1 :
日本@名無史さん:
仏教に断固反対したこの男について語ろう!
2 :
日本@名無史さん:04/10/16 11:52:07
2ゲット!!!!!
伝説でしかないから・・・。
4 :
日本@名無史さん:04/10/16 12:00:35
物部氏って北方遊牧系の未開人
の末裔じゃないの?
守屋自身が廃仏の代表となってるし
親父の尾輿のそうだし…
あ!楽しみなスレ。
黒岩重吾の小説でしか知らないので。
蘇我馬子は仏教伝来の裏にある渡来人の力を利用しようとしたのは分かるけど、
日本古来の神を押す物部守屋はなんのメリットがあったのだろうか?
古来の権力に頼るのは大王家、大伴家、など有力な家があるのに主導権がとれるとは
思わないんだが・・・
>>4 その妄想の物語を語るを許す。
思うぞんぶん語ってみよー!
物部氏って代々軍事を司る家だったんだよね?仏教が後々強大な
勢力に発展する(かなり時代が降るけど)のを予見していたんだろうか?
9 :
日本@名無史さん:04/10/16 12:07:31
>>6 モンゴルのテングリ(天神を敬う自然崇拝)
を祭る風習と似てるな、なんかね
あ…シャーマ二ズムだったな
10 :
日本@名無史さん:04/10/16 12:10:17
>>7 資料が殆どないから自分で
推測するしかないでしょう?
莫大な資料があれば、話は別だが…
>>9アニミズムが根強い時代だからシャーマンも力って大きかったんだな
昔の天皇さんも仏教がすごいなーって思ったんだよ。
>>6 それがそのまま物部氏のデメリットになったから蘇我氏(仏教)を排除しようとしたのでは?
でも黒岩が物部氏の本拠地で寺のモノと思われる瓦が出てきた・・とも書いてたなぁ。
14 :
日本@名無史さん:04/10/16 12:14:42
>>10 とりあえず馬子の妻が守屋の妹かどうか?辺りから
15 :
日本@名無史さん:04/10/16 12:17:10
そういえば、だいぶ前に
NHKで本木雅弘が演じた『聖徳太子』
を観たけど、当時は肉食中心で兜・鎧に
もマントを着用していたな…
今までの時代劇のイメージから払拭されたな
むしろ、小型版の中国のドラマのような…
>>12馬子が推奨したから、まあやりたきゃやれよって感じ(学研の本)になってたけど?
>>13物部氏も渡来人取り込んでるし(東京書籍日本史教科書参照しました)
少しながらでも影響受けてたのかな・・?
17 :
日本@名無史さん:04/10/16 12:22:03
河内の渋川廃寺や、天理の豊田廃寺はどうする?
守屋が滅んだ後の建立なのかな。
じゃあまず
>>14氏のところから考えよう!このころの政略結婚て
どれくらい重要度があったんだろう?平安、戦国時代並みに効果が期待されたんだろうか?
奈良時代まで降ればかなり効果大だったらしいけど
さああげとくよ!
20 :
日本@名無史さん:04/10/16 12:34:39
まぁ、そんなに頑張るなや。マターリいこうぜ。
結果として
「故因母財、取威於世」
となってしまったのを見ると、
物部氏側もかなりリスクを負った婚姻だったみたいだな。
>>1 これ以降レスする内容はすべて黒岩の本で読んだモノですので。
当初の豪族は宗教として受け入れたというよりは最新の文化と技術(=建築?)が吸収出来る、、くらいの認識だったのでは?
なので廃仏派だったから潰されたのではなく蘇我氏が実権を握る上で邪魔だったから潰したのでは?という感じだった気が。
手元に本が無いので今イチ思い出し切れません、、。
>>20そうだねマターりいきましょう。蘇我氏の台頭はめの見張るものが
あったから相当なリスク覚悟の婚姻だったのか
1さんはスレの道筋
どっちか方向を指示したいのか?
>>20 やはり大伴氏を排除するのに両氏が手を組む必要があった・・ということなのでしょうか?
たしか物部氏の前の大連って大伴氏でしたよね?
>>23 ごめんなさい!自分のレスが遅いせいで流れがおかしくなってしまってるかも??
26 :
日本@名無史さん:04/10/16 12:47:10
>>24 いや前じゃなくて、大伴金村と物部麁鹿火は並んで大連だったけどな。
両氏が手を組むための婚姻っていうのは面白いな。
大伴氏を排除したために、物部氏だけが大きくなって、
それに反感を抱いた大夫層をうまく取り込んでいったのが蘇我氏。
すべて計算ずくだったのか?稲目よ。
>>5どんな文献、個人的見解も歓迎の方向で!
と言うことは物部と蘇我の戦いは馬子の計略だったの?
蘇我氏にしてみれば軍閥の物部氏を倒すことによって周りの有力な氏に、
蘇我氏中心の政治体制を確立するアピールとしては、危険球のような気が
するな・・・。
5さんの純粋さには1も敵わなかったといことですね。
5さんはいい人だ。
29 :
日本@名無史さん:04/10/16 12:49:30
>>24-25 漏れはこのカキコで黒岩重吾の小説を初めて
知りますた、一体どんな内容なの?
>>18 馬子以前の政略結婚を考えるといい。
やはり、先駆けは継体か?稲目か?ってとこだが…
継体も稲目も天皇の第一の後継者を政略結婚の成果に出していない
領地の相続に関して母系が優先されていたのかな?
黒岩重吾は推理小説だよ
>>23方向付けをすればスレしやすいかなと思ったので(5さんに感謝)
当時の物の現物を見てから・・
34 :
日本@名無史さん:04/10/16 12:57:38
領地の相続に関してはどうなんだろう・・・嫡流にとらわれて
いたのか?
36 :
日本@名無史さん:04/10/16 13:03:31
「守屋の妹=馬子の妻」を利用した、蘇我氏の物部収奪に関しては
加藤謙吉の「蘇我氏と大和王権」がくわしい。
それにしても、亀井輝一郎は「古代国家と物部氏」を
何時になったら出してくれるんだ。
38 :
日本@名無史さん:04/10/16 13:09:48
>>1 >みなさん
ありがとうございます!
確かに危険球ですよね。でも仏教から最新の文化、技術が吸収出来るとなれば支配下の土地土地では殿様だった豪族からみればちょうど良い権力誇示になったのかも・・ですね。
>>26 あ!そうでしたね!大連が2つ・・思い出しました。
大夫層。
連姓からもやはり反感買ってたのでしょうか?
>>29 黒岩小説、古代史がたくさんありますよ!
守屋が主人公の小説は「磐船の光芒」です。
あとはエッセイみたいな本で「古代史の歩きかた」だったかな・・?
ちなみに捕鳥部 万の短編小説もありました。
>>30 あぁ・・なるほど。
今の考え方からすると蘇我氏から物部に嫁ぐならともかく、
物部から蘇我へ・・っていうのは蘇我氏のデメリットを感じてしまいます。
うわああん泣、近所の本屋がつぶれてた
>>34 シモネタ古代小説。
確かに!w
捕鳥部・・の小説の題名、思い出せません。
なんでしたっけ??
ではまた夜にあらわれまーす
同時代には南朝梁の武帝が善政をしくが仏教に傾倒した挙句…
という事実を守屋が知っていたかどうかが問題だな。
45 :
日本@名無史さん:04/10/16 14:18:40
46 :
日本@名無史さん:04/10/16 14:44:03
48 :
日本@名無史さん:04/10/16 14:52:10
日本書紀や先代旧事本紀はネット上でも扱ってるサイトがあるけれど、
紀氏家牒の逸文は大きな図書館に行かないと見られないかな。
関係あるところを引用しておく。
馬子宿禰男、蝦夷宿禰家、葛城県豊浦里。故名曰豊浦大臣。
亦家多貯兵器、俗云武蔵大臣。
母物部守屋大連[亦曰弓削大連]之妹、名云太媛也。
守屋大連家亡之後、太媛為石上神宮斎神之頭。
於是、蝦夷大臣以物部族神主家等為僕、謂物部首。亦云神主首。
49 :
日本@名無史さん:04/10/16 15:06:24
「蘇我馬子の子の、蘇我蝦夷の家は、葛城の豊浦里にある。そのため蝦夷の名を豊浦大臣ともいう
また、その家にはたくさんの兵器を貯えているため、武蔵=武器庫の大臣とも通称された。
蝦夷の母は、物部守屋大連(別名・弓削大村)の妹で、名を太媛(フツヒメ)という。
物部守屋大連の家が滅んだあと、太媛を物部氏の氏神だった石上神宮の斎主とした。
そして、蝦夷大臣は、石上神宮の祀官として物部氏の配下だった、物部族や和邇氏同族の神主家を下僕とし、
それらを物部首といい、また神主首といった」
だいたいこんな訳かな。間違ってたらスマソ。
参考に新撰姓氏禄大和皇別の布留宿禰条からも。
「四世孫、額田臣、武蔵臣なり。
斉明天皇の御世、宗我蝦夷大臣、武蔵臣を物部首、ならびに神主首と号づけり。
これによりて臣の姓を失ひて、物部首と為れり。
男、正五位上日向、天武天皇の御世、社の地の名に依りて、
布瑠宿禰の姓に改む。」
>>5 黒岩だと、文春文庫「影刀」(短編集)の中に、「捕鳥部万の死」というのがあるよ。
夕方のいっぱつあげ!!
>>44おお!なかなか興味深いですね。当時と言えども中国の
情報は入ってきてるだろうから知ってたかも!!当時は朝鮮
半島に大和政権の勢力あったのかな?聖徳太子の時しかわからない
から解説キボン
誰も来てない四・・・
53 :
日本@名無史さん:04/10/16 20:01:16
>>39 >連姓からもやはり反感買ってたのでしょうか?
そういえば、紀に出てくる守屋討伐軍の連姓氏族は、大伴氏以外は
みんな臣姓だな。
大伴氏まで取り込んだ蘇我氏は立派だよ。
追い落とすときに、物部尾輿のほうが表に出たせいか。
>>51 聖明王が死んで危機に陥った百済に対する蘇我稲目の答えは
「神を祀ったら国は栄えるだろう」
つまり何もせずに放置したってことだ。
半島での大和王権の勢力はかなり減退していたと思われ。
げ、間違えた。逝ってきます…
守屋討伐軍の連姓氏族は、大伴氏以外は
みんな臣姓
↓
守屋討伐軍の連姓氏族は、大伴氏だけ。
それ以外はみんな臣姓
>>53サンクス!白村江の戦いで大敗したのも分かるきがするな。
もっと外交うまくしてたら任那残って後々勢力図が大きくかわってたかも
>>53 そのやり取りには「蘇我臣」「蘇我卿」とあるだけで
稲目の名前は出ていない。
また、翌年には聖明王の子余恵に援助もしている。
全体的な趨勢としては半島での力が減退してたのは間違いない
ところで「蘇我卿」て誰? 文の流れ的には稲目しかいないと思うんだが。
目覚めの一発揚げ!稲目っぽいと思ったけど、くわしいひとカモン!
59 :
日本@名無史さん:04/10/17 11:16:19
門脇禎二の説だったか、蝦夷の「豊浦大臣」は
東大阪市の豊浦の地名にもとづく、とするのがあった。
石切劔箭神社がすぐ近くの、母方の物部氏勢力圏で
蝦夷は幼少時代を過ごしたってことか。
明日香の豊浦は、彼が成人して邸宅を建てた後の地名だろう。
>>48-49 の「葛城県豊浦里」は微妙だな。
現在は残ってないだろ? こんな地名。
62 :
日本@名無史さん:04/10/17 12:59:21
>葛城県豊浦里
紀氏家牒の記述の誤りと見るのが自然。
1446年に書かれた和州五郡神社神名帳大略注解に
推古天皇が葛城の豊浦宮を小治田に移して豊浦小治田宮といったのが
明日香の豊浦の地名起源とあるが、信用できない。
63 :
日本@名無史さん:04/10/17 13:03:46
>>63おお!興味深いですね。と言うことはすべては蘇我氏の
毒牙にさらされた物部氏にとって仏教弾圧、蘇我との全面戦争
は最終カード(対北朝鮮のニュースみたいな表現ですが)だったんでしょうか・・・
>>62資料が不正確で特定は難しそうですね
がっこにいくまえに一発揚げ
66 :
日本@名無史さん:04/10/18 17:24:44
>>14 とりあえず、旧事本紀のような異伝(というか作為?)はあるが、
日本書紀の「守屋の妹=馬子の妻」以上に蓋然性が高いとは言えない、
という結論でいいみたいだな。
ただ、最初から物部氏の財産を乗っ取るつもりで、
蘇我氏が嫁にもらったということはないだろ。いくら稲目の考えでも。
当面の協調が目的だったのでは。
物部氏に代わって物部を統括するには、名目が必要だったろうし
守屋以外の生き残り物部連や世間を黙らせるために
馬子は妻である「守屋の妹」を最大限利用する必要があったんだろう。
66さんのまとめに同意です。
稲目が婚姻を受け入れた段階で乗っとり考えるのは
少しきついですね。稲目が藤原道長、毛利元就並の策士なら話は別ですが
68 :
日本@名無史さん:04/10/18 20:32:50
でも旧事本紀って守屋は物部の本流じゃないみたいなこと主張してんかったっけ
そうなの?物部氏の家系図みたいなのは・・・あるのかなあ・・・
70 :
日本@名無史さん:04/10/18 21:40:17
>>68 蘇我氏マンセースレからコピペ。
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1051920599/ 244 :日本@名無史さん :04/08/23 02:45
不思議なのは、物部が、自分とこの外孫だって、系図説明でわざわざ自慢してること。
265 :日本@名無史さん :04/09/05 11:17
>>244 旧事本紀がつくられるまで、かなりの年月が経ってしまってるからね
石上麻呂や宅嗣を懐かしんでも、
守屋なんて大昔の時代の話は、歴史に出てくるだけで
没落氏族にとっては自慢の種だ
270 :日本@名無史さん :04/10/01 00:32:50
>>265 守屋は傍系になってるよね?
271 :日本@名無史さん :04/10/01 15:04:30
>>270 石上朝臣が主流になったから、結果として傍流に位置づけられただけ。
…つまり、守屋は本宗家の地位にあったが、持統朝あたりから物部氏本流になった
石上朝臣の都合で傍流に位置づけられちゃった、ということか。
まぁ、滅んじゃったんなら仕方ないわな。
71 :
日本@名無史さん:04/10/18 21:44:23
>>69 旧事本紀の天孫本紀系譜については、ここ見れ。訳もある。
www.h4.dion.ne.jp/~munyu/kujihonki/kujiki.htm
73 :
日本@名無史さん:04/10/18 22:28:30
馬子の子どもの豊浦大臣は別名を入鹿といった、
なんて書いてあるんだよね。先代旧事本紀ってw
皇極紀に蝦夷が大臣の位を息子の入鹿に継承した次の文に
復呼其弟曰物部大臣(またその弟をよんで物部大臣)
とあって、唐突に弟登場かよ!と疑問に思っていたんだが
実は弟は第(邸の意味)の誤植という説があるらしく
これでいくと…
復呼其第曰物部大臣(またその邸から名付けて物部大臣)
ということになり、入鹿がまだ父蝦夷の豊浦邸に住んでいたのであれば
入鹿もまた豊浦大臣ということにならんか?
帰宅あげ!
>>74さんの三村つっこみと考察感謝!入鹿が謀殺されたとき
蝦夷は自宅で火を放たれたんだよね・・・一緒に住んでたのは十分ありですね
ただし入鹿は馬子の子供ではないが。
>>59の説なら蝦夷個人の通称が豊浦大臣っぽいな。
入鹿の代になっても、まだ物部大臣なんて言って
物部氏の威と伝統を借りなくてはならなかったというのは面白い。
77 :
日本@名無史さん:04/10/19 19:18:23
>>17 豊田廃寺は石上神宮から一キロくらいの距離だったな。
出土の軒先瓦は飛鳥時代の軒丸瓦だけ。
そのせいで、長く存続せず創建から間もなく廃絶した可能性もあるとか。
物部氏やその配下が葬られたらしい石上豊田古墳群のエリアにもかかっているし
守屋生前の時期の物部氏による建立でもおかしくない。
石上廃寺も物部氏関係、といわれることがあるが、
豊田廃寺からさらに500b東に離れているし、
川原寺式・山田寺式の軒丸瓦は蘇我氏時代の官寺色が強い。
位置も都祁野に入る道の入り口にあるから
とくに物部氏に結び付けなくてもいいだろう。
渋川廃寺の軒丸瓦は向原寺式だな。
確かにかなり古い。守屋生前の建立かどうか微妙なところだ。
初期寺院が、豪族の住居を利用したり、邸宅内に仏殿を建てたりして
成立したことを見ると、守屋が自分の渋川の家の近くに建てた可能性はありそうだ。
玉林抄には推古朝の創建で、天皇の御願によるとあるが、
聖徳太子や推古天皇のつくった寺なんていくらでもあるから信用できんし。
ただし、渋川廃寺は奈良時代も続いていたから、どういう形で存続したのか
明らかにしないと物部守屋創建は成り立たせにくいのかもしれない。
78 :
日本@名無史さん:04/10/19 19:23:55
>>74 >>36の加藤謙吉は「第の誤記」説には否定的だったような。
聖徳太子伝暦に日本書紀とほとんど同じ文があるんだが
「第」とあるのは江戸時代の一部の版本に限られているとか。
帰宅あげ!
>>78じゃあやっぱり弟なんでしょうか?
まぁ、すくなくとも聖徳太子伝暦の書かれた平安前期には
「弟」だったということだから、それ以前はよく分からんのだろうが。
大和志料に引用された布留宿禰系譜には、この弟の名前は「敏傍」とある。
「日本歴史」という専門誌の253号に収録された
星野良作「皇極二年時に於ける蘇我氏の権力 紫冠・物部大臣をめぐって」
という論文が詳しいらしいから調べてみ。
78さんありがとう!!台風さったら早速調べてみます
帰宅いっぱつあげ!!!
>>76 物部氏の威と伝統というより、その軍事力が欲しかったのでは?
天武も物部の氏上の地位をなぜか持っていて有効利用していたし?
天智は入鹿を滅ぼした後、物部を自由にできなかったのが
白村江敗戦の遠因かも。
84 :
日本@名無史さん:04/10/23 20:59:20
伝統も重要ですよ。
蘇我氏なんて所詮、景行朝に活躍をはじめる武内宿祢程度しか
祖にすることができなかった氏じゃないですか。
物部氏は瓊々杵尊よりも先に天降ったと称することが出来た饒速日命が始祖。
天と地ほども違います。
85 :
日本@名無史さん:04/10/23 22:35:05
>>77,
>>83 物部氏の仏教文化受容と、大和王権の対朝鮮軍事・外交は関係ありそう
継体九年二月・四月、十年五月・九月、の物部至至連・物部連
継体二十三年三月の物部伊勢連父根
欽明十五年の物部莫奇武連
のような軍事将軍。
欽明四年九月の物部施徳麻奇牟
欽明五年二月の物部連奈卒用奇多、三月や十一月の物部奈卒奇非
のような日系百済官人。
少なくとも五世紀末以降の朝鮮への軍事的進出に
物部氏は関与していたといえそうだ。
>>84 でも武内宿祢って文武天皇の時代に創作された人じゃない?
歴史の敗北者として記録された蘇我氏より
隋書とか書紀の「蘇因高」あたりから推察したいんだけどなー
武内宿禰は6世紀前半の創作じゃない?
腹下し一発揚げ
89 :
日本@名無史さん:04/10/25 18:41:25
吉次一族の「おとな」
高橋克彦カヨ!(゚д゚)
91 :
日本@名無史さん:04/10/25 23:39:18
92 :
万年救護大本尊の朴蓮:04/10/26 00:10:06
結局国造りの主人公は物部氏で、
物部氏を中心に神話を
読み解かないといけないのかな?
>>92 守屋の前後の物部氏とは直接関係無いから
どうでもいいんじゃないの?
94 :
日本@名無史さん:04/10/27 19:52:38
>>85 物部氏は近畿から瀬戸内沿岸、北部九州の分布がハッキリしてますよね。
他の朝鮮派遣氏族も似たような分布傾向があります。
物部関連の地名が、近畿と遠賀川あたりの九州で一致するので
かなり長期間、朝鮮への軍事的関与はあったのではないでしょうか。
弥生時代に九州から近畿に移動したのだ、という説もありますけどね。
95 :
万年救護大本尊の朴蓮:04/10/27 20:40:00
関係ないのかなぁ。
通説どおり尾輿や麁鹿火の時代に饒速日の神話が形づくられたのだとすれば
間接的には関係があるかも。父親の世代だからね。
最近は壬申の乱のときの石上麻呂をモデルにして饒速日がつくられたなんて
ひどい説もあるらしいけれど。
この土日にこれまでの話の流れをまとめてみますね
98 :
日本@名無史さん:04/10/30 10:48:18
今、クリスマスなんかをエンジョイしてる人間でも、
もし天皇がキリスト教徒になりたいと言い出したら反対する人は多いだろうな…
守屋も仏教文化を取り入れることには賛成でも
用明天皇が個人的に仏教を信仰するのは嫌だったのかな。
>>15 あのマントにはワロタ。
てか太子の鎧兜の形状も、ありゃ5世紀始めから後半のタイプじゃなかったかと。
100 :
日本@名無史さん:04/10/30 22:27:28
もう100か。
宝田明の守屋は微妙だなぁ。決してダメだというわけではないのだが。
七支刀ってあんなふうに持ち歩く物じゃないだろ。
「ユラユラトフルベ」でワラタ。
101 :
日本@名無史さん:04/10/31 08:38:54
石上氏って、どうなったの?
102 :
日本@名無史さん:04/10/31 20:01:17
仁和二(886)年に従七位上石上朝臣並松って人の名前があるね。散位だけど。
七位じゃ、もう貴族ではないか。
宅嗣の死後、じわじわ衰退したと思われ。
103 :
日本@名無史さん:04/11/03 00:19:58
物部を語りながら出雲が一言も出ないか。
出雲国風土記にみえる物部臣は、出雲臣の支族と思われ
中央の物部連の系統ではない。
105 :
日本@名無史さん:04/11/03 10:47:13
物部というのは固有名詞ではないことが
ここでは自明なんだな
107 :
日本@名無史さん:04/11/03 16:47:45
パソコンが壊れて携帯しかないのでもう少し待ってください。すいません
109 :
日本@名無史さん:04/11/11 23:40:17
>>98 古人大兄皇子も大海人皇子も、
出家することで皇位継承の意思が無いことを示そうとしてる。
神祇祭祀の長たる天皇が、仏門に帰依しようだなんて
守屋の時代には奇行でしかない。反対する人間が出て当然。
1, 守屋の廃仏思想とそのメリットについて
問題提起:蘇我氏は蘇我馬子は仏教伝来の裏にある渡来人の力を利用しようとしたが、
日本古来の神を押す物部守屋はなんのメリットがあったのだろうか?
考察:軍事を司る物部氏にとって蘇我氏の台頭が脅威となってきたため、仏教と
共に葬り去ろうとした。その当時渡来人の技術、文化に目を付けていたのみで、
国家の祭司である大王が他国の思想に染まるのを良しとしなかったため対立が深まった。仏教思想国家での主導権=蘇我氏、神道思想国家での主導権=物部氏という将来像を
描いていたのかもしれない。また、同時代の南朝梁の武帝が善政をしくが仏教に傾倒した為に反乱を招いたのを知っていたのかもしれない。
2, 守屋と仏教との奇妙な関係について
廃仏派である物部氏の本拠など物部氏ゆかりの地から寺の瓦が発見されたり、廃寺があったりと謎が多い。EX:河内の渋河廃寺、天理の豊田廃寺など
詳しいことは
>>77に書いてあります。
3,物部氏と蘇我氏の因縁について
問題提起:馬子の妻は守屋の妹か?また遡っての婚姻関係はいかなるものか?
考察:まず、物部氏と大伴氏の関係から。大伴金村と物部麁鹿火は並んで大連だった。
推測だがパワーバランスは大伴>物部であり、軍部掌握を目論む物部氏は他家と共同し
大伴氏を打倒する方針とした。同じく勢力拡大を目論む蘇我氏と婚姻することにより両氏は大伴氏を排除した。
○ここまででの疑問点とこれからへの指針
大伴氏を排除し大きくなりすぎた物部氏。それに反感を持つ大夫層を取り込んで、後に
物部氏をも排除し飲み込んだ蘇我氏。婚姻の時点でここまで先のシナリオを稲目は想定していたのか?そして物部氏から蘇我氏へ嫁ぐ婚姻は蘇我氏にとってデメリットを感じるが稲目の思惑は?
>>48-49に文献があるがその解釈について議論中
関連ホームページ
http://homepage2.nifty.com/hpsuiren/sizoku/umako.htm また、物部氏の家系図
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1051920599/ ○現在の流れ
物部が滅んだ後も物部の名を借りて軍事を統治する蘇我氏についての考察
物部氏の仏教文化受容と、後の大和政権の対朝鮮外交についての考察
仏教と当時の政情との関係についての考察
このスレに来て頂いていた皆さん遅くなってすいません。これからもお願いします。
113 :
日本@名無史さん:04/11/17 20:41:17
乙。
「パワーバランスは大伴>物部」はちょっと疑問だな。
5世紀後半に入ったあたりで同じくらいの力関係になって、天皇がそのバランスの上に立って
うまく両氏を使っていたような感じだと思う。
地方への展開や同族の数では、むしろ物部のほうが広かったり多かったりするし。
しかし、雄略天皇みたいに両氏を使いこなせるような強力な天皇はそうそう出るはずもなく、
物部・大伴氏の間で軋轢が生じていったときに、
物部氏のほうが先手を打ったということだろう。
>>113なるほど。たしかに日本史の教科書でも物部氏のほうが土地多く所有
しているように地図が描かれているんですよね。あと馬宿の皇子が皇族として
仏教推進派だったのがすごく気になります。太子が仏教に帰依後に山城の皇子(でしたっけ?)
が天皇の継承権があったのって何かしっくりこなくて
何、今の日本史の教科書は氏族の土地所有の地図まで載ってるのか?!
ほ…欲しいっ!! 編集したのは何て名前の先生なの?
>>115今手元に無いんですけど、日本史B東京出版だった気がします
117 :
日本@名無史さん:04/11/17 22:23:19
領有関係を記した大田文でも残っていたのか?
それにしても班田収授法いぜんの田畑の様子って知りたいな、もっと教えてくれよぉ。
当時の有力な家の領有地の位置取りの地図とか書いてありました。
あとは資料集に当時の田畑の様子、食事の様子、服装、兵器について
ですね。去年まで高校生だったのである程度は憶えてます。
119 :
日本@名無史さん:04/11/19 17:54:36
あげとくぜ
120 :
日本@名無史さん:04/11/19 20:58:36
>2, 守屋と仏教との奇妙な関係について
当時の王宮や豪族の居宅は、部と呼ばれる服属集団からの
貢納・奉仕によって経営・維持されていた。
それに対し、寺院を経営するための基盤となったのは、
東西南北(四至)を区画した一定の土地(寺領、後の荘園)と、
その中心にある建物(庄)だったと考えられる。
このような一定の土地に対する支配は、仏教伝来にともない、
寺院経営の手段として全く新たに輸入された経済制度だった。
その意味で、寺院は単なる文化施設ではなかった。
人間集団に対する支配で成り立つ宮室・居宅と、
土地に対する支配で成り立つ寺院とで相違はあるが、
いずれも支配者層にとって彼らの財産を統轄・管理する
センターとしての役割をもっていた。
特に寺院は新しい経済制度を背後にもつだけに、
新たな財産を拡大し、蓄えるには格好の入れ物だった。
宮室・居宅の傍に寺院が営まれたのは、そのためである。
物部氏も渋川廃寺などの例を見ると、この動きを取り入れようとしていたらしいが、
このウジ名「物部」が示すとおり、部制によって勢力を拡大してきた氏だった。
新しい経済制度に適応し、それを活用していくには非常な困難があったに違いない。
>>121非常にわかりやすいレスありがとうございます。経済政策の一部だったんですか。
取りいれたいが困難だ・・・物部の心中が見えるようですね
「政策」だと国家的な意味になっちゃう。
私的な制度ってことでしょう。
聖徳太子伝暦に、山背大兄皇子の息子の弓削王が
入鹿の命を受けた斑鳩攻略軍の襲撃から六日後、
生駒山に逃れていた一行から離れて単身斑鳩寺に潜入したことが書かれてる。
結局、大狛法師という坊さんに殺られちゃうんだけど、
炎上した斑鳩宮の代わりに、斑鳩寺を再起の足がかりにしようと考えたんだろう。
財産の管理センターの役割がもともとあったのなら、
宮の機能の代替も可能だったのでは。
124 :
このスレの1 ◆K9AqEZzyG. :04/11/23 00:47:45
あげますね〜
>>122なるほど・・・官僚みたいなシステムが出来てたんですね。
それにしても坊さんが殺すとは・・・殺伐としすぎ・・・
126 :
日本@名無史さん:04/11/23 15:09:27
もののべ→もののふ→武士
武士とは古神道を重んじ、軍神たらんとした守屋の理念を次ぐもの。
朝廷勢力に対抗する地方の反骨。平安中期までは、朝廷の仏教国教化と同時に
進行する中央集権政治に対抗する心の支えは守屋だった。
その後、八幡太郎義家にとって変われた・・・・。
物部神社は八幡宮に凌駕された。
物部vs蘇我って新羅系渡来人と百済系渡来人の
対立じゃないの?
ついにここにも電波が…
130 :
日本@名無史さん:04/11/24 13:55:13
軍神は、物部荒鹿火。
131 :
日本@名無史さん:04/11/24 14:24:23
高札ってもねえ...そもそも史料少ないだろ。
じゃ、「そろそろ本気で物部守屋を妄想しよう!」に路線変更しとく?
>>130そうでしたか!自分でも調べてみます。
>>131-132歴史群像などのソースで議論するスレはたくさんあるのでここは敢えて
自分の考え(妄想ととらえられてもかまいませんが)を語るスレです。
元々どんな文献、資料、個人的解釈も歓迎スレなので緩く考えて頂けたら
幸いです。
135 :
日本@名無史さん:04/11/24 23:21:36
守屋には脱出して生き延びた伝説とかないの?
1も北斗の拳なんか立ち読みしてるヒマがあったら
個人的解釈を練ってこいや。
っーか、漢ならレイよりラオウだろ。
お、俺の日記を見るなんて・・・まあいいけど・・・
それが最近どうも本に巡り会わなくて・・・前に紹介して頂いた本もまだ届かない・・・。
土日にまたネットで調べて書きますね。ラオウはかっこよすぎてなんだかねえ。
カイオウは好きです。
138 :
日本@名無史さん:04/11/27 19:40:19
>>138専門スレ一応さっと目を通してみました。やはり厩戸皇子は
存在しない説もたくさんあるんですね・・・。資料に不自然な点があり
逆賊である蘇我氏の功績をそのまま『厩戸皇子』が肩代わりすることで
その後の統治に生かしたってのは興味深いですね。
ここで個人的に少し個人的妄想を・・・
大伴氏を廃して大きくなり次第に天皇家の支配体制にひずみが出てきた。
そこで仏教伝来。勢力拡大を狙った蘇我氏が仏教を推奨。物部が反発した。
力をつけた両氏をどうにか排除したい天皇家は一計を思いつく。
軍事を統括する物部を蘇我氏を利用して排除する。
蘇我氏には厩戸皇子をつけ蘇我氏には一応援軍のポーズをとっておく。
排除するにしてもしないにしても、戦いは長期化し残ったどちらかは疲弊する。
そこで疲弊したところを天皇家の本軍を出撃させ残りを滅ぼす。
そして両氏は駆逐された。
と言うのが天皇家の描いたシナリオだったが、戦いは蘇我が物部を滅ぼすものの
蘇我は疲弊するどころか物部の残党を取り込みさらに強大になる。
策が失敗した天皇家は戦に出た厩戸皇子と馬子を並び立て蘇我氏を牽制する。
推古天皇は決意する『○○代目に生まれ変わって蘇我氏を討ち天下を平定する』
最後のはあからさまな足利のエピソードのパクリで冗談ですけど蘇我物部の戦い
は仏教を利用した天皇家の策略だったってのはどうでしょう?
とりあえず、守屋が滅んだときには厩戸はガキだったから無関係ということで。
>>140ガーン・・・初陣じゃなかたっけかなOTZ指摘サンクス!
>厩戸
お飾りとして戦場につれてかれてた可能性はあるよ。
もちろん太子信仰成立後の書紀の粉飾かもしれんが。
>>142お飾りですか・・・。四天王への祈祷なんかもガキなら
さすがに無理そうですね。演義の孔明みたいなモノか・・・
「天皇家の本軍」なんてものを物部・蘇我の目から隠して温存できるとは思えないが
天皇家の中にある程度独自性を保とうとした人たちがいてもおかしくないかも。
厩戸や竹田はガキだが、泊瀬部あたりはどうだ?
即位後、馬子と対立して殺られちゃってるし。
>>144たしかに崇峻天皇のほうがしっくりきますね。
それにしても暗殺の資料がくわしく残っているなんて・・・
何か後世の天皇家の思惑めいた物を感じますね。
守屋側について(あるいはシンボル)として担ぎあげられそうな
皇族はいたのですか?
148 :
日本@名無史さん:04/12/01 20:50:14
彦人大兄皇子を守屋が擁立できなかったのが悲劇のはじまりだよ。
大夫層どころか息長氏も物部氏から離れていたのかな。
149 :
日本@名無史さん:04/12/03 21:21:49
>>147 穴穂部皇子は蘇我と物部の合戦の前に殺されてしまっていますよね?
物部が蘇我との合戦に勝った後、天皇につけることが出来るような人物を
持っていたのか?という質問です。
そんな人物を確保できてりゃ
物部のほうが勝ってました。
たしかに擁立出来ていれば歴史は変わっていたかもしれないですね。
日本書記の分かりやすい解説本ないですか?出来れば文庫で
岩波文庫の古事記伝すら全四巻で打ち切られたのに…
日本書紀の解題&注の文庫本なんて出てるのか?
昼休みを利用して
岩波で発見したけど高いなあ。しかも五巻もあるなんてorz5000プラス税は痛い。
パソQふかーつ!記念パピコ
>>155サンクス。探してみます。
とりあえず大系日本の歴史A古墳の時代を買ってみました。
竪穴住居寒そうだなあ・・・
小学館の「大系日本の歴史」か。
ライブラリー版に載ってる「文庫化にあたって」で言いわけしてるが
守屋のあたりの時代がかなり手薄なんだよなぁw
竪穴住居は昔のアイヌが住んでたのを見ると、暖かいらしいね。
>>157そうなんですよねえ・・・守屋専門は少ないんですね。
アイヌも住んでたんですか?じゃあ暖かいんですね!獣の毛皮だからですかねえ・・・
竪穴は平安まで続くんでしたよね・・・庶民の貧しさにほろり
保管所に関連スレを書き込んでくれた方、サンクス!
160 :
1 ◆K9AqEZzyG. :04/12/08 10:13:54
久しぶりの休日age
アホか。竪穴住居は気候が寒冷な時代には快適なんだよ。
スルーしてやれよ。守屋と直接関係なさそうな誤解くらいは。
>>161なるほどそうでしたか・・・実家の近所で復刻版も見たのですが
寒そうに感じたので・・・
>>162すいませんです
近くの古本屋で古代についての本を見つけたが、古い物で
やたらと高かったので手が出ずにいる私です・・・
旧字で読めなかったんです・・・
読めないんじゃあ、買っても意味ないね!
古いのは新しいものを読んで、おぎなわないといけないから
最近のを探したほうがいいかも。
>>166そうですねえ、やっぱり。神保町を気長にあさります。
それはそうと大正、昭和初期って日本の古代の研究盛んだったんですね。
じいさんの倉庫に古い本がたくさんあって『日本書紀ヲ読ミ解ク』
とか『神武???(読めません)』など多数・・・
天皇崇拝の時代からなのでしょうか・・・自ら板違いでスマソ
戦中の皇国史観の時代なら、古代研究自体がタブー。
大正のころは天皇機関説とかも出た時代だし、比較的自由に研究できたのでは。
>>168流石戦時中・・・タブーが大杉だOTZ
古代研究はたしかに戦中には問題が起きかねん・・・
二・二六事件とかの影響もあったのでしょうか・・・ってなわけで
イタチがいはここまでということにします。168さんサンクス
170 :
日本@名無史さん:04/12/25 22:49:12
守屋の家って、全部でいくつあったんだろ。
用明二年四月に出てくる「阿都の別業」と崇峻即位前紀の「渋河の家」は
同じもの?それとも別々?
同じだとしたら、大和に本邸があったんだよね。
石上だろうか、もっと磯城の王宮の近くだろうか。
あと、捕鳥部万が守った難波の家もあったみたいだし…
>>170久しぶりの来客だ♪
でもそのことについては俺には分からない・・・OTZ
正月休みを利用して調べてみます。すいませんm(__)m
172 :
日本@名無史さん:04/12/29 22:41:10
「消された王権・物部氏の正体」を読むべし
なかなかイイ感じよ
173 :
日本@名無史さん:04/12/29 22:43:17
そろそろ例の呪文を唱えよう
山野の薀蓄が聞きたい!
174 :
日本@名無史さん:04/12/30 09:56:30
>>172 関裕二の「消された王権 物部氏の謎」のことか?
小椋一葉「消された覇王 伝承が語るスサノオとニギハヤヒ」
神一行「記紀の謎を暴く 消された大王饒速日」
船場俊昭「消された物部氏 天津甕星の謎」
消された云々いってるのは、すべからく電波本w
175 :
日本@名無史さん:04/12/30 23:03:36
>>174 そうそれ、「正体」じゃなくて「謎」だった。
電波かよ、
こういう読みがあるか!すげぇ
とか思いながら読んでたんだが。ひどいの?
176 :
日本@名無史さん:04/12/31 12:00:17
又吾一門の人人の中にも、信心もうすく日蓮が申す事を背き給はば蘇我が如くなるべし。
其の故は仏法日本に立ちし事は、蘇我の宿祢と馬子との父子二人の故ぞかし。
釈迦如来の出世の時の梵王・帝釈の如くにてこそあらまじなれども、物部と守屋とを失ひし故に、只一門になりて位もあがり、国をも知行し、一門も繁昌せし故に、高挙をなして崇峻天皇を失ひたてまつり、王子を多く殺し、
結句は太子の御子二十三人を馬子がまご(孫)入鹿の臣下失ひまいらせし故に、皇極天皇は中臣の鎌子が計いとして、教主釈尊を造り奉りてあながちに申せしかば、入鹿の臣並に父等の一族一時に滅びぬ。
みなさん今年もお世話になりました。
来年も又よろしくお願いします。では又来年ノシ
>>148 >彦人大兄皇子を守屋が擁立できなかったのが悲劇のはじまり...
推古皇女の小墾田皇女を妃としていた彦人大兄が、三輪逆殺害事件で推古仇敵の
守屋に推戴されるわけはないと思われ。
>>175 その四冊の中では関が一番マシだと思うがw
こういう読みがあるか、ということは、
『消された王権』がはじめて読んだ物部本じゃなくて
直木孝次郎とか野田嶺志とか通説的な論文も見たことがあるんだよね?
比べてみて何も感じなかったのか。
180 :
日本@名無史さん:05/01/11 12:23:05
181 :
日本@名無史さん:05/01/11 12:37:19
守屋が本当に傍系だったのか、
それとも改竄されて傍系に位置づけられたのか、それが気になる。
182 :
日本@名無史さん:05/01/11 22:03:12
布都久留系を目系が潰していった可能性はあろうが、せいぜい尾輿のころには完了していただろう。
守屋が傍系の分際で物部氏全体を統率していたとする、積極的な根拠は見当たらない。
今年もよろしくお願いします。このすれの1です。
>守屋が傍系の分際で物部氏全体を統率していたとする、積極的な根拠は見当たらない
これについてはそのようですね。あくまで物部の分家の長の立場だったようです。
ところで、
大和王朝下での物部家の立場はどのようなものでしょうか・・・
物部家は他家のように家でのまとまりに欠けているような気がするので
圧倒的な発言力を持っているようには・・・。
継体天皇擁立の際も反対を押し切れたのは大伴金村が
首謀者だからと言うのが大きそうです・・・
184 :
日本@名無史さん:05/01/21 22:07:01
>本当に傍系
>分家の長の立場
ん?本宗家じゃないなら、
どうして守屋が滅んだあと、物部氏は活躍しなくなるの?
>>184これは俺の個人的な考えですが
やはり世間的な体裁ではないのでしょうか。
勝てば官軍の世界ですから表だっての活動は制限せざるを得なかったのでは。
守屋死後物部家(家臣筋など)は蘇我氏に取り込まれていったらしいので
世間体、実力共に身動き出来る状態では無かったのかもしれません。
どなたか意見をお願いします
186 :
日本@名無史さん:05/01/21 22:52:18
スレ違いだけど、道鏡って物部?
>>186 道鏡は弓削氏だけど、こういう武器を作る氏も
配下にいたの?
189 :
日本@名無史さん:05/01/22 00:29:31
藤原仲麻呂が「道鏡は先祖の大臣として仕えた過去の栄光を取り戻そうとしている」
みたいな事言ってなかったっけ・・・?
弓削氏って事は物部弓削守屋連に関係あるのかなぁとか思ったのですが・・・やっぱ関係なし・・・?
関係あるなら物部の人なのかなぁって思ったんだけど・・・
190 :
日本@名無史さん:05/01/22 00:30:37
スレ違いでした・・・ごめんなさい・・・
>>189 >大臣
それを知ってるなら、わざわざここで訊く必要ないだろ。
釣りか?自分で調べるのが面倒で他人を使いたいのか?
192 :
日本@名無史さん:05/01/23 17:44:31
単なる普通の語らい。
193 :
日本@名無史さん:05/01/23 18:10:17
先代旧事本紀には守屋は傍流って書いてるんでしょ?
「守屋は傍流の出である」と書いてあるわけではない。
天孫本紀の系図を読む人が解釈してそう取るだけ。
196 :
このスレの1 ◆K9AqEZzyG. :05/02/02 03:14:07
実家に帰ったときに見つけたあやしい寺に物部氏が祀られていました。
江戸時代に出来た川の氾濫を治めるモノみたいなんですが・・・
物部氏って川の守り神なんでしょうか・・・
一緒に聖徳太子やら空海やら地元の庄屋まで祀られてるから
怪しいんだけど。実家は四国です。
197 :
日本@名無史さん:05/02/04 20:56:49
♪も〜り〜や〜が〜い〜る〜ぞ〜♪
♪た〜く〜さ〜ん〜い〜る〜ぞ〜♪
♪も・も・も・も♪
♪もももももももも物部守屋♪
198 :
日本@名無史さん:05/02/22 00:36:55
森谷りりか
199 :
日本@名無史さん:05/03/03 05:08:56
>>195 嫡流・傍流なんて無い。当時の氏上は複数の家流をあちこち
行ったり来たりする。
>>199 それは何故ですか?
複数の家系でそれほど勢力差がなく、時の権力者(天皇など)との
関係のほうが重視されたから?
本人の能力や年功重視?
>>200 まさか各氏とも「万世一系」だとかいいたいんじゃあるまいなw
そうじゃなくて氏上(ウジノカミ)とか氏宗とは氏長者とかというのは
父子継承じゃなくて、
その時々の一族の中で一番官位の高い者が就任するから。
あ、なるほど。
氏長者と同じように考えるといいんですね。
納得しました。
大市御狩(兄)と守屋(弟)という程度の違いで傍流嫡流を分けようというのが
そもそもの間違いだよな。
どっちも尾輿の息子じゃん。
205 :
日本@名無史さん:05/03/20 21:14:14
206 :
日本@名無史さん:2005/04/06(水) 05:13:41
物部を継承した直系はこんな感じであってる?
十市根−胆咋−五十琴−伊コ弗−目−荒山−尾輿−大市御狩−目−馬古−麻呂
207 :
日本@名無史さん:2005/04/06(水) 05:44:24
>>187 道鏡は弓削氏だけど、こういう武器を作る氏も
配下にいたの?
弓削部は軍事を司る物部大連の傘下、守屋の母親は弓削一族出身
208 :
日本@名無史さん:2005/04/29(金) 04:33:14
弓削って、皇別?
209 :
◆K9AqEZzyG. :2005/05/17(火) 17:27:32
週末位を目処に、またこれまでの流れをまとめておきます
210 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 02:40:46
弓削は物部の分家だとおもってたけど、違うの?
>>210 守屋は物部弓削守屋とも称していたみたいですが
いまいちわかりません・・・・
(岩波日本史辞典参考)
大分遅れましたが今日の深夜にはまとめをレスします
>>210 守屋は物部弓削守屋とも称していたみたいですが
いまいちわかりません・・・・
物部氏と関係が深いとのみ書いているので
(岩波日本史辞典参考)
大分遅れましたが今日の深夜にはまとめをレスします
213 :
日本@名無史さん:2005/05/30(月) 21:31:12
>>100以降のまとめ
守屋と仏教との奇妙な関係について
当時の王宮や豪族の居宅は、部と呼ばれる服属集団からの
貢納・奉仕によって経営・維持されていた。
それに対し、寺院を経営するための基盤となったのは、
東西南北(四至)を区画した一定の土地(寺領、後の荘園)と、
その中心にある建物(庄)だったと考えられる。
このような一定の土地に対する支配は、仏教伝来にともない、
寺院経営の手段として全く新たに輸入された経済制度だった。
その意味で、寺院は単なる文化施設ではなかった。
人間集団に対する支配で成り立つ宮室・居宅と、
土地に対する支配で成り立つ寺院とで相違はあるが、
いずれも支配者層にとって彼らの財産を統轄・管理する
センターとしての役割をもっていた。
特に寺院は新しい経済制度を背後にもつだけに、
新たな財産を拡大し、蓄えるには格好の入れ物だった。
宮室・居宅の傍に寺院が営まれたのは、そのためである。
物部氏も渋川廃寺などの例を見ると、この動きを取り入れようとしていたらしいが、
このウジ名「物部」が示すとおり、部制によって勢力を拡大してきた氏だった。
新しい経済制度に適応し、それを活用していくには非常な困難があったに違いない。
>>120氏のまとめ。
これの補足・展開として
>>122氏
聖徳太子伝暦に、山背大兄皇子の息子の弓削王が
入鹿の命を受けた斑鳩攻略軍の襲撃から六日後、
生駒山に逃れていた一行から離れて単身斑鳩寺に潜入したことが書かれている。
結局、大狛法師に殺害されてしまうが、
炎上した斑鳩宮の代わりに、斑鳩寺を再起の足がかりにしようと考えたんだろう。
財産の管理センターの役割がもともとあったのなら、
宮の機能の代替も可能だったのでは。
●物部のその後
>>126氏
もののべ→もののふ→武士
武士とは古神道を重んじ、軍神たらんとした守屋の理念を次ぐもの。
朝廷勢力に対抗する地方の反骨。平安中期までは、朝廷の仏教国教化と同時に
進行する中央集権政治に対抗する心の支えは守屋だった。
その後、八幡太郎義家にとって変われた・・・・。
物部神社は八幡宮に凌駕された。
●厩戸皇子と物部氏
>>114に対する138氏の解説
厩戸皇子の場合は、仏教の哲学や新しい知識に明るい人物くらいに
見られていたのではないだろうか。
敏達天皇のモガリで、守屋がユラユラと振るえて死んだ天皇の魂を呼び戻そうとしているが
馬子はそれを見て、「(´,_ゝ`)プッ 鈴でもつけたら良く鳴るぜ」
って感じのことを言っている。
案外、古来の呪術は形骸化していたのかもしれない。
物部氏が衰退した後なら、出家してなければOKみたいな雰囲気になってたとか。
専門スレ「聖徳太子が仏教を進行してたのってなんで?」
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1030514852/
○私の妄想
大伴氏を廃して大きくなり次第に天皇家の支配体制にひずみが出てきた。
そこで仏教伝来。勢力拡大を狙った蘇我氏が仏教を推奨。物部が反発した。
力をつけた両氏をどうにか排除したい天皇家は一計を思いつく。
軍事を統括する物部を蘇我氏を利用して排除する。
蘇我氏には厩戸皇子をつけ蘇我氏には一応援軍のポーズをとっておく。
排除するにしてもしないにしても、戦いは長期化し残ったどちらかは疲弊する。
そこで疲弊したところを天皇家の本軍を出撃させ残りを滅ぼす。
そして両氏は駆逐された。
と言うのが天皇家の描いたシナリオだったが、戦いは蘇我が物部を滅ぼすものの
蘇我は疲弊するどころか物部の残党を取り込みさらに強大になる。
策が失敗した天皇家は戦に出た厩戸皇子と馬子を並び立て蘇我氏を牽制する。
【蘇我物部の戦いは仏教を利用した天皇家の策略だった? 】
これに対する 指摘・解説
守屋が滅んだときには厩戸はガキだったから無関係 140氏
>厩戸
お飾りとして戦場につれてかれてた可能性はあり。
もちろん太子信仰成立後の書紀の粉飾かもしれんが。 142氏
「天皇家の本軍」なんてものを物部・蘇我の目から隠して温存できるとは思えないが
天皇家の中にある程度独自性を保とうとした人たちがいてもおかしくないかも。
厩戸や竹田はガキだが、泊瀬部あたりはどうだ?
即位後、馬子と対立して殺されている。 144氏
▼関連した質問
守屋側について(あるいはシンボル)として担ぎあげられそうな 皇族はいたのですか?
146氏
▽回答群
彦人大兄皇子を守屋が擁立できなかったのが悲劇のはじまり。
大夫層どころか息長氏も物部氏から離れていたのか。
>>148氏
そんな人物を確保できてりゃ 物部のほうが勝っていた
>>150氏
>彦人大兄皇子を守屋が擁立できなかったのが悲劇のはじまり...
推古皇女の小墾田皇女を妃としていた彦人大兄が、三輪逆殺害事件で推古仇敵の
守屋に推戴されるわけはないと思われる 178氏
●現在の流れ
・守屋が本当に傍系だったのか、 それとも改竄されて傍系に位置づけられたのか?
・ 本宗家じゃないなら、 どうして守屋が滅んだあと、物部氏は活躍しなくなるのか?
・道鏡は弓削氏だけど、こういう武器を作る氏も 配下にいた?←これについては
>>207氏
・弓削は、皇別?
●このスレのまとめ・保管スレ
ttp://yy11.kakiko.com/test/read.cgi/sakichi/1101037427/l50
天孫族・ニギハヤヒの末裔で、神武の血統でもむしろこちらの方が中心だった
ということでFA?
書記の一書に言われる闕史八代の天皇との婚姻では、基本的に磯城の一族が相手となっており、
事実上の物部王朝となっている。
>>217 欠史八代の間の磯城県主はほぼ物部氏とは関係ない。
物部系に入れ替わったのは孝元か開化あたりでだいぶ末期だよ。
219 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 00:32:17
ニギハヤヒだから、神武の時代からだと思ってた…
「婚姻」と言っておろうが。
っていうか、6世紀の物部氏の話し汁。
221 :
日本@名無史さん:2005/06/24(金) 00:33:08
はい
222 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 01:01:23
はやく
223 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 16:50:07
守屋が滅んでからの物部氏の話題に戻すか?
奥さんなんかはどうなったんだろう?
224 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 20:40:48
日出処の天子
では、どう描写されてた?
それをFAで。
226 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 00:20:13
保守
227 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 02:28:19
おこしの子
228 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 15:10:52
物部氏の大市=御狩、弓削=守屋、石上=贄子は
蘇我氏の場合の嶋=馬子、豊浦=蝦夷なんかと同じ個人に対する通称なわけだが…
どうして守屋だけ弓削なんだろ?
>>207>>210 旧事本紀によると、十三世孫の尾輿は弓削氏出身の妻が二人いて、
その二人との間に六人の子供をもうけているよな。
そして十四世孫条を見ると、尾輿には七人の子供がいたことになってる。
つまり、ひとりを除いては母親はみんな弓削氏出身なわけだ。
大市は大和の箸墓古墳とかあるあたり、石上はもちろん石上神宮のあたり。
守屋ひとりが弓削の大連と呼ばれていたのは不思議だよ。
傍流云々いいたがる関裕二信者もいるようだが、守屋が嫡流だという証拠にならないかな。
それぞれの住居か養育氏族に由来するはずだから。
旧時本紀を書くときの資料に守屋だけ通称が見当たらなかったとか?
旧時本紀ってどういう経緯で書かれたもんなの?
230 :
日本@名無史さん:2005/08/25(木) 18:00:41
231 :
日本@名無史さん:2005/09/07(水) 09:08:45
素人ですまんが守屋に子どもはいなかったのか?
232 :
日本@名無史さん:2005/09/22(木) 23:45:32
赤檮は剛の者だったらしく、木の上に登って応戦する守屋を射殺し、守屋の子供達を
殺した
とあるから殺されたんだよ
233 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 16:23:51
赤檮ってだれ?
235 :
日本@名無史さん:2005/10/28(金) 21:17:17
「いちい」って読むんだ?
236 :
日本@名無史さん:2005/11/19(土) 03:56:03
そうなん?
237 :
日本@名無史さん:2005/11/19(土) 23:25:22
守屋の次男の仲加世(なかよ)は、秋田に逃れたよ。
当時1歳の幼児だったが。
そして、「秋田物部」の、祖となった。
…と、近世になってから僭称しましたとさ。
239 :
日本@名無史さん:2005/12/07(水) 01:27:33
秋田物部なんて聞いたことねえな。
240 :
日本@名無史さん:2005/12/20(火) 19:24:53
age
241 :
日本@名無史さん:2005/12/23(金) 13:46:48
んで秋田物部はどんな家になったん?
いわゆる夷扱い?
242 :
日本@名無史さん:2005/12/28(水) 22:26:57
age
243 :
日本@名無史さん:2006/01/18(水) 22:25:19
連姓氏族のかなしさ、大王家譜代の弱さが守屋滅亡につながった
244 :
日本@名無史さん:2006/01/19(木) 09:21:58
守屋ひとり頑迷な保守派だったわけではない。最初中臣氏や三輪氏など祭祀氏族のほとんどが排仏だった
皇位継承争いがからんで排仏派が分裂し、最後に残ったのが守屋だった
秋田物部は神主だよ
246 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 01:27:16
うほ
247 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 20:44:27
248 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 14:55:54
249 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 00:04:24
松江から三次へ行くバスに乗っていたら、途中で物部神社というのがあった。
島根県側で。出雲臣から分かれた物部氏の神社?それとも中央の物部氏と
関係ある?
誰か知っていたらおしえて。
物部なんて全国にいくらでもあるよ。
律令以前には単に軍隊の意味だからな。
253 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 19:11:55
ほほー
254 :
日本@名無史さん:2006/06/16(金) 22:48:56
255 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 20:12:10
へへー
256 :
日本@名無史さん:2006/07/08(土) 14:33:26
ひひーん
257 :
日本@名無史さん:2006/07/17(月) 03:03:02
諸星
258 :
日本@名無史さん:2006/08/09(水) 13:05:03
ん?
259 :
日本@名無史さん:2006/08/26(土) 02:57:04
260 :
日本@名無史さん:2006/10/22(日) 19:37:31
知らんの?
261 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 10:10:20
おう
263 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 13:07:16
淡路島 物部(ものべ)
264 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 00:09:09
う〜ん、蝦夷地には無いな
266 :
日本@名無史さん:2006/12/23(土) 13:50:57
古神道その他いろいろ2 他山の石 より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/ 821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。
822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/ 186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。
824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822 神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。
QQQQQQQQQQQQ この人明らかな馬鹿ですよね! QQQQQQQQQQQQQ
267 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 08:04:53
物部氏の伝承では、天皇家も物部氏も同族で
天照大神は男で、間違っても
天照大神という女神から生まれたのが天皇家ではないらしい。
しかも、神武天皇というのは、九州に居た分家のひとつだった。
そこから畿内の本家に入婿に入ったのが本当のところ。
268 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 08:05:13
物部氏の伝承では、天皇家も物部氏も同族で
天照大神は男で、間違っても
天照大神という女神から生まれたのが天皇家ではないらしい。
しかも、神武天皇というのは、九州に居た分家のひとつだった。
そこから畿内の本家に入婿に入ったのが本当のところ。
それって先代旧事本紀なんかに書かれてることなの?
どのあたりの地方で伝わってる話?
全部妄想に決まってるだろw
かわいそうだから一々相手にするなや。
271 :
日本@名無史さん:2007/01/01(月) 12:40:07
あけましておめでとうございます。
ご先祖様、氏神様、今年もよろしくお願いいたします。
272 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 18:20:49
うっふーん
273 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 01:54:46
崇峻天皇は物部の天皇ですか?
出羽三山にある山岳修験道を開いたのが崇峻天皇の皇子、
蜂子皇子らしいです。
それなら東北地方に物部が関わっていた証拠になりませんか?
275 :
273:2007/01/26(金) 04:19:22
276 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 02:14:42
蜂子皇子って逃げた後どんな生活してたんだろ。
皇子とは言え事情が事情だから困窮してたのか。
事情が事情でも皇子だからそれなりの生活は出来てたのか。
277 :
日本@名無史さん:2007/03/21(水) 17:05:41
ほー
278 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 14:24:20
ほー
279 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 22:36:36
age
御命日。
今年の夏は神社に御参りに行けますように。
281 :
日本@名無史さん:2007/07/28(土) 18:16:36
七夕に死んだの?
物部氏と蘇我氏の争いは、たんなる大豪族同士の権力争いではないという見方もあるんだよね。
一説によると、蘇我氏は仏教を支持していて、物部氏はそれに反対していたのだという。
こういうふうに思想的に見ていくと、日本史も面白いし、奥が深いと思う。
何だよそれw 普通は逆を言うだろ。
書紀にあるような単なる崇仏廃仏の争いではなく、実態は権力闘争だったのだという。
284 :
282:2007/08/01(水) 18:30:46
崇仏廃仏より廃国津神崇国津神といった方がしっくりこないかな。
今に残る『何ぞ国神に背き他神を敬せんや』という言葉に、
物部氏と所縁のある・・・初代物部の叔母が崇神天皇にお祀りさせ、
そして初代の父が物部の名を冠する供物を捧げた、
その大物主の「自分を祀れば他の八百万の神も祀ってよい」
という話がどうしても思い出されてしまう。
乱暴なことを言わせて貰えれば、他神の中には当時まだ言葉として
存在していなかったんじゃないだろうか天津神まで含まれていたのではと勘ぐってしまう。
権力闘争ではあっただろうね。この時代を語るのに政治と宗教を分離させるのは難しそうだ。
守屋事務次官
やはり国防は今も昔も守屋
またしても大臣にやられちゃったね。
まあ次官も黒い噂の多い人だったようだし仕方ないか。
今までお疲れ様。
格好悪いニュースだったけど
珍しくテレビで守屋の文字を目にしてドキドキしたw
289 :
日本@名無史さん:2007/09/08(土) 11:45:33
うほー
290 :
日本@名無史さん:2007/09/08(土) 18:13:52
でも、祟岐天皇って、母親は蘇我馬子の姉なんだよな。
蘇我馬子の妻は物部守屋の妹だったんだけど、
守屋はなんで妹を馬子の妻なんかじゃなくて天皇の妻に入れなかったんだろうね。
祟岐天皇にも、馬子は娘を貢いでいるけれど、守屋は何もしていない。
291 :
日本@名無史さん:2007/09/08(土) 18:21:09
>>290 物部大連は大王家に嫁げない氏族だったような。
292 :
日本@名無史さん:2007/09/08(土) 19:22:47
>>291 物部娘は天皇家に嫁げないは、
物部娘と蘇我夫の娘(物部孫)は天皇家に嫁げる、
というのも変な話だな。
293 :
日本@名無史さん:2007/09/08(土) 19:27:49
294 :
日本@名無史さん:2007/09/08(土) 19:40:39
>>293 神別氏族は、日本書紀編纂のずっと以前、
この頃からそのように考えられていたということなのかな?
そういや、藤原氏(この時代は中臣氏)も神別氏族であったはずなのだが、
後世、何百年にもわたって皇室に娘を入れ続けたよなw
295 :
日本@名無史さん:2007/09/08(土) 19:45:36
中臣氏から藤原氏に氏を変えた理由か
鎌足が中臣氏を借称していただけなのか?
296 :
唐松山:2007/09/08(土) 22:23:50
大物主は 物部(武士)の 大王
神武東征時で物部 25人(組)
天皇が物部を動かせるようになった時は,国譲り の後
297 :
日本@名無史さん:2007/09/08(土) 22:35:33
298 :
日本@名無史さん:2007/09/10(月) 19:25:06
>>294 鎌足が「藤原姓」を貰ったのは死ぬ間際だし、
それ以前に娘を天武や弘文の後宮に入れているから、
中臣姓時代にいれたんだろうね。
鎌足はもともと中臣姓ではなかったのではないかという意見だが、
子の不比等の時代に、不比等の子孫以外は旧姓の中臣に復すよう、
文武天皇が勅を発しているから、やはり中臣が旧姓だったのだろう。
299 :
日本@名無史さん:2007/09/10(月) 20:38:35
ニギハヤノミコト。
300 :
日本@名無史さん:2007/09/10(月) 21:12:24
物部アラカヒ(変換できなかった)は継体朝に大貢献したのに
伊香色謎とか伝説的なのは横に置いといて、
木蓮子のむすめ宅媛が安閑天皇の妃になれたのは何故だろう。
このころになると、氏姓制度も成立して色分けがはっきりしてくるし、
物部連出身というのは難しいような気がするのだが。
やっぱり物部氏の力を多少でも取り込みたくなるような特殊事情でも天皇側にあったのだろか。
>>300 直後に繁栄するのは別系らしい尾輿ってのが不思議だねぇ。
当時は、別系でも同世代間で地位や職掌が継承されたらしい。
303 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 07:48:55
ほう
304 :
日本@名無史さん:2007/10/20(土) 23:54:58
防衛利権(w
>301
継体天皇が茨田連から妃を迎えたのは大和入り以前にうろうろしてた頃、
北河内方面との関係を強めたかったからとか。
安閑の場合は即位するためか、即位後ごたごたしたためか…
>302
それはそうなんだけど、公平かつランダムにっていうのは無理。
6世紀前半あたりの段階なら、無能や勢力弱い人物にまで族長位はまわってはこないはず。
氏内の有力な家の出か、ライバルを蹴落とせるほど有能じゃないと。
306 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 12:13:05
麻生太郎です
_、 _
ヽ 兪/
小池百合子(女子の本懐) VS 守屋武昌(防衛省の天皇)
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/giin/1188215975/701-800 (小池の統一スレッド)
ィ'ミ,彡ミ、
.ミf_、,_ヾ彡. /へ ̄ヽ /二二ヽ (/_~~、ヽヽ (/´_ ̄_i) .(/ ̄ヾ)
ミ L、t彡 6/ 、)_ヽゞ. イ_、._ 3 ひ` 3ノ .6‐◎J◎ □c□6 /_人⌒ヽ
ヽ一_>'i ヽ゜,_ゝ゜/ .ヽ凵Mノ ヽ°イ ヽ,ーノ ヽ┴`ノ (´∀`)
/<∨>\ /<∨>ヽ /<∨>\ /<∨>\ ./<∨>\ ./<∨>\ /<∨>\
小泉 中川(酒) 麻生 安倍 谷垣 福田 竹中
彡三=_ __
(/_ニ ニ|) (八 ) (/o゛゛゛゛ヽ) γ"_⌒_ヾ ,'´ ヽ
|゛)●(゛..| にしこり i ? 3 6-ΘnΘ ∫ノメノハ)〉 ミ彡ヘヾ
ヽ⌒ .ノ \二/ ヽ,_ノ ヽ)ー(.ノ ∬,メ゜ワ゜)ヾ 6i'ー')
/<∨>\ /<∨>\ /<∨>\ ../└┘\ ∬ノつ旦と)ゝ /<∀>ヽ
石破 松井 代表 武部 さつき 百合子
307 :
日本@名無史さん:2007/10/22(月) 19:48:18
ツラみて人事決めろよボケ
308 :
日本@名無史さん:2007/10/22(月) 22:28:38
へ へ
の の
も
へ
309 :
日本@名無史さん:2007/10/22(月) 22:51:54
守屋天皇逮捕決定
310 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 06:48:47
ポール守屋 恋は水色
蘇我馬子の奥さんが物部守屋の妹って本当?
既出
313 :
事務次官:
物部守屋大連墓は五輪原、興味のある方穴があいているので、のぞかれたし。