1 :
日本@名無史さん:
とりあえず、不輸・不入の権
2 :
日本@名無史さん:04/02/25 16:57
とりあえず2get
今は「荘園公領制」といわれているね。
4 :
日本@名無史さん:04/02/25 21:43
自墾と寄進
焼肉
学問的には重要なテーマなんだけど
やっぱり、語ることないのかなぁ。。。
とりあえず、下地中分
7 :
日本@名無史さん:04/02/28 12:45
負田と寄人
荘園は元々別荘の意味
9 :
日本@名無史さん:04/02/28 12:47
網野さん死んじゃった
10 :
日本@名無史さん:04/02/28 12:52
不倫不入の件
11 :
日本@名無史さん:04/02/28 20:14
期待しているんですが・・・
地頭っていまいちよくわかんないんだよね。
13 :
日本@名無史さん:04/03/02 20:29
どういう機能があったのか・・・
14 :
日本@名無史さん:04/03/02 20:48
泣く子が地頭になった。
あのさ、源実朝が死んだあと、源家の財産(荘園とか)は誰が相続したの?
>>15 源家ってなに?
とかいう意地悪はいわないとして。
直接相続したのは「禅定二位家」すなわち北条政子と考えられます。
>>16 てことは、北条政子が死んだら北条氏のもちもんになったの。
源家でもっていたんでなくて、源実朝名義だったてこと?
参考書だと関東御領=源家相伝領+平家没官領+京都方没官領てなってたんで。
もうわけわからん。
なんか荘園に関してもっと詳しくて分かりやすい本おせーてください。
おねがいします。
>>17 専門書で良いのなら、、、
永原慶二『荘園』(吉川弘文館)
阿部猛編『荘園史用語辞典』(東京堂出版)
『講座日本荘園史』(吉川弘文館)
『日本荘園史大辞典』(吉川弘文館)など
>>17 >てことは、北条政子が死んだら北条氏のもちもんになったの。
北条政子は「北条氏の息女」ではなく、
「故右大将家室」もしくは「故将軍家母」という立場に基づいて、
実朝の地位と財産を相続したと考えられます。
よって、北条政子が死んだら、いわゆる摂家将軍であり、
「鎌倉殿」の地位を継いだ藤原頼経(まだ幼児だから三寅と呼ぶべきか)
のものとなったと考えられます。
>源家でもっていたんでなくて、源実朝名義だったてこと?
「源家」って言い方はしません。当時の「家」制度にかんがみて
もっとも異論が少ないだろう、という言い方をすると「右大臣源実朝家」ですね。
これも実朝は右大臣になったその拝賀の際に殺されてますから、微妙です。
>参考書だと関東御領=源家相伝領+平家没官領+京都方没官領てなってたんで。
その参考書は『岩波日本史辞典』の「関東御領」の項を参考にしたと思われます。
つーか、そのまんまです。わかってる人間が見たら間違ってない文章ですが、
確かにわかりにくいと思います。
>もうわけわからん。
ご心配なく。関東御領の全貌がわかってる人は世界中さがしてもいません。
(「俺はわかってるぞ」と主張する人はたくさんいますが)
荘園についての本ですか。とりあえず入手しやすいものとして、
『新体系日本史 3 土地所有史』(山川出版社、2002)を挙げておきますが、
「わかりやすさ」も「詳しさ」も中途半端な感がありますので、
どなたか補完願えればありがたいです。
>>18 『講座日本荘園史』(吉川弘文館) って調べたら、全10巻もある…
日本荘園史大辞典もみんな検索したら近所の図書館にあるみたいなんで、
とりあえず挑戦してみます。
>>19 参考書は受験用のものでもらったもんです。
だめっすねこんなんじゃ。
といっても何から手をつけていいのやらさっぱり。
『新体系日本史 3 土地所有史』もあるみたいです。
というか、一点所蔵、予約なし、在庫ありなんで借ります…。
21 :
日本@名無史さん:04/03/10 21:31
土地と邸宅は女が承継する
22 :
日本@名無史さん:04/03/12 20:48
>>21 短いレスながら、感服仕りました。
そうですよね、八条院領とか長講堂領を考えればわかることですよね
23 :
日本@名無史さん:04/03/12 23:44
アミーゴの「日本土地制度史の研究」はダメ??
24 :
日本@名無史さん:04/03/30 13:34
>>23 『日本中世土地制度史の研究』のこと?
網野さんの荘園公領制の研究は基本中の基本だよ
荘園の本読み増した。
永原慶二『荘園』(吉川弘文館)がよかったっす。
教科書や受験参考書の疑問は大方解けました。
『日本荘園史大辞典』(吉川弘文館)は
暇時間に読むのはいい感じでしたが貸し出しは禁止だし重いし。
『新体系日本史 3 土地所有史』は法制史の面が強く
ちょっときつかった。
26 :
日本@名無史さん:04/04/24 12:22
最近出た『中世荘園制と鎌倉幕府』の評価きぼん
27 :
日本@名無史さん:04/05/17 19:04
age
>>26 最先端の荘園研究。
しかし、川端さんが生きていれば、、、
29 :
日本@名無史さん:04/05/21 22:25
アミーゴセンセの偉業を称えて保守
30 :
日本@名無史さん:04/05/21 22:31
黒田日出男先生って大御所?
31 :
日本@名無史さん:04/05/21 22:53
32 :
日本@名無史さん:04/05/21 22:54
吉田敏弘先生は?
33 :
日本@名無史さん:04/05/21 23:23
ねぇ
34 :
日本@名無史さん:04/05/24 19:03
中世初期(平安末〜鎌倉初)あたりだと、起源が墾田地系荘園なのって全体の何%くらい?
35 :
日本@名無史さん:04/05/25 01:06
日本 唐
荘園≒営業田
という理解でいいの?
36 :
日本@名無史さん:04/05/26 00:18
ねぇ
37 :
日本@名無史さん:04/05/26 00:43
高野山関係の本を読んで知ったんだけど
中世の土豪って次男・三男を高野山に入れてるんだよね
坊主にするんじゃなくて事務を取り扱う堂衆にする
それで年貢を厳しく取り立てたり上がった年貢から
地主(土地の所有者じゃなくてその土地の世俗的支配権を持つ者
=堂衆の実家である土豪)に常識外れなほど多額の謝礼を出したり
38 :
日本@名無史さん:04/05/26 00:46
歴史地理学って2ちゃんでは地理版なの?
日本史板だよ。
地理板はGIS色が強いからバカにされるよ
41 :
日本@名無史さん:04/06/13 22:32
あげ
42 :
日本@名無史さん:04/07/15 19:15
age
43 :
日本@名無史さん:04/08/09 13:24
age
荘園って、初期荘園も入るんだょね?テストの時に、問題用紙にふざけて「初期荘園」って
書いたし。しかも、先公にバレなくてホントよかったぁw
45 :
日本@名無史さん:04/08/26 19:25
age
46 :
日本@名無史さん:04/08/26 22:09
荘官と庄屋の違いもわからないさ
47 :
日本@名無史さん:04/09/07 08:56
age
48 :
日本@名無史さん:04/09/07 10:12
武士ども、荘園を返すでおじゃる!
49 :
日本@名無史さん:04/09/08 12:41
勉強不足ですいません。
関東平野の荘園の現況調査報告書で、今、入手できるものについて
ご存知のかた、教えていただけないでしょうか。
50 :
日本@名無史さん:04/09/08 12:49
>49
荘園があった場所の事かな?
現況調査・・・といっても、たぶん、荘園はないと思う。
>>50 レスありがとうございます。
そうですか、関東ではあまり荘園現況調査って
やってないんですね。
52 :
日本@名無史さん:04/09/29 19:25:47
age
53 :
141@名無史さん:04/09/30 16:38:37
>>50 関東でも、全体の半分近くは荘園だったはず
足利荘とか新田荘ってのは聞いたことある?
54 :
日本@名無史さん:04/10/05 20:01:56
教えてください。
荘園公領制がイマイチわからないのですが、分かる人いますか?
55 :
日本@名無史さん:04/10/05 23:50:30
国衙領の実態が荘園と類似している態勢というべきか。
ナガハラ先生の本で勉強すると良い。
あれ、荘園公領制は網野先生の説だっけ?
56 :
日本@名無史さん:04/10/07 17:13:26
1番有名な荘園ってどこだろか
57 :
日本@名無史さん:04/10/09 02:51:08
荘園制と条里制を比較するとどっちがいいのかな?
58 :
日本@名無史さん:04/10/09 17:48:05
比べるようなもんじゃないと思うが
59 :
日本@名無史さん:04/10/09 20:58:03
渡辺澄夫
60 :
日本@名無史さん:04/10/10 02:02:09
>>54-55 量的にも質的にも荘園と公領が拮抗しているという面もあるけど、
その実態から、荘園は単なる私的所有ではなく、国制の範疇で捉えるべきだ、
という議論が荘園公領制のキモだったのではないかと。
もっとも最近では荘園公領制概念も相対化する段階にあるようですが。
ちなみに最初に主張したのは網野さんですね。「荘園公領制の形成と構造」
という論文(『土地制度史T』、山川出版社)で登場したとか。
これ1973年なのね。意外と新しいんだと驚きました。
61 :
日本@名無史さん:04/10/10 02:28:41
62 :
日本@名無史さん:04/10/26 00:39:27
63 :
日本@名無史さん:04/11/12 20:14:53
age
64 :
日本@名無史さん:04/12/01 15:29:04
保守
65 :
日本@名無史さん:04/12/02 05:15:23
島津庄が大きい荘園だった、てのは学校でまなんだ。
66 :
日本@名無史さん:04/12/02 05:25:17
(続き)石母田正氏の『中世的世界の形成』は、戦後歴史学の
一つの到達点でもてはやされた(黒田庄)。
しかし、年よりの先生によれば、「戦前に既に黒田庄について
研究した人がいて、それらの研究成果を元に研究されている」
ということで、騒ぐほどの内容ではないらしい。
石母田氏は思いっきり「左」の人だから、マスコミ、進歩的文化人
に過度に褒められすぎたと言える。
67 :
日本@名無史さん:04/12/03 00:26:09
石母田さんの研究そのものはともかく、以後60年に亘って構築してきた研究成果は
やはり石母田さんの研究をベースとしているわけで、その点からすれば
石母田さんに対する評価がそれほど不当なものだとは思いませんがね。
あと、世に問うた時期(1946年)を考えれば、「到達点」というより「出発点」と言った方が
妥当のように思いますが。
68 :
日本@名無史さん:04/12/09 05:22:20
歴史学者にもいろんなタイプの人が居る。
全国の守護の来歴を網羅して前人未到の研究をした佐藤氏。
鎌倉時代の文書を全部集めようとした竹内氏。
これとは反対に、先行研究に新史料、新解釈をほどこして学位を取る人もいる。
残念ながら、後者のタイプが多いのが現在の歴史学者。
69 :
日本@名無史さん:04/12/29 21:10:39
保守
70 :
日本@名無史さん:05/01/15 08:49:23
age
71 :
日本@名無史さん:05/01/16 15:39:34
>>68 >先行研究に新史料、新解釈をほどこして学位を取る人
これの何が「残念」なのか理解できない
つーかお前学位一つとれないアフォだろ
ひがみはみっともないぞよ
72 :
日本@名無史さん:05/01/16 19:54:05
部外者に対しては高慢に振る舞い(強烈な選良意識)、
師匠筋には卑屈に媚びへつらう(奴隷根性、出世願望)、
その証拠に師匠筋の研究者が死んだら、とたんに手のひらを返す態度をとる。
師匠筋の著作集くらい出版すればいいのに。
研究生活やっているなら、思い当たることあるんじゃない?
>>72 私の師匠に似てるなあ。私の師匠は自称聖人君子だけど。
一つ、気に食わない弟子に嫌がらせして、憂さ晴らし。
一つ、恨み嫉みが透けてみえる他人の悪口、撒き散らす。
一つ、経歴詐称は慣れたもので、誰がみても常習犯。
74 :
日本@名無史さん:05/01/21 00:10:43
荘園保守
75 :
日本@名無史さん:05/02/04 20:16:03
age
76 :
日本@名無史さん:05/02/21 20:08:05
保守
77 :
日本@名無史さん:05/02/21 23:10:21
祝『講座日本荘園史』完結。
78 :
日本@名無史さん:05/02/21 23:24:53
指導教授よく「この問題に関して○○先生は
こう言っておられました」って言ってたなあ
内心「○○先生の考えはもうわかったから
あんたはどう考えてんだよ」って思ってた
前教授の覚えめでたい人が次の教授だからね
79 :
日本@名無史さん:05/02/21 23:27:30
そのまんまの院生も良く見たよ。
80 :
日本@名無史さん:05/03/07 17:47:01
保守
81 :
日本@名無史さん:2005/03/23(水) 19:02:29
age
82 :
日本@名無史さん:2005/04/08(金) 12:47:28
age
83 :
日本@名無史さん:2005/04/27(水) 20:51:42
保守
84 :
日本@名無史さん:2005/05/09(月) 19:40:49
85 :
日本@名無史さん:2005/05/24(火) 12:57:03
age
86 :
日本@名無史さん:2005/06/06(月) 01:14:48
捕手
87 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 19:46:55
hage
88 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:37:08
89 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 22:49:38
鵤荘の報告書は入手できんもんかのう
90 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 23:06:51
保守
91 :
日本@名無史さん:2005/08/16(火) 01:12:08
92 :
日本@名無史さん:2005/09/01(木) 23:09:06
保守
93 :
日本@名無史さん:2005/09/18(日) 23:00:21
age
94 :
日本@名無史さん:2005/09/18(日) 23:05:50
最後の荘園って、検地までなの?
>>94 荘園の定義による。
東大寺領黒田荘なんかは、現在に至るまで、
東大寺への奉仕(の一部だが)を欠かしていないし。
まぁ、しかし、太閤検地で消滅した、と答えてかまわないでせう。
唐揚げ捕手大杉。
97 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 23:08:12
保守
98 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 10:55:00
荘園が欲しい
99 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 23:00:37
age
100 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 23:05:16
100
102 :
日本@名無史さん:2005/12/02(金) 23:06:57
保守
103 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 13:50:57
>>98
日本で荘園の景観を保存している所は豊後高田市の田染荘ぐらいなのかな?
個人的には福井県の太良荘や三重県の黒田荘がどうなってるのか気になるんだけど。
104 :
日本@名無史さん:2005/12/09(金) 00:14:23
なんだこのスレ寒いな。
荘園といえば、社会構成史上、見過ごせない土地所有の形態なのに、
中世史研究者は関わりたくないのか。
105 :
日本@名無史さん:2005/12/09(金) 23:06:19
寄進たてまつる
106 :
日本@名無史さん:2005/12/20(火) 19:32:01
age
107 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 12:47:19
律令制度の後、9世紀に入って郡司・郷司の力が衰えたんで受領が強大な力で
香料を管理する制度が国衙領制度、その受領の横暴な取立てを嫌って開墾地を
寄進してお偉いさんのものにして受領どもの税金取立て権と受領の手先の立ち
入りを防いだのが荘園国衙領制度というのはちょっと乱暴でせうか?
108 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 12:55:38
学校では荘園は受領の横暴な取立てを避けるために寄進したと教わりましたが、最近、荘園は寄進を受ける線の受けの人々や大貴族の懐が公領制では潤わなくなったからだという説を耳にしました。
どうなんでしょうね。貴族が「はいみなさ〜ん寄進してください」ってやったんですかね?
109 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 12:57:10
>>108
線の受け じゃなくて 天皇家
逝ってきます
110 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 19:53:19
age
111 :
日本@名無史さん:2005/12/22(木) 09:50:45
age
112 :
日本@名無史さん:2005/12/22(木) 16:28:53
アゲ
113 :
日本@名無史さん:2005/12/23(金) 15:26:17
age
荘園公領制=第三セクター
115 :
日本@名無史さん:2005/12/24(土) 15:41:55
age
116 :
日本@名無史さん:2005/12/27(火) 21:56:09
age
117 :
日本@名無史さん:2006/01/04(水) 10:25:19
age
118 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 00:07:37
_____________
| /| ガチャ
| /^^^i /..|
|-/`-イ────────ー' .|
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
_____________
|__/^^^i__________/|
| '`-イ/ ● ● | | ・・・・・・・・
|ヽ ノ | ( _●_) ミ .. |
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
119 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 00:08:57
荘園がほすい
シャラポアはかわいい。
121 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 09:01:43
>>108 公営田や官田は天皇家の個人的所有物とはいえないし
初期荘園段階ではなんか違う気がするな。
領域型が出てくる院政期は知行国制とともにその性格はあるかも?
122 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 18:40:57
荘園研究の第一人者って阿部猛先生じゃなかったのか?
ところでアベタケ先生まだ生きてるんだろうか?
123 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 16:29:02
あげる?
124 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 19:19:33
のびねぇな
125 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 19:21:02
のびたくん?
126 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 22:56:56
保守
127 :
日本@名無史さん:2006/03/20(月) 01:00:46
私の実家は相模国渋谷荘にあります。
128 :
日本@名無史さん:2006/03/20(月) 12:52:33
荘園領主は貴族だけど、管理していたのは、誰?
129 :
日本@名無史さん:2006/03/20(月) 13:21:38
本来の地主さんじゃないかな
130 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 14:14:32
ふーん
131 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 22:04:09
>>128 開発領主である荘官。貴族は名義だけかして、何かあった時に助ける
132 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 21:39:12
age
133 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 22:55:33
名主は領主警護とかの兵士役まで作人層にやらせていたのか?
まともな武装ができたと思えないんだけど。
134 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 01:10:48
何でも知っておられる井沢大先生に聞いてみろ
135 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 17:33:22
鎌倉期の荘園は?地頭が管理?
136 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 17:45:36
今のような「自治会」のような仕組みができたのが、室町時代頃と聞いております。(惣村と言うんですよね。)
だから、何となく今も各地に残る田舎の様子から、当時の村の様子を想像しているんですが、
では、それより昔の村はどんな感じだったのでしょうか?
まえから、いろいろ考えているんですが、土地制度や税の流れがよく分かりません。具体的なイメージがわきません。
以下は私の考えているイメージです。
1.縄文時代のはじめ頃はまだ血縁関係のある2,3家族による移動生活。
(イメージとしては東南アジアや南米に今も残る狩猟採集民みたいな感じ?合っていますか?)
2.縄文時代の終わり頃には、栗やドングリの栽培も始まり、定住し、集落を形成。
(惣などの組織はないんですよね。どういう仕組みの村なんでしょう?わかりません。)
3.弥生時代。稲作が普及し、人口が増え、大きな集落ができてくる。(血縁の者ばかりじゃなくなりますよね。)
大きな戦いも増えてくる。環濠集落。むらからくにへ。「村のリーダー」→「王様」。一般の者は「戸長」のような人に率いられていたのでしょうか?
4.古墳時代。大和王権による統一。村のイメージはよく分かりません。「氏」とか「部」とかもイメージできません。
5.律令のころ。貧窮問答歌のイメージが強いです。税や労役兵役などの負担が重い。
なのに人々は反乱も起こせない。なぜ?どんな仕組みの村だったのでしょうか?みんなバラバラで諦めきっていて無気力だったのでしょうか?
6.荘園などが広まる。各荘園に庄屋さん(荘官と言うのですか?)のような人がいて、各家や人々を管理しているイメージ。
荘官というのは地頭とか御家人とかいうのと重なるのですか?
税は荘官からさらに上の偉い人の所に何割か回される。それからさらに何割かは都の公家や寺社などに税が送られていく。
7.室町頃。惣というのができて自治を行うような村ができる。
「6」の頃の庄屋さんのような人はどうなったのですか?国人とか地侍というのになったのですか?
8.太閤検地以降。税はその土地の領主(大名など)に直接送られる。都の偉い人などの所にはほとんど届かなくなる。
とんちんかんなことばかり書いているんだと思いますが、優しくて詳しい方、 お考えをお聞かせ下さい。
137 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 09:45:41
うーん
138 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 23:35:45
領有権と租税収取権が分離したのが、10世紀末くらい。
この頃から収公という言葉は、領有権はそのままに租税収取権だけを国衙が取得する意味になった。
10世紀初めに基準国図が成立、これによって国内の不輸租田が固定。
10世紀末から11世紀初めくらいは、検田などの徴税関連作業は国司配下の国使が行い、郡司、郷司
はそのサポートをした。
139 :
日本@名無史さん:2006/05/31(水) 01:56:12
>>138 すみません。中学生にも分かるように、噛み砕いて説明してくれんですか?
140 :
日本@名無史さん:2006/05/31(水) 02:15:45
厨房氏ね
141 :
日本@名無史さん:2006/06/03(土) 00:40:12
>>
140
じゃ、てめえなら、主婦やリーマンにも分かるように説明できんのか。
最高裁判所の判例みたいな文章を書き連ねるだけじゃ、お利口さんとは
いえないのだぞ。
142 :
日本@名無史さん:2006/06/03(土) 07:53:17
教えてチャンですまそ。
都の有力貴族と地方の実際の所有者が重畳的に存在しているのが荘園だと
思ってたんだけど、鎌倉室町時代なんかには、公家が被官に経営させてるの
あるけどあれなんかも荘園になるの?
143 :
日本@名無史さん:2006/06/05(月) 01:34:33
平安時代後半になると、公領と荘園の違いは、在地領主の税の納め先が国衙か、有力貴族か
の違いだったりするんだよね。
144 :
日本@名無史さん:2006/06/05(月) 01:50:33
言霊説の馬鹿井沢なんか、だれが信用するねんwww
あのアホ助恥ずかしい;;
145 :
日本@名無史さん:2006/06/06(火) 02:54:11
別名って何?
146 :
日本@名無史さん:2006/06/06(火) 07:10:15
個人が本名以外に名乗る名前です、ってゆう冗談はおいといて。
11世紀に郡郷制の改編にともない出現した国衙領の単位所領の一つです。
国衙に直接納税がなされる別府の一種で、官物の賦課率が一般の国衙領と異なり、
雑公事が免除される場合もありました。荘園の増加に対抗して,国衙が
未墾地の開発を促進するため、在地有力者などに所領形成の優遇措置をとって
開発と収納を請負わせたことで成立したと考えられます。
多くは郡司・郷司や在庁官人などの開発所領として立てられましたが、
買得・寄進による土地集積を契機とするものもありました。
147 :
日本@名無史さん:2006/06/06(火) 19:33:14
ファンドって、現代の荘園っぽいね。
148 :
日本@名無史さん:2006/06/08(木) 01:33:20
一国平均役
太田文
知行国制度
149 :
日本@名無史さん:2006/06/12(月) 00:35:42
雑役免除
下司
公文
加地子
給免田
150 :
日本@名無史さん:2006/06/20(火) 01:47:17
平安末、受領は単なる財源と化していた。
151 :
日本@名無史さん:2006/06/23(金) 16:58:17
鹿子木荘
152 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 00:04:48
初期荘園
公領の農民が請文を提出して一年契約で耕作を請け負っていた。
この時期の荘園では、荘園領主は荘民を支配しているわけではない。
153 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 00:56:49
国衙の文書行政の実務は、現地で雇われた在庁官人が担っていたらしいが、この人たちは
どういう形で、教育を受けてきたんだろうか。
中央の貴族の場合は、家庭教師を雇っていたとも聞くが、地方の場合は、どうしていたのだろう。
世襲で親から教わっていたとか、あるいは国衙に教育機関があったのか。
今昔物語では、くぐつが目代になって行政をこなしたという話もあるな。
尾張守元命を訴えた例の解の文章、あれも普段事務をこなしていた在庁官人が書き上げたものなの
だろうか。あの文章、一介の事務官僚が書いたにしては、美辞麗句や引用など、高度な文章能力が
伺える。
>>152 高校の授業で習ったことを披露しなくていいぞ。
時期的にもちょうどその頃だよな?w
156 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 22:43:35
ほしゅ
157 :
日本@名無史さん:2006/07/06(木) 02:15:23
臨時雑役免除荘園
墾田集積系荘園
寄進
158 :
日本@名無史さん:2006/07/06(木) 02:17:15
寄進を受けた荘園領主が、寄進によって受ける特典とは具体的に何?
それほど、利益はなかったとか。
159 :
日本@名無史さん:2006/07/06(木) 15:41:15
決められた割合の荘園からあがる年貢を得ることができるんだよ。
それより職の体系が全く分からん。
結構利益あったでしょ
161 :
日本@名無史さん:2006/07/07(金) 00:15:21
> 決められた割合の荘園からあがる年貢を得ることができるんだよ。
でも、その年貢の率は、公領に比較するとかなり低いってきいたが。
大庭の御厨から伊勢神宮に納められるものを何かで見た事あるけど、意外と少なかった印象がある。
公領から得る利益の方が多かったんじゃないのかな?
受領を介して得る利益とか、知行国主とか。
荘園って、荘園領主よりも、在地領主の方が得だったのかも。
162 :
日本@名無史さん:2006/07/07(金) 05:51:23
わかさのくにたらのしょう
163 :
日本@名無史さん:2006/07/15(土) 17:24:58
ひえ
164 :
日本@名無史さん:2006/08/03(木) 21:10:05
このスレの人達ってちゃんと荘園について勉強したの?
165 :
日本@名無史さん:2006/08/03(木) 21:33:18
荘園といえば、阿部猛先生。
本当の意味でわかって荘園をわかってる人って少ないよね…
だったら説明しろよw
168 :
日本@名無史さん:2006/08/09(水) 00:15:39
>>166 学者の間でも、荘園の定義について意見が割れているのに、このスレで分かる
香具師など、いないだろ。
169 :
日本@名無史さん:2006/08/11(金) 04:51:32
>>166 そういう無意味な発言をする前に膨大な君の知識を無知な私達に少しでも披露してくれないか?
ここはそういうスレだろう?
170 :
日本@名無史さん:2006/08/11(金) 16:38:21
171 :
日本@名無史さん:2006/08/13(日) 01:56:10
寺田や神田などの初期荘園
雑役免除系荘園
官省符荘
国免荘園
とか
173 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 12:05:31
174 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 10:43:21
荘園が完全に消滅した時期は?
175 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 11:49:30
>174
太閤検地。
176 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 12:08:12
いちおう、ageとくよ
177 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 08:44:18
とりあえず
キ // /::::://O/,| /
ュ / |'''' |::::://O//| /
.ッ \ |‐┐ |::://O/ ノ ヾ、/
: |__」 |/ヾ. / /
ヽ /\ ヽ___ノ / . へ、,/
/ × / { く /
く /_ \ !、.ノ `ー''"
/\ ''" //
| \/、/ ゙′
|\ /|\ ̄
質問ですが、ある時期を限定した、荘園地図とかいうものは存在
するのでしょうか。ここは何々荘、ここは公領、ここはなんとかと
いったもの。
179 :
日本@名無史さん:2007/02/19(月) 02:21:55
博識な香具師教えてくれ。
平安期になってできた「並列的な郡・郷・保」(山川教科書)ってどんなの?
律令下の国−郡−郷(里)の郷はその場合どうなったの?
180 :
日本@名無史さん:2007/02/19(月) 22:24:33
エロい人教えてくれ。゚・(ノД`)゚。・゚
,-、 ,.-、
./:::::\ /::::::ヽ
/::::::::::::;ゝ--──-- 、._/::::::::::::::|
/,.-‐''"´ \:::::::::::|
/ ヽ、::::|
/ ヽ|
l l
.| ⌒ |
l , , , ⌒ l
` 、 (__人__丿 、、、 / ふふふ
`ー 、__ / 温かい目でみてあげる
/`'''ー‐‐──‐‐‐┬'''""´
182 :
1:2007/03/02(金) 21:03:45
俺がなにげなくこのスレを立てたのが今から3年前。
あれから俺もいろいろあったな。
やっと181レスか。
3年後にまた様子を見に来ます。
>>178 日本全国の、ということならありません。
>>179 令制の郡郷制は10世紀から変化し始め、11世紀には郡を介さず国衙に直結する
院・郷や別名成立するとともに、単独の郡司(一員郡司)や院司・郷司が出現し、
郡・院・郷がその所領化となる。群も再編分割され、こうして国内は郡・院・郷・
別名などの中世的な所領に編成され、中世的郡郷制が成立する。
念のため付け加えますと、地図ではありませんが大田文というものがあります。
中世において各国ごとの荘園と公領の水田面積を記載した文書で、図田帳・田数
目録などとも言います。鎌倉時代には、幕府の命令に基づいて各国の守護が中心
となって作成し、荘園領主名や地頭の氏名を記したものと、国衙が一国平均の
課役徴収の基礎資料とするために作成したものとがあります。その始源は院政期
にありますが、鎌倉幕府は国内統治のために積極的に活用し、以降中世において
は段銭賦課などの基本帳簿として重視され、長く使用されました。
建久8年の日向・薩摩・大隅、承久3年の能登、貞応2年の石見・淡路、文永2年の
若狭、弘安2年の常陸、弘安8年の豊後、正応5年の肥前、徳治1年の常陸、そして
室町中期の丹後のものが残っています。
185 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 02:21:41
186 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 11:44:21
山川から地図が出てたような…
187 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 03:21:00
そういや、郷とか里って、もともとは地域ではなくて、世帯で構成されていたんだっけ?
戸籍が形骸化して住民を把握できなくなって、領域化していったとか。
188 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 21:28:00
郷戸=今で言う世帯だけどまぁ全然違うもの。
50戸=里(郷)
9世紀末に個人への税賦課から田地への賦課に転換したため郷戸や郷は存在意味をなくした。
189 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 05:23:07
荘園とかあほくせwwwwwだからなんだよ?wwそんな1000年も昔の話よwwwかなしいねww
コーエー
いろんなところで草生やしてる基地外がここにも・・・
>189
いや、場所にもよるがたいていの場合、戦国末期近くまで存続してたんだぞ。
いちおう、戦国時代の話にも関係してくる。
さすがに、「関ヶ原」の頃には、なくなってるけどな。
193 :
日本@名無史さん:2007/08/13(月) 08:06:04
hu-
194 :
日本@名無史さん:2007/08/13(月) 09:15:08
応仁の乱のころ、関白の一条氏が土佐国幡多荘に下向して戦国大名化し
しばし隆盛を誇ったように、そのころが荘園の消滅期なんですね。
>194
でも、土佐に入ってから、元の荘園の範囲を超えて広大な勢力範囲を制圧して、
それなりに巨大な大名になっただろ。
勢力下の武士たちが背反きわまりなかったとはいえ。
真の「荘園消滅期」は、じつは豊臣政権時代。
それ以前の大名らは、制限付き・限定的ながら、ある程度は荘園の保護もやってたよ。
196 :
日本@名無史さん:2007/08/15(水) 21:48:37
土佐一条氏の時代が荘園の最後の輝きであり
秀吉の検地が最後の止めをさしたということですね。
応仁の乱のあと、京の人々は荒れ果てた町を見て嘆き悲しんだと言われるけど
単に町が焼かれただけではなく、荘園や国衙領の支配権が蚕食された
経済力の失墜を嘆き悲しんだのでもありますね。
197 :
日本@名無史さん:2007/08/15(水) 22:58:27
「荘園が太閤検地で消滅した」というのはどういう意味ですか?
公家・自社の所領は没収という意味ですか?
改めて知行したってことでしょ。
199 :
日本@名無史さん:2007/08/17(金) 13:30:06
ともかく荘園が消滅して中世が終わったということで
200 :
日本@名無史さん:2007/08/17(金) 14:23:18
もう戦国末期には、ほとんどの荘園は有名無実になってたから、
名前だけになってた領主権を廃止して、あらためて別の知行を与えた。
201 :
日本@名無史さん:2007/08/21(火) 09:29:41
荘園≒奴隷制大農場?
203 :
日本@名無史さん:2007/08/21(火) 17:14:58
むしろ国家公認の「経済特区」のようなものなのでは?
荘園公領制
この言葉が全てを表してるじゃん
205 :
日本@名無史さん:2007/08/21(火) 23:36:01
じゃあ本でも嫁
持ちつ持たれつ制
208 :
日本@名無史さん:2007/08/28(火) 11:26:02
律令制崩壊⇒徴税請負人⇒豪族化⇒実質領主化
209 :
日本@名無史さん:2007/08/28(火) 15:08:01
じゃあ、夏休みの宿題で追い込まれた夏厨もいそうなんで、
荘園史入門のテキストを挙げてみては?そのテキストの長短なども。
暇な日本中世史専攻の学生さんや院生のみなさん、夏厨やおいらに
教えてやってください。
荘園なんかわざわざ勉強する必要なし
時間の無駄
211 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 02:53:35
五家荘も荘園だったのですか?
212 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 07:27:15
自治的な匂いの高い惣村への展開っていうとこで、
荘園がわかりづらいんですよねぇ。
惣村の母体として機能してる感じがないんですよね。
いきなり惣村って感じがあって。
惣村の構成員って、東と西の違いはあるんですけど、
西で言えば、かなり構成員は薄く広くって感じですよね。
太閤検地以後も、惣村は自治的に残りますけど、
というか、惣村という形を生み出す荘園ではないしな。
213 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 07:40:29
214 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 11:06:50
215 :
日本@名無史さん:2007/09/12(水) 03:24:32
荘園→廃止後アパートになった。
216 :
日本@名無史さん:2007/09/16(日) 15:34:14
荘園の管理人が土着化→「武士」ですよね?
そういうのもいるだろうね
どっちかっていうと、開発領主が寄進した方が多いんじゃないの?
地元の有力者が荘園の管理を請け負って、準領主化したりもしてるんじゃなかったっけ
220 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 08:40:35
知らんがな
221 :
名無し:2007/11/01(木) 20:34:39
【荘園】の本来の意味は【庭】だ。当時朝廷は全国の農地からもれなく税を取っ
ていた。ところが朝廷内で最大の勢力を誇っていた藤原氏が『オレんとこの田ん
ぼは田んぼじゃないあれは【庭】だ。だからオレだけは税金を払わない。文句が
あるなら裁判でもなんでもしろ、ちなみに警察長官も裁判官もみんなオレの一族
かオレの子分だ!』と言って強引に税金を払わなくなり、そのうち他の有力貴族
も税金を払わなくなった。さらに有力貴族じゃない地主は自分の農地を有力貴族
に寄進して自分は農地の管理人になりやっぱり税金を払わなくなった。それでも
少しは【公地】は残ったので細々ながら税金は入ってきた。ちなみに【公地公民】
が完全に消滅するのは豊臣秀吉の【検地】の時であり【公地公民制】という制度
が消滅するのは明治維新の時である。
藤原氏の経済基盤も当初は、律令制に基づく俸給による部分が大きかった。
そのため、藤原時平は「延喜の荘園整理令」を出して律令国家再建を目指すが
失敗。律令体制の崩壊により、中央政府は地方に大幅に権限を委譲。国司(受領)は
一定の税額さえ納めれば、余剰分は全て手に入れることができるようになり
中・下級貴族は受領のポストを狙って、摂関家に積極的に奉仕するようになる。
道長の頃は、受領の成功(経済奉仕)が大きな割合を占めるようになる。
道長の頃は意外と荘園からの収入は少なく、国家的給付(俸給)の割合が多かった。
したがって、道長・頼通は公領からの収入を増やすため、荘園整理にむしろ積極的
だった。受領は任期当初は荘園整理令を片手に荘園を没収するが、任期終了間際に
なると逆に国司免判を濫発して荘園を認可し、貴族・寺社から礼物を受け取って
去っていった。このような国司の無責任ぶりは、藤原師通が「嘲弄極まりなし」と
日記に書いて激怒している。
藤原氏が荘園設立に積極的に動き出すのは、摂関家が落ち目となり受領の離反が
相次いだ忠実の頃から。忠実は経済基盤再建のため強引に荘園を形成していった。
摂関家領最大の荘園・島津荘(八千町歩)もこの頃、成立。上野にも五千町歩の
荘園を立てようとするも、白河法皇に警戒の目を向けられて頓挫。このことが
後の鳥羽天皇への入内問題と並んで、忠実失脚の要因の一つとなる。
荘園が爆発的に増加するのは、次の鳥羽院政期になってから。鳥羽法皇は荘園を
盛んに設立して広大な院領を形成、後に八条院領となる。政界復帰を果たした忠実も
改めて荘園設立を再開した。ここにおいて、貴族・寺社の経済基盤は完全に荘園に
移行したといえる。それでも荘園と国衙領(公領)の割合は大体、半々だったとされ
荘園が公領を圧倒することはなかった。もっとも公領においても知行国制が展開した
ため、荘園と同質化したともいえる。
やっと永原先生の荘園の本買った
8世紀 墾田永年私財法施行、初期荘園の設立
9世紀 墾田・未墾地の荘園化 口分田の荒廃、班田農民の逃亡が増大
浮浪の荘園への流入 調庸・雑徭などの人的賦課が困難に
10世紀 班田制機能停止、律令的租税体系の崩壊。負名体制への転換。
国司に地方の権限を大幅に委譲。国司と郡司・百姓(田堵)の対立。
11世紀 公田官物率法導入(租税は官物と雑役に整理)。国司免判による
国免荘の増加。国家的給付の代替として、雑役免型荘園が登場。
「延久の荘園整理令」により全国の荘園が記録所の審査を受ける。
四至を持つ領域型荘園の登場。
12世紀 開発領主が自らの私領(別名)を中央貴族・寺社に寄進する動きが
活発化(寄進型荘園の成立)。広大な院領(八条院領・長講堂領)が
形成される。不輸不入権の確立。開発領主が公領(国衙領)を郡・郷・保に
再編成、知行国制の広まりで荘園と公領が同質化。守護・地頭の設置。
13世紀 新補地頭が補任され、畿内・西国の荘園・公領で本所との衝突が頻発(新儀非法)。
地頭による下地中分・請所が行われ、地頭の領域支配が強まる。
貨幣流通拡大により、荘園年貢の代銭納が進行。御家人所領の売却・質入れ・
年貢未進が深刻化。幕府、対外危機を背景に本所一円地にも軍事動員。
14世紀 守護・国人の荘園侵略が激化。百姓層が成長し、惣村を形成する。
「応安の半済令」と武家領の拡大。中・下級貴族の荘園支配が事実上崩壊。
加地子名主職・年貢物の売買が盛んに。地方市場・港津の発展。
守護領国制の進展で、公領の大半が守護領化。
15世紀 荘園領主、酒屋・土倉への依存を強める。年貢の納入が激減、
一定の年貢の納入を第三者と契約する請負代官制が展開。
荘園領主、流通課税に重心を移す。百姓の年貢減免闘争や
土一揆が頻発。地方の惣村が連携を深め、惣荘・惣郷を形成。
土豪・有力百姓が小領主に成長し、守護・国人の被官となる。
16世紀 戦国大名の領国支配。新しい土地把握システムとして、貫高制を導入。
太閤検地により、荘園が消滅。
228 :
日本@名無史さん:2007/11/26(月) 23:33:32
ちょっと聞きたいんだが
永原慶二先生の『荘園』って業書シリーズのやつの評価はどう?
荘園にかんする最良の入門書
まずは庄園なのか荘園なのかはっきりさせよう。
1970年代ごろまでの本では庄園という表記が多いが、
1980年代以降は荘園という表記が圧倒的優勢になった。
なぜなの、どうしてなの、なにかのいんぼうなのかしらん
231 :
日本@名無史さん:2007/12/25(火) 21:35:48
>>229 やっぱそうか
読んでみてこれはいい本だと思ったんだよね
232 :
日本@名無史さん:2008/02/02(土) 21:12:55
あああよくわかんね
貴族→大家さん
地頭守護→政府お役所 な感じでいいの?
農地以外の店舗や家など家賃は荘園の公家に払うの?
>232
まず。
農地・宅地・柿や桑や漆や栗の果樹に税がかかり、
現地領主(税所、荘官、留守、など様々)に納税する。
現地領主は、必要経費と自分の取り分を除いて、決められた一定額を
中級領主(領家と呼ばれる、大寺社などが多い)へ納付する。
中級領主は、これまた自分の取り分を差し引いて、上級領主(本家)へ納税する。
位置的には、市税県税国税みたいな感じだろうが、全部一括で徴収される。
234 :
日本@名無史さん:2008/02/03(日) 23:17:35
政基公旅引付を買って読んでるんだが、当時もまだ、荘園が機能していたというのが
ちょっと驚き。和泉という都から近い場所だったからだろうけど、当時の関東の荘園は
どうだったんだろう。関東公方の歴史とか読んでいても、荘園の話題が全然出てこない。
235 :
日本@名無史さん:2008/02/03(日) 23:22:02
荘園が完全に消えるのは戦国時代も末期の頃じゃないの?
そこ頃は普通にあるでしょ。
完全に消えるのは、太閤検地の時だろ。
それまでは、徐々に廃れつつあったとは言え、
いくらかは荘園が機能していた。
機能しなくなった荘園の方が圧倒的に多くなっていただけのことだ。
荘園の名前は出てくる。大体、敵将を討ち取った報償として××荘を与えるとか
いう、その手の史料は多いのだが、本家とか領家とかが出てくることがまずない。
室町時代の関東の話ね。
このころの関東だと、荘園は、名前は残っていても、もはや、年貢を領家や本家に
納入するということはなくなっていたということか。
下野国足利荘なんか、当初は関東公方、のちに幕府が直接管理していたところだ
けど、このころは武家が直接一元的に管理していて、平安期のような重層的な支配
権はなくなっていたってことなんだろうな。
鳥羽上皇→美福門院→八条院で終わりだったのかな。
これに対して和泉国日根野荘は、年貢の納入がはかばかしくないといって御本所様
が直接、現地に赴いているわけで、関東とは様相が大分違う。
ところで、旅引付の冒頭は、「泉州日根野庄事」で始まるけど、この荘園のことを日根
荘と書いている本も多いな。
あと和泉守護からの返事の宛先が唐橋殿というのも気になった。この唐橋殿は唐橋
在名らしいけど、借金取立に行って殺された父親の子が、殺した政基の九条家に家司
として再び奉公しているというのも面白い。
室町の頃には、列島の中に流通境界ができて、
複数の流通圏に分割され、域外への送金が途絶えた時代だからなあ
関東と京都の間では、人間の移動こそあれど、物的交流は乏しかった。
その分割への対応として、それぞれの領主同士の間で所領交換が行われた。
したがって、室町期の関東は東国に住む荘園領主の所領しかなくなってたはず。
239 :
日本@名無史さん:2008/04/03(木) 00:50:19
奈良県大和高田市に住んでいる者です。
昔この辺りには「平田荘」という大きな荘園があったそうです。
最近、独学で「平田荘」について調べています。
資料(高田市史)によれば、初期の平田荘の荘官としては、
「置始行吉」、「源忠清」という人物が居たそうです。
置始氏は、後の布施氏と分かりましたが、「源忠清」なる人物が
良く分かりません。
一説によると醍醐天皇の孫で、平家方の侍大将だったそうですが
本当でしょうか?
どなたか、よく知っている方おられませんか?
また平田荘についての文献でお勧めの書籍ありましたら
教えてください。
どっかに、平田荘の歴史について詳しい人物居ないかな。
240 :
日本@名無史さん:2008/04/17(木) 00:09:40
???
241 :
日本@名無史さん:2008/04/17(木) 11:52:36
源姓の平家方武士…?
242 :
日本@名無史さん:2008/04/17(木) 18:58:13
>>234 和泉国は荘園が沢山あったのですか?何か謎が解けたような気がします。何故なら桑原(雷の落ちない伝説の場所)葛の葉(安倍晴明の母)などの地名。藤原姓が多い。その本の内容はどんなのですか?
>241
挙兵当初の頼朝を支えた関東の武士達の多くが平姓だったのと同じで、
源姓の武士でも平家方で戦ったのが少なからず(むしろ多数派?) いたってことじゃないかな。
>242
基本的に、多くの国は、田畑の半分ぐらいが荘園、半分ぐらいが国衙領
京都に近い地域は荘園の比率が高めで遠方は国衙領が多くなりがちだが、
多いところでもせいぜい6割ぐらいが荘園って程度。
もっとも。
遠いところの荘園ほど早く機能停止する傾向があって、
室町時代中期以後になってくると東国の荘園は京都の領主の手からは完全に離れてる。
中部地方西半部から中国四国地方までは、戦国時代途中まで荘園が存続する例が多い。
もちろん、着実に蚕食されていっているが。
荘園制を完全に滅亡させたのは太閤検地。
それ以前、戦国大名の多くが、一定範囲で荘園を保護している。
(荘園を横取りしつつ、限定的に保護する感じが多いのかも)
>>241 平忠盛の妹婿が、河内源氏の人間でその子供たちも平忠盛の屋敷で養われていた
そうだから、そういう人間がいても不思議じゃない。
関白が土地を与えたりした例ってあるの?
246 :
日本@名無史さん:2008/04/21(月) 21:23:07
保元の乱でも両陣営は源平ごちゃ混ぜだよね
今思うほど、「源氏と平氏」で対立してたわけじゃなさそう
247 :
日本@名無史さん:2008/04/24(木) 00:46:38
>>230 「庄」は「荘」の略字。
それだけのことです。
だから、庄園でも荘園でも意味は同じ。
荘官の最高位で荘司っていうのがあるけど、庄司っていうのも同じ。
官位は、かつて、東海林三郎庄司というように使った。
東海林が氏、三郎が名、庄司が官位。
東海林を「しょうじ」と呼ぶのは、
多分、東海林さんの家が代々「庄司」だったからでしょう。
これは、ある書物の請け売りだけど、正しい説明だと思う。
248 :
日本@名無史さん:2008/04/24(木) 00:49:25
ちなみに、漫才コンビの島田庄司の庄司の家って昔は庄司の官位に就いていたらしいね。
その説明が広まって、庄司が庶民の出じゃないということで、人気が落ちたんじゃない?
249 :
日本@名無史さん:2008/04/24(木) 01:27:28
庄司の官位?
250 :
日本@名無史さん:2008/04/24(木) 21:40:02
3.金岡の荘、
平安時代に吉井川の右岸に開拓された土地で今の西大寺金岡、久保、広谷の一帯である、鎌倉時代は東金岡の荘と西金岡の荘に分かれ東金岡の荘は奈良の興福寺西大寺荘園であった。
太陽に輝く穴海に臨んだ吉井川河口の港であり東の荘は朝廷や藤原氏の支配下 にあって栄えていった、鎌倉時代になるとこの荘園を舞台に貴族勢力の荘司と鎌 倉幕府勢力の地頭がなにかに付け争った。
あげてみる
キ // /::::://O/,| /
ュ / |'''' |::::://O//| /
.ッ \ |‐┐ |::://O/ ノ ヾ、/
: |__」 |/ヾ. / /
ヽ /\ ヽ___ノ / . へ、,/
/ × / { く /
く /_ \ !、.ノ `ー''"
/\ ''" //
| \/、/ ゙′
|\ /|\ ̄
253 :
日本@名無史さん:2008/10/28(火) 17:12:17
254 :
日本@名無史さん:2008/10/28(火) 19:43:31
>>247 前から疑問に思っていたのだが、「しょうじ」と読む前は「東海林」は何と読んでいたのだろうか?
255 :
日本@名無史さん:2008/12/03(水) 20:41:28
さあ
256 :
日本@名無史さん:2008/12/04(木) 00:32:55
ひがしうみばやし
257 :
日本@名無史さん:2008/12/08(月) 00:35:30
>239へ
奈良県に住んでいるものだが
昔「源忠清」の子孫の方に会ったことがあるので、そのとき聞いたことを書きます。
「源忠清」の子孫の方は、「中村」と名乗って、香芝市北今市に在住されています。
確かに、醍醐天皇の子孫とおっしゃっていました。
何でも、忠清公は、平家の侍大将であったそうで、戦で手柄を立てたので褒美に平田荘の土地を貰い住み着きました。
ところが、平田荘は当時、興福寺が管理しており、勝手に住み着いたので、争いがあったとの
ことです。
その後、子孫は鎌倉時代あたりから「中村」と名乗り、代々平田荘の荘官をしていました。
戦国時代は、「逢坂山城」という城に住んで周辺の豪族と小競り合いを繰り返して
北今市の地を納めていました。
北今市の地は昔、逢坂と呼んでいましたので、中村氏は逢坂氏とも呼ばれていました。
「和州藷士記」には、逢坂山城の「逢坂内記」とか記載しています。
その後、戦国末期は豊臣陣営に加わりますが、徳川の天下になり衰退します。
江戸時代は北今市の地で庄屋をしていたそうです。「香芝町史」に記録が
残っています。北今市村の庄屋「中村源右衛門」と記載されています。
以上が私が、子孫の方に聞いた話です。(参考になったかな)
258 :
日本@名無史さん:2008/12/08(月) 00:40:03
補足ですが、現在の高田市の辺りにも中村と名乗る一族がいました。
この一族は平田荘の八荘官の一人と伝えられています。
恐らく、北今市の中村氏はこの一族と何らかの関係があると推定しています。
実際、北今市の中村氏の親族の墓が、高田市に昭和の中頃まで残っていましたから
親族と考えて間違いないでしょう。
また、名阪国道針インターの近くに「多田来迎寺」というお寺があります。
この来迎寺の記録では、中村伊賀守源経実(天正2年1574卒),中村六良の墓(五輪塔)
が残っているのですがこの2人は北今市の中村氏の一族であると言うことで
「来迎寺の歴史保存会」の方が、北今市の中村氏のお宅に確認に来られています。
あと中村氏は家督を継ぐ物だけは、代々源姓を名乗っていたとの事。
江戸時代では家督を継ぐ物は名前に源の字を付けていた。
香芝町史では、源兵衛、源助、源右衛門の名が見られる。
259 :
日本@名無史さん:2008/12/08(月) 00:54:39
ついでに書くが昔、私が中村氏宅にお邪魔したのは「顕宗天皇陵」についての話を聞きに行くのが目的でした。
江戸時代末期、庄屋:中村源右衛門宅の敷地内には「戎神社」という小さな神社がありました。
また敷地内は古墳もあったそうです。この古墳は石垣がありましたが当時は既に崩れている状態でした。
ある日この戎神社を大きく建て直すことになりました。そこで村人総出で古墳の石垣を解体して
戎神社の石垣として再利用しました。石垣を取り除くとその下に崩れた石室があり中から石棺
が出てきた中を開けるその中にはとても立派な副葬品(鏡、太刀)が入っていた。
その後、役人がやって来て調査した結果、顕宗天皇の御陵に定められました。
明治になり、中村氏と戎神社は立ち退かされて、そこに、顕宗天皇陵が 出来ました。
そう顕宗天皇陵は、昔からあったのではなく、明治になってから作ったのです。
醍醐天皇の末裔の屋敷が顕宗天皇陵になるのはなんかの因縁だろうか?
260 :
日本@名無史さん:2008/12/08(月) 00:59:50
>>254 とうかいりん
今でも秋田・山形地方ではとうかいりんと読む
奈良時代から室町時代の経済・土地制度史に重要な位置をしめる荘園制度。これって、分かったようで分からないんですよね。ドラマ性もなく、退屈な用語と数字の羅列…みなさんはどうですか?
荘園の事を簡単に教えてもらえませんか。また荘園の事が分かりやすく書かれたオススメの書籍があったら是非教えてください!
永原慶二「荘園」とか、
日本史小百科シリーズの「荘園」とか、あたりか?
(後者より前者の方が、たぶん優良とおもう。)
だが、このレスはしょせん脊髄反射。そのうち、もっと良い返答が付くだろうから、首を長くして待て。
>>262 ありがとうございます。前者の永原慶二さんの「荘園」は、どこの出版社から出ているんですか?
ここのスレは、みな詳しい人が多くて感心してます
264 :
日本@名無史さん:2008/12/25(木) 21:30:37
保守
永原慶二「荘園」はよみやすいね。よくまとまっている。
でも、荘園て一言で言っても、実態は様々なようで、いろんな本を読めば読むほど
わからなくなってくる。平安時代に限っていうと、荘園と武士の二つが自分にとって難しい
テーマ。どちらも史料が少ない地方が関わってくるから、どうしても推測の部分が多くなる。
「別田」って何と区別した別の荘なのか知ってる方教えてください
267 :
日本@名無史さん:2009/01/12(月) 16:25:36
ほしゅ
268 :
日本@名無史さん:2009/01/24(土) 20:40:40
269 :
日本@名無史さん:2009/02/02(月) 15:24:19
今になっちゃようわからん
270 :
日本@名無史さん:2009/02/09(月) 03:09:12
>奈良時代から室町時代の経済・土地制度史に重要な位置をしめる荘園制度。
奈良時代は重要じゃないです。制度でもないです。平安前期もまだまだ。
初期荘園は現在では、中世の領域的荘園とは接続しないというのが通説です。
271 :
日本@名無史さん:2009/02/19(木) 22:49:05
hosyu
>>270 接続しなくても、経済・土地制度史的には重要でしょ
恩給によって荘官になった場合、荘官の知行は本所が自由に没収しえたと理解しているのですが、
寄進によって荘官になった者の場合も、荘官の知行を本所が自由に没収しえたのでしょうか?
また、鎌倉時代において、荘官が本領安堵されて地頭職などを与えられた場合や、恩領でなく私領の知行
などは幕府が任意に没収する事が出来たのでしょうか?
質問を重ねてしまって申し訳ないんですが、書籍をあたってもサラッと流されてしまっている場合ばかりで
困っていまして・・・。
疑問点をみつけて、文献にもないのだったら、
平安遺文、鎌倉遺文をめくりなさいな
(データベースでもいいけど)
と専門外の人間がいってみる
>>274 ありがとうございます。平安遺文・鎌倉遺文を、データベースが落ちているっぽいので明日にでも図書館で
あたって見ます。
・・・ですが、実は日本史は全く専門外なもので全く漢文が読めないので、詳しい論文などご存知の方がいらっしゃいましたら
ご教授いただけると助かります・・・。
276 :
日本@名無史さん:2009/02/26(木) 17:49:04
【大昔の日本】豪族が郡雄割拠しちゃってテラカオス。困るお・・・
【飛鳥時代】聖徳太子「あのさ、中国の文化とか政治制度
取り入れちゃって、モダンに行かね?!豪族に好き勝手させないで
色んなモノ・事を中央政府で管理するお!」
【しばらくして】色々安定してきたけどイマイチ伸び悩んでるお・・・
活気が足りないお・・・そうだ!もう少しみんなの自由が効くようにするお!
墾田永年私財法!!(ピコーン!)
【その後】活気は付いてきたけど、皆勝手にローカルルールとか作っちゃって
複雑な事になってきたお・・・どうなるんだお・・・
【鎌倉時代】頼朝「あのさ、中央政府とかメンドイから。てかウザイから、
てかこれからは武士の時代でしょ?ちゅー事で俺達が支配させてもらいますんで
夜・露・死・苦!!」
【戦国時代】なんか大昔に逆戻りしてね?てかそんな振り返ってるヒマもないし
とりあえず天下統一しかないっしょ!!
【豊臣秀吉】「色々おましたが、ワテが取り仕切る事になりましたんで、
よろしゅう頼んます。まぁキリもエェんで土地関連一遍デフォルト
してもらいま。あ、ついでに刀狩りもしなあきまへんな〜(笑)」
■そして荘園終了へ・・・
277 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 00:28:54
【大昔の日本】豪族の群雄割拠
【飛鳥時代】蘇我入鹿「うりゃあ!日本も中央集権国家を造るぞ!」 中大兄皇子「余計な
ことすんなボケ。」 蘇我入鹿「うぎゃあー」
でも一応律令体制が導入される。
【奈良時代】橘諸兄「公地公民を死守せねば」 藤原仲麻呂「ボケ!そんなんじゃ民がやる気
なくすわい(・・・本当は俺、公地公民大嫌いやねん)」で墾田永年法成立。
【平安時代初期】醍醐天皇「困ったのう。荘園増えてきたやんか。このままではいかん。うむ、
こうなりゃ公田も墾田も新たな課税単位設定して搾り取ったる。その単位は名(みょう)じゃ。
毎年土地税を取るんじゃ、うははは。国司諸君、任せたぞ。」
とある田堵「いずれにせよわしらが耕作して納税するんかいな。」
とある貴族「醍醐のおっさんもやってくれるわ。まあでもそのうち国司を嫌ってわしらの
ところに寄進する奴もでてくるんじゃね?いつでもウェルカムよ。」
【平安時代中期】有力貴族「ウェルカムゥ!不輸だよ不輸だよ不入だよん。わしらが国司の
任免権にぎっとるんじゃあ。文句あっかよ。」
【平安時代後期】後三条天皇「こらこら何がウェルカムだボケ!不輸かどうかは俺様が
決めるんじゃ。勝手に決めんなよ。そしてこれからは公領と荘園を厳密に区別するぞ!
農民もその中でじっとしとれ。あっちこっちウロウロすんな。」
とある田堵A「えー、郡郷保・荘園のどれかに帰属しろってか。」 とある田堵B「よろ
しくなA。俺達は一緒の住民だ。力をあわせて頑張ろうぜ。」 A「そやな。」
・・・つづく
278 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 01:42:20
一円知行じゃないしな
279 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 22:30:29
age
280 :
日本@名無史さん:2009/03/11(水) 23:05:21
281 :
日本@名無史さん:2009/05/01(金) 22:27:55
荘園についてイメージがわかないって言ったら
溝口健二の山椒大夫を見ればよいって言われたので見たんですが
正直思っていたイメージと違っていたのですが、イメージとしてはあんなかんじでいいのでしょうか?
完全な治外法権で部外者は中でどんなことしようとも誰も手出しができなくて、
その中にいる人間は完全に奴隷同然の扱いでこき使われる
逃げようとしたら額や腕に焼印を入れられる
男衾は屋敷の前を通りかかった者に矢を射かけていた。
283 :
日本@名無史さん:2009/05/06(水) 18:44:32
現代に荘園を復活させようとするとどんな法的障害があるでしょうか?
フィリピン人を輸入して無人島を開墾したいです。
現代の農家も荘園と変わらないだろ…
ほぼ納税もしないで住む上に、荘園のころには出なかった補助金まで出るぞ。
285 :
日本@名無史さん:2009/05/10(日) 11:53:31
ぶっちゃけ墾田永年的な制度こそが今必要なのかもな
やっぱり、戦前のように、庄屋と小作人は別けるべきだったのだよ。
今は、小作人の小倅が、農地改革でせしめた土地にマンション建てて
遊んでいる。だから世の中だめになったのです。
中世は土地の権利関係が複雑だけど、証文みたいに文書で管理していたのかな?
今ひとつイメージがわかない
証文=売券
289 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 23:41:28
今からパラオあたりに荘園作りに行ってくる
290 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 00:28:23
摂津国山崎荘
291 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 13:52:34
荘園と談合と調和と脱税と民間主導って関係あります?
まあ、庄屋という制度は明治維新で解体されたからな。
庄屋の枠組みを超えて成長して資本家として大地主となったか、
脱しきれずに破産し没落したかどちらか、ってのが主流だよな。
もちろん没落の方が多数派だぞ。
294 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 22:19:56
東国と西国の荘園は同義に扱えべきではないと
網野先生も書いていました。
せめて、関西以西の話か、中部以東の話か書くべきです。
295 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 21:47:14
床屋
保守
297 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 19:27:29
床屋
298 :
日本@名無史さん:2009/08/26(水) 23:41:27
不在領主なんて無用
複雑な荘園の権利関係と貨幣の流通についての論文はないのか?
300 :
日本@名無史さん:2009/09/21(月) 21:06:05
当時は農業が主たる産業
食料は現地調達が基本か
301 :
日本@名無史さん:2009/10/18(日) 15:03:20
課題で荘園制について書けというものが出た。
荘園制についての専門書は大量にあるみたいだけど中高生レベルの知識しかない初心者が見てもわかりやすい本、著者を教えて下さい
303 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 05:16:52
305 :
日本@名無史さん:2009/11/28(土) 21:24:31
>>302 荘園は別荘の庭園のこと
つまり『ここは別荘の庭園だよ、田んぼでも畑でもないよ、だから税金払わなくてもいいよね』と言う理屈【不輸の権】
もちろん一般庶民がそんなこと言ったら怒鳴られるが、大貴族様は許される。
その上『別荘なんだから税務調査もしちゃだめだよ立ち入り禁止』も【法律で】通してしまった【不入の権】
306 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 00:40:15
>>302 荘園 吉川弘文館 永原慶二著
これが解りやすいというか面白いよ
307 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 00:36:00
荘園ほすぃあげ
>>305 今もその理解が主流なの?
10年前には公地公民は全面施行されたわけでなく、
旧国造系や寺院の私有地がわんさかあって、
それが初期荘園に繋がるって見方が多かった気がするが。
たぶんだが、
そういった私有地を侵害しようとする勢力から自分を護るために
権門貴族に接近して「別荘」の名前を得ようとしたんじゃないかな?
>>309 「庄」と呼ばれる機構自体は荘園以前からあるからさ。それこそ7世紀末から。
別荘という言葉の意味が、我々の知る別荘と同じで良いのか
(奈良平安初は、現代的な別荘は「別宅」の方が一般的)ってところが気になる。
311 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 00:17:49
庄は開発拠点であって別荘じゃない
>>311 だから、「荘園は別荘の庭」って説明とどう接合するのか、全くしないのかってこと。
それと開発拠点て説明も不正確で、「事務所+倉庫」ですよね。田地が付随しない例もあるし。
今まで出てきた「荘園」の説明や参考文献がみんな古いから、10年くらい前の
土地所有は古代から連続的に捉えて、10世紀後半に経営的な画期を見る流れが
もしかして最近はまた否定されたのかと思って(最近歴史から離れてたもんで)。
313 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 21:39:03
>>306などに関連して、
荘園についての書籍は、けっこうあるのですが、
公領・国衙について詳しい本はありますか!
朝廷から各国に派遣される国司の支配権が及ぶ公領と国司の役所国衙が、
いつ頃どうのような経過をたどり、消滅したかを知りたいです。
314 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 16:11:07
>>313 吉村茂樹『国司制度崩壊に関する研究』なんて本もありますが。
中身は知りません!
315 :
日本@名無史さん:2010/02/05(金) 23:08:37
荘園公領制の変遷
南北朝期を契機に荘園公領制は、崩壊過程にはいります。
公領制が崩壊したのは、南北朝末期室町初期の守護権力拡大の頃に、国衙領(荘園も同様)は
守護勢力に押領・吸収された。そのころ中央では、幕府(3代将軍義満)が王朝権力を
接収して、古代以来日本を支配してきた朝廷は形骸化してしまう。
応仁の乱を通じ幕府・守護の権威が失墜し戦国時代にはいると、各地の荘園も国人・守護代などの
在地領主に押領・侵食され、その一部は戦国大名に成長した。
そして最終的に、荘園制が消滅したのは、秀吉が天下統一事業として行った
太閤検地のときです。
The end
316 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 09:40:34
>>313 >>315 荘園公領制の崩壊過程は、
中世国家の朝廷・寺社勢力・武家政権(幕府)の三権門、特に前二者を頂点とする体制である
「職の重層的体系」の崩壊過程でもあります。
戦国時代の混乱・信長の天下布武・秀吉の天下統一を経て、中世的職の体系は役割を終え、
それに代わる新国家秩序が形成され、近世の大名制度・幕藩体制へ移行した。
317 :
日本@名無史さん:2010/02/07(日) 12:12:47
荘園って、おもしろいんだけど、
書籍を読むとその用語の違いがよくわからず、挫折してしまいます。
本所、本家、領家、預所
荘官、荘司、下司、公文、名主、地頭 とかです。
318 :
日本@名無史さん:2010/02/08(月) 09:22:11
>>317 荘園は、領主側と現地管理人の荘官側に大きく分けられます。
領主側
領家:領主、開発領主から寄進を受けた者。
本家:領家から更に寄進を受けた権門貴族・寺社。
本所:領家、本家のうち現地の実効支配権を持つ方を指す。
荘官側
荘官:現地管理人の総称、下司・公文も荘官である。荘司も同じ。特に下司を指す。
預所:領主側から、特に現地を管理するために任命された上級荘官、上司ともいう。
地頭:鎌倉幕府から、荘園・公領を管理させるために任命された御家人。
これを「職の(重層的)体系」といい、相当に小難しい。
間違っていたら、修正してくれ!
319 :
日本@名無史さん:2010/02/08(月) 23:11:07
>>318 一口に「荘園」っていうけど、相当難解です。
平安末期に知行国制度ができ、「公領」も実質荘園化すると両制度(荘園公領制度という)が入り混じって、
理解を困難にします。
加えて、鎌倉時代には幕府任命の「地頭」も荘園公領に関ってきますので、さらに難解になります。
320 :
日本@名無史さん:2010/02/09(火) 01:26:00
>>318-319 ざっくり言うと、こういった連中の利権が複雑に絡み合っているってことだよね?
321 :
日本@名無史さん:2010/02/09(火) 21:34:01
>>320 そうですね! 特に平安末期、鎌倉時代はそうです。
身分制度を前提とした制度・体系です。
中世のこの支配構造を、俗に「権門体制」ともいいますね!
長男格の朝廷・公家、二男格の寺社、三男格の武家(幕府)。
のち三男の武家(幕府)が、二男の寺社・長男の公家を圧倒していくのが中世の
歴史だと思います。
322 :
日本@名無史さん:2010/02/10(水) 08:25:04
>>321 荘園公領制など中世の在地支配のあり方は、
当時の支配者階級(朝廷公家・寺社、武家・幕府)のあり方と
相互に連動・補完しているので、歴史を解釈する上では必須知識だと思います。
323 :
日本@名無史さん:2010/02/10(水) 21:26:18
>>313 荘園公領といえば、その第一人者、網野善彦著作集第3巻『荘園公領制の構造』
でしょう。
324 :
日本@名無史さん:2010/02/11(木) 00:11:11
律令制度、公地公民という公的なものが、荘園領主という私的なものにより侵蝕されていく。
その荘園でさえ、地頭という私的性格により侵蝕されていく。
鳥取県の東郷湖周辺の「東郷荘」の「下地中分」は興味深い。
「公」と「私」を分けているから。
325 :
日本@名無史さん:2010/02/11(木) 00:22:35
後三条天皇の荘園整理令の時に
藤原頼道が「摂関家が荘園を整理しないことがありましょうか」と
「サワヤカニ」申したために、かえって後三条天皇の荘園整理の計画はうやむやにされた。
>321
どっちかというと、市町村税+都道府県税+国税 ぐらいの重なり方だと思う。
現代の税制と違って、個々人からの徴収を行いうるのは最下層の市町村税クラスのだけではあるが。
>324
公地公民制の全盛期であるなら時代でさえ、特に重要な権門は私有地(荘園の原型?)を持ってはいたらしいんだけど。
それと、公的なモノが私的なものに...
というのは、土地の話だけじゃなくて、公職そのものも含めた話だよね。
官職の世襲化とか。
小学生の頃、荘園とは、
藤の花や桜が植えてあり、池に橋がかけてあるような日本風の庭園の事だと思ってた。
何でその荘園ごときで争ったり、法で決めたりしなきゃいけないんだ?
と疑問に思ってた。
女院荘園は何%?
>>326 >公地公民制の全盛期であるなら時代でさえ、特に重要な権門は私有地(荘園の原型?)を持ってはいたらしいんだけど
それ位田のことじゃないの?
位田なら、
律令によって五位以上の貴族には、それが支給されることがきちんと定められていた筈。
寄進地系荘園って
どーゆーことなの?
誰かわかりやすくまとめてくれ
332 :
日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:11:03
一ノ所ト強縁ト思ヒ 寄セタビケリ
333 :
日本@名無史さん:2010/02/13(土) 00:32:46
>>31 寄進地形荘園とは、墾田地系荘園の対語で、
開発領主が国司・国家からの徴税を免れるため、不輸の権(免税特権)を有する権門貴族・寺社へ
寄進した荘園のことです。
開発領主は、寄進する代わりに自己を荘官(現地管理人)にしてもらう権利を留保して
寄進しました。
1次的に寄進を受けた領主を「領家」、更に寄進を受けた者を「本家」といいました。
334 :
日本@名無史さん:2010/02/17(水) 14:27:15
領家と預所の違いがよくわかりません!
預所は現地の管理人。
336 :
日本@名無史さん:2010/02/19(金) 00:35:01
>>318 >>334 「職の体系」について
荘園体系の標準型
(本家)―領家―(預所)―下司―名主―作人 です。
領主は、「領家」といい、更に上位者へ寄進すれば本家が生じます。
預所は、荘園を管理する上級荘官を指します。在京預所と在地預所があります。
下司は、荘園を管理する在地下級荘官です。
在京預所がいればその者は上司、在地預所は中司(在京がいなければ上司)と呼ばれました。
領家・本家を問わず、荘務権を有し荘園を実効支配する領主を「本所」といいます。
荘官(預所・下司)の任命権限を有します。
「本家」が本所である場合は、事実上「領家」は預所職となります。
337 :
日本@名無史さん:2010/02/19(金) 00:39:11
>>336 上司(預所)は、サラリーマンの上下関係の「上司」の語源だよね!
荘園…地権官位力増大(日本史)→地租快晴…金金権力極大?(日本近代史はじまり)
339 :
日本@名無史さん:2010/02/19(金) 22:20:56
>>336 最近新説が出て、
領家職を有する領家
領家職を有しない領家
領家職を有する本家
領家職を有しない本家
など、「領家職と領家は異なる!?」なんだか訳がわかりません。
340 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 14:27:29
>>327 寝殿造りの庭だなそれ
そんな庭のある邸宅に住み、権力争いばかりやっていたのが貴族社会
だから当時の貴族も、自分の領地である荘園の実の姿など、頭に思い描ける人はいなかったと思うよ
代々源氏長者の印である宇宙印を世襲していた久我(こが)家に興味があります。
詳しいサイトとかあったら教えてください。
342 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 16:47:05
>>339 「領家職」とは、領家、本家にかかわらず、荘園の実効支配権を有する「本所」
と同義だと思いますが。
343 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 16:58:57
>>327 室町幕府三代義満の頃の将軍邸宅を「花の御所」言ったそうな。
権力にまかせて近所の貴族の邸宅辺りから移殖したものが多かったので、
皮肉を込めての命名らしいです(笑)。
344 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 21:22:14
>>343 脱字
「花の御所」と言ったそうな!
連稿スマソ
345 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 22:10:36
今も○○荘という地名があるね
春日神社があるんで、こんど神主さんに聞いてみるよ
藤原氏の荘園だったんじゃないかと思う、神主家が荘官だったりして
346 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 22:24:36
庄司さんや庄子さん、東海林さんもいますね。
いつ荘園なくなった? 太閤見地? 徳川田畑永遠売買禁止法令以降?
荘園は、実質的には戦後の農地解放まであったんじゃないの?
M元帥様解放令でも無くならず、コイスミ改革もくぐり抜けミンス改革もくぐり抜けそうな、旧荘園様全国各地にもはやないょね?
>347-348
太閤検地以後は荘園はない。
それ以後、豊臣または幕府が知行地を与えるという形でしか私領は存在しなくなり、
「荘園」という形式は完全に消滅した。
351 :
日本@名無史さん:2010/02/21(日) 13:52:08
が、天領、寺社領、旗本領と名を変え、形を変え存続し続けたのであった。、
352 :
日本@名無史さん:2010/02/21(日) 14:04:47
その寺社領を明治政府や県や市町村が接収して、国立公園などの国有地、
県立公園や県立運動公園、自然公園、公立の中学高校などになっていますよ。
じゃいまからは国債所有権者さまたちの抵当権設定大荘園群に生まれかわるぅ。
まあ、現代の国のあり方は、律令制の公地公民に少しだけ近づいたということもできる。
相続税で物納された土地は国有地になるし、
国立公園や公立の施設は原則だれでも入れるし、公道はだれでも通行できる。
それを保有するのは国民であり、管理するのは公僕である公務員です。
耕地耕民(オリエント中華式専制政治体制)を くつがえしていったのは 貴族と寺社 建前論は今後とも崩れる 新貴族層いるでしょ 世界的に
356 :
日本@名無史さん:2010/02/21(日) 20:21:29
>>347 中世の在地支配は、
少し前までは単に「荘園制」といっていたが、その後網野善彦氏などの提唱により、
荘園と公領は密接に関連・連動しているところから、
現在では「荘園公領制」と呼ばれています。
両者の支配の対応関係
荘園 公領
(本家) (知行国主)
領家 国司
預所 目代
下司 在庁官人(郡司、郷司、保司)
名主 名主
作人 作人
ちなみに、荘園の重層的体系は、太閤検地で完全に消滅し、
江戸幕府の開設で、近世の「幕藩体制」につながっていきます。
357 :
日本@名無史さん:2010/02/21(日) 21:42:33
太閤検地って、何をどうやったから荘園がなくなったの?
そのへん、調べても出て来ない
358 :
日本@名無史さん:2010/02/21(日) 21:48:30
土地の所有という概念が、変わった。
359 :
日本@名無史さん:2010/02/21(日) 22:32:06
>>357 太閤検地で、いっぺんに「荘園」が無くなったわけではありません。
南北朝のころから荘園・公領は、崩壊過程にはいります。
その後、応仁の乱を経て、守護大名から戦国大名の生成過程を経て
各国の荘園は、先ず戦国大名に押領されます。
結果、戦国大名は、支配地域の一円知行を完成させました。
というか支配地域の一円知行を完成した者(守護代・国人が多い)が、
戦国大名なのですが。
その後、その戦国の世を統一し、天下人となった秀吉は、
天下統一事業の一環として全国の「太閤検地」を行い、
この時点でも残存していた荘園制度も廃止し、在地支配の一元化を完成したのです。
360 :
日本@名無史さん:2010/02/21(日) 23:00:38
>>359 補足
南北朝室町初期から、応仁の乱の前の頃も、
当時の守護によって荘園・公領は押領され、守護は「守護大名」へと成長していきます。
しかし、このころの守護大名による一円知行は貫徹せず、有力荘園は存続しているそうです。
つまり
戦国大名が現れた時点で、荘園は都の領主と断ち切られ、その上納分は戦国大名の袂へ?
うん、それだと太閤検地は関係なくない?
太閤検地は、各大名の領内に立ち入って田畑の面積を測っただけじゃないの?
まあ、秀吉は治世の都合がいいように大名を転封していったから、
内部に荘園があろうとお構い無しに新たに入部する大名にくれてやったのだろうけど
という事は、秀吉も荘園の領家の権益を無視してるよね、元の荘園領主に返してないんだから
けっきょく 党(特定集団)幹部層の実質支配する協産主義か社会主義か社会民主主義か どれも土地の分配が 資本でなく 権力内(外)部の関係で決まる →将来も
地方→中央のモノ・カネ(年貢)の流れは戦国時代にほぼ消滅。
ただし、荘園制≒「職の体系」的な重層的な土地所有・権利関係は残存。
重層的な土地所有・権利関係を原則否定したのが秀吉の太閤検地=一地一作人。
以上である。
女院荘園は。
365 :
日本@名無史さん:2010/02/23(火) 22:03:33
>>359 巨視的には、
秀吉が、戦国の世を平定して天下を統一したときに、
従来の朝廷・貴族を頂点とするヒエラルキー社会は、完全に崩壊し、
日本の「中世」は、終わったということではないでしょうか!
近世は独裁専制経済
いまは現代
367 :
日本@名無史さん:2010/02/24(水) 21:55:28
>>336 >>356 職の体系の
上級荘官「預所」を置く存在意義が、よくわかりません。
在京預所(上司)
在地預所(中司)
どちらも下級荘官「下司」の上司ですが、
在京預所は、「領家」とほぼ機能が同じ(どちらも下司の上司)なので置く意義がないと思いますが!?
在地預所は、現地にはすでに下司がおり在地支配をしているのに、
更に預所を置くことは屋上屋を重ねるようなもので意味がないと思いますが!?
荘園所有の階層性って、実利的な意味があるんだと思いますよ
荘園ってそもそも、開発領主→特権目当てで貴族階層に寄進→貴族がプレゼント目的でさらに上級貴族に寄進→さらに上の地位の人へ
と寄進が続いて、行き着くところ摂関家とか院に集まった訳ですから
中間の所有者も、幾ばくかの取り分がある訳ですし、階層構造をとる事で利益の分配?が行われていると考えられます
製造メーカー→代理店→小売店→ユーザー という物の流れと同じでは?
戦国大名は、それら中間階層を排除して、産地直送をやった訳でしょ
369 :
日本@名無史さん:2010/02/25(木) 22:22:30
>>356 領家がさらに荘園を寄進して、「本家」が生じた場合、
「領家」「本家」どちらが荘務権を有し、在地を実効支配するケースが多かったんでしょうか?
つまりどちらが「本所」の場合が多かったんでしょうか?
370 :
日本@名無史さん:2010/02/25(木) 22:28:05
>>369 荘園領主に領家・本家がある場合、
本家が「本所」で在地実行支配権(荘務権)を有するばあいは、
領家の権限は、「預所職」ないし事実上の預所と考えてよいでしょうか?
一つの荘園の所有権、徴税権が複数の領主(のようなもの)に分担され、
重層的になっていた荘園の構造が廃止され、
地域によっては戦国時代以降、地域によっては太閤検地以降、
大名ないし幕府などの認定した単一の領主が領有・徴税する仕組みになったから、
この時点で荘園制は完全に消えている。
江戸時代における天領も寺社領も旗本領も、
いずれも荘園制とは全く異なった仕組みになってるんだから。
なお、「荘園公領制」の半分、公領については、南北朝時代後半〜末期の時点で消滅しているはず。
>357
領有権の分割を禁止して、単一の領主だけが独占的に、その地域を統治する仕組みに切り替えたから、
重層的な領有を特徴とする荘園制は完全終了となった。
まあ、近畿では織田政権の時点でも荘園はなくなっていたと考えて良いが、
他の地域はそれぞれの大名の方針によってバラバラ。
朝倉のように、荘園を積極的に保護していた戦国大名もいるほどだ。
372 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 09:19:51
>>371 さん! 詳しい解説、勉強になりました。
在地支配の一元化、すなわち「荘園公領制」の公領・荘園の崩壊は、
中世の支配者朝廷その他権門の崩壊でもあると思うんですよね!
また、他所での解説もよろしくです。
373 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 20:01:46
>>370 荘務権を有しない「領家」(本家が「本所」の場合)は、「預所職」ではありますが、
「預所」ではないと思います。
なぜなら、
この場合、上級荘官預所の補任権は、本所である本家にあり、領家自体は、本家の下位にあるものの
その人事権には服さないからです。
下司などを任命する場合、どんな書物が出るんだろう?
そして誰の名前で出るんだろう
>>374 本所が三位以上なら、政所下文とかじゃね?
376 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 21:02:36
>>373 >>374 荘官補任状かな! 何らかの形で所領安堵の書面が出るのだと思います。
荘務権(人事権その他在地実効支配権)を有する本所の領主名義で出るのだと思います。
以上、専門家でないので推測です。
詳しい方!補足ください!
377 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 22:26:07
>>371 中世の政権は、朝廷はもちろん、鎌倉幕府・室町幕府も、
荘園公領制の「職の体系」に寄生していたのだとの説明がありました(本郷和人『武士から王へ』)。
言いえて妙だなと思いました。
事実、朝廷の権限は、公領制の崩壊により形骸化し、
室町幕府は、応仁の乱等による荘園制の崩壊により、統治権限をほぼ失った。
その後は、皆さんご存知の戦国大名が跋扈する「戦国時代」。
378 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 22:29:45
>>377 中央の権門や鎌倉〜室町の幕府は、領有をめぐるインフラを護持するために存在したとも言えるかな
それを寄生というのかも知れない
380 :
日本@名無史さん:2010/03/25(木) 01:23:35
なるへそ
381 :
日本@名無史さん:2010/03/25(木) 18:55:43
>>377 >>379 室町幕府の地方支配の核である守護は、「守護職」しゅごしきとも呼ばれ、
荘園制の「職の体系」の一職種という意味もあるんでしょうね!
一般的には、
守護は、大名としての側面が強調され「守護大名」といわれていますが。
382 :
1:2010/03/25(木) 19:17:30
>>182 前回のレスから3年たったので様子を見に来ました。
レス数はスレ立から6年で381ですね。
3年後にまた来ます。
「職の体系」って?
384 :
日本@名無史さん:2010/03/26(金) 10:25:20
385 :
日本@名無史さん:2010/03/26(金) 21:15:15
>>383 「職の体系」って?
>>318 >>316 などを参照下さい!
中世の在地支配のあり方で、
荘園領主側・在地管理人・荘民の重層的な仕組みのことをいいます。
この重層的な仕組みを基本に、京都の朝廷など権門は、地方(在地)を支配していました。
一種の身分制度に基づく貴族支配形態の典型だと思います。
386 :
日本@名無史さん:2010/03/26(金) 21:21:48
387 :
日本@名無史さん:2010/03/26(金) 23:46:27
>>382の 1さん!
貴殿は、荘園(公領)制の専門家でしょうか!
それとも、荘園にこだわりを持っているアマチュア上級者でしょうか!
>>385 その体系を維持するメリットって何なんでしょうか?
実際の土地に至るまで、何人かの手を経ることは解りました
でも、その機能がいまいち見えて来ないのですが
389 :
日本@名無史さん:2010/03/27(土) 17:56:49
>>388さん
ウーン! 維持するメリットですか!
「荘園公領制・職の重層的体系」とは、中世(特に前期)の在地支配体系です。
中世の三権門(朝廷・寺社・幕府)を頂点とする身分制的支配制度・秩序ですから、
これらの権門層にとっては、既得権として維持された方がいいんですかね!
しかし、歴史的には、
南北朝の動乱や応仁の乱などを経て、この旧秩序が崩壊し下克上・群雄割拠の「戦国時代」に突入した、
と私は理解していますが。
重層的な形をとる意味は?
武家の 御恩←→奉公 と同じで、任命←→上納 というギブ&テイク関係ですかね?
だとしたら、中世は三権門ともどもに普遍的に封建体制と言えますかね?
391 :
日本@名無史さん:2010/03/27(土) 20:50:08
>>390さん
重層的な形をとる意味は?
私も専門家でないので、正確な回答はできませんが。
職の重層的体系の標準型は、
(本家)―領家―(預所)―下司―名主―作人 です。念のため
>>333で次のように説明しました。
開発領主は国司・国家からの徴税を免れるため、不輸の権(免税特権)を有する権門貴族・寺社へ
寄進しました。
開発領主は、寄進する代わりに自己を荘官(現地管理人)にしてもらう権利を留保して寄進しました。<
ご指摘のように、「ギブ&テイク」の関係だと思います。
>>391 特権を得たいのなら、京都の権門に直接寄進したらどうなんですかね?
なぜ、重層構造をとるのでしょう?
下司―名主―作人、これは仕方ないでしょう、現地での専門分化と言えますからね。
でも、領家と預所って、要らないでしょ。
それと、書いて頂いた標準型には、荘官というは出てきませんが、どの階層に入るんですか?
393 :
日本@名無史さん:2010/03/28(日) 00:59:47
>>392さん
(本家)―領家―(預所)―下司―名主―作人
これは、あくまで標準型です。
開発領主から中央権門への直接寄進もありえます。
その場合は、その中央権門が「領家」です(下記※参照)。
二次寄進した場合のみ「本家」が生じます。上記標準型の(カッコ書き表示)は、その意味です。
>なぜ重層的構造?
それが当時の統治システム「日本版カースト制度」だと考えています。
「公領」との対応関係も無関係ではないと思います。
>>356に書いておきました。
「領家」など荘園用語は、
>>318で説明しています。ただ用語の用法が少し難解です。
※「領家」と「領家職」は若干意味が異なり、
「領家職」とは、領家、本家にかかわらず、荘園の実効支配権を有する「本所」の
ことを指します。
>「預所」ですが、下司の上司で上級荘官のことを指します(詳しくは
>>318 >>336を参照下さい)。
ただし、常置の職ではありません。ですから標準型ではカッコ書き(預所)としておきました。
>荘官とは、これも
>>318に書いておきましたが、
荘司ともいい、預所(上司)・下司・公文など現地管理人の総称を「荘官」といいます。
特に下司を指します。
>>336 に書かれている事について
本所が「荘務権を有し荘園を実効支配する」とは、具体的にはどういう事をするのですか?
例えば、「任命権限」がこれに含まれるのなら、解任権限も存在する訳ですよね。
寄進は荘園所有者(開発領主)の自由意志で、下から上へと行われる筈のものなのに、
任命や解任といったトップダウン的な権限を上が有しているとは、どういう事なんでしょう?
395 :
日本@名無史さん:2010/03/30(火) 00:44:38
>>394さん! スルドイですね!ごもっとな疑問だと思います。
「本所」の荘務権は、もちろん荘官に対する人事権一般も含みます。
ただし、
開発領主は、ご指摘のように荘官に補任される権利を留保して寄進していますので、
一般論としては、その解任は容易にはできないものと”想像”されます。
個別的には、両者の力関係(パワーバランス)によるのでしょうか!
開発領主である荘官が死亡したときは、その惣領(相続人)が所領を安堵されるとともに、
荘官に補任されたそうです。
ワタシのネタ本は、
>>323に掲げておきましたが、
網野善彦著作集第3巻『荘園公領制の構造』です。だいたいこの本に基づいて回答しています。
中世は、朝廷(天皇)(他に寺社・幕府の三権門)を頂点とする「ヒエラルキー社会」です。
在地支配は荘園公領制、中央は上記三権門による権門体制が、車の両輪のように密接に関連・連動しています。
興味がありましたら、一読をお勧めします。
ワタシでわかる範囲であればお答えしますが、ワタシの下手な解説より勉強になると思います。
>>395さん
荘官というものは、公の官職ではないですよね?
本所の家政機関内の職に過ぎないですよね。
公が、それに裏づけを与える様な政策はあったのでしょうか?
例えば、権門の所有する荘園はその存在自体、官が公認したものだから、荘官も「見なし官人」とされていたとか、なにか。
397 :
日本@名無史さん:2010/04/02(金) 01:15:07
>>396さん
荘園は、「公領」の対語で私領です。荘官は、その現地管理人ですからね!
荘官には「官」の字が付いていますが、荘司ともいい「官職」ではないと思います。
>>356に、荘園と公領の役職の対応関係を示しておきましたが、
下司などの荘官は、公領では国衙の在庁官人(郡司、郷司、保司)に相当します。
両者の兼職は、あったときいております。
>公が、それに裏づけを与える様な政策は・・?
ですが、
具体的な政策は知りませんが、平安末期から鎌倉時代(いわゆる院政期)にかけて、
「知行国制度」ができると、公領も荘園と実質変わらなくなってしまったとの説明がよくなされています。
ということは、
官人ではないもの、おっしゃるように「みなし官人」的職だったのかも知れませんね!
もっと詳しい方がいるかも!
398 :
日本@名無史さん:2010/04/09(金) 01:19:38
>397
こちらの方が知識レベルが低いのに横レスして失礼します。
>「知行国制度」ができると、公領も荘園と実質変わらなくなってしまったとの説明がよくなされています。
>官人ではないもの、おっしゃるように「みなし官人」的職だったのかも知れませんね!
いや、逆でしょう、官職が私有化されていった果ての、公領の私領化でしょう。
ただ、院領の成立と共に国家による私領の囲い込みが本格化し、
朝廷が一介の権門に成り下がった、ような感じではないでしょうか?
399 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 06:08:52
>>398さん
>国家による私領の囲い込み
とは、できれば詳しく!
>朝廷が一介の権門に成り下がった
の原因は、どのようにお考えでしょうか!
400 :
日本@名無史さん:2010/04/14(水) 20:18:13
>>399 知行国制度は、近年の研究では、従前国司制度と趣が異なるものではなく、
従前国司制度の延長としてとらえ「院政的国司制度」だとの指摘もなされていますね!
朝廷→国守→在庁官人の命令系統が、朝廷→国主→(国守)→目代→在庁官人となり、
従来国守に代わり知行国主が実権を行使する構造に置き変わったと言われています。
「国司を語るスレ」119あたりを参照ください。
権門体制論によりますと(答えになっていませんが)、
私の理解では、公家権門である朝廷は長男格、寺社権門は二男格、
武家権門の幕府は三男格だと思います。
のち三男の武家(幕府)が、二男の寺社・長男の朝廷を圧倒していくのが中世の
歴史だと思います。
401 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 23:41:32
>>400 補足
鎌倉中期特に「承久の乱」以降は、
朝廷による各国の地方支配は、幕府が設置した守護(ないし地頭)に行政権を奪われ、
国司は国衙領の荘園領主まがいの存在になった、との説明もありました。
行政権とは何か? という本質的な問題ですね
荘官、目代、地頭、これすべて荘園支配の為の機構ですよ
行政権と言えば聞こえはいいけど、支配階層(領主)の財産管理に直結する話ですし
403 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 01:17:29
中世国家の行政権とは、何でしょうか!
主なものは徴税権と軍事・警察権だといえますが。
朝廷の地方支配は、その出先機関の国衙(国司の役所)が担当し、
幕府は、国ごとに守護を設置し、地頭を荘園・公領(郡・郷・保)に設置しました。
鎌倉時代は、「公武二元支配」などといわれていますが、
両者の在地・人民支配の形態や優劣は、どのようなものだったんでしょうね!
404 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 09:10:06
中世に国家なんてないだろ!ww
405 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 09:23:47
>>403 鎌倉時代の「公武二元支配」は、
朝廷は、国司・国衙を通じて国レベルの行政だけにタッチし、
郡郷以下の在地に付いては、幕府が地頭を通じて支配していて、
朝廷と幕府の住み分けがなされていたとの説明がありましたが、
この学説は正しいのでしょうか?
>>403 中世においては徴税権と軍事・警察権ともども、国家の主たる天皇や朝廷には既に無い
貴族も上皇ですらも、荘園という私有財産で生活していた
朝廷は軍隊も警察も持っておらず、幕府やその時々に使役しうる武士層の私的奉仕によって賄われていた
荘園制というものを認めた時点で中央集権政府の朝廷は敗北、軍隊も養えない丸裸の権門集団
自分たちの私的財産である荘園を機能させるために、あれこれ地方武士との折り合いをつけつつ妥協案を施策として発布していただけ
国の政ごとと言うにはほど遠いものだった
あっさり言って、そうでは?
407 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 01:21:30
>>404 現在でいう領域支配的国家ではありません。
前スレでいくらでも出てくるように、
「職による支配体系」を統治原理とする国家はあったと推測できます。
408 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 11:31:20
>>406 承久の乱あたりを契機に、
>朝廷は・・丸裸の権門集団 になったんでしょうね!
409 :
日本@名無史さん:2010/05/09(日) 23:08:57
>>367 本所補任の「預所」は、在京が本物の預所で在地のそれは「預所代」
と呼ばれていますね!
幕府補任の「地頭」も同様に現地に代官が派遣された場合は「地頭代」でした。
なお「地頭」は、荘園職でいうと「下司」に相当します。
鎌倉後期になるとこの預所と地頭は、現地で権限・得分をめぐり衝突したらしいです。
そこで、
その解決案が、領家方・地頭方でその得分によって現地を分割する有名な「下地中分」。
「預所」など中間の職は、寄進の経路上にいる、中間の寄進者なんでしょうか?
それとも、寄進の経路とは全く別に、本所が適当に任命した職でしょうか?
411 :
日本@名無史さん:2010/05/11(火) 12:21:10
>>410さん
網野氏の著作などによりますと、後者だと思います。
預所職は、本所がその家司など自己の縁者を補任しているようです。
なお、
前者の開発領主など第一次的な寄進者は、下司職に補任され在地領主となっているようです。
網野氏もなんだか怪しげなことを言っているぞ。
大御所の言うことだと無批判で受け入れてしまう人が多くなるので、
特に高齢になるととんでもないことを平気で言て、自分で気づかなくなる。
こまったものです。
413 :
日本@名無史さん:2010/05/13(木) 20:38:48
>>410 >>411 幕府(鎌倉)成立前は、預所職は寄進の経路上にいる開発・在地領主もあり得たと思います。
しかし、
幕府成立後は、幕府が補任した地頭(下司職相当)に対抗させる関係上、
本所は預所に自己の縁者を補任して在地の地頭に対抗させた、
と推測します。
414 :
日本@名無史さん:2010/05/16(日) 12:36:41
>>369 >>370 「領家」の方が、荘園実務(荘務権)を有しているケースが多かったそうです。
摂関家は、その家格の高さから、
「本家」というものは、得分権だけを有すれば足り、荘務権などの実務を有することは、
恥だと考えていたそうです。 永原慶二『日本の中世社会』
415 :
日本@名無史さん:2010/05/16(日) 12:48:21
「荘園」とは、
中央政府(朝廷)の行政権が全く及ばない治外法権的な地域ではなく、
国家に規制された公的な行政単位でもあったとの説明もあります。
事実、内裏造営など重要な国家行事の費用ねん出のための「一国平均役」は、
荘園・公領に関わらず賦課されました。
416 :
日本@名無史さん:2010/05/19(水) 21:22:01
>>415 中世は、
公家(皇族・摂関)と大寺社と武家(幕府)の三権門の連合政権だと言われます(権門体制論)。
荘園公領制の時代と院政の時代は、重なります。
偶然でしょうか!?
荘園が朝廷の行政権(というか施政権)の管轄外区域ということであれば、
その荘園領主の権門(皇族・摂関・大寺社)を総括する存在は、院(治天の君)ということでしょうか?
この当時の国家(及び在地)支配構造を研究している学者はいますか?
417 :
日本@名無史さん:2010/05/20(木) 23:07:19
>>416 確かに、荘園には朝廷の権限が及ばない(及びにくい)となれば、荘園領主権門に対しても、
支配権を及ぼしうる存在というか機構がなければ、統一的な国家運営はできません。
中世国家を統一支配する機構として、
井原今朝雄氏は、国家機構と権門家政機関とで共同執行したとされ、
それらを統括する国家意思最高決定機関が、天皇・院・摂関によって構成されていたとしています。
(白根靖大『中世の王朝社会と院政』序章より)。
418 :
日本@名無史さん:2010/05/25(火) 23:27:44
誰が地頭になった?荘園の体系に組み込まれていない、国衙に支配される在地領主?
419 :
日本@名無史さん:2010/05/25(火) 23:47:31
田堵と名主と開発領主は何が違うんですか?
420 :
日本@名無史さん:2010/05/26(水) 20:55:28
>>418 公領では、郡司・郷司・保司クラスの開発領主が鎌倉殿(幕府)の御家人となり、
地頭に補任されました。
荘園では、荘官(下司クラス)が鎌倉殿の御家人となり地頭に補任されました。
>>419 詳しい人お願いいたします。
421 :
日本@名無史さん:2010/05/29(土) 09:23:58
>>416 >>417 公領統治は朝廷(狭義の)だけでもできますが、
荘園領主権門に対しても影響力を行使しえる存在は、院(治天の君)において以外考えられません。
院は、天皇家の家父長にして最大荘園領主権門です。
したがって、両者を統括する存在として院政機構(鎌倉中期には制度としても確立)が朝廷与党を形成し、
広義の朝廷を形成していたと考えられます。
ただ、承久の乱後は幕府(鎌倉)が東国政権から全国政権へと成長していく過程でもあります。
幕府との関係も考慮する必要はあります。
在地領主層を基点として見れば、権門(摂関、院)から幕府へ従属先を変更しただけかも
423 :
日本@名無史さん:2010/05/29(土) 17:56:31
>>421 承久の乱後は幕府が全国政権となっていったので、西日本の荘園・公領の在地にも、
地頭が設置され幕府支配に組み込まれていったのだと思います。
424 :
日本@名無史さん:2010/05/30(日) 20:51:59
425 :
日本@名無史さん:2010/05/31(月) 17:59:13
>>419 少し調べました。ひとつひとつの言葉の意味より、その相互関連とか?
どう違うのか?との質問だと思います。
田堵とは、
平安中期ごろの荘園・公領の田地の請負をし年貢公事を負担する有力百姓層を指します。
名主と似ていますが、その前進的地位だとみられています。
名主とは、
平安後期から荘園・公領においては、名単位に年貢公事が収取されていました。
名主はその「名」で任命された管理・徴税責任者です。
荘園であれば、最末端の荘官です。
開発領主とは、
未墾地を初めて私力で開発し、その領有権を有する者です。
その開墾地を有力権門に寄進すれば、下司・預所などの荘官に補任されました。
また、地元有力者として公領の郡司・郷司・保司や国衙の在庁官人にも任命されたそうです。
426 :
日本@名無史さん:2010/05/31(月) 20:42:26
ありがとうございました
427 :
日本@名無史さん:2010/05/31(月) 21:04:27
>>426さん!どうもです。
訂正↓(誤変換)
>名主と似ていますが、その前身的地位だとみられています。<
田堵の後身的な地位が、「名主」ということのようです。
平将門も田堵のひとり
独自の開墾地(本領)はわずかで、国司から年契約で請け負う田地を基盤に一族郎党を維持していた
だから、国司とぶつかると途端に地位を失ってしまうのが、その頃の関東武士団
将門は父が鎮守府将軍であり、伯父が常陸大掾、自身も関白藤原忠平に臣従していた事から、
優先的に田堵の地位に連任される特権があったと思われるが、後世の鎌倉武士団のイメージとはだいぶ違う
429 :
日本@名無史さん:2010/06/01(火) 08:23:45
へぇー! 将門って田堵だったんだ!
イメージないっす。確かに後世の武士のイメージとは違います。
430 :
日本@名無史さん:2010/07/03(土) 20:36:25
荘園本って、きょう本屋へ行ったら、たくさんあった。
何かお勧め本ありませんか?
まず、その依存的な体質を改めたほうがいい。
自分で調べろ、自分で考えろ。
それが血となり肉となるのだ。
432 :
日本@名無史さん:2010/07/24(土) 18:15:37
薩摩島津氏も、荘園荘官(下司)出身ですね!
鎌倉幕府成立期の文治元年(1185)ころ、
摂関家家人島津氏初代惟宗忠久が今の都城市あたりにあった摂関家領島津荘の
下司職に補任され、相次いで頼朝から惣地頭職にも補任された。
その後しばらくして(年次不明)幕府から薩摩・大隅・日向の三カ国守護職にも補任されたとあります。
これが南九州において島津氏が、大名化する始まりだと思います。
摂関家て血統的に何者だよ?
南九州に荘園持てる。
434 :
日本@名無史さん:
藤原氏、具体的には摂関家筆頭近衛家ですね。
忠久は実際は現地に赴任せず鎌倉在住の「遥任」、現地には守護代を派遣していた。
実際に在国するのは、島津氏4代目忠宗あたりから。