「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか14)
1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:04/08/30 01:00
ケンチャナ ヨ!!
i\___ __/i
i\.--'' ,... ''-,, _,.-''' ''-../i
,..'" 、_...| ' l i ヽ、 `、
/ ⌒` \| /''''、 l-、, '⌒ `、
< ,..--、ノヽ、_`-., |/ ノ,
''-..,_,/⌒ヽ( ヽ i --'''''' )
,' ノ ヽ ノ i i"""""
3 :
日本@名無史さん:04/08/30 01:15
前スレの998
> 998 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/08/30 00:38
> 魏志倭人伝の方位についての説明は不思議だ。
> まるで日本列島が九州から沖縄あたりに位置してしまうのだから。
> やっぱり、三国志を信じ過ぎるのも良くないのでは・・・
いや、あなたは魏志倭人伝の地理を正確に読めていると思います。
魏志倭人伝には、女王がいる倭国の東渡海先にも、
別勢力の倭人の国々があること記されていますね。
つまり、魏志倭人伝は、倭人の国々の中で、
(東が海で隔てられている)一勢力だけを書いているのです。
東に60〜70kmの海で隔てられた山島上、
すなわち、九州から南西諸島(沖縄本島は別王朝)
にあった勢力だけについて書かれていると考えられる。
だから、言われたとおりに地図を作ると、
倭国は九州から南西諸島だけになってしまうのです。
東に60〜70km海を渡った先には倭人の勢力はあります。
でも、それについては詳しく書かなかっただけです。
前スレ977
> 当時の日本は「銅矛」「銅鐸」を製造する技術があったんですよ?
邪馬台国が特に鏡を所望した理由は何なのか? という話に続くわけですね。
> 問題はむしろ「銅の原材料の確保」の方でしょうな。
その辺はどうなんですかね?
5 :
日本@名無史さん:04/08/30 01:32
奈良県の黒塚古墳で見つかった三角縁神獣鏡と、
福岡県の石塚山古墳で見つかった三角縁神獣鏡は、
同笵鏡(=全く同じ鋳型で作られたもの)であることが判明しているので、
奈良県も福岡県も、同じ勢力圏だったのでしょうね。
6 :
日本@名無史さん:04/08/30 01:35
福岡県の石塚山古墳とかは3世紀後半ですよね。
やっぱり、三角縁神獣鏡の製造は同時代と見るべきではないでしょうか?
7 :
日本@名無史さん:04/08/30 01:38
三角縁神獣鏡の出土枚数(20枚以上)一覧
福岡県 43枚
岡山県 24枚
兵庫県 44枚
大阪府 38枚
京都府 66枚
奈良県 99枚
これらの国が、魏志倭人伝に出てきていないとおかしい。
8 :
日本@名無史さん:04/08/30 01:42
三角縁神獣鏡が1枚も出土していない都道府県一覧
長崎、高知、|| 東京、埼玉、栃木、新潟、山形、宮城、岩手、秋田、青森、北海道
(関東方面でも、群馬12、山梨3、神奈川2、千葉2、茨城1)
(東北方面でも、福島県で1枚出土していて、これが北限)
多いのは、近畿263枚、福岡県49枚、東海59枚が目を引く。
9 :
日本@名無史さん:04/08/30 01:43
青龍三年(235年)の方格規矩四神鏡が出土しているのは、
京都府の太田南古墳群と、大阪府の安満宮山古墳ですよね。
やっぱり、邪馬台国は、畿内だと考えるしか、なさそうですね。
10 :
日本@名無史さん:04/08/30 01:51
>>7 おかしくありません。
鏡を貰った時代と、コピーを配った時代にはズレがあります。
コピーを含めた三角縁神獣鏡の分布は非常に広く、
(仮に、貰った時代がヒミコの時代だったとしても、)
ヒミコの時代よりずっと後まで流通していたのは明らかです。
魏志倭人伝に書かれた時点では
倭国は東の海までしか勢力が無かった。
その直後に出雲勢力や四国の和邇氏と婚姻を通して結び
吉備も同盟に加わり・・・と有る程度短期間に勢力が増大したのです。
「邪馬台国が畿内にあった」と
「魏志倭人伝記載時に畿内にあった」
とは、全く別問題です。
「邪馬台国が畿内にあった」という証拠が出るのは当たり前なのです。
邪馬台国は九州から畿内へ東遷したのですから。
ただし、魏志倭人伝記載時の邪馬台国は九州以外ありえないでしょう。
11 :
日本@名無史さん:04/08/30 01:59
青龍三年の方格規矩四神鏡は、
卑弥呼が朝貢する239年の4年前のものであることから、
もらった100枚の一部の可能性が高いのではないか?
京都や大阪で出土しているということは、
魏と交渉を持った倭国の範囲が九州内のみではないことを示しており、
既に畿内も九州も女王のもとに統合していたということになろう。
12 :
日本@名無史さん:04/08/30 02:02
>>11 なりません。
なぜなら、鏡は移動できるからです。
東遷するなら重要な鏡は持ってきた可能性が十分にあります。
13 :
日本@名無史さん:04/08/30 02:10
そういや、三角縁神獣鏡の形式が中国で全く出土していないことが、
三角縁神獣鏡の国産説の説明とされてきたんだよね。
ところが、張氏車騎神獣画像鏡という全くそっくりなものが
中国でも出土してるらしい。大きさも直系23cmでほぼ一緒。
220年頃と見られている。
これにより、卑弥呼に与えられた鏡が三角縁神獣鏡であり、
当時の魏に既にあった張氏車騎神獣画像鏡をベースとして作られた見ることができ、
三角縁神獣鏡の国産説を支えていた根拠がなくなったと言える。
14 :
日本@名無史さん:04/08/30 02:37
>>13 国産説というのは2種類あって、
純国産説(中国では出ないなどが主な根拠)は不利になったが、
ほとんどが国産コピー製品説(枚数が多すぎるなどが根拠、
オリジナルは中国製)は不利になってないだろう。
後者の説が正しければ、鏡の量で邪馬台国の位置を決める
という発想自体が間違っているのだ。つまりコピー製品を配った時代に、
邪馬台国が畿内にあったことを示しても意味はない。
九州東遷説でも、ある時以降は畿内にあったと考えているのだから。
オリジナルが中国製の可能性は高まったが、魏朝からの100枚とは
限らないだろうし、仮にそうだとしても畿内説が有利にはならない。
なぜなら同様のことが東遷説でも説明できるから。
15 :
日本@名無史さん:04/08/30 02:39
Spring8での成分解析による三角縁神獣鏡関連の結果
(1)中国鏡と古墳時代倭鏡の成分は異なる
(2)中国鏡の中でも三世紀の三国・西晋神獣鏡は互いの成分の類似度がとくに高い
(3)三角縁神獣鏡のうち六面はこの三国・西晋神獣鏡のグループに入り、
二面は古墳時代倭鏡のグループに入った
つまり、一部は確実に倭における国産であることが判明し、
一部は確実に魏において作られたことが判明したのである。
これで、畿内政権が魏より鏡を受け取っていたことが証明された。
16 :
日本@名無史さん:04/08/30 02:56
>>15 全然、そのような事は判明してませんし、証明もできてません。
ある時代の中国の材料が鏡に使われていることは分かりましたが、
そもそも魏かどうかも分からんし、
仮に魏の鏡だとしても、魏朝から賜ったものとは限りません。
仮に魏朝の下賜物だったとしても、何が示されたというのでしょう。
むしろ、明らかに中国製でない製品が混じっていることの方が重要です。
三角縁神獣鏡の分布状態は、
ヒミコの時代よりもずっと後の邪馬台国の勢力を示しています。
東遷説に立てば、東遷後の邪馬台国の勢力です。
17 :
日本@名無史さん:04/08/30 02:59
三角縁神獣鏡の銘文例(大阪府の国分茶臼山古墳の出土)を見てみると、
『吾作明竟真大好 浮由天下 ■四海 用青同 至海東』
「私は明鏡を作る。まことに良い品である。天下を浮遊し四海に遊ぶ。青銅を用いる。海東に至る。」
ここで、鏡の原料には青銅を用い、鏡は海東に至る、とある点が重要です。
つまり、鏡は青銅を用いられて作られ、(中国からみて)海東すなわち日本へ至るわけです。
魏において製造されたということがわかります。
18 :
日本@名無史さん:04/08/30 03:21
19 :
日本@名無史さん:04/08/30 03:26
群馬県の柴崎蟹沢古墳の出土の三角縁神獣鏡に書かれた銘文中には、
『銅出徐州 師出洛陽』というのがあります。
「銅は徐州に出で、(鏡)師は洛陽に出ずる。」とあり、
徐州の銅を用いており、鏡師は魏の都である洛陽に住んでいるようです。
つまり、三角縁神獣鏡のオリジナルは確実に魏で作られており、
三角縁神獣鏡の出土分布からみて、邪馬台国は畿内であるとともに、
九州から福島県に至るまでの勢力圏を持っていたことがわかります。
20 :
日本@名無史さん:04/08/30 05:39
>>15 その結果で打撃を受けたのは、むしろ畿内説の方なんだよね。
もともと「おすそわけ」説はあったわけだけど、畿内から出土するのが
コピーばかり、という状況なら、逆に致命傷にすらなりかねない・・・
21 :
日本@名無史さん:04/08/30 05:44
奈良県の黒塚古墳で見つかった三角縁神獣鏡と、
福岡県の石塚山古墳で見つかった三角縁神獣鏡は、
同笵鏡(=全く同じ鋳型で作られたもの)であることが判明している。
>>20 あなたのようなでたらめを言う人を初めて見ました。
22 :
日本@名無史さん:04/08/30 05:48
>>21 だから、福岡→奈良 という可能性もあるでしょ?
鋳型はどっちのものなのさ?
23 :
日本@名無史さん:04/08/30 06:01
福岡からは、「卑弥呼の宮殿」の要素を満たすものが、ほぼそろって出土してるわけよ。
特に「錦・絹」ね。
奈良からは、鏡は出ても、絹や錦が皆無だからね。
だから、鏡ばかりうじゃうじゃ出ても、それがコピーが大半、なんてことになったら、
致命的なのよ。
「魏の鏡が少々」でも、「おすそわけ」程度の量ならダメってこと。
舶載鏡の量が、福岡(その他の地域)を圧倒する状況でないと、畿内説は崩壊してしまう。
24 :
日本@名無史さん:04/08/30 06:03
>>20 京都府の久津川車塚古墳から出土した三角縁神獣鏡で、
形状分析により魏で製造されたと判断されていたものが、
Spring8の結果で三国西晋時代神獣鏡の分布範囲にきちんと入り、
確実に魏で製造されたと証明されたわけです。
(逆に、模倣国産と判断されていたものは、国産の分布に入りました。)
畿内から出土した少なくとも6枚が魏製であると確認されたのに、
なぜ、あなたは、『畿内から出土するのがコピーばかり』と嘘を言うのですか。
自分に困る結果が出たからといって、嘘をつくのは最低な行為ですよ。
25 :
日本@名無史さん:04/08/30 06:09
>>24 福岡からは「完全な舶載鏡」である漢式鏡ときほう鏡が多数出土しているわけよ。
この事実を無視して、「三角縁」ばかり取り上げても、片手落ちなわけ。
なぜなら、「倭国」と中国の通交は、なにも「卑弥呼」に始まったことじゃないのだから。
26 :
日本@名無史さん:04/08/30 06:13
>>25 その通り、「倭国」と中国の通交は、なにも「卑弥呼」に始まったことじゃないわけです。
つまり、「卑弥呼」が「魏」からもらった鏡であることが重要です。
「卑弥呼」が「魏」から鏡をもらったのは「239年」ですが、
日本で、「青龍三年(235年)」の銘がある方格規矩四神鏡が出土しています。
この青龍三年(235年)の方格規矩四神鏡が出土したのは、
京都府の太田南古墳群と、大阪府の安満宮山古墳です。福岡ではありません。
27 :
日本@名無史さん:04/08/30 06:19
>>24 細かいことをついでに言うが「魏で製造」されたことは証明されていない。
あくまで「魏晋の鏡」とほぼ同じ成分の「銅」を使用している、ということが
わかったのである。
まあ、「魏で製造された」とは私も思ってはいるが、キッチリと言葉は使って欲しい。
28 :
日本@名無史さん:04/08/30 06:24
>>26 だからさ、その鏡が「おすそわけ」だと言い出したのは「畿内説」の
考古学者だってw
たぶん、邪馬台国が京都じゃ困るからでしょ?
福岡から出土している漢式鏡ときほう鏡、1枚や2枚じゃないよ?
数十枚出てるんだよ?
それらの鏡とひっくるめて、「三角縁」も検証しないとダメなんだって。
29 :
日本@名無史さん:04/08/30 06:35
>>25 きほう鏡は、福岡でだけ出土しているわけではないですよ。
例えば、大阪府の心合寺山古墳でも鉄剣や勾玉とともに出土しています。
加えて、青龍三年(235年)の方格規矩四神鏡が、
京都府の太田南古墳群と、大阪府の安満宮山古墳で出土しています。
さらに、景初三年(239年)の画文帯神獣鏡が、
大阪府の和泉黄金塚古墳で出土しています。
また、京都府の久津川車塚古墳から出土した三角縁四神四獣鏡などが、
Spring8での成分解析により、魏晋時代の中国での出土と同グループに入る一方、
粗雑な模倣品と見られていたものが他の国産確実なものと同グループに入りました。
30 :
日本@名無史さん:04/08/30 06:38
つまり、「卑弥呼の鏡」などと珍重する時代は、過ぎ去ろうとしているわけだ。
そんなピンポイントの時代考証ではなく、「中国と倭国」の長い通交関係がね、
鏡をはじめ出土物でけっこう浮き彫りにされるわけ。
「前漢式鏡」「後漢式鏡」「きほう鏡」など。
これらの「完全な舶載鏡」の中で、この「魏晋製の三角縁神獣鏡」の置かれる位置が
どういうものなのか、が、これからの焦点であり研究課題なのだ。
むろん「紀年鏡」の扱いも、より煮詰まってくるだろう。
また「倭国製三角縁神獣鏡」が発生した意義、背景も。
「漢鏡」などを最初から除外した「邪馬台国探し」が、そもそもいびつであっただけ。
31 :
日本@名無史さん:04/08/30 06:42
>>29 多数出土、でないと、おすそ分けかな?w
ようするに、福岡とは出土レベルが違う。
32 :
日本@名無史さん:04/08/30 06:49
ってか、三角縁=卑弥呼の鏡 なんてこと今だに言ってるのは、マスコミだけでそ?
橿原考古学の副所長だっけ? 「大和朝廷の鏡」と言い切ったことあるよね。
ま、大和朝廷=邪馬台国 と考えたら同じことなんだけど、今から思えば
慎重な言い回しだった気がする。
33 :
日本@名無史さん:04/08/30 06:50
>>31 魏代の鏡は、福岡では、どういうものがどこで何枚出土していますか?
畿内では
>>29 のように、魏代のどういう鏡がどこで出土したか示されていますが、
福岡において、魏代のどういう鏡がどこで出土したかの資料がありません。
34 :
日本@名無史さん:04/08/30 07:05
>>33 ようけありすぎるがな・・・
たとえば平原遺跡からは後漢式鏡が33枚(大型6、中型27)、イ方製鏡5枚とか・・・
須玖岡本からは後漢式は2面だったかな? 前漢式が何十枚か出てる。
ようするに、「どっちゃり」出てきてるの。1枚とか2枚とかじゃなくて。
35 :
日本@名無史さん:04/08/30 07:05
>>32 三角縁のうち、粗雑模倣品は明らかに国内で作られたコピーなわけですが、
それと区別して、文様などから舶載鏡であると見られてきたものが多数あります。
まずは、その区別がつけられない素人さんは、お勉強してください。
次に、それらの舶載鏡と見なされていたものと国産と見なされていたものは、
成分分析によって、たしかに明確に区別することができ、
舶載鏡と見なされていたものは、中国で製作されたものと同一の結果が出ました。
さらに、従来は、三角縁神獣鏡の形式が中国で全く出土していないことが
国産説をする要素になっていましたが、張氏車騎神獣画像鏡と呼ばれる、
全くそっくりなものが中国で後漢時代から出土していることがわかり、
大きさ(直径23cm)なども含めほぼ一緒など、ルーツも明らかになっています。
このように、国産説とする見方はほぼ崩れさっており、
三角縁神獣鏡は卑弥呼と同時代の魏製と見てよい状況です。
さらに加えて、畿内では
>>29 のような出土状況があります。
36 :
日本@名無史さん:04/08/30 07:13
だからさ、
>>29の出土状況ていどじゃ、まったく福岡の方が出土状況は
圧倒しているわけよ。わからんのかいな・・・。
ためしに「後漢鏡」「漢式鏡」で検索してみ。
ヒット件数は圧倒して九州に多いから・・・・
37 :
日本@名無史さん:04/08/30 07:17
>>34 その平原遺跡からの後漢式鏡33枚は、そのうちの14号鏡の漢字でない銘文(?)から
福岡県教委の柳田参事がイ方製(国産)を指摘し、成分分析により33枚は同一で、
そのような国産の疑いがある例をあげてもらっても、意味がないですよ。
38 :
日本@名無史さん:04/08/30 07:20
福岡からの出土状況は、「どこから何枚」というレベルじゃないね。
そこかしこの古墳や遺跡から「前漢式」「後漢式」の鏡が出土していて、
吉野ヶ里や日田や鹿児島の遺跡からですら「漢鏡片」というものが出土していたりする。
39 :
日本@名無史さん:04/08/30 07:26
>>34 須玖岡本遺跡の甕棺から出た鏡30枚ほどのものは、
前漢王朝期のものであり、倭の奴の国王の時代にもらったのなら話は分かるが、
このスレでは魏から卑弥呼がもらった鏡の話をしているのであり、対象外。
福岡の出土例をあげてくれているのはよいが、
国産の疑いがある例とか、前漢王朝期で時代が明らかに違うものとか、
全くボロボロではないか。
畿内でのしっかりとした出土例のように、きちんと示してくだされ。
40 :
日本@名無史さん:04/08/30 07:28
私は九州東遷説なのだが、鏡を複製して配る時代には
邪馬台国は畿内に移っていたと思っているから、
畿内説の人とあまり争う点がないと思っている。
41 :
日本@名無史さん:04/08/30 07:29
倣製鏡の製作年代は、中国に類似品があるとすれば技術的に後漢末以後しか考えられないことから、
紀元200年前後の後漢の動乱期であり、中国製品が入手困難な時期に符合する。
「青龍三年願氏作」銘鏡が中国鏡だとしても、この時期の一連の鏡が鋳造後に背面を
粗ケズリしかされず研磨されないのに対して、平原王墓出土群がケズリ後に仕上げ研磨するなど
「青龍三年」銘鏡より丁寧な仕上げであることから、技術的にみて青龍三(235)年より
先行することが明らかである。
42 :
日本@名無史さん:04/08/30 07:40
とすると、福岡での三角縁神獣鏡以外の出土例は、
魏以前のもの(前漢・後漢)や、倭で作られた[イ方]製ばかりであって、
たくさん出土しているとはいえ、邪馬台国問題とは関係ないということか。
43 :
日本@名無史さん:04/08/30 07:47
>>42 つまり、言い換えれば前漢・後漢の時代、畿内が田舎だった証拠だろ
これを前提に畿内説を説明してみろ。
44 :
日本@名無史さん:04/08/30 07:49
つまり、卑弥呼以前の倭国乱れるの時代までは、
鏡の出土は九州北部が圧倒的であり、九州北部が交易権など含めて握っていた。
そして、倭国乱れるの後、状況が一変し、
卑弥呼がいる邪馬台国を中心として、鏡の出土分布も畿内中心へと変わった、と。
こんな感じでしょうかね。
45 :
日本@名無史さん:04/08/30 09:17
>>35 だから〜意味無いんだよ成分分析の結果は
国産鏡の原材料に壊れた舶載鏡などを溶かした物を使ってるんだから
46 :
日本@名無史さん:04/08/30 09:37
>>45 どちらにせよ、福岡にて、卑弥呼時代の鏡出土がないんですよね?
とすれば、確かに2世紀までは福岡が交易権を持っていたのはよいとして、
卑弥呼時代の3世紀には畿内に交易権が移ったということになりますよね。
したがって、卑弥呼の邪馬台国は畿内で間違いないとして、
あとは、早期東遷説(卑弥呼の前に東遷)か、畿内勢力拡大説かになります。
つまり、倭国大乱の実態がキーポイントとなるのですね。
47 :
日本@名無史さん:04/08/30 10:28
48 :
日本@名無史さん:04/08/30 10:41
>45
その研究、あの森浩がコメントを断ったといういわくつきのもんですよ。
「関わるのが恥ずかしい」
という理由だそうです。そもそも資料が問題だよね。
49 :
日本@名無史さん:04/08/30 10:51
このすれっどは西都厨がこなくていいね。
ちゃんとした議論が進んでうらやましいよ。
50 :
日本@名無史さん:04/08/30 10:58
>>46 3世紀北九州で鏡の出土はありますのであなたの仮説は崩壊しています。
それに交易権などと苦しい表現はやめな
半島中国との交易権=倭王権なんだから倭王権と言え。
51 :
日本@名無史さん:04/08/30 11:32
まあまあ、とりあえず、福岡での魏代における鏡の出土を列挙しようぜ。
そのうちの三角縁神獣鏡でないものの比率や量が、
畿内よりも圧倒的に高ければ、倭王権の存在が十分に証明されるではないか。
というわけで、きちんと示してしまおうぜ。
まずは福岡県の三角縁神獣鏡だが、一貴山銚子塚古墳、若八幡宮古墳、神蔵古墳、
石塚山古墳、御陵古墳、原口古墳などで、合計49枚。
畿内のほうは、奈良県は黒塚古墳、鴨都波古墳、新山古墳、金崎古墳など合計100枚、
京都府は椿井大塚山古墳、長法寺南原古墳、物集女古墳、森尾古墳など合計66枚、
大阪府は阿武山古墳、安満宮山古墳、黄金塚古墳、万年山古墳、茶臼山古墳など合計38枚、
あとは参考に、兵庫県は西求女塚古墳、へボソ塚古墳、権現山古墳、城の山古墳など合計44枚。
52 :
日本@名無史さん:04/08/30 11:45
>>51 卑弥呼の時代より後の遺跡から何が幾つ出ようと
邪馬台国とは何の関係もないんですよ(大和朝廷の物だろうし)
弥生中期の遺跡から何がどう出てるかだけが問題
53 :
日本@名無史さん:04/08/30 11:59
>>52 それはそうなんだが、
九州北部の遺跡は2世紀まででほとんど衰退しており、
卑弥呼が魏に使いを送った頃のものはさっぱりないので困ってる。
3世紀半ばでなにか出土していたらぜひ知りたい。
54 :
日本@名無史さん:04/08/30 12:06
卑弥呼のアイコラキボンヌ
>>53 それをやっても大和朝廷が畿内にあったという
別にそんなに問題視されてない定説を捕捉するだけだと思うけど・・・?
少ない弥生の遺跡から出土する漢鏡の方格規矩等を調べる方が良いかと
(方格も踏み返しが殆どだけど
漢鏡は白銅だけど、その時代のほう製鏡は青銅みたいだし)
56 :
日本@名無史さん:04/08/30 12:51
北部九州で前漢鏡の出土する遺跡(須玖岡本遺跡・三雲南小路遺跡・吉武樋渡遺跡・吉武高木遺跡・夜須町東小田峰遺跡・立岩遺蹟など)は、
甘く見ても1世紀後半までのものでしょう。
井原遺跡・平原遺跡・桜馬場遺跡のように後漢鏡の出土する遺跡の年代をいつごろと見るかですが、
一般的には2世紀前半までのものとみなされているようです。
また、後漢鏡が副葬されていた甕棺墓は福岡平野では弥生後期前半(西暦180年頃までに)に突然衰退していきます。
このような考古学的情報から判断すると、卑弥呼の時代のやや前から、北部九州は後漢や楽浪の動揺により交渉が絶え、
後漢のバックがなくなることで首長の地位が動揺していたのではないかと推測されます。
甕棺墓の消失、副葬品の貧弱化の理由は、後ろ盾であった後漢王朝の衰退に合致するものと考えられます。
このような時に、大和瀬戸内連合勢力が鉄の輸入ルート争奪のために起こしたものが「倭国の大乱」と称される争いであったと考えます。
>一般的には2世紀前半までのものとみなされているようです
この根拠となっているのはなに?
出土した漢鏡の話しなら摂政39年(西暦換算239年)を含んでも別に矛盾はないが・・
摂政39年(西暦換算239年)に中国に存在してなかった物が出土したなら問題だけど
58 :
日本@名無史さん:04/08/30 14:01
>56
そりゃ、古い見解。
今では村上恭通らによって完全に否定されている。
59 :
日本@名無史さん:04/08/30 15:25
今のヒラバルの推定年代は、西暦200年以降ですよね。
200〜250年くらいと推定され、
200年より前にはならないことが示されていたかと。
60 :
日本@名無史さん:04/08/30 15:32
>>59 平原弥生古墳発掘者の原田氏によると、
漢式鏡などから2世紀前半を下らないとしている。
柳田が時代が下るとした主張の根拠はない。
692 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:04/08/09 02:00
>>691 非常に根拠薄弱。まともに相対年代を決められる土器は発見されていない。
出土状況の不明確な土器片で年代を決めようとかお話にならない。
http://www.ss.iij4u.or.jp/~hsumi/docs/tusin/honbun/tusin3.html 発行:前原市教育委員会
平原遺跡発掘調査中間報告
平成10年10月18日
B2号墓からの出土品は確認できていませんが、南側の周溝を壊しているみかんの木を
植えるための溝から土器片が出土しています。この土器と2号墓付近から出土した土器を
参考にすると、墓が作られた年代は弥生時代終末から古墳時代初頭(西暦200年〜
250年前後)にかけてと考えられます。
1号墓が造られた年代については確実にそれを示す土器が発見されていないため、
銅鏡を始めとする副葬品などの検討からその年代が推定されていました。
693 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:04/08/09 02:10
「銅鏡を始めとする副葬品などの検討からその年代が推定されていました。それには
弥生時代後期の中頃(西暦100年前後)とする説と弥生時代後期後半から終末
(西暦200年前後〜250年前後)とする説がありましたが、今回の調査結果から考えると
後者の可能性が高くなったといえるでしょう。」
前者は発掘者の原田氏や漢式鏡の専門家・岡村秀典氏の見解で
後者は柳田が言っていたことで、それに合わせようと出土状況が不明確な土器を
証拠にしようとする自作自演で、自画自賛するというのでは頭が痛い。
>>47 ↑
_, ._
( ゚ A ゚;) なにがいいたいのだろうか?
62 :
日本@名無史さん:04/08/30 15:49
63 :
日本@名無史さん:04/08/30 16:23
1、地名から(都という文字が後ろにつく。コレは東京「都」、京「都」に近いから宇「都」宮とはワケが違う。「宮」城県が首都でないことからも明らか。最後に「都」という文字がつくのがポイント。)
西都の「西」。もちろん日向地方は九州地方南東部でありさらに西都は東、海岸沿いにある。だから西都の「西」を「ニシ」と読むなんてオカシイではないか。
だからこの西都の「西」とは東西南北の「西。にし」のことではなく、西洲(九州)の都という意味。
2、三角縁神獣鏡も出土。
3、どうして21世紀、ブロードバンドの時代に西都は宮内庁の管理化と言う名目で遺跡(古墳)の発掘調査させないのか。
9割5分以上手付かずというではないか。出土したら困るものでもあるのか?悔しかったら古墳の発掘調査させろよ。
4、初出だがそもそも邪馬台国の場所が特定できないと言うのも変な話である。長岡京や藤原京の場所が特定できるのになぜ邪馬台国だけ特定できないのか?(ある政治的意図(天皇制)を感じざるをえない)
卑弥呼の墓が特定できないと言うのならまだわかる。しかし古代の最大都市であるはずの邪馬台国に魏からの使者、交易求めてやってきた商人、観光目的でやってきた人々・・・等誰か一人くらい自分の日記に邪馬台国の
場所くらいの記載を残したとしても悪くないはず。魏志倭人伝以外全ての古史古伝を偽書のレッテルはりに終始してる畿内説(ウヨ)は正直ウザイ。
仮に京都のような都がどこにあったか特定できないとする。原爆2回落とした上ブルトーザーで更地にして工場なり住宅地にでもなっているのならわからないかも知れない。
だから邪馬台国ほどの規模の遺跡は日本のどこか(九州か畿内)にあるはず。街全体が3世紀のことだからわからないというなら3世紀よりはるかに古い中国の漢の首都もメソポタミヤ文明の首都もエジプト文明の首都もどこも特定できないではないか。
政治的にある意図が感じられるのである。
64 :
日本@名無史さん:04/08/30 16:34
65 :
日本@名無史さん:04/08/30 16:46
きちゃったよ、西都厨が。
さあ、どうする
66 :
日本@名無史さん:04/08/30 16:54
徹底無視!
67 :
日本@名無史さん:04/08/30 17:21
>>60 その平原遺跡の件、
出土状況が不明確な土器片による推測ってかなりあやしく、素直に、
銅鏡を始めとする副葬品などの検討による結果である
弥生時代後期の中頃(西暦100年前後)せいぜい2世紀半ばまで、とみるべきではないでしょうか。
仮に、あやしい方の説で、かつ、最も後者をとっても250年頃とすると、
ちょうど卑弥呼が死亡した頃となりますが、
まさか、ここの副葬品の銅鏡39枚が、卑弥呼の鏡とでも言うのでしょうか?
漢式鏡の専門家の岡村秀典氏の見解だと、
平原古墳出土の方格規矩四神鏡を漢鏡5期の鏡とし、1世紀後半の鏡としています。
すなわち、57年や107年の朝貢の頃のものだと言えるでしょう。
68 :
日本@名無史さん:04/08/30 17:27
>66
無視してると荒らし始めるよ。
69 :
日本@名無史さん:04/08/30 17:32
>69
岡村には異論が多いよ。
逆に柳田の方が異論はあんまりない。
□鏡のホウセイ鏡説以外は。
70 :
日本@名無史さん:04/08/30 17:41
>>70 その専門家の岡村氏は三角縁は魏鏡だといっているのだが、
おまいはそれを受け入れるのか?
72 :
日本@名無史さん:04/08/30 19:22
>>71 Spring8での成分解析による三角縁神獣鏡関連の結果
(1)中国鏡と古墳時代倭鏡の成分は異なる
(2)中国鏡の中でも三世紀の三国・西晋神獣鏡は互いの成分の
類似度がとくに高い
(3)三角縁神獣鏡のうち六面はこの三国・西晋神獣鏡のグループに入り、
二面は古墳時代倭鏡のグループに入った
つまり、一部は確実に倭における国産であることが判明し、
一部は確実に魏において作られたことが判明したのである。
======================
73 :
日本@名無史さん:04/08/30 19:31
>>72 何度も言うが、「魏において作られた」ことなど判明していない。
ただ「魏晋鏡」と成分がほぼ同じ、ということが判明したにすぎない。
「魏において作られた」ことを証明するためには、「鋳型」が出るか
大量出土が不可欠。
まあ、魏晋期に中国で作られた、とは私も思うが、そこはキッチリと
してほしい。
74 :
日本@名無史さん:04/08/30 19:34
平原遺跡が、1〜2世紀とされていたのが、柳田氏により3世紀へと変更された経緯
・原田大六氏らが昭和40年に1号墓を発掘
・柳田康雄氏らが平成10年に2号墓を発掘
→木棺と周溝の一部はみかんの木を植えるための溝(昭和39年)によって壊されてることが判明
→そのみかんの木を植えるための溝から土器片が出土
→その土器片によって3世紀のものであると判断
こんな感じであってますでしょうか?
根拠の土器片の出土の仕方がかなりすごいですね
75 :
日本@名無史さん:04/08/30 19:42
兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。
居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞。
卑弥呼の宮殿は衛兵が常置され、それぞれ矛・盾・弓などで護衛されていたという。
さて、矛や鉄鏃、矛の鋳型が出土するのはどこか?
私は福岡県から「大量に出土」していることは知っているが、畿内からそれらが
出土した、という話は聞かない。
76 :
日本@名無史さん:04/08/30 19:51
また、魏朝から卑弥呼へ下賜されたものには、銅鏡以外にも「白絹五十匹」というのが
ある。
そして倭国側から魏朝に献上したものには、「倭錦」が存在する。
では、これら「絹・錦」が出土する所はどこか?
福岡からは唐の原、立岩、比恵、有田、宮ノ前、吉武高木、樋渡、須玖岡本、
吉ヶ浦、門田、栗山から出土。また佐賀県からは朝日北、長崎では三会村から出土している。
特に「須玖岡本」からは、唯一、「中国絹」が出土しているのである。
では、畿内からは「錦・絹」は出土しているのか?
私はそのような話を聞いたことがないのである。
77 :
日本@名無史さん:04/08/30 20:01
さらに須玖岡本遺跡からは「きほう鏡」が出土している。
これについて故・京大教授の梅原末治氏は、このきほう鏡が「3世紀のもの」
であると断定、それまでの自説である「紀元前1世紀のもである」とする自説を
撤回・訂正した。
梅原教授は、須玖岡本遺跡から出土したきほう鏡について、追跡調査をするために
海外にまで出向いていった。そしていろんなきほう鏡を実見し、詳細に調査して
鏡同士の「編年」を行ってみた。その決す、須玖岡本遺跡のきほう鏡は2世紀後半を
さかのぼりえない鏡であった。したがって、須玖岡本遺跡を紀元前1世紀のものと見なした
従来の説はあやまりで、「三世紀前半以降」のものと訂正する、と発表した。
後漢鏡を「国産」とする説はたしかにあるが、この「きほう鏡」を国産とする説は、
私は聞かないのである。
78 :
日本@名無史さん:04/08/30 20:04
誰がどれやらわからん。
>>70氏のカキコはどれや?
「専門家の言うことだから正しい」というスタンスが首尾一貫してるかどうか知りたいのだが?
とりあえず「東遷」などという珍説はやめよう。
81 :
日本@名無史さん:04/08/30 21:56
銅鐸や鏡は貨幣として利用されていたのだろう。
それは、徳川時代の小判というより豊臣時代の大判のような
使われ方であろう。
こう考えれば日本中に銅鐸や鏡が出土しても問題ない。
82 :
日本@名無史さん:04/08/30 22:10
銅鐸や鏡は日本中に移動することが可能である。
しかし、鉄や青銅を精製するカマドは移動できない。
日本で発掘されたカマドの遺跡と朝鮮半島や中国大陸で発掘された
カマドの遺跡を比較検証し、同じカマドであれば技術者の交流があった、
と証明できるのでは?
最新テクノロジーの交流があったということは、すなわち友好国であった
といえるであろう。
鏡より銅鐸の方が作るの難しいんだよ。
鋳型の精度も3次元的になって来るし、
大型にして薄肉という鋳込みにくい形状だし。
ある意味、青銅器文明の極致と言えるよ。
それに比べたら鏡なんて、鋳物の初歩。
青銅器への意欲の違いが覗えるんだよな、両者に。
青銅器へ仮託する精神が減退しただけか、或いは全く別の系統の文化なのかだね。
84 :
日本@名無史さん:04/08/30 23:19
銅矛が大量に、しかも1箇所にまとめて隠匿もしくは廃棄されていた例もあるので、
銅鏡についても、現時点で存在が知られているものがすべてとは限らないのは当然
としても・・・
過去に存在していた特定の同系統の大勢力において
何らかの意味で
三角縁神獣鏡というデザイン自体が珍重された
魏の年号がそれとセットで珍重された
・・・という事実は動かない、という点には異論はないですね?
魏から鏡をもらったこと自体が有名な事件だったんだろう。
だから味噌でも糞でも景初三年の銘をいれるのが流行したってことだろ。
86 :
日本@名無史さん:04/08/31 00:38
いや、
>>84や
>>85みたいな素人は、
年銘文入りの鏡自体が圧倒的に少ない(誤差程度)という出土の現実を知らない。
三角縁神獣鏡が何百枚と出土している中で、
景初三年の銘が入っているのが何枚なのかを把握してから次回は書き込むべし。
>>84の言うように、魏の年号入りが珍重されたり、
>>85の言うように、魏から鏡をもらったこと自体が有名な事件だったならば、
ほとんどの鏡に、景初三年などなんらかの年を刻んでいるはずだが、
現実の出土状況は、ほとんど全くなく少数という状況。
つまり、
>>84の見方も、
>>85の見方も、否定されて、
少なくとも踏み返しの大元は、実際に景初三年に作られたのだろうと見られている。
鏡を作った職人さんがたまたま嗜好や気分で年を入れたんじゃないか、
っていうくらい、もともと少ないわけで、偽造が考えられないような状況。
じゃ、やっぱり気紛れで作られた例外的な存在なんだよ
88 :
日本@名無史さん:04/08/31 01:30
そういうこと。
気まぐれと言うか、鏡で銘文入りのって、
鏡職人が自分の名前や地名や説明などを入れてるのもあって、
それらの情報の一つとして、年号が入っているのもある、というだけ。
逆に言うと、わざわざ偽の年号とかを入れるような意味を持つものではないし、
偽の年号を入れる意味があるなら、もっと大量に紀年銘鏡が出土している。
そういうわけなので、青龍三年(235)、景初三年(239)、正始元年(240)は
本当にその年に作られた(あくまでコピー元ね)と言いきって良いし、
景初四年のも239〜240に作られたと見てもよい。
ちなみに、例えば景初四年のは三角縁神獣鏡でなくて盤龍鏡ね。2枚出土してる。
90 :
日本@名無史さん:04/08/31 01:49
おれもW杯から韓国が大嫌いになった。
イタリアに対する侮辱的な応援、日本が負けると大喜びするアナウンサー。
延髄蹴りを食らわせる選手。審判を抱き込んで有利にする。
韓国が出場しない試合はガラガラ。日本が競技場を作ってあげたのに感謝しない。
オリンピックでのアイススケートのことを逆恨みする選手。
こんなことされて喜ぶ人がいるか?嫌われて当然だろ?
W杯を通じて、韓国がどういう国なのか、韓国人がどういう連中なのか、認識を改めた
人は日本だけでなく世界中にたくさん増えたとおもう。
韓国と韓国人は本当におかしいと思う。
91 :
日本@名無史さん:04/08/31 01:58
韓国人は雑種だから血が悪い。
犬も雑種ほどあほーだ。
92 :
日本@名無史さん:04/08/31 02:25
最新号を立ち読みした。安本の火病は深刻だな。( ´,_ゝ`)
季刊「邪馬台国」85号(2004年10月号) NEW! NEW! NEW!
■巻頭言 考古学や新聞の「権威主義」について >>
■巻頭特集 日本古代史三つの焦点
・『朝日新聞』「転換古代史」問題
・三角縁神獣鏡「スプリング8」問題
・年輪年代学 古年輪年代の解釈をめぐる功罪 寺沢薫
■緊急特集 暴走する考古学・暴走する新聞
■巨大ホームページを誌上に再現! 連載第二回
邪馬台国大研究 井上修一
http://yamatai.cside.com/yasumoto/kikannyamataikoku.htm
93 :
日本@名無史さん:04/08/31 20:01
>>86 ということは
「過去に存在していた特定の同系統の大勢力において、何らかの意味で、
三角縁神獣鏡というデザイン自体が珍重された」
・・・点は間違いないものの・・・
「魏の年号がそれとセットで珍重された」という事実は特にない
・・・でよろしいですね?
> 鏡を作った職人さんがたまたま嗜好や気分で年を入れたんじゃないか、
> っていうくらい、もともと少ないわけで、偽造が考えられないような状況。
即ち、文章ならおきまりの吉祥文とかだけなのが絶対メジャーということですね?
94 :
日本@名無史さん:04/08/31 21:05
>>93 紀年銘鏡は非常に少ないのです。
出土している三角縁神獣鏡の約500枚のうち、年号入りは4枚のみ。
(景初三年[239]が1枚、正始元年[240]が3枚)
出土しているその他の鏡のうち魏代の年号入りは6枚のみ。
(青龍三年[235]が2枚、景初三年[239]が2枚、景初四年が2枚)
出土している鏡のうち呉代の年号入りは2枚のみ。
(赤烏元年[238]が1枚、赤烏七年[244]が1枚)
つまり、後年に偽造量産したという意見は非常になり立ちにくく、
職人が様々な銘文を入れている中に実際のその製造年も含めた例がある、といった程度です。
>>94 なるほど。書籍とかでも、年号入り問題が盛んに採り上げられているので、
年号入りがウジャウジャしているのかと錯覚していました。
その辺の基礎知識の啓蒙もよろしく。
96 :
日本@名無史さん:04/08/31 22:29
すごいや、幾つかの邪馬台国スレや半島関係スレが、
昨日からピタっと止まったね。
皆で高夫人の追悼セレモニーにでも出かけたのかな?
(故人のご冥福をお祈りします)
97 :
日本@名無史さん:04/08/31 23:41
>>95 たしかに年号入りがウジャウジャしているのであれば、
「後年に卑弥呼当時の年号入りを大量偽造して配った」という説も成り立つが、
三角縁神獣鏡の場合は500枚以上出土しているのに年号入りはたった4枚のみで、
しかもちょうど卑弥呼が朝貢した239年(景初三年)と240年(正始元年)なので、
魏が239年と240年に送ったと記録がある鏡である蓋然性はかなり高い。
魏志倭人伝では、239年には100枚、240年には枚数記録なしであり、
鏡を好んだ卑弥呼が二度目は更に多い数百枚をリクエストしていれば、
200〜500枚くらいは魏からもらっている可能性はある。
ただし、現在の出土数約500枚は出土発覚率を考慮すると
実際にもっと多く眠っていると思われることや、
明らかに不鮮明なコピー品なども出土しているので、
出土した三角縁神獣鏡のすべてが魏からもらったわけではなく、一部のみ。
98 :
日本@名無史さん:04/08/31 23:45
たぶん「年号入り」は正月の祭壇用だったんだと思う。今でも日本では
前年から新年の干支の置物を準備したり、年賀状だって新年の年号入りで出す。
「景初四年」の鏡も前年から作られ、新年の祭祀で使われたのではないだろうか。
で、他の大部分の年号なし鏡が「葬儀用」でしょう。それら「葬儀用」の中に、
ごく稀に「正月用」が入ってたんだと思う。「紛れ込んでた」というんじゃなく、
たとえば故人が栄達した際に、正月に王に招かれた際の「おすそわけ」の品だったり
何らかの記念品、愛用品だったから、一緒に埋葬されたりしたんじゃないか?
遺跡から出る紀年鏡の枚数は、だから、少ないんだと思う。
>>97 「明らかに不鮮明なコピー品なども出土している」
「卑弥呼が魏からもらったものだから」なのかどうかはちょっとおいて、最低限
でも「大量のコピー品が作られ続けるほど尊重されたものだった」点は動かない、
ということですね。
100 :
日本@名無史さん:04/09/01 01:26
>>99 なぜ、あなたは、大量のコピーと言いきれるのか、根拠を示してください。
また、三角縁神獣鏡と同時代の他の鏡もコピーされていますよ。
>>98 「年号入り」は正月の祭壇用
それはどこの風習の話ですか?
>>100 あ 失礼。単に「コピーが作られるほど」の意図です。
で、
>>99が事実に反するなら、実際にはどうである、ということですか?
103 :
日本@名無史さん:04/09/01 01:55
>>101 正月に供える餅をなぜ「おかがみ」といい
なぜ正月に「おかがみ」をお供えするのか、を考えるとそこに行きついた。
104 :
日本@名無史さん:04/09/01 01:57
このたびの台風で屋根が壊されて漏水があったSpring8ですが、
Spring8を利用した成分分析による三角縁神獣鏡の実験で、どういう鏡が使われていたかです。
全体として、泉屋博古館収蔵の青銅鏡95面を対象に成分分析をしたようです。
内容は紀元前3世紀から紀元3世紀にかけて中国で製作された鏡69面、
紀元3世紀から4世紀にかけて日本で製作された鏡18面、そして、三角縁神獣鏡が8面です。
その8面の三角縁神獣鏡は、
6面が文様・銘文とも極めて中国様式に忠実な舶載鏡と考えられているもの、
2面が中国様式から逸脱した日本製のイ方製鏡と考えられているものです。
で、結果は御存知のとおり、舶載鏡と考えられているものは、他の三国西晋時代の神獣鏡グループにぴったりと入り、
日本製のイ方製鏡と考えられているものは、古墳時代の日本製鏡の分布範囲に入ったわけです。
つまり、文様・銘文からの舶載鏡との判断は正しい、との裏付けがとれたわけです。
105 :
日本@名無史さん:04/09/01 02:04
>>104 何度も言うが、「魏晋代の中国の鏡の成分と同じ」ということがわかったのであって、
「魏晋朝の鏡」ということが確認されたわけではない。
用語は慎重に。
106 :
日本@名無史さん:04/09/01 02:18
>105
その可能性はありうるが、
文様や銘文から判断して舶載鏡(魏製)とみなされているものが、
きちんと、舶載鏡のグループと同じ成分であったのは、極めて重要だぞ。
あなたの反例が成立するには、
文様や銘文から判断して舶載鏡とみなしていたのにも関わらず、
舶載鏡のグループと同じ成分でない(=日本製と同じ)例を示すしかない。
107 :
日本@名無史さん:04/09/01 02:19
「三角縁」の疑問
魏の範囲から「全く同一のもの」が出土しているなら、話がこじれるはずはない
から、当然の帰結として、出土するのは別のタイプだけで、「三角縁」は1枚も
出土していない」ということでよろしいですか?
108 :
日本@名無史さん:04/09/01 02:32
鏡の原材料が、同じ場所から採ったものなら、原材料は同じになるだけで
製造場所や作った人間はわからない。
だって国産の銅が無かったから仕方が無いのさ。
109 :
日本@名無史さん:04/09/01 03:12
>>106 >文様や銘文から判断して舶載鏡(魏製)とみなされているものが、
これ自体が「仮説」「仮証」であって、現代の考古学者の「目」の判断。
だから「慎重に」と言ったのだ。本当に「魏晋朝の鏡」が証明されるには、
中国から「鋳型」が出たら確実、同じものが「大量」に出てきて当確。
今回の検査でわかったことは、「材質がほぼ同じ」ということ。
多くの学者は「魏晋朝製造」だと思うだろうし、私も思うが、しかし
それが証明されるには、まだ検証や論証が必要。
「材質が同じ」ことが科学的に実証されたことと、「魏晋朝製の鏡が証明された」
ことは別なんです。
110 :
日本@名無史さん:04/09/01 03:16
>>109 蓋然性を高める結果と見れば良いだろ。
鉱山によって、鉛同位体比や微量元素は異なるわけで。
111 :
日本@名無史さん:04/09/01 03:18
112 :
日本@名無史さん:04/09/01 03:23
「裏付けがとれた」
ではなく、「可能性が大きくなった」が正しいと思います。
113 :
日本@名無史さん:04/09/01 03:57
>>107 三角縁で、神獣鏡で、大きさも同じ約23cmの鏡ならば、
後漢時代のもので、張氏車騎神獣画像鏡というのが出土しているようです。(上海博物館蔵)
そっくりで、多種多様な三角縁神獣鏡の中に混じっていればわからないくらいのようです。
卑弥呼への特注の鏡だとしても、やはりモデルとなる鏡が存在したわけですね。
114 :
日本@名無史さん:04/09/01 04:16
115 :
日本@名無史さん:04/09/01 04:28
魏代でないので、三角縁神獣鏡という呼び方をしていないだけなんですね。
>> 中国から(三角縁神獣鏡が)出土していないと言っても、
>> 中国で魏時代の墳墓はまだ1基しか発掘されていないので、
>> 今後出る可能性はある。
おまけに、魏代の発掘はまだあまり進んでいないというわけなのですね。
いわゆる『中国では三角縁神獣鏡は出土していない(ので国産である)』というのが、いかに嘘なのか…
116 :
日本@名無史さん:04/09/01 05:05
論証としては、それが正しい。
117 :
日本@名無史さん :04/09/01 09:54
>>103 私は101ではないが。
新年に祝うという記述が表われるのが隋書からだったと思う。
なぜ魏志にその風習が載ってないのでしょうか?
正月の祭祀に使用したのするのは何かしっくりこない。
卑弥呼時代の倭人に正月を祝う風習があったのか甚だ疑問。
118 :
日本@名無史さん:04/09/01 11:47
フランスの中の異民族がベレー帽をかぶっていたのを見て
日本では画家や文化人がベレー帽を流行らせた。
三角縁神獣鏡も似たようなものでしょう。別に中国の代表的な鏡ではないが
列島人のニーズに合っていた。そんな鏡を中国で量産しないでしょう。
ただし鏡作るから原料と技術の提供は受けただろうと思う。
当然、材料は同じだし、中国に存在した意匠も使われている。
そのデザインが中国の代表的な鏡のデザインではないにせよ。
119 :
日本@名無史さん:04/09/01 18:46
三角縁神獣鏡の銘文がよろしくない、との指摘もある。
(韻がどうのこうの・・・)
形を真似て造ることは出来ても、そのものの魂、哲学を理解することが出来ない。
モノマネ日本人の原型がここにあるとすれば、
三角縁神獣鏡の製作者こそ日本王朝の始祖である。
120 :
日本@名無史さん:04/09/01 19:50
>>119 そういうのもあって、舶載鏡か否かの区別判断の要素になっているのは当然。
しかし、あなたには、敢えて問おう。
あなたが言及している三角縁神獣鏡はどれについてだね?
まさか、三角縁神獣鏡という1種類の鏡があるという大ボケ勘違いはしてるまい?
三角縁神獣鏡というのは(分類によって異なるが)数十種類〜百数十種類ある多種多様な鏡の総称にしか過ぎないのだぞ。
そのうちの1つの銘文が仮に韻をふんでいないとして、
何が言えたことになるのかをよく考え直しなさい。
121 :
日本@名無史さん:04/09/01 19:58
>113
なるほど。
あえて下賜した鏡なら、デザインに何らかの主張があると考えて大過ないはずだから、
そうすると、魏がそれを継承したものかどうかが問題ですが、それを伺わせる明確な
証拠は発見されていない、ということですね?
122 :
日本@名無史さん:04/09/01 19:58
123 :
日本@名無史さん:04/09/01 20:06
>118
> 当然、材料は同じだし、中国に存在した意匠も使われている。
> そのデザインが中国の代表的な鏡のデザインではないにせよ。
魏が皇帝の名で下賜した鏡なら、ともかく「当時の中国製でありうるデザイン」
であることは必要条件ということでよろしいですね?
ただ、王朝が、鏡について「オリジナルのデザインに拘った」ものかどうか?
どうなんでしょうか? 王朝とは別に流行とかで変動したとか?
>>119 というか、「全く中国語になってない出鱈目な中国語もどき」入りのもあるとか。
>>120 「三角縁」には違いなくても、「神」と「獣」についてバリエーションがある、ということですね?
確か弥生時代/古墳時代初期は、日本では鉄を精製する技術が無くて、
鉄器自体は日本製でも、材料の鉄は中国/朝鮮半島からの輸入だったはず。
銅についても、材料は輸入したとしても、不思議では無い。
三角縁神獣鏡という、市場のニーズを的確に読み取り
次々と新製品を大量(500鏡くらい?)に送り出す。
現代の日本産業の原型はこの頃にある。
ところで、鋳造するさい、鋳型の再利用は可能だったのだろうか?
石型を組み合わせれば可能だったと思うのだが・・・
鋳型の転用が出来れば大量生産も可能だろう。
128 :
日本@名無史さん:04/09/01 21:43
>>126 輸入ルートによって鉱山が異なれば、鉛同位体比や微量元素比に違いが出る。
129 :
日本@名無史さん:04/09/01 21:46
130 :
日本@名無史さん:04/09/01 22:05
131 :
日本@名無史さん:04/09/02 00:01
魏使 「これが帝の下賜された鏡である。」
卑弥呼「何だ、このちっちょいの(プッ」
魏使 「無礼な!というか、鏡なんて日用品何でいるのよ。」
卑弥呼「そりゃ、あんた。これのお陰で王様になれたし。」
魏使 「じゃあコピペしる。もっとくれって言われても、運ぶの重いし。」
職人 「では。ところで年号は?」
魏使 「は?そんなもん、俺が国を出たときは景初三年だから・・・景初四年に決まっておろうが。」
卑弥呼「ついでにもっとでかく作ってね。さあて。ではこれをばらまいて、勢力拡大しますか。」
アマ族にとって太陽が照り輝くこと自体が信仰の対象だった。
おおひるめのむちなどはズバリこれ系の祖先霊集合体の氏神だ。
陽が照ることを「ひる」とも言う。後世「昼」という字もあてた。
対馬の王アマテルはこんな氏神様ではなく、現役の王だった人間で
その死後は、あくまで個体霊(神)であり、格は低い。
アマテルから350年ほど下った3世紀、卑弥呼が活躍したが
これは巫女の一種に過ぎず、神(霊)ですらなく、もっと格が低い。
この辺、混同している人がいるようだが、区別すべきである。
鏡はアマ族にとって、光を扱うものであり、それはオオヒルメの氏神パワーを
扱うことの出来る宗教具とばかり理解されてしまう。
中国での実用品としての存在感が、列島側にはないのだ。
134 :
日本@名無史さん:04/09/04 19:00
>>133 >対馬の王アマテルはこんな氏神様ではなく、現役の王だった人間で
>その死後は、あくまで個体霊(神)であり、格は低い。
>アマテルから350年ほど下った3世紀、卑弥呼が活躍したが
>これは巫女の一種に過ぎず、神(霊)ですらなく、もっと格が低い。
これは、なんという文献に書いてあるのですか?
ぜひとも教えてください。
それとも、単なるアナタの妄想ですか?
祖霊信仰は文献じゃなくて伝承文化です。五来重の著書が詳しいです。
おおひるめのむちについては、神社伝承がたくさんあるはずです。
アマテルについては本家本元の対馬の阿麻弖留(あまてる)神社の伝承があります。
卑弥呼については魏志倭人伝にあるとおりです。
たまにレスがついたと思ったらまた電波かよw
137 :
日本@名無史さん:04/09/05 15:22
「ムー」とかの読みすぎで、アタマがいかれてるんでしょ(w
138 :
日本@名無史さん:04/09/05 18:09
卑弥呼の時代は西暦220年頃、日本書紀や古事記の編纂が720年ころで
その時間的開きはざっと500年もある。
500年もの間の出来事を口伝のみで伝承することは不可能だと思う。
たとえば・・・
現代の平成の時代から500年前というと戦国時代にあたる。
北条早雲や斎藤道三の伝説を文字を使わずに、口伝のみで語り継がれたとして
それは正しいと思えるだろうか?
>500年もの間の出来事を口伝のみで伝承することは不可能だと思う。
クンタ・キンテの物語をご存じない?
ある村では3000年ぐらい前のことではないかという大事件を言い伝えられていたことが
あったとか。これはアフリカではありませんが。
そのような仕事は村おさの重要な仕事で、少しでも間違えれば殺されてしまう掟のある村
もあったそうです。今は流石に村長引退とかで済むらしいですが、そのようなところは世界
中至る所にあるわけで、それらのことを勘案すれば、帝王史の500年は、決して長くない
でしょうね。稗田阿礼も間違えたり忘れたりすれば、何かのペナルティーはあったでしょう。
140 :
日本@名無史さん:04/09/05 18:45
記紀に記されている事のすべてが正しいとは思えない。しかし、おおまかな
流れは正しい部分もあるとは思う。
北条早雲が名も無き素浪人では無くひとかどの武将だったとか、
斎藤道三は父親が美濃の油売りの豪商だったとか、
けっして裸一貫から国持ちになったのではない、ということがわかってきたが、
これとてもそのような文献が発見されたからこそ。
もし、文章による伝達方法が無ければ、歪んだ伝承となりうるでしょう。
もちろん、文章だけを絶対視すれば文章による改竄も行われていく定めもありえましょうが・・・
藤原氏によって滅ぼされた蘇我氏には国史やら帝記といった文献があったそうです。
それも滅亡とともに灰になってしまったとか・・・
そんな大切な文献を天皇家ではなく蘇我氏が持っていたとは・・・
当時の天皇家の権力基盤の脆弱さが窺い知れるようです。
141 :
日本@名無史さん:04/09/05 20:01
>>140 おいおい・・・
天皇家がそこまで思想統制するほど、巨大な権力があった訳ではなかろう。
蘇我氏だって、代々の歴史を記憶する語り部だっていただろうし、文字が
伝来した際、それを文章に切り替えても、何ら不自然ではない。
むしろ、それを抹消し得たというのは、天皇家の力を物語っている訳で。
142 :
日本@名無史さん:04/09/05 21:20
蘇我氏によって造られた歴史書を危険視した中大兄皇子によって焚書にされてしまった、ということか。
その後、天智天皇や天武天皇の都合のいいように造り書き換えられたのが日本書紀ということか・・・
大化の改新等の革命的政策のどさくさにまぎれて、王朝略奪をなんとか正当化しようとしたのが
『日本書紀』ということか・・・
ごくろうさん・・・
中大兄が焚書したわけじゃないだろ。
>>127 >>129 >>131 普通の鋳物の場合、まず木か何かで完成品の模型を作り、
それを砂に押し付けてメス型をとり、それに溶けた金属を流して鋳込む。
冷えたら砂型をこわし、鋳物を取り出す。
だから、鋳型は使い捨てと言うか、その場限りのもの。
同笵鏡とは、同じオス型から作られた鏡、もしくはオリジナルの鏡をじかに砂型に
移して作られたレプリカかも知れない。
再現実験では、砂型では細部がリアルにコピーされず、粘土型を用いて成功したと言う。
145 :
日本@名無史さん:04/09/06 07:36
そうだよね。
砂型を使った鋳物ではディティールに問題があり過ぎると思うのだ。
1ヶ月以上乾燥させて釜で焼いた粘土型を用いれば細部にこだわった作品も可能だと思う。
でも、鋳型の再利用や転用はむつかしいということか。
500鏡もの鏡を量産出来る技術力はその当時の王朝には無かったのだろう。
邪馬台国は大和王朝に成り得なかったという証明だな。
146 :
日本@名無史さん:04/09/06 08:59
>>145 はぁ? 銅鏡よりも技術的に難しい巨大な銅鐸を
近畿や東海では時代を遡る弥生時代の段階で作っていたのだぞ。
147 :
日本@名無史さん:04/09/06 09:27
北部九州を中心に出土する、巴形銅器のほうが技術的には高度だがね。
148 :
日本@名無史さん:04/09/06 09:51
巴形銅器は東は茨城県石岡市の宮平遺跡まで出土している汎日本的な遺物だぞ。
技術的に高度の根拠は何だ?
半島の橋頭堡である金官加羅(狗邪韓国)でも出土している。
韓炳三・前韓国中央博物館長(1995)「韓国の古代文化」(日本放送出版協会)に
金官に当たる金海大成洞遺跡には、弥生時代後期の北部九州の象徴的な遺物である、
大量の小形倣製鏡や中広形・広形銅矛が出土し、古墳時代前期の大和を中心とした
副葬品である、巴形銅器・筒形銅器・各種の碧玉製品類が出土していると記している。
149 :
日本@名無史さん:04/09/06 10:03
巴形銅器が作れる腕があるなら、何でも作れる。銅鐸はただ大きいだけの技術。
150 :
日本@名無史さん:04/09/06 10:04
巴形銅器の出土中心地が北九州だと、早く気付けよ。
151 :
日本@名無史さん:04/09/06 13:17
>>149 大きい上に極薄で高い技術を反映していた>銅鐸
なにせ現代のエンジニア?が学会で報告対象に
するくらいだから。
152 :
日本@名無史さん:04/09/06 14:31
汎日本は北九州から始まったということですね。
153 :
日本@名無史さん:04/09/06 21:03
銅鐸でも銅鏡でも銅器類を鋳造する技術力は日本独自で開発されたのか?
弥生時代にすばらしく高度な鋳造技術を有していても、中国大陸や朝鮮半島の
完全な受け売り(パクリ)であった可能性もある。
形だけを真似ているだけでもいい、魂が、哲学が理解できていなくてもいい、
多種多用な製品を量産できる研究心と開発能力がその当時の原日本人に備わっていてほしい。
そんな妄想と願望を抱いている私は負け犬で落伍者だろう。
154 :
日本@名無史さん:04/09/06 21:19
155 :
日本@名無史さん:04/09/06 21:23
縄文土器は世界最古で縄文人が発明した可能性が高い。
世界的に珍しい砂鉄を精錬して作った日本刀は切れ味が抜群で
中世には中国への輸出が多かった。
156 :
日本@名無史さん:04/09/06 21:39
>>155 日本が世界で最初に土器を生み出したのは、理由がある。
ナウマン象などの大型ほ乳類が日本では絶滅したた。
大陸の住民なら、大型ほ乳類を追いかけていく事が可能だが、
島に閉じ込められた日本列島の住民は、ドングリなど
木の実、植物性のものを採集して食べる事を強いられた。
ドングリなどの木の実は、栗など一部を除いて、灰汁抜きが不可欠。
そのために大量の灰が必要になる。
また、灰汁に浸すためには、容器が必要。そこで最初は粘土を乾かして
容器を作っていた。
誰かがたまたま灰を作っている現場に粘土容器を置き忘れ、火で焼くと
粘土はより固くなる事に気づき、土器の製作が始まった。
157 :
日本@名無史さん:04/09/06 21:51
春秋戦国時代、南方の呉、越、楚などの諸国では、かなり技術の高い
鉄器が作られていたらしい。
だが、青銅器を使った秦が天下を統一したため、その技術は中国では
失われてしまった。
だが、どうやら稲作技術と一緒に、中国南方の優れた製鉄技術も、
日本に伝わったらしい。
ちなみに、インドにもその技術は伝わっている。
(あるいは逆に、インドの製鉄技術が中国南方に伝わった可能性も
あるのだが)
ちなみに、その後の中国は、質のいい鉄を生産するよりも、鉄を大量
生産するほうに、技術を発達させてしまった。
ゆえに、日本刀が珍重される事になったらしい。
その中国の鉄の大量生産技術は、ヨーロッパにまで伝播し、現代の
製鉄技術にまで継承されている。
やはり、大量生産ゆえに質では劣るため、産業革命以後も、イギリス
は、医術用のメスの原料として、インド産の鉄を輸入していた。
現在においても、日本刀はおろか、あらゆる刃物類の製作には、大量
生産品の鉄では追いつかず、日立金属株式会社・安来工場という所で、
極めて少量が生産されている状態。
日本の伝統の鍛治師はもとより、世界中の有名なカミソリ会社が輸入
して使っている。
158 :
日本@名無史さん:04/09/06 22:28
完全な受け売り(パクリ)で高度な製品は作れません。
あんた、技術いうもんを舐めんなよ!
逆だよ逆、彼らの青銅器技術の極致を注ぎ込み、祭器の銅鐸を作ったんだ。
神への捧げ物として、持てる技術の限界を極めていった結果、大型化・精緻化して行ったのだと思う。
稚拙な模倣品などが現れる鏡の時代には、その精神はあまり見られない。
銅鐸ほど困難でない鏡は、青銅器技術の粋を表現するには足らないし、質より数を優先する感がある。
159 :
日本@名無史さん:04/09/06 22:35
スウェーデン鋼は世界一の高品質だぞ。
ヒトラーも欲するくらいに・・・
タタラ製鉄は大昔の銑鉄方法としては不純物が少ない。
インドには不純物の少ない鉄で造られた鉄柱が数千年錆びないで存在しているとか・・・
古来からの日本の技術のすばらしさは認めるが、あまりにも「日本万歳」を露骨に叫ぶのは
いかがなものかと・・・
また在日認定されそうだが・・・
160 :
日本@名無史さん:04/09/06 22:53
>>159 だから、前述の日立金属株式会社・安来工場の特殊鋼は、スウェーデン鋼、
フエ二ックス鋼(イギリス)を相手に技術を競い、カミソリの材料鋼として、
世界シェアの40%を占める。
あんまり日本万歳を言うのもアレだが、卑屈になり過ぎる事も無かろう。
>>157 いや、そうじゃない。秦も鉄器を使ってたよ。
呉越の鉄器は東南アジア・インド系の直接法、
秦の鉄器はシルクロード・オリエント系の間接法
で、製鉄技術の種類がちがってた。
>>159 >インドには不純物の少ない鉄で造られた鉄柱が数千年錆びないで存在しているとか・・・
それはトンデモネタ。あの鉄柱が錆びないのは空気が乾燥してるから。
調査のために一部を外国にもちだしたらすぐに錆びてしまったそうだよ。
162 :
日本@名無史さん:04/09/07 00:08
卑屈になりすぎるのは日本の自虐史観によるものか?
ところで、鉄を錆びさせない方法として、鉄の表皮にあらかじめ黒錆を設けておく方法がある。
コールテン鋼とか・・・
赤錆が発錆するとたちまち腐食してしまう。
乾燥した砂漠に置かれた鉄は腐食しにくいね。
163 :
日本@名無史さん:04/09/07 10:22
インドの錆びない鉄柱、アショカ・ピラー
アショカ・ピラーには、通常よりも大分多いリンが含まれている(不純物と呼ばれるものの中に含まれている)。
製造の際、どうやら鉄を型に流し込んでは叩き、その上にまた鉄を流し込んで叩き……という方法をとっていたらしい。
その「叩く」というのがポイントで、熱いうちに叩くと鉄に含まれているリンが押し出されて表面に出、
鉄と結合してリン酸鉄を造り出し、それが表面を覆って錆を防ぐ役割をしていたのだ。
古代インド人がリン+鉄=云々ということを知っていたわけでもないだろうし。
つまり、このアショカ・ピラーは大いなる偶然の産物かオーパーツか、どちらなわけだ。
>>140 >当時の天皇家の権力基盤の脆弱さが窺い知れるようです。
蘇我氏が天皇で中大兄皇子が皇位簒奪者です。
165 :
日本@名無史さん:04/09/07 11:42
>>164 多分、蘇我馬子が推古天皇の旦那になることによって、
皇位を奪ったんだろうね。
中国の文献でも607年の倭国は、
男が大王で妻もキミとか書いてあるし。
中大兄皇子は蘇我氏以前の皇室出身で、
簒奪というか、取り戻したんだろう。
166 :
日本@名無史さん:04/09/07 20:26
>>163
アショカ・ピラーはそんなに不純物を含んでいたのですか。
リン酸鉄で防錆していたとは・・・
毒も使いよう、ということでしょうか?
167 :
日本@名無史さん:04/09/08 21:46
168 :
日本@名無史さん:04/09/08 22:28
>>166 はあ? 何をとぼけた事言っているの? 毒って何だよ?
普通なら、純鉄というのは、ぐにゃぐにゃで使い物にならないぞ。
炭素や、モリブテンや、そういった鉄以外のものを含む事によって、
鉄でもいろんな種類があって、いろんな目的で使えるものになる。
リンも、その一種に過ぎない。
ただ、リンは、刃物用の鉄としては、多く含んだ場合、切れ味が悪く
なるのだが。
>>166 単に「結果として防錆されていただけのこと」で、片づければ足りるでしょう。
経験的に、なぜかそういう作り方をするとボロボロに錆なりにくくなる、と分
かっていたのかもしれないですが。
170 :
日本@名無史さん:04/09/08 22:48
>>169 正宗の名刀には、「モリブテン鋼」が使われています。
モリブテンを添加すると、鋼の質が向上するというのが知られたのは、
19世紀に入っての事で、なおかつ、正宗の名刀をドイツの学者が解析
した結果です。
もちろん、正宗は、質のいい材料を探した結果、モリブテンを含む
砂鉄の産地を見い出しただけで、それにモリブテンが含まれていると
いう知識などは、ありませんでした。
>>170 いわゆるスウェーデン鋼も類似じゃなかったでしたっけ?
防錆のためにリンを含ませたとしても、結局あの地域での気候を
前提とした程度の防錆効果しかなかったわけで…
173 :
日本@名無史さん:04/09/09 07:22
ところで、古墳時代頃の鉄精製については、
鉄鉱石から銑鉄するグループと砂鉄から銑鉄するグループとの
2種類の技術があったそうだ。
違う地方からやってきた、別々の渡来人によって技術が確立されたのだろうか?
鉄の謎を解くことで、邪馬台国の謎も少しは解けてくるのではなかろうか?
174 :
日本@名無史さん:04/09/09 12:04
>>173 大陸風の鉄鉱石は吉備が中心。日本独自の砂鉄は出雲が中心。
鉄の伝播とたたらの始まり
この官制の製鉄法は、大和朝廷の中枢を形成する大和、吉備に伝えられ、鉄鉱石による製鉄を古代の一時期盛行させたのではないでしょうか。
一方、出雲を中心とする砂鉄製錬の系譜があります。これがいつ、どこから伝えられたか分かりませんが、恐らく6世紀の技術革新の時代以前からあったのでしょう。
古代のたたら
砂鉄か、鉄鉱石か
近世たたら製鉄では鉄原料として、もっぱら砂鉄を用いていますが、古代では鉄鉱石を用いている例が多いようです。
中世のたたら
中国山地への集中と炉の大型化
中世になると鉄の生産は、主に中国地方、特に近世たたら製鉄の発達した中国山地に集中するようになります。鉄原料はほとんど砂鉄です。
砂鉄
日本列島はニュージーランド、カナダと共に砂鉄の世界三大産地と言われています。日本で古くから砂鉄を原料に鉄が作られてきたことは真に自然なことです。
http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/index.htm
175 :
日本@名無史さん:04/09/09 22:23
古代日本で出雲地方から砂鉄が採れるというのに
なぜ、わざわざ朝鮮半島から鉄を輸入していたのだろうか?
なぜ、百済や新羅から冶金技術者を招聘したのだろうか?
卑弥呼の時代には鉄鏃が使われていたそうだから、鉄の存在はわかっていたのだろう。
スサノオがヤマタノオロチの尻尾から鉄製らしき剣(アマノムラクモ)を見つけて驚いたらしいが、
邪馬台国で生活していたスサノオが鉄を知らなかったわけではあるまい。
鉄は鉄でも製鉄方法が違っていたから、別物に思えたのだろう。
砂鉄から造られた鉄と、鉄鉱石から造られた鉄とは性能や性質が違うものなのだろうか?
176 :
日本@名無史さん:04/09/09 23:57
砂鉄から鉄を作る製法を知らなかっただけ。
輸入した方が安上がりだったからだろうが。
178 :
日本@名無史さん:04/09/10 02:12
>>177 任那を失った頃から日本国内の製鉄が広まっているから
大いに有り得るな。
>>177 >輸入した方が安上がり
ではなく、輸出したほうが儲かるという大陸の都合じゃないの?
まぁ需要と供給の一致ってことでいいんじゃないの?
181 :
日本@名無史さん:04/09/10 18:39:25
>>179 そうではなく倭国が半島の鉄産地を勢力下においていたんだろ。
任那を失ったから国内で生産を進めざるを得なくなった。
182 :
日本@名無史さん:04/09/10 23:30:07
半島鉄の入手難により、仕方なく、砂鉄たたら製法の研究が始まった。
>>175 ちょっと逸れますが、鉱床を見つけることからして容易なことではないし、もし存在が確認
できても、露天掘りなどは別として、鉱山として軌道に乗せるのは容易なことではないです。
>>182 え?たたらの遺構は弥生時代からあるだろ。
185 :
日本@名無史さん:04/09/11 02:34:25
>>184 あるよ。半島持込鉄鉱石を製鉄した跡だけだがね。
弥生期砂鉄製鉄跡は、一切ない。
187 :
日本@名無史さん:04/09/11 02:58:52
188 :
日本@名無史さん:04/09/11 03:30:51
2世紀には列島で鉄器作ってるだろ。何が電波だ?
189 :
日本@名無史さん:04/09/11 03:46:13
>>188 鉄の加工は弥生時代から行っているけど
製鉄遺跡は古墳時代後期まで発見されていないだろ。
190 :
日本@名無史さん:04/09/11 03:46:37
ともあれソースを示せ
191 :
175:04/09/11 06:57:49
ヤマタノオロチというものが川や谷であることを、恐れ多い神として表記していたとしたら?
出雲地方では、その川は生活上、絶対必要ではあるが、台風などでよく氾濫する川であったとしたら?
(自然や自然現象を神として崇めることは、当時当たり前だったと思う。)
台風一過の後、嵐によって流された住宅や家財道具が散乱する下流に訪れたスサノオは、
散乱した住宅や家財道具の様式やその量から、上流に独自文化を有するクニあるいはムラがあること察知する。
上流を探検したスサノオは、
暴れ川によって、幾度と無く家を流され、子供達を失って嘆き悲しむ村人たちに出会う。
スサノオはその恐れ多い神として崇められる川の治水事業を実行したのではなかろうか?
ヤマタノオロチの腹はいつも赤い血が噴出し流れていたとか。
それは、川底に赤錆びた砂鉄が流れていたことを意味しているのでは?
そんな事実を記紀に表記したのだとおもうが、いかがでしょうか。
192 :
175:04/09/11 08:07:43
出雲地方で独自の発展を遂げたクニあるいはムラの人たちは、
赤錆びた砂鉄を採取して鉄を銑鉄する方法を独自にあみだしていたのか?
ただし、出雲地方の豪族は新羅系の渡来人であったという説もあるが・・・・・・、
スサノオは新羅遠征から帰還するとき、泥舟に乗って出雲に渡ったとする記述がある。
その時、一緒に新羅の銑鉄技術者や冶金集団を連れてきた可能性はある。
(強制連行とかいう、つっこみは止めてね。)
新羅の銑鉄技術者は出雲の川で赤錆びた砂鉄を見つけて、鉄精製を思いつき、実現する。
それまで鉄という貴重な戦略物資は朝鮮半島だけと決まっていたのに、出雲でも鉄が採れる。
そのことを知ったスサノオは驚き、邪馬台国系国家の一大事として高天原に報告したのでは?
出雲は戦略上重要な拠点となり手厚く保護され、
砂鉄を効率よく採るために治水事業が実行された。
反邪馬台国に出雲が知られるのを恐れた高天原は
出雲地方と、砂鉄からの銑鉄技術を国家最高重要機密として、徹底的に秘匿した。
銑鉄するための製鉄所は設けずに、
銑鉄するカマドも銑鉄するたびごとに造り、銑鉄が終わるとカマドも壊して消去してしまう。
それぐらい秘匿にされていたのではなかろうか?
追伸
クシナダヒメやその姉達がヤマタノオロチに食べられてしまうという表記があるが
暴れ川を鎮める為の儀式の生贄であった可能性もある。
大国主=中国でいう覇者
黒曜石と海洋貿易を元に、日本海文化圏に影響力。古志と覇権を争うも勝利し、
筑紫に破れるまで覇者と称された。出雲神社は古くは柱そのものがご神体であ
り、縄文からの日本の覇者を正統に継承していたことが伺える。八百万の神が
集うと言うことは、実際に各地の王が集まった時代もあったのかもしれない。少
なくとも朝貢して恭順の意を表していたのだろう。
日本産の黒曜石がロシアでも貴重な資源であったことは考古学的にも証明され
ていることから、国引きも日本海を越えるという説もある。確かに方位と位置関係、
勢力関係からも合理的である。
194 :
三種の神器(ほんもの):04/09/11 19:36:58
σ ←八尺瓊の勾玉
○ ←八咫の鏡
f ←天叢雲の剣
195 :
日本@名無史さん:04/09/12 12:11:56
196 :
日本@名無史さん:04/09/12 12:13:09
韓国105代天皇尊影集
http://members.at.infoseek.co.jp/koreawatcher/docs/emperor.htm 「韓国105代天皇尊影集」は「大朝鮮帝国史」の作家、卍夢 金珊湖(キム・サノ)先生が
5年余りにわたる刻苦の努力と、我々の歴史を正しく知らせて民族の精気を正しく立て直そうという熱望で、
渾身の力を尽くして100点余りの絵で描き出したご先祖様たちの姿を盛り込んだ「画集」である。
失われて歪曲された歴史を復元し、画家としての霊感を足して描き出した、
韓民族の国々を起こしたご先祖たちの姿は、どきっとするほどの衝撃的な感動を与える。
我々が見てきた率去の1000年余り前の檀君像は、
国を起こした方としてはどこか不足した部分が多かったのが事実だ。
神話的な要素がより多く見える神仙のような姿ではなかったか?
しかし、金珊湖画伯の霊感で描き出した始祖 檀君の姿は、国を建て起こし、
性通光明,理化世界,弘益人間を理念とする桓因の国である桓国と
倍達帝国を継承した大朝鮮帝国の始祖として、
「やはりそのようなお姿だっただろう」という感嘆を自然に醸し出させる。
またウンコがでたか
>>196 韓国人の日本偽史 / 日本人はビックリ!(小学館文庫)
■著者名: 著/野平俊水(天理大朝鮮学科卒・韓国全南大博士課程修了)
■定価: 本体 476円+税 ■発売日: 2002/04/05
なぜ韓国では日本の歴史が歪曲されて教えられているのか。韓国で信じられている「日本の偽史」をユーモラスに紹介する。
「古代の天皇は韓国人だった」「日本海は韓国海だった」「Koreaという国名は日本の陰謀」「高天原は韓国にあった」「『くだらない』は『百済ない』だった」「法隆寺の金堂壁画の作者は韓国人」「万葉集は韓国語で書かれた」・・・・。
“最大の反日国にして最大の親日国”の韓国で一般に伝わる日本史の常識の中には、歪曲され、意図的に捏造された「偽史」が多くみられる。韓国TVにレギュラー出演し、「最も有名な日本人」として人気を博す大学講師の著者が、
韓国人の日本に対する優越思想がいかに歴史を歪めてきたかをユーモラスに紹介する。韓国人が信じたい「日本史」に、日本人はただア然!
http://www.s-book.com/plsql/sbc_book?isbn=4094027165
199 :
日本@名無史さん:04/09/18 08:47:21
向こうのスレは速過ぎて、
年寄りには憑いて逝けない。
200 :
日本@名無史さん:04/09/18 20:37:53
漢字は中国で発明されたものだから中国人はみんな漢字が出来ると思ってました。
しかし、私達日本人が漢字を書けない時があるように、
中国人も漢字をよく間違えています。
中国では仮名文字はありませんから、ルビもふれないし、大変だな、と思ってました。
ところが、中国では『当て字』のようなものを使って誤魔化しています。
文章の前後から、一文字くらい当て字を使ってもだいたい読み取れるものです。
この当て字の使い方で文章が洒脱に活きてきます。
たとえば、
『ドキュン』→『ドキュソ』と表記しても、
意味がわかるものです。
表音や表意をうまく使いこなしますので、
ニヤリとするときもあります。
201 :
日本@名無史さん:04/09/18 22:05:51
たかだか2000文字の文章をあーだこーだ言ってもね〜。
202 :
日本@名無史さん:04/09/19 01:37:32
>201
あんたが意味のない文字列を2000字ほど羅列したのとはわけが違うんだけど。
203 :
日本@名無史さん:04/09/20 00:02:14
魏志倭人伝の、距離、方位、時間、に関する表記を100%信用すると
対馬や壱岐ですら怪しくなってしまう。
松浦や伊都までは、ほぼ確定しているのにその地も怪しくなってしまう。
そこから先は、さまざまな解釈が生まれている。
みんな自説の都合の良い部分だけを勝手に解釈しており、
都合の悪い部分を反証材料に利用している。
ところで、魏志倭人伝はどこまで信用できるものなのだろうか?
陳寿は、三国志の中の東夷伝を科学的真実に基づいて
記したのでは無く、古くから伝わる御伽噺のような国々を
記したのではなかろうか。
204 :
日本@名無史さん:04/09/20 00:08:04
小人の国や、天空の王国が記されている
『ガリバー旅行記』の中に日本が記されていたとして、
その日本を探す人がいるのだろうか?
ガリバー旅行記は科学的に信用できる文献なのだろうか。
魏志倭人伝は、どこまで科学的に信用できる文献なのだろうか。
>>203 正確な測量といえる測量が行われた可能性は絶無だから、距離や方位などの記述を「100%信用」するのは誤りです。
> ところで、魏志倭人伝はどこまで信用できるものなのだろうか?
多数の事項が記述されているので、各々について、個別に「ありえた度合い/あり得ない度合い」を検討すべきでしょう。
> 古くから伝わる御伽噺のような国々を記したのではなかろうか。
朝鮮半島中部西岸から船でほぼ南に進むと、海峡と島を経た後に日本列島の一部に到達することは、今も当時も変わっていないので、そのかぎりでは、「実際に行った者の報告が記述されていると考えても明らかな矛盾はない」でしょう。
朝鮮半島中部西岸から、「船」で東なり西なり北なりに進んでから海峡を越えて云々、と書いてあるなら、それは「ウソ八百の可能性が高い」ですけどね。
>>204 > 魏志倭人伝は、どこまで科学的に信用できる文献なのだろうか。
三国志全体を通してみるなら、少なくともガリバー旅行記のようなフィクションとは異なる部分がいくらでもあります。
いわゆる倭人伝の部分がどうであるかは、それらとは別に検討すべき問題ですが、フィクションではないと考えても矛盾はない事柄はあります。
207 :
日本@名無史さん:04/09/20 00:31:30
御伽噺に記されている国からも
朝貢されている、
ということをほのめかしているのが、陳寿の本音ではなかろうか。
倭人の寿命が80歳もある、なんて軽軽しく記載されているけど
そんな不老長寿の国が、当時の地球のどこにあっただろうか。
倭国や女王の国というのも、現実と幻の境目あたりだったのだろうか?
>207
> 倭人の寿命が80歳もある、なんて軽軽しく記載されている
ありがちな誤読ですが、そのようなことはどこにも書いてありません。
209 :
日本@名無史さん:04/09/20 00:44:25
100%信用できないのは当然である。
なにが正しくて、なにが嘘なのか、
その収拾選択が人によって幅がありすぎる。
ベンチマークが人によってバラバラなので、
邪馬台国までの道程もバラバラになってしまう。
でも、ガリバー旅行記と比較したのは壊しすぎだった。
>>209 まず日本語を正すことが必要。
> 100%信用できないのは当然である。
日本語では「全く信用できない」の意味になります。そういう意図ですか?
もしそういう意図なら「何が?」
> なにが正しくて、なにが嘘なのか、
「事実に反する記述」には、故意のもの=嘘=と、故意ではない単純ミスの類いがある、
ということを正確に認識する必要があります。
> ベンチマークが人によってバラバラなので、
意味不明です。何が人によってバラバラであるという意図ですか?
211 :
日本@名無史さん:04/09/20 01:25:13
>>210
『100%信用できないのは当然である。』とは、
100%信用することは出来ない、に訂正。
『なにが正しくて、なにが嘘なのか、』
故意であるのか、それとも過失によるものか、という判断も
人によってさまざまだと思うけど・・・
『ベンチマーク』=測量上の基準点
ただし、ここでは比喩的表現。
短里、短年、いろいろな基準値が出てきているので
その基準が正しいものなのか、それが不明。
自分としては、短里説は驚きつつも、苦笑い。
>>212 無知な香具師を相手にするのは時間の無駄だ。
お前が相手にしてこい
214 :
日本@名無史さん:04/09/20 15:33:49
伊都国より東回りで、水行二十日が投馬国。
伊都国より西回りで、水行十日陸行一月が邪馬台国。
この説ならば、九州内に収まるな。
方位は信用できない→だから邪馬台国は近畿
こういう幼児みたいな屁理屈だけで畿内説っていうのもいいかげん飽きたんだが
>>215 こういう幼児みたいな屁理屈だけで畿内説はありえないっていうのもいいかげん飽きたんだが
箸墓とマキムクにすがった畿内説も飽きた
>>217 = 幼児みたいな屁理屈
・・・というより、まったくの事実無根のデマなんだが・・・・
ヤマト=邪馬台国なんて馬鹿話も飽きた
>219
あ 畿内説ね
「畿内説は飽きない説」という洒落のつもりか?
直径25mにすぎない卑弥呼の墓が、箸墓だなんて馬鹿話は飽きた
>>222 確かに倭人伝の記している塚に当てはめるのは不自然ですね。
どこにあるとしても、塚の形では残っていないのではないかな?
オオヤマト地域にある箸墓は
年代・場所・規模・伝承ともに調和しているもんな
卑弥呼の墓とはかけ離れてるがな
>>140 >藤原氏によって滅ぼされた蘇我氏には国史やら帝記といった文献があったそうです。
それも滅亡とともに灰になってしまったとか・・・
そんな大切な文献を天皇家ではなく蘇我氏が持っていたとは・・・
当時の天皇家の権力基盤の脆弱さが窺い知れるようです。
国記、天皇記ですね。普通に読めば蘇我が天皇だったとしか読めません
スレ違いか
227 :
日本@名無史さん:04/09/23 17:03:57
曽我天皇ってありえるよなー
228 :
日本@名無史さん:04/09/23 20:14:15
蘇我氏を倒した後の藤原氏の権力と栄華も、実質天皇。
「蘇我天皇」というのは、その「藤原天皇」と
同じような感じだったのかも。
229 :
日本@名無史さん:04/09/24 23:42:29
でも昔はそんなに天皇の地位が高くまた確立してたわけじゃないから
藤原天皇とはまた性格が違ってくるんじゃないかな??
七〜八世紀は、ともかく、三世紀にはまだ万世一系王権は確立していない。
「オホキミ」と言う称号がいつごろできたかもわからんが、ネーミング的には、数多いる「キミ」の中の筆頭くらいの意味からだろう。
なんともいえないな
232 :
日本@名無史さん:04/09/29 09:14:11
「台与」はトヨと読むんでしょ。邪馬台国をなんでタイと読むんだろう。
233 :
日本@名無史さん:04/09/29 09:43:29
邪馬台=ヤマトと読めば解決。
後の大和朝廷と紛らわしいからヤマタイと言って区別してるだけ。
234 :
日本@名無史さん:04/09/29 09:57:26
そもそも『台』の文字は使われてない
235 :
質問:04/09/29 13:32:44
三角縁神獣鏡はここでもよく話題にのぼっているようですが、
四獣鏡というものがあるということを最近知りました。四獣鏡は
三角縁神獣鏡よりも古いものらしいのですが、これはどのような
ものなのですか?邪馬台国と関係があるものなのでしょうか?
どなたかご教示お願いいたします。
それと当方、邪馬台国山門郡説を少し勉強したんですが、
現在では九州説は異端なんでしょうか?
236 :
日本@名無史さん:04/09/29 16:12:46
age
237 :
日本@名無史さん:04/09/29 18:31:35
>>235 そんなことはない。たしかに「考古学」の分野では九州説は少数派だが、
「文献学」では九州説の方が優勢。
238 :
日本@名無史さん:04/09/29 19:33:13
自分なんかは「九州」だろうと思うんだけど、実証は無塚しいよな。
素人なんで、「畿内説」の玄人がムキになって反論してくると、論破なんて出来ないよな。
>>237 そんなことはないだろ?文献で九州説って誰よ?
240 :
日本@名無史さん:04/09/30 01:33:49
>207 当時の平均寿命は40くらいらしいけど、出産の失敗の多さが平均寿命を引き下げてる。なんだかんだいって爺さん婆さんは多かったと思います。倭人伝に書かれた食物も健康的だし。
241 :
日本@名無史さん:04/09/30 01:38:27
御伽話なら、卑弥呼の事をもっと大げさに書くはず。魔法使い卑弥呼や種儒国の妖精とか。
242 :
日本@名無史さん:04/09/30 03:02:59
>>240 平均寿命40歳?江戸時代じゃあるまいし、もっと短命。
いわゆる「平均寿命」なら、20未満のはずだ。
243 :
日本@名無史さん:04/09/30 05:19:36
>>242 根拠は?そこまで決めつけるには何か科学的根拠があるんだろ?
それを提示して説明してくれ。
244 :
日本@名無史さん:04/09/30 20:02:34
アフリカでは現代でも平均寿命が30歳未満の地域がある。
もちろん、戦争や内乱、飢饉や疫病等の理由があげられる。
3世紀の和国大乱の時でも平均寿命が40歳未満なら
当時、世界的にみても治世が優れているほうだったのでは?
魔法使い卑弥呼の天照パワーのおかげです。
245 :
日本@名無史さん:04/09/30 21:10:54
「伊都」=「糸」であることは常識化しつつある。
しかし、いまだに斯馬のことを志摩だ、と勘違いしている人が多い。
あれは、「斯馬」=「志摩」ではない。
すなおに、「斯馬」=「島」と読むのが正しい。
伊都と斯馬は隣接していたことを読み解けば、
「伊都、斯馬」=「糸、島」と読める。
ようするに、糸島半島のことだす。
平均寿命などとはどこにも一言も書いてない。
247 :
242@名無史さん:04/10/01 00:17:49
魏志倭人伝には平均寿命なんて書いていないから、
242はまあゴミレスではある。
あくまでも「長寿の人間も多く、ときには70とか80もいる」
程度に読むべき。
なお、江戸時代の例で言えば、(都市部を除く)
「20程度まで生き延びれば、平均余命30年ちょっと」
まあ、この平均余命でも長寿者はかなり多いわけだ。
で、乳幼児死亡率込みで「平均寿命」出すと、
実に30代後半。
平均寿命(出生児の平均余命)が40を超えたのは江戸末期ぐらいだ。
平均寿命という言葉を誤用するイケヌマが多いので、特に釘を刺しておく。
チ沼的な誤用はなるべく慎むように。
248 :
日本@名無史さん:04/10/01 10:43:40
昔は出生直後や幼児期の死亡率が高いな。
その母体の産褥熱で死亡率が高かったな。
249 :
25歳♂投馬国王の子孫:04/10/01 10:49:13
天照=卑弥呼
神武=崇神
邪馬台国=山門国=大和国
これらのことを踏まえて、九州にあった
連合国家の王であった邪馬台国王が
4世紀に畿内物部王国から、畿内・中国・四国・九州
を含む西日本連合国家の王に共立されたことが
わかる。この王こそが卑弥呼の末裔であり
神武=崇神であった。
>>249 ヤマトトトヒモモソヒメ=卑弥呼
天照大神の神話=卑弥呼+台与
神武は神武、崇神は崇神
天照大神は紀元前1世紀の対馬王
卑弥呼は3世紀前半の邪馬壱国王
神武は4世紀の九州更迭軍人で、のちに橿原村の小領主
崇神はずっと後の人間で、中領主
252 :
日本@名無史さん:04/10/01 13:32:13
初めてこのスレ覗いたのですが、
鯨統一郎の「邪馬台国はどこですか」と何か関係があるのでしょうか?
253 :
日本@名無史さん:04/10/01 14:23:46
特にないですね。
254 :
日本@名無史さん:04/10/01 14:50:57
今や十四弾だからな。
一番最初のスレを立てたやつが何をもとにタイトル考えたか、よくわからん。
255 :
25歳♂投馬国王の子孫:04/10/01 14:54:14
隋書に、女王国と大和朝廷は同一の
ものだと書かれています。これにより
畿内に邪馬台国があり大和朝廷へと
発展したか、九州邪馬台国が東遷して
大和朝廷になったかの2択です。
私は後者をとります。倭人伝を読む限り
畿内に邪馬台国があったとはどうやっても
読めないからです。
↑藻前は正直どうでもいい。もはや。
>>255 はあ?どこに?
>隋書に、女王国と大和朝廷は同一の
>ものだと書かれています。
258 :
日本@名無史さん:04/10/06 15:04:32
西都である証拠。
1、地名から(都という文字が後ろにつく。コレは東京「都」、京「都」に近いから宇「都」宮とはワケが違う。「宮」城県が首都でないことからも明らか。最後に「都」という文字がつくのがポイント。)
西都の「西」。もちろん日向地方は九州地方南東部でありさらに西都は東、海岸沿いにある。だから西都の「西」を「ニシ」と読むなんてオカシイではないか。
だからこの西都の「西」とは東西南北の「西。にし」のことではなく、西洲(九州)の都という意味。
2、三角縁神獣鏡も出土。
3、どうして21世紀、ブロードバンドの時代に西都は宮内庁の管理化と言う名目で遺跡(古墳)の発掘調査させないのか。
9割5分以上手付かずというではないか。出土したら困るものでもあるのか?悔しかったら古墳の発掘調査させろよ。
4、初出だがそもそも邪馬台国の場所が特定できないと言うのも変な話である。長岡京や藤原京の場所が特定できるのになぜ邪馬台国だけ特定できないのか?(ある政治的意図(天皇制)を感じざるをえない)
卑弥呼の墓が特定できないと言うのならまだわかる。しかし古代の最大都市であるはずの邪馬台国に魏からの使者、交易求めてやってきた商人、観光目的でやってきた人々・・・等誰か一人くらい自分の日記に邪馬台国の
場所くらいの記載を残したとしても悪くないはず。魏志倭人伝以外全ての古史古伝を偽書のレッテルはりに終始してる畿内説(ウヨ)は正直ウザイ。
仮に京都のような都がどこにあったか特定できないとする。原爆2回落とした上ブルトーザーで更地にして工場なり住宅地にでもなっているのならわからないかも知れない。
だから邪馬台国ほどの規模の遺跡は日本のどこか(九州か畿内)にあるはず。街全体が3世紀のことだからわからないというなら3世紀よりはるかに古い中国の漢の首都もメソポタミヤ文明の首都もエジプト文明の首都もどこも特定できないではないか。
政治的にある意図が感じられるのである。
259 :
日本@名無史さん:04/10/06 15:09:05
5、九州(いや畿内含め)最大規模の古墳群遺跡が西都にはある。ついでに九州で一番大きな古墳(オサホズカ)がある。
6、神話伝承の数の上からも日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地こそ西都。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。遺跡の数の上から。。。人間が過去そこに住んでもいないのに遺跡だけが残っていたならオ・バ・ケ!
8、朝鮮総督府修史委員会の奇妙なウワサ。「黒板を中心とする焚書のウワサ」
コレだって火のないところに煙は立たないであろう。卑弥呼の墓に尻尾をつけると言うことは卑弥呼の墓が円墳であった証拠。やはり240年代は前方後円墳の時代ではないのだ。
9、まあ好太王の碑文アラシ、カンダンコキの焚書しようとした形跡からこいつ等が卑弥呼の墓を隠蔽しようとしたと疑われても返す言葉ないであろう。
記紀を天皇制に結び付けたい気持ちもわかるが現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきたのよ。
コレ認めたくないから邪馬台国の場所がわからないわけ。まあ畿内の仁徳稜にしても同じこといえるが西都の発掘調査させるなら
一気に邪馬台国論争解決するだろう。(ついでに義経ジンギスカン説もね)
まあ、それまでいつまでもだらだらと不毛な論争楽しみなさい。頑張れや。
西都厨=チョンのコピペかよ
261 :
日本@名無史さん:04/10/06 16:42:48
>>258 西都の「西」。もちろん日向地方は九州地方南東部でありさらに西都は
東、海岸沿いにある。だから西都の「西」を「ニシ」と読むなんてオカシイで
はないか。だからこの西都の「西」とは東西南北の「西。にし」のことでは
なく、西洲(九州)の都という意味。
↑
何故そう斜め上の分析をしますか?(クスクス
まるで逆で、西都、西洲、という名前こそ、
「倭国の権力の中枢は西都・西洲より東にあった」
ことの証拠でしょう?
中心から見て西にある州や都だったから、
西都、西洲と呼ばれたわけですから。
ここで設問
南都六宗といったら?
265 :
日本@名無史さん:04/10/06 22:46:20
しばらく見ないうちに、こんなに大きくなって…
日本人の源は朝鮮だ!といえば、大反響!
沈滞したスレも、これで大躍進!
266 :
日本@名無史さん:04/10/06 23:18:02
邪馬台国は薩摩だろ
268 :
日本@名無史さん:04/10/07 08:26:09
>>258-259 西都原は、もともと斎殿原。
つまり斎氏が治めていたというだけで、西の都の意ではない。
また、西都原古墳群は4世紀はじめに栄えた場所。
で、今のところ九州最初の前方後円墳は3世紀後半の宇佐の
赤塚古墳か苅田の石塚山古墳でいずれも豊前=とよの国。
しかし卑弥呼の墓は、これらではなく赤塚古墳のそばの
宇佐神宮の可能性が高い。
で、西都原が邪馬台国とは関係なかったかというと、そう
いうことはなく、ちゃんと関係があったと思う。
それは、卑弥呼・台与の代で北部九州が安定した後、邪馬台国を
はじめとする連合国家は、狗奴国(熊襲)と対峙するため日向に
連合軍を送ったと思われます。そして、この頃より豊前をまねて
西都原にも前方後円墳が作られるようになったのだと思う。
熊襲を退治したか、和解が成立し、連合軍は今度は東征を開始したの
です。
だから、大和朝廷が成立し、伊勢神宮を建立した際に、日向の斎氏を
守護として任じたのです。
よってこういう事情で、日向から多くの人が畿内に移ったため、確かに
神話には日向の逸話が多いのだが、邪馬台国自体の地名や人名では、
むしろ豊前の方が、一致が多いのである。
269 :
日本@名無史さん:04/10/07 10:52:52
邪馬台国は岩手だよ。
はあ?
>>261 西都原古墳群のすぐ近くに、東都原古墳群と言うのが存在しているのをお忘れかな?
272 :
日本@名無史さん:04/10/07 12:52:55
>>271 パチものだろ。ぐぐったらヒット数が違いすぎる。
"西都原古墳群" の検索結果のうち 日本語のページ 約 2,220 件中 1 - 100 件目 (0.46 秒)
"東都原古墳群" の検索結果 5 件中 日本語 のページ 1 - 5 件目 (0.12 秒)
もう、倭人伝に書いてある通りでいいんだよ。
邪馬台国は沈没したんだよ(w
275 :
日本@名無史さん:04/10/07 23:26:51
>>274 そのようなことは書いてない。ウソをつかないように。
>>275 書いてある通りに進んだら海の上になるから
倭人伝の計測は正しく、台国は海の中に沈んだってつもりで書いたんだが。
どっちにしろトンデモ発言か
>>276 > どっちにしろトンデモ発言か
いやいや、それは、以前からある「荒唐無稽の説のコピペ」。
宇佐は日本版のエルサレムみたいなもんか?
エルサレム、エッサレム、エッサアム、エサーム、エサー、エサ、ウサ、宇佐!
どこだー?どこなんだよーーー!
藤岡隊長なんとかしろーーーー!
奈良県でいいよ。
281 :
日本@名無史さん:04/10/16 21:08:40
世紀のスクープ!「邪馬台国は吉備国だった!」
世紀のスクープ!長らく邪馬台国の所在地をめぐって、やれ大和だ、やれ九州だ、やれ出雲だ・・・・
日本各地で「ここが邪馬台国だ」という論争が続いていたが遂に決定打!
「邪馬台国は吉備国だった」説が遂に出た
結論は、邪馬台国は吉備国、邪馬台国の女王の卑弥呼の墓は岡山県倉敷市の楯築遺跡
邪馬台国の女王の卑弥呼のいた居館は倉敷市の日差山にあった、応神天皇の墓は岡山市の造山古墳
邪馬台国は吉備国で、伊都国は出雲、狗奴国は高知、南九州に比定している
詳しくは
http://www.webtelevi.com/yamatai.htm 邪馬台国は吉備国だった!のページ
項目別の詳細は
http://www.webtelevi.com/sokuho/index.htm 速報インデックスのページ
調査手法は現場の実地調査と古文献、とくに魏志倭人伝との整合性に重きを置いた
詳細はウェブサイトにアップしたがタイトルを書き出すと
●「邪馬台国は吉備国だった!」
●「熊山遺跡から大和黄鐘、大王の銅鐸が出土している」
●「倭人はみな裸足である、奈良盆地の冬は寒く、裸足では無理」
●「女王国から東へ千里ほど海を渡って行くと、また国がある」大和説はありえない」
●「魏志倭人伝を読むと投馬国のほうが邪馬台国より遠いはず?」
●「邪馬台国の年代的考察」
●「総社市の岩屋寺の鬼の岩屋と奈良県の明日香村の石舞台古墳がよく似ている」
●「吉備の原義は魏から取った鬼委 きい きび 吉備になった」
●「日差山の歴史と方位と場所」
●「地元の古代史家は邪馬台国の卑弥呼終焉の地は岡山県熊山説」
282 :
日本@名無史さん:04/10/17 00:45:09
>281
機知外ですね。
逝ってよし!!
283 :
日本@名無史さん:04/10/17 13:20:01
いや、よく読んだらけっこう鋭いことを言ってるよ
吉備説侮りがたし
284 :
日本@名無史さん:04/10/17 13:26:37
阿蘇山と金印は吉備に関係ないな
285 :
日本@名無史さん:04/10/17 17:50:08
魏志倭人伝では倭人は裸足で生活していると書いてある
奈良盆地に1年くらい住んだことがあるが盆地の冬は寒い
とてもじゃないが裸足では無理 大和ではないな
東へ水行なんてできないし、陸行でも山脈にぶつかるだけだしね
今と昔じゃ気候ちがう。
>>285 ネパールならずとも、寒冷地で今でも裸足というところは少なくないから、
必ずしも気候が温暖かどうかとは直結しないでしょう。
ただし、海に潜るとなると別ですな。ドライスーツでも着るなら別だけど。
海女さんがドライスーツ着てもぐってるのか???
289 :
日本@名無史さん:04/10/18 04:27:18
日本の漁師をなめるなよ。
真冬に海パンだけで素もぐりするんだぞ。
290 :
日本@名無史さん:04/10/18 09:08:11
堺市ですよ。
もののはじまり、なんでも堺
これ以上もこれ以下もないジャイアン的思想で堺市。
場所は仁徳天皇稜。ドラクエ3に出てきたドラクエ1の島みたいな感じで隔離されてる、そうバチカンみたいに国の中に国があるんだ。現存する国なんだよ。
島国の中に島国があったんだ。
まあ冗談は置いといて自分はマジで堺だと思います。理由は特にないですがなんか堺っぽいんて。
291 :
日本@名無史さん:04/10/18 10:49:33
292 :
日本@名無史さん:04/10/18 14:39:01
卑弥呼は2世紀に倭国大乱があって諸部族から共立されたんだろ?
魏志倭人伝によると
倭国大乱があったのは瀬戸内地方 九州や大和で2世紀に大乱はない
戦争の跡もない
つーことで瀬戸内の吉備で決定だね
293 :
日本@名無史さん:04/10/18 14:42:38
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金印と阿蘇山の九州で決まりでしょ
金印は邪馬台国よりずっと前。時代がちがう。
阿蘇山は邪馬台国よりずっと後。時代がちがう。
よって関係ない。
一貫した国だから関係おおありだが
大阪湾は茅渟の海と呼ばれ、チヌがたくさん住んでいた。
当時はチヌ以外にも色々取れたんじゃないの。
301 :
日本@名無史さん:04/10/19 10:40:26
金印は江戸時代の偽造じゃないの?
302 :
日本@名無史さん:04/10/19 11:28:39
>>301 中国で兄弟印が発掘されているんだって。
303 :
日本@名無史さん:04/10/19 11:32:50
>>302 ああそうなんだ。
でも中国ってドラえもんのポケットみたいに
なんでもでてくる国だな。
中国で出土した印は問題ない。日本の金印は偽造説がまだ完全に否定されきってはないね。
305 :
日本@名無史さん:04/10/19 11:48:40
まさか中国で発掘された金印も偽造か・・・なんて。
中国国内東西南北の各地からいろいろな金印、銀印、銅印が出てる。
それらはべつに問題ない。問題なのは日本の金印だけ。
307 :
日本@名無史さん:04/10/19 13:48:43
>>306 池沼か、後世に中国で出土した印との共通性から
日本出土の金印もホンモノと判断されるようになったのだ。
308 :
日本@名無史さん:04/10/19 13:53:36
あほか。
もともと「蛇紐」云々は偽造説の根拠としてはオマケ程度。
問題は印の文面。「テン王之印」にはなんで「漢〜」がついてないんだ?
日本の金印にはなんで「〜之印」がついてないんだ?
藻前に説明できるのか?なんの解決にもなってないじゃん。
>>310 志賀島の金印の「兄弟印」ってのは、テン王之印のことなのか?
奴国王は光武帝からもらったんだが、テン王のは前漢制だろう。
印文も違うし、刻の陰陽も違う。蛇紐以外に類似性は無いだろう。
「兄弟」とは言い過ぎだよ。
それにテン王が内臣?内臣なら亀紐が慣例になってるようだが・・・
312 :
日本@名無史さん:04/10/19 21:50:07
結局、邪馬台国の位置論争というのは京大系の畿内説と東大系の九州説が
論争しているわけですが図式的には江戸時代の論争とまったく変わっていない
結果は成果ゼロ 永遠に結論が出ない議論 両説が奇説を主張することによって真説を
覆い隠すという効果しか果たしていない 学者の飯の種というわけだ
両説派とも捏造が得意な連中で学会の権威らしいから余計に始末が悪い
飯の種だから永遠に議論が続くようにお互いに仕掛けているということか?
頭のいいらしい大学者先生の考えそうなことだ
>>311 「兄弟印」と見られているのは別の印だ。
口から出任せばかり言わずにリンク先を読めよ。
1981年、中国江蘇省の甘泉2号墳で出土した「廣陵王爾(こうりょうおうじ)」の金印は、
58年に光武帝の子「劉荊(りゅうけい)」に下賜されたものでした。この印は亀の鈕ですが、
円い鏨の表現や字体が奴国王の金印と似通っていることから、同じ工房で製作された可能性がたかいものです。
この兄弟印の発見によって金印贋作説に終止符が打たれ、中国の史書『後漢書』倭伝にある、
建武中元2年(57)光武帝が奴国の王に与えた「印綬」に相当することは確実になりました。
http://museum.city.fukuoka.jp/jb/html/jb_02.html
>>312 はぁ? 東大系の多くも近年には畿内説に宗旨替えして
学会での論争は終焉を迎えましたが、何か?
>>315 東大では弟子が九州説を継がなかったんだろ
318 :
完全理論武装論者:04/10/20 00:39:40
>>312 「東大閥が北九州説で京大閥が畿内説」という構造があったのは事実だけど
それは昔のことで、今はそうなってないよ。あんたは素人だな?
>>313 なるほど。本物であることはわかった。
では日本の金印の文面が漢帝国の制度からすると企画はずれであることは
どう説明する? むろん本物であるという前提で。
>>320 「埋めるために作ったときの常識の通りに作ってしまった」といったところですか。
埋めるために作った時の常識?
意味がわからん。もっとストレートにいってくれ。
323 :
日本@名無史さん:04/10/21 20:50:46
伊賀 九州説 甲賀 大和説に分かれて忍者同士が激しく競争してるふりを
してるが上をたどれば、百地三太夫の一人ニ役のお芝居
邪馬台国て書けば出版社も本が売れるし、補助金、研究費も役所から出るし
めでたし、めでたし おめでたいのが本を買ってくれるしね
永遠に足の裏のシワが奇数か?偶数か?つうような鼻糞みたいな論争を
してるだけ さすが頭のいい人は賢いもんだ クロートらしい
324 :
日本@名無史さん:04/10/21 21:42:02
今年は台風の当たり年だったけど、
大昔は、嵐で飛ばされた古墳も結構あったのでは…
九州も畿内も台風の通り道だし、昔は治水も悪かったろうし、
金印も今ごろは、海の底で眠ってるだろう。
あるかい!
>>322 「作った時代の常識」に合わせて作ってから、藤村とかいう捏造家の手口と同じく、
箔をつけるために地面に埋めた の意味。
327 :
完全理論武装論者:04/10/22 01:20:48
私は小さい頃からシャーロックホームズの本を何十冊も読みあさった
シャーロックホームズの難事件で犯人を特定する推理はすばらしかった
現場に残された証拠はもちろんのこと、ほんの小さな現場の変化でも見逃しはしなかった
また、事件の関係者全員のささいな言動や細かい仕草などや、服装から履いている靴、さらには
靴についている泥や洋服に付着している花粉、ありとあらゆる面から推理して犯人を特定していった
私はシャーロックホームズの本を読めば読むほどはまっていった。
物証や証拠がなくても現場の変わった様子や変化、関係者の言動や態度などの心理で
犯人を特定することができるのだと、私は多くのことをシャーロックホームズの本で学んだ
あなたたちも一度シャーロックホームズの本を読みあさってはどうだろうか?
史料だけで歴史を判断することはきっとなくなりますよ
328 :
完全理論武装論者:04/10/22 01:24:36
歴史や軍事を史料でしか語れない人が多いな
もっと心理学や深層心理を勉強した方がいいよ
名探偵コナンやシャーロックホームズを見たまえ
現場に残された証拠だけで犯人を探し出したりはしない、被害者の置かれた状況や心理
加害者と思われる人物の状況や心理など、ありとあらゆる面から推理して犯人を捕まえる
日本人に欠けているのは物証(文書史料・発掘史料)でしか、推理できないチャチな脳みそだ
いいかげん史料だけで推理するのはやめたまえ
名探偵コナンやシャーロックホームズたちに笑われるよ
>328
あっそ
>>328 抽象的にはそのとおりだが、いざ各論に入ると、たんなる電波の言い訳理論になってるケースが多いような・・・
>>328 > 史料でしか語れない人が多いな
「ぼくちゃんはスレタイに何と書いてあるか読めません」。
問題は、むしろ「1800年ほど昔の中国語文」を「現代日本で使っている漢字の羅列」
と見て、文法的にありえない奇妙な具合で嘘読みする者が跡を絶たないことなのだよ。
> 名探偵コナンやシャーロックホームズを見たまえ
「ぼくちゃんのようにテレビにかじりついてアニメを見ろ」と。
> チャチな脳みそ
2ちゃんにありがちな「署名入り文書」。
もともと、初期のスレは、倭人伝の読解と史料的な成立過程に対する意見交換が中心だったんだよな。
334 :
日本@名無史さん:04/10/23 14:56:01
東アジアの中の日本 という大きい視点でないと邪馬台国は
理解できないよ魏志倭人伝の一行一句にこだわっていてはさっぱり
わからない 木を見て森を見ずというやつだ
大きく視野を広げるとすべてがわかる
>>334 日本語を点も丸もなしで書かれると読みづらくて困る。
くてんとうてんといっていただきたい
338 :
日本@名無史さん:04/10/23 21:35:09
島国根性、丸出しだな。
340 :
日本@名無史さん:04/10/24 12:56:10
近代国家でたかが、千数百年前のことがわからないのは、日本くらいなもの
江戸時代から論争してるけれどもいまだわからず、お粗末の限り
たかが2008文字がわからない
341 :
日本@名無史さん:04/10/24 13:05:12
まあ、弥生人がウホウホ言ってた頃の話だからな。
342 :
日本@名無史さん:04/10/24 18:00:13
結論としては、日本の歴史学者はみんなノータリンということですね。
>>340 近代国家で千数百年もさかのぼる国がいくつあるってんだよ。
>>341 半唐人はいまだにニダニダうるさいしな。
344 :
日本@名無史さん:04/10/24 22:57:38
>>343 2000年もさかのぼれば、大多数の国は
現在とは異なる民族が住んでいたはずです。
文化的に連続しているように見える中国だって、
民族的に連続していると言えるのかどうか微妙。
と考えると、340の言うことは顧慮する必要なしと思う。
345 :
日本@名無史さん:04/10/24 23:03:14
>>344 > と考えると、340の言うことは顧慮する必要なしと思う。
否、「無学文盲の輩の妄言など顧慮する価値など絶無」ということで。
346 :
日本@名無史さん:04/10/25 17:51:40
345は自己紹介か?。
>>346 心当たりのある者が釣り出されてくるという仕掛け。
オドオドすることはないですよ。
348 :
日本@名無史さん:04/10/25 21:33:11
345の文章は教養の無さが、にじみ出てるね。
>>348 にじみ出て垂れているのは君の歯槽膿漏だよ。
女王国から南にいって小人の国。その向こうにお歯黒の国。
お歯黒だから畿内でないの?小人の国が四国で。四国で小人の人骨が発見されたら完璧?
畿内説なら小人の国が蝦夷の位置になる。蝦夷が背が低いとはおもわれない。お歯黒するともおもえない。
しかし、なんで倭国の市が会稽の真東って完璧に言い放ってるのに、縦横入れ替えるの?
当時の吸収に居たのは弥生人?縄文人?
352 :
日本@名無史さん:04/10/26 17:14:40
北部は弥生人、南部は縄文人でしょ。
353 :
日本@名無史さん:04/10/26 21:30:42
349↑
and 下品
会稽の東というのはまちがいではないだろ。真東ではないというだけで。
会稽が上海。邪馬台国が鹿児島なら真東
>>355 会稽は上海じゃないよ。上海は当時はまだ海底だぞw
会稽っつーのは今の紹興。越之美酒(紹興酒)で有名なとこ。呉じゃなくて越。
>>354 文脈読まなきゃ。会稽の東の大海中にあるとは書いてないだろ。
その道里を計るに、まさに会計東冶の東にあるべし。
これは、道里(=道のりの里数)から考えると(その南北の位置が)(中国では)会稽東冶の位置にあたる、
といってるわけで、ほぼ真東じゃなきゃいかんでしょ。
少なくとも書き手はそう判断していたんだよ。
>>357 > 少なくとも書き手はそう判断していたんだよ。
ここ十何スレほど目にできなかった、極めて妥当なフレーズですね。
「その道里を計るに」ってあるだろ。
つまり「計算上は」「論理的には」って限定してんだよ。
「実際には」という話ではない、とわざわざ言ってるようなもの。
360 :
日本@名無史さん:04/10/28 17:29:14
「行程記事に記した距離と方位から計算すると」
「〜にあるはずだ」(〜べしというのは、はずだ、という意味)
と書いてあるだけで、確実にそこにあると断定してはいない。
ただ、呉の歴史の部分で日本列島らしき場所へ派兵した記事も書いてるでしょ。
呉に近いという想定を持っていた可能性は高い。もちろんそれは誤認だが。
361 :
◆aH09lWk0TM :04/10/28 17:41:22
362 :
◆EJZirZS5dI :04/10/28 17:41:50
方位を逆にすることは、かなり中国を馬鹿にしてない?
北から上ったおひさまが南へ沈むとか考えたってことだろ
>>359 「実際には」という話ではない、とわざわざ言ってるようなもの。
そんなことは当たり前。海上を含めた広い範囲を正確に測量する方法など存在しなかった
時代なら、実際にどうであるか確認する方法などあるわけがない。
>>363 方位を「逆」というか「ねじ曲げる」のは、そうする以外に、「倭人伝のいう邪馬台国」
を畿内に持っていく方法がないから。単純なことですな。
要点はだ、中国人が普通に読んだら、平壌とほぼ同緯度の大連あたりから
東西の移動なしで南北だけの移動を考えたら福州あたりについてしまう、
そういう行程記事だということだよ。魏志倭人伝は。
だからどこかに必ず錯誤が含まれている。
行程論に血道をあげてもまったくの無駄骨。
いい加減で明治時代みたいな議論は卒業しろよ。
>>364 だったら単純に里程を記せばよい。
「その道理を計るに=計算上でいえば」なんていう断りは不要のはずだろ。
367 :
日本@名無史さん:04/11/05 01:22:52
質問。刺青を描いたと思われる埴輪って存在しますか?
368 :
日本@名無史さん:04/11/05 01:26:19
>>366 > だったら単純に里程を記せばよい。
辿ってもいないのに何でそんなものを記すっての?
奇妙なことをいわないように。
>>369 辿ってなくても記すことはあるだろうさ。
辿ったら単純に「○○里」と書けばよい。
「その道里を計るに」とわざわざ断っているのは
「辿ってないけど情報から計算=推算することはできる」という意味だろう。
それ以外に、単純に「○○里」と書かず「その道里を計るに」とわざわざ断る意味はあるのか?
>>370 ん? 「実際に辿っていないが、計算上は・論理的にはどうなると書いている」ってのは
異論はないんだけど、誰か別の人の話と混同してない???
じゃそれでいい。
前に何かの歴史のムックか雑誌で朝鮮半島の地図が載ってたんですけど
半島南端の馬韓や辰韓や伽耶?の下に倭ってがあったんですけど
むかし歴史の授業で習った時は半島の南端にあるのは倭ではなくて
任那だった気がするんですけど・・・
日本列島の倭と半島南端の倭ってのは同じですか?
魏志東夷伝には「韓(国)は東西は海で区切られ、南は倭(国)と接する」とある。
韓の条の弁辰のところにも、弁辰のTokro国が倭国に接しているとある
>>373 何度みてもムカツク雑誌と読んでしまう・・・・ _| ̄|○
376 :
日本@名無史さん:04/11/06 22:22:00
さあそろそろ邪馬台国の無限ループから
前向きな発見をを引き出さないと出雲のほ
うに興味を吸い取られるぞ。
377 :
日本@名無史さん:04/11/06 22:25:12
378 :
日本@名無史さん:04/11/08 13:38:24
379 :
日本@名無史さん:04/11/09 00:20:21
380 :
日本@名無史さん:04/11/09 19:12:09
500tくらいの貨物船に乗っけてもらって
東京から広島まで旅をしたとき
「3日もあれば着くよ」
と言われたが、実際には1週間かっかた。
現代のジーゼル船でも結構かかるよ。
大昔ならば隣村まで船で行くのに
「水行1月」というのも納得できる。
381 :
日本@名無史さん:04/11/09 19:17:10
邪馬台国は北九州でほぼ間違いない。
そして3世紀後半に、崇神天皇の時代に
畿内と合併したと考えられる。神武も崇神も
ハツクニシラスの名前がついてるのは、神武が
初代王ではじめて畿内を統一し、崇神は九州を
含む西日本一体を統一したことから同じ名前がついたと
思われる。
382 :
日本@名無史さん:04/11/09 20:22:31
神武などいないわけだが。
383 :
日本@名無史さん:04/11/09 22:25:41
384 :
日本@名無史さん:04/11/09 22:48:10
>>380 風待ち、潮待ち、と言うのがあるからな。
縦帆が無い時代、追い風を待って帆を上げ、逆風になると投錨して風待ちだから。
まあ後世、菱垣廻船は大坂〜江戸を最短4日だったらしいが。
385 :
日本@名無史さん:04/11/10 01:49:00
「前1世紀の近畿に王権か 大阪、池上曽根遺跡」
紀元前1世紀(弥生時代中期後半)の巨大な神殿跡が見つかっている大阪府和泉市の環濠(かんごう)
集落、池上曽根遺跡の中心部で、整然と配置された大型の掘っ立て柱建物群跡が見つかり、和泉市
教育委員会が9日発表した。
市教委は集落の中枢にかかわる倉庫群と推定。神殿から約100メートル離れたこの一帯に、支配者の
特別区画を設けて政務や宗教、収税など権力機関を集めたとみている。
邪馬台国の女王卑弥呼が現れるより約200年前で、北部九州以外はまだ農村のような共同体社会
とみられていたが、既に権力を一手に握る「王」が誕生していたらしく、弥生時代像の見直しを迫る貴重
な発見だ。
見つかった建物跡は4棟あり、2時期に2棟ずつ建てられ、東西に並んでいた。柱の直径は30−
35センチ。立てるため1辺1・5メートルの方形の穴を掘っていた。うち1棟は約80平方メートルあ
り、当時としては最大級という。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041109-00000153-kyodo-soci
386 :
日本@名無史さん:04/11/11 16:45:24
鯨統一郎の「邪馬台国はどこですか?」で
「鬼道につかえ、よく衆を惑わす」の惑わすは、人心を掴むという意味だって書いて
あるけど、本当なの?
387 :
日本@名無史さん:04/11/11 21:25:05
九州説と大和説の永遠の論争
目糞と鼻糞の論争ですね
江戸時代から、飽きもせずよくやるよ
もう終わりますから、御心配なく。
どっちが勝ったかって?
まあ、あと10年もすればわかりますよ。
あわてない、あわてない。
ひとやすみ、ひとやすみ。
ぽくぽく・・・
389 :
日本@名無史さん:04/11/12 02:01:53
>>386 本当かなんて誰にも分かる訳ないでしょ。w)
そんな規模で王権、いや別にいいんだが、速攻邪馬台国とかに結びつけるのが
アフォらしすぎ。
まあ所詮大阪のすることだがw
卑弥呼は日本人であるから、日本の古書に卑弥呼の記事があり中国の古書に卑弥呼の記事がない→大和説が正
卑弥呼は日本人であるのに、日本の古書に卑弥呼の記事がなく中国の古書に卑弥呼の記事がある→九州説が正
>>391 邪馬台国はなかったが、邪馬壱国はあった。
393 :
日本@名無史さん:04/11/12 21:43:12
>>392 いまだに、こんな事言ってるアホがいるんですね。w)
394 :
日本@名無史さん:04/11/12 21:44:20
昔、一時 邪馬台国は無かった、邪馬壱国だという説が流行ったらしいが
よくよく調べてみると、邪馬壱国は無かった、邪馬台国があった
というのが現代の定説
中国の古文献の一部に誤記で台を壱と書いたのがあるというのが真相
古い文字で台と壱がよく似てるには似てるが、壱のほうが誤記
>>393 >>394 国名に何故『壱』の字が付くのかも分からんのか?実力の相違だな。
お前様らはいかに自らが無知だかを泣くべきだ。余が代わりに泣いてやろうか。
ザ掲示板BBSの宗教論人生論板の「古神道に関する話題」の>1042を見よ。
396 :
日本@名無史さん:04/11/12 22:09:23
>395
チラっと読んだが妄想派の巣窟みたいだね
ヒフミの解釈も、勝手読みだな
それは中国人だって文字を間違えて書くことはある。
しかし重要文献までも、単なる国名でだ、間違えるほど中国人は間抜けではない。
ここは邪馬壱国なのであり、邪馬台国はなかったのだ。
したがって、古田氏の説が正解なのだよ。
しかもだ。日本人であるべき卑弥呼の記述が日本の古書になく、中国人ではないはず
の卑弥呼の記述が中国の古書にある。なぜか?この場合大和は殆ど無関係であり、
邪馬壱国として中国に一段近い九州にそれがあったということを意味するのだ。
そうか、それは善かったなあ。
皮肉ではないか、日本人であるはずの卑弥呼の記述が日本の古書になく、
中国人ではないはずの卑弥呼の記述が中国の古書にあるということはだ・・・。
それが何を意味しているか。当然ではないか。九州王朝説が正解だという事だ。
>>386 そういう意味になりますな。現に、戦争続きのさなかに祭り上げられたら争いが一時的にせよ
止んだくらいだから。
>>394 > 現代の定説
というか、「昔から一貫した定説」で、「壱」は問題外ですね。
> 中国の古文献の一部に誤記で台を壱と書いたのがあるというのが真相
「古文献の一部」ではなくて、「倭人伝そのもの」の現存最古の刊本に「壱」と書いてある。
もっとも、「現存最古」といっても、書かれた時代よりはるかに後世のもの。
>>397 > しかし重要文献までも、単なる国名でだ、
意味不明。何弁? どういう意味?
> 間違えるほど中国人は間抜けではない。
全く無知。筆写の誤りや刊本の誤植は、少なくとも絶無なんかではないの。
「魯魚章草の誤り」っていう諺もあるぐらいで漢文に誤写はつきものなんだが。
魯と魚、章と草、升と斗、使と便、臺と壹、と書き間違いの多い文字はいくらでも例がある。
魏志倭人伝のその内容の具体性、詳細の説明を考えると、伝の作者はかなりの点で国の
中味、周囲について知悉している。つまり国名までしっかりと分かっていたと考えるのが至当。
つまり、正確に国名を伝えるくらいの具体性、詳細があるということだ。
たかだか、大和九州の分別が解説していないだけ。まああれで読者が分かると想っていたのだろう。
伝の作者にはあの具体的、詳細な解説からして国名の誤記はない。
つまりだ、あったのは古田氏のいうとおり邪馬壱国だ。作者のいう国名を軽く取替えるな!
405 :
日本@名無史さん:04/11/13 13:30:42
九州説を唱えてるやしって、必死こいてるつうか
みんな狂信的だね オウムの信者と同じみたい
国を纏め上げた人の名前が日本書記にでてこないのは、確かにへんだ
407 :
日本@名無史さん:04/11/13 15:12:08
その理由は海部氏系勘注系図にある。
408 :
日本@名無史さん:04/11/13 15:12:56
おっと系は余分ですた。
409 :
ゴジンム:04/11/14 13:29:30
小人 お歯黒は九州だなあ
411 :
日本@名無史さん:04/11/14 20:22:46
江戸時代の九州論者の本居宣長か、大和論者の新井白石の論に
金魚の糞みたいについていって、偉そうにゴタク並べる香具師ばかりだな
412 :
完全理論武装論者:04/11/15 10:02:18
こんにちは歴史愛好家のみなさん。そしてさようなら歴史愛好家のみなさん。
私はこのスレから撤退することにしました。でもロムったりはしますけど。
ずっと自分なりに考えていました、そして答えがわかったのです。
歴史の真実が私の理論で明らかにされても、なぜ歴史愛好家のみなさんは頑としてその真実を
認めようとしないのかがわかりました。
歴史愛好家のみなさんは永遠のミステリーハンターたちなのです。
あなたたちは謎を見つけて謎を追い、謎を究明することなく死んでいく人たちなのです。
謎を研究して楽しんだり、自らの知性を向上させようと謎を利用しているのです。
ですから謎が解明されては困るのです。
謎が解明されてしまえば、謎を研究する楽しみがなくなります。
謎が解明されてしまえば、自らの知性を向上させるための新しい謎を
歴史の中からまた新しく見つけ出さないといけないからです。
邪馬台国以上に興味をそそられる歴史の謎なんてそうそうありません。
ですから邪馬台国の謎を解明しないように、真実には目をつむり黙殺して
みんなでだらだらと同じ議論をしつくすのです。それが楽しいからです。
ですからひとつの歴史の謎を解明させて、また次の歴史の謎を解明してやろうと
考えている私と、永遠のミステリーハンターでいたいあなたたち歴史愛好家の、
みなさんとでは目的が全く違うのです。
というわけで私はこのスレから去ることにしました。
ではみなさん今日も知性の向上のためにがんばって議論して励んでください。さようなら
分かった解かった!でも再登場でもいいよ。
414 :
日本@名無史さん:04/11/15 19:13:22
題の説明 その@ −
▲問題の背景
「剣道という武道文化は朝鮮人が作り上げた。日本はそれを真似してスポーツ化しただけだ。剣道は韓国武道である」
このような説を韓国人が「世界中に」「歴史的事実」として宣伝し始めました。
▲韓国(朝鮮)に昔から受け継がれてきた剣術なんてあったの?
彼等が「これは1500年間受け継がれてきた技!」と言い張る以上、否定するのは難しい状況です。
▲「仮に」あったとして、日本の剣術との関連は?
韓国の言う「剣道の元になった剣術」とは片手剣を使った剣術です。日本刀を基にした日本の剣術と関係あろうはずもありません。
▲…。まとめると?
製鉄の基礎技術などが朝鮮「経由」で伝わったのは事実でしょう。なので、上記のような矛盾を全て無視した上で、さらに、
・唐辛子を朝鮮に伝えたのは日本 → キムチの起源は日本 ・朝鮮に基礎文化を伝えたのは中国 → 朝鮮文化は全て中国文化
このような説が通用するのなら余地があります。ただしその場合、剣道は朝鮮起源ではなく中国起源になりますが…
▲馬鹿馬鹿しい。放っておいて問題ないのでは?
放っておいたら数年で韓国国内でこの説が定着、海外でも米国を中心に信じる国が出てきました。本当に馬鹿馬鹿しい話です。
▲嘘は暴かれる。恥を書くのは韓国。やっぱり放っておいていいのでは?
テコンドーは「2000年の歴史を持つ韓国武道」として五輪競技になっています。抗議すれば外交問題でしょう。定着されたら終わりです。
▲何でこんな無茶な主張が通るの?信じられない…
議論では勝ち目はない事を知っている韓国が、日本との議論をさけて海外への宣伝戦に持ち込んだためです。
しかも日本の団体は全く動かないためまさに韓国の思うつぼ。一方韓国は、政府の支援の元、団体レベルで宣伝しているため、
「日本は団体が何も反論できない。正しいのは韓国」という主張が非常に効果的に使われてしまっています。
415 :
日本@名無史さん:04/11/15 21:04:15
中国の雑誌の日本に関する記事もひどい内容だよ。
トヨタ車の説明なのに日産車の写真が貼ってあったり・・・
魏志倭人伝も殆どがイイカゲンだと思う。
捏造では無いけれど、チャランポランな雑誌記事と同じレベル。
416 :
日本@名無史さん:04/11/15 21:16:17
中国の雑誌の日本に関する記事もひどい内容だよ。
トヨタ車の説明なのに日産車の写真が貼ってあったり・・・
魏志倭人伝も殆どがイイカゲンだと思う。
捏造では無いけれど、チャランポランな雑誌記事と同じレベル。
とはかぎらない。
418 :
日本@名無史さん:04/11/16 20:54:46
魏志倭人伝の著者の陳寿は今の日本でいえば、内閣府書記官長みたいなもんだろう
著作郎という官職にあるものだから、そんないいかげんなことは書けないよ
いいかげんな事を書いてるのが王様にばれたら、昔は即座に打ち首だろう
というわけで、魏志倭人伝の信憑性は高い
419 :
日本@名無史さん:04/11/16 21:02:50
倭人伝は膨大な三国志のホンの一部、しかも一番どうでもいいような部分だぞ。
420 :
日本@名無史さん:04/11/16 21:06:00
マスメディアも交通手段も発達していない時代に伝聞だけで書かれたものに、
過剰な期待をしてもなw
それに、私撰みたいだしなぁ、書いた当初は。
422 :
日本@名無史さん:04/11/16 23:43:29
魏の国からしてみれば、朝貢してくる邪馬台国しか認めていないとおもう。
他の倭種の国なんて記す必要も無いほどの辺境地域だからな。
魏志倭人伝を絶対視すると、当時、畿内に存在した巨大王朝を間違った形で
認識してしまう恐れがある。
423 :
日本@名無史さん:04/11/17 01:12:34
てゆーか魏志倭人伝なんて史料的に信憑性ないでしょ。
神話と同じくらいの扱いでいいんじゃない?
424 :
日本@名無史さん:04/11/17 03:51:14
北九州だとほぼ矛盾無く説明可能なのに、都合が悪い説の論者は
不都合なために無視しようとする。
あいも変わらずのくりかえしだなあ。
425 :
25歳♂公務員試験勉強中:04/11/17 09:48:32
邪馬台=大和。
隋書曰く、大和朝廷は邪馬台国ナリ。
3世紀の古墳・鏡・銅鐸が畿内を中心に
中国地方・九州・朝鮮に渡り発見される。
三角縁神獣鏡にも卑弥呼の時代の年号有り。
7万戸を収容できるのは当時畿内だけ。
邪馬台国が東征したか大和朝廷に滅ぼされた
伝説も考古学上の物証もない。
当時の日本は本州が九州の南にあったと認識されていて
倭国全体の距離は5千里だと倭人伝に書かれている。
これだけ言ってもまだ九州だという人がいるんですか?w
当時日本が完璧に把握されてるなら、蝦夷についての記述もあるだろう。
あるのはお歯黒した国(近畿)と小人の国(四国?)だけ
427 :
日本@名無史さん:04/11/17 19:13:30
魏志倭人伝は、王沈のウケウリでしかなく、伝聞や又聞きを
まとめあげた程度の資料でしかない。
日本に関する最古の資料だから絶対視してしまうのはわかるけど、
あまり、とらわれ過ぎないほうが良い。
ほんとは、邪馬台国なんて日本列島に存在する数多ある豪族の一部族にしか過ぎないのだから。
当時の日本列島には幾種類もの大豪族連邦が存在していたのだよ。
428 :
日本@名無史さん:04/11/17 19:19:23
堺だろ
429 :
日本@名無史さん:04/11/17 19:22:02
↑私、堺市役所の職員ですw
430 :
日本@名無史さん:04/11/17 20:19:21
>>429 Jリーグクラブとサッカースタジアム作れやゴルァ
長居なんか行きたくないんじゃ。
たしか池上曽根遺跡もあるし四つ池とか深井の堺中警察署予定地からも同時代の土器やらが発掘されてるし邪馬台国じゃないにしても堺泉州に注目してます。
ちなみに私も堺市民。
431 :
日本@名無史さん:04/11/17 20:39:44
南倭→難波→浪速→日本
北倭→朝鮮半島南部
伊勢神道(外宮)の秘伝書の神道五部書の倭姫命世紀を読むと
元伊勢伝説で、倭国と大和は別の国のように表記しているね
倭国が大阪で、大和が奈良県とかの可能性もあるね
>倭国が大阪で、大和が奈良県とかの可能性もあるね
ジョークか?
433 :
日本@名無史さん:04/11/17 22:53:36
古くは、葦原中津国=畿内大和→のちに、=東海関東
関東皇化の後、=大大和日高見の国(日の昇る方角の国)
両者合わせた国称として=日の本
その後も、東方フロンティアとしての日高見国の呼称は残り 関東→東北と名を移す
「関東皇化」
キモい言い方でつね・・・。
>>418 それはない。土台からして、三国志が高く評価されて上覧に呈されたのは陳寿の死後。
ただし、ほとんど同時代の人々から高く評価されたわけだから、少なくとも、「中国
の人が知っていた事柄」については出任せが通ったとは考えにくい。
>>427 受け売りだけではないことや、全体として高く評価された点を知らないで、いい加減
なことをいわないように。
436 :
日本@名無史さん:04/11/18 05:52:53
>>435 >全体として高く評価された点
それほど高い評価を受けているのなら、
倭人伝の数値や方角の表記がイイカゲンなのは何故?
全体としてはよく出来ているけど、詳細としてはこじつけや無理があると思う。
当時の中国としては誰も知らない辺境の東夷の小国について
完全的確に記載しなければならない、などという観念は
皇帝ですら無い。
「野蛮国からも朝貢がありました。」程度が記されていればよいので、
三国志の片隅にメモ書きされた程度の倭人伝に誰も異議を唱えたりなどしない。
>>418 じゃデタラメな日本伝を書いた明史の修史官は打ち首になったのかよw アホか。
438 :
日本@名無史さん:04/11/18 13:29:40
九州論者は、ヒステリーが多いのか?
カルシウムが足らないのと、ちゃうか?
イリコでも食って、落ち着きな
九州説なら邦楽や距離がいいかげんではなくなる。
しかしなんで「倭人」の条なんだ?倭国ではなしに。
これはおそらk倭人=縄文人系を基本にして考えてるのではなかろうか。
つまり当時から畿内に勢力があるのはわかっていたが、基本的には、
倭人=小さくて大陸とは違う人種のために書かれたものじゃないだろうか
440 :
日本@名無史さん:04/11/18 17:48:48
天武天皇が日本という国名を名づけたわけだが、いろんな意味を兼ねて
日本にしたのだと思うが、にほん、2本、二本、日本 南倭と北倭を合わせて
二国の本、二本、日本 という意味も兼ねているのではないだろうか?
倭という言葉は古くから使われているが、倭国というのは比較的新しい
3世紀くらいまで、果たして国という概念が倭人にあったのかどうか?
それも疑わしい せいぜい部族程度の意識しかなかったのだろう
邪馬台国になって、やっと国家意識が芽生え始めたというところだろう
倭人というのは、語感からいうとワイワイ騒ぐ人くらいな感じがする
あくまで、私見だが。
441 :
日本@名無史さん:04/11/18 18:45:13
日の本 は西の地方から見て太陽の昇る方の土地、日下(クサカベ)、日根(ヒノネ)も同じ。
大阪府下にある名前だが、瀬戸内を来て上陸地点にあたる土地。
西から東へと開拓されていく過程にあって、東の土地に与えられた呼称。
高天ヶ原→葦原中津国 は畿内から関東へ文化が広まっていく状況、ある氏族の移住單。
日の本は元小国、倭の地を併せたり。
弥生〜平安まで続いた、飽くなき日高見国フロンティアへの進出。
442 :
日本@名無史さん:04/11/18 18:54:45
日本という国号は、日が昇る国という意味と
元々あった地名から日本という国号にしたと
中国の史書に書かれているな。おそらく日下のことだけど。
443 :
日本@名無史さん:04/11/18 20:18:43
地名で日がつく地名なんて、日本国中に無数にあるよ
日陰、日向、日畑、日差、日山、日下、日元、日矢、日幡、日高、、
地名での日なんて、なんの根拠にもならない
中国の史書にはおそらくそうだろうということで解説してたが
日本という国名をつけた人の真意かどうか?はわからない
普通は、神言は24の密意を持つとされている
444 :
日本@名無史さん:04/11/18 21:22:33
日 に拘りがあって地名に付けた訳だから、各地にあって不思議ではない。
基本的に九州の地名だろ、大和も日本も。奈良も京都もw
大和周辺の地名って由来がわからないよな。それが全てを表してると思う。
大和の風土記なんて真っ先に処分されただろうね。
446 :
日本@名無史さん:04/11/19 00:25:48
金印と阿蘇山で九州に決まっているんだが、
いかに畿内説に花を持たせるかが
舞台の見どころとなっている。
○○が正しい場所だ
という考えがあってもなくても,魏志倭人伝は史料的に使える代物ではないということ。
戦後の影響で神話が使えなくなったから,ここぞとばかりに飛びついただけ。
本気で解読しようとしてるヤシは時間の無駄遣いw
邪馬台国か邪馬壱国かしらんが日本のあたりに何かの国家らしきものがあっただけでしょ。
大体普通に読んだら邪馬台国の位置は海じゃないの?
おこさまは寝てな
プ
>>439 漢文なんだから倭人でも倭国でも倭でもいいんだよ。普通は「倭国」。
実際、三国志の倭人条も内容的には「倭国条」になっている。
「倭人」にしたのは漢書地理志の「楽浪海中、倭人あり」にちなんだだけで意味はない。
451 :
日本@名無史さん:04/11/19 12:57:54
元伊勢籠神社御由緒略紀に、崇神天皇の時代に倭姫命に命じて
三種の神器の鏡を持たせて、適地を求めてあちこちと行かせた
1、倭国 笠縫邑 2、丹波 吉佐宮 3、倭国 伊豆加志本宮
4、木国 奈久佐浜宮 5、吉備国 名方浜宮 6、倭国 弥和の御室嶺上宮
7、大和国 宇多秋志野宮 8、大和国 佐々波多宮 9、伊賀国 隠市守宮
以下伊賀国→淡海国→美濃国→尾張国→伊勢国→25番目が現在地の五十鈴宮
というようになっている
大和朝廷の勢力範囲を示すものだろうが、倭国と大和国は別々に表記してある
倭姫命世紀からの引用だろうが、一般的には倭姫命世紀は信頼度は
高いとされている
東夷以外の記述はいいかげんなの?南蛮とか、匈奴とかの距離感は
453 :
日本@名無史さん:04/11/19 15:42:03
おこさまは寝てな。プッ
454 :
日本@名無史さん:04/11/19 22:54:41
・・・そもそも「ちゃんとした位置を書き記さなかった」
魏の宰相司馬仲達に文句を謂うべきでしょう!
この長年にわたる議論の元凶は。
455 :
日本@名無史さん:04/11/20 10:01:42
日本書紀には豊葦原中津国、豊葦原宇佐とある。
豊(台与)の国・豊前・大分県の中津と宇佐に間違いない。
456 :
日本@名無史さん:04/11/20 11:22:45
457 :
日本@名無史さん:04/11/20 15:36:11
邪馬台国の女王の卑弥呼が魏の国王に倭錦という絹織物を贈ったと魏志倭人伝に
書かれているが、絹織物が九州や大和の古墳から出土しているのか?
岡山県の柵原町の月の輪古墳(4世紀末から5世紀初頭)からは大量に出土している
絹織物は桑の木か?を植えて、カイコに食わせて繭を作らせ、その繭から糸をとるわけで
そう簡単には出来ない、そうとう長期間が必要だ
気候風土的に九州や大和で桑の木が育つのか?知ってたら教えてください
458 :
日本@名無史さん:04/11/20 16:02:10
九州では珍しくない。
畿内では多くはないらしいが、九州と比べ保管状態が
悪いからで、当時、日本各地で既に絹は作られていたらしい。
459 :
日本@名無史さん:04/11/20 16:12:01
今も中国ではたしか、山カイコという今の日本などのカイコと違う
種類のカイコが飼われ、日本でも山繭という名前で手ぬぐいなどが
売られてるようですが、ちょっと黄色い色をしてますね
邪馬台国の時代のカイコはどうだったのか?白繭か?山繭か?
日本での絹織物の産地というと京都府綾部周辺、長野県あたりだったか?
山間地でやや寒冷というのが適地でしょうか?
カイコ、マユ、絹織物から邪馬台国に迫れる道はないのでしょうか?
460 :
日本@名無史さん:04/11/20 16:23:18
遺伝子的に違うらしいね。日本の蚕。
以前、隣のスレで、九州説の根拠としてその話題が出ていたが、
当時、九州では平民の墓からも見つかるほどかなり普及していたし、
それ以外にも畿内なども各地に普及しているとのこと。
決め手には全くならないと思うよ。
461 :
日本@名無史さん:04/11/20 16:50:33
蚕にも、家蚕と野蚕があって家蚕は白繭で飛騨高山の茅葺家で2階とか
3階などで棚状で飼われてましたね
野蚕はそういえば、山中で繭状の玉もたまに見ますね
邪馬台国の時代には相当大量に作ったものでしょうから
栽培した桑の木の群落などは当然あったでしょう
伊勢神宮では今も絹の製造をやってるらしいので、そこらを調べると
なにか出るかな?
462 :
日本@名無史さん:04/11/21 20:40:03
絹織物を調べてみると、日本に伝わったのが記紀によると、仲哀天皇の時代
秦の始皇帝の11世の功満王が帰化したのが始まりらしい
しかも絹糸を繭からとるのに、鉄鍋が必要 鉄鍋に湯を入れて繭をいれ
箸でかき混ぜて作るらしい
古事記神代記にもスサノオが高天原で暴れて織女に乱暴したという記述があるが
そうすると高天原は仲哀天皇以降ということになる
しかも鉄鍋が製作されだして以降の時代ということになる
当然邪馬台国も仲哀天皇以降に成立したということになる
なんだか、年代が合わないな
463 :
日本@名無史さん:04/11/23 20:12:52
弥生時代の古墳から絹が出土しているのは、北九州と吉備だけ
大和説は、もうこれで脱落だな
古墳があるなら弥生時代じゃないだろ
465 :
日本@名無史さん:04/11/23 20:38:39
だったかな?古墳時代でもいいわ
466 :
日本@名無史さん:04/11/24 12:25:22
九州の古墳から鉄器が多数見つかるのに、マキムクでは鉄器が発見されない。
なぜ?
ホケノ山から出ていると何度言わせれば気が済むのだ?
468 :
日本@名無史さん:04/11/24 22:00:51
邪馬台国の女王の卑弥呼や台与が魏に倭錦という絹織物を贈っていることは
魏志倭人伝に書かれているとおり
絹織物を作るには、家蚕(作った量からして家蚕)、桑の木、鉄釜が
必要条件になる 鉄を作る炉を作るには大量の塩がいる
上記の条件を満たすのは九州か、吉備しかない 大和は無理だろう
というわけで、九州か、吉備に絞られる
製塩という点では瀬戸内地方の吉備が有利だろう
平型銅剣の分布図を見ると、吉備と九州の宇佐などが同じ文化圏ということが
わかる 吉備瀬戸内連合が九州の一部も影響下に置いていたと考えるべきだろう
今まで、倭錦のことに注目していなかった文科系の議論はどうもおかしい
倭錦を深く研究すれば、邪馬台国の位置が特定できそうだ
>467 何度言っても何の反応も無い人の相手をしてもしょうがないだろう。
470 :
日本@名無史さん:04/11/24 22:40:40
蚕のマユを煮てほぐすのに、鉄鍋である必要は無いのでは?
471 :
日本@名無史さん:04/11/25 01:24:10
絹製品は弥生時代から各地で出ていなかったっけ
472 :
日本@名無史さん:04/11/25 21:45:43
>470
カイコの繭は白い玉で、家蚕の場合だが、おそらく生産量からして家蚕だろう
それを鉄鍋の湯の中に入れてホグス 温度調節が肝心らしい
絹糸を作るのに大量の水を使う おそらく工場は川のほとり
鉄鍋以外になに?銅鍋、土器 おそらくいいものは作れないだろう
書物によると鉄鍋を使ってたみたいだ 日本では長らく
錦だから染色もしたようだから、大量の水が必要
工場は川のほとりで、まわりには桑の木がたくさん植えられていた
探さなくっちゃ
473 :
日本@名無史さん:04/11/25 22:13:59
そういえば岡山の吉備津神社で釜占いとかいって
釜に湯を入れて、その湯気で占いをするという神事がいまだに
残っているな
なんだか、匂うな
一番おもうのは。倭人は盗みや訴訟を起こさない。女性は嫉妬もあまりない。
これが関西で通る事情だろうか
>>474は、「 ま た 大 阪 か 」と言いたいようだなw
しかし昔の話だから・・・・・。
>>473 製塩の技法がもとでは?
赤穂の塩って有名だし。
477 :
日本@名無史さん:04/11/26 14:23:00
>>472 温度調節が肝要なら、
熱伝導率の低めな鉄より熱伝導率の高い銅の方が、
鍋の素材として適してるような気はするけどね。
徹鍋は銅鍋と土鍋の中間でしょ。
478 :
日本@名無史さん:04/11/26 20:56:53
絹織物が中国で行なわれたのを考えてみると、中国人は悪食だから
カイコを食べようと鍋に繭を入れた ところがなにやら糸がほぐれてきた
それで、その糸を箸で取り除いてるうちに、これは糸になるな
と思って作り始めた ということかな 予想だけで根拠は無いが
最初はタイあたりではないか?という説もあるようだ
紀元前2000年くらい前から作ってたということらしい
当然、日本には帰化人が持ち込んだものだろうが、秦の始皇帝の11世の孫の
功満王というと仲哀天皇の時代で、邪馬台国の後になる
仲哀天皇の時代は邪馬台国以前か?同時期ではないのだろうか?
479 :
日本@名無史さん:04/11/26 21:38:19
功満王でなければ、徐福か?最初に日本にカイコを持ってきたのは
徐福なら年代の数字が合う 紀元前200年ころにやってきて
桑の木を植えてすれば、紀元後200年頃には絹織物は出来る
となると、徐福と邪馬台国は深い関係ということになる
あるいは徐福でなく、別の渡来人がそうとう早期に日本にカイコを
持ち込んだことになる 誰か?
480 :
日本@名無史さん:04/11/26 23:32:53
弥生の年代改訂で、
徐福以前の日本列島で蚕が飼われていた事になるのではないの?
481 :
日本@名無史さん:04/11/27 21:02:23
さみだれ式に朝鮮半島から小船に乗って、渡来していたようだから
そういう連中がカイコを持って日本列島に相当早期に来ていた
と考えるのが自然だな 紀元前には来ていたのかな
中国大陸から大船団を組んで、徐福が来た場合、日数の関係で
カイコも生き物だから死んでしまう可能性も強い
桑の葉を大量に積み込んでいれば別だが
まあ、紀元前に誰かが小船に乗って、持ち込んだ可能性が強いように思われる
その持ち込んだ連中が邪馬台国となんらかの関係があったから
邪馬台国が倭錦の魏への朝貢が可能になったということだろう
民間伝承か、古い神社資料にそのあたりの記録が残っていればいいのだが。
482 :
日本@名無史さん:04/11/28 20:30:45
ひょっとして、兵庫県の出石神社に祭られてる天日鉾アメノヒボコ
天照国照彦天火明命くらいがカイコを持ってきたのだろうか?
神宮皇后は天火明の5世の孫というし、継体天皇は応神の5世の孫というし
つながってくる 新羅の王子 天火明命の可能性もあるな
たしか、元伊勢の天橋立の籠神社の主祭神も天火明命だったはず
このラインがなんだかつながってきそうだな
継体天皇は越の国の出身らしいし、1グループかな
なんでもかんでもごっちゃにすんなよ。天日矛は火明じゃないだろ。
484 :
日本@名無史さん:04/11/29 21:40:09
出石神社の祭神はたしか、アメノヒボコだろう
一度行ったことがある 天火明と一緒じゃ無かったかなあ
諸説あるんではないの?
「祭・本質と諸相」(松本斉光著)という本によると、日本の神は
消滅・変身・飛翔が自由にでき、「自己を無限に分割できる」そうです。
日本の神は、なんでもかんでもごっちゃにして良いと思います。
じゃ、一神教みたいなもんだね。
487 :
日本@名無史さん:04/11/30 03:15:33
天日矛と火明命は別です。
かってなことはいわないように。
天日矛=ツヌガアラヒト=弓月君=応神=神功=崇神=神武
=天照国照天火明櫛ミカ玉ニギ速日命
490 :
日本@名無史さん:04/11/30 20:41:46
天火明命は日本書紀の神統譜を見ると火明で出たり、天火明で出たり、
しかもアチコチに出てる ややこしい謎の神さんみたいだな
たしか単行本も出てたような気がするが、、出石へ行ってソバでもまた食うかな
スサノオもイコールにしろやw
493 :
日本@名無史さん:04/12/01 20:59:56
神功皇后が実在しないなんてホザイテル直木が畿内派の重鎮なんだから
畿内派のオツムのレベルは相当低いね アフリカのホッテントット並みだね。
ごめん!ホッテントット
494 :
日本@名無史さん:04/12/01 21:06:41
神功皇后なんて実在するかよ(プゲラ
>>493 直木 孝次郎 なおき こうじろう 大阪市立大学名誉教授
(専門)日本史(古代史)
(生年月日)大正8年1月30日
(出身地)兵庫県神戸市
(略歴)京都帝国大学文学部史学科(昭和18年)卒業 文学博士 大阪市立大教授、岡山大教授、
相愛大教授を歴任。第13期日本学術会議会員。
著書に「日本古代国家の構造」「日本古代の氏族と天皇」「飛鳥奈良時代の研究」など
(所属団体)大阪歴史学会、日本史研究会
重鎮というか何ちゅうか・・・まだご存命なのかあ。
恐れ入ったぞ。
496 :
日本@名無史さん:04/12/02 21:05:49
直木大先生に限らずだが、古文献の自説に都合のいいところだけを
剽窃してこじつけちゃうというのが、得意だな、大学者先生は
それでもって、それらの著作が権威を持ってあちこちに飛び火する
それらの著作を元に議論をしても、意味を成さない
魏志倭人伝にしても全文を読めば、南方系の習俗を書き記していることは
一目瞭然なのに、それらは無視して水行、陸行の解説ばかり
アンバランスな解説が多いな、邪馬台国議論は
天之御中主=(中略)=天日矛=ツヌガアラシト=弓月君=応神=神功=崇神=神武=天照大御神
=大物主=火明=??速日=スサノオ=(中略)=以下、八百万の神々まで永遠に=が続く
つまり神道は一神教ってことでよろしく。
498 :
日本@名無史さん:04/12/03 15:24:44
↑こいつあほか
逝ってよし!
499 :
日本@名無史さん:04/12/03 15:31:45
以前西都原の発掘調査の関係者の方の
「ぼやき」を聞いたことがあります。
「西都原の古墳を発掘するとね、朝鮮との関係、被葬者が朝鮮からの渡来民であるとしか
考えられないような物が出てくる。つまりは『天皇家のルーツは朝鮮にあり』って言ってるみたいな物だから、
西都原の本当に調査されなければいけないような古墳は発掘許可が下りない
>>497 天之御中主は古代イスラエルの神だと、龍神社の責任者は言っています。
×龍神社→○籠神社
502 :
日本@名無史さん:04/12/03 19:27:55
>500
それは、きっと
冗談で言ったんだよ。
503 :
日本@名無史さん:04/12/03 19:31:04
宇佐で確定
504 :
日本@名無史さん:04/12/03 19:35:13
卑弥呼=日巫女=天照大神で決まりでしょ。
こう仮定するとすべてが一本の線につながる。
天照の子供の天忍穂耳命の妻は万幡豊秋津師比売命。
この名前の中に入ってる、豊=トヨ=台与。比売=宇佐神宮の比売大神。
その4代後が神武。年代的に見て応神と一致。
神功皇后は邪馬台国の巫女。応神は名前のとおり
崇神王朝の血統が絶えたので大和朝廷の大王になることを
要請されこれに応じた。ゆえに応神天皇。
仁徳は日向の髯長媛を妻に娶っていることから日向との関わりも深い。
505 :
日本@名無史さん:04/12/03 19:36:59
↑天照の天岩戸事件も248年の皆既日食で
卑弥呼の時代と一致。もうこれで反論のしようがないでしょ。
506 :
日本@名無史さん:04/12/03 20:23:32
古事記、日本書紀などで、異様に九州、出雲などを優遇してるようだが
なんの思惑で優遇してるのだろうか?
代替わりの儀式では、隼人が犬の鳴き真似をして、ウーワンワン、ウオーて
吼えるならわしがあるらしいが、なんじゃらほい。
>>498 バカ。藻前みたいな、「なんでも同一人物厨」への皮肉でいったんだよw
508 :
日本@名無史さん:04/12/03 23:42:36
>>503 また、宇佐説に逆戻り?
しかし、確定なんて書くなよ。
同様の説の他の者まで電波扱いされてしまう。
509 :
日本@名無史さん:04/12/04 13:30:54
>505
皆既日食と卑弥呼が死んだ事とは関係ないよ。
510 :
日本@名無史さん:04/12/04 13:39:20
>504
記紀に記されているの天照大神(卑弥呼)朝→神武朝→崇神朝の順番は
地方伝承などから考えると、神武朝→天照大神(卑弥呼)朝→崇神朝の方が
正しいと思われる。
511 :
日本@名無史さん:04/12/04 13:58:01
地方伝承ってどこの?
512 :
nero:04/12/04 23:57:54
sine
今を生きる俺にはそんなことはどうでもいい。
514 :
日本@名無史さん:04/12/05 20:47:31
温故知新
515 :
日本@名無史さん:04/12/05 22:58:49
516 :
日本@名無史さん:04/12/05 23:38:51
すみません。初心者です。最近「倭国」に嵌ってしまいました。
須佐之男=出雲王朝による北九州諸国併呑→原倭国説は既出ですか?
私が読んだ説では
・須佐之男の渡来、出雲王朝設立(第1次王朝)
・北九州諸国併呑、卑弥呼(=天照)共立
・須佐之男死亡、大国主(婿養子)の登場(近畿まで征服)
・卑弥呼死亡、大国主死亡
・出雲(建御名方)、九州(事代主)に分裂(第1次分裂)
・卑弥呼の息子天忍穂耳(もしくは瓊々杵)のクーデター、九州王朝交代
(第2次王朝)
・近畿の長髄彦による饒速日の擁立(第2次分裂、畿内王朝)
・九州王朝で台与(豊受媛=神功皇后)共立
・九州王朝による出雲王朝・畿内王朝の併呑
・九州王朝の畿内への東遷
などです。もしかして電波ですか?
517 :
日本@名無史さん:04/12/06 14:36:01
結論だけでは電波かどうか不明。
518 :
日本@名無史さん:04/12/06 21:20:19
>516
だいぶ 南方ボケに偏ってるぞ
先ずは、魏志倭人伝の原文を全文読んでみな
>516
ほとんど正解ですが 残念なことに卑弥呼=尼照ではありません
そもそもアマテルは男ですから
520 :
516:04/12/07 01:00:59
>>517>>518>>519乙です。
>>518 南方系の血なので身贔屓なんですよm(__)m
>>519 ここでの天照は現「天照」です。太陽神がこれ以外にもあるのは知っています。
あと書き損ねましたが台与=豊受媛=神功皇后=豊玉媛だと思っています。
また当時の世界観として
・北九州=小国家連合的共同体
・中九州以南=南方的国家群
・西瀬戸内=息長氏の王国(現山口、島根、広島西部、愛媛、福岡東部)
・吉備=広島東部、岡山、兵庫南部、香川
・東瀬戸内=海部氏の王国(現徳島、高知、和歌山)
・高志国=採鉄民族の王国(鳥取、兵庫北部、京都北部、福井)
・鳥見国=畿内
・尾張氏の国=三重、岐阜、愛知
こんな感じです。ご意見拝聴いたします。
三国志では台与ではなく一与です
上古音は詳しくないけど どう考えてもトヨにはならない希ガス
522 :
516:04/12/07 04:20:42
>>521 >台与ではなく一与です
臺與と壹與ですね、私としてはどちらでも良いのですが・・・
まあ気にする人には大問題なのでしょうけど
間を取ってチヨは如何ですか?
ご批判覚悟で歴朝対応表など(基本軸は神功皇后=豊玉媛です)
10 崇神 須佐之男
11 垂仁 大国主
12 景行 事代主
13 成務 瓊々杵(倭建命)
14 仲哀(倭建命の子) 火遠理
神功皇后 豊玉媛(豊受媛)
15 応神 葺不合
16 仁徳 神武
523 :
日本@名無史さん:04/12/07 20:38:31
どうも歴史上の人物と神話上の人物をこじつけるという手法は気に入らないね
それをやるから、邪馬台国論争、所在地論争までが混迷する
歴史上の人物と考古学上の発見物とのすり合わせはやるべきだが
神話、神話上の人物をごちゃまぜにするから、議論がおかしくなる
あくまで記紀は、天皇家のPRを目的としたものだから誇張が多い
歴史論争には本来なじまないものだろう
524 :
日本@名無史さん:04/12/07 23:39:18
有名人(神)同士をデタラメに「=」で結んで、
結論が出たかのようなしたり顔のマヌケがいるな。
大国主命=大黒様みたいなコジ付けは
教養の無い庶民の妄想の賜物。
525 :
日本@名無史さん:04/12/08 20:50:50
大国主が出たついでだが、因幡の白兎伝説でガマの穂の粉を兎を治療した
という話が出るが、ガマは南方系の草で、寒い山陰地方の島根に
ガマは自生しているのか?長年、この件に疑問を持っていた
かしこい人がいたら、おせーて。
この和邇は八十神の部族のひとつの名前であり古来、
和は環、輪であり中国語からきている観念である。
また、京都にも和爾という家名があるのだ。
佐賀県のワニツ(和珥津)というのもワニ(和邇)に近いようにも思える。
それは佐賀県東松浦郡湊町神集島(かしわじま)のワニウラ(鰐浦)である。
ここは古来より唐などに渡る船が風待ちをしていたところでもある
のだから、和邇は宗像系の海洋民族に間違いないであろう。
しかし、渡船に乗って来て、なぜ渡った所で海水のミソギをしなければならなかったのか、
そして真水でミソギをしたほうがよいとしたのか。
それはその近くの神社に参拝するために必要なミソギであったというのだろうか、
何のためにそういう話にしてしまったのか?
それはウサギ姫と船頭との間に渡船に関するトラブル
(渡船時間の遅延)でゴタゴタ(到着日時の約束を破った)
があったとする説がある。
無賃乗船だということが解かりその罰として船賃がわりに脱がされ
犯されて泣いていた、そこに八十神が来て海水で何度もミソギを
したら、けがれが取れるというのでやったら寒かったし皆の前で
何度もしなければいけないので恥ずかしかった、そこにオオクニヌシ
がやってきて、あそこの陰で真水で隠れてやればよい、としたのかもしれない
>>526 何と読むのか知らないけど「持衰」というのが一人、
倭人の航海する船には乗せられていたと言います。
航海中は髪をとかさず、蚤や虱をとらず、服を垢で汚したままにし・・・・・という、
ある種の禁忌で過ごさせるスケープゴートの様なもんでしょうか。
災難が起きると身代わりに殺しても良いような奴婢階級の者でしょうから、
衣服も着せず甲板に繋がれていたかも知れません。
だとすると航海が終る頃には、日に焼かれて赤膚剥きの状態でしょうね。
嵐に遭ったりなどトラブルが起ると殺されますが、船が無事目的地に着くと
褒美でも貰って開放されたりしたかも知れません。
終了後にミソギという儀式をしたのか、あるいは治療の為か解りませんけど、
そんな持衰を助けた者がいたという事じゃないでしょうか。
ウサギがワニを騙したという話しに付いては、もうすぐ着くという所で嵐に遭うとか難破とか、そんなトラブルが起って持衰が責められたという話かも知れませんね。
528 :
日本@名無史さん:04/12/09 20:24:14
因幡の白兎伝説に似たような伝承はインドネシアなどの南方系の
国に見られるそうですが、そもそも大国主が現在の出雲大社と本当に
関係があるのか?元出雲の熊野神社は広島県だし、京都府の綾部だったか、
元出雲の神社もある 現在の出雲大社と大国主の関係はそうとう後世に
こじつけたものではないか?という疑いを持っている
島根県ではガマは自生しないはず ガマはもっと南の温暖な地での植物のはず。
529 :
日本@名無史さん:04/12/09 22:18:35
>>528 島根県ではガマは自生しないはず
「はず」の根拠は?
福島県出身ですが、ガマの穂で遊びましたよ。
530 :
日本@名無史さん:04/12/10 00:55:42
ガマの異名、佐保姫はなんでなの?
531 :
プラム:04/12/10 07:26:34
魏誌倭人伝を改めて読んでみると 大変親切に解りやすく書いてあるように思えるんですが 間違った考えでしょうか?
532 :
プラム:04/12/10 07:55:26
当時魏の使節団が耶馬台国に来たということは きちんとした方角はつかんでいたはず 方位の修正は行ってはいけない これは最低条件だよね
もまいらー!
島根は東京と気温は変わんないんだぞ。天気予報みてみ。
ガマも生えてるぞー!
_| ̄|○<福島より寒いと思われてるのか・・・。
534 :
プラム:04/12/10 12:41:47
あれ?皆さん耶馬台国見つかったんですか?検証してるようですが
535 :
日本@名無史さん:04/12/10 12:53:13
つーか普通に九州でしょ。
なんでこんなことを議論してるのか
わからねー。ようは南へ水行10日陸行1月
っていう記述だと九州にはあてはまらないという
ことからこんなに議論が長引いてるんでしょ。
その記述は邪馬台国へいたる全日程のことだよ。
それなのに南は東だとかわけのわからないこと
言う奴多すぎw
536 :
プラム:04/12/10 14:00:19
その解釈に異義なーし
537 :
ブラム:04/12/10 14:20:02
と、いうことで。
距離については1キロは約7里 方角は東の場合 東北東〜東南東の範囲 文中の(余)とは誤差が出たときの修正値 と解釈してもいいですか?
538 :
日本@名無史さん:04/12/10 18:37:41
邪馬台国の大きさを誰もわからんから、好き勝手言えるぞ。
各国の道中の行程を考えなければ距離や方角なんてどうとでもとれるし。
邪馬台国は7万戸あるんだから、
北九州から近畿の大部分を占めているかもしれん。
水行10日陸行一月で、邪馬台国の端っこ(仮に九州)に余裕で着くだろ。
539 :
プラム:04/12/10 20:59:09
国の大きさなんてどうでもいいんじゃないかな!だいいち倭人伝では触れていないぜ この時代に一番発達していたのは、方位と、距離感じゃなかったのかな 現代にちかずくほど地図にたよって方向音痴になってきと思う
540 :
日本@名無史さん:04/12/10 21:34:19
時代遅れだなあ。方位やら距離なんて、なんとでもなるんだって。
キーポイントは奴国の位置と大きささ♪
541 :
プラム:04/12/10 21:52:42
時はB世紀、 時代遅れだよ でも、B世紀でも21世紀でも太陽は東から上り西に沈むと思うよ!ましてやナビの無い時代に方角認識は再重要感覚だ すべて現代感覚で考えては真実なんて見えない
542 :
日本@名無史さん:04/12/10 22:46:26
まず「太陽は東から昇る」という考え方から間違ってるな。
543 :
プラム:04/12/10 23:35:44
わぉー ナンカ右ストレートもらったような新しい衝撃だ 折れがいつも朝見ていたのは太陽じゃなかったんだ? あっ!そうか あれが地球だったんだー
544 :
日本@名無史さん:04/12/11 01:09:29
魏志には「南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國」と
書いてありますが、実際は「南」でなく「東南」です。
ですから、魏志に書いてある「東南」は「東」に
「東」は「北東」に修正する必要があるのです。
「邪馬台国はどこですか。」
この疑問にずばり答えよう!
「邪馬台国は、その論者の地元にある。」
限りなく南にちかい南東だろう。南南東ともいう。
対馬に着いたら陸なりに対馬にそうわけでなく、対馬の北端から壱岐へ
小島の位置をさぐりなら海路のみを行くだろうからさらに真南に近くなる
547 :
542:04/12/11 07:07:34
ほんとにどうしようもないなあ。
太陽が東から昇るのは年に二日だけでしょ。。。
548 :
プラム:04/12/11 07:22:23
それはあくまで真東ということだろう。あの当時の東は、東北東〜東南東を越えない範囲内のことだとおもう あの当時でも八分割位の考えはあったはず 現代感覚で見たらアヤマチ広げるだけ
549 :
プラム:04/12/11 07:52:04
耶馬台国へのルートの中で一番難解な所は、どの部分だろう。 俺は、対馬⇒壱岐島⇒松浦という今までの定説になっている所だと思うけどどうだろう。
550 :
542:04/12/11 13:16:04
まず季節を考えないと。
倭人伝の渡海の季節は初夏。だから544の言うように南がずれてるのさ。
冬は?というなら、冬の玄界灘を渡ってみるといい。
秋の台風の季節でもいいよ!
初夏だろうと秋だろうと南は南だ
九州をなめてんのかぁ〜!
552 :
日本@名無史さん:04/12/11 14:40:34
確かに季節的なことは550の設定で間違いないと思う。ところで、九州の何処に最初上陸したんだろうか?
553 :
日本@名無史さん:04/12/11 14:48:50
佐賀県の唐津市辺りじゃないの。
554 :
プラム:04/12/11 15:17:20
ん〜? あの時代唐津市付近はまだ海じゃなかったかなー。上陸した使節団は東え東えと行動したんだよね すると、しばらくしてからはずーと左に壱岐の島を見ながら進んだことになる 船でここまでくればよかったのに(使節団の愚痴)
555 :
プラム:04/12/11 15:31:34
やはり上陸地点は、船で日中いっぱいで行けるできるだけ東の地点というのが最も理にかなった考えじゃないのかな!
556 :
542:04/12/11 16:39:31
上陸して日本海側を東へと考えるからおかしくなるのさ。
目的地を有明海側とすれば、船より陸行の方が速い。
唐津出身の俺が答えよう
3世紀頃には唐津は海ではない
もちろん松浦川と町田川の合流する河口部分に当たる唐津は海岸線が今よりも奥まであったであろうが
稲作発祥の地で有名な菜畑は縄文後期の遺跡だが現在でも海から1kmくらいで決して山の中ではなく平地だ
ついでに言えば唐津から壱岐が見えるなどとは異国の人が地図からかってにする妄想です
見えるのは高島と鳥島、場所によっては神集島くらいのものです
晴れた日に山の上にのぼり双眼鏡を使えば見えるかも知れませんが地形的に見えないのです
見えるとすれば呼子や湊など半島がじゃましない場所ですがそれでも40kmもの遠くは普通かすんでるし視力がよくないと無理でしょう
558 :
プラム:04/12/11 17:23:52
確かに唐津に住んでいる人のほうがその辺の状況は詳しいはず!でも、チョット待って。唐津から壱岐の島が見えたなんて書いてないよ もっと東へ行ってからの話 それに、現代感覚で考えてはいけはいのはお約束ごとじゃないのかなー あと、有明海行きは論外だ
559 :
プラム:04/12/11 17:51:47
対馬からは、ずっと方角指定があるのにどうゆう訳か 壱岐の島⇒末盧国には方角指定がないんだよ!末盧=松浦半島付近なら《又南に一海を…》になるんじゃない だから南側には絶対に行ってないと思う
560 :
542:04/12/11 18:04:57
論外か。方角云々といってる人間の言葉とは思えないなあ。
唐津より東と言ってる時点で、方角論は既に崩壊してきたけど。
残念。
ちなみに有明海側に進んでも、邪馬台国は九州・畿内説ともに可能。
561 :
日本@名無史さん:04/12/11 18:31:46
>>546 「対馬の北端から壱岐へ」
なんて、なんとも都合の良い解釈してますが
普通でしたら、対馬の出航地点から進んだ
方向と考えるべきでしょう。
仮に出航地点が現在の対馬市付近からだと
すれば、壱岐は間違いなく東南方向にあります。
562 :
プラム:04/12/11 18:48:11
倭人伝を読むうえで絶対にしてはいけないことは本文に修正を加えることだと思うが いかがですか?修正を加えた時点でこの論争に横槍入れるのと同じだから
>>562 絶対なんてこったないだろう。
『當在會稽東冶之東』『侏儒國在其南人長三四尺』なんてのは、明らかに現実離れしてるし、
末羅>伊都の方位記載は、殆んどの説は向きを変えてる。伊都国王の名前が記載されてない等欠落情報も多い。
何らかの補正・補筆をしなければ、当時の現況を読み出すことはできない。
それには、魏志の成立や伝世について、慎重な検証が必要なことは言うまでもない。
厨房工房レベルの知識じゃ話にならないと思う。
564 :
プラム:04/12/11 19:50:51
確かに専門的知識は乏しいかもしれない。だからこそ、より真実が見えてくることもあるんじゃないかな倭人伝に修正を加えるとキリが無くなり 最終的に自分に対してのご都合修正ばかりになってしまう
565 :
プラム:04/12/11 20:05:35
よって、本文に出来るかぎり忠実に進んでいくことが望ましいと思うが。倭人伝を信じて卑弥呼の住所探しているんだから その文献に修正(疑い)など加えてはいけないとしたい。辿り着けなければその時そこですぐ撤退すればいい
566 :
プラム:04/12/11 20:16:33
補正、補筆も確かに必要かと思うが、方角でいえば(南)は、南南東〜南南西の間とか距離を現代の感覚に直す(俺の場合 1Km=約7里と、している)程度ではないだろうか?
567 :
542:04/12/11 21:08:26
前の文章書いている間にレスが入ってしまったか。誤爆に近いなあ。
ところで方角が書いて無いから南は絶対違うという考えは、
かなり強引と思うが。
あと一里は70〜100mってところが妥当とみている。
>しばらくしてからはずーと左に壱岐の島を見ながら進んだことになる
>もっと東へ行ってからの話 それに、現代感覚で考えてはいけはいのはお約束ごとじゃないのかな
現地を知らん奴め 実際に行って確かめてこい
間違えても近所で人に「今日は壱岐が見えますかね?」などど聞くなよ
変な人と思われるからな
>>564 倭人伝を信じて邪馬台国を目指すと海の中さ。
だから、キミも早く撤退しなさいな・・・
570 :
プラム:04/12/11 21:49:46
542さん。絶対と言う表現を使ったのは自分でも良くないことと解ってました でも、そうしないと自分の考えの中でも迷ってしまうときがあるので(専門知識の欠落)あえて自分に叱咤のつもりで使っています。 そのくらい倭人伝は難しい
571 :
プラム:04/12/11 21:57:03
569さん どうして海の中に行ってしまうのですか?
「辿り着けない」ことへの比喩だよ。
ま、倭人伝の路程を記載どおりに現在の地図に落としてもそうなるけどね。
573 :
542:04/12/11 22:36:48
倭人伝は別に難しいわけじゃない。詳細が無いから自由度が広いだけ。
南を東へと修正を加えなくても畿内まで行けるくらいにね。
574 :
プラム:04/12/11 22:41:13
そうかなー? ところでどの辺まで辿り着けるのですか?
575 :
542:04/12/11 23:17:27
個人的には、投馬国へは陸行の日程が書いてないから、
「陸行の手段が無い→九州に無い可能性が高い」とみるが、
書いてないものは自由になんとでも言えるし他の説を否定もできない。
プラム君、キミとまったく同じ姿勢で邪馬台国探しした本が20年以上前にあるんだよ。
高木彬光の「邪馬台国の秘密」って本なんだけどさ。
そこでヒントをひとつあげよう。
倭人伝には一支(一大)国から末盧国までの距離は明記してあるが、方向は書いていないのさ。
さあ思う存分妄想の翼を広げておくれw
577 :
プラム:04/12/12 00:04:52
576さん それは本当ですか?廃刊になってなければ本屋で探してみます。そのヒントはスレでも書いたように一番始めに出くわした難関でした あと、距離設定は野津清さん執筆の本から1Km=7里を使ってます(自分では無理だから)
578 :
プラム:04/12/12 00:16:39
この難解な謎解きのヒントは 元冠と秀吉の朝鮮出兵だと思っています。なぜ博多湾付近に上陸して松浦半島から出兵したのか?これを元に今、旅の途中です。
579 :
プラム:04/12/12 00:49:37
最初の難関九州上陸ですが?余り地名を利用したくないけど、玄界灘が(限界灘)の気がして風と潮の流れを利用して大島辺りまで船を運びました。その先は危険イッパイ響灘 後は港探し
プラム君は真面目そうな人なのでもうひとつヒント。
1Km=7里というのは短里説といって九州説がよく使うやり方なのだが
当時の魏では1里が40kmくらいなの。これを長里説というわけだ。
短里説を採用するならば何故倭人伝や韓伝にだけ適用して
西域伝や匈奴には長里を使っているかをまず説明しなければいけない。
ちょっと意地悪なヒントだけど参考にしてくれ。
581 :
日本@名無史さん:04/12/12 01:00:17
>>580 そんなの当たり前。
後世、度量衡の読み替えに錯綜があったからに決まっているでしょう。
魏では1里=6〜7kmですからね、念のため。40kmじゃありません。
>>581 悪い悪い里数を勘違いしてた。
>魏では1里=6〜7kmですからね
あなたの方が正しい、スマソ
しかしその時点でいわゆる読み替えをしないとだめだってことを言いたかったの。
だから倭人伝の記事をそのまま読んでも邪馬台国に到着しないってことになるでしょ。
583 :
プラム:04/12/12 01:22:20
580さん、それは知りませんでした。ただ使節団が島の調査をしたとき「方四百、方三百里」が気になり自分なりに検討し(最後までまとまらず)考えの似ている野津説を採用しました。
584 :
プラム:04/12/12 01:34:01
読み替えしなければならない倭人伝…? 倭人伝そのものを疑わなければならなくなりますね 「それは話の拡張だ」などといってられない問題です。私はとりあえず修正せずに先に進みます。
585 :
プラム:04/12/12 01:52:15
とりあえず今、宗像市ふきんの港に上陸して方角と距離(野津説利用)にしたがい大分県宇佐市手前まで来ました。(自分なりに不弥国)まできました。580さん。自説でここまでは来てみました
586 :
プラム:04/12/12 02:20:45
実はもう耶馬台国は見つけてしまったも同然なんだ本当に難しいのは卑弥呼のいる役所《館》を捜す作業 倭人伝を読んでるときすぐに感ずいた。《女王卑弥呼》この文字だけで耶馬台国は解るよ
だぁらあ倭人伝を原文どおりに読めよ
邪馬台国ではなく一つの例外もなく邪馬壱国だろ
588 :
日本@名無史さん:04/12/12 09:13:07
重箱の角攻撃がハジマッタナー ここでは全体の流れを変えないとか大きな修正しないとゆうことじゃないか 587は消防か?理論には理論でが大人じゃない
倭人伝は勝手に読み替えするな!
590 :
日本@名無史さん:04/12/12 10:11:36
耶馬壱国を耶馬台国やディズニーランドにしたところでなんら本文には影響ないだろう
591 :
プラム:04/12/12 11:52:13
耶馬台(壱)国研究の重要部分に、使節団はどうしてこのコースを選択したのか?と、いう疑問が浮かび上がってくるがどうだろうか?そこに、この論争を終結させるヒントが隠れているようなきがする。妄想だろうか?
592 :
プラム:04/12/12 12:04:24
こうゆう設定の元に始めた研究だから、倭人伝の本文に私的な修正や補正を出来るだけ避けてきました。
帯方郡から倭の北端まで7千里
対馬まで千里、壱岐まで千里。邪馬台国まで1万二千余里
帯方郡から邪馬台国までが1万二千だ
つまりマツロから5千里くらいだということになる
まちがえた。狗邪韓国から5千だ
倭人伝の本文に私的な修正や補正をするな
南は東じゃないせめて南東までだ
勝手に距離を変えるな
>>596 倭人伝の記述は、100%正しい訳じゃない。ほとんどの研究者の共通認識だ。
このことを認めないで論証しようとするのは勝手だが、邪馬台国の比定論に限れば、
補筆・補正を要すると認める立場との意見交換は不可能だ。
互いに無駄なレスの応酬は控えよう。
全体と部分の双方をにらみながら、倭人伝を読めばよろし。
極端に走ることや、読み替えの多用はしない。
599 :
日本@名無史さん:04/12/12 21:27:02
邪馬台国の女王の卑弥呼が魏の国に贈った倭錦の生産地をほぼ特定
今度、調査に行ってくるわ 場所はまだヒ・ミ・ツ
600 :
プラム:04/12/12 23:24:49
万人が認めた到達地点、それが確定してからの修正は一考に構わないと思うけどまだ皆がバラバラならば、補正や修正はなるべく避けたほうがいいと思いますが。どうしても自己有利に修正しちゃうでしょ 修正と誤差は違いますよ!
たいほう郡ソウル辺りから半島の南端くらいまでが7千里とかいてあるんだ。
そこから邪馬台国までの距離が5千を大きく超えたりすることはゆるされない
>>587 > だぁらあ倭人伝を原文どおりに読めよ
残念ながら「原文」は残っていない。というか発見されていない。
> 邪馬台国ではなく一つの例外もなく邪馬壱国だろ
「はるかに後世の刊本」に誤刻があったのをそのまま踏襲しているだけ。
全ページ誤刻の確率はほとんどない
604 :
日本@名無史さん:04/12/12 23:52:24
>>597 そこでやっと振り出しに戻る。
今はなき(?)「通りすがり」さんがスレタイを 「魏志倭人伝」等を読む としたのは、
ともかく「魏志倭人伝(等)」を読んで、どう書いてあるか辿ってみよう、という趣旨。
605 :
プラム:04/12/12 23:52:26
耶馬台国でも耶馬壱国でも変わりないとおもうけど!
>>603 > 全ページ誤刻の確率はほとんどない
? 意味不明。
「うっかり間違えて違う活字を拾った」のと混同していませんか?
「取り違えて間違えて彫った文字」なら、むしろ、「他でもすべて取り違えて間
違えて彫る」ほうが確率が高いのでは? 少なくとも、その可能性はあるといえ
るでしょう。
607 :
↑誤解:04/12/13 00:01:37
邪馬壱国 が出てくる全ページですべて
邪馬台国 と誤刻する確率はほとんどない
608 :
プラム:04/12/13 00:15:28
確かに606さんの考えかたは否定出来ないと思う。ただその誤記を探し出すことは卑弥呼の統治する国を見つけることより難しいと思う もうその文献の制作チームは生存しないから 確かめることが出来ない
609 :
日本@名無史さん:04/12/13 00:40:17
つまり、日本史は朝鮮の一地方史っていうことですね。
>600
邪馬台国の所在が確定したら修正してもかまわない?
確定前なら修正してはならない?
また、奇異なことを・・・・ 路程原理主義者かな?
例えば、畿内説の代表的考えで説明すると
邪馬台国は古墳文化の中心である畿内大和>倭人伝の路程は南を東に変更すると辻褄が合う。
この考え方は必然。
貴方の考えは、倭人伝の記述を立て読み、斜め読みをしていろんなルートを試し、適当な目的地に辿り着く。
そこが、邪馬台国ならメデタシメデタシ。違ったら振り出しに戻るってことだ。
まあ、方法論の違いなんだろうが・・・なんだかなあ。
薄葬だった邪馬台国は
古墳文化の中心である畿内大和だけは除外して考えるべきだな
613 :
プラム:04/12/13 01:16:26
しょうがないなー 耶馬台国がみつかっちゃったら倭人伝もそれに合うように、修正しなければならないでしょう。まだ理解出来ませんか?
614 :
日本@名無史さん:04/12/13 01:17:27
プラム氏の早期発見に期待!!
615 :
プラム:04/12/13 01:26:36
611さん。1+1=3という式があります。=3が確定したらやはり1+1を2+1などに修正しなければいけないでしょう 違いますか まだ場所の確定はしてないはすですよ!
>畿内説の代表的考えで説明すると
> 邪馬台国は古墳文化の中心である畿内大和>倭人伝の路程は南を東に変更すると辻褄が合う。
つじつまがあわない。
たいほう郡から女王国まで一万ニ千。韓国南端まで七千里と決定してるんだ。
残り五千だが、対馬壱岐での海路で二千里をつかっている。
邪馬台国まで残り三千里しかないことになる。
韓国から邪馬台国までの距離が帯法郡から韓国南までの里数をこえてはいけない。
青春出版社(青春BEST文庫)「卑弥呼の鏡(謎と真実)」
大塚監修,坂爪著 500円
一部に誤りがあるが,とりあえず読んでみ
>邪馬台国は古墳文化の中心である畿内大和
>倭人伝の路程は南を東に変更すると辻褄が合う。
>この考え方は必然。
また馬鹿な奴が出てきたな
それなら邪馬台国北海道説の俺は南を北東とよむ 水行10日陸行1ケ月によく合う まだ発掘がされてないから遺跡がナイだけだ
この考え方は必然。
なぁ 自分の比定地にするために読み替えれば何でも有りだよ
619 :
日本@名無史さん:04/12/13 03:56:58
「台」というのは旧字のほうと発音が違って、dO のような発音
なので、乙類の「ど」を表している。「タイ」などというのは、
現代の発音であって、古代には通用しない。
邪馬台は、YaMaDO であり、文字で書けば「山処」を意味すると
考えられる。山門を表すならば、他の文字の使用例からして
「邪馬都」だろうね。
邪馬壱で、邪はぢつは「じゃ」とよむんじゃ。
ジャマイ国。つまりジャマイカ。邪馬台国はジャマイカにあり
621 :
プラム:04/12/13 07:27:51
620さん。ジャマイカですか?するどいとこをついてきましたね!それならJRA美浦トレーニングか栗東トレセンのが有力じゃないですか 耶(馬)台国 馬の国ですよ
622 :
プラム:04/12/13 09:51:22
ま、このへんで珈琲タイムは終了とゆうことで。本題に入りますか!
623 :
プラム:04/12/13 10:10:47
いつまでもお互いの仮定を述べ合っても平行線のままだと思うので 論争の主題を絞って討論したいと思っています。 ダメですかねー
主題は唯一無二のものがいいでしょう。だから、
漢籍に出てくる
金印 と 阿蘇山
から邪馬壱国(邪馬台国・人妥国)を考えるのはいかが?
625 :
プラム:04/12/13 12:28:26
関西畿内説や九州説を主張する人達も大多数のかたが 壱岐の島⇒九州上陸のコースをとっている そうすると両方ともここまでは共通している もう一度九州を検証したいと考えてます。
626 :
プラム:04/12/13 12:34:53
関西畿内説を主張する方々も 九州説に一縷の望みもなくなってから先に進まれても遅くはないと思われますがどうでしょう。水行10日 陸行一月がキーワードなのでしょうけど
627 :
日本@名無史さん:04/12/13 13:11:14
>>620 ジャマイカではな〜い!
邪馬はジャバと読む。
インドネシアのジャバ(Java)島と同じ。
最初タイやチベット・雲南あたりにいた南アジア系の民族が
アジアを北上して作ったのが邪馬台国。
南下して作ったのがJava大国。
両方ジャバ大国(たいこく)またはジャバ帝国と読む。
628 :
日本@名無史さん:04/12/13 14:20:52
水行里は信用できない。小人の国から東南へ一年でまた国があるというが、
一年もわたったらアメリカ大陸だ。水行 20日もいけば太平洋についてしまう。
肝心なのは、帯方郡から半島の南端まで7千里という感覚で、帯方郡から邪馬台国まで
一万二千余里、つまり海をわたって、邪馬台国までが5千里という計算。
そして邪馬台国を考察してみれば、5千里あまりのおおきさだというところ。
これは円周ではなく直径だろう、つまり韓国から邪馬台国までの距離と、九州の直径がほぼ同じなら
これにあてはまることになる
おそらく大陸の一里40キロという感覚があったから
何千里もの距離を数日でいくには不可能と判断して、日数をかってに変えたんだろう。
595 名前:日本@名無史さん 投稿日:2001/06/22(金) 19:19
中国4千年の歴史を馬鹿にするよくないあるよ。
春秋戦国時代を経て私達は戦争のために地理計測は世界中で一番進んだ技術を持っていたあるよ。
だから韓半島の地理も戦略的にすごく重要で正しい地図も持っていたあるよ。
「韓国は方四千里」と言うのも韓半島横断300kmに対応して1里75mで全く正確だし、
帯方郡から狗邪韓国まで七千里も全く1里75,6mでピッタリするあるよ。
本当に測量したみたいあるね。
632 :
プラム:04/12/13 16:24:22
576さん。まだ本が見つかりません こんどは古本屋を、探してみます。
633 :
プラム:04/12/13 18:23:18
631さんの距離設定は「吉田説」ですね!斜方形の概念には弱い説ですね 距離の設定にはそれぞれの研究がありますので頭が下がります。
634 :
プラム:04/12/13 18:40:52
陸上では容易に計れた距離も、海上では困難を極めたでしょうね!いったいどのように? 帆船の場合直進しようとしても風向によりジグザグ操行が普通現象
韓国から対馬は対岸が見える。小島もおおい。慣れれば道を間違うことのほうがすくない
636 :
プラム:04/12/13 19:14:06
だから水行の距離も親切に実測値より三割程度は多めに書いてあるんじゃないかな 記録は千里でも地図上では700〜800里程度じゃないかな!これは改正ではないはず
637 :
日本@名無史さん:04/12/13 21:26:50
一月は一日と同じ
中国は方向を45度間違う癖がある
南は東と錯覚するのはよくあることだ
壱は勝手に台と読め
でも俺の説に合うところだけは正解だ
魏志倭人伝じゃ,結局なにも分からないよ
ということはわかったのか?
>629
「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」
と有るように倭全土を巡り巡って五千餘五千だ。
となれば、邪馬壹はもっと小さいはず。
ここで言う「倭地」に對馬、一大や狗奴は含まないとしても
邪馬壹だけで五千里と言うような結論は倭人伝の中からは出てこない。
円周を測るっていうのは現代的だ。その時代に円周をもとめる意味も理由も無い。
「まわりめぐってみて、倭の大きさは5千里ほど」ということだ。
>>641 中国にそういう計測法があるんだから仕方がないだろう。
>>634 半島と日本の間の航海なら「海流」のほうが難敵のはず。
「風向」は、「逆風では押し戻されるだけ」では?
>>634 > 陸上では容易に計れた距離も、海上では困難を極めたでしょうね
というか、「測量をしに行ったわけでもないのだから測定などしていない」はず。
「大体の見当」でしかありえないと考えたほうが事実に近いはず。
中国使節側が踏破できなかった部分が「距離=所要時間表現」部分だということだ。
地に足がついてない教典ならぬ魏志倭人伝を振り回す妄想野郎の多いこと多いこと
マルチポストはやめましょう
650 :
日本@名無史さん:04/12/14 09:59:41
壱と台にこだわってる奴って、倭人伝が一冊しかないと思ってんのかね?
651 :
日本@名無史さん:04/12/14 10:18:55
三国志魏書東夷伝倭人は一冊しかないよ
もちろん原本はないから写本しかないけどコレは複数あるけどね
でも写本もすべて壱だけどね
台は後漢書とか後世の資料で初めて出てきたはずだが・・・・・・・
652 :
日本@名無史さん:04/12/14 10:25:16
光武帝から金印をもらったのは「倭奴国」であって「奴国」ではない。
印綬に「漢」の「倭」の「奴」国王という三段読みの実例は皆無であるうえ、
当時の「二段国名」の実例じたいが
「不耐?」「武都?」「狗邪韓」「閔越」など、首都国+民族名の形である。
これらの実例から、もし「奴」国が金印をもらったとしたら、
漢 奴 倭 国 王
でなければならない。しかし実際は 漢倭奴国王の並びとなっている。
したがって、これは「倭奴国」という国名であると解釈するべきだ。
653 :
プラム:04/12/14 10:30:44
645さん。アゲンストの場合船体を大きく横向きにするこで、ジグザグに前に進ませるんじゃなかったかな?
654 :
プラム:04/12/14 10:38:03
646さん。使節団じたいは測量はしないでしょう。その前に先見隊を出して十分調査をしてから使節団を送り出すのではないですか。その時先見隊の数名を水先案内任として同乗させるとベストかと!
655 :
日本@名無史さん:04/12/14 14:57:37
>652
誰だか「倭奴」は、「伊都(いと)」だと言っていたが
上古音で「倭奴」を「いと」とは読めないんじゃないか。
漢委奴国王
>>655 音韻は未確定領域だし、政治的原則の方が優先度は高いと思われる。
二重統治なら倭国にも印綬を出さないといけないし、それが発行された記録かか或いは現物が発見されない限り
難しいと思うよ。でないと、なぜ倭の奴国だけに特別にそんな特別なものを出したのかについての明確な論証が必
要。「倭」が地域名というならそれを印綬に書く必要もないし。
658 :
プラム:04/12/14 19:18:12
耶馬台国を探すうえで大切な要素として 台国の隣接国の文章もかなり重要性を占めると思われるが、いかに? 対馬国〜不弥国までなぜ、事細かに文章にしたか? 関西畿内説なら、なぜ途中の国々の様子を書き表さないのか? たぶん北九州かな
659 :
日本@名無史さん:04/12/14 20:19:19
金印の陰影の並びは
国委漢
王奴漢
右の漢の2文字は縦長の1文字
委は委の委であって倭ではない 勝手に捏造するなよ
貿易実務を奴国に委任するという意味であって、倭国とは関係ない
こういう意図的な誤訳、捏造が多いのが邪馬台国論争の特徴だな
これでは混迷するわけだ
ぷ
ハンコって知ってる?
>貿易実務を奴国に委任するという意味であって
目的語がないな。漢文の勉強をもっとがんばりましょう。
662 :
日本@名無史さん:04/12/14 21:34:42
この金印は本当に大陸からのプレゼント? 誰がそんなこと決めたんだ。よけいなもの発見するからややこしくなるんだ!案外歴史好きの黒田藩主が自分の為に作ったかも
663 :
日本@名無史さん:04/12/14 21:35:52
阿蘇山も黒田藩主が捏造したのか?
664 :
日本@名無史さん:04/12/14 21:37:05
写本ではないが、太平御覧(10世紀)に載っている魏志倭人伝には
「邪馬台国」とある。一方で太平御覧には、「台与」を一と台で
混同している部分もある。
よって、この時代辺りで写し間違えた可能性がある。
665 :
日本@名無史さん:04/12/14 21:50:35
阿蘇山は無理だったみたい。でも、金印に関して捏造でないことを証明出来るかたがいますか?発見当時の藩主ならそのくらいのことたやすいだろう。国内で金印発見がまだ一例しかないのがひっかかるんだ!
666 :
日本@名無史さん:04/12/14 22:01:24
順序が逆だな。
高価な金で出来ているのだから、犯人が金印を捏造することで
どんな得したのか説明できることが最初の条件だろう。
667 :
日本@名無史さん:04/12/14 22:15:13
プラム氏
不彌国というか伊都国までしか詳細はないと思うんだけど。
では、不彌に何があるの?
里数が記載というのなら、人間の感覚で日数>>里数だし。
大抵の説でも、使者が伊都国までしか来てないためとか、
倭人伝が複数の資料の集合体だとか言っているしね。
あと仮に近畿だったとして、水行して途中に上陸したのが
投馬国だけなら、投馬国しか載ってなくて自然と思うけど。
668 :
日本@名無史さん:04/12/14 22:25:30
損得抜きで、理解しがたい行動するのが一般人と違う殿様。謀反の疑いをかけられず国王の文字を刻んだ印鑑を持つ方法
金の量は大したこと無いが、ばれたら即アボーンだし、そもそも現代の学者でもだませる
精巧さは、マニアックというレベルを遙かに超えるんだが?
670 :
プラム:04/12/14 22:42:53
確かに、方角、距離、戸数、官 副官 位しか記してないけど… 使節団が途中で帰ったならこんな論争は無意味。ところで畿内まで行く船は、どうやって調達したのかな?電話予約でもしたか?今から耶馬台国まで行くから船用意しろと 宝物奪われちゃうよ
671 :
日本@名無史さん:04/12/14 23:14:33
まあ狗奴国は邪馬台国に敵対する古いタイプの国で、
ゲリラとかで襲撃したりしたかもしれない。
でも、それ以外の倭国内って宝物奪う奴いたの?
倭人伝を読むととても思えないけど。一大率様もいるし。
外界渡れるくらいだ。船の調達くらい余裕でしょ。
魏の人は船の扱い方があやしいかもしれないが。
>>653 いわゆる「間切り」ですね。その時点で倭国で間違いなく使われてましたか?
673 :
プラム:04/12/14 23:25:43
帆船を所有していた人たちならそうゆう技術はあったはず
>>654 > その前に先見隊を出して十分調査をしてから使節団を送り出すのではないですか。
はるかに古代から行き来があったことは明白なのだから、改めて調査もなにもない
でしょう。
大陸からの使節がどこまで来たかは異論の余地はありますが、仮に本当に日本まで
来ていたとしても、半島西岸なら半島西岸、海峡なら海峡を熟知している者の案内
通りに進めば足りること。調査もなにもないはずです。
>>水先案内人
何度も半島と行き来したベテランがいたでしょうね。少なくとも、そういうベテラ
ンが全く存在しなかったり、使節団にタッチしなかったと考えるのは無理がありそう。
それにしても、「海上の距離を測定する」などということは、念頭にもなかったはず。
675 :
プラム:04/12/14 23:40:37
使節団は国王の代理ということを配慮して調査団をあえて入れてみました。ま、そこまでの念押しはいらないみたいですね
676 :
プラム:04/12/15 00:14:34
この辺で私の見解を。 耶馬台国までの日数は、帯方郡から水行10日 陸行一月の日程 距離は12000余里 そこに女王のいる国がある使節団は初夏にやって来て海の荒れる前に帰った 往路と復路では少しだけコースがちがう
>673
竜骨船の登場は、8世紀のヴァイキング以降でしょう。
678 :
希ガス人:04/12/15 00:51:39
種子島(鉄砲)が日本に伝来してから数十年のうちに、
日本は世界一の鉄砲保有国になったという記述を読んだことがあるが、
三角縁神獣鏡が魏で作られたものだとしてもそんなとこじゃないの?
ほんの僅かの「舶来」モノと、大多数の「国産」モノのような気がする。
たとえ、卑弥呼に下賜された鏡が三角縁神獣鏡だとしても、
畿内で多数発掘されたからと言って、
邪馬台国が存在していたことの証明にはならないじゃん。
しかしやはり、中国からは部分的に似たものはあっても、
同形式の鏡が出てこないんだから、全部国産で決まりじゃない?
成分が的に中国と類似したものがあると言ったって、
原材料の輸入なんて普通にあるでしょ?
だいたい、あのドテッとした質感は、中国の洗練された文化の香りがしないぜ。
そういう希ガス。。。
679 :
日本@名無史さん:04/12/15 01:03:40
「三国志」の著者・陳寿は、三国〜西晋時代の人で後漢末〜三国時
代という「三国志」の記述対象とほとんど同時代の人であり、また同書
よりも先立つ紀伝体の歴史書は「史記」「漢書」のみであった。特に「漢
書」巻末の張騫の遠征による西域記事と、「三国志」魏書巻末の「倭人
伝」記事の形式は対応するものである。
比べ「後漢書」の著者・范曄(はんよう)は宋代の人で、記述対象から大
きく離れた時代の人である。また、同書の倭人に関する記事は、彼が「
三国志」魏志倭人伝を読み、かつところどころ誤解して焼き直した部分
が多い。(もちろん独自の記事もあるが)
范曄は卑弥呼の国を「邪馬臺国」とした。これを古田氏以前は、「三国
志」の「邪馬壹国」を「邪馬台国」に「訂正」する最大の根拠としてきたわ
けである。しかし、范曄は、「三国志」の注をつけた裴松之(はい しょうし)
よりも年下でかつ彼よりも早く死んでいるのである。つまり、范曄が目に
することのできた史料は、裴松之も確実に目を通していたはずである。
よって「邪馬臺国」と書かれた「三国志」魏志倭人伝の「原文」などあり
得ないのである。
卑弥呼及び陳寿の時代のその国は「邪馬壹国」と称していたが、その
国が范曄の時代には「邪馬臺国」と称していた、と考えるのが妥当なの
である。
つまり「卑弥呼の邪馬壹国」は「倭の五王の邪馬臺国」(倭の五王は
宋代にあたる)となったのである。
実際当時既に中国ではでかい鏡なんて使ってなかったしな。
なんかでかい鏡を有り難がる風潮があって、銅鐸みたいに巨大化していっただけ
だと思うよ。卑弥呼自身はとびきり上等のをいくつか持っていただけのような気も
する。中国で日用品の鏡を有り難がる倭が後進国なら、そのコピーを大量に持っ
て自慢した地方はもっと田舎だろうw
681 :
日本@名無史さん:04/12/15 20:47:37
魏の国から邪馬台国の女王の卑弥呼に贈られた銅鏡は100枚だろ?
なんで古墳などから400枚以上も発見されている三角縁神獣鏡が
魏の国から贈られた銅鏡なのか?一説には1000枚以上にもなる
三角縁神獣鏡は邪馬台国・卑弥呼には関係ない鏡なのにコジツケル学者が
多いようだ 魏の国から贈られた鏡は非常に貴重でそんなに多くあるわけない
国内で模写した鏡だとかいい訳するやつが多いようだが、中国製と
認定されている三角縁神獣鏡だけでも100枚以上になるという説もある
682 :
日本@名無史さん:04/12/15 20:56:04
魏鏡が交尾して増殖したというのが中国製説
邪馬○国が九州でなく大和にあったんなら、魏志倭人伝に、大和国即ち邪馬台国とやらの
説明の中に帯中津彦命とそれ以前の天皇の記述が少ないとしてもだある筈ではないか。
伝にはそれが全くない。ということは、邪馬○国は(邪馬壱国という名で)大和にあっ
たのではなく九州にあったということを意味しているものだ。
684 :
日本@名無史さん:04/12/15 21:54:28
そのとおりだー
685 :
プラム:04/12/15 22:25:57
よくもそんな簡単に九州や関西に飛べちゃうね。だからどんな候補地が出ても軽くあしらわれてしまうんだ ちゃんとプロセス辿ってから各々の候補地示せばいいんだ
686 :
日本@名無史さん:04/12/15 23:22:46
(=゚ω゚)ノぃょぅ
687 :
にゃんちゅー ◆IcICQJaxBw :04/12/16 00:37:15
A A
(=^・^=)にゃぉう
∪ ∪
688 :
日本@名無史さん:04/12/16 00:39:52
淡路島に決まりました。
689 :
石原珍太郎:04/12/16 01:06:42
沖ノ鳥島に決定する
ちょっと論点ずれますけど、「魏志倭人伝」から生じた疑問ってことで。
文頭の「倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす。」から
・何故、昔の人は日本列島を「島」と認識できたのか?
・そもそも日本列島のことなのか?
という2つの疑問があります。
「島」の意味は、
四方を水で囲まれた比較的狭い陸地。
海を隔てている本土より狭い陸地、また河や湖の中にある狭い陸地。
とのです。
つまり、水(海)で囲まれていないと「島」とは言わないわけです。今は地図
や衛星写真などがあるので「島」であることはわかります。
しかし、昔は日本列島または九州島に到着しても「島」であるとはわからない
のではないかと思うんです。
実際ソウル行きの飛行機などから見下ろしても本州って結構デカくて端から端
まで見渡せる大きさではないですよね。
対馬や壱岐は船からでも「島」だということはわかると思うんですがね。
例えば、1カ月以内に1周できたら「島」だ、ってわけでも無いでしょうし。
なんか子供相談室に訊くような素朴な疑問なんですが、教えてほしいっス。
補足です。
上記は個人的な疑問です。
このあたりを専門に学んだ者でもなければ研究してる者でもありません。
ふと疑問に思ったものですから。
>>690-691 現地人に尋ねます。
あなたの国のずっと向こうはどうなっているのか、と。
現地人は答えます。
ずっと向こうは海です、陸はなくなって、船でずっと行けば、裸国や黒歯国があります、と。
693 :
日本@名無史さん:04/12/16 02:59:53
琵琶湖の湖底だったりするかも。
694 :
日本@名無史さん:04/12/16 03:07:17
>690
当時、船なり徒歩で日本を一周した人はいたでしょう。
695 :
日本@名無史さん:04/12/16 07:27:03
久しぶりに疑問らしい疑問に巡り会ったナー。自分もゆっくり考えてみよう 大事なことだよ
696 :
日本@名無史さん:04/12/16 10:39:08
そんなこと越の人々は縄文時代から知ってただろう。
そいつらと交易があったんだから邪馬台国人も知ってただろう。
697 :
プラム:04/12/16 13:18:44
使節団は松浦半島付近に上陸してない!
・・−・−−・−・−−・−・−・・−・・−・
699 :
にゃんちゅー ◆IcICQJaxBw :04/12/16 19:41:57
>697
根拠は?
700 :
日本@名無史さん:04/12/16 20:31:48
魏志倭人伝に邪馬台国の北に20国ほどあるって国名を
列挙してるけど、北九州説の人、北というと玄界灘だろう
玄界灘に20国も国があったのか?
大和説の人、20国が尾張あたりにあったといってるらしいけど
大和説の方位だと尾張の方角は南だろ?
なんで北になるんだ?おせーて。
701 :
プラム:04/12/16 21:09:52
699さん。使節団は上陸してから、たえず東の方へ移動していて、定説では博多あたりも陸行です。東松浦半島や唐津に上陸するなら博多辺りまで船を使った方が安全かつ早く、自然でしょう。対馬海流も東方向に流れています。ただ、上陸地は博多ではない
702 :
日本@名無史さん:04/12/16 21:38:25
たえず東ではありません まず東南です
そう唐津に上陸して松浦川に沿って東南にいくと多久から神崎方面
つまり吉野ヶ里あたりに着きます
それから背振山脈の南端をめぐって東進すれば筑後にでます
多分このへんは九州の中心なので交通や商業が栄えたくさんの国家があっったのでしょう
703 :
プラム:04/12/16 22:01:11
ここではあくまで定説を元に考えていますので!自分も熊本方向を辿ってみたけど 東側に海がなく本文にあわないため中止しました壱岐の島⇒松盧には方角指定がない 南なら尚更あってもいいのに
>魏志倭人伝に邪馬台国の北に20国ほどあるって国名を
>列挙してるけど
列挙してるのは南の国
705 :
日本@名無史さん:04/12/16 22:37:29
えー 北に20の国があるなんて書いてないよ 20程度の隣接国は書いてあるけど俺の勉強不足か?
┌─────────────────
│
┌───┘
│ 松浦
│ \東南500里
│ \
│ イト
│ 奴国ーブヤ国
│ ┌───┐
│ │ │
│ │ │
│ │ │
└──────────┘ │投馬国
│
│
│ヤマイ国
壱岐から松浦を千里とすれば、500里、100里、100里ほどで、ぴったし有明海にでる
708 :
プラム:04/12/16 23:11:06
畿内説がおとなしくなったら、こんどは有明海かー で、それからどうなるの?
709 :
日本@名無史さん:04/12/16 23:43:51
博多あたりから、有明海に首都を移転してると思うよ。
>>706の図はなかなかいい。
711 :
日本@名無史さん:04/12/17 00:56:49
■ 皇極天皇の詔
「東は遠江国、西は安芸国を限って宮室を造営する丁を徴発せよ」
日本書紀より引用抜粋・要約しました。皇極元年(641年)9月。
再放送見てたな
713 :
日本@名無史さん:04/12/17 01:31:47
約四百年先のこと話題に取り上げるな そして無理矢理こじつけるなよ
714 :
日本@名無史さん:04/12/17 01:58:00
なるほど7世紀になってすらその程度の支配力か
大和朝廷もたいしたことなかったんだな
6世紀にやっと九州王朝(本家)を磐井の乱とかいって皆殺しにして覇権を確率したくらいだから たぶんこれからと言う頃だな
715 :
日本@名無史さん:04/12/17 08:14:50
<雄略記>
前津屋の乱、田狭の乱etc
内容は派遣した部下が背きかけたり、これは反乱とかいうものか?姻戚関係も込み入っているし、圧倒的な
ら人の妻を寝取ることもいらないだろ。むしろ同規模の王同士の衝突で、すっきり勝利!ってことでは全然無
いけど。雄略が自治を認め、それが初代吉備王だというなら、それに反乱されるって馬鹿みたいだね。つうか
そもそも吉備の巨大古墳のは河内の同類より古いっていう可能性も出てきているし、もっと以前から王権が存
在したのは明らかではないか?争乱勝利後やっと雄略の優位が確立した程度で、その権力の解体なんてでき
なかったんだろう。ということは直接支配はやっとその手前の播磨ぐらいか。
<継体記>
社稷の存亡、是に在り。
長門より東をば朕制らむ。筑紫より西をば汝制れ。
鉄を横領した犯罪者だから斬られて当然というのが通説。
しかし、6世紀でさえ半島の鉄依存度が社稷の存亡の危機というのは、遙か以前でも九州の鉄の独占は
大したことは無いという畿内派の意見と矛盾する。
それに、現代の常識で犯罪とか、キティガイといっていいな、これは。
単に支配権が確立していなかった、もしくは無かったということだ。放置していたから地方の国造が増長し
たのに社稷の存亡でも無いだろうw しかも得たものは屯倉一つ(禿藁
このあたりマキムク先生のご意見キボンヌ
<皇極記>
東は遠江国、西は安芸国を限って宮室を造営する丁を徴発せよ
これもなあ。もう7世紀だというのに。九州は半島戦争への兵力だからというが、それも何かおかしくないか。
それこそ大中国が介入してきてくる社稷の存亡の危機なのに、安芸はいいのか?中国はおろか、近畿でさえ
大動員かけろよ、ふつー。
前方後円墳=ヤマトの支配権なんて、なんの裏付けもない俗説だろ、所詮。時代、被葬者、相互の関係etc、
なにもわかってないのに。そんなあいまいなもの前提にするなよ。確かにでかい古墳は目立つが、子供じゃね
えんだから、見たままの雑感でしかない。
716 :
日本@名無史さん:04/12/17 08:37:29
スレ違いなので他でやってくれ
717 :
日本@名無史さん:04/12/17 11:47:16
いや、スレタイ直結、メインテーマでしょ。
壱岐から松浦までの方向が示されてないってことは、そのまま、前の方角とおなじ南に行けということだ
719 :
プラム:04/12/17 16:06:10
自分なりには 意識的に書かなかったと仮定してます。通常交易なら壱岐⇔呼子で「南」指定でいいけど
720 :
プラム:04/12/17 19:12:57
往路と復路ではコースが違う為あえて方角指定がなされなかったのでは!
721 :
日本@名無史さん:04/12/17 20:57:03
>704 705
>自女王國以北其戸敷道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
> 訳:女王国より北にある国々の、その戸数や道のりは簡単に記載できるが、それ
> 以外の国はとても遠くにあるため詳しく調べることは出来ない。
>次有斯馬國次有己百支國次有伊邪國次有都國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國
>次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國
>次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有鳥奴國次有奴國此女
>王境界所盡
原文を読むとちゃんと女王国の北に20国あると書いてるよ
最後の奴国は21番目、現在の福岡市のことで前に出てる奴国と同一
つまり邪馬台国の北にある国は20国で、その先に邪馬台国の境界に
奴国があるということ 少なくても福岡は邪馬台国では無い 境目の国だ
>現在の福岡市のことで前に出てる奴国と同一
どういつとはかぎらない。しかも邪馬台国の南がすぐ他国なら、遠くにあるため詳らかにできないは通らなくなる。
女王国=邪馬台国でもない。そして、最後の奴国の次に狗奴国があると書いてある
女王国より北にある国々の、その戸数や道のりは簡単に記載できるが、
それ以外の国はとても遠くにあるため詳しく調べることは出来ない。
つまり「女王国南の国の名前などは調べ上げられたが、戸数やその他風俗は書けなかった」
といってるだけ。
724 :
日本@名無史さん:04/12/17 21:47:56
>722
>其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王自郡至女王國萬二千餘里
> 訳:その南に狗奴国がある。男子を王としていて、狗古智卑狗(くこちひく)
> という官がいる。女王国には属していない。帯方郡から女王国にまで一万
> 二千余里ある。
いくらなんでも魏の使節が国名を間違うことはない
遠くの国は明らかに出来ないのは当然のことだろう わからないのだから
奴国は2度でてくるが同一の国だ AD57年の金印に書かれてるとおり
福岡市だろう
その福岡市の南に狗奴国があると書かれている 宇佐か?山門郡あたりか?
もっと南の宮崎、鹿児島、愛媛、高知あたりか?
奴国はまちがえたんじゃない。二つあるんだ
>AD57年の金印に書かれてるとおり
>福岡市だろう
金印のどこに福岡市と書いてある?
書き連なれた20国に奴国が入ってて、なんですぐ隣の不弥国やマツロ国は2回書かれないんだ?
あきらかに別の国
728 :
日本@名無史さん:04/12/17 22:00:11
魏の国から選抜された優秀な使節がだよ 国名を間違えるとは
到底考えられないね 2つあるなら同音の別の言葉を当てるだろ、当然
奴国は1つ、AD57年に漢の国から金印をもらった志賀島周辺
現在の福岡市だろう
729 :
日本@名無史さん:04/12/17 22:04:10
>727
>書き連なれた20国に奴国が入ってて、なんですぐ隣の不弥国やマツロ国は2回書かれないんだ?
奴国と邪馬台国の間に20国があるのだから、書かれなくて当然
奴国は境界の国だから書かれたということ
730 :
日本@名無史さん:04/12/17 22:11:21
どこからどこを東南にいって福岡にいくんだ?
732 :
プラム:04/12/17 22:23:52
当時の「国」という概念はどうゆうものだったんだろう?面積にしてもまちまちだろうし … ちょっとした集落も一つの「国」として扱われたのだろうか?
733 :
日本@名無史さん:04/12/17 22:26:26
古代から現在まで通用する、定型の国という概念はありえないよね。
おそらく部族の集合体ではないだろうか。
>魏の国から選抜された優秀な使節がだよ
おまえ本当に倭人伝読んだのか?読んでないだろう。
派遣されたのは帯方郡の役人で、魏の人間は一人も行ってない。
>当時の「国」という概念はどうゆうものだったんだろう?
弥生後期の代表的な環濠集落とその周辺について調べてみな。
吉野ヶ里とか三雲・平原とか妻木晩田とか池上曽根とか唐古・鍵とか朝日とか・・・。
ひととおりググッたらイメージががつかめるはずだ。
736 :
日本@名無史さん:04/12/17 22:38:38
う〜ん、国の概念は、農業集落と軍事的集落だけ見たのでは、ちょっとね。
737 :
日本@名無史さん:04/12/17 22:48:13
>>735 タイホーグンにいた役人は何人なの?
科挙で採った漢人の書生さん?
地元出身の在庁官人?
>>737 その時代だと帯方郡の地元の人間も中国人だよw
その時代の「國」というのは都市。
>>739 魏・呉・蜀が都市だけなら、中国大陸のほとんどに国はない
>>740 魏.呉.蜀は「國」ではなくて「邦」。ただ、漢祖劉邦の諱を避けて
「邦」の字のかわりに「國」の字を使ってただけだよ。
743 :
日本@名無史さん:04/12/18 14:40:40
ナニがナニしてナニがナニだ???
744 :
日本@名無史さん:04/12/18 18:28:22
よその耶馬台国のスレで大変なことになってるよ! 「畿内説危うし
プラムが宿題を…」
帯方郡
↓
→→ 狗邪韓國
↓ >721の脳内はこんな感じか?
對馬國
↓
一大國
↓
末盧國→
↓
伊都國 斯馬國他遠絶諸国
↓
→ 奴國 → 不彌國
× ↓
狗奴國 ↓
投馬國
↓
邪馬壹國 → 倭種諸国
↓
侏儒國
裸國、黒齒國
746 :
日本@名無史さん:04/12/18 19:58:54
>735
>倭女王彌呼與狗奴國男王彌弓呼素不和遣倭載斬鳥越等詣郡説相攻撃遣塞曹
>幢史張政等因齎詔書黄幢拜假難升米爲檄告喩之
> 訳:倭の女王卑弥呼と、狗奴国の男王は卑弥弓呼とは前から仲が悪かった。和国
> では、載斬(きし)、鳥越(うえつ)などを郡に派遣して、戦況を説明させ
> た。郡は、塞の曹幢史(そうえんし)の張政らを倭へ派遣して皇帝の詔書と
> 黄幢を難升米に与え、中国が仲介にのりだしたことを、回状をつくらせて触
> れまわらせた。
張政というのは魏の国の幹部だよ
魏志倭人伝を読んだことがあるのか?偉そうにコイテルが、、、。
だいたい、對馬國や一大國の描写レベルで
瀬戸内海や畿内の描写が何にも描いてないので
畿 内 説 は ア ウ ト
748 :
日本@名無史さん:04/12/18 23:36:28
>>747 アウトとは言わないまでも「極めて不自然」とはいえる。
749 :
プラム:04/12/19 15:35:22
ここのスレ時間が止まったみたいですね!よそのスレで私が立てた仮説は無謀な仮説だと思いますか?
耳の穴かっぽじいてよく聞きやがれ
「邪馬○国は九州で決まりだ」
751 :
日本@名無史さん:04/12/19 16:01:12
誰に叫んでるの?
O-y- ( ゚д゚)・∵.
\/| |)
今みみかきしたら大きいのがゴソっと取れた
うわーー!耳くそがでっかいーー!
記念に取っておこうっとw
753 :
プラム:04/12/19 16:09:12
東夷伝倭人の条見ても末盧までは千余里だけど 頭の悪いプラムに、なぜ五百里なんだか教えてほしいです。
なったのかスレでまた粘着がわいたみたいだね
とりあえずプラムはこっち来たからまだ良心的だけど、あっちの粘着厨は酷すぎ
755 :
日本@名無史さん:04/12/19 19:55:42
>750
「邪馬○国は九州で決まりだ」
だったら、いいのになあーーーーーだろ?
756 :
プラム:04/12/19 20:34:07
あっちのスレで少し騒ぎすぎて退去命令だされた
757 :
日本@名無史さん:04/12/19 21:09:53
そんなコツ 気にするような玉は2ちゃんにはいないだろう
鉄面皮の集まりだからな 2ちゃんは。
758 :
プラム:04/12/19 21:32:12
ま、そんなことより早く耶馬台国見つけよう
使節団はとにかく東松浦半島付近には、上陸していないはず
759 :
日本@名無史さん:04/12/20 19:50:32
(先ずは前半を、「略」したところは随時補ってな。)
倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑。舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國。
從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里始度一海千餘里至對馬國。
其大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絶島方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乘船南北市糴。
又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴。
又渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈沒取之。
東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸世有王皆統屬女王國郡使往來常所駐。
東南至奴國百里官曰ジ馬觚副曰卑奴母離有二萬餘戸。東行至不彌國百里官曰多模副曰卑奴母離有千餘家。
南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸。南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月。
官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳テイ可七萬餘戸。自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳。
次有斯馬國 <略> 次有奴國此女王境界所盡。其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。
男子無大小皆黥面文身。自古以來其使詣中國皆自稱大夫。 <略> 諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差。
計其道里當在會稽東冶之東。其風俗不淫男子皆露糸介以木緜招頭。其衣横幅但結束相連略無縫。
婦人被髮屈糸介作衣如單被穿其中央貫頭衣之。 <略> 所有無與タン耳朱崖同倭地温暖冬夏食生菜皆徒跣。
有屋室父母兄弟臥息異處。 <略> 國國有市交易有無使大倭監之。
自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之。常治伊都國於國中有如刺史。
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯。
下戸與大人相逢道路逡巡入草辭説事或蹲或跪兩手據地爲之恭敬。對應聲曰噫比如然諾。
其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歴年。乃共立一女子爲王名曰卑彌呼事鬼道能惑衆年已長大無夫壻有男弟佐治國。
自爲王以來少有見者以婢千人自侍唯有男子一人給飮食傳辭出入。居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞。
女王國東渡海千餘里復有國皆倭種。 <略> 參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里。
761 :
プラム:04/12/20 23:58:48
他のスレで 馬鹿と言われたので、一から勉強させて下さい。
>761
善い心がけだ。
例えば、「倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑。舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國。」
帶方東南の大海の中、倭人在り、山島に依り國邑を為す。
別れて百余国、漢の時朝見する者有り、今は使譯の通ずるところ三十カ國である。
これは、漢書の「樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云。」の叙述を基礎に晋代までの新しい所見で書き直したもの。
先ずは、魏代の実態に則して「樂浪」を「帶方」に替え、これに新規の情報では無いと思うが「東南」と言う方位と「山島」と言う地形説明を加えている。
この内、「東南」と言う方位は、後に続く「路程」の記述に微妙に影響しているかもしれない。
そして、漢代の状況に続き、今は三十國と通好の有る旨の記述。この「三十」もキーポイントと言われている。
路程表記に出てくる国名が30国(数え方によるが)なんだね。
まあ、こんな感じに自分なりに解釈しながら、考えてみてごらん。夜は長いし・・・人生も長い。
私は、明日も仕事があるので寝るよ。
じゃ・・・・
吉野ヶ里遺跡は奴国遺跡。そこから海にでて、水行30日の後陸行1ヶ月(これら日数はあてにならないが。)
つまり熊本のかなり内陸にヤマイ国はある。まだ発見されてない。
764 :
日本@名無史さん:04/12/21 20:32:29
魏志倭人伝の和訳にもいろいろあるが、↓これが一番客観的でわかりやすい
http://mai-hana.hp.infoseek.co.jp/gisi.html 邪馬台国学者が勝手に原文を誤訳、曲解している解説も多いので要注意
武光某なんか邪馬台国の南、狗奴国の北に21国あるなんて解説してるし
どこをどう読んだらそういう解釈になるのか?
まず原文をしっかり頭に入れて邪馬台国関連本を読まないと捏造学者の
餌食になる可能性が大。
それにしても邪馬台国本はなんで、魏志倭人伝全文、全文和訳を載せないのか?
都合のいいところだけ乗せている邪馬台国本ばかりだ
それでもって、ミスリードのオンパレード、したり顔でやるもんだから
ついつい信じてしまう連中が多いようだ
次にシーマ国がある。次にイパッキ国がある。次にイヤ国がある。
次にトヒ国がある。次にミナ国がある。次にハウフォトがある。
次にブーホウ国がある。次にソーナ国がある。次にトゥーソ国がある。
次にソナ国がある。次にホーユォ国がある。次にホァナソナ国がある。
次にヒー国がある。次にイーウォ国がある。次にヒーナ国がある。
次にヤマ国がある。次にクーシン国がある。次にパリ国がある。
次にヒーウィ国がある。次にウナ国がある。次にナ国がある。
ここが、女王国の境となる所である。
766 :
日本@名無史さん:04/12/21 21:05:19
最近買った日本史の謎という本にどこぞの大学教授の武光某なるものが
女王国の南、狗奴国の北に21国あると解説している
>自女三國以北其戸敷道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
> 訳:女王国より北にある国々の、その戸数や道のりは簡単に記載できるが、それ
> 以外の国はとても遠くにあるため詳しく調べることは出来ない。
どこをどう読んだら女王国の南に21国があるのか?
日本人に漢文が読めるやつなんていないと思ってるのか?
やりたい放題の誤訳、曲解、ミスリードだな
その21国が北にあるのであれば、「戸数や道のりは感嘆に記載できる」んだから、
〜国は〜戸〜里離れていると書かれているはず。
名前しかかかれていないということは、「それ以外の国はとても遠くにあるため詳しく調べることは出来ない。」
に入っているということ
768 :
日本@名無史さん:04/12/22 20:08:05
>767
>略載
21国の戸数や道のりは簡単に記載できるが、略載
つまり掲載を省略するとわざわざ書いてあるよ
よって国名だけを掲載したということ。
原文を眼光紙背に徹するが如く読んでくれ
769 :
日本@名無史さん:04/12/22 20:09:51
訂正768
徹する→達する
770 :
プラム:04/12/22 20:22:09
単純に考えると、女王国の北にある 距離と戸数が記載出来る国々って マツロ・イト(イチダイソツ)・ナ・フミの各国だよ それらの国々はもう女王国の政権(軍事)下だから隣接国の中に入らないんだよ
771 :
プラム:04/12/23 00:58:42
倭人伝には、フミ国までは細かく(距離・方角・戸数)が記載されてるが、女王国は、フミ国紹介の次には書かれていないんだ。ようするに 耶馬台国とは…。
772 :
プラム:04/12/23 01:12:00
女王国の場所は、不弥国のすぐお隣りで
耶馬台国=(末盧〜不弥)+女王国
《北九州連合国》
いかがかな? 簡単に考えるといいんだよ
自女王國以北其戸敷道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
女王国より北の国は、戸数、道のりを略載(あらまし載せる)ことができる。
しかしそれ以外の詳細は得ない
あらまし記載できる。おおざっぱであれば戸数などを記載できるとかいてある。
それで戸数を記載してないんだったら、筋が通らない
女王国を以って北、以北ということは、女王国も詳細を得れる地域だということ。
詳細を得れないのは「それ以外の遠くにある国」
776 :
日本@名無史さん:04/12/23 08:41:23
777 :
プラム:04/12/23 08:52:47
耶馬台国が幻と考えているなら このスレで発言することしないで黙って見過ごせばいいとおもう。少なくとも、このスレにカキコしてるヤシは耶馬台国信じてカキコしてるんだから カキコは控えてほしい。
「魏志倭人伝の記述が全て正しいとすると」と題した文章を作ってみました。
耶馬台国の所在については大別して九州説と近畿説とがあり、
九州説は倭人伝の里程の記述が、近畿説は方角の記述が誤りであると考えているようですが、
もし、どちらにも全く誤りがないと仮定したら耶馬台国はどこにあることになるのか、
というテーマで作った文章です。
ttp://www.yohs.net/wajinden.txt とりあえずutf-8でエンコードしたテキストファイルで上げていますが、
そのうちhtml化して読みやすくしようと思っています。
よろしければ、感想をお聞かせください。
九州説は里数も方角も誤りがない
>>778 読ませていただきました。
私も魏志倭人伝を地図と見比べて読んでいたのですが、
どうしても1、2ヶ所は手を加えないといけなくなってしまうのです。
その上で比定地が山門とかになってしまっていました。
対馬が一部海水に没していたという話はこれから調査を要するかと思いますが
漢文の読み方や旧地名など、よく調べてあるなあと感心しました。
そこでちょっと質問。その文章では触れられていなかったのですが
「女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、また侏儒國あり、その南にあり」
のところは、このように訳すのでしょうか?(原文をコピペできなくてすみません)
この訳でいくと、出水の東に海はなく、大きな矛盾が生じてしまうのです。
>>778 中国には島を「方×里」と表現する習慣があったのに、
「方」と表現された以上は「方形」だったはずだと
一方的に断定してしまっているのが失格。
「方形」だとすれば、当時の海水位がもっと高く、
対馬は2つに別れていたはず云々という考察は
高転びに転んだ論議で、仮定の重ねすぎ。
783 :
プラム:04/12/23 21:04:33
私も、勉強させてもらいました。 正直言って今までの、どの説よりも素晴らしいものだと 嬉しくなりました。 しかし、対馬の所に大きな問題が!゜
@ 方 の解釈 A下島(上県郡)の扱い
貴方は、対馬に行かれたことありますか?
784 :
プラム:04/12/23 21:35:44
現在では若干整備されたが 少し前までは、殆どの所は、とても人が住めるような所でなかったと 現地の方が言ってました。確かに、絶海の孤島です。あんな所には絶対に寄りたくない
どこのことだよ?
786 :
プラム:04/12/24 11:03:26
>785さんすまない!
対馬の下島のこと
>>778 まず冒頭から。
其北岸
北岸には二つの意味がある。
1。 陸地の北の端で、北側にある水(海・川等)に向かう岸。
2。 陸地の南の端で、水(海・川等)から見て北側にある岸。
其を倭と解釈するのは、この1、2のいずれにも該当せずだめである。
狗邪韓國の位置を考えれば、この北岸は2の意味でなければならない。
したがって、其は水を指すとする以外にはなく、
この文脈では帶方の東南にある大海以外に候補はない。
つづきは、気が向いたら
788 :
日本@名無史さん :04/12/24 12:33:28
>>778 舟の航行時速が1〜2キロとすると、韓国から対馬に至るのに1日じゃ行けないね!
夜も航行してたのかな?星を見ながら??
潮の流れとか考えると、5〜10キロくらいで漕がないと、海は渡れないんじゃないかな。
里程と方角をそのままにするとやはり南の海に行くよ。
その時代はしらんが、江戸時代には韓国まで3〜4日でいけた
皆様には私の駄文につきあっていただいたばかりか、2chとは思えないほどの過分なお褒めにあずかり恐縮です。
あの文章は、実はかなり前に作った文章を、すぐには発表できず、折を見ては訂正してきたものです。
おかげで対馬市については合併前の旧町名をそのまま書いてしまいました。
>>781-782 おっしゃる通りです。島の形よりも、島の長さと大陸との距離の比率のほうを重視した表現に書き改めようと思います。
>>780 調べました。(いまはネットのおかげで調べるのも楽になりました)
女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里
又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至參
問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里
これこそまさに「海渡」ではなく「渡海」なので、「海を渡ること千余里」となると思います。
確かに、東には邪馬台国の旁国があるはずなので、変ですね。
ただ、旁国の記載のところで、旁国の名前を列挙した上で、最後のところで「此女王境界所盡」と書いてあることからみて、
旁国まで全部含めた上で「女王国」と呼んでもいいような気がします。
もっとも、その場合には、「遠絶にして詳しく書けない」はずの旁国の、
さらにその東の海の先にある国までを「千餘里」と書いてあることになり、いかにも不自然ですね。
その他のレスも含めて今後の検討課題にしたいと思います。どうもありがとうございました。
>>778 対馬が沈むくらいの海面上昇があったら、壱岐の原ノ辻なんか、完全に海の下だろ。
対馬が沈むくらいなら、邪馬台国も海中に没しただろうさ。
対馬を沈めるくらいなら、南の海に邪馬台国は沈んだという説のほうを断然支持するね、おれは。
原文に忠実にというやつに限って、
どうしてこう原文の誤認識を認める以上に荒唐無稽な話のほうに走るんだろ。
あとは推して知るべし・・・・ってことでここでもう放り投げたのであとは知らね。
まったくだ 弥生の遺跡なんか現在の海抜10mくらいのところにあるというのにな・・・・w
793 :
日本@名無史さん:04/12/24 21:15:06
安本某の原文翻訳は心理学者のせいか、巧妙に九州説に誘い込むような
翻訳をしてるな 原文に忠実でわかりやすく偏らない和訳が必要だ
そもそものたたき台が間違ってることが多い原文翻訳
794 :
日本@名無史さん:04/12/24 21:21:18
東洋史の権威、岡田英弘氏は
著書『歴史とはなにか』(文春新書)で
魏志倭人伝の信憑性のなさについて論じ、
これをもとに邪馬台国を探ろうとしている人たちを
嘲笑していますが。
無駄な努力っていうんですか?
邪馬台国探している人たちって。
馬鹿ってなんか大変ですよね。
795 :
日本@名無史さん:04/12/24 21:28:33
岡田てのは、どこか三流大学の教授だったか?
別に権威というほどの人物ではなかろう
奇説を唱えて喜ぶ人種はどこにでもいるものだ
それを真に受けるのも、いかがなものか、、、、。
舟の速さについてだけど、
魏史倭人伝によると、女王は景初2年6月に大夫を帯方郡に遣わして、天子に朝献を申し出て、
そのまま郡の役人とともに都に向かって、同年12月に都に到着。そこで印綬を受けてるんだよね。
ソウルから西安まで海岸線沿いに距離を計ったら約2400km
これだけの距離を行くのにまる6か月かかったってことで、当時の舟の速さがわかると思う。
1日約13kmだから、778は若干舟の速さを速く見すぎだね。
てことで、鹿児島までは行かないと思う。
797 :
プラム:04/12/24 21:37:55
倭人伝の信憑性?
@ 疑いを持たない人。
A 疑いが有る人
この二つのパターンだが、後者を選んだ人は、論争事態無意味だろう。
798 :
日本@名無史さん:04/12/24 21:42:49
「魏書」東夷伝の倭人伝ですよね?
同じ東夷伝の「韓」について、
大きさが「方四千里」となっていて、
朝鮮半島とインド大陸は同じ大きさに
なってしまいますよ?
倭人伝の一万二千里もなんの信憑性もないでしょ
グアムやハワイいっちゃいますよ。
799 :
プラム:04/12/24 21:53:03
>796さん
一日13qだって?
それじゃ対馬まで何日かかるの?
当時、夜の航行は考えられない!ましてやあそこの海峡は潮の流れが早く、停泊したら、朝には遥か東の方に流されてしまう。
よって、対馬までは、一日で渡り切ったはず。
800 :
日本@名無史さん:04/12/24 21:53:32
・当時の魏では司馬懿と曹真が勢力を二分
卑弥呼が使いしてくる前に、
曹真が仲立ちして、大月氏を皇帝に面会させ、
「親魏大月氏王」の金印与えています。
10年後、今度は逆に司馬懿が仲立ちして
倭を皇帝に面会させ
「親魏倭王」の称号を与えています。
で、これは西が曹真・東が司馬懿ということ。
距離的にも
大月氏は洛陽から離れること一万六千三百七十余里
倭は洛陽から換算すると、 一万七千五百余里
とほぼイコール。
つまり、距離はただ単に当時の朝廷内部の実力者の勢力の均衡を
計る為にしただけ。意味はほとんどない。
801 :
プラム:04/12/24 22:04:50
>798さん
インド大陸と朝鮮半島が、同じ大きさでもいいんじゃないかなぁ。
当時の人がそのように判断したんだから。
それに、距離も「萬二千里」は1000qでも2000qでもなく「萬二千里」は萬二千里なんだよ
>>801 帯方郡としては、軍事目的の視察も欠かせない。騒乱時の
援軍には行軍・補給も含めて正確な行程記録が必要だ。
古代の中国人ならきっとデタラメだろうなんて、とんだ考え違いだぞ。
803 :
プラム:04/12/24 23:26:55
>802さん
それは大きな誤解です。私が言いたいのは、現在なら地図で正確な比較も簡単に出来ます。
でも、そんな感覚で当時の記録をいじってはいけないのでは無いのでしょうか。
804 :
プラム:04/12/24 23:34:37
たとえ当時のT里が今のTqでも、当時、qの単位を知らない以上、現代感覚の単位を用いることはなるべく避けるべきかと
そのように考えたのです
>>804 倭人は距離を「移動時間」で表現していたわけで
魏の使者は「自分で踏破」しなかった行程は、已むを得ず
「日」や「月」や「年」で記録している。
踏破したところは、魏の単位である「里≒70m」で表現している。
厳密に報告しなければ、劉仁願みたいにすぐ左遷されるだろう。
当時楽浪人は阿残とよばれた。(魏志 韓の条より)
東方人は中国人のことを阿と呼び、楽浪人はその残り物、(取り残された人々)だからだという。
取り残された彼らは古い里数を使っていたのかもしれない
807 :
日本@名無史さん:04/12/25 10:28:34
808 :
日本@名無史さん:04/12/25 20:49:03
魏志倭人伝というのは、陳寿が編纂した三国志60巻のうち
魏書 烏丸・鮮卑 東夷伝の中の倭人の条のことで、全体から見ると
わずかな量だ 晋の正史だけに信憑性は高いとされている
岡田がいうように魏志倭人伝の部分だけが捏造されているという主張は
大デタラメだ
岡田が三国志はデタラメ、中国の歴史書はすべてデタラメ
中国の歴史はデタラメの塊と主張した上で魏志倭人伝もデタラメと
主張すれば一貫性があるが、その他の部分は正しい、
魏志倭人伝だけデタラメという主張は大デタラメだ 近視眼男だね
木を見て、森を見ずの輩だろう。
809 :
日本@名無史さん:04/12/25 20:51:33
同意!
まったく!
811 :
日本@名無史さん:04/12/25 20:58:20
いやいや、中国の正史自体が
史料批判に耐えないんだよ。
だから、中国史は「停滞史観」なんて問題があった。
時代遅れつーんですかね?
そのまんま正史読んでいる人って。
812 :
日本@名無史さん:04/12/25 21:09:22
距離とかは眉唾にしたほうがよいのでは、
「東のほうに」「邪馬台国」というクニがあった程度の内容。
あとは、すっぱり忘れて、考古学的見地に頼るしかない。
813 :
日本@名無史さん:04/12/25 21:12:48
熊沢大然(くまざわひろしか)は、既に明治時代に皇裔承認の請願をおこなっていまし。
明治天皇も、熊沢家には配慮をし、一時金を交付するなどしています。
正史しか読めないんだろ。
年輪測定法で、厳密に当時の畿内地方に大規模なクニが存在したことが確認され
さらに、記紀に卑弥呼と思しき「女性」を連想させる人物の古墳が実在し
また、東洋史の見地からも畿内説を裏付けるような見解が出てきているのに
まだ、九州からか。倭人伝厨は。
またぞる、バカの一つ覚え
箸墓=卑弥呼の墓 かよ
魏の短里は1里≒70mだと小一時間(ry
倭人伝の矛盾を指摘されると、畿内説では倭人伝を軽視するしか
出来ないんだな。
軽視も何も、史料批判に耐えない史料を使用するのは
世間では「トンデモ」と言いますが・・・・・・・・・
その魏志倭人伝に基づいて
箸墓=卑弥呼の墓
卑弥呼のもらった鏡=三角縁神獣鏡
なんて妄想しちゃったのが畿内説
819 :
日本@名無史さん:04/12/25 23:21:45
>>818 妄想ではないですよ。
> 調べるのに便利な地元にある墳墓=卑弥呼の墓
・・・と先に規定して・・・
> そこから盛んに出土する鏡=卑弥呼のもらった鏡
> 卑弥呼のもらった鏡が盛んに出土する
↓
> 卑弥呼の墓である
・・・という見事なまでの循環論法を貫いているだけです。
で、倭人伝厨は
岩波文庫で400円くらいにお手軽に手に入る
ライトノベル以外に
科学的な論拠や、客観的な遺跡など
信頼性の高い根拠はあるのれすか?
まあ、とりあえずスレタイ嫁っちゅうことや
>820
厨は岩波の文庫本なんて読んでないと思うよ。
石原道博の訳文を読んでもオナニーのネタにはできないだろうから。
>>822 まず自分が読めや。
金印と阿蘇山との整合性も忘れるなよ。
>>808 まったくの同意だが、三国志は65巻だ。
最近出た、横山光輝の三国志は30巻だ
やべえ、レスが前後した
横山光輝の三国志は60巻だ
珊瑚櫛は竹簡だったか木簡だったか
南方じゃ無いから木簡か?
828 :
日本@名無史さん:04/12/26 21:44:19
中国の正史がすべて完全に正しいとは思わないが、そこは考古学的資料と
すりあわせをすればいいこと
邪馬台国論争の魏志倭人伝もすべて正しいとは限らない
古代人の感覚と現代人の感覚にはそうとうなギャップがあるだろう
その点も考古学的資料と、すりあわせをすれば真実が見えてくる
車の両輪みたいに文献的資料と考古学的資料を摺り合わせてみれば
事実、真実に近づける、あまり一方に偏ると真実から遠ざかることになる
文献至上主義者は妄想派が多いように思える
830 :
日本@名無史さん:04/12/26 22:23:46
耶馬台国の有無については考古学とのすり合わせが、不可能かと。
一冊の文献のみから始まった物語ですので。
遺跡は語らぬ証人、文献は饒舌な紙切れ。
832 :
日本@名無史さん:04/12/26 22:46:04
ある天皇のご陵は百舌の耳原にあり と文献にあるよ。
833 :
プラム:04/12/26 22:57:46
考古学はすばらしい学問です。
だが、それを最大限に発揮出来るのはまだ先かと
日本中掘り起こしてからの話しでしょう。
834 :
日本@名無史さん:04/12/26 23:08:25
倭人ってのは、人種のことを指してるんだよな。
大海の島の倭人の国だけが、倭人の国だとは
どこにも書いていないし、そのうような文脈もない。
他にも倭人の国はあるだろう前提で書いてるよな
835 :
日本@名無史さん:04/12/26 23:10:23
いや倭人は日本人でいい。
大陸から外の海の中に住んでる野蛮人は全部倭人とおもってたんだよ
837 :
日本@名無史さん:04/12/26 23:23:21
んな訳ない
>>834 倭種と言っているから人種だろう。
人種を区別する第一の観点は"言葉"だろうな。
次いで風俗。
弥生系かね?縄文系かね?>倭種
縄文系にきまってる
倭人というのは「倭王に属する人」の意味。現代語の発想をもちこんではならない。
842 :
日本@名無史さん:04/12/27 12:57:53
魏略によれば倭人は自ら呉の裔といっている。
中国南部から来たんだ。
皇室は北。満州だろ。
843 :
日本@名無史さん:04/12/27 13:44:29
>>841 それは中学生レベルの理解だよ。
華人にとって、倭人ってのは海蛮人 程度の広い意味だろ。
東の海に、海蛮人の国がある、「海蛮国」という
なら、海蛮国やその王と民族が海蛮人が定義となるが、
東の海に、海蛮人の国がある、「ヤマタイ国」という
なら、海蛮人の定義は、広範囲におよび国名より上位概念
のちの、新羅人 百済人 馬韓人 高句麗人 などは すべて
国名の所属する人を指す言葉であり人種とはいえないが、
ヤマタイ人ではなく、倭人であるところが味噌
倭人は、半島全域に存在していただろうし、3世紀には実際に戦乱まである
844 :
プラム:04/12/27 16:21:03
私が思うに、「倭人」とは、始め九州に住む大陸国の下部達のことを指したと考える。
ようするに、
野蛮人以上、家来未満
あっ! な〜るほど〜
846 :
日本@名無史さん:04/12/27 20:18:19
集団でワイワイ騒ぐから、ワイ人→倭人と名づけた
847 :
日本@名無史さん:04/12/27 20:34:54
844 名前:プラム :04/12/27 16:21:03
私が思うに、「倭人」とは、始め九州に住む大陸国の下部達のことを指したと考える。
ようするに、
野蛮人以上、家来未満
845 名前:日本@名無史さん :04/12/27 16:21:47
あっ! な〜るほど〜
おまえこれほどあからさまな自作自演して良心は痛まないのか?
>04/12/27 16:21:03と04/12/27 16:21:47 38秒後に同意のレスだと?
いいことを教えてあげよう
2chのCGIは決して匿名ではない
簡単なツールがあれば同一IPを検索できるんだよ
本当にいい加減にしろよ、お前のハンドル使い分けくらいみんな知ってるんだ
知っていながら馬鹿をウオッチしていたのだが、さすがに目に余る。
今すぐ消えろ。
反省
849 :
プラム:04/12/27 22:14:36
>847
何勘違いしてるの?
俺の投稿はすべて携帯からだよ。
IPとサーバーちゃんと調べてから、カキコしてるんだろうな 冗談じゃすまねーよ。
だいいち、>845さんのカキコは、>843さんへのレスだろう。
どうしても、疑うんなら>2Chサーバーに、問い合わせするか、俺のスレ削除依頼すればいいじゃん。
850 :
プラム:04/12/27 22:30:04
ここの、住人さんにお願いがあります。
>844・>845のレスが同一であるかどうか 調べてみてもらえませんか?
>844は、携帯ですのでIP調べれば基地局までは解ると思います。
>845のレスには [sage]が付いてますが、俺のレスには、いままで一度も使っていません。
無邪気なプラムさんの自作自演はアリエナイ
だから (゚ε゚)キニシナイ!!
852 :
プラム:04/12/27 22:49:54
>847
早く削除依頼してみたらいいだろう。
>844と>845が、同一ならばきっと、削除されるから。
確か、削除依頼は公開だったよな
俺も、ここまで虚仮にされたら 公開で晒してもらったほうがすっきりするし、同一かどうか解りやすい
>852
今さら、何キレてんだよ。
さんざ、自分からコケにされるようなネタ振りまいといて。
自分で作ったキャラなんだから、最後まで演じきって欲しいな。
君は日本史板に何しに来てるのだ?>プラム
削除云々は専用の板があるからそっちでやってくれ。
>>849の書き込みはいいとして、そのあと2つははっきり言ってスレ汚し。
それとも2ちゃんのルールには従えないとでもいう気か?
住人すべてを相手に喧嘩を売る気か?
>>852 キミって、この板で一度も自演かましたことないんか?
856 :
プラム:04/12/27 23:17:56
確かにごもっとも
大人げなかったことを 反省してます。
住人の皆さん、申し訳なかった!
反省してます。
キャラの戻ったのね。
おちゃめ。
859 :
プラム:04/12/27 23:32:16
>845さん
大変ご迷惑をおかけいたしました。
>>843 厨房が他人を中学生よばわりとは恐れ入るw
ヤマタイ人?あほか!
>>844 いや、藻前の妄想はどうでもいいし。
861 :
プラム:04/12/28 00:27:47
>860
この謎は、文献と考古学だけじゃ解けないよ!
妄想も大事なソースなんだ。
早く気がつけ
気が付きたくないなぁ……
>>828 つまり「書かれているという事実」と「書かれている内容が事実を伝えているかどうか」
は別の事柄なので混同しないように、ということですな。
>>830 > 耶馬台国の有無については考古学とのすり合わせが、不可能かと。
> 一冊の文献のみから始まった物語ですので。
そういった「始めに結論あり」式の先入観は廃すべきですね。
865 :
プラム:04/12/28 01:43:36
>860さん
>830は、プラムカキコです。失礼しました。
866 :
プラム:04/12/28 01:49:34
訂正
>860は、>864の間違いでした。
疲れてきたからそろそろ寝よう!
867 :
日本@名無史さん:04/12/28 20:35:45
いかにも、九州説派らしいカキコが多いみたいですね。
868 :
日本@名無史さん:04/12/29 18:08:28
そうだ!九州説派を妄想族と名づけよう グッドアイデア
暴走族か?妄想族か? 似たようなものか・・・・・・・。
オレが小学校のときが九州派が最盛期だったな(遠い目)
年輪測定法で、弥生時代が早まり
全てが崩壊したような気がする。
今は九州=トンデモ説くらいだと。
でも、がんばれよー。読み物としては面白い。
870 :
プラム:04/12/29 20:43:51
畿内説さんに、聞きたいんですけど。
単純なんですが、
@どうして大和へ行くのに北九州へ上陸するんですか?
A畿内に上陸してから、女王国までの様子が書いてないのはなぜ
誰か、説明頼む!
871 :
偽畿内説:04/12/29 20:51:47
@北陸に上陸して琵琶湖経由で畿内に行きましたなんて、本当のことは言えません。
A様子を書いたら畿内じゃないことがバレるので書きませんでした。
872 :
プラム:04/12/29 21:02:38
>871さん
まさか、北陸から「サンダーバード」で京都に、それから近鉄にて奈良へ入ったのではないか!
これって新説誕生
873 :
日本@名無史さん:04/12/29 21:17:15
瀬戸内海の情景が魏志倭人伝に描かれていないから
日本海経由というのは十分ありえますね
瀬戸内海経由であれば、両岸山有中水行 とかあっても良さそうですね
874 :
偽畿内説:04/12/29 21:22:29
>>872 いやあ、モトクロス・バイクで疾走しました。
オマイら、この一文を殊更に無視するんだ?
東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸、世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
876 :
プラム:04/12/29 21:39:46
ま、戯言はこのへんで
でも、このような単純な疑問もまだ解決していないのです。
>>870 @航海術のレベル(あるいは使者の現実の旅程)
A現実には女王国に行っていない。行くには遠すぎた。近くなら様子が書いてある
878 :
プラム:04/12/29 22:28:17
>877さん
女王国へは行ってないと?
それでは、使節団たちは任務不履行で女王へ渡すはずの贈り物は、国王へ返還されたか途中海の中にポイ (そんな中途半端なもの地誌編纂にするわけねーだろう)
苦しいよ。その回答
なぜ書いていないか。それが問題です (^^)
今日本屋で「邪馬台国」なる雑誌を立ち読みしてきました。
(まあ、編集者があの人なんで、反論があるでしょうが)
その中で、倭人伝を中国人が読む、というのがあって、いくつか気になる指摘がなされてました。
一番ショックだったのが、「放射的には読めない」ということでした。
九州説の拠り所なのに…放射説は珍説だとまで言い切ってました。
でも、距離についてはこれまで考えていたのよりも短くなるかもです。
「水行二十日」という表現は、(途中で休憩したり、滞在したりして)全体で二十日かかったという意味で、
決して、休まず船で移動したという意味ではないそうで、その場合は「水行二十日程」と書かれるそうです。
また「水行十曰、陸行一月」については、「水行なら十日、陸行なら一月」のような(or)ではなく、
「水行で十日、さらに陸行で一月」という意味の(and)だそうで、もし(or)ならば、「或」や「復(また)」
の字が入らなくてはならないそうです。
延々と雑誌の受け売りを述べましたが、既出でしたらごめんなさい。
>878
>875を読め。
>>880]
>(途中で休憩したり、滞在したりして)全体で二十日かかったという意味で
ここは違うだろ。
こと倭人伝に関するかぎり、不弥−投馬間、投馬−邪馬台間を、
実際何日かけて移動したかが書いてあるわけじゃない。
ここは、日数表記で距離をあらわしているところだ。
光年なんかと一緒だと思えばいい。
単位は時間の次元を持っているが、実は距離をあらわしている。
ただし、最終的な形にまとまるまでに、
休み休みの実際の移動日数が距離表記と誤認された可能性はある。
884 :
プラム:04/12/30 01:19:25
>881さん
読んだよ。
だから?
国使なんだよ。魏の国王の代理なんだよ
885 :
日本@名無史さん:04/12/30 01:25:36
>>880 では「到」と「至」の字の使い分けはなぜなされたのか?
ということが問題なんですよね。
886 :
日本@名無史さん:04/12/30 01:31:52
>>880 >「水行で十日、さらに陸行で一月」
文字通り読めばその通りだが、それならば日本国内に陸行一月もしなければ
いけないところはないので、日本国内ではないということになる。
887 :
プラム:04/12/30 01:38:33
>881さん。 ようするに、伊都国は倭人国に置いた魏の大使館みたいな所だから、大和に行く前に倭人国の情報収拾に立ち寄った。
そう、解釈していいのかな。
でも、大和まで余りにも遠くないかい
ま、一歩ゆずってそうだとしても、もう一箇所ぐらい大阪辺りに一大率置いてもいいと思うが
888 :
日本@名無史さん:04/12/30 01:43:25
ボケ老人田原総一郎(=反日の悪魔)が、また問題発言!
本日のテレビ朝日『サンデープロジェクト』で、
田原総一郎が”また”問題発言を行った。
本日出演の孫正義氏(在日朝鮮人3世)と
王貞治氏(在日台湾?2世)に対し、
『日本人ではないから差別されたでしょう』
と昔日本が、外国人を酷く差別したかの
如く発言していた。
これに対し、
孫氏は
『小学校の頃まで差別はあった。
最近では韓流で”孫さま”と呼ばれる』と答え、
王氏は
『全く差別されたことはなかった。
国体には参加できなかったが、
目標は甲子園だった』と答えた。
『反日の悪魔』である田原総一郎は、
昔日本が朝鮮や台湾の人間を酷く差別していた
かの如く報道したかったのだろうが、
孫氏、王氏の両氏から
その様な期待通りの発言を得ることはできなかった。
田原総一郎が『反日の悪魔』であることは
今に始まったことではないが、
一体、田原総一郎は何を考えているのだろうか?
田原総一郎に限らず、テレビ朝日は
『反日の悪魔の親玉』である。
日本の公共の電波を用いて
朝鮮やシナのプロパガンダを垂れ流す
田原総一郎とテレビ朝日は徹底糾弾されるべきである!
889 :
プラム:04/12/30 01:52:11
>880さん
放射説使わなくても、たどりつけるはずだよ
九州のこと沢山書いてあるのに、大和のこと全然書いてない。
この、現実直視出来る人が九州説なんだよ。
なにか異論ありますか?
>>885 一つ考えられうるのは幾つかの(2つの?)文献をつなげて、ツギハギの文章
であるという可能性がありますね。つまりある文献は伊都国までの行程しか
書いてなかった。他の文献は伊都国から先の行程が書いてあった、
みたいな感じか?
891 :
890:04/12/30 02:06:35
つまり、何が言いたいかというと、三国志の編纂者である陳寿はいろいろな
文献から邪馬台国への行程に関する部分をひっぱてきて組み合わせたため、
訳の分からない文章になってしまった可能性が少なからずあるということです。
当時の中国人が日本の正確な地理を知るはずもなく、そうなってしまったのは
ある意味しかたないわけですが。
892 :
プラム:04/12/30 02:32:44
>891さん
そうすると、畿内説から見ると、たまたま畿内を紹介した文献が見つからなかったので 倭人の条で、取り上げることが出来なかった。
そのように、取られかねないですね。
893 :
日本@名無史さん:04/12/30 02:34:08
極論を言ってしまえば、魏志倭人伝がどう読めるかというのはあんまり意味がない。
魏志倭人伝の元となった史料がどのように書いてあったかというのが問題だ。
だいたい、魏志倭人伝は誤字が多い。
例:対馬→対海、一支→一大など
これは、何らかの理由により読み取りにくい一次史料から書き写した2次史料に見られる
特徴であり、魏志倭人伝の性格を表している。
倭人は韓国に鉄をとりにきていた。
当時 鉄がなかった近畿が邪馬台国か?
近畿って良質の砂鉄が取れてた気がするが
畿内では製鉄は可能だったの?
砂鉄たたらが確認できるのは、6世紀よりあとだろう。
大量の砂鉄は、砂鉄精錬が発明されるまで、
まったく利用できなかったのである。
898 :
日本@名無史さん:04/12/30 17:16:55
製鉄遺跡があるのは吉備、日本最古の遺跡がある
砂鉄より鉄鉱石から取っていたようだ
その後、鉄鉱石と砂鉄を混ぜ合わせて作る手法が開発
その後、砂鉄だけの精錬方法も出来た
製鉄遺跡で鉄クソがあったが、丸い塊だった
古代の備前焼の登り窯に良く似た遺跡だった
土器作りの技術と製鉄の技術はよく似ているようだ
大和は吉備の鉄をパクっただけで、製鉄はやっていない、やる技術は無い
備前、備中からの朝貢は初期のころはほとんど鉄だった
鉄クワや鉄スキなどの農機具を多く作っていたようだ
>>885 それが「中国語文法の常識」なら話は簡単だけど、そうではないのがネック。
>>886 畿内だとしても、わざわざ渡海もできる船を仕立てたなら素直に船で行くのが
当たり前だから、数字として「ありえない」ですからね。
「単なる誤植」か「何かの間違い」とすれば話は簡単。
>>887 「一大率」=「一大の率(軍事の司令官)」。
>>890 倭人伝に限らず、「何らかの意味で混乱した情報が残った」という可能性は、考慮
しておいたほうが確実ですね。
ただ、三国志の他の部分にも、地理的な事柄に関する部分で両方を使っていることも
あるので、全くの機械的な丸写しではない「意図的な使い分け」と考えたほうが良さそう。
中国語文法としては、「同じ意味」なので、「音韻を整えるために使い分けただけ」
というのが定説に近い模様。
「一大率」は、文字通り「一大国」にあったんだよ。
どうして素直に読めないんだ?
>>892 何でそういう変な読み方をするのかな?
既存の「どこにあった」という「決めつけ」はとりあえず棚に上げて、書いてあることと
矛盾しにくい「範囲」を絞るようにしたほうが建設的では?
>>903 いや、本元である「一大国」に、「特に一大の率を置く」というのは意味をなさない
から、「一大の率」が置かれたのは、当然、一大国以外です。
906
卑弥呼の邪馬台国が畿内にあるというのならば、畿内説の方は、魏志倭人伝の記述の中の
どの国が大和だというのか?それとも「邪馬国」か?それとも大和朝廷の国に限って
全然記述がされていないとでもいうのか?
908 :
日本@名無史さん:05/01/03 02:24:25
>>907 >畿内説の方は、魏志倭人伝の記述の中の
>どの国が大和だというのか?
「邪馬台国」に決まってるだろ。
909 :
日本@名無史さん:05/01/03 02:26:24
「邪(や)馬(ま)台(と)」
910 :
日本@名無史さん:05/01/03 02:32:03
魏志倭人伝にあるのは邪馬壱国
卑弥呼の時代、邪馬台国なんか存在しなかったから
畿内じゃないな
911 :
日本@名無史さん:05/01/03 02:33:15
大和の姓の起源は邪馬台国にあり?大和の姓は関係ないのか?
912 :
日本@名無史さん:05/01/03 02:39:06
姓を制定したのは、九州。
913 :
日本@名無史さん:05/01/03 02:50:50
914 :
日本@名無史さん:05/01/03 02:59:11
915 :
日本@名無史さん:05/01/03 03:04:01
>>910 何を根拠に?しかも断定するには史料が足りないかと思うが?そもそも、魏志倭人伝等と言っても、あのパクり国家の史書に頼るのか?
916 :
日本@名無史さん:05/01/03 03:04:15
917 :
日本@名無史さん:05/01/03 04:17:06
↑
テメーだって間違えてんじゃんか。
テメーは、邪馬「壱」国て書いたが、
原文では、邪馬「壹」國だろ。
お前が間違えた様に、元々「臺」と書かれて
いた物を「壹」と書き間違えたと考えられる。
918 :
日本@名無史さん:05/01/03 04:31:00
読み方以前に日本語勉強しろ!特に読み書きをw
919 :
日本@名無史さん:05/01/03 04:37:44
ザコがぁ
920 :
日本@名無史さん:05/01/03 07:02:42
「ザコがぁ」←このレスを見るだけで、義務教育課程を修学していないことがわかりますねw
921 :
日本@名無史さん:05/01/03 09:50:04
「邪(じゃ)馬(ま)台(だい)」=「ジャマダイ」
924 :
日本@名無史さん:05/01/03 13:13:46
真実を隠蔽するために、東大九州説と京大大和説が裏で手を結んで
学会の権威などを利用して、邪馬台国の真実を隠蔽しているという構図
いい加減に気づけよ
926 :
日本@名無史さん:05/01/03 15:32:49
>>917 よく見てみろ
>テメーは、邪馬「壱」国て書いたが
書いてないよ
927 :
日本@名無史さん:05/01/03 15:43:12
ザコがぁ
928 :
日本@名無史さん:05/01/03 15:53:50
929 :
日本@名無史さん:05/01/03 15:56:19
910に家
930 :
日本@名無史さん:05/01/03 16:07:18
ザコがぁ
931 :
日本@名無史さん:05/01/03 16:18:06
魏志倭人伝に邪馬台国(邪馬臺国)が書かれている証明してみろ。
話はそれからだ。
>931
>923のリンク先を読めよ。
そこを全否定してから、大口はほざけ。
話は、それからだろ。
933 :
日本@名無史さん:05/01/03 16:24:20
( ゚ Д ゚ )/まったくだ。
934 :
日本@名無史さん:05/01/03 16:27:21
935 :
日本@名無史さん:05/01/03 16:41:09
>>931 話はそれからって…負けを認めるのか?もっと勉強しよ?
>>932 読んでも読まなくても「無い」が正解だな。
お前の負け。残念だったな。
937 :
日本@名無史さん:05/01/03 16:41:52
↑
長すぎて読むのメンドクサ
>936
中学生程度の日本語文が読解できないらしいな。
長々と説明しても、書いてないものは書いてないんだよ。
魏志倭人伝には邪馬台国(邪馬臺国)なんて書いてないんだよ。
嘘は100回ついても嘘。
>939
アナタの言ってることは「紹興本や紹煕本には、邪馬臺と印刷されていない」ってことだけ。
そんなことは、誰もが認めていること、定期的にコピペなどする必要の無いこと。
>>940 その他に書かれていた証拠も無いの。わかった?
誤写を無限に妄想したら、前文誤写かもしれないんだよ。
嘘は100回言っても嘘。
>941
10世紀の紹興本刊行以前に成立した資料の三国志引用部には、「邪馬壹国」と表記されたものがわんさかあるんだよ。
それを承知で妄言を繰り返すの方が嘘吐き、だからと言って100回もコピペするなよ。
おまえら今NHKの「大化の改新」見てるよな
放送大学 第11回エイズ
あすかは神様がいる國
後世、でっち上げた「大化の改新」など笑止千万。
エビザワ君、もうちょっと真剣に考えましょう。
本当は壬申の乱こそ革命。
948 :
日本@名無史さん:05/01/04 21:08:58
大化の改新は朝鮮史のコピー
荒唐無稽な作り話
たぶん明治維新のときの捏造事件だと思う>ありもしなかった大化の改新
>>931 > 魏志倭人伝に邪馬台国(邪馬臺国)が書かれている証明してみろ。
日本語が不明瞭なので意味不明。「魏志倭人伝」に「邪馬台国(邪馬臺国)」
という名前が登場しているかどうかなど、見れば明白ですが?
どうせ邪馬壱電波だろw
>>948 詳しく聞きたい
馬子の仏教化政策、太子の功績などは朝鮮での話し?
>953
逆。951が「台」信仰。
2千年前の魏志倭人伝がのこってるわけないでしょう
魏志倭人伝研究を否定しちゃうの?それは電波でしょ。
958 :
日本@名無史さん:05/01/05 19:50:42
ミミズの遠吠えみたいなことをグダグダ書いてるだけなのに
「畿内説」限定だなんて、畿内説も偉そうだな
ああいう硬直した頭脳、閉鎖的な体質だから、いつまでたっても
邪馬台国の所在地がわからない ということがまだわからないらしい
959 :
日本@名無史さん:05/01/05 21:05:16
就職先が畿内偏重だからでしょ。花より団子の「団子説=畿内説」
>>956 > 2千年前の魏志倭人伝がのこってるわけないでしょう
って、当たり前でしょ。
>962
おまえが寂しいのは、よくわかったが、独り言ばかり書き連ねてても楽しくないだろう。
ちゃんと薬飲んで寝てなさいな。
964 :
???? ◆VgMkRE6jec :05/01/06 08:03:43
『官位』板を誰かが煽っていますが無視して下さい。もし迷惑をかけていましたら、すいませんでした。
官位板使者
965 :
日本@名無史さん:05/01/06 08:18:04
官位をあたえてやるスレのことかい?
966 :
???? ◆VgMkRE6jec :05/01/06 08:27:46
>>965 はい、そうです。
煽る方がいましたら、無視して下さい。
>ミミズの遠吠え
ホォッ! ホォッ! ホォッ! ホォッ! ホォッ!・・・・・・・
邪気追いの隼人の奇声のほうがいいな。
963は薬剤師妄想にかかってるから注意
970 :
日本@名無史さん:05/01/06 22:04:52
大和説論者 北朝鮮へ行ったら、将軍様万歳を熱唱する連中
九州説論者 おうむ教の信者みたい
いずれ劣らぬ硬直脳
重箱の隅突きが得意技
971 :
日本@名無史さん:05/01/06 22:07:40
馬鹿は何説でも馬鹿
『方位訂正』
この倭人伝については定めた比定地にそぐわないために、方位の訂正が行われています。
比定地が、間違いなくその場所ならば訂正する意義がありますが…
規模の大きな遺跡が報じられる度に『ここが〇〇国に間違いない』比定地が、移動していくありさま。
その光景を見るたびに、ガックリと肩を落としております。
方位の訂正を行う前に、何度も繰り返し、比定地の再検証を行うことが必要かと
『方位訂正』そのニ
ここで、狗邪韓国⇒(呼子・唐津)間に、大変興味深い文章を見つけることが出来る。
(最初の訂正)
対馬→壱岐
文中には南と記載されるが、実際には東南なので、反時計回りに45度ほど訂正が必要。
果たしてそうであろうか?
二つの島を紹介する文中に、『自活出来ないから、必要な物は(南北)交易で、補ってる。』と、書いてある。
そうすると、ここも方位訂正をおこない(東南・西北)交易と、本当は書かなくちゃいけないんだな。
(そんな馬鹿な)
韓の条にある「州胡」は今のチェジュ島のことか?
馬韓の西にあるとかいてあるが
>>973続き
このように解釈したい。
100q程度の航海で、実測不可能かつ直進操行不可能な場合、正確性の高い八分割方位を使うより、もう少しおおざっぱな四分割方位を使った方が、文中記載には適当かと思われる。
海洋上に使う分割方と陸上間においてつかう分割方と、区別されていると
>>974 韓伝を詳しく勉強したことがないので、答えようがありません。
ただ一つだけ言えることは、
測定するニ点が確定して、書いてある方位に誤りがあれば、訂正しなければなりませんね。
何でもかんでも訂正がいけないと言う訳じゃありません。
訂正しないでも説明が付けば、あえて訂正する必要がないと考えるからです。
>972
各説ともに比定がひっくりかえるような『発見』なんて、最近は、とんとお目にかかっていませんが、アナタは何時の時代に人なの?
それに、倭人伝の記述どおりに行っても、そこには何も無くて、まともな場所には、たどりつけないんだから、可能性の高い場所に比定するしかないだろう。
学問なら当然のことだ。
>>977 ん〜。海の中に行きますかぁ
でも、私はそうは思わない。
べつにアトランティス大陸探してる訳じゃないし、もしどうしても、行き着く先が海の中ならば。
それは、海の中行きの、とらえかたしているからだと思うよ。
まずは学者達が長年掛けてあみだし、定説になってる比定地をもう一度検証してみよう。
>>977 質問しますけど
貴方は何処に上陸しましたか?
980 :
日本@名無史さん:05/01/07 21:38:08
別に、学術論文書いてるわけではないんで、奇想天外な自由な発想が
あっても、いいんではないの?多数だから正しいとは限らない
>979
意味不明。俺、どっこにも「上陸」していませんが・・・誤爆か?
982 :
日本@名無史さん:05/01/07 22:10:43
『方位訂正』
壱岐→上陸地を再検証してみたい。
なぜかここには(狗邪韓国→対馬にも)方位指定がない。何故なんだろう?
考えたことありますか?
(狗邪韓国→対馬)
『始めて一海を渡ること…南北にシテキす。』
(対馬→壱岐)
『又南に一海を渡ること…南北にシテキす。』
(壱岐→上陸地)
『又一海を渡ること…』
〈又南に一海…〉でもいいと思うけど、なぜ『南』がとれたんでしょうか?
983 :
日本@名無史さん:05/01/07 22:22:38
>>980 自由な発想からしか新しいものは生まれませんからいいんじゃないですか。
でも、ある程度の枠の範囲内での自由発想だと思います。
>>981 質問の仕方が間違ってたようですね。
貴方は、使節団の最初の上陸地を何処に比定しましたか?
>981
「使節団」? 正始元年の梯儁一行ですか? それとも正始八年の張政一行ですか?
帶方郡使なら、もっと頻繁に来てるようですが。
「上陸地」? 始めて倭地に踏み入れた場所でしょうか? だったら、對馬國(対馬)でしょう。
それとも、九州島内の最初の寄港地のことでしょうか?または、船行を停めた地点のことでしょうか?
最初の寄港地は、その時の天候や航路によって違うでしょう。
後の渤海使や隋使も風向きによっては、いろんな処へたどり着いてます。
実際、これは判らないでしょう。
船行を停めた場所だったら伊都國でしょうか。
「郡使往來常所駐」と言うくらいですから、恒久的施設があってもおかしくないです。
倭人伝の記述で末盧國や奴國との位置関係が陸路で示されているのは、常に往来のある帶方郡関係者の知見があったから。
末盧國や奴國で船行を停めるのは、実用的な案ではないでしょう。
因みに伊都國以遠は、榎説の方が私の脳内にはピントが合います。
>なぜかここには(狗邪韓国→対馬にも)方位指定がない。何故なんだろう?
そのまま南に行ったから。
>>984 大変参考になりました。
榎説とゆうと、伊都国を中心に放射的に扱う(放射説)ですね。
定説では、伊都国=前原付近になっていますが、貴方も定石通りですか?
私の場合 伊都国=前原には、かなり抵抗感があり比定するに至っていません。
かといって、自分なりに自信の持てる場所を発見するに至っていないのが真実です。
帯方郡 │ ↑
←4千里 →│
(短里) 辰│ ここまで
│ 韓│ 7千里
│馬 │
│韓 │
│ │
│ 狗邪韓国 ↓
└────┘ ↑
↓千里 5
┌┐
││対馬
┌┼┘ 0
└┘
↓南へ千里
┌┐一支国 0
└┘
↓千里 ┌────
┌───┘ 0
│マツロ
│500里└→イト
└──┐ 奴・不弥
│ ┌──┐ 里
│ │ ↓水行20日
└──┘ │
│投馬国
↓水行10日
│
│陸行一月
│ →邪馬台国 ↓
九州全体で(周旋してみて)五千里
帯方郡から韓国南端までの距離が、邪馬台国までの距離を越えてはいけない
狗邪韓国から邪馬台国までの距離と和国全体の大きさがおなじであること
韓国は方位400里、これは短里でしかかんがえられない。
長里ではそれ+帯法郡から南端までの7000里がありえないこと、
中国全体が方位を勘違いしてるのでないかぎり、勝手に方位を変えてはいけない。
里数はなによりも比率を重視すること
まちがえた4000里です
そろそろ、このPART14も残り僅かですが
│
邪馬台国 │東→┌────────┐
│千里│ │
│ │ ↓南 │
│ │ 小人の国 │
└────────┘
← 4 0 0 0 里 →
↓
→裸の国、お歯黒の国、
当然近畿
小人の国=倭種(縄文人)
四国は縄文系が多い
993 :
日本@名無史さん:
唐津〜前原〜西区
北に海が広がり、南に山波どうみても、この辺は港を利用した
商業用交易地点だな、
とても、一大率置いて、たえず周りを観察するような場所じゃない。