1 :
日本@名無史さん :
04/06/25 22:43
2 :
日本@名無史さん :04/06/25 22:46
4 :
日本@名無史さん :04/06/25 23:33
> 3世紀日本列島の状況とは如何なるものか? > 西日本に統一政権はあったか? これはちょっと、誤解を招く表現じゃないか? 畿内説の場合、遅くとも3世紀初頭に大連合が必要。 九州説の場合、3世紀中ごろまでないが、 3世紀後半にはあって良い。むしろ3世紀末にはあった派が多い。 どちら派も「あった」で問題ないから。 つまり、「3世紀前半の」みたいな表現が良かった。
5 :
日本@名無史さん :04/06/25 23:34
今のところ 倭人伝との符合・・九州説>>>>>>>>>>>>>>>畿内説 記紀との符合・・九州説>>>>>>>>>>>>畿内説 なんだけどマキムクの遺跡に関して議論中ということです。
6 :
日本@名無史さん :04/06/25 23:38
マキムクは(本当に年代が早いなら)九州説で理解しがたい存在であるが、 かといって、畿内説でも理解しがたく畿内説有利の証拠にはならない。 年代が早いというのが、間違いだったら、九州説で理解しやすい存在になる。
マキムクの年代がどうであろうと九州説で説明可能。 倭人伝をじっくり読めば女王国の東の海の向こうの国を解明する理由はない。
8 :
畿内教に入信しませんか? :04/06/26 00:34
age
>>8 東西南北がわからなくなる宗教ですか?
イヤダナー
10 :
日本@名無史さん :04/06/26 00:58
マキムク=3C(200年代)中後半に、「近畿」に大勢力があった「物的」証拠。 倭人伝=3C(200年代)中後半に、「九州」に大勢力があった「文献的」証拠。 ↑ 同時期に、近畿と九州両方に大きな勢力があったとしても、別に矛盾しない。 あとはその大勢力同士が、どう連合し、どう再編成されたか。 古事記や書紀は、その両方が権力闘争を経て統合された後に書かれ、 両方の過去の国主達が、神々(天皇)として統合された話だろう。
「南、邪馬壹國に至る。女王の都する所なり。」 「次に斯馬國有り。次に己百支國有り。次に伊邪國有り。次に都支國有り。次に彌奴國有り。 次に好古都國有り。次に不呼國有り。次に姐奴國有り。次に對蘇國あり。次に蘇奴國有り。 次に呼邑國有り。次に華奴蘇奴國有り。次に鬼國有り。次に爲吾國有り。次に鬼奴國有り。 次に邪馬國有り。 次に躬臣國有り。次に巴利國有り。次に支惟國有り。次に烏奴國有り。 次に奴國有り。これ女王の境界の尽くる所なり。 その南に狗奴國有り。男子を王となす。その官に狗古智卑狗有り。女王に属せず。 郡より女王國に至ること萬二千余里。」 と、二十一ヶ国が国名のみだらだら書かれているがこれは奄美二十一島である。
12 :
日本@名無史さん :04/06/26 01:00
西日本でもっとも後進地域だったマキムクを 卑弥呼の国だと勘違いする宗教には 空中浮遊の麻原彰晃もビク〜リ!!
| | 本州 \__________ | | 東の方のことなんて知らねぇよ。 (南)↓ 「女王国東渡 海千余里 復有国 皆倭種」 投馬国 _____ | | | | | | 四国 | | _____ (南)| | ↓ / 邪馬台国(西都)=古墳群密集地帯 ____/ 〇 〇 〇 〇 ←奄美二十一島 ∴∞ ∴〇 ←女王国境界(現在の鹿児島県の県境に同じ) / ̄/ ← 狗奴国(球磨国)「男子を王となす、女王国に属さず」⇒【琉球王朝】  ̄ ̄
14 :
畿内教に入信しませんか? :04/06/26 01:06
>>10 倭人伝の年代は確定事項だが
マキムクの年代は不確定事項、今後の発掘研究で年代は動く。
このスレッドでは、邪馬台国は九州ということでよろしいでしょうか? 本来の議論の「邪馬台国は大和朝廷になったのか?」 に移ってかまいませんか? 近畿説の方、いかがですか?ご意見をお願いいたします。
それが正しいかどうかはともかく、 邪馬台国が九州にあったと仮定して その後の歴史を考察することはできるだろう。 どっかで破綻が生じたら次は畿内説の番だ。
なるほど!それは面白いですね!! でも人が少ないみたいなので(近畿説の人の書き込みが全くない) 明日からと言うのでいかがでしょう? 少人数で、スレの方向を勝手に決めるのもどうかと思います。 言いだしっぺなのにすみませんね。では、おやすみなさい。 その間に『根拠のある畿内有力説』が出るとそれはそれで面白いんですがね。 狗奴国の場所くらいは示して欲しいものです。
狗奴国の場所のいかんで、全体が瓦解したりしないので、どうでもよいし、後回し。
>>17 その前にやることがもう一つあるだろ。
まず九州のどこかを決めてくれ。
話が進まないから。
別に仮定でもいいぞ。
九州の○○に邪馬台国があった、という仮定からスタート。
仮定じゃなくて証明ができるならなおいい。
21 :
日本@名無史さん :04/06/26 02:11
どっから始めてもいいんだけど 南から考えるのが筋だと思うね。 それでひと通りストーリーを考えてから (あるいは矛盾点を明らかにした後) 北九州に移るとよいかと。
いわゆる邪馬台国の都の場所は (私の考えでは) BC100〜AD350 北部九州(宗教政治時代) AD350〜600 有明海沿岸(軍国主義時代) AD600〜700 北部九州(泥沼戦争時代) このほかに同地域内の遷都もあったと思う 私見は別として、邪馬台国の場所は、 最大公約数的に考えると、どこなんだろう?
23 :
日本@名無史さん :04/06/26 03:24
直前に西都コピペ厨がいるので、逆に言いにくいのだが、実は「西都」が一番有力だと思う。 根拠は、魏志倭人伝や後漢書・晋書など。それに、人口や古墳規模。 「遠絶不可得詳」 女王国の北にない国は、遠くて陸で繋がってないので、距離関係と規模が詳しく解りません。 「絶」:他の箇所でも、対馬や倭国全体が島である(陸と分離している)ことを 「絶」と表現している。つまり、女王国は九州のかなり南部。 「計其道里、当在会稽東治之東」 後漢書・晋書やその他の文献によると、「東治」でなく「東冶」である。 「東冶」を採用すると、会稽の東は九州南端、東冶の東は沖縄であり、 南西諸島の南北の長さを説明した文となる。 「東治」(会稽内の都市)を採用すると、九州南端のみを指すが、 「計其道里」(その距離を測る)という文としっくりこない。 ただし、これが南西諸島の長さを説明した文とすると、この段落は 南西諸島の話題で、鯨面文身で蛟龍を避けていたのは南西諸島だけ という解釈になりそう。(倭国のエキゾチックさが減って残念。) なお、蛟龍は現在の中国語では「鮫」を指す。 つまり、西都と考えると、 以南が南西諸島で、魏志倭人伝の不思議な部分がほぼ解決してしまう。 残る不思議は「陸行1月は長すぎ」ということくらい。 「1日」の彫り間違えじゃないかという気がしないでもない。 水行または陸行という説でも良いが。 更に言えば、地名の記紀とか古い伝承とかの一致性とか、後の呼称が、 日向がヒムカの国、大分と福岡東部がトヨの国でしっくり来るとかもあるけど。 西都という地名は当時のものではなく、東遷後に付けたと思う。
金印の出土地を考えよう ×西都
25 :
日本@名無史さん :04/06/26 03:46
魏志倭人伝でも、奴国の位置は金印の出た福岡県になっているよ。 倭国大乱以前は、北九州の奴国が連合の盟主で、 西暦57年、漢から金印を貰ったんでしょ。 で、倭国大乱が来る。 連合の盟主は変わったのだから、必ずしも北九州とはいえない。 奴国は分裂でもあったのか、倭人伝では規模の小さい国になっている。 魏志倭人伝では、その奴国から、南へ、更に南へ行くと書いてある。 西都説、何一つ矛盾してないよ。
26 :
日本@名無史さん :04/06/26 04:38
世界的には大和王朝は百済の王子ホムダによって建国されたことになってます
未だにヤマタイ国がどうのこうの言ってるのは日本だけですよ
ttp://www.koreanhistoryproject.org/Ket/KETIndex.htm In the winter of 369 AD, Prince Homuda's expeditionary force landed on
the northern shore of Kyushu at Hakata Bay on the westernmost of
Japan's large islands (Figure 3). On the rich agricultural plain near
the present site of Fukuoka, the new arrivals from Paekche established
a foothold and began building settlements. They spent the next three years
repairing and refitting ships, making weapons, training, storing provisions and
getting ready to subdue the territory. Prince Homuda's army pushed eastward
for six years, encountering fierce resistance from many of the clans in its path.
After subduing its opposition by surrender,outright conquest, or death,
the expeditionary force finally halted on the rich agricultural plain formed
by the Yodo and Yamato Rivers at the head of Osaka Bay. Having gained
control over the central part of the country, Prince Homuda proclaimed the
creation of his new kingdom, taking its name from the surrounding region and
giving the country its first official "name" - Yamato.
27 :
日本@名無史さん :04/06/26 04:39
結論も出たしそろそろお開きかな? 1、邪馬台国は百済のホムダ王子に率いられた軍勢によって征服された有象無象の中の一国であった 2、大和王朝はホムダによって建国された征服王朝であった 3、よって邪馬台国と大和王朝には直接の繋がりはない
28 :
日本@名無史さん :04/06/26 08:17
>>26 そんな、事実と願望の区別もつかないばかりか
願望のために事実を歪曲するような連中の言うことに
耳を貸してやる道理はない。
連中、目をつぶれば世界が消えると本気で信じてんだぜ?
29 :
日本@名無史さん :04/06/26 08:38
邪馬台国はおそらく南から広がって魏志倭人伝の 頃には九州全域にわたったんじゃなかろうか? で、北九州は邪馬台国なんだけど、そこから 卑弥呼のいる都まではずいぶん遠く、九州を 縦断して最南端に住んでいたと。
30 :
日本@名無史さん :04/06/26 08:46
まあ俺もサイト厨に洗脳された口だけど 日向の巫女=卑弥呼、豊の巫女=トヨ だとすればだいぶスッキリするんだけどな イト国など結構地名関係は現在でもそのまま通用するように残ってたりしてるし 南のクナ国は素直に考えて熊襲(熊本県あたり)キクチヒコとか菊地の地名で残ってるし ツマ国は名前繋がりで薩摩(さ・ツマ)という事で クナ国の位置がサイトより南じゃないのは 邪馬台国連合の支配地域が現在の宮崎大分福岡県と裏九州に湾曲していたためだと考える。
古墳はともかく、出土品から推測される生産と物流の集積地としては、宮崎は苦しい と思うよ。珍しく、昔から行政主導で大発掘してる割にねずみ一匹って感じだし。 それに、古墳も大きいから進んでいるとは限らないし。 ところで、九州説を採るとして、その後の展開が問題だよな。漏れは、邪馬台国がどこ にあろうと、各ブロックの勢力同士の角逐のほうがよほど大事だと思う。 <弥生晩期> <古墳時代> <飛鳥時代> 九州 ・・・・・・・―――――――――――――――――――――――・・・・・・・ 大乱 | | ↑国譲り | | 出雲――――――――・・・・・ | |武王の東征 ↓神武東征 ↓ 畿内・・・・・・・・・・・・・・・・――――――――――――――――――――――――――――― たとえば一推測として、畿内勢力の中で、入植を受け入れる層と拒否する層が抗争し、受け入れ 側がまず出雲のニギハヤヒを呼んだり吉備から呼んだりしたが祭司以上の役目を果たせず、そ こで折しも移動中の五瀬・伊波礼毘古に使いを出したのが「東征」の引き金になった。何とか奈良 南部に侵入できたので、その血筋そのものが九州の王統に連なるため、祭司として以上に政治的 供与を受けることが出来、拒否グループに対する一定の力関係の転化を可能にした・・・・・・・・・・。 その後も幾度にも渡って東漸があったのは確実だと思う。
>>23 やれやれ。
何がでてくるかと思えば、ひどいもんだ・・・・
考古史料の裏付けのない説なんて誰からも相手にされない。ということは置いておいても、
>「遠絶不可得詳」
>女王国の北にない国は、遠くて陸で繋がってないので、距離関係と規模が詳しく解りません。
絶はつながりを切ること。
陸のつながりが切れれば島になるが、交流が絶えることも「絶」。
魏志東夷伝の序文に『而公孫淵仍父祖三世有遼東,天子為其絶域・・・・』という部分がある。
公孫氏の実効支配する遼東以東を『絶域』にしたと書いているが、これは『絶』が陸で繋がってないことをさすので、巨大な溝を掘って遼東以東を島にしたという意味ではもちろんない。
したがって、遠絶だから島だという結論は導けない。
アウトですな。
>鯨面文身で蛟龍を避けていたのは南西諸島だけという解釈になりそう。
さらに馬鹿げているのがこれ。倭人伝の原文を読んでいないのがバレバレ。原文はこう。
夏后少康之子封於會稽,斷髮文身以避蛟龍之害.
蛟龍之害を避けたのは伝説の夏后少康之子であり史記漢書にもみえる越の始祖伝説。
だから当然、蛟龍が南西諸島にいるなんて話にははじめからならない。
倭人が避けていたのは、『今倭水人好沈沒捕魚蛤,文身亦以厭大魚水禽』で、大魚水禽。
蛇だのハブだのは与太話。
33 :
日本@名無史さん :04/06/26 10:54
>>32 > 陸のつながりが切れれば島になるが、交流が絶えることも「絶」。
これは尤もだが、「絶」で説明されているのは、交流が絶えている狗奴国だけではなく、
女王の支配地域である21国、全てだよ。支配地外とも交流があるのに、すぐ南の連合の構成国、
それも陸で繋がっている国々21ヶ国すべてと交流が無いというのは不自然きわまりない解釈だ。
それに、別の可能性を示したといえるが、「陸が切れている」という解釈を否定する要素もない。
じつは、重要な論点は、、「東治」か「東冶」かだ。
「東治」なら、狗奴国は、九州南端。「東冶」なら、狗奴国は、沖縄。
ここでも、「東冶」の方が意味が通る文章になるし、他の文献では「東冶」であることも見逃せない。
この両論点を総合的に見て、「絶」は島(陸との断絶)を意味する言葉と解ると思う。
夏后少康之子の話は単純に知らなかった。
「后」の字から、そういうストーリーがあることを予想されるので、探しておくべきだったが。
しかし、その部分は私の本論とは関係ない部分で、特に西都説に不利な証拠ではない。
34 :
日本@名無史さん :04/06/26 10:57
>>32 この辺のことをごちゃごちゃ言っても仕方ないんじゃないんですか?
魏使は伊都国より先は行っていないみたいだし、
倭人の風俗の描写は、当時の九州の風俗の描写だと思います。
35 :
日本@名無史さん :04/06/26 11:00
神武記では神武軍は以下のように邪馬台国(畿内式銅鐸圏)の戦略要所を論理的、
軍事的に攻略している。つまり、論理的に完結性があり、御都合主義で作られたも
のではない。しかし、焦点が難波、紀州、吉野等におかれ残余の地方の情報が削除
されたような感がある。特に筑紫、安芸、吉備更に東方では伊勢、中でも最重要で
ある筑紫についてはあたかもカットされた感がする(筑紫は既に実権を失い、宇佐
国造が筑紫を統括していたことを黙示するのであればそれはそれでいいのだが、
ならば、なぜわざわざ岡水門迄出向くのか)。さて、戦略要所は:
(1)速吸、明石等は、天日槍からも判るが、検問所があった筈であるが、大和宿禰
が航行を許可している。
(2)生駒山-を巡り敗戦するが、倭人伝の官職にイキマというのがある。(3)紀州で
ナクサトベを誅する。ナクサトベの祭られる日前国懸社は葛城連峰、柏原、箸墓、
夕月嶽レイラインの起点であり、大和攻略のためには重要。
http://www.eps4.comlink.ne.jp/~kumagai/gotaku/rei.htm (4)熊野を制圧。ここは安曇族の領域だろう。
(5)八咫鏡、矛、剣等の金属呪具を用い山岳縦走し、吉野、宇陀、磯城へと向かう。
倭人伝にナカツ(テ)という官職があるが、忍坂オオナカツヒメなどの用法から初瀬川
流域、鳥見山に生駒近辺の鳥見山同様の遠見山を設けていたことが考えられる。
この地方を落とし、香具山の土を計略で奪うことによって国土を得る。その国土とは
邪馬台国(畿内式銅鐸圏)である。
36 :
日本@名無史さん :04/06/26 11:00
但し、神武記には次のようなメタ性、つまり、楽屋裏が見える。 (1)神武は既に日向で大和はニギハヤヒ-ナガスネヒコが実効支配している事実 を承知していたのであるから、その意図は他国の国土を奪うことにあることとなる。 (2)当然ながら、神武が攻撃をして回った邪馬台国(畿内式銅鐸圏)の拠点は神武 の攻撃に備えてできたものではなく、それ以前の邪馬台国(畿内式銅鐸圏)の成立 に伴ってできたものであるが、その大和の国造が速吸の門まで出迎えに来て明石 関門を開き国土簒奪を助けている。 これは、神武記が邪馬台国(畿内式銅鐸圏)の成立後の歴史に神武の皇統を接続 するために既に存在していた邪馬台国(畿内式銅鐸圏)の情報を駆使して作成され たことに他ならない。 しかしながら、神武記ははからずしも、邪馬台国(畿内式銅鐸圏)の輪郭、構造に ついての情報を提供してくれることになるのである。
37 :
日本@名無史さん :04/06/26 11:10
別スレにも書きましたが、 次有奴國、此女王境界所盡、其南有狗奴國、 「奴國=女王境界所盡」なんだから「其」というのは「奴國」を示すのは 明らかです。「奴國」は位置はほぼ確定しており、其の南にあったという ことですから、狗奴國は九州にあったと考えるべきでしょう。
>>33 >それに、別の可能性を示したといえるが、「陸が切れている」という解釈を否定する要素もない。
あんたの説は、『「陸が切れている」という解釈』のみが正しいことが証明されないと成立しないんだよ。
それが議論の基本だ。
反例がある以上、あんたの説は成立しない。あきらめな。
それから、陸のほうが交流しやすいと考えているようだけど、古代においては全く逆でね。
水上交通のほうが便がいいんだ。これは考古史料が証明している。
陸続きでも山で遮断されてたら遠絶になる可能性はいくらでもあるんだよ。
>じつは、重要な論点は、、「東治」か「東冶」かだ。
東冶に決まってるだろう。
会稽郡の東冶県という意味だよ。それ以外はない。
>夏后少康之子の話は単純に知らなかった。
オイ・・・・
勘弁してくれよ・・・ほんとに・・・・・
トホホ・・・・
39 :
◆vj24X7IGQQ :04/06/26 11:24
>>37 魏志倭人伝には奴国は2回出てきます。
位置がほぼ確定しているのは、1回目に出てきた奴国です。
2回目に出てきた奴国は、遠絶国21ヶ国の1つです。
1回目に出てきた奴国は、(遠絶の意味をどう解釈しても)
遠絶ではないので、この2つは同じものではありません。
つまり、2回目に出てきた奴国の位置は不詳なのです。
狗奴国の位置は、2回目に出てきた奴国の南です。
つまり、九州内と断定するまでには至りません。
>>33 で説明したように、沖縄という説には特に矛盾が無い上に、
今まであった疑問が解消できる有力な説だと思います。
40 :
日本@名無史さん :04/06/26 11:35
>>39 もう少し組み立ててレスしろよ
その2回目の別の那国とやらは沖縄の直北にあるのか?
2回目の那国が博多でないならどこなんだよ。
41 :
日本@名無史さん :04/06/26 11:40
さらにいうと 卑弥呼の本国と那国が遠絶(離れているという意味で)してるから監視の為に一大卒置いてたんじゃないのか?
42 :
◆vj24X7IGQQ :04/06/26 11:49
>>38 いや、どちらの立場にも立たず、冷静になって考えてください。つまり、
「絶」には、「交流が絶えた」「陸と断絶している」の
両方の可能性があるので両方を比較検討しよう。
↓
「陸と断絶している」
:特に矛盾はない。今まで解釈が難しかった部分が理解できる。東治だとすれば解釈が難しい。
「交流が絶えた」
:南方21ヶ国すべての交流が無いのは変だ。東治が東冶だとすれば解釈が難しい。
↓
現段階では、「陸と断絶」がやや有利だが、断定するほどの差は無い。
「東治」か「東冶」かが重要な論点になる。
と考えることができる。あなたの考える議論の基本は、基本的に間違った手法です。
> 東冶に決まってるだろう。会稽郡の東冶県という意味だよ。それ以外はない。
「東治県」との誤記だとして話を進めます。まず、あなたのこの主張は根拠がありません。
また現段階では、それ以外の可能性はありますので、事実に反しています。
会稽郡東治県だとすると、道程を示したことにならず、文章の意味がハッキリしません。
会稽と東冶とすると、道程を示した文章として意味がハッキリします。
先ほどと同じように、どちらの説にも立たず、冷静に考えてみれば、同様に
断定するほどの差は無いが、「東冶」やや有利といえるでしょう。
>何がでてくるかと思えば、ひどいもんだ・・・・ >考古史料の裏付けのない説なんて誰からも相手にされない >さらに馬鹿げているのがこれ >蛇だのハブだのは与太話 なんか聞くに耐えんな。漏れは別に西都の説なんて支持してないけどw >蛟龍之害を避けたのは伝説の夏后少康之子であり史記漢書にもみえる越の始祖伝説 それでは何の説明にもなってない。伝説がどこから来たのかまで論証しないと。 >倭人が避けていたのは、『今倭水人好沈沒捕魚蛤,文身亦以厭大魚水禽』で、大魚水禽 確かに文面にそう書いてあるからって、額面どおりに受け取るのか?その話を直接誰に聞い たのか、旅行者の推測なのか、更にその又聞きなのか。或いは、地元の漁師にしても、入れ 墨の意味なんて対して知らなかったかもしれないし。いわゆる倭人が南方系の海人族なら、 ウミヘビも避けるべき対象だし。鮫より更に怖いんだよ、南の海でダイビングしたことあるなら わかる。 あんまり人のことこき下ろすのは辞めた方がいい。
44 :
◆vj24X7IGQQ :04/06/26 11:58
>>40 >>39 の文章だけで、
「2回目の奴国は、位置が分かっている奴国ではない」
ということは、十分示せていると思います。
「位置が分かっている奴国の南と考え、九州にある」
という主張は成り立たないのです。
もう1つの奴国や狗奴国が九州にある可能性は否定しません。
45 :
日本@名無史さん :04/06/26 12:05
>>44 2回目の那国の位置が不詳なんだろ
その状態で、どうやってクナ国の位置がわかるんだ???
あんた沖縄とか言ってたジャン。
那国の位置と特定(推測でも)しないとあなたのレス自体が矛盾なんだけど。
46 :
日本@名無史さん :04/06/26 12:13
>35 >37 神武記の避ける筑紫、出雲/三遠式銅鐸圏(狗奴国を含む安曇族)の中でも筑紫 では倭人伝でもニキという官がいる(東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄 謨觚柄渠觚有千餘戸世有王皆統屬女王國郡使往來常所駐)。神武記はニニギ につなげることでこのニキとか、その同類のニギハヤヒより上位に立つことを意図 したのであろう。これを正当化するために日向で岩戸神事を行い、神武が出現する 必要があった。すなわち、近畿邪馬台国は筑紫邪馬台国より上位である邪馬台国 である必要があった。東遷とは皇統系譜の修正上の技術用語であり、実際は 筑紫邪馬台国の合法的(?)な近畿邪馬台国への移し変えであった。技術要員の 多少の移動はあったにせよ物理的な民族移動はなかった。
47 :
日本@名無史さん :04/06/26 12:23
>◆vj24X7IGQQ 弥生時代の鉄器(武器)の出土量みても ぶっちぎりで全国第一位第二位が福岡県熊本県 相当激しく殺りあってたと想像できる 那国とクナ国は福岡あたりと熊本あたりで決定じゃねーか?
48 :
日本@名無史さん :04/06/26 12:27
>>25 金印をもらったのは委奴国。もらっていないのが奴国。
西都ももらっていない。間違えないように。
49 :
日本@名無史さん :04/06/26 12:28
50 :
◆vj24X7IGQQ :04/06/26 12:29
>>45 私は「狗奴国が沖縄」という説が有力に思うと書いていますが、
(私のレスは、
>>23 >>25 >>33 と◆vj24X7IGQQ名義のものです。)
これは、沖縄と決め付けて書いているのではありません。
取りあえず、全部の説を認めた上で、矛盾が多いものを抜いていく
という思考法で残ったのが、南九州か沖縄の2つの説です。
南九州説を完全に否定することは、現段階ではできません。
(南九州と沖縄、どっちも有りだけど、)魏志倭人伝の「東治」より、
後漢書・晋書やその他の文献の「東冶」が信用に足るし、
「絶」の解釈も陸からの断絶の方が筋が通るので、
どっちかと言えば沖縄の方が有力という主張です。
2回目の奴国も北九州と考え、その南に狗奴国があるという考えは、
矛盾が多く、畿内説よりも無理な考え方だと思います。
>>47 そうですね、熊本辺りという説は有力で現段階では否定できません。
51 :
日本@名無史さん :04/06/26 12:35
>>49 だから争っていた時代と争いが終わり遷都した時代があったんだろ
思考に時系列を加味しろよ
52 :
日本@名無史さん :04/06/26 12:38
>>51 国同士の戦争じゃなくて、国内部の部族間争いだと気づけよ
53 :
日本@名無史さん :04/06/26 12:43
>◆vj24X7IGQQ
俺は一貫して那=福岡付近 クナ=熊本付近 だと解釈する
これについての矛盾があれば示して欲しい。
>>52 話にならんな、国じゃなくてクニな
部族?那一族とかいたのか?那の人は血縁関係を元にした集合体か?
おまえは話にならん。
54 :
日本@名無史さん :04/06/26 12:44
>>46 九州邪馬台国から畿内に、恒常的波状的な人の流れがあったと思う。
神武はほんのわずかな領土を征服して、土着勢力に割り込んだ。
天武は九州出身で、壬申の乱に勝利し、法隆寺を移築して
本家九州邪馬台国を攻撃した(持統天皇のとき完全制圧)。
55 :
日本@名無史さん :04/06/26 12:47
>>53 800年の歴史があるいわゆる邪馬台国の、一瞬の政治地図だけで全部を語ろうとするのは大間違い。
根本的な手法に誤りがある。
56 :
日本@名無史さん :04/06/26 12:49
>>51 遷都した時代があったんじゃなくて、遷都に反対する勢力が抵抗したが、
ちゃんと遷都したの。
57 :
◆vj24X7IGQQ :04/06/26 12:59
>>53 福岡に奴国という名前の国が昔からずっとあり続けたというのは事実です。
福岡付近に奴国がないという意見はない(あっても否定できる)と思います。
ただし、魏志倭人伝には奴国という名前の国が2回登場する。
1回目の奴国は道程から福岡にあると解る。それはいい、あなたの言う国だ。
しかし、狗奴国の北にある奴国は、道程が分らない位置にあるとされ、
1回目の奴国とは別物です。これは1回目の奴国(福岡)よりもかなり南方にある。
その位置を福岡と主張するのには無理がある、ということです。
つまり、
福岡に奴国がある。:この主張は正しい。ただし、これが2回目の奴国と主張するのは間違い。
熊本に狗奴国がある。:この主張も矛盾がない。
58 :
日本@名無史さん :04/06/26 13:18
>◆vj24X7IGQQ ふむ、クナ国は2回出てきてないよね 俺が一回目の那国が福岡でクナ国が熊本と推測を確定した場合 2回目の那国も必然的に一回目と同じになるんだよ なぜならクナ国は2回出てきてないから。 というかこの事はどうでもいい事のように思える。 それより >1回目の奴国とは別物です。これは1回目の奴国(福岡)よりもかなり南方にある。 論拠を示して欲しい。
59 :
日本@名無史さん :04/06/26 13:21
>>53 スレタイは国。君の身勝手な判断でクニと呼ぶのは自由。
60 :
日本@名無史さん :04/06/26 13:47
クナ国を沖縄に持っていきたいんだろうが その場合、他国と同列に記すだろうか 風習も気候も距離も隔絶している、 沖縄が九州連合に属さなくても当たり前のように思える 千里東の倭種もろくに分からない状態で遠方の沖縄の官 (キクチヒコ)など分かるようには思えない あえて九州と戦争する理由も思いつかない 侏儒国じゃないの沖縄、離れて書かれてるし 人種的特徴言ってるし(沖縄は南方系だけ、九州は南方北方ごちゃ混ぜ)
61 :
日本@名無史さん :04/06/26 13:55
>35 >36 >46 平原の女王の死をもって九州邪馬台国の死とし、女王の後継者を「世有王皆統屬 女王國」とするために神武記が作られ、畿内邪馬台国(畿内式銅鐸圏)固有のイザ ナミ神話も異例ながらイザナギ・イザナミは神ながら神隠れにて死ぬことと改竄され た。これは平原の九州邪馬台国の女王、出雲系の固有の近畿邪馬台国固有神話 のイザナミ、邪馬台国のヒミコ等の女性系の神格を溶鉱炉に投入して新たにアマテ ラスという神を創造した時代のことであり、箸墓建設の際に作られたものであろう。
>>42 >現段階では、「陸と断絶」がやや有利だが、断定するほどの差は無い。
だから
>「遠絶不可得詳」
は理由にならない。いいねこれは。
>「東治県」との誤記だとして話を進めます。
「東治県」なんて県は存在しないんだよ。ないことを示すことはできないので、
これはあんたに史料を引っ掻き回して実際に確認してもらうしかない。
>道程を示したことにならず、文章の意味がハッキリしません。
文章の意味ははっきりしている。
倭人伝は
自郡至女王國萬二千餘里・・・・・計其道里、當在會稽、東冶之東。
道里から考えてみると、女王国の位置はちょうど会稽郡東冶県の東ぐらいになる
といっている。
道理を計るといっているが道理が記載されているのは女王国=女王の都する邪馬台国までだから、
會稽、東冶之東にあるのは、女王国=女王の都する邪馬台国以外の解釈はないんだよ。
63 :
◆vj24X7IGQQ :04/06/26 15:01
>>58 > クナ国は2回出てきてないよね
> 俺が一回目の那国が福岡でクナ国が熊本と推測を確定した場合
ここまでは理解可能。
> 2回目の那国も必然的に一回目と同じになるんだよ
どうして?その仮定なら、熊本の上じゃないの?
> なぜならクナ国は2回出てきてないから。
どうしてこれがその理由になるの?福岡博多の下は全然熊本でもないし。
申し訳ないけど、畿内説より無謀な考えかただと思う。
> 1回目の奴国(福岡)よりもかなり南方にある。論拠を示して欲しい。
魏志倭人伝の通り。まず、女王国は博多の奴国の南のそのまた南。
そして、2回目の奴国は、女王国より北にはないと記されています。
また、以下のようにも書かれています。
女王国より北は戸数と道里が略載できます。(実際、博多の奴国の戸数道里も略載されています。)
女王国以北でない国は、戸数道里が不詳です。(ここにもう1つの奴国が登場する。)
狗奴国は、九州南端という説は有力。(ただしアレが「東治」なら。「絶」の扱いに微妙さが残る。)
「東冶」で「絶が陸との隔絶」なら、沖縄説有望。(さらに考古学的裏づけが要るが。)
64 :
◆vj24X7IGQQ :04/06/26 15:03
>>60 > クナ国を沖縄に持っていきたいんだろうが
特にそういう意図はない。
現段階では、南九州も沖縄もどちらも有力。
「絶」をどうみるか、「東治」をどうみるかで
どっちがより有力かが変化する。
> その場合、他国と同列に記すだろうか
> 風習も気候も距離も隔絶している、
仮に、沖縄説をとった場合、21ヶ国が南西諸島なので
それに連なる沖縄を同列に記すのは変ではないでしょう。
風習や気候は、沖縄の方が合うと考えている人もいます。
(私は特にそれを自説の論拠にしたり、他説の批判に利用したり
はしませんが、風習や気候が不利に働くとは思いません。)
> 千里東の倭種もろくに分からない状態で遠方の沖縄の官
> (キクチヒコ)など分かるようには思えない
可能性としては、「対立する前は交流があった」などです。
> (沖縄は南方系だけ、九州は南方北方ごちゃ混ぜ)
鯨面文身は縄文系(南九州・沖縄・アイヌ)の文化ですね。
これも不利にはならない。敢えて言えば微妙に有利かと。
65 :
日本@名無史さん :04/06/26 15:04
>61 神武記の世界、日向、筑紫、紀州、伊勢、大和、難波を倭国成長の一段面とすると そこには出雲から磐越にかけての諸国が含めれていない。とすると神武記のできた のは国譲り以前の時期のことであって、箸墓建設より相当早い頃と見なくてはなら ない。そうすると纒向建設当時の鹿児島磐越の倭国成立を物語る歴史は抜けてい る。それは尾張を中心に始まり、吉備が入り、最終的には尾張、出雲系の銅鐸文化 が、九州又は半島渡来の矛鏡文化に駆逐される歴史であろうが、なんだかの理由 によって全く削除されている。なぜだあろう。神話ではカグツチの粛清、倭人伝では 狗奴国の乱としか伝わっていない感じである。
66 :
◆vj24X7IGQQ :04/06/26 15:24
>>62 > 「東治県」なんて県は存在しないんだよ。
私には、あなたの方が「東治」と「東冶」を反対に記憶
しているように見えますが、まあそれは良いです。
「東治」か「東冶」が指しそうな場所は、中国沿岸に2箇所あります。
それぞれ、ちょうど九州南端の西、沖縄の西に当たります。
> >「遠絶不可得詳」
> は理由にならない。いいねこれは。
いいえ。絶には2つの可能性があることを示しています。
(あえて言うなら、交流が無いの方が変である。)
まず、どちらの説にも身を置かず、冷静に考えてみてください。
> 會稽、東冶之東にあるのは、女王国=女王の都する邪馬台国以外の解釈はないんだよ。
いいえ。東治・東冶が指す場所は2つ可能性があります。
まず、どちらの説にも身を置かず、冷静に考えてみてください。
67 :
日本@名無史さん :04/06/26 15:25
>65 アマテラスと出雲の国譲り、イザナミの死の後の部分を神武記の後に入れる。すな わち順序を逆に編集してみると正しい邪馬台国成立の歴史が得られる。しかしこれ でも建国に先立つレイラインの敷設、穢れの部分で隠されたと見られる銅鐸抹殺の 全容は浮かんでこない。各地の神社その他の伝承より復元せざるを得ない。
68 :
日本@名無史さん :04/06/26 15:31
>>63 >福岡博多の下は全然熊本でもないし。
勘違いしてない?
那とクナが戦ったのではなくて邪馬台国連合と服従しないクナだよ
邪馬台国領域の直南にクナがあればいいことだよ
つーかあんた沖縄=クナ説を主張してるじゃん、なんで意図は無い、とか言うの?
堂々としろよ
斯馬国、已百支国、伊邪国、都支国、弥奴国、好古都国、
不呼国、姐奴国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、
鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国
これ全部南西諸島か?
69 :
日本@名無史さん :04/06/26 15:55
>>64 それと刺青の風習の事言ってるんじゃないの
女王国から4000里離れた侏儒国は身長など人種的な事に触れてるから
南方系北方系出したんよ。
70 :
◆vj24X7IGQQ :04/06/26 16:03
>>68 > 邪馬台国領域の直南にクナがあればいいことだよ
「次有『奴国』、此女王境界所尽、其南有『狗奴國』」
狗奴國が、女王境界尽く所の南であるのは、お互いの了解事項ですね。
さて、女王境界尽く所はどこでしょうか。『奴国』ですね。
また別箇所によれば、この奴国は女王国の以北でないとも分ります。
> あんた沖縄=クナ説を主張してるじゃん、なんで意図は無い、とか言うの?
いいえ。私は「沖縄にしたくて、それにそって文献を解釈する」
というようなことは決してしません。
どの立場にも置かず考え、可能性が複数出たら両方を追ってみるのです。
後で矛盾が出たらその可能性は捨てます。
つまり、沖縄説に明白な矛盾が出れば、当然沖縄説は捨てます。
(そのときは、南九州でほぼ確定と思います。)
現在、沖縄説と南九州説の両方を追っています。
沖縄説が少し優位に思うのは、「絶」の扱いが自然で、
「東治・東冶」の解釈がより信頼できる文献によるものだからです。
ただし、南九州説はこれによって致命傷を負った訳ではありません。
> これ全部南西諸島か?
南西諸島は、奄美諸島だけでなく、
鹿児島近辺にあるものから数えると相当な数になります。
71 :
日本@名無史さん :04/06/26 16:11
>>70 女王の境界が尽き所が那、その南がクナ
那までは女王の領域
那が南西諸島としたら沖縄列島自体が邪馬台国の一部になるぞ
沖縄本島がクナの場合、那はどの島なんだよ
>>66 >いいえ。絶には2つの可能性があることを示しています。
それを根拠とは呼ばないんだよ。
邪馬台国の場所に九州と畿内の二つの可能性があることが、
九州説の根拠だというくらいおかしいことだ。
わかる?
>いいえ。東治・東冶が指す場所は2つ可能性があります。
ないんだよ。
後漢で東部候官と呼ばれた東冶以外には。
あると言い張るなら、そのことを示す史料を出してごらんな。
できないだろ。
73 :
日本@名無史さん :04/06/26 16:18
つか自説を自身持って主張できずに、いつでも逃げれる体制ですか 真実は2つないんだよ、沖縄か南九州か自分の中で結論つけて出直して来い。
東治・東冶より会稽郡(魏のね)であることに 重点をおくべきではないか? 会稽郡の東ったら鹿児島あたりじゃねーの?
75 :
日本@名無史さん :04/06/26 16:27
>>74 当時、緯度を知る機械も無い
緯度の概念が本能的原始的にあったとしても
九州の特定地域(鹿児島とか)と同じ緯度と知ることは不可能。
76 :
日本@名無史さん :04/06/26 16:47
>◆vj24X7IGQQ 女王国が南にあるというところまではおまえと共通認識 で、倭人伝の記述のながれは 水行10日陸行1月など(邪馬台国の説明・行ってない) ↓ 女王国以北の説明(行ってないから分からない) ↓ 女王国の境界の説明 俺は女王国まで水行陸行で省いた国々を羅列と解釈、矛盾ある?
鹿児島ってのは蛇足だったけど、オレが言いたいのは 「会稽郡」てのは魏でも呉でも江蘇省とかチョーチャン省(出ない) のあたりでしょう、ということで。 「東治・東冶」にこだわって福建省ーその東ー沖縄・・・とか いうのはどうかなーと。
78 :
◆vj24X7IGQQ :04/06/26 17:22
>>71 > 沖縄本島がクナの場合、那はどの島なんだよ
その場合は、与論島、伊平屋島、伊是名島が有力に思います。
特に、伊平屋島、伊是名島は、その真南に沖縄本島があります。
>>72 > 邪馬台国の場所に九州と畿内の二つの可能性があることが、
> 九州説の根拠だというくらいおかしいことだ。
いいえ。おかしくありません。両方あるなら、両方の可能性を検討すべきです。
私は、九州説と畿内説の両方の立場を検討して、
畿内説には矛盾が多すぎると判り、畿内説を捨て、九州説になりました。
始めから九州説、畿内説を決めてしまうから、間違った結論を導くのです。
この分野には、なぜかそういう人が多いですが。
東冶という地名は会稽から少し離れた場所に確かにあります。
福建省福州市付近のことで、当時「東冶」と呼ばれていたことを示す文献も多々あります。
呉書呂岱伝
西暦200年、呂岱は、督軍校尉に任じられ、蒋欽と共に会稽、東冶の叛乱を討っています。
西暦235年、廬陵、東冶、南海で反乱が起き、留纂、唐咨を従え討伐しています。
>>73 それは間違ったの思考法です。この分野には、なぜかそういう人が多いですが。
>>76 「次有『奴国』、此女王境界所尽」の「此」は『奴国』以外を指せません。また、
倭人伝の記載を信用すると、北に逆行は矛盾がある(北なら戸数道里が略載できるに。)
逆に北以外なら矛盾は無く、例えば西に行って熊本に行くことは可能。
倭人伝の記載を信用しないとするならば、もちろんどんな可能性も(畿内説も)あるが、
倭人伝の記載は大きな矛盾は無く理解できるので、まずその可能性から検討するべきでしょう。
結果として大きな矛盾が出れば、倭人伝を信用するのは捨てるべきですが。
>>78 >おかしくありません。両方あるなら、両方の可能性を検討すべきです。
だからね、これから検討しなきゃいけない事項なら根拠じゃないだろ。
あんたが、
>>23 で「根拠は・・・」といって第一に挙げたものが根拠から脱落した。
そういうこと。
>福建省福州市付近のことで、当時「東冶」と呼ばれていたことを示す文献も多々あります。
そこしかないんだよ。
魏志の倭人伝を書いた人は、女王国が現在の福州の東あたりにあると、
道のりを検討して推定した、ということ。
81 :
日本@名無史さん :04/06/26 17:50
>>78 なんかわかってないよ、君
簡単に言うとだね
「女王までは南に40日かかります、途中にある国は省きます、でも名前は教えてもらったから羅列します」
南に行った道程を振り返れば北だろ
俺の解釈はこんなところだよ、矛盾点教えてよ
というかおまえは沖縄クナ説だろ、与論島が那国であると納得させる気ある?
これからwebで物証探す気持ち君にある?今の時点では与論=那はパッと思いついた屁理屈
低レベルな言葉遊びや屁理屈の練習しているとしか見えないけど。
82 :
帰ってきた24歳無職 :04/06/26 18:16
九州説の人のよりごころって唯一 倭人伝の「南」っていう方向だけでしょw あとは全部畿内のほうが有利って気がするな。
83 :
日本@名無史さん :04/06/26 18:57
84 :
◆vj24X7IGQQ :04/06/26 19:03
>>81 > 「女王までは南に40日かかります、途中にある国は省きます、
> でも名前は教えてもらったから羅列します」
> 南に行った道程を振り返れば北だろ 俺の解釈はこんなところだよ、
そう想像されるのは自由ですが、「魏志倭人伝の文面に
そう解釈する余地はあるか」と聞かれれば、それはNOでしょう。
既に指摘したように、矛盾だらけです。無理な解釈と言わざるを得ないでしょう。
> というかおまえは沖縄クナ説だろ、
いいえ違います。文献の記述を信じるならば、
沖縄が自然ですが、南九州も不可能ではありません。
21国は北ではないと言ってるだけなのですから、西もありです。
沖縄にも南九州にも個人的な思い入れはありません。
> 与論島が那国であると納得させる気ある?
いや与論島より、伊平屋島、伊是名島の方が有力ですよ。
ただし、現段階で与論島の可能性も捨ててはいけませんが。
> パッと思いついた屁理屈
いえ、魏志倭人伝の文面に沿って解釈した場合に、
記述と矛盾がもっとも少なくなる解釈です。屁理屈というのは、
無理な解釈をいれて矛盾を消すことです。(畿内説など。)
沖縄説に、1箇所でも無理な解釈がありましたか?
「他の解釈がある」という指摘はあっても(それは私も認めています。)
「無理な解釈がある」という指摘はありませんね。
現段階では、この仮説を捨てるべきではありません。
(もちろん、南九州説も捨てるべきではありません。)
流石に緯度や経度まで正確には中国でも無理でしょうね。そういう概念自体 無かったわけだし。あと、長江河口辺りから出発すれば、季節によってはふ つーに対馬や五島辺りに着くそうだから、それも判断の基準になったかもしれ ません。
86 :
日本@名無史さん :04/06/26 19:10
>矛盾だらけです だから矛盾点を挙げろって、「矛盾だらけです」じゃ(w
87 :
◆vj24X7IGQQ :04/06/26 19:19
88 :
同士諸君。この排他的な左翼どもを撃滅せよ :04/06/26 19:23
89 :
原文が見当たらないので意訳文で我慢 :04/06/26 19:24
南、邪馬壹國に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。官に伊支馬有り。次を彌馬升といい、次を彌馬獲支といい、次を奴佳デという。 七萬余戸ばかり有り。女王國より以北はその戸数、道里は得て略載すべきも、その余の某國は遠絶にして詳らかにすべからず。 次に斯馬國有り。次に己百支國有り。次に伊邪國有り。次に都支國有り。次に彌奴國有り。次に好古都國有り。次に不呼國有り。 次に姐奴國有り。次に對蘇國あり。次に蘇奴國有り。次に呼邑國有り。次に華奴蘇奴國有り。次に鬼國有り。次に爲吾國有り。 次に鬼奴國有り。次に邪馬國有り。 次に躬臣國有り。次に巴利國有り。次に支惟國有り。次に烏奴國有り。次に奴國有り。 これ女王の境界の尽くる所なり。 女王国より以北は戸数道程を略すって書いてますよね、その上で略された国名が出てきますよね。 おまえの言葉遊びには疲れたよ、またな。面白い意見があれば反論してやるよ。
90 :
原文が見当たらないので意訳文で我慢 :04/06/26 19:25
91 :
日本@名無史さん :04/06/26 19:34
>67 銅鐸消滅の原因としては、産銅供給サイドにおいて国内の政情不安、資源の枯渇、 倭国向け銅鏡供給の増大による供給能力の低下、倭国内の銅原料調達先からの 後漢-倭奴国の輸入能力の低下、銅鐸地域が銅鐸鋳造/葬礼執行集団に対する 宗教的従属のため鏡矛集団である邪馬台国への納税義務を拒否することを禁止 するために銅鐸の製造、使用を禁止したことが考えられる。その時期は出雲が 葛城から撤退する時であろう。この結果、銅鐸鋳造/葬礼執行集団が職を奪われ 「狗奴国」となった。
92 :
日本@名無史さん :04/06/26 19:36
まだ、九州説を唱えるアホがいるのか。 いくら2ちゃんねるとは言え、レベル低すぎ。
93 :
◆vj24X7IGQQ :04/06/26 19:37
>>79 東冶は会稽郡に属しますが、会稽、東冶はそれぞれ都市であり、
「会稽、東冶の叛乱」というように、会稽と東冶を別々に捉える
(東冶in会稽 以外の)解釈があることを判っていただければ十分です。
もう1つの「東治」の方は、長江河口北岸にあります。
これを指すようだと、九州南端がやや有利だと思います。
そろそろ放置かな⇒◆vj24X7IGQQ
95 :
アホは、畿内説 :04/06/26 20:04
九州への「西征説」の方がよっぽど「レベル低い」よ。 考古学的にありえないし、単なる妄想にすぎない。 銅鐸文化の消滅をなんと考えるているんだろうか。 無知蒙昧とはこのことだ。
96 :
日本@名無史さん :04/06/26 20:05
>91 東遷がなかったとすると長髄彦、名草戸畔等への攻撃を行なったのは誰であろうか。 それは史実に反したことであったのかもしれないが、それは本来のイワレの住民である 磯城県主家であったのかもしれない。
97 :
アホは、畿内説 :04/06/26 20:09
畿内説信者は、安本美典の爪の垢を飲め。
99 :
◆vj24X7IGQQ :04/06/26 20:17
>>89 > 女王国より以北は戸数道程を略すって書いてますよね、
> その上で略された国名が出てきますよね。
ええ、その解釈は間違いです。
略載の中国語の用例を引いてみてください。例えば、
二十六億九千五百十七萬七千六百十元(起訴書略載為二十六億九千五百萬元)とかありますね。
魏志の他の箇所にも、曹操がケイシュウを攻めたことを「略載」するだとかあります。
略載とは、載せないことではないのです。
大雑把に書くということなのです。戸数や道理を大雑把に書いたのです。
>>90 >>76 は
>>78 の間違いです。
九州邪馬台国は大和朝廷になったか? まず、記紀がニニギを直接大和に天降りさせずに日向地方に天降りさせその子孫である 伊波礼彦(神武天皇)をそこから大和に向かわせたのには何かしらの意味があると思われる。 ⇒九州説に矛盾なし。 さて、このイワレヒコの大和入り際しては、長髄彦(ナガスネヒコ)なる人物の抵抗を受ける。 確認すべきは大和朝廷自身が大和朝廷成立以前に先住民(国)の存在を認めている点である。 マキムクなどの勢力が邪馬台国より古くても九州説に矛盾が出ないのがわかる。 ちなみにナガスネヒコはイワレヒコに対して「この国は、私の妹を娶った、饒速日命(ニギハヤヒ)の国である。」 と言っている。このニギハヤヒがイワレヒコより先に大和を統一していると見てもよいだろう。 妹を娶って王になったと言う記述はニギハヤヒもイワレヒコと同じく外部からの侵入者と見て良いと思う。 書記によるとニギハヤヒも「天降り」しているとある。そしてその際にその地域を「虚空見日本国」と名付けたとある。 特筆すべきは「日本」という名がを大和朝廷によって名付けられたのではなく先住者の国名(地名)と言う事である。 イワレヒコの大和入りはナガスネヒコの抵抗以外に特に交戦の形跡が見当たらないのと、 『日本書紀によると』結局、イワレヒコはニギハヤヒがナガスネヒコを殺すことによって大和入りを果たす のであから、イワレヒコ(邪馬台国勢力)の武力制圧でなく何らかの『合併政策』でないかと思われる。 少し年代は下るが「旧唐書、日本伝」によると「日本は旧小国、倭の地を併するところとなる」と 日本と倭(邪馬台国)の合併を示す文書があるのはその証明と言えよう。
九州邪馬台国は大和朝廷になったか?2 『古事記』によると、イワレヒコ(神武天皇)は「大物主」を娘を娶る話が記載されている。 書記は事代主の娘としているが、どちらにしても出雲神であるのは注目すべき点である。 すなわち、神武以前に大和は出雲(大和の外部)の影響を受けているのである。 2〜4代天皇の皇后が全てニギハヤヒの子、宇摩志麻治(ウマシマジ)の子、磯城県主から出ている事を 考えるとニギハヤヒ=大物主との推論も成り立つが、大和朝廷が合併王朝であるのは疑いにくいようである。 ちなにみにニギハヤヒは物部氏の遠祖である。 まとめ 邪馬台国【九州説】を用いて 大和朝廷を邪馬台国(倭国)と日本(ニギハヤヒ勢力=出雲神族か?)の合併王朝 として説明をしても記紀をはじめとした書物と矛盾すことはない。 マキムク遺跡の年代が邪馬台国より古くても九州説には全く影響しない。 九州邪馬台国は大和朝廷に影響したと言える。
102 :
日本@名無史さん :04/06/26 20:28
>>99 わかったわかった、大雑把でいいよ
大雑把に書いて戸数道程がはぶかれたんだろ、それでいい
で
おまえはどこから「北以外、西、東」などと解釈したんだ?
原文でも意訳文でもいいよ、具体的にどこからそういう発想が出てきてのだ?
次に奴國有り。 これ女王の境界の尽くる所なり。 ⇒女王国の境界は奴國までですよ。 これをどう読んだら女王国までの過程になるんだろう・・・ ↓ ↓ ↓ ↓ 二十一ヶ国の最後(奴國) ↓ ↓ <ここまでが女王国の境界 (女王国) ↓ ↓ (狗奴國) *その(奴國)南に狗奴國有り。女王に属せず。 全く意味がわからない・・・ あの世で陳寿も苦笑してるんだろうな・・・
104 :
日本@名無史さん :04/06/26 20:49
九州邪馬台国は大和朝廷になったか? 1:元祖邪馬台国は薩夜麻を唐の傀儡王とする 半島の利権放棄国家となった 2:本家邪馬台国は壬申の乱で畿内政権を簒奪した 九州出身の天武天皇が樹立、元祖を滅ぼした よって、大和朝廷は邪馬台国を引き継いだと宣言したものの 邪馬台国は天武によって滅亡している
>>104 それに関してはスレ違い。他でやって下さい。しかも!
>九州出身の天武天皇?????
106 :
日本@名無史さん :04/06/26 21:01
>>105 天武は九州邪馬台国の王族だと考えられますね。
記録を照合すると、兄より4歳年上の弟だということですが
実際には薩夜麻を兄王とする、弟王が天武。
だから天武天皇は、自分の権限で、九州から法隆寺を移転させた。
107 :
日本@名無史さん :04/06/26 21:04
>>99 まあ、言葉遊びやディスカッションゲームしてるわけではないから
質問もこのへんにしておく、べつに上記の俺の質問に答えなくてもいい
ところでおまえ古漢文詳しそうだな
「餘旁國」はどういう風に解釈してる?
108 :
◆vj24X7IGQQ :04/06/26 21:06
>>102 > 大雑把に書いて戸数道程がはぶかれたんだろ、
その解釈は不可能です。
戸数道里を略載するのですから。
> おまえはどこから「北以外、西、東」などと解釈したんだ?
全て文献からです。
「自女王国以北其戸数道里可得略載、其余旁国遠絶不可得詳」
女王国以北は戸数道里略載可能。それ以外の周辺国は・・・
戸数道里の略載がない21国は、北以外です。
>>93 それは誤訳。
呂合・秦狼の乱は東冶付近の五県の反乱。
随春は東冶の賊。
いずれも現在の福州近辺の出来事。
>もう1つの「東治」の方は、長江河口北岸にあります。
だからさ、そんなものはないんだよ。
どうしてもそんな「東治」があると言い張るなら、
存在したことを示す史料を出せというておるのだが。
110 :
日本@名無史さん :04/06/26 21:21
111 :
日本@名無史さん :04/06/26 21:39
自女王國以北其戸数道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳 わかった、おまえとの解釈の大きな違いは「其」だな 女王国以北の主語はなんだ?2つの其は餘旁國に掛かってないか? 余旁国は本当は「行程の道端の国」と解釈したいんだが 俺は 「戸数道里略載可能だが周辺国は遠くて書けないので大雑把に書きます 〜〜〜〜〜で、境界の外れが那国です」 この「遠くて」は使節は留まった場所から遠くてという意味で 邪馬台国から「遠くて」という意味ではない どちらにしろ実際に行けば水行陸行で周辺国の近くは通過する 邪馬台国側から使節を見れば「北」から来てるんだよ その周辺国が21の周辺国が一つも北ではありえないというのはおかしくないか?
112 :
日本@名無史さん :04/06/26 22:09
まあ解釈はいろいろあるしな またな、畿内亡者に負けないように頑張ろうや
114 :
日本@名無史さん :04/06/26 22:58
邪馬台国って大和朝廷に較べると海洋南方系ぽいよね。 隼人族が邪馬台国の子孫なのかな。 大和朝廷は刺青とかしないよね。
115 :
日本@名無史さん :04/06/26 23:01
>>82 事実かどうかは別にして邪馬台国はどこかわからないからロマンがある派の俺としては
>>100 >>101 みたいな畿内説側の「ソース付き」の検証キボン
畿内説は九州説に文句を付けてるだけみたいに思えちゃんだよなー
隼人族は入れ墨とかしないようです。海洋民族っぽくないわけで。
>>114 「其の南に狗奴国あり」
「男子は大小もなく、皆 鯨面文身す」
これは読み方によって解釈が異なるんだけど
刺青してたのは、狗奴国であって邪馬台国の人ではないんですね。
でも、普通に読めばそれらの説明が海洋南方系ぽいと思うのは誰が考えてもその通り。
その俗挙事行来に、云爲する所あれば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、
先ず卜する所を告ぐ。その辞は令亀の法の如く、火タクを観て兆を占う。
その会同・坐起には、父子男女別なし。人性酒を嗜む。魏略曰く、四季を知らず。
四季を知らず・・・
118 :
日本@名無史さん :04/06/26 23:28
中国人基準の四季でしょ?
119 :
日本@名無史さん :04/06/28 00:06
高天原 ↓ たかいアマのはら ↓ 海原の高いところ ↓ 鹿児島から台湾までの島々
120 :
日本@名無史さん :04/06/28 00:14
122 :
日本@名無史さん :04/06/28 01:14
またーり進行きぼうでふ
123 :
日本@名無史さん :04/06/28 15:41
>>117 >「其の南に狗奴国あり」
>「男子は大小もなく、皆 鯨面文身す」
狗奴国とは断定したくないが、今でも磯城郡と呼ばれる奈良盆地南部、
特に三輪山周辺には東南アジア系の入墨をした部族がいたのではないか。
神武の出合ったエシキ、オトシキなど、初期に反抗して後に服属した人達だ。
大和政権の母体が、布留(遺跡)あたりにあったと思っての発言ですがね。
124 :
日本@名無史さん :04/06/29 22:56
3C後半に邪馬台国が東遷し(神武東征のモデル)、マキムクを 建設。前方後円墳の祭祀が始まった。 おおざっぱに言えば、ここのスレの九州説(邪馬台国⇒大和朝廷)の人は、 このように考えているのでしょうか?
125 :
日本@名無史さん :04/06/29 23:31
なんか、最近『邪馬台国は今の大分市にあった』とかいう説があるんですが、 あれはどんなもんなんでしょうか?
最近の説ではない。 大昔の珍説。 でもたしか70年代以降の邪馬台国ブームの火付け役になった本だよな。 著者は目の不自由な人で。
127 :
日本@名無史さん :04/06/30 00:07
大分県は、大和朝廷が邪馬台国の残党狩りをしたときに 重要な拠点になったんじゃないでしょうか? 宇佐神宮はこのとき国政に浮上したのでしょう。
>>126 オイオイ・・・・いいかげんなこというなよ。
それは「幻の邪馬台国」だろ。宮崎康平の。
島原説だよ。
>>125 大分市説というのは聞かないなぁ。
129 :
日本@名無史さん :04/06/30 05:44
古墳規模x古墳数x魏鏡x魏鏡出土枚数、この分布図の重なる地域を邪馬台国 と定義して問題ない。邪馬台国位置問題についてはこの辺で棚上げにする。本スレの 設問はこれが皇統につながるかどうかの話と解釈。ヒミコが魏志の登場するAD238- 248年の頃は箸墓建設の布留0式土器と重なるかどうか。最近の暦博データでは布留1式 でAD210年が出るが較正に諸説があり断言されてはいない。ホケノ山の木片年輪でも 似たような結果になったようだ。これはヒミコが歴史の登場する前から、もしかして、ヒミコが 歴史に登場する理由が箸墓にあったのかもしれないことをも黙示する。つまり、箸墓被葬者は前方(東日本)と後円(西日本)の代表的天皇を採るのがいいのかもしれない。単に記紀の表現だけから見れば神武が大分、綏靖、ヌナカワは上越だからこの初代と二代目の 日嗣儀式ということか。当時は女系であるから男性のキャラクターは在地性が少なく イチロー、松井のような感じなのか。神武后は三島辺のもので、綏靖后も同じようである。 後世に継体の墓のあるのもあの辺だからいい線を行っているんじゃなかろうか。
また箸墓かよ、卑弥呼関係ないって(w 卑弥呼なんて欲出さずに真面目に箸墓について考えようよ
131 :
日本@名無史さん :04/06/30 06:00
京都の言葉で女性性器をオソソという。モモソヒメのソという意味がそれと
関係あるとするのは下司の勘ぐりなんだが、このソは十、すなわち、交差する
直線であってセンターを表す。桃は呪いで投げたりするが、昨年出雲で出土した
十文字に埋納された桃梨の甕が答えを示す。つまり測量の際路上に表示する
基準点のような考えであり、モモソは聖なる中核、つまりは、大極であり、トトビ
は飛ぶ鳥
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/yasumotosetu3.htm ↑の二つの絵共にど真ん中にも鳥とあるが絵全体は見事に飛ぶ鳥だ。
鳥とは国土となる。国土中核女王となると石原さんも顔負けか。ま、ヒミコに
間違いないだろう。
132 :
日本@名無史さん :04/06/30 06:05
神話に出てくる韓国は朝鮮ではない。 韓国岳などは本来韓国(むなこく)である。 他の記述に日向国は韓国(空国、むなこく)で あり不毛の地で作物が取れず気象が不安定なので東征したとある。
133 :
日本@名無史さん :04/06/30 06:06
欠史時代はルールがなく十把一絡げであり、マージャンで言えば2卓程度の 客がいたってことであり、倭人伝にも邪馬台国は4官制度となっている。あれは皆 天皇だ。
134 :
日本@名無史さん :04/06/30 06:10
倭人伝の御座、御垣なんていうのは天皇である証拠。ナカテ、イキマなども 二つの鳥見山がらみの天皇と見ればよい。
135 :
日本@名無史さん :04/06/30 06:24
伝承のように箸墓はモモソヒメの墓なのか、それともモモソヒメがどなたかを埋葬した (親孝行で母親のセヤタタラヒメを埋葬したなんて)モノなのか、これは宮内庁のある 限り議論はやめよう。
136 :
日本@名無史さん :04/06/30 07:12
邪馬台国外交官TOSHIGORI NASHIMEであるが、先ず鏡作りのISHIGORITOMEにある ISHIGORIとTOSHIGORIは十市郡といった言葉を想起させ、製品輸入と技術輸入の両方を 狙って何度もずうずうしく押しかけた産業スパイの感じがする。梨が呪術に使用されていた らしいことは昨年の出雲の梨甕の出土で察しがつくが梨部というのもどうもスサノオ、イタキソ同様植物種子、苗木獲得の商売人ではなかろうか。
古墳がでかくて沢山あれば邪馬台国にする
>>129 のいるスレはここでつか?
ついでに、△縁も魏鏡にしてしまった
>>129 いるスレはここでつか?
138 :
日本@名無史さん :04/07/01 00:17
プレ大和政権は、大和川、淀川流域の王族たちが大同団結して出来た。 それが邪馬台国かどうかは別として。 その後、吉備や東海、北陸などが参加して、青銅器祭祀を止め、 前方後円墳祭祀を創始。王都マキムクを造営する。 3C〜4C初の時期は、概ねこのような流れだったのでは、 と思います。 北九州の有力首長は、この時期、まだ前方後円墳祭祀を受け入れておらず、 プレ大和政権とは同盟、もしくは中立の立場で、対立はしていなかった。
139 :
日本@名無史さん :04/07/01 00:26
>>138 出雲は?
それだと国譲りの説明が出来んよ。
神武東征もだけど、まずはくに譲りが・・・
140 :
日本@名無史さん :04/07/01 00:45
実際は神武西征
記紀の出雲神話は、伊勢大神(太陽神)を皇祖神に定めた時、 伊勢と対立する概念として、生み出されたものなのでは、と思います。 アマテラスを生み出す時に(つまり統一政権誕生、大王家による国家祭祀の 独占)、全国各地の国津神を、西の果て(根の国)に駆逐したのでしょう。 タケミナカタにしろ、事代主や大物主にしろ。私はそれを、崇神天皇の頃 ではないかと、勝手に想像していますが。 記紀が語るところの出雲神話。それが出来た当時の大和朝廷の直接版図が、 東海〜出雲あたりまでであったということでしょう。
>伊勢大神(太陽神)を皇祖神に定めた時 持統天皇ですよねこれ。 >伊勢と対立する概念として、生み出されたものなので 出雲神話は架空? >全国各地の国津神を、西の果て(根の国)に駆逐したのでしょう。 大物主は大和で一番重要な三輪にまだ鎮座されてますが?大神神社です。 まさか知らないとはおっしゃらないでしょう? >私はそれを、崇神天皇の頃 ではないかと、勝手に想像していますが。 「それ」は駆逐にかかるのですか? それならなぜ崇神天皇は大物主をあれほど恐れて敬ったんでしょうなぁ? その時代に三輪から伊勢に駆逐されたのは伊勢大神の方ですよw 完璧に破綻してますよ。
143 :
日本@名無史さん :04/07/01 02:53
確かに破綻していたかもしれません。 ただ、いくつか補足させてもらうと、「国津神の出雲への駆逐」という 言い方が悪かったのかもしれませんが、本来、出雲とは関係がなかった神々 が、出雲(根の国=伊勢の対立概念)にまつわる神とされてしまったという 意味で書きました。つまり、大和政権の版図拡大に合わせて、神話世界の方も 拡大していき、東=聖=伊勢、西=穢=出雲と定められたのでは、という意見です。 出雲神話創作についても、あくまで「記紀の出雲神話」と書いてますが、 ヤマタノオロチや国譲りなど、大和朝廷側に都合よく書かれた方の 出雲神話の意味です。出雲王国が古来より先進地域で、神話を語り継いでいた ことを否定する気は毛頭ありません。 アマテラスの皇祖神化が壬申の乱以降というのは、現在有力な説らしいですね。 私は、記紀にかかれているのが案外当たっていて、崇神の時では、と思っていた だけです。
145 :
◆Y7ZOVqhOuE :04/07/01 21:10
皇室は父系継承が大原則なのに、皇祖神は女神という矛盾。 当時の時点で考えれば、男性の神が別にいた(一部の電波学者はニギハヤヒを主張)、と考えられる。 そうであれば、伊勢神宮の内宮が女神を表す千木なのに外宮が男神を表す千木になっている理由がつく。(外宮はトユケで女神)
146 :
日本@名無史さん :04/07/01 21:26
ヤマタノオロチって邪馬台国のことなのか?
147 :
日本@名無史さん :04/07/01 22:31
九州の山門、八幡、奈良の大和、八つの支流を持つ河川に関すること、蛇(三輪山の 神)のこと色々の可能性があるがクシナダ姫と結婚しハッピーエンドというのは地元の 話みたいだね。
八岐大蛇は神話だろw
149 :
日本@名無史さん :04/07/01 23:46
>>144 >本来、出雲とは関係がなかった神々が、
>出雲(根の国=伊勢の対立概念)にまつわる神とされてしまった
>出雲王国が古来より先進地域で、神話を語り継いでいた
>ことを否定する気は毛頭ありません。
『↑再度、破綻なさっておられます。』
大物主はともかく建御名方神(諏訪大明神)は大和に来た(または居た)
もしくはそれ以外の地域に来た(または居た)ような神社伝承や伝記も何もないぞ。
出雲生まれの出雲育ちで信濃で死ぬ。
現実に、出雲にその時代の古代遺跡等があるのだから信用してもいいだろう。
元から出雲にいる諏訪大明神をわざわざ(西=穢=出雲)に持っていく理由は何もない。
その解釈は出雲の古代遺跡が発見される前の
「出雲神話は作り話。出雲は人の住めるようなとこではなかった。」とか
適当な事ばかり言っていた【過去の学者】の解釈です。
150 :
日本@名無史さん :04/07/01 23:49
>東=聖=伊勢、西=穢=出雲と定められたのでは、という意見です。 これは正しいけど。
151 :
日本@名無史さん :04/07/02 00:02
>>148 毎年おこる簸の川の洪水を鎮めて治水工事を行った故事が、
須佐之男命のヤマタノオロチ退治の伝説になったのではないかという説があります。
支流がたくさん分かれていて上空から見るとヤマタノオロチのように見えたのかもしれません。<苦しい
また出雲は変な名前の人が多いのでオロチと言う名前を名乗っていた首長あたり
を倒して出雲統一のきっかけを作ったともいいます。もちろん人間であり大蛇ではありません。
因幡の白兎に同じく単なるお伽話を挿入した可能性もあります。
152 :
日本@名無史さん :04/07/02 00:14
ヤマタノオロチは出雲に攻めてきた九州ヤマタイ勢力を畿内と出雲が 協力して追っ払ったという神話だぞ。
153 :
日本@名無史さん :04/07/02 00:18
>>152 そんでもって、ヤマタイ勢力は製鉄の技術を持っていた、これは出雲、畿内には、
まだなかった。
でも、謀で進出してきたヤマタイ勢力を倒して鉄の技術を手に入れたことを表して
いる。
草薙の剣だっけ?
>>149 ひとつひとつ言い訳をしていくのにも疲れてきましたが…
141で私は、「全国各地の国津神を西の果てに駆逐」と書いたと思いますが。
タケミナカタが大和にいたとも書いていませんし。
私は、諏訪のタケミナカタが出雲由来の神というのに疑問を持っている訳です。
そもそも諏訪の神であったタケミナカタが、オオクニヌシの息子にされた
のでは、と考えています。
出雲に古代遺跡があるからとかの反論は、余り意味がないのではないでしょうか。
私が、このように「記紀に書かれている」出雲神話について言及しているのは、
139さんの「138の説明では【国譲り】が説明できない」との指摘に答えている
訳です。国譲りとは、あくまで天孫の倭国支配の正統性を主張するために創作
されたもので、実際、出雲が大和朝廷に屈服したのは、崇神の時、出雲振根討伐
の頃では、と思います。
しかし、古代史の話をする時に(ましてや神話で)、なぜ自信満々で断定できる
人がいるんでしょう。タケミナカタは出雲生まれ出雲育ちで信濃で死ぬ、ですか…。
それは記紀に書かれていることですし、あなたはそういう考えで構いません。
しかし他者の意見の可能性すらを否定できる程、根拠のあるものではないでしょう。
155 :
日本@名無史さん :04/07/02 01:26
>>152 草薙の太刀( くさなぎのたち )ってのが古い言い方らしい。
ほう、出雲が邪馬台国勢力に攻め込む前に一度、攻め込まれていたと・・・なるほど。
初めて聞いた説だな。ソース欲しいね。
島根県大東町の清田(セイタ)に鉄の鉱山がある。(清田の旧地名は西利太(セリタ)なんだが。)
ここには日本の鉱山には必ずと言っていいほどよく祀られる金山彦神の西利太神社がある。
たぶんここが本家だろう。
そしてそこから簸の川に流れる支流に赤川ってのがある。
この赤川は今でもそう呼ばれてるんだけど「鉄のサビで赤かった」と伝えられている。
西利太の長が オロチ と言う名前だったがどうかわからないけど。
スサノヲはここを押さえて鉄を入手して当時としては恐ろしく強い鉄の太刀の軍団で
出雲を統一して邪馬台国に侵略したと考えられる。
邪馬台国が青銅器の武器防具ならそら恐ろしかったろうね。
まさに神の剣と呼ぶにふさわしいだろ?
俺は、出雲は元から製鉄王国だったと考える。
156 :
日本@名無史さん :04/07/02 02:57
>>154 すまんすまん。少し粘着しちゃったよ。君は
>出雲王国が古来より先進地域で、神話を語り継いでいた
>ことを否定する気は毛頭ありません。
と、言ってるように
>>148 のような人物とは違うんだよね。
ん〜
>>155 でも述べたように出雲神話はいわゆる神話として扱うには史実を反映しすぎているんよ。
これは、俺、個人の見解やけど記紀という書物は、無理矢理神話にした歴史書と判断してるんだ。
>伊勢と対立する概念として、生み出されたものなの
とか言われちゃうとついムキになってしまうんだわ。すまん。あやまるよ。ゆるしてくれ。
でも、>そもそも諏訪の神であったタケミナカタが、オオクニヌシの息子にされた
これは絶対に認められないんだわ。
諏訪では元々「ミシャクジ神」と言うの蛇神が信仰されてたんだ。(まぁ大物主も蛇神だけど)
これがいわゆる神様なのか人格神なのかはわからないけどその証拠に
代々諏訪大社の「神長官」を務めた守矢家邸内に祖神「ミシャクジ神」を祀る祠があるんだ。
地元の伝承では土着のミシャクジ神を奉じる洩矢神(もれやのかみ)と
出雲から侵入してきたタケミナカタ神が戦い、敗れた洩矢神は子々孫々タケミナカタ神を
祀らされる破目になった。その末裔が守矢氏なんだけどね。
諏訪の方でもタケミナカタは出雲からの侵入者としているだよ。
こんなの大和が作った作り話に合わせてでっちあげる必要ないよね?
記紀に書かれていることだけではないんですよ。
タケミナカタは出雲から逃げながら諏訪の地を侵略して行ったんだろうけど鉄を持ってたろうから
その時代(出雲と比べて)かなりおくれていたと思われる諏訪の人々にはどうしようもなかったんだろうね。
「守矢家邸内のミシャクジ神の祠もでっちあげだ」
と、言われると俺は沈黙しなくてはならないのは確かなんだがね。どう思う?
158 :
日本@名無史さん :04/07/02 07:32
水方に武がつくんだから水軍的集団。諏訪で渇鉄の探鉱が始まるから製鉄資源 探鉱集団が到着するってことだな。後に相馬、釜石方面にまでいたる鉄鉱原料 生産地開拓の始まりか。
ミャーンマイタイの蛇神軍と言えば耶馬台の ヒビコ=ヘビコ軍 ミャンマイタイのヒビコが猫声で世間を惑わす猫占いを行い、首にヘビを巻きヘビ信仰の神でもある。電波協会より
>>156 私の方こそ、昨夜は感情的になり過ぎました。すいませんm(__)m
私は、オオクニヌシ自体が記紀神話が生み出した総合神と考えています。
ですので、私と156さんの意見は相容れぬ訳ですが…。
ミシャクジは確かに興味深い神様ですよね。私はこの神様は、石神(シャクジン)
=巨石信仰や諏訪湖の水の精霊が合わさった、縄文の狩猟採集文化を
色濃く受け継いだ神様では、と思います。
>地元の伝承では土着のミシャクジ神を奉じる洩矢神(もれやのかみ)と
>出雲から侵入してきたタケミナカタ神が戦い、敗れた洩矢神は子々孫々タケミナカタ神を
>祀らされる破目になった。その末裔が守矢氏なんだけどね。
室町時代初期の『諏訪明神画詞』のことですか。確かに面白い伝承だとは、
思います。
161 :
日本@名無史さん :04/07/03 00:39
>>160 いえいえ!何だか自分の説を無理無理に押し付けたようでいやなので・・・
「記紀」がほんとうに信用できるのか?という事なんだけどもちろん歴史書であるなら
それは時の権力者によって都合の言いように書き換えられているのは認めなくてはいけない。
これは「伝承」にしても同じことなんですね。
例えば捻じ曲げられた伝承の例として「出雲国造神賀詞」となかんですけど、
「己命の和魂を倭の大物主の命と名を称え、大御和の神奈備に坐せ・・・」
つまりは記紀に同じく『大物主』が『大国主』(大己貴)の別名だと偽証させてる訳です。
記紀が大国主をその系譜にスサノヲの子にしたり6世の孫にしたりて、挙句の果てには須世理姫を娶って
スサノヲに婿入りするというどう考えておかしい話を正当化しようとしてるんですね。
これはスサノヲの子「大物主」をうやむやにしてしまいたいという記紀の陰謀であるのは
「出雲国造神賀詞」の成立時期から見ても明白なんだけ伝承が歪められてるのは確かなんですわ。
で、俺は「ミシャクジ神伝承」が室町以前のいつ時代からあるのかは証明できません。
「出雲国造神賀詞」の例に同じくご指摘のとおりです。
出雲から信濃に向けて点々とある建御名方神を祀った神社が
彼が出雲から来たことを物語ってるのではないかと言う推測しかできません。
162 :
日本@名無史さん :04/07/03 00:40
あと、建御名方神を追って来たとされる、武甕槌(タケミカズチ)と経津主(フツヌシ)なんだけども 彼らを祀った神社がそこら辺りに全くないんですよ。 なぜ・・・それにミカ、フツなどこれどう見ても出雲っぽい名前・・・と思ってたら。 崇神天皇の時代に三輪山(大神神社)の大物主の神主に選ばれた大物主6世の孫、オオタタネコの父、 すなわちは大物主5世の孫に『武甕槌』の名前が見られました。 時代を考えると両者は別人であるのは間違いありませんが・・・。 一番あやしいのは「藤原氏(中臣氏)」が国譲りの武甕槌を氏神にしている事なんです。 藤原氏(中臣氏)は、武甕槌を氏神だと言ったり神八井耳命、天児屋根命 ・・・いずれも皇祖神(天皇)に繋がる名門なんですが。 正直、どこからやってきたのか怪しい人たちなんですね。百済からの亡命者(王族)としている人もいるようですが、 案外当たってるかもしれません。天智天皇は百済にかなり執着していたようですしね。 私の推論としては、出雲の国譲りは神武天皇の大和入り(ニギハヤヒ=大物主の入り婿として) に先駆けての合併ではないんだろうかと・・・。 (三輪の大物主を祀る大神神社に「日向御子」と言う人を祀った社があるんですよ!) 事代主があっさり国を明渡す理由もよくわかりませんし。 反対派のタケミナカタは出雲を捨てて新天地を求めて諏訪に向かったのではないかと。 武甕槌は無理矢理そこに挿入されたんではないかな・・・記紀も信用できないかもw >オオクニヌシ自体が記紀神話が生み出した総合神 俺が一番主張したい事なんですが。事代主が大国主の子とされてる事に関して、いったい事代主は誰の子なんだろう? って事になりませんかね?総合神って言うのはありえます。 しかし、メインのモデルになった人物がいるはずなんだと理解してます。 まぁ正直わからないから古代史はおもしろいのかも知れない!!
163 :
日本@名無史さん :04/07/03 02:06
あと、もう一つ!駆逐された神・・・ん〜出雲神は本当に駆逐されたんでしょうかね? 駆逐された神ってのはミシャクジ神やアラハバキ神っていうようなもうなんだかわかんね〜って感じの神ではないでしょうか? 彼らは縄文神であることはうかがえますが・・・出雲、日向などの弥生人(モンゴロイド?)の進入で 東北へ東北へと追いやられて行った縄文人の悲哀を感じます。 伊勢大神についてなんですが・・・私は崇神天皇は神武天皇とは別系統の人物ではないかと思ってます。 『魏志倭人伝』にも←(やっと出てきましたね激しくスレ違いなレスの連続でしたが) 伊都国など半自治政権をうかがわせる勢力があるのは興味深いですね。 で、やはり、崇神天皇も神武天皇の例に同じく「大物主」に礼をつくす事によって大和に君臨できたわけです。 もちろん伊勢大神(アマテラス)は崇神天皇とは別系統の神なのでどっかにやってまえ〜ってな感じで三輪(大和)から追放。 それでもアラハバキのように抹消されなかったのは彼女が大物主の父スサノヲの妻のうちの一人(邪馬台国の現地妻・断じて姉ではありません!)であったからだと思います。 話は出雲神に戻りますが大神神社の大物主はまだ三輪の大神神社にご鎮座なさっているわけです。 (『大神』と書いてオオミワ。大物主の偉大さがうかがえます。) なぜでしょう?出雲神は記紀という書物の中だけで駆逐?されたんだと思います。
164 :
日本@名無史さん :04/07/03 02:07
実際に民間でも七福神は外来の神の中に大黒天(大国主)と恵比寿様(事代主)と出雲神がおられます。 駆逐されたならここに天津神が入ってもよさそうなもんです。やはり出雲神は大事にされたんではないでしょうか? 時代はかなり下りますが明治天皇さんです。即位前後の出来事なのですが、明治天皇記に書かれている事です。 「神田神社に祭られている平将門は、明治政府により一度神田の地を追い出されています。明治天皇が 江戸の総鎮守たる『大神・大国主』に参拝するために、天皇家から見れば逆臣である平将門を排除しようとしたのです。」 (神田神社の大国主は記紀のウソのためで本来は【大物主】が祀られているとされています。大神と言ういじょう大物主でなくてはなりません。) それから、「江戸入城の前に氷川神社に参詣し、遷都の許しを乞います。【スサノオ】が祭られています。」 おかしくありませんか?天津神は完全無視なんですよ。皇室でも出雲神はずっと信仰されているんです! 歴代天皇は持統天皇を除き大物主にへりくだりまくりなのですわ。 出雲神は記紀という書物の中だけで迫害され、それらは後の世の天皇も民間の人々も全く相手にしていないという事です。 出雲神の偉大さがうかがえます。
ほとんど『ムー』になってるな…
問題はアンヌプリと あーんヌプリと アンヌ隊員とアヌ=鬼の関係だなアンニュ退治に出掛けた桃太郎…いやーん
30年程前に角川が造った復元船「野生号」って今どうなったか、 誰か知らない?検索したが不明。
168 :
日本@名無史さん :04/07/03 10:40
>163 石神、道祖神は欧州から朝鮮半島に共通した遊牧民族遺跡。ロシアでは男女2体 の祖神を墳墓の地村はずれなどに祭り、縁結びの役割も演ずる。従って縄文時代より はるかに新しく馬韓の月支などがギリシャ、印欧神話共々出雲経由持ち込んだものと 解釈するのが自然。話し変わるが、武塔神というのは登場人物の巨旦、蘇民などから 考えてみると韓国神話の直訳だな。出雲には狼を祭るウルフ神社があるがこれなんかは 小泉八雲が献納したのかね。
169 :
日本@名無史さん :04/07/03 11:43
>「己命の和魂を倭の大物主の命と名を称え、大御和の神奈備に坐せ・・・」 つまり >は記紀に同じく『大物主』が『大国主』(大己貴)の別名だと偽証させてる訳です。 >記紀が大国主をその系譜にスサノヲの子にしたり6世の孫にしたりて、挙句の果て >には須世理姫を娶ってスサノヲに婿入りするというどう考えておかしい話を正当化 >しようとしてるんですね。これはスサノヲの子「大物主」をうやむやにしてしまいたい >という記紀の陰謀であるのは「出雲国造神賀詞」の成立時期から見ても明白なん >だけ伝承が歪められてるのは確かなんですわ。 逆に「大物主」は本来物部の「物」をとったもので、筑前の三輪神社は「大己貴神社 の祭神は大国主之命(大己貴ノ神)。水分神としての性格を持ち、豊饒な大地の恵 みを司る神として、甘木川が筑後平野に進出する所に鎮座する点が重要とされる。 それは奈良大神神社と共通点であるからだ。筑前国神社記によれば、西暦170年頃 には三輪山を御神体とし、仰がれていることが記述され、弥生時代後期にはすでに 創建されていたことが、うかがい知れる」・・・といわれており、奈良県のものは本来 諸室山で祭神は大国主命であったものが、物部の圧力で大物主に切り替えるように 出雲に圧力がかかり、出雲はこの行政命令に服従したということでは。
170 :
日本@名無史さん :04/07/03 16:14
九州の有力候補八女と西都の位置関係って 奈良盆地と伊勢の位置関係と似てないか?
172 :
日本@名無史さん :04/07/03 21:37
似ていると思う。筑紫を除く九州は基本的に邪馬台国以前の近畿以東と同質 のものだと考えている。中国四国よりも歴史的には東北に近いと聞いている。
173 :
日本@名無史さん :04/07/03 22:02
>>169 そのような「逆の発想」に至るとは、あなたはかなり頭が柔軟で賢い人だと思われます。
しかし、内容は容認しがたいものですので私の解釈を書いておきます。
記紀の解釈については人それぞれなんですが
大己貴はスサノヲに娘の須世理姫の婿として迎えられた人。つまりはスサノヲの養子。
饒速日命(大物主)はスサノヲの第五子、「大歳」です。三輪大歳彦明神とも言われます。
≫解説 スサノヲの八坂神社にはその御子神として「琴平 大歳」と記されております。
琴平、すなわち金毘羅宮の祭神もやはり大物主でありますのでその証明と言えましょう。
二人はスサノヲの実子と養子で同年代の人なんですよね。どちらが古いとかいう事はありません。
饒速日命(大物主)は神武天皇に先立ち大和に君臨し三輪周辺においても
石上神宮の布留御魂大神などと称され奈良の三輪周辺は大物主の饒速日命だらけであります。
≫解説 茨城県石岡町の総社神社に布留大神という神がスサノヲの子として祀られてます。
石上神宮は布都御魂大神、布都斯御魂大神、布留御魂大神、宇摩志麻治命の4代を祀られるております。
宇摩志麻治命の父は饒速日命でありますので布留大神はニギハヤヒでスサノヲの子となります。
スサノヲが三室山(みむろやま)に速玉を埋めて鎮座なさった事から
この山を御諸山(みもろやま)のちに三輪山と名づけて奇玉を埋めて鎮座なさいました。
神武天皇は大物主の娘を皇后に迎え即位する事ができたのですし、
これだけ偉大な三輪の大神が大物主でないなどと言うのはどう考えててもおかしいではありませんか?
それに実際、大和に来ていない大己貴がそもそも大和に祀られる理由など初めからないのです。
>大物主は本来物部の「物」をとったもので、
これは明らかに間違いで宇摩志麻治の末裔が物部を称するのはもっと後の世です。
記紀の編纂された時代は物部氏が没落後の事であり、物部氏の都合を記紀に織り込む理由など
ありませんし、天照国照と称された饒速日命(=大物主)をうやむやにしようとしたのは明白であります。
174 :
日本@名無史さん :04/07/03 22:03
>>169 >筑前の三輪神社は「大己貴神社 の祭神は大国主之命(大己貴ノ神)。・・・
なぜ神社の名前が重複しているのかわかりませんが・・・?
これに類似したものとして福岡県朝倉郡三輪村に大己貴神社と言うのがあります。
もともと大三輪神社であったものを大己貴神社に改称したとされております。
大三輪=大己貴であれば改称の必要もありませんし、
これは大三輪である大物主を隠蔽していると考えるのが妥当でしょう。
>それは奈良大神神社と共通点であるからだ。
それはそうです、元々三輪神社もしくは大神神社を無理無理に大己貴神社に変えていったのですから。
さて、本来の大己貴ですが、宮崎県児湯郡の都農皇神社などにアマテラス(卑弥呼)の娘、多紀理姫を娶って
どうのこうのと書かれております。別の神社には二人の間に事代主が生まれたような記述もありました。
大己貴はスサノヲの邪馬台国遠征について行き、そこら辺を統治したと思われます。
西都に1基のみある出雲式の方墳は大己貴の物ではないかと思われます。
養子とはいえスサノヲの後継者である大己貴が邪馬台国で死んだ事でその子、事代主がスサノヲの後継者と
して出雲に対して蜂起したものと思われます。記紀でも事代主があっさり国を明け渡すのは
こういった事情からかもしれません。正妻、須世理姫の子、タケミナカタは出雲を捨てて諏訪に向かったと思われます。
175 :
日本@名無史さん :04/07/03 22:04
>>169 出雲国造神賀詞の神奈備に関してはですが、やはり記紀以降のようで改ざんの後がうかがえます。
【天長六年(西暦829年)三月、高市郡賀美郷甘南備山の飛鳥社が同郷鳥形山に遷されたとき、加夜奈留美神の本霊は旧地に、
留まったといわれています。】つまりは、元々関係ない飛鳥神社(鳥形山)に無理無理、加夜奈留美神を持って行ったという事です。
「先代旧事本紀」巻第四「地祇本紀」も「味金且高彦根神、倭国葛上郡高鴨に坐す神捨篠社と云ふ。
妹、下照姫命。倭国葛上郡雲櫛社に坐す。都味歯八重事代主神、倭国高市郡高市社に坐す。亦は甘南備飛鳥社
と云ふ。妹、高照光姫大神命、倭国葛上郡御歳神社に坐す。」と、異伝を伝えます。
『御歳神(高照光姫大神)』は『大歳神=大物主神』の娘神で神武皇后の別名とされています。なぜそうなのかの解説は
疲れましたので省きますが、名前でなんとなくなく判断してください。
最後に大神神社の偉大な大神は【大物主神】であらせられます。
>>162 諏訪神の本体はミシャクジで、記紀神話成立後、奈良時代頃に、
出雲系のタケミナカタに入れ替わった(させられた)。このように言った方が、
私の考えが分かってもらえ易いでしょうか。
三輪山の日向御子は、太陽神信仰との関わりで考えるべきで(冬至で死んだ
太陽の生まれ変わりなど)、神武と結びつけるのは、少し早計では、
と思います。
私は、神武の東征伝承は応神のことを物語っている(九州からやって来た偉大な
王が、大和を制したという記憶)と考えていますので。
つまり、仲哀の対半島政策に反発した九州系王族の応神が、葛城氏の助けで大和
へ攻め上り、王位を簒奪した、と。河内に巨大古墳を造営し、高らかに
大王位の継承を宣言したのでは、と妄想しています。また、反発が多そうですが
(苦笑)
177 :
日本@名無史さん :04/07/03 22:37
>>176 どうも!はい、そうですね〜。入れ替わった(させられた)。わかりよいかもです。
でも私は記紀および伝承は歴史そのものと判断しております。
神武は神武で、崇神は崇神。応神は応神と考えてますよ。
三輪山の日向御子は現在は雨乞いの神らしいです。
太陽は関係なさそ〜です。まぁ雨乞いも神武に関係なさそうがw
まぁあれこれ妄想するのが楽しいんですわ!!妄想癖か〜w
>>173-175 私の妄想を読んでみてくださいね。では!
2人で何の話してるの? ゴチャゴチャ長すぎで読む気失せたよ
179 :
日本@名無史さん :04/07/04 03:45
>>177 神代についてのあなたの考察は大体分かりましたが(原田常治氏の説がベースの
ようですね)、神武〜崇神〜応神の歴史上の流れは、どのように考えている
のでしょうか? 概略で結構ですので教えて下さい。
銅鐸、物部、欠史八代、前方後円墳の祭祀、マキムク遺跡、三輪山などの
キーワードを絡めて説明して貰えれば。
180 :
日本@名無史さん :04/07/04 14:05
【大安那(安羅)ムチ】弁辰の任那の隣国において出雲の神と見られる鉄王
素盞(諏訪は古代朝鮮語の鉄、須佐は鉄鉱原料)嗚尊を奉じていた日系出
雲支配者(脱解王は丹後出身等当時は日本人の経営手段が韓国人に評価
されていたようだ)。オオナムチは韓国の製鉄、鍛冶集団を率いて出雲に上陸、
更に東に出石、敦賀に入る。出石に入ったものは丹後から南下し途中京都の
嵐(安羅シ)山経由、大和にいたり、穴師山、当時倭宿禰が支配していた三輪山
を支配し、旧支配者をスクナヒコナ(オオアナムチに対し従属する意味のスクナ)
と改称、自分は倭国の大王を僭称しオオクニヌシと称し、敦賀に入ったものはツ
ヌガアラヒト(ツヌガに上陸した安羅人と呼ばれる)が、更に南下し琵琶湖南岸の
三上山に至り、又更に越に至ったものは安曇野を南下し諏訪に入り、諏訪神社
を建設東国開発の拠点とする。安羅からの帰化人には東漢、西漢もあるが、
オオナムチは出雲の人間と見たい。
【スクナヒコナ/両面宿禰】旧支配者には銅鐸の重要原料である生産地の飛騨
神岡高山に御所(御座後に水無に転じる)をおく。但し「王法即位の大事を伝授し、
櫟(あららぎ)の木を以って御笏を作って」授与する権限を留保した。
http://www.takayama-nh.go.jp/touge/touge/093/body.htm 『日本書紀』は仁徳天皇六五年、和珥臣の祖・タケフルクマが飛騨国の怪人・
宿儺を退治した話を伝える。「六十五年、飛騨国に一人有り。宿儺と曰ふ。
其れ為人、体を一にして両の面有り。面各相背けり。頂合ひて項無し。各手足
有り。其れ膝有りて膕踵無し。力多にして軽く捷し。左右に剣を佩きて、四の手
に並に弓矢を用ふ。是を以て、皇命に随はず。人民を掠略みて楽とす。是に、
和珥臣の祖難波根子武振熊を遣して誅さしむ」・・・すなわちスクナヒコナの権限
は仲哀の時までは法皇的なものとして存在していた。
181 :
日本@名無史さん :04/07/04 14:05
【兵主神を奉じる秦系主導による夕月嶽、兵主神社、箸墓システムの建設】 おごれるオオナムチ久しからず、次に筑紫、肥後方面から来たのがこのニギ ハヤヒグループであり、丹後の天の香具山が祭っていた穴師山システムを箸墓 システムに変え邪馬台国を建国した。 【日本男児神武】もともと北部九州渡来人を除く肥前、肥後、豊後以南の各国は 畿内よりももっと純粋な縄文人であり、黒潮を通じて遠く東北とも結ばれていた。 アルタイ系及び山東、江南系人による本州撹乱を座視できなくなったかれらは 遂に駆逐された縄文系の近畿、中部地方を救出するために出動を開始した。 これには裏でレジスタンスを続けた近畿の旧勢力の切なる要請もあった。 これが神武物語。
182 :
日本@名無史さん :04/07/04 14:44
諸室山のオオクニヌシだと。笑わせちゃいけないよ。秦族のシステムじゃー大物主の 三輪山だ、これは共通だからいいという合意があったんじゃないか、おーい、出雲から 一筆取れ・・・てなことじゃなかったんかい。
183 :
日本@名無史さん :04/07/04 15:52
箸墓/兵主神社着工時には神武による横槍、つまりアマテラスは入っていないの で、神武の襲来はまだない。この時「二面」すなわち楯築型の双方中円方とする か、秦の故事に倣い天円地方型、前方後円墳にするかの論争があり、どちらかと いえば伊勢湾、例えば、巨石で囲う椿神社古墳型を押した倭宿禰、スクナヒコナ側 が論争に破れこれが二面宿禰の謂れかもしれない。伊都国が北部九州支配に 使用した鏡の分与による国土支配計画を倭国全体で実行するため銅鐸を含めた 銅資源の集中制度、銅鐸禁止供出の令を発する。 尾張系のミマツヒコが終わったあと箸墓の外装工事に入る段にななり、 楽浪の公孫氏に鏡を求めて外交団を派遣、結果的には魏との国交を樹立する。 神武が東遷を計るタイミングは狗奴国の乱と連動、狗奴国系の神であったアマテラス と日向神話をドッキングさせた。どういう風の吹き回しか崇神にこの神を祭るという 大役があたった。ひょっとすると神武のモデルとなったのはオオビコだったのかも しれない。
184 :
日本@名無史さん :04/07/04 17:50
本田氏が難波から飯田、長野へと伝えた善光寺の回向柱は松代の松、諏訪神社
の御柱は八ヶ岳の樅の木であるが、「扶与近辺の恩山町に別神祭という無形文化
財に指定された村祭があり、現地伝承では百済末期が起源というが、調査では
それよりはるかに早期から継続しているといわれている。祭の開始前に神聖な場所
の占いをし、その山に上る。シャーマンが歌い踊るとその山のどんぐりの木が震え
始めるといわれる。これが神が降りた証拠となり、それらの木を4本伐採し、肩に
担いで村までの行列を行なう。これが神の依り代で神迎えの行列となる。その後
約10日後に祭が終了した後それらの木を村の東西南北に天下大将軍、逐鬼大将軍
と書かれたチャンスン
http://sagatokimeki.ne.jp/genkai/ayumi/08/08.html (日本の鹿島様
http://www.jumonji.net/we-jumonji/12-bunkazai/sonota.html と似ている。)
と共に立てる。そして1年後にはまた新しいものと取り替える。東西南北の道路側
に立てるのは通行人取締り、災いが村に入らないように鬼除けにするといわれる。」
「韓国から見た天日槍-任東権」又、飯田には馬の埋葬を伴う古墳、長野には積み
石型家型埋葬部の古墳が多い。古代百済の民を皇室の牧場経営に使ったためで
あろう。石神、道祖神というユーラシアの風習を持ち込んだのも百済人であろう。
諏訪神社自体はこれより以前同じく半島ではあるが安曇海人族による弁辰の鉄
文化導入と関係しているのであろう。
すいません、新参者です
歴史が好きで邪馬台国の本や雑誌も10冊以上は読みましたが、
結局位置的にはよくわかりませんでした
それで大和朝廷のルーツから考えてみたいと前から思っていたところに、
このスレを見つけたのでお邪魔しました
最初から読んでみましたが、特に
>>31 さんの着眼点に興味がありますというか、同様の視点で考えていました
(もちろん31さんの方がはるかにまとまった考え方になっています)
もし、31さんがおられたら、その後このスレのどのレスをお書きになったのか教えてもらえませんでしょうか
というのは、31さんの最初のレスはビジュアルですぐわかったのですが、
その後皆さんのレスが文字が多くなって、どれが31さんのレスか私には判定不能になったからです
なお、レスの特定も個人情報?的なところもありますので、もし出来たらで結構です
なお、人に聞くだけではまずいと思うので、31さんには全く及ばないですが、
今まで考えてきたことを少し述べておきたいと思います(ごく当たり前の内容で失礼)
1.弥生人は朝鮮半島から渡ってきた人達
2.渡ってくる場合は、やはり近いところということで北九州から分布が始まった
3.ただ渡りの場所は一箇所ではなく複数の可能性が高く、その中に北九州に
次ぐ大きな勢力になったのが出雲
4.弥生人が縄文人との競争に勝って徐々に居住地域を東に拡げていった
5.弥生も後半になってくると国力が付いてきて、統一機運が高まるが、
その際中心地は当時の日本より先進地域の半島から常に侵攻の可能性を
受ける北九州や出雲からはもっと遠いところが必然的に選ばれてくる
それが大和地方であった
6.その後、大和が更に発展して出雲や北九州を吸収・合併(武力や交渉で)し、
統一政権を確立した
7、邪馬台国はその途中で魏との交渉を行ったが、それは北九州にあった国が
独立的に魏と交流したのか、それとも大和にあった大和朝廷の前身の国が
その当時から交流していたのか、これはよくわからない
以上です
31です。ほとんどは定説となっている事ではないでしょうか。 ただし、統一王国の成立に際しての、大陸からの影響力についてはよくわかりません。 イベントとしてはたまに大陸からの大量難民もあったでしょうが、恒常的にはそれよりも 実際に中国や半島と近い方が便利なのと、弥生末ではまだ各ブロックを超える統一王 権の存在は難しいと思うので、そのような壮大な意図の元に遷都という近代国家のよう なことは考えにくいかと思われます。その理由で大和へ移動という点です。 スイマセンがあとは帰ってきてから・・・・・。
基本的な問題として、日本の文献(神話性の高い記紀) と中国の文献(れっきとした歴史書)をまぜごじゃにして論を 立てるっていうのはどうなのよ?
188 :
日本@名無史さん :04/07/05 16:55
189 :
日本@名無史さん :04/07/05 22:07
>1.弥生人は朝鮮半島から渡ってきた人達 とは限らない。稲作のルーツについては、農学者は江南というのが多い。 考古学者は朝鮮半島経由と言っていたが、最近苦しい状況だな。 >2.渡ってくる場合は、やはり近いところということで北九州から分布が始まった だろうね。 >3.ただ渡りの場所は一箇所ではなく複数の可能性が高く、その中に北九州に 次ぐ大きな勢力になったのが出雲 北九州はそうだが。次は知らん。 >4.弥生人が縄文人との競争に勝って徐々に居住地域を東に拡げていった 文化の伝播はあるが、そこまで多くない。 >5.弥生も後半になってくると国力が付いてきて、統一機運が高まるが、 その際中心地は当時の日本より先進地域の半島から常に侵攻の可能性を 受ける北九州や出雲からはもっと遠いところが必然的に選ばれてくる それが大和地方であった 定説とはいえないが、そううことを言う学者はいるな。北條氏など。 >6.その後、大和が更に発展して出雲や北九州を吸収・合併(武力や交渉で)し、 統一政権を確立した 若い学者は、畿内の在地政権を核とした倭王権の成立には否定的。 >7、邪馬台国はその途中で魏との交渉を行ったが、それは北九州にあった国が > 独立的に魏と交流したのか、それとも大和にあった大和朝廷の前身の国が > その当時から交流していたのか、これはよくわからない 邪馬台国時代より前は、伊都国が中国と交流していた。
>>189 さんへ、文章の感じからすると31さんではないですよね?
もちろん内容は非常にありがたいので、これから読ませていただきます
というのは、丁度先ほど帰ってきて、31さんのレスを見て、
その返信を書き上げて送ろうとしていた直前だったからです
ですから、以下の内容は189さんのレスを読む前のものということで
ご了承よろしく
185です 31さん、レス>186早速ありがとうございます
>ほとんどは定説となっている事ではないでしょうか。
そうだと思っていて、神武東征説も何かの本で読んだ記憶はあるのですが、
その本の題名等も今となっては不明になっています
更に、その後も色々読んだので余計混乱して、果たしてどの文献を見れば
その定説が比較的明確に説明されているのだろうかと思っていたところです
もし、その辺を記載した本があったら複数でも結構ですので教えていただければ幸いです
それと、お願い事項は以上なのですが、スレの最後に
>スイマセンがあとは帰ってきてから・・・・・。
とあったので、帰られてから出来るだけお時間とられないように、
定説を理解しきれていない点などを以下に整理してみました 、参考です
これは31さんの個人的見解で結構なのですが、
1.弥生人は朝鮮半島から渡ってきた人達
2.渡ってくる場合は、やはり近いところということで北九州から分布が始まった
3.ただ渡りの場所は一箇所ではなく複数の可能性が高く、
ここまでは、確定的定説という理解でよろしいんでしょうか?
<続く>
<続き> さらに 3.ただ渡りの場所は一箇所ではなく複数の可能性が高く、 その中で北九州に次ぐ大きな勢力になったのが出雲 出雲をこのような位置づけにした場合、定説度?はどの程度のものでしょうか 少なくとも、北九州と出雲の位置づけの定説がどのようなものかわかればと思っています (ただ、吉野ヶ里などもあるのでさらに複雑にはなると思いますが・・・) 以下は単なる推理ですのでスルーでお願いします 北九州と出雲が渡来人の当初からの先進地域という定説度が高いと仮定すると、 次は大和の発展がどのようになされたのかが問題になってきます 何かの本で、若狭湾経由で鉄器が大和にもたらされやすかったというような 説を読んだことがあります しかし、大和は距離では圧倒的に北九州にかないません (出雲は北九州とそんなに遜色なく半島交流できるような気がします、 ただし地図を眺めての勘ですが) しかも、大和や飛鳥も行ってみましたが、生産力がそんなに高いようにも 感じなかったし、守るのには良さそうだけど、半島からの先進文物が富や武力の 源泉として重要だったであろう時代にこんな山の中が中心になるのかと思ったのです それで先進国である半島の圧迫を受けにくいところへ都が成立したのではないかと 考えてみたわけです(遷都という形かどうかは別にして) そして31さんも重視されていた「各ブロックの勢力同士の角逐」の推移を 大体仮定してみて、それに考古学的データなどを重ねあわせてゆっくり 楽しんでいければと思っているところです 以上
>>189 さん、遅れてすいません
貴重なご示唆ありがとうございます
>1.弥生人は朝鮮半島から渡ってきた人達
とは限らない。稲作のルーツについては、農学者は江南というのが多い。
考古学者は朝鮮半島経由と言っていたが、最近苦しい状況だな。
ここが一番最初で、一番ポイントであると思っています
稲作江南起源説は読んだことがありすし、稲は元々が熱帯起源だから、
稲作は進んでいたのは間違いありません
ただわからないのは、人的に考えると、距離の遠い江南より半島の人の
方が日本に来易いことは確かだと思います
半島からだと、連続的(ミクロでは断続的でしょうが)に、日本に来ることは
可能でしょうが、江南からだとなかなかそうはいかないように思います
もちろん江南から来た人たちが短期間に足場を築いて周りを制圧したということは
考えられないことではないと思います
一番最初が確定できないというのはホントつらいですねぇ(実感)
なお、これはさらっと流しておいて欲しいんですが(笑)、
中国から来た人たちであれば、何故文字を使わなかったのか気になるのです
ただ、これは半島達の場合も同じ疑問になるのですが、実際には半島より江南の方が
はるかに文化は進んでいたのは間違いないでしょう
先進国の人が後進国に進出した場合、そんなに簡単に文化的に後進国側に同化していく
ものなんでしょうかというのがずっと疑問なんです
中国渡来なら、弥生に漢字の痕跡が出てくるのが遅すぎるような気がしています
(素人の疑問です)
なお、半島での漢字の出現時期について、調べてみようかなと思っていたところです
(と言ってもネット程度ですが)
以上
192で一箇所文字抜け訂正 >ただ、これは半島達の場合も同じ疑問になるのですが 半島達→半島の人達
194 :
日本@名無史さん :04/07/06 00:03
大和湖説が正しければ、奈良盆地は稲作向きの低湿地が広がっていたと 思います。大和の生産力が低かったことはないのでは? 大和川を通じた河内への進出に、プレ大和政権の飛躍があるかと思います。 プレ大和政権は、計画的に渡来人を河内平野(もともと有力豪族がいなかった)へ 入植させ、開拓していったと考えています。 応神の頃でしょうか。
195 :
日本@名無史さん :04/07/06 00:08
埼玉は古代は「さきたま」と言った。 何故、さいたまではないのか? 実は古代日本語には「連母音」は馴染まないのである。 例えば「saitama」だと、「ai」が連母音になる。 しかし「sakitama」だと、連母音はない。 邪馬台国を「yamatai」と読むと、「ai」が連母音になる。 だから、本当は「yamata」あるいは「yamato」国なのだ。 つまり大和国である。
>>194 さんありがとう
>大和湖説が正しければ、奈良盆地は稲作向きの低湿地が広がっていたと
>思います。大和の生産力が低かったことはないのでは?
これは何かで読んだ受け売りなんですが、
「山の辺の道は当時の幹線道路だが、歩きにくい山の中腹を通っている。
これは、当時の治水レベルでは、湿地帯は歩きにくい所であったからだ。
このように今と昔では条件が違うことを忘れずに」と言うことが書いてあって、
さらにこれはその時に同時に書いてあったか、別のところで読んだか不明ですが
「最初は湿地帯での稲作は難しく、山間部から流れてくる小さな川の周辺
での稲作が主であった」ということ読んだのを重ね合わせて、
あまり生産力はなかったのだろうなと勝手に想像してたというのが経過です(笑)
(実際、山の辺の道を歩いた時、過去は今の平地の方が歩きにくい湿地帯だったんだ
ということが実感できて、その後色々考えるときの役に立ちました)
194さんの3行目以降はさらに考えて見ようと思います
>>192 中国からの渡来人が必ずしも漢字を使ったとは思わない。
例えば、当時呉の迫害を受けていた山越民族が渡来人だとしたら、
純粋な漢民族と文化が違うし、たとえ漢字を使っていなくてもおかしくないと思う。
確か山越民族は日本に渡来した痕跡(例えば高志国=現在の越前〜越後)
とか滓かに残ってるはずなので、検証する価値はあると思う。
と勝手に妄想の仮説。
31です。今帰ったので寝ますw とりあえず、私も学者ではありませんので・・・・・。 まず渡来人の人口動態ですが、確かに半島経由も相当あったと思われます。 ただ、現代の民族移動や難民のような大量移動が果たしてあったのかどうかと 言う点については学者の間でも意見が分かれるようですね。そして、それよりは 技術の伝搬の方が遙かに早いのではないか、という意見もあり、正直よくわかり ません。 それと、揚子江河口付近を出航すると、季節によっては勝手に九州から半島南 部に着いてしまうそうなので、江南からの移住も考えられると思います。ついで ながら、はるか古代ですが、ポリネシアンも江南付近が発生元だそうです。 更に、海流から言えば、当然半島からも江南からも、いずれも九州や壱岐・対馬 にとどまらず、隠岐、出雲、北陸、東北の日本海沿岸も移住先になるわけですよ ね。縄文時代の人口は非常に少なく、列島全体でも万のオーダーだったという説 もあるし、それまで無用の長物(でもないですが。汽水域や湿地帯は豊かですか ら)だった氾濫原を耕作するのに、果たして土地争奪の戦争になったのかどうか・ ・・・・。 それと、人口比では移住者の方が多いように数字上見えますが。遺伝子鑑定など では縄文系も半分以上となっているそうで、これは縄文人も混血して一緒に人口が 増えていったということではないでしょうか。 あと、文字といっても隷書体の確立が秦から前漢代ですから、それまでに渡来した 江南人が伝えたとしても、辺境のことでもあり、象形文字みたいなものでは無いでし ょうか。 奈良盆地については、いつの頃から耕作に適していたのかはまだよくわからないそう ですね。確かに大和川の、それこそ八又の大蛇みたいな大氾濫原ですから。
199 :
日本@名無史さん :04/07/06 01:15
>>191 >大和や飛鳥も行ってみましたが、生産力がそんなに高いようにも
>感じなかったし、守るのには良さそうだけど、半島からの先進文物が富や武力の
>源泉として重要だったであろう時代にこんな山の中が中心になるのかと思った
唐古・鍵遺跡については、どうお考えですか?
あと、文献ですか・・・・・。 東遷説自体は沢山あるそうなので私も全部はしりません。 戦前の白鳥庫吉、和辻哲郎、戦後は井上光貞、森浩一、安本美典、 古田武彦、その他多数w 私が好きになれないのは、確かに神武=磐余彦が実在して、東征が史実だったとしても、 それを即邪馬台国比定論争直結してしまう非科学的方法論です。それはたしかに、本も 売れるし話題性もあるわけですが、邪馬台国と言っても所詮は一時代の一政治形態なわ けで、文献史学の古田説、統計学の安本説、それに考古学の森説にしてもまだまだこれ からだと思いますし、邪馬台国、大和王権などももっともっと相対化してあくまでパズルの ピースの一つに過ぎないと考えることが大事かと。 ではおやすみなさいw
192です >中国からの渡来人が必ずしも漢字を使ったとは思わない。 これはありえない事ではないと思います ただ、その民族が来れるのなら、長い間には他の民族も来れたのではないかと 思ってしまうのです その中には漢字を使う民族が含まれていてもいいのではないか・・・と さらに先ほどは漢字のことを書きましたが、実際には漢字だけでなく文化全体のことが 気になっています 中国から来たにしては、魏志倭人伝の記述は文化度のレベルが低すぎるような気がします また出土品についてももっと中国風のものがあってもいいような気がします (ホウ製鏡のようなものではなく、もっと土着化した中国風の文物ということ) もちろん長い間に同化することはありえます ただ極端な例ですが、もし徐福が日本にたどり着いて日本のある地方を制定していたら どのような文化を持っていただろうか 徐福の出航は紀元前219年といわれています、この年代についてはともかくとして、 彼らが国を建てたら数世紀後に魏志倭人伝のような風俗になっていくのか まあ、実際にはわからないとしか言いようがないんですがね(笑) でも、何度も言うようですが、文化度は気になるんだよなぁ・・・ 全くの余談:ホウ製鏡のホウの字がうまく出なくて、ネット見たら 皆さん苦労してるようで、国産とか倭鏡とか倣鏡なんて書いてありますね
31さんありがとうございます 丁度レス201を書き込んだところで、 私もそろそろスリープの時間なりましたので、 明日改めてレスさせていただきます
203 :
日本@名無史さん :04/07/06 02:11
>>179 私の妄想でよろしければ・・・
渡来系弥生人の末と思われるスサノヲは製鉄技術を持って出雲に君臨する。
清田鉱山を押さえ、スサノヲとその子ら及び養子である大己貴を引き連れて邪馬台国に遠征する。
圧倒的武力をもって邪馬台国を制圧したスサノヲは邪馬台国の女王、卑弥呼(日霊女)を現地妻とし懐柔した。
《銅鐸》の始まりの時期は、学者によって300年以上も異なるが出雲からも多く発見されておりここから
九州、近畿に流れていったと考える。近畿に持ち込んだのはスサノヲの子、大歳で後の饒速日であると考える。
饒速日は後の大和にまで進撃し、蝦夷(縄文人)の族長、長髄彦の妹を娶り大和に君臨する。
一方、邪馬台国はスサノヲの後継者である大己貴と日霊女の娘との間に生まれた事代主の王権を主張し、
出雲より伝わった製鉄技術と九州の豊富な大地を武器に出雲を合併の形で吸収することとなる。
その後、出雲を合併した邪馬台国は饒速日の君臨する大和とも合併を持ちかけ、
伊波礼彦(神武天皇)を大和に送り饒速日(大物主)の娘を皇后に迎えることによって即位する。「東”遷”」である。
反対派の《物部集団》は各々地方に拡散していったと思われる。
《欠史八代天皇》は全て実在で記紀が異常な高齢者を示すのは卑弥呼と日霊女の時代を意図的に
重ならないようにしたためである。彼らの皇后が饒速日の物部集団である磯城県主や穂積氏から
出ているのは信憑性がある。ここに縄文人と九州弥生人、出雲弥生人の連合国が誕生したと思われる。
前方後円墳はこれまた年代が明らかでないが九州の円墳と出雲の方墳を合わせたものと考える。
神武天皇から開化天皇まで葛城周辺を宮とした。
204 :
日本@名無史さん :04/07/06 02:12
崇神天皇は邪馬台国の神武天皇とは別系統のようである。諡号ミマキ”イリ”ヒコ 卑弥呼(日霊女)の霊(記紀にいう後のアマテラス)を三輪から追放した事もそれを表している。 継体紀二十四年の条に、明らかに祟神のことを「水間城の王」としるされておりこれが もし水間君氏と通ずるならば物部阿遅古連の後裔水沼君氏出身という事になるか? 倭人伝の伊都国も気になるところであるが、とにかく彼は九州方面から「東”征”」してきたこととなる。 記紀に見られるように彼は大物主「神」の「崇り」を受けており これは物部集団の抵抗を表しているものと思われる。銅鐸はこのとき破棄されたのではないかと推測される。 しかし、結局は物部と連合し大彦の娘を皇后としている。彼の子、垂仁天皇もまた尾張氏の【大海人姫】を 皇后としており、これは逆に考えると”物部氏族の姫を皇后にしないと天皇になれない”とも取れる。 このシステムは宇摩志麻治命あたりが考えたのだろうか、天皇が誰であってもその子は必ず物部の血も 引くこととなり物部が滅びることは絶対にないと言うことになる。 《纏向遺跡》などを中心とした三輪周辺を宮とした。纏向遺跡は通説どうり3世紀後半〜4世紀とみるのが正しい。 「布留0式」の解釈からしても、畿内説学者の陰謀が感じられる。 このころ、先代王朝の最後の天皇、開化天皇の子、日子坐王が難を逃れ近江あたりに逃れそこらを支配したらしい。 日子坐王の王権と崇神王朝は両王朝の血を引く景行天皇を立てて合併となる。諡号オオ”タラシ”ヒコ 皇后は八坂入姫、崇神と尾張氏の大海人姫の孫である。八坂とはなんとも出雲系をうかがわせる名前であり そしてヤサカイリのイリは崇神系である事もうかがわせ、この後天皇の諡号はイリからタラシに切り替わる。 最終的に日子坐王の子孫から神功皇后がでる。渡来色が濃く物部の血は薄くなる。 この皇后は夫、仲哀天皇より権力があったのであろうか。仲哀天皇は皇后の神託を守らなかった事で死去している。 ここで確認しておきたいのは”天皇家”などと言うものはこの時代に存在しない。記紀の創作である。 政略結婚で姻戚関係はあるものの最強の豪族の王が天皇である。大和においては物部の皇后が必要なようである。 万世一系なども記紀の創作である。天皇家以外の者が天皇になる訳がないという『嘘』なのである。
205 :
日本@名無史さん :04/07/06 02:12
応神天皇、誉田別尊は先の仲哀天皇と神功皇后の子という事になってはるが、仲哀天皇の子ではないだろう。 この応神天皇の御代は、秦氏の祖となった弓月君など、多数の渡来人が渡ってきたとされる。 もしかしたら渡来系の王族と神功皇后の子かもしれないし、万世一系にこだわった記紀の創作で赤の他人かもしれない。 かなりの武力をもってかまたまた「東征」してくる。落ち目であったのか物部氏はこの応神天皇を大和の天皇に迎え 仲姫命を皇后としている。再び”皇后家”に返り咲いたと言えようか。 ここでまた新たな局面を迎える。蘇我氏族が台頭してくるのだ。一般に渡来系とされているが、 蘇我氏の本拠地に、須佐之男神社や大歳(ニギハヤヒ)神社があったり、出雲神社の真後ろの神社が宗我神社だったり、 蘇我氏と出雲の関係は深いことがわかる。スサノヲの長男も清湯山主三名狭漏彦八嶋野(”スガ”ノユヤマヌシ)であり 記紀によってその系譜をごまかされた旧出雲神族ではないかと思われる。 さて、時代は進み武烈天皇がまだ皇太子であったころの話、 蘇我氏族である平群真鳥大臣は朝廷の権力を欲しいままにしていたようである。 皇太子は”物部”麁鹿火大連の娘、影姫を娶ろうとしましたが、すでに平群真鳥の子、平群鮪と結ばれていたために 平群鮪は皇太子の命令で大友金村の軍に乃楽山で殺されました。影姫は布留から乃楽山まで行き夫の葬いをしたと言う。 普通に読めばなんでもない話だが、”物部の娘を皇后に迎えるのに失敗した”のである。 この武烈天皇で応神王朝は終息を迎つつあるのである。 この時、すでに物部の心は、スサノヲを祖と仰ぐ同属の蘇我に動いていたのである。
206 :
日本@名無史さん :04/07/06 02:12
継体天皇は、応神天皇5世で大伴金村らに推挙されて即位した。とされているが実際は違うようである。 越前方面から呼ばれたと思われるこの天皇は旧出雲族の蘇我氏によって擁立されたのであろう。 大和に入ることが出来ず、二十年に渡って大和周縁を転々としたとあり、応神勢力と蘇我氏が激しく争ったと思われる。 また、その子である欽明天皇は『上宮聖徳法王帝説』などによれば、継体天皇の没年に即位したことになっており、 安閑・宣化天皇と『並立』していたのではないかとの説もある。たぶん並立していたのであろう。 応神勢力はそのまま自らを天皇だと主張し、物部氏族を後押しを受けた蘇我氏は天皇(大王)であると主張したはずである。 もう一度確認してくと、物部の姫を手に入れた”最強の豪族の王が天皇”であるからである。 ここら辺からはかなり激しく争ったものと思われる。記紀が主張する万世一系がなりたたなくなるからで皇統譜もかなり信用できない。 崇峻天皇などに至っては存在自体もあやしいものである。 さて、この後、物部と蘇我は歴史によると廃仏派と崇仏派にわかれ争う事となるようであるがこれは記紀の陰謀である。 物部氏も寺院を建てているし、物部守屋は殺されてない。 滋賀県東浅井郡の波久奴神社に萩生翁と自称して長生きしたような記述がある。
207 :
日本@名無史さん :04/07/06 02:13
さて、旧事記によると、「物部鎌姫大刀自連公(もののべかまひめ)が宗我嶋大臣(蘇我馬子)の妻となって、豊浦大臣を生みました。 豊浦大臣の名を、入鹿連公といいます。またその弟を(一説に入鹿本人)を物部大臣という」と証言している。 日本書紀によると、彼らは、 屋敷を御門(みかど)と呼ばせたり、自分の子を王子(みこ)と呼ばせたりしたとある。 簡潔に言うと蘇我馬子と入鹿は天皇だったのだ。記紀の編纂目的の一つである万世一系に毒された人には理解できようもないが。 天皇家など存在しない。最強の豪族こそが天皇である。推古女帝の時代にいたとされるアメノタリシヒコは蘇我の天皇であった。 この女帝も記紀の創作であるか王朝並立状態の応神系天皇であろう。おそらく実権はない。 ちなみに聖徳太子も記紀の創作で蘇我氏の功績を集めた人物と思ってよい。(後にほろぶ蘇我の怨霊を恐れて聖者にしたのだろう) そして、出雲の末裔の物部と蘇我の磐石の時代が続くと思われたが。 いわゆる大化の改新(大化の改新はどちらかと言うとその後、古代に逆行してるので”乙巳の変”と呼ぶのが適当)で 渡来系と思われる応神王朝の中大兄皇子と、同じく百済系渡来人と思われる中臣鎌足によって入鹿天皇が倒されるのである。
208 :
日本@名無史さん :04/07/06 02:27
中大兄皇子が天智天皇として即位するが、子、大友皇子の時代に出雲の逆襲が始まる。 ぞくに言う壬申の乱である。大海人皇子が天智天皇の弟ではないことは周知であろう。ここでは説明を省きます。 書記に大海人皇子の前半生がほとんど登場しないのは「書けない」からである。 彼の前半生は古人大兄皇子であろう。たぶん入鹿の子である。古=布留でありニギハヤヒそのものである。 大海人と言う名前自体が尾張氏を連想させ彼が出雲系であるといえよう。 実際に尾張氏は壬申の乱で二万人を挙兵し、大海人皇子を勝利に導いたのである。 こうして大海人皇子は天武天皇として即位する。出雲族の繁栄は約束されたように思われるが また、悲劇はくりかえされた。 天武皇后である天智の娘、持統天皇は中臣(藤原)と協力し即位し。 三輪朝臣高市麻呂の反対を押し切り、伊勢参りを始める。大物主を捨てて新たな神、天照女神を誕生させ 自らその化身となるためである。天武の子、大津皇子、有馬皇子、弓削皇子、高市皇子らを次々に暗殺し 【孫】の軽皇子(文武天皇)を即位させるに至ったのである。そして、これらの血塗られた出雲との殺戮劇を 隠蔽し天照女神誕生の為に記紀を編纂し、天「孫」降臨神話を作り上げる。 そして、渡来系であろう藤原氏の指導で敬愛と尊敬の対象である三輪山と大和の地を捨てて平城京へ移動するのである。 こうして出雲神族の末裔の歴史は幕を閉じるのだった。 皇后家は藤原氏にのっとられ藤原氏全盛の時代を迎える。万世一系の虚構とここで誕生した「天皇家」とともに。
209 :
日本@名無史さん :04/07/06 02:38
長文、ご苦労様でした。
>>196 奈良盆地が照葉樹林に覆われていなかった事は確からしい。
弥生期の初期は湖が広がっていて、その湖畔で稲作が行われた。
中期、後期とどんどん湖が縮小、湖岸線も後退して行った。
その跡に広がった干泥地には幾筋もの小川が流れ、恰好の稲作適地となった。
ということでは?
鍵・唐子の集落も中洲のような場所に営まれて、耕作地はまた隣りの中洲という風に、
渡渉可能な小川が入り乱れて流れる様な地形だったようです。
全くの泥湿地では根腐れしてダメですが、泥が乾いたような所、
それに給水可能な流れがそばにあれば一番良かったんじゃないでしょうか。
211 :
日本@名無史さん :04/07/06 11:29
列島の他地区と比較して短期間に水田面積収穫量、農業所得が拡大したと いうことは比較的に強度な富の集中、民力の高まりがあった。つまり、他地区 からの移住がなくても唐子・鍵自体で日本一となる素地があった。専業農家の 成長は農具、土器の生産、木材、住宅産業、警備保障など二次、三次産業の ために他国の人間を雇用することを可能にし、このために出雲、九州からの 専門家集団の誘致を招いた。てなことも考えられる。
212 :
日本@名無史さん :04/07/06 11:31
なるほど。人口過剰地域が西から順に増えつつあったし、農耕技術さえあれば、むしろ 移住は歓迎だったかも。まあ、奴隷扱いとしてかもしれないけど。その辺は、持ってる技 術にもよったかもしれないね。 当時、大阪平野、濃尾平野、そして奈良盆地と、急速に耕作可能地が拡大していったか ら、耕作民の大量移動は現実味があるな。権力構造自体の移動はともかくとして。
214 :
日本@名無史さん :04/07/06 20:29
倭人伝にあるめかけを4-5人抱えた「大人」のところで「下戸」にしてもらうって手も あったかもね。
>>185です 31さん、昨日は遅くまでレス作成ありがとうございました >東遷説自体は沢山あるそうなので私も全部はしりません。 >戦前の白鳥庫吉、和辻哲郎、戦後は井上光貞、森浩一、安本美典、古田武彦、その他多数w 大家と言われる方が書いておられるんですね、定説化しているのかな >奈良盆地については、いつの頃から耕作に適していたのかはまだよくわからないそうですね。確かに大和川の、それこそ八又の大蛇みたいな大氾濫原ですから。 この件は、他の方からもレス頂きまして、ありがとうございました 内容は以下のように多岐に渡るということで、大和の生産力の件一つについても、 多様な見方があることがよくわかり、こりゃ難しいなという感じです(本音) ・若い学者は、畿内の在地政権を核とした倭王権の成立には否定的。 ・大和川を通じた河内への進出に、プレ大和政権の飛躍があるかと思います。 プレ大和政権は、計画的に渡来人を河内平野(もともと有力豪族がいなかった)へ入植させ、開拓していったと考えています。 ・奈良盆地については、いつの頃から耕作に適していたのかはまだよくわからない そうですね。確かに大和川の、それこそ八又の大蛇みたいな大氾濫原ですから。 ・弥生期の初期は湖が広がっていて、その湖畔で稲作が行われた。 中期、後期とどんどん湖が縮小、湖岸線も後退して行った。 その跡に広がった干泥地には幾筋もの小川が流れ、恰好の稲作適地となった。 ・他地区からの移住がなくても唐子・鍵自体で日本一となる素地があった。 出雲、九州からの専門家集団の誘致を招いた。てなことも考えられる。 ・当時、大阪平野、濃尾平野、そして奈良盆地と、急速に耕作可能地が拡大していっ たから、(西からの)耕作民の大量移動は現実味があるな。権力構造自体の移動はともかくとして。 これからじっくり調べたり考えたいと思います。 (余談ですが、唐古・鍵も行きましたが、いいところですね・・・現在の風景)
185です 上記レスで ・をつけた部分はすべてレス引用です (引用時に文字位置がずれた部分がありますので念のため)
>・他地区からの移住がなくても唐子・鍵自体で日本一となる素地があった。 >出雲、九州からの専門家集団の誘致を招いた。てなことも考えられる。 ないですね。唐古とマキムクには全く継続性がない。 そういうこと言っている人はまだいますけど今唱えている連中が死んだら無くな っていくと思いますね。邪馬台国九州説みたいにね。 そもそもこういう主張の人たちの根拠である「鉄のルート?をめぐる争いに勝って・・・」 と言うのが少なくとも考古では全く証明できないですね。 村上氏なんかは、「鉄器(北九州)VS石器(畿内)」(→だからそんなことはありえない) なんて言ってますね。
218 :
日本@名無史さん :04/07/07 22:26
>戦後は井上光貞、森浩一、安本美典、古田武彦、その他多数w おいおい、こいつら全部電波じゃん。 井上は、「クナ国東遷」 森は、この期に及んで「九州説」(しかも騎馬民族説に媚を売る) 安本、古田に至っては、論外。 せめて、柳田とか原田(これも生前は電波扱いだったが) とか教えてやれよ。
おやおや、全滅まえの畿内説暴発ですか
まあ今時畿内説唱える香具師よりまともだ。
221 :
日本@名無史さん :04/07/07 22:28
九州説=特鋳説=電波馬鹿
222 :
日本@名無史さん :04/07/07 22:32
考古学者で九州説なんていたっけ?
畿内説カワイソウ 喚くだけ(w
どういう部分が電波でないのか教えてくれよ。
226 :
日本@名無史さん :04/07/07 22:55
とりあえず安本珍電波のお笑い古墳編年は傑作だよな。
だから、畿内説なんてもういないんだよ。 安本なんてのアマチュアであって、学者扱いされていない。 彼がレフリー付の学会誌に投稿したって相手にされません。
論破とかそういうレベルじゃなくて、相手にされてないのよ、彼は。 たとえば、まともな学者は、小林恵子相手に論争しないだろ。 そういう扱いなの。
いや、彼は心理学者だ。チャンと学者として大学の教授もやっていた。
まあぼつぼつ最初から行こうか。 畿内説の主張は“え?誰がこんなこと言ってんの?”てな話ばかりなんで九州説の主張から。 >地理的・政治的状況 >2〜3世紀のころは、九州が先進地域、大和は後進地域であった。 これは純粋に考古学的見地から出すべき結論なのだが、 二世紀には九州の出土遺物がどうにもぱっとしなくなることに加え、 三世紀にはこの関係が逆転することが明らかになっている。 時代遅れ。 続く・・・・・かも
読んだが、こんなこと書いてるね。でたらめもいいとこだね。 >中国で全くこの形式の鏡が発見されないのは、卑弥呼のために特別に >作ったもの(特注品)だからである。 考古学者は基本的に全員畿内説だが、特鋳説なんてのはほんの一部の 学者が唱えているだけだよ。あんたが知ってそうな学者だと、石野、寺沢、 河上、白石とみんな否定している。
これもおかしい。これは、邪馬台国 九州説、畿内説と関係がない話だ。 >古事記・日本書紀、古代の記録、伝承、神話や天皇家の神事に、 >北部九州(筑紫)の事跡や地名、風俗などと似かよったものが多い。 たとえば、柳田康雄やその師匠はもちろん「畿内説」だが、同じような趣旨の発言をしている。 このおっさんなんか根本的な勘違いをしているな。
>『古事記』『日本書紀』の神話は、天皇家の権威を高めるために、6世紀頃に創作されたものであり、歴史的事実を伝えていない。 こういう考古学者がいることは確かだが、全員ではない。 原田の本でも読め。
>唐古・鍵遺跡は320ヘクタールの大環濠集落で、紀元前1世紀から >紀元2世紀まで続いた遺跡で、「楼閣」があった。 この遺跡と大和政権が連続するというのは定説じゃないよ。 若い学者はあんまりこういうことは言わないね。 どうも見ていると安本ってどこにもない「畿内説」を作りあげちゃってるね。
本人が作ったHPじゃないから、時代遅れは当たっているが 枝葉末節だな。
これも畿内説、九州説に関係ない。大和政権の構成要素の問題にすぎない。 >弥生時代の畿内圏で、祭祀に用いられたと思われる銅鐸は、 >大和朝廷成立後の、わが国の歴史に一切現れない。九州地 >方の祭器であった銅矛・銅剣・銅斧などが神話に登場し、 >剣は天皇家の三種の神器の一つにまでなっている。もし >天皇家が近畿圏で発生し、邪馬台国から大和朝廷に発展し >たのなら、どうして銅鐸の記憶が人々の頭から消えてし >まったのか。邪馬台国が、九州から来て大和朝 >廷を樹立し、日本を統一したと考えるのが妥当ではないか。
なんでこれが九州説の根拠なんだ?「畿内説」の学者も同じことを言って るぞ(全員ではないが)。頭がおかしいとしかいいようがないな。 >卑弥呼のもらった100枚の鏡は、当時、中国に存在していた、 >内行花文鏡・方格規矩鏡・位至三公鏡などの「後漢式鏡」である。 >これらの後漢式鏡は、中国でも出土するし、日本では、北九州の >墳墓から多く発見されている。
まあ、畿内説は皆、おかしいけどな
だからもう九州説なんていないんだって。大学行って聞いてみろよ。
九州に決まりだから、もう説じゃないんだよ。 畿内説だけ、永遠に「説」
>>236 じゃあ、枝葉末節じゃないところを出してよ。
>国家統一の状況
>日本の全国統一は5世紀以降である。3世紀の邪馬台国時代の日本は、
>まだ地域分権国家であった(北九州、南九州、出雲、吉備、畿内、東海など)。
>この時代に、九州から畿内までの広大な地域を統治した、
>大和朝廷のような権力が存在したとは考えられない。
これが最大の争点というか、邪馬台国論争の結論そのものなのだが、
なんの理由もなくいきなり結論が出てしまうところが電波の電波たる由縁かな。
なんでもかんでも“考えられない”だけですめばそりゃ楽だろう。
九州国立博物館がもうすぐできるから、 そこで橿原に毒されない研究がなされるだろう。 500年もウソをついた古代史研究はもういい加減に終わらせよう。
>>240 恥ずかしくて今更畿内説なんて真面目に聞けないよ
東の海は琵琶湖とか伊勢湾とか・・・緩やかな巨大連合国家とか・・・、
人に聞くまでも無く電波だよ。
>>218 原田って、大六氏のこと?ほんとに読んだのか?
なら、安本、古田、森、井上が電波とか言ってるけど、原田との違いは何だよ。それに、
「せめて柳田」とか、何いってるわけ (゚Д゚)ハァ?
とりあえず各論的に、きちんと反論してくれるかな。どの先生も体系的に論を説いている
人たちだし、お前さんに電波呼ばわりされるような人たちではないと思うけど。
流石にムーとかに書いたりすると、そりゃ電波と言われてもしょうがないけどなw
246 :
日本@名無史さん :04/07/08 00:50
北九州の鉄独占に反発する形で、畿内、吉備らが団結。 大倭国(オオヤマトノクニ)を造り、マキムクを王都にしたんだろう。 これらの連合国は前方後円墳の祭祀を共通とした。 マキムクでの九州系土器の出土の少なさ、前方後円墳の畿内を中心とした分布 を考えるとね。 マキムクって、唐古・鍵と距離的に近過ぎるし、唐古・鍵を捨ててマキムクに 移ったなら分かるけど、断絶って。大規模な征服戦争があったってこと? 私は、マキムクを建設したのは、やっぱり大和川水系の王族たちだと思うな。 古墳時代まで、鉄は九州が圧倒的であるのは分かるけど、歴史を見る限り、 先進地域が周辺の蛮族に征服された例は枚挙に遑がないしね。
>倭国大乱 >倭国大乱は、金印国家奴国と邪馬台国勢力の戦いである。 >大乱を境にして、北九州の墓制が、甕棺から箱式石棺に代わったり、 北部九州の墓制が甕棺から箱式石棺主体にかわるのはAD100年あたり。 ようするに、もはやだれもかえりみなくなった古い古い年代論に立脚しないともたないってこと。 >女王卑弥呼 >吉野ヶ里遺跡で、弥生時代中期としては最大規模の墳丘墓の存在が確認された。 >一世紀ごろの九州で、このような大きな墳丘墓が造られているとすれば、 吉野ヶ里の北墳丘墓は弥生中期初頭だぞ。紀元前二世紀ごろだ。 最近の歴博の問題定義で年代はさらに繰り上がるかもしれんが。 >三世紀の邪馬台国の時代に、径百余歩の卑弥呼の墓として、さらに大きな墳丘墓が存在してもおかしくない。 そりゃおかしくないがどこにあるんだ?その墓は? もっとも、これは九州説の主張じゃないような気もするが…・・・ ・・・・・・・・・・・万事この調子。もう飽きた。
>>246 先進地域が九州北部で蛮族が畿内なんだけどな。
畿内から銅鐸祭祀の蛮族を叩き出して大和政権ができたんだよ
それから先進地域になったんだよ、わかる?
>北九州の鉄独占に反発する形で、畿内、吉備らが団結。 ワラタ、団結して素手で立ち向かったのか?
250 :
日本@名無史さん :04/07/08 20:20
>>248 >先進地域が九州北部で蛮族が畿内なんだけどな。
よく読んで下さい。私もそのように書いています。
北九州が畿内を征服したのなら、なぜ地理的に有利な北九州を
捨ててまで、本拠地をマキムクに移す必要があったのでしょうか?
外圧? 3C後半〜4C初めでは、説得力が余り感じられないな。
高句麗と激戦を繰り広げていた、4C後半ならまだ分かるのですが。
あと、前方後円墳が九州ではなく畿内を中心に分布していることや、
マキムクに九州の土器が少ない説明を。
九州の鉄ルートを押さえたから、古墳時代以降、畿内に鉄が増えるという
解釈が自然では?
251 :
日本@名無史さん :04/07/08 21:17
北九州が畿内を軍事力で征服したというよりもむしろ、 朝鮮征伐か何かを任されていた畿内王権の有力者が 北九州で一転クーデターを起こして畿内を電撃的に逆に占領した、ぐらいだろうと思う。 魏に使いを送った「邪馬台国」は九州にあったが、 畿内で膨張をつづけていた王権に圧迫をうけて滅んだ。 北九州でクーデターを起こした人物は、 おそらく九州で卑弥呼の末裔を祭り上げたか、 自身で卑弥呼の末裔を僭称したに違いない。 だからこそ日本神話で九州が特別に神聖視(高天原)されているのだ。
>畿内で膨張をつづけていた王権に圧迫をうけて滅んだ 時代的に苦しいかと。どの時期にどれぐらいの力と勢力があったのかについても、 まだよくわかってないし。 ただ、九州の方は、高句麗という大国と渡り合っていたぐらいだから、生産力、技術力、 それに兵数から推測される人口も、相当あったようだ。 学者達はほっかむりしたまま責任取らないけど、昔言われてたことで、九州では無理っ ていう理由の核として、九州は大生産力を確保するだけの沃野が無いっていうのがあっ たなw 漏れは、形式上の上下関係はあっても、実質的には九州と畿内は相対的にそれぞれ独 自に発展したと思うよ。三種の神器の所在とか、呪術的、象徴的な意味でのやりとりはあ ったにしても。
253 :
日本@名無史さん :04/07/08 21:58
>>249 >ワラタ、団結して素手で立ち向かったのか?
あなた、極端な人ですね。
鉄器と銅器でも戦いにはなるよね。兵数、戦術、地理に明るいか暗いか、補給、大義名分、 勢い・・・・・。 それに、一時の武力で圧倒できても、その国を丸ごと滅ぼしたり征服すると言うことは、相当 大変なことだし。鉄器だけで一気には行かないと思う。
255 :
日本@名無史さん :04/07/08 23:10
大和は吉野の豊富な木材資源を利用して、強大な水軍を創設。瀬戸内海航路 を制圧した。水運を利用して瀬戸内海沿岸に軍隊を迅速に送ることができる ようになり、倭国統一が成ったのだと思う。 瀬戸内海に集中して分布している高地性集落の存在意義について、大和による 瀬戸内海水運の掌握という見地で、語ることが出来るのでは?
おれは実際に戦闘があったとは思っていないが・・・ 戦闘員の動員力は人口に比例するだろうから 対馬〜不弥 計3万戸 投馬+邪馬台 計12万戸 だから単純計算で4倍の戦力差。 加えて、九州は1000戸とかの小さいクニの寄り合い所帯だから 一枚岩で団結できた保証もない。 鉄器だけじゃあ、闘いの結果ははかれんよ。
257 :
日本@名無史さん :04/07/08 23:51
で、好古都国はハカタでOK? 対蘇国はトサでOK?
>大和は吉野の豊富な木材資源を利用して、強大な水軍を創設。 船作るのも道具がいるんだよ、鉄も無くてどうやって船作るんだ?
>で、好古都国はハカタでOK? さあ。読みはハカタかもね。 でも、遠絶にして詳らかにできないという記述と矛盾するから 福岡県福岡市の博多じゃないことは確かだね。
>>258 近畿よりもっと東でも弥生後期には鉄器が木材の加工に使われてることは実証されてるんだ。
数の多寡だけの問題で、鉄器はあるよ。
というか、馬鹿が集まってきたな(藁
>>256 どこから対馬〜不弥vs投馬+邪馬台の妄想ができるんだ?
文献上か?考古学的発見でもあったか?
これだから畿内説は相手になれないんだよ
>260 小船少々じゃない 軍作るって言ってるんだぜ、チョロチョロ鉄器があったって駄目。 >鉄器はあるよ。 あるならソース出せよ、畿内説は嘘吐きだからソースが無いと信用されない。
263 :
日本@名無史さん :04/07/09 00:31
好古都国はオカダ 対蘇国はトサでOK?
邪馬台はヤマダ 日本人が山田姓にノスタルジーを感じるのは邪馬台国起源
>>261 >>北九州の鉄独占に反発する形で、畿内、吉備らが団結。
>ワラタ、団結して素手で立ち向かったのか?
畿内(邪馬台)+吉備(投馬)連合が九州に勝てるかって話でしょ。
>畿内(邪馬台)+吉備(投馬)連合 邪馬台国は九州内です 九州が九州に勝てるか?という事? いみが通りませんよ。(藁
鉄の刃物の跡って鉄器自体は出てきてないんだろ(藁 金属の加工痕→強大な水軍を創設。瀬戸内海航路を制圧した。 妄想もここまでくると、もうなんでもありだな。
鉄の小刀なら九州から沢山でてる、それに比べて畿内は0 ゼロなんだよ。
>>268 加工痕があるのに鉄器がないわけないだろ。
頭だいじょうぶか?
畿内のサヌカイトの刃物でしょ?
>>270 無いものは無い、出てないんだから。
というか、畿内説自体がこんな段階なんだよ。
>>272 あのなぁ、鉄器による加工痕であることが判明してるんだよ。
鉄器なしにどうやって鉄器の加工痕を付けるんだ。
常識をもてよ。
>>273 常識持つのはおまえだろ
おまえは「鉄器はあるよ」と言ったんだ
で、加工痕しか出てきてない、一つも現物は出てきてない。
九州200以上、畿内ゼロ
九州には現物が腐るほどあるのに、畿内は加工痕がはたして鉄器によるものか?
の議論の段階。
水軍妄想するなんて夢のまた夢(藁
東海畿内にも交易で一つ二つの鉄器は九州から与えられたと思うが 鉄器の現物が出土していない以上、鉄の妄想はあきらめたほうがよい。
>>274 あのな、鉄器による加工痕ははっきりとした鉄器の存在証明だよ。
必要にして十分さ。鉄器はあったんだよ。
問題は量の多寡だけ。
>水軍妄想するなんて夢のまた夢
実際に畿内の土器は畿内から九州まで動いている。
間違いなく、畿内の人間が船で九州まで移動した動かせない証拠さ。
それには瀬戸内勢力の水運力を借りた可能性が高いけどね。
水軍の存在を想定するのはある意味当然。
>>275 一つ二つの鉄器じゃ水田は作れんよ。(wara
>>276 おまえは馬鹿か?
これを一万回唱えろ
九州200以上、畿内ゼロ
>>278 それは量の多寡だけの問題だろ。ちゃんと書いてるじゃないか。
いいから、頭冷やして寝ろ。
畿内説はいつも苦しい言い訳・・・・・・・金印出土地
>>279 鉄の量は生産力軍事力に比例するからね、量は重要
畿内は量の多寡を語る以前にゼロ。
>>281 相関がまったくないとは言わんが、比例するというのどこからでてくるのだ。
ソースは出してくれるんだろうな?
量が重要だというのも別に否定はしない
(だからこそ鉄をめぐる争いがあったなんて話がでるわけだからな)
だがな、今の話は
>>大和は吉野の豊富な木材資源を利用して、強大な水軍を創設。
>船作るのも道具がいるんだよ、鉄も無くてどうやって船作るんだ?
ここから出発してる。
船を作るのに必要な鉄器があったかどうか。それが問題で総量は今は関係ない。
>>282 >〜強大な水軍を創設。
>〜総量は今は関係ない。
自分で言ってて苦しくない?
一艘の丸太舟ぐらいしか想定できないな。
というか、畿内の原住民が争って手に入れた鉄どこにあるの? 船も無い鉄も無い絹も無い祭祀は外の勢力に取り上げられる、ボロボロじゃん。 絹が出ないところから畿内勢力は貧乏な奴隷階級だんったんだよ。
哀れ
287 :
日本@名無史さん :04/07/09 06:26
お前ら、統計学的に意味のあるデータを使って何がどうなのかを説明してくれ。 騒ぐだけはやめな。
288 :
日本@名無史さん :04/07/09 07:11
絹なくても麻着てれば良いじゃん 絹はせいぜい卑弥呼ほかトップ階級だけだろ 少量すぎて遺物としては出ないんだよ 調貢品は配下の産地から収めさせたんだよ シャシ品だからね、武士は食わねど高楊枝って事では?
九州だけ出てくるものが多すぎるんだよな。 それを全部無視して土器とかの話ばっかりするからおかしくなる。 フル0式が云々→マキムクが云々→畿内に邪馬台国があってもおかしくない・・・ ↑ この辺りポイントw
禾稲(いね)、紵麻(からむし。イラクサ科の多年草。くきの皮から繊維をとり、糸をつくる)をうえている。蚕桑し(桑を蚕に与え)、糸をつむいでいる。細紵(こまかく織られたからむしの布)・絹織物、綿織物を(作り)だしている。
>>292 そのデータベース見れば、九州も後期初頭〜終末が空白なのがわかるだろ。
後期前半までが多いのは甕棺墓だからだよ。
それに、紀元前の数をいくら比較したって意味がない。
後期前半までの九州優位は誰もが認めていることだからな。
邪馬台国は弥生終末=古墳時代初頭。
この時代を境に、絹は全国的に出土するようになるのさ。
この表では落ちてるが、古墳時代初頭に位置する下池山、
黒塚から絹の出土が確認されている。
>>287 意味のあるデータね。ウェブにはないが・・・・
鉄器の出土数については、寺沢薫の王権誕生に図があるからみてごらん。
後期後半までに関東あたりまで分布が広がってることが確認出来る。
数は少ないが、畿内もゼロじゃないよ。
他には、村上恭通の倭人と鉄の考古学あたりを読んでね。
この本には、中期後半の埼玉県向山遺跡の鉄斧、
後期の静岡県長崎遺跡、兵庫県大平遺跡の舶載農工具などが
具体例としてあげてある。
ほかに、山陰地方で後期後半に大量の鉄器が出土しているのは
これまで何度も出てる衆知の事実。
294 :
日本@名無史さん :04/07/09 13:16
鉄器の出土数については、寺沢薫の王権誕生の図は弥生中期以前から 古墳時代のはじめにかけて筑紫と肥後がダントツ、弥生後期においては 肥前が第3位に出ていて出雲、大和などは蚊帳の外。ところが直後に大和が ダントツに変わると注釈がついている。当時鉄輸出権は秦韓が管理しており オフショアーマーケットは弁韓という形で成立していたのであろう。邪馬台国 成立は秦韓の政策転換に大きく依存している。秦の兵主神、蚩尤信仰は この時纒向に移動したものだろう。大和岩雄の2都ではなく吉備、阿波経由 大和に入った秦韓主導による建国であったのかも知れんぞ。
295 :
日本@名無史さん :04/07/09 13:25
また、寺沢薫の王権誕生の図AD50-150年にかけて筑紫の鉄文化の約半分が 肥後に南下したことを物語るが、これは単なる文化の浸透か、はたまた、民族移動か。 もし、民族移動であるとすると流動性の発祥の地、神武的存在が筑紫から肥後に天下り、 その後瀬戸内を東進し、吉備に入ったというシナリオもありえよう。
296 :
日本@名無史さん :04/07/09 13:33
ちなみに弁韓という意味はConfederation of Marketing Hansということだと思うが HanなんてのはChiefdomすなわち首長国ってところだろう。
297 :
日本@名無史さん :04/07/09 13:38
弁韓の中身を調べているんだがね。 According to Sanguoshi (Chronicles of the Three Kingdoms), Byeonhan was made of 12 states including Mirimidong (道御津?/彌離彌凍國), Jeopdo (瀬戸?/接塗國[陶都か]), Gojamidong (越御津?/古資彌凍國), Gosunsi (クジシ?/古淳是國), Banro (春?/半路國), Akno (倭奴?/樂奴國[奴国か]), Gunmi (亀尾?/軍彌國[これは丹波の亀岡、久美が浜、出石近辺か]), Mioyama (水脈(三輪)山?/彌烏邪馬國[これは唐子・鍵近辺か]), Ganro (加羅?/甘路國), Guya (草?/狗邪國[=阿蘇の草方面か]), Jujoma ススマ?/走漕馬國), Anya (安羅/麻?/安邪國[これは阿波のことか]), a nd Dokro (ドロ?/読盧國). 浅学でようわからん。
298 :
日本@名無史さん :04/07/09 13:46
神武ミッションは大勢で日向に押しかけると宿泊にも困っただろうから 日向から神主を宇佐辺りに呼びつけお払いさせた程度と違うか。
299 :
日本@名無史さん :04/07/09 13:52
結論的に、邪馬台国とは秦系の筑紫、肥後の倭人が宗主国秦韓の持っていた 鉄鋼輸出権を輸入権にして纒向に移動したというのが順当な線でないかと思うん だがね。どーじゃろ。
なるほど。なかなか説得力はあったとおもうな。各論が体系的にまとまっているから。 でも、少なくとも論拠に年代測定に負うところが大きいな。 放射年代と土器編年の整理が無くては前に進めない状態になっているのに、畿内派が 意固地になって土器編年にこだわるから、年代については慎重を期さないと。 それと、鉄器の出土状況から九州に大勢力は、途中で途絶えたという意見は、ちょっと 古い。相当の破壊や滅亡がないと、自分から全員移住などは考えにくい。一時的に人 口が減ったとしても、生産基盤がよほどの激変を受けない限り、技術は伝承される。農 耕民族がすぐに人口を増やすと言うことも普遍的事実だし。 鉄器が減ったことについては、放射年代測定がいい加減なことの他に、銅器と違って、 実際に使用されるものなのと、使用年限が長いことから、埋納なども行われず、第一に 戦場へ持って行かれるからという説もある。連年半島や周辺国の征服戦で消耗しただろ う。
301 :
日本@名無史さん :04/07/09 15:20
302 :
考古学主体の畿内纏向説 :04/07/09 16:50
久々に覘いていますが
やっと>>293-
>>299 のような寺沢畿内説に対しても
>>300 のようなまともな反論が出て、いい感じになっていますね。
ところで、ざっとROMって思ったのですが
一口に九州説といっても、それこそ何十もの説がありますし
九州王朝説と東遷説(特に安本説)などはお互い相容れない存在ですよね。
ここは他の邪馬台国関連スレに比べると、かなり理性的な展開を心がける
参加者が比較的多いようなので、ひとつ提案なのですが・・・
コテハンでも番号でも良いですから
まず各々の立脚する説を書いていただけると大変ありがたいのです。
是非ご協力お願いできませんか。
303 :
日本@名無史さん :04/07/09 16:51
と言いますのも、僕はハンドルに書いたとおりの考え方なのですが たまに「畿内説は皇国史観だ!」とか言われたりして ???と思っていたのですよ。 ところがそういう学問とは別に、偏った思想やはたまた宗教的立場から 「記紀原理主義」とも言える畿内説がいる事も判り 「なるほど、そーゆーのが感情的に九州説を攻撃したり荒らしたりすれば そりゃあ腹立つよなぁ」と、激しく納得したりしました。 しかし大半の畿内説は、おそらく考古学上の発掘成果に立脚して展開しているものですし あえて言うなら、発掘事実にあわせて文献を参考にするという立場なのです。 たとえば東遷説に反論しようとしても、九州王朝説からすれば 「それは九州説そのものの否定になっていない」 と言われるのはごもっともですし、逆もまた然りです。
304 :
考古学主体の畿内纏向説 :04/07/09 16:52
ありゃ?ハンドルが抜けちまった・・・303は僕です。 実際、東遷説の提唱する地名の類似などは もっと詳細に検討する価値があると考えていますし 北部から中部九州にかけて4〜5世紀に発展する装飾古墳の独自性などは 王朝かどうかは別にして、近畿に誕生した勢力とはまた違う高度な文化性を有しています。 西都にしても、現在レーダー探査が実施されようとしていますし もし発掘が可能になれば、それこそ記紀神話の裏側に光が当たる可能性も大いにあります。 そういった諸々の事も含めて 「現在、発掘の現場ではどういうものが出土しているのか?」 「九州王朝説は古田氏がかつて提唱した「邪馬壱国」から、現在はどう進化しているのか?」 「東遷説は、安本説だけでなくこういう考え方もあるのだ。」などなど 現状と各自の主張を明示していただければ、議論に筋が通るのではないかと思うのです。
305 :
とりあえず九州王朝説 :04/07/09 17:13
私は古田系?変則説です。 列島王権多重説・九州内複数回遷都説・東遷説話=東侵実話=小領主立志伝実話説 欠史八代実在説・九州南東半独立豪族説・天武九州畿内統一説・畿内政権クーデター反復説 などなど・・・
306 :
天照大御神=卑弥呼説 :04/07/09 17:22
八女だな
でも、発掘結果によってまだまだわかりませんよね。特に、天皇陵発掘については、
>>303 さんも
言われるように、簡単には出来ないのを見越して畿内説を唱える、一部の偏ったグループもある
ので。
それと、昔は地方王権なんて言うだけでもキ印扱いされたものですが、地域首長レベルでも一応
王権と言ってもいいと思います。それに、各国(村)がばらばらに仲良くしているはずはなく、当然
統一戦争はあったわけで、その勝者を地方王権としてもいい訳ですよね。
このあたりも、未だに大和以外あり得ないなどというトンデモ説を唱える畿内派がいるので、困ります。
>>305 同意ありがとう、深く感謝します。
ところで最近の古田説(だと思いますが)のなかで
>九州内複数回遷都説
これを論じている本か論文の名前をできれば教えていただけませんか。
これが何を根拠に論じられているのかが判らないのです。
このスレにも何人か唱える方がおられますが
考え方が判らないと反論のしようが無かったりします。
もちろん考古学的には?がつく事は、これまた何人かの方が既に述べておられますが
考古学的立場からの反論では、おそらく議論がかみ合わないままになると思います。
何か元になった文献なりがあるのでしょう。
そのあたりが書いてある本や作者を教えていただけませんか。
309 :
日本@名無史さん :04/07/09 17:34
>>296 韓Han諸国は、漢Han Chineseが勢力を増して
国名を自分達の影響を現わすものに変えた可能性もあるのでは?
先立つこと前108年、漢武帝は、半島北部に
楽浪郡など4郡を設置し漢の植民地とした。
半島南部にも、その余波は及んだであろう。
第 1集 20世紀の幕開け:カメラは日本人の残虐さをとらえ始めた 第 2集 植民地支配の完成:朝鮮半島の住人たちは凄まじい支配者の出現を見た 第 3集 それは満州から始まった:噴き出した日本の欲望が中国を脅かした 第 4集 ヒロヒトの野望:アジアの人々は大東亜共栄圏を掲げた日本帝国主義に未来を奪われた 第 5集 アジアは地獄を見た:強制連行、従軍慰安婦、そして南京大虐殺 第 6集 抗日の旗の下に:植民地支配打倒に向けて,アジアは抵抗の道を歩んだ 第 7集 朝鮮半島の分割:朝鮮戦争は日本の画策によって始まった 第 8集 無反省の中の平和:中韓朝の首脳は謝罪・賠償を求めて対峙した 第 9集 日米安保の衝撃:平和憲法が揺らぎ始めた 第10集 朝鮮民族の悲劇果てしなく:絶え間ない差別、さまよう在日朝鮮人の慟哭があった 第11集 JAPAN:世界が見た独裁者 明治天皇・大正天皇・昭和天皇・平成天皇  ̄ ̄ ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ∧_∧ < `A´> ( ) | | | (__)_)
考古学的にといっても、未だに放射年代測定が遅れているので、何とも言えないです。 他の人も言ってますが、太宰府後なども始まったばかりで、それも相当ふるい結果にな ったとかで、しっかりしたデータ公開をしてもらえないとのことです。 ただ、実際に古田説のように長期間王朝があれば、当然政権の持ち回りや内紛もあった でしょうね。それを当時遷都と言ったかどうかはともかくとして。
>>307 実のところ、トンデモ畿内説には悩まされています・・・
彼らの主張で一番困っているのは
「恐れ多くも万世一系の王族の墓を調査の名の元に暴き
反国家主義を世に広める亡国の徒が考古学だ!」
というやつです。
実際、発掘現場で嫌がらせに等しい行為も受けたことがありますし
誹謗中傷の電話など、しょっちゅうです・・・。
>昔は地方王権なんて言うだけでもキ印扱いされたものですが
1〜2世紀にかけてはそういった群雄割拠(そんなに勇ましいものでもないですが)
の時代があったことは間違い無いでしょうし、その時期に
北九州が頭ひとつどころかふたつみっつ抜け出していたであろう事は
畿内説云々に拘わらず、誰も否定しないでしょうね。
他の畿内説論者の発言にもありましたが
それが(少なくとも西日本が)統一もしくは連合に向かったのが
いつ頃なのか?というのが論点の分かれ目だと思うのです。
313 :
日本@名無史さん :04/07/09 17:56
>>299 邪馬台国の頃、韓が倭の宗主国のはずがない。倭も韓も、
中国王朝に従っていたのだから。以下、「三国志 魏志 韓の条」より
1)「建安年間(196ー219)中に、公孫康は屯有県以南の
荒地(ソウル近辺)を分けて、帯方郡とした(中略)
この後、倭・韓ついに帯方に属す。」
2)魏の明帝の景初年間(237−239)。「郡県の呉林は、韓国が
もと楽浪郡の支配下にあったことを理由に、
辰韓八国を割いて楽浪郡に属させた。韓国側は怒り
帯方郡のとりでを攻めた。魏の帯方・楽浪2郡も
反撃し、その時帯方太守は戦死したが、韓はついに滅んだ。」
そうです。
315 :
考古学主体の畿内纏向説 :04/07/09 18:12
>未だに放射年代測定が遅れているので 何しろ数が膨大な上、人手&設備不足ですので・・・ しかし大宰府調査は、自治体も他よりは協力的ですので きっと正確な結果が出ると思います。 >当然政権の持ち回りや内紛もあった ここなんですよ、論点は。 畿内説も邪馬台国建国後、そのままその勢力が4〜7世紀のプレ大和朝廷を 一族支配していたなんて考えてはいません。 また先に紹介していただいたとおり、邪馬台国そのものも 畿内の土着勢力が主体となって形成したとは、少なくとも若手は考えていません。 寺沢氏は吉備主体で九州のバックアップがあったとの立場ですが 九州の関与がどの程度あったのかは、まだ未確定ですし、人によってまちまちです。
316 :
日本@名無史さん :04/07/09 18:40
マキムク氏に質問 なぜマキムク遺跡があるからって畿内説になるの? 別に九州と近畿で二大王朝があったと考えてもおかしくないでしょ 東遷や東征が否定されるのはマキムクのためだと主張しているようだが そこまで重要な遺跡なのか? 初心者の質問なのだが、あまり専門用語を使わず わかりやすく教えてくれないか
317 :
日本@名無史さん :04/07/09 19:24
>>316 お答えしよう!
マキムクには
・超先進的技術を誇る超巨大運河
・巨大王権の証、最古の前方後円墳
・卑弥呼の祭壇の跡
・中央集権の証、北は東北、南は九州韓国など、日本各地方から集められた土器
・布留0式土器の出土、布留0式は最新の学説で1世紀前半まで遡るとされている。
318 :
考古学主体の畿内纏向説 :04/07/09 19:30
319 :
考古学主体の畿内纏向説 :04/07/09 19:31
>東遷や東征が否定されるのは 纏向遺跡の繁栄期は180年から350年頃と考えられています。 (年輪年代法がでっち上げだと言われたら、話は通じなくなりますが) 180年頃といえば、倭人伝に言う「倭国大乱」の終了時期なのですが それと同時に、北九州文化の影響をほとんど受けていない遺跡が 防御施設もなしに繁栄を始めるというのが どこからかの侵略を受けたものではない事をうかがわせます。 またそれ以前にあった唐古・鍵遺跡(距離にして数百mくらいです)が 対称的に緩やかに衰退していくこと。 これも侵略などがあれば、もっと劇的な痕跡が残ります。 また山陰の妻木晩田遺跡など、西日本各地の有力集落も同時期に これまた緩やかに消滅していくことから、「戦乱以外の要因」で 一大変革が「極めて政治的な理由で」発生したと見られているのです。
320 :
考古学主体の畿内纏向説 :04/07/09 19:32
また纏向を創設及び運営した勢力がもし北九州に関係があるのなら それを匂わせる出土品があってもおかしくは無いのですが 実際は北九州産の土器はほとんど出土されませんし 前方後円墳の土木的特徴も、北九州よりもむしろ山陰や丹後 祭祀器にいたっては吉備の影響をモロにうけています。 これらから、いわゆる畿内に突如発生した纏向遺跡は 北九州以外の勢力が連合して作り上げた物であるとの考え方が導き出されます。 念のために言っておきますが これほどの規模と当時の先進技術を結集した遺跡は、他に類を見ません。 ただイコール邪馬台国かどうかは、不明だと言ったほうが正解でしょう。
321 :
考古学主体の畿内纏向説 :04/07/09 19:33
確かに時代はぴったり合いますが、倭人伝の記述からはかなりかけ離れているどころか それ以上の規模と内容を有しているからです。 しかしもし纏向以外が邪馬台国なら、記述にふさわしい3世紀の遺跡が 九州島(四国でも山陰でも可)のどこかに未発掘で存在せねばなりません。 その可能性を考慮すると、どうやら・・・というのが纏向説の考えです。 ちなみに倭人伝で語られた風習や建造物などの風俗記事は おそらく北九州のものだろうと考えています。 魏使は畿内には行ってないのではないでしょうか。 外交を一手に引き受けるだけの実力やノウハウは、やはり当時の北九州にあったと思われます。 北九州勢力と他の西日本勢力が連合したからこそ、連続した朝貢が可能になったのでしょう。
322 :
日本@名無史さん :04/07/09 19:39
>>320 何故東海を書かない?
外来土器の5割が東海
東海勢力を何故無視する?
323 :
考古学主体の畿内纏向説 :04/07/09 19:41
>>317 >・卑弥呼の祭壇の跡
・・・そ、それはまだそんなもの無いですよ(笑)
現在のところ宗教施設説や古墳建設基地説や物流基地説がありますが
正直なところまだまだ発掘中ですし・・・
ただ時代は後にズレますが、私市倉庫群との物流関係も
視野に入れて、纏向単体ではなく大和川水系を利用した
他の遺跡との複合施設であった可能性は高いです。
324 :
考古学主体の畿内纏向説 :04/07/09 19:42
325 :
日本@名無史さん :04/07/09 19:54
>>324 東海が入ると自説に不都合が生じてくるからでしょう
自説を語る上で
意識的無意識的にかかわらず都合の悪い部分を隠す行為が畿内説に多々見られる。
また針小を棒大に解釈する事も注意して欲しいね。
326 :
考古学主体の畿内纏向説 :04/07/09 20:04
>>325 >東海が入ると自説に不都合が生じてくるから
いやあ、全くそれはありません。
更に不都合も生じないのですが、そう思われるのも損ですので
書き込みに関しては更に推敲いたします。
>都合の悪い部分を隠す行為
>針小を棒大に解釈する事
そう言う事が無い様には留意していますが
じゃあ、これはどうなってるのかな?
ってな部分がありましたらご指摘いただけましたら幸いです。
327 :
日本@名無史さん :04/07/09 20:12
>>326 すまんかった、今までの馬鹿畿内説論者とは違うようだな
以降、俺は慎みます。
328 :
考古学主体の畿内纏向説 :04/07/09 20:24
>>327 とんでもない、東海が抜けていたのは間違いなく私のミスなのですから
慎むなんて言わないで下さいよ。
ただちょっとだけお願いです。
2ちゃんが舞台なので、誰もが口調が乱暴になるのはご愛嬌として
>>231-238 氏や
>>247 氏、
>>293-295 氏などは
畿内説の論旨を判りやすく書いてくれています。
煽り文句に腹が立つのは良く判りますが、是非とも参考にして下さい。
良心的な研究者の方ですね。 私の知ってる畿内説の研究者は、口を極めて他説の悪口を言ってます。 すぐに「あいつらは気が狂ってる」「頭がおかしい」とかいうので、はっきり言って、歴史の話なんかできないw あなたみたいな人がいるってわかって安心しました。2chにも酷いのいますしw
>>308 九州王朝は遷都を何回かしていると思うのは、文献からではなく
どちらかというと、考古学的出土品からの「類推」です。
博多湾に数百年あったようにはとても考えられないわけです。
佐賀や熊本、そして大宰府に移動したと考えるとしっくりいく。
でも、他説を打ちのめすような決定的証拠はないわけです。
九州王朝は壱与のあと、350年頃極東諸国が軍国主義になってしまい、
対抗して軍国化していると思われます(倭の5王)。このころは
佐賀や熊本が国の中心のように感じます。装飾古墳もこの時期でしょう。
中国の陳代(6C)に、九州王朝は中国と縁を切ります。このころ福岡に
遷都しているように見えます。国産鉄のため、半島の覇権に意味が薄れ
中国の宗主権をあがめる意味もない。九州年号を制定したのはこういう
関係からです。百済も元号をつくっています。
だから、隋・唐とも対等に国交した(日没するところの天子)。
しかし白村江で負けてしまうわけです。
331 :
考古学主体の畿内纏向説 :04/07/09 22:11
皆様有難うございます。 一旦これにて落ちますが、最後にネタを少々・・・。 アカデミズムの世界では、例えば石野さんとか ちょっと前なら森さんとか佐原さんとかが 「邪馬台国は近畿だ・・・間違いない・・・」など 長井秀和みたいな事言ってましたが、それについてちょっと弁護をば。 無理矢理でも邪馬台国に関連させて、マスコミに リップサービスしておかないと、発掘作業そのものが立ち行か無くなるのですよ。 特に各自治体は発掘より開発を優先させたいため それに対抗するには「邪馬台国」を引き合いに出すのが一番有効な手段だったりします。 これは悲しいかな畿内よりも、他の地域のほうが大変みたいで 特に山陰・中国地方の研究者は悲鳴を上げています。 私がいろんな意味で九州説に頑張って欲しいのは 邪馬台国を引き合いに出しても良いので、とにかく発掘のチャンスを得ていただきたいのです。 西都も甘木も宇佐も八女も、きちんと調査すれば必ず有意義な結果が得られるはずです。 宮内庁の事なかれ主義や責任回避に対抗できるのは こういった世論の関心が高まる事以外にありません。 頼むから天皇陵や陵墓参考地を調査させてくださいな(泣) 盗掘後でも、石室のつくりや副葬品の破片から様々な事が判ります。 ですので、あまり他説の罵倒に走らないで有意義な議論を展開しましょうよ。 考古板だったか、ネガティブキャンペーンを張るような自称研究者は 勘弁してくれとの発言がありましたが、まさにそのとおりです。 発掘がストップしたら元も子もありませんし、永遠の謎になってしまいます。 ほんとマターリいきましょうよ。
332 :
考古学主体の畿内纏向説 :04/07/09 22:17
落ちると言っておきながら・・・レス
>>330 判りやすい解説有難うございます。
なるほど、北九州の墳墓副葬品の減少をそう考えておられる訳ですね。
もう時間が無いので(まわりが早くしろ!もう帰るぞ!と睨んでいます(滝汗)
具体的な反論は後日にさせてくださいませ。
繰り返し、有難うございます。
あ、落ちちゃった・・・・
>>319 >(年輪年代法がでっち上げだと言われたら、話は通じなくなりますが)
年輪年代なんか持ち出さなくても、九州の土器との交差編年で十分だろ。
cf. 『考古学と暦年代』(ミネルヴァ書房)
>>323 オイオイ
>>317 >・布留0式土器の出土、布留0式は最新の学説で1世紀前半まで遡るとされている。
で気付よ・・・・
え?何に?わかるだろ。
漠然とした、畿内王権の「印象」も述べておきます。 畿内王権は守りがやや弱く、ときどき王権を簒奪されることがあった。 継体天皇などは、簒奪王。この辺は、古代ユダヤ人国家も似ている。 瀬戸内海や琵琶湖などで交易が盛んな畿内は、王権は独裁的でなく 交易・産業保護志向の国。 九州王朝が半島で戦争に疲弊すれば、軍需景気で畿内は繁盛する。 倭の5王時代や唐と戦争した時代、畿内は豊かになった。 畿内大和朝廷の「天孫の血統・神武の王統」などという自慢話は 九州王朝の血統と、畿内で芽生えた九州系畿内王権をセットで 由緒の正しさとしたもの。
335 :
日本@名無史さん :04/07/09 22:36
九州説が一つにまとまらないのは候補地がそれぞれ有力だからだと思う 北部九州にあっても宇佐や西都にあっても納得できる 正直九州内で非常に悩む。
よく考えれば、歴史のハッキリしている時代でも、大和朝廷はよく遷都しています。 つまり、古代は結構、遷都する傾向があったのでしょう。 幻の古代だけ「千年ないし数百年の都があったはず」というのは、どう考えても無理 なのではないでしょうか? しからば、古代都市のうち都の可能性とともに、遷都順位考証やその必然性を検討するのが 真実に近づくひとつの良い方法でしょう。
337 :
日本@名無史さん :04/07/09 23:51
>>259 レスありがとう。
でもそうすると漏れの計算が狂ってしまう(;;
井沢さんの古代中国発音による地名策定説を
信じ、ガキのころから信じていた、高木あきみつの
宇佐美説を捨てたのに〜(殺意
井沢さんはもう信じない!逆説シリーズももう買わない!
やはり小説家ごときの浅知恵じゃダメですね。それを生業としている
プロの意見しか信用できない
井沢さんは小説家として面白い。 逆説シリーズも小説としては司馬さんのとかよりよっぽど面白い。 つか、司馬さんのも小説=フィクションなんだが。
339 :
日本@名無史さん :04/07/10 05:28
一口に畿内王権と言っても銅鐸以前と以後では 人種構成や社会構造から全て変わったと言えるのです。 簡単に言うと現アメリカ人とインディアン位違う。
素人だが
>>339 ソースを
銅鐸関連で、そこまでの断層を措定できるのかな
341 :
日本@名無史さん :04/07/10 08:09
>>938 最近は小説としても詰まらなくなっているな
342 :
日本@名無史さん :04/07/10 08:10
>>341 938 じゃなくて 338 だ、スマソ
邪馬台国と大和王権の連続性は、おおよそ妥当だと思うのだが、 反対派の人は、東遷物語の魅力が捨てられないのだろう。
何かが湧いてるなw
345 :
日本@名無史さん :04/07/10 08:42
>>339 簡単に言うと現アメリカ人とインディアン位違う。
↑
誇張しすぎ&簡単に言い過ぎ。
そこまで違ってたら、必ず中国の史書に書かれている。
歴史を人文「科学」に近づけたいなら、
「白髪三千丈」みたいな文学的表現は、おヴァカな読者が
誤解するから止めるべき。
346 :
日本@名無史さん :04/07/10 10:05
>>343 邪馬台国九州説は、神武東遷物語だよ。
正しいとも言えないし、間違いとも言えない。
>>346 たった39文字だがつっこみどころ満載だなw
おまいは魏志倭人伝かと。
348 :
日本@名無史さん :04/07/10 15:34
邪馬台国の最重要国家伊都の首長は爾支の子孫神武
>安本、古田、森、井上が電波とか言ってるけど、原田との違いは何だよ。 まず、前者2人はまともな学者じゃないね。そもそも論ずるに値しない。 安本の意見の一見まともに見えるところは、他の学者(鏡なら王氏その他、地名なら鏡味氏) の引用。奴独自の説、古代天皇は10年という年代論、古墳編年などは噴飯も ので誰も相手にしていない。 森と井上は、かつてはそれなりの学者だろうが、森は九州説、井上はクナ国東遷説という 今では電波説となり、価値のなくなった意見を唱えている(いた)。 これに対して、原田の説は、弟子筋の柳田も言うとおり、今でも十分通用するものだ。 そもそも平原の発見だけでも凄いんだけど。
>九州国立博物館がもうすぐできるから、 >そこで橿原に毒されない研究がなされるだろう。 >500年もウソをついた古代史研究はもういい加減に終わらせよう。 九州でも邪馬台国九州説を唱える考古学者はほとんどいませんが。 高島さんだけですよ。他にいるなら教えてください。
>北九州の鉄独占に反発する形で、畿内、吉備らが団結。 >大倭国(オオヤマトノクニ)を造り、マキムクを王都にしたんだろう。 鉄の学者はおおむね否定的です。庄内期まで北九州の優位は続きます。 >これらの連合国は前方後円墳の祭祀を共通とした。 >マキムクでの九州系土器の出土の少なさ、前方後円墳の畿内を中心とした分布 >を考えるとね。 >マキムクって、唐古・鍵と距離的に近過ぎるし、唐古・鍵を捨ててマキムクに >移ったなら分かるけど、断絶って。大規模な征服戦争があったってこと? 桜井市の埋文の連中ですら、ほとんど在地の要素がないと言っている状況です。 >私は、マキムクを建設したのは、やっぱり大和川水系の王族たちだと思うな。 >古墳時代まで、鉄は九州が圧倒的であるのは分かるけど、歴史を見る限り、 >先進地域が周辺の蛮族に征服された例は枚挙に遑がないしね。 考古から言うと、上部構造(祭祀等)、下部構造(鉄の量、生産の高度さ)双方とも在地政権が 大和政権に成長した証拠がない。 文献から言うと端的におかしい(といわれるだろうね)。
>北九州が畿内を征服したのなら、なぜ地理的に有利な北九州を >捨ててまで、本拠地をマキムクに移す必要があったのでしょうか? >外圧? 3C後半〜4C初めでは、説得力が余り感じられないな。 >高句麗と激戦を繰り広げていた、4C後半ならまだ分かるのですが。 >あと、前方後円墳が九州ではなく畿内を中心に分布していることや、 >マキムクに九州の土器が少ない説明を。 首都??を移したんだから当たり前だ。アホか? *それでも北九州は、畿内についでマキムク型が多いがね。 後段については、東海勢力が主導っていう話になっちゃうよ。なことはありえないわけでね。 そもそも供献土器ないし労働力の移動と言う観点から見ると政権の本貫地が少なくて 新しい服属地である地域の土器が多いってのは当たり前じゃないの。 >九州の鉄ルートを押さえたから、古墳時代以降、畿内に鉄が増えるという >解釈が自然では? ありえないね。村上氏の言うとおり、「戦いにならない。」 この時代北九州に「かろうじて」フォローしていたのは瀬戸内のみ。 庄内期つまりマキムクの時代でもまだ北九州が多いしね。
>他の畿内説論者の発言にもありましたが >それが(少なくとも西日本が)統一もしくは連合に向かったのが >いつ頃なのか?というのが論点の分かれ目だと思うのです。 そのとおりだね。本当は、「邪馬台国」がどっちなんてのは年代の問題でしか ないのにねえ。
>マキムク氏に質問 >なぜマキムク遺跡があるからって畿内説になるの? >別に九州と近畿で二大王朝があったと考えてもおかしくないでしょ 前方後円墳体制という用語がありますが、画一的な前方後円墳が全国に広がる 時期を寺澤氏は纒向型前方後円墳の時期ととらえ、東海から九州に及ぶ統一政権が 誕生したととらえています。ただし近藤氏や都出氏のようにこれらを前方後円墳と 呼ぶことに慎重な方もいます。 >東遷や東征が否定されるのはマキムクのためだと主張しているようだが >そこまで重要な遺跡なのか? 関係ないですね。否定する人もいるし、そうでない人もいます。
356 :
天之御名無主 :04/07/10 20:10
すべからく、↓ し‐よう【止揚】‥ヤウ〔哲〕(Aufheben ドイツ 「否定」「高めること」「保存すること」の意) ヘーゲルの用語。弁証法的発展では、事象は低い段階の否定を通じて高い段階へ 進むが、高い段階のうちに低い段階の実質が保存されること。矛盾する諸契機の統 合的発展。揚棄(ようき)。 ↑これがないと前に進まないよなー。
>また纏向を創設及び運営した勢力がもし北九州に関係があるのなら >それを匂わせる出土品があってもおかしくは無いのですが >実際は北九州産の土器はほとんど出土されませんし >前方後円墳の土木的特徴も、北九州よりもむしろ山陰や丹後 >祭祀器にいたっては吉備の影響をモロにうけています。 これは少し古いですね?以下理由を言うと、 1.祭器等 宮山式の特殊器台については、いわゆる箸山からであり、最初期の古墳から出ておりません。 祭器についても近藤先生のように否定される方もいます。そもそも少ないですしね。 吉備の影響が増大した時期は、箸中山古墳が建設される時期であり纒向遺跡 (おそらく倭国にとっても)一大画期であったことは想定されるものの、 当該遺跡の成立、倭王権の成立について吉備の影響が突出したものとは 考えにくいと思います。 2.土木的特長 @貼石 葺石は勝山、纒向石塚等4墳にはありません。 上記批判は、「讃岐型前方後円墳」を唱えている方にも当てはますが。 *石塚については、寺澤氏、石野氏に見解の違いがありますが、石野氏 の見解でいいんではないでしょうか? A外形 突出部を設けた墳墓は弥生終末期に全国に見られるわけで、「どれが源流」とは 決定的にいえないのではないでしょうか? 実際学者により、示唆するとこはまちまちですね(楯築?荻原?近江のどっか?・・・)。 つまり、ご指摘の趣旨は、箸中山以降には当てはまるものの、最初期の巻向遺跡は、 なんといったらいいか、以外と「色がない」ような気がします。 埋葬施設等を含め、纒向石塚等最初期の古墳の更なる調査が待たれるところだと思います。
>これらから、いわゆる畿内に突如発生した纏向遺跡は >北九州以外の勢力が連合して作り上げた物であるとの考え方が導き出されます。 倭王権の成立に北九州を排除するのは難しいでしょう。「戦術的に奇策を用いた」 などの説明をしない限り、無理?では?(少なくとも考古からは)。で、そのような説明 で住むなら、学問とは言えないと思います。
359 :
日本@名無史さん :04/07/10 21:59
360 :
日本@名無史さん :04/07/10 22:41
>>358 文化的に畿内に人が集まった結果、倭の新首都として河内王が纏向を建設。
出雲吉備と協力して人的資源膨大な畿内が北九州勢力を圧倒した(狗奴国との戦い)
土器から見れば纏向から北九州勢力(狗奴)は排除されていたとしか思えない。
361 :
日本@名無史さん :04/07/10 22:44
出雲の鉄と畿内の人口が結びついて邪馬台国となった 狗奴国=狗のような奴国=博多 畿内と北九州(博多)との戦いが倭国大乱とし倭人伝に記される。
362 :
日本@名無史さん :04/07/10 22:46
まあ、首都機能のない纏向を、懸命に持ち上げても、どこかが破綻。
363 :
日本@名無史さん :04/07/10 22:49
出雲の鉄が、量産できるのは、邪馬台国時代ではなく ずいぶん時代が後ではないか・・・
364 :
日本@名無史さん :04/07/10 22:56
>>352 アホとか言っちゃイカン。もっと冷静に。
マキムクは北九州勢力が建設したとお考えですか?
その際、唐古・鍵の人々はどうなったのでしょうか?
>>362 首都機能のない纏向 とは?
運河、大和川を通じて遠距離交通の便をもち、
各地から労働力を動員した形跡がありますが。
366 :
日本@名無史さん :04/07/10 23:15
>>352 何故、北九州勢力が畿内に遷都したかの説明を。
当時のように、人口過疎の時代では、人的資源の多寡は大きいよ。
先進国の北九州といえども、吉備や東海、畿内に連合されたら、かなり
キツイと思うがな。
北九州勢力が一枚岩だったとも限らないし、むしろ、遺跡を見る限り、
それなりの歴史、力を持った国々が乱立していた印象がある。
367 :
日本@名無史さん :04/07/10 23:18
>>365 だから、単なる商業都市でしょう。首都には国庫や国軍が必要。
368 :
日本@名無史さん :04/07/10 23:32
当時の人口分布は九州が一番だろう。 畿内は比較的過疎地だとおもう。
>>367 国庫と国軍なんて、ヨーロッパでは16Cの絶対王政でしか出て来ない。
日本では信長あたりが先駆けだろう。
ローマ帝国ほか古代帝国は、広大過ぎる版図を中央集権で支配しようとして破綻したんだ。
交通や物流や伝達が未発達な時代では、所詮無理なんだ。
たとえば鎌倉幕府は(武家の)中央権力であり首都だが、封建制度で成り立っている以上、
土地の生産物は御家人の所得となり、それによって個々に軍が養われる。
いざ戦という時には、鎌倉から号令を掛けて出兵させれば良い、
鎌倉に兵を常駐させる事はないのだ、それで良い。
大和政権も中国の律令制を入れるまでは、それで行っていたと思うが?
370 :
日本@名無史さん :04/07/10 23:56
>>368 池上・曽根遺跡や唐古・鍵遺跡とか、畿内もそれなりに人口が
あったと思いますが。
縄文時代以来の列島の歴史を考えると、本州にはかなりの人口が
いたのでは。少なくとも、九州>本州ということはないでしょう。
日本語の独自性を考えると、大和政権は縄文時代以来の文化を継承している
と思います。
371 :
日本@名無史さん :04/07/11 00:01
>>369 だから、邪馬台国のことを言ってるんだけどね。
372 :
日本@名無史さん :04/07/11 00:02
大分、「畿内在地勢力→プレ大和政権」説が優勢になってきましたね。 吉備や東海の影響はあるとは思いますが。
>>367 >首都には国庫や国軍が必要。
九州にはあるのか?
(九州に限らず他の場所でもいいが)
なければ争点にはならんぞ。
>>368 >畿内は比較的過疎地だとおもう。
思うだけじゃなくてデータの裏付けがほしいな。
調べれば何とかなる(肯定されるか否定されるかはしらんが)はずだからがんばってね。
>>372 一瞬、大分説かとおもた・・・・
もう寝よう・・・
375 :
日本@名無史さん :04/07/11 00:08
×在地勢力→プレ大和政権 九州から神武到来 ↓ 銅鐸在地勢力を駆除→九州勢がプレ大和政権建設 ↓ 在地勢力は蝦夷へ
>>373 では、国でも何でも良いが、軍隊も倉庫も、住居もない時点で、首都じゃないの。
377 :
日本@名無史さん :04/07/11 00:33
>>376 何か、噛み合ってない議論だね。
367さんは、もっとマキムク遺跡に対する自説を展開させる必要があるな。
九州から神武到来 ↓ 銅鐸在地勢力を駆除→九州勢がプレ大和政権建設 ここが無理があるなあ。神武の値打ちは軍事的能力では無かったと思うよ。 まあ、後続の勢力の援助によって銅鐸勢力が徐々に弱められたというのは そうかもしれないけど。九州勢力=鉄器文化だから、それを神武の顔で輸入 出来たとしたら、それだけでもある程度情勢が一変する。 巻向好きな人が湧いてるけど、他にも同規模の遺跡は沢山あるんだけどな。 奈良に何か出てくるだけでそういう大騒ぎは、はっきりいってはためにも見苦 しいよ。
379 :
日本@名無史さん :04/07/11 00:43
九州に軍隊や倉庫や住居跡なんか普通にある。それが 纏向遺跡にないのは、首都として認定できないといってるんだが 纏向がなんで首都なんだと聞いてるのに、分からん人だね。
>>371 邪馬台国 は必ずしも領域国家では無かったと思うよ。
大名の領国みたいな、線で引ける版図があった訳じゃない。
ココとココに農耕集落がある、ココとココに交易拠点がある、
ココとココの鉱物産地を押えている、ココとココの部族を配下として動員できる、
そんな多面的な生産内容で構築されているクニがあちこちにあって、
それを束ねてもっと大きなコンツェルンを形成しているのが邪馬台国だったと思う。
クニとクニが交易する、物資的に補完しあう、クニとクニの戦争がなくなる、
など利益があるから大きく連合するのだ、その中とり持ちが出きれば大王(女王)たり得た。
首都の機能としては、族長を集めて政治・経済・軍事について合議したり命令する
場所があれば良く、高殿でもあれば十分で、臨時的には河原(天の安の河原)でも良い。
地方の生産物を一度首都に集めたり、再分配したりという事はあったろうが、
その場合も稲などではなく、硬玉や水銀など量に対する価値が高い物だけだったろう。
そうして珍しい輸出に足る品目を揃えて、国内に産しない物資を輸入する為の対価としたのだろう。中国に対する硬玉とか真珠(産地は離れていると思う)などがそうだ。
王とか首都とか、国家というものはそう言うものだ。
個々の小さなクニでは出来ないグローバルな仕事が始まる、それが統一国家の出現だ。
381 :
日本@名無史さん :04/07/11 00:50
邪馬台国は軍隊と倉庫と住居が無いクニだと、 魏志倭人伝かどこかに書いてあるのか?逆だろう。 纏向でそれらが出ないのはおかしいだろう。
中国の周代も、祭祀国家であって、明確な境界線が有った訳じゃないからね。 邪馬台国はそのぐらいの段階だと思うよ。
>>379 >九州に軍隊や倉庫や住居跡なんか普通にある。
軍隊ってのはどういう考古資料のことを言ってるんだ?
倉庫や住居跡が国庫?そりゃ無理だろ。
纏向にも掘っ立て柱建物はあるぞ。
穴屋がないだけで。
>>381 奈良盆地には、色んな場所に部族が割拠してるよなあ。葛城だとか平群だとか。
大伴とか物部とかが軍務を勤めるとして、その本拠地から巻向に大番勤め
に出て来れば良いんじゃないか? もちろん手弁当だ、その為に村を与えてあるからな。
つまり鎌倉御家人と同じなんだよ、封建制と軍務奉公。
もっと大掛かりな戦争の時は、地方のクニにも動員を掛ける。
普段の首都は閑散としてていいんだよ。
385 :
日本@名無史さん :04/07/11 01:05
>>378 >巻向好きな人が湧いてるけど、他にも同規模の遺跡は沢山あるんだけどな。
>奈良に何か出てくるだけでそういう大騒ぎは、はっきりいってはためにも見苦
>しいよ。
前方後円墳の発生との絡みで考えると、マキムクはやっぱり特別だったと
思うけどな。
山辺の道や三輪山信仰を考えても、この場所がプレ大和政権の揺籃地であった
ことは疑う余地がないと思う。
反論待ってます(煽りではない)。
386 :
日本@名無史さん :04/07/11 01:09
>>384 つまり、マキムクは
魏志倭人伝の邪馬台国とはまったく異なる国ってことでOKね。
387 :
日本@名無史さん :04/07/11 01:19
>>384 軍務か(w
武器はサヌカイトかな?それと土器製の鎧とか(w
>>385 でも、前方後円墳=大和王権っていうのも、所詮はまだ仮説だろ?
でかいから権力持ってたとはかぎらねえのは、地方にも巨大古墳がイパーイあることからも
明らか。
で、それがあればその地方のその時代は大和の支配下にあったというのも、それこそ見て
きたような嘘で、実はただの流行だったかもしれないw
まあ、いずれにしても、腐るほどある天皇陵の発掘も出来ないのに、まきむく一つで騒ぎす
ぎだよ。それに、放射年代測定真面目にやってないし。
魏は薄葬を行っており、魏に忠実に仕えた邪馬台国も当然薄葬が基本だろう、 巨大古墳があればあるほど、邪馬台国ではない証拠。
390 :
日本@名無史さん :04/07/11 01:47
>>388 >前方後円墳=大和王権っていうのも、所詮はまだ仮説だろ?
そんなこと言っちゃうの?古墳時代の始まりと前方後円墳祭祀の始まりは
切り離せないと思うけどな。
箸墓の特異性。同じ型の古墳が全国に分布していることは、プレ大和政権
成立期を語る上で重要だと思いますが。
>で、それがあればその地方のその時代は大和の支配下にあったという
>のも、それこそ見てきたような嘘で、実はただの流行だったかもしれ
>ないw
それはそうですね。前方後円墳があったからと言って、必ずしも
大和の支配下にあったとは思いません。
もっと緩やかな倭国連合だったと思います。前方後円墳を築造するのは、
その地域の王族が、プレ大和政権体制に参加したことを意味する程度
ではないのかと、考えます。
391 :
日本@名無史さん :04/07/11 02:16
巻向は港だっただけで、首都は布留あたりかも知れない。 天理王命をどかして掘ってみるしかないな。 ああ、天理参考館というアジア、オリエントの遺物を色々集めた施設で面白い物見たよ。 布留出土品を見に行ったんだが、そこでペルシャの青銅器で前方後円墳がたの板があったんだ。 手つきの和鏡みたいなもんで、長さ20センチほど、唐草かの彫りが入ってた。 あの形が謎だったんで、見たときドキッとしたよ。
392 :
日本@名無史さん :04/07/11 03:58
>>391 首都って・・・クニの時代だよ、オリエント?唐草?
やっぱり古墳時代と邪馬台国の時代がゴッチャになってる
後の時代の出土物を弥生時代と見たてて狂喜する
これも一部の考古学者の悪しき弊害だろう、かわいそうに君も被害者なんだよ。
早く目覚めて欲しい。
393 :
日本@名無史さん :04/07/11 04:30
誰か教えてください。 巻向と、西都原の初期型の前方後円墳はどちらが古いのですか?
394 :
日本@名無史さん :04/07/11 05:27
巻向
西都は炭素測定もきっちりやってるが、それでもあまり遡らない。
396 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 08:43
>>392 >後の時代の出土物を弥生時代と見たてて狂喜する
邪馬台国時代は古墳時代初頭ですが何か?
398 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 09:09
写真を見比べれば解ると思うが、マキムクは寒々しい、冬は雪に閉ざされそうだね 冬でも野菜が取れる邪馬台国とは気候がちがうよ。
399 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 10:07
バカの一つ覚えのように前方後円墳、ゼンポーコーエンフンいうけど 発明者(?)と権力者は一致するんかい。 畿内勢力が思いついた墳墓の仕様が全国に、後世に 広まったからといってそれが即畿内勢力の拡大とは つながらないと思うけど。 技術・文化の伝播なんていいとこどりでしょ。
前方後円墳と大和政権はイコールではない。 390と399の意見支持します。前方後円墳はそもそも畿内発とは限らない。未だ仮説の段階だ。
そもそも 邪馬台国なんてあったんかい?ほんまに マルコポーロのジパングみたいなカタリの可能性ねーの?
記紀に毒されすぎている。記紀の人物比定は無意味。
403 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 12:14
府中の熊野神社で上円下方墳(王家の墓で「畿内」にも数例しか ないんだってねw)が見つかった時、 「畿内王権から許された地方豪族のモノだろう」 「畿内と地方が定説よりも古くから結びついていた可能性がある」 ・・・なんで畿内でも数例しかないモノが「畿内オリジナル」といえるんだ? 府中の熊野神社だって由緒正しい謂れとかあったわけじゃなく、 どうも形が古墳らしい、ということから調査してみたら大発見だった わけで、地方にはまだまだこういったモノが眠っている可能性は 多いにあるし、畿内発地方へ、という発想はいいかげん改めたほうが 健全な古代史論争といえると思うんだけど・・・。
邪馬台国が大和朝廷になったかどうか の結論はどうなったのれすか??
405 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 12:40
マジレスすると、どうでもいい。 自己マンにすぎない。
古墳編年などと怪しげな物差しも横行しているが、本当に炭素同位体の測定 によってどの地方のど前方後円墳が一番古いのかも全然未解明。 だから、本当に畿内→地方なのかどうかも未だ不確定。
407 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 15:42
今使っているパソコンも、畿内で発明されて、全世界を制覇した・・・新畿内説
408 :
天之御名無主 :04/07/11 19:19
九州説の支持者と称する電波が多いため畿内説がもっともらしく見えてこまる。これでは 真面目に九州説を論じる人が迷惑だ。畿内説を唱えるだけで馬鹿でもひとかどの見識が あるように思われてくるのは九州電波の責任だ。C14年代測定のキャリブレーションに必要 な参照サンプルが欠如しているので卑弥呼時代の庄内、布留土器については科学的に 不確定であるのに畿内説とか九州説とか断定的なことがいえるわけがないってことだよ なー。
409 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 19:21
>責任だ。 ワラタ 愚痴はいいから論じろよ。
>>407 当時の人が聞いたらそれぐらいびっくりするかもしれないねw
411 :
日本@名無史さん :04/07/11 23:10
>>400 >前方後円墳はそもそも畿内発とは限らない。未だ仮説の段階だ。
では、あなたは、前方後円墳の発祥地をどこだとお考えですか?
畿内が一番可能性が高いと思いますが。それ以外の有力な候補地を
言ってみて下さい。
400ではありませんが。 そもそも前方後円墳はどこが発祥地かと言う議論自体、奈良や大和を前提としたものであった。 だから古代史全体が混迷を極めてしまった。 全国の古墳についての考古学的調査と放射年代測定を正確にやりきらない限り、その答えは出 ない。それが学問的スタンスというものだと思う。
413 :
日本@名無史さん :04/07/11 23:28
>>399 >畿内勢力が思いついた墳墓の仕様が全国に、後世に
>広まったからといってそれが即畿内勢力の拡大とは
>つながらないと思うけど。
北九州勢力東遷→初期大和政権成立とお考えのようですね。
では、あなたに質問なのですが、鉄の軍隊を持っていた北九州勢力が軍事的に
畿内を征服したは何世紀頃のこととお考えですか?
414 :
日本史@名無しさん :04/07/11 23:35
>北九州勢力東遷→初期大和政権成立 どこを読んだらそうなるんだyo
415 :
日本@名無史さん :04/07/11 23:40
>>413 瀬戸内に高地性集落がたくさん作られたころじゃないの。
きっと、そのころ、銅鐸文明と、西からやってきた勢力が、激しく衝突してたんだろうね。
416 :
日本@名無史さん :04/07/11 23:42
>全国の古墳についての考古学的調査と放射年代測定を正確にやりきらない限り、その答えは出ない。 >それが学問的スタンスというものだと思う。 「答えが出たら困るんです。天皇家との繋がりがバ・レ・る!」(宮内庁) 「そうだ、やめろー!」(邪馬台国関連の本で儲けてる学者) 「え〜い。こうなったら西都原は発掘不可だ。他は適当に掘ってもいいよ。」(宮内庁) 「うお!ここが邪馬台国だ!この前方後円墳は卑弥呼の墓だ!! 「布留0式」も3世紀前半から使ってた事にしよう!」(畿内説学者)
417 :
日本@名無史さん :04/07/11 23:43
>>412 「前方後円墳で古代は語れない」ということですか…。
大部分が調査できないから無視と言われてしまうと、話が終わってしまう
じゃないですか。
厳然とある以上、それなりに説明はして欲しいなあ。
九州説の方は、マキムクは在地勢力が造ったのか、東征してきた北九州勢力
が造ったのか、どちらだとお考えです? その場合の箸墓の位置付けを聞き
たいものです。
>>414 違いましたか?
>畿内勢力が思いついた墳墓の仕様が全国に、後世に
>広まったからといってそれが即畿内勢力の拡大とは
>つながらないと思うけど。
とか書いてるんで、畿内在地勢力が大和政権に成長したことに
否定的な、九州説の方かと思いました。
九州説の人、多いからね、ここ。
420 :
日本@名無史さん :04/07/12 05:11
>>417 まだゼンポーコーエンフンで引っ張る気ですか。
>>408 や
>>412 で言われてるじゃありませんか、不確定要素が多すぎと
宗教ではないんだから学問的スタンスを取りましょう
箸墓は古い人のお墓、と言う事だけ確定事項、別に特別ではないよ。
全国にはまだまだ古い墓や大きな墓はあるし
箸墓には出ていない絹や鉄器や宝飾品など重要な遺物が出る古墳群もある。
畿内説者は古墳でしか邪馬台国を語らない。だから「説」でおわってしまうのだ。 鉄器の重要性を無視すると永遠に闇の中。
>>420 >
>>408 や
>>412 で言われてるじゃありませんか、不確定要素が多すぎと
『言われている』事だけは事実だな。
が、全く的外れだから放置でよし。
C14信者が多いようだけど、C14じゃあたとえデータが増えても
各試料の年代幅が広すぎるから、100年単位ぐらいの大まかなことは言えても
さらに細かい年代の序列は土器に頼るしかないよ。
それにC14を信じるというなら、ウィグルマッチングで紀元前1世紀中頃の年代が出た
池上曽根の柱根の年代はこれを受け入れるということでいいんだな?
これでめでたく、弥生中期は紀元前、後期は紀元後でコンセンサスがとれたことになる。
中期と後期の境界は多少動くだろうけどね。
>全国にはまだまだ古い墓や大きな墓はあるし
前に書いてあることと自己撞着してることに気づかない?
『不確定要素が多すぎ』て年代がわからないのにどうして『古い墓』があるといえるわけ?
結局、『学問的』だのなんだのはただの遁辞だってこと。
>箸墓には出ていない絹や鉄器や宝飾品など重要な遺物が出る古墳群もある。
掘ってないんだから当たり前だろ。
しかし、箸墓より古いホケノ山やさして年代の違わない黒塚・下池山から
これらのものは出てるからもし盗掘されておらず遺存状況も良ければ
箸墓からも出てくると考えるのがまともな思考回路というものだろう。
423 :
天之御名無主 :04/07/12 11:18
例の寺沢のグラフは説得的だったナー。肥前、肥後、そして丹後、大和と行くんだろうが 出雲ってのもある。これは少し遅いか、又は丹後、大和と同時代か。弁韓を倭人租界と 考えてみたい。韓国の学者で倭人が役務提供と引き換えに鉄を取っていたとするのは 師升、卑弥呼が生口を出しているところから説得性がある。ただ役務提供で鉄がもらえ るなんてのは虫が良すぎる。例えばオオクニヌシのようにヒスイ産地を説得し、ヒスイを 輸出したり、土器を輸出したりしていたのであろう。木材輸出も考えられる。イタキソが よく海外出張しているようであるし。 まー、鏡など銅製品の流れの裏に鉄の流れがあるようだ。鉄器使用による剰余価値が 古墳建設を生んだのじゃないか。 依然として倭人租界の内容を検討中であるが↓ Mirimidong (道御津?/彌離彌凍國), Jeopdo (陶都?/接塗國, Gojamidong (越御津?/古資彌凍國), Gosunsi (オズシ>出石?/古淳是國), Banro (春?/ 半路國), Akno (倭奴?/樂奴國[奴国か]), Gunmi (久米?/軍彌國), Mioyama (水脈(三輪)山?/彌烏邪馬國[これは唐子・鍵近辺か]), Ganro (加羅?/甘路國), Guya (草?/狗邪國[=阿蘇の草方面か]), Jujoma (須佐間?/走漕馬國), Anya (安羅/麻?/安邪國[大麻比古-讃岐/阿波]), and Dokro (ドロ?/読盧國). 須佐間というのが出雲ではないかと思うんだけどね。-マはタジマ、ハリマ、タクマ、 タンバ等出雲の近辺の地名に多い。須佐は鉄鉱原料の意味があるらしい。
424 :
天之御名無主 :04/07/12 16:30
スマソ、須佐ではなくスズであった。これ見てチョ↓(この辺が臭いんだよな-)
「湛え神事」は、神の使いオコウが行く先々の「湛え」の場所で鉾の先に鉄鐸を
つけて振り鳴らす。これは従来豊穣を祈る農耕儀礼と考えられていたが、近年
の研究で「湛えの場所にミサクチ神をおろして鉄製品の原料であるスズ(火山帯
の沼沢・湿原の水は鉄分を含んでおり葦や萱などの草の根元にはバクテリアの
働きで自然に褐鉄鉱の塊が生じるという)の生成を祈念する行事」と解釈される
ようになった。諏訪上社では、現在でも「鞴護(ふりい)祭」が行われるなど、鉄と
諏訪神社の関わりはまことに深い。
http://www003.upp.so-net.ne.jp/kodaisi/kantou.htm
425 :
日本@名無史さん :04/07/12 19:49
>>422 わかった、箸墓が卑弥呼の墓ね(w
もうそれでいいよ君の勝ちだよ、よかったね。
426 :
日本@名無史さん :04/07/12 21:33
やはり、文字に漢字を採用している以上、中国に決定的な影響を受けているような 気がする。 やっぱ、日本の歴史のどっかの段階で、当時の中国人が支配階級の主流に入り 込んでいるんだろうか。 単に、朝貢とかそういうレベルではなく。 そうでなければ、文字まで採用せんだろうな。
別に支配階級の主流にいなくても 文字が伝搬して採用される例は多いだろう
>>422 藻前程度の発掘屋が偉そうにするから古代史研究者全体が馬鹿にされるんだよ。
現場の人間なら、謙虚になれ。出てきたものに素直に従う、掘ってないものは勝手に
推測しないっていう原則に帰れ。
>でも、前方後円墳=大和王権っていうのも、所詮はまだ仮説だろ? >でかいから権力持ってたとはかぎらねえのは、地方にも巨大古墳がイパーイあることからも >明らか。 仮説じゃねえよ。定説。 地方の巨大古墳って何だ? 言ってみな。
430 :
日本@名無史さん :04/07/12 22:06
まぁまぁそう皆さん熱くならないで・・・ 掘ってる時点で邪馬台国ではないんですから。
鉄の学者にも九州説なんていないよ。 いっとくけど安本なんてのは学者じゃないからね。
432 :
日本@名無史さん :04/07/12 22:17
日本における製鉄の元は出雲の西利太である。
と、
>>155 が申しておりますが。
433 :
日本@名無史さん :04/07/12 22:47
>>427 いや、アルファベットを導入した国を見るとやはり、政治的な力関係が影響しているケース
が多いと思う。
モンゴルもロシア文字使わされていたし。
やはり、政治的な影響なしで、文化伝播だけで、文字をそのまま使うのはめずらしいかと。
>安本なんてのは学者じゃないからね そういうこいつはただのプー
435 :
日本@名無史さん :04/07/12 23:02
436 :
日本@名無史さん :04/07/12 23:44
>>431 イナイ、イナイってうるさいよ。
どんなに偉い人が喚いても一緒。
九州論が否定できないので論者を中傷するのか? 単純だね。
437 :
日本@名無史さん :04/07/12 23:48
>>435 半島でも漢字でしょ?ハングル文字が出来るのはもっと後でなかったっけ?
たしか西暦1500年ごろの話。藤原氏は半島渡来でしょ。
天智天皇の異常なまでの百済へのこだわりから考えて百済からの渡来でないかい?
系図もないし、氏神もウソくさい。
>>422 説得力があるな。九州説にとって、マキムクや前方後円墳が、目の上のタンコブ
であることが良く分かった。
439 :
日本@名無史さん :04/07/13 06:26
そろそろ建設的に語りませんか 邪馬台国がいつの時代にどうやって畿内に勢力を伸ばしたか? または邪馬台国以外の九州山陰山陽の亜流勢力が畿内に進出したのか? 畿内の土着勢力はどうなったのか?
国東半島が製鉄所
土着の豪族となった
442 :
日本@名無史さん :04/07/13 09:17
邪馬台国が北部旧h集でツマ国が西都じゃないか? >宮崎県西都市の中心部に「妻」という地名の場所があり、ここには都萬(つま)神社がある。
443 :
天之御名無主 :04/07/13 12:58
444 :
日本@名無史さん :04/07/13 13:16
>日本書紀神話によれば、神武天皇の東征によって、大和の支配者・安日彦は殺害され、 >長脛彦は追放されたとされますが、この追放された大和の先住民の兄弟王と邪馬台国の絆は…? >三世紀末頃、飛鳥に侵入し王権を打ち立て、突然この地に前方後円の巨大古墳を >築きはじめた人々は何処からやって来たのでしょうか?…
とある本によると史実はこうだそうです。 狗奴国の王の子供がイヨと結婚して 九州を統一。それから東遷して大和政権になったと
446 :
日本@名無史さん :04/07/13 13:30
とある本による仮説はこうだそうです。 狗奴国の王の子供がイヨと結婚して 九州を統一。それから東遷して大和政権になったと
447 :
日本@名無史さん :04/07/13 13:55
>宮崎県西都市の中心部に「妻」という地名の場所があり、ここには都萬(つま)神社がある。 『妻万宮と言って日向の総廟と呼ばる<略>蓋し、都農神の妻神なり』と記されいる。 都農神とは都農神社の祭神、大己貴である。 此花咲耶姫がここに祭られてるのは、大日霊女とスサノヲの娘で、大己貴の妻となった多紀理姫 が祀られていた物を祭神がすりかえられたか、 此花咲耶姫がニニギの妻、阿多津姫の別名でなく元から多紀理姫の別名であったと考えられる。 西都原古墳群に一基のみある出雲式の方墳は大己貴(大国主)のものである。 以下によってニニギと阿多津姫に由来する地域は鹿児島方面である。 瓊々杵尊の墓は神代紀に「天津彦火々瓊々杵尊崩因葬 筑紫日向河愛之山陵」 と記され 鹿児島県川内市神亀山に、河愛山(えのやま)陵が実際にあり、宮内庁が管理している。 瓊々杵尊の妻とされる大山祇神の娘で阿多津姫 阿多とは、鹿児島県日置郡金峰町 阿多。 瓊々杵尊は大日霊女の後を次いで鹿児島周辺を支配したと推測される。 ほど近くに瓊々杵尊の新田神社があるが、諸神記に「新田宮 始不営廟殿鎮座薩摩国亀山」 と記されここでも瓊々杵尊の墓が亀山=河愛山陵としている。 では、西都原にある、「伝 瓊々杵陵」の男狭穂塚の被葬者は誰か? 西都原が「斎殿原」の名残であるならば、これこそが卑弥呼=大日霊女貴の墓に相応しい。 大物主が大国主の別名であるとしたり、記紀編纂から祭神のすり替え命令が出ている。 此花咲耶姫に関してもこの類であろう。男狭穂塚の隠蔽に利用されたと思われる。
448 :
日本@名無史さん :04/07/13 14:26
>>438 (・∀・)ジサクジエン!! 乙。
>>439 まず、畿内に進出したのはスサノヲの子、大歳。後の饒速日命(大物主)である。
>畿内の土着勢力はどうなったのか?
長髄彦(ナガスネヒコ)は饒速日命に命に完全服従である。
多数は東北方面に逃れたようだが、神話におけるヤマトタケルが蝦夷征伐に出向いた際に
蝦夷たちが、伊勢でなく三輪山(大物主)に向かって天皇に反逆しない事を誓ったとあるのは興味深い。
>邪馬台国がいつの時代にどうやって畿内に勢力を伸ばしたか?
饒速日が伊波礼彦(神武天皇)を婿として迎え邪馬台国が畿内に勢力を伸す。
>または邪馬台国以外の九州山陰山陽の亜流勢力が畿内に進出したのか?
後の崇神天皇などは九州北部の勢力ではないだろうか?神武とは明らかに別系統のようである。
>>444 それは日本書記ではなくて『東日流外三郡誌』
>突然この地に前方後円の巨大古墳を 築きはじめた人々は何処からやって来たのでしょうか?
出雲の方墳と九州の円墳が合併の証として前方後円墳に発展したと思われる。
これ以外にあの鍵穴のような奇妙な形を説明はできないだろう。
449 :
日本@名無史さん :04/07/13 16:56
>>447 西国風土記にも
「奥津島に坐す神、田心姫(多紀理姫)命は大己貴の妻となりて、味耜高日子根神を生座しき」とある。
450 :
日本@名無史さん :04/07/13 17:12
俺はこう考える 九州北部の邪馬台国勢力、戸数7万 九州中部の狗奴勢力、北部に対抗 西都の投馬勢力、戸数5万 三国志よろしく三国鼎立の九州 後に ニニギを祖とする神武投馬勢力が北部の邪馬台国勢力を併呑もしくは連合して東遷 その際、北部の卑弥呼逸話は皇祖として記紀に取り入れる。
451 :
日本@名無史さん :04/07/13 17:14
邪馬台国 北九州説 を語るのは愚かしい。それなら近畿説の方がまだまし。 北九州なら魏史はその位置を正確に記したであろう。 『魏志倭人伝』の地理情報の大半は九州北部のものだ。 少なくとも不彌国まではどう見ても九州だろう。 不思議なのは、ここまでは何里という細かな数字まで書いておいて、 肝心の女王国になると途端に何日という【曖昧な数字】になってしまう。 それまでは自然の様子、家々の様子、港の様子、途中の道路の様子などが書かれているのに、 投馬国と邪馬台国に限っては人口や役人の名前だけで、町の様子や感想は書いていない。 肝心の情報はほとんどナシというのはいかにも不自然だ。 魏使は邪馬台国をよくわかってないみたいだ。 たぶん来てない。聞いただけ。 >>邪馬台国が北九州ならよくわかってるはずだ!!!! 魏史倭人伝が語るは邪馬台国が北九州でない事。 記紀が語るはその地域を南九州、西都周辺である事。 北九州に関しては神武の後に東征してくる崇神天皇系の研究をした方がよっぽど建設的。
452 :
日本@名無史さん :04/07/13 17:35
>>451 でも邪馬台国関連の遺物(鉄の鏃や絹など)が出てるのが北部九州
当時の人口分布が北部九州から中部と西都に集中している事
楽浪土器が北部九州にずば抜けて出ている事
西都では南の狗奴を説明できない事
総行程12000里に北部九州がピッタリ合う事
魏使が伊都までしか行ってないなら邪馬台国も投馬国も伝聞で同条件。
記紀が語るのは北部九州も断然多い事。
453 :
日本@名無史さん :04/07/13 17:57
あ、ちなみに北部九州と言ったが中部に近い八女辺り 邪馬壹国=連合の総称 邪馬国=八女国=実は女王の都とする所
イト国やマツラ国が今でも当時の呼び名で残っているのは 糸や松ということばがあるからで 他は必ず変化して残っていると思う。 どっかにヒントがあるのだ
伊都国など北九州は女王国の属国なの。鉄の鏃や絹が出てきてあたりまえ。
西都は宮内庁に管理されて発掘できないからそこらへんは弱いが
逆に宮内庁に管理される理由を考えたらいいだろう。
>九州北部 邪馬台国
>九州中部 狗奴勢力 北部に対抗
>九州南部(西都) 投馬勢力
まぁ、童貞がごとく妄想膨らませるのは勝手だがもう少し記紀と倭人伝を素直に読め。
女王国の範囲
到其北岸狗邪韓国〜南至投馬国〜南至邪馬台国、女王之所都〜次有奴国、此女王境界処盡
>記紀が語るのは北部九州も断然多い事。
どこだよ!!おい!どこなんだよ!!!記紀成立後に出来た神話の神社でも持ち出すのか!?
いいかげんにしろってんだ。
>総行程12000里?どこに総行程と書いてある?直線距離かもしれない。
>>451 で述べたように距離問題はいいかげん。問題外。
>邪馬国=八女国=実は女王の都とする所
南至邪馬台国、女王之所都 はぁ・・・これが読めないなら邪馬台国を語るのはやめろ。
妄想するのは勝手だか、掲示板に書き込むべき内容ではない。
456 :
日本@名無史さん :04/07/13 18:17
>>455 現実に皇祖と卑弥呼が同一である必要は無いと思う。夫もいない卑弥呼の子(遺伝子)は残っていない。
天照が卑弥呼だとしたら神話上東遷は卑弥呼の後の時代。
>西都では南の狗奴を説明できない事? はぁ??? | | 本州 \__________ | | 東の方のことなんて知らねぇよ。 (南)↓ 「女王国東渡 海千余里 復有国 皆倭種」 投馬国 _____ | | | | | | 四国 | | _____ (南)| | ↓ / 邪馬台国(西都)=古墳群密集地帯 ____/ 〇 〇 〇 〇 ←奄美二十一島 斯馬國、巳百支國 ・・・奴國 ∴∞ (計21ヶ国) ∴〇 ←女王国境界(現在の鹿児島県の県境に同じ) / ̄/ ← 狗奴国(球磨国)「男子を王となす、女王国に属さず」⇒【琉球王朝】  ̄ ̄
458 :
日本@名無史さん :04/07/13 18:24
>西都は宮内庁に管理されて発掘できないからそこらへんは弱いが 宮内庁が管理してるのは王墓群です。 その他諸々は発掘されていますが、邪馬台国を語る物見櫓や周溝など少しも出てきてない。
北九州にあるのは末ラ国と伊都国、不弥国、奴国だけだよな。 邪馬台国、投馬国、旁国20カ国と狗奴国は「南」だよな。
460 :
日本@名無史さん :04/07/13 18:29
>>457 西都と狗奴(琉球)が争った形跡は何も無い
北部九州(邪馬台国)と狗奴(球磨)が争った形跡は夥しい鉄製の鏃など多数。
>現実に皇祖と卑弥呼が同一である必要は無いと思う。夫もいない卑弥呼の子(遺伝子)は残っていない。 夫はいないが愛人がめちゃくちゃいたんだよ。スサノヲもその一人。 それに卑弥呼が皇祖(大和朝廷の先駆け)でなければ邪馬台国は滅ぶんだな?それはおかしい。 ここまでの大勢力が何の勢力によって滅ぼされるんだ? >天照が卑弥呼だとしたら神話上東遷は卑弥呼の後の時代。 そのとおりだよ。神武の東遷は邪馬台国(卑弥呼=日霊女)の少し後の話だよ。 孫、もしくは曾孫だろ。 >その他諸々は発掘 初耳だね。いったい311基のうち何基発掘されたんだい? 前方後円墳31基、円墳279基、方墳1基、地下式横穴墓、横穴墓など、311基のさまざまな古墳で構成された全国有数の大古墳群。 【古墳の大部分はいまだに発掘をされておらず】,謎を残している。 邪馬台国勢力はその後も続くんだぜ。後の王属の墓に卑弥呼時代の邪馬台国の物なんてでないよ。
>西都と狗奴(琉球)が争った形跡は何も無い >北部九州と狗奴が争った形跡は夥しい鉄製の鏃など多数。 争った形跡があると相手は狗奴国になるのかい? 出雲に制圧されたんだろ北九州は。 伊都国の古墳からでる鏡は全て人為的に破壊されてるもんな。 それで出雲と連合した女王国に服従っと。
463 :
日本@名無史さん :04/07/13 18:44
>夫はいないが愛人がめちゃくちゃいたんだよ。スサノヲもその一人。 千人の待女と一人の男の部下としか合わないと倭人伝にあるのに 多数の愛人など想定できない。 >それに卑弥呼が皇祖(大和朝廷の先駆け)でなければ邪馬台国は滅ぶんだな?それはおかしい。 卑弥呼は擁立された弱い巫女女王であって、卑弥呼の死=邪馬台国滅亡ではない。代わりはどこからでも持ってこれる。 >初耳だね。いったい311基のうち何基発掘されたんだい? 墓だけあっても駄目、墓群の周りも重要。 宮崎県は宅地造成などで少しは7万戸を有する邪馬台国関連遺物が出てきてもおかしくないのに何も出てこない。
464 :
日本@名無史さん :04/07/13 18:49
西都を邪馬台国にするために 強引に奄美二十一島を7万戸を有する邪馬台国連合に持っていく思考過程は本末転倒ではないか? 奄美二十一島にはそれらしき痕跡は無い、クニではなく無人島に近い状態だろう。
>千人の待女と一人の男の部下としか合わないと倭人伝にあるのに 多数の愛人など想定できない。 倭人伝が伝えた時の卑弥呼はそうなんだろ。もう年だし。生まれた時からそうだとは限らない。 >卑弥呼は擁立された弱い巫女女王であって、卑弥呼の死=邪馬台国滅亡ではない。代わりはどこからでも持ってこれる。 そんな事わかってるし、卑弥呼の死=邪馬台国滅亡ってなんだ?誰がそんな事を言った? 邪馬台国→大和朝廷と発展しないのであれば、邪馬台国はどうなったのだ?と聞いているんだよ。 大和朝廷の傘下に入るか連合したかだろう。 旧唐書の「日本は旧小国、倭の地を併する」というのは、邪馬台国と大和(奈良・ひのもと)が合併したという事でないのか? >墓だけあっても駄目、墓群の周りも重要。 わざわざ墓だけ作りに行ってたってのかい?あそこによ。いったい311基のうち何基発掘されたんだい?
>クニではなく無人島に近い状態だろう。 だから倭人伝も名前だけずらずら書いてるんだよ。 意味のない地域だから。しかし、女王国の勢力範囲であると。 竹島みたいなもんだろ。
467 :
日本@名無史さん :04/07/13 19:03
>わざわざ墓だけ作りに行ってたってのかい?あそこによ。いったい311基のうち何基発掘されたんだい? 西都には天孫系の墓はあるかもしれないが女王の都とする所ではない。 大きな墓があるだけで邪馬台国関連の遺物が無い 天孫系が卑弥呼の子孫で無いといけないのは神話上だけ。
>西都には天孫系の墓はあるかもしれないが Yes、そのとおり。西都原には天孫系の墓がある。これを認めていただけると以下は虚しくないかい? >女王の都とする所ではない。 なぜ?古代天皇平均在位を推定すると卑弥呼と天照の時代は完全に重なる。 それに天孫族と邪馬台国の関係はどう説明する?西都に天孫の巨大勢力があるなら魏史にも書かれたであろう。 イコールと考えるのが当然ではないか? しかも現在、天照大神とされている女神の名は日霊女 >大きな墓があるだけで邪馬台国関連の遺物が無い 掘ってないからね。あそこらへん一帯。 >天孫系が卑弥呼の子孫で無いといけないのは神話上だけ。 意味がわからない。もう少し記紀というものが何の目的で編纂されたか考えるべき。
469 :
日本@名無史さん :04/07/13 19:22
>天孫族と邪馬台国の関係はどう説明する? 万世一系は神話上、現実には卑弥呼には子はいない、天照=卑弥呼のの幻影 天照の子は諸王若しくは臣下の類、臣下の天孫系が権威付けのために必要としているからです。
470 :
日本@名無史さん :04/07/13 19:25
>西都に天孫の巨大勢力があるなら魏史にも書かれたであろう。 戸数5万の邪馬台国に匹敵する大勢力投馬国として出てくる。
471 :
日本@名無史さん :04/07/13 19:28
>掘ってないからね。あそこらへん一帯。 平塚川添遺跡も吉野ヶ里も宮内庁の許可など関係なく普通の土地から出ている 宮崎にはそれらの倭人伝記述に似ている遺跡が無い。
472 :
日本@名無史さん :04/07/13 19:41
男の王 ↓ 卑弥呼擁立 ↓ 男の王 ↓ トヨ擁立 見てのとおり万世一系は不可能です。 巫女王は有力豪族が担ぎ上げた存在で子孫云々は神話上権威付けのために必要とされ 記紀は現実の王統に九州の有名人を天孫として持ってきた。
473 :
日本@名無史さん :04/07/13 19:49
北部九州の邪馬台国連合は九州中央部の狗奴勢力と連年戦い 相対的に国力を弱め北九州諸国は乱れ、王に巫女を持って来たりしてガタガタ 最終的に国力を温存していた第三の勢力投馬(西都)の王を迎えた、若しくは侵略された
474 :
日本@名無史さん :04/07/13 19:50
y
もともとは100余国がどして減ったのかな?ヤマタイがツマが合併して富山とかヤマトとかなるかな
>>469 はぁ・・・ちゃんと記紀を読んでくれよ。
記紀は天照が卑弥呼だなんて言ってない。
むしろ、古代天皇に123歳などというありえない事を記載してでさえも否定しようとしたんだよ。
天から来た神の子孫ですと。でも墓や遺跡まで消しさることは出来ないから九州南部に天孫降臨さしたり
男狭穂塚を無理矢理、ニニギの墓にしたてあげたんだろ。
>>470 ほう、では天孫の国である投馬国をモデルに記紀が書かれた・・・と。
で、大和朝廷は何の理由で投馬国をモデルにしなくてはならん?
わけわかんね。
>>472 >見てのとおり万世一系は不可能です。
男の王 スサノヲ
↓
卑弥呼擁立 アマテラス
↓ <記紀の九州の話はここらへんまで。
男の王
↓
トヨ擁立 トヨウケ?
あたりまえだ万世一系などは記紀の創作。
アマテラス(卑弥呼)>ウガヤフキアエズ>イワレヒコ(神武天皇)と記紀の舞台は奈良に移る。
何が言いたいのかさっぱりわからん。なんでそんな無理な解釈をしなくてはならん?
>>473 妄想
477 :
日本@名無史さん :04/07/13 20:27
>大和朝廷は何の理由で投馬国をモデルにしなくてはならん? 投馬の有力者若しくは王が天孫だからです。
>>473 女王国の範囲
到其北岸狗邪韓国〜南至投馬国〜南至邪馬台国、女王之所都〜次有奴国、此女王境界処盡
ちゃんと魏志倭人伝を普通に読め。伊都国も投馬国も倭国連合の中。邪馬台国(女王国)の属国。
>第三の勢力投馬の王を迎えた
なんだこりゃ???畿内説バリに妄想はげしいね。
479 :
日本@名無史さん :04/07/13 20:37
>南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸 >南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳提可七萬餘戸 明らかに別です。 >自女王國以北 属国 それから、何をいきりたってるのか知らないが 落ち着いてレスしませんか?「妄想はげしいね。」
>>477 もう破綻しているのに・・・
なんで投馬の有力者若しくは王が天孫なんだ!!
邪馬台(やまと)国 > 大和(やまと)朝廷 と普通に考えたらいいだろうが。
(卑弥呼=アマテラス) (アマテラスの子孫、天皇)
投馬が入る余地などない。
481 :
日本@名無史さん :04/07/13 20:41
>北岸狗邪韓國 北の岸壁ぐらいにしか読めない >次有次有奴國此女王境界所盡 君の言う通りだとコレが説明できない。
482 :
日本@名無史さん :04/07/13 20:46
>邪馬台(やまと)国 邪馬壹國です。 ヤマイ国+ツマ国 ↓ ヤマイツマ連合 ↓ ヤマツ ↓ 大和 (w
だめだこりゃ。
『到其北岸狗邪韓国』
その北岸「狗邪韓国」に至る。
「その」がどこを指してるかゆっくり考えるんだな。
従郡至倭だろ。倭。
〜奴國此女王境界所盡
>>457 のまんま。
485 :
日本@名無史さん :04/07/13 20:52
>投馬が入る余地などない。 ありありです。 ・倭人伝に5万と途方も無い数書き記されていて当時の人口分布を見ると西都には人口が多い、しかし九州北部中部ほどではない。 ・臭い古墳が無数にある。 ・記紀は天孫を宮崎(投馬)に持ってきている。
486 :
日本@名無史さん :04/07/13 20:55
其は倭諸国を指しています。
487 :
日本@名無史さん :04/07/13 20:57
直前の「至倭」をよく見なさい。
488 :
日本@名無史さん :04/07/13 21:01
東にも倭種がいる 北の倭種が狗邪韓国 南には狗奴国 全て倭だけれども 倭がそのまま邪馬台国ではない。
489 :
日本@名無史さん :04/07/13 21:11
奄美21島の一つが奴なら 最初に出てきた奴(博多)は女王国とは関係無いということですね。 どうなんですか?
490 :
日本@名無史さん :04/07/13 21:30
ご覧の通り西都厨は論破されました。 あとは、論破さた信仰を押し付けるか、荒らしに走るか、説を隠し中傷に走るか マキムク厨と同じ道は辿るなよ。 では。
>・記紀は天孫を宮崎(投馬)に持ってきている。 違います。しっかり読みましょう。
492 :
日本@名無史さん :04/07/13 21:42
もう一つ一つ言わせて貰うと 西都にはヤマタイの語韻を含む地名がまったくない あるのは、ツマという地名。 サイトはツマ国だろう。
493 :
日本@名無史さん :04/07/13 21:44
>>491 チガイマス
否定語だけでは君の考えはわからないよ
何故違うのかをレスしないとね。
天孫が西都にいるのを認めてそれでも邪馬台国ではないとは・・・これいかに・・・。
495 :
日本@名無史さん :04/07/13 21:56
496 :
日本@名無史さん :04/07/13 21:57
>>488 倭国連合の代表国が邪馬台国だろ?
倭=邪馬台国ではないけど、倭=女王国の支配圏だろう。
だから親魏倭王なんでしょ?
>・記紀は天孫を宮崎(投馬)に持ってきている。 どこが違うかわからねえのか? ほんとに記紀読んだのか?
498 :
日本@名無史さん :04/07/13 21:58
>>490 北九州がゴネてるようにしか見えない・・・
499 :
日本@名無史さん :04/07/13 21:58
女王国の北限の国は伊都国より「東南百里」の奴国であり 女王国の南限の国は伊都国より南「水行十日陸行一月」の邪馬台国です。 邪馬台国の北に斯馬国があり、邪馬台国の南には狗奴国が国境を接していたのです。
500 :
日本@名無史さん :04/07/13 22:02
>倭=女王国の支配圏だろう。 馬鹿すぎですよ、倭人伝の倭=邪馬台国ですか? もういち考えてレスしてください。
501 :
日本@名無史さん :04/07/13 22:04
投馬の読みはツマで決定なのか?
502 :
日本@名無史さん :04/07/13 22:07
(1) 女王国より以北の国。 対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国。 (2) 女王国。 邪馬台国、斯馬国、已百支国、伊邪国、都支国、弥奴国好古都国、不呼国、 姐奴国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、 躬臣国巴利国、支惟国、烏奴国、奴国。(二十二ヶ国) 邪馬台国は女王国の首都。 (3) 狗奴国。 (4) 投馬国。 (5) 侏儒国。 (6) 「その他の傍国は遠絶にして詳かにできない」とされた地。 (7) 「女王の東、海を渡ること千余里又、国ありて皆倭種」とされた地。
503 :
日本@名無史さん :04/07/13 22:14
>>501 伊都の読みはイトで決定なのか?
というのと同じ愚問に聞こえる
素直に読めばイトはイト、ツマはツマ
共に現実に有る地名。
読み方を
チューマとかチェメとか勝手に解釈しても現実の地名に無いから説得力無し。
504 :
日本@名無史さん :04/07/13 22:23
投馬国 つま 官は弥弥、副官は弥弥那利。 五万余戸。 さらに、宮崎には耳(ミミ)と言う地名がのこっている。
505 :
日本@名無史さん :04/07/13 22:24
大和(倭)朝廷は何を持ってヤマトとしたんだろう??? 天孫が卑弥呼の子孫でなければどっからヤマトが出てきたんだろう??? 邪馬台(やまと)国>大和(やまと)朝廷
>>503 日本読みしてどうする?ハげ!!
古代中国読みしないと意味ないだろが!ビール腹の糖尿病患者が!!
話はそれからだ!
邪馬壱国は 「ジャマイチ」って発音じゃなかったっけ?
508 :
日本@名無史さん :04/07/13 22:30
>>505 台ではない邪馬壹國
>>506 落ち着け。
そういうおまえも
伊都はイト
末盧はマツラ
と読んでるじゃないのかよ。
509 :
日本@名無史さん :04/07/13 22:33
>>507 馬鹿化?ですか?
詭弁の見抜き方参照
8.知能障害を起こす ↑
>>508 便宜上な
魏志倭人伝の表記をそのまま現代日本語で読み、なおかつそれを
現代地名に当てはめて「韻が合うからここにちがいない」と抜かして
ご満悦なビール腹のオヤジには怒りしか沸いて来ない
511 :
日本@名無史さん :04/07/13 22:35
古事記は「倭」の字を明らかにヤマトと読ませているのは確かだが。 どこから出てきたのでしょう?ヤマト。
512 :
日本@名無史さん :04/07/13 22:39
513 :
日本@名無史さん :04/07/13 22:46
投馬国は「ツマ」と読まれる。又は「トマ」、「トモ」、「タマ」、「トメ」等々各様に読まれる 都万神社は西都市にあり、これを裏書するように、西都市の西方には西都原古墳群(宮崎県)が存在する。
514 :
日本@名無史さん :04/07/13 22:47
でも、天孫は西都にある投馬国にいたんでしょ? おかしくない?西都=投馬国
515 :
日本@名無史さん :04/07/13 22:59
>>514 投馬国の官ミミ云々が天孫としたらおかしくない
筑紫に神武が立ち寄ったのも征服若しくは優越的同盟の証だとおもう
対外的には北部九州のヤマイ名は絶大で
その正統な子孫を捏造する意味で天照=卑弥呼を天孫に持ってきた
邪馬台国+対馬国=ヤメツマ国=ヤメツ=ヤマト=大和
ほーら大和になった(w
516 :
日本@名無史さん :04/07/13 23:00
邪馬台国+対馬国=ヤメツマ国=ヤメツ=ヤマト=大和 訂正 邪馬台国+投馬国=ヤメトマ国=ヤメト=ヤマト=大和 こうかな
517 :
日本@名無史さん :04/07/13 23:01
>>513 >>447 に都萬神社の説明。
宮崎県西都市大字妻の妻は妻神社からとったもので国名ではないでしょ?
国名がツマだから都萬(妻)神社で貴人の妻神を祀ってるってか?
本末転倒ですね。
518 :
日本@名無史さん :04/07/13 23:02
さらに訂正 邪馬壹国+投馬国=ヤメイトマ国=ヤメト=ヤマト=大和 こうかな
519 :
日本@名無史さん :04/07/13 23:03
妻 ツマ これで十分です
520 :
日本@名無史さん :04/07/13 23:05
521 :
日本@名無史さん :04/07/13 23:05
国名は後の時代 イトは筑紫ではないのと同様です。
日本語が分からん池沼が多いスレだな。 日本読みによる策定は無意味だから寄席と言っているだろうが!
523 :
日本@名無史さん :04/07/13 23:10
>>522 おまえさっきから喚いてるな
否定するならきちんと反論という形で否定しろ。
ヤメロヤメロではわからんぞ。
524 :
日本@名無史さん :04/07/13 23:10
>>522 同意
ツマって地名は各地にいっぱいあるし。
都万 妻 ・・・だいたい近くに誰かの妻神を祭った○○妻神社があるんだけど・・・
525 :
日本@名無史さん :04/07/13 23:16
>>524 では具体的に上げてみな、いっぱいあるじゃわかんないよ(w
投馬=ツマ
・現実にツマという地名が西都の中心にある
・倭人伝の行程と一致(水行20日)
・倭人伝の国の規模とも一致(戸数5万)
一致しまくって怖いくらいだ。
526 :
日本@名無史さん :04/07/13 23:18
まぁあれだ西都が天孫の本拠地であるのを認めてる時点で北九州説はアウトなんだわ。
>>467
九州説には、スサノヲやアマテラスが実在していたと思っている人、 多いみたいですね。 神武の婿入り、ですか…。まあ、否定もしませんが。
528 :
日本@名無史さん :04/07/13 23:21
>>526 宗教家ですか?
天孫と邪馬台国は直接系統立ってないんですけどね。
つまり邪馬台国の女王卑弥呼と投馬国の天孫とは別と言う事。
>>523 土地の読み方など時と共に変わるもの
さらに生徒のある現代日本の土地の読み方が、魏志倭人伝に表記されている
地名の日本語読みと一致しているからここに違いないってかw
古代からひらがな表記もしくは別の漢字の当て字で古代から明らかにそのよう
に読むことが確定的であり、古代中国読みの裏づけが取れて、なおかつ史料の
傍証も固められているのであれば認めるけどね。
530 :
日本@名無史さん :04/07/13 23:28
>スサノヲやアマテラスが実在していたと思っている人、多いみたいですね。 原型は古代の有名人卑弥呼だろう、魏に王印と錦の御旗を貰ったと言う事は 一応倭内の正統王朝として体面はある 卑弥呼の後の時代 邪馬台国を融合若しくは同盟させた投馬の王(神武系)が正当性を高めるために卑弥呼を天孫に据えたのだろう。
531 :
日本@名無史さん :04/07/13 23:31
>土地の読み方など時と共に変わるもの 土地の名前は結構残ります イトなんてそのままだしナもマツラも イキツシマもウミもほぼ原型を留めています キクチヒコもクナも。
532 :
日本@名無史さん :04/07/13 23:33
鬼国=佐賀県基山としてなど キなどは全国的にも珍しい。
>まぁあれだ西都が天孫の本拠地であるのを認めてる時点で北九州説はアウトなんだわ。 一人の意見だけで結論づけるなヴォケが!
534 :
日本@名無史さん :04/07/13 23:38
というか九州説はもう一度倭人伝を読み直してみな 九州内には3つの勢力が読み取れる ・ナを北限とする邪馬台国 ・対抗勢力のクナ ・5万の不気味な巨国=投馬
>>531 だ〜か〜ら〜日本語読みして勝手に策定しただけだろっての!
536 :
日本@名無史さん :04/07/13 23:42
>>535 自説を隠し否定のみに走る、すなわち否定厨
少なくともそれでは西都厨の言う奄美21島は邪馬台国とはならないな(w
537 :
日本@名無史さん :04/07/13 23:46
>>536 魏志倭人伝の地名日本語読み策定法はいかがなものか?って
言っているだけなんだがなぁ
古代からそういう読みで、中国読みも妥当であれば、少しは説得力
があるんだが。
九州説の人は、畿内説に対しては、前方後円墳は大部分が未調査 だから根拠にならないとか、鉄の出土量は圧倒的に九州だから、 畿内が九州を屈服させたことは有り得ない、とか完全否定するけど、 自説を語る時は、アマテラスやらスサノオ、大物主=ニギハヤヒ、 神武婿入りとか、妄想爆発なんですね。 もっと謙虚になったら?
540 :
日本@名無史さん :04/07/13 23:55
>アマテラスやらスサノオ、大物主=ニギハヤヒ、神武婿入りとか、妄想爆発なんですね。 神話の細かい事は解釈の仕方だから水掛け論、疲れるだけ 大まかに神話は古代を捏造やなりすましも含めてある程度反映しているだろう、と言う事。
541 :
日本@名無史さん :04/07/14 00:00
>>538 そんなこと言ってたらマツラ国辺りから、いや全部策定できない
倭人伝の名称と古い日本に残ってる地名とがある程度一致したからマツラやイトだろう
そういうおまえさんは、邪馬台国をヤマタイコクと言ってるのだろう?
>>541 はあ、、、もう疲れた。。。
そうそうあんたの言うとおり。
魏志倭人伝の地名の日本語読みと「古い日本に残ってる地名」(日本語読み)が酷似しているから
そこに間違いないんだよね。
その通り!えらい!!あんたが大将!!!
543 :
日本@名無史さん :04/07/14 00:20
>>542 疲れるのは君が目を血走らせて必死になっていたからだよ
自説が論破されたからといって発狂しないで、西都厨も普通に議論できるようになるといいね
西都側からは結局は肯定材料は出なくて、ヤメロヤメロと叫んでただけ。それ以外は必死な否定厨。
俺はおまえは相手にしてなくて、実は他の説の唸らせるような否定論を待ってたんだよ。
じゃあね。
544 :
日本@名無史さん :04/07/14 00:22
近所の機関銃の様にまくし立てるオバちゃんと同様だな。 人の話を聞かない香具師は強いと言うことだ
545 :
日本@名無史さん :04/07/14 00:24
>>543 何か勘違いしているようだが、漏れは
>>529 で西都厨にも疑問を
投げかけているのだが・・・
546 :
日本@名無史さん :04/07/14 00:27
>人の話を聞かない では聞きますから、あなたの自説を拝聴させてください。 言えないだろう、その場合、君は否定厨。 君の説をレスしたら丁寧に咀嚼してやるよ。
全然流れをつかんでいないのだが、マツラとかイトとかナっていうのは地名の一致だけじゃなくて 出土遺物から大陸半島との交流が明らかであることも地名比定の重要な要素だろ。 奴国の場合は金印も大きい。 奴国を福岡平野に比定すると、地名の一致がなくてもあとはイトを糸島平野、 マツラを唐津平野に比定するしか選択しはなくなる。 だから、マツラとかイトとかナの比定って地名の一致だけじゃないんだよね。 地名の一致だけだとちょっと苦しいよね。一般論として。 何の話かわからんので的外れならごめんね。
548 :
日本@名無史さん :04/07/14 00:33
邪馬台国の古代中国語読みは〜〜だから〜〜は〜〜です。と意見を言ってもらわないと 自説を隠して「中国語読みだから」で君の意見は終わってる。これ以上議論しようが無いじゃないか。 邪馬台国が中国語読みの場合、なんて発音するの?その結果邪馬台国はどこなの?
549 :
日本@名無史さん :04/07/14 00:39
>>547 地名の一致は大きいよ
仮に伊都国が「奈良朝廷」という地名だったら(w
いくら遺物が出ても伊都国=糸島半島は否定論が絶えないだろうな。
大きいことは大きいけど、地名の一致だけだと 今のように限りなく定説に近い通説まではいかないでしょ。
真実確定、とは誰もいえないけど、 地名の一致はとても大きいな。
この手の問題は、数学的証明は無理で、(地名比定を含め)総合的合理性で真実に近づくしかないな。
553 :
日本@名無史さん :04/07/14 01:04
>>448 >長髄彦(ナガスネヒコ)は饒速日命に命に完全服従である。
>多数は東北方面に逃れたようだが、神話におけるヤマトタケルが蝦夷征伐に
>出向いた際に蝦夷たちが、伊勢でなく三輪山(大物主)に向かって天皇に反逆
>しない事を誓ったとあるのは興味深い。
>饒速日が伊波礼彦(神武天皇)を婿として迎え邪馬台国が畿内に勢力を伸す。
>後の崇神天皇などは九州北部の勢力ではないだろうか?神武とは明らかに別系統
>のようである。
あなたは、これらの出来事を、具体的に何世紀頃のことと考えているのでしょうか?
マキムクは神武の頃(3C末くらい?)に建設されたのですか?
また、神武に取って替わったという崇神勢力の古墳群はどこだと思ってます?
あなたの説明は、神話時代のことは上手く説明できているかもしれませんが、
逆に、比較的信憑性が高いとされる崇神以降の記紀の記述を否定するという、
一般的には受け入れ難いものですよね。
>>546 >>548 >>538 で言いたい事が纏められてるじゃん。。。
これじゃだめなの?
ちなみにお前さん、ギャーギャー言っているだけで何ら身のある話を
していないのに気づいているか?
ギャーギャー言うだけなら猿でもできるぞ。
555 :
日本@名無史さん :04/07/14 01:37
九州説って学者にはいないよ。 素人向けの電波珍説すぎません。
556 :
日本@名無史さん :04/07/14 01:51
投馬国の王が邪馬壹国を併呑 ↓ 邪馬壹投馬国(ヤメイトマ国)と呼ばれる ↓ ヤメイトマ ↓ ヤマトマ ↓ ヤマト ↓ 大倭や大和をヤマトと発音。 説得力ある!!
557 :
日本@名無史さん :04/07/14 01:58
小型倣製鏡第U型の鏡は、甕棺からは全く出土せず、箱式石棺から多数出土することから、邪馬台国時代の鏡であるとされる。 小型倣製鏡第U型の鏡は、博多湾岸からはほとんど出土せず、朝倉盆地から筑紫平野にかけての筑後川流域の地域から多く出土する。 邪馬台国の勢力が、筑後川流域の地域にあったことをうかがわせる。
560 :
日本@名無史さん :04/07/14 02:48
どうやら邪馬台国はサイトではないみたいだな。
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ( ´゚'ω゚`) < マキムクもサイトも宗教ですな。 (つ旦と) \______________ と_)_)
562 :
日本@名無史さん :04/07/14 04:39
あー マキムクとサイト厨房は夫々下の破綻点を説明する事 マキムク ・東の倭種の事 ・東海土器は出てくるが楽浪土器や絹鉄などは出なくて外国と修好があった痕跡が無い事 ・狗奴の場所と勢力 ・伊都は歴代邪馬台国に臣従しているが、卑弥呼以前の歴史の事 ・倭人伝に出てくる遺物が一切無い事 サイト ・狗奴の場所と勢力 ・邪馬台国に属する諸国の事 ・物見櫓や環濠は天皇御陵ではない、のに墓があるだけで何も出てこない事 ・倭人伝に出てくる遺物が一切無い事 掘ってないけどあるだろうでは学問的とは言えません 根拠の無い「〜だろう」は妄想です。 何度自説を唱えても破綻している所を説明しなければ何度でも同じ事を聞きます。 破綻を放置しての説の押し付けはいずれ宗教キチガイ扱いになることでしょう。
563 :
日本@名無史さん :04/07/14 04:53
それから昨晩の一連のレスでサイト厨も自説が破綻し他説を論証できないと怒狂や中傷などに走る事がわかりました。 はっきりいって無駄です 真実に近寄るために落ち着いて現実に向きましょう ヒントとして 最初に場所を限定してしまうから説明できなくなったり 邪馬台国の周りの状況にいいかげんになったりするんですよ。
>>562 >マキムク
>・東の倭種の事
関東
>・東海土器は出てくるが楽浪土器や絹鉄などは出なくて外国と修好があった痕跡が無い事
出てるよ。
楽浪土器はないが韓式土器は出土している。
絹は、下池山、黒塚という古墳のほか、絹製巾着が遺跡から出土。
ほか、ホケノ山からは後漢代の画文帯神獣鏡の優品と多数の鉄器。
>・狗奴の場所と勢力
九州中南部。倭人伝には邪馬台国の南と書いてあるわけじゃない。
>・伊都は歴代邪馬台国に臣従しているが、卑弥呼以前の歴史の事
卑弥呼共立以来、複数の伊都國王がいた。卑弥呼以前は後漢書にいう『歴年無主』でしょ。九州説でも畿内説でも。
>・倭人伝に出てくる遺物が一切無い事
意味不明。
が、絹やら“倭人伝に出てくる遺物”についてはそもそも、倭人伝の読み方に誤りがある。
倭人伝には“邪馬台国”の産物と書かれているわけではなくて倭の産物として記されているのだから、倭人の住む領域のどこかで生産・採取されていればそれでよい。
九州説にとっては畿内は“倭国”の外かもしれないが、畿内説にとっては九州は“倭国”の内側なのでノープロブレム。
俺的には、倭国30国外の東の倭人國も含めてよいと思うが、通交のあったのは倭国30国だけであるから、ここに限定すべきだという意見も一理ある。
ただ、これで困るのは九州説。なぜなら、翡翠があるから。翡翠の鉱脈はどうあがいても九州には移らない。
565 :
日本@名無史さん :04/07/14 18:40
ヒスイ製品は九州でバンバン出ている。
>>564 は
九州でヒスイの鉱脈があったと、一人で主張したいようだね。
566 :
日本@名無史さん :04/07/14 19:03
>>564 韓式土器の破片が一つだけ、そんなの通商があったとは言えない。
邪馬台国は中国に何度も朝貢してる。
伊都国は代々王位が継承されていますが、王は全て女王国に統属されています
マキムクが王都ならさらに歴史を遡らせないと話が合わない。
567 :
日本@名無史さん :04/07/14 19:09
>>564 ヒスイは九州では出ないが現物は沢山出土しているので無問題。
ちなみに俺は九州北部説、甘木か八女か・・・
>>565 あいかわらず頓珍漢な答えありがとう。
倭人伝にはこう書いてある。
出眞珠青玉
青玉がもちろん翡翠。
『出』は当然のことながら、産出するということ。
つまり、“倭”の領域に翡翠の鉱脈があるということなのだよ。
そういきりたたんでも、ここにいう“倭”の領域を30国以外まで
広げておけばなんの問題もないのだが。
>>566 通商?
>>562 では『修好があった』だったがいつの間にか主張をかえたらしい。
よくあることだが。
土器は別に商売ものじゃないし、ましてや、朝貢のときにやりとりするものでもない。
朝貢のときにやりとりするリストに一つも入ってないでしょ。
土器は、生活のために個人が移動するときに持っていくもの。
北部九州は、半島・大陸への玄関口だから庶民ベースの人の移動はあるのが当たり前。
569 :
日本@名無史さん :04/07/14 19:35
>>568 当たり前も何も大陸からの物資をマキムクに運ばないと豊かにならないぞ
現に鉄や絹は北九州が爆発的に多い。
土器からマキムク王は北九州に交易を独占させてたとでも解釈するしかないね
>>569 >当たり前も何も大陸からの物資をマキムクに運ばないと豊かにならないぞ
ホケノ山からは優品の画文帯神獣鏡や多数の鉄器が出土してるんだから、
物資が運ばれてるのは明らかでしょ。
>土器からマキムク王は北九州に交易を独占させてたとでも解釈するしかないね
独占させてたっていうか、畿内王権にとって北部九州は中継地点だから、
半島・大陸人と直接の交易に携わったのが九州人というのは必然だね。
わざわざ一大率という特務官を『特に』おいていることから九州を重視しているのは
はなから自明なんだけどね。
これが何故、どう問題なのか理解できない。
571 :
日本@名無史さん :04/07/14 19:55
572 :
日本@名無史さん :04/07/14 19:56
>>570 画文帯神獣鏡は魏普鏡ではないです
江南産で一部は国内産説もある
サンカクエンとガブンタイしか知らないの?
卑弥呼が魏から貰った可能性が有る魏鏡は出てない。
573 :
日本@名無史さん :04/07/14 20:00
そうですね。もともと少ないし、容易に散逸してしまう量ですから。 下賜したかどうかもわかりませんが、他にも三種の神器、神社のご神体など、 使用されたところは多かったので、100枚はむしろ非常に少ない数です。 だから、確実に魏鏡で年代も一致する物が出てくれば、大きな証拠にはなります。 ただし、もちろんそこが邪馬台国とも限りませんが。
575 :
日本@名無史さん :04/07/14 20:33
青玉はジャスパーじゃないの?
>>575 ジャスパー
http://tellus.hp.infoseek.co.jp/stone54.htm 青いのはあとで染めてるんじゃないの?
>>572 >画文帯神獣鏡は魏普鏡ではないです
うん。後漢鏡だからね。
といっても建安年間といわれるから曹操の時代。
事実上の魏代だけど。
>江南産で一部は国内産説もある
少なくともホケノ山鏡に限ってはないよ。
>卑弥呼が魏から貰った可能性が有る魏鏡は出てない。
あんたのいう卑弥呼がもらった可能性のある鏡って何?
位至三公鏡みたいなお笑い鏡じゃないよね?
ま、現実問題として卑弥呼がもらった可能性のある鏡に画文帯神獣鏡、
最古形式の三角縁神獣鏡は含まれるでしょう。
三角縁神獣鏡も後漢鏡の優品と比較したら落ちますけど、
その他の魏晋鏡といわれてるものに比べたらはるかにできはいい。
ジャスパーには緑と赤があるが、どちらも天然もの。 さらに言えば、ヒスイの産出地糸魚川は、 畿内でなく九州勢力の領土でしょう。 越→出雲→邪馬台国と征服してきたんだから、当然。
さながら畿内包囲網ですなw
579 :
日本@名無史さん :04/07/14 21:43
>>577 >さらに言えば、ヒスイの産出地糸魚川は、
>畿内でなく九州勢力の領土でしょう。
>越→出雲→邪馬台国と征服してきたんだから、当然。
開いた口が塞がらない。
580 :
日本@名無史さん :04/07/14 21:47
三角縁の出来が良かろうが悪かろうが時代が違う 位至三公鏡も可能性としてはある 円圏鳥文鏡飛禽鏡獣首鏡・・あーめんふどくさい まだあるけど書くのめんどくさい 要するに時代だよ、重要なのは。
大和朝廷の領土は狭いんだよ。 AD584年に播磨国は外国であったわけで 糸魚川が領土だなんてとんでもない。
時代設定が全然違うぞ。 考古学の基礎から勉強しろ。。
>>580 >位至三公鏡も可能性としてはある
実物見たことないでしょ。
あれできの悪い三級品だよ。
>要するに時代だよ、重要なのは。
うん。だから景初三年銘の紀年鏡は大事だね。
三角縁も含めて。
584 :
日本@名無史さん :04/07/14 22:16
庄内期の古墳から出ない△なんてたぶん国産でしょうが、 いつまでも小林という学者が苦し紛れにねつ造した 「特鋳説」なんて珍説を奉るアホが絶えないですね。 しかし、九州説なんてのは今どき特鋳説以下の珍説ですな。 どちらも後、20年後には消えているでしょう。・
585 :
日本@名無史さん :04/07/14 22:20
>>584 最後は愚痴かよ、哀れだな畿内説
せっかくおまえらに話をあわせてやってるのに
愚痴かよp、次は中傷か?
>>584 >庄内期の古墳から出ない△なんてたぶん国産でしょうが、
庄内から出ないということと、国産であるということのつながりがわからんのだが。
587 :
日本@名無史さん :04/07/14 22:29
邪馬台国→ヤマタイコク→ヤーマ→地獄→地獄谷→立山地獄谷 というわけで、「邪馬台国は富山だった!」という論文を書いています。 パクらないでね。
>>562 あなたは448さんですか?
他の説はいいから、自説の弱い点を補強してよ。
590 :
日本@名無史さん :04/07/14 22:44
三角縁神獣特鋳説も邪馬台国九州説もかつてはそれなりの学者が唱えていた 由緒ある学説です。省みられなくなったのは、時代の変化にすぎない。 九州王朝説などというゲテモノとは格が違う。
>>安本なんてのは学者じゃないからね >そういうこいつはただのプー 安本本読むなんてエロ本読むより恥ずかしいぞ。
樋口一門には特鋳教信者がまだいるよ。
>九州王朝説などというゲテモノとは格が違う。 具体的に説明してくれ。出来ないなら来るな。
594 :
日本@名無史さん :04/07/14 23:17
畿内説の愚痴のオンパレードだな おまえら議論を愉しむ事を知れ、見苦しいぞ 畿内説のフィールドの鏡の話を深めようと思ったら 愚痴個人中傷では・・・ 九州王朝説を叩き台にして議論再開するか?
おや、私を呼ぶ声が・・・
読んだ?
597 :
日本@名無史さん :04/07/15 00:29
では邪馬台国は甘木にあったと断定しようか。
>>597 考古学上でも神話上でも倭人伝上でも
九州北部は不動だろ、当たり前すぎて面白くない
反論の余地がない完璧な定説だよ、それ。
九州説を唱える考古学者はほとんどいないんだけど。 そもくらい知っておけよ。
600 :
日本@名無史さん :04/07/15 01:14
217 :>215 :04/07/07 22:18 >・他地区からの移住がなくても唐子・鍵自体で日本一となる素地があった。 >出雲、九州からの専門家集団の誘致を招いた。てなことも考えられる。 ないですね。唐古とマキムクには全く継続性がない。 そういうこと言っている人はまだいますけど今唱えている連中が死んだら無くな っていくと思いますね。邪馬台国九州説みたいにね。 そもそもこういう主張の人たちの根拠である「鉄のルート?をめぐる争いに勝って・・・」 と言うのが少なくとも考古では全く証明できないですね。 村上氏なんかは、「鉄器(北九州)VS石器(畿内)」(→だからそんなことはありえない) なんて言ってますね。
完璧な証拠を言ってみろ。
602 :
日本@名無史さん :04/07/15 01:25
邪馬台国は甘木完璧な定説
603 :
日本@名無史さん :04/07/15 01:27
604 :
日本@名無史さん :04/07/15 01:33
605 :
日本@名無史さん :04/07/15 01:52
とりあえず決定だね、反論も無いし。 邪馬台国は甘木でした 乱立してるのでこのスレは終了します 完
終了 以下書き込みは荒らしとみなす。 ↓
607 :
天之御名無主 :04/07/15 06:11
マキムクは唐子鍵からの継承性はなく邪馬台国と無関係であって、甘木が邪馬台国 であるという仮説だね。討論を続けよう。 この説ではマキムクがどこからきたかは不明。土器から言えば尾張、吉備辺りとなり、 甘木方面の線は薄いんだよなー。甘木方面に入ったのとは別のものが吉備に来ていた。 しかし、どこか九州を通らなくてはおかしい。大量の後漢鏡が入っているんだから。 すると、豊前、周防辺りがかんでいることが考えられる。 マキムク建設は邪馬台国卑弥呼没年より50年くらい前に開始されていることになる。 魏使は大宰府並のヤマタイ国迎賓館どまりであったということか。 ありえそうにもみえるね。
608 :
天之御名無主 :04/07/15 06:19
一寸待てよ、豊前、周防が吉備の鬼退治の対象であったとすればどうだ。苅田の 石塚古墳は吉備が派遣又は擁立した国造とすればどうなる。視点を変えて吉備中心に たてば甘木とは狗奴国にはならないか。或いは逆で豊前が狗奴国か。日向は 高句麗神話を借用したため便宜上創り上げたもので時代的に全然マッチしていないと みえるがね。
609 :
天之御名無主 :04/07/15 06:25
いずれにせよ神武記が吉備を通過地点としているのは意味がありそうだ。神武は 公孫系も含む楽浪方面からの移民とすれば讃岐、吉備、但馬、河内、阿波等に 展開される積石のおおい墳墓をもたらしたものとも思えるんだが、この辺はどうだ。
>甘木とは狗奴国にはならないか この辺には賛成するよ、神話主体で進行してみる?
611 :
天之御名無主 :04/07/15 06:40
いずれにせよこの時代のC14年代測定にはおおきなゆらぎがあり、分解能が百年以上 のおおよそ科学からは縁遠いものであることが問題だ。将来別の方法が発明されるか、 天皇陵のせめて周濠部分でも発掘を解禁することによりC14の較正用サンプルが集積 されることが必要なんじゃないかとしろうとでも思うんだが。
612 :
盧氏の友人 ◆uVgREYUxI. :04/07/15 16:04
邪馬台国は甘木周辺で決まりかけのようだね。 しかしヤマタイが九州だからといって、マキムクの正体がどうでもよくなるわけではない。あの規模の遺蹟なのだから、国土・同盟関係・経済活動はかなりの大型だろう。 いくら当時の世界が狭くたがいに干渉しにくいとしても、九州の国家群とマキムクが干渉しあう可能性は高い。 さらなる探求が必要だろう。
>>612 それは意義のある事だと思うが
ここのマキムク連中は会話さえ不可能
ガクシャガクシャ喚いていて中傷に終始
この馬鹿達もマキムクが卑弥呼と関係無いと解ったら興味無いだろう
ある程度結論が出た今、スレの意義は死んだよ
新スレ立てて邪馬台国という言葉を外さないといけない。
純粋に畿内初期古墳の意義を議論するなら参加したいね。
>>608 桃太郎(神武)は日向を出発し、犬=肥後、雉=筑紫、猿=出雲に吉備の実質支配という褒美団子を与え
ナガスネヒコ鬼=畿内を征伐したという鬼退治
なあ、名前欄にアンカーつけてるヤシって偉そうじゃね? うざいから無視しないか?
巻向は猿田彦の国でした。先住民族は「苗族」。
617 :
日本@名無史さん :04/07/15 22:14
甘木説を安本珍電波が唱えているというだけで、終わってるじゃん。 まともな学者で甘木なんて言っているやついないよ・
吉野ヶ里遺跡と平塚川添遺跡なんて全然駄目駄目だろ。 そもそも弥生終末期には、北九州(学者によっては、四国西部等を含めて) では倭国王=伊都(イト)国王を中心にほぼ統一的な地域国家ができているわけで、 そんなしょぼい遺跡が首都ではありえないよね。ちなみにこれも邪馬台国より前だがな。 伊都国より前ならしらんが。
>>617 気持ちはわかるけど、もうちょっと中身のあること書きなよ。
で、九州説代表は甘木説ってことでいいのかな?
前はほとんど南部九州説で北部九州説は絶滅状態だったけど、
南部九州説の人たちはもう白旗かな?
っていうか、誰かが結論を宣言しただけで決まってしまう九州説って・・・いったい何?
ともかく、甘木説に決まったんなら、どいういう理屈で甘木になるのかちゃんと書いてね。
じゃないと、議論も反論も出来ないから。
困ったね。私は九州王朝はしばしば遷都した、という説。 それから、九州王朝説でない九州説という意味がいまひとつ分からない。
621 :
盧氏の友人 ◆uVgREYUxI. :04/07/15 22:29
とにかく、九州なのは確実なんだろ、邪馬台国。 なら甘木だろうが九州なんだ、かわり無い。 近畿であるわけがないしな。 誰かマキムクスレでもたててくんないかな。どうせマキムク馬鹿が騒ぐだけかw
全然駄目。よく↓を読め。勝山などマキムクの初期古墳に葺石はない。 ホケノ山からだ。 357 :>320 :04/07/10 20:42 >また纏向を創設及び運営した勢力がもし北九州に関係があるのなら >それを匂わせる出土品があってもおかしくは無いのですが >実際は北九州産の土器はほとんど出土されませんし >前方後円墳の土木的特徴も、北九州よりもむしろ山陰や丹後 >祭祀器にいたっては吉備の影響をモロにうけています。 これは少し古いですね?以下理由を言うと、 1.祭器等 宮山式の特殊器台については、いわゆる箸山からであり、最初期の古墳から出ておりません。 祭器についても近藤先生のように否定される方もいます。そもそも少ないですしね。 吉備の影響が増大した時期は、箸中山古墳が建設される時期であり纒向遺跡 (おそらく倭国にとっても)一大画期であったことは想定されるものの、 当該遺跡の成立、倭王権の成立について吉備の影響が突出したものとは 考えにくいと思います。 2.土木的特長 @貼石 葺石は勝山、纒向石塚等4墳にはありません。 上記批判は、「讃岐型前方後円墳」を唱えている方にも当てはますが。 *石塚については、寺澤氏、石野氏に見解の違いがありますが、石野氏 の見解でいいんではないでしょうか? 調査が待たれるところだと思います。
A外形 突出部を設けた墳墓は弥生終末期に全国に見られるわけで、「どれが源流」とは 決定的にいえないのではないでしょうか? 実際学者により、示唆するとこはまちまちですね(楯築?荻原?近江のどっか?・・・)。 つまり、ご指摘の趣旨は、箸中山以降には当てはまるものの、最初期の巻向遺跡は、 なんといったらいいか、以外と「色がない」ような気がします。 埋葬施設等を含め、纒向石塚等最初期の古墳の更なる
考古学の立場から言うと、九州説なら三雲南小路・平原=伊都国以外ありない。 しかし、平原は、遅くても200年前後(柳田説)。 だから邪馬台国ではありえない。 伊都国やら奴国が繁栄する前なら知らないが、仮にそうだとしても紀元前の話。
>>621 >とにかく、九州なのは確実なんだろ、邪馬台国。
ねえ。確実だと思うならその論拠を書いてよ。
判断できないじゃない。
626 :
日本@名無史さん :04/07/15 22:52
厨房が持ち上げる吉野ヶ里やら平塚川添なんてのはスク岡本や平原とくらべりゃ、全然大したこと はない。ましてやマキムクをや。ど田舎でまるごと発掘できたというにすぎんな。 そもそも、不思議なのはさあ、安本珍電波は、邪馬台国東遷説なんだろ? 「韓国に向かって」いる「筑紫の日向」にあって「八た鏡」が出るわ、畿内の神社祭祀につながる(とわざわざ 考古学者が太鼓判を押す)平原をほっぽりだして、なんで甘木なんて言っているんだ? まったく意味不明だな。
>>623 前方後円形墓の前方部というのは、播磨や讃岐などを含めた東部瀬戸内圏での発掘の成果から、
東部瀬戸内で円形周溝墓の通路が発達して前方部になったことがもはや通説となっているのだが。
東部瀬戸内で成立した前方後円形墓が纏向の100m級の古墳(もしくは巨大な弥生墳丘墓)に採用されたことから、
纏向の大和王権の成立に東部瀬戸内圏の勢力が少なからぬ関与をしたことが想定できるわけだ。
同様に、前方後方墳の前方部も方形周溝墓の通路が発達したものだということが、
東海地方の発掘成果により確認されている。
>>626 纏向はまだほとんど発掘されてないよ。
回数だけはやたら多いけど、チマチマやってるだけだからとてもじゃないけど
いまだ全貌はうかがい知れない。
629 :
日本@名無史さん :04/07/15 23:35
ぶっちゃけ俺も甘木説押してるんだけど あの辺なら山門でも八女でも首都なんてどこでもいいよ 邪馬台国内での卑弥呼の居場所なんて変わってる可能性があるしね 菊地だろうが朝倉だろうが有力遺跡や説がでたらそっちだろう。 確実にいえること福岡から平塚吉野ヶ里を含むあの辺が邪馬台国連合だったこと。 北九州方面も含まれるだろうね。
同感!!
その昔、今の佐賀県の有明湾と博多湾がとても接近していた。 何というか、佐賀地峡とでも呼びたいのだが、この玄界灘側と 有明海側を何回か遷都したように思う。
632 :
日本@名無史さん :04/07/15 23:56
いや、だから、九州説の人は、邪馬台国→初期大和政権への 説明をして。邪馬台国の場所の話だけなら、他スレで。
633 :
日本@名無史さん :04/07/15 23:58
>>626 記紀のニニギ系天孫は南九州から出たと思う、しかしそれが邪馬台国だとは思えない。
アマテラス系とニニギ系は別と考えたから北部邪馬台国、宮崎投馬
ニニギ系の前にも畿内には東遷勢力はいたしニニギ系もどうせ先で北九州系によって転覆するし
東遷の時期なんてあまり重要じゃないなー。
記紀での筑紫の日向と後で出てくる日向は別だよ
最初のはイザナミイザナギなど時代がぜんぜん違う。
甘木出発→秦王国制服→出雲征服→吉備征服→河内制服→大和至る 文句あっか!
>>632 4Cごろ退役軍人イワレヒコは、遠洋国際戦争が苦手だったので
列島内戦争で活路を見出そうとした
↓
総勢100人足らずの軍を率いて畿内に潜入
↓
畿内首長国群のなかで四面楚歌の首長に勝利、政略婚で定着
↓
天武時代にイワレヒコの貴種伝承を利用して天皇が君臨
↓
持統の策略で孫の文武天皇に万世一系の伝承に仕立て上げる
636 :
日本@名無史さん :04/07/16 00:38
>畿内首長国群のなかで四面楚歌の首長に勝利、政略婚で定着 > ↓ >天武時代にイワレヒコの貴種伝承を利用して天皇が君臨 この間がえらく端折られてますが。 そのイワレヒコの畿内が北九州を屈服させたのはいつ頃? なぜ小国だった畿内が、九州を圧倒できたと思います?
637 :
日本@名無史さん :04/07/16 00:42
畿内説では邪馬台国周辺の一つ鬼国は簡単に考えて紀伊だろうが 九州説ではこれほど「キ」に拘った地名と遺跡があり鬼国を考古学的に文献的に推定できます。 城ノ上遺跡三養基郡基山町 弥生 千塔山遺跡 三養基郡基山町大字宮浦 弥生 町南遺跡 三養基郡中原町大原古賀 弥生 原古賀三本谷遺跡 三養基郡中原町大原古賀 弥生 中津隅千飯遺跡 三養基郡北茂安町 弥生 平林遺跡 三養基郡北茂安町 伊都国奴国然りです。
>>636 イワレヒコの畿内は、よそからやってきた天武に乗っ取られました。
壬申の乱の結果です。
でもよく見れば、畿内王権はときどき乗っ取られていたので(継体など)
今に始まったことじゃない。
九州王朝は白村江の敗戦で、唐の傘下に入りますが、唐の排撃と
九州王朝の建て直しを畿内で狙ったのが天武です。
だから、九州王朝の新天地として、畿内王朝は盗られてしまいました。 畿内の九州王朝は、唐の傀儡朝を滅ぼしました。持統天皇のころ この九州残党狩りは終わりました。 文武天皇は自らを、天孫の血統(神武や天武)を引き、神武の王統(壬申の乱は禅譲と偽装) を引くものとして、土着豪族を大義名分上、抑えた。
640 :
日本@名無史さん :04/07/16 01:05
>>638 あちゃー。
…
他の九州説の方の意見、待ってます。
>>640 何か言ってよ。歴史の話をしてるんだけどね。
642 :
日本@名無史さん :04/07/16 01:15
マキムク厨よ聞け スレの趣旨は邪馬台国は大和朝廷になったか?だ これに関しては元々の邪馬台国の場所など関係無い 九州説畿内説関係無いだろう そろそろ「邪馬台国は畿内でなければならない」という固定観念を捨ててマキムクを語れ 大和朝廷初期の探求は日本史にとって卑弥呼と関係なくても重要なんだよ。まだ謎だらけ。
>>642 あのさ、乱入してるのは九州説のほうなんだけど。
このスレのパート3の途中まではいかにして纏向の大和王権が成立したかという話をしてたわけ。
そこへ九州説の皆様方がご乱入あそばしましてね、そういう話をさせてくれなくなったの。
パート1から過去ログ読み直してね。
644 :
日本@名無史さん :04/07/16 01:28
とは書いたものの 卑弥呼のスター性が無いと スレタイ「マキムク遺跡について語る」などは地味で閑古鳥が鳴くだろうな 卑弥呼の話題が無いと人は集まらないだろうね 2000年後の俺たちや社会に影響を与えてる、そう考えると改めて卑弥呼は偉大だと思う、今日この頃。
645 :
日本@名無史さん :04/07/16 01:29
>>643 スレタイに邪馬台国を入れたら俺達は黙っちゃいねーぜ(w
>前方後円形墓の前方部というのは、播磨や讃岐などを含めた東部瀬戸内圏での発掘の成果から、 >東部瀬戸内で円形周溝墓の通路が発達して前方部になったことがもはや通説となっているのだが。 なことはない。同型のものは、滋賀県、長野県にもあってどこが起源なんていう定説 はない。かつて大きく喧伝された楯築などはほかの要素もあわせて、起源と言われていただけ。 ただ、最初期との関係は疑問と近藤義郎は、言っている。 >東部瀬戸内で成立した前方後円形墓が纏向の100m級の古墳(もしくは巨大な弥生墳丘墓)に採用されたことから、 >纏向の大和王権の成立に東部瀬戸内圏の勢力が少なからぬ関与をしたことが想定できるわけだ。 >同様に、前方後方墳の前方部も方形周溝墓の通路が発達したものだということが、 >東海地方の発掘成果により確認されている。 これも各地にある。宮ノ前等。 だいたい「少なからぬ関与」なんて主張するならマキムク石塚、勝山との関係を証明しないと意味なし。
>纏向はまだほとんど発掘されてないよ。 >回数だけはやたら多いけど、チマチマやってるだけだからとてもじゃないけど >いまだ全貌はうかがい知れない。 かなりされています。調査報告書を読みなさい。
648 :
日本@名無史さん :04/07/16 01:40
「邪馬台国畿内説」と「大和朝廷(邪馬台国)が畿内の在地政権から成長した」というのは、 全然リンクしていない話だが、勘違いする厨房が多いよね。 後者のような主張は、若い学者には少ないのだが、安本本なんか読むと勘違いするのかもね。 それなりの文献の人でも勘違いして九州説となえていたりするしな。 よく聞くと勘違いなんだが。
これから誤解しません。 で、私は邪馬台国=九州王朝説。 さらに、大和朝廷=第二九州王朝説
650 :
日本@名無史さん :04/07/16 02:05
>>649 大和朝廷=第二九州王朝説 =投馬(サイト勢力)
だと思うけど
大和朝廷のサイトへの優遇ぶりからして
倭人伝でも不気味な存在だし詳しく書かれてない
卑弥呼の活動以前に歴史の裏で投馬王系が畿内に流れた可能性はある
651 :
日本@名無史さん :04/07/16 02:07
投馬王系=ミミ系、ニギ系 邪馬台国=アマ系 ね
>>646 定説?通説と書いたのだが。
定説と通説の違いがわからないのか?
それに悪いがこれは90年代ぐらいに整理されて出てきた比較的新しい話だよ。
>これも各地にある。宮ノ前等。
宮ノ前の墳丘墓なんてもう終末にかかってるじゃない。
もっと古い段階の話だよ。
>>647 遺跡と古墳間違ってない?
かなりやってるってのも主観的な表現だなぁ。
回数がかなりやってるのは確かなんだけどね、
遺跡の全面積からしたら発掘済み面積はまだまだなんだよ。
653 :
日本@名無史さん :04/07/16 14:32
記紀編纂したヤシらは邪馬台国の存在知ってたんだろ。 なのに神功のところに怪しいカキコミだけして、明言していない。 邪馬台国→大和朝廷ならなにもボカす必要ないじゃんよ。
>>653 同意。神功は、半島攻略戦争に付き合わされた畿内王権の人質でしょう。
九州王朝から見れば、新羅と親しい畿内王権の寝返りが怖い。
九州王朝から出た天武が、畿内王権を簒奪して、統一大和朝廷(西日本統一)を
作ってから、畿内在来勢力を手なずけながら、九州王朝系人脈も生かした。
邪馬台国→新大和朝廷=新邪馬台国の経緯は、記紀の当時みんな知っているのに
あまりはっきりと書くのははばかられた。一貫していない王権を一貫しているように
書く必要があったし(天武の権威の由来と対中国外交上)、九州王朝の権威も
天孫や極東での国威を新大和朝廷のものとする必要があった。一方で
畿内王権が敗北したことを書きすぎると、在来勢力から反発を食う。豊かなのは
あまり戦争をしなかった畿内勢力であり、味方につけなければ国家が運営できない。
655 :
盧氏の友人 ◆uVgREYUxI. :04/07/16 16:12
当時は首都(殷風に言うなら主邑)があったんだろうか? 畿内政権は毎代の遷宮をする行政府的なものであったが、首都は一応あった。おそらくマキムクもその一つらしいようだ。 九州王朝に首都はあったのか? どうも遺蹟の規模を見るにどんぐりの背比べなのだが。 白村江でウン百隻の海軍を運用できる巨大国家に首都が無いとしたら、そんな集中運用を酋長達の同意だけでできるのだろうか? 九州に大行政府はあるのか?
>>655 九州年号にあるとおり、兄弟統治の時代があったようで(実際の兄弟ではないだろう)
祭礼と行政の2人の王がいたようだ。350年ごろ百済・新羅が実力をつけ、九州王朝も
軍国主義化したと思うが、海軍国家化したのだろう、有明海に行政府を持っていったようだ。
行政府としての豪華絢爛建築は無かったかもしれない。後世の水島水軍も宮殿はない。
現実の海軍府みたいなものは、果たして佐賀か熊本だったのか。途中で佐賀から熊本に
移転したようにも思う。
通しで言うと、首都らしき場所は、福岡→佐賀→熊本→福岡と移動したのではないか。
657 :
盧氏の友人 ◆uVgREYUxI. :04/07/16 18:32
>>656 兄弟統治は、領土や領分を分割する分割統治(ローマで言う四分統治か)なのか、ただ兄弟が一緒に協力して統治したのか(ビザンツのゾエ・テオドラ時代のような)なのかで、話が変わるな。
氏の発言を事実と仮定すると、邪馬台国の性格は軍事同盟になる。しかし、すると卑弥呼を置く意味が無い。
政軍分離による、軍部の独断専行か。
どちらにしろ行政府が無いかぎり、女神官という文民的存在が諸国の合意で置かれる意味が分からないだろう。
658 :
日本@名無史さん :04/07/16 19:26
>>648 >後者のような主張は、若い学者には少ないのだが、
あなた、このような書き込みを何度かしてるけど、なぜ大和政権が畿内の在地
政権から成長したということを否定できるのか、詳しく書いてみて下さい。
鉄が北九州>畿内だから?
659 :
天之御名無主 :04/07/16 20:15
割り込み失礼。当時は海人族による瀬戸内シーレーンの確保とシャーマン、窯業 職人等の移動があった程度であり、軍事的なものとしては衛兵程度でなかったの ではないかとおもう。権力の最高レベルは地方首長、海人族リーダー、シャーマン であり、イメージ的には神武のようなものが横行していたと思う。倭国は点と線であった んじゃないかね。
660 :
日本@名無史さん :04/07/16 20:19
>倭国は点と線であったんじゃないかね。 この辺は同意 馬も文字も無い状態で巫女の信託を歩きや船て末端まで伝えるのは おのずと国の規模の限界が見えてくる。
>倭国は点と線であったんじゃないかね。 私も同意。 点はクニ、線は航路。 古代のクニは海に面した平野にあった、それが証拠。 大和も、河川交通があったよん。
662 :
日本@名無史さん :04/07/16 21:22
>>658 判断材料としては
・銅鐸の消滅、銅鐸の記憶そのものの消滅
・古墳時代の突然の畿内の変化
・畿内の重要な時期の遺跡に連続性が無い
・鉄の武器が出るのが変化の後
・高地性集落の解釈(防衛施設か?支配階級の避難所か?)
>>657 卑弥呼時代は倭人の国は群雄割拠から祭祀的統合時代だったが、
350年ごろ以降軍国主義化して、都も恐らく有明海沿岸に遷都、
旧勢力祭祀王と新勢力軍事王に分かれた模様。
公家王と将軍王みたいな制度。
664 :
日本@名無史さん :04/07/16 21:44
>>662 それらの変化を、北九州勢力が畿内に攻め込んだと考えるか、
畿内・吉備・東海らの大同団結の結果と見るかで、意見が
分かれるところだね。
665 :
日本@名無史さん :04/07/16 21:55
>>664 大同団結とかよく言ってるけどさ
ネタは土器の移動だけだろ、無理だわ
その土器の移動も恣意的に南九州や韓国や東海を無視してみたり
サヌカイトの四国を無視してみたり、東北の石器も無視
良い材料だけ選んで大同団結の範囲を決めてる時点で駄目だね。
「桃太郎」はてっきり九州王朝討伐の話かと
667 :
日本@名無史さん :04/07/16 22:04
行商人はともかく、農耕民はそんなに簡単に移住できないよなあ。 食うのにカツカツの時代に食い物を浪費するだけの移動。
668 :
日本@名無史さん :04/07/16 22:05
>>664 大同団結なら
神武を主とする投馬系
若干の北部九州系
吉備系
3つが大同団結してマキムクを首都としたんじゃない?
>>665 >ネタは土器の移動だけだろ、無理だわ
無理というほうが無理だわ。
纏向っていうのは、集落より何よりまず最初に纏向大溝という溝が作られるわけよ。
まあ、状況からして運河だわな。
で、その底から、あっちこっちからの土器が出てくるんだ。
集落もなく人もいないのに、何しに来たんだろうね?
纏向村の建設以外にはないわな。
つまり、纏向村ってのは日本各地から人が寄ってたかって作った計画都市なんだわ。
こんなこと、同盟の成立なくしてありえんだろ。
こんなことは他には例がないし。
>その土器の移動も恣意的に南九州や韓国や東海を無視してみたり
南九州とか韓国とか、率が%未満ならしかたないわな。
東海は別に無視してないよ。
>サヌカイトの四国を無視してみたり、
だから、サヌカイトはおいといて、四国は無視できないんだって。
>東北の石器も無視
なんじゃそりゃ・・・・・
だからどうやって移住者食わせてたんよ? 移住してくる道のりは手弁当だとして、 マキムク建設しながら新田も切り開いてたのか?
食えないという理由は?
672 :
日本@名無史さん :04/07/16 22:26
>集落より何よりまず最初に纏向大溝という溝が作られるわけよ。 >纏向村の建設以外にはないわな。 マキムクに集落(村)無いよ、言ってる事矛盾してます。 >日本各地から人が寄ってたかって作った計画都市なんだわ。 >率が%未満ならしかたないわな。 コレも矛盾してる よってたかって?畿内土器85%うち搬入15%(50%東海) 率で言えばほとんど畿内ちょっと東海って感じだな 低率の搬入土器など九州にも腐るほど出てる その点でマキムクが珍しいわけではない。
673 :
日本@名無史さん :04/07/16 22:39
纏向大溝はゴミ捨て場 割れた土器を捨てるのに溝はちょうどいい 交易市場マキムクにきた古代商人が割れた土器を捨てたんだろう 貯蔵設備と定住した跡が無いので王権があったとは現時点で認められない マキムクが不思議なのは溝を作る道具が出てきてない点
674 :
日本@名無史さん :04/07/16 22:49
桜井市に吉備や出雲って地名が残るのも、関係有りそうだね。 地方王族たちが従者を連れて、マキムクに集まっていたのかと。 「九州→大和政権」説の人は畿内勢力が大戦争で、北九州勢力に滅ぼされた と考えているのでしょうか?その場合、唐古・鍵や池上・曽根の人々は どうなったのでしょうか? 兵站から考えても、吉備の侵入くらいなら説得力もあるのだが。 北九州から畿内の国を攻め滅ぼすのは難しいだろ。
>>672 >マキムクに集落(村)無いよ
かなりの数の柱穴(つまり建物跡な)が出てるのにどうしてないといえるわけ?
>よってたかって?畿内土器85%うち搬入15%(50%東海)
当たり前じゃん。そんなこと。
地元の協力なくして作れるわけないだろ。
15%っていうのは50人学級で7〜8人が外人ていう比率だぞ。
これを少ないっていうのはちょっと常識がないな。
676 :
日本@名無史さん :04/07/16 22:58
初期大和政権を考えるに、平家や細川→三好政権を連想してしまう。 つまり、古代フェニキアのような海洋国家。 大和政権成立を考えるに、大和川水系→瀬戸内海航路の掌握が画期だったと 思う。瀬戸内沿岸部に出来た小国家群(高地性集落)が大和政権の屋台骨 であった。 九州説の人が考える程、畿内は対外貿易に不利な地域ではなかったのでは?
677 :
日本@名無史さん :04/07/16 22:59
>>674 兵站など要らん心配せんでいいって
素直に記紀を読めば
まず吉備に数年本拠を置いている
畿内は独立以前の米国みたいに考えられる。 フランス系・ドイツ系・イタリア系・アイルランド系など 九州邪馬台国系の畿内勢力もたくさんいたのだと思う。 その畿内王権たるや、しばしば王位を簒奪され、王族が交代し 独特な部族群をなしていたのではないか。 外敵の少ない地域は、しばしば部族群がひしめく集団だ。 インドしかり、中南米しかり。
679 :
日本@名無史さん :04/07/16 23:06
>>676 不利不利
北九州が関門海峡の岸壁に戦闘艇並べとけば戦争する以外半島と交易できないって
瀬戸内海の制海権は別だろう投馬と吉備が絶大だったとおもう
680 :
日本@名無史さん :04/07/16 23:07
>>677 いや、だからさあ。吉備が北九州に征服されたってこと?
兵站の問題では、北九州勢力の吉備征服が困難なのも一緒なのですが。
>>674 畿内に九州邪馬台国系部族が多数おり、手招きしている形です。
畿内にとっては、内紛でもあり対外戦争でもある。
>>679 細川vs大友の戦いは、大友の勝利でしたね。確かに。
その後も、畿内は対外交易を続けてますが。
畿内と交易しようとする外国船を沈めることは出来ないでしょ。
平家、細川に共通するのは、四国を支配下に置いていた点。
大和政権成立期の四国の重要性は、今後、キーポイントになってくる
のでは、と思います。
あくまで「考古学的」に言うと、社会の発展の度合い、社会の下部構造を象徴する(場合によっては上部構造も) 鉄器生産の状況からすると北九州が圧倒的です。 で、考古学からすると「サヌカイトで武装した組織されていない酋長たちの軍団(畿内)」と 「鉄器で武装した倭王を中心とした軍隊(北九州)」が戦えば、後者が勝利しただろうと結論する しかない。 別に文献などの反証があれば別だがね。
684 :
日本@名無史さん :04/07/16 23:16
>>680 吉備は神武に征服されたと言う事
神武は西都、西都は投馬
投馬の瀬戸内海制海権の完全掌握の最前線基地にマキムクがあるな
北九州邪馬台国と投馬の関係は資料に出てきてない
福岡と宮崎は墓制など明らかに別王権
北部九州が金印という権威を傘に王として投馬を追認していた形だとおもう。
実際はバリバリの独立強国。
685 :
日本@名無史さん :04/07/16 23:18
>>681 >畿内に九州邪馬台国系部族が多数おり、手招きしている形です。
論拠は?
>あなた、このような書き込みを何度かしてるけど、なぜ大和政権が畿内の在地 >政権から成長したということを否定できるのか、詳しく書いてみて下さい。 >鉄が北九州>畿内だから? 在地の遺跡とマキムク遺跡の共通性がほとんどないからに決まってるだろ。 つまらんことを聞くな。
>>686 そんな事、言わないで。もっと詳しく教えてよ。
>それに悪いがこれは90年代ぐらいに整理されて出てきた比較的新しい話だよ。 だからもう古いんんだよ。吉備の影響を言うなら少なくともホケノ山発掘以降は駄目。 仮に讃岐の影響を言うとしてもホケノ山ってのは「人によっては」箸墓と同時期まで下げるわけで、 例の遺跡ができてから、50〜80年程度以上たってるわけだ。 そんな後になって出てきた影響を証拠にマキムクの成立を考えるのはおかしいわけよ。 >宮ノ前の墳丘墓なんてもう終末にかかってるじゃない。 >もっと古い段階の話だよ。 だからどこが発祥なんて言えないということだよ。
>>683 その鉄器独占が、倭国の他の国々の反発を招いたと、
九州の人々は肝に銘じておいた方が良い。
兵站から考えると大和朝廷が朝鮮半島に出兵するのも難しいね・・・ なんてチョンみたいなこと言うんじゃねえ。
691 :
日本@名無史さん :04/07/16 23:35
>畿内と交易しようとする外国船を沈めることは出来ないでしょ。 韓式土器の破片一つでは外国交易船の往来があったとは認められない 好意的に考えても畿内に土器一つ乗せた半島の丸太舟が一艘難破漂着したんじゃない?
692 :
なんとなく九州王朝説 :04/07/16 23:38
>>685 畿内の王が何度か王位を乗っ取られているため。
>>690 感情的な発言は慎んで下さい。
具体的に、北九州勢力が一時的に吉備や大和を征服したとしても、
それを維持するのは、現実的に難しいでしょ、ということ。
畿内が地形的に不利なら、何故北九州勢力は、畿内に本拠を移したのか?
その説明を待ってます。
>>692 それは私も同意です。少なくとも、応神、継体の時には王統は替わって
ますよね。
696 :
日本@名無史さん :04/07/16 23:50
東遷なんて畿内に強力な王権が誕生するまでは、いわば畿内は草刈場なわけで 紀元前に最初の東遷勢力があったとしても北九州を抑えて大陸の技術導入が無ければ停滞し 後の最新技術の東遷勢力に滅ぼされる 完全に他を圧倒するのはやっぱ6世紀位まで待たないといけないと思うぞ。
1.考古から (1)社会 @畿内の墳墓は、ほとんどが群衆墓であり、卓越した「王」というような 存在が想定しにくい、あっても強固なものでなないのではないか?と思われる。 A一般的に武力、国力を表象する(と想定される)鉄器が瀬戸内地域に比べても非弱であり、 ましてや北九州とは「隔絶」している。 (2)墳墓、祭祀 @みなさんが言っている銅鐸など祭祀の連続性がなく、銅鐸祭祀が所詮村落単位 の祭祀ではないかと想定されるところ A方形周広墓と「マキムク型前方後円墳」の共通性が「全く」(といっていいほど)ない 副葬品(そもそも方形周航墓にはまともな副葬品なし。)、 外形・・・・などなど (3)弥生終末期における奈良盆地の不可解な村落の大再編とこれまた不可解な「突然の」 マキムクの誕生。 などなど 2.文献から 論外
>>688 もう一度原文を読んでくれ。
誰が吉備の話をしている。
円形周溝墓の通路がやがて祭祀場になり、
さらにまわりの地面から切り離されて前方部へと変化してしていく経緯を
言っているのだ。
それになんでホケノ山にこだわるの。
ホケノ山を箸墓の時期まで下げるなら矢塚の方が古い。
さらに、根拠は弱いが、おそらく勝山のほうが古いだろ。
断っとくけど、勝山はちょっと前の木材は関係ないからな。
周濠底から出ている庄内2が根拠だ。
699 :
日本@名無史さん :04/07/16 23:56
>>691 貿易商人は、土器なんか持ってこないでしょ。土器は日常生活に必要な
物であり、実際マキムクで生活する必要があった人々が持ち込んだ物。
つまり、初期ヤマト政権に参画した地方王族たち、その郎党たちが持って
来たと考える方が自然では?
700 :
日本@名無史さん :04/07/16 23:56
>>693 中原を制するものは天下を制する
単に
邪馬台国時代以前の倭の中原は筑肥平野なわけで
瀬戸内海沿岸と列島を制する中原が畿内平野
両方抑えれたら抑えておいたほうがよいな。
>>696 日本書紀の敏達天皇13年(584)、大和国では国内に仏教の僧侶がいなかったので
播磨国からわざわざ呼び寄せた、とあります。畿内王権の領土はAD584年に
播磨国も領有していなかったわけです。
何にもおかしくねえよ。 あんたの言っていることは「大和朝廷が統一を維持するのが難しい」 というのとなんら変わらんぞ。 そもそも、伊都国は、2世紀段階で朝鮮南端や四国を影響下に置く (柳田説)わけでそれから考えればなんら不思議でもない。
703 :
日本@名無史さん :04/07/17 00:07
>>699 バベルの塔じゃないんだから「参加」とか「自主的に集まって」とか(w
文化圏同士は交易 征服 服従 奴隷 同化
人々が平和的にとか、ファンタジーの考え方を捨ててください
それから交易の証が土器ではないなら、君は何をもって交易など言ってたのかな?
マキムクは交易してたんんじゃないの?
>円形周溝墓の通路がやがて祭祀場になり、 >さらにまわりの地面から切り離されて前方部へと変化してしていく経緯を >言っているのだ。 だからそういうものは、四国にも滋賀にもあるわけで、そういうとこが 起源だという学者がいる。楯築ばやりの時代と違ってきもはや一概にど こが起源なんて言える状態じゃないんだよ。起源とは思えないけど長野県にもあるわけでね。 >ホケノ山を箸墓の時期まで下げるなら矢塚の方が古い。 >さらに、根拠は弱いが、おそらく勝山のほうが古いだろ。 >断っとくけど、勝山はちょっと前の木材は関係ないからな。 >周濠底から出ている庄内2が根拠だ。 だから勝山のどこに東瀬戸内海の影響がある? 葺石があるのか?貼石があるのか?特殊器台があんのか?
k研の寺澤先生は、「僕は戦争が嫌いだから」征服があったとは思えない ・・・と言ってますが、何か?
706 :
日本@名無史さん :04/07/17 00:13
今ココにいる人間は九州説同士畿内説同士でも夫々違う説を言ってるんだろうな なんか笑ってしまう
九州説は、学者間では死に絶えた説です(安本信者などカルト集団を除く)。 畿内説の中ではさまざまな論争があります。
708 :
日本@名無史さん :04/07/17 00:16
戦争は物語を生むからね、三国志などは男のロマンが生んだファンタジーだね
709 :
日本@名無史さん :04/07/17 00:18
>>707 さっそく中傷に走り出したね
君、余裕が無いなら、出て行ってくれるかな。
710 :
日本@名無史さん :04/07/17 00:24
卑弥呼の墓か 福岡で円墳確認 1 :平泉澄 :03/04/01 22:51 [邪馬台国の遺跡か?今世紀最初の大型発見] 福岡県教育委員会は1日、昨年末から行われていた発掘調査の結果を発表した。 これによると、福岡県廿日市朝倉郡の平塚川付近の山の一部が3世紀中要の円墳であることを確認し、内部の石室から親魏倭王の金印を含む、木 簡、鏡や鉄矛など150点近い遺物を発見したと発表した。 また、高齢の女性のものとみられる人骨も発見され、調査団はこの人骨が3世紀末頃に死んだ「女王」のものである可能性が高いと述べた。 石槨は小型玄武岩を積み上げた独自のもので、棺などは見つかっていない。 調査団は人骨を囲むように置かれていた鏡の破片を 精巧な舶載鏡と見ているが、結論は現在材質と様式の精査を依頼している橿原考古学研究所の結果待ちである。 この一連の発見により、これまでの古代史の趨勢は大きく変わることになる。 ここ数年、邪馬台国近畿説を裏付ける発掘が多かったが、所謂「論争」が再燃すると思われる。 産業能率大学教授・安本美典氏の話 「世紀、いや神武以来の大発見である。近年の考古学の成果は、近畿説のドグマに支配されたものが多く、科学的なものとはいえなかったが、これで決定的になった。おそらくこの直後、邪馬台国勢力は、近畿に東遷し、大和朝廷となったのだろう。 私の数理文献学によっても、このことは裏付けられる。」 国立歴史民俗博物館企画調整官・白石太一郎氏の話 「確かに大発見であるものの、これまでの考古学の成果を無視してはならない。邪馬台国は近畿であったとするのが、合理的である。即断してはならない。 近畿にあった邪馬台国、すなわち大和王権が、この地方に魏鏡などをさらに下賜したのではないかとも考えられる。」 (読売新聞) [4月1日22時33分更新]
711 :
日本@名無史さん :04/07/17 00:25
安本信者がHP出して論破してみろ、なんて言っていたけどどっか消えたね。
>>693 別人ですが、「何故北九州勢力は、畿内に本拠を移したのか?」に
お答えします。
神武・・・北九州で遠洋海戦術をもたない神武軍は、列島内戦争しか出来ないので
九州邪馬台国から見放され退役していたが、小さな領土でもほしい領主になりたいと思って、
畿内に潜入した。100人足らずの軍勢で、やっと小領主になった。
天武・・・九州邪馬台国王(兄王)、薩夜麻が捕虜から帰国、唐の傀儡政権を樹立する。
九州出身の弟王である天武は、唐の撃退を画策、畿内王を乗っ取り、傀儡政権を倒す。
ここに九州邪馬台国はほろび、近畿新邪馬台国が出来る。またの名を「日本」という。
あとは九州の残党狩りと、在来勢力への懐柔、記紀に見る大義名分づくりに励む。
713 :
日本@名無史さん :04/07/17 00:30
>戦後は井上光貞、森浩一、安本美典、古田武彦、その他多数w おいおい、こいつら全部電波じゃん。 井上は、「クナ国東遷」 森は、この期に及んで「九州説」(しかも騎馬民族説に媚を売る) 安本、古田に至っては、論外。
714 :
日本@名無史さん :04/07/17 00:34
>>712 その説は同意できないね
神武勢が退役軍人で手勢100人ほどで畿内を制圧しても
瀬戸内海の制海権を握ってないと単に畿内の点を抑えただけで即他勢力に飲み込まれる。
どちらにしろ100じゃ王権成立には足り無すぎる、騙しや卑怯技使ってもね。
715 :
日本@名無史さん :04/07/17 00:37
>>714 そうなのです。神武は畿内最高位の王として地位に着いたことは一度もありません。
単なる小領主です。記紀にも大和朝廷の「始祖」であるけれども、畿内の全領土を
支配したとは、一切描かれていません。
>>704 四国って阿波か讃岐でしょ。東部瀬戸内じゃん。
で、滋賀と長野のヤツのソースだして。
それみてから考える。
718 :
日本@名無史さん :04/07/17 00:49
>>716 本家のバックアップで分家つくるようなもんだろ?
東遷には東遷後の線(瀬戸内海制海権の維持)の維持が不可欠
それとも反逆児の完全な別王朝?
どちらにしろ退役軍人には無理だと思う。
>>718 本家のバックアップが一切無いために、神武は途中、各地を転々としています。
都落ち軍人が、各地から人の集まる畿内に流れ着いて、首長群のひとつになっただけです。
王朝の樹立もしていないし、畿内に君臨したわけでもありません。この領土を引き継いだ
後世の領主の一人が
>>701 の敏達です。
720 :
日本@名無史さん :04/07/17 01:07
>>719 いわゆる東遷が反逆児で
バックアップが無ければその後の鉄や大陸物の交易のルートさえ無くなる
王権成立と同時に北九州が敵なら制圧しなければならなくなる。
けど、初期大和政権はそれなりに強力なわけですよ。交易の証の舶来品も沢山出るし。
>>720 そのとおりです。鉄はほとんど途絶したので、大切に使いまわしをしていたはずです。
大和王権がそれなりに巨大なのは、日本海、瀬戸内海、太平洋のどちらも出られ、
交易で栄えたことが大きく、特に新羅とは仲がよく、対外戦争で無駄な体力を
使わなかったことも豊かになる要素だったでしょう。
そうそう、畿内にとって当時の中国情勢は、新羅からもたらされています。 外国の文物も新羅から来ています。近江の先が新羅ですから 九州まで行く必要はありません。
723 :
日本@名無史さん :04/07/17 01:20
クナ国=クナラ=旧ナラ クナ=クマ=熊
つまり、クナ国があったのは現在の熊本あたりだよ。 邪馬台国があったのは熊本の北ね。 大陸と交流があったんだから、そこらへんにあったと考えるのが自然だし。
昔、九州の熊襲は差別されてたけど、 邪馬台国(のちの大和朝廷)と対立してたから、 熊襲は差別されるようになったんだろうな。
726 :
日本@名無史さん :04/07/17 01:30
>>722 鉄や舶来品は出雲ルートということ?
古墳時代は贔屓目に見てもやっぱり北九州は畿内に差をつけられてるわけです
その後の半島情勢も北九州が敵なら百済人の流入ルートなども出雲に限定されてしまいます
大和が軍を半島に差し向けるのも北九州を抑えてないといけないし。
>>724 倭の5王は、邪馬台国が熊本時代の人だと思いますよ。
大陸と交流・・・むしろ半島の制覇と表現しほうがずばりです。
半島を急襲するには、有明海から直行するのが合理的です。
半島から船団を守るのも、迷路の有明海が便利です。
以前の博多湾では、攻めも守りも軍港として失格です。
728 :
日本@名無史さん :04/07/17 01:36
>>725 熊本は肥後モッコス
豪族が加藤清正の時代まで群雄割拠していた難治の国
熊襲の襲は大隈(鹿児島)といわれている
729 :
日本@名無史さん :04/07/17 01:42
>>728 オオォ!キター!!
九州完全独立説ですか
後の世代での九州王権の覇者は独自の石文化を持つ岩井ですけど
それは邪馬台国の子孫王国ということですか?
>>726 出雲でなく越でしょう。
畿内王権は、九州邪馬台国の「一応の」傘下に入っていたようです。
真人・朝臣・評などという用語は九州邪馬台国の用語ですから。
だから、北九州ないし佐賀熊本の邪馬台国が敵ではないんです。
ただし畿内王権は独自に新羅と密通している。
邪馬台国が半島に軍を送る際、畿内王にも兵を出せと言っているが、
寝返りを恐れて、畿内王の妻子を九州内で人質に取ったりしている。
731 :
日本@名無史さん :04/07/17 01:42
「熊襲たけるを倒して、ヤマトたけるになった」 という日本の有名な伝説があるけど、 熊=クマ=クナ 「そ」には一代前という意味があるから、 熊(クナ)は、ヤマトの一代前ということ
733 :
日本@名無史さん :04/07/17 01:50
>>730 大和に命令を出し300年半島と戦うほどの北九州王権となれば
倭人伝の邪馬台国程度では済まされない、巫女王程度では無理だろう
それらしき王都とを求めます
記紀に筑紫の国造岩井と大和が戦った記事がありますが
それも北九州と熊本の戦いですか?
そのへんがよくわからん。
>>729 九州が、畿内を権威でリードしていましたが、戦争で疲弊していない畿内は
交易でしっかり栄え、実力を蓄えていました。
>>730 もご覧ください。
岩井は邪馬台国の最高位の王でなかったかもしれませんが、
邪馬台国の王の一人です。継体が邪馬台国に噛み付いた事件です。
ですが邪馬台国は、このとき滅亡などしていません。
クナ国(旧ナラ)が分裂して、邪馬台国をつくったと・・ で、邪馬台国が本州に移動した時、本拠地をナラと呼ぶようになった
>>733 邪馬台国内にも権力争いがあったのでしょう。
北九州時代は首長国連合(卑弥呼など)でしたが
佐賀・熊本時代は2人王制(祭祀と行政)のようです。
岩井の乱とは、熊本に邪馬台国の都があった時代に
王の一人の岩井が、極東大戦争を続けている邪馬台国の
寝首をかいたような事件です。継体は厳しく処分されるはずが、
一向にそんな罰を受けた様子がありません。
邪馬台国自身が、相当戦争に深入りし、国力が落ちている様子が伺えます。
で、肝心の熊本時代の都ですが、よくわかりません。菊池でしょうか?
737 :
日本@名無史さん :04/07/17 02:12
>>736 君の言う事通りとして
北九州邪馬台国王権の寝首をかいた岩井はその後繁栄しています
墓は八女にあります。
八女が王都ということでしょうか?
>四国って阿波か讃岐でしょ。東部瀬戸内じゃん。 であれば、四国と吉備の形態は全然違うから「東部瀬戸内」なんて 言うべきじゃないね。「讃岐型前方後円墳」とはっきり言うべきだろうな。 それに讃岐であれ吉備であれ、勝山とどう関係あるのかね? 勝山は、特殊器台もない、葺石もない、積石塚でもない、 内部は分からないのだが、これでどういう関係を主張するんだ? >で、滋賀と長野のヤツのソースだして。 >それみてから考える。 なことも知らずに書いてるのかよ。 そのぐらい自分で調べろ。
739 :
日本@名無史さん :04/07/17 02:51
232 :>227 :04/07/07 23:06 読んだが、こんなこと書いてるね。でたらめもいいとこだね。 >中国で全くこの形式の鏡が発見されないのは、卑弥呼のために特別に >作ったもの(特注品)だからである。 考古学者は基本的に全員畿内説だが、特鋳説なんてのはほんの一部の 学者が唱えているだけだよ。あんたが知ってそうな学者だと、石野、寺沢、 河上、白石とみんな否定している。
740 :
日本@名無史さん :04/07/17 02:54
228 :>224 :04/07/07 22:58 だから、畿内説なんてもういないんだよ。 安本なんてのアマチュアであって、学者扱いされていない。 彼がレフリー付の学会誌に投稿したって相手にされません。 229 :>227 :04/07/07 23:01 論破とかそういうレベルじゃなくて、相手にされてないのよ、彼は。 たとえば、まともな学者は、小林恵子相手に論争しないだろ。 そういう扱いなの。
741 :
日本@名無史さん :04/07/17 02:55
231 :日本@名無史さん :04/07/07 23:06 まあぼつぼつ最初から行こうか。 畿内説の主張は“え?誰がこんなこと言ってんの?”てな話ばかりなんで九州説の主張から。 >地理的・政治的状況 >2〜3世紀のころは、九州が先進地域、大和は後進地域であった。 これは純粋に考古学的見地から出すべき結論なのだが、 二世紀には九州の出土遺物がどうにもぱっとしなくなることに加え、 三世紀にはこの関係が逆転することが明らかになっている。 時代遅れ。 続く・・・・・かも
742 :
日本@名無史さん :04/07/17 02:56
238 :>227 :04/07/07 23:29 なんでこれが九州説の根拠なんだ?「畿内説」の学者も同じことを言って るぞ(全員ではないが)。頭がおかしいとしかいいようがないな。 >卑弥呼のもらった100枚の鏡は、当時、中国に存在していた、 >内行花文鏡・方格規矩鏡・位至三公鏡などの「後漢式鏡」である。 >これらの後漢式鏡は、中国でも出土するし、日本では、北九州の >墳墓から多く発見されている。
743 :
日本@名無史さん :04/07/17 03:00
>>737 ええと、岩井は邪馬台国の王の一人で、彼は邪馬台国と戦ったことはありません。
熊本遷都後の邪馬台国の王として、傘下であるはずの畿内王国の刺客に、暗殺されました。
して、その時代の邪馬台国の都は、八女も有力候補です。
その必死差を見るとますます畿内じゃなく思えてくる。
>>743 350年ごろ、邪馬台国は北九州から、佐賀か熊本に遷都しているので
都でない北九州と、戦争をしないで交易で栄えている畿内を比べれば
当然畿内のほうが繁栄は上位。
考古学者が全員畿内説なら名前出してくれ ググッて彼等の主張を検討してみるよ。
749 :
日本@名無史さん :04/07/17 03:34
マキムクの出土物・・東海の土器、木片。4世紀の馬具 平塚川添の出土物・・中国貨幣、小形彷製鏡、管玉 レベルが違うぜ!マキムク厨よ
750 :
日本@名無史さん :04/07/17 03:47
751 :
日本@名無史さん :04/07/17 03:54
いまだに畿内の人いるみたいだけど、もう決定的だから畿内説無視していいかな? 場所より邪馬台国が大和朝廷になったかのほうが需要だよ
753 :
日本@名無史さん :04/07/17 07:26
>>752 九州東遷説は無理があり過ぎると思うがな。
神武の幻影に引っ張られ過ぎ。あれは、皇室氏が九州に縁故があるっていう事を
意味しているだけだろ。
>>748 マキムクは畿内在地勢力(邪馬台国ではない)が造ったってこと?
マキムク→初期大和政権を否定するのでしょうか?
古墳時代、畿内が北九州を圧倒していく過程をどう考えているのさ。
北九州勢力が畿内を征服したのは何世紀頃で、やってきた北九州勢力の畿内での
古墳はどこで、その大戦争の痕跡は?
754 :
天之御名無主 :04/07/17 07:29
九州説って全く知らないんだけど大和朝廷が九州にあったという仮説かね。 あるいは都が九州にあったというのか。例えば九州には京都言った地名があるね。 九州にある天皇陵ってどこにあるんだ。九州王朝の后を出した豪族団の陵墓は どの辺なんかね。その豪族の系図はどうなっているのかが面白い。
755 :
天之御名無主 :04/07/17 07:40
神武というもは高句麗神話のチュームが移動するシナリオに沿って作ったために 無関係の九州、日向、長髄などを入れたものらしい。記述の具体的なのは畿内 部分だけだ。畿内銅鐸文化圏に伝わる伝承を基に作られたのではないか。マキムクが 東海、吉備などによって建設されるのよりは古い時代のことかね。神武が虚像であると してもイスケヨリヒメは三輪神社に祭られているから初代王が女王であった事実を 男王であったことにしようとする意図があったのかね。
756 :
日本@名無史さん :04/07/17 07:40
>皇室氏が九州に縁故があるっていう事を意味しているだけだろ。 重要だよー。 >畿内を征服したのは何世紀頃 1〜3世紀じゃない?まあマキムク以前だと思う。 >畿内での古墳 マキムク、最初は畿内に古墳作らなかったかもしれないし。畿内には沢山古墳がある。 >戦争の痕跡は? 高地性集落でしょう。
757 :
日本@名無史さん :04/07/17 07:48
高句麗神話あらまし 天帝の子である解慕漱は、天上から降臨して川の神の娘柳花と交わった。 このことを、怒った父は、柳花を怪物の姿に変えられて追放された。 しかし、金色の蛙の王に救われ人間の姿に戻り卵を生み卵から高句麗の祖、朱蒙が生まれたと 似てないあるよ。
758 :
天之御名無主 :04/07/17 07:53
九州説というのは九州に天皇がいたかもしれないからおまえら探してください というのが趣旨なんだね。それなら何も九州に限定しなくてもいいんじゃないかという 気もするが。
759 :
日本@名無史さん :04/07/17 08:00
>>756 あなたは、マキムクは征服にきた北九州勢力が建設したと思っている訳ですね。
九州の土器が少ない理由は何だと考えてますか?(何度も言われてますが)
マキムクの九州色の少なさから、九州説(当時は九州が圧倒的と考えている)
の人は不当にマキムクを貶めている気がします。マキムクが倭国の王都の訳がない
と思い込んでいる。
記紀を素直に読む限り、初期大和政権の大王たちが三輪山山麓に都を造って
政をしていたのだろうと思う。それが、魏志倭人伝の「邪馬台国」かどうかは
別にして。マキムク→大和政権は否定できないと思うけどな。
760 :
日本@名無史さん :04/07/17 08:07
>759 九州の土器だけ少ないわけではないでしょう 東北の土器はどうですか?関東四国山陰山陽も、どちらにしろ数個の幅、%出せない程度 あえて言えば東海が多いのと吉備の影響が強いということなんでは? マキムク大和王権は否定しませんよ。
761 :
日本@名無史さん :04/07/17 08:10
東遷説の人は、何故、本拠地を北九州から畿内に移したかの説明をしてみて 下さい。 本拠地は簡単に移せないよ。織田信長みたいには。 ましてや軍事的に制圧した遺恨只ならぬ、敵の真っ只中にはね。 せいぜい、一大卒とかを置いて監視、管轄するくらいではないだろうか。
762 :
日本@名無史さん :04/07/17 08:15
>761 本拠地は動いていないかもしれない動かさなかったのかもしれない。 九州畿内同時管理は強力な瀬戸内海制海権が不可欠 それでも文字や馬の無い時代、厳しいだろうね。
763 :
日本@名無史さん :04/07/17 08:16
>761 それから北九州の北は外してください 私は南九州説です。
764 :
日本@名無史さん :04/07/17 08:22
邪馬台国というのは中国読みでもヤマトじゃないのか そのまんまじゃないか なんで九州が出てくるんじゃ
765 :
日本@名無史さん :04/07/17 08:29
>764 筑紫は大昔から筑紫ですか? 山城は弥生時代から山城ですか? 武蔵長門は縄文時代からそういわれていたのですか? 大和という字の歴史より邪馬壹のほうが古いんですよ 邪馬壹さえ文字も無くて口でそう言ってただけなのです。 発音も若干変わります、シャベイかもしれないしアメイかもしれないし 当時の発音はよくわかりません。
766 :
日本@名無史さん :04/07/17 08:42
>>765 ヤマイ説のひとですか。
あなたは、ヤマイ国と大和政権との関わりはどのように考えてます?
767 :
日本@名無史さん :04/07/17 08:45
>ましてや軍事的に制圧した遺恨只ならぬ、敵の真っ只中にはね。 怨恨を持った敵の不逞捕虜はマキムク建設で生産的に殺していったと思います。 一石二鳥です。
768 :
盧氏の友人 ◆uVgREYUxI. :04/07/17 08:51
現実的に考えて、纏向はまだ半分も掘ってないんだろ。 全体的な規模は明らかに大きい。九州論者はもう纏向の出土物が確定したかのような書き方をするよな。 はっきりいって纏向のあの規模のうち、どこまでが宮城部分でどこまでが一般街区なのかも分からない遺蹟なのに、すでに纏向がとるに足らない矮小な存在にしている九州論者。 あの規模の首都が在るとするなら、それ相応の国土か利益をもっていなければおかしいよな。 大和王権は九州論者がいうよりはるかに大きいぞ。
769 :
日本@名無史さん :04/07/17 08:52
>>762 少なくとも4C末には、半島に出兵する程の統一国家になっている訳で。
瀬戸内海航路の掌握→大倭国成立をいつの時期に見るか、だね。
船材として重要な杉の産地としては、九州・大分日田と畿内・奈良吉野
があり、それぞれ強力な水軍を擁していたと思う。
どちらの水軍が瀬戸内海を支配したのか。
770 :
日本@名無史さん :04/07/17 08:54
>766 初期の東遷勢力と邪馬台国は直接関係無いと思っています。 のちの応神朝くらいからだと思っています。 南と戦争して虫の息の邪馬台国が直接東遷できるとは思えないです 南九州の神武朝が歴史の裏で瀬戸内海制海権を制圧し到達点が畿内平野だと考えます。 南九州と北九州は戦争状態には無いということ意外どういう関係だったか文献ではわかりません。
771 :
日本@名無史さん :04/07/17 09:02
>怨恨を持った敵の不逞捕虜はマキムク建設で生産的に殺していったと思います。 >一石二鳥です。 本気で書いてないよね? 人口過疎の農業国で、そんなにバサバサと人は殺せないって。 人的資源は、現在に比べ、遥かに重要だったんだよ。当時は農地に出来る土地が 有り余っていた時代なんだ。 それに、そんな残酷な支配者なら、敵勢力は余計に抵抗・反発するだろうし。
772 :
日本@名無史さん :04/07/17 09:02
>768 例えば人口を数えても文字が無いので数字に書き記せない 例えば馬が無いので東海方面には歩いて数日掛けて政令を伝えなければならない 伝言ゲームのような不安定な支配、少し遠隔地にいけば独立状態でしょう 大きいといってもせいぜい都市国家の集合位までしか想定できないのです。 唯一船だけは早く大量に物資を運べる、だから瀬戸内海制海権は重要なのです。
とりあえず名前アンカーのヤシは、コテを名乗らない限り無視しようw で、折れ的な疑問。 ・巻向は、各地から人が集まって出来た計画都市というのがあったが、自然発生的に そんな風になるのはあり得ない。問題は、権力関係がそこにどのように介在したかであ る。何説でもいいが、邪馬台国云々抜きに論証キボンヌ。 ・九州王朝本家では、兄弟統治という説があるが、その兄弟というのは本当の兄弟なの か。連合体のNo1が2をそう呼んだのではないのか。そう考えると、倭の五王の関係に ついても再考が必要になるが。 ・邪馬台国から薩夜馬まで、同じ血統が支配したとは考えにくい。大和でも神武、崇神、 応神、継体、天武など、多くの断絶が指摘されているが、九州王朝の期間もそれ以上に 長くなるので、その間の変遷もまた複雑な経緯を辿ったと考える方が自然ではないか。
>>738 わからんやつだな。だれが吉備のことをかいている。
もう一度読み直せ。
>そのぐらい自分で調べろ。
何だ。やっぱりでまかせか。
時間のムダだったな。
776 :
日本@名無史さん :04/07/17 09:54
インカは江戸時代並に道が整備されていたし、伝令に 稗田阿礼のような暗記の達人を採用していたよ。 例の組みひも文字?もあったし。
777 :
日本@名無史さん :04/07/17 09:55
>775 故に脆くてピサロ程度に滅ぼされたともいえる。
778 :
日本@名無史さん :04/07/17 10:25
九州説の俺でも巻向にもう少し何かが出て欲しい 出土がショボすぎて俺の東遷説まで影響が出てくる。
>>773 >巻向は、各地から人が集まって出来た計画都市というのがあったが、自然発生的に
>そんな風になるのはあり得ない。
計画都市が自然発生するわけないだろ。
>問題は、権力関係がそこにどのように介在したかであ
>る。何説でもいいが、邪馬台国云々抜きに論証キボンヌ。
結果から原因を推測・論証するのが考古学ってもんだよ。
780 :
盧氏の友人 ◆uVgREYUxI. :04/07/17 11:54
インカがピサロごときに滅ぼされたのは、単に武力差。兵器技術的に石器時代と近世が戦うんだから。 別に強大な国家が中央集権である必要はない。むしろ、大王家+豪族というコンビネーションが強力であり、それを首邑とした都市国家群でもかまわないのだ。 だとすると、九州の方をも鑑みて、それなりの規模を有していたとしても問題ないではないか。 邪馬台国でないにしろ。 別に首都は豪華絢爛でなければならない、というわけでもないだろう。
781 :
盧氏の友人 ◆uVgREYUxI. :04/07/17 11:58
ところで、 >とりあえず名前アンカーのヤシは、コテを名乗らない限り無視しようw ってどういう意味? 俺は無視されるってことかw
707 :>705 :04/07/17 00:16 九州説は、学者間では死に絶えた説です(安本信者などカルト集団を除く)。 畿内説の中ではさまざまな論争があります。 こいつのことだろ 議論で白熱するのはいいとして固有名を出して中傷はいかがなものか 邪馬台国の場所は譲れないが それなりに畿内説に対して気を使ってる事をわかってほしいね。
畿内説が学者の間で優勢なのはわかったから パクリでもコピペでもいいから内容だけをレスしてくれないかな。 安本氏の影響より彼のページのデータが一番影響があるんだよね。 固有人名を出してもフーンだよ。古田?とか知らないし(w
>>773 まったくそのとおりだと思います。
マキムクは、鉄器の恩恵に浴さない人たちの集団だったのでしょう。
後漢が滅び、極東諸国間で、半島の鉄の奪い合いが始まった。
鉄器があれば、戦争に勝つ。農業がはかどる。とても重要物資です。
奪い合いに参加しないクニや、失敗したクニは、鉄器軍を持つクニから
自衛しなければなりません。強敵が現れたときに、弱者同士が急に
まとまることがあります。
兄弟統治は、まさか実の兄弟ではないでしょう。邪馬台国流の政教分離
でしょう。岩井の墓に裁判所の再現像があったのは、古代的祭祀政治から
離れたことを意味します。一方で装飾古墳も作っている。
九州王朝の王統断絶は当然あったでしょう。熊本遷都のときは、北九州の
在来勢力の反対があったと思いますが、400百隻の船団を博多湾に置く
わけには行きません。熊本系豪族による王位簒奪があったことでしょう。
×400百隻 ○400隻
786 :
盧氏の友人 ◆uVgREYUxI. :04/07/17 18:22
すごいのは784はそれらしいことを言っているが、実は妄想であるということ。 検証や仮定・想定のレベルですらない。
無視したいやつはどうぞただいちいち仲間をさそうな一人じゃなんも出来ない弱いガキばかりだよ集団イジメの体質は情けない! さて高天原=天竺で高御産巣日は三蔵法師でよろしいか?
・ナ国=ナラ ・クナ国=クナラ=旧ナラナ=旧ナ国=熊 九州に、ナ国(ナラ)という国があって、中華から金印をもらってたのは有名だが、 ナ国が分裂対立して、旧ナ国(クナ国)と邪馬台国になった。 邪馬台国が幾内に移動した時、首都の名前をナ国(ナラ)とした。
クナ国の人たち(熊衆)って大和朝廷と対立して差別されていたけど、 天皇家とゆかりの深い土地や人によく「熊」と言う字が使われるのは、 まさにクナ国(熊)が、天皇家発祥の地だからだろうな。
だから、「熊襲タケルを倒した王子は、 熊襲たけるから名前をもらって大和タケルになった」 という有名な伝説があるんだな。
高句麗= 高麗=句麗=クマ夷がヤマトに破れただけのこと
いきなり妄想だけのスレになった 仮説じゃなくて完全無欠の妄想 ついていけないね
>>793 基本的事実に基づいて語ってるんだけどダメかね?
でも事実だけだと「何も解明できていません」で終了なんですよ。
それは、このスレの否定ですから、自分から出て行けば?ということになる。
漏れが指摘したのはこの人>723 1から10まで一言一句妄想だから・・・ もうお手上げ
このスレはすべて妄想だよ。 事実を語ってるつもりの奴がいたらかなりイタイ。
何言ってるの? 妄想と仮説は違う ちなみに指摘した>723の一行目 >・ナ国=ナラ これは何を見て彼はこういう結論になったのか? 検証しようにもここに至った意味がわからない 2行目3行目とさらに混迷の度を深めている おまえの言い方では日本史全てが妄想になるな
ぎしわじんでんは、日本史とは認められないよ
>九州に、ナ国(ナラ)という国があって、中華から金印をもらってたのは有名だが、 コレに至っては妄想を事実であるかように誘導している 頭わるすぎ
はぁ? おまえの屁理屈はどうでもいいよ 日本の古名が大和 大和は大倭から 倭は今の日本と完全には一致しないが日本は倭の一部であること 6世紀以前の列島を記した文が日本に無いから倭人伝に頼ってるんだろ 日本史は聖徳太子の時代からはじまったのか?バーカ
801 :
日本@名無史さん :04/07/17 21:00
倭人伝に頼ってる時点で妄想。
こんな呼び名もありました(中国側からの呼称) 扶桑:九州邪馬台国 扶桑の東:畿内 扶桑の東のそのまた東:関東
おまえ実は負け犬マキムク厨だろ かわいそうにな
スレッドタイトルからして倭人伝の記述ヤマタイコクを使ってる すでにたよってるんだよ ヤマタイコクがあったと過程した時点で倭人伝の記述を参考にしている バーカ
786 名前: 盧氏の友人 ◆uVgREYUxI. 投稿日: 04/07/17 18:22 すごいのは784はそれらしいことを言っているが、実は妄想であるということ。 検証や仮定・想定のレベルですらない。 787 名前: 霹靂 投稿日: 04/07/17 18:55 無視したいやつはどうぞただいちいち仲間をさそうな一人じゃなんも出来ない弱いガキばかりだよ集団イジメの体質は情けない! さて高天原=天竺で高御産巣日は三蔵法師でよろしいか?
おおかた>723は日本人ではないのだろう 日本人は熊などは神聖視していない 熊と天皇を結びつけようとしてもむだ
>>732 熊襲たける=肥襲(くまそ)たける=肥素(くまそ→ひもと)たける=日本たけるでしょ。
肥人(くまひと)って言うしね。
熊襲=日本 当て字の変化じゃない?
>あなたは、マキムクは征服にきた北九州勢力が建設したと思っている訳ですね。 >九州の土器が少ない理由は何だと考えてますか?(何度も言われてますが) 巻向の外来土器の性格は、通常、供献土器か労働力の移動に伴うものと主張されています。 このような説を採用する場合、外様的地位にある(たとえば東海)の土器が多く、権力中枢である 九州の土器が少ないのは別段不思議ではありません。 逆に東海が地域の土器が多いからと言って、東海の勢力が倭王権成立の主導を行ったという学者 はいません。 >マキムクの九州色の少なさから、九州説(当時は九州が圧倒的と考えている) >の人は不当にマキムクを貶めている気がします。マキムクが倭国の王都の訳がない >と思い込んでいる。 いや、疑いなく和国の王都でしょう。私は、九州説ではないですが。 >記紀を素直に読む限り、初期大和政権の大王たちが三輪山山麓に都を造って >政をしていたのだろうと思う。それが、魏志倭人伝の「邪馬台国」かどうかは >別にして。マキムク→大和政権は否定できないと思うけどな。 そう思います。 否定する人は、学者にはいないのですね。
>わからんやつだな。だれが吉備のことをかいている。 >もう一度読み直せ。 では、勝山のどのような要素にどの地域のどの墳墓の要素が反映しているのか あんたの考えを教えてくれよ。 >何だ。やっぱりでまかせか。 >時間のムダだったな。 大戌亥・島田遺跡の前方後円型周溝墓くらいしっとけ。 別にこれが直接の起源と俺が思っているわけではないが、そういうことを 言うやつもいる。
訂正「島田」→「鴨田」な。
812 :
日本@名無史さん :04/07/17 22:41
217 :>215 :04/07/07 22:18 >・他地区からの移住がなくても唐子・鍵自体で日本一となる素地があった。 >出雲、九州からの専門家集団の誘致を招いた。てなことも考えられる。 ないですね。唐古とマキムクには全く継続性がない。 そういうこと言っている人はまだいますけど今唱えている連中が死んだら無くな っていくと思いますね。邪馬台国九州説みたいにね。 そもそもこういう主張の人たちの根拠である「鉄のルート?をめぐる争いに勝って・・・」 と言うのが少なくとも考古では全く証明できないですね。 村上氏なんかは、「鉄器(北九州)VS石器(畿内)」(→だからそんなことはありえない) なんて言ってますね。
813 :
日本@名無史さん :04/07/17 22:45
邪馬台国【女王国時代】=西都 男狭穂塚・・・あれが前方後円墳に見えるか? あれを完全な前方後円墳にしたてあげたら 女狭穂塚と重なってしまうんだよ。 あれがニニギとコノハナサクヤの墓って言うのなら んなことはありえないんだ! 男狭穂塚が卑弥呼=アマテラスの墓だよ。 瓊々杵の墓は 「天津彦火々瓊々杵尊崩因葬 筑紫日向河愛之山陵」 鹿児島県川内市神亀山の河愛山(えのやま)陵なんだよ。筑紫日向=鹿児島県周辺。 宮内庁が詰めて管理してら。 男狭穂塚=瓊々杵尊なら河愛山陵は被葬者不明なのによ! もう、ヤツら(宮内庁)は全て知ってるんだよ。だから発掘できないんだ。 皇国史観にかかわるしな。 西都原=「斎殿原」(サイトノハル)
814 :
日本@名無史さん :04/07/17 22:46
瓊々杵尊の墓は神代紀に「天津彦火々瓊々杵尊崩因葬 筑紫日向河愛之山陵」 と記され 鹿児島県川内市神亀山に、河愛山(えのやま)陵が実際にあり、宮内庁が管理している。 瓊々杵尊の妻とされる此花咲夜姫は大山祇神の娘で【阿多津姫】の別名 阿多とは、鹿児島県日置郡金峰町 阿多。 瓊々杵尊は大日霊女の後を次いで鹿児島周辺を支配したと推測される。 ほど近くに瓊々杵尊の新田神社があるが、諸神記に「新田宮 始不営廟殿鎮座薩摩国亀山」 と記されここでも瓊々杵尊が亀山=河愛山陵としている。 では、西都原にある、「伝 瓊々杵陵」の男狭穂塚の被葬者は誰か? 西都原が「斎殿原」の名残であるならば、これこそが卑弥呼=大日霊女貴の墓に相応しい。
815 :
日本@名無史さん :04/07/17 22:50
3世紀末に金官に扶余系の支配者がやってきて(比較的スムースに)王権を 奪取したのは間違いないでしょう。墓制がそれを証明しています。でも彼ら が日本海を渡って倭を征服したというのはありえないでしょう。 日本ではそのころ古墳時代真っ盛りでそのまま記紀の時代へと流れるわけで、 日本の古墳からは木郭墓はほとんどみつかっていないことから(日本の古墳 は大きいので今後新たに見つかるのことはまず考えられない)、つまり扶余 族は金官でストップなわけです。 その間に金官は加耶を統一することもなく、新羅に征服されて無くなってい ます。金官は加耶の中では有力な国でしょうが、やはり規模は(百済・新羅 ・倭に比べ)相対的に小さいといって差し支えないでしょう。
西都は、都としては立地が悪い。 でも天武・持統に追われて邪馬台国の残党がここに隠れていたかも。
817 :
日本@名無史さん :04/07/17 22:53
殉葬は墓制の問題であると同時に気風、風習の問題である。 日本の武士社会には江戸時代に到るまで「追い腹」等と言って「殉死」の 風習があった。 これは召使いなどではなく、側近や高官が行うことにおいて扶余の殉葬と 同じである。このような気風は扶余が持ち込んだものかもしれない。 さらに言えば扶余については晋書に、「質実剛健」という言葉で表せるような 記述があるが、これは日本の武士社会の気風につながっているかもしれない。 つまり、日本の武士道は扶余の気風の最後の生き残りであるかもしれないのだ。
818 :
日本@名無史さん :04/07/17 22:54
今日、我々は豊富な実物に基づいて伽耶と日本の実用武器を比較し、その 系統論をひねくることができる。 なぜこんなことが可能なのか? と言えばそれは伽耶地域と日本の古墳 から実用武器が出土するからだが、こんなことは滅多にない幸運なのだ。 このことをだれも取り上げないのは不思議なくらいだ。 王や上級者の墓そのものに、物々しい実用武器を埋葬するということは、 王権が武力と分離していない、すなわち王じしんが戦闘者ないし指揮官 であったことを示していると思われるが、このような現象は半島では 4〜6世紀の伽耶地域にのみ見られるだけで、それ以前の伽耶にはなく、 時代を通じて高句麗や百済にもない。 わが国では古墳時代中期に見られるだけで、それ以前にも以後にもない。 奈良、平安時代になればたちまち王権と武力は分離し、武士は貴族から 見下げられる存在となる。 このような4〜6世紀の現象を説明するには、同じく実用武器を埋葬した 扶余本国の風習がそのままの形で金官/伽耶地域に伝わり、それがなん らかの形でさらに日本にも伝播した、というしかない。 伝播は人の移動か、「文化受容」か、どちらかである。 しかしこのような基本的な問題を「文化受容」で済ませられるだろうか? すぐに引き合いに出されるのが明治以後の西洋文明の受容だが、それなら 天皇陵そのものに西洋伝来の「機関銃」や「戦車」を埋葬するのか? ということである。
819 :
日本@名無史さん :04/07/17 22:56
申敬チョルは「江上騎馬民族説は金官までは成り立つ。日本列島については 木郭墓がまだ見つかっていないから保留」という立場だ。
820 :
日本@名無史さん :04/07/17 22:59
申敬チョル教授は「伽耶と古代東アジア」のなかで次のように 書いている。 「また大成洞18号墳(・a段階)で、いわゆる蒙古鉢型冑(竪矧細板革綴冑) をはじめ、蒙古鉢型冑・挂甲などの騎乗用甲冑および(中略)などの馬具類の ような北方文物が金海大成洞と東莱福泉洞の・類木郭墓で多量に出土している 点も・類木郭墓が北方系木郭墓であることを強力に示唆している好例である。 それと同時に、従来の短身型でない長身型鉄矛が出現するのもこれを裏付ける 一つの例だと言える。」 この文で、・類木郭墓というのは金海地方で3世紀末から5世紀前葉まで存在 する形式で、・aはその最も早い段階である。 申教授は日本語文がわかりにくい、というより下手だが、要するに金海の3世紀 末の墓から騎乗用の冑が出て、その後も継続して騎乗用甲冑および馬具が出る、 ということだろう。
821 :
日本@名無史さん :04/07/17 23:00
日本から木郭墓がみつかっていないから扶余が来たとは言えない、という のは、申教授やその他の学者達も言っていることだが、彼等は歴史を見て いるのか、と不思議でしかたがない。 確かに扶余は狗耶韓国にやってきて木郭墓を築いたが、それでは扶余は 何処へ行っても木郭墓を築いたのか? と言えばそうではない。 自他ともに認める高句麗や百済の扶余王族は、その地の中国文化に影響 されて石室墓や磚室墓を築いたではないか。このように扶余は守旧性と柔軟性 を合わせ持つことを、歴史の事実が証明しているのである。 中国文化に影響されて石室墓を築くのなら、古墳時代の最中に畿内にやって きた扶余は、それに影響されて前方後円墳を築く方が自然であり、巨大前方 後円墳の隣に墳丘のない木郭墓を築くというのは、むしろ不自然である。 征服でなく簒奪によるのならなおさらである。簒奪は支配のシステムを引き 継ぐのであるから、新しい支配者は「前方後円墳による支配」を引き継いだ と考えられるからである。
823 :
日本@名無史さん :04/07/17 23:03
金官加羅の前身、狗耶韓国は「倭の北岸」と言うとおり、倭人の住む倭の 領域であり、周囲から「倭」と見られていた。 それを扶余が支配して金官になったから、金官は扶余が支配する倭人の國 であった。 それを周囲から見ればやはり「倭」である。エジプト王国をマケドニア人 が支配しても「エジプト」と言われたのと同じ。 その金官の扶余王朝が倭人の本拠地を支配したから、扶余はますます 「倭」になった。中国を支配した満洲族がみずからを「中国」と見なした のと同じ。 だから留守役所は「金官府」でも「扶余府」でもなく「倭府」なのである。
824 :
日本@名無史さん :04/07/17 23:11
新羅は、大分県ににあった日本最古の国家「東表国」の飛び地(慶州)から独立して建国された。 「東表国」はアラビア系の倭人国家で金姓。 つまり新羅は金姓新羅の倭人国家。 百済は扶余族の王が支配する国で、神武(仇台)もその一人。 公孫氏と対婚関係を結び、公孫氏の女である卑弥呼と神武が結婚し、九州に南下侵略後、「邪馬壱国」を建てた。 だから百済と邪馬壱国(九州倭国)は兄弟親戚のようなもの。 それ故、白村江の戦いにおいて百済救援に倭国(邪馬壱国)が向かったのだ。 百済(クダラ)は元の多羅(タラ)国と合併したため、旧多羅国(クダラ)と呼ばれた。 白村江の敗戦後、日本列島は九州倭国と畿内が新羅によって接収され、「日本」と称すようになったが、「新羅」とは「日の本」という意味であり、 「新羅」と称しているのと同義であった。 「日本書紀」は新羅人が書き起こしたあと、道鏡(百済人)が百済寄りに改竄した。
825 :
日本@名無史さん :04/07/17 23:12
新羅の王子天日槍は兵庫県に住み、隣国の岡山県を植民地化したと見られます。 これで、岡山県(吉備の国)の領有権を餌(吉備団子)にして家来を募り、東国の鬼退治(平定)を行ったという史実が益々浮き彫りになりました。 やはり、日本は新羅に征服されたようです。
>>825 渡来人以外も書いてね。スレタイにも答えてね。
827 :
日本@名無史さん :04/07/17 23:20
新羅の王子天日槍は兵庫県に住み、隣国の岡山県を植民地化したと見られます。 これで、岡山県(吉備の国)の領有権を餌(吉備団子)にして家来を募り、東国の鬼退治(平定)を行ったという史実が益々浮き彫りになりました。 やはり、日本は新羅に征服されたようです。
吉備の話はスレ違いだなあ。
830 :
日本@名無史さん :04/07/17 23:26
新羅の王子天日槍は兵庫県に住み、隣国の岡山県を植民地化したと見られます。 これで、岡山県(吉備の国)の領有権を餌(吉備団子)にして家来を募り、東国の鬼退治(平定)を行ったという史実が益々浮き彫りになりました。 やはり、日本は新羅に征服されたようです。
古墳を見れば、吉備は新羅と無縁です。 吉備は半独立していましたが、九州邪馬台国の傘下に入っていたようです。
834 :
日本@名無史さん :04/07/17 23:36
日本天皇が 百済人である 明白一 証拠 1.新撰姓氏録にその証拠がある. 新撰姓氏録は西紀 815年に日本 畿内に 本拠を置いた 1182氏の 系譜とその 由来を 記述一本だ. この 姓氏録は大きく 天皇,皇子の 子孫である 皇別, 天神地祇の 子孫である 神未定雑姓が 117氏だ. ところで 天皇, 皇子の子孫である 皇別 の中一番尊貴ハン氏が 真人なのにその 総数は 48氏だ. その中で 12番目 "大原真人は 百済王であり 30代 敏逹天皇の 子孫" という 記録エズモックするところだ (原文の 百済王と言う(のは) 百済王族を示すのに, 日本歴史書は 百済王族を 百済王で 一貫になるように 記述して来た). すなわち 敏逹天皇の子孫が 百済人というのは 敏逹天皇の 子, 敏逹天皇 自身, 敏逹天皇の 父や 祖父も百済人というのを意味する
835 :
日本@名無史さん :04/07/17 23:37
古代朝鮮語という、特定の言葉は、当時の朝鮮半島には存在しません。 当時の朝鮮半島は、高句麗・新羅・百済・任那加羅諸国と数多くの国があり、 さらにそれぞれの国・地域において倭や大陸各地から来た人々が多数おり、 使用する言語もまちまちで、支配層と非支配層の間でも異なるという状況です。 確実に複数の言語が用いられていた中で、古代朝鮮語とはいったい何ですか?
838 :
日本@名無史さん :04/07/18 00:12
>安本、古田、森、井上が電波とか言ってるけど、原田との違いは何だよ。 まず、前者2人はまともな学者じゃないね。そもそも論ずるに値しない。 安本の意見の一見まともに見えるところは、他の学者(鏡なら王氏その他、地名なら鏡味氏) の引用。奴独自の説、古代天皇は10年という年代論、古墳編年などは噴飯も ので誰も相手にしていない。 森と井上は、かつてはそれなりの学者だろうが、森は九州説、井上はクナ国東遷説という 今では電波説となり、価値のなくなった意見を唱えている(いた)。 これに対して、原田の説は、弟子筋の柳田も言うとおり、今でも十分通用するものだ。 そもそも平原の発見だけでも凄いんだけど。
839 :
日本@名無史さん :04/07/18 00:15
先住民アイヌは満州・韓国系とマラヤ系の混血侵略者に北に追われた。 歴史は前660年に大和の酋長神武天皇が帝国を創業して始まる。 書かれた歴史は日本が中国文化に浸った5世紀から。 552年に仏教を取り入れた。 6〜9世紀は中国を強く模倣した。 794年に平安京に遷都し、それは1869年まで続いた。 9〜12世紀は藤原氏が政治を独占した。
>>839 ウソウソ、神武はずっと後の時代。卑弥呼より後。
>>868 邪馬台国研究者の研究してるのですか?
新スレ
◆本居宣長は新井白石になったのか?◆PART1
>>810 鴨田SX01のことか?あれ終末だろ。
それをしってるなら、有年原・田中墳丘墓は知ってるだろう。
これはV様式中ごろだ。
通路から前方部へ変わるのは東部瀬戸内が一番早い。
この通路から前方部への移行に地域差があることも知られていて、
近江あたりは東部瀬戸内に比べると時期的に遅れることもわかっている。
だから、起源は東部瀬戸内だといったのだ。
>勝山のどのような要素にどの地域のどの墳墓の要素が反映しているのか
前方後円形であるところ。
前方部は基本的に祭壇だから、墓としては纏向王墓は円形原理を採用したことになる。
だからその出自としては、円形原理を色濃く採用している地域を考えることになる。
弥生時代後期より、円形原理をより多く採用している地域はどこかといえば、
東部瀬戸内になるわけだ。前方後円形墓の成立も早い。
だから、東部瀬戸内の関与が『想定』できる。
ところで、『想定』の意味わかるか?
広辞苑を引いておいてやる。
そう‐てい【想定】
ある一定の情況や条件を仮に想い描くこと。「事故を―して訓練する」
◆本居宣長は新井白石になったのか?◆PART1 1 名前:日本@名無史さん 04/06/25 22:43 畿内説は誰? ゴッドハンド藤村新一との関係は?? 21世紀邪馬台国研究の状況とは如何なるものか? 京都大学に学閥はあったか? 考古学会の実像とは? 某教授の実体、そして捏造はどこだ?? マキコウケンの信憑性や如何に? 桜井市はどこまで真実を伝えているのか?? 最新の捏造を元に、畿内説の正体を推理する!!
畿内説論者 福永光司 京大名誉教授 樋口隆康 京大名誉教授 奈良県立橿原考古学研究所長 福山俊男 京大名誉教授 富岡謙蔵 京大講師 確かに学会では畿内説多いようだ 畿内説のドン?樋口隆康とその信者がいかにデンパか? 徹底的に掘り下げよう。
まず樋口康隆なんてまともな学者じゃない、論じるに値しない。 彼の説は噴飯もので誰も相手にしていないし 今では電波説となり、価値のなくなった意見を唱えている(いた)。
あのメンバーを見ると、橿原は墓場っぽいなぁ〜
チョン鮮人と近畿人が歴史を捏造するスレはここですか?
朝鮮人は樋口隆康になったのか? 古代朝鮮人は海を渡り近畿に住み 電波樋口隆康の祖となりましたが 噴飯もので誰も相手にしていない
>>838 コピペうざい。消えろ。
原田を発展させたのが古田、部分的継承が安本。
それぐらい知っとけ。
>前方後円形であるところ。 >前方部は基本的に祭壇だから、墓としては纏向王墓は円形原理を採用したことになる。 >だからその出自としては、円形原理を色濃く採用している地域を考えることになる。 >弥生時代後期より、円形原理をより多く採用している地域はどこかといえば、 >東部瀬戸内になるわけだ。前方後円形墓の成立も早い。 やはり畿内説信者は電波というしかない。 外形だけでにているというなら高句麗の積石墓は前方後円ソックリニダ、 といっている隣の国のキティガイ学者と変わらない知的レベルといえる。 なぜ、安本美典さんのようなさまざまな物証を用いた数理統計解析ができ ないのだろうか。わざとやらないのか?「棺あって隔なし」という倭人伝 の記述をスルーするなど都合の悪い情報は隠蔽とはあきれかえるしかない。 もう一度言う。 「畿内説は、死んでいる。気づいていないのは本人達だけだ。」
>隣の国のキティガイ学者と変わらない知的レベルといえる こういうこと行ってる限りだれもお前と話などしないよ
852 :
日本@名無史さん :04/07/18 09:50
つーか今どうなってんの? 畿内説とウリナラ説と九州説? 卑弥呼捨てて初期大和王権真面目に語ったほうがいいんじゃない?
>>850 >外形だけでにているというなら高句麗の積石墓は前方後円ソックリニダ、
おいおい。前方後円形という外形の起源を論じてるんだろ。
古墳の外形は非常に重要な要素の一つだ。
それを考慮に入れるのは当然の話だな。
外形を度外視して話をすすめるほうが無理だろう。
畿内はほとんどが方形周溝墓だ。
そこへ突然、円形原理を採用した前方後円墳(あるいは前方後円型巨大墳丘墓)が出現するんだ。
円形墓の伝統がある地域を視野に入れるのは当然だろ。
854 :
天之御名無主 :04/07/18 11:20
邪馬台国とは九州をはじめ列島各地の古墳時代の始まりの頃の状態の スナップショットであり、大和朝廷とは倭の五王の時代の待つ頃に形成が 始まるものであり、邪馬台国は古墳時代の始まりを告げるものではあるが 大和朝廷との直接的なつながりからは程遠いものであった。しかし、御座 夷守という言葉は既にできているし、卒彦の元となったのではないかと思わ れる卒という言葉、御籬のような言葉もある。200年後に雄略大王が最終的 に初代大王として出てくるのではないか。九州にするか大和にするかの 問題は邪馬台国時代には決着を見ていたと思う。
855 :
日本@名無史さん :04/07/18 11:27
マキムク王権は明らかに海洋性豪族の創始 王は初代天皇神武、本拠地は西都 吉備を制圧した後、マキムク進入 一時敗退後、熊野伊勢方面まで制海権を掌握の後再進入 北九州邪馬台国に大和王の称号をもらう。
>大和朝廷とは倭の五王の時代の待つ頃に形成が 始まるものであり また武が雄略とかいうなよw 物的確証は何もないただの推測だからな。
857 :
天之御名無主 :04/07/18 11:44
神武記はそうなっている。チュームという高句麗の祖も同様に大水を渡り南下する。 そして長髄のそっくりさんと遭遇、その後の話も同じである。だから神武記の東遷部分は 満州から朝鮮に入る頃の話であり、サイトだの日向だのというのは脚色以外の何物でも ない。瀬戸内海の海人集団がマキムクに入ったということかな。
858 :
日本@名無史さん :04/07/18 11:48
海人集団と結びつけるには、少し不便な場所ではないか? >マキムク
859 :
日本@名無史さん :04/07/18 11:51
神武記のどこを読めば満州やら朝鮮が出てくるのか? 天孫が満州朝鮮なら別に隠す必要は無い、事実隠さずに日向と記している おまえの意見は脚色以前に何の根拠も無い願望だ。
860 :
日本@名無史さん :04/07/18 11:54
マキムクは当時海岸べた
861 :
日本@名無史さん :04/07/18 12:00
それから、当時の明確な半島系は天日槍勢力一つ 出雲と戦っていたが結局神武に飲み込まれている
862 :
日本@名無史さん :04/07/18 12:06
それと起源前後の倭(南朝鮮・九州)の権威の頂点は現在の福岡の奴国 ちょーむは奴影響下の豪族ではないのか?
863 :
日本@名無史さん :04/07/18 12:06
>マキムクは当時海岸べた 相当ムリがあるだろ。大阪平野の弥生遺跡や古墳は海の 中に造ったんかよ。
864 :
日本@名無史さん :04/07/18 12:10
それと朝鮮の最初の歴史書編纂は12世紀以降だろう? 日本書紀を参考にし説話つくった可能性もある。
865 :
日本@名無史さん :04/07/18 12:14
いや、ソースはどこいったか忘れたが 当時マキムクは海岸べただと出てた 今から探してくるまっとけ
>>850 品のない文章だな。
九州説の人は、倭人伝を金科玉条にしている人が多いみたいだが、
邪馬台国がヒスイを産出していたとか、都合の悪い部分スルーする。
自分と違う説をヒステリックに罵倒するのは、やめた方がいい。
少なくとも、邪馬台国が畿内OR九州かは、決着ついていない。決定打がない
というのが衆目の一致するところだろ。
>>866 邪馬台国が糸魚川でヒスイを産出している・・・・それは当たり前です
868 :
日本@名無史さん :04/07/18 12:25
869 :
日本@名無史さん :04/07/18 12:28
>>866 なにいってんだ?
邪馬台国がヒスイを産出していた?はぁ?
倭の読み間違いしてない?恥ずかしい香具師。
870 :
日本@名無史さん :04/07/18 12:35
>>869 海人集団の根拠地つーのは納得いかないけど、
川と運河を利用したルートが開かれていたという
ことですね。そこは了解です。
871 :
日本@名無史さん :04/07/18 12:36
872 :
日本@名無史さん :04/07/18 12:39
川と運河のことは言ってないんだけど・・・ 納得してくれたからいいや
もうまきむくマキムクって飽きたぽ。 それさえ見てたらストレス発散されるのか・・・・・。 発掘してない(できない)古墳なんて山ほど有るのにねw
だって神武天皇が行き着いたのがマキムクだし、仕方ない
こんなこと言っては暴論なんだろうが、 畿内説は、戦前の国史+津田左右吉説+考古学の融合説に見えて仕方が無い。 基本的に外国資料は信用しないで、三国志や新旧唐書はなるべく軽視。 「天=アマ」という地名や部族名の全国分布調査などは決してせず、 あくまで畿内という結論が先の非科学的手法。 考古学は結論を補強するための道具としてのみ利用、基本は安楽椅子の学問。 マキムクのスケールが見えてくると、急に寄りすがって畿内説の主軸とする浅ましさ。 倭人の主たる国として名称が変わっても(委奴国→邪馬壱国→邪馬台国) 一貫して存在した倭人の代表国を「やまと」音から決して切り離すことなく、 邪馬台国=大和は信仰の境地に達している。 戦後の顔を取り繕った、万世一系皇国史観のように見えて仕方が無いのだ。
>>869 いや、だから、「倭」の読み違いとか言うならさ、
「棺有れども槨無し」の記述から「邪馬台国は畿内ではない」という主張
するのと、ヒスイの問題から「邪馬台国は九州ではない」という主張は
論法が同じだって言いたくなる訳よ。
「倭人伝に書かれている風俗は明らかに九州のもの。だから邪馬台国は九州」
とか言われてもね。都合の悪い箇所は、「北陸だろ」、てことですか。
倭人伝を重要視し過ぎるのはよくないよな。正確じゃないところが多いん
だから。
877 :
天之御名無主 :04/07/18 17:25
ホケノ山を初めとし近畿は「槨あり」時代なのに「棺有れども槨無し」とは一般論 すなわち下戸などを含めての話のことか、あるいは、古い記録をコピペしてるのか 一寸変だ。この辺から例の南行の話も怪しいね。
>>868 これって
>>860 の根拠なのか?
だとしたら生駒山系書き込んでみたほうがいいぞ。
海岸端じゃないのがわかるから
ところで、煽りでも何でもないんだが、『海岸べた』って普通に使うのか?
はじめて見た気がする。
ぐぐると56件あるようだが・・・
おいおい、熊がちょんだとしたら、 熊ごり神社とか建てた、聖徳太子はちょんってことになるぞ
880 :
日本@名無史さん :04/07/18 21:41
>>876 重要視も何も文献の解釈できない部分を検討すればいい話だよ
・平塚川添にヒスイ加工工場があった
・倭は縄文から地域同士交易で結ばれていた
・糸魚川でしかヒスイは取れない
ヒスイ関連はこれで十分だろ
>>878 グズグズ言わないで地図出せよ地図
ソースも出さないで簡単に否定レスして何?
おまえの文章だけで何をしろというのか?
というか生駒山って?九州邪馬台国と関係無い山だから詳しくないなー。
881 :
日本@名無史さん :04/07/18 21:51
>>879 チョンは関係無い
どっかの誰かが高句麗の祖が大和朝廷作ったと言ってたが
それなら高句麗は誰が作ったの?って話しになる
チョンは願望を欲張りすぎて破綻している
882 :
日本@名無史さん :04/07/18 22:00
記紀にしろ倭人伝にしろ書かれている事を はじめに自分の説で解釈しようとするから矛盾が出て文献否定に走るんだよ。
>>880 やれやれ。救われないヤツだなぁ・・・
>グズグズ言わないで地図出せよ地図
現代の大阪の地図ぐらいもってるだろ。
>>868 の最後が現在の大阪だから
手元の地図と河川の位置を比較すればわかるだろ。
884 :
日本@名無史さん :04/07/18 22:07
>>883 何の苦労もしないで人が説得されると思うのか?
さすがにつきあいきれん。 放置だな。
886 :
日本@名無史さん :04/07/18 22:17
>>885 おまえは
何が言いたかったのかさえわかんないよ
はじめからレスするなよ。低脳。
887 :
日本@名無史さん :04/07/18 22:21
横レス。
>>884 の意味不明。
>>883 の捨て台詞も気に食わない。
ところで、生駒山ってそんなにマイナーなのか?
上に遊園地はあるし、東西の麓、特に東側は住宅多いし。
近鉄電車で奈良に出ようと思ったら、必ず通るんだけど???
888 :
日本@名無史さん :04/07/18 22:45
普通知らんぞ。
箱根以西はチョト苦手
890 :
日本@名無史さん :04/07/18 22:52
・卑弥呼の得た称号は「親魏倭王」 ・その当時の倭が、九州と西日本を合わせた範囲を指したとすると、 卑弥呼は九州と西日本を合わせた地域の王と、魏から認定された しかも、魏も倭国大乱など倭の諸事情を知っていたのだから、 正しい「倭国の王」を認定したと推定できる ・倭の五王の年代と、天皇平均在位年数(安本美典説)から計算すると、 三世紀前半には大和に天皇家につながる氏族がいたと考えられる ・卑弥呼の国が九州だとすると、三世紀前半に倭の王が九州と大和の 二箇所にいたことになる ただ、その時は大和の氏族の方はまだ倭王ではなかったのかもしれないが、 大和のその後の発展具合を考慮すれば、三世紀の前半には倭王はすでに大和に いたと考える方が確実性が高いのではないだろうか
>>890 かなり私の感じと近いです。
あえて違いを言えば
「親魏倭王」は「倭国の王」でない可能性を考えています
いわく「倭人の王」かもしれないと。
天皇位ないし王位の簒奪もあるので、「つながる」かどうか、考えかたひとつで変わります。
>三世紀前半には大和に天皇家につながる氏族がいたと考えられる
何度も言いますが584年に兵庫県もまだ領土にしていなかった大和国にとって
倭王としての実態も名誉もなかったでしょう。
>三世紀の前半には倭王はすでに大和にいたと考える方が確実性が高いのではないだろうか
892 :
日本@名無史さん :04/07/18 23:04
>>890 俺北九州説だけど天皇平均在位年数は疑問
別王朝の物語の集合と考えてるから
外交的にはそのまま九州にいた方が有利だと思うけど。 倭の五王の時代って実は卑弥呼からそんなに経っていない。そんな短い間に 九州に何があったのか?どんどん農業や工業製品の生産が増加しているはず なのに、それを捨ててまで畿内に東遷する必然性が弱すぎるな。 たとえば後の唐やモンゴル規模の攻撃が恒常的にあり、水際戦術ではもはやど うしようもなくなった状態だとか、あるいは阿蘇山が大噴火したとかw 東遷と先兵の派遣とは全く規模が違う。それに、相当国家として成熟していて、玉 座を移しても首都機能を失わないだけの政治的安定が必要だろう。そんな想像を 絶する規模の引っ越しをしたとは考えにくい。 それと、言い古されていることだが、安本説の根本的欠点は、あくまで一般的な平 均以上でも以下でもないということ。社会現象に於いてはそんなには割り切れない。
895 :
日本@名無史さん :04/07/18 23:09
倭人民間説話と約5〜7つの王朝の物語を 天孫として一つに纏め上げたのが記紀だとおもう。
>>894 どう見ても、漢の委奴国王の印ですから
ナ国は関係ないのですが、この印にとってナ国って何ですか?
897 :
日本@名無史さん :04/07/18 23:22
>「倭人の王」 とはどういう意味になるのでしょうか >俺北九州説だけど天皇平均在位年数は疑問 >別王朝の物語の集合と考えてるから 倭の五王が五世紀に大和又は畿内にいたとすると、 3世紀前半まで約2百年になります 天皇は記録上はその間畿内にいたことになってますし、 実際にも畿内本拠が妥当ではないでしょうか それに四世紀には朝鮮に本格的に進出した記録もあるわけで、 そうなると朝鮮に近い九州では安全面で問題出てくるので、 三世紀には中心は畿内にあったと考えられませんか 東遷は、もっと遥か前か、倭国大乱の後と考えます 三世紀後半か四世紀に東遷があったというのは、 大和朝廷成立にかかる時間もあるでしょうから、 新しすぎるように思います
>>896 こんなの常識なので、その書き込みネタだと信じたいが、
金印は、漢から九州の奴国に送られたものというのが定説。
ちなみに、奴国はナ国と読まれることが多い。
899 :
日本@名無史さん :04/07/18 23:45
マキムクが後の大和朝廷発祥なのは畿内九州両説同意ですよね そして対外的には大和のほうが九州より安全な事 俺は北九州邪馬台国だが東遷は投馬と思っているから 考古学者の言うマキムク成立時期がそのまま東遷と考えている
>>897 倭人と中国側は、周の成王から交流がありますが、国名が「無い」か「変わる」ので
なんと表現したらよいか、中国側でも困ったはずです。好太王碑でも「倭国」の表記
が無いし、三国志も「魏志倭国伝」ではなく「倭人伝」です。ちょっと怪しい説ですが
海洋民族である「倭人と称する民族の王」という意味だったのでは?と思う次第です。
ついでに別な人へのご質問に横から答えてしまうと
天皇がずっと畿内にいたことと、東遷したことの実態はこういうものだったと思います。
神武東遷(4C)とは、九州から都落ちした神武が畿内の首長群に割り込んだ事件です。
神武は畿内全体統治などは、一切していません。彼の跡継ぎや、継体みたいな簒奪者が、
後にこの首長国を大きくしていった。ですから東遷時に統一巨大政権は成立して
いません。群雄割拠の首長国群があっただけです。
倭が朝鮮に進出した時期には、倭国は有明海に遷都しているようです。6世紀まで
有明海に倭の都があったと思います。
国際戦争中、畿内は派手な戦争をしていません。交易で栄え、軍需景気で栄えた
畿内は、国力が逆転していき、簒奪王継体のときはかなり優位になっていたでしょう。
ピラミッド型の政治体制が畿内に出来たのは、天武からではないでしょうか。
九州倭国の体制を築いたからです。
901 :
日本@名無史さん :04/07/18 23:52
九州王朝説には悪いが 卑弥呼から高句麗と対外的に戦うまでほんの少ししか時間が無い 北九州王朝が単独で高句麗と戦うのは無理というもんだよ 邪馬台国は巫女を推戴する北九州豪族集団?じゃないの? より近代的な巨大王権ができたら豪族単位で東に流れたと考えているよ。
>>898 えっ?「委奴」を「ナ」と読む習慣が、あなたはあるの?
文部科学省では、そんなことを教えてるの?
>>901 ご指摘の軍隊は、陸軍のイメージでしょう。
倭人自体が基本的に海軍であり、海上輸送者であり、
海産物採取者なのです。
>>902 723の言う通り奴をナと読むのは専門家の間では常識だが
>>904 その明治以来の悪習は知っていますが、あなた自身が信念を持てる読みですか?
その読みは、世界でただひとつの特殊な方法で100年読み慣わしていることになるのです。
専門家が同じような2段読みの実例を、ひとつも挙げることが出来ないのです。
こうなれば、もう「インチキ」というべきでしょう。
906 :
日本@名無史さん :04/07/19 00:10
>>902 在来の通説では「委」は「倭」のことである、としていますよね?
「奴」はナニヌネノのいずれにも読めるのですが、金印の発見された
志賀島の近くに「那の津」があるので、この「ナ」では?と。
よって「漢委奴国王」を「かんのわのなのこくおう」と読むわけです。
ただ、私としては「漢が委ねた奴国の王」とも読めるんじゃないかと
いう思いはあるんですがね。
907 :
日本@名無史さん :04/07/19 00:12
かんのわのなこくおうでいいんでは? 奴の隆盛を否定するのですか?
>>906 ほかに同様の読み方をする中国の「印」が無いのです。「かんのわのなの」は
はじめの学者が思いつきで読んだのが、検証されないまま定着したのです。
「サウザンアイランド・ドレッシング」や「ファーストフード」という表記も
とっても恥ずかしいですね。
>>907 いいえ。奴国は金印をもらっていない国だというだけです。
漢委奴國王は「かんのわのなこくのおう」 「奴」の上古音は[nag]だからナニヌネノから選ぶなら「な」が一番近い。 896とか902は厨房だろう。 通説を否定するのはかまわないが、論証ぬきに自分が正しいという態度は痛いね
>>910 では、おききします。「○の○の○の国王の印」という実例を他に見つけてください。
ひとつも無いんです。
ただし部族名がないと特定できない部族長は除きますよ。
912 :
日本@名無史さん :04/07/19 00:29
ははーん 委奴国王と書いて伊都国王って言いたいのか
>>912 まったく違います。「委奴国王」だと言いたいのです。
>>900 神武東遷を四世紀としますか
簒奪はよくあることなので否定しませんが、
ただその場合、系統を簒奪者から始めることは考えにくいのでは
ないですか
年代は急に新しくなりますがw、徳川家康も大阪の豊臣を滅ぼして、
さらに三河から江戸に入り徳川幕府を開きます
でも、その際の血統は源氏の流れをくむことにしたと思います
豊臣も別の血統を持ってきてます
箔を付ける意味でも、簒奪者の系統か、又は被簒奪者の系統を
踏襲して、正統性を誇示した系統を作るのが自然と思えます
また、4世紀に東遷だと、
>>901 の
>卑弥呼から高句麗と対外的に戦うまでほんの少ししか時間が無い
ことが気になります
(有明海への倭国遷都については知識ないのでコメント控えます)
915 :
日本@名無史さん :04/07/19 00:35
委奴国 どちらにしろ金印貰ったの奴辺りでいいんでしょ? 福岡周辺だったら誰が貰おうと歴史の流れはそう変わらないと思うが?
実例?ひとつもない? なにを逝ってるかな、そりゃ詭弁の典型的ロジックだよ そもそも二千年前の印が残ってること自体が例外。 無数にあったでろう印のうち発見されてるのはわずか。 漢帝国の印には規格や規則は当然あったけれども 異民族の状況や漢帝国との関係というのは実際には千差万別で 四角四面な規格で割り切れる物ではないから、 いろいろな例外が生じたこともあり得る。 このへんの話は漏れはすべて栗林朋信の漢代異民族外交の研究に依拠している。 「委奴」の2字はそのままでは「わな」としか読めない。 それで解釈するとしたら「倭のナ」以外にどう解釈するんですか???
ということは、「印は定説どおり」派は、他の地域では「OOという 理由で金印は消えました」という論証が必要ということですか。 例えば、倭の統一の際に「印は捨てろ」という命令があったのだが、 奴国の王族だけは「いつか必要な時が来るから、それまで隠しておけ」 と地中に埋めさせた。しかるに奴国の王族が政変等で翻弄されてしま うとともに、世代が下るにつれて伝承も忘れ去られ・・・ とかを文献実証するわけね。難しいなあ。
>>917 なにがいいたいのかさっぱり意味がわからん。
奴国は滅亡したんだろ。金印が地中からでてきてもなんの不思議もないじゃん。
文献実証?なんのこっちゃい?
>>911 >ただし部族名がないと特定できない部族長は除きますよ。
漢の倭の奴の国王と読む場合はまさにこれですな。
『奴』という部族名がないと特定できないから『奴国王』とかいてある。
こんなルールを勝手に決めたらそりゃ勝ちだわ。
念のためだけど、こんなルールを勝手に決めちゃいかんという意味ね。
>>914 簒奪者から系統を始めたのは、血統優先だからです。
神武が畿内に侵入し、敵を殺して領土を占領したことを、続日本紀は「天基を草創した」と言っています。
ニニギという王の子孫が神武であること、神武が「天基」を「草創」したことが書いてあります。
これは神武が王朝を開いたと言っているわけで、殺された在来王は無視しております。
しかし神武は馬の骨でなく、ニニギの子孫だと言っている。尊い血統なのだと言っている。
ここで裏読みしてみると、ニニギ〜神武間は王だとはしていない、ニニギはかつて
天孫降臨で天基を草創したのだから、神武は別な天基を草創したことになる
つまり、九州邪馬台国のほかに神武が畿内王権をたてたといっております。
ささやかな弱小王権でしたが。
922 :
日本@名無史さん :04/07/19 00:53
というか 読み方で結果が大幅に違うわげではないんだから どうでもいいじゃん 伊都王だろうが奴王だろうが お互いの距離は自転車で3時間くらいの近場だよ
>>880 >重要視も何も文献の解釈できない部分を検討すればいい話だよ
これは、まったく同意見。
>・平塚川添にヒスイ加工工場があった
>・倭は縄文から地域同士交易で結ばれていた
>・糸魚川でしかヒスイは取れない
そう考えることもできるな。しかし、「青玉を産出する」をそのように解釈する
のと、魏の使者が伊都国までしか行かず、九州の風俗を記述したという説と、
原文を読み替えるという意味では、そう大差はないと思うがな。
もうちょっと、謙虚になった方がいいよ。
>>920 冗談じゃない。国王だから部族ではありません。
2国間に別な存在を介在させることは漢が許しません。
926 :
日本@名無史さん :04/07/19 01:05
読み方なんて解釈はいくらあろうとも結果は同じなら 極論、どうでもいいって 意地の張り合いが真相を暈すほうがダメダメだよ 君が本当に主張したい事は読み方などではないのだろう?
>>924 なんで?
倭という民族の中の“奴”という部族が国をつくっておりその国王が『奴国王』でしょ。
>>926 ありのままに読むべきだ、ということなんです。
「委奴」という国の王が金印をもらった。
そのときの倭人の中心国は委奴国だった。
これがのちに邪馬壱国が中心国になり
さらに邪馬台国に移った(改名かもしれないが)。
・・・・この国名をころころ読み替えるのはおかしいと言うことです。
>>927 まったく違います。当時「奴」という国は他にありません。
もし「奴国」なら「漢奴国王印」以外にありえません。
930 :
日本@名無史さん :04/07/19 01:16
>>928 邪馬台国の中心となったかどうかまでは
何の資料も無いからそこまでは言えないですね。
>>901 >>914 私に意味が分からないのですが、卑弥呼と高句麗戦が時間的に近いと
何か矛盾があるのでしょうか?別に卑弥呼が高句麗戦の命令を出しても
良いわけです。
>卑弥呼から高句麗と対外的に戦うまで
>ほんの少ししか時間が無いことが気になります
932 :
日本@名無史さん :04/07/19 01:40
>>931 いくら北九州が先進でも
東遷と高句麗戦とクナ戦を行うなんて無理ですよ
北九州の国力キャパシティは熊本方面との戦いで均衡する程度と考えています
マキムクなどの成立時期を考えるとクナ戦と時期的に重なります
高句麗はクナ程度ではなく国土の広さや大陸での戦慣れなど非常に強大です。
九州総動員しても無理っぽい。
>>932 東遷とは、100人程度の退役軍人が畿内に侵入した事件ですから
国際戦争には関係ありません
高句麗戦は、倭が半島南半分を事実上支配していたので、いわば国境線戦ですから
戦うしかなかったでしょう。
クナ戦は、どんな戦いですか?聞いたことがありません。
どれも同時進行だったとしても、おかしくないと思いますが?
934 :
日本@名無史さん :04/07/19 01:55
ああ、確かにクナは「女王の隷下にあらず」だけで戦ったとは言えないですね 俺のはやとちりか。
926 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/07/19 01:05 読み方なんて解釈はいくらあろうとも結果は同じなら 極論、どうでもいいって 意地の張り合いが真相を暈すほうがダメダメだよ 君が本当に主張したい事は読み方などではないのだろう? ↑ 常識が如何にはかないかの好例だな。実は「いと国王」の読みも一時教科書に 載ってたんだが、知らないだろうな。かなり幼稚そうだし。 では、「かんのわのな国」という形式で、何の政治的意味があるのか論証して貰いた いもんだな。そんなやたらに乱発した物じゃないし、じゃあ「わ国」にはどんな扱いを したのかと。中国は常に直接外交を結ぶのが鉄則だよ。
奴国王というのは倭の諸国の中の一国の王であって 倭国全体の代表じゃないってことだろ。
↑ 「わ国」って(プ
938 :
日本@名無史さん :04/07/19 04:16
通説で何ら矛盾や解釈不能点が無いのに 奇説を取り上げてどうしろというのかな?
941 :
日本史@名無しさん :04/07/19 07:37
939 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 04/07/19 04:29 通説で何ら矛盾や解釈不能点が無いのに 奇説を取り上げてどうしろというのかな? 939 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 04/07/19 04:29 通説で何ら矛盾や解釈不能点が無いのに 奇説を取り上げてどうしろというのかな?
>>919 よ、そう怒らずとも
>>917 は、「なんとなく」氏に対して皮肉を言ってるんでそ?
額面どおりに受け取ってどうするかな(w
もうそろそろ前進した方がいいよ、みんな
>>935 何が言いたいのかわからないが、奴国の位置はここです
博多遺跡群
遺跡の初現は弥生時代前期にまで遡りますが,
特に,弥生時代後期から古墳時代前期にかけては,
方形周溝墓・玉造工房・道路遺構などの重要遺構や,
畿内系・山陰系・東海系・朝鮮半島系などの
多量の搬入土器などが知られています。
古墳時代中期には,埴輪を伴う全長56m以上の前方後円墳
・博多1号墳も造営されました。
古墳時代後期以降,特に6世紀後半から奈良時代までは,
再び集落が営まれ,対外貿易の一端を担っていたものと考えられています。