戊辰戦記 ある旧幕臣の回想

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1旧幕臣の血脈
さる旧幕臣が残した記録を綴るスレ
2:04/01/03 22:02
 私の先祖が明治後期〜大正期に地元新聞記者に語った戊辰戦争
から五稜郭までの敗走記です
3日本@名無史さん:04/01/03 22:05
もう会津の悲哀は聞き飽きました。

よって終了。
4日本@名無史さん:04/01/03 22:10
>1
みんなよーく知ってる幕臣ですか?
まあ、期待してるよ。
5:04/01/03 22:14
 書き込みのスタイルは、質疑応答形式をとり注釈は括弧書きにします。
記者の質問に対して旧幕臣の老人が答えると言ったイメージです。
6日本@名無史さん:04/01/03 22:22
一度はじめるからには、いっさいのあおり中傷罵声ののしりにめげず、最後まで貫徹してほしい。
以上
7:04/01/03 22:32
Q 旧幕時代の所属および階級は?
A 陸軍(俗に言う洋式軍隊の名称は後付けであり当時は「陸軍」と
 幕府は呼称していた)ができた時は、1連隊(重歩兵・後装填銃装
 備のフランス式部隊で江戸周辺で徴募)でしたが鳥羽伏見の戦い直
 前に12連隊(1連隊と編成装備同じ・大坂で徴募)に移りました。
  歩兵指図役頭取(大尉)で採用となり江戸開城前後には歩兵頭並
 (中佐)でした。(武鑑等によると千石取りであったため特に軍事的
 才能なくても四百俵高の頭取でスタートでき江戸開城のドサクサに
 紛れての頭並への昇任か?) 
8日本@名無史さん:04/01/03 22:37
もしかしていばちゃん?
9:04/01/03 22:40
Q 実戦経験は?
A 長征(第二次長州征伐)、伏見、宇都宮、会津そして函館
 です。一揆(天狗党討伐・幕府陸軍デビュー戦)の時はまだ
 陸軍の御役についてなかったです。
10:04/01/03 23:00
Q 勤務地および日々の訓練は?
A 屯所(駐屯地)は、西の丸下、大手前、三番町および小川町に
 ありました。ただ屯所に部隊毎いたはずですが細部の配置はよく
 覚えていません。(文献等によると屯所ごと1連隊・2連隊・3
 連隊・四連隊とするが間違い。2・3・4は欠番)私は、西の丸
 下に出入りしており何かある御城に上がったりしました。
  訓練と言いますか全屯所でやっていたのは一日一回定刻に操練
(敬礼や部隊行進等の基本教練と実射を伴わない中隊以下の戦闘訓
 練)、毎月一回射撃訓練をやってました。上役から春秋二度の大
 演習を計画(大隊同士の対抗演習?)していると言われましたが
 結局やらずじまいでした。(長州征伐後の計画のため幕府倒壊し
 てしまったため)
11日本@名無史さん:04/01/03 23:38
当時、単行本化はされてないんですか?
再検証や論文への引用が可能なように、新聞名を書いてくださると助かります。
12日本@名無史さん:04/01/03 23:43
あとトリップも。
13日本@名無史さん:04/01/04 01:08
いたい旗本の子孫氏のスレですか?
14日本@名無史さん:04/01/04 05:56
ひょっとして・・・朝敵?
15:04/01/04 11:35
11>
 単行本化されていません。原稿化されたのは日露戦争前後と言われて
いますが大東亜戦争時の空爆により焼失したと聞いていますが該当新聞社を
統合したS新聞社に昭和62年夏に私の父が問い合わせた所「該当するもの
なし」と言う素っ気のないものでした。
16:04/01/04 11:38
11>
 なお、実家には新聞記者からの取材時に曽祖父が筆記したものが残っ
てます
17:04/01/04 12:02
Q 訓練で印象深かったことは?
A 慶応2年冬御老中から「幕臣は一律15〜35歳までの者を検査
 してフランス人軍事教官のもとに歩・砲・騎兵の士官としての教育
 を受けろ」とのお達しがありました。まあ、御役に就けるわけです
 からなんとか陸軍でものになりたいと思いましてまずフランス語に
 通ずる必要性を感じまして栗本さんから紹介された方のところにフ
 ランス語を習いに行ったりしましたよ。伝習自体は、翌年の1月下
 旬には始まりましたよ。(つづく)
 
18:04/01/04 12:06
17の注釈
 冬・・・11月2日
 老中・・稲葉美濃守
 栗山・・軍艦奉行 栗山鋤雲
19:04/01/04 13:56
(つづき)
 伝習については、それは厳しいの一言でした。日本人がやってるだから日
本語でなんてフランス教官は酌んでくれませんで、アタンシオン(気をつけ)
サリュ(敬礼)アルト(止まれ)なんて号令がかかる。士官育成なんて言ったっ
て皆素人なんで新兵同様に激烈な内容でした。殴る蹴るなんて当たり前でし
たね。ある日松平某と言う旗本が厳しい指導に耐えかねて教官にたてつこう
とするもフランス語もできないし、兵学の知識もないので「ボーボー」泣き
まして皆で宥めたりしました。まあ、どこの世界でもそうでしょうが勉強熱
心な人やもともと素養のある人がえらくなるものだなと痛感したものです。
                              (つづく)

20:04/01/04 14:09
Q 大鳥男爵(圭介)も当時いたのでは?
A 大鳥さんは、慶応2年には陸軍にいたはずですが、私が確認でき
 たのは慶応3年になってからだ。伝習が横浜から江戸府内に変わっ
 て伝習大隊(士官及び下士官養成のための教導部隊・陸上自衛隊の
 富士教導団等に相当)が大手前の屯所に入って何かと勉強しにそこ
 に通ってからでした。俗っぽい言い方ですが軍人と言うよりは若い
 学者然としてました。こちらの質問にも丁寧に答えてくれまして私
 より若く根っからの幕臣ではないですけど私は非常に好意を持ちま
 したよ。まあ大鳥さんから見たらその他大勢の中の一人だったでし
 ょうがね。
21日本@名無史さん:04/01/04 14:29
期待。
出来ればsage進行+トリップを頼む
22日本@名無史さん:04/01/04 15:50
>>19 やっぱフランス人でもスパルタなのかあ。
23:04/01/04 16:19
21>
2チャンネル用語に不慣れでして説明を頂きたく・・
24:04/01/04 16:32
Q 勝伯爵や小栗上野介も伝習を受けたか?
A 否。あの人たちは大戦略とかを練っていたの戦術・戦法には通じて
 いなかったと言えます。維新後、小栗さんが進言したとか勝の案とか
 言われている「海軍も後方を遮断して箱根で薩長を阻止して自壊させ
 る」と言う話がありますがその程度のことは上は慶喜公から下は我々
 までみな考えてましたけどね。ただ、フランス伝習が開始前後に聞い
 た話だと小栗さんとか浅野さん(美作守・榎本武揚登場直前の軍艦奉
 行)とかがかなり幕閣に働いてフランス教官を招いたとの話で同僚な
 んかと「流石、小栗さんだね」と知ったかぶりながら兵卒に話したこ
 とを思い出します。
25:04/01/04 16:46
Q 兵種は、現在と同じか?
A 歩兵・砲兵・騎兵及び工兵等概ね同じでした。ただ歩兵も今日の
 近衛にあたる奥詰銃隊、軽歩兵たる撤兵隊、主兵たる重歩兵俗に言
 う歩兵、総予備たる御料兵、さっき話した伝習兵とかなり分化され
 てました。遠縁の者が奥詰銃隊1大隊にいて維新前後に大坂にいま
 した。
26:04/01/04 16:48
 集中的に書き込みました。軌道に乗ったかな・・。
是非書き込みや質問等をいただければ面白くなると思う
のでよろしくお願いします。
27日本@名無史さん:04/01/04 17:10
>>1
>2CH用語に不慣れでして説明を頂きたく・・

以下のサイトで検索されるとよろしいかと。というよりここ位しかないけど。
2CH用語解説だけを扱ったアフォなサイトです。
別に怪しいとこじゃないですよ(2CH自体が十分怪しいですがw)。
http://www.media-k.co.jp/jiten/
28日本@名無史さん:04/01/04 17:36
親父が戊辰に従軍したのだが・・・・
29日本@名無史さん:04/01/04 17:59
>>28 あなたは何歳ですか?
3011:04/01/04 18:48
>>27
sageとメール欄に入れると、無駄にあがって>>3みたいな書き込みが減るかもしれません。

>>15
新聞社が持っていなくても、図書館や東大が持っていることって結構あります。
31:04/01/04 19:46
sage
32:04/01/04 19:53
11>
 国会図書館及び主要大学には無かったです。
なお、明治期に「戊辰顛末記」と言った旧幕臣の回想録のようなもの
もあり先祖の言動?らしいものも載っていたと言う伝承もありますが
やや説得力に欠けます。顛末記自体かなり反政府的だったため発禁に
なったそうです。
33あぼーん:あぼーん
あぼーん
34日本@名無史さん:04/01/10 01:15
戊辰戦争を通じて大鳥圭介の部下だったのですか?だとするとシャスポー銃を
抱えながらも弾薬の不足に悩まされる姿が浮かぶのですが。
35:04/01/10 06:55
34>
大鳥圭介と合流するのは江戸脱走後で宇都宮〜会津での戦闘ではその指揮下
にありその後五稜郭で再度合流したようです。火器については後日記する予
定です。
36:04/01/10 07:13
Q 薩邸焼討事件を当時どう見ていたか?
A 当時は押し込み等々が江戸府内で多発しており町方では対応でき
 ず庄内藩が治安維持を担当していました。陸軍自体は長征でガタガ
 タでしたし、徴募した兵卒は元は博徒や人足等素行荒い者多く府内
 の秩序を任せるには問題がありましたしね。ただ、当時の状況から
 薩摩が画策していたことは明白であり、幕閣の主要な人がいないた
 め庄内藩の決定がそのまま幕府の考えとなってしまうとこもあり、
 薩邸攻撃に異を挟む者も特になかったと思いますよ。(つづく)
37日本@名無史さん:04/01/10 07:33
衝鋒隊隊長の古屋佐久左衛門かな?
38日本@名無史さん:04/01/10 16:27
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1035197777/l50
このスレッドの続きですね。
39彦左 ◆.p1InFFMBw :04/01/10 16:32
>1
E-mail: にsageって書けばスレが上に移動しません。
トリップは名前の右に♯と適当ななアルファベットをつけてください。
40日本@名無史さん:04/01/10 17:00
1さんのお家って禄高はどれくらいですか?
また家紋は何でしょう?家紋も複数の紋を使ってたんでしょうか?
後、ご先祖はどれくらいの官位を貰ってたんでしょうか?

質問ばかりで何ですが、差し支えの無い範囲でお答え下さったらと思います。
41日本@名無史さん:04/01/10 17:18
特定されるから禄高以外は言わないほうがいいです。

禄高も大まかに言うべし。
42e1:04/01/10 17:31
40 41>
千石台でして、姓は幕臣でも珍しい方なので武鑑等ですぐ特定されてしまい
ますので勘弁してください。
43日本@名無史さん:04/01/10 17:37
千石台!
お殿さまですな。
44e1:04/01/10 17:50
(つづき)
 薩邸攻撃は、12月25日に実施された訳ですか、幕府・庄内藩等から特に
事前通達はありませんでした。前日は、当直だったので屯所には私もいました。
早朝、三田方面から砲声がありましてたが将兵の方は特に動揺なく淡々として
いたものです。そのうち若年寄か大目付の使いが来て陸軍については「いつ出
てもいいように」とお達しがありました。昼過ぎても、何も状況が見えてこな
いので屯所のうち誰か御城に行って見てこいと言うことになりまして私が行く
ことになりました。結局私は、それっきり西の丸下の屯所に帰ってくることは
なかったです。(先祖の記憶は曖昧で鳥羽・伏見からの敗走後、西の丸下屯所
の代表者のような役目を担い歩兵頭並となっているはずなので帰ってきている)
                               (つづく)
45e1:04/01/10 18:11
(つづき)
 登城してみると、城内はそれは大騒ぎでしてた。私は、誰彼問わず聞いて
周り庄内藩の薩邸攻撃と不逞浪士の逃走の事実を知りましてそろそろ屯所に
戻ろうとすると「陸軍の者はいるか いるか」と声がする。誰もいなかった
のは、さっきまで話していた御納戸役の某(あえて匿名なのは本当に知らな
かったのは不明)が「こちらに西の丸の指図役殿が居りまする」と私の手を
とって奥の部屋に連れて行かれました。その部屋には、庄内藩の分家の羽州
松山藩の留守居役、大手町屯所からの使い番そして前橋藩の使い番が詰めて
おりそれらの者たちといつしょに別の部屋に通されました。そこで、後詰め
として陸軍の一部も出動していた事実を知りました。
                           (つづく)
46e1:04/01/10 18:37
(つづき)
 そこで、大目付 滝川播磨守を代表に薩邸攻撃の件を大坂城にいる
慶喜公に言上すると言う。また小野さん(勘定奉行・内膳正)や塚原さ
ん(前外国奉行・但馬守)も出入りしていました。そうこうしているう
ちに滝川さんが部屋に入ってきた大坂に軍艦で行くので「陸軍からも
兵を出してくれ」と言われました。大手前の者は、やれ動員に時間が
かかるとか練度が低いだの言って煮え切らない。側で聞いていた塚原
さんが、「そっちの方は出んのか」と私に向かって言ってきたので私
も後先考えず「大隊なら」と咄嗟に言ってしまいました。よくよく考
えると大隊400名基幹を指揮できる者がいないと思いまして独断で
半コ大隊(5コ小隊)を出すことにしました。そのうち、いつの間にか
大坂への移動部隊の指揮官は私になってしまい指図役頭取では役不足
だろうと誰かが言い出して知らない間に「歩兵総目付(少佐・高七百石
)」に昇任してました。ただ、その辞令は軍艦の中で初めて知りました。
                            (つづく)
47日本@名無史さん:04/01/12 15:25
吉岡艮太夫?
48日本@名無史さん:04/01/17 12:05
age
49e1:04/01/18 11:00
Q 薩邸攻撃の報に大坂城の反応は?
A 慶喜公に言上する前に、筆頭老中 板倉伊賀守ら在坂の閣老に状況
 報告するものだと思っていましたが滝川・小野両氏は、「幕閣に話す
 と拗れるから直接上様に申し立てる」と言って大広間?で幕・会・桑
 等々の主要人士のいる所で滝川氏が報告し、小野・塚原両氏が補足す
 ると言った感じだったです。彼らも、策士で公に言上する前に城内で
 散々話してきてました・・要は、公や幕閣にも止められないような段
 取りしていたわけです。例の「討薩の表」の起案を旧幕側の統一意志
 のようにしていて公と相まみえた訳です。大政奉還後、京都で公にす
 かされていた幕士にとって後は理由と言うか口実がほしかったのは自
 明の理でしたね。                   (つづく)
50日本@名無史さん:04/01/20 14:58
農民を斬り殺したり、町娘を手篭めにしたり、遊ぶかね欲しさに商人を
斬り殺したりといった話は残って無いの?
51日本@名無史さん:04/01/21 19:53
>>50
千石台の「お殿様」の話なんだからさ
あと、sage進行でお願いします
52SAGE:04/01/21 21:27
>51
千石貰ってようが、万石もらってようが悪さをするやつはする。
農民の女房を強姦して大恥かいた筒井さんとか、1の親戚か知らんが
酒井の分家で8千石貰ってたが農民いじめすぎてあぽーんした酒井忠重とかな。

旗本退屈男にも、町娘かどわかして好き放題してる旗本も出てくるしな。
もっともこりゃ小説だが。

53SAGEこと52:04/01/21 21:44
悪い。失敗した。
ところで1よ、お宅みたいな家だと自分の寺持ってるの?
俺のつれに某大名の子孫がいるんだけど、当然菩提寺があって、そこの
住職とはちょくちょく行き来したり、由来の品がその寺にあったりしてるみたい
なんだが。

54日本@名無史さん:04/01/21 21:50
sage
55日本@名無史さん:04/01/21 22:35
某大名の子孫,,
ヒントくれ どこ?
56日本@名無史さん:04/01/21 22:39
本多だろ
5752:04/01/21 23:16
>55
人のことなんであまり具体的なことはいい難い・・
その友人の会話でよく出てくるのは、三条西家、加賀前田、会津松平家の人等との話。
おそらく歴史好きならほぼ知ってるだろう武将。

最初聞いたときは、俺も目が点になった。
嘘かとも思ったが、色々昔の書類を見せて貰ったり、その寺に行ったりしたので
間違いは無いと思う。
ちなみに書類は、鷹司家との物資の貸し借りをした時の礼状と、そのつれ
の先祖が書いた屑書きだった。
ただ、屑書きの方は家康の悪口らしく狸がどうのと書いてあったと思う。

氏を言えば藤原氏だな。
5855:04/01/22 00:43
なるほど、それはすごい。
59e1:04/01/22 21:09
50>
 うーん。このスレでは、戊辰ネタに絞りたく・・・・。
旗本と言え多くは慎ましく大人しく生活していた方?なのであんまり乱暴
した話はないですよ。ただ、領民にはかなりきを使わないと領地経営でき
なかったのは事実らしいです。
52>
 江戸初期に、日光街道沿いにある寺院が焼失し再度立て直す時金銭的な
支援をして以来その寺に請われて菩提寺としたそうです。私の祖父までの
23代にわたる当主が今も眠っています。因みに東照宮の方角に正対する
ように墓は建っています。
60e1:04/01/22 21:27
(つづき・・・私見)
 旧幕側の暴発を押さえるため越前・尾張の藩士もいたのですが彼らを
半ば幽閉してのこの幕間劇は、滝川播磨守の報告終了をもって最高潮に
達した訳ですが、先祖の行動を総括するとまず滝川らと行動を共にした
関係上「強硬派」に属したようになっているがたぶんに思想的なものは
なかったのではと考えられる。先祖が引率していった将兵半コ大隊は、
その後も縁があり共闘したこともじ後書き込みますが、当時陸軍の中堅
将校以上で在坂していた者はある程度限定されるのである部分について
はあっさり記述しますがどうかご理解を・・・
61日本@名無史さん:04/01/26 00:14
>e1
まあ、時代劇なんかじゃ、悪役はいつも旗本だよな。暴れん坊将軍様なんかは
旗本斬り過ぎだろ、ありゃ。あんなことしてたら、幕府崩壊しちゃうよな。
50は将軍様や仕事人の見過ぎだろ。

だけど、23代って結構多いな。江戸期以降の人数じゃ無いでしょ?
23人の内の最初の当主って何時代?仕え始めたのは松平親氏とかから?
62e1:04/01/27 02:06
61>
 幕府開闢以来の人数です。実際、幕府に系図を提出するまで系図もろくに
なく藤原秀郷系とか新田源氏とか平資盛の流れとかぐちゃぐちゃです。
ただ、先祖が源平の出であると言う幻想はありません。伝承では、藤原系を
称していましたが、元々はK村氏と言う北関東圏の土豪からの出であると言
うことまでは突き止めました。菩提寺の記録等から、歴代当主の多くは現代
で言う所の十二指腸潰瘍の者が多く50代まで生きた者はまれで多くは30
〜40代前半で亡くなっています。文化年間のある年には、当主が3人もい
たこともありました。一人目が32歳で病死、継いだその弟も夏に病死し、
養子に出ていた従兄の七歳の子が継いだと言った具合です。19代までが江戸
期と言えます。
63日本@名無史さん:04/01/30 20:05
ここのスレはネタにしろほんとにしろ勉強になるな。
1さん頑張って書き込みしてや。
64e1:04/02/01 13:03
Q 当時の旧幕軍の方針は?
A 京都に入って、薩摩・長州・土佐等の勢力を一掃して慶喜公が宮廷を
 押さえて、「討薩の表」を上奏し一気に薩摩を朝敵とすると言ったもの
 です。ただ、京都内での交戦は避けられないとのことで京都では早くと
 も1月5か6日には戦闘が生起すると見積もっておりました。(未だ旧幕
 軍の攻撃開始予定時期についてははっきりしていない。ただ、主力が大
 坂から出発したのが1月2日。軍配書によると旧幕軍の先遣部隊が入京
 するのは攻撃前々日となっていたことから2日に一日行軍で移動〜3・4
 日に所定の位置に推進・占領〜5日に上奏場合により戦闘であったと予想
 される)
65日本@名無史さん:04/02/03 15:22
>1
一人で千までネタ提供できるほど
資料があるの?
それならすごいな・・
66日本@名無史さん:04/02/05 19:11
おい1よ
おめさんの先祖は、とくがわじゃなくて、とくせんって言ってのか?
徳川家のこと。

67日本@名無史さん:04/02/05 20:58
徳川家をとくせんけと読む場合があるのは、日本史の常識だろうが。
68日本@名無史さん:04/02/05 22:49
>66
まさか素で知らなかったわけじゃ・・・ないよね?
69e1:04/02/06 08:43
 幕臣間では、あえて平仮名で「とくせんけ」と書くのが流行った時期が
あったと言う記録があったそうです。先祖がそう言っていたか、書いたか
は不明です。読み方とか呼び方と言えば、幕末期には対外的には「JAP
AN」なのでしょうが、フランスの勧めて「TOKUGAWA JAPA
N」にしようと検討されたことがあったそうです。オスマン・トルコやサウ
ジアラビアみたいですね・・。
70日本@名無史さん:04/02/16 00:38
良スレ保守
71日本@名無史さん:04/02/22 17:35
なんで終わっちゃったの?
72日本@名無史さん:04/02/22 18:19
保守
73e1:04/02/22 21:07
年度末のため本業で手一杯ですが、なんとか週1ペースで書き込みます
74e1:04/02/22 21:20
Q 大坂での作戦準備中特に問題はあったか?
A 銃器が、まちまちだったので本所の蔵にあった元込銃(シャスポー銃?)
 を出来るだけ持って行きたかったが実際数十丁程度持ち出せたに過ぎず残
 念だった(軍規違反?武器蔵等の鍵は、歩兵奉行か陸軍奉行が直接管理して
 いたはずなので勝手に持ち出せないはず・・)あと黒色硝煙は、江戸から携
 行したものではなく大坂の物で撃ってみないとわからない様な物で相当湿気
 ていた。
75e1:04/02/22 21:30
○私感
 故人であるが、独自の観点で八切史観なるものを確立した奇才 八切止夫
氏は、鳥羽・伏見の旧幕軍の敗因を「黒色硝煙」であるとしている。鎖国体
制下幕府が独占していた黒色硝煙は、天下泰平の世でもコンスタントに外国
から購入して大坂等の幕府直轄地に貯蔵されており、鳥羽・伏見の時には、
湿気ていてほとんど用をなさなかったと言う説である。八切氏の著作は読破
していないが、明治期には同様の説が流れていたと推測できる。「横浜開港
50年史」に慶応二年に幕府がフランスから購入した武器リストが載ってい
るが、武器・弾薬は購入しているが、弾を撃発させ発射するための硝煙の購
入を示す物がない。すでに購入済みなのか、記録漏れなのか、八切氏の説の
ように国内貯蔵分で充当しようとしたのか、どなたか御意見をいただきたい。
76e1:04/02/22 22:11
硝煙→硝石
77日本@名無史さん:04/03/07 12:34
保守
78日本@名無史さん:04/03/07 12:56
>>1
トリップ失敗しているの?

名前欄に
適当な名前#適当な文字列
を入れてご覧

例えば名前欄に

日本史#123456

と入れると
次のレスになる
79日本史 ◆QkRJTXcpFI :04/03/07 12:58
このように


メリットは他人に騙られなくなる
デメリットは自作自演が出来なくなる
80日本@名無史さん:04/03/07 20:53
名スレ保守あげ
81日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/03/07 21:52
78、79>ご助言どうもありがとうございます
年度末で本業が忙しくなかなか書き込めません。
来週以降連続して書き込みますのでよろしく。
82日本@名無史さん:04/03/10 22:52
保守

日本史 ◆JEhW0nJ.FEさん。まだ〜
83日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/03/11 18:55
Q 軍配書はどのように立案されたのか?
A 滝川播磨、塚原但馬らが慶喜公に薩邸焼討ちについて報告している時に
 竹中丹後(陸軍奉行 かの軍師の末裔)らが起案して慶喜公の承認も受けず
 にその軍配書に基づき戦闘準備していたのが現実でした。慶喜公や閣老達
 も渋々同意していたように言う者も多いが当時の大阪城内にはすそんな消
 極的な者はいないと言える。私も、熱湯を掛けられたように赤まっている
 (興奮状態と言う意味?)城内にあって正気を保てるわけでもなく軍配書に
 基づき伏見沿いに入京すべく部隊の準備を指導していました。
84日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/03/11 19:14
 江戸か連れてきた半コ大隊は、そのまま城内に留まり私と数名の将校が、
 11連隊に配置になりました。(幕府陸軍の将校・下士官は慢性的に人員
 不足であり、定員が全員埋まることはなかったので、そんな方法を取った
 のだろうか また11連隊は大坂徴募の兵隊で編成されたもので伝習部隊
 に劣るもののその練度・装備は幕軍の中では平均的なものと言える)
Q 今思うと軍配書の通りやって勝てましたか?
A 否。ただ、淀以北に幕軍13コ大隊、砲20余門、会津・桑名・高松・
 大垣等1万余の兵力で薩長4千に対するので問題なかったが、淀以南に
 5千名が大坂守備等のため残していたが、本隊の1月2日行動開始以降
 も交通統制をしないため、大坂〜淀の水路がごった返していたため、薩
 長のこちらの動向が暴露していた可能性が高いと思う。またね西国街道、
 宇治に対する兵力の配置がないのは、薩長を京都で捕捉して撃滅しよう
 とする戦術の原理原則から見ても不備であったと思う。
85日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/03/11 19:25
Q 肥後細川家と津藤堂家の後方攪乱については知っていたか?
A 否。後日、江戸城内で耳にした程度。
○私感
 幕軍と薩長が交戦状態になったら上記2藩は、千余名の兵をもって兵力
 を三分し、一隊をもって薩長の背後を衝き、一隊をもって京都の諸藩の
 屋敷を強襲、残余を予備とすると言う計画で「慶喜公伝」に書かれるま
 で封印されていた事案。土佐も、暗躍していたと言う説もあり外様大名
 がすべて当初から倒幕派ではないことがわかる
86日本@名無史さん:04/03/12 08:05
>>85
土佐も藩主自身は小御所会議での『幼沖天子』発言とかで結構親幕府的ですよね
87日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/03/12 18:05
Q 開戦直前の伏見方面の幕軍の状況は?
A 11連隊の2コ大隊、陸軍奉行が直率した7連隊2大隊、伝習1大隊
 の他に剣客集団(新撰組と遊撃隊?)、会津兵6百、浜田・鳥羽兵少々で
 した。1月3日に私の隊も伏見に着きました。すでに、奉行所には先遣
 した大隊がいたので、隣接した御堂にも会津藩兵がすでに宿営していた 
 ので浜町で宿営することになりました。(奉行所から見て北側〜桃山・東
 側にかけて長州・土佐の部隊が展開しており幕軍は開戦以前に半包囲され
 ていた)
88日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/03/12 18:26
Q 1月3日午後5時頃交戦状態になったとされるが?
A 夕刻鳥羽方面からの砲声がした直後に伏見奉行所に敵の砲撃が10発程
 度あった。私の隊は、浜町で引続き集結待機していたので3日夕刻の戦闘
 については断片的な情報しか入ってこなかったので詳しくはわからないで
 す。
○私感
 各種資料等によると、奉行所に砲撃したのは薩砲兵隊であり、薩長の砲撃
 に対して新撰組・遊撃隊・会津による白兵突撃で対抗。幕軍は、停滞を打開
 しようとして奉行所近隣に砲兵を展開させ対砲戦を企図するも薩砲兵により
 制圧された。幕軍は、薩砲兵陣地に対して洋式歩兵と新撰組等を突入されよ
 うとしたところ、薩長の各種火器を斜射・側射を受け攻勢が挫折したと言う
 のが3日深夜までの戦況である。
89日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/03/12 18:52
Q 指揮系統は機能していたか?
A 否。城さん(和泉守 11連隊長) 窪田さん(備前守 大隊長)と言っ
 た上司からの指図は3日の開戦直後にはありませんでした。そのうちなぜか
 陸軍奉行の竹中丹後の伝令と称する者が浜町に来て、「伏見奉行所を放棄、
 伏見方面の幕軍は奉行所の南方 中書島まで後退するので貴下は2コ中隊を
 もって御堂〜蓬莱橋を確保して主力の後退を掩護せよ」との命令を受けます。
○私感
 大目付 滝川播磨は、典型的な直参旗本でありその性格は、自意識過剰な面
 強く、竹中丹後守重固との間にも確執があったと言われている。滝川が鳥羽
 ならば竹中は伏見となぜそうなったのか未だ不明である。先祖は、開戦まで
 竹中は鳥羽方面の幕軍を指揮しているものと思い、伏見方面の後退命令が竹
 中名義だったことに疑義を持ったものと思われる。また歩兵総目付となって
 いた先祖が部隊を指揮していた点についてもやや疑問が残る。幕軍の職制で
 は、中隊は歩兵指図役頭取(大尉)が、大隊は歩兵頭並(中佐)が指揮をとる
 ことになつており、総目付(少佐)は、大隊級の部隊の幕僚であると思われる。
 ただ、職制についても確立する前に幕軍は瓦解しているため細部は不明であ
 る。 
90日本@名無史さん:04/03/12 20:06
>85
肥後藩だったらアームストロング砲とかで薩長軍を蹴散らすのか、
普通、これは佐賀藩の代名詞になってるが、この藩って第二次
長州征伐で奇兵隊を苦しめたんでしょ、14代が死亡しなけりゃな。

>86
実際、16歳の子供に政治的判断を下すのは不可能だ、
脅されたから屈したと言う説もあるが、本当にそうかな。

91日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/03/12 20:28
Q 主力の後退掩護はうまくいった?
A はい。結局7コ小隊ほどつれて会津の宿営していた御堂に進出して後退
 して来る部隊を蓬莱橋方向に誘導しました。12時過ぎには後退は概ね終
 了し、京橋と蓬莱橋にそれぞれ1コ小隊を配置し払暁を迎えました。私は
 5コ小隊をつれて浜町にもどると伝習1大隊も7連隊も誰もおらず相当あ
 せりましたよ
92日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/03/12 20:36
Q 予備隊が大坂に後退してしまった?
A 否。あとから、聞いたことだが伝習1大隊は堀川右岸地区に進出し陣地
 を構築するため移動していたし、7連隊は、打撃を受けた11連隊に代わ
 り伏見方面の主力部隊となるため移動していたため浜町は空であったよう
 だ。私も、部隊問わず浜町近辺にいた幕兵を収容して堀川右岸に移動しま
 した。
93日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/03/12 20:48
Q 堀川で交戦した記録はないが? 
A 指揮官たる竹中丹後が、評議のため淀に移動していたことに尽きる。
 竹中が伏見に留まっていた時は、辛うじて堀川右岸地区を確保していたが
 不在になると全軍を指揮する者がいないのである。橋頭堡として期待され
 ていた同地区も指揮官不在のため、勝手に後退する部隊・将兵が多くなり
 伏見方面の全軍の総崩れを誘発したと今も思っています。まあ、交戦する
 気は満々でしたが結局交戦してないです。
94日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/03/12 20:59
Q 会津・高松と言った親藩の将兵は?
A 会津は、3日の戦闘で一端後退して4日については再編成中。高松藩は
 一戦も交えず後退してしまった。堀川右岸地区に着いてみると我が隊を超
 越して後退する和装部隊があり、今思えば高松藩兵だと思う。奉行らしい
 者に「堀川に留まり敵を迎え撃とう」と声を掛けるも「主命である」と言
 って相手にされなかった。とうとう、我が隊のみ取り残されたような形に
 なったので私も後退しました。なぜか、敵の追撃は皆無なので怪我人も友
 軍の落伍者も収容しつつ後退しました。
95日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/03/12 21:02
連続した書き込みました。どなたか、書き込みしていただけると更に話が
ふくらむのですが・・
96日本@名無史さん:04/03/12 21:22
鳥羽伏見の戦いの時の二条城を守っていた水戸藩兵は慶喜の命令だけに従い、幕閣の指示は全く無視していた。
97日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/03/13 07:55
Q 4日には、錦旗が立ったと言われているか?
A 錦が立ったのを知ったのは、ずっとあとです。まず、そのために幕軍が
 総崩れになったのは断じて違う。「錦旗」については両軍共に立てていた
 はず(!?)で、錦旗を敵がようしていても特に歯牙にもかけなかった。
○私感
 幕軍、薩長ともに正当性を示すため「錦旗」を利用したようにくみ取れる
 が、現在それを裏付ける資料等もなく真偽については定かではない。錦旗
 を見て、幕軍の士気が喪失して完敗したと言う定説については否定するだ
 けの資料とはなりえない。
98日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/03/13 08:11
Q 1月5日の戦況は?
A 堀川から離脱して宇治川沿いに淀を目指して後退していた所、淀小橋から
 さほど離れていない千両松と言う場所で攻撃前進してきた長州兵と接触した。
 3日とは、逆で長兵は狭隘かつ泥濘した地域に無理に火砲を配置し歩兵を展
 開させたため、こちらは少数の兵による集中射撃により効果的な戦闘ができ
 た。敵の砲兵は、前日までと違い精度甚だ低く、それに比し友軍の砲兵の精
 度は極めて良好で、「伏見奉行所の戦闘でもこれくらい当たれば」と皆で話
 しながら射撃していたことを思い出します。
○私感
 敵の砲兵は、薩摩ではなく因州池田家の物であり、和洋折衷の部隊であり
 2〜3門程度である。政治的効果を期待しての投入であり、開戦三日目に
 は、准親藩と言われた鳥取藩ですら薩長に与したと言う点と京都と長州を
 結ぶ後方連絡線が確立されたと言う点が極めて重要である
99日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/03/13 08:20
Q 長州兵を効果的に阻止できた戦法は?
A 洋式歩兵による射撃と砲兵により伏見街道沿いに敵を拘束しつつ、諸所
 に伏していた槍兵(会津兵?)で側背を衝くと言う要領を反復しただけ。
 特に、統制したわけでなく射撃が辞めると槍で突き、槍兵が制圧されると
 こっちも対抗して射撃をしていたのが実際です。ただ、長兵は被害が出て
 も構わず前進してきたで、正午前後には淀小橋を渡って後退しました。
 
100日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/03/14 10:59
Q 淀藩の帰順はいつ知ったか? 
A 八幡で戦うまでよくわからなかったです。ただ、淀藩は4日には明確な
 意思表示をしていたと思う。幕軍は、当初淀城を拠点に薩長の侵攻を阻止
 し、大坂からの増援部隊で再度入京しようと言うことになっていたので
 淀城に入らずに後退していたので作戦方針の変更程度に捉えていました。
○私感
 4日夕刻に、幕軍は淀藩と淀城使用に関する交渉をしていたが決裂してい
 たことは、多くの資料にある。江戸にいる老中の稲葉正邦の領国の造反は
 錦旗より衝撃があったのだろうか
101日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/03/15 20:19
○訂正
 書き込み再開時の勘違いですが先祖が仮配置されたのは11連隊ではなく
12連隊です。
102日本@名無史さん:04/03/15 21:59
あげ
103日本@名無史さん:04/03/16 15:09
先祖ではなく過去世ではダメなの?
俺の過去世に戊辰戦争関係の人生があるんだが。
104日本@名無史さん:04/03/16 15:39
興味深いお話をありがとうございます。
話はいささか戻ってしまいますが、幕末史最大の謎の一つに「慶喜は王政復古後、薩長との衝突を避けて大坂へ退去してしまった」という事実があります。
新進の研究者である家近良樹氏の言い分では、従来は慶喜の失敗の一つとされていた通説に反論して、「慶喜にとって大勝利をもたらした」(「孝明天皇と『一会桑』」中公新書)とまで言わしめています。
しかし、幕臣の本音としてはいかがなものでしょうか?
105日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/03/16 16:30
103>
ここのスレの内容を他スレに書き込んでいた時に新スレ立ち上げを勧められ
ここを立てました。書き込みは本人意志ですがねやりやすいのは自分でスレ
を立ててはいかがでしょうか

106日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/03/16 16:40
104>
直接の先祖は、既述通り江戸にいましたので、その辺については遠縁の者で
奥詰銃隊(旗本子弟により編成された最精鋭部隊で将軍親衛隊として位置づ
け)の隊員が後年語っていたことを私の曾祖父が記録として残しているもの
があり、それに基づいて何回かに分けて書き込みます
107日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/03/16 16:54
番外編「慶喜公下坂について」1
 「慶応3年12月8日深夜、長州兵入京開始」
 深夜、長州・徳山兵続々と入京する。長州が「朝敵」でなくなった
 ためだが、幕士の多くそれ知らす゛。御所及び京都の主要経路には
 薩摩兵が押さえていて、二条城から長州兵入京を阻止する手だてな
 し。
○私感
 小御所会議に先立ち、公家・諸侯・雄藩重役による会議で長州は復
権し、明治天皇臨席のもと小御所会議となるわけだが、尾張・越前・
土佐に対する過剰な期待が幕軍投入と言う武力介入を鈍らせたのだろ
うか
108日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/03/16 21:55
番外編2
 「12月9日王政復古の大号令」
 越前経由で、辞官納地の件二条城に伝わる。幕・会・桑等の諸士大いに激
高する。午前中には、朝廷の使者が来て辞官納地について伝達する。閣老ら
大いに狼狽する。老中格 大河内豊前守の許可を得て陸軍奉行 竹中丹後は
幕軍に戦闘準備を命ずる。なお、同日から年末にかけて京都内の各所で薩摩
と会津の小競り合い起きる。
○私感
 辞官納地に激高した幕軍が二条城や伏見奉行所から御所へ向けて攻撃して
いたらどうなっていただろうか。大政奉還時点で、京都内には洋式歩兵1コ
連隊千余名、会津・桑名・新撰組・見回組等がおり、淀・山崎・八幡には
歩兵1コ中隊づつと砲兵がいた。12月9日の時点で幕軍は5千強の兵力
をもって御所に軍事的圧力を掛けていたはずである。王政復古の時点で、薩摩
3千、土佐1千、長州1千逐次移動中であり、相対戦闘力では幕軍やや有利
と言える
109日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/03/16 22:09
番外編3
「12月10日」
 竹中丹後、江戸に増援要請するとともに大坂天王寺に集結中の幕軍9コ大隊
に入京準備命ずる。老中 板倉伊賀守により主要な幹部は集められ改めて「辞
官納地」等王政復古についての説明あるし、特に新しい内容なく在京の幕閣に
なんら方策ないことを知る。慶喜公の真意誰も知らず、紀州に内々に兵を入京
させようとするも、紀州丁重に断る。ただ、紀州街道入り口への警戒の兵配置
については同藩認める。
○私感
 少なくとも、10日時点では幕軍は遣る気満々であったことが伺える。慶喜
公の真意については、終始幕士の多くはわからないのでしょうがないと思う
110日本@名無史さん:04/03/17 07:17
慶喜の兄弟が藩主の岡山・鳥取や慶喜の実家の本圀寺勢が慶喜を見捨てたのも
相当ショックだったのでは。
111日本@名無史さん:04/03/17 07:38
番外編、ありがとうございます。
112日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/03/17 09:39
番外編4
「12月11日 桑名候先鋒申し出る」
 竹中丹後 指図役頭取以上、会津・桑名・新撰組・本国寺等の代表者を集め
軍議開く。在阪・在京の幕軍の配置及び京都内での武力衝突時の処置について
大綱決定する。討薩については衆議一致、時期については新撰組(土方?)の
本日夜襲案から、歩兵頭(佐久間近江守?)の在阪部隊到着後攻撃案に大別され
たが、結論でず。閣老内でも大河内候、最強硬派なるも他の方々方策なし。
桑名候、慶喜公に謁し討薩軍の先鋒に桑名・会津が当たると進言。公は、「挙
正退奸の兵起こしたる際は、会津・桑名の兵のみならず真に忠心ある諸侯全軍
を持ってあたりたい。井伊・紀州・藤堂・大垣・加賀も助勢期待するものなり」
と即答避ける。
○私感
 慶喜公が期待していた諸侯の動向は、承知の通り。慶喜公は、武力解決を臭わ
せつつ別の道を模索していたのだろうか。大坂湾にいる幕府艦隊にも逐次最新の
状況は伝達されていたらしく、榎本ら海軍首脳部も早期開戦を希望する旨は、二
条城に具申されていたらしい。
113日本@名無史さん:04/03/17 15:29
「昔夢会筆記」に慶喜の弁明が載せられていますが、少し苦しい言い訳になってしまいました。
「(討薩表を)いや、知らない」「(薩摩藩が拾ったのに)そんなはずない」などと。
114日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/03/17 15:57
113>
「討薩の表」は大目付 滝川播磨が携行していたが滝川は開戦直後には淀の
本営に逃げ帰っていた。なんとか上奏しようとした旧幕側は、寺社奉行 酒
井若狭守(小浜藩主)に命じ、同家の家臣が従僕に変装して入京し、在京の若
年寄 戸田肥前守に預ける。御所向御用筋引受取扱の戸田は、佐幕派・公武
合体派の公家を通して上奏しようとするも4日には朝廷反徳川一色となり、
困った戸田は、松平春嶽に頼る(押しつける)。春嶽、尾張と合議して1月5
日岩倉具視に提出する。大成決しており、恥の上塗りとはこのことなり。
○私感
 上記は、大正期に私の先祖が、在郷軍人会に招かれて講演した際の内容の
一部です。
115日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/03/17 21:15
番外編5「12月12日 慶喜公深夜の変節」
 12日午前中、老中 板倉伊賀守より「上意」として在坂部隊の上京時期
別命の沙汰あり。尾張大納言慶勝公より、自重求める使者あり。謁した慶喜
公、「我に策あり。京洛焦土にならず王城安寧す」と尾張の使者に話すとあ
る。幕士の多く攻勢の意志ありと思い大いに盛り上がる。黒谷・大仏と言っ
た京都内の重要拠点について会・桑が担当するも、その他は譜代大・小名に
任せるとの指示、大河内豊前守よりあり。御所へは、会津中将を総督とする
幕・会兵で攻撃すること内々に決まる。深夜、慶喜公側近らと二条城を発ち
大坂に向かう。猛り狂った将士前後して大坂に向かう。
○私感
 後日、大坂から遁走する慶喜公の行動を思わせる行動である。二条城をいつ
出たのか諸説あり。幕軍将校の午後8時説あり。当時、幕府陸軍は、24時間
制を採用し、将校はセコンドの呼ばれた現在同様の腕時計を使用していた。こ
のため、幕軍が参加した戦場では、「午前六時」とか「午後八時半過ぎ」とか
の記録が残っている。誰かが、慶喜公下坂を知ったのが午後八時だったのでは
116日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/03/17 21:34
番外編6 「最終回12月13日夕」
 大坂城内において、慶喜公、歩兵頭以上・諸藩代表者を召して下坂の意図
示す。「京都での交戦は不利」「大坂で戦力を蓄え必ず上京する」旨。なお
二条城には本国寺党・新撰組が守備、伏見奉行所に1コ連隊、淀・山崎・八
幡に各1コ中隊、枚方に撤兵(軽歩兵)1コ中隊、天王寺に幕軍9コ大隊、京
街道には亀山藩2百、奈良街道には姫路藩2百、紀州街道には紀州、西宮に
若狭藩5百、大坂城守備に2〜5コ大隊と全般作戦構想決定する。鳥取・岡
山・尾張等は派兵を辞退。幕閣その3候「当てにせず」と憤激する。幕士の
多く「慶喜公、水戸の出であり徳川宗家に対する情薄く本心不明」と大政奉
還〜王政復古〜大坂下向間の不信感あり。
○私感
 純軍事点に見ては、王政復古直後に仕掛けていれば違った結末となったか
については引続き検証が必要であると思います。
117日本@名無史さん:04/03/17 21:40
>>103
ちょっと興味あるな。
118日本@名無史さん:04/03/17 21:42
スレ主(日本史)さん、期待してます。
119日本@名無史さん:04/03/18 00:38
水戸本圀寺派は新撰組や会津兵を二条城から締め出し、市川ら諸生党討伐の
勅錠が下されると薩長と慶喜・幕府の戦いをよそに勇躍して東帰した。
120日本@名無史さん:04/03/18 19:38
>幕士の多く「慶喜公、水戸の出であり徳川宗家に対する情薄く本心不明」と大政奉
還〜王政復古〜大坂下向間の不信感あり。

慶喜の側を弁護するならば、同じこと言えそうですね。
すなわち、彼自身が幕臣に対し不信感があったかと思います。それは後に「西郷如きの者が・・・」という会話に繋がるのではないでしょうか。
121日本@名無史さん:04/03/30 19:11
保守
122日本@名無史さん:04/03/31 04:23
>>50
高貴な武士の軍は、前線で虐殺・強姦・略奪等なんかしません。

虐殺・強姦・略奪等をするのは、高杉晋作や大村益次郎などがつくった百姓の軍隊です。

チョン系士族の薩摩藩部隊ですら、武士の情けと言える美談がいくつか残っているが、
百姓兵の長州藩・奇兵隊なんかは美談ゼロで、蛮行の記録しか残っていない。


格付け

後北条軍・武田軍・上杉軍>幕府陸海軍>>>>>(超えられない壁・以下百姓軍)>>>>>旧日本軍・自衛隊・世界各国の軍・薩長軍
123日本@名無史さん:04/03/31 07:03
トンポク武士の軍は、前線で虐殺・強姦・略奪等やりっぱなしです。

虐殺・強姦・略奪等をするのは、会津の軍隊です。

会津の外道侍は美談ゼロで、蛮行の記録しか残っていない。


格付け

後北条軍・武田軍・上杉軍>幕府陸海軍>>>>>(超えられない壁・以下百姓軍)>>>>>旧日本軍・自衛隊・世界各国の軍・会津軍
124日本@名無史さん:04/03/31 07:13
彦根武士の軍は、戦いではで遁走・敗走・裏切り等逃げっぱなしです。

遁走・敗走・裏切り等をするのは、彦根の軍隊です。

彦根の外道侍は美談ゼロで、怯惰の記録しか残っていない。


格付け

後北条軍・武田軍・上杉軍>幕府陸海軍>>>>>(超えられない壁・以下百姓軍)>>>>>旧日本軍・自衛隊・世界各国の軍・会津軍
>>>>>>>>彦根軍=イタリア軍


125日本@名無史さん:04/03/31 14:21
ここにまたひとつ、新たなコピペが誕生した
126日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/03/31 23:06
・・・
127日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/04/01 00:11
Q 八幡・橋本での戦闘配備はいつ決定したか?
A 淀藩造反前後には、使い番(伝令)を通じて各部隊に達せられたはず。
 当初から小浜兵4百余、宮津兵150名が守備していして、そこに幕軍
 半コ大隊が加入して薩長の侵攻を阻止して大坂からの増援部隊の進出を
 掩護するはずでした。実際、幕兵はほとんどいない状態で敗走してきた
 見廻組・桑名兵と大坂から急遽前進してきた会津兵百余しかいませんで
 した。私も、1コ大隊弱を率いて陣地地域に到着しましたが、指揮官不
 在のような状態だったので私が急遽指揮官と言うことになりました。
 大河内・滝川・竹中・塚原と言った幹部連からはなんの指図もなく、残
 兵の多くは回収できず大坂に落ちていくと言った有様でした。
○私感
 八幡・橋本は、秀吉と光秀が戦った山崎の戦いの場所でもある。幕軍の
 堅確な意志「再攻勢」があるならば絶対押さえておくべき場所であり、
 戦術用語で言うところの「隘路口」であり、幕軍もその地位・役割を十分
 承知して準備していたはずである。鳥羽・伏見の緒戦の敗北、淀藩の造反
 を差し引いても逆転可能だった唯一の好機ではなかったのだろうか・・
128日本@名無史さん:04/04/10 23:24
あげ
129日本@名無史さん:04/04/14 09:28
保守
130日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/04/18 20:49
Q 津藩藤堂家の裏切りについてですが?
A 6日の昼前ごろ(午前11時説が有力)だったと思う。私自身、前線部隊
 を指導しようとして八幡宮が△86方向に徒歩で移動していると天王山方
 向から火光が見えたので、津砲兵がやっと薩長に対して砲撃を始めたと思
 い、「ちょっと楽になるね」と指図役のS村(現存する資料に該当する人物
 を確認できない。元々の幕臣ではなく北関東の小藩出身で五稜郭で戦死し
 たと先祖は述べているが、子孫の方への考慮からイニシャルに留める)と話
 ながらいると、どうも弾着が△143(八幡地域の制高点であり天王山とと
 もにここを押さえておけば薩長に対して効果的な砲撃が可能)に落ちている。
 急いで、八幡宮に戻ると、新撰組と見回り組以外は組織的な抵抗を成してお
 らず士官・下士官が大声で命じても幕兵は楠葉(大坂)方向にドッと逃げてい
 くだけどあまりの逃げ足の早さに唖然としたものです。
131日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/04/18 21:04
Q 大坂へ後退は、命令によるものではなく敗走だったのか?
A その通り。八幡で、残兵を収容した3百余で、後退して行くと使い番の
 者と会う。夕方くらい(午後四時の軍議で、枚方死守が決定したのでこれ
 以降か?)に「枚方で防勢転移」と命じられたが枚方で留まる将兵はほと
 んどいなかったです。そうこうしていると今度は、主命により「全軍、大
 坂城へ」と言うことになったので大坂を目指して後退に次ぐ後退でした。
 大坂城に着いたのは7日日の出くらいでした。周りには、幕兵・会津・見
 回組等がいましたが、私の周囲の者はみな戦意旺盛でしたね。
132日本@名無史さん:04/04/18 21:38
Q 津藩籐堂家の裏切りは、予定の行動(事前に薩摩長州に内応の連絡を入れた)とは思えません。
では、俗説にある「錦旗」が戦場にあらわれたからでしょうか?
けれども、「錦旗」が何であるかを双方の兵士が認識しているとは思えません。
したがって、やはり敗勢の濃い旧幕府連合軍に見限っての行動なのでしょうか?
133日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/04/18 22:25
A 各種記録によると1月5日 津藩陣地に勅使 四条卿が来て新政府の御
 沙汰書を読み上げ、津藩重臣 藤堂采女らを帰順させたことになっていま
 す。関ヶ原同様に薩長・旧幕共に諸侯を味方にしようとしていたようで、
 長州の支藩・岩国吉川家に旧幕が工作したり、薩長は御三家全てに工作し
 ていたと言う風聞もあったとそうです。
 「錦旗」については、あまり両軍余り畏怖していなかったようです。ただ、
 太平記や源平物は、庶民でも知っていた幕末期には、「朝敵」=「賊軍」
 と言う概念はあったと思われます。江戸に帰った後、徹底抗戦を叫ぶ者達
 に慶喜公や板倉伊賀らは「高師直の如く悪名残すのか」と言って諭したと
 いいますが、幕士の多くはお構いなしだったそうです。
 淀・津藩らは、御家大事のことであり、主君に対する忠誠心よりも、組織
 としての藩の存続を優先した資本主義的精神の萌芽と言えなくもないと、
 私は思いますがいかがでしょうか
134日本@名無史さん:04/04/19 10:08
>133
ありがとうございます
135日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/04/24 08:29
Q 鳥羽・伏見における被害は?
A 正確にはわかりません。私が指揮した部隊では、約半数は死傷したもの
 と思ってます。
 ○私感
  正確な戦死者には、諸説ある。最近、閲覧した資料「会津藩戦死受難者
 人名録」によると幕兵88 会津120 桑名8 大垣10 浜田11
 岡崎1 新撰組1とある。この資料についても、戦死とカウントされたの
 は士分のみで徴募兵や武士以外はカウントされていないのでは?と言う疑
 問もあり正確な数字がわからないのが現状です
136日本@名無史さん:04/04/24 09:41
Q 当時の戦闘は火力(銃、大砲)が勝敗を分けたと思います。薩摩軍の火力はヨーロッパ二流国のそれ程度はあったと思いますが、旧幕府軍はどの程度だったのでしょうか?
そして、それは鳥羽伏見の決戦に投入されたのでしょいうか?
137日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/04/24 20:43
A 「幕軍の装備について」
 御指摘の通り、薩軍は、戊辰戦争当初の装備は、ミニエー銃主体であり、
 1855年(クリミア戦争時)の英軍の主要装備であり、欧州列強と比較
 すると薩軍は、10年は遅れていることになります。さて、幕軍は、当
 時として最新鋭のシャスポー銃で装備しています。その点では、幕軍は
 フランス相当、薩軍はトルコ・デンマーク程度であったのではと推察し
 ます。幕府には、フランスからシャスポー銃やナポレオン砲が贈与され
 ていますが、友好の証と言うよりも「お試し商品」的意味合いがあった
 ようで幕府も、大規模な購入計画を持っていたようです。
 
138日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/04/24 20:55
つづき
  さて、幕軍の記録と先祖の証言から、幕軍も全軍後装填銃で統一されて
 いたわけではなく、幕軍でもシャスポー銃を装備していたのは、伝習歩兵
 だけだったように思える。少なくとも、幕軍は銃器においては、概ね互角
 であり、一部は優勢であったと言えます。フランス軍と同様の装備を持っ
 た伝習1大隊(8百名基幹)が、開戦当初から戦闘加入していたらどうなっ
 ていたでしょう?
139日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/04/24 21:12
Q 7日の朝の時点では、慶喜公は逃走していたはずたが?
A 大坂城に入ると、室賀(甲斐守 御側御用取次)さんに状況を報告しま
 したが、室賀さんも「心ここにあらず」と言った感じでした。城内には
 撤兵隊、奥詰銃隊はじめ無傷の幕軍も多く私も「新しい部隊を指揮する
 ことになるので沙汰待て」と言うことになり城内をブラブラしていると
 親類(某外様大名の分家筋の旗本)で奥詰銃隊に勤務している者に呼び止
 められ「公方様、東帰につき城内騒擾の極み」と聞く。慶喜公自体は、
 6日中(午後10時)に大坂城を出たのですが、まず会津・桑名の藩士が
 「主君が登城したまま戻って来ない」と騒ぎだし、奥向きの者を詰問し
 てことの顛末が明るみに出たのは、7日早朝だったと思います。室賀さ
 んが気もそぞろだったのはこの事を知っていたからだったとすぐ理解
 しましたよ。
140日本@名無史さん:04/04/26 07:10
>>137>>138
ありがとうがざいます
141日本@名無史さん:04/04/27 08:21
Q 慶喜が遁走した際、何かしら指示や指令が残されていたのでしょうか?
というのも、大阪城の兵が解散したのは、その指示によってだったからでしょうか?
142日本@名無史さん:04/04/27 08:44
>138
江戸にいる主力部隊がくるまで開戦をまったらよかったのに。
143日本@名無史さん:04/04/27 14:40
>>142
慶喜本人は待ちたかったのではないでしょうか? 江戸における薩摩の挑発を知って、在京の旧幕府軍が京都に押し出したという話ですから。
144142:04/04/28 07:24
>143
焼き討ちしたことを主力部隊がくるまで伏せればよかったのにな。
145日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/04/29 18:26
>141
番外編「大坂城バックステージ」
 7日昼過ぎ、大広間に主だった者招集される。総督 大河内豊前守から、
状況説明とじ後の沙汰あり。大河内公、顔面蒼白にして多くを語らず。その
声か細くよく聞き取れず。すぐ脇に座っていた戸田肥後(奥詰銃隊頭)、「全
員にわかるよう大きな声で沙汰されたい」と大声で詰る。若年寄 永井玄蕃
が代わりに、慶喜公近臣らと軍艦で東帰、大坂城は尾張・越前に託すこと及
び残務処理は、老中 大河内豊前、陸軍奉行 竹中重固、塚原但馬の三名に
とくに残留するよう直筆の命令あり。多くの者、激高する。永井に「江戸で
再起か?」「大坂城放棄か?」と詰め寄る者多し。
146日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/04/29 20:24
 事務方の仕事は、永井玄蕃が群を抜いていて各方面に指示を出し、7日夕
には、大坂城から撤退する作業に入っていた。大阪城には、幕軍の他に30
余藩(どう数えても24藩?)いたが、諸藩に対する解散命令は、老中格 大
河内豊前守名義で、幕軍等の撤退命令は慶喜公名義で出されたと記憶してい
る。籠城抗戦を叫ぶ者あるも、いちおう「主命」と言うことなので撤退・解
散に従う。そうこうしているうち、大坂地方で徴募した11連隊の一部が、
江戸行きに難色を示し、大坂籠城を企てていると聞く。
147日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/04/29 20:42
 誰かが煽動していると思っていたが、私も撤収作業も手が回らないでいた。
7日深夜、11連隊の将兵の代表が、永井玄蕃に掛け合い手当の先渡しと言う
名目での退職金を取るか、江戸に行くかは本人次第と言うことになる。幕士を
代表し、私が手当支給に立ち会う。「8日、幕兵3百を引率し紀州に移動し、和
歌浦から幕海軍の軍艦に便乗せよ」との命令を受ける。ただ、時期を逸すること
を危惧し、数十人単位で紀州に8日早朝より前進させる。
○私感
 大坂城には、軍資金として20万両があり、かの榎本武揚によりその大半が、
江戸に持ち出されたとされるが、それらは多く見積もっても18万両と言われて
いる。残りの2万両が、一時金や御用商人等への支払いに充てられたと推測され
る。また、海路、江戸に帰る予定だった祖先が、幕兵・下級役人等2百を指揮し
て生駒山中の暗峠から東海道沿いに後退することになったのかは、不明である。
148日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/04/29 21:06
>142 143
幕軍の開戦前後の動きを書き込みます。まず、主力たる歩兵(フランス式重
歩兵)の状況ですが、1連隊(千名 大坂から二条城へ前進)4連隊(大坂から
大仏へ前進)5連隊(8百名 主力は大坂残置・1コ大隊は鳥羽街道沿いに前
進に各4百名)、7連隊(8百名 主力は大坂残置・1コ大隊は伏見街道沿い
に前進)、11連隊(9百名 大坂から黒谷へ前進)及び伝習1大隊(8百名 
鳥羽街道沿いに前進)が遅くとも大坂城に薩邸焼討が報告された時には存在し
ていました。
○私感
 なぜか、2・3・9・10連隊はなく、一橋家ゆかりの播磨で徴募した16
連隊や、天領から徴募した御料兵など編成についてはまだまだ研究の余地があ
ると思う。
149日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/04/29 21:18
 逆に、江戸に残留して薩邸焼討の際、予備隊として庄内藩を後方支援してい
た幕兵など約2千名(6連隊・8連隊・伝習2大隊)がおり、鳥羽・伏見の敗戦
を知らずにそのなかから5百名を大坂に増援しています。と言うと、幕軍の主
力たる重歩兵約8千のうちその大半は大坂周辺にいて、少なくとも連隊単位で
の増援は期待できなかったと考えられます。御承知の通り、旗本八万騎と称し
ても、実質2〜3万程度でしたし、有為の人材は官職又は、幕府陸軍にあった
ので到底、慶安の軍令に沿って動員された直参は戦力にならなかったでしょう
し、水増ししても5千名程度しか動員できなかったと推測します。そのため、
慶喜公が決戦を企図した場合、大坂にいた幕軍が手持ちと言うか、出先として
は最大限の兵力だったと考えます。
150日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/04/29 21:23
追記
また、親衛隊たる奥詰銃隊は、2コ大隊のうち1コは大坂にいましたが、軽
歩兵たる撤兵隊4コ大隊のうち最低1コ大隊も大坂にいたこともあり、洋式
部隊の大半は、大坂城内外に溢れていたの想像できます。
151日本@名無史さん:04/05/04 15:17
>>146
>>147
ありがとうございます
152日本@名無史さん:04/05/06 13:25
保守
153日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/05/06 15:47
○私感
 本来ならば、東海道を下っていく話なのですが、それらの部分が欠落して
いる。帰路あまり触れたくないことがあったようであるが、詳細は不明であ
る。口伝によると、行く先々で宿代や食事代を踏み倒していたようで、宿場
の役人と揉めて殺傷沙汰に及んだ部下もいたようで、旗本としては「いやな
思い」をしてきたのだろう。また、戊辰戦争を通じて言えることだが、負傷
するとすぐ自害したり、落伍者は、落ち武者狩りにあったりして戦場におけ
る重傷者は皆無だったらしく、本人と意志か、組織防衛か、諸処で同僚・部
下を置き去りにしたことを後年悔いていたらしく相当精神的に圧迫されたよ
うである。
後日、日露戦争の出征するため静岡のに挨拶に行った旧幕臣の子弟から同じ
ような話をされて慶喜公は、顔色変えることなく「そうか」とだけ言ったら
しく、「貴人志有るも心有らず」と誹りを受けると言ったことがあると以前
地方紙で読んだことがあります。
154日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/05/06 16:18
すいません。誤字・脱字等々ぐたぐたで・・
155日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/05/06 17:58
>153
8行目 重傷者→捕虜
156日本@名無史さん:04/05/11 14:01
1さんの御家は、確か寄合でしたね。
寄合旗本にしては小禄のようですが、1さんの御家は大名の分家筋
とかなんですか?

話がずれて申し訳ないですが。
157元目付:04/05/11 18:54
>156
 交代寄合表御礼衆や交代寄合四州家と言った生粋の寄合ではなく、3千石
以上のレイオフ組と言った広義の「寄合」であると認識しています。以前、
他スレに寄合と書き込んだ所、「貴家は、元寄合であり厳密には江戸時代の
大半を小普請で過ごしたはず」と指摘されたことがありました。かつては、3
千石以上の禄を頂戴した時期もあるので軽く「寄合」としてましたが、厳密
には「元寄合」です。誤解を与えるような表現を用いすいませんでした。
当家は、諸侯に連なる家ではありません。ただ、旗本間での養子縁組や婚姻
などで某藩公に連なる家に縁づいた者も江戸期を通じ何人かいます。あわや
10余万石の大名になりそこなった者もいれば、甲斐性なく養家から追い出
された者もいたそうです。
158日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/05/11 18:56
すいません。下げようとしたら、別スレのコテハンで書き込んで上げ
にしてしまいました。
159日本@名無史さん:04/05/12 03:50
早い回答どうもです。
そうですか、かつては三千石以上あったのですね。
吉宗の頃ぐらいから、寄合席は三千石以上という形になっていったと
ものの本で読んだ覚えがあるのですが、それ以前に三千石以下になった
ということなんでしょうかね?

まあ、旗本って大名に比べるとマイナーですが、数千石の旗本
なんてのは小大名とかわらんですもんね。官位なんか見てもね。

大名の家に旗本から養子にいったり、逆に大名の庶子を旗本が
養子にしたりなんて結構ありますもんね。
伊達宗城なんか、旗本の四男でしたっけね。
吉宗に睨まれた榊原政岑も五百石の旗本の子でしたっけ。
禄はともかく、格はそれなりにある。それが旗本という身分の
特殊性ですかね。

それ考えると、大沢基寿の気持ちはわかりますね。
昨日まで並の大名では考えられないランクの官位を頂戴し
三家の行列と行き会っても籠を降りなくていいなんて特権を
持ってても、今日は浅黄裏と同じ士族で括られるなんてね。
まあ水増しもしたくなる。

話がそれましたが、1さんの御家の禄が減ってしまったのは
分知とかですか?
後、番筋とかは何ですか?
元目付なんてコテハンを名乗っておられますが、ご先祖に目付を
勤めた人物がおられるんですか?
質問ばっかで申し訳ないです。
160日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/05/12 19:02
>159
二度の分知で、最大時の4分の1になり明治維新を迎えます
大番ですが、詳細は勘弁してください
元目付は、先祖ではなく私の仕事が大目付・目付に似た職業だったことが
「元目付」の由来です。
161日本@名無史さん:04/05/14 17:31
大番ですか、以外ですね。
私の予想では、書院番あたりかなと思ったのですが。
番方というのも、元々は大番しかなかったので、家康以前からの家は
大番になってるケースが多いのかもしれませんね。

<二度の分知で、最大時の4分の1になり明治維新を迎えます
これは、ひょっとすると分家の方が禄高が多くなったということでしょうか?
そうならば、珍しいケースかも・・




162日本@名無史さん:04/05/21 18:47
保守
163日本@名無史さん:04/05/24 09:02
保守
164日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/05/24 23:16
>161 分家を2家立てたと言う意味です。正確には、駿河大納言家に出仕する
 ことになった弟が、「肩身の狭いことにならないようにと」当主の兄が分知
 したのと、江戸後期の当主が、妾に生ませた庶子かわいさに「旗本株」を買
 い立家に際して分知したと言う意味です。
165日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/05/24 23:19
「鳥羽・伏見編」終了に伴い、「江戸脱出編」に入ります。私に気兼ねなく
皆さんも色々書き込んでください。今週は、仕事関係いろいろあって明日か
ら泊まりなので来週以降にまとめて書き込みます。
166日本@名無史さん :04/05/26 07:43
Q1 鳥羽伏見戦直後の時点で、幕府側のトップの長期展望的には「まだ(江戸で)勝てる。」
でしょうか?「近い将来幕府は消滅しそうだ。」の予感でしょうか?

Q2 慶喜公は基本的に好戦家ではなく、「文官」のイメージなのですが、ご先祖様などの実戦配備戦闘員から見た印象は?
167日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/05/27 00:43
Q1>A
慶喜公が、江戸に戻ったのは1月12日朝であり、同日昼には在府の諸藩
 ・幕臣を召して「先手の人数、鳥羽にて薩、長人数と談判中、彼より発砲
 して戦争におよびしも、朝敵となされる訳はこれなく、篤と評議のうえ、
 再度上坂の考え」と布告しています。先祖は、12日時点では未だ江戸にお
 らずその場にはいなかったようですが、少なくとも鳥羽・伏見での敗残兵が
 江戸に戻ってくるまでは、「まだ勝てる」と踏んでいた節があります。しか
 し、1月中旬になると続々残兵が江戸に戻り、完敗と言うか戦場の実相が徐
 々に分かってきて「幕藩体制の限界」を多くの者は実感したのではないでし
 ょうか?慶喜公自身は、武力解決ではなく政治決着を期していたようで、
 近臣には、「自分は隠居して、徳川宗家を誰かに譲り弁明の使者を京都に送
 りフランスの援助下に薩長の自滅を待つ」と楽観視していた節があります。
168日本@名無史さん 166:04/05/27 17:37
Q1>A、お忙しい中、ありがとうございます。
お仕事の区切りをつけられて、満を持して書いてください。

ご先祖様が大阪から江戸帰任後、
あまたのエピソード予想します。
次の書き込みを正座して待ってます。
負担に思われず、最終章まで、続けてください。

169日本@名無史さん:04/05/29 08:35
鳥羽伏見の後は幕府のお尋ね者だった天狗党残党が公然と新政府の勅を携えて東帰してきた。
水戸藩でも尊攘派が蜂起した。幕府権力を維持する為には彼等を罪人として慶喜は討伐しなくてはならないが、
慶喜は天狗残党・尊攘派の側に立ち慶篤に彼等の奉勅を勧めた。
170日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/05/29 22:30
Q2>A
 幕臣間では、達観した貴公子然としていた慶喜公は余り人気が無かった
ようです。口伝では、第一次長州征伐の際、前線から大坂に出張していた
先祖が、家茂公に声を掛けられ感涙したと言う逸話がありますが、上野蟄
居直前の慶喜公に声を掛けられた時、一種の不快感を催したそうです。
家茂公も慶喜公も、封建君主であることには代りないのでしょうが・・・。
幕臣や大奥でも、水戸系より紀州系が吉宗公以来贔屓だったようです。
171日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/05/29 22:53
「江戸脱出編1 江戸帰府」
 私が、江戸に戻ったのは1月20日頃でした。23日登城してみると大久保
さん(一翁・会計総裁)が待ってました。てっきり鳥羽・伏見での報告するよう
に言われると思っていたところ、そのことにはまったく触れずに世間話を少々
した後、「歩兵頭並(中佐・役料千石)に」と言う。「大手前か三番町のどちら
かの屯所で徴募兵を当面の間慰撫するように」と言われました。三番町は、鳥
羽・伏見で戦った11・12連隊が入る予定(入営したのは1月下旬)で、大手
前は、江戸に残留していた部隊が既に入っておりました。特に、考えもなく自
宅から近い大手前を希望し、その場で「大手前屯所 取次御用掛」に任命され
ました。
○私感
 取次御用掛と言う役職は、現在確認できない。たぶんに勝・大久保ライン
がアドリブで付けたポストのようである。屯所の長(陸上自衛隊の駐屯地司令
職に相当)は、連隊長だが、11・12連隊共に戦死しており大隊長クラスの
多くが使えないことが、鳥羽・伏見で露呈したため大隊長以下、中隊長以上の
人材が実際、屯所を仕切ることになり大鳥圭介の台頭もこの時期である。
172日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/05/29 23:11
「江戸脱出編2 小田原工作@」
 歩兵頭並に、推挙してくれたのが大鳥さんだと高橋さん(伊勢守・泥舟なの
か別人なのか不明)から聞きました。大鳥さんも、評議に出るため登城してい
たため城内で挨拶に行きました。軍務に通じているのは、幕軍随一の大鳥さん
でしたが、1月下旬の時点では、歩兵頭(大佐・伝習隊長)に過ぎませんでした。
型どおりの挨拶をした後、伏見での戦闘について色々質問を受けました。その
うち「今度、小田原に遊説に行くので付いて来ますか?」と誘われました。ま
あ「、江戸でもう一戦するためには、小田原を押さえておく必要があるので小
田原藩が、薩長に与しないように工作する必要がある」と言うことでした。
173日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/05/30 08:02
「江戸脱出編3 小田原工作A」
 今(明治後期)では、勝・大久保両氏が旧幕府の実権を握って「和平恭順」
が主命(慶喜公の意志)になったように喧伝されていますが、少々違います。
大河内・滝川・竹中・塚原等の大坂出張組が一斉に失脚・更迭したため江戸
残留組しか人材がなくなったので勝・大久保氏らが顕職に就いたと言えなく
もなく勝陸軍総裁・大久保会計総裁としても和戦両方の準備をしていました。
1月中は、会津・桑名両侯や小栗さん、そして大河内・滝川・小野氏らも城
中で主戦論を唱えていたものです。江戸に戻ってきた慶喜公も和平一色では
ないのは、1月中旬に関東・東海の諸侯に命じた重要拠点警護にも伺えまし
た。大鳥さんが、小田原藩に遊説・工作に行ったのは何も大戦略のためでは
なく警護任務を渋る諸藩を牽制する意味もありました。
○私感
 1月12日の「再度上坂による巻き返し」を宣言した旧幕府は、13日に
安中藩板倉家に碓氷峠、14日に沼津藩水野家、相良藩田沼家、掛川藩太田
家に駿府城、15日に小田原藩大久保家の甲府城代を免除して箱根、17日
に松本藩戸田家、高崎藩大河内松平家に碓氷峠の増援をそれぞれ命じている。
恭順一辺倒とはおよそ考えられない防御態勢を取り、江戸には多くの洋式部
隊が手つかず会津・桑名も戦意旺盛、東北諸藩も心情的には旧幕府に同情し
ているとなると「江戸で戦う」と言うよりは更に積極的な「再度進撃」が可
能ではなかっただろうか?
174日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/05/30 08:30
「江戸脱出編4 小田原工作B」
 実際、小田原に行ったのは2月に入ってからでした。陸軍の再編成について
ある程度目処も立ったので大鳥さんも身軽になり、私自身も特に急務はなかっ
たので大鳥さんと我々士官約4〜5人で行きました。傑作なのは、皆目立たぬ
ようにと軽装で揃えたのですが、大鳥さんだけ黒羅紗の軍服で来たもので、皆
から「そりゃないでしょう(つっこみ)」と言われ着替えに帰って出発が遅れた
なんてことがありました。小田原藩では、丁重に扱われましたがどうも様子が
おかしい。何日目かの朝に置き文があり、「薩長(東海総督府)から勤王誓書を
出すか、朝敵となるかと迫られている。韮山代官 江川氏は、恭順に傾きつつ
ある。」と言う内容だったと思います。驚愕のなか合議して「東海諸藩の動静」
を確認することと「小田原藩の真意」を確認すること及び「韮山代官所の恭順」
を急ぎ、幕閣に伝えることに決しました。私は、尾張藩士と偽って東海道を西
進し、遠江諸藩の動向を探ることになりました。遠江では、なぜか身元が露見
して相良藩の陣屋に取れて行かれ丁重に接待されてはいるものの身動きが取れ
なくほとほと困りました。こっちも、焦りまして「西国の外様ならいざ知らず
かつては、幕政に重き(田沼意次)をなした貴家が、主命を軽んじあまつさえ薩
長に与するとは云々」となれない啖呵を切りほうほうの体で江戸に戻りました。
私が戻ったのは、2月中旬でしたが、大鳥さんらは、2月20日前後に帰府し
てきまして、「やあー、ダメだったねー」とアッケラカンとしていて調子抜け
してしまいました。
175日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/05/30 10:57
「江戸脱走編5 三番町騒乱」
 私が、不在の間、絶対恭順・江戸開城・慶喜公隠居が決定してました。まあ
、恭順と言っても相手(薩長)といることなのでどうなるかわからないと言った
風に思っておりました。ただ、2月5日以降各屯所では、先行き不安に思って
いた徴募兵が、不埒者に煽動されて暴動を起こしていたことには私にも責任が
ありました。ただ、私の勤務していた大手前は特に問題ないのですが、7日の
三番町の11・12連隊の集団脱走は大きな騒ぎとなりました。なんせ、1コ
大隊強(500余名)が一斉に逃げ出した訳ですから。
○私感
 大鳥の小田原工作間に、彼の指揮下の伝習隊約四百名が、5日がフランス人
軍事顧問の煽動で八王子方向に脱走している。大鳥が、本格的に決起するのは
4月だが、すでに2月の段階で後の大鳥軍結成の萌芽と言えなくもない。
176日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/05/30 11:22
「江戸脱走編6 慶喜公蟄居」
 2月12日早朝から登城。慶喜公はこの日、上野(寛永寺大慈院)に立ち退き
田安卿(慶頼)と津山候(松平斉民・正確には津山藩主の実父)に引き継ぎ、尾張
・越前も立ち会うと言う。私自身、遠江から戻ったばかりであり、実際これで
徳川家の天下は終わりなんだと痛切に感じました。城内では、未だ徹底抗戦を
叫ぶ者もいましたが、あざとい者は、早々に自己の保全に走っている様を見る
と悔しいと言うよりも、情けなくなりました。鳥羽・伏見での不手際で総督
大河内豊前守以下17名は処断され、会津候は、領内へ、桑名候は、飛び地の
越後に去ることになりました。筆頭老中の板倉伊賀守は、すでに領地(備中 
松山藩)を失い、同情を禁じ得ないと言った状況でした。
177日本@名無史さん:04/05/30 23:37
Q やはり著名な人物たちの動向や言動が気になります。
特に財政家として殺すには惜しいと思われた人物、小栗忠順については触れられていませんが、ご先祖様とは仲が悪かったのでしょうか?
178日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/06/06 04:01
117>
「小栗上野介について」
 小栗さんとは、城内でなんとか会釈した程度で余り面識は無かったですね。
小栗さんは、大老 井伊直弼の抜擢で洋行し、要職を歴任していましたし、
旗本と言えど大身で細君は諸侯の家より迎えていたので直参の中では飛び抜け
た英才と言う認識をみな持っていました。しかし実際、評議をリードすること
なく2月中には領地に戻り帰農してしまいまして江戸脱走後はとうとう会うこ
とはありませんでした。勝伯爵は、幕臣間では人気はないのですがみな世話さ
れてたので面と向かって文句は言えない。小栗さんは、凛とした能吏で非の打
ち所なく誰も文句は言わなかったですね。歩兵頭並となってから、一度城内で
、抽象的主戦論に終始する滝川・塚原・竹中氏らも小栗さんに一言いわれてし
ゅんとしてしまったのを見たときは痛快でしたね。
○私感
 小栗は、司馬遼太郎から「明治の父」と言われ近代日本の基礎となったこと
は誰も否定しないでしょう。ただ、戦術的能力については勝・大久保同様に疑
問視せざるおえない。
179日本@名無史さん:04/06/06 07:21
>>178
ありがとうございます
 
少しフライングかもしれませんが、勝海舟について・・・。

Q 勝海舟は日本で最初に「不動産」というものを理解していた人物だと思います。
彼は幕府瓦解のどさくさに、旗本屋敷を二束三文で買い捲り、それを維新の高官に売って巨利を得たそうです。
そのこと自体は非難する気は毛頭ありませんが、実際に彼の金銭に対する執着心はどうだったのでしょうか?
「新撰組!」では小さいことにはこだわらない、快活な人物として描かれていますが、「陽だまりの樹」(手塚治虫)では金銭にこだわる人として扱われています。
当時の周囲の彼の評価はいかがなものでしょうか?
180日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/06/07 10:16
179>「勝海舟について」
 勝伯爵との経緯は、特にありませんでした。ただ、榎本・大鳥・古屋と言った
脱走幹部とは、直接又は間接的に連絡を取っていたようです。私も、脱走に際し
一族を託してのは、大久保さんて゛したが、新政府への出仕を直接面倒見てくれ
たのは、勝さんだったんですよ。まあ、あざとい人ではありましたが、特に敵意
や悪意は持ちませんでしたよ。
○私感
 江戸開城に際して、当主と一族主な者は脱走して北関東・東北そして五稜郭に
転戦しましたが、大久保(勝)の勧めで、当主は隠居扱いとして別に当主を立て、
静岡転封に際して、百余石で命脈を保ちつつ、別家を立て朝臣となり陸軍省に就職
した者、帰農した後、文部省に出仕した者、帰農した者と誰がコケても家名が残る
ことになり私がいるわけです。勝は、毀誉褒貶相半ばする人物ですが、我が家にと
っては恩人だったりするわけです。
181日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/06/07 10:39
「江戸脱走編7 内藤隼人、支援要請に現る」
 2月下旬、陸軍総裁 勝安房守の名で各屯所に内々に指示がありました。
西の丸屯所の取次役が、不手際を起こし更迭されましたが、なり手がなく
仕方なく私が兼任してました。内容は、「若年寄格 大久保大和から、支援
要請があった場合各屯所は、丁重に断り話の一切を報告せよ」と言う。25
日昼過ぎ「寄合 内藤隼人」なる人物が、「大久保大和」の代理として西の
丸屯所に訪問。応対した指図役の対応に困り、大手前の私の詰所に来て指示
を仰ぐ。私は、勝総裁の指示通り「支援を断る」ことを命じました。内藤氏
渋々と去っていったとこの日に夕方報告を受ける。明朝、登城し勝総裁に報
告した際、「そうかい、そうかい」とニヤニヤして聞いていただけでした。
江戸開城に伴い、薩長に差し出す火器の点検等と徴募兵の暴発防止に手一杯
の私にとっては単なる出来事でしたが、その内藤氏とは脱走後共闘すること
になったのは何かの縁と言えなくもなかったです。
○私感
 大久保大和こと近藤勇、内藤隼人こと土方歳三が甲陽鎮撫隊を率いて江戸
から出発したのが3月1日、彼らは新撰組と矢野内記の手下だけでは不安だ
ったため鎮撫隊結成から、勝沼での戦闘直前まで各方面に支援を要請したこ
とを今日我々は知っている。勝は、近藤を煽りつつも甲州での戦闘が泥沼化
しないよう近藤の戦力が充実しないように暗躍していたことを示す逸話では
ないでしょうか。
182日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/06/15 20:03
「江戸脱走編8 旧幕軍大脱走1」
 3月3日、歩兵頭並 沼間慎次郎同士10余名会津に向かい脱走する。沼間
不在につき小川町の屯所の長がいなくなる。伝習1・2大隊に不穏な空気あり。
三番町の伝習3大隊は、平岡氏(明治陸軍で少将)によって押さえられており問
題なし。私も退庁する時は、当直士官に重々注意を与えるが、その士官自体ど
こまで信用してよいか疑問でした。古屋佐久左衛門が、1日に信州鎮撫のため
5百余(衝鋒隊の母体)率いて出府したが、甲州鎮撫の部隊、烏合の衆の感があ
りました。さて、江戸開城が4月11日に決まってやおら不穏な空気蔓延と言
った感じでした。直参でも、陸軍に余り縁の無い者達で、慶喜公の御台所を人
質に江戸城に立てこもろうとした一派(彰義隊に吸収?)がおり、若年寄の依頼
により、2百程の徴募兵を率いて一橋邸(御台所は、大奥ではなく一橋邸にいた
)を警護したり、撤兵隊有志による房州での決起に参加を要請されたりと「あち
ら立てればこちらなんとか・・」と言う感じでほとほと大変でした。
183日本@名無史さん:04/06/19 04:23
>>180
ありがとうございます
184日本@名無史さん:04/06/20 13:42
すみません、銃器以外の装備について何か書き残されてはいないですか?服や刀剣等どのような段階で完全に洋装化されたのでしょうか?
185日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/06/20 17:04
>184
「番外編 幕軍の制服@」
服装についても、少々記録があります。数回も分けて書き込みます。

文久の兵賦令(1862.12 幕府は、全旗本に対して知行に応じた兵士要員の差し
出しを命じたもの)が出て当家からも三名(後に一名に変更)差し出さないといけ
なくなりましたが、手当(年間10両以下で差し出した旗本がその兵士の給与を
出さないといけなかった)は各家持ちと言うことを知りほとほと困りました。
差当たり、領内へ連絡を取り「17〜45歳で長身体躯良き者」を連れて来よう
としました。結局、なり手がなく口利屋を通じて、一人世話してもらいましてた。
まあ、口利屋には8両払い(最終的には相場が50両となった!)ましたが、領民
を出府させて色々面倒になるよりよいかと思いました。文久の頃は、フランスでは
なくオランダ式軍隊を作ろうとしていた時期で、士官についても同心・徒と言った
お目見え以下での編成であり、お目見え以上が採用になったのはずっと後でした。
兵賦で召された兵士は、帯刀(日本刀ではなく銃剣)して火消しの様な格好で、木綿
の胴服・小袴で、駆け足合わない草鞋ではなく草履をはき、毛織の帽子をかぶって
いたもので、戊辰戦争の時の旧幕軍とはかなり違うものでした。
186日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/06/20 17:28
「江戸脱走編 9 旧幕軍大脱走2」
 4月に入ると、浅草海禅寺に屯する一隊(草風隊・長 元海軍奉行織田対馬)
に親類の者が一緒に入ろうと誘われましたが、撤兵隊頭天野加賀・使番村上求
馬と言った幹部連の実戦能力が怪しかったのでその親類を逆に参加しないよう
説得しました(その親類は、彰義隊に参加して生き残り後に静岡にて天寿を全う
する)さて、3日登城してみると大鳥さんがいて士官を集めて談合してました。
挨拶してみると「一緒に聞いていてくれ」と言われたのでボーと聞いていると
何やら怪しい。なんと恭順開城する江戸城内で、「脱走・徹底抗戦」について
話している。それも密談ではなく、近くにいた者に聞こえるようにである。
そのうち、私の名前が出てきて「大手前の屯所から伝習1大隊主力が脱走する
際、殿を努めてほしい」と言われました。驚いて断りましたが、大鳥さんは笑
って「いいから、いいから」と言われててんで話にならなかったものです。
○私感
 旗本の主流派は、大鳥らと行動を共にすることを潔しとせず各々部隊を作った
徒党を組みながら、江戸に残った者は、彰義隊壊滅以降沈黙し、出た者は、大鳥
軍に組み込まれるか、消滅するかしかなかった。門閥化した旗本にあって、比較
的平衡感覚のあった先祖が、惰弱な旗本仲間と徒党を組まなかったことで、上野
あたりで無駄死せずに済んだことは子孫としても幸いである。
187184:04/06/20 20:14
お答えありがとうございます。
幕末期の装備は資料が少ないですし、大変貴重な記録だと思います。
又、なり手がおらず口利屋に世話してもらう、といったエピソードも初耳でした。
装備については現存する写真を見ても草履履きの者が多いですが、そういった事情からでしたか。
ただ、草鞋履きでは駆け足合わないというのは普段履きなれないからでしょうか?ちょっと想像がつきづらいです。
毛織の帽子というのは調練頭巾、あるいは洋式の軍帽だったのか‥
興味は尽きません。


しかし当時者の方の証言だけあって当時の状況がリアルに伝わってきます。
地に足が付いた話といいますか、一個人が状況下に得られる情報の限界を感じます。
ご先祖様の場合やはり優れた状況判断力が運命を導いたのでしょうね。
188日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/06/20 23:16
「番外編 幕軍の制服A」
 天狗党の乱(1864.3)に際して、水戸藩では押さえきれないと言うことになり
幕軍二千余が出陣しましたが、千余名の洋式兵と残りは、元亀・天正の同じ様
な鎧・兜に陣羽織と言った先手・持小筒・小十人組の面々が常陸下妻に向け出
発した日には、城内でもその話で持ちきりでした。洋式兵は、隊章付きの軍帽
、白い筒袖、帯刀し銃には槍(銃剣より長い?)を付けて黒いズボンに草鞋履き
と言った格好で隊伍を組んで行っただとか、天狗党は旧式装備なので楽勝だと
か皆話していました。
○私感
 当時の錦絵等でも、幕兵の上衣は白色であることが確認できる。夏服?と冬
服があったと言うことだろう。
189184:04/06/21 21:37
こんばんは。
なるほど、隊章付きの軍帽とは他の資料にも見られますが、やはり当時としてはかなりハイカラですね。
白服についてはやはり両軍問わず着用例が見られますが、写真で判断する限り木綿か麻?のようでやはり夏服なのでしょう。
ただ、着用は夏季に限ったわけでも無さそうで、一体どういった意識があったのかと思います。
銃には槍、というのはいわゆる銃剣ではなくスパイク式の銃剣を指すものではないでしょうか?
お話の続き、楽しみにしております。


190日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/06/21 22:04
「番外編 幕軍の制服B」
 第2次長州征伐時に大坂城?(広島城)で聞いた話ですが、「歩兵頭友成氏
戦死すると聞くが、その原因は二本差しと士官の目印から長州兵を標定され狙
撃」されたと言う。本営から、第一線に「士官は、賊軍同様一刀にて筒袖・ズ
ボンとして陣羽織や家紋入りの陣笠・母衣は厳禁」と伝達あり。私も、藍色の
陣羽織を辞め黒色の胴服のみに変えました。
191184:04/06/22 00:49
寝る前に一言コメントを、

禁止命令が出るということはそれまで実行していた者がいたということですが、
しかし母衣まで用いていたとは、、、
ご先祖様はそもそも藍色の陣羽織が赤や白に比べて目立ちにくいから用いていたのでしょうし、このあたり、個人間の意識の差が激しかったように思います。
そういった者がこうした命令に全員従ったわけで無いことは当時の記録にも見受けられ、どうしても規則と実態を把握しかねます。
192日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/06/22 05:36
>184
 幕府の命令等の強制力については、私も懐疑的であります。何も、幕末期
に幕府の威光云々ではなく開闢以来実はあんまり強制力は無かったのではな
いかと考えています。家伝では、先祖は「明治以降は、規則が多いし厳しく
て徴兵もあるし、旧幕時代が懐かしい」と考える人が多かったと言っていた
そうです。また「大公儀は、細かいことを言わなかったのが大公儀たる由縁」
又は「幕府の命令・通達はできればこうしてほしい・こうなればいいなー」程
度の意味であり、遵守するか自分なりに解釈して実行するかは御指摘の通り
だと思います。ですので、改易された大名・旗本も260年の統治期間に比し
て少なく、一揆・暴動も決して多くなく「まったり」とした幕藩体制が続いて
いたのでは?教科書的に言えば政治改革者たる松平定信・水野忠邦らは遣りす
ぎと言うか突然変異だったのではないでしょうか。概述ですが、薩邸焼討ち後
先祖は、独断で銃器を大坂に行く軍艦に持ち込んだりしても歩兵奉行や残留幕
閣から指弾されませんでしたし。
さて用済みの藍色陣羽織は、東京大空襲まで当家にあり、私の父も子供のころ
端午の節句のおり着て記念写真を撮ったことがあるそうてず。しかし今はその
白黒写真もなく見ることもできません。
193184:04/06/22 22:33
「細かいことを言わなかったのが大公儀たる由縁」
ですか。
こういったことは現代人的な感覚で測れない部分ですね。
時とともに上層部からの指示は書面として残っていき、現場の実際の証言は消え行くのでしょう。
藍色の陣羽織は現存品を見ると地味な裏地で背や前合わせの折り返しに家紋が小さく書かれた物が見受けられますから、
ご先祖様の物もそういったものだったかもしれませんね。

194日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/06/27 21:22
「江戸脱走編10 旧幕軍大脱走3」
 大鳥さん達の脱走については、事前に勝・大久保さん達は知っていたよう
でした。いざ、11日に下総国府台に向け各々の部隊毎脱走と言う手筈とな
りましたが、私としては勝つ見込みもないし、脱走後についての方策も曖昧
で、「日光を押さえて会津と連携する」と言うが会津と詳細な連携を取って
いるとは言い難い。そうこうしているうち、11日が近づいて来る。そのう
ち、大久保さんから、「密偵として脱走予定の伝習1大隊に同行してくれ」
と依頼され莫大な支度金(工作資金?)を渡されました。ただ、詳細な指示は
なく、「旧幕軍の損耗も局限し、頃合いを見て官軍に投降するよう工作して
くれ」とだけ言われました。実は、五稜郭に行ってからて゛すが、密偵とし
て同様の指示を受けていた者が少なからずおり、榎本・大鳥・松平と言った
幹部も勝さんとは繋がっていたような形跡があったようです。結局、12日
払暁伝習1大隊とは別に屯所から国府台へ向け同志(幕府士官隊?)と出発し
ました。
○私感
 脱走に際して、一族に係累が及ぼさないように処置していたことと廃藩置県
以降の士族没落に際して、被害を局限できた当家の財源の謎はこの辺にあると
思っています。さて、密偵として参加したか、どうかについては本人も濁して
おり否定も肯定もしていなかったようです。ただ、大鳥脱走軍の随所でのまず
い戦闘指導や詰めの甘さは、士官クラスに何かしか思惑があったと言えなくも
ないのでしょうか?口伝によれば、直参であり陸軍にあっても鳥羽・伏見での
実戦経験もあり、歩兵頭並であったにも拘わらず先祖は、士官とは名ばかりの
一兵卒同様の扱いを受けたことに不満をもっていたようです。それとは別に、
あえて指揮官に就かなかったと言う口伝もあります。真実はいかに?
195日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/06/27 21:34
「江戸脱走編」終了に伴い引続き「総野激闘編」を書き込む予定です。小山・
宇都宮での記録は、詳細な部分とそうでない部分があり、自己が参加した事象
についてはよく記録していたようです。私のみに書き込みに留まらず皆様の
書き込みを期待しております。
196166:04/07/01 17:46
Q1 彰義隊の戦いの内輪からの戦評は?
Q2 幕軍から大村益次郎の戦闘力評価はなかったでしょうか?
Q3 大久保大和こと近藤勇、内藤隼人こと土方歳三の情報はないですか?

ご先祖は淡々と従軍した将校・・という感じのイメージが定着したのですが
間違ってますか?
熱きパッションもあったのかな?

激闘編は関東平野の戦いのことと推察します。
名スレッド、応援してますよ!
197日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/07/02 19:40
Q1 彰義隊の戦いの内輪からの戦評は?
A 彰義隊について余り多くは知らなかったようですが、断片的にはいくつか
 の記録があります。まず、彰義隊の先鋭化については「西郷隆盛」に原因
 があると言っています。理由は、旧幕側の依頼で慶喜公助命に公現法親王
 が駿府に行った際、同行した親王の覚王院義観が西郷にやり込められ、覚
 王院が反薩長となり固有の武力がないため、上野を拠点とした彰義隊に接
 触したことが、先鋭化を加速したと言っています。
 また、指揮系統もバラバラで、本営(司令部)がどこまで統制していたか疑
 問である点ぐらいでしょうか。既述した親類は、七番隊副長として参加し
 交戦時には外泊していたため難を逃れたとのことです。
 
198日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/07/02 19:42
親王の覚王院義観→親王の側近の覚王院義観
199日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/07/03 08:16
Q2 幕軍から大村益次郎の戦闘力評価はなかったでしょうか?
A 大村については、第2次長州征伐でその存在を幕府側は知ることになり
 ますが、長州側の一人物としての認識程度で、明治の軍制改革(近代軍)
 まで特に感じる所も無かったようです。
Q3 大久保大和こと近藤勇、内藤隼人こと土方歳三の情報はないですか?
A 新撰組については、鳥羽・伏見の戦いまで特に注目していなかったよう
 で、新撰組・新徴組・見回り組の区別がつかない幕臣もかなりいたよう
 です。勝沼での敗走以降、流山での蟠踞する大久保大和が近藤であること
 を知ったのは、斬首されてからだったそうです。勝沼に行く直前、城内
 ですれ違った時、顔が四角だったことと茶坊主にもたどたどしい敬語を
 使っていたそうで、「随分場違い」な人だったそうです。土方については
 内藤を名乗ったことがほとんどなかったそうで(登城時のみか?)、土方が
 北関東の戦闘で、見事な戦闘指揮を見せたことについては「総野編」で
 書き込みたいと思います。
200日本@名無史さん:04/07/05 02:16
いつも楽しみに拝見しています。

1.会津の柿沢勇記について
会津藩士で、松平容保が京都守護職だった頃公用局に所属し、
洋式砲学も収めたという人物ですが、
彼が、秋月登之助ら会津藩士が多く属した前軍ではなく、
大鳥直属の中軍にいた理由について、何かご存知でしたら知りたいです。

2.大鳥圭介について
小説などでは無能として書かれることが多いですが、
実際は浅田惟季の「北戦日誌」などで、「神策」と称えられていたり、
当時の新聞でもずいぶんと評判がよかったことが伺えました。
反面、会津藩士からは「大鳥を軽んずるの言動多し」であったという記述があったり。
実際、当時は隊の方々から、どのような評価を受けていたのでしょうか。

3.六方沢について
もし、日光の先の、会津に抜ける霧降高原の六方沢越も従軍されていたら、
その様子について、何かご存知ないでしょうか。
急峻な獣道を、飢えと疲労の極地で越えた相当酷い行軍だったようですが、
大鳥の記録以外に、他者の不満などが見あたらないので、
実際のところどうだったのか、ご存知でしたら、知りたいです。

いろいろと申してしまってすみません。
野州編での流れの中で、気が向いたら、触れていただけると嬉しいです。
201日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/07/05 08:42
「総野激闘編@行進計画と行進目標?」
 江戸開城を潔しとしない老中板倉伊賀守が日光で四方に檄を飛ばして、会津
や旧幕軍の一部と呼応、連携・策動しようとしていた時期ですが、どうも国府
台に参集した旧幕軍にも連絡を取っていたようで、大鳥さんが宇都宮を目指し
たのもその辺に理由があったようです。実際、参集した人員を掌握し、部隊編
成を取り、その指揮官を決めているうち朝(4月12日早朝?)になってしまい
「兎に角急げ」と言うことになり、前軍は水海道〜下館沿いに、中軍・後軍は
利根川沿いに、それぞれ宇都宮(小山?)を目指すことになり日が昇るとすぐに
出発しました。14日、古河藩士、関宿付近で遭遇するも特に何もなく北上し
ました。
○私感
 部隊編成と行進計画を並行的に作成していないため、いざ前進となるとかなり
不具合があったらしく、大鳥軍の評判を落とすような行為(略奪等)も相当あった
ようだ。先祖の動向については、「草風隊として小山に戦い、後に大鳥軍に合流
する」と言ったものであったと最近まで思っていましたが、諸処に散逸していた
記録等から、中軍に当初からいて、総務のような仕事をしつつ戦闘していたよう
な形跡が確認できます。指揮官というよりは、幕僚としての勤務だったのでしょ
うか?
202日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/07/05 09:03
1.会津の柿沢勇記について
  部隊編成において、特に主務者が苦労していたのは、実戦経験のある者と
 ない者との区分でした。鳥羽・伏見で戦った幕士・会・桑の将兵と江戸に
 いて薩長と直接戦っていない者とでは、戦闘に対する認識に相当の差があり
 まして、指揮官の指揮に及ぼす影響も大だと考えていました。また洋式の
 教練を受けた者と受けていない者、受けた者でも兵種の違いなんかも考慮す
 ると馬鹿にならない。なかなか、まとまらないでいると前軍参謀予定の内
 藤(土方)、後軍予定の御料兵の加藤両氏らの意見具申(実戦経験のある者を
 三軍に分けて配置、兵種の被る者特に士官については旧幕・その他で区分)
 を入れて編成しました。ただ、「一族郎党で参加した者や徒党を組んで参
 加した者は、バラバラにすると心情的に問題がある」と言う大鳥さんの言
 を入れたりしたのでなかなか編成を取れませんでした。
○私感
 前軍に「砲2門と砲兵・砲護衛兵百余名」で、各種資料により出自がまち
まちでしたが旧幕兵であったとするならば、砲に通じていた柿沢氏を前軍で
はなく中軍にいれたのは、前軍の砲兵指揮官が指揮しやすくするためだった
のでしょうか?また、会津・桑名の脱落を防止するため、会津・桑名で一軍
を作らず(桑名兵は、前軍に・別伝習隊の名で知られている会津農兵隊を後軍
に)旧幕兵による監視を容易にするための分離策だったのでしょうか?
203日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/07/05 14:03
2.大鳥圭介について
 第1印象「学者・学生と言った世間知らずの青年」
歩兵奉行上番時「洋式軍隊の泰斗にして、旧幕側にあって唯一の戦術家」
決起〜会津「優柔不断、戦術原則を実戦にあくまで適用させようとして戦闘
指揮に(土方等と比較して)切れがない」
会津〜五稜郭「淡泊、勝つ方策よりも負けた際の被害を局限にする用兵が
目立ち、伝習士官・生徒ら教え子からも愛想をつかされたような所がある」
五稜郭〜明治「薩長には、「自分を斬る」だけの度量はない。僕を殺したら
新国家の損失だ」と言って憚らず五稜郭にいた将兵の多くあきれる。
204日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/07/05 14:11
201・202の補足
 先祖は、当初直参旗本の洋式部隊にあり、小山の戦闘前後から大鳥軍本隊
に合流したと推測する。草風隊等の直参による部隊は、実務よりも家格や旧
幕時代の職名の軽重が、隊内における地位を決定していたようで、歩兵頭並
で千余石取りでは幹部に収まることもできなかったようで、大鳥軍に移るこ
とで実力本位の地位を得ようとしたのではないだろうか?
また、砲術の大家たる柿沢氏に対して、旧幕砲兵が進んでその指揮下に入るか
についても疑問であり、あえて中軍においたのではないだろうか?
205日本@名無史さん:04/07/09 08:46
保守
206日本@名無史さん:04/07/09 15:28
面白いスレですねえ。
戊辰の役について新知見大になりそうで期待してます。
207日本@名無史さん:04/07/09 22:37
有益なスレですね。
戊辰ファンは必見ですな。

最近クソスレも増えてるけど、これだから学術板は面白いね。
208日本@名無史さん:04/07/10 02:13
ちなみに今現在の回想と最終回の年月日(西暦でお願いします)をご教授下さい<(_ _)>
209日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/07/11 20:24
>208「今現在の回想」とは、書き込んでいる私の回想でしょうか?
 「最終回の年月日」ですが、五稜郭陥落直前ですが、細部は書き込み過程
  で確認してください
210日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/07/11 20:49
「総野激闘編A不期遭遇戦・小山の戦い」
 4月16日正午、下野小山の東側で西軍と交戦しました。砲含む二百程度
の敵で、和装の者多く勝つには勝ったのですが、問題もありました。まず、
友軍も二百弱なのですが、隊長等でまともに指揮できる者がいない。スペン
サー銃等の銃器もありましたが、集団戦法ではなく個人個人で戦っている。
敗走した敵が、奥羽街道沿いに北上したが、それを追撃するか・しないかはっ
きりしない。結局談合した後、思川をわたり大行寺(小山〜佐野間)に行きまし
た。ただ、大鳥軍本隊に、戦況を報告すべき所をなぜか報告もせずにいました。
○私感
 敵については、壬生・笠間・彦根で構成されており、主力たる笠間兵には槍
兵による突撃を受け、銃器が不足していたら押されかねなかったのではないだ
ろうか?草風隊・貫義隊と言った旗本部隊の限界を感じてか、先祖は、この戦
闘直後から、大鳥軍本隊への早期合流を工作することになる。義理で参加した
ものの旗本部隊に統制した戦闘は難しく、指揮官となった所でまともな戦闘は
望めないと判断したのではないだろうか?
211日本@名無史さん:04/07/14 22:05
>>209
保守age&とすると、最終回は1869年5月ぐらいと言うことですね。
212日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/07/16 00:05
「総野激闘編B合流」
 17日、大平山で戦勝祈願した後も、18日も特に何をするでなくモタモタ
しており、実際「宇都宮」を目指すのか、「日光」に行くかの、大鳥本隊と合
流するのか曖昧な状態でした。18日夕、会津の使者が今市まで来ていること
を知り、私の独断で、今市に先行要員を送ると共に大鳥さんにも、今市近傍の
鹿沼で合流する旨の書面を送りました。19日夕、主立った士官に、大鳥軍本
隊への合流要領を提案しましたが、特に反対もなく20日鹿沼で合流し、当初
私が属した部隊は消滅しました。最初は、大鳥さんに懐疑的な者もいましたが
結局、戦闘するには皆素人過ぎるのは自覚していたようで、みな内心ホッとし
たと言うのが実感だったのではないでしょうか
○私感
 先祖が、当初いた部隊については記録も少なく、敢えて部隊名は書きません。
根本的な問題として、先祖が所属していたか、どうか怪しい部分もありますの
で・・・ご勘弁ください

 
213日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/07/18 20:08
「総野激闘編C宇都宮攻防1」
 私が、大鳥軍本隊(便宜上、事後「脱走軍」とします)に合流した20日には
脱走軍の前軍(土方ら)の活躍により、宇都宮城を奪取した直後で脱走軍主力は
宇都宮城に入るため、鹿沼から宇都宮に移動した日でもあります。全軍の指揮官
たる土方氏については、洋学の心得ないものの江戸東帰以来、洋式軍隊について
つぶさに学び、実戦を通じ、得た知識の確認・反芻を図ると言った要領で、仏式
の戦闘指揮を宇都宮攻城の頃には確立していたようです。宇都宮に入ってからの
軍議でも、仏語の小冊子を携行していて時間を見て勉強しており、仏語について
の質問を受けたり、戦術・戦法について何度か議論したこともありましたが、出
自の違いから、積極的には話しかけてこない人物でした。
○私感
 鹿沼・今市には、昭和初期まで徳川脱走軍について見聞きした人がいたそうです。
今度、栃木県に出張した際、訪ねてみたいと考えています
214日本@名無史さん:04/07/21 02:01
保守age
最終回が近づいてきましたな
215日本@名無史さん:04/07/21 12:33

http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1087745099/

このスレの「大學教授」とか名乗っている、いい年こいて協調性ゼロの粘着野郎をみなさんの
力で懲らしめてください。スレの流れをちょっと見るとよく分かると思います。特に、
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1087745099/409-455 の辺り。
216日本@名無史さん:04/07/22 20:28
もう最終回なんですか?
残念だな。
最後まで頑張って下さい。
217日本@名無史さん:04/07/22 21:59
幕臣の回想は五稜郭陥落までとアナウンスされているけど、
漏れは明治期のafter storyにも期待してるンだ
218日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/07/23 18:45
214 216 217>
 まだまだ続きます。宇都宮から榎本艦隊合流までで秋くらいまでかかる
予定ですし、今までの件でも、補足事項を書き込みます。
努めて長くここを続けたいと思ってます。
219日本@名無史さん:04/07/28 21:13
保守
220日本@名無史さん:04/07/31 13:24
いつも楽しく拝見させていたたいています。

Q 今日発売していた某コミックに、立見尚文将軍が登場していました。
桑名藩士として宇都宮戦にも参加していたようですが、彼の人となりは如何だったでしょうか?
221日本@名無史さん:04/07/31 21:42
>>220
某コミックとは?
222日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/08/01 12:11
「総野激闘編D宇都宮攻防2」
 21日早朝、前日から壬生方面に派遣していた斥候等により「西軍約二千が
壬生城で近隣諸藩の兵を糾合し、宇都宮に今にも侵攻する勢い」と言う情報が
入り、宇都宮城の本営は浮き足立ちました。土方氏らの「先制攻撃」論が大勢
をしめる中、大鳥さんは攻撃に大変消極的でありました。特に、武器・弾薬の
消費が見積以上であり、江戸から逐次追送すると言った方法も早々に破綻して
しており、シャスポー銃が主力火器として期待できない点が消極的姿勢にさせ
ていたようですし、前日から体調の不良も訴えていたことも関係があると思い
ます。結局、戦力の節用と言うことと分進合撃という点から、伝習1大隊・御
料兵・7連隊・桑名・会津の各部隊から少しづつ抽出して約千余名が宇都宮南
域の安塚・幕田及び近隣の鹿沼に進出・展開することになりました。この際、
大川君(正次郎・大鳥の弟子であり鳥羽・伏見の実戦経験あり)の直卒する壬生
城斬り込み隊も編成することになりました。
○私感
 壬生城に薩長兵がいることを知り、大鳥部隊と別行動をとっていた多くの旗
本による有志・部隊は21日には大鳥部隊に吸収されることになる。また、野
州北部にまで進出していた会津兵が大鳥の要請により宇都宮の近傍の鹿沼に進
出してきたことは、特筆に値する。ただ、この後もたびたびやって失敗する戦
力の分散・攻撃機動の方式(包囲・迂回)への固執が宇都宮でも露呈する。この
時期の先祖については、宇都宮の軍政、会津・桑名との調整及び北関東諸藩へ
の工作等を担当していたようですが、次回にて書き込みます。
223日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/08/01 12:38
「総野激闘編E宇都宮攻防3」
 宇都宮藩は、幕府開闢以来、譜代大名が続き東照大権現の威光も届くがごとく
ものと思ってみたが、入城するとそうでもない。まず、宇都宮藩自体、天狗党の
乱での不手際で幕府から睨まれており、藩主が謹慎させられたおりの幕府倒壊に
あっては早々に薩長に与したこともあり、我々に対しても反抗的でした。脱走軍
の士官の多くも、政務に通じた者なく事務方と言える者もいませんでした。壬生
の西軍を攻撃するための戦闘準備をしていた頃、私は残留又は拘束した宇都宮藩
士から、元老中で宇都宮に幽閉されていた板倉伊賀守が日光方面に逃走したこと
を確認するとともに近隣の庄屋等を集め、協力・支援を要求しましたが、逆に徴
募兵の乱暴を止めさせるように迫られました。大鳥さんは、軍政に対して無頓着
だったため、土方氏や政務にも通じていた会津・桑名藩士に協力を受けつつ、布
令を出しました。また、入城早々に、大金・重宝を盗んだ者に対しても、大鳥さ
んは、処刑に消極的でしたが、桑名藩重臣立見氏らの意見を取り斬首することに
より軍律も定まることになりました。
○私感
 宇都宮攻防戦あたりで、会津・桑名は大鳥を見切った観があり、「戦闘指揮は
大鳥よりも、土方」と言った評判も将兵間ではあったようです。土方については
大鳥部隊よりも、心情的には会津側であったらしく、会津の北関東進出を切望し
ており、脱走軍内は常に崩壊の危機を内包していたと言えよう。立見氏は、明治
陸軍において異才を放つ人物であったとされているが、脱走軍内の青臭い幹部達
にとっても煙たい存在だったのか?先祖の話に出てくる桑名藩重臣とか隊長とか
は、立見であったようです。
224日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/08/01 19:29
>220
「立見大将について」
 今でこそ(大正初期)、日露戦争の陸戦の立役者は乃木、海戦は東郷と言う
になっているが、新聞等を丹念に読んでいてもわかるが、二百三高地での立
て役者は、元桑名藩士立見氏です。乃木将軍で勝てないため、立見将軍の師
団が投入され露軍を破ったのだが、薩長の元勲達は元朝敵たる桑名出身の立
見氏ではなく、薩摩の乃木の勲功にしたようなものだ。立見氏とは、大政奉
還直後の二条城と慶喜公逃走後の大坂城内で調整したことがある。桑名候自
身は、実兄会津中将同様温和な人で、政務を酒井氏、軍務を立見氏に任せて
おり、幕府内部でも非常に買われていた人です。大坂から、桑名将兵を領地
ではなく、江戸に退去させ慶喜公再起の先兵とせんとしたのは彼であり、藩
公、越後に健在と知り野州で分かれるまで私自身も非常に勉強させていただ
いた。ただ真面目一辺倒ではなく、軽輩等にも気軽に声を掛けておりなかなか
市井にも通じていたようだ。私のように幕府倒壊まで、直参の者としか交際が
なかった世間知らずとは違いましたね。
225日本@名無史さん:04/08/02 22:39
ご先祖様の手記には、小栗上野介が徳川復興の夢を託し、財宝をどこかしらに
運び出したとかの話はかかれてないでしょうか?
噂程度でも
226日本@名無史さん:04/08/03 08:09
>>224
ありがとうございます
>>221
江川達也「日露戦争物語」(小学館)です。
ただし、それとは別に、三好徹「戦士の賦」(集英社文庫)でも読みました。
227日本@名無史さん:04/08/03 09:50
マンガ出すなよ
228日本@名無史さん:04/08/05 14:01
ここ真に受けて幕末語りだす奴が出てくるんだろうなw
229日本@名無史さん:04/08/07 12:39
不要なことを言うなよw
日本史さんの話を心待ちのしてる人もいるんだから。

日本史さん続きよろ。
230日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/08/09 10:16
>225
はは、その手の話は数多あったようですが、赤城山ではなく先祖は甲州
には御用金があることは確信していたようです。ただ、明治以降の埋蔵金
発掘には参加も投資もしていない・できなかったようです。
>228 229
そうですね・・・私の父や弟も先祖の話については懐疑的であり先祖が残
した口伝をまとめた原本も永く放置されていたくらいですから。まあ、2ち
ゃんねる自体幻想的な部分が多いですしね。別スレに書き込んでいた時も、
私の書き込みに対して好意的なものも懐疑的なものもありまして、あまりそう
いうことになれていないため、スレ主や他の方の迷惑にならないようここを
立てた次第ですので、私の書き込みに対しての御意見は真摯に受け止めます。

231日本@名無史さん:04/08/10 00:39
たまにはage保守
232日本@名無史さん:04/08/10 02:05
日本史氏の書き込みは非常に興味のあるもので
楽しみにしているのですが、
文章の書き方にはいささか難があるように思います
ときどき「私」が
ご先祖のことなのかご自身のことなのかわからなくなるのです
233日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/08/12 10:01
>232
私の意見等については、「○私感」以下に記述して区分していますが、なる
べく分かるよう書き込みます。
「総野激闘編F宇都宮攻防4」
 21日及び22日は、壬生の北方、安塚に展開した西軍(土佐兵主力)とその
安塚から鼻先の幕田に展開した伝習1大隊等の間の戦闘が生起しました。特に
戦果は挙がりませんでした。雨のため、銃器の多くは不調(不発?)だったよう
で、彼我共に刀剣(白兵戦)に活路を見出したのですが、何分友軍の多くは、刀
剣の心得がないため西軍将兵と斬り合いになるとてんで歯が立たない。援軍の
伝習2大隊は道を間違えて幕田への到着が遅れため全力による壬生城攻撃開始
の時期が遅れて結局幕田から安塚間での陣内戦に終始しただけでした。
私は、「伝習1大隊撤退」を知らずに脱走軍主力に協力するため鹿沼から幕田
に前進中の会津藩兵に「撤退に伴い戦闘中止」を伝えるべく22日大雨のなか
壬生方面に前進中に西軍の将兵に誰何されたり、地元の博徒にからまれながら
しながら結局会津兵に会えずひどい目に当ったことを覚えています。
○私感
 資料によると、官軍の死傷50余、脱走軍の死傷60余と人的損耗が多い。
白兵戦による効果は、時として銃器をはるかに凌ぐことを示す戦例と言える
のではないでしょうか。
234日本@名無史さん:04/08/20 18:47
保守
235天才:04/08/23 15:40
〔愛新覚羅家〕


     康煕帝玄助ア
       |
     抬親王允祥
       :
     (4代略)
       :
     抬親王載垣(1861年死去)
       |
      溥椿(1892年死去)
       |
      毓援(1910年死去)
       |
      恒杰(1933年死去)
       |
      啓葆(1955年死去)
       |
      華齢─┬─橋本龍太郎
           |
         和子(敬宮愛子内親王の実母)

236日本@名無史さん:04/08/24 21:27
更新まだですか?
237日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/08/29 22:53
海外出張中 九月以降再開します
238日本@名無史さん:04/09/19 05:33:01
ほす
239日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/09/20 12:56:21
「総野激闘編G宇都宮攻防5」
 23日、西軍数百名が午前中から城西方より攻撃してきました。兵装・家紋
等から、薩摩・大垣・宇都宮の諸藩兵と確認。組織的攻勢は4度目であり、当
方も疲労困憊の極みにありました。私は、体調を崩し城内にいましたが、ほぼ
奇襲に近い状態で主だった士官も西方より銃声を聞きあわてて出撃したもので
す。西軍寡兵なるも、薩兵指揮高く昼過ぎには城から見える位置まで突進して
きまして、大鳥さんは「日光に行く」とか「もう駄目だ」とか口説く(泣き言
を言う)もんですから、参謀達も閉口していました。客分扱いだった純義隊等
の直参部隊も高みの見物と非協力的であり私もよもや落城と覚悟しました。
そうこうしているうちに、伝習士官の大川君の発案で突進してきた薩兵を逆包
囲して殲滅しようと言うことになり早々に包囲に成功しました。敵も、死に物
狂いで突囲しようとするこっちは、包囲環を狭めると言った部隊行動が城内から
も良く見えたものです。そのうち彼我不明の流れ弾が、薩軍の砲兵の弾薬に命中
して大爆破を起こしました。
○私感
 薩兵が、一時退却したのが午後2時頃という記録がある。弾薬爆発については
砲兵隊長だった大山巌の自叙伝等にも記されており激戦は本当のようである。先
祖は、戦況を城内からつぶさに観察しつづけたように語っているが話半分と考え
ている。実際、宇都宮に行った私が城址から市内を見てみたが果たして思ったよ
り視界が制限されると言った状況だった。
240日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/09/20 13:20:04
「総野激闘編H宇都宮攻防6」
 西軍の増援は以外と早く因州兵を含めた薩軍は夕刻近くになると城
内に突入して来ました。城外に伝習1大隊が出ており本営近くにはま
とまった兵力なく数度突撃を挫くもいつ崩れてもおかしくない。伝習
2大隊や御料兵も敵に拘束され城内に戻れない。回天隊(直参部隊の
一つ)は「独自に会津に行く」と言い出し統制も何もない。大鳥さん
も足を負傷するし、土方・本多(伝習2大隊長)両氏も負傷していた
ため士官・兵卒問わず浮き足立ちとうとう午後四時過ぎ退却命令が出さ
れ日光方面に転進することとなりました。鳥羽・伏見以前から勤務して
いた士官・下士官もかなり損耗し先行き不安になりましたよ。また、
宇都宮城に幽閉されていた前筆頭老中 板倉伊賀守も転がり込んでこの
先厄介になることは目に見えていました。
○私感
 脱走軍は翌24日今市に到着、部隊の再編成をすることになる。大鳥
らの伝習部隊に吸収されたはずの旗本有志の小部隊は獅子身中の虫であ
ったり、門閥主義者であり幕府倒壊の責任者の一人たる板倉がさも盟主
気取りで同行したりと先祖としては大鳥・土方ら実力主義者と板倉らの
門閥主義者に挟まれ大変だったのではないだろうか。
241日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/09/20 13:26:55
幸か不幸か、大きく荒らされることもなく当スレが無事で何よりでした。
今後は「会津編」に入って行きますが、旗本全般についても番外編的に書き
こんで行きます。
242日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/09/20 13:54:30
「会津編@野州放棄」
 今市では、江戸から来た松平さん(元陸軍奉行並)を通じて軍資金三千両
を得るとともに彼が連れてきた医師四名による治療が行われ散り散りになっ
て日光街道に落ちてきた将兵も大方収容できました。25日夜、軍議があり
じ後の行動について話し合いました。大鳥さんは、今市で休養して宇都宮再
進攻を目指していましたが、「今市は糧少なく、すでに弾薬欠乏し防御に難
あり」という大勢の意見に従い日光経由で会津領田島に行き捲土重来を期す
ことになりまして、日光から会津に経ったのが29日夕でした。私は、日光
も野州も脱走するまで来たこともなく始めてでしたが、その昔将軍家日光参
拝のおり指図を命じられ日光街道を何度となく行き来した四代前の先祖に重
いをはせつつ会津に向かったのでした。
さて会津転進に先立ち、大鳥はさんは全軍に対して「離散勝手は本日のみ」
と将兵に実質的な脱走許可を出している。徴募兵・直参問わず転戦で少なから
ず脱落者が出ていたものですが、゜会津に行くといよいよそうは言ってられな
い訳で、軍規厳しくやらないと弛緩して戦闘どころではない。抜けたいなら今
だ」と言うことなんですが、ほとんど落伍者はいませんでした。徴募兵は、食
い扶持として、直参は意地としてと思惑は別としてなんとなく一体感というか
団結力が付き出した時期でもあります。
243日本@名無史さん:04/09/20 17:04:10
出張お疲れ様でした。
当方、戊辰・五稜郭ヲタなので楽しみにしております。
244日本@名無史さん:04/09/21 12:35:26
出張中に書き溜めておられたようですね。
一挙掲載の脅迫観念が発生しておられたのでは?

無理なさらず、じっくり書き込んでください。
多くのファンがついてます。
245日本@名無史さん:04/09/21 23:24:19
出張に更新、お疲れ様です。
いつも興味深く読ませて頂いてます。
出来事も視点もすごく面白いし、引き込まれる読み物ですね。

ところで、最初の方で言われていたS新聞、
現存しないって事は下/野とかじゃないですよね…。
ダメモトでも足掻いて探してみたいのですが、
もしも宜しければヒントを与えていただけないでしょうか。

ともあれ、これからも楽しみに拝見させていただきます。
お体ご自愛しつつ頑張って下さい。
246日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/09/22 19:09:02
>243 244 245
激励感謝しています。特に、高尚な書き物ではないですががんばります。
さて、回顧録と言うか記録原稿ですが、2種類あります。地方紙からの取材
を受けた物とそれを元に第3者が講談仕立てに書いた物です。先祖は、面白
可笑しく世間に自己の行動が出ることを恐れ後者の版権を買い取って処分し
ているため現存しません。前者については、その地方紙が、「維新○周年記
念」の一環して出版する予定でしたがその新聞社自体が某全国紙に吸収され
その時のゴタゴタで紛失したそうです。私の父も、方々探しましていろいろ
散財しましたがなかったようです。地方紙については、戊辰戦争とはあまり
関係ない地方で発刊されていたそうですが、もうよくわからなくなっていま
す。私として、東海・関西圏ではないかと睨んでいますが・・・
247日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/09/22 19:30:50
「会津編A日光残照1」
 大鳥さんは、今市での再起をあきらめたあと直ぐに会津行きを決心した
訳ではなく、次に日光に行こうと考えていました。実際、日光にも滞在し
ましたが、ここでも宇都宮同様に歓迎されたとは言い難かったですね。
本営とした旅館に日光奉行らが来ました。特に、折衝役という訳ではない
ですが、大鳥さんに合わせる前に私が会いました。型どおりの挨拶の後、
体よく日光から出て行く様に言われました。私としては、大鳥・土方と言っ
た幹部に直接言われるよりはいいかと思いましたが、兎に角「日光に地の利」
ないことを大鳥さんらに告げましたが、いつもは淡白な大鳥さんが頑として
譲らない。また、直参の幕臣らも「東照大権現の下で切り結ぶ」と騒ぎ出し
ました。そうなると徴募兵も動揺しはじめました。そのうち、日光奉行の与力
数名が板倉公に面会したと言うことを聞き嫌な予感がしました。
○私感
 日光での話が滑落していたので数回に分けて書き込みます。脱走軍が、日光
で戦闘しなかったことにより日光東照宮を我々は今も見られるわけですし、日光
を拠点に北関東・東北に檄を飛ばしても包囲殲滅されたのは確実であり、歴史に
もしもは禁句ですが、会津の悲劇も違っていたのではと考えたりもします。
248日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/09/22 19:49:40
「会津編B日光残照2」
 4月27日、主だった士官が集められ、板倉公から「神前で、流血の沙汰
あれば諸君らの忠義も水泡に帰す。速やかに会津に転進するのが得策」と言
われまして、忠義等々と言われると誰も面と向かって反論できませんでした。
板倉公は、日光山の僧侶・日光奉行所等から依頼と言うか、その融通の効か
なさを利用されたようで、事前に大鳥さんに因果を含めさせていたようです。
土方氏は、意気消沈する幹部の中で唯一「たとえ弾丸・白刃でご神前汚すと
もよんどころなし」と啖呵を切り宿舎に戻ってしまいまして、心配した大鳥
さんが人をやると土方氏は、会津行きの準備をテキパキと将兵に命じていた
そうです。
○私感
 日光では、会津行きとともに重要な決定がなされていたと推測します。
それは、伝習歩兵の最大の利点たるシャスポー銃の放棄(弾薬不足による)
であったと思います。その後、シャスポー銃の使用頻度は急激に下がって
いくのは承知の通りです。なお、「日光で決戦やむなし」と啖呵を切った
のは土方ではなく大鳥とも加藤(御料兵指揮官)とも言われています。



249日本@名無史さん:04/09/22 23:45:25
>門閥主義者であり幕府倒壊の責任者の一人たる板倉がさも盟主
>気取りで同行したりと先祖としては大鳥・土方ら実力主義者と板倉らの
>門閥主義者に挟まれ大変だったのではないだろうか。

>型どおりの挨拶の後、
>体よく日光から出て行く様に言われました。私としては、大鳥・土方と言っ
>た幹部に直接言われるよりはいいかと思いましたが、

中間管理職の苦労は当時も今も変わりませんな・・・ozL
ご先祖の体温を感じさせる話も非常に興味深いです。
250日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/09/25 10:17:54
「会津編C激烈・六方越」
 六方越については、我々旧幕臣はかなり舐めており会津諸士や徴募兵でも
東北の地理に明るい者から日光にいた時から、再三忠告を受けていましたが
余り準備をしていなかったのです。実際、携行していた糧食特に米穀は数日
で無くなりました。空腹になると皆喧嘩ぽくなる。小休止を取るたびに足が
あたっただの、目が合っただの笑ったとかいって喧嘩になる。最初のうちは
そのたびに、士官がいって収めていたか゜皆慣れてきて帝釈天山系に入ると
博徒上がりの下士官に任せて喧嘩を収束させていました。実際、みな空腹が
過ぎると喧嘩する者もいなくなりました。米がなくなると最初は、野菜(乾
燥野菜?)ついで味噌、ついで沢庵最後には梅干をかじって飢えをしのぎま
した。みなどうすれば体力を温存できるかに努力を傾注しており、間道に生
えている草を片っ端から食して下痢になるものや、博打をして他人と食事の
やり取りをする者など出ました。博打となると博徒や火消し上がりの者がめ
っぽう強く直参の者などよく負かされていたものです。最初のうちは、みな
同情して食事を分けていたもののの切羽詰ってくると誰も情けを欠けない。
まあ、自業自得なんですがね。まあ、なんとか主力が会津領に着いたのは四
月五日でしたが、私は十余名を率いて先行し三日夜には田島に付いていまし
たが、宇都宮・日光同様ここでも歓迎されていないのは直ぐに察知できまし
た。
○私感
 当時の外国人が残した記録に戊辰戦争では、彼我ともにほとんど戦闘間の捕
虜がいないと暗に捕虜虐待や落ち武者狩りが日常茶飯事だったことがわかる。
特に、明日のあてなき脱走軍がバラバラに行動すればどうなっていたかも用意
に想像が付く。空腹の切なさと落ち武者狩りによる横死を比べたらまだ空腹を
選んだ方がよいと皆考えたのであろうか?
251日本@名無史さん:04/10/05 00:53:03
一応、保守しておきます
252同じく:04/10/06 18:59:32
保守。
253失敗:04/10/06 19:01:18
保守。
254日本@名無史さん:04/10/11 17:13:35
hoshu
255日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/10/11 20:44:21
「会津編D脱走軍再編@」
 会津の使者は、「兎に角脱走軍の入国は遠慮願いたい」と一点張りで埒が明
かない。3月、古屋作佐衛門の衝鋒隊が会津から越後・新潟方面に転進してい
たことをたてになかなか入国許可を出さない。4月4日昼過ぎ、会津藩年寄・
山川氏の田島入りをもって会津藩も軟化し入国を許可する。宿泊割当や食事の
世話など山川氏の尽力で滞ることなく準備でき翌5日主力千余名を受け入れま
した。山川氏によると会藩内にあいても抗戦・和平両派ともに盛んで藩論統一
を見ずも長州・土佐等の「会津憎し」は収まらず尾張・越前等も徳川宗家の助
命をしている手前、会・桑には手が回らずそれらの情勢を見て抗戦に傾きつつ
あるため脱走軍の処置に困っていたと言う話でした。会津が、薩長に下ってい
れば藩境付近で北からの会津、南からの薩長により包囲殲滅されることもあった
と言う訳であり一同肝を冷やしたものです。
○私感
 本編から反れるが、会津については薩長に比し「素直」な藩と言われています
が、先祖の逸話等から薩摩ほどではないが「贋金作り」をしていたり、京都時代
の資金捻出のため領民に少なからず負担を強いていたようで薩長が下級武士が主
導権を得ていたのに際し落城まで身分制度を固守していた点からも開明とはいえ
ないのではないでしょうか。
256日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/10/11 21:01:23
「会津編E脱走軍再編A」
 脱走軍の再編を実行するに際し、平行して戦略方針を明確にしなければなら
なかった時期ですが、結局何も結論は出ませんでした。奥州諸藩を説くと称し
て会津若松から白河・仙台を目指した板倉公は良いとして、幹部連中にもさし
て考えはなかったと言うのが実情です。大鳥さんは、「江戸の旧幕艦隊・彰義
隊と房総の義軍府と連携すべき」と言うが具体的策案がない。そのうち、慶喜
公は水戸に行く、駿府藩として徳川宗家が残る、義軍府は早々に壊滅する、小
栗さんや新撰組の近藤が斬首されると言ったこと・・・断片的な情報も繋がっ
てくる。そうなると少なからず動揺する者もいる。脱走軍の再編は純軍事的な
ものだけではなく政治的な締め付けも兼ねていた訳です。
257日本@名無史さん:04/10/12 22:11:49
一応ここまで読んで、御先祖は誰だか特定できました、表示する程
野暮なことはしませんが。

ただ、函館では役職に就いてますから記載はどうしますか?
因に1921.12.31に天寿を全うされていますね。
258日本@名無史さん:04/10/12 22:22:45
おおっ富岡だ!!伊藤哲也だ!!
259日本@名無史さん:04/10/12 23:09:58
>>257
いちいち言わなくてよろしい。
日本史さんが困惑されるだろう。
私には特定できないので、どうか続きよろしくお願いします。
260日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/10/13 18:57:40
>257 259
今後のネタばれになりかねないので余り書きませんが、今後もご意見いただければ
幸いです。
261日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/10/13 19:30:51
「会津編F脱走軍再編B」
 脱走軍については4コ大隊及び軍直轄に編成されました。1大隊は秋月氏
を長に伝習1大隊基幹四百余名 2大隊は伝習2大隊三百余名 3大隊は御
料兵と7連隊合計三百余 4大隊は直参旗本による諸隊二百余名です。軍直
轄と言っても砲もなく築造兵若干に過ぎませんでした。ここで問題なのは、
1大隊以外は大隊指揮官と言うか、長がいない。正確に言うならば
大隊に2〜3名の指揮官がいる点でした。伝習2大隊長の本多さんと新撰組
の土方さんは宇都宮で負傷しており新撰組はどこにも属さずに遊兵化してし
まい、伝習2大隊も大川正次郎君と早くから江戸を脱走していた沼間慎次郎
君が実質指揮を執っておりました。3大隊は御料兵は加藤さん、7連隊は平
野電四郎だったと思います。結局、これ以降の戦闘において統制された行動
が取れなかったり詰めが甘かったりの原因だったと思います。編成と平行し
て補給を実施されましたが火砲は会津から借用しようとしましたが体よく断
られましたが、糧食については当面会津が面倒見てくれると言う言質が取れた
ためか会津から去るまで特に困ったことはなかったものです。
○私感
 4大隊自体、実際大隊単位で戦闘した形跡なく実際は存在しなかったので
はと言う疑問もある。直参諸隊は当てにならなかっただろうし、何かと小う
るさいので厄介払いと言うか、棚上げしてしまったのだろうか?先祖は名前
だけ4大隊参謀となったようですが、単なる「苦情受付」だったため行動を
再開する前に参謀を辞したと後年語っていたようです。
262日本@名無史さん:04/10/14 18:26:24
他の史料に拠りますと会津は脱走軍に対して部外者扱いしている様です。

この後、会津城に立て籠り「玉砕戦術」へと移行していますが、歴戦の経験者
たる脱走軍側から見て「テンパッた会津」はどう見てたのでしょうか?

所詮は身分差別主義の強い、時代の趨勢に対して不感症な保守的な田舎領ながら
奥州列藩同盟へ向けての関係上から仕方なく援軍していたのでしょうか?



263日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/10/16 11:45:19
「会津編G脱走軍再編C」
 次に、弾薬・衣服ですが、例のシャスポー銃の弾薬ですが、会津藩に融通
してもらおうとしても、むげに断られまして次に桑名藩経由で新潟から輸入
しようとしましたが、とても近々の出撃には間に合いそうもない。日光で作
った代用品はとても戦場では使えない。とないないづくしでした。すでに江
戸は薩長が抑えていましたから追送も期待できないはずでしたが、なぜか十
分な弾薬・新品のシャスポー銃・全員分の夏服が出撃前日の17日揃ってお
りびっくりしました。大鳥さんは「江戸より横地君(秀次郎)が持ってきた」
と言っていましたが何故か合点がつかない。まあ、入手先はさておき我々の
戦闘準備が曲がりなりにも完整したのでした。
○私感
 補給についての記録は乏しくこの程度しかありません。大鳥の自叙伝にも
横地某による追補給についての記述が見えるが、日光に来た松平太郎に依頼
しての行動なら早すぎる、江戸脱走時から計画済みとしていたならば話とし
て出来すぎである。勝・大久保の終戦幕閣が薩長に対する圧力・抑止力とし
脱走軍の早期瓦解を防止するため影ながら支援していると言った奇説は除く
として是非情報・ご意見をいただきたいものです。
264日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/10/16 11:53:04
>262
この後、会津城に立て籠り「玉砕戦術」へと移行していますが、歴戦の経験者
たる脱走軍側から見て「テンパッた会津」はどう見てたのでしょうか?

ご承知のように会津と脱走軍は最後は喧嘩別れとなってしまいますが、今後も
先祖の視点で書き込みます。

所詮は身分差別主義の強い、時代の趨勢に対して不感症な保守的な田舎領ながら
奥州列藩同盟へ向けての関係上から仕方なく援軍していたのでしょうか?

会津藩と提携した時点で列藩同盟はなくあの時点で東北か北陸に転進するしかな
くどうしても会津と共同歩調が必要だったのではないでしょうか
265262:04/10/16 17:47:52
レスどうもです、やはり誰の目から見ても同様となりますね。

会津にも物の判断が出来得る人物は居たと思いますが、極少数だったので
多数意見に押し込められたんだと思われます。
266日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/10/17 14:07:38
「会津編H作戦計画」
 野州に再進攻し、日光・宇都宮を押さえて佐幕派を糾合し、彰義隊・衝鋒
隊と連携して江戸を目指すのはよいとして具体的計画については大鳥さんの
考えだけではなく会津藩の意向と脱走軍内の思惑とが重なり合いできていっ
たと認識しています。田島到着直後から会津藩重臣の山川氏を通じて「会津
西街道沿いに侵攻するであろう西軍を阻止」してほしいと依頼と言うか、命
じられており宇都宮藩領の藤原に配置されることは決定済みだったのです。
会津藩に組み込まれたことにより勝手に派兵できなくなるばかりか、さもす
れば会津の捨て駒になりかねないと言う事態を危惧した脱走軍幹部は、主力
を藤原に進出させることには会津藩と合意したものの他方面への策動につい
ても会津藩に概ね認めさせていた。部隊運用については大鳥さんが指揮する
2・3大隊は野州藤原へ 白河方面へ4大隊の一部 1大隊は当初主力の進
出を掩護し、状況により野州北部の大田原へ進撃 野州塩原へ4大隊の一部
と言った編成だったと思います。先遣部隊は4月17日、主力については翌
18日に出発となりました。
○私感
 補給を担当した会津藩であったが、どうも藤原へ行った主力に対してのみ
補給を約束していたようで、他方面への補給は渋っていたか、しなかったよ
うである。先祖は4大隊参謀としてその点を指摘し、白河方面への進出を反
対したが、現地で徴収できると言った楽観論多く、戦地で略奪する愚行を予
測できない4大隊幹部・・多くは旧知の直参士官に嫌気が指し病気を理由に
理由に参謀を辞したと言われています。
267日本@名無史さん:04/10/19 01:32:23
質問です。
答えていただけるなら日本史さん以外でもいいです。
閏4月ってなんですか?
268日本@名無史さん:04/10/20 21:09:06
慶応四年/明治元年(1868年)は旧暦での閏年にあたるから。
これでわかる?
269日本@名無史さん:04/10/20 21:14:15
ついでに書くと
新暦の閏年は四年に一日増やすけど、旧暦では四月の後に閏四月としてまるまる一月増やす。
旧暦では一年が360日しかないから、ひずみの幅が新暦よりも大きい。
270日本@名無史さん:04/10/23 01:42:55
>>268>>269
ありがとうございました。よくわかりました。
明治元年は普段の年より長かったのですね。
感慨深いです。

ついでにあげさせていただきます。
271日本@名無史さん:04/10/23 04:20:38
必ず4月が閏になるわけじゃありませんよ。
旧暦の1年は約254日です。
昔の暦は太陰暦なので月の周期が1ヶ月で、29.53日。
ところが太陽暦の1年を12で割ると30.44日ですね。
このズレを調節するのに、二十四節気を使ったんです。
二十四節気は太陽の運行を元に決められてますから太陽暦。
旧暦4月には必ず「小満」の日があります。
ある年太陰暦と太陽暦のズレが広がって
「小満」が4月に収まらなくなると次の月が閏4月になる。
だから何も4月だけが閏になるわけじゃありません。
「秋分」が8月に収まらなくなれば次の月は閏8月。
「冬至」が11月に収まらなくなれば次の月は閏11月という具合。
大体3年に1度は1年が13ヶ月になります。
272268:04/10/24 14:41:53
生半可ですいません。
そういえば松平容保が京都守護職に就いたのが文久二年閏八月ですね。
273日本@名無史さん:04/10/24 15:46:19
質問なんですが、何で幕末期には
会津、長州、薩摩くらいしか表舞台に出てこないの?
274日本@名無史さん:04/10/24 20:00:50
ここは初心者質問スレじゃないよ。
親切にするのはいいけど、場所はわきまえようね
275日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/11/01 20:02:40
「会津編I今市攻略@」
 大鳥総督・山川副総督らが2大隊を率いて藤原に着いたのは20日でした。
既に、先遣されていた3大隊が土佐・彦根兵と数度交戦しており藤原に着く
と3大隊から状況報告を受け、更に前進して小佐越と言う場所まで前進した
大鳥総督に同行しました。作戦計画は、翌日21日攻撃開始、3・4大から
抽出した2コ小隊基幹で今市から日光街道沿い東南に位置する大沢沿いに今
市を攻撃、大谷川を挟んで北方の制高点たる小百・高釈(高百の間違い)に3
大隊を展開させ、日光方面を警戒しつつ戦況により今市を攻撃と言ったもの
でした。ここで問題となったのは、会津兵と2大隊に組み込まれた旧7連隊
の将兵の扱いでした。山川副総督の手前、緒戦は、脱走軍主体で戦いかつ勝
つといった政治的効果を必要としたこと換言すれば「会津の信用を得る」必要
があったことと、大鳥総督の影響が比較的薄い旧7連隊から「条件によっては
西軍に恭順してもいいのでは」と言う和平論が出ていたため戦場での離脱を防
止するため、会津同様、当初旧7連隊も投入しないと言うことになりました。
私は、藤原で18日から鬼怒川を渡って戦った友軍の傷病者を収容しつつ、戦死
者の確認作業の指図をしていました。
○私感
 ここに来て記録・記憶が曖昧であったようです。今市攻略の前哨戦で会津の朱雀
隊や白河方面に策動しているはずの旧幕臣部隊が参加しているの記録が残っていま
す。日記の類はつけていなかったようですが、暇に飽かして戦況等をまめに記録し
ていたそうですが、この時期そのような余裕があったのか、榎本艦隊合流後に記録
したのは地名・人名に多々間違いを発見できる。
276日本@名無史さん:04/11/12 22:49:37
277日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/11/14 14:14:17
「会津編J今市攻略A」
 21日払暁、前進し朝には今市近傍に進出できました。敵は微弱との見積か
ら昼前には今市攻略と大鳥さんも言っていましたが、なかなか抜けない。そう
こうしているうち、敵の砲撃を受け損耗も出てくる。午前中に攻略どころか、
小百に後退して落ち着いたのは昼前でした。昼過ぎ頃、今度は日光方面から銃
・砲声が聞こえてくる。そのうち、斥候を出して戦況を確認すると友軍が砲を
放棄して敗走との方を聞き、大鳥さんも然したる指示を出さないのでバタバタ
しながら離脱しました。敗走中、沼間さんが大鳥さんを詰ったり、兵の一部が
離脱したりと大変混乱したものです。
○私感
 今市にいたのは、土佐兵で脱走軍は奇襲に成功したもののの分進合撃と戦力
の分散により攻めきれなかったのは、戦史にある通り。有名な沼間守一の大鳥
批判と脱走軍からの離脱が生起したのも、この前後と言われている。大川・滝
川と言った第一線指揮官の奮闘叶わず攻略に失敗したが、大鳥は自己批判しな
がらも、旧幕臣部隊の惰弱も批判している。旧幕臣部隊を見限った先祖は、旧
幕臣部隊も脆さをどう見ていたのだろう・・
278日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/11/23 18:19:15
「会津編K今市攻略B」
 藤原に戻って、軍議を開きまして「早期、今市攻略」「本営を藤原から更
に前方に推進」させると決したものの雨天が続き大谷川が氾濫して行動でき
ませんでした。そうこうしていると、会津藩より日光前方で確認できた彦根
兵を襲撃すると言う話が持ち込まれ、脱走軍からも1コ小隊と野砲1門をつ
けて5月1日に襲撃を実施しました。戦況については帰隊した吉沢君(鎌五
郎・指図役=小隊長)から詳細に聞けたのですが、結局攻めきれなかったのが
真相のようでした。彦根兵を駆逐できなかったため、攻撃目標は日光から再度
今市に変更する遠因になったのでする
○私感
 この停滞間に、先祖は様々な伝手を活用して家族や知人と連絡を取っている。
取るものとりあえず彰義隊に参加してまったく家族と連絡を取れないでいた者
に代わってその家族に連絡をつけてやったり、薩邸焼き討ちから大坂出張の際
指揮した将兵のうち、負傷した者を離脱させたりしていたようで有らぬ疑いを
かけれら藤原の本営で斬りつけられたりしたとの口伝があります。
279日本@名無史さん:04/12/03 00:12:46
280日本@名無史さん:04/12/07 22:11:27
hosyu
281日本@名無史さん:04/12/11 23:18:50
hosyuhosyu
282日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/12/13 00:33:31
仕事上突発事案で二十日過ぎまで書き込めません。
先祖同様、年末大阪にいます。なぜか因縁を・・・
283日本@名無史さん:04/12/16 12:17:35
乙でつ。
立派なご先祖様をお持ちでウラヤマスイ
284日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/12/21 19:10:37
「会津編L今市攻略C」
 5月に入って連日雨天にて出撃なし。5日軍議を開き、「今市攻略」の方針
確認するとともに前回に懲りて分散せず主力6百、翼側2百すること、主力に
は脱走軍1・2大隊・会津朱雀隊、側衛は会津青龍隊・徴募猟師等で編成とな
りました。6日、朝攻撃開始して激戦半日、今市直前に達するし、土佐兵に阻
まれ私も、左肩負傷しました。そのうち、江戸から新手の官軍到着(実際には
宇都宮に新手の官軍は向かったので今市には援軍は無かった)との報流れ、大
鳥さん、攻撃中止しようとするも会津それに従わず、脱走軍も引きづられ乱戦
となりました。士官の多く、銃持って戦う者、二刀振る者、多く私のように負
傷する者甚だ多かったと記憶しています。大鳥さんは、「土州、教範通りの防
御戦見事なり」と敵の組織的戦闘を賞賛していましたが、こっちはそれどころ
ではなく苦笑するだけでした。
○私感
 敵指揮官は、かの「板垣退助」だったことは承知の通り。戊辰戦争は、和洋折
衷の戦法と思いがちだが、北関東方面では洋式部隊通しが特に問題なく対峙し、
戦っていたことがわかる。
私事ですが、仕事で大阪に行ってきました。上司の意志決定が遅く、現場の状況
に即応していない・・・・と何か鳥羽・伏見における旧幕軍を思わせる状況でし
た・・苦笑
断念
285日本史 ◆JEhW0nJ.FE :04/12/22 08:42:56
「会津編M今市攻略D」
 7日退却した部隊を掌握した所、思いの外損耗が多く2大隊は約60名死傷
しており再編成を必要となりました。そのうち、仙台等の奥州諸藩が白河で大
敗した報がもたらされ急遽軍議を開きました。この時期、大鳥さんに対する不
信感が噴出し、伝習隊以外の出身者でも独自に策動しようとする者も出てきま
した。弾薬・食糧については会津から支援を受けていましたが、将兵の補充は
拒絶されており会津と脱走軍の間にも少し不穏な空気を感じざるおえない。大
鳥さんを見限った沼間氏も、一部の伝習兵を率いて白河方面に転身すると言って
いたものの、全兵洋式化を図っていた会津藩から説得され城下で農兵を指導し
ていました。会津としては、桑名藩・古屋氏らと連携するため、そして奥州諸藩
を支援するため兵力は割けないし、大鳥憎しの沼間氏が脱走軍への支援を反対し
ていたのは容易に考えられていました。結局、本営をおいた「藤原で陣地防御し、
官軍の侵攻を努めて長く阻止する」と言った曖昧なものとなつてしまいました。
○私感
 先祖は、この今市戦直後に会津との連携における齟齬をなくすと称して会津若松
へ移動している。どうも、終戦工作に従事していたようだが細部は不明な点が多い。
「旧幕臣でも明治政府に帰順すれば朝臣となれる」と言う情報を直参士官に持ちか
けたと思われます。戦地で官軍に投降するのではなく、何食わぬ顔で江戸に戻り、
旧幕府若年寄等に申し出ればいいと言ういい加減なものだったようですが少なからず
脱走軍を離脱したようです。旧幕臣から新朝臣になった四千名のうち何人いたのかは
今となっては確認できません。

○1月7日まで書き込めませんが、遠慮せず書き込みして頂ければ幸いです。
286日本@名無史さん:04/12/23 23:02:03
ごくろうさまです。。
たまにはageましょ。
287日本@名無史さん:05/01/08 18:20:00
age
288日本@名無史さん:05/01/17 22:19:07
同意
289名無しさん:05/01/27 22:58:00
保守
290日本史 ◆JEhW0nJ.FE :05/01/30 16:57:33
「会津編N白河防衛@」
 藤原を去り、会津若松城下にしばらくいましたが、どうも会藩の態度がどう
もおかしい。白河方面の戦況や仙台・米沢等の奥州諸藩及び北越諸藩の動向も
あまり教えてくれないのです。そのうち、どうも監視されているようなので
いたたまれなくなり、閏4月20日、白河城を脱走軍が占領したと聞いたので
白河に赴くことにしました。しかし、いざ白河に向かおうとすると今度は足止
めをくい、5月1日奥羽列藩同盟軍が予想外の大敗を喫し白河陥落をしり、同
盟軍の白河奪回に加わることにしました。
○私感
 しばらくぶりの書き込みです。今市での戦いで、大鳥の手腕に疑問を感じた
先祖は、独自に奥羽列藩同盟に近づきます。東北の某地方史によると「要領の
いい旧幕臣」として描かれている先祖ですが、現実は会津藩の監視下におかれ
なかなか工作を進まなかったのが現実のようです。
291日本@名無史さん:05/01/30 21:14:38
>>290
待ってました!!
いつも楽しみに読んでます。
今後もよろしくお願いします。
292日本@名無史さん:05/01/30 23:41:11
>>290
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1103537787/

ご先祖様が疑問を感じた大鳥のスレがあります。
ぜひご覧下さい。
何か意見があればカキコしてもらえるとうれしいです。
293日本@名無史さん:05/02/03 21:39:51
>>257のような
知識をひけらかさないと我慢できない、
そのために周りの人にどんな迷惑がかかってもかまわないというやつは
実世界では絶対にかかわりあいたくないな
294日本史 ◆JEhW0nJ.FE :05/02/04 19:18:01
「会津編N白河戦A」
 5月20日過ぎ、旧幕臣の一隊(純義隊?)の代表の一人として同盟軍に加わ
り25日須賀川での軍議に参加しました。同盟軍に人材乏しく、政戦両略備わ
った者はいないのが実情でした。26日をもって白河奪回が決定し、各方面の
部署についても決定しましたが、8方向からの分進合撃でしたが、「戦力の分
散」と言う点では大鳥さんと同じでして戦う前から甚だ心配でした。私は、旧
幕臣の一隊とともに棚倉方面から仙台・会津・棚倉・相馬諸藩とともに攻撃す
ることになりました。会津以外、士気低く仙台兵については戦う前から逃げる
算段を上下問わず話しており閉口してしまいました。
○私感
 先祖は、東北諸藩が本質的には「あてにならない」と看破していた節があっ
たようだが、会津・仙台・米沢の雄藩については語り残した物はないのですが、
庄内藩については激賞しているが、薩邸焼き討ち等から贔屓になったようであ
り、大正期わざわざ庄内藩士の子弟を養子としていた時期もあったほどです。
295日本史 ◆JEhW0nJ.FE :05/02/14 21:28:33
「会津編O白河戦B」
 26日早朝、斥候からの情報で棚倉街道沿いの敵長州百余名、忍若干のみ
を確認しましたが、おりからの降雨にて諸藩兵いよいよ鈍重となり、仙台・
会津兵の携行する火縄銃使い物にならず。ならばと諸藩の代表者に「比較的
損耗が出にくい砲兵戦により敵陣地を破砕すべし」と意見具申したところ正
直近接戦闘に自信のない諸藩即座に賛同しました。旧幕兵の警護下に会津の
砲をもって長州陣地に十分制圧しました。小雨になったので一気に突撃し、
長兵を撃破すれば忍藩兵など自壊すると思い、砲兵による突撃支援射撃下に
会津・仙台・棚倉兵が突入すると言う段取りでしたが、いつまで立っても、
前進する素振りがない。私としては、やむなく旧幕兵1コ小隊を率いてまず
突入して他藩の突撃を促そうとして砲兵陣地から去った直後に砲兵陣地が
増援にきた薩兵の攻撃を受け砲を投げ捨て会兵は退散してしまいました。態勢
としては包囲していた同盟軍でしたが、薩摩の増援を得た長州兵は防御から一
転陣前出撃し、背後からの薩摩の攻撃と連携しあっという間に反包囲されてし
まい統制のとれないまま敗走しました。長兵が陣地から出てきた時、下士官の
某が「官賊・長州、窮鼠猫をかむごとし」と大声し、士気鼓舞しようとしていま
したが、奥州諸藩止まる者誰もおらずちりぢりに逃げだのがちょうど正午だった
はずです。
○私感
 俗に言う第一次白河攻撃での同盟軍の戦死者は仙台8、二本松2、棚倉4、相馬
2であり会津・旧幕兵については不明です。この数から同盟軍は決定的近接戦闘を
あえて避けた節があるのではと私は考えています。また、先祖にとっては鳥羽・伏見
以来の戦闘指揮であり先祖の口伝を鵜呑みにすれば随所に洋学の知識や実戦で得た経
験を応用していたようです。
296日本@名無史さん:05/02/19 19:49:23
保守
297日本史 ◆JEhW0nJ.FE :05/02/19 20:02:55
「会津編P白河戦C」
 領国に戻ろうとする仙台・相馬藩兵をなんとか説得し、宿営地に止まらせ
26日深夜、同盟軍として「あくまで白河奪還」と言う命令を受け27日に
再度攻撃することになりました。27日早朝、斥候からの情報で長州・忍兵
とは別に土佐兵も確認との情報を受け、会津以外の同盟軍はいよいよ消極的
となり、白河城南域の要点、雷神山に攻撃をしたのは正午近くになってから
でした。脱走軍の中でも、旧幕臣が多い大鳥脱走軍の4大隊の多くが白河攻
撃に参加していましたが、本戦闘でも当初百余名程度でしたが、26日夕方
にはどこから来たのか相当数の旧幕兵が棚倉口の宿営地に食事・弾薬等を求
めて集まり27日の攻撃には4百近くの旧幕兵が参加していました。正午近
くまで攻撃が延びた原因の一つに、27日奥羽街道沿いの攻勢が鈍化したの
は仙台兵の撤退と言う情報が早々に流れたせいもあるのですが、棚倉口でも
旧幕兵のみが攻勢に出たのが現状であり、雷神山の長・土兵を攻めきれなか
ったのでした。

298日本史 ◆JEhW0nJ.FE :05/02/27 19:24:31
「会津編Q白河戦D」
 28日三度目の攻撃をしましたが、結局雷神山を奪取できず白河城下に
入ることもできませんでした。6月5日、今後の方針について軍議を開く
必要性に駆られ、各方面・同盟諸藩・諸隊等の代表者が仙台?(仙台領内
か)に集まりました。「断固白河奪回」が確認されたに過ぎませんでした。
私も、棚倉口の仙・会藩代表者に同行していまきしたが、元幕閣の板倉・
小笠原両公と面談し、同盟軍に中における旧幕兵の立場について蕩々と訴
え、両公を通じ同盟諸藩を一定の理解を得たいと考えていましたが、両公
からは「貴殿が、直接同盟雄藩を説得すべきが良策」と言われ同盟軍が信用
するにたるか、どうか判断したいと言う気持ちもあり当面白石に滞在する
ことになりました。旧幕脱走軍の「軍事掛」と名乗り当面両公の代理として
諸藩を周旋すると言った形です。
299日本@名無史さん:05/03/02 11:38:51
この明治維新に詳しい台湾人?森里螢一とは何者なんでしょうか?
漢字だけですが読めるのに笑ってしまいます。
ttp://jinyong.ylib.com.tw/snowtalk/show.asp?no=34652&ch=history
擦違いなので下げます。ごめんなさい。
300日本史 ◆JEhW0nJ.FE :05/03/06 19:16:13
「東北・白石編@同盟軍軍事掛始末@」
 板倉公については、旧幕時代同様頑迷固陋の人、小笠原公について飄々とし
て謀臣というよりは大店の若旦那然としてしており頼りがない。一応、上野か
ら来た宮様を頂点に仙台・米沢・会津の諸侯と旧幕関係者がもり立てると言う
態をとっており、あくまで「会津・庄内に対する寛大処置」を目的に新政府に
拮抗しようとするにはなんとも頼りない。鳥羽・伏見の現場を放棄した元陸軍
奉行の竹中丹後などは、帰府後、幕閣より敗戦の責を詰られ処罰され、上野彰
義隊に走るも功無く今また白河争奪戦においても特に何もなさずでほとほと閉
口させられたものでする。6月12日白河総攻撃に際しても、白石からも誰か
派遣して前線を承知すべしと言う案を出しておきながら本人を終始動かず、私
が代理で12日深夜に棚倉城につくと惨敗しており特に仙台藩は百近い人士が
死傷しており同盟軍でも南磐城諸藩は会津を除いてガタガタと言った言葉でし
か言い表せませんでした。その間、自活していた古屋ら衝鋒隊はさておき、同
盟に対して延々何かしかを要求・要望していた大鳥脱走軍については奥州諸藩
の態度を逆なでするには十分すぎるものであったと記憶しています。
301日本史 ◆JEhW0nJ.FE :05/03/06 19:27:21
>292
 遅れましたが、紹介していただいてからは定期的にチェックしてます。
ややネタばらしですが先祖が五稜郭から離脱する時、大鳥が重大な役割
を果たしてくれます。率直に、なかなか面白いスレだと思いますよ。

なお、数回でてきた当家の先祖は誰かについてですが、ある時期をもって
変名し、俗に言う五稜郭選挙でも名前はなく奉行職等にもついておりませ
ん。その辺については後述しますが榎本艦隊合流後、離脱・帰京の日まで
一野戦将校として過ごしていたとだけ言っておきましょう。
302日本@名無史さん:2005/03/24(木) 13:49:18
保守
303日本@名無史さん:慶長410/04/02(土) 10:04:23
はじめまして。
こちらの更新を楽しみにしてます一読者です。
お仕事などでご多忙と思いますが、次の投稿を心待ちにしています。
五稜郭まで長い道程でしょうが、頑張ってください。
304日本@名無史さん:慶長410/04/02(土) 10:47:56
保守
305日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2005/04/05(火) 20:15:29
「東北・白石編A同盟軍軍事掛始末A」
 6月24日、棚倉落城に際し単独で白石に帰還しようとしたところ、再三
薩・土兵に誰何されたため軍装を捨て商人姿深夜で白河付近に展開していた
仙・会軍に合流しました。周辺の西軍は棚倉に集結していたため25日に白
河攻撃を進言したところ、同盟軍諸指揮官ら快諾してくれたものの真面目な
攻勢は取られず、白河東域の富士見山を攻撃していた仙台兵についていた私
の眼前に砲弾が落下し不覚にも気絶してしまい、仙台軍の軽輩に担がれ後退
しました。私としては「白河を奪回できなければ次は会津」と言う悲痛なま
でも見通しを持っていましたので盟主たる仙台侯により強固な意志を持って
もらわなければ同盟瓦解は避けられないと思い単身、仙台行きを決心します
が、7月に予定されていた白河総攻撃(第7次白河攻撃)のため足止めをくい
大鳥軍や板倉公らとも連絡が取れずにいました。  
306日本@名無史さん:2005/04/12(火) 02:39:55
捕手
307日本@名無史さん:2005/04/19(火) 20:37:15
保守
308日本@名無史さん:2005/04/21(木) 22:32:27
続きが楽しみ
309日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2005/04/22(金) 20:37:31
なかなか更新できず応援していただいている皆さんの期待に応えられず
断腸の思いですが、明日にでも何回かにわけて書き込みます
310日本@名無史さん:2005/04/22(金) 23:56:13
無理せず頑張って下さい
続き、楽しみにしています
311日本@名無史さん:2005/04/29(金) 16:52:52
お仕事をしながらの更新、お疲れ様です。
気長に待ってますから、あまり根を詰めないで気楽にお続けくださいませ。
312日本@名無史さん:2005/05/01(日) 10:30:41
日本史 ◆JEhW0nJ.FE さんの掲載を楽しみにROMしてます。
毎回の熱筆、痛み入ります。

GWですからじっくり休養をおとりください。
といいつつ、暇なものですからw
質問させてください。

1)白河攻防の敵将の姓名や兵力などは把握して戦っていたか?
2)幕軍=東北連合にとって、嫌な=精鋭の軍はどこの部隊なのでしょう?
3)会津軍は白河奪取の重要性はもちろん理解していた?
313日本@名無史さん:2005/05/03(火) 04:48:00
保守
314日本@名無史さん:2005/05/05(木) 16:08:20
保守
315日本@名無史さん:2005/05/14(土) 00:16:03
age
316日本@名無史さん:2005/05/20(金) 13:02:22
保守
317日本@名無史さん:2005/05/24(火) 12:24:04
保守
318日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2005/05/29(日) 20:19:27
 国内外の情勢?でなかなか書き込めませんか゛
6月4日から書き込みます。たびたびの保守、
感謝しております。
先日、親戚の家から先祖の写った写真が出てきましたが
私そっくりで驚くといますと家族は大爆笑でした。
319日本@名無史さん:2005/06/02(木) 00:21:25
保守
320日本@名無史さん:2005/06/02(木) 20:41:43
>>318
お待ちしておりました。
321日本@名無史さん:2005/06/13(月) 04:23:33
急かすつもりは毛頭ございませんが、そろそろ書いてください。

とりあえずage
322日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2005/06/16(木) 21:01:35
>312 遅ればせながら
1)白河攻防の敵将の姓名や兵力などは把握して戦っていたか?
 大方、承知していたようです。先祖は、敵の兵装などから薩長土大(大村
か大垣は不明)については区別できると後述しています。ただ、官軍の作戦
等については断片的な承知に止まり、明治以降元勲らの自伝を読み合点がい
ったと語っていたそうです。
2)幕軍=東北連合にとって、嫌な=精鋭の軍はどこの部隊なのでしょう?
  やはり精強な薩長土肥でしょうが、特に記録はありません。ただ、薩長に
 与した親藩・譜代諸藩に対しては旧幕脱走兵よりも会津等奥州諸藩が露骨な
 嫌悪感を示したと言う逸話は残しています。
3)会津軍は白河奪取の重要性はもちろん理解していた?
  会津藩については、領内防衛と言う基本戦略・戦術から脱し切れず大鳥・土方
 らの説得に対しても白河方面に必要最小限の戦力しか割かなかったためか、あま
 り白河の価値を認めていなかったようです。先祖は、大鳥軍の使者として何度も
 会津候やその重臣達と折衝しましたが、その頑迷固陋さは「旧幕府の重役以上だ
 った。補給を依頼しても一々主立った会津藩士に根回ししたり、藩公を説得して
 も老臣数名が反対して次の日には約束を反故にされるのはざら」だったと後述し
 ていました。実は、白河の重要性を認めていながらも仙台・米沢藩・旧幕勢力に
 主動権を握られるのを嫌ってあえて白河を捨て殺しにしたのではとこれを書きつ
 つ考えたりもしています。
323日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2005/06/16(木) 21:34:25
 先祖は、二本松陥落前後に板倉・小笠原・竹中ら旧幕高官と訣別し、仙台
藩に身を寄せます。諸藩の動向を偵察していた先祖が帰来すると彼らは酒宴
を開いており旧幕時代を懐古し、慶喜の変節を嘆くだけで先祖の「三春・守
山藩の同盟脱落」の報告を聞いてもそれを認めないと言う現実逃避的な言動
に先祖は嫌気をさして離脱したようです。大鳥軍とは、連絡を保ちつつ榎本
艦隊との連帯を模索しようとします。
と言うことで、今後は仙台藩での行動、転進してきた大鳥軍から聞いた会津戦
とほとんど交流の無かった旧幕艦隊とのエピソードを書き込んでいきます。

週1ペースですが、気長に書き込みますのでよろしくお願いします。
324日本@名無史さん:2005/06/16(木) 23:21:07
けっこうボロが出てるな。
325日本@名無史さん:2005/06/16(木) 23:22:12
いつもながら興味深く読ませていただきました。
丁寧なお仕事、敬服仕ります。気長に書いてください。
326日本@名無史さん:2005/06/17(金) 11:09:03
>日本史 ◆JEhW0nJ.FEさん
つい先日このスレを偶然発見しました。興味深く読ませていただいております。
戊辰戦争から函館戦争迄との事、頑張ってカキコして下さい。
ところで、このスレを立てる前に戊辰戦争の部分を別のスレにカキコしてたのでしょうか?
江戸脱走編からは読ませていただきましたが、面白いのでこの前も読んでみたいのですがど
ちらのスレなのでしょうか??教えて下さい。知ってる方おられましたら代理で教えてもら
えると助かります。
327312:2005/06/18(土) 14:35:25
日本史 ◆JEhW0nJ.FEさん、いつもながらの丁寧なご回答痛み入ります。
お忙しいでしょうに、書き込みに気を遣わせておりますこと、
勝手な読者たちに成り代わりまして御礼申し上げます。
ご先祖様の今後のご活躍、楽しみにしております。 
ゆっくり頑張ってくださいませ。


328日本@名無史さん:2005/06/18(土) 15:02:01
いつも楽しく読ませていただいてますv
329日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2005/06/22(水) 19:41:18
>326
「全部」を選択すれば1〜見られるはずですよ
「仙台編@大久保一翁書簡」
 旧幕時代、奥州の雄として将軍家からも一目置かれていた仙台藩なので大変
期待していましたが、とんだ検討違いでして、会津救済・陸奥守自らの出陣に
よる列藩同盟の自壊防止を直訴せんとしても重臣にすら面会できず、仙台藩庁
の一画で無為に過ごしていました。そのうち、二本松陥落を知り外国商人から
の情報として旧幕艦隊が奥州に向かっているらしい、大鳥脱走軍が会津と喧嘩
別れして越後から仙台又は庄内に転進するらしい等々の情報を得ます。私が比
較的情勢を承知できていたのは江戸の大久保さんに旧幕軍の状況を定期的に報
告し、折り返し得られる書簡によるもののためです。この時期、大久保さんから
挙藩一致で旧幕府に殉じようと奮戦し小田原から転戦してきた林昌之助公以下
の請西藩?の説得を依頼されましたが、藩主林公と訣別した遊撃隊とは連絡が
取れたものの請西軍とは連絡がとうとう取れませんでした。
○私感
 請西藩主 林忠崇は、徳川家に殉じ藩を捨て家臣らと転戦する話は、中公新書
に良書があるので敷衍しません。林公は、恭順した後の仙台藩を通じ官軍に降り
ます。
330日本@名無史さん:2005/06/28(火) 22:45:30
age
331日本@名無史さん:2005/07/06(水) 11:08:59
あげ!
332奥羽越列藩同盟:2005/07/06(水) 13:25:51
薩長の賊軍が孝明天皇を毒殺し幼い明治天皇を擁立し武力で徳川幕府を倒した明治維新はまさに大陰謀である。
歴史は勝者ばかり讃えられる。孝明天皇を発掘調査行なえば明らかに薩長は賊軍である。
333日本@名無史さん:2005/07/18(月) 15:21:20
hosyu
334日本@名無史さん:2005/07/23(土) 23:58:24
age
335日本@名無史さん:2005/07/24(日) 00:02:54
明治維新はクーデターで成り立った。薩長中心の明治新政府は、さまざまな醜い部分や真実を歴史から消し去り、謀略によっておのれを正当化したのである。
その後、明治新政府は
冨国強兵
殖産興業
という政策により軍国主義の道を歩み始めた。
こうしてこの百年間で幾多の戦争を引き起こし、多くの犠牲者を出した事は多くの人々の知る事である。
日本の悲劇は、薩長を中心とする人らによって政府が作られた時からすでに始まったと言ってよい。
336日本@名無史さん:2005/08/07(日) 22:58:07
類まれなる良スレにつき、保守。
337日本@名無史さん:2005/08/22(月) 03:50:04
ほっす
338日本@名無史さん:2005/08/23(火) 09:57:38
保守しますm(__)m
339日本@名無史さん:2005/08/30(火) 13:33:08
ほしゅ〜〜♪
340日本@名無史さん:2005/09/09(金) 01:16:53
ご先祖様が五稜郭まで辿り着くのは何時の日だろう…(と、遠い目)
341日本@名無史さん:2005/09/19(月) 23:25:30
保守しておきます。
342sage:2005/10/04(火) 00:52:02
保守
343日本@名無史さん:2005/10/12(水) 11:51:39
保守します。スレ主忙しいですか?
344日本@名無史さん:2005/10/29(土) 00:15:05
ウホッ
続きがみたいねん。
345日本@名無史さん:2005/11/16(水) 00:10:46
あきらめずに保守
346日本@名無史さん:2005/11/17(木) 22:02:08
もう続きはないのかな…
でも待ち望むと言うことで保守
347日本@名無史さん:2005/11/20(日) 08:04:03
続き読みたいです・・・
降臨期待保守
348日本@名無史さん:2005/11/25(金) 13:45:15
お願いします
349日本@名無史さん:2005/11/26(土) 00:06:08
帰ってきてください。
お忙しいのでしょうね。
待ち続けます。
350日本@名無史さん:2005/12/07(水) 18:23:45
保守
頼みます続きを・・・
351日本@名無史さん:2005/12/09(金) 20:56:53
スレ主の方6月から来ておられないようですが
お忙しいのでしょうか?
続き楽しみにまってます。
352日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2005/12/11(日) 23:04:12
 大変ご無沙汰しています。仕事でネット環境が劣悪な状態で半年ほど
仕事をしてまして。書き込めなかった分だけいろいろ資料等を整理でき
ました。保守して頂いた方々の励ましに感謝しております。
今後、仙台編を少々書き込みます。
353日本@名無史さん:2005/12/12(月) 08:53:10
>352
首を長くし待っていました。仙台編楽しみにしています。
が、無理をせずマイペースご執筆なさって下さい。
354日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2005/12/13(火) 18:37:04
「仙台編A白石呉越同舟」
 仙台藩の重臣但木土佐に同行し白石の公議府に戻る。白河奪回が無理である
と言う現状認識は、正しいとして但木殿相当疲弊し仙台藩軍奉行の辞任を仄め
かすなかの白石入りである。7月20日昼、白石に到着。同盟諸藩の関係者・
代表者もまばらである。板倉・小笠原両候に同行している旧知の諸司から、仙
台兵のふがいなさを詰る話しかでない。曰く「経験の差」と言う。官軍は外国
と戦い・鳥羽伏見以降、旧幕軍と連戦しているが同盟諸藩、会津以外特に見る
軍歴がないのは事実である。21日深夜、内々に輪王寺宮・小笠原候に拝し、
「榎本艦隊北上の意志あり」と言上する。榎本艦隊については同盟多くは懐疑的
であり5月以降、官軍に制海権を占められ夏には兵員・武器等の輸送に支障きた
す。大鳥軍と訣別した旧幕臣の一団、白石に逐次現れ同盟諸士と諍い絶えず。
旧知の大番組頭、発狂し城内で抜刀し仙台藩士に斬りつけいよいよ旧幕臣、白石
で立場なし。
355日本@名無史さん:2005/12/14(水) 02:38:53
とりあえず1サン復活してくれや。
356日本@名無史さん:2005/12/14(水) 12:35:00
お、再開している、無理せず頑張って下さいね。
357日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2005/12/15(木) 22:00:34
「仙台編B秋田憎しで戦線拡大」
 7月4日、秋田城下に入った仙台藩使節団が秋田藩勤皇派の強襲により惨殺
されたことにより仙台候激怒し11日に山形・庄内藩等と秋田に進撃しました。
秋田藩は、大政奉還から藩論定まらず家老戸沢らが同盟推進していながら少壮
の下級藩士は薩長の進軍を歓迎すると言った支離滅裂ぶりでしたが、それは旧幕
府同様、当時の奥州・関東諸藩は多かれ少なかれ藩論は揺れていたので同情を
禁じ得ませんでした。ただ、白河で鈍重だった仙台藩の戦意を駆り立てるには
十分過ぎるものだったはずです。白石に重臣を派遣することに難色を示していた
仙台藩に秋田造反を機に但木殿を急派すると言った時は、これで薩長と一戦でき
ると喜びましたが、白石に着いてよくよく考えると薩長だけではなく奥州内にも
敵を作ってしまった同盟の前途が多難であると悟り陰々滅々な気持ちになりまし
た。そんな気持ちに拍車を掛けたのは元閣老 小笠原候が「公議府はさながら小
幕府のようなものであり宮将軍(輪王寺宮)を奉じて白河に打って出る」と無邪気
にはしゃいでいる姿を見たせいです。
○文体については、いろいろ試してみて努めて「現代文」の形を取るのが読みや
すいとわかったのでそうします。仙台藩を解くことができなかった先祖ですが、
秋田藩の造反を奇貨として攻勢に転じようとする同盟軍に対し当初から懐疑的だ
ったようです。
358日本@名無史さん:2005/12/16(金) 19:42:21
待っていました。ありがとうございます!
お忙しいご様子ですが、無理のないよう頑張って下さい。
359日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2005/12/19(月) 21:53:01
「仙台編C凄惨・羽州戦線」
 秋田藩の造反は、羽州6藩の同盟離脱を誘発しました。11日攻撃開始し
て以来、同盟軍は連戦連勝でした。羽州には、官軍として福岡藩兵がいまし
たが、これが柄が悪い。民衆は、同盟に好意的であるばかりか、薩長等官軍
に反抗的であり福岡藩に対してもよく思っていなかったのですが、その空気
を利用してある事件が起きました。秋田城攻略は27日過ぎと決定するとそ
の日まで飲めや歌えと仙台兵は、羽州各地で暴挙に出る。南部・庄内兵が規
律を維持しているだけに仙台兵の悪さが目立つ。秋田城を攻略しても、領民
を鎮撫できないことには先行き不安でしたので仙台兵の粗暴さには危ういも
のを感じていました。とうとう、庄屋の家に踏み込んで下男を惨殺すると言
った事態を招き、同盟として「仙台藩の自主解決」を期待しました。そして、
仙台藩は、「福岡藩」の残兵が真犯人だとし、その村で掃討の名のもとに「口
封じ」として大量虐殺したと言われています。なお現場を見た訳ではありませ
んが、仙台藩の重臣から漏れた話として白石でも噂となっていましたので規模
はどうあれ何かしかの事件があつたと思います。さて、当時の私は、仙台藩の
塩森氏を主将とする同盟軍の棚倉奪回作戦の準備に奔走していましたので、羽州
での壮絶な戦闘には直接的には関知しませんでした。
360日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2005/12/20(火) 19:34:33
「仙台編D凄惨・浅川の戦い その1」
 白河・棚倉・泉・平等の諸城の奪還は、薩長等官軍を侵攻を阻止するに止
まらず同盟内に第2・第3の秋田藩を作らないため必要不可欠であることは
同盟諸藩・公議府・旧幕軍等共通の認識を持っていました。特に、仙台藩は、
米沢・会津・庄内・南部等の他藩に対する「実質的な同盟盟主」としての立
場を保持するため奪回作戦の主力を担い是が非でも白河なり棚倉なりで戦果
を挙げなければならないと言う焦りがあったことは自明の理でした。また、
大鳥脱走軍との連携をまま為らず実質的な実動兵力を持たない旧幕府高官(板
倉・小笠原・竹中)がなんとか仙台藩を利用しようと図り、公議府ではなく旧
幕府関係者ルートから、棚倉攻略を仙台藩に働きかけ、仙台藩も利用される
ふりをして逆に利用しようと言う考えからそれに乗ったと言うのが真相のよ
うです。この辺の事情については、当時知るよしもなく、五稜郭に行ってか
ら小笠原候から聞いたのですが。戦術的には、前衛に会津 主力として仙台
・二本松・棚倉 予備として三春で編成され「会津が敵と接触した場合、会
津で敵を拘束してその間に主力を戦闘加入させ敵を撃破する」と言う西洋式
の正面突破を採用することを私は主将の塩森主税殿に具申しましたが、実際
は諸藩の連携乏しく会津藩が突出する形で16日早朝、石川郡浅川に進出し
ました。私は、斥候長を命じられ仙台藩士2名とともに会津藩の更に前方に
出されると言う戦死確実な任務を与えられました。後に、この任務について
額兵隊士から「塩森かその部下が武勲を独占したいため貴殿が邪魔になった
のだろう」と冗談か本当かわからないことを入られましたが「無事だったこ
とでよしとしましょう」と言うしかありませんでした。
361日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2005/12/20(火) 19:38:31
「仙台編6瓦解・浅川の戦い その2」 
 16日午前6時前後(土佐藩の公式記録から)同盟軍は、浅川付近で
土佐・彦根兵と遭遇し忽ち砲兵戦となりました。私は、特に何をした
訳でもなく会津藩兵と合流しました。白河では同盟軍の鈍重さを痛感
していたので「何とか会津だけで敵を捕捉撃滅できないか」と祈るよ
うな思いでいましたが、まったく主力は動きません。会津は強く、彦
根陣地に突入し、土佐・彦根両陣地の間隙に楔を打ちこまんばかりな
衝撃力を持って戦いましたが、砲声聞きつけ来援に来た薩摩兵から側
背を衝かれあっと言う間に敗走してしまいました。私も、彼我錯綜す
る戦場から離脱しようと白刃振るって半狂乱になりながら戦っている
といっしょに斥候に出ていつの間にか、主力の仙台軍に戻っていた仙
台藩士に出くわし、「なぜ、主力は戦闘加入しなかった?会津と後に
続いて突入すれば戦勝確実だったはず」と詰ると彼も血相変え早口で
まくし立てている。どうも、私も耳をやられたらしくよく聞き取れな
い。だだ、「三春、三春」とだけは聞き取れました。彼に戦闘糧食(乾
パン?)と水を与え落ち着かせてみると「仙台兵が会津の翼側から土佐
陣地に攻撃しようと行進縦隊から戦闘展開しようとした所、突如、後
衛の三春藩兵が重火器含む射撃を仙台兵に浴びせ仙台兵については大
崩して散り散りとなり棚倉・二本松等他藩も敗走した」とのこと。鳥
羽・伏見以来の大敗北であり愕然としていると「仙台軍は、戦場に止
まり負傷した兵士等を収容しようとしたが薩摩・黒羽兵の猛攻にあい
各自の判断により戦場を離脱する」らしいことを承知しました。 
362日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2005/12/20(火) 19:39:33
○仙台戊辰史を紐解くと「会津猪、仙台狢 三春狐に騙された」と当
時こんな歌が流行ったと言う記録がある。仙台藩は白河近傍の須賀川
に集結し再編成をすることになるが、白河・棚倉・三春の官軍の包囲
下にあり、撤退時期を模索する。須賀川から仙台藩領への後退は戦術
的に単なる撤退・転進ではない。戦略的には、会津の脇腹がノーガー
ド即ち奥州街道方面からの官軍の侵攻と言う多方面作戦を強いられる
と言う決定的事態であった。先祖は慣れぬ白兵戦を切り抜け、須賀川
の集結する仙台藩の本営も26日辿り着く。26日は三春藩が板垣退
助を介し新政府に降伏した日でもあることを私は最近知りました。
363日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2005/12/21(水) 19:10:39
「仙台編7紛糾・須賀川軍議」
  27日午前中、須賀川で軍議。仙台藩軍事総督(同盟軍白河方面軍司令官)
坂氏、沈思黙考しなかなか会議進まない。会議の焦点は、「今後どう戦うか」
から「仙台兵の撤退時期」にとうに変化してしまったものの体面を思ってか
誰もそのことに触れない。結局、佐藤宮内殿の仙台1コ大隊約400が須賀
川に止まり撤退掩護となり主力は二本松増援に決した。私は、純軍事的見地
から、「二本松への援軍はかえって各個撃破のおそれがある。まず、会津又
は仙台領も戻り態勢を立て直すべき」と意見するが諸将の反応はない。これ
は、私なりの芝居で誰も撤退を言い出せないのならば、余所者たる私が言う
方が後難も彼らに及ばないだろうとの考えからでした。しかし、彼らには、
見透かされていたようで仙台藩の大隊長の一人、大沢掃部殿から「貴公の配
慮痛み入ります。しかし、主君陸奥守は盟主としての我ら家臣は盟主の臣下
として撤退はできないのです。」と冷静に返されました。会議に居づらくな
った私は戦傷を理由に退席しました。そこで見たものは野営中のはずの仙台
兵が小部隊毎、会津国境へ向け撤退していく姿でした。
364日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2005/12/21(水) 19:13:24
「仙台編8二本松炎上」
 27日夕、仙台藩 泉田・真田両氏から仙台藩としては、須賀川から
は撤退するがあくまで二本松は助けると言う会議の結果を聞きました。
27日夜、野営地域が騒然としてきましたので、近くにいた軽輩に聞き
ただすと「須賀川からの撤退を潔しとしない佐藤宮内・細谷十太夫両名
の部下が気勢を挙げている」と言う。28日、官軍は三春藩100名程
度を先鋒に薩摩・長州・備前の600名前後が二本松に向け眼前を通り
抜けようとしていました。装備は劣悪な三春を叩くことにより活路を見
いだそうとした細谷隊(鴉組)がその側背を衝き、ついで大沢隊が突入し
て壮絶な銃撃戦の末官軍を撃退しました。しかし、細谷隊がほぼ壊滅に
近い打撃を受けたと聞きました。仙台兵に同行する私には、指揮する兵
もなく、二本松攻撃に専念する官軍の隙を衝き会津領に退避する仙台兵
について行くしかありませんでした。大鳥脱走軍に戻ろうと考えたのは
、二本松城の炎上する姿を呆然とそして慟哭している様子の仙台軍首脳
部を見たときでした。
365日本@名無史さん:2005/12/23(金) 00:00:27
ありがとうございます。
お疲れさま。
366日本@名無史さん:2005/12/26(月) 16:02:00
毎回貴重な意見楽しみにしております。
お忙しいとは思いますが、時間がおありの時に続きお願い致します。
367日本@名無史さん:2005/12/26(月) 16:03:18
意見ではなく資料でした。
すみません。
368日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2005/12/30(金) 17:24:17
「仙台編9 同盟亀裂の萌芽」
28日会津領に入る。いやがる仙台軍総督 坂氏を説き伏せ会津藩 和田
隊長と面会するが、同行した北原氏(前後から推測して神保修理の実弟)とも
ども和田氏からも罵倒される。曰く、「数千の兵を持ちこの体たらく何事か
」と。仙台藩重役 真田氏も「我に弾薬・糧食なく撤退やむを得ない。会津
〜米沢経由で仙台に戻り捲土重来を期する」と。もうこうなると感情の行き
違いは氷解しがたく会津藩からも幾ばくの補給も受けられず仙台軍はほぼ野
ざらしの状態で一夜を過ごしました。旧知の会津藩士の計らいで会津陣地で
仮眠できることとなりほっとしていると、会津兵の会話を漏れ聞こえてくる
。それは、「新潟港の官軍占領」と「長岡城の再陥落」と言う衝撃的な情報
でありました。大鳥脱走軍と会津藩の関係も円滑と言えないどころか、日々
険悪化しているらしいことも知りまして今更会津に行っても無為に過ごすこ
と請け合いでしたので、「仙台軍とともに差しあたり仙台へ後退する」とじ
後の行動を決しました。
○新潟港を通じ、横浜から武器・弾薬等を定期的に補充していたのは旧幕軍
に止まらず同盟諸藩すべてであり、ある意味致命傷と言えなくもない。先祖
は、長岡藩との関連はない。このため長岡藩の勇戦は執政・河合氏によって
立つことをどこまで知っていたか今となっては不明です。
369日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2005/12/30(金) 17:28:07
「仙台編10 仙台藩の攻勢と旧幕軍の集結」
 8月5日、仙台到着。青葉城近傍の同胞長屋にてしばし休息。昼過
ぎ、登城し情報収集する。仙台藩の江戸上屋敷出入りの商人の伝で特
に問題なく城に入る。そこで、相馬藩の造反と陸奥守慶邦公自らの軍
令で仙台藩全土に大動員令が敷かれたこと、そして侵攻する官軍を迎
撃すべく二千からなる部隊が相馬藩との国境へ進軍したことを知りま
した。当時、仙台には相馬藩の離反とともに相馬領から逃走してきた
旧幕府軍(彰義隊・純義隊・遊撃隊等)逐次集結しつつありました。7
日、遊撃隊の伊庭氏を訪問し旧幕軍の受け入れについて協議、この際
「旧幕艦隊との連絡保持」「重傷者の処置」及び「同盟軍挽回の可能
性」について同意を得る。なお、駐仙旧幕府軍の代表に伊庭氏を押す
も頑なに拒否される。
370日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2005/12/30(金) 17:36:19
「仙台編11 仙台藩完敗と旧幕艦隊北上工作」
 8月13日、「駒ヶ嶺付近で戦闘生起し完敗」との早馬あり。敵は
、友軍の倍以上五千程度と言い、その半数は地理に明るい相馬人であ
り銃器で負け、白兵戦で負け、撤退しようとして相馬領民にことごと
く捕獲されたとのこと。青葉城内、沈痛にして覇気まったく感じられ
ず。伊庭氏とともに重役に面会と会う予定でしたが、その重役「急病
」とのことで取り次いでもらえませんでした。初戦での敗北に激怒し
た大守(仙台藩主)は、反撃を厳命するとともに自らの出陣を宣するも
、重臣の諫められ一門のしかるべき者を名代に立てると止まったなど
と言う話も伝わってきました。鳥羽伏見でも、初戦で敗れたあと大坂
城で徹底抗戦を叫び、自らの出陣を仄めかした旧主がその後、我々旧
幕臣にしたことを仙台藩士も味わうことになるのは忍びないと勝手に
同情すると同時に「薩長に一矢報いる」と仙台軍に続いた旧幕軍 春
日左衛門の一隊が無事に帰ってくることを祈願しているだけで何もで
きない自分がいました。こうなる事を予期していた訳ではありません
が、仙台到着直後に、仙台藩がつぶれては、兎にも角にもしょうがな
いと思いアメリカ商人を介し、「旧幕艦隊の早期の北上がなければ奥
州平定容易なり」と言う主旨の手紙を榎本和泉守及び大久保一翁両名
に送りました。
○戊辰奥州戦争での決定的失敗は旧幕艦隊の北上の遅延が挙げれる。先祖
が工作するのとは別次元で催促と遅延両方の工作が薩長・旧幕・同盟それ
ぞれやったものと思われる。早期北上していた場合、例え同盟が薩長に城下
の盟を取らされるにしても違っていたのではないかと考えたりします。
371日本@名無史さん:2006/01/05(木) 04:13:40
保守
372日本@名無史さん:2006/01/05(木) 12:01:10
新年明けましておめでとうございます。
保守させて頂きます。良スレにてありますので本年も宜しくお願い致します。
373日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2006/01/09(月) 18:46:36
「仙台編12 旧幕軍仙台集結」
 8月22日、度重なる敗戦の責を負い仙台藩軍事関係者の更迭始まる。
仙台藩内も、厭戦論広まりつつありそれが恭順論に換わるのは時間の問題と
思われた。こうなると、仙台藩が薩長に城下の盟を結ぶ前後に旧幕艦隊がの
このこ仙台に着くと言うことになりかけない。最悪、同盟軍と官軍の挟撃を
受けることになりかけない。
このため、強硬派かつ一門衆を焚きつけ仙台藩の降伏を少しでも遅らす必要
があると思い、内々に仙台候の一門たる登米候 伊達筑前殿に面会し「必ず
協力する」と言う言質を得ました。そうこうしている間に旧幕艦隊は途中難
破しかけながらも仙台に入港しました。9月2日榎本、松平太郎・土方・渋
沢等の登城に先立ち仙台藩軍事局と折衝し、太守との謁見に止まらず榎本自
らが、奥州での戦い方について太守はもとより重臣らに説明することを約束
させる。対面所で榎本らが太守と会っている間、私は次の間で息を凝らして
各人を話す言葉を一字一句聞き逃すまいと待機していました。このころには、
会津と喧嘩別れした大鳥脱走軍も続々と仙台に入ってきました。懐かしい顔
ばかりでしたが、旧交を温める時間はまったく無かったのが実情です。

374日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2006/01/09(月) 19:01:52
「仙台編13 仙台恭順」
 9月5日深夜、「4日から一門及び重臣登城し和戦について会議」
をしているとの情報を聞きつけ急ぎ登城しようとするも、仙台藩兵が
旧幕軍の仮営を取り囲み外出できない。7日拘禁を解かれると真相を
確かめようと、仙台藩海陸御用掛 松本氏(仙台藩きっての主戦派)の
゜役宅訪ねるも城から戻っていないとここ何日も会えない。榎本さん
の話だと「松本君は、暗殺を恐れて帰宅できない。城内ならば毒を盛
られなければ、斬りつけられることはないから」と苦々しく言ってい
ました。主戦派が、暗殺を恐れ又は、不在にしてしまうと恭順派に主
導されかねない。これは戊辰戦争終始を通じて言えることなのですが、
実際恭順と言われるとなかなか翻意させがたいのも事実で有りました。
こうなると誰も仙台藩の降伏は時間の問題であると判断せざるおえま
せんでした。旧幕軍の幹部が宿泊している国分町の外人屋に言ってみ
るともぬけの殻でした。その頃、青葉城では榎本・土方両氏と仙台藩
重役 大条・遠藤両氏の大舌戦を行われていた訳だが、その詳細を当
時私はよく承知していませんでした。榎本さんは弁舌巧みではありま
したが、旧幕艦隊が会津・長岡の戦いに何ら寄与できなかったことに
対する負い目からかあまりこの話をしたがらずにいましたし、土方さ
んは元々無口な方でしたのでようよう聞き出せずでしたが、両氏が仙
台藩の変節を詰り、大条・遠藤両名が旧幕府の数々の失政や艦隊の来
援遅延等について詰ったのは容易に想像できました。
○司馬遼太郎の「燃えよ 剣」の名場面に先祖もニアミスしたようだが
後生に伝わるような土方の見せ場があったかどうか判断できない。先祖
は実務家として仙台藩と旧幕勢力の折衝・周旋にあたったようですが、
果たして成果を挙げていたかどうかは疑問である。大久保一翁ラインから
の終戦工作に暗躍していた節もありますが、後顧を鑑みてその辺はあまり
記録等に残していないので判断できません。しかし、仙台に入ってから外国
商人特に米国・プロシア人との関係を密にしていきますが、先祖と外国勢力
とを結ぶ謎が先祖の真意を知る手がかりになると考えています。
375日本@名無史さん:2006/01/09(月) 23:38:58
うわぁ!土方さんの名前が!
ついに榎本艦隊が仙台を離脱するんですね!

小説やドラマでしか知らない事でしたが。
恭順派の説得工作の失敗など、流れで読みますと、緊迫感がひしひし伝わって
きます!
土方さんは説得が上手ではなかったのか・・・
376日本@名無史さん:2006/01/11(水) 14:08:06
凄すぎますね、この内容。
小生47歳の幕末好きのおじさんですが、
小説読むよりも面白いです。
日本史 ◆JEhW0nJ.FE さん、
この作業は大変だと思いますが、
相当数のファンがあなたの執筆を応援しています。
頑張って下さいね。ほこぺん。。。
377日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2006/01/12(木) 19:42:12
 来週から一月ほど仕事ですので連続書き込みできませんが、ぼちぼち
マイペースでいきます。五稜郭編の準備もやっていますが、以前のように
質問やご意見等書き込んでもらうのも歓迎ですので読者?の皆様よろしく
お願いします。
378375:2006/01/12(木) 20:02:40
日本史 ◆JEhW0nJ.FE様。

五稜郭編、楽しみにしています。

臨場感がリアルに伝わってきまして、貴重な幕臣側から見た、戊辰戦争の
記録だと思います。そして現代語訳で分かり易くて、理解しやすく、大変
有り難い手記だと思います。
どうぞ、マイペースで頑張ってください。
379日本@名無史さん:2006/01/26(木) 17:23:49
保守
380日本@名無史さん:2006/01/28(土) 23:57:45
保守しときます
381日本@名無史さん:2006/02/01(水) 15:07:25
旧幕臣の衆道について聞きたい
382日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2006/02/05(日) 19:59:59
「五稜郭編1 箱館政権構想示達@」
 9月14日昼過ぎ、仙台藩の使者が旧幕軍士官の宿舎国分町「外人屋」に
来ました。榎本・大鳥等上層部が対応している間に、主だった幹部が逐次集合
して来ましたが全員揃ったのは夕方近くになっていました。私は、旧幕軍と同
行を熱望する額兵隊と事務方について没頭していましたが、額兵隊経由で「そ
ろそろ降伏では?」と察知していまたしが、集まった幹部の半数の興味は、「
仙台の藩論が降伏に決したこと」よりも「今後の旧幕軍の動向」について移っ
ていたのも口に出さずともわかっていました。「今の北海道に行く」と言う構想
について全幹部に正式に示されたのは15日朝、仙台藩が主戦派 但木土佐を閉
門にし、薩長に下った日でした。この時点では、会津は絶望的な籠城をしており
会津を見殺しにすることに抵抗を持っていた者もいましたが、会津と喧嘩別れし
た大鳥・古屋両氏は、淡白なもので「会津も、降伏した方が幸福だろう」と戯言
を言う者もいるぐらいでした。
○私観
 五稜郭編ですが、先祖は仙台から出航する10月12日まで様々な事件に関与
していきます。この際、江戸を脱走する時に大久保一翁から渡された活動資金を
躊躇なく旧幕軍のために使い、榎本艦隊の門出に対し係累となる問題を解決して
行きます。私は、鳥羽・伏見編とともに先祖が活躍?するこの時期が一番興味を
そそられる時期であります。週一回程度の書き込みですが、御意見等頂ければ幸い
です。
383日本@名無史さん:2006/02/06(月) 21:31:48
保守
384日本@名無史さん:2006/02/06(月) 22:08:55
宮古湾アボルダージュの書き込み予定はありますか?
甲賀艦長と土方の活躍を聞きたいです。
385日本@名無史さん:2006/02/10(金) 18:47:46
保守しておきます
386日本@名無史さん:2006/02/10(金) 19:39:05
このスレ凄いな
期待してます
387日本@名無史さん:2006/02/10(金) 23:44:55
2ちゃんはアホみたいなスレも多いが
こういうスレもあるからやめれない。
あげ
388日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2006/02/11(土) 20:49:59
「五稜郭編2 箱館政権構想示達A」
 北海道に行くことについて異論はなくもなかったのですが、特に異を唱える
者もなかったものです。後日、「官軍への投降を勧めた」などと自己弁護する
者もいるにはいましたが、それは過ぎたことなのでしょうがないと今では思っ
ています。「松前経由で函館を取る」あくまで「旧幕臣の生活自立」と旧幕府
に同情的な外国認知による「事実上の独立勢力」と言う今日、言われている構
想が、仙台に来る以前から榎本艦隊内では語られていたらしく、海軍は一枚岩
でしたが、陸軍は諸隊混合で大鳥・土方等が全軍を統括していたとは言えない
状態でしたが、とにかく「榎本さんについて行く」という空気が瞬く間に浸透
したと言えます。まあ、榎本さんが何か言うと「なんとなく、何とか成る」よ
うな雰囲気で特に函館に行った後より仙台にいた時ほどこの奇妙な神通力を持
って榎本さんは語られていたものです。我々は、北行を前に負傷した将兵を同
行する者と仙台に置いてゆく者とに選別すると言う問題に直面しました。
389日本史@名無史さん:2006/02/13(月) 16:06:33
ここのファンって何人ぐらいいるのかな?
僕で一人目  誰か書き込んだら最後に○人目って入れてください
単純に興味あります
390日本@名無史さん:2006/02/13(月) 23:58:27
【デスノ】デスノート映画化 人権団体批判【不謹慎】
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news7/1139724920/

映画化が決定した人気漫画デスノートに対し、都内の人権団体が
犯罪者の権利を軽視するものとして批判を行った。
391日本@名無史さん:2006/02/14(火) 02:22:30
うちの先祖も北陸、東北で転戦したから
もしかしたら>>1さんの先祖とも顔合わせた事あったかも
392日本@名無史さん:2006/02/14(火) 03:55:54
東武皇帝(輪王寺宮)も仙台で降参しないで箱館まで行けば蝦夷帝国皇帝だったのに。
393日本@名無史さん:2006/02/14(火) 20:45:18
うちの先祖はドンゴリなので>>1さんの先祖に殴られてたかも。
394日本@名無史さん:2006/02/14(火) 20:51:24
>>389
腐女子が妄想をたれ流すこのスレを興味深く見守っている状態です。
395日本@名無史さん:2006/02/17(金) 00:53:23
わわわ!>大鳥・古屋両氏は、淡白なもので「会津も、降伏した方が幸福だろう」
大鳥さん達って・・・・!!・゚・(つД`)・゚・

>で大鳥・土方等が全軍を統括していたとは言えない

それは、寄せ集めで、藩体制が崩れた直後でまとまることなんて、さぞ大変
でしたでしょうね、佐幕派といっても、思想も教養も様々でしょうし・・・

興味深いのは、「降伏」の現実的な対応、と榎本さんの「独立勢力でなんとか
なるさ」のファジームードという反する二つの指針があったという処で、案外に
人間って、窮地に追い込まれると、「あーもうどうしようか?どっちがいいかなぁ・・・」
と、鷹揚とした物かも知れませんね。

小説とかですと、過激な描写や人物のセリフなどがどうしても極端に美化されて
ドラマチックになりがちですが、仙台→函館間の史実のリアルな雰囲気が淡々した
感じで伝わって凄く面白いです!本の刊行化も熱望しています!!


396日本@名無史さん:2006/02/17(金) 03:24:10
まあ、実際榎本達は新政府に降るを潔しとせず江戸を発ったものの
格別どうしようと言う事も無かったようだからな
成り行き任せの感が強い
397日本史@ ◆JEhW0nJ.FE :2006/02/26(日) 11:23:42
「五稜郭編3 去る者追わず・・そして地獄の沙汰も・・@」
 今日仙台藩からは、食糧・生活用品等の無償供与があったようなことにな
っていましたが、実際は金銭による純粋な経済活動でして、金払いがよけれ
ば何でも揃いました。実際、武器等の類については仙台に入港する外国商船
から言い値で買っていたのが現状で、担当した者の商才について非難する者
は少なく、函館にも「言い値」で買ってくれると味を占めた外国船が絶え間
せんでした。担当した人は現在も政府に出仕しているので実名を出すのは憚
りますが、商才のないことは函館に着てからジワジワと無軌道な経済活動の
つけを思い知ることになりました。さて、実際出港が決まると、戦傷を理由
に脱退を申し出る者・同行したくとも重傷のため仙台に残さざるおえない者
たちの処遇について一律の慰労金を渡すを榎本さんから指示されましたが、そ
の詳細は私一任となり、特に脱落する者に対し批判的な松平太郎・土方氏ら
に露見しないよう内々で言うことになりました。実際、士分の脱落希望は思い
の他多く、伝習歩兵よりも伝習士官の方が、新撰組等のお雇い組より遊撃隊等
の直参の者が夜な夜な私を訪ねてきて暗に離脱のための無心や今後どうすべき
か相談に来る者もいまして私としては面倒なので「戦傷扱い」として一定の金銭
を餞別に外国商船に託して離脱させていました。最初のうちは、氏・出自を記録
していましたが面倒になり途中から記録を止めました。毎朝の軍議で、離脱将兵
について当初は問題視していましたが、榎本・大鳥黙認がわかると誰も話題にし
ませんでした。しかし、土方氏らは面白くなく、「昼夜の巡察とは別に新撰組出身
による特別巡察を組織して離脱将兵特に士分を斬る」といきまいていると言う話
を聞きました。
398日本@名無史さん:2006/02/26(日) 12:35:28
だめだ、もう明日まで白河口はもたない。
官兵は仏製の新型銃でドンドン撃ってくる。藩の蘭製のゲーベル銃より
射程が300mも長い。命中率も、こっちが400メートルで20発に1発
なのに、官兵の銃は2発に1発が命中する。
こんな銃では勝ち目もまったくない。せめて火力集中して敵を撃破すべ
きなのに、西郷は隊を分散配置しやがった。あいつは陸戦の素人に違い
ない。おそらくここは明日の朝までもたないだろう。
配下にはすでに郡山まで撤退の準備をそれとなく既に命じている。この
内の何人が生きて戻れるだろうか・・・
399日本@名無史さん:2006/02/26(日) 12:56:41
さすがに幕臣達は蝦夷まで向かうのは気が重かったろうね
しかも奥州を失っては絶望的だし
脱走するのもやむを得ないとは思う
400日本@名無史さん:2006/02/28(火) 09:44:23
>>397
結局のところ、行くところ、帰るところが無い者だけが残った…という感じでしょうか?
直参という家柄だけのボンボンより、寄せ集めの民衆のほうが骨があるのでしょうか?

…でも、自分に置き換えて考えると、やっぱり戦争は怖いから逃げるかも。
401日本@名無史さん:2006/02/28(火) 17:27:36
逃げたいほどガクブルなんだけど他に行き場が無くて、
ついていった人もまた多いんだろうね
402日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2006/03/11(土) 10:02:40
「五稜郭編4 去る者追わず・・そして地獄の沙汰も・・A」
 12日の出港まで、離脱騒動は続きましてその辺は私一任だったので多忙
を極めました。ある譜代大名家の脱藩組は、全員の認識統一できないまま私
を訪ねて来て寝ている私を起こした挙句、目の前で口論となり抗戦派が、腹
を切ると騒いだので、こっちとしては面倒臭くなりまとまった金を差し出す
と「徳川家の殉じぬ主家を代表してここまでやったので良いではないですか」
と言う私に、「あくまで怖気づいたのではなく、主命により参加した」と言う
彼らの目が目の前の金を勘定していることに気づきました。さて、そのうち
土方さんが、刀抜いて私の宿舎に怒鳴り込んできたのは7日夕方だったと思い
ます。
○私感
 本編からはずれますが、仙台での脱退者の総数は相当の者だったようで、静
岡に何食わぬ顔で行き勝・大久保等に先祖の名を出して徳川家・静岡藩への帰
参を許された者も少なからずいたようで、明治期東京で、勝に会った先祖は、
散々嫌味を言われたとか、上記の某大名家の脱退組の一人と東京で偶然再会し、
彼の家に招かれた等の逸話もあります。土方とのやり取りと戦傷者を極秘に東京
に戻し松本良順関係の病院への収容等々、五稜郭編と言いつつあと数回は出港
しません・・笑
403日本@名無史さん:2006/03/11(土) 10:06:03
まってましたー!
404日本@名無史さん:2006/03/16(木) 02:59:22
保全
405日本@名無史さん:2006/03/16(木) 04:17:42
いつでも負け戦になると悲惨なものだね
誰だって苦しい思いしたくないし死ぬのも嫌だから仕方ないが
どこの藩も腐りきってたようだね
406日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2006/03/20(月) 18:45:35
このたび転勤と言うか、出向します。
つきましては、新勤務地で態勢が整う3月下旬か4月まで書き込めない
と思いますが、私以外のネタでも結構ですので盛り上げていただければ
幸いです。勤務は面白そうなんですが、生活環境が・・・・
407日本@名無史さん:2006/03/20(月) 23:52:20
>>406
地道に保守しときます
408日本@名無史さん:2006/03/24(金) 12:28:42
蝦夷政権保守
409日本@名無史さん:2006/03/24(金) 13:30:52
>>408
w
410日本@名無史さん:2006/03/27(月) 19:56:25
保守
411日本@名無史さん:2006/03/27(月) 22:21:01
>土方さんが、刀抜いて私の宿舎に怒鳴り込んできたのは7日夕方だったと思い
ます。

日本史 ◆JEhW0nJ.FE 様のご先祖様、ご苦労様です^^;
しかし、こちらの史実の土方さん、「燃えよ剣」のイメージそのままですな!
412日本@名無史さん:2006/03/27(月) 22:55:16
確かに嫌な役目やらされたもんだね
脱退組と強行組の板挟み('A`)
413日本@名無史さん:2006/03/27(月) 22:55:22
土方さん怖いなあ…
でもお金もらって離脱していく人達の人間臭さにも強い共感
(と言って良いのか)を覚えずにいられません。
414411:2006/03/27(月) 23:42:45
>>412
でも、元気そうで、可愛く感じますよ。>土方さん。^^
>>413ドラマで見たくなりました!そういうシーン。
その後に土方さんが怒鳴り込んで、頭を抱えるご先祖様。
もしかして、コミカルなシーンになるかも。
415日本@名無史さん:2006/03/27(月) 23:59:45
>しかし、こちらの史実の土方さん、「燃えよ剣」のイメージそのままですな!

当たり前だろ。
このスレは、ただの妄想小説発表場なのだからw
416日本@名無史さん:2006/03/28(火) 10:37:15
そういうこと。原文が出ていないのが怪しいとしか言えない。
417日本@名無史さん:2006/03/31(金) 23:50:23
むしろ妄想で書いたなら凄いw
418日本@名無史さん:2006/04/03(月) 09:30:14
バカタレ。
こんな凄い文章が妄想でかけたら、
この人はかなりの作家になれるだろ。
暖かい目で見守ってやれよ。
文句がある奴はここに来るな。
419日本@名無史さん:2006/04/06(木) 01:18:34
榎本艦隊保守
420日本@名無史さん:2006/04/14(金) 04:11:36
佐世保守
421日本@名無史さん:2006/04/14(金) 18:51:14
続き待ってます。むしろドラマ化して欲しいくらい、面白いですよ。
422日本@名無史さん:2006/04/14(金) 22:41:51
>>418
ジサクジエンか?
423日本@名無史さん:2006/04/15(土) 20:08:06
たしかにこういう時代劇あってもいいよな。
424日本@名無史さん:2006/04/19(水) 17:31:07
函館編まだかな…
425日本@名無史さん:2006/04/20(木) 19:07:45
保守しますね。
ご子孫様、気にしないで、続きをかきこんで下さいね。

幕軍が艦隊に乗り込んだ様子とか知りたいと思ってましたから。
小説とかでは、官軍政府軍を嫌う若者で溢れていた・・・というような
場面が多いので、とても新鮮で面白いです。
426日本@名無史さん:2006/04/20(木) 20:26:12
そして自演は続く・・・・・・
427sage:2006/04/23(日) 17:09:10
sage
428日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2006/04/23(日) 17:15:12
 ご無沙汰しています。別のスレでもありましたけど、妄想かどうかは読む
方の判断ですからね、こればかりは。原文と言っても、重複したり解読不明
な点も多いですし、回想録を前提として口述されたものではないので、書き
込む際は現代風にしているんですけどね。
429日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2006/04/23(日) 17:35:15
「五稜郭編5 武士の本分・武士の本懐@」
 土方さんは、従卒2名ほど連れて宿舎の門前で「軍規を糾す」と言って抜
刀していました。そのうち、人数が増えて着ましたので、私も会わない訳に
もいかず、玄関に出て機先を制するべく大声で「先生、白刃振るうのは蝦夷
までご自重いただきたい」と言いますと、あの新撰組の副長が顔色変えずジ
ロっとこっちを睨み返す。こっちとしては、鳥羽・伏見以来実際死線を数度
わたってきたと言う自負・自信は少なからずありましたが、やはり屠した人
数が違うといいますか、ブルッと悪寒が来ました。「まあ、土方先生 ここ
では何なんで」となんとか部屋に上げようとしましたが、玄関で「離脱希望
者の引渡し」を要求して動かない。そのうち門前で土方さんに付いてきた連
中が騒ぎ出しましたが仙台藩から派遣された番方役人は、見て見ぬふりをし
ていてとても頼りにはならない。そのうち数名が抜刀していよいよ突入しか
ねない。「こりゃ、ここで斬られるかな」と観念していると一町ほど離れた
所から銃声が鳴り、全員がそっちを見てみると・・・
430日本@名無史さん:2006/04/23(日) 22:08:59
わあ!来ましたね!来ましたね!待ってました!!

サイトとか作られるといいのに。
それで、それで?と画面を覗き込んでしまいました。(笑)。
431日本@名無史さん:2006/04/23(日) 22:58:01
自演ご苦労様
432日本@名無史さん:2006/04/23(日) 23:15:16
お帰りなさい。
楽しみに待っていました。
433日本@名無史さん:2006/04/24(月) 00:46:25
土方腐女子が自作小説を史料と詐称して発表しているだけです。
434日本@名無史さん:2006/04/25(火) 18:47:34
土方出てきたの最近じゃん。
435日本@名無史さん:2006/04/27(木) 16:46:15
保守します。
436日本@名無史さん:2006/04/27(木) 20:49:04
>>434は全部読んでないのがバレバレ
437日本@名無史さん:2006/04/28(金) 00:45:25
保守
438日本@名無史さん:2006/04/28(金) 01:04:56
あれこのスレまだ生きてたのか?
439日本@名無史さん:2006/04/28(金) 01:17:00
土方ってしょせんヤクザなんだな。
やはり榎本や大鳥のほうがいいわ。

会津のことは仕方ないと思われ。
泣いてる人がいるけど、会津は自業自得。
440日本@名無史さん:2006/04/30(日) 15:11:14
保守。かこいい土方さんに保守。
441日本@名無史さん:2006/04/30(日) 15:12:39
近藤×土方
442日本@名無史さん:2006/04/30(日) 19:37:35
続きまだかにゃあ
443日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2006/04/30(日) 21:12:52
「五稜郭編6 武士の本分・武士の本懐A」
 銃声のした方向からは、洋装の歩兵が数十人担え銃のまま二列縦隊で、
進んできました。「仙台兵か、はたまた薩長か」と屋敷にいた全員が固唾
を飲んで注視している中、西洋太鼓のリズムに合わせて悠然と前進してく
る一団の最前列の旗手が持っている旗は三葉葵と大手門屯所の物でした。
彼らは、無言のまま土方さんと彼についてきた一党の間に割って入り、
土方さんらを完全に包囲してしまいました。「土方先生、どうぞ中へ」と
再度促すと刀を納め無言のまま土方さんは、やっと屋敷に入って呉れまし
た。土方一党を包囲したのは、旧幕歩兵でして、滝川さん・塚原さんと言
った芙蓉の間の方々を護衛するため私とともに大阪に行き、旧幕歩兵11・
12連隊に編入され鳥羽・伏見で戦った連中でして、私としては相当数が
大鳥さんらの伝習歩兵に付いて来たことは知っていたのですが、ここで
再会することになるとは夢にも思いませんでした。
○私感
 芙蓉の間詰は、役付きの大身旗本の江戸城内の勤務・待機場所です。俗
に、一会桑に対し家茂公を担ぎ鈍重な老中・若年寄らを突き上げていた強硬
派達のことを言っているものと思われます。芙蓉の間は、サロン的性格も
強く、郡県制を目指した小栗や幕藩体制固辞を目指した者様々であったよう
です。先祖は、彼らを羨望の眼差しを眺めつつ、自分の能力不足と家名の低さ
を呪っていたのでしょうか?
○業務連絡
 応援等の書き込みは励みになりますが、努めて「sage」でお願いします。
444日本@名無史さん:2006/05/01(月) 20:34:39
す、すご・・・い二列縦隊で土方さんを包囲して、なだめたんですか!
殆ど人間銃器ですな。
いや、実戦、実殺経験ないお侍にはほんと恐かったのでしょうね。

強行派としてはこれほど凄いシンボルマークは無かったでしょうね。
敵にも強いが味方にも怖がられて居た感じが感じが良く解りました。
445日本@名無史さん:2006/05/01(月) 22:36:10
ゲリラ戦法とは、損害を相手に与えつつ自分はさっさと逃げ出して
損害を受けない戦法のことです。
仙台藩のような、損害を受けて壊滅し七転八倒しながら逃げ回ること、ではありません。
446日本@名無史さん:2006/05/01(月) 23:06:07
滝川さんとは伝習隊で大川や本多と一緒だった人でしょうか。
447日本@名無史さん:2006/05/02(火) 18:51:51
組!の全ての撮影が終わった後、別人みたいにさわやかな晴れ晴れとした顔だったなあー。山本も土方でいるのは相当辛かったみたいだし。本当に最後なんだね。もう無いんだね。オタのほうが泣いちゃうわ…なんか切なくなってきた。ふくちょーーーーーーーーー!!・゚・(ノд`)・゚・
448日本史@名無史さん:2006/05/02(火) 20:16:50
>446
ここの滝川は、大目付 滝川播磨守のことです。詳細はググってみては
449日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2006/05/03(水) 10:34:46
「五稜郭編7 武士の本分・武士の本懐B」
 土方さんとの談判は極めて短いものでして、「無理して連れて行っても
蝦夷に行ってからでは離脱・離脱とごねられたら大変だし、会津が落ちた
時点で潮時と思った者も多い」と言う点については同意見でした。結局、
@離脱希望者については個人の判断(離脱しようとして土方らに斬られて
も私闘扱い)A餞別・特別手当は渡さない(士分は十分な退職手当がある
のに徴募兵には日当のみと言った不公平感の払拭)B榎本・大鳥・松平ら
連名による軍規徹底の布告等(離脱か同行かにはっきりしない者へのシグ
ナル)については結局まとまりませんでした。今思えば(明治後期)、後
の土方歳三を予期させる会話もありました。私が、今後の展望について質
問した際、「武士の本分は死ぬことにある」ときっぱり言いました。私は
「武士の本懐は生き続ける」と言い返すと、「死んで意地も意気地を貫く」
と言う。「先生の盟友・同志も先生と同じ考えでしたか」と意地悪く続ける
「いや、あくまで私本人の考えです」と言ったきり押し黙っているので「武
士の本分・本懐は、主君のために命賭し、その忠君を持って家禄を戴き家名
を残すものだと考えている。離脱した者の気持ちをわかってほしい」と言い
ました。玄関口まで見送りに行くと「さっきの話、皆さんのような根っから
殿様の考えでしょう。」と言って屋敷を立ち去りました。あと追いでして、今
思えば「蝦夷に行く前にあの人は死につもりだった」と芝居がかった言葉しか
思いつきませんでした。
○私観 
 土方との問答については比較的詳細に記録は残っていますが、どうも芝居がかっ
おり恣意的に脚色されているのではないかと言う疑念を持っており、要約にとどめ
ます。先祖は、官位を持っていませんでしたが、幕府に出した家系図では「自称・
藤原氏」を名乗っており藤原佐渡守と言ういつの時代のどんな人・本当にいたのか
疑問の人物を遠祖としており、かってに「佐渡」と称していましたので、直参でも
比較的その辺に精通していた者からは「佐渡」「佐州」などと呼ばれていたため土方
との問答についても「佐渡様」との記述もある。果たして、土方がその辺の機微を
わかっていたのか?それとも先祖に近い者による脚色なのか?疑問である。
450日本@名無史さん:2006/05/03(水) 20:27:13
有り難うございます。
ご先祖様の脚色・・・とのお考えですが、今日これほどに土方さんが庶民から
歴史的人物として名前が持て囃されるのはご先祖様も想像出来なかったかと
思います。会話は、そのままの言葉ではないか、と。

燃えよ剣にもありますが先祖伝来の家禄と家名の存続と猟官運動に目端をきかせていた
幕府官僚達(これはこれで仕方ない事だと思います)と侍にあこがれて、侍の形を模索して
死闘してきた人物の粉飾ない言葉だと思います。
ご先祖様の言葉も、良識ある人物の選び出した言葉だと思います。

やたら死ぬのは武士の本懐ではない。
しかし土方さんは生きて来た道で敵味方の血を流し過ぎている。
もう、安穏とした道はなかったのでしょう・・・と本日の文献を感慨深く読ませて
頂きました。
451日本@名無史さん:2006/05/04(木) 02:04:32
実際武家は簡単に死ねるものではないからね
大身になるほど養うべき人が多いし
当主の行動一つで一族郎党の運命も左右されるから
身一つで動いてる連中と一緒にはいかない
だから、にわか侍に尤もらしい事言われると腹が立ったのだろうと思う
452日本@名無史さん:2006/05/04(木) 08:39:24
土方とご先祖さんとの会話は出来れば番外として載せてほしいな・・・
453日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2006/05/04(木) 10:39:00
「五稜郭編8 負傷者後送@」
 出港まで並行して実施していたのは、戦傷者の処置でした。軽傷特に自走
できる者については、奥羽各地に点在する霊山・社寺に託し頃合を見て(自
己判断で)帰郷するべく一定の金銭を与えるとともに、匿ってもらう社寺に
も相当の金銭を渡しましたが、どの程度まで社寺に渡ったのかは知りようも
なく着服した者もかなりいたのではないかと思います。
さて、動けない者についてはそのままにする訳にもいきませんが、艦上では
傷が化膿し死にかねないので、「同行したい」と熱望する者も含め全員江戸
に戻すことにしました。松本(良順)先生の息のかかった病院に運び治療し
ようとした考えました。「問題は、重傷者をどのように搬送するか」でした
が艦隊北上は、諸外国にも知れ渡っていたため、外国船を押さえようとした
ならば膨大な金額を吹っかけられたのでこれは無理。陸路を取っても、会津・
宇都宮・川越等々には官軍が溢れているのは明白でとても数人単位でも江戸
には入れない。そんな空気の中、負傷して動けない直参出身の指図役が、「
切腹する」と騒ぎまして困ったものでした。そんな中、松本先生が一通の書
付を「仙台藩丁ではなく、仙台の長吏頭のもとに持っていけ」と下僕に託し
たのが出港前日の11日朝でした。
454日本@名無史さん:2006/05/04(木) 11:46:33
大変な事ですねぇ・・・沢山の無名の死傷者・・・
これを読ませて頂くと、だんだんと戊辰戦争の全容が浮かび上がってきます。
戦況や人物、人情、取り巻く社会状況が分かり易い戊辰戦記はありませんでした。
455日本@名無史さん:2006/05/04(木) 11:56:29
大変な事ですねぇ・・・沢山の無名の死傷者・・・
これを読ませて頂くと、だんだんと戊辰戦争の全容が浮かび上がってきます。
戦況や人物、人情、取り巻く社会状況が分かり易い戊辰戦記はありませんでした。
456日本@名無史さん:2006/05/04(木) 12:31:16
あっ二重投稿になりました。すみません。
457日本@名無史さん:2006/05/09(火) 00:49:52
止まっちゃったなぁ・・・
458日本@名無史さん:2006/05/09(火) 15:44:49
歴史は面白いね。
教科書的な表面的歴史と真実の乖離の大きさには改めて驚く。

余談ですが、下級御家人=同心=足軽と言う事を連休中はじめて知った、江戸時代
身分制度が確立しているようで曖昧な部分も多々あったようですね。
459日本@名無史さん:2006/05/09(火) 17:03:06
sage進行しましょう。
保守
460日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2006/05/09(火) 18:00:51
「五稜郭編9 負傷者後送A」
 11日昼過ぎ、仙台長吏頭の番頭を名乗る黒紋付の小藩の家老のような
佇まいの男が、筋骨隆々の若者数十名連れて現れました。「松本先生の指
図により傷病者を後送します」と言い、板で作った担架で瞬く間に搬送し
ていきました。私が思うに松本良順は、俗に言う穢多・非人の長たる関東
長吏頭 弾直樹(矢野内記)から旧幕時代に陸・海軍病院設立のため資金
を出させていたことから、「松本先生の大旦那(スポンサー)なので、仙
台のその筋に者に弾左衛門から命じさせて後送させた」と思いました。ま
あ、後送された者がその後どうなったかは知りませんでした。最後の厄介
は、駿府からの密書によりもたらされ出港直前までその収拾に追われます。
○私感
 松本良順と矢野内記については、単に交流があっただけではない。松本
は、維新のドサクサに乗じ、穢多身分の平民への繰上げを幕府に上申する
ことを餌に、矢野から旧幕軍の軍資金を捻出させている。実際、鳥羽・伏
見敗戦後に旧幕府から、順次平民への身分格上げの沙汰を受けたがどれほ
ど効果があっただろうか?矢野は、官軍なよる江戸進駐以降、薩摩を相手
に改めて身分解放について交渉することになる。また、矢野の支配下は、
東日本の被差別部落全てとなつていることから、仙台の長吏(彼らは、自
身を「穢多」と言わず「長吏:特定職業従事者」と称していた)にある程
度影響力はあった者と思われる。江戸開城時点で薩長に対し、矢野は、先
祖が徳川家康に対して出した先祖の由来書(源頼朝の末流であることと、
鎌倉御判二十八種の元締めであること)を提出しているため、脱走旧幕軍
の肩を持つことは考え難い。松本との関係を清算したい矢野が泣く泣く協
力したか、仙台の長吏頭を松本が騙したか、そんなところではないでしょ
うか?
461日本@名無史さん:2006/05/11(木) 22:10:12
浅草弾左衛門ですか。燃え剣にも登場しましたね。
462日本@名無史さん:2006/05/16(火) 11:55:31
保守します。
463日本@名無史さん:2006/05/16(火) 15:46:41
ほしゅ
464日本@名無史さん:2006/05/17(水) 23:40:37
保守します。
ご維新にはそういう混乱の事情もあったんですね。
465日本@名無史さん:2006/05/21(日) 10:05:38
とまりましたねぇ
466日本@名無史さん:2006/05/24(水) 23:36:11
再開
467日本@名無史さん:2006/05/24(水) 23:48:51
>>460を読む限りでは、これは現代人が書いた創作小説だね。
468日本@名無史さん:2006/05/25(木) 03:00:00
小説でもいいよ。
面白い。
469日本@名無史さん:2006/05/30(火) 15:26:41
>>98
について、わが先祖の友軍の話なので、素朴な疑問を
この日の因幡の戦闘の負傷者は四名、そのうち二人は自分の砲が自爆したためによる負傷
残り二人は鉄砲傷、幕府軍の砲は何に当たったのですか。
野州、広野で先祖が戦死しています。幾つか疑問がありますので
是非ご教示ください。
470日本@名無史さん:2006/05/30(火) 15:45:33
>>100
序なのですが、最初から、つまり当初から、一度負けて淀に帰ると考えていたのですか
三日の夕刻戦闘が始まるまで阻止されて後退すると幕府軍は読んでいたんでしょうか
471日本@名無史さん:2006/06/01(木) 20:33:34
jisakujien no kahori
472日本@名無史さん:2006/06/03(土) 03:03:59
Fin
473日本@名無史さん:2006/06/08(木) 23:07:12
差しでがましいとは思いますが、ブログとかでは如何でしょうか?
嵐的な書き込みもなくなりますし・・・
>>461 新潮文庫板では229pに登場していますね。
人事は尽くす物、動かす物、ただ槍や刀に強いだけでは生き抜けなかった
幕末の志士達の大変さが身に染みます。
474日本@名無史さん:2006/06/12(月) 15:53:38
保守します。
475日本@名無史さん:2006/06/12(月) 19:40:16
残念、ついに終わったか・・・
476日本@名無史さん:2006/06/12(月) 19:57:17
部落ネタに触れた途端に愚にもつかないケチをつける馬鹿が湧いたね。
いつもながら実に分かり易い反応だ。
477日本@名無史さん:2006/06/12(月) 21:39:32
保守させて頂きます
478日本@名無史さん:2006/06/16(金) 12:44:13
保守。
正しい日本語、美しい言い回しなども、こちらで勉強させて頂いています。
続きをお待ち申し上げておりますので。
479日本@名無史さん:2006/06/20(火) 03:36:43
ほす
480日本@名無史さん:2006/06/22(木) 23:11:18
保守
481日本@名無史さん:2006/06/25(日) 23:34:38
保守します。
早く梅雨が終わるといいですねぇ・・・
482日本@名無史さん:2006/06/26(月) 20:21:35
ほしゅ
483日本@名無史さん:2006/07/01(土) 09:39:03
さがりすぎじゃあ
484日本@名無史さん:2006/07/01(土) 10:43:28
幕末大政奉還時もうすでに幕府財政は破綻してたんですかね?
485日本@名無史さん:2006/07/01(土) 16:42:44
じゃ、あげさせて頂きます。
開陽丸にはすごい軍資金が積まれてたとか?
なんで幕府はお金なかったんでしょうか?
486日本@名無史さん:2006/07/04(火) 01:22:36
現代と一緒じゃない?外国に借金とかさ・・・
487日本@名無史さん:2006/07/04(火) 04:23:11
軍艦は買うわ台場は築くわ攘夷派が外国人ぶった斬ったら
賠償するわ。これで金が余ったら不思議ですな。
488日本@名無史さん:2006/07/06(木) 19:43:52
なけなしの金で買った軍艦が甲鉄でしたか・・・・゚・(つД`)・゚・
489sage:2006/07/09(日) 12:30:04
保守
490日本@名無史さん:2006/07/10(月) 21:23:47
保守です。
491日本@名無史さん:2006/07/15(土) 12:28:50
保守。暑いですね〜
492日本@名無史さん:2006/07/16(日) 18:32:51
ここは終了したのか(´・ω・`)
493日本@名無史さん:2006/07/17(月) 17:37:13
一回あげとく
494日本@名無史さん:2006/07/20(木) 12:45:41
保守。ここが始まってからもう2年半経つんだ…
495日本@名無史さん:2006/07/21(金) 15:36:50
そうですか、ここを長く楽しみにしている方々がいらっしゃるんですね。
わたくしはここ半年くらいです。
お忙しいでしょうがなんとか再開して欲しいです。
496日本@名無史さん:2006/07/22(土) 02:42:19
続きはお花畑板でやれば良い。
497日本@名無史さん:2006/07/22(土) 11:21:16
糸冬 了
498日本@名無史さん:2006/07/25(火) 20:05:47
あげます。
499日本@名無史さん:2006/07/25(火) 20:40:13
>>498
何のために?
500日本@名無史さん:2006/07/26(水) 17:47:40
みんなのために
501ぬらりひょん:2006/07/31(月) 23:39:50
いいかんじに下がってきましたな。
そろそろスレ主様の復活を・・・・
502日本@名無史さん:2006/08/04(金) 19:23:10
しないだろ
503日本@名無史さん:2006/08/04(金) 19:35:55
アタシ、今でも思い出すなぁ。
いや、筆下ろしの時にね、パンテーをドッキドッキしながら下ろした。
そしたらね、あわびみたいなのがいるんだ。「ウワーッ」思わず声を上げてしまいましたよ。
「モ、モザイク、モザイクないよっ!」アタシも何言ってるんだかわからない。
相手のお嬢さんもね、「どうしたの?どうしたの?」って尋常じゃないんだ。
当時ね、AVばっか観てたんですよ。慣れって恐ろしいですよねぇ。
生身の人間にモザイクなんかあるわけ無いのに、有ると思ってしまっていたんですよねぇ。
無事に筆下ろし出来ましたけどねぇ、あの時、下ろしてなかったら、どうなっていたでしょうねぇ。
アタシにもわかりません。
504日本@名無史さん:2006/08/04(金) 19:58:15
幕末関連スレッドはだいたい例の長州馬鹿に荒らされるからな。
ここは数少ない良スレとしてじっくり育って貰いたかった。
505日本@名無史さん :2006/08/04(金) 21:17:46
とにかく夏を無事に過ごして欲しい。
そんなわけで保守(切実)
506日本@名無史さん:2006/08/04(金) 22:18:11
ハァ?どこが良スレ?
クソスレの間違いだろ
507日本@名無史さん:2006/08/08(火) 20:01:37
保守
508日本@名無史さん:2006/08/08(火) 23:47:12
主さんへ
仕事が忙しいのか何なのわからんが、一言くらい書き込んでも良いんじゃないか?
509日本@名無史さん:2006/08/16(水) 13:00:48
終わったな…
510日本@名無史さん:2006/08/25(金) 23:42:13
再開
511日本@名無史さん:2006/08/25(金) 23:56:16
そして、終了
512日本@名無史さん:2006/08/26(土) 11:29:12
ファンです。
513日本@名無史さん:2006/08/28(月) 19:00:26
ネタが思いつかんのだな、きっと…
514日本@名無史さん:2006/08/28(月) 19:02:12
( ゚∀゚)
515日本@名無史さん:2006/08/28(月) 19:14:49
508に同意
516日本@名無史さん :2006/08/29(火) 01:06:25
保守
517日本@名無史さん:2006/09/04(月) 14:07:06
保守… 
秋近し スレ主 復活 願いたい
518日本@名無史さん:2006/09/05(火) 18:55:19
秋近し スレ主何を する人ぞ
519日本@名無史さん:2006/09/05(火) 19:33:43
たんに1が飽きただけだろ。
520日本@名無史さん:2006/09/05(火) 20:08:04
結局、スレ主の壮大な釣りだったってことで。
521日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2006/09/06(水) 14:08:22
 大変ご無沙汰しています
ブログ等の他媒体への移行と最新情報・調査結果に基づき加筆・修正する
つもりです
詳細はのちほどに
522日本@名無史さん:2006/09/06(水) 14:16:39
>>520に本当のことを言われて、慌てて1が出てきたのが笑えるw
523日本@名無史さん:2006/09/06(水) 19:23:31
詳細はのちほどに…

何ヵ月後ですか?
524日本@名無史さん:2006/09/06(水) 19:42:46
愚にもつかない煽りなんか気にしなくていいからジックリやってよ。

このスレッドは日本史板で一番楽しみですよ。
525日本@名無史さん:2006/09/12(火) 00:30:41
明日から涼しくなる見たいですね。
526日本@名無史さん:2006/09/13(水) 00:29:31
よかった・・・
527日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2006/09/17(日) 01:31:13
来月からブログに移行します
528日本@名無史さん:2006/09/17(日) 02:45:48
そりゃあ良い
529日本@名無史さん:2006/10/01(日) 01:18:29
一応保守しとくか・・・。
530日本@名無史さん:2006/10/02(月) 18:07:30
まだかなぁぁぁ
531日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2006/10/10(火) 14:30:32
ヤフーブログ→検索:幕末→どしょづけ

今週末から書き込みます。陸軍入隊から
はじめる予定で、いきなりこのスレの続き
からのスタートではありません。
532日本@名無史さん:2006/10/10(火) 22:49:00
期待しています。大変だと思われますが、
がんばってください。
533日本@名無史さん:2006/10/10(火) 23:52:38
な〜んだ、やっぱり創作小説だったというわけか。
書いてるのは主婦?
534日本@名無史さん:2006/10/11(水) 10:49:54
お待ち申し上げておりました。見てきたけど、まだだった…。フラインングしてしまった。
プロフィール見たら同学年らしく驚いた。うちのジイチャンは第二次世界大戦の話しかしてくれんかった。
535日本@名無史さん:2006/10/11(水) 15:40:53
URL教えていただけると有り難いのですが
536日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2006/10/11(水) 16:31:59
http://blogs.yahoo.co.jp/kunpou2001
今週の土曜日から書き込みます。
かつて、小学校高学年の時も夏休みの自由研究で「先祖」について扱った
が心無い?担任から「「空想」を宿題にするな」と再提出を要求されまし
た。まあ、史実かどうかは読んだ方の判断に任せます。
まあ、創作だったならばもっとうまく劇的に歴史上の人物と絡ませますよ。
537日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2006/10/11(水) 20:42:44
あと、ブログの該当部分については「ファンのみ」にして、あまり本筋に
そぐわない書き込みが来ないようにしますのでよろしくお願いします
538日本@名無史さん:2006/10/14(土) 16:39:58
待望の再開
539日本@名無史さん:2006/10/14(土) 17:20:59
ファンってヤフーでブログやらないと駄目なの?
私もブログはやってるけどヤフーじゃない。
ちょっとその辺考えていただきたいなあ。
540日本史 ◆JEhW0nJ.FE :2006/10/14(土) 18:08:41
↑外しておきました
541日本@名無史さん:2006/10/14(土) 18:39:53
ありがとうございます。
542日本@名無史さん:2006/11/05(日) 10:43:53
よかった・・・
543sage:2006/11/27(月) 22:34:21
うん
544日本@名無史さん:2006/11/27(月) 22:41:37
戊辰戦争
545日本@名無史さん:2006/11/28(火) 00:07:58
スカパーの時代劇専門チャンネルで『新撰組血風録』やってるんだけど
観てるヤシいる?
来月からは『燃えよ剣』やるよ〜
546日本@名無史さん:2006/11/28(火) 00:36:17

このスレにこういうカキコがなされているいう事実が、
このスレがどういうレベルの連中に受けているかを物語る
547日本@名無史さん:2006/12/13(水) 19:06:44
ブログの[4]読みました
最初から始めてるんですね
これじゃまだまだ函館に辿り着かないな
548日本@名無史さん:2006/12/13(水) 19:18:07
戊辰戦記?=戊辰戦争のことですよね(´〜`;)
549日本@名無史さん:2007/01/20(土) 17:09:27
なぁんかさぁ、ブログになってから、つまらなくなったと思うのは俺だけか…
550日本@名無史さん:2007/01/20(土) 21:41:11
yahooのブログって閲覧しにくいからじゃね
551日本@名無史さん:2007/01/21(日) 03:04:15
書いてる人は何者なんだろ?
552日本@名無史さん:2007/02/23(金) 11:50:54
ずいぶん長く過疎っているね。
553日本@名無史さん:2007/02/23(金) 13:11:11
幕臣にも内通者結構いたんだっけ
554日本@名無史さん:2007/02/23(金) 13:42:19
>>551
単なる幕末オタとみた
555:2007/02/24(土) 01:56:05
むん!
556日本@名無史さん:2007/02/24(土) 16:42:33
携帯では非常に見にくいな
557名無しさん@Linuxザウルス:2007/03/10(土) 20:25:01
あげ
558日本@名無史さん:2007/04/05(木) 00:43:00
ほー
559日本@名無史さん:2007/07/31(火) 03:18:32
ここのファンって何人ぐらいいるのかな?
560日本@名無史さん:2007/08/07(火) 23:05:20
面白い話だけどネタっぽいよね。
561日本@名無史さん:2007/09/18(火) 13:31:22
ネタっぽいけど、”幕府歩兵隊”をベースに様々な文献も付加されており、
大筋では史実にあっている。
562日本@名無史さん:2007/09/27(木) 11:37:42
うわ〜。ここ、まだあったんた。

ブログ、確かに読みにくいんだよね。字も小さいし。
ここのほうが読みやすかった。
563日本@名無史さん:2007/10/04(木) 10:47:00
戊辰戦争全体像がわかる小説を探しているうち、ここにたどり着きました。
いや〜一週間くらいかけて仕事の合間に読んだけど、下手な小説よりおもしろい!

スレ違いですけど、会津贔屓、薩長贔屓とかじゃなく、
純粋な戦記物のような小説ないですかね〜?

次からブログにもお邪魔しようと思いますので、あげ
564日本@名無史さん:2007/10/06(土) 22:19:40
戦記と言えるほどの小説はないでしょうね。
たかだか140年前の事でも定かでない事が多いし、日本の歴史家は軍事に疎すぎ。
ここに比べれば幼稚園レベルのものばかりw
565日本@名無史さん:2007/10/06(土) 23:14:41
私は見た
566日本@名無史さん:2007/10/10(水) 13:39:01
幕府陸軍砲兵の定かな情報って皆無だね。
活躍しなかったのは事実だろうが、それなりの戦力があったろうに?
567日本@名無史さん:2007/10/17(水) 20:49:58
反日本親朝鮮の記事捏造アサヒる新聞は日本から出て行け。
568日本@名無史さん:2007/11/08(木) 17:32:13
会津に入ってきた薩長土肥を歓迎する会津の農民に
私はこれまでの会津の悪政を痛感したが
そのような史実は封印したのである
569日本@名無史さん:2007/11/08(木) 21:14:03
思うんだけどさ
会津って悲劇を売りにしてるけど
京都守護職に就いて
勤皇の志士を惨殺してたじゃん
仕返しされる要因はたっぷりあったわけじゃん
何被害者意識だけ振りまいてるの?
やる事が支那・朝鮮だよ会津って
570日本@名無史さん:2007/11/08(木) 23:14:56
n
571日本@名無史さん:2007/11/08(木) 23:16:10
関係ない話はよそでやれ
572日本@名無史さん:2007/12/25(火) 22:44:37
>>569
テロを頻発する”勤皇の志士”を討伐する事はれっきとした警察行為!

573日本@名無史さん:2007/12/26(水) 05:39:17
>>569
俺はリアルで「長州はゆるせねえ」っていう古老の言葉を聞いてるからな

けど会津が一方的な被害者じゃないということは2チャンの各スレでわかった
けど俺は旅行好きだから行く先々の古老に「会津はひどい目にあってかわいそうだったね」って言われるんだ(俺は会津生まれ)
なんか悲しくなってくるんだよ。。。(涙。。。
574日本@名無史さん:2007/12/26(水) 11:54:50
被害者という言い方はおかしいが
幕府(日本政府)の為、最も職務を全うした会津藩がテロリスト薩長から目の仇
にされる構図。

かつてベトナム戦争で、人道・平和を叫んでる連中が共産側の虐殺に目を瞑り
サイゴン陥落以降の悲惨なボートピープルに対しても、旧体制側の連中だから
悲惨な目に遇っても当然というのと同じ構図。
575日本@名無史さん:2007/12/26(水) 23:23:14
「薩長憎し」て゛、スレ立てろ!
ここの空気をかき混ぜるな
576日本@名無史さん
ほー