よろしくお願いします。
スレ立てお疲れ様です。
4 :
日本@名無史さん:04/08/20 00:17
戦国関東三国志の勝者は氏康。
一応、子孫に囲まれ幸せに人生を終えたから。
くやしいー。
関東三国志なら相手は上杉・武田では?
7 :
日本@名無史さん:04/08/28 23:04
北条氏康最強
8 :
日本@名無史さん:04/09/08 15:33
早雲が好きだ
9 :
日本@名無史さん :04/09/08 15:37
北条三代すばらしい
北条早雲を伊勢宗瑞と言おうの会、ここに発足
氏政時代は人材がいないな....
伊勢新九郎も5代で終わった。
12 :
日本@名無史さん:04/09/08 17:16
伊勢宗瑞の出自ってよく不明って言われてるけど
幕府の名門伊勢家の出だって本当ははっきりしているんでしょう?
>>12 はっきりはしとらん
例え伊勢氏一族だとしても誰の子なのか、どこから派生した一族なのか
ということに関しては色々と説があり、はっきりしたことはわかってない
早雲の臨終の地、韮山のものですが・・・
武田も上杉も土豪や有力一門に気を使って軍団をまとめるのに苦労した。
それが川中島の執拗なほどの戦いの原因になった。
それに比べれば氏康はキッチリ配下を掌握しており知行の移動なんかもバンバン行っていた。
なんと言っても貫高制による税制の改革で民衆の支持を得た。
同時代に強大な敵を近隣に持った不幸があったが戦国時代でもトップの民政家であり武将であったと思う。
>>15 云いたい事はわかりますが、意味がわかりません。
>武田も上杉も土豪や有力一門に気を使って軍団をまとめるのに苦労した。
>それが川中島の執拗なほどの戦いの原因になった。
川中島の戦いは軍団を纏める為の戦いであったということなの?
そういった側面で対外戦略ということは言えるだろうが、具体的な説明もなしに
いきなり結論になっていますが・・・。それとも新説?
>貫高制による税制の改革で民衆の支持を得た。
民衆の支持とは百姓の支持のことかな?なぜ氏康がそういった方策を採った
説明がほしいなぁ。氏康の時代であってもかなり流民が発生していると思うが・・・
>>16 >それとも新説?
そう考えている人は他にもいるみたい。
15氏の説を補足すると、
・内外に力を誇示して、対内的には服従と対外的には畏怖を抱かせた
・何度も動員することによって君臣一体感を育ませる
・家臣層の既得権益を広げる・守るというポーズを見せて信頼感を得る
、と。
まぁ、こうしたことはあくまで側面的な意味あいだろうけどね。
あと、税制改革については詳しくは知らないけれど、
・多岐にわたっていた税を三つに纏めたこと
・税率を従来の勢力より下げたこと
・納税の方法もある程度民衆の都合に合わせたこと、かな?
特に1と3は民衆に受けたみたいだけど、よく知らない・・・、スマン。
たまにはレスを・・・。
>>17さんに補足。
☆川中島合戦(執拗なほどかどうかは知りませんが。)の効果。
@長尾(上杉家)の場合
天文23年の北条高広の離反
弘治02年の大熊朝秀の離反
永禄07年の長尾政景の溺死事件
永禄10年の北条高広の再度離反
永禄11年の本庄繁長の離反
効果は無かったみたいですね。
A武田家の場合
永禄08年の武田義信の幽閉事件
こちらはノーコメントで。
☆税制改革
@三税
反銭・懸銭・棟別銭
B納税方法
検地によって村ごとの貫高を算出。
それを元にして賦課額を設定。
さっぱりしすぎて分かり難いかも・・・。
>>18 微妙に補足。
納税方法の都合を合わせた、というのは
金銭での税納が基本だが、米や作物での代替もokとか、
良銭で納めなければいけないが、全部揃えるのは民衆はきついのである程度悪銭でもokとか。
高越城・法泉寺に行ってみます。
法泉寺の屋根瓦を見てきますね。
見てきました〜♪
高越城は天気もよくていい感じでした。(案内看板が欲しかったな〜。)
法泉寺はお墓の手入れが行き届いていて良かったです。
新九郎薬師堂は扉が閉ざされていて拝めませんでした。(悲)
新九郎薬師堂は残念でしたね。
>>22 悔しかったのでお堂の写真を撮ってきました。(意味の無いことを・・・。)
滝山城見てきたが、氏照が八王子城に移転したのがよく解る。
多摩川側は険しい崖が天然の要害になってるが
反対側は緩やか丘陵で堀を重ねても、防御は難しいと思ったよ。
25 :
日本@名無史さん:04/10/04 20:06:39
だろうね
先日、伊勢新九郎所縁の大徳寺に行ってまいりました。(修行の場?)
織田信長の墓・木像・絵を見てきました。すごい人でした。
他に西国のお城を見てきました。
ふと疑問。
韮山城(戦国時代関係)の整備が遅れているように見えますが、
まだ、禁令が出ているのでしょうか?
詳しい人がいなければスルーして下さいね。
雨の後の北条流障子堀は最高だね。
新潟県中越地震、すごいですね。早く収まることを祈ります。
で、北条家が関東を治めていた時には、
どんな天災(地震・台風・津波・噴火etc)があったのでしょう?
関八州古戦録によると
永禄二年〜三年気候不順による大規模な飢饉と疫病
同三年氏政→徳政令発令 永禄四年氏康安房金剛王院宛の手紙
「去年分国中諸郷へ徳政を下し」という記述
永禄七〜八年ぐらいまで飢饉影響(飢饉は人災的事柄も多くあり)
永禄四年三月謙信相模乱入 永禄七年第二次下総国府台合戦
永禄七年七月太田資正の岩槻城攻略
>>29 返答、ありがとうございます。
合戦の度に飢饉ですか。戦をするのも大変ですね。
他の戦国大名もそうなのかな〜?
甲斐武田家
妙法寺記によると
文正二年「比年五月六月七月迄大雨降テ耕作凶」
天文三年「此春言語断餓死到候而、人々ツマル事無限」
天文九年「八月大風、堂寺社悉吹、吹倒し 地下千二万一御座候」
天文十一年釜無川の信玄堤工事始めた武田信玄はあまりにも有名
32 :
日本@名無史さん:04/11/04 12:02:53
妙法寺記ってちゃんと読んでみたいんだけど、
どうすれば読めるの?
できれば原文じゃなくて、現代語訳されたものがあれば教えてくだされ。
33 :
日本@名無史さん:04/11/04 17:53:02
さて一番優れていたのは誰か…?
氏康?氏綱?
34 :
日本@名無史さん:04/11/05 01:11:13
>>30 小牧長久手後の徳川分国も激ヤバだったそう。
>>32 戦国史料叢書の13は「武田史料集」に妙法寺記はあるよ
これだと、妙法寺記の戦国期の部分があるので十分です
なんで図書館で探すか、なければ、その図書館に近場の図書館から取り寄せて借してもらいなさい
36 :
日本@名無史さん:04/11/11 13:39:24
>>31 氏邦が荒川に築いた熊谷堤は余りにも無名。
37 :
日本@名無史さん:04/11/11 13:40:32
五代それぞれ魅力的だけど、会ってじっくり話を
してみたいと思うのは氏綱かな。
きっと謙虚で口数少なさそうだけど、しみじみとお酒が
飲めそうな感じ。
氏直とは高野山麓でお茶でもすすりながら、
ぽつりぽつりと述懐を聞いてみたい。
そして若い心の苦悩を後世に残してあげたい。
39 :
日本@名無史さん:04/11/12 00:29:16
氏直が早死にしたのは、やっぱ燃え尽きちゃったからかな?
高野山、今年行ってみたけれど、八葉蓮華の峰・十六の谷
山また山の深山幽谷・・・(壇上は平地だけど)。
相模湾に向かって開けた明るい小田原で育った氏直には
敗戦処理のストレスやずたずたのプライド、慣れぬ高野山での
没落者としての暮らしは、かなり体にこたえたんじゃない。
氏房も、名護屋で疱瘡といえど突然死みたいな死に方・・・。
島流しだったら異様に長生きしたかもね
宇喜多秀家は長生きしたよナ
意味は無かったけど
上方とは和平派だったけど、関東では結構暴れてる
よね、氏直。智勇兼備の人物だったと思いたい。
>>43 その意見には賛成。信濃や甲斐まで進軍していますし。
ただ、氏直のやり方は氏規以外の北条一族から敬遠されていたような気がします。
まあ、若いから仕方がないですか。
末期の後北条氏はどうも分裂気味だったみたいだね。
各方面軍の力が大きい上に、小田原は合議制だから
北条氏全体の意思の統一が難しかったんだろうか。
連れ合いの転勤で福岡に住んでたとき、
佐賀県相知町にある氏房の伝お墓にいったことがある。
佐賀の田舎町のお寺の、寂しいとこでした。
地元伝承の一つに、秀吉の名護屋入り前日に
家康の陣内で急死ってのがあるんだよね。
前日、急死・・・、何かあったのかなーなんて勘ぐったりして。
氏直は積極策が多い。(氏康と信玄の孫にしては大胆かな?)
氏政は慎重策が多い。(武田ショックが尾を引くか?)
氏照は慎重策が多いかな。(根回し多いし性格はマメな方か?)
篭城策採択は氏政・氏照の性格にあるかと。
普通に考えると篭城策だな。
氏直・氏邦・氏規には篭城をしても意味が無いと考えているよ
負け戦を黙ってするつもりはないだろう
氏直は実権を奪われていたふしが見え隠れ
氏直(野戦)派の氏邦・氏規は小田原から出されている
野戦でも勝てないでしょ。野戦と篭城なら
篭城の方がまだ見込みがある。
和平に持ち込もうとしても既に手遅れになってて、しかも
あれだけの大群に周囲を囲まれてしまったら、
堅城を頼りに「篭ってみる」しかないよね。
そして時々氏房みたいにゲリラ戦で抵抗してみる。
けれど、秀吉という大きな時代のうねりに反旗を翻した時点で
勝敗は決定していた・・・。
北条方の秀吉方諸将へ内通工作について
ご存知の方いませんか。
55 :
日本@名無史さん:04/11/18 00:01:09
小田原城は落城していませんから篭城戦の方がいいと普通は考えてしまいますね。
ただ、後詰無しの篭城戦より少数精鋭での野戦の方がまだ勝算あるような気がします。
豊臣秀吉の本陣を突けば戦局は充分に変わりますしね。(難しいので風魔にも依頼。)
座して死を待つよりは一矢報いた方が兵たちの士気もだいぶ違うかな。
足柄城(氏光)・山中城(氏勝援軍)・韮山城(氏規)などの箱根峠防衛ラインの存在、
松井田城(かなりの堅城で防衛向き。)を中心とする碓氷峠防衛ラインの存在を考えますと、
黄瀬川の辺りで野戦もいいと思いますよ。(氏直・氏邦は実際に提案していますし。)
それで防衛線を突破された時に戦術を篭城戦へ変更の方が自然の流れかも。
あげてしまった。(失礼)
>>54 内通工作の証拠は隠滅してしまっているでしょうね。
ただ、徳川家康と織田信雄は内通の噂が大きいので可能性はあります。
小田原城包囲の陣の配置もかなりあからさまになっていますしね。
信雄改易は恩賞イチャモンはとってつけた公式発表で
内通チャンネルがバレたからじゃないかと思ったり思わなかったり
59 :
日本@名無史さん:04/11/18 12:04:37
北条氏政って徳川家康ちゃんの肉便器だったらしいな
60 :
日本@名無史さん:04/11/18 16:39:41
>>55 大軍相手に劣勢になると一気に崩れる。
篭城にすら持ち込めない場合が非常に高い。
ここで大坂城での真田のような戦略や戦術は使えない。
なぜかというと秀吉軍が大軍であるため、北条方は野戦出張にかなりの兵力を割かなければならなくなる。
崩れた場合、本城支城に後詰兵が足りないため支えきれない。
決定的な見過ちは北条方の支城と枝城がすぐ落ちる事なのです。
でもその時点では、支城体制と山中城に代表されるような鉄砲に対応したとされる北条流築城術の欠点に気づいていない。
あと野戦で、もしうまく膠着状態になった時でも出張での士気の低下は著しくもある。
秀吉方は短期決着を望んでいるが北条方は長期対陣を望んでいる。
短期決戦は大勝しない限り、部分的に勝ったとしても戦略上や政治的にも北条方に不利になります。
降伏せず、延々篭り続けたらどうだったろう?
先に秀吉の方が音をあげたりはしないかな?
ここはsage親交でしたね。。。
そしてこの総篭城戦を立案、総指揮したのが松田憲秀。
彼は誤解され評価が低いが、実はよくよく調べると北条家の軍師ともいえる戦略家。
実際は軍師というよりも北条軍総司令官に近い。
武田の駿河侵攻での深沢矢文で有名な深沢城篭城も彼の立案で、
綱成と一緒に篭城していて全軍指揮を執っている。
長期篭城戦でも戦略を間違えないで信玄を釘付けにしている。
また落城間近でさえ交渉能力も高く、条件よく開城し城兵も綱成も憲秀も生還している。
また野戦出張も得意で転戦ばかりしている。対勝頼戦では長期的な展望の下に大軍を配置して指揮をとっている。
何故氏康が重用したのかが分かります。
恐らく対秀吉戦もこれに習ったものと思われます。
証拠に秀吉戦では山中城に戦略を叩き込んだであろう親族の松田康長を送り込んでいる。
しかし一両日で落城!松井田城も落城。長期戦をもくろんだニ方面作戦失敗したので次策の総篭城体制に移ります。
ここで八王子城失陥。
韮山、下田、忍などは守勢側の鉄砲が有効に使え、海や幅広の水堀により大軍による包囲強襲できない城構造になっているが、
山の稜線を生かした出丸を多く含んだ立地の山中、松井田、八王子は大軍攻囲には向きません。
篭城側は四方から敵を受ける形になります。北条方も大量の鉄砲を用意していたが限界になり、また障子堀も大した役に立たない・・・。支城の短期落城は憲秀の大誤算となった。
また北条家は現町田市の小山田領「飛び地」の処遇で信長と急に対立していると考えられるし、
小田原攻めの原因となった名胡桃城での西上野の領土問題も同じと考えられる。
従って氏政と氏照は筋を通す為、また東国武士の土地への執着が生んだ結果であろう。
氏政はその為に評定衆の拡充をはかり、小さい土地問題でも虎朱印状を発布して取り組んでいる。
そして小田原開城後、総指揮での敗戦責任を取り憲秀切腹。
これらにより政治的な判断であって憲秀は裏切りではないだろう。
他では朝倉景鏡も同様と考えられる。
>>61 どうなんでしょうかね。
[秀吉側は茶人や愛妾までつれて、長期の対陣に備えてたし
攻防両陣営向けに商人が群れ集って市まで開かれていた]
なんてよく聞きますが、小田原城内の兵糧はいかに?
こういった戦後を睨んでいたのではないか?
朝倉景鏡は家名を存続するため朝倉義景を切腹させる事で責任を回避した。
景鏡は信長配下の森と坂井を討ち取っても、信長には守護任命を赦されている。
北条家も同様で松田憲秀の「最悪を想定した戦略」は信玄駿河侵攻での対応と同じであると考えられます。
さらに憲秀の手法は大胆で当主氏政切腹をも防ぎ存続する方法であったのがわかっている。
秀吉の島津家仕置きも考慮にいれてたであろうか・・・。
>>60 そのありふれた説はあまりあてにならないと思います。
戦は駆け引きですよ。それにそんなに兵力は要らないし。
まともにぶつかる作戦では負け戦ですからね。
野戦派もそれくらいは分かっているはず。
基本的には和平派が多いからね。
ところで真田幸村(?)って何かしたの?
>>61 北条家が敗北して豊臣秀吉は天下統一を達成すると思います。
三木城・鳥取城・高松城の二の舞(というのかな?)になりますよ。
秀吉の戦略は経済(物量)戦争なので勝つのは難しいかと。
後詰も無いし。
小田原城と忍城だけでは何もできませんよね。
野戦にしろ篭城戦にしろ長曾我部家や島津家と同じ経路を辿ると思います。
ただ戦国時代最終戦のため北条家の滅亡は確定と思いますが。
織田信長と豊臣秀吉、人柄が違いますからね。 どうかな〜?
憲秀を評価するのはわかるけど、篭城戦の指揮は氏政か氏照じゃないの?
それと
>さらに憲秀の手法は大胆で当主氏政切腹をも防ぎ存続する方法であったのがわかっている。
これについて教えてください。
>>67 > 秀吉の戦略は経済(物量)戦争なので勝つのは難しいかと。
後知恵になるが、唯一勝利とまではいかずともドローに持ち込む方法がある。
それは、(どこかで聞いたような話だが)戦場で秀吉の首を取ることだ。
ただし、それを大局的な判定勝に持ち込むには外交的見識が必要だが。
歴史に『if』はありませが、
豊臣秀吉が戦死、もしくは暗殺された場合、豊臣政権は崩壊します。
実弟秀長、はすぐに病死。
北の政所(秀次派)と淀君(鶴松派)の確執。
徳川家康の離反。(桶狭間合戦の時と同じ行動をとると思います。)
千利休も豊臣政権を守らないでしょう。。
いしふしん城こしらへもいらぬもの
あづちお田原見るにつけても
>>69 すみません誤記でした。
訂正:さらに憲秀の手法は大胆で当主氏政切腹をも防ぎ存続する方法であったのかもしれない。
ということで深沢開城での前例あったということでです。
もちろん氏政や憲秀は切腹してますし、特別秘匿にされる事なので史料とかはありません。
あくまで前例を元にした推側。
ただ嫡男が何度か寝返っているので、これにも真実の経緯があるかもしれません。
それと秀吉の戦後処理が余りに厳しすぎるところがあります。
基本的に名家を残す戦略から、氏政切腹でも本来なら相模一国ぐらいは安堵するはずで
開城条件を反故にするということは、それ相当なやり取りがあったと推測されるところですが・・・。
氏政、氏照の辞世の句ってすごく綺麗だよね。
彼らの人となりが良く分かるような。。
二人の墓所が若者の人気スポットになってるのが
微笑ましい。
いくら歌を嗜んでいた北條でも
あまりに良く出来過ぎてて創作臭い
きれいすぎる
昨日の新聞に秀吉の家康あての書簡が見つかったって記事があって。
当時、家康が豊臣にも北条にも養子を送って関係を保っていたと書いてたが、
豊臣に送ってた養子はのちの結城秀康だろうけど、
北条に送ってた養子って誰?
督姫のことではないでしょうか?
原文を読んでみないと分かりませんが?
北条家と徳川家の合力は脅威ですからね。
とても心配だったと思いますよ。
信長の野望オンラインで北条氏康がゲーム開始以来始めて倒されましたよ
>>79 よくわかりませんが何かのゲーム?
そういうのに疎くって・・・。
81 :
日本@名無史さん:04/12/14 00:35:05
そのまんま信長の野望て書いてあるじゃん。
そういや北条氏勝って小田原滅亡後大名になってんだな。
なんで玉縄衆の間宮はその家臣ではなく徳川家の旗本になってんだろ。氏勝に解雇された?
北条家が降伏した時点で、解体されたんじゃないですか?
83 :
日本@名無史さん:04/12/27 21:40:57
age
>>66 >ところで真田幸村(?)って何かしたの?
水攻めシパーイした三成の後に忍城を攻めて、
成田甲斐姫(19歳・女の子)に撃退された。
甲斐姫は伝承半分の人物と思われたし。
86 :
日本@名無史さん:05/01/05 17:17:11
信長の野望蒼天録の、1570年から始まるシナリオで
北条氏と里見氏の間に婚姻関係の不戦同盟が結ばれている状態になっているんですが、
これって、史実どおりなんでしょうか?
一応、婚姻はかろうじてたもってますが、友好度は最悪に悪化してて、
破綻寸前です。
北条氏の外交に詳しい方、教えてください。
北條家にも外交にも詳しくないですが、7年程早いです。実際に講和&婚姻となったのは1577年。
里見氏が北條氏に人質を送り、里見義頼の正室として氏政の娘・鶴姫を嫁がせています。
で、この時里見方から北條に送った人質が誰か分かりません。
88 :
日本@名無史さん:05/01/11 00:43:33
>>82 やっぱそうなのかな。
岩富藩の分限帳はないの?
北条末期の分限帳が残ってたらな〜
本田とか戦功で1562年に一気に500貫文も加増されてるじゃん。500貫文も。
所謂「分限帳」の江戸衆の中では興津らを飛越え、遠山、富永、小幡、太田、島津に次ぐ知行。
末期の分限帳あったなら永禄の分限帳に比べて誰がどれだけ出世したか分かるのに。
89 :
日本@名無史さん:05/01/11 00:51:32
執権の北条氏と後北条氏の家紋(三角が三つのもの)って同じですか?
90 :
森田一義:05/01/11 01:12:34
北条宗家 臨済宗
大道寺 浄土宗
遠山 聖観音宗?
玉縄北条 曹洞宗(浄土宗?)
吉良 浄土宗
他も教えてタモれ。
>>89 同じ。三つ鱗。
ちなみに株式会社ミツウロコはたぶん北条氏と何の関係もない。
92 :
日本@名無史さん:05/01/15 00:13:53
>>90 北条宗家 臨済宗と曹洞宗
北条氏照 曹洞宗
北条氏邦 曹洞宗
遠山 曹洞宗
垪和 曹洞宗
内藤 曹洞宗
笠原 曹洞宗
清水 曹洞宗
間宮 曹洞宗
玉縄北条 曹洞宗と浄土宗
北条氏規 浄土宗
石巻 浄土宗
朝倉 浄土宗
布施 曹洞宗と日蓮宗
江戸太田 日蓮宗
行方 日蓮宗
久野北条 臨済宗
松田 臨済宗
岩槻太田 臨済宗
多米 法華宗
これらは菩提寺等の現在の宗派、当時は違う場合もある
93 :
日本@名無史さん:05/01/15 00:37:22
僕のすんでる所は平塚市なんですが、家の至近にある少林寺ってお寺に氏尭が
寺領を寄進してます。
それと92氏レス中の布施家は今でも子孫がおられ、菩提寺のご本尊は国の重文に
指定されてます。山の上に有り、遠く横浜のみなとみらいのビル群も望めます。
ちなみに分家の屋敷跡が4kmばかり離れた場所にありますが、そこに分家した
布施氏の開基のお寺の事かな?日蓮宗のお寺があります。
北条氏の分国だった地域に生まれた事が嬉しいです。w
すまそ、上げてしもたorz
北条早雲って・・・・伊勢宗瑞のことか?
そうだ。伊勢新九郎盛時。
97 :
日本@名無史さん:05/01/15 13:47:15
>>96 まだ伊勢新九郎盛時=伊勢宗瑞って、完全に証明はされては
いないんだよね。
打渡状を書いた盛時と申次衆の盛時が=って文書が新発見されたら
完全なんだけどなぁ
98 :
日本@名無史さん:05/01/15 18:18:51
>>86-87 里見の方に詳しいのですが、越相同盟の折に里見氏は上総武田氏の仲介で同氏の同族である甲斐の武田信玄と同盟を結んでいます。
99 :
日本@名無史さん:05/01/15 18:21:39
ウジウジと伝えてきた一族だよ。ウジに意味はあるのかな?
>>99 今川からの一字拝領だろ?元々は。
で、その今川は堀越公方あたりからの一字拝領だろう。
>>98 里見家に詳しいのなら色々聞きたいのですがいいですか?
まずは、久留里城攻めについてです。
北条家は3回攻めたと聞いたのですが、
永禄3年の攻防戦の他にいつあったのでしょう?
詳細を教えて下さい。よろ〜。
堀越公方×
古河公方○
元々今川からの一字拝領だったが、そのあと花倉の乱で今川義元と北條氏綱が敵対した為
拝領した「氏」の字を通字としてしまうことで今川に対抗することを示した、とか?
>>102 助かりました。(感謝)
天正2年に里見義堯が死去したあと、
東金城と土気城が北条家の支配下に置かれますよね。
里見義弘の動向を知りたいです。(一説には酒井氏を見捨てたとか?)
それと天正4年の三崎沖海戦、天正5年の三船台対陣のことも。
教えてくれで申し訳ありませんがよろ〜。
107 :
日本@名無史さん:05/01/15 20:08:45
>>106 すみません。
永禄10年の方じゃなくて天正5年の方なんです。(汗)
急がせてしまってごめんなさい。
>>107 ありがとうございます。(感謝)
まだ一通りしか目を通していませんが面白そうです。
これを一回読んでみます。
また質問があったら聞きに来ますですー♪
房相一和で里見義弘は返礼に鮑を送っている様子。
義弘はお洒落さんだね・・・。
打ち鮑だもんね。これは氏政も里見家に打たれたぁ!!
って言って食べたんだろうか・・・w
里見に詳しい人は教えてくれないの?
112 :
日本@名無史さん:05/01/16 01:02:02
早雲庵宗瑞=無位無官
氏綱=従五位下左京大夫・相模守・相模守護職
氏康=同上
氏政=従四位下 以下同文
氏直=従五位下 以下同文
官位官途はこれでいいの?それと上に出てきてる里見の面々は
朝廷からちゃんとした官位官途はもらっているんだろうか?
113 :
日本@名無史さん:05/01/16 02:13:18
守護職は官位でも官途でもないわな。
114 :
日本@名無史さん:05/01/16 04:00:25
115 :
日本@名無史さん:05/01/16 10:19:16
氏親だろ。
氏綱元服のとき、宗瑞はまだ今川家の家臣だったわけで。
117 :
日本@名無史さん:05/01/17 15:38:35
86です
>87 そうなんですよね。僕の調べた範囲での結論ですが、まだ1570年秋には
北条・里見間には同盟はないハズなんですよね。
>96 里見にくわしい方ですか。ではぜひお聞きしたいです。
1570年秋にはまだ北条・里見の同盟関係はありませんよね?
これは、ゲームメーカーKOEIの間違いでしょうか?
この同盟があるせいで、里見に対する警戒をしなくてよくなった武蔵の北条軍団が
一斉に甲斐になだれこむので、武田が一年もせずに滅んで、なんかやる気なくしてしまいます。
史実どおりなら仕方ないけど、どうやら、間違ってるように思うので。
118 :
日本@名無史さん:05/01/17 15:40:39
↑
96じゃなくて
>98でした。スマソです。
里見に詳しい人は教えてくれないんだよ
他所のアドレス貼ってくれる人はいるんだけど。
オレに聞いてないから答えにくいがどうしようかな・・・。
ここ学問板だし、こういうのは三戦板に専用スレが
あったはずだからそっちで聞くのがいいかも・・・。
まぁ、ゲームも「天下創生PK版」ならやった事があります。
あと答えにくいんですよ・・・武田家ひいきなの?誰でやっているの?
>>史実どおりなら仕方ないけど・・・
仕方ないんの!?
一応あってるから『武田家滅亡で問題ない』よ!!(藁
ちなみに蒼天録はやった事がありません・・・。
>>119 皆RON専だから・・・。
121 :
98:05/01/18 07:45:55
>>117 私も詳しいといっても北条に対して里見に詳しい(むしろ里見<千葉)という程度なので、正直言って最近の研究成果なら千野原氏あたりの著書を読んだ方がいいと思いますし、
私もコーエーユーザーですが、コーエーさんは軍記とかはよく取り込みますが、研究書とか地元編纂の本とかはあんまり気にしていないという気がします。
ですから、時々そういうミスが起きますよ。
まあ、それを言ったら浅井久政→斎藤義龍の婚姻、波多野秀治→別所長治の婚姻なんて全く考慮されていませんし…。
光栄なら、むしろ信長よりも太閤立志伝の方がよく調べてあったりする。
123 :
日本@名無史さん:05/01/18 12:44:04
334 :日本@名無史さん :05/01/02 02:50:11
北条氏康って「関東八カ国の戦国大名」だと思っていたけど、
あくまで足利義氏の補佐って立場だったんだね。
足利義氏…右兵衛佐(頼朝の征夷大将軍前の官位)
北条氏康…左京大夫・相模守(義時以降の北条得宗家当主の官位)
関東管領を継いだ上杉謙信に対抗して、北条執権を名乗っているのが面白い。
124 :
日本@名無史さん:05/01/18 15:00:34
>120
ゲームのコマンドやシステムに関する疑問じゃなくて、それから派生した歴史事実に関する疑問なので、こちらのスレで聞いてみました。多分、こちらのほうが、みなさん詳しい知識をお持ちでしょうし。
上杉ファンです。なので信玄に逝かれると萎えます。wそれで、武田の生存に大きく影響している
里見・北条同盟が気になるわけです。
えっ!? 一応、あってるんですか?
自分で調べた結果では、1570年には、まだ同盟してないという結論に至ったのですが。
このあと、まだ国府台合戦も行われますし。
情報お持ちでしたら、ぜひお教えいただきたいです。
あとちなみに、ゲーム上データでは、1570年には、北条鶴姫13歳が里見儀頼に嫁いでいて
両家の婚姻が結ばれていることになってます。
>>124 ゲームをやっていませんから口出しするのもどうかと思ったのですが、
多分、そのゲームは間違えていると思いますよ。
126 :
120:05/01/18 15:38:33
永禄12年1月20日、妙本寺文書で氏康は里見と同盟を計っているようだ。
おそらくこれを光栄は何らかの歴史書籍から知ったのだろう。
と同時に輝虎にも盟約と婚姻を計っている。
翌年の元亀元年4月25日、輝虎と三郎が養子縁組になり景虎と改名する。
対信玄対策で包囲網形成したことは別に里見に詳しくなくてもわかるだろう・・・。
よって「婚姻自体の事実」は良質な一級史料で確認できてないが、
盟約や約定があったことは史料と事実が示している。共闘関係で和睦していることは間違いない。
因みにその妙本寺は鎌倉のではなく安房の方だと思う。
おそらく収蔵しているみたいだから、寺に問い合わせて直接自分の目で確認してみればどうかな?
そしてもう一度言う、光栄が正しいからゲーム上では『武田家滅亡』で問題ない(爆
まぁもっともこれを答えたからといって「何も」解決してないが・・・。
だ・か・ら答えにくいのだ・・・。
127 :
日本@名無史さん:05/01/18 21:56:53
御大途様・・・
128 :
98:05/01/19 13:02:55
>>126 妙本寺
千葉県の保田にありますね。
某嵐世記の設定の下総側ではありませんよ。
129 :
日本@名無史さん:05/01/19 17:55:45
>>128 嵐世記の設定とはどういうことかな?
嵐世記はやった事がないもんで・・・。
ここでの主題は謙信ライバルの武田がどうして一年足らずで滅亡なの?
ってことなんでは?
しかも説明不足で全くわかりませんよ。
つかスレ違い、去ね
131 :
日本@名無史さん:05/01/19 19:39:42
>126
おぉ!くわしい情報どうもありがとうございます。
まったく知らなかったです。
この時期の外交の相関関係は、中央、関東甲信越、ともにコロコロ変わりますから、ややこしいですね。
織田の動向の変化がめぐりめぐって関東の北条にまで影響していくので、面白いとは思いますが。
ところで、この事実を知って、ちょっと不思議に思った事があります。
1569年に信玄が里見に接近して、房甲同盟が成立してます。
1570年には、武田が伊豆に出兵したのに合わせて、里見も北条を攻撃してますよね。
これは北条・里見間の共闘が情勢の変化(三増峠での北条の敗北)によって短期間のうちに機能しなくなったという事なんでしょうか?
>>131 >>126の人とは別人ですが、
北条家は里見家と同盟を計りますが機能したかは不明です。(また成立したかどうかも怪しいと思いますw)
里見家は早くも2月に下総に侵攻します。
6月にも北条家と小競り合いを起こしています。
8月に入ると甲房同盟が成立してます。
とても北条家と里見家が同盟していたとは思えませんね。(越相同盟より酷いw)
133 :
日本@名無史さん:05/01/19 20:43:04
>>128 保田って事は富津市の保田(ほた)か?近いな、行って見ようかな?
当方、相模国から出陣(転勤)で上総木更津にて城番中。w
126の三段以降が何いってるのか理解出来ないんで解説たのんます
一応煽りじゃないですから
135 :
日本@名無史さん:05/01/20 00:46:29
と同時に上杉謙信(輝虎)とも盟約と婚姻を図っている。
翌年、上杉輝虎と、北条三郎氏秀(北条氏康の子)との養子縁組が成立し
氏秀は、上杉謙信の若き日の名、景虎と改名している。
ということですよ。
そして、景虎は兄に見捨てられた
最近は上杉景虎と北条氏秀は別人とされる。
>>137 詳細お願いします。煽りとかじゃなく興味があります。
139 :
日本@名無史さん:05/01/20 22:08:20
最近じゃコーエー本でも取り上げられているけど、
>>135 そこじゃなくて、因みにから、だ・か・ら答えにくいのだ・・までの文です
141 :
日本@名無史さん:05/01/21 00:14:12
>132
軍事行動を起こしているのだから、同盟が機能しなかった、もしくは締結されなかったと考えるのが自然なのでしょうか。
126氏が教えてくださった情報は、会見の日時場所までかなり具体的なので、北条氏が同盟を試みたことは事実なのでしょうが、
盟約にまで至らなかったのだと、私も思います。
>>138 『北条家過去帳』に
「 武州江戸北条治部少輔殿 取次蓮乗院
玉岩寺新養道雲大禅定門
平氏秀(花押)
天正十一癸未六月二日年」
とあり、北条氏秀は江戸城の武将で1583年に死去。他の文書から
岩槻城(武蔵)・関宿城(下総)などにも在番していたらしい。この人物は
『豆相記』によれば北条綱成の子(氏繁の弟)であるという。
上杉景虎は北条氏康の八男の三郎。北条幻庵の婿養子となった後
上杉家の養子となった。景虎改名以前の諱は不明。
ありがたきかな、北條氏研究の成果
上杉謙信関東進入と同時に、北条から上杉に寝返り、また北条氏側になった豪族は多いが
多摩地方の豪族三田氏はなぜ、最後まで抵抗したのだろう。上杉の救援を信じていたとか
いろいろ諸説があるし、滅びた年も永禄六年〜十二年と諸説あります。
このスレの住人の方の見解はどうでしょうか?
奥多摩の辛垣城に登ったとき、こんな山によく城を作ったものだと感心したことがあります。
138です。142さんありがとうございます。
ヒロシです。142さんありがとうございます。
>>144 「綱」の字までもらってるのにね(無理やりかも試練が)
148 :
日本@名無史さん:05/01/21 21:11:48
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| ノ′ ヽ 〔 ミ
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.| .ミ .< 〔 〕
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{ ¨^^¨′¨'ー-v-r《
>>144 あくまで伝説なんだけど、落城後多摩川のほとりに隠れ潜んでた
三田家の姫が、笛を介して北条氏照と出あって恋に落ち、
嫉妬した正室大石氏に抹殺される・・・というお話があります。
昭島市広報にも載ってた伝説。
大石氏は氏照が婿に入るなど、北条氏に重く登用されてたのに
同じ関東管領旧重臣でありながら、北条氏にあまり登用されない
やっかみってのもあったんじゃないのか
151 :
日本@名無史さん:05/01/22 11:19:38
152 :
日本@名無史さん:05/01/22 12:36:29
スレ違いだが、無理やりと言えば、どこかの大名や
有力国人の子が元服するという情報を聞く度に
無理やり使者を派遣し、文字通り「売名行為」を
していた将軍、足利義晴を思い出す。
義輝モナー
154 :
日本@名無史さん:05/01/22 23:15:05
セックス教団後呆嬢
155 :
日本@名無史さん:05/01/23 02:19:35
>>152-153 なるほど輝と晴の付く武将多いな。伊達晴宗・輝宗、南部晴政、大内輝弘、
細川晴元、毛利輝元、足利晴氏、武田晴信・・他にもいるかな?
後は義の字を授けてるケースもあるからな。晴信なんぞは完全に押し売りかな?
武田は将軍から一字書き出し受けてる当主って、先例があったっけ?
武田は違うが、伊達家は代々貰ってるな。
伊達氏の当主は歴代、公方の偏諱を賜っているな。
大内氏・山名氏・畠山氏・細川氏などの重要大名もしかり。
三管領筆頭の斯波氏は「義」字。
一方で今川・京極・六角・上杉・土岐あたりは一字拝領受けてない
武田も甲斐・若狭とも(もちろん分家の安藝・上総も)受けてないな。
晴信が最初で、義信で終わりか
江戸時代だと御三家格+国持クラスの外様あたり
その他(有名どころだけw)
今川義元→松平元信
織田信長→長曾我部信親
六角義賢→浅井賢政
上杉憲政→長尾政虎
豊臣秀吉→宇喜多秀家
豊臣秀吉→織田秀信
大内義隆→龍造寺隆信
159 :
日本@名無史さん:05/01/23 13:47:14
確か、
武田信玄(晴信)→南部信直という説もある。
大友義統→立花統虎(宗茂)
豊臣秀吉→徳川秀忠
豊臣秀吉→宇喜多秀家
豊臣秀吉→毛利秀元
>>157 今川は義忠と義元だけ「義」の字貰ってるな
そろそろ話を北条に戻そうか。
せっかくなので偏諱に絡めると、重臣の多くが偏諱を受けている中、
重臣筆頭の松田憲秀はそうじゃないんだね。息子たちは受けているのに。
盛秀は早雲からもらったのかな?
御由緒家でしたっけ?
何故松田家が、突出した力を持つようになったんですかね?
>>163 備前で活躍したからでは?
詳しくは知りませんが。
165 :
日本@名無史さん:05/01/23 20:38:22
備前の松田家とは関係ないのでは?
備前の松田家と上総の酒井家は戦国時代を代表する法華大名家だから、松田憲秀が関係しているのなら当然日蓮宗徒でなければおかしいわけだが、そういう話は聞かないし…。
>>164 最近の研究(杉山博?)で、北條家臣松田氏は相模松田氏ではなく、備前松田氏の
一族が早雲と下ってきて相模松田氏の名跡に入った、、、なんて説もありますね。
もっとも備前松田氏も相模松田氏の分家のようですが。
一字の件は、総領の松田当主は受けてないが分家筋はもらってますね。
関東執事の上杉氏同様、別格扱いなのかな?
ところで例の七人衆に在竹氏ってのがいたと思うんですが、天正年間にも家は
存続してたんですか?荒木氏は氏康の代に成敗されたとか小田原北條記に
話が有ったと思いますが・・・。
168 :
日本@名無史さん:05/01/24 04:01:11
>>157 若狭武田は貰ってるよ
土岐も成頼とか政房とかそうじゃない?
司馬の箱根の坂によるとww
早雲に会いにわざわざ伊豆まで松田一族がいってるな。
あくまでも「箱根の坂」によるとだがwww
>>168 代々もらってるかどうかだろ。たまにもらう程度なら他にも結構ある
171 :
日本@名無史さん:05/01/24 11:06:12
>>167 そういえば、南北朝の一時期に短期間ながら備前松田氏は守護に補任されていた筈です。
172 :
日本@名無史さん:05/01/24 19:26:01
中公「日本の歴史」の戦国時代の巻の後北条氏の部分に紹介されていた史料に、
後北条氏の一門衆として伊勢○○守とか大和○○大輔(○○は失念)という人名が
あったのですが、室町幕府の幕臣を一門として招いていたということですか?
>>172 伊勢貞運、小笠原康広、大和晴統のことですね。
そうかもしれませんね〜。
軍師として有名ですね!!
え?有名でない!?
そうですか・・・そうなんですか・・・。ぐすっ・・・。
>>174 私の心の中では三軍師として大活躍を演じておりますw
>>171 備前松田氏は最終的に滅ぼされますよね。浦上氏にだっけ?宇喜田氏だっけ
どちらかと思いましたが。
177 :
日本@名無史さん:05/01/25 14:52:51
浦上の命を受けた宇喜多氏
もっともこれで力を付けた宇喜多が下克上をやるわけだが
>>172 大和兵部大輔ですね。奉公衆の家柄だと聞きましたが・・・。
軍師じゃなく、京(幕府・朝廷)と小田原との交渉等窓口、礼法等
文化的役割を期待して招聘されたんではないでしょうか?
江戸幕府の高家的位置付けだと思います。
でも、伊勢貞運か小笠原康弘のどちらかは戦死していませんか。うろ覚えにて
ご免!
>>178 伊勢貞運が小田原城包囲戦で戦死します。
小笠原康広は高野山へ入ります。
180 :
日本@名無史さん:05/01/26 00:57:32
先日、小田原市久野の幻庵屋敷跡行って来ますた。
最初場所が良く分からなくて、通りかかった80歳くらいの
おばあさんに聞いたらすぐわかった。
「ああ、幻庵さんの・・・」ってさん付けで呼んでました。
500年前の人でも、いまだ地域の人には親しまれているんだなぁと実感。
181 :
日本@名無史さん:05/01/28 00:58:29
小田原北条氏は町も人も、文化レベルが高かった
ようですし、京上方との交流も盛んだったみたいですが、
秀吉の小田原攻めに至る過程においては、孤立していて
京都の事情に疎かったなどと言われますね。
いったいどっちが正しいのでしょう?
>>181 北条家の上方に対する情報収集力は悪くはないと思います。
ただ豊臣家の経済力を過小評価していたこと、
豊臣家独特の戦略が関東では馴染みがないこと、
この二つが大きいです。
分析力に問題ありと思います。
篭城戦だけで乗り切るのは厳しいかな〜と思います。
183 :
if:05/01/28 12:20:05
伊達、徳川がもしかしたらどうなっていたかね・・・?
184 :
日本@名無史さん:05/01/28 14:01:18
北条の生き残る道の策はこの2つだ
1 伊達家を味方につける政略
2 徳川家康と織田信雄に対する離間策
1 については関東の次には豊家が奥州に進軍するのは間違いないと
伊達家でも認識して北条との同盟、共同作戦で生き残りの道を探してた
2 については家康は氏直に娘を嫁がせており、六年前には織田信雄を擁して
小牧、長久手で豊家と覇権を争っている。
家康が信雄を名目人として、北条と共に軍事行動起せば、豊家の支配体制も
危ない。事実小田原対陣中には、家康、信雄の寝返りの噂が流れて秀吉も疑った。
秀吉の臣下にいちはやくなっていれば大大名になれてたんじゃないの?
氏政、氏照が生きてる間はむり
徳川と仲いいからね。
豊臣としてはできるだけ力を削ぎたいところじゃないか。
本能寺の変以降、秀吉は常に北条家を仮想敵国に位置付けています。
下剋上の代表のような北条家は滅ぼしておきたかったのかもしれません。
それに長曾我部家や島津家、伊達家と違い、
強大な要素を持ち過ぎていたところも秀吉にとっては目障りになります。
>>185 徳川・北条連合の強大さは、基盤の脆弱な豊臣政権にとってあまりに脅威。
秀吉がそのまま放っておいてくれるかどうか…
>>189 放っておいてはくれないでしょうね。
北条家も徳川家と同様に石高が強大過ぎます。
上杉家や毛利家とはレベルが違い過ぎます。
191 :
日本@名無史さん:05/01/28 18:23:22
>>190 しかし兵農分離も進んでなく、家臣掌握も前時代的なものを天正18年時点
でも引きずっていた。
少なくとも家臣団掌握は毛利家の方が進んでいたんではないだろうか?
上杉はまあアレだけど。
皆川とか小山とか千葉とかetc・・・いかにも無理やり動員で戦意無さ過ぎ
忠誠心などはほとんど無かっただろうなぁ。
言ってみれば昭和20年7月頃の根こそぎ動員みたいな感じ・・・。
>>191 毛利家に関してだけ言えば家臣団掌握は進んでいない。
忠誠心でも北条家も毛利家も大して変わらないでしょう。
皆川に忠誠心を求めてもw
193 :
日本@名無史さん:05/01/28 21:08:13
佐野天白モナー
194 :
景虎:05/01/28 23:00:37
毛利は一族でも信用ならないが、
北条一族は仲良しで裏切らないね。なぜ?
195 :
日本@名無史さん:05/01/28 23:24:45
つか、それは元就の中期頃までの間で、輝元時代には
ほとんど安定期に入ってると思うがいかに?
上杉は景勝の代でも重臣の反乱頻発だたーね。
196 :
日本@名無史さん:05/01/28 23:28:39
小田原評定
197 :
ad:05/01/28 23:49:50
smfpi,sdsjolpjsdomfrlidsdfsoms
>>195 毛利の方が国人衆の組織化は進んでないと思う。
秀吉の命令で出兵するのにかかる時間も、国内の検地するのにも手間取ってるし。
西日本のほうが、先進的な分、大名による国内の組織化は遅れていたみたい。
北条は、国境近くの外様は別にして、支城単位での動員とか、各地の国人を地域ごとに
把握して動員したりしているから、信長・秀吉タイプの大名以外では、組織化が最も進んでいた
大名だという話は呼んだことがあるけど。
199 :
落武者:05/01/29 01:09:03
>>198 なるほど。北条氏は組織化がすすんで評定衆を定めて・・・
とかって話が進むのでしょうかね。分かりやすい。
>>198 >西日本のほうが、先進的な分、大名による国内の組織化は遅れていたみたい。
西日本が先進的とは思えないがw
201 :
日本@名無史さん:05/01/29 02:24:25
普通に考えて先進地域は一番は畿内や東海、北陸かと
古代なら北陸は先進地域だと思うが・・・。
>>202 日本海側はつい最近まではけっこう発展していた。(人口も多かったw)
今は関東や東海の方が先進地帯になってしまったがw
実際全世界レベルで豊臣氏以上の動因能力のあるのって明ぐらいじゃない?
動因→動員
206 :
日本@名無史さん:05/01/29 04:51:40
>>204 オスマン=トルコを知らないのかな?
・・・ていうか北条家と関係無いしー。
207 :
日本@名無史さん:05/01/29 08:12:34
比較的、上総〜下総方面の中小大名への支配力は安定してたような
気がする>千葉氏とか高城氏とか酒井氏、原氏etc・・・
それにしても哀れな名門千葉氏。
しかし、北条家ファンなら誰でもウザイと思う里見がガチだが。w
問題は上野・下総北部〜下野方面のヤシ等だな。
>>207 里見家は天正六年の内訌で国力が消耗したからそれほど怖くはないでしょう。
佐竹家、宇都宮家、結城家の方が厄介かな〜?
利根川を越えるのに手間取りますしね。
佐野家、小山家、壬生家は北条家の軍門に下るのに、
何故、結城家は北条家から離反する〜。
まあ、仕方がないですね。
209 :
ifは禁物だが・・・:05/01/29 11:29:56
小田原役が、もしあと5年ほど先に延びていたなら、きっと
宇都宮氏も北條の軍門に下っていたろうなぁ。
佐竹と決戦してたらどっちが勝ったかね。もちろん背後の駿河・甲斐は
徳川とがっちり同盟しているって前提で。
動員は佐竹攻めに2万〜3万、里見他の抑えに5千〜1万ってところか?
佐竹は小田原役の時点でまだ基盤が固まってなかったから、
ダメポでしょう。
>>209 その間に、横から上州あたりをチクチクと上杉が
>>210 大事な時期に東北みたいな不毛の地に手を出して、それでも勝てばいいけど負けて叩き
出されてたからな。
東北進出は佐竹にとって名実ともに実りのない戦いであった。
>>211 新発田の反乱で国力が低下した中、上杉景勝は蘆名義弘を支援して伊達政宗と戦っています。
庄内問題や佐渡問題に謀殺されて撤兵してしまいましたが、
摺上原合戦で蘆名家が滅ぼされているなら上杉景勝の関東侵攻は難しいと思います。
予想
伊達家・最上家vs上杉家
北条家vs佐竹家・宇都宮家・結城家
徳川家・・・
>>209だけでは徳川家と豊臣家の関係がわかりませんね。
214 :
日本@名無史さん:05/01/29 19:32:14
北条家ひいき筋じゃ、憎くて憎くてたまらないのは里見・佐竹に三楽斎
215 :
明日は瀬田に三鱗を立てよ:05/01/29 21:19:32
いずれ東西から豊臣挟み撃ちですよ。古河公方か
義昭担いで。
武田西上カムバッ〜クって感じですな。^^上杉は伊達、最上あたりに
任せておきましょ。
>・ていうか北条家と関係無いし
北条氏の京都事情の話しの続きで。豊臣政権の動因能力が常識はずれだから、情報分析しても北条市の実力があれば戦うと思う
)オスマン=トルコを知らないのかな
トルコが小田原以上に動因してる戦い思いつかない。
豊臣氏の動員能力が高いってどういう意味なんだろう・・・
218 :
日本@名無史さん:05/01/30 03:50:20
>>216 北条家と関係のある話
承知した!
オスマン=トルコの話
動員能力の話じゃないのか?
実際にあった合戦の話の方なのか?
どっちかはっきりさせてくれ〜
219 :
創価の北条副会長:05/01/30 04:17:24
はっきりさせようがない。
220 :
日本@名無史さん:05/01/30 10:44:01
>>217 一般的に解釈すれば、
兵農分離の進行で、農作業に関りなく兵力を動員出来たということ?
たぶん
>>217は専門武士は勿論だが農民徴集兵も入れて考えているんでしょう。
どっちでもいい
>動員能力の話じゃないのか?
こんなの俺はソースないし知らない、こっちでスレイマン、セリム、ムラートとにぽんのあたりで正確なソースがあれば教えてもらえばそういうことでいいし
>実際にあった合戦の話の方なのか?
こっちは俺小田原以上は知らない
なんか話の流れがおかしくないか?
>豊臣氏の動員能力が高いってどういう意味なんだろう・・・
漏れが世界レベルで豊臣氏の動員能力が高いというソースを提示せねばならんのか(オイオイ
>>222 最初の動員能力の話で話を進めます
ソースも何も国力の問題
関東と奥羽を除いた日本の人口とトルコの人口とではどちらが多いか
日本もけして悪くないがトルコの動員能力にはやはり勝てないと思います
>>223のレス同様にソースは自分で探してくれ
ついでに北条家の話も
小田原征伐で豊臣軍は24万以上の兵を派遣したと思いますがもっと出しているかな?
北条軍は4万では少ないので10万以上と思いますが多すぎるかな?
225 :
日本@名無史さん:05/01/30 17:14:55
佐竹と北条って正面きって戦ったことあるんですか?
出自がはっきりしないけど、どうなんだろうね?
北条の家系ほとんどが同和?
228 :
日本@名無史さん:05/01/30 17:36:19
>>226 天正九年八月 佐野城攻め
北条方 氏邦 氏房 大道寺駿河守 伊勢大和守 多米伊賀守
佐野、佐竹方 佐野宗綱 後詰 佐竹義重
戦闘結果 北条の負け戦
関八州古戦録 十一巻 小田原勢 佐野城攻め
229 :
228:05/01/30 17:39:29
>>225 天正十一年十二月
天正十二年七月
北条家vs佐竹家はこの頃にもやってないかな?
天正十三年十一月に人取橋合戦がありますから、
これ以降は少し厳しいかも。
231 :
日本@名無史さん:05/01/31 01:01:43
>230
天正十二年は沼尻ですよね。
十一年はどんな合戦ですか?
>>231 原家vs佐竹家
原家への援軍に大藤氏を派遣したというのはダメかな?
成程、そういう合戦もあったんですか。
北条と佐竹というと、本格的な戦いになる前に
北条家が滅んだという印象が強くて。
沼尻はお互い力を尽くしたようですが、本隊は
睨み合いですよね。周辺ではかなりの戦闘が
あったようですが。
>>228の佐野城攻めは、第6次の唐沢山城攻め
にあたると思うのですが、関八州古戦録によると
この時も戦いの主体は佐野勢で、佐竹は後詰ですね。
佐竹勢が、何かしたようには読めない内容です。
PHP文庫の佐竹義重を読むと、北条家が負けまくりなので
ちょっと納得がいきません。
>>233 結果は佐竹軍の敗走と聞いています。
一応、自分で調べてみてね。
天正十三年には草倉山合戦で北条家vs佐竹家・皆川家の戦があります。
この結果、皆川家は北条家の軍門に下ります。
天正十四年にも須花坂合戦で佐野宗綱が戦死し佐野城は北条家の勢力圏に入っています。
この頃になると北条家の独壇場状態ですね。
236 :
日本@名無史さん:05/02/01 03:12:13
あれ?宗綱って戦死だったっけ?
237 :
日本@名無史さん:05/02/01 21:40:44
戦死だね。
佐竹家は那須家と死闘を演じているイメージが強いですね。
240 :
日本@名無史さん:05/02/04 12:31:52
越後の北条だけなら重複とは言わないが、普通小田原の北条のスレだと思うぞ。
241 :
日本@名無史さん:05/02/05 01:24:39
氏康は謙信と直接戦わず、寄せられれば引き
退けば寄せて、などと言われますが実際には
何度か戦ってますね。
242 :
日本@名無史さん:05/02/05 08:36:32
北条氏家最強伝説
243 :
日本@名無史さん:05/02/06 20:09:31
>>238 でも那須と佐竹は縁戚関係で…だから戦国の外交史はややこしい。
というより関東の戦国史がややこしい。
今朝のテレビ番組に哀川翔アニキが出演していた。
アニキは「朝4時に起きて夜8時に寝る」と言っていた。
早雲の教えを今に引き継ぐアニキはやっぱりかっこいい!と思った。
↑すみません
流してください
ここもキタジョウスレになりますた。
∧_ 人
(;´Д(__)
( つ (__) イケメン風に
) 「( ・∀・)
|/~~~~~~ヽ
___________
、> .|
、> .|
>________ .|
 ̄ .|./_ _\ | |
| / ヽ/ ヽ | | 誰もキタジョウさんを助けてあげられないのか
..| | @ | @ | V⌒i !!!!!
_ |.\ 人__ノ 6 |
\ ̄ ○ し /
. \ 厂
/ _____/
 ̄ ̄, -/へ/\/`- 、
/./ ./o i. \
>________ .|
 ̄ .|./_ _\ | |
| / ヽ/ ヽ | | 誰も
..| | @ | @ | V⌒i !!!!!
_ |.\ 人__ノ 6 |
\ ̄ ○ し /
. \ 厂
/ _____/
 ̄ ̄, -/へ/\/`- 、
/./ ./o i. \
武田勝頼は北条家との同盟を破棄して上杉家と同盟していますが、
織田家が和睦を求めた時、何で承諾しなかったのかな?
1.アフォだから
2.本当は武田の当主ではないから
3.景勝と衆道の関係になりたかったから
4.何も考えていない
5.むしゃくしゃして講和を蹴った、今は反省している
>253
織田家が勝頼時代の武田家に和睦を求めたことなんてあったの?
>>258 和睦の条件は記録に残っているんですか?
260 :
日本@名無史さん:05/02/17 22:29:18
普通に考えて北畠シナリオだな
勝長だったら家名だけは残してくれた気もするが
>258
そうなんすか。知らなかった。
長篠合戦終えてて武田家弱ってただろうに、何故和睦申し込んだんだろう。
262 :
日本@名無史さん:05/02/18 04:32:12
越後のサイヤ人と結んで対抗されるのは
やっぱりこわいんじゃない?
>>259 武田家は専門外なので詳しくは知らないです。
照善院という人が織田家の使者らしいのですが、
織田家の資料では確認できないそうです。
>>261 対上杉同盟らしいです。
織田家は伊達家にも使者を派遣しているみたいです。
ここからは妄想ですが、
織田家は北条家にも使者を派遣している可能性が高いとおもいます。
>>263 時期的に手取川の戦いの直後ですね。なるほど。
加賀・越前へ討ち入ろうとする謙信を南から牽制して欲しかったんでしょうから、
北条家へも使者を派遣してておかしくないですね。
つか北条家にはおもくそ送ってるじゃろ
秀吉に「挨拶に来いって」言われた時に、素直に氏政・氏直親子が上洛して臣従してたら
豊臣政権下での北条家ってどうなっていたじゃろか
やはり国替えで奥州辺りに飛ばされたりして、徐々に弱体化の運命かのぅ
つい近年まで徳川と結んで反抗する気満々の、
200万石クラスの大名をそのままにしてはおかないだろ
徳川と併せると豊臣本家なんか軽く超える大勢力だからねえ…
ああ、流れが変わってしまった。
>>253の織田家と武田家の和睦の話はw
やっぱり武田家と徳川家の紛争が原因かな?
_____ _____
/ \ / \
/ − 、−、 ヽ/_______ ヽ
/ -| /・|・ヽ|- |ノ−、 , ─ \ | | 喜多条にしろって小田原が言うんだ
| /_ `− ●-′ /⌒)| |_|___/
. | | _ ̄ | 二 | ⊂ノ | └ | 6 |
| |  ̄ | ─ |_/-c`─) ) - ′
ヽ |  ̄ ̄ |_) | |‘┬─(、( /
ヽ | /(⌒|\ | |`-`─- ´ノ^\
┝━/ /|~| |━l ヽ__|ヽ./\/ l |
. | / | | | |/ | | |
馬鹿にしてるよね、伊勢の田舎モンのくせにね。
となりのキタジョウさん
ttp://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-imfk/taiandir/x095.html
>>269 和睦の申し入れが織田家からなら、武田家としては
長篠合戦以降に織田・徳川両勢力に奪られた城地の返還くらいは要求したんじゃ
でも家康が承知するはずはなく、
それに脅威の大元の謙信が死んじゃったのでボツになったのでは
勝頼にしてみれば、これから相手を徳川家に絞って盛り返すぞ!
って時に謙信がポックリ逝っちゃって、「うそーん!」ってな気持ちだったろなぁ・・・
>271
確かにスレ違いでした、すみません
北条家絡められなかった・・・
274 :
日本@名無史さん:05/02/19 13:34:57
スレ違いってそんなに目くじら立てなくても
当時の勝頼の動向は御館に関わる重要なファクターだし
>>272 返レス忝い!
お礼に北条家に絡めて返レスします。
武田勝頼は織田信長が上杉家に脅威を持っていると錯覚してしまったのかな?
それで謙信の死後、上杉家に介入できればという軽い気持ちで御館の乱の際に景勝派を支持してしまったのかも。
反対に北条氏政は織田信長が上杉家に脅威を持っていると同じ様に錯覚し、
御館の乱で背信行為を行った武田勝頼に見切りをつけて北条家を必要とする織田家と手を結んだのかも。
北条家にしてみれば反武田の徳川家が駿河方面で提携してくれるので嬉しい話ですね。
この時の北条家の織田家に対する認識の甘さが武田征伐の際の不手際につながっていくのかもねw
信玄の死後、武田勝頼は徳川勢と、北条氏政は上杉勢(佐竹家との提携に失敗)と有利に戦を進めていました。
しかし三方ヶ原合戦での武田家の敗戦は、
北条家に同盟相手の切り替え時を考えさせる切っ掛けになったかもしれませんね。
>>274 サンクスです〜♪
>>275 すまない、間違えたw
×三方ヶ原合戦 → ○長篠合戦
よろ〜
277 :
日本@名無史さん:05/02/19 14:30:44
>>266 そもそも惣無事令の目的は大名間の領土争いに関しては全て豊臣政権が処理して、大名が軍事力をもって自力救済することを禁じるのが趣旨。
だから、沼田領を巡る裁決というのは、秀吉による最終的な関東処分の一環だから、あの時点で氏政・氏直が上洛した場合、
逆に北条が豊臣に臣従して領地については一切秀吉に任せますと秀吉のためにアピールすることになり、むしろ北条を潰す理由を失った秀吉の方がかえって困る事になった筈。
その場合は余程のこと(大友・宇都宮みたいなヘマ)がなければ、あの沼田領裁決時点での北条領を承認する以外に秀吉の方に選択権が無くなっていた。
上杉の過大評価というのは面白いかも
でもそれだけで景勝への肩入れというのも弱い気がします
やっぱり川中島かな
>>278 >>272氏のレスを受けて思いつきで書いたので許して下さい。
まあ、そういう考え方もあるかな〜程度でお願いしますです。
280 :
日本@名無史さん:05/02/19 21:19:30
281 :
日本@名無史さん:05/02/19 21:25:00
282 :
日本@名無史さん:05/02/20 10:28:50
>>275 突如話を戻してすまないですが・・・
三方原合戦には、北條家からも援軍を数千送ってますね。
相模中郡々代の大藤氏(根来金谷斎の子孫?)が討死してますね。
ところで、信玄がもし死なず、信長を討てたら北條家はどんなおこぼれに預かれた
んでしょうなあ・・・?
下野、上野の完全領有権と遠州か三河あたりの領有+官位+幕府役職くらいで
お茶濁されてしまったのかな?
>>282 私にへの質問ですか?
う〜ん、どんなおこぼれか。
武田信玄が信長を討って京で実権を握れるかどうかは正直疑問ですが・・・。
下野は武田家の勢力圏外なので意味がない。
上野は武田家の勢力圏が緑野郡・多胡・片岡・甘楽・碓氷・群馬・吾妻だけなので少ない。
駿河は武田家の海上拠点だから手放さないでしょう。
遠江・三河は徳川家の存在があるから難しいし北条家が興味を示すとは思えない。
関東管領職についても北条氏政がそれほどこだわっているようには見えない。(むしろ目障り。)
武田信玄は北条家に甲斐・信濃・上野・駿河(駿東郡だけ)の譲渡をするべきで、
新しい勢力圏内(旧織田領)の安定化を図るべきでしょう。
それで北条氏政に上杉輝虎との抗争を全て任せる。
そして武田信玄(または後継者代理の勝頼)の戦略は、
徳川家の殲滅、本願寺との連携と北陸方面への援助、毛利家との全面対決という展開かな?
と考えてみたものの所詮はifですから戯言程度でお願いしますw
あ、朝倉家、浅井家、六角家のことを忘れていたw
その辺は適当に任せますよ。
285 :
日本@名無史さん:05/02/20 14:02:31
>>283 甲斐信濃を手放したら、武田家は崩壊しますよ。
領地のまるごと転封というのは織田・豊臣政権で初めて生まれた発想で、
中世以来続いてきた土地と武士との一体感に拘った武士の中には抵抗して誅殺された城井宇都宮氏の例や、主君の転封に同意せずに野に下った武士の例も多くあるわけですから…。
穴山氏、木曾氏、小山田氏は領地転封に激しく反発しそうですね。
でも、それくらいのことをしないと京で実権は握れませんから。(足利将軍家・朝倉家に任せるなら別ですがw)
兵農分離をするいい切っ掛けにもなりそうですし、騎馬隊重視の戦術からの脱却も図れそう。
織田家の政策(政治面・経済面・軍事面)を取り込む良い機会でもありますねw
それに西の毛利家と戦うには遠すぎますし、まさか甲斐に行政機関を置くのもどうかと・・・。
北条家のスレですから大幅譲歩という方向でw
所詮、旧体質の武田家が織田家を倒して実権を握るのは不可能なことですから戯言程度でお願いしますw
う〜ん、北条家の話に絡められなかった。
ごめんなさい。(ぺこり)
御館の乱で三郎景虎を救援し、景勝を滅ぼし
武田、上杉、北条の和が成立すれば、
勝頼が再び勢力を盛り返し、徳川を併呑し天下を狙うチャンスはあった。
288 :
日本@名無史さん:05/02/21 00:13:55
政権は置いておいても織田家を滅ぼす事は可能だったろう。
朝倉さえあんなDQN行為をしなければ。
289 :
日本@名無史さん:05/02/21 04:51:44
2007年の大河は北条五代記なんだとか。
NHKの職員が言ってたらしいよ。
290 :
日本@名無史さん:05/02/21 06:08:17
>>289 毎年そういうスレとか立ってたな。
「今年のカゼはたちが悪い」みたいなこの時期の風物詩というべきか。
ま、仮に事実なら、小泉の力ということか。
>>289 あ、それ俺がどっかのスレに書いたやつだ
小泉は横須賀だからむしろ三浦
293 :
日本@名無史さん:05/02/21 12:10:05
DQN須賀
294 :
日本@名無史さん:05/02/21 12:39:25
>>290 今年はドラえもんの新キャストねたに大忙しのようだが。
295 :
日本@名無史さん:05/02/21 15:01:31
北条五代記は楽しみだね。
大河化の話はもう他板や他スレでもう飽き飽き。
大河は一回、
一話〜四話完結のオムニバス形式で普段なら日の当たらないような人たちに
スポットを当てて欲しいね。
298 :
日本@名無史さん:05/02/21 21:31:03
>>292 北条早雲主役なら、三浦一族は副主役みたいなもんだから。
>>297 それじゃ「小河」ドラマになってしまうわけだが。
「栄光無き天才たち」みたいなドラマは俺もあったらいいな、と思うけど。
もう十分、小河になってるじゃん。来年なんてお千代ちゃんだぜ?
題材もひどいが、仲間だしなぁ…
301 :
日本@名無史さん:05/02/22 09:38:10
お千代ちゃんが北條と関係有るの?
>301
旦那が小田原に攻めてくる。
303 :
日本@名無史さん:05/02/26 09:19:52
それを言ったら何を語ってもありになるじゃないか
304 :
日本@名無史さん:05/02/26 09:21:53
里見スレより
686 :日本@名無史さん :05/02/25 18:59:39
第二次国府台合戦後の時忠の動きが分かりません。
思いっきり北條氏に寝返ってるはずなのに何故か千葉氏攻撃しまくってます。
しかも内部から内応者まで作っておく念の入れようです。
千葉氏が北條氏と関係悪化した訳でもなさそうなのに。
どういうことなんでしょう?
305 :
日本@名無史さん:05/03/05 00:23:53
自分の都合の良いように動いたにすぎません。
北条家の家中に舶来品のキセルでタバコ吸ってるやつなんていたのかよ。
八王子城の発掘でキセルは何本か発見されてる。
山中から出たってTVでやってたんよ。
309 :
日本@名無史さん:2005/03/21(月) 17:46:36
●●●2007年大河ドラマ【北条三代】キャスト●●●
北条早雲…丹波哲郎
北条氏綱…山崎努
北条氏康…渡辺謙
北条綱成…真田広之
風魔小太郎…本田博太郎
大道寺正繁…小野武彦
成田長泰…北村総一郎
遠山綱景…斎藤暁
上杉憲政…段田安則
太田三楽斎…中井喜一
長野業正…仲代達也
上杉朝定…ムッシュかまやつ
ネタ?
個人的には後三代をやって欲しい。
氏綱死後から両上杉を屠った氏康が信玄・謙信と覇を競って、
氏政が全盛期を築くも、儚くも滅亡。
だいたい、氏康が死んだ時って幕引きには中途半端だと思うのだが。
311 :
日本@名無史さん:2005/03/26(土) 12:42:23
五代やればいいやろ
312 :
日本@名無史さん:2005/03/27(日) 13:57:27
宗瑞も現代のアホ市長・アホ役人には敵わなかったようだ。
>>312 噂の東京マガジンでやってた八幡山の高層万損建築許可のこと?
早雲時代にはあまり登場しない小田原城だけど、
大河誘致・観光資源としての景観保持を地元自治体が
考えていないようなら、大河化の見通しはまず遠いんじゃない。
314 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 20:00:29
大道寺正繁…小野武彦
成田長泰…北村総一郎
遠山綱景…斎藤暁
それって捜査中に踊っていそうな…。
315 :
日本@名無史さん:2005/04/10(日) 03:49:37
大河ドラマ「北條早雲」
でも主役は死ぬまで北條と名乗らない。
伊勢新九郎→伊勢宗瑞
316 :
日本@名無史さん:2005/04/10(日) 08:17:45
武田、上杉、毛利、伊達はすでに大河ドラマ化された。
残るは、北條、島津、大友。
大河化の話はもう他板や他スレでもう飽き飽き。
318 :
日本@名無史さん:2005/04/10(日) 13:15:24
どうせ大河化されんし
まぁNHKのプロデューサーに賄賂渡せば何とかなるかもね
時代劇板、大河板にも出まくりです「次回大河は北条五代に!」の人
北条五代祭り
今年は5月3日です。
ただのコスプレ行列だけど・・・。
ま、火縄銃は見て損無いでしょ。
み、耳がぁーー!!
('∀`)3 おっきくなっちゃった
<( )v
ハ
324 :
日本@名無史さん:2005/05/03(火) 23:01:23
何か後北条氏って稲川会って感じがする。
( ゚Д゚)ハァ?
326 :
日本@名無史さん:2005/05/07(土) 14:51:42
小田原の虎朱印最中は知っていたが、
足利の和菓子店の「古印最中」は知らなかった。
(和菓子界では銘菓として結構有名らしい)
これの皮も「禄寿応穏」がつけられてる。
お菓子についてた栞に足利学校と氏康・氏政の関係が記載。
足利市で見つけた小田原北条でした。
小田原の菓子といえば、ういろう
328 :
日本@名無史さん:2005/05/10(火) 21:08:57
俺「ういろうの98%は水分なんだって。」
フランス人「Oui, l'eau.」(そうです。水。)
( ゚Д゚)…
山田くーん、座布団全部持ってっとくれ
331 :
日本@名無史さん:2005/05/18(水) 06:11:55
ここで歌舞伎のういろう売りの口上が欲しいね。
ヒマそうなので雑談を。
何年か前に一度は一夜城の跡地を見ておこうと車で通ったとき、地図を見ても
行き方が分からないので鈴広近辺に停めてガートマンらしき人に行き方を
聞いたら親切に教えてくれた後で、「行っても何にもありませんよ。」
カミさんが小田原に住んでいるという旧知に、この前総世寺へ行ったんです
と言ったら、「あんなとこ行ったんですか」と。
戦後の農地改革で寺社領が取られたという石碑があって、ああお寺さんも
戦後は貧乏になったんだなと同情しましたです。秀次の本陣だったという
けど面影なし。
今日の「その時歴史が動いた」は早雲ですよ。お忘れなく〜
334 :
日本@名無史さん:2005/05/18(水) 08:58:27
NHK2007年大河ドラマの発表もあるのでお見逃し無く!
「道灌と早雲」
335 :
日本@名無史さん:2005/05/18(水) 20:56:13
NHK「その時歴史が動いた〜北条早雲」直前age
始まったね^^
337 :
日本@名無史さん:2005/05/18(水) 21:23:39
長氏 長氏 長氏 今川 長氏
久しぶりに小和田さんを見たけど、なんか老けたような気がする。
339 :
日本@名無史さん:2005/05/18(水) 22:28:44
伊豆の国市韮山だってwカコワルー
伊豆北条なのにね・・・。
/;;;;;;;;;;;;;\
/\;;::::::::::::::::::ヘ
/,,;;;;;;\.;;;;;;;;;;;;::./;ヽ
L::;;,__ ヽ、::..ノ;. ..:::ゝ__
//;;;;::::::.. ̄ ̄ ̄ ̄ ̄..::::;;;|l
|l l;;;;;;;;;;;;;:::::::::... ...:::::::;;;;;;|l
〔l lllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllll〕
/j/ ヾ、
l::||:::: |l
|::||:::::::.. (●) (●) ||
|::||::::::::::::: \___/ ||
ヽ\:::::::::::::::. \/ ,ノ 呼んだ?
 ̄`ー―---oo-――'"
ハ
>>334 アフォ、そんな発表をあの枠でするわけ無いだろーが。
342 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 00:26:31
大森藤頼ですが何か?
343 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 00:27:47
興国寺城主・伊勢新九郎盛時
小和田「何の後ろ盾もなく・・・
え、今川の後ろ盾もないんですか?
だって、先生はかつて「今川氏親から兵を借りて」って書いてますよ。
小鹿も勝手に駿河に下って勝手に討ったみたいに言っちゃってますが、それでいいんですか?
といらんことを言ってみる。
所詮はその時だしな、あの番組じゃ仕方ない。
素浪人説を否定してくれただけでも良しとしよう。
345 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 10:20:43
>>344 別に小和田センセイの擁護するわけでは無いんだけど、
あの手の番組はNHKから
「こんな展開でいきますから、こんな事言って下さい」と
要請や指示があるんだよ。
だいぶ昔、下山治久氏が「考えていることを言えるものではない」って
何かに書いてた。
346 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 10:54:46
北条は韮山に始まり韮山に終わったと言う事か。
氏規の韮山籠城はすごかったもんな
もし豊臣側は負けていたら
敗戦責任は織田信雄、福島正則、蜂須賀家政、細川忠興らかなw
あ!
織田信雄は北条家に内通していたかなw
妄想のためスルーしてください
348 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 16:06:30
早雲が鎌倉北条氏の末裔の娘を側室にしたって本当なの?
349 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 17:00:01
>>348 俗説だよ
資料名は忘れたが信頼できるものではないし、それ1つしか書かれていないはず
側室とは書かれていないよ 妻にしたと書いてある
早雲には小笠原氏というれっきとした妻がいたことからも信頼性は低い
またそういう女性が実在したことを証明できるものが他に何もない
古文書、墓、子供など何も。
おそらく氏綱以降が北条姓を称したことに対する推測が生んだ伝説だよ
韮山と北条は目と鼻の先にあるから、
平氏ゆかりの地名をとって北条なのよ。
側室だったら苗字は相模になってまうよw
あともしかしたら韮山城は沼沢地を利用したような、
北条地区が中に入るぐらい大きな総構えがあったかもね。
そうすると豊臣方が難攻したのがウマク説明できるしね。
豊臣方の陣城と付城分布遺構を考察すれば戦いの詳細がわかるカモ。
最近安土城下でも総構えとみられる遺構が発見もされているから、
もしかしたらの可能性は無きにしも非ずカモカモ・・・
_,,..,,,,_
./ ,' 3 `ヽーっ 守時…
l ⊃ ⌒_つ
`'ー---‐'''''"
>>346 意外に松井田城の大道寺政繁と鉢形城の北条氏邦も奮戦している。
両者共に一ヶ月近く持ちこたえ、攻め方が持ち出した大砲によって両手を挙げているからな。
353 :
日本@名無史さん:2005/05/22(日) 02:36:13
ところで北條綱成の弟は北條綱房でいいの?
福島伊賀守勝広というのは軍記物にしか出てこないらしいけど。
354 :
日本@名無史さん:2005/05/24(火) 21:58:48
むしろ生年が気になる、福島正成の没年問題にも通じるし…。
どっちの福島正成?
356 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 09:30:50
福島正成は実在しないだろ。
そもそも北條綱成が養子になった理由は不明だし。
>>356 詳しく
…以前聞いた気がするが忘れたので
358 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 18:10:59
>>356 勝手に存在を否定するなよ
歴史人名辞典にだってちゃんと載ってるし、
原典だって史料価値を否定されているものではないぞ
小和田氏の「今川義元」に載ってた希ガス
360 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 00:38:02
>>358 歴史人名辞典を信用してはいけない。
原典の資料価値は否定されている。
361 :
日本@名無史さん:2005/05/30(月) 12:21:52
どこかのスレで
氏康凡将説(名将じゃない)について
書かれてましたがどうなんですか?
謙信を破ったことのある数少ない武将の一人だからな >氏康
領国経営も一等だし、人の使い方も平均以上。
欠点は当然あるし、失策もあるが、それを考慮しても凡将は言い過ぎではなかろうか。
というか、どのように氏康凡将説が展開されたかしらないので
反論のしようがない。
遅ればせながら‥「その時歴史が動いた」見たものです。
「北条」性を名乗ったところがなかったので、
「伊勢」→「北条」になった経緯がわかりませんでした。
「北条」を名乗ったのは、早雲からですか?氏綱からですか?
「北条」はまだまだ相模では名乗る価値があったからですか?
家にハクをつけるため「北条」性を名乗る、というのはなんだか
納得がいきません。
「伊勢」も足利幕府の七頭のひとつでそれなりでしょう?
足利体制に対抗するからだとしても、新しいことを始めた家が
昔の執権家の名前を持ち出した、ということでしたら
なんだか残念な気もするのですが。
>>362 そもそも謙信が凡将という説も…
>>363 氏綱から。
伊勢氏は幕府的には箔があるが、関東においては北条姓の方が
はるかに意味が大きい。伊豆から立って相模→武蔵→関東と
制覇しいくには都合の良い名。
>>364 謙信凡将説は、政治・戦略的には凡将と言われても擁護のしようもないが、
戦術的に凡将というのは納得できないな。
というか362も言っているが、どのように話が進んでどのような事象をもって凡将としているか
言ってくれないとなにも言えない。
逆に問えば、名将って誰?って事になるし。
>>363 如何に名族とはいえ、伊勢家は関東では新参の改革者だから、古参の保守層には受けないだろ。
北条に改姓し、鶴ヶ丘八幡宮を再建し、古河公方を擁立して関東における正統性をアピールしているわけ。
上杉謙信なんかは北条の事を伊勢って呼び続けた(権威を認めなかった)らしいしな。
>>365 謙信は政略・戦略はともかく内政面ではかなり優秀だぞ。
第2次国府台って地味だよね
地味。
というか北条は淡々と戦って淡々と勢力を広げているイメージがある
河越も地味?(´・ω・`)
河越は、地味ではない
ただしその存在が疑問視されている現状だから…
じゃあ小田原奪取は?(´・ω・`)
伊豆の即時平定も(´・ω・`)
>>372 伊豆の即時平定・・・即時とは言いにくいと思うが?
一ヶ月での伊豆平定は疑問符が付くって事。
茶々丸は甲斐に逃げて抵抗していたとか、伊豆の反伊勢勢力との戦いも結構尾を引いているし。
とはいえ、宗瑞はまだ今川の家臣として活動していた時期だからな。
どこかで五年かけたと聞いた気がする>伊豆攻め
そうそう。
結局、地味ではない北条の武功のほとんどが、疑問視されているこの悲しさ(´・ω・`)
いや、でも、ほら、小鹿範満を一夜で殺ったりしたじゃん。
通り魔のように一人でやったわけではないでしょ。
地味なのが北条の味なのさ
だから通好み。
素人にはお勧めしない、ていうか受け入れて貰えない
地味だし堅実だし派手じゃないし、
肉親の相克もありません。
でもそれが後北条のいいところ。
まあ派手なエピソードといえば
ぶっかけ飯くらいかな
383 :
日本@名無史さん:2005/06/05(日) 23:22:29
ぶっかけ飯って?
氏康が氏政の飯の食い方にケチつけたアレでしょ?
あれも輝元verがあるくらいだしな。
白米伝説と同じくらい、割と全国どこでもある話らしいよ、二度汁話は。
>>385 でも、そのぶっかけ飯話をふっかけて「氏政ダメ説」を
推し進める香具師が多い。
勝頼にも言える事だが、
どうあっても無能にしたがる奴っているな。
勝頼は外交ミスはあったものの、政軍ともに頑張ってる。
氏政は巨大な組織を問題なく維持し続けて、さらに質量ともに充実させている。
どちらも十分に非凡なのだがなあ。
388 :
日本@名無史さん:2005/06/06(月) 02:23:51
ただ、氏政って人は戦国大名としてはどっか煮えきらない印象があるんだよなあ。
やる事に積極性がないっつうか
俺思うんだけど小田原評定って秀吉に攻められる前から北条の名物だったんじゃないの?
だからぼやぼやしてる間に甲斐取りで家康にしてやられちゃったんじゃないの?
小田原評定は確かに名物だが、
二週に一回行われる定例評議なのだがな、まとまらない云々は偏見もいいところ。
あと甲斐・信濃争奪に関しては、調べてみれば?
少なくとも一方的にしてやられていたわけではない。
まあ腰が重いのは確かじゃん
あのまま戦国時代が続いてても関東制覇にもう100年はかかるぞ
確かにそこは否定できないわな >腰の重さ
よく言えば慎重なんだろうけどな
とはいえ、里見も屈服して北関東連合もジリジリ追い詰めているのが
小田原の役の直前の状況だから、早ければ10年、おそくても25年以内に制覇できると見た
>>390 小田原評定は従来から行われていた「定例重臣会議」なんだけど、
そう説明されない事が多いよね。
そもそも開戦か、和睦か
或いは籠城か、野戦かで争ったというが、
基本的には和睦で話を進めて(万一の備えは着々としてたが)、
開戦やむなしになったら籠城で決まったのだがな。
氏邦がキレたように満場一致ではなかったにせよ、方針は決まってた。
北条氏政の愚将説は、
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と比べるから厳しいのであって、
その他の武将と比べれば問題にならない。
上杉謙信を相手に関東での戦局を有利に進めているし、
徳川家康もかなり気を使った外交をしているしね。
あと、北条家の軍事行動は意外に迅速で、
神流川合戦、信濃侵攻、若神子対陣などの一連の行動も、
よく見ると大軍の割りには迅速に動いていると思います。
小田原合戦での動きの鈍さは、
それだけ豊臣政権が超大国で、
名を惜しむか命を惜しむか真剣に議論していたのかもねw
北条家といえば、石高は豊臣家についでNo2の大所帯。
早雲から5代を経て、かなりしっかりした行政機構
を確立していた。当主一人の意見で動かせる体制
では、もはやなかったのだろう。
それでももう少し、氏直への権力移譲が進んでいれば、
滅ぼされはしなかったかも。
滅ぼされるかどうかはともかく、難癖付けられて転封or減封だろう、氏政だろうが氏直だろうが。
他と比べてもあまりにも巨大すぎるし、なんせ最期まで従わなかった(九戸除く)訳だから。
いや、氏直の権力がもっと大きくなっていれば、
正宗よりかは先に臣従してたでしょう。
つーか、武蔵・相模・伊豆の安堵という条件が出る前に開城したんじゃないっけ?
そもそも北条氏直と豊臣秀吉は形式的に和解している。(上洛していませんがw)
それを名胡桃城の一件で小田原合戦へとつながるのであるから、
当初は豊臣秀吉も北条家の存在を所領安堵で承認するつもりだったのでしょう。
豊臣秀吉の思惑としては、
北条家が臣従すれば奥羽の諸大名もこれに習うであろうし、
唐入の夢も早期に実行できるという考えも働いたであろう。
北条氏直の方としては、
粘り強く和平交渉を行っています。(北条氏照、徳川家康、)
よく言われている徳川家康の関東入封の計画は後付ですね。
401 :
日本@名無史さん:2005/06/07(火) 03:09:53
>>363 氏綱の北條改姓は、相模領有化をにらんで、扇ガ谷上杉に対抗するためと考えられる。
もまいら
>>400 小田原攻めの時点では、朝鮮出兵の意思なんて無かったんじゃネ?
また、北条家の広大な所領をそのまま安堵なんてそんな生優しいこと
考えてるわけないじゃん。
石高減らしてどこかへポイだよな。
九州征伐の際に、明へ出兵する準備しとけと書状で残ってるはずだが>秀吉
405 :
日本@名無史さん:2005/06/07(火) 21:50:22
>>365 武田は奴をずっと「長尾」呼ばわりでしたよ。
>>405 北条も「長尾」だぞ、ずっと。
しかし365の時点で伊勢→北条の話であって、上杉の話ではないよ
>>403 実際、本領安堵するから早く上洛しろって
いってたんじゃない?
>>403 考えが甘いですね。
唐入については
>>404氏が説明しているので省略。
豊臣秀吉としても傘下に加わる者には天下人として許せる度量も必要ですから、
北条家の存続も考えてないわけではない。(100万石程度の所領だと思いますがw)
まあ北条氏政・氏照が敵対姿勢を続けている限り無理なお話ですがw
氏政や氏照も、素直に臣従したところで伊豆、相模、武蔵
あたりまで所領が削られるだろうと考えたから、あえて
一戦まじえたのかもね。
九州、四国の例から、負けても3国か2国は安堵してもらえる
=最悪でも結果に大きな違いはないし、万一善戦すれば徳川
、伊達と手を組んでさらに関東制覇に邁進できるわけだし。
このスレとは関係ないですが、
長曾我部氏は土佐一国に封じます。
島津は薩摩一国に封じるはずだったんですよ。
大隈・・・長曾我部
日向・・・大友
でも、双方ともこれを辞退しています。
豊臣秀吉と一戦交えると一国になると考えた方がいい。
初耳ですな。
伊豆一国はきついなって、全部とられたか。
413 :
日本@名無史さん:2005/06/08(水) 00:39:23
409同意。
特に氏照サイドの視点に立って考えると
氏照が切り取ってきた下総上総方面はおろか
自分の本拠地である武蔵までも奪われかねないとあれば
どうあったって一戦せずんばあらずでしょう。
小田原合戦直前の豊臣政権内の大身って、
豊臣秀長、徳川家康、織田信雄、毛利輝元の4名。
北条氏直をこれに加えると豊臣政権の運営が厳しいかなw
>>413 氏政にとっても佐倉を失うことは痛いと思うのですがw
だから、伊豆・相模・武蔵は安堵の条件出す予定だったのでは?>秀吉
>>410は大友家文書録で秀長宛の11ヶ条の書状であるね
>>409 > 伊達と手を組んでさらに関東制覇に邁進できる
おいおい、伊達は味方にすれば剣呑至極だが、敵にすればこれほど頼りになる
カモはいないっていう戦国イタ公みたいな存在だぞ。
間違っても手なぞ組んではいかん。
佐竹がカモに負けたとでも言うのか。
>>417 佐竹家は伊達家に負けた意識は無いだろう。
人取橋合戦は佐竹が自国へ撤収しただけだし、
摺上原合戦は蘆名家の自壊が敗因だし。
まあ佐竹家と伊達家の話はこれくらいにしてw
北条家にとって完全支配ではないものの上野、下野、下総、上総を失うのは厳しい。
氏政、氏照、氏邦の3人とも強行的にならざるをえないでしょうね。
勝敗は兵家の常とは申しますが、
軍記物などで、負け戦ばかり詳しく
書かれているのは何故でしょう。
ヒトの不幸は蜜の味。今の大方のマスコミと一緒。
負け戦=敵方の勝ち戦
まあ冗談はここまでにしておいて、
後北条が悪く書かれるのは二点、
古今人気のある秀吉の天下統一事業に最期まで反抗してしまった点(正確には九戸がいるが)、
もう一つは後北条の後釜に来た徳川のプロパガンダ。
422 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 21:33:46
北条家を舞台にした大河ドラマ是非やってほしい。
知名度が一番高いのは、早雲だろうけど、漏れ的にはあまり興味がない。
周りがマイナーな大名や武将ばかりだからね。
氏綱は歴史的に地味。
氏康は武田信玄や上杉謙信と互角に渡り合った名将だけれど、
死んだのが時期的に中途半端。
いろんな意味で北条家が大きく揺れたのは氏康死後でしょう。
だから、氏政を主人公にした大河ドラマやってほしいね。
氏直はちょっと短すぎるか。彼は「悲劇の主人公」にぴったりだけど。
来年、へそくりの山内が主人公になるようでは、
「氏政」でも別にいいんじゃないの。
キャストは竹野内豊あたりを氏政、中村獅童あたりを氏照にして。w
氏政が主人公なら、北条氏康、武田信玄、上杉謙信、豊臣秀吉、徳川家康
といった豪華な大名が勢ぞろいだよ。
正直、氏政役が竹野内豊だったらあの独特のイントネーションで、
「上杉謙信でさえ、武田信玄でさえ、この小田原城を落とすことが
できなかった。たとえ誰が攻めてこようとも、我々が勝つ。」
なんて台詞を聞いてみたい。
主役は氏規にしようぜ
もちろん家康とは親友設定で、小田原征伐後も安心
424 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 21:58:56
>>423 >>422だけれど、意外とそれもいいかもね。
今川義元の人質だったときから、家康と親交があったからね。
小田原開城後、氏政と氏照を介錯するシーンなんか泣けそう。
大河化はんたーい。
訳わからない便乗書籍やムックが山ほど出て
ドラマだから流れに沿った創作はいいんだけど、
なんじゃこりゃの逸話とかばんばん放映されて
アイドル枠用のハァ?なテレビ用創作人物(水軍の女神とか海賊女とかね)が
意味不明な行動して主人公にからみ、
お馬鹿なニワカが大河板に増殖。
「北条好きなんだ?どーせ大河でニワカでしょ」なんて言われる。
今は北条を大河に!なんて言ってても
実現したらば脚本家や時代考証家に不満爆発、
「捏造の嵐」なんて毎回騒ぐことになるでしょう。
騒げばモノ知りがいて、実像を開陳してくれ勉強になるってこともある。
また大河化の話題か!
いい加減飽きた!
>>426 そうかな?
史実厨ウザイ、ドラマとして面白ければいいじゃん・・・で終了だろう。
そして、ニワカ物知りが大量発生して薀蓄を語りはじめ・・・
>>427 うん、飽きたね。
30分でわかる北条早雲
早わかり小田原北条家のすべて
関東戦国史があっという間に理解できる本
小田原城と女たちの戦国
北条五代を旅する
大河になったらこんな便乗本がわらわら出そうだ。
でるね、間違いなく。
ゲームなんかも便乗するだろうな、最近の源平モノのゲームが氾濫する様を見る限り。
自分も大河化イヤだけど、
>関東戦国史があっという間に理解できる本
・・・こんなん出たらぜひとも買いたい。
確かに複雑すぎるんだよな、関東は。
特に宗瑞乱入以前はもう・・・
んで、さいとう・たかをあたりが
つまんない漫画書くんだろうなw
434 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 19:36:24
氏綱、氏康、、、、と「氏」が付くけども、これは初代の長氏からとっているのでしょうか。
ボクはそう思っているんですが、、、
最近、鎌倉公方(成氏、政氏、、)系の氏、ではないかとも思えるのですが。
正当な鎌倉公方(古河公方)の敵を討つという名目で、
あくまでも名目でしょうが、
後北条氏は動いていたのか、なぁと思えましたので。
今川の氏ではと思う
伊勢宗瑞の諱は今は「長氏」より「盛時」の方が有力じゃなかったっけ?
俺も今川の氏だと思う。
宗瑞自身はかなり最期まで今川家臣として意識していたようだし、
氏綱も協調路線を踏襲している、今川と武田が講和するまでは。
有力家臣に一字与えるのは良くあることだしな。
そういや、北条早雲と斎藤道三って似てるよな
似てねえな
似てないことの方がはるかに多い。手の指が片手で5本あったなんてことで
似ている云々を言わない前提でな。
氏綱までかな?一応、今川を御館様と呼んでたのは
義元の家督相続の際に揉めて敵対関係になったようだけど
氏直、氏房が主役の小説って無いかな?
敗者となった若者の苦悩と寂しい死を描いたような作品。
・・・無いよね。
下手ですが同人なら描けるかも…。
でも冷静に考えると氏房の資料が無いから無理っぽいかもw
花の慶次読んだけど北条家も哀れだな
北条家の場合は和睦しても減封は避けれないとよく聞くが徳川家はなんで減封されなかったんだ?
447 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 21:41:06
すいません
北条早雲とかの北条家は鎌倉時代の北条家とは関係ないのですか?
448 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 22:11:53
450 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 00:34:34
備中高越城や法泉寺に今度久々に逝こうかな!!
ちなみに場所は岡山県井原市江原町にあります
最寄り駅は井原線荘原駅です。
流れブッタぎって悪いんですけど、
家永遵嗣氏の北条早雲の出自に関する
論文の入手方法知ってる方いますか?
>>444 福岡にいたときに伝氏房の墓に詣でたことがあるよ。
名護屋の徳川陣内で流行り病で亡くなった・・・んだよね。
(相知町史)
454 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 21:13:46
age
455 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 21:44:27
関八州なら北条は好きだけど、
俺は太田ファンです。
同感。
北条も好きだが、関東はみんな好きだな。
俺は別に安西とか大掾とか好きじゃないよ
壬生とか皆川とかはそんなに嫌いじゃない
実は太田三楽が好きだったりする。。
戦国トップブリーダー太田三楽は良いね。
正直、道灌より好き。
氏直の娘が静岡市に落ち延びたって本当?
分かる人いたらお願いします。
静岡県に住んでます。質問がいくつかあります。ご存知の方、教えてください。
1 今川家のお家騒動の調停のため、太田道灌が府中(静岡市)に来た時、
駿河区の八幡山に陣を張ったとか聞いたことがあり、また、それを書いた札も立っています。
本当でしょうか?
2 浅間神社の近くに太田道灌が築いたという庭園があります。本当なら1の時だと思うのですが、
そんな時間・余裕があったのでしょうか?
3 八幡山の近くに有東山という小丘があります。その辺りに新九郎の邸があったと聞いたことがあります。
本当でしょうか。
4 興国寺城の本丸跡に若干ですが石垣があります。これは後世のものでしょうか。新九郎の時代に
石垣をわずかとはいえ築く力があったのでしょうか?
仕事で週一回くらい興国寺城のすぐ近くを通りますので、城跡で昼食を取ったりします。
石垣に登って新九郎になった気分で産みのほうを見下ろしたりしてます。
>>464 それは初耳。
まぁ推察するにおそらく家康かな?また定説でも、近世とされています。
天正年間ものかな?甲斐侵攻のとき駿河駿東に侵攻時のものと推察してみる。
あと、でも早雲は石積み築城のノウハウはあるよ。
備前出身だし、白鳳文化時のノウハウは継承されていてあるはず。
早雲以降で、韮山城、八王子城も石垣が造られてもいる。
吉備系の石積みだったら、北条流石積み(仮称)。
近江系の石積みだと家康といえると思います。
また。近江系は信長の安土城の意匠や佐々木氏のを受けて天守に壮大な石垣です。
吉備系の北条は周辺の曲輪に石垣です。
で裏を取るために数十秒ネットで確認してみた。
ネットの写真で八王子城などと比べてみると組み方が違うし、天守にあることから
近江系の積みですね。
なのでほぼ家康だと推察します。
>465
レスありがとう。納得です。
たいへん勉強になりました。
467 :
日本@名無史さん:2005/08/07(日) 16:19:48
『戦国北条一族』いつ発売?
468 :
日本@名無史さん:2005/08/07(日) 21:41:21
>>452 神奈川県の大きな図書館に置いてあるのでは?
論文のタイトルと掲載されている雑誌名は分かりますか?
469 :
日本@名無史さん:2005/08/16(火) 21:31:25
age
北条って全く人気ないよな
武田、上杉は大人気なのに…
あれだけの大勢力で氏康みたいな名将もいるのに謎だ
471 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 23:41:08
北条氏政は氏康の次男だとされているが、
夭折した兄・新九郎は氏康の側室から産まれている。
氏康の正室から産まれているが、嫡男扱いではなかったのだろうか。
織田信長と事情が似ているなあ。
信長の場合は腹違いの兄・信広がいたが、
父・信秀の正室から産まれているので、
はじめから嫡男だったけどね。
次男だろうが三男だろうが
正室の長子が「嫡男」。
『春秋』(公羊伝・隠公元年条)
「嫡を立つるに長を以てし、賢をもってせず、
子を立つるに貴を以てし、長をもってせず」
もちろん例外はあるが。
473 :
日本@名無史さん:2005/08/25(木) 08:38:40
471でつ。
>>472 なるほどね。ありがとう。
474 :
日本@名無史さん:2005/08/26(金) 08:38:25
>>470 既出ですが、地味だからだと思う。
当たり前のことを淡々とこなす優等生みたいなもんだから。
上杉のような家督を巡る騒動や内紛もないし、武田や織田のような愛憎劇もなく、
信長や秀吉のような勢いがないから。
つまり人気がない理由は、
ドラマ(愛憎劇)がないから人気がない、
成り上がり者のような勢いがないから人気がない。
官僚的で安定してるから人気がない。
だからツウ好みなんですよ。
個人的には戦国大名の中では安定性は一番だと思う。
知るほどにすごいと思えてくるよ北条家は。
江戸時代になんとか残った北条家は、
小田原北条の手腕を受け継ぐことはできたのかね?
>>474 それなら三好家なんかはウケがいいと思うのだが地味だよなw
地味というか滋味があるというか、堅実で冒険しないからね。
親子相克して血で血を洗う近親憎悪!!!とかも無かったし。
自分はそんなとこが好きなんだけどさ。
478 :
日本@名無史さん:2005/08/26(金) 16:03:22
小田原合戦での北条家は堅実な割に豊臣家の経済力を甘く見すぎているな。
外交においても徳川家康、織田信雄、伊達政宗なんかを信頼しすぎ。
まあ、北条家は昔から外交が下手だがなw
花蔵の乱以降の今川義元の外交転換。
里見義堯の外交転換。
河越夜戦前後の対北条包囲網。
武田信玄の駿河侵攻と上杉謙信との越相同盟。
御館の乱以降の武田勝頼との合戦。
武田家滅亡の際の織田・徳川の戦略。
真田家の沼田問題。(これは家康にとっても外交失敗だがw)
そもそも関東平定ができなかったのも外交の下手さにあると思われ。
はいはい、認識が甘いのは充分承知。
480 :
日本@名無史さん:2005/08/26(金) 17:49:13
>>479 少しは知っているようだな。
まあ、俺ほどではないだろうがw
汁2度ぶっかけの出典って「実隆公記」なの?
よくある例え話じゃん。
483 :
日本@名無史さん:2005/08/27(土) 01:50:57
実隆公記じたい初耳ですわ。
484 :
日本@名無史さん:2005/08/27(土) 01:59:02
百年間、小田原は関東の中心だった。
百年間、関東には北条王朝が存在したと言うことか。
486 :
日本@名無史さん:2005/08/27(土) 13:57:53
>>485 >織田信長と友好関係を保ち、領地を拡大させてきた北条氏。
>しかし、本能寺の変によって、この状況は一変する。
>北条氏と佐竹・宇都宮氏など関東諸勢力との戦いは熾烈を
>きわめ、両陣営の背後では、羽柴秀吉、徳川家康が蠢き、
>激しい外交合戦が繰り広げられる。戦国時代末期、「関東
>統一」を夢見る北条氏とそれにあらがう戦国武将たちとの
>戦いを追いながら、次第に秀吉の圧力に抗しきれなくなっ
>ていく北条氏の挫折を描く。
いいね。北条氏の滅亡は「氏政が暗愚だった」とか
切って捨てられることが多くて、そこに至る過程
や事情が軽視されているし、分からないことも多い。
是非読んでみたい本だ。
>>482-483 タモリ倶楽部でこの故事が紹介されたんだけど、たしか「実隆公記」って出てたんだよね。
実隆って氏政の頃には死んでるはずなんだけど。
488 :
日本@名無史さん:2005/08/30(火) 22:40:40
漏れ、今「戦国時代の終焉 『北条の夢』と秀吉の天下統一」
読んでるよ。
マイナーな城名が多くて、ややマニアックだけれど、
読んでておもしろい。買って良かったと思える一冊でつ。
北条五代の中でも氏政ファンは必読!!
489 :
日本@名無史さん:2005/08/30(火) 23:37:43
>>488 これって論文調? 普通の小説なら読んでみたいんだけど
いや、新書だよ。小説ではなく歴史の概説書。
この斎藤さんって「多摩のあゆみ」によく寄稿してる斎藤さん?
>>491 自己解決しました。
江戸東京博の学芸員さんでしたね。
丁寧に文書を読見込んで調査している。
40代前半の研究者のようだけど、黒田某氏の書いたものより
謙虚な感じを受けましたwww
小田原攻め自体にはあまりページを割いていない、
華々しい内容を期待する向きには不向きかも。
そして、地道な研究成果をまとめたものに感じるので
大河板の厨が喜んでるような大河の前哨本にはとても思えませーん。
493 :
日本@名無史さん:2005/09/05(月) 22:13:56
いいねこれ
滝川一益の政権の話なんてあまり書かれることも無かったし
あー、大河が北条でなくてホッとした。
厨やニワカのぼろ糞言われなくて済んだー。
地味に愛せればそれでいいんだよね。
>>475 幕末に天誅組に恐喝されて武器や銭差し出してやりすごそうとしたら
夜中に奇襲されて逃げた北条って小名いたけど
あれ小田原北条だと思う
字は忘れたが当主の名前が北条ウジヤスだった気がするし…
496 :
日本@名無史さん:2005/09/07(水) 03:41:14
>>488 ずっと疑問に思ってたんですが、
朝廷を取り込んだ秀吉に対立するってことは、
逆賊を意味するってことが氏政には分からなかったんでしょうか。
そういった疑問もこの本を読めばわかりますか?
買いたいと思ってたんですが、なかなか置いてなくて困ってます。
497 :
日本@名無史さん:2005/09/07(水) 07:52:24
中公新書が置いてない書店なんてあるのか…
498 :
日本@名無史さん:2005/09/10(土) 00:01:23
読んでみたけど、小田原合戦の直接の原因たる
名胡桃城奪取こそが、結局は究極の謎なんだなあ。
紆余曲折あったけど、最終的には秀吉の傘下に収まる
ことで、決着はついたんだしね。
499 :
日本@名無史さん:2005/09/10(土) 02:25:00
北条がどんな形で大河に出るか実は結構楽しみです。
おそらく北条家は氏康・氏政がメインで武田と絡むと思いますけど、
個人的には氏綱や綱成を出してほしいですね。
500 :
日本@名無史さん:2005/09/10(土) 04:00:19
>>498 あとあまり知られていないことですが、
秀吉は軍勢を率いて小田原に向かっている途中で、
氏政に相模・伊豆・武蔵は安堵するから臣従しろと勧告してますよね。
北条家にしてみれば200万石から100万石にされるから受け入れ難いとは思いますが、
長宗我部や島津に比べればわりと厚遇だったと思いますけどね。
501 :
日本@名無史さん:2005/09/10(土) 09:46:56
500ゲットォ
502 :
日本@名無史さん:2005/09/10(土) 10:56:43
>>500 小田原城が包囲された後の開城交渉としてではなく?
北条早雲は鎌倉の北条氏とは全く関係ないから後北条氏とかよばれることがあるんですか?後なぜ茶茶丸を倒して堀越公方だけを潰したんですかね?古河公方は攻めずに。
>>499 北条の人々は原作の内容ではほとんど出番なし。
信濃と越後に視線を絞って書かれている。
506 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 05:16:59
>>503 古川公方は当時、関東の地侍に絶大な支持があったからです。
>>496 人のですが参考になれば・・・。
60 :日本@名無史さん :2005/09/08(木) 19:20:32
>>55 >朝廷を取り込んだ秀吉に対立するってことは、
>逆賊を意味するってことを理解せずに
>豊臣に滅ぼされたから。
これは必ずしもそうとはいえないよ。
豊臣秀吉は自分の権威を高める為に朝廷を利用しましたが、
戦国大名への外交手段としての利用は控えています。
織田信長でさえ元亀元年に苦労した時、
最後の手段として和議の斡旋を朝廷に渋々依頼しています。
豊臣秀吉としては東国において、
徳川家康に対して軍事的勝利ができなかったため、
北条氏政に対しては完璧な軍事的勝利を欲していました。
そんな秀吉がわざわざ調停工作をする訳がないし、
氏政も軍事衝突が避けられないものと見越していたから、
朝敵とかは考えていませんよ。
でも、秀吉が小田原征伐に失敗したら和議の斡旋を朝廷に依頼するでしょうねw
508 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 05:47:30
>>502 どちらにせよ秀吉は所領安堵をエサに
開城交渉を行ってたんですね。
あと某漫画では北条家と伊達家が
繋がっているように描かれてますが、
本当に伊達家と繋がってたんでしょうか?
509 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 09:25:56
>>508 対佐竹を軸とした、文書のやり取りがあった程度だと思われ
510 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 20:19:20
信長に攻められたら、まず勝てねぇ。
511 :
日本@名無史さん:2005/09/12(月) 08:39:17
>>510 そうだろうね。信長なら、小田原城を力攻めにするっぽい。
512 :
日本@名無史さん:2005/09/12(月) 18:19:34
>>511 上杉謙信や武田信玄ですら、
落城させらせなかった名城だってことも考えると
力攻めはしないだろ。
513 :
日本@名無史さん:2005/09/12(月) 22:30:41
>>510 前出の本でも説明されてるが
氏政は、信長の娘を氏直の嫁に貰い受け
織田家の傘下に組み入れられる事を
申し出ていたようだ。実現はしなかったが。
514 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 02:14:42
>>513 この頃は東国の大名は殆んど信長と
誼みを結びたがってたからね。
東北地方の南部氏や安藤氏から、関東は佐竹氏まで。
信長も北条家があまり、巨大な勢力になるのは望んでないらしく
武田氏を滅ぼした際に氏政が手に入れた
西上野や駿河の一部を没収されているし。
それに際しては、不興を買った所為もあると思う。
北条としてもそんな短期間に武田が滅びると思っていなかったらしく、
一人相撲を取らされるのを嫌がって、腰が重かったからね。
で、いざ蓋を開けてみたらあっという間、あわてて駿河と上野に侵攻、と。
まあ、慎重な氏政らしいといえばらしいね。
516 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 22:38:46
そうだねぇ、氏政って本当に慎重派って印象があるな。
やっぱ一族の長として、調整役になる事が多かったのかな。
氏邦は短気な感じ。
慎重なのか優柔不断なのかは評価者による
518 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 15:27:15
氏政が慎重なのは氏康ゆずりかもね。
氏照や氏邦は最前線で戦ってたから、
短気とか武断派って思われるんじゃない。
519 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 17:09:23
>>517 それを言ったら元も子もありまへんがな。
520 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 09:09:06
北條遺臣の子孫として相模に生を受け、ン十年相模国で生活して
来たのですが昨年ついに上総へ転勤・・・。
気侭な一人暮らしなんで暇に任せてこっちの城跡、古戦場なんか
周ってます。
30分圏内で三船山古戦場なんかも行けるんで、先日探訪して参りました。
今じゃハイキングコースになっていますが、ここで2,000人以上の北條兵が
死傷したのか、などと思うと感無量・・・。大田氏資もここで戦死したの
ですよね。久留里城でも北條vs里見の古戦場があったり・・・。
住んでる市内には根来金谷斎が前進基地として築いたと言う城跡もあり結構
楽しんでます。まあ相模は海を挟んで向こうなんですが、小田原は遥か彼方・・・。
良くぞここまで進出したんだなぁ、と感無量の気分になります。
今日これから本佐倉城址で桑田万五郎の屁の音でも脳内で
聞いてこようと思ってます。
スレの流れと関係無いですが長レスすまそm(__)m
521 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 09:34:55
他スレで北条氏は鉄砲の装備率が低い
って話があったけど、実際はどうだったんでしょう。
522 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 10:13:47
>>521 どこの大名家と比較して低いのかって
示さないと、なんとも言えないと思うんですが。
まあ北条家は金山や商業都市を抱えていないため
軍資金に関して言えば、織田家、武田家、上杉家に
大きく水を空けられてたと言いますけどね。
523 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 10:33:28
>>522 財政力それほど劣っていたとは思えん。
織田家は別としても相模湾〜東京湾を支配圏に置いていたのは
大きいと思う。
>>522 少なくとも、家臣にまで借金してしまう武田よりは逼迫していなかったと思うけど。
武田に関しては、金山は武田本家にはほとんど入らないって話もあるくらいだし微妙。
上杉は上杉で重税を課しすぎて湊を壊滅寸前まで追いやってるしなあ。
そこら辺の経済感覚の違いは田舎侍と中央出身者の違いだと思う。
伊勢北条氏は言うに及ばず、小笠原・伊勢・大草などは幕府関係だし、
経済というものをわかっていたような気がする。
北条氏は検地はもちろん、永禄銭を流通させたり、
安藤枡で領内を統一したりと経済政策はしっかりしてる。
大陸との交易もあって人や物が行き来していたし、
小田原の繁栄は西の山口と並び賞されたって話じゃ
なかったっけ。ただ飢饉や大地震など自然災害が多い
時期でもあった。
少し調べてみました。
鉄砲についていえば、北条氏所領役帳によると
一概には言えないが、百貫文につき1丁が基本らしい。
しかし2百貫の所領なのに、20丁の鉄砲を割り当て
られた人物がいたりする。
この事実から、氏康が鉄砲を他の武器とは違い
単独で集中的に運用できるようにしていた
と考えられるではないか。(当時一般的な事だった
のかも知れないけど)
また、弓は百貫以上の端数について1丁が割り
当てられたようなので、弓よりは鉄砲を重視して
いたようです。
↓参考サイト
ttp://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/1669/mokuji.html
参考サイトの例に、歴史群像「北条五代」の所領
役帳解説の頁に抜き出されてる、軍役負担を合計。
(かぶってる人が3人いるのでそれは除く)
すると117人中25人が鉄砲を持っていて装備率約21,3%。
他は槍40人、騎馬25人、弓3人、徒歩9人、旗9人。
指物6人。
小曾戸丹後守を除いた場合、総勢が90人になって
鉄砲の総数は5。装備率は5,5%。この人が居るか
居ないか、またこの様な人物が何人いるかで
かなり状況が変わりますね。
528 :
527:2005/09/17(土) 12:59:11
所領役帳を全て見たことがないので、なんとも言えないけど
小曾戸丹後守みたいな軍役の人が、そんなに多くいたとは
思えない。1559年時点では5〜6%の鉄砲装備率で戦う場面
が多かったんではないかと思う。
西国の諸大名はどれくらい、鉄砲を持っていたんでしょうか。
時代にもよるでしょうが、島津勢はかなり持っていたようですし、
大友氏にいたっては国崩しですからね。
529 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 16:26:30
>>523 安土・桃山時代の東京湾・相模湾は
上杉領の直江津などに比べて、それほど盛況していなかったようです。
特にこれといった特産物もなく、当時の政治・経済の中心地である畿内からは、
チョット遠いですからね。本格的に盛況するようになったのは、
家康が江戸に幕府を開いてからです。
それにも関わらず上杉などと互角以上に渡り合えたのは、
氏康の優れた政策だと思いますけどね。
530 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 19:12:12
>>529 小田原に唐人町があり唐船が来ていたとも言うし、確かに盛況
とは言えないかも知れんが、そこそこ稼いでいたのでは?
524、525の言う通り、むしろ戦国大名の中では経済政策が進んでいて
財政も安定していた方の部類じゃないかな?
531 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 16:01:58
>>531 年貢も四公六民で他の大名家よりも低く設定してあったようだから
財政はそれほど余裕があったとは思えないな。
武田・上杉に比べて、合戦や遠征の回数が少ないことも考えれば、
安定はしていたけど、収入は少なかったんじゃないか。
でも逆に考えれば、そのため知行制や国人衆の家臣化に成功したともいえるけど。
532 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 18:37:36
北条時代の治水はどうなの?
533 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 18:47:20
>>531 四公六民はあくまで建前(と言っても概ね守られていまようだけど)で、その
他の棟別銭やら掛銭の負担が大きく、すでに氏康時代から郷村の欠け落ちなどで
苦労してる。そんなに他国に比べて税収が少ないとは決していえないのじゃ
無いかな?
合戦は氏康時代の武蔵〜下総〜上総方面への侵攻、氏政・氏直時代の上総・上野
・下野への度重なる出陣はかなり頻繁だよね。
534 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 21:32:39
>>533 頻繁といっても基本的には遠征も行っておらず、
武田・上杉に比べて軍役は軽かったんじゃないかな。
郷村の欠け落ちは北条だけでなく、他の大名家でもあったようだ。
といっても、検地をやっていた大名は少数なんでどのくらい欠け落ち
していたのか比べるのは難しいと思うけど。
欠け落ちは善政・悪政も当然あるけど、天災もあるかるからな。
氏政も欠け落ちで苦労した一人だけど、
氏政の治世は天災が多かったからしいからな。
>>532 氏邦
536 :
日本@名無史さん:2005/09/20(火) 00:41:16
四公六民だから、他国より税収低いって意見に
ついて議論が成り立っているのがビックリ。
遠征の回数が少ないとか。。なんか変。
537 :
日本@名無史さん:2005/09/20(火) 02:40:39
四公六民で成り立つようになってるんじゃないの?
無理があるなら税率上げればいいだけだし
538 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 16:43:02
後北条氏の系図が解らん
539 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 17:36:17
540 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 19:21:36
541 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 19:26:59
Cには─【頼俊】─があるがAにはない
542 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 19:34:09
今日の「クレしん」の映画面白かったよ。
土塁とから堀でもって、櫓も仰々しくなく、合戦でも馬上と足軽がちゃんといて、長槍で叩いたり石投げたり、ヘタな実写ドラマより全然良かった。
どうせなら架空の大名じゃなくて、北条の家臣側に立って小田原征伐なんかを扱ってくれればもっとよかったのに。あと、首を取らなかったのもアレだったかな。
あの城は最近の学研系の復元イラストや実際の
復元城郭を参考にしてるよね。
逆井城は確実。あと松山城かな。
鉄炮の距離の描写も良かった。
遠いと矢盾も貫通しないんだけど、近づいて撃たれると簡単に穴が開くのは細かくてGJ。
あとは槍の長さがいいね、大河とかだとやたら短い、雑兵の槍がせいぜい2mあればいい方だからな。
雑兵の槍は5m前後、士卒は3m半ば、騎馬が2m後半、これが( ゚Д゚)ウマー。
俺の人生つまんね。俺の人生つまんね。俺の人生つまんね。
俺の人生つまんね。俺の人生つまんね。俺の人生つまんね。
俺の人生つまんね。俺の人生つまんね。俺の人生つまんね。
俺の人生つまんね。俺の人生つまんね。俺の人生つまんね。
俺の人生つまんね。 <⌒/ヽ-、___ 俺の人生つまんね。
俺の人生つまんね。/<_/____/ 俺の人生つまんね。
俺の人生つまんね。俺の人生つまんね。俺の人生つまんね。
俺の人生つまんね。俺の人生つまんね。俺の人生つまんね。
俺の人生つまんね。俺の人生つまんね。俺の人生つまんね。
俺の人生つまんね。俺の人生つまんね。俺の人生つまんね。
547 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 20:25:18
漏れの好きな北条氏政の辞世の歌です。
雨雲の おほえる月も 胸の霧も
払いにけりな 秋の夕風
我が身今 消ゆとやいかに 思いつつ
空より来り 空に帰れば
「雨雲の〜」は潔く死を迎えようとしているが、
「我が身今〜」はまだこの世に未練があるように思える。
どちらが彼の本当の心境だったのだろう。
548 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 23:10:24
この方がいいと思うが。
吹きとふく 風な恨みそ 花の春 紅葉の残る 秋あらばこそ
549 :
日本@名無史さん:2005/10/31(月) 08:32:38
>>548 GJ!!旧暦ではもう冬だけど、今の季節にぴったりだよ。
550 :
日本@名無史さん:2005/10/31(月) 09:21:19
★菊池寛の『日本合戦譚』などに、
「食事の仕方で人物批評をされたのは
平親王と北条氏政の二人である」といった文言があります。
北条氏政が一杯の飯に二度汁をかけて食した為に、
父親の氏康が「北条家も自分一代で終わるな」と嘆息したという史話は
有名ですが、もう一人の平親王の史譚は如何なる内容のものなのでしょうか?
出典や説話伝承のあらましを御教示下さいませ。
よろしく御願い申し上げます。
>548
まあ現実にはこうなったわけだ。
吹きとふく 風な恨みそ 春の花 葵の茂る 秋あらばこそ
553 :
日本@名無史さん:2005/10/31(月) 21:48:55
>>552 輝元はあったっけ?
食事の方法じゃなくて、祖父の元就に甘えついた話なら聞いたことがあるよ。
元就が家督を譲ろうとした時、
「祖父様はこの輝元をもう見捨てるつもりですか?父上(隆元)は40になるまで
面倒を見てくれたではないですか。」とね。
554 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 00:02:23
で、どっちがほんとの辞世なんだよ。
555 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 00:42:09
両方とも後世の軍記物で発表されたもんじゃないの?
557 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 15:12:33
>>552〜553
毛利輝元の史譚に就きては、いづれが正しう御座居ませうや?
558 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 15:14:27
むむむ
559 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 18:00:39
早いうちに秀吉に降参して相模一国安堵になってたら・・・。
伊豆・相模・武蔵安堵だよ
561 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 18:06:02
>>560 本能寺の時点で秀吉に与力してたらその可能性はあるね。
本能寺でなくて、小田原征伐の終わる直前に北条へ出されようとした降伏条件
563 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 19:03:00
>>562 へ〜。
会戦直前ならわかるけど、開城直前にそんな好条件が提示されてたの?
徹底抗戦してたのに。
氏政氏照はダメダメだな。
その案って根拠がなかったような。
しかし名胡桃奪取さえなければ、
或いは氏政さえ上洛していればなあ・・・。
折角、対豊臣外交の出遅れを挽回して、
上杉や北関東領主が切望していた関東征伐を取り消させて、赦面を勝ち取ったというのに。
すべてがおじゃん。
ループになるけど、
秀吉は北条家の所領安堵なんて結局は無視するのではないか・・・と。
もうそろそろ老害が全開になるからな、秀吉は。
ありうるかもしれん。
ま、すべては妄想だがな
568 :
日本@名無史さん:2005/11/04(金) 12:50:18
569 :
日本@名無史さん:2005/11/04(金) 16:08:46
>>566 だいじょうぶだって
そろそろ老害全開で朝鮮出兵するからwww
武田信玄と北条氏康を祖父にもち
困難な大転換期に大北条を担わされた氏直の苦悩を
わからない奴はまだまだ子供だな。
571 :
日本@名無史さん:2005/11/04(金) 22:59:17
>>552〜553
毛利輝元の史譚に就きては、いづれが正しう御座居ませうや?
いざ御返答を!
572 :
日本@名無史さん:2005/11/04(金) 23:26:50
>>570 あと徳川家康の娘をもらっていたことも追加してくれ。
574 :
北条氏直:2005/11/04(金) 23:33:48
では、毛利輝元の史譚について、一族あげて小田原評定を行いたい。
諸将の忌憚ない意見を述べてみよ。
575 :
北条氏政:2005/11/04(金) 23:40:52
氏直よ、輝元は幼くして父を亡くしたのじゃ。
祖父の元就公に甘えるのも頷ける。
評定することでもなかろう。
さあて、みそ汁ご飯でも食すか。
我が御家も氏康様が御存命ならば…
あいや、氏政様への当て付けではごさらぬぞ
577 :
北条氏照:2005/11/05(土) 02:18:34
兄者、父上が生前に二ちゃんねるとやらで書き込みを
なさっていたようですぞ。
「味噌汁を飯にどれくらいかかければよいかは、一度でわかるであろう。
それができぬ者にどうして人を見抜く力があろうか。
わが家もわしまでか…orz」
悪いが、なりきりは余所でやってくれ。
579 :
日本@名無史さん:2005/11/08(火) 02:54:57
北条家は戦国時代を象徴するような大名
良くも悪くもね・・・
マジキモい
三戦逝けよ
結城家、小山家、佐野家、皆川家、壬生家、宇都宮家、那須家、東金酒井家、土気酒井家とかは北条家とどう接してきたの?1550〜1590年の間で教えてくらはいなw
582 :
日本@名無史さん:2005/11/19(土) 08:02:01
┌─────┐
| ,,,,,,,,,,,, | 篭城をこのまま続けるか?
| [l,,,,▲,l] | 降伏するか?
| (__・∀・) |
|/´~ V:V~ヽ.|
└─────┘
,,,,,,,,, ,,,,,,,,,,,
[|,,,▲,,|] [|,,▲,,|] ,,,,,,,,,,,
( ・∀・) ( ゚Д゚,,) [|,,▲,,,,,|]
,,,,i^i ̄(iノ '^:^') /~^:^~ヽ (∀` __)\
[|,,,,▲,,|] | ,l/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\l:`´ [|,,▲,,,,,|]
/(, ・∀) _/ \ (∀` __)\
[|,,,,▲,,|] `´:l/ \l:`´ [|,,▲,,,,,|]
,/(, ・∀) ,/ \ (∀` __)\
[|,,,,▲,,|] `´:l/ \l:`´ [|,,▲,,,,,|]
,/(, ・∀)⌒/ 小田原評定 \ (∀` __)\
i^i ( `´:l/ \l:`´ ~,) i^i
| | ( ⌒ | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |⌒ ,),,| |
| | ̄ ̄(__| l_ ) ̄ ̄| |
氏政 氏直
,,,,,,,,, ,,,,,,,,,,, 氏照
[|,,,▲,,|] [|,,▲,,|] ,,,,,,,,,,,
( ・∀・) ( ゚Д゚,,) [|,,▲,,,,,|]
松田 ,,,,i^i ̄(iノ '^:^') /~^:^~ヽ (∀` __)\ 氏邦
[|,,,,▲,,|] | ,l/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\l:`´ [|,,▲,,,,,|]
大道寺 /(, ・∀) _/ \ (∀` __)\ 氏規
[|,,,,▲,,|] `´:l/ \l:`´ [|,,▲,,,,,|]
,/(, ・∀) ,/ \ (∀` __)\
猪俣 [|,,,,▲,,|] `´:l/ \l:`´ [|,,▲,,,,,|]
,/(, ・∀)⌒/ 小田原評定 \ (∀` __)\山角
i^i ( `´:l/ \l:`´ ~,) i^i
| | ( ⌒ | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |⌒ ,),,| |
| | ̄ ̄(__| l_ ) ̄ ̄| |
584 :
日本@名無史さん:2005/11/19(土) 08:58:18
こりゃ、なんにも決まらんぞ(藁
マジレスすると、
猪俣は評定衆じゃない。
resに
北条と北條が混ざってるのは何故じゃ?
評定衆一覧きぼんぬ
588 :
北条氏照:2005/11/19(土) 17:12:42
589 :
日本@名無史さん:2005/11/19(土) 20:48:19
南蛮文化があまり普及しなかった関東地方に椅子なんかあったのかと
つっこんでみる。w
>>586 徳川の「徳」の字の様に、旧漢字が使われなくなっただけの話。
条でも條でも問題ない。
591 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 12:24:17
__、_、ヽ`ニ、ニ`二、ニ`ニ`、=、=ヾァー:-:ー丶、,、、,,_,.,、
⌒>\丶\ヽヽ ',!|/〃/ //,. ゙ : ' .: ゙ ,: ゙ ,/ あ・・・ありのまま起こったことを話すぜ
⌒丶\丶ヽ`、', 《〈 〃ノ/. ' . '_;.,;._ ;.' , ゙ //
__\ヽヾ:ヾ_ヾミ[]―‐[〕-''''"~´ 彡 . ゙ .゙〃 俺は1580年初頭に北条軍は軍事力で関東を圧倒し、
⌒\ ミ|{「己川ロ后叨:.: し___! 彡 ;' . ゙ / 日本一の大大名になった、と思っていたらいつの間にか
ヾレュ三<´{(厶ニニ-‐、>ヽ ; : . ,゙i 猿が侵攻してきて北条家が滅亡しや がった。
⊂ ,{ {(j } }==Y∠r:ュ.ヾ, く;/^ヽ!
c { ト >-<ン ,' ~厂 ̄´`ヽ ,ィ个 } な・・何をいってるのかわからねーと思うが
' {〔!厂〈ー‐、 '":::... u } )丿,ハ 俺も何が起こったのかわからない
)|h `-'" / (__/,/
. !| 「r三三ヽ J l /⌒l ! ただ、一つ言えることは、小田原城は
l | } ,. ―-| u ,/ 、_,ノj ,r一''"~´) 本当にただの飾りでしかなかったということだ。
!.ハ ノノ二ニ二! ノ `7〈 / ゝ''"´ __
592 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 09:01:22
>>591 1580年初頭の日本一の大大名は織田信長でしたが何か?
593 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 11:46:44
でもま、1万石とはいえ、大名として存続しただけマシでは?
>>591 何か反論しようとも思ったが、その通りだな。
つか、当時の人の方がその思いは強いかもしれん。
後北条を始め、反北条の面々もあそこまで一方的に短期間で滅ぶとは思ってなかったろう。
冬将軍に守られて防衛戦ではめっぽうつよいロシアが年内に滅んでしまうくらい、ショックなことだ。
神流川の合戦で滝川一益軍に先祖を殺された者としては、北条モエーでありますが、
ぢつはそのまえに、山内上杉VS北条の時には北条に先祖が討死したり、上杉謙信
VS北条の合戦でも討死したりしてるんで、かなりビミョーであります。
でもまぁ、結局の所、親分(山内上杉の一族)が北条の子分になっちまったので、自動的に
北条の寄騎になって没落(といっても戦をしなくなっただけだけど)してしまったという次第で
あります。
武田滅亡時は織田家と仲良くやってたのに
本能寺の後、滝川一益と戦闘を始めたのは何ででしょう。
あんまり後のこと考えずに、目先の旧武田領に眼が眩んだのかな?
滝川一益による関東統治プランが北条としては納得の出来る物ではなかったから。
598 :
北条氏康:2005/11/28(月) 09:44:41
_________
/ニニ「ノ / 小田原城から追撃だ!
∩ ミ゚Д゚__彡 < 越後のオカマ武将を吹っ飛ばせ!ウラー!!
______,∠二/" ̄ ̄U\ \__________ ――
└‐―――‐┬lー((( lコ ▲. \ ̄二二二 _____,;..___
,ニ>ニ >ゝ===ニ=="――― 、_ ___, ;,.__
,-l)フ∠//┌┬――┐ \_\ , , ; ξ;_____
ξ , ―‐< ,――,>-┴┴――┴―――――\; _ξ_、, ,; :::
ξ ※.<--((――<―‐‐<〃ヽ√゙Y√゙Y√゙Y√゙''√゙Y《* 》, ,. ; :ξ; :, ̄ξ; :, ̄ ̄ ̄
※;,∧※∩\_ _ゝニ\ ホ { .0.}{ .0 }{ .0 }{ .0 }{ .0 }ヘノ; ;:ξ ;ξ ;ξ; ; ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
*⊆(Д゚ )ヽニゝ. ̄ ̄ゝニ\ N__,∧,_ノ,ヘ__∧__∧__ノ/,ξ ξ,;ξ,ξ ;;ξξ;ξ,,ξ;;ξ,,,;
上杉謙信は実は女だったモエ
そのからみで説明よろ
何をだ
601 :
日本@名無史さん:2005/11/29(火) 09:49:41
>>591 もう・・・・・・・あきらめろよ・・・・・・・・・・・・・・
・・・北条家は1590年にとっくに消滅したんだ・・・・・
・・・・関東独立国家は戦国時代最大の過ちを犯して・・・・
・・・・・北条家は日本中から消え去ったのさ・・・・・・・・
・・・・・・・あきらめて回線切って首吊って死ねよ・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・楽になれるぞ・・・・・・
602 :
日本@名無史さん:2005/11/29(火) 22:49:35
関東なんてこの程度。源頼朝も徳川家康も官軍もみな、西からやってくるのだ。
早雲も西から来ました。
ていうか足利も上杉も佐竹も宇都宮も結城も里見も…(以下略
千葉胤富が上杉謙信を返り打ちにしたのは史実ですか?
永禄九年の臼井城の戦いのことかな?
>>606
そうです、北条方は援軍とかおくったのでしょうか?おしえてください
608 :
日本@名無史さん:2005/11/30(水) 12:54:05
臼井城の近くの道よく通ってたけどあんなところに城があったなんて知らんかった
たしか松田孫太郎だったけかなぁ、篭城したんだよ。
あと、まだその時点では千葉方の高城氏も援軍送っているよ。
かなりの激戦だったみたいよ。一ヶ月近く包囲しているしね。
特に4月20日から21日は大激戦だったみたい。
また太田三楽や本庄もかなりの曲輪を占拠するも、
千葉方の臼井が落城ギリで堪えて反抗するというような奇計をもちいてもいるようだ。
本丸のみの空城の計ともいおうか。
翌日、それをみてとった上杉方の長尾新五郎が攻め込むが城壁を崩され敗退。
そこを胤富が突撃をして上杉方結城勢が切り崩されているね。特に結城勢は取り残されッたっぽい。
さらに千葉・北条方は松田、原らが城から打って出て追撃するも、上杉殿軍の北条高広勢と新発田勢に阻まれているようだお。
それと推測だけど、どうやら孫太郎は城外に打ち出て謙信の本陣及び付城の裏から突撃したっぽい。
これで退却せざるを得なかったと思う。
それで上杉殿軍の包囲でかなり犠牲を出したようだけどね。
アレクサンダーか項羽みたい。こんだけ戦術的に優れているのなら
松田家が北条家の筆頭家老なのも納得だよね!!
岩舟に乗った赤鬼、マジカコイイ
完敗に追い込んだとは言えないけれど、
あの謙信に土をつけたからな。
614 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 23:06:50
白井入道については?赤鬼と今孔明のセットだったんだよね。
615 :
日本@名無史さん:2005/12/06(火) 03:39:11
>>614 書いてありまつよ!
白井入道の本名は臼井でしょ。
616 :
日本@名無史さん:2005/12/06(火) 04:14:54
北条氏政かっこいい
617 :
日本@名無史さん:2005/12/07(水) 00:21:16
>>615 白井入道の本名は白井胤治では?
同じ千葉氏の一族ですが臼井氏とは別です。
618 :
日本@名無史さん:2005/12/07(水) 00:58:08
>>618 氏政四兄弟の味がわからないとは、まだまだですな。
620 :
日本@名無史さん:2005/12/07(水) 10:44:23
>>619 あの四兄弟でいちばん優秀だったのは氏規だった、ってのはホントですか?
氏康以降の北条は主君も家臣も無能だよ
愚鈍と言う言葉そのもの
>>617 おお!修正サンクス。
そういえば苗字は白井庄からですもんね。
おぼろげな記憶で勝手に捏造してしまったようだ。スマヌ・・・orz
614>>
白井入道ってそんなにすごいのになんでマイナーなんだろ
時代劇とかゲームにでたらいいのにな
624 :
623:2005/12/07(水) 20:02:37
↑
アンカーミスはずかしす
>>621 家が大きくなるにつれて、個人の能力以上に
組織としての体制がものを言うようになったんだと思う。
氏政、氏直、氏照、氏邦、氏規と一族内で大きな力を
もった人が複数あり、本家の官僚組織も意思決定には
深く関わった。これが関東制覇と領国支配いう通常業務
には有効に働いたが、対秀吉という非常事態には逆に
混乱をもたらしている。
責任の所在が曖昧という、現在の組織でもありがちな
普遍的な問題のような気がする。
>>623 関東の戦史自体が、あまり注目されませんからねえ。
天正16年に和平が成立した後も氏照がちょろちょろしすぎたな
でも合議制といえど氏政が、豊家大名として生きていく、勤めていくと決めれば従い続けたのだろうし
北条家内だけを見ても、小田原合戦にいたる経緯は分からない。
北条家に圧迫されていた多くの関東諸領主や、関東管領上杉謙信
の跡取り景勝などの、現状のままで北条家が存続することを
望まない勢力による外交も展開されていた。
北条家VS反北条連合の外交合戦に、反北条が勝利したという
のが現実だったのではと思う。
それはどうだろう。
景勝・関東反北条諸将が北条の存続を望まないのと同様、
徳川・信雄あたりは北条が豊臣政権に入れて、自派の発言力を増強を狙いたいだろう、
そもそも畿内以西の大名にとってはどうでも良いことだし。
和平の代理人は徳川、反北条の代理人は三成で格が違うし、
また和平は後一歩で現実の物になる段階になっていた、実際に氏政の上洛の準備も終わってた。
でも氏政は上洛しなかった。
何故かは誰にもわからないけど、東国の覇者の矜持かね・・・。
629 :
日本@名無史さん:2005/12/13(火) 13:03:51
>>628 家康上洛のときと同じ条件なら上洛してやる、という考えだったのでしょうか?
630 :
日本@名無史さん:2005/12/13(火) 14:36:54
氏直に伊豆一カ国だけでも与えることはできなかったのだろうか?
佐竹義宣、上杉景勝、真田昌幸あたりは北条を宿敵としていたわけだが
この3人とも石田光成ら秀吉側近と昵懇の間柄
この辺りの動きが関わってると思われる
誰か俺に延々と北関東攻め続けた理由を教えてくれ。
この間出てた本だと「北条の夢」としか書いてなくてなんか萎えた。
山内上杉家の影響力排除
関八州制圧
進出可能な方面が北関東だったから
636 :
日本@名無史さん:2005/12/17(土) 17:03:29
>>631 名胡桃事件に対しての、氏直から秀吉への弁疏状の中に
越後上杉衆が軍勢をだして、名胡桃の地と信州川中島の
知行替えを迫った件が書いてある。
当時名胡桃城主は不在で、城代の中山という人物が
城を預かっていた。そこで中山と沼田城代の猪俣が
現場レベルで話し合い、所領替えを強要されないように
名胡桃城へ軍勢をいれたらしい。
家康からも同様の連絡を受けていたようで、中山の
書き付け(証言書?)も提出している。
これを見ると名胡桃事件は上杉=真田間の謀略と思われる。
また秀吉本人か、ごく近い所にいた人物もからんでいたかも
しれない。
北条家滅亡の要因は、まず北条家内の意見統一
にてまどったこと。これは先のレスにもあるが
システムの問題が大きいと思う。
さらにようやく、臣従の意思決定ができたのに
時間がかかりすぎたせいで、反北条連合の外交・
謀略が実をむすび、逆転で北条征伐の理由を与えて
しまったというところか。
638 :
上杉:2005/12/17(土) 18:02:49
早雲の母親は足利や小笠原経由で北条の血ひいてないの?
北条も関東統一にてこずり過ぎ
いくら上杉が来るっていってもあんな遠方からくる軍勢も撃退できないようじゃな…
北関東なんて小豪族しかいないし勝てない道理が無い
>>639 雑多な小勢力が割拠している地域と、
強力な政権が統治している地域を比べた場合、
後者の方が平定の難易度は低い、とマキャベリも言ってるけど?
理由は図書館にでも行って読んでこい。
642 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 17:08:31
age
643 :
日本@名無史さん:2005/12/24(土) 11:08:56
氏政の兄弟達の研究はいかほど進んでいるの
でしょうか。
好戦的とされる氏照よりは、氏邦の方がよっぽど
荒々しいイメージがするのですが。
氏規は名将とされることも多いですが、やはり
江戸時代まで大名として存続できたことが大きいの
でしょうね。(子孫によるPRも含めて)
>>641 マキャベリが糞食うヤツが天才だと言ったら
糞食いながら自慢するタイプだな
江戸っ子の軽口だっけ「人間一生糞袋」って。
646 :
日本@名無史さん:2005/12/25(日) 21:22:37
>>639 上杉謙信が原氏を攻めて敗退したことを知らないとは・・・ここの住人もレベルが低くなったな
まあ、臼井城については知らない方が普通だから仕方あるまい。
おじさん年代の信玄厨だと、長野業正の事をしらない場合もあるし。
>>644 罵るだけならレスするなよ、しかもイブにさ。
だから彼女が・・・
648 :
北条氏政:2005/12/29(木) 11:30:53
___
|_▲_・
ミ ´Д`彡 秀吉を倒したいんですがアドバイスして下さい
_∧.WW∧_
/ .V\/V. \
//| ― .|。― |\\
// | .|。φ..圓. \\
( ̄)o | .|。 || o( ̄)
|\ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ̄ ̄ ̄ ̄\
| \  ̄ \
| | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| ||北| ̄|条| ̄|氏| ̄|政|| |
学研の戦国の堅城Uで、北条家の軍事システムへのコメントがある。
いわく…
北条家を関東の覇者たらしめたのは、外様と譜代を組み合わせた
均質な部隊編成や、自らの軍勢の動きまでフォーマット化した築城法
といった、近代的センスである。しかしその過程で、いつの時代の戦争
にも必要とされる指揮官のタレントを犠牲にしてしまった。
そのため、指揮官の能力が真に必要とされる状態でも、定型化した行動
しかとれず、それらの前提が崩れた瞬間に敗北に向かった。
という内容。前のレスにもあった内政面のシステムの限界と
同じような問題が指摘されている。
氏直が徳川家と甲斐で戦ったときに、奇襲のチャンスに
総攻撃をかけようとしたが、家臣に止められて攻撃を
とりやめている。
これは小田原の軍評定で、援軍と合流してからの攻撃
が決まっていたからで、649の内容を如実にあらわした
一例だと思う。
結局、援軍が撃退され、北条家は甲斐での利を失うことに
なった。
651 :
日本@名無史さん:2005/12/29(木) 15:41:46
景勝って管領になってないよな
そりゃ幕府がなくなっちゃったもん
徳川になってからは奥州に移転だからもはや関東管領は無理がある…
>>649 軍事組織としては、戦力が均一なほうが有効なんですけどね。
各単位で戦力が違うと、戦力の見積もりを間違う可能性が大きくなる。
そういう組織構成と有能な指揮官の抜擢人事を組み合わせるのが最良の組織なんでしょうけど
北条家はそこまで進歩出来なかったということでしょう。
まあ、織田家や豊臣家だってそこまで進歩していたとは言えないですからね。
封建制度だから初代は抜擢されても時代が経つと家柄がどうしても重視されてくるし。
>>653 やっぱり北条家は先進的な家だと思う。
あの不安定な戦乱の世で、よくぞそこまでのものを
作り上げたとおもうよ。
このあたりは氏政時代に作り上げたものが、大きい
のだろうね。
関東の覇者としての北条家を完成させた氏政は
優れた戦国大名だったといえるのでは?
656 :
日本@名無史さん:2006/01/01(日) 18:15:37
あけおめ
十数万石規模の状態で近世に突入した北条を見てみたかった
657 :
日本@名無史さん:2006/01/01(日) 19:31:30
>>655 もちろん、優れた実務家だよ。
ただし華がないので一般受けは絶対しないタイプ。
659 :
日本@名無史さん:2006/01/05(木) 22:05:17
北条家をさらなる発展と安定へと導いた氏政は、小田原攻めに
あってなければ名君と呼ばれただろう。
終焉の時代に重なったのが彼の不幸だよね。
また氏直は、氏政の作りあげた北条家が早くも直面した問題
を的確に捉えていたと思う。だからこそ、対秀吉戦では父親
と異なった路線をとれたのでは。
こう考えると、この2人ってカッコいい。
>>649 なんか諸葛亮を彷彿させるね。
いざ会戦に至ればめっぽう強いけど、戦略レベルでは手堅いが臨機応変に欠けるので大きな戦果を逃してしまうみたいな。
661 :
日本@名無しさん:2006/01/06(金) 00:26:28
小牧・長久手戦で、北条が大軍を以て徳川方を応援すれば良かったな。
そうすれば、天下も夢ではなかったと思う・・・・・・。
一応、軍勢を送る意志はあったみたい。
ただ関東でも抜き差し成らない情勢だったから。
対秀吉は、武田の上洛戦以上に、北条にとっても関心事みたいだったし。
663 :
日本@名無史さん:2006/01/06(金) 22:22:43
城ひとつで兵を送る秀吉に本領安堵の意思はないと思われる。
664 :
日本@名無史さん:2006/01/06(金) 22:24:31
由良国繁と長尾顕長が北条家を裏切ってしまい、
上野東部と下野南部が緊迫化してしまいましたからね。
五月に沼尻合戦が起きていることを考えますと、
小牧に援軍を派遣するのは厳しいですよね。
北条家vs佐竹家・宇都宮家・結城家・佐野家・由良家・足利長尾家
あと、上野北部には真田家もいますし。
沼尻合戦も、結局は羽柴方との戦いなんだよね。
家康が秀吉と直接戦い、氏直が秀吉についた
北関東連合軍と戦った。
五大老筆頭 北条氏直
上洛していれば、こうなっていた可能性は非常に高いと思う。
鎌倉北条にならった執権職家としては最上であろうというのに
戦国武将でなく、戦国大名家すぎたな…
667 :
日本@名無史さん:2006/01/07(土) 03:28:00
狭山1万石の大名として、明治維新までその名前を伝えたことは賞賛されるべし。
豊臣家などは名前も伝えることが出来なかった。
織田とは接近を試みていただけに
本能寺の変がなければどうなっていたのか興味深い。
その場合おそらく天下を統一するであろう信長が
同盟者となった北条家を最終的にどう扱うかを含めて
考えてみるとけっこう楽しい
でも関東系の戦国大名って
そこそこの石高を持ったまま
江戸時代に生き残ったのは佐竹くらいだよねえ
こいつら蠅の兄弟みたいだね。
>>666 家康がすでに秀吉に臣従していた以上、筆頭は無いじゃろ
671 :
日本@名無史さん:2006/01/07(土) 08:59:35
家康を関東に北条を東北に送る玉突き転封になる気がする。
672 :
日本@名無史さん:2006/01/07(土) 09:38:46
そして伊達家あたりがあぼーんされるのか?
673 :
日本@名無史さん:2006/01/07(土) 10:06:49
謙信、信玄、信長、家康、秀吉。
氏政が渡り合ったのは、戦国のキラ星ともいうべき
この面子なんだよね。さぞかし心労も大きかっただろう。
674 :
日本@名無史さん:2006/01/07(土) 10:27:11
北条氏長なる家光〜家綱時代の大目付は、
ある本には「北条氏康の曾孫」と書いてありました。
がしかし、正しくは北条氏綱の養子・綱氏の曾孫
なのではないでしょうか?
識者の方々、彼の詳しい系譜関係を御教示下さい。
宜敷く。
>>674 玉縄北条氏ですから綱成の血筋ですね。
綱氏なる人物はわかりません。綱成がそのように
名乗ったことはないかとも思います。
系図でいうと、綱成−氏繁−氏勝−繁広−氏長となります。
綱成から数えて4代目ですが、氏勝、繁広は兄弟なので
氏長は曾孫ということになります。
たぶんこの説明であってると思います。
676 :
日本@名無史さん:2006/01/07(土) 14:31:38
玉縄北条家は断絶したんじゃなかったのかな。
氏勝が下総岩富藩の藩主になる→保科氏からの養子氏重が
あとを継ぐ→子供が娘ばかり5人で改易。
こちらが玉縄北条嫡流の流れ。
678 :
676:2006/01/08(日) 11:50:47
ありがとう。氏重が死んだ後改易されたのは嫡流だったわけか。
679 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 13:42:07
そういや氏直は信玄の血引いてるよね。
氏長の祖母が氏康の娘だからでしょ
氏康−女(氏繁の妻)−繁広−氏長
681 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 18:05:42
女系ならばみな親戚縁者なのだが。
>>679 祖父が氏康と信玄なんて血統だけなら戦国最強だよね
683 :
日本@名無史さん:2006/01/09(月) 21:43:35
生きてれば良将になったかも。
684 :
日本@名無史さん :2006/01/12(木) 18:58:46
北条氏秀が上杉当主になっていれば・・
上杉憲政つかえねー
685 :
日本@名無史さん:2006/01/12(木) 22:31:46
上杉景勝が問答無用に殺してしまったからね。
上杉憲政、哀れなり。
どちらかというと武田勝頼の方が使えないような気がw
この件に関しちゃ氏照兄もとっとと帰っちゃったからねえ
ことごとく見放された景虎の心中いかばかりか
まあ正直、越後領有すると国境線がいきなり長くなりすぎるので
外交やら防衛線やらでてんてこ舞いになりそうだけどな。
688 :
日本@名無史さん:2006/01/13(金) 15:35:18
景虎が上杉として北条に反旗を翻す・・・かも。
689 :
日本@名無史さん:2006/01/13(金) 19:01:18
上杉景虎が北条家に反旗を翻すのは難しいような気がする。
織田家との抗争に全力を傾けるべきかなw
690 :
日本@名無史さん :2006/01/13(金) 19:36:35
関東管領上杉景虎
実際に治めているのは北条家という二重構造に(w
691 :
日本@名無史さん:2006/01/13(金) 20:17:53
その割には北条は固執してないが。
692 :
日本@名無史さん:2006/01/13(金) 23:34:06
関東経略で、なかなか手が回らなかったんだわ。
693 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 21:56:02
御館の乱以降、武田勝頼が上野と駿河に攻め込んでいたので、
それが無かったら関東経略も楽に進んでいたと思います。
やっぱり武田勝頼って使えないような気がw
694 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 07:16:15
甲相越三国同盟できればよかった。
もう残りの北関東は取る価値ないから
むしろ甲斐や駿河に攻め込むべきだったんじゃないだろうか
上杉は謙信死後混乱してるし
佐竹は攻めてくるだけの力はない
目障り且、力が弱まりつつある武田滅ぼして西進するのが妥当かと
696 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 19:45:05
越後は小田原から遠すぎるので北条宗家の直接支配は厳しいかも。
また、上杉景虎による北条宗家の間接支配も、
古志長尾氏や栃尾本庄氏などはいいかもしれないが、
揚北衆は北条家に反発し泥沼化しそうw
下手をすると西の織田家、東の揚北衆に挟撃されそう。
甲斐と駿河は弱体化している武田家とはいえ、
その武田勝頼の侵攻を史実では止めることができていない。
武田家と佐竹家は連携して北条家に攻め込んでいるので、
北関東を制してからではないと厳しいかも。
北条家と徳川家の同盟も駿河・遠江方面では有効かもしれないけど、
甲斐に攻め込むほどの切り札というには力不足かな。
それよりも早急に宇都宮家と結城家を滅ぼそうよw
697 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 04:59:33
>文明8年(1476)に堀越公方足利政知の命を受けた太田道灌は駿河に侵攻した。
>その頃の今川家は当主義忠が一揆討伐の帰途に襲撃され死亡し、家督相続で混乱していた。
>これを好機を見た足利政知が内乱鎮圧を名目に駿河奪取を目論んだのである。
>しかし今川家は伊勢新九郎が家督相続の混乱をまとめ、道灌に撤兵させるに至った。
698 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 17:04:26
それよりはるかあとだが佐竹を下し北関東連合を無力化させている。
ただ、秀吉が迫ってきているからあまり意味はないが。
いつ佐竹が降されたんだよw
700 :
北条氏政:2006/01/17(火) 09:20:11
大坂はまああかん 汚れとるとろくさいビョーキがはやっとる
♪これからのパフォーマーは相模が主役! (さて)
世間じゃ相模をバカにするけどよ 頼朝も早雲も相模ですよ ♪
隠れとるとか隔離してるとかコケにするけどよ パスポート無くても入れますよ
701 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 15:26:19
↑CD化希望
702 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 19:27:00
北条氏直は川中島で上杉景勝と対陣したけど退かずに在陣していた方がよかったのでは?
徳川家康と若神子で対陣するよりは勝機があったと思う。
上杉景勝は新発田氏が謀反を起こしているから長陣は厳しい。
甲斐の方は氏政か氏照が主将となって早急に相模から兵を進めた方が成功したかも。
703 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 19:33:08
はあ?
704 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 23:09:38
>>702 上野侵攻は最重要だが北信濃侵攻には疑問
それよりも甲斐侵攻の方を重要視すべきだった
そもそも北条に上野・甲斐・信濃の三国平定は無謀かと
信濃は小県・佐久で良しとするべきだろうな
>>703 わからんなら書き込むな
レスが無駄になる
705 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 03:19:01
上野・名胡桃城を攻めるよりも、常陸の佐竹を5万の大軍で征伐すべきだったな。
706 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 03:25:12
たかだか動員数5000程度の佐竹をなぜ潰せなかったのか不思議でならない
潰すどころか勢力拡大してるし
707 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 07:51:53
佐竹家だけならそう難しくも無いでしょうが、
宇都宮家や結城家などに徒党を組まれると難しいかも。
それに佐竹家は蘆名家を味方につけているから北条家だけに集中すればいい。
北条家は上杉や武田の侵入を受けながら、関東の平定を
しなきゃいけなかったんだから、そう簡単にはいかんわな。
関東の小領主どもも、太田、里見、正木、結城、多賀谷、佐野等
小粒ながら手ごわいのが多いし。逆によく勢力のばしたなって思うよ。
709 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 11:16:11
そう考えると本能寺の変以降の軍事行動には無理がありますね。
上野侵攻はいいとしても信濃侵攻はどうなんだろう?
佐竹家・宇都宮家・結城家などが反北条政策を取っているのに、
上杉家や徳川家と敵対するのは如何なものでしょう?
若神子対陣の時は皆川広照などの関東の諸勢力が徳川軍の陣にいたとか。
その後、北条家も徳川家と同盟を結んでいるけどね。
上杉とはもともと敵対しているし、上杉が内紛と対織田で息切れしているから
その当時はあんまり問題ない。
徳川にしたって甲信に侵攻しないで上洛することだって考えられた訳だから、
上野侵攻の返す刀での甲信侵攻は当然だと思うよ。
ただ甲信領有は後北条にしてみればデメリットの方が大きい。
故に史実のような徳川と互いの後背を守り合う形での同盟は理想的じゃね?
711 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 18:52:32
>>710 >ただ甲信領有は後北条にしてみればデメリットの方が大きい。
北条家にとって甲斐領有のデメリットって何だろう?
防衛線の長大さとそれに伴い隣接する勢力が増えること。
徳川との同盟だと、上野・下野・下総(里見は天正五年に講和)だけで済む、
仮に200万石で5万人動員できるとして、ほぼ全てを北関東に投入できる。
対して甲信領有だと、甲斐・信濃・上野・下野・下総・駿河となり
260万石で6万5千人を広範囲に分散せざるをえなくなって、軍事密度が下がる。
ぶっちゃけ、後北条にしてみれば領域と国境が長くなって手間が増える割には得る物が少ない。
信濃ではなく、甲斐・駿河なら何を置いても取るべきだが。
或いは信濃の小諸くらいなら押さえて置いても良いかも。
713 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 23:59:35
>>713 甲斐、駿河はとったほうがいいって書いてるじゃん。
甲斐だけならデメリットはないってことでしょ。
当時は甲信ともに無主の地で同時侵攻してたから、最初は
ごっちゃに書いただけでは?
715 :
日本@名無史さん:2006/01/24(火) 00:59:15
,,,,,,,,,,
[|,,,▲,,|,] //
___|(,,゚Д゚)__ | 秀吉様はこう言いました。
|| ⊆ ⊇ | . | 「いきなり侵攻してきた猪俣に磔の洗礼を与えなさい。」
 ̄ ̄ ̄|.| || ̄ ̄. |
||.| || __.レ──────────
||.UU| . J_◎_|
|| | (,,゚Д゚) Σ
|| | (⌒つΟ ,,,,,,,,,, ,,,,,,,,,,
|| | | | [|,,,◎,,|,] [|,,,◎,,|,]
| ̄ ̄| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ウルァ( __) ウルァ (,, )
| | | ⊂ l]_| ⊂ ヾ
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ( ○ ) ( ,,)〜
716 :
日本@名無史さん:2006/01/24(火) 08:39:42
>>714 甲斐と信濃をごっちゃに書いてる時点でダメでしょう。
『甲斐だけならデメリットは無い。』と答えるべきかと。
>対して甲信領有だと、甲斐・信濃・上野・下野・下総・駿河となり
>260万石で6万5千人を広範囲に分散せざるをえなくなって、軍事密度が下がる。
>ぶっちゃけ、後北条にしてみれば領域と国境が長くなって手間が増える割には得る物が少ない。
このデメリットは甲斐に当てはまるのか?
>>713 見損じてた、悪い。
甲斐だけなら領有すべき。
718 :
日本@名無史さん:2006/01/24(火) 16:14:06
談合坂越えてまで、領有する価値あるかね?
支配したところで徳川と衝突するだろうし、
徳川方旧武田vs北条方旧武田、で混沌合戦になるし、実入りは少ないらしいし、
諏訪方面に道開いちゃってるし。
談合坂で留めとけば、防御は簡単じゃね?
719 :
日本@名無史さん:2006/01/24(火) 19:05:08
>>718 >談合坂越えてまで、領有する価値あるかね?
価値があると思います。
駿河に対する作戦が駿東郡への侵攻だけではなく、
富士郡への侵攻という二方面作戦が可能になると思います。
その気になれば直接江尻へ侵攻できますし。
同じ理由で信濃に対する作戦も佐久郡と諏訪郡の二方面作戦が可能になります。
あと甲府盆地も領有していた方が少しは足しになりそう。
720 :
日本@名無史さん :2006/01/24(火) 19:22:02
北条は天下統一を目指していたのか?
関東平定のみを目指していたともいわれているが、今川領の駿河駿東郡
を何度も攻めたり、越後国の御館の乱に介入したり、武田信虎領の甲斐国に攻め込んだりしている。
721 :
日本@名無史さん:2006/01/24(火) 19:38:15
取れる所は取ろうとしていたんじゃない?
そもそも北関東の小豪族なんかにちょっかい出すのが間抜けだ
寸土を得るのに忙殺されて
逆に滅びたんじゃ笑い話しだな
空気よめよ
信長の甲斐攻めの時、駿河郡取れなかったし貰えなかったのが痛かった。
725 :
日本@名無史さん:2006/01/24(火) 23:25:43
>>722 >そもそも北関東の小豪族なんかにちょっかい出すのが間抜けだ
北関東の小勢力を攻めるのは問題ない。
問題なのはその小勢力が連合し、背後の大国と連携を阻止できなかったこと。
(背後の大国・・・上杉家・武田家・徳川家・豊臣家など。)
小田家が佐竹家によって没落したこと。
結城家が北条家から離反したこと。
あと北条家の他家に対する養子政策もある意味失策と思います。
北条家に敵対すると軍門に下っても乗っ取られるという印象も良くないかな。
管領も公方も倒したのに、関東を手に入れられなかったのが
一番痛いと思う。謙信、信玄、信長、秀吉、次々に邪魔がでてくる。
727 :
日本@名無史さん:2006/01/24(火) 23:41:49
>>724 >駿河郡取れなかったし貰えなかったのが痛かった。
織田信忠が武田討伐をスピード実行してしまったからw
北条家に限らず徳川家も迅速に動けていない。
織田信長ですら前線から遥か後方だしね。
728 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 00:07:29
>>725 あと北条家の他家に対する養子政策もある意味失策と思います。
北条家に敵対すると軍門に下っても乗っ取られるという印象も良くないかな。
その養子政策のスペシャリストが、小田原発祥の九州・大友氏だな。
>>725 だから間抜けなんだよ
放って置いても向こうから攻め寄せる力はない
小豪族同士で小競り合いさせておけばよいものを
下手につっ突いたから対北条に団結してしまった
中央じゃ天下を巡って覇権を争ってるのに
北関東なんかに固執して何になるのか…
中央に通じて国を守るか、箱根を越えて天下を狙うか
一時の猶予もない時にのんびり北上してる辺りは救いようがない
進む方向が全く違うだろ
730 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 00:37:24
質問していいですか?
北条浩(創価の会長)が、狭山藩主の子孫でOK?
あと、北条氏長の子孫はどうなりました?
それで間違いないが、
念のため言っておくと、北条氏規の血は一滴も入ってない、はず。
>>729 天下天下というが、そこらへんは結果論だろ。
あと勘違いしてるけど、豊臣政権との講和は最終調整も終わってた。
今で言えば調印するだけって感じ、ただ肝心の氏政が上洛をドタキャンしやがった。
信長死後、徳川同盟直後に限って言えば、
本腰を上げて関東制覇の詰めに入ったのは特に問題なし。
ただ、725の言うとおり由良・長尾・結城らの離反と反北条勢力の結集は北条のミス。
732 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 01:54:42
>>722 __
,r〃''-三-=三ミヽ_、、
fll'川〃ィ'''彡fl'川〃三ミ、
,, “''´ ‘``、ヾ``心ミミl,
/ 〃ll !!乍ヾミミl
. / lll川升ll、ゞトミ| 我々は犯罪を初期の段階に封じ込めるため、
l , - 、、 ,, ヾ`ミヾヽ仆卅| 北条家の敵を恐怖に脅えさせなければならない
. / ヾtェ-ヾ、ー ヾミヾミ弐ミミヾll
/ ゝ='' 。 ミ=〃^ヽミミリ 北条氏政
ー7'’ ' f ユ l,|爰ソ
}''_彡,, rニイ彡'
f,ir,``ミ、 , 'イ
!ll { l,lリ_ - ''' /,ヽ-¬-―-、_
ヾヾゞ` `7 _ . ''" ,/ /
,,/ ,`` ,i ̄o`l // /
''´ l | o ,l ,/ /´
733 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 11:40:27
>>729 >進む方向が全く違うだろ
間違っていないと思います。
北関東を野放しのままで強国である駿河や甲斐に方向性を求めるのはどうかと。
今川義元は山内上杉家と手を結んで対抗していますし、
上杉謙信や武田信玄も反北条家の関東諸将と手を結んで対抗しています。
これは武田勝頼や徳川家康、さらに豊臣秀吉の外交政策にも共通しています。
どうせ両面作戦になるのでしたら先に弱い方から攻め自国に取り込むべきかな。
そもそも北条家にとって京と関東のどちらが重要なのかを考えますと、
身近な関東なのではないでしょうか?
その考えが既に時代遅れなんだよ
中途半端に勢力持ってたら天下人が見過ごすわけがない
必ず潰しにかかるのは常識的な事だ
だから早めに帰順するか
もしくは決戦する態勢を整えておかなければならない
毛利などはそれで生き延びた
それを無意味に北関東征圧に入れ込んで
差し迫って豊臣側から仕掛けられても煮え切らず
結局何がしたかったのだと言う話しになる
要するに何も考えてなかったのだろう
数十年前に打ち立てた関東統一を惰性で続けていただけで
時代が変わった事に気付いた時は手遅れだった
735 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 13:51:15
>>734 それはどうでしょう?
北条家が早めに帰順してしまえば徳川家より格下になってしまう。
徳川家と同等かそれ以上の扱いは難しくなってしまうでしょう。
毛利家や上杉家は織田家との抗争で無力を教えこまれてしまったので、
それと同じレベルで考えてしまうのは如何なものでしょう。
北条家のやりたかったことは関東を制覇し、
奥羽や徳川家と連携して豊臣政権に対抗したかっただけ。
(当初は織田信雄もこちら側の陣営でしたしね。)
敗因は豊臣秀吉の徳川家の取り込みと関東平定の遅さでしょう。
それにしても北条家の外交下手は致命的ですねw
736 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 15:35:11
322 名無し曰く、 sage 2006/01/18(水) 04:11:20 ID:NhKaELLG
いや〜、北条氏政が元服してきたから槍衾を2にしようとしたら
勢い余って異名をつけることになってしまった。
せっかく家臣一同が接待削りしたのに、異名じゃなぁ…。
微妙に迷ったあげく、「三度汁掛け飯」の北条氏政に決めた。
つけた瞬間から気に食わなかったけど、名乗りを上げた彼はそれなりにかっこよかった。
そして、こんな妄想を…
北条氏康は何度も飯に汁を掛ける息子を見て、こう嘆いた。
氏康「氏政よ、毎日飯を食べているというに、何故一度にて済むようにせぬのじゃ…」
氏政「…申し訳ありませぬ…何分、不器用なもので…」
氏康「毎日することなれば上達せぬのは何も考えてない証拠じゃ、しっかりせい!」
氏政「はっ!精進いたしまする…お言葉かたじけなく」
氏康「うむうむ、精進せよ」
737 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 15:36:02
323 名無し曰く、 sage 2006/01/18(水) 04:12:13 ID:NhKaELLG
氏照「兄者!父上に叱られたとか」
氏政「うむ…飯に汁を掛けることをのぅ…かくかくしかじかじゃ」
氏邦「くは〜、父上も厳しいものよ」
氏政「しかし、私は少しずつでもこぼさぬようにしたいのじゃ」
氏規「は、はぁ…それほど気にせずともよいのでは?」
氏政「いや、北条はもはや大身じゃ、少しくらい遅くとも私はより安全な方を選びたいと思う」
氏照「え…!?何の話でござるか?話が見えんでござる」
氏政「私は一度に汁を掛けることが苦手である。それはわきまえておる」
氏照、氏邦、氏規「…」
氏政「だが、それを弱点とは思わぬ。私には氏照、おぬしや氏邦、氏規、氏秀などがおる」
氏照「おう、おりまする!汁などは私が掛けましょう!」
氏政「そうじゃ、私は父には遠く及ばん。武田晴信にも今川義元にも長尾景虎にも敵わん」
氏照「しかし!」氏邦「しかし!」氏規「しかし!」
氏政「しかし!おぬしら兄弟や家臣団と力を合わせればどこの国にも劣ることはない!」
氏照「おう!」氏邦「その通りじゃ!」氏規「負けはしませんぞ!」
氏政「私は飯に汁を何度も掛ける男じゃ、だが恥には思わん!私はこれで国を治める!」
-----------------------------------------------------------------------
綱成「…と、このような次第でござった様子で」
幻庵「ほーーっほっほっほっほ!よき哉よき哉」
綱成「殿、我が北条家は氏政殿の代も安泰でござる!」
氏康「三度汁掛け飯の氏政か、それも…それも悪くないな」
北条氏政、北条家の最大版図を築きあげる男の若き日の逸話である。
徳川は決戦の形を取って有利な状態で傘下に入ったから
豊臣政権でも別格だよ
北条も従う気がないなら早々と討って出るべきだった
豊臣政権の体制が整ってから戦始めるなんて酷い有様だ
中央政権に従う気がないなら気を見ていつでも動けるように
少しでも西上しなきゃならんだろ
739 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 17:42:00
>>738 >中央政権に従う気がないなら気を見ていつでも動けるように
>少しでも西上しなきゃならんだろ
西上のために豊臣政権下の徳川家康と戦をしろと?
それこそ酷い有様のような気がする。
740 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 18:05:46
甲斐を領有して、守りつつ、信濃駿河へ進行する力があるか、ということ。
あの当時の北条の状況では、
関東平野を守りつつ攻めつつ、甲斐から・・・そんなことやってられないんじゃない?
ところで「日本の合戦」とかいう週間誌の今週号が川越夜戦なんだね
742 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 18:26:06
おとなしく関東の敵を倒すのが得策だな。
まあ、家康のように機略があれば決戦も手であると言うだけで
実際北条では無理過ぎるな…
恭順か滅びるかしか選択肢はない
今更少しばかり領土増やした所でどうなるものでもないし
1、2国に削られても残れば上出来
位置的に減転封される可能性も高いだろうけど
無意識的に滅びの道を選んだ北条ではあるが
武田や上杉の時の様に安易に篭城して
やり過ごそうとしたのは憐れすぎる
744 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 20:14:24
豊臣秀吉の臣下である徳川家康。
北条家の同盟国である徳川家康。
徳川家康は豊臣政権下での価値を高めるために北条家との同盟を重要視している。
だから何としても豊臣政権下に北条家を引き込みたかった。
豊臣秀吉はそんな徳川家康の背景を取り除くために北条家を滅ぼしたかった。
しかし徳川家康が納得するほどの滅ぼす大義名分を北条家が与えなかった。
沼田事件が発生し、一番困ったのは徳川家康。
北条家の滅亡と織田信雄の失脚、さらに家康自身もの関東転封と追い込まれる。
家康は律義者で通して窮地を脱する。そう考えるとすごいですね。
745 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 21:25:08
それはないな。
関東転封は徳川家にとって大変な試練となったが
同時に徳川宗家へ権力を集中させるのに都合がよかった。
とかよく言うよね。具体的には何なの?サラリー制導入だっけ?
これがスマッシュヒットだったんだよね?違うっけ?
近世化への過程で大名が家臣に対する権力を増大させるのはごく普通のことだな。
以前の中世的な地縁血縁的な土地把握>検地などを元にした数量的な把握
多元的な主従関係>一元的な主従関係
法令関係の整備
特に転封などがあると、この過程が加速される傾向にある。
749 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 16:44:59
地元で長年やってきたものがなくなったんだからな。
それで身内からくる不満を抑えていたら権力が強まったのだろう。
750 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 00:56:04
徳川って元々本家の家来出身だよな。備中系に使えた一族はいないの?
751 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 14:04:29
栃尾刈谷田川の戦い ○謙信軍 対 ●反乱軍
謙信の初陣。病弱な兄、晴景に変わって出陣した。
実戦経験の無い謙信だったが、油断していた敵を畳掛け、初陣とは思えない華々しい勝利を飾った。
これによって家中の期待が高まり、上杉家は謙信が継ぐ事になった。
北条征伐 ○上杉軍 8万人 対 ●北条軍 9万
関東管領として、北条を征伐した戦。 関東豪族のほとんどが上杉謙信の側についた。
北条軍は撃破されまくり、殺されまくりで小田原城に追い詰められる。
北条軍は小田原城落城寸前まで追いやられるものの信玄が助けに入ったため助かる。
関東管領として始めての戦であった。
川中島の戦い ○上杉軍1万3千 対 ●武田軍2万
無敵の武田騎馬軍団も毘沙門天の化身上杉謙信には勝てるわけがなかった。
啄木鳥戦法も軍事の天才謙信には見破られ、武田軍は山本勘助や弟ら重臣を失う。
車がかりの陣で武田軍は追い詰められ、死者四千六百三十人、負傷者七千五百人を出す大被害を追った。
謙信は単騎特攻して信玄と一騎打ちするなど大活躍を見せた。
唐沢山城救援戦 ○上杉軍13 対 ●北条軍3万
上杉側の関東の豪族、佐野昌綱を救援するため、北条の大軍の中を数騎で特攻。
謙信の威勢に恐れをなした北条軍は怯えて近づく事が出来なかった。
手取川の戦い ○上杉軍2万 対 ●織田軍4万8千
最大勢力の織田も軍神上杉謙信の前では赤子同然だった。
能登畠山を軽々と滅ぼし、謙信に怯え逃げる織田軍を追撃。
織田軍は二千人近くの死傷者を出して、大敗する。
信長自身、近習ら数十騎とともに命からがら美濃へ逃げ帰ったという。
もし謙信が寿命で死んでいなかったら信長は滅んでいただろう。
松川の戦い ○上杉軍2千 対 ●伊達軍4万
この20倍にも及ぶ戦力差を本庄繁長の巧みな戦術で克服し、奇跡的な大勝利を得ている。
伊達軍は大量の死傷者を出して大敗、撤退する。
この戦いを捏造と言う伊達厨がいるが、もちろん負け惜しみから来る妄想なので注意が必要である。
752 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 02:17:15
>>751 >北条征伐 ○上杉軍 8万人 対 ●北条軍 9万
上杉政虎が小田原から撤退する時、北条勢の追撃を受けて命からがら越後に逃げ帰っているよ。
あと、成田長泰の離反を機に関東の大半の諸将は上杉から離れています。
>佐野昌綱を救援するため、北条の大軍の中を数騎で特攻。
それ、作り話なんだけど。
>信長自身、近習ら数十騎とともに命からがら美濃へ逃げ帰ったという。
信長は手取川合戦に参加してないんですが。
あと、知らないみたいだから教えてあげるが、
上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。
ここのスレ、真面目な所なんで変なレスはご遠慮願いたい。
いちいち間違いの訂正をするのも面倒くさい。
>752
命からがらとまではいかないのでは?>小田原からの退却
754 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 09:48:03
まあそうだが北条征伐 ○上杉軍●北条軍 はおかしいだろ。
上杉はその後関東での勢力を増やしたわけでもあるまいし。
755 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 11:03:21
上野はとられちゃったよ。北条家の戦線が後退したのは事実。
ただし謙信の勝ちともいえない。管領の名の下に諸将をあつめ
たにも関わらず、その後は北条家に押し返されてる。
まあ、751が妄想がかってるのは言うまでもないが。
756 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 11:04:16
しかし北条家9万ってどっから出てきた数字だ?
757 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 11:12:45
751は算数が苦手なんだろう。
歴史もだがw
758 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 11:51:29
北条征伐の三年後の国府台では北条軍は2万人なんだが。
大体、謙信の小田原侵攻の時点で
小田原城は総構えではないから、9万も収容できない罠w
あと大藤に上杉方の補給線が滅茶苦茶にされている事も触れて欲しいものだ。
アンチ上杉が貼ったコピペにここまで反応してくれるなんて
751はさぞ幸せでしょうな
>>760 漏れ様はアンチってわかってるお!
だって川中島の激戦は、現在一般に流布してる妻女山布陣説と全然違うっぽいもんね!
話は変わるが、いや沿うけど足軽大将の大藤式部はそんときの大槻での戦いで感状貰っているんだおね!
でも強いのに、侍や武士の数が着到人数が揃えられんくて、足軽の徴用にも苦労した挙句、更に遠くまで出張ったのにも
関わらず、最善を尽くして頑張ったのに徳川か若しくは滝川勢にやられたのが痛いね。
悲しいね…
それに引き換え秀吉は寺社や商人に公儀を名目として、借金して川原者だろうが部落民だろうが何とか人数そろえているね。
行政制度がしっかりした後北条家の足軽大将じゃそんな事はできないね。
何故か頑張ったのに無念だね。
山中城の間宮たんもカンベェに侵入された状況と類似するね。
762 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 09:50:34
大藤式部丞は三方が原で討ち死にだね。
あの勝ち戦で命を落とすなんて不運だな。
何処に布陣させられていたか、が問題になるね。
が、手元の三方が原の布陣図は簡略に過ぎるせいか、どこに布陣していたかわからない。
予想してみるに、武田の消耗を可能な限り押さえたい信玄としては、多分前線、それも最前線付近だったのでは、と。
後方で戦死するよりは妥当な予想だとは思う。
まあ、これは贔屓に過ぎるか。
>>761 北条も夜盗同然の風魔を抱えてます、また例を挙げれば上田氏は戦となれば前科・出自問わず広く兵を募集してます。
あと、百姓だろうが部落民だろうが、それを取り立てて家臣化させているならともかく人足としてならどこでも使ってるよ。
北条の城の維持・定期改修は民衆の義務だったしね。
764 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 21:05:51
与七は長尾景虎の小田原侵攻の時の後方攪乱もそうだけど、
武田信玄の駿河侵攻でもよく派遣されて活躍してるよね。
北条家の中でも傭兵的な働きが多いよね。力があったんだろうね。
765 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 22:04:02
>>763 勝ち戦、かつ加勢の衆は多少なりとも手心加えた扱いがされる筈
なので、やはり事故のような討ち死にだったのでは?
766 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 01:56:17
大藤氏は根来金石斎の子孫なの?
という話だけどどうだろうね
768 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 07:30:41
先祖の話はあまり当てにならんからな。
769 :
;:2006/02/12(日) 12:22:35
エロイ人に質問.もし.景勝じゃなく景虎が上杉家の家督をつぎ.両家が同盟
していたら.その後の情勢はどうなったか教えて欲しい。
歴史にifなんて存在しないので教えようがない
771 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 14:55:37
ところで今早雲寺のお墓誰がお祭りしているの?
772 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 16:43:01
早雲寺が主になり狭山藩北条氏子孫・箱根町とのコラボレーションで
維持してるよ。
773 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 18:00:08
狭山藩北条氏子孫は学会員なのにいいの?
それとも早雲寺が学会入りしたの?
別に子孫が皆学会員とは限らないと思うが…いや、よく知らんのだけど
775 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 18:13:09
776 :
774:2006/02/12(日) 18:59:20
>>775 さすがにそのくらいは知ってるw
で、尚氏も学会員なの? 早雲寺での祭祀も司っているの?
777 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 19:44:28
777記念!
大藤政信といい北条氏堯といい宗哲に近い人は鉄砲が得意な人が多いのは何故?
778 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 20:09:58
いやいや、祭祀云々は早雲寺に一任、お布施とか普通の家の檀家
の常識内でしてるだけ。
具体的な金額いくらかは知らないけど、早雲寺への付け届けは
欠かしてないらしいでつ。
さすが学会でもことご先祖とのしがらみは別と思われ。
779 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 21:14:40
尚氏の息子は聖教新聞社勤務。
名前も池田先生から「作」に一文字を頂いてる筈。
780 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 21:19:10
氏作だったらやだな。
781 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 21:24:14
782 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 21:30:59
>779
おもくそ信者やん。最悪。
783 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 22:10:04
息子の汁掛けに嘆息した大聖院様も、現当主の体たらくを見て
地下で号泣されているでしょう・・・・合掌
784 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 22:12:20
>>780 この場合は池田上人様(プッ)からの一字拝領と言う事で
「作氏」となるのでは?
>>783 油断させて、乗っ取ったらご先祖様も満足ですね。
786 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 23:32:37
北條伸作だった。
山本伸一から一文字
池田大作から一文字(同一人物だが)
すごい期待されてんのか?
787 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 23:43:59
788 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 23:46:48
>>785 一向宗にも厳しかったご先祖様ゆえ、果たして学会を
乗っ取っても喜ぶかは微妙かと・・・。
ってか、なぜ道を踏み外してしまったんだろ?北條子爵。
789 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 23:49:23
金がなかったからじゃないの?
ためしに拝んでみたら娘が女官に選ばれたとか?
貴族院議員になれたとか?
>>777 北条氏堯って鉄砲が得意なの?
初めて知りました。
>>763 それは知っています。
ただ足軽大将の身分でそれができたかどうかだということなんです!
だから着到動員で非常に苦労している。
大藤は、早期に鉄砲を揃えて人数以上の戦力増強したのが伺えます。
大藤の発給文書はでてないけど、その後の北条家では足軽に鉄砲持参しなさいって
やってはいますね。
上田家は他国衆ですね。行政は独立している国人です。権限が違いすぎますね。
それなら三浦衆の氏規は皮職人の部落民にも朱印状発布して、人足つーだけでなく掌握と家臣化しています。
知っていましたか?ともかく氏規とか上田はできるけど、大藤が評定衆や胴元身分でないと…つうことを言いたかったってぇ事です。。。
ある意味、織田家のような自由さが、組織によってなかったのでは?といいたかったわけです。
大藤は借金はおろか矢銭のお願いもできないお!!!!!!!
周りを守ってくれる侍衆もいないお!
なので、討ち死にするお!!!!orz
792 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 23:58:42
旧狭山藩主の家は創価学会と非常に深い関わりをもっているようだが、北条安房守とかの系統はどうなんだろう?
やっぱり早雲寺にお墓参りとかにいくのだろうか?宗家は創価にどっぷりだけど・・・・・
そういえば北条氏の足軽が使っていた紙製の具足があるそうですが、他の戦国大名のとこの足軽の
鎧も紙製なんですか?紙製って・・・・着てる意味ないような・・・・
793 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 01:16:13
>>792 そんなことは無いよ。鉄製もあれば皮製もある。
和紙を重ねて漆で固めた素材は、かなり強靭になるから
充分に鎧の役目をするそうです。
ところで北条家のものと言われてる紙製足軽胴ですが、北条家の
では無いと言う人もいますね。
794 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 22:16:05
小田原陣のときの北条の直参家臣ってどんなのがいたの
わしが知ってる限りだと
いつもの一族
松田憲秀
梶原景宗
くらい
っていうか北条の猛将っていたの
>>794 北条はシステマチックな組織していたみたいで各地の軍団と指揮官(支城主)の関係が薄い、
指揮官が軍団を転勤したりしたそうです。
同時代でも他の大名(武田家など)だと、寄親・寄子の絆が強いんですが。
人間関係が希薄なせいかあまり特長のある指揮官はいないですね。
もう少し前だと、玉縄の北条綱成・康成父子あたりが猛将といえるかも。
796 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 01:05:54
>>794 相模衆十四家は言うに及ばず小田原衆も皆篭城したでしょう。
漏れの実家の近くに相模衆の布施三河守家のご子孫が今でもいます。
裏山には砦の遺構も残っているすばらしいお屋敷です。
797 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 01:23:38
そういえばどこの大名だか忘れたが前しかない
足軽鎧あったな 後ろがなんにもないの しまうとき重なるんで場所とらないそうだ
びんぼっちゃまかと思ったよ
798 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 01:30:06
799 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 01:45:28
800 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 03:53:55
>>795 指揮官は一門が多いんですよね(多分)氏照氏邦氏勝氏規
>>796 十四家というのはデカい旗本みたいなものですか
801 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 04:19:51
>>798 いやー素晴らしい作品で
とにかく同じ武蔵野に生きる人間として猿と大導寺に腹が立ちました
しかも大導寺もたしか切腹でしたか
猿はこれだから好きになれんわ
とにかく大坂城を叩き潰し猿を根絶やしにした神君家康公に乾杯
802 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 10:56:32
>>801 まあまあ、北条は大名と大身の旗本として存続しとりますし。大目付まで輩出してるんですから
>>801 798のあげたサイトはほんとに「物語」なんだけど・・・
804 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 01:17:06
>>803 よくできてますね
どっちにしても猿嫌い
805 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 00:09:21
幻庵の孫・氏隆の娘が、養珠院(徳川家康側室、頼宣、頼房母)の母(正木頼忠室)だよな?
「お万の布さらし」は有名。
807 :
北条氏康:2006/02/28(火) 02:59:31
, -.―――--.、
,イ,,i、リ,,リ,,ノノ,,;;;;;;;;ヽ 「・・・京の都は腐っておる。それゆえに、
.i;}' ▲ "ミ;;;;:} わしは東国に武士と民の国を造るのだ。
|} ,,..、_、 , _,,,..、 |;;;:| これは、今は亡き、早雲の代から
|} ,_tュ,〈 ヒ''tュ_ i;;;;| 長く受け継いできた意思でもある。
| ー' | ` - ト'{ わしの代でそれを成し遂げることができるか否かは・・・
.「| イ_i _ >、 }〉} ひとえにお主達次第というわけだ。
`{| _.ノ;;/;;/,ゞ;ヽ、 .!-' わしに力を貸してくれ。
| ='" | 共に、この戦国の世を駆けようぞ。」
i゙ 、_ ゙,,, ,, ' {
丿\  ̄ ̄ _,,-"ヽ
''"〜ヽ \、_;;,..-" _ ,i`ー-
ヽ、oヽ/ \ /o/ |
>>807 ネタだろうけど、こういうのってお馬鹿な台詞だよな。
北条の良いところは大言壮語なしで淡々と地味なとこなんだよ。
>>北条の良いところは大言壮語なしで淡々と地味なとこなんだよ。
wwwwww
その渋さが良いんじゃない!
811 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 04:34:05
∩∩ 僕らは皆友達だ! V∩
(7ヌ) あはは ハッハッハッ (/ /
/ / ハハハ ∧_∧ あはははは ||
/ / ∧_∧ ∧_∧ _(´∀` ) ∧_∧ || / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
\ \( ´∀`)―--( ´∀` ) ̄ ⌒ヽ(´∀` ) // < ぬるぽ
\ /⌒ ⌒ ヽ、 /~⌒ ⌒ / \_______
| |ー、 / ̄| 氏邦 //` 氏規 /
| 氏政 | | 氏照 /(ミ ミ) | |
| | | | / \ | |
| | ) / /\ \| ヽ
/ ノ | / ヽ ヽ、_/) (\ ) ゝ |
| | | / /| / レ \`ー ' | | /
812 :
豊臣秀吉:2006/03/03(金) 04:41:38
,,,,,,,..........,
./"´:;;::;;;: ::::;::"ソヽ
/ ,ヘ〜-ー'´⌒``ヽ:ヽ
/ ノ 彡:三:三:三:ミ |: \
| |. __,,;;ィ t;;;;,,,_ :ヽ |
| |シ ,ィェィ') (.ィェィ、 ミ| |
!r、| ''''''. | | '''''' Y )
ヽ{ ヽ. (r、 ,n) /:: };ノ
し} : 、___二__., ;:::::jJ
!、.:. ´ ..::::... `ノ::::ノ まとめて秀吉が相手をしよう。
,r―''''''ヽ,l 〉、ゝ '""'ノ/
,r‐' ,、;-‐''''""''ヾ、\ー | 覚悟はできているだろうな?
/ ./ r''"ヽ, \, l`ヽ、
j l ,. / ' l ヽ、 ト, ヽ
,.Lj∠、'´ , i, / `ヾ、`'ヽゝ
l, / 二'''" ,;、, `''ー゙--、
/゙ヽ-ッ-‐'´ ./`ト-:rイ「´ ゙l;:`''ト-、,_ ノ'i,
/ / ,;∠∠,ノ´ イ l l, ├''| |、,/ l |
../ノ ./ /、, ,、' ./ / .l |:::::l,. | ゙ヽ、!_,,、L,
ヽ---ツ ∧  ̄ ̄ / | |:::::::| | r'"/ l,
/ ./ .ト、,_ / | |:::::::|. ! l'´! / |
./、 ./ l, ` ̄ ./ |.|::::::::l |. !. l, l l
813 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 11:12:46
同族意識が高いからね。
北条家ってなんか関東武士っぽくないんだよな
血の匂いがしないっつーかw
考えてみたら、5代の間、相続争いなど一族間で抗争しなかったというのも当時の大名家では稀ですね。
なにか工夫でもしてたのだろうか。
単純に、一族で争っていては周囲敵だらけのあの情勢はどうにもならんとわかっていたからかと。
あとは内紛に繋がるような事件が起こっていないから。
818 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 19:39:34
北条に一族の争いがないのは、当然かも。
室町戦国時代の同族間の争いが何故起こるのかといえば、
一、権力関係が不明瞭(親と子の二頭政治など。伊達天文の乱などがこれに当たる)
一、相続権が不明瞭(今川、武田、最上etc)
などといったものが主。
北条の場合、子が権力を引き継ぐと、親は必ず一線から退いて後見にまわることになる。
例えば氏政は隠居すると、北条領全体の差配は氏直に任せ、自分は岩槻領という部分の差配を行っている。
また、幸運なことにどの代も親が存在するうちに長子に家督を相続することが出来ていたので、
兄弟間の争いがなかった。兄弟間の争いは兄弟の仲が良いだの悪いだのということもあるだろうが、
それぞれの家臣団の争いという側面もある(目下の領主の間に派閥ができる)ので、
五代という短い期間の間にはそういった派閥が育たなかったのかもしれない。
さらに、北条は今川の執権であった時から、戦国式公権力型大名というものをある程度夢想していた
と思われ、伊豆に土地を手に入れたときからそのような文化が醸成されていたのではないか。
これは言うまでもなく「国家」とか「公儀」というものであり、北条の司令官(玉縄衆とか
ナントカ衆を束ねる人々)や、それぞれの衆下の人々は、自分たちの衆など基盤よりも、
北条分国というものに、より多くの忠誠心を持っていたのだろう。
819 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 17:27:16
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/moeplus/1141545313/ 【鉄道】「駅長求む」 兵庫・北条鉄道で七駅の駅長を全国公募
1 :落武者φ ★ :2006/03/05(日) 16:55:13 ID:??? ?
兵庫県の加西市と小野市を結ぶ第三セクター鉄道「北条鉄道」は沿線七駅の「駅長」を全国公募する
方針を決めた。無報酬だが、同鉄道乗り放題などの“特典”も。厳しい経営が続くなか、赤字を補填していた
基金が今年度中に底を突く見通しのため、同社がひねり出した起死回生策。社長の中川暢三加西市長は
「全国の鉄道ファンたちの熱い思いと豊かな知識で、北条鉄道の危機を救ってほしい」と期待している。
同鉄道は旧国鉄の赤字ローカル線・北条線を引き継ぎ、昭和60年から県や加西市などの出資による
三セク方式で運営、13.7キロを運行。当初は年間約37万人あった利用者数が、近年では30万人前後に
低迷し、年間で約3千万円の赤字を計上した。発足当初2億7千万円あった「鉄道経営対策事業基金」を
取り崩し補填してきたが、この基金も今年度中になくなってしまう。
このため中川社長は北条鉄道に愛着を持っていたり鉄道事業に関心のあるファンや地元住民らを対象に、
「駅長職」を公募する計画を立案した。
募集は、沿線全八駅のうち、駅長がいる北条町駅を除く無人の七駅で、いずれも現在駅長はいない。
新しく就任する駅長には制服や制帽を貸与し、名刺を支給。ホームしかない駅もあるため、駅への常駐は
義務付けないが、駅の整備などに関しては大胆に提言を行なってもらう。任期は2年間。応募できるのは
20歳以上。
3/5 産経新聞朝刊より手入力
北条鉄道公式
http://thomas.dip.jp/hojo/
>>818 >北条の司令官(玉縄衆とかナントカ衆を束ねる人々)や、それぞれの衆下の人々は、
>自分たちの衆など基盤よりも、北条分国というものに、より多くの忠誠心を持っていたのだろう。
これが権力争いが生じなかった理由ですかね、やっぱり。
武田氏だと、信玄が父・子と2回もめたのは進出する国をめぐっての対立だろうし
今川氏だとわざわざ当主の弟を僧侶にしていたのに当主が(まあ、陰謀くさいですが)死んだ後、内乱状態になるし。
北条氏でも、例えば上野攻略を重視するか、房総を重視するかあたりで氏照・氏邦あたりが対立しても
不思議じゃないのにそうならないのは、自分の勢力より北条氏トータルの利益を考えることができるような
風土とか仕組みがあったからでしょうね。
評定衆とか衆編成とか色々要因は有るんだろうが、目的が常に明確だったのも一因だと思う。
信玄率いる武田家は信濃領有という目標が息詰まってしばらくは迷走を続けてるし、
上杉も行き当たりばったりな感じが否めない。
上も下も国が一つになって目標に向かえ、みたいなことを孫子が言っていた様な気がするが、
それを地でいっていたのが北条ジャマイカ。
822 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 10:07:28
このスレの偉い方々に質問がござる
ある本(歴史読本の増刊・有名人の子孫についての本)で、北条氏直に氏次という男児がいて、
仙台へ移り住んでその地で没し、その子孫に勤王の志士・桑島孟という人がいる。
と書いてあったのだが、その桑島孟をクグっても全然でてこないんだが、何者だ?
忠誠心云々というより、勝手にやってた国人や土豪に既存の権利を
保障して、頑張ればボーナスはずむよ!だから俺んとこ手伝ってね(ハァト
って感じで、管領家と公方家の争いに巻き込まれて嫌になってたヤツ
らを取り込んでたからでは?
兵農分離がシステム上出来なかったし、ドラスティックな改革をする気
もさらさらなかったみたいだし。
既存の権益を保障して云々は、基本どこもそうだよ
兵農分離がシステム上出来ていた所はどこですか?
織田でさえ無理だったのに、そんな事が出来た家があるのでしょうか。
完全にできてた所なんてないでしょ。
程度問題で、ガンガン行ってた所は比較的進んでて、関東みたいに
小規模な戦闘ばかりだったところではあまり必要性がなかったんじゃ
ないですか?
827 :
日本@名無史さん:2006/03/20(月) 04:37:12
早雲様万歳!!独裁者秀吉は氏ねよ
/⌒) /⌒) /⌒) /⌒) /⌒)
⊆.==▲|_ ⊆.==▲|_ ⊆.==▲|_ ⊆.==▲|_ ⊆.==▲|_
(" ´∀`) (" ´ー`) (" `∀´) (" ゚∀゚) (" ^∀^)
( つ┳∪━━∪━∪━━∪━∪━━∪━┳⊂ つ
| | | ┃ 北条家はすばらしい!!!!┃ | | |
(__)_) ┗━━━━━━━━━━━━━━━┛ (__)_)
武州や上州の戦国時代の様相を考察すると、一概にマンセーは
できんよ。
というか、土豪や地侍、テラオモシロスー!
それは武州・上州に限らず、全国規模で言えることだが?
830 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 11:08:03
氏邦について語ろう。
氏照以上の対外強硬派のような気がするのですが?
831 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 16:17:48
確か備中に残った一族はいないんだよなあ。あの後荏原はどうなったんですか?
大福御前
834 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 20:39:28
で、本家は創価学会かい。
>>833 氏邦の鉢形衆は、ほとんどが帰農を余儀なくされてるよね。
秩父・逸見・諏訪部・水野は旗本になってるけど。
水野は元徳川家臣だかで氏邦に仕えてた。その関係で旗本になれたんだろう。
名族の秩父(彦久保)と逸見氏は、帰農した一族が秩父に残ってるな。
八王子城、岩付城とかは仕官した家が結構あるそうだ。
八条流馬術の丹党中山氏とか。氏照の家臣だけど。
岩付は規模が小さいけど春日・伊達とか旗本。
836 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 22:03:54
>>831 一族が継ぐも、その後の争乱で備中から消える
>835
うちは元上杉の陪臣(寄騎?)。で、社長の上杉憲房が転職
して氏邦の部下になったんで、自動的にという感じ。
上杉憲政についてったのもいたみたいだけど。
>>837 深谷上杉氏の重臣で、徳川大名になった秋元氏は出世頭だなw
主君の深谷上杉は帰農したらしいが、よく知らない。
八王子重臣の中山家(旗本)からも、後に大名(黒田)が出たけど。
839 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 23:19:06
昨日小田原いってきたぜ
展示室見てきたけども
藩主・大久保氏なんてどうでもいいから
北条5代をもっとマンセーしろよなと思った
>>840 あーそれそれ、上杉→小久保
旗本になった家もあったんだ、知らなかったよ。
秋元は井草、岡谷と共に深谷上杉の三宿老だったそう。
深谷というと上野金山城の由良氏がここの発祥だね(猪俣党横瀬氏)。
猪俣党は河内楠木氏の発祥地としても有力だけど。
北条氏邦の支配範囲は、兄の氏照よりも大きかったそう。
65〜70万石とか何とか。
岡谷清英、秋元景朝、井草左衛門尉で三宿老、
岡谷清英、秋元景朝、井草左衛門尉、矢井重家で四宿老、
岡谷清英、秋元景朝、井草左衛門 尉、上原出羽守で深谷上杉四天王とも言うね。
矢井氏の子孫は加藤と名を改めて云々ってあるけど、確かに加藤さん、
昔から大沼のあたりにいっぱいいるなぁ。
漏れの知ってる加藤さんは、きれいなオネータマなんだよ(w
家臣とか詳しい↓
http://www.page.sannet.ne.jp/kuranosuke/yamanouti.html >北条氏邦の支配範囲は、兄の氏照よりも大きかったそう
武蔵の中央より北と上野の沼田あたりまでだからね。
上毛古戦録なんて古い本が面白いよ。
>>839 小田原を代表する祭は「北条五代祭り」
氏照、氏邦隊も行列に参加する。
気が抜けて寂しく死んだ氏直、名護屋で突然急死した氏房・・・
ともに異郷で病死だよな、しんどい最後。
>>841-842 支配範囲どはどういう意味で使ってる?
言葉のトリックというか、前提一つでがらりと変わる言葉だから聞いておきたい。
>>841は違うが……
直接支配だけでなく、傘下に入れた豪族や地侍の勢力範囲も
入れている。漏れの中では。
もっとも、上毛の長尾家でも謙信に付いたのとか北条に下ったのや、
由良氏みたいなのもいるし、勢力範囲がモザイク状で一概には言えない
と思うけど。
847 :
日本@名無史さん:2006/03/23(木) 07:43:20
滅亡後の一族達の早死には、やはりなんらかの理由があるのかな?
あまりにも横並びに死んでるから、ふっと考えてしまう。
北条全盛時代に育った連中だから生活習慣病にでもなったんだろ
849 :
日本@名無史さん:2006/03/23(木) 23:52:01
氏政、氏直親子は滝川一益に酷いことしたよね(´・ω・`)
きっと、その因果応報だよ。天道恐るべし…。
850 :
日本@名無史さん:2006/03/24(金) 00:39:14
天道には背いてないぞよ@氏康
851 :
日本@名無史さん:2006/03/24(金) 01:07:54
>>844 氏直はそれなりの大名として復帰の機会もあったのにね・・・・・
主な子孫
氏盛系統・・・狭山藩主。ご存知創価の会長を輩出
氏勝系統・・・保科氏よりの養子が継いだが嗣子がなく改易
繁広系統・・・大目付北条氏長で知られる。3000石ほどの旗本。
氏光系統・・・子孫は旗本。
氏隆系統・・・幻庵の孫。娘は正木氏に嫁ぎ、お万の方(家康側室、頼宣、頼房母)と正木為春(紀州の重臣)を生む。
氏邦系統・・・子息は早くに死没。養子直定は紀伊藩に仕えた。
直重系統・・・蜂須賀家の厄介になる。子孫は伊勢を称す。
氏忠系統・・・娘婿だかが北条就之と名乗り長州藩に仕えた。
ざっとこんな感じかな?
>>849 別にひどい事はしてないだろ。
一益が勝手に信長の死を知らせて戦をしかけたんだから。
>>851 北条傘下になった名門大名や豪族にくらべれば、まだマシだね。
853 :
日本@名無史さん:2006/03/24(金) 17:03:37
大名や有力旗本として生き残れたからね。血筋という点ならば、吉宗以降の将軍家にも
北条早雲の血が流れているということになるからな。
854 :
日本@名無史さん:2006/03/24(金) 20:35:55
>>852 千葉氏などは目も当てられない有様になったね。
壬生氏や小田氏などもそうかな
斎藤別当実盛の子孫な漏れも、今じゃりっぱな2ちゃんねらー(w
落ちるところまで落ちましたが、エエカッコシィのDNAは健在ぢゃ!
856 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 12:09:34
ここで北条フリークな方々は、やはり圧倒的に神奈川県人または旧北条
領にお住まいの方が多いのかな?
かく言う漏れも神奈川県人で、かつ先祖が北条家臣だった関係から
ガキの頃から北条マンセー秀吉逝ってヨシ!的に今に至るわけだが・・・。
857 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 12:11:51
相模先方衆 北条氏康
今十九、上州松山に於いて一戦を遂ぐるのとき、
その方、頸壱討取るの条、戦功の至り感じ入り候。
いよいよ忠節ぬきんずるは神妙なるべきの趣申合わせるべく候。謹言
信玄(花押)
氏康とのへ
>>856 先祖代々、埼玉南部。
けど北条を身近に感じた事はないな。
先祖代々埼玉北部
つい最近まで、先祖の美談を知りませんでした。
が、DNAというか性格はしっかり受け継がれてました(w
はい、子供の頃はよく滝山城に登りました。
自分の市には、青梅三田氏の姫と氏照の悲恋伝説にまつわる塚がある。
862 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 01:35:33
今度武州松山表に於いて合戦の砌、上田次郎生捕りの
手柄聞き届けおわんぬ。
いよいよ馳走肝要に候 猶橋本申す可く候 以上
武田大膳晴信とのへ 氏邦(印)
863 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 09:36:48
864 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 00:17:03
だとしたら益々北条子爵は皇室に迷惑かけたことになるじゃないか・・・
その昔息子の汁掛けを嘆いた氏康公も、子孫がそんな事するとは夢にも思わなかったろうに。
血は繋がってないけどな
866 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 14:05:48
どちらかというと伊達政宗の子孫だな
まあ、天皇家以外の日本の家は 家系>血統だから いいのでは。
血統うんぬん言い出したら江戸大名とかかなりの割合で初代と違っちゃうし。
869 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 17:07:23
然り、有名どころでは蜂須賀や黒田は小六や官兵衛の血は流れてないはず。
上杉も一応景勝の血は引いているが、どっちかつうと吉良上野の子孫だしね。
870 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 20:51:56
喜連川足利氏も途中で足利の血は絶えてない?
872 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 02:13:28
,,, .-――- .,,_
/、ヾヾリll川ll!り''彡ヽ
. /ニ=`` ヾシ,
l彡' 北条氏政 =l _________
l形 ,ッiillllミ ,;iリllliiヽ 乍. /
,l彳 ,, - 。ヽ '-。 、 |'、 < 城、作れよ。
ll 、 二 7 l 二´,, | | \ 城。でっかいヤツ。
|| ノ、_ _ ハ |リ. \
‘l、 ,,/ `´ ヽ イ  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| ,-―一-, l
__ ,l 、  ̄ ,, ,l、__
/▲て) _ ,ハ、``  ̄ ̄ ´ /:::l_て)▲ヽ
/::::: ̄:::::::::::/::::ヽ'' ー- 二-‐ '',/:キ::!::::::::::: ̄:::::ヽ
,/::::l:::::lニlニ,/,ミ':::::\ /、;;;ヽ,/::::::彡!ニlニlニl:::ハ
::::::::|:::::〇(、―--:::::::::::ヽ':;;::'::::::::::::--―ァ▲▲▲::::::::l
::::: !:::::::::::::\:::::::::::::::::,::'::::::::::::::::::::/:l三l三l三l:::|::::|
:::::::: |:::::::::::::::::::::\:::::::/::::::::::::::::::/▲)三l三l三l:::|:::::|
>>871 NHKのニュースで見た。なかなか素朴な町おこしで・・・
鉢形城行ってきた。ついでに、花園城と金尾城も。
要害堅固とはよくいったもので、流石に3万の大群を
3500で3ヶ月も防いだだけのことはあると思ったよ。
御殿郭まで行くだけで息が切れた(w
まあ伊勢長氏さんだけどな
氏康の小説読みたいんだが何がいいんでしょう?
>>877 Amazonで検索すれば出てくるけど、どれもPHP文庫のもの。
有名作家が書かないし、ファンも書いてくれるだけでありがたい、という
スタンスなんで、どれも不作。
879 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 02:51:00
\ __|__ ./
\./"´:;;::;;;: ::::;::"ソヽ/
/ ,ヘ〜-ー'´⌒``ヽ:ヽ
/ ノ 彡:三:猿三:ミ |: \
| |. __,,;;ィ t;;;;,,,_ :ヽ |
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── !r、| ''''''. | | '''''' Y ) ──
ヽ{ ヽ. (r、 ,n) /:: };ノ
し} : 、___二__., ;:::::jJ
!、.:. ´.:ヽ/:::... `ノ::ノ
/ヽ、ゝ '""'ノ/\
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おいクズども、日本最強の秀吉軍が相手だ!!
圧倒的軍事力で猛攻撃してやるから覚悟しとけよ。
あっ、ちなみにショボイ小田原城なんざ、俺様の
南蛮製大砲で跡形もなく吹き飛ばしてやるからな。
>>878 書こうかと思ってたことをみんな言ってくれたw
後北条については司馬の早雲「箱根の坂」くらいが定評のある作だな。
箱根の坂の早雲はカコイイ
北条嫌いの俺も北条ファンになりました
882 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 00:53:20
北条氏隆も忘れないであげてください
883 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 01:26:53
だれそれ
884 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 07:10:40
幻庵の孫・・・だっけ?
885 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 21:33:49
最強は、松平長親です。
北条早雲率いる今川軍1万を500で撃破!!!!
幻の最強は、松平清康。信長登場以前に織田家が終わっていた可能性。
887 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 23:25:08
早雲が手を引いただけでしょ。
888 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 00:22:19
バカウヨ2ちゃんねら兼北条オタはどう整合性つけんの?
>国はあきる野インターチェンジを完成させ、圏央道を南に延長し高尾山の手前の国史跡八王子城跡直下にトンネルを工事中であり、
>トンネル南側の出口では中央自動車道と接続させるため八王子ジャンクション(以下「八王子JCT」と表記)が建設中である。
(略)
>八王子城跡トンネルでは工事開始直後からトンネル入口付近の民家に井戸枯れが発生し一部の民家では現在も解消されていない。
>いずれの井戸も住民の知っている限り旱魃の年でも枯れたことがないという井戸であり、八王子城跡のある深沢山からの水系にある井戸である。
(略)
>また、トンネル技術委員会の説明では工事のため山の水位は一時的に低下するが止水工法をおこなうので元にもどるという説明であったにもかかわらず、
>山の水位は工事開始前より5mほど低下したままであったが最近は一気に13mも低下しており、公表データによれば毎日400トンほどの水が山から抜けて出ていっている。
(略)
>そして私たちが最も危惧していることは、昨年5月に八王子城跡内の「御主殿の滝」と呼ばれる滝が枯れたことである。
>この滝は滝と呼ぶには小さなものであるが豊臣秀吉の小田原攻めに際して前田利家・上杉景勝の連合軍によって八王子城が攻め落されたときここに多くの婦女が身を投げたと伝えられていて、八王子城跡を構成するのに欠かせない場所である。
>この滝は少なくともトンネル工事が開始されるまでは枯れたという記録はない。この滝が昨年5月、急に枯れてしまった。
>滝が枯れた時期はトンネル工事が滝の直下(約60m)にさしかかってきた頃である。私たちはこのような事態は工事の影響としか考えられず、
>史跡の破壊につながるため工事を中止するよう申し入れたが、国は滝が枯れたのは昨年の1月から5月にかけての少雨のせいであり工事の影響ではないという見解を発表した。
>しかし、八王子気象台の公表データを調べれば、この程度の少雨の時期はここ数年にも何回かありこの時期が近年にない少雨というような状況ではないことはすぐわかるのである。
(略)
889 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 00:26:57
>梅雨のあと滝は復活したが、その後、12月以降3度の水枯れが起きている。雨が降ったあと復活し、しばらくしてまた枯れるということをくりかえし、
>その間隔が次第に短くなってきていたところ、遂に、今年の2月に入って滝の上部の川まで枯れるという事態となった。
>このようなかつておきたことがない異変は大量の出水、山の水位低下により山の地中の水が抜けて空っぽの状態になりつつあるためではないだろうか。
>ここにきて国側は誰が見ても少雨が原因とはいえなくなったため、滝枯れのことには触れず、業者の工事に不具合が発生したため工事が4ヶ月ほど遅れると発表した。
>原因究明中としてずるずると事態を長引かせ4ヶ月後の梅雨に滝が復活したのを見計らって、滝枯れは終わったとして工事を強行するつもりではないのだろうか。
>しかも、国は滝枯れの原因究明には欠かせない滝の上流に設置されていた地下水位を観測する観測孔を工事の妨げになるとして閉鎖してしまった。
(略)
890 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 00:28:57
>八王子城跡トンネルは国史跡であり文化庁の管轄下あり、この現状変更は文化庁の許可が必要である。
>したがって、八王子城跡トンネル工事も工事により史跡に現状変更を生じないということを条件に文化庁が同意した形になっている。
>文化庁の管轄下にあるといっても文化庁は全国すべての史跡の現状を直接把握するだけの人手も予算もないので、
>八王子城跡は八王子市教育委員会が全面的に管理責任を文化庁からまかされて、トンネル工事に関連して2年に1回文化庁に対して史跡に現状変更が生じていないかどうかを報告することになっている。
>八王子城跡については1999年10月の工事開始以来、滝枯れ以外にも異変が生じており、反対運動をすすめる住民側の問題指摘も主要新聞の多摩版には都度報道されてきた。
>したがって、八王子市教育委員会は城史跡の保存運動に長年たずさわってきた人々の意見を聞いたりして現状調査を行い、
>発生している現状変更について文化庁に報告する義務があったにも関わらず、毎回「現状に変更なし」という報告を文化庁に提出していたことが最近あきらかになった。
>しかも、今年の2月6日に4度目の滝枯れが起きて新聞でも報道されたにも関わらず、その直後に教育委員会は「現状変更なし」の報告をまたも提出している。
>その後、事態を重視した市議会議員9名による現地視察が最近おこなわれ、議員達による工事中止と文化庁への実態報告の要請が発表されて、はじめて八王子市教育委員会は文化庁に現状の実態を報告するという態度に変わってきたのである。
>教育委員会の態度といい、郷土の貴重な史跡や自然が破壊されることに対して平然としている八王子市長の態度といい、八王子市の文化行政の貧困さを表わすものではないだろうか。
>(なお、財団法人「日本城郭協会」が記念事業として今年2月発表した「日本名城100選」に東京都内の城郭として江戸城ともに八王子城跡が選ばれた)。
(略)
891 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 02:49:05
便利になってよかったね。
鉢形城も日本名城100選に入ってたな。
ちうか、八王子城も何度か行ったことがあるんで、何か悲しいね。
利便性も大事だけど、歴史をリスペクトせなあかんやろ。
人口は減り続け
道路が増え続ける
894 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 18:46:19
北条家の誇る精鋭戦闘集団である玉縄衆をお忘れなく 玉縄城もね
895 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 20:21:01
そろそろ北条早雲の大河ドラマやらないかな
結構受けると思うけどな。
896 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 20:50:17
早雲寺は一切非公開だけど、
北条五代の宝物殿みたいなの作れば客が入ると思うんだが。
897 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 21:04:30
池田先生が許しませんよ。
滝山城の桜祭り、みんな来い来い。
5月には小田原北条五代祭りだ!
899 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 09:44:10
≪あの刈った麦を昼食とせよ。≫
北条氏政
早雲以来、善政を施していた北条氏であったが、四代目となる氏政は『小田原旧記』に愚か者と記されてしまっている。
その理由となる逸話の一つが、ここにあげた言葉である。
ある日、氏政は百姓が麦を刈り入れているのを見て、この言葉を家臣に言った。
おそらく刈ったばかりの新鮮な麦なら美味しいだろうと思ったのでしょう。
しかし、麦は刈りと取ったものを扱いで、こなして、潤して、搗いて、乾かして、また搗いて、水に浸してからようやく煮立て、
口にすることの出来るという大変に手間と時間がかかるものなのだそうだ。
そのため、この話を伝え聞いた武田信玄は、大いに氏政の無知を笑ったという。
ちなみに、私も麦がそんな手間のかかるものだとは知りませんでした。
その手の話は眉唾話は構成が稚拙ですよね。
後世の軍記物作者が一生懸命ネタ考えてる姿を想像して笑ってしまいます。
いつ誰がその場で氏政の言動を見て聞いて、そして誰が信玄にそれを伝え
信玄の嘲笑を誰が直接聞いたというのでしょうかね。
秀吉の時代に遭遇し滅びに向かったために
お馬鹿な逸話ばかり創作されて、氏政も気の毒なもんだ。
901 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 00:32:24
>>901 汁掛けの話も、結構似たような話が沢山あるみたいだしね(毛利輝元とか)
902 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 01:24:45
実際、最大版図も氏政が御大途様の時だしな。
武田だって勝頼の時だし。
巷間伝えられるようなアホでは現状維持は愚か、領土拡大も
出来なかっただろうし。
オレンジかグレープフルーツを橙と勘違いして家康に嘲笑される話も出来過ぎている希ガス。
何と言っても、旧北条領は徳川のものになり、天下取っちゃうからな。
徳川の関東支配の正統性を出すためには、氏政が愚将であった方が都合良いから、と勘ぐってしまうよ。
904 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 09:56:30
橙もポンカンもあまり変わらんし、どうでもいいことだろう。
それより麦の精製法を知っている武田信玄のほうが変だ。
もっと他にやることあるだろう。
905 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 20:49:18
>>寄居で北条祭りがある
あの藤田信吉はいるの?
藤田家の正当な後継者だし。
>>905 沼田城在番中、越後に逐電いたしました(w
ちなみに、結構用土とか近いですが、城跡がどこだかわからん。
藤田信吉って確か、小田原の役のとき、上杉方として攻めてきたんだっけ?
藤田は猪俣党の名族
司馬遼太郎の早雲小説、藤田氏が源氏とか書いてたな。
あ〜あw
908 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 22:23:17
藤田信吉はすごいよな。
妹の婿養子に家督取られる。妹家が滅んで自殺しても平気だし。
北條、上杉、武田、上杉、徳川だっけ?
関が原の原因作ったのもこいつだし。大名にもなったし。
ある意味寄居の英雄だね。
前田が氏邦を助け引き取ったのは、家康が関東の統治を失敗した場合、自分が名乗りをあげ
民に慕われてる氏邦を上手く使い関東を統治しようと考えていたから
912 :
日本@名無史さん:2006/04/20(木) 20:01:24
>>910 氏邦関連で、明治時代に「秩父志」というのを書いた大野玄鶴(満穂)という
人が氏邦の子孫らしい・・・・・
913 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 14:51:24
>>911 逆に言えば氏政がそれを知らんってのはおかしいよな
914 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 15:36:47
>907元祖デムパ作家だからな。
>>913 だからあの話は信憑性が薄いと思う訳だ。
氏政がしらんでも側近の誰かはしってるだろ。
916 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 21:36:20
大名が麦の作り方知ってるか?
917 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 22:06:56
戦国時代の大名と江戸太平期の大名じゃ
生活様式も意識も違うからな。
大名も家臣も、もっと「農」に親しんでいると言うか
近しいと言うか。。。
>>910 用土城もお忘れなく
by藤田改め,用土新左えモン
>>891 ちくしょー2ちゃんのウヨ坊はやっぱ極悪だぜ……乗ってくれてありがと。
つーかちょっと下見るとどーでもよさそうな人たちが結構いるようね。
921 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 20:16:58
家康側室のお万の方の母ですが、北条氏隆の娘説の他に、北条氏尭の娘という
説もあるそうですね。ところで、氏尭って北条氏政の弟だっていわれてるけど、
じつは違うとどっかで読んだんだけど、知ってたら教えて偉い人
氏政の叔父、つまり氏康の弟という話しも有るな。
923 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 17:26:42
>>922 ウィキペディアのお万の方の項目によると、お万の方の実母は、田中泰行(
板部岡融成の父)の娘で、北条氏政の養女となったとあるが(ちなみにさっき見たら
氏隆、あるいは氏尭娘に修正されてた)、詳細知ってますか?
924 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 22:15:53
wikiネタ、白々しいな
自作自演じてるんじゃないの?
926 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 00:18:49
正確には、早雲は、北条姓を名乗ってない。北条姓を名乗ったのは、氏綱からだ・・
それに、早雲は、伊勢氏の出とされてるな。鎌倉の執権であった北条氏を名乗ることによって関東の正当な支配者になるためだったんでは?
↑
あああ、この今さらすぎる痛い知ったかレスは何なんだ・・・・
>>923 ここはwww素人ばかりのようだから教えてやろう。
黒田基樹の作成した後北条系図にはそう載ってるのがあるよ。
普通後北条好きなら黒田の名くらい知ってるよなwww
929 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 02:42:39
931 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 11:10:42
今日って小田原で北条祭やるよね
今から行くけど
行ってきたけど、あれだな。講談師噛みすぎ。
933 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 23:37:26
毎年毎年あいさつが長すぎ。
934 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 14:08:14
神奈川県大和市は重臣大和氏の領地だったかららしい
今年の督姫はどう?綺麗な人だった?
936 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 21:27:02
よくじじいになってから戦う気になったもんだ。
そのまま義視に従えていればよかったのに
937 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 22:00:00
早雲の生年も色々な説有るね。
実際はもっと若かったとかetc
88歳説は正直疑問、散見するのは江戸中期以降で、それ以前にはそんな記述はない。
88歳説の生年である1432年は山城伊勢氏の伊勢貞藤の生年だから、それと混同されてるのでは?
という88歳否定説があるけど、それに同意する。
あと北河殿の妹説も江戸中期からで、それ以前は妹と記述されていることが多い。
正直1456年生説、あるいはその前後あたりの方が時系列がしっくりくる。
義視仕官が10代前半に始まり、伊豆討ち入りが40前後の男盛り。
氏綱の生まれも、後者でも晩婚だけど、88歳説よりはよほど納得行く。
だからー、干支一回り、ふた周り、12年周期の誤差なんだよん。
鼠年で色々推測したんじゃねーの。
940 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 20:56:32
早雲が義視から去ったのが三十代後半と言う説があるがどう思われる?
941 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 00:47:11
早雲の今川家に対する臣従関係はどうなった?
解消されるのは氏綱の代。
943 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 01:50:27
今川から貰った城地はどうなった?
944 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 03:39:30
>>938 >あと北河殿の妹説も江戸中期からで、それ以前は妹と記述されていることが多い。
結局どういうことよ?
北川殿は今川系図か何かに伊勢盛定の娘と書いてあったような気がしたが。
945 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 03:42:24
>>943 角川の地名辞典には、早雲の晩年に富士下方と興国寺の所領は今川氏親に
返還したって書いてあった。
しかしこの所領のことが後の河東一乱の原因の一つとも。
946 :
sage:2006/05/08(月) 04:50:09
城地は、旧国鉄によって破壊されました。
新幹線が通っていますお!
当時は興国寺城って呼んでいたんだろうか?
久窪城かなぁ?
947 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 05:02:12
三枚橋城とは別の場所?
948 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 07:47:27
全然別の場所。沼津市郊外
949 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 13:58:50
室町将軍は早雲に堀越御所を討たせて誰を代わりの関東公方に置くつもりであったの?
950 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 23:38:08
その質問は、単純だけど凄いな。
それが戦国動乱への道筋になっただろうとは思う。
要は義澄と政元が誰を置くつもりだったかって事でしょ?
他には義材や富子と六角や畠山のしわくもあるしね。
そういえば長生きした六角の子は氏綱だな。
氏綱は層雲の子も氏綱w
何か関係があるんだろうか・・・。
951 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 00:10:02
茶々丸に殺された義澄同母弟が生きていれば話は別だけど、あの段階では最早
古河公方を関東公方として容認する方向だったのでは?
伊勢宗瑞に伊豆に侵攻されて困るのは、茶々丸と伊豆守護の山内上杉。
この両者はどちらも古河公方成氏と対立関係。
それに、その後の後北条は古河公方を推戴して自らを鎌倉期の執権北条に
見立てようとするわけだし。
952 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 00:29:41
茶々丸という幼名しか残らず頃されたのが悲しい…
堀越御所落城のときは逃げて、甲斐で捕捉されたというが、武田が早雲に引き渡したのだろうか?
953 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 10:59:58
>>950 思惑(おもわく)なw
早雲の独断じゃなかったのか
甲斐にいたというのも未確定。
955 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 17:42:04
>>953 「すくつ」や「がいしゅつ」みたいに流行るかもよ。
956 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 22:09:21
将軍足利義澄と堀越御所とが同母兄弟であった。
同母兄弟と実母が、茶々丸に殺された。
早雲に茶々丸征討令が出たのは本当か?
出たとしても関東の全ての大名に発せられたと思うが?
将軍家の以降を受けた今川の命令で宗瑞が動いたんだと思うけど。
少なくとも、今川の被官である宗瑞が独自に軍を動かせないとは思う。
958 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 08:04:30
>>956 禅秀の乱や永享の乱の先例からいえば、今川や越後上杉みたいな京都の幕府の
管轄内で東端の国の守護にまず討伐が命ぜられてる。
堀越が相手だと、越後は地理的に遠いから、今川以外で命令が下った可能性が
高いのは甲斐武田かもな。(でも甲斐は関東府管轄か)
そう考えれば、堀越を追われた茶々丸が最後は甲斐で討たれたというのも
つじつまが合うかも。
>>957 伊勢宗瑞は京都との連絡役のような形で駿河にいただけで、今川の被官に
なったとというわけではないと思うが。
959 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 11:54:13
将軍足利義澄は実母を伊豆に置いて京に行ったんだね
960 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 11:56:21
伊勢氏の出にしては、小田原北条家は足利義昭に対し冷淡なようだが?
961 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 12:10:34
義昭にはどうか知らんが、幕府・朝廷には
金を献上したりそれなりに尽くしてなかったか?
962 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 16:30:27
>>957 >>958 漏れの私見だと微妙に違うと思うお!
将軍家の意向は政所執事で山城守護職であった伊勢家が決めるんだお!
貞親や子の貞宗がやったんだお!
しょしょうとかんれいや高家のしわくを超えてね♪
963 :
sage:2006/05/10(水) 16:31:55
訂正、貞親や→貞親の
>>958 確かに被官は言い過ぎとは思うが、
今川軍を率いて遠江に出征しているから、今川家中と見て間違いないんじゃね?
もちろん上方のパイプ役としても機能するから、使い勝手の良い外戚ってあたりで。
965 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 18:35:13
一休さんに出てくる「新右衛門さん」というのは
義満のときの政所執事の蜷川新右衛門?
966 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 19:41:33
蜷川親当ですな。
967 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 19:44:39
伊勢宗瑞≒いわゆる、今で言うところの中央官庁からの出向官僚?
968 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 20:02:05
ほぼ今では定説になりつつある、伊勢盛定の子盛時=申次衆伊勢新九郎
=伊勢宗瑞。。。これは99.9%は真なのだろうか・・・?
969 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 20:26:18
その歴でも「一説には・・」とかお茶を濁さずはっきり断定してたな
970 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 00:06:11
>>960 義昭の兄の義輝が伊勢本家の伊勢貞孝を追放しているから?
971 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 00:09:08
義昭の信長包囲網に小田原北条は協力したのか?
972 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 01:22:32
あの時期は後北条は武田と対立関係にあるからどうなんだろ。
武田信玄が今川領を併呑したことが原因だけど。
あと越相同盟の成立もこれが原因だけど、上杉ってこの時期の信長包囲網に参加してたっけ?
氏康死後に甲相同盟して、信玄西上に氏政が援兵を出してるべ。
974 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 01:46:07
その頃は、織田・上杉 VS 武田・北條 なの?
975 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 02:26:19
越相同盟の廃棄って御館の乱以降では?
976 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 12:19:22
ちゃうちゃう
977 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 12:44:51
じゃあ景虎は越相同盟破棄後もよく生きてたね。
北条盛定の父親とか祖父って誰でつか??
979 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 16:26:30
藤井さんとかたちきさん(←何故か変換したくない)とかに聞いてみたら?
>>977 そこは謙信の人柄と取るか景虎の人柄と取るかは自由だが
結果的にいえば送り返した方がお互いのためだったんじゃないかと思う
内部抗争で力そぎ落とすにしても北条に火の粉が来ないと限らんし
981 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 20:44:15
景勝の残虐ぶりは戦国だから仕方が無い・・・そうは分かって
いても酷いな。
景虎はしゃーないが、その妻・子供、、、上杉憲政まで殺害。
武田のバカつ頼がもう少しやってくれたらなあ・・っと。
でも、さっさと撤兵しちまう氏政もどうかと思うが。
撤兵は仕方ない。
甲越同盟がなれば、北条は四方敵に囲まれることになり、越後に遠征している場合ではない。
越後に居続けるのなら、勝頼が伊豆なり武蔵なりに兵を進めればいいだけの話。
ちょうど、謙信にたいして信玄・氏康で翻弄したのを攻守変えて再現されるだけ。
確かに不甲斐ないと思うけど、危ない橋は安全に渡るのが北条流。
983 :
日本@名無史さん:2006/05/12(金) 00:23:34
>>981 景虎の妻は景勝の妹なんだよな。それ考えると
上杉景勝の母(仙桃院)もなかなか気の毒な人だよな
うわ、妹殺しか。
985 :
日本@名無史さん:
憲政まで殺すのは何なんだ?
仮にも上杉を長尾に与えた親のような存在なのに。
毒にもならない人だったのだから、せめて捕らえて蟄居くらいで
済ませて欲しかった。
為景の代から主君殺しの好きな血筋だな→長尾