2 :
日本@名無史さん:04/03/07 11:00
2
3 :
日本@名無史さん:04/03/07 11:13
乙
4 :
日本@名無史さん:04/03/07 12:13
最近、古代史関連のスレが盛り上がっていて凄く嬉しいです。
特に、このスレ1〜3には、勉強になる発言が多かったように思います。
古代、倭国の中心は九州だった。
大陸・半島・南洋の島々から渡来した人々は
まず九州を拠点として東へ東へと入植していった。
九州こそ倭国の玄関口であり司令部だったのだ。
やがて東方への入植が軌道に乗ると、実質的な
統治機能はそれぞれの入植地に作られたクニへと移行されていく。
しかし宗教的にも外交的にも中心はやはり九州であり、
偉大なシャーマンが各地の王権を統括しまた認知していた。
さらに時代が下がると、各クニは互いに衝突しあい、
倭国の覇権を狙いあうようになっていく。倭国大乱である。
各国は有力な地域大国を中心とする連合を形作ってゆき、
最終的にそれは西の邪馬台国連合と東の狗奴国連合の冷戦に至る。
畿内の邪馬台国は九州のシャーマン一族を擁することで、
連合国の盟主としての地位を得る。やがてそれは倭国統一のなかで
名実ともに大王へと変化していくことになる。
ジャバ・ザ・ハット国
7 :
日本@名無史さん:04/03/07 13:54
前スレで言われていた「太陽の道」説について、
誰か論じてくれませんか?
やっぱり、三輪山は太陽信仰の中心地で、大和政権にとって
特別な神南備だったのか?
敏達紀に記されている、蝦夷の首領・綾粕が
三輪山に向かって降伏を誓ったのは何故なのか?
パート4いらねぇ。
どーせまた日食厨のオナニーが始まるだけだベ。
九州説は日食厨の危険性が高いので全部スルーする方向で。
それでも何か言いたい九州説の人はコテハンでよろしくってことでどう?
10 :
日本@名無史さん:04/03/07 17:09
>>5 >最終的にそれは西の邪馬台国連合と東の狗奴国連合の冷戦に至る。
>畿内の邪馬台国は九州のシャーマン一族を擁することで、
>連合国の盟主としての地位を得る。
九州邪馬台国がシャーマン国家だったのは3Cまで。4Cには軍事国家に変容し、西九州に遷都。
冷戦ではなく、畿内王朝は九州邪馬台国の配下で「いやいやながら半島戦争」に駆り出される(7C)。
7C後期、九州邪馬台国同士のサチヤマと天武の対立は、天武の畿内王朝乗っ取りにより
天武〜持統時代は九州サチヤマ政権の残党狩りとなって、収束していく。
邪馬台国関連出土物は、畿内で出たことはないのだ。
畿内説のやつが出てきたら、だいたい粘着考古厨か、妄想畿内連合厨だから、スルーしたほうがいい。
>>10みたいなヤツはおいといて、
畿内説はなぜ3C頃の日本が多元国家だった可能性を考慮しない
のだろうか。共通の言語や風俗という基盤のもとに各地域が
独自・独立性を持っていたと考える方が正しいと思うが。
つまり考古学畿内説は無意識のうちに遺跡や発掘物を
記紀歴史観で解釈しているんじゃないか、と懸念を持つ。
記紀の神話部分を妄説として退けておきながら、大和朝廷の
成立部分は事実として結びつける手法は正しいのか?
>>14 記紀の神話部分を妄想と退けちゃいないよ、畿内説は。ただ
>共通の言語や風俗という基盤のもとに各地域が
>独自・独立性を持っていたと考える方が正しいと思うが。
この部分を否定する所が畿内説のスタート地点なのよ。
確かに当時の日本は言語や風俗の異なる多元国家だったと思うが、
それらが何らかの理由で3世紀に統合を目指し始めるってのが畿内説のキモで。
何度もいうけど、6世紀に播磨国が外国だった畿内王権は、思いっきり狭域政権なんだが。
大和の宗教都市で、大和朝廷の発祥の地だったと思われる纒向にから
日本の主だった地域の土器が殆ど出てて、
なおかつ倭国乱が瀬戸内全域に軍事的緊張を産む種類のものだった事が
高地性集落の出土状況から推測される。
とすれば、かなり広範な政治的統合があったんじゃないか。
そこが畿内説の発想の原点なのよ。
>>16 んなこといっても5世紀に高句麗と戦ってるし。
シベリアにまで広がっている縄文黒曜石分布
北海道で見つかる、北限が沖縄の貝の装飾品
・・・・べつに縄文極東大連合や弥生列島大連合があったわけではないのだ
>>18 高句麗と戦ったのは、大国家、九州倭国
畿内の小国はその属国ですが。
交易圏が日本全体に広がっているのとは性格が違うのよ。
軍事的緊張が西日本全体に広がっている。
日本の主要な地域の人間が一ケ所に集結しているらしい。しかも宗教都市に。
それと黒曜石の分布とは全く性格の違う物なのよね。
>>20 スルーするべきなんだろうが、河内の大山古墳に匹敵するもんが九州にあるのか?
と一応言っておく。
畿内説は絶対とはいえない、故に九州であるというのは
飛躍がありすぎ
九州説の積極的な根拠って無いの?
>>23 このスレには一人キチガイが混ざってるので間に受けない方がいいよ。
マトモな九州説の人も困ってると思う。
倭国連邦や連合なんて壮大な構想を導入しなくても
「巨大倭人交易圏」でいいじゃないか・・・
それと瀬戸内の高地性集落はどういう性質のものなの?
・畿内政権の進出根拠跡なのか
・「西方」への防衛線なのか
・単なる瀬戸内の海賊勃興への備え跡なのか
>>25 だってその後の歴史を考えると
半島進出・河内の超巨大古墳出現・高句麗との激突
でしょ?
半島に進出した勢力と纒向の勢力は前方後円墳という大和起源の物によって連続している。
そして纒向の古墳群が3世紀のもんだとする年代測定が正しいとすると
この時代から日本列島の政治的統合が始まっていたと考えるのはおかしな発想じゃないでしょ。
>>27 やめて。悲しくなるからそんなこと言わないで(涙)
てゆーか、それ日食厨の戯言でしょ? 九州説の人も突っ込めよ。
半島の鉄があまり出てこない畿内が、高句麗と戦った?ウソでしょ。
>>29 3世紀はな。5世紀になると凄まじい量が出るぞ、鉄。
で、播磨は外国だったと
6世紀には大和が九州まで大軍を派遣する「磐井の乱」が起こってる。
播磨? なにそれってなもんだな。
大軍?
暗殺小部隊でしょ。
>>26 いや…こうなると単なる言葉のアヤと取られかねないんだけど、
要は服属意識の有無や中央集権的な強権発動が行いえたか、と
いうことなんです。
オレはさすがに三世紀時点じゃそれはまだ無理で(ある意味五世紀も)
時に従い、時に叛すような地方自治王国ならありえるかな、とね。
それと三世紀時点の九州の衰退と後の大和王権?の半島進出に
関して、弥生中期に北九州においては人口爆発が起きていて、半島に
逆渡来している倭人の存在が確認されている事(なぜか今まで
話題になっていなかったので)をあげておく。
>>34 投入された兵力は6万と「記紀」にかかれてるよん。
所謂、記紀の誇張ね
>>36 ああ、そういう意味ですね。
自分は3世紀頃は交易の安全や平和を維持する為に緩やかな連合体が3世紀にあり
それが4世紀末以降、朝鮮半島への軍事侵攻を契機に、強力な兵権を持つ勢力に
大和朝廷は変質して行ったと思ってます。
>>38 畿内説を文献無視とひぼうしておいて、不利になると「誇張」か。
節操のない奴らだw
邪馬台国スレなんだから、文献学が前提ですが、原典批判しないで「信仰」してはいけません
>>37 兵力6万でコテンパンにやっつけた割には、全然倭国が滅亡していませんが?
>>41 畿内説が文献を弄ると「曲解」「妄想」で、
自分達が曲解したのを批難されると「信仰はいけません」ね。
ま、その程度の奴らって事か。
>>43 6万を頭から信じているって、告白するのね?
で、播磨は外国なんです。
>>44 南を東と読み替えても別に問題はない、と認めるのですね?
そもそも大山古墳を作るような勢力をどう曲解すれば小国になるのか説明して欲しいな(苦笑)
香港やシンガポールみたいな国だよね、そういう国を知らないの?
>>48 もういい。もうやめようよ。君の馬鹿っぷりがどんどん明らかになるだけだから
: .,' l. . ll::::. . . . . . ..:,':: .,'.,' .|.l.',.'!::.. . . . ..!:',:. . . . . :.',.. . .', ゙、
:./ .!. .,'i:::: . . . . . ..::,'::::.,'.,' !.l i.l',:::: . . . li:::',::i::. . . . . . . ', . . .!, ゙,
/ l. .,'.i::::: . . . . ..::/::::// !l !l l:::: . . .l l:::l:::l:::. . . . . . .l. . . .ll i
l. .,','::::: . . . ..::,゙,''‐-/、,_ !' ! .l:::: . . i .l:::!:::!:::. . . . . . l:. . . ll }
. i..//::::: . . ..::, /:; '/' ~゙''/‐-l、..!;;;_. .,' !::l:::l:::::. . . . . ,'!:. . .,'l. ,'
. ,'/./:::::. . .:;: ',.'; '/ / l .l::: `,' .l:::l::l::::::: . . . .,':i::: . ,','.,'
/"/:::::::::://" ' .l:: ../ l::,'!,':::::::. . . ./:,'::: .//'
. /:::::,.-'' ゙゙゙""", '""''''';‐-::、,!;;_/ .,':,'l,'::::::::.. . ,.':/::::, '
/.-'" {;、,,,..、 ';;;;;;;;;i,'ツ'゙'' .,'//:::::::::: , '::,.'::/
゙、;;;;;;;;;;;;;;;;; ''" / /::::::::;. ':::, '/
.、,,_ ゙ '‐-‐ '" , ', ":::; r'"::, ''"
゙゙'''' ‐--‐ '''" , ': r'" i''"
, , "´ {. ,'
. ゙ ゙ ! ,.'!
.l'".l こんなんでよく4回ももったなw
,---, ,.'. ..|
. !. / ,r'. . . !
ゝ' ,r". . . . |
,、 '". . . . . . .!
,,、- '". . . . . . . . . ..l
`゙゙''' ‐- 、、、、、、、 -‐ '''":::::::: . . ..l. . . . . l . . .|
. |::::::::::::::::::::::: . . ..!. . . . . !. . ..!
、.,,. !、::;;::::::::::::::::: .:: ..l. . . . . .l. .! .|
>>46 認めないが、倭人が東西南北で地理を把握していなかった反映で、
中国側でも把握し切れなかったのでしょう。里程も倭人からは聞き出せなかったよね。
>>52 リンク先を見たけど、播磨に仏教徒の高句麗人がいると
なんで播磨が外国になるの?
>>25 高地性集落は神武東遷に対する備えか、吉備と難波に多いのはその現れ、
記紀には吉備の6年滞在したりしてゆっくり瀬戸内海を東遷している。
東遷が完了した段階で畿内から九州までの中央集権統一国家ができたと考えるのが
緩やかな畿内がそのまま大きくなるより政治的に強力と言える。
仏教がまだ大和国に伝来していなかったので、国内に坊さんがいなかった。
>>54 神武東遷という表現だが、東侵以前に神武が王様だったことはない。
当然のことながら、神武なきあとの九州邪馬台国は、従来どおり。
その後畿内王は、邪馬台国から朝臣だの真人だのをもらって細々小国経営。
ええと、このスレは邪馬台国は大和朝廷になったか?ですよね。
すると、このスレの議論は、以下に整理されるという認識でよいですか?
1.邪馬台国は九州にあっった。大和朝廷になっていない。(邪馬台国対大和朝廷?)
2.邪馬台国は九州にあっった。大和朝廷になった。(邪馬台国東遷)
3.邪馬台国は畿内にあった。大和朝廷にはなっていない。(これは考えない?)
4.邪馬台国は畿内にあった。大和朝廷になった。(邪馬台国=大和朝廷、東遷なし)
5.邪馬台国は九州でも、畿内でもない。大和朝廷になっていない。(邪馬台国はなかった。)
6.邪馬台国は九州でも、畿内でもない。大和朝廷になった。(?)
ちょっと議論が見えにくく感じてたので書いてみました。
意味ないようでしたら、スルーしてください。
58 :
日本@名無史さん:04/03/07 21:30
イケズの混入を避けるために,
「大和政権の母体は?」 なんてスレたてたらどうでしょうか?
んでもって,こちらを隔離スレにするとか。
とはいうものの,東遷坊やは出てくるのかもね
王権の象徴が九州の古代王朝もしくはシャーマンの系譜
実態は畿内の大人口
60 :
日本@名無史さん:04/03/07 21:37
高校の時の先生が邪馬壱(一)国と邪馬台(十?)国にヒントを得て
「邪馬二国から邪馬九国まで存在するはずだ!」なんて怪電波飛ばしてた。
マニア恐るべし・・・
邪馬九国は畿内だと思う。
そろそろ瀬戸内海の高地性集落について、その存在意義が
西に対する進出拠点なのか防御拠点なのかはっきりさせよう
畿内説側は進出拠点、九州説側は東遷に対する防御拠点と言う見解。
>>62 畿内や吉備といった瀬戸内勢力の統一へ向けてのゴタゴタってのもあるんでね?
九州はあまり関係無いってのも。
64 :
日本@名無史さん:04/03/07 22:22
縄文と弥生の関係を成長曲線的に1系統で理解せずに
異文化の攻防と捕らえると、邪馬台国は弥生文化と固定する
必要はなくなる
マイナーかもしれないが(真実はマイナーに明かされてる場合もある)
青森の三内丸山遺跡を見てると、原日本人の首都は東北にあったのではないか
とマジに思う。
機内、九州説が当たり前化してるが 確定できる証拠が無い以上
東北説もはずせない。朝鮮半島からの渡来人が乱入する前の
日本統一体制が実は東北中心にあったんではないか
渡来系の天皇系が力を持つにつれ史実は権力により書き換えられてきた
鯨さんの小説じゃないが、いわれひこのくに=いわれ県、
邪馬台国=やまたい=やわたい=八幡平・・・魏志倭人伝の倭国の
記述は方角が間違っていただけで、距離と日数は正しいとすれば
「女王国の東、海を渡ること千余里、また国あり、皆倭の種なり
又、朱儒国有りて、その南にあり、人の丈、三四尺」は東北に
隣接した北海道のアイヌとコロポックルの話ということになる
原日本人の文化の中心地は東北にあり、邪馬台国は縄文文化から発展し
首都は東北にあった。日本書紀等の記述と合わないのは
天皇系は関西以西を制圧した外来系の征服民族系で
歴史を捏造した後の文献しかないためだ・・・
とだんだん本気で思うようになってきた
65 :
日本@名無史さん:04/03/07 22:23
九州説が高地性集落を取り上げるとき、女王に属せず(魏志倭人伝)なのだから
狗奴國が邪馬台国に従わない=攻撃を受けているほうだというのがある
同じ魏志倭人伝の相攻撃状と矛盾するようなきもするのだがいかがなものだろうか?
66 :
日本@名無史さん:04/03/07 22:25
>>57 邪馬台国は九州にあった。時々九州内で遷都していた。
畿内には別国があった。畿内は時々王権を簒奪される事があって、
九州系神武や越系継体はそういう横取り王だった。
7Cに九州系天武が畿内を乗っ取った。
68 :
日本@名無史さん:04/03/07 23:00
畿内を乗っ取ったとか、拠点を移したとかぼんやりわかるけど、
なんで邪馬台国の権力者達は、故郷の九州を捨てて畿内に移ったんだろう。
その後移った後も、九州を大事にするとこがあればいいけど、
もうほとんど縁がなくなったんでしょ?
69 :
68 九州人:04/03/07 23:07
すいません。
邪馬台国から発生したと思われる九州の豪族や、
天皇家がということが言いたかったです。
九州を捨てた理由がわからない
70 :
日本@名無史さん:04/03/07 23:10
邪馬台国がそこにある
>>68 邪馬台国は博多湾岸の宗教国家だった。首長は宗教的呪術巫女だし、
中国からもらうものは、印鑑と鏡。
ところが、百済や新羅が覇権争いして、極東諸国が軒並み軍国主義となった。
そこで邪馬台国は急襲されたら危険な博多湾岸より、安全な有明海に遷都した。
鉄器と遠洋に慣れた軍人以外は、お役御免の時代となってしまった。
神武はそんな軍人の一人だった。
>>69 九州を捨てたのではなく、神武が邪馬台国には不要な人材として弾かれたのだ。
邪馬台国内で、神武は単なる古臭い一軍人に過ぎない。
邪馬台国自体は、九州に在り続けて倭の五王を輩出している。
73 :
日本@名無史さん:04/03/07 23:18
正直九州説の俺としては日食についても語りたいw
九州を捨てたというより前線だから退いたというのが正解では?
天皇家はその後九州政権というべき西征府を置いていたこともある
九州で軍人生命を絶たれた神武は、活躍場所を探した。
隠岐や姫島の黒曜石では勝てないから、鉄の入手に奔走した。
占領可能な領土を探した。
しかし遠洋航海が出来ない「目視」航法では、瀬戸内しかなかった。
いまいち説得力に欠ける。
その後の九州の発展度合いからみても、
神武様が九州を離れた決定的な根拠が乏しい。
あの当時に拠点を、わざわざ遠い畿内に移そうと思えば、
よっぽどのよっぽどのよっぽどの理由がない限り、
神武様、自らの重い腰はあがらないはず。あまりに軽い意見が多すぎる。
それだけ九州という土地柄は、重みのある土地柄。
77 :
108@文献偏重派:04/03/07 23:59
邪馬台国は一応九州にあったと思う。魏に朝貢していたときはすでに没落してて、
まもなく畿内勢力の九州侵入で滅ぼされたと思う。
日本書紀によると、景行天皇が九州遠征してい、この時、卑弥呼チックな女酋が降伏している。
これは畿内勢力が九州に及んで、女王国が帰順したという歴史的事実ではないだろうか?
(ちなみに景行天皇の九州遠征のシーンでは、彼が天孫降臨や
神武東征についてまるで何も知らないかのような描かれ方をしている)
崇神〜景行〜仲哀は後の大和朝廷の祖先ではないし、邪馬台国とも関係ない人たちだろう。
おそらく「原畿内勢力の長たちの歴史」を、応神天皇以降の人たちが
「10代〜14代の天皇家の歴史」として強引に組み込んだのだと思う。
その後、畿内勢力の有力者だったある武将(のちの応神天皇)が
九州を拠点に、軍事的クーデターを起こし、東進して畿内を乗っ取り。
その際、九州で零落していた卑弥呼の一族を祭り上げた。
卑弥呼をアマテラスオオミカミとし、九州を神聖なる土地「高天原」としたのだ。
神武は架空の人物で、モデルは九州出身とされる応神。記紀では同一人物が分裂する事はよくある。
東遷の元ネタは対半島方面軍司令官だった応神がその兵権を濫用して起こしたクーデター。
邪馬台国=初期大和朝廷は初めから畿内にあった。
応神=神武説ってポピュラーなの?
邪馬台国が滅ぶのは、663年〜701年の間。
壬申の乱で九州系天武に乗っ取られた畿内王国が、祖国九州を征服。
>>79 まったくポピュラーじゃない→応神=神武説
>>77 >(邪馬台国は)魏に朝貢していたときはすでに没落してて、
>まもなく畿内勢力の九州侵入で滅ぼされたと思う。
違います。新羅+唐と戦って白村江で敗北した。没落しているのに何で唐+新羅と戦える?
84 :
108@文献偏重派:04/03/08 00:10
神武東征はおそらく応神の九州発クーデターを下書きに生まれた伝説だろう。
九州勢力(邪馬台国)が仮に東征できる力を持っていたとしても
かんじんの東征する理由が見当たらない。
>>78 日本書紀が出来たとき、取り巻く豪族が「応神=神武」なんて納得しないでしょ。
神武が架空な根拠は、津田左右吉の脳内架空説による。
>>84 >かんじんの東征する理由が見当たらない。
竹槍軍人は九州で用無しだから。
なお、九州の軍隊のほとんどは、神武に同行していない。
神武は単なる脱走組。
88 :
108@文献偏重派:04/03/08 00:23
>>87 「用無しの脱走組」がなぜ東征しなければならないか理由を教えてください。
卑弥呼の時代は北部九州は朝鮮半島からの影響もあって安全ではなかったと思われる
女王国より「北」に特に一大率を置いて諸国を險察しなければいけないほど不安定な状態
後漢書の倭の奴国も極南界とある
時代を下れば磐井の乱というのもあった
なるべく離れた土地に政府を置いていたのではなかろうか
313年高句麗、楽浪郡を滅ぼす
346年百済、馬韓諸国を統一する
356年新羅、辰韓諸国を統一する
邪馬台国は、卑弥呼の宗教国家時代から、こんな軍国時代に突入してしまった。
こんな遠洋で鉄器戦を戦う時代に、神武は目視航海で小船隊を率いる軍人だったのでもはや用無し。
>>88 目視航海できる土地で、住民の少ない土地(低湿地)は河内だった。
>>88 ごめん、理由ね。
戦争に用いられない軍人は、どういう人生を送ったらよいかわからないから。
博多湾岸しか人脈のない、旧式用無し軍人が、有明海の都で軍人生命を生きる術はない。
93 :
日本@名無史さん:04/03/08 00:41
そんな脳内神武がなぜ大和のような肥沃な土地の文明国を攻略できたんだ?
一度でも奈良盆地を歩いてみろよ。
大和を軍事的に占領するには、山間部からの攻撃を抑える軍事力と政治力が不可欠だぜ。
>91
なんかいい感じ。でもなぜ東征しないとわるかったのか理由になってない
>92
そんな理由でどうして畿内じゃなきゃいけないんだよw
九州にも余生を送るのにいいとこいっぱいあるわ
>>92 事実九州内にも長居してるね。成功はしなかったけど。
神武は余生を送る場所を探したのではない。
戦闘の自信と誇りを持っていた「久米」一族を率いていたので、
連中の食い扶持を探すか、自ら領土を得るかしか方法を考えられない。
当時畿内政権が中国に朝貢した記録が無い処から
畿内は情報に閉ざされ鉄などの最先端技術なども殆ど無い暗黒で遅れた地域であった
まだクニもクニと呼べる段階ではなく大き目の集落に酋長を頂く社会の集まりであった
ただ、縄文時代からの交易は庶民の間で連綿と繋がっていた
銅鐸文化はその遅れた政治感の表れであるともいえる。
西からの軍団に対処するため銅鐸文化の畿内酋長たちは高地性集落を作ったが
畿内の石器・青銅製武器は鉄製武器には対処できず銅鐸文化酋長たちは東に逃れた。
邪馬台国と争う国々が中国と没交渉であったとは考えにくい
中国の意向がとどろかないのであれば金印や称号がそれほど必要ではないはず
100 :
日本@名無史さん:04/03/08 01:12
>>79 神武=応神は昔から言われている説。最初に言ったのは
山片蟠桃だったかと記憶しています。
応神(神武)が大和に東征した理由は、そこが倭国の首都
だったから。河内平野に前王家以上の大きさの前方後円墳
を築造し、高らかに倭国王の後継者であることを宣言した。
何故、応神の簒奪が成功したかというと、継体の時と同じように、
@応神が血縁的に大王家に連なる人物(皇族将軍)であった。
A在地の有力者(葛城氏)の手引き。
と考えています。
熊襲(or半島)への出陣を控えたある日、葛城ソツヒコが
応神の耳許で、「これだけの船団が有れば、ヤマトを攻め陥とせますよ」
と囁いたのでは、と夢想。
101 :
日本@名無史さん:04/03/08 01:16
>>98 奈良盆地を歩いてから妄想しろ。バカ。
奈良の弥生遺跡が巻向だけにしかないとでも言うのかね。
部族制の政治集団が割拠してるような時代相にしては、
奈良盆地のサイズに比して盆地中央にあった唐古・鍵遺跡は大きすぎるんだが。
神武時代の畿内は、極東諸国ほど軍国基調ではなく、
地域単位の小競り合い程度の戦闘が主だった。
朝鮮半島遠征軍に不採用だった神武は、鉄器で畿内に侵入し、
わずかな領土を持った。
片や、邪馬台国は4C〜6Cにわたる極東二百年戦争を戦っている。
ちょっと見ないうちに学問とはかけ離れた、というか、
日本史ですらなくなってるな、これは。
>>103 厨房が一人いるせいでこの有り様。
みんなスルーできないのよね。
だから九州説は(よほど論理的で無い限り)全部無視しろっつってるんだが。
>>103 文献学と考古学を知り、仮説を立てるようになると、あなたにもわかるよ。
もっとがんばりましょう。
日食厨の分際で偉そうにのべてんじゃねぇw
>>103 理論的な畿内説以外は無視しろって言ってるんだが。
だから、なんでみんな厨房のオナニーにレスつけてやるわけ?
102とか98とか明らかに日食厨のオナニーじゃん。馬鹿が多いなー
もともとそだよ。だって2チャンなんだもん
妄想レス,思いつきレス,何でもござい
まともな奴なら,きっちりした場所があるはずだしね
東遷なんぞは,神話の世界か,そうでなければ僭称レベル
あれほどコテンパンに叩きのめされ
考古学と言いつつ実は妄想と嘘の産物だった、畿内説
まだいたの?いじめ甲斐があるというか馬鹿というか(w
>>103 既存の文献だけでは情報が断片的であったり、
あやふやであったり説明できないとこが多いから、
みんな知恵を振り絞って、独自の推論を織り交ぜ、
閉ざされた歴史の穴埋めをしようとしてくれてるんじゃないか。そこが2chのいいところ
も前のようなことを言い出したら、この板の価値はない。消えろ
東遷は神話という津田左右吉神話ですがなにか?
古代史を「数学的積み上げ」だけで解決できると思ったら大間違いだよね。
全体として無理・矛盾無く多くの事象を説明できる解・釈説明が真実に近いだろう、
というのがやむを得ないアプローチなのだ。
とりあえずここを正常化するには日食厨を追い出すしか無いわけよ。あるいは無視するか。
協力しろよ。
日本史以前の問題で、
関西系の人間は(特に大阪)、どの板でもよく叩かれてるのを見るが、
この板でも例外でないのは確かだな。
共通点は、意見とかを見てて痛いんだよな、発想が。
それで本人達は全く自覚症状がないから、ますます叩かれる
未だに厨房に日本語や論理的説明が通用すると勘違いしてる奴がいるのが信じられない。
>>116とか
>>114とか、ちょっと痛い。
>>117 ほんとのDQN厨房は普通、
こんな時間に日本史スレなんかに来ないだろ。もっと行くとこあるだろDQNには
だからあんたみたいな関西人は、痛いんだよな
関西人の憎念のようなものを感じる。
別にいいじゃないか、おまいら関西人のジモトに邪馬台国が無くても。
邪馬台国なんてどこでもいいけど捏造はいかんぞ、関西人よ。
あ、オレ九州人ですが畿内説派です。
阿蘇山って畿内のどこにあるの?
あ、オレ宇宙人ですが九州説派です。
弥生中期の人口は九州>>>>畿内
>>124 君、シンガポールがどーのとか言ってた人?w
127 :
日本@名無史さん:04/03/08 04:14
関西説の一途さを見ると
一度信じた事には間違っていても死ぬまで信じる宗教みたいに感じる。
この関西住民の「粘着的に信じる」という性格が
東遷の大王が関西に侵入した時に
近隣平定に良いほうに作用したという仮説も成り立つのでは?
ふ。
九州説って無知と差別環状で出来ているんだな。
129 :
日本@名無史さん:04/03/08 08:35
神武は奈良のイスケヨリヒメ・ファミリーの客人格でクーデターを指揮したが
その没後嫡男タギシミミはファミリーの後継者によってなぶり殺しにされている。
コザ・ノストラの社会だなー。
130 :
日本@名無史さん:04/03/08 08:58
関西って要するに器なわけよ、現代の器は東京に移ったけど・・・
西から朝廷の元となる東遷があり、東から関東の平将門に始まり
武家政権800年の祖鎌倉幕府
信長家康秀吉も東海
薩長土肥も九州山口四国
畿内に歴史上英雄的な人は居ないけど
あらゆる歴史上の英雄が畿内を目指していたり畿内に喧嘩売ったり、
誇りに思っていいんじゃないかな?
中国風に言えば中原なんだよ、
畿内の人はせめて卑弥呼位は我が故郷へと思って嘘付いてまで畿内説を言ってるのだろうが
嘘付いてると畿内の人の人格が疑われるよ、
131 :
日本@名無史さん:04/03/08 09:11
モモソヒメは兄弟にキビツヒコがいるから岡山県人。だから卑弥呼は
岡山県人。チガウ?
>>130 「おらが村に邪馬台国」なのは九州説その他だろ
近畿は上古から近世に至る遺跡が腐るほどあるわけで、
邪馬台国が九州だとしても大して痛手じゃない。
それに比べて九州は古代しか誇るところがないもんな。
文献すら整合しないのに必死になるのも判るよ
村おこしがんばれよ
>132
お前、バカ?
九州は明治維新以降からが本腰だろ
考古学と神話によって導き出される倭国の各勢力圏は
・北九州王国(あえて中心地はあげない)
・南九州王国(日向・高千穂・西都原)
・山陰王国(出雲・伯耆)
・吉備王国
・畿内王国(奈良・河内・近江?)
・丹波王国
・越王国
・東海王国(飛騨・美濃・尾張?)
・毛野王国
便宜上「王国」としてみたが・・・。さらに諏訪、武蔵、東北なども
それぞれ勢力を誇っていたと認められるか?
>>133 池沼はお前だろ
明治維新でおいしいとこを持ってったのは薩摩長州、
あと土佐の坂本龍馬
それとも邪馬台国は鹿児島とか思ってる人ですか(w
>135
おいしいところじゃなくてw、薩長の人間で日本を決めてたんだよ。頭わるすぎw
>>134 邪馬台国は北九州(福岡県)から西九州有明海沿岸(熊本県)に遷都、
その後また北九州大宰府に戻っています。
畿内は交易が盛んで、新羅も含め全国の文物が集まっていましたが
文化水準は邪馬台国のほうが上でしたし、畿内王は九州邪馬台国の王の配下でした。
138 :
前スレの1.前々スレの107:04/03/08 12:48
>ALL
おいおい、いつからここはお国自慢の場になったんだよ。
それが過去にどれだけ歴史学に悪影響を与えてきたか、お前ら知らん訳じゃあるまいに。
確かに特に邪馬台国論争は、お国自慢と直結されるきらいにあるのだが、それにウンザリしているからこそ、ここでこうやって議論してるんだろうが。
ちなみに俺は関西人で畿内説(卑弥呼の出自と大和朝廷との連続性は不明。)だが、元々はご多分に漏れず北九州説を採っていた。それ以外考えられなかったからだ、当時は。
それが、96年の黒塚古墳での大量の鏡の発掘あたりを契機に(その後、三角縁は卑弥呼の鏡ではないと考えるようにはなったが)最新の考古結果、特に唐子・鍵や纒向に関する報告を読むうちに、考えを変えざるを得なかった訳だ。
少なくともお国自慢はやめてくれよ。位置比定そのものの議論がタブーになるだけだ。
本当は日食ネタも厨がかき回さなかったら、過去に学会を舞台に議論された内容を紹介する事も出来たのだが、こんな調子じゃ荒れるばかりなのでスルーするしか手がなくなってしまった。
だいたい文献や考古資料だけでは位置や成立過程がまだ確定できないのが現状なので、あえて「推理する」との表現を用いたのだが。
純粋に推理合戦を楽しもうよ。誹謗やら政治信条やらを持ち込むと、話がおかしくなるばかりだし、第一楽しくない。
こうなったらあれしかないよ。
分野をとわず、歴史的事実とはまったく関係なく唱えることのできる
最強の理論。
”やマタイコクは半島にありました
九州説や機内説は日帝の捏造です”
お国を自慢するところがあまりないのか、
とにかく九州や薩長に、ひがみ、嫉妬心いっぱいで、
なんとか関西に中心を持って行こうとする
自意識過剰の関西人が、もっと自分たち関西人は
関西地域を除く世間一般で、どういうイメージで見られてるのか
日本におけるどういう位置、評価で見られてるのか
もっと客観性をもってくれれば話やすいんだけどなあ
古代の畿内にどんな経済力があっても、別に邪馬台国じゃないんだよね。
勘違いしている粘着がいるので困ります。如何に畿内が大国だったか強調されても
関係ないんだよね。畿内は唐では扶桑の東とも呼ばれていて、ちゃんと中国は
邪馬台国との区別をしていたが、敵対国でないので安心して阿倍仲麻呂を重用している。
143 :
前スレの1.前々スレの107:04/03/08 14:48
90年代以降から次々に提出された考古学サイドの発掘結果をまとめてみる。
@各地の高地性集落やその周辺から、大規模な戦闘があった跡が認められない。むしろ戦乱は終結に向かっていた傾向が強いと考えられる。
A3世紀頃のものと思われる纏向遺跡から、東海地方を筆頭に広範囲な土器が発掘されている。これらは纏向における総発掘数の約15%を占めている。
また大和川と繋がる運河の建設も確認されている。しかし何よりもこの遺跡が異質なのは、住居跡や倉庫跡などの生活の痕跡が見られないという点である。
この為、様々な解釈が提示されているが現在最も支持されている考え方は、宗教&政治のみに特化した日本初の首都機能を有した都市が建設されたとの見方である。但し、文献のみならず考古学的にもイコール邪馬台国とは断定できないとの見方が圧倒的。慎重論が多数を占める。
B丹後、山陰地方を中心に、北九州豪族とは別のルートを持った交易が認められる。特に銅や鉄などの金属器を再加工できる施設の存在が確認されている。
C伊都国と比定される糸島地方の各墳墓より出土する副葬品がが、3世紀中頃より急激に乏しくなる。また同じ北九州でも末櫨国に比定される東松浦半島にも伊都国と同等の副葬品を持つ墳墓が確認されている。同様に3世紀中頃に衰退する。
D一時は卑弥呼の鏡とも言われた三角縁神獣鏡だが、総数500枚を超える発掘数や、その全てが4世紀以降の古墳から出土する事から、現在では国産のレプリカ説が圧倒的主流となっている。
E前方後円墳はその形状の斬新性もさることながら、建設に使われた技術が、例えば吉備特有の祭器や山陰特有の葺石積み、東海特有の後方部など各地の技術と文化を結集した、非常に特異性の高いものであり
これが主流になって爆発的に広まるのは、単一の部族や勢力のみでは時間的にも地理的にも不可能である。よって部族連合が少なくとも吉備、山陰、丹後、畿内、東海を主要メンバーとして発足したと考えられる。
144 :
前スレの1.前々スレの107:04/03/08 15:09
あえて
>文献のみならず考古学的にもイコール邪馬台国とは断定できないとの見方が圧倒的。慎重論が多数を占める。
と書いたのだが、確かに現在の発掘証拠だけでは限定できない。それは紛れもない事実。
しかし、これらの物理的証拠により、それまでの畿内説、九州説、東遷説全てが再考を迫られたのもまた事実。
煽りではないので冷静に聞いて欲しいが、邪馬台国を九州に比定すると、この大勢力の影響を無視した論が成り立たなくなるのは必然である。
むしろ前スレでの「1〜2世紀の少数勢力の近畿入り」「4世紀以降の政治クーデターによる権力奪回」などが東征を説明するにはふさわしい説となる。
もしくは「滅亡寸前の邪馬台国が魏に救援を求めた説」だが。
九州説が非常に苦しくなったのは、物理的証拠に対し、新説を構築していない怠慢によるものであり
以上の説のように再構築によって議論の場に再浮上する事は充分可能である。
過去の説をそのまま持ってくることはもう不可能な状況である。
そういう意味での新九州説や新畿内説が次々と提出されているのが、今の邪馬台国論争の現状である。
たのむから白鳥VS内藤とか、古田VS安本とか、森VS樋口とかを今更持ち出さないで欲しい。
という訳で、さらに推理実験を楽しみましょう。
妄想する前にまず自らの中で基本的な事実を積み上げていくことが必要だと思うが
関西人のマニアは、ゴッドハンドの学者と似た資質をもってるな(w
>>143 大勢力を誇っていた畿内勢力がなぜ「西方」への防衛線とも
とれる高地性集落を置く必要があったのか?
天智の対唐防衛線?の水城や山城、高安城と妙に意図が
似通う高地性集落は実際の戦闘跡が発見されずとも充分に
「西方の脅威」を示唆できると思うが。
白村江で敗北した邪馬台国が東に逃れた。
,-―‐⌒ヽ
Y Y´ ̄ ̄ ̄ ̄`゛'ヽ、
| ;(;;;;;;;; 、;;;;;;;;;;;;;;;;;` ヽ
` /;:;:;―ゝ __;;;;;;;;;;ノ
|;;;;;;;;;;;;;|  ̄ ̄ .|
|;;;;;;;;;;;;;;| ´`ヽ / 〉
.ヽ;;;/⌒ll l``.,.|
_ __ ゝ| .||  ̄ ヽ 〉
_i┬!〒| 〒〒〒| | |;;〒人_ノ ヽ
.| ||| | ||||| ///;;;;| .| ⌒__!
|||||| ||| | ///;;;;/ | _ -‐‐|
.|||||| .|||.///;;;;/ 人 .|
| .| ||| Y⌒Y///;;;;/ .‐--,_ノ
.| .| |||人__.///;;;;/ /;;;;;;;;| |二ヽ
|| ||||///;;;;/ /;;;;;;;/| | 二ヽ
ヽ| |__-‐///;;;;/ /;;;;;;;/ | |二二|
///// ///;;;;/ /;;;;;;;/ | |二二.|
//.//;;;;;/ /;;;;;;;;/ .| |二二.|
// ///;;;;;;;/ |;;;;;;;;;| ||二二.|
/ ///;;;;;;;;/ _ |;;;;;;;;;;| ||二二|
///;;;;;;;;;/ / ) /;;;/) ||二二iヽ /)
..///|;;;;;;;;;;| // //| .||二 / / //
/// |_ ;;;;| / 〈 __//;;;;;;| ._____||/ .〈 _//
// |  ̄ ̄  ̄-∠ー‐‐-- 、  ̄  ̄ ´ゝ
/ | - ,------- ,二二二)
|_ -  ̄\/____ ゝ、
|\ ̄ヽ__ (`\ \ ゝ、 _ ヽヽ、ヽ
| \__  ̄\\ ゝ-!  ̄ \」 \ j
|  ̄ ̄ ヽ」
57年漢‐委奴国王印(ゐど国)もらう、北部九州に都
2C卑弥呼、首長になる
238年卑弥呼、魏に使い
247年卑弥呼、狗奴国と争う
このころ糸島半島の副葬品減少
266年西晋に朝貢(壱与か)
313年高句麗、楽浪郡を滅ぼす
このころ印と鏡より鉄と流血の時代へ突入
極東諸国は半島鉄資源確保のため軍国化
有明海沿岸に遷都
391年高句麗軍と戦い大敗
413〜479年倭の五王、将軍号を除される
6C再度北部九州に遷都
7C末滅亡
346年百済、馬韓諸国を統一
356年新羅、辰韓諸国を統一
都を有明海沿岸の西部九州に移す
ただし旧都とは水路で通ず
このころ、神武は時代遅れの軍人として東方へ侵入
57年漢‐委奴国王印(ゐど国)もらう、北部九州に都
2C卑弥呼、首長になる
238年卑弥呼、魏に使い
247年卑弥呼、狗奴国と争う
このころ糸島半島の副葬品減少
266年西晋に朝貢(壱与か)
313年高句麗、楽浪郡を滅ぼす
このころ印と鏡より鉄と流血の時代へ突入
極東諸国は半島鉄資源確保のため軍国化
有明海沿岸に遷都
391年高句麗軍と戦い大敗346年百済、馬韓諸国を統一
356年新羅、辰韓諸国を統一
都を有明海沿岸の西部九州に移す
ただし旧都とは水路で通ず
このころ、神武は時代遅れの軍人として東方へ侵入
413〜479年倭の五王、将軍号を除される
6C再度北部九州に遷都
7C末滅亡
152 :
前スレの1.前々スレの107:04/03/08 16:04
>>147 高地性集落の発生そのものの要因は、各地のクニ間での小抗争及び夜盗対策などの問題が広域で起こったことによると考えている。
それらが連続的発展を遂げた末に、各有力豪族の台頭が可能となった。
後期まで高地性が残るのは、ご指摘の通り「西方の脅威」を念頭に置いていると考えられる。
但し、二大勢力どうしでの軍事侵略が可能なほど決定的な戦力をお互い持っていない。そこまで強力な武器が当時はまだない。
九州勢力の衰退の二大要因として
@半島情勢の悪化によって輸出入事業が困難化。また半島駐在の倭人が安定して貴金属を送致出来なくなった。
この場合、公孫氏の滅亡も関係が有るかもしれない。
A交易拡大=勢力強化の資金源でもあった近畿、東海が統合化し、半ば九州勢力に対し同等の権利(交易の自由など)を主張し始めた。
さすがに拒否し続けただろうが、最終的には兵糧攻めに等しい近畿連合のやり方に屈服せざるを得なかったのではないかと思う。
ちなみに右近長者氏の質問は、非常にツボを突いているものが多いので、個人的には大歓迎です。
九州勢力の衰退要因は
663年の白村江敗戦により船団の大半を失い、
統一新羅の半島領有化による鉄資源喪失がある。
また、九州系畿内政権(天武)の逆襲によって衰退した。
154 :
前スレの1.前々スレの107:04/03/08 16:29
>>153 5世紀の北中部九州に、竹原古墳などに代表される独自の文化形態が存在していた痕跡があるのは事実だが
>663年の白村江敗戦
それに至るまでの軍事力を維持する生産力が、九州のみでは得られないのではないか?
少なくとも5世紀から6世紀には、西日本(瀬戸内)全域をカバーする勢力が形成されていたと見る方が自然。
それが九州指導なのか近畿なのかは、また別の問題だが。
>152
>九州勢力の衰退の二大要因として
@半島情勢の悪化によって輸出入事業が困難化。また半島駐在の倭人が安定して貴金属を送致出来なくなった。
この場合、公孫氏の滅亡も関係が有るかもしれない。
立場は九州説に近いのかな?
畿内に政権移転のきっかけが卑弥呼の死、または更立男王國中不服ということですよね
156 :
日本@名無史さん:04/03/08 17:36
>>143 >D一時は卑弥呼の鏡とも言われた三角縁神獣鏡だが、総数500枚を超える発掘数や、
>その全てが4世紀以降の古墳から出土する事から、
今は、三角縁神獣鏡の紀年を実年代と見て、北九州編年が主に漢鏡によってなされたように、
三角縁神獣鏡を手がかりに年代を見直そうという見方が広がっている。
そして、今は、それに従い古形式の三角縁神獣鏡のみを副葬する古墳、
およびその年代を三世紀中葉におくか、それとも数十年程度の副葬までの時期差を見て
末におくかでせめぎ合ってるところ。
−−−以下、143宛ではない
実年代に触れると誰ぞ暴れ出しそうだが、騒ぐ前に、
『考古学と暦年代』
西川寿勝編著/河野一隆編著
ミネルヴァ書房 本体2800円
刊行 2003.10.20
http://www.minervashobo.co.jp/db/isbn.cgi?isbn=ISBN4-623-03872-6 を読め。
−−−ここまで
(つづく)
157 :
日本@名無史さん:04/03/08 17:38
(つづき)
>>143 >現在では国産のレプリカ説が圧倒的主流となっている。
主流は魏鏡説だよ。
鏡を研究していない外野が国産だと言ってるだけ。
鏡の系統としては、魏鏡と考えざるをえず、
したがって、国産であれば魏の鏡工人が工房ごと渡来してきたと考えるいがいには、
国産とするのは難しい。
全てレプリカなんて説を唱えてる香具師はいない。レプリカを作るには現物がいるだろ。
一部レプリカはありうる。
>>152 >後期まで高地性が残るのは、ご指摘の通り「西方の脅威」を念頭に置いていると考えられる。
残るんじゃなくて、ある時期に集中して出現するんだよ。
三世紀中葉に畿内を中心とする大勢力(その内実はある程度の独立性を許容された連合体)があり、
その勢力の後漢末から魏代にわたる密接な通交の痕跡が色濃く残っているとしたら、
それが邪馬台国を都とする倭国でなくて、一体なんであろう。
>>157 >鏡を研究していない外野が国産だと言ってるだけ。
三角縁神獣鏡は素材の産地が中国、製作地は日本列島です。
素材の産地=製作地説は電波
>残るんじゃなくて、ある時期に集中して出現するんだよ。
九州の倭国 対 九州系畿内の攻防時代
>それが邪馬台国を都とする倭国でなくて、一体なんであろう。
九州系に乗っ取られた畿内が、本家邪馬台国を滅ぼしたので、
畿内は断絶してます。倭国=邪馬台国は九州です。
>>154 自分の発言が建設的な議論でなく、反論のための反論かもしれないと
思っていただけにありがたいお言葉です。
話は変わるが邪馬台国時代の倭国が(邪馬台国の所在は置いといて)
地域統合時代を迎えていたのは疑いないと思う。
日本全土において地域統合の段階にあったと仮定してこそ(呼び名は
「多元国家」でも「地域大国の時代」でもなんでもいい)後の
大和朝廷はその地域大国を婚姻・謀略・和議などによって組み込み、
比較的容易に国土の統一を完成したのではないか、と思うのだが。
>大和朝廷はその地域大国を婚姻・謀略・和議などによって組み込み、
渡来系弥生人のうち、北九州タイプの混血の証拠はほとんど見つかっていないのでは?
>>154 中国地方や近畿地方からも税をとっていたと思います。
>>35のように大和や播磨からそれぞれ徴税したことでしょう。
162 :
日本@名無史さん:04/03/08 21:51
>>159三輪山の太陽信仰はどう思われます?太陽=日巫女=卑弥呼=天照=日の丸旗
>>148 白村江で敗北した邪馬台国は
1:捕虜より帰国して傀儡倭国王となった薩耶麻と
2:畿内で天智亡きあとを簒奪した倭国人天武が
西日本の覇権争いの末、天武が勝利した。
>>158 >九州系に乗っ取られた畿内
遺物の分布が論拠か?
なら。
ちょんまげの消えた1870年代において、日本の政権は外国に則られているようだねW
>>164 天武の動向が九州倭国出身でなければ、つじつまが合わないから。
天武ゆかりの出土物は今のところ存在しない。
166 :
日本@名無史さん:04/03/09 00:14
青森の三内丸山遺跡を見てると、原日本人の首都は東北にあったのではないか
とマジに思う。
機内、九州説が当たり前化してるが 確定できる証拠が無い以上
東北説もはずせない。朝鮮半島からの渡来人が乱入する前の
日本統一体制が実は東北中心にあったんではないか
>>166 人類がアフリカを出た理由が「大型獣の北上」だという。
当然、アフリカ後の人類の多くが北方に向かった。
日本列島の古い時代になればなるほど、北の人口密度が濃い。
北海道、東北、関東は人が多かった。
168 :
日本@名無史さん:04/03/09 02:49
君、百万年前と一万年前を同じに考えてるよ
列島が完全に島になった時には大型獣は日本に居なかった
北の人口が多いのは胡桃ドングリ栗などの食料が豊富だったから。
そこで縄文海退は温暖化の結果説ですよ
これ昨日の朝日新聞に出てたんだ?
おれは夜7時のNHKニュースで見たよ
>>166 ★日本の中心の移動
縄文草創期 =鹿児島県
縄文前期 =東北
縄文中期 =関東
縄文後〜晩期=東北
弥生前〜中期=北九州
弥生後期 =?(北九州→畿内?)
古墳時代 =畿内
173 :
日本@名無史さん:04/03/09 11:59
>>152 高地性集落は第一義的には集落の地域性が固まってきて共同作業を
するようになった。つまり環濠集落より広範な単位に移行してきたことを
意味するのではないかと思う。さらにその起源を言えば万里の長城の
ごとく農耕民と牧畜民の間の障壁、日本列島で言えば山岳の縄文時代
からの穴居、竪穴住居(土籠りから土ぐもになったのだろう)に済み照葉
樹林文化において生業を持つ部部族からの防衛が最も最初の目的であ
ったのでは。だが、共同体経営のためには共通経費負担、税負担、水利、
水源管理、農地開墾計画、地権者間の調整、新開墾の枠決定において
水稲栽培システムの不可欠な機能となり、銅鐸の村祭りなどとも一脈
通じるところがあるが、後には広域の「王国(首長国)」周辺に濃密に分布
するようにもなるが、重要なことはこうした共同s行に拠出できる農民が後
の古墳建設の原動力に転じて言ったのであろうということで、高地性集落
は古墳時代のさきがけの現象と見たい。私は特に機微国周辺に濃密に
分布している民力が耕地面積の拡大していった大阪。奈良の湾内に向
けて移動したのではないかとみている。
>>172 鹿児島が日本の中心?
古墳時代でさえ、”中心”と呼べるものはいくつもあったろうに。
何が言いたいのか不明。
>>172 当時、鹿児島に勢いがあったという意味なら同意
鹿児島の人口密度が列島で最高であるとか、人口最多地域というなら疑問
石器時代よりずっと鹿児島には移住者がかなり来ていたように感じている(あくまで感じ)
176 :
日本@名無史さん:04/03/09 22:13
西郷と武蔵丸の顔
177 :
日本@名無史さん:04/03/09 22:39
邪馬台国が「一大率」を派遣したとあるが、
大率というのはもともと墨子にある言葉。
・人間はすべて平等であり、財貨を所有してはいけない。
血縁や世襲の王侯貴族を否定し、位階は信仰心が厚いかどうかで決まる。
・城の各方向に大率という将軍を配置し、中央に大将をおく。
「鬼道」の邪馬台国は、この墨子の思想を範にしていた可能性が強い。
はたしてこのようなことを規範にしている国が、古墳をポコポコと作るだろうか。
(ちなみに倭人伝にも古墳の記述はほとんどない。
やはり邪馬台国は九州にあったのではないだろうか?
178 :
日本@名無史さん:04/03/09 22:44
鹿児島県の川内(せんだい)川奥に「投馬国」があった。
接頭語の「さ」プラス「投馬」が「さつま(薩摩)」の語源。
なんか50年前の議論を見ているようだ
180 :
日本@名無史さん:04/03/09 22:57
マキムクを中心として東西南北に「大率」をおいたと仮定すると
東大率 日立又は上総、鹿島神宮辺りかな
西大率 伊都国
南大率 日向
北大率 弥彦神社辺りかな(液邪狗が鏡を運んできたんじゃないか)
誰か調査お願いしたい。
181 :
日本@名無史さん:04/03/09 23:10
182 :
日本@名無史さん:04/03/09 23:42
何故神武東征なのか、ヤタガラスは何を意味するか
東に居るのが蛮族ならあえて東征などとはいわない
東に一大勢力があっったればこその「東征」だ
鬼道とは、イザナギがイザナミを探しに行った
死者の国黄泉は、やはり恐山を指すのではないのか
日本の源流文化の源泉はやはり東、東北にあるのが
日本旧史における事実なのではないか
マルチポスト
184 :
日本@名無史さん:04/03/10 11:05
ヤタガラスの話なんぞ、神話的にはアレクサンドロス大王が砂漠の
神殿に詣でた時、道に迷ったのをカラスが飛んできて無事に
神殿まで案内してくれた、という故事に源流を求められるのだが
結局少ない文献資料だけでいくら推理してもらちがあかないな。
考古学資料もまだまだ不十分だし。
なにか決定的な発見があればいいんだが。
おまいら、もし十億の発掘資金が与えられたとしたらとりあえずどこを掘る?
おま
187 :
前スレの1.前々スレの107 :04/03/10 17:54
>>155 どちらかと言うと畿内説です。
ただ記紀の東征伝承をまるっきり無視する訳にはいかない。
前スレにてでっち上げの可能性を組み立ててみたのだが、「うがった見方」と評されたとおり、若干無理がある。
むしろ神武、応神、ヤマトタケル等に代表される征伐譚が、揃いも揃って「だまし討ち」に等しいものである事に鍵があるように思う。
そういった謀略を操れるだけの知力が、王の資質には必要不可欠だったのも軍事的圧倒が困難、つまり掃討戦を実行できるだけの戦力がそもそもその時代には無かったと発掘結果からも考えている。
>>157 圧倒的多数はちょっと言い過ぎだった。筆が滑った。申し訳ない。
ただいわゆる「踏み換え鏡」(元の鏡から型を取り、コピーしたもの)がその大半を占めると思う。
その材料となったのは、過去に輸入した銅剣や矛、銅鐸などだろう。(銅の)原産地が呉なのはそのせい。
鏡の材質やデザインを根拠にするだけでは、当時の列島の最大権力層の特定は難しい。よって別の角度からのアプローチが必要かと。
188 :
日本@名無史さん:04/03/10 17:59
189 :
前スレの1.前々スレの107:04/03/10 18:12
>>159 右近長者氏
実は全く同じ考えです。
ただ九州勢力を完全に傘下に置いたのは、もっと後の時代ではないかと思う。
伊都国などが衰退しても他の勢力はまだまだ健在だし、何より先進地域であり続けた北九州のプライドごと飲み込むのは
いくら畿内連合が台頭していたとしても、その時代には極めて困難ではないだろうか。
>>161 税の徴収という主従関係が、もし九州と畿内や東海にあったとすれば
かつての伊都国跡のように豊かな副葬品を持った墳墓が九州にあるはず。
今のところ見つかってないだけなのかも知れないが、ちょっと考えにくい。
繰り返し言うが、煽りじゃないので候補地やその根拠も一緒に提示して頂ければ有難い。
>>173 高地性集落に関しての説明は、僕よりずっと上手いし具体的です。
ほとんど同意なので、173氏の説明どおりの主張とさせていただきます。
九州を完全に勢力下に置いたのは磐井の乱以降でしょう
たとえ九州にバックグラウンドがあっても、あそこはもろに半島情勢の影響を受けるわけだし
191 :
日本@名無史さん:04/03/10 18:29
まああれだ、九州と関西、仲良くしようや。
関西には九州からも多くの人が仕事で行ってることやし。相性がいいと思うよ
かつて鹿児島からも大量の人が集団就職で大阪に行った時代もあるやろ。
今の関西人には九州人の血が流れてる人、多いYO
192 :
前スレの1.前々スレの107:04/03/10 18:38
>>162 太陽信仰については、過去スレにもあるように世界標準とも言って良い位、各地で見られる。
しかしこと日本という島国に関しては、宗教そのものの捉え方が、他の文化と大きく異なる点がある。
果たして信仰をベースに国家形成されるほど、民族的に信心深くないのが我々の特徴である。
後の輸入されたあらゆる宗教も、先端技術や知識の点においてさらに優れたものを意識的に導入している。
銅鐸の紋様からも、食料の安定供給を願うといった一種の技術信仰が見て取れるように。
この国における本質的な宗教とは、テクノロジー信仰に他ならない。
本質的な意味での宗教は、政治や経済といったものの安定を図るため、二次的に利用されてきたのではないか。
3世紀末の統合に向けての動きは、その技術的恩恵を利用して地域祭祀から首長祭祀へと移行したとの説が
前スレで複数の参加者から提示されていた。
僕も同意見だし、その繰り返しが「国譲り神話」の元になったとも思う。
相手の宗教(人材、技術を含む)を抹殺せずに、取り込んでいったものが神道の形成に多大な影響を与えていると考える。
193 :
前スレの1.前々スレの107:04/03/10 18:56
>>177 墨子の記述は同意だが、結論が貴方とは異なる。
「大率」という呼び名は、帯方郡の役人か、もしくは陳寿がその役割や権限から
「ああ、墨子で言う大率のようなものだな」と理解したのではないだろうか。
逆に「鬼道」は当時の大陸や半島の知識人から見たら、宗教としてはあまりに奇異だった為
何に例えて良いのか理解し難いものだったのであのような表現を使ったものと思われる。
「衆をよく惑わす」の表現には、どこかしら蔑視の感情が見て取れる。
「おいおい、オカルトかよ。信じちゃってるのか、コイツら(w」みたいな感じで。
そういう意味では、彼等が知っている既存の宗教とは、どこか異質なものであったのだろう。
どこが違うのかは、前のレスを参照してください。
194 :
日本@名無史さん:04/03/10 18:59
>>187 >ただいわゆる「踏み換え鏡」(元の鏡から型を取り、コピーしたもの)がその大半を占めると思う。
なにを今ごろ・・・・
目録番号1〜139が“いわゆる舶載”、201〜241が“いわゆる倣製”。
その後もう少し増えてたはずだから、鏡種は、200種よりやや少ないぐらい。
出土数は全体で500枚越えてるんだっけ?
半分以上がいわゆる「踏み換え鏡」なのは思うとか思わないとかじゃなくて事実でしょ。
でも、逆に言えば少なくとも200枚程度は元鏡があったことになる。これも事実。
舶載でも倣製でもいいけど、事実はちゃんと踏まえないとね。
もとの200枚は舶載しないといけないわけだけど、じゃあこの200枚はどこに入ったか?
分布の中心の畿内だと考えるのは常道でしょ。
>その材料となったのは、過去に輸入した銅剣や矛、銅鐸などだろう。
成分比が違うからそのままでは無理だね。
>(銅の)原産地が呉なのはそのせい。
誤情報。むしろ、呉の紀年鏡とは同位体比が違うという結果が出ている。
過去ログ当って見て。さんざん外出。
>鏡の材質やデザインを根拠にするだけでは、当時の列島の最大権力層の特定は難しい。
>よって別の角度からのアプローチが必要かと。
他のアプローチ…後漢末といわれる中国製画文帯神獣鏡も瀬戸内から畿内に分布。
ほかの地域に鏡以外で三世紀の大陸との通交を示す痕跡はあるか・・・・ない。
195 :
前スレの1.前々スレの107:04/03/10 19:03
>>185 いっぱいありすぎて困ります。
逆に九州説の有力候補地である、甘木とか宇佐とかが良い。
即邪馬台国とは思わない(スマソ)が、何らかの重要発見がなされる可能性が高い。
196 :
前スレの1.前々スレの107:04/03/10 19:08
>>194 了解。「思う」って言い方はマズかったね。
鏡については貴方のお勧めの本を購入して、再考してみます。
ご指摘ありがとう。
そういえば三輪山は既に掘ってるのかな?
御神体は発掘できない?
198 :
日本@名無史さん:04/03/10 20:14
>>166 もう何年も前だが、三内丸山と吉野ヶ里は基本的な設計が一緒だって以前NHKでやってたが、見たか?
そこで熊襲=蝦夷@太平洋ルート説ですよ
まあ、勢力下におく、などという語句一つとってみても
経済・文化的な影響を受けているという段階から
政治的・軍事的に支配下あるという段階までいろいろ
解釈が分かれそうですからね。
当然征服者側と被征服者側の認識も違うだろうし。
魏志倭人伝みても勢力下に置くなんて一言も書いてないわけで
どこからそういう妄想が出てくるのか不思議
「丗有王皆統屬女王國」
または、「不屬女王」
としっかりかいてあるのだが
宇佐の亀山は掘ってほしいな。神宮の真下。
石棺がでてるといううわさだし、古墳時代中期だろ。
掘ったら多分宇佐説は消える。
>>201 ごめん、これ三世紀の話じゃなくて四世紀(五世紀?)以降の
話してた。
個人的にはやはり筑紫君磐井は気になる。中国の漢魏音研究家は
「倭」を「ゥワイ」「ィワイ」と発音していたと推測してるし。
磐井の発音は関係なさそうだけど
八女古墳群は4世紀前半からの古墳群で邪馬台国の直系じゃなさそうだし
息子は許されその後も細々と古墳の造営が続いている
当時伽?の割譲、出兵と滅亡で北九州は疲弊していたのが理由では?
お願いですから、墨子を鬼道と呼ばないでください。
鬼道は道教です。
あえていうなら老子です。
>>195 甘木や菊地は出そうな感じ。
でも倭の五王の時代だけだろうけど。
208 :
日本@名無史さん:04/03/10 23:37
こらー183
マルチポストで何が悪い
ゆーてみい
糞名ことゆーてると
キャン言わすど
まじで
209 :
日本@名無史さん:04/03/10 23:38
>>205 「墨子の思想」+「鬼道」の複合でしょう。
210 :
日本@名無史さん:04/03/10 23:40
211 :
日本@名無史さん:04/03/10 23:44
一見、利口そうなこと長々と書いてて、
実はたいしたこと書いてるわけでもない奴が一人いるな。
正直こういう奴が本当の馬鹿なのだろうな。
212 :
日本@名無史さん:04/03/10 23:48
すみませんキャン言わすは大阪では使いません
播州弁です
>205
墨子の兵法を参考にした、もしくは>193にある中国人が借用したってことでしょう
方形環濠からも魏志倭人伝の尊卑各有差序が裏付けされているし
鬼(死者)に仕える宗教かもよ。死んだら古墳や神社に葬られて
(鬼)神になり、卑弥呼はその死者の声が聞くことの出来る人。
215 :
日本@名無史さん:04/03/11 14:47
魏晋時代に道教は忌避されていた。
漢末、太平道や五斗米道の暴動に手を焼いていたからね。
鬼道と呼ばれたのがその証拠だ。
呉や公孫氏のいた遼東では盛んだったが。
つまり三角縁神獣鏡が魏から卑弥呼に下される筈はないのだね。
三角縁神獣鏡を作ったのは呉か公孫氏が滅んだ後、日本に亡命して来た難民が作ったものだろう。
>215
おまえは太平道と魏の曹操の関係を知らないのか?
217 :
日本@名無史さん:04/03/11 15:49
曹操は権力を握る為一時期太平道を利用したが信仰した訳ではない。
曹操は冷徹な合理主義者だったからね。
鬼の字にこだわるなら明代に仏像のことを
胡鬼と呼んだ記録もあるぞ
儒教正統の立場からいえばアニミズムやら土着宗教やらは
太平道や五斗米道と同じ俗信であって、
みんなごっちゃに「鬼道」だろ。
>>219 寺沢さんによると、三国志で鬼道と呼ばれているのは
五斗米道と卑弥呼のそれの2つだけらしい。
221 :
日本@名無史さん:04/03/11 22:48
そうだよ。
魏晋時代は魏志東夷伝の序文でも明らかなように儒教が尊重された。
だから魏から道教思想の入った鏡が下される筈はないのだ。
>>220 ていうか、他に書き残しておくにたる宗教ってあったの?
たくさんある中で、鬼道と書かれたのが・・・・っていうならわかるけど、
もともとオンリー・ツーじゃあ意味なしでは?
>223
あの時代は浮屠もあったでしょう
魏志のなか探せばほかにもあると思うけど
225 :
日本@名無史さん:04/03/12 11:17
邪馬台国は九州、狗奴国は吉備以東でしょうね。
・後漢書倭伝では「拘奴国」は女王国の東、海を渡って行けるとある
・ヤマトタケルの神話に大和の一代前の祖先に当たる国家は「拘奴」とある
(「拘奴」は「狗奴」と同一)
「狗奴」はクニって読んでたのだと思う。
九州=「ワ」、本州=「クニ」であり、
それが「国(くに)」の語源となったのだろう。
狗奴国は久努国、毛野国説なんかもあるが、そういえば不思議なのは百年後には存在していた筈の
吉備、出雲、越などの大国に当てはまりそうな国名の記述が無いことだな。
これらの大国が4世紀にいきなり勃興したとも思えないがおまえさん方の解釈はどうよ?
そこで狗奴国東遷説ですよ
邪馬台国は岩手だろ
229 :
日本@名無史さん:04/03/12 15:36
>>225 狗奴が国(クニ)の語源というのは、面白いですね。
神話でも、国津神が日本列島に最初に住んでいたと記載されて
ますし。
邪馬台国+イト国で大和でしょう?
231 :
日本@名無史さん:04/03/12 18:24
とりあえず奈良から出る考古学資料は邪馬台国が奈良県ではなかった事を示すものばかり。
主体部に槨を持ち、葺石で覆われた前方後円墳は『有棺無槨、封土作冢』とは合い入れない。
魏晋王朝に忌避された道教思想を映した三角縁神獣鏡が沢山ある。
箸墓周濠から発見された「木製輪鐙」は『其地無牛馬』と齟齬をきたすだろう。
九州に邪馬台国があったかどうかは文献や考古資料を見ても確定できないが、
奈良県になかった事だけは確実と思われる。
232 :
日本@名無史さん:04/03/12 18:36
>>224 浮屠って、仏教だっけ?
仏教の親玉って魏志のどこに出てくる?“鬼道”に相当するようなものを使う人ね。
>>223 仏教もすでに伝わっていたみたい。
少なくとも、儒教以外の民間信仰やなんかを
すべて「鬼道」と考えるのは無茶な話しだろう。
儒教そのものも、祖霊信仰などの中国古来の
民間信仰をルーツに持っているし。
くすくすくす
>>231ってどうしてそんなに無知なの?
>>233 無茶な話かどうかは鬼道とはなにかがわからないと言えないのでは?
>>235 確かに、卑弥呼の鬼道については何かはっきり
しませんが、だからといって、鬼道を「その他
大勢の宗教の総称」と決めつけるのは無茶
じゃないかということです。当時そうした意味で
使用されていたという例があれば、もちろん
OKですが、ありますか?
>>236 いや。
『鬼道を「その他大勢の宗教の総称」と決めつけ』たりはしていませんよ。
むしろ逆でね。
二つしか事例ないなら、その二つを等しいとすることは無理じゃないの?って事です。
たくさんの同類の事例があるけれども、『鬼道 』で一致するのが二つだけ、ならわかる。
鬼道の意味は、当時の中国人にとって鬼と呼ぶべきものに仕える
信仰・習俗・宗教一般の「さま」に力点があるのではないだろうか?
つまり宗教の総称ではなく、傾向の総称。
239 :
日本@名無史さん:04/03/13 06:33
>>225 >ヤマトタケルの神話に大和の一代前の祖先に当たる国家は「拘奴」とある
(「拘奴」は「狗奴」と同一)
ググっても見つからん、ソース教えてくれ
240 :
日本@名無史さん:04/03/13 09:40
鬼とは亡霊・死霊・餓鬼、その他軽蔑唾棄すべきものの総称。
241 :
日本@名無史さん:04/03/13 10:50
大体、古墳が完璧に保存されていると思っている
連中がうかつなんだよ。
巨大古墳そのものを城塞として活用した例は
いくつもあるし、無論完全に破壊された例もある。
石垣用の石として石棺や石室の石が利用されたり
もしてるんだぞ。
>>240 ですから、そういっちゃうと、祖霊信仰を内包している
儒教も鬼道になっちゃうんですよ。
儒教は別格。孔孟は諸子百家のひとりでも子部に入れないのと同じ。
そもそもね、
>>238がいうとおり、鬼道をとある宗教そのものと考えることに無理があると思う。
張魯伝(二公孫陶四張傳第八 張魯)には
以鬼道教民・・・妖術によって民を導き
鬼道輒病之・・・妖術によってたちまち病気をもたらす
とある。
ちくま訳の妖術が鬼道で、一つめは漠としてるけど、
二つめは具体的にある人を病気にする手段ということだから、
ちくまが妖術と訳しているとおり、宗教上の何らかの行為、呪法のようなものと考えたほうがいいと思う。
つまり、卑弥呼の鬼道は、中国人には理解できない怪しげな儀式をやってた、
ぐらいの意味じゃないかねぇ?
鬼の意味をそのままとれば、何がしか死者に関する呪法ということになるけど。
よみがえらせるというのが最もありそう。イタコみたいな。
とすると、ウケイによって神懸かりして神の声を聞く、なんて結構はまってると思うけど・・・・
邪馬台国→大和朝廷なら天皇家や伊勢の祭祀のなかにその
残滓があるはずだなw
鬼道の残滓が見つからないのなら邪馬台国は大和朝廷と
断絶しているか、東北敗走説でも採ってイタコや隠れ念仏、
オシラさまと結びつけるかw
ヤマタノオロチ=邪馬台国と考えて、草薙の剣が戦利品なら話ははやくないか?
草薙の剣が鉄剣であれば神話として描かれている時代が
青銅器時代の終わり、鉄器時代の始まり(つまりヒミコの
時代?)と推定できるのになぁ
あれ、銅剣説のほうが有力なんだっけ?
>>248
鉄だろな。出雲は鉄の産地らしいし
いわゆる熊襲が狗奴国のこと。現在の国分市宇豆門の「韓国宇豆峯神社」の場所が狗奴国の拠点。
隣国の卑弥呼の邪馬壱国(宮崎県西都市)と戦った。
狗奴国の本拠地は沖縄。新羅の朴氏の祖。大阪のことを「難波」とか「浪花(なにわ)」というのは沖縄の那覇(なは)の遷移。
沖縄の朴氏のコロニーが大阪にあったため。そのため関西人の気質は朴氏(朝鮮人)に似ている。
長すね彦は朴氏の祖。沖縄には仲宗根とか金城という名前が多いが、中曽根元総理はナガスネヒコの子孫。
朴氏はその後、朝鮮半島に戻った。
新羅の旗は、朴、昔、金を象徴しており倭人国家であることに注意。
昔氏はその後、九州熊本に移動しニギハヤヒが多婆羅国を建てた。
そのため韓国国旗は朴氏と金氏の二つの象徴の二つ巴になっている。
じゃま台国
253 :
日本@名無史さん:04/03/14 13:04
何かここって、
星野之宣とか諸星大二郎とか鯨統一朗あたりの
マニアが集合してるみたいなスレだな
必読書だろ。
モロ☆読まんで古代史ができるとでも思ってるのか?
>>215 >鬼道と呼ばれたのがその証拠だ。
>呉や公孫氏のいた遼東では盛んだったが。
卑弥呼は「公孫氏の女」であるから、筋が通っているね。
256 :
日本@名無史さん:04/03/15 20:35
〜古代史を考えるのに、『秀真伝』はなかなか悩ませられる。
皆さんは資料価値云々ぬきでどう見てる?>ホツマツタエ
デムパ
259 :
日本@名無史さん:04/03/16 06:02
魏を中心に西の張魯、東の卑弥呼
よくできてるね
260 :
孤高の24歳無職:04/03/16 15:01
五丈原で実は諸葛孔明は死んでなく
日本に渡り邪馬台国、狗奴国を滅ぼし
大和朝廷を開き、神武天皇を名乗った。
これが結論ということで異存はないですね?
262 :
日本@名無史さん:04/03/16 21:36
鬼道は「上座部仏教」だった
これで仏教公伝前に創建された寺もクリア(東北に多い。敗走
邪馬台国?)
さらに本地垂迹説もクリア(秘伝として仏教が本と伝わっていた)
「神道」は天智・天武の宗教
じゃあ邪馬台国に圧迫された狗奴国が仏教を取り入れて東遷ってことで。
264 :
日本@名無史さん:04/03/17 07:30
>>246 石上斎宮、伊勢斎宮、加茂斎宮
斎宮という制度そのものが残滓だろうが。
また、大嘗祭も、全く中国のものとは関係がないだろう。
だいたい、天孫降臨という思想そのものが外来で、
山頂他界という古墳祭祀と関連する概念。
従って高千穂の要素自体が後説的に付加されたものと考えていい。
>天孫降臨という思想そのものが外来
なんでそんなことがいえるの?
266 :
日本@名無史さん:04/03/17 11:00
>>670 >少数の勢力が海を渡って来て倭人と同化した、これが即ち騎馬民族説なんですか?
まったくその通り。
ただしその少数勢力は支配者だ。
267 :
日本@名無史さん:04/03/17 11:45
ヒミコの鬼道、ヒミコの付加価値はといえば、従来方墳、四隅突出の概念しかなかった
倭国に円墳、すなわち、天(高天原的な概念で、そこから、全国に命令を発し国譲りを
命じる-すなわち、従来の広域文化圏、各種銅鐸、銅剣、銅矛等の地域を更に統一する)
の概念、と天を祭る祭祀を導入というか発明したことにあるのではないかと思われる。
天をアマというならまさにアマに君臨する王であり、アマタラシの諱を奉ってもおかしく
はないし、その由来もよく納得できる。そしてそれを具現化したのが箸墓であったのであろう。
268 :
日本@名無史さん:04/03/17 12:38
昨夜NHKでやったが、始皇帝が皇帝という概念を発明して、それが漢の時代に
具体化して、それからこのヒミコが立つのが400年である。徳川幕府に匹敵するような
長い中国の歴史の産物が鏡と共に倭国に伝えられた。当時漢は分裂し皮肉にも
中国人は新たな帝国を求め三国に分かれ合い争っていた。倭国はまるでマラソンの
最終段階がトラックで行われているのと同じ時代にそのトラックに乗った。しかし、
皇帝などという言葉は知らなかった。しかし、そこが古代人の天賦の才、タラシという
言葉を発明したのであろう。
269 :
日本@名無史さん:04/03/17 16:15
卑弥呼→「王」号
公孫氏→「公」号
三韓→ 「候」号
漢委奴国王印もあることだし中国から見た倭国は蛮夷といえども
大国だったことは間違いないな
>269
親魏倭王の爵位は親魏大月氏国とならんで魏の外臣では最高位
倭が大国であったというより、魏は倭に統一政権を作らせて韓族を南北から
挟撃しようとしていたらしい
271 :
日本@名無史さん:04/03/17 18:19
>>270 統一政権戦略はわかる。それと余り詳しくないんだけど
〈三国志〉では辰王は馬韓の一国の〈月支国〉に治したとあるが、
《後漢書》では〈目支国〉と記し、《川苑》所引〈魏略〉でも〈目支〉と
表記されている謎の〈月支国〉という問題もある。が、大月氏という
のは張騫の旅した中央アジアだとすれば疑問が残る。むしろ高句麗
辺りの力を利用するのが筋だけど。鏡のことを考えると倭が呉と
結びつくのを恐れていていたとも考えられる。この辺よくわからないが
いずれにせよ魏は滅び、倭国は晋に朝貢するんだよね。
272 :
日本@名無史さん:04/03/17 20:28
広島県にその名もズバリ「呉」という市があるが、中国から逃げてきた連中が建てたんだろうか?
呉市の市民は中国人の子孫?
「差別はやめよう!」って看板多いけど。
273 :
日本@名無史さん:04/03/17 20:54
274 :
日本@名無史さん:04/03/17 21:06
魏使の舟を取り囲むようにして吉備(ヒミコの出身地)の護送船団
水先案内人、屈強なこぎ手が提供され、山陽新幹線さながら邪馬台国に
向かったんだろう。後の世の海の男---天智天皇の御製にあったなー。
「わたつみの豊幡雲に入日さし今夜の月夜まさやかにこそ」夜の海を
静かに漕ぎ進む豪腕のこぎ手たち。昼間はこんもりとした湾の奥で
寝ているんじゃなかろうか。昔の天皇とは加山雄三のような感じの
ロマンを持っていたのかなー。
>>273 呉のもともとの漢字は九嶺。中国の呉とは
残念ながら関係ないよ、きっと。なにしろ、
軍港や海軍工廠ができるまではただの
寂しい漁村だから。人がいなかったのに
投馬国であるはずがない。以上、呉市民より。
276 :
日本@名無史さん:04/03/17 22:33
呉はそうか。だが鞆があるぞ。これも軍港だったらしいな。
277 :
日本@名無史さん:04/03/18 11:07
「クレ」なら高句麗の人がいたのかもね
278 :
日本@名無史さん:04/03/18 11:41
マー、あの辺はNHK大河ドラマ毛利元就を見たときもなんだかスケールが小さい、
勇猛果敢なのは九州男児なんかに引けは取らないが、土地が狭隘なのがねー。
鞆というのは当時は九州に近い方が上方なんだから、吉備国の西のはてにある
港であり、吉備国の西部に投馬国という大国があったかもしれない。
279 :
日本@名無史さん:04/03/19 05:59
>>267 円形周溝墓は弥生後期には、四国から大阪湾岸、伊那、関東南部など広い
範囲で出現している。方形周溝墓の変形と考えられるが、主に瀬戸内から北陸
にかけて展開する周溝付き大形竪穴式住居が円形周溝墓形成に関係があるかも
知れない。
そして四国北東部の陸橋付き大型円形周溝墓が、大阪湾岸に移植されて前方
後円墳になったことは、系統変化が確認されてずっと以前から定説化されてい
る。
しかし、新たな統一概念のベースとなったことは明らかで、その点は同意。
>>278 中国地方東部から近畿地方西部にかけて、播磨、美作、但馬、丹波、因幡と
旧国名の最後に「ま」「ば」などを使う地域が広がっているのだから、投馬国
がこの地域に存在する蓋然性はあるだろうね。
しかし、吉備が投馬と考えたいね。帰港地としては、鞆か牛窓か。
280 :
日本@名無史さん:04/03/19 09:37
281 :
渡来人とウイルス伝播のルート:04/03/19 11:20
鳥インフルエンザウィルス、遺伝子が韓国と一致
2004 年 3 月 19 日
--------------------------------------------------------------------------------
鳥インフルエンザ問題で、韓国で流行したウイルスと、国内の山口県などで検出されたウイルスがほぼ同一であることが、
18日わかった。
動物衛生研究所(茨城県つくば市)の分析で、双方のウイルスの遺伝子の塩基配列が99%以上一致した。
農水省では、韓国での発生時期や、日本での発生地が韓国に近い西日本であることなどから、国内での感染は、
韓国から渡り鳥などの野鳥がウイルスを持ち込んだ可能性が強まったと見ている。海外の発生国のウイルスとの関連が確認されたのも、
感染ルートの手掛かりとなる具体的なデータが判明したのも初めて。
韓国の鳥インフルエンザウイルスは、3月中旬に同研究所が入手。分析の結果、
山口、大分両県や京都府で感染した鶏から検出したウイルスと、遺伝子の塩基配列が99%以上一致した。
韓国では2003年12月半ばに、養鶏場の鶏から「H5N1型」の高病原性鳥インフルエンザウイルスが確認され、中・南部を中心に感染が拡大した。
日本では2004年1月、山口県の養鶏場で感染が確認され、その後、大分県や京都府でも発生。いずれも韓国と同じ「H5N1型」で、
3府県のウイルスは遺伝子の塩基配列が99%以上一致し、ほぼ同一とされた。
3府県のウイルスについて専門家は、「非常に近いところに由来となるウイルスがあり、そこから3か所にそれぞれ入ったと思われる」とし、
感染ルートについては「カモなどの渡り鳥から小鳥に移り、小鳥が鶏舎に入って鶏に感染した可能性がある」との見解を示していた。
◆塩基配列=細胞の中では、様々な遺伝子が働き、機能を支えている。その遺伝子の役割を決めているのが、
DNAという長い鎖のような化学物質の上に並ぶ4つの物質で、これを塩基と呼び、その配列が遺伝子情報となる。
鳥インフルエンザウイルスの場合、98―99%の配列が一致しないと、同系統かどうか論じることは出来ない。
>>280 >□=狗奴国、○=邪馬台国と読みたいねー。↓よく眺めてね。
それを眺めてどうしろと・・・・・
大阪もクナ国?
283 :
日本@名無史さん:04/03/19 23:51
大阪は□の加美Y-1号墳だけしかないようだな。
これって大阪はこれ以外全部○ってことかな。
いずれにせよ○と□は宗教戦争、っていうかシャーマン層の
戦いであったんじゃないか。シャーマン層というと薄い感じがするが
実体は崇神に反乱を起こしたタケハニヤス(この人名前からすると
土器を作っていた感じがする)のような産軍共同体だったと思うんだ。
クナ国は関東から出雲と読みたいね。
大阪は庄内でも方形周溝墓、ないしは前方後方型墳墓。
久宝寺とか、加美とか、いわゆる河内は。
285 :
日本@名無史さん:04/03/20 06:12
○と□の関係は、連戦と陳水扁との関係のようなものと思っているのだが
がんば□!
布留になっても畿内の多くは庄内。人気はそれほどない
結局、いち早く布留になった北部九州と北陸西部が影響を発揮して
始めて大王権が安定するのではないか。
なお、東海系土器の組成の中核はS字甕で、その成立圏は愛知県の稲沢市から三重県鈴鹿市
までの狭い範囲。その中心は桑名市。
桑名=クナ国か。ちょっと苦しいが。
桑名市民よスーパーばかり作らず、□のでかいのを探してくれ。
それで決まりだ。
286 :
日本@名無史さん:04/03/20 06:49
鏡や銅鐸などの技術に飛躍的な革新があり中国系技術集団の
到来を示唆するようである一方で「前方後円墳近畿地方の首長たちは、
吉備・讃岐・山陰・北陸などの首長と連合を組み、この前方後円墳中心
体制を強く定めた。これによって四隅突出墓や弥生墳丘墓の地域色
あふれた特徴は、これら墳形秩序の波に押されて消滅していくのである。
特殊器台は埴輪に、貼石は葺石に、突出部は前方部に規格統一されていった。
ために、弥生墳丘墓の特徴は消えていくのであった。この秩序に、
とうとう最後まで取り込まれなかった地域としては、岩手県中部以北と
種子島以南を数えるのみである。」
http://f1.aaacafe.ne.jp/~megalith/kouko6yayoikarakohun.html というような時代の流れがあった。こうした背景の中でクナ国とはと考えると
相対的に新しい社会秩序に抵抗した地方というのが可能性のある一つの要因
であろうが、伊勢湾地方のS字甕が東方に移動を始める頃ともシンクロナイズ
している。神話の世界では天孫族と大国主(おおくにぬし)神を頭目とする荒ぶる
神々の対立があるがこれをその時代の残滓と見たい。
287 :
日本@名無史さん:04/03/20 12:33
天孫系=邪馬台国時代の西の部族これに半島勢が加勢した軍団=弥生系:大和朝廷系
大国主系=邪馬台国の国主系=卑弥呼もこの系統、関東以北に首都をもつ純日本人系=縄文系
∴邪馬台国≠大和朝廷
邪馬台国=八幡国、八俣のヲロチ=八幡の皇子
卑弥呼=日の巫女、いわれひこ=岩手法皇
大国主=八幡国王、八百万の神=八幡国の諸大名
288 :
日本@名無史さん:04/03/20 13:04
全国に残る八幡様の本当のいわれ、由来がわかる奴いるか?
八幡=はちまん=やわた=やはた
大体、応神天皇か天照大神かスサノヲノ尊あたりに
たどり着くと思うが、一様ではないし民間伝承もある
いったい八幡様、八幡の国やわたこくとは何?
もちろん大分です
290 :
日本@名無史さん:04/03/20 14:57
宗像−住吉−八幡
住吉は宗像の子、八幡は宗像の孫
宗像(大国主の妻)−住吉(神功?)−八幡(応神)
291 :
日本@名無史さん:04/03/20 15:36
292 :
日本@名無史さん:04/03/20 17:52
景教徒が渡来してイェホバ→イャハダ→ヤハタになった
293 :
日本@名無史さん:04/03/20 19:27
邪馬台国(これは魏国からの蔑称的当て字)
邪馬台国=八幡国=八幡平=はちまんたい
=八幡国=八幡=八倭大国=八和大国=大和国=やまとこく
八幡にはふたつの読みがあったんでしょう
魏でいくと日本人表記はやわたいこく=八和大国の可能性は大かな
当時日本を8つの州に分けて統治していれば、八和大やわたいの意味は
日本人ならすぐわかる。
卑弥呼は太陽神をあがめる巫女、か日神子でしょう
意外とひこみこ=彦神子=ひみこなのかな
294 :
日本@名無史さん:04/03/20 19:44
8つの神州みたいな話は無い?
大八島国
296 :
日本@名無史さん:04/03/20 20:07
イザナギとイザナミの二神が生んだ「島」は、淡路島、四国(伊予の二名
島)、隠岐、九州(筑紫島)、壱岐、対馬、佐渡、本州(大倭豊秋津島、
オオヤマト=トヨアキツシマ)、すなわち「大八島国」である。
大八島国を統一統治した=八和大国やわたいこく=大八島合衆国
大和もこの最初の統一王朝の語感を踏襲して
やわと=やまと=大和国=大八島を和して合して統一したの意味で
大和
意味が同じ
297 :
日本@名無史さん:04/03/20 20:11
そうなると邪馬壱国の方も
八和一国=大八島国を1つに統一したという意味か
記紀編纂時でも北海道は認識してなかったのな。
299 :
日本@名無史さん:04/03/20 21:04
7
77 7
アラベ最高
300 :
孤高の24歳無職:04/03/21 00:54
たしかな結論なんてでてこない。
九州か畿内のどこかに邪馬台国はあったというくらいで十分です。
もっとほかの事に時間使いましょうよ。
そんなことよりいかりや長介さん死んじゃった
301 :
日本@名無史さん:04/03/21 11:03
昔で72才っていうと天寿をまっとうだろうが。癌にはみなの衆、定期健診
怠るなかれ。さて、九州、西日本が6300年前のアカホヤで全滅、日本人の
祖先が東北、北海道から出直しているって言うこと、その後鹿児島には東北
からの移住があること、弥生の開始時、板付近辺に東北から学習のために
入植があったことなど基本的な知識なしに九州万歳が横行している。
本当は東北人なんだよ、日本人は。
302 :
日本@名無史さん:04/03/21 11:18
中国神話では共工の時、海侵、不周山の崩壊等の逸話があるが
現在喜界が島カルデラとして海底に横たわるクレーターからの
津波は揚子江を逆流、山々を崩壊させ、これが倭人を含め長江
文明の拡散につながったんじゃーないかね。
303 :
日本@名無史さん:04/03/21 11:34
ここのスレの趣旨は邪馬台国から大和朝廷への以降という
悠久の歴史の一瞬のことを語ろうとしている。それは奈良盆地に
おける集落の消滅で始まり、箸墓竣工で終りだ。この間は五、六十年
程度だろう。小さな話だが、日本建国の時だった。だからこのスレは
重要なんだ。
304 :
日本@名無史さん:04/03/21 11:42
またぞろにペナントレース、春夏の甲子園の饗宴が始まる。1800年前
甲子園は藤井寺球場辺りであったのか。国技館はどこだったのか。
兵馬ヨーの力士像NHKで見たがマワシの原型はスカートだったようだな。
305 :
日本@名無史さん:04/03/21 11:49
何?福岡球場?王監督に決まってるじゃないかだって?金曜日に移動した?
新幹線もできてないんだぜ。
306 :
日本@名無史さん:04/03/21 11:53
JRはキセルはいかんというが今回の鹿児島新幹線、あれって
キセルそのものみたいだなー。(笑
307 :
日本@名無史さん:04/03/21 12:00
ところで桜前線、奈良に到着する前に丹後半島から淡路、鳴門辺りで
一度開花しているような感じがするんだがね。どうも氷上なんてところに
何かありそうだ。
308 :
日本@名無史さん:04/03/21 12:04
邪馬台国の全国統一の時点で本来日本史はスタートしてるだろ
大和朝廷以降が日本というのは持統天皇ー藤原不比等、現朝廷
側の万世一系イメージ作りの上での話でしょう
万世一系に固執してる限り、倭の5王を含む
真実の日本史はわからないです
それこそ事前に答えがあるような決めつけじゃん。
邪馬台国=ヤマト朝廷ではないとまず論証すべき
310 :
日本@名無史さん:04/03/21 12:36
311 :
日本@名無史さん:04/03/21 12:51
つまりじゃなー。九州の奴国、伊都国辺りの神話は立派に
日本神話に引き継がれた。大和朝廷というものは歴史を
改ざんするような素性ではなかったということじゃ。
>>303 >それは奈良盆地における集落の消滅で始まり、箸墓竣工で終りだ。
>この間は五、六十年程度だろう。
奈良盆地だけと捕らえるのはちょっと視野が狭いと思う。
大阪でも、ほぼ同じ時期に拠点集落の消滅がみえる。中河内はもっと早いそうだが。
東海でも、ほぼ同じ時期に拠点集落の消滅と、より分散した形での集落数の増加が見られ、環濠が埋め戻される。
吉備では、これらよりもすこし早く既存集落の解体と新秩序の形成がみられるらしい。
その他の場所はよく知らないが、確か妻木晩田も同じような時期に消えているから、
山陰も、同じような時期に同じようなことがおこったかもしれない。多少の前後はあるかもしれないけれど。
というわけで、もっと広い範囲で何がおこっているのかを見て行く必要があると思う。
唐古・鍵などの消滅だけを見ていると、本質を見誤る可能性がある。
箸墓成立後も、そうすんなりといったとも思えないのでうしろにも広げる必要がある。
だから、五、六十年程度じゃなくて、弥生後期後半から古墳時代前期まで、
300年ぐらいは見ておいたほうがいいと思う。
せばめても、AD150年ぐらいからAD350年ぐらいまでの200年は必要では。
313 :
日本@名無史さん:04/03/21 14:22
じゃあ聴くけど
肝心の魏志倭人伝に大和朝廷のことが一言も書いてないのは何故?
日本書紀に大和朝廷の源流に卑弥呼擁する女帝国のいあった記載が無いのは何故?
魏志中の東治の東に倭国在りって台湾の間違いかよ?
宋書倭国伝中の倭の5王っていつの誰よ
随書倭国伝中の倭王阿毎多利思比狐はだれよ
大別して、当時日本は2つのグループに分かれていた。
ひとつは九州にあった「倭」。もうひとつは畿内を中心とする本州の「別倭」。
「別倭」は北九州の「倭奴国」を建てた連中が東征して畿内を中心とする勢力圏を築いた「秦王国」。かれらは秦氏と記紀に書かれた。
その後、古墳時代に、朝鮮半島から「東胡」を引き連れたユダヤ系移民の遼東の公孫氏が九州に侵入し「邪馬壱国」を建て、
西都原(安羅国)を本国として公孫氏の女である卑弥呼が支配した。したがって、魏志の指す「倭」は九州のことである。
しかし、この2大勢力よりも遙かに古い時代に、宇佐地方に「豊日国」という倭人国家が存在し、「狗邪韓国」とも呼ばれた。
「狗邪韓国」は朝鮮半島にも領土を持ち、本国は九州であったのだ。
倭の五王とは、「豊日国」の王のことであった。
阿毎多利思比狐は「安羅国」(西都原)の王、大伴望多(馬来田)のことであり、大物主命(公孫氏)の子孫である。
315 :
日本@名無史さん:04/03/21 16:55
そんなことより藻前ら聞いてくれ
岡山の地名から、福岡という名がつけられた
新幹線は岡山から福岡へ延伸された
つまり福岡は岡山によって文明を与えられているのである
で、本題は何がいいたいのかと言うと、
邪馬台国=福岡という条件に上の法則を加えると、
福岡に文明を与えるのは岡山=邪馬台国の発祥は岡山
で、岡山は見ての通り文明が混入することはまずなさそうだから、
岡山は四大文明と並ぶ文明の発祥地なのではないだろうか?
「別倭」の秦氏は滅亡した秦の始皇帝の一族関係者。馬韓人、秦人と共にやってきた。
近畿地方に多い被差別部落はかれらが形成したと思われる。
卑弥呼(公孫氏の女)はイワレヒコ(神武天皇)と結婚して、安羅国(西都原)を本拠地としたが、イワレヒコは百済の王でもあり、その分国を北九州に建て「伊都国」とした。
つまり、「邪馬壱国」と「百済」は夫婦の国であったのだ。
このため、白村江の戦いで百済が滅亡したとき、神武の妻の国である「邪馬壱国」(倭国)が援軍として参戦したのである。
しかし倭の水軍である安曇水軍の惨敗により、ここに邪馬壱国(九州の倭国)は名実共に滅び、占領軍たる新羅と秦王国の合体により「奈良王朝」が生まれたのであった。
九州王朝スレでお願いします
ちょっと見ない間にひどいことになってるね
まともな奴は寄りつかないわけだ
誰か九州王朝スレ立ててくれ
322 :
日本@名無史さん:04/03/22 08:19
邪馬台国から大和朝廷への移行を考えると五六十年とかの数字を挙げるのは
おかしいというご批判は受け止めなくてはならない。しかし、このスレの論調は
専門的な根拠抜きの、極めてアグレッシブなものが多く、自由闊達にもある程度の
面白みはあるのではなかろうか。そもそも数値的なことは軽々に語るべきではなく、
論理的な整合性をテーマとするべきなのだろう。今回はヒミコ共立からヒミコ没年
までが何年程度かについて考えてみたい。私はホケノ山、勝山被葬者の存命中に
共立はなく、この頃近畿は徳島県鳴門市荻原1号墳等と同レベルのどんぐりの
背比べ状態に近かったものもあるが、ホケノ山については異例な丁重さがあり、
ヒミコの年を考えるとまだ油の乗っていた頃、鬼才を発揮し葬礼を取り仕切ったの
かなと思う。私はホケノ山の墳頂のフキ石を取り去り、棺を埋めなおした形跡がある
というが、ホケノ山を年輪の年代測定などからAD210年頃とすると、その40年後に
ヒミコが歿し、享年は60以上であったであろうと思うが、卑弥呼の没後国が乱れ、
箸墓の竣工が遅れる期間遺体をホケノ山に仮埋葬し、箸墓竣工時にトヨが掘り出して
これを箸墓に埋めたのではないかと考えている。どうだろう。
323 :
日本@名無史さん:04/03/22 08:27
そして、ヒミコの共立とはAD238年の直前辺りかなーと思う。公孫が殺されるのも
読めないような外交音痴ということは押しかけ女房であり、自国の都合で遣使した
ものである証拠じゃなかろうか。
>>322 >そもそも数値的なことは軽々に語るべきではなく、
>論理的な整合性をテーマとするべきなのだろう。
数値的なことが何をさすかしらんが、細部をつめずに整合性など判断できるはずもない。
>私はホケノ山の墳頂のフキ石を取り去り、棺を埋めなおした形跡があるというが、
何じゃそりゃ?前方部裾の木棺墓とごっちゃになってないか?
>ホケノ山を年輪の年代測定などからAD210年頃とすると、
年輪年代の測定などやってないぞ・・・・
ど゙っから出てきたんだよこの数字。
>公孫が殺されるのも読めないような外交音痴ということは
意味不明。
325 :
日本@名無史さん:04/03/22 09:30
勝山とホケノ山がごっちゃになっていた。どちらがどちらか忘れてしまった。
ただ、6世紀の横穴ではなく竪穴が掘り返されていたとあったような記憶が
あるんだけどねー。
326 :
日本@名無史さん:04/03/22 10:13
外交音痴は不適切。これはヒミコのことで外交官はすばらしかった。
景初元年(237)七月公孫淵自立、燕王を称す。
景初二年(238)正月魏明帝大尉の司馬宣王遼東攻撃を命ず。
明帝は公孫淵の虚をつき劉マ、鮮于嗣等を極秘の内に派遣し(コマンド)、
海を渡って楽浪、帯方郡を急襲。この直後景初二年六月に、卑弥呼の使者、
難升米が帯方郡に到着。公孫淵はまだ健在で、北方、遼東郡の襄平に
籠城中なるも、景初二年八月、司馬宣王に破られ、その首を京都(洛陽)
に送れれる。帯方郡到着後に実情を知り、機転を利かし魏へ朝貢することを決断。
こんな立派な外交官っている?
327 :
日本@名無史さん:04/03/22 11:06
トヨ(イヨ)はヒミコの宗女というが、卑弥呼には子供はいない。
すると、どういう関係なんだ?ヒミコの姪かな。そしてこの宗女も
結婚しないでまた宗女に代を譲る。又しても姪か。そんなに調子よく
姪が出てこない場合は甥。こんな感じだったのかな。判例法の時代か。
昨日火の鳥黎明編やってたね。
あれの舞台ってやっぱ九州想定してるのかな。
火の国と邪馬台国の間には海があるみたいだし、
でも結構距離もちかいっぽい。
んで半島?から騎馬民族がやってくる。
329 :
日本@名無史さん:04/03/22 13:47
寺沢薫「王権誕生」ではっきりしないこと。それは平原、西谷、楯築等の古墳が最終的となり、
その後纒向建設が始まるのだが、この「共立」の合意というか、倭国王権成立の合意という
のがどのようなプロセスで進められたのかということ。ケースバイケースで硬軟を取り混ぜた
ものであったのか、つまり国譲りの強要、極端に言えば、平原、西谷などではヒミコの命により
自腹を切らされたんじゃないかとも勘ぐれる。次の代がないんだから。広大な倭国の代表者を
一堂に集めヒミコが倭国統一の鬼道を説いたというのはどうかな。誰か説明できる人いないかな。
徳川家康を見ても簡単じゃなかったもんなー。
330 :
日本@名無史さん:04/03/22 14:12
以婢千人自侍。下女1000人を置き自らに侍らしていた。出入りできるのはただ一人の男子だけであり、
食事を持っていったり言葉を伝えたりした。ではこの下女は何者であったか。あるものは機織、洗濯など
(アマテラスのように)宗教儀式に必要なことをしていたと思うが、私は三輪神社にある摂社末社にやたらと
女神の多いのが気になる。これはヒミコが全国の巫女を人質に取ったのではないかと考える。
そうすることによって鬼道を独占した。今で言う家元だ。本来各国には「ミミ」、「ミミナリ」の他に大和三山
の3点セットにある「采女」というのがいたはずだ。これは太古の極東のシャーマン制度からシャーマネス
の存在が不可欠なことからも、○○トベといった感じのものが神武時代には大勢いることから想像がつく。
ヒミコは家康より偉かったのかもわからんぞ。
331 :
日本@名無史さん:04/03/22 16:05
徳川幕府は公娼制度として江戸に吉原を置いている。纒向建設のために
全国の労働者を集めたとき治安上不可欠なのはやはり公娼制度であった
であろう。現代でもイラクなどにプラント輸出し、極東系の労働者を派遣する
場合ポイントは強姦に走らさないように下の処理をすることにあるといわれる。
この点を考慮しての巫女の人質を取ったのであるとすればこれは鬼才という
他はない。すると纒向ってのは岡場所てことかい・・・と江戸っ子に言われそうだな。
332 :
日本@名無史さん:04/03/22 16:15
確かに巫女=売春婦という側面は古代からあるようだが…
つうかこのスレは段々どこへ行こうというのか…
333 :
日本@名無史さん:04/03/22 20:12
人質となったのは巫女というより有力者の子女であり、ある程度の、
マー短大並の年季が明けたら地方で巫女さんレベルの仕事に就け
るという資格を貰って国に帰ってのかもわからんね。アマテラスにせよ、
鬼道にせよあまり日本じゃ有名でないないからたいした教育内容ではなく、
機織などの職業訓練が多かったのかも知らん。
334 :
日本@名無史さん:04/03/22 21:38
オフサイド気味であるが、もう一節。ヒミコの官女というのはその後の古墳時代で
各地に同じ形式の□○墳を建設、祭祀、年間の季節的行事の執行において重要
な役割、つまり、埴輪、土器、冶金にいたる全てのノウハウを頭に叩き込んだという
ことだってありえる。
335 :
日本@名無史さん:04/03/22 21:45
ギリシャだっけ?未婚女性の通過儀礼で神殿で一定期間売春するのは
336 :
日本@名無史さん:04/03/22 21:52
貫頭衣ってイメージ貧困だがギリシャのも貫頭衣だな
337 :
日本@名無史さん:04/03/23 03:03
>>329 庄内第二段階、つまり纒向形成、大和型庄内土器の北部九州展開、東海系土器の東日本展開
は、列島内部の要因で開始されたとは到底思えない。
東アジア全体における軍事的緊張に基づくものと考えることが自然だ。
それは三世紀には2度起っている。
A.D.204とA.D.238で、A.D.238は緊張の消滅を意味するから
A.D.204だけが残る。
これを公孫氏による軍事的脅威の発生を契機とするか、
倭韓連合の軍事的敗北と帯方郡の設置を契機とするかで、
発生年次はもちろん、大和連合の意味も内容も異なることになる。
勿論、これに先行する通商連合も四様式あたりからさまざまに組まれていただろうが
纒向における大和連合とは本質的に異なると思うし、
大王権の発生ともストレートには繋がらないと思う。
>>329 「共立」の2文字からあんまりいろいろな意味を探ることは不可能。
>>337 >A.D.204だけが残る。
>これを公孫氏による軍事的脅威の発生を契機とするか、
>倭韓連合の軍事的敗北と帯方郡の設置を契機とするか
204年に特定できるような軍事的脅威の発生もないし軍事的敗北も
ないだろ。あるというなら、まず論証してくれ。
339 :
日本@名無史さん:04/03/23 11:24
そんなこと論証する必要ないぞ。何かのおもしろい仮説を立ててくれ。
ここはおもしろい仮説を発表するスレなのか?
342 :
日本@名無史さん:04/03/23 11:58
伊都国奴国(九州)、近畿(東瀬戸内を含む)、狗奴国(山陰北陸近江東海)、
原三国(半島南部韓諸国)、公孫、魏がどういう風に敵味方に分かれていたのか
この点誰か説明願えないかな。
343 :
日本@名無史さん:04/03/23 12:04
このスレでの論証には限界があるぞ。よく考えて論証を
要求しないと礼を失することにもなる。
344 :
日本@名無史さん:04/03/23 15:21
後漢末の楽浪ではどういう民族がいてどのような
利害対立があったのかの説明がほしいなー。
>>342 はじめは
呉=狗奴国(南九州)VS 魏=倭国(北九州+近畿)=公孫氏
のちに公孫氏が呉についた
>>344 楽浪にいたのは漢人でしょうに
346 :
日本@名無史さん:04/03/24 07:43
呉=狗奴国(南九州) これって神武かな?
丹後・山陰への鉄器の急増は沖ノ島ルートの開発、つまり
北九州と三韓の同族的な関係に楔が入っているがこれは
魏の三韓攻撃以前のことだと思うがなぜだろう?北九州と
神武の関係はどうなんだろう?神武にあっけなく服従した
なんてのはどうかなというきがするけど。南九州の狗奴国
の他にも熊野と言う地名が中部、紀伊半島、久万と言うのは
四国などに広がっているがこれらも球磨、熊襲などと同族
に近いのではないか。ようするに弥生化に対抗して縄文文化を
守り続けた保守派、幕末の新撰組、会津などの感じ。明治で
いえば西郷さん。磐井が毛野と半島で共闘したのにといった
感じの泣き言を言っていたようなのが気にかかる。
神武とは別にニギハヤヒというのが筑後川流域、背ぶり山脈
東南部から近畿に入っているようである。これは伊都国、奴国
の神話とか、筑前南部の地名とかを近畿に移したものなのかな
と思うのだがどうだろう。これらはヒミコより一世代前だろう。
347 :
日本@名無史さん:04/03/24 08:06
ホケノ山には山口県辺りで作られる甕が埋葬されており、これが
被葬者の出身地を物語るという。山口県といえば周防灘を隔てて
宇佐地方と極めて近い。ホケノ山が宇佐地方のシャーマネスをつれて
大和に入ったこともありえる。更に、姫島のような島は安芸宮島、吉備
児島とあり、これらからもヒミコがスカウトされたのかもしれない。
ヒミコと言うのは建内宿禰のように何代にも渉る巫女の総称であるのかも
わからない。
348 :
日本@名無史さん:04/03/24 09:18
神武の実績は海上からの陸上侵略、和歌山近辺のシャーマネスの殺戮、八つ裂き、
熊野のシャーマネスの誅殺、山岳戦争など初期倭国乱の実態が海賊であったことを
見事に物語っている。その嫡男が綏靖によって殺される辺りはマフィアと同じ世界で
当時の実情を物語る。おそらくは大和の豪族に利用されたのであろう。倭人伝にも
長続きしない男王がいたとあるが、まだ当時は国家建設などの概念すらなかったもの
と思われえる。
349 :
日本@名無史さん:04/03/24 09:26
現在のアングラ言葉、隠語に「シマ」というのがあるが、英米法の
管轄権、裁判権、またキリスト今日などの宗教組織にもよく似た
概念がある。要するに氏子とか檀家とかいうやつで住職、神主の
縄張りだ。私はこれは姫島、志賀島、東京近辺では江ノ島(弁天)
など馬韓の珍島辺りから九州に持ち込まれた風習で島に巫女を
おいてお宮の代りとし、その管轄権の及ぶ縄張りのことをシマとい
っていたんじゃないかと思うのだがねー。すなわちシキシマと言う
のは六県とかジャーないんだろうか。
350 :
日本@名無史さん:04/03/24 09:36
ヒミコはおそらくは神武と後のつながりはなく、吉備か、摂津かと言うところだろうが
箸墓に埋葬されているのだとしたら特殊器台からして吉備、モモソ姫というのも最近
桃類を入れた甕を十文字(十はソとも読む)に並べてある遺跡が中国地方で発見された
と言うニュースを見たことがあるが、どうもこの辺でないかなー。
351 :
日本@名無史さん:04/03/24 10:42
東北では電柱状の陰茎を模したわら人形「鹿島様」を村々の境界に置き
悪魔を払い用済み後は鹿島流しといって川に流すという。鹿島神社は
そのシマとして東北全域を支配したものか。志賀島と同じく読めるのが
気になる。
352 :
日本@名無史さん:04/03/24 12:54
神武東遷は単なる海賊行為であったのであろうが、全体としては近畿地方、得に奈良盆地
大阪湾で耕地面積が拡大し農業生産力が合理化に支えられて向上、雇用が増え、他方
九州では農地の新規開拓が難しく労働力の平和裏の移動があったのではなかろうか。特に、
吉野ヶ里近辺、筑後川、遠賀川では優秀な農業技術者の供給能力があったことは容易に
察しが着く。こうした移住はふるさとの地名の移動につながる。
353 :
日本@名無史さん:04/03/24 21:37
東遷とは深仙特区が上海特区に変わったようなもんだろう。ちゃんばらごっことか
なんだかんだではなく要するに世の中が変わったんと違うか。
354 :
日本@名無史さん:04/03/25 11:28
サテ、吉備から近畿までが統一されるときそのシマ(といっても領域ではなくヒメの
所在する島)はどこであったかとするとやはりイザナギ神社のある淡路島であり、
ここのヒメ(神女)であったものが、後に纒向に移動するという展開を考えたい。
この淡路を中心とする地区は香川、徳島、和歌山、大阪、奈良、播磨などがはいり、
一連のホケノ山的古墳(石槨、木槨積石円墳)等と重なるのではないかと思う。
沖ノ島、姫島、宮島、児島、出雲北島(?)等には各地の統合の歴史があるかもしれない。
355 :
日本@名無史さん:04/03/25 11:35
宇佐、和歌山などではカメヤマというのが神妻、神女の墓である可能性があり、
全国のカメヤマ、上山、神山と言う地名は疑ってみたい。江ノ島は相模、香取
は東京湾を隔て武蔵を視野に入れていたのかなー。
356 :
日本@名無史さん:04/03/25 13:30
井上
357 :
日本@名無史さん:04/03/25 14:50
358 :
日本@名無史さん:04/03/26 00:45
狗奴国=狗の国=九の国=九国=九州のことじゃねーか
シマも島=吸収じゃネーか
以上はさておき、星野の宗像教授に嵌ってます
文庫の次の新刊が待ち遠しいよー
阿蘇:ASO
伊勢:ISE
宇佐:USA
??:ESU
忍:OSI
母音交換
360 :
日本@名無史さん:04/03/26 08:15
神武のナクサトベ、ニシキトベなどのシャーマネス誅殺は邪馬台国の
宗教的統一に資すもの。ウマシマジ、ナカスネヒコとの対決も背後に
宗教的対立も想定が可能。しかしイスケヨリヒメは地元色が強い。7人
のショートリストから選出は各地の神話に共通であり、古い出自だろう。
名前はいかにもシャーマネスで神武と葦の茂みの新畳で愛を交わす
と言うのは話の弾みであり、神武とは別個の存在だろう。神武は邪馬台国
建国当時紀伊半島から伊勢湾にかけての宗教的統一の前線に立って
いたと言う点ではホケノ山古墳とオーバーラップしてくる。ホケノ山の甕が
山口県と言うのは神武が日向と言う話とあわないのだが、日向と言うのは
立地条件は極めて神話的であり、話も多いところであろうが、政治家を
出すのは古来長州ではないのか。
361 :
日本@名無史さん:04/03/26 08:57
仮説:
香具女、香具女、籠の中の鳥は何時何時出やる。
夜明けの前に「吊る」と神妻が告げた。
社の昇殿誰。(鳥居の下に籠があり、その中に鶏
がいる。籠の上に縄を結んであり縄は鳥居の上を
通してしたから引き籠を上げる仕組みになっている。
籠の周りには7人の候補者の乙女がいる。籠を上げた
瞬間鶏がどの乙女に当たるかで次代のヒミコを決定
した。)
362 :
日本@名無史さん:04/03/26 09:21
丹後元伊勢籠神社の資料では内行花文昭明鏡は籠神社、ホケノ山(三輪神社)、
大和郡山市小泉大塚、広島県山県郡を除き佐賀、福岡で6枚出土していると。
籠目というのは呪いの一種であるが、竹野と言う地名も北九州と丹後にあり、
九州から丹後方面経由大和に向かうルートが考えられる。
363 :
日本@名無史さん:04/03/26 09:33
内行花文昭明鏡の分布は帥升ミッションの団員構成を物語るのでは
ないかと思うのであるが、このときに丹後、大和、安芸などの東部方面の参加
を許したことが、その後の倭国の運命を変えたのではあるまいか。
364 :
日本@名無史さん:04/03/26 10:36
話は変わるけど「カグツチ」と言う神が神話で、又、「タケハニヤス」は人代で
で政治的に失脚し、記紀面で極めて差別的処分が行われている。カグツチについては
舞鶴に頃を祭る神社がある。ヒミコ時代のクナ国などは氷山の一角でそれよりも相当古い
イザナミ時代から後の前方後方、四隅突出文化圏と近畿南部、山陽との根深い対立が
あったののではないかと考えさせられ、S字甕、イセツヒトコの東方移動とも関係していると
思っている。
365 :
日本@名無史さん:04/03/27 00:03
結局3世紀には近畿地方を中心とした大連合が存在したってことは
ほぼ確定なのだと思っていい訳ですね。
そいつが邪馬台国かどうかの解釈で、九州説と畿内説が対立してる訳ですか。
昔の邪馬台国論争って、当時の倭国が単に九州地方の小国だったのか
それとも西日本にまたがった勢力だったのかが議論の焦点だったと記憶しているのですが
その点についてはもう答えが出ているとの認識でOKですか。
>>361 関裕二の本は面白いけど鵜呑みにしないほうが良いよ。
寺沢や柳田の報告に基づいた至極まともなデータを採用しておきながら
おそらく意図的に結論を曲解しているふしがあるから。
彼の著作は最新データを基にした小説と見るほうが正解。
367 :
日本@名無史さん:04/03/27 08:21
ホケノ山古墳などの多くの古墳が近畿地方で発見されると共に
九州への大和地方の土器の流入などが時代と共に次第次第に
明確になってきたことが邪馬台国論争に答えを出したということ
でしょうか。特に鏡の分布、分類が進み最早逆行はないでしょう。
いまや問題はヒミコの墓はどこなんだなどという宮内庁の壁に
突き当たるような問題が出ていますね。これをブラックホール、
クオークのように傍証から固めてゆくことはこうした掲示板の
おもしろいネタじゃーないでしょうか。
368 :
日本@名無史さん:04/03/27 09:50
例えば神武がナクサトベ、ニシキトベ等の女族を誅するということは
後のヒミコの宗教専制のための必要条件であった可能性が非常に高いが、
このことは神武の実在性を強め、同時に、寺沢が秘儀が行われたことを
示唆する前原古墳の女性被葬者に対する大和朝廷側の方針が
詰め腹に近いものではなかったのか、「ホトを突く自殺」というのが
後世の切腹に近い残虐な古代における巫女王にたいする責任のとらせかた
ではなかったのかなどと言うことが考えられます。
369 :
日本@名無史さん:04/03/27 10:48
神武がナクサトベを殺したときは死体をバラバラにしていますが
もし当時鏡が潤沢に入手できれば鏡を死体の周囲に入れて
古墳に埋葬すればその死霊の呪いからは解放されたはずなのに
それができていないということは時代的に相当古いのではないでしょうか。
しかし、近畿統一運動の中で行われたということであれば、邪馬台国時代
にさほど遠くはないころのことでしょうか。
370 :
日本@名無史さん:04/03/27 11:45
また、鏡に対する需要拡大は倭国の女性がおしゃれになったのとは
程遠い理由であって、国内統一のために詰め腹を切らされたものたちの
怨霊を封じるために必要であったとも考えられます。勿論、最初そうした
理由があったが次第にその意義が忘れられ祭祀の一環となったということは
あると考えられるのですが。
371 :
日本@名無史さん:04/03/27 12:26
膨大な鏡の需要、古墳の建設は倭国の統一の過程で、当初は、リストラされた
シャーマン、首長の怨霊封じから発生した。そして「怨霊封じ」こそ鬼道のメインテーマ
ではなかったであろうか。それは鏡、古墳を超越して倭姫のの各地巡幸の時代にまでつながり
さらには後々の陰陽師にまで通じているのではないか。
372 :
日本@名無史さん:04/03/27 14:16
ヒミコは自らの鬼道で自らの命を絶ったが、神武、ヒミコ、崇神、ヒコイマス等の
邪馬台国の鷹派が周辺のまつらわぬエミシに取った過酷な弾圧の結果はその後
約1000年弱その鬼道の教ゆえに朝廷の宸襟を煩わし、崇神、聖武をはじめ多くの
天皇が苦しんだ。祟りは丹後大江山、近江、尾張、伊勢、熊野と広がっていた。
聖武は山城「クニ」の郷に「クニ」京を建都した。狗奴国とは「大狗奴主」を崇めた
これら諸国のことであろう。しかしこの鬼道こそやがて役の小角、空海、山伏へと
発展してゆくものであろう。鬼道は今も生きていると信じたい。
373 :
日本@名無史さん:04/03/27 20:06
あの〜
何を見つければ、邪馬台国の首都(?)を見つけたことになるのですか?
374 :
日本@名無史さん:04/03/27 20:14
ほとんどの古墳とか鏡とかが奈良県を中心にしてありますから
もう、相当前から、邪馬台国の首都は纒向で決まりでしょう。
箸墓なんか掘らなくてもいいですよ。
ただ邪馬台国に似た地名は九州にあって、それはそれで意味がありますね。
昔、九州にもあったのかもしれません。それは多分背振山脈東南部だったのでしょう。
しかし、それは神代の時代であったと思うんですが。
纒向が邪馬台国だなんて、誰も納得してない特殊説だが。
>>374 もともと、山の入り口、ふもと、ぐらいの意味だろうから日本中あちこちにあるんでないの?
377 :
日本@名無史さん:04/03/27 22:14
纒向が邪馬台国の首都ですね。邪馬台国と言うのは大和川流域
ということかな。流域と言うよりか水系というのかね。大和と言うのは
全国どころか満州に行くといまだに大和ホテルで泊まらされる。
まー、ごくありふれた名前だね。中国人がヤマタイといったんだろうが
二重母音をつめて発音するとヤマテとなるね。全国どこでもヤマテは
住宅街見たいだったんかね。
378 :
日本@名無史さん:04/03/27 22:22
邪馬台国の有名な山が阿蘇山。奈良県は無関係。
379 :
日本@名無史さん:04/03/27 22:48
阿蘇山から高千穂にかけては日本神話のふるさとだよなー。
草千里が高天原って感じがする。神々が集合していたのは
湯布院あたりだろうか。耶馬溪国というのがあったのかもね。
380 :
日本@名無史さん:04/03/27 23:25
>>374 いや、やはり箸墓は掘って欲しいな。
基本的には畿内説の立場なのだが、例えば大和岩雄氏の提唱するプレ邪馬台国のような存在が
北九州や吉備に存在した可能性は十分考えられるからね。
纒向が真の意味で連合の王都として機能し始めるのは
案外台与の時代かその直前、つまり狗奴国との確執が終結した後だと見る論者は多いよ。
ホケノ山などの初期型前方後円墳の綿密な調査がさらに進めば
そのあたりも明らかになる可能性が大きい。
383 :
閑話休題 其之二:04/03/28 01:26
>>382 大和岩雄は九州説というより東遷説だね。
九州中心で西日本全域に広がっていた倭国勢力の中で
台与が立つ時に中心を九州から畿内に遷都したという説。
学生社から出てる『シンポジウム 三角縁神獣鏡』あたりも見といてほしいな。
賛成でも反対でもいいけど、ともかく現状を把握した上でものを言ってほすい。
>>384 大和岩雄って、陳寿錯誤説で、水行十日陸行一月でたどりつく先は畿内大和だって言ってるんだから、
実質畿内説だよねぇ。
また纒向馬鹿の降臨ですか_?
もういいかげんにしてほしいよ
387 :
日本@名無史さん:04/03/28 09:07
中国とか朝鮮半島の考古学と古文書の関係につき絶対的
信頼性を置いていいものか。つまり、中国の史書の暦年を
絶対視してC14の判定結果と中国の鏡との年代が合わないから
といってC14年代測定を単純に誤りと決めていいものか。
Calibrationの問題もあろうが、最近何事にも盲信するのでは
コペルニクス等の先哲に恥じることはないかと特に思う。
>>385 大和岩雄って、「女王国」が東遷前の九州の国で
「邪馬台国」が東遷後の畿内大和の国、ともいってたな。
(纒向遺跡に比定してたかどうかは忘れたけど)
>>387 中国の鏡って、史書とC14が合ってないの? 具体的にはどんな話?
390 :
日本@名無史さん:04/03/28 10:32
いや、逆に聞きたいのは中国の史書、特に、魏志倭人伝辺り
の歴史的記述とC14で測定した推定年代が合致しているという
データはあるのか、あったとしたら、史実をゆがめる国民性の
愛国的なバイアスが除去されているのかどうかを知りたいと
いっているだけの話。誤解しないでね。全体性国家だからなー。
>>388 西嶋先生が『倭国の出現』所収の論文の中で論証しているとおり、
魏志倭人伝を分析するかぎり、女王国=邪馬台国になる。
だからこそ、大和岩雄はそれが陳寿の“女王国=邪馬台国”という錯誤により
新しい情報である遷都後の邪馬台国(奈良県の大和)への行程が挿入されてしまったからだ
と主張するわけだけど・・・・
錯誤まで持ち込んでどうして九州にしがみつかなければならないのか・・・・
ちょっと理解できない。
>(纒向遺跡に比定してたかどうかは忘れたけど)
大和岩雄は箸墓=トヨの墓説で纏向だよ。
392 :
日本@名無史さん:04/03/28 12:32
径100歩の円墳も南東の方角錯誤同様何かの誤認又は伝聞の過程での
誤りか。だが煙のないところには火が立たない。しかし、ヒミコの死後は
国中が動乱で着工は1年程度遅れたでもあろうし。何か当時完成した円墳が
あったのかなーと言う気もするが。寺沢は晋泰始2年AD266年倭人が天円
地方を象る方式に刺激されたのではと想像しているが、これは箸墓の前方は
撥型であり、前代からもこういう形はあるのであるから、思想的にさほどな
意味はなくむしろ箸墓建設とはを後送りにする意図的な想像の感がする。
私はヒミコ死後の動乱はその後の外交活動の順調さから見て急速に収まり、
かえって狗奴国勢もヒミコが責任を取ったことでその墓の建設に協力し、
2交替の突貫工事で行われ、トヨ(イヨ)が襲名し、張政が帰国する辺りには
完成していた、すなわち、武田信玄ではないが、狗奴国との戦争のために
側用人が若干発表を遅らしていたということもありえる。誰にも顔を見せない
方針なんだから何とでもできるんじゃないか。・・・こんなことを考えているんだけど。
393 :
日本@名無史さん:04/03/28 13:17
394 :
日本@名無史さん:04/03/28 14:02
ところでヒミコ没年を額面どおりAD248年とすると去年辺りで
BP=2003-248=1753つまり較正でもって100年ほど若返らさな
くてはならないんじゃないのか。それとも、中国の歴史ってのは
100年位抜けがあるんじゃないか。こんなことも考えている。
395 :
日本@名無史さん:04/03/28 14:28
当時の邪馬台国宣伝相に「ヒミコがホトを突いて死んだって言うのは
本当ですか?」と聞いてみると、「イラクのフセインの宣伝相が死ぬ前に何を
いってたか思い出してみな。そういう形で発表しないと当時の人間は動か
なかったのさ。クチコミ世界なもんでね。アマテラスにスサノオがローハイドを
プレゼントしただけでホトを突くなんていう時代だよ。」とこんなことをいわれそう(w
396 :
日本@名無史さん:04/03/28 14:37
阿蘇山はどうなるんだ?
ヤマタイコクへ行く途中の描写として火を噴く阿蘇山の描写がある。
奈良に行くのにわざわざ正反対の方角の熊本県を経由して行くのだろうか?
女王国が西都原古墳にあるとすれば、阿蘇山のそばを通って宮崎県へ抜けるときの描写であるから全く自然である。
397 :
日本@名無史さん:04/03/28 15:13
阿蘇山の噴火活動については九州大学辺りに資料があるはずだ。
降灰が地層を形成するから正確な年代が特定されているはずなので
すぐわかることとは思うが、九州に縁のない人ジャーわからんじゃろねー(w
398 :
日本@名無史さん:04/03/28 15:31
西都原の大きな古墳は応神天皇の時代かなー。又邪馬台国が復活したんだね。
余り勉強したないのでわからないんだけど。詳しく教えてください。
399 :
日本@名無史さん:04/03/28 15:47
これは神功 をヒミコ2世とするとヒミコ3世に当たる。相当ファンタスティックな
はなしになるね。オサホ、メサホなんて夫婦仲良く墓を作るというのは次第に
男女同権になってきたのかね。でもソレッキリコレッキリり見たいな感じもする。
>>394 BPは1950年が原点だよ。だから、BP=1950-248=1702
そのまえに、2003-248=1755なわけだが・・・
401 :
日本@名無史さん:04/03/28 16:14
算数落第。歴史は落第の減点パパか。わかった。マーその辺りは
堪忍してもらうとして、それにしてもだ、100年の較正ってのがどうもね。
402 :
日本@名無史さん:04/03/28 17:02
>>393 yBP1820+-35を暦年代較正すると信頼性68.3%で西暦134〜239年
403 :
日本@名無史さん:04/03/28 17:49
>>394 布留1式ってそんな古いの?
>それとも、中国の歴史ってのは 100年位抜けがあるんじゃないか。
何をめちゃくちゃなことを(W
404 :
これで解決:04/03/28 18:00
男狭穂塚が卑弥呼の古墳 ←直径154mの円墳(日本最大)
女狭穂塚が壱与の古墳 ←墳長176.3mの前方後円墳(九州最大)
405 :
日本@名無史さん:04/03/28 18:06
406 :
日本@名無史さん:04/03/28 18:18
どーせ地域・年代無視なら男狭穂・女狭穂は垂仁天皇の
サホヒコ・サホヒメでもいいだろう。
とか逝ってみる
407 :
日本@名無史さん:04/03/28 18:24
そうするとヒミコ陵は西殿塚古墳(であり、継体天皇は200年後に
その由緒を知り、后である手白香皇女を潜り込ませたと言うことも
無きにしも非ずかな。
408 :
日本@名無史さん:04/03/28 18:28
又間違えた。200年後ではなく400年後ぐらいかな。
409 :
これで解決:04/03/28 18:31
垂仁天皇の古墳は宮崎市生目の生目古墳。
>>403 布留すぎるね。C14は布留モデルチェンジが必要かもしれない。
411 :
日本@名無史さん:04/03/29 01:02
邪馬台国が九州連合の長で狗奴国が畿内連合の長、
「クナ」→「クニ」(国)の語源になったという説が面白かった。
デンパっぽーいっw
413 :
日本@名無史さん:04/03/29 02:25
奈良に邪馬台国があったのなら、なぜ「日本書紀」にそのことが触れられていないのか?
奈良になかったからこそ、「日本書紀」に書かれて無いのだと理解するのが自然。
つまり、箸墓は邪馬台国とは縁もゆかりもない墓。
414 :
日本@名無史さん:04/03/29 02:55
>>411にケチつけるわけではないが
「語源」「四国」「九州王朝」の3語はどうしても電波のニオイがするのなw
>>413 ヤマト(奈良県)を
三国志は「邪馬台」と表記し日本書紀は「倭」と表記してるわけだろ。
416 :
日本@名無史さん:04/03/29 08:44
一応張政等来倭時は布留T式.で既に箸墓の円墳部分の工事が
完了していたとしておこう。
417 :
日本@名無史さん:04/03/29 09:01
張政「皆さん、ご苦労さんです。ところでこの円墳仕上がるとどの
程度の大きさになりましょうか?」
倭国人「一応第一期工事の予定は径100歩となっております。」
張政(何かごちゃごちゃいってるが倭国語は難解だなー)
「つまり完成時径100歩の円墳と言うことですね?」
倭国人(何かごちゃごちゃいってるが中国語は難しいなー)
「先生ご指摘の通り径100歩です。」(w
418 :
日本@名無史さん:04/03/29 11:08
解ってないな〜
「大いに冢を作る」と言っても三国志の時代の「冢」は孔明の墓でさえ直径20mくらいだ。
玄徳の墓が60m、卑弥呼の墓が「短里の100歩」25mくらいでも「大いに冢を作る」と書いただろう。
薄葬令の出ていた魏の属国邪馬台国が150mもの墓作れるワケがないだろ。
橿原考古学研究所だって今は箸墓は壹與の次の男王の墓の可能性が強いと言ってるぞ。
419 :
日本@名無史さん:04/03/29 11:11
邪馬台国の女王が箸墓に埋葬されてないと困る(?)奴ががんばってるだけ
箸墓はイヨの次代の王の墓だろうね
420 :
日本@名無史さん:04/03/29 11:16
それは逆だろ? 魏は薄葬で、殉死も中国ではとうの昔に
廃れていた。だから大きな墓や殉死を倭国の特筆すべき
風俗として記述したんじゃないか。
また薄葬令厨かよ。
薄葬令など出ていない。
自分の墓を小さく作ってくれと遺言しただけだ。
何度いわれたらわかるのかねぇ。
「短里の100歩」なんてものも存在しない。
「歩」は文字どおり、もともと人間の歩幅から決まった単位だ。
そう大きくは変わらんよ。
ところで、『薄葬令云々…』の言い出しっぺって誰?
422 :
日本@名無史さん:04/03/29 12:41
哀れんで鏡をくれてやっている国、今風に言えばODAを受けている国に
150Mものがあったとは書けない。ODAは国費の無駄使いだったということに
なり、帯方郡は何をやっとるかと言うことになる。そこで事情を知っていたが
100歩に収めた。なんせー、皇帝に渡る文書だからなー。
423 :
日本@名無史さん:04/03/29 15:25
>>邪馬台国の女王が箸墓に埋葬されてないと困る(?)奴ががんばってるだけ
要するに倭人伝に記述にとらわれて、頭の切り替えのできないやつってことだな。
しかしどうやって切り替えるんだよ。具体的に説明してくれ。
424 :
日本@名無史さん:04/03/29 16:21
箸墓が卑弥呼の墓だと言っているヤシは「見果てぬ願望」なのだろう。
樋口なんかもそれは理屈ではなく「願いだ」と言っている。
「奈良の盆地に立って箸墓を眺める時、箸墓が卑弥呼の墓であってくれと願わずにはいられない。」とね。
425 :
日本@名無史さん:04/03/29 16:38
いい説明だな。それがあうと多くのことがあうからってことか。しかし鏡
や古墳の発掘が進み、素人としては最早断定していいとおもう。
英語で言えば意見の問題と言うことだ。
海に潜って漁をする倭人の国には阿蘇山がある。
その国の王が奈良県にいるわけ無いでしょう。
427 :
日本@名無史さん:04/03/29 17:52
ムツゴロウのあたりか。徐福があの辺から上陸し、難儀したという。
奈良の海も有明海といい勝負だったかも。ただし、倭人の海の情景は
松浦、糸島、博多湾のことと違うか。ムツゴロウの話は聞かんぞ。
428 :
日本@名無史さん:04/03/29 19:40
奈良は「冬でも裸足で歩けるほど暖かい国」なのか?
429 :
日本@名無史さん:04/03/29 19:46
どうやったら南と東へ進むと奈良に着くんだ?
満州や沿海州にも裸足の種族はいたわけだが。
431 :
日本@名無史さん:04/03/30 02:26
靴は履いてただろう
国内で一番古い靴って、いつごろのものがでてるんだろう・・・・?
433 :
日本@名無史さん:04/03/30 07:52
縄文時代の後期の土器にブーツが描かれているようだ。
434 :
日本@名無史さん:04/03/30 16:53
箸墓=布留0-1式土器=(ヒミコ没年AD248年
プラス工期10年)とまー、こういう仮定をする。
そして、ヒミコの墓は径100歩は臨時の墓とし
よう。するとあれだけ巨大な墓を造営できるのは
崇神天皇だ(記紀を信用すればだけど)。崇神が
大王に就任、モモソヒメの魔力を受け継ぐ儀式が
行われた。この想定はきついかな。
福岡の地図みてると
「筑紫邪馬渓」という地名がある
おもいっきり怪しい
やっぱ福岡の南辺りじゃないかな
>435
おまえの方が怪しい
筑紫邪馬渓ってのは最近になって釣垂峡の名前を変えただけだろ
437 :
日本@名無史さん:04/03/30 23:50
まあ春休みってことで厨房の皆さんも多いようなので、散々ガイシュツだが確認のため説明をば。
>阿蘇山について
これは「隋書倭国伝」に倭国の地理特色として、阿蘇山が挙げられていることが
>>426の主張の元なのだろうが、書き下し文でも良いから一読さえすれば真実は簡単に導き出せる。
要するにこれはあくまで「倭国伝」であり、決して「邪馬台国伝」ではないのだ。
倭国に阿蘇山があるのは当たり前であり、それが九州説の根拠どころか補強にすらならない。
ちなみにまともな九州説論者は、口が裂けても阿蘇山などとは口走らないので念のため。
>南を東へと読み替える
これはもう論争当初から畿内説に対する九州説側の批判の常套句だが
確かに何の根拠もなしに資料の読み替えを行うのは、学問的ではない。
しかしすでに定説とされている伊都国や奴国の位置でさえ、それぞれ
東南を東、更には北東に読み替えなければならないと言う厳然たる事実がある。
つまり何らかの理由で倭人伝の方向記事は45度〜90度、反時計回りにずれているのである。
この理由については、いわゆる行基図の存在などが仮説として提出されているが
まだ決定打とはいえないのが現状である。
読み替え云々を論ずる時代はとうの昔に終わり、現在では「何故ずれを生じたのか?」を
探ることこそが邪馬台国の位置所在に関わらず求められている。
しつこいが、まともな九州論者はこういうツッコミをしない。九州説もまた方向に関しては
読み替えが必要不可欠だからだ。
438 :
日本@名無史さん:04/03/30 23:56
439 :
日本@名無史さん:04/03/31 00:02
>邪馬「壱」国について
魏志の倭人伝には確かに邪馬台国ではなく、邪馬「壱」国と書かれている。
しかし何故「邪馬台国」が定説化したかと言うと
他の資料(魏略逸文や後漢書地理誌、随書倭国伝など)がすべて「台」を採用しているためである。
このことから、倭人伝の「壱」は「台」の誤りだと考えられている。
どうしても読み替えが不可だとの立場を採るならば「一大国」と書かれた
「一支国(壱岐)」も同様に読み替えるべきでは無かろうに、そこには触れないのは何故?
続いて日食について述べますが、ちょっと長くなるので時間をください。
440 :
日本@名無史さん:04/03/31 00:03
方角よりむしろ、距離のほうが問題では。
まぁどのみち、文献からでは畿内説は圧倒的不利。
だからこそ畿内説論者は文献軽視の方向に持っていかざるを得ないのだけどね。
考古学的結果が畿内説に有利だからということもあるけど。
>>440 >まぁどのみち、文献からでは畿内説は圧倒的不利。
でたでた。毎度ながら、根拠のない不利宣言。
442 :
日本@名無史さん:04/03/31 00:12
隋書に「夷人不知里數但計以日」とある
距離表記は中国人の見立てだからその場合の距離、方角はある程度正確であると思われる
日数は倭人の自己申告に違いないので当時の中国人も距離は不明であったと思われる
443 :
日本@名無史さん:04/03/31 00:14
>>437 >>読み替え云々を論ずる時代はとうの昔に終わり、現在では「何故ずれを生じたのか?」を
>>探ることこそが邪馬台国の位置所在に関わらず求められている。
常識的に考えれば方向がずれていたら、目的地に辿り着く事ができない。
倭国に渡る事もできない。
つまり記述者は倭国に渡ってない所か、その伝聞もあやふやで文字通り
「適当」に書いてると思われるフシがある。
よって、「何故ずれを生じたのか?」を論じる時代はとうに終わり
現在では、魏書東夷伝の倭人部分の「信頼性」についてこそ検討する必要がある。
444 :
日本@名無史さん:04/03/31 00:16
>>437 >>読み替え云々を論ずる時代はとうの昔に終わり、現在では「何故ずれを生じたのか?」を
>>探ることこそが邪馬台国の位置所在に関わらず求められている。
常識的に考えれば方向がずれていたら、目的地に辿り着く事ができない。
倭国に渡る事もできない。
つまり報告者は倭国に渡ってない所か、その伝聞もあやふやで文字通り
「適当」に報告してると思われるフシがある。
よって、「何故ずれを生じたのか?」を論じる時代はとうに終わり
現在では、魏書東夷伝の倭人部分の「信頼性」についてこそ検討する必要がある。
445 :
日本@名無史さん:04/03/31 00:23
>>440 >>441 文献方面でも畿内が有利なら、今ごろ邪馬台国論争など無い。
神話や文献、地名などさまざまな角度から見て九州が有利、
しかし考古学的結果は畿内が有利、だからこそ
この論争は決着がつかないわけで。。。
>>445 >今ごろ邪馬台国論争など無い。
御名答!
実質もう終わってる。
>>444 >常識的に考えれば方向がずれていたら、目的地に辿り着く事ができない。
岩波新書で応地利明著の絵地図の世界像読んだことあるか?
そこで、世相実録に書かれていることとして、琉球使と李朝の宣慰使との問答が紹介されてる。
それによると、琉球使は朝鮮から琉球に行くには、
倭の西辺から東南に向かって行くと答えている。
どうせ島影を見ながらの航海だろうから、方位なんか不正確でも
相対関係さえちゃんとしてれば、目的地に着くんだよ。
君の常識は通用しないということだ。
448 :
日本@名無史さん:04/03/31 00:38
>日食について
アスキー社の「ステラナビゲーター」という天文ソフトにて、古代日本において
発生した日食現象を調べると、西暦247年と248年に続けざま起こったことが確認される。
(詳しくは下記アドレス参照)
http://inoues.net/yamataikoku/science/waq.html この日食を原因とする政変の結果がが卑弥呼の死であり
これらが主に九州西部でしか確認されなかったことが邪馬台国の位置を示唆しているとの説である。
ここで面白い反証がある。
日本書紀神功皇后記には、どうやら日食があったことが示唆される文章があるのだ。
しかしそれはおそらく247年の一度きりであり、2度目の日食には触れていない。
書記は倭人伝の記事との整合性を図るために、わざわざ神功皇后という人物を創り出して
おきながらこれは何故なのだろうか。
答えは日本書紀の天文記事のそのすべてが、中国の史書から転載したものだからだ。
推古天皇以降ともなれば、日食どころか彗星や流星群に至るまでその記事が認められるのだが
そのうちのいくつかは日本では観測不可だったものも含まれている。
逆に248年の日食は中国では位置的に観測されていなかったため、記載が無いのだ。
もし卑弥呼の死が二度の日食を原因とするならば、書記編纂者が書き落とすはずが無い。
少なくともそういった伝承が当時にも無かったため、書かなかったと見たほうがより自然だろう。
記紀の記述の信憑性については周知のとおりかなり疑問がある。
しかしこの件に関しては、故意に隠蔽する必要性が全く見つからないのである。
日食の事実が九州説の補強とするならば、確かに興味深いものがあるのだが
それを根拠とするのはあまりに無謀である。
>>446 俺は「文献方面でも畿内が有利なら」邪馬台国論争は無いと書いた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ここの部分読める?
450 :
日本@名無史さん:04/03/31 00:46
>もし卑弥呼の死が二度の日食を原因とするならば、書記編纂者が書き落とすはずが無い。
アマテラスの岩戸隠れとして大々的に書かれてますが
それにしてもワンパターンだな
日食と阿蘇山以外の釣りネタ考えろよ
基本的に魏使(帯方郡官吏?)は伊都国より先には行ってないってのが
現在の定説だろ?
伊都国王は倭国連合において外交担当とも言うべき重職にあったのだろうし
そんな「世々王有り」の名門国を支配下に置いた邪馬台国(倭国連合)の勢力ってのは
一昔前の仮説では説明出来ないほど大きなものだったと考えざるを得ないじゃない?
だからこそ伊都国と一大率の関係が重要視される訳だし。
>>450 書記そのものは卑弥呼=神功皇后説なんだよ。
アマテラスに比定したのは後世の学者。
要するに書記編纂者は邪馬台国に関して、詳しい知識を持ってた筈なのに
何故か隠蔽していると考えたほうがより自然だろう?
「魏志に曰く」なんて変な引用をしているあたりからもそれは歴然。
そのくせ日食が原因という、事実ならばオイシイ話を採用していないことが
逆に不自然なんだ。そんなもっともらしい話があるならきっと採用しているよ。
454 :
日本@名無史さん:04/03/31 01:01
>>447 本気で言ってるのか? あまりにも荒唐無稽な。。。
魏志倭人伝は、海での方向どころか上陸後の陸地での距離や方向までも
間違ってるし完全にあやふやだ。
目的地に辿り着けるレベルではない。
大体、歴史学ではまず史料の信頼性を検討する事から始めるのに
邪馬台国研究=日本古代史研究では、その部分を完全にすっぽかしてる。
問題は、その異常性を意図的に無視してる事だ。
もはや妄信的な宗教と言っていい。「魏志倭人伝は神聖にして侵すべからず」だ。
この時点でまっとうな学問、研究じゃない。
中国様の史料は全て正しいという無茶苦茶な前提から成り立っている。
同じ古代史料でも日本書紀は簡単に切り捨ててるのに。
歴史学に最もタブーな、ある種のイデオロギーが入ってるんじゃないか
とも思える。
魏志倭人伝に明らかに間違ってる記述があっても、普通なら否定する所をそれをせずに
「何故間違ったのか?」を無理矢理考えて、必死になって記述者を弁護しようとする。
邪馬台国研究とは、魏志倭人伝の解析ではなく魏志倭人伝の必死の弁護と言っても良い。
はっきり言ってまともな歴史研究じゃない。
中国史料のいい加減さは明史日本伝が有名だが、こういう基本的な事を意図的に無視
する異常さは、全く理解できない。
>452
>「世々王有り」
丗有王だろ
それに奴国と伊都国ごっちゃになってるんじゃないか?
魏志倭人伝では女王国は南にある事が示唆されており、また奴国が女王の境界の尽くる所であり、
後漢書でも奴国が極南界であることをみれば奴国は一貫して政治中枢に近いところにあることが
考えられる
倭人の国のある時代の代表国が邪馬台国なので
倭国は邪馬台国と無関係とするほうが電波
>>454 >>447とあなたの意見は基本的にはほぼ一致してるんじゃないか?
倭人伝の日程方向が信用できないって点で。
ただ発掘事実から公益があったのは確かなのだから
少なくとも北部九州や丹後半島なんかとは互いに行き来していたと
考えられるだろう。
それと風俗記事の異様なまでの詳細さ
(内容に若干の錯誤はあるが、牛馬無しとか)
からみても、少なくとも魏使は北九州には滞在したと思われ。
>>455 3世紀になると、北部九州では奴国より伊都国や末ラ国のほうが
隆盛を極めていたことが副葬品から確認されているよ。
>>452 >基本的に魏使(帯方郡官吏?)は伊都国より先には行ってないってのが現在の定説だろ?
そんなことはない。
459 :
日本@名無史さん:04/03/31 01:41
>後漢書でも奴国が極南界
それ散々ガイシュツぽ。
後漢書でいう倭国は半島南部まで含めてるぽ。
倭国について自分自身で調べたものではないぽ。だから間違いだらけだぽ。
つーか後漢書は他のあらゆる資料のコラージュで
編者が内容を確信して書いたものではないというのは歴然ぽ。
随書倭国伝も同様ぽ。
460 :
日本@名無史さん:04/03/31 01:48
後漢書は信憑性が低いだけで全否定されるものでも無い
それは程度の差こそあれ魏志倭人伝も同じ
461 :
日本@名無史さん:04/03/31 01:57
「倭」と「日本」は別種であることに注意。
当時の中国からみた「倭」の国は、九州のみ。本州は含まれていない。
「旧唐書」では、「倭と日本は別種である」となっている。
すなわち、九州である「倭国」に阿蘇山があるのは当然であり。
邪馬台国も九州なのである。
>>454 >魏志倭人伝は、海での方向どころか上陸後の陸地での距離や方向までも
方位については確かに間違ってるけれど、
『上陸後の陸地での距離』が『間違ってる』とは言い切れないな。
これは比定地しだいだ。
463 :
日本@名無史さん:04/03/31 02:35
とりあえず素人のオレにも
発掘結果(考古学)重視=畿内説
文献資料(文献学)重視=九州説
って図式はわかった。
それと
畿内説→ほぼ全員が奈良盆地
九州説→人の数だけ場所がある
ってのも
でも文献考証は議論が延々ループしてるので、正直飽きた。
オレ的にはパート2あたりの考古学資料を基に仮説を立てていくあたりが
一番面白かったし、ためになった。
464 :
日本@名無史さん:04/03/31 02:44
>>463 つまり畿内説は、九州よりも大きな勢力があった、というだけでそれが文献にある邪馬台国であるとはとうてい証明できてないわけさ。
465 :
日本@名無史さん:04/03/31 02:50
>>464 しかし
>畿内説は、九州よりも大きな勢力があった
ってことが確認されただけでも一昔前の邪馬台国論争とは
隔世の感があるな。
それが不明だったからこそ3世紀から4世紀当時の状況が謎とされていたわけだから。
ということは、別に邪馬台国がどこにあったとしても、たいした問題ではないわけだ。
もっと大きな問題が解決したのだから。
何度も遷都し、滅ばされたあと建築物も移築されてしまった邪馬台国の跡地から
豪華絢爛たる出土物がなくて当然。
交易が盛んだった畿内が豊かだったことと、邪馬台国がどこにあったかとは無関係。
>>466 >何度も遷都し、滅ばされたあと建築物も移築されてしまった邪馬台国
ってお前、見たんかい(笑)
>文献資料(文献学)重視=九州説
ハァ???
「文献ではどっちとも決まらない」だろ。
469 :
日本@名無史さん:04/03/31 08:35
纏向遺跡って墓とか祭祀跡しかなくて人が住んでいた様子がないらしい。
纏向遺跡作った人は何処に住んでいたのかな。
>文献資料(文献学)重視=九州説
っていうのは九州説のお題目だけどさ、
文献上、どう九州説が有利なのかっていうのは
一度も具体的な指摘があったためしがないんだよね。
たとえば、方位でも本当に九州説は方向を変えなくていいかっていうと
そんなことはなくて、方位の修正なしにすむのは南九州の西海岸だけ。
で、九州の北半分とか南九州の東海岸は捨てていいか?
と聞くと、黙るか、罵倒に走るか、荒しだすか・・・・
っていうのがこれまでのパターン。
といって南九州の西海岸っていうのは、距離があわないし、人口の説明も難しいし、
考古学上、北九州との文化的な同一性がないとか、中国や朝鮮半島との交流の痕跡がほぼ皆無とかで、
九州説の中でも南九州の西海岸説をとる香具師はほとんどいない。たまにいるけど。
471 :
日本@名無史さん:04/03/31 12:33
古本屋ではおもしろい九州説の本がたくさん手に入り、
一方図書館では最近の畿内説の本も容易に貸し出ししてくれる。
自分も色々読むんだけど、九州説にも色々深い考察があって
勉強になるんだね。でも、3世紀中葉の遺跡と言うと纒向を中心と
しているのはどうしようもない。この事実は動かしがたいんだね。
また、2万、5万、7万といった世帯数の分布を当時纒向に土器を
運んだ地方で想定してみると瀬戸内海東進のコースに落ち着かざ
るをえないんだね。だから、九州云々の話は3世紀より100年以上前の
話としては面白いと思うんだけど、このスレの趣旨に従って邪馬台国と
大和朝廷っていうか、記紀との関係にフォーカスを当てるようにした
いんだが。
当時の倭国と言うのは巨大な国家であり、狗奴国などは今日で言うバスク、
クルドなどの単なる反体制派のような感じもあるんだかね。
先ず和国の管理体制がどうなっていたの、邪馬台国に全てが集中して
いたのか。一大卒とは何だったのかなどの話が展開してほしい。
熊本市教育委員会は31日、江津湖遺跡群(熊本市水源1丁目)から
弥生時代早期から前期のものとみられる、地面に穴を掘っただけの墓
である土壙(どこう)約100基が見つかったと発表した。
もみの付着した土器も一緒に出土し、北部九州に最初に伝わった稲作
などの弥生文化が早い段階から広がっていたことが分かる貴重な発見。
これほど大規模な土壙出土は九州では最大級という。
土壙はそれぞれほぼ同じ大きさで、長さ約1・5メートル、幅約1メートル。
深さ20−50センチ。約100基が約1000平方メートルにわたって整然と
並んでいた。うち1基からは刃先が折れた石鏃(せきぞく)8個が見つかり、
弓矢などで射抜かれた戦死者の墓の可能性もある。また子どもの遺体を
入れたとみられる甕棺(かめかん)も6個出土した。
3月31日(水)12時2分 共同通信
ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040331-00000067-kyodo-ent
473 :
日本@名無史さん:04/03/31 16:46
一大卒は進駐軍基地。
公孫氏は魏に滅ぼされるが、朝鮮半島を渡って九州に上陸した卑弥呼(公孫氏の女)は外敵に備えてイワレヒコ(神武)の建てた伊都国を邪馬壱国の表玄関とし、
自分たちは巨大な阿蘇山を楯に、その南側の西都原に隠れるように女王国を築いた。
また九州にあった邪馬壱国は白村江の敗戦までは大和を支配していた。
このことは「珍彦(うずひこ)神話」に明記されている。
また電波だよ・・・・・
475 :
日本@名無史さん:04/03/31 20:14
どの部分が電波なんだ?>474
ケチをつけるだけでなく、その根拠をどーぞ!
476 :
日本@名無史さん:04/03/31 21:25
ウズヒコといえば阿波鳴門萩原1号墳だが、渦潮で有名なところ
であり、ホケノ山古墳、楽浪郡と同じ鏡が出土する。なるとの辺は
大麻彦と言うのがいて今も剣山周辺に阿佐と言う苗字のうちが
多い。
477 :
日本@名無史さん:04/03/31 23:17
>>471 >古本屋ではおもしろい九州説の本がたくさん手に入り、
最近古本屋で買った中では、魏志倭人伝の航海術と邪馬台国って本が面白かった。
最後は、単里が・・・・となってしまったので画龍点睛を欠くという感じだけど、そこまでの8割方はためになった。
古本屋はまれにだけどめっけもんがあるからイイ!!
479 :
日本@名無史さん:04/04/01 01:00
>>475 根拠っつーても、逆にどこから突っ込んだらいいか教えて欲しいわいな(W
>>437や
>>470があれほど判り易く電波説を定義してるじゃない。
だのに他の参加者との意見交換なぞ、さらさら行う気も見られないレスを書き逃げする
ごく一部の痛い九州説(本当にごく一部)は、単に邪魔したいだけだとしか思えない。
真の邪馬台国論者って、たとえ自説と反する主張が書かれた本でも結構読んでるんだよな。
読んでるからこそ反論も出来るし、瞠目すべき意見は自説に取り込もうともする。
そういう意味では
>>471や
>>478の爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいよ。
480 :
471の提案に乗ってみる、その1:04/04/01 02:04
まずは吉備、丹後、大和、河内、近江、越、東海あたりの有力首長が
半ば合議制の様相を呈して連合したと考えられる2世紀末あたりを
「第1次ヤマト連合」と考えたい。
次いで北部九州の由緒ある首長国連合
(別にこれが魏志に言う邪馬台国連合であっても無くても別に良いと思う。
僕自身は纏向だと思うが、大勢には影響しない。)
と合併し「第2次ヤマト連合」が成立した。
この時点での主導権は一大率の役割から見て畿内勢力にあると思われるが
外交実務はやはり九州の首長が担当したのだろう。それと対半島軍事も。
これで朝貢が可能となり、倭人伝に言う時代を迎える。
次は狗奴国との和解というか連合参加。
(現状では狗奴国の位置は、東海でも近江でも関東でも南九州でも成り立つと思う。故に不明。)
ここにきてやっとこさ有力首長同士の抗争が終結した。おそらく台与の統治あたりで。
(意外とこの時点でも出雲が最後まで残っていた可能性もある。)
481 :
471の提案に乗ってみる、その2:04/04/01 02:05
しかし初期ヤマト連合は、あくまでも首長連合に過ぎず
その政権基盤はさながら砂上の楼閣に等しいものだったと思われる。
卑弥呼没後の男王支配が失敗し、再度シャーマンを擁立せざるを得なかった事からもそう推測される。
その後、念願の半島交易に乗り出しながらも、国内に仮想敵国を失ったヤマト連合が
大陸の混乱に乗じて、さながら秀吉のごとく半島侵攻に矛先を向けたと推測される。
されるのだが、ここからが謎なんだよなぁ。
いわば利害だけで一致している、極めて脆弱な関係なのだから。
482 :
471の提案に乗ってみる、その3:04/04/01 02:06
この関係強化のために前方後円墳の奨励や三角縁神獣鏡の配布が実施されたと考えるのだが
支配政策を立案し、かつ実行したのが台与とはとても思えないのだな。
おそらくシャーマンに頼らずとも統括できるだけの実力(政治力、軍事力を含む)を持った王権が
ここで初めて実質支配を可能にしたと思う。
それが神武や崇神、もしくは応神のモデルとなった人物か一族なのだろうが
案外ここで九州勢力が政治的クーデターを成功させたというのも十分有り得るし
第一次ヤマト連合のいずれかの勢力とも考えられるし。
はたまた各首長同士に血縁関係が成立し、ほとんど持ちまわり状態で統治したってのもアリだし。
なんとなく記紀の奥歯に物が挟まったようなストーリーから推測すると
すんなりヤマト連合が大和朝廷になったとは考えにくいんだわ。
なにかもうひとつふたつ、ミッシングリンクがあるように思えてならない。
そこで四国とユダヤ十氏族ですよ
484 :
日本@名無史さん:04/04/01 16:25
>それが神武や崇神、もしくは応神のモデルとなった人物か一族なのだろうが
神武や崇神、のモデルがいたという根拠は?
485 :
日本@名無史さん:04/04/01 16:34
別スレにも書いたけど、王の系譜みたいなものは、後世に書かれたものでも
比較的正確に残りやすいと思うんですよね。たとえば、「史記」の殷帝国の系譜
とか。逆に、伝説的なエピソードみたいなものは信憑性が薄い、つまり後世に
付加されやすいわけです。「史記」でいうと、舜、尭の禅譲などは、春秋戦国時代
に創作されたわけです。
486 :
日本@名無史さん:04/04/01 16:40
ただ、記紀は、万世一系のイデオロギーで書かれたものだから、
いくつかの王朝の系譜をつなぎ合わせた可能性はある。
王朝交代説というのがあるが、実際には交代すらしていない可能性
すらあると思うんです。つまり、並立していた王朝の系譜を一本に
つないでしまったんじゃないか?
487 :
日本@名無史さん:04/04/01 17:09
後世の解釈じゃなくて、記紀のかかれた当時から万世一系の思想で
書かれていたというのは確かなのか?
携帯
489 :
日本@名無史さん:04/04/01 18:53
応神天皇が新羅から来た事だけは間違いない。
http://www.shiga-miidera.or.jp/serialization/shinra/117_2.htm (1)気比神社
祭神は伊奢沙別命(いざさわけ)・仲哀天皇・神功皇后・日本武尊・応神天皇・玉姫尊・武内宿禰の七神。
垂仁天皇(三世紀後半頃)三年に渡来した「新羅の王子・天日槍(あめのひぼこ)を伊奢(いざ)さわけのみこと沙別命として祭った」といわれている。
『書紀』によれば、応神天皇は角鹿の笥飯大神と名前を交換し、大神を去来沙別(いざさわけ)の神とし、応神は誉田別(ほむだわけ)尊としたとある。
すると、応神の元の名前は去来沙別であり、天日槍ということになる。
即ち、新羅人であったということになるのである。
邪馬台国は西都原、文献も古墳も物語っている。
491 :
日本@名無史さん:04/04/01 22:12
>>465 >ということは、別に邪馬台国がどこにあったとしても、たいした問題ではないわけだ。
もっと大きな問題が解決したのだから
んなこったーない!
天皇家の正しい系譜は、邪馬台国の秘密を明らかにして初めて判る。したがって日本人がどこから来て、どのようにミックスされたかも。
492 :
日本@名無史さん:04/04/01 23:52
>>484 ひとつは各々の天皇の実績が、見事なまでに一人一績に述べられていること。
時代は違うが、例えば信長なんかは近代戦の祖とも言うべき軍略家でもあり
楽市楽座に代表される経済改革者でもある。さらに残虐さに満ちた暴君的側面も持ち合わせている。
そういったいくつもの顔を持つってのが、偉大な革命家の特徴でもあるのだが
古代史における各天皇の実績や故事って、あまりにもステレオタイプなんだよな。
>>487への回答にもなるが、意識的に開祖時期を古くしようとした為
エピソードが足らなくなったという見方もできる。
しまいには欠史九代のような架空の人物まで登場させざるを得なくなるほど、困り果てていたのではないか。
それと、血縁関係があまりにも明白すぎるのも更に疑問を深めている。
女性への通い婚が一般的だった時代にしては
父系の流れが首尾一貫、一点の曇りもなく書かれていることが逆に不自然だろ。
これは積極的な捏造と言うより、判らないものをワカランと正直に書けなかった故に
生じた齟齬だと思うけど、どうかな。
493 :
日本@名無史さん:04/04/02 00:16
>>492 だから、エピソード・伝説みたいなものは後世付け加えられる場合が多いと言ってるでしょ?
いわゆる、帝紀みたいなものは割と後世にも正確に伝わるが、その他のものは時代がたって
記録されたものは信憑性にかけるということ。つまり、伝説とかエピソードで架空だとか軽率に
決めてはいけないという事。
殷の例でいえば、紂王は暴虐な君主の典型として「史記」には書かれているが、実際は
祭礼に熱心で北方へ遠征中に、周の武王に隙をつかれて滅ぼされたんじゃないかと甲骨
文字の研究から言われている。
494 :
日本@名無史さん:04/04/02 00:17
それとちょっと余談っぽいが、親子や兄弟といった血の繋がりは
このような連合政権においては、あまり効力を発揮しないでしょ。
だから支配者としてのブランドを確立するためには、有力豪族同士での
血の交わりが盛んに行われていたのじゃないかな。
そのなかでも、言葉は悪いが例えば「穴兄弟」状態でも
ひとつの家系にまとめたりとかの無茶もやってたりしてね。
女性への通い婚ってのは、これも言葉は悪いが「オンナの共有」によって
団結を図ると言う一面もある。
そういった意味では情事関係から見たら
義兄弟であり義理の父親でもあり、はたまた義理の息子でもあると言った
一種ギャグ的な親族関係が初期ヤマト政権の支配者層にあったのかもしれない。
そういう不埒な想像でもしないと、卑弥呼や台与を必要としなくなるほどの権力を持った
統一王権が成立するスピードがあまりに速すぎるんだよね。
どっちかというと、極道社会の盃みたいなもので一本化を促進した
それが「ウケイ」の元になったようにも思うのだが。
495 :
日本@名無史さん:04/04/02 00:33
>エピソード・伝説みたいなものは後世付け加えられる場合が多い
いやぁ、そのあたりは全く同意なんだけど
こと記紀については
>>486の言うように開祖時期を古く持っていく為に
(この辺の推察は辛亥説で正しいのではないかと思う)
意図的に系図どころか年齢まで書き換えた形跡が、そこかしこにあるじゃないですか。
そういう意味で系図的には信頼性が今ひとつ、根拠にするには憚られるってことです。
だからこそ記紀の成立に大きく関係している、例えば壬申の乱なんかや
長屋王とか馬子あたりの実像が更に詳しく解明されねば、3〜5世紀の実情も
はっきりとはしないままになるのではないかな。
496 :
日本@名無史さん:04/04/02 19:19
>>495 だからといって、神武、崇神、応神がまったく架空ということには
ならないと言っているんですがね。
497 :
日本@名無史さん:04/04/02 19:21
yamataikoku
yamatochoutei
yamat
ヤマット
498 :
日本@名無史さん:04/04/02 21:55
ヤマトというと博多湾から筑後川流域、筑後川流域から東瀬戸内、
有明海沿岸から日向、奈良盆地から伊勢湾など岩戸的な地形を
通過して広い世界に出るというか、転生、生まれ変わり、輪廻の
思想が背後にあるような気がする。死ぬと鳥の卵の中に入り大鳥となって
再生する、この思想が甕棺墓、その上によくあった支石が日本の足を持つ
鳥、これは鳥居と共通した側面もあるし、山東半島の殷の部族で鳥を
トーテムとするものが思い起こされる。そしてヤマトタケルはついには
白鳥となって大空に飛び去る。半島南部の神話には卵から生まれるのが多いし、
日本神話にも一説によれば始まりは卵のようにどろどろしたものと言う
くだりがある。東京は巣鴨、新宿、羽田等に大鳥神社がある。
皆年の暮れに何かがある。
499 :
日本@名無史さん:04/04/02 22:03
神武は一族の東に向かえばいい国があると力説している。こういう思想
というのは当時、東へ進めばアメリカのコールドラッシュのように水田耕作
に適した土地がいくらでもあるというプロパガンダなのか。戦前、満州移民を
進めたことがこれとよく似たことなのか。わたしはアビラツ媛であったか神武の
日向の妻子はその後どうなったのか。記紀はまるでプータローが蒸発する
ように何も語ってくれない。
500 :
日本@名無史さん:04/04/02 22:13
おそらく、神武はメドレーであったはずである。九州神話から発して、
豊後と豊前の関係、豊前と宗像の関係、燧灘と中部瀬戸内の関係、
吉備と攝津の関係、南下する丹後勢力、大和税による紀州の制圧、
更におそらくは南九州勢の紀州直撃、こうした数知れぬ物語を玉飾りを
作るようにつなげていったのであろう。日向のカミナガヒメを貰った仁徳や
その後の雄略が妻たちの美しい日本神話に感動、働くしか能が無い、景勝地の無い
近畿にロマンを持ち込もうとしたのかもしれない。
501 :
日本@名無史さん:04/04/02 22:37
邪馬台国は佐賀県から佐津間半島に至る九州西部を含んでいるが
邪馬台国は魏の属国であり九州西部は魏と戦った三韓と親類の国であり、
残余の倭国とは趣が違う。そして北部と東部には前方後円墳とは宗旨を異にする
部族が控えており、反体制派に囲まれた卵の黄身のような形をしていたのであろう。
政権運営は非常に苦しく初期の纒向は100年位で捨てられるのだろうか。
502 :
日本@名無史さん:04/04/02 23:13
古代の集落が捨てられるのは、環境悪化が主要因ではないか。
特に排泄物の処理が拙く、とてもその場所におれなくなったのでなないか。
503 :
日本@名無史さん:04/04/03 06:20
纒向の水路で寄生虫の痕跡が発見されていること、最終的には
大和川の瀬戸内海への河口に進出したいきさつを上下水の補給
処理を求めての移動と考えるとうなづける。
福岡県相島に4世紀後半積石塚が沢山作られる。
これが5世紀になると中部・関東に移動する。
畿内では前方後円墳の巨大化が起きる。
そして期を同じくして馬飼育の痕跡が畿内・中部・関東に急激に広がる。
騎馬民族は来た。
日本は征服された。
505 :
日本@名無史さん:04/04/03 08:08
「四世紀の後半から五世紀にかけて、博多湾の相ノ島に積石塚が登場している
ということですから、東日本のみならず、西日本の九州でも刻々と新しい事実が
分かってきた。」
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai00/tz2012.html この話を「騎馬民族は来た。日本は征服された。」とするのはどうかな。神功 皇后の
活躍については高句麗の好太王碑は倭をさんざんな目にあわせたような書きぶりで、
あるが、長野辺りに入ってきたものは大和朝廷の牧場を管理する渡来人と考えたい。
征服者があんな寒いところに住むかよ。軽井沢も当時は無かったし。
506 :
日本@名無史さん:04/04/03 08:25
任那倭府に対して百済から援助要請があり、七支刀が贈呈され
出兵したが、朝鮮動乱の時のように洛東江近辺まで押し返され
百済の兵と共に逃げ帰り、その際馬が伝わったのだろうかね。
507
508 :
日本@名無史さん:04/04/03 16:37
>>505 「倭の国は冬でも裸足で歩けるほど暖かい国」だから,やっぱり畿内に邪馬台国はなかったわけだ。
509 :
日本@名無史さん:04/04/03 16:58
「桓檀古記」には、伊都国はイワレヒコの故地であり、伊都国は即ち日向である。
と、なっているから、伊都国と日向が同じ「邪馬壱国」であったことがわかる。
さらに、(熊本にある)多羅国は安羅国と同隣同姓、とあり、安羅国の北に阿蘇山がある、とも書いてあるから、安羅国が日向のことであり、
伊都国、安羅国、多羅国が同じ「邪馬壱国」であったことがわかる。
つまり「魏志」の使いは、伊都国、多羅国、安羅国という邪馬壱国連邦内を歩んだことがわかる。
510 :
日本@名無史さん:04/04/03 17:01
>>509 「桓檀古記」って、韓国で19世紀以降に書かれたものと証明されているが。
511 :
日本@名無史さん:04/04/03 17:03
>>510 19世紀ではなく、20世紀。
しかも、1970年代
>>511 それは実際に書かれた時期だろ?
ちなみに、日食の記録は天文年鑑並に正確だそうだ。(W
513 :
日本@名無史さん:04/04/03 17:07
こうして、神武(イワレヒコ)の先妻が朝鮮半島にいたアビラツヒメであり、日向にいた卑弥呼がヒメタタライスズであったことが明らかになった。
514 :
日本@名無史さん:04/04/03 17:09
515 :
日本@名無史さん:04/04/03 17:11
>>514 韓国語なので読めなかった。
翻訳ソフトも役に立たず。
516 :
日本@名無史さん:04/04/03 17:27
神武…邪馬台国の官。卑弥呼より前。
崇神…邪馬台国の官。卑弥呼と同時代。(ミマワキとして魏志倭人伝に出てる)
応神…邪馬台国の一大卒の長。畿内に攻め込んで天皇となる。倭の五王の祖先。
517 :
日本@名無史さん:04/04/03 17:38
>508
当時は気候が違ったわけだが
518 :
日本@名無史さん:04/04/03 17:47
>>517 当時の年輪分析などから小氷期だったと推測されてるよ。
今より寒い奈良・・・。
ただし冬も裸足とは書いてない(夏冬生野菜が食べられるとは
書いてある)。
それと華北or半島から見たら倭地は温暖といえるのではないか、
というのが既出の見解。
519 :
日本@名無史さん:04/04/03 17:55
邪馬台国の官
伊支馬:イクメイリヒコイサチつまり垂仁天皇
彌馬升:ミマツヒコカヱシネつまり懿徳天皇
彌馬獲支:ミマキイリヒコイニヱつまり崇神天皇
奴佳[革是]:額田氏か?
一大卒:応神天皇の先祖。
520 :
日本@名無史さん:04/04/03 18:22
一大卒だけは一寸きついような気がする。これって後の大宰府権の卒
の前身で中央官庁から派遣されていたものだと思うんだけどね。
世襲的に葛城家から出ていた(一寸乗りすぎか)。
521 :
日本@名無史さん:04/04/03 19:02
>>519 訂正
彌馬升:ミマツヒコカヱシネは孝昭天皇ですね。
522 :
日本@名無史さん:04/04/04 03:40
みなさん、「旧唐書」の倭国伝と日本伝をどのように解釈されるのでしょうか?
ここに邪馬台国が九州にあったか、畿内にあったかヒントがあるとおもうのですが。
523 :
日本@名無史さん:04/04/04 06:34
中国人であっても「旧唐書」よりは風土記の方が信頼性は
高いと思うのではないか。
524 :
日本@名無史さん:04/04/04 07:52
>>523 >中国人であっても「旧唐書」よりは風土記の方が信頼性は
高いと思うのではないか。
風土記には何て書いてあるのでつか?
525 :
日本@名無史さん:04/04/04 09:34
風土記と言うのは完全な形で残るものは少ないが、佐賀県から
茨城県に至る地誌を当時の日本で編纂したもの。他方旧唐書
というのは日本についての非常に少ない記述であり、不完全なもの。
日本には風土記の他に記紀があり、旧唐書などの不完全な記録
はあくまでも日本の歴史の傍証として参考になるが、旧唐書にウェイト
をおいて日本の歴史かえりみないのはどこの誰であろうが
変だと思いまつ。
526 :
日本@名無史さん:04/04/04 12:50
倭朝を倒した新王朝が大和地方へ引っ越したのでしょう
527 :
日本@名無史さん:04/04/04 14:15
>>525 でも、人は他人(他国)の欠点は正確に指摘し、自分(自国)の欠点や弱点は粉飾したり嘘をついたりするものではないでつか?
528 :
日本@名無史さん:04/04/04 17:22
歴史関係での粉飾、捏造等は国家的に見ればWW2辺りで、個人的に
見ればごく最近の風潮であることは周知の事実であり、このスレの
対象である時代の人々はそんなことを考えることは夢想だにできなかった
とおもう。敬虔な、おどろおどろしいものにきょうくし、聖職者が祈りのように
秘密に伝えた真実を厳粛に伝達したものであり、為政者として現代的な
検閲ということもなかなかできなかったと思う。政変があり前代の王朝没落
の原因については天道に外れることがあったとしてかかれたことは想像に
難くは無いが、それとて新たなイデオロギーにより真剣に批判して記述する
訳であり、現在の売名作家、捏造マニア、恐怖国家等とは比較はできない。
529 :
日本@名無史さん:04/04/04 22:49
>>527 そういった文献比較での議論は出尽くしたので
新たな物的証拠としての考古学成果があるわけだ。
事実、記紀、風土記でも魏志に代表される大陸文献でも言及していなかった
丹後地方にも、北九州に匹敵するほどのハイテク首長国が存在したことなどからも
文献のみを論拠とするのは大変危険。
>>528 >このスレの対象である時代の人々はそんなことを考えることは夢想だにできなかった
いやいや結構したたかですよ、彼等。
神話の統合には明らかに恣意的なものがあるし、天皇どころか祖となる神々まで創作している。
(古事記と日本書紀の神代記を比較検討して見れ)
更に言えば、宗教を政治の道具くらいにしか考えていなかったフシがある。
そのしたたかさに敬意を表しながら、彼等のつくりあげた古代体制の正体を探るのが
古代史の徒の勤めでしょう。
530 :
日本@名無史さん:04/04/05 07:33
メキシコ人にはO型が多いという。日本人を含め半島人、欧州人
などはA:B:O:ABは略3:3:3:1程度のようだ。O型には政治家、特に
首相のような包容力があり、大局的な判断、方向感覚、時間感覚
に優れ、小さなことに拘泥しない人が多いらしい。他方、Aは几帳面、
Bは自己中心、ABは二面性(AとBが切り替わる)等でこれらは
脳の前葉部、中部(CPUと記憶部の相互作用)が発達しており、Oは
後頭部にある視覚、聴覚などを司る部分かよく働くらしい。メキシコ人
はユーラシア人のような激しい混血を繰り返す以前に新大陸に到着
していたものであろうが、このように見ると古代における人間はO型
が多かったのではないかと思う。一寸話が伝播そのものなんだが、
いや、電波(昨夜の放映)なのだが、いいたいことは、自己中、几帳面、
商売人てきなのは昨今の、つまり、近世、江戸、現代の偏差値教育的
競争社会、武家社会等にも原因があるんじゃないかとフト思った次第。
531 :
日本@名無史さん:04/04/05 15:02
日本書紀も風土記も桓武焚書の後書き改められた。
風土記は日本書紀の記述に合わせて平安時代に書かれたもので信憑性はかなり低い。
と松本清張が言っておりました。
532 :
日本@名無史さん:04/04/05 15:10
松本清張の信憑性もかなり低い
533 :
日本@名無史さん:04/04/05 18:25
佐賀県唐津には神功皇后の遺跡がありますが、風土記や日本書紀に合わせて作られたんでせうか
534 :
日本@名無史さん:04/04/06 16:00
遺跡にまつわる伝承はイイカゲンなものが多いです。
例えば箸墓のモモソヒメが箸で局所を突いて自殺したと言う伝承は
日本では5世紀後半以降にしか箸を使う風習がなかったのですから、
箸墓築造は5世紀後半以降と言う事になります。
最近では箸墓築造4世紀後半と言う説もありますがいくらなんでも
5世紀後半では新らし過ぎますからね。
ヽ、.三 ミニ、_ ___ _,. ‐'´//-─=====-、ヾ /ヽ
,.‐'´ `''‐- 、._ヽ /.i ∠,. -─;==:- 、ゝ‐;----// ヾ.、
[ |、! /' ̄r'bゝ}二. {`´ '´__ (_Y_),. |.r-'‐┬‐l l⌒ | }
゙l |`} ..:ヽ--゙‐´リ ̄ヽd、 ''''  ̄ ̄ |l !ニ! !⌒ //
i.! l .::::: ソ;;:.. ヽ、._ _,ノ' ゞ)ノ./
` ー==--‐'´(__,. ..、  ̄ ̄ ̄ i/‐'/
i .:::ト、  ̄ ´ l、_/::|
! |: |
ヽ ー‐==:ニニニ⊃ !:: ト、
俺達はとんでもない思い違いをしていたようだ。
箸墓のモモソヒメが箸で局所を突いて自殺したと言う伝承があるが、
ハシ=箸とすると日本では5世紀後半以降にしか箸を使う風習が
なかったことから、箸墓築造は5世紀後半以降と言う事になる。
しかし最近では箸墓築造4世紀後半と言う説もあり、
これでは実際の年代と合わなくなる。
実はハシ=箸ではなくハシ=恥だったとしたらどうだろう?
モモソヒメは箸ではなく恥を局所に突き入れられて死んだ。
局所に恥を受け入れる・・・そう、これはレイプだ。
モモソヒメはレイプされたことを苦に自殺したんだよ!
536 :
日本@名無史さん:04/04/06 19:35
年齢不詳の老女で天皇陛下並の護衛がついているんだから
それは無いよ。死因の発表は官房長官みたいな人の言うこと
だから信頼性はなく、何とでも発表できたであろうと思う。
「恐れ多くも賢き辺りに置かれては下の辺りにやけ火箸を
刺されたる如きいたみがするとのたまわりてみまかりき。」
と発表したのを八百万の神々が「ウッソー、ホトを突いたって。
そりゃーやっぱあれはアマテラスであられてのかー。」
その人多少後ろの方で聞いていたのかも。
537 :
名無しさんどっとこむ:04/04/06 19:40
うっかり将軍
うけるよ
主文。
箸墓は卑弥呼の墓ではなかった。
理由。
箸墓のモモソヒメが箸で局所を突いて自殺したと言う伝承は
日本では5世紀後半以降にしか箸を使う風習がなかったのですから、
箸墓築造は5世紀後半以降と言う事になります。
したがって、西都原古墳の男狭穂塚が卑弥呼の古墳であった。やっぱり。
神武東征は、朝鮮半島で百済を建国した歴史のすりかえであった。
541 :
日本@名無史さん:04/04/07 00:19
ハシの墓は土師の墓であって、
周囲に並ぶ円筒埴輪の威容から、当時の人にそう呼ばれたみたい。
では、箸でホトを突いて巫女が死んだという説話は、
いつ生まれ、何故生まれたのか?
祭祀用の箸のことを知らん奴がおるな
544 :
日本@名無史さん:04/04/07 14:15
倭人島=ワニがシマ=鬼が島
鬼道=倭人(オニ)の宗教
モモタロウ=きっと初代かなんかの天皇でしょう
サル、イヌ、キジ=きっと協力者か同盟国でしょう
545 :
日本@名無史さん:04/04/07 16:16
話を九州とか、応神とか常識外れに飛ばさないで例えば
葛城には邪馬台国の庁舎は無かったのかなどといった
地理的にも絞り込んだ議論にしてもらいたい。因みに
大分県だったか、大塚山古墳、摂津の安満山古墳、
山城の椿井大塚山古墳等は邪馬台国と関係ありと
ねらんでいるんだけど。この辺の議論が聞こえないのは寂しいね。
547 :
日本@名無史さん:04/04/07 17:31
>>544 > 鬼道=倭人(オニ)の宗教
おいおい、中国では"鬼"の字を"オニ"とは発音しないよ。
548 :
日本@名無史さん:04/04/07 17:32
いいこと思いついた!
サル・・・猿田彦
イヌ・・・委奴国(イン・イヌ)? 狗奴国?
キジ・・・ヤタガラス
モモタロウ・・・天孫? 神武?
オニ・・・倭人 卑弥呼
倭人入植地であった半島から出戻って来て邪馬台国に
侵攻した事にすれば無問題
549 :
日本@名無史さん:04/04/07 17:35
桃太郎より金太郎のほうがいいんじゃないの?
キム太郎 だろ w
・・・・・・ good grief ・・・・・・
551 :
日本@名無史さん:04/04/08 07:16
記紀は明治以降に出来た偽書である
まず祟神は信長の焼き写しで四道将軍は柴田=大彦、明智=丹波道主、秀吉=吉備津彦、滝川=武淳川別なのは明らか
神武東征神話には大和朝廷(天皇家)が祖先の地の九州を征伐する矛盾があるが、
明治政府は薩摩・長州が中核で、薩長連合軍は京および江戸に攻め上がる。薩摩は明治政権の発祥の地だが、
明治十年(1877年)に西郷隆盛が薩摩を拠点として反乱をおこし、西南戦争となった。
これをモデルに神武東征神話を作ったのは間違いない
おそらく記紀は戦後に書かれたものと思われる
552 :
日本@名無史さん:04/04/08 07:28
桓檀古記に含まれている正しい歴史は記紀に勝るとも劣らないことが知られている
真実が含まれている割合は書かれた年代とは無関係である
正しい歴史を学べよ倭人どもよ
553 :
日本@名無史さん:04/04/08 11:21
>>551 戦後ってアンタ・・・
そんなら本居宣長やら新井白石は架空の人物かよ。
>>552 どうして朝も早よからこれほどまでの電波を飛ばせるのか・・・
意外とみんな気がつかないけど、
火の鳥がかかわってる。
オレのモモタロウ話は単なるネタだぞ?
神話だ、昔話だなどといっても解釈のしかたを曲解すれば
みんなこんな話に作りかえられちまうんだから、神話などの
研究も考古学的な裏づけ無しでは危険だといいたかっただけ
なのに・・・。wとか藁とかつけなきゃ皮肉が解らんのか?
おまけに
>>548みたいなアフォも現れるし。
556 :
日本@名無史さん:04/04/08 12:44
邪馬台国がヤマタノオロチとは考えられないかい?
557 :
日本@名無史さん:04/04/08 14:45
>>552 沸流が「倭人を平げて王となる」ってやつか?
沸流=布留御霊=ニギハヤヒだよね。
558 :
日本@名無史さん:04/04/08 15:53
どうも、石上神宮(禁足地ふくめて今の位置のやつ)は別だな、記・紀のやつとは。
なんで、石の上と言うか知ってるかい?
石塚の上に柱をたてて神の依り代としたんだよ。
石塚とは古墳、墳丘の上に立てた柱に鏡をかけ、天照(太陽)に関わる神事をした。
その石塚は同時に当代の大王(崇神前後)の墓ともなり、死後は日出る常世に行けるようにした。
記紀に書かれていない裏の出来事が書かれている志史というのがあるそうですが
どういう物なんですか
560 :
日本@名無史さん:04/04/08 17:37
そういうものがあるとしたら偽書
561 :
日本@名無史さん:04/04/09 00:15
>>558 そうなんですか。
私はてっきり、イソ(勇者)のカミ(棟梁)くらいに
思ってましたよ。
562 :
日本@名無史さん:04/04/09 03:10
>>553 >祟神は信長の焼き写しで四道将軍は柴田=大彦、明智=丹波道主、秀吉=吉備津彦、滝川=武淳川別なのは明らか
柴田→?→大彦
明智→ミンチ(音読み)→ミチ→道+明智といえば丹波→丹波道主
秀吉→サル→桃太郎のサル→吉備津彦
滝川→たきがわ→たけかわ(武川)→たけぬなかわ→武淳川別
とても偶然とは思えない
少なくとも四道将軍説話は1580〜1660に付け加えられたものでしょう
前田利家や丹羽は?
前田→犬千代→桃太郎のイヌ
丹羽→にわ鳥→桃太郎のキジ?
>柴田→?→大彦
柴田→鬼柴田→おにひこ→おほひこ→大彦
↑
いろはで、「に」の次は「ほ」
>>551-566 おもしろいね。
こういうのみると、神武伝説は実は天武天皇の投影だとか
神功皇后は実は斉明天皇がモデルだとか、あらゆる天皇に
「実は後世にモデルがいて投影して作った話」というネタがあり、
もとはエライ先生がいってたりするんだが、けっこう適当こいたり
いい加減なフカシだった可能性が高いな。
568 :
日本@名無史さん:04/04/09 05:43
神武東征は伝説の通りに南九州から進発しただろう。
その根拠は西都原と巻向の共通性。
巻向が突然出現することとも一致。
つまり、西都原→巻向の南九州勢力と、それとは別に北九州の勢力が
あった。
>>567 家康→いへやす=はにやす(い「ろ」はに「ほ」へ)→たけはにやすひこ→建埴安彦
本能寺の変=建埴安彦の乱
本能寺の変の首謀者は徳川家康であることも分かる
偽書を書いた動機は、本能寺の変の首謀者が誰なのかを後世に伝えたかったから
ずばり偽書の製作者は近衛前久父子である!
>>569追加
母音を一つずらす(A→I→U→E→O→A)
徳=TOKU
健=TAKE
いへやす=はにやす
(い)ろ「はに」ほ(へ)
建=徳川
埴安=家康
572 :
日本@名無史さん:04/04/09 12:47
産経新聞の新説。
邪馬台国は日本の皇室と婚姻することで併合された。(クレオパトラの法則)
孝元天皇がトヨと婚姻することによって邪馬台国を併合したという説。
これはどうでしょうか?
現在、産経新聞に連載中の「蘇る民族の歴史」第2章「邪馬台国と大和」で
産経新聞論説委員八木荘司氏が唱えてる説ですが。
573 :
日本@名無史さん:04/04/09 14:19
天孫=アマゾン 卑弥呼=アマテラスなら女王国としてピタリ
・・・なんてコジツケいくらでも出来るぞw
すっかりここはネタスレ化してるな
次スレは「偽史倭人伝〜の○太の日本誕生〜」とでも汁
574 :
佐賀県佐賀市十七歳:04/04/09 14:57
>>573 清水義範の「おそるべき邪馬台国」そのまんまw
>>572 俺も読んでる。面白いなぁと思った。
これって新説なんですか?
576 :
日本@名無史さん:04/04/09 17:37
新説?珍説でしょ。
577 :
日本@名無史さん:04/04/09 17:50
八木説は根本のところでおかしいんだよ
邪馬台国は近畿にあったけど山城あたりが中心ってことになる
でも倭人伝原文の邪馬壱国を邪馬台国に直したのは
「ヤマトと読みたいから」だろ
山城あたりで邪馬台国ってのは動機に反する
578 :
日本@名無史さん:04/04/09 19:53
邪馬台国の官
伊支馬:イクメイリヒコイサチつまり垂仁天皇
彌馬升:ミマツヒコカヱシネつまり孝昭天皇
彌馬獲支:ミマキイリヒコイニヱつまり崇神天皇
奴佳[革是]:額田氏か?
一大卒:応神天皇の先祖。
579 :
日本@名無史さん:04/04/09 23:51
つーかねえ。八木説の根本になってるクレオパトラの法則自体
ローマエジプト史を根本的に勘違いしてるしなあ。
クレオパトラがカエサルと男女の仲になったからとはいえ
エジプトがローマに併合されたわけじゃないし。
あくまでオクタビアヌスによって滅亡併合されたわけでね。
だいたい邪馬台国の台与を物部と同族にしてはもう滅茶苦茶だよ。
580 :
日本@名無史さん:04/04/10 02:21
邪馬台国がヤマタ国なら出雲(ヤマタノオロチ)も邪馬台国候補になる
出雲が邪馬台国なら八木説も大丈夫
581 :
日本@名無史さん:04/04/10 06:47
>>578 これから分かるように、神武朝と崇神朝は並立していたと考える。
つまり、邪馬台国の主体は、畿内の諸国と伊都国にある一大率に
よる諸国連合。その上に、象徴としての卑弥呼が君臨していた。
額田氏が出雲の額田臣ならば、出雲も邪馬台国連合の一員と
考えられる。
582 :
日本@名無史さん:04/04/10 07:05
大倭:オホヤマトネコヒコクニクルつまり孝元天皇
とすると、孝元天皇と卑弥呼、台与は、一応同じ時代だね。
583 :
日本@名無史さん:04/04/10 12:57
箸の伝来時期の考証をもって墓の築造年代を語るとか、
ヤマトが山背にあったとか、
ウンザリ。
漏れは畿内説だけど、ガッカリ。
これが畿内説の大半だと思われるとコマル。
584 :
日本@名無史さん:04/04/10 14:09
八木説によると狗奴国=熊野国だそうだ。
今までも狗奴国=神武云々の説は多々あったけど
5代天皇が卑弥呼と争った狗奴国王だそうな。
585 :
日本@名無史さん:04/04/10 14:56
山羊は基地外
586 :
日本@名無史さん:04/04/10 16:53
まあ八木説は古事記と日本書紀を正として
魏志倭人伝他の記録は補完でしかないからねえ。
今回のも結局は欠史だから不明ってものだったし。
587 :
日本@名無史さん:04/04/10 16:59
「ハシ = 箸」 とは限らない、本来の意味を知らない人がたまたま「箸」の字を当てただけ。
ストーリーとしては非常に面白かった>八木説
今まで読んだどの珍説よりも興奮したよ。よく考えたもんだ。
高木彬光の「邪馬台国の秘密」みたいに小説化すると案外盛り上がるかも。
589 :
日本@名無史さん:04/04/10 20:18
しかし過去に教科書が教えない歴史や秘録シリーズ、戦後史開封シリーズを
連載してきたコーナーであれはないだろ。
あれであのコーナーの信頼性が。
下手に「クレオパトラの法則」なんて言葉を使っちゃったのがまずかったな。
591 :
日本@名無史さん:04/04/11 00:25
ハシは「間」と書く。箸陵を大市墓とも云うが、
ここは石上と磯城の中間ゆえに、市が立って栄えていたのだろう。
クレオパトラの法則ですか?
なんでもありで面白いねー まるでどこぞの掲示板みたいだね
593 :
日本@名無史さん:04/04/11 01:14
って言うか、みんな産経なんか読んでるのか?
そりゃ、中には読んでる人もいるだろ。
595 :
日本@名無史さん:04/04/11 01:37
神武天皇が 日向か の地から東征したのです
これが卑弥呼の前
卑弥呼は大和初期王朝
596 :
日本@名無史さん:04/04/11 02:50
高句麗王ケイ須=イカズチワケ=扶余族の仇台=百済王仇首=イワレヒコ=神武
仇台は公孫氏の女を娶り、これが卑弥呼。
したがって神武妃ヒメタタライスズが卑弥呼と解る。
597 :
日本@名無史さん:04/04/11 02:59
>>593 産経以外読むべき新聞がないんだもん今
朝日なんか見ただけで吐きそうになるし
598 :
日本@名無史さん:04/04/11 06:10
>>597 普通の保守層は讀賣を読むんだろうけどね。
実際、警官や自衛官は讀賣を読む。
自衛官が産経を読むことはほとんどない。
多くの隊員がいる駐屯地域のある地方で
ほとんど売ってないからね。
>>593 産経は社説、コラム、正論などの寄稿以外は
まともだよ。海外や地方記事は共同配信も多く
地方紙と変わらない。
日本史板的には、この八木の連載の他に今も
日露開戦から100年って特集連載がある。
この中で国の歴史には光があれば影がある。
影の部分をちゃんと教育で教えてこそ歴史
教育の意味があるなんて正論を唱えてるしね。
小説も去年までのナポレオンの夜もなかなかの
ものだった。
だいたい司馬の連載が最初に載ったのは産経。
全国紙ならどこでも記事(それを記者・デスク)によってスタンスは変るわな。
連中は大口のース提供者の意向には従順だかんな。
歴史関連(特に考古)に惨い記事が多いのも特定の提供者に縛られてるからだよ。
600 :
日本@名無史さん:04/04/11 11:20
601 :
日本@名無史さん:04/04/11 17:26
>>598 >駐屯地域のある地方でほとんど売ってない
朝毎読は中部本社・西部本社・北海道支社のある全国紙だけど
産経は東京大阪2本社制の地域紙だからね
八木がおかしいと言ってる奴にしたって、、
実は程度の差こそあれ似たようなヤシが
イパーイいる。
603 :
日本@名無史さん:04/04/11 20:04
おかしいよ実際。古事記日本書紀が正しい理由として
末子相続だからだという。末子相続なんて制度は「世界中に」無いから
創作ではない。だから皇統符は正しく神武以降の天皇は全て実在したと
いうもの。
これで頭をかかえていたら第2部邪馬台国と大和で「クレオパトラの法則」
なんてもの出してこの新説。
とてもじゃないが納得できないよ。
604 :
日本@名無史さん:04/04/12 01:40
第三31代用明天皇即位から昭和天皇崩御を用いて天皇の平均在位年数を14.9年
神武即位を181年(辛酉)から昭和の末年1988年/125代=14.5年
これは良いとして、末子相続だった古代の天皇の平均在位数は14.5、14.9よりかなり長いはず
なのに祟神崩御318年(戊寅)から318年−(14.5年×10代)=173年(東征出発甲寅の前年)
古事記の祟神崩御の記録が正しければ神武東征の出発年も即位年も正しい
矛盾も一切なく、この仮説は成立するとする八木
末子相続で10代の平均在位数14.5年はありえないだろ
長男は10歳の時の子供か
605 :
日本@名無史さん:04/04/12 09:06
よくわからんけど八木と産経の歴史認識って究極には神話=事実ってこと?
それならもうスレ違い板違いなのではないかと。
ここは史実を語る板であってファンタジーを語る板ではない。
606 :
日本@名無史さん:04/04/12 09:36
>>605 神話=事実が板違いってことはないだろ。八木は極端なんだろうけどね。
>>605 神話っていっても、八木は神武以前の話はほとんどしてないよ。
記紀の神武以降しばらくをすべて捏造と片付けるのに反対してる。
608 :
日本@名無史さん:04/04/12 10:42
だからって神武以降を全て実在って八木の説はなあ。
609 :
日本@名無史さん:04/04/12 12:49
早い話イングランドにおけるウィリアム征服王のノルマンコンクエストみたいな
ことが日本でも起こったと考えるのが自然なんじゃないのか?
イザナギ−アマテラス−神武の系統は所謂征服王朝なんだよ。
610 :
日本@名無史さん:04/04/12 14:42
古事記によれば、末子相続は、神武〜開化まで。
そもそも、綏靖天皇に継承する際の経緯により、決められた。
611 :
日本@名無史さん:04/04/12 15:07
612 :
日本@名無史さん:04/04/12 15:27
>>610 崇神、垂仁の間は長子存続です。
末子存続がなくなったのは、明らかに、神武朝と崇神朝が別王朝だからだと思います。
いやしくも我らが皇祖皇孫をシナから「卑しい」などと呼ばれたわけの分からない女王と
同一視するとは如何なものか?
諸兄に再考を促す次第である。
614 :
日本@名無史さん:04/04/12 22:21
>>613 おまいは邪馬台国論争を本居宣長まで戻すつもりですか?
615 :
日本@名無史さん:04/04/12 22:52
>613
皇祖皇孫は、単なるアマ族のリーダーに過ぎず、
後世神格化されただけ。
との程度の人物は列島各地にごろごろいた。
616 :
日本@名無史さん:04/04/12 23:13
>>613 卑字を使ったという説と、よく使われる文字を使ったという説の2つがありますが、何か?
617 :
日本@名無史さん:04/04/13 00:01
・大和朝廷=征服王朝 邪馬台国=被征服王朝
・卑弥呼とアマテラスはまったくの無関係
・天孫族は大陸(或いは朝鮮半島)から渡ってきた騎馬民族
とりあえずこういうことでいいんじゃねーの?
>>617 大陸や朝鮮半島から来たんなら、向こうの歴史書にもうちょい詳細な記述があってもよさそうなんだが。
>>617 未だに騎馬民族渡来説を信じてる馬鹿がおったとはw
邪馬台朝廷が大和朝廷になったのは、天武天皇から。
欽明天皇、推古天皇の時代は邪馬台国の影響支配下。
親邪馬台国派のオオキミ時代。
参考資料:
邪馬台国=ヤマタイコク=ヤマタイヰコク=山大倭国
イ妥国=タイコク=タイヰコク=大倭国
×天孫族は大陸(或いは朝鮮半島)から渡ってきた騎馬民族
○天孫族は対馬や壱岐から上陸してきた海洋部族
対馬や壱岐の(海)委国(ヰコク)が、
北九州に上陸して、
山(大)倭国(ヤマタヰコク)となった。
623 :
日本@名無史さん:04/04/13 03:24
邪馬台国が大和朝廷になったのから、何で記紀にヒミコやトヨに相当する人物が記されていないんでしょうね。
ところで日本史って現代に役立つの?
過去を知らぬ者は未来に滅ぼされる・・・
626 :
日本@名無史さん:04/04/13 05:35
>>619 騎馬民族と呼ぶかどうかは人それぞれの勝手だが、扶余族が半島南端の
狗耶韓国までやって来たことは考古学上、可能性が高い。
狗耶韓国は倭の領域だと考えるならば、倭の領域の一部が扶余に侵略された
可能性が高いのだ。
さてそれからどうなったか、と考えるのが現在の騎馬民族説。
騎馬民族説を信じるのが馬鹿というなら、否定さえしていれば安心、
というのは自分の頭で考えていないだけもっと馬鹿。
627 :
日本@名無史さん:04/04/13 07:46
>>623 一般的にいわれているように邪馬台国は大和朝廷に併呑あるいは征服されたと
見たほうがいいだろうね。「日本書紀」、「古事記」に記述がないのは朝廷に
とってとるに足りない勢力だったからじゃないだろうか?
628 :
日本@名無史さん:04/04/13 07:50
>>626 考古学的には全然成り立たない。
狗耶韓国は後の伽耶全体で、金官伽耶はその一部かもしれない。
つまり、伽耶諸国の一部に扶余の残党が来たからといって、
倭全体を征服したと考えるのは無理がある。
629 :
日本@名無史さん:04/04/13 10:16
バカヤロウ。騎馬民族は確かにやってきたけどそれは
中央アジア〜シベリア〜サハリン〜北海道〜東北 じゃ!
大和朝廷が本格的な騎馬戦術を学んだのは蝦夷から。
製鉄にしろ騎馬文化にしろ北方色の濃いモノで、古代に
おいては畿内、出雲あたりまで進出していた蝦夷系の
国家を征討し統一したのが大和朝廷。
630 :
日本@名無史さん:04/04/13 15:13
>>628 なにを言っているのかわからない。
狗耶韓国に扶余の残党がやって来て建国し、金官加羅となったことを
認めるのか? それとも認めないのか?
631 :
日本@名無史さん:04/04/13 15:51
続日本紀によれば奈良時代に土中から銅鐸が出てきたが
一体これが何なのか誰にもわからなかったという
つまり大和朝廷は銅鐸文化の継承者ではなかった
魏志倭人伝によれば卑弥呼の宮殿は矛によって警備されていた
つまり邪馬台国は銅鉾文化圏の国と言える
邪馬台国は九州にあった
大和朝廷は九州から近畿を侵略して移ったと考えるのが妥当
ではなぜ古事記や日本書紀に卑弥呼の記事がないのか
古事記は邪馬台国の女王に触れず
日本書紀は卑弥呼も壱与もひとまとめにして神功皇后の記事に入れてる
それは大和朝廷が邪馬台国の後裔ではないからだろう
大和朝廷は九州にあった邪馬台国以外の国が近畿へ移ったものだ
古事記に出てくる出雲勢力と、出雲を降伏させた勢力と、
ナガスネヒコの勢力と神武の勢力と、
現実のヤマト政権と邪馬台国と出雲文化圏と
実際はどういう関連があったのかワケわかんないね
633 :
日本@名無史さん:04/04/13 19:34
>>630 ???
騎馬民族征服説など成り立たないと言っているだけだが。
金官伽耶なんて、どうでもいいだろ?
634 :
日本@名無史さん:04/04/13 20:07
>>631 馬鹿じゃないの?
守衛がおまつり用の銅矛もってたのか?
635 :
日本@名無史さん:04/04/13 20:38
>>612 産経八木は小林行雄叩きをしてまで崇神天皇を貶めたいようですがな。
>>626 牡馬の去勢も乳製品も残らなかったのに騎馬民族が征服したなんぞと言われてもねぇ
津田説
安本説(邪馬台国東遷説)
江上説(騎馬民族征服王朝説)
八木説
どれが一体真実なんだよ!
となると
安本説
も書かないと片手落ちですか?w
ごめん
小松左京説
の間違い。
641 :
日本@名無史さん:04/04/13 23:02
>>633 どうでもよくない。
金官加羅が扶余の王権であり、倭に先んじて北方的な騎馬戦術を持っていた、
ということを認めると、そのような金官と、それを植民地ないし属国にした
という倭王権との関係を考えなくてはならなくなる。
これについて納得の行く説明を聞いたことがないのだ。
>>635 あの小林の発言ってもしかしてでっちあげなの?
>>638 古田武彦の「九州王朝説」は確かに興味深いな。
>>641 まず、扶余は騎馬民族ではない。騎馬戦術と言っても、多くの歩兵+少数の騎馬程度のものだったろう。
その上、日本本土側の倭と金官加羅では人口比からみた兵力差は決定的だ。
当時海を渡れただろう多少の騎馬では圧倒的な数の歩兵の放つ矢に対抗できない。
646 :
日本@名無史さん:04/04/14 12:39
今日の産經八木は昨日の小林に続いて江上説否定。小林説を騎馬民族説と同列に扱ってる。
天皇って昔チーズとか食ってなかったっけ。
648 :
日本@名無史さん:04/04/14 15:01
>>644 扶余が騎馬民族だとは言っていない。事実、半農半狩猟民族だったことは文献から
わかる。
しかし、装甲騎兵による騎馬戦術を持っていた。装甲騎兵とは矢が通じないということだ。
次に、扶余が日本を征服したとは、まだ言っていない。
装甲騎兵を持つ扶余(金官)を属国にするにはどういう事件があったのか、がまず問題だ、
と言っているのだ。
三輪王朝が、4世紀初頭に、装甲騎兵を圧倒するに足る数の軍隊を、
瀬戸内海、対馬海峡を押し渡る大船団で送ったのか?
従来は、任那は倭に庇護されてやっと存在している哀れな存在、という基調で
論じていた。その後に金官の扶余王朝、騎馬戦術が明らかになった。
金官は他の任那諸国を支配し、新羅を圧迫していた。
これが明らかになっても論調が変わらないから言っているわけ。
650 :
日本@名無史さん:04/04/14 15:40
通りすがりの素人ですが素朴な疑問
【邪馬台】って【やまと】の読みに中国のヒトが適当に漢字を当てただけと違うの?
おしえてエロイ人
>>647 いつもいつもROMですが、これは知ってます、『蘇』(そ)です。
明日香村で再現されてます。が、天皇は本当に喰った?
652 :
日本@名無史さん:04/04/14 17:23
「蘇」がチーズで「醍醐」がヨーグルトだっけ?
それはそうと、日本の上が長くて下が短い長弓は南方系の
モノで、騎馬民族の使う短弓とは全然別物じゃねーか。
騎馬民族がなだれ込んできたのなら、短弓を使用した
形跡があってもいいはずだよなw
653 :
日本@名無史さん:04/04/14 18:54
>>652 上が長くて下が短い弓は縄文時代の鳥浜貝塚からも出てるし
654 :
日本@名無史さん:04/04/14 21:08
655 :
日本@名無史さん:04/04/14 21:26
ちなみに、日本も短弓はしってはいたようで、卑弥呼の献上品
に「短弓」がみえる。(魏志倭人伝)
大陸では短弓と知っていたのだろう。
日本で長弓が使われつづけた理由は先祖伝来の武器に対する敬意
であろうと思われる。
656 :
日本@名無史さん:04/04/14 22:00
>>652 >>654-655です。ちょっと文章が分りづらかったかもしれないで、追加します。
そのとおりだと思います。武器が置き換わっているのが筋だと思います。
657 :
日本@名無史さん:04/04/14 22:16
>>648 >その後に金官の扶余王朝、騎馬戦術が明らかになった
その墓示してみろや
ショボイ墓しかないくせに
>>654 スマン後段の引用中のボックハブとかがわけわからんのだが。
漢字に直せないっすか?
659 :
日本@名無史さん:04/04/14 23:34
>>657 ショボイながらも満洲の松花江流域の扶余遺跡と共通することが、
満洲から直接、狗耶韓国にやって来たことを示している。
また、墓はショボクとも副葬品はすごい。
>>655 日本書紀にも2度ほど、角弓が出て来るね。
>>646 江上説は確かに否定してるけど、小林説否定っていうほど小林説を紹介してないだろ。
「考古学会では最近まで、古墳時代のはじまりを四世紀初頭としてきた」と書いてあるだけで。
あとは小林氏の発言を紹介してるだけでしょ。
それに崇神天皇を貶めるような表現はどこにあるんだ?
>>635 特別待遇を受ける理由はないって言ってるだけじゃね?
古いんだけどさ、
高木彬光「古代天皇の秘密」
って小説、ちょっとおもろかったんだけど。
がいしゅつ? 相手でない?
・邪馬台国は山背を中心に西日本にわたりゆるい倭国連合を形成していた
・神武東征以降この家系は南大和を支配していた
・邪馬台国と拘奴国は対立関係にあった
・拘奴国は熊野国の中国語読み
・南大和地方では三角縁神獣鏡の出土が殆どない
・邪馬台国は神武の後継者によって併呑された
クマソとは熊蘇國の事で、クナ(球磨)とアソ(阿蘇)が合わさって転訛したものであり、
クマは球磨川としてアソは阿蘇郡として現在も残っている。
>>650 当時の中国語の発音がハッキリしないから、「ヤマト国」の可能性もあれば
「ジャバディー国」だったかも知れない。
君が代が九州王朝賛歌だったという事実から鑑みれば九州王朝は神武東征以前の天神=天孫族
の王朝だったかも知れない。その証拠に福岡には天神という地名がある。
668 :
日本@名無史さん:04/04/15 10:48
天神って地名は西日本にはよくある。天神様からなんだろうがな。
669 :
日本@名無史さん:04/04/15 10:57
銀座は日本中のド田舎にまである。
670 :
日本@名無史さん:04/04/15 10:59
その天神様だって、スサノオなのかスクナビコナなのか
ニギハヤヒ、賀茂大神、タケミカズチなんてのもある。
さらに孝徳天皇や・・・まあ菅原道真は論外だが。
671 :
日本@名無史さん:04/04/15 11:44
>>663 いや、それならこのスレ終了なんではないかと思て
どっちも【やまと】なんでそ?じゃ同じ国じゃん…って
>>666 そなの?
じゃ今の日本のヒトが【邪馬台】を【やまと】って読めちゃうのは
すーーーんごい偶然!って訳でつね 了解
672 :
日本@名無史さん:04/04/15 15:37
ジャバディー国の女王ピミキュー
673 :
日本@名無史さん:04/04/15 16:29
意地悪で悪い字ばかり当てていることははっきりしている。中国以外は全て下等と見る中華思想
が漢字という同音異議の多いシステムで発揮されている。しょうがないことではあるがいやらしいね。
意地悪であるだけに発音にはある程度注意を払っていた、又、現在の辞書のようなボキャブラリイ
が頭に入っていたし、すらすら書けたのであろう。こうしたことのできないクニから見れば一寸おっか
なかったのかな。ところで、当時の西日本全域の土器が纒向で集中的に発見されており、その他の
地域にはこうした土器、遺跡の集中はない。その土器の分布の東端は関東平野だ。倭人伝にカナサナ
という地名出てくるが、埼玉県にそうした名前の神社があるようだね。
今年の2月18日から3日間、朝日新聞に連載された「転換古代史 新たな古墳時代像」
はこのスレでは話題になりました?
675 :
日本@名無史さん:04/04/15 20:14
纏向が西日本と関係があるのなら、やはり神武東遷の移転先
だったのではないか。
676 :
日本@名無史さん:04/04/15 21:04
神武東遷と同様の話は倭国中の集落が全て持っていても
おかしくはない。水田耕作は九州から東遷するんだから。
神武東遷のポイントは高千穂神話と近畿を結びつけるテクニック
だろう。
>>676の高千穂で思い出したが、鹿児島の霧島山の最高峰は韓国岳で高千穂岳はそれより低いんだよな。
スレ違いスマソ
日向って別に九州の宮崎にある日向のことじゃないんだよね。
>>678 博多の日向(ひむか)だって言ってる人もいたなぁ。
>>971 同じ「ヤマト」だとしてもおなじ政権とは限らないかと。
「ヤマト」という土地に建てられたからどっちも「ヤマト」を名乗ったとか
同じ「ヤマト」という民族によって建てられたから「ヤマト」国とか。
可能性はいろいろある。
681 :
日本@名無史さん:04/04/16 05:18
たはり西都原古墳群を無視するわけには行かないだろう。
西都原−纏向が一つの勢力であり、北九州はまた別の勢力だった。
西都原−纏向が神武伝説に対応し、
北九州−河内が応神伝説に対応すると見る。
高天原四国説というものがあるけど、
それもかなり面白いと思う。
高天原→日少宮→西洲宮→宮崎日向宮の遷都順で、
阿蘇→外輪山周辺→宮崎という遷都説と、
四国山地→四国西岸→宮崎という遷都説がある。
これは古事記を歴史書ととる形で成立するが。
神武東遷が一気に行われたのも疑問ではないし、
その後も西方時代の勢力図がそのまま存在していても、
不思議でない。
大和と大倭の表記の違いもある。
でも、古事記通りに行くと、
ヤマタイの時代は、
仲哀か応神の時代のはず。
神武東遷後の大和・大倭間の抗争があり、
それの収拾の為に一時期別の形での
主がたてられたと考える方がいいんじゃないかなぁ、
と最近は思う。
683 :
日本@名無史さん:04/04/16 10:31
九州に日の出の太陽の方角を気にする宗教があった。
熊本から東のほうに広がっていった。そんな日向の
分布がある。淡路、河内、大和についてからも同じように
太陽の道を求め伊勢のほうまで聖地、聖山をしていした
みたいだ。北陸方面にもある。これって中国の山岳
関係の宗教儀式じゃないのかな。徐福なんかが絡んで
いたりしてね。
684 :
日本@名無史さん:04/04/16 11:35
>>680 なるほどなるほど
いや、おいら子供の頃は【邪馬台】が【大和】かもしれない
なんて事、これっぽっちも教わらなかったもんだから
このスレ見るまで当然どっちも全く別の国だと思っとったんですよ
恥ずかしながら、こんなにも音が近かったなんて事すら気づかなかったとですよ
同じ勢力ではないかもしれないけど、卑弥呼の時代も大和朝廷の時代も
日本列島の中心勢力はどちらも【やまと】と呼ばれていた(かもしれない?)
なんて、全く思いもよらない事だったんで、普段NHKとかもあんまし
見ないようなオイラもワクワクしちまったわけですよw
今の子は普通に【邪馬台】=【大和】の可能性って教わってるんかな?
685 :
デマスキー:04/04/16 12:28
太陽信仰は日本元来のものではないから、大陸由来説は有力。
おそらく渡来人は、殷代のキ氏の一部か、秦氏、漢人だろう。
私はキ氏の一部と思う。
(周代にキ氏の案内で東の島国から朝賀した国があるとのこと)
たぶん当時はもともと大きな勢力がいて、それに対抗する意味で朝賀したと思われる。
それは火を信仰する勢力かと。
(縄文文化の遺物における渦・うねりは、水ではなく逆巻く炎だという)
推測するに、原日本国家は九州・東北に主な拠点があり、その隙間に渡来人が来た。
基本的に簡単な農耕、狩猟に頼っていた原日本人と渡来人は交易・交流した。
それによって黒耀石は大陸側に流出した。
また、渡来人と日本人は同化したとおもわれる。
(昔から日本を“夏朝の遺制”とか“周代の遺制”と呼んでいる)
結果、太陽信仰が主軸になり、危険の少ない東方に遷宮したと考えられる。
単純でくだらない考えだが。
魏の遣いが来たという記述が日本書紀および古事記に一切ないことを考えれば
大和朝廷は邪馬台国の後継国家ではない罠。
687 :
デマスキー:04/04/16 12:52
時代の比定を防ぐため削除された恐れがある。
記紀は削除記事が多く、参考になりにくい
688 :
日本@名無史さん:04/04/16 13:15
単に誰の記憶にも残ってなかった…なんて事ありえんの?文字なかったんでそ?
689 :
日本@名無史さん:04/04/16 14:54
>>688 弥生時代の遺跡から出る前漢式鏡・後漢式鏡には文字が鋳込まれてるし
倭人伝に卑弥呼が上表文を奉ったことが書かれてるから字はあったはず
そもそもAD51年に貰った金印に「漢委奴國王」の文字があるじゃん
690 :
日本@名無史さん:04/04/16 15:34
上表文にも結構問題あるな。悪字にされたのではなく、
自らそう表記した可能性もあるからな。
691 :
日本@名無史さん:04/04/16 18:22
隋書によれば倭王はその頭に冠なく隋と交流して冠を被るようになったとか。
ところが畿内にはずっと以前から冠がある。
金銀を以って身を飾ることもなく隋と交流して金銀の飾りを着けるようになったと書いてあるが
やはり大和王朝では5世紀くらいから金銀の飾りを使用していた。
北九州には冠も金銀の飾りも7世紀以前にはない。やはり九州と畿内には別の王朝があったんじゃないか?
なお金銀で飾ると言うのはスキタイなどの騎馬民族の風俗だ。
大和王朝は5世紀ころ騎馬民族によって作られたのだろう。
692 :
日本@名無史さん:04/04/16 20:07
>>591 >大和王朝は5世紀ころ騎馬民族によって作られたのだろう。
それには同意するが、三輪王朝も「大和王朝」だと思う。
4世紀の三輪王朝を4世紀末〜5世紀初頭に騎馬民族(具体的には扶余)
が簒奪して河内王朝を築いたのだろう。
ただし冠や金銀の飾りは吉野ケ里にも見られるし、対応する時代の伽耶
にもあった。これはまだ騎馬民族ではない。
装飾が単純に騎馬民族だけのモノではないし。
宗教的意味での勾玉などと同じように金を使ったかもしれない。
でも、金は大抵、太陽信仰とセットになりやすいものだし。
694 :
日本@名無史さん:04/04/16 20:55
金の冠の話だろ?
695 :
デマスキー:04/04/16 23:33
結局、邪馬台国畿内説に賛成。
むしろ、争いは皇位目的で、その終結のために立ったのが神功皇后とする、卑弥呼=神功皇后説に賛成。
696 :
日本@名無史さん:04/04/16 23:38
>>694誰に逝ってんのかイミフ
とりあえずキモイから逝け(´∀`)
697 :
日本@名無史さん:04/04/17 02:40
>>692 だから何度も聞くが、
ど う や っ て 日 本 に 来 た の?
ワープして来たのか?(W
698 :
日本@名無史さん:04/04/17 02:58
>>697 馬に乗って来たんじゃねえの?
騎馬民族なんだからさ
ジャブジャブ海を渡って
699 :
日本@名無史さん:04/04/17 05:09
>>697 >>698 だから何度も聞く。
5世紀以降は逆に日本が騎馬化して、馬生産基地となり、馬を半島に送りながら
半島経営を行った。
例えば継体記には筑紫の馬40頭を百済に贈ったとあるし、何記だったか、任那
滅亡前後に、「兵士千人、馬百頭、船40艘」を送ったとある。
これらはどうやって馬を渡したのか?
それが可能なら逆方向だって可能ではないか。
700 :
日本@名無史さん:04/04/17 08:57
701 :
日本@名無史さん:04/04/17 09:05
思えば大陸から日本列島を騎馬軍団で襲撃することは
机上の空論であり、蒙古軍を撃退できたのは天佑神助
ではなく、自然の法則であったのかもしれない。
702 :
デマスキー:04/04/17 10:45
日本に騎馬民族が侵攻するのは至難の業。
まず、馬をのせるには大型船が必要になるが、そんな操船術はないだろうな。
できても日本周辺の早い海流のなかで戦略的に上陸するのはむずかしい。
デマスキー ← 知障
放置で
704 :
デマスキー:04/04/17 12:14
反論もなしで知能障害などと断罪するお前の考え方を変えた方がいい。
反論したくないから否定で排除なら学問的でないな
705 :
日本@名無史さん:04/04/17 12:20
騎馬民族とは何かいな。そんな民族がいたのやら。
706 :
デマスキー:04/04/17 12:44
スキタイ方面じゃないの。
日本に石人があれば話は別だが
707 :
日本@名無史さん:04/04/17 12:48
古代天皇は100歳以上生きてますから年代が合いません。
708 :
デマスキー:04/04/17 12:55
以外とわからないよ。
食生活の関係で、技術レベルに関係なく寿命は長くなるから。
いがいと、実際生きてたかもしれない。
709 :
日本@名無史さん:04/04/17 14:01
古田武彦って、信用できる作家・研究家かな?
711 :
日本@名無史さん:04/04/17 15:46
>>705 だから、騎馬民族という言葉を使う必要はない。
具体的に、扶余族、扶余王朝と言えばよい。
扶余族は半農半狩猟民族であって、「騎馬民族」という言葉でアンチ派が
あげつらうような「遊牧民族」ではない。
しかし晋書に「(扶余は)良馬を産する」とあるように騎馬の習慣があり、
騎兵戦術を持っていた。
その騎兵戦術の物的証拠は、東アジアで最も豊富に、伽耶地域から出土
するのである。
扶余族が、倭の領域の一部である狗耶韓国を侵略して金官を建国した。
倭の領域の一部であるから、金官は倭の一地方政権である。
しかも本国の倭に先んじて騎馬化、北方化した強力な地方政権である。
列島内部の古代史を考えるにも、上記のことを組み込み、これと整合する
ような説でなければもはや成り立たない。
712 :
日本@名無史さん:04/04/17 16:50
天皇長寿については月曜の八木説までお待ちください。
713 :
デマスキー:04/04/17 17:04
仁徳天皇の代までは、年の数え方が違ったんじゃない?
半期で一年、っていう数え方がどこかにあったよね。
「大和」がなんで、「ヤマト」なの?
オホヤマトと読むのが正しい。
716 :
日本@名無史さん:04/04/17 18:45
2倍年暦説に関して言うとこの板に以前
日本書紀に現れる日付は崇峻紀までは1〜15日ばかりだ
ただし神武紀・崇神紀・神功紀・応神紀は除く
という書き込みがあったのが説得力を持つと思う
1月15日で現在の半年が1年になる暦法があって
日本書紀の大部分は当時の伝承のままに書かれているが
上の4紀は奈良時代の史官による造作を多分に含むのだろう
それなら古代天皇の百歳長寿(なぜか二百歳は越えない)や
顕宗・仁賢が子供からいきなり中年になって死ぬ謎も解ける
717 :
日本@名無史さん:04/04/17 19:03
>>716 その説はどうかなとも思うが、魏志倭人伝中
「其人壽考、或百年、或八九十年。」は2で割るとちょうどの当時の平均寿命
(45歳前後か)と合致するそうだ。
古田武彦の説は、単なるセンセーショナリズム狙い。
古田武彦の説を信じるって言うことは、「自分には思考能力がありません」って言ってるようなもの。
全くだ
古田武彦の言うことは狂人のたわ言に等しい
720 :
デマスキー:04/04/17 22:11
神話時代の紀年法も、ウン十万年というのは時間の数え方の違いで、何か違う単位であったのを、記紀編纂時に年に書き替えたらしい。
あれは一説には一年を35〜40分に比定すると、かなり信用できる数字がでる。
>>712 当時の日本人はいまの一年を二年に数える暦をもっていた。
723 :
デマスキー:04/04/17 23:15
二倍暦年法で計算すると、236年に第12代景行天皇(日本武尊の父)が即位した計算になるのだが。
治世は30年間。
皇居は大和の「纒向の日代の宮」。
二倍暦年にすると、最初の方の天皇が九歳ぐらいで即位していることになる。
一番、短命だったのが26歳で仲哀天皇、長命だったのが70歳で垂仁天皇になる。
ついでにいえば、景行のまえが垂仁で、即位は186年。
724 :
日本@名無史さん:04/04/17 23:31
卑弥呼なんていなかったんじゃない?
要するにだ、じゃばだいこく(←なぜか変換できない)はどこにあったんだよ
726 :
日本@名無史さん:04/04/17 23:55
ジャワ
730 :
日本@名無史さん:04/04/18 01:09
>>728 邪馬台国ジャワ・スマトラ説は、今唱えたらどうかはともかく
発表された当時としては電波でもトンデモでもなく、
遊牧民の歴史や中国史の大家であった内田吟風の説。
残念ながら本人が晩年には撤回してしまったが、
それなりに精密なものだった。
>>730に補足
ちなみに最低限、歴史論説の体裁をもったものの中では
奄美大島説、沖縄説などをぶっちぎって今のところ邪馬台国の最南端。
最北端はおそらく山形明郷の「満鮮国境山岳地帯説」。
これはほぼ高句麗のあたりで最西端でもある。
最東端は房総半島説。三陸説というのもあったらしいが未確認。
(津軽説は電波なりにでもまとまった論証の体系が存在しないので除外。
エジプト説も歴史観のパラダイムが異なるので除外)
>>731 三陸説じゃなくて仙台説じゃなかったか?
なぜオーストラリアがないのか不思議だ
いや、オーストラリアはトマ国ってことにして、南極大陸説・・・・
735 :
デマスキー:04/04/18 11:10
とにかく、邪馬台国は畿内にあった、で、
ここのスレでは決着ついてるんでしょ?
畿内厨だとか日食厨だとか言ってるけど。
ようは、今は邪馬台国と大和朝廷との関連性を論じたいわけだ。
俺は、再計算した結果、
邪馬台国は畿内にあって、大和朝廷とイコール、
そして卑弥呼は景行天皇が征討で不在の間の
仮の統治者とみた。
736 :
デマスキー:04/04/18 11:11
だとすると、倭国大乱は
クマソの反乱&東夷の反乱
で終了なんじゃないか?
737 :
日本@名無史さん:04/04/18 12:38
景行天皇が九州を遠征したとき、天孫降臨や神武天皇について思いを馳せたり
感慨深げになったとかいうそぶりが全くないのが怪しすぎる。
738 :
日本@名無史さん:04/04/18 12:44
>>737 ていてうか、高千穂の峰を重要な祭祀から外してしまっている。
景行説話の成立より、天孫降臨や神武の説話の方が新しいってことだろうな
畿内のどこに邪馬台国の阿蘇山があったんだ?
741 :
デマスキー:04/04/18 13:56
阿蘇山と例えられる儀式か何かじゃないかな
儀式が天に接するように噴火したわけ?
743 :
日本@名無史さん:04/04/18 15:04
阿蘇山の付近は島原の乱、西南の役を見ても、筑紫の磐井を
みてもなかなか反骨の気運が強いようだ。ただ纒向建設には
土器は出しているし、古墳時代では石棺を供給している。まー、
徐福上陸が言われるような先進地帯で、支石墳など朝鮮文化の
影響も強いお国柄なので後の鹿児島の島津のようなうるさいのが
多いところであったのジャーないかね。ただ、北九州を除く弥生
時代の九州はその他の西日本と基本的には同じようなところで
あったということで別に妙に何か古墳とか遺跡が多いということ
じゃーないんだ。余り気にしなくてもいいと思うよ。吉野ヶ里だって
そのうちに日本中に同じようなのができるからな。
744 :
デマスキー:04/04/18 16:23
古文の記述は比喩が多いから、
そういうのじゃないかな
天に接するような噴火
でなくて、天まで噴き上がった炎
という意味かもしれない。
キャンプファイアみたいなおおきな儀式があるんじゃない?
儀式と読み間違えているのに気づかないのか・・・
上のレスに装甲騎兵とあるけど
高句麗はまだしも、当時の半島南部に、
戦闘の主体になるだけの大量の装甲騎兵が存在していたのかい?
古墳などから数個の馬甲・馬冑が出土しただけでは
騎兵団が存在したことにはならないのでは。
馬甲は支配階級のみのステイタスでした。なんてオチだったり。
邪馬台国は九州中央部の連立政権(西都原から佐賀までを含む)
北は那国までを一大卒にて統括
投馬国は薩摩
748 :
デマスキー:04/04/18 22:46
九州の邪馬台国が畿内の大和朝廷と友好的な国家と仮定して、
236年に景行天皇が巻向で即位、卑弥呼が同時期に即位した。
卑弥呼の死後、邪馬台国が荒れて、熊襲が反乱、
大和朝廷が辺境の大乱として平定軍をだした。
それが、景行天皇の熊襲征討とか。
つまりは、邪馬台国・大和朝廷並立論。
こういうのはどうよ。
景行天皇なんて支配領域は数十km程度の村長レベルだろ。ありえない。
750 :
デマスキー:04/04/18 23:00
二倍年暦の話がさっきあったけど、
カムヤマトイワレヒコノスメラミコトから
オホタラシヒコオシロワケノスメラミコトの56年まで
天鈴暦なる暦法があったといい、
その後、干支式の数え方にかわったとか。
ソースは忘れた、記紀研究じゃなかったかな。
>>750デマスキー
まず「邪馬台国は畿内じゃないといけない!」という固定観念を捨てることだな
752 :
日本@名無史さん:04/04/18 23:34
>>746 高句麗はまだしも、というのは高句麗には「大量の装甲騎兵が存在」してもよい、
という意味だろうが、ではその高句麗から、馬甲がどれだけ出ているのか?
答はゼロだ。高句麗の装甲騎兵の存在証明は古墳壁画しかない。
伽耶地域からは高句麗と同様な壁画のほかに、実物や土偶が出るのだ。
北方型の馬兜は、いままでに19個出ているが、そのうち15個は伽耶からだ。
ちなみに日本は2個。
それから「大量の」と言うのは例によって蒙古軍のような全軍騎乗の編成を
イメージしているのだろうが、装甲騎兵を全軍揃えられるものでなないし、
揃えたら全員ホームランバッターの巨人軍みたいなもので、かえって動きが
とれないだろう。
騎兵の割合は、日本書紀の「兵士千人、馬百頭」の記事からも推定されるように、
10対1ぐらいだったのではないか?
つまり日本で鎌倉時代ごろまでの戦い方をイメージすればよいと思う。
>>715 「大和」はなんで、「オホヤマト」なの?
「和」が「ヤマト」なの?
「倭」が「ヤマト」なの?
邪馬台国を台湾語(昔の呉の発音にちかい)で発音すると、シャ・ベィ・イッ・クオッ【邪馬壱(ヒのかわりに豆)國。これが魏志倭人伝漢字】となるんだけど、太宰府のちかくに斜辺井(しゃべい)という地名が昔あったよ。(いまは町名変更されて、ない)
そういえば、祖父は宝満山を御笠山としか呼ばなかったし、宝満山を源流として、太宰府から福岡に流れている川は、今でも御笠川だな。
だからおれは、「みかさの山にいでし月かも」は古田説を信じるね。だいいち、阿倍仲麻呂は太宰府の(ちかく)出身だよ。太宰府天満宮のすぐそばに光明禅寺という古いお寺(おれが死んだらここの納骨堂に入る)があり、そのすぐ脇に
地元の人は仲麻呂の祠と言っている古い社がある。こちらのほうが光明禅寺よりも古い。古いお寺は、由緒ある祠のそばに建てるのがしきたりだからね。いきなり新開地に建ったお寺なんてないんだからね。
755 :
デマスキー:04/04/19 00:08
>>751 別に畿内説に固執してはいないね。
ただ、大和朝廷がその時代にあった、というのを前提にしているから。
邪馬台国・大和朝廷は同時代の政権で全く別物だと思われる。
756 :
デマスキー:04/04/19 00:39
卑弥呼は236年即位で、248年に崩じた、ってんでいいんだよな?
757 :
日本@名無史さん:04/04/19 02:09
ようするに、倭=和=ヤマトなんじゃないの?
ヤマトイコール倭の代名詞なんだよ。
ただ、ヤマトの発祥は九州かもしれない。吉野が里とか。
紀元前後ぐらいに遷都したのでは?
卑弥呼の時代は、纏向でしょう
759 :
デマスキー:04/04/19 09:01
>>758 もともとは倭でヤマトだったが、
大倭を自称するも、倭は悪い意味を伴うので、
日本側がやわらぐという意味をもつ和に変えて大和とした、
だから和をヤマトと読む、という説。
しかし、中世の歴史教科書といえる神皇正統記には、
神武〜安寧が大和、懿徳〜孝昭が大倭、
孝霊〜応神が大和、仁徳〜天智がだいたい大倭。
あいだに数代まばらに大和が交ざる。
持統〜文武が大和、元明からは大倭平城宮。
歴史学者は誤字もしくは北畠の気紛れとしている。
また、大和朝廷一筋としているが謎である。
基本的に大和は奈良盆地の南半分、大倭は北半分に分布。
豪族の勢力によって書き方がかわったか、
もしくは魏志倭人伝の倭国に関わるといわれる。
760 :
日本@名無史さん:04/04/19 10:15
邪馬台国であるが、吉備、丹波(投馬)から水行(由良川、保津川経由)大和に入った。
当時大和の隣国はシマ(葛城)であった。こういう風に読みたい。そして問題のあった
紛争地域は近江の東岸、南岸にかけて存在しており、その背後には北陸(クガ)勢が
あった。狗奴国の王クガチヒコがこれである。山城において防衛に当たっていたのが
椿井大塚山の被葬者であり、後に功労者として鄭重に葬られたのではないか。
761 :
日本@名無史さん:04/04/19 10:43
魏倭外交史は高々四半世紀、更に、その中における倭狗奴国戦争は
ほんの一年程度の争乱であった。しかし、誕生直後の「共立」にとっては
最初のチャレンジであり、その後に大和朝廷にとっても重要な内乱であった
のかもしれない。しかし、崇神になってもお膝元で「タケハニヤス」が暴れだすし、
こうしたことは日常茶飯事となって行き、景行、ヤマトタケルと平定工作が
続くがそのうちに国外の三韓の政変にインボルブされることにより、国内の
統一ができ、その勢いに乗って河内に王朝ができ、雄略の代に安東大将軍の
最大版図となるという筋書きじゃないかと思う。
762 :
日本@名無史さん:04/04/19 11:02
狗奴国であるが、越の国は倭国に入っているようであり、後に近江毛野、甲賀等の
名称、地名のある琵琶湖東南岸辺りと見るべきかな。
763 :
デマスキー:04/04/19 12:33
大倭が邪馬台国に関係あるなら、
畿内、とくに奈良盆地北部も可能性高い。
もしかすると某ローマのように、国を倒したあとに徹底的に破壊して鍬かえして跡形もなくした可能性がないでもない。
764 :
日本@名無史さん:04/04/19 13:01
奈良盆地北部は平城京建設に伴い古墳などは掘り返し
整地されている。ましてキモイ銅鐸など出てきた場合は
今で言うET発見のような大騒ぎだったらしい。邪馬台国
九州論などというと飛びつくような人間が多かったかな(w
765 :
デマスキー:04/04/19 13:35
都の造営で全部ひっくりかえされて遺蹟もへたくれも無くなってるとしたら、
畿内説はある意味ピンチだな。
だって、邪馬台国の遺蹟なんて大和朝廷にしたらクソみたいなもんだろ。
とっくの昔に消えてるかも知れないな、遺蹟。
766 :
日本@名無史さん:04/04/19 13:42
ところで奈良には以下の通り三輪神社の摂社がある:
率川座大神御子神社(媛蹈鞴五十鈴媛命
(推古元年AD593建立)、玉櫛媛命(AD717建立、父神)
、狭井大神(同、母神))
率川阿波神社(AD770率川神社境内-事代主命
(布津主の後を追って阿波から))
住吉社(率川神社境内-住吉四柱大神)
春日社(春日四柱大神)
神武の奥さんだけしか来ていないのは、神武とは
住吉四柱大神のような瀬戸内全体のシンボルであり、
媛蹈鞴五十鈴媛命は初代倭国女王であったのであろう。
阿波の鳴門、萩原1号墳とホケノ山古墳、楽浪郡古墳
は同じ鏡を持つというからこれらは邪馬台国建国者
達であったのだろう。そしてそれらを支えたのは
住吉の神を祭る海人族で、その神話が神武物語であると
考えてみたい。どうかな。
767 :
日本@名無史さん:04/04/19 14:19
父母の神が逆になっているので訂正。父母がいないとかわいそうという
発想は推古天皇のものか。スサノオが田圃で野くそをたれたなどと常に
観察しながらアマテラスに密告する女などの話を読むと神武さんもそんな
女系時代には生まれていなかった方がよかったのかもしれない。
発展的解消つー奴だろ?
769 :
デマスキー:04/04/19 17:05
大和朝廷と邪馬台国が別だったとする説に、
謎があるとすれば、
なぜ大和朝廷の聖地(高千穂や天の岩戸など)が九州にあるのか、
ということだけ。
770 :
日本@名無史さん:04/04/19 19:27
邪馬台国は朝鮮にあった!
日本は朝鮮に服属せよ!!
終 了
>769
邪馬台国は九州内を何回か遷都したと思うが
九州系の天武が畿内を乗っ取って、第2次邪馬台国=日本国にした。
九州内の元祖邪馬台国は白村江以後、隋の傀儡政権となり変容し、消滅。
>>769 元々神武の祖先は九州におり神武東征で大和にいき邪馬台国を滅ぼした。
その証拠に我が国歌は九州王朝賛歌だというじゃないか。
773 :
日本@名無史さん:04/04/19 21:16
崇神〜景行〜仲哀王朝は明らかに九州とは無関係。九州発祥の天皇家とも無関係。
これが原畿内王権であり、神話では崇神をオオクニヌシに投影したとみていい。
問題はなぜ、崇神〜景行〜仲哀王朝が天皇家の歴史に組み込まれ、
崇神にハツクニシラスの称号を与えたかになるのだが・・・。
ハツクニとは新領有地を指しているだけだから、
国家創始者でなくても領土拡張王なら可。
775 :
日本@名無史さん:04/04/19 23:28
>>769 西都原の勢力の東遷で説明できる。
西都原がクナ国かヤマタイ国か、はまた別の問題だ。
776 :
デマスキー:04/04/19 23:37
神武東遷なり、天武東遷なり、
王を頭にどれだけの集団が動いたのか。
幹部クラスだけが抜けたなら、異物も残らないかもしれないが、
領民、奴隷などを引きつれての移動なら、大量の遺物が残るはず。
また、何らかの形で地方伝承するだろう。
それが今のところ、見当たらないなら、
原大和朝廷に九州勢力が貫入したとは考えにくい。
たとえば、祭器が突然ふえたり、
儀式が増えたりしたならば、
何らかの形で九州勢力が貫入したと思われる。
777 :
日本@名無史さん:04/04/20 00:11
神武=崇神=応神。
古代史の核心ね。
>>776 東に追いやられるように銅鐸が消えてるの知ってるよね?
それとゲルマン民族の大移動じゃないんだからね、断っておくけど。
>776
九州邪馬台国の傘下にあった畿内政権は、神武以来九州系の王統だったから
べつに異民族ではなく、同祖であるわけで、分国意識があった。
畿内王=天皇は邪馬台国王から朝臣や真人に叙せられていたと思う。
780 :
日本@名無史さん:04/04/20 07:09
九州の山門の物部が銅鐸製造技術と共に河内に招聘され、
奈良県を中心に九州の地名をもたらす。これがニギハヤヒ、
ウマシマデ、ナカスネヒコ。
九州中南部のオオトモ、久米などが四国、中国地方を経由近畿に
移動。神話的な神武物語を持ち、地名としては熊野を広める。
物部に代わり邪馬台国の軍事、宗教(銅鐸の禁止、鏡の使用)
担当の要職につきやがてはヒミコを担ぎ上げる。しかし、
旧銅鐸圏の保守派の巻き返しがあり、やがては崇神
(丹波出身、任那出自をほのめかす)が大和朝廷を開く。
・・・こういうとこだなー。
781 :
日本@名無史さん:04/04/20 07:37
神武を生み出したのは九州中部、熊本、宮崎
から南四国、愛媛、高知に広がる銅剣、銅矛
文化圏と見たい。
782 :
日本@名無史さん:04/04/20 09:25
海部氏の系図では神武時代の倭宿禰が海部氏出身、崇神、その兄としての
日子坐王も海部氏出身。早い話が大和朝廷は丹波出身。これが神武というもので
影が薄いわけ(速吸の門までお出迎えに行かされている。でもこれってウズヒコとも
いうからウズで名高い鳴門、萩原1号墳、ホケノ山と同じ楽浪郡古墳と同じ鏡を持つ
の出身者で、他方ホケノ山が倭宿禰であるかも。)だが、これって倭人伝の評判が
悪く引退した男王なのかな。ストーリーとして初代が女王では恰好悪いから神武を
婿入りさせたのかな。
783 :
日本@名無史さん:04/04/20 09:47
考えてみれば魏なんていうのはフセイン政権程度のものだろうが
倭国と言う超大国生誕の瞬間を見届けてくれたんだなー。感謝
するぜ。曹操さん。
784 :
日本@名無史さん:04/04/20 10:04
>>776 纏向がとつぜん現れるではないか。
そしてその文化には西日本の要素も含む。
これは東遷の過程で西日本の勢力が参加した証拠だ。
また、瀬戸内海沿岸の高地遺跡はそれを防ごうとした側が
残したと考える。
785 :
日本@名無史さん:04/04/20 10:17
集落レベルの抗争はあったであろうが、部族単位で移動というのは
稲作社会ではありえない。放牧民族ならともかく。但し文化の模倣や
海人族による神話の移動はあったことだろう。で、統合時代に入ってからは
宗教的指導者を中心とする戦闘集団の移動、局地的戦闘はあったかもしれ
ないね。
786 :
日本@名無史さん:04/04/20 10:37
>>纏向がとつぜん現れる
というのはフレーズごと学者の引用なのか?
あたな自身で検証されてのことか?
787 :
日本@名無史さん:04/04/20 12:16
割り込んで恐縮ながら・・・
桜井市埋蔵文化財センタには「弥生時代後期から古墳時代前期の集落の
推移」という資料があり、奈良盆地内における前時期より継続、纒向一期に
出現、庄内期に出現消滅の遺跡地点をプロットしているが、それによれば
纒向建設に向かって兵站(供給集落)、纒向内遺跡の出現がきわめて明確に
わかり、奈良盆地全体としてこのプロヘクトに参加したことが判る。
これは大変な社会変動であり、新たにプロの古墳建設業者など、農業から
の転進を図るものも出たことをうかがわせる。捨てられた遺跡がどうなったの
かについては不明なのだが、その辺に九州辺りからの移住者を吸収する
余地が生じたのかもしれない。大変なプームだったであろうと思う。
788 :
日本@名無史さん:04/04/20 12:58
当時の奈良盆地は労働力、防衛力が不足で自衛隊を募集するように
戦闘能力のある熊襲、隼人を募集したのかもしれない。まー、屯田兵
といった待遇だったのかな。
789 :
日本@名無史さん:04/04/20 15:15
ぬるぽ朝廷のぬるぽいりひこいにえの命
>>788 奈良盆地が熊襲隼人の兵を募集してどこと戦うんだ?
791 :
日本@名無史さん:04/04/20 17:58
神武の場合、住吉海人族対和歌山県沿岸の安曇海人族
(伊勢湾から熊野灘にかけて跋扈していたと思う)、
更には淀川から琵琶湖にかけての安曇海人族の戦争と
みている。当時本州島は丹後半島を頭とし、東北方面、中国地方に
羽を広げ、紀伊半島で太い尻尾を左に曲げ、尻尾の先は河内で
淀川(大阪湾)の右岸に接してナミハヤ(難波)を結成しており、
丹後のイザナゴ山というのが聖山。丹後半島の直ぐ西の出石
の先g、久美が浜に投馬の港があったと見ている。九州、四国は
長らく銅剣銅矛文化圏の勢力化にあり、讃岐、阿波の方から
倭の進出(銅鐸の提供)が進んでいた。狗奴国との戦いも
こうした冷戦構造、つまりトンボの前左右、後ろ右対左後ろの羽
(山陽、四国北岸、九州)の対立構造で考えたい。
792 :
日本@名無史さん:04/04/20 18:06
上記住吉海人族の重要な任務は宗像海人族と強調し、
沖ノ島瀬戸内海シーレーン、潮岬、琵琶湖を通じる当方との
交易路を確保し、農業、建築用鉄原料の分配による
関東甲信越の支配にあった。これは大和朝廷になって
からもヤマトタケルを中心に精力的に進められて政策
である。
793 :
日本@名無史さん:04/04/20 18:09
そうした国営貿易の他に九州西部は従来の大陸との交渉ルートを
温存し密かに貿易を行なっていた可能性があり、後世の筑紫の磐井
の反乱に結びつくのかも。
794 :
日本@名無史さん:04/04/20 18:32
トンボ(アキツ)型地理間は海図で陸を見る地理感で
当時は海上交通が唯一の天下の公道であり、いわゆる
高地性集落とも密接に関係している。沿岸部で文明が
発達すると海上からこれを略奪する世界史的な動きは
ヒッタイト時代のエーゲ海でも起きている。当時の印欧
諸語には*teikos(逃城、山城)をいう共通語が出現した
らしい。倭国の高天原はどうかな。
795 :
日本@名無史さん:04/04/20 18:41
不思議なことが一つ
なぜ九州と近畿に二大勢力があったなどという電波がまかり通るのか
古代で理想的な地は絶対に近畿地方である。
いわば近畿地方が倭国の支配のゴールだった。
それを目指して神武東征とかの伝承が生まれた。
日本の地図を見てみるといい九州には肥沃な平野があるが
それにもまして外敵の侵入や台風や噴火などの
自然災害のマイナス要因が多く、それが八幡や天神への信仰へと
つながった。山陰、瀬戸内地方も山地が多かったり海に囲まれていたりと
(鉄や塩などの資源には恵まれていたかもしれないが)いまいち
しかし近畿地方は肥沃な土地に恵まれ、海も穏やか、しかも外敵の侵入には
時間が稼げる。このような土地を古代の支配者が欲し無いはずが無い。
こんなこと思いつつ卑弥呼のころは邪馬台国が大和へ引っ越すちょっとまえだったんでは
無いかと思われ
796 :
日本@名無史さん:04/04/20 18:54
引越し直後。進駐軍みたいなモンで、なれないからみんな
九州のものにしたんと違うか。もちろん、九州のものはその
まま残っていただろうね。現在も残っているんだから。
和歌山県の北部にも伊都だの、那賀だのがあるが、日本人
は昔から右へならえの付和雷同性があったのかなー。
797 :
日本@名無史さん:04/04/20 19:28
当時の宗教は現代で言えば風水的な山岳に
囲まれた水運のよい場所に立地し、日の出
日の入りを礼拝し、収穫の予想、農業計画の
実施命令などを出していたのだと思われる。
背振山脈東南部筑後川流域はこうした宗教
システム発祥の地であり、仮に奈良県で新都を
建設するにせよ宗教的なバックボーンとして
地名などで同じものを私用しなくてはならない
というタブーがあったことも考えられるがなー。
798 :
日本@名無史さん:04/04/20 19:45
>>795 奈良盆地が、芦を刈り取って種さえ蒔けば米が取れる地質(湿地)だった
と言うことが最大の魅力でしょう。
ちょうどその頃、遠浅だった湖の水位が下がり、溜池も水路も畦もいらない
自然の田圃が突如広がったのでしょう。
799 :
日本@名無史さん:04/04/20 19:50
邪馬台国は沖縄の与那国島に眠っていまつ
これが邪馬台国が みつからない理由なのでつ・・
800 :
日本@名無史さん:04/04/20 20:36
トンボが交尾しているような風景とは、なだらかな丘陵が
どこまでも続いてるような景色だと思うのだが・・・。
じゃあ、ヤマトってなんなの?
なんか、自分たちの民族のことを”ヤマト”と呼んでいたんじゃないかと思うんだけど。
だとしたら、”邪馬台国”は、”俺たちの国”というのを適当に当て字しただけなんではないかと。
あと、邪馬台国の卑弥呼っていうのも、自分はイメージが”アマテラス”とかぶってて、実際の
人物ではなく、当時の神話を聞き伝えで書いているだけなんではないかと思う。
邪馬台国というのは、実在するあるひとつの国/勢力を示すのではなく、ある民族がまとまって
すんでいる地域というだけなのではないだろうか。
だから、古代日本の勢力のことを語りたいのであれば、邪馬台国のことは忘れて、遺跡中心に
行くべきではないかと思うのですよ。
以上、ド素人でした。
だからヤマトと聞いて中国人が邪馬台と書いたんだろ
803 :
日本@名無史さん:04/04/20 21:49
四国では山の人をヤマンドという。又、シマント川という川があるが
シマントならばシマノヒトの意味として全く理屈に合う。あの辺に
宇和島なんてあるからね。ヤマトっていうのはこうしたヤマンド
という言葉と関係があるんじゃないかと思う。
804 :
日本@名無史さん:04/04/20 21:56
奈良盆地には山之辺の道の通る丘陵地帯がある。特権階級が生まれ
山の手である山之辺の地を中心に住まいするようになりその近辺を
低地である農業地帯(唐子鍵など)から区別してヤマトと呼んだ。又
こうした段丘的地形は列島各地で全てヤマトと呼ばれていたというこ
とかもしれない。
805 :
日本@名無史さん:04/04/20 22:02
天津=アマト=ヤマト
もどうかな?
806 :
日本@名無史さん:04/04/21 01:22
アマ=天=海だから、
アマト(海人?)とヤマト(山人?)は別なんじゃない?
海幸山幸神話の如く、海洋交易国家を内陸農耕国家が
凌いでいく過程と関係あるとか。
807 :
日本@名無史さん:04/04/21 01:36
高校のときの先生が
「ヤマトとは山の戸≠フ事で、山の入り口≠ニいう意味です。」
って言ってた。んで、水の入り口がミナトだって
へぇーなるほどー!っておもたよ
808 :
日本@名無史さん:04/04/21 02:41
山の戸∴スいは山の門(と)≠ナ気になる地形が・・・
大和川が大阪平野から奈良盆地に入るあたり、ちょうど柏原市と三郷町と王寺町の
境くらいで、川幅いっぱいまで山が迫って狭くなる部分がある。
今もJR関西線やR25(奈良街道)が通っていて、奈良盆地へのメインルート
であった事は想像に難くない。
当然、河内潟から大和川を遡り盆地奥深く布留や巻向まで行けたことだろう。
つまり、その狭隘部を山の門≠ニ言ったら頷けるんですよ。
実際、内陸の大和を防衛する第一の拠点だと思うし、そこを支配する者が
水運の利権を一手に握った筈です。
>>808 >山の戸∴スいは山の門(と)≠ナ気になる地形が・・・
九州にも気になる地形があるぞ
福岡の少し南、山が迫って狭くなっている
大宰府の少し北
後に有名な水城(みずき)が築かれた場所だ
ココを通らないと九州中央へは行けない、船で遠回りするしかない
更に南に山門という地名まである
810 :
日本@名無史さん:04/04/21 04:29
811 :
日本@名無史さん:04/04/21 05:00
日本大学歯学部付属歯科病院の榎本深雪さん、かわいい
812 :
日本@名無史さん:04/04/21 05:05
西都原には前期巨大古墳と中期巨大古墳がいずれもある。
前期巨大古墳ができた時点で纏向へ移転したのではないか。
ただしそっくり移動したのではなく支配者の主力が移動し、西都原にも
一部が残った。そして纏向と平行して発展した。
813 :
日本@名無史さん:04/04/21 05:15
日本で血液型のA型が一番多い地域は、出雲、伊予、豊前、豊後、日向、大隈、薩摩
これらの地域へA型の多い江南から渡来したと日本人のルーツ本で見たのだが
出雲、伊予、豊前、豊後、日向、大隈、薩摩
これらの地域は初期邪馬台国連合諸国ではないかな?
古人骨からよく血液型が判ったな。タイシタモンダ、よくやった。
815 :
日本@名無史さん:04/04/21 06:48
816 :
日本@名無史さん:04/04/21 06:53
出雲、伊予、豊前、豊後、日向、大隈、薩摩 ・・・銅剣銅矛文化圏だなー。
倭国連合の重要なメンバーであるし、出雲、大隈、薩摩などは外様的、反抗的
であるのと中央進出など動きも激しいみたいな感じだなー。
古代日本語で「チ」は神、もしくは竜神、神獣のようなモノなんだよね。
ミズチ、オロチ、ノズチ、イカズチなど。
ところで邪馬台国の「台」は「ト」よりは「チ」に近いと思うけど、
邪馬台国が「ヤマチ」国だとすれば「山の神の国」なのかもしれない。
818 :
デマスキー:04/04/21 08:45
卑弥呼=イザナミでは。
=アマテラスという話があったから超亀レスごめそ。
邪馬台国=イザナミ=ヨミの国、
大和朝廷=イザナギ=こちらの世界、
と考えられる。
子を作るホトをやられて死ぬのは、世継をなくす、
つまり、現の国から末裔ごと去ることを意味する。
古事記ではオオヒルメはイザナギの子でイザナミの子ではない。
また、ヨミから逃げ出し、坂の途中で岩で道をふさぎ、現に帰る、
というのも東遷=邪馬台国脱出とだぶる。
また、秋津洲=アキツシマ=現洲と(現御神アキツミカミの現)いうのもかぶる。
819 :
デマスキー:04/04/21 12:16
おそらく神功皇后は実在。
ただし、在位年数をかなり操られているだろう。
820 :
日本@名無史さん:04/04/21 13:59
うーん、二人の「千人殺してやる」「千五百人生む」の
やりとりもなんか国同士の抗争とも読めるな・・・。
女王国・邪馬台国と男王国・大和国の戦い?
時に和し、時に争ってたとか。南北朝みたいに。
821 :
日本@名無史さん:04/04/21 15:08
神功皇后もヒミコ同様ある女性に仮託して多くの内外政治外交活動を
記述したもので、また、同様に戦闘部分には誇張が使われているので
こうしたバイアスを取らなくてはならないと思う。主役は女性ではなく
男性であり、最大の主役は武内宿禰である。ヤマトと葛城は古来国造
を宿禰と読んでいた節がある。武内宿禰とは葛城(シマ)国の国王
でこれは河内王朝に先行する葛城王朝があったことを物語るのでは
ないかとおもう。神功 が架空であるとするのは低次元のイデオロギー的
バイアス、記紀編集者の国家的虚栄のバイアスを除去し、古墳の配置と
七枝刀等の編年、高句麗好太王石碑等から真実を読み取る必要があろう。
いずれにせよ倭の部王の時代に半島南部を含む倭国が成立するようになる
倭国の成長過程の一つとして見なくてはならないのであろう。
丹波/吉備→オキナガ/和邇→葛城→河内こうした流れにあって神功 は
オキナガ/和邇の崩壊と葛城にバックアップされた河内勢力の誕生の
ころを描いていると見たい。
822 :
日本@名無史さん:04/04/21 15:22
少なくとも史学を愛するものは国家主義的自尊心から例えば日本による
三韓征伐の記述のある古書を批判してはならない。古書の記述は極めて
貴重なものなのである。先ずは正面から、一切の固定観念を排して検討
すべきであり、馬韓における前方後円墳のなぞを解くにもこれは必要である。
歴史を明確にすることは世界平和に資することであり、歴史をゆがめる国は
既に滅亡を内蔵している。
823 :
日本@名無史さん:04/04/21 15:52
白い紐を首にかけられた新羅王の約束:
「今後は末永く服従、王が馬飼いとなる。船使いを絶やさず、
春秋には馬手入れの刷毛とか、鞭を奉る。又求められる
ことなくても男女の手になる生産物を献上する。太陽の逆行
ウリナラ川の逆流のない限り、川原の石が天に登って星と
ならない限り、春秋の朝貢を欠かしたり、馬の櫛や鞭の献上
を怠ったら神罰を受けてもいい。」
現代でも日本の会社が韓国にプラントを出す場合同様な
要求をされる。
上記の馬は実際に善光寺(飯田、長野)近辺に遺跡となって
存在する韓国型屋根つき古墳や馬の遺跡で確認される。
日本の後進性と韓国の先進性をはからずしも表している。
でも相当の日本人のうそつき表現が見え見えしている。
824 :
日本@名無史さん:04/04/21 16:18
神功 時代の裏社会というか、海賊、よく言えば極東最強の
連合艦隊本部は住吉神社であったんじゃないかと思う。これが
瀬戸内・朝鮮海峡シーレーンを制圧し、おそらくは朝鮮半島
南西部はこの勢力化に入っていたのでは。そしたこれが世界でも
まれな百舌鳥・古市古墳群を建設したが、如何せん、道徳的に
かけるところこれあり(まー、関西系のマフィアだなー)やがては
北方の継体さんが古きよきヤマトを再現する--。
825 :
デマスキー:04/04/21 17:03
推測日本史、そのいち。
大和側のキーマンである武内宿禰。
彼はおそらく75〜95才だろう。
景行の末期から、仁徳の始めに勤める。
当時は15で成年だから、十分である。
記紀どおりだと300年生きねばならないが、
まず二倍年暦で半分に、そして神功はだいたい15〜25年の治世でないと、
応神の経歴にあわないあたりで、かなり年数が削がれる。
こうすると武内が日本史のキーマンの一人として十分実在しうる。
武内が皇位継承の原則(親子で太子にしてから継承)を、
守らせていたなら、仁徳のあとから、
皇位継承が兄弟間でなされる(履中以降)のが納得できる。
826 :
デマスキー:04/04/21 18:07
俺の推測する古代史
卑弥呼と崇神天皇は同世代で、九州の代表的人物であったが、
卑弥呼の治世が終わると、巨大な勢力争いが起こり、
反倭国として崇神は東へ逃れる。
しかし大阪湾から上陸、東へ進んだ崇神は、
奈良盆地北部の大倭という倭系勢力に衝突・敗北し、
再び海に出て南から回ることに。
南には大倭に対抗する勢力があり、それに便乗して、
崇神は大和入りを果たす。
そこで代表格としてスメラミコトになり、その地を治めることに。
まもなく崇神のあと垂仁に皇位は継承される。
(続く)
827 :
デマスキー:04/04/21 18:22
続き。
垂仁の時代の中頃、一人の男王によって、邪馬台国に
壱与という女王が立てられる。
この元で、一応邪馬台国は安定を見せ、
大和朝廷に使節が来るようになる。
そのご、垂仁は崩じ景行に継承される。
景行のころ、壱与のいなくなった邪馬台国は荒れて、
再び大乱が起きる。
これによって使節は来なくなり、
それどころか九州付近の治安も悪化し始める。
これに危機感を抱いた景行は軍を出して、平定しようとする。
景行の倭国大乱干渉戦争によって、
九州情勢は北部を中心に安定するが、
邪馬台国自体は衰退へと向かっていく。
景行もその治世を九州対策に費やして、崩じてしまう。
時にAD323年ごろか。
その後は、成務・仲哀によって北九州の統治が進められ、
神功・武内宿禰によって朝鮮進出が、北九州からなされる。
応神・仁徳を過ぎると、過度な拡張政策により、政府が弱体化、
南部の大和勢力から北部の大倭勢力へと、天皇の基盤の移動が起こる。
そのころには守旧派の武内宿禰も既に亡く、
慣例は放棄されて、兄弟間皇位継承などが普通に行われるようになった。
そのご、大和勢力はたびたび奪回を試みるも成功せず、
最終的に大倭を超えて、再び天皇が帰ってきたときには、
すでに第40代天武天皇の御世、飛鳥浄御原宮であった。
829 :
日本@名無史さん:04/04/21 19:29
>>826 つーか武内って姓だし宿禰って称号じゃん
徳川将軍が300年生きたって言ってるのと同じ
830 :
デマスキー:04/04/21 19:44
>>829 だから、ちゃんと読んでよ。
300年生きた、っていってるんじゃなくて、
記紀の歪曲性を取り除いてみるという企画の中で、
見えてきた武内宿禰という人物を言ってるの。
一人であるという説を支持して、
その中で守られた旧来の制度の
ハナシをしてるわけ。
例えば、子や自分の一代下にあたる皇族を太子として立てて、
皇位を継承させるとか。
計算の結果では、武内の命がだいたい70〜95歳なら、
景行から仁徳の時代を宿禰として努められるんだよ。
>>830 書き込んだ努力は認めるが
1から10まで妄想では説ではないし説得力ないし電波と同じ。
832 :
デマスキー:04/04/21 23:23
記紀らへんの年代整合性を見たのだけど。
イギリスの日本史のサイトには、次のようにある。
崇神天皇 219‐249
垂仁天皇 249‐280
景行天皇 280‐316
The Imperial Dynastics of Japanとかいうページ。プリントアウトしたが、URLが省略されてしまった……
833 :
日本@名無史さん:04/04/22 01:29
オタッキーな文芸部員につまらん同人小説見せられてる気分
834 :
日本@名無史さん:04/04/22 03:08
835 :
日本@名無史さん:04/04/22 03:21
邪馬台国から水路北行すれば投馬(丹波)
邪馬台国の隣がシマ(葛城)この別名は竹内だったかもね。
836 :
日本@名無史さん:04/04/22 04:02
吉野ヶ里付近ははその他の九州とは異なり
銅鐸、銅矛の両方がある。一方、丹後、籠神社
内行花文昭明鏡は吉野ヶ里近所からの出土が
おおい。この辺に吉野ヶ里の持つ特殊な意味がある。
投馬は薩摩だって
838 :
日本@名無史さん:04/04/22 12:13
邪馬台国=じんむの宮崎の皇居で
糸冬 了
839 :
日本@名無史さん:04/04/22 20:07
邪馬台国は当時先進地域だった九州を統一するためにできた国
九州内は
半島系北九州、反骨精神の熊襲、剽悍な隼人、江南系の西都原、
など玉石混合な乱世
九州を緩やかに統一した大王家系が(良き土地、対外的に防衛し易い)として東を征服。
840 :
日本@名無史さん:04/04/22 21:56
当時、九州が初期大和朝廷の母体だったからこそ
東は畿内、北は半島と版図を広げることができた
畿内独立政権では半島まで政治的勢力を広げるためには
瀬戸内、九州、半島と障害が多すぎる、それでいて畿内から東は未開というのもおかしい。
841 :
デマスキー:04/04/23 12:17
畿内より東方が未開なのは、宗教的意味かと思われる。
上代より、世の物事は神が関わっていて、国防もまた然りであった。
神功皇后に神が告げたように、神意は西方にあったか。
もしくは神護の考えから、伊勢以東には行かなかったかだろう。
842 :
デマスキー:04/04/23 12:33
というより、みなさんはどれなのですか?
T東遷はなかった(大和朝廷は単独で出現し、興隆した)
U東遷はあった(邪馬台国が母体であったからこそ、興隆した)
└@卑弥呼の死以前に東遷。
└A卑弥呼の死以後に東遷。
V東遷はなかった(邪馬台国は畿内にあり、大和朝廷になった)
私はU‐Aですが
843 :
日本@名無史さん:04/04/23 13:46
>>842 どれでもないな
邪馬台国以外の九州政権が東遷したと思う
844 :
日本@名無史さん:04/04/23 13:51
来年、九州国立博物館がオープンするけど、
中の展示室にヤマタイコク専用?のブースができるらしい。
この期に及んでまだ九州説を主張するか・・?
845 :
日本@名無史さん:04/04/23 14:07
>>844 では君の畿内説を聞かせてくれよ
このスレ読んでて九州以外にはありえないと思ったよ。
846 :
日本@名無史さん:04/04/23 14:24
つうか、国宝も重文もない博物館の価値自体を疑問視する。
847 :
日本@名無史さん:04/04/23 18:26
>>845 ではまず君が九州以外ありえないと思う根拠をカモン
848 :
日本@名無史さん:04/04/23 18:47
>この期に及んでまだ九州説を主張するか・・?
言い出しはこれだろう?
質問(
>>845)に質問(
>>847)で答えるのではなくて
九州ではありえない説を説明してくれよ
このスレには畿内説は見当たらないのでね。
849 :
日本@名無史さん:04/04/23 18:51
ヤマト国は朝鮮半島南端から九州に上陸し、瀬戸内海を渡って畿内へ進出。
もともと中部地方を支配していた大国主を倒して日本の覇者となったのだ。
ソースは口が裂けても言えないけどな。
850 :
日本@名無史さん:04/04/23 19:19
>>849 そう簡単には九州は陥落しない
弥生前期時代から天然の水堀玄海灘を挟んで大陸から安全を得てきた北九州
黒潮が最初に行き着く先の南九州
九州内で相当混血や国乱立や争乱の果てに統一政権邪馬台国ができて
その後に東遷、
畿内の天皇陵がソースだろう?掘ってくれないかな。政治的に無理だろうね。
851 :
大阪大学某教授:04/04/23 19:46
お国自慢の考古学はやめなさい。
山大国は絶対畿内なのである。
当選切など存在しない。
852 :
日本@名無史さん:04/04/23 19:56
いや、絶対九州なのである、理由?「絶対」だから。
853 :
日本@名無史さん:04/04/23 20:04
土器は食い物を表す。
からしめんたいこもとんこつも見るのもいやで、
奈良漬けと三輪そうめんが何より好きな博多人が大和を占領したとか
ひや汁は見たことがなく、茶粥しか食わん宮崎人がとーせんしたとか
まあ、好きなこと掻いてもいいが。
854 :
大阪大学某教授:04/04/23 21:33
あの阪大のバカ教授ってNHKの歴史で見る日本で
ヤマタイはヤマト=畿内である。
って国民を洗脳したやつ?
九州説を「お国自慢の考古学」とかいって批判したバカ。
あれ、マジでNHKに抗議したかったよ。
855 :
デマスキー:04/04/23 22:06
邪馬台国が畿内だろうが九州だろうが、
狗奴国は宮崎か鹿児島辺りで確実だろ?
856 :
日本@名無史さん:04/04/23 22:06
>>848 Part1からたまーに覗きにきてる者なんですが、
畿内説が見当たらないなんて事は決してないですよ。
むしろ纒向遺跡の発掘成果は畿内説に有利に…
というか畿内でFAぐらいの勢いなんでなかったでしたっけ?
あくまで現時点で≠フ事らしいですが。
もちろん反論もあるのでしょうが前々スレ(だったかな?)
の纒向から出土する土器をテーマにしたそのへんのくだりは
大変興味深かったです。
>>856 纒向の土器片を見て交易範囲が国家だったというここの畿内説は既に否定されています。
一部の基地害がネオ大和連合とかいう妄想世界で遊んでただけです。
スレの流れはたまに現れる妄想畿内説を学術的に理論的に否定する作業の繰り返し。
858 :
日本@名無史さん:04/04/23 23:36
おいらもたまーに覗き込んでる者ですが
確かに現時点では圧倒的に畿内説有利ですよ、考古学会も文献学会も。
但し、纒向=邪馬台国だとか箸墓=卑弥呼の墓とか言ってるのは極々少数。
無論上レスの八木説なんかは異端中の異端。
主流はやはり橿考研と奈文研が奇しくも一致した寺沢説なんでしょうな。
>>856同様、そのあたりを検証かつ補強していたあたりがこのスレの白眉だった。
古田説とか安本説みたいな過去に明確に論破された説
(反論はここ10年ほどの考古成果を調べてからにしてくれ)
を持ち出す阿呆が出没し始めてから、このスレはおかしくなってしまい
まともな論者が寄り付かなくなってしまった。
859 :
日本@名無史さん:04/04/23 23:43
>>857 そういうしたり顔で、とんでもない嘘をついてはいけない。
畿内中心の首長国連合が3世紀に存在していた可能性は極めて高い。
これがイコール邪馬台国だとは、現時点では言い切れないが。
実際、本屋でも図書館でも行ってみれば分かるが
まともな古代史論者でこれを否定する人は皆無である。
いいかげん見え透いた嘘はやめてくれ。
part2あたりの参加者が検証していた仮説を紹介しておく。
@基本的には畿内発祥の勢力との解釈(必ずしも畿内生まれでなくとも可)
A部族または首長連合が正体(UAE みたいなものか?)
B連合の理由としては経済ネットワーク、宗教統一、安全や平和への求心力、技術革新、大陸との交易権(鉄その他)、VS九州などが仮説。
C巨大化の過程として、軍事力、技術力、交易権などをちらつかせ、謀略と圧力で出来るだけ戦争を回避して勢力拡大したと考えられる。
D3世紀前半頃には、老舗の北九州勢力を圧倒し傘下においたか、少なくとも圧力を掛けていたと思われる。
E狗奴国については議論中。東海、近江、関東などの説あり。
F銅鐸消滅については、小部族祭祀から権力者祭祀へと変遷する過程で失われたものとの説あり。
あーあ、またループか、、、
>>860その仮説とやらは纒向を見て妄想を駆り立てられたのかね
土器片が経済ネットワークてか?祭壇かもしれない跡(未発掘)が宗教統一?
どこから「平和的求心力」とやらが解ったのか?
技術革新は西から来たんじゃないのか?
交易権?を争う?軍事力?肝心の武器は畿内から出てきたのか?
陰謀と圧力とか、見てきたような言い回しだね。
それと狗奴国はいつまであやふやにしているつもりだい?
>>861 これって多分、寺沢説をベースにした説だろうから
王権誕生を読めばそのあたりの答えは書いてあるよ。
つーか、もしかして君、懐かしの日食クン?
863 :
日本@名無史さん:04/04/24 01:08
>>861 狗奴国は現時点では位置を確定できないってのが結論だったんじゃねーか。
学問的には至極まっとうな意見だと思う。
古代史の解明とはまず発掘結果を基本に
文献上の真偽を問うことから始まるのだから
現在の時点では、これ以上は分からないだろうし
仮説の立てようも無いんじゃないかね。
864 :
日本@名無史さん:04/04/24 01:19
865 :
日本@名無史さん:04/04/24 01:39
歴史に詳しい俺の友達が邪馬台国は魏が作り出した仮想の国説を教えてくれました。
この説ってどれ位有力なんですか?良ければ教えてください。お願いします
866 :
日本@名無史さん:04/04/24 01:53
>古代史の解明とはまず発掘結果を基本に
だから「発・掘・結・果」からどうやって陰謀とか圧力とか解るんだよ
宗教的統一とか交易=大倭連合の統一とか、平和への求心力?発掘の成果か?。
867 :
日本@名無史さん:04/04/24 02:07
畿内説は考古学を冒涜してるよ
軍事力を示す出土物が出てこないのに
軍事的圧力とかいう仮説が何故出て来るんだよ?
発掘結果を元にした仮説じゃないから妄想と言われるんだよ。
868 :
日本@名無史さん:04/04/24 02:41
869 :
日本@名無史さん:04/04/24 03:00
>>867 その考古学が支持しているのは畿内説なのだが。
じゃあ聞くけど、発掘結果を元にした君の仮説をご高説願おうか。
870 :
日本@名無史さん:04/04/24 03:02
>>867 軍事的圧力というより経済的圧力によるものだという論調だったと記憶しているが
違ってたらスマソ
871 :
日本@名無史さん:04/04/24 03:05
>>865 倭国の実在はどうやら確からしいが、規模に関してはまだまだ不明。
100%架空というのは、ごく少数意見。
872 :
日本@名無史さん:04/04/24 03:27
>>869 質問に質問で答えて煙に巻こうとするのは畿内説も悪い癖だな
発掘結果を元にしているのは畿内説なんだろ
軍事的な出土物が無いのに軍事的圧力とは、これいかに?
祭壇跡か銅かもわからない状態で宗教的統一とは?
考古学が支持?考古学畑で纒向が邪馬台国なんて言ってる香具師いるの?
ジモト職員だけだと思うが・・・・
調べれば調べるほどあれは邪馬台国ではなかろう、という結論が今の最先端なんだよ
100以上あった地方王権の一つにすぎない。
873 :
日本@名無史さん:04/04/24 05:54
ふ・・ 無知だな
874 :
日本@名無史さん:04/04/24 06:11
>>872 威勢がいいな、坊主。
しかし相変わらず安本美典の受け売りなのはみっともないぞ。
お前、前も日食で突っ込まれまっくた挙句、捨て台詞残して逃げただろ。
文体で判るんだから恥の上塗りはやめなさい。ところで・・・
>調べれば調べるほど・・・
って何調べたんだよ、お前(爆笑)
どうせ「季刊邪馬台国」やら「邪馬台国畿内説を撃破する」なんだろ?
あれ読んでて、何かおかしいとは思わんのか?
俺はお前とは違う思考過程で、西部九州説なのだが
一緒にされたくないので、今後一切出てこないでくれ。
は っ き り 言 っ て と て も 迷 惑
875 :
日本@名無史さん:04/04/24 06:14
876 :
日本@名無史さん:04/04/24 06:27
>>874 あのさあ、こいつは相手にしないのがスレのローカルルールですよ。
前にも散々引っ掻き回して、スレを無茶苦茶にしていった奴でしょ、こいつ。
九州論者からもつまはじきにされてるのだから、無視でよろしこ。
>>876 必死に何を言ってるのか?
あのなあ、誰と勘違いしてるか解らないが
個人的には結論がどこにあろうがどうでもいいんだけど。
2chで無視しろって言ってる本人が無視できてないのは通説だよ。
ああ何を言っても無駄みたいだな。
どうして邪馬台国関連のスレはこうもキチガイが多いのか。
878 :
日本@名無史さん:04/04/24 07:34
>>844 848 857 861 866 867 872 875 877
このあたりが日食クンの再降臨かな?
それと
>>851と
>>854 は自作自演の失敗かな(笑)
君は論調やら改行のクセやら、言葉の選択やらに明らかな特徴があるんだよ。
いっそコテでやったほうが男らしいのじゃないか。
もしくは文章を勉強しなおすか。
次はもうちょっとがんばりましょうね(冷笑)
>>878 おまえ頭大丈夫か?
何しにこのスレに来てるのか知らないが、少し外の空気を吸え。
880 :
デマスキー:04/04/24 08:37
俺も九州説を支持。
畿内にあったとすると、倭国大乱の跡があるはずなのだが、
大和には高地性集落や戦没者と思われる埋葬者が少ない。
九州からは骨折・貫入痕のある骨や、一部の砕けきった遺体が
甕棺などから出土している。
これは戦没者の埋葬と見られる。
あと、免田式土器は大陸の金属器を模したものらしいが、
それはつまり大陸と交易できるに足る文化を持つ勢力がいた、
つまり、邪馬台連合の一部か、狗奴国あたりなんかな。
881 :
デマスキー:04/04/24 08:37
俺も九州説を支持。
畿内にあったとすると、倭国大乱の跡があるはずなのだが、
大和には高地性集落や戦没者と思われる埋葬者が少ない。
九州からは骨折・貫入痕のある骨や、一部の砕けきった遺体が
甕棺などから出土している。
これは戦没者の埋葬と見られる。
あと、免田式土器は大陸の金属器を模したものらしいが、
それはつまり大陸と交易できるに足る文化を持つ勢力がいた、
つまり、邪馬台連合の一部か、狗奴国あたりなんかな。
>>874 根拠の無い(言わない)説をレスされてもね(藁
883 :
日本@名無史さん:04/04/24 11:19
>>881 >九州からは骨折・貫入痕のある骨や、一部の砕けきった遺体が
>甕棺などから出土している。
弥生時代後期前半ぐらいまでのね。
邪馬台国から100年以上も前の話持ち出してもだめだって、何度言われたら理解するかね。
885 :
デマスキー:04/04/24 13:13
ゴメソまちがえた。
甕棺ではないや。
倭国大乱に比定される時代からは、
「矢を射込まれた骨、あるいは大腿骨がおられた骨といった、
戦死または戦傷を思わせる人骨は百例ぐらいでて」
いるとのこと。
墓にまともに葬られる人々が、これだけ戦死らしい状態を見ると、
相当の戦と思うのだが……
886 :
日本@名無史さん:04/04/24 13:49
いったい誰がそんな昔の遺跡を倭国大乱に比定してるんだ。
どっかのおばかアマチュアかな?
887 :
デマスキー:04/04/24 14:37
888 :
日本@名無史さん:04/04/24 14:52
デマが好きなんでそ
889 :
デマスキー:04/04/24 15:33
戦死者の出土の話は、森浩一氏の本より
890 :
日本@名無史さん:04/04/24 16:24
脳軟化の森浩か・・・
891 :
日本@名無史さん:04/04/24 17:02
「倭国大乱に比定される時代」て、具体的にいつのこと?
それを聞けば馬鹿かオールドタイマーかわかるべし
オールドタイマーに、1カノッサ!
神武天皇の息子たち、タギシミミ、ヌナカワミミ、ヤイミミって
耳の付く名が多いんだけど、日向市にある美々津に流れ込ん
でる「耳川」となんか関係あるのかね?
耳のつく名は神武の子ども以外ではそんなに出てこないん
だよなー。
だいたい耳川って名前はいつ頃ついたんだろう。
894 :
日本@名無史さん:04/04/24 22:28
>>860 >E狗奴国については議論中。東海、近江、関東などの説あり。
私は畿内説なんだけど、
狗奴国=熊襲
って言うのはどうして駄目なのかね?
関東はともかく、東海、近江に邪馬台国に対抗する武装勢力があったとは
とても思えないんだが。
熊襲=球磨、曽於
九州北部に魏に通じる邪馬台国があって、その南に
狗奴国=熊襲=球磨・曽於(南九州)があったって感じ?
音似てるよねー
896 :
日本@名無史さん:04/04/24 23:13
邪馬台国が北九州では同じ北九州に一大卒置く意味が無い。
邪馬台国が宇佐のあたりで、ちょっと離れた北九州に一大卒置いてたとか?
898 :
日本@名無史さん:04/04/24 23:48
子供の使いですか!
899 :
日本@名無史さん:04/04/25 00:56
北九州、一大卒が近いから駄目。
南九州、投馬国で駄目。
関西方面、論外。
となると中央九州しか残らない、西都原は皇居ということでおk。
900 :
日本@名無史さん:04/04/25 05:17
九州論者の威勢がいいな、だがな
考古学会では畿内優勢なんだ、今時九州説など流行らんから止めておけ(苦笑
それと皆さん奴が現れたら無視してくれ、奴とは日食厨の事。
脱線しているようなので基本に戻す。
@畿内発祥の勢力で首長連合
B連合理由
経済ネットワーク、宗教統一、安全や平和への求心力、技術革新、大陸との交易権VS九州
C巨大化の過程
軍事力、技術力、交易権などをちらつかせ、謀略と圧力で出来るだけ戦争を回避して勢力拡大。
D3世紀前半頃には
北九州勢力を圧倒し傘下においたか圧力を掛けていた。
E狗奴国については議論中。
F銅鐸消滅、
小部族祭祀から権力者祭祀へと変遷する過程で失われた。
901 :
デマスキー:04/04/25 07:56
>>900の言いたいことは、要は
「素人は妄想なんて語ってないで考古学者の言うこと聞いて指しゃぶってな」
って事だろ。
このスレの存在意義なくなったな。
糸冬 了
902 :
日本@名無史さん:04/04/25 07:57
九州論者はDが、あくまで「圧倒」したんであって「征服」したとは言ってない点に注意すること
903 :
日本@名無史さん:04/04/25 09:04
自ら素人と居直って妄想しか語らないところが九州説の限界だったな
904 :
日本@名無史さん:04/04/25 09:56
>>900 >D3世紀前半頃には
>北九州勢力を圧倒し傘下においたか圧力を掛けていた。
クナ国が邪馬台国で大和朝廷が邪馬台国って事?
>「素人は妄想なんて語ってないで考古学者の言うこと聞いて指しゃぶってな」
正論だな
906 :
日本@名無史さん:04/04/25 11:16
2chで必死に畿内説を唱える考古学者って誰だよ(藁
907 :
日本@名無史さん:04/04/25 11:52
己のカキコが素人の妄想だって事はちゃんと理解してたわけか…
908 :
日本@名無史さん:04/04/25 12:50
入れ食いだな(藁
909 :
デマスキー:04/04/25 12:55
とはいいつつ、みんなトーシロだろ?
学者は2chなんて腐れた場所にはこないだろ
910 :
日本@名無史さん:04/04/25 13:40
きみのばやいひどすg
911 :
日本@名無史さん:04/04/25 17:05
それでだ。
邪馬台国には天皇はかかわってるのか?
912 :
日本@名無史さん:04/04/25 17:23
卑弥呼、台与をめぐる騒動なんて、天皇家の皇位継承でしかありえない。
913 :
日本@名無史さん:04/04/25 17:53
2世紀の全般には古墳、鏡の日本列島における配置が発掘
によって動かしがたくなった。これは列島における高速道路
等の建設による遺跡発掘が進み一昔前の九州論の夢を無残にも
砕き邪馬台国が奈良県東南であることを確定的にした。
この奈良県東南部の纒向地方の邪馬台国建国は極めて
急激な新都建設であり、列島にはこれ以前にこうした地域
統一の経験は九州北部を除いてはなかったのではないか。
邪馬台国がどのようにして生まれたかの前史を考えるときに
九州の研究は不可欠であると考える。
914 :
日本@名無史さん:04/04/25 18:07
後漢から金印を貰い、属国となった漢の倭の奴国或いは伊都国
はその他の地方とは隔絶した「出島」であり、縄文以来の倭人は
列島全体を通じて均質であり、出島の出来事を眺めていたのであろう。
これを各地に広めたのは、マツラ、ムナカタ、スミヨシ、アズミ等の
海人族であったのだろう。倭国はどの部分でも中心部と成りえるほど
均質的な存在であり、三韓と魏の緊張が発生するやいなや大和に
シフトしたのであろう。
近畿に魏に通じる邪馬台国があって、その東に
狗奴国=毛野国(上野、下野)があったって感じ?
音似てるよねー
916 :
日本@名無史さん:04/04/26 00:27
>>915 上野、下野に狗奴国を語るそれらしい遺物は出てきたのか?
>915
あははは、似てる似てるー
言い回しまで俺そっくり。
素人なんでよく知らないんだけど、毛野国って上野・下野だったんだ。
基本的でスマソ。
毛野国を狗奴国に比定する論ってあるの?
そうそう、九州にも「上毛」「下毛」って地名あるね。これを毛野国という
かどうかはしらんが。
919 :
日本@名無史さん:04/04/26 01:48
たしかに考古学者で邪馬台国九州説を唱えるのは、与那国島の
海底遺跡とやらを認めるのと同じくらいの勇気が必要なことな
のだが
920 :
日本@名無史さん:04/04/26 02:03
921 :
日本@名無史さん:04/04/26 02:08
922 :
日本@名無史さん:04/04/26 06:28
923 :
日本@名無史さん:04/04/26 06:54
924 :
日本@名無史さん:04/04/26 07:01
http://homepage3.nifty.com/~bbf/27tour.html 青森の三内丸山遺跡と佐賀の吉野ヶ里遺跡はどちらも広大な敷地が用意されており、
将来が楽しみな遺跡公園である。やはり、100haくらいの広さがあると古代人の生活感が
伝わって来る。人口は何人くらい住んでいたのか、食料はどうしていたのか、木の実ばかり
では生きては行けまい、魚はどうして運んでいたのか、遥か遠くでしか手に入らない黒曜石
(こくようせき)や翡翠(ひすい)は誰がどのようにして手に入れたのか、めぐらせば想像は
限りなく広がり膨らむ。
925 :
日本@名無史さん:04/04/26 07:10
縄文の基軸通貨、黒曜石、弥生初頭の基軸通貨、ヒスイを握る諏訪の大神、タケミナカタは
敗者どころか倭列島の本来の神、タカギ(御柱)の神を祭るハウリであり、この伝統は青森
三内丸山より伝わり、吉野ヶ里に至っていたものであろう。全てをあべこべにしたのは渡来
文化にかぶれた弥生文化の担架者であったのだと思う。
926 :
日本@名無史さん:04/04/26 07:12
>>919 九州には3世紀の遺跡が一切ないとこうおっしゃるわけで?w
927 :
日本@名無史さん:04/04/26 07:18
残虐な殷/商の体制を逃れて列島に渡来した倭人は民主的、創造的、開放的な
縄文の神々に接し、農業、青銅器文明の残虐さに気付き、列島の神々を受け入れた
のであろう。思えば磐井、島原、西南等の国内戦争は中国の偏差値教育(科挙等)
文化が国の将来に災いをなすことを憂えた縄文人の生き残りの魂の戦いであったのかも
しれない。
928 :
デマスキー:04/04/26 08:41
科挙等の偏差値文化は魏から。
殷・周時代は完璧な封建制、つまり血族社会。
だから、殷期の渡来人が偏差値文化なわけがない。
929 :
日本@名無史さん:04/04/26 13:40
渡来系はヤンシャオ文明の外辺部にあったロンシャン及びその他
長江流域文明の系統であり、中原の漢とは異なるものであったと見たい。
なお、弥生時代の中期に山東半島辺から渡来したものも漢ではない、
周辺部族であったであろう。偏差値教育とは喩えが悪いが、組織化
社会、完璧な封建制であり、周辺諸民族はこれを嫌って新天地を
求めたものだろう。
930 :
日本@名無史さん:04/04/26 13:49
彼の孔子ですら中国社会は嫌いであったようだ。彼は当時の
ボートピープルの流れを明確に証言している。
http://www.asahi-net.or.jp/~eh6k-ymgs/book/furuta/kanjo.htm 孔子が、(中国において)道が行われないのを遺憾に思って、筏に
乗って東夷(=夷だけで東夷、九夷は「東方の多くの夷」という意味)
の地に行こうと言ったのは、理由があったのだろうか。
(そう! 理由があったのである。というのも昔から)楽浪郡の向こうの
海中に倭人がいて、百余りの国をつくっているのだが、彼らは定期的に
中国に貢ぎ物をもってきて、中国の天子への礼儀をつくしている、
といわれているからである。
931 :
日本@名無史さん:04/04/26 14:42
産經の八木が津田をフィクションと断定しますたが
932 :
日本@名無史さん:04/04/26 14:46
高城修三の紀年論ってどうよ?
幾多の紀年論の中では最も理が通っていると思うのだけど・・・。
933 :
日本@名無史さん:04/04/26 15:07
「畿内発祥の首長連合」の存在は認めるにしても
なぜ神話や文献上、九州にいちじるしい偏重があるのか説明して欲しい。
国譲りとは何だったのか、オオクニヌシとは何者だったのか、
崇神や景行や仲哀も神武の子孫であるはずなのに
なぜ崇神〜仲哀が全く九州と関わりがないような書かれ方をされているのか、
崇神や応神になぜ神武と同じ称号が与えられているのか
畿内連合は邪馬台国とは関係ない。邪馬台国は九州にあり、
畿内からの圧迫を打開すべく中国大陸に救援を要請したのだ。
畿内に存在した強力な連合は、
魏志倭人伝の「狗奴」でありまた、後漢書倭伝の「拘奴」であり、
また日本神話の「葦原の中つ国」であり、
天皇家の歴史においては、「崇神〜仲哀」紀のことである。
景行や仲哀の九州遠征は、畿内連合がいよいよ
九州に進攻したころの歴史的事実を反映している。
(卑弥呼のモデルらしき女酋も登場する)
934 :
日本@名無史さん:04/04/26 15:34
九州に庄内式土器や前方後円墳の入るのが時代的に最も新しく
そのころ収録された九州地方のリッチな神話が多くの古い神話に
入れ替えて記紀のの素材となった伝承の中で重点的に取り上げ
られるようになったというのがおそらくその原因ではないか。
935 :
日本@名無史さん:04/04/26 15:40
ゲテモノ、グルメ嗜好の縄文パラダイムがベジタリアンでフランス料理、
京風薄味的弥生パラダイムによって神話的にも淘汰が行われた、すなわち、
後世、仏教伝来による食文化のベジタリアン化があるが、これに似たような
ことがあったことも想定できるんじゃないか。
936 :
日本@名無史さん:04/04/26 16:00
出雲に国譲りの要求の使いが行くと交渉相手の神が筑紫に
出張しているという話があるが、国譲り命令は近畿のヤマトにあった
高天原から出ているようだ。民主的な全国首長会議によるのではなく
近畿地方の首長会議で決定したことを押し付けていたのかな。
937 :
日本@名無史さん:04/04/26 16:26
神武、崇神、景行等には長征の話が出てくるので古代においてそんな
ことをする実体があったのかと思わせる。陸上部隊が中国、朝鮮のような
ところで戦争をするようなことは5世紀、倭の五王あたりからでなかろうか。
古代においては海人族の覇権争いはあったと思うが、多分に宗教的な
ものであり、そんなに激しくはなかったのではなかろうか。日本海系が
独占していた貿易ルートに瀬戸内海系が入り込むというのが神武の
意味だろう。瀬戸内海が統一され、邪馬台国と魏の通交の前提条件が
作られた時代のサーガだろう。
938 :
最新の畿内説:04/04/26 20:41
古代日本は纒向を中心とした緩やかな宗教国家であり東は関東から西は九州までの経済ネットワークを持っていた
海(琵琶湖)を挟んで狗奴国(毛野国=上野下野?もしくは中京東海地区)とは戦争状態にあり
交易権をちらつかせ九州を軍事的圧力に置き九州までの領域の正当性を主張するために記紀で九州を重要視した(高千穂)
939 :
日本@名無史さん:04/04/27 01:30
>>933 >なぜ神話や文献上、九州にいちじるしい偏重があるのか
今後の発掘成果待ちの仮説だと前置きして。
畿内連合の最終的な支配者が、九州出身なんじゃないかな。
当初、吉備や畿内勢力が中心となって形成された畿内首長連合だが
九州の参加後、ある時期に九州出身の首長が政治的権力(軍事力含む)を握って
連合内での権力が突出したと考えてみてはどうだろうか。
これなら国譲りやオオクニヌシなども説明がつくだろう。
その「ある時期」が正直確定できないのだが
ワカタケル大王や応神天皇、はたまた継体天皇以降のもしかして天武天皇かも知れない。
記紀が何かしらの恣意的意図を持って作成されているのは、大なり小なり同意して貰えると思うが
どこが捏造で、どのあたりが史実を反映しているかは今のところ全く不明なので
仮説というより想像にすぎないのだが、一応の説明にはなるだろう。
940 :
日本@名無史さん:04/04/27 01:50
記紀にしても風土記にしても、天皇の出自に関する記事の内容って
奴や伊都から連綿と連なる九州王の系譜とは、どうも別だと言いたいようだね。
それを神武、崇神と時代を経るたびに支配力が強固になり
やがてヤマトタケルにおいて九州全島を傘下に置いたというストーリー仕立てだね。
その後の岩井の乱とかは、あくまで反乱として扱ってはいるが実際は分かったものじゃない。
大和朝廷が自分達の歴史書に「出自は魏史に云う『邪馬台国』とも『狗奴国』」とも書いていないのは
そのどちらでも無いからではないか。
あくまでも傍流だった天孫族が、邪馬台国の時代以降に連合の王位についたからこそ
そういった歴史ブランドの名前を出せず、日向とか高千穂のような新興地域から
名前をひっぱってこざるを得なかったとの考え方はどうだろう。
941 :
日本@名無史さん:04/04/27 02:23
弥生時代の日向は人口多い、とても新興地域とはいえない
もう一度勉強し直してこい
942 :
日本@名無史さん:04/04/27 03:26
狗奴国は一国(一箇所)だけなのだろうか?
邪馬台国を盟主とする邪馬台国連合と
それに敵対する狗奴国連合(熊本、熊野、木の国、毛野)
945 :
日本@名無史さん:04/04/27 11:45
福岡熊本戦は弥生初期の縄文弥生対立構造であり、常習的なものだろう。
1000年もやっているんだからマンネリ化が進んでおり、どちらかといえば対立は
ほぼ解消していたのではないだろうか。暦博の資料では甕棺等の流れも
福岡から熊本方面にスムーズに流れるようだ。
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/kyushu/kamekan.html#3 話を変えるが、弥生文化の発信基地は背振山脈東南部にあり、古代裏日本の
宗像(ウナカタ=海の衆)、安曇(ワダツミ)等がこれを燧灘経由各地に分配していた
のが、魏倭通交時代に海人族が日向から熊野灘、伊勢湾を制する新興海人族、
これは多分スミヨシ系と思うが、これに制海権を奪われた、というか大陸での
公孫の魏への敗退に関連したシフトを変えたものと見る。神武サーガとはこれを
記念した海人族の儀式用の物語であろう。
946 :
日本@名無史さん:04/04/27 12:24
魏の仮想敵としての狗奴国は魏の国家資産をふんだんに倭国に
援助に出すことを正当化する、すまり、為政者に対する説得性を
持つ規模でなければならず、近江の寒村だけではなさそうだ。
魏が恐れるのは呉、蜀との倭国南部を通じた合従連衡だ。ここに
なぜ魏志倭人伝が邪馬台国は狗耶韓国の南方であり、その背後に
狗奴国がいるとした皇帝説得のための報告書を作成し、ヒミコへの
鏡供与を正当化したかのなぞを解く鍵がある。こうした中、倭国としても
九州南部に熊襲もいることだし、魏使にたいしては都合のいい説明をした
ことは当然であるが、更に、いえることは九州南部、特に、沖縄、南西諸島
については倭国も魏使と全く利害関係を共にし、同時に、国土の東北部にも
同様の政治不安を抱えていたのであろう。
947 :
895,917:04/04/27 20:43
>>942 >>毛野国を狗奴国に比定する論ってあるの?
>ぐぐったらけっこうある
うわ、ほんまや。
結構はまって読んでしまった・・・
ところで、九州内には畿内だけでなく関東以西の地名と同じものが
結構揃っているそうですね。
毛野国を狗奴国に当てる説は戦前からあるよ。
ただ、考古学的には毛野国の全盛期は古墳時代だから
邪馬台国の時代とはずれるのがやや弱点。
949 :
日本@名無史さん:04/04/27 21:43
別のスレで見つけた
>邪馬台国を台湾語(昔の呉の発音にちかい)で発音すると、シャ・ベィ・イッ・クオッ【邪馬壱(ヒのかわりに豆)國。これが魏志倭人伝漢字】となるんだけど、太宰府のちかくに斜辺井(しゃべい)という地名が昔あったよ。(いまは町名変更されて、ない)
卑弥呼とか、狗奴国とか、卑弥弓呼とか、中国語で発音するとどうなるのかね?
中国語知らないのでだれか教えてー
950 :
日本@名無史さん:04/04/27 22:51
>>949 対馬国や一支国がほぼ音韻とおり表記されている点からして
中国語読みにこだわる必要はないと思う
Americaをアメリカと発音しても元のニュアンスをそう損なわないのと同様に
まさかDatchをオランダと読むほどの誤差はないだろう
951 :
そろそろ次スレか♪:04/04/27 23:03
と言う事で、今のところどんな説が有力候補に挙がってるんだろうか。
北九州説では
@筑後郡山門説 A甘木説 B宇佐説 C博多湾沿岸説
中部、南九州は
@西都原説 A阿蘇山付近説 B日向説
畿内だと
@纏向説 A三輪山近郊説(非纏向説) B山城説
他には
@鯖井(福井)説 A阿波(四国)説 B沖縄説 C青森(三内丸山)説
こんなところかな
952 :
そろそろ次スレか♪:04/04/27 23:14
大和朝廷との関係は
畿内説
@そのまま大和朝廷に移行
A母体こそ邪馬台国だが、王家(天皇家)は何度か断絶している
九州説
@邪馬台国が畿内に東遷
A邪馬台国以外(狗奴国など)が畿内に東遷
B九州王国(邪馬台国)と畿内大和朝廷の並立
C邪馬台国滅亡
最近では上記項目の複合要因説
@畿内連合に九州連合が参加(主体がどちらかは各論あり)
A連合後のもっと後の時代に政権(天皇家)交代が繰り返された
がポピュラーなようだが
953 :
そろそろ次スレか♪:04/04/27 23:24
記紀解釈については、大まかに
@史実をベースにして神話や故事が語られている
しかし
Aそのまま史実どおりの流れとは考えにくい。多種のエピソードの複合産物。
B改竄や捏造が多く、資料性に乏しい
などの説も無視できない
これも最近では
Cどの箇所が捏造でありまた改竄か検証し、ふるいにかける形で資料的価値を高める
これが主流かな。ふるいのかけ方によって仮説と電波に分かれるが。
955 :
日本@名無史さん:04/04/28 01:06
ばかだなみんな 日向とくに都城がヒミコの本拠。
魏から海路をはるばるいくルートを逆換算してみろ。
まあ日本書紀、古事記も見るべし。
そもそも大和朝廷の中枢のメンバーが古代朝鮮を追われて九州へ逃れ、
追っ手が来やすい福岡でなく反対側の日向に定住した経緯を考えろ。
ばっかもーん
>>954 どうなんだろう?
一応倭人伝をそのまま読むとのコンセプトにおいては
至極まっとうな説なのだが、もしあれが正解なら
そこで議論が終わってしまう
もう畿内派で語れる事は語り尽くされ反論出尽くした感がある
今や畿内派は拠り所に太陽信仰とか言い出してる始末。
次スレは九州説と主題にそれに質問する形式でいかないか?
馬鹿の一つ津覚えの考古学の権威云々言う香具師は放置ということで。
958 :
日本@名無史さん:04/04/28 01:23
畿内説と九州説があるということは、
どっちかが大嘘をついているということだな。
>>957 語り尽くされたという意見はやぶさかではないが
「大洋信仰」なんて持ち出してる奴は一人か二人で
しかも同じ畿内説に否定されていたんじゃない?
畿内説が考古成果を主体に展開しているのを無視することは出来ないよ。
そうじゃないと地名人名の語呂合わせに終始していた昭和40年代に逆戻りだ。
今までどおり両説併記でいいんじゃないか。
>>958 どっちかがっつーより、まだはっきりと判らないだけだよ。
ジャワ・スマトラ説だって人気がないだけで、論旨そのものは否定できないんだ。
960 :
日本@名無史さん:04/04/28 01:44
せっかく九州王朝スレが復活したんだから、住み分ければイイ
互いに否定し合う展開はそろそろ飽きた
傍観者の立場としては両スレを見比べて判断したいyo
だからさー。畿内説onlyスレと九州説onlyスレを並列させようよー
畿内説専門すれもいいが
畿内説は純粋に嘘と思ってるから嘘を広めようとする畿内説スレは当然論難される
963 :
日本@名無史さん:04/04/28 03:16
狗奴国とは固有名詞なのだろうか?
「狗」 狗耶韓国=カヤ、カラだから語頭の狗の発音は「カ」
「奴」 邪馬台国諸国の語末に多数表れることから「奴」は助詞の「ノ」の古語「ナ」(まなこ→目の子)
狗奴国とは「かのくに=彼の国」
964 :
日本@名無史さん:04/04/28 03:27
>>962 あんたが思ってるだけじゃ全然説得力無いのだが。
それはともかく粘着だけはカンベンな。
>>963 他の国名(華奴蘇奴国とか)もそれで説明できるかな?
奴国などは助詞だけになっちゃうよ。
九州説onlyスレって、九州王朝スレと別なのか同じでいいのかで
またモメそうだな
>>964 語末の「奴」が助詞
彌奴國
姐奴國
蘇奴國
鬼奴國
烏奴國
狗奴國
(華奴蘇奴國)
>>963 当時の倭人が「かのくに」など言わない、直接敵対している国の名前くらいある
クマ国(熊襲国)と敵対していると言っていたのを狗という当て字を使ったのです。
968 :
日本@名無史さん:04/04/28 07:08
3世紀前半は九州に遺跡がなく近畿地方に遺跡が集中している。それらの
遺跡の建設に当たっては相応の民力が存在したわけだ。鏡の分配構造を
みても近畿が中心になる。こうした考古学的事実の背景を古代文献で探ろう
とするのがこのスレの趣旨であり、古代文書の内容を信じる、信じないという
のは別次元の論理であるが、全く意味のないことだと思う。
>3世紀前半は九州に遺跡がなく近畿地方に遺跡が集中している。
どうして嘘付くのかな?
970 :
日本@名無史さん:04/04/28 07:21
近畿に遺跡が集中する前に九州北部に王国のような伊都国、奴国が
存在しており、近畿地方で国作りが始まる際には唯一のモデルでと
なったはずであるがそれを伝播させたのは陸上通行は亜熱帯未開地
のように困難があるために、多分海人族であったのではないか。
971 :
日本@名無史さん:04/04/28 07:23
反論が許されない真実は嘘ではない。事実がない場合には
反論ができない。
972 :
日本@名無史さん:04/04/28 07:29
要するにヒミコの時代になって近畿が中心となったのだがそれ以前は
九州の筑後にどうも邪馬台国のようなものがあったらしい感じがする。
これって考古学的にもいえてるんじゃない?
973 :
日本@名無史さん:04/04/28 07:37
しかし、後漢から金印を貰っていた筑前があるのになぜ筑後
に邪馬台国があったのかが不思議だ。これは自分の意見だが
筑後にあったのは高天原、すなわち、列島のある時代の司令塔、
本部のようなものじゃなかったのかな。要は、東京と横浜の関係
で言えば筑後が東京、筑前が横浜ってナ感じ。
974 :
日本@名無史さん:04/04/28 07:49
して、その九州邪馬台国が近畿邪馬台国になったのは
人間の移動が若干あったがほとんどは近畿で巨大な
奈良、大阪の内海が農地となったことに関連する食糧
供給増に直接関連する人口の自然増加と九州地方は
台風、火山等の制約による自然減じゃないかな。
975 :
日本@名無史さん:04/04/28 08:11
そして、九州は火山噴火と台風でで人口が0になり
巨大で豊かな近畿が大阪平野の農作物で巨大になった
巨大になった近畿は無人の九州を魏との話し合いで接収した
こうして北は東北から南は九州までの統一国家ができた。
976 :
デマスキー:04/04/28 08:22
最強の反論、それは
そんなのお前の思い込みじゃないか(ワラ
資料の分析も結局は個人の判断からだしな
977 :
日本@名無史さん:04/04/28 08:31
978 :
日本@名無史さん:04/04/28 08:38
>>977 立てたよ、
マキムク厨がウザイのでマキムクは消しておいた
979 :
日本@名無史さん:04/04/28 08:53
まきむくぅ
邪馬台国連合=北部九州・出雲
狗奴国=日向・四国
熊襲=南九州・琉球
邪馬台国との冷戦が狗奴国との連合という形で収束
王に日向出身の部族を据えるが、反乱が出雲などで
起こったためにこれを鎮圧。
豊後は?
983 :
日本@名無史さん:04/04/28 19:38
963-967
>華奴蘇奴国
華の蘇の国
華に従う(包括される)ところの蘇という国という意味か?
>漢倭奴国
金印の文言「漢倭奴国王」について、以前、中国が朝貢国に下賜する印には、
普通は「国」の字を付けないのだが・・・・という意見があった。
「親魏倭王」についても実はそうだ。
奴国にたいしてだけ「国王」という尊号が過大だというのだ。
もし、「奴国」が「〜のクニ」という程度の共通語尾だったと考えたらどうだろう。
少なくとも日本では「○○奴国」という言い表し方があり、中国の方でも、
「倭奴国」までを固有名詞と認めて最後に「王」をつけて下賜してくれた・・・・。
984 :
日本@名無史さん:04/04/28 23:46
>>983 韓半島南部の国を現す語「羅=ラ」にあたる倭語が「奴国=ナコク」で
邪馬台国に出てくる奴国は「○のくに」の○の部分の省略形かな?
もしそうなら北九州の奴国と2回目に出てくる奴国は
「○のくに」と「△のくに」の省略形で別の国になるね。
985 :
日本@名無史さん:04/04/28 23:57
えちごや(越後屋)、たんばや(丹波屋)、きのくにや(紀伊国屋)
中国人はエチゴ国の店、タンバ国の店、キノクニ国の店と記述する?
まきむく
つか、巻向って唐古池から歩いて一時間程度なんよな。
王朝交代とか征服とか考えるよりもさ、
経済構造の変化による文化遷移と考える方が自然なんだよねー。
奈良盆地の地理感覚なくして、無闇に畿内の古代を語っちゃいかんよ
琉球は関係ない。
988 :
日本@名無史さん:04/04/29 00:31
未だに邪馬台国ですかw プゲラ
邪馬@国だって言ってるでしょ!
やまいち
とにかく三世紀前後の日本の諸事象を地道に調べるしかないでしょ。
まきむくや西都原が謎の鍵なのも間違いない。
厨や電波なんて主観的判断じゃねぇのか?。ただし煽りは無視したいよな。
990 :
日本@名無史さん:04/04/29 11:17
日本人が発した国名を中国側が
「の」は音写して奴、「くに」は意訳して国と書き取ったとすると
邪馬台国は邪馬台奴国となりそうだが
991 :
日本@名無史さん:04/04/29 15:58
伊都国の九州は異論ないだろ?
代々、邪馬台国に属してたって事は、少なくとも1、2世紀ぐらいから伊都国は
邪馬台国に属していただろうと思われる。
その頃の九州と畿内では、明らかに九州のほうが栄えていたにもかかわらずだ。
つまり、邪馬台国は1、2世紀に東遷したと考えない限り、辻褄が合わない。
考古学者の言う、邪馬台国畿内発祥は全然納得できないんだが。
現在の考古学的状況から見て、邪馬台国畿内説は否定できないとは思うけどね。
992 :
日本@名無史さん:04/04/29 16:00
>>991 ×伊都国の九州は異論ないだろ?
○伊都国が九州にあったのは異論ないだろ?
993 :
日本@名無史さん:04/04/29 16:15
奴国による九州統一
↓
九州の一部勢力が畿内に東遷(邪馬台国成立)
↓
倭国大乱により、伊都国、邪馬台国等による邪馬台国連合成立
↓
女王卑弥呼が即位
994 :
日本@名無史さん:04/04/29 16:37
考古学者は「徳川幕府は関東発祥」と言っているのに等しい。
徳川幕府ってどこ発祥なの?
996 :
日本@名無史さん434・435:04/04/29 20:55
>>860や
>>900で挙げられている項目は、日本史板@2ちゃんねるにて
「大勢の参加者」が論議した「成果物」をまとめてくれているのであって、
「誰か一人の意見ではない」ということに注意すべきです。
「私はこの意見に対して〜思う」という受け答えならわかりますが、OO
(あえて伏せ字)な質問はよろしくないと感じております。くれぐれも、
国語の勉強を先にされた方がよろしいかと思われる方は、ご注意下さい。
997 :
日本@名無史さん434・435:04/04/29 20:58
ハンドルの数字は気にしないで下さい。他スレで使った数字です。
それと、レスを書いている間にログが進んだようです。というか
日にちも違うのかな?
ごめんなさい。みなさん気にせず論議して下さい。
どうかしていました。
999
1000
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。