〜長屋王 Part1〜

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1日本@名無史さん
長屋王について語りましょう。
2日本@名無史さん:04/07/21 01:02
長屋王は729年に死んだ。
3日本@名無史さん:04/07/21 01:03
長屋王は長屋に住んでいた
4日本@名無史さん:04/07/21 01:29
長屋親王と書かない>>1は不経済で氏ね
5日本@名無史さん:04/07/21 01:31
長屋親王の息子のうち生き残りいたな。

長屋親王の息子のくせに藤原姓を名乗っていたようだが。
6日本@名無史さん:04/07/21 01:43
長屋親王の祟りで、そごうが潰れたのはみなさんよく御存知の通り。
跡を継いだイトーヨーカドーの行方が心配。
7日本@名無史さん:04/07/21 01:45
>>5高氏じゃなかったっけ高階氏
8日本@名無史さん:04/07/21 20:09
俺は、長屋王の生まれ変わりですが、
何か質問ありますか?
 |  |ヽヽ
 |  |▽V) <新スレおめでとうございまーす♪
 |_と )
 |彩| ノ
 | ̄|
10日本@名無史さん:04/07/21 20:14
マジメに語れ。
>>7
そう、高階氏は長屋(親)王の末裔。
11日本@名無史さん:04/07/21 20:21
長屋王でいいと思います。
万葉集には他に何人かの王、女王がでてくる。
12日本@名無史さん:04/07/21 23:58
>>5
弟貞だな
母方の姓を賜ったとのこと
13日本@名無史さん:04/07/22 00:54
>>4
親王とか不遜なことを言うてるから、ぶっ殺されたんとちゃいますか?
14日本@名無史さん:04/07/22 14:24
殺される時に「なにくそ」と叫んだことは有名
15日本@名無史さん:04/07/22 19:20
もまえら、里中満智子「長屋王残照記」は読みますたか?
もれは泣きました。
16日本@名無史さん:04/07/29 01:56
>5
奥さんの実家が藤原家だからだよー

でも他の奥さんの子供とかは死んでんのに…かわいそうだよね。
17日本@名無史さん:04/07/30 12:39
長屋王はすごい血筋ですね
祖父は天武天皇、
父は太政大臣の高市皇子、母は天智天皇の娘御名部皇女(妹は元明天皇)
妻は文武天皇の妹で元明天皇の娘の吉備皇女
合ってるかな?

サラブレッドだ 親王って呼ばれてたのもうなづける
18日本@名無史さん:04/08/01 02:45
結婚相手(正妻)の吉備皇女も殺されたの?
自害?
19日本@名無史さん:04/08/01 02:47
長屋王だけに熊や八に輪姦されて自殺とか
20日本@名無史さん:04/08/01 03:06
>>17
皇位後継者不足の中、
そのサラブレッド長屋王の息子で生き残った山背王は有力筆頭だと思う。

しかし山背王はアホなことに藤原姓をもらって、
藤原弟貞へと改名してしまう。

天武天皇の曾孫かつ天智天皇の外曾孫であり、
当時としては皇位継承に申し分がないはず。

加えて、藤原不比等の外孫でもあり、
臣下降籍していなければ天武系の継承にベストだったのでは。
21日本@名無史さん:04/08/01 03:12
>>20
やはり山背王は4兄弟に輪姦されたのでは
それで藤原の血が濃くなったのでは
22日本@名無史さん:04/08/01 09:38
山背王の藤原賜姓は橘奈良麻呂の変における密告を賞されてのこと
同母兄の安宿王と黄文王を裏切って保身に走った

結果、黄文王は拷問の末に死亡、安宿王は佐渡に配流
山背王は藤原朝臣とともに従三位を授かった
23日本@名無史さん:04/08/01 23:45
うわぁ壮絶。
山背王…どんな気持ちで生きてたんだ?
こいつはもう長屋王の子孫といおうより、藤原の血が強いんじゃないか?
24日本@名無史さん:04/08/15 22:43
祖父は天武天皇、
父は太政大臣の高市皇子、母は天智天皇の娘御名部皇女(妹は元明天皇)
妻は文武天皇の妹で元正天皇の妹で元明天皇の娘の吉備皇女

のほうがいい
25大っきらぃな日本史:04/08/21 16:55
長屋王って、授業中にやったっけ?知らねぇよー(怒)
26日本@名無史さん:04/08/23 15:09
>25
奈良〜平安にかけて、藤原氏のことをやったのは覚えてますか?
その最初らへん、藤原氏が実権を握る少し前の権力者で皇族の政治家ですよ。
元正天皇・聖武天皇のころの
27日本@名無史さん:04/08/23 15:24
>>23
古代の家族は母系中心
母が藤原氏だったんだから、藤原氏の影響も強いんじゃない?
28日本史嫌いでつ:04/08/30 19:54
長屋王って誰だっけ?授業中に話していたのを聞いていたけど、忘れた。。
29柴門たまき:04/08/30 20:10
ちんこ
30日本@名無史さん:04/08/30 21:20
>>27
じゃあ黄文王、安宿王はどうなるの?
黄文といっしょに死んだ橘奈良麿だって母系は藤原氏だしな。
31日本@名無史さん:04/08/31 03:10
血を分けたもの同士の仁義なき戦い?

でも歴史上の人物の行動って、
文献とか史料がたくさん残っていれば推察できるけど、
この人が何を思って行動したかなんて、本人に聞かなきゃ分からないし、
人の行動なんて、本人自体もよくわからないで保身に走ったってこともあるだろうしね。
32日本@名無史さん:04/08/31 14:11
もっと若くして亡くなったのかと思ってた。
33日本@名無史さん:04/08/31 14:45
↓文武天皇(軽皇子)

祖父は天武天皇、
父は皇太子の草壁皇子、母は天智天皇の娘阿閇皇女(文武後に元明天皇)
妻は不比等の娘宮子

>祖父は天武天皇、
>父は太政大臣の高市皇子、母は天智天皇の娘御名部皇女(妹は元明天皇)
>妻は文武天皇の妹で元正天皇の妹で元明天皇の娘の吉備皇女

実は文武天皇と同等以上。
皇太子の子が軽皇子などと呼ばれる時点で既にあやしい。

長屋本人に皇位継承濃厚だったので、官僚デビューも遅い(わりに速攻左大臣)。
34日本@名無史さん:04/08/31 15:48
文武帝と長屋王
父方の祖父、母方の祖父母は同じでも
父方の祖母が持統帝と尼子娘では
とても同等以上とはいえないような。

>皇太子の子が軽皇子などと呼ばれる時点で既にあやしい。
???
35日本@名無史さん:04/08/31 15:58


                  __,,,,_
               /´      ̄`ヽ,
              / 〃  _,ァ---‐一ヘヽ.
  皇          i  /´        リ}       お
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  居          |   |    ‐ー  くー |       ま
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  こ       ノ    ,二!\   \___/   /`丶、
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  い     / 、 `ソ!      \/l::::|ハ/     l-7 _ヽ
       /\  ,へi    ⊂ニ''ー-ゝ_`ヽ、    |_厂 _゙:、
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      ,ヘ \_,. ' | |    丁二_     7\、|イ _/ ̄ \
      i   \   ハ       |::::|`''ー-、,_/  /\_  _/⌒ヽ


36日本@名無史さん:04/08/31 16:06
>>34
当時でも祖母の血統まで考慮されていることは少ない。

まだ親王という表現が使われる前夜、天皇の子は皇子、皇子の子は王。
律令の草創期からいきなり例外というのをあやしいといっている。

>>35、行ってみたい・・・
37日本@名無史さん:04/08/31 16:49
>>36
子が皇孫扱いになったからだろ。
38日本@名無史さん:04/08/31 17:38
>>33
長屋王の子ども(吉備所生)が文武天皇の子どもと同等以上ならわかるけど。
39日本@名無史さん:04/08/31 18:29
>>38
いや、まったく違う。当時の感覚だと、
践祚した天皇>>>>>>>皇太子≧太政大臣皇子 だから
践祚した天皇の子>>>>>>皇太子の子≧太政大臣皇子の子 だと思った。
文武(軽)と長屋では、母方も同格だし。

文武の子と長屋の子だと
践祚した天皇の子>>>>>>>>>>>左大臣王の子
で明らかに格が違う。
40日本@名無史さん:04/08/31 20:05
>>39
文武はいつまで単なる皇太子の子扱いだったの?

当時の感覚だと、母親がだれかは問題にならないわけ?
41日本@名無史さん:04/09/01 00:46
>>40
高市皇子の死の直後、軽が突然皇太子に立てられた。
その時、血統的に最有力なのは長皇子,弓削皇子の兄弟。
高市の生前には無理だったが、死後に祖母持統がゴリ押しした模様。

天皇の子同士であれば、母方の格も重要。
42日本@名無史さん:04/09/01 00:51
やっぱり、高市皇子が天皇だったんじゃないかなあ。
43日本@名無史さん:04/09/01 01:19
高市北朝(藤原京)、持統南朝(吉野)のゴタゴタ。
とりあえず元明を立てることで南北朝合一(平城京)、長屋官僚デビュー(臣籍)。
とかだったら面白いね。
44日本@名無史さん:04/09/01 09:02
>>39
いや、まったく違う。当時の感覚だと、
践祚した天皇>>>>>>>皇太子≧太政大臣皇子 
践祚した天皇の子>>>>>>皇太子の子≧太政大臣皇子の子 だから
践祚した天皇の子の子>>>>>>皇太子の子の子≧太政大臣皇子の子の子 だと思った。
聖武(首)と膳夫では、母方は格違いだし。

文武の子と長屋の子だと
践祚した天皇の子>>>>>>>>>>>左大臣王の子
で明らかに格が違う。
45日本@名無史さん:04/09/05 00:56
怨霊信仰している者ですが、奈良そごうに続き、その店舗跡にできた
イトーヨーカドー奈良店も潰れそうです。関東ではイトーヨーカドー
は大きなチェーンと認識されているようですが、関西に店舗はほとん
どなく、そのマイナーさに長屋王の怨霊が加わり、悲惨な状態です。
もちろん品揃えもどんどん悪くなり、レトルトカレーに至っては、
全部で6商品(各辛口等あり)しか置いていません。
5階にできた大戸屋も関西では知名度ゼロで、お昼でも座席の半分しか
客がいません。
46日本@名無史さん:04/09/05 01:05
>怨霊信仰している者ですが、

ユニークな自己紹介ですね
47日本@名無史さん:04/09/05 01:08
なんだかんだといっても左大臣まで上り詰めた
王族は歴史上稀有であるということは間違いない。
48日本@名無史さん:04/09/05 11:37
>>47
あれ、もしかして皇族左大臣って長屋王ひとり?
49日本@名無史さん:04/09/05 12:09
>>48
そうだね、といいかけてもう一人いることに気付いた>明治の有栖川宮熾仁親王

でも、明治以降を除き、かつ、知太政官事や太政大臣を名誉職として除くと、
左大臣にまでのぼりつめた皇族は長屋王一人。
次点は神王の右大臣。 臣籍降下した元皇族ならわりといるんだが。
50日本@名無史さん:04/09/05 15:04
>>45
あれは、「もっと調査したかったのに〜」という研究者の生き霊の可能性アリです。
51日本@名無史さん:04/09/05 23:47
>>45
奈良そごう開業の日に、屋上ステージで熱唱した絶頂期の渡辺美奈代が
芸能界から消えたのは、長屋王の怨霊でしょうか?
52日本@名無史さん:04/09/06 11:41
>>49
>左大臣にまでのぼりつめた
大納言や中納言はいたの?
53日本@名無史さん:04/09/06 19:15
公卿補任を参照されたし。
54書いてみる49:04/09/06 20:49
大納言極官
・白壁王(→光仁天皇)
・壱志濃王(湯原親王子、光仁甥)
中納言
・直世王(長皇子曾孫)
参議
・葛城王(→参議時代に橘諸兄となり左大臣極官)
・山村王(用明天皇五世?)
・和気王(舎人親王孫、坐事)
・正躬王(桓武孫、万多親王子)
・忠貞王(桓武孫、賀陽親王子)
・十世王(桓武孫、仲野親王子)

番外?知太政官事
・刑部(忍壁)親王
・穂積親王
・舎人親王
・鈴鹿王(長屋王弟、藤原四兄弟死後、参議より一気に知太政官事に引き上げられた)

鈴鹿王の場合は長屋王怨霊対策の一環でしょう。
55藤原武智麻呂:04/09/09 01:05
俺は人間をやめるぞ!!長屋ーッ!!
56日本@名無史さん:04/09/09 11:21
物部長屋
57日本@名無史さん:04/09/11 14:16:45
                             
       / ̄ ̄ ̄\               
      |      |      
      |      |             
      |      |               
      | 長屋王 |               
      L_____」                 
      |= = :■      ____________        
      |「・ ・)  」    /        
      <  レ    )   <  私は英雄だ。
      | ”””   |   \_____________        
       \ δ  /              
         ̄ ̄ ̄                 

58日本@名無史さん:04/09/11 14:34:51
                      
       / ̄ ̄ ̄\             
      |      |    
      |      |           
      |      |             
      | 鈴鹿王 |             
      L_____」               
      |へ へ :■      ____________      
      |「・ ・)  」     /      
      <  U    )   <  おいらは弟の鈴鹿王だじょ。うりうり〜。
      | ”””   |    \_____________      
       \ ×  /            
         ̄ ̄ ̄               
59日本@名無史さん:04/09/11 17:50:34
長屋王ってごっついお金持ちのひとやろ?
60日本@名無史さん:04/09/17 00:34:59
>>59
現在価値で約2億円の年収とかなんとか本で読んだ気がする。
東京ドーム1.3個分の土地にでっかい屋敷を建てて住んでいたそうです。
61日本@名無史さん:04/10/04 03:56:18
弟貞
62日本@名無史さん:04/10/25 23:50:34
                           
63日本@名無史さん:04/10/26 00:10:22
長屋王って名前がかっこええ!
64日本@名無史さん:04/11/14 00:59:41
高市皇子は即位していたとの説もあり、もっと研究が進んでほしい。
65日本@名無史さん:04/12/03 10:21:43
いつ?
66日本@名無史さん:04/12/22 20:34:35
門部王
67日本@名無史さん:05/01/04 09:40:36
>>65
持統が吉野へなんども幽閉されている頃だと思う
68日本@名無史さん:05/01/05 12:18:54
質問ですが、長屋王の変において、長屋王に過失はあったんでしょうか?
何か悪いこと(曖昧ですが)をしたとか…。
69日本@名無史さん:05/01/05 21:54:51
>>68
聖武天皇と光明皇后の間の長男・基王(某王とも言われる)を呪い殺した
のが長屋王の罪

と『続日本紀』では書かれている。

その後、『続日本紀』に書かれている経緯から見て、
この呪殺は事実無根のえん罪だったのでは?というのが現在の学会の通説。
70日本@名無史さん:05/01/06 23:45:03
>えん罪だったのでは?
続日本紀では、はっきり冤罪の立場を取ってるけどね。
71日本@名無史さん:05/01/08 21:12:29
立ってから半年も経つのにまだレス70。
スレタイの「Part1」は恥ずかしいだけだなw
72藤原武智麻呂:05/01/08 21:33:10
>>71
そんな事言ったら、もまえも天然痘で氏ぬぞ。
73日本@名無史さん:05/01/08 21:54:59
長屋王の登場する小説なんて書いたら俺も死ぬだろうか。
74日本@名無史さん:05/01/08 23:10:57
長屋親王の話を聞くと、藤原にむかつくのは俺だけか?
75日本@名無史さん:05/01/09 12:53:05
何故にあえて「長屋親王」?
ちなみに長屋王は藤原不比等の婿でもあるわね フクザツ・・・
76日本@名無史さん:05/01/09 13:23:49
唐詩選だっけか
唐の詩集に
長屋王の漢詩が載ってる。

やっぱよっぼど優秀だったんだろうな。
77日本@名無史さん:05/01/09 13:27:23
かの鑑真は
長屋王の詩を読んで感動して
日本行きを決意したという話もありますな。
78日本@名無史さん:05/01/09 13:34:06
長屋王を警戒していたのは藤原氏よりも聖武天皇本人だろう。
天武天皇の孫で、母が皇女で妻も皇女の長屋王は有力な皇位継承者。
後継者のいない聖武天皇にとっては直接的な脅威だったのではないか。
機会をもうけて抹殺してしまいたいとかねて考えていたのかもしれない。
待望の光明子腹の皇子を亡くしたショックで精神的にまいっていたとはいえ、
讒言に乗ぜられたふりをして積極的に陰謀に荷担したのではないか。
79日本@名無史さん:05/01/09 14:05:06
長屋王の文化人としての名は新羅や唐でも有名だったらしい。
あの時代に海外でも有名になるくらいだから相当立派な教養人だったんだろうな。
80日本@名無史さん:05/01/09 19:46:54
>>76-77
代筆は誰がしたの?
81日本@名無史さん:05/01/25 00:37:03
長屋親王というのが見つかったのに、
どうして長屋王を使い続けるの??
82日本@名無史さん:05/01/25 00:58:38
83日本@名無史さん:05/01/25 01:00:42
>>67
そんなの初耳。持統はなんらかの理由で王権の維持のために吉野行幸を繰り返したんじゃないかい?
84日本@名無史さん:05/01/27 00:18:29
新しい男が出来たんじゃない? 吉野で逢引き。
85日本@名無史さん:05/01/28 16:57:42
平将門は長屋王の霊に操られていた。
将門はただの傀儡。将門のバックには長屋王の幽霊がいて、将門を操っていたのだ。
実は長屋王は自害する際に密かに禁断の呪法を行い、死後は神仙のような幽霊として生き続けていたのである。
歴史上の有名な乱の背後には常に長屋王の霊が・・・・・・・・・・・・・
86日本@名無史さん:05/01/28 23:57:51
そうそう、壬申の乱の背後には長屋王の霊が・・・・・ってなんでやねん
87日本@名無史さん:05/01/29 11:39:12
そうそう、磐井の乱の背後には長屋王の霊が・・・・・ってなんでやねん
88日本@名無史さん:05/01/30 19:24:26
長屋王は天武十三年(684)生まれです
天武五年(676)誕生説は誤り
89日本@名無史さん:05/02/01 02:21:32
長屋王は天武五年(676)生まれです
天武十三年(684)誕生説は誤り
90日本@名無史さん:05/02/01 04:10:22
公卿補任
扶桑略記
尊卑分脈
とも長屋王の死亡年齢を46才としていますから逆算すると684年なります

もし長屋王が676年生まれなら同じ年に生まれた舎人親王が
持統9年(695年、20才)で浄広貮の位を授けられたのに
長屋王が慶雲元年(704年、29才)まで無位だった事が疑問に思われます
太政大臣高市皇子の息子が29才まで無位であったとは実に信じがたい事です
91日本@名無史さん:05/02/01 12:58:50
>>90
それに関しては
「長屋王は万が一の時に天皇を継ぐ可能性があり
 そのためには位をもらう=臣下相当になるのはまずかったから」
という説がありますね。
遠山美都男氏や瀧波貞子氏の一連の本に載っていたような。

位をもらう=臣下相当になるという事に関しては何とも言えないが
文武天皇が死んだときには首皇子も非常に幼かったし、当時の医療レベルを考えれば夭折の可能性もあった。
万が一の場合、文武天皇の妹・吉備内親王を妻とし、母・御名部内親王が元明天皇の姉だった長屋王が
皇位を継ぐ可能性は結構高かったのではないかと思う。
92日本@名無史さん:05/02/01 14:03:24
>>91
まず天武・持統朝においては皇太子も位階を持っていた史実を
ご指摘致します

草壁皇太子は天武十四年(685年)に浄広一位、同じく大津皇子は浄大ニ位
高市皇子は浄広ニ位、忍壁、川嶋皇子は浄大三位を授けられています

つまり天武・持統朝においては天皇を継ぐものにも位階を授けられますから
たとえ長屋王が皇位を継ぐ可能性があったとしても天武5年誕生ならば
同じ年生まれの舎人親王同様、持統9年に位を授けられたはずです

しかし長屋王は慶雲元年までは無位であったのですから
天武十三年生まれで慶雲元年に21才となって位を授かったと
解釈するのが自然であると思われます
93日本@名無史さん:05/02/02 01:14:14
676年説は、751年(天平勝宝3年)成立の「懐風藻」に書かれた、長屋王の薨去年齢に
よるもので、こちらの方がきちんとした裏付けがある。この説では、29歳まで官位を受け
なかったことになるが、その理由は皇位継承権を有していたためと推察される。親王の
子は21歳以上で従四位下に叙されるのが選叙令の規定なのに、3ランクも上の正四位
上に叙されたのは、年齢が高かったため。
94日本@名無史さん:05/02/02 01:24:57
天武・持統朝では皇位継承者も位を授かられることを
>>92において私は立証しておりますから
長屋王が皇位継承権を有していたために無位であったという
論拠は完全に破綻しております
676年説は長屋王が29才まで無位であったことの合理的説明を
果たさない限り、684年説の正しさが崩されることはありません
したがって長屋王は慶雲元年に21才となり位を授かられたと言えます
95日本@名無史さん:05/02/02 01:27:27
>>94
授かられる×
授けられる○
96日本@名無史さん:05/02/02 01:37:54
もし長屋王が676年生まれなら舎人親王と同じ年に
生まれたことになりますから
持統9年(695年)に舎人皇子(親王)が
浄広ニ位を授けられた時に
長屋王に浄広三位辺りが授けられるのが
妥当であると思われます

なお新田部皇子(親王)は文武4年(700年)、舎人親王と同じく
浄広ニの位を授けられています
97日本@名無史さん:05/02/02 16:09:03
高市皇子は654年生。長屋王が684年生とすると、
31歳の時に長男を生んだことになる。これは遅すぎだろう。

>公卿補任 扶桑略記 尊卑分脈
まずこれらの史料性を証明汁。特に補任の記す年齢なんて、メチャクチャだからな。
補任によれば、妹の河内女王や、子の弟貞・安宿王までも長屋王より年長になってるし。
生年が分からんかったから、704年を21歳として逆算してるだけですよ。
98日本@名無史さん:05/02/02 16:24:02
>>97
高市皇子の没年齢が記述されているのは
「公卿補任」「扶桑略記」「尊卑分脈」です
父親の高市皇子の没年齢は上記の史料の記述を使いながら
息子の長屋王の没年齢に関しては上記史料の記述を否定するのは
テキストクリティークとしては誤りだと思われます
99日本@名無史さん:05/02/02 16:35:17
天武・持統朝における皇族の位階制度(天武十四年、685年制定)

明大壱
明広壱
明大弐
明広弐
浄大壱
浄広壱
浄大弐
浄広弐
浄大参
浄広参
浄大肆
浄広肆
100日本@名無史さん:05/02/02 16:44:08
天武十四年(685年)

草壁皇太子、浄広壱位を授けられた
大津皇子、浄大弐位を授けられた
高市皇子、浄広弐位を授けられた
川嶋皇子、浄大参位を授けられた
忍壁皇子、浄大参位を授けられた
101日本@名無史さん:05/02/02 17:46:29
朱鳥元年(686年)

浄大肆位、伊勢王
浄広肆位、河内王
102日本@名無史さん:05/02/02 17:47:35
持統三年(689年)

浄広肆位、竹田王

持統五年(691年)

浄広弐位、穂積皇子

持統六年(692年)

浄広肆位、広瀬王
浄広肆位、難波王

持統七年(693年)

高市皇子、浄広壱位を授けられた
長皇子、浄広弐位を授けられた
弓削皇子、浄広弐位を授けられた

持統八年(694年)

河内王、浄大肆位を追贈された
浄広肆位、三野王

持統九年(695年)

舎人皇子、浄広弐位を授けられた
103日本@名無史さん:05/02/02 17:52:42
文武三年(699年)

浄広参位、坂合部女王卒
浄広参位、日向王卒
浄大肆位、春日王卒
浄広肆位、大石王
浄広肆位、衣縫王
浄広弐位、大江皇女薨

文武四年(700年)

新田部皇子、浄広弐位を授けられた
浄広肆位、明日香皇女薨

大宝元年(701年)

浄広肆位、夜気王
104日本@名無史さん:05/02/03 01:02:08
生年論争を傍観していたのだが、ちょっと一言。論理の順序がおかしいよ。
684年説の人が、懐風藻に54歳と記される理由を説明するのが先じゃないかい?

懐風藻はほぼ同時代の編纂なので、長屋王の年齢を知る第一級の史料であり、
信頼度の上においても、尊卑分脈や扶桑略記・公卿補任より遥かに勝っている。
俺は詳しくないが、天武天皇が「56歳か65歳か」といったレベルの話とは違うと思う。
たとえ、684年説に如何なる説明が可能であったとしても、それらはあくまで書紀や
続紀の史料解釈に終始するといった後次的な域を出ない作業なのであるから、
同じ様に相手にも「29才まで無位であったことの合理的」な解釈を求めるより、
「54歳と明記する」一級史料を自ら片付けてしまうことが先決ではないだろうか。
105日本@名無史さん:05/02/03 01:34:41
>>104
懐風藻の記述が正しければ、長屋王没年齢54才が
公卿補任 、扶桑略記 、尊卑分脈に反映されるはずなのに
三史料とも長屋王の没年齢を46才と記述されております
したがって懐風藻にしか記されていない54才より
公卿補任、扶桑略記 、尊卑分脈の三史料の記述されている
46才を信頼するものであります
106日本@名無史さん:05/02/03 01:39:22
簡単に言えば、公卿補任 、扶桑略記 、尊卑分脈の各編者達は
懐風藻の没年齢54才を信用しなかったと言うことでしょう
107日本@名無史さん:05/02/03 01:53:53
浄広壱位 太政大臣 高市皇子の息子である長屋王が29才まで
無位のまま放置されたなどと言う事を信用しろと言われても
それは無理な話でしょう

長屋王が676年生まれなら、同じ年に生まれた舎人皇子(親王)と同様に
持統九年に位を授かったはずです
108日本@名無史さん:05/02/03 04:11:27
一級史料の懐風藻に、「54歳と記されている理由」を訊いている。
仮に46歳説の立場をとるなら、なぜ懐風藻のように記されたのか?
後世の編者が信用しようとしまいと、それが史実か否かは別。
もしかしたら、54歳でも46歳でもない可能性だってあり得るわけだし。

>没年齢54才を信用しなかったと
おそらく、後世の編者たちは懐風藻自体を見ていない。
懐風藻には独自で他の人物の年齢も記録しているが、
公卿補任や尊卑分脈にそれらが一切反映していないからね。
史料が無かったので、704年を21歳として推定・逆算してるだけ。

>持統九年に位を授かったはず
これはあくまで、「はず」と言うに留まる史料解釈のレベルだろう。
一級史料の疑問を解かないと、二次的な議論を積み重ねても無駄。
109日本@名無史さん:05/02/03 14:29:54
>おそらく、後世の編者たちは懐風藻自体を見ていない。
それは貴方の推測に過ぎない、見ていないということの立証は不可能

また54才の記述は懐風藻だけなのに対して
46才の記述は公卿補任 、扶桑略記 、尊卑分脈の3史料に記述されている
したがって複数の史料に記述されている46才を正しいとするのは理の当然

懐風藻しか立証の根拠がない54才説は誤説
110日本@名無史さん:05/02/03 14:35:49
なお続日本紀ならともかく懐風藻は個人が編集した漢詩集)であり
たとえ同時代性を加味しても万葉集と同じ位置付けしかできず
一級史料とは言いがたい
111日本@名無史さん:05/02/03 17:57:43
天智諸皇子の没年齢

大友皇子 天武元年(672年)没 
 日本書紀?才、公卿補任 ?才、扶桑略記26才、懐風藻25才

川嶋皇子 持統五年(691年)没
 日本書紀?才、懐風藻35才

施基皇子 霊亀二年(716年)没
 続日本紀?才、扶桑略記?才
112日本@名無史さん:05/02/03 18:47:26
天武諸皇子の没年齢

草壁皇子 持統三年(689年)没
 扶桑略記?才

大津皇子 朱鳥元年(686年)没
 扶桑略記24才 懐風藻24才

高市皇子 持統十年(696年)没
 公卿補任42才or43才、扶桑略記43才、尊卑文脈43才or42才

忍壁皇子 慶雲二年(705年)没
 公卿補任?才、尊卑分脈?才

穂積皇子 霊亀元年(715年)没
 公卿補任?才、扶桑略紀?才

長皇子 霊亀元年(715年)没
 扶桑略紀?才

弓削皇子 文武三年(699年)没
 扶桑略紀?才

舎人皇子 天平七年(735年)没
 公卿補任60才、扶桑略記?才、尊卑分脈60才

新田部皇子 天平七年(735年)没
 扶桑略記?才

磯城皇子 没年不詳
113日本@名無史さん:05/02/03 18:52:07
長屋王 神亀六年(729年)没
 公卿補任46才、扶桑略記46才、尊卑文脈46才、懐風藻54才
114日本@名無史さん:05/02/04 00:35:28
>一級史料とは言いがたい
個人レベルでも日記の類は一級史料と成り得るので、この判断は不可。
その上、年齢の記録には主観的な要素が入り込む余地は無いと考えられるから、
公私は無視出来る。懐風藻はやはり、「同時代性」の点で充分な一級史料と成り得る。

>後世の編者たちは懐風藻自体を見ていない。
確かに、これは私の推測に過ぎない。しかし、「見ていないということの立証は不可能」と
言い切るなら、見ていたことの立証も不可能なのだから、お互い様だ。この点で、あなた
の指摘は無意味となる。私は「見ていない」と仮定した方が、円滑に説明できると思った
までで、あなたが「見ている」と仮定しているのも、同様な理由に過ぎないであろう。

>複数の史料に記述されている
46歳説が、ある一つの史料から派生しているだけ。
他に史料が無ければ、46歳と書かざるを得ないだろう。

>仮に46歳説の立場をとるなら、なぜ懐風藻のように記されたのか?
私はこの疑問に対する「積極的な」意見を求めている。
115日本@名無史さん:05/02/04 01:18:52
>46歳説が、ある一つの史料から派生しているだけ。

これはあり得ない
例えば舎人皇子の没年齢は公卿補任と尊卑分脈には記述されているが
扶桑略記 には記述されていない
これは一つの史料を他の史料が孫引きしていない証拠である
もし単純に孫引きしているのなら扶桑略紀にも舎人皇子の没年齢60才が
記述されているはずである
116日本@名無史さん:05/02/04 01:29:28
>私はこの疑問に対する「積極的な」意見を求めている。

懐風藻の編者が長屋王の没年齢を54才と誤認したからとしか言えない
117日本@名無史さん:05/02/04 01:36:01
やや言い足りないので、補足する。

>複数の史料に記述されている
「複数の史料」と言っても、この場合は後世の史料に過ぎないことに注意。
私達がある人物について知りたいと思ったら、まずは伝記の類を開くように、
補任や分脈の編者も、それ以前の「ある程度まとまった史料」を利用するはず。
つまり、史料は連鎖的に書き継がれる性格を持つものであるから、ある時点で
誤説・誤写が起こればそれも後世に伝わってしまうのだ。だから、後世の「複数
の史料」があっても、それは唯一の一級史料を越えることはまず無いのである。
この好例としては、分脈で誤られた系図がそのまま書き継がれてしまったため、
中には、戦後に学者が六国史や姓氏録との相違を指摘するまで、史料としての
権威を保ち続けたものもあることが挙げられよう。一級史料である六国史を見て
いれば、容易に気付くであろう誤りを、後世の史家達は見過ごしていたのである。

一方の懐風藻の場合、編者にも漢詩の教養があり、長屋王と親交のあったことが
伺える。とすれば、編者の手許には王に関する何らかの記録があった可能性もあろう。
118日本@名無史さん:05/02/04 02:37:36
>舎人皇子の没年齢は・・・扶桑略記 には記述されていない
略記が明確な異説を主張している訳ではないから、反証としては
弱いだろう。不在の証拠は、証拠の不在になり得ないのである。
そもそも略記は官撰に非ず、編者が情報の取捨選択をしたまでだ。

>単純に孫引きしているのなら
もしかしたら、私の言い方が語弊を招いたかも知れない。>>117にも
関連するが、史料が次々に引用されていく過程は直線的ではなく、
ネズミ算の如く派生的に起こる。また、複数の史料を参酌した上で、
有効としたものを引用する場合もあるだろう。これらの過程を系統樹に
見た場合、補任・分脈・略記を同系列に属する史料と考える必要は無い。
これらのように現存している史書の方がむしろ少ないのであるから。
殊に略記は私撰という性格上、他二書と別系にあると考えて無難。
119日本@名無史さん:05/02/04 03:55:25
正史である続日本紀には長屋王の没年齢は記述されていない
次に懐風藻の没年齢54才が公卿補任、尊卑分脈、扶桑略紀の編者に
無視されている点を考慮するとやはり没年齢46才説を推したい

もし長屋王の各書の編者達が没年齢を機械的に
算定したと言うのであれば長屋王の兄弟の鈴鹿王の年齢も
機械的に算定できるはずなのに
公卿補任では鈴鹿王の没年齢が記述されていない
この点から見ても長屋王の没年齢は機械的に
算定された訳ではないと主張できる
120日本@名無史さん:05/02/04 04:03:09
長屋王の父である高市皇子に関しては没年齢が43才でほぼ確定しています
この没年齢は公卿補任、尊卑分脈、扶桑略紀に記述されてますが
その記述が正確だと認識されているからでしょう

父の没年齢が正確であるなら子の没年齢も正確だと判断するのは
史料操作の点から見ても誤りではないと言えます
121日本@名無史さん:05/02/04 04:05:01
>>119
もし長屋王の各書の編者達が没年齢を機械的に×
もし各書の編者達が長屋王の没年齢を機械的に○
122日本@名無史さん:05/02/04 17:02:38
長屋王の兄弟、鈴鹿王の没年齢を機械的に算定した場合

生年 持統四年(690年) 1才
初叙位 和銅三年(710年) 従四位下 21才
没年 天平十七年(745年) 56才

となるはずですが、公卿補任では鈴鹿王の没年齢を
記述していません

つまり公卿補任は機械的算定で没年齢を記述してる
訳ではないことの証明となります
123日本@名無史さん:05/02/04 17:11:56
長屋王

生年 天武十三年(684年) 1才
初叙位 慶雲元年(704年) 正四位上 21才
没年 神亀六年(729年) 46才
124日本@名無史さん:05/02/04 23:45:53
>各書の編者達が没年齢を機械的に算定した
補任・分脈・略記の編者が作為したと、私は言っていない。ある時期に
46歳説が作為され、それを載せた史料が補任・分脈・略記編者たちの管
見に入ったという程度のことだ。殊に補任や分脈には前時代史料の集成
的性格が強いことも傍証となる。このような史料は後人の加筆が多く、
互いに一致する記述が認められても、それは有力な史料となり得ない。

>機械的に算定できるはずなのに没年齢が記述されていない
上で述べたとおり、年齢は補任・分脈の編者の作為ではない。長屋王
を載せながら、鈴鹿王を載せていない史料などいくらでもあり得る。

>その記述が正確だと認識されているからでしょう
私は、このレベルで議論しているつもりは無い。史実と後世の歴史認識が
異なる事例などは日常茶飯事で、歴史学にはそれらの歪みを修正する目的
がある。認識に重点を置くなら、心理学や宗教学の板で議論すべき話題だ。
125日本@名無史さん:05/02/05 01:31:11
同時代性という一点で懐風藻の記述を盲信するあなたの態度にこそ
真摯な史料批判の精神を感じることができない

公卿補任、尊卑分脈、扶桑略紀の記述から高市皇子の没年齢は
43才という事が学会の定説となっている

したがってその子である長屋王の没年齢が公卿補任、尊卑分脈
扶桑略紀において46才とされている以上、そちらを採用するのが
客観的に史料を見るモノとして当然の態度である
126日本@名無史さん:05/02/05 01:35:52
懐風藻の五十四という記述が公卿補任、尊卑分脈、扶桑略紀の
編者達に無視された事実に重きを置いてもらいたい
127日本@名無史さん:05/02/05 01:46:04
横から失敬。
学界の定説ってどこの学界かねえ。
吉川弘文館の人物叢書『長屋王』(執筆寺崎保広氏)なんかは54歳説だが。

むしろ、公卿補任・尊卑分脈・扶桑略記よりも懐風藻のほうが史料価値が高い
というほうが「学界の定説」だと思うのだけれど。

史実と後世の歴史認識については>>124氏にまったく同意。
多くの人が信じたほうが真実だったら、歴史学者いらないね。
128日本@名無史さん:05/02/05 03:39:19
>>127
ありがとうございます。

>同時代性という一点で懐風藻の記述を盲信する
史料の信頼性において、補任・分脈が懐風藻より優越する根拠を、私は知らない。
「複数の史料」や「認識」という単純な理由で通用しないことは、上述のとおりである。

>編者達に無視された事実に重きを置いてもらいたい
私は、編者が懐風藻を見ていなかったと考えている。>>113では何故か触れられ
ていないが、厳密に言うと、公卿補任には36歳/46歳の2説を併記した形を採って
いる。36歳説では流石に若すぎるので、ハナから切り捨てられる訳だが、懐風藻
を見ていたのなら、54歳説も併記されていておかしくないはずだ。36歳説を切り捨
てなかった編者の鑑識眼がいか程のものかは、あなたの想像にも難くないはず。
129日本@名無史さん:05/02/05 04:38:51
46歳説への積極的な反証とは成り得ないが・・・

長屋王が対象になった704(大宝4)年1月の蔭叙は、大宝令施行後初
めてで、選任令適用の初例であったことは注目してよい。このことは、
前年12月に「始めて皇親五世王、五位已上の子、年廿一已上に満る
者は、その歴名を録して式部省に申送せよ」という勅に対応している。

この時には、長屋王の他、天智の皇孫と考えられる大市王や手嶋王
など七王も蔭叙に預かっている(従四位下)が、これら諸王が長屋王と
偶然にも21歳であったとは考え難く、ましてや、これだけの人数の諸王
に蔭叙が行われた例も他に無い。大宝4年の蔭叙にこのような特異性
があるのは、「大宝令施行後初めて」という性格に起因しており、この時
点で21歳を超えた諸王にまとめて蔭叙を行った可能性が高いと言える。
130日本@名無史さん:05/02/05 04:59:31
>>128
>36歳説では流石に若すぎるので、ハナから切り捨てられる訳だが、
この一節は無い方が良いですね。
131日本@名無史さん:05/02/05 09:25:00
>>127
吉川弘文館「国史大辞典」46才説
角川「日本史辞典」46才説
岩波「日本史辞典」46才説

46才説は川崎庸之氏の『記紀万葉の世界』(所収)
「長屋王の時代」以来の定説ですが何か?
132日本@名無史さん:05/02/05 09:38:47
>>129
長屋王が29才まで無位にあった事の疑問がそれでは解決できません

位は天武十四年(685年)に位階制度に新制度が導入されて以来
天武・持統朝において成人皇族は皇太子以下、位を授けられています
したがって54才説をとるなら長屋王を持統朝において成人に達して
いますから、29才まで無位であったとは考えられません

54才説なら舎人親王(皇子)と長屋王は同じ生年になりますが
その舎人親王は持統九年(695年)に浄広弐の位を授けられています
133日本@名無史さん:05/02/05 09:47:21
>>131
「長屋王の時代」×
「長屋王時代」○

戦後、長屋王研究の礎を築いた川崎氏の学説を知らないとは
まさに驚きというほかありません

長屋王を論じるに辺りもっとも基本的なものです
134ギター侍:05/02/05 14:26:00
長屋王は皇位継承権を主張し得る血筋だったとか言うじゃな〜い・・・

でも、カルちゃんが可愛いサララなんかにゃアウトオブ眼中ですから!
残念〜!!!!

「所詮は前太政大臣の長男」斬りっ (ノ_ _)ノコケッ
135日本@名無史さん:05/02/05 19:06:10

確かに、29才まで叙位されなかったとしたら、
文武天皇の存在は無視出来ないでしょう。
同じく天武の孫でありながら、王より年下ですので。
136日本@名無史さん:05/02/05 23:26:52
珂瑠と吉備はどちらが年上?
137日本@名無史さん:05/02/06 00:25:19
かるかも
138日本@名無史さん:05/02/06 01:12:47
川崎庸之、昭和29年、東京大学史料編纂所 教授就任
       昭和43年、定年退官

史料編纂所教授という経歴から分かる通り
川崎氏はテキストクリティーク(史料批判)に関してプロ中のプロ
そして「長屋王時代」の中でも54才説(懐風藻)にも触れながら
46才説を採っている
139日本@名無史さん:05/02/06 01:33:34
川崎氏が「長屋王時代」を発表したのは書いたのは1948年
その後、46歳説は確かに通説化したが
長屋王家木簡以降の研究では54歳説に立つ人が多くなってきている
(例えば前述の寺崎保広氏の他、森公章氏、大山誠一氏など)
それは、「史料批判」への認識が深化した結果でしょう

まあ、多くの学者が唱えてる説が正解じゃないけどね
多くの資料に載ってるのが正しくないのと同じでw
140日本@名無史さん:05/02/06 01:58:24
>>138
> 54才説(懐風藻)にも触れながら

川崎氏は懐風藻の記述に就いて、どうお考えなのだろうw
さすがに誤認じゃ済まされないと思うぞ、マジで。
141日本@名無史さん:05/02/06 02:27:02
>>139
その通り「長屋王時代」を川崎氏が書いたのは昭和23年
それ以降46才説が通説となり54才説は通説ではない

それと大山氏は高市皇子の年齢は公卿補任等の記述を
採用し46才説では、高市が31才の時に出来た子だから遅過ぎる
54才説で高市が23才の時と考える方が自然だと述べている

このように高市の年齢に関しては、公卿補任等の記述を信用する点は
史料批判としてはもっとも避けるべきものである

都合の良い史料のつまみ食いは許されない
142日本@名無史さん:05/02/06 02:32:24
>>140
川崎氏は「懐風藻について」という論文をお書きになっているから
それを読んでご自分で判断してください

『記紀万葉の世界』(川崎庸之著作集第1巻、東京大学出版会)の中に
その論文を所収されております
143日本@名無史さん:05/02/06 03:01:58
>>141
676年説はおよそ通説レベルになってる。
最近の中学・高校の教科書とか見てる? 
?付きかも知れんが、676年が採用されてたはず。
144日本@名無史さん:05/02/06 03:11:42
「懐風藻について」という論文に関して2点挙げると
(1)撰者については、淡海三船、石上宅嗣、葛井広成、各説を挙げて
   広成説に魅力を感じている
(2)撰者は長屋王の非命を悼む立場に立っている
というものである

川崎氏も懐風藻の撰者が長屋王に同情的な立場に居たという
見解を取られている

それでも懐風藻の没年齢54才は採用してない
145日本@名無史さん:05/02/06 03:14:51
>>143
各出版社の歴史辞典を見ると長屋王の生没年は(684年〜729年)か
あるいは(?〜729年)であって(676年〜729年)は見た事がない
146ギター侍:05/02/06 03:26:55
54才説が都合良い史料のつまみ食いだ、って言うじゃな〜い・・・

でも、46才説だって、都合の悪い懐風藻に目をつむっちゃってますから〜!
残念っ!!!!

「所詮は中世の俗説」斬りっ (ノ_ _)ノドテッ
147日本@名無史さん:05/02/06 09:39:04
>>145
2003年発行の山川出版社『詳説日本史』では長屋王(676?〜729)だよ
日本で一番使われてる日本史教科書なんだけどね
148日本@名無史さん:05/02/06 11:40:39
>>147
漏れもそれ使ってたわ
149日本@名無史さん:05/02/06 14:33:03
>>147
(676?〜729)とは弱気ですねw
(684〜729)の場合、?なんてありません
150日本@名無史さん:05/02/06 14:44:35
>>146
54才説の全てが史料のつまみ食いと言ってる訳じゃない
大山氏の場合、高市皇子の生年は公卿補任等の記述を
採用しているからつまみ食いと言ってる訳です

日本書紀には高市皇子の没年齢は記述されていないから
公卿補任、尊卑分脈、扶桑略紀の記述を否定する学者なら
高市皇子に関しては(?〜696)とすべきです

親の高市皇子の没年齢は、公卿補任等の記述を肯定します
子の長屋王の没年齢は、公卿補任等の記述を否定します
これではテキストクリティークが全然出来ていませんとしか
言えません
151日本@名無史さん:05/02/06 14:46:15
>>150
全然出来ていませんとしか言えません×
全然出来てないとしか言えません○
152日本@名無史さん:05/02/06 15:43:56
>>149
そら弱気だよ。『懐風藻』だけから断定するのは危険だから
でも(684〜729)とするよりはましだと判断されたんだろうね

俺はあくまで「学界の定説」を問題にしてるだけで
高市の年齢に関する大山説批判は妥当だと思うよ
でも、少なくとも現在の歴史学界では684年説はもはや定説ではなく
676年説を取る方向に傾きつつある
と言いたいだけ。これはわりと客観的事実だと思うけどね
それが正しいかどうかは繰り返すけど別問題
がんばって684年説を主張してちょうだい
153日本@名無史さん:05/02/06 16:29:18
テクストクリティークの一つの基準として
同時代性を重視した場合は「懐風藻」の54才説
複数の史料に記述されている点を重視した場合46才説

54才説の最大の弱点は29才まで長屋王が無位でいた点

天武・持統朝においては皇族であっても成人に達すれば
位を授けられる点で、これは皇太子であった草壁皇子も
例外ではなかった(天武十四年、浄広壱位直叙)
したがって長屋王が成人に達しながら無位であったとは
考えられない
154日本@名無史さん:05/02/06 16:54:20
青木和夫氏は長屋王と舎人親王の生年を同じ(676年)と記述している

「(前略)天武天皇の皇子のなかで、まだ生きていた舎人親王と
新田部親王であった、といっても前者は長屋王と同年、後者は王より
いくらか若い」(『長屋王と藤原氏』「奈良の都」日本の歴史3)

しかし舎人親王の没年齢は続日本紀には記述がなく
公卿補任と尊卑分脈に60才と記述されている

つまり青木氏も舎人親王に関しては公卿補任や尊卑分脈の記述を
に採用している点でテキストクリティークの基本から外れている

テキストクリティークによって公卿補任や尊卑分脈の記述を
否定したのであれば舎人親王に関しては生年不詳とするのが
学問に対する誠実性である

つまり舎人親王に関しては青木氏は(?年〜735年)とすべきである
155日本@名無史さん:05/02/06 17:14:22
>>154
なるほどね。確かに説得力あるわ
その論理でいけば、そもそもの>>90

>もし長屋王が676年生まれなら同じ年に生まれた舎人親王が
>持統9年(695年、20才)で浄広貮の位を授けられたのに
>長屋王が慶雲元年(704年、29才)まで無位だった事が疑問に思われます
>太政大臣高市皇子の息子が29才まで無位であったとは実に信じがたい事です

この辺も考慮しなくていいということだね
54歳説だと舎人親王の年齢は分からないんだから
舎人親王も授位された時に29歳だったかも知れないものね

墓穴掘ってない?
156日本@名無史さん:05/02/06 18:10:20
>>155
別に54才説の全てについて述べている訳ではありません
青木氏や大山氏ように長屋王の没年齢は公卿補任等の
記述を否定しながら高市皇子や舎人親王の没年齢の記述は
無批判に肯定してる人に対する批判であります

俺自身は公卿補任等の没年齢の記述を日本書紀や続日本紀と
矛盾がない限りは肯定していますから
高市皇子の生年は(654年)で舎人親王の生年は(676年)だと
認識しています

青木氏や大山氏のように自分のとって都合の良い場合にだけ
公卿補任や尊卑分脈の記述を採用するつもりはありません
157日本@名無史さん:05/02/06 18:13:39
つまり墓穴を自ら掘ったのは青木氏や大山氏の方ですね
158日本@名無史さん:05/02/06 23:48:06
まとめ

676年説の課題
長屋王が29歳まで無位であった理由。

684年説の課題
一級史料である懐風藻に54歳と記されている理由。
159日本@名無史さん:05/02/07 01:31:21
同時代性がある懐風藻ではありますがその記述に誤りもあります

川崎氏が「懐風藻について」で既に指摘されていますが
懐風藻で記述されている道慈伝では道慈の僧綱律師拝命を
養老二年(718年)と記述しています
「養老二年。帰来本国。帝嘉之。拝僧綱律師。」

しかし続日本紀では天平十六年(744年)十月に道慈が
没したという記述に注として<天平元年(729年)律師となった>
と記しています

つまり続日本紀と懐風藻では道慈が律師に任じられた年
およびに任じた天皇が違います

続日本紀 天平元年 聖武天皇
懐風藻 養老二年 元正天皇

俺は懐風藻の記述より正史である続日本紀の記述を正しいと
思いますから、先にも述べたように懐風藻の記述とは言え
誤りがあることを認識してもらいたいものです

あえて言えば懐風藻の記述にも疑いの視点を持てと言う事です
160日本@名無史さん:05/02/07 02:30:11
↑の指摘は的外れっつーか、余計やね。
「懐風藻に比べて、補任や分脈は史料価値が劣る」
という総合・相対的な判断が下されたまでであって、
誰も懐風藻に誤りが無いなんて言ってないし。
重箱の隅突付きゃ、正史にも間違いがあるでね。
例えば、聖徳太子の没年月日とかはどうかね?
書紀に621/2/5って書いてあるけど、もはや誰も信じておらんよ。
161日本@名無史さん:05/02/07 09:45:04
懐風藻にも誤りがある以上、懐風藻に記述されている長屋王の
没年齢に疑問を持つのは当然のことです

54才説の根拠は懐風藻の記述しかありませんから
162日本@名無史さん:05/02/07 09:49:25
それと懐風藻と続日本紀のテキストクリティークに
日本書紀の聖徳太子の没年齢を持ち出すことこそ
的外れだとご指摘しておきましょう
163日本@名無史さん:05/02/07 09:50:34
失礼、没年齢ではなくて没年月日でしたね
164日本@名無史さん:05/02/07 10:40:41
結局は>>158氏が指摘した課題が、46才説と54才説のそれぞれに
あると言う事に間違いはありません
165日本@名無史さん:05/02/07 11:07:43
>懐風藻にも誤りがある以上、懐風藻に記述されている長屋王の
>没年齢に疑問を持つのは当然のことです
この指摘は墓穴掘ったね。これを言い切ってしまうのだったら、
「補任や分脈にも誤りがある以上、それらに記述されている長屋王の
没年齢に疑問を持つのは当然のことです」とも言えてしまうだろw

>46才説と54才説のそれぞれにあると言う事に間違いはありません
補任や分脈に、懐風藻と同等の史料価値を認めろということかよw
46才説が逆算された可能性のあることは指摘されているけど、
54才説の根拠を覆せるような論及を未だに聞いたことがないね。
166日本@名無史さん:05/02/07 11:17:54
>長屋王が29歳まで無位であった理由。
寺崎保広氏の論考では、長屋王が29歳まで
無位であったという立場から、その歴史的背景や
その意義を考証しているから、読んでみると良い。
要は>>135氏が言ってるようなことなのだが。
167日本@名無史さん:05/02/07 11:53:58
>>166
天武・持統朝では皇位継承者も位階を持っていましたから
成人皇族が29才まで無位であったとは考えられません
168日本@名無史さん:05/02/07 11:57:56
>>165
戦後長屋王の研究は川崎庸之氏の「長屋王時代」が最初であり
そこでは川崎氏は懐風藻の54才説を承知しながら公卿補任等の
46才説を採用しました

それ以来、46才説が通説となった経緯があります
169日本@名無史さん:05/02/07 12:22:55
寺崎保広氏は親の高市皇子の生年に関しては「『扶桑略紀』が薨年43才と
するのを正しいとみて逆算すれば、六五四年(白雉五)となる。」(注1)

「父の高市は六五四年生まれであるから、長屋王が六七六年生まれと
すれば父が二十三歳、六八四年生まれとすれば三十一歳の時の子
となる。彼が高市の第一子であると考えれば、前者の方により
妥当性がある」(注2)

寺崎氏は親の高市皇子の没年齢に関しては扶桑略紀の記述を肯定して
子の長屋王の没年齢に関しては扶桑略紀の記述を否定しています

同じ史料に対して、しかも親子の没年齢に関して、自分の説に都合の
良い記述だけ採用するのは、テキストクリティークの基本から外れた
史料操作であり、容認することは出来ません

注1「長屋王」(人物叢書、吉川弘文館)
注2 同 上
170日本@名無史さん:05/02/07 12:56:16
それと寺崎氏は長屋王の特殊性を王の年齢から考察していますが
その点にも疑問があります

「1正四位上初叙された点 2参議・中納言を経ずに大納言に任じられた点
 3食封の増額と封租の全給が親王とともに認められた点」(注1)

「私はこれらを解くカギは長屋王の年齢にあるのではないか、
と考えている」(注2)

長屋王の特殊性は年齢ではなく血縁関係に解くカギがあると考えられます

1太政大臣 後の皇子尊 高市皇子
(尊の称号は天武の皇子では草壁と高市だけの称号)と
天智天皇の娘である御名部皇女の息子である点
(長屋王は天武・天智両系統の孫)

2母の御名部皇女が元明天皇の姉妹である点

3妻の吉備内親王が草壁皇太子と元明天皇の娘で
文武天皇、元正天皇の姉妹である点

以上の血縁関係が長屋王が若くして昇進していった最大の要素であり
その特殊性を支えたものであると言えます

注1「長屋王」(人物叢書、吉川弘文館)
注2 同 上
171日本@名無史さん:05/02/07 14:04:52
>>167
令制以前の皇太子=皇位継承者ではないぞ。
それに当時は、無位無官の成人皇族なぞゾロゾロいましたが?
>>168
54才説が通説となりつつあることは否定できない。
>>169
傍証として、試算したに過ぎない。史料批判もせずに、
後世の史料のみで31才の子とするよりは妥当だと思ったんだろ。
>>170
1→704年の蔭叙は大宝令施行後の初例であるから、
  血縁関係のみでの説明は困難。おそらくは年齢との複合要因。
2、3→俺もこれは妥当であると思う。
寺崎氏の論及はこれだけに留まらないが。
172日本@名無史さん:05/02/07 15:07:58
>>171
天武十四年の位階制度改正によって天皇の皇子はそれまで
位階制度の対象外でしたが対象者となっております
したがって天武十四年以降皇子たちは成人に達すると直叙されて
いきました
173日本@名無史さん:05/02/07 15:12:59
>>171
「父の高市は六五四年生まれであるから(後略)」と断定されてますがw

寺崎氏が高市皇子の没年齢に関しては扶桑略紀の記述を信用する
根拠を示さない限り、史料批判としては誤りであると言えます
174日本@名無史さん:05/02/07 15:17:12
>令制以前の皇太子=皇位継承者ではないぞ。

少なくとも天武朝においては皇太子=皇位継承者です
ただし、大津皇子の存在感が大きく、草壁皇太子を
脅かす存在であった事は否定できませんが
175日本@名無史さん:05/02/07 15:24:28
54才説論者の中で、青木氏、大山氏、寺崎氏の共通点は
長屋王の没年齢に関しては、公卿補任や扶桑略紀の記述を否定するのに
高市皇子や舎人親王の没年齢の記述に関しては、肯定している点にあります

お三方には失礼ですが史料批判としては初歩的な誤りと言わざる得ません
176日本@名無史さん:05/02/13 20:17:42
>>90
>太政大臣高市皇子の息子が29才まで無位であったとは実に信じがたい事です

では、知太政官事・舎人親王の息子でありながら、皇太子に決まるまで任官の記録のない大炊王(淳仁天皇)は?
177日本@名無史さん:05/02/13 23:16:40
長屋王の母親は御名部皇女(天智皇女)
大炊王の母親は当麻山背(地方豪族の娘)

母親の身分に天と地の差があるからかもね
178日本@名無史さん:05/02/13 23:31:13
寺崎氏の史料批判矛盾

長屋王の没年齢に関しては「公卿補任」の記述を否定するのに
長屋王の母親に関しては、「むしろ『公卿補任』の和銅二年条の
『長屋王母、近江天皇女』の方を信用し、この天智の娘を御名部内親王の
ことと見るべきであろう。」(「人物叢書『長屋王』」吉川弘文館)

長屋王の没年齢記述は信用しないのに長屋王の母親に関しては
公卿補任の記述を信用する寺崎氏は、もう一度史料批判について
勉強し直してください

自分にとって都合の良い部分だけ、史料をつまみ食いするのは
歴史学者としては失格者と言わざる得ません
179日本@名無史さん:05/02/13 23:38:43
青木氏、寺崎氏、大山氏ら54才説を主張する学者は史料批判に
出鱈目が多いのが特徴

歴史学の基礎であるテキストクリティークで出鱈目を犯す学者の説など
それこそ出鱈目としか思えません
180日本@名無史さん:05/02/14 00:33:22
>>176
天武の皇子で尊の称号が「日本書紀」に記述されてるのは
草壁皇子と高市皇子だけ、舎人皇子とはそもそも格が違う存在

持統十年、七月十日 後(高市)皇子尊、薨。
181日本@名無史さん:05/02/14 11:46:44
>>178-179
何か人格攻撃になっているような気がするが。
あなたのお説は繰り返しカキコされていいたいことはよく分かったので
これ以上は青木氏、寺崎氏、大山氏に直接手紙なりメールなり電話なりで
ご指摘されては如何でしょうか。

運が良ければ3氏から反論なり同意の意見なり聞ける かも 知れませんし。
182日本@名無史さん:05/02/14 20:42:47
人格攻撃?
テキストクリティークの基本から外れている点を指摘しているだけです
長屋王の記述に関して、公卿補任 和銅ニ年条の「近江天皇女」の部分は
引用して「年二十七才」を引用しないのは史料批判の基本から逸脱しています
同一史料の中の、同一人物の記述に関して、恣意的に引用に行なう事が
果たしてテキストクリティークと呼べるものなのでしょうか?
183日本@名無史さん:05/02/15 01:00:05
和銅二年 酉己

(略)

非参議 従三位 長屋王 十一月一日叙(年二十七)。元正四位上。
                 十一月任宮内卿。
           天武天皇孫。太政大臣一品高市親王第一(ニイ)子。
           “母近江天皇女”

「新訂増補 国史大系53 『公卿補任第一篇』」吉川弘文館」

寺崎保広氏が引用したのは“”の部分
長屋王の記述に関して、公卿補任の史料価値を否定しておきながら
自分の論考にとって都合が良いところだけは引用する態度には
史料に対する真摯な姿勢が欠けていると言えます
184日本@名無史さん:05/02/15 10:58:29
>これ以上は青木氏、寺崎氏、大山氏に直接手紙なりメールなり電話なりで
>ご指摘されては如何でしょうか。

>運が良ければ3氏から反論なり同意の意見なり聞ける かも 知れませんし。

ここの件については正論だな。
185日本@名無史さん:05/02/15 15:47:28
青木氏、大山氏、寺崎氏は、公卿補任や扶桑略紀は史料として
信用できないと断じ、懐風藻に記述されている54才を長屋王の
没年齢としてる訳です

その信用できないはずの公卿補任や扶桑略紀の記述に関して
高市皇子や舎人皇子の没年齢は一転して信用し引用する

親の没年齢は信用できて子の没年齢が信用できないとは
典型的な史料に対するダブルスタンダート(二重基準)であり
史料批判の根本から外れた行為であります
186日本@名無史さん:05/02/15 16:19:14
逆に懐風藻が信用出来ない理由は?
187日本@名無史さん:05/02/15 17:17:33
(1)長屋王の没年齢に関して54才と記述しているから
(2)没年齢46才は複数の史料に記述されているから
(3)父親の高市皇子の没年齢に関して、公卿補任、扶桑略紀、
  尊卑分脈の記述を信用しているから、息子の長屋王の没年齢に
  関しても、父の没年齢同様に信用できるから
(4)54才説だと長屋王は29才まで無位で放置された事になるから
188日本@名無史さん:05/02/15 17:41:13
俺としては父親の高市皇子の没年齢に関しては
公卿補任、扶桑略紀、尊卑分脈の記述を信用してる癖に
息子の長屋王の没年齢に関しては公卿補任等の記述を否定する
寺崎氏保広氏の史料に対する態度に疑問と不信を感じます
189日本@名無史さん:05/02/15 18:43:12
同じ事のループでもうそろそろお腹いっぱいっす
お説の程は分かったから
HP立ち上げるとか
チラシの裏に(AA略
190日本@名無史さん:05/02/15 20:39:09
漏れは素人で「テキストクリティーク」なるものはトンと分からぬが、
昔の分量の大きい史料なら、信頼のおける物でもそれなりに誤った情報が混ざっているのではないか?
その何たらとかいう学者達は『公卿補任』、『扶桑略紀』、『尊卑分脈』を基本的に信頼しつつも、
誤っていると思われる部分を『懐風藻』を根拠に修正しているだけではないのか?
高市皇子の没年齢は特に否定できるような史料がないから、比較的信用できる三書に従っているのではないか?
特に問題があるとは思えんが。
テキストクリティークを強く主張しておられる方の主張を受け入れると、古代の殆どの史料は無価値なものになるそうな悪寒がする。



>懐風藻氏
古代は漢詩といえば教養の最たるもの。『公卿補任』、『扶桑略紀』、『尊卑分脈』といった書物を編纂するような人物は
当然教養人であり、『懐風藻』くらい読んでいたのではないか?読んだ上で『懐風藻』の長屋王没年を否定したと考えるのが
素直な解釈だと思うが。




っていうか、カイフウソウって当時メジャーだったの?
まあメジャーだったんだろうな。
教科書レベルの知識しかないから知らんけど。
191日本@名無史さん:05/02/15 21:15:42
テキストクリティークを厳密に行なう学者が、公卿補任等の記述を否定する場合
日本書紀や続日本紀で没年齢が分からない高市皇子や舎人親王に関しては
没年齢不詳とします

テキストクリティークは歴史学の基本であり、それを無視しては歴史は
語れません
192日本@名無史さん:05/02/15 21:23:58
父親の高市皇子の没年齢の記述が正しければ
息子の長屋王の没年齢の記述も正しい

父親の高市皇子の没年齢の記述が誤りなら
息子の長屋王の没年齢の記述も誤り
193日本@名無史さん:05/02/15 23:11:16
3氏への批判についてはもっともだと思うんだけど
>>192はいきすぎ
そもそも、全体的に言えるんだけど
史料ってそんなに整合的なもんじゃないよ
現代人の理屈で割り切れると思ったら大間違い
現存してる史料が全てなわけでもないし
(懐風藻と同じ記述の散逸史料がいっぱいあった可能性だってある)
194日本@名無史さん:05/02/15 23:34:22
確かに散逸した現存しない史料があったことは事実だと考えられます

高市皇子の没年齢が、公卿補任に(年四十二。或四十三)と記述されたり
舎人親王の没年齢が(年六十)と記述されているのは
現在は散逸してしまった史料に基づいると推定可能ですから

そして長屋王の「謀反被誅(年四十六)」の記述も、その散逸した史料に
基づいたものと推定することもまた可能です
195日本@名無史さん:05/02/19 14:47:33
>>38-39
元明が長屋王と吉備の子供は天智の曾孫ではなく自分の孫王として待遇させたんじゃなかったっけ?
196日本@名無史さん:05/02/19 17:44:02
215 名前:日本@名無史さん 投稿日:05/02/14 00:52:31
>>212
霊亀元年、二月二十五日に元明天皇が吉備皇女の子女を
皇孫として扱うという勅命を出してますよ

つまり元明の娘である吉備の子女だから皇孫ということですね

しかし律令は本来男系ですから、吉備の子女が皇孫として扱われるのは
超法規的措置と言うことです
197日本@名無史さん:05/02/19 17:57:12
皇孫待遇を受けた子供達の父である長屋王も私的には親王待遇
公的には王であるから、太政官のメンバーとして政治に参画し
準親王的存在だから、35才で参議、中納言を経ずに大納言に
任官されたと思われ
198日本@名無史さん:05/02/24 03:43:52
「帝王編年記」も長屋王の没年齢は46才と記述されていました

「公卿補任」「扶桑略紀」「尊卑分脈」「帝王編年記」「一代要記」

如何に「懐風藻」に同時代性があろうと、これだけ複数の史料が
没年齢を46才と記述している点は重視されるべきものでしょう
199日本@名無史さん:05/02/24 18:23:20
むしろ同時代性は重要だろう。
いくら史料があってもそれが同じ原資料からの2次・3次史料だったら、数としてはいくつあっても実際には1つでしかない。
「懐風藻」の説を否定するか46歳を享年とする同時代の資料が見つからなければいくら史料があっても意味がない。
(時代こそ違うが、近年同時代資料の再評価によって従来の2次史料による歴代の系譜が全然あてにならないことが発覚した某安房里見氏の例もあるわけだし…。)
200日本@名無史さん:05/02/24 22:45:23
ずっと議論が続いてて読んでても訳判らなく良くなってきた気がしますが、
誰か簡単に教えて下さい。

56歳説だと、政権有力者の高市皇子の長子が29歳まで無位無官だった理由は?
って話だったでしょ?

46歳説だと、どの辺りの説明の整合性が問題となっているのですか?
201日本@名無史さん:05/02/25 00:21:02
むしろ「懐風藻」の記述を平安以降の史書が採用しない点を重視したい。

「公卿補任」等は「日本書紀」や「続日本紀」では分からない
高市皇子や舎人親王の没年齢も記述している。

つまり散逸した史料の中に、高市皇子、長屋王、舎人親王の
没年齢を記述した物があり、それに基づいて「公卿補任」の編者は
高市等の没年齢を記述したと思われる。
202日本@名無史さん:05/02/25 00:31:03
>>200
46才説に関しては説明において整合性が問題になる事はありません。
父親の高市皇子の没年齢と息子長屋王の没年齢は、43才と46才で
各史料とも一致しているからです。

親の没年齢を信用すれば、子の没年齢に関してもその史料を
信用することに何ら問題はありませんから。
203日本@名無史さん:05/02/25 00:35:55
諸王の初叙位年

長屋王 慶雲元年(704) 正四位上 21才 高市皇子の子
大市王            従四位下 ?才
手嶋王            従四位下 ?才
気多王            従四位下 ?才
夜須王            従四位下 ?才
倭王              従四位下 ?才
宇太王            従四位下 ?才
成会王            従四位下 ?才

安八万王 慶雲二年(705) 従四位下 ?才
山前王              従四位下 ?才 忍壁皇子の子
丹波王              従五位下 ?才
阿刀王              従五位下 ?才

直見王 慶雲四年(707) 従五位下 ?才

村王 和銅元年(708) 従五位下 ?才

門部王 和銅三年(710) 従五位下 ?才 高市皇子の子(次男?)
葛城王             従五位下 27才 後の橘諸兄
鈴鹿王             従四位下 ?才 高市皇子の子(三男?)
六人部王            従四位下 ?才
204日本@名無史さん:05/02/25 04:46:43
>>203

門部王 和銅三年(710) 従五位下 ?才 高市皇子の子(次男?)


門部王 和銅三年(710) 従五位下 ?才 長親王の孫 『皇胤紹運録』
205日本@名無史さん:05/02/25 13:03:06
「懐風藻」があてにならないとすれば、大友皇子立太子も否定されるから「日本書紀」の大海人皇太弟も立証されるのですか?
206日本@名無史さん:05/02/25 17:31:40
>>205
「懐風藻」の中の長屋王の没年齢の記述を私は信用しない
大友皇子に関して言えば「日本書紀」はその即位を認めていない
また「扶桑略紀」「公卿補任」「帝王編年記」も、大友皇子の即位を認めていない
したがって私も大友皇子の即位は否定します
207日本@名無史さん:05/02/25 17:41:22
大友皇子は太政大臣であって皇太子ではありません
したがって「懐風藻」の記述は誤りだと言えます
208日本@名無史さん:05/02/25 22:27:33
いや、だから
>大友皇子立太子も否定されるから「日本書紀」の大海人皇太弟も立証されるのですか?
と言う部分についてはどうなのかと。
209日本@名無史さん:05/02/26 00:35:33
「懐風藻」の記述に関係なく、「日本書紀」に記述されている
大海人皇太弟は事実でしょう

だいたい史料価値は、「正史」>個人編纂の「漢詩文集」ですから

それと卑母の子である大友皇子が皇太子になれたのなら
同じく卑母の子である高市皇子も皇太子になれました
210日本@名無史さん:05/02/26 01:55:33
うそーん

正史って大本営発表だよ
そういうつもりで懐風藻疑ってたのか
そら話があわんわ
211日本@名無史さん:05/02/26 04:05:54
「日本書紀」より「懐風藻」の記述を信用する人とは
いくら議論しても平行線でしょうね

「日本書紀」の記述では草壁皇子には尊の敬称がつくし
高市皇子にも命や尊の敬称が付きますが、大友皇子には付きません

その大友皇子を皇太子と記述している「懐風藻」の史料価値は
低いと考えています

したがって、長屋王の没年齢の記述も信用できません

大友皇子と高市皇子は壬申の乱では敵対関係にありました
しかも大友は壬申の敗者で高市は壬申の英雄

大友贔屓の「懐風藻」が敵であった、高市の息子である長屋王に関して
含むところがあったとしても不思議ではありませんから
212日本@名無史さん:05/02/26 04:13:07
憎い高市皇子の息子である、長屋王が29才まで無位であった事にしたい
「懐風藻」編纂者の捏造でしょう>長屋王の没年齢54才という記述は
213日本@名無史さん:05/02/26 04:16:02
慶雲元年(704)

長屋王 正四位上 21才 高市皇子の子(長男)正ニ位で没 46才
大市王 従四位下 ?才
手嶋王 従四位下 ?才
気多王 従四位下 ?才
夜須王 従四位下 ?才
倭王   従四位下 ?才
宇太王 従四位下 ?才
成会王 従四位下 ?才

慶雲二年(705) 

安八万王 従四位下 ?才 正四位下で没
山前王   従四位下 ?才 忍壁皇子の子
丹波王   従五位下 ?才
阿刀王   従五位下 ?才

慶雲四年(707) 

直見王 従五位下 ?才

和銅元年(708) 

村王 従五位下 ?才

和銅三年(710) 

門部王    従五位下 ?才 
葛城王    従五位下 27才 後の橘諸兄 正一位で没 74才
鈴鹿王    従四位下 ?才 高市皇子の子(三男)『愚管抄』従二位で没
六人部王  従四位下 ?才 正四位上で没
214日本@名無史さん:05/02/26 04:17:02
和銅五年(712)

上道王  従四位下 ?才 穂積親王の子(次男?)
大野王  従四位下 ?才
額田部王 従五位下 ?才
壱志王  従五位下 ?才
田中王  従五位下 ?才


和銅六年(713)

門部王 従四位下 ?才 高市皇子の子(次男?)
高安王 従五位下 ?才 後の大原高安 正四位下で没

和銅七年(714)

河内王 従四位下 ?才
桜井王 従五位下
大伴王 従五位下
佐為王 従五位下 ?才 後の橘佐為 正四位下で没

養老元年(717)

酒部王 従四位下 ?才
境部王 従四位下 ?才 穂積親王の子(長男?)
智努王 従四位下 25才 後の文室浄三 長親王の子(長男)従二位で没 78才
御原王 従四位下 ?才 舎人親王の子(長男)正三位で没
伊部王 従五位下 ?才 

養老二年(718)

大井王 従五位下 ?才
215日本@名無史さん:05/02/26 04:19:12
養老七年(723)

栗栖王  従四位下 ?才 長親王の子 (次男)
三島王  従四位下 ?才 舎人親王の子(次男)
春日王  従四位下 ?才 志貴親王の子 正四位下で没
志努太王 従五位下 ?才

神亀元年(724)

高田王 従四位下 ?才 志貴親王の子?
膳夫王 従四位下 ?才 長屋王の子(元明天皇の孫)

神亀三年(726)

石川王 従四位下 ?才

神亀四年(727)

船王  従四位下 ?才 舎人親王の子(三男)親王となりニ品で没
池辺王 従五位下 ?才 葛野王の子 (大友皇子の孫)
216日本@名無史さん:05/02/26 04:19:52
天平元年(729)

阿紀王 従五位下 ?才

天平四年(732)

小治田王 従五位下 ?才

天平五年(733)

塩焼王 従四位下 19才 後の氷上塩焼 新田部親王の子(長男)従三位で没 50才
217日本@名無史さん:05/02/26 04:21:26
天平六年(734)

小田王 従五位下
野中王 従五位下

天平七年(734)

長田王 従四位下 ?才 長親王の子?
池田王 従四位下 ?才 舎人親王の子(四男)親王となり三品で没

天平九年(737)

白壁王 従四位下 29才 志貴親王の子(四男?)後の光仁天皇 没 73才
道祖王 従四位下 ?才 新田部親王の子(次男)後に皇太子→廃太子
安宿王 従四位下 ?才 長屋王の子(藤原不比等の孫)正四位下で没
黄文王 従四位下 ?才 長屋王の子(藤原不比等の孫)従四位上で没
倉橋王 従五位下 ?才
明石王 従五位下 ?才
宇治王 従五位下 ?才
神前王 従五位下 ?才
久勢王 従五位下 ?才
河内王 従五位下 ?才
尾張王 従五位下 ?才
古市王 従五位下 ?才
大井王 従五位下 ?才
三使王 従五位下 ?才
八釣王 従五位下 ?才
218日本@名無史さん:05/02/26 04:22:55
天平十年(738)

大市王 従四位下 35才 後の文室大市 長親王の子(三男)正ニ位で没 77才
茨田王 従五位下 ?才

天平十二年(740)

山背王 従四位下 ?才 後の藤原弟貞 長屋王の子(藤原不比等孫)従三位で没
219日本@名無史さん:05/02/26 04:26:25
>>212
これは少し筆が滑ったかな
220日本@名無史さん:05/02/26 10:55:01
>>208
長屋王54歳説と同様、大友立太子説も「懐風藻」のみの説だからだろう?
221日本@名無史さん:05/02/26 12:56:25
大友皇子が即位したという史書もあります。
その代表的な史書は「大日本史」
「日本書紀」と「大日本史」
果たして史料価値はどちらの方が高いのでしょう。
222日本@名無史さん:05/02/26 14:08:49
確かに「日本書紀」は政治的な改竄込みだろうが、だからと言って更に千年後の「大日本史」の方が正確だというのは暴論だろう。
223日本@名無史さん:05/02/26 14:20:47
史料価値に関して「日本書紀」>「大日本史」は相場

そして「日本書紀」と「懐風藻」ではどちらの史料価値が
高いかの価値判断は人それぞれ。

俺は「日本書紀>「懐風藻」という立場です。
224日本@名無史さん:05/02/27 02:42:38
「公卿補任」大友皇子は太政大臣、長屋王の没年齢は46才
「懐風藻」大友皇子は皇太子、長屋王の没年齢は54才

青木、大山、寺崎氏ら長屋王54才説の人達は
大友皇子についても公卿補任の記述を否定して
皇太子だと思ってるのかも
225日本@名無史さん:05/02/27 12:40:26
日本書紀が勝利者天武天皇とその周辺によって皇位簒奪を正当化するために改竄されたと考えるなら、懐風藻が正しくないと困るだろうな。
226日本@名無史さん:05/02/27 13:08:32
長屋王54才説論者は、天武天皇を皇位簒奪者だと思ってるのかな?
227日本@名無史さん:05/02/27 17:11:23
>>226
天武の皇位簒奪については懐風藻以前の問題じゃないか?
それこそ大友が即位したかどうかの議論以来のものじゃないの?
228日本@名無史さん:05/02/27 21:12:56
要は、
・大友皇子立太子
・長屋王享年54歳
は「懐風藻」独自の記述であって、逆にこれ以外に証拠になるものはない。
ということ。
229日本@名無史さん:05/02/27 21:20:29
懐風藻は淡海御船だっけ、編者。
大友皇子の子供だよな。確か。
230日本@名無史さん:05/02/27 22:23:06
>>229
大友皇子の曾孫
大友皇子−葛野王−池辺王−淡海三船

「懐風藻」編纂者候補の一人

壬申の乱で大友皇子が勝てば三船も天皇になれた訳だから
天武天皇と天武軍の最高司令官だった高市皇子に恨みがあるのかも

そういう人物が編纂した可能性がある「懐風藻」に
長屋王の没年齢が記述されていても信用することは出来ない
231日本@名無史さん:05/02/27 22:43:59
「懐風藻」は大津皇子は天武天皇の長子と記述してるけど
これは明らかに誤り

天武天皇の長子は高市皇子で嫡子は草壁皇子

こんな基本的な史実を間違える書物が長屋王の没年齢を
54才と記述しても信用できない
232日本@名無史さん:05/02/27 23:02:06
長屋王の没年齢を54才と記述してるのは「懐風藻」だけ
しかも「懐風藻」は大友皇子を皇太子と記述したり
大津皇子を天武天皇の長子と記述してる書物

これで「懐風藻」の同時代性という優位性は崩れた
同時代性の優位言いたいのなら「懐風藻」が
大津皇子を天武天皇の長子とした点を説明して欲しい

逆に長屋王をの没年齢を46才と記述しているのは
「公卿補任」「扶桑略紀」「尊卑分脈」「帝王編年記」「一代要記」

どう考えても54才説より46才説の方が正しい
233日本@名無史さん:05/02/28 18:35:12
大津皇子 四首
皇子著。浄御原帝(天武天皇)之長子也。
(「日本古典文学大系『懐風藻』」岩波書店)

これで「懐風藻」の史料価値は高くないことが確定
234日本@名無史さん:05/02/28 18:37:23
>>233
皇子著。×
皇子者。○
235日本@名無史さん:05/03/02 01:21:50
天武天皇諸皇子の誕生順

(通説)

高市皇子(654〜696)
草壁皇子(662〜689)
大津皇子(663〜686)
忍壁皇子(?〜705)
磯城皇子(生没年不詳)
穂積皇子(?〜715)
長皇子(?〜715)
弓削皇子(?〜699)
舎人皇子(676〜735)
新田部皇子(?〜735)
236日本@名無史さん:05/03/02 01:25:10
天武天皇諸皇子の誕生順

(青木和夫説)

高市皇子
草壁皇子
大津皇子
忍壁皇子
磯城皇子
舎人皇子
長皇子
穂積皇子
弓削皇子
新田部皇子
237日本@名無史さん:05/03/02 01:28:36
天武天皇諸皇子の誕生順

(直木孝次郎説)

高市皇子
忍壁皇子
草壁皇子
大津皇子
磯城皇子
穂積皇子
長皇子
弓削皇子
舎人皇子
新田部皇子
238日本@名無史さん:05/03/02 01:29:44
天武天皇諸皇子の誕生順

(懐風藻説)

大津皇子
高市皇子?
草壁皇子?
239日本@名無史さん:05/03/02 01:51:16
天武天皇諸皇子の誕生順

(日本書紀)

草壁皇子
大津皇子
長皇子
弓削皇子
舎人皇子
新田部皇子
穂積皇子
高市皇子
忍壁皇子
磯城皇子
240日本@名無史さん:05/03/02 01:54:59
天武天皇諸皇子の誕生順

(続日本紀)

草壁皇子
大津皇子
舎人皇子
長皇子
穂積皇子
弓削皇子
新田部皇子
高市皇子
忍壁皇子
磯城皇子
241日本@名無史さん:05/03/02 02:07:34
>>235
(通説) ×
(初叙年等からの推定)○
242日本@名無史さん:05/03/03 01:32:10
奈良文化財研究所のコラムにワロタ

http://www.nabunken.go.jp/column/back_number.html

■作寶楼の由来       
作宝楼というのは、奈良時代の皇族宰相として有名な
長屋王(687〜729年)の屋敷につくられた二階建て建物であり、
また屋敷の雅号だったかもしれません。

長屋王の生年が687年というのは新説ですなw
676年説と684年説の他に、687年説が登場とはね
687年生まれなら長屋王は19才で正四位上を授けられたことに
243日本@名無史さん:05/03/03 01:39:48
奈文研のコラムに書かれた、長屋王の生年687年が
どのような史料に基づいているのか分からないけど
少なくとも「懐風藻」の676年説を否定してる点では歓迎できる

奈文研にまで否定された676年説はもはや哀れとしかw
244日本@名無史さん:05/03/03 12:23:43
>>243
それは54歳説と一緒に46歳説も一緒に否定しているのだが…。
245日本@名無史さん:05/03/03 13:18:16
多分、687年って684年の誤植だろう
687年なんてどの史料にも無いものだしw
まあ29才まで長屋王が無位だったなんて
奈文研でも思ってない事だけは確定したけど
246日本@名無史さん:05/03/03 14:02:33
寺崎保広氏が哀れですね
自分の元職場だった奈良文化財研究所に54才説を否定されてw
247日本@名無史さん:05/03/03 15:02:26
>>254
じゃあ、奈文研に指摘してやれよ。
248日本@名無史さん:05/03/03 15:03:47
54才説の根拠は「懐風藻」の記述だけ

その「懐風藻」が大津皇子を天武天皇の
長子と記述している為に史料価値が大暴落

従って54才説は完全崩壊
249日本@名無史さん:05/03/03 15:05:47
>>244
奈文研は長屋王の没年齢に関して
43歳説という新説を打ち出したのかな?
250日本@名無史さん:05/03/03 15:10:50
逆に46才説の根拠は
「公卿補任」「扶桑略紀」「尊卑分脈」「帝王編年記」「一代要記」等の
の記述

根拠が複数の史料に基づいているから
一つの史料の価値が暴落しても簡単には崩壊しない
251日本@名無史さん:05/03/03 15:46:28
>「公卿補任」「扶桑略紀」「尊卑分脈」「帝王編年記」「一代要記」
みんな成立が奈良時代からはるか後の史料ばっかりじゃん
252日本@名無史さん:05/03/03 16:05:36
54歳説の完敗ってことでOK?
253日本@名無史さん:05/03/03 17:22:04
大津皇子を天武天皇の長子と記述している「懐風藻」の史料価値は低い

「懐風藻」以外に大津皇子を天武天皇の長子と記述してる史料は無い

従って「懐風藻」以外に長屋王の没年齢を54才と記述している史料が無い以上
54才説は完敗です

54才説論者の敗因は「懐風藻」自体をテキストクリティークしなかった点ですね
254日本@名無史さん:05/03/03 17:27:08
>>251
大津皇子を天武天皇の長子と記述してる「懐風藻」より遥かにマシです
天武天皇の長子は高市皇子、そして嫡子は草壁皇子ですからw
大津皇子が天武の長子なんて史料は「懐風藻」以外に見たことないww
255日本@名無史さん:05/03/03 18:17:13
>>254
この時代まだ嫡子制ってはっきりしてなかったんじゃないの?
だから「吉野の制盟」なるイベントを行う必要があったんでは?
256日本@名無史さん:05/03/03 20:22:02
>>255
確かに天武朝において、嫡子制度が定着していたかどうかは
まだ議論の余地がありますが、天武天皇の長子は高市皇子であり
大津皇子が長子でない事は史実です

その史実を無視して大津皇子を天武天皇の長子と記述した
「懐風藻」の史料価値は著しく低いと言えます

従って長屋王の没年齢54才の記述も全然信用できません
257日本@名無史さん:05/03/03 21:01:35
織田信雄より、織田信孝が数日早く生まれたのに、母親の身分差から
信雄次男、信孝三男とされた例がありますよね。

高市皇子は庶長子、母親の身分的には誕生時は大津=草壁でしょうから先に大津が誕生し長子扱い、
その次に草壁が誕生し、次男扱い、
その後、持統天皇の勢力が増し、大津が処刑されたあとで、草壁嫡男、大津次男に
公式記録上変更されたってのはどう?
もしくは本当に大津>高市の順で誕生しているとか。(これはさすがに無理か)
これなら一応「懐風藻」の記述とは矛盾しないけど。

小説的過ぎるとは思うけど。

258日本@名無史さん:05/03/03 21:56:17
懐風藻の記述の仕方

大友皇子
皇太子者。淡海帝(天智天皇)之長子也。

河島皇子
皇子者。淡海帝(天智天皇)之第二子也。

大津皇子
皇子者。浄御原帝(天武天皇)之長子也。

大友皇子は采女の子ですから、年齢順でなければ
長子と記述される事はあり得ません
夭折した建皇子は省いたとしても、母の身分で記述されるなら
川島皇子の方が長子と記述されるはずです

同じロジック(年齢順の記述)は高市皇子にも適応出来ますが
ところが不思議な事に、高市を無視して大津皇子が
長子と記述されています

つまり懐風藻の記述はロジックに一貫性がない
出鱈目な史料という事になります

そんな史料に記述された、長屋王の没年齢54才は信用できません
本当に54才論者は懐風藻に関して、テキストクリティーク(史料批判)を
怠っていたとしか思えませんね
259日本@名無史さん:05/03/03 22:38:31
そんな常識的なロジックを間違っている点が逆に
何らかの事実を隠しているとも考えられませんか?

同時代人にすぐ指摘されて訂正しそうなものですが。

260日本@名無史さん:05/03/03 23:10:04
大友皇子に関しては年齢順で長子と記述して
大津皇子に関しては母の身分順で記述してる点に
何らかの事実と言われても…w

それに母の身分順でも草壁皇子は天智元年(662)生まれで
大津皇子は天智ニ年(663)生まれですから、大津が長子という
史実はありません

史実誤認あるいは捏造している「懐風藻」に
長屋王の没年齢が54才と記述されていても
信用する事は出来ません
261日本@名無史さん:05/03/04 00:46:38
54才説論者の根拠は「懐風藻」の同時代性だけ
その同時代性も大津皇子の記述における史実誤認で損なわれた

もう54才説は完全に敗北でしょうw
262日本@名無史さん:05/03/04 13:02:19
長屋王の年齢の話ばかり延々と続いてるけど
長屋王の変での横死以外にこの人何かネタあるんですか?
最後の死に方が横死だったばかりに実態以上に同情されてるように思える。
実際は位が高くていけすかん性格だったかも知れないのに。
263日本@名無史さん:05/03/04 15:19:31
長屋王の性格を知りたいなら「日本霊異記」を読むと良い
規律を重んじる反面、融通性には欠ける性格の持ち主
まあ「日本霊異記」は史料としてはかなり怪しげだけどw
264日本@名無史さん:05/03/04 18:32:33
父親の高市皇子は壬申戦争における天武軍の最高司令官で

天武「近江の朝廷には、左右大臣や知略の優れた群臣がいて
    ともに謀るできるが、自分には事を謀る者がいない
    年若い子供が居るだけである。」
高市、腕まくりの上に剣を握って
   「近江に群臣がいようとも、我君の霊威に逆らえることなど
    出来ません。
    我君が一人で居られても、高市が神々の霊に頼り、我君の
    勅命受け将軍達を率いて戦えば、敵を討ち破れることでしょう」

と言う、最高にカッコイイエピソードがあるけどね
265日本@名無史さん:05/03/04 21:15:33
>大友皇子に関しては年齢順で長子と記述して
>大津皇子に関しては母の身分順で記述してる点に
>何らかの事実と言われても…w

おや?大友と大津では兄弟の記述順が違うの?何故です?「懐風藻」が資料的価値がないから?

>それに母の身分順でも草壁皇子は天智元年(662)生まれで
>大津皇子は天智ニ年(663)生まれですから、大津が長子という
>史実はありません

その史実は持統天皇後の書物に書いてある「事実」でしょ?
天皇の命令で改竄されてた可能性は0なの?

一部史実誤認している資料が全て認められないなら、信用できる書物なんて全くないと思うけど。
266日本@名無史さん:05/03/04 22:20:47
>>265
私は「懐風藻」の記述より「日本書紀」の記述を
信用していますから

大友皇子が皇太子だとか大津皇子が長子とか
「懐風藻」は捏造が多くて困りますw

長屋王の没年齢も「懐風藻」お得意の捏造でしょうw
267日本@名無史さん:05/03/04 22:30:22
>一部史実誤認している資料が全て認められないなら、
>信用できる書物なんて全くないと思うけど。

それなら複数の史料に立脚して学説を構築すれば良いだけのこと
「懐風藻」という単一史料だけを振りかざして54才説を強弁する
学者達には呆れ果てます

46才説
「公卿補任」「扶桑略紀」「尊卑分脈」「帝王編年記」「一代要記」等

54才説
「懐風藻」だけw
268日本@名無史さん:05/03/04 22:56:30
>天皇の命令で改竄されてた可能性は0なの?

そもそも改竄する理由がありませんから

天武天皇の長子は草壁皇子でもなければ大津皇子でもない
高市皇子が長子です
(従って大津皇子を長子と記述した懐風藻は史実を捏造)

そして草壁は皇后所生の皇子だから第ニ子でありながら立太子された
そこに何か問題がありますか?

まあ直木孝次郎氏は忍壁皇子が天武天皇の第ニ子という
見解をお持ちです

その根拠は日本書紀で高市に続いて忍壁が天皇の命で
公務を行なう記述があるからですが
269日本@名無史さん:05/03/04 23:38:16
持統天皇のプランは皇統は我子である草壁皇子の血統に
そして高市皇子の血統には壬申戦争での活躍に値する
地位と名誉を与えて草壁の血統を守護してもらう

高市と草壁の妃が同母姉妹の御名部皇女と阿閇皇女
長屋王の妃が元明(阿閇)天皇の娘の吉備内親王

高市は太政大臣になり長屋王は左大臣になった

草壁の血統を天皇にする代りに高市の血統を太政官のトップに
立てるというのが持統や元明の構想でしょう

しかし曾祖母の持統や祖母の元明思いが分からない聖武天皇は
長屋&吉備夫婦及びその子を殺して一番有力な藩屏を失い

やがては草壁の血統自体が皇統から外れてしまった
270257:05/03/05 08:16:50
>>268
だから、小説的ではあるが、改竄の理由を書いているじゃないですか。
誕生が大津>草壁だったので、後で草壁正統説のため生年を変えたと。

>それなら複数の史料に立脚して学説を構築すれば良いだけのこと
>「懐風藻」という単一史料だけを振りかざして54才説を強弁する
>学者達には呆れ果てます

>そして草壁は皇后所生の皇子だから第ニ子でありながら立太子された
>そこに何か問題がありますか?
大津の母のほうが年長でしょう。?
母親の身分がかなり違いでもしないかぎり姉妹なら姉を正妻にしませんか?

>46才説
>「公卿補任」「扶桑略紀」「尊卑分脈」「帝王編年記」「一代要記」等
上記資料には一言一句間違いがないことを確認済みなわけですね。すげーや。
271日本@名無史さん:05/03/05 14:07:16
草壁皇子は皇后所生の皇子だから第ニ子(直木説では第三子)でも
立太子できたのです

大津皇子は皇后の所生皇子ではないから立太子できなかった
大田皇女が天武天皇の即位前に死亡したのが大津の不運

>上記「資料」には一言一句間違いがないことを確認済みなわけですね。すげーや。

貴方は馬鹿ですか?どの史料にも間違いはありますよ
だからこそ複数の史料の中で、記述が一致してるモノを探すのです
長屋王の没年齢は、懐風藻以外の史料が一致して46才と記述しています

因みに扶桑略記は懐風藻と同じく大友皇子を皇太子としています
その扶桑略記も長屋王の没年齢は46才と記述していますが

貴方は歴史学の基礎であるテキストクリティーク(史料批判)を
学ぶ必要がありますねw

それと歴史学では「資料」ではなく「史料」という用語を使用します
272日本@名無史さん:05/03/05 14:32:38
「南京大虐殺で殺害された中国人は
中国の本には全て約30万人と載っているから約30万人死んだ」
・・
といいそうですな。
このスレで
「複数の史料に載っているから長屋王は46歳没」と言っている人は
273日本@名無史さん:05/03/05 14:44:25
54才説が完全崩壊したからヤケクソになりましたか
54才説信者さんw
274日本@名無史さん:05/03/05 15:16:27
>>262
政権掌握中に道教チックな政策を取ったとか取っていないとか…?
275日本@名無史さん:05/03/05 15:32:49
三世一身法の導入など律令制の基本が分かってなかったような人なのは確か
いきなり税制崩壊の端緒を開いてるし
276日本@名無史さん:05/03/05 15:39:06
それと長屋王46歳説を延々とカキコしている人、
他の名無しに埋もれて分かりにくいので名前にトリップつけてくれるとありがたい。
277日本@名無史さん:05/03/05 15:54:45
>>275
三世一身法は律令制の原則から外れている政策だけど
現実の状況に対応するための政策

理想は大切だがそれだけでは現実の状況には対応できない

長屋王は政治家として現実的な判断に立って三世一身法を
導入したと思われ
278没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/05 15:56:57
>>276
テスト
279日本@名無史さん:05/03/05 15:58:17
三世一身法が律令制の崩壊っていつの学説だよ
今じゃ墾田永年法が土地把握の強化だって教科書にも載ってる
280没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/05 16:00:58
>>279
三世一身法の導入が公地公民制の原則を破壊したと
>>275は主張したいのでしょう
281日本@名無史さん:05/03/05 16:09:35
長屋王には莫大な私領があったことが旧そごう奈良店(現ヨーカドー)建設中に出た木簡で明らかになったけれど
その私領というのはどういう風にして得たんだろう。単に父や母からの相続と考えていいんだろうか。

あそこから出た木簡は和銅年間に廃棄されたのではと推測されているらしい。
とするとその頃の長屋王の官位に相当する収入とその私領から上がる収入とは一致しないように考えられるのだが。
つまり官位相当の収入より多い物を得ていたのではないのだろうか?

それとも当時の皇族の私領は律令の把握外と言うことで無問題だったの?
282没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/05 17:50:32
高市皇子は五千戸の食封を与えられていて
莫大な財産を所有してたはずだから
長屋王の財産はそれとの関連性があるのかも
283日本@名無史さん:05/03/05 21:02:20
>>271
>草壁皇子は皇后所生の皇子だから第ニ子(直木説では第三子)でも
>立太子できたのです

>大津皇子は皇后の所生皇子ではないから立太子できなかった
>大田皇女が天武天皇の即位前に死亡したのが大津の不運

つまり、壬申の乱が成功して、天武が即位、草壁が立太子するまで明確には
大津と草壁の差はないと言ってるのと同じでは?

大田皇女が生前正妻だったのなら、大津は正妻の遺児ですよ。
その後持統が正妻扱いだったとしても。

284日本@名無史さん:05/03/05 21:46:57
46歳説はトリップつけてるんだから、54歳説もつけたらどうなん?
285没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/05 21:47:30
まず天武天皇の長子は高市皇子
その点で大津皇子を天武の長子と記述した懐風藻は間違い

次ぎに草壁皇子と大津皇子の年齢に関して言えば
通説を覆すような重要な史料(例えば墓誌)が発見されない限り
私は通説を支持します
286没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/05 22:04:23
あと直木氏の忍壁皇子第二子説に関しては
忍壁が高市皇子の次ぎ(天武三年)に公務を行なっているから
その可能性は高いと思っています

高市の初公務は天武元年、近江朝群臣の罪状と処分の発表
287日本@名無史さん:05/03/05 22:18:34
>>284
いや、私は別に54歳説ってわけじゃなくて、
なんでそこまで46歳説で固執するかなーと思って
小説的に解説もできるんでは?って言っているだけなんで。
学もないですし。
(最初のほうで一生懸命54歳説唱えてた人とは別人だし)
288日本@名無史さん:05/03/05 22:58:03
>>287
散々論破されてるのに固執してるのはむしろ54歳説だと思うんだが。
何で46歳説が固執していることになってんだろう。>>276とか>>287とか。
不思議。
289日本@名無史さん:05/03/05 23:06:02
>>288
「固執してる」とは誰も書いてないと思うが・・・

没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 氏の熱弁ぶりに呆気にとられている人は多いと思う。
と言うか、長屋王の没年が46歳というのは長屋王の日本史における役割をを語る上で
重要なポイントになるのかどうかが、今ひとつ分からない・・・
290日本@名無史さん:05/03/05 23:08:26
>>289
全く同じことが54歳説にも言えると思うんだが。
291日本@名無史さん:05/03/05 23:11:06
>>289
二つ上のレス見てみ。
292没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/05 23:23:10
長屋王の684年生まれか676年生まれかは
21才で初叙されたのか、29才まで無位のまま放置されていたのかで
長屋王自体の皇族の中での位置付けに関る重要な問題になります

また藤原武智麻呂、房前や舎人、新田部両親王
そして文武、元正両天皇より年上か年下かも重要です
293日本@名無史さん:05/03/05 23:29:13
このスレ見て54歳説が論破されてるように見える人はいるんだな
途中で粘着ぶりに呆れてレスするの辞めたんだが

ちなみに自分は54歳説ではなく
54歳とも言いきれないが、46歳と断定するよりはマシ説
ようするに現行教科書の(676?〜729)くらいが妥当かなあと思っている
没年が46歳でも全然構わないし、その可能性もあると思うけど
少なくとも「後世の複数史料に載ってれば史実」とか
『懐風藻』より正史の方が信憑性があるなんてのが
史料批判だとは全然思わない
294日本@名無史さん:05/03/05 23:38:44
みっともないやつらだ。
粘着した挙句、論破されると人格攻撃とは。
54才説の唯一のより所、『懐風藻』の信頼性の話も出てきてたはずなんだけどね。
295没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/05 23:50:25
端的に言えば54才説だと長屋王は成人に達した後も持統朝、文武朝に
おいて29才まで無位に置かれて居たのは不自然だ言う事です

長屋王が676年生まれなら同じ年生まれの舎人親王は695年(持統朝)に
浄広弐位を授けられ、長屋王より年下の新田部親王が700年(文武朝)に
同じく浄広弐位を授かられたのに無位のままで居た事になります

これが684年生まれなら704年に成人になったから位を授けられたという
事で説明が付きます

令の規定を超えて正四位上の位を授かられたのは
(規定通りなら従四位下)

父が後皇子尊、太政大臣高市皇子で、その長子であったこと

母が文武、元正両天皇の伯母で、元明天皇の同母姉である
御名部皇女であったこと

妻が草壁皇太子と元明天皇の娘で、文武・元正両天皇の
妹である吉備内親王であったこと

上記の三点の事情が考慮された為だと思われます
296没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/05 23:54:13
>>293
54才説の唯一の根拠である「懐風藻」の史料価値が必ずしも
高くないことはすでに立証済みですがw
297日本@名無史さん:05/03/06 08:04:37
>>295
令の規定って父親が天皇の場合と、親王の場合で同じ年齢で適用されるのですか?
また、母親の身分なども一切関係なし?

298日本@名無史さん:05/03/06 12:36:26
律令の規定では子供の官位は
・父親の最終官位
・兄弟の順(基本的に長子が他の兄弟に比べて高い官位)
によって決まるんじゃなかったっけ?

母親が正室かどうかというのは関係あるかと思う(側室出生の長子より正室出生の子の方が上位)けど
母親の身分までは考慮されてなかったかと。
299日本@名無史さん:05/03/06 12:48:23
>>88から>>300近くまで延々と年齢の話だけで続いてきたんだな このスレ。。。
300没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/06 13:06:33
>>297
・父の身分は関係あり
・親王、諸王、諸臣とも21才に達すれば叙品位の対象者
・令の原則は男系主義だから基本的には母の身分は関係なし

ところが長屋王の子供達のうち、吉備内親王所生の子供には
令の原則である男系主義が適応されなかった

霊亀元年二月ニ五日条
(元明天皇)の勅命により吉備内親王の子供達は全て皇孫として
扱う

つまり吉備所生の子は元明の孫だから男系の原則ではなく天皇の
勅命によって女系主義が適応された訳です

これによって吉備内親王所生の子は令の規定である
初叙が従五位下ではなく、従四位下が授けられる事になった

つまり長屋王というのは令の原則から自分も子供達も外れて
特別な待遇を受けていた事になります

その理由については>>295で述べています
301日本@名無史さん:05/03/06 14:04:59
没年齢46才 ◆2tH7zOPLcgさんはこの高説をどうして論文にしないんだろう
302日本@名無史さん:05/03/06 14:09:09
最初から常識だから。
303没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/06 14:16:04
長屋王の生年論争を卒論のテーマにする予定です
もちろん天武十三年(684)説の立場に立って
持論を展開していくつもりです
304没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/06 15:10:37
>>302
確かに川崎庸之氏の「長屋王時代」以来684年説が通説でしたが
青木和夫氏が676年説を提唱し、今日、一線で活躍する古代史(奈良時代)を
専門にしてる学者達の間では676年説を支持する人が増えています
だからこそ、それに反論するための論文作成する事は意義がある事だと
自分では思っています
305没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/06 15:28:18
本来はチラシの裏に書くべき事でしょうがw
将来的には「長屋王の変」に関しても従来の学説を見当しつつ
自説を展開する論文を書きたいと思っております
306日本@名無史さん:05/03/06 16:58:38
54歳説の連中はどうしたの?
みんな逃亡か?
307日本@名無史さん:05/03/06 20:21:03
没年齢46才子の記述を見ると46歳説で当たり前、と受け取りかねないような強い口調で
書かれていますが>>304にあるように、専門家で676年説を唱える人が増えたのは
何故とお考えですか?
みな「懐風藻」のみが根拠?
308没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/06 21:08:45
まず通説には挑戦あるいは反論したくなるものです
しかしその反論が正直に言って稚拙なものばかりでした

例えば青木和夫氏は公卿補任の長屋王の没年齢は否定しながら
同じく公卿補任に記述されている舎人親王の没年齢は肯定されている

大山氏や寺崎氏に至っては長屋王の父である
高市皇子の没年齢に関しては公卿補任や扶桑略記の記述を
肯定している

しかも青木氏、大山氏、寺崎氏は高市皇子、舎人親王の
没年齢に関しては、なぜ公卿補任や扶桑略記の記述が信用できるかの
立証は行なっていません

そして高市皇子の没年齢や舎人親王の没年齢は、正史である日本書紀や
続日本紀から立証することは不可能なのです
なぜなら正史には高市や舎人が、何年に生まれてか記述されてない上に
没年齢も記述されていないからです(事情は長屋王も同じ)

したがって公卿補任や扶桑略記に記述されている、高市皇子、長屋王
舎人親王のうち、長屋王の没年齢の記述だけが間違っていて
他の二人の没年齢は正しいのかの論証が必要と言う訳です

次ぎに長屋王が29才まで無位で居た点について合理的な
説明がなされていない点が挙げられます

位階制度は大宝律令が制定される以前から存在していましたから
676年生まれであれば、持統朝において成人になった長屋王が
29才まで無位でいた事の合理的理由がないのです
309没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/06 21:14:31
>みな「懐風藻」のみが根拠?

少なくとも54才説の根拠となる史料は大津皇子を
天武天皇の長子と言う大きな間違いを犯している
「懐風藻」しかありませんw
310日本@名無史さん:05/03/06 22:28:45
長屋王からやや脱線するけど

『懐風藻』にしか没年が出てこない著名人って他にもいたような。
藤原宇合とか藤原麻呂とか。
他にもいたような気がするが、ちょっと『懐風藻』直に見られないところから書き込みして
確認できないので例はこれくらいに留めて置く。

この2人の没年に関しては如何お考えですか>没年例46歳さん
311没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/06 23:12:50
>>310
藤原宇合の没年齢の記述は「公卿補任」は44才「懐風藻」も44才
藤原麻呂の没年齢の記述は「公卿補任」は43才「懐風藻」は無し

宇合の没年齢は公卿補任、懐風藻とも一致して44才
麻呂の没年齢は懐風藻には記述なし

通説では宇合の没年齢は44才、麻呂の没年齢は43才
312没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/06 23:21:31
備考

私が使用している公卿補任は(「公卿補任第一篇」『國史大系53』吉川弘文館)
懐風藻は(「懐風藻 文華秀麗集 本朝文粋」『日本古典文学大系』岩波書店)
313没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/06 23:35:43
青木和夫氏は(「聖武に光明」『奈良の都』日本の歴史3 中央公論社」で

「その藤原四兄弟は次男房前についで、帰京したまもない四男が七月
十二日に死去した。四十三歳だった。」と書いていますが、舎人親王以外に
麻呂の没年齢に関しても、公卿補任の記述を信用しているようですw
314没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/06 23:37:27
>>313
帰京したまもない四男が×
帰京してまもない四男麻呂が○
315310:05/03/06 23:56:46
あらら、藤原麻呂の没年は『懐風藻』に記載がないんですね。記憶違いスマソ。

藤原宇合の没年については「?」という学者もいたような記憶があります。

彼が書いたのではないかとされる和歌が『万葉集』にでてますが
「 大行天皇の難波宮に幸(いでま)す時の歌
 玉藻刈る沖へは榜がじしきたへの枕のほとり忘れかねつも(万1-71)
  右の一首は、式部卿藤原宇合。」
これは大行天皇(=文武天皇)の難波行幸の時に書かれた物と考えられ
慶雲三(706)年九月〜十月に作られたとされています。
『懐風藻』『公卿補任』の没年44歳を信じると、
慶雲三年時の宇合の年齢は13歳になってしまい、
果たして13歳の男子は出仕前と思われ天皇行幸に同行できたのか?
とすると『懐風藻』『公卿補任』の没年44歳は間違いではないか、実際の宇合はもっと年だったのでは?

と言う説です。
316没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/07 01:00:32
笹山晴世氏は確かに宇合の生年を不詳とされていました
藤原宇合(?〜737年)と記述されています
「国史大辞典」(吉川弘文館)

「公卿補任」「懐風藻」が一致して没年齢を44才と記述しているのに
それでも宇合の生年及び没年齢を不詳とされた笹山氏の
史料に対する厳しい態度には頭が下がる思いが致しました

なお笹山氏が宇合の生年を不詳とされた理由は>>310さんの指摘
通りだと思われます
317没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/07 01:02:33
>>316
笹山晴世氏×
笹山晴生氏○
318没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/07 01:19:37
青木和夫氏は藤原宇合の没年齢に関しては
(「聖武に光明」『奈良の都』日本の歴史3 中央公論社)の中で

「三男の参議式部卿兼大宰師宇合が四十四歳で死んだのは、
八月五日である。」と書いています

同時代の史料である「懐風藻」が、宇合の没年齢を間違える訳ない
と言う思い込みがあったからでしょう

私は例え「懐風藻」でも間違いはあると考えていましたが
「公卿補任」も間違っていたのは正直言ってショックです
319没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/07 09:13:04
太政大臣 大友皇子

公卿補任 没年齢記述なし
懐風藻  25才

大納言 紀麻呂

公卿補任 没年齢記述なし
懐風藻  47才

中納言 大神高市麻呂

公卿補任 没年齢記述なし
懐風藻  50才

従三位 石川石足

公卿補任 没年齢記述なし
懐風藻  63才
320没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/07 09:13:49
右大臣 藤原不比等

公卿補任 62才
懐風藻  63才

大納言 大伴旅人

公卿補任 没年齢記述なし
懐風藻  67才

左大臣 長屋王

公卿補任 46才
懐風藻  54才

中納言 安倍広庭

公卿補任 没年齢記述なし
懐風藻  74才
321没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/07 09:14:23
参議 藤原房前

公卿補任 57才
懐風藻  57才

参議 藤原宇合

公卿補任 44才
懐風藻  44才

参議 藤原麻呂

公卿補任 43才
懐風藻  没年齢記述なし

中納言 多治比広成

公卿補任 没年齢記述なし
懐風藻  同上

中納言 石上乙麻呂

公卿補任 没年齢記述なし
懐風藻  同上
322没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/07 11:19:18
藤原宇合没年齢問題によって

・「懐風藻」の持つ同時代性の優位は完全に消滅
(同時代性を誇る懐風藻が同時代人の宇合の没年齢を
誤認していたのは致命的)

・同じに「公卿補任」の記述もそのまま鵜呑みには出来ない

・結論として単一史料に基づいて学説を構築・展開する事は
避けるべきこと

・その場合、公卿補任以外にも、尊卑分脈、扶桑略記、帝王篇年記
一代要記等に記述されている没年齢46才の方が正しいと言えること
323没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/07 11:55:54
藤原不比等の没年齢

公卿補任   62才
懐風藻    63才
扶桑略記   63才
尊卑分脈   62才
帝王編年記 62才

長屋王の没年齢

公卿補任   46才
懐風藻    54才
扶桑略記   46才
尊卑分脈   46才
帝王編年記 46才
324日本@名無史さん:05/03/07 12:26:59
いくつか例を挙げられてますが『懐風藻』と『公卿補任』に書かれた没年齢
長屋王だけが極端に離れているのが気になります
他の人は1つ違いだから計算間違いの誤差の可能性もあるかと
325没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/07 17:28:27
長屋王の没年齢は「公卿補任」と「懐風藻」とでは大きく違っています

その場合、他の史料が長屋王の没年齢を一致して46才と記述している以上
その記述に従うのが妥当です
326日本@名無史さん:05/03/07 18:13:43
尊卑分脈も宇合の没年は44歳と書いていたと思うが・・・記憶が定かじゃないけれども
それと、上の方で万葉集も疑わしいみたいなこと書いてるのに、宇合の年齢については信じちゃうのね
327日本@名無史さん:05/03/07 20:05:57
>>324
ひょっとして54歳ってのは45歳って記述をがどっかで間違ったのでは?
それなら他の人物と同様他の史料と比較した場合にちょうど1歳違いの記述になる。
(1歳上と下の間違いはありますが)
328没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/07 20:33:44
>>326
確かに尊卑分脈も宇合の没年齢の記述は44才です
「懐風藻」「公卿補任」「尊卑分脈」の宇合の没年齢は一致しています

問題は「万葉集」の記述及び笹山晴生氏の学説・・・
笹山氏は厳密な実証をされますから少しでも疑いがあれば生年不詳に
される方です

笹山氏は長屋王の生年に関してもその点は触れずに

『奈良朝政治の推移』(岩波書店『岩波講座日本歴史』3)

の中で長屋王の変を考察されています
329没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/07 20:48:17
>>327
確かに藤原不比等の没年齢に関しては
「懐風藻」「公卿補任」「尊卑分脈」「帝王編年記」とも
62才か63才で1歳しか違いがありません

長屋王に関しては46才と54才で、8歳も違いがでますが
54才を45才とひっくり返してみれば、45才と46才になって
不比等の場合と同じく1歳しか違いがなくなりますね

懐風藻の底本には四十五と書かれていたのが筆写を繰り返す内に
五十四と書き写しの段階で間違いが起こったのかも知れません

当時はコピーという便利なモノはありませんでしたから全て筆写ですし
330日本@名無史さん:05/03/07 21:32:29
史料より東大教授の学説の方が重要視されるスレ
331日本@名無史さん:05/03/07 21:53:52
天武の没年齢65は56の倒錯。という説を思い出したよ。
332没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/07 22:47:07
>>330
「懐風藻」の不比等の没年齢記述は、他の史料と比較しても同じか
1歳違い
房前や宇合の没年齢は
「懐風藻」「公卿補任」「尊卑分脈」の三史料で一致している

長屋王の没年齢だけが他の史料と8歳も年が違えば
「懐風藻」の記述が信用できないのは当然です
333没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/07 23:02:57
>>331
天智天皇の没年齢が46才だった場合
天武天皇の没年齢が65才だと兄弟の関係が変わるから
天武の没年齢を56才とした説ですね

天智天皇の没年齢に、46才説と58才説の二説ある点では
長屋王の没年齢に、46才説と54才説のニ説あるのと同じですね
334日本@名無史さん:05/03/07 23:13:38
>>328
その笹山晴生氏なんだけどね、長屋王の生没年を(676?〜729)と表記してる山川日本史教科書の執筆者は
335没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/07 23:56:03
>>334
笹山晴生氏は青木和夫氏よりもはるかに手強い相手ですね
笹山氏は青木氏のようなポカは犯しませんから

まあこちらとしては懐風藻の没年齢記述が他の史料とは
8歳もかけ離れている点と、29才まで無位であったことの合理的説明が
54才説では不可能という2点を主張するだけです

46才説論者は、川崎庸之氏の他にも、直木孝次郎氏、井上薫氏
野村忠夫氏、竹内理三氏等が居る点も心強いです
336没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/08 00:02:05
天智天皇の没年齢は46才説と58才説の2説あり

天武天皇の没年齢も56才説と65才説の2説あり

両天皇の孫である長屋王の没年齢にも
46才説と54才説の2説あるのは何にかの因果でしょうかw
337没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/08 00:07:18
>>335
石上英一氏も46才説論者でした
338没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/08 09:20:57
懐風藻と公卿補任の両史料に没年齢が記載されているのは
藤原不比等、藤原房前、長屋王、藤原宇合の4人

不比等は、懐風藻63才、公卿補任62才
房前は、懐風藻57才、公卿補任57才
長屋王は、懐風藻54才、公卿補任46才
宇合は、懐風藻44才、公卿補任44才

これを見ても公卿補任の没年齢記述は、長屋王を除いて基本的に
懐風藻と変りがない事から、54才説論者が強調するような
誤りは公卿補任にはない

なお公卿補任の元になった史料が歴運記というのは
土田直鎮氏が(「公卿補任の成立」『国史学』第六十五号)
の中で「歴運記こそ公卿補任の基になったものである、という
結論になった。」「歴運記の撰述は弘仁ニ年(811)であろう」
と述べております

弘仁二年ならば嵯峨天皇の時代ですから平安時代初期にあたり
懐風藻には及ばないもののかなり古い史料である事は確かです
339日本@名無史さん:05/03/09 22:20:21
>>338
これはいいパンチが来ましたな。
340没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/09 23:47:28
公卿補任が、弘仁二年に撰述された歴運記を基にしているという
土田直鎮氏の論文は、公卿補任の史料価値が高さの保証になるから
46才説にとって非常に有利なものです
341日本@名無史さん:05/03/10 17:20:14
しかしこの時代って人権もヘッタクソもないな。
密告だけで逮捕、処刑(長屋王は自殺だが処刑のようなもの)だもんな。
しかも裁判もせず一方的な尋問だけだしな。
342日本@名無史さん:05/03/10 22:17:20
>>341
中衛府だっけ? 多分この事変のためわざわざ役所作って兵力掌握したりしていた
藤原氏のほうが数枚上手な印象ですね。

魏の司馬仲達と曹爽のエピソードを連想します。
343没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/11 01:07:21
藤原氏にとって、光明子を皇后にする為の最大の障害は長屋王

そして長屋王の変の時点で光明子の所生は阿部内親王だけ
女性の立太子はなかなか難しい
かと言って安積親王の母は県犬養広刀自だから、大友皇子や
高市皇子の例から言っても立太子は難しい(母の身分が低い)

そうなると長屋王と吉備内親王の子で、草壁皇子、元明天皇
高市皇子、御名部内親王の孫に当たる膳夫王も、その高貴な
血統故に有力な皇位継承権者

長屋王と膳夫王の両者を葬るのが藤原氏の狙いだから
用意周到に事を運んだと思われ
344日本@名無史さん:05/03/11 12:04:34
県犬養広刀自の身分が低いというのはかなり以前から言われているけれど
しかし彼女は嬪じゃなくて夫人なんだな。
確かに藤原氏出身の光明子に比べれば低いとは思うのだが。
文武天皇の嬪に石川氏(旧蘇我氏)や紀氏の女性がいたことを考え合わすと
何で門号氏族の県犬養広刀自ごときが夫人になれたのか不思議ではある。
345没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/11 12:35:22
広刀自が県犬養(橘)三千代の一族で、三千代が元明天皇に深く信頼されたから
大納言や大臣が出る氏族ではないのに、聖武天皇の夫人になれたと思われ
346日本@名無史さん:05/03/11 12:43:11
>>341
永井路子の小説だと、自殺と言うのは嘘で実は妻子ともども虐殺されたことになっていたけどな。
347没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/11 12:49:37
事実無根の容疑で長屋王、吉備内親王、その子供たちが
自殺するとは思えないから殺害というのは妥当な推測でしょう
348日本@名無史さん:05/03/11 12:57:14
永井路子小説では
元明天皇の本命は聖武じゃなくて長屋王とその子供だったという説に立っているが
それとこのスレで出ている説にのれば
県犬養橘三千代も長屋王派だったと言うことなのだろうか?

そうすると娘の光明子が聖武天皇夫人だったこととか
一族の娘である広刀自が聖武天皇夫人だったことと矛盾するような気がする
うーわがんない
349没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/11 13:14:07
>>348
元明天皇の本命は初めから聖武天皇だと思われ
その点で永井路子の発想は飛躍し過ぎ

但し、聖武の後継者が阿部内親王、安積親王、膳夫王の場合
それぞれに一長一短があって難しい

それで長屋王と膳夫王を潰すことで、光明子立后の道筋作りと
皇位継承権者を消したと言うのが「長屋王の変」の真相でしょう

長屋王が無実なのは密告が誣告だったと、正史たる「続日本紀」に
記述されているので確定
350没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/11 13:22:17
長屋王の子供が皇位継承権を持つとの認識は
藤原長娥子所生の黄文王を橘奈良麻呂が一貫して
天皇に即位させようと考えていた事を考え
それに大伴古麻呂らが同調していた事から見ると
橘氏、大伴氏と言った有力氏族の共通認識だったと思われ
351没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/11 13:29:38
黄文王は藤原長娥子の子供で奈良麻呂は藤原多比能の子供だから
この二人は従兄弟同士

まあ阿部内親王も藤原光明子の子供だから、黄文王や奈良麻呂と
従兄弟同士だけどね

序に言えば聖武天皇も藤原宮子の子供だから、娘である阿部とは
従兄弟にも当たるし黄文王や奈良麻呂とも従兄弟同士

藤原不比等は自分の娘を、文武天皇、長屋王、聖武天皇、橘諸兄の
妻にして強力な血統ネットワークを作り上げた傑物
352日本@名無史さん:05/03/11 14:00:20
県犬養は三千代の関係じゃないか?
安積は有力な皇位継承者だったろう。他ならぬ聖武自身が夫人所生なんだから。
長屋王家に訪れた凶禍も直接的に光明子立后のためではなく、その先にある
阿部立太子が主目的だと思う。
強力な背景を持った皇族の中では、光明子所生の阿部よりも膳夫の方が
圧倒的に臣下の血が薄いし。その薄い臣下の血の中というのも、
言わずと知れた蘇我倉山田石川麻呂だし。

後の話だが安積は都合良く亡くなられてしまわれたし・・・

巷間に流れる令に厳しい長屋を屠ったという話も疑問だ。
吉備所生の子に対する皇孫待遇や自身の親王待遇は享受しておきながら
あからさまなダブルスタンダードを強調するだけになってしまう。
宮子に対する大夫人→皇太夫人も実は格上げではないかと思う。

前に少し話しが出ていたが、当時、中務卿(?)だった房前が中立を
保っていたらしいことが興味深い。(中衛府を掌握して皇宮守備に専念か?)
不比等-三千代の直系とも言える藤橘融和の象徴でもあり、この家が
後に大樹となる礎とも思える。
353352:05/03/11 14:20:05
この時代は、長屋王の子にしぶとく皇位の望みがあったり、
後に吉備真備が主張する文室氏(長親王の子)にも望みがあったりするね。

軽(文武)立太子の時の弓削(長の同母弟)の主張も長親王立太子だろうし。

どうも、持統や光明子があまりにも強引だったせいもあって、
草壁-文武-聖武-孝謙(称徳)は、今一つ有力氏族間に不人気だったような気がする。
354没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/11 14:20:07
膳夫王には
天智、天武、持統、元明の四天皇
草壁皇太子、太政大臣高市皇子
御名部内親王、吉備内親王の血が流れている
皇親の中でも血統的には最も高貴な存在だからね
355没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/11 14:28:06
>>353
確かに長屋王の子は吉備所生だけじゃなくて長娥子所生の
安宿王や黄文王と言った皇孫待遇を受けていない三世王にも
皇位継承候補に挙げられている

それだけ高市皇子・長屋王の血統に、橘氏、大伴氏、多治比氏と言った
有力氏族は期待していたらしい
356日本@名無史さん:05/03/11 14:34:45
>>295
ちょっと古いレスを発掘するが、気になったので

吉備内親王が草壁皇子の娘であることは『日本書紀』『続日本紀』にも出ているので確実と思うが
吉備内親王の母が阿閉皇女(元明天皇)であることはどの史料にも出てないのではなかったかな?
357没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/11 14:43:12
>>352
長屋王は令の規定では本来、初叙は従四位下のはずなのに
それより四階も上の正四位上を授けられたこと

元明天皇の勅が、吉備内親王所生の子を、本来は三世王なのに
二世王(皇孫)として扱うとしたこと(律令の原則は男系主義)

長屋王及びその家族が、令の規定から逸脱した特権を享受している以上
光明子の立后を、令の規定を楯に反対するのは難しかったろうね
358没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/11 14:51:48
>>356
吉備内親王が元明天皇の娘である証拠は

『続日本紀』霊亀元年二月二十五日条の
「勅が出されて吉備内親王の子女は全て皇孫の扱い入れられた」
という記述です

長屋王の父高市皇子も、吉備内親王の父草壁皇子も
天皇に即位していないから、皇孫に対応する天皇は元明

従って元明天皇と吉備内親王は母と子の関係です
359没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/11 15:02:37
>不比等-三千代の直系とも言える藤橘融和の象徴でもあり、この家が
>後に大樹となる礎とも思える。

この見解に賛成
橘氏と争ったのは南家(特に仲麻呂)で
北家は房前の妻が牟漏女王(橘三千代の娘)という関係から
奈良時代において橘氏と北家が争うという事はなかった
360日本@名無史さん:05/03/11 15:07:23
>>358
草壁皇子に「岡宮天皇」の追号がされたのはいつでしたっけ?

と思ったらのっていたよorz
ttp://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/tishiki/ks00053.htm
こりゃまたずいぶん経ってからの追号ですな
361日本@名無史さん:05/03/11 17:57:38
>>349
永井路子は飛躍のしすぎには同意。

意中の皇太子は最初から首皇子だったと思う。
だが、外祖父の藤原不比等存命中に首を即位させて皇族や諸豪族の微妙なバランスの上に立った当時の政治情勢を壊したくなかった事が、首成人後にも関わらず元正を立てた最大の理由だろう。
また、続日本紀を読めば聖武が病弱だったのは明白だから、早逝や男子を遺さない場合のケースを考えて、万一の際に吉備所生の皇子に皇位が流れるようにする事はは元明としては当然の危機管理策だろう。
(それを当の首=聖武が好むか好まないかは別として)
362日本@名無史さん:05/03/11 18:53:05
>不比等-三千代の直系とも言える藤橘融和の象徴でもあり、この家が
>後に大樹となる礎とも思える。
そう断言できるのか?
藤原房前と牟漏女王との間に生まれた藤原永手(房前次男・庶長子鳥飼が早世したと思われ実質長男)は
 天平9年(737年)正五位下
 天平21年(749年)正五位下→従四位下
橘諸兄が政権首班だった時期に13年も干されていたとしか見られないが如何か。
363352:05/03/11 19:06:44
>>359
平安期には嘉智子をたてながら、逸勢を屠るという苦しい選択なんだよね。
このときも奈良麻呂の時と同じく大伴氏とコンボでやられてるのが悲しい。

>>362
いや、そんな直後の世という意味ではなくて、↑の事例もふまえた後の摂関家を
イメージしたんだけど・・

>>361
元明即位の時も譲位の時も、なんか勅がくるしいんだよね。
周りの有力氏族が首の即位を望んでない感じがありあり。
まぁ、一番くるしそうなのは、光明子立后の時の勅だが・・
364没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/11 19:34:38
聖武天皇 

孝謙天皇の皇太子に道祖王を選んだ事から新田部系統に親近感

藤原豊成(南家)、藤原永手(北家)

道祖王廃太子後、塩焼王を皇太子にと主張した事から
新田部系統に親近感

文室智努(長親王の子)、大伴古麻呂

道祖王廃太子後、池田王を皇太子にと主張した事から
舎人系統に親近感

橘奈良麻呂

黄文王の天皇即位を終始画策した事から高市系統に親近感
365352:05/03/11 19:45:39
>>364
大炊王(舎人系)と塩焼王(新田部系)を皇嗣にたてた仲麻呂はどうしましょうか?

なんてのは置いといて、新田部と麻呂が同母兄弟だから、藤原氏は新田部寄りだよね。
んで、舎人と鈴鹿王はまるめこんで、長屋をヌッ殺すと。

智努王や古麻呂は、原理原則主義じゃないかな。
366没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/11 19:59:48
>>362
聖武天皇と光明皇后が、四家の中でも南家贔屓の為だと思われる

南家の豊成が天平九年、仲麻呂が天平十五年に参議として
政治の中枢に参画したのに、北家は八束が天平二十年に
参議になるまで政治の中枢に参画できなかった
367日本@名無史さん:05/03/11 22:45:02
>>366
藤原豊成 704年生まれ 参議列席時(737年)34歳
藤原仲麻呂 706年生まれ 参議列席時(743年)37歳
藤原永手 714年生まれ 参議経験無し
藤原八束 715年生まれ 参議列席時(749年頃?)34歳

八束が遅いと言うより年齢的な問題かと思いますが如何でしょうか。
それにしても永手って特殊な人ですね。
参議経験無くいきなり天平勝宝8年(756年)には権中納言になってるようですが。

368没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/12 00:21:29
確かに年齢の問題が大きいようですね

それと武智麻呂と房前兄弟は1才違いだけど
その子の代になると、かなり年の差がありますね

房前の長男を夭折したようだけど南家の次男仲麻呂と
北家の次男永手では8才の年の差があります

それと永手は異母弟の清河よりも、公卿になるのが遅かったですね
まあ清河は唐でも、その才能が認められた俊英ですが
369日本@名無史さん:05/03/13 10:12:20
>>366
各氏族ごとに議政官1人の原則を破って藤原氏だけで4人も輩出させた事が異常事態だったのだから、4兄弟の死後は原則復帰を求める声が藤原氏以外の諸氏から出るのは当然であろう。
370没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/13 11:22:26
各氏族どころか南家だけで、天平十五年には二人が議政官

天平十五年

左大臣    橘諸兄
知太政官事 鈴鹿王
中納言    巨勢奈弖麻呂
        藤原豊成(南家)
参議      大伴牛養
         藤原仲麻呂(南家)
紀麻路

橘氏      1人
皇族      1人
藤原氏南家 2人
巨勢氏    1人
大伴氏    1人
紀氏      1人
371没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/13 11:27:53
議政官には各氏族一人が原則なら、氏どころか家から2名も
議政官を輩出した南家の突出ぶりは如何に?
372没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/13 11:53:41
まあ橘氏や大伴氏も氏族から2名、議政官を輩出した事もあった

ところが藤原氏の場合は、今度は氏族単位ではなく、家単位で議政官を
輩出することになった

天平勝宝元年

左大臣
橘諸兄

右大臣
藤原豊成(南家)

大納言
巨勢奈弖麻呂
藤原仲麻呂(南家)

中納言
大伴牛養
石上乙麻呂
紀麻路
多治比広足

参議
大伴兄麻呂
橘奈良麻呂
石川年足
藤原八束(北家)
藤原清河(北家)
373没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/13 11:57:21
藤原氏南家 2名
藤原氏北家 2名
橘氏 2名
大伴氏 2名
巨勢氏 1名
石上氏 1名
紀氏 1名
多治比氏 1名
石川氏 1名
374日本@名無史さん:05/03/13 18:22:12
藤原氏の横槍以後、原則崩壊ってことでいいだろう。
375日本@名無史さん:05/03/13 18:26:40
四子没直後の天平九(737)あたりは、参議・豊成一人だったじゃん。
その後、式家の不祥事とかあって、仲麻呂登用は人材不足気味もあったんじゃないの?
天平十五(743)ごろは、聖武-諸兄ラインも元気で、まだ皇后にそれほど力はないし。
この時、仲麻呂(36?)での参議入りには、特別に南家贔屓の感はないよ。

参議入りの年齢も
豊成(34)/天平九(737)
八束(33)/天平二十(748)
に較べても早くないし。

天平勝宝元(749)には
左大臣・諸兄
右大臣・豊成(南),大納言・仲麻呂(南)
参議・八束(北)
という勢力図中で
清河(北)とともに参議入りした奈良麻呂はかなり若い(23)。

と同時に、仲麻呂が紫微令になって、その後はもちろんグタグタ。
376没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/13 18:41:53
>>375
藤原仲麻呂の参議登用は本人の才能という面があったのかも

そしてご指摘の通り、仲麻呂が皇后宮職を改組して紫微中台とし
自身が紫微令になってからは覇権確立へと一直線
377没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/13 18:57:38
>奈良麻呂はかなり若い(23)

尊卑分脈の没年齢37才の記述を信用すれば
奈良麻呂が参議になったのは29才でしょう

29才でも20代ですから異例な若さでの参議任官ですが
378没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/13 19:06:22
橘奈良麻呂は天平十七年には、既に黄文王の天皇即位を模索していた
ようです(佐伯全成の証言、天平宝字元年七月四日条)

その時、奈良麻呂はまだ25才という若さですから恐れ入ります
379没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/13 19:19:12
橘奈良麻呂
養老五年(721) 生(1才)
天平十二年(740) 無位から従五位下を授けられる(20才)
天平十七年(745) 黄文王の天皇即位を模索(25才)
天平勝宝元年(749) 参議(29才)
天平宝字元年(757) 謀反の罪により処刑(37才)
380没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/13 19:40:11
長屋王
天武十三年(684) 生(1才)
慶雲元年(704) 無位から正四位上を授けられる(21才)
養老二年(718) 大納言(35才)
養老五年(721) 右大臣(38才)
神亀元年(724) 左大臣(41才)
天平元年(729) 無実の罪により自殺(46才)
381375:05/03/13 20:41:39
>>377
スマソ。手書きのメモスクラップ見ながらなんで、年齢は相当アヤシイかも。
382没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/13 21:52:10
養老六年

右大臣
長屋王

大納言
多治比池守

中納言
巨勢邑治
大伴旅人
藤原武智麻呂

参議
藤原房前
阿倍広庭

(知太政官事 舎人親王)

皇族 1名(+1名)
藤原氏 2名
多治比氏 1名
巨勢氏 1名
大伴氏 1名
阿倍氏 1名
383日本@名無史さん:05/03/13 22:07:34
ちょっと題名も作者も忘れたんだけど、参議は、特に初期には、
現在知られているより多数いたって言う研究があって、
それによると永手も参議であった可能性は高いらしい。
細かな内容は覚えていないけど、なんでも大臣・大納言・中納言・参議の
数を記した資料があって成立年代を考証してみると、かなり不足がある
参議以外はほぼぴたり合う時期があるらしい。
また特殊な資料で初めて参議であったことを確認できる人も多いそうだ。
それで本官等から見て参議であった可能性がある人の中に、永手もはいっ
ているしい。と言うようなことだった。
384日本@名無史さん:05/03/13 22:09:19
おれ、長屋住人
385日本@名無史さん:05/03/13 22:37:45
>>383
なんかの論文?
386没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/13 23:40:57
もともと参議と言うのは大宝令施行で、中納言が廃止になった時
石上麻呂、藤原不比等、紀麻呂、大伴安麻呂の四人の中納言の内
石上麻呂、藤原不比等、紀麻呂が大納言に昇進して、引き続き議政官
だったのに、大納言に昇進できずに、議政官から外れた大伴安麻呂を
議政官に加えるために作られた令外の官でしょう

その時、参議になったのは安麻呂の他に粟田真人、高向麻呂
下毛野古麻呂、小野毛野の4人

大伴安麻呂が藤原不比等と同時に大納言に昇進できなかった事で
不比等に差をつけられ、後々まで藤原氏>大伴氏という図式が成立してしまった
387没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/13 23:55:50
大宝元年(1)

左大臣
多治比嶋

大納言
大伴御行
阿倍御主人

中納言
大伴安麻呂
藤原不比等
石上麻呂
紀麻呂
388没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/13 23:58:11
大宝元年(2)

右大臣
阿倍御主人

大納言
石上麻呂
藤原不比等
紀麻呂

散位
大伴安麻呂
389没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/14 00:00:17
大宝二年

右大臣
阿倍御主人

大納言
石上麻呂
藤原不比等
紀麻呂

参議
大伴安麻呂
粟田真人
下毛野古麻呂
小野毛野
390没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/14 01:02:18
>>383
その参議に関連する論文

竹内理三「[参議]制の確立」(『律令制と貴族政権』一)
土田直鎮「上卿について」(『日本古代史論集』下)
今江広道「[令外の官]の一考察」(『続日本史古代論集』下)
黒板伸夫「[参議]に関する一考察」(『平安時代の歴史と文学』歴史編)
虎尾達哉「参議制の成立−大夫制と令制四位−」(『史林』六五ノ五)

上記の中にありませんか?
391日本@名無史さん:05/03/14 01:38:15
参議と言えば虎尾氏。本があるよ。もちろん『史林』論文も所収。
392日本@名無史さん:05/03/14 02:14:40
正確には乕尾
393日本@名無史さん:05/03/14 20:22:45
で、近年、676年生説が支持を固めてきてるのは、
和銅年間辺り(〜710-715〜)の王家木簡に膳若翁などの子供名が
20代後半にしては、妙に多い(藤原夫人所生児は含まずに)から
なのか?詳しい人いたらご教示願う。

叙位に関する理由づけは、例えば↓の様に小説的にはどうにでもなるし。
太政大臣(当時の感覚では皇太子兼摂政)高市皇子が薨じるまでは
皇太子も決められないほど、北宮王家は持統帝にとって脅威だった
わけで、長屋王が表にでるのは憚られたと。
702年に持統帝崩、703年に巡察使(房前ら)派遣後、
世情の安定を見計らって、年齢に見合った高位を叙位って感じかな。
もちろん、阿閇皇女(+御名部)と不比等のキモ入りで。

704年21歳は史料上の総花的叙位年齢だと。
394没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/15 08:57:03
まず公卿補任は、土田直鎮の論文(「公卿補任の成立」『国史学』第六十五号)
によって、公卿補任の基になった史料が、歴運記であるという事がほぼ確定
していますから、公卿補任の史料価値は決して低くないと言うことです

もちろん公卿補任の記述を、全て鵜呑みにするのは禁物ですけれど
それと同じように懐風藻の記述を、全て鵜呑みにするのも危険です

次ぎに文武天皇のライバルとなり得る皇族は、高市皇子が没した
持統十年の段階では、母が天智天皇の皇女である、長皇子、弓削皇子
舎人皇子ですから、持統天皇が長屋王を警戒する理由は全然ありません

従って持統側がが長屋王を警戒して、29才まで無位のまま放置していた
というのは、ご自身が仰る通り、正に小説的な発想だと思います

また、長屋王の母である御名部皇女と元明天皇とは同母姉妹ですし
元明は自分娘を、長屋王の妻にしてい点から見て、非常に親密な
関係であった事は確実です

しかも元明は自らの勅で、長屋王と吉備内親王の子女を本来なら
三世王なのに、自分の孫だからという理由で二世王(皇孫)として
扱うことを決定しました

令の原則は男系主義ですから、その原則を天皇自ら無視してでも
長屋王&吉備内親王に高待遇を与えている訳です

そのおかげで、膳夫王の初叙は従四位下で、皇孫と全く同じ扱いでした
395没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/15 09:08:28
>近年、676年生説が支持を固めてきてるのは

676年説が支持を固めてきた訳ではありません

長屋王に関して記述する時、通説を支持する学者は
わざわざ生年684に触れないだけです
(通説ですから触れる必要がない)

反対説の学者の方が、自分は通説を支持しないことを
明示する為に生年676と記述しているだけです

「日本史辞典」(岩波書店)「日本史辞典」(角川書店)
「国史大辞典}(吉川弘文館)の3社とも
長屋王に関しては(684〜729)と記述していますから
通説は生年684年、没年齢46才です
396没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/15 09:20:10
公卿補任と懐風藻の両史料に没年齢が記述されているのは
前にもレスしましたが
藤原不比等、藤原房前、長屋王、藤原宇合の4人です
これに尊卑分脈の没年齢記述を加えてみます

不比等は、懐風藻63才、公卿補任62才、尊卑分脈62才
房前は、懐風藻57才、公卿補任57才、尊卑分脈57才
長屋王は、懐風藻54才、公卿補任46才、尊卑分脈46才
宇合は、懐風藻44才、公卿補任44才、尊卑分脈44才

長屋王の没年齢以外は同じと言ってようでしょう
つまり公卿補任と懐風藻記述は基本的には同じで
違うのは長屋王だけですから、尊卑分脈の記述を
含めて考えれば46才が妥当です

尊卑分脈も、不比等、房前、宇合の没年齢の記述は
懐風藻と基本的には同じですから
397没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/15 10:17:41
最後に729年に54才なら某皇太子の死亡後に、長屋王の即位は
年齢的に厳しいですが、46才なら即位の可能性があったと思われます

長屋王の変が起きた理由に関しては、通説では光明子立后に
関して、長屋王の存在が障害になるため
新説では問題は長屋王自身ではなく、阿部内親王の即位に関して
吉備内親王及び、その子(膳夫王等)が障害になるため

ところが729年段階で長屋王が舎人親王や新田部親王より若ければ
(通説なら両親王より年下)
長屋王が即位する可能性が残りますから、通説とは理由が異なりますが
王自身が標的になったと考えられます

長屋王の糾問に舎人親王と熱心だった事を青木和夫氏は

「王が太政大臣になる可能性があったためだと思う。それも大宝令の
定める形式的なそれではなく、王の父、高市皇子のように、実権のある
ものに。もしこの推測があたっているとすれば、知太政官事の舎人親王が
率先して王の糾問にあたった理由も明快になる。」と

『奈良の都』(中央公論社『日本の歴史』3)の中で述べていますが

長屋王が令の規定を超えた太政大臣になる可能性と言うより
天皇への即位の可能性あったからではないかと思われます

つまり舎人親王が長屋王の糾問に熱心だったのは、皇孫でありながら
親王待遇を受け、王自身に即位の可能性があった事が、皇子である
舎人親王をして、長屋王糾弾へと向わせた理由だと考えています
398393:05/03/15 13:37:52
>>395
その「・・辞典」て近年か?
王家木簡後は、684から676生説に支持が移ってきてるのは現実だろ?
その理由に詳しい人がいたら、教示してもらいたかっただけ。
394-397では、全く答えになってないよ。
別にオレが676年生説を声高に主張したいわけじゃないしさ。
399没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/15 13:54:16
岩波の「日本史辞典」は1999年出版だから長屋王家木簡出土以降です
そして古代史担当編集委員は、石上英一東京大学史料編纂所教授です
それと676年説が唱える学者もいますが、通説は未だに684年説です

はっきり言って676年説を唱える学者は、笹山晴生氏と木本好信氏を
除けば、直接、間接的に青木和夫氏の影響を受けた学者だけです

確か青木氏は「続日本紀研究会」を主宰して、そこで薫陶を受けた方が
居ますから
400没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/15 13:57:53
>叙位に関する理由づけは、例えば↓の様に小説的にはどうにでもなるし。
>太政大臣(当時の感覚では皇太子兼摂政)高市皇子が薨じるまでは
>皇太子も決められないほど、北宮王家は持統帝にとって脅威だった
>わけで、長屋王が表にでるのは憚られたと。

この部分に関してましては、

次ぎに文武天皇のライバルとなり得る皇族は、高市皇子が没した
持統十年の段階では、母が天智天皇の皇女である、長皇子、弓削皇子
舎人皇子ですから、持統天皇が長屋王を警戒する理由は全然ありません

従って持統側がが長屋王を警戒して、29才まで無位のまま放置していた
というのは、ご自身が仰る通り、正に小説的な発想だと思います

と言うレスでお答え致しています
401393:05/03/15 14:00:16
>>394
それとさ、
>長屋王を警戒する理由は全然ありません
これはどうかなぁ?
軽皇子と長屋王では、血統ではほぼ互角。
軽皇子は言わずもがな、長屋王も藤原京では高市皇子以来の強力な背後・支持基盤を持つ。
天智娘を母に持つ舎人皇子と長・弓削皇子では、
舎人皇子は、持統帝にも藤原氏にも、権力者に対して要領よくやりそうな人柄だし。
長・弓削皇子は、悲しいかな、強力な背後を持たなかった。
402393:05/03/15 14:02:54
>>400
おっと、入れ違いになってしまった。
ソコの部分はオレの妄想だから別に答えは求めてなかったんだよね。
403没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/15 14:03:52
>確か青木氏は「続日本紀研究会」を主宰して、そこで薫陶を受けた方が
>居ますから

この点は不確ですから訂正したいと思います

ただ676年説を採用する学者は、大山氏や寺崎氏のように青木氏の
影響を受けている点は事実です
404没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/15 14:17:26
>>401

まず皇子と皇孫を比較すれば皇子の方が皇位継承者として
有力です

そして珂瑠王は、父の草壁皇子が即位してませんから皇孫です
その点では、父の高市皇子が即位してない長屋王も皇孫です

それと比較すれば皇子である、長、弓削、舎人の方が年齢の点
母が天智皇女の大江皇女や新田部皇女である点で、珂瑠王より
皇位継承者として相応しいですから、最大のライバルと述べた
訳です
405日本@名無史さん:05/03/15 14:19:04
>>385>>390>>391
383ですが多分虎尾氏の分です。確か名前に虎の字があったような気がするので。
それで本になったやつでした。緑色の表紙の。
前に図書館から借りて読んだだけなのでこの程度しか思い出せない。
返事が遅れて申し訳ない。
406303:05/03/15 14:21:30
>>404
だから、長屋王が年長たりえれば、強力なライバルに・・・
407没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/15 14:33:03
これが聖武天皇の時代になると、まず長屋王が吉備内親王と婚姻し
その子女が勅で皇孫と同じ扱いになりましたから、長屋王は事実上
皇子に待遇となったと言えます

長屋王邸出土木簡に、長屋親王と書かれていたり、「日本霊異記」でも
長屋親王と記述されているのは、事実上親王待遇となった長屋王の事を
指しての事だと思われます

そこで某皇太子死亡後の状況を見た時、天皇に即位する可能性が
あったのは、阿部内親王、安積親王、舎人親王、新田部親王、長屋王
だと思われますが、舎人と新田部は年齢問題、阿部は女性、安積は
母の実家が今一つ弱い(縣犬養氏)ですから、長屋王に即位の
チャンスが出たと思われます

そのチャンスを潰す事こそ、長屋王の変の真相ではないかと
考えるように至りました
408没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/15 14:43:32
>>406
長屋王に即位のチャンスが出来たのは、吉備内親王との婚姻
そして子女が、皇孫待遇になった元明朝以降だと思います

長屋王と吉備内親王の子は女系ではありますが、草壁皇子の
血統ですから、長屋王が聖武天皇の後に即位して膳夫王が
皇太子になっても、草壁血統が皇統に残ることになります

しかしこの流れでは、藤原氏の血統は皇統から外れる上に
聖武天皇の血統も皇統から外れますから、聖武、藤原氏が共に
許せる状態ではありません

また天武の皇子でありながら、即位できなかった舎人親王や
新田部親王も容認できる状態ではないでしょう

それが誣告採用するという卑劣な手段を犯してでも
長屋王を滅ぼしたいという動機へと繋がったように思われます
409没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/15 14:52:04
長屋王が即位のチャンスがあったと考える、もう一つの根拠は
左大臣橘諸兄の嫡男である橘奈良麻呂が、執拗に長屋王の
息子である、黄文王を即位させようと画策した事です

奈良麻呂が黄文王擁立を考えたのは、阿部内親王より
長屋王の血統こそ本流だと、皇族系氏族である橘氏が
考えていた証しだと思われます
410393:05/03/15 15:07:35
長屋王は、元明・元正・不比等朝では、バリバリのエリート官僚としての時期であり、
養老五に元明が右大臣・長屋と内臣・房前に対するのも臣下に対するそれであると思えます。
膳夫王はともかく、和銅以降、長屋王本人の皇位の望みは、それ以前と較べて相対的に
落ちていたんじゃないかなぁ。

神亀六の変は、光明子立后から光明子所生児立太子の抵抗勢力として長屋王、
その直接のライバルとして膳夫王だったのではないだろうか。

吉備との婚姻を長屋王即位のチャンスととらえるのと、
黄文擁立を長屋王貴種の証するのでは、少し話しの噛み合いが悪いですよ。
(仰りたいことは、もちろん理解できますが)
411393:05/03/15 15:09:35
あ、>>406はもちろん393の間違いです。
412没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/15 15:17:48
「王が太政大臣になる可能性があったためだと思う。それも大宝令の
定める形式的なそれではなく、王の父、高市皇子のように、実権のある
ものに。もしこの推測があたっているとすれば、知太政官事の舎人親王が
率先して王の糾問にあたった理由も明快になる。」

『奈良の都』(中央公論社『日本の歴史』3)

上記の青木氏の言う、長屋王の太政大臣就任の
可能性が、皇位継承権をも含むという意味で
「大宝令の定める形式的なそれではなく」と
指摘されてるのなら、充分にあり得る事だと思うようになりました

729年時、聖武天皇は29才で長屋王は46才ですから
皇太子として立太子するより、皇位継承権を持つ
太政大臣になった方が、宮廷秩序は維持されると思われます
413没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/15 15:27:22
>>410
初めは私も某親王の死没以後の、皇位継承権者争いは
阿部内親王、安積親王、膳夫王の三者の争いだと思っていましたが
父親である長屋王が健在の内に、膳夫王が皇位継承権者になるのは
無理があると思うようになり、長屋王自身が皇位継承権を持つ太政大臣に
就任する可能性の方が高いと考えるようになりました

この着想は青木和夫氏の『奈良の都』を参考にしていますから
その点では、青木氏に感謝致します
414393:05/03/15 15:34:24
>>412
神亀六の前後は、知太政官事の時代だから、それはどうかなぁ?
(前:舎人親王,後:鈴鹿王)
オレ自身は年齢のことは不明としか思ってないけど、
前の方のレスからすると、その青木氏てのは767年生説なんだよな?
その青木氏の太政大臣説と729年46歳では、
これもまた少し話しの噛み合いが悪いですよ。
415393:05/03/15 15:40:09
ワォ!>>414は、もちろん676年だぜぃ。
416393:05/03/15 16:49:44
太政大臣・高市皇子尊が薨じた後、舎人皇子か長皇子が皇位に就いていれば、
長屋王の出る幕などなく、
年齢的に神亀年間には立太子は難しくとも、安積親王を立てる動きだけでも
示していれば、長屋王に疑問を挟む余地はない。

ただ、実際に皇位を踏んだ側が、力があれば、皇孫,内親王でさえも
立太子できる可能性を示してしまった。
藤原京から寧楽の京に移った後も、北宮王家には厳然たる力があった。
その辺が王家の悲劇だった。
                     -とじる-
名無しに戻ります。
417没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/15 17:53:35
高市皇子没後に長、弓削、舎人という、母が皇女である3皇子の誰かが
天皇に即位していれば問題は非常に簡単でした

ところが持統天皇の、草壁皇子の血統を皇統へという執念から
まだ成人に達していない、皇孫の珂瑠王(持統十一年当時15才)を
強引に天皇に即位させた事が問題の発端でしょう

しかも、その強引に即位させた文武天皇は25才という若さで死亡
残された首皇子はまだ7才

その為に、またしても長、舎人両親王の即位を阻止する目的で
子から母へと言う、更に強引な皇位継承を行ない
阿閇内親王が天皇に即位した事が、問題をいっそう複雑化させました

しかしそれが故の、皇族内での孤立を草壁系統が恐れたが為に
元明天皇は、同母姉である御名部内親王と、甥で娘婿でもある長屋王を
頼りにし、特別な待遇を与え続けたのでしょう

長屋王の初叙が、令の規定を4階も超えた正四位上であったこと
長、舎人と言った血筋の良い親王が、妻に内親王を得られない中で
長屋王が吉備内親王を妻に出来たこと
長屋王と吉備内親王の子女が、令の男系主義の原則に反して
皇孫とされたこと
長屋王が参議や中納言を飛び越えて、いきなり大納言に任官され
議政官の一人になったこと

全ては長屋王をして、草壁系統の守護者あるいは補完者にしようとした
元明天皇の意向であったと考えています
418没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/15 18:15:12
>>414
天皇より年上の皇太子の方が、噛み合わせが良くないですから
皇族太政大臣となり、阿部内親王や安積親王を抑え
皇位継承権者の中で、第一人者になる事がベストだと思います

私は青木和夫氏の676年説には、テキストクリティークの観点から
反対ですが、青木氏の長屋王太政大臣就任可能性説は
卓越した説だと率直に認めます
419没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/16 17:27:52
長屋王の変(729年)

元正上皇(50才)

聖武天皇(29才)
藤原光明子(29才)
阿部内親王(15才)
安積親王(1才)

舎人親王(54才)

長屋王(46才)

藤原武智麻呂(50才)
藤原房前(49才)
藤原宇合(36才)
藤原麻呂(35才)
420日本@名無史さん:05/03/16 17:53:31
高市や舎人ですらなれなかった太政大臣に、長屋如きがなれるわけがない。
押勝のような独裁者なら別だが。
青木氏は優れた研究者だとは思うが、所詮70年代の研究という限界は
認めざるを得ない。本書に限らず中公シリーズの復刊は著者に酷。哀れでならない。
421日本@名無史さん:05/03/16 19:27:33
>>420
思いっきり揚げ足取るが
高市皇子は太政大臣になってるじゃん・・・

最も大宝律令以降の「太政大臣」とそれ以前の「太政大臣」は性格が違うかモナー
422没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/16 19:41:41
>高市や舎人ですらなれなかった太政大臣に、
>長屋如きがなれるわけがない。

長屋王の父の高市皇子は持統四年(690)に太政大臣になっています

だから問題は青木氏の言う通り

「王が太政大臣になる可能性があったためだと思う。それも大宝令の
定める形式的なそれではなく、王の父、高市皇子のように、実権のある
ものに。もしこの推測があたっているとすれば、知太政官事の舎人親王が
率先して王の糾問にあたった理由も明快になる。」

と言う、太政大臣に長屋王がなれたかどうかですが

長屋王は令の例外待遇を受けていた存在ですから
青木氏の推測も充分にあり得たと思います

そして長屋王が太政大臣になれば、阿倍内親王や安積親王を
抑えて、最有力な皇位継承者になれたと言えます

それを恐れた聖武天皇や藤原氏は、無実の罪で長屋王を葬るしかなかった
423日本@名無史さん:05/03/16 23:46:20
今さらなんだが長屋王って父方の祖父は天武天皇、母方の祖父は天智天皇というすごい名門な家系だね。
424没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/17 01:18:07
その高貴な血統が長屋王を有力な皇位継承権者へと押し上げた
46才の左大臣(皇孫)、15才の内親王、1才の親王を比較すれば
長屋王にも即位のチャンスがあった

後に62才の大納言だった白壁王(皇孫)が、即位して光仁天皇になった事を
考えれば「長屋王の変」されなければ長屋王の即位はあり得た
425日本@名無史さん:05/03/17 12:18:09
ヲイヲイ、天平初期までは、舎人親王も新田部親王もご健在だぜ。
長屋王自身には少し無理があるだろう。
426日本@名無史さん:05/03/17 12:24:27
>>422
知太政官事にはなれるだろうけど、太政大臣は無理だろう。
427没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/17 12:52:30
>>425
太政大臣に関して

まず新田部親王は母が藤原夫人だから無理
次ぎに舎人親王の場合は、有力な後援者に欠ける上に
54才と言う年齢がネック

その点長屋王は46才で、自分の妻である吉備内親王の同母姉に
元正上皇が居ることが大きい

元正−吉備−長屋のラインで王の太政大臣就任は可能
428日本@名無史さん:05/03/17 12:59:34
>>427
あなた、上の方のレスで、皇子>>>皇孫と言ってたじゃん。政治的背景よりも血だと。
しかもすぐ上で62歳を例に挙げておきながら・・・
429没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/17 13:12:24
長屋王を滅ぼす理由が光明皇后の立后に反対だけでは弱い

確かに光明子の立后は、后は妃(皇族)の中から選ぶという
令の規定に反しているが、長屋王自身が令の規定に縛られて
ない存在だから、光明立后を令の規定を楯に反対することは
自己矛盾きたすから無理でしょう

となると長屋王の滅亡には、別の理由があったと推測できる
それ理由とは、長屋王の太政大臣就任の可能性と
それによる、最有力の皇位継承者になることだと思われる

つまり光明子の立后を、元正−長屋ラインが了承する
見返りとして、長屋王の太政大臣就任を打診すれば
聖武−藤原ラインは光明子の立后断念か
王の太政大臣就任を認めるか、という二択しかなかったと思われ

したがって、無実の罪を捏造するという卑劣な手段を使ってまで
聖武ー藤原ラインは長屋王を滅ぼす必要があった

舎人親王がそれに加担したのは、長屋王の太政大臣就任が
知太政官事たる舎人を超えることになり、それに対する嫉妬
怒り、羨望からだと思われます
430日本@名無史さん:05/03/17 13:22:39
>>421の最後一行も関わることかも知れないので見解プリーズ
スルーしないでねw

>最も大宝律令以降の「太政大臣」とそれ以前の「太政大臣」は性格が違うかモナー
431没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/17 13:25:48
>>428
だからこその太政大臣就任なんですよ
これで皇孫たる長屋王の立場は皇子と互角以上になる
(もともと長屋王は、子女が皇孫になった時点で、事実上は皇子ですが)

それと白壁王(志貴親王の子)は62才で
ライバルの文室浄三、文室大市(長親王の子)の年齢が
それぞれ78才と67才ですから、白壁王より年上です
それと臣籍降下していた点(文室姓)がネックでした
臣籍降下した皇族が天皇になったのは
源定省が宇多天皇に即位した、たった一例だけです

藤原氏は白壁王擁立に動き、吉備真吉備は浄三、大市を
擁立しようと争いましたが、結果は藤原氏側の勝ちで
白壁王が即位、光仁天皇となった訳です
432没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/17 13:30:05
>>430
長屋王家は令の規定に縛られない存在
また光明子の立后も令の規定に反する

元正−長屋ラインと聖武−藤原ラインに妥協点が
あったとしたら、長屋王の太政大臣は令の規定に縛られない
その代償として、令の規定に反してでも夫人の光明子を皇后にする
433430:05/03/17 13:43:05
ううむ、やっぱり書き方がまずかったな。

聞きたかったのは
高市皇子が任じられた「太政大臣」は皇位継承に近づく重要ポストだった可能性がある
のに対し
大宝律令以降の「太政大臣」は基本的に「則闕の官」で
藤原不比等が何回もこれに任じられようとしたが断った形跡もある

ので、もし長屋王がこれに任じられても皇位継承にプラスになる官職ではない様に考えられるのですが。
434日本@名無史さん:05/03/17 13:47:41
>>430
横レスだけど、大宝令前の太政大臣(大友皇子,高市皇子)は、皇太子兼摂政的な性格で、
その後の平城期は、人臣つまり皇太子的な性格を失った太政大臣たる大師・恵美押勝と
皇太子的な性格まで持ち得た太政大臣禅師・道鏡しか例がないく、さらに後の平安期には、
摂政的な性格まで失うので、平城期に皇族太政大臣が実際には登場してない以上、
その判断はなかなか難しいね。
コテハンの人は、自身が否定していた小説的妄想爆発みたいだけど。
435没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/17 14:00:56
令の規定による太政大臣は名誉職であって実権なかったでしょう

だから恵美押勝は太政大臣を大師と名称変更することで
実権をもつ地位へと改変した

そして何度も説明していますが、長屋王およびその一家は令の規定に
縛られていない存在なのです

令の規定に縛られない長屋王が太政大臣に就任すれば
押勝のように名称を変更しなくても、太政大臣が実権を持つ官職へと
なるのは自明の利です
436没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/17 14:04:02
>自身が否定していた小説的妄想爆発みたいだけど。

長屋王家が令の規定から外れていたことは
続日本紀に明確に記述されていますから
そこから類推しているだけです
437日本@名無史さん:05/03/17 14:08:26
立后の見返りの太政大臣打診とか舎人親王の嫉妬とかも類推ですか、そーですか。
438没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/17 14:09:21
長屋王の初叙、正四位上(令の規定通りなら従四位下だから四階超越)
膳夫王の初叙、従四位下(令の規定通りなら従五位下だから五階超越)

完全に令の規定から外れている親子
439没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/17 14:13:08
>>437
これは青木和夫学説を参考に私が類推したものです

私は青木氏の史料操作には反対ですが、前に述べたように
青木氏の長屋王太政大臣就任可能性説は、卓越した説だと考えています
440日本@名無史さん:05/03/17 14:14:12
では、これ以後、小説的妄想=類推ということで。
441没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/17 14:16:54
>>440
史料や学説を根拠にすれば類推
史料や学説を根拠にしないものは妄想
442日本@名無史さん:05/03/17 14:22:59
>>441
>>437の根拠は?王家が令外の扱いだったというのは何の根拠にもならないと思うが?
たとえば、懐風藻でも万葉集でも、長屋王が太政大臣を望んだり、舎人親王が嫉妬したり
というものがあるのかな?
443没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/17 14:30:01
従来の「長屋王の変」が起きた理由の説明

某皇子の死亡と安積親王の誕生で焦りを感じた藤原氏が
阿倍内親王の地位を確固たるものにするために、その母である
光明子を夫人から皇后へと立后する事を画策

しかし大夫人を令の規定に反するという理由で勅を撤回させ
皇太夫人とさせた長屋王が、夫人と立后は令の規定に反すると
反対するだろう

そこで長屋王の存在が邪魔だから無実の罪を着せて排除

しかし長屋王やその一家が、令の規定に反している恩恵を受けているのに
果たして令の規定を楯に光明子の立后に反対できるのかという疑問があった

そこで長屋王の変が起きた理由に、光明立后反対以外の説が出て来るようになった

長屋王の太政大臣就任説はその流れの一貫だと考えてもらいたいものです

他には変の目的は、長屋王ではなく吉備内親王や膳夫王を排除するため
だという説もあります(言わば長屋王はそれに巻きこまれた存在)
444没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/17 14:39:13
>>442
「日本霊異記」は長屋王のことを太政大臣長屋親王と記述しています

この事は青木氏が「奈良の都」(「日本の歴史」3」で取り上げています
ここからは推測ですが、青木氏は「日本霊異記」の記述を参考にして
長屋王太政大臣就任可能性説を考えたと思われます

因みに「日本霊異記」は弘仁十三年(822)に書かれたと言われています
445日本@名無史さん:05/03/17 14:44:53
>>443
だから、>>437の直接的史料が無い以上、偉い先生の妄想に
さらに自分の妄想を上乗せしたってことだろ。

勅命により、女系であれ、吉備内親王所生児は二世王とする。
とした以後は、皇孫として叙位されていくのは、むしろ令に則ったものであって、
十分に皇位継承者たりえたでしょう。
446日本@名無史さん:05/03/17 14:47:49
>>445、日本霊異記て...
あなたは、懐風藻あやふやさを否定なさってませんでしたっけ?
447没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/17 14:48:47
「日本霊異記」は、延暦六年(787)に一旦完成した後
増補を加えて弘仁二年(822)に現在の形になったようです

長屋王一家が令の規定から外れているのは「続日本紀」から
長屋王が太政大臣になる可能性に関しては「日本霊異記」から

両方ともに一応史料から推定していますから類推であっても
妄想とは言えません

史料の裏付けが全然ない事を言い出せばそれは妄想になります
448没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/17 14:52:30
>>446
「日本霊異記」が延暦六年(787)に一旦成立している点
長屋親王と記述された木簡が出土した点を考えると
「日本霊異記」も馬鹿には出来ない史料だと思います
449没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/17 14:55:19
私は676年説を否定していますが、史料に基づいた学説ですから
妄想だとは思っておりません

学説を否定する事と、妄想と決め付ける事では全然意味が違います
450日本@名無史さん:05/03/17 15:03:14
日本霊異記を馬鹿にするつもりはないが、(関係ないが自分は仏教徒だし)
>>437の内容が妄想ではなく、説ねぇ・・・まぁ主観の違いみたいだから。
451没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/17 15:05:02
>>445
だから令の規定を勅命変更できるのなら
(現に長屋王は初叙は正四位上、膳夫王は従四位下)

それと同じことを光明子立后にも適応できるから
長屋王が反対する理由はなくなるでしょう

それなら光明子立后に反対するという理由で
長屋王を排除するという動機がなくなりますね
452没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/17 15:07:58
>>450
「日本霊異記」という書物に太政大臣長屋親王と記述されてなかったら
青木和夫氏も、長屋王の太政大臣就任可能性説は考えなかったでしょう
史料に裏づけされない事を言い出したら、それは学説ではなく妄想ですから
453没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/17 15:09:54
「王が太政大臣になる可能性があったためだと思う。それも大宝令の
定める形式的なそれではなく、王の父、高市皇子のように、実権のある
ものに。もしこの推測があたっているとすれば、知太政官事の舎人親王が
率先して王の糾問にあたった理由も明快になる。」

『奈良の都』(中央公論社『日本の歴史』3)
454日本@名無史さん:05/03/17 15:13:26
>>451
天皇は、令に束縛されないし、令を制定する側だからね。
死後のことだから、長屋王が光明子立后に反対した事実もないけどね。
これを理由に長屋王を亡き者にする動機ならないことはたしかだ。

ついでだが、宮子関して、長屋王は、
大夫人にしてしまうと、「皇」の文字が無くなってしまいますよ。
(あった方が良いのではないですか?)と勧めてるだけ。
455没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/17 15:30:52
>>454
ご指摘の通り、大夫人、皇太夫人問題における長屋王の奏上は
むしろ宮子の権威を高めるものだと思われます

皇族ではない宮子が、皇という肩書きを持つ存在になる訳ですから
456日本@名無史さん:05/03/17 15:41:23
>>455
いや、皇族ではなくとも令に皇太夫人はあった(らしい)
后,妃,夫人所生の親王が即位した場合、それぞれ、皇太后,皇太妃,皇太夫人と。
で、長屋王は、勅の大夫人より令の皇太夫人の方が良くね?と。

繰り返しのなるが、膳夫王が皇孫となってしまった以後の叙位は、
あくまでも令に従ったものと思われる。
457日本@名無史さん:05/03/17 16:32:11
>>452
「贈」太政大臣の可能性はないの?
現職左大臣が冤罪で死んだのだから、名誉回復のために上の官職を贈るとすれば太政大臣以外にないのだが。
458没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/17 17:03:58
>>456
安宿王は天平九年に令に規定通り、初叙は従五位下を授けられたけど
同年中に従四位下と五階も超越した位を授けられた

黄文王は同じく天平九年に、初叙で従五位下を授けられたけど
二年後の天平十一年に五階超越して従四位下が授けられた

山背王は天平十ニ年の初叙で、令の規定から五階も超越した
従四位下が授けられた

上記の点から見て、長屋王の死後も、その子たち(藤原長娥子所生)には
令の規定を超えた特別の待遇が与えられていた
459没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/17 17:09:47
>>457
その可能性はあります
菅原道真も「贈」太政大臣になっていますから
460日本@名無史さん:05/03/17 19:11:33
>>458
吉備内親王や藤原夫人所生児以外にも高位の叙位を受けた王,女王がいたようですが、
そのそれぞれの王,女王に対する叙位が令外の措置と考えるより、
長屋王自身一人をが親王(扱い)であったと考えれば、全て令制内の話となります。
木簡という超一級の同時代材料に「親王」とあるわけですし。

正史などの史料上にはみられない、後世の親王宣下のようなものがあったのか、
はたまた、高市皇子は称制天皇に近い状態だったのか、上述の根拠を材料にすれば、
それこそいくらでも”類推”をはらませることができます。
461没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/17 21:10:31
確かに長屋王自身が親王待遇を受けていたとすれば
その子女の叙位は令の規定通りになりますね

長屋王邸から「長屋親王」「長屋皇子」と書かれた木簡が出土して
ますから、長屋王に対しては皇孫である「王」(おおきみ)ではなく
「皇子」「親王」(みこ)という認識があったのでしょう

長屋王本人が令の規定を超えた存在で、その子女は令の規定内に
あったと言う見解に賛成致します

そしてご指摘の通り、長屋王が後皇子尊、太政大臣高市皇子と
元明天皇の同母姉妹である、御名部内親王の長男として生まれた事が
そのような優遇を受けた最大の理由でしょう
462日本@名無史さん:05/03/17 21:32:10
そこで>>58のことなんだが

鈴鹿王は長屋王の同母弟でしたっけ?
463没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/17 21:48:58
>>462
鈴鹿王の母に関しては、公卿補任、尊卑分脈とも記述されてません
そこから推測して鈴鹿王は、御名部内親王の子供ではないと思います

高市皇子には御名部内親王の他に、但馬内親王(天武皇女)が妻だった事が
万葉集から分かりますから、鈴鹿王はその但馬の子だった可能性があります

もしかしたら鈴鹿王は系図上は高市の子供でも、実際は穂積親王の
子供だったかも知れません
464日本@名無史さん:05/03/18 00:23:54
もう親王がいなくなってきたとか長屋王の変後の諸事情とかいろいろあったろうけど、
あまたいる諸王の中から知太政官事にまで上り詰めてる鈴鹿王も貴種中の貴種だな。
465没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/18 00:52:18
出土した長屋王邸木簡の中に鈴鹿王の名前がなかったのは
長屋王と鈴鹿王は兄弟でありながら案外疎遠だったからかな
まあ母違い、父違いなら結婚が出来た時代だから、母が違えば
他人と同じなのか

母違いなら
高市皇子&但馬皇女(父は同じ天武天皇)
藤原不比等&藤原五重百(父は同じ藤原鎌足)
父違いなら
橘諸兄と藤原多比能(母は同じ縣犬養三千代)

が、結婚出来る時代だし
466没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/18 01:20:53
長屋王の変に関して私と寺崎氏の最大の違いは

寺崎氏は676年説だから「長屋王の変」の時に王は54才
年齢から見て即位の可能性がなく、息子膳夫王に即位の可能性があったとしている

私は684年説だから「長屋王の変」の時に王は46才
年齢から見て即位の可能性があり、父である長屋王は存在から
息子の膳夫王に即位の可能性はなかったと考えています

私もこのスレの初めの頃は長屋王ではなく、膳夫王に即位の可能性が
合ったと考えていましたが、46才の父を押し退けて息子が
皇位継承権者になる事はあり得ないと考えを改めました

>但し、聖武の後継者が阿部内親王、安積親王、膳夫王の場合
>それぞれに一長一短があって難しい
>それで長屋王と膳夫王を潰すことで、光明子立后の道筋作りと
>皇位継承権者を消したと言うのが「長屋王の変」の真相でしょう

従って、上記の見解のうち、膳夫王に関する部分は全面的に撤回致します
467没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/18 01:29:39
>>466
更に長屋王が光明立后に対する反対勢力という点も撤回します
光明が皇后となっても長屋王が太政大臣になれば
長屋王の皇位継承権者としての地位に揺るがないと考えを
改めたからです
468日本@名無史さん:05/03/18 17:27:29
>>417>>435
矛盾するように考えます

貴説に寄れば長屋王の太政大臣就任=長屋王を皇太子格にする
と読みとれます。
>>417と矛盾しませんか?
それとも元明天皇の死後に長屋王は天皇になる野望を持つようになったとお考えですか?
469没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/18 18:12:50
聖武天皇が生まれたばかりの基親王を立太子させました

その皇太子を、大納言多治比池守が百官を率いて拝しに行きました
しかし続日本紀には、長屋王が皇太子を拝しに行ったという記述が
ありません

そもそも生まれたばかりの皇子の立太子など前代未聞の事で
太政官の首座である、長屋王が皇太子を拝しに行かなかったのは
それに対する暗黙の抗議でしょう

この時点から、聖武天皇&藤原氏と元正上皇&長屋王は
対立関係になったと考えています
470没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/18 18:30:15
続日本紀には、元正上皇が皇太子を訪ねたという記述もありません
つまり元正上皇も、基皇子の立太子に不快感を持ったと推測できます
その点で元正上皇と長屋王は同じ立場にあったと思われます
471没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/18 18:59:48
神亀五年八月一日条

朕は思うところがあり、この頃、鷹を飼うこと気がすすまない。
天下の人もまた鷹を飼わないようにすべきである。
後に勅があるのを待って、それから飼うようにせよ。
もし違反者があったら違勅の罪を科せ。
このことを天下に布告して、皆に承知させよ。

聖武天皇は、自分が鷹を飼いたくなくなったから、鷹を飼うのは
基本的に禁止、どうしても飼いたければ天皇の勅を待ってからにしろ
と、とんでもない勅命を下しました

自分の個人的感情を、勅を持って他者の押し付ける人間に
果たして帝王たる資格があるのか。

長屋王は、このような自分勝手な聖武天皇に絶望していたのかも
472日本@名無史さん:05/03/18 19:23:52
>>471
それは聖武天皇の仏教信仰+某皇太子の病気との関係が指摘されている条ですね。
聖武の自分勝手とは言えないのではないでしょうか。

長屋王はどう思ったか分かんないけど。
473没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/18 19:25:12
長屋王には、聖武廃帝というような意志はなかったにしても
自分が皇族太政大臣になる事で、有力な皇位継承権者となり
聖武天皇にプレッシャーを与え、聖武の勝手気ままな性質を抑えようとした
可能性はあったと思われます
474没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/18 19:30:47
>>472
自分の子の病気回復の為に、鷹を飼うのを止め殺生を控えるというのは
理解できますが、勅を以って他者にそれを強制する事は帝王たる徳を
失ったと思われます

この条を読んだ時に、私は徳川綱吉の生類憐みの令を思い出して苦笑しました
475没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/18 21:12:50
続日本紀を読んで感じた事は、文武、元明、元正の三代の治世においては
政変・政争が起きなかったのに、聖武、孝謙、淳和、称徳、光仁、桓武の六代の
治世は政変・政争が頻繁に起こったという事です

長屋王の変(729年)
藤原広嗣の乱(740年)
塩焼王配流(742年)
道祖王廃太子(757年)
橘奈良麻呂の乱(757年)
藤原良継の変(763年)
藤原仲麻呂の乱(764年)
和気王の変(765年)
不破内親王巫蠱事件(769年)
道鏡皇位覬覦事件(769年)
井上皇后・他戸皇太子廃后・廃太子(772年)
氷上川継の変(782年)
早良皇太子廃太子(765年)

これは、文武、元明、元正、三天皇の治世が比較的公正・公平に
行なわれていた事に対して、聖武天皇以降の治世が不正と不公平で
行なわれていた事の明確な証拠になります
476没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/18 21:14:28
>>475
早良皇太子廃太子(765年)×
早良皇太子廃太子(785年)○
477没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/18 21:18:39
>>475
淳仁天皇廃帝(764年)
478日本@名無史さん:05/03/18 21:28:44
>>474
そんなことをいったら、天皇や将軍などの薨去の際、
民間に数日歌舞音曲を禁止したりする命令も
江戸時代まで出ていますが
帝王たる徳を失う行為ですか?

その程度の配慮は、当時としては常識の範囲内では
ないのでしょうか。
479没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/18 21:44:54
>>478
皇子の薨去後に一定期間鷹狩を禁止すれば言いだけで
病の時に鷹狩ではなく鷹を飼うこと自体、基本的に禁止する天皇に
帝王としての徳があったとは思えない

他にも聖武天皇は無理な采女の増員・大量徴発を命令して
女儒らの意向を受けて、中務卿の塩焼王が反対した事に激怒
塩焼王や5人の女儒を配流するとは恣意的すぎる

聖武天皇と孝謙天皇親子が、如何に恣意的で出鱈目な天皇だったかは
続発した政変が、何よりも明確に我々にそれを示してくれています
480日本@名無史さん:05/03/18 21:54:12
高説に寄れば長屋王一族を令の規定に反して厚遇していたという
元明・元正の治世が 公平・公正 といわれてもねえ(w

確か最初の固関は元明が死んだときではなかったですか?
ちょっと記憶に自身がない上に、良い資料が出てこないので当てずっぽうで書いていますが。
481没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/18 22:04:36
聖武天皇に関して言えば、藤原広嗣の乱が起きた時に
伊賀、伊勢、美濃、近江を放浪

また、都を恭仁宮、紫香楽宮、難波宮と転々と変えたりとか

はっきり言って、不安神経症か強迫神経症のような
心因性の精神障害を発症した思えない行動を取っている

これで聖武が徳のある天皇だと言われるのならお笑い草です
482没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/18 22:15:43
>>480
元明・元正の治世では聖武以降に頻発した政変は起こりませんでした
つまり長屋王の優遇は諸官が納得するところだったからでしょう

しかし玄ボウ、仲麻呂や道鏡に対する優遇は政変を引き起こす
問題となったのですから、諸官が納得しなかったのでしょう

この違いは非常に大きい
483日本@名無史さん:05/03/18 22:25:00
>>479
塩焼王については遷都問題や皇位継承問題などの絡みもあったようだが…。

>>478
更に16年前に我々だって自粛ブームを思いっきり体験しているわけだが。
484日本@名無史さん:05/03/18 22:25:34
ここは2chだから別に何を書いてもかまわないのだが、
歴史的事象を検討する際に、登場人の感情によるところを多用なさるのは、
学問ではなく、明らかに小説的解釈ですよ。
(感情を表現した歌や詩を解釈する場合は別ですが)

また、当時の貴人達の仏教に基づいた種々の対応は、
現代人の感覚では推し量るのは極めて困難ですよ。
(聖武に徳があるとは思いませんがね)
485日本@名無史さん:05/03/18 22:33:36
>>483
16年前のことは、あくまで国民の自発的な”自粛”ですからね。
政府が禁止令を出したわけでもないし、
レンタルビデオ屋が大盛況だったという事実もあるし。

486没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/18 22:37:44
>>484
青木和夫氏も『奈良の都』『「日本の歴史」3』の中で
聖武天皇のことを「伊勢神宮へ祈願のためかと思うと、途中で十日も
一ヵ所に滞在したり、“遊猟”までしている。気が知れないのだが、
あるいはノイローゼを起こしたのかも知れない」と記述しています

ノイローゼ=神経症=心因性の精神障害

青木氏の長屋王の没年齢には反対ですが、聖武天皇に対する
評価には納得がいきます

それに自分の子が病気の時には鷹を飼うことを禁じた聖武が
藤原広嗣の乱の最中に遊猟に及ぶとは、本当に信じがたい暗愚ぶりです
487没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/18 22:39:49
>>483
我々の自粛は強制ではなかったが聖武の行ないは
勅を振りかざしての強制!
488没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/18 22:47:22
>>483
遷都問題や皇位継承問題で、女儒(後宮の女官)まで配流された
のは何故でしょうか?

女儒まで罪を科されたところ見ると、基本的には後宮の問題でしょう
489没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/18 23:07:36
文字でのコミュニケーション故の、きつい表現になった点はお詫び致します
490アンチkorea:05/03/18 23:20:48
長屋王は天皇になるべきだった。元明も元正もそれを望んでいたのだ。
491没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/19 09:38:56
聖武天皇には恣意的で自由放埓なところがあったから
長屋王が皇族太政大臣となり、有力な皇位継承権者として
聖武を強く戒める必要はあったと思います
492日本@名無史さん:05/03/19 11:22:36
>>488
後宮通じて裏工作…というのもありえるが、自分の娘婿を流すほどの大事件で不破も連座したのだから原因を一つと決め付けるのも不可解。
493日本@名無史さん:05/03/19 12:26:08
長屋王の末裔は現在の皇室の血統には入っていないの?
494日本@名無史さん:05/03/19 12:30:42
>>493
長屋王後裔の高階氏の娘・高階貴子が藤原道隆正室となって藤原定子を産む
定子は一条天皇の寵愛を受け皇子1人・皇女2人を産む

道隆死後、藤原道長一族に押されて道隆一族は零落
皇子、皇女1人は夭折、皇女1人も結婚できず
定子も傷心のまま若死にする。

結論
おそらく現在の皇室に長屋王の血は入ってないのではなかろうか
495没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/19 12:54:33
>>492
確かに原因を一つに決め付けるのは間違いかも知れません
496日本@名無史さん:05/03/20 00:26:43
もし長屋王が天皇になっていたとしたらどんな政治をしていたのだろうか?
少し気になったりする。
497名無しの古参 ◆VpKHzOu04Y :05/03/20 00:28:58
このひとはどんな人物なの?
498日本@名無史さん:05/03/20 00:47:46
長屋の大家です
499没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/20 01:29:58
>>496
長屋王が右大臣として台閣の首班になってから政変によって
死に負い込まれるまでの9年間の政治の延長戦上でしょう

長屋王政権で一番大きな政策は、三世一身法の制定
新しく開墾した土地に関しては、三世代まで私有を認める法律

この政策に関しては、律令体制の根幹である公地公民制を
崩す切っ掛けになった政策だと批判的に見る学者
逆に原則に囚われずに、実状に対応する現実的で柔軟な政策と
評価する学者とに分かれています

人事に関しては、武智麻呂、房前の2名を議政官に輩出した藤原氏
以外は、各氏族一人ずつを台閣の議政官に据え、藤原仲麻呂のように
台閣を身内で固めたような恣意的な人事は行っていません

以上の点から言って、長屋王が天皇に即位していたら奈良朝で
続発した政変は起こらなかった可能性が高いと言えます
500日本@名無史さん:05/03/20 09:02:53
>>499
要するに、55年体制あたりでよく自民党にいた
派閥バランス人事重視の比較的保守的な政策を実施した政治家という
認識ですか?(悪気があっていってるわけではないです)

そういえば光明氏立后に反対なら皇族から后を立てればいいんですよね。
聖武のピンチヒッター役にもなれるし。
藤原氏は反対でしょうが。だれか候補はいたんでしょうか。

501没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/20 11:43:04
皇后は原則として、妃(皇女=内親王)の中から選ばれるのですが
聖武天皇には妃がいませんでした

また、聖武の年齢に釣り合う内親王がそもそも居なかったようです

そして、皇孫である女王の場合は妃ではなく夫人になるようです

その場合は光明子と同じ立場ですから、藤原不比等の娘である
光明子の立后の妨げにはならないと思われます
502日本@名無史さん:05/03/20 12:22:57
別に律令的に皇后がいなくても問題はないだろう。
503没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/20 12:51:27
令的には皇后がいなくても問題はありません
文武天皇にも皇后は居ませんでしたから

ですから光明子立后からは政治的意図が感じられます
光明子は立后当時29才で、新たに皇子を産む可能性は低くなりました
(最後に光明子の産んだ皇子は夭折した基親王)

となると光明子の子は阿部内親王だけになりますから
縣犬養広刀自夫人が産んだ、安積親王に対して皇位継承で有利な立場に
立つためには、光明子の立后によって、阿部内親王に皇后所生の皇女という
付加価値をつける必要があったと思われます
504日本@名無史さん:05/03/20 13:30:23
ついでに武智麻呂の娘も男子は生まなかったしな。
505日本@名無史さん:05/03/20 14:36:05
房前の娘モナー
506藤原武智麻呂:05/03/20 22:13:19
>>505
オマエモナー
507没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/21 01:24:33
令の規定
妃は定員は二人で四品以上の、内親王から選ばれる
夫人は定員は三人で三位以上、諸王、諸臣の娘から選ばれる
嬪は定員は四人で五位以上、諸王、諸臣の娘から選ばれる

これに対して、皇后に関しては令に出自の規定なし

従って光明子の立后対して、法的に反対する余地がないから
光明子立后が、長屋王の変の原因とは基本的になり得ない

やはり長屋王の変の原因は、王の皇族太政大臣(皇太子待遇)就任を
防ぐことにあったと思われる
508没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :05/03/21 01:41:33
聖武天皇の妻達

皇后、藤原光明子
妃、無し
夫人、藤原武智麻呂の娘、藤原房前の娘、縣犬養広刀自
嬪、橘佐為の娘?
509日本@名無史さん:2005/03/21(月) 09:42:11
>>507
長屋王の派閥と、聖武帝・藤原氏や舎人親王などは仲が悪かったと発言されていますが
それなのに長屋王が太政大臣に就任できるような環境だと思われる根拠は何ですか?

聖武帝に帝王としての徳に欠ける行為があるとして、強引に帝位譲位を最終目的としての
太政大臣就任を長屋王側が目指すことが出来た(朝廷内での支持が大きかった)ということですか?

天皇と仲が悪いのなら、そもそも現状の地位より出世が目指せるとは思えないのですが。
510没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/21(月) 11:39:29
>>509
元正上皇の支持
元正にとって長屋王は従兄弟であり義理の弟(妹吉備の夫)
511日本@名無史さん:2005/03/21(月) 12:19:31
スレとは直接関係ないが本日の朝から曜日が付きだしたぞ。
512日本@名無史さん:2005/03/21(月) 12:25:17
曜日がつくのはいい事じゃ。
人権保護法なぞ糞くらえ。

長屋王は后を皇族からと主張したんだよね。
元正天皇が即位する前は恋仲だっららしいが。
513没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/21(月) 12:28:18
議政官で長屋王の支持者は中納言の大伴旅人
王の父高市皇子と大伴氏は壬申戦争において上司と部下

壬申戦争では名門氏族の蘇我氏、中臣氏、巨勢氏、紀氏が
近江朝側だったのに、大伴氏は天武側として参戦
そしてその天武軍の最高司令官が高市皇子
514日本@名無史さん:2005/03/21(月) 12:38:44
>>512
女帝の多い時代だから臣下と天皇が恋仲になることが奈良時代は結構多いな。
長屋王しかり藤原仲麻呂しかり道鏡しかり。

515日本@名無史さん:2005/03/21(月) 13:02:20
>>508
長屋王とは直接関係ないがこれは違うでしょ
>嬪、橘佐為の娘?
橘佐為の娘・橘古那可智は夫人。
『続日本紀』にも記載されていると思うが。
516日本@名無史さん:2005/03/21(月) 13:05:11
変の原因は、単純に、長屋(親)王および膳夫王兄弟には皇位継承権があり、
さらに、皇位継承を左右しうる権力をも持ち併せていたことが主因。
これは、本人の皇位継承意思の有無には関係がなく、事実である。
もちろん、その他細かな要因が複雑にからまったものだと思われるが、

史実上、長屋王は、立后に対して何も語っていないし、まして、
太政大臣就任を匂わせたことなどはない。

皇位継承権保持と根を同じくするとはいえ、太政大臣路線を既定のごとく述べ、
それ以外の長屋王の変の要因の可能性は低いなどど論ずるのは、
立后反対が原因であると論ずるのと全く同じであり、詭弁である。


517没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/21(月) 14:30:13
>>516
まず長屋王太政大臣就任可能性説は「日本霊異記」の
太政大臣長屋親王という記述および、青木和夫氏の説を
私も支持するという事です

光明子立后に関して、反対する法的根拠がない以上
光明子立后を、長屋王の変の原因とする従来の学説には疑問あり

その上、台閣の首班たる左大臣を、誣告を採用してまで潰すのに
抽象的に皇位継承を左右する力を持っていたという理由だけでは
不充分だと思われます

従って実質的に皇太子待遇である、皇族太政大臣への長屋王就任を
阻止することが長屋王の変と目的だと考えられる
518没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/21(月) 14:38:23
>>515
令の規定では夫人の定員は3人だから、武智麻呂の娘、房前の娘
縣犬養広刀自、橘佐為の娘の4人だと、規定の定員を超えてしまいます
となると4人の中の誰かが先に死んで、その代りに後から補充された
夫人が居たのかも
519日本@名無史さん:2005/03/21(月) 15:06:19
>>517
霊異記のは偉人に対する尊称の意味も含まれているだろ。
青木説・・さすがに40年も前の刊行本は史料扱いですか?

「太政大臣・親王であった」と記述する史料を見て、
太政大臣になる可能性があったと解釈するのはいかがなものでしょうか?
仮に太政大臣・親王であったならば、それはまぎれもない皇位継承権者なのであります。

皇位継承を左右する力が理由では不十分だと思うのは、
あなたの主観でありますから、その旨を併記した上で論じられるべきでは?
公式の理由は「国家転覆」であり、
「朝政を聴」いていた大津皇子が同様の「謀反」を理由にヤられたのは、
当時としては、まだ鮮明に記憶に留めていることだと思いますが?
520日本@名無史さん:2005/03/21(月) 15:19:51
一応は聖武天皇には安積親王もいるのに、それを考慮もせずに長屋王が太政大臣になることは藤原氏からもその反対派からも受け入れられるとは思えないのだが。
521没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/21(月) 16:53:47
>>519
皇位継承権者というなら、舎人親王や新田部親王も皇位継承権者です
その中で長屋王が標的にされたのは、王が皇族太政大臣として
最も有力な皇位継承権者になる事を、藤原氏が警戒したからだと
考えております

次に長屋王に対する密告は、誣告であったと正史が認めている以上
長屋王に「国家転覆」を行なおうとした事実はなかったということです
522没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/21(月) 17:03:08
>>520
草壁皇子の子である珂瑠王が存在したのに
長屋王の父である高市皇子は太政大臣になりました
つまり高市皇子の系統は太政大臣になれる系統だと言えます
523日本@名無史さん:2005/03/21(月) 18:38:11
長屋王の変の原因について

<根拠>
・後世の日本霊異記に太政大臣・長屋親王とある。
・青木氏が言っている。
・他の原因では不十分。

<結論>
・長屋王の太政大臣就任を阻止するためであった。


                       ・ ・ ・ ・ ・ ・
ハァ?長屋王が太政大臣になろうとしたという根拠がチンプンカンプンなんですが。

524日本@名無史さん:2005/03/21(月) 18:49:47
>>521
729年の「その時」に於いては「国家転覆」はまぎれもない事実とした公式発表。
事実ではなくなるのは、事件後のこと。
525没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/21(月) 19:08:21
>>524
初めから「国家転覆」は事実ではなかった
526日本@名無史さん:2005/03/21(月) 19:12:30
>>525
おまえアホか?
「その時」には真偽は別として公式的に事実だったから
衛士が王家をとり囲んだんだろが。
527没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/21(月) 19:13:20
長屋王が太政大臣になろうとした根拠は推定するしかありませんが
自分が皇位継承者の中で最有力者になることで、基親王の時のように
安積親王が乳児で立太子する事や、女性である阿部内親王の立太子を
防ぐためだと考えております
528没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/21(月) 19:16:11
公的には事実とされても真実ではない
聖武天皇が藤原氏に騙されたのか、聖武自身嘘と知りながら
共犯者になったかは不明ですが
529日本@名無史さん:2005/03/21(月) 19:17:05
ほぅ、太政大臣になろうとしたというのは推定なのに、
変の原因には随分と断定的なんだな。
530没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/21(月) 19:17:22
初めから「国家転覆」は真実ではなかったw
531没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/21(月) 19:25:06
通説の光明子立后反対説では、長屋王の変の原因にはなり得ないから

妃の出自に関しては、四品以上と皇女(内親王)規定されているのに
皇后に関しては、その出自に関しての規定がない
したがって、夫人が立后する事の妨げはない事になる

つまり光明子の立后を、長屋王が反対する法的根拠がない以上
光明子の立后問題を「変」の原因とするには無理がある
532没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/21(月) 19:26:18
>>531
四品以上と皇女(内親王)×
四品以上の皇女(内親王)○
533日本@名無史さん:2005/03/21(月) 19:30:43
あ、ちなみにオレ516ね。
立后問題なんて関係ないんだけど。

太政大臣になろうとしていたと推定。

変の原因は太政大臣就任を阻止するためだ!

推定の上に推定を重ねていませんか?
534没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/21(月) 19:42:39
「わたくしは、王が太政大臣になる可能性があったためだと思う。それも大宝令の
定める形式的なそれではなく、王の父、高市皇子のように、実権のある
ものに。もしこの推測があたっているとすれば、知太政官事の舎人親王が
率先して王の糾問にあたった理由も明快になる。」

『奈良の都』(中央公論社『日本の歴史』3)

上記の青木和夫氏の見解に、私は賛成しています
青木氏の676年説には反対ですけど、長屋王の変の原因に関しては
青木氏の見解が正しいと考えています
535日本@名無史さん:2005/03/21(月) 19:47:29
>>534
また同じことを何度も何度も。無限ループに逃げ込みましたね。
>>523に戻る。
536没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/21(月) 19:50:37
>>533
それ以外に「変」の原因が考えられないからです

光明子立后反対を「変」の原因とするには、皇后の出自に関して
令に規定がないことを考えると無理があります

光明立后が「変」の原因になり得ないのなら、他に原因を求めるしか
ありませんが、長屋王の太政大臣就任阻止というのが「変」の原因だと
思われます
537没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/21(月) 19:52:22
青木氏の太政大臣就任説以外に、長屋王の変の原因があるのなら
逆に教えて頂きたいと思います
538没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/21(月) 19:57:09
>>537
青木氏の太政大臣就任説×
青木氏の太政大臣就任可能性説○
539日本@名無史さん:2005/03/21(月) 20:03:12
>>537
>>516にある通り、
・長屋(親)王,膳夫王兄弟ともに皇位継承権があった。
・父祖から引き継いだものに加え、左大臣、台閣首班としての権力があった。

聖武の次世代に藤原系を残すのに対して十分な脅威です。
当時、血統と権力の両者を持ち合わせる対者が他にいましたか?
親王の生き残りが持つ権力は藤原のもの。
当然、権力を持つ藤原には皇位継承権がない。
540日本@名無史さん:2005/03/21(月) 20:08:23
539に追加。
他に原因が見あたらないからといって根拠薄弱なものとはいただけないし、
根拠薄弱な部分を突いているのに、代案を求めるのは話のすり替えですよ。
541日本@名無史さん:2005/03/21(月) 20:13:52
>>537
光明子立后が令の規定に反しない(規定されていない)から即OKとはいえないのでは?
規定にないならどうするか議論がされるでしょう。(一応律令国家だし)
聖武天皇が気に入ったらその辺の百姓娘が皇后にはなれたりはしないでしょう。
皇族以外から選択されるという前例がないですからね。

藤原氏だって、鎌足・不比等の2代で地位を築いた、
他の名門氏族からみれば成り上がりものだし。

現代だって紀宮さまの相手である黒田氏の出自に関心を持つ人がいるくらいだし。
542没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/21(月) 20:31:06
左大臣では台閣の首班というだけで限界があります

現に長屋王は左大臣であっても、聖武天皇の基親王(乳児)
立太子を阻止できませんでした

したがって、父の高市皇子と同じく、皇族太政大臣となって初めて
天皇の立太子を防げると考えられます

高市皇子が太政大臣在職中に、持統天皇が珂瑠王の立太子を
行なわなかったのは、皇族太政大臣が皇太子と同等であり
持統が高市に遠慮したからだと推定できます

ですから長屋王が皇族太政大臣になれば、その在職中に
阿部内親王や安積親王が立太子する可能性が消えると思われます

聖武天皇は自分の子女の立太子、藤原氏は阿部内親王の立太子を
自由に行なうためにも、長屋王の太政大臣就任だけは防ぎたかった

これが長屋王の変が起きた原因だと考えています
543没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/21(月) 20:37:33
>>541
光明子の立后は、これまでの皇族皇后の慣習から外れますから
もちろん議論の対象にはなると思われますが、令が皇后の出自を
規定してない以上、藤原夫人の立后を止めることは不可能だと思われます
544没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/21(月) 20:39:31
皇族太政大臣となって初めて天皇の立太子を防げると考えられます×

皇族太政大臣となって初めて、聖武天皇が行なう立太子を
防げると考えられます○
545日本@名無史さん:2005/03/21(月) 20:42:03
542
>高市皇子が太政大臣在職中に、持統天皇が珂瑠王の立太子を
>行なわなかったのは、皇族太政大臣が皇太子と同等であり
>持統が高市に遠慮したからだと推定できます

>ですから長屋王が皇族太政大臣になれば、その在職中に
>阿部内親王や安積親王が立太子する可能性が消えると思われます

息子の病気快癒のため、鷹狩前面禁止できるような不徳ながら強権の帝王なのに
有力皇族の太政大臣がいるだけで自分が求める立太子を諦めざるをえないの?

546日本@名無史さん:2005/03/21(月) 20:46:15
>>542
聖武本人という前例がある以上、夫人腹とはいえ、
親王の立太子に反対する理由は何もない。
そして、変のあった時点で藤原腹の親王はいない。
従って長屋王家は、聖武次世代に藤原系を残す脅威となる。

長屋王が太政大臣になろうとした根拠が薄弱である以上、
それを基にしたネタには、オモシロネタという以上の意味はない。
547没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/21(月) 20:51:13
それだけ皇族太政大臣というのは重いという事の現れです

大津皇子を葬るのに躊躇しなかった持統天皇でさえ
高市皇子が太政大臣として睨みを利かせている間は
孫の珂瑠王の立太子が行なえなかったのがその証拠となります

持統でさえ出来なかった事を聖武が出来るとは思えません
548衣笠宮:2005/03/21(月) 20:51:57
聖武天皇&光明皇后は立派なひとだったと、小中学校では習ったが
イメージが随分違うんだな。東大寺の大仏だって長屋王のたたりから
逃れるために作ったって説もあるし....
549没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/21(月) 20:55:40
左大臣では天皇が行なう立太子を反対できない
しかし太政大臣なら、その存在のために天皇は
自由に立太子が行なえない

持統天皇、高市皇子、珂瑠王の関係から、そう推測する事が可能です
550日本@名無史さん:2005/03/21(月) 20:56:18
>>547
だからそれは長屋王が太政大臣になろうとしていたという前提にたっているでしょ。

太政大臣になろうとしていたという根拠は?
551没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/21(月) 21:00:49
>>548
藤原仲麻呂があれだけ権勢をふるえたのは、光明皇后の後楯が
あったからですから

皇后没後、わずか四年で、大師藤原仲麻呂(恵美押勝)とその一族が
滅亡したところを見ると、仲麻呂の権力基盤が光明皇后にあった
と言えます
552日本@名無史さん:2005/03/21(月) 21:02:11
光明皇后って風呂場で坊さんとセクースしたんでしょ?
姦婦じゃん
553没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/21(月) 21:03:36
左大臣では防げなかった、聖武天皇の恣意的な立太子を防ぐためには
父の高市皇子と同様に、皇族太政大臣になる必要があった
554日本@名無史さん:2005/03/21(月) 21:10:29
>>553
親王の立太子には反対する理由なぞないだろう。
高市皇子は左大臣であった経験はないのだから、
左大臣では「親王以外」の立太子を防げない、という根拠もないし、
いまだに、長屋王が太政大臣になろうとしていた根拠もでてこない。
555没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/21(月) 21:21:53
>親王の立太子には反対する理由なぞないだろう。

長屋王が基皇太子の元に出向かず、代りに大納言多治比池守が
百官の史生を率いて、皇太子を拝したのところから見て
長屋王は乳児の立太子に反対だったと言える
556没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/21(月) 21:25:39
乳児や女子の立太子を防ぐには、長屋王自体が皇族太政大臣となり
皇太子同様の存在になる他に方法がなかった

それが聖武天皇や藤原氏の利害とまともに衝突する事となり
長屋王の変が勃発した
557日本@名無史さん:2005/03/21(月) 21:30:14
>>555-556
また推定ですか。
・長屋王が基親王立太子に反対したが防げなかった。
・長屋王が太政大臣になろうとしていた。

史料等を示して客観的な根拠をご教示願います。
558没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/21(月) 21:36:30
史料が豊富だった長屋王の生年684年、没年齢46才説と比べると
長屋王太政大臣就任可能性説は、史料は「日本霊異記」の
太政大臣長屋親王という記述だけだから弱い

長屋王太政大臣就任可能性説は撤回です
559日本@名無史さん:2005/03/21(月) 21:43:00
実際、夫人腹である聖武自身を肯定した長屋王政権なんだから、
夫人以上所生の親王には反対しなかったと思うよ。(安積であったとしても)

藤原腹の親王がいなかったから、王(と王子)自身が皇位継承権を持ち、
左大臣という力も持つ王家が脅威になったのだろうから。
560日本@名無史さん:2005/03/21(月) 21:54:50
>>555
仮に実際の立太子の時点で長屋王が基王の立太子に反対だったとしても、それは基王がまだ嬰児だから反対なのかそれとも同人が仮に成人したとしても家柄その他の理由で反対だったのかは何とも言えないだろう。
(そして、後者を理由に立太子に反対する事は今上である聖武を否定することになるのだから、単に前者の単に「基王が幼すぎる」という意味での反対だったとしか思えないのだが)
561日本@名無史さん:2005/03/21(月) 22:24:28
>>549
>左大臣では天皇が行なう立太子を反対できない
>しかし太政大臣なら、その存在のために天皇は
>自由に立太子が行なえない
>
>持統天皇、高市皇子、珂瑠王の関係から、そう推測する事が可能です

そもそも、持統天皇が立太子を決定できなかった理由が高市皇子が太政大臣だったからという
根拠はなんですか?

高市皇子の経歴からくる権威が原因なら、太政大臣という地位は関係ないでしょう。
例えば高市皇子が左大臣だったとしたら、
高市の存在に関係なく珂瑠王の立太子をは可能だとお考えなのですか?

皇族太政大臣は他の役職と大きく違うと考えておられる理由がよくわかりません。
562日本@名無史さん:2005/03/21(月) 22:33:11
>>561
横レスだけど、
大友皇子の時にできた太政大臣は、高市皇子の時までは、皇族のみに許された、
実質的には皇太子兼摂政。
その後、不比等への贈太政大臣,大師・恵美押勝,太政大臣禅師・道鏡と
どんどん太政大臣が劣化していき、
平安期には、今上外祖父へ形式的に与えられるようになってしまう。
563没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/21(月) 22:34:45
私も長屋王が家柄で、基親王の立太子に不満を持ったとは思いません
聖武天皇も藤原宮子夫人所生の皇子でしたから

ただ首親王の立太子が14才だったのと比べると
基親王の1才での立太子は余りにも早い

だから敢えて、基皇太子の元に拝礼に行かなかったと思われます
564没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/21(月) 22:42:30
>>561
大宝令施行以前の太政大臣は、大友皇子と高市皇子の二人しか
任官されてなかった事で分かるように、事実上の皇太子ですから
左大臣以下とは性格が異なるものです

大友、高市とも母が卑母であった為に立太子できなかった
代償として太政大臣に就任したものと思われます
565没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/21(月) 22:55:40
>>559
縣犬養広刀自夫人所生の安積親王が14〜5才になってから
立太子する事に対して、長屋王が反対する理由はないでしょうね
安積親王立太子には、むしろ藤原氏の方が反発するかも
566日本@名無史さん:2005/03/21(月) 23:04:31
>>565
そう。私の言っていた、
長屋王家が、聖武の次世代への藤原系に対する脅威
というのは、それも含めてのこと。
567没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/21(月) 23:21:42
>>566
確かに長屋王なら光明子所生の阿部内親王より
広刀自所生の安積親王の立太子を支持しそうですね
皇子が居るのにそれを差し置いての皇女の立太子は
天皇家の歴史でそれまで、一度も行われてない異常事態ですから
568日本@名無史さん:2005/03/21(月) 23:23:27
>>561
母の出自が低いから皇太子になれない。
でも事実上の皇太子である太政大臣には就任できて
摂政として強力な権威・権力を持っているってことですか?

なんか矛盾してませんか?実質的皇太子という点が。
569没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/22(火) 00:01:14
>>568
高市皇子の場合、太政大臣任官後に位階が
草壁皇太子と同じ浄広壱位に昇進し
草壁皇子が皇子尊(みこのみこと)と呼ばれ
高市皇子が後皇子尊(のちのみこのみこと)と呼ばれた事で
二人に地位がほぼ同格にであった事の証しになります
(尊は皇太子もしくはそれに準じる皇子への敬称)

天武の諸皇子で尊の敬称が付くのは、草壁皇子と高市皇子二人だけで
母が天智皇女である、大津、長、弓削、舎人皇子にさえ尊の敬称は
付きません
570没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/22(火) 00:08:35
草壁皇子 皇太子 浄広壱位 皇子尊
高市皇子 太政大臣 浄広壱位 後皇子尊

この二人の皇子は、皇太子と太政大臣という
職制の違い以外は、位階、敬称ともに全く同格です
571日本@名無史さん:2005/03/22(火) 09:58:29
>>570
長屋王に皇子尊(みこのみこと)の尊称を与えるという動きならともかく
太政大臣就任=皇位へ近づくとは理解できないのですが。


年齢46氏も自ら書かれていますよね
>大友、高市とも母が卑母であった為に立太子できなかった
>代償として太政大臣に就任したものと思われます
572562:2005/03/22(火) 12:40:00
>>571
代償というのはコテハン氏がそう思っているだけで、
史実にそうあるわけではありませんよ。

現象としては、大友皇子しかり高市皇子しかり、太政大臣任期中(というより生存中)は、
皇太子がいないということです。
かつ、政を執っていたのは明らかなので、実質的に皇太子兼摂政となるわけです。
573没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/22(火) 13:59:22
>>571
長屋王の太政大臣就任可能性説は完全に撤回です
根拠が「日本霊異記」と青木和夫氏の見解では
推定に推定を重ねる結果となり無理があり過ぎでしたw
574没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/22(火) 14:21:09
>大友、高市とも母が卑母であった為に立太子できなかった
>代償として太政大臣に就任したものと思われます

大友皇子と高市皇子の母親が卑母だった事は史実です

特に高市皇子は天武天皇の長男で壬申戦争の英雄でしたから
母が卑母でなければ当然立太子される器量の持ち主でした

そこで持統天皇は高市皇子を太政大臣に任じ、位階を草壁皇太子と
同じ浄広壱位に昇進させ、後皇子尊(尊の敬称は、皇太子および
それに準じる皇子のみに与えられる敬称)という敬称を与えることで
高市皇子に報いだのだと思われます

また経済の面でも、持統は高市に食封として合計封戸が五千戸という
膨大な食封を与えました

これにより高市皇子は、名実ともに、諸皇子、諸王、諸臣の中で並ぶ者が
居ない絶対的な地位を獲得しました
575562:2005/03/22(火) 16:29:26
>>572に自己レス。
大海人が皇太弟を辞するより、大友の太政大臣の方が先だった...orz
576没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/22(火) 23:23:58
藤原房前が武智麻呂のように長屋王の変に、積極的に関ってない
とする大山誠一氏、瀧山貞子氏の見解があります
(続日本紀には長屋王の変の記述に関して房前の名前が出て来ない)

そして大山誠一氏や瀧山氏は、むしろ武智麻呂と房前はライバル関係に
あったとさえ考えてるようですがその辺りは如何でしょうか
577没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/22(火) 23:35:36
次に安積親王を擁する勢力に関する川崎庸之氏の見解

安積親王が藤原八束邸に臨席した時、八束が大伴家持を自邸に
招待して、共に歌を詠み交わした事が万葉集に記述されている点

安積親王を中心に藤原八束、橘奈良麻呂、大伴家持らが
歌を詠み交わす関係にあったことが万葉集に記述されてる点

以上の点から、阿部内親王の即位に積極的だった
南家の藤原仲麻呂に対して、川崎氏は安積親王の即位を目指した
北家の八束、家持、奈良麻路らの勢力があったとされています

因みに八束の母は牟漏女王で諸兄の妹、奈良麻路の母は房前の妹
多比能ですから、八束と奈良麻呂は父方でも母方でも、従兄弟同士の
関係になります
578没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/22(火) 23:47:00
また長屋王の変が、将来阿部内親王と安積親王の立太子問題が浮上した時
左大臣である長屋王が天皇家の伝統から言って、安積の立太子を支持するで
あろう事が、藤原氏(特に武智麻呂?)にとって障害になるからと言う理由が
このスレでも指摘されています

橘奈良麻呂が安積親王没後に、黄文王(長屋王の子)を
阿部内親王や大炊王の対抗する天皇候補として画策した事も
長屋王が親安積親王側だった可能性を示しています
579没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/22(火) 23:50:00
>>578
また長屋王の変が×
また長屋王の変が起きたのは○

大炊王の対抗する×
大炊王に対抗する○
580日本@名無史さん:2005/03/23(水) 00:19:00
>>576-578
武智麻呂は若い頃身体が弱かったとかいうのを何かで見かけたが、
房前の参議入りが兄に先行したのは、この辺によるものではないだろうか。
特に両者が対立していたという印象はないなぁ。

長屋王は親安積派というより、正論派だろうね。(生まれたばっかだし)

房前は、授刀舎人寮から拡大改組したばかりの中衛府を掌握して、
職掌通りに宮廷警護に徹して、積極的に変には加わらなかったのではないだろうか。
(正史上は、天平二年に中衛大将だが、万葉集では変の直後の天平元年には既に中衛大将)
ちなみにその時、知五衛及授刀舎人事から知五衛事になっていた新田部親王は
王家を囲んでいる。

北家の永手は、道祖王後継皇太子でも塩焼王を推してるし(南家の豊成も同様だが)、
光仁帝の後継でも、永手生存中は、他戸皇太子だったし、
この頃の北家は、長屋王と同様に、正論派のような印象がある。
581没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/23(水) 00:50:06
永手が道祖王廃太子後の塩焼王を推薦したのは王の妃が
不破内親王で二人の子は聖武天皇の皇孫にあたるから
その推薦は正論

また永手が宝亀二年に死亡、翌宝亀三年三月に井上皇后の廃后
五月には他戸皇太子の廃太子

井上皇后は聖武皇女で他戸皇太子は聖武の皇孫だから
永手としては他戸皇太子の即位をこそ道理と考えていたのでしょう

左大臣で台閣の首班だった永手の死後に、廃后と廃太子が行なわれて
ところを考えると、上記のような推定が可能です

藤原八束が橘奈良麻呂や大伴家持と共に、安積親王と親しく交わって
いたのも、親王を差し置いての内親王立太子に道理を感じてなかった
からかも知れません
582没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/23(水) 01:03:25
利害関係の点で言えば、安積親王の母、縣犬養広刀自は
縣犬養(橘)三千代と同氏族

藤原房前の妻は、三千代と先夫美努王の間で産まれたである牟漏女王
橘諸兄の妻は、三千代と藤原不比等の間に産まれた多比能

藤原四子の中で房前だけは、広刀自の子、安積親王が即位しても
橘氏と共に有力な天皇の姻戚者で居られる

この点を考えると房前だけは、阿部内親王と安積親王のどちらが
天皇に即位しても、損のない立場にいた事が分かります

そうなると房前だけは、長屋王打倒の動機が武智麻呂や宇合と
比較すると薄いように思われます

房前の三男で摂関家の祖である八束と、諸兄の嫡男奈良麻呂が
安積親王派だったのは、八束が藤原南家より橘氏との関係を
重視したからだとも言えます
583没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/23(水) 01:04:23
>>582
産まれたである牟漏女王×
産まれた牟漏女王○
584没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/23(水) 01:18:17
>長屋王は親安積派というより、正論派だろうね。(生まれたばっかだし)

私は長屋王の生年684年(奇しくも諸兄と同じ年生まれ)説論者ですから
安積親王が14〜5才になるまで、王は充分に左大臣として台閣の首班を
勤めていたと考えてますから、天皇家の伝統と道理から言って
安積親王の立太子を推進したと思います

この場合、安積親王は聖武天皇の皇子ですから、天皇が自分の皇子の
立太子に反対する大義名分がないところが重要だと思われます

これは藤原武智麻呂にとって最悪の展開ですから
長屋王は早めに潰しておく必要性を感じたのではないでしょうか
585没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/23(水) 01:49:15
道祖王廃太子後の立太子に関して、孝謙天皇が意見を求めた諸臣は

右大臣藤原豊成(塩焼王推薦)
中納言藤原永手(同上)
従三位文室知努(池田王推薦)
左大弁大伴古麻呂(同上)
大納言藤原仲麻呂(内心で大炊王)

藤原氏3人(南家2、北家1)、皇孫1人、大伴氏1人

の5人です

過去に、安積親王の懇意な関係があった、参議橘奈良麻呂
同じく参議の藤原八束が、召集されずに意見を述べる機会を
与えられなかったのは、孝謙天皇の恣意的人選が感じられます

また、中納言紀麻路、多治比広足、参議大伴兄麻呂、石川年足が
意見具申のメンバーに選ばれなかった点も不可解です

名門氏族である、紀氏、多治比氏、石川氏を排除するやり方は
各氏族に対する配慮が足りなかったと思われます
586日本@名無史さん:2005/03/23(水) 12:49:48
>>581
永手の正論派というのには賛成。
百川が必死に山部親王を担ごうとしていたのと対比すれば分かる。

>>575
天武の皇太弟が事実かどうかはこのスレ的には議論の外ということでOKですか?
587580:2005/03/23(水) 14:26:38
>>581-584
長屋王が正論派であると言ったのは、別に親安積派を否定したわけではないぞ。
729年以後に長屋王がどうしたかなんてのは、タラレバになるから控えただけ。
当然、正論派・長屋王は、阿倍内親王派には潜在的な脅威になっただろう。

あなたの>>576での「房前はどうよ?」という問いに対して、
729年以後の永手の正論的な行動から鑑みて、北家が長屋王と同じく正論派っぽいから、
房前は、積極的に「変」には参加しなかっただろうと応じただけ。
(天平元年の万葉集も長屋王と懇意だっ旅人卿と交わしたもの)

重ねて永手の行動を解説したり、長屋王の来ない未来を論じたり、何をこまごまと・・・

>>585
状況からみて、舎人系か新田部系しかなかったみたいだし、しかもデキレースだからなぁ。
塩焼王や石川年足なんかは、仲麻呂派としてその後の政権で重きをなしているのに・・・
とかく不思議な時代です。
588没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/23(水) 14:54:38

長屋王太政大臣就任可能性説に、余りにも無理がある以上
長屋王の変の原因に、光明氏立后問題と安積親王の誕生を
取り上げてみました

安積親王が15才の時、長屋王は60才ですから病気にならない限り
依然左大臣として、台閣の首班の位置を占めている事でしょう
左大臣である王が、安積親王の即位を主張すれば、橘氏、大伴氏、藤原北家は
それを支持すると思われます

藤原南家としてはそれを絶対に阻止し、阿部内親王を即位させる為にも
まだ安積親王が乳児のうちに長屋王を滅ぼす必要があった

この辺りが長屋王の変の真相だったと考えを改めました
589580:2005/03/23(水) 15:15:18
>>588
タラレバを語るのはあまり好きではないので(考えるのは好きだが)
以下は、完全な妄想として、

(平均年齢から考えて、長屋王の生死は不問にしても)
安積天皇、そしてその時40代の膳夫王が、北宮王家三代にわたる補翼の任についたりしちゃったら、
北家以外の藤原氏は目も当てられない。

って感じじゃない?
590580:2005/03/23(水) 15:30:50
>>588
よく考えたら、通説だよね。

安積誕生、安積立太子から即位を防ぐために、
光明子を立后して、生母に格差をつけ、阿倍立太子とするためには、

長屋王家が邪魔。
591没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/23(水) 16:56:35
長屋王の変の原因は、光明子立后問題と安積親王の誕生
確かに通説が一番説得力があります
592没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/23(水) 18:01:57
それにしても光明皇后の藤原仲麻呂(南家)に対する、異常とも言って良い寵愛ぶりは
光明子立后が藤原武智麻呂(南家)が主導的に行なわれて事の証拠に
なるのであろうか

それ位、光明皇太后の仲麻呂と淳仁天皇への肩入れと
自分の娘である孝謙上皇への疎外ぶりが際立ちます

光明が淳仁を「吾が子」と呼び、淳仁が仲麻呂を「朕が父」と呼ぶ関係

光明皇太后が、淳仁の父である舎人親王に、皇帝号を追号するように
図ったのに対して、孝謙上皇がそれに反対、その反対を光明が押し切って
舎人に崇道尽敬皇帝を追号させた事態は、光明VS孝謙という
母・娘対立を引き起こす事になったようです
(「続日本紀」天平宝治三年六月条)

光明・淳仁・仲麻呂ラインから疎外された孝謙が、道鏡に心の拠り所を
求めたのも無理がない事かも知れません
593日本@名無史さん:2005/03/23(水) 21:30:43
>光明が淳仁を「吾が子」と呼び
スマン、ソース希望。
藤原清河を「我が子」と読んだのは『万葉集』に例があるが。
594没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/23(水) 22:44:39
「続日本紀」六月十三日条
「天皇(淳仁)は内安殿に出御し、諸司の主典以上を召喚して
次のように詔した(宣命体)
『(前略)このごろ太皇太后(光明皇太后)のお言葉として朕に仰せになる
には、国政をみることになった始めのころは、まだ人心が安定していなか
ったから、わが子(淳仁)を皇太子に定めて、ついで君(天皇)の位におあげ
申して、諸民の心が静まってから、その他のことについて仰せつけようと
考えて、おさえていた。(後略)』」
595没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/24(木) 14:50:21
長屋王の変(729年)

左大臣長屋王(46才)
中納言藤原武智麻呂(50才)

武智麻呂としては、自分より年下の長屋王が
左大臣として台閣の首班で居るかぎり
自分が台閣の首班になれる可能性がないから
どのような手段を講じようとも、長屋王を
葬り去りたかったはず
596日本@名無史さん:2005/03/24(木) 16:05:45
平城京移転当時(西暦710年)
左大臣:石上麻呂(70歳)
右大臣:藤原不比等(51歳)
確かに年も位も石上麻呂が上だが
この当時の政権首班は藤原不比等だと思うが。

むしろ聖武即位と同時に長屋王が右大臣→左大臣になり
職級としては一つ上がっても、同じ職掌の右大臣が空席になったのが気になる。
順当に行くと長屋王を飛び越して左大臣になる人物はまず出ないと考えられるから
長屋王が右大臣に居座るほうが政権ライバルの出現を防ぐ防御策になったと考えるのだが。
597没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/24(木) 19:27:36
藤原不比等が左大臣石上麻呂の死後も、右大臣に留まり続けたのは
自分が左大臣に昇進する時、大納言の長屋王が右大臣に昇進する事を
恐れたからなのかも

その点、神亀元年に右大臣から左大臣に昇進した長屋王は
右大臣の席を空白にした点で不比等より甘いのかも

ただ長屋王が左大臣に昇進して空席になった右大臣に
藤原武智麻呂が就任したのは天平六年だから
右大臣が空席だった期間は10年にも及んだけど
598日本@名無史さん:2005/03/24(木) 21:11:28
「歴史にifはない」という事は無視して、長屋王は誰を右大臣にしておくべきだったか?
599没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/24(木) 22:09:03
それはもちろん、親長屋王派の大伴旅人しか居ないでしょう

武智麻呂より早く中納言として議政官になっているし
年齢から言っても、名門大伴氏の族長である点からも言っても
長屋王は、旅人を大納言、右大臣と昇進させるべきだった

長屋王が死亡するまで、旅人が中納言のまま据え置かれた事を考えると
台閣の首班とは言え、長屋王には強力な人事権がなかったのか
あるいは旅人と同じく中納言だった、藤原武智麻呂との見合いでどちらも
昇進できなかったのか

とにかく長屋王首班の10年間、右大臣は欠員、大納言も定員は二名なのに
多治比池守の一人だけという状態が続いた
600没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/24(木) 22:44:24
>>599
訂正
長屋王が左大臣に昇進してからは、右大臣は欠員
601日本@名無史さん:2005/03/25(金) 11:28:39
大宝令制下で太政大臣などありえん。知太政官事がせいぜい。
長屋王にはそれすら疑問。
602没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/25(金) 14:05:29
確かに長屋王の太政大臣昇進はあり得ないね
それに大宝令下の太政大臣には実質的な権限がないから
左大臣として実質的権限を保持していた方が得策
そして長屋王首班体制で大臣は、長屋王の生存中は
王一人だった
603没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/25(金) 14:09:43
それと知太政官事は自分より年上で叔父の舎人親王が居たから
長屋王が知太政官事になる事はあり得ないと思われ

それに知太政官事は令外の官で実質的権限がないから
左大臣の長屋王がその地位を望むとも思えないし
604没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/25(金) 14:33:17
605日本@名無史さん:2005/03/25(金) 21:44:39
そういえば、藤原房前が内臣だった筈だが、朝廷内でのポジションとしては大臣クラス?それとも納言クラス?
606日本@名無史さん:2005/03/25(金) 22:02:51
>>605
その辺って何回も大先生方のネタになっていたかと思われ

房前の内臣時代の仕事内容って史料ではよく分からないはず。
つうか内臣と言う物の職掌自体いまだ定説はなかったような。
個人的には政権内での席次は大臣までには至らず納言クラスのような希ガス
607没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/25(金) 22:38:53
>>605
内臣の職制に関しては「続日本紀」の元明上皇の
「汝房前卿、まさに内臣として内外を計会し、勅に准じて施行し
帝業を輔翼し永く国家をやすんずべし」という詔をどう捉えるかによって
学者同士の見解が分かれている

房前が内臣になった事で強力な権限を持ち、不比等の後継者は房前とする説

逆に内臣に実質的な権限はなく、太政官で房前より席次が上だった武智麻呂こそ
不比等の後継者であり、房前は元明に信頼されていた橘三千代の娘、牟漏女王を
妻にしていた為に、元明上皇から特別の恩寵を受けただけという説

(長屋王も元明の娘、吉備内親王を妻にしていた為に、房前と同じく
特別の恩寵を受けていた)

私としては内臣に強力な権限があるのなら、藤原仲麻呂も内臣になれば
良かったはずなのに、わざわざ皇后宮職を改組して紫微中台とし
自分が紫微令、紫微内相になった点を考慮すると、内臣には実質的な権限が
なかったと言う説に同意します
608日本@名無史さん:2005/03/25(金) 22:56:26
表の議政官としては参議だし、中務卿や中衛大将なんかも兼ねたりで
内臣だったところで、どの職掌で何の権限なんだかよくわからんな。
まぁ、四兄弟で一等最初に亡くなられてしまっては諸々の判断も難しい。

息子の魚名が内臣→内大臣→左大臣→クビ。という不思議な経歴だが。
609日本@名無史さん:2005/03/26(土) 08:11:35
房前以外の3人(鎌足・良継・魚名)と比較すると、内臣という名前は一緒でも職掌はその就任当時の事情によって不定。むしろ後年に藤原基経が関白就任時に騒いだ「阿衡」の官とはまさに内臣こそが相応しいような気がする。
(政治的には大臣資格はあっても、官制的に就任の困難な人物に待遇だけ大臣クラスを保障したみたいな)
610没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/26(土) 09:27:56
房前の内臣が令外の官の内大臣と同じだったとしたら
武智麻呂が右大臣になるまでは、房前の方が実質上
宮中席次は上だったのかな

房前が事実上の内大臣なら、長屋王としては右大臣から
左大臣に昇任にしたのは、房前に二階の差を着けたい気持ちが
あったからかも
611日本@名無史さん:2005/03/27(日) 19:47:18
>>587
塩焼王について誤解があるようなので。
塩焼王は安積親王の同母姉の不破内親王の婿だから、本来は反仲麻呂派。
それが仲麻呂派に変わるのは奈良麻呂の変に連座して臣籍降下した後の760年に偶々光明皇太后の総責任者となり無事役目を果たして以後。
皇太后と言う政治的後ろ盾を失った仲麻呂にとって、葬儀は皇太后の威光を利用出来る最後のチャンスだったから、その円滑な実施は自分の政治力が落ちていないとアピールする正念場だった。
氷上塩焼(塩焼王)が無事に葬儀を実施させたことで仲麻呂は塩焼に感謝して出世を取り計らった。塩焼の転身はそれによるもの。
612没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/27(日) 20:56:51
塩焼王もついてない人生だったなぁ

令の規定である21才をまたずに19才で従四位下に初叙され
聖武天皇の皇女である不破内親王を妻にした点までは良かった

しかし聖武天皇の怒りを買い伊豆に配流
橘奈良麻呂の乱にも関与を疑われ
藤原仲麻呂派への転進を図ったものの、その仲麻呂自体が没落
最後は偽帝として仲麻呂に擁立されたものの、その仲麻呂と共に斬首

奈良時代の政争に翻弄された生涯だった、年50才
613611:2005/03/27(日) 20:59:51
しまった…「光明皇太后の総責任者」って何だよ…。
そこのところ、「光明皇太后の葬儀の総責任者」と脳内変換して下さい。
614没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/27(日) 21:05:15
>>611
塩焼王も安積親王が天皇に即位していれば、また違った人生を送れたかも
そして安積親王派だった藤原八束もその器量から言って大臣に任官されたろうし
大伴家持も史実よりも早く議政官になれたはず
615没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/27(日) 23:15:24
藤原八束(真楯)、房前の三男で藤原摂関家の祖

叔母である光明皇后所生の阿部内親王ではなく
縣犬養広刀自所生の安積親王と親しい関係となり
親王自ら八束邸に訪れていた

立太子した阿部ではなく安積親王と親しくなる事は
出世の観点で考えれば明らかに不利
それゆえ参議として議政官になったものの
光明皇后や孝謙天皇に忌避され

道祖王廃太子後の立太子会議に召集されず
後から議政官入りした兄の永手に超越され
大臣になれず正三位大納言で没、年52才

奈良時代の非主流派政治家の代表格だった八束の子孫が
摂関家として公家世界の本流となるとは、ある意味で歴史の皮肉
616587:2005/03/27(日) 23:49:20
>>611
塩焼王は、反仲麻呂派からの変節というより、(嫁の影響もあって)
一貫して、反女帝派というような気がするのですが。
617没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/28(月) 00:00:39
>>616
不破内親王は安積親王の一件があるから、一貫して反孝謙・称徳だろうね。
618日本@名無史さん:2005/03/28(月) 07:36:00
>>615
終始反仲麻呂派だから、もう少し長生き出来れば大臣になれたと思う。
長良とともに藤原摂関家の黒歴史なのかな?
619没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/28(月) 09:23:23
藤原八束は反仲麻呂+反光明・孝謙という二重のハンデがあったからね
それでも大納言まで昇進出来たのは、ひとえに本人の持つ器量ゆえでしょう

安積親王派だったけど、親王の死後は政争に加わることを避け
橘奈良麻呂の乱(奈良麻呂、大伴古麻呂・黄文王等)や
藤原良継の変(良継・大伴家持・石上宅嗣、佐伯今毛人)に
参加せず、一人孤高を保った政治家に思える

因みに八束(真楯)は摂関家の黒歴史じゃなくて、むしろ子孫達に
その政治姿勢が高く評価されている
620日本@名無史さん:2005/03/28(月) 10:32:39
藤原八束が反孝謙というのはどうでしょうね?
橘奈良麻呂の変の直後に弟の藤原千尋と共に改名し、その後中務卿になっているが
これ奈良麻呂の変に何らかの貢献をしてその恩賞というように見うけられませんか?

但し仲麻呂と仲が悪かったのは『続日本紀』の薨伝にもはっきり書いてあるのでその通りかと。
621日本@名無史さん:2005/03/28(月) 13:49:09
仲麻呂と同じく、あまり尖った所のない兄キを持ち、
「フーン、兄キを超えようと頑張りすぎると、ああなっちまうのか〜」
なんて言ってたら、兄キよりも先に逝ってしまったって感じだな。
622日本@名無史さん:2005/03/28(月) 17:28:37
>>620
仲麻呂の懐柔政策っぽいが…長屋王もこうした人心操作術に長けていれば…あるいは。
623没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/28(月) 20:30:51
>>620
藤原八束は、光明皇后所生の阿部内親王(孝謙天皇)ではなくて
縣犬養広刀自所生の安積親王と親しく交際し、自分の屋敷に親王を迎えて
歌を詠み合う関係でしたから(その歌会に大伴家持も八束に招かれている)

八束としては親王が居るのに内親王が立太子される政治情勢に対して
忸怩たる思いがあったのではないかと

これは想像ですが、もし安積親王が奈良麻呂の乱の時に健在で
それでも光明・孝謙・仲麻呂トリオが、大炊王の立太子を
強行する状況であったとしたら、そして奈良麻呂達が安積親王の
立太子を目指すものなら、八束や家持は、奈良麻呂側に付いたと
思っています(歴史にIFは禁物ですが)
624没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/28(月) 20:57:38
その安積親王を藤原仲麻呂が暗殺したという疑いが極めて濃厚ですが
625没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/28(月) 22:15:05
まあ光明皇后と孝謙天皇も政治的に完全に一致してた訳じゃないけど

大炊王が即位して淳仁天皇となってからは、光明・淳仁・仲麻呂ラインから
孝謙上皇が疎外されていった状況だし

光明皇太后が舎人親王の天皇号追贈に積極的だったのに
それに反対した孝謙上皇

しかし、結局は光明の圧力に負けて追贈を認めざる得なかった
626日本@名無史さん:2005/03/28(月) 22:19:23
藤原八束は阿部内親王が立太子した際に東宮大進になっている
成人後初めて任官した役職で
藤原氏から阿部内親王近辺に仕えたのが確実なのは八束1人だけ。
627没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/28(月) 23:37:18
しかし藤原八束は自邸に安積親王を招いて歌会を行なっている
そこに大伴家持も参加している

もし八束が阿部内親王と懇意なら何故
道祖王廃太子後、次の皇太子を決める会議に出席してないのか?

参議として台閣に列席している、橘奈良麻呂と藤原八束が
次の皇太子を決める、重要な会議に呼ばれてない点は不可解
628没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/28(月) 23:56:53
スレが長屋王から離れてしまった・・・
長屋王に話を戻すには持統、文武、元明、元正朝を話題にして
聖武朝に関しては、天平以前に話題を限定しないとダメかも
629没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/29(火) 15:40:53
話題を振ります

養老二年(718)、長屋王(35才)の参議、中納言を経ずの
大納言任官は、元明上皇の王への優遇のためか?
630没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/29(火) 19:38:52
長屋王と吉備内親王の長子、膳夫王が従四位下に初叙されたのは
神亀元年(724)

令の規定通り21才での初叙なら生年は慶雲元年(704)
聖武天皇の生年が大宝元年(701)だから3才年下

辛うじて膳夫王は聖武の皇太子候補になれた
631没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/29(火) 21:37:42
文武天皇683年生まれ、聖武天皇701年生まれ

長屋王684年生まれ、膳夫王704年生まれ?
632日本@名無史さん:2005/03/30(水) 12:53:55
そもそも年長の皇太子なら、平安期になるが一条天皇の居貞親王(後の三条)だってあるわけだから法的には問題はないだろう。
633没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/30(水) 14:21:24
膳夫王は21才で規定とおり従四位下を(本当なら規定外だけど)
初叙されたと思われるから聖武天皇より年下でしょう

*令の規定通りなら従五位下だから五階超越してる

父親の長屋王も、初叙は令の規定より四階超越する正四位上
634没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/30(水) 19:07:41
高市皇子(654〜696)43才
御名部内親王(生没年不詳)
草壁皇子(662〜689)28才
元明天皇(661〜721)61才
藤原不比等(659〜720)62才
舎人親王(676〜735)60才
橘三千代(???〜733)
美努王(???〜712)
大伴安麻呂(???〜714)
635没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/30(水) 19:08:30
大伴旅人(665〜731)67才(安麻呂長男)
元正天皇(680〜748)69才(草壁長女)
藤原武智麻呂(680〜737)58才(不比等長男)
藤原房前(681〜737)57才(不比等次男)
文武天皇(683〜707)25才(草壁長男)
藤原宮子(???〜754)(不比等長女)
長屋王(684〜729)46才(高市長男)
吉備内親王(???〜729)(草壁次女)
橘諸兄(684〜757)74才(美努王長男)
鈴鹿王(690?〜745)56才?(高市次男)
藤原宇合(694〜737)44才(不比等三男)
藤原麻呂(695〜737)43才(不比等四男)
636没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/30(水) 19:09:56
聖武天皇(701〜756)56才(文武長男)
光明皇后(701〜760)60才(不比等三女)
膳夫王(704?〜729)26才?(長屋王長男)
藤原豊成(704〜765)62才(武智麻呂長男)
藤原仲麻呂(706〜764)59才(武智麻呂次男)
藤原永手(714〜771)58才(房前次男)
藤原八束(715〜766)52才(房前三男)
黄文王(717?〜757)41才?(長屋王?男)
大伴家持(718〜785)68才(旅人長男)
橘奈良麻呂(721〜757)37才(諸兄長男)
淳仁天皇(733〜765)33才(舎人七男)
637没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/30(水) 19:10:26
孝謙天皇(715〜770)56才(聖武長女)
基親王(727〜728)2才(聖武長男)
安積親王(728〜744)17才(聖武次男)
638日本@名無史さん:2005/03/31(木) 19:04:22
新田部親王は?
639没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/31(木) 20:23:42
新田部親王(681?〜735)55才?
640没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/03/31(木) 20:43:14
孝謙天皇(715〜770)56才(聖武長女)×
孝謙天皇(718〜770)53才(聖武長女)○
641日本@名無史さん:慶長410/04/02(土) 13:11:57
>>629
当時の参議・中納言から人選すると政治バランスに影響があったとか?
642没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :慶長410年,2005/04/02(土) 17:25:44
中納言の阿倍宿奈麻呂が長屋王が大納言に任じられた時
同じく大納言に昇進してるからそれはないでしょう

長屋王の参議・中納言を経ずの大納言任官は
義母である元明上皇の恩恵を受けたためと思われ

それに不比等も自分の娘を長屋王の妻にしていて
王に対して身内意識を持っていたと思われるから
この人事に不満はなかったと思われ

不比等の娘婿

文武天皇(宮子の夫)
左大臣長屋王(長娥子の夫)
聖武天皇(光明子の夫)
左大臣橘諸兄(多比能の夫)
従三位大伴古慈斐(名前不詳の夫)

古慈斐以外は天皇か台閣の首班だから、不比等の婚姻策は大成功
643日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/02(土) 18:50:07
むしろ、大伴古慈斐との婚姻の意義が知りたい(笑)。

そういえば、某小学館の少年漫画日本の歴史で長屋王が内心で不比等を「この成り上がり者めが」と呟くシーンがあるが今思うと違和感があるな。
644没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :慶長410年,2005/04/02(土) 21:22:07
古慈斐は大伴氏でも傍流だから、その点では不比等の判断ミスか?
大伴氏の本流は、長徳(右大臣)−安麻呂(大納言)−旅人(大納言)−家持(中納言)
645日本@名無史さん:2005/04/03(日) 14:54:14
長屋王の台詞としては『この俗物めが』の方がいいな。
何にしても長屋王と不比等は互いに牽制し合ってはいたと思う。
邪魔者の不比等が死んでくれて内心ほっとしてたんじゃないのか、長屋王。
個人的には長屋王は、俗物の権化たる藤原家とは別の意味で俗物だったと思う。
だって皇室が政治を牛耳るようにしたかった人でしょ?
不比等も長屋王も結局はどっちも俗物だったと思う。似た者同士というか。
646日本@名無史さん:2005/04/03(日) 19:16:32
え〜と、
宇宙皇子に出てた人?
647日本@名無史さん:2005/04/04(月) 12:56:02
>>644
古麻呂とか善男の方は傍流なんだ。
648没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/04/04(月) 14:06:51
>>647
古麻呂の父親が不明なんだよね
一説には旅人の弟、宿奈麻呂と子供と言われているけど
そして宿奈麻呂の子供なら直系ではないね

安麻呂−旅人−家持
     −田主−兄麻呂
     −宿奈麻呂−古麻呂
649没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/04/04(月) 14:09:22
>>648
宿奈麻呂と子供×
宿奈麻呂の子供○
650没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/04/04(月) 14:13:09
大伴咋−長徳−御行−御依−駿河麻呂
     −安麻呂−旅人−家持
           −田主−兄麻呂−潔足
           −宿奈麻呂−古麻呂?
                −田村大嬢
                −坂上大嬢(家持室)
                −坂上弟嬢(駿河麻呂室)
           −坂上郎女
     −馬来田−道足−伯麻呂
           −女子(藤原宇合室)−藤原小黒麻呂
     −吹負−牛養
        −祖父麻呂−古慈斐−弟麻呂
651没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/04/04(月) 14:14:52
右大臣
大伴長徳

大納言
大伴馬来田
大伴御行
大伴安麻呂
大伴旅人

中納言
大伴牛養
大伴家持


参議
大伴道足
大伴兄麻呂
大伴駿河麻呂
大伴伯麻呂
大伴潔足

従三位
大伴古慈斐
大伴弟麻呂
652没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/04/04(月) 14:17:54
>>651
官位は公卿補任を参照
653日本@名無史さん:2005/04/04(月) 15:48:39
最終官位を列べたところで意味はないだろう。
古麻呂は、大納言・安麻呂の子孫であることは間違いなく、
時系的に旅人と家持の間で失脚する以前には、大弁官兼兵部卿として
文武両官僚のトップに立っていた彼は、大伴氏の長者的な位置にあり、
その時点では、まぎれもない本流。
654653:2005/04/04(月) 15:56:39
兵部卿は勘違い。鎮守将軍でした。
奈良麻呂とごっちゃになった...
655没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/04/04(月) 16:50:31
>>653
古麻呂が宿奈麻呂の子供という決定的な証拠が…
まあ宿奈麻呂の子供だと俺も思うけどね

それと最終官位の問題ではなく、佐保大納言家が大伴氏の本流
そして佐保大納言家の嫡流は、安麻呂の嫡男旅人、旅人の嫡男の家持
656日本@名無史さん:2005/04/05(火) 01:22:25
氏長者は氏中の最高官位者がなるから、嫡流云々はあまり意味がない。
咋、長徳、御行、安麻呂、旅人、道足、牛養、兄麻呂、駿河麻呂、
古慈斐、伯麻呂、家持、潔足、乙麻呂、国道、善男、保平、みんな氏長者。
657没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/04/05(火) 02:27:36
家持の「族(やから)に喩(さと)す歌」には
佐保大納言家嫡流の義務と責任において
激発しようとする一族を抑えようとした苦悩が伺える

しかし家持の思いは通じずに、古麻呂は奈良麻呂と共謀し
仲麻呂の殺害と新天皇擁立を目指して失敗

失敗の結果として古麻呂は激しい拷問の末に死亡…
658日本@名無史さん:2005/04/08(金) 18:02:18
長屋王と大伴氏との繋がりはやはり壬申の乱における高市皇子との縁なのかな?
659没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/04/08(金) 18:42:56
その通りだと思うけど、なぜ大伴氏が長屋王と姻戚関係を
結ばなかったのかが分からない

長屋王の妻は、吉備内親王、藤原長娥子、石川夫人、阿倍夫人

藤原不比等が自分の次女を長屋王の妻にしてること
石川氏(蘇我氏)や阿倍氏といった有力氏族が
長屋王と姻戚関係を結んでいるのと比較すると
大伴安麻呂は迂闊に思える

安麻呂には坂上郎女という有名な娘がいたのに
660日本@名無史さん:2005/04/08(金) 18:58:09
稚い時点で、”高市皇子の嫁を寝取った男”穂積皇子とイイ仲で、
後には藤原麻呂とも関係をもったようだから、
長屋王の側に含むものがあったんだろうよ。
661没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/04/08(金) 19:51:34
確かに坂上郎女の最初の恋人は穂積親王だった
ご指摘の通り、穂積は高市皇子の妻だった但馬皇女と恋仲に
その穂積と恋仲だった坂上郎女では長屋王側が遠慮しそうw

坂上郎女の男性遍歴、穂積親王、藤原麻呂、そして結婚相手は
異母兄の大伴宿奈麻呂
662日本@名無史さん:2005/04/12(火) 21:00:34
やはり壬申の乱の功臣の家系統の人たちの支持があったのかな?
663没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/04/12(火) 22:04:39
長屋王の父、高市皇子は壬申戦争の時、全軍の最高司令官を父から任された
大海人軍の若きカリスマ

壬申戦争の功臣たちにとって、高市皇子は特別な存在だろうから
その子である長屋王にも、大伴氏等の氏族は親近感を抱いていたと思われ

また壬申戦争の時、大海人軍に協力した美努王の孫である橘奈良麻呂が
高市皇子の孫の黄文王を、天皇に即位させようと三度に渡って画策したのも
壬申以来の、高市皇子系統と美努王系統の親密さを示していると思われます
664日本@名無史さん:2005/04/18(月) 21:24:42
長屋王って死後に具体的な名誉回復策が取られたんだっけ?
鈴鹿王の重用以外に…。
665没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/04/19(火) 01:47:43
密告者の密告内容が誣告であったと、正史である続日本紀に記述された
これで歴史学的には長屋王は無実であった事が確定

また子孫の高階氏は藤原氏全盛の中で、中流貴族としてそれなりの
官位を授けられ続けた

面白いところでは、内大臣平重盛の母親が高階基章の娘
高市皇子&長屋王の血は平氏(小松家)にも伝わった
666日本@名無史さん:2005/04/19(火) 12:23:49
続日本紀そのもの自体の編纂は桓武朝だろうw
667没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/04/19(火) 18:14:06
>>664
長屋王の娘である円方女王の最終位階は正三位
768年1月に称徳天皇(聖武の娘)に授かられている

正三位は官位相当表によると大納言に相当するから
娘の栄達によって長屋王の名誉は充分に回復されている
668日本@名無史さん:2005/04/19(火) 18:20:09
奈良そごう最強
669没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/04/19(火) 19:02:32
>>664
長屋王の姉妹である竹野女王(高市皇子の娘)の最終位階は従二位
751年1月に孝謙天皇(聖武の娘)に授けられている

従二位は官位相当表によると右大臣に相当する
670日本@名無史さん:2005/04/19(火) 19:17:57
>>669
竹野女王は籐氏の誰かの嫁さんじゃなかったか?

それに、(贖罪ではなく)名誉回復とは当人になされたものを言うんじゃないのか?
しかも同時代には武智麻呂や房前には、バンバン贈位増官されてるんだぞ。
寡聞にして知りえないのだが、長屋王当人には何かあったか?
671没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/04/19(火) 19:19:44
>>664
長屋王の姉である河内女王(高市皇子の娘)の最終位階は正三位
760年5月に淳仁天皇(舎人親王の子)に授けられる

正三位は官位相当表によると大納言に相当する
672没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/04/19(火) 19:22:09
>>670
竹野女王は藤原武智麻呂の妻という説がある(角田文衛氏の説)
673日本@名無史さん:2005/04/19(火) 19:39:43
そもそも散位の三位(語呂が良い!)ってそんなに誉められたもんか?
674没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/04/19(火) 19:48:51
>>670
長屋王の場合は、尋問中の自殺という事で(実際は殺害か?)
正式に罪が確定してない為に、官位(左大臣・正二位)が剥奪されてない

聖武天皇の729年2月13日の勅、同15日の詔でも、王の官位剥奪は
記されていない

その為に復官復位という形での、名誉回復は行なわれていない

因みに藤原仲麻呂の場合は、764年9月11日の孝謙上皇の勅によって
官位(大師正一位)と藤原の姓が剥奪されている
675没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/04/19(火) 19:55:39
>>673
散位でも三位ならば公卿(公は大臣、卿は参議〜大納言)
四位でも参議なら同じく公卿
従って諸王・諸臣の中でも上流層
そして三位や参議になれない諸王・諸臣は幾らでも居た
676日本@名無史さん:2005/04/19(火) 20:01:46
贈一位太政大臣の籐氏兄弟と較べたら、特に死後に名を上げてはいないんだな。
677日本@名無史さん:2005/04/19(火) 20:06:22
>>675
官職は別の話だろ。
三位になれない諸王は幾らでもいたが、三位になれた諸王はそれほど少なかったのか?
678没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/04/19(火) 20:12:41
>>677
三位に昇れた諸王は少なかった
続日本紀を読めば、その事が良く分かる
それどころか、諸王の中には成年に達しても
位階を授けられない無位の者まで居たくらいだ
679没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/04/19(火) 20:17:26
>>676
確かに長屋王は、死後の贈位・贈官を受けてないから
正二位・左大臣が最終経歴

因みに藤原仲麻呂の最終経歴は無位・無官
680没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/04/19(火) 21:05:59
三位以上の諸王(文武朝〜称徳朝)

長屋王 正二位(高市皇子の子)
葛城王(橘諸兄) 正一位(美努王の子)
鈴鹿王 従二位(高市皇子の子)
智努王(文室浄三) 従二位(長親王の子)
御原王 正三位(舎人親王の子)
栗栖王 従三位(長親王の子)
船王 従三位(舎人親王の子)
塩焼王(氷上塩焼) 従三位(新田部親王の子)
池王 従三位(舎人親王の子)
白壁王(光仁天皇) 正三位(志貴親王の子)
大市王(文室大市) 正ニ位(長親王の子)
山背王(藤原弟貞) 従三位(長屋王の子)
山村王 従三位(用明天皇の子孫)
和気王 従三位(御原王の子) 
河内女王 正三位(高市皇子の娘)
竹野女王 従二位(高市皇子の娘)
円方女王 正三位(長屋王の娘)
牟漏女王 正ニ位(美努王の娘)
粟田女王 正三位
681没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/04/19(火) 21:18:29
諸王(文武朝〜聖武朝743年まで)(1)

長屋王 正四位上 21才 高市皇子の子(長男)正ニ位で没 46才
大市王 従四位下 ?才(出自不詳)
手嶋王 従四位下 ?才(出自不詳)
気多王 従四位下 ?才(出自不詳)
夜須王 従四位下 ?才(出自不詳)
倭王   従四位下 ?才(出自不詳) 
宇太王 従四位下 ?才(出自不詳)
成会王 従四位下 ?才(出自不詳)
安八万王 従四位下 ?才 正四位下で没(出自不詳)
山前王   従四位下 ?才 忍壁皇子の子(長男 
葛城王    従五位下 27才 後の橘諸兄 正一位で没 74才
鈴鹿王    従四位下 ?才 高市皇子の子(次男)従二位で没
六人部王  従四位下 ?才 正四位上で没(出自不詳)
上道王  従四位下 ?才 穂積親王の子(長男)
大野王  従四位下 ?才 忍壁皇子の子(次男)
倭王   従四位下 ?才 磯城皇子の子(長男)
門部王 従四位下 ?才 高市皇子の子(三男)
高安王 従五位下 ?才 後の大原高安 正四位下で没
河内王 従四位下 ?才 長親王の子(次男)
佐為王 従五位下 ?才 後の橘佐為 正四位下で没
682没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/04/19(火) 21:19:24
諸王(文武朝〜聖武朝743年まで)(2)

酒部王 従四位下 ?才 磯城皇子の子(次男)
境部王 従四位下 ?才 穂積親王の子(次男)従四位上で没 25才
智努王 従四位下 25才 後の文室浄三 長親王の子(三男)従二位で没 78才
御原王 従四位下 ?才 舎人親王の子(長男)正三位で没
栗栖王  従四位下 42才 長親王の子(長男)従三位で没 77才
三嶋王  従四位下 ?才 舎人親王の子(次男)
春日王  従四位下 ?才 志貴親王の子(長男)正四位下で没
高田王 従四位下 ?才(出自不詳)
膳夫王 従四位下 ?才 長屋王の子(元明天皇の孫)
石川王 従四位下 ?才 長親王の子(四男)
船王  従四位下 ?才 舎人親王の子(三男)親王となりニ品で没
池辺王 従五位下 ?才 葛野王の子(大友皇子の孫)
塩焼王 従四位下 19才 後の氷上塩焼 新田部親王の子(長男)従三位で没 50才
長田王 従四位下 ?才 長親王の子(五男)
池王  従四位下 ?才 舎人親王の子(四男)親王となり三品で没
白壁王 従四位下 29才 志貴親王の子(六男)後の光仁天皇 没 73才
道祖王 従四位下 ?才 新田部親王の子(次男)後に皇太子→廃太子
安宿王 従五位下 ?才 長屋王の子(藤原不比等の孫)正四位下で没
黄文王 従五位下 ?才 長屋王の子(藤原不比等の孫)従四位上で没
大市王 従四位下 35才 後の文室大市 長親王の子(七男)正ニ位で没 77才
山背王 従四位下 ?才 後の藤原弟貞 長屋王の子(藤原不比等孫)従三位で没
奈良王 従四位下 ?才 長親王の子(六男)
守部王 従四位下 ?才 舎人親王の子(五男)
安都王 従四位下 ?才 長親王の子(八男)
御室王 従四位下 ?才(出自不詳)
683没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/04/19(火) 21:26:15
>>680
>>682
池王×
池田王○
684日本@名無史さん:2005/04/20(水) 12:46:44
>>678
その代表格が大炊王ということでいいですか?
685没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/04/20(水) 15:36:01
大炊王は無位からいきなり皇太子になってそのまま即位だったね

位を授けられなかった二世王がいきなり皇太子
しかも大炊王と仲麻呂とは擬似的な親子関係にあった

これでは諸王・諸臣から不平・不満が出るのは当然です
藤原仲麻呂のやり方は強引すぎたし、その強引すぎる政治手法が
後ろ盾だった光明皇后の没後、仲麻呂とその一家が滅んだ原因でしょう
686日本@名無史さん:2005/04/20(水) 16:49:03
長屋門のスレかと思いおじゃましたが...
失礼する
687日本@名無史さん:2005/04/20(水) 17:43:29
688日本@名無史さん:2005/04/20(水) 23:38:03
>687
かたじけない
689日本@名無史さん:2005/04/23(土) 20:03:28
>>685
淳仁も孝謙とガチじゃなければ、島流しにならずにすんだのに…。
690日本@名無史さん:2005/04/25(月) 13:08:25
吉備内親王にも即位の目はあったんではないかと。
691日本@名無史さん:2005/04/25(月) 13:28:52
>>690
それはどうかな
692日本@名無史さん:2005/04/25(月) 15:59:15
聖武と安積が急死すればあり得たかもな…息子への中継ぎ役として。
693没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/04/25(月) 21:00:21
吉備内親王やその子の膳夫王は即位の可能性があったからこそ
長屋王と共に滅ぼされたと思われ

阿倍内親王即位の邪魔になる、安積親王、吉備内親王、膳夫王は
表向きは自殺・病死となっているけど、実際には殺害された可能性あり
694日本@名無史さん:2005/04/26(火) 00:07:28
天皇没後に皇后が践祚する場合を除くと、既婚者は無理だろう。
天皇の嫁には、皇后,妃,夫人等の肩書きがあるが、
天皇のダンナ(この場合、長屋)の場合は、その扱いが相当難儀なことになってしまう。

・・・敬宮さんどぉすんだろ...
695日本@名無史さん:2005/04/26(火) 00:26:44
>>690-694
後世の例になりますが光仁天皇の場合が参考になるかと考えます。
光仁天皇と井上内親王(聖武天皇娘)の間の子・他戸親王は皇太子となっていますが
実際に即位したのは他戸親王の父である光仁天皇(天智天皇の孫・聖武との血縁関係は全くなし)でした。

長屋王の変が起こった神亀5年で
聖武があぼーん、安積親王も生まれなかったと仮定して
その時点で即位の可能性があるのは長屋王じゃなかったのでは無かろうかと。
その時点で長屋王があぼーんしてたら次に即位する可能性があるのは息子の膳夫王かと。

>>694
天皇家に婿養子に入ろうという怖いもの知らずの香具師がいるかどうかそれが問題だ
696没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/04/26(火) 01:28:02
北家の藤原永手が、右大臣吉備真備と対立しても白壁王の即位を
主張したのは、他戸親王(聖武天皇の孫)を皇位に就けたかったから

(吉備真備は、天武天皇の孫の文室浄三か大市を皇位に就けたかった)

式家の藤原百川も白壁王の即位を主張したけど、北家の永手と違って
こちらは山部親王(桓武天皇)を皇位に就けたかったから

そして左大臣藤原永手没後、井上皇后は廃后、他戸皇太子を廃太子で
百川の狙い通りに山部親王が立太子
697日本@名無史さん:2005/04/26(火) 12:29:30
>>696
永手は他戸を付けたかったというより、天武―(中略)―聖武の血を受け継いだ最後の男系皇族である他戸を皇太子にしなければ、天武系天皇の統治という原則に支配された現在の朝廷の他のメンバーに対して白壁王即位の正統性を説得出来ないと思ったのでは?
698没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/04/26(火) 22:14:38
井上皇后の廃后と他戸皇太子の廃太子が、左大臣永手の没後で
あることを考えてみると、白壁王即位の正統性を台閣において
主張する為だけではなく、実際に他戸皇太子の即位を永手は
目指していたと思われます

そして左大臣永手が健在の内は、式家の百川は廃后や廃太子を画策できず
永手の死を待ってそれを実行したのだと思います
699日本@名無史さん:2005/04/27(水) 20:08:26
>>698
では、永手がそこまでして他戸擁立に拘った理由は?
700没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/04/27(水) 22:55:17
草壁皇子と藤原不比等以来の信頼関係の継続
その点では永手は伝統派だと思われ

逆に山部親王の器量に賭けた百川は革新派だと思われ
701没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/04/27(水) 23:57:22
>長屋王の変が起こった神亀5年で
>聖武があぼーん、安積親王も生まれなかったと仮定して
>その時点で即位の可能性があるのは長屋王じゃなかったのでは無かろうかと。
>その時点で長屋王があぼーんしてたら次に即位する可能性があるのは息子の膳夫王かと。

安積親王が生まれていても、長屋王と吉備内親王そして吉備所生の
子供達が潰されましたから、長屋王家はよっぽどの脅威だったのでしょう

問題は、聖武天皇にとって脅威だったのか、藤原氏にとって脅威だったのか
天皇と藤原氏の両方にとって脅威だったのか?
702日本@名無史さん:2005/04/29(金) 17:26:01
>>679
今、「続日本紀と奈良朝の政変」(中西康裕、2002年、吉川弘文館)という本を読んでいるが、
763(天平宝字7)年の藤原弟貞(山背王)死去の記事の欄には「左大臣正二位長屋王子也」とあるのに対し、
その11年後の円方王女死去の記事の欄には「左大臣従一位長屋王之女也」という記載がある。
中西氏は円方王女死去記事に関しては諸本とも一致した記載がされている事から、この円方王女の記事自体は編纂当時からのもので、
単なる執筆者の誤りの可能性も完全には否定は出来ないが、光仁天皇が即位した宝亀年間前半に行われていた聖武以後の諸政変下で罪とされた人々の復位策の一環として長屋王の贈位が行われた可能性もあるとしている。
703没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/04/29(金) 19:09:06
確かに「続日本紀」は、宝亀十年十二月二十三日条で
円方女王の父長屋王を、従一位左大臣と記述してますね

筆写された諸本が全て従一位左大臣で記述が統一されているのなら
編纂当時から従一位左大臣と記述された可能性は高いですね

そしてご指摘の通り、執筆者の誤りでなければ、光仁朝において
長屋王に対し、贈従一位という形で名誉回復が行なわれたのかも
704没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/04/29(金) 19:16:52
密告は誣告と記述された上で
長屋王に贈従一位が為されていたとしたら
国史たる「続日本紀」において、長屋王の名誉は
完全に回復された事になります
705没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/04/29(金) 19:53:43
>>702
質問です
中西康祐氏は長屋王の生年に関しては、676年説でしょうか?
それとも684年説でしょうか?
706日本@名無史さん:2005/04/29(金) 20:47:27
>>705
中西氏の著書はタイトル通り、あくまでも奈良時代に起こった諸事件に対する正史上の記述に関する研究なので、
あくまで「長屋王の変」なり「恵美押勝の乱」といった個々の事件における続日本紀の著作・編纂態度がメインであって長屋王個人の研究ではないので享年問題には触れられておりません。
(他の著作については分かりませんが…)
707没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/04/29(金) 22:12:05
>>706
お答え、ありがとうございました
708702=706:2005/05/03(火) 11:15:27
中西氏の本を完読しましたが、やはり長屋王の享年には触れていなかったですね。
ただ、初期の編者間でも長屋王に好意的(冤罪派)な淡海三船(「懐風藻」三船編者説を取るとして)と否定的(謀反派)な石川年足(祖父が長屋王の変シフトで昇進)の「長屋王」観のズレが事件に関するちぐはぐな表記を生んだのでは? と推測されています。

王と関係ないところで面白かったのは、
・和気清麻呂の事件で最初に出てきた宇佐八幡のお告げは実は「新都(由義宮)創設」の事が主で皇位継承(道鏡への)については触れられていなかった。
 逆に清麻呂と前後して藤原楓麻呂が左遷となったいることから、むしろ清麻呂が藤原氏の意を受けて聖武の血を引く唯一の皇族籍男子となった「他戸王立太子」のお告げを持ってきたというのが事件の真相ではないかと推測。
(清麻呂は光仁天皇即位後に復帰はしたものの藤原永手の死、他戸廃太子とともに再び地方国司に任命されている。逆に道鏡一派に皇位を狙う気があるとすれば光仁即位後に流罪では済まされないのではないか?)
・「不改常典」を前天皇の遺詔に基づく皇位継承とし、その原点を死の床の天智が大海人に皇位継承を要請した事を拡大解釈したことに由来するとするとしている。
 ただし、天智の本音は当時の皇室のには不文律の慣習(中西氏はこれを皇族は20歳以上で初めて政治に参加可能となり、30歳以上で初めて即位の資格を得るとするものだとする)があり、事実上の皇太子である大友にはまだ即位の資格がなかったための緊急措置だとしている。
 (逆にこの不文律に配慮して、草壁皇太子の即位を30歳まで延期しようとしたところ早世してしまった)
 後に道祖王廃太子によって聖武の遺詔が無視されたことによって、「不改常典」の権威が失墜して後に死語化した。
709没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/05/03(火) 11:58:12
淡海三船が長屋王冤罪派で、石川年足が謀反派ですか

・三船の曽祖父である、大友皇子殺した大海人軍の
最高司令官高市皇子は長屋王の父であること

・長屋王は石川氏から妻を娶り桑田王(長屋王の変で自殺)が
生まれたこと

上記の理由から、私などは三船が長屋王謀反派で、石川氏が
冤罪派だと思っていました
710702=706(年齢問題は無視するとしても):2005/05/03(火) 13:28:57
中西氏も「懐風藻」を淡海三船を編者とする通説が本当ならばという条件をつけています。
「懐風藻」には長屋王の詩が3首、同王の主催した宴席で詠まれた詩が計20首含まれているなど、長屋王とその文学集団に好意的な編纂がされているのではないかとされています。

711没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/05/03(火) 15:21:07
三船冤罪派を否定した訳ではありません
そういう見方もあるのかと思っただけです
712日本@名無史さん:2005/05/03(火) 17:08:44
そういう見方もあるのかっていうか、『懐風藻』は長屋王寄りだというのが通説だと思うんだが
だから上の方での『懐風藻』の信憑性議論が噛み合ってなかったのでは
713没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/05/03(火) 18:06:01
「懐風藻」が大友皇子、大津皇子、葛野王よりだとは思うけど
長屋王よりだとは思えませんが・・・

その理由は、大友皇子、大津皇子、葛野王には伝記が付されて
いるけれど、長屋王の伝記が記載されてないためです

それに長屋王の詩は三首だけど、藤原不比等五首、房前三首
宇合六首、麻呂は五首、藤原親子・兄弟で合計十九首

しかも不比等は贈正一位太政大臣、房前は贈正一位左大臣と
記載されているところを見ると、むしろ藤原氏よりにさえ思えます
714没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/05/03(火) 18:17:04
>『懐風藻』の信憑性議論

私は同一の事柄に関する記述では、単一史料の記述より
複数史料の記述の方に、より信憑性があると認識しております
715日本@名無史さん:2005/05/03(火) 19:12:08
>>713
上の議論の堂々巡りになるとは言え、「54歳」とする例の享年が書かれていること自体は長屋王も「懐風藻」ではかなり厚遇されているのでは?
(54歳があっているかどうかという議論とは全く別の次元で)
716没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/05/03(火) 19:23:56
懐風藻に享年が記述されている人

大友皇子(25才)

大津皇子(24才)

川嶋皇子(35才)

葛野王(37才)

紀麻呂(47才)

大神高市麻呂(50才)

石川石足(63才)

藤原不比等(63才)

大伴旅人(67才)

長屋王(54才)

阿倍広庭(74才)

藤原房前(57才)

藤原宇合(44才)
717日本@名無史さん:2005/05/03(火) 19:39:39
64人中13人の中に入っているなら十分厚遇されてない?
718没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/05/03(火) 20:10:51
でも長屋王より藤原氏の方が厚遇されていると思われ
特に贈位が記述されている、不比等と房前の二人は優遇されている
719没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/05/03(火) 20:19:07
ただ「懐風藻」の編纂者が、藤原武智麻呂だけ無視している点は興味深い
藤原不比等、房前、宇合、麻呂の詩が記載されているのに
武智麻呂の詩だけは「懐風藻」に記載されていない

「藤原武智麻呂伝」『藤氏家伝』によると、武智麻呂は漢詩に長けている
らしいから、懐風藻の編纂者が、何ゆえ武智麻呂の詩を記載しなかったのか
その理由には関心があります
720日本@名無史さん:2005/05/03(火) 20:30:15
些細な疑問なのだが、「没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg」さんって個人? それともユニット?

721日本@名無史さん:2005/05/03(火) 20:43:32
「藤原氏」と「長屋王」の双方に親しいものがいても問題あるまい
どちらか一方にしか属してはいけないという法はないし
そんなに政情は単純なもんじゃないでしょ
722没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/05/03(火) 20:58:03
長屋王の姉妹(高市皇子の娘)、竹野女王は藤原武智麻呂の妻(角田文衛説)
藤原武智麻呂の妹(不比等の娘)、長娥子は長屋王の妻

長屋王家と藤原氏自体姻戚関係にあるから
その両者と親しい者が居ても不自然ではないわな
723日本@名無史さん:2005/05/10(火) 21:50:39
一説には長屋王の出世の影に不比等がいたとも言うし…。
724没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/05/11(水) 14:26:10
長屋王と藤原長娥子
藤原武智麻呂と竹野女王

二重に婚姻関係にあった高市系統と藤原氏だから
不比等生存中の両者は良好な関係にあったと思われ

だから大山誠一氏が主張する、元正天皇の即位は長屋王が
聖武天皇の即位(不比等の外戚化)を遅らせるために行なった
という仮説には同意出来ません
永井路子氏もほぼ同意見の持ち主だけど、こちらは長屋王ではなく
元明天皇主導説

文武天皇は15才で即位したのに、聖武が15才で即位しなかった事から
生まれた仮説だろうけど、肝心の藤原不比等と長屋王の対立が
史料から見出せない点が、この説の最大の弱点
725日本@名無史さん:2005/05/13(金) 16:46:05
個人的な考えだが、現役の議政官(不比等)を外祖父に持つ天皇の即位が好ましくなかったからじゃないの?
726没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/05/13(金) 22:08:56
藤原氏が外戚となる事に反発した、氏族の存在を否定は出来ないけど
具体的にそれを証明することは難しいなぁ
727日本@名無史さん:2005/05/13(金) 22:33:30
長屋王はヤギを飼い、チーズを食していた。

光村図書版 小学生の国語の教科書(上)
728日本@名無史さん:2005/05/14(土) 08:49:08
元明と元正は親子じゃないの?
729日本@名無史さん:2005/05/14(土) 12:00:39
>>728
何をそんな当たり前のことを










なにかあったん?
730日本@名無史さん:2005/05/14(土) 18:56:59
>>728
元明の皇太子は孫の首皇子(後の聖武天皇)

>>726
律令制以後で即位時に外祖父が健在のまま天皇に即位したのって清和天皇が最初だろう。
清和天皇の時代にはもう外祖父の良房が頂点まで極めていたから反対のしようがないけど、不比等の時はまだ藤原氏そのものが3代目(中継ぎとしての意美麻呂を含めて)なのだから、
元明退位時点で聖武が即位したら、諸豪族は黙っていないだろう。
(現に太政官の最上位を占める議政官は本来一氏一名なのに不比等は既にそれをぶっ壊しているわけなのだから…)

731没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/05/14(土) 22:32:23
>>730
首皇太子ではなく、氷高内親王が即位したことに対する
解釈としては、それが一番説得力を持つ解釈だと思われます
732日本@名無史さん:2005/05/18(水) 18:54:31
age
733日本@名無史さん:2005/05/22(日) 23:58:27
保守
734日本@名無史さん:2005/05/23(月) 12:46:04
平和になったな
735没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/05/24(火) 00:36:23
長屋王の没年齢問題は、突き詰めれば史料批判の問題

同時代性の優位を重んじて、単一史料の記述を信用するか?
(懐風藻)

一つの事象に関して、複数の史料の同一記述の方を
信用するか?の問題
(公卿補任、扶桑略記、尊卑分脈、帝王編年記、一代要記)

俺は同時代の単一史料の記述より、複数史料の同一記述の方に
信用を置いている
736日本@名無史さん:2005/05/28(土) 22:24:59
なんとなく、長屋王と源高明って似てないか?
737日本@名無史さん:2005/05/28(土) 22:38:29
いや、顔見たことないからわからんけど。
長屋王って高明の娘婿だっけ?
同じ左大臣の娘でも父親が謀反起こしたのと起こしてないのでは随分差が出るんだね。
娘がかわいそう。ってか親父の政敵の息子の妾にされちゃうなんて。
738日本@名無史さん:2005/05/28(土) 23:14:07
釣りにしてもエライ大胆だなぁオイ
長屋王の変:729年(まだ源氏なんていないよぅ)
安和の変:969年

長屋王は草壁皇子と元明女帝の娘婿。
高明の娘婿は道長じゃないか?
739没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/05/29(日) 14:37:03
>>738
ご指摘とおり高明の娘、明子は道長の妻だね
そして高明の外孫の頼宗は右大臣にまで昇進した
740日本@名無史さん:2005/05/30(月) 12:50:33
最大の共通点
長屋王…藤原不比等の娘婿
源高明…藤原師輔の娘婿
そして、義父の死後にその息子たちと対立して失脚したわけだが…。
741日本@名無史さん:2005/05/30(月) 12:52:01
ついでに言えば、長屋王は天武天皇の孫で高明は醍醐天皇の皇子。
742没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/05/30(月) 13:31:21
源高明の息子俊賢と、藤原兼家の息子道長は懇意な関係
源高明の孫隆国と、藤原兼家の孫頼通は懇意な関係

親同士は政敵、子や孫同士は友好
743日本@名無史さん:2005/05/30(月) 13:46:27
>>740
義父の死というよりも、
元正女帝の影響力低下や村上帝崩御の影響の方が大きいのでは?
744没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/05/30(月) 20:15:45
>>743
源高明にとっては、村上天皇の死ともう一つ、皇后藤原安子の死も
打撃だった

安子皇后は高明の娘婿である、為平(安子皇后の子でもある)親王を
寵愛していたから、安子皇后が存命だったら、冷泉(為平親王の同母兄)
の皇太弟には、守平(為平親王の同母弟)親王じゃなくて、為平親王に
なったと思われ
745日本@名無史さん:2005/06/05(日) 23:20:40
age
746日本@名無史さん:2005/06/20(月) 06:45:47
すると、藤原氏は、ある時期までは、長屋王を親藤原系として優遇ってことかな?

いつごろ、どういう理由で、排斥することに方針転換したのでしょう?
747没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/06/20(月) 10:54:53
光明子所生の基親王の死亡と安積親王の誕生が、長屋王と藤原四子との
対立の原因と思われます
聖武天皇に安積親王がいる以上、光明子所生の阿部内親王の立太子を
台閣の首班、左大臣長屋王が反対する可能性が極めて高いでしょうから
748日本@名無史さん:2005/07/03(日) 14:47:36
ふうん
749日本@名無史さん:2005/07/12(火) 23:30:07
>>735
>俺は同時代の単一史料の記述より、複数史料の同一記述の方に信用
継体系譜に関して言えば、複数史料の同一記述(愚管抄・神皇正統記)は無視、
ほぼ同時代と思われる単一史料の記述(上宮記逸文)の方のみ信用されてるけど。
後代の史料は、当時の歴史観や社会観に基いていくらでも改変があり得るんで。
750没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/07/13(水) 13:14:16
父、高市皇子の没年齢は、公卿補任、尊卑分脈、扶桑略記ともに43才
子、長屋王の没年齢は、公卿補任、尊卑分脈、扶桑略記ともに46才

父である、高市皇子の没年齢43才に異論を挟む学者は殆どいない
高市皇子(654〜696)は、古代史学会の定説
つまり高市皇子に関しては、公卿補任、尊父分脈、扶桑略記の
史料価値は非常に高いことになる

それが一転して、高市皇子の子である長屋王の没年齢に関しては
公卿補任、尊卑分脈、扶桑略記の史料価値は低いから信用できないと
言われても、正直言って困ります

同一史料群に対して、親に関しては史料価値が高く、子に関しては
史料価値が低いと言い出す方は、まともなテキストクリティークを
学んだとは到底思えません
751没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/07/13(水) 13:30:11
公卿補任、尊卑分脈、扶桑略記の史料価値は低いと
断定されている方なら、当然高市皇子の没年齢は不詳ですよね

まあ大山や寺崎氏などは、高市皇子の没年齢に関しては
無批判に公卿補任、尊卑分脈、扶桑略記の記述を
信用してるようですが(笑い)

また青木氏は、舎人親王の没年齢に関しては、これまた
無批判に公卿補任の没年齢記述を信用しています

長屋王の没年齢54才派の学者達は、同一史料に対する
ダブルスタンダート(二重基準)を、確たる根拠を示さずに
平気で行なっている点に特徴があると言えます
752日本@名無史さん:2005/07/15(金) 01:09:15
「異論を挟む学者は殆どいない」から「史料価値は非常に高い」? 
これぞ史料の妄信。「異論を挟まない」のは、43歳説が書紀の兄弟順序と
照合して無理なく説明できる上、これ以外に妥当な説が見出されないから、
議論はお預け状態。(654?〜696)としている辞典も見かけるが、これは
良心的な立場と評価出来る。「正直言って困ります」、これはお前の勝手w

同時代史料と異なり、中世に入ってから複数の文献に基づいて編纂された史料を
全く均質な同一史料と見なすこと自体、まともなテキストクリティークではない。
実証的な史料分析の上で、信用すべき箇所も、信用できない箇所もあると考える。
無批判な態度にも問題はあるが、補任が一説として36歳説を掲げていることからも
分かる通り、この類の史料においてダブルスタンダードはむしろ肯定されるべき。
753没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/07/15(金) 03:03:03
公卿補任は中世の史料ではありません、その編纂は平安時代初期から
始まっています

土田直鎮氏が「公卿補任の成立」(国史学65号)において公卿補任は
弘仁ニ年に撰述された歴運記を元にして編纂されたと立証されています
(歴運記自体は、今日ほとんど散逸している)

つまり公卿補任は平安時代初期に歴運記を元に編纂された以上
歴運記に、高市皇子の没年齢は43才と記述されており、長屋王の
没年齢は46才と記述されていた蓋然性が著しく高い

大体「懐風藻」の記述を金科玉条のように信用し
公卿補任を中世の史料だと誤認している“お前に”
テキストクリティークを語る資格なぞないw
754没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/07/15(金) 03:21:22
だいたい長屋王の没年齢に関して「懐風藻」の記述が正しいのなら
「公卿補任」「扶桑略紀」「尊卑分脈」「帝王編年記」「一代要記」が
「懐風藻」の没年齢を採用しないこと自体不自然極まりない

今日残っている史料で、長屋王の没年齢を54才と記述している
史料は「懐風藻」以外に存在しないことから見ても
懐風藻の間違いは明白
755没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/07/15(金) 03:41:20
序に言えば、天武・持統朝の位階制度において
成人に達した有力皇族が無位のまま置かれる事はあり得ない

懐風藻の没年齢記述だと、長屋王は29才まで無位であった事になるが
そんな事を本気で信じている学者は、天武・持統朝における
位階制度を、まるでご存知ないのかと疑ってしまいますよw
756日本@名無史さん:2005/07/15(金) 20:08:32
>中世の史料
確かにこれは私の注意不足であった。しかし、話の趣旨からして、それほど
こだわる問題ではなかろう? ダブルスタンダードの立場に変わりは無い。

>懐風藻の間違いは明白
明白といえる根拠を提示せよ。これが説明できないと話にならない。
私は懐風藻を「金科玉条のように信用し」ているつもりはない。
ただ、46歳説よりはいくぶんの信拠がおけるだろうと考えている。

>「懐風藻」の没年齢を採用しない
公卿補任や分脈はしばしば複数説をあげて、ダブルスタンダードの立場を
取っていながら、54歳説を採用していないのはなぜか。それは、懐風藻を
見ていなかったからに他ならない。>>749の場合、釈日本紀に系譜が引用
されていながら、宣長が指摘するまで世にほとんど知られていなかった。

>成人に達した有力皇族
文武しか頭に無い持統の目が黒いうちは、高市皇子ならともかく、
長屋王は有力皇族の範囲になかったのだ。しかも、大宝令施行後
初めての叙位で、21歳の長屋王(文武より年下)に正四位上直叙と
いう例外が許されたかどうか。父母の血統のみでは説明しにくい。
757日本@名無史さん:2005/07/15(金) 20:26:03
何度同じ話くり返してんだ過去ログ嫁
758没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/07/15(金) 21:10:34
俺も同じ事を言いたい、まずは過去ログを読めと

君の問いは既に何度も、このスレで話題になっているモノだから
過去ログを読めは俺自身の回答も載っている

あと敢えて答えるが、天武・持統朝においては皇太子である草壁皇子も
位階を帯びている
つまり天皇と皇后以外は、例え皇子であっても、位階を天皇から与えられ
宮中序列の中に組み入れられる存在

したがって長屋王も成人に達していたら、持統天皇から位階を与えられ
宮中序列の中に組み入れられたはず

しかし長屋王は正四位上を、初叙されるまで無位であった以上
持統朝において既に成人に達していたはずがない
759日本@名無史さん:2005/07/31(日) 16:52:02
しかし考謙(称徳)で天武系が切れてしまった事は皮肉な事ですよね・・・
あんなに天武系の血を守るために努力した、持統と元明の事を
考えるとなお更。天上の虹と長屋王残照記を見て感情移入して
しまいました。
760没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/08/01(月) 08:35:02
正直に言って持統と元明は、天武というより草壁の血統を
皇統に残したかったと思われます

本命は草壁―文武―聖武のラインでしょうが、スペアとして
草壁―吉備―膳夫ラインに、特に元明は期待していたようです

律令の原則は男系主義ですから、膳夫王は三世王ですが
元明は自分の孫だからと言う理由で、わざわざ勅を発して
膳夫王を含む吉備所生の王を、皇孫(二世王)に格上げしています
ですから膳夫王の初叙は皇孫として従四位下を授けられています
(本来なら膳夫王は三世王だから、初叙は従五位下なので、位階を
四階も超越した高待遇を受けている)

皇孫なら文武天皇と同じ立場ですから、天皇へ即位する可能性も
あります

長屋王は自身が天智・天武の二世王でありながら、息子の膳夫王も
二世王になったので、事実上の親王待遇となり、木簡にも長屋親王と
記述されるようになったと推測されます

なお、長屋王が21才で初叙された時に、令に規定では従四位下を
授けられるはずが、規定を三階超越して正四位上を授けられたのは
父である高市皇子が太政大臣で、位階は文武の父である草壁皇太子と
同格であったこと、母である御名部皇女が元明の同母姉であったこと
妻の吉備内親王が、草壁皇太子&元明の皇女だったこと等
当時において、最も恵まれた血縁関係のおかげであったと思われます
761日本@名無史さん:2005/08/01(月) 08:51:42
では吉備は天皇の娘扱いだったのでしょうか?本来天武の皇孫扱いの元正が、天皇の娘(内親王)扱いされたのも、元正の妹である吉備と同じ理由でしょうか?
762没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/08/01(月) 09:09:23
>>761
元正にとっては弟、吉備にとっては兄の珂瑠王が即位して天皇になった時に
氷高女王と吉備女王はそれぞれ皇女(内親王)に格上げされたのです

自分の兄弟・姉妹が天皇に即位すれば、他の兄弟・姉妹も親王や
内親王になれるのです

そういう事は他には、淳仁天皇の兄弟や、光仁天皇の兄弟・姉妹が
親王、内親王になった例を上げることが出来ます
763日本@名無史さん:2005/08/21(日) 16:05:17
そもそも文武が即位された時点でで草壁に天皇号が追贈されていませんでしたか?
764没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg :2005/08/21(日) 17:23:03
草壁皇太子は、天平宝字二年(758)8月9日の、淳仁天皇の勅によって
「岡宮御宇天皇」という尊号が追贈されました

(「続日本紀」天平宝字二年八月九日条)参照
765日本@名無史さん:2005/09/05(月) 14:01:46


                           
       / ̄ ̄ ̄\             
      |      |    
      |      |           
      |      |             
      | 鈴鹿王 |             
      L_____」               
      |へ へ :■      ____________      
      |「・ ・)  」     /      
      <  U    )   <  おいらは弟の鈴鹿王だじょ。うりうり〜。
      | ”””   |    \_____________      
       \ ×  /            
         ̄ ̄ ̄               


766日本@名無史さん:2005/09/05(月) 21:26:23
長屋王殿下の大河化キボンヌ。
末裔はいるの?
767日本@名無史さん:2005/09/05(月) 23:44:51
長屋王の息子の一人・安宿王の子孫は「高階真人」を名乗っていた。
更にその子孫の一部は「高」氏を名乗り、足利尊氏の元で活躍した高師直もこの後裔。

しかし、高氏も室町幕府の権力闘争で滅亡したし、今はどうなったのかなあ。>子孫
768日本@名無史さん:2005/09/06(火) 00:28:39
漏れは長屋源氏
769日本@名無史さん:2005/09/12(月) 09:06:36
>>768
源氏の定義って知ってる?
770日本@名無史さん:2005/09/12(月) 11:43:38
漏れは長屋平氏
771日本@名無史さん:2005/09/13(火) 11:58:46
>>766-767
こんなのめっけ
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/horio_k.html
しかし断絶・゚・(ノД`)・゚・
772日本@名無史さん:2005/10/03(月) 01:35:53
ほほー
773日本@名無史さん:2005/10/05(水) 22:35:20
>>45
株式会社イトーヨーカ堂に通報しますた
774日本@名無史さん:2005/10/05(水) 23:55:22
>>773
1年後ってテラ遅すぎス
775日本@名無史さん:2005/10/06(木) 10:55:27
でも長屋王邸後は国が買い取って国指定史跡にすべきだったと思う
776日本@名無史さん:2005/10/24(月) 23:51:20
そうやね
777日本@名無史さん:2005/10/27(木) 07:16:22
里中満智子さん以外代表する作品はありますか?
778日本@名無史さん:2005/10/27(木) 17:47:53
>>777
長屋王が主人公の漫画は、里中氏の作品以外には無いと思われます
重要な脇役としてなら、小説ですが永井氏の「美貌の女帝」があります
779日本@名無史さん:2005/10/30(日) 12:20:27
>778
ありがとうございます。さがしてみます!
780日本@名無史さん:2005/11/19(土) 02:36:51
保守
781日本@名無史さん:2005/11/20(日) 01:11:11
浮上
782日本@名無史さん:2005/12/10(土) 01:23:03
783日本@名無史さん:2005/12/20(火) 19:32:31
age
784日本@名無史さん:2006/01/08(日) 18:49:58
785日本@名無史さん:2006/02/17(金) 22:59:07
保守
786日本@名無史さん:2006/02/24(金) 17:10:47
保守
787日本@名無史さん:2006/03/09(木) 00:30:01
age
788日本@名無史さん:2006/03/14(火) 12:41:47
生年684年、没年齢46歳派の完全勝利
789日本@名無史さん:2006/03/32(土) 00:39:10
2006/03/32(土)
790日本@名無史さん:2006/04/22(土) 14:19:18
    
791日本@名無史さん:2006/05/13(土) 01:23:06
長屋王
684年
46歳
792日本@名無史さん:2006/05/13(土) 02:31:04
元正上皇は、長屋王を見捨てたのか?
それとも、聖武・光明子ー藤原ラインを止める力がもうない??
793日本@名無史さん:2006/05/13(土) 03:41:18
逢いたいな
794日本@名無史さん:2006/05/14(日) 00:01:08
橘奈良麻呂の乱が成功していれば、長屋王の息子の
黄文王が天皇に即位していた。

奈良麻呂(橘諸兄の嫡男)は、既に天平十七年段階で
黄文王を天皇にしようと企てていた。

高市皇子(太政大臣)→長屋王(左大臣)の血統は
天皇になるべき血統だと橘氏に認識されていた

因みに、奈良麻呂の母である多比能は、縣犬養三千代の娘
奈良麻呂の父である諸兄は縣犬養三千代の息子

奈良麻呂は異父同母兄妹の間に生まれた子供

美努王+縣犬養三千代→橘諸兄
藤原不比等+縣犬養三千代→藤原多比能
橘諸兄+藤原多比能→橘奈良麻呂


*長屋王+藤原長娥子(不比等の次女)→黄文王
795日本@名無史さん:2006/05/14(日) 03:17:05
長屋王ではなく、本当は「長屋親王」だったことが、明らかになった。
796日本@名無史さん:2006/05/23(火) 22:57:40
>>777
里中さんの「長屋王残照記」はいいね。
何がいいって、長屋王を主人公にしておきながら、
不比等や藤原四兄弟を単なる悪玉にしないところが。
不比等や房前は結構魅力的な人物に思えたよ。
797日本@名無史さん:2006/05/24(水) 17:47:37
里中さんは、藤原北家信仰に惑わされている

あの漫画だと長屋王の変の首謀者は房前にされているが
実際の首謀者は、長男である藤原武智麻呂の可能性が非常に高い

奈良時代は基本的に藤原南家が主流で、藤原北家が
藤原氏の主流になったのは平安時代になってから
798日本@名無史さん:2006/05/24(水) 23:57:49
うーん「
799日本@名無史さん:2006/05/25(木) 01:00:12
長屋王の変に関しては、岸俊男氏が詳細な研究があるけれど
それによると藤原氏の光明立后の目的は、光明子を皇后にする事で
縣犬養広刀自が産んだ安積親王を。皇太子にする事を
防ぐ狙いがあったからだと結論づけている

確かに縣犬養広刀自の子である安積親王が立太子し、その後
天皇に即位すれば、藤原氏が天皇の側近としての地位を失う
可能性は高い

ところが、藤原四子の中で、安積親王が立太子しても、天皇に
即位しても、側近としての地位を失わないのが藤原房前である

何故なら房前の正室は縣犬養三千代の娘である牟漏女王
つまり房前は縣犬養氏にとっては婿であるから、安積親王が
即位しても、他の3兄弟とは違って側近の地位を失わないのである

したがって、房前には他の兄弟たちと違って、光明子を皇后にする動機が
なく、光明子を皇后にする動機がなければ、長屋王を自害に追い込む
動機もない事になる
800日本@名無史さん:2006/05/25(木) 01:04:03
その傍証として、房前の子である藤原八束は、橘奈良麻呂や大伴家持と
共に、安積親王と深い交友関係がったことが、万葉集に記述されている

安積親王の死後(藤原仲麻呂による暗殺という説が有力)、橘奈良麻呂は
黄文王(長屋王と藤原長娥子の子)擁立へとひた走り、一方の藤原八束は
真楯と改名し、仲麻呂政権下では、病と称し、ろくに出仕せずに、自宅で読書三昧の
日々を過ごしたと続日本紀に記述されている

八束としては、安積親王暗殺の疑いがある仲麻呂の元で、議政官として
働く気が起こらなかったのであろう

以上の考察から、藤原房前には長屋王を滅ぼす動機がなかったと
結論づけられる

したがって、長屋王を自害に追いこんだ主犯は、長男の藤原武智麻呂であり
共犯者が三男の藤原宇合であろう

四男の藤原麻呂も謀議に加担したかどうか微妙な存在
801日本@名無史さん:2006/05/25(木) 01:20:10
>>797

> 奈良時代は基本的に藤原南家が主流で、藤原北家が 藤原氏の主流になったのは平安時代になってから
え、主流だったのって式家じゃないの?仲麻呂が失脚してからは特にさ。北家の台頭は式家の仲成、薬子が、平城太上天皇とともに、嵯峨天皇と争った時に、蔵人頭として冬つぐ(字でねー)が使えたときから。
802日本@名無史さん:2006/05/25(木) 01:37:49
>>799-800
瀧波説の受け売り乙
その説では八束以外の藤原北家の他の兄弟は安積親王と親しくしてない
のが説明できんのだが、その辺はどうクリアされるのかね。

>>801
見事にやおい番をゲットした君にプレゼントしよう
つ 冬嗣
803日本@名無史さん:2006/05/25(木) 01:44:24
>>801
藤原北家の台頭は藤原内麻呂(冬嗣の父)が
南家の藤原雄友を超越して、右大臣に任じられた時から
その後、南家は伊予親王の変で、大納言雄友と中納言乙叡が
失脚して衰退

因みに式家は、百川の早死にや種継の暗殺なので、なかなか勢力を
維持するのが困難だった上に、薬子の変で大打撃を受けた

しして百川の長男の緒嗣は、左大臣まで昇進したものの、同じ式家である
薬子や仲成の謀叛を恥じたのか、左大臣として権力を行使する事はなかった

つまり北家の一人勝ち状態になったと言う訳です
804日本@名無史さん:2006/05/25(木) 01:52:58
藤原八束は和歌の長けていた
この点で八束は大伴家持とも親交があり
同じく和歌に関心が高かった安積親王とも
交際があった事が万葉集から分かる

他の兄弟は、和歌に長けてなかった
また藤原清河は、牟漏女王の子では無いから
安積親王との交友関係がなかったのであろう

それに藤原房前の後継者は藤原八束
805日本@名無史さん:2006/05/25(木) 02:02:56
藤原房前が、美努王と縣犬養三千代の娘である牟漏女王を
正室にしている事は、房前が縣犬養氏一員である事を示している

したがって、聖武天皇と縣犬養広刀自の皇子である、安積親王が
立太子しても、天皇に即位しても房前にとってはマイナス要因には
ならず、むしろ他の兄弟より有利な地位を占める事になったであろう
806日本@名無史さん:2006/05/25(木) 14:34:54
確か寺崎氏の書いた「人物叢書 長屋王」では
「房前が長屋王の変に加わらなかったとは考えがたい」と
言ってるね。「長屋王を糾問したメンバーの中に房前が加わってないのは
おそらく宮中で調整役をしていたせいだろう」といってる。
永井路子も「美貌の女帝」の中で、房前は元正上皇と聖武天皇
との間の連絡・折衝を勤めている。
それに確か房前は中衛府の大将じゃなかったっけ?
だけど、中衛府の兵も長屋王邸を囲んでたよね。
大将である房前が長屋王の変に加わってないのに、
中衛府の兵を勝手に動かすことってできるの?
あと、いくら妻が県犬養氏の出でも、妻の一族の娘が生んだ子が
皇位につくよりやっぱ妹が皇后に就いたほうが有利なんじゃない?
807806:2006/05/25(木) 15:00:48
それと房前の後継者は八束じゃなくて、永手じゃない?
位も兄弟中では一番高い正一位左大臣だし。
808日本@名無史さん:2006/05/25(木) 17:22:39
永手は八束より年上だけど議政官になったのは遅い
八束は748年で、永手は757年
それと八束(真楯)が大納言で大臣になれなかったのは
766年に52才で死亡したからです
809日本@名無史さん:2006/05/25(木) 17:42:58
>「長屋王を糾問したメンバーの中に房前が加わってないのは
>おそらく宮中で調整役をしていたせいだろう」

単なる憶測で史料的な裏付けがありません

>中衛府の兵も長屋王邸を囲んでたよね

中衛府の兵は長屋王邸の包囲軍には参加していません
衛門府および左右衛士府の兵が長屋王邸を包囲したのです
(「続日本紀」『神亀六年二月十日条』参照)

つまり史料上、藤原房前が長屋王の変に関与していると言う
記述は一切ありません
したがって藤原房前を、長屋王の変の首謀者とするのは
史料に基づかない単なる憶測に過ぎない

小説家なら史料に基づかない見解を述べても自由だけど
歴史学者が史料に基づかない見解を述べるのは・・・
810日本@名無史さん:2006/05/25(木) 17:57:00
史料から言えることは、長屋王の変に関与したのは
藤原4子の中では、藤原武智麻呂(長男)および
藤原宇合(三男)の二人だけである

そして史料上、藤原房前(次男)および藤原麻呂(四男)の
長屋王の変への関与はなかった事になる
811日本@名無史さん:2006/05/25(木) 18:18:42
>いくら妻が県犬養氏の出でも、妻の一族の娘が生んだ子が
>皇位につくよりやっぱ妹が皇后に就いたほうが有利なんじゃない

光明子の兄は藤原房前だけではない
しかし藤原4子の中で、縣犬養広刀自と姻戚関係にあるのは
縣犬養三千代の娘である、牟漏女王を妻にしている房前だけ

それと四子の中で房前だけが皇族を妻とし、その妻である牟漏女王は
橘諸兄(縣犬養三千代の子)の妹で、橘奈良麻呂(縣犬養三千代の孫)の叔母

*橘奈良麻呂は長屋王の子である黄文王を天皇にしようと策動した人物

つまり皇族、縣犬養氏、橘氏と縁戚関係にあった房前は、藤原氏だけの
利害を追及出来る立場には居なかったと言える

これが南家の武智麻呂や仲麻呂と、北家の房前や八束との最大の
違いである
812日本@名無史さん:2006/05/25(木) 18:37:15
>>811は読み直してみたら、かなり自分の憶測が入っているから撤回します
813806:2006/05/25(木) 18:44:52
>>809
>中衛府の兵は長屋王邸の包囲軍には参加していません
>衛門府および左右衛士府の兵が長屋王邸を包囲したのです
(「続日本紀」『神亀六年二月十日条』参照)

???「続紀」の該当箇所を読んでみたけど、長屋王邸を
囲んでたのは「六衛府」の兵士だと書いてありますよ。
あなたの言い分を聞いてると、長屋王邸を囲んでたのは
衛門府と左右衛士府だけで、これだと「三衛府」になりますね。
残りの三衛府はどこにいったんですか?

>>「長屋王を糾問したメンバーの中に房前が加わってないのは
>>おそらく宮中で調整役をしていたせいだろう」

>単なる憶測で史料的な裏付けがありません
>つまり史料上、藤原房前が長屋王の変に関与していると言う
>記述は一切ありません
>小説家なら史料に基づかない見解を述べても自由だけど
>歴史学者が史料に基づかない見解を述べるのは・・・




でも、上のほうで青木氏が「史料に基づかない憶測」で
「長屋は太政大臣に就任するつもりだった」とか言ってるんですから
寺崎氏が「房前は長屋王の変に何らかの形で関与してた」と
いう説を提唱してもよろしいのでは?
それに寺崎氏は何も「長屋王の変の首謀者が房前」だと
言ってるのではないと思うんですが・・・。
「関与しただろう」といってるだけで。
814日本@名無史さん:2006/05/25(木) 19:50:15
>>805
>藤原房前が、美努王と縣犬養三千代の娘である牟漏女王を
>正室にしている事は、房前が縣犬養氏一員である事を示している

嫁が県犬養=その一員というのは言い過ぎ何じゃ
じゃなんだ、
武智麻呂の嫁は阿部氏だから武智麻呂は阿部氏の一員ともいえてしまうぞ。
宇合の嫁は石上氏だから(ry
麻呂の嫁は武智麻呂の娘だから(ry


815日本@名無史さん:2006/05/25(木) 21:15:26
>>813
確かにその部分は私の読み間違えでした
六衛府に中衛府も入りますね

>でも、上のほうで青木氏が「史料に基づかない憶測」で
>「長屋は太政大臣に就任するつもりだった」とか言ってるんですから
>寺崎氏が「房前は長屋王の変に何らかの形で関与してた」と
>いう説を提唱してもよろしいのでは?

青木氏の長屋王太政大臣就任可能性説は
日本霊異記と言う史料の「“太政大臣”長屋“親王”」という記述に
基づいての見解だと思われます

つまり青木氏の見解は、日本霊異記という史料に基づいていますから
寺崎氏の史料に基づかない見解とは質的に違います

そして長屋親王という呼称は、長屋王邸後から出土した木簡にも
記述されていましたから、長屋王は事実上は親王待遇だったのでしょう
したがって、太政大臣の方も、その官に任官する可能性があった事は
否定できません
816日本@名無史さん:2006/05/25(木) 21:22:15
>>814
しかし、安積親王、藤原八束、橘諸兄・奈良麻呂、大伴家持が
親密な関係だった事は万葉集の記述で証明されております

このうち、安積親王、藤原八束、橘諸兄・奈良麻呂親子を結ぶ糸は
和歌と縣犬養氏の血脈だと言えます
817日本@名無史さん:2006/05/25(木) 21:35:45
それと寺崎氏は長屋王の没年54歳説の人ですから
長屋王の即位の可能性を年齢的に否定していますが
私は長屋王没年46歳説ですから、まだ40代の長屋王には
即位の可能性があったと考えております

そして寺崎氏は長屋王の子の膳夫王には、即位の可能性があったと
考えているようですが、父である長屋王を差し置いて膳夫王が即位する
可能性は、長屋王が即位するより可能性が低いと考えております
818日本@名無史さん:2006/05/25(木) 21:51:18
藤原房前が長屋王の変に関与していたとしたら
聖武天皇の命によって中衛府の兵を出動させた事でしょう
(天皇の命がなければ、兵の出動は出来ない)

*六衛府の兵の指揮を取ったのは式部卿の宇合

それ以外の房前の長屋王の変に対する関与は
史料上どこにも見出すことは出来ません
819806:2006/05/25(木) 21:56:52
>青木氏の長屋王太政大臣就任可能性説は
>日本霊異記と言う史料の「“太政大臣”長屋“親王”」という記述に
>基づいての見解だと思われます
>つまり青木氏の見解は、日本霊異記という史料に基づいていますから
>寺崎氏の史料に基づかない見解とは質的に違います
そうでしょうか?あなたも認めたじゃないですか、
「長屋王邸を囲んだ衛府の中には中衛府もある」
と。前述のとおり、中衛府の大将は房前なんですから、
中衛府の兵士の出動は彼が許可したものと思っても
よいでしょう。となると、房前は長屋王に謀反の罪を擦り付けて
殺すことに賛同したものと思われます。
それが、自発的なものだったのか、武智麻呂に説得されてなのかは
知りませんが(おそらく後者だと思いますけど)。
「続日本紀」はれっきとした正史なんですから、説話集である
「日本霊異記」より信憑性が高いのでは?
故に、あなたの「青木氏の見解は寺崎氏の見解とは質的に違う」
という意見には賛成できません。

また、あなたの「房前は縣犬養氏の姻戚だからわざわざ長屋王を
追い込まなくてもよい立場だ」という意見には欠陥があるように思います。
つまり、「房前が縣犬養氏の姻戚であるのがほかの兄弟より有利である」って
いうのはあくまで安積が皇位を継ぐことが確 実 な 場合でしょ?
房前が「安積が皇位を継いでも自分にとっては同じだから、
長屋王を謀殺することには賛成でなかった」といってますが、
もし長屋王を生かしておけば、安積よりも血筋がいい
長屋の息子膳夫王か、それとも長屋本人が皇位を継ぐ可能性も
あるのではないでしょうか。
となると、房前が縣犬養氏と姻戚であることには何の意味も
なくなります。
820806:2006/05/25(木) 22:01:05
と思ったんですが、私の疑問に上のほうで答えてくださって
ますね。
すみません、書き込みが前後したようです。
>それ以外の房前の長屋王の変に対する関与は
>史料上どこにも見出すことは出来ません

それで十分なんじゃないんですか?
全く書かれてないわけじゃなし。

821806:2006/05/25(木) 22:05:43
だって、長屋王の「太政大臣就任」だって「日本霊異記」以外の
どこにも見出すことはできないんでしょう?
822日本@名無史さん:2006/05/25(木) 22:26:12
>>821
そんな事を言い出したら、長屋王の没年齢54歳は
「懐風藻」以外の史料には全くありませんがw

だから、懐風藻だろうが日本霊異記だろうが、史料に基づいての
見解なら、議論の対象になりうるが、史料に基づかない見解は
良く言えば単なる憶測、悪く言えば電波
823日本@名無史さん:2006/05/25(木) 22:32:37
>中衛府の大将は房前なんですから、
>中衛府の兵士の出動は彼が許可したものと思っても
>よいでしょう。となると、房前は長屋王に謀反の罪を擦り付けて
>殺すことに賛同したものと思われます。

中衛府の兵に出動を命じられるのは聖武天皇ですよ
勅命に逆らえる訳ないですから、中衛大将である房前の
内心を判断し得る史料とはなり得ません
824日本@名無史さん:2006/05/25(木) 22:44:28
その「日本霊異記」の記述である長屋親王が
長屋王邸の出土木簡にも記述されていたのだから
長屋王は令の形式上は王だけど、事実上は親王扱い
だった訳で、日本霊異記の記述を否定する事は出来なくなった
それならば、もう一方の太政大臣という記述も、長屋王が
任官する可能性があったから、そう記述されたとの解釈が出来ます
825日本@名無史さん:2006/05/25(木) 22:54:00
だいたい長屋王は初叙の時から、令の規定である従四位下ではなく
勅命によって、正四位上という破格の位階を授かられているのだから
彼を令の形式規定で考えるのは無理なのです

長屋王の子である膳夫王も、初叙は令の規定では従五位下に
なるところを、2世王扱いを受けて従四位下という、これまた
破格な位階を授けられていますから、長屋王家自体が令の規定に
縛られない存在だったと解釈する他ありません
826日本@名無史さん:2006/05/26(金) 02:00:25
ワケワカランから
おまいらトリップつけろや
827日本@名無史さん:2006/05/26(金) 21:01:52
舎人親王や新田部親王は、内親王を妻にしてないし
藤原不比等の娘も妻にしていない
ところが長屋王は元明天皇の皇女である吉備内親を正室に迎え
藤原不比等の娘である長娥子を側室にしている

つまり令の規定では、舎人や新田部の方が親王だから皇族内での
地位は長屋より上だけど、実質上は長屋王の方が舎人親王や
新田部親王より上だったと言える訳です

令の規定に縛られない特別の地位を保持していた事が
結局は仇となって長屋王家の悲劇に繋がったのかも知れません
828806:2006/05/27(土) 17:16:02
>>822
え?私は一度も没年齢が五十四歳だといってませんがw
あ、ひょっとして、私が寺崎氏の説を引用してるから
私も五十四歳説賛成派だと思ったんですかww
別に、その人の学説をすべて支持してるわけではありませんよ。
あなただって、青木氏の五十四歳説を否定しつつ、
長屋太政大臣就任説は肯定なさってるじゃありませんか。
私は上のほうで散々議論されている問題ですし、要するに
この時点で結論が出ない問題のようですから、その点は
言及しないでないでおきました。
>だから、懐風藻だろうが日本霊異記だろうが、史料に基づいての
>見解なら、議論の対象になりうるが、史料に基づかない見解は
>良く言えば単なる憶測、悪く言えば電波
だから、ちゃんと房前が関わってることが「続日本紀」に
書いてあるじゃないですか。
まあ、そういうと、
>中衛府の兵に出動を命じられるのは聖武天皇ですよ
>勅命に逆らえる訳ないですから、中衛大将である房前の
>内心を判断し得る史料とはなり得ません
と反論なさるんでしょうけど、「内心を判断できない」ん
だったら、房前が「勅命に逆らえず仕方なく」中衛府
出動を許可した、という証拠もありませんよね。
つまり、この時点で、あなたも私も同じく証明することが
不可能ってことになりますよね。
つまり、この問題に関しては結論が出ない、でよろしいでしょうか。

>>827
その考えには全面的に賛成です。
長屋は舎人や新田部親王から反感を
かってたと思う。
829日本@名無史さん:2006/05/27(土) 19:10:33
>「内心を判断できない」んだったら、房前が「勅命に逆らえず仕方なく」
>中衛府出動を許可した、という証拠もありませんよね。
>つまり、この時点で、あなたも私も同じく証明することが
>不可能ってことになりますよね。
>つまり、この問題に関しては結論が出ない、でよろしいでしょうか。

上記の見解に同意致します
830日本@名無史さん:2006/05/28(日) 01:53:56
>この時点で結論が出ない問題のようですから、その点は
>言及しないでないでおきました。

54歳説の最大の弱点は、676年生まれだと長屋王は29歳まで
無位でいたことになるが、それに対する合理的説明が出来ないこと

54歳説論者の中で、木本氏だけがその事を説明しようとしたけれど
木本説の最大の弱点は、天武朝や持統朝においても、皇族に対して
位階が授けられていた史実を見逃している点

皇族に対して位階を授ける制度が、大宝律令制定以降であったならば
木本説でも問題はないが、天武朝(685年)の位階制度改革で
天皇と皇后を除く成年皇族(皇太子も含む)は、位階を授かられる
対象者になったと言う史実がある

したがって、676年(54歳)説だと、持統朝で既に成年に達した長屋王が
位階を授からず無位でいた事の説明は不可能と言える

何故なら位階を持たなければ、宮中や太政官で活動する事が不可能であり
父である高市皇子が没した後、その後継者である長屋王が、宮中でも
太政官でも活動できない立場に置かれたまま、29歳まで歳を重ねた
と言うのは余りにも不合理であり、到底納得出来るモノではない

これが684年(46歳)説だと、704年に21歳(成年)に達した長屋王に
位階が授けられたと言う、非常に合理的な説明が可能になるのである
831日本@名無史さん:2006/05/28(日) 01:56:57
序に言えば、長屋王が令の規定である従四位下ではなく正四位上を授けられたのは
壬申の乱の英雄で、後皇子尊(*)と称された太政大臣高市皇子の嫡男で
あったからであろう

(*)『後皇子尊薨』「持統十年七月十日条」(日本書紀)

因みに天武の皇子で尊の尊称が記述されたのは、皇太子草壁皇子と
太政大臣高市皇子の二人だけである

また薨じた時の位階は草壁皇子、高市皇子とも浄広壱位で同位階であり
位階と尊称から高市皇子は、草壁皇子の没後は事実上、皇太子と
同じ待遇を受けていたと言える
832日本@名無史さん:2006/06/27(火) 19:46:52
この人、長屋に住んでたんだってな。
833日本@名無史さん:2006/07/02(日) 18:16:25
うほ
834日本@名無史さん:2006/07/14(金) 01:04:19
馬鹿店舗
835日本@名無史さん:2006/07/17(月) 10:15:27
神皇正統記(抜粋)
 継体天皇は、雄略天皇の子孫という事になっているが(日本書記では)、
皇位を奪われた正統な天皇の血筋を受けた天皇で、その正統性を証明す
る古文書が「真清探桃証」なのです。しかし、この文書は孤立無援の文
書で、他のすべての文書はこれを否定しているものばかりなのです。
 444年第20代安康天皇が従弟に暗殺された。皇位継承の第1候補
は履中天皇の第1皇子市辺押磐皇子ですが、安康天皇の弟(嘘)の雄略
天皇が彼を狩猟に誘い出して暗殺した。彼の二人の皇子億計、弘計王に
魔の手が伸びる事を直感した、日下部使主は二人を丹波に逃れさせよう
と出発した。すでに、追っ手が先回りしていたので真清田神社のある一
宮へ逃れた。すると、弟の弘計王に子が生まれ、根尾で養育してもらう
ことになった。しばらくして、雄略天皇は亡くなり、清寧天皇が病に伏
した。皇子の無い天皇(正統でない皇統の男子は絶える)は市辺押磐皇
子の遺児に後を継がせようとして探索させた。億計王が皇太子になる事
が決定したが、自分がなると弟が天皇になる機会が無くなるので、先に
弟に譲った。こうして、顕宗天皇、仁賢天皇が誕生した。根尾にいた男
大迹王(継体天皇)も大和へ上京することになり、別れの記念に桜木を
植えたのが淡墨桜として残りました。
 継体天皇の孫用明天皇は欽明天皇の皇太子で、用明天皇の皇太子が聖
徳太子なのです。聖徳天皇(聖徳太子)は大化の改新で中大兄皇子(百
済王の子豊璋)らに暗殺され、日本は朝鮮人に支配される事になった。
 大阪府太子町の叡福寺は「上の太子」と呼ばれ、聖徳太子の墓が石柱
で2重に結界が結ばれている。この寺は聖徳太子の怨霊封じの寺です。
羽曳野市の「中の太子」と呼ばれる野中寺の弥勒半跏像には、天智6年
に「中宮天皇」の病気平癒を願い、作ったとあります。境内の墓には鬼
追(怨霊)という姓が刻んである。この寺は高市皇太子の怨霊封じの寺
です。八尾市の大聖勝軍寺には「縁起絵巻」があって、聖徳太子などが
毒殺されたという姿が描かれていた。この寺は長屋親王の怨霊封じの寺
です。これら三太子はそれぞれ天皇になって、長屋親王は毒殺されたと
分かります。
836日本@名無史さん:2006/08/09(水) 17:06:16
>継体天皇は、雄略天皇の子孫という事になっているが

そうだっけ?
837日本@名無史さん:2006/08/15(火) 14:41:27
 戦争責任は人類すべての人間にあるのです
 野生の動物の世界は弱肉強食の悪法がはびこり、戦争状態である。たとえ、
百獣の王ライオンであっても、その子はハイエナに食われる。人間の世界も物
欲によって争闘し、最後には殺し合いとなる。これは人間の欲望に限りがない
からであり、ぜいたくを享楽しているためである。肉食は食欲のぜいたくの極
みであり、これを得るためには家畜を殺し、弱者を犠牲にしなければならない。
動物を殺すことは人間を殺すことと同じである。これでは、人間の霊性は獣と
何ら変わることがなく、自分の子供がハイエナに食われても文句が言えない。
 人間の横暴によってすべての生物が地獄の苦しみにあえいでいる。先の大戦
の犠牲者はこうした人間の行為の償いであり、神からの啓示である。だから、
戦争責任は人間が自らの行為を反省することなく、物欲を発揮してぜいたくを
むさぼっている、人間一人一人にあるのです。
 偽科学が常識を盲信させる
 非ユダヤ人において、科学の盲目的信仰が功を奏しているようである。学校
の教科書で教えられる事がすべて正しいと信じる。こういった人々にとっては
権威ある学会が言うことのみが正しく絶対なのである。
 ユダヤ議定書(第2議定書)
 非ユダヤ人は歴史を基礎とする観察を怠り、専ら理論上の旧弊に囚われて、
その結果に対する批判的工作を忘却している。我々は新聞雑誌を利用してこの
科学理論を盲目的に信用させる。非ユダヤ人の知識階級は自己の知識を誇りと
して、科学から得た知識でものを考えようとする。その知識を論理的に吟味も
せず、その知識なるものが、人間を我々の目的の実現に向けて、教育するため
に作られた事に気がつかないのである。悪魔の世界制覇に向けて。我々の主張
を根拠なきものと思ってはいけない。我々の仕組んだところのダーウィン、マ
ルクスの教説の成功に注意なさるがよろしい。これらの教説は非ユダヤ人の心
に破壊的作用を及ぼした。ダーウィンの進化論は常識となっている。チンパン
ジーは何時になったら人間となるのか。急には進化できないから、その中間の
形態のものが存在しなくてはならない。
838日本@名無史さん:2006/08/15(火) 14:43:53
プラムさすがに50過ぎ!団塊下左回りの面目躍如だな!
839日本@名無史さん:2006/08/19(土) 16:01:46
 天皇家はフリーメーソンだった
 狛犬を研究して分かった事だが、神社の前に護りの神獣として据えてある狛
犬の起源は古代イスラエルまでさかのぼる。向かって右の狛犬は獅子であり、
左のものは狛犬で本当の姿は一角獣の麒麟である。右左で阿吽の形になってい
る。
 古代のイスラエルは北王国ヨセフと南王国ユダの二つに分裂していて、ヨセ
フ王国の紋章が一角獣(ユニコーン)であり、ユダ王国の紋章が獅子である。皇
室に伝わる紋章には右に獅子が、左に一角獣(ユニコーン)が描かれ、中央には
12匹の獅子が描かれている。これはイスレエル12支族を表している。
 ヨセフ王国の10支族が中央アジアに移った。彼らは肌の色が白いことから
白狄族と呼ばれ、ヘブライ文明の高い技術力で騎馬軍団を組織して中国を制覇
し、秦帝国を築いた。秦帝国滅亡後、北魏を建国した。後に朝鮮に移って百済
王家にとって代わった。
 百済王子豊璋と新羅王武王が三韓の挨拶の時に聖徳天皇を殺害し、中大兄皇
子(百済王子豊璋)は一時難波へ逃れ、聖徳太子の子高市皇太子と孫長屋親王を
殺害して、草壁皇子にすり替わったのである。その前は中大兄皇子に化けてい
て、大化の改新の後ずっと、天皇に成れなかったのは聖徳太子の子が天皇に成
ったためで、推古、皇極天皇などの女帝は虚構で、その後に天智天皇となり、
自分の子を文武天皇にしたのある。こうして、日本はフリーメーソンの陰謀に
よって乗っ取られたのです。
840日本@名無史さん:2006/08/26(土) 16:28:35
 日本書紀に隠されていた暗号
 なぜ、男性天皇であった伝統が聖徳太子の時代から女性天皇に変ったのか。
このことに疑問を感じないのは不思議である。日本書紀は矛盾点が多く改ざん
されている可能性があるため、内容が難解で改ざんしにくい先代旧事本紀大成
経を調べてみると、推古天皇治世の中に突然、欽明天皇の事績が出てくる。こ
れにも改ざんの魔の手が伸びていた。何か手がかりがないかと見ていると、見
出しが目に入った。帝皇本紀上巻上に継体天皇の事績が書かれている。その後
を推定すると、上巻下が安閑天皇、中巻上が宣化天皇、中巻下が欽明天皇、下
巻上が敏達天皇、下巻下が崇俊天皇となる。次が聖皇本紀上巻上となっている。
聖徳太子の聖の字と一致するから、聖徳天皇に推定する。上巻下は高市天皇、
下巻上は天武天皇、下巻下は長屋天皇となる。このように推定した根拠を示す。
 日本書紀によると、欽明天皇と石姫皇后の間に2男1女が生まれ、皇太子は
箭田珠勝大兄皇子と言い、二男は渟中倉太珠敷尊と言う。ここでおかしいのは、
二男の名前が本名でなく、諱(死後の尊称)であり、珠の一字からこれは箭田珠
勝大兄皇子の諱である。すると敏達天皇が亡くなればその皇太子が天皇になる
から、用明天皇の存在が消えてしまうのである。敏達天皇と広姫皇后の皇太子
押坂彦人大兄皇子の又の名を麻呂古皇子と言い、用明天皇と広子の長男も麻呂
古皇子と言う。同じ名前なら入れ替えても同じであると言う事は入れ替わった
と言う暗号である。押坂彦人大兄皇子は麻呂古皇子(朝鮮人)に入れ替わったの
である。彼は皇太子なのに天皇になれず、いつ亡くなったのか分からない。ま
るで聖徳太子とそっくりである。聖徳太子の正体は押坂彦人大兄皇子で、皇位
継承第1候補者で天皇になっていた。このことを隠すための嘘の女帝が推古天
皇である。用明天皇は聖徳太子の血筋を朝鮮人に卑しめて、天皇になれなかっ
たとするための虚構である。高貴な天皇家が朝鮮人を妻とする筈がない。
841日本@名無史さん:2006/08/26(土) 16:31:29
 朝鮮人が聖徳太子を暗殺したことが証明された
 日本書紀によると645年に大化の改新の政変が起こり、蘇我入鹿は中大兄
皇子と中臣鎌足らに暗殺された。それを目撃した古人大兄皇子は走って帰り、
「韓人、鞍作臣(蘇我入鹿)を殺しつ、吾が心痛し。」と言った。朝鮮人が蘇我入
鹿を殺した。胸が張り裂けそうだと言った。史学会の学者は現場に朝鮮人がい
ないので、朝鮮の政治がらみで殺したと歪曲した解釈にした。騙されている先
入観でものを考えるから、判断を誤るのである。朝鮮人は中大兄皇子(百済王
豊璋)と中臣鎌足(新羅武王)らである。
 大阪府にある野中寺の弥勒半跏思惟像には次のように書かれている。天智5
年(666)栢寺の智識ら、中宮天皇の大御身労き座しし時に詣り、誓願して弥
勒の御像を奉る。栢寺の縁者が中宮天皇の病気平癒を祈願して弥勒像を贈った。
中宮とは皇后と言う意味ではなく、宮に中(あ)たると言う意味で天皇を指す。
上宮が聖徳太子であるから、中宮は聖徳太子の子・高市皇太子、下宮はその孫
・長屋親王となる。高市天皇は毒殺された。
 二人は天武天皇の血筋ではない。
 天智7年(668)に中大兄皇子は天智天皇になる。23年間皇太子のままで
いたのはおかしい。成れない事情があったのです。高市天皇が亡くなって成れ
た。この時の斉明天皇は嘘。中大兄皇子が生まれた年は625年で、大海人皇
子は621年である。天武天皇の方が兄である。中大兄皇子の周りは胡散臭い。
 文武元年(697)に軽皇子は文武天皇になる。高市皇子が亡くなるのを待っ
ていたように。この高市皇子は嘘で長屋親王である。この時の持統天皇は嘘。
女帝は聖徳天皇らを隠すための隠れ蓑の役割である。聖徳太子の暗殺を隠すた
めに645年を挟んで太子の事跡を前年にずらし、長屋親王が太子の孫である
ことを隠すために彼の事跡を後年にずらしているのです。


842日本@名無史さん:2006/08/31(木) 13:05:00
資本主義経済は悪魔の偽りの経済だ
 資本主義経済は弱者の犠牲の上に成り立つ経済であり、ちょうど江戸時代、
武士が百姓を奴隷にして重い年貢を取り立てて、百姓の生き血をすすっていた
事と同じである。その時は生き血をすすられて犠牲になる者が大勢いたから、
経済がなりたった。今のようにぜいたくになって、犠牲になる者が農家しかい
ない状態では経済が成り立つ訳がない。それが今の不況の原因である。勝ち組
が負け組の生き血をすすっているのだ。悪魔の吸血鬼アメリカに国益を絞り取
られ、国が破産しているのにそれを借金で誤魔化している。最後には国に、金
と資産をかすめとられ、円が大暴落して、日本は物を輸入することが出来なく
なって、食料危機となり大パニックとなる。後は戦争を待つのみ。
 2・26事件はその悪魔の資本主義経済が原因で起こった
 昭和11年2月26日、青年将校率いる決起部隊が政府要人を殺害する事件
が起きた。首謀者は暗黒裁判によって裁かれ銃殺刑に処せられた。
 当時の日本は世界大恐慌の影響で経済が沈滞し、関東大震災によって発生し
た大量の不良手形が原因で銀行、企業が相次いで倒産し、民衆は金に困窮して
生活苦にあえいでいた。農村はアメリカ向け輸出生糸の暴落とそれに連動して
米価が暴落し、東北地方はそれに輪をかけて凶作にみまわれて飢餓に苦しみ、
娘の身売りなどで命の糸をつないでいた。
 民衆が塗炭の苦しみにあえいでいる原因は、政権維持にしか眼中にない政党
と、これに結託し民衆の膏血を絞る財閥と、これを擁護して圧迫する官僚と腐
敗する軍部にあり、これらの特権階級が搾取しているからである。したがって
、疲弊した農民を救うためには、税金の免除と米価の安定を図る必要がある。
その障害となる特権階級の奸賊を倒し、国民を愛する天皇の考えが行き届く国
家に建て替えようと青年将校が決起した。しかし、昭和天皇は朝鮮人で偽天皇
だから、奸賊と同類で、彼らの尊い意志を無視して抹殺した。
 彼らが頼りにした真崎大将はソ連の工作員で、満州侵略に反対していた皇道
派の軍人を抹殺するために、青年将校をそそのかし、実行させたのである。天
皇を中心とした統制派の軍部の陰謀である。
843日本@名無史さん:2006/09/02(土) 12:34:16
 長屋親王は天皇になっていた
 天皇は中国語読みではてんのうだが、日本語読みではあめのすめらきと読む。
天孫降臨説から天を前につけているが、皇の一字で天の下を治める尊と言う意
味である。また、王は1国を治める君主である。皇子は天皇の嫡流の子で親王
はその孫である。王子は嫡流外の子を指す。
 昭和63年から長屋親王邸の木簡の発掘調査が行われた。邸宅は5.7ha
の広さで、不比等邸に匹敵する。
 宅地東辺に掘られた溝から大量の木簡が発見された。
 長屋親王宮大贄鮑十編
 これは長屋親王に献上された干しアワビに付けられた荷札で、大贄とは天皇
の食物を表す。長屋親王は皇太子になる前に、天皇の代理を務めていた?献上
する者が親王と尊称し、大贄と書いた。
 吉備内親王大命以符 婢筥入女進出
 吉備内親王の命令で端女の筥入女を呼び出す。大命とは天皇の命令を表す。
これは長屋天皇の死後、その室である吉備内親王が天皇の代理を務めていた?
 長屋親王御命符
 長屋親王の命令書に御命が使われており、これも天皇の命令を表す。
 長屋皇宮俵一石舂人夫
 長屋天皇の宮で人夫が米一石搗く。
 後皇子 後皇子命宮
 後天皇の子 後天皇の子の宮殿
 芳野幸行用貫簣
 天皇の芳野御幸(外遊)用荷物
 長屋親王邸の木簡が千年以上の間保存出来た理由は、粘土によって密閉され
て、空気と水から遮断されていたからです。溝に廃棄後すぐに、粘土で埋めら
れたと考えられる。すると、この木簡を後世に残そうとした意図が読み取れる。
 以上のことから推論すると、長屋親王が前皇(聖徳天皇)の孫で後皇(高市天
皇)の死後、長屋親王が天皇の代理を務めたのは祖父、父が相次いで殺された
からである。後に天皇になったが藤原氏の陰謀によって毒殺された。その室吉
備内親王が天皇の代理を務めていたが、長屋天皇一族すべてが殺された。その
事実を後世に残そうとして、家臣が木簡を土に埋めて隠したのである。
844日本@名無史さん:2006/09/16(土) 18:50:02
 聖徳太子の謎
 蘇我馬子の専横によって、蘇我稲目の娘の子が用明天皇になり、次に崇俊天
皇になった。崇俊天皇が暗殺されて、蘇我氏の血筋の男子が絶えた状態になっ
た。当然聖徳太子が天皇になれば良いのに、用明天皇の妹が推古天皇になった。
なぜ、太子は天皇になれなかったのか。摂政を務めるなら天皇になれば良い。
 この後押坂彦人大兄皇子の子が舒明天皇になり、其皇后が皇極天皇になった。
皇極天皇在位中に蘇我入鹿が専横の罪で中大兄皇子に暗殺された。彦人皇太子
は蘇我氏の血筋ではない。なぜ、天皇の血筋が本筋に戻ったのか。どうして、
本筋に戻った事が蘇我入鹿の専横となるのか。皇極天皇は後に斉明天皇になる。
この辺りの皇位継承はおかし過ぎて話しにならない。時の彦人皇太子がいつ亡
くなったのか分からないのもおかしい。
 聖徳太子は仏教を普及させた事になっているが、神道の奥義書、先代旧事本
紀大成経を撰述している。この中に予言書の未然本紀がある。神仏論争時代に
この両立は難しい。
 太子の正妃は莵道貝蛸皇女であるが、太子が病となり、妃の膳大郎女が看病
して二人が同時に亡くなった。太子の死亡年が621年と翌年の2説ある。太子
を妻でなく妾が看病し、二人が同時に死亡し、その年が2説ある。こんな話は
不自然であり、2説あるのは捏造の疑いがある。
 「上宮聖徳法王帝説」に、聖徳太子と山背大兄王が親子でないと言う人がいる
ようだが、それは良くない事だとある。そのように言論統制するのは本当の事
が広まると困るからである。書記は太子の子が山背大兄王だと言っていない。
 729年に長屋王が死亡し、737年藤原不比等の4子が疫病で死亡した翌年から
藤原氏が法隆寺の食封を再開し、夢殿を建立した。これらの行為は長屋王の怨
霊封じであり、長屋王が太子の孫だと分かると、法隆寺が太子一族の怨霊封じ
の祈祷をした事が分かる。
 隋書に、600年倭王あり、姓は阿毎、字は多利思比孤(天足彦)で天下を支える
男(天皇)となる。この時は推古天皇で男の天皇は聖徳太子以外は考えられない。
845日本@名無史さん:2006/09/16(土) 18:53:55
 法隆寺の謎
 聖徳太子は607年に法隆寺を父用明天皇の為に薬師如来像を本尊として建てた。
 しかし、623年に太子の菩提を願って遺族が造った釈迦如来像と鎌倉時代の阿
弥陀如来像が同じ金堂に三具並んでおり、中央の釈迦如来像が本尊だと分かる。
薬師如来像は釈迦如来像に比べて鋳造技術が進歩した物であり、前者の方が後
作となり、製造年が逆転する。法隆寺の本尊が2具あるのはおかしい。
 書記に670年に法隆寺が焼失したとある。しかし、「法隆寺縁起幵記資財帳」
には再建されたと言う記載が無く、建物の尺度が大化の改新以前の高麗尺で後
の唐尺でないから、再建説は成り立たない。様式も雲形斗?など飛鳥時代の物
である。西院伽藍内を掘ったが焼土は無かった。
 すると、若草伽藍説が出てきたが、再建するなら同じ場所に建てる筈で、法
隆寺の南に面する向きと若草伽藍では、ずれている。区画の時代が違うのだ。
 609年に造られた飛鳥寺の丈六如来像の大衣は、右肩から前を覆って後ろへ
回して左腕前膊にかけているから襟が2重である。しかし、法隆寺の釈迦如来
像は襟が1重で最後は左肩の背面に垂れている。作者は両方とも止利で、前作
が正しく着用し後の物が着用法が分からないのは理解に苦しむ。釈迦如来像は
溶銅が拙く鋳造し直した跡がある。
 このように文化が衰退したのは侵略されたからであり、大化の改新を境とし
て飛鳥から天平へと移り、唐様式になったのも侵略が原因である。
 書記が670年に法隆寺が焼失したと記した目的は、唐文化によって再建した
事にしないと飛鳥文化の技術の高さを否定出来ないからだ。
 やはり、聖徳天皇は大化の改新時に暗殺されて、それを隠蔽する為に622年
に病死したと言う嘘を後世に残す為に釈迦如来像が造られ、薬師如来像は聖徳
太子の様な聖者が仏教を勧めたと言う方便で仏教を普及しようとした。其像が
あった寺が太子の崇りで焼失したから法隆寺に移したのである。
846日本@名無史さん:2006/09/17(日) 17:16:50
 アメリカの正体を見破れ
 米国はドルを湯水のように印刷しても、各国がドルを買い支えてくれる。日
本は円高になると輸出不振となるため日銀がドル買いをする。この資金は外資
の餌食となる。
 米国の外資が不良債権で6兆円を注いだ新生銀行を10億円で買い叩いた。
旧長銀の負債は免除された。
 1985年プラザ合意によって円高不況になり、1987年景気を良くする為に公定
歩合を引き下げた。インフレ傾向になった為、公定歩合を引き上げ、不動産融
資総量規制を行うと、1990年バブル崩壊が起きたとある。しかし、これは計画
的に起こされたのである。米国のソロモン・ブラザーズ証券等が事前に売り逃
げして、巨万の利益を上げた。これらの外資が日本政府とくるんで意図的に株
価操作を行った。デリバティブ(株の先物取引)を利用して株価が下がる方に投機
したのです。バブル崩壊はアメリカが仕組んだ株と土地のいかさま博打である。
 米国は日本製品を、ダンピング関税、スーパー301条、いわれのない損害賠償
等で締め出した。米国はいんちき国家である。
 米国はユダヤ悪魔教徒の秘密結社(フリーメーソン)が支配する国家で、軍産
複合体は戦争によって成り立ち、資本経済は戦争後の復興事業で不況を脱して
来た。
 アメリカは真珠湾攻撃の騙し討ちや9・11テロ(自作自演)等で戦争の口実を得
て、軍事大国になり、核の威嚇外交で国を支えている。
 オーム真理教の村井秀夫が右翼に刺された時に「ユダにやられた」と言ったの
はフリーメーソンの意味。ユダヤを敵視して様に見せていたのは、高等戦術で
ある双頭作戦で、戦争は相手が無いと出来ない。自由主義も共産主義もフリー
メーソンが作ったもの。
 郵政民営化は郵便貯金等を外資に貢ぐ為のもの。
 ジェイコム株上場の株価誤入力事件は、新生銀行からの転職者が行った陰謀
で、外資が暴利を得た。10分間で大量のデーターの中から誤入力を見つけて買
い付ける事は難しい。
 堀江貴文が行ったニッポン放送買収資金は、リーマン証券から受けたもので、
逮捕によるライブドアの株価下落等によって、外資は不当な利益を得た。
847日本@名無史さん:2006/09/18(月) 09:11:58
 ファチマ第3の予言
 貴方たちは、私の忠告を妄想だと言って無視したり、自分の知識を誇って、
無知だとあざ笑って、自尊心を満足させましたね。それで、改心の機会を失い
ました。
 麻原の死刑が確定したように、貴方たちの死刑も確定しました。原爆の超高
熱で焼かれるのです。どこへ逃げても、天変地異によって、マグマと津波の生
けにえになる。たとえ、あの世へ逃げても、地獄の極熱の業火で、魂まで焼き
尽くされる。悪業の報いを受けるのである。そうしなければ、犠牲になった動
物たちの魂を救えないし、宇宙が破滅する。
 聖母マリア像が血の涙を流している。神が貴方たちを哀れんで、救えない苦
しみの血涙を流しているのです。
848日本@名無史さん:2006/09/21(木) 20:07:39
>>831の続きでいいの?
849日本@名無史さん:2006/11/01(水) 08:25:53
いいよ
850日本@名無史さん:2006/11/01(水) 11:23:51
然し、高市は大政大臣であって、皇太子では無かった。

長屋も、皇太子には結局成れなかった。
永高内新王が、首は未だ幼いと云う事で即位した様に、長屋も出来たはず。

成れなかったのは、母の身分とか、三世王とかではなく、
「胸形氏」の血筋だったからでは?

彼方は、新羅と組んでイロイロやってるし。
と想像してみる。
851日本@名無史さん:2006/11/02(木) 02:50:43
長屋王自体は太政官のトップである左大臣で満足だったろう
ただ聖武と光明の皇子である基親王の夭折で
長屋王と吉備内親王(草壁皇太子と元明天皇の皇女)の間に
生まれた膳夫王にも即位のチャンスが回って来た
聖武と光明の子は阿部内親王だけ、安積親王は縣犬養広刀自の子
だから母の身分が低い

そして長屋王の子のうち、吉備内親王所生の子は、律令の原則である
男系主義は取らずに、元明天皇の孫として2世王扱いとすると言う
元明の発した勅のおかげで、2世王として充分に即位の可能性があった
852日本@名無史さん:2006/11/03(金) 15:50:14
穂積親王も、長屋王みたいなもんだったのかな?

一品になった途端亡くなったけどね。
生きていれば、大伴家も長屋も違ったに思うう。

853日本@名無史さん:2006/11/03(金) 16:01:37
穂積親王の母親は壬申の乱で大友皇子の重臣だった蘇我赤兄の娘。
「卑母」とはいえ壬申の乱で大活躍した高市皇子、その息子の長屋王より立場は弱かったと思われ。

まあ穂積親王がもうちょっと生きてたら大伴氏もあそこまで逼塞することはなかったかもね
854日本@名無史さん:2006/11/11(土) 22:07:37


578 :名無しさんの主張 :2006/11/01(水) 23:46:54 ID:???
ttp://rawstory.com/news/2006/Japan_s_succession_crisis_creates_r_08232006.html
ドイツ通信社のマツモト・チエ記者GJ!



> The princess, who once received sympathy due to the
> immense pressure put upon her, is now the recipient
> of public scorn for holidaying instead of fulfilling
> her official obligations.
以前は(世継ぎ問題で)非常に大きなプレッシャーをかけられている、
という理由で同情を受けていた(雅子)妃だが、今では公務の代わりに
休暇を楽しんでばかりだと国民から批判されている。

> The media was quick to note that Crown Princess Masako's
> last public appearances - at a Tokyo zoo, Tokyo Disneyland
> and attending a ceremony at a kindergarten with her daughter
> Aiko - were possibly an attempt to divert media attention away
> from her pregnant sister-in-law.
最近の都内の動物園、ディズニーランド、学習院行事などでの公的な
露出も、妊娠中の義妹(紀子妃)への注目をそらす努力の一環ではないかと
当初よりメディアにより指摘されている。
855日本@名無史さん:2006/12/16(土) 14:12:04
ほほう
856日本@名無史さん:2006/12/18(月) 16:34:30
長屋王を失ったのも大きい
大伴旅人は藤原氏ではなく
長屋王に近かったと思われるから
857 ◇6HuvTKXmag :2006/12/26(火) 12:01:38
長屋王
858日本@名無史さん:2007/01/20(土) 20:33:37
ん?
859日本@名無史さん:2007/01/21(日) 01:52:59
810 :長屋王一族 :2005/07/14(木) 00:09:13 ID:YPJxuaW4
いとよかろうと選んだのだろうが、元奈良そごう跡は藤原氏に
潰された長屋王邸宅跡。藤原という名が向かいに並ぶとは!

811 :名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/14(木) 00:51:55 ID:eoF0ueol
>>810
そう、私も気になってました。偶然すぎる。長屋王は日本史を代表する怨霊。
あの周辺は祟りですよ、ほんと。
奈良そごうは当然のごとく潰れましたし、史跡文化センターも(老朽化で!?)閉鎖、
小宮山ビルオーナーはバカラ賭博の借金で倒産、対面に事務所を構える
高市早苗も落選。
その様な土地に「藤原氏」が本拠を構えるなんて、本当に教育長やって
いた人の見識なんだろうかとすら思える。理系だから歴史軽視なのだと
しても奈良という風土には合わない。藤原候補こそ興福寺のお膝元の
東向商店街に事務所を置くべきだった。

812 :名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/14(木) 01:34:44 ID:ir6KYaJQ
小宮山ビルは一時、競売にかけられてたはず。今のオーナーは誰?
斜め前にある不良債権物件?の元朝鮮料理店なんか30年近くあのままだし。
サークルKの前にあったゴルフショップは火事になって、丹波屋になって現在に至ってるし。
中村泰士もヨーカドー(元そごう)横の土地に事務所構えていて落選したし。
ヨーカドー裏の某設計事務所のビルも競売で落札されたのかな?あの設計事務所も
何かと労使間で裁判したりしてもめてたし・・
確かにあの一帯は呪われた場所かも知れない。市役所自身もかも??

藤原氏の後援会会長は考古学の名誉教授さんですから・・
選挙には素人でしょう

---------------------------
呪・平群町スレがない・・
860日本@名無史さん:2007/01/21(日) 01:53:33

平群の長屋王の奥方の墳墓の前、わざとらしく、家建ててる奴、ひどすぎると思う。
宮内庁、立ち退き要求したっていいくらいだ。
861日本@名無史さん:2007/01/21(日) 01:58:05
aaa
862日本@名無史さん:2007/01/21(日) 06:19:47
863日本@名無史さん:2007/02/23(金) 11:49:27
>>836

応神天皇─┬────色々──継体天皇
        └────色々──雄略天皇

じゃなかったっけ。
864日本@名無史さん:2007/02/26(月) 00:27:45
>>836
雄略の子孫は次の清寧で絶えている
865日本@名無史さん:2007/02/26(月) 02:12:30
雄略の婿に仁賢がなり、仁賢の婿に継体がなった。その子が欽明。
866日本@名無史さん:2007/02/27(火) 07:47:35
>>865
安閑と宣化は男性天皇なのに中継ぎかよ
女帝なら中継ぎ論も成り立つけど
男帝を中継ぎと規定するのは無理あり杉
867日本@名無史さん:2007/02/27(火) 13:29:46
>>866
いまは安閑・宣化と欽明は二朝並立説が有力じゃないのけ?
まあ兄弟相続が普通であったであろう時代に豪族を巻き込んだ
皇位継承争いがあるのは不思議でもなんでもないな。

しかし865の言うように雄略─女婿仁賢─女婿継体─欽明というのは
日本書紀の帝紀の凄いところだ。継体が応神五世孫でなくとも皇統に問題なくなるからねえ。
まあ顕宗・仁賢は実在性もさることながら雄略を「父の仇」という書紀の記事もあるくらいだし
なんだかなあ、な系譜記事だな。雄略─女婿仁賢がないと問題があるのかなと疑いたくなるねえ。
ただでさえこの兄弟大王の書紀の記述は飯豊青皇女即位の件や播磨逃亡、長幼の序騒動など
問題点が多く含まれているからなあ。
仁賢が実在の大王として雄略王権との血縁が薄かったのだろうか(つまり履中王孫ではない、と)。
雄略以降継体までの皇統系譜はまだ議論の余地が多いなあ。

てか何で長屋王スレで…まあ他の記紀関連スレがアレなのは知っているけど。
868日本@名無史さん:2007/02/27(火) 23:32:16
>>867
宣化皇女の石姫が欽明妃・敏達母だし、大伴金村や蘇我稲目はそのまま朝廷に居座っているから、二朝並立論は無理があるのではないかと思いますが。ただ、日本書紀自体が混乱しているから皇位継承がスムーズではなかった可能性が高いのでしょうけど。

それから、履中系と允恭系って、本当に血がつながっているのでしょうかね。
欠史八代でも律儀に皇太子を立てていることになっているのに、允恭天皇だけ群臣に推されて即位しているのが不思議でして。

連続して、スレ違いですみません。。。
869日本@名無史さん:2007/03/12(月) 00:07:19
そもそも皇太子自体が天智以後の産物
870日本@名無史さん:2007/03/12(月) 00:25:51
>>869
大友王子が最初でいいのかな?
その後は草壁→文武で、文武が15歳で譲位されたため元服が20歳からもっと若くていいことになったと。
安閑・宣化ってやっぱり暗殺?
871日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:55:42
交代sk

皇太子制が本当に確立したのは聖武天皇からだろう。
井上光貞と荒木敏男の研究を読め。
872日本@名無史さん:2007/03/16(金) 23:21:21
皇太子と言う称号も天皇や皇后と同じく天武朝からだろう

最初の天皇は大海人
最初の皇后は讃良
最初の皇太子は草壁
最初の皇太子妃は阿閇
873日本@名無史さん:2007/03/26(月) 00:25:11
没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg は元気かしら?
874日本@名無史さん:2007/03/26(月) 11:26:41
天武朝に出来た称号が、法的根拠を持つ制度となったのは、大宝律令からってことでよかですか?
875日本@名無史さん:2007/03/28(水) 20:58:42
草壁だって後世でいう皇太子かどうかは疑問。
草壁が皇太子なら、草壁没後の高市皇子も皇太子だろう。
876日本@名無史さん:2007/03/29(木) 06:51:58
>>874
その認識でよかと思います
877日本@名無史さん:2007/05/07(月) 11:47:51
>>875
高市皇子の子孫は帝位についておらず、草壁皇子とは明確に違う。
高市皇子は、継母持統天皇の在位中に亡くなっており、
孫の軽皇子(のちの文武天皇)を溺愛する持統天皇の前で、即位の可能性はなかったはず。
878日本@名無史さん:2007/06/04(月) 21:02:16
>>871
井上光貞とは随分古い人を持ち出すなあ
879日本@名無史さん:2007/06/04(月) 22:39:44
古い人だろうが基本学説が王道なのは歴史学の基本
特に古代史はこの10年ぐらい天地が逆転するような学説出てないし(つ_`;)
880日本@名無史さん:2007/06/11(月) 21:45:35
一体、不常改典とは何ぞや?
881日本@名無史さん:2007/06/13(水) 18:05:30
續日本紀讀めば?
882日本@名無史さん:2007/06/13(水) 18:52:54
>>872
それじゃあ、聖徳「皇太子」は当時、どう呼ばれていたんだろうか?
883日本@名無史さん:2007/06/13(水) 19:49:42
>>882
「ワカミタフリ」
884日本@名無史さん:2007/06/13(水) 20:32:09
「ひつぎのみこ」ではないの?
885日本@名無史さん:2007/06/14(木) 09:50:49
厩戸皇子が有力な後継者であったことは確かだろうけれど、
この時代、「皇太子」という地位があったかどうかは疑問だろうなあ。
厩戸皇子は推古天皇の在位中に結局亡くなってしまったけれど、
推古天皇が先になくなっていたら果たして本当に即位できたのか?
というのは疑問だと思う。
この時代、天皇がなくなると、すぐ皇位継承問題に発展するのは、
「皇太子」という地位が、そもそも確立されていなかったからと思われるため。
「大兄」なんて呼ばれる有力な皇位継承者が複数いたり。
「皇太子」の和訳「ひつぎのみこ」は、もっと後の時代の言葉だと思うよ。
886日本@名無史さん
確かに「ひつぎのみこ」の成立は聖徳太子の時代じゃないだろうなあ。
同世代には有力な皇位(大王位?)継承者はいなかったけれど
他の例と比べれば太子も実は「大兄皇子」だったんじゃあないか、と。