◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART7

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1卑弥呼
邪馬台国は何処? 大和朝廷との関係は??

3世紀日本列島の状況とは如何なるものか?
西日本に統一政権はあったか? 高地性集落の実像とは?
倭国大乱の実体、そして狗奴国はどこだ??

倭人伝の信憑性や如何に?
記紀伝承はどこまで真実を伝えているのか??

最新の発掘状況と資料解釈を元に、古代王権の正体を推理する!!

過去スレ
PART 6 http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1088171034/
PART 5 http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1083108954/
PART 4 http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1078618831/
PART 3 http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1077874356/
PART 2 http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1076418632/
PART 1 http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1045719732/

現時点では絶対と言って良いほど結論が出ないネタですので
荒らし、粘着否定厨、罵倒一行スレはご勘弁!
そーゆー香具師が出現したらスルーで。マタ〜リ進行を。
2日本@名無史さん:04/07/20 12:32
卑弥呼の同時期に、考古学的に、畿内においてもある程度の勢力があったのを前提。

・九州と畿内の認知交流あり派

当然、互いになんらかの直接あるいは間接な交流があり、認知しあっていたとする。
したがって、畿内説であれ九州説であれ、畿内勢力が魏志倭人伝中の国として登場。
どの国を畿内勢力とするかで、諸説に分かれる。

・九州と畿内の認知交流なし派

例えば、邪馬台国が畿内の勢力と直接の交流などなく、正確に認知できてないとする。
よって、魏志倭人伝の中に、畿内の勢力に該当する国が出てこないのもやむをえない。
しかし、裸国に至るまで数々の国々が掲載される中、なぜ、認知・登場しないのかが重要ポイント。
3日本@名無史さん:04/07/20 12:55
何故関西が倭人伝に倭種とひとくくりにされたかなど
虚しくなるだけだよ、青森にも独自の文化はあったけど
青森が何故登場しないのか?など言わないだろ
その関西中心主義を捨てないと、関西説派はまた恥かくよ。
関西は文献上は東の倭種、これ以上は倭人伝には記録されていない。
4日本@名無史さん:04/07/20 13:22
>2
近畿勢力も倭人伝で「認知」はされてますよね。
3さんのおっしゃるように、「邪馬台国の東にある倭種の別の国」
という言い方で。

詳しく官名などが書かれていないのは、単に当時は
邪馬台国首長国連合の勢力圏外だったから、ということでは?
5日本@名無史さん:04/07/20 13:32
魏にとっては滅ぼした公孫氏に属していたとみなされ、
なおかつ今は一応服属の姿勢をとっている呉の東方
海上の大国(?)こそが重要なのであって、更にその
奥地にある去就定かではない畿内が重要視されなかった
のはいたしかたない。
6日本@名無史さん:04/07/20 14:55
AD57の奴が福岡市レベル
邪馬台国連合福岡県レベル
同じ時代だから畿内政権も県レベルの国であったと予想
7日本@名無史さん:04/07/20 17:43
>>3-4
断定的な表現をするのはやめよう。とくに>>3は偏狭しすぎ。

倭人伝における大和地方の比定は、種説あり、主なものだけでも、次の通り。

 a. 邪馬臺國
 b. 狗奴國
 c. 女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
 d. その他の出てくる國
 e. 全く触れられていない

このうちa.が畿内説で、その他が九州説。九州説と言ってもこの点でさらに各派ある。
8天之御名無主:04/07/20 18:20
狗奴国候補の東海、最近のC14による編年見直しで
(1)邪馬台国時代の直前に東海の土器、S字甕の東方拡散が始まる。
(2)布留式の直前辺りで畿内への進出が始まる。
というシナリオが浮上しているようだ。
又、独自にベンガラから鉄を生産していた可能性もあるそうだ。
なんだか、甘木・朝倉等の先進地帯とそっくりの現象が発生しているようで
倭国に対する東海狗奴国の対等性がある感じだ。
9日本@名無史さん:04/07/20 19:12
新しいスレになったのを機会に、皆さんは箸墓古墳の築造をいつ頃と
想定されているでしょうか?
年輪年代法で近くの勝山古墳の築造が3世紀初めと推定されたということもありました。

箸墓は行ったことがありますが、あの大きさには圧倒されました。
あれがもし3世紀後半の築造であれば、その当時の親魏「倭王」は
大和周辺にいたと想定されるというか、それ以外の可能性は無いと
言っても良いぐらいではないでしょうか。

そしてその先まで言ってしまうと箸墓は台与の墓?
それぐらい箸墓古墳の築造年代が重要と思います。
(もちろん皆さんは重々ご認識と思います)
10天之御名無主:04/07/20 19:54
ヤマトトトヒモモソヒメというものすごい名前、ホトを刺して死ぬという伝承と倭人伝
の卑弥呼とを合わせると卑弥呼の墓となりますがね。死んだ後から作ったにしては
大きすぎるんで、着工時に寿墳を目的としたのか、建国記念であったのかはっきりし
ないところがありますね。兵主信仰という中国的な概念と又三輪山を横目でにらんで
いたり随分と配慮がある。西の彼方には葛城がある。紀伊がある。東には熱田がある。
卑弥呼だ、トヨだなんていってるとホケノ山のようにごそごそ入っていたりしませんかね。
布留0式時代ですかね。着工は。或いはこれの着工で布留が始まるのかもね。昔の人は
頭が切れるから公孫に鏡を貰いに言った頃が竣工の5年くらい前かな。
11天之御名無主:04/07/20 20:00
この間テレビ、民放でやったんですが、中国雲南省の最果ての洞窟ではおばあさん
には長生きのお祝いに舟形木棺、漆塗り、をプレゼントするんですな。貰う方は勲章
のようなもので自慢している。卑弥呼さんもこれかなって思いました。
12日本@名無史さん:04/07/20 20:06
>>8-10
邪馬台国が箸墓附近で、狗奴国が東海方面だとすると、
卑弥呼直後に、両者が一瞬乱れるがすぐに統合しあって、纏向時代ってこと?
13日本@名無史さん:04/07/20 20:32
>>12
(倭国として)女系(卑弥呼、トヨ)から、男系(現天皇系)に変わる時期が
あったことになるので、狗奴国の件か、九州勢力の政権簒奪か、
何かの乱れがあったのでは?

>>10
箸墓は築造年代によっては、卑弥呼、トヨ、両者合葬の可能性が
あるのではないでしょうか
九州邪馬台国は畿内にはありません。箸墓と卑弥呼などという思いつきは
昔考古学者がワカランチンのまま考えたことであります。
15天之御名無主:04/07/20 21:40
欠史8代の内孝昭天皇は后が尾張であり、ミマツヒコという変わった名前ですが、
この辺が狗奴国の感じがしますね。この天皇の後は吉備と関係のある系統に入るので
箸墓の仕上げ職人到来といったところでしょうか。モモソヒメなんかはこうした吉備系統
に編入されていますね。

東海狗奴国はおそらくは西側によって鎮圧、駆逐されたのではないでしょうか。倭国側は
狗奴国の彼方の関東の倭種とも手を組んで挟み撃ちにしたのでしょう。

崇神記は宗教国家から普通の国家に変身したように書いてあり、そういうことなのでは
ないでしょうか。

ホケノ山に後代の被葬者がヤドカリしているのは時代が異なるからで、卑弥呼とトヨでは
時代も重なり、共立の母体も変化しているでしょうからどちらかといえば別になっているの
じゃないでしょうか。
16日本@名無史さん:04/07/20 21:45
>>14は以前からぶっ飛んでいるが、妄想だけで、論拠や説明すらなし。

纏向(巻向)は日本人の心のふるさとであり、万葉集の登場回数もかなりのもの。

万葉集1087番歌 穴師川 川波立ちぬ 巻向の 弓月が岳に 雲居立つらし
万葉集1092番歌 鳴る神の 音のみ聞きし 巻向の 檜原の山を 今日見つるかも
万葉集1093番歌 三諸の その山並に 子らが手を 巻向山は 綴のよろしも
万葉集1100番歌 巻向の 痛足の川ゆ 往く水の 絶ゆること無く またかえり見む
万葉集1101番歌 ぬばたまの 夜さり来れば 巻向の 川音高しも 嵐かも疾き風
万葉集1268番歌 子らが手を 巻向山は 常にあれど 過ぎにし人に 行き巻かめやも
万葉集1269番歌 巻向の 山辺響みて 行く水の 水沫の如し 世の人吾等は
万葉集1813番歌 巻向の 檜原に立てる 春霞 おぼにし思はば なずみ来めやも
万葉集1815番歌 子らが手を 巻向山に 春されば 木の葉しぬぎて 霞たなびく
万葉集2187番歌 妹が袖 巻向山の 朝露に にほふ黄葉の 散らまく惜しも
万葉集2313番歌 あしひきの 山かも高き 巻向の 岸の小松に み雪降り来る
万葉集2314番歌 巻向の 檜原もいまだ 雲居ねば 小松が末ゆ 沫雪流る
17日本@名無史さん:04/07/20 21:55
精神が半島ですぜ、いやそのものか。
>>16 追い追い言いますよ。
19日本@名無史さん:04/07/20 22:47
もちろん、邪馬台国北九州説です。

つまり、卑弥呼たちは、日本の端っこの極一部の地域のみを支配していたに過ぎず、
また、ライバル視している相手もせいぜい九州の中のみで、他を良く知らない状況です。

一方、それら端の地域を除く、西日本一帯においては、当時、
各有力地域を統合するような動きがあったか、既に統合していたように見えます。
これがどちらかについては、考古学的な年代特定問題に依存して未だ不明でしょう。

この統合内における有力者間の争いはその後もあるでしょうが、
あくまでも内部の問題であり、そのまま大和政権へと続いたと思われます。
20日本@名無史さん:04/07/20 23:24
>>19
>西日本一帯においては、当時、各有力地域を統合するような動きがあったか、既に統合していたように見えます。

この中に福岡平野(博多〜春日)が含まれているのが味噌。

>ライバル視している相手もせいぜい九州の中のみで、

つまり、他は知らんよ九州説の場合卑弥呼のおさめる国は
『福岡平野以外』の九州(の全部または一部)で

>他を良く知らない状況です。

よくわからない『他』っていうのは、『福岡平野+瀬戸内以東(含む山陰・四国)』。
21>969:04/07/20 23:32
>ただ、マキムク遺跡で九州の土器の出土が極端に少ないことから、九州主体を想定
>できないんですよ、
これは、前に以下のようにお答えしています。
「巻向の外来土器の性格は、通常、供献土器か労働力の移動に伴うものと主張されています。
 このような説を採用する場合、外様的地位にある(たとえば東海)の土器が多く、権力中枢である
 九州の土器が少ないのは別段不思議ではありません。
 逆に東海が地域の土器が多いからと言って、東海の勢力が倭王権成立の主導を行ったという学者
 はいません。」
 
>同じ「畿内→初期大和政権断絶」説にしても、まだ、
>吉備の大和侵攻の方が説得力がある。あなたの説は「なぜ北九州が主体でなければ
>ならないのか」の論拠が弱いように思います。当時、北九州が先進地域だから、
>って声高に言われても。
北九州というのは、寺澤氏が提唱された巻向型前方後円墳が畿内に次いで多い地域
であって、庄内期といわれているものも複数あるわけですね。従って、この時代あ
るいは少し前には、北九州と畿内に別の勢力が並列していたとは考えにくく、西日
本については統一的な政治形態ができた、そしてそれがイコール巻向遺跡の誕生と
考えられます。
ご質問は、その主導をどのような勢力が行ったのかということかと推測します。
畿内在地勢力と大和政権の断絶については、前にみなさんがさんざん書いている
とおりです。
この時代に、北九州のほか、王権的なものを誕生させていたと想定される地域には、
さまざまありますが大きなところでは、ご指摘の吉備、四国東部、山陰地方など
でしょうか。
これら勢力の関与を否定しているわけではありません。当然協力があったであろうと
思います。しかし、「主導」したかということになると、なぜ圧倒的な国力と権威を
持つ北九州の「(イト)倭王権」が主導されねばならないのかという根本的な疑問が生じますね。
ちなみに私は、当然のことながら、邪馬台国九州説は、主張しておりません。
22>969:04/07/21 00:15
従来の学説ですと、北九州勢力が独占していた鉄の流通を巡り、北九州勢力
と畿内+瀬戸内勢力の争いがあり、後漢王朝の混乱により後ろだけを失った
などもあり、後者が優位のもと終わったということが都出、白石氏等により
唱えられていました。
問題は、そのようなことを裏付ける資料が存在するのかということですが、
最近の鉄の流通・生産の研究からは、否定的に考えられています。


23日本@名無史さん:04/07/21 00:21
やはり畿内説信者は電波というしかない。
外形だけでにているというなら高句麗の積石墓は前方後円ソックリニダ、
といっている隣の国のキティガイ学者と変わらない知的レベルといえる。
なぜ、安本美典さんのようなさまざまな物証を用いた数理統計解析ができ
ないのだろうか。わざとやらないのか?「棺あって隔なし」という倭人伝
の記述をスルーするなど都合の悪い情報は隠蔽とはあきれかえるしかない。

もう一度言う。

「畿内説は、死んでいる。気づいていないのは本人達だけだ。」


24日本@名無史さん:04/07/21 00:22
まず樋口康隆なんてまともな学者じゃない、論じるに値しない。
彼の説は噴飯もので誰も相手にしていないし
今では電波説となり、価値のなくなった意見を唱えている(いた)。



25日本@名無史さん:04/07/21 00:23
>>24
釣れますか?
26日本@名無史さん:04/07/21 00:25
まず樋口康隆なんてまともな学者じゃない、論じるに値しない。
彼の説は噴飯もので誰も相手にしていないし
今では電波説となり、価値のなくなった意見を唱えている(いた)。



27日本@名無史さん:04/07/21 00:26
卑弥呼時代の頃、畿内+瀬戸内勢力は徐々に統合に向かいつつあった。

一方、邪馬台国は九州北部の一地域国家であったが、
その南方の狗奴国などとの地域抗争で弱体化しつつあった。

現代でいうところの貿易利権のほうだけに目が向いており、
九州より東は倭種有りという程度の無関心さで、
半島や大陸の情勢がどうなるかの方が重要であり、
また、その後の大陸の混乱化にともない貿易利権を逸して衰退に至った。
28日本@名無史さん:04/07/21 00:27
三角縁神獣鏡の問題は邪馬台国から大和政権への連続的な展開を認める立場
からいえば、とても重要な論点の一つ。三角縁神獣鏡=魏鏡説を説明するた
めに、銅鏡論に深入りしています。本筋に一見何の関係もないように見える
ことがじつは本筋を支える大事な柱である、という意外性のある研究も魅力
です。

29日本@名無史さん:04/07/21 00:30
部九州に対抗したのが近畿だけではなく瀬戸内から東海あたりまでの大きな
連合だったからではないか。弥生後期段階で、これら東の集団も武器や農工
具に不可欠な鉄素材を日本海回りである程度入手するルートを確保していた
ことも有利に働いたろう。また、北部九州勢力にとっては密接なつながりの
あった(奴国王の金印はその証拠の一つ)後漢王朝が衰退したことも影響した
だろう。ただし、「倭国乱」は領土をめぐる征服戦争ではなく、倭人社会の
先進物資入手の主導権争いという性格が強かったと考える。

中国地方のたたら製鉄製法がもっと早く発見され、普及していれば
半島へのこだわりや、国内の勢力図が変わっていたことでしょう。
(たたら製鉄の普及を6Cと仮定しています)
31日本@名無史さん:04/07/21 00:53
東遷説は、神武東征伝説の亡霊。
軍歌の足音をきかざる終えない。
>>31
同感。熊野から侵入した神武軍は少数でないと行軍は無理。
神武が「畿内統一政権樹立」「日本統一」なんて大嘘。
わずかな領土を占領しただけ。
33日本@名無史さん:04/07/21 01:02
東遷説は、必然的に地政学、英雄史観となり、つまりファシズム的傾向
を持つ。階級、権力の成立は、本来、その地域に内在的であるべきだ。
考古学は、ファシズム=東遷説と戦うべきであって荷担すべきではない。
34日本@名無史さん:04/07/21 01:09
>卑弥呼時代の頃、畿内+瀬戸内勢力は徐々に統合に向かいつつあった。
>一方、邪馬台国は九州北部の一地域国家であったが、
>その南方の狗奴国などとの地域抗争で弱体化しつつあった。
>現代でいうところの貿易利権のほうだけに目が向いており、
>九州より東は倭種有りという程度の無関心さで、
>半島や大陸の情勢がどうなるかの方が重要であり、
>また、その後の大陸の混乱化にともない貿易利権を逸して衰退に至った。

賛成。ただ邪馬台国=九州、狗奴国=畿内勢力の可能性も捨てきれないが・・・
35日本@名無史さん:04/07/21 01:10
>>31
同感。九州からの東遷説はありえないですね。

卑弥呼時代を最期に九州の一地方勢力であった女王国などは弱体化し、
大陸からの御威光も八王の乱などで終局を迎え、交易の旨味も消滅。

一方、瀬戸内から畿内および東海にかけての広範囲において、
大連合あるいは統合といった動きが並行してあったのが、
巻向などの遺跡があらわしているわけで、
衰退した九州を吸収したすぐあとに半島進出となるわけですね。
36>35:04/07/21 01:18
考古学を無視した珍説だね。

37日本@名無史さん:04/07/21 01:25
>>36
考古学のどの成果と矛盾するとか指摘できないなら強がりやめたら?
逆に言えばその点をちゃんと指摘すれば是非はともかく議論になるでしょ?

あとそれに反対するだけではなにを主張したいのかわかんない
たとえば纏向に九州北部勢も参加していたといいたいとか?
38日本@名無史さん:04/07/21 01:30
ずっとこのシリーズを観てたからこそ言うんだがな

は よ 結 論 出 せ や ヘ タ レ

と言うのが、正直な感想じゃ
60000もレス消費してまだ答えが出ないンかい!!
39日本@名無史さん:04/07/21 01:41
>>38
考古学的に妄想を抜きにして考えると、現状での最新結論としては、
おそらく、>>27-35 あたりが当たっていると思われ。すなわち、おおざっぱには、

・邪馬台国は九州
・東遷はなかった
・邪馬台国と並行して瀬戸内〜東海に大連合発達
・4世紀頃には九州も勢力圏に入れ更に半島へも進出

これよりあとは、5世紀に五王で半島方面では全盛期、
しかし6世紀には半島方面の利権を徐々に失い消滅、と続くと思われ。
40>35:04/07/21 01:42
考古学を無視した珍説だね。

>>38
邪馬台国の一部が大和朝廷になりました。
>>39

ここは逆です。
>・4世紀頃には九州も勢力圏に入れ更に半島へも進出

壬申の乱で九州王朝系天武が畿内王権を乗っ取り
邪馬台国は畿内王権を引き継ぐ形で九州を捨てました。

43日本@名無史さん:04/07/21 01:51
>>39
となると、畿内説の拠り所となる箸墓を掘って見て、その埋葬者が卑弥呼でないことが
確定できればほぼ裏づけが取れると言うことだね。

結局箸墓を掘って見ないとFAとはならない訳か。
44日本@名無史さん:04/07/21 02:01
まだいたのか畿内説、要するに政治思想的に九州説を嫌悪してるんだね

博多遺跡群
http://kabapetit.hp.infoseek.co.jp/06-00_hakata.html
どうやらマキムクが東海と物々交換してた時代には
貨幣経済と鉄器製造工場があったみたいだよ
搬入土器も全国各地から、
しかしそれを見て奴は日本全国を支配していたとは誰も言わないだろう
マキムクの古墳が凄いとかのレベルを卒業したら?マキムクはむしろショボイ
考古学者は勘違いしてるがマキムクは出土の凄さが注目されてるんではないと思うぜ
大和王権の最初だから注目してるんだよ。
45日本@名無史さん:04/07/21 02:02
>>42
『なんとなく九州王朝説』氏は素人以下かね?

壬申の乱は7世紀の話。まったく違う時代を持ち出して逆とは常軌を逸している。

広開土王碑から半島進出は遅くても391年、
倭王による朝献は東晋へ413年、宋へ421年という状況からして、否定か?

>>43
たまたま大陸・半島に地理的に近かったからだけで記録されている卑弥呼は、
当時の日本全体の動きから見れば、日本の端の地方勢力に過ぎないわけで、
その後の衰退も考えると、重要度も低い卑弥呼に関心を寄せても意味ないであろう。
46日本@名無史さん:04/07/21 02:02
>>38
結論は九州説
九州説に疑問ががあれば何でも答えるぜ。
47日本@名無史さん:04/07/21 02:16
>>46
スレタイを良くみろ
九州説なぞどうでもいいんじゃ!!

邪 馬 台 国 は 大 和 朝 廷 に な っ た ん か い !

じゃ!!

邪馬台国が当選して大和朝廷になったのでもいいしぃ、畿内別の
国がそのまま大和朝廷になったのでいいしぃ、クナ国が当選して
大和でもいいぃ、出雲国が近畿を平らげて大和でもいいしぃ、吉備
がちょっと当選して大和でもいいんだが、チョンが南下して大和だけ
はイヤだ!!

話がちょっとそれたが、邪馬台国がどこにあったのか!は別のスレじゃ
と言うのがいいたいんじゃ
48日本@名無史さん:04/07/21 02:24
>>46
はぁ?
考古学的も文献的にも九州説決定なのに
未だに政治思想観で畿内説を語る人間がいたから答えたんだろ
49日本@名無史さん:04/07/21 02:24
>>46>>47の間違い
50日本@名無史さん:04/07/21 02:31
>>47
女王国から東へ海を渡ったところに倭種の国があると記載があるように、
当時、瀬戸内〜畿内〜東海にかけていくつも国があり、
それらが纏向などに見られるように勢力統合しつつあった。
この日本の広域を統合した勢力が大和政権。

一方、女王国の周辺に記された国々は九州北部などにとどまり、
地理的な有利さで大陸側に認知して記録はされたものの、
東海から西日本全体が大きく統合に向かう中において、
卑弥呼は日本の端に地方勢力に過ぎず、
さらに大陸側が五胡十六国時代へと進む中、有利さも失い衰退。
51日本@名無史さん:04/07/21 02:42
>>50
そこまで畿内が有利になる理由は何だろう?
ヒトラのような吸引力の強烈なリーダーがいたりして?
それだけじゃな〜。兵卒を食わせられないし
52日本@名無史さん:04/07/21 02:48
畿内に邪馬台国があると思った段階で熱狂して
実は邪馬台国は畿内にないとわかったら掌返すように卑弥呼卑下

畿内派は政治思想や皇国史観を捨ててもっと客観的に古代を見る眼を持つべきだよ

53日本@名無史さん:04/07/21 02:50
ハヤト系との関係が鍵だろうな。

両者ともどっか、マヌケだ。
54日本@名無史さん:04/07/21 02:56
>>53
まあ俺は神武朝は隼人系だと最初から主張してるんだがね
55日本@名無史さん:04/07/21 03:07
宋書で、『東征毛人五十五國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國』というのは、
征服したのは東方の55国だけでなく、西に66国、さらに海を越えてきたに95国。

これは、倭王が畿内を本拠と見て、東日本、西日本、半島ということに該当し、
九州が本拠地であったりすることは、決してありえない。

卑弥呼のあと、おそかれはやかれ九州地域は、
瀬戸内&畿内&東海の大連合に征服されたのであろう。もちろん九州王朝は妄想以下。
56日本@名無史さん:04/07/21 03:08
威勢のいい大和さんにしては、不思議な事が多すぎる。対ハヤト系は。
だが、雲行きがおかしいな、今、日中関係の歴史研究関係はうまくいってるんですかね?
57日本@名無史さん:04/07/21 03:11
>>55
ふーん、偉大だね、偉大でいいから
おまえは政治思想や皇国史観捨てろって。
58日本@名無史さん:04/07/21 03:19
邪馬台国九州説を唱えていても、九州王朝説を拒否すると、
>>57みたいなゴロツキがからんで来るので要注意。

もちろん邪馬台国畿内説なんて唱えたら、からまれるだけですまない。
59日本@名無史さん:04/07/21 03:22
>>58
俺も九州王朝説は半分拒否だよ
博多は古墳時代一時漁村レベルにまで落ちた?可能性もある、一貫して発展していない
60日本@名無史さん:04/07/21 03:40
邪馬台国が大和朝廷になったなんてホザイていたら笑われるよ。
ただ、平安時代まで太宰府の事を「遠の京都」と呼んでいたから、
これはもしかしたら太宰府に都と呼べる謂われが平安朝まで言い伝えられていたのかも知れない。

61日本@名無史さん:04/07/21 03:47
>>60
九州説=ガリレオ
畿内説=法王パウルス3世のローマ異端審問所

ガリレオ曰く「それでも邪馬台国は九州にあった」
62日本@名無史さん:04/07/21 04:53
邪馬台国は九州かなと思うのですが
邪馬台(ヤマト)国
大和(ヤマト)朝廷
と名前が共通するのはものっすごい偶然?
63日本@名無史さん:04/07/21 08:06
謎だよね、甘木と大和の地名の類似なんて偶然では説明できない。
64天之御名無主:04/07/21 08:08
九州説者が神話時代に出現したら一言主命だな。国会で言えば共産党。反対だけで
説明能力、提案能力がない。ガナリたてるだけ。
65日本@名無史さん:04/07/21 08:19
箸は後の世で当時無かったから
ヤマトトトヒモモソヒメは4世紀以降の人だと聞いた。
66一応九州王朝説:04/07/21 08:42
ふむ。スレの流れ自体は悪くないな。ここは「邪馬台国はどこでつか?」ではないw

1、畿内・九州並列説
 (a)畿内が併呑
 (b)九州が併呑
 (c)最後まで独立・争い
2、九州→畿内説
 (a)九州本家もその後連続して存在
 (b)東遷説
 (c)その後九州が衰退説
3、畿内→九州説
 
3は1とダブるから省略。

これでFA?東遷説自体もその内の一つであり、いろいろ前提が必要だが、最近の
若手の研究者は生産基盤を放棄して政治主体だけ移動するということは時代的に
きわめて考えにくいという感じだね。
>>59
遷都したからね。6Cに北九州へ再遷都しているので、また栄えます。
68日本@名無史さん :04/07/21 10:02
くまそ征伐→三韓征伐となってる時点では並列?
69日本@名無史さん:04/07/21 10:23
というか、待て
今はやっと江戸時代からの位置論争が九州で決着した段階
これだけでも大変だったのに
その後200年を空白の歴史を探るとなれば
さらに詳しい文献と考古学的見地を参考にしなければ電波となる
簡単に東遷しましたクマ国征伐しました三韓征伐しましたとはいかない
200年300年あるのだから非常に複雑な経緯を辿ったと前提して考察するべき。
70天之御名無主:04/07/21 11:17
卑弥呼の時代から鏡の配布は九州中心が近畿中心に、又、古墳もその方向に
拡大していくという変化があることの説明キボンヌ。
71日本@名無史さん:04/07/21 11:29
>>70
それこそ東遷の証。九州は狭いから広い近畿に移動したんだよ。
72天之御名無主:04/07/21 11:41
ところが考古学筋がそうした形跡がないなんていってるんだね。神話的には出雲、
考古学的には吉備、尾張が濃厚。そこで考えるんだが寺沢のデータでも九州の
鉄器最盛の時期に出雲での出土がないというのは異常。そこで、東遷があったと
すれば甘木・朝倉から出雲ではないのかと。出雲の影響を受けて吉備、丹後、尾張
等が勢いをつけごく少数の最高級シャーマンを甘木・朝倉から招聘し、マキムクを
建設したと考えてみたいんだけどね。
73日本@名無史さん:04/07/21 11:56
>>72
九州 出雲 吉備 丹後 尾張
が協力して生意気な畿内を攻めた。
五畿七道の五畿はこれらの5国が昔畿内に侵入した名残と言われている。
74天之御名無主:04/07/21 12:01
寺沢の王権誕生を読むと伊都国平原、イヅモ西谷3号、吉備楯築古墳で立て続けに
秘儀が行われたといわれているが、この動きが箸墓建設に向けた意図的な流れであ
る様な印象を受ける。
75盧氏の友人 ◆uVgREYUxI. :04/07/21 15:51
九州と畿内の葬祭儀式の違いって、もうわかってるのかね。
葬祭儀式は民族性であり(ここでいう民族は狭義の同郷集団のことね)、民族だけは治しようが無い。
九州説で確定なら、東征集団が動いた流れの参考に、葬祭儀式の形式が使えそうだが。
76天之御名無主:04/07/21 16:35
邪馬台国時代よりも前の九州の甕棺、支石墳なんてのは九州を出ていないね。
邪馬台国以後の古墳時代阿蘇の石棺が初期には瀬戸内近畿でよく使われる。
これってやはり阿蘇方面から瀬戸内、近畿に文化が流れたものでないだろうか。
地名については、甘木・朝倉を中心とする地名が奈良盆地にそのまま入
るほうが非常に不思議だが、歴史上、奈良と大宰府は常に接触があるんだから
時代的に卑弥呼時代とは断言できないところがきついね。葬祭儀式は民族移動を
トレースするさいのイヤーマークなんだが、それでいうとマキムクの始まる直前に
当時公孫の勢力下に入りつつあった楽浪の石積墳が東瀬戸内海に入ってくる。
しこれが一種の東遷みたいなものだとすれば、マキムクに入ったのは中国系かもね。
77天之御名無主:04/07/21 16:52
列島最大空前の古墳である箸墓が中国の蚩尤を祭るというのは奇怪なことだよなー。
記紀の編集当局内にも帰化中国人はいたはずであり、卑弥呼の実態を熟知し、対中
戦略上卑弥呼の史実を記紀に反映さすことは対中外交上まずいとの判断で天照、神武
等のキャラクター創造と年令水増しで対処したのか。
78天之御名無主:04/07/21 17:08
魏の張政が完成した箸墓を見たのであれば仰天してそのこと、その謂れを
記述したであろうし、箸墓着工以前又は建設途中にマキムクの現場を見たので
あれば工事関係者から蚩尤/兵主神の話を聞き込みこれまたスクープしただろう。
しかし、哀れむべき卑弥呼、その先代の男王という表現には倭国に中国系の
王族がいたことなどは微塵にも感じられない。径100歩の円墳は張政訪倭時の
箸墓後円部の工事進捗状況であったとすれば張政は蚩尤信仰を持つ祭祀集団、
忌部というか、土師というのかとの接触はなかった、つまり、それら集団の社会的
地位は高くなかったということか。
79天之御名無主:04/07/21 17:24
蚩尤とは始皇帝、徐福、山東省に縁がある話で魏の時代からは500年も昔のことであり、
場所的にも無関係であった筈。ただし、ソウルは徐伐だし、徐福は日本に到着した形跡は
ないが平原光沢を得たというのだから楽浪に定着、その後子孫が馬韓、秦韓と移動した
と考えるとその後の山東半島から半島への移民の流れが続くから神話、祭祀が補強され
たとも考えられ、そうしたものが邪馬台国時代の前に東瀬戸内海に到着したということも
考えられる。
80天之御名無主:04/07/21 17:30
半島からはじめにアカルヒメが渡来し、それを追っかけて天のヒボコが渡来する
というような話や類似の話が背振山から播磨、摂津の各地に残るのは卑弥呼の
出自を暗示するような感じがする。
81日本史@名無しさん:04/07/21 19:23
除福伝説というのがあるな。伝承地はどこも地名、遺跡など結構裏付けもあったりする。

古すぎてよくわからないが、弥生がBC1000まで遡るのなら、少なくとも当時既に野蛮
人じゃないから受け入れる土壌もある。もし記録通り5000人も出発したなら、そのうち
1000人が渡日したとしても当時の日本では大人口になる。しかも最先端技術、思想を
運んできたわけだから、これはもう信仰の対象にすらなるな。

ちなみに熊野神社系はそれだともいう。
82天之御名無主:04/07/21 19:35
応神朝の夕月君の渡来とか、百済の亡命とかで渡来した連中が神主なんかに雇って
もらったりしているうちに史記の徐福伝説と自分たちを結びつけるいわゆるルーツブーム
が起きて全国各地の神社も便乗してといった成り行きとか、遣隋使、遣唐使の時代辺り
からインテリで史記などに接する人が出始めたのが時代的にそうした徐福ブームの起源
ではないだろうか。卑弥呼の時代に先駆けて朝鮮半島南部にもそんなブームがあった
のかもね。
83969:04/07/21 22:57
>>21
「伊都が他国と語らって、畿内に攻め込み、邪馬台(ヤマト)を建国。マキムクを
都とした」ってことですか?
否定はできませんね。そういう可能性もあるかと思います。
ただ私は、倭人伝の言うように、もっと平和的な大同団結だったのではと考えて
います。だから、畿内在地勢力も当然倭国連合=邪馬台に参加したと考えてますし、
唐古・鍵がマキムク以降、衰退してしまうのも、移住したからと考える訳です。
邪馬台の誕生が画期となり、畿内では様々な変革があったかとは思いますが、
それを他国の征服と見るのは性急かと。他者からの押し付けでなくても、
自主的に変革することはありますよ。守旧派の反対はあったかもしれませんが。
北九州主体の倭国連合が、なぜマキムクを都にしなければならなかったのか?
それに対する明確な回答は貰っていないように思いますが。
84969:04/07/21 23:09
>>21
それと、あなたは、倭人伝の一大卒の記述について、どう考えています?
畿内邪馬台が、伊都や奴を監視するために置いた機関と、私は考えますが。
85日本@名無史さん:04/07/21 23:24
一大卒の機能が、後の大宰府みたいな機能に受け継がれたような気がするな
86日本@名無史さん:04/07/21 23:32
スレ違いだが、最近住んでる群馬県(毛野国)にも
以外に何十もの古墳が存在するのでビックリした
かなり昔からこちらにも文化が伝わってたようだ
87日本@名無史さん:04/07/22 00:03
応神天皇は一大率の長。
畿内に攻め込んで、政権を樹立した。
88日本@名無史さん:04/07/22 00:29
一大卒=一橋大学卒
89日本@名無史さん:04/07/22 00:29
北九州勢力が富を蓄積し我が世を謳歌出来たのは、半島から輸入した鉄を独占して
いたから。畿内や吉備、東海は鉄を分けて貰うため、多くの富・奴隷を北九州に差し
出すしかなかった。
いわば、北九州は、本州勢力と半島の中継貿易で栄えたと言える。九州が自身だけで
栄え、本州勢力に興味が無かったなんてことはないだろう。
9089:04/07/22 00:43
半島からの鉄のルートを畿内に奪取されたことで、北九州は衰退の道を歩むことになる。
鉄のルートはそれ程重要なものであった。
北九州東遷説の人は、鉄のルート確保で最重要である北九州の地から、なぜ畿内に遷都する必要があったのか
というのを説明してくれ。
一般的に言って、何か特別な理由でも無い限り、征服した土地に本拠地を移したりはしないよ。
一大卒や六波羅探題、京都所司代みたいな監視機関を置くのが普通だろうな。
歴史に例があれば教えて欲しい。
91日本@名無史さん:04/07/22 00:47
>>89
邪馬台国北九州説というのは、
北九州内の国名ばかりが登場してライバル国もせいぜい九州内、
そして、瀬戸内以東は、海を渡って倭種の国があるという記述のみ。
宗主国あるいは交易のために、大陸や半島にしか目が向いていないという説だよ。

9289:04/07/22 00:57
>>91
はあ。では邪馬台国(北九州)は大和朝廷になったんですか?
93日本@名無史さん:04/07/22 01:17
>>92
纏向とか、卑弥呼とほぼ同時期らしいし、
瀬戸内近畿東海連合が当時すでに成長しつつあったということだから、
そっちが大和朝廷じゃないでしょうか?

北九州は少なくともそのあと衰退しているそうだし、
そのあとで、大連合に加わる、あるいは、征服されたのでしょう。
94日本@名無史さん:04/07/22 02:09
>>90
何度言えば解るんだろう
理由が無いから無かったとは言えないでしょう
古代人の合理的考え方と現代のあなたの考え方は違うんですよ
現代の一般的考え方などで古代を語らないでいただきたいものです。

>>93
あなたが大連合を思いついた論拠として
搬入土器と吉備の影響の祭器を上げてるのならお笑い草
その論拠なら奴の時代に日本は奴によって統一国家が出来ていた。
95日本@名無史さん:04/07/22 02:15
>>93
それから奴の遺跡は福岡市の地下鉄工事などで発見され
市の中心部の地下に広大な古代都市があったんです
後の巻向などより面積は広大で高度な文明都市
巻向の貧相な史跡を見てると日本は古墳時代にむしろ退化している。
96日本@名無史さん:04/07/22 02:27
>>90
海上交易ルートは畿内と北九州が対立してたら畿内には鉄は入りません
北九州の友国化領国化抜きで畿内政権の発展はできないのです
鉄無一文の畿内が前時代から豊富な鉄を持つ西日本に勝つのは無理なのです
だから東遷なのです、東遷と言っても領域の拡大化
九州勢力の東の前線基地として巻向を考えたら巻向の不思議が解決する。
97日本@名無史さん :04/07/22 02:28

>大阪堺市にある、仁徳天皇陵、日本最大の前方後円墳です。
>この丸と四角を組み合わせた前方後円墳がなんと徳島や香川などの東四国から
>発祥したのではないかという新たな説が今、持ち上がっています。
>http://www.jrt.co.jp/tv/ohayo/2001/0920.htm
98日本@名無史さん:04/07/22 02:34
>>97
長大な歴史の流れの中で東四国勢力が勝ち残った可能性はありえますね。
要は北九州と友好関係を前提として瀬戸内海を誰が抑えたか?です。
99日本@名無史さん:04/07/22 06:02
>>96
巻向があなたのいうように九州勢力の東の前線基地ならば、
巻向において、その土器がある程度を占めると思われる。

しかし、実情は、地元系のを除けば、
九州ではなく東海などになるのはなぜ?

巻向は、むしろ、強いて言えば、反北九州の結集地とみなせるのでは?
100日本@名無史さん:04/07/22 06:13
>>99
>>21を嫁
101一応九州王朝説:04/07/22 06:32
「東遷」と、出先機関を置くとか先遣隊や王族を派遣するのと混同している人が多すぎると
見受けられる。

倭人伝の記述から、東遷などという大規模な軍事・経済行動は不可能。しかも、いきなり
新しい征服地に計画都市・・・・・当時のことを考えれば夢みたいな珍説と言ってもいいな。
現代と勘違いしている。

私も結局鉄だと思う。それによって既に宗主権が西日本では確立していたが、銅鐸文化
圏は相対的に独立しており、それを攻略したのが神武。だから当時の感覚として輝かし
い初代と言うことになった。これによって一部とはいえ九州の宗主権が確立し、最終的に
銅鐸文明を滅ぼす契機となった。もし神武の血統が滅び去っていたなら、別の人物が変
わって神武に祭り上げられたに違いない。
>>101
同意。
神武は甲冑を貫く鉄器で、サヌカイト銅鐸圏に割り込み侵略したと思います。
サヌカイト器では体の露出部を損傷させるばかりで、殺戮は困難。
103天之御名無主:04/07/22 16:44
神武記によれば神武は一切の理由抜きに紀の国名草邑で地元の名草戸畔を殺し、
死体を八つ裂きにし、熊野荒坂津(亦の名は丹敷浦)では丹敷戸畔を誅している。
丹敷戸畔の殺された付近にイザナギの死亡した花の窟神社がある。更に吉野では
水銀らしきものを清流に投じて魚を殺しては喜び、天の香具山では土器製作用の
胎土の窃盗を部下に命じている。ヤマトでも相当、戸畔を殺しているようだ。嫡男
タギシミミ(たけしににてる)は神武の妻にされた三輪山の神妻たるイスケヨリヒメ
の子とされるカムヌナカワミミによって誅される。こうした行状からは銅鐸圏内では
あるが、神武の目的は同業のシャーマンの粛清、銅鐸祭祀を含むのかも判らんが
宗教の統一にあるようだね。
104天之御名無主:04/07/22 16:46
ナクサトベの八つ裂きは記紀でなく神社伝承だったかな。ところが国懸神社なんかでは
けろっと名草姫が祭られているようで神武の話というのははっきりしないところもある。
105天之御名無主:04/07/22 16:59
皇統は孝昭のとき媛蹈鞴五十鈴媛所生の皇統から吾平津媛所生の皇統へ変わった
とする説↓・・・(孝昭を侵入してきたと考えるとこの辺が狗奴国かな)
http://www2.begin.or.jp/sakura/sai08.htm#(一) 天岩戸神話の成立
「多神社は『多神宮注進状』に「旧名春日宮」とあって、もと春日神社と言ったらしい。
春日神社は日神を祀る神社をいう。それが多神社に改められたのほ第五代孝昭天皇
のときではないかと思われる。『和州五郡神社神名帳大略注解』に見える十市県主
系図の五十坂(いさか)彦の注に、孝昭天皇のとき春日県が十市県に改められたと
あるのは、系図の真偽はともあれ、看過できない伝承である。孝昭のとき媛蹈鞴
五十鈴媛所生の皇統から吾平津媛所生の皇統へ変わったと思われるが、このとき
神八井耳の後裔がになってきた日祀りの神事を皇室が掌握し、以降、三輪山麓の
神浅茅原を新たな日神祭祀の場としたのであろう。このころから纒向の開発が
始まったのではなかろうか。そして、孝霊天皇のとき、三輪山と日神の祭祀を行なう
最高女性司祭者たる卑弥呼を共立して、倭国という氏族連合国家の形成を計ったと
考えられる。」
106天之御名無主:04/07/22 18:29
神武がイザナミ殺しの真犯人であるとすると、自分の生誕でもって母イザナミの産道
に火傷を負わし、これを死に至らしめ、その罪により父イザナギに斬殺されるカグツチ、
窯業の神、は舞鶴の神社に祭られているが、これは多分、近江にあった銅鐸製造集団
の指導者の終焉の地が舞鶴、丹後の大江山に近い、すなわち、ヒコイマスに討伐される
クガミミノツカサ、ヒキメ、倭人伝に狗奴国のクガチヒコと出ているものではないかと
思われる。三遠式銅鐸圏の伊勢湾沿岸の土器や伊勢津彦の東方への移動が始まる
のはこの事件を裏付けるのではないか。
イザナミは紀元前(弥生?縄文?)の話、神武は紀元後4Cの人
108天之御名無王:04/07/22 19:23
イザナミの仇を撃ったのは神武の子藤原道長と言われている
この事件を裏付けるものは伊勢神宮の銅鐸の宮に記されている。

109天之御名無主:04/07/22 19:42
神武・卑弥呼(モモソ)のシンボルマークはトンビだよな。鳥をトーテムとするのは
天の日鷲命(阿波)等もあるが九州に渡来した中国山東省系だな。日本人じゃない
だろう。;
110天之御名無主:04/07/22 19:47
伊勢神宮、熱田神宮なんてのは皆祟り封じじゃないのか。崇神なんて名前からして
祟り封じ王朝。
111天之御名無王:04/07/22 19:57
卑弥呼神宮なんてのは皆祟り封じじゃないのか。崇神武のシンボルマークは王朝からして
モモソ人じゃないだろう。
112天之御名無主:04/07/22 19:58
仲哀9年2月6日崩御、12月応神が生まれるが、母神功 はタケシウチと不倫をしていたと
住吉神社伝承で伝えている。応神は明確にタケシウチの子供である。タケシウチ王朝が
始まったといっていい。仲哀の死に方は完全な密室殺人である。神功 の征韓論は日露
戦争とにていて一応大勝利である。だが本当は仲哀の言うとおり熊襲を征伐していた方
が良かったのかもしれない。いずれにせよ天智が白村江で敗れる。
113日本@名無史さん:04/07/22 20:00
>>112
どーれ、明確なら資料はあるの?
114天之御名無王:04/07/22 20:01
クガチヒコがイザナミ殺しの真犯人であるとすると、イザナミの産道に火傷を負わし
東方への移動が始まるのはこの事件を裏付けるのではないか。
115天之御名無王:04/07/22 20:05
白村江9年2月6日崩御、タケシウチの子供である。仲哀の死に方は一応大勝利である。
12月応神が一応大勝利である。征韓論は完全な密室殺人である。一応大勝利である。
116天之御名無王:04/07/22 20:10
神武がイザナミ殺しの真犯人であるとすると、銅鐸製造集団の死に方は完全な密室殺人である。
倭人伝のシンボルマークはトンビだよな。すなわち、ヒコイマスに討伐される舞鶴の神社の征韓論は日露
戦争とにていて一応大勝利である。

117天之御名無主:04/07/22 20:12
ちょっとうんこしてくる。
118天之御名無主:04/07/22 20:15
ごはんたべてくる。
119天之御名無主:04/07/22 20:19
うんこたべてくる。
120日本@名無史さん:04/07/22 20:23
>>112 >>115 高木彬光の『古代天皇の秘密』の読み過ぎ!
推理小説式のみで記紀を考えると失敗するよ。
121天之御名無主:04/07/22 20:28
神武がイザナミ殺しの真犯人であるとすると徐福伝説とみなせるのでは?
122日本@名無史さん:04/07/22 20:33
直接関係ないかもしれんが、「邪馬台国」って倭国連合そのものの名称
じゃなく、連合の首都のあった国の名前なんだよね。
ソ連のロシア共和国みたいなもの。
だから大和朝廷との関係を考える場合、邪馬台国自体がどこに
あったかよりも、倭国連合の版図がどこまでだったかの方が大事だと思う。
あくまで連邦だから、首都の置かれた場所がイコール最大の勢力を持った
地域だったとは限らないから。
まして卑弥呼は政治権力で王になったんじゃなく、シャーマンなわけだし。
123天之御名無主:04/07/22 20:35
この間テレビ、民放でやったんですが、ホケノ山外来土器の性格は一切の理由抜きに
ホトを刺して死ぬという伝承と倭人伝の卑弥呼とを合わせると卑弥呼の墓となりますがね。
仲哀と神功 は、九州王朝の国際戦争に乗り気になれないまま
九州に連れて来られて、仲哀は傷が原因で死に、神功は身柄を
九州に軟禁されているようです。
上手いこと逃れていた天智のときに、九州王朝は敗戦します(663)が
天智は671年に死んでしまいます(畿内王権の滅亡)。
唐が九州王朝の薩夜麻以下2000人を連れてきたのはこの2ヶ月前ですが、
九州王朝系天武が畿内政権を奪取し、新九州王朝を畿内で樹立します(673)。
125日本@名無史さん:04/07/22 20:49
>>122
百余国のうちの30カ国くらいだから、当時の倭人圏の3分の一から四分の一
位になるのかな。
126天之御名無主:04/07/22 20:52
>124
仲哀と神功はタケシウチ王朝。
>>126
自国で「元号」を制定できないレベルの王権は、「王朝未満」です。
真人・朝臣・評などを決めたのも九州王朝です。畿内王権はこれに従いました。
12890:04/07/22 21:04
>>94
>理由が無いから無かったとは言えないでしょう
>古代人の合理的考え方と現代のあなたの考え方は違うんですよ
>現代の一般的考え方などで古代を語らないでいただきたいものです。
この書き込みは? 古代人の合理的な考え方って何?
理由はわかりません、と素直に言えばいいだろうに。

>その論拠なら奴の時代に日本は奴によって統一国家が出来ていた。
統一国家とは言わないまでも、奴国が倭国の盟主だった時期は確かにあった
と思いますが?
129天之御名無主:04/07/22 21:10
>127
仲哀と神功はタケシウチ王朝。
>>129
王権=王朝 説ですか
全国どこでも王権があればみな王朝ってわけですね
131日本@名無史さん:04/07/22 21:16
武内は王というより臣ではないかな?
132天之御名無主:04/07/22 21:19
応神は明確にタケシウチの子供である。
13390:04/07/22 21:21
九州東遷説の人が言う「東遷」って、具体的にどんなものを想定している
のか? 「東遷」という言葉だけで説明終了、みたいな、いい加減な印象が
拭えない。
北九州や吉備、東海らが畿内を征服し、マキムクに各国の王たちが数百の兵士を
率いて駐屯、畿内の人々を統治したのか?
明治の初めに、薩長土が護親兵を東京に置いたみたいな感じ?
134日本@名無史さん:04/07/22 21:22
>>132
だからさ〜。明確ということは一発、ストレートでそのことが
成立することが、文句が出ないで決まることでないのん?
その決定的な資料か何かとは、どーいうものなのん?
135日本@名無史さん:04/07/22 21:23
>>133
 ↑
粘着だから相手にしないほうが吉
136天之御名無主:04/07/22 21:29
何度言えば解るんだろう、仲哀9年2月6日崩御、12月応神が生まれるが、
母神功 はタケシウチと不倫をしていたと住吉神社伝承で伝えている。
応神は明確にタケシウチの子供である。タケシウチ王朝が始まったといっていい。
>>136
応神は、軟禁中の神功が生んだ、王朝に無関係な家系の子です。
父親が誰だろうと歴史に影響の無い子ですがなにか?
138天之御名無主:04/07/22 21:36
タケシウチ王朝が始まったといっていい。
>>138
まあ、嵐君だと思いますが、九州王朝に命令されて連れてこられた
神功やその子応神など、死のうが行きようが、王朝には無関係です。
畿内には王朝はありませんから、そんな王朝は想像の産物でしょう。
140日本@名無史さん:04/07/22 21:41
>>136
結論が早いと思うぞ。
141一応九州王朝説:04/07/22 22:00
>自国で「元号」を制定できないレベルの王権は、「王朝未満」です。
  真人・朝臣・評などを決めたのも九州王朝です。畿内王権はこれに従いました。

後半はともかく、1行目は言い過ぎ。つうか、違う。どこの国も年号のない時代がある。
つうか、年号自体あるのは中国とその永世国家だけ。
>>141

「レベル」という表現で逃げたわけです。恒久的ではありませんでしたが
九州王朝・百済・新羅は元号を制定しています。
143一応九州王朝説:04/07/22 22:14
あまり「王朝論」「王権論」には踏み込まない方がいいと思われ。
いや、それ自体はもちろん重要な王権のアイテムだけど。いいたいのはそれじゃなくて。
私が言いたいのは、神功不倫説は、スレ違いだということなのです。
145日本@名無史さん:04/07/22 22:38
とりあえず、ここは邪馬台国と大和朝廷のスレなのですから、
電波系の九州王朝説関係の話は、九州王朝スレでやってくれます?
>>145
早くスレタイに戻しましょう!!
>>41-42
147>83:04/07/22 23:07
>ただ私は、倭人伝の言うように、もっと平和的な大同団結だったのではと考えて
>います。だから、畿内在地勢力も当然倭国連合=邪馬台に参加したと考えてますし、

高地性集落の存在から非常な緊張状態にあったことが、証明されています。

>唐古・鍵がマキムク以降、衰退してしまうのも、移住したからと考える訳です。

であれば、唐古・鍵遺跡と巻向遺跡の継続性を示す物証が必要ですが、考古学的には
今のところほとんどありません。

>邪馬台の誕生が画期となり、畿内では様々な変革があったかとは思いますが、
>それを他国の征服と見るのは性急かと。他者からの押し付けでなくても、
>自主的に変革することはありますよ。守旧派の反対はあったかもしれませんが。
>北九州主体の倭国連合が、なぜマキムクを都にしなければならなかったのか?
>それに対する明確な回答は貰っていないように思いますが。

変革したなら、名残があるはずですが、ほとんどそういうものが見つからないわけです。
このため、巻向遺跡の建設は、他勢力が主体であると結論する人が多くなっているわけです。
「動機が不適当だから物証がおかしい」なんて考え方はしないのですよ。
ではなぜ、他勢力が巻向にこのようなもの築いたのかというと、いろんな説があります。
とりあえず考古学者に限定して紹介すると、
「関東まで及ぶ倭国の首都として、イト国では不便だ。」(柳田康男氏)
「東国への軍事的要、交通の要衝、卑弥呼がいた」(寺澤薫氏)
「神聖化のため中国、半島から遠いことが望ましい、東国との広域一体性」(北條芳隆)

また、文献(記紀)では、「東によい土地がある」からとされています。


148>99:04/07/22 23:09
これは、前に以下のようにお答えしています。

「巻向の外来土器の性格は、通常、供献土器か労働力の移動に伴うものと主張されています。
 このような説を採用する場合、外様的地位にある(たとえば東海)の土器が多く、権力中枢である
 九州の土器が少ないのは別段不思議ではありません。
 逆に東海が地域の土器が多いからと言って、東海の勢力が倭王権成立の主導を行ったという学者
 はいません。」
149>99:04/07/22 23:14
>半島からの鉄のルートを畿内に奪取されたことで、北九州は衰退の道を歩むことになる。
>鉄のルートはそれ程重要なものであった。

奪回されたという証拠も北九州が庄内期直前に衰退したという証拠もありません。
最近研究の成果では、庄内期まで鉄器の量は、畿内を圧倒しています(川越哲治、村上恭道等)。
150:04/07/22 23:15
>それと、あなたは、倭人伝の一大卒の記述について、どう考えています?
>畿内邪馬台が、伊都や奴を監視するために置いた機関と、私は考えますが。
出先機関でしょう。
151>72:04/07/22 23:19
>ところが考古学筋がそうした形跡がないなんていってるんだね。神話的には出雲、
>考古学的には吉備、尾張が濃厚。
考古学者には、吉備主体説はいるが、尾張というのはいないです。
文献の人は、ほとんど筑紫主体説です。
記紀を読んだことあるんでしょうか?
152日本史@名無しさん:04/07/22 23:21
頼むからその推測だけで組み立てられた文章なんとかならない?気持ち悪い。
そんなことは無いでしょう。
154>133:04/07/22 23:29
「東遷」というと勢力がまるごと移住したのかのようにとられるのかもしれませんが、
奴国時代はともかく、イト倭国の時代にすでに倭国は「広域帝国」であったわけです。
範囲については、諸説あるかと思いますが、柳田氏のように広くとる人は、北・東・中九州、
四国西部、北陸、三重県、半島南部を影響圏であったとしています。
すでに広域帝国であった倭国が瀬戸内勢力の畿内を領土に追加し、首都を移した、という
理解でよいと思います。
後世の例ですと、薩長土肥が江戸に新首都を置いたというイメージがにているのではないでしょうか?

155日本@名無史さん:04/07/22 23:33
福岡平野の須玖岡本遺跡群、那珂比恵遺跡群が弥生集落では最大級で、遺物の質や集落の計画性がダントツ。
糸島の三雲遺跡も匹敵する可能性があるが、調査範囲が少なく不明瞭。これらは規模的にマキムクに匹敵する。
これら3遺跡は弥生中期中ごろに巨大化し、須玖は弥生終末まで、他は古墳前期にも繁栄が存続するようだ。
唐古鍵遺跡は30ha、須玖岡本や那珂比恵は100ha以上。
那珂では2kmの直線道路痕跡が存在するらしく、また須玖岡本の青銅器鋳型の出土数や出土頻度は唐古とは比べ物にならない。
福岡の研究者に言わせると、吉野ヶ里と唐古鍵が同程度の規模と構造と言う。
あと、壱岐の原ノ辻も同じぐらい。
邪馬台国は大和でもいいけど(マキムク出現以降ね)、畿内派は九州のこともよく調べておいてね。
あと九州派の人も、伊都国、奴国が質的規模的に最高ランクで、他地区はその下であることをわかってね。


15690:04/07/22 23:33
>>150
北九州東遷→畿内征服→マキムク建設が、3C前半の邪馬台国の時代だと
すれば、倭人伝の一大卒の記述は違和感を感じません?
北九州の諸国を検察し、諸国から畏憚されていたんですよ。
東遷から殆ど時間が経っていないのに、元々味方だった北九州諸国に対する
扱いとしてはどうなんでしょう?
157日本@名無史さん:04/07/22 23:40
もちろん武士道うんぬんは妄想だ。しかし考えてみよう。
今日、我々は豊富な実物に基づいて伽耶と日本の実用武器を比較し、その
系統論をひねくることができる。
なぜこんなことが可能なのか? と言えばそれは伽耶地域と日本の古墳
から実用武器が出土するからだが、こんなことは滅多にない幸運なのだ。
このことをだれも取り上げないのは不思議なくらいだ。

王や上級者の墓そのものに、物々しい実用武器を埋葬するということは、
王権が武力と分離していない、すなわち王じしんが戦闘者ないし指揮官
であったことを示していると思われるが、このような現象は半島では
4〜6世紀の伽耶地域にのみ見られるだけで、それ以前の伽耶にはなく、
時代を通じて高句麗や百済にもない。
わが国では古墳時代中期に見られるだけで、それ以前にも以後にもない。
奈良、平安時代になればたちまち王権と武力は分離し、武士は貴族から
見下げられる存在となる。

このような4〜6世紀の現象を説明するには、同じく実用武器を埋葬した
扶余本国の風習がそのままの形で金官/伽耶地域に伝わり、それがなん
らかの形でさらに日本にも伝播した、というしかない。
伝播は人の移動か、「文化受容」か、どちらかである。
しかしこのような基本的な問題を「文化受容」で済ませられるだろうか?
すぐに引き合いに出されるのが明治以後の西洋文明の受容だが、それなら
天皇陵そのものに西洋伝来の「機関銃」や「戦車」を埋葬するのか?
ということである。
158>156:04/07/22 23:43
文献の細かいニュアンスまでそのまま事実ととっていいのかはよく分かりませんが、
巻向遺跡は、早い人だと2世紀末に建設が始まるとしています。
つまり、そういう記述がされるまで、かなり経ています。
159日本@名無史さん:04/07/23 00:12
もちろん武士道うんぬんは妄想だ。しかし考えてみよう。
今日、我々は豊富な実物に基づいて伽耶と日本の実用武器を比較し、その
系統論をひねくることができる。
なぜこんなことが可能なのか? と言えばそれは伽耶地域と日本の古墳
から実用武器が出土するからだが、こんなことは滅多にない幸運なのだ。
このことをだれも取り上げないのは不思議なくらいだ。

王や上級者の墓そのものに、物々しい実用武器を埋葬するということは、
王権が武力と分離していない、すなわち王じしんが戦闘者ないし指揮官
であったことを示していると思われるが、このような現象は半島では
4〜6世紀の伽耶地域にのみ見られるだけで、それ以前の伽耶にはなく、
時代を通じて高句麗や百済にもない。
わが国では古墳時代中期に見られるだけで、それ以前にも以後にもない。
奈良、平安時代になればたちまち王権と武力は分離し、武士は貴族から
見下げられる存在となる。

このような4〜6世紀の現象を説明するには、同じく実用武器を埋葬した
扶余本国の風習がそのままの形で金官/伽耶地域に伝わり、それがなん
らかの形でさらに日本にも伝播した、というしかない。
伝播は人の移動か、「文化受容」か、どちらかである。
しかしこのような基本的な問題を「文化受容」で済ませられるだろうか?
すぐに引き合いに出されるのが明治以後の西洋文明の受容だが、それなら
天皇陵そのものに西洋伝来の「機関銃」や「戦車」を埋葬するのか?
ということである。
16090:04/07/23 00:24
>>158
マキムク建設を2C末まで遡らせるなら、そうかもな。ヒミコも「年已に長大」だった
訳だし。

>>147
ただ、倭人伝に記載されている大同団結を否定して、
>高地性集落の存在から非常な緊張状態にあったことが、証明されています。
と言うのはどうかと思うぞ。緊張状態→和平、同盟もあるだろ。
畿内の遺跡に、大規模な戦闘を思わせるような形跡はあるのか?
高地性集落の意味については考察の必要があるかと思うが。
161一応九州王朝説:04/07/23 00:31
>薩長土肥が江戸に新首都を置いたというイメージがにているのではないでしょうか?

イメージだけ。不安定な時代に機能だけ征服したばかりの土地に移すなどあり得ない。
生産地と都の分離は完全に統一国家になって以後の話。この手の「東遷」説に常に欠け
ているのは、その後の九州はどうなったのか?という問題。まさかもぬけの殻になったわ
けでもなければ、生産が衰退した証拠も物的根拠もない。温暖で広い土地から耕作が
無くなったとでも言うのか。田んぼは作り込むほどに更に土地が良くなっていくわけだがw

そんな紙に書いたようなものではなくて、もっと「王」「血統」「豪族」「戦争」など、どろどろ
していたと思うが?
162>160:04/07/23 00:52
和平かもしれんけど、畿内が劣位だと「推測」されているわけだ。
163>161:04/07/23 00:54
古田史観ってまさに「紙に書いたようなデッチアゲ」だよね。
164>161:04/07/23 01:01
衰えてないですよ。津古生掛、原口その他もろもろの存在から特権的地位に
あったとされます。でもそれは九州王朝のものではないですが。
16590:04/07/23 01:03
>>161
私は邪馬台畿内説ですが、この意見には賛成です。

後世の五畿七道制、税制上の畿内の優遇を考えると、初期ヤマト政権が九州由来というのは、
納得し辛いものがある(まあ、何百年も時代が違うのだけど)。
古代の為政者は、明らかに畿内、もっと言うとヤマトという地域を特別視していた。
だから、応神や継体などの外来の大王たちは、ヤマトを目指した訳だよ。
166>165:04/07/23 01:06
>だから、応神や継体などの外来の大王たちは、ヤマトを目指した訳だよ。

さりげなく、珍説電波をまぎれこませるとは笑わせてくれますね。
167>165:04/07/23 01:13
それは、奈良時代の話。
それでも畿内に次いで、「なぜか」朝廷の直轄地が多いんだけど。

畿内説は安本美点先生の爪の垢をせんじて飲みなさい。
16890:04/07/23 01:24
>>166
その部分について、珍説・電波は、言われても仕方がない。
私は、応神、継体で王統が替わったと思っているもので。
16990:04/07/23 01:36
>>162
しかし、倭国が大同団結に向かうには、何か理由があったと思うのだが、それは何だと思う?
お前が言うように北九州が強大なら、征服は分かるが、吉備や東海との連合の意味が分からない。
畿内が北九州の支配から脱するために、吉備や東海と同盟したと考える方が自然ではないか?
>>168
事実上の王統の断絶は、多くの賛同を得られるでしょう。
九州側、畿内側とも、政権の一枚岩などまずありえない。
内部権力闘争や、王位簒奪なども含めて考えることに賛成です。

九州勢は博多・甘木朝倉・菊池・大宰府のように、遷都しながら
政権が移転していると思います。
畿内も継体が禅譲だという人はありますまい。
171天之御名無主:04/07/23 02:35
>169
薩長土肥に靡いた幕末の中立藩と解釈すればよろしいかと、そもそも出土から吉備と東海では関わり方が違うと思うが
厳密には吉備は時勢に従った、東海畿内は抵抗勢力として巻向建設の労働力となり民力を削がれた。
畿内東海の奴隷により巻向新首都が形になってくると西日本から暫時移動があったと解釈する。

172天之御名無主:04/07/23 02:50
当時の銅鐸文化を持つ粘着気質畿内人はほとんど生口となり永遠に古墳建設をさせる事により
死に絶えていったが、一部の畿内人は今の東北に逃れ現在の東北人の祖となったと言われている
関西人がチョン気質と呼ばれ東北人が日本のチョンと言われる所以である。
関西東北が人類区分上同じ粘着チョン気質である謎は東遷によってもたらされたと言われている。
形質人類学から容易に否定できます>>1772
174天之御名無主:04/07/23 03:06
九州の王者にとって畿内は広大な稲作開発可能地域と大量の奴隷要員がある、まさに「東の良き地」です。
九州内で限界に達した耕地と増産により飽和した人員が東遷を巻き起こしたと言える
私は東遷はアメリカの西部開拓宜しく九州の東部開拓物語と位置着けている
インディアンのように当時の畿内現地人は無残な最期を遂げていることは
銅鐸の原住民が忽然と消えたことによりわかっている。
九州が畿内に遷都した理由は、唐が2000人連れて九州に傀儡政権を画策したからです。
傀儡薩夜麻側についたものと、対抗天武側についたものに分かれました。
天武は多くの味方を呼び込みながら、畿内王権を簒奪できました。
176天之御名無主:04/07/23 04:09
>175
でわ、現在わかっている7世紀以前の(政治中枢の)日本の歴史は
全部九州での出来事ということですか?
177日本@名無史さん:04/07/23 04:21
>>175
唐って7世紀の話では?

大和朝廷が確実視されているのは5世紀ですよ。
>>176
外国資料に見えるものはそのとおりです。記紀などは別です。
>>177
畿内王権は2世紀にはあったのでしょう。
畿内は緩やかな九州の傘下にいたようです。
紀元前に出雲の緩やかな傘下にいたときのように。

畿内が律令を作り始めたのは、独立してからです。
「評」も「郡」に変えました。通貨も発行しました。
法隆寺も移築しました。すべては壬申の乱以降です。
180日本@名無史さん:04/07/23 04:36
>>175
>>唐が2000人連れて九州に傀儡政権を画策したからです。

唐のなんという人が連れてきたのですか。
記録文献なども教えてください。
181日本@名無史さん:04/07/23 04:42
>>179
> 法隆寺も移築しました。すべては壬申の乱以降です。

壬申の乱は672年ですが、法隆寺の再建はそれより前です

http://www.asahi.com/culture/update/0716/001.html
>> 金堂は670年にすでに建っていたか、建築中だった可能性
182日本@名無史さん:04/07/23 05:01
じゃあ俺の先祖は何人なんだよ
183日本@名無史さん:04/07/23 05:14
>>182の先祖は耽羅人
184天之御名無主:04/07/23 06:57
猿だと思ってリャー間違いないぞ。
185日本史@名無しさん:04/07/23 07:12
>>161

だから。
アンカー野郎の相手するなって。スレのガンなんだからよ。
スルーしる。
186天之御名無主:04/07/23 09:29
神武はイザナミを殺し、銅鐸の民は母の産道に焼けど負わした呪われた民として殺戮、
駆逐される。スサノオも山林環境、資源を破壊するヤマタのオロチから稲作民を守って
英雄となる。卑弥呼政権の基本政策を読み取れるものとして↓
http://yamataikoku.hp.infoseek.co.jp/52.htm
「しかしこの図像の変化の方向は、自然を理解する人間の精神の表現としては、逆に
退化の方向を向いているように思えます。むしろマジカルな「神獣鏡」から論理的、抽象
的な「方格規矩鏡」というのが、自然と対峙する、人間の精神の成長の方向からはある
べき方向だと思えます。にもかかわらず、あえてマジカルなイメージを選択し、やがて
鏡作神社鏡の主神像を生み出すようになるまでの、日本の副葬鏡の図像の変化の
方向には、何らかの理由があったように思えます。巨大な古墳を造成できる測量の
技術力を持ちながら、神仙をビジュアライズし、現実世界の認識に関する(現実世界を
認識する論理的、抽象的な「方格規矩鏡」のような)デザインを排除した-ここに政権の
意図があらわれているのではないかと思います。」
日本人の本来の姿は神道に現れるが自然との共生であり、自然をいたわる心である。
樹木を大量に消費し、谷川のせせらぎを毒物の流れに変える銅鐸、鉄器生産は、
鉄器の計り知れない効用が不明であったその黎明期にあっては、神に対する不遜な
挑戦であった。
卑弥呼政権の実体が何者であるかに係らず八百万の神意は縄文時代から変わる
ものではなかった。
187天之御名無主:04/07/23 09:42
日本統一という信長、家康の快挙をそれより千年以上も前に成し遂げた卑弥呼政権は
鏡と古墳に立脚したが、皇室典範、武家諸法度的なものが全くなく、民法の分野でも
空虚なものであり、行き当たりばったり、何か今の永田町のご先祖のようなシステムを
その後何百年と続ける。いや、ひょっとして、今も続けているのかもしれない。
188日本@名無史さん:04/07/23 10:48
自分的には、日神子が固有名詞でなく、大和大国も固有名詞でなかった
という説に説得力を感じてしまうのですが・・・
>>180
日本書紀:郭務そう
>>181
法隆寺の一部に例外があっても、関係ありません
191日本@名無史さん:04/07/23 11:00
>天之御名無主

卑弥呼が関西に居たと前提してる時点でデンパ垂れ流しなんだよね。
九州説崩してから自説述べないと無駄なスレとして見向きもされないよ。


イザナミと神武を同列に扱ってる時点で逝ってるけど。
192日本@名無史さん:04/07/23 11:37
>>191
そうですね

卑弥呼は関西ではなく九州北部地域の女王さんです
この国(九州北部連合体)は大陸・半島との交易利権で栄えていました

しかし後ろ楯の大陸側が混乱状態になったため衰退してしまいました
代わりに出てきたのが本州側の連合体でこれが大和朝廷につながります
193天之御名無主:04/07/23 12:29
九州王国ってのは帥升だっけ、何時頃まで続くの。若干時間を置いてマキムク
になるんだよなー。最後に平原の女王、例の日本最大の鏡を副葬している、が
いたんだよなー。それ以降はどうなったの。
194天之御名無主:04/07/23 12:35
皆、弥生の年代を500年上げたのを知ってるよなー。この影響で布留式土器の年代が
古くなったんだ。卑弥呼の死んだ248年頃は完全に布留式の時代以降ということになる
んだ。卑弥呼さん、平原の女王ではありえないけど、甘木・朝倉の邪馬台国の女王であ
ったとしたら、マキムク新都に移動していなくちゃおかしいんだ。
195天之御名無主:04/07/23 12:39
奈良みたいなド田舎で鏡の鑑定なんてできるわけないよなー。付け焼刃、一夜漬けでは
鏡は扱えないから卑弥呼というのは少なくとも志賀島辺りで修行を積んでいるか、又は、
半島から渡来したんじゃないかね。
196日本@名無史さん:04/07/23 12:39
>>194
マキムクと邪馬台国は別系統というのが九州王朝論ではないのか?
197日本@名無史さん:04/07/23 12:42
>>195
元々半島は九州邪馬台国の領域だからありえるかもね
198天之御名無主:04/07/23 12:43
イザナギとか神武というのは年代的にこだわらずに単なるキーワードと扱ったほうが
判りやすいんだ。
199天之御名無主:04/07/23 12:46
だってマキムクって何もないところなんだから九州王朝しかなかったわけだろ。
九州王朝が終わって天から降ったようにマキムクに人が集まる。九州からきた
形跡はない。じゃ、九州がいないと何もできないのになぜ何でもできたんだ。
これが近畿説の問題点じゃないんかね。
200日本@名無史さん:04/07/23 12:48
>>198
細かい年代はわからないが前後関係はある
暗号を解くみたいなオカルト趣味で読むより
まず素直に記紀を読むことをお勧めする
201天之御名無主:04/07/23 12:48
だから何か九州とは違う外国分子、古墳では楽浪系積石墳が近畿に入っている。
これが怪しいんじゃないかといってるんだ。
帥升・卑弥呼・壱与の首長国連邦は、王位を簒奪されながら九州内部で遷都し、670年ごろまで続きます。
畿内は独自に発展し、大規模な国際戦争から身を避けながら、経済的に九州を追い抜いていきます。
壬申の乱で九州が畿内を乗っ取ります。天武天皇が畿内に新九州王権を樹立したのです。
このとき九州には唐の傀儡政権の残党などが跋扈し、手がつけられない混乱状態のようです。
吉野ヶ里などの旧有明軍への援軍呼びかけ・軍事指令に奔走する状態は、持統天皇時代まで続きました。
203日本@名無史さん:04/07/23 12:57
怪しいと思ったらまず調べる、学術的に関連性などを織り交ぜて自説を組み立てる

今の君は

怪しいと思う + 文献のオカルト読み = 電波

厳しい指摘だが君の考え方はは面白いと思うのであえて指摘した。
204天之御名無主:04/07/23 13:00
なんとなく九州王朝説さんの話は屋上屋を重ねるというか、全てのレースの
馬券があたることとすると最後には億万長者になれるってことじゃないか。
205天之御名無主:04/07/23 13:19
畿内説、九州説なんてウヨ、サヨ、巨人、阪神ってなもんで真面目じゃないよな。かの
ホーキングでも、ごめんなさい、間違ってましたと宇宙論を訂正している。人間、何とか
論の先生だけにはなりたくないもんだ。馬鹿の骨頂だぜ。
206日本@名無史さん:04/07/23 13:26
>>204 >>205
それを中身の無い揶揄中傷と言う。

九州王朝に具体的疑問も思いつかないのでは見込み無いぞ
否定に終始する否定厨も自説の垂れ流し電波厨もいけない
君は後者
組み立ては、まず学術的否定それから論戦論破さらに自説という代案。
207天之御名無主:04/07/23 18:03
九州論に具体的に反論するパワーないよ。九州論も面白いところはあるんだよな。
要するにブラックボックスていうのか、九州論が取り扱う時代って言うのは論戦して
も始まらないと思うんだ。安本の九州、近畿の地名の比較データを照合すると東に
向いて飛ぶ鳥の絵になるんだ。そらみつヤマトの国って鳥瞰図で見るヤマトの国って
言うことじゃないんかね。摂津の上空を飛びながら大和を見ると朝は湖だね。薄淡い
ブルーが水のように見えるんだ。昔は海だったんだなーって思うね。
208日本@名無史さん:04/07/23 18:06
ちゅーか、大陸と交易があったという1点で、
九州説が有力
209天之御名無主:04/07/23 18:15
都市とは長安の如く建設すべし、なんていうのは現地に日本人が入るようになって
からのことだろう。鳥の形に都市計画を行なうのも倭国のカラスの勝手だ。南米に
ナスカ地上絵っていうのがあるが、コンドルで有名なところだ。神武はトンビ、なんとなく
似てるよね。あれも徐福の船団が真直ぐ東に進んだために到着したんじゃあるまいか。
210一応九州王朝説:04/07/23 19:20
安本氏の説にも古田氏と同じで説得力のある部分、まだ仮説の前段の部分、試行錯誤の
部分、いろいろ混じり合っている。特に安本氏と古田氏の違いは、体系性である。

別に体系的だから良いということでもない。観念的体系に意味はないのは古田氏自身も言
っている通り。物質的基礎を持つ安本氏なら、むしろ当然の部分もある。

ただ、データ的に処理された数字や物証同士が矛盾する場合どうするかについては、多少
冷静さを各部分があるように思う。究理学的態度を貫くなら矛盾は矛盾として放り出す勇気
も必要である。特に揚げ足取りと権威主義と物的根拠軽視、論理軽視の日本古代史にあっ
ては、逆にそれを貫くことも余計に大事かと思う。

その意味で、鳥型というのはお話としては面白いが、その事と他の事柄との関連、意味づけ
が弱いのではないか。地名類似そのものは無視できないほどのものがあるが。
211>169:04/07/23 22:22
大同団結なんてもんじゃないよ。
すでにあった倭国に新領土の畿内がガッチャンコしただけ。
東海は強制労働させられてるんだから、格下だね。
212日本@名無史さん:04/07/23 22:34
安本、古田なんて学者ではないんだけどさ。
UFO研究家みたいなもんでしょ。
213日本@名無史さん:04/07/23 22:40
王朝交替化石野郎ってまだいるんだね。

確かに、河内王朝説を唱える爺さん達は生存はしているわな。
しかし後に続く学者がいない。20年内には消える説だね。
邪馬台国九州説みたいなもんだよ。
21490:04/07/23 23:08
なんか、スレの雰囲気良くなってきたね。自由に自説を語り合うのは良いことだ。

>>211
出てきたか、アンカー。また自信満々の伊都国東遷説、待ってるぜ。

>>213
古代日本において、大王となれる王族は日本各地にいた。磐井もそうだったし。
後に、それらの倭国連合の王族たちは、皇別=臣となったんだよ。
21590:04/07/23 23:11
筑紫は君だけどね
216日本@名無史さん:04/07/23 23:18
スレをざっと呼んでみて、混乱の原因がよくわかりました。

『邪馬台国は大和朝廷になったのか?』というスレなのですから、
邪馬台国九州説か否かでは意味不明で、分類のしかたが間違ってるのです。

  ・邪馬台国九州説衰退派
  ・邪馬台国九州説東遷派
  ・邪馬台国九州説別勢力東遷派
  ・邪馬台国九州説九州王朝派

おおざっぱに九州説だけでも、みなさんの主張なさってることが、これだけ違います。
そして、それぞれで、『大和朝廷になったのか?』の本質が全く変わります。

もうこれからは『九州説』という意味のない言葉の使用をやめませんか?
これでもなお、このスレで『九州説』とだけ書く人がもしいれば、
その人はスレ違いか、あるいは、自分自身でよくわかっていない人だと思います。
217盧氏の友人 ◆uVgREYUxI. :04/07/23 23:20
九州に中国との交易がある点で有利、といっても、マキムクに中国地方一大勢力の吉備が加担している。一概に畿内が大陸交易できないかというと、そうはいえない。
古代は軍事上、機動力・索敵力・攻撃射程が低く、広大な領地を占有するのは難しかった。兵農一体、農地の限界が都市の限界であった。
海も陸も国家の版図は点と線であり、面ではなかった。つまり、勢力が云々言っても中継点があれば航海・行軍は可能であるといえる。
つまり、距離が近いからといって、九州しか、九州が圧倒的に、交易に有利であったとは言い難いのだ。
特に、馬が無く帆船技術の弱かった日本はこれに当てはまるだろう。
218>216:04/07/23 23:27
水を差すようで悪いのですが、考古学的に言うと現段階では、
「邪馬台国はすでに畿内にあって、それがイコール倭王権であり、後に大和朝廷
 になった」
ということが定説化しています。考古学の焦点は、「どのように倭王権が成立したか」
というところに移っています。文献の方はよく知りませんが。
まあ、隋書には阿蘇山と書いてあるわけです。
日本書紀には584年の時点で、大和国は播磨国(兵庫県)を領有していないのです。

考古学でなんと言おうと、邪馬台国という文字は発掘されてきません。
220日本@名無史さん:04/07/23 23:47
>>213
残念ながら、考古学では王朝交代説は否定できない。
同一文化圏に属する複数の王族間で交代があっても、考古学的
にはまったく読み取れない。
221日本@名無史さん:04/07/23 23:50
>>220
いや、その場合でも副葬品の違いぐらいはあるかもしれないよ。
天皇陵が発掘できないので、確定できないだけだと思う。
222日本@名無史さん:04/07/24 00:02
>>221
なるほど。
考古学的限界というより、人為的限界というわけね。
しかし、>>213のような、いわば「新皇国史観」みたい
なのはちょっといただけない。
223日本@名無史さん:04/07/24 00:04
箸墓に隣接する池は周濠の拡張だと思われるが、溜池だと多分民間のものだろう

拡張時に手が加わっているからあまり大した物は出ないだろうが、
水を抜いて池底を掘れないものだろうか
224日本@名無史さん:04/07/24 00:04
>>217
>九州しか、九州が圧倒的に、交易に有利であったとは言い難いのだ。

おいおい
九州しかとは言い難いが、
九州が圧倒的に、交易に有利であったのは間違いないよ。
225>211:04/07/24 00:06
>東海は強制労働させられてるんだから、格下だね。

東海系土器については、労働力随伴説のほか、「ニイナメオスクニ儀礼」
簡単に言うと新嘗祭の食物供献に随伴するものという説もあります。
最初期の古墳からも東海系の土器が出土しており、この位置づけは検討の
余地がありますね。

226>220:04/07/24 00:12
だから、記紀にも、中国文献にも「王朝交替」の証拠なんてないんだよ。
考古学者も概ね否定しているわけで、これはもう終わった説だね。
戦後、騎馬民族説とかいろんな珍説がはやった時期があってこれもその
一つなんだよ。
>>226
旧唐書に載っております>「王朝交替」
228>227:04/07/24 00:27
書いてねえよ。電波学者が曲解しているだけだよ。
>>228
読みが浅いだけでしょう
230日本@名無史さん:04/07/24 00:33
>>226
王朝交代説というのは記紀のテキストクリティックから出てきた説で
あって、騎馬民族征服説とは違うぞ。
継体天皇みたいに、皇統断絶の疑いのある記述から出た説。
現在の考古学では、別の民族がやって来て支配したということに対して
は否定できるかもしれないが、同一文化圏に属する複数の王族間での
交代は否定も肯定も出来ない。

231>229:04/07/24 00:36
まあ、邪馬台国沖縄説なんてもものがあるくらいだから、
そういう電波読みのアホもいるだろうな。
いずれにせよ「旧唐書を根拠に王朝交替を唱える」なんてのはどっちにしろ
学者には相手にされていないが。古田珍電波が「学者」と詐称するなら別だけどね。
まあ、読んだことが無いのでしょう。嵐ならスルーしますよ。
233>232:04/07/24 00:44
そこまで偉そうに言うなら、そんな珍説を唱えているまともな学者を
言ってみろよ。いるのかそんなやつ?
嵐だったんだね、残念だがスルーします。
235>230:04/07/24 00:55
継体新王朝説か??えらい古い説だな。すでにかなり前に井上光貞ら
にほとんど否定されているぞ。まだいることはいるけどな。
まあ、これは「複数の王族間の交替」にはあたるんだろうがね。
新王朝となると考古学でも畿内の物量の圧倒は変わらないわけだから苦しいん
じゃないかな。
236五月:04/07/24 00:56
箸墓古墳が卑弥呼の古墳であるか否かが争点の一つになってます。
箸墓から親魏倭王の金印でも出土するなら別だが、肯定した場合は鉄器に関しては次の事が欠かせない。
1、畿内邪馬台国は九州から畿内までの広域版図領域国となるから鉄器の北部九州地域の偏在という
矛盾を説明する必要が生じる。倭人伝記事の外交記事は考古学者でも信憑性を認定してる事から
卑弥呼への賜与の品々は鏡のみならず、鉄器も多数多量あった事になるから畿内の鉄の出土が
皆無に近い事実は避けて通れない。
2、鉄器は武器のみならず古墳運営にも不可欠といってよい土木道具になるから箸墓の様な大きい古墳
築造には不可欠だったはず。古代国家と鉄の関わりを具体的にということだ。

箸墓やマキムクを三世紀前半ととらえている説者は鉄器東漸の時期が三世紀後半という事実との不整合
を無視している。
237五月:04/07/24 00:57
箸墓古墳が卑弥呼の古墳であるか否かが争点の一つになってます。
箸墓から親魏倭王の金印でも出土するなら別だが、肯定した場合は鉄器に関しては次の事が欠かせない。
1、畿内邪馬台国は九州から畿内までの広域版図領域国となるから鉄器の北部九州地域の偏在という
矛盾を説明する必要が生じる。倭人伝記事の外交記事は考古学者でも信憑性を認定してる事から
卑弥呼への賜与の品々は鏡のみならず、鉄器も多数多量あった事になるから畿内の鉄の出土が
皆無に近い事実は避けて通れない。
2、鉄器は武器のみならず古墳運営にも不可欠といってよい土木道具になるから箸墓の様な大きい古墳
築造には不可欠だったはず。古代国家と鉄の関わりを具体的にということだ。

箸墓やマキムクを三世紀前半ととらえている説者は鉄器東漸の時期が三世紀後半という事実との不整合
を無視している。
238>234:04/07/24 00:57
つまりそんな珍説唱えているやつは古田のみってことかね?
239日本@名無史さん:04/07/24 01:05
箸墓古墳が卑弥呼の古墳であるか否かが争点の一つになってます。
箸墓から親魏倭王の金印でも出土するなら別だが、肯定した場合は鉄器に関しては次の事が欠かせない。
1、畿内邪馬台国は九州から畿内までの広域版図領域国となるから鉄器の北部九州地域の偏在という
矛盾を説明する必要が生じる。倭人伝記事の外交記事は考古学者でも信憑性を認定してる事から
卑弥呼への賜与の品々は鏡のみならず、鉄器も多数多量あった事になるから畿内の鉄の出土が
皆無に近い事実は避けて通れない。
2、鉄器は武器のみならず古墳運営にも不可欠といってよい土木道具になるから箸墓の様な大きい古墳
築造には不可欠だったはず。古代国家と鉄の関わりを具体的にということだ。

箸墓やマキムクを三世紀前半ととらえている説者は鉄器東漸の時期が三世紀後半という事実との不整合
を無視している。

240日本@名無史さん:04/07/24 01:07
自民党が遂に女性天皇を容認した。予想された事であるがやはり衝撃は大きい
昨今の世論・風潮を鑑みれば、女性天皇を容認した場合、
血統が女系へ移行する可能性を否定しない皇室典範になる事は大いにあり得る
これはただごとではない。天皇家とは伝統が家職の家柄である
『継嗣は男系』 これが絶対不可欠の資格である。天皇家は、いや我々の先祖たちは
1500年に渡ってこれを守り通してきた。もしこれが崩れたらどうなるか
そうなれば天皇家はもはや伝統の家柄の意味を失い、
一般庶民と何ら変わる事ない無伝統のカスに成り下がるだろう
天皇家は伝統が全てである。その伝統の中枢は『継嗣はこれを皇統に連なる男系に限る』である
これを破って何が伝統の家柄か!!
そのようになれば伝統が支えていた権威も全て無に帰す
女性天皇の旦那が仮に鈴木であれば、その子供が即位しても
それはたんなる「鈴木んちのぼっちゃん」に過ぎない
ハッキリ言えば、女系を認めればいずれ必ず、女系による(つまり他家の男系による)王朝簒奪が実る
そうなった時、日本国は未曾有の内戦に突入する事を予言しておこう
当然私は皇親男系男子を担ぐ勢力に身を投じる。しかしそんな日本の将来を誰が望むだろうか
愚かな皇室典範改正は辞めて、せめて女性天皇は配偶者を持たないか、
もしくは配偶者の資格を皇親男系男子に限るべきである
いや、そうでなければ女性天皇は認められない
241日本@名無史さん:04/07/24 01:11
まぁ、新羅三郎というが(笑)
崇神(百済?)→応神(新羅)→継体〜天智(百済)→天武(新羅)
で、桓武は天智系だから百済か?
でも清和は新羅なのか?
242日本@名無史さん:04/07/24 01:12
>>235
井上光貞も十分古いと思うが。
邪馬台国論争だって、江戸時代から連綿と続いているわけで、
古いも新しいもないが。古田の言っていることだって、江戸時代
の熊襲偽僭説の焼き直し。
243日本@名無史さん:04/07/24 01:19
記紀を文字通り受け取って、継体が応神五世孫というのが事実であっても、
その程度の血縁関係なら別王朝といえるんじゃないの?
それさえも怪しいと思っているけどね。
244日本@名無史さん:04/07/24 02:34
>>243
継体即位は少なくとも王統の転換ではあったろうし、即位時に
なにかしらの権力闘争があったことも確かだっただろうから、
これをもって別王朝とするか否かは、言葉の定義の問題なのかも。

ただ、かの直木孝次郎のように、
大和王権の混乱に乗じ「風を望んで北方より立った豪傑の一人が、応神
五世と自称して」これを纂奪した、
みたいな説は、そろそろ否定されつつあるのじゃないかな?

245日本@名無史さん:04/07/24 02:53
>>243
でも、天皇(大王)以外の有力豪族は変わってないのよ。
それに、象徴天皇とまではいわないけど、政変が起きても、
どれも、有力豪族間での争いになって、決着ついてるのよね。

もし、未来に登場する歴史学者への対策として、
継体天皇前後で有力豪族が変化内容に装って当時記載していたとしたら、
それはそれで、ものすごいことだと思うの。

それに当時の大王候補の皇親者は継体天皇だけではなかったことも書かれていますね。
246日本@名無史さん:04/07/24 02:56
ごめんなさーい、修正。

変化内容に装って→変化ないように装って
247日本@名無史さん:04/07/24 05:44
良い流だな、みんな普通に論じてる
アンカーは無視でヨロ。
それにしても西都説は死んだのか?
俺記紀を素直に読んで西都東征説なんだけど。
248日本史@名無しさん:04/07/24 07:15
>>227>>242

そいつにレスするヤシは自分も嵐だよ。ヤメレ
249盧氏の友人 ◆uVgREYUxI. :04/07/24 08:35
畿内の大王の系譜は、少々後代の操作の在る事、致し方ないのだが、
継体天皇の問題は第一に応神五世孫であり、第二に手白香皇女であり、第三に物部氏である。
特に手白香皇女は重要であり、皇統本流を継いだかどうかの最大の指標である。


マキムクについても、マキムクの時代がいつに当たるかかなりあいまいだ。
ある人がいうには神武の都らしいが、それも疑問である。缺史八代はそのままならば神武の年代もかなり繰り上がる。
しかし某氏のような一代十年はないだろうし(末子相続が成立しない)、おそらく考えるに崇神天皇の時代だろう。
また、王朝交替もないだろう(あったならば物部氏などは失墜していなければおかしい)。
250日本史@名無しさん:04/07/24 09:06
王朝を血統に見るのか政治体制に見るのかの違いもあるな。

今みたいに狂信的な万世一系なんて無いから、別に血筋が絶えても今ほどの
問題視はされなかっただろう。
応神5世なんて嘘だよ。そこまで言ったら有資格者なんて腐るほどいることにな
る。要するに資格は力を持ち、かつ簒奪者にならないことだろ。だから丹後や越
に求めざるを得なかった。東海や九州ではだめだったということだと思う。

私的には全く別王朝の説も否定しきれないが、少なくともブレインはいたと思う。
大和盆地内と連動して動いていたと思うよ。ただ、大和「侵入」まで長期に渡って
いる理由は解明する必要がある。対外的な防衛上の理由か、武力征服しか考え
にくいが、他にどんな理由がある?よく「資格として弱かったから許可が下りなか
った」というのがあるが、これは違うと思う。
251日本@名無史さん:04/07/24 09:32
応神5世

一世代5人の男子が生まれるとして

おうじんー5人ー25人ー125人ー750人
252日本@名無史さん:04/07/24 09:33
王朝交替というと大げさになるな。
自分が記紀を読んだ印象としては、仲哀くらいまでは、大王位継承資格を持つ王族たちが、
大王位を持ち回りしていた。有力大夫たちに推戴される必要はあったが。
新しい大王は、前大王と血縁的に無関係でも、息子に擬制されたのだと思う。
そうでなければ、当時の医療技術や平均寿命で、父子相続があそこまで続いたと考えるのは
ナンセンスだ。
応神以降からは、大王の継承の仕方が急にリアルになる。
おそらく、熊襲方面軍隊長であった応神が、葛城や吉備の協力を得て、畿内大王位を
簒奪。以降、応神の血統が大王継承権を独占することになった。継体の登場の時にも、
そのロジック、応神の血筋であることが重要視された。恐らく筑紫君磐井も、応神の血筋を
主張(僭称)したと思われる。
欽明の頃に、宇佐八幡宮に応神が祭られたのは、応神が、欽明自らの直接の先祖だからに
他ならない。徳川吉宗が、権現様(家康)を崇敬したのに似ている。継体以降、
応神は急速に神格化していった。恐らく、応神が神武伝承のモデルになったのだと思う。
応神が気比大神と名前を交換した話は、本来、北陸地方に縁もゆかり無かった応神を、
継体の本拠である北陸と深い繋がりがあったと言いたくて、創作されたものだろう。
253日本@名無史さん:04/07/24 09:33
間違えた
625人
スマソ
254邪馬台国っての無いに等しいって、こっちの説:04/07/24 10:42
邪馬台国ってのは実は非常に疑わしい存在で、実際存在しなかったに
等しいといい切れる
あったとしても、せいぜい過疎化した村程度のもので
実際は日本列島では大した影響もない
あとで適当にでっちあげた部分がほとんどってのが事実だと思うよ
あえて言わせてもらうと、そんなものは存在しなかったと言う事実だけが残る
疑わしい学説より、俺の場合は色々根拠を持ってるので
(ここでは書かないけど)
きっとこっちが正しいはず
自分の説明でかなりの者が頷くから、そうはずれは無いと思う
255日本@名無史さん:04/07/24 11:23
>>254
説明よろしく
256天之御名無主:04/07/24 12:14
邪馬台国には棺あって槨なし、・・・マキムクの邪馬台国時代はまさに石槨の始まった
時代だから、九州説にとってこれくらい有利な情報はない。・・・ところがだ・・・作り方と
しては「棺を設置してから、その後に石室(竪穴式の場合、石室を石槨と呼ぶべきだと
の説もある)を作る」http://f1.aaacafe.ne.jp/~megalith/kouko11yokoanasiki.html
つまり邪馬台国すなわち古墳時代初期、先ず穴を掘って棺を穴に安置、その後棺の
底から壁までに石を積むというのだ。魏の張政が見たのは多分卑弥呼の墓クラスの
モノだったのだろうが、張政は棺を安置する段階を見学している。これは計百歩の未完
成の箸墓の後円部墳頂付近の棺の安置儀式に張政が立ち会ったのではないかと思わ
れる。彼は安置後に石を積むなんて段取りの逆の工法があるとは夢にだに思っていな
かったに違いない。石については膨大な人列をつくり、二上山から箸墓までリレーする
という事業の一環として行われ、張政はそれを見ずに帰国の途に着いた。
周濠に捨てられた土器は祭祀に使用されたものであろう。すると布留0式とはAD248年
には完成していた土器といえようか。これでは最近のC14によるAD210年代という数値が
更に較正される必要のあることになる。オマエラどう思われるかな。
257Cipher:04/07/24 12:20
ヤマトってさあ「山の麓」って意味なの?
258日本@名無史さん:04/07/24 12:28
>>256
そもそも、魏の使は伊都国までしか行っていないのだから、
九州の事しか書いていないのは当然じゃないの?
259天之御名無主:04/07/24 12:29
山門という字が古い意味を示している感じだがね。長門というのは海峡であるから
山峡という意味ではなかろうか。峠などと同様通行上人の集まるところだったのかな。
260天之御名無主:04/07/24 12:37
魏使は非常に南行し、台湾あたりまで来たんじゃないかという感触を得ている。
これって日本の海の穏やかな5月に入り6-7月頃のみんな真っ黒になっている
季節に奈良に着いたのじゃないかね。ここは台湾辺りに間違いないと確信して
いるみたいだね。
261日本@名無史さん:04/07/24 12:37
ヤマ徒
262日本@名無史さん:04/07/24 12:43
>台湾あたりまで

さすがにそこまではいってねーだろ
263Cipher:04/07/24 12:57
つーことはつまりヤマトってーのは山峡に集まった人たちって
意味があるのかな。
264日本@名無史さん:04/07/24 13:01
邪馬壹國 

邪馬(八女)国の壹(王宮)と言う意味
265254:04/07/24 13:36
例えばあの畑で発見されたとされる金印とかって、素性が非常に怪しいものとか思わない?
今ではすっかり話題に昇らなくなったけど
出土のされ方が、条件や環境、地層を考えると余りにも不自然とか
色々有るな
それほど大きいものなら文化や民度に痕跡が無いのは余りにも
説得力が無さ過ぎ、似たようなものがあったとしても
日本列島の中においては非常に小さな地域においてとしか考えられない
よく言いわれるいい伝えまがいのもの存在としては、無かったに等しい
266一応九州王朝説:04/07/24 13:42
そんなもんだよ。中央アジアいけば、ただの荒れ地になってるところなんて山ほど
ある。日本の場合は遊休地はすぐに農業用地にされてしまうし。古墳の池ですら
ため池だよ、ほとんど全部。
267日本@名無史さん:04/07/24 13:46
邪馬台国→大和朝廷は誤りだと思うよ
268日本@名無史さん:04/07/24 13:48
金印出土地が奴国(委奴国?)ではない、という可能性ならあるけどねえ・・・。
269日本@名無史さん:04/07/24 13:49
金印だけってのは笑うしか無いね、荒れ地になろうが
地層に痕跡ぐらいは残るもんなんだよ
そんなに重要なモノが見つかる地層ならね
270日本@名無史さん:04/07/24 13:54
考古学的にもその一個だけって発見は
世界でも歴史上まず無いからな
誰かが落とした(笑)としか考えれられない発見のされ方
どっちかっていうと最近の時代の代物だろう
271日本@名無史さん:04/07/24 14:00
>260 
釣りですか? そうでなかったら、
現代語訳でいいから、ちゃんと原文を読もうよ(岩波文庫)。
北九州の伊都国が「郡使の往来、常に駐(とど)まる所なり。」

つまり魏の帯方郡使は、いつも伊都国で滞在させられていた。
そこから先は、自分では行っていない。聞き書きのようです。

だから伊都国近辺までは、「XX千里」と距離が具体的なのに、
投馬以降は「水行XX日」になる。
自分で計測した部分とそうでない部分との差だと思われます。
272日本@名無史さん:04/07/24 14:01
太古の時代にロマンをはせるのは悪いことじゃないけど
有る部分では冷静に考えて見るのも有りさ
273日本@名無史さん:04/07/24 14:07
>>269
漢が滅びた時は玉璽はそこらへんの井戸から孫堅が見つけたんじゃなかったか?
274一応九州王朝説:04/07/24 14:13
まあ江戸時代の百姓だしよそから持ってきたというのも変だ罠
過去帳にも記載の無い名前らしいが、そんなのは山ほどいるし。

ミステリーとして可能性を考えるなら、盗掘者が落とす、あるいはたいしたものじゃないと
思って捨てる、とか。あと、海底に水没していた物がうち寄せられたかも。

まあ何も出てきてない訳でもないが、いろいろ謎はあるようですね。
側面の文字「常根津日子命」もよくわからない。
275天之御名無主:04/07/24 14:18
伊都国近辺は倭人伝を読んでも旧九州王朝の首都っていう感じだね。女王/邪馬台国
近辺とは国の数が違う。女王国の隣国丹波/但馬(投馬)国は相当大きいが昔から
連邦が発達していた感じじゃない。伊都国は京都といった感じで邪馬台国は西部劇の
ような発展途上の国だったのかね。倭国とは伊都国、投馬国、邪馬台国が中心で、倭国の
彼方には狗奴国があった。
276日本@名無史さん:04/07/24 18:03
>>273
その話は、韋昭の『呉書』に記されてるようだが、
裴松之は「漢王朝に忠烈の名が高い孫堅が玉璽を隠してたはずはない」
として否定しているようだ。
277盧氏の友人 ◆uVgREYUxI. :04/07/24 18:03
マキムクに邪馬台国が成立するとして、問題は考古学上・文献学上に証拠が無いことだという。
しかし、発掘品に“邪馬台国”と書いてあるはずが無い。なぜなら、邪馬台国という名は大陸側の人間がそう大陸の為の書物に記しただけの物だからである。
中国の古音は日本と違いあまりわかっていない。とくに北方系の魏の時代であるから、相当音は歪曲しただろう。
では普通に考えて、邪馬台と書かれそうな日本の地名はどこか。そういわれれば大和しかあるまい。
邪馬台がヤマトには読めない、という人もいるが、当時は中華思想が強力に働いた時代であり、三国のなかでも魏がその覇者である、と言うためにも従者的な国家群を従えている、と誇示せねばならなかった。
だから、卑小・卑猥な文字をつかって国名を記したのである。音よりも字の悪さを要求するのである。これは中華思想に伴う中華国家の現実的行動である。
当時の情勢から考えて、行程記事が長いのも“魏はより遠い国を従えている”という誇示の為にほかならないだろう。
278一応九州王朝説:04/07/24 18:48
>裴松之は「漢王朝に忠烈の名が高い孫堅が玉璽を隠してたはずはない」
  として否定しているようだ。

同時代人じゃないし、呉の人でもないから、あくまで一意見だけどな。
それに渡すと言っても董卓に渡すわけにもいくまい。仮に嘘だったとしても、政治
的判断の結果ではないか。
「考古学では邪馬台国は畿内説で決定している」という人がいます。
私は「邪馬台国」という語は漢籍文献学が基本だと思っていますし
考古学で「邪馬台国」という語を発掘などで独自に見つけたことは無い、
という常識以前の指摘をしてみました。
なお、「倭人」などは必ずしも卑小・卑猥な文字の使用とはいえず(越南なども)
中華思想が明確になる以前からの呼称である可能性があります。

金印が本物かどうかについては、積極的に偽造などして、関係者が得をした
形跡がまったく無いのです。また、偽物が国内や世界に良く見られるか
というと、これも無いようです。もっと儲かる贋造対象があるからです。
280一応九州王朝説:04/07/24 19:49
そりゃそうでしょ。玉爾の贋作なんて縛り首もの。それに、実権を持たない限り
なんの意味もないし。

ところでなんとなくさんは、側面の文字の意味しってる?
側面ときいて何のことかもわかりません
「受命于天既寿永昌」のことですか?
282盧氏の友人 ◆uVgREYUxI. :04/07/24 22:57
倭人は卑小・卑猥ではないわな。しかし、邪馬台には何らかの作為性があるとはいえないか
283日本@名無史さん:04/07/24 23:24
〔金 印〕
この金印は、江戸時代、福岡県の志賀の島において偶然発見されたもので、中国史書
「史記」の記述から、西暦57年、後漢の光武帝が漢倭奴国王(かんのわのなのこくおう)
に授与したものとされています。
この金印側面には「常根津日子命」の銘が刻まれていました。
常根津日子命は第3代安寧天皇皇子で、「常根津日子命墓、丙寅年三月十六日薨、
御年四十七歳」の墓碑名が、佐賀との県境に近い福岡県糸島郡二丈町に所在する
一貴山銚子塚古墳近傍碑石から得られています。
常根津日子命の生存年は墓碑名等から西暦20〜66年と算定しています。
なお、常根津日子命の兄「師木津日子命」の墓碑名は、奈良桜井纒向勝山古墳近傍
碑石から「戊辰年六月十五日薨、御年五十一歳」(生存年は西暦18〜68年)が得ら
れています。
284日本史@名無しさん:04/07/24 23:27
何でも金印の側面に「常根津日子命」と彫られていたというのですが、本当なのかな?
少なくとも日本で最古の金石文と言うことにもなるわけですが。
285日本@名無史さん:04/07/25 00:05
http://66.102.7.104/search?q=cache:lwIlVVVGsh8J:www.inetmie.or.jp/~jin/KIN.html+%E5%B8%B8%E6%A0%B9%E6%B4%A5%E6%97%A5%E5%AD%90%E5%91%BD&hl=ja&lr=lang_ja

〔金 印〕この金印は、江戸時代、福岡県の志賀の島において偶然発見されたもので、
中国史書「史記」の記述から、西暦57年、後漢の光武帝が漢倭奴国王
(かんのわのなのこくおう)に授与したものとされています。
この金印側面には「常根津日子命」の銘が刻まれていました。
常根津日子命は第3代安寧天皇皇子で、「常根津日子命墓、丙寅年三月十六日薨、
御年四十七歳」の墓碑名が、佐賀との県境に近い福岡県糸島郡二丈町に所在する
一貴山銚子塚古墳近傍碑石から得られています。
常根津日子命の生存年は墓碑名等から西暦20〜66年と算定しています。
なお、常根津日子命の兄「師木津日子命」の墓碑名は、奈良桜井纒向勝山古墳近傍碑石から
「戊辰年六月十五日薨、御年五十一歳」(生存年は西暦18〜68年)が得られています。
どう考えても
常根津日子命≠常根津日子伊呂泥命 ですね

安寧天皇皇子である常根津日子伊呂泥命は4C〜5Cの人ですから
西暦20〜66年と算定できる、常根津日子命(糸島郡二丈町の碑銘)
にのみ関係があるでしょう。
287日本@名無史さん:04/07/25 03:03
妙に汚い字だな
288日本@名無史さん:04/07/25 03:31

そのページなんかトンデモっぽいよ
ttp://www.inetmie.or.jp/~jin/GAZO2.html
火星の恐竜とか言ってるし
コンピューター解析画像で紀元前の墓の埋葬者確定してるし
捏造じゃないかね?
289日本@名無史さん:04/07/25 04:15
>>288
箸墓古墳の墓碑も発見してるね
290日本@名無史さん:04/07/25 05:22
ヒミコって日の皇子(巫女?)という意味ですか?
291日本@名無史さん:04/07/25 05:25
>>290
関係あるか分からないけど、
聖徳太子の父とされる用明天皇は橘豊日皇子と呼ばれていましたよ。
292日本@名無史さん:04/07/25 05:27
>>290
万葉集に「高照らす 日の御子」とあるね。
293日本史@名無しさん:04/07/25 06:22
そんなものが書かれてたら、とっくに話題になってたはずなわけだが。

他のページも見た?
            _、_    
やられましたな( ,_ノ` )y━・~~~
  
294日本@名無史さん:04/07/25 06:59

チョット笑った
考古学者いらないな、文字で説明してるよ。
勾玉にまで名前書いてる、小学生が筆箱に名前書くみたいだね。
295日本@名無史さん:04/07/25 07:04
         (::::凸:::::)         (::::○::::)  ・・・・・ちょっとキナサイ・・・
          )::::::::(           ):::::::(
        /::::::::::::;\        /::::::::::::; \
       // |:::::::::::: l |       //´|:::::::::::: l |
       | | .|:::::::::::: | |       | | |:::::::::::: | |
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        U |::::::::::/ U      U  |::::::::::/ | |
         |::::||:::|  | |    | |  |::::||:::|  U
         |::::||::|   | ∧∧//  |::::||::|
          | / | |   ( ゜д゜ )/   | /.| |
         // | |   |    /   //  | |
        //  | |   | /| |   //   | |
       //   | |   // | |   //   | |
       U    U  U  U   U     U
               ↑
               >>285
296邪馬台国=古墳発生地:04/07/25 08:58
この名前のように考えてみたい。古墳というのは弥生墳丘墓が定番の前方後円墳とか
前方後方墳となって近畿とか東海といった広域に分布しているものと考える。すると
鉄が早期から使用され季節的余剰労働力があったであろう筑紫、肥後、肥前で古墳
が発生しない理由は何だろうか。お前ら、説明してください。
297邪馬台国=古墳発生地:04/07/25 09:13
ヒント、邪馬台国当時馬韓が魏の討伐を受けているが、馬韓は北西九州の属国であった
可能性があると思うんだが、魏と気まずくなり、当時、人気の少なかった近畿のヤマトに
ダミー(名前の良く似た偽物)を作った。直接自分たちが入っては魏にばれるから山陰、
山陽の配下の海人族を作って建国し、王族の関係者は伊都の国造家ということで身分を
偽った。王族は甘木朝倉の邪馬台国に隠遁したが魏使には、邪馬台国ははるか彼方に
あると説明、魏使はそれがどうやら南方にあるらしいとの感触を得た。
298邪馬台国=古墳発生地:04/07/25 09:22
出雲にとんでもない野心家がいてオオクニヌシとなり、初代倭国王の王座の横からの
簒奪を謀ったが、各国の不平、不満が続出。日向の神武に制圧される。その後尾張
狗奴国などとの協力で新都建設が進められることになるが、筑紫の意向を受けた吉備
と対立し、狗奴国は連盟を脱退する。
299日本@名無史さん:04/07/25 09:34
鉄=季節的余剰労働力があったであろう

お前から説明してください。意味不明だな。

余剰労働力など無いぞ、余剰生産力ならわかるがな
余剰生産品は王権に集められ、余剰生産分だけ人口増となる。
300日本@名無史さん:04/07/25 09:38
飯の量=人口なんだよ
このことを忘れてないかね
人口が増えれば飯の量も増える、いたちごっこだな。
301日本@名無史さん:04/07/25 10:31
>季節的余剰労働力があったであろう筑紫、肥後、肥前で古墳
が発生しない理由 

筑紫平野は古墳を作っちゃうと、田んぼが狭くなるから止めました。
肥後・肥前は、「故なくして火おこる」阿蘇山の
噴火で埋もれちゃうので止めときました。
302邪馬台国=古墳発生地:04/07/25 10:40
稲を石で刈り取る、手でちぎる作業を鎌で刈り取るようになると人間の作業量が
何十倍もに増える。余剰生産力が発生する。一部はソチの言うように人口増になり、
残余は余の言う余剰労働力となる。飯の量は一寸はずそうや。で、これが古墳建設に
向かってもよさそうだ。ところが九州北西に古墳の画期が起こらなかったのはなぜか。
ここじゃよ。
303邪馬台国=古墳発生地:04/07/25 10:44
>301
む、む、む・・・そうであったか。現在は言いところで普賢岳なんて局所的だがな。
昔は阿蘇があったのか。アッソウか。これは大麻比古が四国東部に移住するのと、
又、近畿石棺が阿蘇の石を使用しているのと関係があるのか。オマエラのご意見賜り
たし。
304日本@名無史さん:04/07/25 12:05
もうどこでもいいよ
305邪馬台国=古墳発生地:04/07/25 12:12
八相の構えで目を開き謎の邪馬台国を解明したし。近畿説は東遷に懐疑的なのに
しかるべき代案を示していない。野党的だなー。前方後円墳を築いたのは、鏡による
鬼道の始まりは誰が持ち込んだんだ?
306日本史@名無しさん:04/07/25 12:22
鉄器があれば冬は遊んで暮らせるといいたい訳だなw

租庸調みたいなもんがあっただろうし、農閑期は戦争が戦国時代までの習わしだ罠
307日本@名無史さん:04/07/25 13:43
阿蘇ピンク石だ。
308一応九州王朝説:04/07/25 14:12
スマソ
本物の電波にやられますた (´・ω・`)ショボーン  
>>308
一緒に釣られました
310盧氏の友人 ◆uVgREYUxI. :04/07/25 14:43
おいらも釣られますた……
迂闊に信じてしまった……(恥
311日本@名無史さん:04/07/25 15:23
何やってんだよ

資料出してきたら、まず

怪しむ 疑う ググル 

俺は畿内説との論戦で体に染み付いたぞ。
312日本@名無史さん:04/07/25 15:50

◎華北人に侵略される前の朝鮮の在来種

こうした研究成果から想像をたくましくすれば、同じ人種の海洋民が朝
鮮南部沿岸と対馬、西北九州一帯に住んでいたとも考えられます。実際これを
裏付けるかのように、韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が
発掘されたと、釜山大学・鹿児島大学の共同作業チームが報告しています。
http://www.han.org/a/half-moon/hm009.html

韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された
韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された
韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された
韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された
313Cipher:04/07/25 16:12
>>290
おれもその説に賛成。ということはヒミコは個人の名前でなく
そういう位を現した言葉ということになるけどね。
314日本@名無史さん:04/07/25 16:34
>>290

姫御子を表わしたという説もあるね。
315日本@名無史さん:04/07/25 16:40
多くの諸国が緩やかな連合国家を形成し、そのなかの有力国の一つに邪馬台国も
あり、そこから日の皇子が選ばれた。そしてその連合国家が後の大和朝廷になった?
316日本@名無史さん:04/07/25 16:41
>>315
邪馬台国も固有名でない可能性がなくない?
317日本@名無史さん:04/07/25 16:47
>>315-316
卑弥呼や邪馬台国が固有名詞でないとすれば、
畿内説も九州説も両方間違っていないことになるかもね。

単に「大和」という国家連合のなかの大国を意味したに
すぎないことになるのかも。
318日本@名無史さん:04/07/25 16:49
キター――― 大和国連説

319一応九州王朝説:04/07/25 16:58
ふむ。ちょっと抽象的すぎるかな。
やはり「国家連合」の必要性は、強力な中心国の存在か、対外的な線引きのどちらか
だと思うが。

外交上畿内が半島や中国との関係に於いて問題になるのは5世紀ぐらいだと思う。
「連合」するより個別に服属させるんじゃないだろうか。
320盧氏の友人 ◆uVgREYUxI. :04/07/25 17:01
まずさ、諸説入り乱れてるし、九州王朝派の皆さんから、邪馬台国東遷説に関わる関わらないにしろ、畿内を含む西日本諸国諸地域の想定人口・国力を言ってほしい。
それで邪馬台国東遷説の方には東遷の可能性・仮定を理論的にしていただこう。
そうでない方には、邪馬台国以後の九州勢の衰亡の様子を(ry
321日本@名無史さん:04/07/25 17:28
九州
邪馬台国(福岡県)戸数7万
狗奴(熊本県)戸数3万位?
投馬(宮崎県)戸数5万

山陽
吉備(岡山県)4万位?
山陰
出雲(鳥取県)4万位?
322日本@名無史さん:04/07/25 17:31
ところで戸数7万だと人口は何人くらいになるの?
323日本@名無史さん:04/07/25 17:31
この話題は今でも熱い議論が展開されるんだな。
日本の考古学は年代観の間違いが多く、古墳時代の始まりを100年以上遅くして
卑弥呼を弥生時代の話としていたから、畿内・九州説ともに上手くなかった。

年輪年代などによる最近の年代観では、古墳時代に入ってからの話となり
箸墓古墳と魏志倭人伝の記述、魏の年号が書かれた銅鏡の分布と年代が調和し
古墳時代なら畿内でも絹が多く見られるなど、畿内説の矛盾が非常に少なくなる。
「東」と「南」の問題以外はほぼ氷解し、畿内説で決着したと見て問題はないな。
324日本@名無史さん:04/07/25 17:38
畿内説復活だね、久しぶりに見たよ、今ま何してたの?
各地の人口・経済力は、邪馬台国や大和朝廷存在証明にならないでしょう。
縄文時代は古くさかのぼるほど、関東をはじめ、東日本の人口が優勢だったようです。
326日本史@名無しさん:04/07/25 17:47
畿内説でも説明できる→畿内で確定

              ↑
        ここいいかげんうざい。飛躍ありすぎ。
327日本@名無史さん:04/07/25 17:55
>>326
そうじゃないだろ。過去の年代観は根拠薄弱なもので、
卑弥呼が古墳時代の話と確定しつつあり、
畿内説の蓋然性が非常に高くなった。
328日本@名無史さん:04/07/25 18:17
卑弥呼が何時代の人であろうが
畿内には邪馬台国に関連すると思われる遺物が出ていないのでありえないな。
329日本@名無史さん:04/07/25 18:34
>>328
??? 後円部が「径百余歩」に相当するのは箸墓古墳くらいだろ。

万葉集の遣新羅使の歌から江戸時代のオランダ商館員の記録まで
九州と近畿の間は山陽道ではなく瀬戸内海を利用するのが一般的で
「三国志」「隋書」の水行も瀬戸内海と考えるのが常識だな。
330日本史@名無しさん:04/07/25 18:40
1行目 >そうじゃないだろ。過去の年代観は根拠薄弱なもので、

→ それ自体は剥げ銅。ただし、その修正が年輪法だけでは弱杉。放射年代測定も必要。

2行目 >卑弥呼が古墳時代の話と確定しつつあり、

→ それはそうかもしれない。だが、それだけの話。

3行目 >畿内説の蓋然性が非常に高くなった。

→ だからなんでそうなるの? ( ´,_ゝ`)プッ  
 
 オマーの考えに従えば、邪馬台国は北海道でも沖縄でもいいわけだよなw
径百歩の円墳。その他多くの九州での出土品。奴国(伊都国?)の金印や鉄器、弥生王墓の存在や
倭人伝記事の諸々の問題、それらについて説明無いの?それに、天皇陵調査もせずに考古学的に
断定など無理。つうか、古墳自体で何がわかるのでつか?「古墳時代」? ( ´,_ゝ`)プッ  
 
331日本@名無史さん:04/07/25 18:48
墓なら日本全国1万位ある
100歩譲って箸墳だけだとしても
墓だけで邪馬台国とは笑止千番雨霰
墓の周りにももう少し邪馬台国を匂わせる物が欲しいな、櫓とかヒスイとか
水行も素直に読んだら畿内辺りにたどり着くけど
それなら陸行も素直に読まなければおかしいだろう
陸行1ヶ月、群馬辺りかね?
332日本@名無史さん:04/07/25 18:51
>>330
> → それ自体は剥げ銅。ただし、その修正が年輪法だけでは弱杉。放射年代測定も必要。

これは同意。確実性を高めるための努力を惜しんではいけない。

>  オマーの考えに従えば、邪馬台国は北海道でも沖縄でもいいわけだよなw

??? 古墳時代前期前半なら権力の中心は畿内(+吉備)で
西日本の墓制は前方後円墳が、東日本は前方後方墳が中心となっていただろ。
「径百余歩」の墓や水行を考えると畿内の蓋然性が非常に高い。
333日本@名無史さん:04/07/25 18:56
だから水行だすなら陸行無視するなって

水行で難波辺りまでついたんだろう、それからの陸行1ヶ月を説明してくれ
334日本@名無史さん:04/07/25 19:00
>>333
水行で難波について陸行で九州に戻るんだよ
335日本@名無史さん:04/07/25 19:01
あ、やっぱり答えなくて良い
水行陸行は九州畿内どちらも解釈でどうにでもなる、水掛け論。
すまん>>333は放置してくれ
336日本@名無史さん:04/07/25 19:04
>>331
古墳時代前期前半なら「径百余歩」に合うのは箸墓くらいだな。
ヒスイ製品は縄文時代から日本各地で発見されているから
場所を特定させる遺物とは言いがたい。

三国志の記述にあるように、当時の日本はちゃんとした道がなく
陸行では早く進めなかっただろう。街道が整備された奈良時代以降でも
近畿と九州の旅程は山陽道よりも瀬戸内海を利用したように、陸行は大変。
それでも一ヶ月はかかりすぎだから、寄り道したとか考える必要があるな。

東日本は前方後方墳の世界で別の権力と見るべき。
337日本@名無史さん:04/07/25 19:05
それから
古墳時代前期前半が吉備畿内に権力の中心としてるが
どの遺跡遺物で中心と判断したのかな?
マキムク?だけ?
338日本@名無史さん:04/07/25 19:07
はい、行程は畿内説では「寄り道」だね、もうこれ以上行程論は無駄でアホらし
339日本@名無史さん:04/07/25 19:19
>>337
巨大前方後円墳の分布。継続的に大きな動員力がないとできない。
340日本@名無史さん:04/07/25 19:21
それは4世紀からの話では?
341日本史@名無しさん:04/07/25 19:32
古墳厨うざすぎ。
342日本@名無史さん:04/07/25 19:32
>>340
巨大前方後円墳は箸墓から始まりますね。
初期の畿内の前方後円墳は埴輪のようなものを並べていませんが
箸墓では吉備発祥とされる埴輪の原型(特殊器台)を並べるようになります。

巨大な権力の象徴&畿内と吉備の融合と言う面で、箸墓は画期でしょう。
343日本@名無史さん:04/07/25 19:40
分布もなにも箸墓が作られた時は畿内には箸墓だけしかないので巨大古墳が分布していたとはいえないね
吉備の特殊器台が出たと言う事は吉備に畿内は支配されたと言う事かな?
344日本@名無史さん:04/07/25 19:43
>>343
箸墓以降は巨大前方後円墳が作り続けられるので、画期と見るべきでしょう。

逆に吉備は畿内の前方後円墳を採用するようになっているから
連合したと見るほうが妥当では?
345日本@名無史さん:04/07/25 19:50
だから箸墓作った時は箸墓だけだろう、広大な畿内平野にぽつんと墓一つ
古墳時代前期前半の話をしているのだろ、4世紀以降の墓は関係無い

連合とは対等な連合か?吉備断然有利に見えるが
346某有名大学の講師:04/07/25 19:55
実際、現地で出土物の検証や取材を行った事もなさそうな白い奴らが知ったかぶって
偉そうに語っているのは非常に滑稽だね。

有名なにちゃんねるの学問を語る掲示板にしてはお粗末すぎるね。
やはり便所の落書きに過ぎないのか
347日本@名無史さん:04/07/25 19:57
お、専門家?が来たのか、
ご覧の通り便所の落書きです

どうぞあなたのご意見をお願いします
348日本@名無史さん:04/07/25 20:01
ここでは誰でも某有名大学の講師なんて騙れるよ(w
349日本@名無史さん:04/07/25 20:04
>>345
箸墓ほど巨大ではないけど、それ以前にも纒向石塚古墳など
前方後円墳が作られています。
350某有名大学の講師:04/07/25 20:04
つうか、素人なりに結論を出してみなよ
ピーチクパーチク言い合ってるだけじゃ近所のオバサンと何ら変わらない。
話はそれからだ
351日本@名無史さん:04/07/25 20:06
もしかして、箸墓厨房=某有名大学の講師?

だとしたら素敵な頭脳をお持ちで、私は去りますあ、明日また来ます。
352日本@名無史さん:04/07/25 20:07
>>342
>箸墓では吉備発祥とされる埴輪の原型(特殊器台)を並べるようになります。
箸墓の「ハシ」は土師のことで、周囲に並べられた円筒埴輪の威容から、
そう呼ばれたんでしょうね。

>>345
>連合とは対等な連合か?吉備断然有利に見えるが
トトヒモモソ姫あたりの大王家が、吉備王家と縁が深いのは確かだけどね。
吉備と畿内らの連合は、対北九州戦略から。強国と対抗・対立するためには、
連合の必要があった訳です。
対して、倭人伝を読む限り、北九州は国が乱立しおり一枚岩ではなかった
(連合できなかった)。北九州諸国は畿内・吉備らの切り崩しに遭い、徐々に
勢力を失っていったのだろう。
353日本@名無史さん:04/07/25 20:10
>>350
もったいぶらずにお前の話をしろや、誰もおまえの話なんか聞いてないけどな、グズグズ言うだけなら出てくるなよ。
354日本@名無史さん:04/07/25 20:14
>>323
箸墓古墳の墓碑は画像解析で最近得られましたよね。
「倭母母曾毘賣命墓、戊寅年十月廿日薨、御年八十四歳」
と、孝霊天皇皇女であることは確定ですが、
卑弥呼と同一人物であるかどうかはこれだけでは微妙なところです。
355某有名大学の講師:04/07/25 20:15
>>353
質問に質問で返すなと教わらなかった?
そうだとしたら非常に不幸な教育及び育て方をされたんですねぇ
356日本@名無史さん:04/07/25 20:16
>>354
電波なことを言って箸墓説を貶める工作をするなよ
357日本@名無史さん:04/07/25 20:17
>>352
倭人伝を読む限り北九州は邪馬台国で一枚岩だったのでは?
一大卒を諸国が畏怖していて絶大な権威を読み取れるが
358日本@名無史さん:04/07/25 20:18
>某有名大学の講師

もうおまえはいい、以降無視するよ。
359352:04/07/25 20:21
箸墓のトトヒモモソ姫が、神の子を産むことなく、滑稽味さえ感じられる死に方、
箸でホトを突いて死ぬのは何故だろう?
360352:04/07/25 20:27
>>357
私は、畿内勢力=邪馬台と考えてますので、
一大卒とは、あくまで畿内が、北九州諸国を威圧するための出先機関と考えている訳です。
後世の京都所司代や六波羅探題みたいな感じの。
361日本@名無史さん:04/07/25 20:28
>>359
4世紀中頃の箸が使われるようになってからの言い伝えだろう
4世紀中頃にモモソ姫が箸で刺し殺されたんだろう
362日本@名無史さん:04/07/25 20:30
>>360
出先機関?500kmは離れてるよ
文字も無く馬も無い時代に?
363日本@名無史さん:04/07/25 20:36
>>362
文字も普及せず馬もなくても、日本列島では縄文時代から海運が発達していた。
伊豆神津島の黒曜石が関東一円で見られるのがその一例。

海洋国家として強大だったから、半島南端まで勢力化に置けたのだろう。
364日本@名無史さん:04/07/25 20:47
>>363
畿内説では九州から畿内まで水行10日だよね、朝鮮半島にたどり着くまでどれくらい掛かる?
無理無理、中央の政令を使者が記憶して出先に伝えるって無理
文字を記録できないのでは九州の租税も回収できないだろう
人口もわからず伝わらず記録できず
365日本@名無史さん:04/07/25 20:51
>>364
日本では律令時代以前の文字資料の出土は非常に少ないぞ。
畿内・九州に限らず、それは関係ない。
366日本@名無史さん:04/07/25 20:58
いや、関係有る、木管のひとつでも出てくればいいが
文字を使った形跡が何も無い、無だよ
それに馬の年代は邪馬台国時代よりそうとう後
倭人伝で都市国家に毛が生えた程度の国が並ぶのに
畿内が九州を抑えて半島にまで及ぶ巨大王権を考えてるなら
それなりの支配体制を説明できないといけない。
367邪馬台国=古墳発生地:04/07/25 21:11
古墳時代の祖、庸、調ってどうやったんだろう。通貨は鉄てい程度か、それにしても
流通は首長間レベルだろうし、生口のようなものも使用されたのかなー。
368日本@名無史さん:04/07/25 21:20
>>366
馬はなくても海運があるから瀬戸内海を使って九州を支配できるし
半島にも勢力を伸ばせる。むしろ東日本へは街道を整備しないと支配が大変。

都市国家に毛が生えた程度の国は北部九州の国々で
畿内と考えられる邪馬台国や吉備と考えられる投馬国の戸数は非常に多い。
東夷伝全体を見れば、邪馬台国と投馬国の戸数が突出しているのが分かる。
369一応九州王朝説:04/07/25 21:24
せっかく大学のセンセイのお出ましなのに、もう今日は終了かよ。まことに残念だなw

古代の通信方法についてはまだよくわかっていないようですが、中国では春秋時代
にはもうあったとかいうので、日本でも結構古いかもしれませんね。
ただ、その内容についてはやはり粗雑なものしか伝達できないので、やはり畿内の
一大率が九州にあったというのは、かなり無理はあるかと。
その説を成立させるためには、相当巨大な統一国家的権力の存在が必要だと思い
ますが、少なくとも邪馬台国の時代には非常に無理があるのではないかと思います。
後にも朝鮮半島出兵ですが、高句麗と直接激突したりしているぐらいだから相当大規
模かつ長期的な軍事行動だったのでしょうが、そこまで畿内が遂行する必要性につい
ての必然性を知りたいですね。一方で巨大古墳アホほど作ってるわけですがw
370日本史@名無しさん:04/07/25 21:25
スマソ

>中国では春秋時代 にはもうあったと

これ、烽火の事です。意味わからんねw
371日本@名無史さん:04/07/25 21:31
>>368
東国は支配が大変と言うけれどマキムクでの搬入土器は東海が一番なんだろう
吉備と連合と言っているのなら東海も含めるんだろ
まあもう一度日本地図を見てみるといい、朝貢など馬鹿らしい位巨大だよ。
卑弥呼の時代でそれだけあれば魏に攻め入ったら勝てるよ。

今日はこれまでだ、ばいばい、またいつか

372日本@名無史さん:04/07/25 21:41
>>371
東海は前方後方墳体制の拠点で、この勢力が東日本を束ねていたと見るべきだな。

日本は古来から海洋国家で海運が発達していたから海に沿って勢力を伸ばせた。
古代ギリシャのような海洋国家は点々と拠点を作っても
内陸には勢力を伸ばしていない。海洋国家が魏を征服するなんて無理。
倭寇が大陸沿岸を荒らしまくっても、内陸には余り進んでいないのを見れば分かるだろ。
373日本@名無史さん:04/07/25 21:46
そういや高地性集落にはのろし跡があって、九州から
畿内まで数時間で伝達できる、という研究もあるな。
374352:04/07/25 22:02
>>369
>相当大規模かつ長期的な軍事行動だったのでしょうが、そこまで畿内が遂行する必要性
>についての必然性を知りたいですね。
半島の鉄だろ。

>>361
「語源俗解」って言葉、知ってる? 土師墓→箸墓は、ネズミの「屋根住み」や「寝ず見」などの
類と一緒だよ、恐らく。

>>362
>出先機関?500kmは離れてるよ。文字も無く馬も無い時代に?
じゃあ、お前は、畿内が九州を併合したのはいつ頃と考えているの?
鉄ルートの要衝である北九州を押さえない限り、古墳時代以降の畿内政権の
飛躍は説明出来んよ。
あ、北九州東遷にしても、瀬戸内海航路による軍隊の迅速な派遣を想定しないと
説明できないけどね。
375日本@名無史さん:04/07/25 22:13
>半島の鉄だろ。
卑弥呼の時代半島の鉄は畿内から出ていないのでその回答では意味が通じません。

>畿内が九州を併合したのはいつ頃と考えているの?
マキムク成立時期、それに東遷は併合ではない可能性も有る

>瀬戸内海航路による軍隊の迅速な派遣を想定しないと説明できないけどね。
神武は数年がかりで畿内に着いた、征服が迅速であるとは誰も言ってないどこにも書いてない
376一応九州王朝説:04/07/25 22:19
>あ、北九州東遷にしても、瀬戸内海航路による軍隊の迅速な派遣を想定しないと
  説明できないけどね。

横レススマソ

私は東遷という言葉も概念も否定している立場ですが・・・。

神武記では、とてもじゃないが、迅速な行動とはいえないですね。九州の派遣軍の本
隊は、巨大銅鐸を崇める後進地域には興味はなく、あなたが言われるように半島の鉄
のための半島経営と、東アジア情勢の緊張の中での魏、南朝への朝貢が主要な外交
課題だったと思います。ただ、神武が橋頭堡を築いてからは、鉄や物流、軍事的支援
などが出来るようになったのではないでしょうか。
377>352:04/07/25 22:36
>トトヒモモソ姫あたりの大王家が、吉備王家と縁が深いのは確かだけどね。
>吉備と畿内らの連合は、対北九州戦略から。強国と対抗・対立するためには、
>連合の必要があった訳です。
>対して、倭人伝を読む限り、北九州は国が乱立しおり一枚岩ではなかった
>(連合できなかった)。北九州諸国は畿内・吉備らの切り崩しに遭い、徐々に
>勢力を失っていったのだろう。

巻向型前方後円墳は、畿内に最初に発生の後、非常に早い時期に北九州で発生して
います(津古生掛、那珂八幡など)。
このため、巻向の成立と同時に北九州〜畿内に至る政権が成立しているとされています。
吉備との関係が強化される(であろう)と考古学的に言えるのは、宮山式特殊器台が
大和に入る時期、つまり布留期以降なので、そういう考えは難しいんじゃないでしょうか。
378>345:04/07/25 22:40
箸中山古墳というのは最初の前方後円古墳ではありません。
それは昔の学説です。早く見る人は2世紀半ば、遅く見る人は2世紀後半です。
3世紀初頭に巻向遺跡が成立したとして、50年以上は経っていますね。


379日本@名無史さん:04/07/25 22:43
古事記には、韓国に天孫臨が行われたと書いている。
なぜ日本の学者は否定sるうのかだおるk?
380352:04/07/25 22:50
>>375
>神武は数年がかりで畿内に着いた、征服が迅速であるとは誰も言ってない
>どこにも書いてない
いや、だからさあ。北九州から畿内を征服し、それを維持するのは大変だろ、
っていう指摘なんだけど。ましてや北九州東遷説なら、敵の真っ只中に本拠地を移している
という説なんだし。大規模な水軍の存在を考えない限り、ヤマト連合の維持は困難というコンセンサスが、
畿内説にしろ九州説にしろ成立するのでは、という意味で書いた訳です。

畿内って一口に言っても、大和川水系や淀川水系、紀ノ川水系とか、多くの豪族が
いる訳よ。マキムク辺りを攻め取ったからって、畿内豪族を制圧できたと
考えるのは甘いな。畿内勢力を見くびってもらっては困る。
381日本@名無史さん:04/07/25 22:51
>>375
弥生時代ですら畿内だけだなく関東まで鉄器が出土するのに意味不明。

日本列島では縄文時代から海運が発達していたことを理解しないと
半島南端まで勢力を伸ばせたことが理解できないだろう。
馬を重視するのは大陸国家であって、海洋国家には船だから。
>>379
韓国にまっすぐ向かった土地に天孫降臨しました。
ですから韓国に対峙した場所であり、韓国ではありません。
場所は、筑紫の日向の高千穂のくしふるだけです。
383日本@名無史さん:04/07/25 22:52
新羅三郎というが(笑)
崇神(百済?)→応神(新羅)→継体〜天智(百済)→天武(新羅)
で、桓武は天智系だから百済か?
でも清和は新羅なのか?



384>380:04/07/25 22:54
考古学的にいうと、弥生時代の畿内というのは終末期でも統一的な王権の誕生
が疑問視されているようなところですが・・・・
385日本@名無史さん:04/07/25 22:59
>大和川水系や淀川水系、紀ノ川水系

武器が武器だからね弱いだろうね、生産も非効率だろう
これらの豪族は海に出たのかい?
川に小船を浮かべた青銅器水軍と瀬戸内海を東遷してきた鉄器水軍とでは
結果は出てるよね。
386日本@名無史さん:04/07/25 23:05
>352

つまりね、端的に言うと、王朝の旗揚げには元手(鉄)がいるんだよ
それが畿内には無いのだよ

元手無しの畿内の前に立ちはだかる鉄王国九州その後ろに生産地半島
わかるだろ、無理なんだよ
387日本@名無史さん:04/07/25 23:11
>>381
少しだけね、関東は村に一つ鉄器があれば上等だろう
武器農具といえば石器だよ。
388352:04/07/25 23:26
>>377
>巻向型前方後円墳は、畿内に最初に発生の後、非常に早い時期に北九州で発生して
>います(津古生掛、那珂八幡など)。
これを、畿内・吉備連合が北九州に打ち込んだ楔と考えることはできませんか?
つまり、切り崩された北九州勢力のひとつとして。
389日本@名無史さん:04/07/25 23:31
>>386
武器であれば黒曜石や讃岐石のやじりも効果的だぞ。
390日本@名無史さん:04/07/25 23:34
>>385
莫大な数の鉄器の武器がないと意味ないだろ。
鉄砲が貴重だった頃の戦争を思い浮かべろよ。

瀬戸内海〜奈良の二上山では讃岐石が得られるから
やじりの素材には事欠かない。
391日本@名無史さん:04/07/25 23:40
>>389
戦えない事は無いだろうが非常に不利だろうね
黒曜石を上手に割ってカミソリ状にして木に縛り付けたりするやつだろ
棍棒の延長線上の能力しか持たないな
そのままナイフとして使っても武器として打ち合えば割れるだろう
石の鏃も飛距離・殺傷能力・そこそこの規格統一・生産性で疑問だな。
これに鉄農具の生産性、鉄工具の船舶建造能力も加味されたら終わりだろう。
392日本@名無史さん:04/07/25 23:45
>畿内説も、最初、奴国や伊都国などの北九州が倭国の権力を握っていた事は
>認めている訳で、邪馬台国の所在地論争は、その時代すでに、九州→畿内に
>権力委譲があったのかという議論な訳だろ。畿内説の根底には、わざわざヤマト
>って書いてあるのに無理矢理ヤマイとか読まなくいいのでは、ってシンプルな考え
>が有る訳で。倭人伝が無ければ、このような争いも無かったと言える。「マキムク
>が造られた頃に初期大和政権が成立した」という結論で終わっていただろうな。
393日本@名無史さん:04/07/25 23:46
>>390
畿内勢力も石器を駆使して沢山の高地性集落を河内沿岸に作って頑張ったと思うよ。

394日本@名無史さん:04/07/25 23:48
>>392
そんなに倭人伝が憎いなら無視して議論してもいいよ。
395日本@名無史さん:04/07/26 00:07
>>391
北九州の鉄の独占により、搾取され続けた吉備・畿内が連合したと思う。
連合→統一政権って、何か強い相手に立ち向かう時でもないと、なかなか達成できないものだよ。
既得権益を守りたい守旧派というのは、いつの時代にもいるものだ。
畿内の強みは、東海・関東を従えていたこと。彼らは地勢的に、鉄のためには畿内に頭を下げざる
を得なかった。後世ニギエビスと呼ばれる彼らの戦闘能力の高さは(狩猟で鍛えているからね)、
北九州諸国にとっては脅威だっただろう。
つまり、縄文時代から続く人的資源の豊富さで、畿内は北九州を圧倒していた訳
だよ。後世の防人にしろ、畿内政権による東国の搾取・支配・徴発は恐ろしく長く続いた。
鎌倉政権の成立まで。
北九州諸国は、鉄・富を奪いに連年攻め込んでくる熊襲の猛威に悩まされて
いたのではないか。また相次ぐ内乱で人口が激減していたとも考えられる。
396日本@名無史さん:04/07/26 00:20
>吉備・畿内が連合したと思う。
だからこの時この瞬間に鉄は無いから
>東海・関東を従えていたこと。彼らは地勢的に、鉄のためには畿内に頭を下げざる
こんなこと言うのは意味不明だよ
>狩猟で鍛えているからね
陸軍主体ならなお更瀬戸内海制海権など夢だな
>縄文時代から続く人的資源の豊富さで
弥生時代には西日本のほうが人口↑だよ
>熊襲の猛威に悩まされて
熊襲も鉄持ってるんだよ、そりゃ強いさ
>人口が激減していたとも
平塚と博多は弥生時代いっぱいまで繁栄してるよ


397日本@名無史さん:04/07/26 00:20
>>388
>>巻向型前方後円墳は、畿内に最初に発生の後、非常に早い時期に北九州で発生して
>>います(津古生掛、那珂八幡など)。
>これを、畿内・吉備連合が北九州に打ち込んだ楔と考えることはできませんか?
>つまり、切り崩された北九州勢力のひとつとして

そう考えるのが妥当だろうね。津古生掛、那珂八幡は小さいし。
398日本@名無史さん:04/07/26 00:33
さっきから古墳時代の大和政権の事言ってるよね
卑弥呼の時代だよ、忘れたら困るよ。
399日本@名無史さん:04/07/26 00:34
>>396
弥生時代から畿内どころか関東でも鉄器が出土しているのに
捏造して話を進めるのは良くない。

北九州では2世紀前半とされる前原弥生古墳が有名だけど
弥生時代最大の墓は吉備の楯築墳丘墓だな。
銅鏡の出土数も次第に東にシフトして行く。
400日本史@名無しさん:04/07/26 00:39
古墳がでかいとかそんな話は、もうお腹一杯で月賦がでるから。もういいよ。
401日本@名無史さん:04/07/26 00:44
>>400
銅鏡や銅鐸の大きさとかと違って
大規模な古墳は動員力を示すもので
軍事的強大さを計るものとして重要だろ
402日本@名無史さん:04/07/26 00:44
>弥生時代から畿内どころか関東でも鉄器が出土しているのに
武器として使えるほど出てきてるのかね、一部の人間だけ所有する珍品
であとは農具も武器も石器だろう。違うのか?

>弥生時代最大の墓は吉備の楯築墳丘墓だな。
神武の東遷時期の少し前だな
強大な吉備制圧に神武も苦労したから平定に数年要したのだろう。
魏を慕っていた九州邪馬台国は、国際戦争中でもあり、魏の薄葬を踏襲したように思います。
畿内は国際戦争などしていないので、古墳を熱心に作ります。
畿内王権に、魏の薄葬を見習ういわれはまったく無いのです。

しかし半島鉄に手ががりのない畿内は、時代を下ると鉄器が減っていく現象があります。
九州邪馬台国が血と汗で鉄を確保しているさなか、畿内は戦争を避け、手を出していないからです。
404日本@名無史さん:04/07/26 00:53
>大規模な古墳は動員力を示すもので

俺は大規模な古墳は奴隷力だと思うが
つまり戦争で逃げ遅れたり捕まったりした人間がワンサカいる征服地に
新支配者が権威を誇示するために現地人に作らせたものだと。
最高の余剰労働力は戦争捕虜だよ、従わなければ殺さないといけない。
405395:04/07/26 00:59
>>396
全否定でビックリした。
ある程度反論してみると、
>陸軍主体ならなお更瀬戸内海制海権など夢だな
内陸部を押さえるのには陸軍は重要。沿海部だけを押さえても支配は出来ない。

>>縄文時代から続く人的資源の豊富さで
>弥生時代には西日本のほうが人口↑だよ
確かに九州〜畿内は渡来人、稲作などで爆発的に人口が増えた。
ただ東国は縄文時代から人口が多かった、と言っているわけ。

>>東海・関東を従えていたこと。彼らは地勢的に、鉄のためには畿内に頭を下げざる
>こんなこと言うのは意味不明だよ
意味不明の意味が分からない。畿内が西国と東国を結ぶ交通の要衝である
のは間違いないと思うが。

>>吉備・畿内が連合したと思う。
>だからこの時この瞬間に鉄は無いから
全く無い訳ではない。直接北九州との交易で貰っていただろうし、
北陸や、丹波、出雲などの他のルートもあるだろ。あなたは熊襲が鉄を持っていた事
は認めているのに、なぜここまで畿内に鉄は無いと断定できるのか?

あと、否定だけでなく、あなたの意見も書いてね。九州東遷説の人ですか?
406日本@名無史さん:04/07/26 01:04
>>404
弥生時代の日本列島の墓制は地域差が大きかったのが
畿内から発展した前方後円墳がどんどん巨大化し
その過程で吉備由来の埴輪を取り入れたわけでちょっと違うな。

応神・仁徳に相当する時代には関東の遺跡が減少するそうで
本拠地の生産力を削がないように、他地域からも連れてくるのだろう。
407日本@名無史さん:04/07/26 01:09
>畿内が西国と東国を結ぶ交通の要衝であるのは間違いないと思うが。

九州に敵対したら西の交通は無くなるわけ、関東と畿内だけになる
ところで関東と畿内は海上ルートがさかんだったのか?

>あなたは熊襲が鉄を持っていた事は認めているのに、なぜここまで畿内に鉄は無いと断定できるのか?

広い畿内に鏃2個だけだろ。ショボイよ。マキムクに纏めて鉄製武器が500とか出てきたら考え方変えるよ

>直接北九州との交易で貰っていただろうし

結果からするとあんまり貰えなかったみたいだね。
408日本@名無史さん:04/07/26 01:13
>>406
箸とそれ以前とは連続性はあるわけ?
409日本@名無史さん:04/07/26 01:25
-y( ̄Д ̄)。oO○ このスレに結論はない。
なぜなら偏狭で偏執的なキモオタばっかりなので、自説ばっかり主張し
他説は罵倒しかしないので、永遠に妥協点や建設的な会話がないから。

410395:04/07/26 01:32
>>407
>九州に敵対したら西の交通は無くなるわけ、関東と畿内だけになる
畿内、吉備、東海らを含めた大連合だけどね。
こんな大連合相手じゃ、北九州諸国も屈服せざるを得ないだろ。
北九州は小国が乱立していたわけだし、早々に畿内側につく国も現れた。
411日本@名無史さん:04/07/26 01:33
>他説は罵倒しかしないので、永遠に妥協点や建設的な会話がないから。

どこに罵倒がありますか?
それに学問には妥協などありえないだろう
話し合いで物語創作してるわけではないから建設など意味が無いね。
余裕かましてても言ってる事がイマイチだね。
俺畿内説相手に遊んでるんだけど、邪魔しないでくれるかな。
412日本@名無史さん:04/07/26 01:38
>畿内、吉備、東海らを含めた大連合だけどね。
これって出土から言ってるんだよね、南九州の土器も出てるんだけど
南九州は連合に入れないの?四国のサヌカイト勢力は無視かい?韓国は?
413395:04/07/26 01:54
>>412
お前、否定ばかりじゃなく、自説を書いたらどうだ?
414日本@名無史さん:04/07/26 02:09
>>408
最初の巨大前方後円墳とされる箸墓古墳以前にも
纒向石塚古墳など前方後円墳は存在し、連続性はあります。
ただし初期の前方後円墳は吉備起源の特殊器台や埴輪を並べない違いがあります。
415日本@名無史さん:04/07/26 03:36
邪馬台国は大和
狗奴国は吉備
投馬国は出雲
箸墓古墳は台与の墓
416日本@名無史さん:04/07/26 07:41
>>413
ふむ根を上げたか、どうだ完璧な反論だろう
俺の意見は反論に盛り込んだが
要するに投馬の瀬戸内海制海権掌握
夜話そう。
417盧氏の友人 ◆uVgREYUxI. :04/07/26 17:29
>>407
九州が無くたって、戦争の前線である以上、物資の集積が必要になる。東国→畿内→九州という兵站ができるんだよ。その意味で安定した拠点の築ける畿内は要所だな。
畿内の鉄は改鋳されて再利用されててもおかしくない。貴重な鋼だからな。
さらに当時の勢力が今まで繋がっているからな。しかし九州は断絶した。だから発掘できるんだよ。皮肉にもな。
そして断絶したことからも、畿内vs九州なぞ結果が見えてるだろう?
418日本@名無史さん:04/07/26 17:51
>>417
否定厨を演じて自己満悦に浸りたいなら消えな
そうでないのならば>>417の妄想をもう少し詳しく記述してみな。
419某有名大学の講師:04/07/26 18:47
畿内、吉備、東海らを含めた大連合が北九州を屈服した。
>>419
連合の存在を証明できますか?
421某有名大学の講師:04/07/26 18:59
実際に現地で検証した結果です。
>>421
私の質問は、(現地で検証された)その意味内容を指しています。
423某有名大学の講師:04/07/26 19:09
大規模古墳動員力,マンパワーの違いです。
>>423
国家のマンパワーは、大規模古墳以外に現れることが無いとする根拠は?
425某有名大学の講師:04/07/26 19:20
九州は作れなかったが畿内吉備は作れた、マンパワーと巨大な王権と技術が無くてはあのような古墳群は建設不可能。
高度な科学技術の力が無くては運河なども構築できない、その頃九州は没落して見るべき遺跡は無い。
私は九州邪馬台国(委奴国・邪馬壱国・タイ国)は、中国側の薄葬の風を重んじるのが当然だと思います。
国力の差=古墳の大きさとするのは、大きな誤りであろうと思うのです。
半島で国際戦争の当事者であった九州邪馬台国に、古墳が作る国力がないとするのは噴飯ものです。
九州は、極東三百年戦争をしておりますし、遷都も何度かしているようです。
遷都後の都を発掘して、滅亡だの併呑だの言っても始まりません。
某有名大学の講師さん

「畿内、吉備、東海らを含めた大連合」の存在証明はやっぱり無いんですね?
428一応九州王朝説:04/07/26 19:41
>大規模古墳動員力,マンパワーの違いです。

その具体的内容と、国家建設における意義づけを論証してください。
でなければ、小学生の作文みたいです。

ついでに、半島に全力と言ってもいい大兵を動員しながら一方で巨大古墳を作れるような巨大権力と
大人口の証明もお願いします。
429日本@名無史さん:04/07/26 19:41
>>426
弥生時代には地域による墓制の違いが大きかったが
古墳時代になって北部九州は畿内の前方後円墳(+吉備の埴輪)体制に
組み込まれているわけで、同じ土俵で規模が小さいのでは話にならない。

出雲は弥生時代の四隅突出墳丘墓の形態を汲む方墳が中心だったし
東日本は前方後方墳(+東海様式の壷)体制と違っていた。
>>429
まったく違います。薄葬の風という文化水準がまったく異なります。
431某有名大学の講師:04/07/26 19:49
現地で調査研究してない輩が何を言う、非常に滑稽。
所詮便所の落書きか、考古学会では相手にもされない落書き。
発掘の整理の仕事が今からあるので今日は去る。
432日本@名無史さん:04/07/26 19:51
>>429
補足。
東日本も古墳時代前期後半には前方後円墳体制に組み込まれ
出雲も古墳時代前期の終わりまでには組み込まれた。
433日本@名無史さん:04/07/26 19:54
>>430
魏に合わせるなら、墓の形態も魏に準拠するだろ。
東日本や出雲よりも早く、畿内の前方後円墳(+吉備の埴輪)体制に組み込まれた
434日本@名無史さん:04/07/26 20:08


魏の墓制とは自然丘陵を利用したもの。
墓の形態は前方後円墳とは違う。
それから
体制とは何でしょう?前方後円墳はある種豪族の流行であって
支配体制とは別ですよ。
435日本@名無史さん:04/07/26 20:14
>>434
魏の墓制を真似ればいいはずでしょ。
畿内・吉備連合の傘下に組み込まれていただけですね。
436395:04/07/26 20:18
>>416
>ふむ根を上げたか、どうだ完璧な反論だろう

少なくとも、お前のこの文章は精神年齢の低さが端的に現れているが、
お前の説く「投馬の瀬戸内海制海権掌握」説の方は大丈夫なんだろうな。

それと、名無しはやめろ。どれがお前か分からない。っていうか、本当に同一人物
なのか?という疑問も…
437日本@名無史さん:04/07/26 20:23
>>435
その畿内吉備連合を作ったのが九州なんだけどな。
438日本史@名無しさん:04/07/26 20:58
431 名前: 某有名大学の講師 投稿日: 04/07/26 19:49
現地で調査研究してない輩が何を言う、非常に滑稽。
所詮便所の落書きか、考古学会では相手にもされない落書き。
発掘の整理の仕事が今からあるので今日は去る。


↑ 便所の落書きにも反論できないアフォが逃亡しますた ( ゚д゚)、ペッ  
439395:04/07/26 21:10
>>438
おいおい、あんまり酷いこと言うなよ。
もっと、マッタリと行こうぜ。
440日本史@名無しさん:04/07/26 21:15
いや、気持ちはわかる。自分の意見も言わずに人をこき下ろすのは、荒らしと
同じ。これ2ちゃんのルールw

そう言う人物が有名大学の講師であることの方が恐ろしい。
441395:04/07/26 21:33
東遷説の人が良く言う「畿内在地勢力とマキムクには明白な断絶があり、
畿内在地勢力がマキムク=初期ヤマト政権に成長した事はあり得ない」っていう説。
もっと詳しく説明して欲しいものだ。「若手の学者はこう考える人が多い」
みたいな説明になってない説明ではなくてさ。東遷の唯一の論拠な訳だし。
私は、マキムクの時に劇的な変化があった事は認めるが、宗教改革があった
と考えていて、「他国の征服」とまでは考えていないけどね。
442395:04/07/26 21:36
>>440
確かに。しかし「有名大学の講師」が本当なら、色々と意見を聞きたいじゃないか。
>>431
あなたの発言は、全うな学問ではありません。
現地調査をしたのに一切理由が説明出来ないのでは、何のための調査か。
444>388:04/07/26 22:08
>これを、畿内・吉備連合が北九州に打ち込んだ楔と考えることはできませんか?
>つまり、切り崩された北九州勢力のひとつとして。

それは、無理ですね。
北九州の初期古墳は、当地域の中心部であると想定される伊都国や奴国に集中して
います。
445日本@名無史さん:04/07/26 22:14
>>441
マキムクが前時代と遺跡の連続性が無いとか伝承が畿内とは関係無い所とかいろいろあるけどな
畿内説は「大和が昔から中心じゃなきゃイヤダ」という幼稚な発想が出発点だろう。

幼稚な発想を捨てるべきだね。じゃないと文献的考古学的考証しても無駄だろう。
446>399:04/07/26 22:14
>弥生時代から畿内どころか関東でも鉄器が出土しているのに
>捏造して話を進めるのは良くない。
出ますが、圧倒的格差があります。
当時の状況は、北九州>・・・・>北陸山陰>瀬戸内地域>・・・・>畿内>・・・・>それ以東
という状況です。

>北九州では2世紀前半とされる前原弥生古墳が有名だけど
これは違います。弥生終末期です。

>弥生時代最大の墓は吉備の楯築墳丘墓だな。
>銅鏡の出土数も次第に東にシフトして行く。
墳丘はそうですが、初期古墳の特徴である鏡の大量副葬がないなど副葬品が
非常に貧弱であり、そのまま倭王権に直結するのかはやや疑問です。


九州邪馬台国が、漢や魏以降の薄葬の風に従ったといっても
魏とまったく同一の墓制だったことは無いでしょう。
まったく同一の墓制でないと、九州以外の大連合が存在した証明になる、なんてことは全くありません。
また風俗習慣も、必ずしも高きから低きに波及するだけではないでしょう。

論理構築の破綻からして、「某有名大学の講師」さんは、職業詐称でしょう。
公務員でなければ罪にはなりませんがね。
448>441:04/07/26 22:26
前スレッドにみなさんがいろいろ書いてありますが。
まとめると、

@祭祀その他の古墳文化と畿内在地文化の不連続性
A特定の個人を対象とした古墳が少なく、王権が誕生していたのか疑問ではないか(社会階層の未成熟)。
B奈良盆地で弥生終末期に集落の大再編が起こり、突然、巻向遺跡が出現する。
C鉄器生産、流通のお粗末さ(東瀬戸地域レベル以下)
449395:04/07/26 22:26
>>445
>マキムクが前時代と遺跡の連続性が無いとか
だから、この部分を詳しく書けって。他国からの侵略を想定しない限り無理な位の
劇的な変化があったのかを聞きたい。

>伝承が畿内とは関係無い所とか
記紀を読む限り、マキムクは崇神の頃だよね。その前の所謂「欠史八代」については
完全否定ですか。私は、神武が即位したカシハラは、葛城の柏原だと考えているし、
葛城王朝についても、それなりに信憑性があると考えています。
欠史八代を記紀に載せなければいけない理由について、あなたはどう考えているのか?

>畿内説は「大和が昔から中心じゃなきゃイヤダ」という幼稚な発想が出発点だろう。
この部分は水掛け論だな。同じく幼稚な印象を、私はあなたに対して持っているよ。
450日本@名無史さん:04/07/26 22:35
>>446
鉄砲の伝来初期と戦争と同様に、鉄器の量を過大評価するのは疑問ですね。

前原弥生古墳の発掘者である原田大六氏が銅鏡などから2世紀前半としていて、
それ以降に持ってくる根拠はないでしょ。
なお原田氏はその後に東遷したとする邪馬台国畿内説です。
451日本@名無史さん:04/07/26 22:40
最近は、纏向は突然出現したのではなく、
あの一帯にはもっと古い遺構があり、
連続的に発展したものだと言うひともいます。

出典は石野さんの70歳記念論文集『初期古墳と大和の考古学』(学生社)

ちなみに九州説のみなさんにはうれしいお知らせです。
この本の中で佐古という考古学の先生が『邪馬台国大和説は幻想だ』とかいています。

ちょっと情けない論文で、先生生涯の汚点にならなければいいが・・・と、
人ごとながら心配してしまいますが。

8000円もするちと高い本ですが、九州説のみなさん、買ってみてはどうですか?
452395:04/07/26 22:42
>>448
Cについては素直に認めるよ。ただ、「北九州が大規模な黒金の軍隊を持っていた」
というのは疑問。所詮、九州王族たちの威信財だったのではないかと思いますが。
それ位、当時は鉄が貴重だったということ。
戦国時代でさえ投石が有効だったとされている位だし、結局、兵力差がモノを言った
と思うな。

Bは、畿内説は、北九州に対する大同団結と考えているので、「東遷」か
「畿内・吉備連合」かは、意見の相違としか言いようがない。
453日本@名無史さん:04/07/26 22:43
>>445
> 畿内説は「大和が昔から中心じゃなきゃイヤダ」という幼稚な発想が出発点だろう。

むしろ邪馬台国九州説の方に変な情念を感じますね。
日本書記は畿内説を取っているけど、朝廷が魏に朝貢し冊封を受けた記事を
江戸時代の国粋主義者が都合が悪いとして九州説が唱えられるようになり
戦後は反日的な情念から九州説をわめく輩が目立ちます。
454日本@名無史さん:04/07/26 22:45
>>451
佐古と言う人は、専門家には珍しく九州説だった森浩一の弟子でしょ。
455日本@名無史さん:04/07/26 22:48
>395
 ↑
相手しても無駄、感情的な宗教家。イスラム教徒に科学的にマホメットの真実を説くようなものだ。
456日本@名無史さん:04/07/26 22:51
457>450:04/07/26 22:51
それは、原田さん考えですね。平原の年代については諸説ありました。
しかし、現在では柳田氏の再調査によって、弥生終末期であるということが確定しています。
458>451:04/07/26 22:55
>最近は、纏向は突然出現したのではなく、
>あの一帯にはもっと古い遺構があり、
>連続的に発展したものだと言うひともいます。

それは、「最近」の説ではありません。
どちらかというと、都出、近藤、白石のような「古い」学者の説ですよ。
邪馬台国九州説みたいなもんですよ。
459日本@名無史さん:04/07/26 22:56
>Bは、畿内説は、北九州に対する大同団結と考えているので、「東遷」か
>「畿内・吉備連合」かは、意見の相違としか言いようがない。

最重要な点なのに意見の相違で済ませるのか?
まず畿内吉備連合の根拠を述べてみなさい。
460395:04/07/26 22:58
>>455
ええ!? そうなん!?
出来るだけ理性的に答えていたつもりですけど…
ここまで言われたら、私は消えざるを得ない。
後は君たちに任せた。ここのスレが古代史解明の端緒となることを祈っています。
461>452:04/07/26 22:59
>Cについては素直に認めるよ。ただ、「北九州が大規模な黒金の軍隊を持っていた」
>というのは疑問。所詮、九州王族たちの威信財だったのではないかと思いますが。
>それ位、当時は鉄が貴重だったということ

これは事実に反しています。終末期の北九州では、鉄製の農具が普及しており、
実用品としても鉄器の普及が進んでいます。
462日本@名無史さん:04/07/26 22:59
                  ,,;'"゙゙'':,
                ,.;:'゙   ; 
   ,,.::─--、 ,.;:-''''""゛゛゛"'゙     ;
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    ,ミ;;:. ,,、,.、,,     `ニニ´   :,':.,、,,ミミ
   :;ミミ::,'/  ノ          'i,  ヾミ彡
    ミミ .ゝ_ノ            ゝ,,,_)ミ
   ミミ;;:.                ミミ
   ミミミ;;::             _,, 彡
   ミミ::..              ;' ̄"''ヽ
   "彡,ミ  ,ミミ;;:ミ:,:;:ミミ,',:,彡;;゛ミ;;:__ノ
    /   )
 (( .ゝ,_ノ                  
463日本@名無史さん:04/07/26 23:03
大同団結したら強いだろう、畿内と吉備だ同盟したら強いだろう
そうだ!東海も含めようこれで3対1だ、あと出雲も仲間にしたら九州に勝てるだろう4対1だ!

こういう風な根拠も無い幼稚な発想から大同団結などと妄想しているのですか?
464日本@名無史さん:04/07/26 23:07
>>458
まあ、読んでからにしてくださいな。
脊髄反射は体によくないですよ。

実は最近、あのあたりで方形周溝墓群とか、溝跡とか掘っ立て柱建物跡とか井戸とか、
中期からの遺構が多数確認されはじめているらしいのですよ。
465>464:04/07/26 23:20
そういうことは、前から分かっていますが(加美遺跡とか池上曽根遺跡とか唐古・鍵遺跡とか
をおっしゃっているのでしょうが)。
そういうものが巻向遺跡とあまり関係性を見いだせないではないかという疑問があるわけです。
阿蘇山と金印が九州だとわかっているので、いろいろ考えても、マキムクは邪馬台国の比定地として失格でしょう。

問題は邪馬台国と大和朝廷の関係なのです。邪馬台国(歴代名称が変わりますが)は半島の鉄や馬を確保しながら、
墓制としては巨大古墳を作らず、装飾古墳に移行します。都も北九州からやや内陸部へ、
さらに熊本になったのち最後は大宰府に移転したようです。

熊本有明海遷都は、半島の三強国が鼎立した350年頃ではないでしょうか。博多湾では防衛できないでしょうから。
神武には国際戦争を戦うスキルがないようで、彼がフラフラと列島内戦の活躍地を求めてさまようのもこれ以降でしょう。
対瀬戸内水軍の防衛隊として各地で雇用されたように見えます。サヌカイト器対鉄器で有利な戦闘をしたことでしょう。
しかしもともと王様でもなんでもない彼が領有したのは、畿内のわずかな土地であり、徳川家の発祥同様、
ささやかなものだったようです。実態としては神武は「王朝」を起こしていませんが、
天武天皇以降に畿内王統の「始祖」として祭り上げられました。

天武は九州邪馬台国の兄弟王制の「大皇弟」であり、アマテルの孫ニニギの血統を受け継ぐ「オオアマノ皇子」だったようです。
彼が畿内王権を奪って、一方で九州邪馬台国を滅ぼしたのだと思います。薩夜麻(大皇兄)が帰国して筑紫都督として君臨し、
唐の傀儡政権を樹立したのに対抗した内乱でした。天武即位をもって、邪馬台国は大和朝廷になったと言えないことはありません。
この戦いを壬申の乱と呼ぶのはご案内のとおりです。
467一応九州王朝説:04/07/26 23:28
395さん、そんな煽りは無視無視。
マターリしましょうやw
468日本@名無史さん:04/07/26 23:31
>>465
だから読んでからにしてくださいな。

>加美遺跡とか池上曽根遺跡とか唐古・鍵遺跡とかをおっしゃっているのでしょうが)。

全然違うのですよ。纏向で出てるのです。
469>468:04/07/26 23:34
確かに巻向石塚の下からも土器は出ていますよ。
でもそれは巻向遺跡とは、全く関係ないですね。
470日本@名無史さん:04/07/26 23:38
>>457
時代を下らせる積極的な根拠はないだろ。
471>470:04/07/26 23:40
何故です?理由を説明してくれますか?
472盧氏の友人 ◆uVgREYUxI. :04/07/26 23:40
オイラは畿内説なのだが、九州説の成立は考えがたい。
確かに九州は防衛には易き土地だが、いかんせん災害要因が多すぎる。国力が無駄に削がれないのが成長に必要だ。
畿内の鉄の出土が少ないから、畿内の鉄の供給力が小さかったとすると、記紀にある度々の大戦が腑に落ちない。なぜなら鉄がないなら、あんな大戦はできないからだ。
だとすれば、少ない供給力ながら再利用などで効率よく使ったか、実は供給力が大きかった、としか選択肢はない。だとすれば、再利用等のほうが現実的だろう。
第二に、兵站の話だが、古代は「行けば畑あり」のような現地供給ができるような環境でないから、兵站線が重要なのはわかるだろう。
畿内は勢力拡大し大和王権になったといえるだろう。というより、九州から壇ノ浦を通る弱い兵站線で東征なんてできそうになさそうだから、九州説より畿内説。
473日本@名無史さん:04/07/26 23:42
>>466
狗邪韓国(金官加羅)に比定されている金海大成洞古墳群では
弥生時代の遺跡からは、北部九州に特徴的な多量の小型倣製鏡と中広形・広形銅矛が
古墳時代の遺跡からは、大和の首長墓に特徴的な巴形銅器・筒形銅器・碧玉製品類が出土している。

日本本土の権力が北部九州→畿内に移ったことに対応しているのだろう。
474鎌足は朝鮮人だった:04/07/26 23:46
百済が滅んだ時、日本には百済の王子が暮らしていた。
この王子は百済の再興を図るため、
中大兄皇子に取り入り、半島への出兵を促した。
しかし、この時倭国政権の中枢にいたのは、蘇我氏。
蘇我氏は百済一辺倒ではなく、新羅や唐とも外交を深めていた。
蘇我氏がいる間は百済のために出兵する事など不可能であった。
そこで蘇我氏本家を暗殺し、中大兄皇子に政権を取らせた上で、
なんとか出兵となった。
ところが、この出兵は大失敗に終わった。
百済の王子は倭国に舞い戻り、倭国政権の中枢に居座った。
彼の日本名は中臣鎌足という。

これは僕が支持している説。(僕の説じゃないよ。)
こうした顛末からすると、
倭国と百済は民族的にも深いつながりがあったのは納得できる。

ちなみに、
聖徳太子=蘇我入鹿or蝦夷という説も大好き。

これらの説は、
日本書紀の矛盾を理解する一助になった。




475鎌足は朝鮮人だった:04/07/26 23:47
重ねて言えば、(ここからは僕の意見)
弥生文化は、長江文明の末裔であり、
稲作は長江付近から島伝いに日本列島に伝わった。
現在の中国南部山岳地帯の民族(彼らも長江文明の末裔といわれる)の
棚田や高床式建物を見れば納得できる。
そして
朝鮮半島に稲作を伝えたのも同様に長江文明の末裔であり、
彼らは日本列島を経由して朝鮮半島へ至った。
476日本@名無史さん:04/07/26 23:49
>>469
読まずに駄々をこねてもむなしいだけですよ。
今夜はもうレスをやめて、ともかく出典はあげてあるんだから読みなさいって。

あのままだと不親切なので論文名挙げときます。

米川仁一 『纏向遺跡と纏向古墳群に関する一私見−最近の調査結果や出土遺物の流通から見た遺跡の位置づけ−』
>>472
古代インドやマヤ・アステカには鉄器がありませんでしたが、大戦争はあります。
畿内も黒曜石やサヌカイトでの大戦争はきっとあったことでしょう。
陸地の多くが藪であった日本列島で、海洋国家にとって、九州はさして悪い要因はないでしょう。
そうそう、「大和国」の領土ですが、日本書紀にはっきりと書いてあります。
敏達天皇13年(584)に、兵庫県(播磨国)は外国だったことが書いてあります。

畿内説の人には、584年に畿内王権が、兵庫県以西を領有していないことを
はっきりと認識していただきたいのです。

高句麗好太王の碑に出てくる「倭」は畿内だと、安易に主張されるので困ります。
479日本@名無史さん:04/07/27 00:17
>>478
> 敏達天皇13年(584)に、兵庫県(播磨国)は外国だったことが書いてあります。

「播磨」はあったが「外国」などと言う記述は見つからないのだが
原文を示してくれ。

> 高句麗好太王の碑に出てくる「倭」は畿内だと、安易に主張されるので困ります。

安易も何も古墳時代の金官加羅は、畿内の勢力下に代わっているだろ。>>473
480日本@名無史さん:04/07/27 00:20
>>479
なんとなく氏は電波だから相手にしてはいけない

くだらない同じことばかり書き続けていて
誰でも論破可能なものばかりであるが
なんとなく氏のペースで引っ掻き回されて
このスレの本来の議論を潰されるのでほとんどの者は相手をしていない
481日本@名無史さん:04/07/27 00:24
>>480
なるほど了解しました。
正面から対応しないことにします。
482日本@名無史さん:04/07/27 00:31
>>474-475
鎌足は朝鮮人だった氏も電波

なぜ、鎌足の親戚の他の中臣のひとたちもあやかって藤原姓を名乗っていたのを
鎌足→不比等の子孫だけしか藤原姓を名乗ってはいけない、とのおふれが出たのか。

鎌足が彼の説のように、古来からの氏族である中臣と関係なければ、
他の中臣のひとたち藤原姓を名乗るわけがない。禁止のおふれも出るわけがない。

夏休みだから厨房が出るのはしょうがないか。
日本書紀の編者が、584年に初めて大和国に仏法が伝わったと書いていますが
そのとき播磨国から伝わったと断定しているからです。
484日本@名無史さん:04/07/27 00:55
>>483
日本書紀の何巻のどこに書いてありますか。うそをついてはだめですよ。
>>479

播磨国が大和国の一部だったら、何でこの事件が仏教初伝になるのか説明して欲しい。
>>484

私の手元にないのでお手数ですが、敏達天皇13年(584)の事項をご覧ください。
日本書紀の編者が、仏教初伝だとしている記事です。
487日本@名無史さん:04/07/27 01:09
(『なんとなく氏』の妄想を断ち切るため割り込み)
敏達天皇の治世13年春2月8日、難波吉士木蓮子を遣わして新羅に使いさせ、
その足で任那まで行かせた。秋9月、百済から来た鹿深臣が、
弥勒菩薩の石像一体をもたらした。佐伯連も仏像一体を持参した。

この年、蘇我馬子宿禰は、その仏像二体を請いうけ、
鞍作村主司馬達等と池辺直氷田を四方に遣わして修行者を探させたところ、
播磨の国に還俗した高麗人の恵便という者がいた。
馬子宿禰はその人を仏法の師として崇め、司馬達等の十一歳になる嶋という娘を
出家させて善信尼といった。また善信尼の弟子二人も出家させた。
その一人は漢人夜菩の娘の豊女で、名を禅蔵尼といった。
もう一人は錦織壺の娘の石女で、名を恵善尼といった。
(注:播磨国に還俗した高麗人の恵便がいて馬子が『仏法の師』としただけ)
488日本@名無史さん:04/07/27 01:10
(つづき − 『なんとなく氏』の妄想を断ち切るため割り込み)
馬子はひとり仏法に帰依し、三人の尼を崇め尊び、三人の尼を氷田直と司馬達等に
託して衣食を供させた。仏殿を馬子の家の東方に造って、弥勒の石像を安置し、
三人の尼を招いて、法会の斎食を供した。

このとき司馬達等は斎食の上に仏舎利を見つけた。その舎利を馬子宿禰に献じた。
馬子宿禰は、ためしに舎利を鉄床の上に置いて鉄の鎚で打ってみたが、
鎚と台は破れ砕けたが舎利は損なわれなかった。
また舎利を水に投げ入れると、舎利は心に思い描くとおり浮かんだり沈んだりした。
これによって馬子宿禰、氷田直、司馬達等らは仏法を深く信じて修行を怠らなかった。

また馬子宿禰は石川の家に仏殿を造った。仏法の広まりはここから始まった。
(注:『仏法の広まり』であり『仏教初伝』は欽明天皇紀にあるように百済王から)
489日本@名無史さん:04/07/27 01:20
なんとなく九州王朝説の言うことは思い込みや捏造による妄想ばかり
妄想を何度も書き込むことでこのスレを妨害しているが本人が議論してるつもりに

妄想でなく根拠を示す九州王朝説の人なら歓迎なのですけどね
490盧氏の友人 ◆uVgREYUxI. :04/07/27 01:38
>>477
残念ながら氏の主張は成立しない。なぜなら、古代アメリカ系は大戦はあっても双方とも鉄を知らなかった。
ヒッタイトがあの狭小な土地でペルシャなどの広大な地域と争ったように、鉄器の存在は非常に大きい。
いわずもがな、氏もいうとおりクマソには鉄器が実用に値するだけあった、そしてそれに王権は勝った。つまり、王権は鉄をもって大戦をしたのだ。
ならば、私のいうとおり、再利用などをして溜め込んだのが妥当だろう。
491日本@名無史さん:04/07/27 01:41
>>486
「日本書紀」も持たずに基地外発言するなよ。
文庫本も出ているから買ってこい、ヴォケ。
492日本@名無史さん:04/07/27 01:47
専用スレあるんだから、双方とも九州王朝スレに移れよ。
いいかげん邪魔だ。
493日本@名無史さん:04/07/27 01:59
>>219 やら >>478 ぜんぶそうだけど、
なんとなく九州王朝説タンが妄想を根拠に九州説を唱えて流れを邪魔してたから、
どれだけでたらめ妄想を唱えているかが一度明白にされる必要があった。

でたらめが明確になった以上、九州王朝説派は専用スレへ帰って欲しい。
>>487-488

残念ですが、欽明紀の仏教初伝記事は、神戸の丹生山明要寺縁起明要元年の記事の
パクリですから、畿内王権の記事ではありません。
>>487-488

日本書紀の仏教初伝記事が584年ですから、播磨国は外国になることにいささかの誤りもありません。
>>490
何を言っておられるのか?
「鉄がないから大戦がない」とするあなたの説を私は否定しました。おかしいですか?
>>491

持っていますが、押入れの奥なのでとても出せません。
清寧天皇2年に、雄略天皇によって射殺された市辺押磐皇子の2子、億計と弘計が雄略天皇から逃げ回った挙句、
明石にある忍海部造細目の家で生きているのが発見されています。

二人は播磨国に逃げ込んでいたわけです。どうしてもっと遠くに逃げなかったか?
それは大和国と播磨国が別な国だったからでしょう。
499盧氏の友人 ◆uVgREYUxI. :04/07/27 02:30
>>496
何言ってるかわかんない。
人のあげた定義の逆定義(しかも逆定義にすらなってない)をとって反論されてもな。
俺は、記紀にある九州遠征のような大戦に大量の鉄器が必要だったのだから、畿内には鉄の再利用などをして供給力のカバーをした、ということを言ったのだが。
だれも鉄が無ければ大戦はないなどと言ってない。
>>499

初めてそんな話をされたところで、私にはあなたの表現外の論点は知りません。
ああ、それから九州遠征譚が、九州王朝内の国土拡張記録のパクリであろうことを主張する説もありますね。
私としては保留ですが(考え切れていません)。
しつこいようですが、もう一度言っておきます。

欽明紀の仏教初伝記事は、百済から播磨国への仏教初伝のパクリ

敏達紀の仏教初伝記事は、播磨国から大和国に仏教初伝があった記事

そこで584年は兵庫県は大和国にとって外国だったのです。
503日本@名無史さん:04/07/27 02:51
>>497
日本書紀を持っているとしても、押入れの奥に押し込んで出せない香具師に
その記事を語る資格はない。基地外スレで思う存分に電波を出してこいよ
504日本@名無史さん:04/07/27 02:53
残念ですが、古田さんとは意見が必ずしも一致しないので、何回か論争(迄いきませんが)しています。
だから、「なんとなく」です。古田さんは、日本語(単語)を切り刻んで1音や2音に意味を付けすぎる
傾向があります。また、文献学と考古学の融合は良いのですが、民俗学的アプローチが弱すぎます。
506日本@名無史さん:04/07/27 03:26
もういい加減、電波系のなんとなく九州王朝説を相手にするのやめようぜ。

『蘇我馬子が従者に仏教の修行者を探させたら播磨国で恵便という者を見つけた。』
という記事はたしかに日本書紀にあるが、
これのどこが播磨は外国だった証明になるのだ。

『蘇我馬子大臣を吉備国へ遣わして』というのもあるから、
彼にとっては吉備も外国だった証明になるのだろうな。

さすが電波系、なんとなく九州王朝説、おそるべし。
まあ、しつこいようですが、仏教初伝は播磨国から伝わったのですから、播磨国は584年当時外国だったわけです。
日本書紀の編者がそう言っているので、私にはどうすることも出来ません。

また、>>498も参照してください。
508日本@名無史さん:04/07/27 04:30
>>507
根拠を示せよ。

仏教が播磨国から伝わった、を示す資料を明確にせよ。
509日本@名無史さん:04/07/27 04:37
>>507
池沼は電波スレに行って戻ってくるなよ
510日本@名無史さん:04/07/27 04:40
>>507
日本書紀は「押入れの奥なのでとても出せません。」と確認できない言い訳をしながら
「日本書紀の編者がそう言っている」と基地外発言をする神経を疑う。
511日本@名無史さん:04/07/27 04:51
押し入れにあるってことは所有してるんだから、以前に読んだことあるんじゃないのかなあ。
そして、九州王朝説の電波を浴びるうちに、記憶が歪んできて、書かれてないことまで脳内生成して思い込み。

冷静に見ると、一種の病気かも知れなくて、かわいそう。
まずは現実を急いで確認して、現実認識のリハビリがおすすめ。
512日本@名無史さん:04/07/27 05:18
おやおや、馬鹿畿内が復活か、まあ虐め甲斐があるというもんだ。

>盧氏の友人 ◆uVgREYUxI
恥ずかしいな。おまえのレスは全て希望的観測に元にした妄想だな。
513日本@名無史さん:04/07/27 05:22
亡者に集られて大変だろう、応援してやる

播磨については、敏達紀13年(584)を読むと、ヤマトへ仏教を伝えたの
は播磨国にいた高句麗の環俗人の恵便(えべん)であると書かれています。つま
り、ヤマト以前に既に播磨へは仏教が伝来していたということ。

 このことは、実は非常に大きな問題を含んでいます。何かというと、当時(敏
達朝;6世紀末)、播磨はヤマトにとって別の文化圏(=外国)だったというこ
とがわかるからです。「ヤマトは5世紀には日本列島の多くを支配していた」な
どと言われていたこともありましたが、6世紀末になっても播磨国(現兵庫県)
がまだ外国(隣国?)だったのですから、推して知るべし。

 では、播磨にいつごろ仏教が伝来したかというと、詳しいことはわかりません
が、興味深い伝承が残っています。兵庫県神戸市の丹生山明要寺(たんじょうざ
ん・みょうようじ)の縁起によると、同寺は欽明朝に百済からの来た僧によって
「明要元年辛酉三月三日始開山岳造仏閣」とのこと。ちなみに、この「明要」と
いうのも正史には登場しない年号で、『書紀』の欽明天皇の2年(541)を元
年としています。

514日本@名無史さん:04/07/27 05:30
>>513
漢字が読めない鮮人のような電波民族相手ではなく
漢文の読み下し文であれば十分に理解できる日本人相手に
歴史書の記事を改竄をしようとしてもムダ。恥を知れよ。
515日本@名無史さん:04/07/27 05:33
>>514

おいおい、中傷ではなく反論してみ
畿内説は中傷に終始してるではないかね。
516日本@名無史さん:04/07/27 05:35
>>513
おいおい、捏造はいかんぞ。

敏達紀13年(584)は、
『百済から来た鹿深臣が弥勒菩薩の石像一体をもたらした。』
『佐伯連も仏像一体を持参した。』と話がスタートする。
これで、欽明紀の件を除いても、百済から来たのが確定。

次に、『蘇我馬子宿禰は、その仏像二体を請いうけ、』
『鞍作村主司馬達等と池辺直氷田を四方に遣わして修行者を探させたところ、』
『播磨の国に還俗した高麗人の恵便という者がいた。』
『馬子宿禰はその人を仏法の師として崇めた。』とあり、
蘇我馬子が仏教の師匠として恵便を探してきただけ。

さすがに、播磨国が仏教を伝えた、とかいうとんでもは書かれていない。
517日本@名無史さん:04/07/27 05:38
それから今の所、畿内説の考古学的根拠は

土器の破片・一つの墓
これだけ(藁、これを材料に巨大連合にまで妄想を膨らますしてること忘れたらだめだよ。
518日本@名無史さん:04/07/27 05:47
>>517
なるほど、ね。

あたしは、畿内説ではなく、邪馬台国九州説衰退派でーす。

邪馬台国は、各種交易などから大陸や半島ばかりに目が行ってたのよね。
だから、瀬戸内・畿内・東海などの日本として重要な国々が倭人伝には全然登場しないの。

そして、後ろ楯となっていた大陸側が混乱期におちいって、
邪馬台国は、衰退して滅びてしまうのよね。

邪馬台国を滅ぼしたのが、九州内の他勢力なのか、それとも、
瀬戸内・畿内・東海などの連合勢力なのかは、ちょとわからないけども。。
519日本@名無史さん:04/07/27 06:14
>邪馬台国を滅ぼしたのが、九州内の他勢力なのか、それとも、
>瀬戸内・畿内・東海などの連合勢力なのかは、ちょとわからないけども。。

そうだね、謎だね
そろそろ俺の投馬東遷説の出番が来たようだな(藁
520日本@名無史さん:04/07/27 06:23
>>519
邪馬台国はどうなってしまったの?
投馬国に滅ぼされちゃったのかしら
521日本@名無史さん:04/07/27 06:39
>>520
謎だよ
東アジア最強の権威金印を貰っちゃったのが豪族達に擁立された巫女だからね
豪族の力関係のバランスが崩れたらすぐ崩壊するような危うい政権
トヨの時代までは確認できるけど
そのまますんなり北九州が発展した可能性はそんなに高くは無いと思うぞ。
522日本@名無史さん:04/07/27 06:52
>>520
畿内にあったヤマト(邪馬台)国がそのまま発展したわけで
何も悩む必要はない
523日本@名無史さん:04/07/27 06:56
>>522
>畿内にあったヤマト
西暦何年ごろから「あった」んですか?
524日本@名無史さん:04/07/27 07:01
やっぱり畿内説は古墳時代(後の時代)と邪馬台国の時代とゴチャゴチャに考えてるね
大阪城が大阪にあるから邪馬台国は大阪だ。と言ってるようなものだよ。
後の時代の古墳も当時は無いという単純な事を理解してね。
525日本@名無史さん:04/07/27 07:21
出かけるから最後に言っておく

九州独立王朝説も畿内説も九州と戦争状態にあれば畿内の発展は無いということだ
まず対九州戦、西南戦争のような戦史跡も伝承もない、つまり妄想
畿内は明らかに古墳時代発展してるので九州王朝説は破綻
畿内政権誕生の時に九州敵対と考えてる畿内説も破綻

投馬東遷しか残らないな。
526日本@名無史さん:04/07/27 07:23
邪馬台国畿内説崩壊派の九州王朝説としては、
台与のあと畿内を中心とする邪馬台国は一旦崩壊ばらばらになる。

その後、のちの大和朝廷は小規模なところからやり直し。徐々に拡大。
一方、九州では独立を保ち、大陸半島との交流が白村江まで続けられた。
527日本@名無史さん:04/07/27 07:50
>>523
奈良県オオヤマトに纒向石塚古墳が作られた200年頃には
ある程度の権力を持っていただろう。
箸墓古墳が作られた250年頃には畿内・吉備連合が確立し
北部九州から狗邪韓国まで勢力下に置いた強大な国へと成長していた。
528日本@名無史さん:04/07/27 07:57
>>527
ちなみに魏から金印を授かったのは
西のクシャン朝(大月氏国)と東のヤマト(邪馬台国)のみ
529一応九州王朝説:04/07/27 08:14
朝早くからみんなご苦労さんな事でw

鉄についてですが、簡単に再利用とかいうが、鍛造技術がないとそんな簡単なものではない。
中国でも鉄器の兵器利用技術が急速に進んだのは後漢から三国の時代ですから、交渉して
いた奴国or委奴国、邪馬台国と続く九州勢力も、軍事同盟の相手として鉄器の供与も考えら
れるところです。漢代はともかく、魏の頃は三国とも取り込み合いで必死だからこその軍事顧
問団だったわけで、公孫氏、半島とも緊迫した情勢下、また呉からの侵攻に備えるということも
軍事指導の内容だったのではないか。

銅器と鉄器の性能差についてはここの住人の皆さんに解説するまでもないでしょうが、最新鋭
の鍛造技術でつくられた鉄戟と銅器とは戦場に於いても相当な差があったそうな。

これらを手にした九州勢力にとっては、むしろ魏への朝貢以後が飛躍の時期だったのではない
かと思われます。

また、九州勢力がその後衰えたという説の根拠が、発掘調査の結果にあるわけですが、近年の
放射年代測定結果から、7世紀以降と言われていた遺構がずっと遡ると言うことがわかってきま
した。言われていたような弥生遺跡からの断絶が、実はなかったという訳です。だから、無理の
ある東遷説の根拠はもう崩れていると思われます。
530日本@名無史さん:04/07/27 08:42
>>527
また畿内説論者の嘘が始まった
>纒向石塚古墳が作られた200年頃には
ハァ?280年頃が定説、誰が言ってるのそんな嘘。教えて。
>ある程度の権力を持っていただろう
ある程度じゃ駄目だろう、一大卒は諸国に畏怖されてたんだよ
さらに畿内説の立場に立てば畿内から九州の広大な領土上で
言ってる事が破綻してて自信が無いから「ある程度」などとつぶやいてるのだろうが(w

531日本@名無史さん:04/07/27 08:48
>>527
100歩譲って200年ごろから始まったとしても遅いんだよ
伊都は代々邪馬台国に使えてる、代々だよ。
200年にやっと最初の古墳作った畿内政権が200年位に伊都を制圧しているとでも言うのかね?

畿内説を主張するならまだまだ捏造が足りない
マキムクは1世紀頃に繰り上げたほうがいいんではないか(w
532日本@名無史さん:04/07/27 08:53
>>530
嘘は九州説の安本だろ。
纒向石塚古墳の濠から出土した木製品の年輪年代は200年頃を示している。
中国製の銅鏡の年代と編年には矛盾がないだろ。

200年頃は倭国大乱が続いていた頃だろう。その後にヤマト(邪馬台国)が
吉備と連合して西日本を覇をなして、魏からの使いが来たころには
一大卒が諸国に畏怖されるほどの力を持ったと考えている。
533日本@名無史さん:04/07/27 08:57
>>531
急速に強大化して、250年頃には最初の巨大前方後円墳・箸墓を作った。
箸墓には吉備由来の埴輪の前身を並べているように
畿内と吉備が連合したのも強大化の大きな要因だろう。
534盧氏の友人 ◆uVgREYUxI. :04/07/27 09:02
製鉄法は、なぜか古墳時代前期以前はカナクソの殆ど、もしくはまったくでないもので、できた鉄もかなり純度が高いようである。
技術的下地は弥生時代までさかのぼるといわれる。
日本の場合は原料が砂鉄の為、大規模かつ複雑な過程がいらない。大陸は鉄鉱石のため、大規模かつ複雑であり、純度をあげるのに硫黄の除去に相当のエネルギーを費やす。
そのためか、製鉄は大規模工業、というイメージがつきまとう。砂鉄原料ならば元々の純度が高い酸化鉄のため、鉄製品・古鉄を使うのと似た技術過程になる。
タタラ利用ならば単純に還元作業を純化した形であり、純度の高い酸化鉄なら原料にでき、かつ不要物の排出も少ない。
535日本史@名無しさん:04/07/27 09:14
>>534

ただ、炉の性能や鉄製品の性能からは、やはり西日本から順に高度な製鉄法が広がって
行っているのは明らかのようですね。それに、弥生末期から古墳前期にかけては、まだ交
易で中国から手に入れていたものが多かったと思います。特に兵器については。
まあ、これは九州説でも畿内説でもいいわけですが。

確かに再利用は鉄では当たり前の事ですが、近畿以東で異物が少ないのは、低温で作ら
れた粗悪品だからだったと思います。無かったわけではないが、北部九州では品質の高い
ものが山ほど出てくるので、実際の戦争でも勝敗を決してしまうだけの性能差はあったよう
で。
536日本@名無史さん:04/07/27 09:22
>>532
木片は一緒に出土した土器編年で年代測定しているのだろう?
纒向T式期の土師器が200年頃と断定してるんだよ、おまえが。
年代無茶苦茶だね。
537盧氏の友人 ◆uVgREYUxI. :04/07/27 09:25
扇谷遺跡のは。あれは畿内勢力圏だろう。
しかも、大陸の製鉄法が入った古墳中期以降は、カナクソを大量に排出しかつ純度が若干低い。大陸のは鉄鉱石の為の製鉄法で、砂鉄から作る鋼とは性質を異にしている。
扇谷遺跡はカナクソも出てる弥生中期のもので、大陸要素がみられるが、原料は砂鉄のようだ。
研究者は大陸との交流があった可能性も考えている。
538日本@名無史さん:04/07/27 09:27
寺沢編年の布留0式期は何年頃だ?
539日本@名無史さん:04/07/27 09:31
扇谷遺跡は弥生前期末から中期初頭
540日本@名無史さん:04/07/27 09:31
>>534
手元に田口勇(1988)「鉄の歴史と化学」(裳華房)があります。
微量元素の分析で鉄製品の原料は区別でき
稲荷山古墳の鉄剣は大陸から輸入した鉄廷のようですが
この頃から日本でも製鉄遺跡が見つかっているそうです。
かなり古い本ですが、その後の研究状況はどうでしょうか?
541日本@名無史さん:04/07/27 09:34
場所的に出雲の勢力圏の扇谷遺跡を無理やり畿内勢力と嘘を付くなよ
弥生中期に畿内は日本海沿岸まで勢力化にあったと考えてるのかよ。
542盧氏の友人 ◆uVgREYUxI. :04/07/27 09:35
森浩一も「古代技術の復権」で同じようなこと言ってる。たしか、製鉄技術者との対談だった気がする。
543一応九州王朝説:04/07/27 09:36
>>537

弥生前期以降ですが、放射年代測定の結果は出ているのですか?

弥生前期と言えば、訂正された年代からはBC600とかになってしまいますね。
もちろん中国でもすでに製鉄は発達しつつあるわけですが、その頃すでにあっ
たということは、鉄器が九州だけの独占品とは言いにくいことになります。

ただ、畿内勢力の勢力圏と言っても、時代が古すぎるので、そのような強大な
統一勢力はまだないでしょう、流石に。
それに、大宮町の大宮古墳では、三種の神器も出ているので、九州勢力の可
能性もあります。時代的にも、東漸勢力ではないでしょうか。或いは海の民の
沿岸部への勢力布置かもしれません。出雲の全盛期ですし、出雲の影響が一
番強い気もします。

推測ばかりで申し訳ありませんが、どのデータが放射年代によって確定してい
るかよくわからないので・・・・・。
544日本@名無史さん:04/07/27 09:38
>>536
違う。纏向石塚古墳の周濠から出土したヒノキ板の年輪年代を調べたら
177+α年の結果が得られた。木片には辺材の部分も見られるので
200年頃に伐採されたものと見積もられた。

無茶苦茶なのは、九州説に固執するために必死な安本だろ。
545日本@名無史さん:04/07/27 09:40
>盧氏の友人 ◆uVgREYUxI

あなたは嘘を前提としてレスしてますね、嘘付いても簡単に調べられるのだよ
嘘を前提として論を唱えるのは妄想としか言いようが無いじゃないか。
546日本@名無史さん:04/07/27 09:44
>>544
では一緒に出土したど土器も177+α年ということだね、違うのか?

おまいは最初に
「纒向石塚古墳が作られた200年頃」と言ってるんだよ
そして段々あやふやになって
「200年頃に伐採されたものと見積もられた。」(w

どうなってるんだ?
547日本@名無史さん:04/07/27 09:45
つまり
200年頃伐採された木で280年頃作られたと考えるのが矛盾が出ないと思うぞ。
548盧氏の友人 ◆uVgREYUxI. :04/07/27 09:48
扇谷からあれがでたということは、何らかの技術が畿内に流れていてもおかしくない。
また、鉄関連は基本的に裏日本が恵まれていて、九州からの距離はそうとうある。
技術的なところだと、出雲系の一部は畿内に入ったとも聞くので何らかの技術流入はあったはず。
銅に関しては東国の産出量は凄まじく、自然銅も出ている。青銅からも畿内は強いかと。
549日本@名無史さん:04/07/27 09:52
>>547
80年も置いとかんだろ
>>516

大変な錯覚をされてますね。

   仏像の伝来≠仏教の伝来  なんです。

坊さんが来て、信者ができて、仏法が伝承されるのを、仏教の伝来といいます。
百済から仏像だけやってきた事件は、仏具の伝来事件にすぎません。
坊さんが来て、仏法を説き、信者が生じたのが584年の「播磨からの仏教伝来」なのです。

つまり、584年、播磨国から大和国に仏教が伝来しました。
これによって、584年に播磨国は大和国からみて外国だったことが確定します。

白村江の敗戦(663年)の79年前に、大和国が兵庫県すら領有していないことを前提に
畿内説・九州説を考察しないと、論理が破綻してしまいます。
551日本@名無史さん:04/07/27 09:55
>>548
餓鬼の相手するのは疲れる

>何らかの技術が畿内に流れていてもおかしくない。
畿内には鉄工場も鉄器現物も無いから技術も現物も流れなかったと考古学上はなるな
おまえの希望的観測と考古学の成果は隔絶している、つまり妄想なんだよ。

>鉄関連は基本的に裏日本が恵まれていて、九州からの距離はそうとうある。
九州北部は出雲どころか東海方面まで普通に弥生時代から結ばれている。
交易も糸魚川としてた事を忘れてないか?糸魚川の場所知ってるよね。

552盧氏の友人 ◆uVgREYUxI. :04/07/27 09:57
545氏、その私の論するものを嘘と断定できる資料を提示していただきたい。
森浩一先生の著作や日立の纏める資料を覆す大変な資料に違いない。
553日本@名無史さん:04/07/27 09:57
>>549
知らないよ
畿内説の言う土器編年と年輪年代が本当であるなら、と言う前提で話しただけ
その矛盾は畿内説論者に言いなよ。
554日本@名無史さん:04/07/27 10:05
>>547
幻の九州説に固執するためには
池沼にならないとやっていられないな。

卑弥呼が巨大古墳に葬られた記述があるのに
無理やり弥生時代にしようと無理をしてきたから
銅鏡は例外なく膨大な年数を経てから副葬したことにしたり
材木の伐採年と使用時期を異常に空けないと辻褄が合わない。

池沼が日本考古学の足を引っ張ってきたわけだ。
555日本@名無史さん:04/07/27 10:10
>>554
だから畿内に卑弥呼が居たと証明するのは畿内説だろう
畿内説の言う一つ一つのネタの嘘と矛盾を突いてるだけなんだよ。
自分たちで精精辻褄合わせなさいってことだ。
556日本@名無史さん:04/07/27 10:13
>>554
材木伐採年は何時?土器は何時?
で、石塚は何時よ?
557日本@名無史さん:04/07/27 10:19
言っておくけど畿内説亡者よ

嘘付いても即座に調べて必ず暴いてあげるからね

いくら妄想論じてもその前提を調べますので

ヨロシク
558盧氏の友人 ◆uVgREYUxI. :04/07/27 11:10
557氏自身の主張はないのかね。
考古学では、無かったか、見つかってないのかがはっきりしない。確かに日本の地層を丸一枚剥がせれば話は早い。
特に炉なんて面積的には農家の敷地くらいしかないんだから、未だ掘ってないところにあるかもしれない。
見つかったモノを元に論じられるのなら分かる、しかし見つかってないコトを元に論じられては。
そんなこと言ったら、畿内北部なんて平城京の造営でどれだけの遺跡が失われたかすらも分からないのにな。
559日本@名無史さん:04/07/27 11:43
>考古学では、無かったか、見つかってないのかがはっきりしない

またかよ
「見つかってない」ことは断定できるだろ見つかってないんだから
掘っても鉄は出てないんだから無かったとするのが考古学上の見解だ。

おまえの言い分を聞いてると何でもありになる
日本の地下1000mにファラオのピラミッドが1万基あったかもしれない
掘ってないから無かったのか見つかってないのかはっきりしない、と言ってるのと同じだよ。

無を前提に有を語る、それを妄想と言う。
無意識なら馬鹿電波と呼ばれ、意図的なら嘘吐きと呼ばれる。
560日本@名無史さん:04/07/27 11:50
なんですか?畿内説は畿内北部にマキムクをしのぐ邪馬台国〜大和朝廷の
巨大遺跡が眠っているとか妄想するわけですか。
畿内南部が大和朝廷発祥の地とかいってたくせに?
561日本@名無史さん:04/07/27 12:40
なんか、中高生っぽいのが増えたろ。このスレ。
562邪馬台国=古墳発生地:04/07/27 13:57
九州倭王国は前漢時代に高句麗、百済と並んで金官に本拠を置き朝鮮半島を支配し
ていた。当時は九州の東は弥生環濠集落時代であった。九州倭王国の傘下には新羅を
初めとする朝鮮土着民、中国系移住民がいた。九州倭王国の金官の一部が東遷し大和
にマキムクを建国する。とまー、こんな感じがするんだが詳しいことが判らない。
563盧氏の友人 ◆uVgREYUxI. :04/07/27 14:09
なんで考古学の欠点を突いたのに、ヤマタイが畿内北部の伝説になるんだよ。もののたとえを挙げ足取りするな。
出雲や裏日本が九州から遠いといったのは、領有・従属の問題で交易の問題でない。
たしかに糸魚川との交易はあったな、九州は。
九州には熊本に砂鉄の産地があるが、あそこはクマソだ。氏等のいう九州王朝が利用できたと考えにくい。
東奈良に銅の炉があるが、あそこに炉に関わる集団がいたわけだ。銅鐸集団は高い技術をもち、製鉄の基礎を誘導できる知識もあった。
畿内は立ち後れた集団では決してない。銅鐸の生産技術からも明らかだ。ならば可能性としては否定できまい。
564日本@名無史さん:04/07/27 14:20
  ↑
こいつ何が言いたいんだ?
565日本@名無史さん:04/07/27 14:44

北九州が鉄を利用できたと考えにくくて(苦笑
銅鐸畿内は可能性を否定できないね。

呆れた話にならない、考古学を無視したらなんでもありだな。

>東奈良に銅の炉があるが、

とりあえず、コレどこ?もしかして奈良時代の工房の事言ってる?
>>563
補足的に申します
砂鉄による製鉄が始まるのは、鉄鉱石の製鉄よりずっと時代が下がるのではないでしょうか。
また、半島で長期戦を戦える邪馬台国が、クマソの地を領有できないはずがありません。
その後邪馬台国が、菊地あたりに遷都した可能性すらあります。
越と出雲は九州邪馬台国の通商圏であり傘下ですから、畿内は日本海岸の半島鉄を
入手しにくかったようです。
567盧氏の友人 ◆uVgREYUxI. :04/07/27 15:50
なんとなく氏が考えている九州邪馬台国、仮に九州王朝とするこれは、文脈を読み取るかぎり、北は任那、東は越、南はクマソを端とする巨大帝国に聞こえるのですが、あってますか?
568日本史@名無しさん:04/07/27 18:36
盧氏の友人 ◆uVgREYUxI. 氏はちょっと知識不足かと思われますね。

裏日本という言い方も、山陰と同じく住民にとっては喜ばしい言い方ではないと言うことは
覚えておかれるといいかと思いますが、弥生の日本に於いては、むしろ表日本と言うべき
盛況であったことも常識ですよ。そしてそれは江戸時代まで続くわけです。

>>565

まあ勘弁してあげましょうよ。だって、実際に学会でどこそこ大学や謀研究所の人たちが、
実際にそんなことばかり熱弁を振るっているわけですから、盧氏の友人 氏の責任とも言え
ないわけで。確かに煽りや口の悪いのは本人にも責任がありますがw

例えば、青谷上寺地遺跡の人骨が鉄器で切られている。戦争かもしれないし、処刑かもしれ
ませんが、その切り口が鋭利な鉄製武器で切られていたような傷口になっているそうです。
そこまではいいのですが、そこからが凄い。

鉄器で切られたあと → だから鉄器の存在は広範囲 → だから九州独占ではない →
だから邪馬台国も畿内・・・・・・

普段九州派をとんでもあつかいするくせに、こういった否定的な所だけだしてくる。いい大人
のすることかと思うが、それよりも上のような論理展開を平気でして、恥ずかしくないのかな
と言うことの方が気になりますw

569日本@名無史さん:04/07/27 18:55
別に恥ずかしくないですね。

だって、

>鉄器で切られたあと → だから鉄器の存在は広範囲 → 
>だから九州独占ではない → だから邪馬台国も畿内・・・・・・

こんな主張してないもの。
570日本@名無史さん:04/07/27 19:24

>木片発見! → 年輪年代で200年 → だから石塚は200年 → だから卑弥呼と年代が合う→ だから邪馬台国も畿内・・・・・・
       (都合の悪い編年は無視)

こんなところかね、やっぱり恥ずかしいよ
畿内説はもう少し柔軟な思考と論理展開を考えたほうが良い
たとえそれで結果が変わろうが学問の本筋から逸脱してはならないと思う。


571日本史@名無しさん:04/07/27 19:42
もはや学問ではなくて、ゆがんだ信仰みたいだなw
572日本@名無史さん:04/07/27 20:38
>>570
年輪年代とは独立に、土器編年と銅鏡編年などの関係を見ても
卑弥呼を弥生時代とする年代観に疑義が出されていたわけで
トータルとして蓋然性の高いものとなってきたわけだ。

九州説に固執したい安本とかは火病を起こして反発しているけどな。
573日本@名無史さん:04/07/27 20:59
この話と同じで、日本考古学は土器などによる相対年代を
暦年代への変換する際に、変な思い込みで自然科学音痴になったりと
白痴のように振舞うことが多すぎる。
土器編年の暦年換算が妥当になれば、蓋然性の高い結論が導かれる。
===
山内をヨイショする意見が多く出されているが
一方で自然科学音痴で反日共産主義者のDQNなのは、大きなマイナスだった。
放射性炭素年代測定法を開発したリビー博士が、ノーベル賞を受賞した後も
日本の縄文土器が世界最古の年代を出し続けることに感情的に反発して
無知蒙昧に反対し続けて、研究を阻害したのは最低最悪だった。

土器型式と層位で分かるのは、相対的な新旧関係だけなのにヴァカ丸出し。
汎世界的な海水順変動・気候変動との関係や大規模火山噴出物との関係などで
どう見ても日本の土器が非常に古いものであることが否定できなくなってからも
山内門下の反日共産主義者たちはウヤムヤにしようとし続けた。
こいつの害悪も非常に大きいことを認識しないと行けない。
574日本@名無史さん:04/07/27 21:09
↑ 考古学板のデンパカキコのコピぺ
575日本史@名無しさん:04/07/27 21:25
どっちかつうと、土器編年にこだわってるのはウヨの方じゃないのか?
とにかく永遠に天皇家が大和にずっとあったってしたいわけだろ。
576>476:04/07/27 22:11
だから、そんな説は通説でもなんでもないよ。
そもそも石野博真自体は唐古→巻向説だよ。
これだって古いわけね。
577日本@名無史さん:04/07/27 22:19
巻向の最初の年代は、寺澤が3世紀前半、石野が2世紀末頃(ちょっと変わったかもしれんが)
280年まで下げる人はいないですよ。
森浩一でもそこまでは下げてないでしょう。
578日本@名無史さん:04/07/27 22:20
万葉集に収録された歌から、意外な歴史的事実が浮かび上がる・・・という古代史ファンには見過ごせない一冊。
 万葉集の和歌を古代朝鮮語で読み解く・・・という試みは以前から知っていたが、この著者はさらにそこから大胆な自説を繰り広げる。

 例えば章題こんな文字が躍る。
【持統天皇は高市皇子だった!?】
【斉明天皇を暗殺したのは大海人だった?!】
579日本@名無史さん:04/07/27 22:21
>>578
電波ウザイ!!


580日本@名無史さん:04/07/27 22:22
長鼓墳の年代はだいたい5世紀頃とされていますが、問題は昨
年発見された、光州市南西にある万家村の古墳群です。ここから3世紀の瓦質
土器が発見されました。もし、この長鼓墳が発見者の林教授の言うように土器
と同じ年代の3世紀であるとすると、前方後円墳では日本最古(?)の箸墓古
墳(290年頃)より古くなります。

林教授(全南大学)は「前方後円墳は3世紀に全羅南道の栄山江流域で
誕生した。その後、古墳を造った集団が日本に移住したため、前方後円墳は日
本で普及、発達したが、再び朝鮮の故郷に戻った子孫が、栄山江流域に新たな
前方後円墳を造ったのではないか」との解釈を公表しました。


581日本@名無史さん:04/07/27 22:24
>>580
箸墓は日本最古じゃねーよ。w
アホ。
582前方後円墳の起源は韓国だった:04/07/27 22:24
箸墓は輪鐙の発見により290年頃である可能性はなく4世紀末である可能性が高くなっています。
韓国の長鼓墳と年代は殆んど変らない事になり本家はどちらかわからなくなりました。

更に古いと思われる勝山や石塚は石室や棺などの埋葬品は発見されておらず墓であったかどうかも不明です。

徳島にある積石塚古墳(3世紀後半)から北朝鮮で発掘された画文帯神獣鏡を踏み返しした鏡が見つかっています。
徳島にある積石塚古墳(3世紀後半)の本家は北朝鮮の積石塚である事は疑いようもありません。
多分ホケノ山も本家は北朝鮮の積石塚でしょう。

北朝鮮では典型的前方後円墳は見つかっていませんが北朝鮮の積石塚が韓国及び日本の前方後円墳に影響を与えたと考えるのは妥当だと思います。


583>581:04/07/27 22:25
間違いなく最古。
なぜ真実を否定するか。
584日本@名無史さん:04/07/27 22:28
>>583
少しは考古学を勉強しましょう。
585>476:04/07/27 22:28
ちなみにその本には、時代遅れの「邪馬台国九州説」の学者も論文出してますよ。
言うのは自由でしょうけどね。
586日本@名無史さん:04/07/27 22:32
箸墓は輪鐙の発見により290年頃である可能性はなく4世紀末である可能性が高くなっています。
韓国の長鼓墳と年代は殆んど変らない事になり本家はどちらかわからなくなりました。

更に古いと思われる勝山や石塚は石室や棺などの埋葬品は発見されておらず墓であったかどうかも不明です。

徳島にある積石塚古墳(3世紀後半)から北朝鮮で発掘された画文帯神獣鏡を踏み返しした鏡が見つかっています。
徳島にある積石塚古墳(3世紀後半)の本家は北朝鮮の積石塚である事は疑いようもありません。
多分ホケノ山も本家は北朝鮮の積石塚でしょう。

北朝鮮では典型的前方後円墳は見つかっていませんが北朝鮮の積石塚が韓国及び日本の前方後円墳に影響を与えたと考えるのは妥当だと思います。


587日本@名無史さん:04/07/27 22:32
箸墓は輪鐙の発見により290年頃である可能性はなく4世紀末である可能性が高くなっています。
韓国の長鼓墳と年代は殆んど変らない事になり本家はどちらかわからなくなりました。

更に古いと思われる勝山や石塚は石室や棺などの埋葬品は発見されておらず墓であったかどうかも不明です。

徳島にある積石塚古墳(3世紀後半)から北朝鮮で発掘された画文帯神獣鏡を踏み返しした鏡が見つかっています。
徳島にある積石塚古墳(3世紀後半)の本家は北朝鮮の積石塚である事は疑いようもありません。
多分ホケノ山も本家は北朝鮮の積石塚でしょう。

北朝鮮では典型的前方後円墳は見つかっていませんが北朝鮮の積石塚が韓国及び日本の前方後円墳に影響を与えたと考えるのは妥当だと思います。


588日本@名無史さん:04/07/27 22:34
>>586
3世紀中ごろのホケノ山古墳
http://www2.begin.or.jp/sakura/maho1.htm

木郭もあるが何か?
589日本史@名無しさん:04/07/27 22:36
炭素同位体測定してねえ年代特定なんて興味ないよ
590>588:04/07/27 22:46
日本を代表する古代史学者の安本美典博士はホケノ山古墳は3世紀より下る。
としている、韓国南部の古墳こそ源流である。
591日本@名無史さん:04/07/27 22:57
>>557
>言っておくけど畿内説亡者よ

>嘘付いても即座に調べて必ず暴いてあげるからね

>いくら妄想論じてもその前提を調べますので

>ヨロシク

このアホは救いがないなあ。もしくは、畿内説による、九州説に対する
ネガティブ・キャンペーンなのか?

概して、九州説の人は病的に畿内説を攻撃する。自説にだって弱点があるだろうに、
それは無視。もしくは推測にしか過ぎないのに、完全に説明できたと思い込んでいる。
余り他者を否定するのではなく、疑問を言う程度にして、自説を語った方が、
建設的な議論になると思うけどね。
592日本@名無史さん:04/07/27 23:15
箸墓は輪鐙の発見により290年頃である可能性はなく4世紀末である可能性が高くなっています。
韓国の長鼓墳と年代は殆んど変らない事になり本家はどちらかわからなくなりました。

更に古いと思われる勝山や石塚は石室や棺などの埋葬品は発見されておらず墓であったかどうかも不明です。

徳島にある積石塚古墳(3世紀後半)から北朝鮮で発掘された画文帯神獣鏡を踏み返しした鏡が見つかっています。
徳島にある積石塚古墳(3世紀後半)の本家は北朝鮮の積石塚である事は疑いようもありません。
多分ホケノ山も本家は北朝鮮の積石塚でしょう。

北朝鮮では典型的前方後円墳は見つかっていませんが北朝鮮の積石塚が韓国及び日本の前方後円墳に影響を与えたと考えるのは妥当だと思います。




>>567
21世紀の領有概念を当てはめるのは間違いでしょうが、傘下においているという意味では
おっしゃるとおりです。九州邪馬台国は、虫食い的ではあるものの、西日本のかなりの地域に
号令をかけることが出来たと思います。
九州王朝内クマソ閥(倭の五王ら)は、国際戦争推進派として一時王朝の主流派でした。
畿内大和王権に対しても、ある程度の号令(半島への従軍など)は可能だったでしょう。
一方で出雲や越にかなりの自治権を許していたと思いますので、ここの実態はわかりませんし
政治的には近いであろう任那の様子も、私の考察外のままです。
大雑把な言い方ですが、九州年号が見られるエリアははっきりと傘下であったと思います。
594日本@名無史さん:04/07/27 23:18
初期ヤマト政権が、古墳の分布などから、緩やかな連合国家だったとは、ある程度、
皆さんは了解されますか? 倭人伝でも、「女王を共立した」と書かれてますし。
要は、「東海〜北九州あたりまでの瀬戸内海連合国家のようなモノがいつ成立したのか」
っていう事ですよね。
それはマキムクの頃と考えるのはどうでしょう? マキムクと縁が深い崇神は、
ハツクニシラスと呼ばれてますし、各地に将軍を派遣。船を初めて造ったという逸話も
あります。瀬戸内海海運を掌握したヤマト大連合の初代大王としても、差し支えが
ないように思います。
このあたりまでは、コンセンサスが得られるように思うのですが。
九州王朝説は除くとして。
595日本@名無史さん:04/07/27 23:22
>>576
やれやれ。
ここは、九州説・畿内説共に日本語が通じない人が多いですね。

石野さんの考えなんてどうでもいいんですよ。

>だから、そんな説は通説でもなんでもないよ。

もちろんまだ通説でもなんでもないですが、『纏向』以来の
『人の住んでいた痕跡のない場所に突如纏向遺跡が出現した』
という通説が、おそらく、今後、それも近いうちに、見直されていくだろうということです。

少なくとも、何の論証もなしに『突如纏向遺跡が出現した』とは主張できなくなりました。
弥生後期までの遺構と、V様式末の北溝以降の遺構との間に連続性があるのか、
それとも、断絶が認められるのか、その検証作業が必須です。
596日本@名無史さん:04/07/27 23:28
>>583
最古かどうかは、『前方後円墳』の定義しだいですよ。

>>585
そんなことは、おおもとの>>451にちゃんと書いてありますよ。
人にかみつくまえに、ちゃんと読みましょうね。

それにしても佐古先生、他の論文と比べて浮きすぎてます。なんか気の毒。
>>594

天武・持統のころに成立しました。

>「東海〜北九州あたりまでの瀬戸内海連合国家のようなモノがいつ成立したのか」
598一応九州王朝説:04/07/27 23:34
>>594さん、レスしても宜しいでしょうか?

もう少しあなたのご意見を賜りたいのは、いきなりそのような広範囲の帝国がどうやって
出現したのかというプロセスについてなのですが・・・・・。

私もマキムクの重要性については軽視するつもりはありません。ただ、あちこちの土器が
沢山出てくるから即座に計画都市だの統一帝国の首都だのといった意見にはいささかつ
いて行けない部分がありまして。
おそらくそれまでも掘れば遺構は発掘されると思いますし、それらの建設や由来について
もやはり複雑なプロセスはあったと思います。

で、疑問なのは、奈良盆地の弥生遺跡は、実際の所どの程度遡ることが出来るのかとい
うことです。年輪や土器、鏡ではなく、放射性同位体の測定結果はあまりしりませんが、
九州の遺跡についてはこれまでより大幅に遡れると言うことです。しかも鉄器、大陸との
交易、人的交流・・・・・。さらに筑紫神話、出雲神話の存在もあるわけで、あなたのご意見
のような時代にそんな広範囲の連合成立は早すぎませんか?
>>598
同意します。
沖縄を最北端とするゴホウラ貝の腕輪が北海道で出ます。
北海道の黒曜石=十勝石のやじりがシベリアで出ます。
すると・・・・弥生時代にシベリアから沖縄まで、
       大帝国が出来ていたことになってしまいます。
600594:04/07/27 23:58
>>598
>あなたのご意見のような時代にそんな広範囲の連合成立は早すぎませんか?
そうかな? 少なくとも、対高句麗戦争の頃、4C後半には、挙国一致の連合国家が
成立していたと思うけど。
あなたは、連合国家が出来たのはいつ頃だと思っていますか?

隋による中国統一という外圧により、聖徳太子以降、中央集権化は急速に進んだとは思います。
当時は国家的な危機だったので、倭人たちは中央集権国家を志向したのだろう。
九州王朝説の人は、そのあたりの経緯を履き違えているのではないでしょうか?
中央集権・統一国家の前に、地方王族による封建制のような連合体制を想定できるのでは、
と思いますが。
601日本史@名無しさん:04/07/28 00:12
>>600

いや、これは失礼。その通りだと思いますよ。ただ、まきむくの頃と書いておられたので、
もっとずっと以前のことを想定して書かれたのか、と思いました。

もちろん各地の地方王権が合従連衡から統一を繰り返して最後に大和朝廷になったとい
うことはもちろんそうだと思います。むしろ、古い畿内派の人に結構「初めから大和しかな
かった」って言う人が多かったわけでw いや、これは嘘のようなほんとのことです。

ただ、封建制のような、というところはよくわかりませんが、柵封体制という意味ですか?
まあ確かに漢代の中国のように太守・刺使を派遣するというようなことは流石に無理だっ
たので、在地領主を承認する、ただしその敷居の高さが徐々に上がっていった、という形
だったと思います。国司として、首のすげ替えが容易に出来るようになったのも、やはり7
〜8世紀
頃でしょうね。
 
602594:04/07/28 00:46
>>601
こちらこそ失礼しました。書き方が悪かったですね。
「封建制のような連合体制」とは、確かに言葉の選択が悪かったと思います。
中国の周王朝のようなイメージで書きました。
4C後半と書いたのは、「少なくとも」でして、九州王朝説の人は、
磐井の乱の頃、酷い時は壬申の乱の頃まで畿内・九州が並立したとか
言う人がいるので、こう書いた訳です。
あなたは、4Cの頃に、連合国家が出来たと考えられているのですか?

私自身はマキムクの頃に、すでに連合が出来上がっていたと考えてます。
それが発展して、大ヤマト連合を形成、そうなることで初めて、
対高句麗戦が遂行できたと思ってます。
603>595:04/07/28 01:17
検証するまでもないですね。
邪馬台国九州説と同じようにね。
604>595:04/07/28 01:27
どういう継続性があるの?
605594:04/07/28 01:40
>>603
一行否定レスは止めろ。
「私はこう思います」まで書け。
606盧氏の友人 ◆uVgREYUxI. :04/07/28 02:08
九州にかんするウェイトらかなり大きいね。外国の窓口、という面は捨てがたい。
縄文期のカヌーならば15ノット、一日半で寧波から福岡に着ける。ジャンクならば20ノット、最速18時間で着ける。
しかし、寧波からなので、魏との交流には使えない。
20ノットは二次大戦期の超弩級戦艦の最高速ぐらいであり、時速40キロほど。かなりの船速になる。
607日本史@名無しさん:04/07/28 08:24
>それが発展して、大ヤマト連合を形成

私はそれは、5〜6世紀だと思っています。九州の方は、それより早く4世紀には強大な
統一王権が成立していたかと思われます。すでに邪馬台国の頃にも倉を持っていたと
記述されていますが、支配網の原型は既にあって、それがどのような形かで発展するの
も、半島との激越な支配権、鉄採掘権を巡る争いを前提する情勢では必然かと。

いかんせん焚書の影響か、文章に残された物が少なすぎてよくわかりませんが。
(それは他の地域も同じですよね。)最低でも風土記ぐらいは残して欲しかったw

巨大古墳の造営には、膨大な労力と時間が必要なことは確かです。それはおそらく捕虜
の労働力も相当大きかったと思います。その時代と半島侵略戦の時代が全く重なってい
るのが九州・大和並列説の大きな根拠の一つかと思います。
608いわみ:04/07/28 09:49
>>602
対高句麗戦が行われたとき大和盆地を中心として
かなり強力な連合ができていたであろうとは思いますが
そういった強力な連合をつくるのに長い形成期は必要ないと思います
例えば一人の優れた指導者が一代で倭国を統一、そのまま
高句麗と戦うといったことも不可能ではないからです
609日本@名無史さん:04/07/28 09:52
ボチボチ噛み合ってるみたいだ

夫々の前方後円墳の集中地域・製作時期も考えてみてはどうか?
http://www.ozlab.osakac.ac.jp/KOFUN/
畿内を中心とした大連合が半島で三百年戦争しているのに
畿内に鉄器はありませんでした、という畿内説は矛盾だと思います。
611日本史@名無しさん:04/07/28 18:59
高句麗と戦うといったことも不可能ではないからです

                   ↑
             この辺りが畿内派臭w  

間にある出雲、吉備、九州もついでにけちらかすのな?
612日本@名無史さん:04/07/28 19:15

仮説だが
畿内の巨大古墳と半島の戦争は九州勢力の拡大の結果ではないか?
戦争で勝ち取った半島の捕虜を畿内に開拓要員として断続的に送り、巨大古墳を作らせた。
613一応九州王朝説:04/07/28 19:30
ふむ。それには相当数の捕虜が必要ですね。
そんなに相手を降参させてたら、南部ぐらいは領土になってるよw
614いわみ:04/07/28 19:49
>>611
私は北九州派です
ただ九州王朝派ではなく4世紀には畿内に滅ぼされたという立場をとります

615日本@名無史さん:04/07/28 21:30
>>606
たしか、室町時代の倭寇でも、中国本土までは、最低二週間ぐらいかかったはずだぞ。
>>614
九州王権が4世紀に滅ばされたとすると、九州を中心に四国や中国でも使用された
九州年号の存在が問題となります。
617日本史@名無しさん:04/07/28 21:42
>>606の言いたいのは、揚子江河口付近から季節風に乗れば、季節によっては
それも可能だったっていうことだろw

まあ予想以上に、半島を経由しない中国との直接貿易のウエイトが大きかった
と言われてるようだね、最近。

倭の五王の朝貢も、直接的には朝鮮半島侵略戦の大義名分欲しさだろうが、も
しかするとそれ以上に貿易の安定も目的だったかもしれない。

ところで、五王以後「ついに絶える」と記録にあるけど、その理由としてどんなこと
が考えられる?少なくとも貿易面で中国が不要になることはあり得ないと思うけど。
>>617
中国が宋・斉・梁・陳と弱体化していく中で、いくら九州王が将軍号をもらっても
意味がなくなっていきました。百済も新羅も九州邪馬台国も、独自の元号を制定して
独立の気運が高まりました。自国の元号制定は、独立国宣言を意味します。
異民族の隋が興っても、九州邪馬台国は隋の宗主権を認めるつもりは、
まったくありませんでした。唐に対しても同様でした。

しかし畿内王権は隋・唐容認派だったようです。
619日本@名無史さん:04/07/28 22:06
>>616

九州王朝が6世紀まで存続したと仮定した場合
4〜5世紀の全国的な前方後円墳の広がりはどのように説明するのですか?
>>619
ごめんなさい、知らないので言えませんが、九州王権が装飾古墳を作っていると思います。
朱の三角形を多数重ねた様式の石室画が、熊本を中心に岩手県まで広がっています。
621日本@名無史さん:04/07/28 22:27
>>619

ちなみに俺は畿内説ではない
ここを見てみるとhttp://www.ozlab.osakac.ac.jp/KOFUN/
福岡県など前方後円墳の分布が凄く多い
4〜5世紀には九州全体がは前方後円墳に埋め尽くされるように感じる
これを見ると九州は独立国家とはいえないのではないか?
>>621
残念ながら、リンク先での4〜5世紀の前方後円墳分布がどうしても見つけられません。

探せないまま申しますが、文化の流行は、低きから高きにも流れます。土師氏の職業化が
あったのかもしれません。前方後円墳独占王権があったわけではないでしょう。
鉄器がほとんどない畿内王権が西日本を制覇し、半島で唐や新羅と戦うことは無理でしょうが、
4〜6世紀は熊本あたりが九州王朝の首都だったと思いますよ。しかしその後、大宰府あたりに
遷都したようです。有明湾を捨て、博多湾に戻るのです。海洋国家九州邪馬台国は、
陸地も大事ですが、制海権がとても大事なのです。陸上だけで捉えると、邪馬台国は
広大な平野・盆地よりも、いつも水際に勢力を置いています。
623日本@名無史さん:04/07/28 23:02
>残念ながら、リンク先での4〜5世紀の前方後円墳分布がどうしても見つけられません。

http://www.ozlab.osakac.ac.jp/cgi-bin/kSearch/search_kofun.cgi
624一応九州王朝説:04/07/28 23:20
ちなみに、それらの古墳で、土器編年ではなく、放射年代測定で年代の確定している
古墳はほとんど無いはずです。だから、4世紀とかも仮説であって、このかんの、どん
どん遡っている状態では、もっと前かもしれないと言うことです。
>>623
ありがとうございます。千葉県が一位、茨城県が二位、群馬県が三位なんですね。
仮に前方後円墳独占王権があったら、千葉県が首都になりますね。
>>624
なるほど、そうですか。
626日本@名無史さん:04/07/29 00:09
>>624
細かい年代は不明な点が多い
しかし
これらの古墳はあらゆる説を取り入れて見積もっても2世紀〜7世紀内に作られたもの
土器編年、放射年代測定に頼らずとも古墳時代のいすれかに作られたと解釈できると思う。
九州王朝説の主張期間にバッティングする。
200以上ある福岡県の前方後円墳の解釈について問いたい。
627>635:04/07/29 00:11
そんなの初期古墳の数で見ないと意味ないよ。
628日本@名無史さん:04/07/29 00:17
>>627

畿内説は破綻しました、
今更偏った解釈で畿内説有利に持っていこうとしても無駄です
私は説に囚われずに古代日本の真相を知りたいのです。
前方後円墳は関東が多いのなら、どなたか邪馬台国関東説でもとなえてはいかが?
福岡県などたいした数ではないですね。

それより前方後円墳であろうと、円墳であろうと、装飾古墳であることのほうが
明確な文化的関連性が明確でしょう。http://www.dandl.co.jp/gold/soshoku/
630日本@名無史さん:04/07/29 00:21
前方後方墳は出雲と那須。
631日本@名無史さん:04/07/29 00:33
>前方後円墳は関東が多いのなら、どなたか邪馬台国関東説でもとなえてはいかが?
>福岡県などたいした数ではないですね。

有る事自体が重要なのです、数も畿内山陰山陽と比肩します。
独立していたならば敵性国家畿内の墓制を取り入れる理由が解らない
魏の墓制を模して薄葬ならば前方後円墳を九州で作る意味を問いたいのです。
>>631
日本の古墳を大きい順に並べて、福岡県の古墳は上位にきますか
>>631
また、4〜6Cは熊本県に遷都したと思いますから、その時代は熊本県の古墳が
日本で最大級だった証明も、合わせて願います。
634>631:04/07/29 00:41
庄内期で見ないと意味ないって。
635日本@名無史さん:04/07/29 00:41
>>632

意味が通じないのかな?
大きい小さい多い少ないではなくて有る事が重要
九州王朝を主張する期間に
福岡県で畿内と同じ形式の古墳が作られた意味を聞きたいのです。
636日本@名無史さん:04/07/29 00:44
>>634
ヤマタイコクの事を言ってるのではないのだよ
九州王朝が半島で高句麗と戦っていた時代とその後の時代の話をしているのだよ。
4世紀半ば以降の話だ。
637日本@名無史さん:04/07/29 00:45
瓊々杵尊の墓は神代紀に「天津彦火々瓊々杵尊崩因葬 筑紫日向河愛之山陵」 と記され
鹿児島県川内市神亀山に、河愛山(えのやま)陵が実際にあり、宮内庁が管理している。
瓊々杵尊の妻とされる此花咲夜姫は大山祇神の娘で【阿多津姫】の別名
阿多とは、鹿児島県日置郡金峰町 阿多。
瓊々杵尊は大日霊女の後を次いで鹿児島周辺を支配したと推測される。
ほど近くに瓊々杵尊の新田神社があるが、諸神記に「新田宮 始不営廟殿鎮座薩摩国亀山」
と記されここでも瓊々杵尊が亀山=河愛山陵としている。

では、西都原にある、「伝 瓊々杵陵」の男狭穂塚の被葬者は誰か?
西都原が「斎殿原」の名残であるならば、これこそが卑弥呼=大日霊女貴の墓に相応しい。


>>635
う〜ん、違いますね。千葉県に最も多い前方後円墳が、福岡県に200以上ありましたってことでしょう?
祖霊信仰形態などが、同一民族間で瞬く間に広がることもあるでしょう。
ある文化が政権を超えて、日本列島全体に流行したわけです。何かおかしいですか?
639日本@名無史さん:04/07/29 00:53
>文化が政権を超えて、日本列島全体に流行したわけです。

初めからこういう風に簡単に答えてくれたらよかったのに
大きさや量や時代測定など畿内説論者に似た逃げ口上をしていたので
私は九州王朝説により深い疑心が生まれました。
>>639
どうぞご遠慮なく。薄葬の意味が伝わっていなかったとは気付きませんでした。
641日本@名無史さん:04/07/29 01:27
未だに畿内説論者っているんやな。。。
うむむむ。驚いてしまった。。。
642日本@名無史さん:04/07/29 01:34
>>641
九州王朝説の疑問点をしてきしたら畿内説論者なんですか
凄いレッテル貼りだな

「九州王朝を信仰ます〜絶対です〜」これでいいんですか?
643日本@名無史さん:04/07/29 01:37

九州王朝説は穴だらけの状態を放置して
信じろと(藁
644日本@名無史さん:04/07/29 01:41
>>642
まぁ、落ち着け。その辺が君達の悪いところだ。
俺が驚いたのは君のレスではないかもしれないだろ。

で、俺は別に九州王朝信者でもなんでもない。

考古学・日本古代史専攻してた奴らは思い込みが激しすぎる傾向があるな。
それは自分達も気づいてるだろ。
俺が学生の頃はお互いに特定の思考にはまらない様お互いに注意し合ったもんだけどな。
645日本@名無史さん:04/07/29 01:51
>>644
そういうスタンスの人なら文句のつけようがありません
私も特定の思考にはまらないで古代日本知りたいと思っています。
>>645
装飾古墳ってどう思います?私は九州王朝系の文化だと思っているんですが。
装飾古墳は円墳だの前方後円墳だの、外形はさまざまですが、
分布している地域的偏りがかなりハッキリしていて、面白いと思うのです。
647日本@名無史さん:04/07/29 02:23
>>645
いえいえ、私の言動が気に障ったのなら申し訳ない。
煽りにとられても仕方ないね。

只、私も学生時代は考古学を専攻していたものでね。
その、特定の思考に嵌ってしまうのは良くあったよ。
今ではもう止めてしまったけどね。なんか空しくなって。

皆さんには感情的にはならずに、畿内・九州説に関わらず
協力して古代日本を様相を少しでも明らかにして欲しいな。

水を差してしまいましたね。消えます。

「なんとなく」ってロワに居たな。関係ないか。
648一応九州王朝説:04/07/29 08:01
みなさん深夜まで凄いですね。熱帯夜ですからねw

古墳については、他スレもあるし、何より古墳の存在意義そのものが未だ不明なので、
その存在や大小でなにがわかるのかもまだ試論の段階かと思われます。
だから、あまり熱くなるのもどうかと。

それに、古墳の編年についてですが、
1 天皇陵比定古墳が発掘され、ほぼ全容がわかっていること
2 それらを含めた主要な古墳の正確な建設年代が確定されること
3 半島の古墳についても同様の調査をすること

などの点が明らかにならなければ、まだ何も言えないのと同じ状況だと思います。
日本でも韓国・北朝鮮でも、未だに新しい古墳が出てきていますし。
649日本@名無史さん:04/07/29 08:22
>>648
> 1 天皇陵比定古墳が発掘され、ほぼ全容がわかっていること

墳丘や周濠の調査は行われていて報告も出ており
埴輪などから時代はほぼ明らかになっていますね。

> 2 それらを含めた主要な古墳の正確な建設年代が確定されること

建設年代は土器・武具・銅鏡など出土品による相対年代と14Cや年輪年代がリンクされて
暦年代への換算が精緻になる必要があります。

> 3 半島の古墳についても同様の調査をすること

調査報告が出ているもの古墳時代中期〜後期のようです。
650日本@名無史さん:04/07/29 08:59
>>646
装飾古墳は確かに面白いですね!個性的だし。
でも列島で本格的に絵画的装飾古墳が現われるのは5、6世紀から
のようです。なので、このスレの邪馬台国(200年代)から
大和への変遷期と、時代が違うように思います。

装飾古墳は、すでに邪馬台国から大和朝廷への変遷が、
いったん終了した後に起きた出来事ではありませんか?
651日本@名無史さん:04/07/29 08:59
>>290
>>ヒミコって日の皇子(巫女?)という意味ですか?

おいおい、「卑弥呼」は『ヒミヲ』だぞ。

万葉集での用例でも「呼」はすべて『ヲ』を当てているのは常識。
ちなみに、「呼」を『コ』に当てて用いられるようになるのは平安後期になってから。
652日本@名無史さん:04/07/29 09:08
>>651
卑弥呼=姫皇子ヒメミコ
狗古智卑狗=菊地皇子キクチミコ
じゃないの?
653一応九州王朝説:04/07/29 09:26
やあ。レスありがdw

私はあくまで「編年までするには」と申し上げたわけで。
古墳にも様式や設計図、原型やひな形などいろいろ類似があるのは確かです。
中には遠方でそっくりさんもあり、それなりには時代を確定する要素にはなるかと。

たから、それレベルまで行うには現状の陵墓参考地の調査は調査の内に入らない。
宮内庁書陵部の内部調査など鼻くそ程度w

それと、土器や武具とのリンクも大事ですが、それのみがほとんどなので問題がある
と申し上げているわけでして。それらの出土品も、いつ頃とか調べる暇があったらすぐ
に名古屋大学持ってけよ、と。
654日本@名無史さん:04/07/29 09:34
>>652
万葉集では、音と訓の両方を用いて表記しています。
そのうち、訓のほうの「呼ぶ(よぶ)」の用い方では『よ』となりますが、
音として用いる場合は、『を』となります。以下、万葉集における音での例。
(大陸でも半島でも「呼」の発音にk音はなく、『こ』は成立せず用例もないです。)

1番 家呼毛名雄母 (家をも名をも)
69番 播散麻思呼 (はさましを)
86番 死奈麻死物呼 (死なましものを)
155番 哭耳呼 (哭のみを)
536番 道之永手呼 (道の長手を)
694番 戀草呼 (恋草を)
706番 無四呼 (なかりしを)
712番 味酒呼 (味酒を)
718番 燎管曽呼留 (燃えつつぞをる)
781番 路之長手呼 (道の長手を)
655日本@名無史さん:04/07/29 09:47
邇邇芸命ニニギノミコト、 ミコト
豊玉毘売トヨタマヒメ、  ヒメ
槁根津日子サオネツヒコ、  ヒコ
那賀須泥毘古ナガスネヒコ、  ヒコ
大帯日子淤斯呂和気天皇オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト、 ヒコミコト

ヒコミコ(卑弥弥呼だった?) ヒメミコ(卑弥呼) は命(ミコト)に彦(ヒコ。男)姫(ヒメ。女)
が付いたものだと解釈している
日本人がヒメミコと発音したのを中国人が卑弥呼と当て字したのでは?
というか、この話はスレ違いなのでもう止める。
656日本@名無史さん:04/07/29 09:55
>>651
万葉集では「呼」を音読みでは「を」訓読みでは「よぶ」と使っています。

それは別にして、三国志で「呼」を音を当てて使っている例を網羅して
どういう音で使っているか判断すべきでしょう。
657日本@名無史さん:04/07/29 10:04
呼は、中国ではhoなので、コを呼にすることはありえないし、実例もないぞ。

ちなみに、倭語でのw音文字は、漢字のh音系で代用しているのは御存知の通り。
また、倭語でのコは、狗とか、古とか、觚など、ちゃんとk音系を用いる。

よって、狗古智卑狗のほうは、当時のキクチヒコ(菊池彦)の可能性はありうる。
しかし、卑弥弓呼の弓呼はヒコにはなりえない。

もちろん卑弥呼も、ヒミコやヒメコにはなりえない。

残された可能性として倭人が呼をコとして用いて自称していたケースがあるが、
万葉記紀などすべてで、残念ながら、呼をコとして用いる事例は存在しない。
658いわみ:04/07/29 10:11
>>618
百済の元号は未だ確認されていない思いますが
無論九州邪馬台国の元号も
>>646
装飾古墳の分布は確かに九州にかたよっていますが
なぜか茨城、福島にも装飾古墳があります
また畿内、四国、西中国地方にはほとんど存在しません
これをどう説明されます
659日本@名無史さん:04/07/29 10:52
匈奴、鮮卑、突厥、夫余などの中国を取り巻く異民族の名称の語源は、
その異民族によるなんらかの自称に基づくものなので、
邪馬台(ヤマト)とか、倭(ワ)というのも、
中国が名付けたと言うより日本人による自称と思われる。

このうち、倭(ワ)のほうは、自分たちを指す我(ワ)なんだろうな。
邪馬台(ヤマト)のほうは、大和(ヤマト)なんだろうけど、
大和(ヤマト)の語源は、畿内とか九州とかある?
660日本@名無史さん:04/07/29 10:54
「卑弥呼」は『ヒミヲ』だとしても、、
「媛王(ひめおう)」が「ひめを=ヒミヲ」と記された
のだと思いますけどねえ。
倭人伝に「女王あり」って書いてあるから女です。
でも当時、それこそ「女王(じょうおう)」なんて和言葉
ないでしょう。だから「ひめ王」では?


661日本@名無史さん:04/07/29 11:05
>>660
ああ、それなら納得
ヒメヲー、姫王、卑弥呼
ヒコヲー、彦王、卑弥弓呼
662日本@名無史さん:04/07/29 11:13
Baxterによる古代中国語音韻論によると、「呼」の音の推移は、
hwa(上古音)→ hwo(中古音)→ xu(元宋代)→ hu:(現代音)のようですね。

万葉集などで、「呼」を「を」として用いていることと整合性がちゃんとあります。
当時の中国人も倭人も、さすがにこれを「こ」として用いることはありえないと思われます。

>>660-661
なるほど。
その解釈が正しいかどうかはなんともいえないですが、
間違った説「ヒミコ(ヒメコ)」の呪縛から早く離れて、
そういった新たな展開へと進むべきであることには賛成です。
663日本@名無史さん:04/07/29 11:33
>>662
ちなみに古代中国語音韻論によると
「邪馬壹國」はどのように発音するのかな?
明日また来るから是非教えて欲しい
でわ。
>>650
ご指摘のとおり装飾古墳は、短期集中型のようですね。
私の説では邪馬台国は700年近くまで存在したのです。
装飾古墳こそ、九州邪馬台国の後期〜末期の遺産だと思っています。
一番立派な遺産は、現存の法隆寺だと思います。

>>658
確かに決定的な証拠はないかもしれません。
百済はすぐに滅亡し、新羅が全領土を併呑てしまいますので、伝承されないと思います。
しかし3つの隣国が独自元号を使っているのに、百済が持たないといはずがありません。
九州年号は幸い多数残っています。
九州邪馬台国は、航海が得意で、福島県までは勢力圏だったようです。
畿内王権に対しては、号令をかけることはできても、傘下においただけです。
交易が盛んで、国力を蓄えた畿内は、九州文化の真似事はしないだけの
内的熟成があったことでしょう。
665日本@名無史さん:04/07/29 12:48
>>664
デンパはデンパスレでやれよ。
半島で年号を使っていた証拠があるのは高句麗だけだ
日本では大和朝廷だけ
>>665
新羅と九州邪馬台国では、しっかりと元号が残っております。
百済元号についてはこちら
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga20.html
668日本@名無史さん:04/07/29 16:12
>>666
新羅年号と主張しているものは高句麗年号の可能性がある。
ヤマト(邪馬台)国は畿内にあったし、北部九州はその支配下で
妄想を主張しても意味がない。
669いわみ:04/07/29 18:23
>>662
卑弥呼は媛王(ヒメヲー)ではなく八女王(ヤメヲー)の可能性はないですかね

>>668
あなたは畿内説のようですが
邪馬台国の方角の記述と東の海の向こうに倭種あり記述をどう説明されますか
670日本@名無史さん:04/07/29 18:36
>>669
卑は当時のpiつまり現在の(ひ)です

狗奴国の卑弥弓呼のほうはどうなりますか
671日本史@名無しさん:04/07/29 18:43
>>665

少しぐらい勉強してからこいよ、厨房が。
672日本@名無史さん:04/07/29 21:45
狗奴国の男王の卑弥弓呼(ひみこを)は、日皇子王だろうか?
673日本@名無史さん:04/07/29 22:49
「呼」は魏ではkuoだったのでは。テレビでやってた
「卑弥呼」でpi-mei-kuo これに四声が入るからうまく表現できないが
だからpi-mei が「姫」だったのではないかと小沢さんが言ってたよ。
674日本@名無史さん:04/07/29 23:03
377 :>352 :04/07/25 22:36
>トトヒモモソ姫あたりの大王家が、吉備王家と縁が深いのは確かだけどね。
>吉備と畿内らの連合は、対北九州戦略から。強国と対抗・対立するためには、
>連合の必要があった訳です。
>対して、倭人伝を読む限り、北九州は国が乱立しおり一枚岩ではなかった
>(連合できなかった)。北九州諸国は畿内・吉備らの切り崩しに遭い、徐々に
>勢力を失っていったのだろう。

巻向型前方後円墳は、畿内に最初に発生の後、非常に早い時期に北九州で発生して
います(津古生掛、那珂八幡など)。
このため、巻向の成立と同時に北九州〜畿内に至る政権が成立しているとされています。
吉備との関係が強化される(であろう)と考古学的に言えるのは、宮山式特殊器台が
大和に入る時期、つまり布留期以降なので、そういう考えは難しいんじゃないでしょうか。



675日本@名無史さん:04/07/29 23:06
福岡平野の須玖岡本遺跡群、那珂比恵遺跡群が弥生集落では最大級で、遺物の質や集落の計画性がダントツ。
糸島の三雲遺跡も匹敵する可能性があるが、調査範囲が少なく不明瞭。これらは規模的にマキムクに匹敵する。
これら3遺跡は弥生中期中ごろに巨大化し、須玖は弥生終末まで、他は古墳前期にも繁栄が存続するようだ。
唐古鍵遺跡は30ha、須玖岡本や那珂比恵は100ha以上。
那珂では2kmの直線道路痕跡が存在するらしく、また須玖岡本の青銅器鋳型の出土数や出土頻度は唐古とは比べ物にならない。
福岡の研究者に言わせると、吉野ヶ里と唐古鍵が同程度の規模と構造と言う。
あと、壱岐の原ノ辻も同じぐらい。
邪馬台国は大和でもいいけど(マキムク出現以降ね)、畿内派は九州のこともよく調べておいてね。
あと九州派の人も、伊都国、奴国が質的規模的に最高ランクで、他地区はその下であることをわかってね。




>>668
新羅は独自元号を、唐から咎められて、急遽廃止したのです。
こんな疑いの少ない歴史的事件を、何を根拠に否定するのでしょう?
677日本@名無史さん:04/07/29 23:27
学者の卵が古田系雑誌に投稿したらどうなる?
やっぱ、ヤバイかな。この時代が専門じゃないんだけど。
678一応九州王朝説:04/07/29 23:38
新・古代学ですかね?

さあ、私も内部の人間ではないので知りませんが、喜ばれるんじゃないでしょうか。
内容にもよりますが、別に古田説に限らず、古代史で未開拓の領域は山ほどある
わけですし。私は、昔の字(あざ)と地形や政治、経済の関連について調べてみた
いと思っています。これは、字レベルになると膨大なので、誰がやっても有益な研
究になるわけで。・・・といいつつ、なかなか手を出せないでいますがw

あと、天皇陵の比定なんかもやってみたいですね。記紀の記述を正確に読むと、
実はどこになるのか。例の、継体天皇の藍野という地名についての問題ですが、
他にもありそうな気がするので、とりあえずその部分を読んでいるところですが。
>>677
ああ、古田さん自身変わった人で、
「私の説に反対意見があったら大喜びで手弁当で駆けつけます」っていう人ですよ。
結構歓迎されるかも知れません。特に「古田説に物申す」という内容は歓迎でしょう。
肩書きの有無・軽重なんかまったく無視されます。
でも、雑誌の編集者はそんなに太っ腹じゃないかも知れませんね、ですから
電話で主旨を説明しておいてから、投稿されたほうが無駄がありません。

古田氏の好きな言葉は
ソクラテスの
「論理の赴くところへ行こうではないか、たとえそれがどんなところであろうとも」
本居宣長の
「師の説に、ななずみそ・・・師の説の受け売りはするな」
680一応九州王朝説:04/07/30 00:20
是非投稿してくださいよ。次は第八集ですかね。
681日本@名無史さん:04/07/30 01:28
>>673
>>「呼」は魏ではkuoだったのでは。テレビでやってた

そんなの聞いたことないぞ
上古音でおよそhwa、中古音でhwoあるいはhoで、その後も現代までh音維持

どうやったらその途中の魏だけkuoになるのか説明してみ
k音が既に存在する言語で、hやhwがkになることはない
682日本@名無史さん:04/07/30 02:05
>>680
でもどうかな
新・古代学って3団体持ち回りで編集してるでしょ
多元の会→古田史学の会→東京古田会と2号ずつ編集して
今は第2ラウンドに入ったとこ
東京古田会は >>679 が言うような雰囲気だけど
8号までの多元の会は会名とは裏腹に古田一元の会だし
9号からの古田史学の会はそれ以上に戦闘的だからね
683日本@名無史さん:04/07/30 03:40
邪馬臺を万葉仮名で読むと「やまと(乙)」あるいは「やまど(乙)」だな。

一方、万葉記紀において、夜摩苔・耶麻騰・野麻登・耶魔等・耶馬騰などが見られるが、
一貫して、「やまと(乙)」と、「と」が乙類になっているの点で整合性がある。

つまり、邪馬臺国の「やまと」と大和朝廷の「やまと」が同一であることに、障碍はない。
684日本史@名無しさん:04/07/30 07:16
現代中国でも、全人代とかで総書記とかが報告しても、ほとんどは ( ゚д゚)ポカーン
らしい。言葉はわからないけど、とにかく座ってるだけという。

昔の方が人口は少なかったが、やっぱり方言というより地域によって言語自体異なる状況が
なかったはずはないので、中国の言語の問題は一筋縄ではいかないね。
三国志でも結構いろいろな地方の英雄豪傑が集まってるけど、言葉どうしたんだろう・・・?
685日本@名無史さん:04/07/30 07:49
>>684
表意文字である漢字のおかげで、
各地方(といってもEUの広さとEUの数倍の人口‥)で発音が違えども
やりとりできているという素晴らしさもありますね。

とはいえ、魏において、呼が、k音になっていたことはありえないですよ。
w音からh音にかけての中間のどこかといった感じでしょう。

各地方で漢字の発音が違うといっても、
ありえる変化とありえない変化があるのです。
ましてや魏はその後に続くメインストリーム。
686日本史@名無しさん:04/07/30 08:10
ところがその漢字自体読み方がちがうという罠

小学校から英語やってるのも、そこらあたりの差し迫った部分もあるらしい。
昔、「国語を英語にする」って議論もあったほど。インドもそれでもっている。
687日本@名無史さん:04/07/30 08:46
万葉仮名では、音読みのほうでは音だけを重視するため色々な字が使われてますが、
篇はあってもなくてもほとんどの場合同じ音であるため、
「さ→左や佐」「ら→良や浪」「り→里や理」「を→乎や呼」と併用されてますね。

卑弥呼の呼の字は、乎および呼の省略形として、カタカナ『ヲ』を生んでいる通り、
万葉仮名においては『を』として用いられているのは常識です。
688日本@名無史さん:04/07/30 08:57
住民「我が姫王」
使者「倭が卑弥呼?」
689日本@名無史さん:04/07/30 09:13
>>687
例えば↓のように、一つの歌でも「乎」と「呼」を併用している例がありますね。

06/1012H01春去者 乎呼理尓乎呼里 鴬<之 鳴>吾嶋曽 不息通為
06/1050H06花開乎呼理 痛A怜 布當乃原 甚貴 大宮處 諾己曽
10/2072H01渡守 船度世乎跡 呼音之 不至者疑 梶<聲之>不為
10/2148H01足日木<笶> 山従來世波 左小<壮>鹿之 妻呼音 聞益物乎
17/4011H14呼久餘思乃 曽許尓奈家礼婆 伊敷須敝能 多騰伎乎之良尓 心尓波
690日本@名無史さん:04/07/30 09:43
>>689
2072の「呼音之」は「呼ぶこえの」、
2148の「妻呼音」は「妻呼ぶこえの」、
どちらも訓読みの例では?

1012の「乎呼理尓乎呼里」は「ををりにををり」、
1050の「花開乎呼理」は「花咲きををり」、
この「ををる(撓る)」はラ行四段動詞で、
花や葉などの重みで枝がたわむ、という意味。
「を」が重なるので敢えてこう表記しているのでは?
691日本@名無史さん:04/07/30 10:09
>>690
そうでした、失礼しました。
692日本@名無史さん:04/07/30 11:54
>>675
そんなことは、畿内説の立場に立つものの多数は知っている。

でもね、福岡の埋蔵文化財に長年携わり、そんなことは誰よりも一番よく知っている
柳田康雄からして、九州説はとらない。

なぜなら、九州説を考古学的見地から唱えるなら、>>675の遺跡群のほかに、
もう一つ、卑弥呼の居住する邪馬台国の遺跡群が必要だから。

吉野ヶ里や平塚川添ぐらいでは全くの役不足なのは、>>675に書いてある通り。

畿内説の場合、遺跡範囲が300haを測る纏向がある。
九州説にはない。これだけの規模となると、この先出る見込みもほとんどない。

これが九州説が没落してしまった要因の一つ。
693日本@名無史さん:04/07/30 12:14
>>692
邪馬台国は集落国群、北九州の同時代の遺跡全体で一つの遺跡群と読む事ができる
3000000000haを測る北九州古墳群として見てかいかが?
694邪馬台国=古墳発生地:04/07/30 12:53
倭人伝は北九州、トーマ、ヤマタイというメガロポリスがあることを言っているわけで、
トーマを北部近畿とすれば大体話はあっている。鉄が九州北部と肥後辺りに集中する
というのはある特定の時代のことでそのことをもってその後もズーット九州に王国が
永続するとはいかんだろう。すぐに広がるからナー。
695日本@名無史さん:04/07/30 16:20
>>694
トーマとかヤマタイとか、意味不明な表現はやめましょうよ。
少なくとも日本語においては古代では、二重母音は存在が認められていないです。

投馬とか邪馬台とか、と漢字で書くか、万葉仮名からの推定主音で、
トマとかヤマトとか、にしましょう。
邪馬台の台は乙類トで、投馬の投は乙類トかツ(tu)の蓋然性があります。

そういえば、台与はトヨと読むのに、
邪馬台はヤマトでなくヤマタイと読む変わった人たちもいます。
696日本@名無史さん:04/07/30 17:18
邪馬壹
  ↑
コレの発音が知りたいわけよ


>邪馬台はヤマトでなくヤマタイと読む変わった人たちもいます。
    ↓
 邪馬壹でなく邪馬台と書く変わった人たちもいます。
日本列島に皇統・王統といえば、万世一系の大和朝廷以外認めないとする
多くの人たち(松下見林など)から、委奴国=邪馬壱国=邪馬台国=ヤマトであると
主張されてきました。この読みが一人歩きをし始め、全国津々浦々のヤマト音地名が
次々と邪馬台国候補に挙げられることになりました。

2重3重の仮説にまったく疑いを持たずに、多くの研究者がこの手法を「信奉」してしまったのです。
698日本@名無史さん:04/07/30 17:22
それから
大和は大倭からなんでしょう?

和や倭はトと発音するのかのかも疑問だね。

ヤマトという発音が元々ありそれに大倭大和と後世当て字したのでは?
699日本@名無史さん:04/07/30 17:24
まあ正確には邪馬臺国ということで。
700日本@名無史さん:04/07/30 17:33
八王子の女高生射殺事件から9年 情報提供呼びかけ

 東京・八王子市のスーパーで女子高生ら3人が射殺された事件から9年目の30日、
捜査員らが情報提供を求めるビラを配りました。

 この事件は9年前の7月30日、八王子市のスーパーの事務所で、アルバイトの
女子高生2人とパートの女性が銃で殺害されたものです。これまでに、犯人に結びつ
く有力な手がかりは得られていません。30日も、捜査員らが署内に設けられた仏壇に
事件の解決を誓い、捜査へ向かいました。
 時効まであと6年、事件が日々、人々の記憶から薄れていくなかで、警視庁は今も
24人態勢で懸命の捜査を続けています
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/ann/20040730/20040730-00000027-ann-soci.html
大和朝廷による「ずらし書き」手法ですね
倭→大倭→大和

「上宮聖徳法王帝説」でも、釈迦三尊像光背銘のずらし書きをして、
九州邪馬台国の語と大和朝廷の語の中間語を使用して、
あたかも表記・用字の時代変遷かのような偽装工作をしています。
702日本史@名無しさん:04/07/30 18:14
法興って年号、近畿説連中は無視だもんな・・・・・。
703:04/07/30 19:33
>>697
皇統は萬世一系。しかしながら他の王統も日本にはあ〜る。
>>702

どの説からも取り上げて欲しいですね、光背銘にみる元号「法興」を。

>>703

私の表現だと、大和朝廷は「擬万世一系」の皇統。
また他地域に王権・王統があるのも当然ですよね。
705:04/07/30 21:54
>>704
「     」。新語だな? どういう意味??
万世一系に「擬」をつけて、それが事実でなくとも

通念としてそうなっているさま
人々がそう言い含められているさま
権力者からそう解釈するよう仕向けられているさま

を私なりに表現してみたのです。
707:04/07/30 22:03
誰だろう?その権力者っていうのは??
708:04/07/30 22:06
むしろ、萬世一系の皇統がいい加減だと言い含められているのが現行でな〜い?
>>707-708

万世一系という語は多分、明治憲法が初出だと思いますが、
基本構想は天武・持統・文武あたりが考えたんでしょう。
文武の即位の宣命で、この構想を発表させたのが、婆さんの持統。

かなりインチキなのが、天武はニニギの血統を引いているけれど
その間、代々ちっとも王様じゃないのです。
神武以降王統を継いでいるけど、血統を継いでいるかは曖昧。
曖昧模糊としたまま、貴種血統+正統王権ってことにした。
この辺が「擬」なんです。
710日本@名無史さん:04/07/30 22:47
>>709
デンパはいい加減にデンパスレでやれよ。

「宋史日本伝」に、雍熙元年(984)に日本國僧チョウ然が来て王年代紀などを献上して
「國王以王為姓,傳襲至今王六十四世,文武僚吏皆世官.」と世襲が続いている記述を
宋の皇帝が読んで羨ましく思ったという記載がある。
平安時代には代々世襲しているという概念が強くなっていた。

驚くべきことに、それから1000年以上経っても日本では続いていることだな。
>>710

はあ?私の説を補強しているだけでしょう。
712日本@名無史さん:04/07/30 22:55
>>711
>かなりインチキなのが、天武はニニギの血統を引いているけれど
>その間、代々ちっとも王様じゃないのです。

記紀を読めば直ぐ分かるようなデタラメを書くなよ
読み違いでしょう。
714:04/07/30 23:03
ウアッハツハ! 面白〜い。
まあ、しかし九州王朝説を支持している貴下はえらいねぇ!秘匿、すなわち、
隠して今まで黙っていたが、それは事実だ。本当に存在してたんだよ!!!
715>667:04/07/30 23:11
学者生命を失うに決まってるだろ。
716日本@名無史さん :04/07/30 23:12
任那日本府は存在しなかった
>>714

継体天皇の皇統に事実上の断絶があることを、
まったく気付かないあなたのような人も珍しいですね。
718日本@名無史さん:04/07/30 23:44
>>716
日本書紀の欽明紀くらい基本事項として読めよ

>>717
どこに断絶があるのか説明してみろ
なんとなく九州王朝説タン曰く『押し入れから取り出せなくなりましたあ〜』
>>718
無数の論があるから、自習で願います。
720:04/07/30 23:50
>>717殿 そんなこと百も承知だよ。遺伝学でいう、テロメアが時間的に
有限回しか持たないというのと同義なのだ。
同様にして皇統もある程度有限回日嗣を行うと途切れる宿命なのだよ。
テロメアを何とかして有限のあとに後続を作れるとすると、肉体生命のlong
継続が可能になるのだ。遺伝学方面で必死に研究されているものだ。
そのように、皇統は途切れるようで途切れず、特別にlongの埋め合わせが可能
にさせてあるんだよ。だからさらに存続でき、これを萬世一系というんだよ。
少しは理解できたかな?
721日本@名無史さん:04/07/30 23:51
ほとんどは九州王朝説派による妄想だねー。
そういえば、播磨から仏教が伝わった証拠、探せたの?
なんだ、電波嵐君でしたか。マジメに答えて損をしました。嵐はスルーしますよ。
723日本@名無史さん:04/07/31 00:01
まあ、平安時代からは一応慢性一系だからいいんでないね
724日本@名無史さん:04/07/31 00:08
以前にこの板の他スレで新井満子が言っていたが、
彼女の何代か前の高祖父が天皇家の分家をあのタイミングで作らなければ、
江戸時代の途中で皇統のピンチに陥っていたらしい。

まあ天皇本家はしばらくして断絶してしまったわけだが、
分家をちょうどよいタイミングで作っておいたおかげで
今の天皇家に繋がる親戚の家へ継承できたわけだ。

とはいえ、継体天皇のときよりも、その継承のほうがさらにひどく、
手白香皇女を継体天皇が皇后にしたように、
江戸時代のときも断絶した天皇本家の皇女を皇后にしたわけだが、
残念ながら子供が生まれなかった。

継体の時の方がましで、仁賢天皇の孫の欽明天皇へ継承できた。
725日本史@名無しさん:04/07/31 00:13
記紀を素直に読む限り、他にも4回ぐらい断絶してそうだよな。
天武っていうのもよくわからんし。
726日本@名無史さん:04/07/31 00:17
江戸時代のを問題にしないなら、継体天皇も全く問題ないのでは?

継体天皇も同様に分家の子孫だけど、
大叔母さんが允恭天皇の皇后になるなど分家皇族としても遜色ない。

そして、允恭天皇の甥が、継体天皇の祖父なわけで、
血筋がめちゃくちゃ離れているわけでもなく、他と比べても普通。

本家の断絶は何度も起きているわけで、
なぜ継体天皇だけ特別視するのか、政治的意図か妄想を感じる。
古代史のなかで、出身地が異常で、かつ5代前が天皇だという継体の伝承は、
たいへん胡散臭いというお話です。例として、他の誰でもかまいませんが。
728日本@名無史さん:04/07/31 00:35
>>727 出身地が異常とは初耳の説ですな。
ぜひ、教えていただきたい。

二代前が允恭天皇の甥なわけで、全然離れてないように見えるが、それについては?
つまり、三代前が允恭天皇の義弟なわけで、
江戸時代の光格天皇も三代前をたどらないと天皇にたどりつかない。

室町時代の後花園天皇なんて、三代前をたどても、ようやく北朝天皇。
北朝を除くなら、継体と同様に五代前までたどらないと天皇にならない。

九州王朝説では、継体天皇をことさら特別に異常視しないと困るわけでもないのでは?
729日本@名無史さん:04/07/31 00:38
アズマ、チョソ、古田信者、西都信者、津田信者、
江上信者など電波野郎の入スレを固く禁じます。




730日本@名無史さん:04/07/31 00:38
天皇をどういじくろうと関西説にはならないよ
731日本@名無史さん:04/07/31 00:41
天皇という制度が続けばそれでいいんで、血統なんて建前だけで、
たいした問題じゃないよ。
天皇は器だな。
中に入るのはそれぞれ、物好き者。
まあ、中の人が、金死朝鮮みたいなひとだったら、こまるので、その
場合、押し込みをしないといけません。
雅子妃は大丈夫なんでしょうか。
天皇になる人は、黙って飾りになってくれる人が一番いいですね。
>>728
真剣に天皇家系図の研究はしていませんので、同等レベルのお話は
私には無理ですね。私が言ったことは>>717の指摘だけです。
あまり膨らませた話ではありません。事実上の断絶があるでしょう
という指摘だけなんです。無論、他にも断絶の疑いがいくつかあることでしょう。

継体の話と九州王朝説に関連ないと思います。このスレでそんな論理を
展開したこともありません。継体に一切断絶がなくても、九州王朝説には
無関係です。
733日本@名無史さん:04/07/31 00:45
なんとなく九州王朝説氏は、いつものことだけど、洗脳されているんだと思います。

例えば、自分で日本書紀を確認すらしていないのに、
日本書紀には仏教が外国の播磨から伝わったと書いてある、と、言い張るのは、
どこかのグループによって、そのように教えこまされて洗脳されているからでしょう。

継体天皇の件についても、継体天皇の周辺状況を詳しく知ってるわけでもなく、
また、他の本家断絶例を知っているわけでもなく、
ただむやみに、教え込まされて洗脳されている点のみを言い張るだけ、なのでしょう。

いままでの他の件でも同様で、教え込まされたことを、鵜呑みにして、
それを主張するだけなので、突っ込まれるとすぐにボロが出ていましたね。
ええと、わたしがこの論で言いたいことは>>697なんです。
論点ずらされっぱなしってことです。
>>733
まったくちがいます。原文を引用しろっていう話でしたよ。
播磨から584年に仏教が初伝したんです。
736日本@名無史さん:04/07/31 00:56
>>731
>>天皇になる人は、黙って飾りになってくれる人が一番いいですね。

傍系王族から皇位についた継体天皇は、まさにこれに近い。
重要事項は先代から権力を握っている大伴金村などの意見で運用されている。

半島政策への対応ミスも、そのへんが大きい。

だいたい、もしも継体天皇が王族と無関係な者で、権力奪取したならば、
もっと力強いはず。しかし、大連や有力豪族なども、武烈天皇時代から
全く変わってないのは、どういうことだ。

また、無関係な者が権力奪取して、かつ、それを隠して万世一系を言いたいならば、
傍系王族なんかにせずに、もっと自然に系図偽造して気付かせなければいいはず。

どういう観点からみても、本当に傍系王族が担ぎ出されたのであろう。
まあ、結局仏具初伝記事と仏教初伝記事を>>733のように勘違いしたまま、
無批判に信じ込まされるひとが後を絶ちません。
おそらく畿内説の人には、日本書紀に584年の時点で播磨が外国だったなんて
書いてあっても、目をつぶるしかないのです。かわいそうですね。

738日本@名無史さん:04/07/31 00:59
>>735
『播磨から584年に仏教が初伝したんです』と主張するならば、
日本書紀の該当部分の原文か書き下し文あるいは現代語訳でもいいので
それを伝える部分の記事を明確にしてください。
で、邪馬台国は大和朝廷になったんですか?なってないんですか?

ずっと観てる限り、邪馬台国とは血のつながりの無い近畿連合の最終的な
首長がそのまま天皇になったと考えるのが、優勢な気がします。
決死八代はその首長の前の首長もしくはその当時力を持っていた長の
事跡を集めたものと言う説が魅力的ですね。
740日本@名無史さん:04/07/31 01:10
>>739
素人の分際で、智者達の議論に口を挟むな!
ちょっとしたことでフラフラとあっち行ったりこっち行ったりするノータリンの
素人には付き合ってられんわ!!
以後素人は書きこむ事を禁止する!!!

以上
741日本@名無史さん:04/07/31 01:13
>>739
そういう蓋然性もかなり高いと思われるのですが、
もっと根本的なところで九州王朝説のひとたちが文句を言うんです。

584年の時点で播磨すら支配できていないと言い張って、
なんというか、もう議論をする前提とか土台からして、めちゃくちゃ言うんです。
742日本@名無史さん:04/07/31 01:15
>おそらく畿内説の人には、日本書紀に584年の時点で播磨が外国だったなんて
>書いてあっても、目をつぶるしかないのです。かわいそうですね。

ってゆーか、江戸時代に青木昆陽が薩摩から甘薯(さつまいも)を伝えたのと
同じような事だろ。播磨が外国なら、江戸時代の薩摩も外国だろ。
743日本@名無史さん:04/07/31 01:15
>>740
おまえアホか?

>>739
一応、九州王朝説は九州説の中の一つの説だから
個人的には九州とまったく関係のない畿内勢力は考えにくいね
744日本@名無史さん:04/07/31 01:17
素人と玄人の定義をよろしく。
745日本@名無史さん:04/07/31 01:19
>>742
そう、薩摩芋があるからといって薩摩が外国だったとは言わないですよね。

しかし、九州王朝派の言い分は、もう一つ斜め上を行っていて、その前提の、
「日本書紀に、播磨から仏教が伝わったということが書かれている。」という
彼らの主張からして、間違っているんです。
もちろん、日本書紀には、播磨から仏教が伝わったなんてことすら、出てきません。
746日本@名無史さん:04/07/31 01:21
>>745
よく知らんけど、播磨風土記じゃないの?
747日本@名無史さん:04/07/31 01:24
>>746
彼は、>>219>>478 において、日本書紀と明記しているぞ。

>219 :なんとなく九州王朝説 :04/07/23 23:40
>日本書紀には584年の時点で、大和国は播磨国(兵庫県)を領有していないのです。

>478 :なんとなく九州王朝説 :04/07/27 00:05
>そうそう、「大和国」の領土ですが、日本書紀にはっきりと書いてあります。
>敏達天皇13年(584)に、兵庫県(播磨国)は外国だったことが書いてあります。
748日本@名無史さん:04/07/31 01:27
>>744
素人は知ったかぶりをする単なるアホ。学術板に来て議論する権利はない
玄人は掘り下げて自分の論の肉付けをし、説得力のある意見を語る事のできる智者

以上
749日本@名無史さん:04/07/31 01:31
とにかく、播磨風土記でも、日本書紀でもいいから、
なんとなく九州王朝説氏は、該当記事を示してくれ。原文でも訳でもいいので。

君の信頼問題とともに、このスレの主テーマの1つにもなっているのだから。
750日本@名無史さん:04/07/31 01:35
あったコレかな?
http://homepage3.nifty.com/butsuzo-jidai/page051.html
日本書紀第20巻敏達記には書いてあるみたいだね、
751日本@名無史さん:04/07/31 01:37
こっちだった
http://homepage3.nifty.com/butsuzo-jidai/index.html

まあ、播磨が外国であったと確定する事は出来ないと思う。
752日本@名無史さん:04/07/31 01:40
>>750
どこに、播磨国から仏教が伝わったと書いてあるのですか?
そのページ中には、「播磨」という文字すら見当たらないです。
すみませんでした。
754日本@名無史さん:04/07/31 01:43
>>752
どこに書いてあるんだよ?

そのページにも播磨国の文字すら見えんぞ。
デマばかりいい加減にしろ。
755日本@名無史さん:04/07/31 01:44
ここにも書いてあるみたいだね
http://www.loops.jp/~asukaclub/syoki/syoki117.html

でも播磨は外国とまではいえないだろうな
756日本@名無史さん:04/07/31 01:46
この年、蘇我馬子宿禰は、その仏像二体を請いうけ、
鞍作村主司馬達等(くらつくりのすぐりしめたつと)
と池辺直氷田(いけべのあたいひた)
を四方に遣わして修行者を探させたところ、
播磨の国に還俗した高麗人の恵便(えべん)という者がいた。

この辺の件がそうだろう
757日本@名無史さん:04/07/31 01:46
>>752>>754

俺は750ではないが、
>>750のリンクから、下の方の[前へ]をクリックすると
目的のページに行けたよ。
758日本@名無史さん:04/07/31 01:51
>>755
あなたは日本語を読めますか?

そのページの記事の2行目というすぐのところに、

>秋9月、百済から来た鹿深臣(かふかのおみ)が、弥勒菩薩の石像一体をもたらした。佐伯連も仏像一体を持参した。

と、百済から、であると明記されているではないですか。
どこに、「播磨国から仏教が伝わった」と書かれているのですか?

播磨国のほうは、元お坊さんがいた、としか書かれてないように見えますが。
759日本@名無史さん:04/07/31 01:51
760日本@名無史さん:04/07/31 01:53
俺に噛み付いてるようだが
俺は九州王朝説ではない
584年に播磨が外国なら白村江から水城築城なども九州王朝だけで対処したことになる
さすがにそこまではついていけないな。
761日本@名無史さん:04/07/31 01:57
>>758
おまえこそ日本語読めるか?
出典を求めていたから出典を探してやっただけだろうが、ボケ
762日本@名無史さん:04/07/31 01:58
>>753
素人さま、めげずに勉強して、ぜひ参加続けてくださいね。
そうそう、素人さまに、九州王朝説派のスペシャル三段論法を伝授いたしましょう。

1.まず「播磨国から仏教が伝わった」と日本書紀に書かれていると主張します。
  (もちろん、そんなこと書かれていなくて、妄想でたらめですよ。)
                ↓
2.つまり「播磨国は584年時点で外国だった」と説明します。
  (もちろん、仮に1が正しくても、妄想ばりばりの飛躍ですよ。)
                ↓
3.したがって「当時は九州王朝が存在した」と結論づけます。
  (もちろん、仮に2が正しくでも、妄想どきゅーんでないと厳しいですよ。)

以上を参考に、今後もお勉強頑張ってくださいね。
763日本@名無史さん:04/07/31 02:04
さて
畿内説は死んでるし、九州王朝も死んだし
精精醜く叩き合ってください

投馬東遷でFAだね
764日本@名無史さん:04/07/31 02:04
>>762
どうでもいいけど、
やらしい文だな。酔ってるの?
765日本@名無史さん:04/07/31 02:04
信者の方も、アンチの方も、
あなたがたが書くべきスレはここではありませぬ。

こちら(↓)へすみやかに移動してたもれ。

※九州王朝はなかったのか?※ 9
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1081624257/l10

閑古鳥が鳴いておりますぞ。
766日本@名無史さん:04/07/31 02:05
>>761
あなたはまず過去レスを読みなさい

あなたが探してきた出典とやらいうのは
既に >>487-488 に全て書かれています

もちろん九州王朝さんの言い分はそこには書かれていなかったのですから
あなたは言い分が書かれている出典を探してこなければ全く意味がないです

やりなおして下さい
767日本@名無史さん:04/07/31 02:11
>749 :日本@名無史さん :04/07/31 01:31
>とにかく、播磨風土記でも、日本書紀でもいいから、
>なんとなく九州王朝説氏は、該当記事を示してくれ。原文でも訳でもいいので。

>君の信頼問題とともに、このスレの主テーマの1つにもなっているのだから。


そうだな>>749には過去ログ読め、で済んだな
馬鹿な>>749を相手にまともに探した俺が無駄足だった
768日本@名無史さん:04/07/31 02:20
>>767
そうではなく、>>487-488 のように敏達天皇治世13年の記事を示しても、
なんとなく九州王朝説氏がそれでもなお日本書紀に書かれていると言い張るので、

そこまで言い張るならば、書かれているという該当記事を新たに示すよう、
求められていたというのが経緯なので、

風土記でもいいので、播磨から仏教が伝わった記事を示すのが重要。
(風土記とかも現存や引用を含めて、オンラインデータがあるとうれしいね。)
769日本@名無史さん:04/07/31 02:23
>>768
おまえキチガイだろ
誰を相手に喚いてるんだよ(w
770日本@名無史さん:04/07/31 02:23
魏の明帝は景初三年正月に死去。
皇帝が死ぬと通常は翌年正月元旦に改元。
ところが翌年正月元旦が明帝の一周忌の命日なので改元できない
よって景初四年正月元旦になると誰もが思っていた。

ところが景初三年十二月になって明帝の後を継いだ少帝齊王芳は、
景初四年正月となるはずだった翌月を景初三年の後十二月として
一周忌の命日を済まし、さらに翌月を正始元年の正月にするという詔を発した。

つまり、このぎりぎりになって発された詔が広まるまでは、
景初三年後十二月を景初四年正月だと思われており、
景初四年正月を景初四年二月だと思われている状況となったのである。
このように、景初四年銘が存在する理由として確立されている。

事情を知らなければ、景初四年だけで日本産だと主張する者も出よう。
771日本@名無史さん:04/07/31 02:25
これだけ言い張ってるんだから
九州王朝説氏に説明してもらうのが1番いいと思う
772日本@名無史さん:04/07/31 02:40
キチガイは放置↑
773一応九州王朝説:04/07/31 07:11
>>770

たしかにその通りです。鏡を巡る論争は、決して年度だけの問題ではないのですが、最近の
日本史板にはそれだけで九州説を断定する輩もいてw

年号については、まだどちらか断定しにくいと私は思っています。まあ、卑弥呼の使いも微妙
な時に魏に行ってくれたもので。

私としては、いずれにしても景初四年鏡の数が膨大なのに中国で出てこない、その大きさなど
から、これがいわゆる「魏鏡百枚」ではないのは明らかではないか、と思っています。ただ、埋
葬が粗雑であることも傍証に含めるのは反対で、鏡そのものの役割がわかっていない以上、
これはまだ独立して論じるべきかと。

いずれにしても、鏡の成分に江南との類似があるという結果も出たところですし、景初四年鏡
そのものの議論はまだまだ終わらないでしょうね。
774日本@名無史さん:04/07/31 08:41
三角縁神獣鏡がすでに500面も出ている。埋められた鏡のうち、10%が出土する(出土率10%)と推測して、
26年間に5000面〜6500面ももらったことになり、あまりにも多すぎる。
三角縁神獣鏡は、4世紀以降の古墳時代の遺跡からのみ出土し、邪馬台国時代の3世紀の古墳からは全く出土していない。
また鏡の直径が22センチほどで中国で出土する後漢・三国時代の鏡よりはるかに大きい。
鉛の同位体比の研究(馬淵久夫)によれば、銅の原料は中国江南の銅が用いられている。文様も南方系である。
魏からもらったのなら華北の銅が使用されるはずである。
4世紀に江南の東晋の工人が来日し、その指導で、南方系の文様を取り込み、江南の銅を用いて、墓に埋納する目的のために、
大型化した鏡を大量に作った。これが三角縁神獣鏡である。
前方後円墳の成立は4世紀初め、早めても3世紀終わりであり、卑弥呼の時代にはまだ古墳はできていない。
従って卑弥呼がもらった魏鏡が古墳から出土しても何ら意味がない。前方後円墳以前の墓からは出土していない。
黒塚古墳での鏡の埋葬の状態を見ると、画文帯神獣鏡が棺の中に配置されているのに対して、三角縁神獣鏡は棺の外側に、
コの字型に33面が並べられており、卑弥呼の鏡としてたいせつに扱われているとは思えない。三角縁神獣鏡は、埋葬儀礼のために大量に作って並べたものと思われる。
三角縁神獣鏡の出土地域は北は群馬県高崎市から南は宮崎県、鹿児島県に及んでいる。卑弥呼の鏡としては、分布範囲が広すぎる。
中国語学者から「三角縁神獣鏡の銘文は押韻がデタラメで、詩文を愛好した魏王朝の鏡ではありえない」とする批判がある。
倭国に先進文化を誇示しようとする魏が、このような劣悪な銘文を刻んだ鏡を卑弥呼に与えるはずがない。
775日本@名無史さん:04/07/31 09:24
4世紀に作られたのならば、
景初三年後十二月の設置により景初四年を避けた史実は既知であり、
景初四年の銘のものをわざわざ作るのはおかしいことになる。

景初四年のものが作られてしまうタイミングは、
あくまでも唐突な景初三年後十二月の設置が行き渡るまでの、
景初三年後十二月から正始元年の途中のどこかでのみしか起こり得ない。

逆に、そのタイミングでは、魏においても景初四年の銘のものが
作られてしまっていた蓋然性は高いということだけはいえる。

枚数の問題については、明らかに粗雑なコピー品とみられるものが
分析によって成分比の違いにより判明しているといったこともあるので、
コピー品を除いた枚数で議論しなければ、多すぎるかどうかは意味がない。
776邪馬台国=古墳発生地:04/07/31 10:09
景初四年銘三角縁神獣鏡はAD239-AD240年以外の製造されていない。
この鏡が出土する古墳はこれらの年以降に建設されたものだってこ
とがはっきりしたってワケだ。するってーと下記URLの古墳:
http://www.din.or.jp/~washi/yamataikoku/paper/paper22.html
●魏の年号が記された鏡
方格規矩四神鏡 青龍三年(235年) 大田南5号墳 京都府弥生町
方格規矩四神鏡 青龍三年(235年) 安萬宮山古墳 大阪府高槻市
三角縁神獣鏡 景初三年(239年) 神原神社古墳 島根県加茂町
平縁神獣鏡 景初三年(239年) 黄金塚古墳 大阪府和泉市
三角縁盤龍鏡 景初四年(240年) 広峰15号墳 京都府福知山市
三角縁盤龍鏡 景初四年(240年) 持田古墳群? 伝・宮崎県
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 蟹沢古墳 群馬県高崎市
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 森尾古墳 兵庫県豊岡市
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 御家老屋敷古墳 山口県新南陽市
平縁神獣鏡 (晋の元康年間291年〜) 上狛古墳 京都府山城町?
       
●呉の年号が記された鏡
平縁神獣鏡 赤烏元年(238年) 狐塚古墳 山梨県三珠町
平縁神獣鏡 赤烏七年(244年) 安倉高塚古墳 兵庫県宝塚市

これら古墳所在地が邪馬台国の輪郭を現すと断言して良いね。
777邪馬台国=古墳発生地:04/07/31 10:11
スマソ、邪馬台国傘下の倭国の輪郭を表していると見て良いね。
778いわみ:04/07/31 10:19
三角縁神獣鏡は大和よりもその周辺で多く出土する
また黒塚においても扱いが悪い
とても大事な卑弥呼の鏡とは思えないのだが

三角縁神獣鏡の鉛を分析すると中国の鉛と類似するのは事実だが
実は日本の神岡鉱山のものとも類似する
馬渕氏は神岡鉱山は当時つかわれていなかったとして無視しておられるが
今度の発掘成果で状況が変わってくる可能性がある
779日本@名無史さん:04/07/31 11:45
>>726
魏志倭人伝に示すように、ヤマト王権の初期は女王が続いて即位していた。
継承の仕方も中国のような男系とは限らず、継体天皇が婿入りして継承したのは
当時の概念としては別に不自然ではなかったかも知れない。
ただし連れ子を継承させることには反対が多く内紛になったことは考えられる。

後に中国風の男系継承で系図を纏めようとしたから不自然に思うだけかも。
780日本史@名無しさん:04/07/31 11:51
現時点ではやはり泥沼にはまりますよね。鏡そのものの機能、性質がわからない限り。

そのためにも、本当の王墓である巨大古墳の発掘が早急に望まれるところですが、宮内庁は盗掘など
どうでもいいんでしょうね。で、遠い将来盗掘屋の残りカスだけ見てその頃の考古学者が大騒ぎする、
これは酷い話で。

いずれにしても、三種の神器というぐらいだから鏡も大事なものだったのは間違いないにしても、それを
下賜することで卑弥呼の政治的優越を示した道具として使用されたのかどうかもわからない現状で、それ
をもとに邪馬台国の所在を云々するのもちょっと無理かなと個人的には思うのですが。いくつかの前提を
必要とする話であって、厳しく言えば試論段階です。わたしは鏡についてはそういうスタンスです。
781日本@名無史さん:04/07/31 11:59
>>774
> 三角縁神獣鏡は、4世紀以降の古墳時代の遺跡からのみ出土し、邪馬台国時代の3世紀の古墳からは全く出土していない。

池沼な考古学者たちが根拠なく、卑弥呼の時代を弥生時代とするために
年代を著しく遅らせた弊害が残っているだけで根拠はない。

> 魏からもらったのなら華北の銅が使用されるはずである。

魏の銅鏡の鉛同位体比は?

> 大型化した鏡を大量に作った。これが三角縁神獣鏡である。

もっと大型の銅鏡は2世紀前半とされる平原弥生古墳で出土している。
鉛同位体比は前漢から後漢初期の値である。

> 前方後円墳の成立は4世紀初め、早めても3世紀終わりであり、卑弥呼の時代にはまだ古墳はできていない。

纒向石塚古墳の周濠から出土したヒノキ板の年輪年代は177+α年(約200年)であり
銅鏡などからも同様な編年を支持する意見が上がっている。
幻の北九州説に固執したい安本はヒステリックに反発しているけど。
782日本@名無史さん:04/07/31 12:06
>>778
> 実は日本の神岡鉱山のものとも類似する
> 馬渕氏は神岡鉱山は当時つかわれていなかったとして無視しておられるが

日本海側に突き出ている能登〜飛騨は、日本列島が大陸から分離したときに
一緒にくっついてきた異質な地質からなっているので、例外的に大陸に近い。
古墳時代〜奈良時代の飛騨は開発が遅れており、和同開珎の鉛同位体比は
山口県の銅鉱と一致し、飛騨に古代の鉱山跡が発見されない限りは無視すべき。
783一応九州王朝説:04/07/31 12:16
↑ >>780は私です。スマソ

ついでながら、畿内で三種の神器出土例ってあるんですか?良く知らないんだが。
道教で鏡と剣は儀式に使うそうですが、それとの関係はどんなもんでしょうかね。
時代的にも、「鬼道」というのも重なりますが。
784日本史@名無しさん:04/07/31 12:39
>幻の北九州説に固執したい安本はヒステリックに反発しているけど。

あまりこういう言い方はしない方がいい。畿内説以外の人達にとっては、お前らだって「マキムクヒステリー」
に見えるw それだけで一点突破はどっちにしても無理だし、「学会では無視されている」っていうニヒルな言
い方もきわめて不愉快。 学問は一部学会人だけの物ではない。
785日本@名無史さん:04/07/31 13:01
>>784
根拠のない年代観で、古墳時代の始まりを恣意的に遅らせていたから
邪馬台国北九州説も可能だっただけで、古墳時代の暦年換算が常識的になるにつれて
畿内説の蓋然性が高まり、それ以外の説は砂上の楼閣として崩れたわけで
いまさら論争の余地など殆どなくなったのが現状でしょうb。
786日本史@名無しさん:04/07/31 13:06
>古墳時代の暦年換算が常識的になるにつれて
>畿内説の蓋然性が高まり、それ以外の説は砂上の楼閣として崩れたわけで

だからそう言う言い方が既に腐臭ぷんぷんなんだよ。
古墳が何なのかの説明を先にしてくれ。話はそれからだ。
787日本@名無史さん:04/07/31 13:17
>>786
言い方がどうこうって・・・子供の喧嘩じゃないんだから。
問題は事実関係がどうかだけだろ。

おまいが年代繰上に問題があると思ってるなら、
【事実】をもって粛々と反論すればいいだけだよ。

>古墳が何なのかの説明を先にしてくれ。話はそれからだ。

何がいいたいのかよくわからないが、実年代論と、弥生墳丘墓と古墳の区分、とはは全くのべつものだよ。
>>785が言ってるのは実年代論のことで、古墳の定義(古墳とはなんなのか)とは直接関係ない話だと思うけどね。

墳丘墓と古墳の違いなんて直接邪馬台国にも大和朝廷にも関係ないから、
やるなら考古学板のどこかを推奨するよ。
788日本@名無史さん:04/07/31 13:28
>>783
例えば、景初三年銘の画文帯神獣鏡が出土した和泉黄金塚古墳で
ヒスイ・碧玉・滑石製の勾玉多数と鉄剣などが出土しています。
789日本@名無史さん:04/07/31 13:39
和泉黄金塚古墳は4世紀末の前方後円墳
790日本@名無史さん:04/07/31 13:42
「二種の神宝」ってのもある(鏡と剣)
実はこっちが古い
791一応九州王朝説:04/07/31 13:42
>>788

そうですか。ありがとうございます。

ただ、4世紀以降は畿内でも出ていると聞いていたんですが、他にはどうでしょうか。

それと、「三種の神器」というパッケージとして意味があるのか、例えば三つの中にもランキングがあって、
鏡は許されないのかとか、どうなんでしょうかね。あるいは、出土状況からはっきりと三種の神器セットと
断定できるような形があるのか、とか。たまたま一緒に埋葬、というのと区別できればいいな、というのも
あるし。
792日本@名無史さん:04/07/31 13:45
というか、生きがいいな畿内説
>>785
古墳時代の始まりとは
何を根拠としてるんですか?
そしてそれは何時ですか?
793日本@名無史さん:04/07/31 13:46
よく本なんかに載っている初期大和朝廷の豪族分布って今では
どうなってるの?
ワニ、平群、葛城、巨勢、羽田、蘇我、大伴、物部なんて
あるけど。
大王家といえども他豪族の本貫地にそうおいそれと墳墓
作れないよねえ。
なんかどの本も三輪山麓の限定された一部を大王家の
本貫地としているけど・・・。
794一応九州王朝説:04/07/31 13:48
>>790

そうですね。確かに。

確か、北陸のヒスイは管玉や丸玉が中心で縄文、九州は弥生になっても作られていて勾玉、垂玉
だけでしたっけ。
まあ、弥生の年代が揺らいでるのでよくわかりませんが、もし九州だったら玉があとから付加された
と言うことになりますね。道教祭祀はすでに入っていて、後で日本特有のものが加わったということ
かも・・・・・。
795日本@名無史さん:04/07/31 13:49
>>789
和泉黄金塚古墳は円筒埴輪を並べており、吉備勢力との連合が成った以降で
古墳前期後半とされているけど、年代はそこまで下らないだろう。
昔の根拠のない暦年換算に基づくものだな。
796日本@名無史さん:04/07/31 13:56
>>795
〜だろう。は聞き飽きたよ
797日本@名無史さん:04/07/31 14:00
>>794
古代東アジアにおいては糸魚川特産のヒスイは硬いので
加工技術が乏しかった縄文時代には円礫に穴を開けたヒスイ大珠として
希少品として日本各地で見られ、縄文時代晩期以降は勾玉が主流になります。

古墳時代になって、倭国の勢力下にあった任那・百済・新羅の故地でも
ヒスイ勾玉は多く出土し、敵対した高句麗の領域では殆ど出土しません。
幼少時に倭国の人質になっていた百済・武寧王の王冠にも多くのヒスイ勾玉が見られ
木棺は日本製のコウヤマキを使っているなど、日本との関係が密接です。
798日本@名無史さん:04/07/31 14:02
>>796
捨て台詞ではなくきちんと反論したら。
今時邪馬台国畿内説以外を唱える連中は、池沼としか思えないのが多すぎる。
799日本@名無史さん:04/07/31 14:05
>>798
根拠の無い希望的憶測に対して何を反論するんだ?

人の夢想に反論するのは野暮というもんだよ。
800日本@名無史さん:04/07/31 14:10
>>795
>昔の根拠のない暦年換算に基づくものだな。

お前は暦年換算を切り捨てて何を基準に年代を語ってるんだ?
はっきり言えよ。そうでないと反論できないだろ、ボケ
801一応九州王朝説:04/07/31 14:13
>木棺は日本製のコウヤマキを使っているなど、日本との関係が密接です。

それは知りませんでした。しかし、九州北部、壱岐・対馬、朝鮮半島南部はやはり近しい部族の
合従連衡の場だったんですかね。

関係ないけど、「コウヤマキ」って小さい頃「高野巻き」って思ってました。高野豆腐みたいなもんで、
卵焼きの一種とかw
802日本@名無史さん:04/07/31 14:21
>>801
違います。畿内王権が強大で、朝鮮半島まで勢力を伸ばし
半島南端まで前方後円墳体制に組み込んでいます。

池沼丸出しの九州王朝とかデンパスレでやってください。
803一応九州王朝説:04/07/31 14:24
あんた酷いな。

お宅こそよそ逝ってやってくれよ。
804日本@名無史さん:04/07/31 14:25
>畿内王権が強大で、朝鮮半島まで勢力を伸ばし
>半島南端まで前方後円墳体制に組み込んでいます。

それは何時の時代だ?
大凡でいいから西暦で答えてみな。
805日本@名無史さん:04/07/31 14:28
>>800
昔の暦年換算は根拠がなかった。
漢式鏡の年代は古墳築造の上限を示すものと扱うべきなのに、
卑弥呼の時代の漢式鏡は弥生時代の遺跡からは全く出土しておらず
全て古墳時代の遺跡から出土しているのに、無理やり弥生時代とするために
例外なく長期間経ってから副葬したとするありえない仮定をしていた。

近年になってAMS14Cや年輪年代のデータが増えるとともに
昔の暦年換算がナンセンスだったことが白日の下に晒されつつある。
806日本@名無史さん:04/07/31 14:29
>>804
遺跡から分かることは↓

473 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:04/07/26 23:42
>>466
狗邪韓国(金官加羅)に比定されている金海大成洞古墳群では
弥生時代の遺跡からは、北部九州に特徴的な多量の小型倣製鏡と中広形・広形銅矛が
古墳時代の遺跡からは、大和の首長墓に特徴的な巴形銅器・筒形銅器・碧玉製品類が出土している。

日本本土の権力が北部九州→畿内に移ったことに対応しているのだろう。
807日本@名無史さん:04/07/31 14:38
>漢式鏡は弥生時代の遺跡からは全く出土しておらず
なに?これ?
念を押しておくけど上記に二言は無いな。

>>806
どうなってんの?
小型倣製鏡が弥生時代に出てきて漢式鏡一つも出てないの?
808日本@名無史さん:04/07/31 14:46
>>807
魏や呉の記年鏡など三国時代の漢式鏡が
弥生時代の遺跡から出土している例があれば示して欲しい。
809日本@名無史さん:04/07/31 14:47
>>807
おい、変なところで切るな。
「卑弥呼の時代の漢式鏡は弥生時代の遺跡からは全く出土しておらず」だ。
810日本@名無史さん:04/07/31 14:49
吉野ケ里
811日本@名無史さん:04/07/31 14:51
2人の関西馬鹿相手に疲れるよ
とりあえず電波一人死ね
812日本@名無史さん:04/07/31 15:04
関西説2人共、
方格規矩四神鏡でもググッて弥生時代の鏡の勉強し直しだ。

相 手 に な ら な い ぞ

でわ
813邪馬台国=古墳発生地:04/07/31 15:24
>>806 狗邪韓国(金官加羅)に比定されている金海大成洞古墳群では
>>弥生時代の遺跡からは、北部九州に特徴的な多量の小型倣製鏡と中広形・広形銅矛が
>>古墳時代の遺跡からは、大和の首長墓に特徴的な巴形銅器・筒形銅器・碧玉製品類が>>出土している。
>>日本本土の権力が北部九州→畿内に移ったことに対応しているのだろう。

>>弥生時代の遺跡からは、北部九州に特徴的な多量の小型倣製鏡と中広形・広形銅矛

筑紫、肥前、肥後の独占的鉄器の出土と関係ありと見たい。

>>古墳時代の遺跡からは、大和の首長墓に特徴的な巴形銅器・筒形銅器・碧玉製品類

これは纒向における邪馬台国建国の結果と見たい。

纒向邪馬台国の建国は弁韓における北部九州勢力の権力喪失と弁韓における近畿の
台頭にあったということか。

これは魏と公孫、馬韓の抗争の結果と見るべきか。
814日本@名無史さん:04/07/31 16:14
>>812
> 方格規矩四神鏡でもググッて弥生時代の鏡の勉強し直しだ。

このタイプは製造期間が長かったようだね。
鉛同位体比も前漢〜後漢初期の華北タイプと、後漢中期以降の華中華南タイプがある。

なお、ここで取り上げる方格規矩四神鏡とは、中国の前漢時代末(ぜんかんじだいまつ)から
後漢時代(ごかんじだい)(紀元前1世紀から紀元後2世紀)、すなわち日本の弥生時代にあたる時期に、
さかんに作られた銅鏡で、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)を経て日本列島にも多数もたらされています。
京都国立博物館 考古室 難波洋三
http://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/data/kouko/houkaku.htm

名称 安満宮山古墳(あま−みややま−こふん)
所在地 高槻市安満御所の町
時代・概要 古墳時代初頭(3世紀後半)
 3世紀後半、邪馬台国の時代に築造されたと考えられ、中国・魏の年号「青龍三年(235)」銘鏡や
三角縁神獣鏡(さんかくぶち−しんじゅうきょう)を含む青銅鏡5面、スカイブルーのガラス小玉1,600個余り、
鉄刀・鉄斧などの貴重な遺物が出土しました。鏡は白銅色に輝き、鏡を包んだ麻布も残っていました。
http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi/kohun_amamiyayama.html
815日本@名無史さん:04/07/31 19:56
>>813
そうです、その蓋然性が高いと思われます。

ただ、もう少し詳細な資料と最新の年代測定が欲しいところですよね。
変化が本当に魏の時代なのかそれとも晋の時代なのか、
それも八王の乱など末期なのかどうかで、
日本における勢力構成図がかなり違ってくると思います。
816日本@名無史さん:04/07/31 19:59
>>805
>全て古墳時代の遺跡から出土しているのに、無理やり弥生時代とするために
>例外なく長期間経ってから副葬したとするありえない仮定をしていた。
確かに、貰った鏡を長期間経ってからの副葬、って解釈は無理があるよな。
九州説の人の反論を聞きたい。やはり、東遷説しか、九州説の生き残る術は
無いのか?
817日本史@名無しさん:04/07/31 20:00
なんだよこいつら。
まず結論ありきかよ。

急に畿内勢力が半島に足場を作れるわけねえつうの。まだ自分たちの国の統合も
進んでないのに。

馬鹿じゃねえの?
818日本@名無史さん:04/07/31 20:02
>>817
九州勢力が、大陸半島の種々の交易利権、後ろ楯を逸したのはいつでしょうか?
819日本@名無史さん:04/07/31 20:09
だから日本書紀が嘘を書いてあると言ってるのに
820日本@名無史さん:04/07/31 20:12
とりあえず、>>819のように、
『だから日本書紀が嘘を書いてあると言ってるのに』
とだけ言う人は無視しましょう。

なにが嘘かも指摘できなく、
どういう根拠かすら言えないダメ人間です。
821日本@名無史さん:04/07/31 20:18
なったというよりヤマトのほうがオリジナルだろ
822日本@名無史さん:04/07/31 20:23
畿内説物語

畿内がありました→四方を征服しました→終わり


単純だ、日本史なんていらねーや
823日本@名無史さん:04/07/31 20:26
九州王朝説派のスペシャル三段論法

1.まず「播磨国から仏教が伝わった」と日本書紀に書かれていると主張。
  (もちろん、そんなこと書かれていなくて、妄想でたらめ。)
                ↓
2.つまり「播磨国は584年時点で外国だった」と説明。
  (もちろん、仮に1が正しくても、妄想ばりばりの飛躍。)
                ↓
3.したがって「当時は九州王朝が存在した」と結論。
  (もちろん、仮に2が正しくでも、妄想どきゅーんでないと厳しい。)

そういや、なんとなく九州王朝説クンを最近みかけないな
824日本@名無史さん:04/07/31 20:28
畿内説が来たらスレのレベルが落ちるな
825日本@名無史さん:04/07/31 20:34
邪馬薹国は九州だろ。

しかし倭人伝の状況は一次的な状況でありすぐに衰退で、
代りに大和を中心とする連合勢力が日本を統一ということだろ。
没落した九州は支配下に。

考古学的にはそう考えるしかない。
記紀の東遷はそのまま史実とすると無理ありすぎ。
826日本@名無史さん:04/07/31 20:36
もはや唯一の拠り所「考古学的発見」さえ論破されw
拠り所を失った畿内説は喚き散らすだけの存在。

畿内説が論を言えば即論破される恐怖w

此方としては死者(畿内説)を叩いてるみたいで気持ち良いもんじゃないな
827日本@名無史さん:04/07/31 20:39
>>825

畿内説が邪馬台国捨てて、その立場に立てばまだ議論になるな、
828日本@名無史さん:04/07/31 20:52
>>817
池沼発見。畿内・吉備連合(畿内の前方後円墳と吉備の埴輪が融合)が強大化して
北九州も前方後円墳体制に組み込み、出先を置いて睨みを聞かせるようになった。

縄文時代に伊豆神津島の黒曜石が関東に広く見られるように
古くから水運が進んでおり、ギリシア・フェニキアのように海洋国家として発展し
北九州勢が半島に橋頭堡を持っていたのを、畿内勢力が大きく拡大させた。
こんなシナリオで容易に説明できる。
>>823
粘着君、日本書紀、ちゃんと読んだほうがいいですよ。

1:対馬や筑紫、播磨には、とっくに仏教が伝わっていた。
2:大和国には百済から仏像が届いたことはあるが、僧も仏法の伝承もなかった。
3:播磨国に還俗した坊さんがいたので、大和国で坊さんになってもらった。
4:これが大和国で仏教が広まった「初め」である。

デタラメな読み方をするから、一部の畿内説は馬鹿にされるんじゃないでしょうか。
830一応九州王朝説:04/07/31 21:00
>>828

だからそういう言い方はやめてください。いくら深遠な御説を述べようと、そういうことを
いうとつまらなくなりますよ。
831日本@名無史さん:04/07/31 21:03
>>829
古田爺さんはこんなDQNを発生させるとは罪作りだな。
原文も提示できないデンパはデンパスレで吠えていろよ。
原文に当らないのは、漢字が読めないデンパな鮮人と同類だな。
832日本@名無史さん:04/07/31 21:04
>>830
「深遠な御説」でも何でもない。
当たり前のように言われていることを紹介したまでだ。
833日本@名無史さん:04/07/31 21:05
>>829
日本史板期待の星、なんとなく氏が来ましたね。

>1:対馬や筑紫、播磨には、とっくに仏教が伝わっていた。

該当記事あるいは出土状況などを示してください。

>3:播磨国に還俗した坊さんがいたので、大和国で坊さんになってもらった。

蘇我馬子が探したら発見して教えを請うただけで、
播磨国から仏教が伝わったとはどこにも書かれていませんね。

>4:これが大和国で仏教が広まった「初め」である。

あなたのいうとおり「初め」だとして、
ここから播磨国が外国であることはどう導かれるのですか?

さらにこれが蘇我馬子の時代に九州では九州王朝が存在した証拠となる理由は?
>>831
2chで原文引用の義務などないですな。自分で調べたらよろしい。
835日本@名無史さん:04/07/31 21:08
>>834
2ちゃんだからと言って甘えてデンパを撒き散らすな。
原典も示せないデンパはデンパスレに移動しろよ。
836日本@名無史さん:04/07/31 21:09
>>500
日本書紀においてその頃に播磨の文字が見える記事は、
既に >>487-488 に全文書かれています。

しかし、播磨国から大和国へ仏教が伝わったとは書かれていないし、
ましてや、播磨国が当時は外国だったとは書かれていません。

なんとなく九州王朝説さんは、
そこのところはきちんと説明しない限り、
今の状況では電波だといわれてもしょうがないと思います。
>>833
お調べください。伝わっています。
播磨国からきた坊さんと書いてあるのです。ちゃんと読めないならおやめなさい。
584年に大和王権は播磨国を領有していなかったと、日本書紀の編者が書いている
といっているだけですが何か?

九州王朝の話関連はあなたの脳内話でしょ?誰がしてるんですか?
>>836
虚偽の引用でしょ?あんなことは書いてありませんでした。
839日本@名無史さん:04/07/31 21:14
>>838
デンパは邪魔だからデンパスレに移動して失せろ
840日本@名無史さん:04/07/31 21:14
>>838
なんとなく九州王朝説氏は、日本書紀の記事 >>487-488 が虚偽引用だというならば、
どう書いてあったのかを、正しく説明する義務がある。

最低限でも、どの部分が虚偽引用であるのかを指摘するべき。
841一応九州王朝説:04/07/31 21:16
とりあえず仏教伝来の記事そのものの信憑性・・・・ではだめかな?

大和にしても、九州王朝が存在したとしても、いずれにせよ中央への「伝来」という政治的
モメントと、地方への帰化人、半島や中国からの伝播は違うわけで、高僧が来たとか戒壇
がつくられたとか言うことではなくて、実質的な伝来についてはもっと早い時期なのは間違
いないと思いますが。そういった下地の上に正式な「伝来」ということで。

双方それぐらいにしては・・・・・。
842日本@名無史さん:04/07/31 21:20
>>837 :なんとなく九州王朝説 :04/07/31 21:09
>>   584年に大和王権は播磨国を領有していなかったと、日本書紀の編者が書いている

というのが、彼の主張したい本題のようですが、
この論は、以前に九州王朝説のどこかのページで見たことがあります。

>>841
一応九州王朝説さんは、この件について、どういう御意見なのでしょうか?
843日本@名無史さん:04/07/31 21:22
いちおうさんを応援するわけではないが

半島から直接伝わったのではなく
播磨に居たエベンから伝わったと言う事だ
それだけ畿内半島からの情報流入は厳しかったと言えるな
584年にはんとうからの直接交渉は難しかったということかもね。
844日本@名無史さん:04/07/31 21:24
×いちおう
○なんとなく
>>840

一番ひどいインチキ引用>仏法の広まりはここから始まった

違いますね。日本書紀の編者が「仏教がここに初めて広まった」と記述しています。
広がりが始まったのではなく、初めて広まったのです。仏像は伝来していたけれども
仏教自体は伝来していなかったのが、584年に初伝されたのです。
846日本@名無史さん:04/07/31 21:31
以下のことに賛成している人って、他にもいるのですか?
大和朝廷の位置付けに影響するこのスレの主要認識事項だと思いますので、
みなさんの御意見をぜひお聞かせ下さいませんか。

>>219 :なんとなく九州王朝説 :04/07/23 23:40
日本書紀には584年の時点で、大和国は播磨国(兵庫県)を領有していないのです。

>>478 :なんとなく九州王朝説 :04/07/27 00:05
そうそう、「大和国」の領土ですが、日本書紀にはっきりと書いてあります。
敏達天皇13年(584)に、兵庫県(播磨国)は外国だったことが書いてあります。
畿内説の人には、584年に畿内王権が、兵庫県以西を領有していないことを
はっきりと認識していただきたいのです。

>>550 :なんとなく九州王朝説 :04/07/27 09:54
白村江の敗戦(663年)の79年前に、大和国が兵庫県すら領有していないことを前提に
畿内説・九州説を考察しないと、論理が破綻してしまいます。

>>837 :なんとなく九州王朝説 :04/07/31 21:09
584年に大和王権は播磨国を領有していなかったと、日本書紀の編者が書いている
847日本@名無史さん:04/07/31 21:37
>>845
それが播磨国が外国であるという結論にどう繋がるのだろうか?
昨日の深夜に検証した結果、当時の仏教は江戸時代の薩摩芋みたいに
地域限定で伝わってた可能性は見えたが、播磨国が外国であったと
いう結論には結びつかなかったのだが。
仏教が「初伝」されたのは584年ですが、日本書紀の編者がそう書いているわけです。

仏像の伝来じゃないですよ。仏像は以前から百済からも来ています。

仏教が初めて広まったのが584年なのに、対馬や豊後には仏教は伝わっていました。
ではどこに初めて伝わったかというと、大和国に初めて伝わったのです。
849日本@名無史さん:04/07/31 21:43
>>846
古田爺さんに洗脳されるほど頭の弱い人を除いて
賛成するはずがない。
>>847
日本書紀の編者は、自国=大和国の歴史を書いているスタンスなのです。

>>513氏からも指摘がありましたし、>>498にもあります。
851日本@名無史さん:04/07/31 21:44
>>849
品を疑われる書き込みは止めろ
852日本@名無史さん:04/07/31 21:49
>>850
同じ国内でも文化圏や支配体制が違う状況は存在する。
荘園などもその一種だし、戦国時代や江戸時代の藩などもそうだろう。
文化圏や支配体制が違うだけで外国となるなら、荘園や藩なども外国になるのではないのか?
853日本@名無史さん:04/07/31 21:49
>>851
池沼には池沼とハッキリ言うべきだ。
議論する上での基本も分からない池沼が跋扈していては
意味のない発言で満たされるだけだろ。
854日本@名無史さん:04/07/31 21:51
そもそも遥か後世の仏教伝来の話など
邪馬台国の話と直接関係ないだろ。
>>852

日本書紀で「仏教伝来済みの播磨国」と「まだ伝来していない大和国」を
対比させて書いているのに、外国としか判定の仕様がありません。

また、江戸時代の話はしておりません。
>>854

過去レスを見てください。584年に播磨国を領有できていない大和国が
そのころに、高句麗や新羅と戦えません、といっているのです。
857日本@名無史さん:04/07/31 21:56
「薩摩芋伝来済みの薩摩」「まだ伝来してない江戸」
を対比させて、どうして外国になるんだ?
858日本@名無史さん:04/07/31 21:58
百済から仏像が伝わってきたけども、
お坊さんは来なかった(いなかった?)ので、
蘇我馬子がお坊さんを探し求めたという記事ですね。

そしたら、高句麗からの帰化者で元お坊さんだった人を播磨で発見。
蘇我馬子はその人に教えを請うて、仏殿などをつくって信仰したとあります。

ここから、播磨が外国であったとは読むとることができないです。
>>857

ええと、それは仏教がそれぞれ別々に「初伝」された2国、「薩摩国」と「江戸国」ですか?
860日本@名無史さん:04/07/31 22:00
>>853
品を疑われる書き込みは止めろって言ってるだろ、日本語通じないのか?
861日本@名無史さん:04/07/31 22:02
>>856
古田爺さんに洗脳されたDQNはDQNスレでやれよ。
>>858

対馬国や豊前国にとっくに仏教が伝わっており、
播磨国経由で584年に「初めて」大和国に仏教が伝わったのです。

播磨国と大和国が外国でなくて、どうして大和国に仏教初伝ができますか?
863日本@名無史さん:04/07/31 22:03
>>860
まともな議論もできない無法者を放置するのか
ああ、そこの嵐君、これ古田説じゃないから注意してね。
865一応九州王朝説:04/07/31 22:10
>>842

ここで意見を求められても・・・w

とりあえず、暴言が飛び交うのも2ch名物とはいえ、個人たたきはあまり感心しないのですが・・・。

確かに古田先生の説の中で出てきたと思いますが、どこかはすぐ出てきません。本棚がひっくり
返ってるのでw ただ、記紀が6世紀の事績をどの程度正確に記述しているかと言うことについて
は、結構難しいところで、私は天皇記はある程度正確だと思いますが、その他の部分や、近くなる
ほど改ざんも多くなるのではないかと思います。

それと、実効的支配については、継体以降はかなり西に食い込んでいたと思うのですが、正式な
領有権の問題として、いわゆる郡評論争に繋がる部分だと思いますので、即断しにくいかな・・・?
(ととりあえず逃げるw) 磐井の乱の結果九州に屯倉を設置というそれ自体はしょぼい成果ですが、
逆に考えれば畿内に近づくほど畿内王権の屯倉は沢山あったのではないかなと思います。

あとは書記の資料批判と言うことになるのではないでしょうか?もし九州王朝からの盗用が相当ある
のなら、畿内のお膝元の播磨を国内と言い換えることなど造作もないことですが、それを承知で記述
を残すとすればどのような意味があるのか、それとも畿内がすでに領国だったのか・・・・・。

結局よくわかんない・・・・・・・。
866日本@名無史さん:04/07/31 22:23
>>862
同じ国内でも、播磨には仏教が伝わってて、大和に仏教が伝わっていない。
それだけで播磨と大和が外国だとは言えないだろう。
大和から見て、同じ国内でも地方の播磨で仏教が伝わってても、
直接大和に仏教の存在が伝わってていなければ、伝わってるとはいえない。
そういう例えで、状況が似ている薩摩芋の話が例として挙げられているのだが。
867日本@名無史さん:04/07/31 22:27
>>865
> いわゆる郡評論争に繋がる部分だと思いますので、即断しにくいかな・・・?

これは極めて単純な話で、日本書紀の編者が現在の呼称に変えているだけの話。
倭→日本、大隋→大唐、高句麗→高麗、評→郡など。
日本書紀の筆法を理解すれば、別に不思議でも何でもない話。

前方後円墳体制が、畿内から瀬戸内海一円に広がり、北九州も組み込まれ
初期の東日本は東海を拠点とする前方後方墳体制(狗奴国)だったのが
一気に前方後円墳に組み込まれ、出雲は四隅突出型墳丘墓→方墳と独自性を
発揮していたけど最後には前方後円墳に組み込まれた。
さらに朝鮮半島南端にも前方後円墳が並ぶに至った。

宋書倭国伝の上表文や日本書紀・古事記の記述と基本的に合っている。
>>866

話が違いますよ。
仏教がそれぞれ別々な年に「初伝」された2国、「薩摩国」と「江戸国」というケースだったらどうですか?
869日本@名無史さん:04/07/31 22:51
>>868
一般的に、国内では中心地の方に伝わったのを「初伝」というはず。
薩摩芋でいえば、一般的に「薩摩国」に伝わった年でなく、
青木昆陽が「薩摩国」から「江戸国」に伝えた時を「初伝」としているはず。
もし、「大和国」を中心に日本書紀を書いているなら、尚更の事。
>>869

その論理はダメですね。
ポルトガルから鉄砲が伝来したのは、都に伝来した瞬間ではありません。
種子島です。
871日本@名無史さん:04/07/31 23:18
よく知らないんだけど、この馬鹿げた話って、古田が言ってるの?
それとも、「なんとなく」氏のオリジナル?
872日本@名無史さん:04/07/31 23:22
>>870
確かに、鉄砲はそうだろう。
鉄砲は幕府や朝廷に伝わった訳ではないから。
しかし、仏教は朝廷に伝わった。
薩摩芋も江戸幕府八代将軍吉宗が飢饉対策の為
青木昆陽の学説を取り入れ、お上の命令で庶民に広めた。
権力分野に関わる物に関する「初伝」とは、その権力分野に伝わった時を
「初伝」と位置付けるのではないだろうか?
873日本@名無史さん:04/07/31 23:25
なんか挽回してきてるな(w
>>872

ああ、その話もダメですね。
国から国に伝わったことを仏教初伝としているのです。
大和国の辺境から大和国の中心部に「仏教初伝」したのじゃないんです。
だいいち、「播磨国」と「大和国」と別な国としているわけで、播磨地方、大和地方じゃないんですから。
875日本@名無史さん:04/07/31 23:44
>>874
それは、仏教が大和朝廷本体に伝わった時を「仏教初伝」と位置づけて
日本初期に書き記しているからだろう。
仮に、播磨国が江戸時代の薩摩国みたいに支配下の豪族
(江戸時代の島津みたいに)が治めており、その支配地域が
直接幕府の支配下でなくても、大名が将軍に臣従している場合、
薩摩国は外国とはいえないだろう。
昨日、仏教初伝の資料を軽く洗ってみたが、播磨国が外国であるという状況より、
播磨国が大和朝廷に臣従している豪族の支配地域であるという状況の方が
自然に感じたのだが。
>>875

事実に反します>播磨国が大和朝廷に臣従している豪族の支配地域

 >>498で指摘しておきました
877日本@名無史さん:04/08/01 00:05
>隋による中国統一という外圧により、聖徳太子以降、中央集権化は急速に進んだ
>とは思います。
>当時は国家的な危機だったので、倭人たちは中央集権国家を志向したのだろう。
>九州王朝説の人は、そのあたりの経緯を履き違えているのではないでしょうか?
つまり、吉備や筑紫、出雲などの強国は、比較的後世まで中央政権の直接支配下にはならず、
それなりの権力を持っていたということだろ。それについては、誰も反論しないと思うよ。
それを<九州王朝>とか声高に言うから、話がおかしくなる。
878日本@名無史さん:04/08/01 00:11
>>876
その辺の見解は分かれるだろうな。
室町時代初期の南朝と北朝とを違う国(外国)とみるか、同じ国とみるか、
自分となんとなく九州王朝説氏のとの捉え方にそのぐらいの違いはあるだろう。
先に薩摩国の話を取り上げたので、また薩摩を例にとるが、
関が原の戦いの時に西軍副将の宇喜多秀家が薩摩に逃れたのは
薩摩が外国だったからではない。島津が匿うに足る人物だったから。
>>498の件も、先に播磨国が外国であると決め付けるのではなく、
他の可能性(億計と弘計が播磨の豪族と翻意であった等)も
考えられるのではないだろうか?
>>878

いいえ、「播磨国」と「大和国」という別な国として日本書紀に書かれています。
大和朝廷内の、播磨地方と大和地方ではありません。
また、大和国の北朝と南朝でもありません。別な国です。
880日本@名無史さん:04/08/01 00:32
とすると、播磨が大和政権の支配下に入ったのは何年くらいになるのでしょう?
584年にはまだ異国だったとすると、7世紀以降でしょうか。

また、このスレの本題である邪馬台国と大和朝廷の関係でいうと、
邪馬台国(の後継の九州王朝?)はずっとそのまま大和朝廷の支配下に
入らないままとなるのでしょうか。

大和朝廷が北九州地域を支配することができるのは何世紀なのでしょう?
881日本@名無史さん:04/08/01 00:39
>>879
その理論でいくと、553年の河内国は外国なのだろうか?

http://homepage3.nifty.com/butsuzo-jidai/page049.html

上を見る限り、553年の河内国は天皇の支配地域であり、
この頃既に、地域を国名で呼ぶ風習が存在すると
解釈してもおかしくないと思うが。
882日本@名無史さん:04/08/01 01:23
なんとなく九州王朝説も
外国を外の地域として説明してたのでは?
883881
>>882
だといいのだが、それにしても>>846に挙げられた極論は
斜めに読んでるというより、電波と呼ばれても仕方ないだろう。
ついさっきまで、なんとなく九州王朝説氏と議論を交わしたが、
播磨国を外国と断定できる強力な根拠は感じられず、
播磨国を外国としない解釈もありうると感じたな。
なんとなく九州王朝説氏が寝られたようなので、自分も寝る事にします。

最後に、ここの住民の皆さんへ。
スレの本題と大きく外れたレスを繰り返した事を深くお詫びしたいと思います。