【男子禁制】大 奥【女の園】

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875済州島の出身
家光の末子上州十万石綱吉は、生母が京都の八百屋の娘の於玉とされてい
るが、当時京坂には多く住まっていた済州島の出身だというので、大老酒井忠清と水
戸光圀が反対して、京の有栖川幸仁親王を五代将軍に立てようとした。
876生母が朝鮮系:2006/06/10(土) 12:27:30
四代将軍家綱が亡くなったとき、跡目がなかった。そこで実弟にあたる上州館林の
綱吉をという声もあったが、ときの大老酒井雅楽頭が綱吉を毛嫌いして、強硬に突っぱね、
「有栖川宮親王をお迎えして」とまで、これに反対した。だから延宝八年[1680]
八月二十三日付で、綱吉が五代将軍になると、
「憎っくきやつめ‥‥」と早速、大老の酒井をくびにしたが。が、それでも腹がいえ
ぬとみえ、翌年正月十五日には、今の大手町にあった酒井の屋敷すらとりあげ、これ
を綱吉は気に入りの堀田正俊に与えた。この結果、
「下馬将軍」とまであだ名され権勢をほしいままにしていた酒井も、ここに反体制と
されてしまったのである。さて‥‥
酒井が綱吉に反対したのはその生母が朝鮮系だったせい
877日本@名無史さん:2006/06/10(土) 14:40:09
>>875-876

アンタ、戦国女性スレにも貼っただろ。
続きは↓か?
878済州島差別:2006/06/10(土) 14:53:05
韓国では伝統的に厳しい済州島差別があり、現在も続いている。1948年4月3日に起った済州島四・三事件では、少なくても死亡者3万人にのぼり、
それから逃れる為に、自ら日本に渡って来た在日コリアンも多い。しかし、在日コミュニティーの中にもやはり済州島差別が残っている。

879赤穂義人纂書:2006/06/10(土) 15:18:34
「赤穂義人纂書」に鍋田晶山が詳しく書いているように、済州島の血をひくゆえ、
日本人よりは貴種であると、やがて綱吉は千代田城を朝廷とよび幕閣を公家と称する
ようにさせた。
 よって京よりの勅使は大納言とか侍従といった官位をひとまず返上。前大納言、前
侍従となり無位無官で遠慮して江戸の伝奏屋敷に入り、京へ戻ると前官にまた復して
いたものである。

880日本@名無史さん:2006/06/12(月) 10:31:23
でもそれいったら藤原氏だってルーツたどったら渡来系朝鮮系じゃないか。
このスレでそういう話は出来ればして欲しくないなあ。
881日本@名無史さん:2006/06/12(月) 11:04:51
>>880
しーっ、吉外はおさわり禁止ニダよ
882生母が朝鮮系:2006/06/12(月) 21:27:01
酒井が綱吉に反対したのはその生母が朝鮮系だったせいだが、邪魔者がいなくなる
と将軍はまず音羽の護国寺を建立している。

私は”天朝教”

 さて酒井一家の[ような]原住系は、ビニールや擬革のなかった時代には、他に代
用品とてない皮の専売をする部族を持っていて、これからの収入は莫大なものだった。
このため大老の権力の座から酒井忠清を追い払っても、彼らの潜在勢力はすこしも衰
えなかった。そこで、
(皮はぎの仕事を奪ってしまう)ということになったが、まさかそのものずばりに、
「動物の皮をはぐことの禁止」との、ふれも出せないので、1678年正月に、
「生類憐れみの令」というのを発布した。
 つまり皮をとるには殺さなくてはならぬ。
 それをしてはいけないというのでは、酒井一族にくっついている革屋も倒産の他は
ない。
 このため、これら原住系はみな落ちぶれ、人い侮られるような極貧階級に転落した。
883売国奴綱吉 :2006/06/12(月) 21:28:05
現在係争中の竹島というのは、明治以前は「竹島」という名前ではなく、
「松島」と呼ばれていた。明治以前の竹島とは、いわゆる鬱陵島のこと。
この鬱陵島に関しては、五代将軍・綱吉の時代に、朝鮮領だと認めたという経緯がある。
鬱陵島が朝鮮領になってしまったことに対して不満を持つ日本人もいたが、
さまざまな資料から見て、その南にある松島は明らかに日本領で、
これについてはまったく問題ないところだった。
ところが明治以後、近代国家として領土を確定する際に、
日本は「松島」を日本領として正式に認定したのだが、
そのときあろうことか「松島」に「竹島」という名前をつけてしまった。
要するに、本来自分の領土であると思っていたかつての日本名竹島(鬱陵島)が
朝鮮領になってしまった悔しさを紛らわすために、
「松島」に「竹島」と名付けてしまった。
そこからすべての問題が生じてくるわけだ。
8841回に500億円:2006/06/12(月) 21:50:38
朝鮮通信使は主に将軍の代替わりを慶賀するために、
日本に来ているから、慶賀使であって、朝貢使ではない。
また、日本側は賓客として、1回に500億円ぐらいの金を使って接待している。
885派手な接待:2006/06/12(月) 21:52:36
宗主国が威厳を示すために派手な接待をしてみせることもあるだろうが、それにしても度が過ぎると言えよう。
また、属国ならば、大名達が使う道を使って、江戸に来るようにしなければならないが、朝鮮通信使たちは、将軍が使う道を使っている。
これは、少なくとも江戸幕府が、李氏朝鮮の地位を、自分より下とは見てはいなかったことを証明していると言えるのではないだろうか。
886日本@名無史さん:2006/06/12(月) 22:04:12
>>884
朝貢を迎える側が賓客として接待するのは当たり前ですが?
中国だって、朝貢してきた使者一行を手厚く接待しています。
勿論費用は中国もちです。
887日本@名無史さん:2006/06/13(火) 01:11:41
クソに構わない方が。
888日本@名無史さん:2006/06/13(火) 01:14:25
大納言の父を持つから大典侍。
なら新典侍の新って何?
889日本@名無史さん:2006/06/13(火) 01:45:33
普通に考えるなら
「新典侍の方が後からはいった」
かなあ
890日本@名無史さん:2006/06/13(火) 01:54:21
なるほど。実家がわりと新しく創設された家・・・てのはないよなあ。
891日本@名無史さん:2006/06/13(火) 01:55:58
好きな和歌に一票入れてください!
http://www.h3.dion.ne.jp/~jtm-js/ogura.htm

人気投票から
892日本@名無史さん:2006/06/13(火) 02:22:55
>>888
大典侍は、公家出身である事に因んで名付けられた。北の丸とともに江戸での呼び名。
新典侍も同様。大典侍に準じて名付けられた、綱吉側室としての呼び名。

御所の女房のうち、今上天皇付きの女房(内の女房)は、
典侍・内侍(掌侍)・命婦・女蔵人に分かれるが、典侍の筆頭が大典侍、末席が新典侍。

大典侍は常置で御常御殿の総取締役で、必ず年功を経た老人が任じられる。
新典侍は見習い期間の名である今参を経た、新人の典侍が任じられる。
中間層はその時々で、宰相典侍・民部卿典侍など、適当な女房名を名乗る。
893日本@名無史さん:2006/06/13(火) 02:26:02
阿茶局や茶阿局なんかも役職名なの?
894日本@名無史さん:2006/06/13(火) 02:46:43
「あちゃ」「ちゃあ」呼び名というか、名前というかwww

「ちゃちゃまる」「ちゃちゃ」「おあちゃこ」とか
茶のつく名は戦国期に散見されるぞ。
895日本@名無史さん:2006/06/13(火) 02:51:59
>>893
「あちゃ」も「ちゃあ」も、室町〜安土桃山時代には、公家から庶民までの女性の本名として、
珍しくない名前であるので、単なる改名だろう。それに勿体ぶって局を付けただけ。
阿茶局の本名は「須和」、茶阿局の本名は「久」だという。
896日本@名無史さん:2006/06/13(火) 03:08:02
秀吉の奥向きについて書かれてる本に阿茶は女中の長、茶阿はその補佐的な役割を持つとかなんとか書かれてた気がする。
でも名前だよね。普通に考えて。
897日本@名無史さん:2006/06/13(火) 12:46:41
年代が特定できないけれど、桑田忠親によると秀吉関連の上級侍女では、
北政所付きの、孝蔵主・東殿・ちやあ。
大政所付きの、こほ。
淀殿付きの、大蔵卿局・右京大夫局・宮内卿局・饗場局。

淀殿の格式ぶりたがる傾向が分かる。
家康の感性は北政所に近くて、あまり格式ぶりたがらないものだったと思う。
898日本@名無史さん:2006/06/13(火) 14:32:14
茶阿も阿茶も中世女子の名前。「ちゃあ」「おちゃ」(阿は接頭語の「お」と読ませていたが、「あ」と読む時もでてくる)
それが中世の朝廷内で使われだして戦国ごろから役職名になる。
同じパターンで「目々(めめ)」というのもあり中世では「目々典侍」という役職名も出てきたが、近世には残らない。

近世では茶阿も阿茶も朝廷内での下っ端の女中の役職名になる
899阿茶局:2006/06/13(火) 20:31:37
弘治元年(1555)生まれ。武田家の家臣で飯田筑後の子

最初神尾忠重に嫁して一男を産む。忠重の死後 家康に召され、阿茶局と呼ばれる。

才智に優れ家康の信頼厚く、戦や政治にも携わった。

慶長十九年(1614)大坂冬の陣に淀君の妹常高院との和平条約を命じられ、講和を成立させた。

元和二年(1616)家康が没した後は上得院と号した。

元和六年(1620)秀忠とお江与の方の娘、和子の母代わりとなる。
900日本@名無史さん:2006/06/13(火) 21:18:50
>>899
>上得院

質問したい人が多いと思うのだけれど…。出典の書名を教えて下さい。
901雲光院:2006/06/15(木) 11:11:00
>上得院
・・・
902日本@名無史さん:2006/06/15(木) 14:37:35
カレー院
903日本@名無史さん:2006/06/15(木) 16:57:34
家継の死去後だと天英院と月光院のどちらが権勢があったのですか?
904日本@名無史さん:2006/06/15(木) 17:55:34
染子って飯塚氏?
それとも公家出身?
905日本@名無史さん:2006/06/15(木) 21:38:37
高柳の徳川妻妾記では、
近衛煕子が綱豊に輿入れする際、侍女としてついてきたってあったな。正親町家の出身だと。
ただしあくまで「俗説によると」と書いてある。
906日本@名無史さん:2006/06/15(木) 23:25:37
このスレはマメに答えてる人が多いから聞きやすいのだろうけど、

自分で本を探して調べてみたら?と思うレスが散見・・・
907日本@名無史さん:2006/06/16(金) 04:19:46
>>906
一々突っ掛かるなよ。
めんどくさいからw
908日本@名無史さん:2006/06/16(金) 07:24:48
染子と町子(松陰マツカゲ日記の作者)。2人とも吉保の側室。
混乱している人と本が多すぎる。
909日本@名無史さん:2006/06/16(金) 07:42:23
上得院なんて読んだ事も聞いた事もないし、グーグルでも引っかからない。
910染子:2006/06/16(金) 14:37:54
六代将軍になる家宣の許へ、京より近衛関白家の姫君が輿入れをしてきた。
その時近衛家から供をしてきた中に、当時十三歳の染子が選ばれ混じって
東下りしてきていた。さて、大奥の一の井戸の御番というのは、
将軍家がおなりになって泊まられる時、縁の下にずらりと水を汲んだ
手桶を並べておき、庭石の所でまじろぎもせずに見張っておらねばなら
ぬ役目である。
911日本@名無史さん:2006/06/16(金) 14:58:44
バルサン院
912一の井戸番:2006/06/16(金) 15:29:43
将軍が大奥へ渡ってきて泊まられるというのは、
なにも一人で寝にくる訳ではない。必ず御添い寝する女人が寄り添うの
だから、それからの事の成り行きを眼ばたきもせずに、
始めから終わりまで見て居るのは、経験の有無を問わず、
やはりとても目に毒である。それゆえ一の井戸番は、
大奥では極めて重要な役だが誰を付けても長続きしない。
そこで京から来た近衛家の侍女の中で、
色白な上に大柄な染子が老女達の目に止まり「まだ十三じゃそうだが、
それくらいの方がまだ春情の何たるかを解せず、御用大切に勤めるだろう」
と、一の井戸番を名指しで命じられた。
913一の井戸番:2006/06/16(金) 15:33:20
染子は他の女ではあまり長続きしない一の井戸番を必死に続けた。
しかし、十三や十四の時はまあ辛抱でき、ただ好奇心だけぐらいの
処で済んだが、十五歳になると、さすがに全身が火照って頭へ血が
上ることが多くなった。
さて、綱吉も初めは気づかずだった。何しろ一の井戸番というのは、
これまで目まぐるしく変わっているので、大奥へ通る度に庭先で見
かけても、ろくに顔など覚えはしなかった。しかし染子になってか
らは、何年も続けているので、その内に綱吉も次第に「ほう、
同じ顔が良く続いているな」と染子を意識するようになった。
そこで意地悪でもないが、それからというもの相手の女との痴態を
わざと見せつけるようになった。勿論、覗き見している染子へよく
眺めさせてやろうとの親切心からではない。
914一の井戸番:2006/06/16(金) 15:34:41
綱吉にしてみれば悪戯心も半分は有ったろう。しかし染子にしてみればそうした有様を露骨に見せつけられ、
うめき声や妙な言葉を次々と聴かされては、いくら京女の意地を示す為とはいえ、ますます気が変になって来てしまい、
「死んだが増し」といった悲壮な想いにもさせられていた。さて、こんな時、
「あの色白な井戸番の娘は何歳になるか?」と綱吉が控えの老女に声をかけた時、
「はい十八歳になりますが」と答えが戻ってきた。そこで、
「そうであるか、一の井戸番を勤めてより何年になるか」と気になるゆえ尋ねた。
「はあ他の女どもとは違い、十三歳より五年の御奉公」との返事に、ほう真面目な
ものであるなといわんばかりに綱吉は大きく頷いた。
915怪しき身分の者:2006/06/16(金) 15:36:39
こうした経緯があって染子はとうとう将軍家のお手がつくこと
になった。この後、綱吉は「染、染子」と一辺倒になった。
何故かという理由については推測するしかないが、将軍とて男である。
男女の間は今も昔も情愛と性愛の絡みあい
でしかない。しかしこの円満な関係も長くは続かない事になる。

綱吉の生母である桂昌院が調べたところ、染子は近衛の姫の侍女
とはなっているが、貞享二年二月に、風邪で京都御苑の北隅に捕
りこめ小屋で崩じられた前帝後西さま、その母方櫛笥家の養女で、
倒幕謀叛の容疑をもって幽閉中の前帝を救おうと、
権中納言の家柄を隠し通して侍女となって東下りしてきた怪しき
身分の者、と判明した。
916染子は妊娠していた:2006/06/16(金) 15:39:22
そして綱吉を説得して無理に染子を引き離してしまった。
綱吉にしても二年も寵愛していた染子をそう惨くは扱いかね、
柳沢吉保に下げ渡す事にした。
だがこの時染子は妊娠していたのである。
勿論、綱吉の種である。

綱吉はこの時四十二歳になっていたが、染子懐妊と聴くと、
「其の方の子として育てるように」と柳沢に命令した。
やがて秋になるとまるまるとした男児を産み落とした。
917日本@名無史さん:2006/06/16(金) 17:04:53
をいをい
途中で綱吉と家宣がまざってるyo

918日本@名無史さん:2006/06/16(金) 17:50:08
サウナ院
919御側御用人・柳沢美濃守:2006/06/16(金) 17:50:18
これがため元禄元年十一月には柳沢に一万石の加増が言い渡された。
しめて一万二千三十石である。
正式に「御側御用人・柳沢美濃守」の役目にもなった。

元禄三年四月二日に、将軍綱吉は千代田城大広間で、
自ら仕舞いをして諸大名に参観させた。
それゆえ当日は舞の後でも機嫌が良く柳沢へも、
「染子の児は如何であるか」と珍しく見せて尋ねたりした。
920五十五回も柳沢の屋敷に立ち寄る:2006/06/16(金) 17:52:13
「はあ明けて数えのおん五歳、おん健やかにて」と答えたところ、
「もう五つにあいなるか、では何かと物入りであろうな」と即座に、
二万石の加増が言い渡され、しめて三万二千三十石である。

これはどう考えてみても、今度の加増とてこれまでの忠誠の報酬ではなく、
染子の産んだ児を預かっていることへの里親扶持のようなものである。
この後、綱吉は生涯五十五回も柳沢の屋敷に立ち寄る異例な行動をとる。
921日本@名無史さん:2006/06/16(金) 18:13:26
家宣はどこへいったんだyo
922日本@名無史さん:2006/06/16(金) 18:33:42
スカパーで八代将軍吉宗やってるけど、ちょうど綱吉時代の大奥を描いてるね。
信子、お伝、桂昌院、右衛門佐、大典侍、新典侍、染子、町子と綱吉を取り巻く女が勢ぞろい。
923日本@名無史さん:2006/06/16(金) 20:15:15
俗説コテハンの嵐になってきたな。しっかりした史料名を出した書き込み希望。
924日本@名無史さん:2006/06/16(金) 20:29:22
ポカリ院
925日本@名無史さん:2006/06/16(金) 20:38:38
無理だよ。妄想だけだもん。それかどっかのブログが三流小説の受け売り。
前提からしておかしいもん。
926[大奥] 華の乱第1話:2006/06/16(金) 20:55:31
史実からの突っ込みとしては、
柳沢の嫁さん@お染、綱吉が館林時代からの愛妾で、
母の桂昌院に泣く泣く別れさせられたはず。
のちに家臣の柳沢に下げ渡したものの、
未練断ち切れず、何度も柳沢亭を訪れている記録も残っているそうです。
お染が生んだ子は綱吉の子ではとも噂され、
将軍候補にこそならなかったものの大出世。
927日本@名無史さん:2006/06/16(金) 21:30:30
というか、最初からおかしいやろ。
07:24:48 で近衛熙子の話しから始まったのに
いつの間にか綱吉の話しになってるし。

染子が万が一近衛の侍女だとしても(ここからおかしいが)
なぜに大奥で見初められなくてはいけないんだ?
この時点で近衛熙子は大奥にいないだろ。

後西院が幽閉されたこともないし、櫛笥の養女でもないだろ。

どっかの三文小説でもよんで感化された?wwwww
928日本@名無史さん:2006/06/16(金) 21:32:58
猫院
929後西院:2006/06/16(金) 21:36:26
「徳川家に対して不穏な企をなす者は帝にてもかくのごとし」と、
仙洞御所に竹矢来を張るのでは費用が大変だからと、今の京御所、
御苑に鳥小屋の如き牢舎を作って幽閉した。ここを凝華洞と呼ぶ。


930櫛笥内大臣隆賀養女:2006/06/16(金) 21:48:46
於須免 通称新典侍 二之御部屋 櫛笥内大臣隆賀養女
http://wolfpac.press.ne.jp/tokugawa06.html
931凝華洞:2006/06/16(金) 21:52:35
「桂宮邸趾」の史蹟の日蔭に、
「後西院天皇の仙洞凝華洞趾」
 棒杭みたいな標識があった。
 北向きの陰湿な地面にかつて存在した凝華洞とは何なのか?
 歴代の帝は退位後は仙洞御所へ入らせ給う慣しなのに、この帝のみが畳十四、五枚
の狭隘な、「凝華洞」に入れられ給うた謎はなんであるのか。
932日本@名無史さん:2006/06/16(金) 21:59:17
JR院
933日本@名無史さん:2006/06/16(金) 22:06:50
綱吉に数多い柳沢邸お成りがあった事以外は、検証不能の俗説・創作。
染子は元々柳沢の家臣の飯塚氏の娘で、御殿勤めの経験はない。
吉保の本妻に子がないので、見込まれて吉保の妾となり嫡子を生んだ。

染子・町子・お須免の方(2代目新典侍)の混乱が昔から多く、
それから派生した創作・俗説が入り混じってハチャメチャ。
後西院幽閉云々はこの大奥スレには無関係で、どうでもいい事。
934日本@名無史さん:2006/06/16(金) 22:13:17
脂肪院
935次代の大奥住民 :2006/06/16(金) 22:17:32
六代将軍徳川家宣(もと甲府宰相綱豊)
御台所近衛煕子(子は全て数日で死亡、後の天英院)
御台所付上臈錦小路(下級公家の息女)
太閤近衛基煕(煕子の父、江戸に逗留)
竹姫(綱吉養女、大典侍の姪、清閑寺煕定息女)
家千代(家宣第1子)
家千代生母右近の方(お古牟、後の法心院)
大五郎(家宣第2子)
大五郎生母新典侍(櫛笥内大臣養女園池須免子、柳沢吉保側室正親町弁子改め町子の従妹、後の蓮浄院)
鍋松(家宣第3子、後の七代家継)
鍋松生母左京の方(お喜世、後の月光院)
大奥御年寄江島(絵島、おみよ)
936日本@名無史さん:2006/06/16(金) 22:46:42
誰がなんと言ってもこの嵐は収まりそうもないな。
937日本@名無史さん:2006/06/16(金) 22:48:05
町子の『松陰日記』を読み通した人、誰かいませんか。
自分は持ってはいるがさすがにw、あまり丁寧に読んではいない。
938日本@名無史さん:2006/06/16(金) 22:49:21
コピペっぽいなとおもったら、元はここだよ。
ttp://www.rekishi.info/library/yagiri/scrn2.cgi?n=1085

八切止夫だもん。どうりで電波発してるよwww
どうせ染子のあたりも八切のコピペじゃねえの?
939日本@名無史さん:2006/06/16(金) 22:52:06
連投すまん

染子うんぬんも見つけた
ttp://www2.odn.ne.jp/~caj52560/oooku.htm

やっぱり八切だった。

いまだに八切信者って生息してるんだね。
940日本@名無史さん:2006/06/16(金) 23:54:08
桂昌・院綱吉=朝鮮説、後西院幽閉説・・・いずれも三田村鳶魚も書いている。
但し、柳沢吉里=御落胤説は、「護国女太平記」などの俗書・稗説と
片付けられない、傍証がある。
941日本@名無史さん:2006/06/16(金) 23:56:00
桂昌院・綱吉=朝鮮説、後西院幽閉説・・・いずれも三田村鳶魚も書いている
・・・だから却って史的検証に耐えない。
但し、柳沢吉里=御落胤説は、「護国女太平記」などの俗書・稗説と
片づけられない、傍証がある。
942日本@名無史さん:2006/06/17(土) 00:21:22
このスレって、ペダンティズムの匂いフンプン。
イマジネーションで楽しむって遊びを知らない。
結局は受け売り。おのが博識(っていうより単なる読書量)を
誇っているだけ。
943日本@名無史さん:2006/06/17(土) 00:27:23
東急院
944日本@名無史さん:2006/06/17(土) 00:53:36
>942
それも原典、一次史料にはアクセスせず、
アクセスしても読み下せないもんだから、いわゆる解説本、評論本。
945日本@名無史さん:2006/06/17(土) 01:06:51
携帯院
946日本@名無史さん:2006/06/17(土) 03:25:29
>>942>>944
だったらなんか疲労してみ。
947日本@名無史さん:2006/06/17(土) 06:35:40
>>942
「イマジネーションで楽しむって遊び」は、他の大奥スレで出来るだろ。
大奥関連の諸説には、江戸時代から現代まで眉唾ものが多過ぎる。
そんな眉唾ものをできるだけ排除しようとする、このスレの傾向は、
まじめに度々書き込んでいる複数の常連達の大多数が、暗黙の内に合致した総意。

>>944
大奥関連に「原典」なんてものは存在しないよ。
かなり信頼できてしかも大奥関連を中心に据えた、刊行された史料は数少ない。
史料としては、『以貴小伝』以下等を読んでいれば充分。
ちょこっとだけ大奥に触れた部分もあるような、大部の一級史料の殆どに目を通す事は、
学者のためのスレじゃあるまいし、とても無理な話。
948日本@名無史さん:2006/06/17(土) 06:42:16
メロン院
949日本@名無史さん:2006/06/17(土) 06:54:56
実はそれほど専門研究もないんだよね。
辞典類でも三田村鳶魚が参考文献の冒頭に挙げられてるのが現実。
学者先生方はあんまりこおゆうことには関心ないからね。
長野ひろこ氏くらいかな、今んとこ参考になるのは。
斯様に江戸時代の随筆の類が今も重宝されるとゆうのは、
他にも風俗関係などの研究分野にはいまだに存在する。
現在でも学者先生より却って故日向子女史のほうが詳しかったりすることも珍しくない。
950日本@名無史さん:2006/06/17(土) 07:57:31
>>949
長野ひろこ氏って、調べたら中央大学の日本経済史の先生のようだけど、
参考になるもの、と言う中に刊行された著書があったら、共著でもよいので書名を教えて下さい。
学術論文なんかは、一般人には入手する事ができないので。
951日本@名無史さん:2006/06/17(土) 08:23:40
「幕藩制国家の政治構造と女性」(『江戸時代の女性たち』吉川弘文館、一九九〇年)
そこそこの規模の図書館なら置いてあるでしょう。
但しお望みの内容かどうかは不明。
952日本@名無史さん:2006/06/17(土) 09:12:11
>>951
ありがとうございます。図書館は性に合わないので、
絶版のようですが古書検索にあったので、購入検討します。
953日本@名無史さん:2006/06/17(土) 09:42:00
眼鏡院
954十三代将軍家定の正室澄心院:2006/06/17(土) 10:31:36
「徳川十五代記」の記載を先に引用すれば、
「十三代将軍家定の正室澄心院は、一条左大臣忠香の猶子明姫(はるひめ)となっているが、
畏き辺りの御落胤といわれている。姫は身長一メートル十センチにみたぬ短身で、
唐紙の把手まで頭が届かぬ幼女のごとき有様にて足袋は七文。
こびと姫と申上げた」とある。
955日本@名無史さん:2006/06/17(土) 10:35:59

しかし常識的に考えて幕府にケンカ売るようなマネするか?>こびと姫
956寿明姫は発育不全:2006/06/17(土) 11:03:48
家定には、天璋院で知られる篤子姫の前にふたりの御台所がいました。
一人目の御台所・鷹司政熙の女(むすめ)・有姫は、才色兼備で鼓をよくし、舅の徳川家慶にも気に入られ、
家定との仲もむつまじかったそうですが若くして死去します。
二人目の御台所一条忠良の女・寿明姫は発育不全で、子供のように小さかったと言われます。
寿明姫も若くして亡くなります。
こうして、三人目の御台所として迎えられたのが篤姫でした。
957家定 一説には脳性麻痺:2006/06/17(土) 11:15:52
家定は就任直後から後継問題が浮上するほど体が弱く、
一説には脳性麻痺だったとも言われているが、
将軍として指導権を示すことが出来なかった。1858年に死去、享年34。

家定は、庭の鳥を追いかけるなどする子供のような将軍であり、
煮豆やふかし芋などを作っていた為、松平慶永(春嶽)から「イモ公方」
などと呼ばれていたという。
また、ハリスと引見した際、頭を後方に反らし、
足を踏み鳴らすという異常な行動もとったといわれている。
958毒殺されたという説:2006/06/17(土) 11:18:17
その死は慶福が後継ぎに決まった直後であった為、
一橋派が家定を毒殺したのではないか、という説や、
逆に南紀派に毒殺されたという説がある。

959日本@名無史さん:2006/06/17(土) 11:23:02
>>954 一条忠香の「猶子」という表記は初めて聞いた。
「実の娘ではないという噂」なら見かけたが。
形式を踏んだ猶女(仮の養女)だったら、その旨と実家名が正式の記録に残るはず。
「徳川十五代記」=ボール紙表紙の明治時代の絵本。

>>956 鷹司任子と一条秀子は御台所になる前に死去。御簾中どまり。
ネーム付けたコピペ、みっともないからもうやめろよな。
丸コピペするだけで自分のものとして咀嚼し直していない書き込みは、荒らしそのもので迷惑。
9603人の正室:2006/06/17(土) 11:32:31
歴代将軍で3人の正室がいたのは家定のみ。正室が二人いたのも初代家康だけである。
最初の正室は、関白鷹司政通の養女(鷹司政熈の息女)有君任子。
次の正室は一条関白忠良の息女、明君秀子。
この二度の結婚は、家定がまだ西の丸にいた世子時代のことで、
二人の御簾中(将軍世子、御三家、御三卿の夫人のこと)が相次いで亡くなった後、家定が将軍に就任してから御台所として輿入れしてきたのが島津敬子、後の天璋院篤姫である。
961徳川十五代記:2006/06/17(土) 12:16:50
絵本 徳川十五代記 ボール紙表紙 清水市次郎原版人 鈴木喜右衛門飜刻人 明治 19 B B6 4500
962養子の種類 :2006/06/17(土) 12:21:01
養子の種類
 公家の養子の種類はいくつかあります。養子、猶子、実子の三種類です。この内、養子と猶子は
よく混同されます。よく、養子は相続目的、猶子は名目的と説明されますが、これは的を射ていませ
ん。後陽成院の皇子で近衛家を相続した信尋は養父信尹の猶子となっています。この場合は明ら
かに相続が目的です。

 私見の限りでは、ちょうど近世になるころまでは、猶子という表現が多いです。それが、近世にな
ると逆に、養子という表現が多くなります。とはいうものの、例外も多いです。養子、猶子の定義は
難しいかも知れません。

 つぎに実子についてですが、実はこれ、養子の一種なんです。この実子を訓み下すと「実ノ子トナ
ス」です。本当に自分の子の場合「子」とのみ記します。実の子としたわけですから、もちろん生家の
系譜から抹消されます。生物学的な親族の喪に服す必要もなくなります。

 実子は近世頃から見られるようになりました。そして近世末期には、ほとんどの養子が実子の形態
をとっていました。これは、禁中並公家諸法度で、公家が女系の縁で養子を取ることを禁止し、同姓
間でのみ許したことに関係しているといわれています。実子なら女系でもいいじゃんみたいな感じで
す。しかし、それだけでは、必ずしも説明できません。近世公家社会は謎だらけです。
http://www.c-able.ne.jp/~hiyoko/tyoutei/yousi.htm
963日本@名無史さん:2006/06/17(土) 12:45:37
>>957

>庭の鳥を追いかけるなどする子供のような将軍であり、

これは明らかな捏造なんだけどねwwwwwwwww
964徳川将軍家十五代のカルテ:2006/06/17(土) 12:58:22
綱吉の身長が120センチ台
http://www.webhaus.jp/m/index.php?num=211
965徳川将軍家十五代のカルテ:2006/06/17(土) 13:02:40
家康  159cm、
三代家光 157cm 
五代綱吉 124cm(!)
七代家継 135cm 
八代吉宗 155cm
966徳川将軍家十五代のカルテ:2006/06/17(土) 13:17:46
十五人のうち正室から生まれたのは、たった2人だけで、
ほとんどが側室の女性達だったのです。
その将軍達の生母は、農民の娘2人、魚商人の娘、
八百屋商人の娘、僧侶の娘、家臣の娘4人という
「庶民のご母堂様」達でした。
967日本@名無史さん:2006/06/17(土) 13:33:12
コミュニケーションを取ろうとする姿勢を持てない人間は、クズ。
968日本@名無史さん:2006/06/17(土) 15:26:54
もうすぐ1000いってしまうね。
ここ数か月でものすごい伸びた気がする。

969日本@名無史さん:2006/06/17(土) 15:48:39
>>968
ここをチラ裏にして
よそからのコピペしか能のないヴァカがいるから。
970庶民のご母堂様:2006/06/17(土) 16:34:00
>>966
ペニシリン等の抗生物質の無かった昔は産褥熱での死亡率も多く、
女にとっては子供を孕むはやすく、産むのは命がけの事だった。
それゆえ、明治までの大名の家記には「下受け産業」なる記載すらある。
これも武士の家ではた織りしているのを町家や百姓の娘達の内職に出すというのではない。
お産の時の消毒薬もなく、為に死ぬ場合も多かったので、
それゆえ出産は女体にとって危険極まる難事業ゆえ、
死んでもよい身分の低い女に代行させるだけのことゆえ「女人忠義」とも云うが、
文字通り下請けの産業(うみわざ)なのである。
971日本@名無史さん:2006/06/17(土) 16:56:15
>>968
次スレの>>1には、いくつか禁止事項の明記が必要だな。
下ネタ好き・〜かゑ・〜院・丸々コピペ………。
972庶民のご母堂様:2006/06/17(土) 16:59:27
幕末の和宮様だけでなく代々の将軍家は、
それぞれ遡れば京より正室を迎えているが、
正室から生まれた将軍は慶喜だけ
973その時の代用侍女:2006/06/17(土) 17:04:52
大名で将軍家の息女を貰ったものが、
もし身重にさせて出産の際に死なせでもしたら、
御家の一大事というので、接しても洩らさす゛、
放出用の女人を直ぐ近くに、
股間を開けて寝かせておいたり、
京の関白や摂家がその姫を嫁に出す際、
「もしお産でもして子を産む時に死にでもしたら、
折角縁組みしても何にもならぬ」というので、
その時の代用侍女を何人も伴わせて東下りしてきている。
974家斉の姫:2006/06/17(土) 17:11:08
五十八人の子女を作った将軍家斉の姫は各地の大名へ嫁入りしているが、
やはり一人も子供は産んでいない。
これはもし死なれたら大変と床の間の飾り物にされていたからである。
975身分低き女子をもって代わりをさせる:2006/06/17(土) 17:19:29
『医学天正記』の著で知られる曲直瀬道三の書き残したものに
「雖知苦斎」と題するのが残されていて、その中に、
「お産はそれ婦人の大役にして、産褥にて亡くなる者少なからず、
よって、腹は借りものと称して身分家柄の高き女性は己が子を産
むの煩わしさを避け、身分低き女子をもって代わりをさせる」
と出ている。
976日本@名無史さん:2006/06/17(土) 18:31:48
しかしドシロウトでもつっこめるようなネタばかり書いてうれしいんでしょうかね
特に>>972とか>>974
977日本@名無史さん:2006/06/17(土) 19:24:27
ttp://www.ma.megafit.net/~kt145/datai.htm

やっぱり八切信者の仕業。
たまには自分の言葉で書いてみたら(藁
978日本@名無史さん:2006/06/17(土) 22:26:07
工房院
979日本@名無史さん:2006/06/17(土) 22:44:00
皆さん真面目に読むこと無いのに〜〜
980日本@名無史さん:2006/06/17(土) 23:45:26
人参院
981日本@名無史さん:2006/06/18(日) 00:13:30
おい、新選組スレ見てみろ!やっぱ新選組ヲタは基地害だぞ!
982日本@名無史さん
ぼ院