝倉家の対外問題、交渉等にも宗滴が関与していた事が分かります。)
この『羽賀寺年中行事』の中に、宗滴評として、
「金吾は今昨雨軒宗滴と号す。軍篇宝鑑の人なり。自国、他国共に名を後世に
揚げられるべしと万人褒美せられ了んぬ」
と記されています。
武家外史料(寺院史料)且つ同時代史料にここまで明確な人物評が載っていることは珍しく、
宗滴が、晩年には近隣諸国でも朝倉家の驍将として名を馳せていた事がよく分かる記述と
なっています。
255 :
238:2009/11/16(月) 23:01:42
最後に、宗滴の朝倉家中でのポジションを示す史料を引用してみようと思います。
朝倉義景は出羽の大宝寺氏と修交を結んで、使者を派遣し軍馬の供給を求めましたが、
この時、使者の案内と道中警護を越後平林城主、色部勝長に依頼しました。
お礼として、朝倉氏は色部勝長に太刀等を送ったのですが、『古案記録草案』に、
その際したためられた宗滴の添え状が残っています。
この中で宗滴は、「路次番於自然之儀者、御入魂可為祝着候」と、勝長の使者取り次ぎに
感謝の意を表しています。
256 :
238:2009/11/16(月) 23:12:47
さてその文中、宗滴は、
「孫次郎事、若者候条、向後馬・鷹之儀、路次等可然様ニ御指南仰候」
(今後も使者を派遣する上に於いて、孫次郎(義景)は若輩者なので色々ご指導頂きたい。)
と、色部勝長にお願いしています。
身内のことをへりくだって言うのは当たり前ですが、主君の義景の事を他国の武将に
「若輩者だからご指導ご鞭撻のほど宜しく」と言い切るあたり、宗滴が朝倉家中で義景を支え、
後見的立場にいた事を良く示す史料として注目すべきものとなっています。
257 :
238:2009/11/16(月) 23:37:10
この他、宗滴が対外的に交渉を行っていた記録としては、
足利義晴側近で室町幕府内談衆の大館晴光が、朝倉氏に送った書状
『越前へ書札案文』の中に、天文十年(1541)付けで「朝倉太郎左衛門尉」(宗滴)に宛てた
手紙があり、宗滴が中央政界とも繋がりを持ち、朝倉家中で一定の重きをなしていたという
傍証にもなっています。
以上、同時代史料や近時代史料の引用から、朝倉宗滴の事跡はある程度明らかで、
『宗滴話記』やTVゲーム『信長の野望』wなどから、一般的に流通している宗滴像
「貞景、孝景、義景の三代に仕えた朝倉氏の重鎮で、同氏の合戦を数多く指揮し、
また、他国との交渉も担い、近隣諸国からも一目置かれていた名将」
というイメージを概ね裏打ちするものとなっています。
『宗滴話記』の真偽に関わらず、朝倉宗滴の人物像はそれほど修正を必要とする事はないと
思われます。
259 :
238:2009/11/19(木) 20:35:31
蛇足ですが、『朝倉宗滴話記』についても若干の考察をば。
この『宗滴話記』には多くの異本があり、それぞれ内容が少しづつ違っています。
その中でも、
『宗滴夜話』『宗滴雑談』(いずれも加越能文庫)
『宗滴雑談萩原覚書』(聖藩文庫)
さらには、『宗滴話記』と類似点が多く見られる、前田利家語録『国祖遺言』と、
出典を辿れば、いずれも加賀前田家との関係が非常に深いことが分かります。
260 :
238:2009/11/19(木) 20:52:34
これは、朝倉氏滅亡後の遺臣達が、数多く前田家に再伺候し、朝倉家関連の
史料を伝えた事にも関係がありそうです。
朝倉家遺臣で、加賀前田家に仕えた主な家臣たちを列挙します。()内は前田家内での禄高です。
鷹栖刑部明宗(五百五十石)
↑一説には、朝倉宗滴の直子と伝わる。
萩原彦兵衛(三十石)
↑朝倉景乙の子
261 :
238:2009/11/19(木) 21:03:11
萩原八兵衛(六百石鑓奉行)
↑前田利長の児小姓向弥八郎の後見
堀江源太兵衛景乗(末森城合戦で討死)
↑朝倉景紀の三男
向七兵衛長治(二百五十石)
↑朝倉家臣三段崎氏の一族
などなど、この他にも多くの朝倉一族が前田家に仕えているようです。
262 :
238:2009/11/19(木) 21:06:02
『朝倉宗滴話記』の真偽はともかく、彼ら朝倉氏遺臣に、故国の名将としての
朝倉宗滴の遺訓が、何らかの形で伝わっていたのではないか、という事は
考えられると思います。
263 :
238:2009/11/19(木) 21:25:28
以上、朝倉宗滴に関して、同時代&近時代史料を中心に事跡と評価を書き出してみました。
福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館編纂の古文書調査資料、
『朝倉氏五代の発給文書』
『朝倉氏の家訓』
『古文書が語る朝倉氏の歴史』
等を出典にさせていただきました。
特に『朝倉氏の家訓』は宗滴の事跡に詳しく、『朝倉宗滴話記』の全文も掲載されています。
少々お値段は張りますが、現地に行かれて興味のある方は、購入を検討されては如何でしょうか。
長々と拙文、大変失礼しました。
おつ!
おつかれ!
>>255-256 ここが個人的には非常に興味深かった。
大宝寺氏と連絡を取るのに色部勝長を選んでいるのが面白い。
1551年か1552年頃の話なんかな?
対外的に当時本荘一族を代表したのは勝長だったんだなぁと実感できたよ。
266 :
238:2009/11/21(土) 12:08:54
>>264 >>265 ありがとうございます。
大宝寺氏へ使者を送った時期ははっきりとは分かってないのですが、書状から
朝倉義景が改名前でまだ延景と名乗っていた頃と判明しています。
義景が家督を継いだのが天文十七年(1548)、足利義輝に偏諱を貰って義景に改名したのが
天文二十一年(1552)なので、この期間内の出来事と思われます。
ちなみにその書状が、今のところ「宗滴」という出家後の号の初出のようです。
1540年代前半までは、宗滴のことを「太郎左衛門」とか「教景」とか記している史料ばかりなので、
宗滴が出家したのは1540年代後半と推定されているようです。
267 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 10:25:19
age
268 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 16:55:49
269 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 23:54:12
京都大学総合博物館所蔵で、朝倉家の仏事に使われたと思われる『朝倉家伝記』があります。
(各人が戒名で記載され、俗名が注記になっているため、法事等に使用されたものと推定)
各所に「至永禄十二己巳何年也」と書かれていることから、永禄十二年(1569)に編纂された
ものと思われます。
>>>>>>>>>
永禄12年編纂という意味じゃないだろ。
後世に編纂した人物が、永禄12年ごろ、あるいはそれ以前の話しを書いたという意味だろ。
こういう、後から出てくる史料のほとんどが、後世の偽作です。
師奉行とは、中国の三国志にあるように、出師表などからの影響でしょうね。
日本では、まったく使われない表現ですね。師(=軍隊のこと)
三国志の影響受けまくりの江戸末期の絵本太閤記みたいなもんでしょうね。
その博物館も明治になってできてるから、誰から買ったのでしょうか?
270 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 00:15:44
朝倉家録にしろ、朝倉始末記にしろ、その朝倉家伝記なるものにしろ、
記述内容が、ほとんど似ていますね。。。。。。。。
まったく別の史料なら、記述に大きな相違や独自記述がないとおかしいのだが。
相互参照できる異本みたいな状態の時点で、どちらかが、マネしたとしか。
271 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 00:49:04
四国衆大戦>>>
まず、四国という用語自体、江戸時代中期以降の名前ですよ?当時は、南海道ですけど。
南海治乱記って、知ってますか?
なので、三好を四国衆と呼ぶなどありえません。信長公記にも、ありません。
大戦>>徳川実紀に出てる用語ですね。これも、江戸末期です。
第1次世界大戦とか、使いますね。
WIKIPEDIAや一部ブログなどに、新発見の同時代史料などと言って、
朝倉始末記の記述を全否定していますね。
272 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 01:29:14
新発見の史料に飛び付いて、既存の史料価値を否定する構図は、
武功夜話そのもの。
ちなみに、朝倉家録にも、宗滴夜話、というのがあるな。
徳川家康の岩淵夜話を、ぱくったものだろ。
『朝倉家伝記』は偽作としても、その他の資料については?
『羽賀寺年中行事』とか、『古案記録草案』も偽作なの?
274 :
238:2010/01/17(日) 14:39:29
>>268 ご意見ありがとうございます。
史料は十分検証されなくてはいけないと思いますので、
『朝倉家伝記』に関するご指摘尤も。
機会がありましたら資料館等に質問してみたいと思います。
275 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 18:41:00
武功夜話偽書説も、文中に登場する用語のおかしさを指摘した。
紙が古い、文体が古いだの、は、あまりアテにならない。
著者不明。成立年不明。来歴原蔵者不明。
こんなモノを真っ当に、信じるほうが、おかしい。
朝倉始末記、朝倉家録(朝倉記)を否定するために出現したのが、
朝倉家伝記なら、後世の偽作だろう。
記述内容が被ること自体おかしい。
桶狭間の合戦でも、信長公記、大久保の三河物語、いずれも記述内容が違う。
それぞれの視点で、独自の記述内容だ。
ゆえに、信用できる。
276 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 19:09:42
古案記録草案って、上杉の史料集みたいだが、写ししかないヤツですよね?
歴代古案が原本不明の写しばかりで、朱書きなどの改ざんたっぷりの状況から見て
あまり信用できないな。
とにかく、書状は原本がない時点で、自筆署名、自筆花押の本人確認ができない。
277 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 05:53:02
>>254 諡号 金吾 >>WIKIPEDIAより。
死後に贈られる呼称なのに、生前評なんですか?
後世に名前を成す、という表現も、死んだ人みたいだけど。
羽賀寺年中行事って、元禄頃に作成になってるけど。
同時代史料として、中央の公家・武家・寺社の日記はないの?
朝倉宗滴は、一向一揆を打倒などしていない。
加賀国金沢御坊健在→信長軍によって、1580年本願寺退去以降に攻略。
越前国一向一揆→朝倉滅亡・織田代官設置後に蜂起!越前一揆持ちの国に。
朝倉家の主要人物という以外は、これといった確たる事跡は何もないな。
当然、信長を評したとか、インチキ。
279 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 23:24:13
subて誰?
280 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 03:22:32
宗滴は何も確かな功績がない。
ageしながら改行してる変な人が騒いでるけど朝倉爺さんは同時代の書状で
色部とかと交渉したりしてる
>>268 >最近、某資料館から発行された本だし。
こんなこと言ったら信長公記も疑わないとな
>>271 当時から四国は四国
信長公記にはない?そりゃ残念だ
他ならぬ信長の書状で四国征伐軍編成の時に「四国の儀」と
書かれているんだけどな
信長さんは未来の言語でも使ったんかい
>>240 軍鑑が偽書なんて言ってるのはまずいないぞ
誰が偽書なんて言ってるんだ?
四国という用語についてだけ。
”四国の辺地というは伊予、讃岐、阿波、土佐の海辺の廻りなり” 『今昔物語集』
”我等が修行せし様は―衣は何時となく潮垂れて四国の辺地をぞ常に踏む”
『梁塵秘抄』=後白河法皇
”但馬、丹後、因幡、伯耆、出雲、石見、山陽、南海、西海、四国の者は不参。”
『源平盛衰記』巻28
室町初期、細川家の四国支配に関して、”四国管領”
『後愚昧記』応安四年四月一日条
普及の度合いはともかく、言葉自体はあったと思われ。
大戦という言葉遣いについて。
漢籍で、
”楚又復益発兵而襲秦、至藍田、大戦、楚大敗”
『史記』巻七十
”三軍之衆、有分有合、爲大戰之法”
『尉繚子』勒卒令第十八
本朝では
”果与天皇大戦”
『日本書紀』巻第三
”両陣相戦交鋒、大戦自午至酉”
『陸奥話記』
”大戦流血期三月”
『民経記』天福元年五月二日条
これも使われた例はある。 ”大いに戦う”とか読み下せばそれほど奇異な表現ではないと思われ。
「金吾」とは衛門府の唐名で宗滴生前の通称だから、諡号というWikiの表現がおかしい。
>>277 「羽賀寺年中行事」は天文元年(1532)から第四代住持台芸が書き始めたもので、
それを歴代住職が書き継いでいったもの。
全57枚中のうち、元禄期には表紙と奥付8枚が補われただけで、あとはそれ以前の史料。
小浜市教育委員会のWebにも載ってるけど。
ちなみに「羽賀寺年中行事」は東京大学史学編纂所にも写真帳として収められている。
287 :
日本@名無史さん:2010/03/21(日) 18:50:36
age
>>277 ”名を後世に揚げられるべしと万人褒美せられ了んぬ”
古文で「べし」は、未来(推量)の助動詞だから現代文に訳せば
「名を後世に残すだろうと万人に褒められている」
普通に同時代評だろ
宗滴の、直筆花押入りの書状なら上杉家文書に残ってるな。
上杉家文書に
’就中庵主御時、別而承候キ、其巳後無音失本意候、向後不相替可申通心中ニ候’
「先代為景公のときは連絡取り合ってたけどその後通信が絶えてしまったのは不本意、
また誼を結びたい」
っていう、長尾平三(上杉謙信)宛ての宗滴直筆の花押付き書状がある。
まあ普通に朝倉家の外交交渉は担っていたんだろう。
291 :
日本@名無史さん:2010/06/16(水) 13:34:47
保守
>>271 「四国」という表現が江戸中期以降って・・・・
またとんでもない珍説言い出したな
293 :
日本@名無史さん:
四国が江戸中期以降ってどこの資料に載ってたんだ