◆◆◆ 今   川   家  ◆◆◆

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952日本@名無史さん:2006/04/03(月) 18:55:40
>>951
小勢が大軍を破ったという共通点があるのと、厳島、河越が
野戦だったので、それに引きずられたんじゃなかろうか。
953日本@名無史さん:2006/04/03(月) 20:01:50
今川橋

 今川橋が神田堀(別名神田八丁堀・龍閑川)に架設されたのは
天和年間(1682〜83年)との記録がある。橋名の由来は、
当時の名主今川氏の尽力による架けられたのでその名が残った。

>>>>>>>>>>>>>>
今川焼きの由来が、今川橋で、その由来が今川氏。

で、今川は、三河の西尾市の地名。
954日本@名無史さん:2006/04/03(月) 21:43:51
>>952
厳島って夜戦でしたっけ?
夜の内に上陸したけど戦闘は日が昇ってからだと思ってた。
955日本@名無史さん:2006/04/03(月) 22:12:35
>>954
嵐の夜中の行動が戦を決定づけたわけだから野戦で
良いのでは?

まあなにも野戦で括る必要は感じないけどw
956日本@名無史さん:2006/04/04(火) 00:43:29
まず野戦なのか夜戦なのかはっきりしろ。
957日本@名無史さん:2006/04/04(火) 01:35:30
>956川越のみ夜で、あとは日中かと
958日本@名無史さん:2006/04/04(火) 02:15:28
まず、日本三大○○って定義や根拠が怪しいトコあるよな。
959日本@名無史さん:2006/04/04(火) 02:52:48
昔、3大夜戦=富士川の戦い、河越の夜戦、あと何かと聞いたんだが、多分富士川は間違いなんだろうなあ。
960日本@名無史さん:2006/04/04(火) 03:54:22
なんでこのスレ最近人気あるん?
961日本@名無史さん:2006/04/04(火) 04:18:47
>>960
今川と関連の薄い話題でもOKだからでないの?
962日本@名無史さん:2006/04/04(火) 09:48:05
正直今川は語り甲斐があるからな
963日本@名無史さん:2006/04/05(水) 02:13:12
お笑い芸人の品川庄司の品川って今川と関係あんの?
964日本@名無史さん:2006/04/05(水) 03:46:45
お屋形様が転生されたようです。
http://pya.cc/pyaimg/pimg.php?imgid=26125
965日本@名無史さん:2006/04/06(木) 14:04:36
>>964
猫間大納言?
966日本@名無史さん:2006/04/06(木) 16:17:45
今川や品川という苗字でも、品が無くて低学歴なの今川義元の子孫ではないと見なして良い。
967日本@名無史さん:2006/04/07(金) 03:57:29
( ^ω^)VIPから来ました
968日本@名無史さん:2006/04/07(金) 09:41:05
>>959
吉良邸討ち入りが野戦だったはず
969日本@名無史さん:2006/04/07(金) 23:23:26
俺様が選ぶ日本三大夜戦

倶利伽羅峠、河越、根白坂
970日本@名無史さん:2006/04/08(土) 01:35:13
日露戦争の開戦時の奇襲も夜戦。
971日本@名無史さん:2006/04/09(日) 00:42:11
東京大空襲も夜戦だね
972日本@名無史さん:2006/04/09(日) 15:14:12
「夜戦」と「野戦」を間違えてる奴、たぶん鮮人だろ?
半島語ではどちらも発音が「야전」だから、漢字苦手な鮮人は間違えちゃうんだよね。
973日本@名無史さん:2006/04/09(日) 15:41:26
>>972
単なる変換違いだろ。なんでもかんでも朝鮮人扱いするなよ。
うぜえぞw
974日本@名無史さん:2006/04/09(日) 17:49:05
>973
朝鮮人云々がウザイのは同意。
が、変換間違いではないんだな。>949を見てみろ。
河越厳島桶狭間が日本三大野戦でもおかしいだろ?
もっと大規模な野戦は沢山あったんだから。

どうやら野戦と夜戦ではなくて、夜戦と奇襲を混同してる人がいるようなんだわ。
975日本@名無史さん:2006/04/09(日) 18:27:05
>>974
桶狭間は今や奇襲ですらないというのが最有力説だしな。

相手の意表をついたのは間違いないだろうけど。

その3大なんとかで共通するのは、少数が大軍を破った
という点のみなんだよね。
976YAP?:2006/04/12(水) 16:52:45
小和田氏の『今川義元』を読んだのだが、その時の読後感は、
やっぱり、義元は負けるだろうというものだったのを覚えている。

つまり、氏の説では、(手元に本が無いので若干記憶違いがあるかも
しれないのでもし気付いたら訂正して欲しい)尾張進攻は、@弟の名古屋城主
氏豊が信秀に城を奪われたことへの意趣返し、A信長が尾張
半国を統一して更に、勢力を拡張して来るのを防ぐ、即ち、折角信秀の死後に
奪った今川領の尾張半国を確保する、
B更に織田信長の所領を奪う、というものだったという。

大体それが正しいのだろうが、それにしては、義元は油断しすぎたと思う。
そもそも、尾張半国を統一した信長は、父の時代と異なり、多くの織田一族
之連合体の「旗頭」ではなく、犬山織田氏を除き、清洲・岩倉両守護代家を
滅亡させ、守護斯波氏もなく、織田藤左衛門家を完全に傘下に置くなど、
戦力の向上は著しい。
その信長が、次に、父の有力な与力だった山口氏の領有していた鳴海城や、
或いは大高城の回復を目指して、沓掛城と、この二城の間に付城として五砦
を築いて、遮断したわけだから、今川としてはとりあえず、鳴海・大高両城の
解囲を行うのは当然だが、いわば、織田の縄張りに攻め込むのに、兵力も外交〜
調略などの準備も不十分だったとしか思えない。
不十分だったのではないか。
977日本@名無しさん:2006/04/12(水) 18:52:30
>>976
いやいや十分さ。
「大将の首か全滅か」なんてアレな戦争するんじゃなけりゃ。
978日本@名無史さん:2006/04/12(水) 19:08:09
>>976
>弟の名古屋城主氏豊が信秀に城を奪われたことへの意趣返し
これは、那古屋を織田信秀が奪った時期から大分立っているからないのでは?
名目としてはあるかもしれないけど。

というか、武田・北条と同盟結んでいる関係上、西にしか勢力伸ばせないですよね今川は。

979YAP?:2006/04/12(水) 19:24:16
しかし、織田方の付城というか五つの砦のほとんどは、鳴海城や大高城の
東側にあり(遮断のためだから当然だが)、基本的に西側は織田領だ。
でそこに、2万5千の今川軍が、とりあえず「兵糧入れ」と解囲を目的に来るわけだが、
当時のこととて2万5千のうち、まあ、軍夫が多かっただろうから、それを除くと
戦闘に参加できる実人員というか兵数は半分以下、せいぜい1万が最大規模だろう。
で、これを各砦の攻略と兵糧入れに手当てすると、義元の護衛に当たり得る戦力など
まあ、一回の強襲で吹き飛ぶ程度のものだ(実際に吹き飛んだのだが)。
どう考えても、義元は、沓掛城に残留しているべきだったろう。
義元が、沓掛城を出て、鳴海城に向かっているという情報が入れば、尾張国内で苛烈な同族間
抗争を生き抜いてきた信長が、出てきそうなことは今川側にはわからなかったのだろうか?
980日本@名無史さん:2006/04/12(水) 20:54:59
>>979
>当時のこととて2万5千のうち、まあ、軍夫が多かっただろうから、それを除くと
>戦闘に参加できる実人員というか兵数は半分以下、せいぜい1万が最大規模だろう。
ソースもなしに断言する姿勢が素敵。

どっかで大高城への兵糧入れのときの松平軍の陣立て見た記憶あるんだけど見つからない。
981日本@名無史さん:2006/04/12(水) 22:19:41
>980
ソースは示してあるが?
まぁ『落穂集』を根拠とする小和田氏もアレだが・・・

>976
で?
その本にも書かれているが、義元にしてみれば示威行為を兼ねていたんじゃないのかな。

織田家内部では篭城策が主流だったという説を信じるなら、
それが義元による事前工作だったのではないだろうか。

まぁ結果論ならいくらでも言えるが、桶狭間以前にアノ信長と
今川家を比べれば保身に奔りたくなる織田家臣の気持ちもわかる。

義元の不運は、戦国史に稀な奇禍(悪天候を含む)が自らに及ぶことを
予見できなかったということだけなのではないだろうか。
982日本@名無史さん:2006/04/13(木) 01:14:17
>>981
確かにそうだ、もし俺が2万5千の軍を率いていて、敵軍がMAX5千だったら、
まさか攻撃されるとは思わんものな。
まあ、結果的には、いままでのように誰かを総大将にして(過去は雪斎)
自分は駿府にいた方がよかったのだが。
983日本@名無史さん:2006/04/13(木) 01:21:17
>>982
MAX5000だけど、砦とかにかなり人数さいて
いるから、動ける部隊は3000がいいとこじゃ
ねえかな。

でも、義元の本隊5000くらいを破ることだけを
考えると十分な人数なんだよな、これが。後から
考えればなんだけど。これが人数の錯覚だね。

夏の陣で徳川全軍が20万もいたのに1万にも満たない
真田に家康秀忠という二つの本陣が席巻されたのを
見ても、人数を過信すると結構ヤバいんだよね。
特に当時の軍はいろんな部隊の寄せ集めだからね。
984日本@名無史さん:2006/04/13(木) 02:20:01
秀忠?
985日本@名無史さん:2006/04/13(木) 02:30:53
なんかの本で織田側は人口的にMAXで一万ぐらいは集められたというのを読んだことがある。ただ、今川がかなり優勢なため五千しか集まってこなかったのだと想定してた。
986日本@名無史さん:2006/04/13(木) 02:36:41
>>985
太閤検地で尾張は50万石くらいだから、尾張全土を
完全に掌握しているなら15000くらいは動員できる。

だけど当時はまだ尾張を一応平定した直後くらいなので
完全掌握って感じでもなかったんだろう。現に尾張国内
に今川方の砦が沢山あったのが桶狭間の時点での現状
だからね。
987日本@名無史さん:2006/04/13(木) 03:26:14
桶狭間って実際には戦国期の大名領国の境界付近で普通に見られた小競り合いみたいなものなんだよね。
だから義元がここで戦死したのは完全に事故というか、偶然に偶然が重なったようなものらしい。
織田方は義元の首が取れるなどとは思ってなかっただろうし、今川方も尾張で織田方と総力戦をやって尾張を完全征服しようというレベルまでの意思があったのか、疑問らしい。
988日本@名無史さん:2006/04/13(木) 04:45:31
北条早雲が、参謀だったころの今川が最強。
989日本@名無史さん:2006/04/13(木) 07:25:38
>>988
2万5000って当時の今川にしたらフル動員であること、
義元直々に出陣していることから、単なる小競り合い
目的じゃないと思うよ。

最低でも尾張東部制圧、できたら清洲奪取くらいは
考えてのものだろ。
990日本@名無史さん:2006/04/13(木) 07:26:22
969だが、>>988じゃなくて>>987
991980:2006/04/13(木) 11:28:37
>どっかで大高城への兵糧入れのときの松平軍の陣立て見た記憶あるんだけど見つからない。
見つかった。ソースは「改正三河後風土記」、江戸後期の資料なのであまり信頼性は高くないかも。

護衛の人数800、小荷駄150匹(450俵)、牛馬1頭に対して軍夫2人が基準
(実際は3人/2頭が多かったらしい)ので約3割が軍夫。

ただ、このときの松平軍は兵糧の強行搬入が任務なので、
今川全軍に対してそのままこの比率は当てはまらないかも。

992日本@名無史さん:2006/04/13(木) 11:39:15
いくら今川本隊が薄くても織田家陣地からまっすぐ今川本隊に向かえば
周囲に散らばっているほかの部隊に気付かれると反対されて
それでも信長が正攻法を主張して進軍、大雨のため運よく本隊との戦闘
だけで済んでさらに運よく大将のクビが取れました
993日本@名無史さん:2006/04/13(木) 12:15:32
>>989
「最近織田信長が元気だから少し牽制しにきた」程度の認識だったんじゃないの?
互いに相手を牽制することが目的でも川中島みたいに結果的に大軍同士の
衝突になることもあるし。
994日本@名無史さん:2006/04/13(木) 14:01:28
>>993
北条の援軍も含めて2万5千とも4万ともいう軍勢で、
兵糧入れや、小競り合いを目的には行かないでしょ。
費用対効果が悪すぎる。
995日本@名無史さん:2006/04/13(木) 15:59:14
そもそも今川の2万5千という兵力は兵農分離が進んで常備軍化しつつあった後世の軍役から割り出されたものだが、
義元の時代だったら、農閑期ならばもっと動員できただろう。
996日本@名無史さん:2006/04/13(木) 16:09:57
>>995
農閑期の動員は年貢と交換だからね。動員されるのは
農民にとってはかえって利益だけど(年貢免除の他に
略奪利益も得られるから。おまけに万一戦死したら
補償としてその後の年貢免除なども得られる)、動員
する領主はその分年貢収入が減る。なので結局動員数
には限度があって兵農分離時代と数に大差はないと思
われる。
997日本@名無史さん:2006/04/13(木) 18:31:29
軍功をあげて領地が増えればウマーだけどね。
998日本@名無史さん:2006/04/14(金) 05:45:22
>>994
史料編纂所の先生が小競り合いだっていってたよ。
999日本@名無史さん:2006/04/14(金) 10:15:29
↓鮮やかに決めてくれ、1000getを
1000日本@名無史さん:2006/04/14(金) 10:22:48
うほっ!1000
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