868 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 23:02:14
東北の藩で戊辰戦争を勝ちまくったって凄いね
869 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 23:16:15
刀の拵の中では庄内拵が意外にも人気がある。
870 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 04:17:17
age
871 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 20:33:42
佐藤幸徳も庄内出身だよな石原や服部卓四朗に比べれば地味だけど
872 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 17:25:02
小磯も庄内じゃなかった?
873 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 23:17:23
小磯は新庄
庄内出身の誇りといえば佐藤鉄太郎だろ
874 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 16:23:50
時代は繰り返す・・
戊辰戦争後、新政府軍は庄内藩には福島県いわき市への異動を命じた。
藩民は又も嘆願行動を起こした。
無理やり戦争に引きずり込んだ自分の策略に多少の後ろめたさを感じた西郷は
賠償金として70万両を支払うことを命じた。
城の武士やその家族はありったけの財産を売って金をつくった。
農民や商人も協力し30万両の金がたちまち集まった。
これを新政府軍に差し出すと西郷は「おはんたちのまごころには、胸を打たれた。もうよか」
と言ってその後の募金を打ち切らせた。
石原莞爾は黒歴史
876 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 19:49:26
877 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 20:45:29
鳥海山を小学生と登った後に、庄内藩の鳥海山山頂から一気に攻撃をかける作戦のコトを話したら…
小学生はあっけに取られてた。
878 :
日本@名無史さん:2009/09/13(日) 10:58:23
酒井氏は大江広元と子孫っていう噂?本当なの?
鎌倉時代に来た広元の長男と次男は県内だよw
880 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 23:58:56
酒井殿の先祖が誰かは不明だが、浮浪者同然の親阿弥という遊行僧が松平家と
酒井の利用法の娘を孕ませた事は事実で、酒井大老はそのことをおおいに憤慨しておられる。
地味なスレ発見w
882 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 12:03:56
>874
南洲遺訓をだした、菅実秀は裏切り者だ。
会津が長州を怨むのも理解できないが、西郷を尊敬しているのが、理解できない。
883 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 12:12:26
>72 125
取締をしたのが、犯罪ですか?
貴方方はテロ賛美を、していますよ
884 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 21:00:50
元和8年(1622年)、幕府は、改易された最上氏のあとに、譜代の一群を配備した。
すなわち、山形二十二万石・鳥居左京亮忠政、新庄六万石・戸沢右京亮政盛、上ノ山四万石・松平丹後守重忠、
左沢一万二千石・酒井右近直次、白岩八千石・酒井長門守忠重、庄内十三万八千石酒井宮内大輔忠勝。
酒井の庄内は、松代十万石からの加増であるが、徳川四天王であるにもかかわらず、
山形の鳥居忠政を補翼する立場が不満だったのである。
これに対し、当時の幕閣は、
「庄内は亀ヶ崎・鶴ヶ岡と申す両城有之、其地縁海の国にして誠陸奥越後両国の間にあれば、
今度の儀専ら外藩警備の御内意ニ而貴殿家柄格別の思召を以仰下されし儀なれば、彼両城御守護ありて
永く天下の藩屏たるべし」
と宥和して忠勝は、入部を受諾したのである。つまり、秋田の佐竹に対する含みがある。
来年、鶴ヶ岡城の一部を復元するそうじゃないか
887 :
日本@名無史さん:2009/12/25(金) 23:17:53
12月25日は、焼き打ちがあった。
めでたいですね。
南洲神社は破壊しろ。
888 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 22:25:35
>626 627
当然の任務なのに、朝敵にした。
西郷隆盛に感謝しているのは、おかしい
>>888 渡部昇一(鶴岡出身)は、
思いっきり違和感ある
と言っているね。
890 :
888:2009/12/28(月) 10:37:50
>889
御返事有難うございます。
すみませんがソースを、お願いします。
891 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 02:48:43
薩摩に駆けつけた庄内藩士に感動
あけまして、おめでとうございます。
893 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 08:06:00
>891
私の曾爺さんは、
官軍に参加しましたよ。
さて、今年の大河は坂本竜馬です。
元庄内酒井家家臣で勝海舟の門人で幕臣、神戸軍艦操練所の教授を勤めた佐藤政養。
勝海舟が神戸軍艦操練所を運営する際、頼りにした人物です。
勝の門人としては、長崎海軍伝習所以前の古い付き合いになります。
彼の出番は果たしてあるのでしょうか。
庄内酒井家は佐藤政養、本間郡兵衛、高木三郎、安部藤蔵といった優れた人物を、
他家に貸したりするなど、生かしきれてないことが目立ちます。
坂本龍馬の次の大河は、浅井三姉妹(特に三女「江」)だそうで。
けど、酒井家はまず出番ないだろうね。
だから〜「酒井了恒」を主人公にして大河やれよー!(怒)
イケメンなのに無茶強くて、悲劇性もあるから絶対良いと思うのだが。
問題は、彼を題材にした小説がないことだよなあ。
>>897 酒井了恒の研究は郷土史家の故坂本守正氏が行ってます。
『荘内人物史考2「酒井玄蕃の明治」(昭和57年8月)』
というのが著者坂本守正、刊行荘内人物史研究会から出版されています。
明治期の玄番の足跡を克明に綴っています。
ドイツに留学した忠篤兄弟も了恒を兄のように慕っていたそうです。
御家禄派といわれる保守士族(菅実秀ら)と距離を置いていたそうです。
松本十郎のほうが当時としては知名度は高い。
そんな松本十郎でもそれなりにドラマを作る要素は多い。
戊辰戦争当時は酒井了恒の下で戦ったこともあるしね。
維新後は太政官に出仕して、北海道開拓使大判官(部下に榎本武揚、大鳥圭介などがいる。)
を務め、東京で参議を兼任する黒田清隆の代わりに北海道の行政を切り盛りする。
樺太アイヌ人問題で、中央の太政官と揉めてしまい、辞職して故郷庄内に帰る。
西郷の反乱時は、庄内士族と太政官の間を取り持ち、暴発しないように宥めたという。
その後は、一農夫として生涯を終える。
ただ泣き所は、大久保一翁と同じく、資料や手紙、文章、日記を処分したところにある。
899 :
日本@名無史さん:2010/02/19(金) 21:17:42
おつ、900ゲット。
901 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 13:58:49
>>898 >>792 松本についての著書は井黒弥太郎という人が
「異形の人-厚司判官松本十郎伝-」という本を北海道新聞社から1988年に発刊しています。
この井黒氏は黒田清隆や榎本武揚の研究者で、松本をその角度から見ているそうです。
実際、上司松本、部下榎本の関係だったわけだが、松本は榎本の行動の中でしばしば見られる、
本業(土地の開拓・開発と行政の視察など)の合間に副業(土地の買収・農園の設置など)に精を出す榎本に腹を立てていて、
公私混同も甚だしいと怒りをあらわにしている
902 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 12:29:19
庄内酒井家には、戦場に出れば23戦不敗の松森胤保や30戦不敗の酒井玄蕃、
寒河江の戦いで立見尚文と共に、400の兵で2500の敵を撃退した中村七郎右衛門、
戦場の戦巧者が沢山います。
松森は写真、酒井は漢詩、中村は釣りとそれぞれ趣味を持っています。
こういう人たちにも、日の光が当たるといいね。
903 :
日本@名無史さん:2010/03/21(日) 13:15:04
本市出身の時代小説作家・藤沢周平氏のお人柄や業績、貴重な文学資料を
後世に伝えるとともに、藤沢文学を育み、また、作品に描き出されている
ここ鶴岡・庄内の自然・文化・風土に触れながら、藤沢文学を豊かに味わ
い深める拠点となる施設『鶴岡市立藤沢周平記念館』が平成22年春に
開館します。
平成22年4月29日(木)祝日・昭和の日に行われるそうです。
http://www.tsuruokakanko.com/hot/p0426.html
904 :
日本@名無史さん:2010/03/27(土) 12:39:09
905 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 10:42:20
鶴岡に胸像を建てるとしたら、おまいらだれだい。
906 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 21:12:43
<庄内藩の実情>
豊かな土地と優れた軍装
庄内藩は正式には鶴岡藩とよばれ鶴岡に城があり領内には庄内平野の豊かな
土地に恵まれ藩祖は徳川家康の重臣で「徳川十六神将」や「徳川四天王」の筆頭に
数えられる酒井氏である。
庄内藩は江戸城においても溜りの間」詰めであり名門中の名門といえる。
当時の奥羽越列藩同盟を指導していたのは仙台藩と米沢藩で両藩とも日和見の強い藩であり
利を求めて右往左往しており方針はいつも揺れていた。
越後で徹底抗戦し山県有朋を幾度も敗走させた河井継之助も一番頼りになるのは
庄内藩で頼るならば庄内藩を頼れと言い残しており事実その通りになった。
庄内藩は幕末江戸警備を担当しており西洋兵器についても比較的造詣が深かく京都における
会津藩の「新選組」に匹敵する「新徴組」を配下に持ち、薩摩藩が江戸市中で行った破壊工作に
対して敢然と立ち上がり江戸薩摩屋敷を焼き打ちにした藩である。
908 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 20:12:31
>905
酒井忠篤は敵である西郷隆盛の所に、半年も滞在した、腑抜けである。
その間は尻でも、掘られたか。
909 :
日本@名無史さん:2010/05/12(水) 21:53:37
910 :
日本@名無史さん:2010/05/15(土) 18:06:22
911 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 02:46:49
酒井忠発って暗君だったようだが、どのくらい?
912 :
日本@名無史さん:2010/07/18(日) 11:50:28
■藤沢周平全集第23巻「荘内藩主酒井忠発(ただあき)の明暗」(原文引用)
江戸市中取締りとして、薩摩屋敷の焼打ちを断行し、戊辰戦争では最後まで官軍に抵抗した幕末の荘内藩は、生粋の佐幕派の印象を残している。
たしかに荘内藩は、藩祖酒井忠次以来の徳川家譜代の藩であり、また三代忠勝が信州松代から荘内に移封された元和八年以来、天下の藩屏(はんぺい)、
北国の押さえを祖法とした藩でもあった。
しかし幕末期のはげしい情勢変化は、この生え抜きの譜代藩にも波及し、後のように佐幕体制を確立するまでには、
藩内に公武合体派と佐幕派の激烈な主導権争いが演じられたのである。
幕末期の情勢と荘内藩とのかかわりあいは、寛政五年松平定信が沿海諸藩に海岸防備の強化を下命したころにはじまる。
この年荘内藩は領内の日本海岸三ヵ所、吹浦、今泉、鼠ケ関に外国船見張番所を設け人数を配置したが、
翌六年には鶴ケ岡城大手前において、大規模な異国船打ち払いの訓練を実施している。
このころ酒田の豪商本間光丘は、泉州堺に五十匁砲、百匁砲五門を注文して藩に献じた。
当時の、いわゆる外夷の脅威との、不確かなそしてはじめての接触であり、
幕末期荘内藩の幕明けとでもいうべき新しい動きがそこに見られる。
その後荘内藩では、文化四年には蝦夷地に出兵したり、また翌年には本間光丘が堺から取寄せた新式銃砲を使って、
荘内海岸で試射を試みたり、次第に新しい時代の波を浴びはじめる。
嘉永元年には、酒田沖の孤島飛島に、異国船が現われ、島を砲撃したので、
藩では急速足軽組二組に砲手数名を添えて、飛島に派遣するということもあった。
海岸防備は強化された。
続く
913 :
日本@名無史さん:2010/07/18(日) 11:54:48
続き
そして軍艦七隻を率いて、再度来航したペリー提督が、幕府との間に強引に日米和親条約を結んだ安政元年に、
荘内藩は品川の五番台場の警備を命ぜられた。
こうした外圧との接触が深まるのと並行するように、藩内ではひとつの抗争が進行していた。
十代酒井忠器が隠居し、嫡子忠発が家督をついで十一代藩主となったのは、天保十三年である。
そのとき新藩主出発は三十一歳だった。
続く
914 :
日本@名無史さん:2010/07/18(日) 11:57:59
続き
早くから世子と定められていたわりに、遅い家督相続とみられたが、これには藩内の事情が絡んでいたのである。
荘内藩には両敬家と称し、格別の家柄とされる重臣がいた。
酒井奥之助、酒井吉之丞の二人がそれで、奥之助直方は、三代忠勝の九男市之助忠直の裔で千百石、
吉之丞可繁は、二代家次の四男酒井可次を祖とし、禄は千三百石を領していた。
この両家は家臣というより藩主の相談役といった地位にいて、元来は役職を持たない家柄だったが、
忠器が隠居し忠発が家督をついだという時点では、奥之助が家老、吉之丞が中老として藩政に参画していた。
当然ながら、藩政に対する発言力は非常に強かった。
ほかに中老に松平舎人敬親がいた。
この松平家も、家次の次男松平甚三郎久恒を祖とする松平甚三郎家の分家で、二千石を領する大身である。
この三重臣と隠居した忠器との間は、よほどウマが合ったらしく、それが忠発の家督を遅らせたひとつの原因だとされている。
新藩主が出現すれば当然藩内の勢力地図にも変化が出てくる。
そういう変化を、忠器も両敬家らの重臣層も歓迎しなかったということなのだが、この後の経過をみると、
必ずしもそれだけにとどまらない節がみられる。
すなわち出発が家督をついだ直後、酒井奥之助、吉之丞、松平舎人らは、
忠発を廃して酒井家の分家で徳川家の旗本となっていた酒井忠明を藩主に立てようと画策し、
この画策は露見して忠明は支藩松山藩に預けられて幽閉されるという事件が起こっている。
続く
915 :
日本@名無史さん:2010/07/18(日) 12:00:35
続き
これは単純に前藩主と重臣層が、蜜月のような気の合った藩政を布いていて、ために新藩主への家督委譲を遅らせたという事情とは別に、新藩主忠発に対する重臣層の悪感情が存在したことを証明しているように思われる。
この事件の裏には隠居した忠器の内諾があったとも言われるが、ともあれここから新藩主と重臣層との深刻な抗争がはじまり、
幕末期の思想的対立もからんで、以後二十五年にわたる藩内の確執が続くのである。
この新藩主と重臣層の対立が先なのか、あるいは時代の変化がもたらした思想的な対立が先でこの確執が生まれたのか、
そのあたりは不明なものがあるが、その後時代が移るに従って、この藩内抗争は、次第に思想的な対立の様相をはっきり打ち出してくる。
両敬家、松平舎人ら改革派と呼ばれる重臣層の周囲には、照井長柄、広瀬厳雄など、鈴木重胤に国学を学んだ勤皇思想の人びと、
また赤沢隼之助、服部毅之肋ら勝海舟塾で蘭学を学んだ開明的な考えの人びとなどが集まった。
ほかに江戸定府の用人上野直記、江戸留守苦役大山庄太夫、また身分は低いながら池田駒城、深瀬清三郎などは、
いずれもひろく天下の情勢に通じ、海外に対しても眼を開いていた人びとだった。
一方新藩主忠発の周囲にも側近勢力が育ち、次第に両敬家など旧重臣層を圧倒する力をたくわえて行くが、たとえば元治元年に江戸留守居添役、
翌年本役に任ぜられた菅実秀に代表されるように、藩学である徂徠学の素養が身についた人物はいても、その中にいわゆる新知識を身につけ、
新しい時代を見通している人間は欠けていたようである。
大ざっぱに言えば国学、蘭学派と、旧来の儒学派の対立ともいうべきものがあり、文久初期にはこの対立は公武合体派と佐幕派という形の、
藩内政治勢力の主導権争いに発展するのである。
続く
916 :
日本@名無史さん:2010/07/18(日) 12:02:51
続き
改革派は藩主廃立を二度画策し、二度失敗した。
すると次には忠発の世子忠恕に望みを託し、忠発の隠退、忠恕の家督、酒井大膳の後見という段どりで、
藩政改革を実現しようとした。
しかし彼らが望みを託した世子忠恕は、安政五年二十歳で急死した。
その死因について奇怪な流言があったことからも、藩内抗争の激しさがうかがわれる。
改革派は、忠恕の死によって大きな打撃をうけたが、次の継嗣問題で、今度は忠発がのぞんだ三男の繁之丞に対抗し、
忠発の弟忠寛を継嗣に望む。
この争いは、繁之丞が幼年だったために、幕府が改革派の推した忠寛を継嗣として認めたので、改革派の勝利となった。
藩主忠発との執拗な抗争が、はじめて実を結んだのである。
続く
917 :
日本@名無史さん:
>>890 『誰が国賊か
今、「エリートの罪」を裁く時』(谷沢永一、渡部昇一共著 文春文庫)
その中で渡部は
「故郷鶴岡では散々、西郷さんは偉いと教えられたけれども、
正直、どこが偉いのか分からなかった。
(西郷は)倒幕までは良かったとしても、その後はただ頑強に攘夷を唱えるだけで、
もし維新が成った後も西郷の言う通りのようなことをやっていたならば、
とてもじゃないが当時物質文明力に於いて西洋列強に圧倒的に差をつけられていた日本はそれに追い付くことは出来なかった。
富国強兵も文明開化もあったもんじゃなかった。
西郷には近代国家を作るための明確なビジョンが欠けている。」
的なことを述べている。