907 :
日本@名無史さん:04/02/03 01:06
もう立てました
908 :
日本@名無史さん:04/02/23 13:40
もうしばらく、あげとく。
909 :
日本@名無史さん:04/02/24 22:13
age
910 :
日本@名無史さん:04/03/13 22:27
911 :
日本@名無史さん:04/03/16 21:30
age
912 :
日本@名無史さん:04/03/16 21:42
age
913 :
日本@名無史さん:04/03/17 21:25
座光寺家が男爵位を取り損ねました
914 :
日本@名無史さん:04/03/17 21:54
幕臣の鈴木氏について教えてください。
915 :
日本@名無史さん:04/03/22 19:41
age
916 :
日本@名無史さん:04/03/22 20:07
age
917 :
日本@名無史さん:04/04/15 23:00
918 :
日本@名無史さん:04/05/03 12:36
age
sage
新撰組・幕末モノの展示会が多いが、旗本八万騎の
事に触れたトコは無いなあ・・・
921 :
日本@名無史さん:04/05/07 23:48
age
座光寺ってそんなに名族なのか?
あれより家柄のよい旗本なんかざらにいそうだが。
千石そこそこの小禄でしかないのに交代寄合っていうのも
おこがましいのに、華族なぞもってのほかだろ。
家柄で言えば、高家なんかの足下ににも及ばないんじゃないか?
この家が、特殊な扱いを受けた理由のわかる人いる?
923 :
日本@名無史さん:04/05/23 18:03
確か倒幕に参加したじゃなかったかな?
でも肝心かなめの決戦に間に合わなかった木がする。
924 :
日本@名無史さん:04/06/18 21:19
>>922 官軍側に付いて江戸入リ後山吹藩を称す。
どうやら、俺の書き方が悪かったみたいだな。
華族になり損ねた理由じゃなくて、交代寄合になれた経緯が知りたい。
大名の分家筋でもないし、禄高も千石そこそこしかない。
為朝の子孫と名乗ってるらしいが、藤原氏として紹介してるケースも
あるらしい。
正真正銘の為朝の子孫ならともかく、なんか嘘くさいように思う。
他の交代寄合に比べて、家格は数段劣るような気がするのは俺だけか?
別に座光寺家に悪意があるわけではないが、この家が交代寄合というのは
不思議に感じたのでな。
そこのところ詳しい人どうぞよろしく。
927 :
日本@名無史さん:04/06/26 00:11
旧来の豪族だからじゃない。知久家と並んで信濃衆と呼ばれていたし、
東西高木家も美濃衆として寄合だったし米良家も無高でもなっている
し、元々は徳川家の家臣じゃなかったから寄合になったかもしれない。
ただ座光寺も知久も関東転封時にはついていったはず。
大坂の陣の陣立てでは那須衆・美濃衆・信濃衆と別に名前が出ている
から普通の旗本の扱いではない。
>927
レスありがとう。
交代寄合と言っても2通りあるみたいだな。
交代寄合表御礼衆と交代寄合衆と。
前者は高禄で大名の分家などが多く格が高い。
後者はやや格落ちする。
座光寺家は後者に属するが、比較のため後者に属する家をあげてみる。
那須衆
○下野福原1000石 那須家(元大名)
○下野佐久山3500石 福原家
○下野芦野3016石 芦野家
○下野森田1300石 大田原家
*美濃衆
○美濃多良2300石 高木(西)家
○美濃多良1000石 高木(東)家
○美濃多良1000石 高木(北)家
*信濃(伊那)衆
○信濃阿島2700石 知久家
○信濃伊豆木1000石 小笠原家
○信濃山吹1115石 座光寺家
*三河衆
○三河松平440石 松平家
○三河大崎607石 中嶋家
これらの家は幕末時点で交代寄合だった家で時代により少し入れ替わりがあるらしい。
続き
この家々の中で、石高家柄ともに座光寺家は中途半端に感じる。
美濃衆の高木家は、西が本家、東 北は分家。あわせれば4300石の大身。
那須衆は高禄か前身が大名か大名分家。
三河衆中嶋家は板倉家の縁者。
信濃衆の知久家は高禄、小笠原は大名分家。
米良家は確か菊池の一族だったな。無石でも広大な山林を保持していたと聞いたことがある。
>ただ座光寺も知久も関東転封時にはついていったはず。
>大坂の陣の陣立てでは那須衆・美濃衆・信濃衆と別に名前が出ている
>から普通の旗本の扱いではない。
ここの特殊扱いされた理由がわかれば、謎は解けるかもしれないな。
大阪の陣までに座光寺家と徳川家との間に何かあったんだろうか・・。
後、旧来の豪族であるかどうかについては、あまり関係ないような気がする。
旧来の豪族で3000石以上でも単なる寄合という家もあるしね。
長文スマソ
>>922さんへ
レスありがとうございます
信濃衆や美濃衆だけではとても1軍団を形成できるだけの動員力はなかったの
に別扱いになっているのは変ですし、米良家などはとても以前に徳川と接点
が合ったとは思えませんから寄合と普通の旗本と分ける基準は何だったの
でしょうね?
名家コレクターの家康がこれらの家よりもはるかに家格の高い家を普通の旗本
にしかしてないのはなぜでしょうか?
交代寄合を研究している人でいるでしょうか。
>>927氏
こちらこそどうも。
ところで、上で旧豪族か否かはあまり関係ないのではと書いたが、訂正を。
交代寄合表御礼衆も交代寄合衆も、徳川・松平家に歴代仕えてきた家は皆無に等しい。
そうだとすると、旧豪族として自立した存在であった事は、要件の一つとも考えられる。
但し、旧豪族であれさえすればよいという訳でも無いと考える。
その他の要件も併せて考慮されたのではないだろうか。
その他の要件とは、やはり禄高かという気がするが、旧豪族+禄高という単純なものでも
無いだろう。
具体的なメルクマールをご存じの方がいれば是非教えてください。
933 :
日本@名無史さん:04/07/04 21:40
age
旗本って
>>885みたいに将軍直参、忠誠心が厚くあるべしみたいなイメージがあるけど、
単に領地の過多と格式の差だけだよな?
外様(って言い方は変かも知れないが)あがりのやつも多いだろうし
1万石の小大名と9000石の旗本の間に大差があったとも思えないんだが…
935 :
日本@名無史さん:04/07/29 14:42
揚げ
936 :
日本@名無史さん:04/08/22 22:21
age
937 :
日本@名無史さん:04/08/23 19:59
>>934 参勤交代で領地と江戸を行ったり来たりの大名と、江戸常駐の旗本は、
やはりかなり違いはあるよ。
旗本のほうはその分の余裕で、幕府内の要職に就いたりできたから。
938 :
日本@名無史さん:04/09/12 17:20:10
>>934 島津、浅野、池田、鍋島、松浦など外様大名の分家で旗本になった家もある。
939 :
日本@名無史さん:04/09/12 17:27:03
旗本の人名辞典を見てみて。結構あるよ。
940 :
日本@名無史さん:04/10/01 22:33:31
941 :
日本@名無史さん:04/11/11 01:04:32
942 :
日本@名無史さん:04/12/03 10:11:59
943 :
日本@名無史さん:04/12/31 01:04:52
なんで
944 :
日本@名無史さん:04/12/31 02:16:16
下級幕吏から五百石の旗本に成り仰せた川路左衛門尉聖謨を忘れてもらっては困る。
肖像画をみると佐藤慶のような顔をしているが、皆さんご存じじゃな?
945 :
日本@名無史さん:05/01/15 23:56:47
旗本の知行地の村でも盛んに新田開発が行われたようですが
この増収分はどういった扱いになったのでしょうか?
大名家では新田開発による高直しや○○新田藩の立藩という話をよく聞きますが
旗本では加増以外で高直しなどによる石高増などはあったのでしょうか?
ごぞんじの方は教えてください。
946 :
日本@名無史さん:05/01/30 23:15:50
尋ね人
私の先祖が仕えていた、梶清三郎 禄高1000石 知行地常陸国 外国奉行並 維新後行方が判りません。ご存知のかたいらっしゃいませんか。
947 :
日本@名無史さん:05/01/31 00:06:56
>>944 勝海舟が氷川清話で「川路は取り立て者だから人が悪くてね。こすくてね」と
朝起きると槍を200本突き毎日小普請組頭宅に通って就職運動
14歳で元服してからそんなことずっとやってた
その間養母は毎日水垢離を取ってたというからよく死ななかったものだ
筆算吟味に合格して勘定所の出役に採用されてからはトントン拍子
949 :
日本@名無史さん:05/02/27 23:02:31
もう死んだよ
951 :
渡辺の名無しさん:05/03/13 17:57:43
>>914 家の先祖の親戚。鈴木氏から養子をもらっている。
ちなみに我が家は、千石取りの旗本。
京都で、町奉行やっていた。
渡辺半蔵守綱の遠縁。
952 :
日本@名無史さん:05/03/14 15:37:41
>>950 勝の場合、じいさんが成り上がりとなるのか?
953 :
日本@名無史さん:05/03/14 18:03:31
【1】勧修寺村の道徳が、明応二年の元日、蓮如上人のもとへ新年のご挨拶にうかがったところ、上人は、
「道徳は今年でいくつになったのか。
道徳よ、念仏申しなさい。
念仏といっても自力と他力とがある。
自力の念仏というのは、念仏を数多く称えて仏に差しあげ、その称えた功徳によって仏が救ってくださるように思って称えるのである。
他力というのは、弥陀におまかせする信心がおこるそのとき、ただちにお救いいただくのであり、その上で申す他力の念仏は、お救いいただいたことを、ありがたいことだ、ありがたいことだと喜んで、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と申すばかりなのである。
このようなわけで、他力というのは他の力、如来の本願のはたらきという意味である。
この信心は臨終まで続き、浄土に往生するのである」
と仰せになりました。
954 :
日本@名無史さん:05/03/14 18:17:02
>>952 いや
勝家も川路家と同じ小普請だからまともなら一生うだつが上がらずに終了
海舟は7歳のとき徳川家慶の五男初之丞の御学友に抜擢され
その後は蘭学・兵学を学んで英才の聞こえが高く
ペリーが来て外国対策に蕃書調所が開かれるとすぐ採用された
小普請から役を得たという意味では勝海舟自身が取り立て者
しかし自分は招かれて役に就いたのだと思っていたから
筆算吟味から成り上がったソロバン侍・川路をバカにしていた
>>946 ご自身の先祖でなく、主人とは珍しい
梶清三郎という人に心当たりはないですが、まず菩提寺の浅草の浄念寺に
あたってはいかが?
956 :
日本@名無史さん:
>>955 有り難うございます。浄念寺に行ってみます。
私の五代前が建てた墓誌名に主人旗本梶清三郎の名が書いてあったので(知行地等)調べています。