1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:04/10/04 18:11:27
2
3 :
日本@名無史さん:04/10/04 20:12:56
次スレ、早すぎと思うが、、応援age
全く下らんスレ立てやがって
さっさと削除依頼出して来い!
5 :
日本@名無史さん:04/10/05 05:18:30
東海一の弓取りage
6 :
日本@名無史さん:04/10/05 14:03:31
信長の引き立て役age
7 :
日本@名無史さん:04/10/05 14:05:25
重複スレ立てるなよ
8 :
日本@名無史さん:04/10/05 23:21:39
まろage
9 :
日本@名無史さん:04/10/05 23:46:14
カンガレヨッシー
義元公にまつわるエピソード教えてださい
母(受刑に)と師(切瑳委)は凄い人ですよね
それと彼が家督を継いでからの外交転換の真相は?
11 :
日本@名無史さん:04/10/06 04:48:37
母は、義元の死後もしばらく生きていますた。
12 :
日本@名無史さん:04/10/07 04:57:41
もうだめぽage
13 :
日本@名無史さん:04/10/07 05:10:01
永井路子著「姫の戦国」を読めば今川家の数奇な運命を知ることができるでおじゃる
14 :
日本@名無史さん:04/10/07 20:00:40
その本を読む気はないので、
今川家の数奇な運命を、
>>13 が、語れ。(簡単にで結構)v
毛利新助>今川義元
プゲラw
>>13 読んでる最中でおじゃる
義元死後も生きていたなら
氏真をもり立てていかれたのでは?
17 :
日本@名無史さん:04/10/08 00:34:37
18 :
日本@名無史さん:04/10/09 01:36:29
age
今川って足利一族だから上京しようとしたんでしょ。
それなのになんか可哀想だったね。
20 :
日本@名無史さん:04/10/09 01:49:28
桶狭間で殺されたとき御輿に乗っているドラマもあるけど、あれ本当は
どないでごじゃったの?
公家趣味がみっともないですな。
21 :
日本@名無史さん:04/10/09 02:44:30
公家(・∀・)イイ!!
みっともないという感覚はお前が物を知らないだけ
23 :
日本@名無史さん:04/10/09 13:54:53
今でいうとスーツでビシッとキメた感覚じゃないのか?
24 :
日本@名無史さん:04/10/09 14:22:10
>>22 ぷ!
そういうからには知っていることを書いてみw全部で10行くらいだろw
よ
く
し
ら
な
い
が
そ
う
い
う
も
の
だ
27 :
日本@名無史さん:04/10/09 16:01:17
書けない者が勝利宣言かw
28 :
日本@名無史さん:04/10/09 16:04:02
29 :
日本@名無史さん:04/10/09 16:39:13
まあまあ、おまえら喧嘩をするな。
おまえらがどんなに背伸びしてもしょせんこの俺には勝てっこないのだから。
自分たちのレベルの低さを自覚して、仲良くしなさい。
30 :
日本@名無史さん:04/10/09 17:09:55
まあ鎧兜は作業服、衣冠束帯がスーツだろ
ノーベル賞もらったとき田中さんは作業服だったけど
普通はスーツで記者会見するものだし
ヒゲ剃ってネクタイ締めるとか軟弱な貴族趣味だよな
ネクタイとかあれ無駄じゃん全然機能ないし
ていう感じかな
未来の用語辞典
【ネクタイ】19〜21世紀頃、主に男性の労働者が着用していた。
「いつでも首を絞めてください」という服従の意思表示の表れと思われる。
33 :
日本@名無史さん:04/10/10 00:19:00
でも鎧着てる絵とかあるよ
普段はそうでも公家の衣装で出陣したっていうのは創作じゃないのか・・・?
出陣したことがない
36 :
日本@名無史さん:04/10/10 21:25:28
37 :
日本@名無史さん:04/10/10 21:31:15
38 :
日本@名無史さん:04/10/10 21:33:31
39 :
日本@名無史さん:04/10/10 21:34:37
40 :
日本@名無史さん:04/10/10 21:39:33
41 :
日本@名無史さん:04/10/10 21:46:59
42 :
日本@名無史さん:04/10/10 21:49:05
43 :
日本@名無史さん:04/10/10 22:00:35
>1
が早くスレ立てすぎた御陰で
前スレはとんだことになっている。
反省せよ。
スレ立てるのが早すぎた件、申し訳ありませんでした。
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| ちょ、ちょーとまって!!!今
>>1が何か言ったから静かにして!!
, ,-;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:,. ヽ─y────────────── ,-v-、
/;:;:;:;:;:;:ミミ;:;:;:;:;:;:;:;:;:;`、 / _ノ_ノ:^)
/;:;:;:;:彡―ー-、_;:;:;:;:;:;:;:;| / _ノ_ノ_ノ /)
|;:;:;:ノ、 `、;;:;:;:;:;:i / ノ ノノ//
|;:/_ヽ ,,,,,,,,,, |;:;:;:;:;:;! ____/ ______ ノ
| ' ゚ ''/ ┌。-、 |;:;:;:;:/ _.. r(" `ー" 、 ノ
|` ノ( ヽ ソ |ノ|/ _. -‐ '"´ l l-、 ゙ ノ
_,-ー| /_` ”' \ ノ __ . -‐ ' "´ l ヽ`ー''"ー'"
| : | )ヾ三ニヽ /ヽ ' "´/`゙ ーァ' "´ ‐'"´ ヽ、`ー /ノ
ヽ `、___,.-ー' | / / __.. -'-'"
| | \ / | l / . -‐ '"´
\ |___>< / ヽ
46 :
日本@名無史さん:04/10/12 13:29:23
47 :
日本@名無史さん:04/10/13 15:21:56
age
48 :
日本@名無史さん:04/10/14 22:53:14
都へ、、、みやこへェ〜、、、
49 :
日本@名無史さん:04/10/14 23:13:24
義元に都は早すぎる
勘九郎はまりすぎ。
実際あんなんだったかな
51 :
日本@名無史さん:04/10/15 04:36:58
信虎、下がれ(悪乗りしました^^;)
54 :
日本@名無史さん:04/10/15 20:50:46
55 :
日本@名無史さん:04/10/16 21:55:54
NHKは義元で大河をつくれ!!
たぶん大河になるのは50年後
尻丸だし、オッホホホ・・・(三国同盟より)
58 :
日本@名無史さん:04/10/17 20:25:14
50年たったら評価されるの?
世間の風潮が変わる頃に思いきって手を出しそうね>義元大河
何年後の話になるか分からんけど・・・
そういえば
>>57のセリフ。なんで義元があんなにウケてたのか当時分からんかった。
大河で山本太郎が信長やったらはまりそうだと思うのだが
全然
62 :
日本@名無史さん:04/10/19 17:22:09
age
63 :
日本@名無史さん:04/10/20 22:30:24
age
64 :
日本@名無史さん:04/10/24 07:49:09
今川家の歴史(義元の時)を書いてみます。
天文5年2月 氏輝小田原で歌会参加
3月 氏輝24歳・次男彦五郎没。松平広忠脱出、遠州着
5月 義元五郎称す、寿桂尼福島氏訪れる、駿府で戦い、久能山敗走。
花蔵側(高天神福島氏・由比福島祐倶・富士井出尭吉・斎藤氏・篠原氏
安西氏・朝比奈氏)
義元側(岡部親綱・由比光規・孕石光尚・三浦元辰・瀬名一秀・平野氏)
6月 今川軍・北条軍、方ノ上城・花蔵城攻める、花蔵殿普門庵自刃。
(岡部親綱・孕石光尚功績)
9月 松平広忠牟呂城入る、松平信定に攻められ吉田へ退く。
朝比奈泰能、西条城攻め吉良義郷討死、義安入れる。
高天神城小笠原春義入る。蒲原氏徳継承。
65 :
日本@名無史さん:04/10/24 08:54:46
天文6年2月 武田信虎と甲駿同盟。北条氏綱富士川以東占領。
信虎須走口出陣。
3月 冨士氏傍系反乱、富士信忠討つ。
4月 今川軍北条軍と戦い24人討死。松平広忠岡崎で味方作る。
見付城堀越貞基反乱、天野虎景・景義に討たれ討死。
6月 広忠、松平信定と和議、駿河より岡崎帰還。
氏綱再出陣、今川軍数百人討死。
9月 奥平久勝反乱、作手奥平貞勝が奥平定雄に討たせる。
12月 広忠12歳元服、吉良持広烏帽子親。
66 :
日本@名無史さん:04/10/24 09:28:17
天文7年5月 天野虎景帰参許される。氏真誕生。
織田信秀、那古屋城今川氏豊攻め取る。
天文8年1月 治部大輔となる。
9月 由比光規継承
67 :
日本@名無史さん:04/10/24 10:30:16
天文9年6月 織田信秀3千、安祥城松平長家攻め取る。松平忠倫・松平清定・酒井忠尚
大原氏・今村氏呼応。
広忠側援軍、松平信康・松平忠次・松平康忠。
長家・信康・松平利長・林氏・内藤氏・近藤氏・足立氏兄弟・木氏
永見貞近ら50人討死。
天文10年6月 武田信虎追放。
7月 北条氏綱没。
68 :
日本@名無史さん:04/10/24 10:52:50
天文11年小豆城合戦、今川側先鋒庵原氏・奥平貞勝。織田側信秀と弟ら。
12月 信秀上野城攻める、内藤清長・内藤正成防戦。
井伊忠宗田原城攻めで討死。
天文12年6月 広忠、三木城松平信孝(後見役)所領没収。
69 :
日本@名無史さん:04/10/24 11:49:24
天文13年小笠原氏興継承。
12月 小野氏の讒言により井伊直義・直満、義元のため自刃。
直満の子直親、家老今村正実により逃がされる。
天文14年4月 武田信玄箕輪城攻める。今川軍・北条軍各3百援軍。
7月 義元善徳寺出陣。
8月 信玄吉原で義元と対面。狐橋戦い(天野虎景・景泰功績)
9月 上杉憲政・朝定と結び河越城攻めさす。
長久保城戦い(葛山氏元功績)
広忠1千、安祥城織田信広攻める。信秀出陣、清田畷戦い(本多忠豊討死)
10月 駒井高白斎による和平交渉。 長久保城御宿氏自刃。北条軍退く。
70 :
日本@名無史さん:04/10/24 20:27:33
天文15年 吉田城牧野成敏追い出し、戸田宣成城主になる。
9月 広忠、上野城松平家次攻め、酒井忠尚城主とする。
11月 広忠・天野景泰吉田城攻め、戸田宣成滅ぼす。(野々山氏内通、
景泰・大村高重功績)小原鎮実城代。
71 :
日本@名無史さん:04/10/24 20:59:35
天文16年 織田信長初陣、吉良大浜放火。
戸田康光、竹千代を奪い織田信秀へ送る。
8月 医王山砦合戦。(奥平定能・奥平貞友・松井宗信功績)
9月 田原城戸田尭光滅ぼす。朝比奈元智城代とす。(天野虎景1番槍
天野景泰・御宿氏・松井宗保功績、彦坂宗悟討死)
広忠、筧重忠による松平忠倫暗殺成功。
松平信孝5百出兵、渡村河原戦い広忠敗れる。(鳥居忠宗・松平忠次討死)
72 :
日本@名無史さん:04/10/24 21:35:10
天文17年1月 奥平貞友謀反、貞勝人質として定能を駿河へ送る。
3月 小豆坂戦い、織田信秀・信光4千先陣信広。今川軍2万5千大将雪斎
副将朝比奈泰能、先陣岡崎衆。信秀、信広を安祥城に置き清洲へ戻る。
(西郷正守・松井宗保・朝比奈信置・久米家時・岡部元信功績
持舟城関口政興負傷)
4月 松平信孝5百、岡崎城攻め討死。
9月 関口政興没、氏緑継承。
73 :
日本@名無史さん:04/10/25 00:56:47
松平一族、結構内部抗争をやってるようだね。
広忠の座はかなり危なかったのかもしれない。
井伊一族って哀れだね。
>小豆坂戦い、織田信秀・信光4千先陣信広。今川軍2万5千大将雪斎
兵力差ありすぎじゃん。
数に物言わせたかったのか
76 :
日本@名無史さん:04/10/25 21:51:51
続けます。
天文18年2月 岡城(故松平信孝)落城。
3月 広忠没、24歳。朝比奈泰能・岡部元信・鵜殿長持3百岡崎城駐留。
雪斎、安祥城攻める。本多忠高討死。岡崎引き上げる。
7月 後奈良天皇より和平の勅書。
9月 荒河山戦い。(幡鎌氏功績)
11月 安祥城落城。今川軍2万、大手雪斎・泰能、搦手長持・元信、西三浦義就、北飯尾乗連
(弓気多氏1番槍、御宿氏・大村高重・天野景泰・蒲原氏徳功績)
織田信広降服、竹千代と笠寺で人質交換。吉良義安捕え駿河へ。
上野城落とす。
77 :
日本@名無史さん:04/10/25 22:16:37
天文19年3月 雪斎、後奈良天皇の召しにより上洛、妙心寺第35世。
「忠観音左右猿鶴図」寄進。
6月 夫人武田信虎娘没。
8月 知多郡で戦い。(大村高重功績)
天文20年 飯尾乗連の寄子、松下長則に秀吉雇われる。
12月 東条松平忠茂今川方となる。
78 :
日本@名無史さん:04/10/25 22:44:35
天文21年5月 大給城戦い。大給松平親乗対松平忠茂(松平忠茂功績)
11月 長女、武田義信に嫁ぐ。
天文22年2月 「かな目録追加」21か条制定。
鳴海山口教継・教吉今川方となる。
笠寺砦岡部元信・葛山氏・浅井氏・飯尾乗連・三浦義就入る。
4月 信長800、山口教吉1500攻める。
79 :
日本@名無史さん:04/10/26 00:06:28
天文23年1月 今川方、材木城松平家忠・寺本城。信長・美濃援軍1千安東氏攻める。
材木城南信長・東水野忠政・西織田信光より攻め落とす。
西条城吉良義昭、信長に属す。
2月 今川軍、三河へ向かった後、北条氏康駿河侵攻。
武田軍・北条軍戦い。帰国武田軍と合流。
3月 善得寺の会盟
7月 氏真、北条氏康娘結婚。
8月 小野政直没。
12月 北条氏政、信玄娘結婚。
80 :
日本@名無史さん:04/10/26 00:21:52
弘治元年3月 家康元服。烏帽子親義元、吉良義安理髪の役。
井伊直親帰国、奥山朝利娘縁組。
5月 今川軍、先鋒松平親乗、蟹江城攻め落とす。7名、蟹江7本槍と呼ぶ。
7月 川中島武田軍への援軍(一宮宗是)
10月 雪斎没、60歳。
81 :
日本@名無史さん:04/10/26 19:29:38
>>鳴海山口教継・教吉今川方となる。
こいつらは、いつの間にかいなくなるんだが、誰にいつ殺されたのかな?
82 :
日本@名無史さん:04/10/26 21:22:23
>>81 天文二十二年(1553年)、父子共々、義元により謀殺。
信長の策略と伝わってまーつ♪
83 :
日本@名無史さん:04/10/26 22:15:20
>小野氏の讒言により井伊直義・直満、義元のため自刃。
>天文二十二年(1553年)、父子共々、義元により謀殺。
義元は愚かで軽薄な男だったようだな。
桶狭間での横死も必然だったというわけか。
84 :
日本@名無史さん:04/10/27 01:29:47
>>82 >>83 サンクス。
この場合、愚かなのはやっぱり山口父子でそ。
鳴海城は、尾張侵攻の重要な拠点。
義元は、信頼できる武将を入れておきたかったのだろう。
85 :
日本@名無史さん:04/10/28 00:33:44
↑
そんなことやってたら誰も信頼してくれなくなるよ。
86 :
日本@名無史さん:04/10/28 20:36:44
続きです。
弘治2年2月 名之内城戦い。織田方奥平貞友・貞能。今川方(松平忠茂討死、家忠継ぐ。)
3月 野寺原戦い。信長対今川軍(松平忠次功績)
滝脇戦い。今川方松平親乗。織田方松平乗清(乗清・乗遠・正乗討死)
4月 吉良義昭西尾城に牧野貞成入れ、義昭東条城へ移る。
今川軍攻め、荒川氏内通。酒井正親攻入る。牧野牛久保へ戻る。
8月 雨山城戦い。織田方菅沼定継・奥平貞勝・貞能。
今川方菅沼定村・小笠原氏興(定村・定貴・定満討死)
9月 藤波畷戦い。今川方本多広孝(大久保忠包・鳥居氏討死)
吉良方富永忠元、忠元討死。
12月 今川軍攻撃。菅沼定継討死、奥平父子退却。
87 :
日本@名無史さん:04/10/28 21:07:19
弘治3年1月 家督氏真に譲る。家康、築山殿と結婚。駿府火事、百余軒焼失。
8月 朝比奈泰能没。
鵜殿長持没。
永禄元年2月 寺部城鈴木重辰(吉良方)今川軍攻落とす。
(家康初陣・匂坂長能功績、名倉氏討死)
3月 品野城松平家次、織田軍攻める。織田方竹村長方討死。
5月 船渡橋戦い。織田方遠山景任家臣、山内氏。
今川方奥平貞勝・信光
88 :
日本@名無史さん:04/10/28 21:23:08
永禄2年 山口教継沓掛城・大高城水野忠氏攻略。
沓掛城近藤景春・大高城鵜殿長照入る。
信長西に丸根砦、北に鷲津砦築き、大高城包囲。
10月 奥平貞勝、大高城へ兵糧入れる。
89 :
日本@名無史さん:04/10/28 22:15:24
永禄3年1月 品野城松平家次・戸田直光、織田軍攻め落される。
2月 家康、広瀬城三宅高清攻める。
5月 三河守となる。出陣。家康、大高城へ兵糧入れる。
家康丸根砦・朝比奈泰朝・井伊直盛鷲津砦、攻め落とす。
桶狭間戦い戦死者名
今川義元・三浦義就・井伊直盛・蒲原氏徳・飯尾乗連・松井宗信・関口氏緑
一宮宗是・由比正信・久野元宗・久野宗忠・庵原元政・松浦康直・後藤真泰
江馬秀時・奥山朝宗・尾上氏・富永氏・小野政直の子2人
沓掛城近藤景春討死、落城。
鳴海城岡部元信、刈谷城水野信近討死、攻め落とす。水野信元奪い返す。
終わりです。
90 :
日本@名無史さん:04/10/28 22:25:10
桶狭間の戦いはあまり関係無い気がする。
のちの信長の活躍を見れば、義元がマヌケというよりも、信長がスゴすぎた。という解釈が自然だ。
むしろ、
徳川幕府の創設者を人質にしていたってのが、江戸時代に幕府から叩かれたんじゃないか。
91 :
日本@名無史さん:04/10/29 01:49:58
しかし、家康にとっては保護者だったとも言えるからなぁ。
家臣にとっては暴虐な支配者だったかも試練が。
93 :
日本@名無史さん:04/10/31 21:19:33
>>74 井伊家は、その後直親が永禄5年、謀反の疑いで氏真に殺され、直盛の娘
直虎が継ぎます。直平は永禄6年、飯尾連龍の勇猛な妻に毒殺。85歳。
直政は、直親の友、新野新矩に守られますが、彼が戦死すると母が松下之綱
の義兄清景と再婚。直政は養子として育てられます。
又、築山殿の母は、直平の娘という話もあります。
94 :
日本@名無史さん:04/11/01 00:14:28
95 :
日本@名無史さん:04/11/01 03:39:40
>>92 徳川にとっては一応、元・主家たから情けはかけてもらったっぽい。
高家の扱いだったけど、軍紀物でこき下ろされてるという意味だと思う。
96 :
日本@名無史さん:04/11/01 21:58:37
>>94 普通はそうだと思うのですが、井伊氏と言う説も見かけたので
書いてみました。
名将言行録?では評価されてたよね?
98 :
日本@名無史さん:04/11/02 01:48:14
99 :
日本@名無史さん:04/11/06 01:21:07
age
100 :
48:04/11/06 23:37:32
強要じゃない、教養がある点
101 :
日本@名無史さん:04/11/13 04:52:30
age
102 :
日本@名無史さん:04/11/13 20:44:58
>>100 よい和歌でも残しているかな?
まあ、最後の最後で躓かなければ、父祖のあとを受け継いで今川家を栄えさせた点、
戦国武将として、優秀なほうだが。
評価って蹴鞠の上手さ?
104 :
日本@名無史さん:04/11/14 22:08:31
今川家の毎年1月13日は、歌会始め。毎月1回月次会があったよう。
105 :
日本@名無史さん:04/11/23 04:06:03
age
106 :
日本@名無史さん:04/12/01 18:45:26
>>104 それは雅な!
しかし、家来も途惑ったんじゃないかな?
107 :
日本@名無史さん:04/12/01 19:52:43
桶狭間の戦いを見ると、どう見ても義元は戦死するような状況ではなかった。
第4回川中島で兵隊の半分が戦死した武田信玄なんか死ななかったのが不思議なのと比べて。
(通常兵力の5%が戦死なら敗走、1割戦死なら陣形は木っ端微塵の惨敗・家康の三方が原とか)
金ヶ崎の退き口の信長、秀吉、三方が原の家康、長篠の勝頼と比べても、戦死する確立は低かったはず。
勝負は時の運とはまさによく言ったもの。
108 :
日本@名無史さん:04/12/01 21:21:58
織田信長の密偵の神主が桶狭間に行って、戦勝祝いだといって
義元以下をグデングデンになるまで酔わせていたからさ
信長は意外にも、密偵使いの名人なのよ ああ見えても
武田信玄まで、笛の音でおびき出してズドーンと仕留めてる
凄腕の忍者使いよ
109 :
日本@名無史さん:04/12/04 18:45:58
110 :
日本@名無史さん:04/12/05 01:35:59
>>108 信玄を撃ったのは、忍者ではなくて、
雑賀あたりの鉄砲名人を、信長が雇ったのかなと思う。
111 :
日本@名無史さん:04/12/05 03:38:57
確かに信長って都合のいいときにライバルが死んでくれるよな。
斉藤義竜、武田信玄、上杉謙信、佐久間信盛…
結構暗殺部隊を持っていたのかもしれん。
「竜牙会」みたいな。
で、そのトップは秀吉。
112 :
日本@名無史さん:04/12/05 09:28:26
佐久間信盛?
113 :
日本@名無史さん:04/12/05 10:29:03
実は秀吉は未来からやってきた人物で、信長に手を貸していたんだよ。
114 :
日本@名無史さん:04/12/05 12:14:22
↑全然おもんないわ、シネば
115 :
日本@名無史さん:04/12/05 12:23:26
>111
でも、最後の詰めで本人が死ぬとは・・・・
116 :
日本@名無史さん:04/12/06 00:36:01
>>110 しかし、信玄が野田城を包囲して、呑気に笛の音に聞き入るとまでは信長は予想できないし、
必然性もないのだから、
信長が狙撃手を野田城に派遣したという説はとりにくい。
しかし、信玄を撃った特大の銃は現存しているので、普通に野田城の家臣だったのだろう。
信玄は出兵の前に労咳を発症していたので、いずれにしても上洛途中で死ぬ運命だった。
117 :
日本@名無史さん:04/12/06 01:22:08
>>116 労咳って案外長生きできるんだよね。
沖田総司もそうだし、高杉晋作なんかもそう。
12月に三方が原の戦場に立てた信玄がその後3ヶ月程度で死亡ってのは早すぎる気がする。
118 :
日本@名無史さん:04/12/06 01:32:16
沖田や高杉が死の3ヶ月前にどれぐらい動けたか調べてみたら?
119 :
日本@名無史さん:04/12/06 21:48:34
信長が秀吉を猿、猿と呼んでいたのは、秀吉が信長の忍者部隊の
「引き猿」の隊員だったからではないか?
秀吉のルーツは丹波の樹下というサンカという説もある
それを知ってた信長は秀吉を中国方面軍隊長に抜擢した
↑
正しい歴史認識ですね。
( ´д)ヒソ(´д`)ヒソ(д` )ヒソ
122 :
日本@名無史さん:04/12/07 01:23:52
>>116 しかし、鉄砲名人は1人だけというわけではないのだから、
10人くらい雇って、信玄が包囲しそうな城に派遣しておくことはできるだろう。
たまたま野田城に派遣された名人が任務を達成したわけだ。
123 :
日本@名無史さん:04/12/07 21:31:28
おまけみたいな話だが、今まで信玄像とされていた画像は信玄とは違うね
信玄の親父の画像もヤセギスだ 信虎だったか? あんな筋肉モリモリマン
みたいではなく、おそらく信虎みたいなヤセギス体型だろう
あのよく出る画像は畠山なんとかの画像だとかいってたなあ
124 :
日本@名無史さん:04/12/07 21:47:36
武田信玄像、足利尊氏像、源頼朝像、聖徳太子像、などが別人ないし捏造といわれている。
いまさら言われてもなあ・・・・、イメージ固定してるし(w
今川義元像って、あったっけ?
125 :
日本@名無史さん:04/12/08 00:03:22
木像なら
126 :
日本@名無史さん:04/12/09 02:33:49
ああ、あの目が細くてツルンとした顔のやつね<義元
127 :
日本@名無史さん:04/12/09 05:08:36
↑
ええっ!?
朝鮮顔??
128 :
日本@名無史さん:04/12/10 00:42:47
「おじゃる」というのは本当に今川さんは言っていたのでしょうか?
129 :
日本@名無史さん:04/12/10 04:22:07
>>128 朝倉義景とかの方が京かぶれだったのでは?
130 :
日本@名無史さん:04/12/10 20:59:10
>>129 大内義隆とかの方が京かぶれだったのでは?
まあ室町時代の武家貴族が
18世紀の公家の言葉を使ってたら
そりゃ面白いわな
132 :
日本@名無史さん:04/12/12 08:43:46
>>107 桶狭間って結構今川の有力武将が死んでいなかったっけ?
133 :
日本@名無史さん:04/12/12 09:49:27
天正10年(1582)織田信長は甲斐の武田勝頼を滅亡させた帰路、駿府に立ち寄った。
徳川家康は、町の入り口に茶屋を設け信長を歓待した。
信長は
今川の流れの末も絶果てて 千本の桜ちりすぎにけり
と詠んだ。
134 :
日本@名無史さん:04/12/14 01:18:35
>>133 信長の和歌はうまいんだか下手なんだかわからんな
>>132 死んでないよ。
そもそも基本的に敗れたのは今川義元の本隊だけだが。
136 :
日本@名無史さん:04/12/14 07:10:01
>>132 まあ君がそう思うのなら、
具体的にどんな武将が死亡したのか記してよ。
俺が調べた限りでは少なくとも「有力武将」は
見あたらなかった。
137 :
日本@名無史さん:04/12/14 08:34:01
>>135-136 >義元が死ぬ前と死んだ後では、兵力、志気、武将の状態が全然違う。
>桶狭間山の戦いでは、義元だけが討たれた訳ではなく、
>由比正信、三浦義就、井伊直盛、松井宗信など
>多くの今川の重臣や城主が戦死している。
ってか
>>89に書いてあるじゃん。
・・・アホ?
138 :
日本@名無史さん:04/12/17 23:18:17
>>102 和歌での話なら、戦場で斥候が敵と遭遇し戦い討ち取って
しまった為、法に触れ誅されようとした所、一首献じました。
刈かやに身にしむ色はなけれども見すてがきは露の下折
義元これを聞いて怒りを解き許したといいます。
NHKは今川義元の大河ドラマを作るべきだ!
いつも信長ばかり目立ってずるいぞ。
140 :
日本@名無史さん:04/12/19 12:32:17
信玄・信長・家康の別の面が描かれるかも。
友であり、ライバルでもある義元に対する複雑な感情の信玄。
強大な義元に苦悩する信長。 一途な若き家康。
142 :
日本@名無史さん:04/12/20 02:15:45
アナルセクースに励む稚児義元
ホモ達の雪斎と汚い策謀をめぐらして兄を虐殺する義元
女の色香に惑わされて駿東を失い、地団太を踏んで悔しがる義元
急に肥大化し、白粉お歯黒にはまる義元
馬に乗れないほど肥大化し、輿で旅に出る義元
敵前で酒におぼれ、不覚を取る義元
命惜しさのあまり、足軽の指にかぶりついて抵抗するも、斬首される義元
敵中に孤立するも、暗主義元の首を奪い返して堂々と帰還する岡部元信の雄姿
すばらしい大河になりそうだな
143 :
日本@名無史さん:04/12/21 00:05:37
あんた詳しいけどひねくれすぎ
144 :
日本@名無史さん:04/12/23 17:09:01
前スレかどっかかとにかくいつも書いてるけど
義元のママ(なんだっけけいしょうにだっけ?)で作ればいいよ
普通に永井路子の「姫の戦国」原作で
145 :
日本@名無史さん:04/12/23 19:33:13
ああ自分で思い出した 別人と混同した
桶狭間でおっ死ぬまでは
別に波瀾に満ちた生涯ってわけでもなさそうだし、数時間のドラマで終われるよ。
それならビデオに撮って見るしさ。やってくれ。綱吉やるぐらいなんだしやってくれ
147 :
日本@名無史さん:04/12/25 00:12:03
麿と呼ばれた男、義元
草薙の義元で無駄にイメージアップ?
まあそれもいいか…
149 :
日本@名無史さん:04/12/25 17:54:00
>>146 おぬし、今川の血塗られた歴史を知らぬな
寺で坊さんとして人生終わるはずが、兄貴が氏んでいきなり当主に昇格
そして立ちはだかる異母兄と当主の座を巡って小戦争。
↑
ここらへんが血塗られてるのかね
151 :
日本@名無史さん:04/12/26 04:33:33
坊さん時代は兄弟子からいじめられる→かわいい女の子が慰めてくれる
→初恋になる→でも病気で死んじゃう→後にそっくりさんが現れ側室にする。
相続争いも「ともに今川を支えていこうではありませんか」と異母兄と
仲良くしようとするが雪斎が勝手に攻撃。義元号泣。でも実は生き延びてて
山本勘助と名を変え武田信玄に仕え復讐の機会をねらう。
といった感じで脚色バリバリにすればいいんじゃないでしょうか
152 :
日本@名無史さん:04/12/26 11:36:13
側室といえば、武田氏が亡くなった後、たぶん冷泉為和の娘だと
思いますが冷泉殿がいたと思います。この時後妻に奥殿がいるの
ですが冷泉家より名家の娘と言うことになるのかもしれません。
「あ〜れぇぇ〜」
「よいではないかよいではないか〜」
やってそうだな
154 :
日本@名無史さん:04/12/27 21:46:01
age
155 :
日本@名無史さん:04/12/29 00:31:44
>>151 ワラタ。大河ドラマの本質的なところをよくつかんでいる。
156 :
重複:04/12/30 07:14:18
159 :
日本@名無史さん:05/01/09 23:53:43
age
↑
保守荒らし
161 :
日本@名無史さん:05/02/18 11:29:14
ほしゅ
162 :
日本@名無史さん:05/02/21 21:35:20
義元は、天文7年11月20歳の時、当時敵国の北条領は熱海に微行しています。
そこで会った、六角氏家臣小倉三河守と語らい気に入ったためか、身分を明かし、
仕官を求めます。彼には断られますが、替わりに翌年、子の小倉正孝が駿府に来
て仕えました。
彼は小豆坂の戦いで、織田随一の豪勇、槍武藤を組伏せ討ち取ったり、
日比野弘就兄弟・青木一重父子・小原鎮実・坂井大膳を推薦し仕えさせています。
彼らや、子の小倉資久が掛川城開城まで仕えていたのは、義元に仁があった為
ではないでしょうか。
163 :
日本@名無史さん:05/02/21 22:45:43
以前のスレで今川の子孫を調べたら「田代まさし」が嫡子となっていたそうですw
運悪く首を取られた挙句に子孫はジャンキーの覗き魔。むくわれないな・・・
164 :
日本@名無史さん:05/02/22 01:18:12
>>162 人質時代の竹千代への態度を見ても、そこそこ仁愛ある人だと思ふYo
竹千代の人質時代を見た人からの貴重なご意見です
名門の御曹司だからなあ。
167 :
日本@名無史さん:05/02/24 21:58:52
>>164 義元は、家康元服の時、「家康は、年まだ若いと言えども、其の分別が明なのは
全く天より得たもののようだ。成年になれば、如何なる大人物となるか知れない。
広忠が今生きていたら、どれほど喜んだろう」
と、涙を浮べて喜んだそうです。
168 :
日本@名無史さん:05/02/25 20:13:54
>>167 涙を浮かべて喜ぶなんて、ちょっとオーバーじゃないかな?
義元が元康に望んでいたのは、大人物になることよりも、今川の忠臣になることだっただろうし。
リップサービス
170 :
日本@名無史さん:05/03/05 15:40:07
>>168 義元は、竹千代の屋敷の隣に、祖母(源応尼)を住まわせた。
織田家での扱い(寺に軟禁)と比べて、思いやりに満ちていたといえるのではないか。
171 :
日本@名無史さん:05/03/05 22:46:29
たんそく
172 :
日本@名無史さん:05/03/13 19:43:28
どうなが
173 :
日本@名無史さん:05/03/21 00:13:17
氏輝の死から、花蔵の乱までの経過。
・氏輝の時の朱印状や判物が、初めは寿桂尼、そして氏輝と替わって、また寿桂
尼・氏輝と出されている所から病弱だったんじゃないか。
・氏輝の補佐に、寿桂尼と次男彦五郎がいて、この3者による派閥があったんじ
ゃないか。
・義元と恵探は駿府を中心に、東西に大きなお寺に居、義元は喝食で雪斎1人が
付いていたに対して、恵探には重臣福島氏、本人は住持という身分だった。
・氏輝と歌ってばかりで評判が悪かった冷泉為和と、武田氏と共に戦った北条氏
の元ヘ1ヶ月も滞在した後、10日後の3月17日氏輝・彦五郎死亡。
・北条氏は、氏輝平癒を願って、僧侶に祈祷させているのに対して駿河には見当
たらない。
・氏輝・彦五郎毒殺、氏輝入水自殺という伝説あり。
・瀬名氏貞、義元を立て、5月3日将軍より家督相続認可。
・5月10日駿河乱れ、鎌倉鶴岡八幡造営の木材調達滞る。
・5月24日寿桂尼、恵探に同心。
・6月8日岡部親綱・北条氏援軍と花蔵城落し、寿桂尼から渡った大切な書類を
取り返す。
・6月14日恵探自害。
・義元政権、親武田路線へ変化。
・瀬名氏貞変死。
氏輝の死と、寿桂尼の動きが謎です。
174 :
日本@名無史さん:05/03/21 01:02:03
寿桂尼は氏輝と義元の実母だから、
>・5月24日寿桂尼、恵探に同心。
て謎だにゃ。
脅迫に屈したのか?
>>174 確かに謎。ではあるけど、たいがいの本では「調停しようとした」
と解釈されてるようです。
調停しに行くのと同心するのとでは意味が違ってくるでしょうが、
仮に寿桂尼が恵探を支持したとすると、かなり矛盾が出てくるかと…
岡部親綱が取り返したのは幕府からの書状で、承芳(義元)に家督を
継がせる認可が書かれたものだったと推測されてるので、やっぱり
寿桂尼はその書状を見せて「頼むから内紛は起こさないでくれ」と
説得したと考えるのが自然ですね。
で、調停は失敗、争う気満々の恵探派に取られていたと
176 :
日本@名無史さん:2005/03/29(火) 22:53:37
義元を擁立した瀬名氏貞が変死、てゆうのも謎だな。
まさか、義元による謀殺?
>>173 証拠が無く有力な説でもないので、そのつもりで↓
長男の氏輝と次男と彦五郎の2人がいなくなって得をするのは誰か。
今川の支配が弱くなることを喜ぶのは隣国の武田や、いまだ独立心の
強い遠江の国人領主たちもいるかもしれないが、当主の座を狙う
身内の存在も可能性として否定できない。
ぶっちゃけた話、義元による謀殺説。
これによってつじつまが合うことが2つ。
「寿桂尼が恵探に同心」実の兄を殺してまで当主の座を手にしようとするなら
実の子でも敵に回すことも辞さない母。
「注書を取り戻した岡部左京進への感状」説得に向かった寿桂尼は
福島越前守に監禁されていたとされるが、いつ開放されたのか?
注書以前に、母を無事に保護したことへの感謝がない=監禁されたのではない
一応、こんな説もあります。
ネタなんで、つっこめる人はつっこんでね。簡単だけど。
(ついでに
>>176 この説にのっとって考えると、口封じですかね)
178 :
日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 11:22:56
>177
黒幕は雪斎。という説はどうよ?
あと親北条派と親武田派の外交上の争い、とか。
179 :
日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 12:16:44
俺が答えるからもう少し疑問点を箇条書にしてくれ
180 :
日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 20:41:42
>>177 本当の義元ってこんな感じだったのかもしれない。
表の顔で周りをだまし、裏で修験者・忍者等使って
謀略・暗殺繰り返すみたいな。
181 :
177:慶長410/04/02(土) 02:14:19
今年は慶長410年なのか・・・・・・
>>178 義元のために雪斎が仕組んだというのもありえる話だと思う
雪斎は庵原氏の出なので、駿河に戻ってきた時点で「派閥の一員」
になっていたのは考えられるけど、ただ、花蔵の乱でこの人が何してたのか、
裏で動いていたのか静観してたのかは不明。それが逆に怪しい?
あと、外交上の意見対立はあったとしてもその延長で氏輝暗殺→花蔵の乱
というのは過激な気がする。福島氏は親武田派ではないと思います
>>180 暗殺はわからないけど、修験者を利用していたことは確か
でも義元が情報戦を得意としていたなら、傘下にいた有力部将を逆心の疑いで
斬ってしまったという話の真偽が疑われます(戸部新左衛門・山口左馬助・井伊直満など)
戸部と山口については織田の謀略ということになってるけど・・・・?
182 :
日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/03(日) 02:34:24
山口左馬助については、信長の謀略によるまでもなく、
義元は、自分の意志で殺したと思うな。
根拠はないけど、
尾張侵攻に鳴海城を使うなら、その城は自分の信頼できる部下に管理させたいし。
183 :
日本@名無史さん:2005/04/03(日) 08:13:14
>>181 花蔵の乱の後、生き残りの福島氏が武田領へ逃げているので(結局
殺されているけど )少しは繋がりがあったかもしれない。
>>182 戸部新左衛門・山口左馬助について、宮城谷昌光が、風は山河より
の中で、尾張今川の家臣だったと書いてあった気がする。
184 :
日本@名無史さん:2005/04/06(水) 21:02:29
185 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 12:41:01
家康は信長への敵討ちを氏真に提案したが、氏真が
腰抜けなのを見抜き、信長に鞍替えした
186 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 12:52:12
戸部新左衛門と戸部新十郎って関係あるの?
>>185 いかにも徳川家臣が考えそうなことだね
本多か大久保あたりか
188 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 23:55:43
189 :
日本@名無史さん:2005/04/10(日) 01:15:02
190 :
日本@名無史さん:2005/04/10(日) 09:19:07
>>189 小倉資久は、長篠の戦で武田方として戦死しているようですね。
元は氏真18人衆の1人で、岡部正綱と共に駿府城篭城までい
たようです。
191 :
日本@名無史さん:2005/04/10(日) 11:08:12
192 :
日本@名無史さん:2005/04/10(日) 12:13:07
今川と織田の国力って実は大差が無かった。
今川としては、織田信長が
尾張を磐石なものにする前に
織田を叩く必要があった。
駿河・遠江・三河 70万石
尾張 57万石
で、桶狭間の時点では、信長が固めていたのは尾張半国程度。
よって、今川としては、信長が尾張を完全に固める前に
信長を潰さなければいけなかった。
193 :
日本@名無史さん:2005/04/10(日) 21:29:08
>>191 氏真政権の、最高意思決定機関である評定衆のことです。
>>192 尾張の内、謀略等で、今川方へ寝返らせていた所もあるようです。
海東郡の蟹江城、春日井郡は品野城松平氏・落合城・桑下城・秋葉城
愛知郡は鳴海山口氏・笠寺城戸部氏?・沓掛城近藤景春
知多郡は長尾城岩田安広・冨貴城戸田氏・材木城・大野城佐治信方
寺本城花井信忠・大高城。後、何処の城主か分からない服部将監。
合わせたら2〜3割くらいは今川方じゃ無いかと。
194 :
日本@名無史さん:2005/04/11(月) 01:09:40
>>193 >>何処の城主か分からない服部将監
長島の坊主・服部左京進と同一人物でしょうか?
義元に呼応して、小船で百人ほどを率い、熱田に攻め込みましたが、
町人の自警団に40人ほどを殺されて逃げました。
195 :
日本@名無史さん:2005/04/11(月) 11:55:07
大国・尾張というのは、
国主であった、足利一族最高の名門・斯波氏の弱体後、
長らく、分裂状態にあった。
それが久々に統一されつつあったわけだな、信長が家督を相続する頃に。
で、義元としては、大国・尾張の統一を何としても阻止しなければいけなかった。
しかも、尾張が統一されると、駿河と京都の道がさえぎられ、
しかも、その尾張統一者が、今川氏と足利同門の斯波氏ではなく、
成り上がりものの織田氏だった。
今川氏はかなり追い込まれていた感情だったと思う。
よって、あの2万5千(実際は1万8千?)という兵力は
相当、無理していた兵力であり、どこまで統一されていたか疑問。
三河なんか松平の子倅を外戚にすることで、なんとか影響力を行使していたみたいだが、
その松平の子倅は、18松平で一番影響力があるという程度で
必ずしも、松平宗家とは考えられてなった上に
三河といえば、今川と同門の吉良氏が国主としての権威が高かったと思う。
196 :
日本@名無史さん:2005/04/11(月) 12:03:17
今川家としては、かなり時代の変化に漠然とした不安感があったと思う。
かつては、東海道沿いに、斯波氏・吉良氏・今川氏・鎌倉公方家と
足利の名門が完全に抑えていた時代から
義元の時代には、
織田氏・松平氏・今川氏・後北条氏(伊勢氏)と変化していた。
残された清和源氏の名門・足利一門は、今川氏だけになっていた。
これは、同じく清和源氏の名門だった甲斐・武田氏も
「最近、織田氏・徳川氏のような新興の者に急速に
取って変わられつつある...我々も改革しなければ...」
みたいなこと言っている。
197 :
日本@名無史さん:2005/04/11(月) 17:37:44
198 :
日本@名無史さん:2005/04/11(月) 20:50:54
>>194 ありがとうございます。
伊勢長島一向衆の指導者を味方につけていたと言う事ですね。
>>197 そうでした。
刈谷をそのままに桶狭間に向かったのは、最初に大高城を救って
周りを固めると同時に、織田と水野の間を遮断して、水野が孤立
することにもなりそうです。
199 :
日本@名無史さん:2005/04/12(火) 02:36:23
つーか、家柄がいいだけの駿河の一大名義元が仮に武力で上洛したとしても何もできないんじゃあないの?
本拠地をはるかに離れた京都で孤立し、路頭に迷った挙句松永あたりに切腹を命じられるのが関の山と思われ。
>>200 家柄がいいことは当時では軽視できない要素ですよ。
朝廷・幕府への根回しも活発にしていた今川氏が「家柄がいいだけで上洛しても何もできない」というのは
過小評価だと思いますが。
松永個人に今川へ切腹を命じる権利はないです。それには幕府・朝廷の有力者を取り込む必要がありますが、
今川も権力闘争は覚悟の上で上洛するでしょうから、指をくわえてるとも思えません。
202 :
日本@名無史さん:2005/04/14(木) 22:51:02
織田氏を降したとしても、義元が上洛できたでしょうか。
畿内では、将軍義輝と三好長慶が和睦していて、わざわざ今川氏を
引き入れる必要が無いと思う。
上洛を目指すとしたら、9カ国に及ぶ勢力の三好氏に対抗するため
斎藤・六角・朝倉・北畠・畠山等味方につける必要がありそう。
203 :
日本@名無史さん:2005/04/15(金) 02:35:16
>>202 やがて松永による義輝暗殺事件が起こるので、
義昭が、今川に転がり込んでくる。
こいつを担いで上洛だ。
204 :
日本@名無史さん:2005/04/15(金) 06:28:55
桶狭間で、今川が織田を倒していたら、
今川がその後の織田の地位に居た可能性大。
駿河+遠江+三河+尾張=約130万石。
で、こうなれば、当然、
分裂気味の隣国・美濃への制圧も
信長が辿ったように、義元も辿るだろ。
駿河+遠江+三河+尾張+美濃=約190万石。
信長の京都上洛時よりも、より巨大な勢力として
今川義元は上洛を果たしていたと思われ。
ただし、年齢から考えて、義元の生存時までに天下統一まで
進んでいたかは分からない。
>>200 義元が大軍を動かしたのは上洛が目的では無くて、
尾張平定が目的だったという説もあるけどね
>>205 むしろそっちの方が信憑性は高いですね。
尾張を制圧することで三河湾と伊勢湾の制海権をさらに強くでき、
陸上でも伝馬ルートを清洲・長島へ延ばせる。
流通の発展は、商人を通して大名の収入増につながるし、
京から下向する公家、僧など文化人へのイメージアップにもつながる。
氏親、氏輝、義元が打ち出した政策からして、こういうメリットを考えなかったとは思えない。
石高を書いてる方がおられますが、太閤検地以降のものですか?
その土地の生産力としては参考になるデータだと思うけど、
そのまま当時の「財力」「軍事力」に当てはめてしまうと
ちょっとギャップがあるような気がしますが、どうでしょう?
(スポンサーとなる商人の力関係、金山開発とその収入、兵役につながる法整備など)
207 :
日本@名無史さん:2005/04/18(月) 12:02:06
尾張を統一できても氏真の代ですべてあぼーん、
なんてことにならないのかな?
208 :
日本@名無史さん:2005/04/18(月) 20:14:17
>>206 駿河は(駿河を東・中・西に分けて中と西は)応仁の乱から、
信玄の侵攻までの約100年間、戦乱が無かった土地なので
(氏親・義元の家督争いの時以外)国力は高かったと思います。
209 :
日本@名無史さん:2005/04/18(月) 20:23:21
上洛だけだったら謙信も果たしてるけどね。
210 :
日本@名無史さん:2005/04/18(月) 22:45:41
>>206 確かに戦国中期と太閤検地の時代では
石高は多少違っていると思うが...
でも、農耕社会の速度なんて、非常に緩やかなんだし...
太閤検地の頃の数字は結構参考になると思うよ。
211 :
日本@名無史さん:2005/04/23(土) 14:18:03
>>208 駿河の中・西部って、さほど耕作地はないんじゃないの?
212 :
日本@名無史さん:2005/04/24(日) 10:47:29
>>211 答えにはなりませんが、今の東には、沼津・富士平野、中には
清水・静岡平野、西には、志太平野があります。
耕作地だけじゃなくて国力には経済力も含まれるよね
駿河湾江尻港(清水港)なんかの海運拠点
214 :
173:2005/05/01(日) 21:50:26
追加を書かせてください。
・義元が、氏輝の菩提寺に臨済寺(臨済宗)を建てたのに対し、
寿桂尼と朝比奈元長が、遺言場所に、仁和寺より呼んで清水寺(真言宗)
を建てている。
恵探派の、朝比奈又二郎・千太郎は、元長・信置親子か?
・丸子の誓願寺が、天文年間に丸子城の戦乱で焼失しているが、花蔵の乱
の事か?
そうなると、恵探派の斎藤四郎衛門と、丸子城主斎藤安元は同一人物?
215 :
日本@名無史さん:2005/05/03(火) 00:13:36
>>213 :日本@名無史さん :2005/04/30(土) 12:26:57
>耕作地だけじゃなくて国力には経済力も含まれるよね
>駿河湾江尻港(清水港)なんかの海運拠点
まあ、確かにそうだが
基本的に、農耕社会というのは
人口=農耕生産量=経済規模=動員兵力
だから、国力は石高に比例する。
216 :
日本@名無史さん:2005/05/03(火) 13:21:34
農耕社会じゃないし
218 :
日本@名無史さん:2005/05/03(火) 18:05:05
>>217 世界のGDPの変遷を見れば分かるが
だいたい、産業革命が起こるまでは
世界の国々の経済規模は、ほぼ人口に比例していた。
現在のように、経済規模が、必ずしも人口に比例しなくなったのは、
工業化社会の賜物である。
よって、戦国時代も、基本的に
農業生産量=人口=経済規模=動員兵力 という法則が変わらない。
勿論、農業以外の部分も多様に反映はされるが、
総体的に見れば、石高の大小が、国力に反映された。
>>214 かなり詳しい資料・情報をお持ちのようでうらやましい
いや、煽りじゃなくて純粋に
おいらは推測しかできないので、逆質問させてもらいますが
清水寺は恵探の菩提寺として建てられたのですか?
朝比奈元長に関しては
花蔵の乱で恵探派だった領主は一門だった堀越氏も粛清されているので
もしそうだったなら、所領の減封や没収などあってもおかしくはないかと
氏真の時まで重臣でいられた、また寺を建立できるほど力があったということは
乱にはそれほど強く関与していなかったということではないか…?
斎藤安元に関しては
天文年間で丸子で戦いがあったとすれば、やっぱ花蔵の乱かと。
もう1つ考えられるのは、第一次河東一乱の際、北条に内応した者がいて、
それが駿河西部だった場合、丸子城まで戦火がおよんだ可能性も?
で、斎藤氏は花蔵の乱の前後でどう変わったのかおいらも知りたい…
安元は氏親の時代には重臣だったはず…
>>218 おいらは
>>206で石高基準の考え方に疑問を投げた者です
太閤検地での石高で各国の国力(生産力)が推測できるというのには
異論はありません。それは人口・動員兵力にも比例すると見られるので。
石高基準を否定したいのは、桶狭間前夜の織田と今川の比較についてです。
検地をもとに寄親寄子のシステムを確立して富国強兵につとめた今川と、
尾張国内をなんとかまとめつつあった織田との動員兵力を、単純に国力で
はじき出すことはできないのでは?という意味です。
しかも尾張下四郡のうち2郡は今川が割って入っている状況で、果たして
どこまで家臣が本気になってついていったのか…
この頃はまだ、国力から導き出される動員兵力は「分母」でしかなく、
統治状況によって変動するもの、と考えます。
220 :
日本@名無史さん:2005/05/05(木) 22:21:22
>>219 いえいえ詳しいとは思っていません。ただ今川について知りたいだけです。
>>清水寺は恵探の菩提寺として建てられたのですか?
分かるように書かずすいません。氏輝の為に建てられたお寺です。
>>朝比奈元長に関しては
元長が罰せられたとは分かりません。
彼は、永禄2年2月15日、自分の屋敷内に元長寺を建てています。
(屋敷は静岡市沓谷にありました。)
義元は、天文12年朝比奈又八郎吉周の罪を赦し朝比奈郷を返付し、沓谷村・
藁科庄の一部を与えています。
221 :
日本@名無史さん:2005/05/05(木) 23:36:40
>>斎藤安元に関しては
丸子城の斎藤氏は、氏親が家督を継ぐまでの10年間、丸子で匿い、育てて
きた一族です。
斎藤という姓は、弘治3年、斎藤佐渡守元清・弾正忠親子という重臣。
桶狭間戦死者に斎藤掃部助利澄という名があります。
斎藤安元は、連歌師宗長と最も親しく、自分の屋敷の近い所に、草庵柴屋寺
を建てさせています。又、扇谷上杉氏は、彼と20位の大きな戦いに参戦し
太田道灌がいるにもかかわらず、彼の提言は、すべて的確だったと褒めてい
ます。丸子城主は彼の後、福島安房守?くらいしか分かりません。
222 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 21:19:30
斎藤氏の続きです。
出身地は、富士郡原田村斎藤。今でも地方に名士がいます。
応永23年(1416)禅秀の乱の時、今川範政は、斎藤弾正・加賀守らに持氏
救出を命じています。
利澄が、加賀守安元の子という資料が有りますが、斎藤加賀守が関東公方成氏側
の残党を京都へ護送している年が寛正6年(1465)、この人物が安元だとす
ると桶狭間まで百年近く有るので…。
長田村誌によると、安元は永正17年(1520)まで、福島安芸守忠就が、
天文元年(1532)から丸子城主らしいので…。
斎藤四郎衛門と、斎藤安元は同一人物? はまちがいでした。
223 :
212:2005/05/19(木) 22:21:19
駿河各郡の石高は、こんなものだと思います。
河東 駿東郡4万1千石 富士郡3万5千石
庵原郡2万石 有度郡3万3千石 安倍郡1万2千石
山西 志太郡3万6千石 益津郡1万1千石
224 :
日本@名無史さん:2005/05/24(火) 23:52:15
質問なんですが、よく今川氏の紹介で出てくる
「将軍家が絶えたら吉良が継ぎ、吉良が絶えたら今川が継ぐ」
っていうのの元ネタは何ですか?
徳川時代にも御三家について似たような話がありますが、
これは↑のに習ったのか、逆に御三家のことから足利時代にあてはめたのかが気になります。
あと、吉良も今川も尊氏以前の別れで、家系的に徳川で言うなら十四松平ぐらいのポジションじゃないかと思うのですが、
なんでそんなに重要視されてたんですか?
225 :
日本@名無史さん:2005/05/25(水) 22:39:59
革新の義元の能力値が気になるな・・・
誰か知ってる人いますか?
227 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 01:35:20
>>224 >>吉良も今川も尊氏以前の別れで、家系的に徳川で言うなら十四松平ぐらいのポジションじゃないかと
それなら、ありえない話な気がしますね。
今川家だけで、そう言い伝えていたのかな?(w
>>226 革新って、ゲームメーカー?
たぶん、義元の能力は低めに設定されるだろね(w
228 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 00:40:56
十四松平ほど低くないだろう。
そもそも足利家には御三家・御三卿に匹敵するほど将軍家それ自体の連枝がいたわけでも
ないし、それ以外にも十四も同族の大名家がいないし。
229 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 01:27:41
>>228 でも、尊氏の子孫でないのなら、徳川家の御三家と同じとはいえないでそ
230 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 01:32:36
領地の広さからいえば御三家以上
231 :
日本@名無史さん:2005/06/24(金) 00:30:45
そうやな
232 :
歴史博士(自称)つーさん:2005/06/24(金) 13:18:17
ハッキリ言って今川義元はザコ!。
だってもともと兵士が多かっただけで強いとは限らないし
軍師の雪斎がいたからこそ織田を攻めれた・・・
おまけにわずか二千の織田軍にやられるなんて情けない!
・・・っと思わん?
233 :
日本@名無史さん:2005/06/24(金) 13:33:17
>>232
今川義元はかなり有頂天だったんじゃね?
現在まで「わずか2千の織田軍に敗北」とか語り継がれるなんて
マジ恥ずかしくね?
234 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 22:57:31
age
235 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 14:31:32
駿遠三の太守と、尾張半国の信長では実力差は歴然で、
確かににわずか2千〜3千の織田にやられるのは不甲斐ないのだが、
これは、やぶれかぶれの攻撃がどういうわけか、効を奏したのだろう。
織田がすでに降伏の意思を明らかにしていたので、油断したという説もある。
情けないといえば、家臣に犬や猫のように殺された信長もそうなのだが。
236 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 21:18:14
名神が大渋滞だよ。
もぅ。
だから盆休みは避けようって行ったのに。
バカバカバカ。
237 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 23:39:07
義元の兵のほとんどは農民だが信長の兵は戦い専門の
軍人みたいなものだったみたい。
だから一人一人のやる気も実力も違ったんだと思う。
>>237 兵農分離のことを言いたいんだったら、時代が違うぞ。ボケ!
別にいんじゃないの?
〜みたい
〜思う
根拠があるわけでもなし
>>228 > 十四松平ほど低くないだろう。
> そもそも足利家には御三家・御三卿に匹敵するほど将軍家それ自体の連枝がいたわけでも
> ないし、それ以外にも十四も同族の大名家がいないし。
畠山・細川・斯波の三管領家が御三家に当たると思うが。
241 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 20:00:35
三管領は井伊程度だろう。
御三家と井伊や酒井とは、ほとんど主家と家臣の関係に近いわけで。
そう考えると足利時代の三管領は、
>>240と
>>241の中間程度の格だったと思われる。
三管領って足利一門であっても、徳川家と十四松平のように完全な主君、家臣の関係のような。
将軍家の後継ぎが絶えたときに管領家から養子、ってのは想像できん。
ところで、足利宗家が絶えると吉良が継ぎ、吉良も絶えると今川が継ぐ、というとかいう話があるが、
あれってマジかいね?
>>243 それのソースって何なんだろね。実際に吉良や今川が跡継いだことはなかったわけだし。
それと将軍の一族扱いされた(らしい)吉良/今川と、管領として力を握った斯波/細川/畠山では
どっちが家格は上だったの??
話題がループしておらぬか?
> ところで、足利宗家が絶えると吉良が継ぎ、吉良も絶えると今川が継ぐ、というとかいう話があるが、
> あれってマジかいね?
徳川家康が天下を取ったときに作った方便のような気がする。
吉良から系図を借りて源氏を名乗って征夷大将軍になったから吉良を立てざるを得なかったんだろうね。
247 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 22:07:18
age
吉良、石橋、渋川の三家は将軍一門として「殿」付で呼ばれる家格なんだが。
だから?
どういう理由でそういう伝承になってたかは知らん
一応前例としては
源義家┬源義親─源為義─源義朝─源頼朝
│
└源義国┬[新田]
│
└[足利]
鎌倉幕府を興した源頼朝と、足利・新田との関係はこう
もちろん他にも有力な御家人はいたが、足利の子孫である尊氏が
室町幕府を興したのは周知の通り
足利義氏┬足利泰氏┬足利頼氏─足利家時─足利貞氏─足利尊氏
│ │
│ ├[渋川]
│ │
│ ├[一色]
│ │
│ └[斯波]
│
└[吉良]┬
│
└[今川]
んで、その足利尊氏と吉良・今川との関係
この他に枝分かれしたので有名なのは細川や畠山など
源頼朝キター→鎌倉幕府あぼーん→足利か新田だな
足利尊氏キター→室町幕府あぼーん?→吉良か今川ジャマイカ
という庶民の想像
251 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 15:35:32
信玄が、氏真を追って駿河に入った時、裏切った葛山氏・瀬名氏が
約束どおり駿河半国と、今川姓を名乗らせるよう言った時。
「主君を裏切っておいて、何を以って功というか。汝ら如き禽獣に
駿河は過ぎた物だ。
今川姓を求める事も、雀が鷹を願うようなものだ。
且つ等持院の遺言書にも、足利宗家が絶えると…と見える名門なり
自分が決められるものではない。上洛して頼んで来れば良い。」
と言ったとか。
>>251 等持院といえば「等持院殿仁山妙義大居士」のことか。
これは足利尊氏の戒名で砂。
ということは、ここに紹介されている遺言書とは、あの
「他人の悪を能く見る者は、己が悪これを見ず」で知られる
『等持院御遺書』ということで?
253 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 19:58:26
>>252 信玄の言葉がのっていた書物から、書いてみたんだけど
等持院御遺書の内容までは知らないです。
254 :
YAP?:2005/08/01(月) 00:56:48
鎌倉時代、足利氏一門中では、吉良氏(西条)と尾張氏(斯波氏)が、
家格が高かったのですが、例の霜月騒動で、吉良氏の勢力が落ち、まあ、
斯波氏並の家格になったのではないかと私は思っているのですが。
今川氏は、東條吉良氏同様、吉良氏の庶家扱いで、そんなに家格は
高くなかったようです。
「三管領」は本来足利氏家臣の職務だった「執事」が、初め、高氏の
ほぼ世襲職だった(ひょっとしたら、上杉氏も高氏と同格だったかもしれません)
のが、高師直のやりすぎで、高家から、「足利氏の庶流一門中でも、血縁の最も遠い」
仁木氏、次いで細川氏に移り、「執事」そのものの地位は高くないとしても、
なんと言っても「実権」があり、畠山氏、斯波氏と足利一門中でも、家格の高い
家が将軍の「執事」を勤めるようになり、ついに「斯波氏」が「将軍家執事」に
なったときに、「執事」の名を改めて「管領」と呼ぶようになったとされています。
まあ、鎌倉末期から南北朝初期にかけて、足利一門中で、宗家以外に「足利」を称して
良いのは、斯波氏(尾張氏)と吉良氏だけだったとされています。
斯波高経は、太平記では「足利尾張守高経」としてでてきます。
255 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 19:46:19
義元が、当時、海道一の弓取りと言う評価だったということは
六角義賢・斎藤道三・北条氏康より上と言う事なのでしょうか。
六角義賢・斎藤道三・北条氏康の領土って「海道」じゃなくね?
上も下もないと思うが?
258 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 07:11:00
海道って、東海道の事かと思ったんだけど。
259 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 07:46:36
桶狭間だぎゃー
260 :
日本@名無史さん:2005/08/20(土) 11:34:03
>>255 >>義元が、当時、海道一の弓取りと言う評価だったということは
それは、京都の貴族など、客観的な立場のものが評価したものなのかな?
織田や北条が、義元が一番だと認めるわけはないし。
今川の側のものが、「うちの殿さんが一番強いぜ」という意味で言ったものだろうと思う。
261 :
日本@名無史さん:2005/08/20(土) 16:52:37
>>260 義元の評価が低いのは、桶狭間で敗れた結果を後世の人が判断しているだけ。敗れる前の当時は、今川は軍事強国。北条はともかく、織田なんて尾張平定がやっとの弱小国にすぎん。
>>261 小豆坂の戦いで小兵力の信長のとおちゃんに負けてたね
戦上手とまではいかない大名だったのでは
むしろ外交、行政手腕が巧みだったのかもね
うちの墓、桶狭間の跡地だよ。
264 :
日本@名無史さん:2005/09/05(月) 00:01:54
良スレ保守
266 :
日本@名無史さん:2005/09/25(日) 05:53:54
267 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 16:20:20
>>261 実際、8倍近い軍勢を率いていながら桶狭間での戦死だから
その点は無様としか言い様が無い罠。
あと、今川研究者にロクなのが居ないってのも‥特に小和田
268 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 22:00:07
世界のGDPの変遷を見れば分かるが
だいたい、産業革命が起こるまでは
世界の国々の経済規模は、ほぼ人口に比例していた。
現在のように、経済規模が、必ずしも人口に比例しなくなったのは、
工業化社会の賜物である。
よって、戦国時代も、基本的に
農業生産量=人口=経済規模=動員兵力 という法則が変わらない。
勿論、農業以外の部分も多様に反映はされるが、
総体的に見れば、石高の大小が、国力に反映された。
ある時期まで、ローマの経済規模は軍事規模に比してかなり小さい
カルタゴ、ギリシャ等は逆。
271 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 22:46:25
272 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 08:45:11
age
273 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 18:11:20
うほ
274 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 22:00:56
大河ドラマ「功名が辻」桶狭間見ました。義元が「おのれ信長」と言い
討って出ようとし家臣に止められている場面があり評価が少し上がって
いた。
小和田さんが時代考証に参加しているようですが、桶狭間山に織田軍の
謀略で本陣が置かれていました。
実際には、戦いの2日前に今川軍による陣地作りがなされていて、
前もって本陣・砦が置かれるのは決まっていたような。
275 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 22:45:35
今川家の子孫ってのはいるのか?武田や織田いるようだが・・・w
276 :
日本@名無史さん:2006/01/09(月) 14:19:54
タシーロ
277 :
日本@名無しさん:2006/01/09(月) 17:58:48
武田信玄は、死に際でも京都上洛に固執していた。
その信玄が、いくら恩義ある同盟者とはいえ、今川義元の上洛を
指をくわえて見ていたとは信じられん。
>>277 当時の信玄には上洛を邪魔に思う動機は無いのでは?
また、スレッドのタイトルにも背反しそうでアレなんですが、
いわゆる桶狭間合戦の今川方の出兵目的は上洛ではなく、
大高城への後詰め、ないしは織田家の内部抗争を好機と見ての、
西三河,尾張への侵攻という説もあります。
だとするならば直接敵対する訳でも三ヶ国同盟の力関係がさほど変わるわけでもなし、
取り敢えずは今川家に織田家とあたってもらい、
戦況が拙い場合は後からゆっくり口と手を出す選択肢もありでしょう。
279 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 20:49:15
今川義元は名将。愚将としか見てない奴は糞
280 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 03:21:23
>>278 上洛路付近の斎藤や浅井六角などに調略かけた形跡がないので、
単なる義元の尾張侵攻戦だったという説。
282 :
バイブ・フェミ辻清の陰毛いや陰謀を刈れ!:2006/01/30(月) 00:23:45
283 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 22:22:50
>>275よ
今川家は氏真が家康に拾われ、
幕府の旗本となり明治のはじめに断絶
武田家は家康5男の信吉の死によって断絶
織田家は弱小大名としてずーと存続、今も存続
284 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 06:02:01
自分は特に資料を持っていたりというわけではないので深い知識はないのですが、
小説やなんかで主流でスレのタイトルにもなってる義元上洛説ってのは実際のところどうなんでしょう?
スレ内でもいろいろ書かれてる方がいますが、
どうも上洛説はその時期、義元が朝廷などに働きかけた形跡がないなどあやしい節が多いようで。
現在は尾張平定説が主力っぽいですが、本当に10倍とも言われる軍で信長を叩くためだけに出兵したんでしょうか。
それともそのへんの兵の数やら義元と信長の勢力差も実際は違ったのでしょうか。
どなたかご存知の方いらっしゃいましたら教えてください。
信長が篭城した場合を考えたら10倍の兵力が必要でしょ
ただ集めたけど、10倍まで集まらなかった
10倍は虚妄
この戦いで信長の配下は、
少なくとも総勢5000以上が動いている。
今川は総勢で25000か20000がせいぜい。
多く見積もっても5倍、下手したら3倍程度だ。
砦や支城を切り取るだけなら10倍もの兵はいらないでしょ。
288 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 08:35:57
◆今川家◆スレ 消えた?
一部で聖典と化している『信長公記』では今川勢は4万5千と書いてある。
この数字はどうなのよ?
290 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 00:13:58
氏真には朝比奈泰朝をはじめ家臣数十人が最後まで従ったところを
みると人望は無いわけではなかったのではないだろうか
彼にだっていいところはあったかもしれないし
291 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 00:34:23
今川義元の子孫はいますか?
292 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 22:06:21
>>291 全国に散って、今川焼き屋をやっている。
293 :
日本@名無史さん:2006/03/24(金) 21:38:35
男系はいないんじゃないの?
294 :
日本@名無史さん:2006/03/26(日) 21:57:57
>>293 最近の報道特番等で、はじめて男系という言葉を理解した人に、軽々に使ってもらいたくはないね。
295 :
日本@名無史さん:2006/03/26(日) 22:18:35
今川焼きはどう見ても100万石=兵力25000人
信長公記は三国史記程度のレベル 朝鮮人が書いた物です
296 :
日本@名無史さん:2006/03/26(日) 23:18:14
>>.295
ど素人きたああああああああああああああああああ
尾張、三河、他の飛び地を合わせると40000でもけっしておかしくはないのよ。
うちの大学の研究室ではもっと多くても不思議じゃない結果がでてるよ。君の言うような数の上だけではねwww
297 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 15:10:02
なんで誕生日がわからんのだ!
桶狭間に出陣した兵は公的には4万と言われてるが実際は2万5千らしいぞ
4万ではないにしろ、1560年当時、2万五千も動員出来た今川がすごいよな。
もしかして、義元って凄い男だったのでは?
そりゃ義元は有能でしょう。
大国の主だから動きが鈍いけど。
>>300 義元に関してはきちんとした領国経営、巧みな外交と見るべき所も多かろうに、
あの一戦が全ての評価を地の底に落としている感があるからなぁ。
信長の総動員数がせいぜい5000という所に25000の戦力を投入したのに、本陣を衝かれて当主があえなく頓死。
体制の委譲が出来ないうちに息子が家督を継いだら戦略正面である西部方面の領主が独立。
武田、徳川の挟み撃ちで家臣が裏切りまくって今川家は崩壊。(武田崩れよりはましだが)
あの一戦が御家の致命傷になったのは明確ですからねぇ…。
挙句に織田信長のヤラレ役として描かれ、徳川史観で叩かれて、評価が上がる訳が無い。
教科書に必ず出てくる知名度の持ち主だ。
出てきて早々お亡くなりだが。
303 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 02:12:34
>>299 確か、北条の援軍が、2000位いたはず。
304 :
日本@名無史さん:2006/04/20(木) 00:28:44
桶狭間の時、今川軍を裏切って織田方に内通していたという武将とかいるのかな
本陣付近に織田軍が近づいてきたら分るんじゃないかと思ったが・・・
>>301 うむ、しかもそうした悲惨な終わり方ゆえに敵役として後世に出てきた姿は
40過ぎの脂肪腹&おたふくほっぺで白粉&お歯黒の物凄くキモいオカマ親父
って言う徹底して醜く汚らわしいキャラに貶められちゃったものな
今川義元の成分解析結果 :
今川義元の83%はやさしさで出来ています。
今川義元の16%は言葉で出来ています。
今川義元の1%は電力で出来ています。
尾張今川氏というのは、跡を継いだ義元の弟の氏豊が織田信秀に
居城の那古野城を乗っ取られた時点で滅んだのでしょうか?
(乗っ取られ方がマヌケなんだよなあ・・・)
日本人の尊敬する人?ていうテレビで一位が信長、相変わらずの桶狭間評をしてたな。
いい加減学習しろよ、て感じ。
309 :
日本@名無史さん:2006/05/20(土) 18:29:28
ナニが真実なの?
310 :
日本@名無史さん:2006/05/20(土) 21:18:37
>307家は滅んでも、当主(氏豊)は駿河に逃げたのでは?
311 :
日本@名無史さん:2006/05/20(土) 23:05:53
312 :
桶狭間役:2006/05/21(日) 00:03:07
今日我々が描いている信長像を作り上げたのは
明治35年当時の陸軍参謀本部が作成した『日本戦史 桶狭間役』によるところが大である。
この『桶狭間役』では、信長が奇襲攻撃によって今川義元を破ったと記述している。
ところが、『信長公記』では、真っ向からぶつかったとされている。
陸軍参謀本部にとって桶狭間の戦いを奇襲攻撃とした方が、軍事の指導書として好都合であったからだ。
では何故、真っ向からぶつかった説を採用しなかったのか・・・
それは、戦力分析をした場合、つじつまが合わなくなり、戦史として参考にならなかったからだと思う。
あるいは、『桶狭間の戦い=だまし討ち』となってしまうことを恐れたのかも知れない。
実は桶狭間の戦いの真相は「信長が今川義元に降伏するともちかけて、桶狭間におびき寄せ、いきなり義元を襲った。」
のではないかという説もあるのだ。
313 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 00:46:10
たまには佐久間大学を思い出してあげてください。
314 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 00:57:58
>313大学が氏んで、信盛が佐久間一族の惣領となる。追放後は盛政か?
315 :
桶狭間役:2006/05/21(日) 10:10:32
桶狭間合戦というのは、元々が今川義元が上洛のための通
行だけの話で、その前日まではのんびりしきっていた。だから重臣達も、まさか折り
からのにわか雨で、
「今川の鉄砲も濡れていては火縄に点火もできまい。ただの棒っきれではないか」
と咄嗟に心変わりし、決意した信長が、ぞろぞろ集まってついてきた野次馬を動員、
逆さ落しに雨宿りの今川義元の本陣を襲って大勝利を得たとは、清洲へ戻ってくるま
で知らなかった者が多かった。つまり先代信秀の頃からの譜代の武者で、桶狭間合戦
に加わったものは殆どいないのである。
「三万五千石の今川義元が無事に尾張領を通過して上洛するを妨げぬ保障」
にと、信長が長子の奇妙丸を人質に入れ、尾張領の安堵状を貰ってくるものとばかり
重臣は思っていた。だから話によっては今川勢の先手となって上洛するのだろうと、
その準備をするために己の所領へ戻っていた重臣がほとんどだった。
ところが乾坤一擲の博奕というか、信長のだまし討ちが見事に成功してしまったの
だから、不参加の重臣達と信長の間は、それからはどうも溝ができてしまい気まずく
なっている。
316 :
桶狭間役:2006/05/21(日) 10:11:30
従来の説では今川方から先制攻撃をされて、鷲津、丸根の砦が落され、全員玉砕し
たのを信長は宮の浜(熱田)から望見し、ここで決死の覚悟をつけた信長が善通寺砦
から桶狭間へ奇襲をかけた事になっている。
ところが、世にも不思議な事に、その九年後の永禄十二年八月二十日に伊勢に出陣
した時、信長が武辺の者を選んで母衣衆二十名を選抜したが、その赤布をはらませて
背へつける赤母衣十人衆の中に「飯尾隠岐守定宗」が入っているのが、確定史料の
「当代記」にみられる。
鷲津砦が玉砕したものなら、そこを守っていた飯尾近江守の跡目が生き残れるはず
がないし、またその従弟にあたる遠州引馬城主の飯尾連達にしても、今川義元の伜の
氏真に、
「信長を手引きして父義元を殺した大逆謀叛人」とはっきり云われて、駿府へ来てい
るところを狙われて殺されたのは「駿府小路の戦い」というが、飯尾の妻が薙刀に白
粉をはたいて血滑りを防ぎ、十数人を叩き斬った話も、戦時中の「軍国日本女性の精
華」の本には出ていた。
317 :
桶狭間役:2006/05/21(日) 10:12:31
つまり桶狭間合戦の真相は、人質を伴って降参に行った筈の信長の裏切りなので、
表向きは「先に攻撃され、やむなく」と取り繕っている。
だから、丸根砦で討死した筈の佐久間大学が、天正八年に信長から追放されて高野
山へ追われた佐久間信盛と同一人であるという説もある。
というのは信盛というのは老臣とはなっているものの、桶狭間合戦から十年たった
元龜元年の長光寺合戦までどこにも名が出てこない。なのに突如二年後の三方ヶ原合
戦には堂々と信長の名代で徳川の加勢に出される程の旧臣だから、従来の桶狭間合戦
の話はきわめて疑わしい。
おもしろい
つまらん
いや、実に興味深い。信長の桶狭間、本能寺の変は不可解な点が多い。
色々な角度から見るとおもしろい。
321 :
四戦紀聞:2006/05/21(日) 12:21:24
根岸直利の『四戦紀聞』によれば、信長が桶狭間でしたのは裏切りです。和
平交渉が進んでいるのに裏切ったんだから、この時の生き証人は佐脇甚八、山口飛騨
守らの側近の四人だが全部、第一線にもってゆき棄て殺しにしようとしているのに、
彼ら四人は気づき、家康のところへ逃げ込んだ。信長には弱みのある家康は、いざと
いう時の生き証人として彼らを庇護したわけです。ですから、高天神城合戦の時など
は、信長はいくら求められても援兵を出さずゆえ、この四人を仕方なく家康は第一線
へ出して殺してしまって、はじめて信長は生き証人の四人が死んだのを確認してから、
ようやく本腰を入れて長篠の合戦で、武田方を三段構えの鉄砲隊で信長は討ちとり、
家康の味方をして勝ってのけたのである。
322 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 13:31:34
おもしろい。
飯尾隠岐守定宗と飯尾豊前守乗連は従兄弟だったんですか?
この前見た歴史読本だったかな、今まで2千だと思っていたん
だが、信長4千で正面攻撃と書いてあった。
いまでは4千の説が主流なのだろうか。
323 :
YAP?:2006/05/21(日) 16:02:07
いまどき、義元の上洛説を信じている人がいるとは思わなかった。
要するに、働き者の信長が、「うつけもの」と思われつつ、同じ勝幡織田家の
内部の、織田信光、織田信勝(勘十郎、武蔵守)を倒し、織田信次を従え、更に
二守護譜代家(岩倉織田氏、清洲織田氏)・清洲織田守護代家(坂井氏)を
滅ぼし、「清洲三奉行家」の織田藤左衛門家を傘下に取り込み(織田緒因幡守は戦死)、
後、国内の織田家同族で従属しないのは、同じ勝幡織田家の「犬山織田家」
だけという状況になり(しかも、同家ないでも犬山信清の弟はどうも信長に与力
していた可能性がある)、ほぼ尾張半国を手中におさめて、更に父信秀の時代に
従っていた山口氏などの旧領にも、食指を伸ばしてきた状況下で、義元には、
尾張への出兵を、覚悟せざるを得ない状況があったということだろう。
義元は、寝返る可能性のある鳴海の山口氏を粛清して、鳴海・大高両城を最前線として、
この背後に沓掛城をおいて、尾張東部を確保する態勢を作っていたのだ。しかし、
信長は、沓掛城と、前線の鳴海・大高両城を遮断するために、五つの付け城(とりで)を、
鳴海・大高城の「東側」に築いて、次の段階で、尾張東部に出兵することが予測され得た。
義元は、謂わば尾張出兵を行うか、或は尾張東部を放棄するかという決断を信長に迫られていた
というわけだ。
尾張・三河国境いの緒川・刈谷の水野信元は既にかなりはっきりとした織田方だったし、ある意味、
義元の尾張出兵は、信長の準備した「戦場」に誘引されたものだったと考えるべきだろう。
324 :
YAP?:2006/05/21(日) 16:22:24
飯尾隠岐守家と幕府法公衆の飯尾氏の同族関係はあり得るが、どうも従兄弟
とかいった親密な関係だったとは考え難い。
尾張の飯尾氏は、既に勝幡織田家からの養子が入っていたりして、勝幡織田家
の同族集団に組み込まれていた可能性が高い。
また、桶狭間の戦いのときの今川家の兵力だが、大荷駄・小荷駄などの非戦闘員
を含んで2万5千人ぐらいと考えるべきだろう。
その内、鳴海・大高の付け城(鷲津・中島・善照寺・丹下など)の攻略及び
両城の兵糧入れに動員した軍勢には当然戦闘要員が多く含まれており、更に
沓掛城の後方守備要員も除けば、彼の桶狭間における部隊の兵力5千と
いうのは妥当な所だろう。
しかも、その中のかなりの部分は、「輿を担ぐ」要員とか、祐筆、荷駄隊などで
後は従軍した一族重臣の供回り(当然彼等も戦闘要員ばかりではない)であり、
本当の所は、戦闘要員は1000人ぐらいもいたら良いのかどうか疑わしい。
それに対して、信長は、国内の平定戦で鍛えられた「馬周り」といった戦闘集団が
主体で、これが2千人もいれば、桶狭間山を駆け上っての「正面からの強襲」でも
むしろ十分に勝ち目があっただろう。
325 :
何故織田信長が今川勢を破れたのか:2006/05/21(日) 16:43:42
何故織田信長が今川勢を破れたのか、これは正直なところ確かではない。「信長公記」によっても、
故意に年月を十年遡らせてあったり、岩室重休以下近習数名のみを従えて出かけていった信長が、いったい誰の手引きで奇勝を得たのか。この時従軍したらしいと想像される者は、後に粛清されてしまい、
いわゆる信長の家臣団というのは、この戦後に採用されたと思われる新参の連中によってのみ、その後は編成されていく・・・・・・・・・
という奇怪さがある。
326 :
信長記:2006/05/21(日) 16:49:25
『信長記』について「誤りが多い」と筆誅を加えた者がいる。
江戸初期の旗本 大久保彦左衛門忠教である。信長とほぼ同時代を生きた彼は、その著『三河物語』の中で
「『信長記』を見るとうそが多い。三分の一はあったことだ。三分の一は似たことがあった。
三分の一は全くなかったことだ。(中略)いろいろこう書くのは、考えてみれば自分が目をかけた人びとのことを
形もないことを書くと見える。それなら書く者は知恵があってないようなものだ。それで『信長記』にはうそが多いと評判になった。」
と、論破している。
このことから見て、江戸初期においては『信長記』は内容についてあまり信用されていなかったようだ。
327 :
誤解され過大評価:2006/05/21(日) 16:52:51
<天正記>というのは、信長の次の国家主権者の秀吉政権の御用作家が書いたもの。
<当代記>は、筆者が、松平忠明などともいわれているが、次の徳川政権の資料。
<信長公記>と<太閤記>はリライトされ焼き直しをされ、なんともいいようもない
ものだが、今日では誤解され過大評価をされている。
328 :
だまし討ち:2006/05/21(日) 16:53:45
戦国時代における奇襲が、時期的・場所的なものより、
詐術によるものがおおいということからすると、
「だまし討ち」というのが妥当性が高いと思う。
中島砦(だったかな?)に集結中の織田軍を攻撃しなかったのも
「だまし討ち」ならば説明できるし。
329 :
参謀本部「桶狭間役」:2006/05/21(日) 16:54:58
参謀本部「桶狭間役」によれば清洲を出発した信長は熱田を通って前線の善照寺という砦につくと、放っておいたスパイから「今川義元の軍勢は桶狭間で休息中」という報告をうける。
そこで信長は敵の目から行動を秘匿するため大きく迂回し、義元本陣を見下ろす太子ヶ根に到着。そこから一気に義元本陣に切り込んだという。
なにしろ、参謀本部という戦争のプロが、正確な地図を元に詳細に分析したものであるから、これ以上ない説得力をもっていた。したがって明治以来この説は定着し今日にいたっている。
しかし、この迂回奇襲説には史料的な根拠が実はない。そもそも陸軍が古戦史を研究する目的は歴史的事実を明らかにするよりも、そこからどのような戦訓を引き出せるかである。
この当時、陸軍の関心事は満州方面(現在の中国東北部)に終結しつつある仮想敵国ロシアの大軍とどのように対抗していくかであった。
ロシアの大軍とまともにぶつかって勝ち目はない。そこで巧妙な戦略、戦術を駆使して勝利を得る着意が必要であり、そのための教育訓練が必要であった。
その要請に立った場合、まさに桶狭間の合戦は格好の題材であった。
330 :
参謀本部「桶狭間役」:2006/05/21(日) 16:56:16
端的に言えば、桶狭間の合戦で実際に迂回が行われたかどうかは2次的な問題で、重要なのは実際に迂回を行うとすればどのように決断し、どのように行動するかが明治の軍隊にとって重大な関心事であったのである。
だいたい、義元が休憩していた桶狭間から、信長がいた善照寺の砦まで迂回路で約6キロ離れているが、スパイが報告に戻るまで約1時間。信長が軍勢を動かすのに早くても2時間。あわせて3時間はかかる。その間、義元が休憩しているという保証はない。
また、途中、見晴らしのいい場所を通るが、ここを敵に発見されずにどうして通れたのか。
従来の迂回作戦には疑問符が多い。
331 :
義元の尾張侵攻の理由:2006/05/21(日) 20:17:06
義元の尾張侵攻の理由
長らく定説とされてきたところによれば、今川義元の尾張侵攻は上洛、すなわち京都に入って室町幕府の政権を掌握するためだったと考えられた。
しかしながら、義元は今川氏を継承してから長らく三河、尾張で漸進的に勢力を広げる戦いを繰り広げており、尾張をほとんど制圧していない状況で一挙に上洛を目指すという、冒険的決断をしたとするには難がある。
確かに、後に足利義昭を奉じて上洛する織田信長や、次いで京都に入って信長に代わって中央権力を掌握しようとした武田信玄らの例はあるが、当時の義元の置かれていた状況は大きく異なる。仮に、信長や信玄が上洛の名分に利用したように、
将軍やそれに準じる者からの上洛命令などがあったとしても、客観的な情勢と、義元の従来の領土拡大の方針からみて、この軍事作戦が命令に従って行われたものとは考えにくい。実際、義元が1559年に発行した出陣準備の文書にも「上洛」の文字はない。
332 :
「迂回攻撃説」 :2006/05/21(日) 20:18:32
善照寺砦を出た織田信長は、今川義元の本隊が窪地となっている田楽狭間(または桶狭間)で休息を取っていることを知り、今川義元の首を狙って奇襲作戦を取ることに決した。
織田軍は今川軍に気づかれぬよう密かに迂回、豪雨に乗じて接近し、田楽狭間の北の丘の上から今川軍に奇襲をかけ、大混乱となった今川軍を散々に打ち破ってついに義元を戦死させた。
333 :
「正面攻撃説」:2006/05/21(日) 20:19:14
善照寺砦を出た織田信長は、善照寺砦と丸根、鷲津をつなぐ位置にある鳴海城の南の最前線中嶋砦に入った。
信長はここで桶狭間方面に敵軍が行軍中であることを知り、その方向に進軍。折からの豪雨で視界がきかないうちに田楽坪にいた今川軍に接近し、正面から攻撃をしかけた。
今川軍の先鋒は織田軍の予想外の正面突撃に浮き足立ち、混乱が義元の本陣に波及してついに義元は戦死した。
334 :
寝耳に水:2006/05/21(日) 20:25:18
義元軍は、長旅と振舞いにうとうとして、弓、槍、鉄砲、さしもの乱し身支度を整える間もなく信長軍が突っ込んで来るなど寝耳に水だった。今川軍は混成軍で敵味方の区別もつかず、大混乱の狼狽となった。
義元は塗輿も捨て、崩れ逃げり。始めは三百騎ばかり丸になって囲み退きけるが、四、五度、かえし合い、次第に無人となり、敵味方乱れかかり火花を散らし、相まぎれ死人数知れず、服部小平太、義元に打ちかかり、毛利新介、義元を打ち臥せ、頸を討ち取る。
深田へ逃げ入り、ハイズリ廻る者に追いつき、二つ三つ頸を討ち取り持ち帰った。信長、総大将義元を討ち取り、熱田神宮に立ち寄り、勝利の礼を申し上げると、その日のうちに清洲へ御帰陣。
335 :
司馬遼太郎:2006/05/21(日) 20:26:50
信長のえらさは、この若い頃の奇跡ともいうべき襲撃とその勝利を、ついに生涯みずから模倣しなかったことである
336 :
織田信長の生家:2006/05/21(日) 20:51:45
桶狭間の合戦で、‥‥あの時、今川義
元は何も戦争をするんだったら、尾張なんか隣国だから、まず掃討作戦を先にやって
おくのが常識。彼は「なんとかして三万五千の軍勢を無傷で京都へ連れて行かなきゃ
困るわけ」なのゆえ、途中で道草を食って戦争なんてしたくないわけだから、あの時
点においては、信長は今川義元に、とっくに降参していたわけです。ところが桶狭間
というところは、今の中日グランドのあるところで、昔は平手庄といって平手政秀の
領地織田信長の生家です。
337 :
鉄砲をふんだくる:2006/05/21(日) 20:52:28
休んでいる時に雨がザアーザァー降ってきた。そこで雨が降ると、当時の鉄砲は火
縄銃だから役に立たない。ただの棒キレにすぎない。先発隊には全然一挺も鉄砲をも
たせず、本陣に五百挺の鉄砲をみな置いていたのをば、信長は雨がふってきたので思
い切って襲った。結局は毛利小平太なんかが、今川義元の首をあげたけれど格別の出
世はしてないです。『当代記』を読むと、後に本能寺の変の時に二条城で、やっぱり
小姓頭で、伜の岩というのと共に一緒に討死してるわけです。信長の主目的は鉄砲を
ふんだくるだけでした。
338 :
あんまり強くない:2006/05/21(日) 20:54:34
永禄初年ではまだ国産はできず貴重品で、鉄砲ゆえに降伏し
ていた信長は戦力を増したことになるわけです。
ところが、それでも、織田信長の軍勢はあんまり強くないんです。そのせいか永禄
七年に「上総介布令」なるものが「駿河[掛川?]志稿」の中には残ってます。
>337
毛利小平太って‥‥忠臣蔵の話ですか?
340 :
毛利新介と服部小平太:2006/05/22(月) 20:13:59
織田信長の家臣、毛利新介と服部小平太は、尾張併呑を企む今川義元の大軍との決戦の為、主君信長に率いられ出陣する。
まだ20歳の若武者ながら武功を信長より誉められた馬廻りの新介に対し、小平太は34歳になる徒武者ながら、信長好みのすばしっこさを兼ね備えており、二人は互いに向きあった場所に屋敷を持つ、身近で気さくに話し合える間柄であった。
今川義元の顔を知るという、甲斐武田家の原美濃守虎胤の三男で現在は尾張に住む桑原甚内を見つけた織田家は、桶狭間に今川義元が居ると報告を受けると大将である義元の首を狙い今川軍を急襲する。
乱戦の中、甚内の証言により義元を見つけた小平太が一番槍にて攻めるも、義元の見事な太刀さばきに逆襲されると、小平太の危機を見つけ駆けつけた新介により義元は討ち取られる。
戦後、新介が感状を受け取ろうとした時、一番槍は自分であると小平太が主張すると、信長は新介と小平太の二人による手柄だとし、二人に感状を出す裁定をくだす。
桶狭間の合戦から4年後、信長は尾張統一を果たし、現在は美濃斎藤龍興との戦いに専念していた。
小平太も義元への一番槍を認められ徒武者から馬廻りに昇進していたが、新介は更に昇進し剛勇の証である黒母衣衆へ抜擢されていたが、二人は信長の旗本として仕えていた。
新介と小平太は信長に呼び出され、桶狭間での乱戦で討ち死にした桑原甚内の遺髪を甲斐武田家にいる原美濃守へ届けるように指示される。
341 :
最上義光:2006/05/22(月) 20:52:47
今川軍の中には無理矢理動員された農民もいた。織田軍は小規模だが、訓練を積んだ兵士が殆んどだった。いわゆる少数精鋭軍である。
今川軍は本拠地駿河から遠江、三河を通過してきたから、兵士も疲弊していた。
一方、信長は尾張統一まで多くの戦場を駆けてきた。時には圧倒的に兵力が自軍より勝る敵を撃破した時もあった(稲生の戦い)。信長は桶狭間以前から戦上手になったのだ。これらの事から、「正面攻撃説」も有り得ない話ではないと思う。
今川軍は戦下手とは言えないが。
342 :
日本@名無史さん:2006/05/23(火) 17:24:01
織田精鋭説、今川疲労説かあ.....苦しいなあ。
正面攻撃で今川軍が崩れて壊乱、本陣まで巻き込みじゃないか。
味方の敗走軍に巻き込まれるのが一番危険。
343 :
信長は佐脇藤八以下近習5名のみを従え:2006/05/23(火) 21:09:09
信長は佐脇藤八以下近習5名のみを従え、せっぱつまって出かけていった。
昼頃になって、今川義元は信長の母方の里の平手の庄へ押し寄せた、と伝わってきた。
平手は今の中日球場の裏側で桶狭間の近くである。
344 :
千余の鉄砲をばぶんどって戻ってきた:2006/05/23(火) 21:10:04
さて、夕方になって降参しに行った筈の信長が、千余の鉄砲をばぶんどって戻って
きた。これには清洲にいた家来もびっくりしたが、奇蝶も驚いた。
「いわか雨にやれれて鉄砲の火縄が湿って使い物にならないと見てとるや、信長様は
電光石火の変わり身の速さで戦見物に集まってきた野次馬を指揮、恩賞づきで鉄砲を
かっぱらわせ、ついで義元をも倒しなされたのだ」
と伴をしていった小姓頭岩室重休は言ったが、
「では‥‥裏切りではないのかえ」奇蝶としては、この時割り切れぬものを感じた。
が、信長には黙っていた。
345 :
鉄砲を使って美濃を攻めた:2006/05/23(火) 21:11:18
その翌年の永禄4年から信長はぶんどってきた鉄砲を使って美濃を攻めたが、先方
のほうが強く、五年、六年と連戦連敗。だが永禄七年には美濃三人衆を手懐け美濃を
占領してしまった。
占領地の宣撫工作のために前美濃国主の娘である奇蝶は、井の口城を改築した岐阜城
へと移ることとなった。昔のように夫婦仲がしっくりいっている時には、あまり感じ
なかったような事でも、間柄が冷めてくると疑心暗鬼というか、疑いっぽくなってく
る。
346 :
奇蝶の死んだ母が東美濃明智城の娘:2006/05/23(火) 21:14:22
一つの城とはいえ、夫の信長は本丸。奇蝶はニの丸だから、まぁ別居のようなもの
である。そこへもってきて、奇蝶の死んだ母が東美濃明智城の娘だったから、どうし
てもニの丸へは美濃の者が集まってくるようになった。そして安藤伊賀がある時、
「よもやと思われますが、先年斎藤道三様に伜殿が叛かれましたる真相は‥‥信長様
が『親子ではない』と言いふらす者どもを放って騒ぎを起させたとの由。
347 :
悪党道三:2006/05/23(火) 21:15:37
また、『まむし』『悪党道三』などとでたらめな噂を撒き散らしたのも、みな信長様の小細工と
か。そないに申す者がおりますがのう‥‥」
言われて奇蝶は眼を白黒させたが、
「まさか」てんで本気にはせず、
「わが夫の事をとやかく蔭口をきくものはもってのほかぞ」と叱りつけた。
が、安藤伊賀守は言わねばよかった一言の後のたたりが大変で、天正8年に、この
時の告げ口が信長に洩れ、美濃北方城六万石を召し上げの上に追放処分にされてしま
うが、それは後の話。
つまらん。チラシの裏にでも書いとけ
349 :
日本@名無史さん:2006/05/27(土) 11:54:40
今度の大河ドラマ「風林火山」山本勘助に雪斎をからめてくれないかな。
勘助(母は庵原安房守の妹)と雪斎(父庵原左衛門は安房守)は4歳違
いの従兄弟同士で、お互い軍師として活躍みたいな。
350 :
又も負けたか三師団:2006/06/02(金) 23:58:15
「・・・又も負けたか三師団」といった言葉が戦時中あった。
これは東北健児や九州の師団と比べ、京都と名古屋の兵は弱いのが有名で評判にされたのである。
「名古屋商法」といわれる程、銭儲けにはたけているが、戦場で勇ましい話しはあまり伝わっていない。
つまり接近戦の苦手な尾張兵のため、信長は鉄砲が喉から手が出る程欲しかったのである。
351 :
尾張兵は弱かった:2006/06/03(土) 00:02:58
余談になるが、那古野と呼ばれていた時代から奴隷扱いされていたので、尾張兵は弱かったと想われる。
それが調略とはいえ、伊勢を押さえ近江まで進出出来たのも天の王朝復活のため、八の民が進んで協力したからである。
352 :
地域解放だけを目指していたようである:2006/06/03(土) 00:04:43
信長は鉄砲隊を全面に押したてて、尾張から美濃、伊勢、近江と進軍して、三河以東の騎馬民族の末裔たちが頑張る土地は家康に委せたのも、それなりの訳があったのである。
どうも信長は、日本全土制覇といった野望は無く、同宗の圧迫されていた地域解放だけを目指していたようである。
353 :
又も負けたか8連隊:2006/06/03(土) 00:10:59
大阪市中央区法円坂1丁目「難波の宮」の西端にある「歩兵第8連隊跡」の碑。
子供の頃は、スポーツの試合などで負けが続くと『又も負けたか8連隊』との言葉をよく交わされたものだが、今では死語となった感がある。
354 :
またも負けたか八連隊:2006/06/03(土) 00:18:56
自衛隊の出身地ランキングで大阪は47位と最下位です。
大阪人は、口は達者だけれど、逃げるが勝ち、死んだら損と考えています。お国のためにという意識もあまりないと思います。
富国強兵時代の日露戦争のとき「またも負けたか八連隊」というあだ名で呼ばれた陸軍の連隊があったところですからね。大阪を中心とした八連隊は、日本陸軍の中では、最も弱かったそうです。
355 :
YAP?:2006/06/04(日) 15:02:55
「又も負けたか、八連隊。それでは勲章九連隊」と言うのは有名ですね。
今川家が天下を取る
→2代目の治世で蹴鞠が盛んになり、蹴鞠は武士のたしなみとなる。
→庶民も武士をまねて蹴鞠を行い、史上空前の蹴鞠ブームとなる。
→欧米からサッカーが伝わる、蹴鞠に親しむ日本人はすぐにそれを受け入れる
→史上最強のサッカー大国誕生
357 :
日本@名無史さん:2006/06/25(日) 02:37:32
むしろ蹴鞠が世界的にメジャーなスポーツになり
サッカーの代わりに蹴鞠のワールドカップが行われる
ようになる。
そして、朝鮮が蹴鞠の起源を主張する。
上杉謙信最強
360 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 01:05:55
>>356 >→2代目の治世で蹴鞠が盛んになり、蹴鞠は武士のたしなみとなる。
蹴鞠はそれ以前から武士の嗜みではあるんじゃないの?
361 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 18:29:26
今、ものすごくおもしろいことを考え付いたのでまずはご報告。
夏の風物 戦国風鈴 「蚊惨」 一騎 2800両
涼やかな風鈴の音によってきた蚊は、その音に秘められた蚊絶滅波長でいちころです。
一家に10騎、どうぞ。 ご贈答、ご進物にもどうぞ。
有限会社 牛一
このスレにも、お役にたつとのことですので、はっておきます。 主
362 :
日本@名無史さん:2006/07/12(水) 18:05:18
いよいよ
今川氏真が信長に謁見した上、
長篠の戦いに参加までしていたとは驚き
364 :
天寿を全う:2006/07/16(日) 00:00:58
「海道一の弓取り」と謳われた父・義元は言うまでもなく、
武田・北条の後継者(武田勝頼、北条氏政・氏直)と比べても
なお低い評価がなされている。武将としてより「公家あるいは
江戸期の大名として生まれれば大成したであろう」と思われてい
る人物である。名門・今川氏の御曹司・氏真に、下克上で成り上
がった他の戦国武将と同じものを求める事自体に無理があると
も言われている。
氏真は暗君の代名詞的存在となっている。
だが、近年の作品では再評価を反映する形で政治あるいは教養関係の
数値は高目に設定されており、内政に専念させる分には有効に活用出
来るだろう。
また、多くの猛者が散っていった戦国時代において氏真は道楽を満喫
しつつ、生き残ることになる。戦国大名としての物差しを外して見れば、
動乱の時代に居ながらもなお、自分の人生を楽しんで天寿を全うし、
高家に取り立てられた今川氏は後世にその血脈を伝えるのに成功している。
365 :
日本@名無史さん:2006/08/08(火) 23:54:09
明治時代に途絶えたよ。
366 :
ジュン:2006/08/11(金) 18:20:34
家康の初陣に係わる、今川義元感状の新資料が、
茨城県の歴史館ホームページに掲載されていますよ。
H18.8.11
今川義元と吉良義央が不当に貶められている原因は
彼等が足利一門の人間だからではなかろうか?
しかも今川と吉良は足利一門の中でも別格の家だから・・・
368 :
YAP?:2006/08/17(木) 23:11:55
吉良(西条)氏と斯波(尾張)氏は、鎌倉時代末期以降、足利一門中、確かに別格だったが、今川氏は、(西条)吉良氏の、
庶家のあつかいであり、別格というほどではないのでは?
>>368 「御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」
吉良と今川は足利宗家継承権を持っていた、徳川で言うところの御三家に相当。
両家は室町所軍家・鎌倉公方家とならぶ、いわば王族≠フ一員。
ちなみに斯波家は足利宗家を継ぎ損なった家で、越前松平家に相当する家臣筋の家。
斯波氏は鎌倉時代にすでに幕府の御家人として独立しているから、もう別の家。
今川は確かに吉良の分家だけど、足利本家から吉良に養子で入って
改めて分家されているからただの分家でもないということ。
371 :
日本@名無史さん:2006/08/18(金) 01:33:42
>>369 >「御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」
>吉良と今川は足利宗家継承権を持っていた、徳川で言うところの御三家に相当。
この話題って以前も出たんだけど、はっきりとした根拠が示されていないんだよね。
実際そんなに優遇されていたわけでもなし。
講談ネタじゃない?
例によって桶狭間での信長の勝利に箔をつけるため
一時的に義元を持ち上げたとか
>>370 >斯波氏は鎌倉時代にすでに幕府の御家人として独立しているから、もう別の家。
それは吉良氏も同じなんですが。
でも鎌倉時代は名字は足利氏だし、足利本家の当主が幼少のときは、職務代行したりしているから
あくまで足利一族と認識していたのではないでしょうか。
375 :
YAP?:2006/08/20(日) 04:02:09
足利氏一門では、畠山氏も独立した御家人だった(なんといっても、
北条時政の娘だった平姓秩父氏族畠山氏の畠山重忠未亡人を足利義純
が妻にして、持参金の領地から「清和源氏足利氏族畠山氏」が生じた
のだからな)。
有力庶家が、御家人だったというのはよくある話だ。
多分、今川氏自体も、御家人だったのだろう。
母系の小笠原氏から、領地を相続した話も知られているからな。
今川氏は、本来吉良氏のわかれではなく、僧籍に入ったその弟の子
だったのだが、吉良氏の養子となったのであり、今川了俊も言うように
「吉良氏」の庶家として認められていたのだろう。
西条吉良氏には、もう一つ、足利義継野子孫である「東條吉良氏」という、
これも吉良氏初代の子ではない家系の庶家があるが、まあ、斯波氏(尾張氏)
の有力庶家の石橋氏のような、本来の意味の「庶家」ではない庶家が二家も
吉良氏にのみ、なぜあるのかは疑問だ。
ひょっとしたら、北条氏が大豪族足利氏の勢力を削ぐために、何か細工を
したのかもしれないが。
>>375 >西条吉良氏には、もう一つ、足利義継野子孫である「東條吉良氏」という、
>これも吉良氏初代の子ではない家系の庶家があるが、まあ、斯波氏(尾張氏)
>の有力庶家の石橋氏のような、本来の意味の「庶家」ではない庶家が二家も
>吉良氏にのみ、なぜあるのかは疑問だ。
誤解される書き方している気がしますが(わざと?)
足利義氏の子-西条吉良氏初代長氏(鎌倉時代は名字は吉良でなくて足利長氏) なんだから
足利義氏の子-東条吉良氏初代義継(足利義継) 西条吉良氏初代長氏の子ではないけど兄弟
足利義氏が息子二人に吉良庄を分割して与えたのであって、東条が西条の庶家ではないのでは?
間接的な証拠ですが、鎌倉末期の両吉良家の何名かは”貞”字がついた名乗りをしている。
おそらく北条貞時から貰ったものでしょうから、両吉良氏とも当時の有力な御家人の家柄だったといえるのでは。
あと石橋氏は、鎌倉期の系図もあいまいだし、事実上石橋と名乗った和義が初代みたいなものでは?
ただそういう立場なのに、いきなり各国守護を歴任したり”尾張左近将監”と名乗ったりしているから
尾張家(斯波氏)と無関係ではないかもしれません。(婿とか母方が斯波氏とか)
377 :
YAP?:2006/08/23(水) 02:29:32
吉良氏にしても、斯波(尾張)氏にしても、正式には「足利氏」を鎌倉時代は称していますが、足利氏一門内では、
当然、本宗家と区別するために吉良殿とか、尾張殿(斯波殿)とか、呼ばれていたと思われます。
足利義継は、最初はおそらく、三河国碧海荘長瀬郷に、長瀬左馬四郎義継と称して、分立し、後に、吉良荘
東条を分与されたのでしょうが、吉良荘はいったん、、兄長氏が相続し、その後、分与を受けた(父義氏からか、
或は兄からか?)と考えた方が良いように思います。
義継の経氏は、西条吉良氏の満氏(長氏の子)の養子になったとされていますから、或は、経氏が東条を分与されたの
かもしれません。
今川氏は、長氏の弟有氏の子国氏が、父の出家により、伯父吉良長氏の用紙となったとされています。
(『室町幕府守護職家辞典』)
石橋氏は、斯波氏初代足利家氏の庶長子広沢太郎義利、
その子吉田三郎義博、その子、尾張三郎氏義
という系譜で特に問題がないと思いますが。
尾張三郎氏義、改め和義が、「石橋氏」の初代であることは
勿論ですが、広沢、吉田、大板といった庶家が、尾張氏にも存在したのでしょうが、
なぜか、南北朝期には、石橋氏のみ、現れるのは不審といえば不審ですが。
●今川方の兵力鳴海城守備隊(岡部元信)三千
大高城守備隊(鵜殿長照)二千
丸根砦攻略隊(松平元康)一千
鷲津砦攻略隊(朝比奈康朝)二千
沓掛城守備隊(浅井政敏)千五百
清洲先遣隊 (葛山信貞)四千五百
義元本隊(義元、三浦義就)五千
葛山信貞って誰?葛山氏元の一門?確か、葛山信貞ってこんなに兵力を持ってながら戦死しなかったけか?
詳しい人よろ。
>>379 信貞は桶狭間で戦死したという説もあるそうな。
************************************
義元は十六日に岡崎に着いて、左の様に配軍せしめた。
いおはら
岡崎城守備 庵原元景等千余人
緒川、刈屋監視堀越義久千余人
************************************
十八日には今村を経て沓掛に来り陣し、ここで全軍の部署を定めた。
丸根砦攻撃 松平元康二千五百人
やすよし
鷲津砦攻撃 朝比奈泰能二千人
援軍三浦傭後守三千人
くずやま
清須方面前進 葛山 信貞 五千人
本 軍
鳴海城守備
沓掛城守備
************************************
浅岡今
井部川
************************************
義元 五千人
三信七八百人
政敏 千五百人
くずやま?
ずっとかつらやまだとおもってたが
で、この葛山ってのは一体何者?こんな、兵力抱えて何してたんだ?
戦死って上で言ってる人いるけど、これだけ兵力持って戦死って馬鹿
じゃないか?(笑)
384 :
日本@名無史さん:2006/08/26(土) 15:23:42
乱増刊の永井豪の「前田利家」
桶狭間だったけど義元強かったな
385 :
日本@名無史さん:2006/08/26(土) 17:51:10
桶狭間の合戦は今から見れば、信長は勝つべくして勝ったと見られる嫌いがあるが実際は違うと思われ。
戦時中の日本陸軍が、桶狭間を参考にしようと何度もシミュレーションをやったが結局信長方を勝たすことは出来なかった。
確率的には極めて低い勝利を拾える準備があった信長の能力が評価されるだけで、
三国同盟を推し進め、合戦準備を揃えた今川義元の評価はあまりに低すぎるね。
葛山某は義元討死の報を聞いて退却したが、すでに敵中におり保身を図った味方に首を討たれた
388 :
日本@名無史さん:2006/08/27(日) 11:21:51
葛山家は、婿である北条早雲の子の氏時を養子に迎え、
氏時の孫の氏元は、北条氏綱の娘を妻にしているので、
北条氏に従属していたんじゃないのかな。
それで、北条軍の援軍を率いていたりして。
389 :
日本@名無史さん:2006/08/27(日) 15:21:26
吉良氏とか今川氏は将軍継承権があるといっても
実際に将軍を継いだことは一度もないからな
390 :
日本@名無史さん:2006/08/27(日) 15:25:31
匂いをかげや!
(⌒ ⌒ヽ
∧_∧ (´⌒ ⌒ ⌒ヾ
( ) ('⌒ ; ⌒ ::⌒ )
( ̄ ̄ ̄ ̄┴- (´ ) ::: )
| ( *≡≡≡≡≡三(´⌒;: ::⌒`) :; )
/ / ∧ \ (⌒:: :: ::⌒ )
/ / / \ \ ( ゝ ヾ 丶 ソ
/ / ( ̄) | |\ ( ̄) ヽ ヾ ノノ ノ
/ ( ノ ( | | \ ノ (
⊂- ┘( ) └--┘ ( )
UUUU UUUU
氏元は氏時の弟だったはず。氏時は相模で戦功を挙げてるし。
養子に行ったのは氏元なんじゃないかな
392 :
388:2006/08/28(月) 21:52:23
>>391 氏時の相模で戦功の話は知りませんでした。どうゆうのか
わかったら教えてください。
北条氏と、葛山氏の関係は、今の時点ではわかっていない
というのが現実だと思います。
自分は断定して書いていますが、氏時→氏広→氏元→信貞
と思っている為です。
>>389 源氏宗家や徳川宗家とはあまりにも対照的で
室町将軍家も鎌倉公方家も現在まで続いているしね
>>393 >源氏宗家
って何やねんとつっこんでおこう。
(頼朝の家系のことを言ってるとは思うけど)
ちなみに頼朝の家系は一度も源氏長者になっていませんが。
源氏長者=源氏の宗家でもない(特定の家系に継承されるものではない)けど。
395 :
葛山何某:2006/08/31(木) 21:48:47
葛山氏って、北条の血が濃いんだね。てか、ほぼ、北条の傍流じゃん。今川の家臣というより、与力的な立場なんだね。
で、戦死したの?桶狭間で。
当時、氏元の娘二人は信州に人質としておかれていて、長女の「葛山姓を残したい」との思いに感じた武田信玄は、六男を養子として葛山姓を名乗らせた。これが信貞である。
信貞は今川義元の命で尾州笠寺城を守り、永禄三年義元とともに戦死したと伝える。 ところが、「武田源氏一流系図」によれば、武田氏の一族油川信恵の子油川信貞が、
維康の養子として入ったとも、氏元の娘の一人が嫁いだとも見られる記述が残されている。葛山氏の戦国末期の歴史に関しては、さまざまに伝わるところがあり、そのいずれが真
実を伝えているかはいまとなっては分からないというのが実状だ。
397 :
日本@名無史さん:2006/09/02(土) 17:40:18
義元ってメディアではどっちかというと、信長の敵として悪者扱い
NHKで大河作ってほしい
398 :
日本@名無史さん:2006/09/02(土) 17:56:24
>>142 義元が馬に乗れないは江戸幕府の創作。
あとホモだったとか、お化粧もすべて創作
家康人質にした恨みだ
>>398 それに加えて、今川が足利一門ってことも大きいだろうね。
自称新田一門の徳川・松平一族にとっても足利一門は仇敵。
400 :
今川焼と戦国大名の今川の関係:2006/09/10(日) 20:31:52
戦国大名の今川義元は桶狭間の戦いで織田信長に討たれたことで有名だが、この今川氏の好物が今川焼きとか、伝来の菓子が今川焼きというのは真っ赤なウソなのである。
今川焼きというのは江戸時代に、江戸の神田今川橋付近の店が売りだしたのでこの名前が付けられたという。
皮にともえ形の焼き印を押したものを太鼓焼きとか、どんどん焼きと言うがいずれもきんつばにヒントを得て考案されたようだ。
ところで江戸のころの今川橋は現在のJR神田駅の東側にあり、千代田区鍛冶町となっているが、今も今川橋という交差点がある。しかも区立今川小学校まであり、その名をとどめている。
その名前欄に入れるのやめれ
402 :
日本@名無史さん:2006/09/11(月) 16:32:57
義元本人は公家趣味で武士らしくないが それなりに戦の戦果は得ている
ほとんどは軍師の坊さんのおかげだが
それよりも、息子の教育を誤り、腑抜けの暴君を後継者にしたことが 最大の失策だ
ほとんど無傷の今川軍を擁しながら 弔い合戦もせず家来に見捨てられたDQN蛆座寝
もし優秀な後継者を育てていたら、義元が死んでも今川家は駿河・遠江・三河を併呑して
大大名として後世に残っていただろう
403 :
日本@名無史さん:2006/09/11(月) 16:34:27
朝日新聞の記事は他新聞と比べて一番まともではない
だろうか日本が右傾化しないように社説で繰り返し述
べているはき違えた愛国心を煽るようなマスコミを信
じてはいけない売れさえすればいいという軽薄な商魂
の論説ばかりが国を危うくするのは太平洋戦争で懲り
たであろう機会ある毎に日本の過去の過ちに対する反
省を促し関係諸国との友好を深めようとしているのが
朝日新聞であなまじ知った歴史の一部で全てがわかっ
た顔をすると恥をかくだけだのうのうと生きていら
れるのは平和憲法のおかげであることは間違いない
できもしない自主防衛を唱えていては過去の過ちを
繰り返すだけである不利なことがわかっていながら
国民を煽って戦争に突入し買い物も切符が無ければ
買えもしないような生活をさせながら運用される資
金はすべて軍事行動向け動力になるべき燃料もなく
資源も無い日本が何の大義もない戦争を推し進め
るのは狂気の沙汰としか言い様が無い進軍ラッパ
をもう一度聞きたいのか?
405 :
日本@名無史さん:2006/09/11(月) 17:50:45
>>402 おれがタイムスリップして入れ替わっても氏真よりはましだろう。
松平元康を有効活用して織田(義元をまぐれで倒したとはいえまだ弱体)を倒す。
406 :
日本@名無史さん:2006/09/11(月) 18:06:33
今川氏真が松平元康の能力だったらどうだったかな?で松平元康が今川氏真の能力。
407 :
日本@名無史さん:2006/09/11(月) 21:12:18
桶狭間の後、残った軍勢を結集して織田に再戦挑めば
確実に今川が勝っただろう。
義元の弔い合戦という口実もできて家臣の士気も昂揚
信長が必死で命乞いをしても許さずに切腹(生かしておけば必ず裏切る)
織田家の後継は信長の庶兄の信広あたりにして 今川の家臣に組み込む
松平勢と織田勢を両翼として 美濃・近江を蹂躙して 一気に京都に登り
今川管領→今川将軍へ
氏真でなかったら こういう歴史が待っていた筈だ
408 :
日本@名無史さん:2006/09/12(火) 02:20:00
桶狭間の戦いは、今川2万 織田3千で 正面から戦えば
今川が負ける訳がなかったのだが
義元に油断と慢心があったから 信長の奇襲に敗れて
逝ってしまった
長期戦も視野に入れての尾張責めなんだから
野営なんかしないで、どこかの城に陣取って指揮すればよかったのに
>>408 夜営してしていたわけではないのだが、ちゃんと状況理解してる?
410 :
日本@名無史さん:2006/09/12(火) 23:35:10
>>409 桶狭間に夜営していたところを急襲されたんじゃないの?
「日本三大夜戦」でググってみるといい。
411 :
日本@名無史さん:2006/09/13(水) 11:51:54
>>409 夜はどこに居たのかは知らんwが、桶狭間の戦いで
義元が討たれた日には 今川軍本隊は桶狭間に野営
奇襲を警戒せず 装備もろくにつけてなかったから
あっけなく信長に討たれてしまった
桶狭間スレで、ちゃんと今川軍は警戒を怠らなかったという話もあったけどな
なんかここ10スレくらいで一気にレベルが落ちてるね。
414 :
409:2006/09/13(水) 21:46:07
夜襲じゃないって。どんな史料に夜襲って書いてあります?
Wikiの桶狭間の戦いの項目がその辺かなり整理して書いてあるから見てみれば?
厳島も夜戦じゃないし。(毛利方が上陸したのは夜だけど、戦い自体は早朝)
415 :
日本@名無史さん:2006/09/14(木) 00:00:26
夜襲じゃあないぞ
奇襲だ
416 :
日本@名無史さん:2006/09/14(木) 00:08:29
今川家は吉良家の分家
吉良家の初代は 足利の庶兄
執権北条氏から来た妻が産んだ弟が足利宗家を継いだ
足利宗家が断絶した場合は 吉良家が宗家を継ぐとういう
取り決めが一時期存在していたらしい
>>414 じゃあ日本三大夜戦でググってみろよ。
偏差値の低いこと言ってるんじゃないよ。
なんだこの糞スレ
そもそも「三大○○」なんてのは、美女にしろ、テノールにしろ、
いったい誰が何の基準に基づいて決めたのか分からんのばっか。
420 :
日本@名無史さん:2006/09/14(木) 16:17:43
現代の三大阿呆
・坂田○男
・森元総理
・>419を書いた香具師
>>420 森元総理と坂田のどこが阿呆なのかが分からん
森元総理の政策路線に関しては全然まともだし、
坂田は自らのキャラクターを確立して金もかなり儲けている。
どこが阿呆なんだ?
424 :
日本@名無史さん:2006/09/14(木) 19:42:13
森がブッシュに会ったとき
How are you? と挨拶するつもりが
Who arer you? なんて言ってるんだから
中学生以下の阿呆確定、日本の恥
>>424 ブッシュじゃなくてクリントン。
で、クリントンは少し考えた後、
「ヒラリーの夫です」と返答。
すると森総理
「 M e t o o ! ! 」
426 :
409:2006/09/14(木) 21:45:52
>>419 桶狭間が夜戦っていう証明で"日本三大夜戦の一つだから”ってのは理由にならんでしょうが。
根拠(誰が、どういう史料に基づいてで三大夜戦って決めたのか)を説明しないと。
脊髄反射でなくて、Wikipedia の内容読んで間違っている点があるとしたら
そこを具体的に反論してくれ。
別に信長公記とかを引用してもらってもかまわないけど。
史料に基づかずに妄想で話すのなら、日本史板じゃなくて三国志・戦国板にいってくれ。
427 :
甲斐犬の歴史教室:2006/09/15(金) 17:08:28
兵農分離はかなり、誤解されている。
誤解1 「兵農分離しなければ農繁期に出兵できない。」
実際は出兵できる。農民が核家族の自作農なら、確かに、父親は出兵できない。
しかし、核家族の自作農なんて戦国時代にどれだけいたか?
戦国時代の農民の多くは、国人や地侍の従属民。もしくは、名主。今日の旅館や
パチンコ屋の住み込みの従業員みたいかな。(従属はしとらんが)当然、経営者一族
の男が、従業員の一部を率いて出兵は可能だ。大量動員は難しいが。
誤解2 「織田信長は兵農分離を実施していた。」
信長も他の戦国大名同様に、一部を兵農分離できただけ。信長の領地は豊かな
地域なので、農村に余剰人員が多くて、他の戦国大名よりは分離が進んでは
いたと思うが。
誤解3 「兵農分離は、信長や秀吉の政策により、突然、進んだ。」
名主や、国人・地侍の一族の男が従属民の一部を率いて出兵することが、
多くなると、次第に農村での生活基盤を失う。さらに、たいていの戦国大名は
城下町への集住を勧める。つまり、秀吉の太閤検地のころは、先進地では
兵農分離は既成事実の公認に過ぎない。後進地には革命的な強制だけれども。
出典「甲斐犬の歴史教室第3巻」民明書房刊
民明ショボイかよ!
うむうむいって読んでた漏れの立場はどこへ?
429 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 22:02:43
親の敵の信長の前で 蹴鞠をやって惚けていた氏真
こいつはどうしようもない阿呆だな
>>428 割と普通に唱えられている説だと思うが。
431 :
YAP?:2006/09/18(月) 23:29:03
「民明書房」ってのも、コミック上の存在ではなくて、実在するのかよ???
確か『魁!男塾』だったかな?
432 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 23:39:53
今川を攻略することに武田義信が賛成していれば、武田家の命運は大きく変わった
であろう。
433 :
日本@名無史さん:2006/09/19(火) 08:00:51
武田義信が信玄にかわって、上洛目指す
徳川も織田も撃破して 武田幕府誕生!
諏訪勝頼は 謀反の疑いで切腹
434 :
日本@名無史さん:2006/09/19(火) 08:22:11
義信が信玄を捕らえて切腹を命じればよかったんじゃないの?
すべては裏切り者の源四郎が悪い。
436 :
日本@名無史さん:2006/09/19(火) 21:36:01
氏真って結局は 家康の家臣になって江戸に住み着くんだよね
品川氏と名前変えて
元の家臣の家臣になるなんて プライドの欠片もないヘタレ今川
>>432 それは俺も思う 義信の甘ちゃんぶりは氏真並
438 :
日本@名無史さん:2006/09/21(木) 20:15:22
武田信玄くらい非情でないと 戦国の大将は勤まらない
妹の亭主と、その子供(甥)を殺害したり、父親を追放したり、
跡継ぎの長男を殺したり
目的の為には どんな悪行でも平気
氏真も家臣殺しとかは凄いが、目的もない只の人殺し
439 :
日本@名無史さん:2006/09/21(木) 20:18:21
義元なんて兄弟殺してるんだし
441 :
日本@名無史さん:2006/09/21(木) 23:13:46
氏真は猜疑心が強くて、家臣に切腹言い渡したり、攻め殺したり
築山殿(家康の正妻)の実家の関口氏や 遠江の井伊氏とか
結局は家臣に見捨てられて、今川家没落
武田家も信玄死亡の後、偽後継者の勝頼は家臣に見放され
武田家滅亡
勝頼は氏真と違って、惨めな生き残りは選ばなかった
442 :
日本@名無史さん:2006/09/22(金) 00:07:05
氏真は、勝頼と違って世渡り上手なんだよ。蹴鞠が身を助けたね。
やはり長生きしたほうが勝ちだな。
443 :
日本@名無史さん:2006/09/22(金) 00:38:02
>>441 カキコの上段の話は、山岡荘八の『徳川家康』で読んだ記憶があります。
氏真公に関する記述は、山岡さんがご自身で取材された事実に基づいたものかもしれないけれども、
時代”小説”である以上は、山岡さんも何かしらの脚色や誇張をされていたのかもしれません。
ホンマはただのお人好しやったかも・・・。
そんなことを思ったりしています。
444 :
日本@名無史さん:2006/09/22(金) 07:44:23
>>442 勝頼のほうが武将らしくてかっこいいだろ
蹴鞠蹴って生き恥さらしてる氏真を見て義元もそんな馬鹿だったんだろうって
後世の人は思ったろうよ
445 :
日本@名無史さん:2006/09/22(金) 10:47:11
>>436 そうか、桶狭間の時点では義元は氏真に家督をゆずっていたので、
元康(家康)は家臣だったのに。悲しい逆転だ。
446 :
日本@名無史さん:2006/09/22(金) 12:06:29
義元の最大の失敗は 桶狭間の敗戦ではなく、
後継者育成・選定を間違ったことだ
器量も人望も才能(蹴鞠の才能だけはあったw)も野望もない糞息子を
世継ぎにした時点で終わってた。
義元が長生きしてれば、素直に言うことを聞く操り人形としては良かったのだろうが
武将らしく厳しく育てようという気はなかったのだろうか?
息子氏直を、松平元康らが支えてくれると思ったから、不安は無かったんだろう。
448 :
日本@名無史さん:2006/09/22(金) 14:05:39
義元も貴族趣味だったらしいから 馬にも乗れず、
お歯黒つけて輿に乗ってたらしい
ただし弟と争って家督を継いだように 武士としての才能や野望も
少しはあったと思われる
450 :
日本@名無史さん:2006/09/22(金) 14:53:34
>>448 弟を倒したのは雪斎ら家臣。
吉元には武士としての才能は全くないよ。
451 :
日本@名無史さん:2006/09/22(金) 15:18:48
この人ってゲームだといつも変なキャラになってかわいそう
天下人だとただのデブでBASARAだと馬鹿殿様で
452 :
日本@名無史さん:2006/09/22(金) 16:27:32
完全に信長の引き立て役で道化の扱いになってるよね。
今川家はいち早く戦国大名化した
強豪なんだけどね
義元亡き後
衰退していったのは義元ほどの力量が
氏真になかったということなんだろうな。以降 駿河 遠江が武田や北条 徳川らの草刈り場となったのはいかに義元あっての今川家だったかということの証だと思う。
453 :
日本@名無史さん:2006/09/22(金) 16:30:46
桶狭間では義元は最後まで必死で戦ったよね
相手の指食いちぎったり脛切りかましたり ただ黙って討ち取られたわけではない
>>453 指を食いちぎるなんて武士のすることではない。
そんなに命が惜しかったのだろうか?
455 :
日本@名無史さん:2006/09/22(金) 16:52:33
織田の攻撃があるとしたら 窮鼠猫を噛むの如く、大将首ねらいしかないという発想が
義元にも側近にもなかったから 本陣が手薄になって奇襲をうけてしまったんだろうけど
武将としてのレベルが低かったんだから仕方ないか
456 :
日本@名無史さん:2006/09/22(金) 16:56:59
信長も奇襲で死んでるからよしとしようや
457 :
日本@名無史さん:2006/09/22(金) 17:13:51
そういえば義元って内政で他人の猿まねをしてちょっと業績を上げたけど、
それ以外はからっきしだね。特に軍事。
目と鼻の先の駿東を荒らされまくったり、織田にボコられたり。
謀略にかかって家来を殺したりもしてたな。
ひょっとして暗君だったんじゃね?
458 :
日本@名無史さん:2006/09/22(金) 20:04:10
今川氏親のとき、北条早雲が三河まで出かけたが、
小勢の松平に撃破された。
今川も北条も弱い。
459 :
日本@名無史さん:2006/09/22(金) 23:40:33
今川家って
有力な家臣 国人で
優秀な人材ってどうなん?
やや小粒な気がするが。それも義元亡き後の弱体化の原因の一つかもしれないと思う。
詳しい人いないですか?
460 :
日本@名無史さん:2006/09/22(金) 23:42:00
>>458 負ける時もあれば勝つときもある。
戦闘での勝率が異常なくらい高いのは軍神上杉謙信くらい。
義元が自ら指揮を執った戦の勝率はどうなんだろうか。
ひょっとしたら0%だったりしてw
462 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 09:56:05
>>450 負ければ、兄のように自害するかもしれないのに、家臣に、
まかっせっきりで何もしなかったとは思えないんだけど。
命がかかっているんだから、積極的に、勝つために動いてないと
後悔しそう。
それとも、本人は命を助けられるのが普通で、兄が自害したのが
異常だったのかな。
463 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 10:09:55
>>462 兄とは 病死した義元の兄の氏輝のことでしょうか?
自害なんかしてませんが?
464 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 11:02:00
兄とは、花蔵の乱で戦った相手です。
異母兄弟で、確か、相手が年上じゃなかったかな。
465 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 15:08:25
玄広恵深だっけ
466 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 15:19:18
今川家家臣団ってホント薄いですね。
特に今川義元亡き後。
どうしてなんでしょう?教えてエロい人。
467 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 15:28:53
今川家は義元以前から京都から都落ちして公家衆を庇護したり、公家文化大好き
な家。今川義元の母親も、公家のお姫様。
家が公家文化大好きで、母親がお公家様の姫君なら、義元が化粧・お歯黒するの
は仕方ないと思われ。
政治家としても有能だったけど、軍事は僧侶時代の兄弟子、雪斉和尚に丸投げ状態
だからね。
江戸時代なら、文人大名として後世に名を残せたかもね。
468 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 15:45:56
たしかに上杉&関東諸将と大激戦して領土拡大していった武田北条の比べれば今川の活躍って
本当微々たる物だな 弱兵尾張ごときに手間取ってさ
469 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 15:57:51
まさか、負けるとは思わなかったんだよ。信長は当時は「織田のうつけ」
と呼ばれたアホ殿と思われていたし。
負けると思っていたら、桶狭間で宴会なんかせんでしょ。しかも地元民が
献上した、酒肴で。(毒入りかも知れんのに)
470 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 16:02:32
つまり相手が弱すぎたので油断しすぎたんだね
本当どんな弱い奴にでも油断したらダメだねw 獅子は鼠を倒すのにも全力を出すっていうし
やせ義元 負けるな一茶 是にあり
雑魚に肩入れするのが趣味の一茶であった。
472 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 16:07:54
今川義元の木像ってあるよね。
あれを見た観相家の義元評が面白い。
ああいったエラの張った四角い顔の人は生来楽天家で大雑把な性格なんだって。
家督相続抗争を経験したらしいけど、意外にそんな人だったかもね。
473 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 16:14:14
義元の首をはねた、信長も今川家から見たら疫病神だが、その落ち目
になった今川家を滅ぼした武田信玄は極悪。
義元と信長は血縁関係ないけど、義元の妻(氏真の実母でもある)は
信玄の姉。信玄の息子、義信の妻は義元の娘。と言うように濃い親戚関係
があった訳で。
しかも、当時追放された信玄の父親、信虎は今川家の庇護を受けていた
訳で。
今風に言えば、父親が死んで、斜陽化した地方の名家に、強欲な叔父さん
が乗り込んで来て、財産を奪ったようなもの。
戦国時代と言えば、それまでだが、息子の義信は「親族の今川家の落ち目
につけ込むのは良くない」と反対したんだけど。義信と義元娘は強制離縁。
その罰どうか知らんが、武田家も信玄死後、信玄の娘婿だった穴山梅雪・
木曾義昌の裏切りで滅びるんだよね。
474 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 16:15:47
信長って本当に運がいいよね 斉藤はお家騒動でガタガタ
今川は公家かぶれ 経済力はそこそこある 恵まれすぎてるよ
475 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 16:18:06
476 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 16:19:04
>474
信長の領国、尾張には一向一揆軍団がいるよ。
信長の弟・甥など身内も結構、一向一揆軍団に殺されている。
死を恐れぬ軍隊、潤沢な資金、豊富な鉄砲を持つ最強軍団。
477 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 16:20:32
どこが最強やねん 負けまくり軍団 弱兵尾張の分際でw
478 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 16:21:40
>475
別に信長好きではないが、血縁関係のある今川家を滅ぼした武田信玄
の方が極悪だと思ったまでのこと。
しかも、親父の世話まで押し付けていたのに。
479 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 16:21:43
長島一向一揆をだまし討ち 武器も持たない一揆勢に一門殺されまくりの
日の本一の弱兵 織田軍団
480 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 16:23:13
>>478 親父さんはそんころ京都にいて今川の世話にはなってないだろ
塩止めしたら攻め滅ぼされて当然だ
481 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 16:25:01
>>479 傭兵が混じっていたり、プロの武士上がりが実際の兵力を担っていたわけだが。
482 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 16:26:01
>480
柴田勝家、福島正則、加藤清正とかも弱兵なのか?
483 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 16:26:27
それでも飢餓状態でボロボロだっただろ
まったく外道だよ 織田信長はw
484 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 16:27:01
485 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 16:27:53
>480
親父は今川家が滅びたから、京都へ亡命した訳じゃないのね?
今風に言えば、娘夫婦の世話になっていた、父親が京都市郊外
の老人介護施設に入所するようなものか。
486 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 16:29:20
武田信虎氏は北畠の軍事顧問とかやって九鬼を駆逐したんだよね
487 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 16:30:42
まあ信長よりは義元のほうが血筋にしても教養にしても軍事力にしても上だった
無念だったろうね
488 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 16:33:30
>482
柴田は長島一向一揆や石山合戦のころには織田家の重臣だった思うけど。
加藤・福島は秀吉の荒小姓か?
489 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 16:34:15
>>482 ああ 織田家を粉砕して乗っ取った秀吉さんの子飼の小姓達ね
彼らは他の尾張兵と違って優秀だよね
490 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 16:36:42
>486
信玄父こと信虎は元気だね。確か、82歳で亡くなったとか。
今なら100歳位の感覚か。
>487
今川は駿河守護にして、足利一門。守護代の分家の織田とは格が違うわな。
その気になれば、将軍になれる家柄だろ。
491 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 16:39:56
>489
信長の嫡孫、三法師君が幼少だから秀吉は一時繋ぎで天下人になった
だけ。
三法師君は秀吉の恩を忘れずに、関が原でも西軍につき。家禄没収。
秀吉を恨んでるなら東軍についてるわな。
492 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 16:41:30
三法師って結局無かったことにされてるよね
関ヶ原でも旧尾張に攻め殺されてるし (-∧-;) ナムナム
493 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 16:42:47
信長の先祖って一体なにもの?
百姓だっけ?
494 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 16:45:51
>492
三法師は福島正則の助命嘆願で、高野山追放で許されている。
しかし、その後病死。
495 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 17:07:41
秀吉の親戚福島正則さまさまだね 信長の孫
命を助けられてるなんてなんて・・・
太閤の一門は本当に恩情が深い やはりかつての主君だった外道信長といえどその孫にたいしては罪が無いし
一縷の哀れみを感じたんだろうね・・・
496 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 17:29:07
秀吉が織田家に就職できたのは、三法師の祖母(信忠・信孝兄弟の
母)である、生駒吉乃(信長側室)の口利きによるとも言われている
からね。
だから、恩人である吉乃の子供や孫には秀吉は甘かったよ。
逆に、吉乃の子ではない、信孝は切腹に追い込んでるけど。
それでも、武士の情けで切腹。
三河の古狸は、秀吉の嫡孫、国松君を斬首してるからね。
秀吉の嫡孫なら、西国外様に担ぎ上げられる可能性があるから、
死罪はやむを得ないが武士の情けで切腹だろうが。
>>462 家来が動いてくれんのなら自分でやるしかないが、
幸いやる気満々の過激派がいてくれた。
>>490 分家末流の田舎守護が一体どうやって将軍になるんだい?
499 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 18:14:34
>497
義元(正室腹、母親は公家の姫君、寿柱尼)
兄(側室腹、母親は有力家臣の娘)
正当性から言えば、義元が圧倒的に有利だが、重臣連中の中には
「京都の公家の血を引く、義元は気に食わん」と言う人間おるだろう
から有利とは言えないよな。
義元は本当は僧侶になるべき人間だったのにね。僧侶なら学識豊かな
名僧として人生を終えることができたかも知れないのに。
500 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 18:19:04
>498
当時、足利家以外で将軍になれる、家柄と実力を持っているのは
今川だけだろ。
・ 末流とは言え、足利一門
・ 駿河・遠江・三河の太守
勢力だけなら、阿波の三好あたりも候補だが、細川家の陪臣上がりでは。
血筋から言えば、守護家以上で、足利一門であるのが最低条件だろ。
当時の足利一門で今川以上の勢力家はないだろうに。
>>499 >正当性から言えば、義元が圧倒的に有利だが、重臣連中の中には
>「京都の公家の血を引く、義元は気に食わん」と言う人間おるだろう
義元の長兄(先代当主)、次兄とも同じ母親の出たが。
公家の出たからとかダメとか妄想乙。
未だに義元が太って馬に乗れなかったとか、桶狭間で宴会したとかいう俗説を信じてる奴がいるんだな。驚き。
馬に乗らずに輿に乗ってたのは将軍家から許された特権だし、桶狭間でも馬に乗って逃げようとしたことが信長公記に書いてある。
また内政においては、当時最も進んだ統治を行っていた。
ただ軍事面の経験が少なかったのは事実で、桶狭間以外では花倉の乱と北条との河東を巡る争いで出陣した以外にはないのでは?
503 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 23:14:48
甲斐の猛将、武田信虎(母方祖父)の孫である、今川氏真が公家の血を引く
義元パパより、文弱なのは氏より育ちか?
信虎の血が強いなら、戦国乱世の気風を反映して、蹴鞠よりも乗馬や狩猟
を好むだろうに。
504 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 00:16:27
信虎は信玄に追い出されて、義元のところに匿われていたんだから
孫の氏真の教育くらいできただろうに
追放されてもなお、甲斐のことを思って、わざと氏真が腑抜けになるようにして、
今川家を弱体化させたとかいうのはない?
505 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 00:20:09
今までどおり重臣にまかせておけおけば、織田などつぶれていたものを。
なにをとち狂って自ら出陣したんだ。
506 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 00:43:42
尾張攻めに義元自ら出陣したのは いいところを見せたかったからだろ
今まで戦争仕切ってた坊さんが逝っても、今川は強いところを
誇示しようとしたのではないか
507 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 01:28:52
[架空戦記]
桶狭間の義元の窮地を、まだ今川家中(陪臣)にいた
秀吉が救う。今川軍は信長軍を撃破し結局信長は籠城、時間が惜しい
義元は信長の降伏を許し、尾張に2、3郡を与え騎下の武将にする。
秀吉は桶狭間の功で直臣になり尾張に領土を持つ。
そこに今川の日の出の勢いをみた明智が義昭を売り込みにやってきて、
今川家中での信長、秀吉、元康、光秀の出世競争が始まる。
>>500 無理。
・足利本家に後継ぎ候補が残っている
・足利本家からあまりにも血筋が離れている
・中央政界に影響力が無さ過ぎる
・実力不足
どうあがいても将軍になんかなれません。
分家末流の今川ごときが将軍に成り上がるには反対派を黙らせるだけの実力が必要だが、
悲しいかな、義元にはそれだけの実力はなかった。
北条にすらなめられているようでは・・・。
義元は武田や雪斎に庇護されながら弱小土豪を虐めるのが趣味のスネ夫なみの男。
ジャイアンの助けがないとのび太にすらボコられる。
509 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 06:45:41
今川義元の大好物、今川焼きの名前が残っただけでも、義元は嬉しいんじゃまいか?
カスタードクリームやマロンクリームの今川焼きは美味。
510 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 07:54:08
今川焼きは今川家とは関係ない
上のどこかのレスにあると思うが、江戸の今川橋で売ってたので
今川焼きの名がついたらしい
>>400だな
今川橋の名は名主の今川善右衛門に由来するらしいから
義元とは間接的な関係すらない
512 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 08:34:00
義元が将軍にならなくて良かった
今川二代将軍が氏真じゃあ日本は終わりだしw
>>508 もちろん今川家がいきなり足利宗家を継ぐのは無理。
足利宗家の室町将軍家と鎌倉公方家系が断絶したら
今川家の本家筋である吉良家に足利宗家の地位が移り、
その吉良家が断絶したら今川家が足利宗家になれる。
ちなみに、足利宗家との血筋の離れ具合は関係ありません。
>>513 >足利宗家の室町将軍家と鎌倉公方家系が断絶したら
>今川家の本家筋である吉良家に足利宗家の地位が移り、
>その吉良家が断絶したら今川家が足利宗家になれる。
ソースは?
>>513 なれないなれないなれない。
血筋だけみても、管領家のほうがいい。
最近レスの質低すぎ
いい加減にしろ
>>514 割と有名な言い回しだけど
「御所が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」
宗家継承順位を明文化したものは特に存在しないようだけど、
吉良と今川が足利一門の中で別格だったことは確か。
両家から管領が一人も出なかったことはその証し。
(徳川御三家から大老や老中が出なかったことと同じ)
そんな「言い回し」はみな知っとるわ。
そのソースを訊いとんねん。
519 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 19:45:36
源義家より引き継がれている宝刀「龍丸」が、吉良長氏から
今川国氏に与えられているが、この宝刀と、吉良・今川が
別格というのは関係があるのかな。
520 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 20:05:00
昔読んだ中公旧版「日本の歴史」の「戦国大名」のはじめの方で、
足利義尚が六角攻めに出陣したときの従軍者名簿の中に
「吉良殿、石橋殿、渋川殿」と殿付けの別格待遇で書かれていたな。
>>517 管領が一人も出なかった足利一門はいっぱいあるよ。
将軍家が絶えたら鎌倉から連れてきたんじゃね?
一悶着ありそうだが。
足利一門でも吉良と並んで最有力(実力でも鎌倉時代からの幕府内での地位でも)といっていい斯波氏が管領になった時点で
有力一門は管領にならない(なれない)ってことはないのでは。
最初斯波氏側に抵抗感があったのは事実(当主がいやがって息子を代理に)だけど後にはそういう例もないし。
あと”足利が絶えれば吉良”、”吉良が絶えれば今川”だからといって”足利が絶えれば今川”ってことにはならないのではないかと。
(そもそもこの言い回しが今川の宣伝に過ぎない可能性も高いと思うけど)
たとえば、徳川将軍家が絶えれば御三家から後継者を出す(紀州から吉宗とか)、紀州が絶えれば紀州の分家から後継者を出すけど
将軍家が絶えときに、紀州に候補がいなかったとしても紀州の分家から後継者出さないですよね。他の御三家から出すでしょう。
仮定の話だけど、足利が絶えて吉良に後継者がいなかっとしてもら、斯波や畠山、渋川あたりのほうが有力なんでは。
523 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 22:21:22
「御所が絶えれば…」が今川によるプロパガンダだとしたら
現代まで伝わって、なおそれを信じる者が多いとしたら、今川
の政治力というか、宣伝力はめちゃくちゃ高すぎ。
>>523 戦国後期まで大名家として残って、さらに関係が深かった松平(徳川)家が江戸時代に将軍家として残ったから、
たまたまこの宣伝が残ったといえるのではないかと。
たとえば、この”御所が〜”が日本全国に知れ渡った(少なくとも武家社会ではメジャーな説だった)話だったという史料的な裏づけって取れますか?
東海ローカル(今川の勢力圏周辺)の話だったかもしれないでしょう?
>>521 ヒント:管領はあくまで「家臣が担当する役職」
>>525 >ヒント:管領はあくまで「家臣が担当する役職」
だから斯波は嫌がったわけですが、執事->管領に名称かえたりして結局就任しているでしょ?
逆に室町幕府の秩序が整備されてくると三管領という家格として定着して、斯波・畠山・細川以外は
(執事時代に就任していた高・上杉や足利一門の仁木でさえ)就任できなくなる。
そして、管領になった後の三管領家はそれでも足利一門であることには変わりない。
ルールや役職の権威なんて時代で変わるもんだし。
この話の発端の
>>517 さんは、吉良・今川は別格の足利一門なので、他の一門が家臣化したから管領になったりしたけど
この両家は管領になってない、って言いたいみたいだけど別格だから何もしないというわけでもないでしょう。
江戸時代の御三家は、通常の幕府の役職にはつかない、また譜代筆頭の井伊も通常の役職で幕府に出ることはない
(井伊が幕府に入るときは必ず臨時の役職である大老に就任する)だけど後継者問題とか重要会議に出て発言したりする。
(伊達とか前田もときどき呼ばれたりしているが)。
また、幕末の長州戦での総指揮官を勤めたり(尾張)、重要ポストについたり(会津・福井・一橋)とか。普段の政治には関与しないけど、
重大事には関与しているって感じ。
こういう特別待遇(官位とか儀礼面だけでなくて政治面・軍事面での)の吉良・今川での例ってある?
足利義持死後のくじ引きでも呼ばれたのは、管領をはじめとする有力守護大名達数名であってその中には吉良も今川も入っていない。
(三管領家当主と、山名、畠山分家が出席)
527 :
YAP?:2006/09/25(月) 00:27:42
本来、足利氏の「執事」(京、鎌倉とも)は、過信の「高」氏が担当していたぐらいで、「家臣」の職だったのだが、
なんといっても、主家の家政を握ることから、実権を掌握し、大実力者になる可能性が高い。
初期の足利尊氏の執事高師直がそのよい例だ。高一族が、京・鎌倉の執事職を失った後、同じ家臣筋の上杉氏や足利一門中でも、
もっとも血縁の遠い(初代足利義康の長子矢田義清の子孫、ちなみに本家は、三男義兼の子孫)ほとんど家臣に近い庶家の仁木氏、
細川氏が、「執事」職を勤めたのだ。
で、「足利尾張守高経」(斯波氏、尾張氏)がしぶしぶ、その子義将を、将軍家執事に
することを承諾したのだが、そのときを以って、「執事」が「管領」と呼ばれるようになり、細川氏や畠山氏も以後、
「管領」と称することになる。
それまで、関東管領を称していた足利基氏以下の足利氏は「関東公方」と称するようになり、「関東管領執事」だった
上杉氏が「関東管領」と呼称されるようになった。
このあたりのいきさつをかんがえると、吉良氏と斯波氏が別格だというのがよくわかる。
528 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 00:34:47
>>524 史料的な裏づけはありません。
ただ、専門家ですら、つい言ってしまうほど広まっている言葉。これを
ローカル、又は元々無かった言葉を、徳川が広めてやる必要は無いです。
家康が、御三家の為に使った言葉だとしたら、当時誰も聞いたことが
無い説では、説得もできないでしょう。
>>526 特にないんじゃね?
今川分家の了俊が九州探題として活躍したり、本家が関東の騒動に介入したりしたが、
普通にお役目を果たしただけで、別に特別待遇じゃないしなあ。
530 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 01:54:49
Wikiみたら、了俊の子孫のことが載ってた
遠江の半国守護になった後、駿河の今川本家の家臣になったんだって
てっきり九州に居着いたのかと思ってたが
531 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 18:04:25
今川家を没落させたのは氏真
その氏真を あんな人間にしたのは親の義元の責任
終了
アホの子ひとりごあんなーい
533 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 18:25:52
裏切り者が天下とったら、主家のこと悪く書くよな。
534 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 21:30:46
今川焼は義元の遺産だな。
これから美味しい季節になる。義元ありがとう!
535 :
524:2006/09/26(火) 00:29:28
>>528 家康がわざわざ広めたというわけじゃなくて、徳川家や譜代家臣の多く、外様でも尾張や美濃出身者が結構いますよね?
若い頃は今川勢力圏やその脅威がある地域で育ったわけで、今川の”うちの殿様をすごいんだぞ”って宣伝文句を
全国の一般常識と誤解したんじゃないかなーと。
幕府内での地位とか官位を見ると京都で特別高い権威を今川家が持っていたとは思えないです。
吉良は
>>520さんの例があるんですけど、こちらも将軍夫人を出したり、九州探題(虚名だけど)を出した渋川氏はともかく
石橋氏ってそれほど名門かなーという疑問はあります。南北朝期に一瞬だけ活躍したってイメージが強いんですが。
まあ、私の意見も史料の裏付けはないですけど。
で、今川了俊の名前で思ったんですが、南北朝後期辺りで”御所が絶えれば〜”って文句が世間に広まってたら
了俊が大喜びで記録に残してそうな気がする。
後、今川の特別目立つ活躍といったら
>>529さんが言っている関東への2度の軍事介入くらいですかね。
義教が富士見物に来たときにでも、今川氏にリップサービスで言ったとか?
本気にしたら粛清されそうですが。w
今川家で副将軍に任命された人がいるよね(五代目範忠)。
他の一門でもそういう人っている?
>>536 室町幕府にも副将軍というポストがあったんですか?
538 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 22:43:54
足下臥義秋が 将軍就任の御礼に
織田信長を副将軍にしようとしたが
断られたらしい
>>537 >室町幕府にも副将軍というポストがあったんですか?
鎌倉幕府にも江戸幕府にも副将軍というポストはないはずですが?
(水戸家は自分でそう言い張っているだけ)
541 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 16:59:45
足利尊氏の弟 直義は、一時期副将軍的な存在だったが
正式な役職として副将軍に就任してはいないだろう
542 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 18:26:59
京都で坊主を続けてれば長生きできたものを
543 :
日本@名無史さん:2006/09/29(金) 19:35:25
側近の坊さんが生きていれば、桶狭間で逝かなかったのに
>>540 Wikiの足利直義のところには、官職就任の履歴があるけど
副将軍はないですね。
(尊氏の将軍就任と同時に左兵衛督になったとはある)
副将軍就任説の根拠は何の史料なんだろう?
545 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 04:39:19
はじめまして、親からうちの先祖(静岡出身)は今川義元の家来だって聞きました。
最近だと近衛兵が先祖にいるらしい。
家系図あればな〜
546 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 13:05:43
俺は天皇の子孫だ
と言っても証明もできないし、否定もできない
547 :
日本@名無史さん:2006/10/18(水) 01:22:22
今川家の官職は、駿河守?
超天才の雪斎を氏真の教育係に起用していたら滅ばなかったかも。
家康を教育させたら天下まで取っちまった。
人質に超一流の教育を施して、息子はケマリ。
逆だろ。
549 :
日本@名無史さん:2006/10/18(水) 18:22:30
義元は長生きして氏真を操り人形に
実権を握り続けようと思っていた
だから氏真は故意にボンクラに育てた
という説はない?
550 :
日本@名無史さん:2006/10/18(水) 20:59:47
雪斎思案として駿府の氏真と濃尾の義元の二元政治とかいうのを見たことがあるね
小説だっけ?
551 :
日本@名無史さん:2006/10/19(木) 19:36:30
家康の大御所政治みたいだな。
雪斎、宗滴、秀長、隆景。
殿を含め万人が一目置く賢者が居てこその大名は賢者の死と共に一気に没落する。
>>549 平和な時代ならまだしも切磋琢磨の戦国で
そんな行為をやったらあっという間に滅ぶ気がするが
それに氏実はあぁ言う末路のせいで超が付くほど無能で情けないキャラになったが
実際問題一部良いものは有ったし、それにあの当時生をまっとうしたのは評価出来る。
江戸時代で平和になって以降武士道の忠義と潔しを強調する方向になったけど
あの当時は死ぬ事はもっとも恥な時代でどんなみっともなくとも生き残る事こそ重要だったんじゃ
>>550 もしかしたらその構想は有ったかもしれない
義元がまず武力を持って征服をして
のちに氏実が内政でその地を治めて領地化すると言う
もし元来の予定通り尾張を征服した暁には
尾張を平定後氏実にその地を任せて更に西征の準備をしたんじゃないか
>>553 >江戸時代で平和になって以降武士道の忠義と潔しを強調する方向になったけど
>あの当時は死ぬ事はもっとも恥な時代でどんなみっともなくとも生き残る事こそ重要だったんじゃ
違うよ
生き残るというか、家を潰さないことが重要。
明治まで微禄が残ったことを考えれば浅井、朝倉はもちろん。武田、北条、今川の三国でトップと言える。そればかりか織田、豊臣より勝る。
大愚は小賢に勝る好例だろう。ケマリやってる阿呆だったたから秀忠の大改易粛清もどこ吹く風。
556 :
日本@名無史さん:2006/10/27(金) 15:14:31
北条家だって、氏政の弟の家系が河内あたりの1万石で幕末まで残ったと思ったが
武田家も、視覚障害で僧侶になった、信玄の次男だか三男の家系が旗本で残ったし
信玄の末息子が上杉家の家臣になって残った筈だが
織田家は信長の次男信雄の家系と 信長の末弟有楽斎の家系が大名で、
今川だか品川だかの御家人よりも、遙かに格上だ
>555は 思いつきで書いたのか? それとも、単なる無知?
>>556 今川品川が御家人だと主張する君も無知だね。
558 :
日本@名無史さん:2006/10/27(金) 18:40:55
江戸時代の今川が、旗本だろうが御家人だろうが大差ないだろ
どうせ、徳川にすれば部外者の外れ者なんだから
559 :
日本@名無史さん:2006/10/27(金) 18:42:56
吉良なんかは高家とか呼ばれてたらしいが、落ちぶれ名門の恥さらしだねw
560 :
日本@名無史さん:2006/10/27(金) 20:26:43
おいおい、江戸時代に織田家が大名で続いたことを知らない人が
このスレに来てるのかい
信長の直系の秀信(幼名三法師)は、関ヶ原合戦前に居城の岐阜を落とされ
高野山に逝って断絶してしまったけど。
氏真によく似た性格wの信雄は、世渡り上手で残った。
幕末の山形・天童藩は、織田家
561 :
日本@名無史さん:2006/10/27(金) 20:31:23
>>560 おいおい、すぐ上のレスも読めないのかい?
とっくに外出だけど?
562 :
560:2006/10/27(金) 20:42:56
555を書いた人に言ってるんだが
563 :
日本@名無史さん:2006/10/27(金) 20:59:37
>>562 おいおい、あんたのよりもはるかに内容のあるレス
>>556が既に付いてるのに
何で屋上屋を重ねて駄レスをつけるんだい?
どっちもどっちだよ
ここ今川スレだから今川オタによる深い考察がされてるんじゃないかと思ってきてみたけど
なんで今川アンチが湧いてるんだ?
高家ってある意味面白い位置づけだね。
禄高は少ないけど、官位は従四位下左少将とか刑部大輔とか大大名クラスだし。
568 :
日本@名無史さん:2006/10/28(土) 17:49:43
義元も息子の氏真が、人質で乞食みたいな餓鬼の家来になって人生を終えるとは
思ってなかっただろうな
馬鹿にされた腹いせに、みんなの目の前で小便をした小便小僧が天下をとる
とも思わなかっただろう
そんなことはどうでもいい
570 :
日本@名無史さん:2006/10/28(土) 21:43:10
↑
ああああ?
御所は、田楽狭間に死す!
572 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 22:48:06
桶狭間での義元の位置を信長に通報したのは、
今川を嫌いな尾張の土豪だったのか?
573 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 23:49:13
今日の太閤記だけど義元が馬鹿殿扱い。
はじめから期待してなかったけどさ・・・
ああ太原雪斎がもう少し長生きしていれば
575 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 14:21:56
義元が仮に天下を取っても、氏真の代で秀頼化して最終的には家康に乗っ取られるだろうね。
どう転んでも、家康が最後に笑う。それが、運命ってもんだね。才があっても運が無きゃね。
>>575 幼児の秀頼と、いい歳をしたオヤジの氏座根では、条件が違いすぎる。
一門が秀頼しかいなかった秀吉と、天下とって死ぬ頃には
息子たちや孫がそれなりに増えているであろう義元では、
話が違いすぎる。
家柄がよく、しかも先祖代々の譜代がいる今川と、
成り上がりで譜代の重臣がいない秀吉では、基盤が違いすぎる。
577 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 17:06:15
>才があっても運が無きゃね
これを言ったらむしろ家康が天下を取れないって言ってるようなものだが。
>>576 今川の一門集で傑出した人物っていないよな。氏真の息子も大した事無さそうだし。豊臣家と同じ末路になる気がしないでもない。
579 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 22:24:55
徳川家臣団でも、武田遺臣に比べると地味だよな〜今川遺臣って。大名も岡部くらいかな。
580 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 00:35:44
今川家の譜代家臣は、今川家没落後、ほとんど帰農でもしたのか?
小便小僧時代を知ってる家康の家臣なんかにはならないだろうし
遠江の井伊家は、今川の家臣とも言えなくはないが、
蛆坐寝に襲われて断絶しかかってたのを家康に救われて
家康の家臣になった。
しかし、井伊家が江戸時代に譜代筆頭の扱いを受けていたのは、
何か納得いかない
>>578 今川一門と家臣団が低評価なのは徳川の世で貶められたからでしょう。
氏真も内政面では楽座をはじめそれなりの業績がある。
>>565 ここに湧いてんのはどうやら武田厨らしいね。
>>579がそうっぽい。
583 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 01:33:43
信長の野望(光栄のゲーム)で今川家の家臣には
朝比奈、岡部とかが付いてきたけど、弱かったなw
584 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 08:52:06
朝比奈の没落っぷりが哀れ。
滅ぼされたわけでもないのに。
585 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 13:19:49
武田24将とか上杉○○将とかのように
今川○○将というのはないのか?
あるわけないかw
586 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 15:32:33
>>575 まあ今川家の組織を強化していけば何とかなる
秀忠みたいな無能が将軍になっても幕府が維持出来たのは先代が対抗馬を次々と潰し組織強化に尽力した結果だし
587 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 16:25:26
>>586 秀忠は軍人としてはともかく政治家としては有能だろ。
まあ氏真も同じだが。
588 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 18:13:05
氏家は政治家としても無能ですが。
氏座根だろw
家康が伊賀越えできず横死してたら
息子達の末路なんて氏真以下だけどな
591 :
日本@名無史さん:2006/11/03(金) 18:56:50
本能寺の変(1582年)の時点で家康の長男信康は死んでいたから
秀康(8才)、秀忠(3才)、忠吉(2才)
これで家康も消えていたら、徳川家は良くて岡崎5万石くらいの大名で
下手したら潰れていただろう
592 :
日本@名無史さん:2006/11/03(金) 22:53:30
今川氏歴代当主生没年
<駿河入部以前>
足利義氏(源姓足利氏第3代) 文治5年(1189)−建長6年(1254) 66歳
吉良長氏(義氏の子) 建暦元年(1211)−正応3年(1290) 80歳
今川国氏(長氏の子) 寛元元年(1243)−弘安5年(1282) 40歳
今川基氏(国氏の子) 弘長元年(1261)−元亨3年(1323) 63歳
今川頼国(基氏の子) ?−建武2年(1335)
<駿河守護時代>
今川範国(基氏の子) 永仁3年(1295)−至徳元年(1384) 90歳
今川範氏(範国の子) 正和5年(1316)−貞治4年(1365) 50歳
今川泰範(範氏の子) 建武元年(1334)−応永16年(1409) 76歳
今川範政(泰範の子) 貞治3年(1364)−永享5年(1433) 70歳
今川範忠(範政の子) 応永15年(1408)−寛正2年(1461) 54歳
今川義忠(範忠の子) 永享8年(1436)−文明8年(1476) 41歳
今川氏親(義忠の子) 文明3年(1471)−大永6年(1526) 56歳
今川氏輝(氏親の子) 永正10年(1513)−天文5年(1536) 24歳
今川義元(氏親の子) 永正16年(1519)−永禄3年(1560) 42歳
今川氏真(義元の子) 天文8年(1539)−慶長19年(1614) 76歳
<近世>
今川範以(氏真の子) 元亀元年(1570)−慶長12年(1607) 38歳
今川直房(範以の子) 文禄3年(1594)−寛文元年(1661) 68歳
(中略)
今川範叙(最後の当主) 文政12年(1829)−明治20年(1887) 59歳
(以後子孫なく断絶)
593 :
日本@名無史さん:2006/11/03(金) 22:56:33
馬にも乗れないデブ...太りすぎでつ
594 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 00:11:51
>>593 そんなの実話なわけないでしょ。
あの時代なら、上は公家から下は庶民まで、馬に乗れない人を捜すほうが難しいと思うぞ。
595 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 00:17:10
義元は家督継ぐ予定ではなかったから、京の寺に入って坊主になってた
兄の氏輝が逝った後に、還俗して家督争いして勝った
だから、武芸も習っていない可能性大
当然、馬にも乗れないだろう
596 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 00:27:21
>>595 坊主だから武芸習ってないって・・・貴方、当時の時代背景わかってる?
597 :
:日本@名無史さん :2006/11/04(土) 00:28:34
負けるとトコトンまで落とされるという良い例でつね。
598 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 01:02:31
坊主の檀家に葬式や結婚式がでたときには馬で駆けつけることもあるし
上杉さんとこの子や宝蔵院のように寺で武芸もするし兵法書も教える(坊主は碩学)
義元は雪斎の肝いりだったし能力は今川家中で抜けていたんだろ?
599 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 01:22:51
今川義元の後胤は、今川家としては断絶したけど
品川家とか、それ以外に養子に行った家系で
残っているよな。
今川義元−今川氏真−西尾安信−酒井忠宇(庄内藩士)−酒井忠寧−
石野信政−石野信和−石野信一−石野三和−石野宗孝−田代文兵衛−
田代文也−田代孝明−田代和政−田代政
脈々と受け継がれる今川の血筋。田代政さんは芸名田代まさし、
1980年シャネルズでデビュー。
その後グループ名をRATS&STARに改名、現代に至る。
西尾安信は氏真の三男か四男だったと思う。その子供が庄内藩主の一族の
養子になってる。
その家の五男が石野姓をなのってて家紋は先祖にちなんで二つ引両。
石野家の子供が田代家(剣術師範)に婿養子に入った。
600 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 01:48:14
田代まさしは、九州のほうの出身ではなかったか?
庄内藩とは離れすぎてる
601 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 08:49:25
蛆坐寝は一人っ子?
今川義元と小早川隆景がかぶる ともに跡取りのことを心配してたし
まあ今川義元と小早川隆景では立場も器量も違うけどな
603 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 10:22:51
器量の違いって???
白化粧で天上眉で胴長短足で小太りで馬に乗れなかったんだし評価されないよ永久に
605 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 17:54:55
>>596 庶民上がりの僧兵ならいざ知らず、
京都の格の高い禅寺で、坊主になるためにやってきた
高貴な家の子弟が、武芸を習うのか?
学問の一環として兵書をかじることはあったかもしれんが、
武芸ねぇ。
>>605 >高貴な家の子弟が、武芸を習うのか?
僧侶になるのは相続争い防止の意味が強いし、実際に親・兄弟の死亡によって還俗する例は多い
(戦国大名クラスでも竜造寺隆信とか)
江戸時代の寺と違って、当時の寺は領主として周辺の勢力と争ったり、僧兵や寺人という武力も持ってるんだから
実務的な才能も必要でしょう。
それなりの勢力がある家なら、還俗する場合に備えて武士としての一般的な教育は施してるんじゃないの?
607 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 22:12:41
>>605 キミさー、この時代の史料とかまともに読んだことある?
公家の日記なんか見ていると、この頃は公家クラスでも武芸を習っていることは全然珍しくないってことがよく分かるぞ。
法度で公家や僧侶の武芸が禁止されている近世のイメージでこの時代を見ないほうがいいよ。
608 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 22:14:37
あと公家や身分の高い僧侶が馬に乗れないってことも、この時代ではまずあり得ません。
>>607 著名な禅僧で武芸の稽古をしていたやつ何人か挙げてみて
610 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 05:49:42
義元が京都の寺で武芸を習ったという記録でもあるのか?
この時代の他の僧が武芸を習ってたって、義元もそうだとは言い切れないだろう
寺で武芸をやる坊主なんて、下っ端の警備員要員か、不良坊主だけだよ。
612 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 10:02:58
俺も、
>>611と同じ
公家は伝統的に、武士を穢れとして嫌い続けている
いくら戦国時代で、周りが危なくなっても、自分で自衛しようなんて思わないだろう
金があれば、用心棒雇ったほうば余程まし
母が公家出身で、貴族かぶれの義元が武芸を習う可能性は低い
>>607の人は、随分偉そうなこと書いてるけど、何者?
キミさー だってw
>>613 おまえも粘着してないで巣に帰れよ
低脳レスばっかしてんなや
だいたい煽り方で高等教育受けてないの丸出し
だいたい武術の心得が無いやつがどうして桶狭間で刀で奮戦できたんだよ
信長公記くらい呼んでからこいや、クズ
615 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 17:44:42
>>612 公家が刃傷沙汰を起こした事件とか知ってる?
>>612 近世でも、公家は
自分用の甲冑を保有していましたが?
617 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 17:51:02
>>614 『信長公記』では、義元は桶狭間の戦いのときは乗馬だったって書いてあるよね。
『信長公記』は信長の右筆(つまり事実関係をリアルタイムに知り得る立場の人間)が書いてるから、それなりに信憑性は高い。
また公家が乗馬している例なんかも、この頃の公家の日記とかを適当にめくってれば結構見かけると思うよ。
618 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 18:40:14
つうか、義元は京都で坊主をやってたんだが。
何で公家の話にもってこうとしてるのかね?
ひょっとして坊主と公家の区別のついてない人がいるのか?
まあこの手のお馬鹿なボクちゃんは史料以前の問題だ罠。
619 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 19:03:14
義元は、公家ではない
武士の端くれだ
ああ、公家がどうたらといっている奴らは、義元が公家だと勘違いしてたわけかw
そう考えればつじつまが合うなw
621 :
にんじん:2006/11/05(日) 22:28:11
今川義元の親代まで今川家の重臣として仕えた、福嶋一族ってどんな
一族なのですか?その辺の事に詳しい方っておりますでしょうか!
まあおまいらもちつけ
公家の話を出してるのは軟弱イメージの公家ですら
馬に乗ったり甲冑持ってたくらいだから坊主の義元も
武術やってただろ、って言いたいんだろう。
義元は小笠原流かなんかの弓術の師範免許持ってたし
桶狭間の事もあるから軟弱じゃないけど特別強くもない
これでいいだろ
俗世の公家と出家の坊主では大違いだと思うが。
624 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 22:51:37
>>621 福島正成以前はよくわからないみたい。
正成は義元異母兄義真を擁立をはかって討たれた定説の他に、
今川氏親の命で武田信虎と戦い討たれた異説もある。
子孫は子の綱成が玉縄北条氏の祖となり以後、氏繁−氏勝と続いて氏勝に子がないので
保科家から養子氏重をもらうが、嗣子無くして亡くなった為に弟の繁広の系統が旗本として残った。
子の繁広の子が北条流軍学の祖となった北条氏長。
>>623 >俗世の公家と出家の坊主では大違いだと思うが。
だから、この時代の坊主は俗世が関わりが薄い世捨て人じゃないんだって。(そういう人もいるけど)
寺の領地を治める領主でもあり、外交官・軍人・政治家としての仕事もしている。
農民でさえ、刀・槍・鉄砲普通に持ってる時代ですよ。
支配階級である僧侶が、馬や武芸に関する教育を受けていないと言うなら
そっちの論拠を示したほうが早いと思いますが。
福島正成甲斐侵入→武田信虎勝利→勝利を記念して息子に「勝千代」と名付ける
これって定説とちゃうの?
玉縄北條氏の先祖は今川家臣の福島氏と言います。
玉縄北條氏の祖・北條綱成の父と言われる福島正成は源姓であるのに対して、今川家臣の福島氏は平姓です。
福島氏で史料に出てくる惣領は、福島助春という人物です。
1536年の花蔵の乱において、福島氏は外孫の玄広恵探を擁立します。
そして、福島助昌は小笠原氏を称しています。
福島氏と同じく高天神城主となった遠江小笠原氏も福島氏と同じく、「氏」「助」「春」を諱に用いています。
>>623 お前と
>>557同じじゃないか?
一言だけで否定はするけどその否定の根拠を書かなきゃ説得力が無い
お前が「坊主は武芸できない」って主張する根拠を
公家と坊主の違いも絡めて教えてくれないか?
煽りでもなんでもなく、興味があってお前の考察を聞きたいんだ
629 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 23:42:45
>>626 信玄の幼名は太郎で勝千代は信憑性がないといわれている。
勝千代の名が出てくるのは確か真田三代実記だけで、他の史料では太郎を幼名としている。
630 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 23:48:47
>>625 それって僧侶の中にはそういうことをした人もいた、ってだけでしょ。
一向宗ならいざ知らず、臨済宗が馬や武芸の教育をしていたって、何を根拠に言うの?
南禅寺や妙心寺が戦をしたという話はあいにく聞いたことがない。
>>629 太郎は、一般的に言って、元服後の名乗りでは?
>>629 太郎って幼名なの? 元服してつく名前じゃなくて?
吉法師 -> 三郎信長 みたいな感じで。
>>630 >一向宗ならいざ知らず、臨済宗が馬や武芸の教育をしていたって、何を根拠に言うの?
教育も受けてなく、知識がないのなら、どうやって大原雪斎は今川軍の指揮を取ったんですか?
(他の武士や今川義元は素人が指揮を取ることを認めたのですか?)
633 :
YAP?:2006/11/06(月) 00:08:16
幼名と仮名(けみょう)が一緒というほうが考え難いような気がするが?
織田信長の幼名は「吉法師」、「仮名」は「三郎」。
徳川家康は、幼名は「竹千代」、仮名は「次郎三郎」。
>>632 禅寺では漢籍の教育が盛ん。
漢詩や歴史書、政書、兵書まで。
だが、その事と武芸の修練をしていたかどうかということは話が別。
高位の禅僧は、現代における大学教授のような者だよ。
雪斎の起用は、小泉が竹中を連れてきて大臣をやらせたのと似ている。
635 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 00:14:11
>>628 なんで
>>557にからんでるのか知らんけど、
今川品川が御家人だという根拠は皆無だろう。
というよりも、そんなこと言ってたら恥かくだけだと思われ。
それとも、まさか「今川品川が御家人じゃなかった根拠を出せ!」
とか要求しているんだろうか・・・。
637 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 00:23:42
考えにくいって言ったって実際、太郎が幼名ってことになってるぞ。
他にこういう例があるかわからないが、武田家は幼名と通称が同じなんじゃないか?
信縄、信虎が五郎、晴信、義信が太郎、以下信親、信之、勝頼が二郎、三郎、四郎。
誰も晴信=勝千代のような「幼名」は伝わっていない。
これじゃ武田家の場合は幼名=通称だったと考えるのが自然な流れじゃない?
638 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 00:25:01
>>622 いいたいことを一通りいってくれた。サンクス。
まあ弓術や馬術は普通にできたと考えるのが無難だよね。
それを明確に否定する史料でも出てこない限りは。w
>>625 まあ坊主の格好をしていれば俗世から完全に足を洗った生活をしているという
わけでもないしね。
入道名で政治に関わっている奴の如何に多いことか。
640 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 00:38:57
>>639 そりゃ、義元は坊主じゃなかった時期の方が長いんだから、弓の稽古くらいはしてるだろ。
還俗したのに多少の武芸もできないようでは、家臣にしめしがつかない。
641 :
628:2006/11/06(月) 00:47:33
>>636 やべ、アンカー間違えた
>>557じゃなくて
>>554だ
絡んでるつもりもないんだが、単文で否定だけするやり方が
似てると思ったもんでね
すまん
>>634 >だが、その事と武芸の修練をしていたかどうかということは話が別。
>高位の禅僧は、現代における大学教授のような者だよ。
だから、高位の僧は、僧兵と違って武芸の修練を”しない”って論拠を出せと。
別にそれで飯食えるレベルまでやってるとか、年取ってからも日々訓練しているという話じゃないよ。
今でいえば一般教養として、文系の大学に進学する人間が中高で理系の勉強をするような感じで
剣術・馬術がとりあえず使えるレベルくらいまではやってるだろうってことなんですが。
>>637 晴信の太郎とか、信繁の次郎というのは幼名じゃなくて、仮名だという資料はあるんですが、
幼名がそうだという資料もあるんですか?
ちなみにググッたら、信勝(晴信嫡孫)の幼名が武王丸、信尭(信虎五男信友の長男)が長老、
信清(晴信七男)が大勝という資料はありました。
643 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 11:09:12
>>642 根拠となる史料は残念ながら知らない。
でも歴代当主や嫡男にこれだけ幼名らしいのが伝わってないのはおかしくないか?
一人や二人ならともかく、これだけ幼名が伝わってないとなると幼名をそのまま仮名として名乗った可能性はある。
信繁の仮名が次郎という話だが俺もググッて見たが幼名とされているのがいくつも見あたるぞ。
後、信勝の幼名は太郎というのも伝わっている。まあこれは勝頼が晴信の後継者に決まった時点で改めたと考えるのが自然だが。
晴信の幼名と伝わる勝千代の根拠となる真田三代実記は他は今川家の内紛で討たれたことになっている
福島正成が武田に討たれたということにされてるなど信憑性が低いし。
それに勝千代というのは穴山家嫡男の幼名で晴信の幼名というのは誤記のようだ。
644 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 12:00:37
>>642 高位の僧が武芸の修練をしてた、という根拠を出せよw
もちろん武田信玄とか宝蔵院とかはなしだぞw
645 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 13:50:18
義元が修行僧時代に武芸の訓練をしたかどうかは知らんが
家督争いに勝って今川家の当主になってからは、それなりに武芸は習っただろう
ただ、年をとってから習った武芸は、たいしたものではないだろうけど
>>644 >高位の僧が武芸の修練をしてた、という根拠を出せよw
大原雪斎が、今川軍の指揮を取ったことをその根拠として出したんだが。
私はこの事実から、通常の武士と同様の仕事が出来る=武士と同様の教育を受けている と推測した。
無論、彼は兵学(学問)のみ習っていて武芸(実技)を習ったとはいえないという反論が出ることは理解できるけど。
そう反論するなら、その根拠を出してよ。
大原雪斎
父方は庵原氏で、駿河庵原(現在の静岡県静岡市)周辺を治める一族。母方は興津氏で、横山城を本拠に
海運を掌握し海賊(水軍)も率いていた。両家とも今川氏の重臣。どう考えても屈強な体躯な坊主だったろーに。
648 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 17:30:58
>>646 だからさあ、そう主張するんならば、最低限雪斎が、建仁寺だったか妙心寺だったか忘れたけど、
修行した寺で武術を学んだことを証明しなきゃ。
雪斎が、初陣からいきなり最前線で刀槍を振り回していたとすれば、
ひょっとしたら修行中に武術を学んでいた可能性も出てくるけど、そういう話も聞かないしね。
仮に雪斎が武術を得意としていたとしても、雪斎が特殊な例外である可能性もある。
改めて問う。
禅寺で、まともな修行僧に武術の修行を課していたと主張する根拠は何?
何だ、久しぶりにスレ開いてみたら荒れてんなーw
長くなるけどマジレス
そもそも義元の出家は一般の出家と意味合いが違うだろ
善得院(今の臨済寺)は僧侶の義元を京から駿河に呼び戻して住まわせるために氏輝が建てたものらしい
(数年前に実際に臨済寺の案内板で見た見たから間違いない〉
つまり氏輝および寿桂尼は義元に国政の一翼を担わせるつもりだったと考えてもいいだろう
その意向は当然雪斎にも伝えられているだろうから、軍学や武芸の基礎基本は教えてたと考えられないか?
それから上にもあったけど義元が弓術の免許を持ってたってのは結構知られてることだろ
これらの事から俺は義元もそれなりの武芸を身につけていたと考えるのが普通だと思うのだが
>>644>>648 おまえの言うことも一理ある
確かに僧侶や義元・雪斎が武芸に励んでいたとはっきり書かれてる史料はないからな
しかしだからと言って彼らがまったく武芸ができなかったと言うことにはならんのだよ
武芸ができたと言う根拠を出せというのと同様におまえの主張を裏付ける確固たる根拠を出さねば話にならない
おまえ人にソースを出せとわめいて噛み付くだけで自分からは何一つソース出してないからな
>>648 何で私が武術を習ったことを証明するのよ?
こちらは、一般的な階層の僧侶と同じく武芸も兵学も寺で習う(タブーじゃない)って主張してるんだから。
あなたも、一般的なレベルの僧が、これらのことを学習していたことまでは否定しないのでしょう?
高僧にとって、兵学を習うのは普通だけど武芸を習うのは忌避していたって、あなたが主張してるんでしょう?
そっちが証明することじゃないの?
651 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 18:12:11
652 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 18:14:19
>>649 >>646乙w
だれも義元や雪斎が武芸ができなかったなんて言ってないよ。
寺で学んだという根拠がないといっているだけであって。
そもそも自分には根拠がないのにソース出せと喚いてるのは
>>649なんだが?w
さあ、「なかったことの証明」なんか要求してないで、
すっぱり禅寺では武術も教えているというソースを出してもらおうか。
653 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 18:16:54
>あなたも、一般的なレベルの僧が、これらのことを学習していたことまでは否定しないのでしょう?
一般的なレベルの僧侶って何?一般的なレベルの僧侶とやらは寺で武術を学んでいたのか?
すごいね。
654 :
649:2006/11/06(月) 18:22:54
それから
>>646 おまえは義元が武芸ができたと考えてずっとレスしてる奴だろ
おまえの根拠はわかったけど根拠からの結論付けが飛躍気味
>父方は庵原氏で、駿河庵原(現在の静岡県静岡市)周辺を治める一族。母方は興津氏で、横山城を本拠に
>海運を掌握し海賊(水軍)も率いていた。両家とも今川氏の重臣。
だからと言って雪斎が武芸できたと結論付けちまうのは無理がある
まあ要するに俺が言いたいのは
>>644と
>>646どっちも説得力に欠けるっつうことだ
俺は武芸できたと考えてるけど、だからと言って
>>646に全面賛成はできない
655 :
649:2006/11/06(月) 18:37:36
>>652 何だよ、今度は俺を叩いてんのかよwww
残念ながら俺は649じゃないよw
>そもそも自分には根拠がないのにソース出せと喚いてるのは
>>649なんだが?w
ん?俺のどの発言についてのソース?善徳院建立=義元国政参加のことか?
まあ確かに史料にはないからな、確かにおまえの言うとおりだな
しかしな、そういう意図なしに氏輝が膝元に呼び戻すって事はないんじゃないか?
>さあ、「なかったことの証明」なんか要求してないで、
>すっぱり禅寺では武術も教えているというソースを出してもらおうか。
もうここまで来るとなんとも言えないw
自分のソースはひとつも出さずに人に噛み付くって何だよw
「無かったから無かったんだよ、なんか文句あるか」ってことか?
あのな、アンチテーゼを証明するにもテーゼが必要なんだよ
とにかく落ち着いたらレスくれよ
俺今残業中だから遅くなるけどおまえのレスには必ず返すから
656 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 18:59:43
>>655 あほか。武芸ができたorできないの論争じゃネーよ。
禅寺で武芸を教えていたorいないの論争をしてるんだ。
そもそもソース出せと噛みついてきたのも、教えていた派。
ところがソース出さずに喚いて噛みついてくる教えていた派の尻車に乗って
なかったことの証明を要求する不思議な
>>649。
ということで、
>>646=649はバレバレw
取り繕って無意味なレス
>>654で誤魔化そうとしても無駄ですw
657 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 19:35:34
はじめまして
歴史勉強してる若輩者ですが色々ご教授おねがいします
今川吉本は公家のようなイメージなんですが本当におぼっちゃんの弱弱しい感じだったんですか?
>>657 はじめまして。
今川義元は公家らしく、実に見事な太鼓腹をもった偉丈夫で、
人並み外れたアゴをもつ豪傑でした。
659 :
646:2006/11/06(月) 20:27:53
私がレスしたのは、
>>642 >>650 で
>>649 は違います。
っていうか、
>>656 見ると寺で武芸を習っていたこと自体も証明しないと駄目なの?
江戸時代の寺と違って、この時代の寺が武力を持っていたことはこの板の人なら常識だと思ってたんだけど。
ソース探したのですが、
ttp://www.ka6.koalanet.ne.jp/~bamen/souryo2.htm 千葉氏の一族で美濃の奉公衆 東氏関連のページの正宗龍統(1428-1498)という人物の項目に『故左金吾兼野州太守平公墳記』 という文章があります。
故人の功績を讃える文章(何ていうんだっけ?)だと思いますが、この中で故人(東胤頼)の経歴を述べている中で
(略) 〜 廻就小笠原浄元学騎習射 幾一百日 弗慳貨幣 日厚(貝兄)之 示其信也 僧玄心授兵書伝剣術 〜 (略)
とあるんですが、これは”僧玄心に兵書を授かり、剣術を伝えられた”ってことですよね?
あと、やはり室町時代の『世鏡抄』という真言宗系の寺で行われた教育について述べた資料のなかで寺での教育内容について述べていて
”漢籍以外では、茶道、香、習字、管弦楽、和歌、仏事などを中心としており、武士の子弟には弓、乗馬、相撲、兵法、武術、鷹狩などがプラスされてました。”とのこと。
東洋文庫『子育ての書』にこの書物の内容が載っているそうです。
まあ、どっちも大名クラスの子弟の教育について述べたものではないですが、僧侶から武芸を習う
(僧侶が武芸を修めている)証拠にはなるかと。
鹿島の神人や宝蔵院では、剣術や槍術が盛んだったけど、
だからといって神官や僧侶が、一般的に、武事に熱心だったことにはならないよ。
>故人の功績を讃える文章(何ていうんだっけ?)
賛のことかな?違うかも知れないけど。
662 :
649:2006/11/06(月) 21:28:26
>>656 >>652だよな?遅くなってすまんな
帰宅途中で携帯からだけど許してくれな
だから646じゃないんだってw
ID出ないから証明できないけどな
よく見たら時間もなんとなくかぶってるし
自演疑われてもしょうがないけどな
>あほか。武芸ができたorできないの論争じゃネーよ。
>禅寺で武芸を教えていたorいないの論争をしてるんだ。
おまえのレス見ると
僧侶は武芸できない→元僧侶の義元もできない
って言ってるように見えるんだよ
だから649を書いたんだよ
まあとにかく人のレスよく読まずに突っかかってくるおまえの
相手する気ないわw
勝利宣言でも何でもしてくれwww
ところで、
>>650のいう、一般的なレベルの僧が武術を習ってた
というのはどうとったらいいのか。
素直にとると、
一般的なレベルの大工は武術を習っていた並の違和感を感じるんだけど。
何で一般的な坊さんが武術を学んでいたと思うようになったのか。
664 :
646:2006/11/06(月) 21:54:35
>>.663
>何で一般的な坊さんが武術を学んでいたと思うようになったのか。
えーと、言葉足らずだったですかね。
当時のお寺では元服前くらいの年齢の少年の基礎的な教育(読み書きなど)も担当していて、その中には武芸もあったろう ということです。
その後、学僧として出世したりして武芸の腕を磨かないものもいるでしょうし、僧兵や武士という形で武芸の腕を生かしていくものもいただろうと。
うまい例じゃないかもしれないですが、特別なお寺で僧兵などが武芸を習った(カンフー映画の少林寺みたいな感じ)
わけじゃなくて、その辺のお寺でも教えて貰える一般的なことだったのでは ということです。
武士の子が寺に通うのは学問を学ぶためじゃね?
武芸なんて寺よりも自分の家の方が専門家なのでわ。
悪ガキ同士で境内でチャンバラしてた可能性は高いが。
666 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 23:18:43
>>662 なんだこいつ。人のレスも読まずにつっかかってんのはお前じゃないかよ。
義元が武芸できないなどとは一言も言っていないし、
坊主が武芸できなくても、若くして還俗した義元が武芸ができないままなんて、
どこをどう解釈したらそんなことになるんだかw
脳内お花畑な奴だなw
お前こそ勝手に勝利宣言でもしてろwwww
667 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 23:31:25
>>665 実践的なもの以外に、今の武道のように精神性を教えてるのかもしれないよ。
なんといってもお寺だからね。
668 :
YAP?:2006/11/06(月) 23:34:05
武田氏の幼名というのは、確かに史料上、ほとんど見当たらないな。
まあ、「伊豆千代丸」というのが、いたが。
家康の家系安城松平氏は、代々の「仮名(けみょう)」が、次郎三郎だ。
おそらく、松平信光が(岩津松平氏の祖)が、親氏の次男で、
その三男が、安城松平氏の始祖の親忠だから、それで「次郎三郎」と
なったものだろう。
>>665 >武芸なんて寺よりも自分の家の方が専門家なのでわ。
今、議論しているのは若い頃寺で育った義元が”武芸を習う”ことがあったかなかったかだから。
否定派の人は高僧になるように育てられた義元が兵法はともかく、武芸を習うはずがない という意見なので。
肯定派の私は、
>>659でお寺でも武芸を教えることがあった(そういう技術を持った僧侶もいた)という例を出したまでで
武芸を習うところがお寺に限られるという意見ではないです。
武士がお寺でまとめて教えるとか、近所の武士の所に習いに通った可能性もあるでしょうね。
そりゃまあ昔から僧兵なんぞという存在もあることだしなあ。
寺でも武芸やるところはあっただろうが、そもそも
僧兵要員と普通の僧侶要員が同じだったのかね?
比叡山や園城寺、興福寺は戦をしたが、
臨済宗曹洞宗が戦をしたというのは聞かんな。
671 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 00:13:47
義元の坊主時代からの家来である大原雪斎が戦略的に優れた軍師だったから
義元も、武芸より兵法を、少し習ったかもしれない
当主なら武芸より逃げ足の速さを学ぶべきだ
武芸はあくまでも敵の攻撃を防ぐ程度にとどめるべき
下手に武芸を極めると逆に逃げ道を見逃してしまう
足利義輝のことですか?
674 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 09:12:47
とりあえず時代的には少し遡るけど、護良親王とか足利義教とかは
還俗したのはかなりの歳になってからだが、それなりに武芸はできた。
だとすれば、況や18歳で還俗した今川義元をや、ということにはなるかもな。
>>672 武芸とはいっても、中世の武家が教養として必要とされる武芸は、基本的には
「弓馬の道」という言葉や、流鏑馬・笠懸・犬追物なんかに象徴されるように
弓術と馬術、つまり遠距離戦向けの武芸だよ。
それに対して個人対個人の接近戦の技術である剣術が発達するのは、世情から
護身術としての需要が出てくる戦国期以降。
だから戦国期だと、大きな兵力を持ちたくさんの護衛に守られている
戦国大名なんかよりも、僅かな従者しか持っていない公家なんかのほうが
剣術みたいな個人戦向けの武芸には熱心だったりするわけで。
因みに将軍家に剣術指南をおいた最初の将軍は義輝だけど、当時の巷では
「剣術は将軍なんかが習うような武芸じゃない」って結構馬鹿にされているって
話もある。
こういうことからすると、今川義元の場合も弓術や馬術のような伝統的な武芸は
少なくとも普通のレベルではできただろう。
ただ剣術の心得があったかどうかは怪しいだろうな。
>>674 弓、馬は当然習っただろうけど、どれほどできたかは不明。
普通以下のレベルかもしれないし、実は達人レベルだったかもしれない。
まともに習えば普通に到達できるレベルくらいにはできたということでいいんじゃ?
まあ弓術は免許を持ってたらしいし、太りすぎて馬に乗れないって話が事実ではないこともほぼ明らかのようだけど。
てか海道一の弓取りが弓術できなくてどうするって気もするが。
普通に、常識的に考えてみりゃいい。
当たり前のことはいちいち記録には残さない。
義元は高僧になるというより、今川家当主のスペア的存在として寺に入っていたんだろ?
だったら当然武家の当主として相応しい教育が為されていたと考える方がずっと自然で、
やっていない場合の方がかえってそのことが特記されるんじゃないの?
常識とか自然とか言ったって何の説得力もないぞ。
だいたい武家が存在しない現代の常識で
当時の武家の当主階級の行動様式なんて推論していいのか?
(そもそも俺の「常識」では、
今の会社社長の長男が跡継ぎコースに乗って
次男が大学院の研究者コースに入ったりした場合、
次男のほうに経営学や帝王学を施したりはしないもんだが。
当時と今とでは余命の分散も異なるから・・・とか理由を
つけ出したらそれは既に「現代人の常識」じゃあないし。)
とか言いながら俺も義元は武芸やってたと思うが
679 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 08:52:25
東海道一の弓取りと呼ばれたのは、義元と家康だけ?
680 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 09:30:24
松平清康
>>678 同意。そもそも武家の子弟が寺にはいるのは、一族の菩提を弔う意味もあるが、
家督争いを未然に防ぐ意味合いが強い。
常識的に考えれば、そんな事情でやってきた子供に武将としての教育をするわけがない。
京都五山なんて学問寺じゃん。
武芸を学びたかったら比叡山とか興福寺に入れるのでは?
学問と武芸両方学ぶには最適だろう。
家康って晩年の狸体系しかイメージ無いけど、この男って武芸マニアだったんだろ?
若い時、武芸に明け暮れてたらしいし。腕の力が常人の倍くらいあったらしいぞ。
スレ違いですまん。
先週中村橋の輔主演の太閤記やってたが義元公が露骨に公家・バカ殿として描かれて家t
腹が立った。信長が優れていただけで義元公は名将だよね?
馬鹿殿なんじゃね?
686 :
684:2006/11/12(日) 19:31:37
海道一の弓取りと謳われ3カ国を支配し北条・武田といった強敵と互角に
渡り合った義元公がバカ殿か?
687 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 19:32:51
静岡県の観光パンフには「公家の今川家」って書いてありましたw
688 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 19:40:57
>>686 領土は兄貴から相続して雪斎に拡げてもらったもの。
武田は元より味方で渡り合う必要ないし、
北条にはボコられて駿東を失った。
武田に助けてもらわなければ駿府も危なかった。
で、弱い物いじめに自ら出陣したらあっさり蹴散らされて討ち死にした。
さすが海道一の弓取り。あっぱれなご活躍だね。
>>688 まあ、義元が武田と婚姻を結んだから北条が怒って駿河に乱入してきたのだけど、
義元は軍事的にいいとこないね。
691 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 20:54:42
つうか、義元って、桶狭間以外の合戦経験あるの?
大国の領主だったから重く見られているだけで、
ほとんど家来におんぶにだっこのような・・・。
武田信玄上杉謙信北条氏康織田信長なんかと比べると、
アグレッシブさが明らかに違うよね。
まあ公家のお歯黒武将だから仕方ないか。
692 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 21:07:32
河東一乱で駿東を失った件については、義元だけの責任とはいえないよ。
もともと北条早雲の存命中は、今川氏親はほとんど駿東の経営は早雲に
委託しちゃってるような状態。
一応早雲の晩年には今川方に返還されているようだけど、その後も氏親・氏輝は
駿東をまともに支配してきてたのかどうかは怪しい。
この地域で最有力の国人領主である葛山氏が後北条から養子を迎えてるような
状態だし。
北条と断交した時点で、富士川以東が失われるのは自明の状況だったかと。
693 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 21:11:14
694 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 22:15:56
また例の馬鹿が沸いてきたのか…
自演までして御苦労なこった
681 :日本@名無史さん :2006/11/12(日) 10:24:42
>>678 同意。そもそも武家の子弟が寺にはいるのは、一族の菩提を弔う意味もあるが、
家督争いを未然に防ぐ意味合いが強い。
常識的に考えれば、そんな事情でやってきた子供に武将としての教育をするわけがない。
↑
「常識的」なんて言い方している時点で
>>678の意図を全く読み切れていないことがわかるのに、
それでいきなり「同意」ってんだから笑えるよキミはw
もう1度、>678の主張を貼っておいてやろう。
↓
>だいたい武家が存在しない現代の常識で
>当時の武家の当主階級の行動様式なんて推論していいのか?
696 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 07:04:45
義元が武芸を習ってたかどうかなんて、たいした意味ない
桶狭間で奇襲にあった時に、逝くのが数分遅れるかどうかくらいだ
697 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 10:33:30
ま、桶狭間で義元が死んだこと自体、事故みたいなもんだしな。
698 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 10:35:43
>>695 そういう言語不自由な人がいないとこのスレ盛り上がらないからいいの。w
699 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 10:42:24
>>688>>692 でも第2次河東一乱が終わって三国同盟が結ばれた時点で、駿東も足柄峠まで
全部今川領ってことで確定したんじゃ?
その後氏真の時代に武田が駿河に攻め込んできたときには、北条はなすすべも
なく駿東まで全部武田に持って行かれてるし。
このことから推測すると、第2次河東一乱が終了した段階で駿東からは北条の
地盤が消滅してたってことにならないか?
700 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 11:02:05
>>695 アホ発見。
「常識」というのは現代の常識もあれば過去の常識もある。
愚にもつかないこと言ってないで、言いたいことをはっきり言えよ。
「当時の禅寺では武術は必須科目でした!」となw
>>699 アホにマジレスするのはやめとけ。
こいつが居ついてから常識人がみんな去って
今はほとんどアホ一人のの自演ばかりのスレに成り下がったから。
IDが出る戦国板にでも行った方がいい。
>>700 しかし
>>681が
> 常識的に考えれば
と言ってるのを過去の常識のことととるのは無理がないか?
過去の常識で常識的に考えることは現代人の俺らにはできんだろ。
例えば藤原道長は字が書けたか、という議論があったとする。
普通の人間は、平安貴族は字が書けたという当時の常識=過去の常識から、
道長は字が書けた、という結論を出すだろう。
専門家になると、道長直筆の書を物的証拠として出してみたりと、
もう少し高度な手段も織り交ぜるのだろうけど。
今川義元はムシロ織りの内職をしていたかという議論があったとする。
普通の人間は、当時の身分の高い武将はそんなことをしないと思うだろう。
これは現代人である我々が、解明されている過去の常識で常識的に考えて導き出した結論だ。
もっとも、新たな発見で、現代人の想定する「過去の常識」なるものが変わる可能性はある。
>>701 といっても、軍事面で見れば義元自身に見るべき物はないのも事実。
そんなレス付けてると、事実を指摘されてキレた信者にしか見えないな。
>>703 お前の言ってるのは「当時の常識」「過去の常識」じゃないぞ。
かろうじて言えば「過去に関する現代の常識」だ。
>>681はそのつもりでした、というならもうそれでいいが。
「当時の常識」というのは例えば
「死人は祟ることがある」とかだわな。
今川義元の桶狭間での横死は有名だが、竜造寺隆信の沖田畷の戦いでの横死も見るべき点がある。
共通して言える事は、太って馬に乗れなかった。致命的wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
隆信は、若い頃から何度も肥前を追われた経緯からか、疑心暗鬼で冷酷な人物であったと言われている。
そのために『肥前の熊』という渾名をつけられた。また、隆信の戦死においても、隆信が輿で逃げるとき、
普段から家臣に対して冷たく接する隆信を担ぐことに嫌気が差した家臣たちが、輿を担ぐことを拒否して
放り捨てて逃げたため、隆信は敵に討ち取られたという逸話もある。
ひ さ ん だ な
>>700 人をアホ呼ばわりする前に、少しは頭冷やせよ。
あんたの主張している「過去の常識」だって、
現代の我々が「過去とはこういうものだ」と思い込んでいる、つまりは現代の常識なの。
その意味では
>>677もあんたも、結論こそ違えど、
結論の出し方として同じことをやってしまってるってことだよ。
要は「常識で考えれば」と言い出した時点で、それは現代人の常識にならざるを得ない。
そうではなく、極力実証的に考えていこうや、ってこと。
>>678の文章を素直に解釈すれば当然そうなるだろ?
710 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 17:54:40
>>707 義元も隆信も同じデブだが、隆信は一代で五州二島の太守までのし上がった。
義元は一代で父祖の築き上げてきた物をすべて失った。
隆信は敗北を知ると慫慂と敵に首を差し出したが、
義元は見苦しくも足軽の指にむしゃぶりついた。
なんともかんとも。
つうか、過去の常識とか現代の常識とか百済ねー。
過去の人間が常識としていたであろうものを過去の常識と呼ぶか、
現代の人間が過去に常識だったであろうと思ってる物を過去の常識と呼ぶか
そんな議論になんの意味があるのかなー??
さっさと言語学板にでも逝ってくれー。
712 :
:日本@名無史さん :2006/11/13(月) 18:10:05
今川になら勝てるとセコイ妄想抱いてる佐賀チョンミンうぜーw
今川の方が歴史も身分も遥かに格上ですから。
>>711 ほんと意味ないよな。
さっさと間違いを認めて次の話に行こうぜ。
↑
どっち側のやつか知らんけどずいぶん負けず嫌いらしいw
いや、問題は実証vs.常識とかそういうことだと
思ったんだけど・・・
716 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 20:38:50
おい、いつもの厨
早く
>>709にいつものように罵倒しろよw
俺はお前のレス見るためだけにこのスレに来てるんだからなwww
お前かなり有名だぜw
言葉に詰まるとすぐ「義元はデブ」の一点張りだもんなw
良識人の皆様方、もっと煽ってやってくださいw
717 :
:日本@名無史さん :2006/11/13(月) 20:44:57
今川と対等にやり合えたのは武田か北条か信長くらいなモンだね。
718 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 20:53:00
>>716 厨乙
言葉につまって罵倒ですかw
「アホ」に加担してる時点でどういう人間か丸わかりだねw
719 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 20:56:18
武田元繁は大内と尼子に挟まれた弱小守護だからなあ。
しかも自ら突出した結果、射殺されたんじゃなかったか。
>>716 だから厨は放置しろと何度言ったら(ry
>>717 ここで粘着してる奴って何なんだろうな?
義元を叩くと信玄や氏康の評価が相対的に落ちるから武田厨、北条厨ではなさそうだし
デブで馬に乗れないってのを信じ込んでるところから信長公記を読んだことがないとみえるから
織田厨でもなさそうだ。
今川をどうしても貶めないといけない奴って何厨なんだ?徳川かね?
たまにネタにされるが、そんなに叩かれてるわけでもあるまい。
なんか激しく被害妄想な悪寒。
723 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 21:27:38
徳川厨でないことを祈る。
同じ家康ファンとして恥ずかしい。
>>722 今確認したけどこんだけ粘着して同じこと繰り返してれば被害妄想ではすまないよ。
秀吉厨が焼き味噌粘着するけどそれと同じにおいがする。
>>722 内政はともかく、軍事でポイントを上げられなかったのは痛いね。
ほとんど雪斎禅師始め家臣任せで、自ら兵を率いた桶狭間では、
圧倒的優位にもかかわらず討ち死に・・・。
義元個人の実績としては、軍事に大きなマイナスがついたまま。
信玄や信長も派手な敗北はあったが、それを取り返す機会が与えられた。
義元はそんな機会が与えられなかった。
>>723 デブ でスレ内検索した
451 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2006/09/22(金) 15:18:48
593 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2006/11/03(金) 22:56:33
710 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2006/11/13(月) 17:54:40
716 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2006/11/13(月) 20:38:50
721 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 2006/11/13(月) 21:07:00
723レス中5つ。しかも
>>716>>721は明らかにアンチじゃない。
ということで723レス中3つだけです。
つまらんことでケチ付けててワロタ。
昔のことを研究した結果、それが当時の常識だって言うならそれ過去の常識じゃん。
歴史学なんて遺物から過去の常識を推論し、その常識と新たな遺物を組み合わせてまた推論し・・・のくり返しじゃん。
何から何まで史料がそろってるわけじゃないんだから、そうしないと歴史学なんて成り立たない。
まあ、義元が寺で武芸を学んでいたという「常識」には賛同しないが。
今川焼きネタよりはましだ罠。
常識論はもういいよ。
常識をわきまえて2ちゃんねるをご利用下さい。
>>726 だからそんなつまらんことに問題を持っていってるのが
つまらんと言われてるんだがわかんないかなー
>>725 デブっていう言葉そのものじゃなくて、馬に乗れないとか刀も使えないとか
そういうこと全般について723は言ってるんじゃないの?
>>727 さてはおぬし昔の今川家スレにおったなw
なんだか問題の本質を捻じ曲げて
つまらないほうへつまらないほうへ話を
持っていきたがる奴がうろちょろしてるよな
>>729 こんなつまらん話題を始めた人に言ってくれw
733 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 21:57:20
今川義元個人の能力がどうこうとかいうレベルの話になると、学問としての
歴史学からは外れてしまうしな。
義元が馬に乗れたかどうかなんて歴史学的にはどうでもいい話。
ただ義元以前も含めて戦国大名としての今川氏や今川領国のあり方については、
同時期の他の大名や地域との比較において、研究者のなかではプラスに評価する
人が割と多い印象はあるね。
それに対して普通の素人歴史ヲタのなかでは今川氏=公家かぶれの弱々しい大名
ってイメージだけが先行していることが多いのは事実だろう。
義元が馬に乗れなかったとしても、武功がなくても、それがさほどマイナスになるわけでもあるまい。
大内や大友みたいに、有力守護大名は、出陣はしてもあまり戦場までは赴かないものだ。
それだけ家柄、権威があったということ。
>>732 じゃあ
>>700だな
>>681が史学的推論でなく常識で判断しちゃうのが問題だったのに
現代の常識とか過去の常識とか話に全然関係ない区別を持ち込んで
以降ぐだぐだ
もう話題変えようぜ
>>733 俺大学の法学かなんかの講義で資料として配られた英語論文に
仮名目録がらみで氏親と義元の名前見つけたときは驚いたよ。
ローマ字でImagawa Ujichikaとか書いてあっても一発で気づかなくて
「ウジチカ イマガワ?ん……今川氏親か!」ってなったw
もうけっこう昔のことでプリントで配られたものだったから著者の名前すらもまったくわからないんだが
外国人にも評価されてんだな、って思ったことをふと思い出した。
>>735 「過去の常識」は史学的推論に含まれるじゃんw
なに愚にもつかない言い掛かり付け点だよw
さては
>>695だなw
>>737 > さては
>>695だなw
残念。はずれ。愚にもつかない言い逃れを
続けてるのはお前だ。もういいから草むしっとけ。
いい加減話題変えようや。
>>130 馬 で検索
ただしあきらかなアンチレスのみ抽出
142 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/12/20 02:15:45
馬に乗れないほど肥大化し、輿で旅に出る義元
593 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2006/11/03(金) 22:56:33
馬にも乗れないデブ...太りすぎでつ
604 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 2006/11/04(土) 13:51:51
白化粧で天上眉で胴長短足で小太りで馬に乗れなかったんだし評価されないよ永久に
707 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 2006/11/13(月) 16:11:17
今川義元の桶狭間での横死は有名だが、竜造寺隆信の沖田畷の戦いでの横死も見るべき点がある。
共通して言える事は、太って馬に乗れなかった。致命的wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
730レス中4つのみです。
いい加減話題変えようや。
>>733,
>>736 現在確認されてる戦国大名の印章・印判状で
一番古いのって確か今川氏だよな?
行政の効率が飛躍的に上がったらしいけど。
島津、上杉、武田の棟梁を見ろ。 島津は義弘、上杉は謙信、武田は信玄。 家柄だけでもあるまい。
>>741 寿桂尼の印判も結構有名だよな。
中部地方に典型的な戦国大名が多いのは今川に刺激されたからっていうのを読んだことがある。
だからそういう先進的な大名が劇的な死を遂げ、信長の台頭を導いた桶狭間の戦いには
ものすごいロマンを感じるな。
この前ドライブがてら静岡の大道芸ワールドカップ見に行ってきたんだけど
氏親や寿桂尼の墓も御参りして来ればよかったよ。
>>742 義久を忘れないでくれよ…
>>743 典型的な戦国大名ってのがなにかはわからんけど
今川と接してた戦国大名って、織田徳川武田北条?
そうかなあ?
そもそも、義弘は島津当主になってないとする説のほうが有力だと思うけど?
(秀吉政権からは大名クラスの待遇受けてるけど)
義久は、当主時代でも最前線に立つ事無く、弟達が最前線で戦って自らは後方からの指揮だったからね。
あえて、義弘にさせてもらった。そもそも、義弘が当主とかそんなのはココでは論議するべきでない。
今川家の歴代の当主って戦上手なのってあんまいなくないか?唯一の神的な存在は了俊くらいだろ。
748 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 22:57:42
>>743 11月17日、久能海岸に徳川温泉城下町がオープンします。
家康ミュージアムもあります。
で、今川歴代の当主で戦上手って誰さね? 氏親か?あいつは、確か潮見坂で殺されてないか?
ろくでもない死に方する、家柄だな。
えっと、今川氏輝って人が若死にして義元が跡継ぎになったのがそもそも没落の原因だと言う人がいましたよ。
兄の氏輝の方が聡明で軍事にも明るく、当主としては最適だったと言われてますが。。どうなんでしょうか?
753 :
743:2006/11/13(月) 23:27:09
>>744 甲州法度は氏親の仮名目録に影響を受けたってよく言われるし
伊勢新九郎も今川の内紛利用してのし上がったから
ある程度は影響を及ぼしたと見てもいいと思うんだが…
お前さんが疑問に思った点を教えてくれ。参考にさせてほしいから。
>>748 情報サンクス。機会があったら行ってみるよ。
でも、申し訳ないけど「静岡」にはちょっといい感情持たなかったな。
俺ドライブが趣味で日本全国結構まわったけど朝倉や一条ですら地元から慕われてたぞ。
静岡には今川のいの字すら見当たらなかった。むしろ意図的に消そうとしてる感がある。
地元の歴史を大事にできないのはちょっといただけない。
静岡の人が皆そういうんじゃないってわかるけどな。
「静岡人」は全体的にマターリしてて好感持ったけど。
>>752 氏輝って当主だった期間が短いし、前半は寿桂尼が補佐してて彼女が実質的な当主だから
はっきりした評価がつけられないのでは?
氏輝の業績って馬廻衆創設だっけ?あとは甲斐に侵攻したけど大敗したよな?
教えてエロい人
>>753 744じゃないけど、代表的な戦国大名が特に今川周辺に集中しているわけではない。
756 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 23:51:30
>>747 室町時代の今川の歴代当主は、関東で起こった上杉禅秀の乱、永享の乱、
結城合戦、享徳の乱なんかの平定に大活躍してますよ。
鎌倉府に対する京都側の最前線の国の守護家だから、関東で戦乱が発生すると
毎回必ず動員されるわけだけど。
あと初代の今川範国は観応の擾乱にも関わってるし、四職家じゃないのに幕府の
侍所の頭人をやったこともある。
>>749 了俊は分家とはいっても初代の範国の子供だし、範国の嫡子範氏と嫡孫氏家が
相次いで早世したときには、今川本家の後継者候補にもなったらしい。
結局は了俊と了俊の嫡子の貞臣がともに辞退したので、範氏の子で氏家の弟に
当たる人物で、それまで寺に入っていた泰範が還俗して本家を継いだ。
まあこのへんの話はほとんど『難太平記』がソースだけど。
757 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 00:01:27
>>755 何をもって代表的とするかは難しいところだが、この時代の研究史的に見ると、
つい一昔前までは、戦国大名の権力とか支配構造とかの研究って、大半が
今川氏や後北条氏を対象としたものに集中していた傾向はあったよな。
最近はさすがにこの2氏は研究し尽くされてしまった感があるのか、戦国期の
若手研究者がこの2氏には寄り付きにくいみたいだけど。
758 :
743:2006/11/14(火) 00:07:05
>>755 言われてみればそうだな。ご指摘サンクス。
ただ俺が言いたかったのは周辺諸国に大なり小なり影響を与えるくらいの力を持った
国ではないか、てことなんだ。
まあでも国境接してれば互いに影響しあって当たり前だけどな。
759 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 00:09:01
来年の大河の配役
今川義元・・・谷原章介
寿桂尼・・・藤村志保
760 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 00:13:52
>>750-751 今川の当主で最後が戦死なのは、義忠と義元のほかにもう一人いる。
それは今川が駿河に入部する以前の話なのだが、駿河今川氏としての初代である
今川範国の兄で頼国という人物が中先代の乱で戦死している。
>>760 マニアックすぎてワロタw 有益な情報dクスです。
今川了俊、カコ(・∀・)イイ!! 今川義元カコ(´・ω・`)ワルイ
764 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 00:33:23
今川氏って駿河にいた200年の間にお家騒動を3回起こしている。
1回目:永享の内訌・・・範政から範忠への家督相続時
2回目:文明の内訌・・・義忠から氏親への家督相続時
3回目:天文の内訌・・・氏輝から義元への家督相続時
この困難な九州探題職に任ぜられたのが、今川了俊だったのである。以後、了俊は九州各地を転戦し、
その職にあること二十五年間、所在の九州南党の諸勢と戦い続けた。やがて、九州は了俊の努力で
平定されるかに見え、中央でも南北朝内乱は収束に向かっていった。ところが、突如了俊は九州探題職を
解任され、京都に呼び戻された。これは、周防・長門・豊前・筑前などを守護領国にした大内義弘が幕閣に
了俊を讒言したためであるという。 いずれにしても、これによって了俊は不遇をかこつことになった。その後、
嫌疑は解けなかったものの、かつての軍功に対して遠江国内に河井郷・堀越郷・中村郷・湊郷・瀬名郷の五郷を
与えられ堀越郷内に住した。かれの活躍に対して、報いられたものはあまりに少なかったといえよう。
こうして、了俊は遠江今川氏の初代となったものの、直後に堀越姓を名乗り、九十六歳の長寿で死去した。
(´;ω;`)ウッ…
766 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 00:54:39
>>766 (´;ω;`)つ今川焼き(まったく今川氏と関係ないけど)
768 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 01:05:50
>>765の文章、明らかな間違いがいくつかあるよ。
>>768 765じゃないけど気になる。挙げてくれたらありがたいな。
了俊についてはあんまり詳しくないので。
770 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 10:15:12
まず了俊は九州探題解任(応永2=1395)後、すぐに謀反人として遠江に
押し込められたわけではない。九州探題を解任されたときには、その代わりと
して遠江と駿河の半国守護職を貰っている。
了俊が室町幕府から見て完全に謀反人になってしまうのは、もう少しあとの
応永の乱(応永6=1399)が原因。この応永の乱で大内義弘は鎌倉公方足利満兼を
擁立して将軍義満に敵対しようとした。このときの義弘と満兼の連絡役を
やっていたのが了俊とされる。乱の結果は義弘の敗死に終わり、満兼は自分は
乱には無関係と幕府に弁明、満兼に挙兵を促していた了俊は相模国で幕府軍に
拘束された。この結果了俊はそれまでの功績に免じて死罪だけは免れたが、
政治生命はここで完全に終わった。
またその後に了俊が隠居料として与えられたとされる5郷に関していえば、
まず瀬名郷は遠江ではなく駿河にある。またこれらの郷が了俊に与えられたと
いう話は後世の軍記や編纂物にしか出てこないので、了俊段階で本当に
与えられたのか、それとも了俊の子孫が政治的に復権したときに与えられた
ものかは不明。
さらに了俊の子孫が堀越姓を名乗るのはもっと後の時代になってから。
具体的には永享の乱〜結城合戦のときに、当時の今川本家の当主だった範忠が
乱の平定に大活躍したことから、将軍義教が「今川の名字は範忠の子孫の嫡流に
限る」という恩賞を範忠に与えたことによる。その結果、庶流が今川の名字を
名乗れなくなり、了俊の子孫が堀越の名字を用いるのもこの頃からといわれる。
因みに義忠から氏親への継承の際に、氏親と争った小鹿新五郎範満という人物が
いるが、この小鹿の名字もこのときに生まれたものらしい。
771 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 11:53:47
「天下一苗字」
家康厨の指摘が出てから池沼が湧かなくなったな
義務教育中の餓鬼は2ちゃんくんなって感じだわ
史書も全く読んでないから論理的に指摘されると罵倒か沈黙しかできない
沈黙してくれるならそれでいいじゃないか
777 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 23:28:05
778 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 01:32:32
桶狭間で義元と一緒に有力家臣が討ち取られたから
復讐戦ができなかったと空想している香具師は、まだ実在していますか?
779 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 13:34:08
てか義忠が潮見坂でやられたときは復讐戦してたっけ?
780 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 13:44:01
でもよく考えると、今川氏って斯波氏(およびその被官の織田氏)とはかなり
昔から因縁があるよね。
南北朝時代の今川氏は駿河の他に遠江と尾張の守護職も持っていたけど、それは
斯波義将が管領のときに召し上げられてどっちも守護が斯波氏に変わっている。
そのこともあってか、その後の今川氏は室町幕府の政変・政局の際(たいていは
細川派と斯波派に割れることが多い)には、いつも細川派につくようになる。
そして応仁の乱のどさくさに紛れて遠江を回復しようとして遠江に攻め込むが、
義忠は陣中で暗殺。
結局その後、斯波氏が没落したことから遠江は今川氏のものになったけど、
さらに三河・尾張と攻略していく過程で桶狭間の悲劇が起こり、全て水の泡。
781 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 18:22:06
暗殺だったんですか。
義忠が潮見坂で殺された時、駿府には伊勢宗瑞がいた。
783 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 21:00:19
777殿、見えませぬぞ
784 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 21:20:49
785 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 21:56:21
義元は東海道一の弓取りと言われていたんだから
それなりに武芸に長けていた可能性が高い
それを歴史の勝者である織田、徳川が事実を捏造して
敗者の今川を公家かぶれの馬鹿殿のようなイメージで貶めたという
ことはないか?
>>785 お前弓取りの意味知らんだろ。
つうか、もう武芸ネタはいいよ。うざい。
>>782 >義忠が潮見坂で殺された時、駿府には伊勢宗瑞がいた。
それって確定してるの?
義忠死後のお家騒動に介入したのは関東の上杉氏だけで、伊勢宗瑞はタッチしていないって説が最近取り上げられているけど。
(1)上杉氏(家宰の太田道灌)の支持で小鹿範満が家督継承
(2)主君上杉氏と太田道灌が対立して道灌暗殺
(3)有力な支持者を失った小鹿範満を、幕府(細川政元)と繋がりのある伊勢宗瑞がクーデターで排除
通説では(1)のときも、駿河に下向して道灌と交渉し小鹿範満を氏親成人までの家督代行とすることになったとたとなっているが、
関東側の記録で道灌が駿河にいた事は確認できるが宗瑞と交渉したことは載っていない、小鹿範満の以後の記録をみると代行ではなく、当主として扱われている
当時京都で伊勢盛時(出家前の宗瑞)の活動の記録が残っている・・・これが上記説の根拠
(この後、上京したとする説もありますが)
上杉側に擁立されて、親上杉の立場となった今川氏を、親幕府(というか親細川政元)に引き戻すのが(3)のクーデターの目的で
最終的には、将軍に清晃(義澄)、関東公方に潤童子(二人は上杉氏と対立していた堀越公方政知の息子)、細川氏を澄之に継承させる、
3人の母親は摂関家の出の姉妹で近親者、実際に裏で権力を振るうのは細川政元。
その後の伊勢宗瑞の行動(足利茶々丸排除のための伊豆侵攻)とも矛盾しないけど。
788 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 22:22:44
素人の俺のイメージは今川は太原でもってたと思う。
彼に戦の指揮を任せていたから今川は強かった。
彼の死後、戦の素人の義元が負けるのは自明
西の大内、東の今川
どちらも戦場で指揮を執ったことのない素人当主が遠征を指揮して大敗、
滅亡へ。
790 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 22:41:18
>>787 小鹿範満って幕府から正式に今川の当主として認められていたっけ?
確か義忠が死んでから間もない頃に、龍王丸(氏親)のほうに幕府から今川の家督継承を認める文書が出されていたような気もするけど。
791 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 23:04:13
まあ実態はどうであれ、幕府は絶対に小鹿範満の今川本家継承は
容認しなかっただろうな。
もとはといえば、その40年前にも今川義忠の祖父の範政が、晩年に生まれた
子である範慶(小鹿範満の父)を後継者にしようとしたところ、範慶の母方が
扇谷上杉氏という理由だけで当時の将軍義教に却下されたという経緯があるし。
40年前に一度却下した奴の子供を簡単に幕府が今川の家督と認めるとも
思えない。
伊勢宗瑞に引っ掻き回された今川家w
>>790 >小鹿範満って幕府から正式に今川の当主として認められていたっけ?
歴史読本2006年6月号に載ってたもの(駒沢大学非常勤講師・黒田基樹/北条早雲研究 最前線)の丸写しですが。
”道灌が範満支援のために駿河に進軍したことは、関東の他の史料にもみえているから事実であった。
しかしそこには、範満が氏親成人までの中継ぎであったことや、ましては交渉における早雲の存在は全くみることができない。
実際には、範満はその後は今川氏当主の地位にあったから、中継ぎというのは、後に氏親が家督を継いだことからくる説明とみるのが自然である。
さらに今川氏内訌の終息に早雲に功があったとする軍記物には、氏親が武力で範満を滅亡させた長享元年十一月の事件については、
全く触れられていない。それらの軍記物では、文明八年の内訌と長享元年の内訌が、一体化したものになっている”
>>791 義教時代は、関東とは戦争寸前の状況だし、幕府の権威がまだ強かったから文明年間とは同一視は出来ないのでは?
あと、別に親父が家督じゃなくても、家臣や将軍の支持で家督継いだ守護大名は少なくない。
江戸時代と違って、嫡庶や長幼の順による家督相続というより、実力・コネがものをいう時代だし。
794 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 09:44:17
俺が質問しているのは、範満の家督相続が幕府に認められていたのか、ということなんだけどな。
幕府が正式に認定していたのか、それとも現地に実質的な支配権を築いてはいるもののあくまで幕府から見ればアウトロー的な存在だったのか。
>>793 >幕府の権威がまだ強かったから文明年間とは同一視は出来ないのでは?
幕府の権威の強弱って何を根拠にいってるの?
永享年間には盤石だった幕府権威が文明年間には見る影もなく完全に消滅していたとでも?
>家臣や将軍の支持で家督継いだ守護大名
室町段階なら「家臣」ではなく「被官人」とでもいったほうが妥当なんじゃないの?
>嫡庶や長幼の順による家督相続というより、
嫡庶はかなり重要だと思うぞ。
例えば畠山義就なんて、先代の実子だけど母親の身分が低いために家督相続に対して反対意見が出て、その結果分家だけど両親とも血統書付きの畠山政長が擁立された例とか。
>>794 >俺が質問しているのは、範満の家督相続が幕府に認められていたのか、ということなんだけどな。
私が持ってる情報は793だけ。 申し訳ないです。
逆に家督を継いだか、実質的な支配者で幕府から承認されていないって史料はあるの?
小鹿範満宛ての書状がそれまでの今川当主宛と形式が異なるとか宛先はあくまで今川竜王丸宛になっているとか。
(これ、通説とも違いますよね?通説なら氏親成人までの家督代行者として幕府(伊勢宗瑞)が交渉の結果認めてるんだからアウトロー的存在ってことはないでしょう)
>永享年間には盤石だった幕府権威が文明年間には見る影もなく完全に消滅していたとでも?
完全にじゃないだろうが、衰微しているでしょう? 関東府の管轄外の今川氏の家督について関東から干渉受けて突っぱねることもできないんだから。
義教時代なら、それを理由に幕府が関東出兵するようなことなんじゃないの?
>畠山義就
既に政長がいるのに、義就が擁立されること自体、家督相続のルールが厳格じゃないってことでしょ?
その後も、幕府(足利義政)の裁定はころころ変わるし。(当然、関係者からの運動や圧力のせいだけど)
江戸時代も、島津のお由羅騒動みたいに、既に決まっている後継者を取り替えようとすることはあるけど
幕府が裁定したら決まりでしょ? 後継者が両立してずっと争いを続けているってことはない。
氏真ってすごいよな
戦乱の世にあって英雄豪傑が塵屑のように死んでいく中で
ただでさえ今川という大国の当主となった男なのに
亡国後も処刑や報復をされることなく
歌を詠み蹴鞠をして好きなことだけやって大往生しちまった
時代が違えば両君となったかもしれないが
生まれた時代が悪かったのか良かったのか
軍才のなさと人のよさのお陰で国を潰して命を永らえてしまった
氏真って人が良いか?
たんに腑抜けなだけじゃね?
798 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 14:43:09
蛆座寝は、義元死後に裏切りそうな家臣を殺しまくったそうではないか
そんな奴を 良い人呼ばわりする香具師って(ry
799 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 15:17:46
無能な奴をむりやり弁護して楽しむ歪んだ性癖でもあるんだろ
オヤジの弔い合戦する根性はないくせに、
家来だけは一丁前に殺す。
武田軍の前に防戦は家臣に任せ、自らは何もせず逃亡。
重臣の元にたどり着いたが、こちらでも防戦、和平交渉は人任せ。
オヤジの仇の前で蹴鞠を披露。
元家臣に臣従。
責任感もプライドもないひとだね。
801 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 23:06:37
雪斎・義元師弟の戦いに関する考え方は、完全な勝利を求めるのでなく、
有利な条件で交渉する為の道具と考えていたんじゃないかと思う。
又、孫子の兵法にも有る、戦争が始まった時には結果が決まっていた状態を
作り出そうとしていたとも。
雪斎が指揮した戦いが、小豆坂の戦い(第1次小豆坂の戦いは無かったと
思うのだがどうだろう?)・安祥城の戦い。
義元が指揮し雪斎がサポートしたと思う戦いが、吉田城の戦い
田原城の戦い・善得寺の会盟時。
義元が指揮した戦いが、長久保城の戦い・桶狭間の戦い。
長久保城の戦いを考えると良将だと思うな。
そうかねえ。交渉のための戦って、織田信広を捕らえたのくらいじゃないか?
対北条は、交渉のためというよりも、侵略者に対しての自衛の戦いだし。
803 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 00:27:56
長久保城の戦いでは、駿河を取り戻す。善得寺の会盟時
では同盟を結ぶという結果を出しています。
とりあえず
>>790について自分でも記憶が曖昧だったので調べてみた。
一応氏親に対しては、文明11年の段階で既に今川宗家の相続を認める御教書が幕府(義政)から出されている(静岡県史資料編の中世3の1)。
慈照院殿御判
亡父上総介義忠遺跡所領等事、任譲状之旨、今川竜王丸相続領掌不可相違之状如件、
文明十一年十二月廿一日
で、『静岡県史』では、この文書をもって幕府側としては龍王丸のほうを今川氏の家督として認定したと見ている。
あと伊勢宗瑞の伊豆侵攻と中央での明応の政変との関連性を最初に指摘された某先生の説によれば、この時期の氏親と範満は実質的には競合状態だったということのようだ。
そして小鹿範満の有力な支援者としては、太田道潅以外にも範満の舅に当たる犬懸上杉政憲がおり、政憲の実兄一色政煕は当時義政・義尚の側近だった。
つまり範満のほうも、中央とはそれなりに太いパイプを持っていたと見られるらしい。
しかしそれにも関わらず龍王丸のほうに今川氏家督が安堵された背景には、やはり伊勢貞親に繋がる伊勢宗瑞の働きかけを考えざるを得ないようだ。
もっともこれは宗瑞が当時駿河にいたかどうかとは別問題だが。
因みにその後、犬懸上杉政憲は茶々丸派となったため、義澄とその同母弟(潤童子)を将軍と関東の公方に擁立する計画のなかで消される。
しかし政知と潤童子が茶々丸に殺されたことでこの計画の一部が狂う。
そしてこの段階で、京都の幕府(義澄&細川政元)と古河公方成氏(当然堀越公方の存在は否定したい)と扇谷上杉定正(伊豆は対立する山内上杉顕定の分国)の利害が一致。
幕府の指令を受けた伊勢宗瑞が茶々丸征伐という流れになる。
なお
>>787のいうとおり義澄&潤童子の母親と細川澄之(細川政元の養子、実父は九条政基)の母親は姉妹だが、出身は摂関家ではなく武者小路家。
>>795 >逆に家督を継いだか、実質的な支配者で幕府から承認されていないって史料はあるの?
範満と氏親の内紛の決着がつくずっと以前に、幕府が氏親のほうに今川宗家の家督相続を認める文書を発給していたのは
>>804で述べたとおり。
また室町期の場合、幕府がその存在を容認していないにも関わらず、実質的にその地域の支配者として存立しているケースは時々ある。
究極的なのは、室町幕府の全盛期とされる義満の時代に幕府非公認のまま5年に渡って周防・長門2ヶ国を維持し続けた大内盛見の例がある。
しかもこの場合、盛見は何度か幕府から討伐軍を差し向けられているものの、最終的には幕府側が折れて盛見を防長両国の守護職として認めるという結果になっている。
もっとも幕府(義満)がどれほど本気で盛見を征伐する気があったのか微妙なところもあるけど。
室町幕府って、中央に害が及ばなければ遠隔地で乱が起こっていても放置プレー的ないい加減さが元々あるし・・・。
>関東府の管轄外の今川氏の家督について関東から干渉受けて突っぱねることもできないんだから。
とりあえず小鹿範満も中央の義政や義尚に直結するパイプを持っている以上、単純に「龍王丸=京都派、範満=関東派」という図式にはならない。
ただ結果的に幕府は氏親のほうに家督相続を認める文書を出している以上、幕府としては小鹿範満は突っぱねたということにはなるだろう。
>既に政長がいるのに、義就が擁立されること自体、家督相続のルールが厳格じゃないってことでしょ?
いや政長が最初から畠山持国の後継者だったわけではないよ。
もともと持国には40過ぎまで実子がなく、そこで一度は弟の持富を後継者にしていた。
しかしその後、妾腹だが持国の実子として義就が生まれ、持富は持国より早く死んでいた。
こういう場合、一度決めた後継者を決め直すことは当主である持国の専権事項。
それどころか中世の武家法(式目)では家督等を一度譲ってしまっていても譲り主による悔い返しは全くOKだし。
そして将軍義政も一度は義就を畠山氏の後継者と認定していた。
それにも関わらず、妾腹の義就に納得しない家中の一部が持富の子の弥三郎を擁立し、さらに弥三郎死後はその弟の政長を擁立するといった感じで泥沼に填っていった。
>>803 攻められたから戦った、相手が強すぎるから外交で片を付けた。
ただそれだけのことでは?
807 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 18:34:52
長久保城の戦いは上杉から川越夜戦の際の協力を求められて
それを東駿河の奪還の好機と考えた結果の軍事行動でそ。
この時の今川の目的は北条を叩くことより上記にあったから
最後は外交で決着をつけたんだろ。
北条のほうだって目の前に関東連合軍が来てるんだから今川と交渉して
早々とカタをつけたほうが良いし、それを踏まえての今川方からの外交申し込みだから
ここまでの流れを見たら結構いいもってき方だと思うがね。
今川が有利に立ちやすい状況に持っていったうえでの停戦交渉だからな。
もしよければ804さんや795さんのようなしっかりした知識を持っている方々のご意見を伺いたいのですが。
何の主張かよくわからないんだけど、それはそうでしょ。
せっかくの機会だから上杉と組んで北条を徹底的に叩くという手もあったが、
そこまではしなかった。
そして再び北条の侵入を許すことになった。
で、武田の介入と雪斎の外交で同盟を結ぶことなるのだが。
809 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 19:00:10
すまん。そのへんについては俺も少し思うところがあるのだが、未発表の論文の内容に関わってくるんで今はいえない。
810 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 19:12:06
>>806 都合が悪く書くとそうなってしまうので、良いように書かせてください。
当時は武力を背景に外交をするわけで、自分に都合良く外交が出来れば
優れた武将だと思います。
長久保城の戦いは、前年より義元と氏康は戦争状態になっていて、京より
和平の使者が来ています。
結果、交渉決裂となり、使者が帰洛した後、それぞれが出陣。義元は8年間
対今川の最前線にあった吉原城を落とします。
北条軍は自落し、氏康は三島へ引き、義元は長久保へ兵を進めます。
長久保で信玄が合流。氏康は函南に引き、上杉氏は河越城を包囲。
信玄の斡旋で、河東は今川方となる。ただし、北条方だった葛山氏は、
半独立状態で今川方となり領地は保証。
後、今川義元・上杉憲政・北条氏康の起請文により和平が成ったという事は
河越城の事も話し合われていたのかもしれない。
3国同盟で結果オーライになったとはいえ、
今川は武田と結ぶことによって盟友だった北条を敵に回してずいぶん振り回されることになったわけだけど、
これは失策になるのじゃないかなあ。
まさか北条が攻めてくるとは思わなかったんだろ。
>>812 北条は、関東で大敵を抱えている身だからね。
まさか敵に回り、しかも駿東を占領されるなんてね。
それにしても当主自ら援軍に駆けつけてくる武田の律儀さには頭が下がる。
814 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 20:30:58
>>811 三河・尾張進出が10年位遅れた失策だと思っています。
それにしても北条は強い。
西に武田・今川連合、東に両上杉。
3代続けて英主が出たというのも大きいな。
>>805 幕府からみると、今川氏親死後の家督は竜王丸が継いだが、反対する小鹿範満は独自の行動をしており、
掣肘できなかった ってことですか。今川領国が実質的に分割されたという認識でいいのかな?
すると、範満が竜王丸成人までの家督を代行するということで妥協することを道灌と宗瑞が交渉で決めたってのは、
関東側・幕府側双方の史料で否定されることになりますね。
宗瑞の功績を強調するためにエピソードをこしらえたってところかな。
畠山氏の家督争いの流れについては、流れはおっしゃる通りですが
家長(畠山持国)、幕府の決定を無視して実力で争うということなのだから
家督相続のルールがあいまいである(嫡庶や長幼の順などでは決まらない)ってことではないのですか?
今川氏は直系男子での比較的スムーズな相続が多いですが、土岐氏や大友・島津氏のように庶流が守護職に就いたり、
複数の家系に分裂する例もあるし親子・兄弟での争いもたくさんある。
>>816 >今川領国が実質的に分割されたという認識でいいのかな?
ただしどこかを境にして綺麗に駿河国が2つにわかれていたというものではないと思うよ。
南北朝期の南朝支持派と北朝支持派みたいに両方の支持派が国内に入り乱れているような状況を想定したほうが実態に近いだろう。
あと戦国大名化する以前の守護家の分国のことを「領国」と呼ぶことには慎重であったほうがよい気がするよ。
何か明確な学問的なポリシーがあって言ってるのなら別だけど。
>関東側・幕府側双方の史料で否定されることになりますね。
てかこの時期の今川氏やその周辺について多少調べれば分かると思うけど、この時期の駿河って史料の残存率はかなり悪い。
そういう話を積極的に肯定する史料もないが明確に否定する史料もないのが実状なんじゃない?
伊勢宗瑞に関する話に誇張がかなり含まれるのは事実だろうが、しかし彼がこの時期の駿河に完全に無関係ということも言い切れない。
むしろ、そこに妥当な範囲内で推測を加えて事実がどうだったのか、を考えることが歴史研究者のやることではあるけどね。
>今川氏は直系男子での比較的スムーズな相続が多いですが、土岐氏や大友・島津氏のように庶流が守護職に就いたり、
>複数の家系に分裂する例もあるし親子・兄弟での争いもたくさんある。
土岐氏の場合、土岐世保氏(伊勢守護家)と土岐池田氏(美濃守護家)が分裂する原因は土岐康行の乱だから、多分に幕府による政策的な面が強い。
そのほか庶流が守護職に就く要因としては、確かに内紛で家が分裂したことから幕府の裁定で分けるという例もある。
しかし細川氏のように意図的に庶流守護家を大量に作り出すことで大きな勢力を築いたケースもある。
あと中世における家督相続は、原則的には“先代の意志一つ”ということが最大のルールなのでは?
ただし特に不都合がなければ正妻の所生で最年長の子が嫡子となる傾向はあるとは思う。
もちろん、ときの政権が介入したりした場合にはもっと話は複雑になるが。
818 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 08:24:24
>>804 >小鹿範満の有力な支援者としては、太田道潅以外にも範満の舅に当たる犬懸上杉政憲がおり
今川家の内乱に口出し、上杉政憲3百騎狐ヶ崎・太田道灌3百騎八幡山に陣し
対峙とあったと思うんですが、両方とも小鹿範満の支持者だったという事に
なってしまいます。
今川が上京しても、京都の値打ちがますます下がるだけだがな。
え、三好の次は今川?はいはいワロスワロスって感じ。
今川の軍事力と義元の能力で到底西国の強力大名を倒せるとは
思えん。
820 :
807:2006/11/19(日) 12:52:08
>>809 そうか、それは残念。
とにかくレスありがとう。
貴殿らの考察には勉強させてもらってます。
821 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 14:15:43
馬に乗れないデブだったから
>>818 その話のソースになってる史料ってなんですか? 是非教えて下さい。 あと
どうせなら、ここにその部分原文のまま書いていただけませんか? よろしく
お願いいたします。
824 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 16:25:13
>>821 自分は、先生とは誰のことかわかっていません。
それにしても、ここでは為になる話を知ることが出来ます。
>>823 手元に資料を集めていないので、記憶して書いています。
原文とか正確にここに書かれていたと答えられませんが「今川記」に書かれて
いるはずです。
去年だったか、この最中、太田道灌が造った庭園・書かれた掛軸があったと言
われていた旅館が取り壊しになって残念に思ったものです。
825 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 17:59:14
『今川記』って続群の合戦部に載ってるやつか?
826 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 21:07:42
>>825 続群の事は知らないです。
天文2年斎藤道斎という人物が著したといわれる今川家譜です。
827 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 22:22:30
『今川記』も『今川家譜』も続群書類従に載っていたと思うけど、それとは別のもののことを言ってるの?
828 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 22:58:51
今わかりました。載っていたのならそのとおりです。
829 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 01:05:26
天文2年は天正2年の間違いでOK?
830 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 18:44:32
北条綱成を追放したのが今川家の運の尽き。北条綱成は、当主北条氏綱の綱の名前を貰い、娘まで与えられている。
更に、少年期は評判の芳しくなかった北条氏康の代わりに北条家当主に擬する動きまであったという。
彼が、今川家に居たなら雪斎の死後、今川を統率するに相応しい将だったろう。身から出た錆で滅んだ今川家。哀れなり。
832 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 19:11:12
833 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 19:34:37
井伊も岡部も今川一族出身ではないよ。
どちらも戦国期には今川氏の事実上の被官にはなっているけどね。
ただ岡部氏は室町中期以前の動向がほとんど不明。
井伊氏にいたっては、南北朝期には南朝方として遠江の井伊谷に籠って
守護今川氏とは死闘を演じた仲。
戦国期には一応今川氏に従っているとはいっても、その関係は最後まで
微妙だったとされる。
834 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 19:40:24
>>833 誰も井伊氏や岡部氏が今川一族だなんて思ってないでしょw
今川家の家臣出身で。って意味でしょw でも、この二つくらい
しか無いのかな?
835 :
:日本@名無史さん :2006/11/20(月) 19:43:24
>>833 逆に考えるんだ!
その頃、今川以上に良好な関係の大名があったのか?と・・・
いや、ない。
836 :
:日本@名無史さん :2006/11/20(月) 19:54:26
勢力ってのは土地の最有力者の下に形成されるものです。一時の小競り合いは従属
までの過程です。土地の土豪は転封でもない限り滅亡するまで土地を手放しません。
837 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 20:12:29
>>832 今川家の家臣で大名になった大事な人が忘れられているぞ
桶狭間の前に粉骨砕身で、義元のために戦った小便小僧
松平元康
838 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 20:18:00
>>837 クソワラタww あいつは、大名どころか天下人だもんな。。。。 氏真。。。。 いいのか。。。それで。。。おまいは。。。
839 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 21:26:01
井伊は今川の家臣といっていいのか?歴史学的に。
840 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 22:18:34
それで井伊んです。
841 :
日本@名無史さん:2006/11/21(火) 00:54:35
今川氏歴代当主生没年
<駿河入部以前>
足利義氏(源姓足利氏第3代) 文治5年(1189)−建長6年(1254) 66歳
吉良長氏(義氏の子) 建暦元年(1211)−正応3年(1290) 80歳
今川国氏(長氏の子) 寛元元年(1243)−弘安5年(1282) 40歳
今川基氏(国氏の子) 弘長元年(1261)−元亨3年(1323) 63歳
今川頼国(基氏の子) 生年未詳−建武2年(1335)
<駿河守護時代>
今川範国(基氏の子) 永仁3年(1295)−至徳元年(1384) 90歳
今川範氏(範国の子) 正和5年(1316)−貞治4年(1365) 50歳
今川泰範(範氏の子) 建武元年(1334)−応永16年(1409) 76歳
今川範政(泰範の子) 貞治3年(1364)−永享5年(1433) 70歳
今川範忠(範政の子) 応永15年(1408)−寛正2年(1461) 54歳
今川義忠(範忠の子) 永享8年(1436)−文明8年(1476) 41歳
今川氏親(義忠の子) 文明3年(1471)−大永6年(1526) 56歳
今川氏輝(氏親の子) 永正10年(1513)−天文5年(1536) 24歳
今川義元(氏親の子) 永正16年(1519)−永禄3年(1560) 42歳
今川氏真(義元の子) 天文8年(1539)−慶長19年(1614) 76歳
<近世>
今川範以(氏真の子) 元亀元年(1570)−慶長12年(1607) 38歳
今川直房(範以の子) 文禄3年(1594)−寛文元年(1661) 68歳
(中略)
今川範叙(最後の当主) 文政12年(1829)−明治20年(1887) 59歳
(以後子孫なく断絶)
>>824 『今川記』みたいな軍記物は当然のことながらリアルタイムで書かれたものでは
ないので、一次史料ではない。
論文を書く際には論旨に矛盾しない程度に引用する分には問題ないが、逆に
無視してしまっても問題がないレベルのものです。
843 :
日本@名無史さん:2006/11/21(火) 02:49:49
静岡の居酒屋で今川義元の末裔の人に会った。
もっとよく知りたければ波多野家について調べなさいとか言われたけど
今川家と波多野家って関係ある?
844 :
日本@名無史さん:2006/11/21(火) 18:03:13
そうか、義元は厄年だから、桶狭間で逝ったんだ
845 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 03:45:28
今川氏発祥の地は愛知県西尾市今川町です。
おいだれか今川焼食いに行こうゼァ
847 :
:日本@名無史さん :2006/11/23(木) 10:44:31
ホントだ。今川と波田野って家紋90度転がしただけだな。
でもさ今川に限らず日本国内は北から南までそっくりな家紋の系統が幾つか存在する。
と言うことは戦国大名の多くは平家か源氏あたりからの分家と言うことかな?
そういえば今川が源氏を称していたと聞いたことがある。
849 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 10:59:47
蒲池と同じく偽源氏の可能性も否定できない。
そういえば源氏って新羅系らしいね。
足利が偽源氏なの?
852 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 15:36:05
二引両の家紋=足利一族じゃないの?
853 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 19:28:00
なんか上のほうで凄くアカデミックな話をしてたと思ったら、
>>847-850で
急に糞スレに変わったみたいだw
>>853 むしろ、
>>850にはどう話を展開させると今川が偽源氏になり得るのか熱く語ってもらいたいところだな。
今川が偽源氏なら、本家の足利も偽源氏。その初代の庶兄由来の新田や支流の里見・山名も偽源氏つーことか?w
855 :
:日本@名無史さん :2006/11/23(木) 21:46:10
>>853 たいそうな物知りみたいだから、日本には大きく分けて何系統の家紋があるか答えてみれ。
856 :
日本@名無史さん :2006/11/23(木) 22:10:13
>>855 おまえの質問の意味がわからん。どういう脈絡があるんだ?
857 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 22:53:44
858 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 22:58:10
で結局何系統あるんだ?
859 :
:日本@名無史さん :2006/11/23(木) 23:03:11
>>856・857
おせーて、おせーて。
アカデミックwなのに結局知らないのw?
860 :
:日本@名無史さん :2006/11/23(木) 23:23:38
>>859 そんな難しいことまで知るかっ!二引両しか知らん!
人に頼らず自分で調べろ。
861 :
:日本@名無史さん :2006/11/23(木) 23:35:05
↑
( ゚д゚)
862 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 01:06:36
壮大な自作自演乙
863 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 03:09:56
偽源氏は 松平元康だろ
義元も、この丁稚餓鬼が天下人になるとは、思ってなかっただろうな
864 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 04:51:35
創作された松平氏の系図
親忠−長親−信忠−清康−広忠−家康
本当の系図
親忠−長忠−信忠−清忠−広忠−家康
865 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 05:34:04
>>854 里見に関しては、鎌倉期の新田一族の里見と、戦国期の安房の里見とが、本当に
同じ系図上の家系なのかどうかを疑問視する見方もあるみたいだね。
>>860 新田は大中黒だね。
中先代の乱の後、鎌倉に居座り続けた尊氏に後醍醐から追討令が出て新田義貞が
攻めてきたときは、足利方から新田方に寝返った武士達は持っていた旗指物の
二引両の真ん中を黒く塗って俄仕立てで大中黒を作ったって話があるね。
866 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 13:04:40
>>864 清康=清忠?
尾張に遠征中に家臣の息子にやられたのは、作り話?
それとも、家康の祖父ではない清康というのが実在??
867 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 15:48:46
桶狭間で義元が逝かなくても、息子蛆座寝の教育失敗?した時点で
今川家は滅亡確実だった
義元は蛆座寝と、武田義信妻以外に子供はいなかったのだろうか?
せめて武田勝頼くらいの器量がある後継者がいれば、今川は残っていただろうに
868 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 16:20:34
武田勝頼に器量はあったのか?
客観的に見ると、氏真は自分の遺伝子を後世に残したが、勝頼は残していないわけで。
870 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 17:27:22
義元が氏ななきゃ、信玄も駿河を乗っ取ろうなんて気は起こさなかっただろう
そして、海を求めて、越後の謙信と泥仕合続行
義信が順当に武田家を相続して、甲相駿とも幕末まで安泰
だが、義元が逝かないと、その後の信長の活躍はなかった訳で、徳川幕府もないだろう
今川: 駿河・遠江・尾張・伊勢・美濃の一部
武田: 甲斐・信濃・飛騨・上野半国・越後の一部
北条: 伊豆・相模・武蔵・上総・下総・下野・上野の一部
上杉: 越中・能登・加賀・越後の一部(本拠は放棄w)
こんな感じになったかも
871 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 17:29:44
872 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 18:47:40
義元存命なら 松平元康は岡崎5万石の陪臣で一生を終えただろう
ぶっちゃけ、義元が桶狭間で死ななかったとしても、尾張平定途上で寿命が尽きていただろう。
美濃伊勢平定など夢の又夢
874 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 21:24:54
武田のガス抜きのために美濃は武田に一国全部やるんじゃないか?
875 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 21:32:59
そういえば尾張にいた今川氏豊って本当に義元の弟なの?
876 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 01:04:55
桶狭間で義元が逝かなければ、尾張は、あと3年くらいで今川領になっていただろう
そして、織田家は市を義元の側室に差し出し、信長は隠居で、有楽あたりが
お飾り当主となり、清洲3万石で今川に服属
877 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 01:13:52
義元が生き延びていたら、織田の躍進もなく、
秀吉、家康の天下もなかったわけだから、義元は日本の歴史の帰趨を握っていた人物とも言える
それにしても、義元死後の今川の没落は早かった
何代にもわたって地盤を築いてきたとは思えないような滅び方だ
878 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 02:48:57
信玄死後の武田だって似たようなものかと。
滅亡までの時間も大差ないし。
879 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 02:55:31
肥後細川家を除く足利一門にとって織田と羽柴はまさに仇敵だな。
881 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 06:40:47
最上くらい離れてると、足利一門って感じがしないねえ。
883 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 12:07:25
最上は斯波の一族だから、足利一門のなかでも本流に近いほうだと思うぞ。
家紋も二引両だし。
細川よりはずっと本流に近いよね
885 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 13:24:59
>>876 お市を差し出しても、信長は許せない
織田家は潰して、家臣の柴田か林あたりを直参に昇格させて、尾張を任せる
柴田は信長の弟を擁立しようとしていたくらいだから、桶狭間の頃は、まだ信長に
心服していないだろう
秀吉は、ちゃっかり義元に取り入って出世しそうw
>>885 >秀吉は、ちゃっかり義元に取り入って出世しそうw
これはない
887 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 18:21:24
888 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 18:29:08
>>885 仮に尾張が今川領になっとしたら、義元実弟で那古屋城主の今川氏豊を尾張のトップにするんじゃないか?
889 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 18:58:27
秀吉は旧主、松下某を大名に取り立てたらしいが
今川家の滅亡後、松下家は何してたんだろうか?
そして秀吉の死後は、どうなったんだろうか?
890 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 19:04:31
891 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 19:06:47
松下之綱(まつした ゆきつな) ????〜????
○加兵衛 嘉兵衛 左助 兵部 石見守
◇父:松下長則 子:松下石見守重綱
近江源氏佐々木氏流といわれる。駿河・今川氏臣の飯尾氏臣にて遠江・頭陀寺城主。若年の羽柴秀吉が一時期仕えていた。
今川氏没落後、三河・徳川氏に仕えたが、1583年旧縁から秀吉に迎えられて丹波、河内に2千石を得、やがて遠江・久野城1万6千石を領す。
892 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 21:47:15
松下之綱は、飯尾氏が滅んだ時、領地を没収されて浪人となり
再仕官の為に、徳川方に情報を送っていたんだったよな。
その経験が孫の柳生十兵衛にも活かされたのかも。
893 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 21:56:00
松下之綱は今川の直臣ではないのか
さらにまた、その家臣の秀吉にとって、義元は神様みたいな存在だ
894 :
日本@名無史さん:2006/11/27(月) 21:26:45
最上氏も江戸時代初めには出羽山形57万石。肥後細川氏に並ぶ大大名だった。
残念ながら御家騒動で改易。
水戸黄門に出てくる家老の山野辺兵庫は子孫だ。
お家騒動が無くても、徳川はいずれ潰していたんじゃなかろうか。
なんといっても斯波の分家、肥後細川ごときとは家格が違う。
仇敵・足利一門は生かさず殺さず、これが徳川のやり方だったのでは?
はっきり言って、最上は辺境に飛ばされた足利分家のその又分家。
田舎育ちで、伊達の草履取りから成り上がったようなもの。
出羽では通用するかも知れんが、白河の関からこっちの連中は、
そんな最上の家格なんぞ、一顧だにしなかっただろう。
897 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 02:09:10
898 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 06:43:33
>>868 アホかおまえは。
遺伝子残すことが武将としての器量なのかとry
>>897 徳川・松平家は自称新田一門だから。
三河時代は足利一門の中核たる今川家に煮え湯を飲まされてたし。
>>896 それでも名字が斯波のままだったら話は違ってたんじゃ?
900 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 13:38:51
>>899 煮え湯って・・・あの時代傘下に入った家に対する扱いとしては普通、むしろまともに扱った方だぞ。
それに里見、山名、岩松など新田系源氏の家に対する扱いの方が、里見などは改易後断絶してたりしてて悪い。
石高の面や同じ高家でも吉良家のように高家肝煎だったり、今川の子孫も高家の上位にあったりむしろ足利系源氏の家の方が扱いが上だぞ。
>>896 あほか。伊達が最上の草履取りから成り上がったミニ秀吉なんだよ。
↑
最上義光は伊達の草履取りから成り上がったんだよ。
まあ、鎌倉・室町時代を通じて足利系>新田系 の扱いだったから伝統を重んじれば自ずとそうなるかと。
岩松あたりは、逆に新田系の中で本流なので、出自があやしい徳川家から厳しい扱いを受けたという説もありますね。
(系図を見せろといわれて岩松が断ったので待遇が悪くなったってやつ)
来年の大河「風林火山」では“花倉の乱”が大きく取り上げられるようだな。
これで一般人にも義元の前半生が注目されるようになればいいな。
905 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 06:10:29
生き延びて、義元劇団を作ってほしかったな
>>904 雪斎禅師に尻穴を献上して面倒見てもらったことが知れ渡ったらどうするんだ?
907 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 09:00:58
前半生=寵童
後半生=麿
注目されたらかえってやばそうw
>>903 >系図を見せろといわれて岩松が断ったので待遇が悪くなった
見せることは見せたんだが、更に「貸してくれ」ってなったので断った。
落ちぶれていたとはいえ、新田直系の意地だろうな。
おそらく貸していたら無事に返って来なかったかもw
909 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 13:43:55
書き写した偽物系図でも貸してやればよかったのに
複写できないほど膨大なのかw
910 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 21:15:19
織田信広と家康の人質交換の時、安城で無く笠寺で交換しているけど、この時
の今川軍と織田軍の境は、笠寺辺りまでだったでいいんだろうか?
翌月、雪斎は上洛しているけど、先月は軍を率いて尾張を攻めた大将が、今月
は、一人で尾張を通って上洛していたら、かっこ好く思う。
911 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 20:53:48
>>904 「花倉」の読みって、「はなくら」じゃなくて「はなぐら」が正解だよね?
NHKサイトの風林火山のページの義元の解説の項に、読みが「はなくら」って
書いてあって、あれ?って思ったんだけど。
912 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 20:55:05
913 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 21:00:56
ドラマとかだと今川義元ってオカマみたいな化粧して公家かぶれな姿だけど実際にそんな姿だったんですか?
>>913 おそらくそうだったかと。
今川家は室町将軍家と同じ王族≠フ一員、
義元も御所継承権を持った人物だったわけだし。
915 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 23:16:31
>>914 サンキューです(*´∀`*)
あともうひとつ知りたいんですが漫画とかゲームだと織田信長は鎧じゃなくてヨーロッパのカッチュウ着てマントしてチョンマゲしてなくてボサボサのロン毛でヨーロッパかぶれだけど
やはりそんな感じだったんですかね?
教科書の信長は普通の武士っぽいですが
916 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 23:20:56
917 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 23:21:11
>>915 普通に誰であっても甲冑を着けるときに髷は結わないと思うが。
>>914 しかし守護クラスの武士でも直衣&立烏帽子が普段着だったかどうかは微妙だと思うぞ。
918 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 23:26:43
だから信長が日本の鎧じゃなくてヨーロッパのカッチュウ着てマントしてた証拠はあるのかな?って思ったんだ。
なんで教科書の信長は普通の武士の絵なのに漫画やゲームだとヨーロッパかぶれになってるか不思議だし
>>914 大内義興・義隆親子は直衣&立烏帽子が普段着だったような。
>>918 ヨーロッパの甲冑に似せた鎧(ぱっと見たところ、胴体の部分が日本式の小さい板をつなぎ合わせたものに対して、
一枚の板で出来ているように見える)のは南蛮胴といって、戦国時代に流行ってた。
マントも、織田信長が上杉謙信に送った物が存在している。
そのあたりから、信長が南蛮風の格好をしていても不思議ではないですね。
裕福な武士は鎧や兜は一人で何種類も形式違うやつを持っていることもあるので
いつも南蛮風の格好をしているとは限りませんが。
921 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 23:45:42
>>920 サンキューです(*´∀`*)
魔王織田信長が上杉影虎謙信と交流があるとは初耳でした。
信玄坊主と同盟してたのは知ってたけど
922 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 23:55:23
923 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 13:28:51
このスレ後半から定期的に
>>921みたいなバカもしくは荒らしが出るけど何なんだ?
>>912みたいな専門書を読んでるような人たちの書き込みの中にこんなアホレスして
恥ずかしく思わないのか?
>>923 お前はどうなんだ?
低脳ニートのくせにこんなアカデミックなスレに出入りするとは、分をわきまえたらどうなんだ?
925 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 15:35:37
足利将軍の普段着は直衣&立烏帽子?
926 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 17:27:16
928 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 18:58:16
>>923 なんで俺がアホなんだ?
上杉影虎謙信とか織田壇上乃忠信長とか武田報省院信玄とかミドルネーム知ってるのか?
漢字違うかもしれないけど少なくとも俺は知ってる(`・ω・´)シャキーン
IDが出ないにしてもひどい釣りだ
と他人事ながら思った
930 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 23:33:14
壮大な自作自演乙。
931 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 23:33:40
928は中学生だろ
相手にすんな、じきに痛いってことがわかるよ
まぁ笑える
932 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 23:34:17
守護大名の普段着は直垂&侍烏帽子じゃないの?
お前らだって中学の時は絵文字のバカみたいな戦国マニアのお宅だったんだろ。
昔の自分見てるみたいで恥ずかしいんだろ?
934 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 01:24:07
花倉の乱(はなくらのらん、花蔵とも)は、戦国時代の天文5年(1536年)
に起きた、駿河国の守護大名、戦国大名でもある今川氏のお家騒動。
「花倉」とは、静岡県藤枝市の地名で、玄広恵探らが挙兵した地にちなむ、
あるいは恵探は「花蔵殿」と呼ばれていたからとも云われる。
嫡流の梅岳承芳(今川義元)らが勝利し終結。
935 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 04:09:43
936 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 04:17:56
ジモピーがしったかして嬉々として書き込んでいて気持ち悪い935なんて死んでしまえば良いのに
仮に江戸時代に今川家が駿河あたりに50万石程の大名で残ってたら
花倉の乱を起こしてたら、お家騒動で幕府に改易又は減封処分だったな。
938 :
日本@名無しさん:2006/12/19(火) 21:11:53
義元は信長の馬廻の1人、服部小平太に斬りかかられるものの、逆に服部を斬って負傷させた。
しかし、服部との格闘の間に迫ってきた新手の毛利新助と乱戦になり、ついに毛利によって討ち取られた。
討ち取られた時、義元は毛利新助の人差し指を噛み切るほど抵抗したといわれている。義元の戦死により
今川軍本隊は壊滅し、合戦は織田方の大勝に終わった。
>>939 服部を撃退したのは結構なことだが、人差し指を「かみ切る」というのは如何なものか。
それはともかく、岡部元信って岡部家の次男坊だったと思うんだけど、
兄貴の正綱はなんで出陣しなかったんだろう?
駿府で留守居でもしてたのかな?
っていうか、正綱が1542年生まれだから、元信は18にも満たない年齢だったというわけか。
しかも兄貴や代々の岡部家当主も与えられていない主君の一字を拝領している。
余程将来を期待されていたのか。
941 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 22:04:17
>>936 花倉の読みなんてこの時代の研究者には常識レベル。
地元民じゃなきゃ知らないような話ではない。
>>940 岡部氏って元々は独立の御家人だし、完全に今川の被官化するのは戦国期に
入ってからだよね。
>>940 元信は1540年代の小豆坂の戦いで功績を挙げたとも言われているし、
本当に正綱の弟だったのか疑問視する向きもある。
桶狭間合戦後の手際の鮮やかさから言っても、岡部一族から経験と実力を買われて登用された
熟練の将だったんじゃないかな。
朝比奈泰朝と朝比奈元智の関係みたいなものか?
944 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 23:10:16
朝比奈氏の「泰」は、先祖が今川泰範から貰ったものが後に通字化したものじゃなかった?
945 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 23:24:50
桶狭間の戦いの頃にはハゲネズミや明智光秀はすでに織田信長の家来だったんですかね?
家来だったならハゲネズミは活躍したんですか?
葛山勝嘉って誰も知らないみたいだなw
947 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 01:16:26
葛山氏は立場が微妙だよな。
948 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 01:21:35
ハゲネズミって今川では戦働きはしてないんじゃね?
主に家中の事を負かされていたが、妬んだ同僚と不和に
なって新参者の禿げに暇をだされたといつた感じじゃね。
949 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 03:51:49
>>945 明智光秀は織田が美濃を制した後、義昭をセールスに来た後で、
高額の支度金でヘッドハンティングしたものでまだこのころは朝倉の客将。
ハゲネズミは今川の家来の家来の足軽だね。
極めて身分が低かった。
951 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 01:39:50
ところで「朝比奈」の読みって「あさひな」「あさいな」「あざいな」のどれが正しいの?
952 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 07:53:00
うざいな
953 :
日本@名無史さん:2006/12/22(金) 03:34:37
思慮があさいな
954 :
日本@名無史さん:2007/01/09(火) 02:54:55
あざいながまさ
>>909 「貸してくれ」って言われて本当に貸すと、岩松の新田直系というアイデンティティがなくなっちゃうんだよ。
由緒のある系図が伝わっているということがステータスだった時代なんだから。量が膨大とかってのは全く関係なし。
その辺がらみで本当に切った張ったになって死人が出てしまったのが、江戸時代の田沼意知刺殺事件。
没落して旗本になってる佐野本家が、猟官運動の一環で系図を分家の田沼家へ貸したのだが役職にはありつけないわ系
図は返ってこないわで逆切れして殿中で刃傷に及んだという話もある。
義元について最近いろいろ調べているのですが、
この人って回りに対する態度や人柄はどんな感じだったのでしょうか?
なんか義元の性格についての記述をあまり見ないもので…。
957 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 22:51:02
由良が岩松の分家っていうのは信憑性あるの?
958 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 22:42:51
祝・今川氏輝大河初登場
959 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 00:36:20
個人的にドラマでの今川義元役で最高だったのは武田信玄時の中村勘九朗。終盤の見た目はマロマロしていたが
高貴なキレ者の雰囲気がムンムン出ていた。
他の作品では見た目から中身までマロマロしていて
実在もこんな人だったのか!?と思ってた
960 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 02:55:43
義元、あの時信長に討たれなくて尾張を平定していたら
頃合を見て上洛敢行していたのだろうか。
でも仮にあの時点で上洛していたとしても
京には現存の将軍義輝がいたわけだし
近くにいた三好長慶が黙ってはいないだろう。
よって上洛したところでなにも出来なかったんじゃ
強そうなのが上洛したらしばらく大人しくしていて
滞在費切れで帰るか弱体したら活動再開っつーのが
定番かな。
962 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 03:47:50
そういや、松永は謙信が京に来ていた時は
大人しくしていたというが。
こいつは信長上洛の時も釜や壷もって軍門に下ったみたいだし
めざといな。
963 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 05:09:32
今川義元って、公家みたいな細長い尖った帽子をかぶっているから弱々しく見えるんじゃない?
964 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 09:54:48
義元が桶狭間で討たれてなくても多分尾張の南東部を切り取ったに過ぎず
その辺りってのは今川と織田の壮絶な奪い合いの土地だからそれほど大勢には影響なさげ
信長本軍を打ち破って支配下に組み込めるほどの戦果は期待できんだろう
今川側からしてみればそれほどたいした戦いでもなかったのに義元本人が討ち取られてしまい
その後今川家が弱体化してしまうし信長は飛躍するしで後世の人間からみると重要な戦いかもしれんが
当時の当人達の意識ではそれほど重要でもなかったと思うよ
>>964 自らはほとんど戦場に赴かなかった義元が出てきたと言うことは、
相当な決意があったということ。
>>963 大内義興(細川俊之が演じてた)は公家みたいな格好でも強そうに見えたが
967 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 12:09:49
まあ桶狭間の合戦については専門家でも意見が合わないのが現状なんで仕方ないが
具体的に上洛依頼があったわけでもなさそうだし、上洛する大義名分もないわけだし
織田家との争いに決着をつけるためとした方が当時の状況的によろしいかと思うわけだ
その上で、織田家と本当に決着をつけるための大規模な戦であれば義元本人が出向くくらいの
気合の入り方をしてもいいかと思うわけで
織田と今川の数十年に渡る紛争を解決するなら気合入れないといかんだろう
>>964-965 >>967 あの敗戦が後々に大きな影響を及ぼすものかどうかなど、
所詮後知恵でしか判断できない。今川家中の者たちに
とってもおそらくはそうで、あまり深く考えず臨み、完敗して
初めてその意味を知ったというところなのだろう。
上洛の意図もまた、後世の脚色とみていいのだろう。
しかし確実にいえるのは、今川方は当主が負けようの無い
親征に臨んだとしか思えないこと。
大友、大内、そして武田。
ワンマン体制において、負けるはずの無い侵攻で目的を
果たせなかった代償は、途方もなく高くつく。
ここに戦国大名というワンマン会社的システムの脆さ、
そして信長だけはなぜ違っていたのかを、後世の我々は
知ることができるといえるだろう。
桶狭間って、ドラマとかだと信長視点で奇襲作戦が描かれるけど、
史実に忠実に描くとすれば、今川側の視点から描く方が解り易いと思う。
織田陣営は、攻めたり退いたり、必死で戦ってる。
今川陣営は、そんな織田軍の動きを完全に掌握できてる。勝てる戦。
だがその内部に、不幸の連鎖の火種がくすぶりだす。
色んな原因がもとになって、情報伝達の過程で誤解が混じったり、
今川の武将同士でちょっとした思惑の衝突、すれ違いがあったり、
義元に誤った報告が届いたり、急に天候が変わったりしていくうちに、
なんだか落ち着かないゴタゴタした状況になっていく。
ふいに、今川義元の本陣が、織田勢が今戦っているであろう場所の近くで、
わずかに一瞬、手薄になる瞬間が訪れる。
アレ、これまずいんじゃないか、と気付いた別の陣の武将が、本陣に連絡を取ろうとする。
が、連絡が取れない。飛び交う様々な憶測。情報系統乱れ、様々な情報が錯綜する。
その中に、やがて今川義元が首を取られた、という情報が混じる。
本当なのか誤報なのか、いや信じられない、取り乱す今川軍。
やがてそれが事実だと解り、雨の中、呆然とする武将たち……みたいな感じで。
970 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 13:35:27
信長だって自ら戦場に赴き死にそうになることもたびたびだが
結局死ななかったってのが一番でかいだろ
義元の場合は不運もあるよ
最近の文献だと見晴らしの良い田んぼのど真中を織田軍が堂々と正面攻撃してきたのに
ちょうど豪雨が今川陣側に向けて吹きつけ歩哨がまともに前も見れない状態だったらしいんだからさ
気がつけば目の前に織田の軍勢でパニック→敗走ついでに義元討ち死に
971 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 14:05:39
まぁ、なんにしても義元にとってのこの戦は一生の不覚。
>>968 >大友、大内、そして武田。
>ワンマン体制において、負けるはずの無い侵攻で目的を
>果たせなかった代償は、途方もなく高くつく。
大友は同紋衆の合議制、大内は陶、内藤、杉等有力守護代が幅をきかせてた
武田もワンマンではない。
973 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 16:35:56
今川も義元の代は自力で後継者争いを勝ち抜いた主君だから皆が認めているが
認められない主君が上に立とうものなら豪族などなどが分裂反乱やり放題だ
悲しいけどこれ戦国なのよね
974 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 17:34:52
ドラマや劇画で義元のマロイメージを改善すれば
より信長が引き立つってもんだ。
今世間にある義元のイメージじゃ
ただのおじゃるマロ殿様を討ったにすぎん。
時代劇を見慣れている人から話を聞いて
義元ってそんな偉いさんなのか!って感じだし。
信長ってなんで桶狭間で今川勢を襲ったの?
上洛のために領内通過するだけなんだから、そのまま素通りさせればよかったのに。
あの時点でわざわざ義元を襲って首を取る意味なんてあったのか?
今川に対する嫌がらせかw