1 :
臣民 ◆i9DtfdB22w :
空白の四世紀になにがあったのか。。。
邪馬台国から大和王権への権力の移動。そして白兵戦から騎馬戦へ戦の形式が変化した。
日本書紀には「神武天皇は空から降ってきた」と書いてあるが空とはどこか。
そもそも倭というのは国ではなく中国の一郡ではなかったのか。
つまり総合して考えると朝鮮から騎馬民族を率いてやってきた「天皇家」が邪馬台国を滅ぼし
中国から独立した。。。これはショックが大きいかもしれないが私はこの仮説がもつとも有力であると思う。
みんなの意見も聞かせてくれないか?
2 :
日本@名無史さん:04/05/27 16:26
糸冬了
3 :
臣民 ◆i9DtfdB22w :04/05/27 16:34
4 :
日本@名無史さん:04/05/27 16:35
糸冬了
5 :
臣民 ◆i9DtfdB22w :04/05/27 16:38
6 :
日本@名無史さん:04/05/27 16:39
糸冬了
7 :
臣民 ◆i9DtfdB22w :04/05/27 16:39
もしこの仮説が本当だったら天皇とかじゃなく日本そのものが否定されるようなものだからな・・・
8 :
臣民 ◆i9DtfdB22w :04/05/27 16:40
9 :
臣民 ◆i9DtfdB22w :04/05/27 16:40
さ い か い
嘘だよ、ゴメンw
ところで、「もつとも有力」って何よ?w
>>1 >朝鮮から騎馬民族を率いてやってきた「天皇家」
どうやって来たの?船?
12 :
臣民 ◆i9DtfdB22w :04/05/27 16:49
>>10 いいとも。
あっ・・・つか普通に気づかなかったよ。
「もっとも有力」だ。
>>11 船以外は考えられなくない?
九州に上陸→騎馬兵(モンゴル系)を率いて畿内を急襲みたいな。
まぁ邪馬台国が畿内じゃなくて九州にあったら少し変わると思うけど。。。
13 :
臣民 ◆i9DtfdB22w :04/05/27 16:50
あっ、モンゴル系ってのはあくまで推測です。
「?」入れるの忘れてた。。。
>>1 >まぁ邪馬台国が畿内じゃなくて九州にあったら少し変わると思うけど。。。
じゃあ、邪馬台国が九州にあった場合、あなたはどう考えてますか?
15 :
臣民 ◆i9DtfdB22w :04/05/27 17:00
>>14 そうですね・・・邪馬台国が大和王権に成長したか、
もしくは天皇家が朝鮮から九州に上陸して邪馬台国滅ぼす→東進か。
天皇稜が調査できればその辺のこともわかると思うんですがね。。。
>>12 当時一国を占領できるほどの軍団が船で、とは考えにくいのですが。
それに、大陸から来た連中なら記録を残すのでは?
むしろ空白の時代にはならないような気がするが・・・。
17 :
臣民 ◆i9DtfdB22w :04/05/27 17:33
>>16 いや、騎馬対歩兵なら前者に分があると思います。
そしてモンゴル民族などは戦闘民族ですから九州の一部を制圧するぐらいできたのではないでしょうか。
それと大陸から・・・と言っても中国だとは限りません。国を持たない遊牧民族か・・・はたまた賊の類の者か。
18 :
臣民 ◆i9DtfdB22w :04/05/27 17:34
みなさんの意見も聞かせてくださいよ
19 :
日本@名無史さん:04/05/27 17:36
三輪王朝のほうが中国との関係が深く思われる。
河内王朝は中国よりも金官のフヨ族王朝との関係が深い。
騎馬戦闘のシステムが同じである。
20 :
臣民 ◆i9DtfdB22w :04/05/27 17:43
>>17 >いや、騎馬対歩兵なら前者に分があると思います。
まあ、数的程度の問題かなと。
「騎馬」を主たる能力とする人らがわざわざ移動手段として「船」を使ってまで日本に?と思ったものですから。
それにそのような動乱があったのなら中国史のどこかに記述がありそう。
そんなわけで寧ろニュースにならない程度の緩やかな連合→大和朝廷じゃないの?
22 :
日本@名無史さん:04/05/27 18:05
俺も
>>19と同じ意見だ。
今の日本人の原型は扶余族の一派だろうと思う。
しかし、纏向遺跡などを見ても三輪の勢力は中国華南地方から渡来した可能性が高い。
日本各地に残る徐福伝説を信じるなら、徐福と共に日本に渡って来た華南地方の人々かも。
しかし、邪馬台国は九州にあったと思う。
日本神話には日向の国を天孫降臨の場所と記してある。
これを無視する意味は無いだろう。
出雲の白ウサギ伝説は、ウサギが山陰の宇佐族(宇佐美氏の祖先)、ワニ(鮫)が半島南部の和邇族(日本に漢字を伝えた和邇博士の祖先)、この両族の戦争の伝説だと言う。
ならば、出雲には半島と往来できる勢力があったと言える。
恐らく九州=邪馬台国、出雲=扶余族、大和=中国華南の渡来人だと考えられる。
距離的に邪馬台国と扶余族は争いや同盟などで混ざり合った可能性が高い。
どちらがどちらを吸収したかは定かではないが、邪馬台国&扶余族の連合勢力が近畿に進出し、大和勢力を平定した。
それが神武の東征だと思う。
23 :
日本@名無史さん:04/05/27 18:08
高句麗好太王碑を見れば、倭国軍の強大さがわかる。
高句麗王は倭軍を半島の平壌近くで破ったとある。
しかし、考えてもらいたい。
大和を首都にする倭国軍と集安(平壌の北)を首都にする高句麗とどちらが攻め込まれていたといえるか?
碑文を建てるほど倭国軍に勝った事が嬉しかったのだ。
高句麗にとっては倭国軍との戦いは配水の陣とも言える祖国防衛戦だったのだろう。
あの時代は国境などあってないようなものだったのだろう。
もしかすると高句麗も百済も倭も同じ扶余族の言葉を話したのかもしれない。
25 :
ty270410:04/05/27 21:41
313年中国人居住地楽浪郡が南下する高句麗に滅ぼされた.(資治通鑑参照)
魏志東夷伝体制崩壊のはじまりである.
342年前燕が高句麗の首都を攻略,高句麗の一時的滅亡,
高句麗軍と百済軍の主力は前燕の首都に連行される.(晋書載紀参照)
この史実から,朝鮮半島中部・南部に政治的・軍事的空白が
生じたに違いないと推測される.魏志東夷伝体制の完全崩壊である.
倭国が朝鮮半島南部に進出したのはこの機に乗じたと推測できる.
そして戦乱を逃れて朝鮮半島南部に来た楽浪難民,高句麗難民の
先進的文化,先進的技術(軍事技術を含む.)を倭人が取り込んだ
のではあるまいか?
一つの仮説である.謎などと言わずに史実を集めてこの時代を
再構成しようではないか!
26 :
ty270410:04/05/27 21:43
313年中国人居住地楽浪郡が南下する高句麗に滅ぼされた.(資治通鑑参照)
魏志東夷伝体制崩壊のはじまりである.
342年前燕が高句麗の首都を攻略,高句麗の一時的滅亡,
高句麗軍と百済軍の主力は前燕の首都に連行される.(晋書載紀参照)
この史実から,朝鮮半島中部・南部に政治的・軍事的空白が
生じたに違いないと推測される.魏志東夷伝体制の完全崩壊である.
倭国が朝鮮半島南部に進出したのはこの機に乗じたと推測できる.
そして戦乱を逃れて朝鮮半島南部に来た楽浪難民,高句麗難民の
先進的文化,先進的技術(軍事技術を含む.)を倭人が取り込んだ
のではあるまいか?
一つの仮説である.謎などと言わずに史実を集めてこの時代を
再構成しようではないか!
27 :
ty270410:04/05/27 21:59
28 :
ty270410:04/05/27 22:11
357年前燕が首都を万里長城を越えて華北に移した.
この前後から前燕は東よりも西に注力するようになった.
多分,高句麗と百済の主力部隊はこの前後に帰国し,それぞれ国を
再建したと推測される.
再建してみたら倭人勢力が朝鮮半島南部を席巻しているのに
驚いた.高句麗は370年ごろ百済を攻めたが倭に後援された
百済に大敗し,王も戦死した.
そして好太王碑につながっていく!
29 :
日本@名無史さん:04/05/27 22:13
357年前燕が首都を万里長城を越えて華北に移した.
この前後から前燕は東よりも西に注力するようになった.
多分,高句麗と百済の主力部隊はこの前後に帰国し,それぞれ国を
再建したと推測される.
再建してみたら倭人勢力が朝鮮半島南部を席巻しているのに
驚いた.高句麗は370年ごろ百済を攻めたが倭に後援された
百済に大敗し,王も戦死した.
そして好太王碑につながっていく!
30 :
ty270410:04/05/27 22:19
一方,倭国では箸墓古墳の後,応神陵までの間に
桜井茶臼山古墳を始め数個の王陵が認められ
王統は移動したかも知れないが連続的に
王位が継承されている.
別に外から王が来た証拠に乏しい.
むしろ,倭人が朝鮮半島南部の政治的・軍事的空白に
乗じて進出したと推測したい!
31 :
ty270410:04/05/27 22:26
一方倭国では箸墓古墳以後応神陵までに数個の王墓が
認められ,王統は移動したかも知れないが,王位は順調に
継承されていたようである.
したがって,この間に外から王が来たというよりも,
朝鮮半島へ進出する中で王権が強化されていったと
考えた法がよいのではあるまいか?
ただ,話しとしては,騎馬民族説は面白いが・・・・
32 :
日本@名無史さん:04/05/27 22:28
一方倭国では箸墓古墳以後応神陵までに数個の王墓が
認められ,王統は移動したかも知れないが,王位は順調に
継承されていたようである.
したがって,この間に外から王が来たというよりも,
朝鮮半島へ進出する中で王権が強化されていったと
考えた法がよいのではあるまいか?
ただ,話しとしては,騎馬民族説は面白いが・・・・
33 :
日本@名無史さん:04/05/27 22:36
慌てるなよw
34 :
日本@名無史さん:04/05/27 23:09
>朝鮮から騎馬民族を率いてやってきた
中国からだろ。
35 :
日本@名無史さん:04/05/27 23:22
畿内はともかく九州では山岳地帯大河が多くて騎馬兵は使えない。戦国時代九州全土を制圧した島津ですら都井の岬に縄文以来の馬がいるのに騎馬は使えず歩兵を馬のように脚力を鍛えることにより歩兵中心だった。
生産力が低い時代にはその土地を離れてすぐに大王クラスの国を再構築するのは無理。
中国における王朝交替でも、首都や都市にある戸籍などの情報を掌握する、兵権を引き
継ぐなどが条件。例えば唐における安禄山も黄巣も、各地を破壊したが国権を引き継げ
なかった。
まして弥生中期〜末期程度の生産力ではその本貫を離れることはすなわち死を意味する。
現在では考古学的に否定されている騎馬民族説も、もし数万のオーダーだったらあり得た
とは思うが。それにしても言葉も文化も何もかもが違う状態では征服は困難だろう。
37 :
臣民 ◆i9DtfdB22w :04/05/28 00:28
みなさんすごく歴史に詳しい方のようですね。
半日ぶりに覗いてみたら、説得力のあるレスがたくさんついていて恐悦至極だ。
でもやっぱり騎馬民族説は成り立ちませんかね。。。
私は天皇家が外国人だったら面白いと考えましたがやはり現実的な考えではないやうですね。。。
>>34 まぁ中国にせよ朝鮮の一勢力にせよ朝鮮半島を経由してきたのは間違いないかなと思いまして。
38 :
日本@名無史さん:04/05/28 20:07
くくく
39 :
日本@名無史さん:04/05/28 21:01
騎馬民族が、非騎馬民族に対して優位に立つには、その機動力を生かせる平原がなければならず 日本においては、置き盾と弓で撃ちあった方が効果があったのではないか?
40 :
日本@名無史さん:04/05/28 21:02
騎馬民族が、非騎馬民族に対して優位に立つには、その機動力を生かせる平原がなければならず 日本においては、置き盾と弓で撃ちあった方が効果があったのではないか?
騎馬民族説は前提として出土品が乏しすぎ&質も低すぎ。
天皇家の出自については諸説あるが、少なくとも縄文:弥生の比率から、渡来系の血が混じっているのは
間違いない。つうかほとんどの日本人は人口比で言えば渡来系弥生人ということになる。
もっとも、DNA分析からは、ほとんどが縄文系という報告もあるにはあるが、これはサンプルの問題がある
と思う。たとえば現代人のピアスやうんこすわりの比率考えても、ほとんどというのはありえない。
出自が外来であろうことは史書が示唆している。大和土着の勢力では
なかったことは明らか。九州王朝説が案外真相に近いのかもしれない。
とにかく学問のためにも古墳の発掘調査は必要だね。
天皇家の出自が外来であろうことは史書が示唆している。大和土着の勢力では
なかったことは明らか。九州王朝説が案外真相に近いのかもしれない。
とにかく学問のためにも古墳の発掘調査は必要だね。
44 :
日本@名無史さん:04/05/28 22:43
3世紀後半は魏志倭人伝にあるようにヒミコの子孫が
王統を継承している.外来ではない.
313年までは.楽浪郡が健在であったので,南朝鮮も安定していたと
考えられる.南朝鮮出身の倭王出現の可能性は考え難い.
313年楽浪郡滅亡
342年高句麗一時的に壊滅
南朝鮮への北からの圧力の突然の消滅,政治状況一挙に
流動化!
南方からの政治・軍事勢力の圧力・北進が加速したと推測される!
342年〜370年に南朝鮮から楽浪,高句麗からの亡命者が
倭国に流入したことは考えられる.
一方では倭王配下の軍勢が南朝鮮に進出した時代でもある.
大勢は南の勢力の北進である.
王権が南朝鮮からの亡命者に移るとは考え難い.
少なくとも倭王武までは外来ではない.
5世紀末の継体あたりは外来かも知れないが
ここで話題の4世紀の倭王は外来とは考え難い.
でも、日本書紀とかの整合性を考えると
邪馬台国=そのまま大和朝廷とは考えがたいんだけど。
>>45 >>44はそんなことは何も言ってないと思うが?なんか違う方向に話を誘導してない?
47 :
日本@名無史さん:04/05/28 23:40
ミマキイリヒコイニエが卑弥呼の弟だろ。
3世紀三輪地方の出土物など考古学的事実から邪馬台国(ヤマト)=大和朝廷。
4世紀は大和川流域(河内王朝)の発展。
考古学が進歩し、もう4世紀は空白の4世紀とは到底いえない。
48 :
ty270410:04/05/28 23:41
>>44(ハンドル・ネーム入れ忘れました.)の続き
私は読んでいませんが,この辺りの王統について
白石太一郎『考古学と古代史の間』ちくまブリマースブックス
2004.02.刊行,1260円
に多分書いてあると思います.
読まれた方,おられましたら,フォローお願いします.
49 :
ty270410:04/05/28 23:46
>>47 >考古学が進歩し、もう4世紀は空白の4世紀とは到底いえない。
プラス朝鮮半島の歴史によって「空白の4世紀」,「謎の4世紀」は
徐々に空白でなく,謎でなくなりつつあると私は考えます.
50 :
日本史@名無しさん:04/05/28 23:52
>>47はキモオタ。その断定口調、もしかしてゴッドハンド?
51 :
日本@名無史さん:04/05/29 00:10
学界は意図的に日本神話を無視しているらしい。
だが、最近は自由な思考のできる若手の研究者が神話も加味しながら歴史を科学している。
その結果が空白の4世紀が急激に解明されつつある結果に結びついている。
半島の土民国家である新羅国の子孫どもは、どうも倭国が進歩的な大国だと都合が悪いらしい(w
新羅を蹂躙し、百済と結び、高句麗と対等に渡り合い、魏とも誼を通じる倭国。
魏志倭人伝に登場する卑弥呼。
日本神話の女神である天照大神。
共に女性である事を偶然と片付け無視する学界は不当な外圧に屈している限り真実にはたどり着けない。
52 :
ty270410:04/05/29 00:14
>>51 もう少し,具体的に説明してください.
どんなことがわかってきたのですか?
53 :
日本@名無史さん:04/05/29 12:50
具体的というと?
54 :
日本@名無史さん:04/05/29 13:18
継体が外来者である。九州出身であることがそれを暗示している。
継体は南朝鮮から北九州を経て河内に乗り込み、半島との交通路である
瀬戸内海を確保した。
みずからは三輪王朝との間の婚姻関係によって正統性を得た。
そして高句麗の台頭によって南朝鮮の故地が危険になったこと
から、その維持回復のために朝鮮半島の戦争に巻き込まれた。
これが4世紀のすじがきである。
55 :
日本@名無史さん:04/05/29 13:22
56 :
ty270410:04/05/29 21:32
記紀の記載や考古学の成果を上面だけを結んで
恣意的な論述をする方が多いように思う.
それをまた,受け売りし,コピーしているので
同じことが言葉を変えて語られ,新しい知見が
少ないことを嘆いています.
>>51 こんな本があったのを思い出しました.
相見英咲『倭国の謎』講談社選書メチエ,2003.10.刊行
1,890円
記紀の伝承から邪馬台国が倭国になっていく過程を描いて
います.
慎重な議論の進め方をしておられるので,好感が持てます.
是非,お読みください!
ただ,私にはついて行けない部分があります.
>>55 故意に「間違えて」いるとしたらイインたろうが、本当に間違えていたとしたら、昔だったら切腹モノだぜ。
一族お取り潰しだわな。形態と応神をどうやったら間違えられるのか、ワケワカメ。
58 :
日本@名無史さん:04/05/29 23:25
>>56 是非読んでみたいですね。
記紀を盲信するのも良くないと思います。
しかし、語り継がれた神話をまったくもって無視するのも異常なことですね。
現代考古学において政治的意図が介入するなどもってのほか。
59 :
日本@名無史さん:04/05/30 09:48
4世紀を語るときに、南朝鮮と日本列島を含めた領域に最も早く騎馬戦闘の
システムを持ち込んだ金官王朝(狭義の任那)との関係をどう考えるか、
これを倭が征服して服従させたとしたらどんな事件があったのか、
任那地域と倭の武装は、細かい技術的な違いを別にすればデザインが
基本的に同じであること、しかもそれは大量生産品であること、をどう考えるか、
これらにまともに答えなければ、列島内でいかに成り立つ説であっても、
片手落ちのそしりを免れない。
60 :
日本@名無史さん:04/05/30 09:51
応神は金官加羅から来た傭兵隊長。
61 :
日本@名無史さん:04/05/30 11:58
62 :
日本@名無史さん:04/05/30 14:14
63 :
日本@名無史さん:04/05/30 15:58
いずれにしても、朝鮮は中国の一部で、ただの通り道。
64 :
日本@名無史さん:04/05/30 18:33
歴史マニアたちは各々勝手な妄想を語り合い、それを学問と呼んだ
金官加那と北九州との関係は微妙。鉄器、築城、生産力、人口、墓、土器、武器など、多面的に
考察すべし。どちらが早いか、進んでいたかは各項目ごとに遅速がある。更にどちらが主で従だ
ったかも簡単に即断できない。壱岐・対馬から双方に広がったという説もあるし。
66 :
ty270410:04/05/30 21:12
>>59 考古学の根拠に基づく発言と察します.
>任那地域と倭の武装は、細かい技術的な違いを別にすればデザインが
>基本的に同じであること、しかもそれは大量生産品であること、をどう考えるか、
これは何処と何処の遺跡の出土品に比較でおっしゃっているのですか?
教えてください.
または,どなたが何処へ発表しておられる報告に依っておっしゃっているのですか?
教えてください.
67 :
日本@名無史さん:04/05/30 22:48
重村みたいな人だ
68 :
ty270410:04/05/30 23:26
>>59 根拠を示していただいていないので,面白い説とは思いますが,
どうも納得性に乏しいのです.
教えてください!
69 :
日本@名無史さん:04/05/31 10:12
>>65 少なくとも馬を戦闘に使用することは金官加羅のほうが早い。
北九州のほうが早いということはあり得ない。
70 :
日本@名無史さん:04/05/31 10:23
>>68 「説」ではなく事実を言っているだけ。
>>66 全体的な比較。倭のほうは戦前から衆知。任那地域は大成洞とか福泉洞とか、最近の
発掘(といっても80年代以降)を見られたし。
鉄製短甲の、鋲止めか革綴じかといった技術的、時期的な違いを別にすれば、
縁取りと横方向の帯状の鉄板によるとか、帯状の代わりに三角形の鉄板を
継ぎ合わせるとか、基本的なデザインが一致するだけでも大したことだと
思う。
71 :
日本@名無史さん:04/05/31 17:09
確か鉄製短甲の出現は朝鮮南部が4世紀前期?で日本列島は4世紀中期だったかな。
でも短甲は弥生時代の木製甲に求められるって説もある。
なんでも朝鮮の板甲と日本の短甲ではその元となった祖形(この場合は木製甲)が元々違ったとか。
短甲が定型化する前の三角板なんかは、
倭からもたらされた物とする説と、朝鮮半島において誕生したとする説がある。
出土数はどの形式も、かねがね日本のほうが多いんだけどね。これは墓制の違いかも知れないけど。
72 :
日本史@名無しさん:04/05/31 20:15
ただ王墓や人口規模(推定)は北九州の方が進んでいたって説なかったっけ?
73 :
ty270410:04/05/31 21:17
>>69 >>70 >>71 朝鮮南部と日本列島の鉄製品の出現についてのご教示あらがとう
ございます.
>>71 >確か鉄製短甲の出現は朝鮮南部が4世紀前期?で日本列島は4世紀中期だったかな。
朝鮮南部−−325年前後
日本列島−−350年前後
やはり,313年の楽浪郡滅亡,342年の高句麗の一時的滅亡など
の影響で,朝鮮半島南部に混乱が起き,鉄製の武具もジグザクな
経過を辿りながらも,朝鮮南部から倭国へ拡散していったという
ことでしょうか?
ともあれ,ご教示ありがとうございます.
74 :
日本@名無史さん:04/05/31 21:20
日本で出る短甲が任那地域の製作か、倭の製作かで両論あるということは
要するに区別しがたいということだ。
ということは任那地域と倭になんらかの「連合性」があったということになる。
この「連合性」のもとはなにか。
倭が征服して服属させた、と言うことはやさしい。
しかしそれならば軍事技術的におくれていた4世紀前半の倭が、進んでいた任那を
征服した物語を作り上げる必要がある。
この点で納得させ得ない説は列島内でいくら成り立ってもだめ。
75 :
日本@名無史さん:04/05/31 22:37
しかし鉄製の武具、特に甲冑や馬鎧等は
南部地域も列島においても特権階級にある豪族のみが所持していたのでは?
古墳に埋葬されるような人物が先進的武具を副葬していたからといって
実際に戦闘の前線に立つ下層の兵にまでそれが配布されていた証拠にはならないだろう。
素人考えだけど。そういう場合戦力に決定的な差なんてあるのかと。
76 :
日本@名無史さん:04/05/31 22:50
ところで鉄製の武器と青銅器の武器ってそんなに違うのでしょうか。
馬の使用や銃器の使用ほどの差はあるのでしょうか。
戦国時代なんかでも石(投石)とかが武器(戦闘方)として平然と
使われているので、この当時は、人口が大きいのではないのかなあ。
77 :
日本@名無史さん:04/05/31 23:12
石と竹と木があれば十分戦えるだろう。
石と弓の援護をもとに竹やりで突っ込む。
78 :
日本@名無史さん:04/05/31 23:20
>>74 >軍事技術的におくれていた4世紀前半の倭が
この前提がおかしいと思う。
本当に遅れていたのだろうか?
>>75 >南部地域も列島においても特権階級にある豪族のみが所持していたのでは?
高句麗の広開土王(好太王)碑には、倭国軍を破った際、多数の剣、甲冑、その他武具を獲得したと書かれている。
しかもそれはすべて鉄製だった。
それだけの鉄製品を生産する技術と生産能力があったという事だ。
高句麗との衝突も半島の鉄の争奪戦だったとか。
思うに、技術は多分に中国華南地方からも流入していたのではないだろうか?
ある部分では高句麗よりも進んでいたかも知れない。
79 :
ty270410:04/05/31 23:22
>>74 ご教示ありがとうございます.
もうひとつ教えてください
>日本で出る短甲が任那地域の製作か、倭の製作かで両論あるということは
>要するに区別しがたいということだ。
日本で出る短甲は北九州で出るのでようか?それとも畿内でも出るのでしょうか?
80 :
ty270410:04/05/31 23:29
>>78 >思うに、技術は多分に中国華南地方からも流入していたのでは
>ないだろうか?
3世紀の倭国について,我々は魏志しか文献資料を持っていません.
呉との交流もあったに違いないと思いますが,「呉書」には
外国伝が無いので不明ですね!
考古学的資料はあるのでしょうか?痕跡でもいいですが・・・
そうすると面白い展開ができそうですね!
81 :
日本@名無史さん:04/05/31 23:36
朝鮮半島を掘りまくれば何か出てこないかな。
82 :
日本@名無史さん:04/05/31 23:39
ミスタードリラーみたいなノリで(w
83 :
日本@名無史さん:04/05/31 23:40
胡服から考えればどうだろうか?
あのファッションは完全に騎馬民族のものでしょ。
あの時代は中国や朝鮮もあんな感じのゆったりしたズボンじゃないの?
85 :
日本@名無史さん:04/05/31 23:47
かなり前の話なんでよく覚えてはいないけど
伽耶の遺跡に併設されていた展示館で見る限り、当時の伽耶は、
超大国のような雰囲気だったね。三国志の一国のようだった。
殺風景で田舎然とした発掘現場との対比がほとんどネタだったね。
日本の吉野ヶ里もそんなところはあるけど。
でも想像復元の立派さには雲泥の違いがある。
あと妄想復元物に韓国語、英語と並んで日本語の説明パネルが
ついていたのが、民族の自尊心を満足させたかも?
86 :
日本@名無史さん:04/05/31 23:54
呉服をいつからか和服と呼ぶ日本人達?
87 :
日本@名無史さん:04/05/31 23:59
NHKのジンギスカン番組で元が治めた国家内に朝鮮半島南部が入っていませんでした。
半島南部に国家のようなモノはあったのでしょうか?
88 :
日本@名無史さん:04/06/01 00:00
89 :
ty270410:04/06/01 00:13
>>87 >>88 13世紀の話
4世紀に話をもどしましょう!
>>85 >かなり前の話なんでよく覚えてはいないけど
>伽耶の遺跡に併設されていた展示館で見る限り、当時の伽耶は、
>超大国のような雰囲気だったね。三国志の一国のようだった。
多分4世紀だけでなく前後を含めての展示でしょうね!
90 :
日本@名無史さん:04/06/01 00:25
道もないところを切り開いて進む。
91 :
日本@名無史さん:04/06/01 01:02
森永卓郎は類人猿のような顔の骨格なのに
何故、おちょぼ口なのか?
92 :
日本@名無史さん:04/06/01 10:18
人口は九州だけでも伽耶地域より多かったのでは。
93 :
日本史@名無しさん:04/06/01 19:22
よく北九州はヒンターラントが無いとかいって、弥生末以後は王国はあり得ないとかいう
説があるけど、筑紫平野、福岡平野、佐賀平野、それに遠賀川沿いなど相当の面積が
あるよな。それらをあわせれば3000平方キロはある。それに、収穫高も畿内より2、3
割多かったという説もあるので、湿地帯だった奈良盆地や海だった河内平野と実はそれ
ほど変わらなかったとも言われている。それが5、6世紀には逆転するそうだけど。
それはもちろん加那地方との比較でも同じ。というより、北九州エリアの耕地面積自体
加那と百済をあわせたぐらいはあるので、少なくとも生産力においては北九州>加那
だったと思う。
続魏志倭人伝でも探せw
95 :
ty270410:04/06/01 21:33
4世紀はじめには加羅(加耶)ではなく弁辰だったのでは
ないでしょうか?
4世紀中葉あたりに任那が勃興します.
ですから4世紀については「弁辰−任那期」がよいのでは
ないでしょうか?
因みに加羅(加耶)が任那から分出するのは「宋書」から
わかるように5世紀中葉です.それまでは独立した
政治単位としての加羅(加耶)はありません!
96 :
日本@名無史さん:04/06/01 21:45
1よ、アホ臭いぞ。
4、5世紀なら、倭軍が半島を攻めたり倭王外交をおこなっている
6世紀なら、 後の史書の登場人物の多くが、
渡来系を誇りとして(秦帝ゆらい漢帝ゆらい)と
自らの出目を後世に残しているほど、在住の朝廷権者との差異を明らかにしてる。
つまり、渡来系側が主になった歴史等論理的に存在しようがないのだ。
なんか沸いて来やがったな。
98 :
日本@名無史さん:04/06/02 17:41
平和だから記録がないんだろ
100 :
ty270410:04/06/02 21:47
いずれにしても,4世紀は朝鮮半島で政治的にも軍事的にも
かなりの動きがあったことは確かのようですね!
以下の[]内は史書で確認できること,その他は私の推論.
[楽浪郡の滅亡],多分まもなく帯方郡の滅亡−−漢人の南部への亡命
高句麗の朝鮮半島南部への軍事的圧力増大・・・・
しかし,まもなく[高句麗の一時的壊滅]−−高句麗人の南部への亡命,
政治的空白,高句麗軍事圧力の突如とした消滅,軍事的空白
[弁辰諸国の任那への再編成],倭の南部への進出
そして3世紀第3四半紀には[広開土王碑時代]の幕開け
こんなように考えられます.
その4世紀に倭では何が起きていたのか?
興味があります.
101 :
日本@名無史さん:04/06/03 00:03
>>95 狭義の任那と広義の任那をごっちゃにしていない?
多分してると思うが。本人は気づいているかな?
103 :
ty270410:04/06/03 21:34
>>101 広義の任那と狭義の任那という学説があることは,
なんとなく知っています.
でも,狭義の任那というのは文献的には納得性が
薄いような気がしています.
ですから,私は広義の任那しかないという立場で
書いています.
それで,無理なく説明がつきますから,
無理に狭義の任那を持ち出す必要はないと
考えています.
104 :
日本@名無史さん:04/06/03 23:25
だから胡服は騎馬民族の衣装なんだって。
105 :
日本@名無史さん:04/06/04 05:35
>>103 日本書紀に、金官加羅が滅びた段階で「任那を建てる」(任那復興)と書かれて
いるのは「狭義の任那」以外にあり得ない。
これが「文献的な納得性」だ。
106 :
日本@名無史さん:04/06/04 10:42
日本書紀は700年より前のことはいい加減だったんじゃなかった?
108 :
日本@名無史さん:04/06/04 18:50
いい加減てこたねーだろ
書記には確かに編者や政治というものの意図があって、そのまま歴史とするには
いかないことははっきり認識できるにしても、その意図が読めさえすれば大体の事
情がわかるもんだし、また、捏造にしてもイベントが現実にあって初めて捏造という
ものも出来るから、イベントがあったこと自体は事実と捉えてよいというのも判るだ
ろう。
歴史を見る上でこの程度の処理は当然のことで、できないようでは学問するレベル
にすら達しないよ。
>イベントが現実にあって初めて捏造という
ものも出来るから、イベントがあったこと自体は事実と捉えてよいというのも判るだ
ろう
苦しい。古事記から日本書紀になって記述が10倍にも膨れあがった理由は、あちこちからの
引用が大杉だから。その意図を読むことは大事だけど、だからといってかかれていること全て
に元になるイベントがあるかどうかなどわからない。
戦後の古代史研究が結局津田左右吉から一歩も出ていないと酷評されるのは、結局のところ
記紀に対するスタンスがふらつきすぎるということが原因にある。基本的に捏造としておいて、
いいとこ取りで都合のいいところだけ引っ張ってくるなどと言うのはもはや学問とは言えない。
良く目にするのは稗田の阿礼が間違えたとかw あるいは昔のことで既にわからなくなっていた
とか。
まことにほほえましい意見ではあるが、当時の緊迫した国際情勢、まだまだ揺籃期の大和政権
にとってどの政治行動もぎりぎりの判断から出てきたものであるはず。古代人といえども知能は
現代人と変わらないわけだから、馬鹿にしては行けない。それは中国の歴史書に対する日本の
研究者の姿勢も同じくである。
111 :
ty270410:04/06/05 00:11
>>105 ご教示ありがとうございます.早速原典に当ってみました.
>日本書紀に、金官加羅が滅びた段階で「任那を建てる」(任那復興)と書かれて
>いるのは「狭義の任那」以外にあり得ない。
継体天皇21年条のことと思います.引用してみます.
「近江毛野臣,率衆6万,欲住任那,為復興建新羅所破南加羅・
○(口偏に碌のつくり)呑(以下にトクコトンと略す),
而合任那」
新羅に破られた南加羅(金官)とトクコトンを復興して任那に
併合する.
このように読めます.南加羅(金官)は当時は新羅の支配下にあったが,
再度奪取して任那に併合しようということです.
南加羅(金官)は任那に併合すべき一小領域であって,狭義の任那とは
どこにも書いてないと思います.
ただ,これは527年,6世紀のことです.4世紀に話を戻しましょうよ!
112 :
日本@名無史さん:04/06/05 01:23
4世紀は極東諸国の軍国主義時代。
鉄器が産軍のキモだと判っってしまった失楽園時代。
113 :
日本@名無史さん:04/06/05 15:05
>>111 だからそれは広義に用いられた場合だ。
欽明記の2年4月に次の文章がある。
「今天皇詔称、速建任那。由是、欲共爾曹謨計、樹立任那等國。」
はじめの方の任那は動詞「建」の目的になっている。金官など3国以外の
任那諸国は残っている段階で「建てる」というのだからその対象は
金官など3国であり、地域名の任那、すなわち広義の任那ではない。
後のほうの任那はもっとはっきりしている。「國」がつくのだから
地域名ではないし、「等」がつくのだからそれ以外にも「國」がある
ことになる。「任那等国」は「金官、卓淳、トク己呑」を指しているのであり、
「任那」=「金官(南加羅)」である。この任那が狭義の任那である。
要するに金海周辺のある領域が「任那」という名称の発祥であり、それが
南鮮の倭植民地ぜんたいに拡大して「広義の任那」が生じたのだ。
「やまと」という名称が大和政権の発祥地である奈良盆地南部から、
大和政権の支配地域ぜんたいに拡大されていったが、狭義の「大和」も
消えなかったのと同じ。
百済が進出して大和朝廷になったんだろうな。
邪馬台国が大和朝廷になったとは考えにくい。
邪馬台国と大和朝廷では風俗や文化が違いすぎるよ。
確かに大陸からの勢力が大和朝廷をつくった可能性はあるだろうが
それがそのまま天皇家になったってのはどうなんだろう。
今も昔もよそから来た勢力を快く迎えるなんてことはなかったんじゃないだろうか?
太平洋戦争時に日本が中国・朝鮮から追い出されたように
そしてイラク人がアメリカ人を追い出そうとしているように
当時の日本でもそういった動きがあったって不思議じゃない。
結局どこかで日本人に入れ替わってるんじゃない?
だからこそ日本書紀において天皇は代々同一の系統だったとすることで
その事実を消滅させ、日本は今も昔も日本人固有の国だと主張したかったんじゃないかな。
人間の性格からして外来の支配者に従いつづけるってのは
どうにも理解しがたい。
こういうことに文化が進んでいるか遅れているかなんて関係ないし。
それは畿内と北九州の関係にも言えるだろうな。圧倒的な武力差があるならともかく、
この両者の距離と文化の違いを考えれば、簡単に東遷とか連合とかあり得ないしw
少なくとも4世紀ぐらいまでは別の国だよ。
117 :
ty270410:04/06/06 00:11
>>113 >欽明記の2年4月に次の文章がある。
>「今天皇詔称、速建任那。由是、欲共爾曹謨計、樹立任那等國。」
ご教示ありがとうございます.
欽明2年は541年ですね!ここの文脈は111で示した継体21年(521年)の続き
です.
上の引用の少し前に
「日本天皇所詔者,全以復建任那.」と書いてあります.
つまり,「倭の大王は専ら任那を復建せよということを申し入れてきている.」
つまり南加羅,トクコトン,卓淳など新羅に滅ぼされた地域を奪還して,
もとどおりの任那を復興せよと倭の大王は百済の大王に申し入れたと解されます.
その後で百済大王がもう一度繰り返して小国の代表たちに述べた言葉が
113さんが引用された文になります.
つまり,「倭の大王は任那を速やかに復建せよと申し入れてきているので,
皆さん方と一緒に任那の皆さん方の国をもとのように樹立したいと思う.」
継体21年以来の文章を関連付けて読むと以上のようになります.
そして,この少し後に,「新羅候隙,侵逼任那」とあり,
これは「新羅が隙をうかがって,任那を侵略すれば」と解されます.
この任那は南加羅などではありません.なぜなら南加羅などはすでに
新羅の支配下にあり,いまさら侵略する必要がないからです.
以上のように,狭義の任那という概念を設定する必要はないと
私は思っています.
118 :
日本@名無史さん:04/06/06 11:52
百済が大和朝廷?
アホくさ。 古語拾遺でも読め。
「百済は、朝廷に朝貢する3韓の中でも、尤も朝廷に忠誠を近い、
その姿勢は百済が滅亡するまで続いた。」 と記述されてるのよ。
さらに、「朝貢品を管理する氏として大蔵を命じられたのも百済人
出世のトピックなのに、第8位くらい」
その百済が大和朝廷になったなんて、
天地がひっくり返ってもありえない話。
119 :
日本@名無史さん:04/06/06 12:13
日本ヲタ、必死だなw
120 :
日本@名無史さん:04/06/06 13:19
その頃の朝鮮半島は、モンゴル→満州から移動してきた騎馬民族の支配者層と半島土着の被支配者層の土民が存在した。
国の無い時代は、被支配者層は支配者層に奪われ続けるしかなかった。
しかし、半島西部の騎馬民族の一族は中国国家の影響を受け、土民を管理し、毎年定期的に収穫を取り続ける仕組みを覚えた。
これが国家としての百済を形成する事になる。
一方、奪われ続けていた土民の中にも支配者層の騎馬民族を取り込み、収穫を上納する代わりに他の騎馬部族から守ってもらうことを覚える地域が現れた。
それが新羅の発祥となる。
残ったのは半島南部。
支配者層の部族が多くまとまらなかったのか、それとも土民を奪うだけの獲物としか考えてなかったのか、国家を形成するのが遅れた。
その中の一部の部族が出雲に進出、その後、日本列島で離合集散を繰り返し大乱の末倭国が形成された。
倭国と百済が最後まで同盟を維持し続けたのはこのあたりに起因するのではないだろうか?
逆に現代にいたるまで土民の末裔である朝鮮半島民と日本国があまり仲良くないのはこのあたりの流れからではないだろうか?
121 :
日本@名無史さん:04/06/06 13:44
↑
なんじゃこのデンパ文は?
漢民族による300年の半島支配で漢化した半島に、
北方の非漢の蛮族が侵攻して、高句麗を形勢
難民が南に流れ扶余出身と百済を形勢
半島南部を倭の植民地としていた倭王は、
本格的に、半島征伐を開始。新興の三韓を支配下に置き、北進、
高句麗は倭の進行を防ぎ、記念碑を建てる。
以後、三韓は倭朝廷の属国となり、毎年朝貢を倭に献上することとなる。
これが正史から普通に読める4世紀だろ。 矛盾もないのに変説をたてるな
122 :
日本@名無史さん:04/06/06 13:53
↑
それは今の朝鮮人学者の勝手な学説でしょ。
祖先が土民だって認めたくない朝鮮人特有の変なプライドで歴史を捏造する。
漢化した半島?
土民が百済や扶余の王族より文明化していたと言いたいの?
ありえない(w
123 :
ty270410:04/06/06 14:05
>>117の続き
「復」という字は「もとと変わった状態をもとに戻す.」という
意味を持っています.状態が変形して残っているのです.
ですから,「任那復興」とは,
「もととは変わってしまった現在の任那をもとの任那に戻す.」
ということです.
なくなってしまった状態をまた取り戻す場合は「再」を使います.
滅びた任那をもう一度もとのように戻そうというのなら
「任那再興」としなければなりません.
日本書紀には「任那復興」と書いてありますので,
「一部割譲したり,一部占領されたりして変わってしまった
任那を,またもとの任那に戻そう.」ということだと
私は考えています.
以上は私の説ですが,漢文について下記を参照してください.
日本書紀の執筆者は,漢学の素養のある人で,少しの例外
(誤用,和風使用など)はあるが,しっかりした漢文を
書いているそうです.
次の本が典拠を挙げて立証しながら大変によく書いてあります.
森博達『日本書紀の謎を解く−−術作者は誰か』
中公新書1502,1999.10.,\819
124 :
ty270410:04/06/06 14:07
125 :
日本@名無史さん:04/06/06 14:09
↑
朝鮮人は、三韓が倭の属国だったとすら教えられてないだろ(笑)
百済は、楽浪郡を高句麗に追い出された漢族が中心だろ。
126 :
日本@名無史さん:04/06/06 14:34
応神は金官加羅から渡来した傭兵隊長。
と、思いたい朝鮮人
と、妄想する日本オタ
朝鮮では14世紀ごろ?民族の出自・系譜を捏造し
天から降りてきたなどという族譜を造作した。
よって>125氏の指摘のようなことになった
。
130 :
日本@名無史さん:04/06/06 15:45
しょせん土民国家新羅の子孫である朝鮮人。
漢民族も先祖とか言われたら迷惑だろ(w
131 :
日本@名無史さん:04/06/06 15:57
朝鮮半島の服はモンゴルなどの騎馬民族と共通するはず。
日本では古墳時代以降廃れるが朝鮮では現在も続く。
132 :
日本@名無史さん:04/06/06 16:07
>>117 シチュエーションはあなたが書いている通りだが、残念ながら
「任那等国」はどう転んでも「任那の皆さん方の國」とは読めない。
単に「任那などの國」だ。
「等」の使い方はその前後にたくさん例があるので参照されたし。
それに現在國を持っているカンキたちに対して「皆さんの國を樹立しよう」
はおかしい。すでになくなった王朝だからこそ「樹立する」と言える。
やはりここは「倭王の夷を受けて滅びた三国を再建したいから協力してくれ」
と言っているのだ。
というわけで「任那等国」の任那はやはり狭義の任那である。
あなたの言うように「広義の任那」もあり、しかもその方が多いことは
事実。しかし広義の任那が多いことが、そのまま「狭義の任那はない」
ことの理由にはならない。
133 :
日本@名無史さん:04/06/06 16:12
134 :
ty270410:04/06/06 21:36
>>132 >シチュエーションはあなたが書いている通りだが、残念ながら
>「任那等国」はどう転んでも「任那の皆さん方の國」とは読めない。
>単に「任那などの國」だ。
>「等」の使い方はその前後にたくさん例があるので参照されたし。
ご教示ありがとうございます.
おっしゃる通りかもしれません.
私の説にとってこの一節が泣き所です.それは認めます.
でも,全体の流れは
>>117のようであったと考えています.
また,ほかに私の独断などありましたら,ご指摘ください.
ありがとうございました.
三韓全部が倭の属国ってさすがに電波過ぎて笑えるなw
まあ半島南部と北九州は民族形成が似てて、高句麗とは異民族としての闘争を
繰り広げていたというのは間違いないだろう。
あと、誼を通じるのを朝貢と書いている可能性はある。新羅でもそう書いてあるが
別に服属していたわけではない。まして滅亡した百済はどう書かれても文句は言
えないしw
136 :
日本@名無史さん:04/06/06 23:42
土民国家の末裔の朝鮮民族は三韓全部が倭の属国だったら都合が悪いらしいな(w
高句麗と倭国の戦いを記した太好王碑文も捏造だって言う連中だからな。
呆れてモノが言えん。
首都近くまで攻め込まれたのは高句麗だろ。
倭国に勝ったのが嬉しくて今も残るような碑文を建てたんだろ。
高句麗は必死だったんだよ。
新羅なんぞ倭国の顔色を伺いながらコソコソと存続してた属国。
137 :
日本@名無史さん:04/06/06 23:56
日本オタ、必死だなw
138 :
日本@名無史さん:04/06/07 00:37
義経が平泉で死なず、神武天皇になったという説を聞いたことがある。
>呆れてモノが言えん
>>136は誰に言ってるんだ?
140 :
日本@名無史さん:04/06/07 00:41
三韓が毎年朝貢に来たってのは、
古語ジュウイツにも、しっかり書いてあるよ。
中でも、百済は滅亡するまで朝廷に忠誠を近うと
褒められてる。
三韓からの朝貢品が溢れ、渡来人を蔵の管理者に抜擢して
大蔵を作ったとさ。
朝貢し続けた属国の歴史を逆手にとって、
倭に文化を教えたって・・・ 韓国人は恥ずかしくないのかな
141 :
日本@名無史さん:04/06/07 00:43
時代下って、倭の五王は半島各国の支配を主張していたわけで
>136のほうが図星だろう >135はチョト違う
>倭の五王は半島各国の支配を主張していたわけで
額面通り受け取ってどうするよw
>142
中国にマジで主張していた事実は伊達や酔狂ではない
144 :
日本@名無史さん:04/06/07 02:10
>>142 事実
・三韓は、競うように倭にお宝を献上してるだろ?
・高句麗の碑にも倭が攻めてきたって書いてあるだろ?
・日本書紀他、8世紀の記録に書いてあるだろ?
・中国正史にも倭王が極東全域の司令官として記載されてるだろ?
チョンの脳内以外では、三韓は全部が倭の属国
145 :
日本@名無史さん:04/06/07 03:58
半島の人にとって大事なのは神話であり
民族生誕神話>歴史的事実
146 :
日本@名無史さん:04/06/07 05:58
直前にチョン半島にいたからと言ってチョンじゃない。
やつらはユダヤ→スキタイ→チョン支配層
と流転してきた根っからの流れ者。
147 :
日本@名無史さん:04/06/07 18:46
応神が九州出身ということは、
東遷説にとって有利な証拠。
148 :
日本@名無史さん:04/06/07 18:47
応神は金官加羅からやって来た傭兵隊長。
叙勲はむしろ三韓の方が上だった。これは確定の史実。
150 :
日本@名無史さん:04/06/07 23:11
>149
どういう意味?
151 :
ty270410:04/06/07 23:45
>>150 >149
>どういう意味?
多分,149さんは,南朝宋からの綬爵が百済が倭よりも上だった
ことを言っているのだろうと思います.
152 :
日本@名無史さん:04/06/08 00:22
神武の東征だろ。
なんだ応神って。
153 :
日本@名無史さん:04/06/08 00:37
神武が上陸した場所は応神の時代にも海岸だったの?
神武の上陸地はかなり内陸だった記憶がある
154 :
日本@名無史さん:04/06/08 00:46
>>153 現在の大阪市のあたりから上陸しようとしたが、ナガスネヒコに急襲されて惨敗。
兄までを討ち取られる大敗北を喫した。
その後、紀伊半島を大きく迂回して熊野灘まで。
険しい熊野山から吉野を経て三輪大和までたどり着いた。
>151
サンクス。でも「三韓」と断言してるのは・・・・ >149氏にききたい
現在の大阪市のあたりって当時は潟湖でしたっけ?
上町台地のへんなのかな・・・。
しかし天皇は吉野好きだね〜
157 :
日本@名無史さん:04/06/08 01:21
吉野ヶ里の吉野ですぞ。国内最大の軍事集団と邪馬台国の古都があったからね。
158 :
日本@名無史さん:04/06/08 04:05
>>156 堺筋より西は外海
上町台地が岬みたいなもので新大阪駅の手前あたりまで伸びていた
北は神崎川のラインが海岸線で
弥生時代には北河内・中河内一帯が潟湖のような内海だった
159 :
日本@名無史さん:04/06/08 12:46
ナムジもあの潟湖でアシナガヒコに負けたんだよな。
160 :
日本@名無史さん:04/06/08 13:50
>>148 金官から来た傭兵隊長がクーデターを起こして王位を簒奪したという意味?
161 :
日本@名無史さん:04/06/09 03:20
金官は智証の先代まで新羅を攻めた倭の正体
倭王になっていてもおかしくない
加耶と九州では経済力に相当の差があったと思われる。一時的にはそのようなことも
あったかもしれないが、代々ずっと支配し続けることは難しいのではないか。
ただ、天孫光臨の天がどこを指すのかについてはまだ解っていないから、可能性を排
除はしないが。
163 :
日本@名無史さん:04/06/09 18:54
天孫降臨のアマはアマ族の根拠地対馬
164 :
日本@名無史さん:04/06/09 18:58
>>156 >しかし天皇は吉野好きだね〜
不思議な事にあのあたりの人々は昔から天皇が困った時に助ける人々なんだよね。
十津川郷士ってのも幕末は有名だったよな。
神話にはあまり描かれてないが、ヤタガラスが彼らの先祖かな?
165 :
佐賀県佐賀市十七歳 ◆ypURG809QA :04/06/09 19:31
>>157>>164 吉野ヶ里は「石野が里(いしのがり)」が訛った名称。
といいつつ、ちょこっとばっかり南朝と関係があったりするわけで。
166 :
日本@名無史さん:04/06/09 20:12
>>165 奈良吉野とのつながりを説明してください。
167 :
ty270410:04/06/09 21:41
このところ4世紀からすっかりずれてしまっていますね!
3世紀後半から4世紀後半まで,中国史料に記載がなく
ヤマタイ国から倭の5王までのつながりが全く不明!
いわゆる「空白の4世紀」または「謎の4世紀」
それを埋めようというのが,このスレッドの目的だった
と思いますが・・・・
どなたか,考古学からの考察を教えてください!
当時の経済力と政治的範囲を考えてみたい。
ヤマトは統一されたのが5世紀ぐらい(?)そんな状態で朝鮮半島まで大兵を率いるの
はリスクが大きすぎる。下って6世紀末でも磐井の乱などが起こっており、半島経営より
優先順位が高い軍事行動はたくさんあったのではないか?
・・・・・だとしたら、わざわざ遠く南朝まで海を渡って、自己を誇示して(すなわち隣国は
不愉快)まで兵権を得ようとするメリットは小さい。つうかないしw
一方で、半島出兵はそれ以前からずっと続いており、しかも同一勢力が継続していると
考えるのが自然。
北九州に半島出兵の力があったかということだが、こちらは血縁関係や同盟関係が錯
綜していただろうから、ノルマンディーのような上陸戦から始めるわけではない。その点
も有利かと。また、国力的にも弥生晩期には三韓に匹敵していたという説もある。
いずれにしても、ヤマト勢力が何世紀に何をしたのかについて明らかにならない限り、
大和政権のどんな学説も力がない。天皇陵の発掘が今や至上命題である。
>167
そんなもの無いでしょ>どなたか,考古学からの考察を教えてください!
313年高句麗が楽浪郡を滅ばす>半島の領有者がいなくなった
316年西晋滅亡>半島は力ずくで取り合いする修羅場となった
346年百済が馬韓諸国を統一>領土拡張だ
356年新羅が辰韓諸国を統一>領土拡張だ
このころ倭国は博多湾岸から有明海岸に遷都
旧都出身の神武は「国際戦争」に不向きな軍人としてはずされ、のちに畿内へ転身
391年倭は百済を破り高句麗と対戦>領土拡張だ
170 :
日本@名無史さん:04/06/10 03:11
日本人の文化は弥生文化・大和朝廷文化を敬称したものだけど遺伝子的には縄文人の血を強くうけつでいる。
これは少数の征服者が多数の被征服者と交雑した結果。
だから我々は征服者の末裔であると同時に被征服者であるといえる。
現在の日本人→渡来人:混血:先住民=0:99:1
>旧都出身の神武は「国際戦争」に不向きな軍人としてはずされ、のちに畿内へ転身
単に人口過剰圧力だと思うけどなあ。でなければ、当方経営に本格的に乗り出したと
いうことだろうけど、行程のあっちふらふら、こっちふらふらからみると、やはり植民が
目的だと思うよ。
172 :
日本@名無史さん:04/06/10 14:26
インドのムガール帝国を考えて見よう。
始祖はモンゴル帝国の残党。人種的にはアーリヤ人のインドとは全く異質。
ただ戦争に強いだけのそいつらが文化的、人口的には卓越したインドに進入し、
ほとんどインド全土を支配する帝国を築いて、イギリスの進入まで存続した。
蒙古人たちは宗教的にも文化的にも、はた人種的にもインド人にまったく
吸収されて、乳臭いモンゴルの片鱗さえも見当たらない。
モンゴルを扶余に、インド人を倭に置き換えて見よ。
173 :
日本@名無史さん:04/06/10 15:00
縄文人の末裔は沖縄と北海道のアイヌだろ。
今ごろそんなこと語ってるのか?
175 :
日本@名無史さん:04/06/10 16:20
>>174 どう違うんだ?
その事実を無視するから
>>168や
>>169みたいなトンチンカンな事を書く奴がいるんだろ?
縄文後期から弥生へと変る時に大陸で何があったか?
そのあたりを理解していれば倭国を過小に評価する間違いも起こらないよ。
う〜ん・・・、なんか解ってないような・・・・・。
>>176 どのレスに対して言ってるのか明確にする。
そして否定するなら自分の意見を書く。
178 :
日本@名無史さん:04/06/10 19:48
>171
筑紫平野は十分広いから、周辺は人口過剰どころか過疎
神武は畿内の狭隘地を占領したが、東方経営など一生したことが無かった
神武の王統は、200年後の6世紀に、やっと今の大阪ぐらいの領土を拡張した程度
179 :
日本@名無史さん:04/06/10 20:24
>>178 その頃の大阪は海の底でしたw
フカシはもう少し上手くこけ。
5世紀はもう大分埋まってるぞ。しっかりせいよ!
181 :
日本@名無史さん:04/06/10 20:55
>>180 神武の東征だから3〜4世紀の話だろ?
5世紀でも難波の津って事であのあたりまで海だった。
どこが埋まってるんだ?
182 :
日本@名無史さん:04/06/10 21:13
>179>181
河内湖を知ってるだけで威張っちゃいけない
第一大雑把な面積のはなしだから反論にならん
183 :
日本@名無史さん:04/06/10 23:43
>>178のような神武の東征前後の倭国勢力を過小評価する人の不認識を指摘しただけ。
反論でもなんでもない。
東アジアの中で倭国は重要な位置をしめてきたんだよ。
奴国の記述から始まり邪馬台国、倭の五王・・・。
中国から見ても侮りがたい勢力だったようだよ。
百済が滅ぶ一連の戦いでも唐軍の将軍の顔ぶれを見れば本気だとわかる。
当時、唐よりも強大だった大突厥帝国を滅ぼした、李靖将軍や除世(李)勣将軍、程知節、尉遅敬徳などなど。
漢民族の中国歴代国家の中でも最強だと思われる唐軍の精鋭が滅びかけの百済を攻めたんだよ。
これは何を意味するか?
高句麗と倭(日本)国の勢力を侮りがたいと分析していたからだ。
漢も隋も高句麗攻略に失敗したのに唐が成功したのは、異民族に対する侮りを捨て、冷静に分析した結果だと思う。
遡って空白の四世紀。
何度も漢や隋を破った高句麗を首都近くまで攻めた倭国が弱小だったはずが無い。
神武の東征もかなり大規模な軍事衝突の叙事詩だと思われる(多分に謀略の匂いもあるが)。
昔は今のような国境はなかった。
半島南部も九州も山陰も畿内も倭国として統一する王がいたからこそ大規模な軍事行動が可能だったと思う。
しかし、なぜ極東の島国が弥生以降急激に強大になったのか?
それは中国本土の情勢が大いに関係すると思う。
秦が中国を統一しそれによってかなりの移住者が流れ込んできたと思われる。
たとえば墨子で有名な墨家。
戦闘能力の高さで諸侯に恐れられた謎の集団墨家が、秦の始皇帝による中国統一と同時に歴史の記録から忽然と姿を消している。
ほんの数人でも墨家の戦術・戦略を伝える人間が移住してきたならば、扶余族など騎馬民族と融合して強大な軍事国家を形成することも可能だったと思う。
185 :
日本@名無史さん:04/06/10 23:52
>183
だから、倭国の都落ち浪人=神武の功績があまりにもささやか過ぎたという現実と
倭国が極東最大の大国であったことには、何の矛盾が無いの。
186 :
日本@名無史さん:04/06/10 23:59
>>185 九州の邪馬台国勢力と三輪大和勢力の統一はささやかですか?
神武の東征は神話の中でもクライマックスだと思うが?
統一があったからこそ強大になれたと考えるのが自然だろ。
187 :
日本@名無史さん:04/06/11 00:09
>186
アホですか、九州と畿内の統一は壬申の乱以降
神武の東征はどの地方にもある、よそ者侵入+定着話
神武は倭国内で食っていけなくなった、旧型戦法しか出来ない
久米部隊の長=用済み軍人。
倭国にこんな人間は要らなかったからポイされた。
188 :
日本@名無史さん:04/06/11 00:27
>>187 壬申の乱以降って・・・
本気で言ってるの?
磐井の乱でも朝廷は火の国(肥前・肥後)や豊の国(豊前・豊後)に反乱鎮圧の指令を出してる。
そもそも、その「久留米部隊長」なる文献や資料はあるのか?
いきなりなんの裏づけも無しに言われても・・・
つーか、もしかして俺って釣られてる?
189 :
日本@名無史さん:04/06/11 00:50
はあ?
当時朝廷といえば九州倭国しかない。
地方豪族、継体の磐井暗殺は畿内の実力が向上してきた証ではある。
神武は糸島半島周辺の久米族を率いていた。
「古事記」 より引用
みつみつし久米の子らが粟生には
臭韮一本其根が本其根芽つなぎて
撃ちてし止まん・・・・・・神武天皇
>>172 なぜモンゴル人はブラフマー(ヴィシュヌ、シヴァ)子孫だという神話を作らなかった?
出自をインドにもしなかったぞ
191 :
日本@名無史さん:04/06/11 05:52
>>183 河内王朝のもとを外国勢力に求めるのは賛成。
しかし中国を考える必要はないと思う。
金官の扶余王朝だけでよい。
4世紀〜6世紀の歴史は、内部抗争しながらもいざとなると中国に対して
連合する高句麗・百済・倭の扶余連合勢力と、扶余連合VS中国の関係をうまく
利用した非扶余の新羅、という構図になるのではないか。
>九州の邪馬台国勢力と三輪大和勢力の統一はささやかですか?
闕史八代の歴史的評価が必要だが・・・・・。
神武の事績自体はかなりしょぼい。リアルだけど。長脛彦に大敗した以上、武力による統一などという
難事は出来なかったと考える方が自然だよな。はるばる来た外来者が敵地に侵入して、かつ永続的な
政治支配を達成しようとすれば、よほど武力で圧倒しないと普通は無理。さらに後方部隊として文治的
能力を持った後方部隊も必要だろう。神武記を読んでも、一族郎党や他の文化人等を引き連れていた
とは考えられない。
よくある東遷説は、実際には一回で征服したと言うことはあり得ないと思う。少なくとも神武記からそんな
風に読みとれるはずはない。もしそうなら、プレ東征期としてそれだけの武力を組織した経緯も描かれる
はずだし、一直線に大阪湾に突入するか、もっと他の戦略を採用するだろう。天の日矛のように播州から
上陸するとか、北摂でまず決戦するとか。いきなり日下まで突入したのは、奇襲か単にお友達になれると
勘違いしたか。それしかないだろう?
ただ、
>>187が断定的に人をアホ扱いしているのはどうなんだろう。そういった説はまだ少数派だから、
そんな言い方をするのは感心しないな。
193 :
日本@名無史さん:04/06/11 08:44
>>192 >いきなり日下まで突入したのは、奇襲か単にお友達になれると
>勘違いしたか。それしかないだろう?
概ね同意。最初から戦争の心積もりをしておればあの行程は無いだろう。
しかし、ナガスネに散々打ち破られた後が問題だ。
あきらめない神武軍。熊野灘の荒海を超え、峻険な山地を行軍する。
なぜそこまでして?
奈良へ入れば何とかなるという何かあったとしか考えられない。
事実、ヤタガラスのような協力者が存在するし、宇陀に入ってからの神武軍は急に強くなる。
むしろ、元々神武を畿内に迎えたのは旧大和勢力側ではなかったのか?
ナガスネは神武を迎えた旧大和勢力の中の反対者だったのではないか?
例えば婚姻が目的だったと考えれば、邪馬台国と旧大和勢力の統一(倭国の統一)が成ったと考えられる。
神武が大和に入ってからはあれだけ激しく戦ったナガスネの記述が無い。
これは東征が純粋な軍事目的ではなかった事を強く匂わせる。
津軽の安東氏や秋田氏の祖先はナガスネヒコだという言い伝えもある。
旧大和勢力の反対派は争うことなく東へ移住したと考えればますます軍事色が遠のく。
194 :
日本@名無史さん:04/06/11 13:30
>192
アホといったのは悪かったが、九州と畿内を神武が大統一したなんて奇説を
主張されているのが、電波だと判断した次第。
195 :
日本@名無史さん:04/06/11 14:30
どっちが電波だよw
196 :
日本@名無史さん:04/06/11 15:06
>195
>186の勝手な思い込みは電波と呼ばれてしかるべき。
神武の九州・畿内統一なんて記紀にも載ってないでしょ。
197 :
日本@名無史さん:04/06/11 15:40
てか大山 ミサンザイ古墳あたりを
調べまくったら謎か解けるでねw
198 :
日本@名無史さん:04/06/11 16:10
日本神話も知らないチョソの子がアンチ神武の電波飛ばしまくってるな
>>189 その久米歌がどうかしたのか?そら久米市あたりの兵もおったやろ。九州やからな。
200 :
日本@名無史さん:04/06/11 19:56
>199
久米の子以外に出てくる集団をあげてみよw
201 :
日本@名無史さん:04/06/11 20:04
吾はや飢ぬ 島つ鳥鵜養が伴 今助けに来ね
鵜養部の人が出てくるよ。
つーか、高千穂の宮から出てくる歌以外の登場人物は全部無視?
202 :
日本@名無史さん:04/06/11 20:16
「集団」って日本語を辞書でひいてほしいんだが無視?
203 :
日本@名無史さん:04/06/11 20:21
まあ、久米の子ら以外を率いていないというのが重要なんだが
204 :
日本@名無史さん:04/06/11 20:31
>>202 鵜養は人名じゃないぞ。そんなこともわからないのか?
じゃあ、久米の子ってのは久米宏の子供の事か?w
だいたいどこに久米部隊以外は率いていませんなんて書いてあるんだよ?
久米歌に固執してるからそんな突拍子も無い「久米部隊長」なんて話が出て来るんだよ。
もういいから、その元ネタになってる書籍か作家を紹介してよ。読むからさ。
205 :
日本@名無史さん:04/06/11 20:54
あのねぇ〜自分の軍じゃないから助けを求めたの、ワカル?
>>193 確かにわざわざ熊野道という日本中でも有数の悪路を突破してまで奈良盆地に行くという
賭けをする理由が解らない。熊野詣では日本各地のお遍路さんの中でも最も死亡率が高
く、一説には半分も生還出来なかったという。まあ紀ノ川沿いに遡航したという説もあるけど。
もし単純に過剰人口の口減らしとしてなら熊野周辺とか、他の所に植民すれば良いわけだし、
奈良に行かなければならない理由は何かあったのだろう。
神武が援軍だったとか、王家の血を求めたとか、そんなところか。とすれば、奈良盆地の南
部は河内丘陵とは異なる政治勢力が盤踞していたと言うことになるな。
207 :
日本@名無史さん:04/06/11 22:17
どちらかが征服しとというより勢力結婚で併合したんじゃないか。
208 :
日本@名無史さん:04/06/11 23:57
>>205 そんなこと言い出したら旗本以外は自分の軍とは言えないよ。
>>206 >奈良盆地の南部は河内丘陵とは異なる政治勢力が盤踞していたと言うことになるな。
古墳時代の奈良盆地内の豪族分布図を見ても、狭い地域にひしめきあっている。
そう考えたら大和とは別の勢力が河内〜登美に存在してもおかしくないね。
「まつろわぬ者」が神武の東征を阻止しようとした。
それは大和勢力と神武勢の連合がその勢力にとって脅威だったから・・・なんて事も考えられる。
>>207 私も血なまぐさい征服戦争より政略結婚などが濃いと思う。
古代の人々もそれくらいの知恵はあったはずだしw
209 :
日本@名無史さん:04/06/12 00:40
>208
>そんなこと言い出したら旗本以外は自分の軍とは言えないよ。
おいおい十万百万の軍隊じゃないぞ。神武軍は少数人数だろ。
210 :
日本@名無史さん:04/06/12 00:41
>>206 >奈良に行かなければならない理由は何かあったのだろう。
その理由とは、自分が正当な倭王の後継者であることを宣言するため。
神武伝承が出来た頃は、日向から畿内・東海にかけての人々は同族である
という認識がすでにあったのだろう。つまり、4世紀末のこと。
つまり、神武とは応神の事であって、九州からやって来た偉大な大王が、
競争相手を打ち破って王権を簒奪したという伝承が、ヤマトに語り
継がれていたのだと思う。
倭王権を奪取した応神や仁徳は、倭王の後継であることを高らかに
宣言するために、巨大過ぎる前方後円墳を築造したのだった。
じゃ奈良にはすでに政権があったの?
212 :
日本@名無史さん:04/06/12 02:43
>>210 >倭王権を奪取した応神や仁徳
倭王権を完全に奪取したのは持統天皇ですが。
213 :
日本@名無史さん:04/06/12 04:57
神武伝承は三輪王朝を建てた勢力の伝承だと思う。
この勢力は日向ともなんらかのつながりがあった。
応神はその後で九州から発して三輪王朝を簒奪・継承した。
継承であるから三輪王朝の伝承も消さなかった。
もし九州勢力が相当後まで優勢なら、神武に限らず何度も政治的干渉を加えていたはず。
六国諸軍事の印爾は伊達じゃないだろう。実際に南朝からの使者も来たはずだし、それを
目の当たりにすれば、実力以上に九州が大きく見えていたのも間違いない。
もしかしたら、仮に血統として絶えていても、初めて九州勢力が近畿=敵地に勢力を扶植
したという象徴的意味で初代の輝かしい伝説とともに伝えられたのかもしれない。
実際には、単純に一直線の系図ではなく、何度も断絶があっただろうし、色々な勢力が入り
乱れていたかもしれない。
さらにこれは想像だが、日本で長らく行われてきた、最高実力者が天皇の補佐として陰に隠
れるという構造が、卑弥呼の時代の政祭分離から来たのかもしれない。ヤマトにすれば、九
州の血統を持つ天皇から直接背く発言は出来なかったので、代わって別の権力者が実務を
取り仕切ったのかもしれない。
倭国は基本的に海洋国家だから、領土的野心は畿内より半島側にあった。
畿内は交易で繁栄しているのに、倭国直轄領にはしなかった。
畿内の首長連合に「恭順」を認めさせていればよかったのである。
しかし極東300年戦争(4C後半〜7C後半)に「兵を出せ」といわれて
だんだん九州に対し畿内は服従しながら対立色を強めた。
継体の反逆はその表れである。
畿内は海外と敵対する気などまったくない。むしろ身近な新羅とは
お互いに最恵国関係だった。九州倭国は百済に肩入れしたため
新羅と敵対関係にあり、畿内は友好国新羅と戦わされるはめになった。
倭国王朝内も政権争いは激しく、一枚岩ではなく、畿内も同様だった。
九州は軍事国家、畿内は経済国家という性格の違いはあったにせよ、
両国間で合従連衡工作はさまざまに行われたに違いない。
政祭分離は、対馬の天照による出雲国の宗主権剥奪のさい
考え出した苦肉の策でしょう。
九州倭国では、のちに兄弟統治制をしき、政祭分離ならぬ
政祭両王の共立制にした。
217 :
ty270410:04/06/12 22:51
>>214 >>215 >>216 お話としては大変面白いですね!
でも,典拠を差し支えない範囲で(著作権にひっかからない範囲で)
示していただけると納得性が出てくるように思います.
『宋書倭国伝』
『隋書倭国伝』
『旧唐書倭国伝』『同 日本国伝』
『古事記』『日本書紀』
この程度です。
219 :
日本@名無史さん:04/06/12 23:14
>>218 違うよ。お前の電波の発信源だよ。
古事記も日本書紀もどう縦読みしてもそんな電波は飛ばんよ。
220 :
日本史@名無しさん:04/06/12 23:17
221 :
日本@名無史さん:04/06/12 23:24
どこが電波なの?
>218のように漢籍読めば普通自分なりに解釈するでしょ。
>219は自分の見解がないワケね。
とりあえずは
>>219の見解を明らかにして貰おうか。
話はそれからだ。
223 :
ty270410:04/06/12 23:49
>>218 わかりました.示していただいた典拠を下敷きにして
構成されたものと理解しました.
小林恵子先生も同様の典拠に依拠しつつ,大変面白い
説を述べておられます.
214さんも同様に面白い説を提出されたと理解しました.
224 :
日本@名無史さん:04/06/13 00:01
話にならん。
225 :
ty270410:04/06/13 00:02
王統の経過は文献資料がないとわからないのでは
ないでしょうか?
考古資料では,ある文化が急速に移動してきたことは
わかっても,それは王統には結びつきません.
もしも,文献資料がなかったら13世紀に今のウクライナに
中央アジアのトルコ系文化が急速に侵入して,トルコ系の
王侯の名前を刻んだコインを残した.恐らくホラズムの王族が
侵入したのであろう.
こんな結論になると思います.文献資料ではモンゴル治下の
キプチャク汗国を記録していることはご承知のとおりです.
226 :
ty270410:04/06/13 00:08
文献資料といえば
「崇神天皇」の「ミマキイリヒコ」という和名を
ミマナからキてイリ婿した男子と解する見解は
前からあるようですが,唯一の痕跡かも知れないし,
またそうでないかもしれないと
私は思っています.
>>225 そうですね。確かにその通りで、あくまで空白の四世紀というのはよくわからない訳で。
でも、われわれ現代人が何をどういおうと、実際にはその時代の営みは確実にあったわけで、
ならばより確実な視点や方法論で推理し、それと考古学的成果と合致するように考えていかな
いとしょうがないです。いきなり天皇が出現して全土を支配するなんてあり得ない。すこしづつ小
国から連合、更に覇者の出現と合従連衡、統一戦争・・・・・。こういった人類史的に不偏なパター
ンを辿ったと言うこともまず間違いないでしょう。
とにかく、天皇陵の発掘、それに出土品の放射年代による再評価が早急に望まれます。ある意
味、空白といわれる理由もその二つの事項に負うところが大きいと思っていますので。
>>226 ああ、名前からの分析もありますね。大倭がつくとかつかないとかw
これも本当は意味があるんだろうけど、記紀の編集&捏造方針がその点について
どのような方法論で行われたかということを明確にしないと、泥沼にはまりますよね。
実際、所与の前提抜きの推理はたくさんあるけど、正直私にはよくわかりませんw
あるいは、全部実名だとも思うのですが。帝記を口伝(或いは口述筆記した書記)達
が嘘を伝えるというのもどうかと思いますし。間違えたら処罰されるぐらい厳重に記
憶されていたことでしょうから。ただ、ヤマトタケルってのはシンプルすぎて実在かど
うか流石に怪しすぎるけど。今なら「日本太郎」って感じですかねw
それと古代言語や音韻の問題、それと表記の関係など、私には難しすぎて降参です。
ただ気になるのは、何で「祟り」という字を使われたのかということですかね。後代の使
われ方を見てもあまり良い意味で使われていない。なんで御肇国天皇が祟るんでしょ
うか?
4世紀は半島情勢が風雲急になったのがとても大きいと思います。
高句麗・百済・新羅・倭と全役者が大立ち回りしています。
畿内は交易で栄え、九州は戦いに奔走している構図です。
230 :
日本@名無史さん:04/06/13 04:51
>>228 あの、崇神の「崇」は崇拝の「崇」なんですけど…。あと、この板にある、
【「崇」字をもつ天皇たち】でそれらしい考察は有りますが。
>>226 ミマキイリヒコのミマキは御真木であって、大神神社の神木で船材でもある、
杉のことだと思われます。
崇神が初めて船を造ったという伝承とも符号しますし。
在日・強制連行の神話
鄭 大均
文春新書
■内容紹介■
在日は強制連行されてきた人々とその末裔だとする主張がある。が、一世の証言に丹念に
あたれば、それが虚構にすぎないことが分る
在日コリアンのほとんどは、戦前、日本が行なった強制連行の被害者及びその末裔だ、と
いう「神話」がある。拉致問題で北朝鮮を非難する声に対し北擁護派がしばしば持ち出す
のが、昔、日本はもっと大規模な拉致を行なったではないか、というこの「神話」だ。が、
著者は在日一世の証言を多数提示する。それらを読むと、大多数は金をもうけにあるいは
教育を受けに、自らの意志で海峡を越えたことがわかる。本書はこの「神話」が政治的プ
ロパガンダの産物であることを明らかにする。(SH)
http://202.32.189.64/book_db/html/6/60/38/4166603841.shtml
>あの、崇神の「崇」は崇拝の「崇」なんですけど…。
その字は同じ祀るでも、畏れ多い神を祀る、或いはその人自身がやんごとなき神に
なったという意味。崇道天皇、崇徳天皇、崇光天皇、どれも良い意味には使われて
いない。
特に、日本書紀以前にも崇峻天皇の用例があり、これをしも崇拝というのかな?
少しは勉強しる!
>>232 いや、私は崇神の「崇」は祟りという字ではなく、崇拝の崇ですよ
と228さんに指摘しただけで…。
淡海三船らが「崇」を悪い意味で使ったと考えてます?
「崇」が悪く使われ出したのは崇徳以降では、と私は考えてます。
舎人親王も淳仁の時に崇道尽敬皇帝と追号されてますし、
奈良時代の人々には「崇」が好ましくない字という認識はなかった
と思われます。
>>233 そんなに小まめにお馬鹿さんの相手をしなくても良いのでは・・・
235 :
ty270410:04/06/13 21:27
>>230 ご教示ありがとうございます.
そういう解釈もあったのですね!
>>236 232を削除依頼したのか?
ついでに236も依頼しといたらどうだ(侮 ←因みに、これは「梅」って字じゃないよ
238 :
日本@名無史さん:04/07/01 16:37
祟崇祟崇祟崇祟崇祟崇祟崇祟崇祟崇祟崇祟崇って、なんで似てるの?
239 :
ty270410:04/07/01 22:51
>>227 おっしゃる通りだと思います.
文献でいうと,3C前半のヒミコ以後,5Cの倭の5王以前の時期です.
断絶があります.まさに,空白の4Cです.
考古学では形式編年で3C前半のマキムク遺跡の前方後円墳から
5Cはじめの大古墳まで王墓級の古墳が連続的に確認されています.
こちらの4Cは空白ではありません.前後と連続しています.
これらの形式編年を大型の質量分析や年輪年代法で実年代に
変換することが急務でしょうね!
240 :
日本@名無史さん:04/07/02 15:08
>>239 遷都したからでしょう。福岡から佐賀ないし熊本に。
241 :
日本@名無史さん:04/07/04 19:43
今時、空白なって言っているやつはいねえよ。
考古は、豊富だしな。
242 :
日本@名無史さん:04/07/04 21:27
はやく測定し直さないと、どんどん捨てちゃってるからなあ・・・>土器
244 :
日本@名無史さん:04/08/02 23:16
391年の時点で、半島進出があったことは確実なわけだけど、
大和政権が九州支配に至ったのはそれより前なわけで、
九州説では3世紀後半まで違うわけで、
とすると、4世紀前半に九州支配?
>>244 難しい。途中に吉備、出雲もあり、吉備は同時代の大和より巨大な前方後円墳を持ってたりする。
それらを平らげながら、更に九州という一大物流集積地まで攻め上り、更に平定するのは、発掘
結果から見られる当時の畿内勢力の力を考えても無理ではないか。
早くて5世紀、遅ければ磐井の乱、更に遅ければ白村江前後まであり得る。
246 :
日本@名無史さん:04/08/03 09:55
そのころ熊襲は、なにやってただ。
わかんね>熊曾
何で後々まで半独立状態だったのか・・・・・。
1 強かった
2 土地が痩せてて、イラネ
3 宇宙人?
その頃は(熊襲・隼人も含めて)九州はとっくにヤマト朝廷の支配下だろ。
>その頃は(熊襲・隼人も含めて)九州はとっくにヤマト朝廷の支配下だろ。
きっちり論証して見せてくれ。古墳が云々とかマキムクとかじゃなくて。
>>249 246のいう「その頃」が、
245のいう「早くて5世紀、遅ければ磐井の乱、更に遅ければ白村江前後」
のうち、どこらを指していってるのかによるな。
251 :
日本@名無史さん:04/08/24 12:47
その頃=唐による占領軍の撤退後
252 :
日本@名無史さん:04/08/25 14:38
ここは四世紀のスレだろ
253 :
日本@名無史さん:04/08/25 15:06
>>248 大和朝廷と隼人との大戦争が始まるのは702年つまり8世紀ですよ
大和朝廷が九州を完全支配するのは、4世紀どころか、更に400年後の話です
ちなみに、蝦夷との大戦争が始まるのが709年でほぼ同時期です
253 ならば倭建命は8世紀の人かい?
>>253 一回統一した後に
仲違いしたってことはないの?
256 :
日本@名無史さん:04/09/16 07:10:35
>>255 もしも過去に統一したら、当時なら国造などが置かれるはずだろ?
>>256 伝承では「唱更国造」は景行朝に設置されたことになってるけど。
はっきり言えば、古墳内部を調べるしかないだろ。
超小型探査ロボの出番だな。
259 :
日本@名無史さん:04/10/03 18:53:56
260 :
日本@名無史さん:04/10/04 17:49:48
4世紀の金官の王墓からは畿内系の祭祀器具が出る。
(もちろん主として出るのは北方系の武器だが)
これは4世紀に、畿内の三輪王朝と金官の扶余王朝が、九州を飛ばして
直接に提携したことを意味しているのではないか。
と、最近考え始めた。
261 :
日本@名無史さん:04/10/25 23:51:51
うそや
262 :
日本@名無史さん:04/10/26 00:08:47
応神は金官加羅から来た傭兵隊長、これ定説。
264 :
日本@名無史さん:04/11/09 10:03:12
このスレはあまり盛り上がらないね
大学とかの研究室とかもここら辺は
情報がないから取り扱いにくいのかな?
そうではなくて、資料がない故に権威主義のピラミッドがきつすぎてうかつに物が
言えないのが真相。
天皇陵の発掘も実現できない学者連中の権威など糞みたいなもんだけど。
266 :
日本@名無史さん:04/11/13 16:15:17
資料がないのは、 漢が中原から南と東に民族大移動を起こした時期だよね
そして、空白の100年後、日本では漢字が使われはじめ
様式が漢になった。
単純に、漢の一派に日本は乗っ取られたんじゃないの
267 :
日本@名無史さん:04/11/13 16:24:20
金官加羅を治めていた扶余の王が、列島にはまだなかった騎馬戦術による
力を背景に、まず北九州の在地勢力に迎えられ、祭り上げられたというのは
あり得るすじがき。
推量でものを言っているのはわかるんだけど、それでも最低限根拠となるものを示さないと
仮説としてですら価値が低くなっちゃうよ。
どうせ書くならちゃんと賛同できるような言い方を工夫しよう。
てつはう
270 :
日本@名無史さん:04/12/03 00:54:49
それがなにか
271 :
日本@名無史さん:04/12/03 01:51:57
つーか
朝鮮系の異民族が侵入して政権を樹立したなら徐福伝説のような
伝承のひとつやふたつ残っていそうなものだけどな
8世紀でも百済人の血を1パーセント以下にも関わらず引いていることから忌避されて
一生皇后になれなかった高野新笠みたいな例もあることだし
仮にも半島系の血を引いているなら天智天皇の白村江なり藤原仲麻呂の新羅出兵なりで
大義名分にしてもよさそうなものだけど
倭王武の上奏文でもその目的から半島系の血を引いてるならアピールしそうなものだが
まったく触れられていないし・・・・・・・・
朝鮮系は考えるまでもないだろう?
272 :
日本@名無史さん:04/12/17 17:52:41
巨勢氏の“台頭前夜”表す 3〜5世紀の古墳群、集落跡が重複−−薩摩遺跡 / 奈良
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041215-00000249-mailo-l29 高取町薩摩の薩摩遺跡で、3世紀中ごろと5世紀ごろの二つの古墳群と、これらに挟まれる時期の集落跡が重複しているのが見つかった。
同地域ではこれまで、6世紀より前の調査例があまりなく、14日発表した県立橿原考古学研究所は
「6世紀以降、一帯を本拠地とした有力豪族・巨勢(こせ)氏の『台頭前夜』の様子が分かる貴重な資料」としている。
◇三つの集団、拠点築く?
国道169号高取バイパス建設に伴い、今年5月から約6000平方メートルを調査。
紀元前後の方形周溝墓と木棺墓▽3世紀中ごろの円・方墳計4基▽これを一部壊して造られた竪穴住居3棟
▽集落廃絶後に造られた5世紀の円・方墳計5基――などが見つかった。
5世紀前半の方墳からは国産の青銅鏡(直径約9・5センチ)や漆塗りのくし、鉄製甲冑(かっちゅう)の破片などが出土。
別の5世紀代の円墳の溝からは、朝鮮半島の土器をまねた韓式系土器も見つかった。いずれも地域の首長クラスの墓とみられる。
普通なら別々に造営される古墳と集落が重複していることから、少なくとも三つの集団が入れ代わり立ち代わり、この場所に拠点を構えたと考えられる。
同遺跡は、大和と紀伊を結ぶ古代の幹線路・紀路(きじ)に面しており、橿考研は
「人や物、情報が往来するこの土地が重視されていたことを示す」としている。
橿考研の松田真一・調査研究部長は「一帯には市尾墓山古墳(同町市尾、6世紀初め)など、
巨勢氏にかかわると考えられる古墳時代後期以降の古墳が多くあるが、それ以前の考古学資料がなかった。
この地域の『前史』を考えるうえで重要な遺跡」と話している。
現地説明会は18日午前10時〜同11時半。近鉄吉野線市尾駅下車、徒歩約10分。駐車場はない。
273 :
日本@名無史さん:04/12/17 17:59:31
一等地に集落、古墳群−高取・薩摩遺跡
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041215-00000000-nara-l29 高取町薩摩で、3世紀中ごろから5世紀代の古墳10基と竪穴住居跡などが見つかり、県立橿原考古学研究所が14日、発表した。
和歌山方面への古代の街道「紀路」に沿った一等地で、同地域の首長らが、繰り返して墓地や集落を営んだらしい。
青銅鏡など副葬品も出土、薩摩遺跡と命名された。
国道169号バイパスの建設に伴い、約6000平方メートルを調査している。
古墳の築造時期は大きく3世紀中ごろと5世紀代に分けられ、いずれも円墳と方墳。
一辺の長さは10―15メートルで、周濠(しゅうごう)を接するほどの近さで密集していた。
このうち、5世紀前半に築かれた5号墳は埋葬施設が残っており、直径9.5センチの青銅鏡一枚と鉄製かぶとの一部、漆塗りのくしなどが見つかった。
青銅鏡は国産で、乳(にゅう)と呼ばれる突起の間に獣のような文様を配置、初めて確認された文様形式という。
5世紀後半の古墳からは、朝鮮半島の流れをくむ韓式系土器や盾形の木製品も見つかった。
274 :
日本@名無史さん:04/12/17 18:10:36
巨勢氏は渡来系
275 :
日本@名無史さん:04/12/17 18:10:48
日本歴史学の「韓流」については、
戦前から日本に留学していた人達、
あるいは戦後に略奪占拠火事場泥棒で成り上った人達、
これらまで加味しないと理解は出来ないかもしれない。
彼等が日本に対して行ってきた事の言訳の面も強い。
276 :
日本@名無史さん:04/12/17 18:14:28
仮にイギリスがドイツとの戦争に敗北し、
フランス人に略奪され占拠された後で、
当のフランス人から、
「おまえたちは我々に占領されて国を造ったのだから黙ってろ」
と言われれば、どんな気持ちがするだろうか。
日本における戦後の奇妙な流れも、
実際には、こういう面も有るように思われる。
吉野ヶ里の牧とか厩の跡、どこの馬の骨が大量に出土したとか聞かないなぁ。
278 :
日本@名無史さん:05/01/02 00:59:38
>>245 >吉備、出雲もあり、吉備は同時代の大和より巨大な前方後円墳を持ってた...
を征服した痕跡はないからねえ。吉備勢力は、5C後半の雄略朝に至っても、服従と
いうより、大和政権の大王と対等に近い振る舞いが記紀に記録されてるからねえ。
記紀の記す半島出兵軍に吉備氏の名前があったかな。
281 :
日本@名無史さん:05/01/02 17:01:29
日本語の馬は字音語
283 :
日本@名無史さん:05/01/02 23:56:27
記紀にある、成務時代が卑弥呼の時代じゃないのか?
弟王が記紀でいうところの成務に当たる人物。
それ以前の乱世の王が、景行と後にいわれた人。戦の記述が豊富。
卑弥呼後の乱世の王が、仲哀と後にいわれた人。短命政権。
台与は記紀に伝えられる神功皇后。
その嫡子が誉田別大王。
284 :
日本@名無史さん:05/01/15 15:57:26
台与の夫は??
285 :
日本@名無史さん:05/02/01 14:42:08
やっぱ、高句麗の影響がこの時にあったんじゃないか?
景行は記述が怪しすぎ。
それに例の巡行(征服戦?)がなんで九州に始まって九州に終わるのか。
景行紀は偽作、もっと後の時代の記録を利用しているだけ。
>>286 九州を征伐しにいってるんだから当たり前だろ。
289 :
サガミハラハラ:05/02/16 16:44:40
空白の4世紀といいますが、355年の神功皇后の新羅遠征は真実であり、仲哀天皇
351年即位まで確定できたと思います。記紀や三国史紀、好太王碑文との照合の結果、4世紀後半は空白の世紀ではなくなりました。
290 :
日本@名無史さん:05/02/16 20:53:36
倭が新羅に攻めたのは事実でも
それが神功皇后とは限らないよ
>九州を征伐しにいってるんだから当たり前だろ。
お前読んで言ってるのか?
九州一周があれだけ事細かに書いてあるのに、なんでそこいくまで何も書いてないのか
説明できるのか?九州一円を征伐するだけの軍を持っていったら、相当な苦労があった
はずだが。せめて船の事なんかも書いてあれば額面通り受けとめんでもないがな。
292 :
日本@名無史さん:05/02/16 23:13:05
神功皇后・仲哀は実在性が謎。神話は矛盾だらけだし。ただ、元になる出来事はあったのだろう。
293 :
サガミハラハラ:05/02/17 08:12:21
創作といわれていたのですが、非科学的と思われていた説話も科学の進歩によってありうる事象であることが判明してきました。仲哀・神功皇后は
実在したとみて間違いありません。
294 :
しばらく:05/02/17 08:51:32
仲哀・神功の共通のタラシ、帯を金印に付随する紫綬↓と読む。
http://www.tabiken.com/history/doc/B/B190C200.HTM 漢代の綬は長さは1丈2尺,広さ3尺であり(唐尺の1尺は8寸3厘),
長さは12カ月に法(のっと)り,幅は天地人に法るとした。1官職に官印
は1個であるから後任者に印綬を渡す形式である・・・とされる。
仲哀・神功は倭国が対馬海峡北岸を版図に入れて君臨していた1世紀
の女王、辛国息長大姫と男王、であり、息長とは対岸の中の国、といった
意味で、洛東江、楽奴国などに痕跡を残す。こうした古代の栄光は
宇佐神宮に祭られていたものが河内王朝によって接収され、今あるがごとき
神功の三韓征伐として残されたものと思う。
295 :
しばらく:05/02/17 09:03:16
古代の倭国はローマ帝国に匹敵する海の帝国であり、カラ国とは倭人から見ての
名称であったのにもかかわらず、存在するはずのない韓国、中国の王によって
倭国が統治されていたかのごとき曲解があったのかもしれない。海軍力において
倭国の制海権は遠く遼東、沿海州辺りまで伸びていた当時としては極東最大の
強国(海軍力に限り)であったのだろう。
296 :
しばらく:05/02/17 09:11:09
倭帝国の北東辺境にいたとおもわれる出雲族が聞き込んでいる武塔神などは
高句麗大武神のことであり、丹波から新羅の脱解王が出るような時代背景と
マッチしている。新羅王の使臣が延烏女(辛国息長大姫烏女命)に拝謁がか
なわなかったことや拝領した絹織物を宝庫に祭ったことが新羅の伝承として
日本のパワーをまざまざと語っている。
297 :
しばらく:05/02/17 09:21:16
延烏女とは日本語で言えば兄大女(女帝)ということで、称号自体は倭国の
ものだが、新羅が物語の出だしで倭国人としていないのが面白い。いやだったのか
あるいは三国人だったのか。なぞの人間だったのか。
298 :
しばらく:05/02/17 10:59:50
>>294 上記以下は仮説であるが、これを真とすると、欠史八代でタラシの称号を持つ
六代考安天皇は魏からヒミコに与えられた印綬を継承していたのではないか、
また、景行、成務、仲哀は神功、応神共々筑紫王朝時代のことということになる。
空白の日本史、タブーな発想としては面白い。
、
延烏女は「延烏」+「女」と考えて「女」は三国異事編纂期に付加された文字。
「延烏」の意味は「女郎」であるから間違いない。
300 :
しばらく:05/02/17 15:16:37
延烏郎については浦シマコという官職を考えている。迎日湾など北岸、南岸の津々浦々
と島嶼部の管理長官だ。これは100年後の奴国でもニギと同格で残っている。丹波出身者
でもこうしたのがいて浦島太郎となったのだろう。海人族の帝国だからなー。当時は一部
在日のような拗けた鮮人はまだいなかったのと違うか。
>>271 >朝鮮系の異民族が侵入して政権を樹立したなら...伝承のひとつやふたつ...
イワレヒコを酋長とする天孫族集団が、風体が同じ人間とは思えぬと映った先住
ツチグモ族等を制圧して神武政権を樹立した伝承が、由緒正しい記紀に収録され
ておりますが。もっとも先住族出身のタタライスケヨリヒメを皇后に迎えており
ますから、制圧でなく、実体は先住族に婿入りしただけなのかもしれませんが。
302 :
日本@名無史さん:05/02/17 20:54:08
高千穂とか出雲とか朝鮮とか実際に地上の地名として登場した土地は高天原を名乗る資格ないよ。
>>291 だから九州征伐が最初から目的だろ。九州までの道中なんて何の関係があるんだよ。
>>290 そりゃそうだ。神功皇后の新羅征伐は一回だけど、倭が新羅を攻めたのは無数にあるからね。
歴史を捏造、婉曲するのは政治家官僚の仕事。
学者は心置きなく真実を追究するがよい。
307 :
しばらく:05/02/18 21:29:01
歴史と宗教の混同を許すから天皇制が科学に対置する形、すなわち、
カトリック教、イスラム教と同じような状態になっている。日本と同じ立憲君主制
をとる欧州、タイなどの諸国と比較して日本の神道、仏教界の歴史に対する
方針に前向きなところがないのではないであろうか。国民の知的水準、感情的
水準に国際社会からの理解が得られにくいものがあると靖国などに不気味なもの
を感じる隣国があってもおかしくない。21世紀にもなってこの状態はおかしいよなー。
お前らどう思う?
308 :
しばらく:05/02/18 21:33:39
科学的に裏づけされた純粋の神道、天皇制ならば逆に国際的に尊敬を受ける
と思うがね。
309 :
しばらく:05/02/18 21:43:30
日本の記紀は宗教的プロパガンダというよりは政党の歴史といった感じであり
神にアクセントが置かれていない。聖典としてはドブロクのような感じですっきり
していない。旧約聖書的であって、新約聖書でないが、旧約聖書よりも宗教色は
少ない。しかし、古代の宗教がどうであったかという史実はよく伝えていると感じている。
310 :
しばらく:05/02/18 21:54:48
日本は中国や朝鮮とは違うんだ、偉いんだとばかり言っているのは
風呂屋で一人パンツをはいているような餓鬼の心理だと思うが、周辺国
もサッカーの試合など見てるととても成長していると思えない。テポドン
なんて基地外もいる。だから発進速度には気をつけなくちゃなんないが、
ぼちぼち、世界史の仲間入りをする時代に来てるのかもしれない。
311 :
日本@名無史さん:05/02/19 09:23:34
応神は金官加羅から来た傭兵隊長、これ定説。
>>311 それは珍説。2chでも昔からあちこち貼って回ってるオマエしかいない。
しかもオマエは結論を1行カキコするだけで
途中の考察や論証を書いたことが一度もないから
2ch歴が長い割りには一度も誰からも取り上げられたこともないし
まったく広まってないね。
313 :
日本@名無史さん:05/03/06 11:51:03
金官加羅って、倭人が作った国?
314 :
日本@名無史さん:05/03/10 04:56:21
神后記の三韓征伐までの記述はどの程度史実なのかわからないが、
その後のくだりは、北九州を本拠地にした勢力が
九州や瀬戸内の豪族や海人の支持を得て、
畿内王権の後継者たる忍熊皇子を倒す話に読める。
応神天皇の父親をどのようにイメージするかが鍵だろう。
継体のように畿内王族の傍流だったとも考えられるし、
畿内王族と姻戚関係を持つ九州の豪族だったのかもしれない。
金官加羅の王は?
金官加羅の王は倭人の子孫。
318 :
日本@名無史さん:2005/03/30(水) 23:07:36
しかし、金官加羅って裏切ったんじゃなかった?
319 :
日本@名無史さん:2005/03/30(水) 23:21:34
>>316 倭人伝に「世王有る」と、書かれているだろう。
元は、倭人の国
320 :
日本@名無史さん:2005/03/30(水) 23:31:25
321 :
ty270410:2005/04/13(水) 22:39:52
史実から−−3世紀中葉に邪馬台国のヒミコ親魏倭王に封じられる.
推測−−親魏倭王の称号を得たことで中国風の王府を開設,これが
倭国を統一する権威の源になった.
史実から−−3世紀末,倭の女王晋に朝貢
推測−−多分晋から倭王に封じられた.権威の源獲得.
史実から−−3世紀末,華北に五胡侵入,楽浪,帯方孤立
推測−−晋との交流ままならず,倭の邪馬台王朝権威の源を
失い衰退する.権力闘争おこる.
いよいよ4世紀
推測−−大和朝廷の祖が倭国の王権を獲得,前方後円墳体制の構築を
開始
史実−−313年楽浪郡高句麗の南進により滅亡
推測−−続いて帯方郡の高句麗の南進で滅亡,馬韓,辰韓,弁辰は高句麗の
直接の圧力を受け,政治体制流動化し,離合集散がおこる.百済など新興
勢力の出現.
倭国への亡命・移住者頻発,倭国も高句麗の圧力を感ずる.倭国朝鮮半島
からの鉄の輸入と渡来人の技術を活用して武力を増強する.
こうして4世紀中葉を迎えます.
322 :
ty270410:2005/04/13(水) 23:00:49
>>321の続き
史実−−346年前燕高句麗の首都を攻略,王族と軍隊主力を前燕の
首都へ連行,このとき高句麗に協力した百済軍も同様に連行.高句麗
は事実上滅亡.
推測−−突如北方に政治的空白出現の朝鮮半島,南部の勢力の活発な
活動が想像される.新羅,任那,加羅などの新興勢力の勃興はこの
ころか?馬韓,辰韓の残存勢力も細々と存在か?
倭国,おそらく朝鮮半島に鉄と技術を求めて活発に交流
史実−−357年前燕本拠を遼寧省から河北省へ移動.
推測−−高句麗,百済は元の地へ戻って復興.
再び高句麗の北から朝鮮半島南部の諸国を軍事的に圧迫開始.
朝鮮半島南部諸国は倭国に支援を求める.倭国それに応えて
支援,援軍派遣をおこなう.
この後に,
史実−−七支刀の時代
史実−−広開土王碑文の時代
そして5世紀の
史実−−倭5王の時代
と続いていきます.
323 :
ty270410:2005/04/13(水) 23:07:12
>>321 >>322 中国の史書から朝鮮半島の情勢を推測し,それらとの
連動として4世紀の倭国を考えてみました.
私は4世紀の倭国は華北と朝鮮半島との緊密な関連のもとに
あったと考えるものです.
以上の経過を考古資料と突合せ,記紀伝承と結合するならば
かなり豊かに4世紀の倭国史を再構成できるのではないでしょうか?
そろそろ,思いつきや恣意性に満ちた議論から卒業したいものです!
324 :
日本@名無史さん:2005/05/04(水) 19:49:02
記紀それ自体が恣意性に満ちているじゃん
当時の日本でどれだけ中国のことが知られていたのだろうか
ほとんどの人が知らなかったのではなかろうか
その日本で、中国から封じられることがどれだけの意味をもつのか疑問
金印から何百年もたつのに知らなかったという理由は?
327 :
日本@名無史さん:2005/05/18(水) 20:54:47
古墳掘らせろ
328 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 19:04:56
>>325 中国は知らなくても中国からの下賜品は見られるからな
329 :
日本@名無史さん:2005/06/02(木) 23:33:55
そうか
俺に古墳を掘らせろー
日本をインドに
しーてしまえ
>その日本で、中国から封じられることがどれだけの意味をもつのか疑問
( ´,_ゝ`)
332 :
日本@名無史さん:2005/06/15(水) 18:06:37
六朝の権威もねぇ。。
無理にわからない時代のことを、想像で補うのはまずいと思う。
一つ間違えると、<朝鮮半島の古代史>になってしまう。
334 :
日本@名無史さん:2005/06/25(土) 00:34:19
【高句麗】中国人研究者「好太王碑、新資料発見で改ざん説否定された」[06/23]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1119618672/ 古代の東アジア情勢を伝える第一級の史料で、日本の大陸進出を正当化するために旧日本陸
軍が碑文を改ざんしたとの論争がある好太王碑(広開土王碑、中国吉林省集安市)の新たな墨
本(ぼくほん)が中国で発見された。鑑定した中国の研究者は「現存するもので最古」と判断。
旧陸軍が中国から持ち出し、これまで最古とされてきた墨本と、書体や文面がほぼ一致するこ
となどから「改ざん説は否定された」と結論付けている。
好太王碑は、高句麗王朝19代の好太王(374〜412)の功績が刻まれ、1880年ご
ろに発見された。倭との戦いが記されていることから、日本書紀にある古代日本の朝鮮出兵・
支配を裏付ける材料となってきた。
酒匂本と新発見の墨本は文字がよく似ており、「来渡海破」も大きな違いはない。一方、新
発見本には入手経緯などを記した4人の跋文(ばつぶん)(書き付け)があり、徐教授は書き
付けた人の役職の移り変わりなどから「81年より前に作られた」とみなす。酒匂本より古い
本に旧陸軍士官の意向が働いたとは考えられず、徐教授の見解に従えば改ざんは否定されるこ
とになる。
335 :
日本@名無史さん:2005/06/25(土) 00:40:11
これで、4世紀に、倭が半島に進出していたことが確定しましたね。
我々日本の歴史の空白の4世紀に光が。
336 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 07:25:02
337 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 08:28:55
讃の遣使が5世紀初めだから、好太王碑の4世紀末の
倭の渡海は、その前の代となる。讃が仁徳だとすれば
応神となる。『日本書紀』が半島征討を、応神の母の神功
皇后の代のこととするのも強ち的外れでもない。蓋し、
『日本書紀』は神功皇后を卑弥呼に措定したため、無理
な紀年をとらなければならなくなってしまったが、それさえ
除けば意外に史実の窺われる部分も多からんか。
讃、弥、済、興、武、が
応神〜雄略、の何れかとする根拠は?
皇統譜にあてはめただけ?
松下見林だっけ?
こんな罪なことを言ったのは
別王朝って可能性は無いの?
まず無い
340 :
サガミハラハラ:2005/07/07(木) 19:48:37
何れかとする根拠は、欠く各王の年代と各天皇の年代の一致をもって確定されます。
和名の一部をもってするのは誤りです。
讃=仁徳天皇(411〜432)珍=反正天皇(436〜438)済=允恭天皇(438〜459)
興=安庚天皇(460〜461)武=雄略天皇(461〜478?)
済の貢献の使者は済の死後到着しています。
興の貢献の使者も同様、興の死後到着しています。
履中天皇の貢献の記録はありません。
>>291 >九州一周があれだけ事細かに書いてあるのに、なんでそこいくまで何も書いてないのか
>説明できるのか?
前代の崇神の時に、出雲は「国譲り」させてるし、吉備は盟邦だし、特に
記載するような難渋がなかったためかも。
>九州一周があれだけ事細かに書いてあるのに、なんでそこいくまで何も書いてないのか
>説明できるのか?九州一円を征伐するだけの軍を持っていったら、相当な苦労があった
>はずだが。
どこにテーマを持っていくかは記述者の特権で、景行紀を編纂した人々にとって、
書くに値しないと判断されたのかもしれません。もしくはそのような伝承が
単に残っていなかっただけかも。
大体、磐井の乱の時も、別に遠征途上のことなんか書いてないだろ。
大軍を動かす以上、その苦労は相当であろうが、天皇の輝かしい戦果を描くつもり
であるなら、そんなものは蛇足に過ぎないんだよ。分かりる?
342 :
日本@名無史さん:2005/07/09(土) 15:41:19
応神は金官加羅から来た傭兵隊長
343 :
日本@名無史さん:2005/07/09(土) 15:46:16
ウチのご先祖さんは三韓征伐の折香椎の皇居に轡を納め神功皇后より直々に姓を頂いたと誉田八幡宮の縁起書に書いてある。
344 :
日本@名無史さん:2005/07/09(土) 15:46:58
そう源氏(ツングース)こそが
その渡来人である。
源氏政権である現政権を続ける限りみな
韓国人のような顔になるのであるw
345 :
日本@名無史さん:2005/07/09(土) 23:45:40
>>335 日本の歴史と言ってる時点でダメだなw
倭族が日本を作った訳ではないのだからw
日本列島の歴史とするなら半分点数を上げようw
346 :
日本@名無史さん:2005/07/09(土) 23:53:21
もう日本(にほん=ツングース語)という名称は止めましょう
ヤマトの国です。
347 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 01:24:32
邪馬台=(山と)=大和
卑弥呼=日巫女か日皇子か日御子かひつぎのみこと
当て字を見つけれる訳ないじゃん。
歴史学者のセンスのなさには呆れる。
俺のセンスでは、、、
ヤマト→山人
ヒミコ→琵美子
349 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 08:30:21
天皇家=朝鮮人
でいいですね。
高松塚古墳の壁画を見れば明らかです。
350 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 08:35:32
朝鮮じゃない、ツングースだと言ってるだろ、
事実が分かったら全板に伝えろ!!!
キチガイだと思われても伝えろ!!
351 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 08:38:28
>日本書紀には「神武天皇は空から降ってきた」と書いてあるが空とはどこか。
これはどこから来たのか忘れた..ということだ
そしてアイヌ人とあるときは争い日本列島に根をおろした
と大川周明が日本二千六百年史に書いていますた!
ナンと恐ろしい皇国史観なんだアアアア!
352 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 10:14:40
古代、まだ竪穴住居に住み、採集狩猟生活をしていた縄文人。
朝鮮から渡ってきた文明人は、まず彼らに米の作り方、火とカマドの使い方を教えた。
次に、その身なりを哀れに思い、衣服や履物の作り方を教えた。
そして、文字を教え、文明思想を伝えた。
百済に中心を置いた当時の政治勢力は、列島に軍司令官を派遣して治めさせた。
司令官は、九州から近畿まで、土着勢力を征伐し従えながら百済の勢力圏を広めた。
伊勢近辺で土民と対峙し、そこに宗教施設を造営して境界とした。のちの伊勢神宮である。
奈良に本拠地を置き、そこに誕生した都市国家群を称してその土地を”ナラ”=諸国と呼んだ。
しかし、土着するや司令官は天皇と僭称し、直ぐに増長して本家に謀反・敵対を始めた。
今日まで日本人が朝鮮に劣等感を抱き、侵略を企てる基礎がここに定まった。
天皇を朝鮮に来させ、土下座させて歴史の全てをわびさせなければ改まるまい。
353 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 10:23:35
>>352 それだけではない、君らにはもっと深い歴史がある筈である。
そこに解決のヒントがあるように思う。
現代朝鮮人と百済人って人種的に全然関係なくね?
355 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 15:14:33
全然関係ないと言うのは難しいのでは?
現代朝鮮人はモンゴル人
モンゴロイドにも
新旧なかった?
358 :
しばらく:2005/07/12(火) 06:52:57
>>354 百済は百もの部族集団で、その一部集団に韓人集団があったとしてもおかしくはないが、
日本に渡来したのは半島に渡来したもののみで、半島の現地集団は移動性ではなかった
ということではないのだろうか。韓人の排他性を考えると彼らはやすやすとは動くまい。
359 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 12:30:04
>>1 >>空とはどこか
天空の城ラピュータだ。
ガリバー旅行記に書いてあった。
ガリバーは長崎を出てラピュータに行っていることから、ラピュータは九州に近い。
神武天皇が降臨した場所が九州であることをから、やはりラピュータとの関係が考えられる。
最大の焦点は、神武天皇の姿が何であるかだ。
ラピュータでは人の姿をした「ヤフー」はサル以下の生き物である。
降臨した時の姿が「馬の姿(フウイヌム)」をしていれば、理知的な生物である。
もし、神武天皇がフウイヌム(馬面)であれば、後に流れ星と共に馬小屋で誕生した「馬宿の神子(キリスト)」と同祖と言う考えが有力になる。
もし神武天皇とキリスト(ユダヤ人)は同祖であることが学会で認められれば、巷で言われているユダヤ・日本人同祖論が現実味を帯びてくる。
360 :
がいやまん:2005/07/13(水) 13:26:38
ロンドン、ニューヨーク、イラク、アフガニスタンと一神教選民思想は世界を破滅に
導いている。そうした思想に神武をおくというのは無理がある。神武は建設者であり
破壊者ではない。どちらかといえばキリストの先駆者ヨハネ的な時代背景に生まれ
てはきたものの、国体の土台に徹して世を去った感がある。われわれが2000年の
長きに渡る国体を維持することと、パレスチナ、レバノンの永遠の闘争とは見事な
対極である。どちらを選ぶかは幼児にもできる選択ではないだろうか。
361 :
がいやまん:2005/07/13(水) 13:36:03
神武の紀ノ川、熊野、宇陀、イナサ/鳥見山、そして、夫餘神話に似た香春、橿原への
移動は日本建国神話の中核に夫餘の神話があることを意味するのだろう。布留川、
石上神社の布留の御霊が雄弁に物語っている。神武神話は作りもではなく真実であった
可能性が高い。
362 :
がいやまん:2005/07/13(水) 13:42:16
>>360 欧米のキリスト教民主主義は世界各地で衝突する。じゃー、日本は自衛隊を世界中に
おいても大丈夫かといわれれば、それは常識問題であり、国益に必要のないところに
まで、ガソリン代、電気代をこれ以上に上げないことといった必要がないとき、場所に
何も派遣する必要はない。
363 :
がいやまん:2005/07/13(水) 13:48:27
>>361 日本神話はスサノオ、アメノヒボコといった極めて大量で長期にわたると見られる
渡来人の流入を常にアマテラス、高天原によってコントロールしてきており、渡来人は
東国の開発に振り向けたという記録になっているので、全国的に渡来人が上に立つと
いった記録は比較的に少ない。これもまた真実だろう。
364 :
がいやまん:2005/07/13(水) 14:07:59
近代経済学は需要、消費、生産などのバランスの動きを重視するが、マルクス
主義経済学は配当性向、経営権の労働者の奪取だったと思うんだが、日本文化の方が
近代経済学、キリストやマホメットは闘争的(麻原もよく似ているがこれは純粋の犯罪者)
だよなー。間違ってたら教えてくれ。
今は時間がない漏れも生活があるんで・・
366 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 20:47:39
卑弥呼=日巫女
邪馬台国=ヤマ(タイ)コク→(タイ)をトに変化させて→ヤマト国、大和国
倭国=和国
という奇妙な一致から邪馬台国が大和朝廷になったって説はどうなんですか?
367 :
明るい人達:2005/07/24(日) 18:07:59
『共産党員、カメラ付携帯で女性の下半身をパチリ!』
大江戸線の車内にて、座ってる若い女性の下半身を
パチリ!! とやってしまったらしいよ。
しかもこの人は、痴漢冤罪(ホントはやってないのに
痴漢の罪に問われること)を訴えるグループの代表だって!
全く、説得力ナシだよね。トホホ・・・
他の乗客に取り押さえられ警察に突き出されたんだけど、
とっさに画像を消去して、携帯を壊したんだって!
思いきり認めてるようなものじゃん!!
この逮捕された共○党員の長○満ってのは、以前も
満員電車内の痴漢で逮捕されており、それをきっかけに
俺は無実だ! 冤罪だ! と言わんばかりに、
「痴漢冤罪被害者ネットワーク」という組織を作った経緯が
あるんだよ。
きっと、その当時のも「冤罪」ではなく、やってるね、絶対に・・。
何はともあれ、筆○議員のセクハラ事件といい、今回の
破廉恥(ハレンチ)事件といい、共○党は『性癖者の集団』か!!
是非、『○代まさし』あたりを党首にむかいいれたらどうですか?
368 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 19:13:22
空白の四世紀
というタイトルの本が出てる。
それ、読めば勉強になるよ。
大陸に日本語で書かれた書物とかって残ってないの?
日本語を話すが文字を持っていなかった人たちが
アイヌが住む日本のこの地に流れ着き
漢字を使って日本語文字を作っていったの?
新潟県 六斗蒔遺跡
5世紀…大和の豪族連が高句麗に負けて一時的な休戦期に入った頃…
413年 (義熈)九年是歳、高句驪、倭國、及西南夷、銅頭大帥、並獻方物。
晉安帝時、倭王讃遣使朝貢。(南史東夷傳)
372 :
日本@名無史さん:2005/08/23(火) 02:05:49
この手のスレは在日の自演
374 :
日本@名無史さん:2005/09/13(火) 02:01:08
そんなことはない
375 :
日本@名無史さん:2005/09/13(火) 14:27:12
>>352 本家、分家というなら(3世紀末に)最後に満洲から出て直接に任那にやって来た勢力が
扶余の本家であり、
その前に別れて高句麗や百済を建国した勢力が扶余の分家である。
そして任那の本家が日本列島に渡って天皇家になった。
そして任那を中継基地とし、分家の百済を指図して半島を経営した。
百済がなにかと言えば天皇家を頼り、頭があがらない基礎はここに始まった。
本家だの分家だのなにを基準にいってんだかw
377 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/15(木) 15:45:50
age
378 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 23:47:35
「韓国の日本侵略の歴史」
韓国の高霊地方にかつて倭人の国加耶(任那、加羅、安羅)がある。ここでは
鉄の生産が盛んで、近隣の百済、新羅、高句麗にはうらやましがられていた。
なかでも好戦的な新羅は加耶を圧迫した。その間も、鉄の生産は続けられ、同族
の倭人国である九州北部の邪馬台国へ鉄を輸出した。これが日本統一の原動力
となった。
加耶の倭人は、圧迫されるにつれ、出雲地方を中心とした日本海沿岸の地域
に分散し、特に出雲では製鉄を開始する。出雲地方には安来(やすぎ)という製鉄
の町があるが、もともとすんでいた地名を新天地に付け、時の流れとともに
安羅(あんら)→安来(あんらい)となったのかもしれない。安来市のとなりには
東出雲町があり、ここには阿太加夜(あだかや)神社があるがこれももともとは
安羅加耶というかつての居住地名を懐かしんでつけたものとも考えられる。
379 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 14:03:28
>>376 高句麗と百済は扶余から別れた。別れた方が分家だ。
しごくあたりまえのはなし。
>>378 その鉄産地の伽耶を、3世紀末に扶余が征服・支配したことが考古学上、推定されて
いる。
この扶余による伽耶支配の要素を抜きにしては伽耶と倭の関係史は語れないが?
日本人の祖先の大半は半島から来たという説に、今まで俺も何となく納得してたんだけど。
しかしここに来て、すごく疑問に感じることがある。
何故、対馬は日本なんだろう?
いやさ、今の一部韓国人が飛ばしてる「対馬はウリのもの」って暴論に組するとか、そんなんじゃなくてね。
半島にあんなに近いのに、だ。有史以来絶え間なく、その時々の日本の政権に帰属してるよね。
半島から侵略を受けたりとかあっても、軍が一定期間駐留して統治下においたという事もない。
結局韓半島→倭より、倭→韓半島と流れていく人が多かったって事じゃないの?
で、中国東北部あたりからなだれ込んでくる人間と、南から北上する倭人がぶつかりあったのが四世紀の半島…。
なんかそう考えたほうが、整合性が取れるような気がするんだよね。
このスレを眺めてみて、そう感じますた。
381 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 19:11:59
うそ
test
test
test
test
test
test
test
389 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 22:40:07
なんだ?
390 :
日本@名無史さん:2005/10/27(木) 02:20:19
>>379 >伽耶を、3世紀末に扶余が征服・支配したことが考古学上、推定され...
その扶余は4〜5世紀初頭には、何処に消えたんだ。高句麗広開土王が、
南進して加羅を臣民にしたと長寿王が宣告してるんだが。
391 :
日本@名無史さん:2005/10/27(木) 02:25:06
ネタないのに自演で終わらせるつもりか?難扇子。
392 :
日本@名無史さん:2005/11/19(土) 03:54:13
応神は金官加羅から来た傭兵隊長
393 :
日本@名無史さん:2005/11/19(土) 10:40:31
>>1 3世紀初頭から6世紀まで、
日本固有の前方後円墳が連続してる。
4世紀に騎馬系文化の流入があっても、
天皇家は騎馬民族ではない。
394 :
日本@名無史さん:2005/11/21(月) 06:37:55
天皇家が騎馬民族だと言うのなら
なんで朝廷軍は戦に弱かったのか
だって騎馬民族じゃないもん
395 :
日本@名無史さん:2005/11/21(月) 10:29:16
>>394 反乱した豪族だっていっしょに来た騎馬民族だ。
騎馬民族同士ならどちらか弱いほうが負けるさ。
396 :
日本@名無史さん:2005/11/21(月) 11:10:56
騎馬民族が来たとされる4世紀後半から5世紀にかけて、
大規模な戦闘跡は発見されてないんじゃないのか?
やはり文化として輸入したと見る方が正しいだろう。
397 :
日本@名無史さん:2005/11/21(月) 13:14:23
空から降ってきた=島流し
罪人てことだな
398 :
日本@名無史さん:2005/11/21(月) 23:04:41
>>396 戦闘跡なんて、そんなら戦闘があったことが確かな広開土王関係の戦闘跡が
発見されたことがあるのか?
それと、平和的侵略もある。例えばバイキングのシチリア王国は、最初は
平和的に、傭兵のような形で入った。
>>390 5世紀に入ると王墓の建設が中断されるが、4世紀一杯は建設されていた。
だから広開土王のときは存在した。それが碑には「任那加羅縦伐城」と、城名
でしか出てこない。しかもその城は「倭」が逃げ込んだ先だ。
解釈はいろいろあるだろうが、私はこのときすでに任那の扶余王朝と倭が一体に
なっていたと思う。
399 :
日本@名無史さん:2005/11/21(月) 23:09:40
400 :
日本@名無史さん:2005/11/21(月) 23:23:19
>>398 >そんなら戦闘があったことが確かな広開土王関係の戦闘跡が
>発見されたことがあるのか
調査してないだけ。
401 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 15:18:38
天皇家が扶余の系統、つまり騎馬民族なら、
なんでミルクを飲む習慣がなかったのかな?
天皇が初めてミルクを飲んだのはずっと後のことなんだが。
これは佐原真が江上説に対して言った事なんだが、
誰かお答えを。
402 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 21:21:53
>>401 似たような反対論で「去勢の習慣」がないから、というのがあった。
しかしこの説はぶっとんだ。(と言っているのは私だけだが)
なぜなら、長野県辺りの、5、6世紀の馬牧場の発掘から、この牧場が
渡来人の馬飼育技術者たちによって経営されていたことが立証
されたからだ。
半島にも去勢の習慣があったと言うのなら、それはこの人達によって
日本に持ち込まれたことは確かだ。
だから日本に去勢の習慣がないのなら、それは二次的に消え去ったか、
あるいはもともと半島にもなかったか、どちらかでしかあり得ない。
かくて「去勢の習慣」説は過去のものとなった。
403 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 21:44:18
半島に万家村古墳というのがあって、
3世紀の土器だったかが出てきて、
日本の最古の前方後円墳より古いだのと言ってる韓国の学者がいるみたいだが、
まだはっきりとした事はわからない。
ただ、どっちにしても騎馬民族の墓ではない。
前方後円墳と騎馬民族は結びつかないな…
404 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 01:06:40
天皇陵=前方後円墳だよな。
あの形の意味を解かないと始まらない。
あれはシュメール起源で古代インドで大きく展開された、
須弥山(スメール山)世界観だよ。
http://www.tctv.ne.jp/tobifudo/newmon/betusekai/uchu.html 黒潮に乗ってタミル語系の人間が日本に来たんだ。
これは大野晋さんの説とも一致する。
インドでは後の仏教の宇宙観にも取り入れられ、ストゥーパ(塔)も須弥山だ。
早い話が日本の仏教建築の五重塔も須弥山だ。
今でもチベット仏教の僧が、
彼らが須弥山と見立ててる聖山カイラスに五体投地しながら参拝してる。
中国では須弥山を妙高山とも訳し、日本の妙高山も同じ意味。
前方後円墳の左右にある小さな丸(造り出し)は、太陽と月。
海上に浮かび、月と太陽をも超え、137万`もある壮大な山。
その頂上である「有頂天」に行きたいという切なる思いを、
平面で描いたのが前方後円墳だ。
地から山がそびえ立ち、月と太陽をも超え楽園(有頂天)がある。
前方後円墳の形そのままじゃないか。
河内平野の大王陵の堀(池)が須弥山の海を意味してるのは言うまでもない。
で、前方後円墳の、あの形のどこに騎馬民族の面影があるんだ?w
出土品に騎馬系の物があっても、
あくまで珍しい文化として受け入れただけだよ。
405 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 02:29:04
天から降ってきたのは神武の曽祖父ニニギ。
罰せられて天から追放されたのはニニギの祖母の弟スサノヲ。
406 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 05:48:32
何で空白にしたがるの?
407 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 06:51:10
定説みたいなのを唱えられるだけの資料が少ないから。
昭和初期まで何百年も続いた法隆寺火災論争でも、昭和の大改修で焼損が認められて
日本書紀の記述と一致した時なんかは、焼損否定派の学者は大恥をかいたでしょ?
わからない時代なら、わからない、
空白なら空白であるという現実をせめて認知しているだけ。
>>392 もまえ、まだいたのか! 元気で何よりw にちゃん歴も長くなったな、お互いw
409 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 14:00:17
410 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 23:04:48
>>402 意味わからない。
大室古墳群の事?
近くに森将軍塚古墳のような前方後円墳が、
積石塚を作ってる彼ら渡来系集団を「監視」する形で存在してるし、
この大室古墳群の渡来系集団は、馬の繁殖をまかされた戦争捕虜の可能性が高いんじゃない?
どっちにしても、高句麗系騎馬民族が大和朝廷を作ったなどという、
騎馬民族征服王朝説とは程遠い。
地方の大和系豪族の地位さえ越えてないんだから…
411 :
日本@名無史さん:2006/01/04(水) 01:25:24
ん?
412 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 20:57:27
age
413 :
横から失礼します。糸:2006/02/23(木) 14:20:45
邪馬台国の都跡が遂に発見されたもようです。。
福岡県前原市から一辺57mの方形区画溝が発見されました。
近くに倭国王帥升の王墓をふくむ32基の弥生王墓群があります。
さらに王都の伊都を囲む大溝も各所に発見され、
吉野が里のような大環壕溝を有する都市だったことが窺えます。
西暦元年辺りから四世紀頃までの都と見られます。
まさに邪馬台国、倭国、倭の女王の時代に重なります。
ここからはすでに日本一の銅鏡と勾玉、剣、それに
管玉など宝玉類が数千個も出土しています。
参考HP 中段お知らせのトップ
http://www5a.biglobe.ne.jp/~jqi5/yamato/yamatai.html
414 :
的外れ:2006/02/23(木) 18:55:42
415 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 04:40:20
倭および百済は同種です
倭は海峡国家です
天皇(家)が半島由来と見ることも可能ですが、
当時の朝鮮半島南部は現在の朝鮮民族とは関係ありません
もちろん倭、百済地域に先行定着したそれらの人は騎馬民族ではありません
現在の日本を形成する民族です
ですから、日本人はもとは朝鮮民族と関わりがあるとか
天皇家が朝鮮民族由来であるとかというのは
現在の国、民族の構成に立った視点による偏った見方であり、まったく正しくありません
416 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 04:51:37
そもそも小さい規模にしろ国を占拠、攻略できる規模の大量の騎馬民族の軍勢が
航海術を得て海を渡ることは不可能です
大量輸送を適える航海術をもった騎馬民族など騎馬民族と呼べるでしょうか
半島南部の航海術をもつ先行定着民族を支配して航海術を担わせたとしても
その後に南部に倭、百済系の国が存在し続けることとも矛盾します
417 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 17:50:07
>1
大陸の騎馬民族には「空」を神聖視する傾向があるんだよね。
418 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 19:24:02
騎馬技術はともかく、文化そのものは残ってないですね
もう騎馬民族説はいいんじゃないですか?流石に
いや、それが東アジア、東北アジアの中で重要な地位を占めるということは
間違いないわけですが、倭においては海洋民族文化、農業文化の方が優位な
ことは明らかです。
三国時代烏ガンなどと魏は死闘を繰り広げましたが、かといってそういった
騎馬民族が、半島から倭へとその支配を圧倒的な武力で広げる、などという
規模でなかったことも確からしい事実だと思いますし。
419 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 20:41:21
神武は、何も力で大和朝廷を開いたのではない!!
出雲神ニギハヤヒから政権を禅譲されたのだ。
要するに、天皇家はヤマトの先住政権から、権力を頂いて
朝廷の主になれた。
だから、伊勢神宮では恐れ多い出雲神の親玉(大国主)をもっとも
大切に祀っている。
皇祖神アマテラスよりも大切に。。。。。
420 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 20:53:30
倭が半島から排除された時代だね。
421 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 23:41:07
422 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 00:18:07
w
ニギハヤヒは別に出雲神でもなんでもない。天神だよ。
424 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 14:18:25
425 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 02:50:10
ヤマトタケルが戦ってた
理屈の上では「天孫」のはずだけど
姓氏録ではなぜか「天神」に分類されてるな。
428 :
日本@名無史さん:2006/05/23(火) 00:05:13
そうなのか
429 :
427:2006/05/23(火) 02:13:04
単純に姓氏録の誤りかも。
江戸時代の国学者も「これは誤りで天孫のはず」と考証していたのを
みかけたことがあったような気がする。
栗田寛か?
へぇ
432 :
日本@名無史さん:2006/06/25(日) 17:15:33
マイガッ!!
433 :
日本@名無史さん:2006/07/02(日) 00:35:06
空白
434 :
日本@名無史さん:2006/07/14(金) 00:10:53
おお
435 :
日本@名無史さん :2006/07/14(金) 00:15:07
なになにw
436 :
日本@名無史さん:2006/07/30(日) 12:59:12
なんやねん
437 :
日本@名無史さん:2006/07/30(日) 13:37:40
実は高句麗の始祖朱蒙の末裔で現存するのは天皇家だけだったりする。
438 :
日本@名無史さん:2006/07/30(日) 13:48:54
そうです。私が変なおじさんです。
439 :
日本@名無史さん:2006/07/30(日) 15:51:32
天皇家は公孫氏の子孫。
440 :
日本@名無史さん:2006/08/02(水) 16:45:53
441 :
日本@名無史さん:2006/08/05(土) 05:07:25
いきなり失礼します。とっても面白くドキドキしながら一気に読ませて戴きました。議論の内容もですが語っている方々がかっこよくてそっちにも興味しんしんでした。
4世紀面白い!
残念なのはこんな所まで朝鮮人がかき回してて嫌らしい事。
まぁそのおかげで興奮して真剣に読んでいたとこもありますが…。
この先空白の4世紀と天皇陵がどうなるか楽しみに生きていきます。
先生方有り難う御座いました。失礼しました。
442 :
日本@名無史さん:2006/08/05(土) 05:19:47
朝鮮人はいちいち日本の歴史に土足ではいる暇があるなら
半島からとんでもないモノが発掘されないように見張ってろ!
443 :
日本@名無史さん:2006/08/05(土) 08:04:40
いまだに、騎馬民族征服説を主張してる香具師がいるのな・・
そもそも朝鮮半島には、純粋な騎馬民族なんていなかっただろう?
強いて言えば、後世の女真とモンゴルぐらいでは?
しいて騎馬民族というなら、おれの想像だが、
満州あたりの騎馬民族(戦前にも馬賊とかいっていたと思うが)が南下して
機動性で半島を荒らしまわったけど、山は禿山、資源もたいしたことなく、
定住しても旨味がないので、更に南下して、列島に来た、くらいはあるん
じゃないか。中国系はタマを珍重するが、騎馬民族は金を珍重。アイシンとは
金のことだとも言う。半島における金姓が多いのは、騎馬民族の置き土産。
西日本は船が中心だから、騎馬民族が船に乗り換えたとは思えない。船では
不充分な関東、東北で勢力を拡大したんではないか。
445 :
白馬青牛:2006/08/06(日) 02:41:49
満洲は、陸系よりも水系文化圏が基盤であろう。
挹婁も海賊であったし、高句麗も渡海して倭軍を破っておる。
渤海の山東進攻も海路で、女真(刀伊)も日本・高麗に海賊行為をし、
水軍要素は強い。古代〜中世において、
トルコ・モンゴル系=軽装騎馬兵主力。漢人=騎兵を重視した陸軍。
山東・江南・閩・嶺南の越系=歩兵を中心陸軍と大型船自体を武器とする
海軍。
高句麗〜女真・ツングース=海路から上陸する中型船で、
海兵隊的歩兵中心。重装騎兵から後代になるほど軽装騎兵の役割も増える。
攻城・籠城の防御重視。
>>444 アイシンは満州語で金じゃが、半島のキムと結びつけるのは可笑しい。
司馬遼太郎氏の受け売り?人種的に東北アジア系新モンゴロイドが
西日本に多く、関東、東北は縄文、南方人種系も西日本人と較べると
多い。東日本の騎馬文化も都の影響が強い。
>>445 Wikipedia 新羅:より
>>4世紀後半から6世紀にかけての慶州新羅古墳からは金冠その他の金製品や西方系の
>>ガラス器など特異な文物が出土する。この頃の新羅は中国文化より北方遊牧民族
>>(匈奴・鮮卑など)の影響が強かったことを示している。このため奈忽王以後の
>>金氏は、北方民族のひとつである鮮卑系ではないかとの説もある。
Wikipedia は論外、出土なんかウソだという御仁には、ただのガセだが。
447 :
日本@名無史さん:2006/08/21(月) 01:43:11
朝鮮人は 始めに結論ありきで信用できません。
真実より反日の方が優先順位が高いのが見え見えです。
幼稚な朝鮮人は日本の歴史を語る資格なし。
半島へ帰ってからやれ!
捏造、強弁、自作自演、日本人の美学に反する朝鮮人にはうんざり!
ウチは武士だから騎馬民族だ
馬にも乗れなかったチョンと一緒にしてるのは日本史の方だ
450 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 00:08:26
アイシンよスサノオは泣いておるぞ。
451 :
日本@名無史さん:2006/11/03(金) 21:17:49
うほー
452 :
:日本@名無史さん :2006/11/03(金) 21:35:50
と、ということはヤマトタケルノミコトの末裔はぬっころされた(断絶)ということか!?
チョン帝によって・・・ガクブル
453 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 13:51:35
たあたん
天神も天孫もおんなじだろ。
え、まだ菅公が作ったとか言ってる馬鹿がいるの?
455 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 18:29:46
うん
456 :
とんぼ:2007/02/14(水) 14:53:12
あげ
457 :
日本@名無史さん:2007/02/14(水) 17:00:56
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
458 :
サガミハラハラ:2007/02/14(水) 17:26:27
空白の4世紀というが、日本書紀の年代を元にもどしてみると、崇神天皇の崩御が288年であるから、垂仁天皇
の時代から応神天皇の時代までとなる。
この時期は国内の統一と半島への進出という大和政権の勢力伸長の時にあたる。
ただ、神功皇后の半島進出は現歴史学界では史実と認めていないだけである。
一方、応神天皇の半島での活躍は日本書紀にはないが、好太王碑文によりみとめられている。
これは書紀の年代が不明であるとして、どの天皇の時代か決定しかねている状態といえる。
459 :
太国:2007/02/14(水) 20:16:49
>>458 碑文のどこに半島で應神が活躍したとあるんでしょうか?
紀には紀角宿禰ら派遣とあるようですが。
半島の日本人でない嶋王が日本にいた記述が紀にあるんだから、逆に
日本人の應神が半島で活躍した記述が宿禰以上の身分だから紀に
記述あって然りだと想うんですがね? おかしくないですか?
紀角宿禰らが半島へいったのは、実年代で應神即位の年の後半で、
倍暦計算で376年と観ました。
460 :
サガミハラハラ:2007/02/14(水) 20:47:20
碑文には直接倭王の名はありませんが、応神天皇の時代だということです。
間違いありません。
461 :
太国:2007/02/14(水) 21:52:43
はいはい。
462 :
日本@名無史さん:2007/02/21(水) 21:38:05
>神功皇后の半島進出は現歴史学界では史実と認めていないだけである。
朝鮮ではタブーだから?
463 :
日本@名無史さん:2007/02/23(金) 08:17:05
空白の4世紀という事で、
すぐに騎馬民族がどうこうなんて話しする人が多いが、
4世紀に、騎馬民族ならば持っているはずの馬具が見つかってない。
464 :
やまと:2007/02/26(月) 00:44:44
日本1ー0ブラジル
465 :
日本@名無史さん:2007/03/21(水) 18:50:49
ん?
466 :
日本@名無史さん:2007/03/31(土) 20:26:02
四性器
467 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 15:42:16
>463
騎馬民族説は肯定しないが、
四世紀の日本の王族に乗馬の風習があったのは事実。
四世紀のものとされる古墳から副葬品として馬具が出土しているし、
馬具を付けた馬の埴輪も出土している。
馬具が見つかってないということはない。
468 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 17:06:00
歴史を覆す大発見!ってのないかなぁ。
469 :
日本@名無史さん:2007/05/23(水) 00:12:16
五世紀の間違いじゃない
台与から倭讃の間が四世紀
472 :
日本@名無史さん:2007/05/24(木) 07:34:01
>>467 >馬具を付けた馬の埴輪
>四世紀のものとされる古墳から副葬品として馬具が出土している
何古墳からの出土?
馬具だが、箸墓古墳の周濠から四世紀初頭の木製鐙が発見されたが、
その後、約1世紀近く発見されてないので、
四世紀の日本の王族に乗馬の風習があったとはとてもじゃないが言えないよ。
473 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 23:13:46
age
474 :
その1:2007/06/06(水) 01:10:13
〜古墳からの考察〜
古墳は日本にあるものが最古。
最古でありながら、4世紀以降も作られ続けた。
被征服地の埋葬文化が、延々と続いたのだ?
征服者は、征服地の埋葬文化を継承したとでも言うのか?
朝鮮や大陸からの異民族が日本を征服したことには疑問。
〜言語学的考察〜
もし朝鮮人や中国人が日本にあった国を
征服したとしたら、日本語は朝鮮語か中国語と少なくとも
兄弟語族になるはず。
しかし、日本語とそれらの言葉は兄弟語族ではない。
それとも征服者である朝鮮人や中国人は、
被征服地の言葉をあえて使ったというのか?
それも不自然。
フランスのウィリアム3世がイギリスを征服し、
イギリスの土着語とフランス語が混ざって英語ができたように
征服者は被征服者の言語を使用しないし、
少なくとも混ざって兄弟語族ができあがる。
しかし、日本語と朝鮮語、中国語は兄弟語族ではない。
よって、朝鮮人、中国人が日本を征服したは、不自然。
〜任那日本府の存在〜
朝鮮半島に日本府があったことは史実。
これは日本の影響力が朝鮮半島にも及んでいた何よりもの証拠。
475 :
その2:2007/06/06(水) 01:10:57
〜推測〜
むしろ九州あたりを中心に朝鮮半島南部にも影響を
及ぼす日本人による巨大な国があったと考えた方が自然かも。
そして、その国が大和朝廷となった。
あくまでも国内戦争で勝利し、日本を統一した。
だから、言語も日本語のままだし、文化も継承される物も
多かった。
その国は半島にノルマンディーのような飛び地を保有する事で
中国からの技術などを吸収することもでき、軍事技術を
高めることができたから、日本統一も可能だったと考えられる。
朝鮮半島南部?には日本式の古墳も見つかり、
韓国の学者は「日本人の客人を埋葬するために日本式に
作った墓だ」と主張しているが、それも不自然。
やはり、半島南部は日本の乗るマンデーだったのではないか。
しかし、小さな飛び地のような場所であったため
半島でも言語は混ざることは無く日本式の古墳が残るだけとなった。
〜当時の文化レベル〜
当時の文化レベルは当然、中国の方が高かった。
しかし、文化レベルと国力は別物。
アメリカのように歴史も文化も無い国でも軍事力は世界最強のような
例もあるように、文化は低いが戦闘力高い例はある。
以上
476 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 00:19:03
ある
477 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 00:20:16
ある
478 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 20:29:19
>>フランスのウィリアム3世がイギリスを征服し
479 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 21:26:59
【出雲東部の謎】
島根県安来市の荒島墳墓群の特徴は、弥生時代から古墳時代まで、
500年という長い間絶えることなく大豪族の墳墓が築かれ続けたことです。
弥生時代においては、出雲文化特有の四隅突出墓が連綿と作られ、古墳時代
前期においては全国最大級の方墳である大成、造山1号墳が形成されます。
同時期の前方後円墳に比べて大きさはやや劣るものの、石室の規模におい
ては超一流であるといったユニークな特徴を持っている。これらの地域は
製鉄も盛んで、日本神話のスサノオの命のヤマタノオロチ退治はそれが関係
しているといわれているが、これらの王墓が建設され始めた頃製鉄が盛んに
なり始めたことも考古学的調査より明らかになっています。
480 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 21:33:10
安来の由来は「安」が「来た」だろうか?
安羅(加羅)から来た製鉄の民を意味してるのかも。
東漢氏とも呼ばれた最新製鉄の民だったかもね。
これらがスサノオの事か。
481 :
唐松山:2007/07/15(日) 10:34:07
空白の4世紀
成 務からの閏の廻し
成 務 天 皇元年春正月,甲申朔戊子=791年=297321日
3、5,8,11、13,16,19年目 が閏
1月1日の歴日の目安
=INT(INT((D49*365.24688+$C$1)/29.53059+0.3)*29.53059)+C$4
+$C$1=100、 C$4=8305
1年の長さ 365.243でも殆ど同じなのでどちらでも良い。(リントク暦でも景初暦でも朔は、変わらない。)
仁徳天皇と履中天皇の間に50年間の空白ができます。
この空白は使える 私としては、100年位ほしいが
まず 卑弥呼=崇神 が 卑弥呼=景行 が 楽になる
次 鬼の城 をこの空白に入れられる。
そして 武内に 潰された?大和政権の復活
用明辺りから また暦が変わる。?
482 :
コーヒーカップを持つ手がふいに 実はサガミハラハラ:2007/07/21(土) 22:56:16
神功皇后は何故宇美で応神天皇を出産したのか。
本陣のあった香椎ではなく宇美で出産したことを不思議におもっていたのであるが、
本日神功紀を読む会に参加してその謎が解けたようである。
鞍手郡誌に「蚊田の里(糟屋郡宇美町) 荒木の女志津姫皇子を生み奉った地。」とある。
この蚊田皇子とは神武の息子であるという。
前に、応仁天皇の東征は、皇祖の神武天皇の足跡を辿るようなコースを取ったと書いた。
瀬戸内海を東進したこと、鳴門海峡を通過したこと、和歌山の熊野によったこと。
宮処をまず橿原に構えたこと。等である。
そうすると、ここ蚊田で出産した理由は、神武の息子の一人がここで出産したという伝承を知り、
それにあやかろうとしたことによるものではないだろうか?
483 :
コーヒーカップを持つ手がふいに 実はサガミハラハラ:2007/07/22(日) 11:50:25
神功の行動が神武天皇を意識したものであるとするならば、新羅遠征の途中に鎮懐石神社に詣で
安産を祈願したというのも、その線で考えられないであろうか?
つまり、この神社はなにか神武天皇とゆかりがあったのではということである。
神武天皇の生誕地、生育地は糸島半島周辺であるということはもはやまちがいのないことである(東国原知事がなんと言おうが)
ので、前原市の近くにあるこの神社もなんらかの縁があったとみておかしくはない。
この神社の性格(ご利益)からみて、神武の母がこの神社に安産祈願におとずれたとみることもできる。
その伝承を知った神功がそれにあやかり安産祈願におとずれたとみてよい。
だとするならば、身重の女性が訪問できる範囲(遠くからでは体に悪い。それが原因で流産しては元も子もない)
はそう遠くないところ(日帰り)にかぎられるであろうから、神武の出生地は糸島半島から福岡市西区内とみてよい。
ニニギ以来の伝承が海岸部であること。神武東征の出発地の日向(ヒナタ)が近いこと。
神武の部下に糸島半島やその周辺地の出身者がいること(神武歌謡)などから考え、神武の出生地はこの神社からそう遠くないとかんがえられるのである。
484 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 02:05:04
新鮮な切り口だな
安産祈願から出生地を考えるとは
ただちょっと妄想の域を出ないね
小説的な観点から見ればかなり面白いけど
485 :
春を愛する人は 心清き人 実はサガミハラハラ:2007/08/19(日) 11:00:31
さらに踏み込んで考えるならば、神武は途中宇佐に立ち寄ったとあるが、これは、大分県の宇佐ではなくこの宇美の地であったのではなかろうか?
元々宇佐であったのを、天皇が生まれたというので宇美としたともかんがえられる。
そうすると、行路が宮崎から大分の宇佐へ、戻って岡田に行きそれから安芸に進んだことも、福岡市西区から福岡市宇美、岡田、安芸とスムーズにつながる。
486 :
唐松山:2007/08/19(日) 12:42:44
応神天皇東征は、支持できないが、
神功と共に大和政権を倒した 相方として、住吉神がいます。
難波、河内を中心として栄えた。
この後 河内に宮を構える天皇家は、大和天皇家とは別物である。
487 :
唐松山:2007/08/19(日) 13:11:41
景行 九州遠征
始めに敵対したのは、カンカシ姫(神香椎姫)
次 ウサのミミダレ (宇佐の耳のハタレ)
次 トヨの ナオリネギノ の クニマロ
(豊の ナオリ禰宜野 の クニ麻呂)
そして 住吉は、ナオリ神です、卑弥呼死亡時 住吉に祭る(姫大神)
仲哀、神功に 全面協力どころか 神功と密会 見付かると仲哀を殺す。
子宝を抱えて帰途 大和政権と対峙これを破る。
住吉は、河内に宮を構え生駒以南を領地とする。
488 :
日本@名無史さん:2007/09/08(土) 11:40:45
age
489 :
唐松山:2007/09/08(土) 20:27:08
神香椎姫 訂正?
風土記より
琴木岡,今千代田町余江香椎宮跡.宮處鄉,今在千代田町西南一代. 一.神埼略記
簡単に言えば 吉野ヶ里 と 目と鼻の先
此方の神香椎姫は、景行に全面降伏。
まだ 先の住吉社が特定できません。
490 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 21:22:16
神功は4世紀中ごろに活躍した実在の人物だという。
それを証明するとしてサガミハラハラ氏が出版したのであるが、単に説話から説く
のみならず、2倍年暦をつかって年代を復元して証明しようとしているのは驚きであった。
491 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 22:14:32
で、復元したとかいう日本書紀の年代はただしいの?
492 :
日本@名無史さん:2007/10/09(火) 11:51:16
今検証中であるが、頷ける点はある。
493 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 18:43:36
反日本親朝鮮の記事捏造アサヒる新聞は日本から出て行け。
494 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 23:02:25
2倍年暦をつかって日本書紀の年代の復元であるが、確かに筋はとおっている。
ではこれで正解であるかというと、そうだとは言いたくないなにかがある。
とにかく非常に複雑でしかも誤植が多く、理解しがたい箇所が目につく。
説話の方は大胆でかなり露骨に書かれている。これはひとによっては感情的な反発が生ずるであろう。
495 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 08:27:47
大胆で露骨ってどんなとこ?
496 :
帯方:2007/11/09(金) 20:38:17
なんでハラハラ名無しなの
497 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 22:01:34
空=宇宙
つ【スターゲイト
498 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 22:30:03
津守氏
499 :
日本@名無史さん:2008/01/21(月) 22:00:54
h
500 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 01:51:03
501 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 06:55:35
【不買運動】アウトドアファッションの「パタゴニア」が「捕鯨は残酷的かつ暴力的であり、不必要なものです」と宣言!!!【テロ支援】
アウトドアファッションメーカーの「パタゴニア」が
先日、日本の捕鯨船に対して攻撃を仕掛けた狂信的反捕鯨テロ集団シーシェパードを支援していることが明らかになりました。
「パタゴニア」はこの事実を指摘されて
今後もシーシェパードを支援していくと明言、
捕鯨は残酷的かつ暴力的であり、不必要なものであるとして、
反捕鯨の立場を明確にしました。
日本の捕鯨は長い歴史と伝統の中で
海の恵みに感謝しながら鯨のすべてを利用して
採り尽くさないように環境にも配慮しながら
行われてきたものです。
白人のように鯨の油を取る為だけに
鯨を殺戮した捕鯨とは違います。
パタゴニアはそのような日本の伝統を無視して
「捕鯨は悪」決め付けて白人の一方的な価値観を
日本に押し付けようとしています。
パタゴニアはアウトドア用品などを売って
人間が自然に入り込んで環境を破壊することに加担しておきながら
反捕鯨と言うことで何か環境に良いことをした気分になっている
自己満足の偽善者たちです。
日本文化の破壊を目論む反日テロ支援企業に対する
不買運動と抗議メールの送信にご協力下さい!!!
502 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 11:29:26
>>1 日本人とチョンはDNAが違うんだし…
無いよそれは
邪馬台国があったとして、巫女の呪術で四百年も維持できるとは思わないし
邪馬台国が一時的に一番力もってたけど崩壊して、群雄割拠があって、再統一したのが大和朝廷じゃない?
503 :
日本@名無史さん:2008/04/24(木) 14:46:11
倭軍をフルボッコにする広開土大王
504 :
日本@名無史さん:2008/04/24(木) 16:59:31
>>502 邪馬台国は巫女の国だったんじゃなくて
男王の時代も女王の時代もあったってこと。
最盛期は女王卑弥呼のときだった。
ヤマト王権だって男天皇のときも
女天皇のときもあったわけだしね。
505 :
日本@名無史さん:2008/04/24(木) 21:00:09
>>503 そんなとこまで倭人は戦いにいってたのね
506 :
サガミハラハラ:2008/06/02(月) 21:30:43
そうです。この倭軍は応神天皇の軍であります。
とはいっても、任那や九州の兵が主体のようですが。
倭軍は高句麗軍に敵するものではなかったようで、高句麗軍の勝利の様子が事細かに広開土王碑に
誇らしげにきざまれています。
507 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/07(土) 11:55:32
墓標に書かれた 年代
272年 帶中日子命/仲哀M 己卯年3月15日52
273年 (日食)
279年 香坂王/仲哀子 丙戌年12月9日30
280年 忍熊王/仲哀子 丁亥年7月15日28
書記では 神功元年頃 纏めて書かれている
287年 倭人が新羅に侵入
編年が途中なので この辺で…。
>>507 神功皇后を卑弥呼にするの?
するってぇと倭の5王は誰なんよ?
509 :
日本@名無史さん:2008/07/30(水) 23:48:24
h
510 :
サガミハラハラ :2008/07/31(木) 17:41:31
宋書の倭の五王をとるか倭人伝の卑弥呼をとるかということだったでしょう。
結果、倭人伝の卑弥呼をとることになり、神功皇后に合わせたわけです。
その結果、宋書の倭の五王の入る年代がなくなり、紀の編者はおもいきり宋書を無視したのです。
邪馬台国は佐賀県小城市小城町甘木です。
卑弥呼の墓は小城公園内の桜ヶ岡です。
ただいま邪馬台国小城甘木説強化月間中でーす。
あの時代は世界的に大混乱してたから
512 :
日本@名無史さん:2008/08/13(水) 23:23:36
>>502 土地でくくるのではなく
民族としてくくるべきだろ
つまり朝鮮半島の西に住んでいた古代日本人と
朝鮮半島の東に住んでいた古代朝鮮人は違う民族だと
同じ土地にいるからといって同じ民族であるとは限らない
というかそれが自然なのだ
だからたとえルーツが朝鮮半島であっても
今朝鮮半島に巣食う類とは
民族的に違うのだからそう感情的になることはない
国の概念なんてない時代
隣の山田さんが石垣島に引っ越したのと同じこと
しかも千年以上もの月日が流れているのだから
文化的精神的にも分化してる
つまり我々はより豊かな土地に引っ越したのだ
そして元々住んでいた土地に古代朝鮮人が住み始めた
そして中国に支配される歴史を歩む
話は変わるが三国志の呉がルーツというのもあるな
呉服を和服というのもなにかのゆかりか
孫権とかシュウユなんかが祖先だとおもうと
なんか三国志の見方がだいぶかわってくるな
513 :
日本@名無史さん:2008/09/23(火) 21:56:10
>>1 >空白の四世紀になにがあったのか。。。
>そして白兵戦から騎馬戦へ戦の形式が変化した。
してない。
日本での騎馬軍創設は5世紀後半から6世紀あたり。
騎馬用甲冑がこの頃から出土する。
ヤマタイ=ヤマト
倭→大倭→大和
515 :
日本@名無史さん:2008/09/24(水) 00:52:42
>>506 >倭軍は高句麗軍に敵するものではなかったようで
んな事はない。
広開土王碑は高句麗の一方的な言い分だ。
5世紀には、日本の武装(帯金短甲)が伽耶を中心に、
新羅、百済まで波及してる。
半島で日本の影響力がすごく強かった証拠だ。
516 :
日本@名無史さん:2008/09/24(水) 01:13:21
517 :
日本@名無史さん:2008/09/24(水) 01:15:03
後漢光武帝の建武元年(25年)に復設された制度として、諸侯王には金璽綟綬(きんじれいじゅ)、
公候には金印紫綬、九卿などの中二千石・郡太守などの中二千石・校尉や中郎将などの比二千石には
銀印青綬、以下は銅印黒綬、銅印黄綬が与えられている。
「倭韓遂屬帶方」倭韓は
帯方太守の管轄下にあったはずであるが、太守の銀印青綬より位の高い金印紫綬を卑弥呼は得ており、
「難升米を以て率善中郎將となし、牛利を率善校尉となし、銀印青綬を仮し」ということで、彼等が
同等となり、太守の心境は複雑であったろう。
使いの者と帯方太守が同等とは、倭国の評価がそれだけ高かったと言える。
>>516 > 金印>銀印>銅印>泥印
なんだよ、泥印ってのは。
あるわけないだろ。
任那と百済
百済・・・むろんそういう国名も地名もいまは存在せず、はるか紀元前18年に
成立し、紀元663年、日本の天智帝のこに滅亡した南朝鮮の一国家である。・・
これはあて推量にすぎないが、クダラというこの朝鮮語にないふしぎな言葉は、
古代に南朝鮮に住んでいた倭人がつかっていたのであろう。
倭人とよばれていた人種が韓民族とともに南朝鮮の原住民であった・・・。
むろん倭人の居住地は南朝鮮だけでなく、その後日本とよばれるようになった地域、
とくに対馬、壱岐、松浦諸島、北九州一帯に多数住んでいた。この連中が、
日本列島を東へ東へと弥生式の農耕方式による地域をひろげて行って、
こんにちの日本国の原形をつくったという点では、
おおかたの古代史家も承知してくれるにちがいない。
南朝鮮の歴史は神話的古代はべつとして、いわゆる三韓の時代よりはじまる。
このうち馬韓といわれた地域は五十三という数の部族国家にわかれていたが、
やがてそのうちの白済という部族国家が力を得、一大統一をとげて百済をつくった。
南朝鮮における倭人社会は、中国の『魏志』によれば狗邪(くや、金海のあたり)を
地盤として活動し、東方の辰韓に鉄をさかんに求めていたというから、農具や
兵器の生産力がひくく、そのためもあって、かれらの社会はさほどふるわなかった。
馬韓が百済国になったころに辰韓も新羅国になったが、
倭人はそのあいだにはさまれて大いに難渋したに相違なく、自然のいきおいとして、
日本地域に住む同種の倭人にたすけをもとめることが多かったにちがいない。
南朝鮮における倭人たちは、やがて、「任那」という一種の国家をつくった。
一種のというのは王国ではな、族長どもの連合社会だったという程度であったか
という意味である。
・・・当時の日本の豪族たちの何割かが、「任那は自分たちと同種の民族である」
ということを切実に知っていたという事であり、任那の同種人―場合によっては
親類であったということもありえたろう―から新しい農具や馬具などを手に入れたり、
あるいは任那人と同じ言語を話す技術者が玄界灘をわたってきて、
在来よりももっと有効な生産方法や技術を教えたりしたという関係もあったにちがいなく、
その任那人たちが、
「いま、東に新羅、西に百済という大国が勃興して自分たちの土地が奪われよう
としている。なんとかたすけてくれまいか」
というようなことを、たえず言っていたにちがいない。
そういう任那人たちの危機をきいて、元来血の気の多い北九州の倭人たちは勃然と
侠気を発して集団で渡航した事もあったろうし、ときには任那人をなだめて、
「いっそ日本のほうに移住してしまわないか」といったこともあったにちがいない。
神功皇伝説というのはそういう古代的状況のなかで成立したものにちがいなく、
以上のよう
な程度の想像なら、ありうべきことへの想像というものさえ卑しむ
古代史家でも許してくれるにちがいない。
やがてのちのち、大和にできあがった統一政権がしきりに対朝鮮外交を―戦争
をもふくめて―やりだすのは、植民地対策というようなものではなく、
同種族への援助行動というものであろう。任那が日本にとって多少の
利益があるとすれば、南朝鮮が鉄器の技術輸入源であったということもあったかもしれない。
しかし日本の中国山脈で古代製鉄がさかんになるにつれて、やがてはそういう技術や
現物輸入も必要がなくなったかとおもわれる。
百済の始祖温祚王というのは、まだ原始部族国家のひとだが、韓民族ではなく、
朝鮮の歴代の王朝の始祖がつねにそうであるように北方の満州あたりから南下
してきた扶余族の出身であった。
扶余族というのは南満州や鴨緑江の山谷を駆けまわって狩猟していた連中であり、
やがては北朝鮮を中心に高句麗国をつくり、南朝鮮諸国を圧迫した。
その一派が南朝鮮の韓民族地帯に入って征服王となり百済国をつく
ったのであろう。従って、百済の始祖温祚王というのは、背が高く、
目に蒙古襞をもち、ほお骨の秀でた北朝鮮型の容姿をもっていたであろう。
頭はまわりを剃って髪の一部をながくのばし、それを編んでいわゆる
辮髪であったにちがいなく、その服装は北方騎馬民族の特徴で
あるズボンをはいていたに相違ない。・・・
かれは南下当時、南朝鮮の一角に住んでいる倭人をみたに相違ない。
倭人たちは他の夷人の風俗と異なり、頭髪を繊維で結んである。
しかし衣服は粗末で、縫うことをせずただ布を体にまきつけただけで、
男女とも裸足で歩いている。性質は後漢のころの字書である『説文解字』の説
明が正しいとすれば、倭というのはチビという語感よりもむしろ人によく
従うという従順な感じをあらわすというから、その首領たちの
命令をよくきくという特徴をもっている。
(「街道をゆくー韓のくに紀行」全集47)
523 :
日本@名無史さん:2008/10/05(日) 00:11:34
北朝鮮型w
古代史なのに突然現代の国名が…w
牛殺祭祀を持ち川辺りに住む皮革民である扶余系は、
日本に来たとして、被差別民の原型になったのでしょう。
個人的年代感
1世紀…漢委奴国王
2世紀…筑紫東遷
3世紀…邪馬台国・吉備東遷
4世紀…騎馬民族征服王朝
5世紀…倭の五王、継体新王朝
525 :
日本@名無史さん:2008/10/10(金) 01:08:23
>4世紀…騎馬民族征服王朝
大陸にあった騎馬用甲冑・桂甲が入ってません。
騎馬民族なんぞ来てない証拠です。
ゆえに却下。
横穴式石室なんか高句麗や百済に起源があるんだけどね
527 :
日本@名無史さん:2008/11/10(月) 11:09:15
528 :
日本@名無史さん:2008/11/10(月) 11:11:51
天孫降臨神話ってのは、半島にいた夫余人がパーッとやってきてパーッと占領したってことだろ。
529 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/11/10(月) 20:40:28
天孫降臨神話は、大陸から暦を持って倭に渡った1団が、
倭国に於いて、暦を民に与えるとともに稲作に従事させ、其の上がりで国家を経営仕様とした。
その為には、それ相応の規模の農業用土地が必要となる。
その時目星を付けたのが、筑紫で有り、筑紫平野で有った。
対するその土地の所有者は、大物主であり 大物主にも暦を提供する事を条件に、大物主と手打ち。
倭国全体は、大物主。其処に天照大御神が暦を提供。
この2人3脚状態で発足したが、文字(神代文字)による記録は、天照大御神が自分の事を中心に記録
(日本書紀)、古事記(大物主による口伝)との差がでる。
継体天皇は実は北欧のバイキングの一味で自らを
「オーディーンの5世」となのっていました。
それを当時の人達が「応神の5世」と勘違いして…
531 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 08:34:48
>>528 いや、4世紀よりももっと前に
扶余ど同族である漁民的な濊人が
福岡県高祖山周辺にやってきたって事かもしらんぞ
532 :
日本@名無史さん:2008/12/31(水) 07:18:33
扶余なんか来てねぇよ。
533 :
日本@名無史さん:2008/12/31(水) 08:35:10
>>532 いや、昔から日本は千客万来の土地柄だ
何せシルクロードの終点だからな
扶余もミャオも朝鮮もタミルも漢もハテはイスラエルでもペルシアでも
色々なのが流れ着く。
なので、逆に言えば「日○同祖論」なんてのは成り立たない。
一民族だけを祖先としてるわけではないからな。
534 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 14:45:14
呉の太伯の末裔と文献に明記してあるわけだが?
535 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 17:37:12
征服者は己の出自を隠さない
536 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 18:56:48
★韓国の首都名・「ソウル」は古代日本語か。
韓国の首都は「ソウル」という名前だが、韓国人はソウルの語源が分からないという。
中世・古代の韓国語(朝鮮語)をいくら調べても、ソウルの意味は不明だそうだ。
この「ソウル」は、実は古代半島の南部=カラに住んでいた倭人たちの言葉ではないか。
つまり、古代日本語ではないだろうか。
おそらく、「ソウル」とはソ・ウラ(曾浦)の意味であろう。ソ(曾)は、熊曾・クマソのソであり、
古代日本語で「遠くの」あるいは「遠い土地」という意味の言葉である。ウラ(浦)は日本語で「海辺」の
意味である。
ようするに、ソ・ウラとは「遠方の海辺」という意味であり、半島南部(馬韓)に住んでいた倭人たちが、
京畿湾の沿岸地方をソ・ウラと呼んでいたのだろう。
8世紀以降、半島南部の倭人が滅びた後も、ソウラという呼称は使われ続け、ソウルと訛って、
今に至っている・・・これが真実であろう。
ソウルの語源が日本語古語であるならば、中世・古代の朝鮮語に語源を求め、いくら研究しても、
語源は絶対に見つかるまい。
たとえば、現在の日本にはファーストフード店が無数にあるし、それらの店ではハンバーガー、
チーズバーガーが売られている。ハンバーガー、チーズバーガーはもともと英語である。
もし、日本人の誰かが、ハンバーガーやチーズバーガーを日本語だと勘違いし、古代日本語や中世日本語に
語源を求めて調査しても、語源は見つからない。もともと外国語だからだ。
それと同じように、韓国の首都名・ソウルが、実は古代日本語だったとしたら、いくら中世以前の朝鮮語を
調べても、語源は見つからないであろう。
ソウルの語源は、やはり、古代日本語に求めるべきではないか。韓国人はこの説を受け入れたくない
であろうが。
韓国の首都名が日本語であるという事実は驚くべきことだが、古代倭人文明の残像が、今の韓国にも
残っているということなのだ。
今のイタリアに、異民族・ローマ人が残した古代文明遺跡が残っているようなものだ。
ソウルの語源は「所夫里」が定説
538 :
日本@名無史さん:2009/02/09(月) 03:02:25
中国の爵位を熱心にほしがってた五王時代から
独立心旺盛な厩戸の時代へ。いったいその間に
どんな心境の変化があったんだ?
539 :
ローガン:2009/02/10(火) 15:48:36
ty270410氏はお元気にされているでしょうか?
又、お話したいものです。
541 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 07:59:49
厩戸の上表文は別に独立心旺盛なわけじゃなくて、世の中しらなかったかららしいですよ。
外交重視から内政重視にシフトしたんだろ。
彼の英断のおかげで日本は冊封体制のくびきから逃れることが出来た。
中国の封臣ではなく隣国となったのだ。
おまいら、天孫降臨神話とかなんとか言っているが
あんまり、記紀とか
ちゃんと呼んだことないだろう?
>>1 というか、日本の歴史は、幕末まで
騎馬戦が主力戦争になったことはない。
だいたい、国土の8割が山岳部のような日本では
騎馬戦なんて、無意味。
騎馬戦が大活躍するのは、講談の世界と
黒澤明の映画の世界だけ。
あと、なぜ、日本の歴史で西暦4世紀が
空白になってしまったのかというと、
もちろん、この時代の中国の文献史料に登場しなくなるわけだが、
それだけじゃなくて、西暦3世紀の邪馬台国卑弥呼の件について
日本側の記紀などの文献と間の整合性の面で
全く決着がついてないから。
546 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 14:56:49
整合性はあるんだけど、九州人が認めないだけ。
548 :
日本@名無史さん:2009/05/06(水) 22:26:28
hoho-
>>545 一応、源平合戦や武田騎馬軍はあるんだけどね。
550 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 22:23:16
>>502 古代の朝鮮にすんでた民族と現在半島に住んでる朝鮮民族が違うという論文はゴロゴロある。
>>502が正論
そもそも大陸の騎馬民族の平べったい顔は天皇家とは全然違う
553 :
サガミハラハラ:2009/10/14(水) 23:46:24
天皇家の先祖は佐賀県佐賀市三瀬町(脊振山中の盆地)に居住していた日本在来種です。
北方系の顔ではなかったようです。
554 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 19:53:33
4世紀初めに高句麗の朝鮮半島南下による
楽浪郡と帯方郡の軍人や役人が難民として北九州に渡航
魏の優れた技術や文化や兵法を知るこの勢力と
九州の豪族が結びつき東方に進出(神武東征)
畿内にあった邪馬台国を制圧して大和政権を成立させた。
その後倭国の大半を平定し富国強兵を行った。
404年に倭軍が帯方郡に侵攻したのも故国奪還のため
と思われる。
555 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 21:56:39
>1日本書紀には「神武天皇は空から降ってきた」と書いてある
そんなこと一行も書いていない
556 :
日本@名無史さん:2009/12/06(日) 00:04:17
記紀の記事、倭の五王の記事、朝鮮半島の各種文献記事、古代天皇の平均在位10年説、
これらの整合性が高くなるので、崇神天皇の没年を西暦318年とした上で
古事記の年紀が真値に近いのではないかと考えている。
そこで、個人的に以下の流れではないかと考えている。
2世紀後半…倭国大乱
2世紀末……倭国大乱を受け、磐余彦以下が難民化して畿内へ→神武東遷
3世紀………畿内:邪馬台国(大和朝廷)、九州:卑弥呼や臺与が治める女王国を中心とした倭国連合
4世紀前半…崇神〜景行の代で大和朝廷が関東以西を統一。九州の女王国も大和朝廷に併呑される
4世紀後半…西日本統一の余勢を駆って、大和朝廷が国家として朝鮮半島進出
5世紀………高句麗に撃退されたため、方針を転換。支那の王朝への外交を重視するように…
魏志倭人伝の混乱は、陳寿が畿内邪馬台国と九州女王国の情報を混同して記述したためではないかと考える。
【日本国家成立史】
【日本民族の統一】
@神武朝(神話)
A崇神朝(ヤマトマキムク)
B応神仁徳朝(筑紫朝)
C顕宗仁賢朝(播磨朝)
D継体欽明朝(越近江朝)
【天智天武】律令体制
【文武聖武】平城京
【桓武】平安京
〜【幕府体制】〜
【明治大正昭和】近代日本
■■■■■■■■
【*】倭の連合体としてのヤマトマキムク王権
【*】筑紫朝による畿内王権の制圧
【*】筑紫朝の断絶、播磨朝による連合の調整
【*】磐井と継体が「応神の子孫」を名乗って内乱勃発
【*】継体の勝利、しかし畿内豪族のクーデターにより「欽明朝」成立!
558 :
日本@名無史さん:2009/12/07(月) 00:27:17
>>549 武田騎馬軍・・・
ノブヤボでもやってろ
むしろ戦国ランスだろそこは
560 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 00:01:50
>519
日本人の韓国人嫌いは、戦後の3国人問題からだよ。何しろあれは非道かった。
>>549 しっ!この板で「武田騎馬軍団」は禁句!
>>ヤマトマキムク王権
ヤマトキムタク王権に見えた
>>529 >筑紫平野で有った。
>対するその土地の所有者は、大物主であり 大物主にも暦を提供する事を条件に、大物主と手打ち。
>倭国全体は、大物主・・・・
貴方のいう天孫族と大物主族との手打ちとは、西暦何年頃の話なの?
3〜4世紀とすると、その当時は倭国全体をどうのこうのという統一事業の
前段階だし。史実は前者による後者の征服だろうがね。下賜したのは、暦で
なく先進武具や鏡などの物だろうね。
何より天孫族が上陸した筑紫平野の支配者は大物主族ではない。筑紫地域には、
大物主を祀る神社がないからね。
564 :
日本@名無史さん:2010/02/15(月) 00:49:56
ほほー
565 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/16(火) 19:07:05
>>556 むちゃくちゃな編年だな
273年 日食 神功元年に差し込み記事
274年 晋は、幽州を割き平州を置く、この下に東夷校尉あり。
274年 神功渡海
275年 神功元年 仲哀の死をめぐり、渡海軍と残留組の間で内戦勃発
ここから 倭国は2派に分かれる。
274年以降 倭軍は、伊都の1大率の如く、半島で警察権力の行使
308年 永嘉の乱勃発、 倭国も東夷軍の一部として活躍
323年 王朝の交代を機に、南朝は洛陽奪回を断念する。
323年 神功49年 遼西郡方面に従軍していた、倭軍、百済軍は、空白と成ったこの地を占拠。
そしてこの地を百済に賜る。百済はここで「西蕃」に構える。
翌50年には、共同で半島南部の再編成、ここでも百済に土地を割譲。
このお礼として
326年 七支刀が献上される。
百済本紀は、53年新しい方に狂っている、だから、韓国考古学は、百済の歴史を語れない。
そして日本では、神功紀を認めていない。
神功、応神は、皇暦の流れで読む、仁徳は、西暦に合わせる 2重暦。
566 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/16(火) 22:05:32
日食は273年以外にわんさとあって、全部観測できないものではない。
567 :
日本@名無史さん:2010/02/17(水) 20:39:47
>意味わからない。
>近くに森将軍塚古墳のような前方後円墳が、
>積石塚を作ってる彼ら渡来系集団を「監視」する形で存在してるし、
それでいいのだ。「騎馬民族征服説」とは別。
つまり、馬飼育技術を持った渡来系集団が来て、牧場を経営したことが
確実なのだから、もし半島に去勢の習慣があったのなら、彼らとともに
日本に入ったことは確実。
もし半島に去勢の習慣がなかったのなら、そもそも日本に入ってない。
だから、(日本における)去勢の習慣のあるなしをもって、「騎馬民族による
征服はなかった」ことを云々することはできない、ということだ。
騎馬民族征服説を積極的に立証しようというのではない。
あくまで「去勢の習慣がないこと」が騎馬民族征服説の反証にはならない、
ということを言っている。
568 :
日本@名無史さん:2010/02/17(水) 20:47:29
出雲も関東も高句麗系と新羅系で占められ奈良の都の周辺の百済系は今でも優秀ですよね
569 :
日本@名無史さん:2010/02/17(水) 20:59:00
少数部族が200位合って、新羅系と百済系が戦争を繰り返してて記録が残せなかったが
疲れ切って妥協和解終戦になって旧家が復興するように継体王朝が生まれた
570 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/17(水) 21:10:04
>>563 >筑紫平野で有った。 は、天照大神の時代。
暦は、考昭元年に大物主へ分配、この干支で、加増されずに使われた暦が、古事記。
書記 より19*n回の空白年を差し引く、正朔である。
天皇 西暦
神武天皇 42年〜63年 手研耳による空白年を含む。X式土器の始まり
綏靖天皇 64年〜77年
安寧天皇 78年〜88年
懿徳天皇 89年〜93年 安寧天皇と同じ暦
孝昭天皇 94年〜119年
孝安天皇 120年〜145年
孝霊天皇 146年〜164年
孝元天皇 165年〜183年
開化天皇 184年〜187年 1年の異常?
崇神天皇 188年〜216年 五,六年の記事は、新羅192,3年に対応。異族多帰は、各地の土器。6年秋大物主の国譲り。庄内式の始まり。
垂仁天皇 217年〜239年 景初3年。
野見宿禰が布留式? 纒向遺跡は珠城宮、ホケノ山は垂仁稜。
景行天皇 240年〜261年 箸中 山古墳は景行陵。
成務天皇 262年〜265年
仲哀天皇 266年〜274年 273年日食(神功元年に注入)
神功皇后 275年〜344年 ここより盟神探湯による世継ぎの部分。
326年 五二年七支刀 百済の数字はこれに合わせる。
応神天皇 345年〜387年
仁徳天皇 313年〜399年 神功三九年大歳を元年とする。
364年 仁徳五三年新羅へ派兵、新羅本記と合致。
履中天皇 400年〜405年
渡来は、325年から?
571 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/17(水) 21:25:40
盲象ご苦労。www
572 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/18(木) 00:52:53
妄想とは?
25 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/31(日) 22:35:41
>月後半の日がまるで無い。これは2倍年暦を行使していた事
を物語るものなのだ。2倍年暦はホツマの景行の条でも21ヶ月妊娠でこれ
を示し済みである。つまり
十月十日×2=20月20日≒21ヶ月
ホ38014 ハリマのイナヒ オイラツメ ウチメのときに コゾウヅキ はらみてうまず
フソヒツキ へてシハスモチ ウスはたに モチハナなして フタゴうむ ヱのナモチヒト
オウスミコ トのナハナヒコ ヲウスミコ
コゾウヅキ(垂仁90年六月)、そこからフソヒツキ(21ヶ月)後の十二月に小碓兄弟が生まれる。
そこで太国編年は、
730庚午 292壬子 垂仁崩御 (垂仁は3倍年)
731辛未 293癸丑 景行即位 (景行は2倍年)
742壬午 298戊午 日本武尊誕生
744甲申 299己未 成務誕生 武内宿禰誕生
769己酉 312壬申 仲哀誕生
この様に 垂仁90年6月から、21ヶ月後は、景行12年に成り。
ここまで3倍年の9年間プラス2倍年の10年間。この間は、倍暦の20月20日で
通常暦では、十月十日である、と主張しています。
この通常暦の十月十日は、西暦で6年の歳月が流れます。
十月十日の2倍年が20月20日なら、
365日の2倍年は、730日にもなる?
この様な思考のこと?
573 :
日本@名無史さん:2010/02/18(木) 08:44:37
574 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/18(木) 18:55:23
長野、上毛方面への北方系住民の入植は、
326年 神功52年、百済からの朝貢、千熊長彦の活躍。
この辺で初期入植が無いと、子持村、黒峯遺跡にたどり着かない?
575 :
日本@名無史さん:2010/02/18(木) 22:08:32
576 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/18(木) 22:36:52
>「去勢の習慣がない」
より去勢の習慣を行使するほどには、牛馬は、増えなかった。
伊那谷は、長野、上毛より少し遅れるンでは?
275年 神功元年
308年 永嘉の乱勃発
323年 乱の終息
これより早くも出来ない。
そりゃ少しは入れることも出来るが、歴史的にどうか?
308年 乱の勃発と共に西方の民が流民と成って、流入。
これらの民を倭国へ運べるか?
577 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/18(木) 22:43:51
千熊長彦と共に長野県に流入なら、
その時の舟師が安曇族
松本(つかま)中山古墳とか
長野、伊那は、諏訪と同じく西暦60年頃入植の歴史がある。
578 :
日本@名無史さん:2010/02/19(金) 17:30:50
>>576 575で紹介したページが言っていることは、中部地方から東北にかけての
騎馬文化は、畿内王権の手を経由せずに、裏日本から直接入った、ということだ。
これが、恐らく東北の蝦夷の騎馬戦術につながった。
例えて言えば、畿内王権と蝦夷との関係は、アメリカ白人の騎兵隊と、白人を
通じて騎馬戦術を獲得したアメリカインディアンとの関係ではなく、漢王朝
と北方騎馬民族との関係に近い、ということだ。
本すじにもどって、半島に去勢の習慣があったことを前提にするなら、それが
5世紀に日本に入った(中部地方の騎馬文化)ことは確実であり、一方で
後世の騎馬文化には去勢の習慣がない、という事実がある。
二つの事実が現実にあるのだから、それが消え去った理由の説明は後付けでよい。
君のいう「馬の数が少なかった」もその一つだし、他の理由かも知れない。
いずれにせよ、「去勢の習慣がない」は騎馬民族征服説の反証としては
使えない。
579 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/19(金) 19:58:36
>>578 >この飯田市周辺には前方後円墳が非常に多く、
北方から馬の流入は、有ったと思うが、あまり大きくすることは出来ない。
前方後円墳は、大和発祥。
長野の北方系も、大和を通ってきた。
直接来た人々は、勢力になりきれず、吸収される。
580 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/19(金) 20:19:23
250年代、関東の日本武尊
ホ39337 ゆきいたる サカムノタチに いりませば ノにカタアブミ トラガシハ ひろひかんがえ
相模の館に 入りませば 野に片鐙 虎皮 拾い考え…
この時代に北方からの馬がいたことは正しいだろう。
250〜260年箸墓築造、ここから鐙が発掘される。
581 :
日本@名無史さん:2010/02/19(金) 21:32:47
>>579 >前方後円墳は、大和発祥。
当たり前だ
>長野の北方系も、大和を通ってきた。
紹介した資料はそう考えていない。その根拠は積石塚のほうが先に現れる
ことではないか?
>直接来た人々は、勢力になりきれず、吸収される。
長野ではその通りだと思う。しかし東北ではかなり後まで独立勢力だった。
582 :
日本@名無史さん:2010/02/19(金) 22:16:28
大仙陵古墳をガチで調べたら分かるだろう
タブーだから宮内庁が許可を出さない
583 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/19(金) 23:13:57
>東北ではかなり後まで独立勢力だった。
日本武尊も行かない寒冷地だったから、米作の大和朝廷が興味を示さなかった。かな?
>大仙陵古墳
まもなく4世紀築造と成るから、その前に この辺を考える。
神功渡海も273,4年より以前には出来ない。273年日食は、神功の定位置。
584 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 09:14:39
>>583 >日本武尊も行かない寒冷地だったから、米作の大和朝廷が興味を示さなかった。
とんでもない。例えば下記のページを読んで見よ。
http://www.jtng.com/thrc/p70nanbu/p70-02.html 蝦夷の「馬」と「金(ゴールド)」が、大和朝廷の関心事であった。
そのため征服が試みられたが、騎馬戦術を持つ蝦夷を平定するのは容易でなかった。
逆に、蝦夷の南下を防ぐために白河の砦などが築かれた。
このような、資源の入手先であると同時に、防御すべき強敵である、という関係が、
漢民族王朝と北方騎馬民族との関係に実によく似ているのだ。
585 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/20(土) 09:50:32
>蝦夷の「馬」と「金(ゴールド)」が、大和朝廷の関心事であった。
時代が下がればその様になる。
初期古墳には、馬も金も無い。
佐渡は、諏訪より古いが、金には、関心をしめさなかった。
586 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 12:00:52
>>585 >時代が下がればその様になる。
「時代が下がれば」とは?
大和朝廷の蝦夷征伐は景行天皇のときにはじまり、仁徳天皇のときには
田道将軍の遠征軍が敗北を喫しているが?
ところで私は以前から、東北人のあののっぺりした長顔はどうもアイヌとは
違う、ということに違和感を持っていたのだが、
>>575の資料を読んで納得が
いった。東北人は裏日本経由でやってきた北方騎馬民族の子孫だったのだ。
恐らく彼らが、アイヌを北海道に追いやったのだろう。
587 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/20(土) 15:28:50
4世紀最大の謎
神功は275年即位で342年の死亡 この年の別な読み方
仁徳は、中国の干支を使用、399年崩御 では、仁徳元年は。
神功39年太歳 誰もが見過ごすが、天皇家にとって重要な出来事である。
それが証拠に、他の天皇の即位年を見て戴きたい、必ずあるのがこの「太歳」である。
仁徳元年を、神功39年に重ねていただきたい。
そうすると 卅一年春正月癸丑朔丁卯 立大兄去來穂別尊 爲皇太子と神功死亡が重なる。
これは、なにを意味するのか?
最初から枝葉末節に入ると、道を失う。大まかな道しるべを建てましょう。
七支刀ってのはただの刀じゃなく、技術力を誇る象徴のようでもあり
また、百済の王が即位する時に使う宗教的権威のあるものだよね。
それを326年にもらっているってのはどういう意味なのか。
俺は相当重要な意味を持つ出来事だと思うんだが。
それとも何本もあるうちの一つなのかね?
今でも伊勢神宮に奉納されたまま国宝になってるから調べることも
触ることすらできないらしい。いろんな考古学的に貴重な史料を一切
調査させない国って日本くらいのものじゃね?
>>588 古代史の常識的知識ぐらいは確認してから書くように。
伊勢神宮じゃないし、
結構調査も一般公開もされてるようだが。
なんか偉そう
なのに無意味なレス
591 :
日本@名無史さん:2010/03/21(日) 13:07:23
んなあこたあない。
592 :
サガミハラハラ:2010/08/26(木) 22:55:13
4世紀がなぜ空白となったのか?
3世紀末、垂仁天皇の御世、大和朝廷は北部九州の諸国連合と大和中心に連衡をくむことに成功。
結果、北部九州倭中心の歴史が存在しないことになったのです。
結果、それまで北部九州が独自におこなっていた中国との通交はここにとだえた、つまり、中国の記録に登場しないことになったのです。
しかも、中国本土では東晋の時代となり、それまで貢献していた中国北部の王朝が不安定であったためもあり、
593 :
日本@名無史さん:2010/08/27(金) 01:26:07
たんに、中国で分裂状況が進行して、周辺諸国の朝貢が途絶えただけだろう。
東アジア方面から南朝へ朝貢するために経由しなければならない山東半島周辺地域が南朝の領土だったのは宋までで、
それ以後の南朝諸国は山東半島を制圧できなかったから朝鮮半島や日本列島からの朝貢が不可能だっただけ。
他方、北朝の方は朝貢を受け入れるほどの先進文化を持たなかったから、
必然的に、中国へ朝貢する国がほとんど無くなっていた、それだけの話。
594 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/28(土) 19:21:58
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
(壹與の時代)
大倭(大和)は北の女王国(九州の北部)に自ら一大率を置き、諸国に使わし検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
刺史の様だ。
この状況は260年頃である。
595 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/28(土) 20:08:01
3代に配された時空
神功皇后
軽島豊明宮は仲哀の宮?
磐余茶臼山から市庭古墳までの およそ70年間?
渡海(274年)から半島占拠(323年)を含む70年(275年〜343年)。
応神天皇
柳本行燈山古墳から 誉田御廟山古墳までを40年ほどとするが、全体の時空では不足している。
菟道稚郎子皇子、が鍵をにぎる。
神功皇后の後を継ぎ 344年から384年迄である。
仁徳天皇
高津宮から82年後が西暦399年では長すぎる。高津宮は343年か?
菟道稚郎子皇子から82年後を399年と出来るか?
菟道稚郎子の死後313年から立太子大兄去来狭穂別尊(343年)を経て399年まで。
去来狭穂別尊が太子の時代を応神天皇(344年〜384年)が埋める。
気長足姫尊の孫、誉田別天皇の子供であれば、治世は313年から343年で異常は無い。
う〜ん。当時は朝鮮の方が先進国だし、朝鮮と倭を盛んに行き来している
話も記紀に載ってる。倭国の統一に朝鮮人が関与しているのは間違いないでしょうね。
軍事顧問団のような形か、自ら先兵となって乗り込んできたのかは不明だけど。
597 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/31(火) 13:27:58
倭軍の軍事力は何処で培われたか?
神功が軍事力で新羅を制圧する事は不可能である。
274年 晋は、平州を置く、この時渡海を要請され、仲哀の死にもかかわらず渡海する。
276年 東夷校尉のもと東夷軍が編成される。この時代に東夷は毎年の如く朝貢を欠かさない。
308年 永嘉の乱始まる。
312年 新羅 神功38年 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず
317年 倭は朝廷に従わなかった。
318年 東晋滅ぶ。
319年 太興2年 鮮卑慕容廆襲遼東,東夷校尉、平州刺史崔高句驪。
320年太興3年 三月,慕容廆奉送玉璽三紐。
321年 太興4年7月 丹楊尹劉隗為鎮北將軍、都督青徐幽平四州諸軍事、青州刺史,鎮淮陰。
同12月 十二月,以慕容廆為持節、都督幽平二州東夷諸軍事、平州牧,封遼東郡公。
322年 永昌元年10月辛卯,以下邳內史王邃為征北將軍、都督青徐幽平四州諸軍事,鎮淮陰。
323年癸未 神功49年3月 半島の占拠、再編成。千熊長彦に従う平州方面の人々の渡来。
323年 太寧元年 夏四月,巴東監軍柳純為敦所害。以尚書陳眕為都督幽平二州諸軍事、幽州刺史。
326年 七支刀
313年 仁徳元年 この数字は正しい。
312年 新羅 神功38年 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず。これはウジノワキイラッコへの嫁ぎであろう。
四世紀末に百済は高句麗に大敗する、この時の大王を書紀は記さない。それが仁徳末の20年である。
598 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/31(火) 13:38:18
344 新羅 倭国が花嫁を求めたが辞退
345 新羅 倭王が国書を送り国交断絶
343年 仁徳31年 立大兄去來穂別尊爲皇太子
この去來穂別尊への花嫁拒否なら、去來穂別尊はまだ若い。
仁徳の子供ではない、孫か?
その前に 274年から312年の天皇空白、ここに日本武尊の子ワカタケル大王が入る?
599 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/31(火) 13:48:37
275年 神功元年の確執で忍熊王等は殺される。
それから応神は名を入れ替える。
入れ替えた相手がワカタケル(推定255年誕生)の子供であれば、五百城入彦の孫と結婚し
仁徳が生まれる。可能性はある。
>>596 朝鮮って高句麗、百済、新羅、任那のどれのこと?
601 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :
朝鮮とは楽浪郡だろう
ラヂオ氏 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年, 11月, AD377年. (ver.1) 。
元年 丁丑 十一月 加耶君守克□ 慕訶立 以宣失為太后 時加耶与倭相通 不遵朝廷之令 至是以倭王
女為妻 而不聴宣失之言 遣使責之
千熊長彦 383年の 人. Name:radio2010/06/04(金) 17:38
奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年,
七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年1月, 水羊(癸未年)祭を行った。
三月 夫余流民三十戸又来降 夫余与倭相通 年年受其民 散置都鄙 倭臣熊彦(千熊長彦)美而善弁
与阿□相通 多聴其言 故国人異反 或帰于我(百済) 亦帰于麗(高句麗) 休礼太后生長?子勿?
始立戸口典 禁民子母相婚
ラジオ氏は丁丑年を377年と言うが、377年では倭が従うべき朝廷は無い。317年とすると。
323年は東晋が洛陽奪回を断念し、楽浪以南が空白の時代となる。
315年 高句麗 春二月、玄菟城を攻め破り、甚だ多くの衆を獲得する。
316年 前趙の劉曜が西晋を滅ぼす。
317年 東晋建武元年六月丙寅,東夷校尉崔,鮮卑大都督慕容廆等一百八十人上書勸進,
317年 丁丑 倭は伽耶と共に朝廷に従わなかった。(上書勸進に加わらない?)
318年 高句麗 冬十二月、晋の平州刺史「崔」が(慕容廆に駆逐され)奔って来た。
太興元年十二月。鮮卑慕容廆襲遼東,東夷校尉、平州刺史崔高句驪。
320年 高句麗 冬十二月、兵を派遣して遼東を侵略、慕容仁が防戦し、これを破る。
慕容仁は遼東の民(数万人)を連れ帰る。前燕は西方守備の為、楽浪までを支配する余裕が無い。
321年 四年十二月,以慕容廆為持節、都督幽平二州東夷諸軍事、平州牧,封遼東郡公。
323年 癸未 神功49年3月 半島の占拠、再編成。千熊長彦に従う楽浪方面の人々の渡来。
326年 神功52年 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■