【太平記】建武の親政 南北朝時代は

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1日本@名無史さん
建武の親政 南北朝時代はなぜ人気がないのですか?
足利尊氏、新田義貞、楠木正成などについてもっと語りましょう。
2日本@名無史さん:04/06/15 08:49
↑新政ね
3日本@名無史さん:04/06/15 09:19
スレ伸びてないね。
やっぱり人気ないのかね?
4日本@名無史さん:04/06/15 11:55
僕の祖先は、楠木正成に仕えた和田正遠だよ!
5日本@名無史さん:04/06/15 13:26
≫2
帝がじきじきに行う政を御親政と言うのよ。
建武親政、建武新政、建武中興、どれも正解!

ちなみに俺は太平記好きだよ。
北条高時が好きだったりする
6日本@名無史さん:04/06/15 13:30
敢へて何も言ふまじ・・・。
7日本@名無史さん:04/06/15 13:31
京極高氏が>>1に含まれていないから却下


終了
8日本@名無史さん:04/06/15 13:32
北畠親房は愛すべき馬鹿だった
神皇正統記(゚听)イラネ
9日本@名無史さん:04/06/15 13:40
やっぱり長崎円喜、高資父子でしょう。
10日本@名無史さん:04/06/15 14:09
名和長年
11日本@名無史さん:04/06/15 20:13
大楠公は神様である。神戸の湊川神社に祀る。
このスレ書き込む者は当然、参詣しているよな。
12日本@名無史さん:04/06/15 20:16
建武の新政って何?
13日本@名無史さん:04/06/15 22:04
後醍醐天皇は最悪のクズ。
14日本@名無史さん:04/06/15 22:21
ま、後醍醐さんは人が喜ぶことはしていないな。
あの人だけは太平記でもキャラが別格だよね。
15日本@名無史さん:04/06/15 23:39
>>12
後醍醐天皇が「北条が牛耳る幕府をぶっ潰して天皇が直接政権とろうZE!」と
挙兵し、それに応えて数万の幕府を小さな山城で持ちこたえたのが河内の大悪党と
呼ばれていた楠木正成、ついでにいうとこの時点で後の足利尊氏は幕府側。
彼は途中で裏切って天皇側につく。

んで新田義貞が鎌倉幕府をぶっ潰して天皇の親政が始まったのだが、これが「建武の新政」
でも武家からは恩賞の分け与えの点で総スカンを食らってしまい、その面倒をみた
足利尊氏の人気が急上昇。ついに九州から東征してきた足利軍と楠・新田を擁する天皇軍が
湊川で戦う事となるだが・・・。

みたいな感じ、補完よろ。
16日本@名無史さん:04/06/15 23:41
足利は存在自体が大罪。
17日本@名無史さん:04/06/16 01:35
>>14
あの時代、真の意味での革新者は尊氏なんかではなくむしろ後醍醐天皇だからね。
国家経済を確立しようと、日本で流通する貨幣を考案したり、
公家の世襲を解体して天皇中心の強力な官僚政治を推進しようとしたりなど、見るべきものも多い。
まあ、ほとんどの人はその政策の意味を理解できなかったようだし、
既得権を失いたくない公家からも反発されて理想は頓挫してしまったが‥‥
「太平記」ではしまいには鬼にされていたな。地獄で苦しむ醍醐天皇よりはマシだが。
18日本@名無史さん:04/06/16 01:38
しかし、改革がみんないいものとは限らんぞ。
19日本@名無史さん:04/06/16 01:48
ゴダイゴはガンダーラに行って
ハシシを持ち帰って捕まった。
20日本@名無史さん:04/06/16 03:05
後醍醐天皇の理想は、北宋以降の中国みたいな徹底的な皇帝独裁体制だからね。
そのためには、官位官職や領地を世襲する貴族階層(この時期の日本なら公家・武家ともに該当)は目障りな存在。
だから、摂関も院政も幕府も否定した。
しかし、この結果、当時の支配階層の大半からの支持を失った。
南北朝分裂後を考えても、公家にしろ武家にしろ北朝&室町幕府での出世に乗り遅れた負け犬が、南朝のところに転がり込むというのが実態。
21日本@名無史さん:04/06/16 03:15
大楠公、小楠公、オロナイン楠公





       BY 大塚製薬
22日本@名無史さん:04/06/16 03:24
しかし、後醍醐の本心は、当時二つに割れていた皇統を、以後全て
自分の系譜で独占したいがためであったはず。後醍醐は、たまたま
天皇になれた人だから、かえって我欲が露骨に出てしまったのかもしれない。
同じ野望の吉宗は三卿を作ってこれに成功した。
23日本@名無史さん:04/06/16 03:42
ゴダイゴの語源は後醍醐なの?
24日本@名無史さん:04/06/17 03:04
>>22
持明院統の側でも、花園天皇宸記の作者である花園院なんかは、後醍醐に対して結構同情的だよね。
自分と同じ「傍流中継ぎ」としての価値しかなかった天皇として。
25日本@名無史さん:04/06/17 03:05
>>21
大楠公=楠木正成
小楠公=楠木正行
オロナイン楠公=横井小楠
でどうよ?
26日本@名無史さん:04/06/17 05:10
>>24
花園院は面白いな。教養も高いし、もっと注目されていい人だと思う。
後醍醐天皇の治政や理想にもかなり関心を示しているよね。
ただ、同情だけではなくかなり手厳しいことも書いている。
まぁ、後醍醐よりもはるかに常識的な思考をする人だから当り前だけど。
27日本@名無史さん:04/06/17 08:12
太平記って22巻が無いんだっけか?
28日本@名無史さん:04/06/19 22:32
太平記好きと言えば、吉川元春
29日本@名無史さん:04/06/20 21:48
作者は足利直義?
30日本@名無史さん:04/06/20 21:58
>>23
板と関係ないが、
go die go
31日本@名無史さん:04/06/28 19:53
ところで北朝の初代って誰なの?
歴史の流れ的には光明天皇かと思ってたんですが、
教科書を見ると光厳天皇になってたりしててどうもよく分からない。
32日本@名無史さん:04/06/28 20:15
>>31
光厳院でしょ
なにせ後醍醐に即位自体を否定された人ですから
33日本@名無史さん:04/06/28 21:50
後村上・長慶・後亀山の3代は歴代から排除すべきです。
北朝こそが正統の皇統です。

95代 花園院
96代 後醍醐院
97代 光厳院
98代 後醍醐院(重祚)
99代 光明院
100代 崇光院
101代 後光厳院
102代 後円融院
103代 後小松院
104代 称光院
105代 後花園院
34日本@名無史さん:04/06/30 05:48
↑南北朝スレってこういうバカが必ず現れるな
35日本@名無史さん:04/06/30 08:34
南朝は偽朝。
36日本@名無史さん:04/06/30 09:18
当時の武将は南朝であろうとも北朝であろうとも
どちらでもかまわない。利用できるものは室町幕府も
含めて選択肢が沢山あったということだ。
37日本@名無史さん:04/06/30 22:53
建武の親政となっているが歴史的には中興が正しいはずだ
38日本@名無史さん:04/06/30 22:54
>>37
なぜ正しいの?
39日本@名無史さん:04/07/01 02:43
簡単なことだ昔から言われていたことだ
この言い方は戦後赤が使い始めたことだ
天皇親政の崇高な理念のもとに行われたのだ
40日本@名無史さん:04/07/01 10:45
39
建武の親政と建武の中興の相違点或いは同義点を
整理する必要がありそうだ。説明を求める。
41日本@名無史さん:04/07/01 12:18
すいません39ですが
親政は良かったのです
私が言いたかったのは新政という左言葉でした
ただ歴史的には中興のほうが正しいです
ほとんどすべての歴史書が戦前まで中興といっております
42日本@名無史さん:04/07/01 13:17
41
また訳がわからなくなった。親政それとも新政?
再度、説明を求めるが、国語力・表現力に問題が
ありそうだ。
43日本@名無史さん:04/07/01 13:58
>>39
後醍醐天皇がめざしたのはただの個人独裁と皇位継承権の独占だけです。
あるのはむきだしの権勢欲だけで、崇高な理念などカケラもありません。
44日本@名無史さん:04/07/01 14:25
後醍醐天皇は武家に生まれてればよかったのにな・・・
45日本@名無史さん:04/07/01 15:33
>>41
日本語もまともに書けない人間の意見など検討する気にならん。
どう見たって、日本の学校で教育を受けた人間の文章じゃない。
46普通のタイトル:04/07/01 20:32
そういえば長州征伐を幕長戦争と言い換える輩もいるみたいね。

ところで、今は南朝が正統って事になってるんでしょ。
明治天皇がそう決めたとか。
47日本@名無史さん:04/07/01 20:39
>>46
南朝も北朝も血統に関しての正当性はまったく変わりないが、
足利幕府が朝廷を政治利用していじくり回したことを非難する意味で
「南朝が正当」として、「天皇家を政治利用すべからず!」という
メッセージにした。
48日本@名無史さん:04/07/01 20:41
>>47
勝手におまえ個人のメッセージを込めるなよw
49日本@名無史さん:04/07/02 01:23
日本の国体は本来天皇親政が正しはずだ
45そんなに日本の今の教育が正しのか。この赤かぶれ
つまり中興が正しいといったのは後醍醐天皇が延喜天暦の治に戻されるという意味だ
だから天皇親政を行ったという意味で親政でも良いといったのだ
ただし新政とは昔に戻すという意味はなく新しい政治という意味だからいけないと言ったのです
南朝正当はやはり大日本史をはじめとする水戸学の影響でしょう
50日本@名無史さん:04/07/02 01:52
延喜天暦の御代に戻れというのもある意味スローガンだけという感じがするよな。
51日本@名無史さん:04/07/02 02:00
>>50ほんとに後醍醐天皇は行われたではないか
52日本@名無史さん:04/07/02 05:01
>>43
「崇高な理念」って何?
そもそも「権勢欲」を持たずに崇高な理念だけで成り立った政権なんて、歴史上存在したためしは無いだろうに。
それに、足利尊氏が現実重視の利権バラマキ政治を行ったのとは対照的に、
少なくとも後醍醐天皇には「理念」だけはあったと思うけどね。
ただ、それが当時の現実社会に受け入れられなかったというだけの話であって。
53日本@名無史さん:04/07/02 07:14
>>52
いや、理念はないでしょ。
最大の動機は大覚寺統正嫡でない自分の血統で皇統を独占したかったからじゃね。
54日本@名無史さん:04/07/02 07:25
>>49
天皇親政は失政続きw
55日本@名無史さん:04/07/02 10:18
>>49
本来ご親政が正しいというのう理由はなに?
初耳なんですが?
帝はその歴史の大部分を権威として存在し、
政に直接携わった例は極めてまれだと思うのですが、
なにをして「本来ご親政が正しい」というのでしょう?
政に直接手を下さなかったからこそ、永きに渡り存続し
続けたわけです。世俗権を超越したお姿こそ
皇統の正しいお姿だと思う。
56日本@名無史さん:04/07/02 10:22
>>49
おまいは、天皇のことを語る前に、その奇妙な日本語を何とかしなさい。
翻訳ソフトでも使ってるのか?
57日本@名無史さん:04/07/02 11:30
56お前もまともに話してねーじゃねーか
ここでまともな日本語使っているいんのか
そんなくだらないこと言うな
58日本@名無史さん:04/07/02 11:35
>>57の翻訳キボン!
59日本@名無史さん:04/07/02 11:42
やはり宋学の影響が入ると親政したくなるのでしょう
後醍醐天皇や北畠親房卿などは相当勉強してたでしょう
その思いを酌んであげたまでです。
また神代は皆親政でしょう
まあ天皇御自身は親政が本来の姿だと思っていたということ
60日本@名無史さん:04/07/02 11:50
>神代は皆親政でしょう
どうでしょうな?
一般的な歴史の趨勢からいったら、親政が可能なのは
精々三代目くらいまでじゃないのかな?
古今東西、最高権威者の親政が長続きした例の方がレアじゃないのか?
61日本@名無史さん:04/07/02 11:59
権力を手にした人間が堕落しないで勤勉に統治に専念するのは難しいことだね。
特に自分が苦労して手に入れた権力じゃなく、世襲で自動的に転がり込んだ
権力となれば、どうしても仕事は家臣に丸投げして、自分は遊興にふけるという
のが世の常。丸投げされた家臣はその時点で、事実上の最高権力者になるのだが、
これとて同じで、代を重ねるごとにそのまた下の家臣に丸投げして、自分も
遊興にふけることになる。そしてその家臣もまた......
名目権力者と実権力者が一致したことなど、日本史の中でも数人程度じゃないかな?
62日本@名無史さん:04/07/02 12:08
天皇→摂政(関白/太政大臣)→征夷大将軍→執権→連署→内管領
征夷大将軍→管領
征夷大将軍→大老/老中→側用人
63日本@名無史さん:04/07/02 13:24
足利だってろくな政治してないし
64日本@名無史さん:04/07/02 13:33
>>63
三幕府のなかで一番治まってなかった幕府だね。
三代目くらいまで創建時のゴタゴタが続き、
六代目は重臣に暗殺され、早くも屋台骨が揺らぎ、
八代目には実権を完全に失い戦国乱世に突入。

もっとも文化的には室町時代がもっとも充実してたとは思うが。
65日本@名無史さん:04/07/02 14:43
日本の権力者

王→大王→大臣/大連→天皇→左/右大臣→摂関→院→平家→征夷大将軍→執権→
将軍→管領/四職→その守護代→その家臣→サル→偽源氏将軍→老中/側用人→
薩長の馬の骨→軍部→進駐軍→角栄→レーガン→パパブッシュ→バカブッシュ→

敬宮愛子!
66日本@名無史さん:04/07/02 20:28
>>53
一応理念はあるよ。
宋銭が流通していたあの時代に、日本独自の貨幣を流通させて、ゆくゆくは東アジアに自立した経済圏を確立させることを
見据えた経済政策を打ち出そうとしたり、大貴族の世襲や官職の独占を廃し、実力主義で政治の各部署を構成して、
天皇を中心とした官僚統制国家を樹立したいというヴィジョン。
なかなかスケールは大きいし、ある意味それは明治政府の先駆けともいえる政体だが(というのはかなり褒め杉としてw)
ただ、欠けていたのは現実社会に対応した漸進的な政策。
何もかもをいっぺんに強引に変えようとしたので、「抵抗勢力」の反発が生じて失敗した。

>最大の動機は大覚寺統正嫡でない自分の血統で皇統を独占したかったからじゃね。

でも、それのどこが悪いのかと。現代の尺度でモノを言ってないか?
自分の血統を天皇にしたい思いは持明院の皇族方だって同じ。
後醍醐帝以前だってそんな天皇は幾らでもいた。思いのままにならないパターンが多かっただけで。
誰もがみんな同じようなことを考えていた時代なのに、そのことをもって後醍醐帝だけが批判されるのはおかしいな。
67日本@名無史さん:04/07/02 21:03
>>66
後醍醐の場合は皇位への執着がもたらした被害が大きすぎるだろ・・・
68日本@名無史さん:04/07/02 21:08
皆の者!ミカドより綸旨が発せられたでアルゾヨ!

http://pink.jpg-gif.net/bbs/18/img/39123.jpg
69日本@名無史さん:04/07/03 00:20
>>64
応仁の乱以後も、少なくとも明応の政変までは、幕府に実権がないとは言いがたいと思うけどな。
明応の政変以後だって、将軍個人という意味では微妙だが、管領や重臣も含めた組織としての幕府が政権としての実権を完全に失うのは、戦国のかなり末期になってからだろう。
70日本@名無史さん:04/07/03 00:27
>>51
中央政府における記録所・雑訴決断所・武者所の存在や、地方における国司と守護の併置のような政治体制が、延喜・天暦の頃と同じとは思えないのだが。
実際は、単に後醍醐天皇個人による独裁政治がやりたかっただけだと思う。
倫旨万能主義というのがそれを象徴している。
そもそも、政治色の強い命令文書で、倫旨という形式をとること自体、延喜・天暦の頃ならあり得ないと思うし。
71日本@名無史さん:04/07/03 01:21
まああくまで延喜・天暦の治は目標であり理想ということ。
そのころ地方豪族がまだ摂関家の組下になっておらず武士化していないし
天皇陛下が神として最高権力者としてあがめられていた。
実朝卿まではその傾向は残っている。
その後の義時・泰時親子によって地の底まで落とされた権威を回復したかったんだろう。
しかし時代の移り変わりも分かっていたのでこのような中途半端な政体しかできなかったのだろう。
72日本@名無史さん:04/07/03 01:29
承久の乱で皇室の権威は地の底まで落ちたのか?
73日本@名無史さん:04/07/03 02:43
落ちてるでしょう陪臣に流罪にされているんですよ
74日本@名無史さん:04/07/03 03:30
俺もイラクに行き、楠公のように死にたかった。
劣化ウラン、シャぶ女、赤気違い何で大日本のために死ねないんだ。
75日本@名無史さん:04/07/03 09:22
>>69
応仁の乱以降、将軍の権威を利用しようと思う連中が、
将軍の下知に応じたとしても、それは実験とは言わないんじゃないのか?
将軍の命に、恐れ入って従った人間などほとんどいないだろう。
洛内程度の狭い範囲ならある程度支配していたかもしれないが、少なくとも
全国的な支配権はほとんどなかったろう。
76日本@名無史さん:04/07/03 09:28
後醍醐は人格障害者だな。
77日本@名無史さん:04/07/03 10:23
>>75
もともと有力守護大名の連合政権的な傾向の強い室町幕府の場合、大名達が将軍の権威にしたがっている限り、政権として機能しているといえると思うが。
もちろん、義満〜義教期のような強制力を持っていないのは事実だろうけど。
それに戦国時代に至っても、一部の例外を除いて、武家の官途は幕府を通さなければ任官できないわけだし。
あと、将軍の命令を受命しても口先だけ従っているという場合は十分にあり得るが、それにしても将軍の権威にあからさまに楯突く例はあまりない。

それから、「洛内」ってなんですか?
「洛中」とか「洛外」という言い方なら、よく耳にしますが・・・。

ついでにいうと、応仁の乱を戦国時代の始まりと考えるのも、多分に通説的で、厳密な根拠ははっきりしないと思うぞ。
少なくとも、明応の政変までは、室町幕府はかなりしっかりと機能している。
最終的に、明応の政変で、将軍家自体が分裂したために、いろいろと混乱が生じるわけだが。
78帰ってきた24歳無職:04/07/03 10:25
君の御戦必ず破るべし!!
79日本@名無史さん:04/07/03 10:29
>>73
承久の乱は、後鳥羽・順徳両上皇とその側近の個人的な責任に帰すると認識されており、
朝廷や公家社会全体としては、それほど打撃を受けているのか?
当時の公家社会でも、後鳥羽天皇の言動には、批判的な意見が主流でしょ?
80帰ってきた24歳無職:04/07/03 10:52
室町幕府なんて嘉吉の変で義教が
暗殺されたときにもう終わってるよw
81日本@名無史さん:04/07/03 22:53
>>80
そんへんのことを今度俺が論文で書くから期待してくれ。
82日本@名無史さん:04/07/03 22:59
>>81
期待あげ!
どこの論文雑誌に載るのだ?
83日本@名無史さん:04/07/04 03:16
承久の変以後幕府に皇位継承への介入権・外交権もとられたじゃないか
上皇が流され、天皇が廃され権威が地に落ちた普通思うだろ
上皇の御味方もずいぶん殺された。本来なら官軍に参加したものが
処罰されるとはおかしいではないか
84日本@名無史さん:04/07/04 14:05
にもかかわらず、皇室も朝廷も公家社会もそのまま残った。w
85日本@名無史さん:04/07/05 03:51
84さん名目的にでしょう。後鳥羽天皇順徳天皇後醍醐天皇
はそんなもんじゃ納得できないでしょう
86日本@名無史さん:04/07/05 12:56
天皇・公家が実権持ってる時期の方が歴史上少ないし・・・
87日本@名無史さん:04/07/05 18:39
>>85
鎌倉時代の朝廷は、まだ全国政権としての統治能力を十分に維持していると思いますが・・・。
88日本@名無史さん:04/07/05 19:25
程度の問題かな、こりゃ
89日本@名無史さん:04/07/05 20:55
>>87
何を持って「十分」とするかですな。
少なくとも天皇や朝廷は「十分」とは思っていなかったのでは?
90日本@名無史さん:04/07/06 00:17
十分と思っていなかったのは、後鳥羽・順徳や後醍醐なんかの個人的な意見。
但し、これが朝廷内での多数派では決してなかった。
だから承久の乱では、公家たちが事前に幕府に計画を通報してしまい、失敗。
後醍醐の場合は、別の側面(得宗専制への武士達の反発)が加わったため、一時的には成功(鎌倉幕府滅亡)したが、長い目で見れば失敗。
91日本@名無史さん:04/07/06 09:43
>>90
>承久の乱では、公家たちが事前に幕府に計画を通報してしまい、失敗
↑は多数はだからという証明にはならないのでは?
反乱が内通で失敗した例は多くあるが、それらは不満分子が少数派だったから?
92日本@名無史さん:04/07/06 12:25
あの北畠親房でさえ、後醍醐の考えに100%賛成ではないからね。
後醍醐みたいな考え方が少数派だったのは、南北朝分裂後に、大半の公家が北朝に属したことでも判る。
南北朝分裂後は、公家にしろ武家にしろ北朝&室町幕府での出世に乗り遅れた負け犬が、南朝のところに転がり込むというのが実態。
まあ、ごく一部には、後醍醐の思想的信奉者もいるかも知れないが。
93日本@名無史さん:04/07/06 12:33
>>92
痛すぎ。妄想入りすぎ。
北朝に組みした公家が多かったのは、単に大樹だっかたから。
後醍醐帝の考えに反対だったか否かの証明にはならん。
北畠親房が後醍醐帝に100%賛成でないからというのも、
少数意見だったことの証明にならない。

足利尊氏の意見に100%賛成だった公家は誰?
94日本@名無史さん:04/07/06 12:50
日野さん
95日本@名無史さん:04/07/06 23:01
>>93
二条良基
96日本@名無史さん:04/07/06 23:02
>>94
日野資名?
97犬夜叉:04/07/06 23:18
要するに、
後醍醐=自己中
尊氏=ネ申
なんでしょ?今は
98日本@名無史さん:04/07/06 23:23
>>97
それもまた短絡的な・・・。
後醍醐帝のわがままというのは、南北朝内乱の一因では確かにあるが、権威に弱く断固とした措置をなかなかとれない尊氏にも、戦乱を長引かせた責任の一端はあると思うし。
99日本@名無史さん:04/07/06 23:25
>>97
違うな
尊氏=へたれ
こうだ
100日本@名無史さん:04/07/06 23:28
南朝につけば高い官位をもらえたが、土地はもらえない。
北朝につけばそれなりに土地はもらえたが、官位はあがらない。
101日本@名無史さん:04/07/07 00:11
後醍醐天皇はべつにわがままではないよ
世継ぎにかかわる遺言では、いろいろあった後で最後に
ただし名君が生まれればそっちへ継承してもいいという
ただし書きがあった。
そこで後醍醐は当時、名君の条件とされていたものを在位中に
すべてクリアしてみせた。だから以後は自分の系統に皇統が
うつるのは正統なことだと考えたわけだ。
102日本@名無史さん:04/07/07 00:53
このへんは、権門体制論派と東国国家論派とで考え方が全然違うわけで。藁
103日本@名無史さん:04/07/07 01:03
誤醍醐なんて時代を読めなかったただのドキュソだろ?
104日本@名無史さん:04/07/07 01:05
東国云々抜きにしても、持明院一派には、花園他今からみても
「さわやか」にみえる人が多いのはなぜだろう。
105日本@名無史さん:04/07/07 01:08
いや違う鎌倉幕府が崩壊寸前というのは読めたぞ
106日本@名無史さん:04/07/07 01:19
花園院だけでなく光明院もなかなかさわやか系だよ。
107日本@名無史さん:04/07/07 01:57
>>102
どっちがどっち側よ?
南朝が関西人で、北朝が関東人??
108日本@名無史さん:04/07/07 10:05
東西朝になる可能性もあったんだね。
109日本@名無史さん:04/07/07 10:21
楠残党って、応仁の乱の頃まで反乱を起こし続けたららしいね。
誰か詳細知ってる?
110日本@名無史さん:04/07/07 14:49
花園院は確かに高潔だね。
111日本@名無史さん:04/07/07 20:02
>>108
いまいちピンと来ない語感だな
112水戸:04/07/08 02:45
尊氏となっているが


高氏とすべきだ逆臣なのだから
113日本@名無史さん:04/07/08 03:35
足利家の執事は高氏
114日本@名無史さん:04/07/08 11:21
高師直の読みって「もろただ」が正しいの?
115帰ってきた24歳無職:04/07/08 12:37
楠木正成こそ日本史上最高の知将にして忠臣だと
思いますが異論はありませんよね?
116日本@名無史さん:04/07/08 13:17
112ですが私は正行のほうが好き
彼こそ忠臣
117日本@名無史さん:04/07/08 14:19
>>109
アニメ一休さんにでてきた哲斉さん。
118日本@名無史さん:04/07/08 19:37
桃井直常の読みって「ただつね」が正しいの?
119求道心:04/07/08 22:59
>>109
西軍に楠木九郎の名があったと思うが・・・ちょっとあやふや
120日本@名無史さん:04/07/09 05:26
>>115
なぜ日本史上最高の知将と言えるのだ?
実績といえば千早の籠城戦と畿内周辺のゲリラ戦だけ。
だったら赤松円心と大差無いじゃん。
121日本@名無史さん:04/07/09 07:59
あの時代にアレだけの篭城戦したのは凄いと思うが・・・
122日本@名無史さん:04/07/09 08:41
あの籠城戦自体は、正成自身はある程度勝算があってやっているのだと思う。
ただ、単純に兵力差だけ比べるのなら、一日で幕府の圧勝で終わってもおかしくない状況。
そういうなかで、数ヶ月も持ちこたえるということを確信犯的にやったというところが、彼の本当の意味での凄さなのでは?
そうすることで、世論全体に「幕府はもうだめだ」と思わせ、幕府側の御家人たちの離反を誘う。
そういう意味では、かなり才能のある戦略家だわな。
123日本@名無史さん:04/07/09 09:34
後醍醐天皇 護良親王 千草忠顕 名和長年 高師直 高師泰 佐々木道誉 
政治72   政治58   政治62   政治77  政治58  政治37  政治93
戦闘58   戦闘93   戦闘68   戦闘74  戦闘100 戦闘98  戦闘77
智謀87   智謀35   智謀72   智謀63  智謀64  智謀59  智謀97
野望100  野望81   野望71   野望62  野望93  野望89  野望95
魅力93   魅力77   魅力69   魅力68  魅力62  魅力50  魅力88


111 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 03/05/25 20:30
北条高時 長崎高資 長崎円喜 赤橋守時  金沢貞顕 北条仲時 北条時益 北条時行 諏訪頼重 
政治23   政治62  政治72 政治68 政治54   政治49  政治42   政治56  政治43
戦闘41   戦闘53  戦闘48 戦闘74 戦闘49   戦闘70  戦闘63   戦闘61  戦闘73
智謀52   智謀78  智謀85 智謀53 智謀63   智謀57  智謀49   智謀60  智謀44
野望74   野望83  野望85 野望58 野望55   野望62  野望58   野望71  野望48
魅力58   魅力32  魅力45 魅力67 魅力63   魅力65  魅力59   魅力69  魅力55
112 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 03/05/25 20:33
赤松円心 結城親光 赤松則佑 結城親朝 結城宗広 土岐頼遠 児島高徳 
政治73   政治60  政治58   政治57  政治53   政治33  政治72
戦闘88   戦闘86  戦闘72   戦闘64  戦闘79   戦闘70  戦闘63
智謀83   智謀72  智謀70   智謀66  智謀51   智謀54  智謀65
野望87   野望56  野望71   野望68  野望37   野望83  野望43
魅力79   魅力73  魅力68   魅力62  魅力66   魅力56  魅力68

124日本@名無史さん:04/07/09 09:35
113 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 03/05/25 20:35
足利尊氏 足利直義  楠木正成   
政治89   政治100   政治86  
戦闘91   戦闘60    戦闘95  
智謀86   智謀95    智謀100  
野望91   野望92    野望74  
魅力100  魅力71    魅力84  



114 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 03/05/25 20:38
楠木正行 楠木正季 楠木正儀 楠木正家 楠木正時 和田賢秀  
政治74   政治62  政治79   政治61  政治72   政治25  
戦闘83   戦闘88  戦闘73   戦闘71  戦闘70   戦闘90  
智謀76   智謀63  智謀86   智謀56  智謀73   智謀43  
野望61   野望56  野望69   野望53  野望60   野望50  
魅力71   魅力60  魅力62   魅力58  魅力64   魅力56  
125日本@名無史さん:04/07/09 12:36
>>122
篭城戦において極めて少数の城内兵力で、攻め方を苦しめて
撃退した例は古来少ないないと思う。
逆に、いかに兵力差がありといえど、篭城戦において一日程度で
攻め陥した例の方が少ないのでは?
126日本@名無史さん:04/07/09 17:28
後醍醐天皇と足利尊氏は最後の最期まで愛しあっていた。南北朝の争乱は痴情のもつれ。
127日本@名無史さん:04/07/09 19:35
>>126
2人の間に誰か割り込んだのか?(w
128日本@名無史さん:04/07/09 23:25
>>127
坊門清忠と推定。藁
129日本@名無史さん:04/07/09 23:32
>>123-124
これ何かのゲームなの?かなりめちゃくちゃな数値なんだが。
例えばなぜ師直兄弟の戦闘値がそんなに高いのか?
この兄弟は矢作川だったか手越河原だったかの合戦で新田義貞と正面衝突し、あっさり蹴散らされている(しかも軍勢は高軍の方が多かった)。
そうなると単純にいって義貞の戦闘力は101以上ってことになるが?
あと正成の政治値も高杉。それだけあればもっと発言力があったはずなのに、
政治的な立場など最後までゼロに等しかった。
何だか政治と智謀をごちゃまぜにしてる感じはする。
後醍醐の「戦闘58」ってのもよくわからん。後醍醐って長崎父子よりも強いのか?
130日本@名無史さん:04/07/10 00:31
>129
新田義貞は戦闘だけだったら相当強いだろ。
銀英伝のビッテンフェルトみたいな感じでw
131日本@名無史さん:04/07/10 10:38
>>129
他の南北朝スレにあったぞ。
132日本@名無史さん:04/07/11 06:11
>>129-130
戦闘が強いからってそれだけでは戦に勝てないからな。
第二次大戦のドイツ陸軍だって戦闘そのものは強いのに最後は負けたし、
項羽なんかもそうだろ。
だから戦闘以外にも知力や政治力があるわけですが・・・
134日本@名無史さん:04/07/13 01:20
っていうか、楠木正成くらいしか
名将といってもいい武将が日本史で
思いつかん。しいていえば信長くらいかな・・
でもあっさり殺されてるとこからして
まぬけだし、楠木正成には及ばない気がする。
義経は戦争だけの馬鹿だし、秀吉も朝鮮出兵とか
アホなことしてるし、家康も三方が原で
武田に完敗してる。政戦両略で一番バランスの取れた
目をもってるのが正成だと思う。
135日本@名無史さん:04/07/13 03:41
三好長慶
136日本@名無史さん:04/07/13 03:45
>>134
小学生はもっと早く寝なきゃダメだよ
137日本@名無史さん:04/07/13 04:22
>>134
後醍醐天皇に見切りをつけれなかった所が一番マヌケだったね。
どんな名将でも負け戦をしてはいけないよ…
それから時代の流れを見る目ももたなかったね。武士の土地支配が進んでる世にいまさら天皇親政を唱えても誰もついて行かないよ。
138134:04/07/13 09:15
>>136
よく僕が小学生で不登校児だとわかりましたね・・すごーい
>>137
アホな君主とはいえ、最後まで忠義をつくしたとこが
えらいんじゃありませんか?正成だってとっくに
後醍醐天皇の政治じゃだめだってことくらいわかってましたよ
139日本@名無史さん:04/07/13 10:05
>>138
>アホな君主とはいえ、最後まで忠義をつくしたとこがえらいんじゃありませんか?
それで、多くの家臣や郎党を巻き添えにして死なせてしまっては名将とはとても言えないな。
暗君を諌めもせず、唯々諾々と従って死ぬだけでは、まさに犬死。
忠義を尽くすというより、足利家の下では後醍醐帝の配下ほどの栄達が望めないから、
しかたなく従ってただけかもしれないが。
140日本@名無史さん:04/07/13 10:05
尊敬はするけどな・・・
141日本@名無史さん:04/07/13 10:12
俺はむしろ、後に赤松を有力守護家に仕立て上げた、
赤松円心をこそ名将だと思うな。
142日本@名無史さん:04/07/13 11:30
尊氏は弟を毒殺したもんな
143日本@名無史さん:04/07/13 11:46
現代人の価値観には反するかも知れんが、当時としては部下に死に場所を与えてやるのも、武将の務めかと。
144日本@名無史さん:04/07/13 11:50
源頼朝、足利尊氏、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、みんなお家存続、
あるいは政権維持のために近親者を死に追いやっているね。
145日本@名無史さん:04/07/13 12:11
保元・平治の乱加えたら結構そういうことはありますよ。
つーか、昔から武家はそんなものでしょ
平将門だって叔父と従兄弟にやられたし
146日本@名無史さん:04/07/13 12:17
>>145
将門か。
自分は近親者に討たれたが、自身も伯父(国香)を討ってるな。
147134:04/07/13 12:46
>>139
いや、諌めまくったじゃないですかw
後醍醐天皇がぜんぜん耳を貸さなかっただけですよ。
尊氏を破って九州に敗走させたときも
ここで和睦を結ぶべきだと諌めたのにも関わらず
聞く耳もたず、挙句追撃もせずとどめもささず
そんなことやってるから尊氏に九州で力蓄えられて
京都に攻められたときも、正成はいったん天皇は
吉野に逃れてそれから尊氏側の補給路を断って
ゲリラ戦にもちこめば勝てるといってるのに
天皇が京都を離れるのは体裁が悪いとかいって
断るし、それでもって正成に尊氏と真っ向勝負しろと
無理難題言ってそれで正成は討ち死にでしょ・・
俺だったら後醍醐天皇なんて見限るけど、最後まで
忠義をつくしたとこがすごいじゃありませんか・・
朱子学かなんかの影響を受けてたっぽいですけどね
148日本@名無史さん:04/07/13 12:50
>>147
>追撃もせずとどめも指さず

追撃はあったよ。
赤松円心ががんぱったから新田が九州までいけなかっただけ
149日本@名無史さん:04/07/13 12:57
>>147
>最後まで忠義をつくしたとこがすごいじゃありませんか・・
単に鎌倉幕府下の御家人の多くを味方につけていた足利に付いても、
後醍醐天皇の下に収まっているほどの厚遇が期待できなかったからでしょ?
150日本@名無史さん:04/07/13 13:01
最後は死ぬ気満々だからなぁ・・・
151日本@名無史さん:04/07/13 13:05
皇宮護衛官として採用されると、
皇宮巡査に任命され、大学卒業者は6か月間、高校卒業者は10か月間、
皇居内にある皇宮警察学校に入校し、
法学をはじめ警察実務に関する教養や柔剣道、教練、けん銃操法などの各種訓練を受けます。
また、課外授業では、和歌、書道、華道、茶道、英会話など幅広い分野の知識を学びます。
入校中も給与及びボーナスが支給されます。
152日本@名無史さん:04/07/13 13:05
現代人の価値観には反するかも知れんが、当時としては部下に死に場所を与えてやるのも、武将の務めかと。
153134:04/07/13 13:11
>>148
新田義貞なんて戦略眼のない武将は
切り捨ててさっさと尊氏を追撃すべきだと
諌めてますよwほんと義貞って馬鹿すぎでしょ。
なんか最後のほうも藤島でダサい死にかたしてるし
一軍の将があんなんじゃ部下もかわいそうだな
154134:04/07/13 13:16
>>149
いや、3種の神器でももちだして
足利方に寝返れば厚遇される
機会も幾度となくあったはずですよ。
しかし死ぬまで義に殉じた日本史上最高の
名将にして忠臣じゃないですか!
155日本@名無史さん:04/07/13 13:21
まあ、正成は後醍醐そのものに殉じたのではなく、
天皇家というかそういう理解不能な「おかみ」に
殉じたのだろうがな。
156日本@名無史さん:04/07/13 13:28
もともと身分の低い悪党だから、権威に対する憧れが
他の御家人達より強かったんだろうな。
157日本@名無史さん:04/07/13 14:52
正成が寝返ったらどうなったか。
それは彼の息子である正儀の人生を見れば想像できる。
158日本@名無史さん:04/07/13 14:57
「マツケンサンバII」オリコン17位

俳優の松平健(50)が7日に発売したシングル「マツケンサンバ2」が19日付のオリコンチャートで初登場17位となり、
1980年に「夜明けまで」で歌手デビューして以来、25年目にして初のチャートインを果たした。
 また、BUMP OF CHICKENの「オンリー ロンリー グローリー」が1位。
氷川きよしの「番場の忠太郎」が自己新となる2位を記録。
これで「星空の秋子」「白雲の城」と3作品でTOP3入りを成し遂げ、演歌史上初の快挙となった。
アルバムではnobodyknows+の「Do You Know?」が2週連続1位だった。(スポーツ報知)
159日本@名無史さん:04/07/13 15:20
158はアラシスレ。
このスレの主題たる【太平記】建武の親政 南北朝時代は
とどういう関係があるのか。説明せよ。出て逝け158。
大楠公を諸大夫検非違使左衛門尉河内守和泉守程度しか
処遇しなかったのは公家側の落度。足利・新田などの対極
の立場において検非違使別当参議従三位右衛門督程度に
処遇するべきではなかったのか。また、新田中将についても
足利との対峙の関係から参議従三位左衛門督程度とするべき
だったのではないか。
160水戸光圀:04/07/13 15:29
あれ正正成下公は死後三位中将贈られなかった
161日本@名無史さん:04/07/13 16:37
死んだ後なら正一位もらったろ。
162日本@名無史さん:04/07/13 17:00
死んだあとにやってどーするんだよ。ホント、どーしようもない
生き物だね、貴族ってのは。まあ、息子達は縛られたわけだが。
163日本@名無史さん:04/07/13 17:30
そりゃ軽々しくはやれんだろ。
公家唯一の武器だからな。
164日本@名無史さん:04/07/13 22:54
死んだ後だってもらわないよりマシだろう
俺もほしい
165日本@名無史さん:04/07/14 00:31
なんとなくだが、南北朝時代って、
九州と東北が面白い印象がある。
いい資料とかサイトとかないですか?
166日本@名無史さん:04/07/14 01:03
>>161
明治以降にもらったものは意味がない
三位中将は結構早くに貰っている
水戸のご老公が発見したんだよ
167日本@名無史さん:04/07/14 02:07
中世の皇室領荘園って、長講堂領が持明院統、八条院領が大覚寺統に継承されたんですよね。
これって、南北朝合一以後は、結局どうなったのでしょうか?
南北朝合一時の取り決めだと、長講堂領が北朝、各国の国衙領が南朝となっていますが、八条院領がどうなったのかがわかりません。
あと、南北朝合一時の段階で、国衙領ってどの程度実態があったのでしょうか?
以上、どなたか教えて下さい。
168日本@名無史さん:04/07/15 00:03
八条院領? 八条女院領じゃないの?
169楠木正成:04/07/15 00:15
君の御戦必ず破るべし!
170日本@名無史さん:04/07/15 00:23
明治天皇より前の時代は楠党はどういう評価されていたのか
171日本@名無史さん:04/07/15 00:26
水戸をはじめ各藩で崇められていた
代表として岡山・鳥取・加賀なんてところ
172日本@名無史さん:04/07/15 00:28
私はむしろ逆で、楠木正成よりも赤松円心
後に赤松を有力守護家に仕立て上げた、赤松円心の目にゾクゾクするわ。
173日本@名無史さん:04/07/15 00:34
ということはこの二人を使った
護良親王最高
174日本@名無史さん:04/07/15 01:33
141か。
175日本@名無史さん:04/07/15 11:35
足利尊氏、新田義貞、楠木正成、名和長年の4名は
鎌倉幕府倒幕及び後醍醐天皇上洛への功ありし主要な
者たちである。彼らを拮抗させて公家側は彼らを利用
するべきだったものを尊氏のみいきなり参議正三位に
突出して昇叙特進させるものだから、バランスが崩れた。
この4名を何れも参議とし、尊氏のみ正三位。他3名を
従三位に叙しておくべきではなかったのか?
176日本@名無史さん:04/07/15 13:57
血筋とか色々と問題あるだろ。
177日本@名無史さん:04/07/15 19:23
赤松も楠木クラスに取り立てろよな
178日本@名無史さん:04/07/15 19:26
>>175
足利と他の三氏じゃ、三菱とその辺のうどん屋みたいなもんだよ。
179日本@名無史さん:04/07/15 19:41
ギリギリ新田だったら張り合えるんじゃね?
180日本@名無史さん:04/07/15 19:59
新田は血筋的には良いけど、鎌倉時代を通じて足利よりずっと下位に
置かれていたから。
181日本@名無史さん:04/07/15 21:02
まあ、その原因が承久の乱のときのあいまいな態度だけどな。
その時の先祖の功績を認めて足利より上につけてやってもよかったのにな(w
182日本@名無史さん:04/07/15 21:27
はじめは護良親王がいたからバランスとれていたんじゃないの
183日本@名無史さん:04/07/15 22:45
>>175
菊池氏も入れてやれ
184日本@名無史さん:04/07/16 12:11
結城氏も入れて
あと千草忠顕の価値って何なのかなあ
185日本@名無史さん:04/07/16 12:16
三木一草の一人ね。千草忠顕は。
186日本@名無史さん:04/07/16 12:18
おいおい、千草忠顕とつられて書いてしまったが、
千種忠顕であった。
187日本@名無史さん:04/07/16 12:33
このころって公家も鎧兜つけて戦に(名目上とはいえ)でてるよねぇ
藤原実資が「武芸をするのは源氏、平氏、秀郷流藤原氏のみ(意訳してます)」
といってたころから公家の考えも変わりつつあったのだろうか
188日本@名無史さん:04/07/16 12:43
いわゆる尊氏なしってやつか
189日本@名無史さん:04/07/16 13:59
高氏は逆臣だしね
190日本@名無史さん:04/07/16 17:12
>>181
承久の乱?
191181:04/07/16 21:29
いわゆる源平合戦の間違いでした。
当時の当主義重が頼朝に対抗しようとして張り合ってたんだ確か
192日本@名無史さん:04/07/17 07:17
>>181は必ずしも間違いではないよ。
承久の乱には新田本家は幕府に対して非協力的で、出兵さえしていないからね。
まあ、たぶんにこじつけにはなるけどw形の上では後鳥羽院の意志を次いだ後醍醐天皇が、
その行為を「尊王」として評価してやるのもあながちおかしな話ではないわけだ。
(そもそも>191の理由では後醍醐が新田氏を足利氏より優遇する理由には全然ならない)
193後円融天皇:04/07/17 10:10
女房を義満に寝取られ発狂しましたが何か?
194日本@名無史さん:04/07/17 12:32
中世の宮廷用語における女房の意味わかってる?
195日本@名無史さん:04/07/23 00:07
足利ってほんとろくでもない奴ばかりだな。
義満なんて日本史の汚点だ。
196日本@名無史さん:04/07/23 00:24
後醍醐が足利より新田を優遇?
んなアホな。
197日本@名無史さん:04/07/24 02:27
なんだかんだいっても、尊氏の正成の死後の扱いを見れば、正成という人がどんな人かわかるきがする。
198日本@名無史さん:04/07/24 02:48
>>197
そんなの個人差だよ
武田勝頼なんて信長に蹴られてるぞ
極悪非道だったのか
199日本@名無史さん:04/07/24 06:06
>>198
そうだよな。「尊氏という人が〜」ならまだわかるが
(それだって演技とも取れる)
200日本@名無史さん:04/07/24 11:40
尊氏が死んだ敵方を悪し様に扱った例ってある?
201日本@名無史さん:04/07/24 12:46
>>192
新田氏が承久の乱に参戦しなかったって言うソ−スはあるの?
202日本@名無史さん:04/07/25 01:07
>>201
新田氏というか、新田宗家ね。
庶流の里見氏、山名氏、岩松氏などは参戦した。
ソースは新田町史とか久保田順一氏「新田一族の盛衰」とか
その他色んな本に記述されているのでもはや定説かと思ってたけど。
203日本@名無史さん:04/07/30 02:47
>>200
無いだろ。天竜寺も後醍醐天皇の冥福を祈るために建立したし、
上野国のなんとかいう寺にも新田義貞の追善供養のため寄進したりしている。
204日本@名無史さん:04/07/30 09:50
ねぇねぇ、後醍醐天皇の人物像を知りたいんだけど、だれか教えてください。

以前、別スレか何かで「下半身暴走」っていう説明を受けて、「ああ、ほんとに
そうだなぁ」という印象しかないのですが、何かすごい事跡とか、伝承とか、
ないんでしょうか?
205日本@名無史さん:04/07/30 13:11
>>204
それは真言宗でも異端とされた立川流にのめりこんだというあたり
から出てきたもんでしょ。立川流については、ぐぐれ。
206日本@名無史さん:04/07/30 14:26
何で宋学と立川流なんて両極端に凝っているんだ
207日本@名無史さん:04/07/30 14:43
自分の都合のいいとこだけつまみ食いしたんだろうw
208後村上天皇:04/07/30 16:14
ほんとは吉野でのんびり暮らしたかった・・
209日本@名無史さん:04/07/30 16:16
虫でも食ってか
210日本@名無史さん:04/07/30 20:25
天皇だったら条件としては申し分ないな。
後宮の居並ぶ寵妃を・・・・・
司馬遼太郎も対談で、後醍醐の絶倫ぶりにしばしば触れてるけど、
お互いの愛液をドクロに塗ったりする儀式もあるらしい。
まあ、本人は大真面目だったんだろう。
重い天皇制の問題は一切スルーで、そんなことにばっか詳しい後醍醐伝
も世に多く出版されてるね。艶文家にとってはネタの宝庫なんで。
211日本@名無史さん:04/07/30 22:36
とりあえず、後醍醐の「下半身暴走」じゃない話が聞きたいのぅ。
212日本@名無史さん:04/08/02 00:16
後醍醐天皇の皇子たちの話をしてほしいな。彼らの役割は
結局なんだったんだろうね?兄弟同士の仲はよかったのだろうか?
213日本@名無史さん:04/08/05 03:59
おれは尊良親王が好きだな。
絵に描かれた女性に惚れるロマンチストぶりといい、
それでいて最期にあたっては武士顔負けの潔さといい、
親王なんだから自害する必要なんて無かったのに、
「義顕、自害とはどのようにすればよい?」には感動した。
未亡人の話も泣ける。
214日本@名無史さん:04/08/13 02:44
源平のときの以仁王も、皇族だが自害。
215日本@名無史さん:04/08/13 03:08
昔の大河ドラマにあった場面
以仁王「満足よのう、老木に花じゃ。されど若木の麻呂は・・・」
源頼政「新宮十郎行家は今頃どこを歩いておりますやら。王の令旨が
     全国の源氏を立たせるのでございます」
216日本@名無史さん:04/08/14 03:11
>>214
自害?矢が当たって落馬したところを首取られたんじゃなかったっけ?
217日本@名無史さん:04/08/14 06:23
良スレ
218日本@名無史さん:04/08/14 07:33
汚し返せと千早の寄せ手言い
219日本@名無史さん:04/08/25 04:56
>>213
尊良親王は父親の偏諱を受けていることからみて、一時は後継者に目されていた気がする。
後醍醐帝の寵愛が阿野廉子に移りさえしなければ皇太子になっていたかも。
220日本@名無史さん:04/09/16 23:09:50
221日本@名無史さん:04/09/26 07:09:32
元はといえば悪いのは北条時宗。
彼がなまじ後深草院に惻隠の情をかけたばっかりに皇統間に溝が出来た。
222日本@名無史さん:04/09/26 15:01:50
>>221
モンゴル来襲に際して、後深草院シンパがモンゴルに内応すると困るから、
どうしても希望をつないでやる必要があった。

つまり、両統迭立のきっかけはモンゴル来襲。
223日本@名無史さん:04/09/28 06:49:37
>222
どこの電波ですか?
224222:04/10/02 13:27:49
最初にモンゴル軍が来襲した次の年、
建治元年に、
煕仁親王(のちの伏見天皇)が皇太子に立てられたのが始まりです。

まあ、後嵯峨上皇の死語に権力を失っていた後深草上皇シンパによる
巻き返し工作が成功したという側面が大きいわけですが、
時宗から「ひょっとするとモンゴルに内応するかもしれん」と
疑いの目を向けられていたのではないでしょうか。

かといって、疑いだけで処罰できるほどの権力は未だ幕府にはなかった。
225日本@名無史さん:04/10/30 08:13:08
>224
あなた自身の電波でしたか。
てっきりどこかの誰かさんの受け売りかと思っていました。
226日本@名無史さん:04/10/30 19:40:03
>>225
それじゃ、どこが事実無根か指摘してみなさい
227日本@名無史さん:04/11/12 17:36:31
岩波古典文学大系の太平記を買いました!これから読むのが楽しみです!
228日本@名無史さん:04/11/13 07:58:29
>>227
おめでとう。読んだらこのスレを盛り上げてくれ。
229日本@名無史さん:04/12/02 17:31:13
>>226
いやん
230日本@名無史さん:04/12/02 19:59:06
乾坤通宝て実在したんだろうか?
231日本@名無史さん:04/12/04 03:18:54
兼好法師の徒然草って建武親政を批判したものなの?
232日本@名無史さん:04/12/26 14:35:50
まじ?
233日本@名無史さん:05/01/05 22:27:41
234日本@名無史さん:05/01/06 09:02:39
仮名手本の元ネタになった塩谷高貞の話にも関わってるんだっけね、兼好さん。
235重複です:05/01/18 22:33:33
太平記について熱く語るスレ
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1059646052/
236日本@名無史さん:05/01/24 12:55:10
>>93
もっとも、当時の中下級公家は相手側に寝返っても大した罪に問われなかったしな。
真・スレッドストッパー。。。( ̄ー ̄)ニヤリッ