足利将軍ってなんで15代まで続いたの?

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1ヘタレ
足利将軍も関東公方もそのほとんどがショボイ面子ばっか。
特に将軍はなんで15代まで続いたのか、俺にはわかんね!(T▽T)
いくら天皇から任命されたっていってもよ、ありゃないだろ。
もし俺が戦国武将だったらあんなショボイのすぐに潰してたね!
ってか、なんで?
22:04/02/05 00:12
2DAIME
3日本@名無史さん:04/02/05 00:13
周王はもっと続いてますが・・・
4日本@名無史さん:04/02/05 00:15
義教が殺されなかったら、どういう風に展開していったのかしら?
強権政治はいずれどのみち破綻したかしら?
5日本@名無史さん:04/02/05 00:36
初代ー尊氏
二代ー義詮
三代ー義満

序盤の三代と

一三代-義輝
一四代-義栄
一五代-義昭

終盤の三代
一三代〜一五代セコっ!w
けっけけけけけけ〜
6日本@名無史さん:04/02/05 04:38
義輝も義昭も結構頑張ったと思うが。
7日本@名無史さん:04/02/05 10:52
等持院くらいは行っとけよ。少しは感じ方変わるよ。
8日本@名無史さん:04/02/05 11:01
ばっかだなあ、しょぼいから残す価値あるんじゃねえか。
俺が大名なら、義教みたいなウザい将軍こそ真っ先に殺すね。
9日本@名無史さん:04/02/05 22:13
>>8
そういうお前も殺されるわけだが。
10日本@名無史さん:04/02/06 00:04
今川義元が桶狭間で討たれなかったら、そのまま尾張を平定して
頃合を見て上洛敢行!そしたら足利義元が誕生し
幕府の権威も少しはまともになったかもよ
11日本@名無史さん:04/02/06 00:08
やっぱ将軍位継ぐときは足利に改名するの?
12日本@名無史さん:04/02/06 00:15
足利持氏、赤松満祐、山名宗全、織田信長は偉い!!
13日本@名無史さん:04/02/06 00:17
>>12
どういう選定基準よ?
14日本@名無史さん:04/02/06 00:20
>>13
武士か公家か判らん、お歯黒将軍に楯突いた武士の中の武士!!
15日本@名無史さん:04/02/06 00:23
お歯黒大名(・∀・)イイ!
16日本@名無史さん:04/02/06 00:25
今川義元はお歯黒大名。
17日本@名無史さん:04/02/06 00:25
本当にお歯黒なんてしてたのか?
まさかノブヤボで「高家」になってるから、>>14が勘違いして…
18日本@名無史さん:04/02/06 00:28
お歯黒って、婦人がするのでは?
19日本@名無史さん:04/02/06 00:29
大内義隆もお歯黒してたのかな?
20日本@名無史さん:04/02/06 00:42
ノブヤボでの束帯大名キャラの代表は
今川家、京極家、足利家ぐらいか?
細川家や畠山家は束帯キャラじゃない。一色家、山名家、赤松家もそう。斯波家も束帯キャラでなかったような。
どこで決めてるんだろ
21日本@名無史さん:04/02/06 00:51
束帯キャラって誰もができるものじゃあなかったんでしょ?
だから家格が決めてたんじゃない?
22日本@名無史さん:04/02/06 00:55
一応、源氏とか天皇の流れを継いでいる家柄でないと束帯はできなかったのかね。でもそれなら武田は出来るな
23日本@名無史さん:04/02/06 15:27
じゃあ松永久秀も偉い?
24日本@名無史さん:04/02/06 21:15
何故初代は自分の土地を確保出来なかったのか?
直属の軍隊を養えなければ没落するのが見えなかったのか?
25宇和島人:04/02/06 21:24
>21
家格は
足利本家>吉良>今川>斯波>>>>細川、畠山>一色、京極、山名、赤松、六角だろ。
京極よりは斯波が上だ。
26日本@名無史さん:04/02/06 21:28
>>21
>>22
それは光栄に問い合わせればわかるだろw
板違いだな。
27日本@名無史さん:04/02/07 00:23
>>25
吉良ってそんなに家格高いの?
28日本@名無史さん:04/02/07 01:23
>>27
足利将軍家で跡継ぎがいない時は、吉良か今川から養子を取って
継がせるとか、真しやかに言われていたらしい。
ほんとにそんな決まりになってたかどうかは知らん。
29日本@名無史さん:04/02/07 11:55
この15人の中で、将軍としての能力的に最も優秀だった人物は
義昭だな、次いで義満。最下位は義栄。
尊氏は初代というだけで人物は凡庸
義教に関しては糞
30日本@名無史さん:04/02/07 12:00
一応、吉良、渋川、石橋の三家は「殿」付けで一門扱いだった。
31日本@名無史さん:04/02/07 13:14
三好、松永は将軍義輝を討ったが、その後すぐに将軍義栄を立てた。北条氏康も上杉と和睦後、古河公方足利義氏を立て自らを関東管領と名乗ったというが。
わざわざ新たな将軍とか公方を立てるんだったら
自分がトップになればよかったじゃねーか
32日本@名無史さん:04/02/07 13:53
室町・戦国期の吉良家の歴代当主は、官位がなくて官途名を私称してるだけ。
名門というわりには、どこで何をしていたかもよくわからない。
33日本@名無史さん:04/02/08 01:06
元々吉良家なんて高家じゃなかったんだろ
34日本@名無史さん:04/02/08 01:09
安室奈美恵とオマンコしたいね。
35日本@名無史さん:04/02/08 01:29
忠臣蔵に出てくる、糞爺で有名な吉良匠乃守も家格がよかったのけ?
36日本@名無史さん:04/02/08 11:02
というか義栄ってほんとに将軍になったのかよ。
37日本@名無史さん:04/02/08 13:38
>>36
朝廷が征夷大将軍の辞令を出しているのは間違いない。
38日本@名無史さん:04/02/08 15:49
吉良家は観応の擾乱で直義方について衰退したんだっけ?
39日本@名無史さん:04/02/08 16:02
力がないことを幕府が自覚してたから続いたんじゃないかな。お家騒動は大体
勝つ方に味方していったし。そもそも尊氏は異常なぐらいに御家人に大判振舞
いした将軍だった。まさに大器(またはあほ?)。力で抑えず、権威として存
在していたから。長く続いた平安時代の貴族と同じ構造がそこにあったと思う。
40日本@名無史さん:04/02/08 16:24
>35
吉良は23歳で従四位上。
41日本@名無史さん:04/02/08 16:28
>33
15代目の義弥(上野介の祖父)の時
42日本@名無史さん:04/02/08 16:34
ちなみに吉良の娘と
浅野の嫁は同じ名前
(字は違うが。)
吉良の娘は阿久里
浅野の嫁は阿久利
43日本@名無史さん:04/02/08 19:23
>>31
日本史における「貴種」の概念が分かってないな。
どこの馬の骨ともわからん香具師が突然公方になったって、
誰も認める訳無い。どうしても将軍とか公方とか
なりたかったら、家康みたいに系図を偽造するしか無い。
そんな面倒くさいことしなくとも、傀儡立てりゃ十分
だったんだろ。
44日本@名無史さん:04/02/08 21:17
五代:義量
十四代:義栄

このふたりだけ画像・木像が一切伝わってないらしいね。
45日本@名無史さん:04/02/08 21:22
義輝サマかっこよすぎ
46日本@名無史さん:04/02/08 23:32
義栄って朝廷に任命された訳じゃなく、三好と松永が自分達で勝手に作った、なんちゃって将軍だったんだろ?
んなもんでも14代将軍様になっちゃうのか?
そこんとこどうなんだお前ら!!
47日本@名無史さん:04/02/08 23:39
三好が勝手に作ったとしても最終的に天皇が叙任したから将軍なんでないの?
48日本@名無史さん:04/02/08 23:50
義輝は剣豪将軍といわれているが
それは単に、剣の腕前がおっそろしいほど達っただけであって
戦場で2〜3万騎の軍配を振るわせたら大したことないんだろうな。
49日本@名無史さん:04/02/08 23:55
>>42
おぉ、反対だと思ってた。
>吉良の娘は阿久里
>浅野の嫁は阿久利
50日本@名無史さん:04/02/10 01:25
つか、義輝の時にいた三好長慶って当時正式な管領だったのけ?
51日本@名無史さん:04/02/10 01:29
三好自体が細川の家宰だろうが。
52日本@名無史さん:04/02/10 01:32
えええ!!そうだったのか!!!知らなかった…
んではその細川さんはなにやってたの?
53日本@名無史さん:04/02/10 01:37
54日本@名無史さん:04/02/10 01:59
>>10
義元上洛説はちょいと無理っぽいでしょう。
上洛したとしても足利義輝が将軍なのに分流の義元が将軍にはなれないよ。

>>29
義昭が能力があったのは認めるが、義栄が最下位というのは・・・。
単に早死にしただけだし。

>>44
義栄の木像は出身地の阿波に残ってる。
怒っているような顔でイメージと全然違った。

ちなみに「高家」とはもともとは家柄が高いという意味で
「公家」とも書かれていたが、
江戸時代になって寛永時代頃から役職の名称として使われだした。
それ以前にも大沢基宿や吉良義弥らが高家のような役をしているので、
大沢基宿が徳川家康から儀式作法の指導役に
命じられたのが高家の始まりとなっている。
55日本@名無史さん:04/02/10 02:03
今川の場合、義輝を廃嫡して自分が将軍になることはできる血筋だけどね・・・
人気を考えると厳しいかな
56日本@名無史さん:04/02/10 02:04
しかしまたダラダラと二百十数年もの間、みんなで幕府を維持し続けたもんだ。信長がいなかったらこの状態が後100年は続いたんじゃねぇのか?
57日本@名無史さん:04/02/14 02:02
>>1
お前さんは現代人的感覚に染まり過ぎ。
マックス・ウェーバーの「支配の3類型」でも勉強してみるといいさ。
10分もかからないからよ。
58日本@名無史さん:04/02/28 17:11
なんで足利って京都にいすわったのかな。
基本的に関東にいればこんな大反乱にならなかったのと違う?
59日本@名無史さん:04/02/28 18:30
京都近郊が不安定だから離れられなかったんでしょうに

京都にいなかったら南朝の勢力が京都押さえてるよ。
60日本@名無史さん:04/03/02 11:40
>>58

>>59にプラスしておくけど、
京都は将軍家が支配し、関東には鎌倉府をおいていた。
61日本@名無史さん:04/03/03 18:54
>>59
南朝は義満のときに滅亡してるじゃん


義満以降はどういうこと?
62日本@名無史さん:04/03/03 23:01
後南朝。
63日本@名無史さん:04/03/03 23:14
京の都に居座ることがそんなに変かね?
定石だと思うがね。
64日本@名無史さん:04/03/04 02:59
北の将軍ってなんで2代まで続いたの?
65日本@名無史さん:04/03/04 20:05
後南朝なんて取るに足らない存在だろ
66日本@名無史さん:04/03/04 21:23
だからと言って無視して幕府を遷す必要な無いわな
67日本@名無史さん:04/03/04 21:26
>>65
そうでもない。
どさくさに紛れて御所から神器を奪ったり、
応仁の乱でも西陣南帝が出てくる。
68日本@名無史さん:04/03/07 06:05
有力守護が西国にもたくさんいて、離れられなかったってことは無い?
鎌倉幕府は、地方政権から出発してるけど、足利は南朝だの直義だのとがっぷり四つになって全国展開したから、今更地方に引きこもるわけにもいかなかったのでは?
69日本@名無史さん:04/03/09 05:34
鎌倉幕府と足利政権は、機構が似てるだけで規模も深度も別モノだよね。
まさに全国展開というのが言い得て妙。

鎌倉幕府は元冦で全国展開しようとして潰れたようなもんだ。
70日本@名無史さん:04/03/09 07:06
実質的権力は保持してなかったが
利用されてたから。
71日本@名無史さん:04/03/09 13:40
問題はなぜ15代も利用価値があったかだ。
72日本@名無史さん:04/03/09 15:15
そりゃまぁ、鎌倉将軍が九代まで続いたのと似たような理由ではないの?
73日本@名無史さん:04/03/09 16:32
鎌倉は140年。
室町幕府は240年。
74日本@名無史さん:04/03/09 17:09
個人の才能に頼っている組織というのは、そもそも健全ではないわけで…
信長個人に頼っていた織田政権は彼の死後、武田の最後並に惨めな形で
あっという間に空中分解したでしょ?

ショボイ将軍でも維持できたんだから、組織としてはある意味完成されていたのでは?
徳川だってショボイ将軍多いし。

問題は、個人の才覚を振るおうとした将軍は、義教を筆頭にみんな回りから
あぼーんされちゃう点だな。ショボイ奴でも務まるが、傑物も輩出されない…
75日本@名無史さん:04/03/09 19:18
15代はずっと花の御所にいたの?
76日本@名無史さん:04/03/09 19:27
流れ公方
はぐれ公方
メタル公方
77日本@名無史さん:04/03/09 20:06
>>75
いや、花の御所(室町御所)に拠点を構えたのは
三代・足利義満から。
室町に居を移した事と
南朝と北朝を一つにまとめて正式に将軍となった事から、
学者の間では義満を初代将軍としている人もいる。

後に足利義晴とかの代になると将軍が京都から逃れる事も多く、
義輝の時の花の御所は現在の平安女学院の辺りにあった

78日本@名無史さん:04/03/09 20:20
現代日本ってなんで88代も続いているの?
79日本@名無史さん:04/03/09 20:57
流れメタル
80日本@名無史さん:04/03/10 00:12
それどころか義昭は信長に追放されたあともずっと征夷大将軍で呼ばれている。
秀吉政権下でも将軍は義昭だった訳だから(幕府じゃないけど)将軍家そのものは260年近い。
正式に将軍辞職したのは天文に入ってからじゃ無かったっけ。
81日本@名無史さん:04/03/10 00:17
室町将軍家って軍事力そのものは大したことないから過小評価されがちだけど
存在感としては相当なもんがあったんじゃないのかね。

信長は義昭の命令で消されたって説もあるくらいだ。
82日本@名無史さん:04/03/10 10:50
>>80
秀吉が関白になるまでは、義昭は天下に号令する夢を
ずっと持ってたんだよね。
たとえ権力は失っても一番地位が高いのは将軍である自分だし。
でもその後秀吉が関白になってしまって、自分より上の地位に就く武士
が現われてしまって、最後の望みも消えてしまったんだね。
83日本@名無史さん:04/03/10 13:14
>82
ちょっと違うね。秀吉は足利家への養子入りを熱望したが、義昭はこれを許さず、
秀吉は近衛家の養子になってる。近衛家の人間では将軍になれないので関白の地位を望んだ。
「関白」というのは手に入らない「将軍」の地位の代わりだったようだ。
誇り高き足利の血は時の権力者と言えども氏素性に問題のあった秀吉を迎える事は出来なかったんだろうね。
もちろん官位・役職としては関白のほうが上なんだけどね・・。
84日本@名無史さん:04/03/10 13:37
信長の最期や秀吉の関白就任もそうだが、この時期の政治的な謎とされてたものも
足利将軍家の影響力が考えられてるより遥かに大きかったと
考えれば案外しっくりくるものがいっぱいあるよね。
85日本@名無史さん:04/03/10 15:29
ショボくても125代続いているところもありますが。
86日本@名無史さん:04/03/10 16:03
>>85
ありゃショボくない。日本人の宗教観に根を張っている。
寄生しているという言い方のほうが正しいが。
87日本@名無史さん:04/03/11 03:30
>83
それもおかしいだろ。
義昭が将軍職を辞さない限り、誰も征夷大将軍にはなれない。
だから関白だと考えた方が合理的。

源氏長者と藤原長者じゃどっちが重たいかなんて明白。

源氏長者なんて天皇・藤家から見れば血としては地下人だろ。
88日本@名無史さん:04/03/11 05:24
>83
>近衛家の人間では将軍になれないので関白の地位を望んだ。
これもちょっと違うんじゃないか?征夷大将軍は令外の官で、一部の例外を除いては
従4位下か従3位下位。近衛府でいえば近衛中将位の官位のものが任命されているから
5摂家筆頭の近衛家が将軍を出しても官位的には全く問題ないと思われる。
ただ、黙っていても摂関になれるのにわざわざ下の官職に志願して粗暴な武士を束ねる物好きもいないだけの話じゃないのか?
それに、秀吉が先に近衛ではなく凋落した義昭の養子になりたいといったのは、武家の後継者を目指したというより
「官位打ち」を恐れたのではないのだろうか?秀吉自身百姓の出を隠しておらず、
とうていムリとは思っていても、頼朝や実朝、更に自分の主の信長までもがスピード出世でろくな死に方をしてないのを
みて、実力はともかく金で何とかなる公家の養子は避けたかったのではないだろうか?
実際畳の上で死ねたものの、事実上彼一代で豊臣は潰れたし。
たいした肩書きがなくても力さえあればどうにでもなることは信長が証明しているのだから
適当な官位で箔がついたらそれでよかったんじゃないかと思うが違うかな?
どっちにしてもスレ違いすまそ
89日本@名無史さん:04/03/11 05:59
いろんな推測があったほうが面白いからage。
90日本@名無史さん:04/03/11 06:06
プランタン銀座の荒井直美さん、かわいい。
91日本@名無史さん:04/03/11 06:17
>>83
実際九条家からは将軍出てるよ。
92日本@名無史さん:04/03/11 14:19
>87 10代以降は誰1人辞職し(ry
93日本@名無史さん:04/03/11 22:01
>>91
九条家の場合は源頼朝の姪が嫁いでおり、一応、源氏の血が繋がっていた。
94日本@名無史さん:04/03/12 01:14
>88
それは違うよ。当時、例え五摂家筆頭だろうと従一位だろうと清和源氏の嫡流でなければ将軍には任じられなかった。
だから83さんの書いてることのほうが正しいよ。
後に家康が新田の系図を手に入れ、必死で源氏の嫡流になりすましたのを知らないですか?
当時、藤原の公家ではどんな身分でも任官されなかった・・・。
もう藤原氏の時代じゃなくなってたからね。
だから関白なんて何の実質権力も持ってないし、実質は将軍を下回る力しかなかった。
当時の関白、近衛前久がその実情を嘆いているじゃないか・・。
それに秀吉は武家の棟梁という地位こそ政治的に必要だと求めていたのであって、
関白という地位じゃ当時の戦国大名は誰も崇めてくれない事はわかってたようだ。
秀吉は当時最高の実質権力者だったから関白として権限を振るう事が出来たんだけど、
決して関白だから諸大名に命令出来たわけじゃないよね。
現に、秀吉前後の関白はただの名誉職に成り下がっているよ。
87さんが言ってるような藤原家の威光が復権するのは明治になってからだよね。
余談だけど江戸時代、九条家は源氏一門でもあり、
また、将軍を輩出していたから家康は特別領として3000石を与えてる。
これは当時の公家としては異例の高禄になってるよね。
余談ついでに書くと、江戸時代、500石しかなかった交代寄合の新田家には引け目があったのか、
10万石の格式を与えているよね。
まあ、新田家は間違いなく名門だからそういう理由からの特別待遇じゃないと思うけどね。
95日本@名無史さん:04/03/12 03:11
>>94
確かにその通りかも、、信長の後ろ盾があったとはいえ近衛前久は将軍足利義昭に関白を罷免されてる歴史的事実があるなあ。
公家の世の中だった平安時代では考えられん事件だよね。
これはあきらかにその頃の関白の実情を象徴してるんだろうね。
スレ違いだが徳川家康は一応武家だったんでごまかしの偽系図を引っ張り出せたんだろなあ。
出自があきらかな秀吉にはできん芸当だよね。
9688:04/03/12 18:28
>>94
それは逆だと思う、当時源平交代論とも言うべき考え方があったとあなたが認めるという前提で話を進めるが、
「征夷大将軍(以下将軍と略)が源氏の出身に限る」としたのはその家康本人でしょう。
 力があれば肩書きは何でもいいと言う点では大筋で私とあなたとで同じ認識だと思うけど、
>当時、例え五摂家筆頭だろうと従一位だろうと清和源氏の嫡流でなければ将軍には任じられなかった。
>当時、藤原の公家ではどんな身分でも任官されなかった・・・。

というのはどこから出てきた結論なのかが分からない。そういう規定を記した文章を見た事がないし、
実際「政権を担当した」将軍は確かに殆んどが源氏の一門だが、北条政権下では公家2代、宮様4代と、
源氏ではない人間が就任している、要は「当時は」武力を持たない公家に任命したところで武士を抑えられるわけもなく、
適当な人材を武士の中から選ぶしかなかったということで、
南北朝のどさくさでは何人もの宮将軍が誕生し武士を従えて暴れている。逆にあなたの言う通り秀吉や清盛は関白太政大臣で
ありながらやってたことは将軍そのものだ。12世紀から17世紀の間に任官規定に改定でもあったんでしょうか?
 足利幕府もその経緯を見れば、慣例というか成り行きで成立したようなもので、一つ間違えれば将軍が足利氏でなくても、
あるいは尊氏は将軍でなくてもよかった可能性は否定できないと思う。
もう一つ、揚げ足取りのようで悪いが、あなたの言う「源氏の嫡流」が、
「摂津清和源氏義家流頼朝家」のことを指すなら実朝で滅んでしまっており、足利、新田氏は義家流だが傍系である。もちろん他の御家人に比べれば格段に血筋はいいから特に足利氏は北条政権下でも特待扱いされていた。だからといって「源氏」だから将軍になった。
とは断言できないのでは?  (つづく)
9788:04/03/12 18:31
 (つづき)
 とにかく、清盛を武家政治の開祖と見るなら、
平家→源氏→北条(平家)→足利(源氏)と来ているから次は平家という発想が出ても不自然ではなく、信長も将軍職の打診を蹴ったにも拘らず平信長と署名したりしているし、
後を継いだ秀吉も「最初に」自分の主が叩き潰して帽子の役にも立たなくなった将軍家の養子を望んだのは「平家の次は源氏」という発想がなければ理解できない。
将軍家の威光は後ろ盾になる大名の力があってこそだということは嫌と言うほど知っているはずだから今更将軍になったところで諸大名がひれ伏すとはボケた晩年でも考えなかったろう。
 家康が新田流の系図を妄想したのは、最初から織田(平氏)の後釜を狙ってなのか、足利と並ぶ名門新田家が滅んで系図があやふやになっていたから取り敢えず箔付けに名乗ったのか分からないが、
とにかく「源氏」の家康が3度目の幕府を開いたことで将軍=源氏という認識が完成したのではないんだろうか?
(徳川が、その後歴代の当主に家の字を使ったのは、自分達が義家の流れを汲む家柄だと強調したかったからだという説もあり、家康が意識的に将軍=義家流にしたかったのは確かなようだ。
それまでの松平家は信忠ー清康ー広忠ー家康(元信、元康)ー信康、秀康、秀忠と、康と忠をほぼ交互に使っている)
もし、信長が将軍職を請け、秀信位まで続くか、秀吉が目出度く足利16代におさまるかしていたら歴史はともかく将軍に対する認識は大分違っていたと思う。
 ついでに言っておくと、後年家綱が死んだ時、後継を綱吉にするか綱豊にするかで揉めた際、酒井忠清が宮将軍擁立を計画し、水戸までも動いたという話が残っているのは、真偽のほどはともかく、
必ずしも将軍=源氏という考えが固定していなかった傍証にならないだろうか?

長文重ね重ねスマソ
98日本@名無史さん:04/03/12 18:50
いろんな説あって(・∀・)イイヨー
99日本@名無史さん:04/03/12 18:59
「右近衛大将」という位が幕府の象徴だったという説(1191年鎌倉開府説の根拠)というものがありますが、その関連についてどなたか解説して頂けませんか?
100日本@名無史さん:04/03/12 19:00
>>96
「征夷大将軍が源氏の出身に限る」としたのは家康本人て本当?
源平交代論が戦国以降の説ってのは考えてみればすぐわかるけど。
101日本@名無史さん:04/03/12 19:12
>>97
源平交代説って少なくとも数代にわたって武家社会を統治したような政権を想定
したものでは?信長は西日本すら押さえて無いし一代ちょろっと統治して
しかもその配下で明らかに源平でもない秀吉が源平交代っていうのは考え難くないですか?

それにそういう神話的な発想があるなら近衛→関白ではなく最期まで源氏路線を突き通さないとおかしくないですか?

一見無意味な足利将軍家や官位にまだまだ見えない力があったと考えた方が自然な気がします。
102日本@名無史さん:04/03/12 19:38
すみません一つだけ突っ込み。
九条家が3000石になったのは江戸後期(忘れたけど何か幕府に対する功績があって)で、
家康の時ではないですよ。
103日本@名無史さん:04/03/12 22:37
近衛家 2860石
鷹司家 1500石
九条家 3043石
二条家 1708石
一条家 2044石

だから、九条家だけずば抜けているわけでもないんじゃないの。
五摂家筆頭の近衛家より多いのはあれだけど。
104日本@名無史さん:04/03/12 23:04
>>99
「右近衛大将」に源頼朝が任官したメリットは三位がもらえたこと。
で、三位になると政所(家政機関ね)を開けるのよ。
さらに、朝廷としても「右近衛大将」は公卿じゃないので都合が良かったんじゃないの。
105日本@名無史さん:04/03/12 23:25
>103
清華家では今出川家が突出して1355石と摂家に肉薄。
秀吉を近衛家に斡旋して関白に就任させた春季の功績が効いているのか?
10688:04/03/13 01:44
>>100
すいません、家康はそんなこと言ってません。>>97の後半で書いたけど、
源氏でなければ将軍になれないという意見に対して、家康が源氏として開幕したことで
将軍=源氏が慣例化した。と言いたかったのが筆が滑りました。
>>101
ご指摘ありがとうございます。幕府云々がレスの主旨だったので織豊時代はうろ覚えで
書いてしまいました。よく考えたらその天正13年の養子の申し込み自体が議論されてる
状態でした。交代論と、あなたの言われる将軍家の見えない力等を頭に入れて
出直してきます。って、もともとスレ違いだけどw
107日本@名無史さん:04/03/13 09:38
足利将軍家が持ってた見えない力って、
やっぱり「南朝」なんじゃないでしょうかね。
108日本@名無史さん:04/03/13 12:41
>104
ありがとうございます!
109日本@名無史さん:04/03/13 12:45
後南朝といえば、戦後すぐに「後南朝の末裔」と称する者(熊田天皇?)が皇位継承権を求めて裁判を起こした事件がありました。
110竹田丹後守 ◆gVkD2onhQc :04/03/13 12:53

天皇ってなんで125代まで続いているの?
111日本@名無史さん:04/03/13 13:21
>>110
異民族に征服されなかったから(スレ違い)
112日本@名無史さん:04/03/13 13:26
>>103
どうでもいいけど摂家って二条が地味なイメージ。いつも忘れる。
近衛・・・わりとみんな知ってる。語感も名家っぽいし
鷹司・・・名前にインパクトあり。響きも公家っぽいし
一条、九条・・・○条は名家のイメージの代表。○○小路、○○院みたいな連中と同じ
二条・・・同じ○条なのに数が中途半端で地味。誰?って感じになってしまう。
     なんとなく数字が近いせいか一条のパチモンのようなイメージが抜けきれない。
ってかんじだ。
>>105
でも今出川はほかの清華から結構蔑視されてたんじゃなかった?氏素性の卑しい親秀吉だったせいで
113日本@名無史さん:04/03/13 16:45
二条家の始祖良実は一条家の始祖実経の兄なのに石高は低いのか
足利・徳川将軍家から諱をもらってるくらいだから
もっと貰っても良さそうなのに
114日本@名無史さん:04/03/13 17:29
江戸時代みたいなものだったの?
115日本@名無史さん:04/03/13 19:02
>>88
従3位下何ていう位階はないぞw

>>103
九条家は幕末に九条尚忠の功労によって千石加増されたんだっけ?
近衛家の石高は表向きには2860石だが、実際は一万石取れてたとか何かで読んだことがある。
116日本@名無史さん:04/03/13 20:25
近衛家は酒どころの灘に領地があって、元禄以降酒の消費量が増えるにしたがって
領地からの上がりが激増して結構ウハウハだったとか。
また、領地から良質の酒が献上されるので帝より良質の酒を常日頃飲めたらしい。
117日本@名無史さん:04/03/13 21:57
二条は二条城で有名
118日本@名無史さん:04/03/13 22:14
>>115
島津が代官として薩摩にある近衛家の領地を管理していたから、
島津からの貢ぎ物とかはあったと思う。

でも、明治の近衛家では当主・篤麿の妻が加賀100万石前田家の娘で、
近衛家の貧乏な食事で栄養不足になり、文麿出産後、病没している。
(ちなみにその後、その妻の妹が篤麿と結婚している)
119日本@名無史さん:04/03/14 22:58
尊氏"やい、おまいら!!幕府ができますた。室町に集合しる!
後村上"詳細キボンヌ
義満"1392は南北朝合一ですが、何か?
後小松"南北朝合一キターーーーーーーーー
後亀山"キターーーーーーーーーー
後醍醐"南北朝合一程度で騒ぐ厨は逝ってヨシ
尊氏"オマエモナー
義持"--------勘合貿易終了-------
義教"--------勘合貿易再開-------
富子"再開すなDQNが!それより息子うぷキボンヌ
赤松"嘉吉の乱うp
義教"↑誤爆?
義昭"将軍age
義政"ほらよ息子うぷ>富子
↑の弟"息子?降臨!!
義昭"将軍age
義輝"15第将軍ageんな!sageろ
義昭"将軍age
義輝"将軍age厨uzeeeeeeeeeeee!!
朝倉"ageっていれればあがると思ってる香具師はDQN!
細川&三好&松永"弱い将軍がいるのはこの幕府ですか?
義晴"氏ね
義栄"むしろ生きさせて
義昭"将軍age
義輝"義昭必死だな(w
120日本@名無史さん:04/03/14 23:16
>>119
禿ワラ
>>109
熊田ではなく、熊沢
121日本@名無しさん:04/03/15 12:17
15代義昭が信長に追放されてからも将軍を称したのは確かだが、
信長は彼をなぜ殺さなかったのか?また、彼の辞職を朝廷に強要しなかった
のはなぜか?この辺がすごく疑問だ・・・・・
足利将軍家ってそんなに信奉者が多かったんだろうか?
122日本@名無史さん:04/03/15 12:42
包囲網に露骨な大義をあたえちゃうからじゃね?
123日本@名無史さん:04/03/15 13:13
>>121
義昭の息子、義尋を自分の傀儡とするため。
124日本@名無史さん:04/03/15 13:20
俺の大学の傍にここの将軍様が並んでる寺がある
あ、大学ばれてまうわ
125日本@名無史さん:04/03/15 14:16
>>124
RIT'Sの学生ハケーソ
126日本@名無史さん:04/03/15 17:10
誰も突っ込まないが、足利将軍は16代まで、だよ
127日本@名無史さん:04/03/15 19:22
将軍の出先基地が幕府なんだから、義昭は毛利の庇護の下に鞆幕府を
開けば格好よかったのに。
なんの実権もないが。
128日本@名無しさん:04/03/15 19:59
>>122
だったら、少なくとも本願寺との講和、大坂退去以後には
将軍職を剥奪させるはずじゃないかな。
俺は正直、信長はさっさと辞職させていて、
義昭はただの「自称」将軍だったんじゃないかと思っているんだが。
ただ、辞職させたという公文書が現存していないだけではないかと。
129日本@名無史さん:04/03/15 20:31
>>127
毛利が許すはずない。
130日本@名無史さん:04/03/16 02:59
立命がおおっぴらに言えるような大学になったんだな・・・
感慨深い
131日本@名無史さん:04/03/17 11:17
将軍age
132日本@名無史さん:04/03/17 11:21
>>127
鞆幕府は実際あったよ。後世の問題にされてないけど。
しかし、ほんとインパクト薄かったんだな。なんかヒサンだな。w

>>129
毛利は鞆幕府の副将軍だよ。
133日本@名無史さん:04/03/17 11:27
>>121
それってじゃあ次の将軍はだれかってことになるから
むしろ何故信長は将軍にならなかったのか?と同じ問いでは?

まだ全然全国の大名制圧してないから無理ある。
134日本@名無史さん:04/03/17 11:56
将軍ageはかなり名言。
135日本@名無しさん:04/03/17 11:58
>>128
実は俺もそう思う。
何かの古文書で天正年間(しかも信長の生前)に
義昭のことを「前公方」と呼んでいるのを見た記憶がある。
だとすれば、信長が奏請して朝廷に将軍職を罷免させたの
ではないだろうか。
136日本@名無史さん:04/03/19 15:36
>>1
無能な政府は潰すより利用した方が便利なんじゃなかろーかと思った人がたくさんいたからでは無いの?
137日本@名無史さん:04/03/19 17:42
「無能な政府は俺が助けてやらないとだめなのです」が戦国大名の常套文句‥

138日本@名無史さん:04/03/21 20:28
>>128
>辞職させたという公文書が現存していないだけではないかと。

確かにそういう文書は存在しないが、天正16年まで現役将軍だったことは
「公卿補任」に書いてあるぞ。
139日本@名無史さん:04/03/21 22:15
140日本@名無史さん:04/03/22 07:43
明快に足利幕府にとって代わろうという勢力が現れなかったから?
それとも、義昭に対して信長が手を焼いたように、新しい勢力が台頭しても足を引っ張るとか。
141日本@名無史さん:04/03/22 18:10
15代続いたと言うより、一所懸命だった御家人が淘汰され戦国大名になり、
「日本」というレベルで物を考えることのできる武将が登場するまで240年余かかった。
と考えた方が自然なんでは?
142日本@名無史さん:04/03/23 17:56
>141
やはり鉄砲の普及ではないでしょうか?
勝負の決着が飛躍的に早くなったことが影響していると思う。
143日本@名無史さん:04/03/23 18:19
>141
「日本」というレベルで物を考えることのできる武将って誰のこと?
信長も秀吉も、今までの領土拡大の手順を繰り返していただけだし。
家康は出来上がった枠組みを引き継いで改良しただけだし。
144日本@名無史さん:04/03/26 01:06
>>1
おまえは朝敵だな。
145日本@名無史さん:04/03/26 08:00
>143
南蛮人の来航によって、「世界の中の日本」という意識ぐらいはあったのでは?
146日本@名無史さん:04/03/27 17:56
>>143
>今までの領土拡大の手順を繰り返していただけだし。
今の民主主義国家と比較してるのかもしれないけど当時他にどういう手法があったのか
聞いてみたい。
>>145のいうように実際に天下を狙ったかはともかくとして、信長、家康、大友、ちょっと
時代はズレるが伊達辺りは意識していたと思う。大内、毛利、島津、秀吉は?だけど。
147日本@名無史さん:04/04/10 15:36
担ぎ上げるのが好きな民族性ゆえんだろう
148日本@名無史さん:04/04/22 14:06
うちの近くに義輝の長子が住職になったという
寺があるな
149日本@名無史さん:04/04/25 11:44
15代まで続いたのがほとんど奇跡です
150バウ:04/04/25 17:08
へへへ
151赤いミニタイト:04/05/21 20:24
足利義稙は義材と名乗った時と義稙と名乗った時にも将軍となっている。天皇が重祚するときは代数を換算するのに将軍が復職すると代数に換算しないのは解せない。どこの誰が決めたのか?はっきりセよ。足利は十六代と考えている。
152日本@名無史さん:04/05/22 23:54
じゃあ、なんで初代だけ名前に「義」が付かないの?
153日本@名無史さん:04/05/23 00:34
>>152
尊氏のこと?
尊氏までの足利家は将来当主となる嫡子は時の権力者 執権の北条氏から偏諱(一字拝領)を受けていた。
尊氏の場合、北条高時だったので、「高」をもらって、代々の通字の「氏」で、「高氏」と名乗った。
このあと恩賞としてか、後醍醐天皇の諱の「尊治」から「尊」をもらって、「尊氏」とした。

2代目以降は足利家が権力者となったので、他氏から名前をつけてもらうことはなくなった。
そして足利将軍家は「義」が通字となっていった。
154日本@名無史さん:04/05/23 00:38
>>153
じゃあ、なんで「氏」が通字じゃないの?
155日本@名無史さん:04/05/23 00:44
初代って尊氏のこと? 平家とも言われる北条氏の天下で、ぼく源氏です、って
源氏の忌名の義は使えないでしょう。尊氏の前の高氏も、北条高時からの一字だし。
2代目になって、晴れて源氏を前面に出すわけ。
徳川家康も秀吉亡き後、子供に義直だの頼宣だの、源氏を意識した名をこれ見よがしに付けてる。
頼は、秀頼を尊んだんじゃないんだな。
156日本@名無史さん:04/05/23 07:23
>>154
尊氏の子 基氏には代々の通字「氏」を付けているぞ!
将軍家は「義」
関東公方家は「氏」
157日本@名無史さん:04/05/23 21:21
>>151
義量没後の義持もカウントすると足利17代になるな
義尚の死後も義政が政務をみたっけ?
158日本@名無史さん:04/05/23 21:41
足利氏の菩提寺「等持院」に木像が無い将軍(偽者扱い?w)は誰だ?
159日本@名無史さん:04/05/23 22:24
152だけど、何気なくカキコしたら勉強になったよ。アリガト!!
160日本@名無史さん:04/05/24 01:12
>>157
政務を見たけど、将軍職に復帰したわけではなかったのでは?
161日本@名無史さん:04/05/24 20:11
室町殿さえいれば将軍など飾り
162日本@名無史さん:04/05/26 09:21
 天皇以外の政権は全部15代で終わってるね。
   鎌倉幕府    15代執権 北条高時
   室町幕府    15代将軍 足利義昭
   江戸幕府    15代将軍 徳川慶喜
 不思議な偶然だけど覚え易くて(・∀・)イイ!!
163日本@名無史さん:04/05/26 09:55
足利将軍はアル中が多いせいか、長寿が少ないね。
義尚25歳、義量19歳、義勝10歳、義詮38歳、義輝30歳、義昭61歳、義稙58歳、義政55歳、尊氏54歳、義満51歳、
義澄32歳、義教48歳、義晴40歳、義栄31歳、義持43歳。
この15人のうち7人が酒びたりで体調を崩して死んでいる。
164日本@名無史さん:04/05/26 10:14
>>163
と考えると、義秋のしぶとさは凄い!
165日本@名無史さん:04/05/26 12:45
>>162
 揚げ足を取って申し訳ないですが、北条高時は14代目です。
 北条(金沢)貞顕が15代目、北条(赤橋)守時が16代目で最後です。
 なお高時は最後の得宗と言ったほうがよいでしょう。
 ちなみに将軍のほうは9代、源氏3代、摂家将軍2代、宮将軍4代。
 なお()内は当時使われていたものではないようですが、一般には
そう呼ばれているのでわかりやすくするために書いています。
166日本@名無史さん:04/05/26 14:51
>>165
北条は16代とされているけど、初代の時政って
本当に執権職に就任してたのかな?
義時を初代とする説もあるけど、その辺り詳しい人いる?
スレ違い、スマソ!
167日本@名無史さん:04/05/26 22:52
>>165
ケアレスミスだと思うが、宮将軍は2代だね。
要らぬ突っ込みとは思うが、一応。
168日本@名無史さん:04/05/27 03:34
>>167
もしもし。宮将軍は確かに四代ですよ。
大丈夫ですかー?

宗尊親王
惟康親王
久明親王
守邦親王

169日本@名無史さん:04/05/27 07:50
>>166
 その時点としては明確な職名としてあったわけではなくて、後の人が時政
が後代の執権に繋がる職務を行っていた認識していたということではないで
しょうか?
 どちらにしても全然無縁と言うことはないでしょうが、あるいは職権など
は後の執権と異なっていた可能性もありますね。
 さて最近の学説などはどうなっているんでしょうか?
170日本@名無史さん:04/05/27 15:29

知らんくせにしったかしてんじゃねーよ
171167:04/05/27 15:33
……ほんとだ……なにやってんだ俺……
寝るわ……
172:04/05/27 18:03
丸一日近く経ってから寝る奴(w
ともあれオヤスミ・・・
173日本@名無史さん:04/05/27 20:42
>>169
頼家を幽閉した時から事実上の執権ってみなされてるんでしょ<時政
174日本@名無史さん:04/05/27 22:38
>>170
ヒステリー気味だな。五月病か?
175日本@名無史さん:04/05/28 12:03
>>1は赤松満祐
176日本@名無史さん:04/05/28 15:54
174=169
177日本@名無史さん:04/06/12 14:58
足利将軍ってなんで15代までしか続かなかったの?
178日本@名無史さん:04/06/12 15:20
>>177
天皇が征夷大将軍に任命しなかったから。
179日本@名無史さん:04/06/12 15:22
>>178
なんで任命してくれなかったの?
180赤 いみにたいと:04/06/13 00:02
足利将軍は16代まで続いた思う。
結局、誰が15代と決めたんだ?
181赤いミニタイト:04/06/13 00:03
足利将軍は16代まで続いた思う。
結局、誰が15代と決めたんだ?
182日本@名無史さん:04/06/13 00:44
>>180-181
それじゃあ、その16人の名前を列挙してみれくれ。
183日本@名無史さん:04/06/13 07:55
>>181
>続いた思う
三国人の方ですか?
184日本@名無史さん:04/06/13 10:16
平島公方家は明治維新まで(そして今も)続いてます。
現在の公方さまは九州の大学教授をされているらすぃ。
185日本@名無史さん:04/06/13 18:33
義稙が2度将軍に補任されているからとかいいたいんだろ。
186日本@名無史さん:04/06/13 18:51
前々から思っていたんだけど、第二代将軍の義詮って尊氏と義満に
挟まれていて影が薄いんだが、この人は有能だったの?

少なくともこの人の代で幕府が潰れたわけじゃないから、暗愚な将軍
だったわけでは無いなじゃないかと思っているんだが・・・。
187日本@名無史さん:04/06/13 19:08
>>185
堺公方は含まれないの?
義栄は含まれるの?
188日本@名無史さん:04/06/13 19:23
>>186
有能ですよ
鎌倉を陥落させたのはこの人
新田義貞は一武将に過ぎない
総大将は足利千寿王
後の義詮です
189日本@名無史さん:04/06/13 19:39
細川頼之を義満の後見人にするあたりの先見の明は相当なものかと。
190日本@名無史さん:04/06/13 23:54
>>186
確かに影は薄いな!でも尊氏死後28歳で将軍に就任37歳で死ぬまで、
京都は南朝に攻められたり、またそれを回復するといった繰り返し。
徳川の2代目と違い、まだ政権は安定していないことを考えると
よく政権を継承させたと思う。
191日本@名無史さん:04/06/13 23:59
初代は別格として、二代目三代目がしっかりしてれば
その後が凡庸な当主ばかりでも長期政権を維持できるものである。
192日本@名無史さん:04/06/14 00:00
義詮時代は離合集散が激しかったような
斯波親子に道誉に清氏に頼章・・・
193日本@名無史さん:04/06/14 02:06
つまるところ、将軍が有能か否かよりも、諸侯のパワーバランス
が崩れにくい状況が政権を支えるんだろうな。

 今見たく情報の伝達が進んでないことを考えると、なにか大事を起すのは
なかなか難しそうだし、起した事がうまく諸侯に伝わる前に終わったりとか…

 信長はとりわけ目立つけど、ニアミス信長は結構いるのかもな。
194日本@名無史さん:04/06/14 13:23
将軍在位
9代義尚 文明5(1473)〜延徳元(1489)
10代義材(のちの義稙) 延徳2(1490)〜明応3(1494)
11代義高(のちの義澄) 明応3(1494)〜永正5(1508)
12代義尹(のちの義稙) 永正5(1508)〜大永元(1521)
13代義晴 大永元(1521)〜天文15(1546)
以下14代義輝 15代義栄 16代義昭 と続く。
195日本@名無史さん:04/06/14 14:23
>>157
その義持や義政は、義稙みたいにもう一度将軍に就任したのか?
196日本@名無史さん:04/06/14 19:21
しとらん
197186:04/06/14 22:02
>>188-193

少なくとも暗愚な人では無かったようだね。

それにしてもこの人ってホント影が薄い。
昔読んだ「日本の歴史」(中公旧版のシリーズと
読売新聞社?が出版していたシリーズ)にもこの人のことはチラホラ
書かれている程度だったし・・・。

逸話に乏しいということもあるのかな?
198日本@名無史さん:04/06/14 22:30
そういえば義詮の評伝とかなさそうだな・・・
199日本@名無史さん:04/06/14 22:32
京都市衣笠にある等持院に行くと、足利歴代将軍の坐像が
安置されている。何となく各代の雰囲気がわかるから見る
価値あるかもね。
200日本@名無史さん:04/06/14 23:09
まあ、比較的早死にしてるってのも影が薄い一因ではないかと。
というか、観応の擾乱後の混乱した時期の政権を任され、
ようやく落ち着く兆しを見せ始めた頃にあっさり死んでしまうあたりは、
なかなか不憫と言えなくもない。

個人的には、義詮がもうちっと長生きしてたら、
将軍と有力守護の力関係がどうなってたかってのは、ちょっとだけ興味ある。
201日本@名無史さん:04/06/14 23:22
そうさなぁ
義詮・基氏兄弟が揃って長生きしていたら・・・
202日本@名無史さん:04/06/15 05:00
>>200
どうなったと思うの?
203日本@名無史さん:04/06/15 14:07
>>188
そりゃないだろ。千寿王は当時4歳。そんな小わっぱに軍勢の指揮ができるわけ
ない!尊氏が鎌倉陥落を新田の手柄にさせないため、足利の旗の下に東国の軍勢が
はせ参じたという形を作るために千寿王を新田の陣に送ったと思われ。
義詮は政治力で基氏に劣り、武力で直冬に劣る凡庸な人物だ。
足利幕府で真の将軍としての器量を備えていたのは、尊氏、義教、義輝しかいない。
204日本@名無史さん:04/06/15 14:15
>>203
公家としての器量を備えていたのは、義満。
205日本@名無史さん:04/06/15 14:24
 義満がもしも死んでいなかったら皇室は存在していなかっただろう。
206日本@名無史さん:04/06/15 14:27
足利将軍家は代々慣例で日野家から正室をもらっていた。
ウイポで言うところの、危険な近親配合で、インブリードの
悪影響をもろに受けていたため人物に恵まれなかった。
207日本@名無史さん:04/06/15 14:32

義満の死後、朝廷が太政法皇の尊号を授けようとしたのを
義持が固辞したんだよね。
208日本@名無史さん:04/06/15 16:33
>>203
千寿王が鎌倉攻めの総大将なのは事実
足利の旗がなけりゃ関東各地の豪族が
鎌倉攻めに馳せ参じたりしないってこと
209日本@名無史さん:04/06/15 16:35
>>208
ただでさえ新田は承久の乱のときに大ちょんぼかましてるからなぁ
なかなかそういう間抜けさの記憶は消えないもんだ
210日本@名無史さん:04/06/15 18:33
>>208
だからそう書いてあるじゃん。
でも紀ノ五左右衛門に連れられて新田の陣に逝ったのは
千寿王の意志ではない。
鎌倉が落ちた後に尊氏の命でやってきて義貞を追い出した細川三兄弟
は足利にとって勲功第一だな。
211186:04/06/15 21:30
>>203

義満は将軍としての器量を備えてなかったの?
確か、幕府自体は義満の時代に全盛期を迎えたと思ったけど・・・。

>義詮は政治力で基氏に劣り、武力で直冬に劣る凡庸な人物だ。

確かにそうらしいね。ただ最後には凡庸だった義詮が生き残った
というのも逆説的な気がする。
212日本@名無史さん:04/06/15 23:52
つうか、義教ってのも一部から過大評価されてるような。
個人的には、義詮が地ならしをして、義満が凄まじい勢いで作り上げ、
義持がじっくり円熟させたものに、好き勝手やってヒビ入れたのが義教って気がするんだが。

ちなみに、それにとどめをさしたのが、たぶん義政。

>>202
いや、その辺が自分には想像つかないから興味あるんだが。
ただ、義詮には義満ほどえぐいことはできんかったろうなあ、という気はする。
213日本@名無しさん:04/06/16 00:30
義詮ねぇ…例えエグい性格だったとしても、ああいう親父の
「人気」と「業績」に割りこんでどうこうすることはできないん
じゃないかなぁ…もうちょっと性格がエグくて足利家の基盤
が堅かったら徳川秀忠化していたかもしれんけど。
214日本@名無史さん:04/06/16 06:10
>>203
>>足利幕府で真の将軍としての器量を備えていたのは、尊氏、義教、義輝しかいない。

義輝さま・・・・゚・∠ノ×`)・゚・
215日本@名無史さん:04/06/16 19:34
真の将軍としての器量とは何ぞや
216日本@名無史さん:04/06/16 19:59
体重
217日本@名無史さん:04/06/16 20:07
216
このスレの主旨とどういう関係があるの?
218日本@名無史さん:04/06/17 02:58
>>214
諸大名への精力的な政治工作という点では、義稙や義昭もなかなかだと思うけど。
219日本@名無史さん:04/06/17 10:10
>>207
固辞しないと義嗣の存在を認めることになりかねんからなぁ
220日本@名無史さん:04/06/17 17:53
足利義輝の頃って
古河公方も全然で、関東管領も全然なのに
北条氏康は義氏を公方に立てて和睦し、長尾景虎も関東管領になった。

この時代ではほとんどの権威がない役職になんでなったんだろ
そんなに義輝が驚異だったの?
221203:04/06/17 18:05
>>211
確かに義満の代には、南北朝の合体等があって幕府の体制は落ち着いた
と思う。しかし、これは時代の流れがそうさせたのであって、義満の力
が優れていたためだとは言い切れない。むしろ、義詮の早死によって
幼少の身で将軍職に就いた義満を支えた細川頼之の政治力が幕府を安定した
方向に持っていったとそれがし愚考いたしまする。
222日本@名無史さん:04/06/17 18:40
>>220
それは義輝が驚異だった訳ではなく、景虎と氏康が関東を支配するために
利用した大義名分だと思われ。
景虎の方は、権威に弱かったのは確かだが
223日本@名無史さん:04/06/17 18:56
>>199
それがしも、等持院逝きますた。10歳で死んだ義勝は別にして、
義晴が異様に小さいのはワロタ
224日本@名無史さん:04/06/17 20:58
>>221
義満の、あのいやらしいまでの守護勢力削減まで「時代の流れ」で片付けんの?

前期の頼之の功績は否定しないが、中期の将軍権力の安定化は間違いなく義満の才能だろう。
ある意味、あれのおかげで義教までの室町の全盛期が出来たともいえる。
225日本@名無史さん:04/06/17 21:24
>>224
義満の守護勢力削減は確かにいやらしい。
あの頃は、幕府にイイ人材が豊富だった。
それをうまく制御していた義満はまあよくやったとは思う。

226日本@名無史さん:04/06/18 01:34
義満は、細川頼之と斯波義将を両天秤にかけるような感じで、うまく人材を制御し活用していたと思う。
そういう点では、義教も周りに恐怖感ばかりを植え付けずにもう少しうまくやれば良かったのにと思う。
227日本@名無史さん:04/06/18 01:49
>>220
権威がないものを立てたりしません。
権威があるから立てるのです。
最終的に、織田信長が将軍追放に踏み切ったのは、将軍が自分の思い通りにならないことに加えて、将軍と同等かそれ以上の権威が天皇にあることあることを見出したからです。
228日本@名無史さん:04/06/18 01:57
>>226
足利義教って確か還俗将軍だったよね?違ったっけ?
だとすれば、実力と信頼というバックグラウンドが無いまま将軍になったから恐怖政治をしたんじゃないのかな?
なめられちゃたまらんとw
229日本@名無史さん:04/06/18 02:25
義持→義教は、義持が元気なうちに義教を後継者に正式に決めておいて徐々に権力委譲という形をとったほうが良かったのではないかと思わなくもない。
やっぱり、義量が死んじゃったのが惜しいな。
230日本@名無史さん:04/06/19 08:21
>>228
くじびきで決まった将軍
候補は4人。
青蓮院義円→義教
大覚寺義昭
相国寺永隆
梶井義承
誰に決まっても還俗する。

関東公方も尊氏の子孫なので将軍を狙っていたがなれず、
後に京の幕府と対立が決定的になる
231日本@名無史さん:04/06/19 11:22
得宗が続いていれば,義詮の名は「行氏」か?
232日本@名無史さん:04/06/19 11:44
>>231
なんで高時の次男・時行の名前から取るの?
得宗が続いていれば、高時の長男・邦時が継いだだろう。
だから「邦氏」。
233日本@名無史さん:04/06/19 15:20
尊氏(母:上杉清子)には、高義という早世した兄(母:金沢顕時の娘)がいたので、ここで足利惣領家の通字が「氏」から「義」に変わっていたという説もある。
尊氏は、本来次男だったので、もとの通字である「氏」を名乗ったのだとか。
本来的には足利と同じ一族である新田も、同じ時期に義貞の代で突然「氏」から「義」に通字が変わっているし。
234日本@名無史さん:04/06/19 19:18
>>233
そんな説初めて聞いた。
誰が言ってるの?
235日本@名無史さん:04/06/19 22:29
義教は少し強引だったね。でもやろうとしたことは間違っては
いないと思う。直属の兵力が少ない幕府としては、守護勢力
の削減は必須だったからね。嘉吉の乱は室町幕府にとって大きな
ターニングポイントだった。義教を討った赤松満祐は山名持豊(宗全)
中心の幕府軍に滅ぼされるが、それが山名家の勢力を伸ばさせ、
のちの応仁の乱へと繋がっていく。室町幕府を終わらせたのは、義教、満祐
のご両人だな。
236日本@名無史さん:04/06/19 22:56
>>235
そんな杓子定規のレスは誰も求めてない。
237日本@名無史さん:04/06/19 23:10
>>236
俺はイイと思うよ。235。
238日本@名無史さん:04/06/20 00:56
>>237
てか「義教、満祐のご両人」の死後も延々と足利将軍(および幕府)が
存続したのは何故かっつーのが、このスレの趣旨だと思うが

その点で>>235が少々スレ違いなのは確かかと
239日本@名無史さん:04/06/20 12:13
んじゃあ、嘉吉の乱の時と応仁の乱の時とでは
日本の社会はどう変わってたんでっか?
240日本@名無史さん:04/06/20 18:53
>>239
質問の真意がワカラン
だいたい応仁の乱後も幕府は約百年存続したわけで
日本の社会の変化を問うなら
むしろ応仁の乱後の変化を問うのが筋ではないかと
241帰ってきた24歳無職:04/06/20 19:08
赤松満佑、明智光秀。
独裁者を討った二人のイニシャルはM.A
俺もM.A。どうでもよかったかなw
242日本@名無史さん:04/06/20 19:59
足利基氏モナー
243日本@名無史さん:04/06/20 20:06
足利持氏モナー
244日本@名無史さん:04/06/20 20:59
足利満兼モナー
245日本@名無史さん:04/06/20 21:00
足利政氏モナー
246日本@名無史さん:04/06/20 21:09
嘉吉の乱や応仁の乱では、確かに幕府はかなり動揺したけど、少なくとも明応の政変までは、幕府は十分まともに機能しているよ。
義尚や義材が、奉公衆主体の幕府軍を率いて大規模な遠征(六角高頼征伐&畠山基家討伐)を行えているんだし。
247日本@名無史さん:04/06/22 08:04
足利満詮モナー
248日本@名無史さん:04/07/24 18:08
age
249日本@名無史さん:04/07/27 22:16
結局、足利は16代なんだろう?
250日本@名無史さん:04/07/27 22:57
足利将軍は15人16代でよろしいですか?
251日本@名無史さん:04/07/27 23:30
いいんでない?
252日本@名無史さん:04/07/28 21:56
流れ公方義昭、苦労人だな
253 ◆R7EXILXY7w :04/08/29 07:33
んだぁ
254日本@名無史さん:04/09/08 22:14
255 ◆yBEncckFOU :04/09/26 02:06:01
 
256日本@名無史さん:04/09/26 10:25:03
>>254-255
まともに書き込む気もないんなら
潔くdat落ちさせろよ
257日本@名無史さん:04/10/03 15:51:45
あげ
258日本@名無史さん:04/10/28 18:59:22
何このスレ
259日本@名無史さん :04/10/28 23:08:29
16代将軍になる予定だったのは、慶松丸。
その後、慶松さんという名前で足利直系だよ。

ちなみに僕は新田直系の子孫の一人。

同じ町の1丁目と2丁目に住んでいるから、不思議なもんだよね。
勤め先が通り隔てたライバル会社だったのにも驚きだった。
向こうとは飲み会で出会った。9年ぐらい前だった記憶でつ。
当時、こっちはその辺、気を使って、自分の余計な話はしなかったけど。

お互い、その会社にはいないし、なぜか、すぐ会わなくなっちゃった。
ちなみに僕は♂もう、向こうは誰かの嫁さんになっているだろう?
260日本@名無史さん:04/10/29 00:33:16
↑自慢げな書き方ごめんなさい。
261日本@名無史さん:04/10/29 18:00:55
ああ、別に聞いてないよ。
262日本@名無史さん:04/11/12 21:36:00
足利家光
263日本@名無史さん:04/11/12 22:54:22
海驢が将軍?
264日本@名無史さん:04/11/12 22:54:52
力がなかったから
265日本@名無史さん:04/11/19 01:19:58
三河武士を基盤としたから。尾張が絡むと短命、もちろん尾張以外はそれ以下。
現代では天下は世界と言えるが、もうすぐトヨタ帝国が制する。
これも200〜300年は崩れない政権になる。
266日本@名無史さん:04/11/19 04:39:33
なんでかって?

まぐれだよ、まぐれ
267日本@名無史さん:04/12/03 21:55:19
268日本@名無史:04/12/06 17:56:17
おいおい、義光は剣豪将軍とか言ってるヤツおるが
実際は剣豪将軍じゃなかっただろww
269日本@名無史さん:04/12/09 09:30:01
義光って誰だよ最上か?
と入ったもの世界三大瀑布を
本気で「鎌倉、室町、江戸」とテストに書いた俺も人のこと言えないが
270名無し募集中。。。:04/12/11 12:34:28
ナイアガラ・那智・華厳
271日本@名無史さん:04/12/19 12:07:25
半将軍は足利家ではありません。
272日本@名無史さん:05/01/03 04:20:02
>>2
1代目。
足利の征夷大将軍十五人
http://mentai.peko.2ch.net/history/kako/1014/10144/1014489813.html
273日本@名無史さん:05/01/03 14:37:51
信長はなんで
うっとうしい義昭を殺さずに追放にしたんだろ。
兄貴の義輝は三好連中にしっかりぶっ殺されているのに。
戦国の世だし、信長のことだから気にいらない奴は
たとえ将軍でも殺すもんだと思っていたが。
義昭のことが恐かったのけ?案外根性なかったんだな信長www
274日本@名無史さん:05/01/03 14:45:23
将軍殺しの汚名持ちじゃ天下は治められない。
それぐらいの知恵はある。
275日本@名無史さん:05/01/03 14:51:11
>>274
それじゃ義輝を殺した三好組はドアフォってことでOKっ?
276日本@名無史さん:05/01/03 14:52:09
>>275
左様。
まあ、松永は悪名を喜んでいたふしもあるけど。
277日本@名無史さん:05/01/03 14:56:28
>>246
>明応の政変..
この1493年の細川政元による将軍すげ替え政変は、幕府内の下克上の始まりだね。
続いて当の政元も家臣に殺されるし。その後、70年もよく永らえたものだ。
278日本@名無史さん:05/01/03 14:58:44
>>273
生かしておいて笑い者にするつもりだったんじゃねえの?
現に笑い者にされているしな。
亡命中に追いはぎにあって身ぐるみ剥がれ「貧乏公方」とあだ名をつけられたそうだ。
279日本@名無史さん:05/01/03 15:10:51
後鳥羽上皇を殺さなかった鎌倉幕府、
徳川慶喜を殺さなかった明治新政府、
昭和天皇を殺さなかったGHQ、

すべて殺したときのリスクを考えると、
殺さないほうがベターと考えたのであろう。
義昭を殺さなかったのも同じだろう。
280日本@名無史さん:05/01/03 15:17:42
この時代の関東管領はあんま権威ねぇっていうけど
それでも上杉謙信が小田原を攻めた時
関東の豪族が沢山集まったみたいだが
戦国でもなんだかんだいっても肩書きかよ
281日本@名無史さん:05/01/03 15:22:10
謙信が関東管領だからたくさん集まったわけじゃねえだろ。
どっちかつーと関東の豪族がたくさん集まったから関東管領になれたんだろ。
282日本@名無史さん:05/01/03 15:26:18
でも信玄が小田原攻めた時は
たいして集まらなかったっていうじゃねーか。
283日本@名無史さん:05/01/03 15:38:55
足利将軍家の直轄領って、どこだったんだろ。幕府の運営費用は
どうやって賄っていたんだろ。
284日本@名無史さん:05/01/03 15:40:56
義輝公が将軍様の頃の日本で
最も領土がデカかったのって
三好?今川?
285日本@名無史さん:05/01/03 15:50:19
つかなんで
同じ足利家一門なのに
将軍家と公方家が仲良しでないのよ。
286日本@名無史さん:05/01/03 16:27:52
287日本@名無史さん:05/01/03 22:27:30
大名が足利将軍を利用したから
288日本@名無史さん:05/01/04 13:10:09
>>285
おめー、親戚で気に入らないやつ一人も居ないのか?
289日本@名無史さん:05/01/06 18:39:17
わかりやすい表現
290日本@名無史さん:05/01/13 06:49:34
足利義昭の子息たちのその後

義尋・・・・長男。信長の人質となる。出家し、大乗院門跡。後還俗して高山と称する。
義喬・・・・(『足利市史』に見える)一色藤長に養育され、一色左兵衛義喬と称す。
義在・・・・鹿児島に移り、島津家の臣永山氏の名跡を継ぐ。

これって本当なの!?





291日本@名無史さん:05/01/13 10:17:15
三河武士団の中でも地味な一色の名が・・・
ウナギ以外にもネタがあったな
292日本@名無史さん:05/01/14 02:04:17
  〃⌒'⌒'⌒ヽ
 (  ・∀・  ) チンコフターツ
  し-ωω‐-J
293於義丸:05/01/16 14:39:40
この糞くさいYO!秀吉が義昭の頼んだのってあれって新井白石の捏造じゃないの?
294日本@名無史さん:05/02/13 20:55:05
>>285

 兄弟喧嘩・同族殺しは源氏の習い性ですので。
295日本@名無史さん:05/02/13 21:18:48
けっきょく平家は源氏に弱いんだよ
296日本@名無史さん:05/02/13 21:30:15
>>273
謙信あたりを怒らせたくなかったんだろう。
297日本@名無史さん:05/02/13 22:12:55
将軍殺しの汚名は大義名分になってうっとおしいから
また殺すことによるメリットがなかったから
298日本@名無史さん:05/02/14 08:31:28
   ∧_ 人
   (;´Д(__)
   ( つ (__)  イケメン風に
   ) 「( ・∀・) 
     |/~~~~~~ヽ
299太刀山型の土俵入り :05/02/17 16:30:53
300日本@名無史さん:05/02/17 16:31:59
300ドス 義輝さん頑張って!
301日本@名無史さん:05/03/11 17:52:19
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 。。。。。誰もいな(ry
\_   _________________
   | /            /
日  ∨ U A V      | そりゃ禁句です!
≡≡≡≡≡≡≡≡ ∧ ∧ <__________
 V ∩ [] W 目 (゚Д゚,,)─┛~~
__ ∧ ∧_____ |つ∽
  (   ,,)日       ̄ ̄ ̄ ̄
― /   つ―――――――
〜(___ノ
 ━┳━   ━┳━
 ̄ ┻  ̄ ̄ ̄┻ ̄ ̄ ̄ ̄
302日本@名無史さん:2005/03/27(日) 06:27:17
忘れてはならない。

  ∧,,∧
 (;`・ω・)  。・゚・⌒)  あなたががチャーハンを作る時、
 /   o━ヽニニフ))
 しー-J

          ∧,,∧ 
    。・゚・。  (;`・ω・)))  チャーハンもまたあなたを作っていることを。
   。・゚゚。.━ヽニニフ))
  /゚・.7
303日本@名無史さん:2005/04/07(木) 13:35:06
は?
304日本@名無史さん:2005/05/05(木) 00:34:14
305蕎序:2005/05/05(木) 05:04:59
半将軍って細川政元じゃね〜か
306蕎序:2005/05/05(木) 05:07:57
董卓になぜ陳留帝を、曹操になんで献帝の劉協ちゃん担いだの?っいってるようなもんじゃないか
307日本@名無史さん:2005/05/05(木) 14:44:33
陳留帝なんていません
308日本@名無史さん:2005/05/14(土) 12:54:53
将軍家再興したいね
309日本@名無史さん:2005/05/16(月) 08:26:34
足利於莵丸が子爵になっています
310日本@名無史さん:2005/05/18(水) 05:20:08
信長の野望って栃木県足利市の人が作ったって聞いたけど
このゲームで義昭ってどういう存在?
311日本@名無史さん:2005/05/18(水) 08:22:27
312宣伝アゲ:2005/05/24(火) 20:55:01
      (  ト /     /        \     ヽ /  /
        \ \     |      ; |      /  /       ゲッチュ!!
    __   /\_ `‐- \__;;/_/  /ヽ / ̄\   
  ./ ○ ヽ、/    `-___________________,,,_/  /  ○  \
/      \,,,--―――''''''''''''''''''''――-/        ヽ
..⌒‐-,/ ̄\/ヽー―――-、,,__,,,,-―――:||  _,,;-‐''"⌒~~~ 
   r┤    ト::::::::::   (●)    (<)   ||/:::::::ヽ   ライバル・持氏タンも大活躍!!
  /  \_/ ヽ:::::::::::::   \___/    ||:::::::::::::::: ヽ
   |   _( ̄ l::::::::::::::::::.  \/     ノ__/
   |   _)_ノヽ   「足利義教と共に苦難を乗り越えるスレ」
   ヽ____)ノ    >>http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1108995407/
            ・・・・シナリオ職人さん、誰か助けて〜!!(宣伝スマソ)
313日本@名無史さん:2005/05/25(水) 11:58:16
義昭は織田倒した後どうする気だったんだ?
314日本@名無史さん:2005/05/25(水) 22:50:59
>>313
室町幕府再興だろ。
315日本@名無史さん:2005/05/26(木) 01:43:46
マイナーな足利将軍の中でも特にコアなのが義栄
316日本史@名無しさん:2005/05/26(木) 06:22:21
まあ天皇さえアボーンしようとしたぐらいだし、毛利を倒したぐらいで義昭も
アボンだろ
317日本@名無史さん:2005/06/02(木) 01:34:03
>>315
否、義輝公に限る。
318日本@名無史さん:2005/06/02(木) 07:30:20
マイナーじゃないだろ
319日本@名無史さん:2005/06/06(月) 05:08:42
義植はもうちょっと評価高くてもいいと思う
320日本@名無史さん:2005/06/24(金) 00:31:23
マイナーすぎ
321日本@名無史さん:2005/07/06(水) 21:11:33
足利将軍は何故早死が多いんだろう?
9代義尚まででは60年以上生きた人が1人もいない。
義教は暗殺されなかったら微妙なところだろうが。
322日本@名無史さん:2005/07/07(木) 10:25:13
この時代60以上まで生きた人間はさほど多くないような。
323日本@名無史さん:2005/07/27(水) 16:15:52
くじ引きで将軍を決めてたから長続きしたんだよ
324日本@名無史さん:2005/07/27(水) 22:28:30
疑問
足利義満の時代に「花の御所」室町に幕府を開いたのに
何故、尊氏、義詮の時代も室町幕府というのか?
解り易く説明してくれ。
325日本@名無史さん:2005/07/27(水) 22:33:13
「室町時代」が戦後の命名だからだ。室町前期は、戦前は公式に「吉野期」と呼ばれていた。
それと、「幕府」というのも幕末期の俗称で、単に「室町公方」「室町政所」としか
呼ばれていない。
326日本@名無史さん:2005/07/27(水) 22:47:58
江戸幕府の慶喜が将軍としては一度も江戸城で政務を執っていないにもかかわらず
15代の時代も江戸幕府というのと同じだよ
327日本@名無史さん:2005/07/28(木) 10:59:28
ってか義持は室町で政治してなかったと思う。
義教はどうだっけ?
328日本@名無史さん:2005/07/28(木) 20:26:43
それじゃあ室町幕府って事実とかなり違うな・・・
京都幕府じゃだめだったのか??
事実、応仁の乱の時なんかは京都で政治なんか行われて無いだろうに
329日本@名無史さん:2005/07/28(木) 22:32:26
>>326
大奥が勿体無いな!
330日本@名無史さん:2005/07/28(木) 23:01:40
>>329
そのかわり、静岡での隠居生活では、プチ大奥暮らしを楽しめた。
あの時代で、けっこう側室や妾がいたらしい。
331匿名希望:2005/07/28(木) 23:22:20
足利義光将軍が
足利家の中で一番強いのかにゃ?
332日本@名無史さん:2005/07/28(木) 23:55:57
>>331
そんなやついねーよ
333日本@名無史さん:2005/07/31(日) 08:54:57
「征夷大将軍になれるのは源氏だけ」なんてのはどこの誰が言い出したのでしょうか。
室町・戦国時代の日本人は、坂上田村麻呂はもとより、鎌倉時代に皇族将軍や公家将軍がいたことを知らないのでしょうか?

それともこの説はデマなのでしょうか。「長篠の三段撃ち」レベルの。
334日本@名無史さん:2005/07/31(日) 10:39:26
今更何を。
デマだよデマ。
335日本@名無史さん:2005/07/31(日) 19:30:32
当時の常識だな。
秀吉は足利家への養子入りを拒まれて将軍への道を断たれたし、
家康は新田源氏を詐称して将軍の資格を手に入れた。
336日本@名無史さん:2005/07/31(日) 20:16:31
征夷大将軍という「職」を継げるのは源氏に属する「家」という慣例が
尊氏によって打ち立てられたから。
上古の常識と中世の慣例を同列において話をしている奴の方が無知。
337日本@名無史さん:2005/08/01(月) 00:22:54
>>333
信長が朝廷に将軍職の話をした時、平氏から将軍が出た前例なんてないと
つっぱのけられたという経緯があるから、その話が後年誇張されたんでは?
338日本@名無史さん:2005/08/04(木) 18:44:22
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1119780508/741
どなたかご存知の方、教えてください。
339日本@名無史さん:2005/08/06(土) 01:25:54
>>337
まあ平氏からの先例がないだけで、源氏以外の先例が全くないわけではないけど。
340日本@名無史さん:2005/08/06(土) 02:13:47
>>337
>信長が朝廷に将軍職の話をした時、平氏から将軍が出た前例なんてないとつっぱのけられたという経緯がある

学問板でこういう初歩的な誤謬を平気で書き込むのは問題だと思います。
そのような事実はありません。
朝廷のほうから織田信長に征夷大将軍就任を勧めたと当時の公家勧修寺晴豊の日記に明記されています。
341日本@名無史さん:2005/08/06(土) 02:17:58
>>336
足利尊氏が立てた「慣例」は足利家の滅亡とともに崩壊するのが理の当然。
織田信長や羽柴秀吉はあなたの言うような「慣例」に縛られてはいなかった。
まして朝廷はそのような恣意的な「慣例」に一顧だにしていない。
要するに、あなたの言うような「慣例」が打ち立てられたという事実は存在しない。
342日本@名無史さん:2005/08/06(土) 04:11:08
>>330

財界人である渋沢栄一も多くの妾さんを囲っていたらしいね。
近代化のシンボルとも言える明治天皇にも側室がいたしね。

あの時代の実力者で妾・愛人がいなかった人はほとんどいないと
思う。

大正天皇は側室制度が存在しているにも関わらず、奥さんしか
相手にしてなかったらしいけど。
343日本@名無史さん:2005/08/06(土) 10:34:37
足利将軍は歴代が日野家から正室を迎えたのですか?
五摂家より格が下なのに
344日本@名無史さん:2005/08/06(土) 19:20:38
>>343
足利義晴・義輝は近衛家から正室を迎えています。
そのときの政治情勢次第ということですね。
義満が日野家から正室を迎えたのは、当時朝廷の実権を握っていたのが日野家だったから。

345日本@名無史さん:2005/08/06(土) 19:24:59
>>344
卵が先か鶏が先かの議論になるけど、日野家の権勢も足利将軍家の力を背景に
している側面が強い。
当時の日野家は実質的に足利将軍家の家司みたいなものだよ。
他に万里小路家とか広橋(勘解由小路)家も似たような感じかな。
346日本@名無史さん:2005/08/06(土) 20:55:02
>>345
義満が最初の結婚をした時点では日野家の権勢に目をつけたという側面が大きいでしょう。
当時の日野家は治天後光厳院の外戚として朝廷に隠然たる勢力を持っていたから、
朝廷への勢力扶植を狙う義満には好都合だった。
その後は力関係が逆転して、足利家の権威を背景に日野家が朝廷で権力をふるうようになった。
それと、日野家、広橋家、万里小路家などは実質的にではなく形式的にも足利家の家司だよ。
たとえば万里小路時房の日記「建内記」には「私は義持公の家司だった」と明記してある。
347日本@名無しさん:2005/08/07(日) 03:02:38
>>342
(’A´) まぁ天皇の場合は後継者作りのために側室を用意するんで。
     大正天皇は体の事情もあるから複数の女を相手にする余裕もないだろうし、
     そんなんだから好きでもなかったろう。ましてやワンツースリーで男子が
     生まれたもんだから、側室なんて考えもしないだろうよ。

     ちなみに昭和天皇は女子ばかりが生まれるので側室を勧められたが
     拒否したとか。女が生まれるなら男も生まれるだろうって学者的感覚
     だったんだろうかな。大正天皇家時代の(暖かい)家族観もあったん
     だろうが。
348日本@名無史さん:2005/08/07(日) 19:17:36
足利将軍って改名率が高いね。
初代:高氏→尊氏
6代:義宣→義教
8代:義成→義政
9代:義尚→義煕
10代:義材→義尹→義稙
11代:義遐→義高→義澄
13代:義藤→義輝
15代:義秋→義昭

徳川将軍だと以下の例くらいしか思いつかない。
初代:元信→元康→家康
6代:綱豊→家宣
14代:慶福→家茂
349日本@名無史さん:2005/08/07(日) 23:32:23
鎌倉将軍は改名してるのいる?
350日本@名無史さん:2005/08/08(月) 19:48:49
>>348
徳川将軍は他に

8代:頼方→吉宗
13代:家祥→家定
15代:昭致→慶喜

ってところかな
351日本@名無史さん:2005/08/10(水) 21:25:53
家斉は最初から家斉だっけ?
352日本@名無史さん:2005/08/10(水) 21:41:57
14代:慶福→家茂
353日本@名無史さん:2005/08/10(水) 21:50:16
>>348で既出
354日本@名無史さん:2005/08/10(水) 22:34:28
家斉は最初から家斉
355日本@名無史さん:2005/08/10(水) 22:53:07
足利将軍ってなんで15代まで続いたの?
確かに変な話だな。
こういう前提でどうだろう。

元来日本人は自らが直接関係する或いは実感する改革に、
熱心な賛意賛同はしない。
もっとはっきり言えば、現状維持派が大多数で、
古今東西を問わない原則である既得権の維持に集約されていく。
しかし社会が極度に不公平であったり、治安の悪化、
あまりにも無為無策な政治が続くと不満は抑えられない。
これが北条政権の打倒となって現実となった。
鎌倉幕府の打倒とか、北条執権体制の打倒ではなく、
北条家が政権全体の立場で無く、
自分達の都合で取った得宗体制に対する打倒であったと思われます。
どういうことかというと、
元寇で諸国のあらゆる階級が疲弊していたにも関わらず、
北条家のみ栄華が維持され、
本来救済に乗り出すべき責任ある立場の人々が何もしない。
これでは恨みをかうも当然で、
世相としてその様な背景はあったやに思われます。

本来、政変後の安定志向に働く心理的要素が充分に働くところが、
建武新政権があの有様で混乱と不公平不公正を助長、
もっとマシなということで、
北条に代わる盟主として清和源氏の足利氏が期待を背負い、
何だかんだ言いながら、更に混乱も引きずりながらも3代目に至った。
足利氏とその政権中枢にいた氏族は元々遠戚関係で、
足利で取り敢えずまとまっていた様に見せれたのは、
本家筋であったためと思います。
356日本@名無史さん:2005/08/10(水) 22:56:40
とりあえず、ら抜き言葉はやめれ。
357?♪:2005/08/11(木) 05:40:18
唐が安禄山の乱の後も長続きしたのは,古くさい軍事政権から脱皮して「財政国家」((c)宮崎市定)化する
ことに一応成功したからだといへよう.

358:2005/08/11(木) 06:05:02
>>280-281
上杉憲政だって,かなりの動員力がありましたからねえ.
359日本@名無史さん:2005/08/12(金) 17:37:25
足利義昭直系の子孫っているの?
360日本@名無史さん:2005/08/12(金) 18:46:59
>>359
足利将軍家の子孫は平島と喜連川だけじゃないの?
361日本@名無史さん:2005/08/12(金) 22:57:55
織田信長って、足利義昭を京都から追放したとき、
義昭の嫡子(のちの義尋)は人質として手許に残しているのに、
14代将軍義栄の弟で平島家の祖の義冬の系統は、身柄確保せずに
ほったらかしにしていたのが不思議。
362359:2005/08/13(土) 13:24:16
>>360
いやいや、義昭の直系ですよ。

>>361
義昭の嫡子ってひとりですか?
その嫡子の義尋ってどんな人だったんですか?
義尋の子孫は?

363日本@名無史さん:2005/08/13(土) 15:24:56
「嫡子」ってのは普通は一人。
364日本@名無史さん:2005/08/13(土) 15:29:31
>>362
>いやいや、義昭の直系ですよ。

「平島と喜連川だけ」ってのは、つまり義昭の直系はいないと言っている意味に
なると思うのだが。
上記の義尋だって子孫はいない(義尋の子供の代で断絶している)し。
365日本@名無史さん:2005/08/13(土) 23:39:20
宮原家は?
366日本@名無史さん:2005/08/13(土) 23:57:11
足利義昭の子孫は断絶しています。
足利義昭のただひとりの子ども(幼名不明)は、成長後出家して義尋(ぎじん)と名乗り、
奈良興福寺の大乗院の門跡になっていますが、のちに門跡を辞任して還俗しています。
父義昭が羽柴秀吉から与えられていた1万石の知行の相続を考えていたのだという説もありますが、
結局実現していません。その後結婚し、2人の子息をもうけました。
2人とも成長して出家し、兄のほうは常尊と名乗り三井寺円満院門跡に、
弟のほうは義尊と名乗り岩倉実相院門跡に、それぞれ就任しています。
この兄弟はそれぞれ門跡を務め上げて死んだので、子孫は残していません。
このほか、会津藩士の坂本家と薩摩藩士の永山家が足利義昭の子孫と称していますが、
信用する人はほとんどいないようです。
367日本@名無史さん:2005/08/15(月) 02:49:45
>>366
義尋は還俗したあと何て名乗ってたんだろ?
義尋で「よしひろ」とか?それとも坊さんじゃないくせに「ぎじん」のまま?
368日本@名無史さん:2005/08/15(月) 03:38:24
>>367
高山「こうざん」という道号を名乗ったがイミナは不明。
369日本@名無史さん:2005/08/15(月) 08:19:48
義教は義円。
37016歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/15(月) 08:54:34
腐っても鯛
371日本@名無史さん:2005/08/15(月) 09:25:46
>>368
即レスdクス。
漏れはどうしても義尋を「よしひろ」、義尊を「よしたか」と読みたくなってしまう罠。
372日本@名無史さん:2005/08/15(月) 09:55:24
足利銀行【アシカガカネユキ】
373日本@名無史さん:2005/08/15(月) 18:57:03
374日本@名無史さん:2005/08/16(火) 20:58:40
>>1ってなんでこんな糞スレ立てたの?
375日本@名無史さん:2005/08/17(水) 13:34:36
>>374
君のような人を吊る為
376日本@名無史さん:2005/08/18(木) 17:13:37
377日本@名無史さん:2005/08/25(木) 23:55:49
鎌倉幕府の将軍は全員無能
頼朝でさえも尊氏以下
378日本@名無史さん:2005/08/26(金) 00:11:00
>>279
>後鳥羽上皇を殺さなかった鎌倉幕府、
>徳川慶喜を殺さなかった明治新政府、
>昭和天皇を殺さなかったGHQ、

北条高時だけは建武政権に殺されたんだよね。
日本史上、純粋な武力だけによる政権交代はこれが唯一じゃない?
379日本@名無史さん:2005/08/27(土) 00:13:20
北条高時=暗君、悪役
足利義昭=陰謀家、嫌われ者
徳川慶喜=先見の明のある人物、英雄扱い

ここまで評価がバラバラなのも面白いな。
380日本@名無史さん:2005/08/27(土) 01:18:45
畠山尚順
381日本@名無史さん:2005/08/28(日) 22:10:41
日本史で慶喜程評価が別れる奴はいないだろう
382日本@名無史さん:2005/09/02(金) 01:29:26
>>378
源頼朝は前政権者であった平氏一族の大部分を滅ぼしている。
徳川家康は前政権者であった豊臣氏を滅ぼしている。(但し政権交代後だが)
383日本@名無史さん:2005/09/02(金) 05:47:53
長期政権に限って言えば武力で滅ぼされたのは執権北条氏だけだな。
足利氏は織田信長によって追放。
徳川氏は自ら政権の座を降りた。
384日本@名無史さん:2005/09/02(金) 10:22:32
畠山稙長
385日本@名無史さん:2005/09/04(日) 00:36:39
>>384
3代:義茂→義満
9代:義煕→義尚→義煕
14代:義親→義栄
386日本@名無史さん:2005/09/04(日) 13:26:52
義親から義栄に改名したのは、平安期の謀反人・源義親とかぶるのを嫌ったからか?
387日本@名無史さん:2005/09/06(火) 20:21:20
それなら最初からつけないのでは?
388日本@名無史さん:2005/09/06(火) 20:22:54
歴史問題20問お願いします
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1126005439/

本当に困ってます、宜しくお願いします。
389日本@名無史さん:2005/10/05(水) 14:30:23
剣豪将軍保守
390日本@名無史さん:2005/10/21(金) 01:53:01
北条氏康も自ら公方的存在にはならず
階来を立てて関東管領的存在を選んだみたいだが
やっぱ、単に公方を潰すのは簡単でも
その後のことを考えると面倒くさかったのかな
391日本@名無史さん:2005/11/12(土) 18:57:46
横道の話で失敬する。
   本来、幕府とは近衛大将の居所の唐名であったと思うんで。
   
    室町将軍は それぞれ、
    近衛右大将、左大将にはなっていますでしょうか。
    また、将軍になるのとどっちが早いでしょうか。
    特に、尊氏、2代目(字が出ないので)、義満は?
392日本@名無史さん
幕府設立後の足利庄は鎌倉公方の直轄?