【征夷大将軍】坂上田村麻呂【清水寺】

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1日本@名無史さん
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)
758〜811
平安時代の武将で797年に初の征夷大将軍に任命されたり、以外と知られてないが798年に京都清水寺を建立したり、各地に伝説、伝承を残した坂上田村麻呂や時代背景を語ろう。
玄人好みな田村麻呂
2日本@名無史さん:04/10/20 04:57:45
2げと

田村麿なら白鳥伝説も有名だよね。
3日本@名無史さん:04/10/20 10:31:13
この人鬼退治をした人だよね?
あまりよく知らないんだけど参考になる本ないか?
4日本@名無史さん:04/10/21 22:07:34
たぶん悪路王、阿弖流韋ブーム来るから
5日本@名無史さん:04/10/22 20:29:38
こいつのおかげで日本はチョソ北民族を支配下におさめ関わりをもってしまった。
これが日本史上最大の過ち。そのせいで日本が被った害は計り知れない。

6日本@名無史さん:04/10/24 13:26:01
小説だが

高橋克彦 著『火怨』 講談社文庫

を嫁
7日本@名無史さん:04/10/24 13:40:44
>>5
具体的に東北のせいで被った害って何よ?
8日本@名無史さん:04/10/25 08:35:13
このひとの家紋、坂上神社や清水寺の社紋なんかある?
9日本@名無史さん:04/10/25 08:38:39
アテルイが投降したのは彼の人物を信頼してのことだったらしい
決して侵略者ではないですよ
10日本@名無史さん:04/10/25 22:03:04
日本語おかしいぞw
11日本@名無史さん:04/11/01 18:11:28
田村麻呂もアテルイを
12日本@名無史さん:04/11/03 09:38:07
麻呂の正式な名乗り?ってなんだったの?
教えて、詳しい人。
13日本@名無史さん:04/11/03 13:51:40
坂上二郎
14日本@名無史さん:04/11/03 15:51:34
現代のアメリカが移民人を米軍兵に使用するがごとく
渡来系の坂上タンも、ある意味朝廷の被害者なのですよアーメソ。
15日本@名無史さん:04/11/07 16:57:48
坂上田村麿って何したん?
16日本@名無史さん:04/11/07 17:14:28
>>14
東漢氏が渡来したのは5世紀頃だろ。
田村麻呂の時代まで300年以上たってるだろ。
17日本@名無史さん:04/11/08 03:43:46
田村麻呂を大河ドラマ化してくれ。
18日本@名無史さん:04/11/08 03:57:43
>>17
田村麻呂を小説化しないと。
19日本@名無史さん:04/11/08 04:00:19
坂上田村麻呂はチョン
20日本@名無史さん:04/11/08 05:01:21
>>19
君の先祖もチョソだよ。
21日本@名無史さん:04/11/08 05:07:54
中国では古代の偉人の子孫を自称する家系があるけど。
日本では田村麻呂の子孫はどうなったんだ?
22日本@名無史さん:04/11/08 05:13:47
蕃別に含まれるいわゆる渡来系ってのは
朝廷内で上位につけたのか?
23日本@名無史さん:04/11/08 09:40:39
長身で赤髪で碧眼という伝承は・・・
24日本@名無史さん:04/11/08 10:01:32
>>23
アラビア系の血を引いていたってなんかで読んだ気が・・
2524:04/11/08 10:20:18
ごめん、ペルシャ系の間違いだった。
26日本@名無史さん:04/11/08 20:48:01
この人にまつわる話って何がある?
27日本@名無史さん:04/11/12 03:57:32
坂上最強
28日本@名無史さん:04/11/12 07:39:50
>>21
坂上二郎
29日本@名無史さん:04/11/12 07:43:38
まて、おまいら

>初の征夷大将軍に任命されたり

ここになぜ誰もつっこみをいれないんだ?
30新山三春:04/11/12 09:49:31
>26
郷土玩具 三春駒の由来は
この人の遠征もとになってる。
31めご姫:04/11/12 10:02:27
>21
政宗の正室をだして、後には伊達一門に吸収された
三春の田村家は
坂上田村麻呂の末裔と称しているからこそ田村を名乗ってる
32日本@名無史さん:04/11/12 11:39:59

初の征夷大将軍は大伴弟麻呂だぁね
学校では坂上田村麻呂で習った気もする
今はどうなんだろ
33日本@名無史さん:04/11/16 21:36:55
坂上田村麻呂と習いました
34日本@名無史さん:04/11/21 20:53:59
>>32
どうだろね。神武天皇を初代の「天皇」というのはおかしいって主張と
似たようなものなのだろうか。
35日本@名無史さん:04/11/22 19:55:35
てか田村ちゃんが初代なんじゃないの?
征東将軍かなんかの名称が征夷大将軍に変わって初が田村ちゃんと学習したがどうなんだ?
36日本@名無史さん:04/11/23 22:14:11
私も初代は田村麻呂って習ったよ。
37日本@名無史さん:04/11/24 04:46:50
何が正しいんだろうな
38日本@名無史さん:04/11/24 05:01:26
一生懸命なお前らは正しい。
39日本@名無史さん:04/11/24 05:08:13
田村麻呂の母ちゃんは蝦夷だよ。
40日本@名無史さん:04/11/24 05:22:48
>>39
うそ!?
41日本@名無史さん:04/11/24 12:21:13
蝦夷に勝てなかった大伴弟麻呂を初代と教えるのには
気が引けたんじゃないかな・・・

征東大使に叙任(任命?)されて現地に派遣され、結局目的を達せずに
帰京するわけだけど、まさか散々やられましたと上奏出来るはずもなく、
「戦勝」を適当に取り繕った結果「征夷大将軍」と称されたんでしょ。
行くときには大将軍として節刀を拝した訳じゃなさそうなので、
初代と規定するのには問題あるかも。
42日本@名無史さん:04/11/24 13:02:11
田村麻呂は蝦夷を見方に付けただけ賢かったんだろうなw
43日本@名無史さん:04/11/24 15:19:38
アテルイを監査方か何かにしたかったんだろうな。
当時の絵とかないんかな?
44日本@名無史さん:04/11/24 15:39:54
金の権益のためにはアテルイの存在は障壁になるだろう。
45日本@名無史さん:04/12/02 16:49:12
坂上田村麻呂=日本武尊の出来損ないってイメージなんだが。
46日本@名無史さん:04/12/08 17:02:10
この人全然メジャーじゃないから調べても粗筋がわからん。
征夷はわかるが進軍しただけ?戦は?
この人の時代を知りたいのにいまいちわからん時代だな。
47日本@名無史さん:04/12/08 17:32:51
この人の先祖は後漢の霊帝だそうだが、なんでまたそんな暗君を持ってくるかな?
少しはマシな桓帝や有名な武帝のがいいのに。
48_:04/12/08 20:21:51
この人、右大臣までなったんだよ。
実力で、這い上がったんだからたいしたもんだ。
49日本@名無史さん:04/12/08 22:00:54
この人の時代はどんな出来事が?
50日本@名無史さん:04/12/10 19:07:31
おじいちゃんは犬養だっけか?
51日本@名無史さん:04/12/11 05:34:19
坂上田村麻呂の家紋って何?尾長巴?三光?
52日本@名無史さん:04/12/11 18:53:07
天地人 坂上田村麻呂
53ダンの花:04/12/12 03:09:22
民神板から移ってきました。

スサノオ→ヤマトタケルっていう文化英雄の系譜をひいているよね。
以下の事は思いつきで書いているんで、眉唾で読んでくださいな。

記紀伝説との相違は、前代が天皇に準じる存在の親征という形をとったのに対して、臣下の一武将の遠征に変わっていることと
ヤマトタケルが常陸風土記では井戸を掘るなどして地名起源説話を残しているのに対し、田村麻呂も井戸に関する地名期限説話を残しているけれど、目立つのは各地で寺社の縁起譚を残しているということ。

これは律令制国家の確立と関係があるんだろう。
官僚制度が整い天皇自らが親征する必要が無くなったことと、朝廷の権威として仏教の勢力が増してきたことが田村麻呂の伝説を作り上げたんだと思う。

この後、仏教の権威は朝廷から離れ、弘法大師をはじめとする名僧の放浪譚が生まれてくる。
田村麻呂の亡くなった弘仁2年(811)から5年後の弘仁7年(816)に弘法大師空海は高野山を下賜されている。
武力、信仰、権力、といったものが未だ未分化だった上代から、それぞれ立場を明らかにしだす古代へと時代は移りだしている。
古い秩序に変わる新しい秩序が見え始めている。
私は上代から古代へと移る過渡期に生まれた英雄として田村麻呂を評価できると考えている。

中央と周辺、権力なんて視線を交えながら文章にしたら面白いものが出来そうな気がするけど、どうなんだろなー
54日本@名無史さん:04/12/12 08:53:08
多少時代は違うが田村麻呂と空海を小説の主人公にしても面白いよね。ゲームで例えたらFF8みたいな感じWWW
実際は関係無いんだろうが妄想で。
空海については良くしらないんだが794〜803年と806〜809年に行方をくらましてるよね?
794〜803年の田村麻呂はアテルイを降伏させたり清水寺建立したとされる時期、806〜809年は平城天皇即位〜嵯峨天皇即位の期間だね。
二人に唯一共通しそうなのは薬子の乱くらいだな。
空海は鎮護国家のための大祈祷を行なってるし。
ともかく小説じゃないが宮沢賢治の原体剣舞連はすばらしい。
55日本@名無史さん:04/12/12 08:57:31
うちの地元には幾つか伝説があるんだがある町には『坂上神社』『清水大師』2つともある。
坂上神社は式内社で多治速比売神社に合祀されて今はない。
清水大師はいわゆる弘法井戸。
詳しい人いない?
56日本@名無史さん:04/12/16 13:27:55
火怨ってどうなん?
俺は著者の主観が入りすぎてて気持ち悪かった。
なんか近年の新選組の美化と同じ感じ。
57日本@名無史さん:04/12/17 21:00:08
どちらも伝統文化が「恨」のあの民族によるものだね。
58日本@名無史さん:04/12/18 11:37:51
>>48
>右大臣までなったんだよ...
武官が右大臣を拝命することはありえないだろ。
59日本@名無史さん:04/12/20 10:51:04
正三位・大納言・右近衛大将・兵部卿 (死後従二位)

右大臣ってのは初耳
60日本@名無史さん:04/12/20 20:18:35
>>21
坂上おじゃる丸
61日本@名無史さん:04/12/21 09:24:12
もっかい調べたら右大臣じゃなかったわ。スマソ
62日本@名無史さん:04/12/29 16:20:06
おじゃる丸は田村一家に居候してるんだよな。
63日本@名無史さん:04/12/29 16:57:07
田村麻呂神社が遠征地の東北地方に散在するのは、理解できるが
近江甲賀の土山町にあるのはどうしてなんだろ。本貫でもないのに。
http://www.biwako-visitors.jp/search/spot_feature_186.html
64日本@名無史さん:04/12/31 01:20:26
御神紋がわかればルーツがわかる。
東北の神社仏閣も半分以上は伝説化されて建てられたものだし御祭神も御神紋もバラバラ。
うちも従3位下だったかな?坂上社の産土地(氏地)だが田村麻呂縁の地とはかけ離れてる。
65日本@名無史さん:04/12/31 01:44:52
>>63
そうだねぇ。
蒲生氏とかは「俵藤太の子孫」と名乗ってたしね。
66日本@名無史さん:05/01/09 18:49:56
スペシャル大河で大化改新が出来るなら薬子の変を作ってほしい。
恒武天皇の経歴をさらっと触れて崩御から本編みたいな感じで。
何年かしてから大河ドラマ田村麻呂をぜひ。
67日本@名無史さん:05/01/09 19:07:48
>>66
田村麻呂は、阿弖流為を都へ同道役で大河取上げ済ですが。
蝦夷の阿弖流為たんはエロカワイイ
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1077350710/l50
68日本@名無史さん:05/01/17 01:53:56
日本のキングアーサーだな
69日本@名無史さん:05/01/26 10:18:32
あげ
70日本@名無史さん:05/01/31 09:13:06
摂津平野郷の豪族の末吉氏などは、田村麻呂の次男で平野の領主となった坂上広野の子孫。
田村麻呂の娘で桓武帝の後宮だった春子も晩年は広野を頼って平野に住み、長宝寺を開く。
71日本@名無史さん:05/02/02 14:48:23
あげ
72日本@名無史さん:05/02/06 00:43:53
>>70
出展を教えてもらえないでしょうか?
摂津平野郷というのは現在のどこにあたりますか?
73日本@名無史さん:05/02/23 02:20:33
やっぱ、トルコ系の血を引いていただけあって、強いよな。
74日本@名無史さん:05/02/25 12:30:42
>>66
杉本苑子の「檀林皇后私譜」が原作候補だな。
75日本@名無史さん:05/02/25 14:50:06
>>74
いや、NHKなら永井路子「王朝序曲」になるだろう。
76日本@名無史さん:05/03/05 05:05:06
結局なにがいいんだろう?
サヨビリーバーを打ち砕ける原作は
77日本@名無史さん:05/03/05 05:41:11
>>72
大阪市平野区だよ。
坂上氏関係の史跡や菩提寺、墓がけっこう残っている。
78日本@名無史さん:05/03/05 05:43:33
79日本@名無史さん:05/03/13 12:53:49
あげ
80日本@名無史さん:2005/03/22(火) 02:25:03
あげ
81日本@名無史さん:2005/03/29(火) 09:35:45
この人の評価低すぎ。
もっと評価されてもいいんじゃね?
82日本@名無史さん:2005/04/08(金) 04:18:11
鈴鹿御前(;´Д`)ハァハァ
83日本@名無史さん:2005/04/08(金) 16:25:54
嫡流の子孫は坂上氏か田村氏か
84日本@名無史さん:2005/04/08(金) 16:47:00
元祖侵略者
略奪暴行もしたに違いない
後の世のアジア侵略のように
85日本@名無史さん:2005/04/08(金) 18:25:26
元祖は阿倍比羅夫じゃね?
86日本@名無史さん:2005/04/08(金) 20:18:25
海老比羅夫

次どうぞ
87日本@名無史さん:2005/04/09(土) 21:51:09
>>84
侵略ってアテルイビリーバーに洗脳されすぎ
88日本@名無史さん:2005/05/04(水) 03:44:56
阿倍ピラフって、なんか、うまそうだよね
89日本@名無史さん:2005/05/04(水) 04:17:21
>>83
田村氏は田村麻呂の子孫ではない。
坂上氏以外では、田村麻呂の次男の坂上広野の子孫がいる。
広野は摂津平野(現・大阪市平野区)の領主となり「平野殿」と呼ばれ、子孫は、本家以外は平野を苗字にする。
子孫の平野氏から、末吉氏を筆頭に坂上七家が生まれている。
宗家の坂上氏は、明治まで続いていたらしい。墓は杭全神社近くの坂上氏の菩提寺にある。
90日本@名無史さん:2005/05/08(日) 04:23:44
坂上田村麻呂と坂上おじゃる丸の関係を教えてくれるかのー?
月光町はいいとこでおじゃるー♪
91日本@名無史さん:2005/05/12(木) 02:33:54
>>90
だれか答えてやれ
92日本@名無史さん:2005/05/12(木) 04:03:42
おじゃる丸は摂関家クラスの人物のように表現されているけど、
坂上田村麻呂の出自では、やんごとなき人には絶対になれないね。
93日本@名無史さん:2005/05/12(木) 06:15:25
>92
なるほどの〜!ありがとうでおじゃる〜♪
94日本@名無史さん:2005/05/12(木) 06:35:33
武官あがりが殿上人になれた時代は、100年前にオhル罠。
9594:2005/05/12(木) 06:38:29
とはいっても、大納言(正三位)にまで出世してた。
96日本@名無史さん:2005/05/12(木) 07:50:07
歴代の征夷大将軍
順番(幕府内) 人名 在職年 備考
1 大伴弟麻呂 793-794?
2 坂上田村麻呂 797-811?
- 文屋綿麻呂 811 征夷将軍
- 藤原忠文 940 征東大将軍だが、異伝あり
3 源義仲 1184
4 (1) 源頼朝 1192-1199 1195年辞任の説あり
5 (2) 源頼家 1202-1203
6 (3) 源実朝 1203-1219 兼内大臣
7 (4) 藤原(九条)頼経 1226-1244 摂家(藤原)将軍
8 (5) 藤原(九条)頼嗣 1244-1252
9 (6) 宗尊親王 1252-1266 皇族将軍
10 (7) 惟康親王 1266-1289
11 (8) 久明親王 1289-1308
12 (9) 守邦親王 1308-1333
13 護良親王 1333
14 成良親王 1335-1336
15 (1) 足利尊氏 (高氏→尊氏) 1338-1358
16 (2) 足利義詮 1358-1367
17 (3) 足利義満 1367-1394 兼左大臣 退任後太政大臣 没後贈太上法皇
18 (4) 足利義持 1394-1423
19 (5) 足利義量 1423-1425
20 (6) 足利義教 1429-1441
97日本@名無史さん:2005/05/12(木) 07:50:45
21 (7) 足利義勝 1442-1443
22 (8) 足利義政 (義成→義政) 1449-1473
23 (9) 足利義尚 1473-1489
24 (10) 足利義材 (義材→義尹→義稙) 1490-1493
25 (11) 足利義澄 1494-1508
26 (10) 足利義稙 (義材→義尹→義稙) 1508-1521 再任
27 (12) 足利義晴 1521-1546
28 (13) 足利義輝 (義藤→義輝) 1546-1565
29 (14) 足利義栄 1568
30 (15) 足利義昭 (義秋→義昭) 1568-1573
31 (1) 徳川家康 1603-1605
32 (2) 徳川秀忠 1605-1623
33 (3) 徳川家光 1623-1651
34 (4) 徳川家綱 1651-1680
35 (5) 徳川綱吉 1680-1709
36 (6) 徳川家宣 1709-1712
37 (7) 徳川家継 1712-1716
38 (8) 徳川吉宗 1716-1745
39 (9) 徳川家重 1745-1760
40 (10) 徳川家治 1760-1786
41 (11) 徳川家斉 1787-1837
42 (12) 徳川家慶 1837-1853
43 (13) 徳川家定 (家祥→家定) 1853-1858
44 (14) 徳川家茂 1858-1866
45 (15) 徳川慶喜 1866-1867 兼内大臣

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
98日本@名無史さん:2005/05/12(木) 09:29:58
坂上田村麻呂は東国出身だろ?
99日本@名無史さん:2005/05/12(木) 22:41:48
>>98 そんなデムパなε=┏(; ̄▽ ̄)┛
100日本@名無史さん:2005/05/25(水) 03:58:41
大伴弟麻呂は征蝦大将軍じゃなくて征東将軍じゃないか?
101日本@名無史さん:2005/05/25(水) 12:13:45
その後征夷大将軍になったよ
102日本@名無史さん:2005/05/25(水) 18:35:22
征蝦大将軍の呼び名は田村麻呂からであってるよ。
103日本@名無史さん:2005/05/25(水) 19:17:17
神亀年間の藤原宇合とかは?
104日本@名無史さん:2005/05/31(火) 13:40:25
田村氏は系図上は坂上田村麻呂の家系じゃないの?
105日本@名無史さん:2005/06/06(月) 20:41:35
田村麻呂と空海の接点について誰か詳細を細かく詳しく
106日本@名無史さん:2005/06/08(水) 19:45:42
空海は蝦夷大嫌いだったから...蝦夷は目がカラスのようだと異族あつかいでした。
107日本@名無史さん:2005/06/10(金) 17:54:29
空海は東国への密教の弘布を、田村麻呂と同時期に陸奥に入った徳一に
依頼してる。田村麻呂の紹介かも。
108日本@名無史さん:2005/06/19(日) 18:48:24
坂上神社の氏地に清水大師がある町くらいしか知らない
109日本@名無史さん:2005/06/24(金) 08:47:58
空海と田村麻呂は薬子の変で接点はなかったのかな?
110日本@名無史さん:2005/07/11(月) 05:09:33
薬子を介して接点・・・
111日本@名無史さん:2005/07/14(木) 23:33:06
空海の大祈祷のおかげで田村麻呂は止めることが出来たんだっけか。
となると薬子は共通の敵?
あんまり詳しくないからすまん。
112日本@名無史さん:2005/07/30(土) 18:01:39
信州安曇郡で朝廷に逆らった安曇氏を全滅させたのもこいつ
113日本@名無史さん:2005/07/31(日) 04:07:32
>>112
詳細を細かく詳しく
114日本@名無史さん:2005/07/31(日) 04:25:27
>>112
詳細を細かく楽しく
115アダム:2005/08/01(月) 13:26:49
そいつぁちげーな
116日本@名無史さん:2005/08/01(月) 21:38:49
身長178センチ120キロ。当時としては化け物並みの体格だった
117日本@名無史さん:2005/08/02(火) 06:17:58
>>116
俺が177の95だからデブだな
118日本@名無史さん:2005/08/02(火) 07:14:40
やんごとなき雅なお子様とはこの方のことですか?
119日本@名無史さん:2005/08/02(火) 20:52:56
>>117
お前と一緒にするなよw向こうは、ただのデブじゃねーよ
120日本@名無史さん:2005/08/02(火) 21:41:22
>>119
そうだな。俗にいう、「百貫デブ」か?
121日本@名無史さん:2005/08/03(水) 20:32:09
>>119
俺は筋肉だがな。
122日本@名無史さん:2005/08/06(土) 06:11:14
田村麻呂は神
123日本@名無史さん:2005/08/06(土) 21:54:52

ただの人だろ。
なんかへんな宗教でもやってんのか?
124日本@名無史さん:2005/08/07(日) 17:28:28
うちの町の氏神なんだよね
125日本@名無史さん:2005/08/09(火) 21:12:22
とりあえず高橋祟の坂上田村麻呂買ってきた。
我が国最初の征夷大将軍とみて読む気が失せたがこの本の評価はどうなん?
126日本@名無史さん:2005/08/15(月) 10:41:56
あげ
127日本@名無史さん:2005/08/20(土) 09:57:18
ウチの祖先はこの人の息子の広野。
128日本@名無史さん:2005/08/22(月) 11:42:36
>127
うちは滋野だ。
129日本@名無史さん:2005/08/23(火) 01:28:45
>>128
じゃあ禿げしく遠い親戚ですな。
上で出てた坂上七家の一つなんだそうな。
130日本@名無史さん:2005/08/23(火) 17:25:21
>129
1200年のときを超えてこんにちは。
131日本@名無史さん:2005/08/24(水) 02:06:15
>>130
こんにちは。
まさに歴史ロマン。
132日本@名無史さん:2005/08/24(水) 18:41:53
>>127-131
全米が泣いた;;
133日本@名無史さん:2005/09/03(土) 14:05:50
将軍塚がこの人の墓?
134日本@名無史さん:2005/09/17(土) 19:30:00
悪路王は史実?
135日本@名無史さん:2005/09/21(水) 16:33:50
田村麻呂の漫画
136日本@名無史さん:2005/09/25(日) 01:26:45
あげ
137日本@名無史さん:2005/09/25(日) 03:57:23
田村麻呂が、手を付けた娘から生まれた鶴子麿が田村氏のはじまりだっけか?
なんかそんな名前がちらつく私のは母方は田村の流れで家紋は下がり藤。
つーか、あっちこっちから名字もらいすぎだぞご先祖。
138日本@名無史さん:2005/09/26(月) 02:28:18
帰化人13世とかもう日本人じゃん
139日本@名無史さん:2005/10/05(水) 00:03:55
しかも当時は反天皇運動も反日思想もなかったからね。
140日本@名無史さん:2005/10/18(火) 16:47:57
この人っていまいちぱっとしないね
141日本@名無史さん:2005/10/18(火) 17:12:16
ぱっとしない、というよりも史料がとぼしいんでしょ。
142日本@名無史さん:2005/10/19(水) 02:23:08
この人って調べてもあんまり良くわかんね。
恒武天皇や空海とほぼ同時代で、征夷大将軍であり蝦夷を制したり、薬子の変でも活躍したりと田村麻呂中心の小説とかなかなか面白そうなのに。
伝説も多いし。
やっぱ資料が少ないから目立たんのかな。
143日本@名無史さん:2005/10/19(水) 04:57:02
田村麻呂は赤髪、青い目の身の丈180センチ以上ある大柄な白人だったんでしょ
白人っていってもペルシャ系?だっけ
バイキングの北欧系?だっけ
144日本@名無史さん:2005/10/19(水) 15:02:49
ペルシャ系だとしても気化13世だぜ。
145日本@名無史さん:2005/10/29(土) 00:01:33
戦暦キボンヌ
146日本@名無史さん:2005/10/30(日) 13:23:56
>>143
>ペルシャ系?だっけバイキングの北欧系?だっけ
歴史小説・漫画と歴史の区別ができない小人が紛れ込んでるな。杉本苑子の「檀林
皇后私譜」にペルシャ系風貌云々の箇所があった記憶があるが、北欧系とはな。
白人容貌賛美の少女漫画の影響って、こわいな。
坂上氏は、元来は渡来人の東漢氏。東漢氏の渡来前住地は、名の通り任那の阿耶地方。
8世紀の平城朝で、父の苅田麻呂がペルシャ系女性との遭遇親交を否定証明はできよう
もないが、風貌はともかく、赤髪、青い目の劣性遺伝形質は、混血では出ようがない。
147日本@名無史さん:2005/11/05(土) 18:06:53
帰化13世(あってるのか?)の時点で何系とかの次元じゃないっしょ。
148日本@名無史さん:2005/11/13(日) 18:20:53
結局はペルシャ系なの?
149日本@名無史さん:2005/11/20(日) 16:35:13
あげ
150日本@名無史さん:2005/11/20(日) 16:59:35
151日本@名無史さん:2005/11/23(水) 17:30:59
あげ
152日本@名無史さん:2005/11/27(日) 10:53:05
あげ
153日本@名無史さん:2005/12/15(木) 08:49:14
age
154日本@名無史さん:2006/01/04(水) 19:54:59
あげ
155日本@名無史さん:2006/01/08(日) 03:54:49
浮上
156日本@名無史さん:2006/01/09(月) 20:25:46
さげ
157日本@名無史さん:2006/01/12(木) 09:13:16
あげ
158日本@名無史さん:2006/01/21(土) 22:31:54
統率力があり、ユーモアがあり、慈悲の志し篤(あつ)い人物。
伝説ではこう伝えられる田村麻呂だけど
武人で歴史的人物で史料伝承も少ないのに
こんなふうに語り継がれる人も珍しいんじゃないか。
159日本@名無史さん:2006/01/29(日) 20:28:09
あげ
160日本@名無史さん:2006/01/30(月) 07:01:11
161日本@名無史さん:2006/01/30(月) 12:25:54
大伴弟麻呂がいなかったら 史上初の征夷大将軍だったのに
残念だ
162日本@名無史さん:2006/01/30(月) 20:40:50
この人が初代だべ
163日本@名無史さん:2006/02/05(日) 23:42:39
うちの先祖の滋野氏は調べてみたら田村麻呂が生まれる前から滋野を名乗ってた。 orz。
164日本人:2006/02/11(土) 23:35:20
多賀城の石碑に書いてある将軍は何者ですか?
165日本@名無史さん:2006/02/11(土) 23:39:07
田村麻呂===  大蔵 原田一族
166日本@名無史さん:2006/02/28(火) 12:51:26
何で田村麻呂は征夷大将軍になったのに幕府を開かなかったの??
167日本@名無史さん:2006/03/04(土) 15:07:05
>>166
何で木曽義仲は幕府開かなかったの?
168家老:2006/03/04(土) 17:50:29
征夷大将軍って官位相当表に充てるとどこら辺なの?
169大久保:2006/03/04(土) 19:29:47
170日本@名無史さん:2006/03/24(金) 22:27:44
    
171日本@名無史さん:2006/03/25(土) 00:36:57
たしか副官が百済王俊哲って人だったよな
172日本@名無史さん:2006/03/25(土) 00:47:50
司馬遼太郎だったけ、何かの対談で田村麻呂のちょっと前の時代
唐とペルシャが衝突(このとき中国からイスラム圏に紙が伝播した)
して、その時、唐の皇帝がペルシャのローマ人傭兵
(元々、ローマ軍だったがペルシャに投降してそのまま使われてた)
を珍しがって10万の兵で包囲して生け捕りにし自分の配下に組み入れた
というのが実際あって皇帝の近衛軍に入れて他国に唐の威光をしめすのに
(ローマ人まで支配化にあるとのハッタリ)利用していたので
田村麻呂はひょっとしたらそういった血統だった可能性もあると。
173日本@名無史さん:2006/03/25(土) 01:02:35
>>172
田村麻呂の風貌についての記録は、投降蝦夷の血統だったということなのでは?
「夷をもって夷を制する」
副官百済王俊哲の方が実質的な大将で、朝廷からの目付け役にして軍事専門家だったのでは?
亡命百済人に領地を与える目的もあったのでは?
174日本@名無史さん:2006/03/31(金) 13:20:26
>>173
まえにもありましたが、坂上田村麻呂の坂上姓は東漢。
 漢は「あや」と読み、任那あたりからの渡来人というのが定説です。
ただし、当時の韓半島先端部分には様々な民族がいたでしょうから、
田村麻呂さんには、トルコ系遊牧民の血統があったかもしれませんね。
それに渡来してから随分たってますから、その間に民族的にアイヌと
混血している可能性も高いですね。
古代では、朝鮮半島でも、女性を船に乗せて航海すると船が沈むという
言い伝えがあったそうですから、渡来人男性の配偶者は、日本に居住していた
先住民族であることが多かったようです。
175日本@名無史さん:2006/04/03(月) 22:33:03
韓半島なんて名称使っているのはチョンか在だけ
176日本@名無史さん:2006/04/11(火) 15:26:59
>>173
父方が大陸系(漢氏)で母方が蝦夷系。

多賀城遺跡から「タモレマロ」とか書かれた瓦かなんか出てきたんだっけ?
177日本@名無史さん:2006/05/01(月) 19:13:27
阿智使主が来日→気化してその流れを汲むのが田村麻呂だけど、阿智使主は自称漢高祖皇帝の流れを汲んでる。
あながち本当にペルシャ系だったりしてな。
坂上宝剣のカッコよさはすごいね。
178通訳兼ガイド:2006/05/01(月) 21:40:02
七世紀から八世紀にかけ、一応は征服された原住日本人がまた反乱し、箱
根の山をこえ清水港のある清見潟にまで進出。
 ここで朝鮮半島の三十八度線のような境界線をしき、北日本と南日本が対陣した時。
紀ノ古左美征東大将軍は五万の天孫軍を率い北征し全滅。よって大和朝廷は、当時は
天険だった山背国長岡へまで疎開あそばされたものの、延暦十年(791)百済王俊
哲が前参議の韓人坂上当麻呂(苅田麻呂)の子の田村麻呂を通訳兼ガイドとなし、当
時の大陸機甲軍団をもって討伐。三年後には、ようやく朝廷は、今の京都に王城仏徒
をたて、平安京とし移転遊ばれた。
179がいやまん:2006/05/04(木) 09:28:16
なぜだかわからんが、田村麻呂は形質的に丁零であるし、清水寺は丁零の
好む谷あいの地である。逆義経の可能性があるぞ。阿智などはアルタイに
そのまま地名が残る。吉備はトルコ族の族名だ。
180日本@名無史さん:2006/05/04(木) 15:33:38
英雄だからね
181日本@名無史さん:2006/05/04(木) 21:10:55
所詮、創られた英雄
182176:2006/05/07(日) 00:05:17
ありゃ。いきなり電波っぽくなってるな・・・
183日本@名無史さん:2006/05/09(火) 07:33:27
カタチはどうあれ田村麻呂は官軍の英雄で阿弖流為はエミシの英雄
田村麻呂はあんまり好まれる傾向じゃないし、阿弖流為は東北コンプレックスやサヨクに担ぎ出されてるしもうグダグダ。
東北に住んでる時はビビったもん。
阿弖流為は東北の英雄!正義!神と反復させられたり、田村麻呂は絶対悪!や桓武は独裁者!侵略者!って教えられた。
184日本@名無史さん:2006/05/09(火) 07:37:36
よく「朝鮮人は帰化しても警察には入れない」ということを言っている者がいるが、
そんなのは大嘘である。
実際には帰化すれば全く問題なく警察官にはなることができ、そうした朝鮮帰化人
警察官の数というのは膨大な数に上る。
今では署長クラスになるとかなりの数が朝鮮帰化人である。
こうした帰化人警察官というのは、今だアイデンティティは北朝鮮にあり、北朝鮮の
命令で動くスパイの役割を果たしている。
特に公安警察は、朝鮮帰化人と部落民によって成り立っているため、北朝鮮の
出先機関と化し、数々の非合法活動を働いている。
そうした非合法活動の最たるものが、日本人拉致である。
北朝鮮があれだけ大々的に拉致活動を行えたのは、警察特に公安警察の協力が
あったからである。
警察に大量の朝鮮帰化人が存在する以上、重要施設の警備を警察に担当させることも
危険である。
いざ有事になった場合、警察の中の帰化人が、北朝鮮の命令でテロを起こすことも
充分に考えられるからだ。
185日本@名無史さん:2006/05/09(火) 07:46:16
>>183
誰に?
186日本@名無史さん:2006/05/09(火) 07:52:13
東北側の観点からすれば、それは正しいと思うが。
神は行きすぎにしてもw
187日本@名無史さん:2006/05/09(火) 18:55:54
>>183
中華思想の侵略者だもん。
188日本@名無史さん:2006/05/09(火) 18:58:16
学校で(おそらく)日教組の教師に。
もともと坂上氏、とくに田村麻呂にゆかりのある地域出身で伝説を聞いて育った僕には東北の某市で過ごした1年はきつかった。
さすがに引いた。
教えられた英雄は阿弖流為、李舜臣、安重根、シャクシャインなどなど。
189百済の傭兵団:2006/05/09(火) 20:53:02
藤原王朝に帰順した百済の傭兵団の坂上苅田麿の倅田村麿によって、板東八ケ国へ追われた原住民が、
多賀城が構築されるとさらに一のへ(一戸)、二のへ(二戸)三のへ(三戸)と追い込まれ、
それでも降伏して奴隷にならぬ者は八のへ(八戸)九のへ(九戸)えとバリケードを次々と設営して追い込み苛斂誅求をした。
190山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/05/09(火) 22:26:26
>>186
しかし、『田村草子』型の唱導の信仰圏は東北まで及んでおり、寧ろ伝統的
には田村信仰があったと言って良い。
古代の記憶がずっと残存していたという事も考え難い。
侵略者云々は、近代になって庶民でも史書に触れられる様になってから喧
伝された東北人の自己同一性振興の為のイデオロギーという気がします。
191無知とは罪悪:2006/05/10(水) 19:26:43
東北に追われた原住民を組織化し、百済人征東大将軍紀ノ古佐美の率いる五万の大軍を北上川で全滅させ、鉄武器を奪って田子の浦まで攻め込んだアルテイがいた。
しかし次々と大陸の援助で鉄武器を大量に補給された坂上田村麻呂らと12年にもわたり戦ったが利あらず。
百済部隊に制圧されて滅びた。アルテイは今の大阪府の杜山まで連行され斬首、さらし首にされたが、東北に残っていた妻子や残党は、大きな穴を掘らされて生きながら埋められ惨殺されたのは、パレスチナ難民の群をイスラエル兵が皆殺しにしたのとまるで同じ状態だった。

ただ違うのは、生き埋めの上に土をかけ、その上に出てこられぬように降伏し奴隷となった者らに踏みつけさせた。これが今の東北三大奇祭のネブタである。つまり根(死)の国へ追いやる為の土かぶせの蓋ゆえ、踏んづける恰好をする踊りで土地の各会社がスポンサーになり、
坂上田村麻呂の山車が賑々しく彩りを添える。エルサレム難民が、惨殺を指揮のキリスト教右派の少佐の山車を担ぎ出しワッショイワッショイとは、まさかやる訳はないだろう。まさに無知とは罪悪である。
192日本@名無史さん:2006/05/10(水) 19:53:28
>>190
京都人乙
193日本@名無史さん:2006/05/10(水) 20:09:24
なんかキモい奴がいるな。
田村麻呂や官軍が絶対悪ならなんで東北に田村麻呂伝説が、それも沢山伝わってるのか。
194無知とは罪悪:2006/05/10(水) 21:09:51
まさに無知とは罪悪である。
195日本@名無史さん:2006/05/10(水) 21:13:30
それが東北クオリティ
196日本@名無史さん:2006/05/10(水) 21:16:52
>無知とは罪悪様
改行覚えて下さいwww
197おけら:2006/05/10(水) 21:34:20
おけら、という地虫がおります。これは虫ではなく漢方辞典では薬草となってます。
というのは、日本原住民が果敢なレジスタンスをした際に、日本へきた七世紀頃の大陸人は「根の国へ行かしてやる」と生き埋めにして土砂をかけて蓋となし、奴隷となった者らに足で踏み固めさせたのがネブタだとは前記しました。

その時、何百人もの原住民を生き埋めにしているので、未だ迷信がはばをきかせていた頃なので、彼らの怨霊が穴から這い出して来るのではないかと、根株が広がりさながら地面にバリケードの如く生い茂る「求」という草の種を持ってきて植えた。
だから日本原住民はその草根に、無念の内に死んだ御先祖様の霊が在るのだと、その根をオケラと呼んで大切にし、八坂神社の神灯にされ、その火を分けて貰って、雑煮をつくり、日本原住民は復仇を新年ごとに誓った。
しかしわざわざ中国大陸から持ち込まれた草だから、漢方薬になるのかと煎じて利尿剤として用いた。
198おけら:2006/05/10(水) 21:35:05
これが江戸期に入ってから「蒼求」となったのです。しかし東北地方では根蓋の根株を這い回る地虫をオケラと呼んでおります。
私も子供の頃このミニモグラのような可愛い虫を飼っていたことがあります。
というのは、親たちは教えてはくれませんでしたが、「オケラを殺してはいかん。バチが当たる」と言い聞かされていたからです。

今でも東北地方ではオケラは、御先祖様の生まれ変わりで、生き埋めにされた事は知らなくても、故意に踏み潰すようなことはしていないようです。
199追分:2006/05/10(水) 21:37:48
追分について。
藤原王朝が傭兵とした百済人達を使って、原住民を討伐し、女子供や年寄りを捕虜にして曳き立ててきた時、連れ戻っても骨折り損になるようなのや、労働力になりそうもないひ弱な人間を選別しました。
街道が三つ又になっている処で、いくら夫婦や親子でも、連れ戻って奴隷市場へ出せぬのは分けて別路へ追い立てました。だから奴隷集積隊が廻った各地に追分けという地名が沢山あり、尺八で哀切極まりない悲しい旋律が多いのはこの訳なのです。
200ネブタ祭りの真相:2006/05/11(木) 20:40:02
(このネブタ祭りの真相を、別な所で書いたところ、青森県の方から「今さらそんなことを暴露されても困る」と言われました。
しかし、私はだからこそ、歴史を正しく認識して、
かってはこの列島の最北端に栄えた日本原住民の一方の雄であった「津軽王朝」の不屈の精神を讃える祭りに変える事が、先祖の霊に報いる子孫の義務ではないか。と提案しましたが・・・・
201日本@名無史さん:2006/05/11(木) 20:54:12
キモすぎる
202奈良の大仏:2006/05/11(木) 21:01:26
今日の奈良の大仏は松永弾正に焼かれた後、豊臣秀頼によって修復され、江戸時代にも改築されたものだが、
行基大僧正らによって鋳造された時点、起重機も電気溶接もなく、全てが人間の二本の手でやらねばならなかった時、
あれだけ巨大な物を作る場合どれだけ多くの人間が溶鉱炉の業火の中へ落ちて死んだか……。
行基やそのブレーンは朝鮮人であったとしてもそこで使役された労務者は誰だったのか。まさか当時の朝鮮に今の大林組や清水建設会社が在ったとは想えぬ。
といって行基たちが徴用で朝鮮から人を集めてくる筈もなく、また半島の季節労務者が出稼ぎに来たとも考えられぬ。

何万人と集められ鞭打たれ、灼熱のるつぼの中へ足踏み外し次々と悲鳴をあげ、
火中へ生きながら呑み込まれていった何千の者たち。もちろん労災保険もなかつたこの人間達はいったい何処の誰だったのであろうか。
203延暦寺:2006/05/11(木) 21:22:13
現代でさえケーブルカーに乗らなければ、とても登ってゆけぬ比叡の山頂に、巨岩、巨木を担わされ延々と蟻のように行列を作って、這い上ってゆき、
少しでももたつけば鞭や棒で乱打され、見せしめのため石で殴り殺された人々。
逃亡防止のため鎖で繋がれていたため、あの比叡の山の崖で一人でも足を滑らせたら、何十人も一度に断末魔の悲鳴をあげて墜し、谷底に死んでいったろう人々。
204東大寺:2006/05/11(木) 21:24:59
東大寺にしろ、あれを建てるのに何万の奴隷が酷使され何千の人間が血を吐き虐殺されたか。
205修羅:2006/05/11(木) 21:26:45
『修羅』と言う言葉がある。「コンピラフネフネ追ってに帆かけてシュラシュッシュ」のシュラはコンピーラと同じ古代バビロニア語である。
日本では海神金比羅、修羅とされている。大陸人が仏教を日本へ持ち込んだはいいが、排仏系の襲撃が激しく、だから寺は比叡の山頂や高野山、金剛峯の高所へ建てた。
今でもご本山と言うごとく堂宇を建立した。当時は建設会社は無いから、原住民を捕らえて来て使役に用いた。
巨岩や巨木を頂上へ運ぶのは大変だから、修羅(大きなソリのようなもので、古代エジプトでもピラミッド建設に使われた。この技術は中東方面より渡来の天の朝の民のものである)を作って工事をした。
日本は鉄鎖が少ないのでイチビの樹皮で編んだ縄で曳き上げたから、岩角で切れると巨木や巨岩の下敷になって多くが死んだ。修羅場、修羅の巷という語源はこれからである。
206皆朝鮮人:2006/05/11(木) 21:27:43
金達寿氏は言う「大仏殿をこしらえた行基大僧正や比叡山のてっぺんに延暦寺を建てた最澄上人。
東大寺を建立した良弁和尚が、皆朝鮮人であったことを今だに知らぬ日本人が多いのは情けない」
207「御用坊主」最澄:2006/05/11(木) 21:33:48
討伐して捕虜にしたのを奴隷にもってきたといっても、全部をひっくくって連れて
こられるわけもなく、東北にはまだ相当数が残っていたらしい。そこで最澄はその著
の、『顕戒論』において、
「僧たるものは、国師、国宝、国用のいずれかを志し、たえず国のため念誦し、国の
ためにこそ経をひもとき、経を講ぜねばならぬ」
と、後に訳されたものでは、
(衆生済度などして、零細な人民のお布施を集めるより、体制側に協力し、資金カン
パを受けた方がよかろう)、と国家第一主義の教えをもって、ここに、でっかくゆこ
うと、その「守護国界章」を宣伝した。
 よく、「御用達」とか「御用商人」というのがあるが、ここに「御用坊主」が誕生
したのである。
208「御用坊主」空海:2006/05/11(木) 21:35:41
高野山金剛峯寺を遥か山の彼方に建てた空海も、これにならって、「鎮護国
家宗教」を名のって教えを弘めた。
209「守護国家」「鎮護国家」:2006/05/11(木) 21:37:22
「守護国家」「鎮護国家」と、「お国のためにナンマイダ」を唱え、ひた
すら坊主丸儲けにのみ徹した日本お坊主衆は、初めから体制べったりで、
「東北地方に原住日本人が多いのは、事によるとまた反乱を致すやの恐れあり、拙僧
らがおもむき宣撫こそ仕りましょうわい」
と、まず勝道という勇ましい名のお坊さんが、日光の中禅寺を作り、ついで徳一坊は
筑波山の中禅寺と会津の恵日寺をたて、やがて最澄自身も関東へ進出して、緑野寺、
小野寺を彼自身がこしらえた。
210東北地方へ出張:2006/05/11(木) 21:38:30
こうなると空海を開祖とする高野山においても、
「負けは致されず」と東北地方へ出張し、
「霊山寺」「立石寺」「黒石寺」「天台寺」などの古刹を今に残している。が、こう
いう事実、つまりなぜその地方でこういう土木事業ができたかというと、「公的権力」
であるその地方の国司が、武力によって原住民を狩り集めてきて強制使役し、寺院造
営をさせたからに他ならない。
211寺は作ったが僧は居れず:2006/05/11(木) 21:39:37
そこまでやらせたものなら、普請ができた後は、「後は引受けて候」と、坊
さんが寺に残って人々を集め説教をするべきだが、日本の坊さんは金儲け主義で、宗
教に身を打ち込むという信仰がないのか、はたまた原住民が酷使されるのを見て後の
祟りが思いやられ、どうも恐くてそこまでの度胸が出なかったのか、「仏つくって、
魂入れず」というのが仏家の言葉にあるが、この場合は、「寺は作ったが僧は居れず」
と、何処の寺もそうなった。
212日本@名無史さん:2006/05/11(木) 21:41:50
金達寿
213恐怖政治:2006/05/11(木) 21:43:28
そこで、留守番に睨みのきくのをというので、今も東北のそうした寺には、「魔仏」
がそれぞれおいてあるのである。つまり原住民を恫喝し、恐喝する目的で、「四面」
「十一面」の恐ろしい明王や観音像がおかれていて、その当時は国司や役人も、これ
らの怪奇な像を威嚇に用い、「恐怖政治」をしいたものらしい。
214日本@名無史さん:2006/05/11(木) 21:43:41
筑波山の中禅寺
215筑波山の中禅寺:2006/05/11(木) 21:45:55
筑波山の中禅寺
216筑波山の中禅寺:2006/05/11(木) 21:46:34
恐ろしい明王や観音像
怪奇な像
217日本@名無史さん:2006/05/11(木) 21:55:54
朝鮮人は山に逃げ込みました。
そして天狗や同性愛者になりましたとさ。
めでたしめでたし。
218植民地化を完全にしたごとく:2006/05/12(金) 21:45:08
ヨーロッパ諸国が宣教師を先に送り込んで住民をキリスト教にして植民地化を完全
にしたごとく、最澄を送り込んできて天台宗。翌年には空海を派遣してきて、これが
今の高野山。
219国銅:2006/05/12(金) 21:53:57
奈良・東大寺の大仏が、どのようにしてできたか、初めて知った。材料の棹銅の一本一本からして「死んだ人足、今も課役についている人足の生まれ代わりのようなもの」。予想をはるかに越えた、壮大な物語であった。
 主人公の長門周防の銅山人足・国人は、自ら文字を学ぶなど向学心旺盛で仕事熱心、しかも同僚思いで謙虚な22歳。奈良の都に大仏建立人足として引っ張られ、いつ帰郷できるかもわからぬまま、土砂運び、鋳込み、
鍍金に働き続ける。人間の良心とはこういうもの、というような誠実な国人の生き方が、とても清々しく感じられる。また、下巻では、美しい詩が随所に織り込まれているのもいい。ふたりの衛士に触発され、
詩の世界に足を踏み入れた国人の地道な学びが、最後にみごとな百字の句に結実するさまは感動的である。
 大仏は「天から降った物でも、地から湧いた物でもなく、人足が何千人と集まって作り上げた物」。かつてそこにいた人々の姿と思いが見えてくると、今までなんの興味もそそられなかったものが、
俄然身近な存在に思えてくる。「ただの大仏」から、「あの『国銅』の大仏」へ。さぁ、東大寺に行こう。
220国銅 2:2006/05/12(金) 21:54:44
天平の時代には名もなき人足だった男たちの生き様が、平成の時代にあざやかに甦る。銅山での命がけの苦役に耐え、都での大仏の建立に骨身を削る。運命に逆らうことなく、いさぎよく生きた使い捨ての人足たちを、誇り高く威風堂々と描いた大河小説である。
 ストーリーは重厚で骨太。死を意識して生きる者たちの決意や嘆きが痛々しい。怒濤のごとく押し寄せる苦難の数々に目を覆いたくなる。全編を貫く悲愴な雰囲気は、臨場感にあふれ、リアルに胸に響いてくるのだ。
 そんな中で、主人公の国人のさわやかさ、前向きさは異彩を放っている。聡明で勤勉。将来への希望の少なさに絶望もせず、信心を忘れない。そのひたむきな姿は感動的で、神神しくもある。こころ優しき国人の存在は、人足たちの希望の光となっているのだ。
 十把一絡げの労働者に焦点をあて、人間の尊厳を説いた珠玉の物語は、想像を超える感動を従えて、ここに降臨したのであった。
221国銅 3:2006/05/12(金) 21:56:03
奈良天平文化の象徴ともいえる奈良の大仏。
日本の仏教が大きく花開いた時代に華々しく登場した大仏は華やかな光に包まれて誕生し、今もその光に包まれている。

この物語はそんな大仏に使うための銅を掘り出す労役に従事させられ、そして故郷長門の国から奈良の地まで連れて行かれて大仏建立の作業に従事した、当時の人々を描いたヒューマンドラマです。

普段私たちが目にするこの時代の文化は貴族達が中心で、当時の一般の人々がどんな生活をしていたのかはほとんど目にすることがありません。
教科書には載らない当時の人々が何を食べ、何を着、何を考えていたのかが生き生きと描写されていてそういった意味でも勉強になる本です。

222国銅 4:2006/05/12(金) 21:57:33
上・下巻を2日で一気に読みきってしまいました。銅の精製や仏像建立の現場が目に浮かぶようでした。
そこでひたすら働き続ける人足たちは、作中でも「蟻」に例えらています。仏様に群がる様は一見非力だけれど、その蟻のような小さな人間の集まりが、あんなにも大きな大仏様を作り上げたんだ、と時を越えて感動が押し寄せる思いでした。
一人一人の名は残っていなくとも、それぞれの生と職をまっとうした人々が歴史の影にたくさんいる、と心に温かいものが染みました。もちろん、誰もが善人でも正直者でもないけれど、その生を望んで生きたわけではないけれど、それでも。
作中、こんな詩が出てきました。素敵な言葉だな、と思います。
菱と蓮の葉を裁って衣服とし 蓮の花を集めて飾りとしよう
私を知る者、天下に無くとも良し 己の心の誠に芳しければ
223国銅 5:2006/05/12(金) 21:58:41
久しぶりに小説を読みました。小説って良いもんだなぁーということを、あらためて思い起こされ、人間の生き方を教えられた思いがします。帚木蓬生著『国銅』(新潮2003年)は、一言でまとめれば、そんな小説です。

 人足の視点から、奈良・東大寺の本尊、毘盧遮那仏如来像(いわゆる大仏)の建立をモチーフに、長門・奈良登の銅鉱山で採掘等の仕事に従事している貧しい若者・国人を主人公に、
14人の仲間と共に都へ登り、工事の始まりから開眼供養会までの5年という長きにわたり工事に携わり、帰国するまでの物語です。

 大きなドラマがある訳でもなく、感動を呼び起す展開もありませんが、長門での生活、大仏建立に携わった日々における周辺の人々の様々な生き様と、主人との係わり合いと成長の過程を、
暖かい眼差しの描写が静かな感動となって、気持ちの良い小説に仕上がっている様に思いました。
224百済からわたってきた国骨富の孫:2006/05/13(土) 21:47:00
奈良大仏は、743年発布の大仏建立の詔からもうかがわれるように、聖武天皇の強いご意志が造らせたものです。大仏本体の鋳造は747年開始されて749年に完成しています。
「大仏殿碑文 (だいぶつでんひぶん)」は大仏建立に関係した工人として国中公麻呂(くになかのきみまろ)、
高市真国(たけちのまくに)、高市真麿 (たけちのままろ)、柿本男玉(かきもとのおたま)、
猪名部百世(いなべのももよ)、益田縄手(ますだのなわて) の6名をあげています。
国中公麻呂は663年百済(くだら) からわたってきた国骨富の孫で、東大寺の前進である金光明寺の造物所造仏長官として大仏建立計画のはじめから鋳造技術の総指揮者として活躍した人です。 
飛鳥大仏は仏教伝来とこれを信奉する推古天皇や蘇我氏が中国大陸の技術を導入して造り、奈良大仏は仏教文化の円熟した天平時代に体制の整った国家権力を駆使して聖武天皇がはげしい意欲を注いで造られました。
225材料とその量:2006/05/13(土) 21:48:47
大仏づくりに使った材料とその量

銅 499トン 4トントラック 約125台分
すず 8.5トン 4トントラック 約2台分
水銀 2.5トン 4トントラック 約0.5台分
金 440kg       
炭 1194m3        
働いた人 のべ260万人 当時の人口の約40%にあたる(当時の人口は約700万人)
226東北人:2006/05/13(土) 21:48:52
ありとあらゆる神社・温泉の起源に関わっている田村麻呂。
じつは団体名なのでは? と思っているよ。
227田村麻呂伝説:2006/05/13(土) 21:52:51
後世、田村麻呂にまつわる伝説が各地に作られ、しだいに膨らんで歴史上の田村麻呂とかけ離れた人物と筋書きを生んだ。
伝説中では、田村丸など様々に異なる名をとることがある。平安時代の別の高名な将軍藤原利仁の伝説と融合し、両者を同一人と混同したり、父子関係においたりすることもある。
伝説中の田村麻呂は蝦夷と戦う武人とは限らず、各地で様々な鬼や盗賊を退治する。鎌倉時代には重要な活躍として鈴鹿山の鬼を退治するものが加わった。
複雑化した話では、田村麻呂は伊勢の鈴鹿山にいた妖術を使う鬼の美女である悪玉(あくたま)と結婚し、その助けを得て悪路王(あくじおう)や大武王(おおたけおう)のような鬼の頭目を陸奥の辺りまで追って討つ(人名と展開は様々である)。
諸々の説話を集成・再構成したものとして、『田村草紙』などの物語、謡曲『田村』、奥浄瑠璃『田村三代記』が作られた。また、江戸時代の『前々太平記』にも収録される。

228田村麻呂伝説:2006/05/13(土) 21:53:28
田村麻呂の創建と伝えられる寺社は、岩手県と宮城県を中心に東北地方に多数分布する。
大方は、田村麻呂が観音など特定の神仏の加護で蝦夷征討や鬼退治を果たし、感謝してその寺社を建立したというものである。
伝承は田村麻呂が行ったと思われない地にも分布する。京都市の清水寺を除いてほとんどすべてが後世の付託と考えられる。
その他、田村麻呂が見つけた温泉、田村麻呂が休んだ石など様々に付会した物や地が多い。

229坂上田村麻呂:2006/05/13(土) 21:55:05
坂上田村麻呂(さかのうえ・の・たむらまろ。天平宝字2年(758年) - 弘仁2年5月23日(811年6月17日))は、平安時代の武官である。名は田村麿とも書く。正三位、大納言兼右近衛大将兵部卿。勲二等。死後従二位を贈られた。

中央で近衛府の武官として立ち、793年に陸奥国の蝦夷に対する戦争で大伴弟麻呂を補佐する副将軍の一人として功績を上げた。弟麻呂の後任の征夷大将軍になって総指揮をとり、801年に敵対する蝦夷を討って降した。
802年に胆沢城、803年に志波城を築いた。810年の薬子の変では平城上皇の脱出を阻止する働きをした。平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生み、また戦前までは、文の菅原道真と、武の坂上田村麻呂は、文武のシンボル的存在とされた。

230坂上田村麻呂:2006/05/13(土) 21:55:38
父は坂上苅田麻呂で、坂上氏は田村麻呂の祖父の犬養、と苅田麻呂ともに武をもって知られた。妻は三善清継の娘高子。
子に大野、広野、浄野、正野、滋野、継野、継雄、広雄、高雄、高岡、高道、春子がいた。春子は桓武天皇の妃で葛井親王を産んだ。
滋野、継野、継雄、高雄、高岡は「坂上氏系図」にのみ見え、地方に住んで後世の武士のような字(滋野の「安達五郎」など)を名乗ったことになっており、後世付け加えられた可能性がある。子孫は京都にあって明法博士や検非違使大尉に任命された。

231清水寺を創建:2006/05/13(土) 21:57:06
戦功によって昇進し、延暦24年(805年)には参議に列した。
大同元年(806年)に中納言、弘仁元年(810年)に大納言になった。
この間、大同2年(807年)には右近衛大将に任じられた。
また、田村麻呂は京都の清水寺を創建したと伝えられる。史実と考えられているが、詳しい事情は様々な伝説があってはっきりしない。

2324世紀後半に百済から渡来:2006/05/13(土) 22:00:26
4世紀後半に百済から渡来した阿知使主(あちのおみ)を祖とする渡来系の氏族「東漢氏」の一族で檜隅から高取町域に定着し、その後多くの氏に分裂し、それらの氏は住みついた所の地名を氏として、それぞれ発展していきました。
  坂上氏は、高取町大字観覚寺(かがくじ)小字坂ノ上(坂ノ山ともいわれています)一帯に居住し、坂上氏と称して飛鳥時代から平安時代にかけて武門の氏族として発展していきました。
姓は始め直(あたい)、682年に連(むらじ)、685年に忌寸(いみき)、764年に大忌寸、785年に大宿禰(おおすくね)と改姓しています。大字観覚寺には、小字坂ノ上に坂上田村麻呂の邸宅があったとの伝承が今日にも伝わっています。
233日本@名無史さん:2006/05/18(木) 15:07:21
誰か清水寺の歴史教えてww
234日本@名無史さん:2006/05/31(水) 10:11:21
平安時代を語る上で外せない人物
235日本@名無史さん:2006/06/11(日) 13:16:14
何この流れ
236日本@名無史さん:2006/06/27(火) 23:20:41
いいながれ
237日本@名無史さん:2006/07/03(月) 19:11:16
238唐松山:2006/07/16(日) 10:01:17
大仏の鍍金で水銀を大量に使った。・・・水銀中毒
奈良の都の滅亡・・・・
祟りは現在まで続き奈良の人口が少ないのは、そのせい・・・
239水銀中毒:2006/07/16(日) 10:10:57
冬になると、奈良盆地には冷たい北風が琵琶湖を渡って吹きつける。
北風は若草山に当たって東風に変わり、蒸発した氷銀を伴って平城京
に流れ込む。いや平城京だけでなく、広く奈良盆地の北部全体が水銀
蒸気で汚染されただろう。
 「大仏が完成したのは749年。大仏の開眼供養は752年である。
大仏の光背が完成するのは771年だから金メッキを施すの十九年を要
したことになる。
 水銀中毒といえば九州の水俣が思い浮ぶ。
水俣の場合は、魚を媒介にした有機水銀の経口摂取が引き起こした中毒だ。
これに対し、平城京の水銀中毒は無機水銀を蒸気の形で大量吸入したこと
によって起きる障害である。
240コピペ:2006/07/16(日) 10:13:54
若草山に木が生えない
 杉山二郎・元国際仏教学大学院大学教授の『大仏以後』という本
が1999年に新装本として出版されたのがきっかけだった。
.『大仏以後』によれば、.今も若草山に木が生えないのは、
大仏建立のためにここで銅が精錬され廃液が流されたためという。
私も五十年ほど前、京都工芸繊維大学の学生だったころはそう思っ
ていた。が、それは誤解だった。
 実は奈良には大仏様に起因するもっと深刻な公害問題があった。
それは水銀公害である。
 好きでもなかった化学を学び、大学教官の道に進んだ私はある時、
衝撃葡な事実を知った。今から三十年ほど前のことである。
勤務していた東京大学で工学部の応用鉱物化学研究室から新設の環
境安全センターに異動になった。セラミックスが専門だったため、
その方面の知識に乏しかった私は環境関連分野の書物を読みまくった。
その中の一冊に喜田村正次ほか著『水銀』があった。
そこには、奈良の大仏が完成したのは西暦749年で、金メッキするた
めに大量の水銀が使われたことが記してあった。
「東大寺大仏記」によれば、
水銀五万八千六百二十両,(約五十トン)、金一万四百四十六両
(約九トン)を用いたとある。アマルガム法という方法である。
水銀に金を投入すると金と水銀の合金ができる。
この合金を大仏様の表面に塗りつけその後に炭火で加熱して水銀
をとばす。古くからある方法だが、問題はその量であった。
私は目を疑っ.た。蛍光灯には水銀が封入されている。
電極から放出された電子が水銀原子に衝突して紫外線を発生、
紫外線がガラス管内壁に塗布された蛍光物質に当たって可視光線
を発一生させる仕組みだからだ。
241コピペ:2006/07/16(日) 10:16:19
その量は四十ワットの直管型で約三十ニリグラム。
最近は、三分の一以下で済むようになったようだが、
それでも日本全国で生産する蛍光灯に使われる水銀は
年間五-六トン前後に達する。
五十トンといえば実にその十倍。私はあまりの多さにぴっくりして
しまった。これほどの量を、盆地に立地する平城京で蒸発させれば
水銀中毒が起きておかしくない。私はさっそく大学の講義でこの問
題を取り上げた。
後に長崎大学に転じてからもこの講義は続けた。
 大仏の断面図を大きく黒板に描き、黄色いチョークでその表面に
金,水銀アマルガムの塗布層を描く。そして大仏の内部を熱して水銀
が蒸気となって散逸していく様を説.明する。化学式だけの講義と
違って学生諸君も面白がってくれた。
奈良盆地は紀伊半島の中央部にある。
夏暑く、冬寒い典型的な内陸性気候が特徴だ。
このような場所で水銀を蒸発させる作業を行うとすれば冬しかない。
まんべんなく水銀を蒸発させるには大仏を外から熱してもだめで、
内部から熱さなければならないからだ。
242東大寺学園高1年E組:2006/07/16(日) 10:27:18
奈良・母子放火殺人★高校生
母子3人が死亡した奈良の医師宅火災で、
奈良地検は12日に放火と殺人の非行事実
で高校1年の長男(16)を奈良家裁に送致した。
243東大寺学園高校:2006/07/16(日) 10:28:30
学園は奈良市の北郊、京阪奈学園都市に接する位置にあり、
風致地区にあって、周囲は緑に囲まれた、静かな環境にある。
かっては、東大寺境内にあって、1学年が2学級という小
さな学校であった。
寺子屋風の雰囲気の中で、文化的環境に恵まれ、教師と生徒との、
飾らぬ人間的触れ合いを通じて、人格・学力が形成されていった。
そのころの校風・伝統が今も生きており、校則でしばって規律を
教えこむのではなく、学園生活を明るくみんながそれぞれに楽
しみながら、自分の夢の実現に向かって歩んでゆくことを軸として、
お互いの個性・気風を尊重しながら、友情を育てて、のびのびと生活している。
244日本@名無史さん:2006/07/16(日) 10:46:16
なぜ田村麻呂スレに書くのかわからん
245焼き殺しの残酷物語:2006/07/16(日) 10:47:20
東大寺のお水取りの行事、若狭神宮寺のイテキ呪法や各地の火祭りは今もイラン
 のヤスドの拝火宗と同じ。山焼きは逃亡賎民を捕らえる為や焼き殺しの残酷物語
 の名残りであったと判って頂きたい。
246日本@名無史さん:2006/07/16(日) 11:01:45
>>244
県立ナラ病院のコピペ中毒患者だから。
247遷都:2006/07/16(日) 11:02:43
「平城京」を捨てた理由としては、さまざまな説もあるが、
その中の「仏教」の問題というのが有力なようである。
当時は僧侶がかなりの権力をもっていたらしい。
「道鏡」などは女帝に取り入って「皇位」にまで就こうとしていたくらいで
あった。
当時の「平城京」には「大寺」が集中していた。狭い首都には「僧侶」
があふれていた。皆、国営の「寺」であった。

「平城京」の「大寺」は、「薬師寺」、「東大寺」、「唐招提寺」や他に
も多くある。先ほども言ったが、国営の「寺」であった。この「寺」を建
築し、修理し、「僧侶」に俸禄を与える。全てが「国持ち」の費用で運営
されてた。「僧侶」はいわば「公務員」であった。

このころの「僧侶」たちには「民の救済」などという理論はなく、
鎌倉仏教のように個人の安心立命のようなものもなかった。「僧侶」たち
の仕事は「原典」をひたすら勉強するという事だけだったようである。
その「僧侶」たちが、「権力」にまで横行し始める。「国費」で成り立っ
ている「大寺」が政治の場にまで影響を及ぼすようになる。
要は「平城京」から「逃げた」のである。
248清水寺:2006/07/16(日) 11:04:16
「平安京」に移ってから桓武天皇は、無名の「最澄」を抜擢して宮廷
の「僧」とした。平安時代が興した「大寺」は、最澄が興した
「比叡山延暦寺」と、空海の「高野山金剛峰寺」だけである。
どちらも「都」からは遠い場所に置かれた。
「平安京」は、「羅生門」を挟んで「東寺」と「西寺」が配置されて
設計されているが、これは「寺」というより「役所」と解釈するの
正解のようである。「平安京」には国営の「寺」は造られなかった。
「遷都」早々に建てられた「清水寺」も「坂上田村麻呂」の「私寺」
であった。
249日本@名無史さん:2006/07/19(水) 04:32:41
今日の産経新聞朝刊に田村麻呂に関する記事が載ってるね。
1面真ん中に「田村麻呂ゆかりの邸宅か」
30面極楽山本解雇の横に「田村麻呂も「お国入り」か」
なかなかいい扱いがされてる。
朝日、毎日、読売はまだ配達されてないからわからないが、サヨクの方々は田村麻呂がお嫌いだし扱いは小さいかな。
うちの地元には田村麻呂から拝借したとされる刀が伝わってるくらいの人だから新聞の1面に載ってて嬉しいよ。
250日本@名無史さん:2006/07/19(水) 09:42:32
50トンもの水銀をとる山はどこにあったかというと
251日本@名無史さん:2006/07/21(金) 17:57:30
田村麻呂の刀はかっこいい。
直刀で細身だけど厚く造られてる。
252日本@名無史さん:2006/07/23(日) 10:14:23
標剣とかな。鞍馬寺にある。
253日本@名無史さん:2006/08/08(火) 09:05:15
坂上田村麻呂って資料が少ない
254日本@名無史さん:2006/08/13(日) 11:19:03
田村三代記って凄い内容だな、おい
浄瑠璃ってこんな内容が普通なんか?
255日本@名無史さん:2006/08/13(日) 11:33:03
戸籍を寺が管理してたのは、宗門改め町に載ってないとひーにんや
256日本@名無史さん:2006/08/13(日) 20:24:16
田村麻呂が内務大臣なので各地で事業をやったが大臣名でやったので伝説が残った
だけで、実務を取り仕切ったのは地元の豪族であった
257日本@名無史さん:2006/08/13(日) 21:17:26
はりぼての虎:田村麻呂
258日本@名無史さん:2006/08/30(水) 08:28:51
黒漆大刀(坂上宝刀、標剣)
ttp://www.daitouryu.com/japanese/image/photo/kokushitsutaitou.jpg

これが田村麻呂の帯刀
259日本@名無史さん:2006/09/01(金) 19:43:19
寺の過去帳が戸籍のようなもので、明治新政府の戸籍より前は寺戸籍になる
260日本@名無史さん:2006/09/18(月) 17:59:39
坂上氏は最高だよ。
261日本@名無史さん:2006/09/27(水) 04:07:57
あげとくか
262日本@名無史さん:2006/09/27(水) 05:12:17
孫抱き上げてブーンとかやった人でしょ?
嵯峨天皇が
「ええかげんにさらせ、はしゃぎ過ぎじゃ」とか言った。
263日本@名無史さん:2006/09/27(水) 17:33:37
現地妻の忘れ形見が三春の田村氏だとしたら、
京に戻った本家?の坂上氏の末裔はどうなった?
264日本@名無史さん:2006/09/27(水) 18:30:07
それが丹波哲郎
265日本@名無史さん:2006/09/27(水) 18:40:11
坂上大宿禰於邪瑠丸かな?
266日本@名無史さん:2006/09/28(木) 13:54:58
坂上二郎だろ、子孫は
267日本@名無史さん:2006/09/28(木) 16:20:01
大河ドラマにしてほしいね 田村麻呂
桓武天皇、アテルイ、早良皇子あたりのエピソードを交えれば
名作になりそうな予感
268日本@名無史さん:2006/09/29(金) 01:11:30
田村麻呂主役の大河は前半は軍事と造作、後半は薬子の変だね。
ぜひ見たい。
269日本@名無史さん:2006/09/29(金) 01:29:12
京の都を離れ東に下り、未開の関東の地で原住民相手に征夷大将軍の苦労は続く・・・
270日本@名無史さん:2006/09/29(金) 08:46:08
田村麻呂役を 自称せいい大将軍の男がやったりしたら
爆笑だ
271日本@名無史さん:2006/09/30(土) 04:50:45
誠意大将軍テラナツカシスwwwww
結婚したんだよな。

個人的には佐藤浩市の田村麻呂が見たい
272日本@名無史さん:2006/10/08(日) 07:15:28
霊帝
273日本@名無史さん:2006/10/11(水) 15:23:07
田村麻呂をドラマ化するんなら、タイトルは
「将軍!」
これしかないだろ
274日本@名無史さん:2006/10/11(水) 20:16:18
佐藤浩市はアテルイ。
主役アテルイで。
275日本@名無史さん:2006/10/18(水) 22:45:05
アテルイ嫌いだから主役は嫌
276日本@名無史さん:2006/10/25(水) 22:51:34
田村死伝
277:日本@名無史さん :2006/10/28(土) 14:31:35
>>273
かなりセンスいい。
やっぱ一人だけトルコ系で馬鹿デカイ田村麻呂とそれに並ぶアテルイ演じれるのは
若干特殊メイクした安部寛か村上弘明か宇梶か長瀬くらい。あとは別路線で役所工
事かな(かつての信長役みたいになると金字塔になる予感)。英雄対決と両者の
友情テーマにしてくれ。ちなみにすんごいこ汚い衣装デザインでヨロ。
278日本@名無史さん:2006/11/12(日) 05:39:38
トルコ系w
279日本@名無史さん:2006/11/29(水) 22:49:56
田村草子は面白い
280日本@名無史さん:2006/12/03(日) 18:54:40
田村
281日本@名無史さん:2006/12/06(水) 12:30:19
渡来系の末裔にしては出世したね
桓武天皇の生母が援助したから?
282日本@名無史さん:2006/12/06(水) 17:33:46
坂上氏は武門の家柄で祖先は壬申の乱でも活躍してるしね。
283日本@名無史さん:2006/12/10(日) 22:13:20
戦前は文の菅原道真、武の坂上田村麻呂として文武のシンボルとして教育された
284日本@名無史さん:2006/12/31(日) 23:54:30
田村麻呂の母って誰なの?いくら調べてもわからないんだけど。
285日本@名無史さん:2007/01/01(月) 00:08:04
>>284
韓系渡来人って説が定説だよ
286日本@名無史さん:2007/01/01(月) 12:56:01
坂上田村麻呂?ボコボコにしてやんよ
 ∧_∧
 ( ・ω・)=つ≡つ
 (っ ≡つ=つ
 /   ) ババババ
 ( / ̄∪
287日本@名無史さん:2007/01/03(水) 22:56:48
京都の伏見あたりにお墓が、あったよね。
288日本@名無史さん:2007/01/12(金) 22:47:29
289日本@名無史さん:2007/01/28(日) 04:52:37
あげ
290日本@名無史さん:2007/02/04(日) 23:38:46
田村麻呂が、東北から持ち帰った像ってどんなん?
291日本@名無史さん:2007/02/21(水) 20:38:23
あげ
292日本@名無史さん:2007/03/08(木) 02:49:58
暗黒大将軍
悪霊将軍ハーディアス
超人将軍ユリシーザー
妖爬虫将軍ドレイドウ
大昆虫将軍スカラベス
魔魚将軍アンゴラス
猛獣将軍ライガーン
怪鳥将軍バーダラー
293日本@名無史さん:2007/03/08(木) 03:44:35
静岡県磐田市に坂上町(さかうえちょう)っていう町がありますが、坂上田村麿が立ち寄ったので、その名の地名がついたそうです。
294日本@名無史さん:2007/03/09(金) 22:00:09
坂上二郎
295日本@名無史さん:2007/03/14(水) 22:49:33
ムハハ
296日本@名無史さん:2007/03/21(水) 11:21:06
田村麻呂って謎多いよな。
出生地、母のこと、死因など。
297日本@名無史さん:2007/03/30(金) 22:56:36
あげ
298日本@名無史さん:2007/03/31(土) 00:05:06
NHKの大河ドラマで「風と雲と虹と」平将門や「義経」でタッキーが
してた兜のクワガタ。あれって田村麻呂が蝦夷からもちかえったもの?
または田村麻呂がはじめたの?鹿の角をかたどったものだというが
詳細知ってるひといますか?
299日本@名無史さん:2007/04/05(木) 02:09:31
田村麻呂の末裔が田村氏?
坂上ではないの?
300日本@名無史さん:2007/04/05(木) 20:18:28
田村正和
301日本@名無史さん:2007/04/07(土) 21:00:19
坂上田村麻呂の子孫は不明が多い
伊達正宗の正室や丹波哲郎とかも血を引いてるとか聞いた

坂上氏や田村氏に分かれたんだよな
田村麻呂の三男?に坂上浄野がいて、その息子である当道の孫の是則が古今和歌集の撰者
百人一首の“朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に降れる白雪”も是則作
是則の子孫は明法博士がどうとか
302日本@名無史さん:2007/04/14(土) 03:55:43
こんな所で言ってもしょうがないんですけど
ぶっちゃけ俺、田村磨呂の子孫です。
303日本@名無史さん:2007/04/14(土) 14:52:49
彦麻呂
304日本@名無史さん:2007/05/04(金) 17:58:54
田村麻呂の死因は?
305日本@名無史さん:2007/05/05(土) 00:36:34
新潟にも田村麻呂伝説があったような…
源義家の間違いかもしれないけど
306日本@名無史さん:2007/05/06(日) 05:13:59
田村麿の子孫で 上総 屋形に土着してるみたいだが 将門のおじも いるんだが 血縁になってるんだろうか?関東におおいよね
307日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:32:46
日本史に興味を持たないまま大人になって
気が付いたら先祖の敵と結婚してたなんて話は多いんだろうな。
308日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:31:17
田村神社
ttp://tamura-jinja.com/
主神が坂上田村麻呂命の神社
一度参拝してみたいね
309日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:38:48
>>304
粟田にあった別宅で811年5月23日に54歳で亡くなった
天皇の勅により甲冑、兵仗、剣、鉾、弓などを身につけ東に向けて立ったまま埋葬された
310日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:39:57
福島県には田村麻呂の話が沢山あるょ
311日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:47:23
>307
敵対していた人の子供同士結婚もあるし、別にいいんじゃね?
貴族も武家も、上層階級は政略結婚が多くて、
敵対している者同士、親戚関係であることも多いし。
312日本@名無史さん:2007/05/13(日) 21:33:31
>>309
いや、俺が言ったのは死因。
313日本@名無史さん:2007/05/13(日) 22:22:05
丹波哲郎は坂上田村麻呂の子孫ではなく
坂上田村麻呂と同じ後漢の霊帝の子孫
314日本@名無史さん:2007/06/04(月) 12:23:12
墓がみつかったってよ
315日本@名無史さん:2007/06/04(月) 14:31:41
らしいね
316日本@名無史さん:2007/06/04(月) 14:36:49
関東や東北地方には、大同元年や大同2年の創建年を伝える神社が、
しばしば見受けられるが、これは坂上田村麻呂の東征と関係していると聞いた。
詳しいことを知っている方、教えてください。
317日本@名無史さん:2007/06/04(月) 19:50:10
坂上田村麻呂の墓所特定 京都の「西野山古墓」
ttp://www.asahi.com/culture/update/0604/OSK200706040016.html

平安初期の武人で上級貴族だった坂上田村麻呂(さかのうえの・たむらまろ)の墓を、
京都大大学院文学研究科の吉川真司・准教授(日本古代史)が文献調査で特定した。
1919(大正8)年に京都市山科区で発掘された「西野山古墓(こぼ)」の可能性が極めて高いという。
田村麻呂が創建したという清水寺(京都市東山区)に残る平安後期編纂(へんさん)の
「清水寺縁起」に墓の位置が記されていた。
318日本@名無史さん:2007/06/04(月) 23:38:16
今までどうしてわからなかったのか、逆に疑問なんだけれど?
319日本@名無史さん:2007/06/08(金) 18:16:21
>>318
学者はみんな知ってたよ
民間の団体でも30年前から主張してた

田村麻呂の墓とされてきた所の地元の人らが言ってただけ
320日本@名無史さん:2007/06/08(金) 19:15:41
>>317
これか。田村麻呂の生没年は758−811>>309だから、死の直後に追贈
されたわけか。現在の山科って、古代は宇治郡に属していたのか。
”田村麻呂ゆかりの清水寺(京都市東山区)にあった古文書に、八一一年十月付の
「(田村麻呂の墓に)山城国宇治郡七条咋田(くいた)里西栗栖村の水田、陸田、
山を与える」という記述があった。この場所を・・・西野山古墓と一致することが
判明・・・・”
坂上田村麻呂の墓か 京都・山科で発掘 2007年6月4日
http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2007060402021562.html
321日本@名無史さん:2007/06/08(金) 23:17:18
>>308
>田村神社・・・・
甲賀の土山町にある>>63社だね。土山町は、いつから甲賀市に改名したんだ?
322日本@名無史さん:2007/06/09(土) 03:58:19
◆一徹レッドゲルマン レッズ本スレ2351◆
http://ex20.2ch.net/test/read.cgi/soccer/1181276371/


>最近、新たな墓が見つかったっていう坂上田村麻呂で思い出したんだが
良く考えてみたら征い(変換出来ん)大将軍の初代が坂上って訳分からん。
とりあえず将軍ってのは鎌倉以降はその血縁とか血が繋がっていなきゃ表向きはなれないはずだよね。
源氏じゃないから、秀吉もどんなに頑張っても最高位は大政大臣にしかなれなかった訳っしょ。
家康の場合は家系図を偽造したって聞いたことあるけど。
それなのに、なんでもない坂上田村麻呂が将軍になれたってどういうこと?
時代背景が単に違うだけ?
323日本@名無史さん:2007/06/09(土) 09:37:44
>>322
源氏しかなれないというのは俗説
宮将軍は皇族だし、摂関家の将軍もいる
324日本@名無史さん:2007/06/09(土) 12:07:28
いちりつ う〜らわっ おおおーお
325井沢はバカですよ:2007/06/09(土) 14:55:15
■朝鮮民族の故郷はシベリア・ヤクーツク地方

 朝鮮人は、アムール河流域に住んでいるツングース系諸民族と同種のようである。
アムール河流域の民族には、熊や虎を「山の主」「森の主」として崇拝する信仰があるらしい。
どうやら、朝鮮民族(ワイ族)は、アムール河の以北のシベリア地方から南下してきたようだ。
 朝鮮人の先祖は、狩猟民族のワイ族であるが、このワイ族はロシア領=シベリア・ヤクーツク地方に
住んでいるヤクート族やエベンキ族、エベン族と同種の民族である。
 ワイ族は紀元前の時代、シベリア地方でトナカイやカモシカ、猪などの狩猟をしながら生活していたらしいが、
獲物であるカモシカや猪を求めて南下していき、やがて古代カラ半島の東北部(現在の江原道地方)に
辿りついたようである。南下のルートは下記のような流れであろう。

 シベリア=ヤクーツク地方→ アムール河中流域→ アムール河下流域→ カラ半島東北部

【ヤクーツク地方】
http://www.khabarovsk.ru.emb-japan.go.jp/j/shinai/ykt.htm

【アムール河】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%B7%9D

 朝鮮・韓国人は、「自分たちの先祖は満州地方からやって来た高句麗人(フヨ族)だ」と、
主張しているが、これは誤りなのである。
 朝鮮・韓国人とフヨ族はまったく無関係であり、別種である。朝鮮民族はシベリアから南下してきた
狩猟民族=ワイ族の子孫なのである。
 朝鮮人の土着文化がヤクート族やエベンキ族の文化に似ているのは、そのためなのだ。

★朝鮮民族とエベンキ族
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1553866
326日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:30:27
しぶし「東方鎮護」の寺に十一面観音つうのが祭られてるけど、
田村麻呂が清水さんに十一面観音祭ったことと、関係あんのかな。
327日本@名無史さん:2007/06/14(木) 17:55:41
コイツって今で言う在日だろ
328日本@名無史さん:2007/06/14(木) 20:57:32
日本に渡来してきた人って、いわゆる次男坊とかのイラん子たちばかり?
329日本@名無史さん:2007/06/16(土) 00:13:08
>>328
教科書嫁。
330日本@名無史さん:2007/06/18(月) 22:14:22
教科書には、載ってませんでした。そんなこと
331日本@名無史さん:2007/06/18(月) 23:34:08
>>330
百済の滅亡が載っていないはずがない。
332日本@名無史さん:2007/06/29(金) 14:34:23
この人が扱われてる漫画とかゲームってないっすか?
333日本@名無史さん:2007/07/02(月) 15:18:29
麻呂の祖先が日本に渡来したのは いつ頃ですか?
334日本@名無史さん:2007/07/02(月) 18:27:22
五世紀末
335日本@名無史さん:2007/07/04(水) 14:04:33
坂上田村麻呂が
後漢の皇帝の子孫というのは自称。
実は、日本人。
336日本@名無史さん:2007/07/04(水) 16:34:22
実は朝鮮から来た
337日本@名無史さん:2007/07/23(月) 19:21:21
田村麻呂はどこに生まれた?
338日本@名無史さん:2007/07/24(火) 18:39:20
>田村麻呂はどこに生まれた?

生まれたのは平城京だろ。
父は、坂上苅田麻呂。
死んだのは平安京。
東山五条の将軍塚は田村麻呂の墓。
近年、もっと東の山科区の古墳から骨壷が出、
田村麻呂のものと騒がれたが。
339日本@名無史さん:2007/07/27(金) 09:30:03
>>327
在日十数世は在日に入るのか?

出生地は諸説あるが不明
340日本@名無史さん:2007/07/27(金) 09:31:01
あと田村麻呂は鎧を着て立ったまま土葬されたから骨壺はない
341日本@名無史さん:2007/07/27(金) 20:10:51
>>337
自称でしょ・・・
桓武天皇の母方が百済の王族だと自称したように、
田村麻呂も自称。
日本書紀の後から出てきた新興豪族は、
神様の子孫と書かれてある天皇家や旧豪族に対抗して、
自分も海外の王族の子孫と自称したわけ。
342日本@名無史さん:2007/07/28(土) 12:35:59
母について何も資料なしか・・・
343日本@名無史さん:2007/07/30(月) 11:09:48
徳川家康の佩刀、三池光世のこしらえは坂上田村麻呂の佩刀を真似してる
344日本@名無史さん:2007/07/31(火) 09:10:34
伊達正宗の正室、愛姫は坂上田村麻呂の血筋
345日本@名無史さん:2007/07/31(火) 11:30:28
>344
愛姫の実家は田村家。
しかし、坂上田村麻呂の確実な子孫というわけでもないよう。
(ちなみに、坂上田村麻呂の姓は「坂上」)
愛姫は田村家の一人娘であったため、
伊達政宗と愛姫の孫が田村家を再興している。
346日本@名無史さん:2007/08/14(火) 14:29:48
坂上田村麻呂が主に使ってた家紋って大前車紋なんだよね
ttp://xn--4gq074ao5z7sk.crest-japan.net/shokubutsu/obako.html

田村氏は車前草紋を家紋にしてるが、田村麻呂の時代は家紋の定義が違うしどうなんかな?
週間日本の100人の後ろのいっぱい載ってるとこでも車前草紋だった
347日本@名無史さん:2007/08/27(月) 15:22:40
>>344-345
坂上田村麻呂系田村氏は、
小山若犬丸を匿って関東公方足利氏満に反抗したから、
応永三年(1396)に所領を没収されて滅亡しているぞ!!

愛の先祖は平氏系田村氏だよ!!
348日本@名無史さん:2007/08/27(月) 17:02:17
>>339
まったくです。
最近は、在日と帰化との違いが分からない馬鹿が多くて困る。

在日:故国に対しても居住する国に対しても、感謝の気持ちを持たず、まともに義務を果たさず、何ら貢献をしないクズ
   (表面的な建前や口先は、きれいごと多し)

帰化:中国や朝鮮半島の人間になることを嫌い、おぞましく思い、日本を慕って、日本人になろうと努力する人
   (稀にカスもいるが、カスはどの国民にもいる。なお、渡来系のカスの多くは、例えば820年などに大量粛清=ぶっ殺された。)
   古代の帰化人は、概ね下級官僚、工人、百姓、馬飼などに従事
   特に新羅系は、最初は土地だけでなく食料(=稟=米蔵)ももらわないとやっていけず(持統元年など)、乞食状態だった。
349日本@名無史さん:2007/09/18(火) 15:48:40
この人は倭人じゃないの?
ペルシャやイラン系?
中国朝鮮モンゴル系?
350日本@名無史さん:2007/09/27(木) 11:28:45
資料が無さすぎでわからん
351日本@名無史さん:2007/10/08(月) 15:15:13
英雄
352日本@名無史さん:2007/10/08(月) 15:28:21
トンデモ説になるけどペルシャ系帰化人だとロマンを感じるよ
353日本@名無史さん:2007/10/17(水) 20:22:57
反日本親朝鮮の記事捏造アサヒる新聞は日本から出て行け。
354日本@名無史さん:2007/10/18(木) 00:12:11
>>353
握手会でセンズリした手を出してんじゃねーぞwww
355日本@名無史さん:2007/11/09(金) 04:40:23
田村麿の場合、混同が多いんだよね。
「源義家」「俵藤太」あたりの伝承とさ。
逆も然り、だけど。
特に多いのが「藤原利仁」と混同。
おなじく蝦夷とやりあった利仁が、謎多い無茶苦茶な人な上に、
後世での知名度が猛烈に低いもんで、
その伝承説話が田村麿あたりに吸収されちゃってる。
356日本@名無史さん:2008/01/06(日) 20:44:14
英雄だからな
357日本@名無史さん:2008/01/12(土) 21:09:43
                                                  
 古代の半島東南部に、志羅紀(シラキ)という倭人国が存在した。天日矛の祖国・シラキの国号の意味が、
ついに明らかになった。
 シラキとは、知城(知らす城)の意味である。つまり、「首都」という意味の言葉である。
シラキとは金城(現在の慶州)の古名なのである。金城とその周辺地方をシラキと呼んでいた。
 なんと、1世紀頃まで、つまり漢朝の時代まで、シラキは半島南部の全域を支配していたらしい。
紀元前1世紀の半島にあった漢朝の地方領、真番郡・臨屯郡の南方に位置した韓(カラ)という国。
 実は、この韓(カラ)こそが、神武天皇の皇兄=稲飯命によって建てられた志羅紀(シラキ)なのである。
 日本海側から東シナ海側に至るまで、4世紀以降からミマナ・クタラと呼ばれるようになる地域まで、
シラキ領土だったのだ。
 大和朝廷が半島南部を支配するために置いてた官庁・任那日本府は、3世紀頃までは金城(シラキの都)に
置かれていたのである。

 興味深いのは、漢朝が半島に四郡を置いて支配していた紀元前1世紀の時代においても、
漢朝は韓(カラ=シラキ)を漢領土に組み込むことなく、その独立を認めていたことである。
 この事実は、紀元前1世紀の時代に、すでに倭人と半島漢人の間には友好的関係が確立されていたことを
暗示している。

358日本@名無史さん:2008/01/13(日) 19:46:28
茨木は田村麻呂が開発したとなってますよ
359日本@名無史さん:2008/02/04(月) 12:55:29
たった今『火怨』読んできますた。
田村麻呂は元祖『誠意大将軍』だったんですね。
360日本@名無史さん:2008/02/04(月) 22:25:00
>>347
前に大河ドラマでやっていた「独眼竜政宗」の中で流れる解説で
正室愛姫の出た田村家は坂上田村麻呂の子孫とやっていたが、
NHKが間違っていたのか?
361三重の男:2008/02/06(水) 00:57:34
三重の鈴鹿峠の頂上に坂之上田村麻呂が祀ってあった「田村神社」がありました。峠の頂上にある田村神社 坂の上にある田村神社
坂上田村麻呂って 名前は そういったところからきていると思うのですが、おそらくそうだと思うのですが確定できない。 
ご存知の方いらっしゃいますか?今は10キロ離れた滋賀の土山へ移れていますが 跡は峠にあります。
362日本@名無史さん:2008/02/06(水) 16:10:18
坂上田村麻呂の父は坂上苅田麻呂、
「類従国史」にも「征東副将軍坂上大宿禰田村麿」とあり、
つまり「坂上」は姓。
田村麻呂を祀る田村神社は全国各地にある。
363三重の男:2008/02/06(水) 19:37:45
こんにちは
坂上は名字でしたか。 教えてくれてありがとう。!
364日本@名無史さん:2008/03/31(月) 05:21:56
坂上神社、田村神社と名前はバラバラだけどね
滋賀の坂上神社は田村麻呂を祀る中では総本山
後は田村麻呂が各地に祖先を祀った(とされる)坂上神社、田村神社もある
365日本@名無史さん:2008/05/05(月) 08:10:35
坂上田 村麻呂 さかのうえのた・むらまろ
366日本@名無史さん:2008/05/07(水) 20:54:50
>>360
愛姫の田村氏は不確定要素があるから、坂上田村麻呂の系統だと断定は出来ない
367日本@名無史さん:2008/05/07(水) 22:32:51
文屋綿麻呂とはおほもだち。
368陽介:2008/05/08(木) 07:33:21
♪チャラララ〜ラララ
「アテルイ!」
369日本@名無史さん:2008/05/21(水) 22:44:41
坂上田村麻呂が主役の小説はないんか?
370日本@名無史さん:2008/05/23(金) 18:59:56
       |ミミ:::l   r‐‐ァ    r‐‐ゥ   _」  三|
        |ミミゝ'   . ̄       ̄   {,,,、 三|
      i´lミ: !   _,,.-_-       .-_、   :i 三|
      |:|ミ::ノ  .,,ィ'  `ュ    ィ"  ヽ,   | :ニ/i`l
      .!ヽ:l   . `'''''"´~ / ::. 弋''-‐.'`   |. ノi !;ノ
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         l ..|:i:::.     ;〃 ::  i,       | |';.ノ
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          .,ィ'フ .i ;;'、:: ゙ー-‐′  / .ノ ./    -〒ヽ
371日本@名無史さん:2008/05/29(木) 03:33:58
車前草
372日本@名無史さん:2008/05/29(木) 04:02:25
坂上遂高 文屋好立
373かめらまん:2008/06/08(日) 08:25:13
修学旅行に清水寺の写真撮影の注意事項。
清水寺の正門の所の「杉山○写真」に注意。修学旅行で集合写真を撮ると、隠れていたジジイが
撮った後から金を請求されるぞ。観光地ではよくあることで、撮影の足場があり
前もって「550円です」先に言う二条城は正当といえる。
ところが、清水寺の「杉山○写真」は撮影が終わると待っていたかのようにカメラマンに声を掛け、
先ず「書類記入だけしてれ」という。
おもむろに書類を書くと「○○○○円だせ」という。
(じじい、記入だけといったはずだ。)
気の弱いカメラマンが行くと「ここは文化遺産であるからと...」数万円請求されたという。
もともと石段であるわけだし。じゃあ、あんたがこの足場を作ったのかい?
集合写真は正門でなくてもいい。
文化遺産に便乗した過剰な「ぼったくり商法」これじゃ、ハワイのオウムおじさんだ。
でもオウムおじさんは笑顔なだけいい。清水寺の杉山○写真は品のない餓鬼界のうさんくさい
のジジイだ。
374日本@名無史さん:2008/07/09(水) 22:01:34
坂上田村麻呂が大河になったらなぁ
375日本@名無史さん:2008/07/10(木) 16:39:07
平安時代初期、蝦夷(エミシ)平定などに大きな功績を残した坂上田村麻呂(さかのうえ
たむらまろ)の墓が、大正8(1919)年に京都市山科区で発掘された「西野山古墓(こぼ)」
である可能性が極めて高いことが、吉川真司・京都大学文学研究科准教授(日本古代史)
の文献調査で3日、わかった。田村麻呂が創建した清水寺(同市東山区)に残る
『清水寺縁起』に墓の位置が明記されていた。同古墓から出土した金装(きんそう)大刀
などの豪華な副葬品もこれにふさわしいという。
古代史上の重要人物の墓が特定されるのは、極めて珍しい。■以下ソースにて

http://www.sankei-kansai.com/05_sogo/sog060401.htm
376日本@名無史さん:2008/07/14(月) 21:25:04
けっこう近くに今まで墓とされてたところがあるよね。
確かに、紛らわしい位置ではある。
377日本@名無史さん:2008/07/22(火) 08:02:50
将軍塚?
378日本@名無史さん:2008/07/22(火) 13:13:10
379日本@名無史さん:2008/07/23(水) 21:19:13
>>377
夜景で有名な「将軍塚」は桓武天皇が都の警備のために
武具をつけた軍人の像を作って塚に埋めさせたところ。

従来の坂上田村麻呂の墓は京都市山科区の勧修寺(地名)というところにあり
円墳が確認されているのと坂上田村麻呂の墓という石碑が建っている。
場所は平地で、今度田村麻呂の墓とされた西野山古墓は山の中腹にあるから
それほど近い場所ではない(区は同じだけどね)。
380日本@名無史さん:2008/08/30(土) 16:34:54
坂上田村麻呂の馬印かなんかが日の丸なんだっけ?
清水寺縁起絵巻の蝦夷征伐の図に書かれてるとかなんとか
381日本@名無史さん:2008/09/14(日) 13:33:40
あげ
382日本@名無史さん:2008/09/24(水) 13:45:25
武聖・坂上田村麻呂あげ
383日本@名無史さん:2008/09/26(金) 22:37:52
>>347
その田村さんも藤原姓だでねぇ。
まぁあの辺の実力者は、田村麻呂さんの子孫を名乗るのが定めなのじゃ。
うちとこも子孫だと言っているけど(家紋は茗荷ね)、江戸時代前期までしか確定してないしw


384日本@名無史さん:2008/10/02(木) 18:53:10
歴史ミステリーに出てきた「日本中央」という石碑の文字は、田村麻呂が
書いたってホント?
385ルシア:2008/10/18(土) 18:42:54
坂田村麻呂の歴史の歴史を教えて下さい。何の事でもいいのでお願いします。誰でもいいから誰でもいいからお願いします。 
386日本@名無史さん:2008/10/18(土) 18:52:08
                  
カラ半島の古代文明は大きく分けて2つある。

半島北部の遼東・楽浪郡にあった漢文明と、南部の倭文明。
遼東・楽浪郡の文明は漢人の文明。
半島南部=韓の文明は倭人の文明。

どちらの文明も、韓国人とは無関係だ。


387日本@名無史さん:2008/10/18(土) 23:47:48
坂上田村麻呂は渡来系韓国人を祖に持つのは事実
388日本@名無史さん:2008/10/19(日) 00:07:19
古代に韓国なんて国もなければ韓国人なんていないって。
389日本@名無史さん:2008/10/19(日) 22:03:57
天孫降臨
390日本@名無史さん:2008/10/23(木) 16:58:13
韓国は馬鹿だから
391日本@名無史さん:2008/10/23(木) 17:22:28
「韓国」を「からくに」と読ませたいのかもしれんよ。
392日本@名無史さん:2008/12/07(日) 20:47:29
大河ドラマにしてほしいな>坂上田村麻呂
393日本@名無史さん:2008/12/23(火) 11:52:33
タムラマロ坂上が会社にいる。
暴力沙汰で何度か捕まり留置場に度々入ってる。
自分のことは棚にあげてガミガミと他人に偉そうな態度で威張ってる。
そんな夢をみた。
394日本@名無史さん:2008/12/23(火) 13:15:26
タムラマロ坂上かーw馬鹿そうな名前だなw
395日本@名無史さん:2009/01/07(水) 19:45:47
名字は
坂上?
坂上田?
坂上田村?
どこまでか?
396日本@名無史さん:2009/01/07(水) 20:41:41
>>395
前のほうに出ているんだが、坂上田村麻呂は
「類従国史」に「征東副将軍坂上大宿禰田村麿」とある。
もうわかるよね。
「坂上大宿禰」が姓。
つまり、坂上が姓、田村麻呂(田村麿)が名。
397日本@名無史さん:2009/01/07(水) 21:28:43

平野の杭全神社は、孫が建てたんだよな!

398日本@名無史さん:2009/01/08(木) 15:17:43
>>349
目が青い、金髪、背が高いことから
ペルシャ系だって言われてるね。
399日本@名無史さん:2009/01/08(木) 18:01:01
悪路王
400日本@名無史さん:2009/01/09(金) 23:35:03
留置王
401日本@名無史さん:2009/01/21(水) 00:38:46
天地人
402日本@名無史さん:2009/01/22(木) 22:55:15
この人、ペルシャ人の子孫。
403武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/03/15(日) 01:14:27
鞍馬寺に伝わる(伝)坂上田村麻呂所用の黒漆剣が、
東京で一般公開されてる。
今日から始まった世田谷美術館開催『特別展平泉〜みちのくの浄土〜』で観られる。
坂上贔屓はすぐさま行け!
私は今日観てきたが、逸品ぞろいだったぞ。
ほんとう平安初期の東国仏像はやはりいいな…
404日本@名無史さん:2009/03/28(土) 21:41:19
静岡県浜松市浜北区にも「田村将軍神社」がある。
何で田村将軍なのか知らんけど田村麻呂らしい。
浜北に何か縁でもあったのかね?知っている人いる?
405日本@名無史さん:2009/03/28(土) 22:20:10
通ったんだろ、きっと。

聞くときは、上げろ。
406日本@名無史さん:2009/04/14(火) 21:57:59
わからんのが高句麗、百済、新羅、倭、の言語の違い。 誰か教えて。 
407日本@名無史さん:2009/04/14(火) 23:07:13
三十八年戦争での田村麻呂の具体的な行動って、記録に残っていないよね。
日本紀略などに戦果が書いてあるだけ。

それに比べると二回目の紀古左美とか、五回目の文室綿麻呂とかは詳しい。

延暦二十一年八月十三日に阿弖流為と母礼が五百余人を引き連れて投降したとあるが、
そうなった経緯もよくわからない。記録には「此度任願返入。招其賊類。」としか書かれていない。
思うに、三回目の大伴弟麻呂の征夷で胆沢の蝦夷は、ほぼ壊滅状態で、抵抗する余力がな
かったから投降に応じたのかもしれない。

三回目の戦果は、斬首457級、焼亡75ヶ所とあるから、徹底した殲滅作戦だったようだね。
二回目の紀古左美のときは、蝦夷の計略にはまって、みっともない敗戦して、桓武天皇の
大激怒くらって、決死の再戦を挑むけど、斬首89級と、官軍戦死者千人余りに比べると
少ない。
408日本@名無史さん:2009/04/17(金) 01:27:17
田村麻呂は胆沢の蝦夷に対して相当な数の殺戮を行ったってことかな。
焼き討ちした集落も多いし、大規模な殲滅作戦だったようだね。
北上川流域は無数の死体が累々と横たわっていた感じだったのかも。
409日本@名無史さん:2009/04/17(金) 12:22:46
源平争乱の頃に「将軍」といえば、坂上田村麻呂(征夷大将軍)か藤原秀郷(鎮守府将軍)を思い浮かべるのが普通だったと何かで読んだ
410日本@名無史さん:2009/04/19(日) 03:49:15
藤原秀郷って、鎮守府将軍としての実績って何かあるのかな。
411日本@名無史さん:2009/05/09(土) 21:30:45
坂上田村麻呂は武聖みたいなもんだからな
412日本@名無史さん:2009/05/14(木) 19:30:05
田母神もこの人と関係あるよね。
413日本@名無史さん:2009/05/18(月) 05:12:31
まじかよ
414日本@名無史さん:2009/05/22(金) 21:32:05
大河ドラマ化してほしいな
415日本@名無史さん:2009/06/20(土) 06:18:01
うちの母の家が坂上氏の流れの平野の五家七家というのの一つらしいんだが
詳細しってる方いません?
平野駅周辺は全部じいさんがもってたくらいでかい家だったらしい。
まあ家は落ちぶれて住友銀行になっちまったらしいが。
416日本@名無史さん:2009/07/07(火) 12:32:21
平野か
417日本@名無史さん:2009/07/07(火) 16:21:35
サカノウエタムラマロはユダヤ人です
418日本@名無史さん:2009/07/07(火) 16:37:11
漢の宗室の血を引いてるの?
419日本@名無史さん:2009/07/08(水) 02:13:09
自称新田源氏ぐらい眉唾
420日本@名無史さん:2009/07/12(日) 16:38:59
清水って何か意味あるの?   
421日本@名無史さん:2009/07/14(火) 00:06:24
ウィキには何も書いてないけど、坂上田村麻呂は渡来人って本当?
小熊英二が戦前の物語や歴史書なんかでは坂上田村麻呂は渡来人って書かれてたって論文に書いてた。
ま、史実ではなくて伝説かもしれないけど。
422日本@名無史さん:2009/09/09(水) 00:46:48
資料がなぁ
423日本@名無史さん:2009/09/10(木) 01:18:42
坂上老―坂上大国―坂上犬養―坂上苅田麻呂―坂上田村麻呂
この流れは小説が書けそうだな
壬申の乱から薬子の変までの流れを、坂上五代を通して書ける
424日本@名無史さん:2009/11/09(月) 20:03:58
坂上(さかがみ)との姓は、田村麿呂の流れなのだろうか?
425日本@名無史さん:2009/11/22(日) 21:26:03
坂上雲
426日本@名無史さん:2009/11/22(日) 22:16:47
>>421
東漢(やまとのあや)氏の一族だろ。
漢の皇帝の子孫ってのは眉唾にしても、百済系の渡来系豪族なのは事実。

だから、田村麻呂が桓武政権で高官になったとき、
「蕃人(渡来系の諸蕃氏族)、相府に入る」とか言われたんだろ。
427日本@名無史さん:2009/12/10(木) 16:45:37
田村麿の本当の古墓ってのは京都の山科にあるんでしょ?
竹林の中に?一旦は発掘して宝物が出てきたのに
何で古墓の位置が不明になったの?そんなことってありえるの?
意識的にやっているとしか思えないのだが・・・。
428日本@名無史さん:2009/12/10(木) 16:48:17
>>426
>百済系の渡来系豪族なのは事実。

百済は倭人の国なんだね。
祖国に帰って来たってわけか。
429日本@名無史さん:2009/12/10(木) 18:30:43
ははは
430日本@名無史さん:2009/12/10(木) 21:29:23
さかがみたむらまろ?
どこまでが名字?
教科書には乗ってないし読めないよ
431日本@名無史さん:2009/12/10(木) 21:47:07
坂の上の雲まろ
432日本@名無史さん:2009/12/26(土) 11:00:53
>>427
それ何情報よ?
坂上田村麻呂が日本人じゃないからか?
433日本@名無史さん:2009/12/27(日) 12:13:34
日本のカエサル
434日本@名無史さん:2009/12/27(日) 12:28:00
ミスター蝦夷殺しですな
435日本@名無史さん:2010/01/02(土) 11:45:00
日本中央もねぶたの起源も彼ではないよな
436日本@名無史さん:2010/03/06(土) 21:09:23
うむ
437日本@名無史さん:2010/03/26(金) 17:00:13
イメージ的にはかぶるな
438日本@名無史さん:2010/04/18(日) 18:49:08
さかのうえの たむらまろ
439日本@名無史さん:2010/04/19(月) 20:06:26
坂上氏も田村氏も田村麿の後子孫様として残ってるじゃん。wikiで見ると
440日本@名無史さん:2010/07/09(金) 19:28:04
坂上田村麻呂ってどういう音階で読んでる?

さ.か.の.う.えのたむ.ら.ま.ろ
□■■■□□■□□■□
■□□□■□□■□□□
□□□□□■□□■□■

とか

さ.か.の.う.えのたむ.ら.ま.ろ
□■■■■■□■■□□
■□□□□□■□□■□
□□□□□□□□□□■

とか
441日本@名無史さん:2010/07/10(土) 00:55:01
田村麻呂より苅田麻呂に興味がある
442日本@名無史さん:2010/07/10(土) 03:25:59
坂之上田村麿は、どんな形態の甲冑を着て
蝦夷と戦ったのでしょうか?
あの時代には源平合戦の時のような甲冑が既にあったのでしょうか?
それとも、大魔神が着ているような武人埴輪のような甲冑なのでしょうか?
教えて下さい。
443名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 00:05:36
>>442
昔見た絵本では、古墳時代風だったな。大魔神風ね。
子供心に、一番考えさせられたエピソードだった。
彼は、日本人(大和民族)の安全や領土を守るために、天皇の命を受けて
戦った人。・・・だけど先祖は漢から来た人。
戦った相手は出自がよく解らないけど、その当時東国に住んでいた「日本人の敵」。
彼と彼の配下の者は、天皇の命なら、どんな僻地にだって行って、日本人の為に戦うんだよ。
自分が日本人は何か、大和民族とは何か?と一番最初に考えたのは彼がきっかけだった。
トラウマかも。
444名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 00:49:10
戦前は武は坂上田村麻呂、文は菅原道真。
445名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 01:31:11
戦った相手に、おおたきまる-ってのがいたよねい。彼、夷子かねい?
446名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 03:09:25
奈良時代以前の渡来人って、普通に日本人の先祖なんだが・・・
どういう日本人幻想と渡来人幻想持ってんのかね
447名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 04:21:08
>>446
日本人とは、古来平和を愛する民で、
のんびりと稲作を行い、祭りを行い
時には山で狩りをしたり、海で漁をしたり、
自然に親しみ、神々を身近に感じ、四季を楽しみ、
祖先を敬う、そういう民だと思ってたし、今でもそう思ってる。
そういうのと、ちょっと違和感があった。
今では、そういう優しい日本人を守るためには、時には戦わざるを得ない事も有ったんだろう、
と解釈すると共に、感謝するしかないけど。
念の為書いとくけど、自分の考えは、けして一般性が有るとは思ってないし
万人が理解するとも思ってないけど。

448名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 04:26:50
>>445
ttp://www2u.biglobe.ne.jp/~nemoto-s/tamurarekisi_onimonogatari.htm
大滝丸、大多鬼丸ね
この人に関しては、普通に地方豪族とか土豪みたいな気もする。
449名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 16:32:45
448>> 御親切に感謝!神だね。
大多鬼丸これによると、確かに夷子というより地方の強大豪族の感じが強い気もする。by445
450日本@名無史さん:2010/07/14(水) 00:32:22
何か、どこかにこの方を祀った神社とか寺とかありますか?
ぜひ参拝してみたいです。
451日本@名無史さん:2010/07/15(木) 02:33:16
スレタイ通り清水寺でいいんじゃないの
452日本@名無史さん:2010/07/15(木) 15:05:22
>>451
今度行ってみます。
453日本@名無史さん:2010/07/27(火) 10:11:39
滋賀県の鈴鹿峠のちかくの甲賀あたりに田村麻呂さんを祭った田村神社があるよ、2月中旬にはお祭りがあります。
国道1号線沿いの琵琶湖と伊勢湾の中間ぐらい、愛知とか三重方面からだと車じゃないと不便かも亀山駅あたりから
タクシー、滋賀方面からはバスが来てるみたいです、地元に詳しい方いたら教えてあげてください。
お墓は山科にあり今は公園になって整備されてるって聞きました母がお参りしたことあるので参拝できるはずです、
清水寺は田村麻呂さんが建立した寺ですね田村麻呂さんを祭った寺ではないですが清水の舞台は超有名でもあり
行って損は無いと思われます。家伝では私の先祖は田村麻呂さんの家来です、良い旅を。
田村神社さんのホ厶ペです、貼っときます。
http://tamura-jinja.com/

454日本@名無史さん
>>453
創建1200年なんて、すごいですね。
何か、本当に田村麻呂の気配が身近に感じられそうな神社ですね。
こういうのを探してました。どうもありがとうございます。
ぜひ行ってみたいと思います。