長男:信康(岡崎)
次男:秀康(結城)
三男:秀忠(徳川)
四男:忠吉(東条松平)
五男:信吉(武田)
六男:忠輝(長沢松平)
七男:松千代(長沢松平)
八男:仙千代(平岩)
九男:義直(尾張)
十男:頼宣(紀伊)
十一男:頼房(水戸)
武田信吉の、命日って、9月11日だよね。
なんか、複雑・・・。
1633(寛永10)年、3代将軍家光が病床に伏したとき、尾張藩主義直は大軍を率いて上京。
松平信綱をはじめ幕閣は大慌て。老中が尾張藩邸で義直にその理由を問いただすと、
「家光はホモDQNだから、子供がいないまんま死んじゃったら跡継ぎ俺しかいねえだろ。
だから忙しいとこわざわざ来てやったんだよ、感謝しな」
とすげなく返された。これ以降、義直と家光は犬猿の仲に。ちなみに義直が慶安3年5月に亡くなると、
家光はその後1年足らずの慶安4年4月に義直と同じ中風症で卒去。不思議なめぐり合わせといえる。
6 :
日本@名無史さん:04/06/21 13:33
↑なんで京都に?
7 :
日本@名無史さん:04/06/21 15:06
8 :
名無しさん@熊山 ◆9G12fmecqU :04/06/21 15:26
とりあえず8でいいか…。
9 :
日本@名無史さん:04/06/21 17:06
もし秀頼が生まれずに、秀次も小牧・長久手の戦いで戦死していたとして。
秀吉が窮余の一策として、秀康を後継者に指名していたら意外と面白かったろうに。
10 :
日本@名無史さん:04/06/21 17:15
13 :
日本@名無史さん:04/06/22 00:58
尾張家と紀伊家は家綱が生まれるまでは四代将軍の最有力候補だったと思うんだけど
それがもとで義直と頼宣が対立したりといったことはなかったのかな?
まぁ、家光に男子誕生なければ、家光の娘を娶った光友がすんなり養子になっただろうから
頼宣としては将軍の座は諦めてたのかもしれないけど
家光が娘を義直の息子に嫁がせたのは、
>>5にあったような対立を少しでも
和らげるためだったらしい。なお大河ドラマ「八代将軍吉宗」では中村メイコが演じていました。
年齢差一回りのおしどり夫婦だったそうな。
15 :
日本@名無史さん:04/06/26 12:29
>>14 千代姫が綱吉(津川雅彦)に向かって、「私が将軍になりましょうか?」みたいなことを言っていたような気がする
16 :
日本@名無史さん:04/06/26 18:39
光友、光貞、光国の頃は御三家は尾張が本家格で仲良しだったはず。
17 :
日本@名無史さん:04/06/28 18:50
>>16 そうはいっても、晩年は六代将軍をめぐる確執は結構あったんではないかと
18 :
日本@名無史さん:04/06/28 19:51
>>17 ??
六代将軍は五代綱吉の娘婿の尾張吉通か、甥の甲府宰相綱豊(家宣)以外に
選択肢はない。紀伊は出番ないし、水戸は論外でしょう。
20 :
日本@名無史さん:04/06/28 22:48
>>18 >>19が正解。吉通は記憶ちがいでしょう。あるいは不幸にして某歴史雑誌の
いいかげんな記事を目にしてしまったか。。。
大河ドラマ「八代将軍吉宗」より
綱吉(津川雅彦)は紀州藩主徳川綱教(辰巳琢郎)に娘の鶴姫(斎藤由貴)を嫁がせていたので
義理の息子になる綱教を跡継ぎにしようと当初考えていた。しかし水戸黄門徳川光圀(長門裕之)が推す
甥の甲府宰相徳川綱豊(細川俊之)にもシンパシーを感じていた。綱吉自身は紀州を時期将軍に
しようと計画していたようだが、1705年前後に結局母桂昌院(京マチ子)や徳川光貞(大滝秀治)、
綱教、鶴姫が相次いで亡くなり、綱豊を跡継ぎに決めて1709年綱吉は亡くなった。
22 :
日本@名無史さん:04/06/29 07:05
尾張綱誠(家光の娘・千代姫の子)
紀伊綱教(綱吉娘婿)
甲府綱豊(家光次男綱重の子)
で、六代将軍を争ってたで間違いないよね?
綱誠と綱豊って、綱吉の甥ってことで立場的には対して変わらんのね〜
23 :
日本@名無史さん:04/06/29 09:35
男系と女系では全然違うでしょう。
24 :
日本@名無史さん:04/06/29 11:10
尾張綱誠の生母って、千代姫であってるの?
千代姫で、合ッてます。
徳川光友(1625〜1700)
正室千代姫(1637〜1698)
嫡男徳川綱誠(1652〜1699)
松平義行(1656〜1715)
光友と側室との間の子女は3人。養女4にんです。
間違えていたらすみません。
26 :
日本@名無史さん:04/06/30 19:33
息子たちの生没年見てて気がついたんだが、
秀忠まで早死にしてたら二代将軍は義直だったのかな?
27 :
日本@名無史さん:04/06/30 19:45
早世っていってもどの時点かによって変わってくるんじゃないか?
IF仮定に一番好都合なのは関が原直後あたりかな?
跡継ぎは秀忠にほぼ決まっていたが、彼にはまだ子がなかった。
でもって義直はちょうど生まれたところだ。
さすがにその時点では義直を後継にすることはできまい
問題は、その時点で後継を決めるか先延ばしにするかだが・・・どうかね?
この時点で決めるとすれば
秀康・忠吉・信吉はいずれも他家を継承済み
信吉は病弱であるし考えにくいか
忠輝はまだまだ幼少
となると秀康か忠吉を呼び戻すことになるのかな
30 :
日本@名無史さん:04/06/30 22:44
秀忠が家康より前に死んでいたら、あとを継げるのは若年の忠輝かお子ちゃまばかりということに。
やばやば
31 :
日本@名無史さん:04/06/30 22:57
忠輝も他家を継いでるから
御三家の3人だけが候補だろ?
32 :
日本@名無史さん:04/06/30 23:06
1605年の段階で秀康に将軍職を譲れば、三代目は忠直に!
33 :
日本@名無史さん:04/06/30 23:12
家康自身も、秀忠まで氏んじゃってたら、もしくはとてつもない無能だったら
どえらいことになってたと内心ひやひやしてたことだろう。
万全だと思っていたスペアの忠吉までコロっと逝っちゃったわけだし。
34 :
日本@名無史さん:04/07/01 00:58
もし優秀な忠吉が長生きしていたら、家光と確執が生じ、幕閣も2派に割れて
いたりして。
35 :
日本@名無史さん:04/07/01 01:30
秀康以下10人全員が長寿だったら...
もし秀吉死去〜関が原直後の時点で秀忠が無能もしくは病死したとしたら、
秀康→結城家・豊臣家への養子経験がネック
忠吉・信吉→養子経験はあるが秀忠にもっとも年齢の近い兄弟
忠輝→養子経験や家康に疎んじられたことが障害
松千代・仙千代→まだ乳幼児で無事にそだつかどうか不明
義直→まだ生まれたてで無事に成人できるかどうか保証出来ない
これらから忠吉か信吉、ぎりぎり義直や松・仙あたりが有力視されたと思われる。
家康の弱点は男子が11人もいながら、1580〜90年(関が原前後に成人する年代)に
男子に恵まれなかったこと。家康は実子以外はまず跡継ぎにしない性格だから
子供の養育には人一倍精神を使っただろうね。
37 :
日本@名無史さん:04/07/01 02:39
まあ秀吉が死んだ1598年から家康が隠居・駿府に移る1607年頃までの
約10年間が仮定するのに都合がいい時期だ。
養子経験があるといっても忠吉・忠輝は親族である松平家へ行ったわけで、
古巣に戻ることにそれほど周囲の抵抗もないと思われる。家康は二代目には
政治に手腕を発揮できる文官型の人間を望んだと思われるから、忠吉が有力候補に
なったと思われる。ただこの仮定は関が原以降は少々厳しいのがネック。というのも
忠吉は関が原で負傷してから病気がちになり、いつ死んでもおかしくない身体になって
しまったため。こうなると家康自身はあまり気乗りしなかっただろうが秀康を呼び戻した
可能性もある。
1605〜7年ぐらいになれば義直ら御三家三兄弟も生まれているし、彼らに跡継ぎの
可能性も出てくる。家康が三兄弟を手許において育てたのは、彼らだけはなんとしても
成人してスペアになってほしかったという思いがあるんだろうね。秀忠は姉さん女房で恐妻家
だったので家康は自身の孫の代まで気を遣ったと思うよ。
38 :
日本@名無史さん:04/07/01 04:29
んだな。天下を手中に収めた時点の家康が末子三人を優遇したのは
親としての愛情以外にも、将軍家を補佐する一門衆を形成という仕事が
もうこの三人の幼子たちにしか託せないと分かっていたからだろうな。
他の秀忠以外の息子たちは、ことごとく家康より先に死んでしまったし。
>>38 それもある程度正しいけど、家康存命時は家光の弟忠長
(家康が生きてるときはまだガキだったが、
成人したら大藩を任されるのは間違いなく、実際任された)、
秀康が立てた福井藩など、のちの御三家のような
一門衆の重鎮はすでに確立しつつあった。
ただ、どちらも乱行を原因として早期に改易されて、
結果としてこの三兄弟の子孫が一族の重鎮になった。
御三家成立は偶然の要素も結構強い。
ところで、秀忠早死の場合を考えると、跡継ぎ候補は家康の息子だけでなく
秀康の息子が将軍家を継いでいた可能性もあったんじゃないかな?
秀康自身は無理だろうが。
長男忠直は1595年生まれで義直より5つ年長。
家康存命時は乱行もなかった。
福井藩の存続は、忠直の弟忠昌がいるので問題なし。
1607年までに生まれた家康の子孫
1信康(1559−1579)→女児2人→小笠原忠脩(1594−1615)、小笠原忠真(1596−1667)
2亀姫(1560−1625)→奥平忠昌(1577−1614)、松平家治(1579−1592)、松平忠政(1580−1614)、
松平忠明(1583−1644)
3督姫(1565−1615)→池田忠継(1599−1615)、池田忠雄(1602−1632)、池田輝澄(1604−1662)、
池田政綱(1605−1631)、池田輝興(1611−1647)
4振姫(1580−1617)→蒲生忠郷(1603−1627)、蒲生氏知(1605−1634)
5秀康(1574−1607)→松平忠直(1595−1650)、松平忠昌(1597−1645)、松平直政(1601−1666)、
松平直基(1604−1648)、松平直良(1605−1678)
6秀忠(1579−1632)→徳川家光(1604−1651)、徳川忠長(1607−1633)、千姫(1597−1666)、
珠姫(1599−1622)、勝姫(1601−1672)、初姫(1603−1630)
7忠吉(1580−1607)・8信吉(1583−1603)・9忠輝(1592−1683)・10松千代(1594−1599)・
11仙千代(1595−1600)・12義直(1600−1650)・13頼宣(1602−1671)・
14頼房(1603−1661)・15松姫(1595−1598)・16市姫(1607−1610)
さすが天下人家康。何人いるのやら・・・
41 :
日本@名無史さん:04/07/01 21:08
>>40 家斉と家慶、それに水戸斉昭もつくってくらはい。
>>40 3と5は正室の子供じゃないとカウントできないのでは?
>>40だけど、
池田5兄弟は督姫が正室として池田輝政と再婚して産んだ男子。
結城秀康の男子のうち、
側室:中川氏→1595-1650 忠直 、1597-1645 忠昌
側室:駒(父:三谷長基)→1601-1666 直政(出雲松江藩へ)
側室:三好氏(父:三好長虎)→1604-1648 直基(武蔵川越藩へ)
側室:奈和(父:織田信益)→1605-1678 直良(播磨明石藩へ)
いずれにせよ、督姫と秀康自身が家康の血をひいている以上二人が誰と結婚しても家康の孫という
ことにはなる。ただしその分家康との血縁的距離は広がってしまうが。
仮に正室の子供のみとなると、松平忠直も計上できなくなる。家康は豊臣の陣で忠直や池田忠継を優遇した
ことから、別に内孫・外孫関係なく重視したと思う。ただしあくまで自分の孫としてであって
自らの跡継ぎとして見ていたわけではないことに注意。
>>41 http://nekhet.ddo.jp/people/japan/tokugawa01.html これを参照ください
44 :
日本@名無史さん:04/07/02 09:46
秀康の中川氏の子供二人にだけ忠の偏諱
>>40だけど、この27人の男子のうち
>>26や
>>28、
>>32、
>>36の仮定から順番にから見ていくと
奥平忠昌→奥平家を継がなければならない
松平家治→1592年に死亡している
松平忠政・松平忠明→考えられなくはない
小笠原忠脩・忠真→源氏の名門小笠原家の嫡子だが、候補の一人
池田忠継→既に池田利隆が嫡子として存在し、候補の一人(実際、家康が忠継を養子にしようとしたことがある)
池田忠雄・輝澄・政綱・輝興→幼年で可能性は薄い
蒲生忠郷・氏知→候補の一人だが、可能性は薄い
松平忠直→有力とまではいかないが、それなりに可能性はある候補
松平忠昌・松平直政・松平直基・松平直良→候補の一人だが、忠直が継いだ場合福井藩主に滑り込む可能性が高い
家光・忠長→省略
忠吉→一門の東條松平家を継いでいるので抵抗は少ないが、関ヶ原以降の病身がネック
信吉→病弱で無官、武田氏を継いでいるので可能性は低い
忠輝→父家康に疎んじられたり、伊達政宗を岳父とすることがどう影響するのか注目
松千代・仙千代→幼少のうちに死亡
義直→幼年で可能性は兄忠吉や忠輝より低い
頼宣・頼房→幼年すぎで可能性は義直より低い
どうかなあ。けっこうこの仮定は面白いね。秀吉の死以前から関が原前後、家康の大御所就任と
それぞれ状況が大きく違うし。
>>45の訂正
松平忠政・松平忠明→家康と血縁面で距離が近く、外孫とはいえ考えられなくはない
池田忠継→既に池田利隆が池田家の嫡子として存在するので、将軍職後継候補の一人
松平忠直→有力とまではいかないが、父秀康と比べるとかなり可能性の高い候補
47 :
日本@名無史さん:04/07/02 18:07
忠明は家康の養子扱いだよ。井伊直孝・土井利勝とならんで幕閣の枢要。
松平民部と小笠原権之丞を追加してやってください。
>>40に入ってないけど、本多忠刻(1596−1626)も信康の孫だよね。
50 :
日本@名無史さん:04/07/03 02:13
本多忠刻って千姫の再婚相手だっけ?
>>50 そうだよ。腎不全で結婚後わずか10年で急死。千姫との過激な性交渉(千姫が積極的すぎた?)
の末に死んだと噂された可哀想な人物。まあこれは伝説だけど。千姫は家康の孫だから、
彼は自分より年齢は1個下でも一つ上の世代の親族と結婚したわけだね。
それで彼も含めて、秀忠が夭折した場合の家康の後継者はいったいだれになっただろうか?
小笠原忠脩(1594−1615)、小笠原忠真(1596−1667)、 本多忠刻(1596−1626)、本多政朝(1599〜1638)、
奥平忠昌(1577−1614)、松平家治(1579−1592)、松平忠政(1580−1614)、 松平忠明(1583−1644)、
池田忠継(1599−1615)、池田忠雄(1602−1632)、池田輝澄(1604−1662)、 池田政綱(1605−1631)、
池田輝興(1611−1647)、蒲生忠郷(1603−1627)、蒲生氏知(1605−1634)、 結城秀康(1574−1607)、
松平忠直(1595−1650)、松平忠昌(1597−1645)、松平直政(1601−1666)、 松平直基(1604−1648)、
松平直良(1605−1678)、徳川家光(1604−1651)、徳川忠長(1607−1633)、 松平忠吉(1580−1607)、
武田信吉(1583−1603)、松平忠輝(1592−1683)、松平松千代(1594−1599)、松平仙千代(1595−1600)、
徳川義直(1600−1650)、徳川頼宣(1602−1671)、徳川頼房(1603−1661)
っていうか、なんで外孫まではいってんの?
53 :
日本@名無史さん:04/07/03 08:41
外孫も一応家康の孫には違いないね。家康の内孫は1600年の段階で秀忠を除けば
信康(ただし彼の娘の子)と秀康の血統しかいない。家康としては松平忠明や池田忠継を
養子扱いしたように外孫も重要視していた。それは、忠吉や忠輝らが子供を遺さなかったため。
確かに内孫(忠直ら5人)より可能性は低くなるが、ここでは一応可能性や家康の血を引くという
観点から外孫まで載せてあるんだろう。まあ可能性から見ていこうじゃんか。
54 :
日本@名無史さん:04/07/03 10:51
>>51 秀忠が何才で夭折する条件?
家康が夭折時、既に15才だから義直でいいんじゃない?
幕閣も充実してた時期だから、なんとかなったでしょう。
55 :
日本@名無史さん:04/07/03 11:54
秀忠って若いとき病気で死にかけたってことあったっけ?
家光は何度もあぶないときがあったようだが
56 :
日本@名無史さん:04/07/03 13:08
>52
内孫の親 秀康が異常に家康から嫌われていたので
あと、末子3人の母系 あまりに悪すぎ、徳川家が安定期になっていない時代、
三河譜代以外の香具師が幼主についていったかどうだか?
57 :
日本@名無史さん:04/07/03 13:51
この際母系なんて関係ないのでは?准正室格の西郷氏以外はどれも同じさ。
>>56 秀康は嫌われていたといってもそれなりの待遇を受けていたと思うが?
秀康・忠輝はそれぞれ双子だったから忌み嫌われたとかいう話があるけど
当時双子でどうこうという事例は他にあるのかな?
60 :
日本@名無史さん:04/07/03 16:01
>>55 夭折ではないが、関が原遅参時に親子関係は怪しくなった。
表向きは。
秀忠ってすごい悪人じゃないの?
なんか余りにも都合良くライバルが消えていってるんですけど。
君ら歴史オタの浅学な知識よりも素人同然の自分の直感を当てにしたいね、僕は。
>>61 ご自分の霊感を披露されるならここより三戦板の方が向いているかと思われ
63 :
日本@名無史さん:04/07/03 17:39
>>63 なんでわかった?ってかまだ読みかけなのだが。
こうみてくると秀忠の存在というのはやはり大きいな
大坂城代
↑
クビ
68 :
日本@名無史さん:04/07/03 22:44
秀忠が夭折してしまったと仮定して、その時期を大きく5つに分けて嫡子の可能性が高い候補を挙げてみると、
1秀吉死去(1598年)以前
結城秀康、松平忠吉、松平忠政、松平忠明
2関ヶ原の戦いから家康の征夷大将軍就任まで(1600〜1603年)
結城秀康、松平忠吉、松平忠政、松平忠明、松平忠輝、小笠原忠脩、松平忠直、小笠原忠真、本多忠刻
3家康の隠居・駿府移住(1605〜1607年)
松平忠政、松平忠明、松平忠直、松平忠輝、小笠原忠脩、松平忠直、小笠原忠真、本多忠刻、池田忠継、徳川義直
4秀頼成人、加藤清正・浅野幸長・池田輝政死去(1612年)前後
松平忠明、松平忠輝、松平忠直、池田忠継、徳川義直、徳川頼宣、池田忠雄、徳川頼房、徳川家光(生まれていたと仮定)
5大坂の陣〜家康死去(1614〜1616年)前後
松平忠直、池田忠継、徳川義直、徳川頼宣、徳川頼房、徳川家光(生まれていたと仮定)
いくら可能性が0じゃないとはいえ外孫は無理じゃないの?
しかも家臣の家じゃ
そんなやつが家督を継ぐ事態になる前に徳川幕府が崩壊して、
豊臣秀頼なり他の諸侯なりが取って代わりそうな気がする
70 :
日本@名無史さん:04/07/03 23:03
外孫は内孫が全滅したときのサブ要員だな
ところで、異父兄弟とその子息たちは全く取り上げてもらえていないが目はないか
71 :
日本@名無史さん:04/07/03 23:37
>>69 前に
>>56が書いているように、家康は内孫が少ない。この問題は秀忠の夭折の時期がいつ頃か
という仮定だから、時期設定次第で候補者はいくらでも変わる。
>>70が言うようにあくまで外孫はスペアであってまったく無理とまではいえないだろう。
>>70 家康の異父兄弟でも可能性はないとは言い切れないよね。でも家康はなるべく自分の血を引いた人間を
探すような気がする。じゃないとそれこそ
>>69がいうようなことになりかねない。
ただ秀頼に徳川家にとってかわるような体力はあまりないと思う。
基本的に孫の世代なら督姫、秀康の血統が有力と思われる。
72 :
日本@名無史さん:04/07/03 23:38
>>69 家臣って 本多忠刻だけじゃない?
あとは、奥平も小笠原も客分でしょ?
>>71 内孫が少ないのかどうか知らんけど、実子がいるじゃん。
健康に不安があったり、まだ幼児だったりだけど。
適当な後継ぎがいなければ彼らが成長するまで
家康が誰にも家督を譲らずにがんばりゃいいだけの話では?
内孫ならいざ知らず、外孫なんぞの出る幕はないとおもわれ。
74 :
日本@名無史さん:04/07/04 00:51
家康って贔屓が酷いからねぇ。末子3人も家康が更に長生きしたら
忠輝、忠直状態だったかも知れないし・・・
可愛がり方は
督姫>秀忠>>>信康系>>>>>>>>>その他>>>>>>>>>>>>>秀康>>>>>忠輝
って感じだと思われ
75 :
日本@名無史さん:04/07/04 01:18
>>73 人生50年の時代、家康は75歳まで生きたけどそれはあくまで結果論。
彼ほど綿密かつ老獪な人間が自分の寿命に胡坐をかいて悠長に跡継ぎ問題を構えていたとは思えない。
実子といっても、忠輝は周知のごとく忌み嫌われ御三家三兄弟の場合は元服するまで家康が生きているという
保証がない。家康は実子や内孫だからといってそれだけで優遇したわけではない。逆に松平忠明や池田忠継、
本多忠刻らの外孫は忠輝や忠吉以上に厚遇している。
家康の子供の中でそれこそ手塩にかけて育てられたのは早期に自刃した信康と義直ら3兄弟ぐらい。
内孫がいるとはいえ、家康は秀康の血統をあまり好まなかった。大坂の陣で活躍した忠直に
ろくな恩賞を出さなかったことからも分かるように、家康は内・外を問わずえこ贔屓の強い人間だった。
内孫より可能性で大きく劣るとはいえ、外孫をいとも簡単に切り捨てることはないだろう。
外孫は、それこそ
>>70でいうスペア。それ以上でもそれ以下でもない。
76 :
日本@名無史さん:04/07/04 01:46
>>75 >松平忠明や池田忠継、
>本多忠刻らの外孫は忠輝や忠吉以上に厚遇している。
え?まじで?詳細キボンヌ。
なんというか・・・ぶっちゃけた話、外孫云々って、系図オタが知識を披露したいだけなんじゃないか?
実子がいるのに、そんな香具師ら連れてきたら御家騒動の火種撒き散らすようなものだろうに。
78 :
日本@名無史さん:04/07/04 02:34
>>76 池田 鳥取藩主 岡山の支藩ぐらいがいいところなのに鳥取に別家をたて親藩扱い
奥平 大阪藩主 大阪城主
本多 姫路藩主 三河譜代一の大藩だった。でも、あぼーんしたら姫路取り上げ
79 :
日本@名無史さん:04/07/04 03:14
>>77 あんたはそういうふうにしかとれんのか?まあ確かに内孫・外孫を連れてきたら
人間関係はより複雑になるが。いまのところ
>>26にあるように秀忠が夭折したら誰が嫡子になった
可能性があるかって話でしょ。
っていうか、
>>系図オタが知識を披露したいだけなんじゃないか?
こういう言い方をされたら
>>26以降のスレの流れはまったく成り立たないし、話の腰を折るような言い方だよな。
家康が単純に実子を優遇・嫡子認定しなかったことや実子の年齢層が本能寺以前と家康の関東異動後とに
二極化していたから
>>26のような疑問が生まれたわけで。
まあ結論からいうと、忠吉か忠輝、義直ぐらいってことか。
>話の腰を折るような言い方だよな。
頓珍漢な話をするのはどうか。
家康は嫡子認定しなかったわけではない。
秀忠という嫡男がいたから他の息子達を養子に出せたわけだろ。
秀忠が死んだら他の息子、あるいは生まれていれば
家光あたりを後継者にするだけだろ。
毛利元就のやったことと同じ。
息子、内孫あたりから後継者を考えるんならともかく、外孫まで持ち出すのは
どうかと思う。
82 :
日本@名無史さん:04/07/04 04:26
よく分からんけど、別に血縁者ということで内孫も外孫も含めて
ここで議論しているんでしょ。可能性があるかないかは
そこから話し合っていけばいいんじゃない?
>>外孫は内孫が全滅したときのサブ要員だな
>>外孫は、それこそ
>>70でいうスペア。それ以上でもそれ以下でもない。
これにつきると思うけど。というか、時代設定が漠然としていてつかみどころが
ないんだよね。それで結局、秀忠が死んだとしたら具体的に誰がなった可能性が高いんだ?
85 :
日本@名無史さん:04/07/04 05:05
まあ気を取り直してもう一度。
豊臣秀吉死去以前、関ヶ原の戦い前後、家康の隠居、大坂の陣の2〜3年前
これぐらいに分けて考えていこうよ。
>>45に書かれている条件でも参考にしてさ。
86 :
日本@名無史さん:04/07/04 05:30
>>85 家康の死ぬ時期も同じく設定が必要だろ。
・関ヶ原以前に秀忠が死んだ場合
忠吉で決定関ヶ原で無茶をしなかったら忠吉が生き延びると見る。
・家康隠居やそれ以降に後死んだ場合
家光に決定 忠輝は切腹、池田、小笠原、奥平が後見
1秀吉の死と前後して秀忠が死んでしまった場合
同母弟の忠吉が有力、秀康は豊臣家への養子経験、信吉は武田家再興によりコースから外れる
2関ヶ原の戦い直後〜家康の開幕までに秀忠が死んだ場合
忠吉、忠輝(可能性は低すぎだが)、秀康は80万石近い禄を与えて敬遠、万が一で義直
3家康の大御所就任・駿府移住の頃秀忠が死んだ場合
(秀忠に男子がいない場合)忠吉、義直、忠直(可能性は低すぎだが)、忠輝は義父伊達政宗の存在が響きアウト
(秀忠に嫡子がいた場合)家光もしくは忠長、万が一で義直
4豊臣秀頼成人の頃(1612年前後)に秀忠が死んだ場合
(秀忠に男子がいない場合)義直に内定、外孫の松平忠明(奥平)・池田忠継・小笠原忠脩が幕閣に就任
(秀忠に男子がいる場合)家光もしくは忠長
5家康の死(1616年)前後ないしそれ以降に秀忠が死んだ場合
(秀忠に男子がいる場合)家光に決定、家康の内孫・外孫はすべて後見役に回る
(秀忠に男子がいない場合)義直に決定、尾張藩主は池田・奥平・奥平一派から選定
88 :
日本@名無史さん:04/07/04 11:34
夜中の間に話がループしていたようだな
>>87をたたき台にして話をすすめていこうじゃないか
> 1秀吉の死と前後して秀忠が死んでしまった場合
> 同母弟の忠吉が有力、秀康は豊臣家への養子経験、信吉は武田家再興によりコースから外れる
同意
あとは忠吉がどこまで生きて、子孫を残すことができるかどうか
無嗣であれば結果として義直が三代目か?(忠吉が嫡子のままで終われば二代目だが)
> 2関ヶ原の戦い直後〜家康の開幕までに秀忠が死んだ場合
> 忠吉、忠輝(可能性は低すぎだが)、秀康は80万石近い禄を与えて敬遠、万が一で義直
これも同意
そして忠吉以後のことは同上
> 3家康の大御所就任・駿府移住の頃秀忠が死んだ場合
> (秀忠に男子がいない場合)忠吉、義直、忠直(可能性は低すぎだが)、忠輝は義父伊達政宗の存在が響きアウト
> (秀忠に嫡子がいた場合)家光もしくは忠長、万が一で義直
秀忠が将軍就任後ということで三代目の話になるわけだが
家光は1604年に生まれたばかり、忠吉は1607年に逝去・・・難しい時期ですな
> 4豊臣秀頼成人の頃(1612年前後)に秀忠が死んだ場合
> (秀忠に男子がいない場合)義直に内定、外孫の松平忠明(奥平)・池田忠継・小笠原忠脩が幕閣に就任
> (秀忠に男子がいる場合)家光もしくは忠長
1612年であれば家光も数えで9歳、取りあえず三代目を嗣がせて家康が後見という形が濃厚か
しかし家光13歳のときには家康が死んでしまうわけだから、政権は不安定の可能性大
> 5家康の死(1616年)前後ないしそれ以降に秀忠が死んだ場合
> (秀忠に男子がいる場合)家光に決定、家康の内孫・外孫はすべて後見役に回る
> (秀忠に男子がいない場合)義直に決定、尾張藩主は池田・奥平・奥平一派から選定
若年の将軍では不安だが、この時期も家光で決まりだろう
89 :
日本@名無史さん:04/07/04 13:34
秀忠が関が原以前に逝去した場合、関が原の戦いがあったかどうかもわからな
いのでは? 中仙道を進む徳川本隊の隊長は誰?
家康も齢60、世継ぎがいなければ江戸でのんびり余生を送ったかもしれない。
などというと、今のお題が成り立たないか。
>>90 それだと彼が真田昌幸にいいようにやられて後継者になれないのでは?
やはり義直?
92 :
日本@名無史さん:04/07/04 16:09
>>91 秀忠はいいようにやられても後継者に納まっておりますが?
むしろ昌幸を翻弄して関ヶ原後方からしんしゅつするほどの手腕を見せていたら危険視されていたかも
何が危険?
95 :
日本@名無史さん:04/07/04 20:25
越前家は何で御三家になれなかったの?
んで、家康は秀康を自分の子供かどうか疑ってたの?
96 :
日本@名無史さん:04/07/04 20:38
>>95 それもあるだろうし、いったん秀吉の養子になっているのが
ダメだったんだろう。
97 :
日本@名無史さん:04/07/04 20:49
98 :
日本@名無史さん:04/07/04 20:54
御三家になれなったが制外の家
99 :
日本@名無史さん:04/07/04 20:58
>>92さん ガイシツかもしれんが。
確かに秀忠は中山道周りで真田にてこずって関ヶ原には遅参して家康から勘気を蒙った。が、結果は2代将軍になっている。
一説に東軍と言っても秀吉恩顧の大名ばかりなので、関ヶ原で負けても良い様に徳川軍本体を温存するためにわざと本体は中山道回しにして関ヶ原の本戦には烏合の衆である秀吉恩顧の侍達で固めたと言う話だ。
いわいる家康の腹芸と言われている。
もう、秀忠を後継者に指名することは関ヶ原以前に内々にすでに決まっていたんですね。
>>99 官位、正室、養子に出されていない等々から見るに、
内々に、じゃなくてほぼ公式に決まってたんじゃないのかな?
101 :
日本@名無史さん:04/07/04 21:47
>>98 それも忠直改易まででしょう
>>99 温存するためというより、若輩の身で実戦経験のない秀忠を補佐させるべく
信頼できる家臣たちを付けたのだと思います
(結果、それが仇となってゴタゴタが起きたわけですが)
>>100 おっしゃるとおり
家康としては
長男信康→期待をしていたが武田家へ内通していたと疑われ信長の命により自害させられる
次男秀康→3歳まで家康に認知されずその後も豊臣家への養子に出されて疎外される
ときたら三男秀忠しかいないわね、順当に考えて。しかもさほど悪いタマじゃない。
だから関ヶ原以前に死んだら同母弟の四男忠吉に後継順位が下がっていくだけだと思う。
そして忠吉が関ヶ原で負傷・病身になったら武田家を復興した五男信吉を飛ばして
松平家一門を相続した六男忠輝、万が一の場合夭折した七男・八男を飛ばして九男義直まで
下っていくと思う。
家康としては汗をかくのは自分の代で終わりにして、二代目は文官型の温厚なタイプを
求めたので、勇猛でならす秀康や忠輝では少々不安があったと思う。
また、秀康は豊臣家と親しいこと、忠輝は岳父が東北のドン伊達政宗であることなど
身内の存在でも後継レースから外れたと思う。
余談だが家康は長女亀姫の息子松平忠政・忠明兄弟を養子とし、次女督姫の息子池田忠継に
幼少の身で32万石を任せて寵愛している。このあたり忠吉や信吉が歯軋りしそうな待遇
かもしれないね。
103 :
日本@名無史さん:04/07/04 23:40
ていうか、他姓の者に家を継がせずなのに、なぜ池田が候補に?
>>102 >余談だが家康は長女亀姫の息子松平忠政・忠明兄弟を養子とし、次女督姫の息子池田忠継に
>幼少の身で32万石を任せて寵愛している。このあたり忠吉や信吉が歯軋りしそうな待遇
>かもしれないね。
そうかな?忠吉、信吉の待遇ってそれなりによかったと思うんだが。
松平忠政・忠明兄弟を養子にしたと言ったって名目上の養子に過ぎないし、
池田忠継の32万石も雄藩の分割という側面もある。
まあ池田家は亀姫のおかげで雄藩になれたという向きもあるが。
105 :
日本@名無史さん:04/07/05 00:01
松平光長
106 :
日本@名無史さん:04/07/05 00:10
↑彼は綱吉を生涯軽蔑していた。
107 :
日本@名無史さん:04/07/05 00:20
彼は子供の頃、福井城に籠城した。
ただ信吉は夭折したために無位無官に終わってしまったし、ちょっと不憫な人間ではあったね。
父の征夷大将軍就任を見届けて死んだことは幸せだったかもしれないけど。
>>104 亀姫じゃなくて督姫。中国地方への睨みを利かすという意味で、岡山・鳥取・姫路を親族の池田家に
与えた意義は大きい。家康は督姫の初の男児・忠継をゆくゆくは引取ろうと考えていたらしい。
何らかの形で徳川宗家を補佐する重職を担ってもらおうという構想があったといわれる。
結果的には1615年2月に忠継が17歳の若さで病死してしまいこの構想は破綻してしまったが。
家康が忠継を可愛がった影響か督姫・忠継と当主利隆との間に微妙な陰ができてしまったそうな。
ただその後の名君池田光政や最後の藩主茂政(慶喜の弟)など徳川家との友好関係を維持しつつ
明治を迎えられたのは幸運だったね。
岡山は利隆系(光政)
鳥取は忠継系(光仲)
>104
>池田忠継の32万石も雄藩の分割という側面もある。
忠継の岡山と忠雄の淡路は新知だから、雄藩の分割とは言えないと思いますが。
実際、姫路は利隆がそのまま継いでいるわけだし、分割というよりも、単に家康の
外孫を大名として新たに取り立てただけではないでしょうか。
111 :
日本@名無史さん:04/07/05 02:38
家康の外戚池田家については、こんな話がある。(
http://www.clsjp.net/sakurada/kaidan6.htm)
池田輝政には六人の男子がいた。
このうち長男・利隆は、先妻の中川一秀(なかがわかずひで)の娘を母とし、
次男・忠継以下が徳川家康の娘・督姫(とくひめ。富子・おふう・良正院とも)を母としていた。
このため、輝政の死後に後を継いだ利隆は、督姫にとって継子ということになる。
督姫は利隆がかわいくなかった。実の子かわいさに、憎たらしかった。
(早く死ねばいいのに)
初めは思っていただけであろうが、次第に殺意を抱くようになっていった。
ある日、督姫は利隆がやって来たので、饅頭を出してやった。
「私の手作りですのよ。おほほっ!」それは、特製の毒饅頭だった。
「どうぞ」侍女が利隆の前に饅頭の皿を押し進めた。
侍女が開いた手のひらには「毒」と書いてあった。督姫の悪計をなんとか
利隆に伝えようとした侍女は、考えて事前にそう書いておいたのだ。
利隆は気づいた。
「これはうまそうですね」と、言っておきながら、なかなか食べようとはしなかった。
そこへ弟の忠継がやって来た。兄の前に置かれていた皿を見つけた。
「お、饅頭!」忠継は喜んだ。
「兄貴、一つもらうぞ」彼は饅頭を手に取ると、ムシャムシャほおばり始めた。
「そ、それは……」督姫や利隆が止める間もなかった。
「うっ」と、うめいて忠継は倒れた。
「ギャー!」錯乱した督姫は、何個も何個も饅頭を食べた。自分の作った毒饅頭を食べまくった。
そして、その日のうちに死んだ。享年五十一歳。忠継もまた、二十日余り後に亡くなった。享年十七歳。
113 :
日本@名無史さん:04/07/05 14:53
↑悪人がみんな死んでよい結末じゃん
114 :
日本@名無史さん:04/07/05 22:07
>112
俺の読んだ本では、忠継はそれと気づいたが、敢えて食べた、とあったが
ちょっと格好良過ぎだよな、それは
115 :
日本@名無史さん:04/07/05 22:11
利隆も翌年死んじゃうんだよな・・・
116 :
日本@名無史さん:04/07/05 22:25
>>112 大河ドラマのダテマサムネもそんな話し合ったな
その当時はやった推理小説だったりして
というより、初期の池田家は若死にした人が多いんだよね。
池田輝政(家康の娘婿)→1613年1月25日脳卒中の発作で死去、50歳
督姫(家康の次女)→1615年2月急死、51歳
池田利隆(輝政の長男)→1616年家康の死の直後急死、33歳
池田忠継(輝政の次男、家康の孫)→1615年2月24日病死、17歳
池田忠雄(輝政の三男、家康の孫)→1632年病死、31歳
池田政綱(輝政の四男、家康の孫)→1631年死去、27歳
池田輝興(輝政の五男、家康の孫)→1647年病死、37歳
家康の外戚とはいっても、人生そのものには少々恵まれなかったみたい・・・
政宗の場合、弟が乱入してこなかったな(w
119 :
日本@名無史さん:04/07/05 23:35
督姫って、歴史読本の徳川葵の女たちに肖像画が載ってて優しそうな美人
にみえたのに、そんな人だったんだね。
120 :
日本@名無史さん:04/07/05 23:36
>>117 忠雄と政綱の間に輝澄忘れてるよー
こいつだけ唯一長生きと言っていいだろう
どーでもいいけど、「外戚」の用法間違ってないか?
122 :
日本@名無史さん:04/07/06 00:01
>117
当時なら50ぐらいは若死にとは言わないのでは?
123 :
日本@名無史さん:04/07/06 00:45
>>118 それに、政宗の場合は、実母にやられたのが痛いよね。
性格ゆがみそう。
まあ池田家は池田輝澄(1604−62、59歳)、池田光政(1609−82、74歳)、池田綱政(1638−1716、79歳)
など長生きした人もいたわけだし、何より徳川家とその後も友好関係を深められたから全国の外様の中では
かなりいい環境にあったほうだよ。
家康の次男秀康の血統も直系(忠直)は振るわなかったけど、それでも全国の松平氏の
ほとんどが秀康の支流だったというから、秀康もまあ天上で満足しているんじゃないかな。
125 :
日本@名無史さん:04/07/06 01:36
>>124 >それでも全国の松平氏のほとんどが秀康の支流だったというから
んなわけないじゃん
126 :
日本@名無史さん:04/07/06 02:01
そりゃ秀康梅毒だから
>>125 全国の松平家のうち、新潟、福井、松江、津山、前橋、明石などに秀康の血統が
残っている。ほとんどというのはあながち間違いじゃないと思う。
他に子孫を残した義直らと比べても秀康が一番血統を全国に広げたという意味では正解じゃない?
ただその盛んな性生活のおかげで最後顔が崩れてしまったのはツラいわね。
父家康が見舞いに行こうとすると断ったそうな・・・まあそりゃ人目に晒せないよね・・・
>>127 水戸の連枝だけで四家くらいあったはず。
その他譜代なども含めると、慶応元年で四十家くらい。
129 :
日本@名無史さん:04/07/06 19:31
>>127 新潟って糸魚川のことか?
紛らわしいゾ!
130 :
日本@名無史さん:04/07/06 21:23
徳川頼房の子孫@幕末
徳川:将軍慶喜、尾張慶勝、水戸慶篤、一橋茂栄、清水昭武、
松平:高松、守山、宍戸、府中、会津、桑名、浜田、島原、高須
子孫繁栄という点では秀康・頼宣・頼房が三強だな
132 :
日本@名無史さん:04/07/06 22:56
女系なら秀忠も結構なもんだと思う
133 :
日本@名無史さん:04/07/07 20:54
>>132 加賀藩の前田家には、秀忠の血筋は残っているのでしょうか?
男系では、会津松平家が秀忠の血筋では?
会津初代の保科正之が秀忠の御落胤ですから。
しかし、どの藩ま江戸時代に頻繁に養子を迎えてるから、血筋を見分けるのは困難ですね。
134 :
日本@名無史さん:04/07/07 21:23
135 :
日本@名無史さん:04/07/07 22:26
>>133 前田家には秀忠(珠姫)の血筋は残ってるっぽい
珠姫の子の光高以降の藩主は養子を迎えるにしても一門からで
その養子たちも全て光高の子孫みたいだし
136 :
日本@名無史さん:04/07/07 22:48
>>133 秀忠の血筋というと3代利常に嫁いだ珠姫のことだね。
3人の男を産んで、光高(四代藩主)、利次(富山藩初代藩主)、
利治(大聖寺藩初代藩主)全員藩主となった。
廃藩置県の14代慶寧まで秀忠の血筋は残っているが、
16代当主が養子だ。実父をたどってみると、
綱紀(加賀金沢藩五代藩主)−利章(加賀大聖寺藩四代藩主)−利道(加賀大聖寺藩五代藩主)
−利幹(越中富山藩九代藩主・養子)−利豁(上野七日市藩11代藩主・養子)−利昭(上野七日市藩12代藩主)
−利為(加賀前田家16代当主・養子)
なんで上野七日市藩から養子を迎えたか知らんが、とにかく
綱紀は珠姫の孫だから秀忠の血筋は残っていると思われる。
137 :
日本@名無史さん:04/07/07 23:00
>>132 後桜町天皇も子孫の一人だね。遠すぎるけど。
138 :
日本@名無史さん:04/07/08 00:08
>>137 後桜町天皇が秀忠の子孫なら、
その父親の桜町天皇も、異母兄弟の桃園天皇とその息子の後桃園天皇も
秀忠の子孫になるのか
その辺の系図見たら近衛家やら鷹司家にも血筋が枝分かれしてるし
六代家宣の正室も秀忠の子孫みたいだし、なんかすごいや
後桜町天皇は両親とも秀忠の子孫だね。
徳川秀忠――東福門院――近衛尚嗣室――近衛基熙――近衛家熙――新中和門院――桜町天皇――後桜町天皇
徳川秀忠――東福門院――九条兼晴室――二条綱平――二条吉忠――青綺門院――後桜町天皇
徳川秀忠――前田利常室――前田光高――前田綱紀――二条吉忠室――青綺門院――後桜町天皇
140 :
日本@名無史さん:04/07/08 00:38
>>137 秀忠の孫の賀子内親王のひ孫が二条舎子(後桜町の母)
秀忠の外孫
長女 千姫ー池田光政室
次女 珠姫ー前田光高、前田利次、前田利治、森忠広室、浅野光晟室、八条宮智忠親王室
三女 勝姫ー松平光長、高松宮好仁親王室、九条道房室
五女 東福門院(松姫)ー明正天皇、近衛尚嗣室、二条光平室
九条兼晴室は東福門院の子じゃないの?
143 :
日本@名無史さん:04/07/08 22:48
秀忠の子孫て意外に公家のほうが残ってる?
>>142 間違えました。
二条光平の養子が二条綱平(実父は九条兼晴)
↑
コウヘイの息子がコウヘイ?
こりゃまた・・・
146 :
日本@名無史さん:04/07/09 06:20
>>144 この光とか綱って将軍の偏諱を受けたもの?
トリビア1
尾張藩初代藩主徳川義直(1600−1650)は
柳生新陰流第四世である。
柳生兵庫助利厳から相伝を受けたもので、以降尾張藩主7名が
受け継いでいる。
149 :
日本@名無史さん:04/07/09 18:34
松平民部
150 :
日本@名無史さん:04/07/09 20:50
武田家を継いだ五男・信吉は、母・於都摩の方が実は信玄の御落胤だという話がありますが、どうなんでしょう?
母親が信玄の御落胤だという名分で武田家を継いだのでしょうか?
それとも母親が武田家の養女だから継いだのでしょうか?
151 :
日本@名無史さん:04/07/09 20:58
小笠原権之丞
152 :
日本@名無史さん:04/07/09 21:48
どこの国でも、20代くのいちなら、かなりの確立で将軍になれるのでは?
なあ、そうだろ!ちょっとはゆらぐよな、な!
俺だけですか、そうですか。
>>150 通説では
>母親が武田家の養女だから継いだ
とされる。
>>150 > 母・於都摩の方が実は信玄の御落胤だという話
信玄の娘松姫の身代わりに嫁いだって話じゃなかった?
155 :
日本@名無史さん:04/07/10 00:04
> 母・於都摩の方が実は信玄の御落胤だという話
武田家を継ぐにあたりでっち上げたんじゃないの?
>>849(25さん)
>>859(1さん)
さっそくのご教示ありがとうございます。
松平定政の跡は、定知の松平(久松)数馬家とは別に、
本家から内分された家があったのですね。
驚きです。
本当にありがとうございました。
↑は誤爆?
トリビア2
徳川家康の11男で水戸藩初代藩主徳川頼房(1603−1661)は、
徳川親藩連枝の中で初めて殉死を禁止するよう言及した。
有能な家臣がいなくなることで藩が衰退することを恐れた為で、彼は生前
「殉死は現世を省みない利己的な行為であり、後継藩主に対して不敬である」と批判している。
159 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:04/07/11 19:26
永見貞愛
160 :
日本@名無史さん:04/07/15 12:45
>>158 本来、儒教の言う「忠義」とは国家や主家に対するものであって主君個人に対するものじゃない。
だから、健全な儒教解釈からすれば当然の結論。
>>158だけど、9男義直も熱烈な儒教家だったね。
あくまで尾張徳川家は天皇・朝廷ひいては国家の家臣であると説いた。
だから名古屋城内に、そのことを記した石碑がある。
尾張家と水戸家は儒教がけっこう盛んだったようだ。幕末も尊皇思想が吹き荒れたし。
トリビア3
徳川家康の4男松平忠吉(1580〜1607)の死因は、
医療ミスである。
関ヶ原の戦いで腕に貫通銃創を負い、以後7年余りにわたって療養生活を
送っていたが、1607年3月5日傷口が悪化したため化膿した部分を切除したところ
出血多量による不整脈を起こし、28歳の若さで死んだ。
徳川15将軍の平均寿命は51.47歳(現代日本人男性は78.35歳)。
これを基準に徳川家の寿命を見ると、51歳まで生きたのは
秀忠54歳、忠輝92歳、義直51歳、頼宣70歳、頼房59歳、綱吉64歳、家宣51歳、吉宗68歳、
家重51歳、家斉69歳、家慶61歳、慶喜77歳、光圀73歳、光友76歳、光貞80歳、綱條63歳、
宗春69歳、宗勝57歳、慶勝60歳、宗睦67歳、斉朝58歳、茂徳54歳、治保55歳、斉昭61歳、
昭武58歳、宗直76歳、重倫84歳、治宝82歳、治貞62歳、茂承63歳、宗武57歳、斉匡70歳、
治済77歳、重好51歳、篤守69歳
医療が発達していなかったことや、時代が下るにつれて大名の多くが病弱な体質の
人間が増えたことを考えればけっこう長生きしている。
おっと初代家康が抜けた。
age
166 :
日本@名無史さん:04/07/25 09:56
あがってへんがな
167 :
日本@名無史さん:04/07/25 22:45
篤守の頃はもう医療が発達してたような気も。
168 :
日本@名無史さん:04/07/26 02:20
秀忠と御三家の間はえらい年が離れてるから、ナアナアの関係にならず
将軍と家臣の関係になれたのね。
年が近かったら、当然もめとるな。
>>168 同意
御三家の義直は歳が近い家光とはしっかりもめてたんだから
秀忠と歳が近かったら、やっぱりもめて忠輝のごとき末路だったかも
徳川将軍、主な御三家関係者の死因(将軍の死因は大樹寺の資料より)
家康:胃ガン(一説に食中毒) 秀忠:胃ガン 家光:脳卒中 家綱:脚気衝心
綱吉:もちによる気道閉塞 家宣:肺炎 家継:暑気あたり 吉宗:脳卒中 家重:尿毒症
家治:脚気衝心 家斉:脳卒中 家慶:暑気あたり 家定:脚気衝心 家茂:脚気衝心
慶喜:肺炎 義直:中風症 頼宣:脳卒中 頼房:胃ガン 光友:肺炎 光圀:胃ガン
光貞:脳卒中 宗直:肝臓ガン 綱誠:食中毒 吉通:肺出血 五郎太:腸捻転
継友:麻疹 斉昭:脚気衝心 慶篤:脚気衝心 綱條:脳卒中 宗睦:感冒
>>168 というより、家康が3人の子供を手許においてきちんと面倒を見たのが
大きいね。比較的放任的に育てられた忠輝や秀康のような武骨な人間では
将来的に将軍を脅かしてしまうような存在になっただろうから。
ただ後の倒幕成功の一因に尾張慶勝が自身の価値観としていた、藩祖義直の尊皇思想が
あったというのは皮肉な話。
171 :
日本@名無史さん:04/07/26 03:42
>>170 御三家は手許において育てられる環境だった。
戦国の世に明日の命もわからん、家族も信用しづらいとなれば、
正室の築山(だっけ?)をも殺害した家康にとっては
子供でさえも信用できなかった。
時代的にも落ち着いた頃に生まれたのが、義直・頼宣・頼房。
だから御三家となれたといえる。
172 :
日本@名無史さん:04/07/26 03:45
生まれた時代と親の精神&経済状態で人生が決まるってこっちゃ。
173 :
日本@名無史さん:04/07/26 03:56
174 :
日本@名無史さん:04/07/26 19:54
信康の名字は徳川でよいのだろうか
発給文書とか確認できるようなものは無いのかな?
175 :
日本@名無史さん:04/07/26 21:52
176 :
日本@名無史さん:04/07/27 14:10
忠長存命中は頼房は松平だったというのは本当ですか?
頼房は「御三家とは将軍家、尾張家、紀伊家である」と言ったという話
ですが、忠長のことはなんだと思っていたのだろう?
177 :
日本@名無史さん:04/07/27 14:25
長七郎は松平を名乗っていたよ
頼房は頼宣の実弟だから、自分は紀州家の下(分家)みたいなものだと
考えていたらしい。官位も義直、頼宣、忠長の3人は大納言で自分は中納言止まり。
忠長が死んだ後も結局極位極官は変わらずじまい。
ただし忠長が死んだ事で、水戸家が御三家の一員としての地位がまず固まったことは
確かでしょうね。
179 :
日本@名無史さん:04/07/31 01:40
>178
頼房は頼宣の実弟だから、自分は紀州家の下(分家)みたいなものだと...って話は、
大河ドラマの「葵徳川三代」の頼房のセリフでありましたね。他にソースがあれば
ご教示ください。
でも、「母の腹は借りモノ」と考えられていた時代に、生母である側室が同じ
だから家格が...なんて発想は、はたしてあったのかどうか疑問に思うのです。
水戸家の極官が尾張・紀伊より低い理由は、単に石高の差が反映されただけ
じゃないでしょうか。石高があの程度なのは、江戸の後詰めである水戸城主の
適正規模ってことなのではと。
>>179 後詰っていうか、東北への押さえとちゃうの?
もともと茨城や栃木、群馬は譜代がしきつめられて、東北への押さえにになっていた。
水戸家もその一翼を担っていた。
関東には大きな石高の大名はいらなかった。むしろ小大名をしきつめて
相互に協力・監視させるほうが幕府の護りにふさわしい。
水戸家は当初25万石しかなかったが、近江井伊家の35万石より少ないのでは
少々見劣りがするということで、35万石に加増された。
尾張家は中部と同時に北陸への睨みから石高は大きかった。紀伊家は
関西の統括と西国への防御として56万石を与えられている。
>>179 頼房は妹・市姫(1607−1610)の母の養子になっている。
それとあの当時の関東では、茨城県あたりにしか巨禄を与えられない。他の関東地域は
生産性が低かったり小譜代が群がっていて水戸家を新設させる余裕はない。
そこで信吉が持っていた常陸を頼房に与えた。
>>181 信吉が持っていた常陸は死後、まず頼宣が貰ったんじゃなかったっけ?
で、頼宣を駿府に移したことで水戸が空いたから頼房に回された、ぐらいのことで
そういや信吉は武田の旧領甲斐ではなく、常陸に所領を貰ったのは何故?
>>182 甲州は最初、9男義直が治めたはず。1607年忠吉が死んで尾張に移った。
184 :
日本@名無史さん:04/08/01 09:26
>>181 水戸家の加増は3万石で、28万石になった
35万石というのは綱條のときに検地による高直しが認められただけ
185 :
日本@名無史さん:04/08/01 14:28
水戸の一石は他藩の一石より少ない。
無理無理表高35万石を称した。
で、定府で大日本史編さんとくれば、貧乏そのもの。
義直が甲斐の領主になったのって関が原直後じゃないみたいだけど
それまでの甲斐の領主って誰だったの?幕府領?
187 :
日本@名無史さん:04/08/01 21:21
当時の甲斐は確か幕領のはず、平岩親吉が経営していたはず。
天領、というか徳川領
幕府はまだない
189 :
日本@名無史さん:04/08/01 23:11
関ヶ原以前は浅野領。
190 :
日本@名無史さん:04/08/01 23:12
関ヶ原以前は浅野領。
192 :
日本@名無史さん:04/08/02 11:05
>>186 関が原直後の五郎太の年齢を考えなさい。
義直は1603年甲府藩主になり、更に4年後兄忠吉の病死に伴い清洲城主になった。
1610年に名古屋に本拠地を移し、1619年62万石を得ている。
>>186 義直は1600年11月28日生まれ。関が原の戦いは同年9月15日。
生まれてもいないのに関が原以前に甲府城主にはなれない。
なお頼房は1606年常陸下妻10万石からスタート。1609年に兄信吉の遺領を相続し
水戸城に移った。
頼宣は1603年水戸20万石を得たが6年後駿河・遠江・三河一部50万石に移る。
194 :
日本@名無史さん:04/08/17 10:03
義直 1600年11月生まれ
頼宣 1602年2月生まれ
頼房 1603年5月生まれ
60才過ぎて盛んな家康。
195 :
日本@名無史さん:04/08/17 15:20
だって影武者だもん
196 :
日本@名無史さん:04/08/18 19:55
197 :
日本@名無史さん:04/08/25 02:45
198 :
日本@名無史さん:04/08/27 22:51
秀忠てどうよ
家光がバカで秀忠が名君?説が今の流行ですか
199 :
日本@名無史さん:04/08/28 13:58
どっちも部下に恵まれたわな。
家光は日光東照宮の建築で大散財、男色に耽って世継ぎもつくらぬ上に
御三家ともめるし、家康の考えなどほとんどわかっておらんね。
生まれながらの将軍って、忠長に座を奪われそうだったではないか。
200 :
日本@名無史さん:04/08/28 15:01
201 :
日本@名無史さん:04/08/28 16:02
家康の孫(外孫を含む)で、名君と思われるのはだれだろう?正之さんぐらいか?
暗君っぽい人は何人かいるようだが。とくに督姫の息子に。
202 :
日本@名無史さん:04/08/28 16:16
水戸光圀
203 :
日本@名無史さん:04/08/28 18:06
204 :
日本@名無史さん:04/08/28 18:24
>>201 家康の曾孫で、名君と思われるのはだれだろう?吉宗さんぐらいか?
205 :
日本@名無史さん:04/08/28 19:21
207 :
日本@名無史さん:04/08/28 20:20
頼房はずして正之を徳川姓にして御三家が良かったのでは
秀忠にそれぐらいの力はあるだろ
嫁はんが怖いのか
208 :
日本@名無史さん:04/08/28 20:22
秀忠は夏の陣で秀頼を許そうとしたの?
家康がそれを一喝したん。
209 :
日本@名無史さん:04/08/28 20:33
家康は織田家を50万石程の大名にしてやらんかったのは
やっぱ信長を恨んでた訳かな
うんうん
210 :
日本@名無史さん:04/08/28 21:29
小牧長久手で勝手に秀吉と和睦したからだろう。
211 :
日本@名無史さん:04/08/28 21:35
昔信長に掘られた
212 :
日本@名無史さん:04/08/28 21:36
>>207 秀忠と言えども東照大権現が決めたことを変えることはできないし、
やらない。家康に従順と言うことで秀忠を後継にしたんだから。
それに秀忠が嫁が死んだ後も正式に認知しなかったし、将軍家を
安定させるため、あえて一門争いが起きるようなことを避けたの
であろう。
213 :
日本@名無史さん:04/08/28 22:23
ってか、そもそもする必要もないだろ。
神君家康公の子と秀忠の子ではどちらが貴重なのかはさておき。
214 :
日本@名無史さん:04/08/28 23:41
家康の玄孫でオモロイのは徳川重倫ぐらいか。
215 :
日本@名無史さん:04/08/29 01:41
神君も死ねば、怖くなし
216 :
日本@名無史さん:04/08/29 13:13
>>210 関が原で有楽斎以外みんな西軍だったろう。
217 :
日本@名無史さん:04/08/29 13:17
>>207 正之は松平を称することすら固辞し続け、そういう謙虚さが家光に気に
入られた。徳川を称するなど有り得ない。
218 :
日本@名無史さん:04/08/29 15:59
名門好きの家康が織田家を10万石くらいにしてやればエエのに
まあ一応元天下人の家だからね
あまり大きくするのは穏当じゃないと思ったんじゃない?
220 :
日本@名無史さん:04/08/29 16:14
最低、参議くらいやればエエやん
221 :
日本@名無史さん:04/08/29 17:34
秀康−秀直
や
忠輝
は性格が良ければ御三家相当になっていたのかな?
222 :
日本@名無史さん:04/08/29 18:04
秀直て誰やねん
忠直やろ ドキュソが
>222
オイ呼んだか?分かりきった誤字をツッコミすんなよ。
224 :
日本@名無史さん:04/08/29 19:15
>>222 ご免、正直間違った。
話を続けてください。
225 :
日本@名無史さん:04/08/29 21:57
秀直ですが何か
226 :
日本@名無史さん:04/08/29 22:07
>>221 忠輝は家康から嫌われてたというわりには全盛期は
75万石の大大名だったんだよね。
石高だけなら秀康と同格、御三家や忠長よりも上なんだね。
越後と北信濃の合計って75万石もあったのかなぁ。
6男忠輝が終生父家康から疎んじられていた理由にはいくつかあるが、その中の
一つとして、彼自身が兄秀康に似て猛将型の人間であったことらしいね。
反面、学問を好み穏健で実直な性格だった秀忠や義直はかなり家康からっかなり寵愛された。
家康は次世代以降は穏健な文人型の人間を身内に求めていたので、争いの種に
なりかねない忠輝や秀康は意に沿わなかったと言われている。二人とも70万石を超す
大領を得たが共に主要都市からは遠く離れた、外様の多い土地に半ば遠ざけられるような形で
封じられている。もちろん勇猛な性格を買っての抜擢ともとれるけど、家康は信康の一例で
勇猛果敢過ぎる息子は危険だということを痛感したんだろうか?
あと、伊達政宗と縁戚だったことも大きいかな・・・まあこれは配流される数年前の話だから
幼年期に家康に嫌われていた理由にはならないね。
こういう不遇な状況の中で1世紀近くに亘って生きた忠輝、ある意味「苦闘の人」だ。
229 :
日本@名無史さん:04/08/30 02:13
信康に似てるからと聞いた覚えがある。
230 :
日本@名無史さん:04/08/30 20:20
秀康とただ照るは幼少から顔が醜悪で性格が荒いちゅう共通点があるな
231 :
日本@名無史さん:04/08/30 20:38
猛将型で「父」を乗り越えようとして失敗した武田勝頼
の例を、家康はその目で実際に見てきたしな。
232 :
日本@名無史さん:04/09/10 01:46
age
233 :
日本@名無史さん:04/09/10 03:27
信康と頼房って兄弟なんですか?
234 :
日本@名無史さん:04/09/10 06:16
>>233 40歳以上の年齢差はあるが、立派な兄弟。
前にも書かれたが、家康の長男・信康の孫小笠原忠脩(1594-1615)は
家康の11男頼房(1603-61)や5女市姫(1607-10)より年上。でも世代では二つも下。
235 :
日本@名無史さん:04/09/10 14:06
信康は21歳で自刃させられましたが、信康の正室も殺されたんですか?
236 :
日本@名無史さん:04/09/10 14:18
237 :
日本@名無史さん:04/09/10 14:31:18
>>235 家康に手打ちにされた。
首は信長のもとに送り届けられた。
239 :
日本@名無史さん:04/09/10 21:44:04
もし信康に息子がいたらその子も殺されてたのかな?
240 :
日本@名無史さん:04/09/10 22:31:38
幕末の松平春嶽って秀康の子孫?
243 :
日本@名無史さん:04/09/11 13:01:23
>>239 そういや信康の隠し子が主人公っていう時代劇が昔あったな。
244 :
日本@名無史さん:04/09/11 13:05:12
長七郎江戸日記じゃないよね
245 :
日本@名無史さん:04/09/11 13:21:12
>>244 それは3代将軍家光の弟駿河大納言忠長の
忘れ形見(松平長七郎長頼)の話だろ
246 :
日本@名無史さん:04/09/11 13:30:28
徳川ファミリーの人がお忍びで町にでて活躍する話ってフィクションでも好きだなぁ。
新たな主人公で(徳川家光や徳川重倫とか)やってほしい〜。
248 :
日本@名無史さん:04/09/11 16:38:27
>>228 結局生母にたいする家康の愛情過多にあるんじゃないの?
秀康は湯殿で一回だけ手を付けた女の子供で、
家康自身は本当に自分の息子かどうかも疑ってたと思う。
その辺が秀康を嫡子にしなかった大きな理由だと思う。
249 :
248:04/09/11 16:46:36
「愛情過多」じゃねえや。
こういうの何て言うんだっけ?
ようするに思い入れが濃いか薄いかってことね。
251 :
日本@名無史さん:04/09/11 17:44:22
越後が御三家相当になる可能性はなかったの?
>>251 元々は
・将軍家・尾張家・紀伊家+越前家(越後家)・水戸家
だったのが、
・将軍家・駿河家・尾張家・紀伊家+越後家・水戸家+越前家+会津家
→・将軍家+尾張家・紀伊家・水戸家+越後家+甲府家・館林家+越前家+会津家
→・将軍家+尾張家・紀伊家・水戸家+甲府家・館林家+越前家・会津家+津山家
更には
・将軍家+尾張家・紀伊家・水戸家+田安家・一橋家+清水家+越前家・会津家・津山家
253 :
日本@名無史さん:04/09/11 18:59:36
>>251 越前だろ!
当初、御三家を上回る68万石で封じられ、最終的に32万石。
水戸藩の35万石を下回った。
御三家は家康の孫の光友、光貞、光圀が、いずれもしっかりした人物で
長命し、祖法を守り、藩の礎を築いたが、越前家は不遇な処遇はあったとは言え、
忠直のご乱行、越後高田に移った子の光長も家中騒動を起こし、自壊した。
254 :
於義丸:04/09/11 19:43:46
なんで、あんなに、秀康の系統は、乱行を起こしたんでしょう?
255 :
日本@名無史さん:04/09/11 20:36:42
冬の陣といえば越前ですよ。
256 :
日本@名無史さん:04/09/11 23:36:57
>>254 3男に跡取りの座を奪われたから。
もっとも長男は子孫を残すことすら許されなかったが
>246
>新たな主人公で(徳川家光や徳川重倫とか)やってほしい〜。
重倫はねー。どっちかというと、本人が仕事人に殺されるほうじゃないかと
思うが…。典型的なバカ殿というイメージしかない。
それはともかく、昔紀伊治貞と尾張宗睦が悪者征伐の旅(ちょっと違うか?)
に出るという時代劇があった筈。検索したら、「殿さま風来坊隠れ旅」らしい
けど、当時、「こんなマイナーな二人組が」と思った記憶あり。
258 :
日本@名無史さん:04/09/12 02:28:54
>256
信康は子孫いるで。
>257
ホントにマイナーだね。普通の人は知らないよそんな殿様。
なんで水戸がいないのか。殿様の年齢が合わなかったのか。
>258
確かに、水戸治保は年齢が他の二人より22-25歳も下ですね。
まあ、元々の設定が、
「将軍の有力候補に挙げられた紀伊『大納言』治貞が出奔し、尾張大納言が後を
追いかけて、二人で気ままな世直し旅」
らしいし。「水戸家には資格がない」という俗説に従って、水戸治保はかやの外
になったとかいうことじゃないでしょうか。二人の方が納まりがいい、というこ
とかもしれないですが。
もっとも、50絡みのおじさん二人に30前後で若造扱いが一人、というのも、そ
れはそれで面白そうな気がしなくもない…。
260 :
日本@名無史さん:04/09/12 08:52:38
>>248 光友とか吉宗の母も湯殿女じゃなかったか?
湯殿ってさぞかし楽しい所だったんだろうな。
261 :
日本@名無史さん:04/09/12 08:55:12
>>259 三田村邦彦がどっちかの役だった。紀伊治貞が尾張宗睦を「宗さん」と呼び、
水戸黄門のような供は一切連れていないという破天荒な設定。
スレ違いにつきsageときます。
263 :
日本@名無史さん:04/09/12 12:36:12
信康に息子がいたら間違いなく処刑されてたぞ
たとえ幼くても
>257
>>262 名前を略すときに将軍偏諱の方をよぶとはね。同時代の大藩藩主はムネさんだらけ。
これってドラマですか?タイトルご記憶ですか?
小生の笑いのツボにけっこうヒットです。
ところで、既出のスナイパー徳川重倫と必殺逆落とし蜂須賀重喜の「暴れ2人旅」
やったらどんなになるだろう。これもsageます。
266 :
264:04/09/12 13:33:56
>265
ありがとうございます。さっそく見てみます。
あらすじを紹介したページが引っかかったんで読んでみたけど、なかなかすごい
話ですね。水戸治保も最終回に出てくるみたいだけど、年齢が…。
その割に、紀伊殿を追いかけてくる「じい」が安藤さんだったり、お付きの忍び
が「村垣」だったりと、妙に細かいところもあるし、なんとも不思議な時代劇だ。
268 :
日本@名無史さん:04/09/12 15:31:35
家康もその生母も高祖父(祖父の祖父)も没したとき玄孫いたよね
玄孫の子(来孫)生まれてから没した人いる?
>>263 娘は処刑されないと思う。
築山殿の娘は生き残り家臣の誰かと結婚してたから。
>>263 >>269 家康と築山殿の間の娘・亀姫は奥平信昌夫人
信康と徳姫(五徳姫)の娘・福姫は小笠原秀政夫人、国姫が本多忠政夫人
亀姫はのち「加納御前」と言われ、その権勢は絶大で、本多正純の失脚も彼女が画策したらすぃ
幕府の幹部も彼女に頭が上がらなかったようだが、この不遇な前半生が影響している物と思われ
271 :
日本@名無史さん:04/09/13 09:07:03
いや、だから息子ってのは信康そのものでなくて信康の息子って事だよ。(実際はいないけど)
もし信康に息子がいた場合、その息子も信長に殺されてたのではないかと。
徳姫が産んだ子供でもやばいの?
信康に父親がいたら間違いなく処刑されてたぞ
たとえ大物でも(w
275 :
日本@名無史さん :04/09/16 06:24:31
276 :
日本@名無史さん:04/09/17 00:48:19
>275
別に本人が討ち取ったわけじゃぁ...
277 :
日本@名無史さん:04/09/17 04:09:16
大坂にはなんで子供を入れなかったんだろう
正確には知らんが豊臣秀頼が摂河泉65万石ってんなら紀州家あたりを移してもよさそうな気が
278 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/17 04:25:54
>>277 大坂は幕府が管理したかったのでは?
天下の台所といわれた商都なだけに、
親戚筋に与えれば経済力をバックに
幕府に反抗する隙を与えかねない。
尾張義直も紀伊頼宣も幕府には批判的
(正確には3代家光に)だったし。
279 :
日本@名無史さん:04/09/17 09:45:21
>>277 孫の忠長が大坂城を望んだ。でもあげなかった。危険だから。
ちなみに頼宣が紀州入りするのは家康の死後。
280 :
日本@名無史さん:04/09/17 11:37:26
戦後の大坂には養子の松平忠明が入ったわけだが
281 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/17 11:58:45
>277
頼宣に与えられた駿府城も、象徴的な意味では重要なような気がしますね。
なんといっても、家康自身の隠居所ですし。
283 :
日本@名無史さん:04/09/18 01:43:49
>280
松平忠明の大坂城主ってのは、ステータスではなく単に戦後処理実務の
取りまとめ役としてだろう。
城も本丸しかない上に焼失している。どこで政務を執ったのだろう。
284 :
日本@名無史さん:04/09/18 02:07:32
285 :
日本@名無史さん:04/09/21 22:26:49
>284
誰に似たんだ?
286 :
日本@名無史さん:04/09/22 13:27:05
>>285 おそらく祖父の浅井長政。
でも190cm台あったかどうかは不明。
ちなみに着物から秀忠は160cm、忠輝は153cm、忠吉は155cm前後と
言われている。
288 :
日本@名無史さん:04/09/23 22:23:41
>>285 浅井の血だと思う。
浅井長政の姉(妹?)が背が高すぎて結婚できず仏門に入った。
289 :
日本@名無史さん:04/10/10 19:55:55
age
290 :
日本@名無史さん :04/10/10 22:30:09
291 :
日本@名無史さん:04/10/10 23:20:01
>>290 読んだよ。
コ川の「トク」の字は横棒1本入るんだろう。旧字体「彳+十四一心」。
著者は年賀状300〜400通のうち、旧字体で送ってくる人は数人と書いてあった。
みんなで「コ」の字を使ってあげようと思ったけど
でも「コ」の字はJIS基本漢字(JIS X 0208)に含まれていない
旧字体だって、旧字は全てJISの第3水準に含まれているだとさ。
292 :
日本@名無史さん:04/10/11 03:54:44
age
293 :
日本@名無史さん:04/10/12 10:55:44
家康の息子たちの官位
信康:不明
秀康:従三位権中納言(1605)
秀忠:征夷大将軍(1605-23)、従一位太政大臣(1626-32)
忠吉:従三位権中将薩摩守(1605)
信吉:無位無官
忠輝:従四位下左近衛権少将(1605)
松千代:無位無官
仙千代:無位無官
義直:従二位権大納言(1626)
頼宣:従二位権大納言(1626)
頼房:従三位権中納言(1627)
294 :
日本@名無史さん:04/10/13 22:55:59
家光と頼房は年が近く仲がよく、
叔父に向かって頼房と呼び捨てしてたのはホント?
295 :
日本@名無史さん:04/10/14 20:33:33
権大納言と大納言は同じでつか?
権がつくと一つ低い気がしまつ。
296 :
日本@名無史さん:04/10/14 21:05:24
権がつくとワンランク下でつ。
でも、権がつかない大納言は空位というか、存在しなくなりますた。
297 :
日本@名無史さん:04/10/14 21:25:15
はやじに
299 :
日本@名無史さん:04/10/14 22:23:49
権がつくと定員外。
権をつければ何人でも官位につけることができる。
300 :
日本@名無史さん:04/10/15 13:31:15
権大納言と中納言ではどっちが上でつか?
301 :
日本@名無史さん:04/10/15 14:07:22
前者。
302 :
日本@名無史さん:04/10/16 16:54:57
>>297 家康が征夷大将軍になる前(名実共に日本の最高権力者になる)に
21歳で若死にしたから。
家康の子供たちは、ほとんどが幕府成立以降に官位を得ている。
>>294 義直:1600年11月28日生まれ 頼宣:1602年3月10日生まれ 頼房:1603年8月10日生まれ
家光:1604年7月17日生まれ 忠長:1606年6月1日生まれ 千姫:1597年4月11日生まれ
和子:1607年10月4日生まれ 正之:1611年5月7日生まれ
御三家三祖と秀忠の子供たちは年が近い。特に頼房と家光は1歳しか違わなかったことと、
義直・頼宣が家光に対して批判的であったことから事のほか家光は叔父を
慕っていたという。
303 :
日本@名無史さん:04/10/16 18:12:25
頼房は最初は御三家ではないし,頼宣は同母兄だし,野望を抱く余地がない。
将軍・義直・頼宣 → 義直・頼宣・忠長 → 義直・頼宣・頼房
304 :
日本@名無史さん:04/10/16 18:13:42
↑
ソースキボンヌ
305 :
日本@名無史さん:04/10/16 22:48:28
秀康の長男は頼房より年が上なんだよね
306 :
日本@名無史さん:04/10/16 23:00:15
在日の精神 :04/10/15 00:17:33 ID:9ms9OmQd
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1089668616/ 税金が無税の宗教ビジネスも、30兆円産業のパチンコ産業も
消費社金融も、ラブホテルや風俗産業も我々在日がほとんど握っている。
日本全国の駅前のその多くの土地は、在日が握っている。
宗教やパチンコ産業でもう得た金で、駅前の土地を買い、これからも制覇する。
いずれは、外国人参政権を絶対に達成するためにいろいろ工作するよ。
地方自治体は条例が作れるからね。いろいろできる。
これからは、日教祖の上層部は、在日で制覇する。
歴史も我々の意向によって、変えていく。
日本海も東海に変える。靖国問題も我々の意向にそって
徹底的に子供たちに教える。日本の永住権取得を大幅に緩和させて、
将来は、移民を大量に受け入れさせて、日本人は30パ−セントぐらいする。
反対すらなら、差別、差別とキャンペ―ンをする。
我々の在日の息のかかったエヌジ―オ-団体が活動する。
今や、戦争などで領土を侵略するの時代ではない。合法的にね。合法的に。
芸能プロダクションもその多くが在日プロダクションだ。あるテレビ局も我々の支配下にある。
左翼系テレビ局だの保守系テレビ局だの関係ない。
問題は在日の意向どうりに報道するかどうかだ。
芸能会でも入信しないと、テレビの仕事がもらえないからね。
すべては、金であり、政治も、テレビ等の芸能界もね。
これからも、在日芸能人をいっぱい日本のテレビにプロデュースしていく。
日本人はオカマの芸能人ね。
日本は最高だよな、税金のかからない宗教ビジネスとパチコ産業があるからな。
日本人の多くはこれらのことを知らないからね。
日本の右翼だって、40パ―セント近くは、在日だ。
言っておくけど、我々は日本のために死なないよ。絶対に。
その多くは、政治や大企業への影響力と、在日企業を守るため。
そのためなら、右翼でも何にでもなる。
まぁほとんどの日本人は、我々が日本人だと思ってるけどね。政治家も。
これらことを知っても、どうにでもできないでしょ。
>303
>頼房は最初は御三家ではないし
最初は、そもそも「御三家」という格式そのものが存在していないんだから、
これは全く無意味な見解でしょう。(本人が謙遜してそういった、という話はあ
るようだが、将軍家と家臣の二家を並べるというのは、将軍家の立場からは絶対
に受け入れられない話。)
308 :
日本@名無史さん:04/10/17 14:13:03
>>305 結城秀康の長男で越前藩主の松平忠直は1595年6月10日生まれ。
あと松平信康の孫、小笠原忠脩(家康のひ孫)は1594年生まれ。
千姫や忠直は年齢だけなら義直ら3人より上だが、世代では一つ下。
309 :
日本@名無史さん:04/10/17 18:46:54
そういえば徳川と松平以外の姓を名乗っていた奴らはみんな養子先の姓を放棄しちゃったの?
310 :
日本@名無史さん:04/10/18 01:44:50
秀康の結城姓は五男の直基が一応継承したがその後放棄した。
結城家の祭祀だけは続けたが。
結城の他は武田だけじゃん
312 :
日本@名無史さん:04/10/18 10:58:56
孫だが保科正之も同じやね。
313 :
日本@名無史さん:04/10/18 17:00:03
>>182 遅レスですが
武田発祥の地は常陸
かつ、正統源氏のリーダーぶってた佐竹(笑)のあとに入れるなら、
名目だけでも「武田」ってのはなかなかいいチョイスではないかと。
>>312 保科正之は出羽なんかを経て会津に封されてのち、
保科直系の人物を幕府にごね回して
(というほどのことをしなくてもいいぐらい権力者でしたが)
房総に新規(分家)立藩させている。
その際、保科家代々の宝物なんかを全部、そっちに渡しているので
祭祀権も委譲していると思われます。
元々、先代が正光を引き取ってくれなかったらその人物が
保科家を継ぐ可能性大だったらしいので(先代に子供いない)、
義理堅い正光としてはどうしても、”保科家”をちゃんと存続させたかった
らしく。
314 :
日本@名無史さん:04/10/18 17:23:41
>>309 保科家は、正之から数代後になってやっと「松平」になりました。
家光らからの拝命を、正之が固辞し続けたためらしく、
その後の藩主もその意志に従っていたらしいです。
でも”保科だけど親藩”っていうか御三家並扱いだったらしいですねぇ。
扱いとしてはNo1信任なんだけど、上手く石高を調整して
「表高は水戸の下、でも実質は水戸の上(天領預かり分という扱い)」
にしていたみたいです。
御三家並の親藩扱いということで、
幕閣の正式役職には就いてないはずです。(老中等)
ですが家光の命により、幕閣会議には出席するように!とのことで
「(暗黙の了解うちに)大老〜老中並」の扱いだったみたいです。
御三家や親藩(越前や津山ぐらい)のうちで、幕閣会議に出席して、
発言権があった例って他にあるのでしょうか?
(幕末(春嶽等)は除き、あくまで初期幕府(〜綱吉ぐらい?)として)
「家康の息子たち」から外れてごめんなさい、と。
最期三行で回復を図ってみました。
316 :
日本@名無史さん:04/10/18 19:54:09
317 :
日本@名無史さん:04/10/18 19:55:38
すまん幕末は除くんじゃったな
318 :
日本@名無史さん:04/10/19 01:26:31
義直とか頼宣は何で威張ってるの?
戦場で傷も負っていないのに。
片腹いたいよ。
>>318 盲腸かもしれん。
朝になったらすぐ病院池。
320 :
日本@名無史さん:04/10/19 01:48:43
>>318 一説によると、家光のあまりにも傲慢な態度や親族への冷たい対応に
「自分たちも下手すれば潰されるのでは?」と危機感を募らせたらしい。
まあ彼らは家光と世代が一緒なだけに、あわよくば将軍職を家光から
もぎ取ってしまおうという野心があったのは否めないが。
>>317 うん、すまん。
>>320 家光が病気で伏せった事があって、その際、尾張大納言様はこともあろうに
大 軍 を 率 い て 江 戸 入 り & 駐 屯
してみせて、保科正光以下、幕閣を慌てさせております。
「治安維持のため」
という理由でしたが、実は「非常時だ!」とか言いながら
将軍位(もしくは後継の地位)簒奪のためだったとも・・・
(これが、尾張家が将軍後継から毎度外される遠因、
ひいては幕末、尾張家早々に将軍家を見限る遠因とも言われています)
しかし家光回復・・・。
そして
1650 義直死去
1651 家光死去
残念でした。
そんな義直くんからメールが欲しい人はこちら。
http://www.yoshinao.net/
322 :
日本@名無史さん:04/10/19 02:53:14
>>321 まあ尾張藩には独特の勤皇思想っていうのがあったからね。
あと、義直も家光も女性に対して終生オクテだったというのも面白い。
家光の場合、鬼母のせいで女性不信・・・
家光は「女性に対してオクテ」と言うよりハードゲイなのでは
・・・
sagesage
325 :
日本@名無史さん:04/10/19 12:55:58
尾張には分家を設けるなと言っておきながら、自分は分家を設ける紀伊。
紀伊家の分家伊予西条藩祖は頼宣の子、尾張家の分家高須藩祖は義直の孫。
>321
早駆けして江戸に入ろうとして、追い返されそうになった、という話ではなかっ
たかと。
「大軍を率いて江戸入り」しようとすれば、尾張家は取り潰しでしょう。
後、>325は、尾張義直が紀伊頼宣に「分家を設けない方がいい」と言った、と
いう話ではなかったでしょうか。
>>325 >尾張には分家を設けるなと言っておきながら、自分は分家を設ける紀伊。
ソースきぼんぬ。
家老の家が一家、異父兄弟だったと思うんだけどそういうのはナシ?
>>326 重用されてますね。
幕閣の会議に出席してます?
329 :
日本@名無史さん:04/10/19 21:47:24
>>327 人数はわかりませんが、軍勢ごと上洛してるはず・・・。
秀忠時代は、兄の家・越前家の参勤交代の折には、
将軍自ら品川まで出迎えに行ってたような時代だし、
(例の関所の鉄砲の件もこの頃?)
明暦大火の折には、知恵伊豆と保科正之が
「江戸の諸大名は早々に帰国するように。
参勤交代が近い大名は、しばらく延期するように。」
という命令を出していますが、
そんな知恵伊豆をとっ捕まえて紀州頼宣が
「なんでやねん!?
こんな時こそ諸大名が人数を率いて江戸入りして、
治安維持と将軍権勢誇示をすべきやん!?」
と詰問していたりもします。
まだ”将軍権威絶対”が確立してもいなく、
由比正雪や島原の乱が残る、最後の動乱期だったのでしょうね。
と思います。
御三家には「家康の直子」という自覚もあったでしょうし。
330 :
日本@名無史さん:04/10/19 22:54:12
「葵・徳川三代」で、千姫が祖父家康に少年の義直と頼宣を
「年は下でも、お前の叔父にあたるから大事にしろ」と紹介されて
思わずぶすっとしたシーンが面白かった。
自分より幼いのに目上として接しろと言われたら、そりゃあ不満もあるわな。
>329
早駆けで江戸に向かったということなので、軍勢を連れる余裕は無いでしょう。
後、詰問に派遣されたのは酒井忠勝となっていますね。
>330
家康は義直に「秀忠を兄弟と思うな。主君として奉公せよ。」と言っていたと
いう話もありますね。
332 :
日本@名無史さん:04/10/20 00:28:14
>>330 >>331 ジェームズっすから。
大河は娯楽ドラマであって、史実再現ではありませんし。
なのに近年は、時代考証マニアや歴史ヲタの苦情が
大変らしいですよ。
家康の御三家構想って
もし倒幕をしようとする奴があらわれたらそいつはまず
朝廷をまつりあげて京都から江戸へ攻めてくるだろう。
だからまず名古屋でくいとめ紀伊からの援軍で挟み撃ち。
その間水戸を参謀に将軍本隊出陣
というものだったんでしょ?
それなのに義直は勤皇思想に傾き「朝廷と幕府が戦ったら
迷わず朝廷につく」なんて言ってたんでしょ?
家康存命の頃にそんなこと言ってたら間違いなく改易
くらってただろうな。
>>333 家康の構想には「紀伊からの援軍で挟み撃ち」ってのは入ってなかったと思うぞ
頼宣が紀伊に移されたのって家康死後だし
335 :
日本@名無史さん:04/10/20 09:33:21
まぁねぇ。義直の気持ちもわからんでもないっつーか。
将軍になれるかも知れない血筋
でも
臣下扱い
あわよくば天下ひっくり返せるぐらいの領地(軍事力)
でも
臣下扱い
自分ではなにもしないうちに、天下の構想決定済。
ほんのタッチの差で決定済。
だもんね。
336 :
日本@名無史さん:04/10/20 11:34:20
>>329 >(例の関所の鉄砲の件もこの頃?)
あのときは中山道経由です。
>>335 そんなこと言ったら秀康はどうするんだよ?
将軍秀忠の兄で、石高は尾張義直より上。
義直は関が原後に生まれているから天下取りへの貢献ゼロ。
337 :
日本@名無史さん:04/10/20 12:13:33
だから、息子が・・・。
338 :
日本@名無史さん:04/10/20 17:38:12
徳川家には若パパが多いな・・・
339 :
日本@名無史さん:04/10/20 18:11:13
>>336 忠直には、是非大坂方へ就いて欲しかった・・・
越前家は、
・関東旧豪族
・その他あちこちの負け組浪人
・徳川家の負け犬
・天下の名士を集めた「秀康コレクション」
でできています。
なんせ、平塚為広の縁者まで・・・
340 :
日本@名無史さん:04/10/21 04:06:14
>339
他の親藩も、大体そんな感じだよ。紀伊とかね。
でも秀康の場合は、他よりも高禄なんだよね。「秀康コレクション」のアクの
強そうな連中がね。
忠直はやりにくかったろうね。きっと。
341 :
日本@名無史さん:04/10/21 04:24:31
>>340 なんか適当なこと書いてるが
お前、親藩の分限帳とか読んだことあるの?
>>339 忠直は大阪の陣での恩賞に不満があって本格的にグレたんだから、
まだ家康にいいとこ見せたい気持ちはあったんだよ。
343 :
日本@名無史さん:04/10/21 15:31:59
噂では、戦前に家中会議やってるみたいですが(笑)
「当家(越前)が動けば天下が動く!
つまり大坂の勝利は、当家つーか俺がメイクゲーム!?」
って思ってたんじゃないの?
344 :
日本@名無史さん:04/10/21 18:30:20
小笠原権之丞は?
>>326 出席ではなく、
「大政参与」。
井伊直孝とともに
公儀の元老として重要案件の
相談に預かった。
346 :
日本@名無史さん:04/10/21 23:05:12
へーへー
「大老」
とかそういう役職名はないんだ<忠明
347 :
日本@名無史さん:04/10/22 03:29:31
松平忠明(1583-1644)は家康の長女亀姫の息子。
大坂の陣で荒廃した大坂の街を見事に復興させた。
その後も、幕政で大いに手腕を振るった忠臣。
忠輝や義直より年上だが、忠明は家康の孫なので
世代では彼らより一つ下。
348 :
日本@名無史さん:04/10/22 04:37:24
>>347 長女の息子ということは、次郎三郎と血のつながりはないな。
しかし家康の精力は凄いな。こっち方面なら信長・秀吉の3英傑の中では一番上だよね。息子の出来具合も。
子供の数だけなら信長の方が上じゃなかたっけ?
352 :
日本@名無史さん:04/10/24 12:49:09
量より質だよby徳川義直
353 :
日本@名無史さん:04/10/24 15:48:03
どうして家康子供たくさん
作れたか?
精子が強かったのか?
秀吉だめなのは精子が弱かったせいだ
354 :
日本@名無史さん:04/10/24 16:47:20
>>352 おまえも大したことねーだろ!(笑)
家康の息子でひとかどの人物って言ったら
信康、忠輝ぐらい?
355 :
日本@名無史さん:04/10/24 17:08:34
>353
避妊しなかったから
356 :
日本@名無史さん:04/10/24 17:15:50
>353
秀吉は若い頃貧しくて子供育てられないので
避妊してたっていう話も。
357 :
日本@名無史さん:04/10/24 17:23:32
戦いは数だよ、兄貴!
358 :
日本@名無史さん:04/10/24 18:52:42
>>354 信康はともかく、忠輝はさして有望な人材とは思えない。
まだ秀康や忠吉のほうがまともだと思うね。
359 :
日本@名無史さん:04/10/25 11:36:00
松平民部ってなんですか?
360 :
日本@名無史さん:04/10/25 16:24:56
>>359 家康の御落胤と言われている。天正10年(1582)〜元和2年(1616)、享年35。
家康の5男で、家康が41歳の時の子だったので俗忌を避け、兄の秀康の養子と
して育てられたらしい。
他に、次男秀康の双子の弟とされる永見貞愛(1574-1604)や大坂の陣で
戦死した小笠原権之丞(?-1615)、松平康重(1568-1640)、更に
土井利勝(1573-1644)も御落胤と言われている。
361 :
日本@名無史さん:04/10/25 19:51:47
家康の実弟家元なんてのもいる。
362 :
日本@名無史さん:04/10/25 19:59:21
親父が違うぞ。
363 :
日本@名無史さん:04/10/25 20:01:33
それは松平康元。謎の実弟徳川家元ってのがいる。
364 :
日本@名無史さん:04/10/26 09:29:26
11人も公式?な息子がいるのに、なぜ御落胤なんでしょう。
だれに遠慮する必要があるのでしょうか。
365 :
日本@名無史さん:04/10/26 11:21:48
家康は身内の重要さと危険さを熟知していたからじゃないかな。
身内がまったくいなかったり根絶やしにしてしまうと源頼朝みたく
実権を他家に乗っ取られたり、足利尊氏みたく一族で内紛が続く
ことになる可能性が高い。かといって子供が少なすぎると豊臣秀吉の
ように将来がこれまた不安になる。
だから子供が多く生まれても一族や他家に養子に出したりして
手許に置く子供を調節した。また勇猛といわれる秀康や忠輝は
遠くに配置して警戒した。
それにしても御三家3人の息子たちを可愛がっていた時の家康は
どんな心境だったんだろう。
366 :
日本@名無史さん:04/10/27 10:46:58
>>363 それは系図だけ。
松平康元が混同されたもの
松平忠政
関ヶ原や大阪の陣や天草の乱への貢献は?
松平(長澤)忠輝=松平(奥平・長澤)忠明
忠長上げ
371 :
日本@名無史さん:04/11/11 17:47:49
このスレと関係ないけど、昨日の徹子の部屋に徳川恒孝氏が出演していた。
黒柳がバカすぎて氏が可哀想だった。
将軍家(宗家)と水戸家の三葉葵は微妙に違うことくらい知っとけ。
_,,,,,,,,
, - ' ゙ `` ‐ 、_,,,,,
,r' /=ミ
/ 彡ll',''´
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!-- .、 ,、、、、,,, 彡lノ
l,,,,,__ / ___ 'r''゙ヽ
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゙、''゙ ,,、二''‐ ノ l、
''''''''7'ヽ ''' / /`〉`゙T''''''''''
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【ゴールデンレス】
このレスを見た人はコピペでもいいので
10分以内に3つのスレへ貼り付けてください。
そうすれば14日後好きな人から告白されるわ宝くじは当たるわ
出世しまくるわ体の悪い所全部治るわでえらい事です
373 :
日本@名無史さん:04/11/11 19:26:39
信康は本当に大器だったの?
>>371 ヲタの発想だな。
一般人はそんな細かいことまで知らんでよし。
375 :
日本@名無史さん:04/11/22 23:21:39
家康には、北条へ養子にいった息子っていましたか?
朝日新聞の夕刊に書いてあったんですが・・・
376 :
日本@名無史さん:04/11/22 23:44:58
家康の甥ならいるけど
歴史読本age
378 :
日本@名無史さん:04/12/05 18:38:12
保守age
379 :
・・:04/12/08 11:26:20
12月6日は、徳川忠長の命日。享年28歳。
性格的には1月5日。
380 :
日本@名無史さん:04/12/08 15:20:41
家康には実弟・異母弟はいないのですか?
381 :
名無しさん:04/12/09 14:49:00
>380松平広忠の、全子女で調べて見ては?
意外といると思うよ。
382 :
日本@名無史さん:04/12/09 23:11:36
何かの系図で「正直」っていうのを見たことがあるような。
383 :
日本@名無史さん:04/12/09 23:48:06
家康の妹がたしか保科正直に嫁いでるはずだな。系図に書かれててもおかしくはないが。。
>>383 んじゃ、それが縁で正之は保科家に預けられたんかな?
385 :
日本@名無史さん:04/12/18 01:16:51
あげ
>>384 正之の件はちょいと複雑で
女中お手つき御懐妊→正室激怒→一回は中絶&お里下がり。
しかし秀忠のラブコールに再度大奥へ→御懐妊→女中江戸城脱出
→身内の家に非難→親族会議「やばいんちゃう?」「やばいなぁ」
→でもかわいい娘の子供だ、二度も中絶させられるか!生ませちゃえ!
→誕生
→しかしそこにも正室の魔の手が!
困った親族、その村を知行地としている、とある「尼」二人を訪ねて相談。
尼さん、「是非連れてくるべし」。そして尼さんズが保護。
正室からの嫌がらせが尼御前の屋敷に及ぶと、尼たちは言い放った。
「わたしらを誰だと思っていうのか。我が親の名にかけてこの子は渡さん!」
尼の名は見性院&信松院。
武田信玄が娘たちでした。
尼たちは秀忠に交渉し、認知を要求した。
程なくして秀忠より、葵紋入りの羽織が送られた。
若君の住まう屋敷には「将軍様のお子」を見物しようと人が集まったそうで(笑)
結構気軽に、お外で遊んでたみたいです。
節句には大胆にも「武田菱」の紋と三つ葉葵を併記したのぼりを
高々と翻したそうです。
つまり武田の尼たちにすれば
「この子を養子として、武田再興を!!」
という目論見があったかもしれない。
事実、本屋敷は八王子にあり、大久保長安が世話をし、
八王子千人同心=武田遺臣団をも擁していた。
勢力は充分!
・・・だけど尼たちは老いていた。
今後の若様を託す、誰かを探していた。
そこで白羽の矢が立ったのが旧臣・槍弾正こと高遠保科家3万石。
当時、子供はなく、弟(甥だったかも)を仮の嫡子としていた状態で、
旧主君筋からの頼みを受け入れました。
(その頃「真田太郎」とかいう養子がいたらしいのですが消息不明)
程なくして信玄の娘たちは死亡・・・
保科当主に切々と「臣として生きる道」を説かれ、正之は成長。
ただ、幕府(というか秀忠正室)を憚って、元服も家督もなし。
そんなこんなのうちに当主死亡。
急遽、正之が跡取りと定められましたが(末期養子!)
幕府からのお咎めはなぜかナシ。
(なんらかの圧力があったものと思われます)
ちなみにこの頃、家光は正之の存在を知りません。
家光が正之の存在を知ったのは、秀忠没後、母没後でなんの
わだかまりもなく、わがまま弟・忠長を成敗したあとのこと。
最初は警戒していたらしいのですが、正之の律儀な性格に、
逆に全幅の信頼を置くようになったそうです。
「幕閣会議には、必ず正之が出席するように。無資格ですけど」との厳命で。
「正之が決定は、俺の決定と思え」と言ったとか言わなかったとか。
逆に正之は、再三の「松平」もしくは「徳川」復姓を拒み続け、
石高も(表高は)水戸以下になるように拒んでいたそうです。
「出ない杭」を心掛けていたのでしょう。
のち、正之はひとつだけわがままを言います。
幕府から1万数千石をいただき、分家を立てます。
分家当主は養父の弟(甥)。
つまり正之がいなければ保科家当主だったはずの人物です。
そして「保科家代々のお宝」を、そっくりそちらの家に移したそうです。
会津保科家が「松平」を拝領するのは数代のちのこと。
正之は
「武田の尼の恩を忘れるなよ!」
という書状を残しております。
見性院を祀る霊廟も建立しています。
当の見性院は、正之の名を呼びながら死んだという言い伝えです。
見性院は正之を擁して武田再興のもくろみはあったでしょうね。
臨終のときのエピソードもそうだけど
それ以前にも家康の五男・正吉を養子としているし
夫・穴山梅雪がはやばやと武田勝頼を見限ったのも
側室腹の勝頼よりも見性院を妻とする梅雪の方が正統との意識が強かったという説がある。
正吉が長生きしていたら、正之助かってなかったのかも。どうだろ?
391 :
日本@名無史さん:04/12/19 09:30:41
正吉じゃなくて信吉ね。
392 :
日本@名無史さん:04/12/19 10:11:40
武田信吉の家系が存続していたら、ここが武田宗家ってことになったのか。
そうなれば高家武田家(龍芳の子孫)の取立ての目はなかったな。
393 :
日本@名無史さん:04/12/19 15:02:48
>>390 勝頼は側室腹だからというより、諏訪家のっとりのため諏訪家の娘腹の諏訪家の跡取
武田家の人ではなく諏訪家の人だったと思う。
394 :
日本@名無史さん:04/12/19 15:20:18
現に信玄が勝頼を武田の当主としては認めておらんからな。
親父の信玄がそう言っちゃったら、甲州の豪族はそりゃ誰もついてこねえよ。
本多忠勝の娘を養女にして真田信之に嫁がせているけど、
わざわざ養女にしてまで嫁がせる相手だったのだろうか?
396 :
日本@名無史さん:04/12/19 23:56:51
>>395 関ヶ原前だし・・・実の娘や孫娘や姪ではなく、所詮、本多の娘だし
>>392 高家は高家で存続するんじゃない?
それとは別に「徳川武田家」が生まれる(復興する)ということで。
正統性としては「穴山家(未亡人)に養子に入り、武田に復姓した」という感じ?
龍芳家はその下に組み入れられるかもしれないね。
一族家臣として御家の箔付け(正当性を増すため)として。
あとほれ、土屋とか依田とか集めて武田家ごっこ。
398 :
日本@名無史さん:04/12/21 10:07:02
篠山城大書院のパンフ?に、初代城主は家康実子の松平康重と書いてある。
いろんな意味で大丈夫なのかな?
399 :
日本@名無史さん:04/12/21 15:26:23
松平康重ってぐぐってみたら家康実子ってしてるとこがちらほらあるね
康重が1554生まれってことは、実子だとしたら家康が11か12の時の子供か
元服前で今川にいる頃やね
あ、1568生まれか
見間違えた
401 :
日本@名無史さん:04/12/27 01:33:29
少し話は変わるけど、
家光の血筋が女系なら今でも残ってるようだ。
家系図に裏がない(あるかも)とすれば、
細川護煕氏もその子孫筋ってことになる。
徳川家光→千代姫(尾張光友夫人)→徳川綱誠
→徳川宗春→勝子姫(近衞内前夫人)→近衞経熙
→基前→忠熙→篤麿→近衞文麿→温子(細川護貞夫人)→護煕
402 :
紀州光貞:04/12/27 02:32:11
家光の子孫が自称陶芸家の細川越中守モリヒロなんですか。
意外や意外
403 :
日本@名無史さん:04/12/27 02:41:04
江戸時代初期の
筆頭大老
土井近江守利勝
は家康の落胤説があるが、実際どうですか?
そんなもん、本人たちに聞くしか他に・・・(笑
岡崎信康って実際に「有能」だったのでしょうかね。
事跡とかってあんま伝わってないですか?
405 :
日本@名無史さん:04/12/28 06:29:09
406 :
日本@名無史さん:04/12/28 09:34:07
家光は家康が春日局に産ませた子という説はどこかにあるのでしょうか?
ただのお話でしょうか?
そんなもん、本人たちに聞くしか他に・・・(笑
408 :
名無しさん:04/12/28 13:22:16
ぜひとも降霊で、本人達に真実を聞きたい。
でも降りてくるかどうか・・・・。
409 :
日本@名無史さん:04/12/29 00:24:35
降りてくるでしょ。
イタコにちゃんと金払えば。
410 :
日本@名無史さん:04/12/29 00:28:42
第4子の忠吉って、元は忠康と呼ばれたらしいよ。
411 :
日本@名無史さん:04/12/29 00:44:59
>>409 昔、TV企画で恐山に行って
「友達のジョン・レノンという英国人を降ろしてくれ(当然友達ではない)」
というのをやったところ
「(ものすごい津軽訛の日本語で)
・・・・ぉぉぉおぅ、久しぶりじゃなぁ。
わしじゃ、ジョンじゃ。
元気じゃったかぁ〜?」
というのが憑きましたとさ。
あくまで伝聞ですので本気にはしないでください(笑)
413 :
日本@名無史さん:05/01/13 11:59:59
仙千代が養子に出された時点で秀忠しか手許にいないわけですが、
なぜ赤子のうちに家臣の養子にしてしまったのでしょう?
>>404 信長が、「秀忠と比較して妬んだ」ってことで有能説があるけど、
家臣が申し開きをしなかったくらいだから、短所を補うほどの才能
が他に無い凡人の様な気がするね。
信長は、秀吉の細君にひらがなで書いた慰めの手紙を送ったり、
道端で泣いていたホームレスの婆さんの事情を調べた上で保護
したり、妙に女に優しい一面があるから、信康への怒りは単純に
「俺の娘を泣かせやがって・・・」って所だと思う。
家康ならその辺も理解した上で対処したんだろう。
信長を恐れて徳姫を大事に扱う必要はもとより無くて、むしろ女性
に優しい信長の性格上信長を懐柔する役に立つから徳姫を大切
に扱う事を当たり前に出来ていないとまずい。
我が子大事なら、あの手この手で申し開きが出来ただろうし、武田
と手を組み織田と事を構える方策もできた。(長篠ではそのように
織田に圧力を掛けている)
有能な存在なら、信長を恐れて言いなりになる事はあり得ないよね。
家康は最後の勝利者だから、「子殺しをした事実」については、いろ
いろ挿話を作って家康擁護がなされてるんだろうなあ。
家光どころか甲府綱重の直系松平氏があるわけだが…
越智松平はどっかから養子が入ってるんじゃ・・・?
418 :
日本@名無史さん:05/01/13 16:12:26
越智松平は初代清武のみ家光の血統。
419 :
日本@名無史さん:05/01/13 17:16:39
江戸初期の筆頭大老の土井近江守利勝が家康殿の胤という説は本当ですか?
それから家康の胤を宿した側室がなんとかいう豪商に押し付けられたって本当ですか
420 :
日本@名無史さん:05/01/13 21:42:37
>>418 家光―千代姫
‖――――松平義行―――松平武雅
尾張光友
この松平武雅が清武の養嗣子なので、
女系でいうと二代目までは家光の血統。
421 :
七誌:05/01/13 21:45:21
>>419豪商は知らんが、利勝は噂が結構あるよな。
顔が似ている、しゃべり方が似ている、利勝以外にも
小笠原帽ってやつが、家康の落胤とされてる。
大阪の陣で討ち死にしてる。
>>421 小笠原権ノ丞といかいう人では。
キリスト教信者で大阪方について戦死したと思うけど。
落としだねじゃなくて、家臣に養子に出したような記憶が。
423 :
日本@名無史さん:05/01/16 18:15:49
松平康重実子説はどこから来てるのでしょうか?
424 :
日本@名無史さん:05/01/16 23:44:55
家康の息子で、男系の子孫が継続しているのは
秀康、義直、頼宣、頼房の4人の子孫。
そのうち、徳川の宗家や主流、松平家をなしているのは、頼宣、頼房(宗家)。
秀康系も、有力な松平家に相当、残っている。
義直は、徳川・松平からは外れてしまい、井上、永井の小大名家に残っている。
>>424 秀康の双子の兄弟が神職だったと思うのですが。
そこって存続してるのでしょうか?
伝承の域ですが、江戸初期にはさすがに「噂か真実か」ぐらいの
確認はできたはずです(証人等)
権現様の子孫ではさすがに問題あるので、
・江戸時代中に処分された
・事実は事実なのでしょうがないから放置
どっちかだと思うのですが。
426 :
日本@名無史さん:05/01/17 16:41:09
>>425 秀康の双子の兄弟は早世したというのは俗説なんですか?
>>1にも記載なしだし。
427 :
日本@名無史さん:05/01/17 22:47:08
428 :
日本@名無史さん:05/01/17 23:13:26
信康の姫はどうなった?
徳姫の消息は如何?
信康の娘で本多の息子の嫁がいなかったか
俺もマジレスなのにスルーされた
430のリンクサイトの次女がそうじゃんかよう
433 :
日本@名無史さん:05/01/18 10:28:53
初めて知ったわ。勉強になった!!
>>427 永見氏は、歴史ある三河の豪族でどっちかっつーと水野氏寄りですね。
・秀康配下の越前家臣に「永見氏」がいる(秀康死去時に一人追腹)
・忠直ってば「永見一族追討」
・忠直の配流先での子供は「永見」姓(秀康の母方の姓だからまぁ・・・)
・挙句に「(松平)永見民部(頼母)」の存在
(家康実子?秀康に拾われ、忠直に仕え、
忠直弟の領国越後高田にて死去)
永見氏侮れないな・・・。
436 :
日本@名無史さん:05/01/31 19:18:49
山岡荘八の「徳川家康」では、大坂城の淀殿が家康の9男五郎太(義直)誕生に
嫉妬心を燃やすようなシーンがあるな。
437 :
日本@名無史さん:05/02/01 14:09:49
生き残りの中じゃ長男の秀康は二代目も継げずに福井に行くのだが、その後は何という
苗字になったのか諸説あるのですが、結城、松平、越前、のどれが正しいのですか?
その後の福井藩は松平ですよね!?そんじゃあ越前家と結城家はどうなっちゃのでしょうか?
438 :
日本@名無史さん:05/02/01 16:06:36
>>437 秀康が松平宗家である三河守を継いだという説がある。
秀忠が、新興の徳川家相続。
秀康が、清康ー廣忠ー家康ー秀康と相続。
>>437 秀康の5男(でしたっけ?)の直基
分家して前橋松平の始祖ですが、
(越前勝山→大野→姫路や川越を経て、次の代で前橋)
この方が一時、結城を継いでおります。
のちに松平に復姓しておりますが、そのような折に
例えば保科正之のような”正当血脈者に本家委譲”などが
あったかどうかはわかりません。
関連して、
関東豪族として有名な「多賀谷氏」は、結城家→秀康について
越前へ、と移動していますが、その子孫はこの直基につけられ、
子孫は前橋松平に仕えております。
家臣ともども「結城の名跡」ということではないでしょうか?
関東に帰れてよかったね、多賀谷さん。
あ、すんませんいま調べたら
前橋松平って言うより川越松平って言うみたいです<直基系統
すいません。
大御所家斉に多額の黄白をたくし込み、川越藩から荘内藩への所替を希望した
松平大和守だな。
442 :
日本@名無史さん:05/02/01 19:33:19
越前て名前の人は徳川家の子孫なのかな?
え?俺も?
レベルの低い俺でさえこのスレのレベルの低さにあきれる
このスレのレベルの高さが分からないとは・・・
ほんと初心者だねぇ。
和紙板もうだめかもわからん(*´・ω・)(・ω・`*)ネー
450 :
日本@名無史さん:05/02/05 15:29:32
レベルの高い話しをしれ!
451 :
日本@名無史さん:05/02/05 15:53:07
小泉さんの靖国参拝が心から出てきた。
これは中国と有効関係結ぶにも辞めておいたほうがいいですよ。
心で思ってれば伝わると思うから。
参拝しなくても心でいつも思ってる事が大事だと思います。
453 :
日本@名無史さん:05/02/05 21:52:23
長男信康と次男秀康は15才も離れてますが、その間子作りにはげまなか
った理由はなんでしょう?
454 :
日本@名無史さん:05/02/05 22:30:19
亀姫と督姫があいだに生まれてるだろ
>>453 長男(の実家方面)に気を使ってたからでしょ。
それ以降家康は、「身分の高い女」には二度と手を出していませんよね。
相当いやだったんでしょ(笑)
ま、その間も、世に聞こえぬ隠し子はいたかもしれませんね。
>>455 とはいっても、正室との間にはちゃんと子をもうけている(やることちゃんとやってる)し、
当時のことだから子供は多すぎて困るということはないはず。
正室の性格もあるかもしれませんが、純粋に仕事に忙しかったw
だけかもしれないですね。
三河統一やら、一向一揆との対立で陣頭に立っていたわけだから。
>>456 ・正室との間に子供作らないと、なんか評判が悪い
・次男ぐらいは作っとかないと、スペアがいないってことで・・・
・ので時々は・・・
・でもあんまし趣味じゃない・・・
・側室に手を出したりもしたけれど、懐妊が見つかったら
ましてや男子だったらぜってーあいつにコロサレル・・・ヤヴァイ
・ってなわけで内緒
458 :
秀康:05/02/08 22:26:12
だったら最初からこさえるなよ(゚Д゚)ゴルァ
行動に一貫性を持てってーの。
459 :
日本@名無史さん:05/02/10 09:41:49
家康より年上の築山殿がいつまでも若いわけないだろ。
460 :
日本@名無史さん:05/02/10 11:25:53
秀康の男系の子孫は、そこそこの華族で残っているよね。
島根の松平家とか...
逆に将軍家を継げた秀忠の男系の子孫は残っていない、たぶん。
>>458 風呂に入ってたらムラムラしたんじゃゴルァ
463 :
日本@名無史さん:05/02/11 17:08:38
464 :
日本@名無史さん:05/02/11 17:26:55
ない
よかった…
466 :
頼房:05/02/13 21:06:31
1才違いの甥って嫌だな。しかも格上。
でも仲良くしておこう。
467 :
天樹院:05/02/14 12:02:04
468 :
徳川義直:05/02/18 04:31:50
>>467 二度目の旦那さんを腹上死させるとはねえ・・・
470 :
徳川頼宣:05/02/18 13:00:48
家光はヤナやつじゃ
471 :
由比正雪:05/02/18 15:06:24
472 :
徳川頼宣:05/02/18 17:33:16
正雪か、近うよれ。して秘策とはどのようなものじゃ。
473 :
日本@名無史さん:05/02/18 17:34:13
474 :
日本@名無史さん:05/02/18 18:39:46
475 :
徳川頼宣:05/02/19 17:47:50
正雪 まだか
476 :
松平伊豆守:05/02/19 19:07:42
>>475 浪人どもの幕府に仇なす企み事に紀州殿が加担していたと聞き及んでおりますが・・・
本当の所はどうなのですか?
477 :
日本@名無史さん:05/02/20 01:06:05
11男か…。今の皇族にこれだけ30歳以下の男がいたら、またもめていたかも。
皇族は長男相続ですから。
宮家の維持費がかかる、というだけで。
479 :
日本@名無史さん:05/02/20 08:04:03
家康には男子が11人、女子が5人いた(公称)。
今の皇族は・・・女子だらけ。
480 :
徳川頼宣:05/02/20 08:12:21
おほほほほほほほほほ・・・・・
>>478 昔の皇族は、僧侶になったりして口減らししてるけど、
いまの皇族は男子は皆、宮家造って独立しちゃうから
男子ばっかりだったら際限なく宮家増えちゃいますよ。
(三笠宮家の御兄弟みたいに)
482 :
日本@名無史さん:05/02/20 11:16:06
言えるね。
皇族、皇女も口減らしのため、3歳くらいで出家さすとよい。
483 :
日本@名無史さん:05/02/20 13:19:52
>>481 口減らしするほど、人数がいないと思うが・・・
484 :
日本@名無史さん:05/02/20 13:22:21
そこで共和ですよ。
485 :
日本@名無史さん:05/02/20 20:15:29
もう王室なんて御取り潰しでいいのでは?
>>481 それはたまたま女性ばかり続けて生まれたという
偶然の賜物だわけで。
逆の場合も考慮する必要はあるのでは?
私は宮家の数を一定にして、後を継ぐ男子がいなければ
他の宮家から(男女問わず)養子をとって、存続するようにすればいいと
思うけど。
487 :
日本@名無史さん:05/02/20 20:42:46
君主制は未開の土人の証拠
万世一系は土人の信仰
おまいら皇室ネタは専用スレがあるんだからそっちへ行けよ。。。
>>485 ていうかアレだぞ、いまや日本の天皇は世界で唯一の皇帝なんだぞ
外交序列じゃ第一位だ
無くすなんてもったいないじゃないか
粘着バカ
どうでもいいが中華皇帝が復活したら、冊封を受けていた日本の天皇は
中国の臣下ということになって都合が悪いぞ。
>>491 皇帝はおろか王だってこれから新しく創設されることはないよ。安心汁。
わからんぞ。
ロシアだって旧帝室復活の動きがあったんだから。
スペインはフランコ総統の遺言で王政復古した王国ですが。
495 :
日本@名無史さん:05/03/02 22:02:47
ちゃんと家康関係の話題にしてください.
496 :
日本@名無史さん:05/03/03 10:38:55
>>491 :日本@名無史さん :05/02/20 21:22:36
>どうでもいいが中華皇帝が復活したら、冊封を受けていた日本の天皇は
>中国の臣下ということになって都合が悪いぞ。
冊封を受けていたのは朝鮮国王。
冊封というのは、中華圏内の地方政府という立場。
日本の場合は、欧州諸国と同じで朝貢だな。
朝貢の場合は、中華圏の枠外の格下の国家という認定。
粘着バカ
498 :
徳川頼宣:05/03/03 22:14:53
正雪未だか 今宵は雪ぞ
499 :
徳川頼宣:05/03/03 22:16:00
ふ 家綱なぞ只の小僧じゃ
500 :
徳川頼宣:05/03/03 22:17:30
お前が将軍の子なら 我は東照神君の子也
と 500
501 :
日本@名無史さん:05/03/04 09:09:06
加藤の血は・・・
502 :
日本@名無史さん:05/03/04 09:12:26
503 :
日本@名無史さん:05/03/05 11:39:04
3月5日、松平忠吉の命日
ご冥福を祈ります。
504 :
日本@名無史さん:05/03/05 18:58:42
忠吉って医療ミスの出血多量で氏んだって、マジ?
兄が弟の養子。
506 :
日本@名無史さん:2005/03/23(水) 19:04:29
保守
507 :
淀屋:2005/03/23(水) 22:22:17
家康の胤を宿した側室が豪商に押し付けられたという風聞があるが、事実かね?
508 :
日本@名無史さん:2005/03/25(金) 03:19:13
>>504 正確には敗血症の悪化が死因らしい。
ちなみに岳父・井伊直政も忠吉と同じく関ヶ原の戦いでの負傷から
敗血症を患い死亡している。
結城秀康は過度の性交渉による脳梅毒の悪化で病死。おそらく死の寸前は
鼻がもげて皮下組織が荒れ放題に荒れたマイケル・ジャクソンのような風貌
だっただろうな・・・怖っ。
>508
秀康の性生活は荒れていたのかもしれんが、
過度に性交渉したからといって、梅毒になるわけではない。
(腎虚にはなるかもしれん)
保菌者相手の性交渉でなければ、どんなにやろうと伝染しようがない。
逆に保菌者が相手であれば、一回でも伝染しうる。
当時は原因がわからなかったから、「やりすぎが原因」と記録されたりしたんだけどな。
510 :
日本@名無史さん:2005/03/28(月) 21:43:43
>>508 晩年と言わず、付け鼻してたらしいですけど。
>>509 梅毒の奴は結構いたはず。
それと当時から性交渉から伝染する感染症だということはわかっていたらしい。
ので「やりすぎ」とは捉えられず「うぁアンラッキーだね」というぐらい。
つけ鼻ってどんなの着けてたのかなぁ(´・ω・)???
512 :
日本@名無史さん:2005/03/28(月) 21:47:25
時と場合に応じておしゃれを・・・
豹柄とかスケルトンの付け鼻((( ;゚Д゚)))ガクブル
514 :
日本@名無史さん:2005/03/28(月) 22:53:02
大奥物の映画などでは、将軍は寝巻を着たままで全裸の側室とセックスしてるが、
あれは本当だったんだろうか?
全裸でのセクースはあり得ない はず
いわゆる春画では全裸のセクースシーンは一枚もない
どうも全裸より着物の一部をめくってやる方がハァハァしたらしい>江戸時代の人
お風呂も浴衣着て入ってませんでしたっけ。江戸時代は。
風俗史に詳しい香具師のフォロー希望。
516 :
日本@名無史さん:2005/03/29(火) 02:13:24
公衆浴場の場合、ふんどしはしてたと思うけど・・・
517 :
日本@名無史さん:2005/03/29(火) 05:56:22
梅毒はポルトガル人が持ち込んだんだっけな。
518 :
日本@名無史さん:2005/03/29(火) 19:38:44
御三家について。水戸は東北(主に伊達)の備えだって聞いた事あるけど、尾張、紀伊はどうなんだ?
大坂(豊臣の残党)、京都に対する備えにしてもなんであんな辺鄙な紀伊なんだ?
それに水戸ははじめから将軍の世継ぎが出ないと決められていたり光國以降日本史の研究が盛んで幕末には
数々の事件を起こしてるし(脱藩した浪士だけど)何か特別な感じがあるけど、どういう気風なんだろう?
それは今の水戸にも受け継がれているんだろうか?詳しい方教えて下さい。
519 :
日本@名無史さん:2005/03/29(火) 20:03:05 ID:
520 :
日本@名無史さん:2005/03/29(火) 20:04:18 ID:
>>519うざっ
521 :
日本@名無史さん:2005/03/29(火) 21:33:05
>>518 出来る藩士は、上京。現地には出来ない香具師と百姓が残ったのがデフォ
522 :
日本@名無史さん:2005/03/29(火) 21:51:48
>>518 >尾張、紀伊
西国大名の”大軍”は尾張を通らずに江戸には行けない。
その前に大阪がある。普段は閑散としてる大阪城ですが、
紀州からそれっ!と軍を動かせば即座に入城可能。
西国から来る軍勢は、大阪、彦根、名古屋を突破しなくては
なりません。
そんな時は丹波篠山や姫路、越前も黙ってないでしょう。
水戸家を水戸に置きっぱなしにするつもりはなかったんじゃないかな?
親藩譜代は入れるだろうけど。
もう少ししたらもっといい土地あげよう!(駿河とか)と思っていたら寿命が・・・
>518
紀伊家は、もともとは家康の隠居所の駿府城を貰っていた。紀州への転封は秀忠の代。
その時の名目は、>522にあるとおり、「紀州は上方の要害故、至親の者を…」だとい
うことだったとか。
実際は、忠長を駿府に入れるためなんだろうけど。
524 :
日本@名無史さん:2005/03/30(水) 07:35:31
>>518 >>522に同意。
更にいうなら、海路で考えると紀伊は重要なのでは?
ここを抑えておかないと、大阪ー江戸間の輸送の妨げになる。
525 :
日本@名無史さん:2005/03/30(水) 07:58:04
>>522、523サンクス!
いや、面白いね、もっと詳しい事聞きたいな−。確かに紀伊から上がるとすぐ大坂で尾張も含めて2枚シャッターが降りる感じだもんな。
裏日本に目を転じると前田に対する備えは越後松平と甲府徳川で北国街道と甲州街道は押さえてあるし。
水戸の気風についても知りたいのですが、水戸出身の方とかいたらよろしく!
526 :
525:2005/03/30(水) 09:38:03
524もサンクス!
なるほど海路も考えると紀伊は最重要地として浮かび上がってくるわい。
527 :
日本@名無史さん:2005/03/30(水) 14:11:34
なんせ紀州は「南海道」ですからねぇ。
俺らには一瞬「近畿」とも思えますが、
古代から一般常識とか感覚は”紀州を通って南西国へ”というのが
順当なルートだったのでしょうね。
>>523 あー紀伊家が元駿河っての忘れてました。
>>525 前田くんに対して一番効果があったのはやっぱ越前家。
次に「親不知」w
さらに飛騨から山越えコースは、高山を天領化して対応。
東海道の港町・桑名も親藩譜代の常駐地ですね、そういえば。
528 :
日本@名無史さん:2005/03/30(水) 14:22:48
忠輝・忠直・忠長と忠の字は後先がよくないようで・・・
家光も忠の字は嫌っていたようだね
家光は親父嫌いですから。
530 :
日本@名無史さん:2005/03/31(木) 00:08:32
肖像画から見る家康の息子11人の風貌
信 康:少々ふっくらした東山紀之
秀 康:やや穏やかな表情の竹之内豊
秀 忠:ちょびひげを伸ばした北村総一朗
忠 吉:ややふっくらした二宮和也
信 吉:やや色黒で暗い表情の岡田義徳
忠 輝:少々面長・下膨れで目つきの鋭い塚本高史
松千代:普通の穏やかな表情の幼児
仙千代:不明(肖像画が残っていない)
義 直:少々むっつりした京本政樹
頼 宣:いかつい表情の石塚英彦
頼 房:本田美奈子の男性風
頼宣が紀州に入部した時、
紀州は元々雑賀や根来みたいに国人勢力の自治の気風が強くて
手なづけるのにかなり苦労した、みたいなのを何かで読んだことがある。
もしそうなら、秀忠の嫌がらせだったりするんでしょうか?
532 :
日本@名無史さん:2005/03/31(木) 07:48:14
そうだよな、紀州といえば信長だって結局落とせなかったんだから、相当気骨はありそうだよ。
533 :
日本@名無史さん:2005/03/31(木) 10:02:35
>>531-532 まあそういった土豪を懐柔・服従させることがうまかった分、後に由井正雪の
乱の黒幕と疑われたりその後も何かと幕閣から煙たがられたりしたんだよね。
その辺の駆け引きのうまさは父家康の気質を11人の息子の中で一番濃く
受け継いでいる気がする。
全国から食いっぱぐれた浪人を多数召抱え、領内に配置するなど雇用対策にも
熱心だった。
534 :
日本@名無史さん:2005/03/31(木) 10:18:23
秀康は家康から嫌われてたって本当か?
幼名のおぎまるもいたちみたいな動物から取られた名前っていうし
ギギという魚に顔が似ていた。
信忠の仲介で親子の対面を果たした。
536 :
日本@名無史さん:2005/03/31(木) 12:28:08
>>535 信忠は信長の長男。家康の息子は信康。
数え3〜4歳ごろ初めて父と対面し、於義丸という名前をもらった。
ただ家康は秀康の資質は評価していたものの、最後まで一定の
距離を置いていた。
537 :
日本@名無史さん:2005/03/31(木) 13:35:12
538 :
日本@名無史さん:2005/03/31(木) 15:55:01
武田信吉の肖像画誰か
うつしてください
お願いします
凄く好きなんですよ
539 :
徳川頼宣:2005/03/31(木) 17:09:17
水戸の三ポイ 怒りっぽい 飽きっぽい 骨っぽいもしくは理屈っぽい
540 :
日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 06:17:08
541 :
日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 08:54:58
武田信吉でイメージ検索したらこけししか引っかからないのなw
542 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 22:08:41
>>263 徳姫所生の子供だったら、処刑は出来ないのでは?
543 :
日本@名無史さん:2005/04/06(水) 00:41:23
544 :
日本@名無史さん:2005/04/06(水) 02:33:39
百姓を遊びで射殺してたのは
紀州の馬鹿殿だっけ?
545 :
日本@名無史さん:2005/04/06(水) 09:28:28
秀忠が継嗣となれたのは同母弟の忠吉が居たから。
もし秀忠が忠吉の死後家光が生まれずにに死んで居たら、頼宣が三代目。
頼宣には同母弟の頼房が居るから。
義直の出る幕無し。
546 :
日本@名無史さん:2005/04/06(水) 22:36:22
わけがわからんのでもうちょっと解説キボンヌ
547 :
日本@名無史さん:2005/04/06(水) 22:41:40
なんで同母弟がいると将軍候補になれるのかが良くわからない。それに頼宣と頼房は同母弟ではない。
>>546-547 司馬遼の小説に出てきた。
秀康後継を主張する大久保忠チカに対し、秀忠を世継にしたい家康が持ち出した理論。
庶子惣領だか惣領庶子だったか忘れたが生母を基準に後継者を決めるってやつ。
同母弟のいる弟>同母弟のいない兄
ほんとにそんな考え方があったのかは知らん。
司馬遼www
秀忠が家康の跡継ぎというのは関ヶ原どころか秀吉存命時から決まっていたようなものだしな。
秀忠の官位を見れば分かるが秀康その他と扱いが全然違っていたし。
生母を基準に後継者を決めるってのはわかるけど、
同母の兄弟がいるかどうかは関係ないだろ?
大阪の陣で与えた旗指物が秀忠と頼宣のものが同じだった。義直は別物。
義直の母親が家康に抗議したところ、頼宣には頼房という同母の弟がいる
から惣領じゃ、と言ったという話を読んだ。
でもこの時点で秀忠は存命だし、家光も生まれているから
>>545の前提が
成り立たない。
553 :
日本@名無史さん:2005/04/11(月) 13:42:58
もう直、徳川家康と
徳川家光の命日じゃ。
松平忠頼も。
くだらねえ
それに旧暦の命日じゃねえだろうな?
現当主の18代恒孝氏は血統をたぐると水戸頼房の系統なんだな。
秀忠以降の宗家は早々と断絶したし、紀伊家と尾張家もいまは断絶状態だっけ。
江戸期を通じてほとんど傍流であるかのような地味な印象がある水戸家が幕末に
その尊皇思想で歴史の表舞台に出て、将軍まで出していわば幕府の葬送役を担い、
維新後現代に至って徳川宗家の存続に貢献しているんだから、皮肉というかおもしろい。
水戸→美濃高須→会津
だけどね。
557 :
日本@名無史さん:2005/04/15(金) 21:26:50
>>555 紀伊は家斎の努力で血統は残ってる罠。外様とかに
>>557 それが意外にも家斉の子供は短命な香具師が多くて
現在存命の御子孫は現在の前田家当主の系統だけ
じゃなかったらスマソ
559 :
日本@名無史さん:2005/04/15(金) 21:45:56
長七郎江戸日記
紀伊系なら一橋治済系の血統が田安家に残っている。
561 :
日本@名無史さん:2005/05/05(木) 12:47:29
保守age
562 :
日本@名無史さん:2005/05/22(日) 11:25:03
age
563 :
日本@名無史さん:2005/05/22(日) 12:53:27
家斉の男系子孫は津山松平家
564 :
日本@名無史さん:2005/05/22(日) 12:56:45
家康は末っ子の頼宣、頼房に秀頼から一字拝領してるんだよな。
565 :
日本@名無史さん:2005/05/22(日) 15:49:13
忠吉、忠輝って、なんで家臣の家の養子に出されたの?
空いてたから
>>579 秀頼の頼じゃなくて頼朝の方じゃないか?
568 :
日本@名無史さん:2005/05/26(木) 01:30:05
569 :
日本@名無史さん:2005/05/26(木) 02:10:36
長男:信康←信長の「信」
次男:秀康←秀吉の「秀」
三男:秀忠←秀吉の「秀」
四男:忠吉←秀吉の「吉」?
五男:信吉←武田の「信」、秀吉の「吉」?
六男:忠輝←?
七男:松千代
八男:仙千代
九男:義直←源氏の「義」?
十男:頼宣←秀頼の「頼」?
十一男:頼房←秀頼の「頼」?
忠輝の輝は伊達輝宗から?
元服前から政宗の娘との婚約は決まってたらしいけど。
571 :
日本@名無史さん:2005/05/26(木) 04:43:42
まさか。ありえん。
572 :
日本@名無史さん:2005/05/26(木) 06:23:40
>>570 二字の、両方に由来があることのほうが珍しいでしょ。
だから「輝」のほうはあんま意味ないんじゃない?
でも
九男:義直
これはわからんなぁ。
新田”義”貞?
573 :
日本@名無史さん:2005/05/26(木) 06:56:50
義家、義光、義朝などの義
頼光、頼朝、頼家などの頼。
574 :
日本@名無史さん:2005/05/26(木) 07:54:27
「頼光、頼朝、頼家などの頼」と「秀頼の頼」をかねている。
・・・なんで秀頼がでてくるんだよ。
つまらないクソスレになったなあ。
577 :
日本@名無史さん:2005/05/26(木) 11:27:29
↑いつも文句ばかりな豚野郎。何か良い話題でもカキコしてみろよバカ
579 :
日本@名無史さん:2005/05/26(木) 16:02:25
>>575 元服時ぎりぎりですけど、目上っちゃー目上じゃないですか?<秀頼
家康のあざとさならそれぐらいはするでしょ。
「義」は源氏の「義」っていうより、もっと狭義に新田の「義」じゃないかな。
系図は正しいんだぞ!ってwww
580 :
日本@名無史さん:2005/05/26(木) 16:25:48
お目見えして直々に貰わないと一文字貰えないのでは?
江戸時代は逆に遠慮して改名しているんだし。
>>578 話の展開も同じような感じなのは何故だろね?
582 :
日本@名無史さん:2005/05/27(金) 15:20:07
秀忠、忠吉、忠輝の「忠」は松平家の通字。
義直の「義」、頼宣・頼房の「頼」は源氏の通字。
信 康=岳父・織田信長の「信」と実父・徳川家康及び曽祖父・松平清康の「康」
秀 康=養父・豊臣秀吉の「吉」と実父・徳川家康及び曽祖父・松平清康の「康」
秀 忠=当時の権力者・豊臣秀吉の一字と松平家の通字
忠 吉=松平家の通字と豊臣秀吉の一字
信 吉=養子先の武田家の通字と豊臣秀吉の一字
忠 輝=松平家の通字(「輝」の字にはさほど深い意味はないと思う)
松千代=略
仙千代=略
義 直=源氏の通字(初めは義知、義利と名乗った)
頼 宣=源氏の通字(初めは頼将、頼信と名乗った)
頼 房=源氏の通字(「房」の字にさほど深い意味はないと思う)
583 :
日本@名無史さん:2005/05/27(金) 15:27:32
あと御三家開祖の3人が生まれた頃はまだ豊臣家の威光が健在だった
ため、周囲(特に加藤清正や浅野長政、福島正則など豊臣恩顧の有力者
たち)に秀頼から拝領したようにも見せるためあえて「頼」の字を選んだ可能性も
あると思うよ。
あと「直」や「宣」、「房」などは源氏の流れを汲む連枝でも使われており、とかく
源氏一門としての正当性を強調したかったんじゃないかねえ。
その実、平家系に多い「信」や「盛」、「時」の字は徳川・松平両氏ともあまり
使われていない。
生まれた頃から名乗ってる訳ねーだろ
元服した時期調べてみろ
忠 吉=松平家の通字と豊臣秀吉の一字
信 吉=養子先の武田家の通字と豊臣秀吉の一字
↑バカ過ぎて言葉も出ない
585 :
徳川頼宣:2005/05/27(金) 17:49:02
わしゃ源氏だから 頼じゃ
586 :
日本@名無史さん:2005/05/27(金) 17:58:36
(「房」の字にさほど深い意味はないと思う)
そんな命名ってwwwwwww
587 :
日本@名無史さん:2005/05/27(金) 18:02:10
588 :
日本@名無史さん:2005/05/27(金) 18:28:09
あとからならなおさらつけないだろ>吉
豊臣大名ですら吉の字使ってる人って小物だよ
堀尾吉晴、小出吉政と三好吉房ぐらいじゃない?
(この3人も年齢的に偶然使ってるだけっぽいが…)
大谷吉継
浅野長吉は信長の時の名前で信長死後には長政
羽柴秀長も最初は長秀だったやうな
>>591 確かに信長死後だが、長政と名乗ったのは晩年ではなかったか?
593 :
日本@名無史さん:2005/05/27(金) 23:21:47
木下吉隆、木村吉清とかね
木村はたまたまかも
594 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 03:40:19
>>588 いかに家康とはいえ、豊臣政権下での”徳川家四男五男”は充分過ぎる小者っしょ。
四男五男にその字使うことぐらいで
「天下取りの意思なんかありませんよ。」というポーズになるなら有効手段じゃん。
大友吉統・・・媚びてる?
>>595 うーん、一種の媚びというか臣従の現れでは。
ちうか、どこかで「義統は秀吉から下一字を拝領して改名した」と聞いたことがある。
義統(吉統)は豊後に正室がいるにも関わらず秀吉から別の女もあてがわれているね。
「吉」字が拝領なり媚であるなら、下にはつけないと思うが。
ところで、「康」に関しては、家康は自分の家の通字にしようとしていたんじゃない
かという気もしますが、どんなもんでしょう。
義元の「元」+「康」、信長の「信」+「康」、「秀」+「康」というのは、貰った
字+通字というパターンのように思えるし。
599 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 18:15:59
>>597 もし秀忠ではなく秀康が2代将軍になっていたら、3代目は光康とか康光になってたかもなw
そもそも自分が清康からだしな
前にもどこかで「本当は『康』字を通字にしたかった」説見たな
ここの上のほうかもしれん
家光の光ってどこから?
源頼光?
秀忠の忠ってどこから?
源義忠?
松平を徳川に変えたくらいだから、姓名への拘りはよくわからんな。
小牧長久手か関が原で完敗してれば一代で滅びたわけだし。
つーか三河衆の通字じゃないの
606 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 01:30:42
松平康安が最強
>>606 それは「やすやす」でいいのかな?
それともなんか特殊な読み方あるとか?
武田家へ人質に出されて脱走して凍傷で足の指が全て落ちた人って家康どういう関係?
忠輝で思い出したけど、「輝」の字がつく人はあまりいい結果になってないな。
急死してお家騒動の原因を作った今川氏輝
関ヶ原の西軍総大将として処罰され領地を1/4に減らされた毛利輝元
姫路宰相西国将軍と称されながら「刑部姫」の祟りで早死にしたと言われる池田輝政
輝政の四男で領地を加増されたので必要な数の家来を増やしたら内紛になって改易された
池田輝澄
同じく輝政の六男で領主として申し分ない民政を行っていたのに突如発狂して正室と侍女を
殺害して改易になった池田輝興
そして栄えあるこの列伝に松平忠輝も加わるわけだ。(w
足利義輝もそうかな?
612 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 20:58:43
長尾輝虎は改名したからセーフ
てるてる家族
614 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 22:10:37
>>609 伊達輝宗、毛利輝元 、今川氏輝、長尾輝虎らは足利義輝の片諱をもらった
>>601 確か家光の「光」は源義光(新羅三郎)の「光」だったと思う。
家の字は諸説あるが、源義家(八幡太郎)を意識したと言われている。
もっとも祖父・家康自身が20代の頃「元康」から「家康」に改名した際、
そのように意図したかどうかは不明だけど。
>614
今川氏輝は足利義輝が生まれた年に死んでるから、偏諱はありえんなぁ。
つーか、将軍から与えられたんなら上につけてるはずだ罠。
>>609 でも忠輝は92歳まで生きたからな。
改易後はストレスなく幸せな人生だったのかも。
619 :
日本@名無史さん:2005/05/30(月) 02:44:02
age
>>609 そういや俺の知り合いで輝政ってやつがいたけど
グラフィッカー希望でゲーム制作会社に就職したのに
社長の知り合いが経営するゲームショップの店員に
させられてたな。出向という形で。
>>611 暗殺されたやんか。十分「輝」の会に入会資格あるで。(w
>>612 輝虎は改名してないじゃん。謙信は法号なんだから俗名は輝虎のまま。
故に死後すぐにお家騒動を起こしている。
何より不幸なのは、未だに性別をめぐってこの板で醜い泥仕合のネタにされていることだ。(w
622 :
日本@名無史さん:2005/05/31(火) 01:12:31
>>622 兄が徳川に変えた時に一緒に変えたんじゃないの?
しかし、実在したとすれば病弱の割には案外長生きさんだね
家光は家康と光秀
忠長は秀忠と信長
からとっているというのが定説
>>624 >家光は家康と光秀
!?
やっぱり家光は家康と春日の局との子だからか?
バカが定説と思い込んでるだけ
627 :
日本@名無史さん:2005/06/03(金) 19:30:01
628 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 20:33:19
保守
保守
630 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 23:04:06
age
9男義直の義は今川義元の義、これほんと。
632 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 17:41:05
今川義元の「義」って足利将軍の「義」っしょ?
そんな人から取るよりは素直に源氏の「義」でいいじゃん。
>>631-632 徳川義直の「義」も今川義元の「義」も、源氏に由来するという点では同じ。
しかし義直の「義」は今川義元から来たものではない。
634 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 04:21:38
ループ
あと義直の「義」=源氏に由来する、は確定ではない。
当然、今川とも限らない。
635 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 12:54:03
「義」の字や「頼」の字は主な源氏の通字であり、それを強く意識した家康の意向からきている。
末3人の息子の名もその所以からであり、
この3人は特に”源氏としての徳川”としての地固めの1歩であり随分可愛がられた。
家康は末っ子の頼宣、頼房に秀頼から一字拝領してるんだよな。
637 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 14:08:48
え〜そうだったんか・・・。
大阪方を敵にして、滅ぼすなんてまでしておいて
その後も使い続けてるのもどうかと言う気もするが・・・、いや、でも確かに
今更ながらですがそんな話しが確かにあったようなきがしる・・・。ど忘れしてた。
638 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 15:01:54
足利将軍がいた頃は「義」を名乗るには多額の献金を
する必要があったからケチで有名な家康としては
「う〜ん得した気分♪」という感じで義直と名付けたのではw
639 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 15:29:09
>>635 というキミの”自説(推測)”なんだよね。
結局確定はしない。ついでにループ
640 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 15:45:13
自説じゃないですよ。そんな無茶はさすがに。
641 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 16:23:10
>>635 次世代には、"頼"も"義"も高松や西条なんかの分家松平の通字に格下げ。
権現様の強い意志としての”頼"や"義"なら、水戸は別に考えるとして
紀伊と尾張は、光頼、光義→綱頼、綱義→吉頼、吉義となったんじゃない?
642 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 16:30:53
・・・ですよね。なんかで読んだのを鵜呑みにしてました。お・お・お・お・お・・・
あまつさえそれをそのまま挙げてしまうと言うこの体たらく〜・・・!
>>636 釣りはエサをつけないとうまくいかないことくらい、そろそろ学習でき
てもいいんじゃないか。
644 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 10:57:30
少なくとも今川義元の義ではないだろう。
十男、十一男 の時点、時代でなんで今さら今川なのか?
645 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 11:10:56
頼宣、頼房の「頼」が秀頼の「頼」なのはガチ
646 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 13:30:03
647 :
騰聰子:2005/07/03(日) 13:34:16
何方か、徳川清水の家系図をご存知の方いらっしゃいますか?火事があって、燃えてしまったらしくて。。。
徳川重好→絶家
>641
尾張光友は、最初「光義」を称していますし、綱誠も「綱義」を称していたはずです。
(検索してみたら、綱誠へは、「綱吉」に遠慮しての改名だそうですね。)
650 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 08:49:26
ふむふむ。それに、分家の通字っちゅうのもある意味、下賜されただけなんじゃね−の?
651 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 10:47:41
源氏の頼
足利の義
652 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 11:01:46
ですな。それが1番可能性高い。
653 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 11:43:53
て事で「頼」も「義」も源氏から。
654 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 17:51:53
頼宣、頼房の「頼」は秀頼の「頼」
655 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 20:44:25
束頁
ウ
日
一
束頁
戸
方
禾
乃
束頁
656 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 15:17:03
「頼光、頼朝、頼家などの頼」と「秀頼の頼」をかねている。
658 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 20:03:24
まあ・・・なんと言うか、
この3人の名の由来がどうであろうとも この歴史の流れに影響は無かったと思われ・・・
659 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 21:36:13
じゃあ歴代将軍の名前の2文字目はどうやって決まったんだろ?
スレ違いスマソ
660 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 16:30:48
>>659 家康→松平清康から
秀忠→松平家の通字
家光→源義光か頼光?
家綱→源義綱?
綱吉→多分佳字
家宣→多分佳字
家継→わからん…
吉宗→伊達政宗から取った…、は大河ドラマだったっけか
家重→新田義重に相違あるまい
家治→多分佳字
家斉→多分佳字
家慶→多分佳字
家定→多分佳字
家茂→多分佳字
慶喜→多分佳字
661 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 16:38:36
家宣の「宣」って頼宣と同じ字だけど
なんでまた、こんな字にしたんだか・・・
紀伊家に対する嫌がらせか?
662 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 16:46:54
>>661 下々がお上の字を使う事はタブーであっても、
お上が使う分には、あんまりタブーじゃなかったんじゃないの?
紀州家を下々と呼ぶのは、一寸失礼だけどさ。
幕府後期になるとお上もさすがに気を使い出して、
斉とか慶とかあんまり使わなさそうな字を持ってきたとか。
綱豊だったんだから家豊でも良かったんじゃないかと思ってしまう
664 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 21:25:19
>>661 甲府家に対する嫌がらせ。本当は娘婿を世継ぎにしたかったんだよ。ワンワン
665 :
659:2005/07/06(水) 22:43:03
つまりみんなめでたさげな字を選んだ、と。
家治の子家基や家定の前名家祥もそうなんでしょうね
あとは家定以降は「偏と旁が分けられない字」を選んでんですね
666 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 01:35:05
>>660 全部、てきとーな字(佳字)でいいと思うんだけど。
無理矢理、源氏由来に当てはめるほうがどうかしてる。
>>651-653みたいなバカになっちゃうぞ。
667 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 02:33:00
ん?煽り?そだな、なんでもいんじゃね?
668 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 14:12:43
>>666 源家所縁の字は佳字である、とも言えるんだが。
そういうもんでしょ?
あと何でもかんでも源氏に由来を求めるな、というのは同感だけど、
源氏に由来を求めるのはどうかしている、というのも逆の意味で「なんでもかんでも」だと思うが。
幕府初期っていうのは絶大な権力はあっても、権威が不足がちだったのだから。
なんとなく諱名に何かを求めた、と考えられなくもない。
家重にしたって、元々は紀州の世継ぎだった訳だ。
合理主義者でありつつ復古主義的色彩も持ち合わせた父吉宗の趣味、と考えられなくもない訳で。
669 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 17:55:57
紀伊藩の徳川斉かつ なんか難しい漢字だし意味がわからん
670 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 20:44:11
>>668 それをいったら、どの姓の香具師も佳字を使ってるって
源氏由来にこだわるなら、家朝、家実、家平、家為、家経、家範がいてもおかしくないが何故にいないんでしょうか。
家家、家頼、家義、家信
672 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 21:23:14
どうしようもない駄スレだな。
673 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 21:40:59
>>670 言いたい事は判るけど、
家朝、家実、家平、家為、家経、家範、
これは全部右大将家所縁じゃないかw
いないに決まっとるわな
家光、家綱は兎も角、家重は先祖から採ったと見ても変ではない。
家斉の代になってからだと思うんだけど、新田義重が位階追贈されてるんだよね。
幕府中期ぐらいから、祖先に対する関心が細かくなった結果、なんだと思う。
674 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 22:02:30
>>673 自称群馬人の徳川家としては、家貞、家助でしょ。
676 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 22:18:01
>>673 家重がわざわざ新田義重からとったんなら、吉宗か家重の代に追贈しとるだろ。
あるいは、義重からとったという話が徳川実紀あたりにのってそうなもんだが。
家康の時に太政大臣に任じられたけど、辞退して
代わりに先祖の新田義重に鎮守府将軍、
父の松平広忠に大納言を贈ってもらった。
678 :
日本@名無史さん:2005/07/09(土) 03:54:23
どうしても自説を押し通したい奴がいるっぽいけど
それって「と俺思う(根拠なし推測)」でしかないんだよ。
679 :
日本@名無史さん:2005/07/09(土) 14:02:29
お前もな。
680 :
日本@名無史さん:2005/07/09(土) 19:28:40
泣くなよ
泣いたらいかんのか?
根拠ないのは推測じゃなく憶測といいまふ
683 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 08:48:13
ん〜、というかあ、家康九男、十男、十一男、ならまだしも
徳川政権磐石後の名の由来調べる事にそんなに意味があるとは思えないなあ・・・
まったく無いとは言わないけど。
684 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 09:13:44
頼宣、頼房の「頼」は秀頼の「頼」
↑
まだ言ってるのか・・・
686 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 09:35:34
いや、マジな話、徳川頼宣・頼房の「頼」は羽柴秀頼の「頼」でしょ。
ほかに何がある?
687 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 09:46:55
源氏厨には悪いが、あの時期なら秀頼の一字の方が蓋然性が高いぞ。
徳川の天下も、まだ流動的な情勢だったからな。
688 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 10:38:27
じゃあなんで義直は(ry
690 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 11:42:44
確かに秀頼との関係は説明されてないな。本当気になる。
691 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 12:21:37
>>687 ほう。では、当時の徳川と豊臣の関係と、
どのような手続きで秀頼から一時もらったのか教えてもらおうか。
君が厨じゃないんなら、詳しく説明してくれるよね?
692 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 12:26:47
手続きなしで勝手に使っちゃうことで秀頼の権威を下げる目的ではないかと
正式に頼もらった香具師居てる?
693 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 13:41:15
秀頼の息子国松が成人した暁には家康か秀忠から名を賜り、豊臣康頼、又は豊臣忠頼と名乗る可能性について
694 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 13:48:10
淀殿が死んで、秀頼が徳川政権の一大名に甘んじていれば、それはありうるな。
秀吉政権のもとでの織田秀信みたいに。
695 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 15:02:36
織田秀信と同じように考えるなら、羽柴康秀または忠秀となるのでは
秀頼の「頼」はどっからもってきたの?
697 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 19:18:20
それをいうなら、秀吉、秀長、秀次、秀勝などの下の字は(ry
698 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 19:19:45
そう言えば。ずっと、晩年の秀吉の「頼りにしてるぞ・・・」の気持からだと
勝手に思ってた。
699 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 19:55:34
>>697 秀長の長が不思議な気がする。主君の信長と陪臣の秀長が被るわけで、
で、黒田長政の長は信長から?浅野は違う気がするが、
>699
信長が生きていた頃は秀長じゃなくて長秀と名乗っていたから無問題。
秀長は丹羽から名をもらったんだよ。
羽柴にしたって丹羽と柴田からもらってる。
その当時は周囲に配慮せざるを得ない身分だったんだろ。
703 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 08:30:52
>>692 権威を下げるためならむしろ、上よりも下の字に付けない?
それに豊臣にすれば家臣分とはいえ、徳川ほどの有力大名に使われる分にはさほど悪い気はしないんじゃあないか?
むしろちょっと嬉しいかも。(さすがに下に付けてたら怒りそうだけど。)
704 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 19:35:07
細川頼範の場合も、秀頼の頼と細川頼之などの頼をかねてるような・・・
705 :
日本@名無史さん:2005/07/23(土) 02:28:59
いや細川頼範はその後元勝と改名しているから、
706 :
日本@名無史さん:2005/07/23(土) 15:22:38
頼宣や頼房って大坂の陣前に元服してた?
頼宣が年齢が若いため最初従軍を許されなかったのに
家康に従軍を願い出て誉められたってエピソード聞いたことあるんですが。
でも普通なら、将軍秀忠の忠の字を貰いそうですね。忠輝や忠直みたいに。
>706
それは松平忠昌では?もっとも、年齢があわないから、違うときの話だろう、という
ことになっているそうですが。
頼宣は義直と同時に、慶長十一年に元服しています。
大坂の陣の時、義直には頭黒に白紋の旗を五本、頼宣には白旗に黒紋という、秀忠と
同じ旗を七本与えた、という逸話もあるくらいですから、従軍させるのは既定方針だっ
たんでしょう。
708 :
日本@名無史さん:2005/07/23(土) 18:01:17
大坂の陣はほぼ勝つ事が確定してる戦だったしねぇ
箔付けにはもってこいでしょ
709 :
日本@名無史さん:2005/07/23(土) 18:07:20
>頼宣は義直と同時に、慶長十一年に元服しています。
慶長11(1606)年ならば、時期的に秀頼の一字であってもおかしくないな。
>709
義直と同時にだから、秀頼から拝領ということはないでしょう。
もらうなら二人ともだろうし、そもそもこの時期に秀頼から「頼」字をもらう
意味も理由もない。
711 :
日本@名無史さん:2005/07/23(土) 19:43:21
>>692 てか、人の事源氏厨、源氏厨つってバカにしといて、
どんなご大層な理由が出てくるのかと思えば「・・・かと」だと?おめえの想像かよっ!?
おめえが1番厨じゃねえか!
712 :
日本@名無史さん:2005/07/23(土) 20:24:22
信長の子孫はスケートしているぐらいだ。
713 :
日本@名無史さん:2005/07/23(土) 21:09:28
1606年頃って、まだ徳川と豊臣の上下関係が微妙な頃だからな。
本音では、徳川による権力世襲をはかっていても、豊臣系大名の手前、
一応、秀頼を尊重するポーズが必要だったんじゃないのか?
だと、すれば息子に秀頼の「頼」字をもらったとしても不思議じゃない。
715 :
日本@名無史さん:2005/07/23(土) 21:44:18
>>714 秀頼の一字説は、そんなふざけた説ではないと思うが。
自分の気に入らない説を釣り扱いというのは関心せんな。
>>713 この時期(義直らの元服)に他の大名家で秀頼から
名をもらった香具師っているのか?
徳川家ですら尊重して名をもらうぐらいなんだから
他家でもたくさんいそうな気がするんだが。
>715
どう読んでも、ふざけた説でしょう。単に誰かが下らない思いつきに固執してい
るか、でなければ釣りか、でしょう。
前年には秀忠への将軍継承と、秀頼への上洛要求(要するに臣従の要求)をして
いるのに、息子への偏諱拝領を願うなんて、ありよう筈もない。
相手に臣従の意思表明を要求し圧力をかけているさなかに、自分から臣従の意を
示したのでは、全ての努力が水泡に帰するだろうに。
「秀頼の『頼』字拝領」の誤解を避けるために、敢えて(同時に元服した)兄の
方を「義利」とした、という方が、まだ納得できる。
718 :
日本@名無史さん:2005/07/23(土) 22:59:40
>>717 そうすると逆に「秀頼の『頼』字拝領」という誤解を受ける可能性がきわめて高いにもかかわらず、
わざわざ息子に「頼」の偏諱をつけた家康の真意が謎になってこないか?
慶長11年段階では、まだ家康も秀頼を殺すか徳川に取り込むか決心がついてない時期だろ。
家康が、秀忠の家系>秀頼の家系>義直・頼宣・頼房の家系、というヒエラルキーを考えていた可能性もあるぞ。
つ【下間頼廉】
拝領にはそれなりの儀式、手順がと
もなうんで、誤解の可能性うんぬん
という話にはならんでしょう。
>>719 その「頼」の字は秀頼からじゃないだろ?
下間一族だったら大体ついてるじゃん。
ひょっとして「頼」が秀頼からの拝領だと主張している人って、
秀頼の許可なく勝手に「拝領」したと主張してるの?
723 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 01:24:34
家康のほうが秀頼より上位にいるのは明白なんだから許可なんかいらんだろ。
下位の香具師の一字を勝手に朴って息子に与えるのかよw
725 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 03:08:00
>>723 一字拝領の根本的な意味をわかっていない
726 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 04:25:32
家康は表面上、秀頼を立てるため、その一字を息子にもらったんじゃないの?
728 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 08:08:16
729 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 08:13:45
思うにさあ?名前って確かに ”箔” が付いてるに越した事は無いだろうけど、
そんな肩書き無いにしてもめちゃくちゃ困りもしないもんだろう?
ちょっと難しく考えすぎじゃあないか?
730 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 10:47:10
>>726 あのねえ。
勝手には貰えないんだよ。
許可してもらわなければいけないの。
>>720のとおり
731 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 11:29:29
もらったんだろ。
↑
まるで駄々っ子だな。
そこまで、秀頼一字説を排除しなくてもいいのでは?
1606年段階なら、ひとつの可能性として排除しきれまい。
源義家の義、源頼朝の頼と考えれば自然だ。
仮に秀頼の頼なら豊臣滅亡後に改名しただろう。
長富丸→頼将→頼信→頼宣。最後の改名は紀伊入封後。
秀吉から名前貰ってる秀忠も名前変えてないんだから
秀頼の頼なら豊臣滅亡後に改名してるってのは説得力ない気がするぞ
736 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 19:39:10
在位中に名前を変える将軍がいるか?
新しい名前でまた将軍宣下してくれるよう朝廷に依頼するのか?
737 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 20:12:50
将軍宣下後に改名している室町将軍なら掃いて捨てるほどいるが。
足利将軍は改名してるのが何人かいたぞ。
ていうか、将軍宣下と改名は関係ないだろ。
739 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 20:28:41
740 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 20:38:27
家康の場合は織田と手を組むために必要な処置だったんだろうけど
何の脅威も無くなった後の秀忠の時は必要なかったんじゃない?
741 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 20:49:04
義家の「義」や頼朝の「頼」なら秀忠や家光にこそつけるべきだろう。
みそっかすの弟たちにつけるには立派過ぎる字だ。
>733
だから、秀頼から拝領したという事実がない限り、「秀頼の『頼』」ではないんです。
拝領したんでなければ、「偶々同じ字だった」というだけにしかなりません。
どうしても「秀頼の『頼』字をもらったんだ」というなら、拝領したということを示
してください。
743 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 21:44:29
>>742 タマタマ同じ で、「頼」をつけるのは、秀頼をなめているってこと
伊達なんかも吉宗時代にタマタマ同じ「宗」を「村」に替えたりしているわけで
拝領していないのなら配慮するのが常識
>743
それは、相手が「主家」の場合でしょう。
なめるもなにも、家康の場合秀頼に「上洛しろ」と臣従を要求しているわけで、
事情が全く違う。
ところで、
> 伊達なんかも吉宗時代にタマタマ同じ「宗」を「村」に替えた
というのは、具体的には誰のことでしょうか。伊達の当主で「村」字は綱村から
のようですが、綱村の父は「綱宗」ですから、この人のことではないですよね。
745 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 22:19:59
息子に秀頼の偏諱を命名するというのは家康の秀頼への友好のメッセージじゃないのか。
家康は秀頼に臣従を要求はするが、義直以下の息子たちよりも上位に立てているわけだろ。
家康自身が「頼康」と改名するとか秀忠が「頼忠」と改名するとかいうならそりゃおかしいが、
義直以下の息子たちは要するにどうでもいいみそっかすだろ。
747 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 22:31:11
>>741 源義家の家が徳川将軍の通字になってますが、なにか。
748 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 22:34:31
749 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 22:35:47
伊達氏
綱宗(家綱より)−綱村(家綱より)−吉村(綱吉より)−宗村(吉宗より)−重村(家重より)−斉村(家斉より
伊達家の通字は綱村とその兄弟の代より「村」となる。
吉村はなんで「吉宗」にならなかったんだろう・・・
752 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 22:50:03
>>750 徳川綱吉の「吉」は豊臣秀吉からじゃない?
豊臣氏に親近感を持つ大名や浪人に、
豊臣との融和をアピールするためにつけた可能性が高いのでは?
調べず勘で書くが、紀伊藩主が先に頼方から吉宗に改名していた
のかもしれない。
>豊臣氏に親近感を持つ大名や浪人
だれ?
755 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 22:53:28
756 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 22:59:17
徳川吉宗の「吉」は徳川綱吉の「吉」だろ。
↑
当り前田炉
758 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 23:04:03
前田綱紀の綱は徳川家綱の綱だよ
その辺は分りきったことだろ
レベルが急降下だな。
スレタイの読めないやつ多すぎ。
761 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 23:16:06
・徳川頼宣(頼将)
兄:秀忠(嫡男)、義直(豊臣家から拝領せず)
豊臣家:健在
(潜在的)反徳川派:多数
・徳川綱吉
兄:家綱(嫡男)、綱重(豊臣家から拝領せず)
豊臣家:弱体化したものの健在
(潜在的)反徳川派:多数
こうしてみると、秀頼から一字拝領した頼宣と、秀吉から一時拝領した綱吉って、条件はほぼ同じだね。
762 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 23:18:09
綱吉の「吉」が秀吉の「吉」というのはいくらなんでもありえねえと思うが・・・
763 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 23:25:34
池田綱政の「綱」は徳川家綱の「綱」だよね?
>>761 なるほど。頼宣の時代と比べて豊臣家が弱体化していたから
綱吉の時は拝領した字を下につけたのか。
納得だね。
・・・本気で言ってるのか?
766 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 03:41:52
急激にネタスレと化したね。
767 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 08:43:30
夏厨が沸いてるな。
下手な自演ばっかり。
自分の気に入らない話題は「夏厨」かよw
ま、綱吉云々は明らかにネタ(ギャグ)だろうが、秀頼の一字の件はまじめな議論だろ。
頭から切り捨ててかかろうとする姿勢こそ厨だと思うが。
みそっかすに
江戸と京を結ぶ枢要の地に配する。
天下普請で築城してやる。
表高61万9500石+木曽の山林をくれてやる。
従二位大納言の官位をくれてやる。
平岩親吉や成瀬正成を付けてやる。
江戸城西の丸に邸を置いてやる。
だが、将軍にはしてやらない。
772 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 20:45:11
>>769 秀頼ネタも綱吉ネタも同レベル。
つまらんネタに延々と拘ってるのはまさに厨だよ。
なんでそう考えるかな。
自分の意見と違うからといって、厨のレッテル貼りをして議論の場から
抹殺しようってのは偏狭な姿勢だと思うが。
秀頼云々は「つまらんネタ」と一笑に付すようなものではないだろう。
ってか、綱吉の「吉」は秀吉の「吉」でいいんだろ?
>>773 というか頼宣の「頼」が秀頼からだという憶測以外の根拠は何なんだよ?
一字拝領の手続きを経ていない以上、拝領ではないんだよ。
秀頼と友好関係を保つためなら、無断で名乗るのはおかしいだろう?
秀頼をバカにするためなら、一字目に名乗るのはおかしいだろう?
どっちにしろ秀頼からもらった説は合理性がない。
776 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 22:47:36
>>775 綱吉が秀吉から一字拝領した例もあることだし、
頼宣が秀頼から一字拝領していても全くおかしくない。
いや、むしろ秀頼から一字拝領していたと考える方が自然。
>>773 同時元服の弟だけ拝領もおかしいな。
もし拝領するなら千姫の弟の忠長が拝領しない理由もない。
頼宣の頼は頼朝の頼は有名だろ
780 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 23:21:53
>>770 秀忠や家光と比べたらみそっかすだろ、御三家なんぞ。
ものごとの比較対照のできない脳味噌は取り替えたほうがいいぞ。
781 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 23:38:42
782 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 23:44:16
頼宣の元服に際して秀頼からの一字拝領の手続きを経ていないという史料的根拠は?
伊達政宗は北条政村からの一字拝領だったんだ!
だって一字拝領の手続きを経ていないという史料的根拠がないもんな!
785 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 00:20:12
秀頼からの一字拝領の手続きに関する史料は、あったとしても抹殺されてしまった可能性が高いと思う。
徳川家光が朝廷に要求して祖父家康や父秀忠の口宣案や位記を再作成させている事実がある。
これは、藤原姓や豊臣姓で(藤原朝臣家康とか豊臣朝臣秀忠とか)記されている書類を源姓に書き直させるのが目的だったというのが定説。
秀頼からの一字拝領の手続きに関する史料など、真っ先に処分されてしまっただろう。
史料がないから史実がなかったということにはならない。
一字拝領ならなんで義直は「頼」をもらってないのさ
同時に元服してるのに片方だけ一字拝領って言うのは変だろ
787 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 01:03:01
>>785 陰謀史観キター--!!!
自分の説に都合のいい史料がないのは証拠隠滅されたからだーー-!!!
788 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 08:41:12
789 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 19:45:10
790 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 21:20:36
ボケるなら笑いをとってほしいな。
791 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 21:45:11
夏厨は人の話を聞かないのが特徴ですね。
いやー、暑いねー
793 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 22:10:02
秀頼一字説を妨害しようとする人たちが必死ですね。
あの時期なら秀頼からの一字拝領の可能性は全く否定できないだろうに。
794 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 22:11:28
ま、どんな意見であれ、自分の考えに会わない意見が出たからといって、
厨だの夏だのと煽って、むりやりネタにもっていこうとするのはやめような。
795 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 22:27:49
>>786 義直は王義之からの一字拝領だったんだってのは、書道界の常識なんだが。
796 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 22:35:41
797 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 22:53:29
>>793 禿同。
たとえ0.1%の可能性でも疎かにはしてはいけない。
798 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 22:55:10
むりやりネタに持っていこうとするのはやっぱりまともに議論しても勝てないからですか?
799 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 23:19:13
うむ、秀頼一字説に異様に拒否反応を示す輩の仕業だろう。
800 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 23:26:23
義直の「義」って八幡太郎義家の一字なんじゃないの?(根拠なし)
801 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 23:32:41
夏厨が根拠を全く示さず妄想爆発中。
>>793なんか読むと例の中国式城壁君かと思える。
あの時期ってどういう時期?
どういう手続きを踏んだ?
義直はどうして頼の字が無い?
源頼朝の頼ではないという根拠は?
元服の時期が違う頼房についても説明してくれますか。
じゃあ義和団の義でいいよもう
>>801 議論以前に「夏厨」というレッテルを貼り、相手を貶める態度も十分「厨」ですよ。
あなたがどういう考えでもかまわないが、自分と違う意見を「厨」呼ばわりは感心しない。
厨は反論できないw
805 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 02:22:16
源氏の一字である説も
秀頼の一字である説も
結局、「・・・と俺は思う」以降の発展はないのですよ。
806 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 02:24:49
平氏は将軍になれんの?
807 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 08:35:10
古代以来、なった奴がいない
というだけで、なれないわけではない。
「最近はまぁ大体源氏だから・・・」
「将軍になった奴が(自称含む)源氏なんだよなぁ」
ということで源氏だっただけ。
808 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 19:43:28
809 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 22:48:44
坂上氏だったらなれるよ。
810 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 23:41:13
>>808 秀頼からの一字拝領を言い始めたやつは、初めから「論」など展開してない。
もし「論」があるなら、レス番号を教えてくれ。
811 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 23:49:43
坂上は田村氏の祖先だろ。
伊達の祖は藤原氏だし。
813 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 00:22:13
女系の血が混ざっていたとしても
伊達の正統は途中で絶えてる。
あと、sageろ。
815 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 00:31:57
811だが、
>>814のような突込みが欲しかったのだが・・・・・別なのがきてしまった
817 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 09:15:07
義直母と頼宣頼房(同腹)母と違うので義と頼を使い分けた
818 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 10:12:43
夏厨、なっちゅ、 響きはかわいいのにな。
820 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 19:37:09
>>810 秀頼からの一字拝領を否定するやつも、初めから「論」など展開してない。
もし「論」があるなら、レス番号を教えてくれ。
>>820 オウム返しバカか。
話を持ち出したのはどっちが先か考えろ。
頼宣が元服したときの将軍は秀忠。すでに家光も誕生している。
豊臣方から見ても将軍の弟如きに一字くれてやる理由はない。
822 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 21:39:28
>>821 綱吉だって秀吉から一字拝領してるんだから、
頼宣も秀頼から拝領したと解釈するのが妥当。
823 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 21:46:32
あちらも夏厨、こちらも夏厨。
収拾がつかなくなってきたな。
824 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 22:23:43
源氏の一字である説も
秀頼の一字である説も
結局、「・・・と俺は思う」以降の発展はないのですよ。
>824
「源氏の一字」説は単に検証不能な仮説に過ぎない。ただ、「義」「頼」字を用いた理由の
一つとして、源氏でしばしば用いられて来た「義」「頼」字、頼朝言うところの「曩祖将軍」
源頼義に由来する文字であることが言われているだけ。いずれにせよ「家康の心中」の問題だ
から、明確に書き残されたものがなければ、「そうかもしれないし、違うかもしれないね」と
なるだけ。
「秀頼の『頼』」字は、方向性が違う。こっちは、「拝領の証拠がある場合」以外は、
「秀頼の頼ではない」という結論以外でようがない話。そういう意味では、「仮説」としては
より全うといえない事もない。
で、この場合「秀頼の『頼』である」と主張する側が、「拝領したものである」という証拠
を示さない限り、当然に「秀頼の一字ではない」ということになる。
大体、漠然と「源氏の通字」というだけの文字を息子に付けるのと、隠然たる勢力を保って
いて、臣従させるべく上洛を要求したりしている相手から文字を拝領するのでは、意味が全く
違う。
子息への偏諱拝領なんていうのは、「あなたの家来です」という宣言に等しい行為で、秀頼
に臣従を迫っていた時期に願い出ることは有り得ない。(「あった」というなら、証拠を示す
事。隠滅されたなんていう寝言でなしにね。)豊臣派の懐柔なんていう軽い動機でできること
じゃないんでね。
豊臣派の懐柔なら、加藤清正の娘を頼宣の正妻に迎えていますな。
>>825 最初から臣従を求める気はなかったと思われ。
実力はともあれ官位的に秀頼は右大臣だったし。
秀忠は将軍任官した時点では秀頼の官位に及ばなかった。
また秀頼は秀忠の娘婿でもあるし。
>>827 形式的にはともかく、実質的に臣従を求めたのは秀忠ではなく、
家康ではないですか。家康は死ぬ直前まで実権を持っていた。
>827
「上洛せよ」という要求が臣従の要求でないと。
後、「将軍」には、室町幕府以来の、官位を超えた権威があるのではないでしょうか。
室町時代、官位的には下の筈の将軍に勘当されて出奔したり、辞官や閉門に追い込
まれた例はいくつもあるし。
家康自身に会うために上洛したんじゃなくて
参内するのが目的だよ。
家康に会うのはついで。
まぁ、参内がうわべの理由ってのは豊臣派にもわかっていたことだが。
家康も官位・位階が上の秀頼にそこまで無体なことはできない。
>>829 室町期は貴族に力がなかった。だから将軍には逆らえなかった。
しかし豊臣氏は武将でありながら伝統的支配権をもつ貴族になった。
室町期と比べるには両者の状況が違いすぎる。
ましてやこの時期、一大名に転落したとはいえ秀頼は豊臣派の神輿になれるわけですよ。
だから家康も豊臣派の大名との婚姻を進めて力を削ぎにかかってるし。
>831
だから、「官位」ではなく「実力」の問題だ、と言っているんですが。
官位が上だから要求できない云々という話ではない、と。
後、>830
秀頼が右大臣になったのは、家康が右大臣を辞してからでは?位も、家康は
従一位の筈だし。
>831
摂家にしても、室町時代には将軍家からの偏諱拝領や年始等々、官位は上でも
実質的には足利家の家礼となっていますね。
これは、幕府がぼろぼろになって以降も続いているようです。
紀伊や水戸の連枝が幕末まで頼を通字にした事情も説明してください。
835 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 16:29:25
初代が頼だから
836 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 16:52:15
>>834 紀州家や水戸家はそもそも初代が豊臣秀頼から「頼」を拝領している事からも分かるように、
豊臣家の権威を背景として成立した家だ。
豊臣本家の滅亡によって豊臣家の権威が大きく損なわれた後は、
しだいに豊臣家に代わって徳川将軍家に権威を求めるようになっていったが、
それでも豊臣家の権威を求める家風は残っており、分家は代々「頼」を通字とした。
837 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 18:18:11
と、俺思う。
838 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 18:28:33
勉強になります。
で秀頼の頼はどっからきたの?
840 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 19:07:43
頼朝からじゃないの?
>>836 センスないのにいつまで続けるんだ?
粘着中国式城壁厨バレバレ
842 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 20:36:00
だから「秀忠の家系>秀頼の家系>義直・頼宣・頼房の家系」という予定調和が家康の構想だったんだよ!すごいね!
843 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 23:38:48
つーか、やっきになって長文で秀頼一字論を否定しようとしてるヤツが一番イタイ。
844 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 23:44:51
秀頼の一字である事を裏付ける説得力のある資料キボン
846 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 00:37:57
源氏の一字である事を裏付ける説得力のある資料キボン
>>846 またオウム返し。
生きてて恥ずかしいとも思わないほどバカなんだな。
クソレスするならsageろよ。荒らしだからageて目立ちたいのか?
>846
秀頼の「頼」を拝領した、というのと、「秀頼と『頼』がかぶるのを意識していた」
というのでは、意味合いが全く違う。
後者であれば、「源氏の一字」同様家康の心中の問題だが、前者は「拝領の証拠」
が出てきてはじめて肯定される話。
「義」「頼」を同時元服の二人にそれぞれ与えているところからも、「源氏の伝統」
を意識していたんだろうし、一人だけに秀頼の「頼」を与えると言うのは考え難い。
ただ、秀頼と被ることに気付かなかったというのも不自然な話なのは確かだ。
源氏の通字という体裁をとって、頼」字が秀頼と被っている事実を意図的に無視し…、
というのは、それなりに魅力的な想像ではあるけど、ただ、「論」ではないね。
849 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 13:28:05
家康の「家」は源義家を意識していたと言われている。
家康の子で、他からの影響なしに実名をつけられるようになったのは、義直
以降。
「家」は徳川宗家の通字なので、分家は使用できない。
そこで「義」「頼」と鎌倉将軍家ゆかりの字を使えるようになった。
850 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 13:56:27
秀頼が健在な時代なら、わざわざ「頼」字を使わなくてもよさそうなものだ。
「義」字だけで統一した方が自然。
851 :
スイカマン:2005/07/30(土) 14:20:37
>>850 足利将軍の「義」、鎌倉将軍の「頼」を分家筋に使わせることで
相対的に本家を持ち上げるためとか・・・
853 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 15:07:04
妄想乙
信吉が当主となった武田家は、名門好きな家康が再興させた家なのに、
なぜ水戸に封じられたのですか?
855 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 20:20:20
甲斐の武田家の名字の発祥の地は常陸国ですが何か?
856 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 20:22:46
結局
>>847や
>>848みたいにむきになって罵ったり言い負かしたりしようとする連中がいちばん馬鹿だわな。
どうせネタなんだからまったり楽しめばいいのに。
どこが楽しみどころなんだか、さっぱりわからん。
ネタのレベルが低すぎる。
858 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 20:29:41
それじゃ
>>847や
>>848はますます馬鹿だということになるな。
そんなレベルの低いネタに必死になってマジレスしてるわけだから。
859 :
↑:2005/07/30(土) 20:56:55
なんでこのひとは必死なの?
>859
まーまー、子供なんだから許してやれよ
861 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 22:57:10
秀頼の一字説は、まあ、確証はないが状況的にありうるって程度のもの。
別にネタってわけじゃない。そういう可能性もあるんじゃないかって疑問だろ。
それに便乗した綱吉がどうとかいうのは明らかなギャグ。
必死になって、長文で源氏がどうのと主張して、秀頼説を叩いてるのは(ry
864 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 14:07:23
>>863 >秀頼の一字説は、まあ、確証はないが状況的にありうるって程度のもの。
それがネタだろ
865 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 15:39:30
>>863 むしろ綱吉の一字拝領があったんだから、状況から考えても
頼宣の一字拝領説は極めて常識的な説だが。
866 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 15:45:38
>確証はないが状況的にありうるって程度のもの。
そういうのは「ネタ」とは言わない。まじめに可能性を論じてるものを、
議論をまぜっかえしたり、ふざけるためのネタと同列に扱うべきではない。
>866
>確証はないが状況的にありうるって程度のもの。
状況的にも有り得ないし、確証がない限りそもそも絶対に「秀頼の一字」には
なり得ないということが既に明示されている。
そいつを繰り返しているのは、まさに
>議論をまぜっかえしたり、ふざけるためのネタ
以外の何物でもない。
つーか、「秀頼」を連呼しているバカが、一度でも
>まじめに可能性を論じ
たことがあるか?
868 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 17:07:06
そこまで秀頼説をムキになって潰そう(というか議論させまい)とする一人の
粘着ぶりに脱帽w
いやな話題なら、黙ってスルーしてれば?
>868
とっくに「妄想」という結論が出ているのに、粘着している奴が一人いるだけだろう?
悔しければ、煽りでなく「ちゃんとした論拠」を出してみれば?>868
>>869 以前他スレを荒らした中国式城壁厨なんだよ。
持論は一切展開できないのに他人のレスには文句をたれる。
「妨害」とか「議論できない」という言葉を頻繁に使うのが特徴。
言葉に窮すると鸚鵡返しか、「それはすべてあなたの思い込みです」
そしてスレを上げる。
930までレスが進むと次スレを立て、住人に相談なく勝手にローカルルールを設定
871 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 21:37:30
秀頼から一字を拝領するつもりがなかったのに、秀頼の「頼」とかぶるのを承知のうえで頼宣に「頼」の字をつけた家康はあほですか?
>>750 その後周宗、斉宗、斉義、斉邦、慶邦なんてのもいるので村が宗に取って代わったわけではない。
単に追加されただけ。
ちなみに、慶邦の養子で早死にして家督を継がなかったのが茂村、そしてその後は将軍家から一文
字もらうことはなくなって現在の当主に至る。
でも普通、秀頼から一字拝領するんだったら「秀」の字なんじゃないの?
忠輝が弟の松千代の跡を継いだ理由は?
長沢松平はそんなに名家?
>>873 スレ違いだが、江戸中期の伊達当主はみんな「○村」という名前で「宗」の字は使っていないよ。
その他の伊達一族も「村○」という名前を名乗っている。まあ当主から与えられたんだろうから
当然といえば当然なんだろうけど。
あなたが指摘しているのは徳川家斉時代の、斉村以後の短命な当主たちであって、すでに斉村が
「村」の字を使っていたために別の字を使っただけ。
もっともその混乱が原因で「村」の字がすたれていき、「宗」の字が復活してくるんだけど。
878 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 08:31:24
- 、 - 、
_,, -― "⌒ヽ-、 ヽ \
-=≡ ,,-" i ヽ ヽ ヽ.ヽ
-=≡ / ,,-ヽ .i i i i ii
-=≡ ./ / / i |.i | | i ii
-=≡ / ./、Д , )./ | '⌒/⌒)(_ヽ ! ! !!
-=≡ | |/ ̄∨/ ゙ -/ /-⌒) i
-=≡, 〜⌒| | ⌒l/ / | | ヽ (ヽi ぐるんぐるん、ループしてますよ!
-=≡ー-ヽ | | | | / .| | し' ( i i
-=≡ ./ノ|) | | |_∧、_つ i | i
-=≡ (__| |.| .| / | ´Д`) .i i l
⌒ヽ -=≡ ! ヽ \ / / / / //
⌒ヽ -=≡ ヽ \ ヽ、 / / / / .'
'"⌒ヽ -=≡ \ ⌒ヽ⌒ン / _,,-'' ,,-"
ヽ ヽ、_-=≡ \ ,, -" _,, - '' - "
)__ノ⌒ -=≡ ゙ ー---- "
ー" ゴロゴロロロ・・・
>>877 周宗はなんで偏諱貰ってないの?
幼年で死んだとはいえ、元服してるなら偏諱もらえるもんなんじゃないの?
将軍に会うことなく死んだから?
徳川吉宗の兄の紀州藩主、徳川頼職も将軍から偏諱を与えられていないよね。
881 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 22:34:00
伊達周宗は生まれてすぐ藩主になり、14歳で没した。
仙台藩内では無嗣断絶を怖れ、3年の間周宗の死を隠し斉宗を後嗣に据えた上で周宗
の死を公表したという。
883 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 23:55:55
高崎藩の(長沢・大河内)松平右京大夫は代々「輝」を名につけたが、これは松平忠輝から受けたとみて宜しかったでしゃうか
長沢松平自体が、輝の字使ってなかったっけ?
>>880 頼職が「吉宗」だったかもしれないんだよね
いつの間に偏諱スレになったんだ
887 :
日本@名無史さん:2005/08/04(木) 03:38:59
>>877 伝説の範囲だが、伊達家の二代(初代説も少数意見としてある)も宗村だからそれに倣ったのでは?
江戸時代最初に「村」を使った綱村は元服後暫くは綱基だったのでこの辺の事情がわかるといいのだが。
それはともかく、中期の連中は紀州藩主→将軍に吉宗がいたので「宗」の使用が制限されていたと思われ。
>>888 でも綱村、吉村と吉宗登場前に「村」を使用する当主が続いてるけど?
なんか
>>744-750あたりの話題がループしてるようだ・・・。
891 :
日本@名無史さん:2005/08/04(木) 17:21:05
単に父親が綱村だから村の字を受け継いだだけだろ?吉宗より前に吉村と名乗ってんだから吉宗への配慮など有り得ない。
島津家の
綱久ー綱貴ー吉貴
という流れと同じ。
江戸中期以降についても吉宗からの配慮から宗の字が使えなかったというが、吉村の次は吉宗から1字拝領するんだから宗の字使ったら宗宗になっちゃうだろ。
だから前当主と同じ村を使っただけだよ。
以上でループ終わり
家康の息子達のスレに戻る↓
892 :
日本@名無史さん:2005/08/04(木) 17:43:05
息子ネタがない
893 :
日本@名無史さん:2005/08/04(木) 22:38:12
>>891 伊達本家の宇和島も"宗"を遠慮し"村"ですが
↑こいつアフォ。
895 :
日本@名無史さん:2005/08/05(金) 10:02:01
家康公の子息らは皆な父親に倣って男色好きだったが、
その中でも最も衆道狂いだったのは誰でありましょうか?
896 :
日本@名無史さん:2005/08/05(金) 19:17:36
↑こいつは市ねばいいのに。
898 :
sage:2005/08/05(金) 23:18:36
↑こいつは市ねばいいのに。
899 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 01:56:55
もう終わったな、このスレ。
↑こいつは市ねばいいのに。
>>898 名前欄にsageと書いたのか?
市ねばいいのに。
頼房には正室いなかったの?
>>903 いなかった。
もしいたなら相続もすんなりいったろうにね。
正室がいても、正室との間に子供居なければ状況は変わらなかったと思われ
>>904 そうなんだ。回答d楠。
ぐぐっても見つからなかったので、自分の探し方が悪いのかと思ってた。
家康の息子だから、政略結婚の相手としたら結構良い対象になるように考えられるのだが。
避けられたのか?それとも頼房が結婚いやだったのか?
>>906 頼房自身が拒否し続けたんじゃないか?
若い頃は子孫を残す気はなかったみたいだし
908 :
日本@名無史さん:2005/08/07(日) 01:24:53
家康公の子息らは皆な父親に倣って男色好きだったが、
その中でも最も衆道狂いだったのは誰でありましょうか?
誰ひとりとして返答出来ぬのか?
135 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2005/08/07(日) 01:30:08
関東大震災で圧死した皇族たちの名前は比較的よく知られて居ますが、
この震災で犠牲になった華族の姓名は、どの程度分かるのでしょうか?
識者の方々、是非とも御教示下さい。
(家柄華族だけでも結構です)
したが此の板の人々は誰一人御返答出来ぬと見ゆるのう!
912 :
日本@名無史さん:2005/08/07(日) 08:53:35
>>907 そのわりに側室は次々に設けているんだよな。貴族なんて勝手なもんだ。
>貴族
914 :
日本@名無史さん:2005/08/20(土) 12:41:35
age
915 :
日本@名無史さん:2005/08/20(土) 15:23:36
息子ネタが無いよ〜
916 :
日本@名無史さん:2005/08/21(日) 19:52:57
60才過ぎて3人も息子が生まれているのに、それ以前の子供
が少なくない? 長男信康と三男秀忠は親子でもおかしくない
ほど年が離れている。
つ 戦で子作りの暇がなかった
つ 正室(瀬名姫)が怖かった
あたりかな?
918 :
日本@名無史さん:2005/08/21(日) 20:52:09
919 :
日本@名無史さん:2005/08/21(日) 21:01:25
お歯黒男など家康が19のときに生首になってますが?
920 :
日本@名無史さん:2005/08/30(火) 02:46:23
秀頼から一字を拝領するつもりがなかったのに、秀頼の「頼」とかぶるのを承知のうえで頼宣に「頼」の字をつけた家康はあほですか?
921 :
日本@名無史さん:2005/08/30(火) 03:14:41
>>920 源を名乗ってたから、箔付けのために「頼朝」より取ったんだろ。
>>920 家康はお前よりは利口だよ。
頼房という息子もいることは知ってるか?
920は頼が秀頼からと言い続けてる池沼
スルー推奨
924 :
日本@名無史さん:2005/08/30(火) 19:45:49
秀頼から一字拝領するならば「頼」よりも「秀」じゃないの?
926 :
日本@名無史さん:2005/08/30(火) 22:29:05
夏も終わりそうだというのに、また沸き始めたのか。
927 :
日本@名無史さん:2005/08/30(火) 22:33:02
夏は明日で終わりだ。
ただこいつ(920)は頭の悪い大学生だから、9月中は居るなw
928 :
日本@名無史さん:2005/08/30(火) 22:36:36
>>925 末弟だから通字の秀は遠慮したんだろう。
秀吉から一字拝領した綱吉も末弟だったから通字は遠慮して
吉の字を頂戴した。
929 :
日本@名無史さん:2005/08/30(火) 22:48:58
>>928 相変わらずヒネリのないレスだな。
悪いなら悪いなりに頭を使え。
930 :
日本@名無史さん:2005/08/31(水) 14:03:54
家康の6男忠輝も室町幕府13代将軍足利(ry
家康の4男忠吉も豊後国主大友吉(ry
932 :
日本@名無史さん:2005/08/31(水) 18:21:18
家康の7男松千代は武田家家臣横田高松の(ry
933 :
日本@名無史さん:2005/09/01(木) 22:40:32
どっちもせいぜい頑張れや。
934 :
日本@名無史さん:2005/09/07(水) 01:26:04
>>916-917 なんか前にも似たようなやりとり見た気がするが、
娘がいるだろ
亀姫と督姫が信康と秀康の間に生まれてるから別に不自然ではない
秀康の前年には落胤説のある土井利勝も生まれてるし
娘がいても世継ぎになれない。婿でも取りますか?
信康が死んだ年にやっと秀忠が生まれたわけだから、
実子相続による家の安泰には程遠い。
>>935 信康、秀忠の間にいた秀康はスルーですか。そうですか。
秀康は、誕生から家康に認知されるまで年月を要しているし、
秀吉の養子に出されてしまったから、スルー可。
>>935 んなこといったってしょうがねえだろ
子作りに専念できる太平の時代の殿様じゃあるまいし
まあ49年で24人も作った信長は異常
信康〜秀忠は極端にしても、
数年置きに生まれてる子供のうち督姫と秀康の間、信吉と忠輝の間が10年近く空いてるな
対武田戦と小牧〜小田原征伐とかで忙しかったのかな
関が原前後で忙しくても義直や頼宣は生まれた。
忙しくても、することはする。
まぁ子供なんて出きる時にはぽんぽんできるけど出来ない時はできないし
それに子供も作りすぎるとお家騒動の元だしね
942 :
日本@名無史さん:2005/09/07(水) 17:09:44
>>935 実際、外孫(亀姫と督姫の息子)もスペアーにしていたわけですが
>>942 ソースは?単に優遇されてた、ってだけじゃなくって、スペアだったというソースきぼんぬ。
944 :
日本@名無史さん:2005/09/07(水) 18:22:07
945 :
日本@名無史さん:2005/09/07(水) 20:18:39
長男の信康は生きていたら器量人だったみたいな
評価があるけどどうかな・・・
剛毅な性格はいいとしても
気が狂ったかのように周辺の家臣などを斬りつけた
こともあったらしいからな
>>937 養子云々は認知以降の話しだし、結果に過ぎん。
認知まで時間がかかったことと養子を同列に並べるなよ。
>>945 まあ家康としては殺したことを正当化しないといけないわけで…
多少誇張されてるんじゃないかな>家臣などを切りつけた
死んだ人を悪く言うと化けて出られたりするしね
特に非業の死を遂げた人は
だから、あの人は良い人だったって言いふらして供養して慰めてあげないと
>>946 秀康が嫡子扱いされた時期が一瞬でもあったのかい?
>>949 秀忠はいつごろから嫡子扱いされてたの?
秀忠が任官されるまでは、秀康が家康の嫡子扱いでは?
>>949 秀忠だって明確に嫡子扱いされたことなかったぞ。
秀忠だって関ヶ原以後だし。
長男が死んでるからね。
誰がついでもあんまり違いはなかったんだろ。
秀忠が関が原以後?
中仙道を徳川本体を率いて遅参した秀忠が?
同母弟忠吉はありえない。信吉?忠輝?
家康が60才にもなって世継ぎ未定?
秀康が嫡子扱いされていた時期は、天正13年従五位下侍従を叙任し、受領名三河守を名乗った頃から
天正16年の聚楽第行幸に伴って、従四位下左近衛権少将となり、羽柴三河少将と名乗ってる
しかし、天正18年に長丸上洛し、秀忠と名乗り秀吉の養女(信雄女)との婚約成立
これで家康の嫡子は秀忠となり、同年7月の関東仕置で結城家の養嗣子となる
>>954 叙任したときはすでに秀吉の養子なってるじゃん
秀吉側は秀康が徳川の後継者にとの思いはあったかも知れんが
家康的には秀康を養子に出した時点で後継者候補から除外してたと思う
羽柴三河少将
957 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 08:21:26
>>660 家康→松平清康から
秀忠→松平家の通字
家光→源義光か頼光?
家綱→源義綱?
綱吉→多分佳字
家宣→多分佳字
家継→わからん…
吉宗→伊達政宗から取った…、は大河ドラマだったっけか
家重→新田義重に相違あるまい
家治→多分佳字
家斉→多分佳字
家慶→多分佳字
家定→多分佳字
家茂→多分佳字
慶喜→多分佳字
家の字のつかない将軍は、本来の将軍予定者ではない
(秀忠は例外かも)
秀忠→秀は豊臣秀吉から
綱吉→綱は家綱から
吉宗→吉は綱吉から
慶喜→慶は家慶から
958 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 12:16:40
家康公の子息らは皆な父親に倣って男色好きだったが、
その中でも最も衆道狂いだったのは誰でありましょうか?
誰ひとりとして返答出来ぬのか?
959 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 12:31:21
家康は秀康の母お万の方の素行に不審を抱き、秀康を認知するのを長くためらった。於義伊という名をつけるあたり、家康は我が子を玩弄していたのだろうか?
>>957 >家の字のつかない将軍は、本来の将軍予定者ではない
家宣、家茂はどうなるんだ?
改名しているわけだが。
961 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 17:58:01
>>960 家宣と家茂は、前将軍の養子になってる。
綱吉、吉宗、慶喜は養子にならずに将軍就任。
そういう意味では家宣と家茂は養子になった時点で「将軍になることが予定されてた」といえなくもない。
まあ
>>957に賛成するわけではないが
962 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 18:11:10
家宣、家茂は前将軍の存命中に養君として西の丸に入っている。
綱吉、吉宗、慶喜は前将軍の死後、宗家を相続した。
家光→源義光か頼光?→何でこんな奴から?
家綱→源義綱?→何でこんな奴から?
綱吉→吉は秀吉から
家重→新田義重に相違あるまい→何で9代目になってようやく新田からなんだ?
秀忠→秀は豊臣秀吉から
綱吉→綱は家綱から
慶喜→慶は家慶から
頼宣→頼は秀頼から
頼房→頼は秀頼から
森喜朗→喜は慶喜から
964 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 23:07:17
家康の5男、武田信吉に娘がいたというが・・・
本当であろうか・・。
綱吉の「吉」が秀吉からって言ってる奴は何が目的なんだろうな
家治世子の家基、家定の前の名前家祥はなんに由来するのら?
誰も
>>963の最後の行につっこまない件について。
>>968 本人登場か?
低レベルなネタはスルーしているだけだ。
マジレスすると
頼→頼朝
age
綱吉の吉が秀吉とか言ってるネタ師はともかくとして、
頼→秀頼は否定できないぞ。
家康が将軍になって、すぐに豊臣との主従関係が切れたり逆転したわけではない。
家康にしてみれば、豊臣家や豊臣系大名の手前、友好姿勢をとる必要はある。
その意味で、末っ子に旧主秀頼の一字をもらった可能性は否定できない。
むろん源氏の頼朝のことも念頭にあり、どっちにもとれるような含意はあったろう。
ま、大勢にはあんまり関係ないことではあるがな。
頼宣はまだしも、頼房の元服は大坂の陣の3年前とかだぞ?
頼宣にしても元服は義直と同時に同じ場所でやってるのに
片方だけ秀頼から貰う理由はなんだよ?
そもそも貰う場合にはしかるべき儀式が必要なんだから、
それが示されてる資料を示してくれ
>>974 頼宣を末っ子だと思って何度も同じ書き込みをするバカ発見
977 :
日本@名無史さん:
頼房の下には妹がいたりする。早世。