【加藤】改易された大名【最上】

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1日本@名無史さん
改易された大名についてマターリ語りましょう。
2日本@名無史さん:04/06/17 00:00
2
3日本@名無史さん:04/06/17 00:04
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   ヽ.._\./  .ンく r-兮、 __
    ∠`ヽ.! /   ヾニEヲぐ ,ゝ->  
   /_`シ'K-───‐-、l∠ イ   さすがゴッグだ、
   l´__,/l\、_ ̄0¨0)゙@Yヘ, -┤    2ゲット失敗しても
.    l'___|⌒ヾ''ー==、ーr='イ i二|      何ともないぜ!
   / .」   i   /./7r‐く  lー!      
.   f.  ヽ‐i人.∠'<   _i. l,.-ゝ.
    トiヘヘ「ト〈      `X  トレi7__|
   〉ト:トハj`! i.    /  トー┤lルj,リ
  /‐+----+‐l    iー--i---ヾ'〃
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4日本@名無史さん:04/06/17 02:30
このスレ改易
5日本@名無史さん:04/06/17 06:50
最上の最後はちょっと哀れだな。毒癌粒正胸でしか知らんのだけどさ。
6本多 中務大輔:04/06/17 10:18
最上は家臣の内部分裂で改易になったけど。
他の改易大名の改易理由って何?
7日本@名無史さん:04/06/17 10:24
ぐぐってみた。
親藩だけでもこんなのがあります。

ttp://s-mizoe.hp.infoseek.co.jp/m056.html
8日本@名無史さん:04/06/17 20:58
結局、最上家は何で潰されたの?
藩主が幼少で、家臣の分裂もあったけど、老中のから所領に関する寛大な
処置が降りたのに、何で、それを利用しなかったのかが知りたい。
最上って確か、大した兵力も無かったんでしょ。だったら、お手伝い普請
なり何なりで、利用できたのに、幕府はなぜ潰したの?
明らかに、幕府にとって残しておいた方が徳が大きいのでは?
9日本@名無史さん:04/06/18 14:50
最上の内部分裂がそんなに悲惨とは思えない。伊達家も伊達騒動おこしてるし。規模は伊達の方が上では?
10日本@名無史さん:04/06/18 19:34
age
11日本@名無史さん:04/06/18 19:52
>>9
時代の違いかなぁ・・・
たしか伊達騒動は文治政治の家綱時代でしょ
12日本@名無史さん:04/06/18 20:51
そういえば、秀忠の治世になってから、改易大名が増えたよね。
加藤とか、福島、最上等。
そんなに、外様を改易しなくても良いような気もする。
むしろ、生かさず殺さずの方針のほうが役に立つと思う。
幕府は利用しがいのある外様を潰してでも、権力を誇示したかったのか。
あの秀忠ならやりそうだな。関ケ原にも遅刻してるし。
13日本@名無史さん:04/06/19 18:43
話が進まないね。
14日本@名無史さん:04/06/19 20:41
ま、せいぜいジサクジエンで盛り上げろやw
15日本@名無史さん:04/06/19 23:34
     __
    i<´   }\   , - 、
   ヽ.._\./  .ンく r-兮、 __
    ∠`ヽ.! /   ヾニEヲぐ ,ゝ->  
   /_`シ'K-───‐-、l∠ イ   さすがゴッグだ、
   l´__,/l\、_ ̄0¨0)゙@Yヘ, -┤    スレが盛り上がらなくても
.    l'___|⌒ヾ''ー==、ーr='イ i二|      何ともないぜ!
   / .」   i   /./7r‐く  lー!      
.   f.  ヽ‐i人.∠'<   _i. l,.-ゝ.
    トiヘヘ「ト〈      `X  トレi7__|
   〉ト:トハj`! i.    /  トー┤lルj,リ
  /‐+----+‐l    iー--i---ヾ'〃
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16日本@名無史さん:04/06/22 13:07
>>1
最近、乱立している駄スレもお前が立てただろ。
17日本@名無史さん:04/06/22 14:22
 里見ってなんで潰されたのか良くわかりません?
 大久保に連座して倉吉移封(実質は流罪)までは良いとして、
池田家が転封してきたら自動的に取り潰しって酷すぎると思います。
 大久保は復活してるし、本田正信の弟の系統も幕末までちゃんと
続いているわけだから、酷く不公平な気がしますが。
 竜造寺や最上は自滅っぽいですけどね。
 何かよほど幕府からにらまれるようなことがあったのか、単に
めぐり合わせが悪いのか?
18日本@名無史さん:04/06/22 15:41
めぐり合わせが悪かっただけのような気がする。
竜造寺は鍋島直茂の乗っ取りだから、
自滅に違いないけど。
19日本@名無史さん:04/06/22 15:47
>>17
里見は存在を忘れ去られていただけで、特に潰されたわけではないと
思うぞ。
20日本@名無史さん:04/06/22 21:39
ジサクジエン劇場
211:04/06/26 00:24
福島家は信州川中島に減封後も大名として、
存続したの?
他にも、本多家等の譜代の各家もどうなったのか、気になる。
22日本@名無史さん:04/06/26 00:34
>>21
4万5千石(のち嫡子忠勝死去により2万5千石は返上)を与えられたとはいえ謹慎生活を送っていたんじゃなかったっけ?
大名とはいえないような気はするが
23日本@名無史さん:04/06/26 00:42
宇都宮はどうよ?
秀吉が死んでお家再興の話が立ち消えになったが   
徳川時代じゃ水戸藩に仕えてたみたいだけど再興する気もなくなったのかな   
24日本@名無史さん:04/06/26 11:14
>>23
宇都宮の改易は玉突き転封を引き起こしたな

宇都宮←蒲生←上杉←堀←青木
25日本@名無史さん:04/06/26 14:00
本多正純も呪われたのか
26日本@名無史さん:04/06/26 14:07
それなら、最上改易の後も、十二回変わってるな。
あれ程、城主が変わっては、領民も大変だろう。
で、最上は幕末まで、高家もしくは交代寄合だったの?
27日本@名無史さん:04/06/26 15:06
>>21
正則死後すぐにまた因縁つけられて速攻で潰された。
四十九万石から一気に四万五千石にされて無力化していたのに、
「徳川に逆らうとどうなるか」の格好のスケープゴートにされた形だな。
28日本@名無史さん:04/06/26 15:50
>>27
検死到着前に勝手に荼毘に付したからだろ

そういえば酒井忠清にもそんな話があったな
29日本@名無史さん:04/06/28 21:57
一般的に大名が死んだら、検死ってするの?
30日本@名無史さん:04/06/28 22:18
備前岡山小早川家
備後福山水野家
播磨赤穂浅野家
31日本@名無史さん:04/06/29 00:07
>26

最上家は、近江で五千石貰って幕末まで旗本として続いてる。
子孫も滋賀県在住と聞いたことがある。
32日本@名無史さん:04/06/29 00:22
>>29
一般の大名にはしないはず
酒井忠清の一件は、甲子夜話に載っているもので後世の創作といわれる
ただしその中でも、大名の病死を改める先例はないとして上使は追い返されるという話になっている
33日本@名無史さん:04/06/29 00:42
>32
そんで、綱吉が切れたと。
34日本@名無史さん:04/06/29 08:23
綱吉って、改易大名を増やして、社会を、
混乱させた将軍でつね。
35日本@名無史さん:04/06/29 12:50
立花家って、一度改易されてるよね。
36日本@名無史さん:04/06/29 14:49
>>35
関ヶ原の合戦で西軍に味方した
その上九州に帰国してからも東軍に抵抗して戦してしまった。

この辺がいったん改易された理由かと。
37日本@名無史さん:04/06/29 17:46
その立花家って、立花道雪の末裔?
38日本@名無史さん:04/06/29 19:46
越前松平の忠直・光長は親子二代で改易されてるね
その度に復活してるが(石高は先細り)

>>37
道雪の養子立花宗茂を初代とする
39日本@名無史さん:04/06/29 23:11
立花は大名に復帰したしばらく後に旧領だった柳川に転封
けっこう珍しい例かも
40日本@名無史さん:04/06/29 23:35
だろうね
他の例が思い浮かばない
41日本@名無史さん:04/06/29 23:50
>>39-40
大久保は?
改易後復活して小田原に戻ってきてたような気が。
42日本@名無史さん:04/06/30 00:03
>>41
おお!たしかに
一本とられました
43日本@名無史さん:04/06/30 23:49
改易後復帰する例って、ごく稀ですよね。
大久保家は、なぜ戻されたのですか?
44日本@名無史さん:04/07/01 00:02
>>43
政争での冤罪だったから。本多正純失脚で復活
45日本@名無史さん:04/07/01 00:05
越後国沢海の溝口家、四代目の政親の酒乱が酷く家臣が訴えでて除封。
潔い家臣達だ。
46日本@名無史さん:04/07/01 00:06
>>43
小田原復帰は、吉宗が恩を感じていたからとかいう話があったような
47日本@名無史さん:04/07/01 01:14
大久保彦左衛門ががんばって運動したから
48日本@名無史さん:04/07/01 19:24
ぉぃぉぃ
49日本@名無史さん:04/07/08 15:08
ageてみるテスト
50日本@名無史さん:04/07/12 00:58
加藤嘉明のとこは一応つぶされたとはいえ大名で残ったんだな
51日本@名無史さん:04/07/13 12:30
蒲生はどうなったの?
52日本@名無史さん:04/07/13 13:32
 蒲生家がなくなったあと、割合的にどのくらいかは知らんが、石田三成の
家中に編入されていたような気がする。その士卒らも関が原の戦いでほぼ全滅
したと思う
53日本@名無史さん:04/07/13 14:35
>>52
・・・気がする?
・・・思う?
54日本@名無史さん:04/07/13 18:24
いまいち知名度に欠ける蒲生家。
55日本@名無史さん:04/07/13 19:24
>>52
おいおい、そのときは蒲生家無くなってないぞ
56日本@名無史さん:04/07/15 12:02
蒲生が会津から宇都宮へ減封になったとき、蒲生の家臣が石田に雇われたって話だろ
蒲生郷舎とか蒲生備中(横山喜内)とか
57日本@名無史さん:04/07/15 14:27
蒲生って殿さんが重臣と喧嘩して領地を徳家に返した家でつか?
58日本@名無史さん:04/07/15 15:11
蒲生家は無嗣断絶。

>>57
それは加藤家。
59日本@名無史さん:04/07/15 19:27
蒲生と加藤は入れ替えだったな
60日本@名無史さん:04/07/15 20:19
最上(山形)は糞
つぶれて当然
61日本@名無史さん:04/07/15 21:05
福島家が出てこない
62日本@名無史さん:04/07/15 21:07
馬鹿であほで恩知らずだから
63日本@名無史さん:04/07/16 11:23
でも最上は源氏の流れの家だから、幕末まで交代寄合だったよね。
名もない家だったら悲惨だな。
64日本@名無史さん:04/07/19 20:23
あげ
65EM :04/07/19 23:28
廃絶後再興された大名家
織田信秀 美濃岐阜13万3000石 慶長8年陸奥棚倉1万石で再興
立花宗茂 筑後柳河13万2000石 慶長8年1万石取立
丹羽長重 加賀小松12万5000石 慶長8年常陸古渡1万石再興
新庄直定 摂津高槻3万石 慶長9年常陸麻生3万石再興
木下政房 備中の内2万石 元和元年備中足守2万5000石再興
羽柴雄利 伊勢神戸2万石 慶長7年同地に取立
糟屋宗孝 播磨加古川1万2000石 慶長7年同地に取立(後再び廃絶)
岩城貞隆 陸奥磐城平1万2000石 元和2年信濃川中島1万石再興
皆川広照 信濃飯山4万石 元和9年常陸府中1万石再興
山口重政 常陸牛久1万石 寛永5年同地に取立
鳥居忠恒 出羽山形24万石 同年信濃高遠3万石取立
66日本@名無史さん:04/07/19 23:44
岩城は陸奥磐城平17万石だったような。
67日本@名無史さん:04/07/23 20:05
あげ
68日本@名無史さん:04/08/02 19:38
宍戸は幕命で改易され勅命で復易された。
69日本@名無史さん:04/08/04 15:43
勅命で復易?
珍しいことですね。
宍戸は朝廷に対する何らかの功績があったんでしょうかねぇ?
70日本@名無史さん:04/08/04 19:23
宍戸は大名じゃない
71日本@名無史さん:04/08/04 19:33
常陸宍戸の松平だろ
72日本@名無史さん:04/08/05 00:23
水戸系親藩?
73日本@名無史さん:04/08/10 23:25
>60
子供が無能だっただけじゃん。
義光だけだよな、最上で唯一優秀だったの。
74日本@名無史さん:04/08/18 15:37
宍戸松平家は水戸徳川家の連枝。
75日本@名無史さん:04/08/18 15:58
>>73

もともとは義光が没落のタネ播いたんだよ。
なにせ、長男の義康殺してるわけで。
76日本@名無史さん:04/08/24 21:09
某スレによると里見とかいう家臣が義康を上意と偽り、暗殺したらしい。
77日本@名無史さん:04/08/25 12:33
歴史読本別冊の「廃絶大名一覧」見たいな感じの本前に古本屋で買ったんだけど結構面白い
討つ相手間違えて改易された大名・イジメで弁当箱にウンコつめられたりして発狂して格上殺したり
とか。。うる覚えスマソ
78日本@名無史さん:04/08/25 19:43
>>77
「御家断絶 改易大名の末路」かの?
79日本@名無史さん:04/08/25 20:42
弁当箱にうんこ詰められたら、発狂してもおかしくないね。
ていうか、うんこを詰める事を考えた奴が一番汚い。
80日本@名無史さん:04/08/25 22:10
今もイジメで普通にあるけどな
81日本@名無史さん:04/08/26 08:45
最上の歴史は、やたらに毒殺と毒殺の噂などぶっそうな話ばかりだ。
82日本@名無史さん:04/08/26 17:11
山形に相応しい。
83日本@名無史さん:04/08/27 14:56
>>79
ごめん 本探し出して改めて読んでみたら旗本だった。
松平外記。射撃場に訓練に行った時に弁当食おうとしたら米が入ってるほうに糞
おかず箱にミミズが入ってたみたい。最終的に彼をいじめていた同僚を五人殺害。。
外記は切腹 家は取り潰し
>>78
「廃絶大名読本」っていう本でした
84日本@名無史さん:04/09/05 10:21
災難なのは加藤家だよな。
85日本@名無史さん:04/09/05 11:10
「ところで、カトー家は改易しなければならぬ!」
86日本@名無史さん:04/09/06 04:40
中カトーってのはいないの?
87日本@名無史さん:04/09/06 23:52
最上って挑発的な名前が悪かった
ザ・ベストだもんね
88日本@名無史さん:04/09/07 00:08
斯波の方が響きがいい
89日本@名無史さん:04/09/07 00:12
カトーだが何か?

デーレンダ・エスト・カルターゴー
90日本@名無史さん:04/09/07 00:16
>>88
タマキンのし(ry
91日本@名無史さん:04/09/11 12:54:55
小川佑忠はなぜに改易?
92日本@名無史さん:04/09/12 09:44:49
そんなやついない
93日本@名無史さん:04/10/02 20:54:11
94日本@名無史さん:04/10/02 23:56:53
>>92
関が原での裏切りのタイミングが悪かったか?根回しがなかった?
95日本@名無史さん:04/10/29 21:40:11
あげ
96日本@名無史さん:04/10/30 01:20:24
津山藩森家
97日本@名無史さん:04/10/30 13:47:14
>>94
それは、小川祐忠の場合だろ? >>91は小川佑忠について尋ねてるんだ。
98日本@名無史さん:04/11/19 17:48:40
うるせえ
99日本@名無史さん:04/11/21 01:57:21
>>97
知ったかはやめろよ。小川祐忠なんて実在しないぞ。実在するのは小川佑忠だけだ。
100日本@名無史さん:04/11/21 15:08:40
結局のところ大身大名で改易を食らったのは最上だけ折角最上百万石と持て囃されていたのにねぇ
101日本@名無史さん:04/11/21 17:35:46
談合の内部告発のスレ
http://money3.2ch.net/test/read.cgi/build/1015293655/853

ここに、新庄を中心とする最上地域で起きた事件について
102日本@名無史さん:04/12/03 17:23:01
>>17
あと、領地が安房で新田一族内の家系の序列が世良田系の徳川より格上(里見は新田の庶長子系)だから。
103日本@名無史さん:04/12/13 11:18:10
あげ
104日本@名無史さん:04/12/15 02:56:21
新スレよろしく〜

【投票日は】山形県知事選挙【1月23日】
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/giin/1103039180/
105日本@名無史さん:05/01/02 18:23:41
なにこれ
106日本@名無史さん:05/01/04 23:43:38
京極、森、嘉明系、ちょっと違うが生駒とか改易された後も小大名として
残ったのと、中村、田中、堀尾、蒲生などが残れなかったのを分けた差は
何だったのでしょうね。堀尾はなんども養子願いをだいながらも却下されて
いるし、蒲生は家康の娘婿の間柄だったのに理由が分かりません。
107日本@名無史さん:05/01/07 00:44:37
>>106
申次を頼んだ旗本がボンクラかそうでないか、っていうのはいくつかあるだろう理由の一つ
になるのかな?
108日本@名無史さん:05/01/07 16:55:42
>>107
それは、全てあなたの思い込みです。
109日本@名無史さん:05/01/28 17:02:52
んなこたあない
110日本@名無史さん:05/02/10 14:54:28
>>34
綱吉以前の方が多いだろう
111日本@名無史さん:05/02/10 15:17:58
譜代だと

水野忠恒vs長府毛利師就 (水野、被害妄想)
稲葉正休vs堀田正俊 (仕事上のトラブル)

あたりが有名でしょうか。
当然、松の廊下も。

旗本vs大名っていう事件も多いんですよね
板倉修理7000石vs熊本細川宗孝50万超石
とか。
でもこの場合、勘違いなんですけど。板倉の。
(隣家トラブル説もあり)
112日本@名無史さん:05/02/10 15:30:02
>>83
弁当の詳細は知りませんが・・・

松平外記って”すごくパーフェクトに”復讐してますよね。
浅野のように「怪我させた」程度ではなく
ひとりは一気に首と胴をお別れ、
ひとりは片腕を落とされ、
という風に5人全員。すごい使い手に感じますよ。


使った刀が「村正」だという噂
113日本@名無史さん:05/02/28 01:11:09
どのぐらいの石高だった人物ですか?
114日本@名無史さん:2005/03/31(木) 01:05:20
しらん
115日本@名無史さん:2005/03/31(木) 02:59:11
改易された大名家数を年代で比較。急に改易が減りまた増える年代があります。その時の幕府の政治方針を調べると改易になったかならなかったのかわかります。東大の日本史記述で出たような。
116日本@名無史さん:2005/04/07(木) 19:52:35
このスレも改易されそうだな・・・。
117日本@名無史さん:2005/04/30(土) 12:14:10
ヤンマガの「Y十M」で加藤家改易の真相が語られるぞ。
118日本@名無史さん:2005/05/19(木) 23:52:16
え?
119日本@名無史さん:2005/05/21(土) 13:20:13
>>117
加藤の乱で一度改易されたが、地道な”お詫び行脚”のかいあって、
つぎの選挙で復活。しかし、総理の椅子はさらに遠くなった。
120日本@名無史さん:2005/05/30(月) 08:02:29
改易されたら、旗本になるんですか?(家が残っている場合)
121日本@名無史さん:2005/05/30(月) 09:20:20
>>113
300石

>>120
朽木は外様大名→交代寄合だが分家が旗本→譜代大名
122日本@名無史さん:2005/06/11(土) 11:15:36
age
123日本@名無史さん:2005/06/23(木) 21:01:07
保守
124日本@名無史さん:2005/07/04(月) 00:49:14
中道
125日本@名無史さん:2005/07/04(月) 02:46:05
>>120
改易>除封>減封
処分の重い順だよ。
126日本@名無史さん:2005/07/19(火) 12:08:02
age
127日本@名無史さん:2005/07/22(金) 21:03:56
駿河大納言忠長卿(松平長七郎のオヤジ)
128日本@名無史さん:2005/08/08(月) 12:16:40
保守
129日本@名無史さん:2005/08/22(月) 23:05:38
保守
130長崎人:2005/08/29(月) 12:03:41
有馬家って一旦改易されて、晴信の息子の直純にまた領地が返されてるのね。その跡
日向延岡→越後糸魚川→越前丸岡と移って最終的には譜代に格上げされてるし。
ある意味勝ち組。
131日本@名無史さん:2005/09/14(水) 02:27:42
132日本@名無史さん:2005/09/14(水) 04:04:10
誰か本郷泰固について語ってやれよ
133日本@名無史さん:2005/10/05(水) 22:40:31
やだよ
134日本@名無史さん:2005/10/06(木) 01:49:29
>>130
久留米の有馬はもっと勝ち組
135有馬稲子:2005/10/06(木) 07:26:53
幕末に久留米の有馬家から政治総裁職が現れるとは思いも依らなかったであろう
136日本@名無史さん:2005/10/07(金) 23:05:57
久留米の有馬って有馬記念の有馬?
137日本@名無史さん:2005/10/07(金) 23:35:11
「♪有馬兵衛の東洋閣へ〜」の有馬じゃないの?
138出石侯仙石越前守:2005/10/08(土) 04:10:32
出石の仙石家は秀吉に讃岐一国十七万石を安堵され、没収されたとは本当ですか?
139日本@名無史さん:2005/10/09(日) 08:23:21
細川忠利の資料で、幕府との情報ルートを家臣に指示した資料が見つかったそうです。
(10/8の熊本日日新聞(夕刊)に記事あり)

今までは土井利勝(年寄)伊丹康勝(勘定奉行)から情報を入手していた。
今後は稲葉正勝から情報をもらうこと。(秀忠死去のため?)
但し、土井ルートも確保しておくこと。

情報を得る際には、幕臣の曽我古祐・榊原職直と相談すること(彼らは忠利の幼馴染)

江戸初期の外様大名が幕府の情報入手のため、多様なルートを使っていたという内容です。




140日本@名無史さん:2005/10/14(金) 19:18:44
永井尚長カワイソス…
乱心した内藤忠勝に切り殺されたあげく無嗣断絶。
子供作るまでは殺されるわけにもいかないな。
141三井洋一:2005/10/15(土) 11:35:48
永井山城守が内藤志摩守に嫌がらせをしたのが原因と聞くがな
142日本@名無史さん:2005/10/17(月) 20:29:05
嫌がらせがあったという説もあるな。
しかし嫌がらせされたって切り殺しちゃダメだろ。
まともな人間なら藩のことを考えて自重するわけで、理由があったにせよ乱心としかいいようがない。
内藤忠勝は浅野長矩の叔父だからなあw
143日本@名無史さん:2005/11/06(日) 02:09:58
加藤清正って今でも地元で絶大な人気あるのに、なんで改易になったの?
なんで改易になったのに、地元で絶大な人気あるの?
144日本@名無史さん:2005/11/06(日) 02:13:16
改易になぞなっていない。
145日本@名無史さん:2005/11/06(日) 10:00:50
清正が人気があったのは洪水が多発していた当時の肥後で
大土木工事を行って治水に成功したというのが大きいみたいです。

昭和に入ってからも、現代の技術で築いた堤防が決壊したのに、
清正が造った堤防は無事だったりして「さすが清正公」と言われたりしました。

加藤家の後に細川家が入ったときも、当主の忠利がわざわざ大手門のところで駕籠を降りて、
「謹んで肥後54万石を拝領仕ります」と城に向かって拝礼したというエピソードがあります。
当時から清正は人気があったらしいです。
146日本@名無史さん:2005/11/06(日) 17:19:15
>結局のところ大身大名で改易を食らったのは最上だけ折角最上百万石
里見も最盛期は上総・下総・安房で80万石だぞ!

>永井山城守が内藤志摩守に嫌がらせをしたのが原因
儀式の段取りの書いてある虎の巻をわざと見せなかったんだったっけ?
織田監物も前田犬めに意地悪してあぼーん
147日本@名無史さん:2005/11/06(日) 18:12:18
「清正が」人気あるわけで
ボンクラ息子の方は別に人気あったわけじゃない
148日本@名無史さん:2005/11/06(日) 20:45:34
領地返上→復活は蜂須賀家も
149日本@名無史さん:2005/11/06(日) 20:48:48
あんたら、庄内へ流された肥後熊本加藤家の也の果て見たいか?

んじゃあ、写真撮って来てやる。正月すぎまでこのスレ維持するように。
150日本@名無史さん:2005/11/06(日) 21:02:48
最上家は、滋賀県で現存してますよ。
中央競馬の馬主もしてたはずです。
馬の名前はモガミショーウンとかで。
(リファール系の主牡馬モガミは無関係だけど)
151日本@名無史さん:2005/11/06(日) 21:19:35
田 原 坂 も 加 藤 清 正 公
152日本@名無史さん:2005/11/09(水) 16:35:23
>>150
昔『蒲生郡志』を図書館で見たら、「明治期の当主が東京へ出たきり行方不明」と書いてあったけど、
そのまま家が絶えてしまったわけではなかったんですね。
153日本@名無史さん:2005/11/10(木) 16:54:41
モガミ冠の馬を所有していたのは、「地上げの帝王」こと最上恒産会長・早坂太吉。
大名の最上氏とは全く関係無いと思われ。
154日本@名無史さん:2005/11/15(火) 02:29:17
>>150
嘘つくなw
155日本@名無史さん:2005/12/02(金) 23:05:00
age
156日本@名無史さん:2005/12/02(金) 23:48:25
つーかな、最上だけど

水戸黄門見てると、いつも旅に出ようとする御隠居に、苦言を呈する係の水戸家家老いるだろ?
「うわぁ・・・また山野辺さまが来た!!」とか言われてる奴

あれが、最上義光の子供の系統だよ。
http://www.town.yamanobe.yamagata.jp/yakuba/koryu/kakeizu.html

現在まで残ってるはず。


>>150
頑張れ。マジ頑張れ。
157日本@名無史さん:2005/12/20(火) 18:57:15
age
158日本@名無史さん:2006/01/09(月) 23:02:16
保守
159149:2006/01/09(月) 23:49:30
あのさ、>149ですけどね・・・恐れながら申し上げます。

ご存知の通り、日本海側の大雪で山形県庄内地方も例に漏れず
加藤家配流の地、庄内丸岡城址も大雪に埋もれ、何にも分かりませんでした。
春に帰省を予定しておりますので、暫くのご猶予を賜わりたく。

誠に申し訳ない。
160日本@名無史さん:2006/01/10(火) 00:36:36
>。159
雪を見たら全部除雪して地表をむき出しにする

それが雪国根性というものでないかい?
161日本@名無しさん:2006/01/10(火) 02:02:13
昔は最上・加藤・福島のような50万石クラスの大名を改易できたのに、
時代が下るにつれて大大名を改易しにくくなり、ついには長州40万石、
土佐24万石にも堂々と意見され、ついに倒れた江戸幕府。

162日本@名無史さん:2006/01/10(火) 02:16:49
福井藩なんぞ最終的には15万石しか・・・。
あと宇和島とか。

そして老中稲葉の裏切りwwwwwww
163日本@名無史さん:2006/01/10(火) 02:36:46
福島って改易じゃなくて減俸だろ?
164日本@名無史さん:2006/01/10(火) 08:30:43
最終的には改易だけど、そん時には
「城もなく、しょぼい屋敷のみの、よくわからん領地4万石」だしね。
165日本@名無史さん:2006/01/22(日) 07:00:22
>>161
別に幕府に力が無くなったわけじゃなくて大名のほうも牙を抜かれただけでしょ?
浪人対策とかも面倒だし。
166日本@名無史さん:2006/02/02(木) 22:50:11
>>161
毛利秀元は(関ヶ原で空弁当食ってた当人だが)晩年御咄衆で家光の大のお気に入りだったから、
当主の毛利秀就が少々ヌーボーでも毛利家の受けは非常によかった。
黒田家は幕閣の有力者と積極的に縁組みしていたし、
細川家は忠興と忠利が国元と江戸の間でしきりに手紙をやりとりしつつ、
懇意の旗本をおだてては江戸幕府の内部情報を探っていた。
この時期に改易されなかった外様大大名は結構努力してたんよ。
彼等には潰されないだけの理由があったわけで、
後になって「あの時、毛利を潰しておけば、、」という理屈は通らない。

その点、加藤とか、福島とか、最上は努力が全然足りん。
167かっきい:2006/02/02(木) 23:07:44
松前は一万石
168日本@名無史さん:2006/02/02(木) 23:31:13
>>167
松前は無石→享保4年万石以上の格→
文化4年梁川に移封3万石→文政4年松前に移封3万石格→
安政2年陸奥及び出羽に3万石の知行地を得る→
明治元年館に移る3万石→廃藩置県
169日本@名無史さん:2006/02/02(木) 23:47:21
(肥後)加藤家の場合、徳川忠長と親しかったのが裏目に出たという説もありますね。
姻戚も紀州の頼宣だし、何か反主流派とばかりつながりがありますね。
170日本@名無史さん:2006/03/03(金) 23:01:27
保守
171日本@名無史さん:2006/03/24(金) 21:44:43
      
172日本@名無史さん:2006/04/08(土) 21:12:02
173日本@名無史さん:2006/04/09(日) 01:03:03
>166
やっぱ年増中古女とセクロスして家康の外孫を後継者にして
お家存続させた長晟君が一番の努力家。
174日本@名無史さん:2006/04/09(日) 01:12:31
(肥後)加藤
175日本@名無史さん:2006/04/09(日) 01:41:54
>>最終的には改易だけど、そん時には
「城もなく、しょぼい屋敷のみの、よくわからん領地4万石」だしね
倉吉の里見さんと同じ扱いか?
176日本@名無史さん:2006/05/08(月) 23:12:02
age
177日本@名無史さん:2006/05/19(金) 06:39:34
>>106
>蒲生は家康の娘婿の間柄だったのに理由が分かりません。
家康の娘の子孫全滅。嫁姑争いかなんかで家康の娘返品済。

その代わりっていってはなんだが、返品後の娘が高齢出産した
子孫の広島浅野は赤穂がバカやってもお咎めなしで存続。
178播磨の本多美濃守忠刻:2006/05/19(金) 06:49:20
播磨の池田輝政、姫路宰相百万石は播磨52万石、淡路6万石、備前32万石を兼ねる鎮西守護だったのに、
死去後、たちまち土井周防守、松平伊豆守、阿部対馬守らの陰謀で備前32万石と因州34万石に分割解体される
179日本@名無史さん:2006/05/19(金) 21:35:43
>>178
分割される。って、分割されなければ、松平(池田)だけが残り、
本来の池田は家老ぐらいになるんだぞ。
180日本@名無史さん:2006/05/19(金) 21:37:31
日の丸は、朝廷に貢献した大名などに下賜して有り難がらせて
またバカをやらすことに使われたもので、
いわば天皇家の象徴。
その朝廷は日本を征服支配した朝鮮人が作ったもの。
つまり、日の丸は、朝鮮人による日本支配の象徴なのである。
181日本@名無史さん:2006/05/19(金) 22:02:41
>180
なるほど皇室は朝鮮系だったかぁ じゃぁあれは植民地支配じゃなくて本土復帰だったのか
182日本@名無史さん:2006/05/19(金) 22:05:50
>>181 日本人いないし
183日本@名無史さん:2006/05/21(日) 23:14:07
綱吉時代もあるな。結構。
土佐中村藩2万7千石。山内豊明
外様ながら綱吉に気に入られ若年寄になり、更に老中職を命じられたが
本人があまりの栄進に不安を持って固辞した所、綱吉の逆鱗に触れ改易。

信濃長沼藩1万8千石。佐久間勝ちか(ちかの字変換出来ず)
綱吉の小姓を病気と偽って辞退し改易。

佐久間家の場合大名なのに小姓に任命されるのが不思議ですが・・・
山内家は本人が辞退しただけなのに・・・
184日本@名無史さん:2006/05/21(日) 23:38:26
つ 綱吉は偏執症

大名が小姓に任命されるのを辞退したっつーのは
いわゆる「尻ねらい」を回避ちうことだったのだろうか。
綱吉は男狂いだったらすぃねぇ。。。
185日本@名無史さん:2006/06/15(木) 11:43:15
>>184
そう言えば、大岡越前殿の兄君が八丈島へ流されたのも、上様とお尻愛に成ることを拒んだからだとか…
186日本@名無史さん:2006/06/15(木) 20:53:27
>>185
へぇ〜×10
187日本@名無史さん:2006/06/24(土) 22:02:59
ほう
188日本@名無史さん:2006/06/24(土) 22:33:41
綱吉て子供並の体格だったそうだが・・・。
189日本@名無史さん:2006/07/01(土) 20:23:40
ほう
190日本@名無史さん:2006/07/08(土) 00:33:22
>188
その手の話は聞かない
本当ならもっと流布してるっしょ
191日本@名無史さん:2006/07/08(土) 00:36:14
日の丸?源平の名残。
192日本@名無史さん:2006/07/08(土) 20:35:56
>190

ほれ、小泉総理大臣の自由民主党のHPだ。
htp://www.kokuseikyo.or.jp/hiroba/0512/ren.html
193日本@名無史さん:2006/07/17(月) 17:30:17
ん?
194日本@名無史さん:2006/07/17(月) 18:46:53
>>188
それは大樹寺の位牌の大きさが実際の身長と比例している説に基づく説。
195日本@名無史さん:2006/08/10(木) 19:26:37
それだけなの?
伝承とかはないのか?
196日本@名無史さん:2006/08/10(木) 21:45:02
オランダのケンペルが綱吉に謁見したが、中肉中背と記述していたような。
197日本@名無史さん:2006/08/10(木) 23:34:12
子供並の体格の暴君綱吉が男の尻を狙い続ける・・・
グロテスクな時代小説、劇画の格好のネタとなりそうだw
198日本@名無史さん:2006/08/11(金) 00:03:48
========= 改め PUについてかたるスレ ===========
このスレはPUが作った乱発スレの一つですが、それを逆手にとりPU対策スレとしています
※PUは1人で自作自演して、他の人がせっかく入れた意見を、消し去ります。しかも結論も無い妄想や暴言で!何とかしてください!
PU=プラム=安曇連=がいやまん =太国=ヒッキー=サガミハラ=本田=定ちゃん=彼都
♪探して♪探して♪ 更新望む


【PU作成HPワクワクするね必見だよ!】
http://www1.ocn.ne.jp/~gengoman/MyPage/album_show8.html?page=7
このアドレスよその窓に、貼り付けてみてください。この窓からは重いかも
PUのマニアックな生態が窺い知れます。

お仕置きしちゃだめ

    %%%%%%%%% 
    6| -σ-σ | 
     |   ゝ  |  <チョンコまるだしだから
     \ ∀ / 
    │|  │ 
     U ♂ )
     │|│|
     ⊂つつ

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1151161164/l50
【大ヒット書き込み中】先行ぷスレ 今は座談会になってます。 【大ヒット書き込み中】






199日本@名無史さん:2006/08/11(金) 17:58:43
>>180
で信じると思う?
200日本@名無史さん:2006/08/11(金) 21:10:01
筑後国32万石の田中は?
201日本@名無史さん:2006/08/14(月) 00:17:18
>>200
田中家は、1620年に無嗣断絶してます。
田中家の他に、織豊系の大藩では、米子の中村家、松江の堀尾家、松山の蒲生家が無嗣断絶。
せっかく戦国時代を乗り切ったのに、カワイソス…。
202日本@名無史さん:2006/08/20(日) 02:14:12
最後に改易されたのは?
勿論大政奉還以前に
203日本@名無史さん:2006/08/20(日) 10:55:12
天明八年に改易された近江小室の小堀政方かな
204日本@名無史さん:2006/08/20(日) 16:21:41
本郷は?
あ、あれは改易じゃないか。
205日本@名無史さん:2006/10/22(日) 10:22:00
改易だよ
206日本@名無史さん:2006/11/07(火) 22:25:13
age
207日本@名無史さん:2006/11/16(木) 15:23:33
>>201
蒲生家は

当主が若死にし、お家騒動で減封

関が原&家康との姻戚で加増

またも当主が今度は嗣子を残さずに若死に、徳川一門だから特例で弟が相続したが減封

またまた当主が嗣子を残さずに若死にし今度こそ改易

とことん当主の短命に振り回された家だ
208日本@名無史さん:2006/11/17(金) 12:22:34
>>207
歴代当主の生物的生命力がもう少し多かったら、大大名でなくても残れたかもしれなかったのにね。
結局氏郷から見れば2世代(忠郷・忠知兄弟)しか続かなかった。
209日本@名無史さん:2006/12/19(火) 22:06:49
age
210日本@名無史さん:2007/01/17(水) 19:45:16
保守
211日本@名無史さん:2007/02/20(火) 23:09:10
age
212日本@名無史さん:2007/03/17(土) 23:07:42
保守
213日本@名無史さん:2007/03/18(日) 01:44:18
立花が復帰できて宇喜多が復帰出来なかった理由てなんでしょう?
両方とも純粋戦力としての参加でしょ?命が助かってる時点で危険性は薄いと
判断されているわけで。
214日本@名無史さん:2007/03/18(日) 02:48:20
立花は相当な人格者だったみたいよ。領民にも慕われていた。
改易の際は家臣の再仕官に感状を多く与えた。
そのためもあるのだろうが、その名声は全国に知れ渡っていたらしい。
仕官の誘いも多かったが浪人暮らしを選択。
それを秀忠に見い出され人間として信用されたと思う。
宇喜多は前田、島津(外様)と親しいからでは?
215日本@名無史さん:2007/03/18(日) 22:08:36
確かに宇喜多は前田の親族(妻の豪姫の実家が前田)ではあるが、島津とはどうかねぇ
島津と親しいというなら、立花だって変わらないし

むしろ豊臣との近さが嫌われたと思われ>宇喜多
216日本@名無史さん:2007/03/27(火) 02:41:56
>>215
関ヶ原のあと島津にかくまわれていたんじゃないの?
217日本@名無史さん:2007/03/27(火) 05:44:54
宇喜多ってのは秀吉の養子だからな
218日本@名無史さん:2007/03/27(火) 07:27:52
オカンが太閤さんの愛人やったさかい
219日本@名無史さん:2007/04/02(月) 11:26:04
諸大名から助命嘆願が相次いだから殺すに殺せないし、
秀家が出頭したのは関ヶ原から何年も経ってるから殺す必要性も薄れてたのでは?
220日本@名無史さん:2007/04/02(月) 15:34:02
秀家は豊臣のほぼ親族で、

家康の対抗馬・加賀前田の強力な派閥で、利家組の一員であり、
つまり伊達とも近しく、


逆に、家康方面に一切縁故がない。
おまけに反秀家な家臣団が家康の旗本として吸い上げられている。
221日本@名無史さん:2007/04/04(水) 13:03:37
>>215
立花の実父は島津に殺されている。いわば仇。
関ヶ原の帰路に偶然、遺恨は解消したらしいが親しくはない。
222日本@名無史さん:2007/04/04(水) 17:08:23
>>221
そんなあなたに
『立花宗茂』人物叢書
関ヶ原の合戦以前に島津氏と誓詞を取り交わすなど
既に遺恨は解消ずみな事も書いてある
223日本@名無史さん:2007/04/05(木) 01:08:48
>>222
関ヶ原の帰路に戦場を決死の突破してきた島津と出合った立花家臣団
が仇討ちを具申している。しかし宗茂は遺恨ない旨、使者を送った。
その申し出に島津義弘が感謝してもし東軍によって籠城を余儀なくさ
れたときは援軍を出す約束をした。
224日本@名無史さん:2007/04/05(木) 10:22:57
飛騨守宗茂公か。
結局、豊後武士で大名になれたのは彼だけか。
225日本@名無史さん:2007/04/05(木) 10:25:12
喜多見若狭守の改易も興味あり
226日本@名無史さん:2007/04/06(金) 01:48:45
>>225
http://kuddy.blog83.fc2.com/blog-entry-71.html
真ん中辺にものすごくわかりやすく書いてあった。
ただ、”江戸氏と木田見氏と喜多見氏”の関係は諸説ありで
必ずしもこの通りではない。





しかしなんで犬ブログなんだこの人?
他にも城巡りとかしてるし。。。
227日本@名無史さん:2007/04/07(土) 00:13:18
チワワカワユス
228日本@名無史さん:2007/05/22(火) 22:56:48
age
229日本@名無史さん:2007/05/25(金) 01:49:16
福島正則
こいつ、策略とか一切無いのな。
正直モノは馬鹿を見る、の典型だろ。

50万→4.5万→0.3万だからな。
検死が来る前に荼毘に伏せよ、と遺言して、とうとう3000石までになった。

今も、長野県の最期の地には、墓が残る。
230日本@名無史さん:2007/05/25(金) 10:37:45
喜多見氏と犬とくれば。
231日本@名無史さん:2007/05/27(日) 01:19:45
そう、フランダース
232日本@名無史さん:2007/05/27(日) 06:27:47
>>229
人生あきらめていたのかもな。
さっさと隠居して、家康の娘を嫁にしていた二代目に継がせていれば
生きながらえたかもしれん。
細川家みたいに。
233日本@名無史さん:2007/05/27(日) 23:03:31
その二代目予定者を殺してしまったからなぁ
234日本@名無史さん:2007/05/28(月) 08:21:39
江戸時代で最後に改易された大名は?
235日本@名無史さん:2007/05/28(月) 10:16:03
>>234
多分水戸天狗党の乱の処理の仕方を問題視されて
改易になった松平頼徳。
236日本@名無史さん:2007/06/01(金) 00:01:26
>>234
林忠崇・・・と言おうと思って、気づいた。
請西藩を改易したのは明治政府だ。
237日本@名無史さん:2007/08/15(水) 22:32:49
age
238日本@名無史さん:2007/09/17(月) 22:52:11
age
239日本@名無史さん:2007/10/09(火) 22:47:13
ほりおこしあげ
240日本@名無史さん:2007/10/17(水) 20:32:12
反日本親朝鮮の記事捏造アサヒる新聞は日本から出て行け。
241日本@名無史さん:2007/10/18(木) 00:08:19
>>240
コクる時くらい歯磨けよwww
242日本@名無史さん:2007/11/05(月) 23:20:03
江戸時代に改易されて絶家にされた大名の一族って、やはり領地から叩き出されて放浪したりするもの?
で、たどり着いた土地で郷士になったり帰農したりするのかな?
243日本@名無しさん:2007/11/06(火) 00:21:47
>>242
「絶家」というのは、一族というよりも、その家個々が負っている問題です…

まず(弟や男子などの)継嗣がいるか、その存在を認められるかどうかで運命が分かれます。
そもそも「絶家」とは継嗣なきまま家主が亡くなることです。いなければ無嗣を理由に除封。
こういった例はそのまんま終了。確かあの小早川秀秋が最初の適応例だったかと。

いても幼すぎるとみられれば除封されることもありましたが、この例は本家や分家や姻族、
あるいは配流先の大名家が面倒をみたりしました。継嗣は後に大名や旗本として再雇用
されることが多く、それがなかったら縁故を頼ってどこぞの家に仕えることもありました。
落ちぶれても大名家。名門のうちなのですから、当てがないということはまずないのです。

石田三成のように関が原で負けて除封されたものたちは居場所そのものがないでしょうが
少し時代を過ぎればそんなことはなくなるのです。
244日本@名無史さん:2007/11/06(火) 00:41:18
>>243
詳しくサンクスです。
たとえば、大名に5人男子の子供がいたとする。
で、長男が後を継ぎ、2代目になったとする。そしたら残りの4人は家臣化するわけですよね。
(婿入りは例外として)
で、その2代目が男子がいないうちに急死して領地没収、お家断絶にされる。

すると、残りの4人は大名の血筋なわけだけど、領地没収されているわけだからもうそこにはいれないですよね。

となると、家臣であれば大名の一族であろうが放浪する、とはなりませんでしょうか。
245日本@名無史さん:2007/11/06(火) 01:21:53
> で、その2代目が男子がいないうちに急死して領地没収、お家断絶にされる。

2代目に男子がいなければ、弟のうち誰かが形式だけでも養子になってるよ。
弟が沢山いるのに無嗣廃絶なんてまず起きない。
それから大名家ってのは婚姻政策を行って、あちこちの大名家や旗本家が
親戚・姻戚だから、もし改易になって路頭に迷えば、親戚の家に厄介になるんだよ。
246日本@名無しさん:2007/11/06(火) 02:03:18
>>244
末期養子の禁というのもあったりしたのですが、これとて結局は廃止されてしまいます。
ましてや舎弟がいるのなら、嫡男が生まれるまでは誰かを継嗣にしておくのが普通ではないでしょうか。
そうしないと、仰るように臣下もろとも困窮することになりかねないからです。
247244:2007/11/06(火) 02:15:54
みなさま、レスありがとうございます。
具体例をあげて、もう一度だけ質問させていただけますでしょうか。
甲斐徳美藩が江戸前期にありましたよね。
甲斐徳美藩は4代目の勝守(子供無し・兄弟無し)が発狂し、自害したため改易され、領地没収、絶家となったようですが、
すなわち自害した勝守の実父、3代目当主の勝政には兄弟が3名いたようですが、各々に妻をめとり、徳美藩家臣となっていたのではと推察しています。
いわゆる、勝守の叔父にあたる3代目当主勝政の兄弟の一族は、徳美藩が御取り潰しになった際、やはり>>245氏の仰る通り、親戚や知り合いの大名家に行くのだと思いますが、
徳美藩に限らず、こういった状況(すなわち、大名の叔父にあたる人間の一族)は他大名で仕官という形になるのが一般的なのでしょうか。
それとも、流れ着いた大名家の領地で知行をもらい、旧族郷士として生きていくなど、ありますでしょうか。

わかりにくい質問で申し訳ございません。
248日本@名無しさん:2007/11/06(火) 02:54:12
>>247
伊丹勝政は嫡男勝守が生まれるまでは、弟勝久を世子としていますね。
また勝政の弟が大村藩に養子に行っているので、ここを頼ることもあったでしょう。
具体的には存知ありませんが…

小野寺氏のように、子孫が預かり先に封じられた大名の家臣になるという例は
江戸時代初期に少しみられます。水戸のような新設藩では家臣を欲していた
という事情もあってか、宇都宮氏のような名族を採り立てていますね。
249244:2007/11/06(火) 03:09:59
>>248さん、どうもありがとうございます。
なるほど、大村藩の養子になっておりますね。
徳美藩は初代当主康勝、2代目当主勝長までは越後国の佐渡奉行を親子二代で歴任していたようですので、
越後国の藩にでも行ったのかなと予想しておりました。

実際、各々に3〜5名ほどの子供がいたようですので、あちらこちらに散らばっているのでしょうね。

>子孫が預かり先に封じられた大名の家臣になるという例は江戸時代初期に少しみられます。
なるほど。
やはり、仕官するのが一般的なのでしょうか。
個人的には「旧大名の血縁」という由緒で旧族郷士にでもなっていたのか?と予想していました。
250244:2007/11/06(火) 03:26:57
連レス失礼します。
徳美藩初代当主の康直の実父、武田勝頼の重臣であった伊丹康直も、
あちらこちら放浪して駿河にたどり着いた出自のはっきりしないポっと出のようですし、
勝守が「発狂して厨で自害」していることから、
当時は発狂などすると「仏の罰」や「先祖の祟り」などと本気で信じられていた時代でしょうから、
その血縁者を引き取る側の大名も、少し勇気が必要だったかもしれませんねw
いわゆる「呪われた家系扱い」されていそうです。
251日本@名無史さん:2007/11/08(木) 13:25:16
>>246
まだ生殖活動ができない年齢や体力の場合、「仮養子」みたいな形で予め兄弟や縁続きの家の子を指定しておき都合に
応じて更新したりするケースもあったようです。
もちろん実子が生まれればそちらが継承順位第1位になるわけですが。
252日本@名無史さん:2007/11/09(金) 02:54:30
大名が生きている場合、大名の直系は許されて復職できなければ他藩に仕官することが一般的だけど。
いくら大名の一族でも叔父とかそれ以下の関係の場合、ただの浪人と同然で放浪先で土着、郷士になるパターンはあったはず。
江戸の途中で急に地主になった郷士とかはだいたいそうじゃない?
大体地主って言うのは戦国時代から土着していた地侍や庄屋がやってるもんだから。
江戸の途中から急に地主になった郷士は、大名一族(はしくれ)の郷士の可能性もあるかと。
253日本@名無史さん:2007/11/12(月) 19:33:54
改易大名の家臣って、帰農した人が多いの?
254日本@名無史さん:2007/11/12(月) 22:03:37
仕官したのが一番多いよ。
潰された大名があれば、石高が増える大名もいるわけだから、そういう所に行って仕官運動する。
255日本@名無史さん:2007/11/12(月) 22:22:39
大名の血族の家臣でも?
256日本@名無史さん:2007/11/12(月) 23:22:41
ああ、背に腹は代えられないからね。
地方史の史料編に藩士の記録なんて載ってるのを見ると、結構いるよ。
漏れは東北なんで、見聞きした実例を挙げると、稗貫、和賀なんかは南部藩に、大崎は仙台藩に召し抱えられている。南部にほろぼされた斯波氏の一族も南部に仕官している。
最上が改易された後、山辺とか最上庶家は各地の大名家に預けられて、子孫はその大名家に仕えているのが多い。残された他の藩士も新たに入府した鳥居や酒井に仕官している者が多い。
勿論他国の縁者を頼って別な地域の大名家に仕えたのもいるが。
佐竹が秋田に転封になった時、上級家臣で残ると言った者は粛清されたようだ。地侍クラスだと、兄弟の誰かが秋田に着いていって、残りは常陸で農民として残ったところも多いみたい。
伊達が秀吉に転封された時は家臣団は一人残らず着いていったと言われているようだ。
あまり関係ないけど、数年前NHKで、確か生駒氏だったかが、武士身分を棄てたくなく、しかも地元に残りたかったため、江戸時代前半までは屋敷地しか持たない極貧生活をおくっていたが、耐えきれずにどっかの大名家に仕官して出ていったといった話をしていたような気がする。
257日本@名無史さん:2007/11/14(水) 16:22:52
>>256
秀吉政権下で、大名が近所つきあいをするようになると意外なところに意外な家の子が口減らし(?)で仕官してますね。
別にそれらの家を滅ぼしたり臣従させたり流罪先として預かっていたわけじゃないのに家臣にいる。
伊達家で言えば、蝦夷松前家とか那須福原家とかの子弟が家老をやってたりする。
258日本@名無史さん:2007/11/15(木) 04:12:59
最上家は改易された後、家老が帰農してるよね。
江戸期にも改易されて帰農した上級武士は結構いたみたいね
その後は大体、庄屋や郷士の大地主になって帰農先の有力者になるのがほとんどみたいだけど
259日本@名無史さん:2007/11/15(木) 12:27:20
兵農分離進行中の江戸初期の改易→帰農なら庄屋とか郷士として入り込むのもやり易かったろうが
身分制度が固まると帰農というのは難しかったんだろうか 農民社会に後から乱入するような形になるし

260日本@名無史さん:2007/11/15(木) 14:52:59
承応二年に帰農してるやつはいる。1700年前後ならば結構いそうな気もする。
農民→武士はほぼ不可能だろうが
武士→農民はさほど難しくないだろう
261日本@名無史さん:2007/11/15(木) 20:33:43
改易ってやつをwikipediaで調べたんだけど・・・

江戸時代においては大名、旗本などの武士に課せられた刑罰を意味し、
武士の身分を剥奪して所領と城・屋敷を没収することになった。除封ともいう。

って書いてあるんだけど「武士の身分を剥奪して」ってことは、除封された武士は武士ではなくなるってこと?
武士身分剥奪ってそういうことでは?
262日本@名無史さん:2007/11/15(木) 23:04:04
正式には浪人は武士ではないからだろ
263日本@名無史さん:2007/11/16(金) 12:42:37
武士 から なんらかの身分を剥奪

武士そのものは総称で剥奪できるような身分とは言えない
>>262の言うように身分を剥奪されても浪人として生きていく者もいる
264日本@名無史さん:2008/01/09(水) 00:12:31
福岡藩黒田家も黒田騒動でいったん幕府に領地を没収されて、改めて領地を与えられてる
そうだから、これも改易→復活になるのでは?
265日本@名無史さん:2008/03/23(日) 18:17:21
良いスレと思うが、個人的にはあまり書く題材がないのだ。
266日本@名無史さん:2008/03/24(月) 23:13:50
改易の原因をつくった加藤忠広の嫡男はどういう一生を送ったの?
子孫は山形の大庄屋になったらしいが
267日本@名無史さん:2008/03/25(火) 13:13:16
光広は飛騨高山藩にお預けの翌年に病死(自刃、毒殺説も)
268日本@名無史さん:2008/03/25(火) 19:13:39
>>267 うわぁ(((゚д゚;)))コワイヨー
諏訪高島城に幽閉された吉良みたいに環境が悪かったのかしら…
269日本@名無史さん:2008/03/30(日) 22:14:37
>>258
そんなんだから日本は市民革命起きなかったんだろうなW
270日本@名無史さん:2008/04/04(金) 12:34:00
諏訪はいつ滅びてもおかしくなかった
271日本@名無史さん:2008/04/04(金) 12:58:49
大名じゃないが御家断絶、お預け遠島の近藤重蔵と近藤富蔵親子は面白い
272日本@名無史さん:2008/04/04(金) 14:47:24
そうかと思えば、流罪になったのに宇喜多秀家とか松平忠輝とか松平光長とか長生きし過ぎ。
273日本@名無史さん:2008/04/04(金) 15:06:22
秀家は島でアウトドアライフを結構楽しんでたかもしれないな
274日本@名無史さん:2008/04/04(金) 15:39:57
赦免されて江戸に戻されたのに自分からわざわざ島に帰ったヤツもいたしな
275日本@名無史さん:2008/04/05(土) 00:26:07
南国の離島にハマれば都会なんかに住みたくなくなるだろな。
276日本@名無史さん:2008/04/05(土) 02:42:33
>>268
お預けの場合飲食は供されるが薬石は供されないから
寒い所で風邪引いて薄い蒲団で寝てるとすぐ肺炎になる
277日本@名無史さん:2008/04/05(土) 10:07:22
大名旗本の遠島=バカンス
278日本@名無しさん:2008/04/05(土) 12:00:59
こうして貴種流離譚がまた一つできるのでした
279日本@名無しさん:2008/04/05(土) 13:19:46
♪南の島の大名は その名も偉大な備前様
280日本@名無史さん:2008/04/05(土) 17:54:46
>>279
泳いで来い!
281日本@名無史さん:2008/04/13(日) 10:05:19
>>272
光長は配流されてたのは5年くらいだから他の二人とは違うだろ
まあ配流の時点で65歳という高齢だからキツかったのは確かだけど
74歳の天寿をまっとうしたのは赦免された後だからね
秀家は49年、忠輝に至っては67年も配流先で生きたから
282日本@名無史さん:2008/04/18(金) 23:40:06
>>281 67年もずっと高遠にいたの?
283ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2008/04/19(土) 01:17:31
織田信成なんて大名が実在するとは、なんか笑える。
284日本@名無史さん:2008/04/19(土) 09:47:02
>>274
それ誰?
285日本@名無史さん:2008/04/19(土) 23:06:26
>>282 スマソ諏訪だった
よくマラリアにかからなかったね
286日本@名無史さん:2008/04/19(土) 23:23:52
俺も貴種になって辺鄙な村の素朴な少女に種付けしまくりてぇ
287日本@名無史さん:2008/04/20(日) 02:24:51
小早川浪人は殆ど仕官先なし?
不憫でならない
288日本@名無史さん:2008/04/20(日) 06:52:50
>>287
他で抱える価値がありそうなのは断絶前に大抵出奔するか殺されちゃってるから。
289日本@名無史さん:2008/04/20(日) 12:16:42
池田で拾わなかったの?
毛利に戻るのは無理だろうけど。
290日本@名無史さん:2008/04/21(月) 20:00:52
小早川秀秋を毒殺したのは毛利系の家臣って説は本当?
291日本@名無史さん:2008/04/21(月) 20:10:01
毒殺というはなし自体俗説でしかないが、
毛利家臣説と小早川家臣説と宇喜多家臣説と徳川家臣説がある
292日本@名無史さん:2008/04/25(金) 19:20:14
石田って子孫いるんじゃなかったのか?
居場所すらないって三成アンチの戯言だな
293日本@名無史さん:2008/04/25(金) 20:57:46
つんつん津軽が遺児を拾ったはず
294日本@名無史さん:2008/04/25(金) 22:41:50
>>8
 徳川氏は清和源氏新田流と自分の出自を称していますが、本当はどこの馬の
骨か分からないのです。それに対して、最上氏は清和源氏足利流の中でも特別の
家格を持つ斯波氏の流れです。
 江戸時代初期において、最上氏は吉良氏よりも足利将軍家(惣領家)に血筋が
近い家柄だったのです。
 要するに、利用価値はあったとしても、潜在的に「目の上の瘤」だったのです。
295日本@名無史さん:2008/04/25(金) 23:10:03
マジレスすれば、山辺といった一族重臣達が独立したがっていたんだろ。
山辺なんて、結局水戸家にほぼ元の石高で拾われてるしね。
296日本@名無史さん:2008/04/26(土) 13:22:30
>>295
しかも騒動を大きくした松根の子孫なんて、宇和島伊達家に仕えて幕末に活躍した家老が出てる。
こういうのって、因果応報論から言えば許しがたい話だ。
297日本@名無史さん:2008/05/18(日) 15:18:17
>>276
なんか津軽に配流になった九州人の相良なんとかが
90歳近くまで生きたのがすごいと思えてきた
298日本@名無史さん:2008/05/18(日) 15:39:05
>>296
図書だよね
299日本@名無史さん:2008/05/18(日) 22:04:29
>>298
血筋的には伊達の血だけどね。
300日本@名無史さん:2008/07/06(日) 23:42:20
最上氏は斯波最上家である。
301日本@名無史さん:2008/09/20(土) 21:01:54
加藤光広
302日本@名無史さん:2008/10/04(土) 19:50:51
>>301 高山に流されてすぐ死んだのはまさに悲劇。
松平忠輝や宇喜多秀家のように強靱な精神力を持ち合わせていなかったのだろう
303日本@名無史さん:2008/10/13(月) 18:55:53
>>301 宇喜多は別格としてもすぐ死んだ吉良や加藤は環境が悪かったんだろう。
徳川宗春は軟禁中は庭に出れたの?
304日本@名無史さん:2008/11/23(日) 10:58:31
キター
305日本@名無史さん:2008/11/23(日) 13:22:03
>>303
出られない
306日本@名無史さん:2008/11/23(日) 17:44:29
爪や髪切ったり着替えたり風呂とかは入れるの?
307日本@名無史さん:2008/11/23(日) 18:40:16
建物の中なら移動可能。建物の外には火事でもない限り一歩も出られない。
308日本@名無史さん:2008/11/24(月) 01:04:04
近所をプラプラし、土地の人と交流し、
子供まで作った松平忠直最強!
309日本@名無史さん:2009/01/09(金) 17:03:24
改易されても自由に振舞えるっていいなぁ
310日本@名無史さん:2009/02/28(土) 22:55:28
>>301
謀反の書状を作って遊んでたのは本当なのかね?
311日本@名無史さん:2009/05/04(月) 21:30:23
ほほー
312日本@名無史さん:2009/08/01(土) 13:22:02
age
313日本@名無史さん:2009/08/01(土) 13:38:52
石原莞爾、加藤紘一も加藤忠広の親戚らしいが
二人とも清正の血引いてるのかな?
314日本@名無史さん:2009/08/01(土) 15:31:24
加藤紘一の「加藤」が加藤家の分家のものかどうかによるだろうな。
加藤家の存続と清正の血は無関係だから養子関係によっては血を引いてないかもしれん。
315日本@名無史さん:2009/08/01(土) 17:22:52
清正の子孫が売国奴なんて嫌だなー
316日本@名無史さん:2009/08/07(金) 14:11:25
大久保事件や本多正純事件に連座した大名は悲劇的ですね。
正純事件に最上は連座?
それにしても大久保が金山利益で財力あり、忠輝と政宗と組んでクーデター計画はどこまで本当なんだろ。
政宗は正純にも百万石のお墨付きの陳情してたって言うし、政宗の動きが原因で長安と正純が失脚したのかな?
それとも豊臣政権に置ける武断派と文治派の対立と同じ流れ?
317日本@名無史さん:2009/08/07(金) 15:47:49
徳川政権内の権力争いに負けたのが本多さん
318日本@名無史さん:2009/09/20(日) 22:14:50
天地人、ラストでチラと最上義光が馬上で刀ふるって突撃して来たな
319日本@名無史さん:2009/10/01(木) 21:27:50
歴女に人気のある最上
320日本@名無史さん:2009/11/14(土) 19:42:19
そうなの?なんで?
321日本@名無史さん:2009/12/20(日) 23:49:24
しらん
322日本@名無史さん:2009/12/23(水) 18:38:50
>>316
疫病神政宗のせい
323日本@名無史さん:2010/01/07(木) 17:59:49
独眼竜の時の原田芳雄の悪役が良かったよな
324日本@名無史さん:2010/02/21(日) 02:07:17
よかったな
325日本@名無史さん:2010/02/21(日) 17:00:00
>>323
壱岐くんの利家はどや?
326日本@名無史さん:2010/03/13(土) 16:20:41
改易
327日本@名無史さん:2010/03/22(月) 12:53:04
>>325
あんまり感心せん。
328日本@名無史さん:2010/05/01(土) 23:59:01
最上って改易されたんだ
329日本@名無史さん:2010/07/14(水) 21:33:17
保守
330日本@名無史さん:2010/08/01(日) 00:36:03
最上は、家康に使えたこともある当主が若死にしちゃったのが痛かったな。

まあ、その前とその後の跡継ぎ争い(?)はどうしようもないけど。
331日本@名無史さん:2010/08/17(火) 22:48:17
家親の急死は致命的だった
332日本@名無史さん
当時は
戦国猛者のオヤジの急死→幼君相続→家臣団分裂→お家騒動で改易
というパターンが多い。織田家、豊臣家もそれに近いしな。
家臣たちも「家」に仕えているという意識が低かったからね。
幼君だと家臣が好き勝手言い出しても誰もまとめられなくなるね。