鎌倉室町時代の奥州について

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1日本@名無史さん
人口100マン前後といわれる当時の奥州でつが
守護地頭がおかれていなかった鎌倉時代・・・
そんで、室町期の中央とは
かけはなれた世界で何がおこっていたんでしょうか
おしえてくらはい
2日本@名無史さん:04/01/26 19:38
>>2が可愛くてしょうがな
3日本@名無史さん:04/01/26 19:41
室町期の奥州と言ったら北畠顕家くらいしか知らない
4日本@名無史さん:04/01/26 20:02
この時代の奥州はすったもんだが多くて結構おもしろいよ
探題が4人もいたりして
5日本@名無史さん:04/01/26 22:24
そのころの欧州は魔女狩りとか大変だった
6日本@名無史さん:04/01/26 23:46
概略は

鎌倉時代
 奥州藤原氏の没落とともに殆どの在地豪族は没落。
 関東御家人の植民地となる。関東御家人は郡単位で所領を貰う者が多かった。在地支配は家臣や一族を代官として派遣して行う。
 得宗専政が進むと関東御家人も没落。得宗領が多くなる。得宗被官が代官として派遣される。
南北朝時代
 鎌倉幕府滅亡。得宗被官の没落。建武政権功労者への恩賞分配。
 足利氏との対立先鋭化。関東に対抗するため北畠氏派遣。足利氏は奥州総大将(後の奥州探題)を派遣。
 内乱の激化。狭い本領を捨てて、広大な奥州の領地に移住し、名字の地とする武士が増加。
室町時代
 南朝の退潮。一部例外を残し宮方武士の没落。
 鎌倉府と室町幕府の対立。
 義満と氏満の和解で奥州が鎌倉府の管轄に。奥州探題の廃止。氏満は息子を篠川御所、稲村御所として派遣。鎌倉府の配下に組み込もうとして、奥州国人と対立。
 幕府と鎌倉府の対立再び激化。反鎌倉府派の国人を「京都扶持衆」として組織し、鎌倉府に対抗。奥州管領を創設。
 鎌倉府の没落。稲村御所、篠川御所の没落。
戦国時代。
 実力的にはドングリの背比べ、複雑な政略結婚等によりずば抜けた実力者はなかったが、最終的には伊達氏、南部氏などが生き残る。

てとこかな。
7日本@名無史さん:04/01/27 18:26
いち早く常陸から伊達郡に拠点を移した伊達家は勝ち組
8日本@名無史さん:04/01/27 20:16
>>1
守護はなかったと思うが、地頭もなかったのか?
9ty270410:04/01/27 21:44
>>6
すごいですね!
見事な概説とほとほと感服しました.

>>8
郡地頭,荘郷字地頭はあったと聞いている.
10日本@名無史さん:04/01/28 00:10
鎌倉時代の東北地方統治の中心は、奥州総奉行の葛西氏と陸奥国留守職の伊沢(留守)氏だよね。
ところで、南北朝期に室町幕府が奥州管領(探題?)として派遣した家っていくつあるの?
最終的に残った大崎・最上氏以外はよくわからないんだけど。
11日本@名無史さん:04/01/28 00:29
石橋、吉良、畠山、斯波
12日本@名無史さん:04/01/28 01:19
南部氏だろ奥羽は。
13日本@名無史さん:04/01/28 18:10
>>11
石橋は奥州から撤退したんだよね?
吉良はのちの蒔田、畠山はのちの二本松、斯波はのちの大崎・最上でOK?
14日本@名無史さん:04/01/28 21:59
奥州探題と奥州管領ってけっこう混同されてるけど、どうちがうの?
一説にはぜんぶ探題で、奥州管領ってのはたんなる誤りもしくは俗称ともいうけど。
大崎だけが管領であとは探題なんだっけ?
15日本@名無史さん:04/01/29 04:09
違いは無い
16日本@名無史さん:04/01/29 22:11
>>14
氏満と義満が和解して、奥羽が鎌倉公方管轄国になり奥州「探題」は廃止。鎌倉公方と幕府の対立が再燃すると幕府は斯波氏を奥州「管領」に補任。但し、南奥には氏満の息子が下向していたので奥州管領の管轄から外されたらしい。
探題時代は奥州の諸氏が府中の探題邸に来て伺候していたようだ。
管領時代になると斯波氏は大崎地方に移る。鎌倉公方との対立により、京都の将軍は反鎌倉府派の関東、奥州の諸氏を直接指揮出来る京都扶持衆に編入した。奥州でも伊達氏などが京都扶持衆になり、奥州管領の指揮を受けない地位を手に入れている。
奥州探題は奥州の全武士を軍事指揮する権限を持っていたが、奥州管領は南奥が管轄から外され、京都扶持衆も指揮できないことから、権限は縮小している。
17日本@名無史さん:04/02/02 00:31
だいぶアカデミックな書き込みが多い良スレなんですが、悲しいかな2chではこういうスレッドは書き込みが少ない。
良スレage。
18日本@名無史さん:04/02/02 01:22
最上の羽州探題は、単なる自称ってことでいいんだっけ?
19日本@名無史さん:04/02/02 12:39
ものの本では「出羽大将」ともいう、とあるね。
名称は自称でも役割をふられたのは公式なのでは?
20日本@名無史さん:04/02/02 22:47
公式な記録で最上氏が幕府から羽州探題なるものに任ぜられたのは残っていないと思った。が、大崎氏との棲み分け状況や周辺他氏の態度からまんざら嘘では無かろうと思われている。
21日本@名無史さん:04/02/02 23:40
言葉の印象では、寒冷って短大より格上なイメージがあるんだが、
>>16の押収慣例と応酬短大くらべてみるとどうも釈然としないのは漏れだけ?
2216:04/02/02 23:49
スマソ、管領と探題が逆でした。よく確認しないで不確かな記憶で書き殴ったもので・・・。
謹慎します。もう2度とカキコしませんので許して下さい。
23日本@名無史さん:04/02/02 23:58
奥州探題なんて御所の便所掃除よりも格下だろw
24日本@名無史さん:04/02/03 00:19
鎌倉室町時代の奥州っていったらまだほとんど文明の圏外だろ?
25日本@名無史さん:04/02/03 00:19
>>19
南北朝・室町期の「大将」は、本来守護の権限に属するもののうち、軍事に関する権限を独立させたようなものなので、探題の権限とかなり似通っているのは事実。
26日本@名無史さん:04/02/03 00:22
>>24
裸足に衣服も木の皮とかだったらしい。
そんな格好で寒さの中どうやって生き残ったんだろうな、奥州人は。
実に不思議だ。
27日本@名無史さん:04/02/03 00:23
>>23
むしろ便所の糞よりも格下。
京都から奥州へ行けなんて便所に飛び込めと言われたほうがマシ。
28日本@名無史さん:04/02/03 00:26
奥州探題が、「奥羽探題」ではなく「奥州探題」という名称になっていることからも、別に「羽州探題」が存在した可能性は皆無とは言えないかも。
但し、室町時代の大崎氏の当主が基本的に代々足利将軍家の偏諱を受けているのに、最上氏の当主には足利将軍家の偏諱を受けたと思われる人物があまりいない。
室町期の東北だと伊達氏でさえ将軍家の偏諱を代々受けているのと比べても、差が歴然としている。
この辺りをどう説明するのかが難しい。
29日本@名無史さん:04/02/03 00:26
まったくだなw
30日本@名無史さん:04/02/03 00:27
悲惨な東北の歴史の中でも一番悲惨な時期だ。
31日本@名無史さん:04/02/03 00:28

 なんか、このスレ、日本史板にあるべきスレじゃないって気がするよ。

32日本@名無史さん:04/02/03 00:29
>>31
確かに。

臭い東北の話は日本史板には不似合い。
33日本@名無史さん:04/02/03 00:36
言葉からして日本語と違うじゃん、あいつら。
34日本@名無史さん:04/02/03 01:03
>>10-13
室町時代の奥州管領・探題諸家
斯波氏→のちの高水寺氏
石橋氏→のちの塩松氏
吉良氏→のちの蒔田氏
畠山氏→のちの二本松氏
石塔氏→没落
斯波氏別系→大崎氏・最上氏
35日本@名無史さん:04/02/03 02:02
室町末期の「余目旧記」に記された書札例によると、
1.奥州探題大崎氏
2.羽州探題最上氏
 奥の斯波殿高水寺氏
3.塩松氏
 二本松氏
4.伊達氏
5.葛西氏
 南部氏
 留守氏

という風に分かれ、斯波一族→旧奥州管領家→その他国人といった序列があったのがわかる。
伊達氏が台頭してくると、伊達氏の序列が上がってきている。
36日本@名無史さん:04/02/03 13:26
鎌倉時代には系図すら正確に伝わっていない伊達氏が室町期には、序列もあがり、鎌倉府や篠川御所に対して乱(伊達政宗の乱/1399年、1402年)を起すまでに成長しているのがよくわかる。
伊達持宗の頃には奥州諸氏の取り込みを始め、伊達成宗の頃には奥州探題を自称していた。
尚、鎌倉時代の奥州伊達氏は本宗でなく出雲・但馬伊達氏こそが本宗であるとの説を唱える学者がいた事も付け加えておきます。
37日本@名無史さん:04/02/03 14:54
良くも悪くも、室町中期以降の南奥羽は、伊達氏に引っ掻き回されてる。
38日本@名無史さん:04/02/03 17:43
>>16,>>22
そうすると大崎氏だけが奥州探題で、他はみな奥州管領ということなの?
39日本@名無史さん:04/02/03 19:22
>>35
葦名氏はないの?
あと、蒔田氏は奥州からは撤退したんだっけ?
40日本@名無史さん:04/02/03 20:35
世田谷城主?
41日本@名無史さん:04/02/03 22:20
昔、東北は中央からどう見られていたんだ。
単なる辺境の地?それとも戦略的な要所?
今は、米どころって感じだが
4235:04/02/03 22:21
>>39
南奥は奥州探題の管轄外になったせいか、芦名氏の名は漏れの持つ本には触れていない。
吉良氏は貞治六年以降、文書から消息を追うことは出来ず、「余目旧記」には
「吉良殿ハ大崎御いせいたる間、弓矢ヲすて、是も安達郡へのほり、しほの松三十三郷計持給ふ」
とあり、最終的には没落して、武蔵の蒔田に引き上げたらしい。
4335:04/02/03 22:24
補足
芦名氏も伊達氏、白河氏らとともに「京都扶持衆」で、奥州探題大崎氏に属せず、直接京都の将軍の指示を受けていた。
44ty270410:04/02/03 23:25
>>43
出羽はどうだったのでしょうか?
探題,管領は?
小野寺氏は「京都扶持衆」だったようですが?
4535:04/02/04 00:51
>>44
残念ながら出羽の諸氏は良好な史料が残って無いため、なぞの部分が多いです。
わずかに残る文書記録に「出羽守護」「出羽探題山方」としるされ、手元に全文がないのですが、長禄4年十月二十一日付けの将軍義政御内書に「国人等を相催し発向せしめ」との記述があり、最上氏が出羽国人に対し軍事指揮権を持っていたのは確実です。
小野寺氏も京都扶持衆ですね。
46日本@名無史さん:04/02/04 01:22
軍事指揮権=大将でしょ?
47日本@名無史さん:04/02/04 01:23
奥羽両国では、守護職権である所務遵行なんかは誰が担当していたの?
48ty270410:04/02/04 22:12
>>47
まったくそうですね!
誰が担当していたのでしょうか?

左衛門尉貞隆という人が2通の打渡状を発行しています.
小早川文書:暦応3年7月22日
新渡戸文書:康永元年8月7日

前者は
御教書−−(誰か?)−−致友遵行状−−左衛門尉貞隆打渡状
という順序になっています.

(誰か?)は当時の奥州大将石塔義房か?
他に適当な人物が見つからないのですが・・・・
49日本@名無史さん:04/02/05 12:06
>>48
大将の権限に遵行権を加えると、ほとんど守護の権限と変わらなくなってしまいませんか?
50ty270410:04/02/05 23:52
>>49
そうなんです.

石塔義房でないとすると,いったい誰だったのでしょう?
51日本@名無史さん:04/02/06 00:14
奥羽における管領・探題は、他の国における守護の権限も代行していたのではないの?
だとすれば、>>19のいう「出羽大将」の最上家が大将の権限の他に遵行権を保持していれば、羽州探題と呼ばれても不思議はない。
52ty270410:04/02/06 22:23
>>51
暦応,康永のころ斯波氏の一派である最上氏が「出羽大将」だった
と解してよいでしょうか?
推測でも結構ですから,ご教示ください.
53下野マン:04/02/07 06:42
あの〜、探題に宇都宮氏も入れてもらえませんか?
54日本@名無史さん:04/02/07 09:51
1392年、陸奥・出羽両国が鎌倉府の直轄となる。奥州官領廃止。
55ty270410:04/02/09 00:35
>>48
>>52
南北朝の頃の出羽にかかわる管領・探題は全くわかっていないと
解してよいでしょうか?
ご教示ください.
56日本@名無史さん:04/02/09 18:56
>>55
とりあえず、>>28の前半だけ読めば、そうとも言えるね。

>>51
奥羽両国は、広大過ぎるため、国ではなく郡単位での分郡守護が設置されていたという説もある。
蘆名氏が会津郡守護、相馬氏が海東四郡守護を称していたことは、一般に知られている。
また、明徳年間の賀美郡と黒川郡は、明らかに畠山(二本松)氏の分郡である。
つまり、奥羽における分郡守護と奥羽両探題との関係は、九州や関東における守護と九州探題・鎌倉府との関係に似たものと推測ことも可能。

もちろん、これらの分郡守護の例はいずれも南奥であり、探題の指揮下に入っていなかった地域だからとも考えられ、その場合には、奥羽両国では探題が守護の権限全般の代行者であったとも言える。
57ty270410:04/02/09 21:44
>>56
ご教示ありがとうございます.史料が少ないだけに憶測するほかはないと
考えてよいのでしょうか?

>>48
の暦応,康永の頃にはまだ,最上氏は出羽探題になっていないようですので,
もしも,出羽大将に誰かが就いていれば,その人が守護権限を代行したと
考えたいのですが・・・・

また,出羽には大将が置かれず,奥州大将石塔義房が出羽を兼任していたという
ことは考えられないでしょうか?
58日本@名無史さん:04/02/09 23:46
>>57
直接史料的裏付けはありませんが、奥州総大将の管轄は奥羽両国だったと思われます。北畠氏は鎮守府将軍として両国を管轄していることや、幕府が出羽に主要武将を送り込んでいないことからそう思って良いのではないでしょうか。
59ty270410:04/02/09 23:59
>>58
いつも丁寧なご教示ありがとうございます.

私の憶測にご支持をいただき,すっきりしました.

私は,歴史の専門教育を受けていない市井の読史家です.
何分にも基礎的なことが弱いので,今後ともご教示をお願いします.
60日本@名無史さん:04/02/10 00:26
>>58-59
とりあえず、鎌倉時代の奥州総奉行(葛西氏の世襲)や陸奥国留守職(伊沢氏→留守氏の世襲)なども、奥羽両国を管轄下においていたとされるので、その可能性が高いでしょう。
そもそも、出羽国自体が奈良時代に陸奥国から分離してできたものなので、東北自体全体を指して「奥州」と呼ぶことに、あまり違和感がなかったのも事実でしょうし。

>>57
暦応・康永の頃だと、羽州探題以前に最上氏自体がまだ成立していないでしょうからね。

>>34
石塔氏は、石塔頼房が高師直・師泰兄弟暗殺の直接の首謀者であったため、観応の擾乱が終結したのちの室町幕府からは徹底的に排除された。
61日本@名無史さん:04/02/10 02:10
京都扶持衆、京都扶持衆といいますが

じゃあそうじゃないのは誰?(どこの家?)
62日本@名無史さん:04/02/10 02:23
>>61
奥州ではないですが、室町時代の佐竹氏の場合、鎌倉公方と親しい本家は京都扶持衆ではないですが、分家の山入家は京都扶持衆です。
63日本@名無史さん:04/02/10 09:39
奥州の歴史は「余目氏旧記」が比較的間違いが少ない一級資料になってるけど、羽州にはそういうのがないからな
64日本@名無史さん:04/02/12 00:08
室町中期の奥州は大きく分けると奥羽の支配をねらう鎌倉府とそれを阻止しようとする幕府の二大陣営に分かれる。
しかしそれぞれの陣営内も複雑な思惑で四分五裂状態。
65日本@名無史さん:04/02/12 23:35
南部氏の扱いは?
66日本@名無史さん:04/02/13 00:08
>>65
鎌倉末期〜南北朝  宮方についた八戸南部氏興隆
南北朝〜      武家方の三戸南部氏興隆
67日本@名無史さん:04/02/13 00:08
胆沢郡を領有したので伊沢氏と呼ぶ、
伊沢氏の子孫が留守氏ですか?
68日本@名無史さん:04/02/13 10:17
伊沢氏(藤原北家道兼流)が留守職に任じられ子孫が留守氏を称した。
分流の余目氏が留守氏の歴史を中心に著したのが、「余目氏旧記」で鎌倉〜室町時代の奥州の情勢を知る一級資料になっている。
が、留守氏は伊達氏に(血統的に)取って代わられているため、「余目氏旧記」では伊達氏を批判的に書いている部分も見受けられる。
留守氏宗家(伊達氏の血統)は江戸時代には仙台藩一門三席として胆沢郡水沢一万六千石を領し(水沢)伊達氏を称した。
69日本@名無史さん:04/03/01 23:03
当の伊沢氏は甲斐の伊沢出身とも称してたりすんね
(石和信光と同じ地名から発祥したことになる)
70日本@名無史さん:04/03/12 11:11
>60
出羽はむしろ越後から分離したと考えた方が良いのでは?
越後から切り離された部分に陸奥から徐々にパーツがくっついていって後の
羽前羽後になったと。
71日本@名無史さん:04/03/26 22:55
出羽は越後から分離された。
72日本@名無史さん:04/04/24 19:32
所詮、奥州は中央から遠く離れた僻地
73日本@名無史さん:04/04/24 19:37
>>68
>胆沢郡水沢一万六千石

ってことは、仙台藩が戊辰戦争で減封されなければ、留守氏は男爵くらいにはなれたのにね。
74日本@名無史さん:04/04/24 19:41
大崎氏って、子孫はどうなったの?
最上氏は、改易された後も5千石の旗本で復活したらしいけど。
75日本@名無史さん:04/04/25 00:55
室町時代の奥羽管領・探題諸家
斯波氏→のちの高水寺氏
石橋氏→のちの塩松氏
吉良氏→のちの蒔田氏(東北からは撤退)
畠山氏→のちの二本松氏
石塔氏→没落
斯波氏別系→大崎氏・最上氏
76日本@名無史さん:04/04/25 18:27
最上って近江八日市5000石だっけ?
77日本@名無史さん:04/04/25 23:49
>>74
伊達家で飼われていたんじゃなかったけか?
78日本@名無史さん:04/04/26 00:21
>>77
現在まで家は続いてる?
79日本@名無史さん:04/04/26 14:28
>>77
上杉景勝付になったんじゃ?
80日本@名無史さん:04/04/27 00:09
大崎と最上って仲良かったの?
81日本@名無史さん:04/04/27 00:40
>>80
膨張する伊達氏に対して共闘した形跡が見られないからあまりよくなかったのでは?
82日本@名無史さん:04/04/27 00:44
>>81
最上家って、ちゃっかり自分だけ小田原に参陣しちゃって、本家筋である大崎家が秀吉から改易処分をくらっても、見て見ぬ振りだからなぁ・・・。
83日本@名無史さん:04/04/27 00:47
>>82
まあ、そのころの大崎氏当主は伊達家からの養子で完全に伊達の家臣化していたからね。
84日本@名無史さん:04/04/27 01:04
>>83
義直・義隆は伊達の血筋じゃないんじゃない?
8583:04/04/27 01:09
あ、そうだっけか?あやふやな記憶でカキコしたから間違っていたらゴメンゴ。
でも大崎氏が伊達の家臣というか保護下にあったのは確か。大崎氏も政宗が小田原に参陣したから配下の自分も自動的に参陣したことにあると思っていたようだしね。
86日本@名無史さん:04/04/27 01:13
留守まさかげが惨敗しなかったっけ?
87日本@名無史さん:04/04/27 02:02
政宗って、大崎・最上の連合軍に負けたことあるよね?
88日本@名無史さん:04/04/27 02:57
>>74お願いします。
89日本@名無史さん:04/04/27 13:35
大崎も葛西も後期(末期?)には伊達の属国みたいなもんになってたでそ
90日本@名無史さん:04/04/27 23:08
>>80-89
とりあえず、惣無事令発令〜大崎・葛西一揆までの
伊達、最上、大崎、葛西がそれぞれ絡み合った部分だけの年表を抜粋してみた。

1587 豊臣秀吉、関東・奥羽に惣無事令をだす。
1588 伊達政宗と最上義光の両軍が中山口で対峙するが、80日のち和睦する
     伊達政宗、氏家義継の要請を受け、留守政景、泉田重光を主将にし大崎領に出兵。
     黒川晴氏の離反等により伊達勢大敗を喫する。(中新田の戦い)
     葛西晴信、伊達政宗に帰属。
     伊達政宗と最上義光の講和がなる
1589 伊達政宗、最上義光の仲介で、大崎領を馬打ち同然の事とすることで、大崎義隆と和睦
1590 最上義光、伊達政宗、小田原参陣
     奥州仕置。大崎、葛西、和賀、稗貫、石川、田村、白河結城らの諸氏、領地没収される。
     豊臣秀吉の奥州仕置軍と葛西晴信が戦い、佐沼城が落城する
     木村(旧大崎・葛西)領内にて大崎・葛西一揆勃発
1591 大崎・葛西一揆鎮圧。
     旧葛西家臣らが伊達政宗によって須江山で誅殺される(深谷の役)
91日本@名無史さん:04/04/28 01:45
>>83-85
伊達氏から大崎氏への養子は伊達稙宗の次男小僧丸が大崎義宣になっただけで、一代限り。

大崎義宣(1526?〜1550)
伊達稙宗の次男。小僧丸。母は蘆名盛高の女(泰心院)、大崎高兼養嗣子、正室は大崎高兼の女(梅香姫)。
大崎家の11代とも12代とも言われているが、党首になっていないとの説もある。
小野御所(義宣)と名生城(義直)で双方が党首を称し対立したとの説もある。
天文の大乱では稙宗方に付き、晴宗方の大崎義直と対立した。
1548年、天文の大乱で晴宗方が勝ち、立場が弱くなり、
1550年に葛西領に逃亡をはかるも大崎義直によって討ち取られた。
92日本@名無史さん:04/04/29 00:49
葛西の方が伊達べったりな印象があるな。
大崎を中にはさんで遠交近攻の関係にあったのかな?
93日本@名無史さん:04/04/29 02:00
>>92
仙台藩の家臣になった葛西氏の提出した系図を見ると、伊達べったりな印象があるけど、
盛岡藩の家臣になった葛西氏の提出した系図を見ると、全くイメージが違ってくる。
仙台系の系図と盛岡系の系図を見ると全く違う系図になっています。
ttp://homepage1.nifty.com/t-kubo/

ttp://members.jcom.home.ne.jp/bamen/
を見て頂くとわかりやすいと思います。
大崎を中にはさんで遠交近攻の関係にはあっただろうけど、
全部が全部伊達べったりって程ではなかったのではないでしょうか?
室町〜戦国期には「石巻系」と「寺池系」の二つに分かれて主導権争いをしていたのではないかとの説もあり、
もし本当に分かれていたとすると、片方が伊達に頼っていたと考えるのが妥当であると思われます。
94日本@名無史さん:04/04/29 02:15
で、大崎は結局江戸時代にはどうなったの?
95日本@名無史さん:04/04/29 12:28
>>94
まず読解力を身につけなさい
96日本@名無史さん:04/04/29 12:41
>>95
大崎が最終的にどうなったかについてのレスは結局ないやん。
97日本@名無史さん:04/04/29 12:43
>>94
大崎義隆の子息の大崎義成、大崎義辰は最上氏に仕え、大崎義名は南部氏に仕えてます。
大崎義成の子息大崎義久は南部氏に召抱えられた後、辞して伊達家に仕えたと伝わります。
大崎氏一門の高清水高景は伊達氏に仕え、後、子孫は大崎氏を称する事を許されたと伝わります。

最上氏改易後、最上氏に使えた人達はどうなったか調べていませんが、
葛西氏同様、大崎氏も江戸時代には仙台藩伊達氏、盛岡藩南部氏に仕えていたようです。
98日本@名無史さん:04/05/01 08:54
へぇ〜
奥州探題家も奥州総奉行家も、子孫が盛岡藩と仙台藩に仕えてるんだ
99日本@名無史さん:04/05/01 11:13
>>96>>98
まず読解力を身につけなさい
100日本@名無史さん:04/05/01 15:44
志和御所と高水寺斯波氏と高清水氏は、すべて別の家系なのですか?
101日本@名無史さん:04/05/01 15:46
奥羽の名族の子孫は最上以外、江戸幕府が高家に取り立てなかったから、滅茶苦茶だね。
102日本@名無史さん:04/05/01 21:21
葛西、留守、大崎、浪岡、二本松、塩松あたりの諸家はどうして高家になれなかったんでしょうね。
名族収集マニアの徳川家康の目にとまらなかったのでしょうか?
まあ、留守の場合は、本家は伊達に乗っ取られているから、分家の余目氏あたりのほうが良いかも知れぬが。
103日本@名無史さん:04/05/01 22:24
畠山、吉良はもう収集済みだったから亜種には興味持たなかったんじゃない?
104日本@名無史さん:04/05/01 23:20
じゃあどうして最上は回収したの?
105日本@名無史さん:04/05/01 23:52
斯波武衛家を収集できなかったからじゃない?
106日本@名無史さん:04/05/02 00:56
>>105
ではなんで大崎を回収せずに最上を?
大崎が亜種なら、最上は亜種のそのまた亜種みたいなものでは?

確かに、二本松氏については本家筋の畠山家を回収済みだけど、
葛西、留守(伊沢)、浪岡(北畠)、塩松(石橋)あたりは、
本家も亜種も回収してないのは何故?
あと、奥州ではないけど、細川も京兆家は回収してないよね?
107日本@名無史さん:04/05/02 01:07
最上   関ヶ原で50万石大名
大崎   秀吉に取りつぶされ零落

最上の方が対伊達でも徳川に貢献したしね
108107:04/05/02 01:34
京兆家はなくても泉州半国守護家が大名家に取り立てられたしね。
109日本@名無史さん:04/05/02 06:14
和泉上半国守護家も熊本藩主になったのは、実は傍流。
熊本藩主細川氏の祖・藤孝は、最後の和泉上守護・元常の養子(弟の子)であるが、元常には他に実子がおり、本来ならこの子孫が和泉上守護家の本流。
この家系は六位蔵人の地下官人として朝廷に仕えたが、明治期に華族への叙爵基準を微妙に満たさず、士族となった。
110日本@名無史さん:04/05/02 06:22
むしろ、熊本藩主細川家は、忠興が奥州家(細川顕氏の後裔)の最後の当主・細川輝経の養子になっているから、
江戸幕府においては、系図上は奥州家の子孫と見なされていた。
『系図纂用』なども、基本的に忠興以降の熊本藩主家を奥州家につなげて書いている。
111日本@名無史さん:04/05/02 19:32
とりあえず本題の奥羽に話題を戻すか・・・。
112日本@名無史さん:04/05/02 23:22
>>106
家康はあくまでも、豊臣政権の継承者との立場にあったから、豊臣政権により潰された大名の復権は、特殊事情がない限り無かったような気がする
113日本@名無史さん:04/05/02 23:38
>>112
高家としての取り立てと大名としての復権は別問題では?
例えば秀吉に潰された大友家は、大名としては復権しなかったが、高家としては取り立てられた。
114112:04/05/03 00:03
大友氏は大崎氏とは比べようがない大大名だから特殊事情に入るんじゃない?
115日本@名無史さん:04/05/03 11:18
>>102
最上は大名の名跡として。
それ以外は田舎の国人程度で大名とはいえない。
大崎、葛西は既に没落していた。

別に名族を取り立てるのは目的ではない。
マニアじゃないんだから。
116日本@名無史さん:04/05/05 01:32
秀吉による大崎義隆改易後、最上家に仕えた大崎一族の心境ってどんなものだったんだろうね。
自分の分家筋に頭を下げるわけでしょ。
もちろん、最上側からすれば、同族の誼で好意で召し抱えてやってるわけだが。
117日本@名無史さん:04/05/05 23:15
秀吉におべんちゃら使って生き残った織田一族みたいな心境。
118日本@名無史さん:04/05/06 04:55
徳川家康に庇護されていた今川氏真も似たようなものか?
119日本@名無史さん:04/05/07 20:56
天下人ならまだマシだろう。上杉家に保護された武田信玄の息子みたいな立場じゃない?
120日本@名無史さん:04/05/07 21:37
大崎の子孫は会津の蒲生や最上を頼り、そこがつぶれて連続して悲劇を味わう
事となる。最後には加藤嘉明に仕官して、近江水口までついていったらしいふ
しがある。たしか本が出てる筈だ。伊藤さんという人が調べてる。因みに漏れ
は大崎の族臣、岩崎讃岐の子孫さっ!
121日本@名無史さん:04/05/07 21:39
留守は明治維新後、北海道開拓の功績で男爵になっているのでは。
122日本@名無史さん:04/05/07 22:25
>>120
古川の岩崎君。あまりプライバシーは公開しないほうが身のためだよ。
123日本@名無史さん:04/05/08 12:30
宮城人はバカなんので、そのへんの判断がつかない。
124日本@名無史さん:04/05/09 18:38
ばかで悪かったな。因みに今は宮城県にはおりません。ハイ。
125日本@名無史さん:04/05/09 18:45
>>123
宮城人ってほんとにバカが多いよな。
あと、外見が異常な奴。
126日本@名無史さん:04/05/09 19:54
て近親憎悪は勝手にどうぞ。でも、古川の岩崎って知っているのは相当に
詳しい人ですね。二枚橋の岩崎さんは、帰農している流の方だから、うち
らとは関係ないし、一族で古川にいるのは一人もおりません。志田郡書記
をしていたのは居たがね。ちなみに漏れは宇和島に行ったほう。
127日本@名無史さん:04/05/18 04:46
ローカルトークで盛り上がりすぎると、他の人が入れなくなって、長期的にはスレが廃れるよ・・・。
128日本@名無史さん:04/05/18 20:18
東北劣等はローカルでしか話せない。
なぜって?グローバルにはとても通じないレベルだからなw
129日本@名無史さん:04/05/18 20:41
奥州総大将斯波家長ってどうよ
130日本@名無史さん:04/05/18 20:44
奥州赴任という時点でもうダメ ゲラ
131日本@名無史さん:04/05/20 10:47
最上家は出羽大将なんだっけ?
132日本@名無史さん:04/05/20 18:23
奥州の読みは「あうしう」
133日本@名無史さん:04/05/20 19:23
おうしゅう
134日本@名無史さん:04/05/20 22:12
奥州って国名じゃないぞ。陸奥だろ。
135日本@名無史さん:04/05/22 00:39
みちのく
136日本@名無史さん:04/05/22 03:33
羽州の読みは「うしう」
137日本@名無史さん:04/05/22 03:36
奥州は国全体の守護がない代わりに、各郡に郡守護がいたんでしょ?
宮城郡は大崎氏
村山郡は最上氏
会津郡は芦名氏
相馬郡は相馬氏
伊達郡と置賜郡は伊達氏
みたいに。
138日本@名無史さん:04/05/22 07:41
戦国時代からマット殺人が左官だったらしいね。
139日本@名無史さん:04/05/22 10:56
日本の大都会は鎌倉しか無いと思い込んでいた。
(今でもこんな感覚)
140日本@名無史さん:04/05/22 12:42
郡守護て正式な職ではなかったんじゃない?
国全体の守護の代わりに置かれたのは奥州探題、奥州管領でしょ?
141日本@名無史さん:04/05/22 23:57
奥州探題=陸奥国守護、羽州探題=出羽国守護だろ。

しかし、のちの伊達稙宗が陸奥国守護職を得てしまったことで、奥州の秩序が根本的に狂ってしまった。
142日本@名無史さん:04/05/23 00:10
それにしても、伊達稙宗ってあの段階ではすでに米沢が居城なのに、どうして出羽ではなく陸奥の守護職に任官したんでしょうかね。
まあ、どうせなら奥羽両国の守護職でも良さげですが。
143日本@名無史さん:04/05/23 00:21
>>142
米沢移転は晴宗時代じゃなかった?
144日本@名無史さん:04/05/23 02:11
>>143
そうだっけ?
でも少なくとも米沢築城は稙宗時代だよね。
やっぱり、大崎に遠慮せずに陸奥の守護職を取得したのなら、最上に遠慮せずに出羽の守護職も一緒に取得すれば良かったのに。
最上だって義光の家督継承以前は、実力的に大崎と同レベルだと思うし。
もしここで伊達氏が奥羽両国の守護になっていたら、その後の状況も多少は変わったかも知れないし。
145日本@名無史さん:04/05/23 02:21
東北全域を制圧したところで黒磯すら抜けませんよ。
日本人と東北蝦夷人では民族の力量が根本から違う。
146日本@名無史さん:04/05/23 19:57
>>144
守護をどうこうする前に自分の家臣団を何とかしないことにはどうしようもない
147日本@名無史さん:04/05/23 20:05
>>142-144
伊達氏は天文の大乱後、天文17年(1548年)〜天文18年(1548年)に桑折西山城を廃棄し、米沢城に移ってます。
148日本@名無史さん:04/05/23 20:09
>>147
> 天文17年(1548年)〜天文18年(1548年)

149日本@名無史さん:04/05/24 00:04
伊達氏の守護補任は、探題職を持つ大崎や最上への対抗なの?
越後上杉氏への対抗処置ではないの?
150ニック大分:04/05/24 18:13
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     ノ二ニ.'ー、`ゞ         ズビーシ
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    |; ⌒ :; |_,|_,|_,hに丿ヽ ≡=─
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     l ; ;/   // /''  ≡=─

http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/chiri/1081133856/l50
151日本@名無史さん:04/05/25 01:05
>>149
両方でしょう。このころすでに伊達氏の軍事力は最上、大崎を圧倒していたけど書冊礼では国人扱いだったからね。確か上杉から散々このことでコケにされたような記憶がある。
それで大金使って探題職を買おうとしたけど、「大崎氏以外ダメ」と幕府から断られて、さらに大金積んで守護職を新設してもらって補任されたんだよね。たしか。
152日本@名無史さん:04/05/25 03:02
伊達の成り上がり。
153日本@名無史さん:04/05/25 07:34
しょせんは奥州猿
154日本@名無史さん:04/05/25 22:54
室町的秩序からの脱却を計った伊達が行ったことは新しい室町的秩序をつくること・・・
155日本@名無史さん:04/05/26 04:40
でもどうして陸奥の守護しか取得しなかったのかな?
後年の最上(義光)の台頭を考えたら、最上が伊達の意のままになるうちに、出羽の守護もついでに獲得しておけば良かったのにね。
伊達の資金力なら可能なはず。
まあ、実際の支配という点で、この時代にどの程度守護職に意味があるのかは分からないが。
156日本@名無史さん:04/05/26 09:33
牽制したい相手が、白川や葦名だったからじゃない?
157日本@名無史さん:04/05/26 22:56
大崎・最上は、out of 眼中ってことですか。
158日本@名無史さん:04/05/27 01:04
>>157
大崎・最上は、「out of 眼中」ってことじゃなくて
既に「in of 掌中」って感じに思ってたんじゃないかなw
159日本@名無史さん:04/05/28 04:31
“out of”の反対語って“into”じゃないのか?普通は。
160日本@名無史さん:04/05/28 18:40
日本語もまともにしゃべれない東北人に英語がわかるわけも無し。
161日本@名無史さん:04/05/28 23:11
そのころ最上大崎ともに斜陽で、伊達から養子や嫁を押しつけられてたからな。
162日本@名無史さん:04/05/30 02:44
>>160
妙に納得してしまった。w
163日本@名無史さん:04/05/31 00:25
大崎も最上ものちに伊達の勢力を排して独立するけどね。
まあ、大崎の場合は、伊達の内紛に乗じて、伊達一族出身の養子を廃したというべきか。
164日本@名無史さん:04/06/06 10:08
最上よし姫(政宗の母)なんかも、ていのいい人質なんでは?
165日本@名無史さん:04/06/06 10:10
まあ、伊達にとっても、自らの家に、最上(足利一族出身)の血を入れることは、メリットがあるけどな。
166日本@名無史さん:04/06/06 17:59
そのぬるま湯が東北地方では小粒大名が乱立したままだった原因
167日本@名無史さん:04/06/06 21:18
伊達のライバルは、大崎・最上よりも越後上杉だったわけで。
芦名はライバルといえるかどうか微妙だが。
168日本@名無史さん:04/06/08 00:35
伊達は、実は陸奥と一緒に出羽の守護職も貰っていたらしい。
169日本@名無史さん:04/06/11 02:13
大崎・最上と高水寺って別系統?
一応両方とも斯波だよね?
170日本@名無史さん:04/06/11 22:25
大崎最上は斯波高経の弟家兼の系統
高水寺は斯波高経の長子家長の系統
171日本@名無史さん:04/06/12 00:08
家長って中先代の乱で戦死だっけ?
172日本@名無史さん:04/06/12 00:50
高水寺って京都の幕府からは無視されてたの?
173日本@名無史さん:04/06/12 01:24
「奥の斯波殿」と呼ばれていたけどあまりにも遠くて重要視はされていなかったようだ
174日本@名無史さん:04/06/12 01:30
系図見てると「志和御所斯波氏」と「高水寺斯波氏」っているんだが、何なんだ?
志和に二系統の斯波氏がいたなんて聞いたこと無いし。
その後から雫石にきた人たちはまた別らしいし。
175日本@名無史さん:04/06/12 01:49
志和御所=高水寺氏
雫石御所、猪去御所はその分家
176日本@名無史さん:04/06/12 10:45
高水寺って最期まで斯波姓のまま?
とれとも高水寺が姓になってるの?
177日本@名無史さん:04/06/12 11:21
>>171
家長が死んだのは、中先代のあとの北畠軍の攻撃でじゃなかったか?
178日本@名無史さん:04/06/13 18:53
この時代の斯波一族は、まだ基本的に足利姓。

高経と家兼の兄弟のうち、
高経の長子である家長の系統が高水寺氏、
高経の次子である義将の系統が斯波氏、
家兼の長子である直持の系統が大崎氏、
家兼の次子である兼頼の系統が最上氏、
にそれぞれなった。

また、斯波の庶流である石橋氏も、和義以前は足利姓。
179日本@名無史さん:04/06/17 22:57
東北の××は日本の○○の子孫、とはよくいうけど逆は無いね。
このことも有史以来、東北が日本に従属していたありさまをよく表しているね。
180日本@名無史さん:04/06/18 00:09
>>179
1:東北の勢力を中央勢が討伐。
     ↓
2:中央政権下に組み入れる為に中央勢の庶子や親族を下向させる 
     ↓
3:中央政権は遠すぎる東北の事をほったらかしにする
     ↓
4:東北の豊かな資源が下向した子孫や土着の豪族の勢力を拡大させる
     ↓
5:中央政権が東北の勢力を危ぶみ討伐を決める(1:に戻る)

坂上田村麿の蝦夷征伐以降、豊臣秀吉による奥州仕置きまでの
東北の歴史っておおよそこんな感じでしょ?
大々的な討伐なしに中央勢が下向したってパターンも室町期には見られるけど・・
181日本@名無史さん:04/07/02 22:19
憂慮薄れ揚げ
182日本@名無史さん:04/07/03 00:12
>>180
源頼朝以前の関東も似たようなものだね。
183日本@名無史さん:04/07/03 01:34
>>178
室町中期以降、石橋氏の子孫って中央には残っているの?
残ったのは、奥州の塩松氏だけ?
184日本@名無史さん
石塔氏も室町中期以後消滅?