1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:04/10/04 20:03:41
チンギスハンの霊廟発見 世界史の謎解明へ前進
モンゴルのアウラガ遺跡を発掘調査していた国学院大などの日本モンゴル合同調査団は4日、東京都内で記者会見し、
四角形の基壇上に造られた13−15世紀の霊廟(れいびょう)跡を発見し、「チンギスハンを祭った霊廟と考えられ、
長い間謎だったチンギスハンの陵墓を発見する重要な手掛かりになる」と発表した。
地上に何も残さないで葬られたとされるチンギスハンの陵墓の在りかは世界史上の大きな謎の1つとされている。
調査団によると、中国の史料などから、アウラガ遺跡がチンギスハンの宮殿「大オルド」だったとみて発掘を開始。
約25メートル四方の基壇の上で、約11メートル四方の範囲に霊廟の跡とみられる礎石や柱穴を確認した。
霊廟内には上から見ると「凸」の字の形に高さ約40センチの石の壁がめぐり、火をたいた跡があった。
基壇の周囲には灰や馬の骨を埋めた穴が見つかり、調査団はチンギスハンを祭るために馬などを焼いた
「焼飯」(しょうはん)の儀式が行われていたとしている。
調査団の白石典之新潟大助教授(考古学)は「焼飯の儀式が確認されたことで、チンギスハンの霊廟と確定した。
ほかの王朝の霊廟と陵墓の距離関係などから、アウラガ遺跡から半径12キロの範囲内にチンギスハンの陵墓があるのではないか」と話している。
■チンギスハン 1162年ごろ−1227年。幼名はテムジン。1206年に部族を統一してモンゴル帝国を建国した。
ハンは王の意味で、死後に皇帝を意味するハーンの号が贈られた。西アジアや南ロシアにまで及ぶ帝国を建設したが、遠征中に中国で死去。
盗掘を避けるため、地上に何も残さないで葬られたとされている。
3 :
日本@名無史さん:04/10/04 20:12:27
なんでまたチンギスハンでつか?
真田は幸村しか知らなかったけど最近幸隆と昌幸が凄いことに気が付きました。
遅すぎますねスマソ。
4 :
日本@名無史さん:04/10/04 20:26:41
5 :
日本のテレビでも特集されない番組コーナー:04/10/04 20:41:35
チンギスハーン帝国を作ったのは結局日本人の源義経だったことは真実
源義経は身内には殺されず
アジア大陸に渡りモンゴル名チンギスハーンを襲名して
一大王国を作った、その証拠に源義経が渡ってから
同じ時代のシンクロとして戦争の戦い方が抜群にうまくなった
初めチンギスハーンは赤旗だったが、強大な勢力になりし日は
源氏の旗の白に旗が変えられていた
そのほか色々証拠らしいものは有るだろうけど、日本のサムライの
やり方で意外と多いのは身内で最後の決断の時に他の者に成り替えて
別の都に送り出す種族の本能ってものが侍には有るようだ
それでチンギスハーンと名乗った源義経はモンゴルの地に
自らをアジアの大陸に血を残し、名前をそのままにして
チンギスハーンの遺言として収めたのだろう。
余り語られていないが、大昔からアジア大陸にも
当然のように日本人が作った歴史が色々有り
どうせ、今の御時世では尚のことアジア大陸関係は否定する風潮だろうが
これが真実の歴史だろうな。
世界大戦の時でしか日本を語ることの出来ない赤旗右翼なんて
まゆつば者より、全然日本としては気が効いてるだろっ。
6 :
日本@名無史さん:04/10/04 20:54:47
「真田太平記」今週は..
7 :
5:ちょっと重厚味の有る話を:04/10/04 22:19:05
後に源義経(チンギスハーン)軍勢が中国にも入り
以降モンゴルと中国の間では、お互いに意識化の不可侵条約がDNAに刻まれて
今に至っている、そして中国には日本人が中国の外側から内側に
戦を行わずに入り込んで行った
日本が中国を満州と呼ぶより遥かにたどること大昔からの
世界史日本人大絵巻の一つなり
だから元々中国大陸は日本とは基本的に戦争は出来ない!
なぜなら中国は今でも日本の一部だからさ
なかなか語られない日本を含めた本当の世界の歴史発見伝としておこう。
なぜか日本国内でも中国人って日本人よりも朝鮮系を
攻撃する人間が多いってのと
そう遠く離れた意識では無いのではと思われる
DNAに刻まれた歴史の血の深さよ。
9 :
日本@名無史さん:04/10/04 22:49:12
チンギスハンだとか中国人バッシングは場違いだとは思うけど。
そう言えば、
平安時代、長野県の東側(東信地方)にモンゴル・朝鮮半島・中国から
多くの渡来人が移り住んだらしいね。
小室節は今の小諸市が発祥の地でモンゴル民謡がベースになっているだとか。
それが追分節となって全国に広まったんだそうで。
大陸の牧畜ノウハウで運営された大規模な国牧が望月にはあった。
真田氏も渡来人だという説が、ここ20年でクローズアップされてきたらしい。
そうでない可能性も勿論あるが。
丹波哲郎です。
11 :
日本@名無史さん:04/10/04 23:21:06
真田って朝鮮系だったのね。
納得。
12 :
日本@名無史さん:04/10/05 00:04:14
>>11 ちがうモンゴル系の可能性がある。
けど、日本人なんて辿っていけば皆そうだよ。
>>1 チンギスハーンは世界史板
真田は三戦板
お前は池沼
14 :
日本@名無史さん:04/10/05 00:09:52
>>9.10.11
バカ!
真田は日本人の誇りだ。
人種云々を持ち込むな。
15 :
7:指摘した内容で説明出来る:04/10/05 00:13:40
日本側からも中国に入っていったと言うのが物理的にも地理的にも正しい
指摘したチンギスハーン(源義経)の時代とか含めてね
次いでに源義経(チンギスハーン)が赤旗から日本の源の白い旗に
改めさせたおかげで、後の他の戦争でも降参する時に白い旗を掲げる慣習が起きていたが
元々は実は降参だけでなく抗うことを止めて相手に含まれてもいいという意味での
慣習のようなものだった日本の源義経(チンギスハーン)が使い出した
日本からの慣習による白い旗が、海と大陸と歴史を渡り
後に単純に降参の意味での合図の白い旗と解釈が簡略化されていったものなのさ。
こちらの歴史地理的自論なので、人の文章を勝手にかっぱらうなよー
すべての前述を含めた文章の権利と内容については
こちら個人にすべての権利と権限が有り、無断使用禁止する。
知的財産権って代物。
このスレの>1って例の日本史板の荒し?
またクソスレたてたの?
なぜ朝鮮半島には日本人と中国人のような典型的なハッキリした顔が
人種的にあまり見受けられないのかと言う事実も
中国から渡って来た者もいるだろうが
日本人が源義経(チンギスハーン)に時代を含めて
朝鮮ルートとは違うルートで中国に入り込んでいった証拠に他ならないな。
チンギスハーン(源義経)時代前後して日本からも中国に入っていったルートが
有ることは確かだな
19 :
日本@名無史さん:04/10/05 00:27:47
朝鮮半島は地理的に見ても日本と中国に挟まれた地理関係で有るにも関わらず
日本と中国の関係ほどの影響は顔とか見れば、それが薄いことで分かる証拠の一つ。
盛り上げるために真田10勇士山手線ゲームを開始します。
じゃあ、俺から行くよ、 筧利夫
天皇関係のスレを荒しまわっている自称武田信玄こと「大阪の童貞」が立てたスレ
23 :
日本@名無史さん:04/10/06 19:00:04
>>4 90かちょっと超えてるっけ? すげーよ、現代でも十分長生き。「真田太平記」で
妻の小松が死ぬとき、「すぐ参る」とか言うんだけど、参るのそれから数十年後
なんだよな、ワロタ。ま、偉大ですけどね。この人のおかげで明治まで残る土台が
出来るんだから。
25 :
日本@名無史さん:04/10/09 09:19:00
26 :
日本@名無史さん:04/10/09 14:53:16
「しんきち」ってなんか農民みたいな名前だね。
やっぱり真田は下賎の出なの?
27 :
日本@名無史さん:04/10/09 15:53:09
>>25 次男の信政も比較的短命だったような
あ!
信之が長生きなのかw
ここで馬鹿なこと書いてる奴って三戦でも受け入れてもらえないカスですか?
↑
よく分からないけど、君と同じだと思われ
三戦って板?スレ?
どこのこと?
リンクきぼんぬ
31 :
日本@名無史さん:04/10/09 21:03:56
32 :
日本@名無史さん:04/10/09 22:09:57
真田太平記(昭和60年 NHK)
真田信幸 渡瀬恒彦
真田幸村 草刈正雄
真田昌幸 丹波哲郎
山手殿 小山明子
小松殿 紺野美沙子
お江 遙くらら
壺屋又五郎 夏八木勲
向井左兵衛 木之元亮
向井佐助 中村橋之助
豊臣秀吉 長門裕之
淀殿 岡田茉莉子
石田三成 清水紘治
大谷吉継 村井国夫
徳川家康 中村梅之助
徳川秀忠 中村梅雀
本多忠勝 加藤武
樋口角兵衛 榎木孝明
滝川三九郎 三浦浩一
山中内匠長俊 戸浦六宏
山中長門守 佐藤慶
猫田与助 石橋蓮司
矢沢頼綱 加藤嘉
昌幸の娘役で岡田有希子も出てたと思う。
33 :
日本@名無史さん:04/10/09 22:35:32
寄生虫をサナダ虫と命名したのは徳川家康
34 :
歴史板初心者:04/10/09 22:55:19
>>33 それほど真田に対するコンプレックスを持っていたらしい。
真田は敵味方の区別がつきにくいように人脈を複雑にしたから生き残れた。
そうやった手法は戦国大名なら誰しもやったことだけど、真田のように成功した例は少ないかと。
廃藩置県まで真田藩は維持され、末裔の方が今もいらっしゃる。
35 :
歴史板初心者:04/10/09 22:58:55
そういえば三戦板とは何でしょうか。
検索しても一杯訳が分からない馴れ合いサイトが出てきてしまってよく分からないもので。
だれか教えて・・・・
三戦は関ヶ原と大坂の陣2回、計3回の戦のことですか?
>>28殿も教えてくれないしw
36 :
日本@名無史さん:04/10/09 23:00:35
>>34 江戸中期の殿様、真田幸貫が松平定信の実子なので系統的には断絶して
いるようなんだが、松平と真田ってのは姻戚関係でもあるのか?
38 :
歴史板初心者:04/10/10 10:51:02
39 :
日本@名無史さん:04/10/10 11:02:55
真田太平記は全部ヴィデオにとってある
42 :
日本@名無史さん:04/10/12 17:05:03
改名しても子孫は生きてる
真田→飯田
17 名前:日本@名無史さん 投稿日:2004/10/10(日) 17:15
加藤は山形に流されたから、清正の位牌はそこにある。
24 名前:日本@名無史さん 投稿日:2004/10/12(火) 17:01
>>17 秋田で飯田に改名したんでは・・・
関ヶ原の合戦で、徳川秀忠の率いる第2軍団を上田城にて
引き止めた事が、誠に痛快なり。
上田攻めなんて無かった
>>46 三戦の代表みたいな口きくなよ
チンカスが
48 :
日本@名無史さん:04/10/29 06:17:16
49 :
日本@名無史さん:04/10/30 00:00:47
真田っていうと、こんなイメージなのですか?
www4.ocn.ne.jp/~phi/nihon/comic/n_co_titol.html
50 :
日本@名無史さん:04/11/22 22:43:24
お金がないので日本刀じゃなく摸擬刀を買おうと思いますが、
幸村の愛刀の名前をご存知の方、どうか教えてください。
51 :
日本@名無史さん:04/11/24 00:15:48
ago
52 :
日本@名無史さん:04/11/24 01:33:05
祖母の家系が松代の士族だが・・・ひょっとしたら真田一族とどっかで血がつながってるかも。
佐久間象山とかでも凄いやんか・・・
信之は、もっと評価されてもいいと思う。外様、譜代、親藩と次々に難癖をつけて
つぶしていった秀忠の時代にも、生き残った。秀忠に関が原遅参の一件で恨まれて
いたにもかかわらず。
結局、信繁は徳川相手に勝ち目のない戦いをして戦死しし、大名にもなれなかった。
どっちが、勝ちか。もちろん、滅びても己の美学に殉じた人間に魅力を感じることは
ありうるけど、それだけで評価されるのはおかしいと思う。
↑
生き残った大名の方がはるかに多い。
信之自身は徳川方、妻は徳川重臣の娘。
56 :
日本@名無史さん:04/11/24 18:31:10
age
57 :
日本@名無史さん:04/11/25 06:45:16
58 :
日本@名無史さん:04/11/25 23:15:12
で、幸村の愛刀は?
59 :
日本@名無史さん:04/11/26 03:52:02
>>57 同意。兄弟どっちも偉いと思う。武人が武勇で評価される事は、生き残る事と同じ
くらい矛盾していない。
矛盾?
61 :
日本@名無史さん:04/12/10 00:30:25
で、結局のところ江戸時代途中で松平定信の子を養子に迎えた時点で信之の決闘は断絶したのかね?
62 :
日本@名無史さん:04/12/31 21:05:30
真田
63 :
日本@名無史さん:04/12/31 23:04:34
64 :
日本@名無史さん:05/01/13 14:17:32
どうして真田家は幕末まで潰されずにすんだの?
>>64 実収の少ない松代藩に転封したので、外様とは言え貧乏小藩を
潰す意味もないから。
豊臣恩顧色が強く、大領を得ている福島・加藤ほど目障りでもない。
外様いじめの度が過ぎると、島津・毛利・前田・上杉など外様の雄
藩に反乱を起こされかねないし。
真田あたりは、因縁付けられての収公だと幕府と一戦交えそうだか
らねえ(w
>>65 レスありがとう
江戸幕府お得意の生かさず殺さずってやつですね。
67 :
日本@名無史さん:05/01/13 18:06:48
>結局、信繁は徳川相手に勝ち目のない戦いをして戦死しし、大名にもなれなかった。
徳川方に付いたとしても数百石ももらえれば御の字だったろ。そして歴史上には親父の名前のみが残る。
68 :
日本@名無史さん:05/01/13 18:29:56
>>58 官位板に真田家の刀ネタがありますよ〜
信繁(幸村)、信政、昌幸の刀が書いてありますので参考にして頂ければ幸いです。
69 :
真田信濃守幸貫:05/01/13 18:39:05
ここらへんは池波正太郎「真田太平記」にくわしいですが、街道の要地上田にいる真田豆州を加増の名目で松代に国替する徳川のいやらしさが、書かれておる。
基本的には幕府は既得権益を保持している勢力に対してはある程度の
妥協はしてます。特に新興勢力が旧勢力の権益を引き継げそうに無い時には
そういう方向に行ってます。
うちの遠い親戚に真田って姓のがいるんだが・・・
結婚式で会った時に着てた紋付に六文銭が書いてあって、
「真田ってあの真田やったんかい!」と驚いた記憶がある。
72 :
源次郎幸村:05/02/01 22:26:15
真田日本一の兵。マジかっこいい。幸村関連の本は一応読み尽くしたけどこれだけの人物はいない。
73 :
日本@名無史さん:05/02/02 23:36:35
雪村の首ってどうなったの?
晒せれもせず、野犬に与えられたって、本当?
>71
巨人のピッチャーの真田は幸村の末裔らすぃw
本田忠勝の娘婿だろ
真田堀など土木工事にも素直に応じてたしな
77 :
日本@名無史さん:05/03/05 22:29:35
今の真田家は伊達家の系統だよ
松代藩の最後の当主だった真田幸民は宇和島藩の伊達宗城の二男
幸村って名前なら子供でも知ってるからな
79 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 17:04:56
曾祖母の家が松代の士族らしいが本籍が上田って・・・どういうこと?
80 :
日本@名無史さん:2005/05/07(土) 15:28:20
真田虫
81 :
日本@名無史さん:2005/05/07(土) 15:36:32
あまり知られていないと思うのだけど
臨済宗の中興・白隠の師である正受老人という人は、真田信之の子らしい。
この人がいなかったら、日本の臨済宗としての生きた伝統は、
今日世界的に有名な"Zen Buddhism"は、なかった。
82 :
サクラ房 ◆q3UxyTGDj. :2005/05/07(土) 16:15:09
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
,__ | 真田 幸村 命日age
/ ./\ \_______________
/ ./( ・ ).\ o〇 ヾ!;;;::iii|//"
/_____/ .(´ー`) ,\ ∧∧ |;;;;::iii|/゙
 ̄|| || || ||. |っ¢..|| ̄ (,, ) ナモナモ |;;;;::iii|
|| || || ||./,,, |ゝ iii~ ⊂ ヾwwwjjrjww!;;;;::iii|jwjjrjww〃
| ̄ ̄ ̄|~~凸( ̄)凸 ( ,,)〜 wjwjjrj从jwwjwjjrj从jr
うわ、もう上がってた(;´Д`)
4/4からずっとカキコなかったのにいきなりw
地蔵のAA探してたら時間掛かったな
85 :
日本@名無史さん:2005/05/08(日) 06:09:05
86 :
真田信利・草薙良一:2005/05/08(日) 07:17:10
実高三万石の沼田領を十二万石と幕府に届け出て、領民に暴政を敷いた真田伊賀守信利のことか?
前橋藩主・大老酒井雅楽頭と繋がりがあったが、酒井失脚とともに徳川綱吉から改易さる。
87 :
日本@名無史さん:2005/05/08(日) 07:21:45
真田家の親戚筋は
陸奥磐城平の内藤帯刀、肥前島原の高力左近大夫、石見浜田の本多中務大輔、大和柳生の柳生備前守、大和郡山の柳澤甲斐守のみ。
88 :
日本@名無史さん:2005/05/11(水) 21:58:48
真田幸村は歯抜けの初老っていうが。。それでも武士なんだよな。
真田大助14歳にて討ち死。父に行けと言われ、泣きながら秀頼の元へ。
14歳って若すぎる。14だった自分が当時、そんなことできたかといえば無理
90 :
日本@名無史さん:2005/05/12(木) 00:35:01
91 :
日本@名無史さん:2005/06/03(金) 23:47:51
過大評価
92 :
日本@名無史さん:2005/06/03(金) 23:49:42
まあダイスケも歯抜けの14歳だけどな
93 :
日本@名無史さん:2005/06/04(土) 00:34:22
関ヶ原に臨んで、二手に分かれて名と家を残す発想は、その当時斬新だったんじゃない?初めから、淀君や三成が邪魔せず、総指揮を幸村が取れば戦局は違ったと思われ。
94 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 09:56:59
徳川秀忠
95 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 22:37:34
96 :
日本@名無史さん:2005/07/17(日) 01:44:20
秀忠は真田家を取り潰せないだろうな。あれだけ煮え湯を飲まされた相手は取り潰すより、すごい家だったって言ってたほうが徳川のメンツもたつしね。
武田家が戦国最強ってことになってしまっているのと似たようなものか。