【男子禁制】大 奥【女の園】

このエントリーをはてなブックマークに追加
1日本@名無史さん
大奥の制度や
将軍の正室・側室、女中などについて語るスレです
2日本@名無史さん:04/10/06 19:07:10
 
3日本@名無史さん:04/10/06 19:15:56
大奥は女の牢獄でございます…
4日本@名無史さん:04/10/06 19:34:15
大奥でのセックス技は正常位と後位だそうです。
松葉崩しもあったという説があるがこれは嘘。
ところで将軍は女のあそこを下で嘗め回すことはしなかったのだろうか?
まじめな書き込みですよ
5日本@名無史さん:04/10/06 20:36:34
大奥物のポルノでは、将軍は白の寝巻を着たままでセックスしていたが、
あれは史実に即しているのか?
6日本@名無史さん:04/10/06 20:37:58
【女子禁制】大 大 奥【男の園】
7日本@名無史さん:04/10/06 20:41:31
つーか、嘗め回す行為はいつ頃から始まったのか知りたい
8日本@名無史さん:04/10/06 22:56:56
            ,. -- 、
.            / ヽ. \    _  _
            /    \ > '´   `´  `<´ ̄`ヽ
.            i     /  /  .      丶  i
            ハ   /  , '   /        \ |
         /   ∧ , '   , '   , '        `ヽ
        /   ∧ ∨   / / / /  / .      ',
      〈    /∧∨   /_/__/_. /  /il  ト. l   l  ',
         `ー‐ァ'∧ V il / /リi///`ヽ./ l|  l i !   i  .i
        // //´| li |r====くリ ハl  l|  l l !   l   !
        / / /八.{| li |{r';:;:;:://  リ  リ `7メ./  /  /
.     / // // l`| li |ゞー '     /=く/ ハ  , ' , 'i
     / ん'/ //il il l| li |       /r';:;:'/  , ' , ' l|
.    レ'' ん ん!! il l| li |     ,  ゞ-'イi / /レル'
            从リ l| li |    r.ァ  ""彡'  イレ'´
.           / リ li |\   __ __.. イ li   i|
      「 ̄ ̄ `ヽ.八 li | / ̄ \   リ il  i|                f´i
.        |      \トv  \   \  ルl  l|        ___/´〉 / /
.      〉、      \   ヽ.   ヽ i!.  リ       , '´ _ (´ ̄ `Y
      /  `ー 、     \   ヽ   リ  /     _/   (´ ̄ `>´i
.     /     \      ヽ   ',   V//i     /7 ´  ̄`ー‐'´  |
    /         \      ヽ  j   i \!    / .|  ァ----rr─‐'
9日本@名無史さん:04/10/06 23:17:56
>>7
クンニリングスをしている様子を描いた艶本は、私の見た限り安土桃山時代にはあります。
将軍がクンニリングスをしていたかどうかまでは分からない。
フェラチオをしている様子を描いた艶本は、江戸時代に入ってもありません。
つーか、一般化したのはここ80年代以降(AVの普及による。70年代半ばに、
トルコ風呂(今のソープ)で「売り」になり、ビデオデッキの普及→AVの普及により
一般化)。
ちなみに、ちょん切ったことで有名なかの阿部定は、フェラチオしまくり
→変態である(色情狂)という学者の鑑定が出たことにより、殺人+死体損壊にも拘わらず、
懲役5年で済みました(昭和11年の話)。
10日本@名無史さん:04/10/06 23:18:25
四十八手にもクン二やフェラ、69という前戯もあるし、
この頃からあったんじゃない?
11日本@名無史さん:04/10/06 23:21:03
昔はフェラやアナルセックス=子種を無駄にする行為

とされてなかったっけ?
129:04/10/06 23:24:48
江戸時代の艶本で、男同士のアナルセックスの様子を描いたものは、
見たことがある(歌舞伎の女形と大名。香油を使って・・・)。
男女間のは無い。
13日本@名無史さん:04/10/06 23:36:01
男同士の艶本・・・今でいう薔薇族みたいなもんか

14日本@名無史さん:04/10/07 00:10:45
俺は思うにアイスキャンデーが売り出された時代だと思うな
それとも子供の時を思い出して・・
15日本@名無史さん:04/10/07 04:20:21
むしろ武将のお小姓の性事情のが気になる年頃。
16日本@名無史さん:04/10/07 12:24:18
>>15
やっぱオナヌーじゃない?
女中に手をつけるわけにもいかないし。
将軍付きだと余計に辛かったんじゃない?
主君に男色の気がある場合は、相手させられたりしてたんだろうけど。
17日本@名無史さん:04/10/07 12:57:46
家光に生涯ほとんど相手にされなかった鷹司孝子タンは
どうやって性欲を解消してたのだろう。
やっぱ女中と睦み合ってたのかな・・・
18日本@名無史さん:04/10/07 21:19:54
鷹司孝子は大奥に入る前に大勢の人の子供を宿している
19日本@名無史さん:04/10/07 21:58:45
孝子の輿入れは22歳だからな
20日本@名無史さん:04/10/07 22:04:05
>>1は大奥の制度や正室など歴史的なことを語るように
望んでいるのに、やっぱり大奥とくればセックスの話に
行ってしまうのかあ。
21日本@名無史さん:04/10/07 22:47:15
家康は名古屋弁だったの?
22日本@名無史さん:04/10/08 15:46:12
岡崎弁。
23日本@名無史さん:04/10/08 16:01:44
神尾某の娘、静
24日本@名無史さん:04/10/08 16:38:08
殿は侍女にも手をつけ放題なのか
うらやましい
子供の養育費払わなきゃいけないっていっても、
どっちみち公費だし。
25日本@名無史さん:04/10/10 01:32:36
>>24
殿じゃねーよ

上様だ
26日本@名無史さん:04/10/10 08:20:23
春日局の後任の大奥総取締役は
誰なんだろうか?素朴な疑問。
27日本@名無史さん:04/10/10 08:52:08
>>26
家光側室のお万の方じゃない?
ただし家光が逝去するまで。
家綱世代になると、家綱乳母の矢島局が
実権を握るようになります。
28日本@名無史さん:04/10/10 10:36:59
歴代の大奥総取締役の一覧は
あるのだろうか?
29日本@名無史さん:04/10/10 10:59:17
大奥の実力者といえば、
春日局にはじまり、
慶光院主・お万の方、
四代家綱の乳母・矢島局、
犬公方綱吉の生母・桂昌院と愛妾お伝の方、
上臈御年寄・右衛門佐の局、北の丸殿、
六代家宣の御台所・天英院と
七代家継の生母・左京の方(月光院)云々と
続くが、彼女らが必ずしも大奥総取締役では
ないと思うのだが。
30日本@名無史さん:04/10/10 11:40:11
>>29
右衛門佐って綱吉時代の大奥総取締役だよね?
御台所鷹司信子付きの女中から
綱吉に見初められて側室になり大奥総取締役になったという。
31日本@名無史さん:04/10/10 11:42:59
エンペラー吉田

「天才・たけしの元気が出るテレビ」で有名な素人。

「偉くなくとも正しく生きる」の座右の銘と入れ歯をはずすその技で、お茶の間を沸かせた。

32日本@名無史さん:04/10/10 22:03:49
>30
そうなんですか?
大奥総取締役の辞令ってどうやって
するのかな?どんどん疑問がわいてくる。
29より
33日本@名無史さん:04/10/11 05:17:00
>>32
辞令なんてあるのかな?
将軍さまに一番影響力を及ぼしているであろう女が総取締役になるんじゃないの?
だれが一番影響力があるかは、お互いそれなりに分かるのかなぁ〜っと
34日本@名無史さん:04/10/13 12:33:51
月光院お付だった江島は総取締役だっけ?
35日本@名無史さん:04/10/22 01:23:02
保守age
36日本@名無史さん:04/10/22 12:20:43
女って、集まれば自然とリーダーが浮かび上がってくるんじゃないの?
今でもOL集まれば、かならずお局がいるじゃないw
37日本@名無史さん:04/10/22 19:58:08
大奥の実力者の後期は
姉小路→瀧山→天璋院って感じか…。
吉宗から家斉あたりまでがよく分からん…。
38日本@名無史さん:04/10/22 20:26:53
>>37
吉宗の頃は天英院。
39日本@名無史さん:04/10/22 20:56:21
天英院が八代将軍に推したのって、
尾張継友とも紀州吉宗とも言われてるよな。
確か大河吉宗では天英院は吉宗を推挙して、その後も大奥で君臨していたけど、
尾張家を推していたとしたら、そこまで発言権はなかったのかもな。
吉宗も大奥の人員削減とか断行してるとこみると、容赦はしなかった訳だし。
40日本@名無史さん:04/10/22 22:08:46
【歴代大奥実力者】
春日局(お福。三代家光乳母)
 ↓
お万の方(三代家光側室)
 ↓
矢島局(四代家綱乳母)
飛鳥井(四代家綱御台所・顕子の侍女)
 ↓
桂昌院(三代家光側室・五代綱吉生母)
お伝の方(五代綱吉側室)
右衛門佐(五代綱吉時代の大奥総取締)
 ↓
近衛煕子(天英院。六代家宣御台所)
お喜世の方(月光院。六代家宣側室・七代家継生母)
 ↓
お久免の方(八代吉宗側室)
 ↓
お幸の方(九代家重側室・十代家治生母)
お逸の方(九代家重側室)
 ↓
お知保の方(十代家治側室・世子家基生母)
松島(家治時代の大奥総取締)
 ↓
お楽の方(十一代家斉側室・十二代家慶生母)
お美代の方(十一代家斉側室)
 ↓
お美津の方(本寿院。十二代家慶側室・十三代家定生母)
姉小路(家慶時代の大奥総取締)
 ↓
瀧山(家定時代の大奥総取締)
実成院(紀州斉順側室・十四代家茂生母)
天璋院(篤姫。十三代家定御台所)
41日本@名無史さん:04/10/22 22:29:41
>>40
家定乳母の歌橋や家定側室のお志賀の方も
かなりの権力を持っていた。
家定の最初の正室鷹司任子、2番目の正室一条秀子も
彼女の仕業ではないかと噂されてた
42日本@名無史さん:04/10/22 22:32:36
>36
会社で働いた事ないお前が言うなw
43日本@名無史さん:04/10/22 23:31:36
初代家康 生母…水野氏於大(伝通院)  御台所…今川氏瀬名姫(西光院)、豊臣氏旭姫(南明院)
2代秀忠 生母…西郷氏於愛(龍泉院)   御台所…浅井氏於江与(崇源院)
3代家光 生母…浅井氏於江与(崇源院)  御台所…鷹司孝子(本理院)
4代家綱 生母…青木氏於楽(宝樹院)   御台所…伏見宮浅宮顕子(高厳院)
5代綱吉 生母…本庄氏於玉(桂昌院)   御台所…鷹司信子(浄光院)
6代家宣 生母…伏見氏於保良(長昌院)  御台所…近衛煕子(天英院)
7代家継 生母…勝田氏於喜世(月光院)  御台所…霊元天皇皇女八十宮吉子(浄淋院)
8代吉宗 生母…巨勢氏於由利(浄圓院)  御台所…伏見宮真宮理子(寛徳院)
9代家重 生母…大久保氏於須磨(深徳院) 御台所…伏見宮比宮増子(証明院)
10代家治 生母…梅渓氏於幸(至心院)  御台所…閑院宮五十宮倫子(心観院)
11代家斉 生母…岩本氏於富(慈徳院)  御台所…近衛寔子(広大院)
12代家慶 生母…押田氏於楽(香琳院)  御台所…有栖川宮楽宮喬子(浄観院)
13代家定 生母…跡部氏於美津(本寿院) 御台所…鷹司任子(天親院)、一条秀子(澄心院)、近衛篤子(天  
14代家茂 生母…松平氏於美佐(実成院) 御台所…仁孝天皇皇女和宮親子(静寛院)
15代慶喜 生母…有栖川宮登美宮吉子(貞芳院) 御台所…一条美賀子(貞粛院)
44日本@名無史さん:04/10/22 23:55:23
家治と家茂の母親は側室でも家柄が良さそうだね。
他の生母はどういう家柄なんだろう?
45日本@名無史さん:04/10/23 00:06:20
>>44
家治生母のお幸の方は公家の出だよ。
前権中納言梅渓通条の娘。
元は御台所比宮増子お付きの女中。
家茂生母おみさの方の父は紀州藩士松平六郎右衛門晋。
徳川松平家の血筋かは知らないけど。
46日本@名無史さん:04/10/23 00:24:22
>>39
吉宗は大奥のリストラを行ったが、自分を将軍にしてくれた
天英院には、何も要求せず(倹約等など)今まで通りの生活を
してもらったそうだ。
ただ、吉宗が将軍職を引き受ける条件として大奥の経費削減を
上げていて、天英院もそれを呑んでいたので、リストラにも
同意していたらしい。
47日本@名無史さん:04/10/23 00:29:43
大奥のリストラ・・・
美人はみんな里に返され、大奥はbusuで溢れかえったってやつか・・・
でもそれによって乱れまくってた大奥の風紀はかなり改善されたみたいだけどね。
48名無しでよか?:04/10/23 00:35:43
>42
360degどの方向から見ても会社員ですが、何か?w
49日本@名無史さん:04/10/23 01:50:01
>>46
吉宗を将軍にしたのは月光院では?
50日本@名無史さん:04/10/23 03:11:56
徳川家斉が羨ましいこの頃
51日本@名無史さん:04/10/23 06:27:01
フジTVの時代劇「大奥」の第2章は家斉の時代を希望。
52日本@名無史さん:04/10/23 08:17:56
家斉って何人くらいとやったんだろう?
好きな女を選べたのかな?
53日本@名無史さん:04/10/23 11:10:50
『少年嗜好6』レビュー
◎>○>△>▲>×の5段階評価

<表紙>
カスカベアキラ ◎ 今までで一番の出来では?どっちのキャラに萌えてもGJ!
ぽ〜じゅ ◎ いつもながらの出来栄え。服の材質までわかるのはこの人の絵くらい。
きりがくれたかや △ いつものギャグ漫画はどうなったんでしょう?
<カラーイラスト>
さそりがため ○ 隣のきりがくれの絵と構図が被ってるのが気になります。
犬丸 △ 犬丸氏っぽい塗り。カラーのほうが栄える絵に見えます。
有頂天 △ 連載は休止?影のつき方がおかしいのが気になる。
かにばさみ ▲ 雑です。他のイラスト陣がいいだけにスルーしそうな絵。
<漫画>
鬼窪浩久 ○ 可も無く不可もなく普通の作品です。絵は◎。
諸汰鎮孝 ○ この人が短いとちょっと物足りないです。せっかくエロイの描ける人なんだから。
星逢ひろ ◎ 話が暗すぎるけどやっぱりキャラが可愛いし乱交がエロかったです。
かげちん ◎ 痴漢電車モノ。台詞回しや床への射精がエロいと思いました。再登場希望!
田倉まひろ × 次回から女×ショタは没にして欲しい。絵柄は可愛いので男の子同士で再登場希望。
鬱之宮鸞次郎 ○ 前回のモロケモよりは読みやすい感じ。書き込みの少なさは気になりませんでした。
Macop. ◎ 今回一番暗い話。評判悪そうですが今までのまこぷ作品の中では一番完成度が高いと思いました。
谷はじめ ▲ 悪くは無いですが可もなく不可もなくという感じでコメントがつけづらいです。
蒼隆行 ◎ 絵柄や体型がOKなら激しく萌えます。個人的には今回一番実用的だったかも。
みにおん △ 悪くは無いけど同じく夢オチは萎えます。御大の次に期待。
カスカベアキラ ◎ 言う事のない出来栄えです。ただし実用度は低いかも。
坂本ハヤト ▲ これ大丈夫なんですか?
<カバー裏>
坂本ハヤト ◎ 普通の漫画なのでお得感があります。
54日本@名無史さん:04/10/24 00:00:45
>>49
月光院は肉体関係があったとされる、側用人間部詮房と共に
尾張藩主徳川継友を推していたとされる。
間部の側用人政治に反感を抱いていた、老中などの幕閣や譜代大名は
紀伊藩主徳川吉宗を推していた。
また大奥でも家継の生母だった月光院と家宣の正室だった天英院が
勢力争いで対立していた。月光院が継友を推すのなら、天英院が吉宗を
推すのは想像できる。
天英院は文昭院(家宣)が「家継にもしものことがあるのなら、吉宗を
後見にせよ。」と遺命を残した(実際の遺命は吉通を後見人、その子
五郎太を家継の養子に、五郎太にもしものことがあったら吉宗の長男、
長福丸(後の家重)を家継の養子にとされる)と言いはり、水戸藩主
徳川綱条も「文昭院の遺命なら紀伊殿を後見にすべき」と主張して
吉宗が家継の後見人に決まった。
吉宗は最初、後見人を固辞したが天英院が同じく、家宣の遺命を出して
吉宗に後見人になるように言い、その時吉宗は後見人になる条件として
大奥の経費削減を天英院に認めさせた。
55日本@名無史さん:04/10/24 02:40:12
>>54
それはどこからの情報?
漏れが読んだ本(徳川妻妾記)には、
天英院は当初、家宣の弟で松平清武を将軍に推挙したけど、
既に越智という別家を立て、甲府徳川家の家臣となっていたことから、
ふさわしくないと月光院や間部詮房が反対し、
ついで天英院が尾張継友を推挙したので、月光院一派は対抗上、
紀州吉宗を擁立。結局、神君家康から血筋の近い吉宗を、
家宣(文昭公)の遺言として将軍としたと書かれていた。
その後、間部は失脚したが、月光院は吉宗に取り入り、
二人は愛人関係だったとも言われる。
大奥の給料カットを断行した吉宗も、
月光院の住んでいた吹上御殿だけは例外にしたそうだ。
いろいろググってみても、いまいち天英院か月光院かどっちか分からなかった…。
諸説色々あるんだろな
56日本@名無史さん:04/10/24 14:32:41
>>52
家斉の妻妾は記録にあるだけでも41人
実際はもっといたと思われ。
57日本@名無史さん:04/10/24 17:12:10
>>55
幕府の公式記録書の徳川実記では、天英院が吉宗を推したことに
なっているし、ほとんどの歴史解説書は>>54の通りとなっている。
吉宗を舞台にしたドラマ「大奥」や大河ドラマの「吉宗」も
天英院が吉宗を推したように描かれていた。
58日本@名無史さん:04/10/25 00:18:49
大河吉宗の天英院は思慮深い家宣のよき妻って感じで書かれてたな
68年版の大奥ではかなりの基地外ぶりだったが

どっちが実像に近いんだろう。
まだ家宣(綱豊)に嫁いだばっかの頃は毎日和歌だの物語だのに
どっぷり浸かってたらしいが。
59日本@名無史さん:04/10/25 00:21:41
>58
お前、武田だろ
60日本@名無史さん:04/10/25 00:37:18
武田は時代劇専門チャンネルと下ネタが大好き
でも童貞なの

時代劇板&大河ドラマ板&三戦板&日本史板の荒らし武田信玄ちゃんに
有志一同でダッチワイフを贈りませんか?

      _
      /,.ァ、\
     ( ノo o ) )  
      )ヽ ◎/(.   
    (/.(・)(・)\ .
    (/| x |\)
      //\\
   . (/   \)
61日本@名無史さん:04/10/25 00:40:05
>>59
ハァ?
ちがいますが何か?
武田って誰だよ。 
62日本@名無史さん:04/10/25 03:30:22
>>56
ほえー
名前を覚えられるのかな。
63日本@名無史さん:04/10/25 05:05:45
大奥っていゃあ、トイレが怖い。
深ーい穴を掘って一生汲み取らない。
いっぱいになったら埋めちゃう。
何が落ちても判らない。
火事やなんかで男の人が救出に入ったきり
行方不明になる事件があったらしいが、
まさか…と思ってしまう。

ありえないか(^^)W
64日本@名無史さん:04/10/25 12:27:59
>>63
御台所や位の高い御年寄、中臈なんかは
一生汲み取らなくてもいいような深い厠使ってたらしいね。
ただ落ちないよう金網が張られていたらしいけど。
もちろんお目見え以下の女中は汲み取り式。
ある日そこに赤ちゃんを産み落とした女中がいて、
半月後、下掃除人が汲み出しにきた所
真っ白に水ぶくれした女の嬰児が汚物まみれで出てきたという事件があったらしい。
65日本@名無史さん:04/10/25 12:35:20
>>64
めしどきに素敵な話をありがとう
66日本@名無史さん:04/10/26 19:24:01
燃え
67日本@名無史さん:04/10/26 20:31:40
183 :< ◆fVLzn.IZwY :04/02/28 00:26
檀上寛『永楽帝 中華「世界システム」への夢』241ページより

 彼は父朱元璋と同様、多くの女性を後宮に集めることに、並々ならぬ熱意を示した。特に朝鮮に対
しては、永楽六年以来、たびたび美女の献上を命じており、朝鮮王朝はそのたびに屈辱的な思いを味
わった。永楽六年などは、わざわざ婚姻を禁止して選抜を行ったが、明側の使者の宦官の意にそわず、
あらためて美女の選抜をやりなおしたほどだ。彼女たちが中国に向かう日、二度と会えぬ子を思う両
親や一族の哭声が、いつまでも道にあふれていたという。
68日本@名無史さん:04/11/02 15:15:54
あげ
69日本@名無史さん:04/11/02 22:14:08
毎日が日曜日の奴って暇でいいよね
70日本@名無史さん:04/11/05 22:14:19
第四話に出てきた木下ほうか演じる岡田淡路守は架空の人物?
誰かを参考にして作られたのか?知恵伊豆とか…。
71日本@名無史さん:04/11/06 00:13:14
大奥の話といえば
スーパージャンプ連載中の「おしとね天膳」が
なかなかバカ話を連発してくれて面白い、

ちなみに5代綱吉のころの話
72やし:04/11/06 13:05:56
大奥って何何ですか?
73日本@名無史さん:04/11/08 11:20:22
>>72
徳川将軍の後継ぎを生産する場所。
妻妾を一括管理するために、江戸城の深奥に設けられた御殿。
将軍と、その子供以外は男子禁制。ペットの犬や猫も♀のみとされる。
74日本@名無史さん:04/11/08 11:25:36
大奥の中で産まれた子供が、公方様のお胤以外である可能性を排除するための仕組み。
75日本@名無史さん:04/11/08 17:33:22
6 名前:日本@名無史さん 投稿日:2004/11/06(土) 03:49
自分の立てたスレとバッティングするもんだから
荒らしたり>>2誘導したり>>4大変だねぇ、武ちゃんも(笑)


7 名前:日本@名無史さん 投稿日:2004/11/06(土) 04:13
>>6
バレたか・・
オマエするどいな
76日本@名無史さん:04/11/08 18:49:00
>>73
御三家は許可があれば、男性でも大奥に入れたらしい。
実際にまだ、紀伊藩主だった徳川吉宗は大奥で天英院に接見している。
77日本@名無史さん:04/11/08 19:54:54
武田も陰湿だよなw
自分の糞スレのために、他のスレを荒らすなんてよ
78重複:04/11/08 19:56:38
大奥について
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1099603011/

大奥の話題はこちらでどうぞ
79日本@名無史さん:04/11/08 20:34:15
>>47なぜ美人を返してブスだけにしたんだ?
80日本@名無史さん:04/11/08 20:51:50
>>79
暇を出しても(くび)、美人ならすぐに嫁のもらい手があり、
路頭に迷うこともないが、ブスだと今、暇を出して大奥から
出されると嫁のもらい手がなく、路頭に迷うからと言うのが
吉宗のリストラの理由。(誰でもいいから、とにかく人数を
減らしたかったが、大奥女中に納得できる理由づけが必要だった)
81日本@名無史さん:04/11/08 20:53:11
ジサクジエン乙
82日本@名無史さん:04/11/08 21:34:00
>>81
自作自演?
俺はそんなことはしていないぞ。
79氏とは別人だ。
83日本@名無史さん:04/11/09 12:33:23
>>81
自演だと思う根拠を述べよ
84日本@名無史さん:04/11/09 12:54:54
>>80
吉宗ブス専説もあるけどな
85日本@名無史さん:04/11/09 18:53:04
>>84
それだ!!
86日本@名無史さん:04/11/09 21:33:25
吉宗側室のお古牟の方はブスだったつーな。
顔よりも元気な子供を産めるかで見たんだろうな。
正室真宮理子や家重生母のお須磨の方も流産で亡くしてるし。
87日本@名無史さん:04/11/19 15:43:04
初心者として質問します。
大奥の組織体制ってどうなっているのでしょう?
どういう人事体系であったんでしょう?大奥法度とかってあったんでしょう?
大奥法度とかの条文ってみれますか?
88日本@名無史さん:04/11/19 16:06:57
89日本@名無史さん:04/11/23 08:33:12
>お添い寝(おそいね)
>夜、将軍の隣で聞き耳を立てる仕事。寝床での「おねだり」から将軍を守るのが役目、という微妙な役目。

「おねだり」から将軍を守るってどういう意味?
90日本@名無史さん:04/11/23 08:59:39
>>89
例えば、
「弟に役職を与えて〜ん」とか
「父の領地を加増して〜ん」とか
91日本@名無史さん:04/11/23 09:22:01
>>89
柳沢吉保の側室染子が綱吉の褥にあがった際
吉保の領地の加増をおねだりしたのが始まりといわれている。
ただしお添い寝は御台所にはつなかい。
92日本@名無史さん:04/11/23 19:45:10
>お添い寝(おそいね)
>夜、将軍の隣で聞き耳を立てる仕事。寝床での「おねだり」から将軍を守るのが役目
側室がおねだりを声に出さずに、たとえば肌の上に愛液で文字を書いておねだり
すれば打つ手はなかったろうな。拭けば証拠は残らないし。
93日本@名無史さん:04/11/26 00:04:06
>>92
おまえキモイね
「愛液」だってよw
94日本@名無史さん:04/11/26 01:38:40
六条有純age
95日本@名無史さん:04/11/26 20:10:06
ドラマ大奥毎週見ています。
お万の方様や正室の孝子様、とてもかわいそうなのですが
その後彼女達はどのような運命をたどるのですか?
96日本@名無史さん:04/11/26 20:17:19

 愛 液



 恥 ず か し い ヤ ツ
97日本@名無史さん:04/11/27 14:54:12
>>95
鷹司孝子・・・家光死後落飾して、本理院と称し引き続き中の丸に住み72歳で没。
       御台所としては六代家宣夫人天英院に次ぐ長寿。
       葬儀はひっそりと行われ、義子にあたる家綱は喪に服そうともせず、
       死んでもなお寂しい生涯だった。

お万の方・・・春日局死後、大奥総取締役に就任。
       かなりのスパルタで春日以上に恐れられたとか。
       家光没後も落飾せず於梅局と称し大奥で引き続き重きを成す。
       六代家宣の代まで生き88歳という高齢で天寿をまっとうする。

お楽・・・四代家綱生母として権勢を振るえたはずだが、病弱ゆえ表舞台に出る事はなかった。
     家光が薨去した同年、家光の後を追うように32歳の若さで亡くなる。

お夏・・・家光没後落飾して順性院と称す。息子綱重は甲府城主となる。
     綱重を病弱で子の無い家綱の跡継ぎと召され、綱吉生母のお玉と火花を散らしたが、
     綱重が若くして没したため、お玉へ軍配があがる事となる。
     お夏は失意のうち、61歳で亡くなる。

お玉・・・いわずと知れた桂昌院。綱吉が将軍に就くと大奥で絶大な権力を振るう。
     将軍を意のままに操り、悪名高い生類哀れみの令を出すきっかけを作った。
     また女性としては最高位の異例の従一位を賜った。玉の輿の語源となった人。
     栄光のうち、81歳で没する。
98日本@名無史さん:04/11/28 22:46:46
>>97
「玉の輿」の「玉」とは、お玉のことだったのかあ。
一つ、トリビアになった。
99日本@名無史さん:04/11/29 19:58:38
おおおく
100日本@名無史さん:04/11/29 20:04:16
100!
101日本@名無史さん:04/12/07 13:36:51
>玉の輿の語源となった人

へえへえへえへえへえ
知らんかった
102日本@名無史さん:04/12/07 16:57:38
>玉の輿の語源

俗説です。
103日本@名無史さん:04/12/07 20:04:20
>>102
時代劇板でもさんざん否定されてんだけど
根強い俗説みたいだね。お玉・桂昌院とは無関係。
「氏が無くても玉の輿」
104日本@名無史さん:04/12/08 21:50:28
お玉がお万の方に仕えてたのは史実なの?
105日本@名無史さん:04/12/09 00:07:56
>>104
お万がまず大奥に入り、後からお玉を呼び寄せた。
106日本@名無史さん:04/12/09 15:51:33
http://www.pia.co.jp/gentei/oem/sagami/hatsu_html/11200311280205.html

お玉説が有力説みたいですが、ちがうんですか?
107日本@名無史さん:04/12/09 19:18:32
>>106
「輿」というのは貴人の乗り物です。「玉」は今でいう宝石かな。
「玉」で飾り立てた「輿」に乗る様な身分になるというのが本来の意味です。
お玉説は元々八百屋の娘から将軍生母まで登りつめたことを「玉の輿」と
世間で言うようになり、お玉の「玉」にもかかっていることからできたんじゃないでしょうか。
108日本@名無史さん:04/12/24 00:18:53
御三家が大奥に行くてのは読むけど、将軍のおてつき以外の
女に手を出してたの?将軍とも穴兄弟?
109日本@名無史さん:04/12/24 12:32:53
>>108
大奥の何千もの女はみんな将軍様の所有物だからね。
御上の物に手をつける事はさすがにないでしょ。
大奥に来るって言っても、御台所様に挨拶とか公務の一環だろうし。
大奥程じゃないにしても自分らの居城の奥向きにもそれなりに女はいただろう。

110日本@名無史さん:04/12/25 19:15:30
“革命戦士”長州力がちゃんこパーティーでつかの間の休息
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1103968945/l50
111日本@名無史さん:05/01/02 23:35:26
いいやね
112日本@名無史さん:05/01/17 22:28:18
age
113日本@名無史さん:05/01/17 22:29:37
明日久しぶりにTVKで15時から大奥あるね!
114日本@名無史さん:05/01/17 22:30:22
>>107
むしろ「お玉」の名前が後付けだったりする可能性はない?
115日本@名無史さん:05/01/24 19:02:44
大奥に上がる前は光子って名前だったらしいよ。>お玉タソ
116日本@名無史さん:05/01/24 20:01:20
大奥になるにはどうすればいいですか。大奥になりたいです。
117日本@名無史さん:05/01/25 00:46:50
>>116
テレビ神奈川で火曜15時から再放送やってるから見れ
118日本@名無史さん:05/01/25 01:05:51
じゃあ、玉の輿に乗ったから「お玉の方」とお呼びしたという可能性あるね
119日本@名無史さん:05/02/20 21:51:22
家光の寵愛を受けてた頃は秋野っていう候名で呼ばれてたみたいだし
120日本@名無史さん:05/02/22 07:34:48
しじゅうはって しじふはつ― 4 【四十八手】
(1)相撲の決まり手の総称。数多くの技があるところから四八手といったもの。
現在は日本相撲協会が七〇手にまとめている。
(2)あることをするための様々な手段や駆け引き。
「商売の―」

――の裏表(うらおもて)
(1)相撲の手の総称。四十八手にそれぞれ表と裏があるとされていること。
(2)手段にはいろいろ変化のあること。人を操る法や処世術のすべて。



関取は皆テクニシャンですか。
121日本@名無史さん:05/02/28 19:09:29
裏表紙にチェリオの広告が載ってる様なムックでエロ特集してるやつ(出版社
書名ともに失念)に江戸時代の大名の性生活が載ってたんだけど、そこに
13〜14歳ぐらいになったら包茎手術(無理やり包皮を剥く?)と筆下ろしを行う
とか書いてあったんだけどこれ本当かな
122日本@名無史さん:05/03/19 19:40:24
>>121
筆下ろしはやっぱ乳母?
123日本@名無史さん:05/03/19 21:50:38
美人をリストラして敢えてブスを残した吉宗はやっぱり名君だと思ふ
普通の男にできることじゃあない。
124日本@名無史さん:05/03/19 22:27:34
単に趣味が悪かっただけだろう ゲテモノ趣味
125日本@名無史さん:05/03/19 23:30:56
>>124
だから普通の男じゃない
126日本@名無史さん:05/03/20 11:56:04
まぁ、ブスしか残らなかったおかげで、
僻みや妬みから来るいがみ合いは殆どおこらなかったというし、
若い子は大量解雇されてベテラン中心になったから、
仕事などもスムーズに行ったというし。
まぁよかったのでは。
127日本@名無史さん:2005/04/08(金) 12:38:48
あげ
128日本@名無史さん:2005/04/24(日) 00:18:34
宦官がいないだけマシだったage
129日本@名無史さん:2005/04/24(日) 03:04:28
世の中を見ろ!ブスの方がさっさと結婚していくぞ。ブスはチャンスが少ないから
必死だ。吉宗はいい将軍だ。美人を世間に解放し、ブスをはべらしたんだからな。
将軍のブス専は許す。
どこかの将軍もブス専なら面白いのにな。
130日本@名無史さん:2005/04/27(水) 14:19:35
            ,. -- 、
.            / ヽ. \    _  _
            /    \ > '´   `´  `<´ ̄`ヽ
.            i     /  /  .      丶  i
            ハ   /  , '   /        \ |
         /   ∧ , '   , '   , '        `ヽ
        /   ∧ ∨   / / / /  / .      ',
      〈    /∧∨   /_/__/_. /  /il  ト. l   l  ',
         `ー‐ァ'∧ V il / /リi///`ヽ./ l|  l i !   i  .i
        // //´| li |r====くリ ハl  l|  l l !   l   !
        / / /八.{| li |{r';:;:;:://  リ  リ `7メ./  /  /
.     / // // l`| li |ゞー '     /=く/ ハ  , ' , 'i
     / ん'/ //il il l| li |       /r';:;:'/  , ' , ' l|
.    レ'' ん ん!! il l| li |     ,  ゞ-'イi / /レル'
            从リ l| li |    r.ァ  ""彡'  イレ'´
.           / リ li |\   __ __.. イ li   i|
      「 ̄ ̄ `ヽ.八 li | / ̄ \   リ il  i|                f´i
.        |      \トv  \   \  ルl  l|        ___/´〉 / /
.      〉、      \   ヽ.   ヽ i!.  リ       , '´ _ (´ ̄ `Y
      /  `ー 、     \   ヽ   リ  /     _/   (´ ̄ `>´i
.     /     \      ヽ   ',   V//i     /7 ´  ̄`ー‐'´  |
    /         \      ヽ  j   i \!    / .|  ァ----rr─‐'

131日本@名無史さん:2005/05/01(日) 07:41:22
>>122
それは足利義政と今参局の関係だな。
乳母だったのを側室にした。
132岡田淡路守:2005/05/02(月) 19:41:39
「大奥 第一章」に出てくる岡田淡路守は、吉屋信子「徳川の夫人たち 上」
にも出てきている。「大奥」はこれから引用したものか?

岡田淡路守という人物は実在したか?
「大奥」に登場した人物かどうかは不明だが、私の先祖伝来の家系図に出てく
る。私の先祖は、代々加賀藩前田家の家来であった。江戸の旗本である岡田
淡路守(名は重治)は、親戚として出ている。

それでは、岡田淡路守重治は、実在したか?
寛政重修諸家譜や干城録などの古文書でその名を確認することができる。
それらによれば、

 慶長15年台徳院殿(秀忠)に拝謁し、のち大猶院殿(家光)につかえたて
 まつり御書院番をつとむ。寛永9年11月5日より進物の事を役す。10年正月
 17日御膳番に転じ奥に候す。8月9日御徒の頭にすすみ、11年閏7月29日
 従五位下淡路守に叙任す。慶安3年5月3日、これよりさき内藤石見守信広が
 与力をめし加えらるるのとき、重治かねてしれるものなりとて、耶蘇の徒たる
 事をしらずして、処士渡辺宗左衛門某を吹挙せしむこと、其罪軽からずといへ
ども、いとけなきより奉仕せし事をおぼしめされ、死刑一等を宥められ、妻子
共に保科肥後守正之にめしあづけられ、寛文3年7月20日ゆるさる。

とある。

 

133日本@名無史さん:2005/05/02(月) 20:56:55
素朴な疑問なんですが、制度として後宮を持っていた幕府は江戸幕府だけなんですかね?
鎌倉、室町にはそんな物なかったような気がするんですが。
134日本@名無史さん:2005/05/02(月) 22:23:40
もしそんなに奥さんいたら毎日ハーハーできる。
いいなー。キャバクラ行かなくていいし。
135日本@名無史さん:2005/05/02(月) 22:30:26
>>133
そうみたいだね。
ただ、江戸幕府以前にも有力大名も「奥」があり、江戸時代は
各藩に「奥」があった。「奥」は大名、「大奥」は幕府だけが
使えた名称。
ちなみに嫁のことを「奥様」「奥さん」と言うが大名の
妻や側室が「奥」に住んでいたのが語源らしい。
136日本@名無史さん:2005/05/03(火) 00:00:33
どこらへんの階層から一夫一妻制になるんだろう?
有力者は大名はみんな一夫多妻だったのか?
137日本@名無史さん:2005/05/03(火) 12:28:11
正確には一夫一婦多妾だね
正室はひとりだけ
138日本@名無史さん:2005/05/03(火) 14:46:57
一夫一婦多妾なら今でも続いてはいる
ただそれがおおっぴらに出来なくなって表向きは恥ずかしい行為にされたのは
やはり西洋文明が流れてきた明治以降だろうな
139日本@名無史さん:2005/05/04(水) 00:05:16
>>133
考えてみると江戸幕府は異常だな。家と政治が分離していない。
どちらかと言うと、京都の王朝に近い。
140日本@名無史さん:2005/05/07(土) 12:45:19
『大奥の犬将軍』 筆内幸子著 北国新聞社 を読んだ。
桂昌院の話だが、今まで聞いていたのとはぜんぜん違う。

*草むらでいきなり犯されたのが亮賢との出会いだった
*お万の部屋子だったが、子のできないお万に頼まれて家光と寝て
 綱吉を生むが実は同じ頃亮賢と密通していて、本当の父親はどちらか
 分からない
*兄の綱重が囲っていた女、お夕に手を出した(生まれた子が後の柳沢吉保)
 それが元で綱重が狂人化
*桂昌院は亮賢が忠長の子ではないかと疑っている

えええええええ〜〜〜〜〜〜〜!!
て、この作者何者?
フィクションなのかも。

とっても混乱しているが、とりあえず
下巻へダイブ!
141日本@名無史さん:2005/05/07(土) 21:41:59
『大奥の犬将軍』 下巻

*柳沢吉保(文中では主に保明)は、順成院からそなたの本当の父は綱重であるから
 綱吉を暗君に仕立て上げ将軍の座から引き摺り下ろせとの遺言をうける
*堀田正俊刺殺事件、生類憐れみの令の黒幕は吉保
*綱吉の世子徳松に青梅を食べさせて死なせたのは右衛門佐の差し金。桂昌院は
 その仕返しに懐妊している右衛門佐に細工した脚立を差し向けて流産させる

こわいよ〜こわいよ〜
142日本@名無史さん:2005/05/07(土) 22:28:39
>>139
江戸幕府も「表」と「奥」を公式には分けていて、原則的に
奥は政に口出すことは許されていなかったんだけど、どうしても
その辺の分別が出来なくなるわな。
中国の宦官の政治介入に通じる物がある。
143日本@名無史さん:2005/05/18(水) 12:22:03
将軍家が代替りとなって新しい将軍になるときに、
大奥女中も総入れ替えするのはなぜなんでしょうか?
お半下のみならず、御中臈などの身分の高い人も解雇されるのですか?
144日本@名無史さん:2005/05/18(水) 13:04:53
>>143

将軍の手のついた人は尼さんになる。
総入れ替えが建前だが、実際には「これまで通り」と言い渡された人は留任
145日本@名無史さん:2005/05/18(水) 13:37:22
江戸幕府は大奥やら側用人や中国の王朝みたいな奴らがいるから嫌い
質実剛健の鎌倉幕府が良い
146日本@名無史さん:2005/05/18(水) 14:28:32
>>144
その、建前でも「総入れ替え」をしなければならない理由はあるのですか?
その時代の将軍のための大奥(例:家光公のための大奥・・・など)が終わりを迎え
新しい将軍のための大奥を作り出さなければならないためですか?
147日本@名無史さん:2005/05/18(水) 15:20:39

奥付の役人は男の場合でも将軍が死ぬと総入れ替えが原則。
表の役人と違って、将軍個人の使用人という感じ。
奥医師でも奥六尺でも「これまで通り」がないと辞任。
(奥付でなくなるだけで、幕府からクビになるわけではない)
実際には留任も多い
148日本@名無史さん:2005/05/20(金) 08:58:10
>>147

男の場合はともかく、女のほうは表では使えないから本当に解雇だな
女の留任組は「御残り人」というらしいぞ
 『江戸奥女中物語』 畑尚子 講談社現代新書
149日本@名無史さん:2005/06/05(日) 10:53:10
ほほう
150日本@名無史さん:2005/06/08(水) 10:18:19
>>148
それ読んだよ。
資料のとり上げ方は面白かった。

ただ、氏家幹人みたいな文体で展開してるんだけど、
まだ書き方がこなれてなくて少し読みにくかったかな。
151日本@名無史さん:2005/06/23(木) 23:10:39
ふうん
152日本@名無史さん:2005/07/04(月) 12:41:02
153日本@名無史さん:2005/07/04(月) 13:05:24
殉死・・・とまではいかなくても建て前上、操をたてる(たてさせる?)と言う形を取る。
154日本@名無史さん:2005/07/04(月) 13:18:31
将軍に対するフェラはご法度のようなキガス
万が一にも
将軍のナニを食いちぎろうものなら、御世継ぎ問題に発展する一大事
暗黙の作法かと
155日本@名無史さん:2005/07/04(月) 13:30:33
専用、もしくは一部の女性には歯を抜いた人もいるのでは?
156日本@名無史さん:2005/07/04(月) 13:47:54
フェラなんて習慣は近代以前の日本にはないから
157日本@名無史さん:2005/07/04(月) 15:02:42
四十八手に「尺八」なるものがあると聞いた。
158日本@名無史さん:2005/07/04(月) 15:04:41
昔の身分の高い人のセックスはいきなり合体と聞いたが。
(潤滑油みたいなのは使ったかもしれんが)
まぁ、将軍様のセックスは公務の一環ですから。
159日本@名無史さん:2005/07/04(月) 16:27:11
>>156
クンニしている艶本は、見たこと有るけどな
160日本@名無史さん:2005/07/04(月) 19:19:47
映画などでは、将軍は寝巻を着たままで全裸の側室とセックスしてるが、
あれは本当だったんだろうか?
161日本@名無史さん:2005/07/10(日) 17:40:13
オンナだけ裸にするのは近代日本の異常性ゆえぢゃ。
162日本@名無史さん:2005/07/11(月) 00:52:16
いや、サービスシーンのつもりなんじゃない?女が裸なのはw
163日本@名無史さん:2005/07/11(月) 09:37:35
倭人は淫らだなw
164日本@名無史さん:2005/07/11(月) 11:57:09
オンナだけ裸にするのは近代日本の異常性ゆえぢゃ。
ヘテロセクシュアルの男どもの助平心に阿諛迎合した下司な作品群に過ぎぬ。
165日本@名無史さん:2005/07/11(月) 18:17:30
じゃあ、江戸時代は男女とも着衣のままセックスしてたのか?
確かに春画には着衣のままの絵が多いが。
166日本@名無史さん:2005/07/13(水) 18:45:51
いろいろ荷台所の人がその後どんな生活おくったかくらしく知りたいな!
167日本@名無史さん:2005/07/13(水) 23:40:11
>>166
御台所のこと?
168日本@名無史さん:2005/07/14(木) 03:50:13
そうそう!漢字間違ってましたね、ごめんなさい
169日本@名無史さん:2005/07/15(金) 20:28:29
大概の御台所は、夫に相手にされず床の間の飾り物扱いで
普通に寂しい半生を送ったと思われますが…
よく下劣な読み物にある将軍夫人の御乱行なんて
実際はあの厳格な奥向のシステムじゃ成り立つ訳がないしね
170日本@名無史さん:2005/07/16(土) 09:37:11
幸せかどうかってのは本人にしか分かり得ないが
端から見て幸せな御台所生活と思えるのは五十宮倫子くらいじゃない?

171日本@名無史さん:2005/07/16(土) 18:38:12
その人はどんな人だったんですか?
172日本@名無史さん:2005/07/17(日) 00:21:00
>>171
十代将軍家治夫人。
幼い頃に江戸に下向し、家治と結婚を前提に何年か交際し愛を育んでからのゴールイン、
しかも家治自身、朝から晩まで女色に耽っていた父家重とは違って真面目で実直な性格だったから
正室の倫子とはすごく仲が良かったんだよ。二人の娘も設けてる。

側室もいたにはいたが、正室との間には女子のみで世継ぎがいなく、
倫子や周りの勧めもあって仕方が無く持ったって感じみたいだし。
それだけじゃなく、側室の産んだ男子を倫子に養育させたり、
(まぁ嫡子を正室の育てさせるのは天英院以降の慣例なんだけど)
大奥の外に遊びに連れてってあげたりと、側室持った後も基本的には倫子一筋だったよう。
姑にあたる前将軍夫人比宮培子や生母お幸の方もすでに亡くなってたし、
側室との確執みたいなのもなかったから女の戦いは無縁だった。(そりゃ最大の後ろ盾が夫だし)
旦那に打ち捨てられ寂しい生涯を送った多くの御台所の中では珍しいケース。


173日本@名無史さん:2005/07/20(水) 11:01:02
禁裏の後宮−−−つまり奥−−−と表とを隔てる場所ないし門扉
(江戸城大奥で云えば、お錠口、お鈴口に相当する箇所)
は何と呼ばれて居たのでしょうか?
とくに江戸時代〜明治時代にかけて何か特別の名称がつけられて
居たのでしたら、教えて下さい。  よろしく。
174日本@名無史さん:2005/07/23(土) 21:26:11
ドラマの大奥では、御台所は髪はお長下げで打ち掛を着ていることが多いけど、
御台所の大半が皇族出身ということを考えると小袿姿でおすべらかしっていうのが、
御台所の姿のように思う。天英院や家重の正室(名前忘れた)はガンとして
京風にこだわったという話もあるし。
お長下げは上臈の髪型だったようだ。ちなみに武家出身だった篤姫はおまた返しという
髪型だったらしい。
175日本@名無史さん:2005/07/23(土) 22:25:44
>>174
そうだったらしいねぇ。
武家出身の茂姫(家斉夫人)、篤姫、
子供の頃から江戸に下向していて武家文化にも比較的順応を示した五十宮(家治夫人)、楽宮(家慶夫人)はあたりはともかく、
大奥を牛耳った飛鳥井、姉小路の主人、家綱正室浅宮顕子、
公家文化に理解を示し、側室も公家出身が多かった綱吉の正室鷹司信子、
実家から実父を呼び寄せ、女中たちに京風の礼儀作法を叩き込むほどの徹底振りを見せた天英院、
降嫁の意識が強く、日常用品にはすべて菊の紋が施されていたという家重正室の比宮培子、
言わずと知れた和宮あたりはおそらく御所スタイルだろうね。




176日本@名無史さん:2005/08/14(日) 00:36:41
記録はないの?
177日本@名無史さん:2005/08/14(日) 01:02:38
「和宮様御留」のなかに十三代将軍の二番目の正室一条秀子は小人だったってあるんです。
『ふすまの引き手ほどの背の高さで』
なんか資料ないですか?
178日本@名無史さん:2005/08/15(月) 06:43:15
>>177
それ『天彰院篤姫』では?
179日本@名無史さん:2005/08/15(月) 10:57:36
>>178
自分は『篤姫』読んだことないんですよ

自分で見つけちゃいました

150 :世界@名無史さん :04/07/20 15:34
上の方で出てたけど、徳川家定の継室 一条家の明君
立っても襖の取っ手に届かない程の低身長で、両足の長さがっていた。
本物の一条の姫ではなく、見せ物小屋から買った奇形の芸人という噂があった。

また一説によると、次の家茂の正室和宮は左手が手首から無かったとか、
足が不自由だったとか、さらにそれは替え玉とか、こちらも様々な説がある。
180日本@名無史さん:2005/08/15(月) 21:06:06
和宮の「左手首がなかった」説は増上(だっけ)の銅像に左手首から先が見えない
から流れたうわさだときいた。でも正式な女房装束では手が見えない(扇にそえるだけ)
が普通なのだからうわさはうわさである。という説も聞いた。

足が不自由だったというのは「家茂と庭に出るときぴょんと庭先におりた」という話しを勝海舟
がしていたので、これもうわさの粋を出ない。

あんまり変な事いうと有吉佐和子みたいに角田文衛センセイに叩かれちゃうぞw
181ワリコミヲトメ:2005/08/17(水) 02:42:18
180

足の件は定かじゃないけど、左手首から先は『骨は語る 徳川将軍・大名家の人々/著:鈴木尚』の巻末にちょっと書かれてるよ。

『和宮の遺骨には、刃の跡その他の病変部は認められなかった。ただ不思議にも左手首から先の手骨は遂に発見されなかった。』だそーです。
でも『和宮の左手が、幼少の頃からなかったとは考えられない』ってあるから…何らかの事件セイ(字度忘れ)が考えられるかも。

ワリコミスマソ(・ω・)ノシ
182日本@名無史さん:2005/08/17(水) 07:02:07
>>179
明君を斡旋した姉小路の失脚の一因になったとも言われているね。
183日本@名無史さん:2005/08/17(水) 11:55:55
一条秀子が奇形の小人だったという記述は
吉屋信子の続・徳川の夫人たちにも書かれていますね
身長三尺弱で駕籠の上にやっと頭が出る程度だったとか
184日本@名無史さん:2005/08/17(水) 23:12:05
「箱入りの京人形連れて来て 一丈(一条)あるとは 無理な姉さま(姉小路)」
という落首が読まれたり、
歌川国芳が有君の背の低さを皮肉った浮世絵を描いているから、
真偽はともかく、少なくとも一条秀子の小人説は町人の間で実しやかに囁かれていたよう。

島津の篤君が輿入れしてきた際、
家定は彼女の(当時の女性としては)大柄な身体に驚愕して首を横に振りながら喚いたというから、
前夫人秀子とのあまりにもの体格差に驚いたのかもしれん。

てか寛永寺に秀子の墓があったと思うが、遺骨は残ってないのか?
増上寺のように発掘調査できなかったのだろうか。


185184訂正:2005/08/17(水) 23:14:58
>>184
国芳が皮肉ったのは有君じゃなくて、明君(秀子)ね。
有君は第一夫人の天親院の事だったね。
186日本@名無史さん:2005/08/17(水) 23:31:42
>>184
増上寺の発掘調査は、墓地移転のついでにやった物だから
寛永寺はやらんでしょ。
187177・179:2005/08/19(金) 19:54:22
いろいろありがとうございます。
『徳川十五代将軍のカルテ』というのを読んで、ちょっと興味を持ったので。
今度『続・徳川の夫人たち』読んでみます。
188日本@名無史さん:2005/08/20(土) 00:48:29
家光側室お万の方が主人公の「徳川の夫人たち」も面白いよ。
「続・〜」は駆け足で代々の大奥を書いてる感じで、少し忙しくはあるかも。
189日本@名無史さん:2005/08/28(日) 21:25:16
『徳川の夫人たち』の、単行本の挿絵が、好きだった。文庫本では、省略されているが。
同じ吉屋信子の著作で、『徳川秀忠の妻』を、読んだ人は、いないのかな。
『徳川の夫人たち』(正・続)よりも、あとの著作だけど、
単行本だけで、とうとう文庫化されなかったのかな、今は絶版。
190日本@名無史さん:2005/08/30(火) 14:03:11
>>189
『徳川の夫人たち』と『徳川秀忠の妻』、挿絵を書いてたのは同じ人ですか?
191日本@名無史さん:2005/09/15(木) 23:13:59
吉屋信子はフジテレビの「大奥」(最初のバージョン)でお万がお玉に陰険ないじめを繰り返す描写に呆れて
「呪わしき大奥ブームよ」と嘆いたそうな。
幕府の記録や日記に彼女の性格まで記したものがあれば検証できるのだが。
192日本@名無史さん:2005/09/16(金) 04:20:27
ん?ドラマでおたまをいじめたのは
お万じゃなくて、他の女中じゃなかった?
新入りの儀式とかのことでしょ?
あと、最初のバージョンじゃなくて二作目。
193日本@名無史さん:2005/09/16(金) 18:52:25
>>191 お万がお玉に〜 → お万がお楽に〜
>>192 吉屋信子は、1973年没。「大奥」は、一作目が1968年、二作目が1983年。
194日本@名無史さん:2005/09/16(金) 22:53:19
>>191
人物像の解釈なんて人それぞれなのに・・・
自分の妄想してたお万像と違ってたから嘆いてたんでしょ?
195日本@名無史さん:2005/09/17(土) 10:35:24
一条秀子は美子皇后の叔母だね
一条家は小柄なのか
196日本@名無史さん:2005/09/17(土) 21:09:13
秀子は一条家の娘ではないといわれているしなあ。
197日本@名無史さん:2005/09/23(金) 08:08:28
んー、お万の方の性格が本当はどうかなんてわからないけど、
ドラマ「大奥」は、吉原遊女物なんかと一緒で
女同士の争いやドロドロした部分を必要以上に誇張して
興味をそそらせるのがミエミエの演出するし
ワイドショーネタみたいに煽るから好きじゃない
女の王国って聞くとやっぱ淫靡な感じするし、
そういう覗き見趣味的なものを満足させるようなものなんだよね

そういう点で吉屋先生は嘆いたってのもあるんじゃないのかなぁ
198日本@名無史さん:2005/09/23(金) 14:36:37
実際、女の集団はどんな集団もドロドロしている。
199日本史@名無しさん:2005/09/23(金) 23:53:48
で、その吉屋信子の「徳川の夫人たち」はお万の方至上主義小説だったけどね〜
お万の方は完璧な聖女で、残りはみんな欠点ばっかりのダメ女ばっかり〜と。
そりゃ初代大奥は気にくわなかっただろうよ。
200日本@名無史さん:2005/09/24(土) 03:06:40
吉屋信子は少女小説の延長上だからねえ
絶対的な存在を据えないと話がうまくまわせないフシがある
でも吉屋信子の書く、他を超越した聖女(美女)は好きだ
綺麗事ばかりの世界も大好き
201日本@名無史さん:2005/09/30(金) 06:04:50
吉屋信子の小説って女学校ものが多いし、大奥もそんな感じで書いてるふしがある。
202日本@名無史さん:2005/09/30(金) 13:25:56
徹底した主人公礼賛が多いから、吉屋信子。
「女人平家」も名作だけど、ヒロイン佑様は何でも万能のスーパーお姫。
ハイハイ何でもお出来になるんでつねー、と呟きたくなる。
でも、やはり面白くて読みすすんでしまうのです。
203日本@名無史さん:2005/10/01(土) 01:55:09
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
さわやかな朝の挨拶が、澄みきった青空にこだまする。
将軍様のお城に集う中臈たちが、今日も天使のような無垢な笑顔で、御鈴廊下に控えている。
汚れを知らない心身を包むのは、色とりどりの打掛。
美しく結い上げた髪は乱さないように、打掛の裾は翻らせないように、
ゆっくりと歩くのがここでのたしなみ。
もちろん、お手付がついた者を妬んで陰口を叩くなどどいった、はしたない中臈など存在していようはずもない。

江戸城大奥。
大奥法度により正式に定められたこの場所は、もともと将軍の妻妾を他の男から隔離し、
お世継ぎを育成する為に作られたという、伝統ある江戸城最奥部である。
江戸の中心。花の大江戸の喧噪から隔離されたこの場所で、大奥取締に見守られ、
お末から御台所まで総勢数百人の女たちが暮らす女の園。
時代は移り変わり、戦国時代が遠くなった大平の世の今日でさえ、
将軍が通い続ければ、温室育ちの純粋培養なお世嗣ぎが出荷されるという仕組みが
未だに残っている貴重な場所である。


女学校大奥と聞いてまっ先に思い付いた「マリ見て」コピペ改変…。
ああ、何て吉屋大奥にピッタリなんだ…。
ごめんなさいごめんなさいもうしませn
204日本@名無史さん:2005/10/09(日) 15:55:01
鷹司信子
205日本@名無史さん:2005/10/09(日) 17:36:49
>>203
ワロタw
206日本@名無史さん:2005/10/12(水) 18:28:50
明日からまた、大奥ドラマがあるね、つまらなそうだが。
207日本@名無史さん:2005/10/12(水) 18:55:05
チャングム見れ
208日本@名無史さん:2005/10/12(水) 23:13:40
それより、源氏物語を腰を据えて取り組めばいいのに。5年ぐらいかけて。
209日本@名無史さん:2005/10/12(水) 23:36:30
徳川将軍家の大奥では、元旦に、「おさざれ石」という儀式があった。

御台所は午前4時に起床する。化粧をおえたあと、廊下に出る。
廊下にはすでに毛氈が敷かれており、なかほどにタライがすえられている。
その中に石が三つならべられている。
やがて御台所がタライの前に着座すると向こう側に座った中揩ェ一礼し、
「君が代は千代に八千代にさざれ石の」と、となえる。
御台所はそれをうけて「いはほとなりて苔のむすまで」 と下の句をとなえる。
そのあと中揩ェ御台所の手に水をそそぐ。 
そういう儀式のあったあと将軍家に年賀を申しのべる。
この元旦儀式は将軍家だけでなく、国持大名級の奥にもあったという。その元は
徳川家の創始ではなく遠く室町幕府の典礼からひきついているのではないかと
想像される。              ○馬○太郎
210日本@名無史さん:2005/10/14(金) 11:30:09
>>208
源氏は読めば読むほど、映像化は止めたほうが無難・・・と思うがな。

長谷川一夫、市川雷蔵から天海主演の映画、
ジュリーや片岡孝夫(当時)以来のドラマ、アニメ、AB蔵の歌舞伎・・・と
ほとんど見たけど成功作があった試しが無い。
みな中途半端な恋愛遍歴物語に終わっている。
211日本@名無史さん:2005/10/16(日) 04:09:55
源氏物語全体の映像化じゃなくて
有名なシーンだけの映像化ならいいかも。
もちろん役者の顔は出さなくていい。
頭の中で描かれる映像の糧になるようなもんでいいのですよ・
212日本@名無史さん:2005/10/17(月) 13:51:58
http://www.0105.jp/~mizuki/ohoku2.html
ここらへんドラマにしたら強烈な大奥になりそう。
天英院、公家出身のお嬢さんかと思いきやかなりの悪女だね。
八十宮降嫁にはこんな裏があったのか。
213日本@名無史さん:2005/10/17(月) 20:05:23
息子が将軍になった身台所はおごうだけだね
214日本@名無史さん:2005/10/18(火) 01:03:08
ところで、自分の持ってる本何冊かでは
牧野の次女である安は元禄2年没で、
大奥奉公をしていたような事も載っていないが、
一応学者が書いたスキャンダル日本史(・・妖しげ)と言うような題名の本に
大奥入りが書かれているらしい。

フジの異次元大奥なんて嘘だらけでもいいんだけど、
行方不明になったも同じである母のあぐりはともかく
安が明確に大奥入りしてた記録なんて、何に載ってるんだろうか?
215日本@名無史さん:2005/10/20(木) 11:42:32
ググッて調べた程度で詳しくはわかりませんが
スキャンダル日本史は電子書店だったので、
さわりだけちょっと読みましたが母娘とも
大奥に召し出されたと書いてますね
他では単なるお手つき扱いのものや阿久里の時は
家まで通ったと書かれていたりで自分も凄く
気になり大奥を詳しく書いてある本が
読みたくなりました。
どなたかお勧めがあったら教えてほしいです。
216日本@名無史さん:2005/10/21(金) 02:28:48
昔、大奥を題材にした成人漫画があった。

大奥に忍び込んだ泥棒が女衛士に捕らえられた。
「すみやかに罪人の引渡しを」と訪れた男役人達に
「この罪人の取調べは大奥にてしばし行う」と女年寄が言った。

数日後、亡骸になった泥棒が役人に引き渡された。
その泥棒の性器は見るも無残なほど崩れており
性器が酷使されたことはあきらかであり、
その真実を隠すため泥棒はくびり殺されたのではと
役人達はささやきあった。

217日本@名無史さん:2005/10/21(金) 20:27:16
月光院と江島(絵島)とがトイチハイチの仲にあった
という話を読んだことがありますが、
なにか当時の文献に書かれているのでしょうか?

218日本@名無史さん:2005/10/21(金) 20:32:49
信用できるような文献史料に、安の大奥入りを記したものは無い。
田辺誠一の役も、架空・・・いろいろと役どころを合成して創作した役で、
もちろん、牧野家の系図には見えない。
219日本@名無史さん:2005/10/21(金) 21:21:31
>>217
その手の類いの話はみんなヨタ話だと思ってるが…
220日本@名無史さん:2005/10/21(金) 21:54:58
まず、大奥に奉公するときに誓詞があって
大奥内のことは家族といえど一切口外しないことを誓う。
秘事を見聞できるようなお目見え以上は、一生奉公が多い。
(ま、絶対喋らない者ばかりとは限らないけどね)

武家や将軍家・大奥に関する事件や噂に関する読み本や
浮世絵・想像図の発行はご法度。描いてはならない。
(ま、伝聞を興味本位に潤色して名前と時代設定を変えて物語や歌舞伎に
してしまう例も多いが)

>>217
そんな関係があったか無いかは歴史の闇の中だけど、
れっきとした「文献」に、その手の逸話を載せる必要性もないはず。
221日本@名無史さん:2005/10/22(土) 04:03:01
あの二人の間の「トイチハイチ」は吉屋信子も書いていますヨ。
野史の類でも何か典拠はないもので御座ろうか?

尾張家の御生母の淫蕩史譚の如くに徳川時代ないし明治初期の
文献にも皆無で御座居ましょうかの?


222日本@名無史さん:2005/10/22(土) 07:44:01
大奥の秘事を面白おかしく脚色した読み物は昔から人気あっただろうから
その中で月光院と江島の仲は繰り返し書かれた格好のネタだったんじゃないのかな。
きちんとした文献でなく、そういう色物本で探すと吉かも。
223日本@名無史さん:2005/10/22(土) 11:07:16
例へば、如何なる書物にあたってみるのが好もしいでありませう?

224日本@名無史さん:2005/10/23(日) 02:22:39
誰ぞ返答致され度し。

225日本@名無史さん:2005/10/23(日) 02:46:16
たれかある!
胡乱なホモ吉をここから追い出すのじゃ。
226日本@名無史さん:2005/10/23(日) 05:15:04
自分で調べるといふ知能はないのでせうか
227日本@名無史さん:2005/10/23(日) 09:39:08
225はレズ女かゑ?

ドブスめがっ!!!


228日本@名無史さん:2005/10/24(月) 18:08:47
>>191 
>>192
フジテレビ『大奥』で桜町弘子の演じる於萬の方が
裸に剥いて苛めてた相手は「お蘭」のちの於楽の方でしたぞ。
家光公が中山仁で、春日局が三益愛子で御座居ましたネェ。
懐かしゅう御座居ますこと。
229日本@名無史さん:2005/10/24(月) 20:52:08
お聞きしたいんですけどお万さまはテレビで見るみたいに本当にあんなにいい人だったんですか?
230日本@名無史さん:2005/10/24(月) 23:25:40
当時から生き延びている人なんて居ないと思うので
何ともいえませんね。
231日本@名無史さん:2005/10/25(火) 12:53:40
そうですよ〜ネ!変な事聞いてすいませんでした。
232日本@名無史さん:2005/10/25(火) 13:25:04
男子禁制改めよ!大老すら禁制に!(実際は将軍以外にも入った人
おるんやろうけど・・・。)
233若御台:2005/10/25(火) 15:39:37
『徳川秀忠の妻』も読みましたぞゑ。
『徳川の夫人たち』は新聞に連載中から親しく読んで居りました程に。
234おまんこ なめる:2005/10/26(水) 00:09:45
大奥にもぐりこみたいおーー
235日本@名無史さん:2005/10/26(水) 21:59:40
潜入する前に成敗されるであろうぞ。


236日本@名無史さん:2005/10/26(水) 22:11:30
>>233
医者以外に用事があれば御三家も大奥に入ることができる。
紀州藩主徳川吉宗は天英院に大奥に呼ばれて家継の後見人に
なるように言われた。
237なめる:2005/10/27(木) 01:49:36
∧@∧    
 ( ´∀`) <医者のなめるだおー、大奥はいるおー
 (ノ  )ノ  
 ノ  >
238日本@名無史さん:2005/10/27(木) 19:34:52
御年寄とお手付き中臈だったらどちらが権勢を張れたのですか?
239日本@名無史さん:2005/10/28(金) 01:23:35
お年寄り
240日本@名無史さん:2005/10/28(金) 02:07:18
ただのお手付き中臈だったら御年寄りだろうね。
お手付き中臈は、各御年寄りの監督下に置かれていた訳だし。
もし身籠って御腹様になれたなら、御腹様>>>御年寄りだけれども。
241日本@名無史さん:2005/10/28(金) 18:07:37
時代にもよるが、江戸時代中後期は、
出産して晴れてお部屋様になっても、次男以下や姫の母だったりして、
お上並(現将軍生母のみ)・上臈御年寄上座・御年寄上座などの待遇肩書きに出世できずに、
中臈のままか、御客会釈上座止まりだったら、御年寄にはかなわない。
242日本@名無史さん:2005/10/28(金) 18:49:50
お美代の方みたいになってみたいもんだ。
243日本@名無史さん:2005/10/29(土) 00:39:55
へっ?
千代田のお城から追い出されて
娘の嫁ぎ先に押し込められてた晩年なんてヤじゃん。
244日本@名無史さん:2005/10/29(土) 10:25:49
お美代の方は3人の姫をもうけたのに晩年は何故あんな扱いなのかしら。
245日本@名無史さん:2005/10/29(土) 14:17:49
お美代の方はどんな扱いされたんですか?
246日本@名無史さん:2005/10/29(土) 14:35:54
>>244
孫の犬千代君を家慶公の後がまに据えようとしたから。
247日本@名無史さん:2005/10/29(土) 14:38:13
御墨附きが無効とされし為ぢゃ。


248世界@名無史さん:2005/10/29(土) 16:16:30
日本では大奥、中国では後宮、イスラム世界ではハーレム、
北朝鮮では喜び組、世界にはいろいろな女の園があるなあ。
249日本@名無史さん:2005/10/29(土) 17:39:01
お美代の方や中野石扇、水野美濃守らが結託して前田犬千代を祭り上げようとしたのは史実ですか?
250日本@名無史さん:2005/10/29(土) 18:34:04
いかにも!
251日本@名無史さん:2005/10/29(土) 20:54:23
荒唐無稽な話だ。幕閣の反対だってあるだろうに。
252日本@名無史さん:2005/10/29(土) 21:00:26
反対があったから実現しなかったわけで。
253日本@名無史さん:2005/10/29(土) 21:02:30
大御所の鶴の一声で家祥を廃嫡し、犬千代を養子にすることなど造作ない。
その前に大御所が逝ってしまったが。
254日本@名無史さん:2005/10/29(土) 21:08:06
その後水野美濃や林肥後一派はどうなったの?
255日本@名無史さん:2005/10/29(土) 21:14:30
水野越前によって失脚させられた。
256日本@名無史さん:2005/10/29(土) 21:17:02
左遷さるる事と相成るぞよ。


257日本@名無史さん:2005/10/29(土) 21:18:54
免職だけ?幕府に対しての謀反も同然なんだから改易永預けでもいいくらいだ。
258日本@名無史さん:2005/10/29(土) 21:25:08
お美代落飾後の院号は?
259日本@名無史さん:2005/10/29(土) 21:40:19
林肥後は減封もされてる。
260日本@名無史さん:2005/10/29(土) 21:46:21
↑専行院
261日本@名無史さん:2005/10/29(土) 22:50:10
広大院によく思われてなかったのが運のつきだな>お美代
262日本@名無史さん:2005/10/30(日) 21:08:39
大奥は女の牢獄でございます。
263なめる:2005/10/30(日) 21:16:21
大奥はなめるのものだおー
264日本@名無史さん:2005/11/04(金) 22:58:07
age
265日本@名無史さん:2005/11/05(土) 13:00:38
大奥十八景
266日本@名無史さん:2005/11/05(土) 15:39:31
大奥に忍び込むと
http://www.tsunoda-jiroh.co.jp/06_yugm/ukiyoe/

の鳥羽僧正の絵のようになるお
267日本@名無史さん:2005/11/11(金) 23:48:47
大奥関係の本を読んでいますと、第七代徳川将軍家宣の御台所の故事として
「指輪拾いの役目」という史譚が時折り目につきます。
それは御台所の近衛熙子が宝永元年の某日、化粧中に
「夜光の玉の入った指輪」を畳の合わせ目に取り落としてしまい、
それを誰が拾うべきか有職故実に詳しい錦小路の局が調べさせた
といったアネクドートなのですが、何故この時代に指輪を嵌める
習慣があったのかとか、大奥の御台所の御座所の畳に指輪が落ち込む程
広い隙間があったのだろうか等と不審な点が幾つか指摘出来ます。
この史話の典拠を御存知の方々が居らしたら、是非とも御教示のほど
願い上げます。 
何卒宜しく御願い致します。
なお今、手許にある此の話を掲載した書目は『江戸城大奥100話』
(安西篤子・監修、立風書房。156頁)と『江戸女人物事典』(68〜頁)
の二冊だけで、いづれにも出典が明記されて居りません。
268日本@名無史さん:2005/11/11(金) 23:58:34
ああーあーあー
269あぼーん:あぼーん
あぼーん
270あぼーん:あぼーん
あぼーん
271あぼーん:あぼーん
あぼーん
272日本@名無史さん:2005/11/13(日) 18:06:09
質問スレで三回目までは、ただの「しつこい質問者」だと思っていたのだが・・・
273日本@名無史さん:2005/11/13(日) 18:56:48
上ふたつの人と下の奴は別人じゃないのか?
274あぼーん:あぼーん
あぼーん
275日本@名無史さん:2005/11/14(月) 11:53:19
週刊新潮に幕末バトルロワイヤル、という連載があるのですが、
先週に発売した号には智泉院事件の顛末の事が書いてありました。
お美代の方は明治5年まで生きたそうですね。

276日本@名無史さん:2005/11/14(月) 13:23:29
>>275
東京市内の寺に埋葬されたのに、後に金沢の寺に改葬されたそう。
死んでからもサンザンやね。
277日本@名無史さん:2005/11/15(火) 01:47:18
お美代の方娘の嫁ぎ先で余生を過ごしたんだからまんざら不幸でもないでしょ。長生きもできたし。
278日本@名無史さん:2005/11/15(火) 03:54:02
小池栄子何か可哀想やな…
279日本@名無史さん:2005/11/15(火) 05:45:32
ただ、幕末になってからの溶姫の扱いはとても当主正室の扱いではなかったらしいよ。
加賀に移ってからは隠居所に押し込められていたらしい
280あぼーん:あぼーん
あぼーん
281日本@名無史さん:2005/11/15(火) 15:56:57
>>277
今の感覚や普通人の感覚出、娘と一緒に暮せて幸せ・・・とは違うよ。
専行院の場合は、「移された」んだから。

他の妻妾たちが上臈年寄りとして大奥に残ったり、
桜田比丘尼屋敷で暮らすことを許されず、厄介者で過ごした晩年だろう。
加賀屋敷→浅野屋敷→加賀屋敷→本郷の寺・・・ここで没。
かかりの多い将軍息女を貰った上に、問題アリの生母まで押し付けられて
前田や浅野も迷惑だったに違いないよ。


282日本@名無史さん:2005/11/15(火) 22:09:58
お美代の方は家斉没後落飾剃髪してるのですか?
283日本@名無史さん :2005/11/16(水) 06:24:21
>>281
上臈年寄りとして大奥に残った妻妾たちとは、誰?
聞いた事も読んだ事もないのだけれど。
68年版の藤岡局(浪速ちえこ)のような人がいたのですかね?
藤岡は前将軍の側室だったという設定だったね。
284日本@名無史さん:2005/11/16(水) 12:31:10
>>283
>上臈年寄りとして大奥に残った妻妾

家斉の末子を産んだお瑠璃の方じゃなかったか?
285あぼーん:あぼーん
あぼーん
286日本@名無史さん:2005/11/16(水) 14:44:29
昨日の紀宮の初夜はどうだったのかな?
やっぱ処女だったのかな?
明け方までやりまくったのかな?
中に濃いいのをいっぱい出されたのかな?
いい声出すんだろうか?
287日本@名無史さん:2005/11/16(水) 16:28:46
きもいヤツだなー。
よくあんな顔のそんなとこ想像できるな。
288日本@名無史さん:2005/11/16(水) 17:18:38
>>285 昔の貴賓の人々が装飾品など珍しいものを好むのは洋の
東西を問わず多く有る事じゃないのかな。豊臣政権の頃、
秀吉が豪奢な天蓋付きのベッドを大阪城に四つも置いてたとか。
史話の典拠は何?といわれてもわからないけど。
289日本@名無史さん:2005/11/16(水) 20:03:54
>>283
>聞いたことも見たこともない
・・・自分も見たことは無いがなwww

家斉のお八重(皆春院)→上臈御年寄上座
284指摘の家斉のお瑠璃(青蓮院)→同上
                   とかのことじゃないの。

290あぼーん:あぼーん
あぼーん
291ホモ吉へ:2005/11/17(木) 09:15:03
何日間にもわたって同じ馬鹿嵐してるヒマがあるなら
「定本江戸城大奥」とか「徳川夫人伝」でも借りて自分で調べろ。

柳営婦女伝や以貴小伝、小石房子や卜部典子の著書を読んでもいいし、
安西篤子か出版社に質問状でも送って、自分で動いて調べてみろ。


292日本@名無史さん:2005/11/17(木) 14:54:32
【レズ江】ホモ吉の醜態報告【オカマ婆】
http://ex9.2ch.net/test/read.cgi/net/1130852327/
293あぼーん:あぼーん
あぼーん
294日本@名無史さん:2005/11/22(火) 18:52:03
安西篤子に田井友季子・・・作家の書いた読み物程度か。
295日本@名無史さん:2005/11/25(金) 19:12:26
ピラニアというのは要するに極右(差別主義者)のこと
こいつらが日本をダメにしてるんだ
日本を少しでも悪く言う奴はみんな朝鮮人、というハッピーな思考回路を持ってるのが特徴
耳の痛いことは朝鮮人のせいにしてシャットアウト
まさに日本の害虫なのよ
296日本@名無史さん:2005/11/25(金) 20:39:25
大奥とアマゾンの肉食魚がどう繋がっているのですかい?
297日本@名無史さん:2005/11/25(金) 20:40:34
ヒント
ホモ吉は極右
298あぼーん:あぼーん
あぼーん
299291:2005/11/26(土) 11:35:01
ホモ吉、自分で調べてみた?
安西や田井のような作家がネタ集めて書いたような本を読むのは止めて
出典を明確に示している研究者の書いたもの読みなよ。

それと、そろそろ違うネタふらないと見苦しいよ。
300あぼーん:あぼーん
あぼーん
301日本@名無史さん:2005/11/29(火) 17:45:46
ホモ吉氏ね。
302日本@名無史さん:2005/12/03(土) 17:46:12
大奥関係の書物を電子書物で読みたいのですが、iモードで読める電子書物何かあったら教えて下さい。
探したんですけど、大奥に無知なんでよくわからないんです。
PCもってないからiモードで読みたいんです。
誰か教えて下さいませんか?
303日本@名無史さん:2005/12/04(日) 15:33:13
京都から来た高松三位の娘って、そうとな美人だったんだってね。
一生処女のままでいるとの誓いを守って、将軍からの誘いをはぐらかし
続けたとか。でも、峯姫が水戸藩に嫁いだ際に一緒について行ったけど、
そこで斉昭と出会ってしまったんだね。
304あぼーん:あぼーん
あぼーん
305日本@名無史さん:2005/12/05(月) 14:08:14
>>303
上臈年寄・唐橋局(花の井)のことね。
306日本@名無史さん:2005/12/10(土) 03:45:10
唐橋というと、天璋院についていた人の事ですか?
307あぼーん:あぼーん
あぼーん
308日本@名無史さん:2005/12/10(土) 14:40:00
よしながふみさんの「大奥」、面白かった。
309日本@名無史さん:2005/12/13(火) 10:50:07
>>306
水戸8代藩主の正室・峰(峯)姫(11代家斉の息女)が水戸家に輿入れの際に
大奥から連れてきた上臈年寄で、高松三位の娘。



310日本@名無史さん:2005/12/14(水) 14:52:50
高松三位っていうのはたぶん「高松公祐」のことだとおもう。
権中納言で正二位だけど。
311日本@名無史さん:2005/12/16(金) 00:15:11
家重の側室お幸の方が、他の側室に乱暴な振る舞いをしたってどっかのサイトにあったんだけど、それは本当?
312日本@名無史さん:2005/12/16(金) 01:01:09
重好の生母・お逸の方(安祥院)に乱暴を働いたという逸話は
どこかで読んだことがあるが、
出典は知らないので本当かどうかまでわからない。
313あぼーん:あぼーん
あぼーん
314日本@名無史さん:2005/12/17(土) 04:27:45
桂昌院て頭はボウズにしてなかったのね。
315日本@名無史さん:2005/12/17(土) 10:11:29
家光側室
お万の方(お梅の方・永光院) 大上臈
家斉側室
お歌の方  上臈年寄上座
お長の方  上臈年寄上座
お八重の方 上臈年寄上座
お以登の方 上臈年寄上座
お瑠璃の方 上臈年寄上座
家慶側室
お美津の方 上臈年寄上座
316日本@名無史さん:2005/12/17(土) 10:13:03
鎌倉幕府の執権や室町幕府の将軍は何人くらいの側室がいたのかな?
知ってる人いる?
317日本@名無史さん:2005/12/17(土) 13:26:07
お末上がりのあさましさじゃ!のぅ…お玉!
318日本@名無史さん:2005/12/19(月) 15:17:50
お玉は町人の娘だけど、お末じゃないもんな。
319日本@名無史さん:2005/12/21(水) 17:07:35
age
320日本@名無史さん:2005/12/23(金) 20:23:00
桂昌院てあんな意地悪な婆だったのかしら。
321日本@名無史さん:2005/12/23(金) 21:48:28
次代の大奥住民
六代将軍徳川家宣(もと甲府宰相綱豊)
御台所近衛煕子(子は全て数日で死亡、後の天英院)
御台所付上臈錦小路(下級公家の息女)
太閤近衛基煕(煕子の父、江戸に逗留)
竹姫(綱吉養女、大典侍の姪、清閑寺煕定息女)
家千代(家宣第1子)
家千代生母右近の方(お古牟、後の法心院)
大五郎(家宣第2子)
大五郎生母新典侍(櫛笥内大臣養女園池須免子、柳沢吉保側室正親町弁子改め町子の従妹、後の蓮浄院)
鍋松(家宣第3子、後の七代家継)
鍋松生母左京の方(お喜世、後の月光院)
大奥御年寄江島(絵島、おみよ)
322日本@名無史さん:2005/12/23(金) 22:10:45
>>321
太閤でも大奥には住めないだろ
広敷で対面するくらいはできたかもしれんが
323日本@名無史さん:2005/12/23(金) 22:17:12
>>322
竜ノ口伝奏屋敷に三年だっけかも逗留し、木戸御免で大奥に日参し、御台所および側室に古典講義した
おまけに表にもかなりちょっかいかけて口出しした
324日本@名無史さん:2005/12/23(金) 22:39:42
これだから女はダメなんだ
325日本@名無史さん:2005/12/23(金) 22:43:51
太閤は男です
326日本@名無史さん:2005/12/24(土) 18:29:52
>>323
京都の邸にいるよりいい待遇されただろうし
楽しそうな生活だねー。
327日本@名無史さん:2005/12/24(土) 23:54:02
何年も帰京しなかったっつうのが証しだよね
328日本@名無史さん:2005/12/25(日) 00:11:05
家宣に殿下と呼ばせてたんだよね?
京都では霊元院と大喧嘩してたから帰りたくなかったんでしょう。
329日本@名無史さん:2005/12/25(日) 15:48:26
ほんとうに将軍が刺されるなんてことはあったのかね?
そして記録上は病死とかできるのかな?
330日本@名無史さん:2005/12/25(日) 19:45:16
信子が刺した説は実際巷に流れたけど、ドラマの安子を信じてはなりませぬ
331日本@名無史さん:2005/12/26(月) 01:20:36
>>330
>実際巷に流れたけど
と、言うより・・・

綱吉が痲疹で亡くなり、間もなく信子が痲疹に疱瘡で亡くなり
死亡日が近かったことや、柳沢の専横ぶりなどから想を得て
「三王外記」や「護国女太平記」が面白おかしく妄説を書きたてた。
332日本@名無史さん:2005/12/26(月) 02:03:36
困ったものだ
333日本@名無史さん:2005/12/26(月) 02:14:02
そうか。
それならば全くのドラマの創作と言うわけではないんだな。
もっとも綱吉は60くらいまで生きていたから、あんな若いまま逝ったわけではないが。
334日本@名無史さん:2005/12/26(月) 02:25:34
「これは風説とか野史の類ではあるが」なんて前書きとともに、
大奥関連の本には普通に書かれてることだよ。
335日本@名無史さん:2005/12/26(月) 20:09:08
御台所に二条家出身が一人もがいないのはなぜですか?
336日本@名無史さん:2005/12/26(月) 22:33:19
九条家もいないっしょ
337日本@名無史さん:2005/12/26(月) 22:48:34
なぜですか?
338日本@名無史さん:2005/12/27(火) 00:36:26
鷹司信子、近衛煕子、一条美香子は結婚した相手が将軍になっただけで
始めは大名に嫁いだだけだからね。
御台所として嫁いだのは鷹司孝子だけ。
339日本@名無史さん:2005/12/27(火) 11:49:51
では摂家の姫が御廉中になる話について詳しく教えて下さい
340あぼーん:あぼーん
あぼーん
341日本@名無史さん:2005/12/27(火) 23:29:08
貴人あげ
342日本@名無史さん:2005/12/29(木) 14:29:43
あげ
343日本@名無史さん:2006/01/05(木) 06:23:18
age
344日本@名無史さん:2006/01/05(木) 23:18:48
>>338
家定正室の鷹司任子や一条秀子は一応次期将軍に嫁いだんだと思う。
鷹司任子は孝子や信子の先例をふまえたからだと思うけれど、
継室を一条家から迎えたのは、当時の大奥総取締の姉小路が
一条家と密接な繋がりがあったかららしい。
「天璋院篤姫」では一条秀子の没後に二条家から正室を迎える話があったけど、
姉小路が阻止した話がのってたね。
345あぼーん:あぼーん
あぼーん
346日本@名無史さん:2006/01/06(金) 13:37:14
大奥か・・・

●質問
きみは、なんこマンコを保有できますか?
(最低一月以内に1回ははめてください)

おれは・・
20個。

347日本@名無史さん:2006/01/06(金) 14:12:15
毎月30人ぐらい新入女をいれて、
いいのを5人残したとして25人廃棄。
最低一月以内に1回ははめるとなると・・・
人数が50人に達したとき、20人ぐらい一気に再廃棄しなきゃな。。

んん・・・・悩む。



348日本@名無史さん:2006/01/08(日) 23:15:48
>>346-347
アホか
349あぼーん:あぼーん
あぼーん
350日本@名無史さん:2006/01/16(月) 12:28:00
姉小路が一条秀子を連れてきたんだよね。
姉小路の権力が衰えた原因てのは一体何?

秀子が早死にしたからか?
351日本@名無史さん:2006/01/17(火) 07:54:20
姉小路は家慶将軍の薨去と共に隠居して、勝光院と名乗り大奥を退いた。
単なる代がわりに伴う勢力交代の要素が強いのでは。
352あぼーん:あぼーん
あぼーん
353日本@名無史さん:2006/01/21(土) 16:28:10
>>350
賄賂事件が直接の要因だったような。
一条秀子が不具だったので、姉小路も相当責められたみたい。
354日本@名無史さん:2006/01/22(日) 16:00:47
>>353
して、その出自は?
355日本@名無史さん:2006/01/22(日) 22:58:21
自分で調べたらー?
356日本@名無史さん:2006/01/23(月) 02:56:19
>>354
誰の出自?
357日本@名無史さん:2006/01/23(月) 03:21:55
家宣御台所熙子付きの上臈は、書簡が残されていて実在が確認されるのは、「秀小路」。
「錦小路」は、吉屋信子の小説『続徳川の夫人たち』に登場するが、架空の名ではないかと思う。

指輪云々の話の出典は知らないが、内容からして事実とは違う『耳袋』のような類の俗書では。
358日本@名無史さん:2006/01/23(月) 05:08:25
>>355
一応、徳川夫人伝やら妻妾記やら定本大奥やら大奥関連の書籍には目を通してみたんだが、分からんかった。

>>357
353の肩をもつわけじゃないけど、江戸女事典は徳川の夫人たちよりも古い本だよ。
それに錦小路が載ってたかどうかは知らんが。
359日本@名無史さん:2006/01/23(月) 07:28:50
>>358

だれの出自の事?
姉小路のことなら少しはわかるよー
360日本@名無史さん:2006/01/23(月) 07:48:54
>>354
出典と書くのをミスって出自と書いたんじゃないの。

>>358
>>353>>357とは内容が無関係だけれど。
361日本@名無史さん:2006/01/23(月) 10:27:08
>>358
姉小路の出自なら、
歴読の別冊「女人たちの江戸城 大奥」に載ってるよ。
362日本@名無史さん:2006/01/23(月) 11:11:47
ああ…いろいろ間違えてすまん骨。
353ではなく352
363日本@名無史さん:2006/01/25(水) 06:04:10
『徳川将軍家の結婚』 文春新書 山本博文著 税込\767 2005/12/20第1刷発行

 序章   傳通院にある家光正室の墓
 第一章 政略結婚の時代
 第二章 政略結婚から家格の釣り合いへ
 第三章 幕府婚姻政策の転換
 第四章 島津家との縁組
 第五章 再び島津家からの正室
 第六章 徳川の命運を懸けた縁組
 終章   徳川家を救った二人の御台様
364日本@名無史さん:2006/01/25(水) 13:31:35
>>363
さっそくアマゾンで注文した

365日本@名無史さん:2006/01/25(水) 13:49:33
おお!偶然だがその本買ったぞ。
明日届く。
366日本@名無史さん:2006/02/10(金) 20:54:52
age
367日本@名無史さん:2006/02/14(火) 23:45:40
age
368日本@名無史さん:2006/02/15(水) 00:21:30
下は何歳ぐらいから、側室にしてたんだろうか。
オレなら10歳前後の側室予備軍を大量に作って、
毎日風呂に入るぞ。
初潮前だから、子供も増えないし、カネのかかる年頃になったら外に出すから、
費用の節約になる。
369日本@名無史さん:2006/02/16(木) 06:51:22
カネのかかる年頃になったら外に出すってどういう事?

一度でも将軍のお手がついた女性は一生飼い殺しが掟ですよ
将軍家の秘事を世間に漏らさせないようにね
370日本@名無史さん:2006/02/16(木) 15:10:39
しかし、極秘に関係を持った場合は外に出せたと思われ。
371日本@名無史さん:2006/02/16(木) 21:48:12
>>369
つ 「さげわたし」
372日本@名無史さん:2006/02/16(木) 23:11:39
>>368 大奥常住の幼将軍以外は、将軍は大奥内では入浴は出来ない。
大奥泊まりの翌朝でも、中奥で男小姓の手伝いで入浴する。
当然ながら、初潮前・生理中・妊娠中・30歳過ぎの女性を指名する事も出来ない。

>>370 「極秘に関係を持つ」のは、大奥内に限ってならば不可能。
前もって、将軍小姓・御広敷役人・表使・御年寄の連絡網を経なければ、
将軍大奥泊まりや夜伽の女性の準備がなされる事はない。

>>371 「さげわたし」は、大奥制度が未完成だった徳川初期のみ。
373日本@名無史さん:2006/02/17(金) 00:47:00
家綱や吉宗などがさげわたしをしている件についてはノーコメントですか
374日本@名無史さん:2006/02/17(金) 00:48:55
将軍直々に宿下がりを命じた例があるのにですか
375日本@名無史さん:2006/02/17(金) 02:22:50
>>373 >家綱や吉宗などがさげわたしをしている件についてはノーコメントですか

多分高柳金芳の著書に書いてある内容を鵜呑みにして、言っているのだろうが、
高柳金芳は、興味本意の俗書の怪しげな内容に頼る事が多く、特に艶聞関係については、
自分勝手に憶測拡大解釈して、事実かどうか確証なしに断定する事が多すぎると感じる。

『柳営婦女伝系』の厳有公御乳母矢島局由緒の「右の乳母召出され、後に厳有公の御局矢島と称される。
此矢島最前出産の女子召出され、小島と云ひしを、後に御旗本牧野八左衛門へ嫁せらる。」の文より、
「お島の方」がお手付きであって、子を生まずに旗本に下げ渡された、と拡大解釈している。
「召出され」とは、母の矢島局の場合と同様奥女中に採用される事であって、お手が付く事ではない。

吉宗の10人にも及ぶ下げ渡しは、俗書である『清濁太平論』によるもので、信ずるに足りない。

>>374 >将軍直々に宿下がりを命じた例があるのにですか

寡聞にして知らない。将軍名と女中名を教えて欲しい。
「お手付き」の「正式の奥女中」に対して「実家への」宿下がりなのだろうか。
376日本@名無史さん:2006/02/17(金) 04:06:51
将軍だったらいつでもどこでもお女中とやりたい放題とか
俗説を間に受けてる人ってこのスレですらいっぱいいるのね。
本当はもっと将軍の生活って、すんごい厳格でしきたりでがんじがらめなのにね。

夜側室と寝たい場合だって早い内にその意思表明をしておかなければいけない。
夕方とか夜に急にムラムラきたって、手続きが整わないから大奥には行けない。
他にも歴代将軍や母堂の命日は精進決済してしなくちゃいけない決まりがあって、
その日は艶事などもってのほか。
末期の方の将軍だと月の半分以上は精進日だったとか。
377日本@名無史さん:2006/02/17(金) 09:00:06
>がんじがらめ
本当にそうだろうか。
如何に時間的政治的な拘束があろうとも、要は本人次第でどうにでもなるような気がする。

ってのは俺の勘違い?
一応の「最高権力者」だから、やりたい放題やろうと思えば出来たのでは?
これ言っちゃ元も子もないけど、当時の奥での規則や倫理観のようなものからがんじがらめだと推察されるだけなんじゃないのかな。
378日本@名無史さん:2006/02/17(金) 11:14:30
「将軍機関説」
379日本@名無史さん:2006/02/17(金) 14:55:05
>>376 同感。
将軍が大奥泊まりをする事が出来ない、精進潔斎日は、
歴代将軍と自身生母の、毎月の命日当夜及びその前夜。
それにお目当ての女中の生理期間中が加わる。

なお奥女中は全員生理期間中は儀式事は欠席するし、お目見え以上の者であっても、
将軍と御台所の目に触れる事が、決してないように行動しなければならなかった。
380日本@名無史さん:2006/02/17(金) 16:46:54
>>375
高柳氏の本って、俗書からの引用も多いけど
出所を明記してある部分もあるから、
その出所によって実嘘の判断しやすい点があるよな。

娯楽系新書の出版社が、大河や民放ドラマに便乗して出す
大奥知識丸わかり本の類とかのほうが、出所まるで書かずに悪質。
381日本@名無史さん:2006/02/17(金) 18:35:17
>>380 >娯楽系新書の出版社が、大河や民放ドラマに便乗して出す、大奥知識丸わかり本の類

たいていは高柳金芳とか三田村鳶魚の著作の孫引き中心。
この分野でまとまった業績を残した人物が、ほかに殆どいないので。
だけど悲しいかな正式の歴史学者ではないので、
厳密な考証態度に欠けていて、結局のところ好事家の域を出ない。
大奥研究をメインテーマにしている一流大学教授なんて、現在もいないのかな。

今更ながらに感心するのは、吉屋信子の『徳川の夫人たち(正・続)』の記述が、
個々の出来事や人物の行動等が、創作小説だという事さえ了解していれば、
制度・大局的なものの見方などが、かなり当を得ていると思われる事だ。
きっとかなり広範な資料を読んで猛勉強し、取捨選択した結果だろう。
382日本@名無史さん:2006/02/18(土) 10:00:12
古屋信子イラネ
383日本@名無史さん:2006/02/18(土) 17:45:18
しつこくコピペされていた指輪云々の書き込みの、参考になるかどうか。

天璋院付きの中臈であった大岡ませ子(御年寄滝山の姪)の、維新後の談話によると、
「お手附は指輪を嵌めていたなぞと、近頃なにかの本に書いたのがあるそうですが、
決して無いことでした。御目見以上の者は誰一人、指輪などを嵌めた者はありません。」
との事。(三田村鳶魚著『御殿女中』より)

御台所熙子云々の話が、何かの俗書(創作と言ってもよい)にあったとしても、全くの絵空事だろう。
384日本@名無史さん:2006/02/19(日) 01:29:45
「御台所として嫁いだのは鷹司孝子だけ」などと言ってたバカが居たが、
家定公の三度目の正室・島津家の娘は最初から御台所として入輿して居るぞ。


385日本@名無史さん:2006/02/19(日) 01:40:39
公家の姫で、という意味じゃないのか?
まあ天璋院も公家の養女だが
386日本@名無史さん:2006/02/19(日) 02:43:23
婚約はともかく婚礼の時点で、御簾中でなく即日御台所となった人は、他にもいる。
まあ「摂家」の「実娘」では鷹司孝子だけだが。

・3代家光室の鷹司孝子:本理院
・4代家綱室の伏見宮浅宮顕子女王:戒名高巌院
・11代家斉室の島津寔子(近衛茂姫):広大院
・13代家定室の島津敬子(近衛篤姫):天璋院
・14代家茂室の和宮親子内親王:静寛院
387日本@名無史さん:2006/02/19(日) 10:33:24
>>376
大奥がハーレムって思ってる人とかねw
>>377みたいな人が多いのかなあ?
「最高権力者だからやりたい放題出来た筈だ!」って
その根拠のない思い込みはどこから?って失笑してしまうw
388日本@名無史さん:2006/02/19(日) 19:31:16
きっとバカ殿様が悪いんだよバカ殿様が…
389日本@名無史さん:2006/03/01(水) 05:46:42
和宮のエピソードで風呂嫌いってのもあるけど、
毎朝毎晩ちゃんと風呂に入る大奥の習慣の方が、
余程貴族的に思える。
390日本@名無史さん:2006/03/01(水) 16:15:05
御台所や将軍生母は1日2回入浴だろうけど、
大奥女中(正式の)は、1日2回と1日1回と2日に1回に分かれていたんじゃなかったっけ。
その境は職階で言うとどのあたりだったのだろう。

奥女中誓詞に相風呂・相床の禁止条項もあったようなので、
お末でも1人ずつの入浴だったのかな。
それとぼやを出した罰に科される、局部屋での「お火止め」って本当だろうか。
391日本@名無史さん:2006/03/01(水) 23:09:54
あれっ、お末は集団入浴じゃなかったっけ?
392日本@名無史さん:2006/03/02(木) 12:51:39
本理院(徳川家光の正室「中之丸殿」鷹司氏)は
生涯、処女のまま終えたのかゑ?

393日本@名無史さん:2006/03/02(木) 13:05:50
>>389
関東と上方では浴室の構造や、入浴習慣、頻度が違うこともあるだろうな。

和宮って桂宮邸に移るまで、母方の実家である橋本邸で生まれ育ってるよね。
皇女の仮の御殿にしても、公家の貧乏に違わず橋本家も財政的に苦しかったで
あろうから、(たとえ蒸し風呂であっても)水や火力に困ってたような気がする。
入浴という行為に慣れないこともあったのかも。
394日本@名無史さん:2006/03/02(木) 16:36:43
皇族や公家はあまり風呂入らないイメージがあるな
395日本@名無史さん:2006/03/02(木) 21:13:50
平安時代の公家は風呂にほとんど入らなかったらしいが
江戸時代はどうだったんだろう?
396日本@名無史さん:2006/03/02(木) 22:35:13
二条城の本丸御殿(旧桂宮邸)に残る風呂を見てる限りでは
蒸し風呂+盥で行水 程度かと。

湯船にちゃぽんとは入らなかったみたい。
397日本@名無史さん:2006/03/02(木) 23:17:01
浴衣・湯もじを着て蒸し風呂にはいって、
お肌がふやけてきたら脱いで、人に垢をかかせたり
紅絹でこすってもらう。んで、湯で洗い流す。
濡れた体は、新しい浴衣を何度も着せ掛けて水分をとる。

こんなのが通説だな。
398日本@名無史さん:2006/03/03(金) 01:55:56
何処の出版社か忘れたが、将軍の一日だったと思われるタイトルのビジュアルブックが合って立ち読みしたんだが、
江戸時代に町人が今のように湯につかる風呂になっても、将軍は蒸し風呂だったって書いてあったな。
その蒸し風呂の内容は>>397氏の書かれた内容。

皇族や公家も蒸し風呂で、湯につかる習慣?がなかったから風呂嫌いのエピソードが残ったのでは無いのかな。
399日本@名無史さん:2006/03/03(金) 12:07:44
本理院(徳川家光の正室「中之丸殿」鷹司氏)は
生涯、処女のまま終えたのかゑ?

「大奥」のスレというに誰ひとり回答出来ませぬか?

400日本@名無史さん:2006/03/03(金) 15:30:59
>>399
人にモノを聞く時には、聞く姿勢を見せるべし。
指輪のレスをくれた人に対し、礼カキもできないような馬鹿だから自分で調べられないのか?
401日本@名無史さん:2006/03/03(金) 16:41:46
>>400に同感。
2度も3度もしつこく同じ質問書き込みをする事は、立派な荒らし行為。

>>399の「〜かゑ」の奴は、たまにはきちんとした回答側に立った書き込みも、
(出来る技量がもしあるものならば)してみるべき。
それが出来ないレベルならば、沈黙してろ。

本理院が処女で終わったかどうかなんて、常識で考えても本当の真実は究明不能だろう。
婚礼後周囲(特に京都や大御所夫妻)への聞こえもある事だし、
家光の御台所孝子への大奥泊まりは、たとえ嫌々ながらでも複数回行なわれた事だろう。
小姓のケツ掘りが出来るんだから、膜破りは出来たかもしれないが、
失敗して出来なかったかもしれない。そんな微妙な内容の記録が残されている訳がない。
402日本@名無史さん:2006/03/03(金) 19:41:58
「かゑ?」であぼーん登録推奨
403日本@名無史さん:2006/03/04(土) 04:06:19
将軍と御台所との同衾には、もちろん襖越しの次の間には不寝番が付くが、
将軍とお手付き中臈との場合とは異なって、同室内のお添い寝役は確か付かなかったはず。

家光と孝子との房事が、最後まで行なわれたか形式的なペッティング止まりだったかとかは、
当の2人以外に真実を知る者はいない。
404日本@名無史さん:2006/03/04(土) 18:22:20
>>403
家光の新婚時代には、まだそういうシステムは成立していないのでは?
405日本@名無史さん:2006/03/04(土) 19:17:22
>>404
そういうシステム=同室内のお添い寝役(将軍付きのお清の中臈が務める)は、
未成立だったでしょうね。多分春日局の創案で、お振の方かお琴の頃から始まったものだろうか。
どっちにしろ御台所との場合には、お添い寝は付かないと思われる。
406獄門等:2006/03/04(土) 19:29:45
大奥はもう存在しません。
いい加減目覚めなさい
407日本@名無史さん:2006/03/04(土) 19:53:55
>>405
お添い寝は綱吉の頃からじゃなかった?
408日本@名無史さん:2006/03/04(土) 20:13:59
お添い寝は染子が綱吉に閨で柳沢の加増のおねだりをしたため、
そういうのを未然に防ぐためにできた役職じゃなかったっけ?
409日本@名無史さん:2006/03/04(土) 20:26:38
>>406
馬鹿かお前、近代日本史板逝け。
ここは日本史で大奥スレだ。
410日本@名無史さん:2006/03/04(土) 20:40:09
>>408
失礼、出典はわかりますか? 『三王外記』のたぐいだったら信じられない。
411あぼーん:あぼーん
あぼーん
412日本@名無史さん:2006/03/05(日) 08:39:41
>>393
>>389です。どうもありがとう。

橋本家ってたしか石高わずか数十石ぐらいの家だったよね。
たしかに相当不如意な生活だったに違いない。

下世話で幼稚な憶測だと思われそうだけど、
武家の女性に囲まれて育った家茂には、風呂も入らず、顔も剃らない和宮って
どんな風にうつったんだろうって思う。

化粧も公家風だったろうし、衣装も華やかな打ち掛じゃなくて
袿袴だったと思うし…。
413獄門等:2006/03/05(日) 15:25:01
大おお大オオおおおおおおおおおおおおおおおおお
414日本@名無史さん:2006/03/05(日) 15:32:10
>>405
自証院は家光初期の側室だから分かるとして、芳心院の名が出るのは何故?
415獄門等:2006/03/05(日) 23:28:23
はっきり言います。
大奥は存在しません

416日本@名無史さん:2006/03/07(火) 19:47:23
417日本@名無史さん:2006/03/07(火) 21:30:11
>>415
はいはい。
418日本@名無史さん:2006/03/07(火) 22:24:00
現在でも、いかがわしい「大奥」は存在するだろ?
419日本@名無史さん:2006/03/08(水) 00:58:19
>>412
橋本家の家禄は、数10石ではなくて500石3升6合。
和宮の幼少時には外祖父橋本実久が議奏の職にあったので、議奏役料200石が加わっていた。
和宮本人の養育料は50石、内親王宣下後は300石。
生母の観行院の前典侍としての禄(120石だろうか)もあったはず。

そりゃあ大名なんかに比べると、貧乏公家には違いないけれど、
橋本家は羽林家の旧家だし、中流堂上家の中では家格・家禄は上位の方。
420お美津の方:2006/03/08(水) 16:22:42
大奥をオーストリアに転居して
中奥をイギリスに
天守閣を北朝鮮に
大名屋敷をルーマニアに
421日本@名無史さん:2006/03/08(水) 21:44:46
本理院(徳川家光の正室「中之丸殿」鷹司氏)は
生涯、処女のまま終えたのかゑ?

「大奥」のスレというに誰ひとり
まともに回答出来ませぬかのう?












422マリーア・ジョゼ王妃:2006/03/09(木) 09:37:59
大奥に五十嵐淳子と片山さつきを入れましょう
423日本@名無史さん:2006/03/09(木) 19:30:29
本理院(徳川家光の正室「中之丸殿」鷹司氏)は
生涯、処女のまま終えたのかゑ?

「大奥」のスレというに誰ひとり
まともに回答出来ませぬかのう?





424麟祥院於福:2006/03/09(木) 19:39:03
お万さま、大奥総取締はこの私なのです。上様の養女には浅野ゆう子殿に決まっておりまする。中の丸さまの養女は賀来千賀子さんです!
425日本@名無史さん:2006/03/11(土) 22:59:36
お台場大奥で多用されててタレ流しになってる言葉だけど、
「大奥総取締」って役職、まっとうな研究本とかには書かれて無いよね?
426日本@名無史さん:2006/03/12(日) 15:00:25
大奥総取締という役職名かどうだったかはわからないが、
並の上臈・並の御年寄よりも1段階上に、ひとりで位置付けられていたのは、
多分江戸時代前期の、春日局・お万の方・矢島局・右衛門佐だけだったのじゃないかな。

他の時代は御年寄の合議制で、大奥全体の取り締まりを行なったものと思う。
江戸時代後期には御年寄か上臈の中で1人、御用掛というものが置かれたけれど、
表役人との政治向きの密談をする役だったようだ。
427日本@名無史さん:2006/03/12(日) 23:48:02
大老みたいなもんだね。
428日本@名無史さん:2006/03/13(月) 19:01:06
和宮の乳母であった「田中藤」(1809〜1887)。
宮中より「少進」の名を賜わり、大奥内では和宮付きの御年寄となった。
ただ御年寄としての大奥女中名が、「絵島」だったというのが信じがたい。

絵島生島事件の絵島は、正しい表記は「江島」だったらしいが、それにしても、
不吉な名である江島・絵島が、留名とならず再度使われる事が本当にあったのだろうか。
429日本@名無史さん:2006/03/14(火) 21:47:46
徳富蘇峰著「近代日本国民史」久世・安藤執政時代

降嫁決定以前、京都時代の書簡説明文で「藤御乳(田中絵島)」
「田中絵島(藤御乳)」、との呼称を用いている。

430日本@名無史さん:2006/03/15(水) 08:21:33
>>429 レスどうもありがとうございました。
和宮の御乳人少進藤の「絵島」、どうやら動かないで確実なようですね。

最初に見たのは有吉佐和子著『和宮様御留』で、小説なので創作だと思いました。
角田文衛著『日本の女性名』の中の和宮様附女中連名では、「少進」の名で登場します。
武部敏夫著人物叢書『和宮』で、「又年寄となり、絵島と改称」の文を見て、
ええっー本当かな信じられない、でも…、という気になった訳です。

『近代日本国民史』、自分は未読ですが、田中絵島の言葉を使っているのは蘇峰翁なんですね。
書簡中に絵島の文字があって、京都時代にすでに絵島とも名乗っていた訳ではないですよね。
やはり御年寄就任に当たり絵島となったのでしょうが、うーん、よく絵島を名乗れたものです。
431日本@名無史さん:2006/03/15(水) 17:11:27
確かにあれだけの事件をおこしたのだから、絵島の名は忌み名になっててもおかしくないのにね
本来江島だったとはいえ…
それとも大奥内部ではやはりあの事件に対する反発と同情は根強く
むしろ誇られる名前だったのでしょうか
432日本@名無史さん:2006/03/17(金) 00:18:39
大奥において絵島生島事件がどう思われてたのかも気になる。
433日本@名無史さん:2006/03/18(土) 08:54:41
無知で申し訳ありませんが、
和宮つきの女官には、大奥での呼び名もまたつけられていたんですね。
庭田嗣子や土御門藤子にもつけられていたのでしょうか?
ご存じの方いらっしゃいますか?
434日本@名無史さん:2006/03/19(日) 09:26:21
無知で申し訳ありませんが、和宮つきの女官の中に、
京よりついてきた公家はいなかったのでしょうか?

和宮や公家が大奥に入った場合、おぐしはやはり江戸風にしたのでしょうか?
435日本@名無史さん:2006/03/19(日) 12:23:20
朝廷から派遣された御附女官は庭田嗣子と鴨脚克子二人

和宮の下向当時の個人的な女官は土御門藤子を筆頭にした上臈から御半下まで23人
そのうち堂上の娘は土御門、東園、五辻。
そのほかに中山、綾小路、白川の娘もなる
436日本@名無史さん:2006/03/19(日) 16:00:51
天璋院と和宮の確執についての勝光院(姉小路)の見解は「和宮のお付きが
悪い」だったとか。
12代家慶の大奥で贅沢三昧に明け暮れ、質素倹約を迫る水野忠邦の失脚に
も加担した姉小路は、和宮の大叔母でもあったわけだが、もう江戸贔屓に
なっていたと言うことか?

437日本@名無史さん:2006/03/19(日) 18:46:35
天璋院と和宮は勝海舟を交えて会食してからは仲が良くなったとか
438日本@名無史さん:2006/03/19(日) 19:54:39
>>433
ついてないと思うけど・・・というより、拒否するでしょう、
降嫁時の約束に、城内でも万事御所風でとおしたい旨は強調してるし
宮廷から賜った典侍や命婦という名に誇りがあるだろう。

>>434
御台所という呼称を拒否してるくらいだし、御所風。
増上寺黒本尊堂内はいつでも入れる場所だけど、
教科書等でもよく見られる全身像が安置してあって、やはり御所風。
伝和宮の写真も御所風。

>>436
和宮降嫁にあたって、姉小路・橋本勝光院はかなりの金額を
幕府から貰っていたからね。
そればかりとはいえないだろうけど。

>>437
氷川清話や海舟座談にある話。
勝邸に二人が訪れたとき、食事が出たのだけれど
お櫃を前に、双方がお給仕するといってきかないので、
お櫃を2つ用紙して、互いに給仕をさせた。
帰りは二人、同じ馬車で仲良く帰った・・・という勝(談)の逸話。
439日本@名無史さん:2006/03/19(日) 20:00:19
>>436
その和宮のお付って藤子だっけ?
幕府の悪口言い過ぎて公家方からも反感買ったっていう。
440日本@名無史さん:2006/03/19(日) 21:10:13
皆さん凄い詳しいですね。
オラはフジTVの大奥シリーズ観て、事実か否かネットで調べている程度。
判ったことと言えば........。
許婚がいたのに無理矢理将軍の正室にされたのは、菅ちゃんではなく、
同情するならカネをくれ だったらしいこと。
家定は性行為は不可能だったらしいこと。  

其の他色々。
441:2006/03/19(日) 21:21:34
あっ、ここで言う許婚は、本人が結婚したがってたちゃんとした許婚って意味です。
ドラマでも、同情するならカネをくれ に一応許婚はいた。

スンマソン
442438:2006/03/20(月) 00:03:03
ネットで情報を得る利点もたくさんあるけど
ネットまた聞きの聞きかじりや出典不明の半端なことも多くのっかってるから、
ちゃんと本を読んで整理された通説や成果を調べてみたほうがいいよ。

って、本からの聞きかじりを
2ちゃんにカキコんでる自分が言ってみる・・・。
443日本@名無史さん:2006/03/20(月) 03:22:40
>>434
髪型はもとより、服装も万事御所風の袿袴だったんじゃ?
和宮に限らず、京から入輿した歴代御台所はみんなそうだったと思う。
宮家から一橋家に降嫁した一橋直子の写真あるけど、
やはり袿袴姿だったからなあ。
例外は武家から入輿した広大院や、天璋院ぐらいでは。
444日本@名無史さん:2006/03/20(月) 07:30:53
>>443
儀式日以外の日常の髪型・服装が、万事御所風だった御台所は和宮だけ。
445日本@名無史さん:2006/03/20(月) 07:31:55
広大院さんも天璋院さんも五摂家筆頭の近衛家の養女に格上げされてから
入輿ならしゃってぢゃぞゑ。


446日本@名無史さん:2006/03/20(月) 09:21:52
>>445
そんな事たいていの人が知ってる。
文尾に無駄なスペース加えてまで、だから何だと言いたいのか?
447日本@名無史さん:2006/03/20(月) 10:49:13
まあまあ。いいじゃないですか。
448日本@名無史さん:2006/03/20(月) 10:51:00
大奥で和宮が手に持っているカラフルな太い棒のような物。

あれは何ですか?
449日本@名無史さん:2006/03/20(月) 11:39:15
>>433
>和宮つきの女官には、大奥での呼び名もまたつけられていたんですね。
>庭田嗣子や土御門藤子にもつけられていたのでしょうか?

朝廷よりの御附女官である、宰相典侍庭田嗣子と能登命婦鴨脚克子の2人は、
大奥女中ではないので、大奥名への改名など思いもよらない。

堂上家出身者は大方、土御門藤子「ふぢ」・白川類子「るい」等と、
二字名(おの字名)の小上臈名だけで、上臈名が伝わっていない。
御年寄以下の三字名は、玉島・初島・仲村等多数いる。

ただ和宮様附女中分限帳に、上臈と思われる「錦小路」(実家不明)の名があるが、
もと上様附や天璋院附の上臈の、御台所附への「お附け替え」かもしれない。
錦小路について何かご存知の方、いらっしゃいますか。
450日本@名無史さん:2006/03/20(月) 11:53:20
>>448 檜扇(ひおうぎ)でしょう。閉じた状態では色紐を巻く。
451日本@名無史さん:2006/03/20(月) 14:03:11
和宮以外の歴代御台所の髪型は、「おすべらかし」は式日だけで、
他の日は、「おまた返し」だった。  …と思うが…。
一橋直子の写真については、そりゃあ写真を撮る時には大礼装をするでしょう。
452日本@名無史さん:2006/03/20(月) 22:48:23
>>439
公家方からも反感買ったっていう幕府の悪口とは?
幕府の肩をもつ公家なんてそうはいないでしょう?
土御門藤子は、同業の細木の占い婆のように毒舌を吐きまくっていたのです
かね?
453日本@名無史さん:2006/03/21(火) 08:58:06
>>451
習慣などならともかく、髪型や服装に関しては
資料があまり残っていないから何ともいえませんよね。
鷹司孝子の時代など、結髪の習慣じたいひろまっていなかったので、
おそらくは垂髪だったと思います。

六代家宣などは、江戸城じたいが公家風に感化されていたといいますし、
天英院がどのような格好だったか興味深い。
しかし、和宮が京風を押し通そうとして反発をまねいたということは、
歴代の御台所も、それなりに武家風に順応していたんでしょうね。
454日本@名無史さん:2006/03/21(火) 09:25:48
振袖火事以来、大奥では垂髪禁止になったんではなかったっけ。
髪をズルズル垂らしてると走りにくいから。あと、必ず草履を履くようになった。
455日本@名無史さん:2006/03/21(火) 10:31:59
>>452

藤子が上京した際に関東の風儀を笑い話にしたことがあるらしい。

大典侍(朝廷女官トップ)が嗣子への手紙の中で、上記のことを筆頭に若い侍女たちが
関東の流儀を笑って馬鹿にすることはひいては和宮の立場を悪くする事なので
ちゃんと監督するようにということを書いている。

江戸城内での和宮や侍女に対する待遇が悪かったり、結婚時の約束が守られていない
事への御所方の不満が相手方への嘲笑として出たのだと思う。
456日本@名無史さん:2006/03/21(火) 11:45:44
歴代御台所注目度NO,1は和宮のようでつね
457日本@名無史さん:2006/03/21(火) 11:52:00
そりゃもう
歴代御台所で一番身分も上だし
婚礼の前からネタになったし

>>453
来月の『そのとき歴史が動いた』で天英院をネタにする予定みたいね
458日本@名無史さん:2006/03/21(火) 18:39:29
宮尾登美子の『天璋院篤姫』では土御門藤子はボロクソに書かれてるな。
物語に出てくる天璋院が本丸から二の丸に移ったエピソードって史実なの?
459日本@名無史さん:2006/03/21(火) 19:21:30
>>457
天英院ねえ、家継危篤あたりの動きを長々と描くんだろうな。
放送日が近づいたら書き込みして、注意喚起して下さいね。
460日本@名無史さん:2006/03/21(火) 20:42:04
服飾史の本によると
江戸後期になると公家女性も打掛姿で
袿袴は特別な儀式の時にしか着なかったらしい
ttp://www.iz2.or.jp/fukusyoku/kosode/21.htm

ただ髪型や着物の文様など細かい部分で違いがあったので
そこらへんのイザコザがあったんじゃないか?
461日本@名無史さん:2006/03/22(水) 09:49:49
和宮は皇妹だからね。
立ち居もまれであったろうし、一般の公家風俗とは少し格が違うような。

江戸後期には公家女性にも小袖が定着しているけれど
柄や染が古風で独特。
結髪も笄を抜くと、おすべらかしになるような髷だそう。
(京都書院・日本の女性風俗史、至文堂・日本の美術8小袖からきものへ)


462日本@名無史さん:2006/03/22(水) 10:30:07
446はド白痴だナァ!
463日本@名無史さん:2006/03/22(水) 11:19:01
孝明天皇と和宮は純粋な兄弟?腹違いとかじゃないですよね?

明治天皇の伯母が和宮ですよね?

君ありてこそ の歌の全文を教えて下さい。
464日本@名無史さん:2006/03/22(水) 12:31:21
優しい人がたくさんいるので、教えてくれると思うけど
検索すればすぐにわかる事でもあるよ。
465日本@名無史さん:2006/03/22(水) 13:32:35
武家では足袋の着用は自由だけれど、公家では勅許がないと足袋は履けないと聞いた事がある。

ソースは忘れた。
466日本@名無史さん:2006/03/22(水) 18:54:03
テレビでやってたな。
再現VTRの天璋院はすごく意地悪で、
「京には足袋がないのかえ〜?」って言ってたww
467日本@名無史さん:2006/03/22(水) 19:06:52
>>463 優しい俺が教えてあげますね。
孝明天皇と和宮は、父は同じ仁孝天皇で腹違いの兄妹。和宮は明治天皇の伯母ではなく叔母に当たる。
孝明天皇の母は新待賢門院正親町雅子。和宮の母は観行院橋本経子。
和宮は父帝の崩御後に誕生。ちなみに和宮の夫の徳川家茂も、父紀伊徳川斉順の薨去後の誕生。

「空蝉の唐織ごろもなにかせむ 綾も錦も君ありてこそ」
「着るとても今は甲斐なきからごろも 綾もにしきも君ありてこそ」
大阪で薨去した家茂の遺骸と共に、上洛土産として届いた西陣織を見て詠んだ歌として著名。
ただし『静寛院宮御詠草』には収められていないので、他人の偽作説もある。
468日本@名無史さん:2006/03/22(水) 19:52:19
昔の女の人は生理ってどう対処してたんですか?
469日本@名無史さん:2006/03/22(水) 23:13:19
惜しまじな・・・の和歌は、和宮の御製では無いと思っている。
あからさますぎるもの。
470日本@名無史さん:2006/03/22(水) 23:22:08
>>468
そんな事知るか。下らない質問でスレの品格下げるな。
自分の母親に尋ねたらいい。母の母か祖母の時代の事を聞いてるかもしれない。
江戸時代も大正ごろもたいしてかわりないだろ。
471日本@名無史さん:2006/03/23(木) 02:05:38
>>467
ありがとうございます。
腹違いの兄妹かぁ。俺にもいるが何か変なんだよな。
半分血がつながってて半分他人。
純粋の妹に比べれば、やはり疎遠になるよ。
472日本@名無史さん:2006/03/23(木) 02:31:26
>>470 品格が下がるとは思わないよ。厠を深く掘ってた話とかは聞くけど、何故生理がタブーかわかんない。
473日本@名無史さん:2006/03/23(木) 04:31:03
「昔の女の人は〜」って、時代が漠然としているし、
大奥に限らない女性一般の問題だし、結局の所スレ違い。
474日本@名無史さん:2006/03/23(木) 06:48:39
弥生時代なんかは、生理日は村々にそれ専用の女小屋があって、
その中にまとめて隔離されて生理終わるまで籠ってたらしいよ

昔ってこんな昔でもいいんだよね?w
475日本@名無史さん:2006/03/23(木) 07:49:36
>>471

現代の感覚とは同じにしないほうがいいと思うよ。
現代では異母兄弟って言うのは結構珍しい事だけど、あのころの上流社会としては
普通にあることだろうし。
孝明天皇は遺腹である和宮にいろいろ気を使っているからね。
関東との話し合いで、
「和宮は異母兄弟だし無理強いはできない。
嫌がっているから代わりに生まれたての娘をやるから」って手紙を出してる。

仁孝天皇の子供で成人したのは、敏宮、孝明天皇、和宮の三人しかいないから
(すべて母親違い)そこそこの結束力はあったのでは?
476日本@名無史さん:2006/03/23(木) 20:19:04
>>465

ソースあるよ
関口すみ子 大江戸の姫さま P159

庭田嗣子が書いた『和宮御服召しかへ並御側女着用物控』によれば
五月二日に「京方は上臈初め式日の通り着用。足袋もはかされ申すこと・・・」
とかいている。
そのほかにも雛祭前後、将軍の誕生日などことごとく江戸方と京方は違うらしい。
髪型、着物の種類、足袋、眉のありなし。

極めつけは称号だろうね。「御台様」とよばずに「和宮様」とよぶようにと通達を出すぐらいだから
よっぽど皇女としてのプライドが高いのか武家風が気に入らないか。

和宮サイドとしては降嫁してやったんだからこれくらいはってのがあったのかも 
477日本@名無史さん:2006/03/23(木) 21:04:24
御台所が嫌だったか…。
仮に御廉中とかだったらどんな気分だったんだろう…。
鷹司信子とか、妹は中宮なのに自分は一大名に嫁ぐことに
相当な屈辱を感じたんだろうか。
結果的に御台所にはなれたけれど。
478日本@名無史さん:2006/03/23(木) 23:48:30
御所風の固持は嫁降の条件だったから、和宮側は強気なんだけれど、

でも、江戸到着直後は不平不満だらけで、針女までが泣き暮らしていると
岩倉具視の書簡にある。

東下の前には、姉である敏宮淑子内親王の御殿造営の嘆願を
所司代に手紙を書いている。
「私事比度存じよらぬ縁組」だけれど、下向してやるから、
姉内親王の御殿を作れ!というような内容。

>>476 477
史板の人ならわかると思うけど、宮廷は酒を薄めて飲むほど
「お手元逼迫」しても、江戸は東夷で将軍家は板東の代官という見方を
崩さなかった人々だから、
御直宮の和宮に対して板東の代官の妻の名称を強要しても受けるわけがないね。
御簾中でも同様に「おいやさん」だっただろう。
479日本@名無史さん:2006/03/24(金) 05:30:39
そこまで徳川家、というか関東なのかもしれないけれど、
嫌うようになった理由はひとつには距離的な問題があったのかな。
足利将軍家、あるいは豊臣家なんかは拠点が関西だったし、
朝廷を大事にしてたこと考えたら
そこまで嫌われることもなかっただろう。
480日本@名無史さん:2006/03/24(金) 12:19:42
>>477
家重正室の比宮培子もそうだったみたいだね。
降嫁してやったんだっていう意識が強くて、「御簾中」という称号が彼女のプライドをえらく傷つけたとか。
481日本@名無史さん:2006/03/24(金) 13:30:55
将軍家でのリッチな生活よりも、地元で貧乏暮らし&尼寺送りのほうがマシなのかな?
482日本@名無史さん:2006/03/24(金) 13:37:50

降嫁してやっとるんやぞ。分かっとんのか?あ〜ん?

オマエらとは身分が違うじゃい!身分が!!

アタイは皇女やぞ皇女。

そこんと、よう肝に命じておけ。
483日本@名無史さん:2006/03/24(金) 13:39:44
高貴な武家の女が自分のこと、「わらわ」と言ってたが皇族の女はどう言っていましたか?
484日本@名無史さん:2006/03/24(金) 15:45:01
>>449

亀亀レスだが

錦小路は平松時門のむすめ もともと水戸慶篤室の線宮の上臈 
それが経緯は知らないが横滑りして和宮の上臈になる

たぶんこの錦小路は幕府側からつけられた上臈ではないか?
天英院にも「錦小路」という名の上臈がいるので、代々御台所の上臈トップの名では?
485日本@名無史さん:2006/03/24(金) 22:53:37
>>484
どうもありがとうございました、>>449です。
水戸慶篤は一橋慶喜の兄ですね。錦小路が和宮付きに異動したのは、
どの辺りからの指令によってだろうか、何やらキナ臭い思惑がありそう。

「錦小路が代々御台所付き上臈トップの名では?」というのは自分は肯定し難いです。
例えば有名な勝光院姉小路は、御台所没後に上様付きに異動する以前は、
御台所楽宮喬子女王付きの筆頭上臈だったと思われます。
486日本@名無史さん:2006/03/25(土) 18:18:20
>>481
リッチだったらいいってもんでもないでしょう。
現代だってパチンコ屋とか、そりゃ金持ちだが
あんましそういう家に嫁ぎたいお嬢さんはいないでしょうに。
487日本@名無史さん:2006/03/26(日) 06:08:17
当時の政治の動きで、それまでの徳川時代、すっかり忘れ去られて
欠け茶碗で薄い粥を啜ってひっそり食いつないでたような天皇家が
いきなりまた持ち上げられて神輿に担がれた時代な訳だから、
そりゃあ挟持だけは高かったでしょうな
488日本@名無史さん:2006/03/26(日) 09:43:02
仮に八十宮吉子内親王が降嫁していたとしても、
和宮ほどもめることもなかったのかもしれないね。
489日本@名無史さん:2006/03/26(日) 12:11:37
まぁ、六、七代の頃は大奥も京風化してたからな。
八十宮にとっては姑にあたる天英院と月光院もこの縁談を望んでいたらしいし。
490日本@名無史さん:2006/03/26(日) 22:23:46
>>460-461
http://www5f.biglobe.ne.jp/~yoshi3/huku3.htm

これ見る限り、思ったほど公家武家の違いってなかったみたいだね。
491日本@名無史さん:2006/03/27(月) 00:00:12
ここは知能劣弱にして無知無教養な者ども許りのスレだナッ!!!


492日本@名無史さん:2006/03/27(月) 14:44:46
「〜かゑ」の指輪質問が途切れた頃からは、
このスレも持ち直して、充実し始めている。
493日本@名無史さん:2006/03/27(月) 15:02:01
>>483
おそらく、「宮(みや)」。
494日本@名無史さん:2006/03/28(火) 20:30:07
八十宮の頃と幕末の尊王攘夷の時代では
嫁降の重みや意味合いが全く違うとも思うけどね。
495日本@名無史さん:2006/03/28(火) 21:06:14
八十宮降嫁は幼将軍をもり立てるための縁組だしな。
496日本@名無史さん:2006/03/28(火) 23:59:01
494だけど嫁降じゃなく降嫁なんだ。ゴメ
497日本@名無史さん:2006/03/29(水) 07:46:50
低能の田舎者ばかり揃っているスレというのは、ここのコトだな!


498日本@名無史さん:2006/03/29(水) 10:49:21
浅野ゆう子が7代の妻なんだ〜。
499日本@名無史さん:2006/03/30(木) 07:59:15
>>489
月光院はともかく、天英院も望んでたの?
父の近衛基熙と八十宮の父霊元上皇って、確か仲悪くなかったっけ?
500日本@名無史さん:2006/03/30(木) 08:39:07
>>499
近衛基熙と霊元上皇は仲悪かったけど
天英院の生母常子内親王と霊元上皇は同母兄弟だし
天英院の同母弟近衛家熙の正室は八十宮の姉だから
望んでいたのでは?天英院は公家と大名の縁組を勧めていたし。
501日本@名無史さん:2006/03/30(木) 11:04:38
霊元院は近衛基熙と犬猿の仲
常子内親王(品宮)は基熙の正妻
品宮は同母兄弟と仲がよかったが即位した霊元院とは疎遠にちかい
ほとんど人の悪口を日記に書いていない品宮が霊元院の悪口は書いている

家熙の正室憲子内親王は第一皇女 八十宮は第十三皇女
八十宮と憲子内親王は45歳離れている上に八十宮が生まれたときには憲子内親王はなくなっていたので
そこからの接触はないと思われる。

基熙は日記に八十宮と家継との縁談について「言語道断」と書いているので基熙は反対派


なので積極派ではなく幕府側から頼まれれば仲立ちはするけれども自分からは動きませんよ。
というスタンスだったのでは?
502日本@名無史さん:2006/03/30(木) 12:37:46
ソースなしの記憶の断片で申し訳ないけど、
天英院って家継将軍就任にも反対だったと思う。
大奥内で絶大な権勢を誇っていた天英院だけど、
新御台所や月光院サイドに権力握られるのは嫌だっただろう。
503日本@名無史さん:2006/03/30(木) 22:17:40
扨て話題は些か変わりますれど、
徳川家光の正室・鷹司孝子(「中の丸殿」)と日野権大納言資勝とが
親戚関係にあったという話を聞き及びました。
ために対馬の御家騒動「柳川一件」にて、
宗対馬守義成(その夫人が日野権大納言資勝の娘)は
「お咎め無し」と相成ったとか。
したが、日野家と鷹司家との親戚関係が、よく分かりません。
もしや中の丸殿の生母が日野家なりしや?
識者の方々の御教示を願い上げます。
何卒よしなに。
504日本@名無史さん:2006/03/30(木) 23:07:04
>>503
親戚関係といっても、何代さかのぼるのか血族なのか姻族なのか。
少なくとも孝子の父母と祖父母には、日野家の人間はいない。

孝子の生母は、父関白鷹司信房(二条家からの養子)の正室の岳星院輝子(父は佐々成政)。
信房の生母は、父二条晴良の正室の位子女王(父は伏見宮貞敦親王)。
輝子の生母は、父佐々成政の正室の慈光院(父は村井貞勝)。

皆さん大奥自体の話題から離れて、公家ネタに傾き過ぎないように注意しましょう。
505日本@名無史さん:2006/03/31(金) 06:49:33
孝子も武将の孫なのね。
506日本@名無史さん:2006/03/31(金) 08:07:26
家光公の息子で将軍になり損なった甲府宰相・綱重の正室「隆崇院」
二條関白光平の姫(九條兼晴の養女)の名前は何というのでしょうか?
また彼女の没後、二條光平の養女として綱重の継室「紅玉院」
となったのは、山科言行の女(実名不詳)が正しいのでしょうか?
或いは中納言綾小路俊景の女(実名不詳)が正しいのでしょうか?
兄の家綱、弟の綱吉ともに正室(御台所)の名前が判明して居るのに、
(伏見宮貞清親王の姫「顕子」とか、鷹司左大臣教平の姫「信子」と)
綱重の場合は正配の名前が二人とも知られて居ないのでしょうか?
たんに日本史門外漢の私が無知なだけやも知れません。
識者の御教示を願う次第で御座居ます。
何卒宜敷く。
507日本@名無史さん:2006/03/31(金) 16:26:51
例の粘着マルチが徘徊しています。
相手にしないように。
508日本@名無史さん:2006/03/31(金) 19:51:05
>>507
「例の〜」の意味が分からないのですが、>>503>>506を指している事は分かります。
もしかして、=「〜かゑ」の奴って事?  1回は相手にしてしまった>>504です。
それに対して挨拶もなしに矢継早に次の質問、確かに無礼ですね。
509日本@名無史さん:2006/03/31(金) 22:45:25
>>508
そう「〜かゑ」の人。
男優板や同性愛サロンの平井堅スレや坂口憲二スレでも暴れまくって反感買ってるよ。
完全に精神がいかれてるので相手にしないように。
510日本@名無史さん:2006/03/32(土) 05:57:07
506の質問に返答出来ぬ故に四の五の言いがかりをつけて居る低能どもだナ!!

同じ電脳を使ってても別人が、まともに問うて居ることにも気付かぬとは
情け無き限りぢゃて。

無知無教養で分からぬのなれば、正直に左様に返答すれば宜しかろうぞ。

誤解というのは恐ろしきものぢやのう!!!


511日本@名無史さん:2006/03/32(土) 07:42:35
重ねて問いますれど、
家光公の息子で将軍になり損なった甲府宰相・綱重の正室「隆崇院」
二條関白光平の姫(九條兼晴の養女)の名前は何というのでしょうか?
また彼女の没後、二條光平の養女として綱重の継室「紅玉院」
となったのは、山科言行の女(実名不詳)が正しいのでしょうか?
或いは中納言綾小路俊景の女(実名不詳)が正しいのでしょうか?
兄の家綱、弟の綱吉ともに正室(御台所)の名前が判明して居るのに、
(伏見宮貞清親王の姫「顕子」とか、鷹司左大臣教平の姫「信子」と)
綱重の場合は正配の名前が二人とも知られて居ないのでしょうか?
たんに日本史門外漢の私が無知なだけやも知れません。
識者の御教示を願う次第で御座居ます。
何卒宜敷く。

同じ電脳を使った別人の書き込みと誤解しないで下さい。

512日本@名無史さん:2006/03/32(土) 08:32:48
重ねて問いますれど、
家光公の息子で将軍になり損なった甲府宰相・綱重の正室「隆崇院」
二條関白光平の姫(九條兼晴の養女)の名前は何というのでしょうか?
また彼女の没後、二條光平の養女として綱重の継室「紅玉院」
となったのは、山科言行の女(実名不詳)が正しいのでしょうか?
或いは中納言綾小路俊景の女(実名不詳)が正しいのでしょうか?
兄の家綱、弟の綱吉ともに正室(御台所)の名前が判明して居るのに、
(伏見宮貞清親王の姫「顕子」とか、鷹司左大臣教平の姫「信子」と)
綱重の場合は正配の名前が二人とも知られて居ないのでしょうか?
たんに日本史門外漢の私が無知なだけやも知れません。
識者の御教示を願う次第で御座居ます。
スレ違いやも知れませぬが、何卒宜敷く。

同じ電脳を使った別人の書き込みと誤解しないで下さい。

513日本@名無史さん:2006/03/32(土) 20:20:14
矢張り無知無教養な低能どものスレぢやつたなう!

鷹司・日野両家の関係も知れぬとは!

試みてみたよかったぞよ。

無学者ども奴がっ!!!!!!!


514日本@名無史さん:2006/03/32(土) 23:22:07
で?
515日本@名無史さん:2006/04/02(日) 05:59:42
>>513
日本語もまともに書けん馬鹿が何をぬかすかと、大笑い。
死んでくれ!
516日本@名無史さん:2006/04/02(日) 13:36:14
指輪がどうしたこうしたと言う話なら

三田村鳶魚の『御殿女中』に
「お手付きは指輪を嵌めていたなぞと、近頃何かの本に
書いたのがあるそうですが、決してないことでした。
御目見以上の者は誰一人、指輪などを嵌めた者はありません。」
とあります。

明治時代でも着物に指輪は芸者の風俗だったから高貴の人は
しないと思われます。多分、都市伝説の類。
出典というほどの物はないでしょう。
517日本@名無史さん:2006/04/03(月) 02:28:37
>>516
既出。参考→>>383
518日本@名無史さん:2006/04/03(月) 18:46:04
芝増上寺での徳川家霊廟の一般公開が始まったよ!
家茂、和宮の墓が見られます。
今なら増上寺界隈の桜も綺麗だから是非どうぞ。
ついでに、黒本尊のお堂内の和宮像も見てきてね。
519日本@名無史さん:2006/04/04(火) 13:46:44
去年見に行ったよ。>徳川家霊廟
まぁ普段でも霊廟の隣にある高台の一般墓地から廟内覗けるけどね。
520日本@名無史さん:2006/04/05(水) 21:09:50
あそこから覗くという気持ちにはなれんがな。
521日本@名無史さん:2006/04/06(木) 09:39:22
522日本@名無史さん:2006/04/06(木) 09:40:28
523日本@名無史さん:2006/04/06(木) 10:03:55
この前あの「大奥」が再放送されていたが派手な着物の熟女たちにハァハァ。
524日本@名無史さん:2006/04/07(金) 23:16:15
将軍家の正室や側室は、将軍が死んだら落飾するのが慣例だと思うんだけど、家斉の側室は家斉の死後に上臈御年寄上座に任じられているなど、落飾した様子がない。
これはどういうこと?

お手付き御中臈がすげーたくさんいただろうから、いちいちそんなことやってられなかったのかな。
525日本@名無史さん:2006/04/08(土) 13:56:16
>>524
上臈御年寄上座など「〜上座」というのは待遇上の扱いで、正式な役職名ではないのではないか。
上臈や御年寄としての職権は一切与えられず、礼遇上だけ上座とされる事だと思う。
初例は10代家治のお手付き中臈のお知保の方の、「老女上席」だろうか。

お手付きの者はお付きの上様か大御所の死亡と共に、院号を名乗った時点で必ず落飾したはず。
526日本@名無史さん:2006/04/09(日) 00:54:30
感応寺事件、智泉院事件のお美代は家斉没後に専行院と称したが剃髪せず。
たらい回しにいろんなとこに移されてたな、墓も上野や芝じゃないし。

お八重やお瑠璃の上臈御年寄上座や、お楽の御年寄上座だね。
527日本@名無史さん:2006/04/09(日) 02:15:40
>>524>>526
もしかして、剃髪と落飾とを混同しているのではないでしょうか。
剃髪とは本来髪をすべて剃り落とし、尼となり出家する事。
落飾とは長い髪を短く切り揃え、後家姿となる事。

家斉没後に、家慶からお美代の方へ下された御沙汰は、
上臈御年寄上座にし上臈御年寄並みの年金を与え、押し込めに処するなどの他、
「…且又剃髪相願候得共不及其儀、摘髪被仰付候…」
願い出ていた剃髪(=出家)は許さない、通例通りの摘髪(=落飾)を命ずる、という内容。
528日本@名無史さん:2006/04/09(日) 03:21:03
飾りを下ろすとは言うけどね。

>>527
徳川妻妾記からひいてる?
529日本@名無史さん:2006/04/09(日) 06:56:25
落飾って髪を肩ぐらいに切ってポニーテールみたいにした髪型だよね。
530日本@名無史さん:2006/04/09(日) 09:28:55
>>527
さすがにそんな混同はしてないよ。
家斉死後に尼屋敷に行くでもなく、落飾するでもなく、上臈御年寄上座に任じられているだけの記述しか見受けられないんだけど・・・。
実際は落飾してたんかね。
>お歌、お蝶、お糸、お八重、お瑠璃

そういや新潮の幕末バトルロワイヤルにも名を連ねてたな。
531日本@名無史さん:2006/04/09(日) 10:42:01
家茂時代の大奥には大奥総取締と言う役職があったな。実母より養母が権力を持っていたらしい。養母って誰?
532日本@名無史さん:2006/04/09(日) 11:50:46
天璋院でしょ
533日本@名無史さん:2006/04/09(日) 11:55:07
>>530
一般の大奥女中が、お代替わりに際し引退して市井に立ち帰った場合と違って、
お手付きの者は、現将軍生母が「お上通り」(将軍家族扱い)となる場合を除き、
院号を名乗り落飾して、桜田御用屋敷・二の丸その他大奥外のどこに移っても、
身分は死ぬまで幕府女中のままで変わらない。中臈だったら落飾後でも中臈。

専行院お美代の方の場合は、押し込めにする代わりに、
中臈の扶持を増額する方便として、上臈御年寄上座の名目が与えられたもので、
大奥内や西の丸奥向きに留まって、上臈御年寄上座という役職に昇進した訳ではない。
実際には溶姫からのお願いによって、本郷の前田家屋敷に引き取られた。
534日本@名無史さん:2006/04/09(日) 13:06:50
>>530
落飾の記述が見受けられなくても、正室とお手付きはすべて落飾している。
落飾しなかったという記述が見受けられた場合を除いて。
家康の側室の阿茶局は、家康没後秀忠の命により落飾せずに、
秀忠没後に落飾したという例外があった。
535日本@名無史さん:2006/04/09(日) 13:23:43
御台所も将軍没後は桜田御用屋敷か牛込御用屋敷に移るの?
536日本@名無史さん:2006/04/09(日) 14:09:55
530だけど、納得しました。

将軍世嗣の生母だけが大奥に残ったってことでいいのかな。
537日本@名無史さん:2006/04/09(日) 15:12:24
桜田などの御用屋敷は、並みのお手付きが晩年を送る場所。

先代御台所や将軍生母(世嗣生母ではない)は、大御所が存命ならば大御所に従って西の丸に移るが、
未亡人ならば大奥内に留まるのが、一応の原則かと思われる。
大奥外で晩年を送った例は、中の丸・三の丸・二の丸・吹上等の、屋敷でなく御殿。
538日本@名無史さん:2006/04/09(日) 15:52:59
>>533
お美代の方のお手当て金は三百両。
「御充行上臈年寄並みに被増下、別段御手当金三百両づつ被下候・・」

前田家屋敷に引取られたけれど、容姫のお国入りにともなって
やむなく今度は末姫の嫁家浅野屋敷に移るが、幕末の混乱期とあって
末姫も芸州に移ることになり、再び前田家の扶持を頼り
下谷辺りに一軒屋を借りて住むが、後に本郷講安寺に移される・・・

大奥での栄耀栄華と権勢の日々と対照的な流転の後半生。
けれど明治5年までいきるのだから、たくましいものだね。

>>534
阿茶局は東福門院について禁中にもあがっているわけだし
俗体でなければ出来ないことだろう。
539日本@名無史さん:2006/04/10(月) 02:51:34
ちなみに、右衛門佐や大典侍が懐妊したけど流産したっていう俗説はどこからきてるんだろう。
540日本@名無史さん:2006/04/10(月) 03:18:49
落飾したら院号は自分で決めるんですか?
541日本@名無史さん:2006/04/10(月) 03:55:23
家斉の愛妾といえば、慧明院お志賀の方は前将軍・家治のときからの奥勤めだよね。
当時は呉服之間勤めだったとか。
天明6年に御遺金50両を賜ったという記述があったんだけど、一介のお女中にもそういうものが与えられたわけ?
542日本@名無史さん:2006/04/10(月) 06:26:34
>>539
大典侍の流産は、自分は初耳。
右衛門佐のお手付きや流産は、江戸時代の俗書にすでに書かれていたものかどうか怪しい。
戦後の小説か映画かテレビドラマあたりが、最初に創作し始めたのではないだろうか。
自分は史上の右衛門佐は、お清だったと思っている。
543日本@名無史さん:2006/04/10(月) 06:39:55
>>540
部署は知らないが表役人が、御台所でも一方的に院号を定めて通達して来る。
例外は和宮の静寛院、朝廷より賜わった院号である。
院号はそのまま没後の戒名の先頭部分に使われるので、実際の勘考は僧侶かもしれない。
544日本@名無史さん:2006/04/10(月) 06:52:19
>>535
御台所は基本的には江戸城内の二の丸とかに留まる
側室でも将軍ご生母様や、お伝や大典侍のように城内に屋敷を与えられてるような人も。
545日本@名無史さん:2006/04/10(月) 07:05:46
>>541
『幕府祚胤伝』の記述ですね。
将軍薨去毎に奥女中一同に数万両とかの御遺金が、制度化されていたのかもしれない。

吉屋信子の『徳川の夫人たち』では、個々の御遺金の額は職階に応じて異なり、
総取締大上臈のお万の方は千両、御年寄500両、御客会釈200両、表使80両、御末10両とある。
>>541の呉服之間50両というのは妥当な線なので、『徳川の夫人たち』の御遺金の記述は、
小説ながら何か、史料的な裏づけのある内容ではないだろうか。
546日本@名無史さん:2006/04/10(月) 10:44:42
右衛門佐や大典侍の生家って公家の家格としてはどうだったのかな。
547日本@名無史さん:2006/04/10(月) 11:45:27
>>545

制度というか慣例で決まっていたことは確実
女子ばかりではなく御遺金は奥医師や奥六尺といった
奥勤めの男子ももらえる
548日本@名無史さん:2006/04/10(月) 12:39:35
>>546
右衛門佐(水無瀬家)の方が上。
公家は5つにランク分けされてて、当然御台所の生家摂関家が1番上となる。
その下が順に清華家(今出川等)、大臣家、羽林家、名家となる。
水無瀬は羽林家にあたる。
姉小路、飛鳥井、正親町、お万の実家六条、幕末で有名な橋本も同じ。
大典侍や新典侍の実家清閑寺や日野はさらに下の名家。
549日本@名無史さん:2006/04/10(月) 12:48:15
よく本に書かれてるけど御台所は輿入れ後にすぐ死んでるね。あと、将軍没後、将軍の庶子は御台所の養子になって将軍に就任してるね。側室より御台所がなぜ大事にされるかわからん?
550日本@名無史さん:2006/04/10(月) 12:59:10
>>549

生母より嫡母。
側室は使用人に過ぎない
551日本@名無史さん:2006/04/10(月) 13:05:15
月光院とかカッコイイ院号だったらいいな。
552日本@名無史さん:2006/04/10(月) 14:35:22
>>478
ありがとうございます。
ちなみに「半家」っていうのは名家のことなんですか?
橋本家って結構家格は高いんですね。
姉小路や唐橋といった大奥女中を輩出しているので、
イメージ的には家格も低くて貧しい下級公家の娘が、
東のはてで栄達を目指して…みたいなのを想像してましたが、
大奥で権勢をふるった公家出身の女中たちも、それなりの家から出てるんですね。
553日本@名無史さん:2006/04/10(月) 17:35:47
>>548>>552
そのランク分けだったら5ランクではなく6ランク。名家の下に半家が加わる。
現実的な家格では、羽林家と名家はほぼ同格。
名家の上位(旧家等)は羽林家の下位(新家等)に対しては、優越感を持っていたはず。

摂家・清華家・大臣家の息女は、宮廷の女官や大奥女中には出仕しない。
女官出仕の時、羽林家の上位・名家の上位の息女は、典侍となる。
羽林家の下位・名家の下位・半家の息女は、典侍の下位である掌侍となる。

大奥女中の場合、堂上家でさえあれば羽林家でも半家でも大威張りで上臈となれる。
554日本@名無史さん:2006/04/10(月) 18:25:40
大奥とは直接関係しないんだが

島津斉宣の母は島津家の側室としては異例の公家出身(堤家)
浄岸院竹姫の縁故で島津家奥女中として就職したのがきっかけでこうなったらしいが・・・
やはり気分は「都落ち」だったんだろうか。
事実「次期藩主を産んだ側室」ということで一時は鹿児島に下向?させられていたようだし。
555日本@名無史さん:2006/04/10(月) 19:17:19
4月12日(水)22:00〜22:45 NHK総合テレビ あさっての夜放映です。

その時歴史が動いた
「大奥のゴッドマザー徳川家宣正室・天英院熙子の生涯」前代未聞の幕政介入

徳川吉宗を8代将軍に就かせるために尽力した家宣正室、熙子の生涯をたどる。
江戸中期、甲府藩主だった家宣の6代将軍就任に伴い、正室の熙子は大奥の最高位に上った。
しかし子宝に恵まれなかった熙子は辛酸をなめ続け、側室に男子が生まれたことで存在感を失っていった。
それでも熙子は夫を助けるため、大奥での責任を果たそうと奮闘した。
やがて家宣は死去し、側室が生んだ世継ぎの家継も若くして他界。
徳川家は、宗家の将軍後継を失うというかつてない危機に直面した。
天英院と名を改めていた熙子は、幕政の改革に尽力した家宣の遺志を継ぎ、
改革派藩主として夫が政治手腕を高く評価していた吉宗の擁立に向け、幕閣の説得に乗り出す。
556日本@名無史さん:2006/04/10(月) 20:53:04
公家の娘が武家に嫁に行くことを「お手伝い」とか言うそうだよ。

都落ちでも何でも、実家にいるより豪奢な生活ができ
実家も大名家よりの金銭援助にありつける。
シビアに割り切ってた面もあるんじゃないの。
557日本@名無史さん:2006/04/10(月) 23:14:04
>>554
徳川斉昭の生母、烏丸補子もそのパターンかな?
斉昭祖母の八代姫あたりに付き添ってきたのだろうか 
558日本@名無史さん:2006/04/11(火) 00:53:26
>公家の娘が武家に嫁に行くことを「お手伝い」とか言うそうだよ。
公家から見たら正室としてヨメに行くのも女中奉公にあがるのも同義かよ orz

堤家あたりは給米50石しかなかったから口減らしという意味が強かったでしょうね
烏丸家はどうなんかな。
559日本@名無史さん:2006/04/11(火) 01:31:51
仮に羽林家上位の家の娘だとしても、多分、
大名の正室・側室・上臈、旗本の正室となるのは、不名誉な事ではなかったと思う。
旗本の側室・奥女中のレベルだと、抵抗があってなれなかったかもしれないが。
560日本@名無史さん:2006/04/11(火) 02:00:26
正室なら家柄、側室なら美貌、上臈なら才智を見込まれての事で、
それぞれそれなりに、女の自尊心を満足させられたかもな。
561日本@名無史さん:2006/04/11(火) 08:11:48
旗本クラスだと扶持数百石だったりするから、あまり贅沢は望めなかっただろうけど…。
しかし50石の貧乏公家の娘だったら、77万石の大名の側室になっても、
あまり贅沢な生活に慣れなかったかもね。

うちの地元の松江松平家には宮家から正室を迎えたことがあるようで、
それを祝う祭りが今日まで残っているんだけど、
親藩とはいえ、宮家の息女が18万石の一大名に嫁ぐのは、やはり不本意だったのかなあ。
宮家ともなると、やはり皇族なわけだし。
562日本@名無史さん:2006/04/11(火) 10:41:52
公家の男性も武家の女性と結婚してる人多いね
563日本@名無史さん:2006/04/11(火) 10:57:29
>>562
持参金目当て
564日本@名無史さん:2006/04/11(火) 12:56:34
>>561
江戸時代は摂家>宮家。
宮家の女王が18万石の親藩の正室となるのは、それほど格落ちとは思えない。
摂家の息女だったら、御三家・御三卿・大大名止まりかな。

いずれにしても正室なら大名の国元田舎とは無関係に、江戸の屋敷に暮らす訳だし、
見下していた武家に公家の身で嫁ぐ屈辱感というよりは、遠く離れた江戸へ行く不安、
風儀違いの武家に嫁ぐ不安が大きかったと思う。
565日本@名無史さん:2006/04/12(水) 19:46:23
>>555
解説杉本苑子なんだねorz sage
566日本@名無史さん:2006/04/12(水) 21:09:28
満光院なんて院号はいやだな。
567日本@名無史さん:2006/04/12(水) 22:50:59
阿茶局は雲光院ヽ( ・∀・)ノ●ウンコー
568日本@名無史さん:2006/04/12(水) 22:56:53
話は戻るけど、家斉の側室「お八重の方」は家斉の死去に際して落飾しなかったというような記述を見受けたんだけど。
これはなんでだろ
卜部典子の著にそうあった。
569日本@名無史さん:2006/04/12(水) 23:30:23
家斉側室お美尾の方の父木村重勇って前田家の出なの?
七日市藩主の子に同姓同名がいるんだが。
570日本@名無史さん:2006/04/13(木) 06:23:06
珍歩院なんてのも嫌だな。
571日本@名無史さん:2006/04/13(木) 12:44:01
>>569

西丸小姓組番士とかいてあるものや旗本と書いてあったりするので
別人ではないかと
572日本@名無史さん:2006/04/13(木) 13:50:18
>>569
藩主前田氏の子で木村氏ならば、旗本へ養子に行って同一人物の可能性も少しはある。
時代的に齟齬がないか検討してみて下さい。
573日本@名無史さん:2006/04/13(木) 14:54:00
>>555
>>565
ぎゃーっ知らなくて見れなかった!
杉本苑子好きなのにいいいいいいいいいいいいい
574日本@名無史さん:2006/04/13(木) 16:29:21
>>573
でもビミョーだったよ
575日本@名無史さん:2006/04/13(木) 17:49:38
576日本@名無史さん:2006/04/13(木) 17:55:25
>>568
徳川の正室側室についての基本史料である『以貴小伝・幕府祚胤伝・柳営婦女伝系・玉輿記』の内、
最も最新の記事まで記載されている『幕府祚胤伝』でも、家慶将軍時代の天保9年(1838)刊行、
大御所家斉の薨去3年前なので、家斉の側室の落飾記事が欠けているのが原因。
そのため結局いまだに、院号・没年・葬地不明の者もある。

家斉の薨去に伴い、子女を生んだ側室で存命の者(宇多・蝶・八重・美代・以登・瑠璃)は、
院号を名乗り落飾して西の丸奥を去るにあたり、上臈御年寄上座の扶持と待遇が与えられた。
移動先はお美代の前田屋敷以外は、おおむね桜田御用屋敷でなくて二の丸らしい。
これらの措置は、大抵の者が大名の生母か義母に当たる事への配慮と思われる。

卜部典子の記述は、何らかの資料に上臈御年寄上座の記事があり、
落飾の記事がなかった事からの、推測による独断・誤りだと自分には思える。
落飾記事の脱落というだけでは、落飾しなかった証拠にはならない。
阿茶局の場合のような、落飾しなかったという積極的な記述があった場合とは別物。

あるいは上臈御年寄上座と上臈御年寄との混同もあるかもしれない。
上臈御年寄上座と違って、奥女中の役職でありそれなりの職掌・権力のある上臈御年寄は、
堂上家の実娘か正式の養女以外には、側室であっても決して許されない地位。
577日本@名無史さん:2006/04/13(木) 18:00:29
>>569 571
西丸御小姓組頭津田山城守課配下の小姓組番士でいいんじゃないのかな。
お美尾の奉公も最初は本丸御次で、中臈になるまで5年もそのまま、
その親が藩主家からの養子という身分には思えない・・・

家斉の側室には小姓組や御書院番、お納戸役、小普請組の番士クラスが多い。
578日本@名無史さん:2006/04/13(木) 18:09:13
その時歴史は動いた「…天英院熙子の生涯」

考証がもひとつだったな。
・『三王外記』からの引用が多い。
・天英院と月光院が、落飾姿でなく剃髪姿。
・天英院が大奥を去って西の丸に移った事(実際は二の丸)等々。
579日本@名無史さん:2006/04/13(木) 18:28:26
月光院より天英院が権力強し、7代将軍時代は江戸城で一番の権力者は天英院です。
580日本@名無史さん:2006/04/13(木) 19:58:15
超満院
581日本@名無史さん:2006/04/13(木) 20:01:34
養老院
582日本@名無史さん:2006/04/13(木) 20:03:00
少年院
583日本@名無史さん:2006/04/13(木) 20:03:10
東横院
584日本@名無史さん:2006/04/13(木) 20:04:01
孤児院
585日本@名無史さん:2006/04/13(木) 20:06:30
大学院
586日本@名無史さん:2006/04/13(木) 20:09:33
監視院
587日本@名無史さん:2006/04/13(木) 20:10:23
>>578
あの番組の考証がもひとつ・・・なんて、周知徹底済みじゃなかった?

歴史好きに向けてじゃなく、ちょっと興味あるくらいの人向けに
作ってる番組だと思ってるので、あんなものかと。
トホホ人物伝よりはまともらしい構成なのがNHK的。
588日本@名無史さん:2006/04/13(木) 20:12:38
木矢院
589日本@名無史さん:2006/04/13(木) 20:16:52
虎ノ門病院
590日本@名無史さん:2006/04/13(木) 20:22:28
駅係院
591日本@名無史さん:2006/04/13(木) 20:24:36
慶應病院
592日本@名無史さん:2006/04/13(木) 20:26:42
自民党院
593日本@名無史さん:2006/04/13(木) 20:27:41
姦院
594日本@名無史さん:2006/04/13(木) 20:29:48
東大病院
595日本@名無史さん:2006/04/13(木) 20:31:38
学習院
596日本@名無史さん:2006/04/13(木) 20:34:57
青山学院
597日本@名無史さん:2006/04/13(木) 20:39:19
精神病院
598日本@名無史さん:2006/04/13(木) 20:40:28
>>579
家継の母親はあくまで天英院だしな。
599日本@名無史さん:2006/04/13(木) 20:41:51
老人病院
600日本@名無史さん:2006/04/13(木) 20:44:02
リハビリテーション病院
601日本@名無史さん:2006/04/13(木) 20:45:40
歯科医院
602日本@名無史さん:2006/04/13(木) 20:51:15
女子学院
603日本@名無史さん:2006/04/13(木) 20:53:28
立教女学院
604日本@名無史さん:2006/04/13(木) 20:56:25
明治学院
605日本@名無史さん:2006/04/13(木) 21:09:22
衆議院
606日本@名無史さん:2006/04/13(木) 21:13:27
東洋英和女学院
607日本@名無史さん:2006/04/13(木) 21:15:37
聖マリアンナ医科大学病院
608日本@名無史さん:2006/04/13(木) 21:17:54
阪大病院
609日本@名無史さん:2006/04/13(木) 21:20:58
日大病院
610日本@名無史さん:2006/04/13(木) 21:23:18
我衆院
611日本@名無史さん:2006/04/13(木) 21:49:14
帝京大学附属病院
612日本@名無史さん:2006/04/13(木) 22:25:27
とりあえず近衛基熙が江戸城入った話とか、省かれるのはどうかと思う。
613日本@名無史さん:2006/04/13(木) 23:37:51
亀有女学院
614日本@名無史さん:2006/04/13(木) 23:39:56
関西学院
615日本@名無史さん:2006/04/14(金) 00:08:13
都立駒込病院
616日本@名無史さん:2006/04/14(金) 00:11:36
参議院
617日本@名無史さん:2006/04/14(金) 00:15:36
社会保険中央病院
618日本@名無史さん:2006/04/14(金) 00:16:57
湯布院
619日本@名無史さん:2006/04/14(金) 00:29:59
>>576
自分も側室の落飾関連は徹底されてたもんだと思ってたけど。
で、卜部典子のは確か「落飾には及ばず」という記述だったはず。

その本には他の側室の法名や葬地の記述もあって、信憑性が高いかな、と。
唯一、載ってなかったのは家慶側室のお花とお琴。
620日本@名無史さん:2006/04/14(金) 00:40:23
大原三千院
621日本@名無史さん:2006/04/14(金) 00:43:04
日本芸術院
622日本@名無史さん:2006/04/14(金) 00:44:51
早大学院
623日本@名無史さん:2006/04/14(金) 00:48:58
原子力安全保安院
624日本@名無史さん:2006/04/14(金) 01:06:06
東北学院
625日本@名無史さん:2006/04/14(金) 01:27:22
学士院
626日本@名無史さん:2006/04/14(金) 01:27:48
>>619
家斉側室のお八重の方の院号は、皆春院。
家慶側室のお波奈の方の院号は、香仙院。
お琴の方の院号は、和光院。安政2年(1855)、落飾後の艶聞により兄から手討ちにされた。

うーん「落飾には及ばず」という言葉の、出典が確かなものならばなあ、話は別だが。
627日本@名無史さん:2006/04/14(金) 01:35:00
浦和学院
628日本@名無史さん:2006/04/14(金) 01:36:50
都立広尾病院
629日本@名無史さん:2006/04/14(金) 01:44:40
亀田総合病院
630日本@名無史さん:2006/04/14(金) 01:53:26
上院
631日本@名無史さん:2006/04/14(金) 02:08:07
動物病院
632日本@名無史さん:2006/04/14(金) 02:13:34
杏林大学附属病院
633日本@名無史さん:2006/04/14(金) 02:15:49
愛知医科大学附属病院
634日本@名無史さん:2006/04/14(金) 02:18:54
建礼門院
635日本@名無史さん:2006/04/14(金) 02:29:07
労災病院
636日本@名無史さん:2006/04/14(金) 02:35:21
東三条院
637日本@名無史さん:2006/04/14(金) 05:05:16
接骨院
638日本@名無史さん:2006/04/14(金) 08:17:27
壬生院
639日本@名無史さん:2006/04/14(金) 10:54:17
整体院
640日本@名無史さん:2006/04/14(金) 11:15:11
フェリス女学院
641日本@名無史さん:2006/04/14(金) 12:36:56
東京臨海病院
642日本@名無史さん:2006/04/14(金) 14:10:48
院の付く文字を並べりゃいいってもんじゃない。
どうせ遊ぶなら、音読みの漢字2文字で○○院というワクの中だけで考えて、
一見した所本当に、大奥のお手付き中臈の院号にありそうな漢字使いもので、
現代の固有名詞にある言葉を挙げてみろ。
643日本@名無史さん:2006/04/14(金) 15:30:04
鍼灸院
644日本@名無史さん:2006/04/14(金) 15:35:15
↑大奥の院号にありそうな字づらではない。
645日本@名無史さん:2006/04/14(金) 16:49:21
>>626
まあそうだよなあ。
ところでお琴やお波奈の法名は何の本に?
646日本@名無史さん:2006/04/14(金) 17:01:24
ヤマハ音楽院
647日本@名無史さん:2006/04/14(金) 18:06:35
↑何のヒネリも無かったら小学生レベル。
何か書き込むなら>>642>>644の範囲内で考えて、さあ行ってみよう。
648日本@名無史さん:2006/04/14(金) 18:39:38
院号は難しいね。国土地理院…
649日本@名無史さん:2006/04/14(金) 18:47:50
秋月院。家の近くのお寺です。
650日本@名無史さん:2006/04/14(金) 19:13:58
↑寺名だったら超有名なお寺だけにして下さい。
651日本@名無史さん:2006/04/14(金) 19:21:14
会計検査院
652日本@名無史さん:2006/04/14(金) 19:39:56
レスがやたらと進んでると思ったら…なんでこんな荒れ方してるの?このスレ
それなりに有意義に語れてたのに連想ゲームで埋めないでよ
653日本@名無史さん:2006/04/14(金) 19:46:13
フェード院
654日本@名無史さん:2006/04/14(金) 19:52:37
キャ院
655日本@名無史さん:2006/04/14(金) 20:00:24
>>654等 もういい加減にやめるたら?
大奥スレなんだから、大奥の院号にありそうな字で音読みの漢字2文字のもの以外は、
ウィットも利いてなくて、面白くも何ともありゃしない。
656日本@名無史さん:2006/04/14(金) 20:14:42
>>652
荒れてるのか?
単にネタスレ化してしまっただけだと思うが。
657日本@名無史さん:2006/04/14(金) 20:19:17
大量のウンコの中からトウモロコシの粒を探すのが2ちゃんの醍醐味とか
658日本@名無史さん:2006/04/14(金) 20:46:29
家光のお万の方、家綱のお振、綱吉の大典侍・新典侍、家宣の新典侍、家重のお幸の方、
家治のお品の方と、ずっと続いていた「お手付き上臈」も、家斉以降にはなくなりましたね。
家斉御台所寔子の実の出身が、摂家や宮家でない事と関連があるのかどうか。
まあ「御台所献上」の必要もないし、
家斉も小上臈や上臈を指名するのは、寔子の手前遠慮したのかな。
659日本@名無史さん:2006/04/14(金) 20:51:23
東急院
660あぼーん:あぼーん
あぼーん
661日本@名無史さん:2006/04/14(金) 21:27:47
美容院
662日本@名無史さん:2006/04/14(金) 21:43:44
ドライブ院
663日本@名無史さん:2006/04/14(金) 22:37:16
ホリデイ院
664日本@名無史さん:2006/04/14(金) 23:47:39
○○院とかやってるやついい加減にしろよ。
かゑよりタチ悪い。
665日本@名無史さん:2006/04/14(金) 23:49:15
凸凹院
666日本@名無史さん:2006/04/15(土) 00:05:27
おい荒らし野郎、川崎市宮前区在住か、名古屋市瑞穂区在住か、どっちかだろう。
667日本@名無史さん:2006/04/15(土) 01:58:06
カプセル院
668日本@名無史さん:2006/04/15(土) 02:32:13
聖護院
669日本@名無史さん:2006/04/15(土) 03:59:10
超〜うざい!○○院て違う所でやってよ やってる人ば〜かじゃないの
670日本@名無史さん:2006/04/15(土) 04:02:25
ボ院
671日本@名無史さん:2006/04/15(土) 04:11:40
ア〜ホ
672日本@名無史さん:2006/04/15(土) 04:43:00
入院
673日本@名無史さん:2006/04/15(土) 05:12:15
トレ院
674日本@名無史さん:2006/04/15(土) 07:29:22
>>645 >ところでお琴やお波奈の法名は何の本に?

いやごめん覚えてないんだ。高柳金芳著『江戸城大奥の生活』の該当部分に、
大昔の自分のメモ書きとして書き足してあって、出典の記憶がない。
昔の別冊歴史読本のたぐいだろうか???
675日本@名無史さん:2006/04/15(土) 07:47:00
家慶側室で家定生母の本寿院お美津の方でさえ、葬地どころか没年不明だね。
明治の戸籍では徳川家でなく、実家の跡部家に入ったのかな。
明治前期の戸籍では、夫の戸籍に妻だけでなく妾も入籍されるって聞いた事があったけど。
676日本@名無史さん:2006/04/15(土) 10:06:36
本寿院の墓は谷中の徳川家墓地にあったはず。
677日本@名無史さん:2006/04/15(土) 11:02:44
ビジネス院
678日本@名無史さん:2006/04/15(土) 11:55:47
>>674
ありがつ!

また疑問が。
四代家綱の側室、お振の方は吉田兼敬の養女になっているよね。
でも兼敬はお振の方の弟なんじゃ?
しかもすげー年離れてるつーか、お振が奥入りしたときには幼少なんじゃ?
679日本@名無史さん:2006/04/15(土) 13:49:33
チュー院ガム
680日本@名無史さん:2006/04/15(土) 14:25:58
兼敬はお振の弟だけど
お振 慶安2生まれ
兼敬 承応2生まれ
で4つちがいだからOKでしょ

父親の兼起は明暦3卒だからお振の大奥入りには卒去してしかたがなかったんじゃないの?
681日本@名無史さん:2006/04/15(土) 19:52:44
ガチンコ院
682日本@名無史さん:2006/04/16(日) 21:37:20
伊集院
683日本@名無史さん:2006/04/16(日) 22:49:32
>>676
そっか!理解しました。

俺「徳川夫人伝」と「徳川妻妾記」を持ってるんだけど、それよか詳しい本てあるのかね。
徳川実記読むしかないのかな。
684日本@名無史さん:2006/04/16(日) 23:14:25
院毛
685日本@名無史さん:2006/04/17(月) 00:06:55
月光院のお墓って増上寺でしたよね?
686日本@名無史さん:2006/04/17(月) 19:57:35
何だかんだ言われても高柳金芳の著作は重宝するんだよね・・・

>>685
月光院の増上寺廟は桂昌院と同じ廟で内で、2つの宝塔は並んでた様子。
場所は北御霊屋敷地内にあった。

現在は将軍家子女や側室の合祀塔に改葬され、
(その宝塔は月光院のもの)桂昌院、廣大院らもともに眠っている。
687日本@名無史さん:2006/04/18(火) 02:23:00
アウト院
688日本@名無史さん:2006/04/18(火) 15:13:56
院リンオブジョイトイ
689日本@名無史さん:2006/04/20(木) 19:01:08
         ハ,,ハ
        ('(゚∀゚∩_ おいらをどこかのスレに送って!
      /ヽ   〈/\ お別れの時にはお土産を持たせてね!
     /| ̄ ̄ ̄|.\/
       | .モツ煮..|/
        ̄ ̄ ̄
現在の所持品:たばこ・ライター・コーヒー・ブラックブラック・枕・ケータイ電話
睡眠薬・聖教新聞 ・ダッチワイフ・外付けSCSI340MHDD・ネットランナー4月号
TYG02・小嶋進社長・ゲルトモ・ディプスファンタジア・抵抗1kΩ(黄紫橙金)・媚薬
バーボン・リップクリーム・セガサターン・バールのような物・バイブ・50インチ液晶TV
ボンカレー(甘口)・ジローラモ・エースヘルム・MAR全巻セット・切断済みの亀頭
東京タワーのミニチュアキーホルダー ・無償の愛・おっぱいプリン・イオナ・電話代の請求書・ウナコーワ
NHKの請求書・かりんとう(黒糖)・新庄・コロッケそば・『森の生活』・ベルディ君・ミアキスタソ・(`〜´)・
壊れかけのレディオ・堤さやかの無修正DVD・ 岩〇沢郵便局・イナバウアー ・骨壷 ・姑と同居
御台所

690日本@名無史さん:2006/04/24(月) 12:17:00
幕末の姉小路を取り扱った著作ってないですかね。
691日本@名無史さん:2006/04/24(月) 14:25:50
>>690
書名に「姉小路」を含む、で新刊書と古書の検索をした限りでは、
上臈御年寄橋本姉小路を取り扱った著作はないようだ。
692日本@名無史さん:2006/04/28(金) 10:24:01
昨日の朝日新聞千葉版

勝浦在住の養珠院・お万の方の研究者が
「お万の方着用」と思われる麻の帷子を所有者から贈られる・・・
693日本@名無史さん:2006/05/06(土) 08:56:10
age
694南京大虐殺の首謀者:2006/05/06(土) 10:42:23

南京城攻略の折、降伏した中国兵数千人を城壁の傍らに立たせておき銃剣にて全員を刺殺した時の司令官は
昭和天皇の叔父で天皇に顔がそっくりの朝香の宮と言う奴だ。
南京大虐殺は天皇家の命令で行われたことは明らかだね。
そうやって在日である天皇家は、日本の名誉を著しく傷付けるような指導を日本国民に対してして来た訳だ。
そんな天皇制にしがみ付いている奴はバカか狂人かのどっちかだね。

あるリベラルな知識人が二十年ほど前に、先の戦争は国民にも責任があると言ったことをヒントに、
天皇には責任が無いみたいなズレたことを言い出した右翼がいるが、
国民主権国家となってから、その天皇制を廃棄しないでいたことは今度は本当に国民の責任である。


http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/index.htm
695日本@名無史さん:2006/05/10(水) 14:18:49
wikiの永光院の所に、「実は家光との間に子があった」と追記されてた。
これは信憑性高いんだろうか
696日本@名無史さん:2006/05/10(水) 15:22:40
たぶんTVの「大奥」を真に受けただけと思われ
697日本@名無史さん:2006/05/10(水) 17:11:53
wikiは牧野の娘がほんとに大奥入りした・・・というガセも載ってるよな。

大奥放送中はwikiから仕入れた大嘘を得意げに書き込むお馬鹿が増える。
698日本@名無史さん:2006/05/11(木) 06:17:20
トーテンポール院
699日本@名無史さん:2006/05/11(木) 12:34:41
永光院の事だけど、かなり事細かに書かれてた。
大奥ドラマとは関係なさそうだよ。
でもうさん臭さは拭えないけど。
700日本@名無史さん:2006/05/11(木) 13:24:11
オルゴール院
701日本@名無史さん:2006/05/11(木) 13:55:50
吉宗と月光院が愛人関係だったってホント?>>55
702日本@名無史さん:2006/05/11(木) 19:46:14
>>701
興味本位の醜聞や裏付けのない風説を多く載せる文書に書かれた記事です。
確かにあったのかも無かったのかも闇の中の世界のことだがな。
風説・巷説と前置きして語らないと恥かくよ。
703日本@名無史さん:2006/05/12(金) 00:23:57
>>702
なにやらつっかかっているようだけど、>>55の文中にそういう風にかいているから
質問したわけだが、モノのいいようもわからない人なんですか?
704日本@名無史さん:2006/05/12(金) 06:55:40
新宮のお姫さまの琴の方の話は本当?
705日本@名無史さん:2006/05/12(金) 11:05:02
見苦しい輩が出てきたな。
706日本@名無史さん:2006/05/12(金) 12:11:20
>>704
ガセではないと思う。1968年放映の元祖テレビ大奥で、設定を変え南田洋子が演じてたな。
落飾後の男女関係露顕による処罰は、綱吉側室清心院新典侍の生涯蟄居押し込めの先例があるね。
707日本@名無史さん:2006/05/12(金) 17:30:10
ドラマから入ってきたヤシは変な思い込み強くて困るね
ドラマなんて超都合良い嘘ばっかだし、大奥関係の書籍は昔から興味本位の風説の嵐なのにね

>>702も、大奥関係の書籍は、きちんと事実に基づいているとされる
信憑性のある数少ない書籍以外は、信ずるに価しないのも知らないのかと言いたいだけだと思われ
708日本@名無史さん:2006/05/12(金) 17:57:42
>>703
はいはい、
三王外記の内容は頭から信じないほうがイイヨ、と優しく言い直しま〜す。
709日本@名無史さん:2006/05/12(金) 22:44:26
>>707-708
ああ、ようするにここは一般人立ち入り禁止の研究者のサロンだったんですね。
自分たちが知っている事象を知らない一般の人が来ると貶めるそういう段取りに
なっていると。
710日本@名無史さん:2006/05/13(土) 00:12:00
2chの専門板なんてそんな物だ
711日本@名無史さん:2006/05/13(土) 00:58:18
スレを通してみるととても研究者のスレニはみえないが、
たまに質問があると手の平返して貶すから始末に負えない
日本史板が荒廃するのも無理ない。
712日本@名無史さん:2006/05/13(土) 02:05:45
モンゴル院
713日本@名無史さん:2006/05/13(土) 04:20:54
どこをもってして一般人と言うのかわかりませんが、
このスレを見るくらい大奥に興味ある人なら、
少しでも関連本を読んだ事ある人なら、常識だと思います…よ
714日本@名無史さん:2006/05/13(土) 05:53:16
>>707
言いたい気持ちはわからないでもないが、初心者を頭から嘲笑するような態度はどうかと思う。
自分も最初の出会いは、子供時代のテレビドラマ(1968年大奥)だった。
その後様々な本を購入し、眉唾かどうか自分で判断できるようになってきた。
テレビによって裾野が広がるのは、それはそれで悪い事ではないと思う。

初心者の人へ
自分は初歩質問も、ほほえましく歓迎しますよ。
ただテレビやネット中心よりは、やはり先ず厳選した書籍を読むべきだと思う。
>>707の言う通り信憑性のある本は数少なく、1冊だけ挙げるとしたら読みにくいけど、
・『史料 徳川夫人伝』 高柳金芳校注 \5097 新人物往来社刊
古本ネットなら\2000以下でも購入できる。
715日本@名無史さん:2006/05/13(土) 17:21:48
クレープ院
716へへへ708:2006/05/13(土) 18:41:26
新人物往来社なら「定本江戸城大奥」もあるな。

それと卜部典子の大奥人名辞典もだな。
でも、これもだいぶ高柳の徳川妻妾記等から引いている。

高柳の著書を小ばかにする奴もいるが、他に目立った物もなし。
資料の原典を記しているのは良心的だ。
墓所を訪ねているところなんて誠実で熱心だと思う。
717日本@名無史さん:2006/05/13(土) 19:50:06
叙々院
718日本@名無史さん :2006/05/14(日) 16:27:04
院、院ってしつこいぞ!
大馬鹿野郎!!
719日本@名無史さん:2006/05/14(日) 22:25:20
じゃあ歴代の奥向きについて語りましょう。権力を振るった人物、起こった事件などを。
初心者が混乱を招かないように、俗説・巷説はそれと明記しましょう。

最初は家光の奥向きからでよろしく。
720日本@名無史さん:2006/05/14(日) 22:28:07
春日局全盛期
721日本@名無史さん:2006/05/14(日) 23:30:19
>>578

>> その時歴史は動いた「…天英院熙子の生涯」

考証がもひとつだったな。
・天英院と月光院が、落飾姿でなく剃髪姿。


あれはどう見ても和宮の使いまわしやんけ!NHKのドケチ!
722日本@名無史さん:2006/05/15(月) 00:04:01
宦官制度の復活希望
死刑に出来ない性犯罪者を去勢して宦官にして
一生皇居の外からは出られないようにしよう
723日本@名無史さん:2006/05/15(月) 00:35:14
スマップ院
724日本@名無史さん:2006/05/15(月) 01:50:13
当初は大奥に寄りつきもしなかったらしい家光
中奥とか二の丸でお好みの小姓とラブラブだったとか

と何かの本(たぶん山本博文氏の本あたり?)で読んだような。
725日本@名無史さん:2006/05/15(月) 05:50:38
ズーム院
726日本@名無史さん:2006/05/15(月) 09:13:14
お稚児さん趣味の家光を心配した春日局が、伊勢慶光院の跡目相続御礼に登城した
院主(後のお万の方)を還俗させて大奥に入れた。
おかげで小姓とのイチャイチャはおさまったものの、お万の方への寵愛が深くなるにつれ
公家の息女が権力を持つことを恐れた春日が、お万の方に良く似た面差しの町娘を
連れてきて中臈にした(後のお楽の方、家綱母)。
727日本@名無史さん:2006/05/15(月) 10:08:38
>>726
それは誤り。
お振の方が家光側室第一号。
お楽は呉服の間からの奥勤めで、春日局(祖心尼説もあり)が見つけてきた。
お万に似ている云々は俗説。
728日本@名無史さん:2006/05/15(月) 10:15:21
>>727
726にはお万が第一号とは書いてないけど…
お振の方はあまり寵愛を受けてはいなかったはず。
729日本@名無史さん:2006/05/15(月) 10:28:29
寵愛を受けなかったとはどの文献に依るものでしょう。
少なくとも家光第一子をもうけたお振の方が粗雑に扱われたとは思えないよ。

私見だけど、ドラマ大奥のおかげでお万に良いイメージが付き過ぎ。
730日本@名無史さん:2006/05/15(月) 12:14:59
粗雑には扱われてなかったかもしれんが、子をもうけた後にも小姓遊びをされていた
お振の方はちとカワイソス
ドラマ大奥はちらっと見たけどあまりにも史実とかけ離れていたのでイライラするから
見るのやめた
みんながみんなドラマを見ていたわけではないと思う
731日本@名無史さん:2006/05/15(月) 13:05:15
お台場大奥なら「ドラマ」という創作としても駄作なんじゃ?
史実や時代考証という前に、人物の性格設定が破綻してたぞ。
あのお万なんて、滅茶苦茶に理解不能な行動と発言してたはずだ。

企画人と脚本家が、既往作のあらすじや大奥本を読んで
あれこれ逸話をつなぎ合わせて、スーパー時代劇の粉をかけて
まあ、最近の視聴者ならこの程度で満足するだろう調で作った感じだ。
732日本@名無史さん:2006/05/15(月) 18:45:08
キャ院
733日本@名無史さん:2006/05/16(火) 10:46:20
>>730
確かにお振の方には不幸なイメージが。
でもお万が小姓遊びを止めたきっかけってのは腑に落ちない
734日本@名無史さん:2006/05/16(火) 11:53:24
お万の方は慶光院の尼君だった頃は、勿論青剃り頭に袈裟姿だったから
少女とも少年ともつかぬ倒錯的な魅力があって、
だから小姓にしか興味のなかった家光の嗜好にはまったという話

髪が伸びてから大奥入りという話にも、頭が坊主のままだからいいんだと
家光が言い張ったという話はどこの文献だったか…
これも眉唾だったらごめんなさい
735日本@名無史さん:2006/05/17(水) 08:33:58
お琴の方って、やっぱり春日局が家光に勧めたんだろうか
736日本@名無史さん:2006/05/17(水) 20:21:14
>>735
兄 土佐守が家慶に貢いだんだろ。他の妹は側用人に貢いだそうだ。
737日本@名無史さん:2006/05/17(水) 21:53:24
家光と家慶じゃずいぶんな年代差がある罠
738日本@名無史さん:2006/05/18(木) 10:35:10
>>734
記憶が定かじゃないが、確かお万の方が院主になったのって
10代の若い頃だったよね。
少女っぽさが残ってて、中性的だったのはわかる気がする。
739日本@名無史さん:2006/05/18(木) 12:02:22
10代半ばだったと思ふ
740日本@名無史さん:2006/05/18(木) 16:01:46
後家の出家じゃないので、貴族の子女の受け入れ先的門跡寺入りなので
十代での出家は当然。
裕福でない貴族の家、食い扶持は一人でも少ないほうがいい。
また若いうちから尼寺の生活に慣れさせたほうが本人のためだし。

寛永13年に入寺。寛永16年に17代院主になり3月に江戸下向。
入寺年齢については13才とも16才とも。
741日本@名無史さん:2006/05/18(木) 17:59:02
スターバックス院
742日本@名無史さん:2006/05/18(木) 19:02:18
維新後、和宮と天璋院が勝先生の尋ねたエピに和んだ(*´∀`*)
743日本@名無史さん:2006/05/18(木) 19:09:06
院ポテンス
744日本@名無史さん:2006/05/19(金) 06:49:39
院、院ってしつこいぞ!
大馬鹿野郎!!
745日本@名無史さん:2006/05/19(金) 07:07:48
>>744
スルーしる!
746日本@名無史さん:2006/05/19(金) 12:10:11
お台場とんでも大奥の成功(?)に味をしめたフジが
仲間を絵島として映画版「大奥」を造るそうだ。

またまた臭い脚本なんだろうなー。
747日本@名無史さん:2006/05/19(金) 15:56:32
仲間が絵島って・・・賢く無さそうな絵島だな
748日本@名無史さん:2006/05/19(金) 16:46:51
浅野妙子脚本で無ければよいが。

まあ、どーせフジ制作なんで、わざわざ映画館に出向くこともない。
749日本@名無史さん:2006/05/19(金) 17:04:19
また女性週刊誌のゴシップ記事みたいな大奥かぁ…
ため息ついちゃうね
750日本@名無史さん:2006/05/19(金) 17:59:00
表の政争的要素を取り入れるのか、いつものグダグダとした展開になるのか。

まあ、月光院と間部の関係はコテコテに脚色するのだろうなw
751日本@名無史さん:2006/05/19(金) 21:57:34
鯖院
752日本史@名無史さん:2006/05/20(土) 02:34:48
家光の長女・千代姫は家光に可愛がられたらしいから、
お振りの方もそれなりに大事にされていたんじゃないかねぇ。
まぁ、長女で唯一の娘だから可愛かっただけかもしれないけど。
753日本@名無史さん:2006/05/22(月) 04:58:10
>>735
芳心院は出産せずのお手付き中臈なので、お部屋様ではなく、×お琴の方→○お琴。
出産なしでも、永光院お万の方や家康時代は例外。
方を付けたから、>>736がつい間違えたんだろ。
754日本@名無史さん:2006/05/22(月) 19:53:19
インド院
755日本@名無史さん:2006/05/23(火) 00:46:03
>>303あたりで出てきた唐橋の局って
水戸のオサーンにえらい目に遭わされた後
どうなってしまったん?
756日本@名無史さん:2006/05/23(火) 09:17:52
>>753
家光の頃にはもう御手付中臈とか御部屋様とかの名称はあったんかな?
757日本@名無史さん:2006/05/24(水) 14:05:29
上様が死んだ後、側室や御代所は落職されますよね?〜院というなまえになりますが、上様が死ぬ前とでは、なにがかわるのですか?また、どこで暮らし何をするんですか?教えてほしいです!
758日本@名無史さん:2006/05/24(水) 15:39:46
>>757
>なにがかわるのですか?
髪型が変わる。後ろにまとめて結び短く切り揃えた、落飾後家の髪型になる。
鉄漿(かね、お歯黒)をしなくなる。完全に剃っていた眉毛を生やすようになる。
これらは武家ならば、下級の御家人階級まで共通の風習。

>どこで暮らし
側室は大奥・西の丸奥を引き払い、他の場所に移るのが原則。
二の丸・三の丸・御浜御殿・桜田御用屋敷・馬場先御用屋敷等。
御台所や現将軍生母は、大奥に残る例が多い。
(浄光院・天英院・天璋院・静寛院:宝樹院・月光院・本寿院)

>何をするんですか?
御褥の御用が無くなり、亡き将軍の菩提を弔う生活。
以前と変わらず、侍女からの奉仕を受けて安楽に暮らす。
759日本@名無史さん:2006/05/24(水) 20:56:21
がび院
760日本@名無史さん:2006/05/24(水) 23:38:56
758さん、詳しくありがとうございました!テレビドラマで見た後、興味がでたもので、ずっと気になっていました!本当にあんな世界があったんですね。。
761日本@名無史さん:2006/05/25(木) 00:17:07
>>756 >家光の頃にはもう御手付中臈とか御部屋様とかの名称はあったんかな?

さあどうだろう、確証はないが自分の感触だと家光時代にはあったと思われる。
秀忠時代には、お手付中臈や御部屋様は大奥には存在しなかったし、
大奥の制度や名称の大方の基本は、春日局時代に確立されたという気がする。

御部屋様について
長局での私室は、お清の筆頭中臈以上の役職の者は単独で、平の中臈以下の者は合い部屋。
お手付き中臈は、御年寄等の高級職を世話親として、その部屋の2階に寄宿し監視を受ける。
出産を果たすと晴れて単独の部屋が与えられ、お部屋様・〜の方と呼ばれるようになる。
762日本@名無史さん:2006/05/25(木) 14:06:05
家光時代の上臈、御年寄は誰よ。
763日本@名無史さん:2006/05/25(木) 18:30:29
そんな調べればすぐわかりそうな事を
偉そうな口調で聞くのは何故よ。
764日本@名無史さん:2006/05/25(木) 22:00:48
>>762
上臈といえばお万の方がお手付きながら上臈だけど、他に名前が分かる上臈には、
元お江与の方付きで家光・家綱付きを歴任した、「按察使(あぜち)」という上臈がいた。
父は中納言土佐国司一条兼定。家綱時代の1669(寛文9)年に没。法名光園院。

家光時代の御年寄で名前の分かるのは、仮に春日局が御年寄だとしても、他には自分は知らない。
吉屋信子の「徳川の夫人たち」に登場する架空の御年寄たち、初島・葛岡・雲井・浦路・藤尾が、
お台場大奥で、初島・葛岡・雲井・浦尾・藤波として、堂々とパクられていたのには失笑。
765日本@名無史さん:2006/05/25(木) 23:41:58
>>764
卜部典子の大奥人名辞典を持ってるのかな?
家光時代といえば、春日局ばかりが注目されるけど、
祖心尼も家光の信頼を得ていた重要な人物だよね。
春日局の姪で、お振の方の祖母でもあるんだもの。
今年は新宿区の歴史博物館で、済松寺と祖心尼の特集展示があったよ。

お台場大奥はほんとに既往作のパクリとパッチワークの賜物。
幕末編で絵島事件のもどきを脚色して、今度は別物で仲間・絵島wだもの。
766日本@名無史さん:2006/05/26(金) 01:02:40
>>765
卜部典子の「大奥人名辞典」とは、「人物事典 江戸城大奥の女たち」の事ですか?
それならば持っています、最近までmy書架内で行方不明でしたが。

祖心尼は大奥内に居住せず竹橋内に屋敷を賜わり、そこから大奥に通ったようなので、
御年寄など大奥の正式の役職には就かずに、家光と春日局の個人的な信望により、
大奥の相談役や春日局の参謀役を果たしたという位置づけが、事実に近い気がします。

1639(寛永17)年(お振の方の没した年)に再築された、江戸城本丸の図面の大奥部分で、
名前を出してその居住区画が示されているのは、畑尚子「江戸奥女中物語」によると、
春日殿小座敷(春日局の事)・慶光院殿(お万の方の事)・おこわ殿・栄照院裏局、の4人。
おこわと栄照院は当時の大奥内の首脳陣と思われるが、その役職名など詳細は不明。
767日本@名無史さん:2006/05/26(金) 01:17:31
>>766
英勝院の事では
768日本@名無史さん:2006/05/26(金) 01:43:28
>>767
かもしれませんね。  失礼1640(寛永17)年、に訂正します。
阿茶局も3年前に亡くなり、この時点で生存している家康の側室は、
英勝院お勝の方・養珠院お万の方・清雲院お夏の方の3人だけ。
裏局とは、大奥来訪時の専用宿泊場所の意味かもしれません。
ただし英勝院ではなく、同音ですが栄照院となっています。
769日本@名無史さん:2006/05/26(金) 01:52:32
>>764
すごく興味深い人物だな
>元お江与の方付きで家光・家綱付きを歴任した、「按察使(あぜち)」という上臈がいた。
>父は中納言土佐国司一条兼定。家綱時代の1669(寛文9)年に没。法名光園院。

ただ疑問があるのは
一条兼定(天文12年(1543年) - 天正13年7月1日(1585年7月27日))
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%85%BC%E5%AE%9A
按察使が兼定の死の翌年に誕生したとしてもこの時代にしたらえらく長生きだ。
まあ、不可能ではないけど。
770765:2006/05/26(金) 02:02:39
>>766
祖心禅尼は吉屋信子の小説にも出てくるだろうけどね。
徳川実記にも頻繁に名が載り、書状も多く残る実績のある人だよ。
春日局の相談役でもあったであろうけど、春日の没後には
表の大老酒井讃岐守忠勝に対して「奥讃岐」とまで呼称されるような権威を
持っていた。
家光や沢庵和尚との禅問答集さえのこしている。ほんとに隠れた実力者だ。

>>767
766の引いた本は『江戸奥女中物語』は自分も持ってるんだけどw
(みな持ってる本はそう変わらないという事だな)
その原典の大奥図が「栄照院」となってるようだね。

家康側室・お勝の方・英勝院の没年は寛永16年ではあるけど
晩年も江戸城にいたとは思えない・・・
771日本@名無史さん:2006/05/26(金) 02:07:38
あっ、英勝院の没年が違ったか。
リロードしないで失礼。
772日本@名無史さん:2006/05/26(金) 02:44:50
>>770
栄照院が英勝院の誤記である可能性も、あながち捨てられない気がしてきた。
裏局という言葉も意味深長だし、生き残り3人の中では1番年長だし。

大奥内や江戸城内にはいなかっただろうが、江戸城下にはいたのだろう。
「以貴小伝」によると寛永18年の冬には、家光自ら英勝院の病床を訪れ見舞ったという。
翌1642(寛永19)年没、享年65歳。
773日本@名無史さん:2006/05/26(金) 03:32:55
>>769
>ただ疑問があるのは〜〜この時代にしたらえらく長生きだ。

按察使は生年不詳なので享年も不詳。
>>769さんの言うように、仮に1586〜1669と仮定したら84歳。

徳川家関係の女性の中には、若死も多い代わりに、70代どころか80代がごろごろいます。
千姫侍女松坂局91歳、秀忠乳母大姥局89歳、上述の祖心尼88歳、家光側室お万の方88歳……。
男性では家康の子の松平忠輝の92歳が、有名かもしれません。
774日本@名無史さん:2006/05/26(金) 10:38:14
>>773
按察使の父が一条兼定というのが正しいとすれば
今までの土佐一条氏関連資料や論文では出てこなかった女性の可能性があるな

兼定には二人の妻がいて、先妻の宇都宮氏(伊予国戦国大名)との間には1男1女がいたが
1564年に離婚している(理由は豊後国の大大名・大友宗麟の娘と再婚するため)
その後の子供二人の行方は分かってなかったと思う。宇都宮氏も後に滅亡するし。
後に宗麟の娘とも兼定の没落が原因で離婚するが、こちらには子供はなかったらしい。

按察使の母が宇都宮氏とすると、離婚直後の1565年に生まれたと仮定すれば没年は104歳・・・
775日本@名無史さん:2006/05/26(金) 13:01:12
脇腹の娘じゃないの?
776日本@名無史さん:2006/05/26(金) 13:55:42
>>774  >104歳
105歳の計算になる。歴史上の人物の年齢は、満でなく「数え」でするのが決まり事。
西暦の没年から生年を引いたあとに、1をプラスすると享年が出る。
777日本@名無史さん:2006/05/27(土) 12:56:47
上臈と上臈御年寄って違う職種?
なんかの本で、上臈は御年寄を兼任することも多く、その場合は上臈御年寄となったと書いてあった。
778日本@名無史さん:2006/05/27(土) 13:23:23
おまさの方ってのは実在したのかね。亀松生母。
でもお玉の方が生母とされてる場合が多いよね。
779日本@名無史さん:2006/05/28(日) 23:33:23
>>777
>上臈は御年寄を兼任することも多く、その場合は上臈御年寄となったと書いてあった。

ほかに、上臈を正確に言うと上臈御年寄と言う、という説もあるね。
私見では、兼任すると上臈御年寄となる、という前の説の方に賛同。
元々上臈も御年寄も公家方の女房の職名の移入で、公家方の上臈と御年寄は別物。
家斉の時代ごろから、兼務の例が出始めたものと思われるが…。あまり自信はない。
780日本@名無史さん:2006/05/29(月) 00:01:28
>>779
じゃあ、それまでの将軍生母や側室は御年寄並もしくは特別扱いだったの?
781日本@名無史さん:2006/05/29(月) 00:26:50
>>47なぜ美人を返してブスだけにしたんだ?
782日本@名無史さん:2006/05/29(月) 00:27:22
>>781
暇を出しても(くび)、美人ならすぐに嫁のもらい手があり、
路頭に迷うこともないが、ブスだと今、暇を出して大奥から
出されると嫁のもらい手がなく、路頭に迷うからと言うのが
吉宗のリストラの理由。(誰でもいいから、とにかく人数を
減らしたかったが、大奥女中に納得できる理由づけが必要だった)
783日本@名無史さん:2006/05/29(月) 00:30:33
鷹司孝子が引きこもったという中の丸って、
何処?本丸、西の丸、二の丸、三の丸、
北の丸についての情報は比較的ヒットするん
だが、中の丸については確かな情報が
見あたらない…
784日本@名無史さん:2006/05/29(月) 01:08:42
吹上御苑内に御殿を創った・・・、
その場所は本丸と北の丸のなかほどだったので、中の丸。

もともと中の丸という呼称の建物があったというわけでは無く、
御殿を建てた敷地が中の丸とでも呼べるような位置であった。
・・・というようなことが『以貴小伝』にあるらしい。



785日本@名無史さん:2006/05/29(月) 02:03:57
>>784
ありがとうげざいます。とすると、西の丸や
吹上が大規模になったのが、1630年代だから、
江戸城の形が出来上がる前の、一時的な呼び名
なのかな。いずれにしても、本丸大奥からは
結構距離があるね。孝子カワイソス
786日本@名無史さん:2006/05/29(月) 02:17:20
>>780
じゃあの意味が不明なんだけど。>>779は、お清の上臈・御年寄・上臈御年寄についてだけどね。
現実上の勢力や礼遇は、将軍の個人的態度によっても違うだろうが、以下格付けとしての観点で。

将軍生母については、家光生母のお江与の方は大御台所なので別格として、
家綱生母の宝樹院お楽の方以下、所生の子が将軍となるまで存命した生母の格式は、
「お上通り」で、御台所・御廉中・姫君に準ずる将軍の家族扱い。奥女中ではなくなる。

側室については、身分上あくまで奥女中であって、職制は上臈か中臈かのどちらか。
公家出身により上臈ならば御年寄より上。中臈ならば御年寄より下。
御台所・御廉中・姫君・御生母とは異なり、側室でも上臈・御年寄以下の一般の奥女中と同様、
個人的侍女として「奥女中」が付けられる事はなく、長局で「又者」を自力で雇い使う。

お手付き中臈に対して給与・待遇を引き上げる、「〜上座」という言葉は、
家治側室のお知保の方に対する「老女上座」が、初例かと思われる。
家斉・家慶の代に濫発されるが、上臈御年寄上座でも奥女中である事に変わりはなく、
上臈や御年寄が司る具体的職掌は、身分・礼遇は上だが与えられなかったのだと思う。
787日本@名無史さん:2006/05/29(月) 02:25:50
ちょっと質問なんですが、本丸の大奥とは別に、
大御所や世継ぎが住んでいた時の西の丸、
家光の長子・竹千代が住んでいた頃の二の丸
にも、独立した大奥があったそうですが、
これらにも本丸とは別の女中らが詰めていた
のでしょうか?だとしたら、大御所付きの
御年寄とかが仕切っていたのかな??
788日本@名無史さん:2006/05/29(月) 02:51:19
>>787
西の丸の奥向きを、正式に「西の丸大奥」と呼んだかどうかは疑問。
「西の丸奥」、または「西の丸奥向き」ではないだろうか。
二の丸が、表向きと奥向きとに分かれていたかどうかも疑問。

西の丸等に将軍家族が居住していた時には、やはり御年寄以下の奥女中が付けられていた。
本丸大奥女中とは言えないが、給与はやはり幕府から出るいわば幕府奥女中の一種。
789日本@名無史さん:2006/05/29(月) 17:01:44
基本的に大奥の女中は将軍の代が代わるごとに総入れ替え、と決まっていた。
(お手つきになった者は一生出られないが)
ちなみに「大奥」という名称は将軍用で、世子や御三家含むその他の大名家では
単に「奥」という。
世子が正室(御簾中)を娶ると同時に「奥」ができる。
将軍に就任する際には御簾中→御台所になり、今まで西の丸等の世子御殿で
仕えてきた奥女中も“大奥女中”となる。
790日本@名無史さん:2006/05/29(月) 19:54:48
>>789
だと私もおもってたんだけどさあ>「大奥」という用語

島津重豪の頃の薩摩藩で「大奥」を使っていた例があるのだ罠
出典は『薩藩旧記雑録 追録』の文化4年のあたり

まあ、重豪のことですしw 超特殊例なのかもしれませんが…。
791日本@名無史さん:2006/05/29(月) 20:02:54
へえ、知らなかった
江戸城の奥以外では「大奥」を名乗るのは許されないんだと思ってたよ
普通は、その他大名家では「奥」または「奥向」だよね
どんな特例だったんだろう
792日本@名無史さん:2006/05/29(月) 20:45:57
奥は表に対する言葉だが、大奥は中奥に対する言葉。中奥の無い所に大奥も無い。
中奥があるのは日本中で江戸城本丸だけなので、大奥も江戸城本丸限りの名称。
西の丸大奥や和歌山城大奥とかの、書簡上の用例もあったそうだが、
幕府の公式な場で正式名称として許されていた訳ではなく、個人的な誤用と藩内限りの僭称だろう。
793日本@名無史さん:2006/05/29(月) 23:17:02
手元の本(よみがえる江戸城)の中の図で、
西の丸大奥や二の丸大奥が描かれていたが、
あれは正しくはないということかな…特に
西の丸には二本の御鈴廊下もあったと記載
されていたが。
794日本@名無史さん:2006/05/29(月) 23:21:24
お振やお夏などの側室の名前は本人の奥入り前の通り名とは違うものなんでしょうか?
795790:2006/05/29(月) 23:23:01
>>791
重豪の側室で20年間鹿児島に放置されていたある側室を
文化4年に江戸に登らせることになったのだが

このときに
「宿所には”島津家大奥”と看板を出すこと」
と言う命令が島津家の家老から出ている。
つまり側室が泊まっている本陣などで「島津家の大奥」と明示しろ!…という命令。
当然他の人の目にも触れるから、藩内限りの僭称…というわけでもなさそう。

しかし、重豪はこのときすでに隠居の身なので
…とかいろいろ考えると謎の多い呼称ではある>「島津家大奥」
796日本@名無史さん:2006/05/29(月) 23:40:49
例えば、島津重豪や島津家家老が、将軍や老中に対して面と向かって、
「わが島津家大奥では〜」などと、発言出来たものだろうか。
797日本@名無史さん:2006/05/29(月) 23:45:45
>>794
家綱の生母は通り名を変えてるよね(お蘭→お楽)
お振とお夏はそういう史料は残ってないから、どうだったんでしょう。

江戸時代後期の例になるが
大奥に限らず、大名家の奥に使える女性は立場の変化と共に
ころころ呼び名を変えるのが慣例だったらしい。
氏家幹人の『江戸の少年』あたりにのっていたような。
798日本@名無史さん:2006/05/30(火) 00:40:53
>>794
「お名下され」という言葉があるように、奥女中には本名とは違った女中名を賜わるのが原則。
就職時に、御目見以上は御年寄から御目見以下はその職の頭から「御宛行書」(オアテガイガキ)を頂く。
御宛行書には役職・女中名・給与が書かれている。
人事異動の場合も同様。役職が変われば女中名が変わる事も多かった。

ただし家光ごろには、厳密に確立はしていなかったと思う。
春日局の前名の「お福」は本名だし、
家綱の乳母たちの矢島・川崎・三沢は、生家か婚家の苗字そのままである。
お振やお夏も改名記事がないので、本名の可能性が高い気がする。
799日本@名無史さん:2006/05/30(火) 00:56:47
お万の方(栄光院)は、後に「お梅」と改名した、とする資料もあるよね。
綱吉の頃に京都から来た上臈たちは、宮中とは別の名前をつけられたとか。
右衛門佐は「常盤井」

既出ならスマソ ぐぐってたら見つけた↓
ttp://www12.ocn.ne.jp/~kyubun/saisyou.htm
800日本@名無史さん:2006/05/30(火) 07:33:54
ありがとうございます。
家康〜家綱くらいまでの側室は本名をそのまま使っていた可能性が高いのですね。


ところで、これは大奥とは少し話題が異なりますが、江戸期の女性の名前には孝子や信子などの「〜子」と、お楽やお夏などの「お〜」がありますよね。
「〜子」っていうのは実名・諱だと思うのですが、例えば春日局にも「〜子」という名があったのでしょうか?
801日本@名無史さん:2006/05/30(火) 08:30:02
>>800
「〜子」という実名・諱イミナは、位階を受けた女性(没後でも)には、必ず付いたはず。
また庶民や下級武家階級の女性では、ほぼ付けられなかったはず。
春日局は従二位に叙せられていて「〜子」の名を持ったはずだが、伝わっているものかどうか。

・『日本の女性名−歴史的展望』 角田文衛著 教育社歴史新書は絶版 最近他社から復刊
国書刊行会より2006年4月に復刊 税込\8,400 古代〜現代の通史だが大奥ファンにもおすすめ
802日本@名無史さん:2006/05/30(火) 12:55:11
800超えたし、何となく話題の方向性を変えていきたい。
家綱の奥向きについて語りましょう。って話題少なそう…
803日本@名無史さん:2006/05/30(火) 13:35:11
家綱時代の大奥って言ったら浅宮顕子の乳癌くらいしか思いつかない。
804日本@名無史さん:2006/05/30(火) 14:47:34
>>803
私も(汗

+下馬将軍酒井に期待をかけられながら家綱死後に流産?した側室とか
805日本@名無史さん:2006/05/30(火) 15:32:42
矢島局の正没年て不詳?出自と娘が奥入りした事くらいしか知らない。
他に矢島局のエピソードない?
806日本@名無史さん:2006/05/30(火) 15:35:26
>>805だけど、かつての大奥では矢島局が浅宮顕子と対立したように描かれてたよね。
これは本当?
807日本@名無史さん:2006/05/30(火) 15:47:30
>>719>>802
なぜ家康・秀忠時代はスルーなんですか。
808日本@名無史さん:2006/05/30(火) 15:57:58
>>806
矢島と対立してたのは、正確には上臈の飛鳥井とか姉小路じゃない?


809日本@名無史さん:2006/05/30(火) 16:16:19
>>807
家康や秀忠の奥向きは大奥が整備される以前のものだから、別にいっかな、と。すまんです。
810日本@名無史さん:2006/05/30(火) 16:21:39
>>808
それって創作じゃなかったんですね。史実にもそういう事があったんですか?

矢島局以外にも家綱の乳母は何人かいたのに、どうして矢島局だけが有名なんでしょうね。
811日本@名無史さん:2006/05/30(火) 17:33:11
>>1
ここのスレってタイトルによると、男性からの書き込みは禁止ですか。まさかとは思うけど。
812日本@名無史さん:2006/05/31(水) 01:19:41
円明院佐脇氏がもし無事に男子出産してたらだいぶ歴史も変わったんだろうね。
813日本@名無史さん:2006/05/31(水) 02:53:17
自分の願望では、上臈(小上臈?)お振に男子出産して欲しかった。
次代の生母は桂昌院ではなく、心優しい養春院……。ああ見果てぬ夢よw
814日本@名無史さん:2006/05/31(水) 09:03:05
>>810
矢島局がやり手だったからでは。
815日本@名無史さん:2006/05/31(水) 09:09:09
養春院がお振?
816日本@名無史さん:2006/05/31(水) 09:20:47
何か問題でも?
817日本@名無史さん:2006/05/31(水) 13:58:34
上臈の飛鳥井・姉小路、綱吉時代の万里小路、家宣時代の錦小路は、
その名前の実在が、同時代史料や消息文で証明されているのかな?
818日本@名無史さん:2006/05/31(水) 14:47:08
『慶光院文書』の中に万里小路の名が、『日万聖人宛』の書状の中に飛鳥井、姉小路の名が記されている。
時代はいつの物かわからないけど。
819日本@名無史さん:2006/05/31(水) 17:12:38
お振は自証院だろ。
820日本@名無史さん:2006/05/31(水) 18:13:16
家綱側室、吉田神祇少副兼起女の事ですが。
821日本@名無史さん:2006/05/31(水) 23:35:53
お振は家光の代と、家綱の代にいる。

家綱のお振は墓石が行方不明になってるんでしょ?
822日本@名無史さん:2006/06/01(木) 00:30:46
お振は家綱の子を懐胎中に19歳で病死、法名養春院殿和徳宗永大姉。
葬地は祖心尼開基の牛込済松寺の塔頭正光院で、墓石は昭和初年まではあったとか。
高柳金芳によると(出典不明)、優しい心根の京美人で「生きた吉祥天」と呼ばれたという。
823日本@名無史さん:2006/06/01(木) 10:23:12
>>822
あんちょこは『徳川妻妾記』ですwww
824日本@名無史さん:2006/06/01(木) 18:04:24
家綱の側室の名におなつとあるんだが…

まあ、いろいろと手を付けてたんだろうね。
825日本@名無史さん:2006/06/01(木) 18:34:23
>>824
家綱の側室のおなつ、妊娠しなかったお手付き中臈ですか。
知らなかったので出来れば書名を教えて下さい。
826日本@名無史さん:2006/06/01(木) 19:12:59
江戸女人物事典(うろ覚え)に少し記載されてた。
でも何の文献に依るものかは書いてなかった。
827822:2006/06/01(木) 20:25:56
>>823
せっかく明らさまなイケズは途切れていたのに、とても残念。
>>813以下に対して、軽い補足とまとめのつもりだったんだけどね。
『徳川妻妾記』は持っていない。ちらっと立ち見した事があるだけ。
ソースはネットでもない。>>823にこの謎が解けるかな。
828日本@名無史さん:2006/06/01(木) 21:29:45
飛鳥井が連れてきたんだよね、お振。御代所付なのに側室を推挙したのはなぜ?
829日本@名無史さん:2006/06/01(木) 23:06:53
827は何キレてんの?
830日本@名無史さん:2006/06/02(金) 15:05:32
お満流の方について教えて下さい!
831日本@名無史さん:2006/06/02(金) 15:51:53
>>828
飛鳥井の思惑は大方「続徳川の夫人たち」の内容通りと思われ
832日本@名無史さん:2006/06/02(金) 16:05:25
小説の話題でスレ違いにはなるけど。

横浜の県立近代文学館の「吉屋信子展」を見てきた。
綿密な手書きの年表や、膨大な調査のノート、墓所への訪問・・・
昭和の女流の大御所ではあるけれど、作品にかける情熱はすごい。
それを思いながら読み返そうと思った。

書き始めてすぐ絶筆になった北政所の物語、読みたかったな・・・
833日本@名無史さん:2006/06/02(金) 17:03:25
>>830
家綱晩年の愛妾。
834日本@名無史さん:2006/06/02(金) 17:23:50
>>832
北政所の小説の絶筆、自分も聞いて何と残念な事と思った。
吉屋信子の「徳川の夫人たち」・「続徳川の夫人たち」・「徳川秀忠の妻(絶版)」は、
主人公の美化を嫌う人もいるだろうけれど、
もしこのスレの読者で未読の人がいたら、1度は読んでおくといいですよ。
ひと通りの大奥史の流れや、制度上の知識などが身に付きます。
835日本@名無史さん:2006/06/02(金) 19:28:41
>>832
浅野妙子も見習うべきだな
836春日局:2006/06/02(金) 19:46:38
今では間違って春日局は乳母とされているが、当時は腹は借り物の考えゆえそれも可だったが、なのにそうした慣習を一変した家光はマザーボーイだった。そして実母、春日局を側から離さす゛だった。
よって生涯春日局は千代田城で権勢をふるっていたのである。何時の世も金銀を押さえている者は強いとはいえ、よくも彼はあくまで堂々と勇敢に抗議したものである。
837日本@名無史さん:2006/06/02(金) 20:21:47
家茂時代に本丸御殿、西の丸、二の丸が立て続けに
消失して、西の丸に質素な仮御殿(幕末まで使用)が
完成するまで江戸城には全く御殿の無い状態が
続いた、と手元の本にあるんだが、その間将軍
たちは何処にいたのですか?浜御殿とか?
838日本@名無史さん:2006/06/02(金) 20:39:22
清水邸が空き屋敷
839日本@名無史さん:2006/06/02(金) 21:49:29
>>837
1863(文久3)6月、西の丸が焼失。同年11月、本丸と二の丸が焼失。
家茂・和宮・天璋院・本寿院・実成院は、吹上御苑に避難後、清水家邸に入る。
超満員なのでまもなく家茂・和宮は、田安家邸に移った。
天璋院・本寿院・実成院は、清水家邸に残る。当時清水家は、当主が欠員状態。

翌1864(元治元)7月、再築された西の丸仮御殿に、全員引き移る。
表・中奥・大奥に区分された西の丸を本城として、本丸は再築されず幕末に至る。
840日本@名無史さん:2006/06/03(土) 09:40:38
>>838
>>839
ありがとうございます!仮御殿は装飾や彫刻、
金銀の使用を極端に減らした質素なものだった
そうですね…財政難の幕府の滅亡が感じられた
でしょうね
841日本@名無史さん:2006/06/03(土) 18:38:41
家綱危篤の時点での、お満流の懐妊の状態について、
  1 懐妊している可能性はなかった。
  2 懐妊している可能性もある、という状態だった。
  3 懐妊している事が明らかだった。
その後の時点では、
  @ やはり懐妊していなかった。
  A 自然流産した。
  B 綱吉・堀田正俊ラインの魔手により、流産させられた。

自分は、幕閣の会議が、綱豊・綱吉案だけではなかった事と、
円明院お満流の流産記事が、確かな記録にない事から、2と@だと思う。
Bが真相だったとしたら、Aとしての記録が残されていた事だろう。
842日本@名無史さん:2006/06/03(土) 20:10:00
>>841
勉強になります。
ありがとうございました
843日本@名無史さん:2006/06/05(月) 00:11:46
もう家綱の話題は出そうに無いので、綱吉で。
844日本@名無史さん:2006/06/05(月) 00:46:17
>>843
を(ry

結局家綱の妻妾で分かっているのと言えば
正室の浅宮
側室の養春院(お振)、円明院(お満流)
しかいなかったと言うことでファイナルアンサー?
845日本@名無史さん:2006/06/05(月) 01:26:44
>>844
矢島局の娘の「お島」のお手付き説は、高柳金芳の史料読解ミス、
「おなつ」は出典不明で名前を挙げただけの、田井友季子の根拠薄弱、
といったあたりで、自分的にはファイナルアンサー。

綱吉時代は華やかだが、「三王外記」や「華の乱」に突入なので、ちょっとやな予感。
846日本@名無史さん:2006/06/05(月) 01:29:37
年代順におっていこうという決まりでもあるの?
847日本@名無史さん:2006/06/05(月) 11:28:42
特にないけど誰かが発案して仕切ってる
848日本@名無史さん:2006/06/05(月) 12:18:57
初心者にも分かりやすくて良いんじゃないの。
849日本@名無史さん:2006/06/05(月) 14:24:15
他に出したい話題があれば遠慮なく豚切りして出すよろし。
850日本@名無史さん:2006/06/05(月) 14:41:11
お伝の方って大奥のどこに住んでたんですか?
851日本@名無史さん:2006/06/05(月) 17:44:13
三の丸だったような…
852日本@名無史さん:2006/06/05(月) 19:19:05
>>845に追加補足。
高柳金芳が、家綱の側室でのち旗本に下げ渡された「お島の方」とした、矢島局の実娘は、
原資料の『柳営婦女伝系』では、「小島」で、お手が付いたという記事はない。

奥女中名には、平仮名書きにして2文字になる二字名(おの字名)と、3文字以上になる三字名がある。
らく等の二字名に付ける「お」には、お・於・阿・御が使われるが、小が使われた例を知らない。
「小島」は二字名の「お島」ではなくて、苗字風の女中名である三字名だと思う。

母の矢島から島の1文字を取って、ジュニアの意を込めて「小島こじま」としたのではないだろうか。
和泉式部の娘が、母に因んで女房名を小式部内侍と名乗ったように。

小島が三字名ならば、二字名を付ける中臈ではなく、おそらくお清の表使か御錠口だろう。
御客会釈以上だとしたら、いくら家綱の時代でも、職を辞して旗本に嫁ぐのは困難だと思われる。
853日本@名無史さん:2006/06/05(月) 21:25:54
>>850
綱吉の本丸入りと共に、御台所信子・鶴姫・徳松・お伝の方も、大奥入りした。
将軍宣下式ののち、徳松は世継となって西の丸に移る。
桂昌院はやや遅れ三の丸御殿の新築を待って、神田御殿から三の丸御殿に移った。

お伝の方はお手付き中臈でお部屋様なので、長局内の独立の部屋に住むべきなのだが、
長局ならぬ大奥奥御殿のうちの、「新座敷」という一郭に住んだという。
恐らく先例に拘らない綱吉が、鶴姫の住居に生母も同居するという名目で、許可したのだろう。

数年後、徳松は早世。鶴姫は紀伊徳川家の世継ぎの綱教と婚約。
五の丸御殿が新築され、お伝の方と鶴姫はそこに移る。鶴姫はじきに紀伊家に入輿。
やがて鶴姫・綱教・桂昌院・綱教の後を継いだ弟頼職と次々に没。紀伊家は末弟吉宗が継ぐ。

綱吉没後お伝の方は瑞春院と名乗り、桂昌院亡きあと空いていた三の丸御殿に、五の丸御殿から移る。
瑞春院は吉宗からは、亡き兄の義母として遇されたという。吉宗時代に三の丸御殿で没。
854日本@名無史さん:2006/06/05(月) 23:19:38
>>851>>853
ありがとうございます!
お伝はなぜ五の丸に移ったんですかね?
855日本@名無史さん:2006/06/06(火) 00:25:06
>>854
さあね、真相は普請好きの、綱吉の気まぐれじゃないかな。
いっときは世継ぎの生母となったお伝の方を重んじる、綱吉の愛情によって、
独立別御殿住まいの桂昌院に準じて、特権待遇を与えられた、と見れない事もないが…。

『続徳川の夫人たち』では、大奥総取締となった右衛門佐が、綱吉に進言した事になっている。
いずれは紀伊藩主の義母となるお伝の方には、鶴姫夫妻がお伝の方を訪問する場合を考えて、
堂々とした別御殿が必要、という理由で。確かに綱教は大奥内を訪問する事はできない。
本当の目的は、御台所のおん為に、大奥内での妻妾同居状態を解消する事だったという。
856日本@名無史さん:2006/06/07(水) 03:29:35
>>853
では大奥には正室信子や他の女中たち、三の丸に桂昌院、五の丸にお伝が住んでいたわけですね。
大典侍は北の丸に住んでいたとあったんですが、これもやはり特別扱いなんでしょうか?
あと、北の丸はいつ頃建てられたんですか?
857日本@名無史さん:2006/06/07(水) 03:37:53
>>855
>>妻妾同居状態を解消する事・・

大奥の仕組みをご存じないのか?
858日本@名無史さん:2006/06/07(水) 04:17:03
>>857
>大奥の仕組みをご存じないのか?

小説である「続徳川の夫人たち」の中の右衛門佐に対して言っているのなら話はわかるが、
>>855に対して言っているのならピントはずれだな。
>>855の文の後半部分は小説の内容を紹介しているだけ。
本当の目的、というのは小説上の右衛門佐の内心の本当の目的。
859日本@名無史さん:2006/06/07(水) 04:25:16
小説と歴史を同一視するな。
860日本@名無史さん:2006/06/07(水) 04:39:27
誰も同一視していないでしょう。
あの分かり易い書き方で、「本当の目的〜」の部分を、
投稿者自身の主張だと勘違いする方が、かなりケアレスだと思う。
861日本@名無史さん:2006/06/07(水) 07:05:29
「五の丸」って、どのあたりをさすの?
歴史の本の江戸城の地図では、本丸・二の丸・三の丸・西の丸・北の丸のほかは、
紅葉山とか吹上くらいしか思い浮かばないけど。
862日本@名無史さん:2006/06/07(水) 11:43:33
吉屋信子の小説は丹念な時代考証の賜物で素晴らしい作品ではあるけれど
歴史としての解説時に例として用いるのはやはりそぐわないと思う。

歴史小説の執筆でよく言われることだけど、
実地調査したり史料調査を100したとしても、実際文章に反映されるのは
半分あれば良いほうだろう。
小説家は自分が書いたものは「創作」であるとして書いてるから
歴史の解説に用いられるのは不本意だろうな。

あと気になってたけど、少々杓子定規なレスがあるね。ここは。
863日本@名無史さん:2006/06/07(水) 18:47:08
別に例として用いたわけじゃねーじゃん
864日本@名無史さん:2006/06/07(水) 19:43:20
>>855>>854の質問に答えて前段で自分の推測、後段で書名をあげて小説内容の紹介をしてる。
きっちりしてて何もイチャモンつけるほどの事はないと思うな。
そんな事言ってたらこのあと吉屋信子の著作の中の、創作じゃない考証に基づく部分も使えなくなる。
865日本@名無史さん:2006/06/07(水) 20:20:17
だれか>>856>>861の城郭マニアの質問に、杓子定規に答えてやれよ
866日本@名無史さん:2006/06/07(水) 20:45:29
五の丸なんてない。妄想の産物。



これで満足か?
867日本@名無史さん:2006/06/07(水) 21:47:56
私856ですけど、861は私じゃないです・・・
なんだか私の質問で変な空気にさせてしまったのだとしたら申し訳ないです。
868日本@名無史さん:2006/06/07(水) 22:06:50
>>856
大典侍が特別待遇で独立居住するための「北の丸御殿」は、1686(貞享3)年新築。

>>861
お伝の方が住んだ「五の丸御殿」ならば、多分吹上御苑内じゃないかな。
孝子の「中の丸御殿」、月光院の「吹上御殿」とともに、
吹上御苑内の各位置とか、建物がいつ頃まで存続したのかも自分は知らないが。
869日本@名無史さん:2006/06/08(木) 10:53:02
五の丸は、

「江戸奥女中物語」だと”本丸大奥の一画で天守台の南側”、
(小説だけど)「徳川の夫人たち」だと”別御殿”、

とある。

ゴメン、余計混乱させてしまいそうだ。
870日本@名無史さん:2006/06/08(木) 16:39:44
お伝の父が堀田姓を名乗ってるのは堀田正俊に関係あんの?
871日本@名無史さん:2006/06/09(金) 16:38:31
御部屋様と御内証御方の違いって何?

世嗣生母となった側室が御内証御方でいいのかな。
872日本@名無史さん:2006/06/09(金) 19:23:00
お部屋様>御内証様

詳しい説明は誰かがしてくれることを期待w
ネットでは
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A5%A5
http://homepage1.nifty.com/SEISYO/oooku.htm
あたりに説明がある。
873日本@名無史さん:2006/06/09(金) 19:40:29
右衛門佐が福島正則の子孫って本当?
右衛門佐の曽祖父の生母が福島正則の娘らしいけど。
874日本@名無史さん:2006/06/09(金) 23:27:07
>>873
そうみたいね。
福島正則‐女(水無瀬氏成室)‐兼俊‐氏信‐右衛門佐


875済州島の出身:2006/06/10(土) 12:26:47
家光の末子上州十万石綱吉は、生母が京都の八百屋の娘の於玉とされてい
るが、当時京坂には多く住まっていた済州島の出身だというので、大老酒井忠清と水
戸光圀が反対して、京の有栖川幸仁親王を五代将軍に立てようとした。
876生母が朝鮮系:2006/06/10(土) 12:27:30
四代将軍家綱が亡くなったとき、跡目がなかった。そこで実弟にあたる上州館林の
綱吉をという声もあったが、ときの大老酒井雅楽頭が綱吉を毛嫌いして、強硬に突っぱね、
「有栖川宮親王をお迎えして」とまで、これに反対した。だから延宝八年[1680]
八月二十三日付で、綱吉が五代将軍になると、
「憎っくきやつめ‥‥」と早速、大老の酒井をくびにしたが。が、それでも腹がいえ
ぬとみえ、翌年正月十五日には、今の大手町にあった酒井の屋敷すらとりあげ、これ
を綱吉は気に入りの堀田正俊に与えた。この結果、
「下馬将軍」とまであだ名され権勢をほしいままにしていた酒井も、ここに反体制と
されてしまったのである。さて‥‥
酒井が綱吉に反対したのはその生母が朝鮮系だったせい
877日本@名無史さん:2006/06/10(土) 14:40:09
>>875-876

アンタ、戦国女性スレにも貼っただろ。
続きは↓か?
878済州島差別:2006/06/10(土) 14:53:05
韓国では伝統的に厳しい済州島差別があり、現在も続いている。1948年4月3日に起った済州島四・三事件では、少なくても死亡者3万人にのぼり、
それから逃れる為に、自ら日本に渡って来た在日コリアンも多い。しかし、在日コミュニティーの中にもやはり済州島差別が残っている。

879赤穂義人纂書:2006/06/10(土) 15:18:34
「赤穂義人纂書」に鍋田晶山が詳しく書いているように、済州島の血をひくゆえ、
日本人よりは貴種であると、やがて綱吉は千代田城を朝廷とよび幕閣を公家と称する
ようにさせた。
 よって京よりの勅使は大納言とか侍従といった官位をひとまず返上。前大納言、前
侍従となり無位無官で遠慮して江戸の伝奏屋敷に入り、京へ戻ると前官にまた復して
いたものである。

880日本@名無史さん:2006/06/12(月) 10:31:23
でもそれいったら藤原氏だってルーツたどったら渡来系朝鮮系じゃないか。
このスレでそういう話は出来ればして欲しくないなあ。
881日本@名無史さん:2006/06/12(月) 11:04:51
>>880
しーっ、吉外はおさわり禁止ニダよ
882生母が朝鮮系:2006/06/12(月) 21:27:01
酒井が綱吉に反対したのはその生母が朝鮮系だったせいだが、邪魔者がいなくなる
と将軍はまず音羽の護国寺を建立している。

私は”天朝教”

 さて酒井一家の[ような]原住系は、ビニールや擬革のなかった時代には、他に代
用品とてない皮の専売をする部族を持っていて、これからの収入は莫大なものだった。
このため大老の権力の座から酒井忠清を追い払っても、彼らの潜在勢力はすこしも衰
えなかった。そこで、
(皮はぎの仕事を奪ってしまう)ということになったが、まさかそのものずばりに、
「動物の皮をはぐことの禁止」との、ふれも出せないので、1678年正月に、
「生類憐れみの令」というのを発布した。
 つまり皮をとるには殺さなくてはならぬ。
 それをしてはいけないというのでは、酒井一族にくっついている革屋も倒産の他は
ない。
 このため、これら原住系はみな落ちぶれ、人い侮られるような極貧階級に転落した。
883売国奴綱吉 :2006/06/12(月) 21:28:05
現在係争中の竹島というのは、明治以前は「竹島」という名前ではなく、
「松島」と呼ばれていた。明治以前の竹島とは、いわゆる鬱陵島のこと。
この鬱陵島に関しては、五代将軍・綱吉の時代に、朝鮮領だと認めたという経緯がある。
鬱陵島が朝鮮領になってしまったことに対して不満を持つ日本人もいたが、
さまざまな資料から見て、その南にある松島は明らかに日本領で、
これについてはまったく問題ないところだった。
ところが明治以後、近代国家として領土を確定する際に、
日本は「松島」を日本領として正式に認定したのだが、
そのときあろうことか「松島」に「竹島」という名前をつけてしまった。
要するに、本来自分の領土であると思っていたかつての日本名竹島(鬱陵島)が
朝鮮領になってしまった悔しさを紛らわすために、
「松島」に「竹島」と名付けてしまった。
そこからすべての問題が生じてくるわけだ。
8841回に500億円:2006/06/12(月) 21:50:38
朝鮮通信使は主に将軍の代替わりを慶賀するために、
日本に来ているから、慶賀使であって、朝貢使ではない。
また、日本側は賓客として、1回に500億円ぐらいの金を使って接待している。
885派手な接待:2006/06/12(月) 21:52:36
宗主国が威厳を示すために派手な接待をしてみせることもあるだろうが、それにしても度が過ぎると言えよう。
また、属国ならば、大名達が使う道を使って、江戸に来るようにしなければならないが、朝鮮通信使たちは、将軍が使う道を使っている。
これは、少なくとも江戸幕府が、李氏朝鮮の地位を、自分より下とは見てはいなかったことを証明していると言えるのではないだろうか。
886日本@名無史さん:2006/06/12(月) 22:04:12
>>884
朝貢を迎える側が賓客として接待するのは当たり前ですが?
中国だって、朝貢してきた使者一行を手厚く接待しています。
勿論費用は中国もちです。
887日本@名無史さん:2006/06/13(火) 01:11:41
クソに構わない方が。
888日本@名無史さん:2006/06/13(火) 01:14:25
大納言の父を持つから大典侍。
なら新典侍の新って何?
889日本@名無史さん:2006/06/13(火) 01:45:33
普通に考えるなら
「新典侍の方が後からはいった」
かなあ
890日本@名無史さん:2006/06/13(火) 01:54:21
なるほど。実家がわりと新しく創設された家・・・てのはないよなあ。
891日本@名無史さん:2006/06/13(火) 01:55:58
好きな和歌に一票入れてください!
http://www.h3.dion.ne.jp/~jtm-js/ogura.htm

人気投票から
892日本@名無史さん:2006/06/13(火) 02:22:55
>>888
大典侍は、公家出身である事に因んで名付けられた。北の丸とともに江戸での呼び名。
新典侍も同様。大典侍に準じて名付けられた、綱吉側室としての呼び名。

御所の女房のうち、今上天皇付きの女房(内の女房)は、
典侍・内侍(掌侍)・命婦・女蔵人に分かれるが、典侍の筆頭が大典侍、末席が新典侍。

大典侍は常置で御常御殿の総取締役で、必ず年功を経た老人が任じられる。
新典侍は見習い期間の名である今参を経た、新人の典侍が任じられる。
中間層はその時々で、宰相典侍・民部卿典侍など、適当な女房名を名乗る。
893日本@名無史さん:2006/06/13(火) 02:26:02
阿茶局や茶阿局なんかも役職名なの?
894日本@名無史さん:2006/06/13(火) 02:46:43
「あちゃ」「ちゃあ」呼び名というか、名前というかwww

「ちゃちゃまる」「ちゃちゃ」「おあちゃこ」とか
茶のつく名は戦国期に散見されるぞ。
895日本@名無史さん:2006/06/13(火) 02:51:59
>>893
「あちゃ」も「ちゃあ」も、室町〜安土桃山時代には、公家から庶民までの女性の本名として、
珍しくない名前であるので、単なる改名だろう。それに勿体ぶって局を付けただけ。
阿茶局の本名は「須和」、茶阿局の本名は「久」だという。
896日本@名無史さん:2006/06/13(火) 03:08:02
秀吉の奥向きについて書かれてる本に阿茶は女中の長、茶阿はその補佐的な役割を持つとかなんとか書かれてた気がする。
でも名前だよね。普通に考えて。
897日本@名無史さん:2006/06/13(火) 12:46:41
年代が特定できないけれど、桑田忠親によると秀吉関連の上級侍女では、
北政所付きの、孝蔵主・東殿・ちやあ。
大政所付きの、こほ。
淀殿付きの、大蔵卿局・右京大夫局・宮内卿局・饗場局。

淀殿の格式ぶりたがる傾向が分かる。
家康の感性は北政所に近くて、あまり格式ぶりたがらないものだったと思う。
898日本@名無史さん:2006/06/13(火) 14:32:14
茶阿も阿茶も中世女子の名前。「ちゃあ」「おちゃ」(阿は接頭語の「お」と読ませていたが、「あ」と読む時もでてくる)
それが中世の朝廷内で使われだして戦国ごろから役職名になる。
同じパターンで「目々(めめ)」というのもあり中世では「目々典侍」という役職名も出てきたが、近世には残らない。

近世では茶阿も阿茶も朝廷内での下っ端の女中の役職名になる
899阿茶局:2006/06/13(火) 20:31:37
弘治元年(1555)生まれ。武田家の家臣で飯田筑後の子

最初神尾忠重に嫁して一男を産む。忠重の死後 家康に召され、阿茶局と呼ばれる。

才智に優れ家康の信頼厚く、戦や政治にも携わった。

慶長十九年(1614)大坂冬の陣に淀君の妹常高院との和平条約を命じられ、講和を成立させた。

元和二年(1616)家康が没した後は上得院と号した。

元和六年(1620)秀忠とお江与の方の娘、和子の母代わりとなる。
900日本@名無史さん:2006/06/13(火) 21:18:50
>>899
>上得院

質問したい人が多いと思うのだけれど…。出典の書名を教えて下さい。
901雲光院:2006/06/15(木) 11:11:00
>上得院
・・・
902日本@名無史さん:2006/06/15(木) 14:37:35
カレー院
903日本@名無史さん:2006/06/15(木) 16:57:34
家継の死去後だと天英院と月光院のどちらが権勢があったのですか?
904日本@名無史さん:2006/06/15(木) 17:55:34
染子って飯塚氏?
それとも公家出身?
905日本@名無史さん:2006/06/15(木) 21:38:37
高柳の徳川妻妾記では、
近衛煕子が綱豊に輿入れする際、侍女としてついてきたってあったな。正親町家の出身だと。
ただしあくまで「俗説によると」と書いてある。
906日本@名無史さん:2006/06/15(木) 23:25:37
このスレはマメに答えてる人が多いから聞きやすいのだろうけど、

自分で本を探して調べてみたら?と思うレスが散見・・・
907日本@名無史さん:2006/06/16(金) 04:19:46
>>906
一々突っ掛かるなよ。
めんどくさいからw
908日本@名無史さん:2006/06/16(金) 07:24:48
染子と町子(松陰マツカゲ日記の作者)。2人とも吉保の側室。
混乱している人と本が多すぎる。
909日本@名無史さん:2006/06/16(金) 07:42:23
上得院なんて読んだ事も聞いた事もないし、グーグルでも引っかからない。
910染子:2006/06/16(金) 14:37:54
六代将軍になる家宣の許へ、京より近衛関白家の姫君が輿入れをしてきた。
その時近衛家から供をしてきた中に、当時十三歳の染子が選ばれ混じって
東下りしてきていた。さて、大奥の一の井戸の御番というのは、
将軍家がおなりになって泊まられる時、縁の下にずらりと水を汲んだ
手桶を並べておき、庭石の所でまじろぎもせずに見張っておらねばなら
ぬ役目である。
911日本@名無史さん:2006/06/16(金) 14:58:44
バルサン院
912一の井戸番:2006/06/16(金) 15:29:43
将軍が大奥へ渡ってきて泊まられるというのは、
なにも一人で寝にくる訳ではない。必ず御添い寝する女人が寄り添うの
だから、それからの事の成り行きを眼ばたきもせずに、
始めから終わりまで見て居るのは、経験の有無を問わず、
やはりとても目に毒である。それゆえ一の井戸番は、
大奥では極めて重要な役だが誰を付けても長続きしない。
そこで京から来た近衛家の侍女の中で、
色白な上に大柄な染子が老女達の目に止まり「まだ十三じゃそうだが、
それくらいの方がまだ春情の何たるかを解せず、御用大切に勤めるだろう」
と、一の井戸番を名指しで命じられた。
913一の井戸番:2006/06/16(金) 15:33:20
染子は他の女ではあまり長続きしない一の井戸番を必死に続けた。
しかし、十三や十四の時はまあ辛抱でき、ただ好奇心だけぐらいの
処で済んだが、十五歳になると、さすがに全身が火照って頭へ血が
上ることが多くなった。
さて、綱吉も初めは気づかずだった。何しろ一の井戸番というのは、
これまで目まぐるしく変わっているので、大奥へ通る度に庭先で見
かけても、ろくに顔など覚えはしなかった。しかし染子になってか
らは、何年も続けているので、その内に綱吉も次第に「ほう、
同じ顔が良く続いているな」と染子を意識するようになった。
そこで意地悪でもないが、それからというもの相手の女との痴態を
わざと見せつけるようになった。勿論、覗き見している染子へよく
眺めさせてやろうとの親切心からではない。
914一の井戸番:2006/06/16(金) 15:34:41
綱吉にしてみれば悪戯心も半分は有ったろう。しかし染子にしてみればそうした有様を露骨に見せつけられ、
うめき声や妙な言葉を次々と聴かされては、いくら京女の意地を示す為とはいえ、ますます気が変になって来てしまい、
「死んだが増し」といった悲壮な想いにもさせられていた。さて、こんな時、
「あの色白な井戸番の娘は何歳になるか?」と綱吉が控えの老女に声をかけた時、
「はい十八歳になりますが」と答えが戻ってきた。そこで、
「そうであるか、一の井戸番を勤めてより何年になるか」と気になるゆえ尋ねた。
「はあ他の女どもとは違い、十三歳より五年の御奉公」との返事に、ほう真面目な
ものであるなといわんばかりに綱吉は大きく頷いた。
915怪しき身分の者:2006/06/16(金) 15:36:39
こうした経緯があって染子はとうとう将軍家のお手がつくこと
になった。この後、綱吉は「染、染子」と一辺倒になった。
何故かという理由については推測するしかないが、将軍とて男である。
男女の間は今も昔も情愛と性愛の絡みあい
でしかない。しかしこの円満な関係も長くは続かない事になる。

綱吉の生母である桂昌院が調べたところ、染子は近衛の姫の侍女
とはなっているが、貞享二年二月に、風邪で京都御苑の北隅に捕
りこめ小屋で崩じられた前帝後西さま、その母方櫛笥家の養女で、
倒幕謀叛の容疑をもって幽閉中の前帝を救おうと、
権中納言の家柄を隠し通して侍女となって東下りしてきた怪しき
身分の者、と判明した。
916染子は妊娠していた:2006/06/16(金) 15:39:22
そして綱吉を説得して無理に染子を引き離してしまった。
綱吉にしても二年も寵愛していた染子をそう惨くは扱いかね、
柳沢吉保に下げ渡す事にした。
だがこの時染子は妊娠していたのである。
勿論、綱吉の種である。

綱吉はこの時四十二歳になっていたが、染子懐妊と聴くと、
「其の方の子として育てるように」と柳沢に命令した。
やがて秋になるとまるまるとした男児を産み落とした。
917日本@名無史さん:2006/06/16(金) 17:04:53
をいをい
途中で綱吉と家宣がまざってるyo

918日本@名無史さん:2006/06/16(金) 17:50:08
サウナ院
919御側御用人・柳沢美濃守:2006/06/16(金) 17:50:18
これがため元禄元年十一月には柳沢に一万石の加増が言い渡された。
しめて一万二千三十石である。
正式に「御側御用人・柳沢美濃守」の役目にもなった。

元禄三年四月二日に、将軍綱吉は千代田城大広間で、
自ら仕舞いをして諸大名に参観させた。
それゆえ当日は舞の後でも機嫌が良く柳沢へも、
「染子の児は如何であるか」と珍しく見せて尋ねたりした。
920五十五回も柳沢の屋敷に立ち寄る:2006/06/16(金) 17:52:13
「はあ明けて数えのおん五歳、おん健やかにて」と答えたところ、
「もう五つにあいなるか、では何かと物入りであろうな」と即座に、
二万石の加増が言い渡され、しめて三万二千三十石である。

これはどう考えてみても、今度の加増とてこれまでの忠誠の報酬ではなく、
染子の産んだ児を預かっていることへの里親扶持のようなものである。
この後、綱吉は生涯五十五回も柳沢の屋敷に立ち寄る異例な行動をとる。
921日本@名無史さん:2006/06/16(金) 18:13:26
家宣はどこへいったんだyo
922日本@名無史さん:2006/06/16(金) 18:33:42
スカパーで八代将軍吉宗やってるけど、ちょうど綱吉時代の大奥を描いてるね。
信子、お伝、桂昌院、右衛門佐、大典侍、新典侍、染子、町子と綱吉を取り巻く女が勢ぞろい。
923日本@名無史さん:2006/06/16(金) 20:15:15
俗説コテハンの嵐になってきたな。しっかりした史料名を出した書き込み希望。
924日本@名無史さん:2006/06/16(金) 20:29:22
ポカリ院
925日本@名無史さん:2006/06/16(金) 20:38:38
無理だよ。妄想だけだもん。それかどっかのブログが三流小説の受け売り。
前提からしておかしいもん。
926[大奥] 華の乱第1話:2006/06/16(金) 20:55:31
史実からの突っ込みとしては、
柳沢の嫁さん@お染、綱吉が館林時代からの愛妾で、
母の桂昌院に泣く泣く別れさせられたはず。
のちに家臣の柳沢に下げ渡したものの、
未練断ち切れず、何度も柳沢亭を訪れている記録も残っているそうです。
お染が生んだ子は綱吉の子ではとも噂され、
将軍候補にこそならなかったものの大出世。
927日本@名無史さん:2006/06/16(金) 21:30:30
というか、最初からおかしいやろ。
07:24:48 で近衛熙子の話しから始まったのに
いつの間にか綱吉の話しになってるし。

染子が万が一近衛の侍女だとしても(ここからおかしいが)
なぜに大奥で見初められなくてはいけないんだ?
この時点で近衛熙子は大奥にいないだろ。

後西院が幽閉されたこともないし、櫛笥の養女でもないだろ。

どっかの三文小説でもよんで感化された?wwwww
928日本@名無史さん:2006/06/16(金) 21:32:58
猫院
929後西院:2006/06/16(金) 21:36:26
「徳川家に対して不穏な企をなす者は帝にてもかくのごとし」と、
仙洞御所に竹矢来を張るのでは費用が大変だからと、今の京御所、
御苑に鳥小屋の如き牢舎を作って幽閉した。ここを凝華洞と呼ぶ。


930櫛笥内大臣隆賀養女:2006/06/16(金) 21:48:46
於須免 通称新典侍 二之御部屋 櫛笥内大臣隆賀養女
http://wolfpac.press.ne.jp/tokugawa06.html
931凝華洞:2006/06/16(金) 21:52:35
「桂宮邸趾」の史蹟の日蔭に、
「後西院天皇の仙洞凝華洞趾」
 棒杭みたいな標識があった。
 北向きの陰湿な地面にかつて存在した凝華洞とは何なのか?
 歴代の帝は退位後は仙洞御所へ入らせ給う慣しなのに、この帝のみが畳十四、五枚
の狭隘な、「凝華洞」に入れられ給うた謎はなんであるのか。
932日本@名無史さん:2006/06/16(金) 21:59:17
JR院
933日本@名無史さん:2006/06/16(金) 22:06:50
綱吉に数多い柳沢邸お成りがあった事以外は、検証不能の俗説・創作。
染子は元々柳沢の家臣の飯塚氏の娘で、御殿勤めの経験はない。
吉保の本妻に子がないので、見込まれて吉保の妾となり嫡子を生んだ。

染子・町子・お須免の方(2代目新典侍)の混乱が昔から多く、
それから派生した創作・俗説が入り混じってハチャメチャ。
後西院幽閉云々はこの大奥スレには無関係で、どうでもいい事。
934日本@名無史さん:2006/06/16(金) 22:13:17
脂肪院
935次代の大奥住民 :2006/06/16(金) 22:17:32
六代将軍徳川家宣(もと甲府宰相綱豊)
御台所近衛煕子(子は全て数日で死亡、後の天英院)
御台所付上臈錦小路(下級公家の息女)
太閤近衛基煕(煕子の父、江戸に逗留)
竹姫(綱吉養女、大典侍の姪、清閑寺煕定息女)
家千代(家宣第1子)
家千代生母右近の方(お古牟、後の法心院)
大五郎(家宣第2子)
大五郎生母新典侍(櫛笥内大臣養女園池須免子、柳沢吉保側室正親町弁子改め町子の従妹、後の蓮浄院)
鍋松(家宣第3子、後の七代家継)
鍋松生母左京の方(お喜世、後の月光院)
大奥御年寄江島(絵島、おみよ)
936日本@名無史さん:2006/06/16(金) 22:46:42
誰がなんと言ってもこの嵐は収まりそうもないな。
937日本@名無史さん:2006/06/16(金) 22:48:05
町子の『松陰日記』を読み通した人、誰かいませんか。
自分は持ってはいるがさすがにw、あまり丁寧に読んではいない。
938日本@名無史さん:2006/06/16(金) 22:49:21
コピペっぽいなとおもったら、元はここだよ。
ttp://www.rekishi.info/library/yagiri/scrn2.cgi?n=1085

八切止夫だもん。どうりで電波発してるよwww
どうせ染子のあたりも八切のコピペじゃねえの?
939日本@名無史さん:2006/06/16(金) 22:52:06
連投すまん

染子うんぬんも見つけた
ttp://www2.odn.ne.jp/~caj52560/oooku.htm

やっぱり八切だった。

いまだに八切信者って生息してるんだね。
940日本@名無史さん:2006/06/16(金) 23:54:08
桂昌・院綱吉=朝鮮説、後西院幽閉説・・・いずれも三田村鳶魚も書いている。
但し、柳沢吉里=御落胤説は、「護国女太平記」などの俗書・稗説と
片付けられない、傍証がある。
941日本@名無史さん:2006/06/16(金) 23:56:00
桂昌院・綱吉=朝鮮説、後西院幽閉説・・・いずれも三田村鳶魚も書いている
・・・だから却って史的検証に耐えない。
但し、柳沢吉里=御落胤説は、「護国女太平記」などの俗書・稗説と
片づけられない、傍証がある。
942日本@名無史さん:2006/06/17(土) 00:21:22
このスレって、ペダンティズムの匂いフンプン。
イマジネーションで楽しむって遊びを知らない。
結局は受け売り。おのが博識(っていうより単なる読書量)を
誇っているだけ。
943日本@名無史さん:2006/06/17(土) 00:27:23
東急院
944日本@名無史さん:2006/06/17(土) 00:53:36
>942
それも原典、一次史料にはアクセスせず、
アクセスしても読み下せないもんだから、いわゆる解説本、評論本。
945日本@名無史さん:2006/06/17(土) 01:06:51
携帯院
946日本@名無史さん:2006/06/17(土) 03:25:29
>>942>>944
だったらなんか疲労してみ。
947日本@名無史さん:2006/06/17(土) 06:35:40
>>942
「イマジネーションで楽しむって遊び」は、他の大奥スレで出来るだろ。
大奥関連の諸説には、江戸時代から現代まで眉唾ものが多過ぎる。
そんな眉唾ものをできるだけ排除しようとする、このスレの傾向は、
まじめに度々書き込んでいる複数の常連達の大多数が、暗黙の内に合致した総意。

>>944
大奥関連に「原典」なんてものは存在しないよ。
かなり信頼できてしかも大奥関連を中心に据えた、刊行された史料は数少ない。
史料としては、『以貴小伝』以下等を読んでいれば充分。
ちょこっとだけ大奥に触れた部分もあるような、大部の一級史料の殆どに目を通す事は、
学者のためのスレじゃあるまいし、とても無理な話。
948日本@名無史さん:2006/06/17(土) 06:42:16
メロン院
949日本@名無史さん:2006/06/17(土) 06:54:56
実はそれほど専門研究もないんだよね。
辞典類でも三田村鳶魚が参考文献の冒頭に挙げられてるのが現実。
学者先生方はあんまりこおゆうことには関心ないからね。
長野ひろこ氏くらいかな、今んとこ参考になるのは。
斯様に江戸時代の随筆の類が今も重宝されるとゆうのは、
他にも風俗関係などの研究分野にはいまだに存在する。
現在でも学者先生より却って故日向子女史のほうが詳しかったりすることも珍しくない。
950日本@名無史さん:2006/06/17(土) 07:57:31
>>949
長野ひろこ氏って、調べたら中央大学の日本経済史の先生のようだけど、
参考になるもの、と言う中に刊行された著書があったら、共著でもよいので書名を教えて下さい。
学術論文なんかは、一般人には入手する事ができないので。
951日本@名無史さん:2006/06/17(土) 08:23:40
「幕藩制国家の政治構造と女性」(『江戸時代の女性たち』吉川弘文館、一九九〇年)
そこそこの規模の図書館なら置いてあるでしょう。
但しお望みの内容かどうかは不明。
952日本@名無史さん:2006/06/17(土) 09:12:11
>>951
ありがとうございます。図書館は性に合わないので、
絶版のようですが古書検索にあったので、購入検討します。
953日本@名無史さん:2006/06/17(土) 09:42:00
眼鏡院
954十三代将軍家定の正室澄心院:2006/06/17(土) 10:31:36
「徳川十五代記」の記載を先に引用すれば、
「十三代将軍家定の正室澄心院は、一条左大臣忠香の猶子明姫(はるひめ)となっているが、
畏き辺りの御落胤といわれている。姫は身長一メートル十センチにみたぬ短身で、
唐紙の把手まで頭が届かぬ幼女のごとき有様にて足袋は七文。
こびと姫と申上げた」とある。
955日本@名無史さん:2006/06/17(土) 10:35:59

しかし常識的に考えて幕府にケンカ売るようなマネするか?>こびと姫
956寿明姫は発育不全:2006/06/17(土) 11:03:48
家定には、天璋院で知られる篤子姫の前にふたりの御台所がいました。
一人目の御台所・鷹司政熙の女(むすめ)・有姫は、才色兼備で鼓をよくし、舅の徳川家慶にも気に入られ、
家定との仲もむつまじかったそうですが若くして死去します。
二人目の御台所一条忠良の女・寿明姫は発育不全で、子供のように小さかったと言われます。
寿明姫も若くして亡くなります。
こうして、三人目の御台所として迎えられたのが篤姫でした。
957家定 一説には脳性麻痺:2006/06/17(土) 11:15:52
家定は就任直後から後継問題が浮上するほど体が弱く、
一説には脳性麻痺だったとも言われているが、
将軍として指導権を示すことが出来なかった。1858年に死去、享年34。

家定は、庭の鳥を追いかけるなどする子供のような将軍であり、
煮豆やふかし芋などを作っていた為、松平慶永(春嶽)から「イモ公方」
などと呼ばれていたという。
また、ハリスと引見した際、頭を後方に反らし、
足を踏み鳴らすという異常な行動もとったといわれている。
958毒殺されたという説:2006/06/17(土) 11:18:17
その死は慶福が後継ぎに決まった直後であった為、
一橋派が家定を毒殺したのではないか、という説や、
逆に南紀派に毒殺されたという説がある。

959日本@名無史さん:2006/06/17(土) 11:23:02
>>954 一条忠香の「猶子」という表記は初めて聞いた。
「実の娘ではないという噂」なら見かけたが。
形式を踏んだ猶女(仮の養女)だったら、その旨と実家名が正式の記録に残るはず。
「徳川十五代記」=ボール紙表紙の明治時代の絵本。

>>956 鷹司任子と一条秀子は御台所になる前に死去。御簾中どまり。
ネーム付けたコピペ、みっともないからもうやめろよな。
丸コピペするだけで自分のものとして咀嚼し直していない書き込みは、荒らしそのもので迷惑。
9603人の正室:2006/06/17(土) 11:32:31
歴代将軍で3人の正室がいたのは家定のみ。正室が二人いたのも初代家康だけである。
最初の正室は、関白鷹司政通の養女(鷹司政熈の息女)有君任子。
次の正室は一条関白忠良の息女、明君秀子。
この二度の結婚は、家定がまだ西の丸にいた世子時代のことで、
二人の御簾中(将軍世子、御三家、御三卿の夫人のこと)が相次いで亡くなった後、家定が将軍に就任してから御台所として輿入れしてきたのが島津敬子、後の天璋院篤姫である。
961徳川十五代記:2006/06/17(土) 12:16:50
絵本 徳川十五代記 ボール紙表紙 清水市次郎原版人 鈴木喜右衛門飜刻人 明治 19 B B6 4500
962養子の種類 :2006/06/17(土) 12:21:01
養子の種類
 公家の養子の種類はいくつかあります。養子、猶子、実子の三種類です。この内、養子と猶子は
よく混同されます。よく、養子は相続目的、猶子は名目的と説明されますが、これは的を射ていませ
ん。後陽成院の皇子で近衛家を相続した信尋は養父信尹の猶子となっています。この場合は明ら
かに相続が目的です。

 私見の限りでは、ちょうど近世になるころまでは、猶子という表現が多いです。それが、近世にな
ると逆に、養子という表現が多くなります。とはいうものの、例外も多いです。養子、猶子の定義は
難しいかも知れません。

 つぎに実子についてですが、実はこれ、養子の一種なんです。この実子を訓み下すと「実ノ子トナ
ス」です。本当に自分の子の場合「子」とのみ記します。実の子としたわけですから、もちろん生家の
系譜から抹消されます。生物学的な親族の喪に服す必要もなくなります。

 実子は近世頃から見られるようになりました。そして近世末期には、ほとんどの養子が実子の形態
をとっていました。これは、禁中並公家諸法度で、公家が女系の縁で養子を取ることを禁止し、同姓
間でのみ許したことに関係しているといわれています。実子なら女系でもいいじゃんみたいな感じで
す。しかし、それだけでは、必ずしも説明できません。近世公家社会は謎だらけです。
http://www.c-able.ne.jp/~hiyoko/tyoutei/yousi.htm
963日本@名無史さん:2006/06/17(土) 12:45:37
>>957

>庭の鳥を追いかけるなどする子供のような将軍であり、

これは明らかな捏造なんだけどねwwwwwwwww
964徳川将軍家十五代のカルテ:2006/06/17(土) 12:58:22
綱吉の身長が120センチ台
http://www.webhaus.jp/m/index.php?num=211
965徳川将軍家十五代のカルテ:2006/06/17(土) 13:02:40
家康  159cm、
三代家光 157cm 
五代綱吉 124cm(!)
七代家継 135cm 
八代吉宗 155cm
966徳川将軍家十五代のカルテ:2006/06/17(土) 13:17:46
十五人のうち正室から生まれたのは、たった2人だけで、
ほとんどが側室の女性達だったのです。
その将軍達の生母は、農民の娘2人、魚商人の娘、
八百屋商人の娘、僧侶の娘、家臣の娘4人という
「庶民のご母堂様」達でした。
967日本@名無史さん:2006/06/17(土) 13:33:12
コミュニケーションを取ろうとする姿勢を持てない人間は、クズ。
968日本@名無史さん:2006/06/17(土) 15:26:54
もうすぐ1000いってしまうね。
ここ数か月でものすごい伸びた気がする。

969日本@名無史さん:2006/06/17(土) 15:48:39
>>968
ここをチラ裏にして
よそからのコピペしか能のないヴァカがいるから。
970庶民のご母堂様:2006/06/17(土) 16:34:00
>>966
ペニシリン等の抗生物質の無かった昔は産褥熱での死亡率も多く、
女にとっては子供を孕むはやすく、産むのは命がけの事だった。
それゆえ、明治までの大名の家記には「下受け産業」なる記載すらある。
これも武士の家ではた織りしているのを町家や百姓の娘達の内職に出すというのではない。
お産の時の消毒薬もなく、為に死ぬ場合も多かったので、
それゆえ出産は女体にとって危険極まる難事業ゆえ、
死んでもよい身分の低い女に代行させるだけのことゆえ「女人忠義」とも云うが、
文字通り下請けの産業(うみわざ)なのである。
971日本@名無史さん:2006/06/17(土) 16:56:15
>>968
次スレの>>1には、いくつか禁止事項の明記が必要だな。
下ネタ好き・〜かゑ・〜院・丸々コピペ………。
972庶民のご母堂様:2006/06/17(土) 16:59:27
幕末の和宮様だけでなく代々の将軍家は、
それぞれ遡れば京より正室を迎えているが、
正室から生まれた将軍は慶喜だけ
973その時の代用侍女:2006/06/17(土) 17:04:52
大名で将軍家の息女を貰ったものが、
もし身重にさせて出産の際に死なせでもしたら、
御家の一大事というので、接しても洩らさす゛、
放出用の女人を直ぐ近くに、
股間を開けて寝かせておいたり、
京の関白や摂家がその姫を嫁に出す際、
「もしお産でもして子を産む時に死にでもしたら、
折角縁組みしても何にもならぬ」というので、
その時の代用侍女を何人も伴わせて東下りしてきている。
974家斉の姫:2006/06/17(土) 17:11:08
五十八人の子女を作った将軍家斉の姫は各地の大名へ嫁入りしているが、
やはり一人も子供は産んでいない。
これはもし死なれたら大変と床の間の飾り物にされていたからである。
975身分低き女子をもって代わりをさせる:2006/06/17(土) 17:19:29
『医学天正記』の著で知られる曲直瀬道三の書き残したものに
「雖知苦斎」と題するのが残されていて、その中に、
「お産はそれ婦人の大役にして、産褥にて亡くなる者少なからず、
よって、腹は借りものと称して身分家柄の高き女性は己が子を産
むの煩わしさを避け、身分低き女子をもって代わりをさせる」
と出ている。
976日本@名無史さん:2006/06/17(土) 18:31:48
しかしドシロウトでもつっこめるようなネタばかり書いてうれしいんでしょうかね
特に>>972とか>>974
977日本@名無史さん:2006/06/17(土) 19:24:27
ttp://www.ma.megafit.net/~kt145/datai.htm

やっぱり八切信者の仕業。
たまには自分の言葉で書いてみたら(藁
978日本@名無史さん:2006/06/17(土) 22:26:07
工房院
979日本@名無史さん:2006/06/17(土) 22:44:00
皆さん真面目に読むこと無いのに〜〜
980日本@名無史さん:2006/06/17(土) 23:45:26
人参院
981日本@名無史さん:2006/06/18(日) 00:13:30
おい、新選組スレ見てみろ!やっぱ新選組ヲタは基地害だぞ!
982日本@名無史さん
ぼ院