1 :
日本@名無史さん:
軟弱で柔弱で文弱だからなー
3 :
日本@名無史さん:03/12/03 13:49
重盛は清盛が亡くなる2年前に逝っているのだが
6 :
日本@名無史さん:03/12/03 14:08
清盛にしろ、信長にしろ、秀吉にしろ、足利義満にしろ、偉大な人が死んだら。
周りは、彼に頼って生きていた人たちだけ。
つまり、自分達がリーダとして、やっていけない。
徳川家光は、その点利口だったのだろう。
7 :
日本@名無史さん:03/12/03 15:14
源平の争いの頃は後世に比べて政権基盤が脆いんだよ
だから、あっけなく崩れる
8 :
日本@名無史さん:03/12/03 15:20
やはり、権力者が、後継者を育てない、または、ナンバーツーを排除したことに
問題があるのではないだろうか?
自分の存在を脅かすものを、自分の家から、周りから排除してしまった。
で、自分が死んだら、指導者がいなくなる。
そこを、他の家に狙われる。
>>8 誰もが認める不動の後継者が先に病で逝ってるこの場合はそれに当たるのかね
不仲だなんだといわれても排除しようとはしとらんかったようだが。
10 :
日本@名無史さん:03/12/03 15:34
しかし頼朝はやいねぇ
挙兵わずか10年で平家、義経、藤原氏をあいつで滅ぼしたわけか。
これより早い天下取りって楚漢争覇時代の劉邦ぐらいしかいないん
じゃないの?
たしか挙兵してから8年で項羽を滅ぼして皇帝になったはず。
家康は微妙。関が原自体は1日で決着がついたけど・・・・
11 :
日本@名無史さん:03/12/03 16:21
>>9
その他の後継者は?
意外なほど、大人物はいない。
大概が、源氏とからんで、平家自らの手で滅ぼしてないか?
しかしアメリカはやいねぇ
参戦わずか3年8ヶ月でイタリア、ドイツ、日本をあいついで滅ぼしたわけ
か。
これより早い天下取りって他にないんじゃないの?
13 :
日本@名無史さん:03/12/03 17:45
清盛はDQN
14 :
日本@名無史さん:03/12/03 18:39
一応源氏も平氏も皇族の子孫なわけで貴種なわけだが
.>>13
>>14 何代たってんだよ。
それに貴種だろうが何だろうがDQNはDQN。
16 :
日本@名無史さん:03/12/03 21:22
大仏を焼いたの松永久秀が有名だが、元祖大仏焼きは
重盛な罠。
17 :
日本@名無史さん:03/12/03 21:30
↑
重度
18 :
日本@名無史さん:03/12/03 21:33
↑
重衡
20 :
日本@名無史さん:03/12/04 03:31
酷くレヴェルが低いスレだな。藁
21 :
日本@名無史さん:03/12/04 03:32
平家の軍の主力は?
22 :
日本@名無史さん:03/12/04 22:58
23 :
日本@名無史さん:03/12/16 00:16
24 :
日本@名無史さん:03/12/16 01:24
武士は頼朝についたほうが土地関係で得なんじゃなかったっけ?
25 :
日本@名無史さん:03/12/16 05:12
平家は保元の乱とか平治の乱など喧嘩程度の合戦の経験しかなく、
大軍勢を率いた合戦のマニュアルを持っていなかった。
源氏は前九年の役、後三年の役の経験から大合戦の経験とマニュアルを持っていた。
この差は大きい。
26 :
日本@名無史さん:03/12/16 09:15
前九年の役、後三年の役ってそんなに兵力多かったっけ?
27 :
日本@名無史さん:03/12/16 12:35
>>25 後三年の役の兵力が、どれだけ多かったかは知らんけど、
後三年の役と治承寿永の乱と、何年離れてると思ってるのさ。
保元の乱の経験者ですら、治承寿永のころには年寄りになってたっていうのに。
そもそも、軍隊としての統率なんかほとんど取れてなかったこの時代に、
大合戦のマニュアルもくそもあるもんかい。
28 :
日本@名無史さん:03/12/16 21:15
後白河の幽閉と関白流刑を纏めてやったのが命取り。
あれで皇室・摂関家ゆかりの南都寺院を敵に回して以仁王を担いでの「清盛包囲網」が出来た。
義仲や頼朝も最初はその手駒の一つに過ぎない。
29 :
日本@名無史さん:03/12/20 17:40
平家はなぜ脆かった・・・って、根性が足りなかった。
30 :
日本@名無史さん:03/12/20 22:15
>27
いや、現代のマニュアルのようなものは、当時の家伝としてあった。
前九年、後三年の役を戦ったのは大阪の河内源氏の八幡太郎義家とその父の頼義であり、
河内国の源氏本拠地には家伝として合戦の経験が伝えられていた。
だから清和源氏の中でも河内源氏の一族のみが合戦に強かった。
>26
前九年や後三年の役は、いずれも万単位の兵力の戦い。
31 :
日本@名無史さん:03/12/20 22:18
>30
平氏でも、清盛らの平家=伊勢平氏の一派と違って、
源頼義、義家と共に前九年の役、後三年の役を戦った坂東の平氏は強く、
そして源平合戦の時の源氏の兵力の大半は坂東の平氏系武士だった。
32 :
日本@名無史さん:03/12/20 22:20
つまり、大阪の河内源氏と坂東の平氏が強かったということですね。
源頼朝は河内源氏の子孫だし、頼朝の舅の北条時政は坂東平氏の一つ。
33 :
日本@名無史さん:03/12/20 22:59
>>30 万単位を動員してたのは現地の連中じゃないの?
34 :
日本@名無史さん:04/01/02 17:44
平家伝家の宝刀の名前が良くなかった。
35 :
日本@名無史さん:04/01/02 17:49
以前にテレビ番組でやっていたけど
平家一門は京風の優雅な生活に馴染みすぎて
武士らしさがなくなってしまったため戦争になると弱かったそうだ
その一例として平家一門の頭蓋骨の顎の骨が狭いことを上げていた
それは柔らかい物を食べていたために顎の発達が遅れいた証拠だそうだ
顎の発達が遅れていると脳の発達も遅れ、いざという時にパニックを起こしやすい
ヒステリー気味の性格になりやすいそうだ
36 :
日本@名無史さん:04/01/03 20:08
≫35
え?平家一門の頭蓋骨って?誰の墓を発掘したの?肖像画からの想像?
あぼーん
38 :
日本@名無史さん:04/01/06 18:32
test
39 :
日本@名無史さん:04/01/06 20:16
平家は武士の尊崇を集めるような戦をしてないからだろ。
源氏は前九年の死闘で棟梁の立場を確固たるものにしたがな。
わけのわからんこといってんじゃねーよ。
41 :
日本@名無史さん:04/01/19 21:05
平家ってさ、女系はシブトク生き残っているね。
清盛の娘達、冷泉家、坊門家、花山院家の姫、孫姫、曾孫姫達が入内して未来の
帝を産んだりしてるし、教盛や頼盛、清盛夫人の姪なんかも皇室に血を入れている。
一方で源頼朝の弟と北条政子の妹の子孫である阿野家からも阿野廉子が登場して
天皇を産んでいる。脆いようでシブトイね。源平は。
阿野廉子って藤原北家閑院流じゃねーの?
43 :
日本@名無史さん:04/01/20 09:34
内大臣藤原公教の孫の公佐が阿野全成の娘と結婚。阿野全成の男子は処刑されて
いたので公佐の息子実直の代から阿野姓を名乗る。実直の曾孫が廉子。
44 :
日本@名無史さん:04/01/20 13:55
重盛が病死せずに清盛の跡を継いでいても、やはり源氏に滅ぼされたかな?
ま病死は免れても結局親父と大天狗の喧嘩の仲裁で、
心労で寿命を縮めそうな気はするが。
45 :
日本@名無史さん:04/01/20 16:05
46 :
日本@名無史さん:04/01/20 17:12
平氏の一門である北条氏が、源将軍家を三代で終わらして、
実質上の天下をとって復活してますが、何か。
脆くて滅んだのは平氏の桓武流の一族(伊勢平氏)だけでっせ。
47 :
日本@名無史さん:04/01/20 17:17
とりあえず知盛が最強ってことでよろしいか?
48 :
日本@名無史さん:04/01/20 18:15
この時代のマンガ→火の鳥・乱世編
50 :
日本@名無史さん:04/01/20 20:03
おっそろしくレベル低いなぁ、ここ。誰かガツン!とやってやれww
平家が脆かったんじゃなくて、義仲と義経が異常な戦上手だっただけじゃん?
義仲と義経が直々に指揮をとった戦(と富士川)以外では平家も後れを取っていない。
52 :
日本@名無史さん:04/01/20 22:15
>>51 それ以外の戦いって、水島を除けば雑魚を蹴散らしただけでは?
53 :
日本@名無史さん:04/01/21 20:43
頼政(宇治川)、行家(墨俣川)、義基(河内石川)、この辺は雑魚か。
かつらざこば。
55 :
日本@名無史さん:04/01/21 21:18
その時歴史が動いた〜〜〜〜〜〜〜〜清盛
56 :
日本@名無史さん:04/01/21 22:13
たいらのざこば
57 :
日本@名無史さん:04/01/22 18:34
脆かったって何て読むの??
脆かった あ、読めた……………
義経戦い上手いよねっ!!
>>50レベル低いの???ここ…
平家の脆弱性が発見される
59 :
日本@名無史さん:04/01/23 20:26
義経は戦が上手いけど奇襲作戦大好きだから、味方も欺くわけで梶原さんに
嫌われるわけだ。しかし義経は何で平家を滅ぼした後に平清盛夫人の姪を妻に
したんでしょう?既に本妻がいたのに。静チャンもいたのに。
エロい人だから。
>>52 墨俣合戦は雑魚?
敗れた濃尾源氏は、頼朝に勢力を減退されながらも承久の乱では宮方主戦力の一つだよ。
一の谷も壇ノ浦も、三浦や千葉・甲斐源氏も従軍していながら義経参戦までは膠着していたという印象ですが。
>>58 言い得て妙
脆弱性が露見してても対応したパッチを出せなかった、と。
62 :
日本@無名史さん:04/01/23 21:34
>>59 義経が清盛の妻の弟(時忠)の娘を妻に迎えたのは決戦のギリギリになって時忠の方から和睦を申し込んできたから。その印にもらったみたい。時忠は壇ノ浦の時海には出ずに宗盛達に幽閉されていた。
63 :
日本@名無史さん:04/01/23 22:10
>>61 墨俣川に参戦した濃尾源氏って?
尾張の泉太郎くらいしか知らん。
承久の乱って惨敗じゃん。
64 :
日本@名無史さん:04/01/23 22:23
惨敗でも、佐々木氏や大内氏らと中心だったのは事実だし。
佐々木も大内も美濃人じゃないし。
濃尾の源氏はそういやいつも「宮方の主力」だね。
鎌倉幕府末期も、多治見や土岐、足助が後醍醐天皇のために討たれているし。
67 :
日本@名無史さん:04/01/24 00:47
>>66 いつも??
墨俣合戦は宮方≒平家方に敵対。
後醍醐にも反旗を翻す。
挙句の果てに院を犬とほざいて矢(ry
68 :
日本@名無史さん:04/01/24 01:01
なんで脆かったって「平家一門でなければ人にあらず」とか人から嫌われるような
事を言っているような連中は皆を敵に回して長続きしませんって。
(スレのテーマの原点に戻ってみた)
平家は武士であることを忘れて公家になった時点で、とうに、源氏には及ばない。
70 :
日本@名無史さん:04/01/24 01:03
御白河に見捨てられたのが最大敗因だろうね。
71 :
日本@名無史さん:04/01/24 01:03
平家は天皇の座を取ろうとした、源氏はむしろ距離を置いている。
時代に合わず崩壊しつつある物に荷担しては行けないのだ。
だが平家はそうしてしまった、平家の血がなせる運命である。
♪あはれ平家の ものがたり〜
身分の卑しい源氏には野蛮極まりない坂東の荒野のほうがすごしやすかったのかもしれない。
74 :
日本@名無史さん:04/01/24 09:37
≫68
皆様誤解されています。「平家でなければ人ではない」と言ったのは清盛夫人の
弟。平を名乗っているが六波羅平家とは違う家の人。清盛一族の人間が「平家で
なければ・・」と言った事実は無い。
安徳天皇と一緒に失われた三種の神器の方が気になるのだが。
76 :
日本@名無史さん:04/01/24 12:38
脆かったっつっても、20年ほどは清盛の政権下で
平和で安定した社会を築いてたんだから。
だが平氏といえば「傲慢」とか「滅亡」とかいうイメージしか無い。
このスレの住人全員に、清盛の実績にも目を向けてもらいたいものだ。
20年っつったら長いんだゾ。4年や5年じゃない。
20年も経てば社会状況は変わってくる。
今から20年前がどんな時代だったか思い出してみたまえ。
77 :
日本@名無史さん:04/01/24 13:35
78 :
日本@名無史さん:04/01/24 13:37
>>75 安徳帝とともに海に沈んだのは剣だけじゃなかった?
79 :
日本@名無史さん:04/01/24 13:45
1192年に幕府はできたが、
しかし、源氏も頼朝を1199年に暗殺?されて、
じわじわと平氏の北条家に乗っ取られて行くわけです。
>76
現在の20年と当時の20年では違うように思うが、それはともかく。
貿易、海運など、これまでと違った手法で社会構造に変化を起しながら、
権力構造は従来の公家社会を模したものに留まったのが清盛の限界で、
各地の武士に不満を持たせることになったんでないかな。
で、of the Bushi, by the Bushi, for the Bushi を唱えた頼朝に人気が集まったと。
81 :
日本@名無史さん:04/01/24 13:54
>>80 >各地の武士に不満を持たせることになった
不満とは何を指すのか?
82 :
日本@名無史さん:04/01/24 18:15
頼朝が勝ったのは丁度その年、東国は豊作で西国は凶作だったから。
富士川で勝利したのに都へ攻め上らなかったのは西国の凶作を知っていて
兵糧に不安があった為。
安徳天皇と沈んだのは剣だけど多分レプリカ。本物は熱田神宮にあったかも?
83 :
日本@名無史さん:04/01/24 18:49
>>74 それは平大納言時忠のことですね。
清盛からみて義弟ではあるし、
清盛も時忠の政治手腕を頼もしいとみて
重役に付かせていたので「平家に非ずんば人に非ず」という言葉を
当時の世人は平家の言葉として受け取った事でしょう。
84 :
日本@名無史さん:04/01/24 22:07
>>81 平家は、京を中心、つまり自分たち中心の支配体制を確立するにあたり、関東に平家党を送り込んだ。
これに危機感をもった関東武士団が頼朝を担ぎ出した。
85 :
日本@名無史さん:04/01/25 09:40
ドラえもんの「しずかちゃん」が源静(=静御前)だとすると
のび太くんは義経…?!
((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
平清盛の異母弟にあたる平忠度の顔写真を仕事で使います。
誰か資料持ってる方や、掲載申請しなくても転用していいHPなどを
知ってる方、教えてください。謝礼します
87 :
日本@名無史さん:04/01/25 10:20
清盛の親戚の北条家にあずけられていた頼朝が
北条家の娘を妊娠させて、ばれて殺される前に北条家と組んで
不利な状態な平家を攻撃して滅ぼした。
88 :
日本@名無史さん:04/01/25 17:54
清盛の継母の池禅尼が頼朝の助命をしたんでしたね。
あれが継母でなかったら、清盛の母の身分が低くなかったら、殺してたのかな?
北条時政の後妻が池禅尼の姪でしたね。
89 :
日本@名無史さん:04/01/25 19:20
後白河上皇の寵臣が鹿谷事件などを起こしたり
朝廷はいろんな方面に手をのばしていたから
頼朝と組まなくても他の勢力を使って平家の政権はつぶされていたと思う。
平家の政権は清盛一代で絶える運命だったと思う。
90 :
日本@名無史さん:04/01/25 19:36
朝廷(後白河法王)としては、武家の伸張を望まなかった。
なら、武家との関係はどうして置きたかったのだろう?
殿上など上げるもんか、武官の下っ端でじゅーぶん! ?
もはや武家の勢力は無視できぬ、源氏と平氏をうまく対立拮抗させてと・・・?
91 :
日本@名無史さん:04/01/25 23:01
与一の弓の前では平家なぞゴミのようだ
92 :
日本@名無史さん:04/01/25 23:03
93 :
日本@名無史さん:04/01/26 16:30
まぁそう云うなや 粋がりたかっただけだろ
94 :
日本@名無史さん:04/01/26 17:28
平家が脆かったか否かは相対的な問題だな。
豊臣政権も脆いし建武政権なんてもっと脆い。
これに比べりゃ‥‥
95 :
日本@名無史さん:04/01/26 19:44
>>86 薩摩守忠度の肖像画なんて、今まで見たことないなあ…。
絵巻物を探せば忠度が描かれているものはありそうだけど。
「都落ち」や「一の谷」の場面のあたり。
歌人としても有名な人なので、和歌の方面から探してみるのもいいかも。
ネット上を探しても、まず期待できないと思う。
いずれにせよ、図書館へ行って探すしかなさそう。
「国文学研究資料館」に行けば無賃乗車氏の肖像がみれますぜ。
平家は朝廷に裏切られたが、頼朝は朝廷を利用した。
頼朝は頭がよくて計算高かったと思う。、
平家方に対抗する人材がいなかったと思う。
でも頭はいいが人間的には身内を簡単に殺しているから薄情だと思う。
義仲、義経、
頼朝の娘と結婚した義仲の息子も殺して、結果、娘は頭が変になって早死、
それで嫁の北条政子もノイローゼになり尼になって、
何か周りがみんな不幸になってしまってるので
頂点に立ったものの得たものは名声だけで他は全くなかったと思う。
98 :
日本@名無史さん:04/01/27 00:44
99 :
日本@名無史さん:04/01/27 01:04
平家に土地に対してのリアリズムが無いからだろ。
土地の権利を持っている者で一番実力を持っているものは誰か?
それは武士であり、それを証明したのは保元、平治で清盛自身がしたわけだ。
その武士の領地を安堵できなかった平家は滅亡するしかない。
また、地方の武士は自然人としての源氏に奉公しているのでは無く、法人と
しての鎌倉幕府に奉公していたのだから、実朝が暗殺された所で。。。
(これは司馬氏の意見の要約のつもりです。)
>>99 いや、鎌倉幕府に奉公してるという感覚は薄かったんだよ。
幕府公式の政所発行の所領安堵の証文よりも
頼朝公が私的に発行した所領安堵の証文を要求した御家人も居たんだから。
「政所だぁ?漏れはそんなモン信用できねぇ。頼朝タンが発行した証文をクレクレ」とな。
なぜ頼朝公がそれほど信用されたのか、
それは頼朝公が武家の棟梁であり、東国における唯一の調停者だったからだな。
頼朝公ご自身は、そういう権限を政所やら問注所やらに移植して武家の棟梁の
役割を法人化しようとしたようだけどね。
まあ、初期の御家人と北条氏が権力を掌握した後の御家人じゃ
だいぶ違うだろうけどね。初期の御家人の中には幕府というものを
あまり理解してない輩もいたんじゃないのかな。やっかいだよね。
河内源氏マンセー。
101 :
日本@名無史さん:04/01/28 01:19
堂上平氏はしぶといぜ。明治維新まで公家のまま、維新後は子爵。
「平家に非ずんば人にあらず」とは「麿(堂上平氏)の一族でなけりゃ、認められぬよ」
ってな意味じゃねーか?
だから、清盛、重盛、宗盛、維盛・・・平家の総帥を狙ってた人は皆、
時子夫人の身内の女を妻の一人に加えてたんじゃないかな。
平家が脆かったのは、堂上平氏に喰われたからなんだよ、なーんてね。
102 :
日本@名無史さん:04/01/28 18:40
103 :
日本@名無史さん:04/01/28 19:13
平氏の系列
すべて教えてください。
104 :
日本@名無史さん:04/01/28 20:09
>>100 >幕府公式の政所
政所は摂関家にも置かれた家政機関ですが?
武士にとっては、国府の在庁官人(土地の武士仲間のボス)発行の安堵状ていどの有り難味しかない。
頼朝発給の安堵状なら、領家(摂関家など)、本家(院)くらいの重みはあったのだろう。
1
重盛は清盛より先に死んでいる。
>>104 そうそう。だから
>>99の「地方の武士は自然人としての源氏に奉公しているのでは無く、
法人と しての鎌倉幕府に奉公していたのだから」ってのはちょっと違うんでねぇの?って
言ってみたのさ。
頼朝公は「ンモー、政所の顔も立ててよ」って苦心したみたいだけど。
それは政所を幕府の公式な機関として機能させたかったからでしょ。
>武士にとっては、国府の在庁官人(土地の武士仲間のボス)発行の安堵状ていどの有り難味しかない。
幕府ってのが公式な機関として認識されてからは、そういう訳でもないっしょ。
幕府が成功したのは頼朝が居ようが居まいが武士が武士の権利を保証できる仕組みを
築き上げられた、ってトコにあるんでねぇかい?
そういう意味では
>>99の「地方の武士は自然人としての源氏に奉公しているのでは無く、
法人と しての鎌倉幕府に奉公していたのだから」ってのは賛同できるんだけどね。
最初からそういう意識で幕府に奉公してたんじゃないんでねぇの?って言いたかっただけですわ。
まあ、親王・公卿の政所と幕府の政所はちょっと違うと思うけどね。
平家を滅ぼしたのはいいんだけど
幕府の最初の頃ってかなり揉めてるな
承久の乱あたりまでは。
108 :
日本@名無史さん:04/01/29 02:46
清盛・・・時子(後妻)
重盛・・・時子の妹(側室)
宗盛・・・時子の妹(正妻)
維盛・・・時子の弟親宗の娘(側室)
だけど
時子・・・・・・・壇ノ浦まで平家と一緒(入水)
時子の弟時忠・・・壇ノ浦まで平家と一緒(入水せず、都へ帰って流罪。安徳天皇のめのとのくせに)
時子の弟親宗・・・都落ちすらしない(後白河院の寵臣として、ずっと平和に暮らしてた)
時子のいとこ信基・壇ノ浦まで平家と一緒(都へ帰って流罪。後、許される。子孫は明治維新までずっと公家)
時忠の子時実・・・壇ノ浦まで平家と一緒(都へ帰ったが、配流地に行かず、義経の都落ちに同行して捕らえられる。後、許されて公卿)
時忠の子時家・・・鎌倉にいた!(頼朝の寵臣!源氏方だった。上総広常の婿)
時忠の娘・・・・・義経の妻
これじゃ平家滅ぶよ。
109 :
日本@名無史さん:04/01/29 18:12
時忠の娘の名前教えてください
110 :
日本@名無史さん:04/01/29 19:01
清盛が日枝大社の御輿に矢を射たから罰が当たたんだよ、きと。
111 :
日本@名無史さん:04/01/29 21:37
悪源太の祟り
112 :
日本@名無史さん:04/01/29 21:42
崇徳天皇の呪い
113 :
日本@名無史さん:04/01/29 22:30
跡を継いだ三男宗盛がDQNすぎたから。長男、次男はすでに死去。
都落ち時点:長男惟盛一派が総領争いの嫌がらせもあって脱落。
叔父頼盛が冷遇に耐えかね脱落。不甲斐なさに一部譜代家臣が脱落。
屋島の戦い直後より:時忠が見限り義経と勝手に交渉し始める。
壇ノ浦:知盛なども疑問を持ち始めるが知盛平家の運命を背負い開戦。
宗盛入水を見苦しくも嫌がり家臣に突き落とされる。だが助かる。
斬首まで:命乞い。鎌倉では笑われ、途中義経に同情される始末。
二代目がこれでは滅びる。内部分裂自分から引き起こしてどうするよ。
もっとも金玉掴まれて殺された源氏二代目頼家のほうが悲惨な気がする。
間違えた。
×長男惟盛
○重盛の遺児惟盛
ちなみに時忠の子孫はその後時国家として今も存続している。
義経の子孫も自称だとは思うが佐藤兄弟の妹が義経室になり
その子孫が佐藤家を次ぎ義経子孫を名乗ったことがある。
義仲の子孫は戦国期の木曾氏とは関係なく上信地方の大石氏。
115 :
日本@名無史さん:04/01/29 22:46
109さん
時忠の娘で名前が分かっているのは宣子だけです。宣子は後鳥羽時代の典侍。
平家没官を頼朝に訴えて取り返したという凄い女。
安徳乳母の帥典侍(領子)腹。
義経室の名前は分からないけど、俗に蕨姫とかいいますよね。
だけど、何故にワ・ラ・ビ?
116 :
日本@名無史さん:04/01/29 22:56
>>108 親宗、時家は院の寵臣だったために清盛によって一回失脚させられてるくらいだから、
そりゃあ都落ちには付き合わない罠。これは頼盛なんかと同様。
時家なんざ、流罪だしな。
そのまま鎌倉さ行って、頼朝に謁見。
一の谷で平家がサンザンな目に遭っている間にも、関東にいたんだもんね、この人は。
清盛は清盛流を盛り立てることに熱心だったが時忠一族まで行き届かなかった。
時忠は朝廷のやり方をわからない初期清盛を手取り足取り教えたが
ちゃっかり自分の勢力をあちこちに固めることも忘れなかった。
時忠は結構自力で一族を盛り立ててる。もちろん清盛の地位も利用してだが。
ここまでバランス感覚があるのは清盛流だとやり方こそ違うが重盛ぐらい。
重盛のそれは父と院との調整に使われたわけではあるが。
清盛と頼盛については腹違いの兄弟であったが
池ノ禅尼が一時頼盛を嫡流にしようと執拗に忠盛に働きかけたことがあった。
池ノ禅尼は他にも政治と家庭を混同したり弊害が多く
頼朝助命の創話を作る原因にもなった。
実際は清盛は池ノ禅尼に関係なく助命の方針だったんだけどね。
こういう内部分裂になりかねない女をほっといた親父忠盛も問題。
阿野廉子よりかはよっぽどましだが。
120 :
日本@名無史さん:04/01/31 01:04
平家はなぜ脆かったのかというか
時代背景からしたら、清盛はよくやったと思う。
平安のバブルの時代。
源平合戦はバブル崩壊。
後は、長期に渡って権力闘争だけの暗い時代。
平家みちよはクビになったよ。
122 :
日本@名無史さん:04/01/31 02:15
平家=六波羅平氏一門
平氏=平姓の者全員
って言う解釈ってほんとうですか
123 :
日本@名無史さん:04/01/31 02:20
じゃあまああれか、この間の福男になりそこねた
タイラーとかも末裔か?
(((( ;゚Д゚)))
124 :
日本@名無史さん:04/01/31 02:36
>>108 >これじゃ平家滅ぶよ。
いや、だから滅んでいないわけで‥‥
125 :
日本@名無史さん:04/01/31 04:06
平家が日本人で、源氏がチョンだからじゃねえの
126 :
日本@名無史さん:04/01/31 04:18
奥羽の兵は強かったのだよ。
京あたりの兵は本気で戦った経験がないからな。
惟さんは、爺さんの貞さんが上皇はんに献上しはった伊賀の鞆田の南あたり
の地域で名前を何度も変えて、真宗にも改宗しはって、いまは鈴鹿の僧侶が
末裔やと言っておいやす。
>125
反天皇スレでもそうだが、最近の「チョン」は自称なのか。
129 :
日本@名無史さん:04/01/31 08:31
>>123 沖縄に平さん多いよ。
たぶん平家の人はみんな名前変えていると思う。
130 :
日本@名無史さん:04/01/31 10:21
京は地勢状短期決戦になりやすいし、喰ってるものも違うしね。
奥羽の場合氾濫があると長期を覚悟する必要があるし、奇襲もある。
喰うものを考えないとこっちがやられる。
なにより京が坂東奥羽並みの状況だったら公家なんてのんびりしていられないわけで。
平家も西国にいくとそこそこ粘るようになる。
一番の悲劇は敵に義経がいたってことだ。
131 :
日本@名無史さん:04/01/31 13:44
>>130 同意
戦の天才が3人もいたら勝ち目なし。
平家は清盛、長男、次男が立て続けに死んでるから
負ける運命ですね。
132 :
日本@名無史さん:04/01/31 16:13
知盛ってどうなったの?
135 :
日本@名無史さん:04/01/31 19:18
>>132 チンギス、義経、リチャードDQN王じゃないかと。
って冗談はさておき誰だ?
義経と大目に見て義仲。頼朝は範頼より多少ましな程度だし。
政略の才はあるかもしれんが身内殺しすぎて将軍家三代で終わらしたのは×。
実際は政略も後白河が派手に自爆したようなものだからなあ。
義仲が京を落としたのに頼朝の功を賞賛したり敵がわかっていないというか。
136 :
日本@名無史さん:04/01/31 23:29
戦上手って政子の事?
確かに承久の乱の時の決断といい大演説といい、完璧でしたね。
平家っていえば、ふつう伊勢平氏のことでしょ?
坂東平氏は源氏に傾いたほどの徒党にすぎない。
138 :
日本@名無史さん:04/02/01 02:41
>>135 平家にはその義仲と連合するっていう選択肢もあったわけだが‥‥
139 :
日本@名無史さん:04/02/01 05:22
>>126 >奥羽の兵は強かったのだよ。
奥州藤原氏なんて平家よりもあっさり滅亡してるんですが‥‥
平家みちよって何処逝った?
141 :
日本@名無史さん:04/02/01 12:43
奥羽の兵といえば南北朝期の北畠顕家率いる奥羽軍は勇猛で知られたな。
しかし京に入った(入らされた)途端に食糧封鎖にかかり、
信じられないほどの速さで士気が崩壊しあぼーん。
義仲の北信越兵も京に入った途端急速に士気が崩壊だったなあ。
雪国の人間は都会が苦手なんだろうか?
142 :
日本@名無史さん:04/02/01 18:37
平家って滅びたの?生きてるの?子孫…つーか末裔?!いるの??
143 :
日本@名無史さん:04/02/01 19:13
>>139 坂東>>>信州>>>平家>>>奥州
結論:坂東武者が最強、奥州が最弱ってことでよろしいな
144 :
日本@名無史さん:04/02/01 20:45
>>141 全国的に都市化された現代でも全くの地方人が東京に行けば、ぼうっとなる訳だし
あの当時日本で都市と言えば京都しかなかったことを考えると、よほどモチベーションが
高くないと士気は下がるんじゃない?
145 :
日本@名無史さん:04/02/01 22:30
>>142 自称だが対馬の宗氏と尾張の織田氏が末裔を名乗ってる。
落ち武者村は全国にある。たぶん自称。家紋は平家揚羽だが。
あと頼盛の家系は承久の乱で院方に組して潰れたような・・・。
146 :
日本@名無史さん:04/02/01 23:03
平頼綱の子孫はいるの?
147 :
日本@無名史さん:04/02/02 01:32
109 時忠の娘で義経と結婚したのは夕花 138 義仲は一度平家と和睦しようとして断られています。
148 :
日本@名無史さん:04/02/02 02:17
えっ!?
夕花はウソの名前だろ??????????
吉川英治が勝手につけたあだ名じゃないのか?
149 :
日本@名無史さん:04/02/02 16:31
150 :
日本@名無史さん:04/02/02 18:07
「笑っていいとも」に平基盛の子孫が登場してました。
重盛の弟で宗盛の兄、側室の子で頼朝の旗揚げ前に亡くなった人ですね。
151 :
日本@名無史さん:04/02/02 18:58
152 :
日本@名無史さん:04/02/02 22:20
>>126 奥羽の兵が源氏の平家追討に加わっていたんですか?
153 :
日本@名無史さん:04/02/03 00:11
四国の落人村は平国盛が幼帝安徳を連れて落ち延びたといわれている。
だが国盛なんて聞いたこと無いのだが・・・。誰だよお前。
>>149 今まで出てきた他には範頼の石見吉見氏。甲斐源氏の武田氏(量産)。
常陸源氏の佐竹氏。足利・新田氏など。
あと阿野全成の阿野氏、阿野廉子までに養子相続が入ってしまったような。
154 :
日本@名無史さん:04/02/03 03:02
奥州藤原氏が、何らかのアクション(軍事行動含む)を起こしてたらどうだっただろう?
忠衡と、安東尭季などが源氏、国衡ほかが平家で、秀衡が悩み軍を動かさなかったけど
もし、義仲討伐の建前で兵を繰り出したらどうだっただろうと妄想する。
>>153 検索してみれば結構簡単にわかると思うけど国盛というのは
能登守教経のことだよ。
>>154 時期にもよるだろうけど奥州があえて鎌倉と事を構えるにはそれなり
の理由がないと家中をまとめられないんじゃない?
騎乗からの弓射戦に優れていたのはむしろ平氏で、
源氏の軍勢は武士らしい戦いが苦手で、
専らゲリラ戦術を主体としていた、という説があるようだ。
157 :
日本@名無史さん:04/02/03 18:11
ゲゲリラ?!
158 :
日本@名無史さん:04/02/03 18:17
桓武平氏は騎馬民族であり海洋民族でもある。農耕が主体である日本の風土に
合わないのだ。だから滅んだ。(プゲラ
当時、鎧や弓の武具生産は畿内近辺に集中しており、
それらは高価で、地方の豪族には入手が難しかった。
だから、摂津、河内の清和源氏、伊勢の桓武平氏ら京に近い
裕福な新興貴族のみ、「武士」を家業の芸にする事ができた。
平治の乱で東国に追いやられた頼朝と、土着の豪族達は
平氏のような華麗な武士の戦争はできず、
まるで後世の悪党野伏のような泥臭い戦争しかできなかった。
>>159 伊勢平氏は東海道の利権を巡り、源氏に勝ったのさ。
>>143 >
>>139 > 坂東>>>信州>>>平家>>>奥州
> 結論:坂東武者が最強、奥州が最弱ってことでよろしいな
それって坂東武士が偉いとか言ってるの? 馬鹿?
何て低レベルなスレだ・・・
やっぱ関東勢が最強でしょ。
結果から見ればそうだね
桓武天皇の孫の高見王の子・高望王と5人の子たちに平朝臣の姓が与えられた。
高望王の5人の子とは
長男が平国香といい清盛や小栗判官一党や 鎌倉・北條氏を生む。
平家嫡流の伊勢平氏であり、武家の平氏は、伊勢平氏を指す。
二男が平良兼といい越後・長尾氏の祖で、上杉謙信を輩出する。
三男が平良将といい将門の乱の平将門の父である。
四男が平良茂といい鎌倉党の大庭氏・梶原氏などの祖になる。
五男が平良文といい武蔵国・村岡(熊谷)を開発し村岡五郎良文と改名し、
大族を為して南関東に威力を持つことになる。そして、土地の名から
多くの姓氏を生み出した坂東武士(三浦氏、中村氏、千葉氏、上総氏、
秩父氏、畠山氏、和田氏という鎌倉幕府草期に欠かせない人物たち)
の祖となるのであった。平家亜流。
167 :
日本@名無史さん:04/02/04 20:11
169 :
日本@名無史さん:04/02/05 00:03
村上源氏の久我家みたいに、公家社会で名門として残った平氏はいないの?
>>169 高棟王は公家。高望王は平を姓とした武家(伊勢平氏の元祖)
171 :
日本@名無史さん:04/02/05 12:44
平氏は渡来系の血が濃いような気がする。
172 :
日本@名無史さん:04/02/05 12:49
173 :
日本@名無史さん:04/02/05 13:01
要は、土豪が、平氏を僭称した可能性が高いっつーこと。
で、その土豪が、武蔵に土着した百済人やらの子孫の可能性が高い。
と171は言いたいんだろうが、確たる根拠があるわけじゃない。
有力豪族があまりにも多く排出されてるから、
土豪が勝手に僭称したと考えるのが自然っつーだけ。
系図に種々のものがあるのも、僭称説の一因だろうな。
>>171 桓武の嫁さんが百済人。坂東豪族には古代に鉱物掘削にあたった渡来人が多いから。
特に埼玉ね
175 :
日本@名無史さん:04/02/05 16:18
高見王(平高望の父)の母が不明なんだよね。
『もしかしたら、葛原親王が関東にいた渡来系武装集団の娘に産ませた子=高見王かも。
母親の身分があまりにも低いと不明扱いされてしまう・・・。』
と想像できるな。(ワラ
176 :
日本@名無史さん:04/02/06 21:08
>>174 百済人というより百済系。
高野新笠のおかんも日本人だし。
桓武帝の時点でもそんなに血が濃くないがな。
177 :
日本@名無史さん:04/02/06 22:27
質問なんですが、
新平家物語で
『今日までも あればあるかの我が身かは
夢の中にも夢を見るかな』
という歌は平家の誰が歌ったものだったでしょうか?
ご存知の方いたら教えてください。
>>177 平教盛
清盛の弟越前三位通盛・能登守教経の父であり、一族の重鎮。
都落ち後、都と同じように暦にのっとって除目が行われた際には
「夢の中にも夢を見るかな」と大納言昇進を断った。
壇ノ浦にて弟の経盛とともに入水。
途中、跡取りの通盛や嫁の小宰相、その腹の中の孫までも一時
に失ってしまった。
戦乱の世の常とはいえ、涙を誘う。
>177
教盛 ではないの?
180 :
日本@名無史さん:04/02/07 00:20
平 敦盛タソ、(; ´Д`)ハァハァ…
やっぱり「貴族化したから」だな。
平家を反面教師として貴族化せず、無骨な気風を維持した鎌倉幕府と徳川幕府は安定してた。
それに引き換え、ちょっと貴族っぽかった足利政権は非常に不安定だった。
>>178>>179 ありがとうございます。
ずいぶん前に新平家を読んだんですが
あの歌がとても印象的でした。
しかし肝心な作者を忘れてしまいとても気になってました。
平家の短期間の浮沈、泡沫夢幻の哀愁を良くあらわし、
大変優れた歌だと思います。
>182
検索すればすぐに出るよ。
初句は短すぎるのでHit数が多いけれど、二の句か三の句で調べるといい。
Googleで検索したら、「あればあるかの我が身かは」、「夢の中にも夢を見るかな」で
それぞれ違うサイトがHitするのが意外。
検索エンジンの仕組みはどうなってるんだろう???
>>181 しかし将軍家は反面教師として学ばなかった。特に実朝。
頼朝も晩年は朝廷と接近しようとして坂東平氏から止められてる。
二代目といい三代目といい頼朝はどういう教育してたんだろう?
まあ将軍家は傀儡でも組織がしっかり運営できていれば問題ないわけで
185 :
日本@名無史さん:04/02/09 07:04
>>181 つまり、平家はお歯黒塗ったり歌なんか詠んだり
管弦にうつつをぬかしたりして、武芸を怠っていたから滅亡した、と。
足利政権も似たようなものだったので弱体だったと。
・・・そう解釈してよろしいですね?
一応合戦記録(以仁王討ち死後)その一
石橋山の戦(頼朝安房落ち)
大庭景親ら○−×源頼朝
頼朝が挙兵した戦い。惨敗を喫し安房に落ち延びる。
主要戦死者:北条宗時(義時の兄)など
富士川の戦い(水鳥の音に平家大潰走)
平維盛、忠度、上総介忠清×−○源頼朝
指令系統が不統一な上に情報収集も散々、士気も最悪な平家に
甲斐源氏の援助を受けた頼朝が平家を破った戦い。
なおこの後上京を計った頼朝に坂東平氏が反対したのは有名。
ちなみに水鳥の話は創作である。
墨股の戦い(行家必敗の法則発動)
平維盛、重衡ら○−×新宮行家、源義円
行家の法則が発動した戦い。裏の裏をかいた平家の大勝利に終わった。
主要戦死者:源義円
合戦記録その二
横田川原の戦い(義仲北陸道に進出)
城ノ長茂×−○木曾義仲
木曾義仲越後守城ノ長茂を打ち破り北陸道に進出
燧合戦(平家本軍、木曾先遣隊を破る)
平維盛、通盛、知度ら○−×仁科守弘ら
木曾方の斎明入道の裏切りにより木曾先遣隊を越前燧城にて破った戦い
これにより木曾を加賀・越中境まで押し返した。
倶利伽羅峠の戦い(義仲火牛落とし)
平維盛、通盛、知度ら×−○木曾義仲
木曾勢の命運をかけた一大決戦。平家も知度などが奮戦するが
義仲の用兵は冴え渡り平家はついに勢いにおされ壊滅。
これと続く安宅の戦いにより平家軍は京都守護の軍勢編成の目処が立たなくなった。
ちなみにこの戦いでも行家隊はしっかり負けている。
主要戦死者:平知度(清盛六男)
安宅・篠原の戦い(実盛最後)
平維盛、通盛ら×−○木曾義仲
木曾による平家追撃戦。斉藤別当実盛の最後の場面として有名
主要戦死者:斉藤別当実盛、上総介忠清
188 :
日本@名無史さん:04/02/12 21:35
清盛の子のうち六男以降の事績に興味があって調べています。
維俊、知度、清房、清貞、清邦、覚隆。
この辺りの人達について何かご存知の方は教えてください。
189 :
日本@名無史さん:04/02/12 21:41
清盛が実権を握ったのは白河天皇の子という暗黙があったんじゃないですかね?。
清盛の死が平家の没落へと繋がった。
190 :
日本@名無史さん:04/02/12 21:49
平家も脆かったけど源氏もすごく脆かったと思うけど?
なんせ三代で滅んで平氏の一派である北条氏に後取って替わられたんだからね。
しかも三代といっても二代目、三代目は形だけだったし、頼朝ですら暗殺説があるわけだしね。
あと足利氏は源氏だけど徳川が源氏というのは嘘の可能性が極めて高いわけで。
191 :
日本@名無史さん:04/02/13 00:14
まあな
192 :
日本@名無史さん:04/02/13 22:25
>>190 三代目で滅んだときはまだ北条氏が最有力というわけではなかったが(三浦も残ってる)
北条氏も結構苦労して敵を年月かけて排除してるな。和田合戦が山場だった。
梶原、畠山、比企、和田、三浦その他よくも葬ったものだ。
まあ頼朝存命中も坂東平氏の意見を伺わなくては成り立たなかった。
世継ぎを残すのもままならなかったわけで愛妾を政子に襲撃される始末。
籠の中の鳥だな。単に利用されてただけじゃないの?
じゃあ次スレは「源氏はなぜ脆かったのか」だね(ワラ
194 :
日本@名無史さん:04/02/16 07:12
>>190 北条は仮冒の可能性が高いらしい。
板東八平氏も同様。
伊勢平氏は、彼らを同族としてみていなかったようだ。
越後の城氏などについては同族としてみていたもよう。
ちなみにほぼ間違いないのは、常陸大掾一族・越後平氏、国香の弟・良兼流の尾張平氏
及び鎮西の一部の平氏(国香の弟・良持流と常陸大掾支流)くらいらしい。
伊勢平氏も、途中で入れ替わっているという説もある。
195 :
日本@名無史さん:04/02/16 16:41
伊勢平氏も
正度―正衡―正盛
の辺りのつながりは怪しいな。
特にこの正衡という男の事績が不明なので。
>>195 伊勢国の国司系だった過去はあった。しかし、直ぐに他国に配置転換された。
正衡あたりは、本来は京に殆どいるか、司った国に赴任するのが普通だが、
(普通は京にいるけど)なぜか、伊勢国に住み続けて居たんだよ。その理由は
東海道の警備の利権のため。東海道・鈴鹿関のあたりは、一番の要衝で、
ここを制するものは武士の最高位だったので、不当か正統かは知らんが、
伊勢国に住んでいた。その因縁、というか家訓で、清盛の父も、伊勢では
ないが伊賀の土地を白河法皇に差し上げたのさ。これが東大寺領との絡みで
後の戦へと発展する。陰謀の系譜・伊勢平氏たる話だ罠。
壇の裏か屋島で破れて死んだはずの伊勢平氏の残党は、今でも鈴鹿の寺の
住職だとする系図と持っているらしい。科学的検証は行っているのかどうかは
不明だが、有名な話だよ。
一応だが、地元では、平忠盛塚というのは伊勢国の津市にあるみたいだ。
199 :
日本@名無史さん:04/02/17 02:18
スレ違いだが、清和源氏も陽成源氏が本当のところらしい。
義家以降に系図を操作したようだ。
それと常基と満仲は系図上は親子なんだが、満仲の方が年長なんだな。
これも何らかの利害に基づく養子縁組であり、血縁関係は無かったとみなすほうが
妥当なもよう。
満仲は多田に移住したのではなくて、もともと多田の住人だったのだろう。
200 :
日本@名無史さん:04/02/17 03:10
>>196 「伊勢国の国司"系"」って何?
それと事実誤認があると思われ。
正衡と維衡を取り違えている。
維衡は1006年(寛弘三年)に2ヶ月で伊勢守を解任されている。
加えていうと、当時は5位以上のものは、許可無く畿外に住むことが出来なかった
にもかかわらず、勝手に伊勢に住み着いて、同族の平致頼と長年に渡って戦闘を
繰り広げている。
更に忠盛と正盛のことも混同しているね。
201 :
日本@名無史さん:04/02/17 15:30
>>199 平氏に関しても怪しいと思う。
高望とその子らの間に本当に血縁があったのかな?
元皇族を父親に持った子が、わずか1代で武人として行動できるようになるのか?
しかも、京都で生まれ育っているんだが。
202 :
日本@名無史さん:04/02/17 15:35
201の続き
源氏や平氏の連中に対する中央貴族の感覚についても、皇族出自の
ものに対するそれでは無いと思うんだが。
当時の貴族は、家系はつながっていても血はつながっていないことを
知っていたのかも。
203 :
日本@名無史さん:04/02/17 21:40
>>188 知度→倶利伽羅峠で激戦の末、討ち死に(自害だったっけなあ?)
清房、清貞→一の谷で討ち死に
他は知らない。女系は腐るほど子孫がいる。
まあ半分は一の谷でもう半分は壇ノ浦で死んでいるわけで。
この頃の兵は戦国期と違いかなり士気を維持するのが困難なので
一の谷は院の嘘和睦提案を将レベルでは半ば信じていなかったが兵にかなり影響があった。
かなり前から陣取っていたのも敗因だな。一度海上にひいておけばよかった。
尊氏のように海上から敵を誘導すれば問題ないと思うのだが。相手が新田だから出来たともいえるが。
204 :
日本@名無史さん:04/02/18 00:06
>>203 ド素人の戦略シミュレーション講釈、イタすぎて目も当てられん。
ゲームヲタは三戦板でも逝け。
205 :
日本@名無史さん:04/02/18 01:33
>>204 まあまあ(w
「平家勝利の可能性を探る」って意味ではそれなりに面白いテーマだし、このさい大目に見ようや。
ただまぁ、いずれにせよ
>>203の
>かなり前から陣取っていたのも敗因だな。一度海上にひいておけばよかった。
は、ろくすっぽ上陸地点も確保せず海上に漂ってりゃいい、と言わんばかりの暴論だな。
そもそも要所に陣取らないことには、さっさと突破されて西国の港を抑えられてしまう。
そうなったら上陸も出来なくなるし、水も食料も補給できぬまま海上で日干しになるだけだ。
それじゃあ1年早く壇の浦と同じ状況を迎えちゃうだけだっての。
ちなみに後年の足利の戦術は、陸海が綿密に呼応して初めて意味のある作戦となった。
主力はあくまで直義の陸軍で、陸の進撃を海からサポートするってのが大きかった。
つまり水軍を陸軍と同時に動かすことで、新田軍を兵庫の港に釘付けにする(その場所以外で迎撃する選択肢を奪う)ということに大きな意義があったってことね。
更にいえば、陸と海に兵力を分散してもなお、敵を圧倒するだけの大軍であった、というのもポイント。
また、何せこの時代の水軍の装備なので、風向きや天候などの偶然の要素も非常に重要なポイントとなる。
「梅松論」なんか読んでると、この時の尊氏がメチャクチャついてることがわかるよ。
宗盛さん、命までとられるとは思ってなかったんだろうな。
207 :
日本@名無史さん:04/02/18 18:58
>>205 長文ご苦労さん。要するに、
「平家にせよ新田義貞にせよ
>>203如きにとやかく言われるほどアフォじゃないよ」
ってことでつね(ワラ
四畿内=山城、大和、摂津、河内
三関 =越前、伊勢、美濃
三近国=近江、播磨、丹後
丹波の間違いだろ。
211 :
日本@名無史さん:04/02/18 22:26
平安神宮と厳島神社に参拝しなければ!
212 :
日本@名無史さん:04/02/18 22:48
>>211 平安神宮と平家に何の関係があるんだ?
あれは明治時代の創建だが。
>>212 平氏の祖・桓武天皇が祀られているからじゃないの?
214 :
日本@名無史さん:04/02/19 04:49
平家は一の谷の戦いで負けて半分がさらし首
このころのさらし首って、どういう形というか方法で行われていたのかな?
腐って原形が無くなるまで、晒されていたんだろうか?
烏とかが、つついたりしていたんだろうな。
ああ無惨。
216 :
日本@名無史さん:04/02/19 18:07
>>215 そんなに長くはさらさなかったんではない?
この時のさらし首は後白河院はじめ朝廷や公家は難色を示したらしいが
範頼・義経が強硬に主張したので仕方なく許可したって話だし>平家物語
217 :
日本@名無史さん:04/02/19 18:30
手塚治の「火の鳥」で平家を扱った話があるけど、あの話哀しくない?
なんかあの女の話に泣ける。
218 :
日本@名無史さん:04/02/19 20:42
219 :
日本@名無史さん:04/03/11 00:55
>>217 昨日(正確には火曜)、ふと再読。いや、面白いわ。
220 :
日本@名無史さん:04/03/11 02:35
やはり、奥州藤原氏が、平氏に味方せずとも源氏(頼朝)にも味方せず、
義仲討伐のために兵を繰り出せたら、頼朝は相手にしたのかな?
実際、秀衡は、泰衡らの中立派、国衡らの平氏派、忠衡らの義経派に、
分断されていたわけで、もし、秀衡が、義仲討伐の命に従い奥州の、騎馬
軍団などを繰り出したら、結果はどうだったんだろう?目的を義仲討伐に
絞れば兵を出せたのかもしれない。そんな気もするんだけど。
221 :
日本@名無史さん:04/03/11 15:33
それって奥州武士にとって何かメリットある?>義仲討伐
あまりにもリスクが大きすぎると思うんだけど。
平家といえば清盛。伊勢平氏のことじゃないの?普通
現代の常識ではそうですね。
ただ清盛の祖父の代までは、公家平氏に遠く及ばないのはもちろん、
貞盛子孫としても傍流でしょう。
じゃあどこが貞盛流の嫡流かって言われると知らないですけど。
桓武天皇には以下の子らがいる。
安殿親王(平城天皇)、朝原内親王、伊予親王、葛原親王・・・
平氏を名乗ったのは葛原親王だ。
また平城天皇の子、在原業平は幼少期を伊賀国で過ごしている。
業平の母が伊賀国の出であるからだ。
後に伊勢平氏に絡む後白河上皇との東大寺領鞆田(三重・伊賀地方)の
エピソードもここら辺の古事に由縁もあろう。
伊賀国と伊勢国は隣国で当然、伊勢平氏の台頭の地である三重県中北勢地方と
非常に近い。
> また平城天皇の子、阿保親王は幼少期を伊賀国で過ごしている。
> 親王の母が伊賀国の出であるからだ。
阿保親王の子が業平でありました。訂正してここにお詫びいたします。
>>223 そもそも公家に比べると、平氏に限らず武家の系図は、かな〜り怪しいですな。
227 :
日本@名無史さん:04/03/16 13:00
桓武平氏は海臭くて、朝鮮臭い。
1,平氏の政治の欠陥
武士とは、相続とか縄張りとか、土地の利権を巡って争う武装者のことである。
それ故、武士の棟梁は、下々の武士達の土地の利権の公認、保護、拡大、分配
をうまくやらなければならない。この点、平氏政権は、ええ加減な所があったようだ。
2,戦争の仕方が古くさい。
都の武士には個人的には勇士が多かったらしいが、関東の武者達には、従者に弓を
射たせたり、馬を狙ったりする「無法な」戦いをする者が多かった。
特に源義経は、そういう戦い方のエキスパートであり、平氏の武者では敵わなかった。
今は言えない。
231 :
日本@名無史さん:04/03/16 22:40
そうですか、それは仕方ないですね。
時が来たらぜひともご公表ください。
232 :
日本@名無史さん:04/03/16 23:55
233 :
日本@名無史さん:04/03/17 17:22
海くさいだの、古くさいだの、朝鮮くさいだの、言われっ放しやな。w
234 :
日本@名無史さん:04/03/17 21:19
左少将有盛裕子
235 :
日本@名無史さん:04/03/21 17:16
>>217 こんどやるアニメ、火の鳥は騎馬民族説だから一嵐くる予感
236 :
竹田丹後守 ◆gVkD2onhQc :04/03/21 17:25
徳川も最後はあっけなく崩れたなあ
長州が京に出てくるのに、広島城・福山城・岡山城・松山城・津山城・高松城・
明石城・赤穂城・姫路城・篠山城・尼崎城・大坂城・高槻城・淀城・・・・・
・・・・・・とこれだけ城があるのに、難なく突破してしまったしな
237 :
日本@名無史さん:04/03/21 18:05
平家は源氏と和睦できなかったのだろうか。
「頼朝の首を墓前に・・」という清盛の遺言を最後まで守って、平家は滅亡した、という説が有力だが。
しかし、源氏・頼朝や朝廷・後白河等が平家と和睦する意思はあったのだろうか。
238 :
日本@名無史さん:04/03/21 23:49
朝廷とは無理だったと思うよ。武士の身分で貴族の藤原氏の官位を
奪っちゃった挙句天皇家との繋がりも出来てしまったから反感も
買ったと思う。
武士の身分ねぇ
>>236 人は石垣、人は城♪って武田信玄公の言葉をシランのか?
どんなに防御施設だけ立派に作ってもそこを守る人間の気持が1つにならなければ
役に立たないってことさ
相変わらず真性厨房の多いスレだな
>>228とか
>>238とかマジでイタ過ぎる
ソースはどうせ司馬遼太郎あたりかw
>>228 1については、先に良い土地を分配されたので、後で悪い土地を分配された源氏より
ハングリー度が低かったともいえるかも。
2も、それと同根なのかも。客観的にいうなら、源氏のほうが、戦上手というより、
「えげつない」ところがあった、ともいえそうです。
>>241 グダグダ言っていないで何か面白いことを書くように。
228の金魚の武士論は、職能的武士論に近い。司馬先生の在地領主論とは違う。
241氏は基本からやり直し。
ソースは、
中公新書の「武士の棟梁の条件」作者は忘れた。
講談社の「日本の合戦の真実」だったっけ?鈴木しんや先生
あと、司馬遼太郎先生の著作も参考にしている。
>司馬先生
>鈴木しんや先生
プゲラ
246 :
日本@名無史さん:04/03/22 17:32
結局、兵員というのはハングリーな一般層でなければいかんのかね。
維新の時、御家人層が役立たずだったように。
一部、士官層を除き、武士は特権階級になったとき、弱い。
246>
日本人はね。西洋人は、特権階級になってもアグレッシブ。
日本人は荒っぽい現場を離れると、急速に公家化するね。現代でも。
248 :
日本@名無史さん:04/03/22 23:19
>244
>あと、司馬遼太郎先生の著作も参考にしている。
なんだ、やっぱり司馬厨の妄想か。
つきあって損した。
249 :
日本@名無史さん:04/03/23 19:38
>>244=247
何という粗雑な頭脳の持ち主なんだキミは。
だいたい「急速に公家化する」って何?
他にも「西洋は特権階級になってもアグレッシブ」だの、何だかもう使っている言葉じたいが
キミだけのいい加減なイメージに基づいたものとしか思えん。
もしかして
「勇猛=アグレッシブ=非公家
公家=「まろ」とか言って歌ばっかり詠んでるひ弱い人種」
だとでも思ってる?
キミこそ言葉の定義の仕方とか、まずそういう基本的なことからやり直した方がいいと思うぞ
>>249 > 公家=ひ弱い人種
たとえば、ここ千年ばかりの間に限って、そうではないという例証は?
> キミこそ言葉の定義の仕方とか、まずそういう基本的なことからやり直した方がいいと思うぞ
↑
> キミこそ言葉の定義の仕方とか、まずそういう基本的なことからやり直した方がいいと思うぞ
ここでは公家を貴族という意味で使ってるの?
まっ、レッテル貼り好きの無知者のためにも、基本の基本を解説していこう。
武士の起源としては
1,在地領主的武士論
有力農民が、自衛のために武装していったという説。
2,職能的武士論
都の下級貴族が、ヤクザや狩猟民等、戦闘能力を持った人々を率いて、
地方に下っていったという説。
司馬遼太郎先生は1の在地領主論派なのだが、近年は、職能的武士論が
有力である。しかし、少し考えれば解る事だが、1と2は排他的なも
のではなく、両者が融合して武士階級を作っていったと考える方が自然だろう。
中世においては、生産力の多くが土地によっていたため、強力な中央政府が
無ければ、このような私武装勢力が、土地の利権、縄張り、相続等をめぐって
争うのは当然の成り行き。この土地争いが、江戸幕府成立までの武士の戦いの
メインテーマなんだよな。
まっ、武装して戦う貴族もいたんだが、
公家的とは、「自らは戦わず汚れず、荒っぽい仕事は外注したがる人々」
と解釈するのが普通だろうね。
254 :
日本@名無史さん:04/03/24 17:33
>公家的とは、「自らは戦わず汚れず、荒っぽい仕事は外注したがる人々」
じゃあ俺も公家だな。今日から「麿」と自分を呼ぼう。
>>254 それを言ったら、戦後の日本人は全員公家だろw
(自衛隊以外は)
>252
下向井龍彦・川尻秋生・元木泰雄・関幸彦・高橋昌明を読んでから語ってくれ。
257 :
日本@名無史さん:04/03/24 18:20
戦後の日本人が、みんな公家?
お前、アルバイトでしか働いたことない学生だろ!
公務員は間違いなく公家だが、
大多数は自ら戦ってるよ。
258 :
日本@名無史さん:04/03/24 18:41
「戦う」という言葉はまぎらわしいなw
日本人の大多数は、昔で言えば公家というより町人だろ。
現代人の多くは都市の住民で商工業やサービス業に従事してるんだからね。
>>258 確かに紛らわしい。
ただ、何をどう戦っているのか分からないが、私も含めてだけど覚悟の無い人は
圧倒的に多いだろうね。
平家にしても源氏にしても覚悟はあっただろうと思おう。
総理大臣閣下曰く、日本国民はテロと戦う覚悟があると。
スレ違いsage
> 基本の基本を解説していこう。
プゲラ
262 :
日本@名無史さん:04/03/24 22:37
まぁ、奥州が、手を中央に出すのはリスキー過ぎるがそれくらいせんと
どの道、頼朝に滅ぼされるのは目に見えてるわけで、ココは一番秀衡の、
手腕が問われるわけで。史実では秀衡の手腕を発揮するもかなわず、夢
半ばで死去。泰衡が、後を継ぐも結局あっという間に滅亡。やはり、か
なりリスキーでも、やってみる価値はあると思うがね?問題は、タイミ
ングじゃないかねぇ?
>>257 >公務員は間違いなく公家だが
プゲラ
おまえみたいなへたれより
自衛隊員、消防士、警察官などの公務員の方がよっぽど体張ってるだろうがなw
>>259 >平家にしても源氏にしても覚悟はあっただろう
その通りですね。
このスレでも「公家化していた」なんぞと一部でへんな叩かれ方されている平家一門ですが
覚悟が無ければ事に臨んでのあのような見事な最期はなかなか出来るものではないでしょう
(知盛、忠度、教経などなど)
ただし宗盛はry
>>249 言葉の定義の仕方とか、まずそういう基本的なことからやり直した方がいいと思うぞ。
分かった?
>>264 > このスレでも「公家化していた」なんぞと一部でへんな叩かれ方されている平家一門
事実は覆しがたいでしょう。
> 覚悟が無ければ事に臨んでのあのような見事な最期はなかなか出来るものではないでしょう
それならば、富士川の体たらくは何ですか?
>下向井龍彦・川尻秋生・元木泰雄・関幸彦・高橋昌明を読んでから語ってくれ。
下向井先生、川尻先生、本木先生、高橋先生は、職能的武士論だろ。(高橋先生
は言葉の定義に異があるらしいが)
256氏よ、気づいていたか?
>>266 それはあげあし取り。
公家化していたとか富士川の件等は、真実が後世に伝わっているのかという
疑問を君は持たないのか?
>267
下向井・川尻・元木は国衙軍制論に基づいている。
武装した人=武士ではない。
朝廷によって武装ならびに軍事力の行使を認められ、
それを世襲した人々を武士という。
元木は武士の前段階として「兵段階」を想定しているが、
これは下向井が痛烈に批判している。
微妙にスレ違いかな。平家の話を続けてくれ。
270 :
日本@名無史さん:04/03/25 15:55
持てる者は、守りに入る。
それは人間の本質だと思うよ。
わが世をおう歌した平家ならなおさらでしょう。
271 :
日本@名無史さん:04/03/25 16:11
『平家物語』の記述だからどこまで事実か分からないが、
清盛らも、最初は貴族の連中に虐められたみたいだからねえ。
いつか逆転してやるってなもんで。
国衙軍制論は職能的武士論に含まれるのではないか?下向井先生の論(下級貴族
が、板東の群盗を抑えに下向する)は、
野口実「武家の棟梁の条件」に酷似するが。
273 :
日本@名無史さん:04/03/26 23:51
丸に揚羽蝶age
274 :
日本@名無史さん:04/03/27 06:44
>>270 じゃあ「守りに入らない(=アグレッシブ?)」というのは
平家の場合、具体的にどんな行動をとればそう言えるの?
275 :
日本@名無史さん:04/03/27 11:09
>>274 一騎打ちを挑む。
たとえば頼朝を一騎打ちで倒していれば平氏政権は安泰だったと思うがどうか?
276 :
日本@名無史さん:04/03/27 11:22
頼朝を倒してもダメでしょう。
頼朝は東国武士の不満を集めただけ。
東国武士にとって、頼朝は
「軽くてパーが良い」神輿のひとつだと思う。
別の神輿を探してくるだけ。
戦争は政治の継続・・・独国の倉腕筆の言うとおり。
平氏は戦う前に敗れていた。下手な政治で
板東の武士達に反感を買い、西国の武士達の
支持も薄かった。で、なければ、いくら源義経が掟破りの戦上手でも、平家が
あんな短期間には滅ばない。
278 :
日本@名無史さん:04/03/27 12:51
高棟王の母は京都の公家出身で、高見王の母は東国の渡来系武装集団の出身か?
279 :
日本@名無史さん:04/03/27 21:39
高棟王も高見王も百済系。
スレ違いなので今回で最後。
>272
国衙軍制論を知ってるなら、
>武士とは、相続とか縄張りとか、土地の利権を巡って争う武装者のことである。
と言うのを今時もちだすのは何で?国衙軍制論を支持してないだけ?
板東の群盗とやらと、何を巡って戦ったのさ?奴らはコソ泥とは違うんだから。
土地の支配権や徴税権を巡ってだろ。それが富の源泉なのだし。
そりゃ、当初は、使われる身であって、直接、土地を自分のものにはできなかったかも
知れないがね。
>>281 > 知れないがね。
これはどういう意味?
方言なのか、それともtypoなのか?
>>268 > 真実が後世に伝わっているのかという疑問を君は持たないのか?
藤村とかいう悪漢と同じように何か資料でも捏造しますか?
>>276 > 別の神輿を探してくるだけ。
別のところで拾った石器を地面に埋めるほど簡単には行かないでしょう。
>>285 長いスパンで見れば、いずれ別の御輿は出てきただろうね。
御輿が必ずしも源氏である必要は無いし、場合によっては
平氏政権自体が変質していったかもしれない。
287 :
日本@名無史さん:04/03/28 18:46
ピョンさんage
288 :
日本@名無史さん:04/03/29 01:13
>>277 >下手な政治で板東の武士達に反感を買い
「板東」ってのはわざと書いているのか?・・・
それはともかく、なぜ平家の政治が「下手」だったと思うのか、その根拠を語ってくれ。
>>286 > 御輿が必ずしも源氏である必要は無いし、
源平の争いは根が深かったという事実を全く認識していないとしか考えようがない。
> 平氏政権自体が変質していったかもしれない。
意味が分からない。どういう理由でどういう風に変化した可能性があったということ?
>>288 > それはともかく、なぜ平家の政治が「下手」だったと思うのか、その根拠を語ってくれ。
平家の政治が「下手」でなかったら、なぜ滅亡したのか、その根拠を語ってくれ。
291 :
日本@名無史さん:04/03/29 03:30
>>289 >> 御輿が必ずしも源氏である必要は無いし、
>源平の争いは根が深かったという事実を全く認識していないとしか考えようがない。
意味わかんない。詳しく説明して。
293 :
日本@名無史さん:04/03/30 01:02
>>290 あんたが平家の政治が下手だと言うから、どういうところが下手だったのか、
そして上手な政治とはどういうものであればそう言えるものなのかを聞いているだけなんだが?
それとも、ろくに説明も出来ないのに下手とか決めつけているわけ?
>>293 結果を見れば一目瞭然でしょ?
ろくに説明も出来ないのに「下手であったとはいえない」とか決めつけているわけ?
>294
面白い。あんた良いネタ師だ。
296 :
日本@名無史さん:04/03/30 19:00
清盛ってオーナー社長にすべてを託して、
周囲は金魚の糞、2代目ボンボンはカス。
そんなとこが下手レなんじゃないの。
297 :
日本@名無史さん:04/03/30 19:31
それじゃ、源氏も似たようなものだな。
一族同士殺し合いで身内減らし、最後の三代実朝は甥に殺されたしね。
298 :
日本@名無史さん:04/03/30 20:55
源氏の場合、サラリーマン社長でしょ。
北条オーナーがデンと構えている。
299 :
日本@名無史さん:04/03/30 21:23
>>298 ただし、源氏の棟梁を名義人にしないと、
会社の登記も上場も出来ないけどね。
301 :
日本@名無史さん:04/03/31 02:07
一回、登記、上場しちまえば、
後はオーナーの意のままってことでしょう。
だんだん社長より会長(執権)が実務者になってくる。
>>295 ネタ師というより、単に頭の悪い人というほうが妥当か。
>302
同意
あまりのアホさに呆れて脱力
こんな奴に「下手」呼ばわりされる平家が不憫
平氏の政治が下手でなければ、平氏支持者によって、平氏の早期滅亡は避けられる。
早期滅亡が政治下手の証拠である。・・・・ただし、これは、循環論臭いので
もっと考えた方が良い。
さて、今日のような平時なら、政治の本質は見えにくいが、前近代社会の乱世の政治
は露骨でわかりやすい。政治とは、究極のところ、多数派工作のことである。
平氏の政治が下手なのは、自明のこと。多くの武士の支持を得られなかったのが証拠。
長期政権にしたかったのなら、鎌倉幕府の
承久の乱以降の政策のようにしなければならない。
では、なぜ、それができなかったのか? それは、次回。
武士とは、主として土地の利権を巡って、武力で争う者達のことである。
武士の棟梁は、全国の武士に支持されるためには、多くの可処分の土地利権
を持つべきである。その利権の分配で支持を集められる。
その点、もっとも幸福な武士は、関ヶ原以降の徳川家康。全国の約半分の武士が
敵対して敗れ去ったために、その土地利権を奪って、
全国の約半分の土地利権を自由にできた。
大判振る舞いで下々に分配して、忠誠心を買うも良し。ケチって中央集権政権を
作るも良し。天下分け目の大決戦を勝ち抜いた者は、理念上は、天下の半分を
自由にできるのである。(現実はそんなに単純ではないが)
鎌倉幕府も、源平合戦、承久の乱によって、敗者の利権を奪い、多くの
土地処分の自由を持った。徳川家に近い。
しかし、平清盛は、そんな大規模の天下分け目の合戦を戦っていない。
平氏政権は、鎌倉幕府や江戸幕府に比べて、遙かに弱体政権としてスタート
している。戦いの規模が小さいということは、奪った土地も小さいという事で
ある。平氏は、基盤の脆い、脆弱な支配権を得たに過ぎなかったのである。
唯一、平氏政権を長命化する方法がある。それは、常に世論の多数派に立ち
つつ、少数派を粛正して土地を奪い続けることである。しかし、これは
非常に難しい。粛正を恐れた勢力が、逆に多数派を形成しやすいからである。
足利義満ですら、少ししか成功しなかった。明の永楽帝のように、粛正に
対して反逆を成功させる人物もいる。
金魚氏。
治承3年クーデターとその結果はどう評価するの?
チャート式日本史では、「反平氏に対する気運が高まった」と、あるね。(笑)
粛清は、少なくとも、世論の消極的支持を得られなければならない。土地を奪った
わけではないが、スターリンの場合、形だけでも、ソ連共産党員、いや、世界各国の
プロレタリアートの積極的支持を得ながら行っている。形だけだが、粛清される本人の
自己批判にまで至っている。見事。
常に多数派に立ち、世論の支持を得ながら、粛清を重ねて、土地を奪い、それを
熱烈支持者に分配したり、自らの直轄領を増したりして政権を強化し続けなければ
ならない。
これが上手な政治。
早い話、多数派の長による正義を名乗るイジメこそが、
乱世から治世への優れた政治である。
ちなみに、あの地頭こそ、他人の土地への、利権の介入の典型。これを全国に
広めるためにも、「天下分け目」に勝つか、巧妙な粛清によって、強固な政権
を作る必要があった。
311 :
日本@名無史さん:04/04/01 13:29
312 :
日本@名無史さん:04/04/01 13:43
>早期滅亡が政治下手の証拠である。・
維新まで延々と続いた公家は政治の天才だね!
「生き残る」という事だけが目標であるなら、公家は政治の天才が多かった
、と言えるね。
国際政治学者、永井陽之助先生いわく
「戦略とは、実現可能なレベルまで、目標を下げる事」
平家は、実力と目標の乖離が大きかった。これは、秀吉死後の豊臣政権にも
言える。
>>313 「実力と目標の乖離が大きかった」とあるが、実力はともかくとして、清盛が死んだ後、
明確な目標などあったのかな?
なんだかとっても春めいたスレだね。
317 :
日本@名無史さん:04/04/01 19:59
まぁ、一杯飲んで、歌でもやってけ
>>315 春めいているというより、電波強烈過ぎて頭クラクラしてきた‥‥
↑
ならはんろんしてみろよ。できんだろ?あほ。
320 :
日本@名無史さん:04/04/02 23:45
>>305 平安時代の武士は武力で所領をひろげていたんですか、知りませんでした。
>320
大ざっぱに言えば、土地の所有は、貴族(武士の棟梁であることも)。
その現地管理人は武士。
ただし、当時、土地の境界線が今日のようにはっきりした時代ではないし、
所有権も現地管理権もはっきりした相続法が無いし、
まして、土地からの収益の具体的な数値など分かりようが無いから、
実効的な支配や徴税権については、力関係によるね。ここで武士の
役割が重要になる。
322 :
日本@名無史さん:04/04/03 14:41
>>304 >長期政権にしたかったのなら、鎌倉幕府の
承久の乱以降の政策のようにしなければならない。
何だよそれw゚
「江戸幕府はなぜ滅びたか?」
「明治政府の政策をやっていればよかったのである」
と言うのと同じ。
こんなモロ結果論を平気で書いていてよく恥ずかしくないな。
>唯一、平氏政権を長命化する方法がある。それは、常に世論の多数派に立ち
つつ、少数派を粛正して土地を奪い続けることである。しかし、これは
非常に難しい。粛正を恐れた勢力が、逆に多数派を形成しやすいからである
なんのこっちゃ。世論とか多数派とかって具体的に何を指すんだよ?
そんな単純明快な対立構造だったら誰も苦労せんわ。
院、朝廷、公家、地方武士、それぞれがそれぞれの立場で対立したり動いたりしていて、
状況は複雑に錯綜していたってのが実情だろ。
まぁ百歩譲っておまえの言い分が正しいとしたにせよ、平家の政治を「下手」とまで断定する理由には全然なっていないだろ。
これがもし、並でもできることをやれなければ「下手」と言われても仕方ないが、そうじゃないだろ。
何せあんた自身が「非常に難しい」と言っているんだからな。
323 :
日本@名無史さん:04/04/03 14:55
>>308-310 おまえは「政治」と「権力」とをまるっきり混同しているようだな。
確かに、政治を満足いくようにやりたければ権力を掌握することが不可欠ではあるが、
両者は同じではない。
おまえが言う「上手な政治」というのは権力構造を保持することに巧みであったかという話に過ぎず、政治そのものの質の良否ではない。
スターリンを「見事」などと褒めているのがその証拠だ。
スターリンや毛沢東、あるいは金日成なんかは己の独裁的な権力維持の才能はあったかもしれないが
政治家としては決して優れているとはいい難いし、ろくな業績も無い。
323>
政治という言葉の定義は、主に2通りあるんだよ。君の知っている方は、
経世済民・民政・行政と言った意味の方。その面では、スターリンってのは
悪そのものだよ。君の言う通り。
もう一つは、政治的人間とか、身の回りの人間関係の調整とか、の意味。
例えば、政治的人間って、「民政に巧みな志の高い人」という意味では
ないよね。政治的に勝ち残れる、要領の良い、多数派工作の長けた人という意味
だよね。
>322
独国の松楠・上場亜が言っとるね。
「政治家の責任は結果責任」
結果論でいいんたよ。政治批評は。政治家にとっては、酷なものだけど。
君の言うとおり、実際の政治は複雑怪奇だ。だけども、その研究の結果として
いろんなファクターを捨象して、なんらかの結論を得るのは科学として
当然のことだ。で、なければ、単なる諸事実の羅列に過ぎなくなる。
諸事実の羅列だけでは、トリビアに過ぎないよ。
金魚氏。
あなたの耳には逆らうかもしれんが、まじめに書くので
できれば、まじめに考えてほしい。あ、レスはいらないからね。
もういちど、>322と>323のレスをよく読んで、
それからもう一度、ご自分の>325と>324の回答を読んでみてくれ。
客観的にみて、回答になってると思うかい?
議論が成立してると思うかい?
あえてあなたが「ポイントをはずした」のなら、もういうことはない。
けれど、大真面目に書いたのなら、もういちど、自分がこれでいいのか、
考え直してほしい。
蛇足だけど、おれは322でも323でもないからね。
金魚氏はなかなか勉強しているのに、これではあまりにも
勿体ないから、あえて口を出してみました。
>326
323氏は、「政治」とい言葉の通俗的な使い方のみを知っている。
それに対して、もうひとつの別の使い方を説明した。くり返すが
「政治的人間」とは、「行政・民政に巧みな志の高い人間」の事では
ない。白い巨塔の、鵜飼や竹内のような人のこと。
323氏
「当時の政治の現実は、そんな単純なものではないんだ、ゴルァ。
具体的に、平氏の政治のどこが下手なのか述べてみよ、ゴルァ。」
に対して金魚氏
「でも単純化しないと、科学足り得ないよ。もっとも進んだ社会科学
と言われる、経済学なんて、捨象しまくって公式や理論を自然科学
なみに作ることができたんだから。
さらに、政治の具体を述べよ、と言われてもだ。政策の実際の運用
なんて、記録にもろくに残らないし、答えようが無いよ。
ただ、強いて言えば、すでに書いたように地頭の全国配備なんてのは
重要だね。平氏の地頭は中途半端だったからね。(チャート式日本史・笑)
でも、それだって、結局、政治の多数派の長となって、こそ、実施
できたことだ。
結論として、平氏は、権力闘争で勝ちまくる政治力に欠けていた、という
ことだよ。
下の323は322の間違い、スマン。
>327
お褒めにあずかり光栄だが、実は、ここの書き込みのほとんどは、
野口実氏の「武家の棟梁条件」に依っている。そもそも、源平合戦
には大して興味も無いのだ。清盛の子どもの氏名も、ろくに知らないし。
ただ、いくら本を読んでも、
金魚「武士とは土地利権を争う人」
誰か「何、土地だと?金魚は、古い在地領主論だな。国衙軍制論を
知らぬのか、バカめ。」
金魚「国衙軍制論による武士だって、土地利権を巡って争ったんだよ。」
土地という言葉を出しただけで、司馬遼太郎的な在地領主論を連想
するのは、落ち着きが無いのだ。おそらく彼は、金魚よりこの時代の
細部に詳しい。しかし、落ち着きが無いと、カン違いを多発して、結果的
には、素人の金魚を、「よく調べている人」に見せてしまう。
くり返すが、細部については、金魚は無知だし、大して興味も無い。
ただ、武士とはどんな奴らだったのかのイメージには自信はあるがね。
我々は、権力者が、その政策を主体的に選んで行ったと考えがちだ。
織田信長が毛利元就より、先進的だったのは、信長個人が、新しもの好きだった
からだと考えがちだ。しかし、どうも実際はそうでなく、勝ち残るための必然に
従っただけであり、信長と元就の違いは、時代と地域の違いによるものが大きかった
だけだと思う。(近年の研究では、信長はさほど革新的でない、という説も有力だが)
平清盛も、源頼朝に比べて、政治的に劣るわけではないのかも、知れない。
しかしだ。政治の責任は結果責任だ。今日、不況を理由に債務を逃れる事は
できないように、政治もまた、然りだ。
平家が生き残るのは難しかった。しかし、それでも、結果責任論の立場に
立てば、特に清盛没後は、政治力が低かった、と判すべきだ。
331 :
日本@名無史さん:04/04/04 15:16
近畿の人口過密地帯では食料の余剰生産が少ないから脆くて当然。頼朝が京都を殊更避けたのもそれがため。
332 :
日本@名無史さん:04/04/04 16:29
>>322 > 「明治政府の政策をやっていればよかったのである」
> と言うのと同じ。
どうも奇妙なことを主張すると思ったら、根本的なところが分かっていませんね。
333 :
日本@名無史さん:04/04/05 00:03
安徳天皇age
334 :
日本@名無史さん:04/04/05 04:27
>>328-330 金魚さんよ。あんたの言ってることは悪いが「科学」でも何でもない。
単なる「結果論」。それ以上の何ものでもないよ。
結果論というのは、物事が全て終わった後でああだこうだと批判するだけで、
早い話がプロ野球の結果を見てから、あそこはああしていれば良かったんだとかえらそうに采配批判し始めるのと同じで、実際には糞の役にも立たないよ。
そんなものが「科学」と言えるのかね?
だいたい、単純化すれば科学たり得るなどというのはあんたの思い込みに過ぎない。
物事をよく知りもせず調べもせず、誰かの知識や言葉の一部だけを取り出して
あんた自身の中だけで成立している法則を、得意げになって振り回しているだけだ。
政治家は結果責任?そりゃそうかもしれん。
だが、その政治がどんなものであったのか、なぜ失敗(または成功)したのか、
その原因なり要素なりを具体的に分析くらいして、その上で批判するなり何なりしてほしいんだよ。
でなけりゃ議論にならんだろ。
>323氏は、「政治」とい言葉の通俗的な使い方のみを知っている。
俺はあんたの方がよっぽど通俗的(というよりも比喩的というべきか)な意味で「政治」という言葉を使っていると思うがどうよ?
だいたい、あんたは政治「的」とは最初言わなかった。
明らかに平家の「政治」が下手だった、と書いている。
こういう板で「政治」というときは、言葉そのものの一義的な意味で使うべきじゃないかと思うがね。。
335 :
日本@名無史さん:04/04/05 06:49
平氏政権は入道相国のワンマン経営の会社みたいなもので、ワンマン社長の暴走
を、うまく調整していたのが小松殿かと。
小松殿は政治的な能力は非凡だったが、軍人としてはよくわからない。
小松殿が入道相国没後も生きながらえていたら、平氏一族は、当時の貴族社会の
なかで、うまく世渡りできたかもしれないが、その後を継ぐ人物が、いなそうなので
衰退は必至だったのではと思える。
平氏政権が脆かったのは、すでに皇室、藤原氏、村上源氏などできっちり出来上
がっていた秩序に割って入って、強引に平氏の体制をつくってしまったところにある
と思う。強引に作り上げたために基盤が脆弱な政権をまがりなりにも持たせていた
のが、強面の入道相国の強引で乱暴な政治手法で、しかし、その強引さが、周囲の
反発を買っており、彼がいなくなれば早晩、その反発が表面化するのは自然の成り
行きかと。
鎌倉殿の政権は、これまでの秩序を壊さず、都に温存しておきながら、遠く坂東の
地で、新しい政治秩序を構築したことで、生きながらえたのではないかと。
>平氏政権が脆かったのは、すでに皇室、藤原氏、村上源氏などできっちり出来上
>がっていた秩序に割って入って、強引に平氏の体制をつくってしまったところにある
>と思う。
彼らはほとんど関係ないんじゃないの?
右往左往してただけじゃん。
337 :
日本@名無史さん:04/04/05 08:12
平氏討伐に大義名分を与える支持基盤となった。
単に木曽殿や鎌倉殿が兵を挙げて平氏追討しても、それは武士同士の争いに
すぎず、しかも公卿に多くの人材を輩出している平氏一族を討つとあれば、逆に
朝敵とされて、国家を挙げての追討対象になる。
源氏が堂々と平氏を滅ぼすためには、朝敵追討という大義名分がなければなら
ない。
清盛一族は、貴族社会から強い反発を買っていたからこそ、源氏の平氏追討が
成功したと言うこと。当時の武士は朝敵と言う言葉には非常に敏感であったから
もし、清盛一族が貴族社会から広範な支持を得ていたならば、鎌倉殿や木曽殿
は単なる謀反人として終わっていたことだろうと思う。
339 :
日本@名無史さん:04/04/05 22:01
東郷平八郎は平家の子孫
340 :
日本@名無史さん:04/04/05 22:46
>当時の武士は朝敵と言う言葉には非常に敏感であったから
>もし、清盛一族が貴族社会から広範な支持を得ていたならば、
>鎌倉殿や木曽殿 は単なる謀反人として
>終わっていたことだろうと思う。
かなり朝廷を過大評価しているのでは?
貴族が何を思うおうと、勝てる算段がつけば、攻める。
朝敵とは「負けた方」もしくは「負けそうな方」という
意味だと思うが。
341 :
日本@名無史さん:04/04/06 02:49
>>335>>337 貴族社会の反発‥‥そんな単純な図式じゃないんだけどね。
正確には「後白河院とその近臣たちからの反発」というべきだろう。
公家の中にだって親平家もいたし反平家もいた。
平家は天皇家とも摂関家とも姻戚関係にあり、しかも相当な蜜月期間もあったわけだ(まぁ本音はどうだか知らないけどね)。
あの当時、武門の一族がそこまでの地位にのぼりつめるだけでも並の政治力では到底無理。大したもんだと思うよ。
ともあれ、もともとは一門の味方であり、「治天の君」でもあった後白河院との対立。
これが平家衰退の大きな要因なのは確か。
>>340 いつの時代の話をしているのだ君は?戦国時代じゃないんだぞ。
>>341 戦国以外は武士は朝廷にガクブルだったとでも?
武士は朝廷にガクブルじゃなかったとでも?
北条義時も足利尊氏も相当に悩んでいた。
余裕満々の出来レースじゃなかっただろ、いずれのケースも。
344 :
日本@名無史さん:04/04/06 13:51
>>337 >もし、清盛一族が貴族社会から広範な支持を得ていたならば、
>鎌倉殿や木曽殿 は単なる謀反人として
>終わっていたことだろうと思う。
というより、そもそも挙兵など出来ない。
頼朝にしろも義仲にしろ挙兵の大義名分はまずは以仁王の令旨。
その後も後白河法皇の強いプッシュがあればこそ平家追討は成立しえた。
>>340 過大評価ではない。それが当時の現実。
これより200年近く後の南北朝の争いでも、なぜ足利尊氏が新たに天皇を樹立しなくてはならなかったかを考えるべし。
>>343 当初は悩んだが結局挙兵したでしょ。
>>344 以仁王は冷飯食い。対する平氏方は院、天皇をおさえていた。
つまり挙兵する側は三流皇族を担いで朝廷に喧嘩を売ることになる。
清盛や義仲は後白河院をどう扱ったか?安徳天皇はどうなった?承久の乱はどう評価する?
足利尊氏は当初自前の天皇を担いでいなかった。
要するに天皇・朝廷は道具。必要ならば使い、いらなくなれば首を挿げ替える。
さすがに消滅はさせられないが。
そもそも源氏や坂東武士には朝廷に逆らった実績がある。
以仁王は三流皇族なんだろうか・・・。
ま、三流でも皇族が必要なわけで。
小規模なヤクザ的な武士団どまりならともかく、
それ以上の大規模武士団、さらに政治組織にまでしようとなると、
皇族という象徴が必要になるんじゃないの。
っていうか、朝廷の権威がそんなすごいものだったら義経が頼朝を倒してるよ。
頼朝は東国支配権を元手に、そんな象徴を必要としない武士団をつくったんでしょ。
↑馬鹿まるだし
>>349 普通に議論できないなら、カキコミしないほうがいいぞ。
351 :
日本@名無史さん:04/04/06 23:18
>>345 結果から見れば、あんたがそう思うのも無理もないが、
あの時代の武士たちが、皇族をすげかえ可能な「道具」だと思っていたなどと言うのは
あまりにも中世人の思考をあんたと同じ現代人と一緒くたにしている。
当時の人間の多くがそこまで割り切って考えていたなら、皇室とか朝廷がそれ以後も延々と存続するはずがない。
だいたい中世人と、唯物思想だの様々な思想が入っている現代人とでは精神構造がまるで違う。
いっぺん中世以前の軍記ものでもちゃんと読んでみるといい。
「神仏の力」がもの凄く有効な時代だってことがよくわかる。
353 :
日本@名無史さん:04/04/07 02:38
>352
そう思うのはあんたに読解力&理解力が無いだけ‥‥とは思うが、
仕方ないので、めんどくさいけど一例を挙げる。
清盛も義仲も後白河院に腹を立てつつも流罪にさえ出来なかった。
せいぜい宮殿の一角に軟禁するのがせいいっぱい。
自分を滅亡に追い込もうと画策していたにもかかわらずだ。
また、安徳天皇は誰が見たって幼君を平家が拉致し、利用していることが明白。
それでも平家にそれなりに兵士が集まる根拠にはなったものの、
当時は天皇よりも天皇位を退いた「治天の君」(=後白河)の方が権威があるとされていたから
平家は院宣によって追討の対象となった。
承久の乱については座して滅びるよりも戦うしかない、という北条氏の苦渋の決断。
北条親子はもしも上皇自ら出馬してきた場合は旗を巻いて降参する、と出陣前に言っており、
あくまで上皇をそそのかした君側の奸を討つ、というスタンスで出陣していた。
とはいえ、この乱の結果によって、朝廷の権威がそれまでになく失墜したことは俺も認める。
それでも、あんたの言うような「天皇なんて邪魔になったら首をすげかえりゃいい」
「朝廷なんて道具」的な考えは生まれてはいない。
仮に心の奥底でそのように思ったとしても、決して表明できるような考えではなかったといえる。
‥‥ざっと簡単に書くとこんな感じだが、まぁいずれにしても、現代の学者が書いた解説書とか歴史小説ばかりではなく、当時の古典とか日記といったものをいっぺん読んでみることをお勧めする。では。
354 :
日本@名無史さん:04/04/07 06:49
なんで馬鹿まるだしって頼朝の政治的位置関係をまるで理解してない。
355 :
日本@名無史さん:04/04/07 08:09
356 :
日本@名無史さん:04/04/07 09:24
>354
日本語がおかしいよ。
とりあえず、頼朝の政治的位置関係とやらを解説してくれ。
357 :
日本@名無史さん:04/04/07 09:37
>>348 その東国支配権も「寿永二年十月の宣旨」で公認されたもの
なんじゃないの?
358 :
日本@名無史さん:04/04/07 09:53
>357
スマン。言葉が足らなかった。
元は朝廷の権威での支配権だけど、それを元手に東国の武士たちと個人的な主従関係を結んでゆき、終いには朝廷の権威を頼らなくていいようになった、と言いたかった。
あくまでも頼朝と武士たちの個人的関係だったから、頼朝死後動揺することになった、と。
馬鹿丸出しらしいけど。
359 :
日本@名無史さん:04/04/07 12:01
俺の先祖のこと聞いていい?
>>358 >>345 >つまり挙兵する側は三流皇族を担いで朝廷に喧嘩を売ることになる。
345と358が同一人物じゃなかったらごめんね。
頼朝は最初は明らかに朝廷への反乱軍でしょ?
それがどうして、「朝廷の権威での支配権」をもっていたの?
それとも、頼朝と東国武士団との関係は寿永2年10月宣旨以降に
始まった、とでもいうの?
俺は345じゃないよ。
頼朝、朝廷への反乱軍といえるか?
まぁ安徳天皇のみが朝廷と考えれば、そうなるけど、
以仁王の令旨だけでも、「官軍」としては十分じゃないかな。
千葉とかは源氏の郎党だったから、そんな権威は不要だし。
>>351 キミの論法からすれば朝廷が存続したのも結果論なわけだが。
神仏の力がもの凄く有効な時代、って言っても平氏は人畜無害な厳島神社は崇敬したが
抵抗勢力と化した南都北嶺に対しては掣肘を加えとる。
>>353 後白河は権力を奪われ監禁された。
安徳が拉致されたというのならば、それは平家が安徳を自分達に都合よく使ったということだろう。
そもそも源氏は以仁王という「三流?」皇族の令旨をたてに
本家本元の朝廷=平氏政権に対して反旗を翻してるわけだ。
承久の乱についても、出陣しなかった上皇連中はあっさり島流しになったわけだ。
しかも配流先は僻地の佐渡、隠岐、土佐。
殺されないまでもずいぶんな扱いだな。
キミは古典だの日記だの軍記だのを読めといっておるが
上にあげた事柄はその類の書物に書かれておったはずだが。
363 :
日本@名無史さん:04/04/07 16:19
再び『丸に揚羽蝶』age
>>353 「道具」という言葉が気に入らんようだけど、草薙剣も猫の爪切りも道具は道具ですぞ。
「道具」と言ったっておそろしく権威があってそうそう触れない「道具」もあるってこと。
365 :
日本@名無史さん:04/04/07 18:27
道具の定義は、自らの意志を持つべきでないと
使用者に規定されていることだろ。
どんなに貴重な宝でも、同じこと。
366 :
日本@名無史さん:04/04/07 18:44
平氏は朝廷よりで源氏は武士寄り。
この時点で勝負は見えていた。
367 :
日本@名無史さん:04/04/07 18:46
てか北条市は平家なんだけどな
平氏と平家の違い。
北条市には2階建ての家がないのか?
ところで小泉の靖国参拝に違憲判決が出たけど、厳島神社参拝は違憲じゃないの?
372 :
日本@名無史さん:04/04/08 03:23
>371
小泉が参拝した場合は靖国だろうが厳島だろうが地元のお稲荷さんだろうが違憲って判断なんだろw
小泉は正月の初詣でにも行けないことになるね
ん?親類知人の葬式結婚式にも無宗派でなけりゃ行けないのか?そりゃ大変だw
まぁこんなバカバカしい判決が出たといっても地裁のハナシ
地裁の判決が上で覆るのはよくあることだ
法曹界には馬鹿サヨが多いからねw
>372
板違いでアゲんなボケ
ホモリさんことタモリは平保盛と関係ありますか?
375 :
日本@名無史さん:04/04/08 20:46
>>362 ‥‥どうも話が噛み合わないね。
あなたが362で挙げているのは歴史的事実、プラスあなたの「解釈」。
で、俺が「ちょっと違うだろ」とずっと言い続けているのは、歴史的事実の方ではなくて、それに対するあなたの「解釈」の方なんだけどね。
端的にいうなら「中世の人間はあんたみたいにドライな思考をする合理的人間じゃないよ」ってこと。
ある解釈によって結果だけ眺めてみれば、確かに朝廷はまるで政争の道具のような存在にも見える。
でも、だからといって当時の人間が本気で朝廷を「道具」だと考えていたかどうかは別問題だろってことを言っているつもりなんだが、わからんか?
いちいち突っ込むのは控えるが、例えば「あっさり島流し」とかいっているけど、何をもって「あっさり」と思うわけ?
ちなみに承久の乱における幕府の処置は当時はもちろん後世に至るまで指弾されている。
一例を挙げれば、室町幕府の御用史書『梅松論』でさえ「天道を恐れぬ所業」としているくらいだ(「おまえらが言うなよ」とは思うけどね)。
ましてや頼朝挙兵や平家滅亡は、承久の乱よりも更にさかのぼる過去の話なんだから。
話を原点に戻すと、
>戦国以外は武士は朝廷にガクブルだったとでも?
少なくとも頼朝挙兵〜承久の乱まではそうだろうね。大変な畏れを持って朝廷を見ている。
しかしどんなに「ガクブル」ではあっても、自分たちの生存がかかっていればやらざるを得ない場合があるんじゃないの?
平家の南都焼き討ち(これは焼く意志は無く事故だったらしいが)も法皇幽閉も、鎌倉幕府の承久の乱も、やらなければやられるというギリギリの状況まで追い詰められた上での決断でしょ。
物事には最初から結果があるわけじゃなくて、しかるべき過程を経るからそれに応じた結果があるわけで、結果からさかのぼって、その行為をした人間の意識までも規定してしまうのは、あまりにも乱暴な話だと思うよ。
もう1度同じことを書く。
現代の学者が書いた解説書とか歴史小説ばかりではなく、当時を扱った古典の一つでもきっちり読んでみてくれ。
その上でそういう判断をするなら、もう仕方がないけどね。
>374
従兄弟。
377 :
日本@名無史さん:04/04/08 20:57
当時扱った古典・・・
それが時の政治意図を一番色濃く反映しているわけでさ。
読むのはいいけど、素直に読むのはチイト違うな。
長文読むの面倒なんで、何をもめてるのか、だれかまとめて。
379 :
日本@名無史さん:04/04/08 22:46
>現代の学者が書いた解説書とか歴史小説ばかりではなく、当時を扱った古典の一つでもきっちり読んでみてくれ。
>その上でそういう判断をするなら、もう仕方がないけどね。
俺は歴史マスター、学者の言ってることは出鱈目。
お前は小説厨。
と主張してるのかな?
ただ単に言葉尻をとらえて御題目を繰り返しているだけのような・・・。
381 :
日本@名無史さん:04/04/09 19:46
>>379 >375のどこをどう読めばそんな解釈になるんだ?
それとも自己紹介かw(=小説厨)
382 :
日本@名無史さん:04/04/09 20:05
↑
正しい解釈キボンヌ。あと自分の自己紹介も所望。
383 :
日本@名無史さん:04/04/09 20:50
>>375 俺は別にドライじゃないし、平安人や鎌倉人がドライだと言った覚えはないが。
それに当時の人間が朝廷に対して畏敬の念をもっていたことを否定するつもりはない。
そもそもドライだったら天皇制は現代まで存続していないだろう。
ただ、解釈するまでもなく、彼らは必要とあらば朝廷に対しても行動をおこした歴史的事実がある、といってるだけ。
ガクブルだったらそんなことしようとは思わないだろうし、
そもそも朝廷に警戒心をもたれない、犬のままでおとなしくしていただろう。
清盛で例えるならば、本当にガクブルならば院に脅威を抱かせるほど権勢を振ったりしないだろうし、
ましてや権力奪って押し込めたり出来ないだろう、ってこと。
というか、>375があげている学者本や小説がどんなものか気になるんだけど。
386 :
日本@名無史さん:04/04/09 22:35
387 :
日本@名無史さん:04/04/09 23:15
平 清盛=ピョン チョンソン
388 :
日本@名無史さん:04/04/10 00:51
平氏=後世の新田、豊臣、犬養といったところか。
それぞれ足利、徳川、将校(軍)に滅ぼされる運命だ。
天皇の権威にすがろうとするものは武力の前に滅ぼされる。
389 :
日本@名無史さん:04/04/10 01:14
源 頼朝=ウォン ルェジョ
390 :
日本@名無史さん:04/04/10 02:42
源 頼朝=海部元首相
平 清盛=田中元首相
391 :
日本@名無史さん:04/04/10 02:57
北条時政=平 時政=ピョン シジョン
源氏=ローマ
平氏=カルタゴ
前近代の農業社会で、長期政権を作るためには、(外国との関わりは捨象する)
1,土地利権の差配
2,正統性
に成功しなければならない。
1,土地利権の差配
配下に分配して忠誠心を買う。ただし、分配し過ぎると、自分の直轄領が減り、
制度としての権力が弱くなる。かといって、分配が少ないと忠誠心は買えない。
どちらにしろ、自由に処分できる大量の土地利権が必要である。そのためには
、敵と戦って勝つか、敵を作って粛清するかして、土地利権を奪わなければなら
ない。もちろん、敵が強大であるほど、多くの土地利権を奪えるが、勝つことも
粛清することも、難しくなる。
2,正統性
日本の場合は、朝廷を味方にすることと、忠誠心思想を植え付けることである。
乱世において、朝廷を味方にすれば、配下の気合いが上がり、どちらにつくか迷っ
ている勢力を味方にしやすい
治世においては、忠誠心思想を広めねばならない。
さて、平家だが、直轄領も私兵もほとんど持たない源頼朝ごときに滅ぼされ
たのだから、いかに、多くの武士達に見限られていたかわかる。
かと言って、平家が生き残るのは難しい、が、いくつか方法としては、
1,何度も、敵を作って粛清して、その土地利権を分配して、日本中の武士達に
「平家の恩は、山より高く海より深い」と言わしめる。北条家すら
忠実に従う。
これは、危険。下手な粛清は反乱のきっかけになりやすい。
高度な政治力を持った人間が中枢に必要である。清盛が長命
でもできたかどうか?
2,富士川の戦いに圧勝して、源氏軍主戦派の土地利権を奪って分配する。
主戦派以外は、謹慎・隠居処分くらいの方が、徹底抗戦されなくて良いだろう。
これも難しいな。
まっ、結局のところ、平氏に政治力が足りなかった。と、いう事だ。
政治力があってこそ、戦争に勝ち、本補、新補と地頭を全国に派遣するという、
鎌倉幕府一流の典型的な土地利権の差配ができたわけだから。
歴史は結果は、わかるが、過去の人物の本当の意図なんてわからない。
だから、結果論でいいのだ。
そして、賢者は、その結果の中から「多数派工作が政治の本質。政策すらも
そのための手段に過ぎない。」という人間の真実を学べるわけだ。
396 :
日本@名無史さん:04/04/10 12:35
> 配下に分配して忠誠心を買う。ただし、分配し過ぎると、自分の直轄領が減り、
> 制度としての権力が弱くなる。かといって、分配が少ないと忠誠心は買えない。
分配しても直轄領は減らないんでは?
古代における土地の分配は、配下の者に丸々あげてしまうんではなく、
自分は本主になって、配下を荘官にするのパターンじゃないかな。
397 :
日本@名無史さん:04/04/10 13:39
金魚やるな
> ガクブルだったらそんなことしようとは思わないだろうし、
愚管抄巻四によれば、保元の乱のとき、内裏方に召された下野守殿はこう申し上げて喜びのあまり扇
を手に舞ったそうだ。
義朝軍ニアフ事何ヶ度ニナリ候ヌル。皆朝家ヲオソレテイカナルトガヲカ蒙候ハンズラント。ムネニ先コ
タヘテヲソレ候キ。ケフ追討ノ宣旨カウブリテ只今敵ニアイ候ヌル心ノスズシサコソ候ハネ
少なくとも、大庭の御厨を何度も襲って悪さしていた上総の曹司殿は、内心はびびっていたようですね。
朝敵という言葉は、それほどまでに武者どもには、大変なものでありまして。
そもそも、武士は武力で公に仕えるのを本分とする家柄ですね。それが、朝廷に弓引くとなれば、彼ら
の存在理由がなくなるわけですな。この様な非道は、忽ちにして、他の武士たちの格好の手柄材料と
なるわけですよ。つまりですね、自分の従者以外の全ての武士を敵に回すということになるわけです。
それに、朝敵という汚名を後世に残すと言うのは、名を惜しむ武門の者にとっては耐え難いことでしょう。
木曽殿や鎌倉殿は、以仁王の令旨という裏づけがあったから蜂起できたわけで、更に、その背後には
平家にひどい目に合わされている後白河院の存在があったから、その裏づけの重みも増したんでしょ
うな。つまり、主上は平家が擁しているが、それに劣らない権威の持ち主の後ろ盾を得られる可能性が
あるわけですから。
相手が内大臣だの、大納言だのという錚々たる公卿を擁する平家一族ですから彼ら相手に合戦を挑
むとなるとただの私闘ではすまなくなるわけですね。何の裏づけもなく戦えば、間違いなく朝敵のご指
定を賜るでしょう。朝敵とされた途端、世の武士はどう対応するか。木曽殿や鎌倉殿は窮地に追い込ま
れますね。でも、そこに令旨や後白河院の存在があったらどうでしょう。世の中の武士は、どっちにつこう
かなと迷いますね。それで、将来性や勢いや損得勘定などを考慮して多くが源氏側についたということ
じゃないですか。都落ちという現実が大きくものをいったとも思いますが。
> ただ、解釈するまでもなく、彼らは必要とあらば朝廷に対しても行動をおこした歴史的事実がある、といってるだけ。
承平の将門、天慶の純友、長元の忠常、平治の義朝などですか。「朝廷に対して行動をおこした」という
のはその通りですね。でも、全員、滅ぼされている。「全員滅ぼされている」という事実は受領以下の地
位の武士たちにとっては深刻な意味を持ってますね。
更に、平安遷都以来400年、公に弓引いた武門は、数えるくらいしかいないというのも重要なことですね。
>清盛で例えるならば、本当にガクブルならば院に脅威を抱かせるほど権勢を振ったりしないだろうし、
>ましてや権力奪って押し込めたり出来ないだろう、ってこと。
平治の乱直後のころは入道相国どのも、
清盛ハヨクヨクツツシミテイミジクハカライテ。アナタコナタシケルニコソ。
などと、愚管抄巻五では書かれてますな。
法皇の鳥羽殿御遷幸は、相国殿が、位人臣を極めてからのこと、朝廷を恐れるも何も、相国殿ご自身が朝
廷の中枢になられたわけですから、例として引き合いに出すのはおかしいですね。
>>395 >そして、賢者は、その結果の中から「多数派工作が政治の本質。政策すらも
>そのための手段に過ぎない。」という人間の真実を学べるわけだ。
すべての時代、すべての社会に、同じ「真実」とやらが存在するわけね。
いまどきマルクス主義かよ。
401 :
日本@名無史さん:04/04/10 17:55
>>399 将門・純友・忠常の3者と、義朝を同列に扱うのはどうかね?
前3人は、対受領紛争の延長で、義朝とはだいぶ事情が異なると思う。
対受領紛争をやったのは、「数えるくらいしかいない」ってわけじゃないし。
>395
結果論でいいか・・・。
史学概論だな。なんのために歴史を学ぶのか。歴史学の立場とはどうあるべきか。
>>400 バカハケーン
なんでそれがマルクス主義と関係あるんだよ
なんでもレッテル貼りで済まそうと思ったって
自分のバカをさらすだけプゲラ
>>398 >そもそも、武士は武力で公に仕えるのを本分とする家柄ですね。それが、朝廷に弓引くとなれば、彼ら
>の存在理由がなくなるわけですな。この様な非道は、忽ちにして、他の武士たちの格好の手柄材料と
>なるわけですよ。つまりですね、自分の従者以外の全ての武士を敵に回すということになるわけです。
まじで??いつから武士がそんな家柄になったんだろう??
なんか美化しすぎだな。おおかたラストサムライでも見て『武士道』でも読み始めたクチか。
405 :
日本@名無史さん:04/04/10 20:09
>>404 平安時代の武士はそうなのですが。
あなたこそ、後世の武士観で平安の武士を見てませんか?
やむごとなきつはものとしておほやけにつかまつるのが当時のまっとうな武士のあり方なのですが。
406 :
日本@名無史さん:04/04/10 20:18
>405
確かに建前はそうなんだけど、実際には公の権威を背景にして、
土地支配をしたり収奪を行ってた。
で、自分の生活・収入を犯す者がでてきたら、天皇の代理人である国司であっても武力で排除する。それが将門たちだったわけで。
>なんか美化しすぎだな。おおかたラストサムライでも見て『武士道』でも読み始めたクチか。
これは完全な誤読ですな。美化はしていないし、美化になっていない。
ただ、当時の武士の社会的な位置づけを書いたまで。
非道というのは、当時の感覚から言って、こう取られるだろうということだ。
臣下が君に弓引くのは非道。当たり前の話だ。
別に後世の武士道云々とは直接関係ないこと。
君臣の関係は、当時の貴族全般と主上や院との関係がそうであったのだから、位階を有する武士だって
同じ関係性に置かれる。武士だけを取り上げて、主君に弓引くのを非道と言うわけではない。
408 :
日本@名無史さん:04/04/10 20:39
天皇が政治の実権を握った場合、必ず混乱が起こる。
内政の秩序維持に関しては天皇親政は幕府の足元にも及ばない。
>406
もちろん、建前の話です。
しかし、何か事が起こったときは建前が重要になってきますね。大儀も建前ですから。
>実際には公の権威を背景にして、土地支配をしたり収奪を行ってた。
武士でも受領ともなれば、任国ですることは、他の受領と大差ない。
武名高い人物ともなれば、国内の有力豪族の支配もしやすくなる分、より収奪はやりやすくなるかもしれない。
しかし、受領が収奪を行うことは別に違法なことではない。やりすぎると訴えられて国司解任という事もあるが。
>で、自分の生活・収入を犯す者がでてきたら、天皇の代理人である国司であっても武力で排除する。それが将門たちだったわけで。
度が過ぎると、国司に訴えられるわけですね。
そして、都に有力な後ろ盾がいないと、追討の宣旨が下ることにもなりかねない。
将門は、成り行き上、そうなったとはいえ、やりすぎました。そして、朝敵として討ち取られたわけです。
410 :
日本@名無史さん:04/04/10 20:53
>>409 そんな建前いつ出来たんだよ。
武士っつーのはおのれの土地を守るために発生したもんだろ。
>武士っつーのはおのれの土地を守るために発生したもんだろ。
???
こういう理解は、未だに有効なのか?
412 :
日本@名無史さん:04/04/10 21:24
違うのかい?桓武平氏なんか武官出身じゃないしねぇ。
武力で公に仕えるのを本分としている武士はむしろ少数
>411
有効じゃないんだけど、いまだにこう教えてる高校もあるらしい。
>>398-399 だから>当時の人間が朝廷に対して畏敬の念をもっていたことを否定するつもりはない。
といってるわけだが、わからんお人だね。
で、上総の曹司殿は大庭の御厨を何度も襲って悪さしていたわけね。
木曽殿や鎌倉殿は朝敵になることを覚悟の上でそんな冒険をしたわけね。
「朝廷に対して行動をおこした」連中は「全員滅ぼされている」のに、
それでも朝廷に対して行動をおこす輩は出続けたわけだ。
相国殿は、位人臣を極めたといっても所詮臣下の身だよね。
っていうか、何がおかしいの?誤読?
みんな結構度胸あるじゃん。
416 :
日本@名無史さん:04/04/10 22:10
「畏敬の念」だけでは秩序を維持できないことに気がつき
武力を用いて秩序を維持しようとしたのが武士だろう。
417 :
日本@名無史さん:04/04/10 22:23
>410
おのれの土地を守るためには武力だけじゃダメなんだよ。
むやみに武力を使ったら追捕の対象になる。
後ろだてと武力を行使する権限が必要になり、その2つを得て、
それを代々家業にしてはじめて武士。
418 :
日本@名無史さん:04/04/11 05:01
>>415 >木曽殿や鎌倉殿は朝敵になることを覚悟の上でそんな冒険をしたわけね。
意味がわからん。
>>398-399のどこにもそんなことは書いてないぞ。
>>418 間違いなく朝敵のご指定を賜るでしょう。と
>>398-399自身が言ってるんだが・・・。
朝敵の指定をするのは朝廷であって地方武士じゃないし、唯一の拠り所の以仁王も死んでいる。
当然覚悟の上だろう。
420 :
日本@名無史さん:04/04/11 11:11
>>419 ハァ?国語力大丈夫???全然逆の意味で書いているじゃん
>>398-399 それに挙兵は以仁王の催促だけど
その後の上京は後白河院からの催促だろ。
なんでそれが朝敵を覚悟してってことになるんだよ?
421 :
日本@名無史さん:04/04/11 11:19
>>420 誰のいつの上京が後白河院の催促なんだ?
>>420 君こそ大丈夫?朝敵を決めるのは朝廷なんだけど。
その朝廷を握ってるのは平家だろ。
「賜る」の意味分かってる?
その後の上京って?平家対源氏の話をしてたんだと思ったが。
泥仕合に突入しておりますw
>>419=
>>422 おいおい、おれは朝敵を決めるのが誰かなんて聞いてやしない。
朝敵となることを頼朝や義仲が覚悟の上で上京したとなぜ言えるんだ?って聞いてんだよ。
それともう1度
>>398-399を、一部だけでなく通しで読んでみれ。全然逆の意味で言っているぞ。。
>武力で公に仕えるのを本分としている武士はむしろ少数
しかし、荘官、在庁官人、有力貴族の侍など、何らかの形で直接、間接に関わっているのが
殆どです。
平家の失敗は、後白河院を敵に回したこと。
そして、清盛、重盛と軸になる人物を次々に失ったこと。
この二つで平家政権の凋落は決定的になった。
>>424 だからさあ、朝敵を認定するのは朝廷だろう?
以仁王の令旨があろうが、正統な朝廷に刃向えば朝敵になるのは当然覚悟しなければならんことだろう?
>何の裏づけもなく戦えば、間違いなく朝敵のご指定を賜るでしょう。
とあるが、以仁王の令旨という裏づけがあったところで、そのような物は朝廷の関知するところではないから
朝敵の指定を妨げる効果はない。
頼朝や義仲が以仁王の令旨を根拠に正当性を主張して与党を募ったところで
朝廷=平家政権から朝敵とされることを覚悟せんといかんだろう?
格としては朝廷>>>>>>以仁王だから、
>>415は「冒険」と言ったんだと解釈したが?
以仁王、後白河院側から平家は朝敵とされ、平家側からは木曽殿や鎌倉殿が朝敵とされる。
さて、どちらの朝敵が有効なのでしょうか?
つーことなんじゃないの。
確かに源氏の蜂起は冒険かもしれないが、それは朝敵が平家になるか、自分たちになるかで
平家になるほうに賭けたと言う意味での冒険ということだよね?
427=415なのかな?だとしたら、
>相国殿は、位人臣を極めたといっても所詮臣下の身だよね。
と
>朝廷=平家政権から朝敵とされることを覚悟せんといかんだろう?
は矛盾しているようだが。
429 :
日本@名無史さん:04/04/11 14:13
↑
後白河は関係ないだろ。
430 :
日本@名無史さん:04/04/11 14:21
強かった方が官軍になる。勝てば官軍。
431 :
日本@名無史さん:04/04/11 15:18
戦いに勝つまでは何らかの後ろ盾は必要だ。信長ですら足利義昭の後ろ盾を必要とした。
勝ってしまえばお払い箱だが。
はっきりと優劣がついていればともかくどちらが勝てそうかわからない時は
大義名分のあるほうが人が集まりそうだから勝てそうだとか思う人も多いと思います。
だから大義名分に実利的意味合いもあると思うのですが。
さて、東三条の大入道殿は、随分と強引にご子息の昇進を図られ、
ついには廟堂の大半を一族で占められた。しかし、この御栄えは、
御堂関白殿、宇治殿と続き、一代では終わらなかった。
然るに、入道相国殿は、一代で終わられた。
この違いは如何にと問えば、摂禄の臣は御堂関白殿の御流れと
定まり、更に治天の君があらせられたことであろう。
特に治天の君の存在は大きかったと思われる。
行動に何かと制約の多い主上を相手にした権力拡大維持と、制約
の少ない院という存在を相手にした権力拡大維持では、後者のほう
が格段に難しい。
入道相国殿は、東三条の大入道殿と似たような方法を取ろうとしたが
時代が変わっており、無理があったということだ。
その無理が、平家政権の脆さにつながった。
>>427 ああ、やっとわかった。きみは「朝廷=平家」だと思い込んでいるわけだ。
でも、鹿ヶ谷事件なんてのもあったくらいで、後白河院やその近臣勢力が平家を煙たく思っていることは世間でも公然の事実。
ならば以仁王の背後に後白河院の存在があることくらい世間はもちろん、源氏も当然知っていたはずだろ。
よって
朝廷>>>>>>以仁王
なんかではない。
後白河(と以仁王)>>>>>>安徳(と平家)だよ。
そういう見通しが無くて頼朝(義仲も)が都に兵を進めるはずない。
強大な平家相手に挙兵すること自体は確かに冒険だが、それを「朝敵覚悟」でやったなんてのはまるっきりナンセンスだね。
平安の武士は、所詮、侍なのであります。
侍、つまり、主人に「さぶらふ者」なのであります。
出世しても、せいぜい諸国の受領でおわる中流貴族以下の人たちです。
また、武士は、何かあったときに、動員できる朝廷の武力でもあります。
その武士観に変更を迫ったのが清盛でした。
436 :
日本@名無史さん:04/04/11 19:34
最近流行の朝廷絶対主義者さんは後白河法皇が義経に出した
頼朝討伐の院宣の無力ぶりはいかに評価していらっしゃるのだろう??
>>434 なんか基本的なことを知らないようだが、当時は高倉院政期。
院も天皇も平氏一派。
あとさ、〜はず、とか〜はずがない、とかで語るのはやめたほうがいいと思うよ。
>>436 義経が頼朝に対抗できる
規模をもつ軍勢を組織できなかったというだけの話。
ひょっとして、現在の政府の命令みたいに
「院宣が出たら、朝廷の全組織が一糸乱れず動き出す」と
でも思ってるの?
まさかとは思うが、中世で文書がどのようにして機能したか知らないんじゃ
ないだろうな。
439 :
日本@名無史さん:04/04/12 04:05
>>434 頼朝が伊豆に挙兵した時は確かに「高倉院政期」。
でもその実体は清盛が前の後白河院政を強権で停止し、強引に成立させたものだろ。
そういう経緯があるから朝廷内部にも平家が横暴だという反発は臨界点に達していただろうし、
世間的にも平家の強引なやり口への不安とか不満、怒りがくすぶっていたと思う。
しかも高倉院政は一年も持たずに終了、再び後白河院政が復活。
頼朝にしたってそういう流れというか、空気を読んで、プラス後白河院の内意がわかってなけりゃ
「朝敵覚悟」で平家追討なんか出来るもんじゃないんじゃねえの?ってことを言っているつもりなんだが、違うのか?
まぁ間違いなら間違いでいっこうにかまわんから、いい加減揚げ足とりばかりやってないで、なぜ間違いなのかを納得いくよう説明してくれよ。その方が勉強になるから。
勿体ぶっているばっかりで何も無いじゃん。
間違い。>439は>437へのレス
>>武力で公に仕えるのを本分としている武士はむしろ少数
>しかし、荘官、在庁官人、有力貴族の侍など、何らかの形で直接、間接に関わっているのが
>殆どです。
国内の有力武士は国衙で名簿を管理しており、追討官符が下れば、名簿掲載の武士には動員がか
けられた。また、国衙に出仕する館の侍という人たちもいたし。
さらに、彼らの従者もいるのだから、ほとんど全てっていってもいいのでは。
442 :
日本@名無史さん:04/04/12 07:07
実質的な朝廷の主は後白河法皇だからなぁ。
>>436 >>437 苦しいですねぇ。
その時点での世の中が、高倉院や義経をどうみていたかを知っていれば、全然、反論になっていないですね。
444 :
日本@名無史さん:04/04/12 11:34
↑
どう見てたの?
445 :
日本@名無史さん:04/04/12 11:35
判官びいき。
「反乱するものがでたことから、
当時の朝廷には権威がなく、
社会的な正統性も認められていなかったことが
実証できる。」
さぁ、この命題は正しいのかな?
極論だな。意味がない。
>>438 なるほど。つまり院宣の権威よりも実際に軍勢を組織できるか否か、ってことですね。
頼朝は偉大だ。
>>448 頼朝が偉大な点は事実だけど、
当時の軍制とか、文書の機能について
あなたが何も知らないか
何も知らないかのように振舞いたいのか
どちらかであることはわかった。
どっちにせよ、議論するに値しないね。
まぁ、前者と想定して、分かりやすく現代に例えてあげよう。
突然小泉総理のSPを名乗る人物が、
「全国民は自衛隊を攻撃し、排除せよ」という
「総理の命令書」を持参して、あなたの家に現れたとする。
それに従うものが何人いると思う?
450 :
日本@名無史さん:04/04/12 13:58
自称SPと後白河院から伊予守に任ぜられた義経を同列に扱うとはな。
451 :
日本@名無史さん:04/04/12 14:30
朝廷に対する畏れって、現実の力に対するガクガクブルブルじゃない。
神仏を畏れるに近い。
だから、勝負を掛けるときは、あっけなく無視する。
さらに都合のよいことに朝廷は、勝った方につき、負けた方を朝敵にする。
一時、朝敵になっても、勝てばノープロブレム。
融通無碍のお調子者、うまく強者に利用されてるからこそ、滅ぼされなかった。
>>450 はぁ、ほんとになにもわかってない人だね。
>>449は
当時の軍制とか、文書の機能について
何も知らない人を想定したもののたとえだよ。
「何も知らないふり」をしているあなたのような
人を対象にはしていないんだよ。
なんていうかね、もう反応が予想の通りで
脱力するしかないんですけど。
>>450 あれ、義経の伊予守任官は、
頼朝の奏請によるものじゃなかったっけ?
>最近流行の朝廷絶対主義者さんは後白河法皇が義経に出した
>頼朝討伐の院宣の無力ぶりはいかに評価していらっしゃるのだろう??
これまでのレスを読むと、これは精一杯の皮肉を言ったつもりだろうけど、的を外してるね。
>>450 まぁ、私も逆ギレ気味なのは反省します。
改めてしきりなおして聞くけど、
義経が各武士団の全てを
「自分で」回って院宣を読みかけたとでもいうの?
そりゃ、「史料がないからわからない」というのが
一番正しい回答かもしれんが、
普通に考えれば、「義経の郎党がまず派遣された」と
みるべきでしょ?
だから「SPと名乗る人物が個人の玄関先に現れた」
と例えたんですよ。
>自称SPと後白河院から伊予守に任ぜられた義経を同列に扱うとはな。
でも、その院宣が出された背景を見ないとね。
義経は都にいたわけで、頼朝は東国。つまり、後白河院の身近には武力
を抱えた存在は義経しかいないというわけだね。だとしたら、ここは義経
の意に沿うようにして刺激しないようにしておこうということ。後白河院だって、
情勢から見て義経は、そうは長くはないと見ていたはずだね。その証拠に、
義経が都を落ちてからの行動がすばやい。
文治元年10月11日、頼朝追討の院宣。
11月3日、義経が都を出て、西に向かうが遭難。
11月7日、後白河院が、義経の官職である伊予の守と検非違使を削る。
11月9日、後白河院が、頼朝に密使を遣わし,同12日には院宣を諸国に
下し、反逆者義経・行家を探して追捕することを命じる。
この経過を見れば、義経に下した院宣が、どういう性質のものか想像がつくだろうよ。
当時の世の中も、そのことはうすうすわかっていたろうね。
義経側が孤立無援になっていたのだから。
457 :
日本@名無史さん:04/04/12 15:52
平家は貴族化した水軍のボス
攻めて来たのは陸戦に特化した武士団集団
>さらに都合のよいことに朝廷は、勝った方につき、負けた方を朝敵にする。
>一時、朝敵になっても、勝てばノープロブレム。
>融通無碍のお調子者、うまく強者に利用されてるからこそ、滅ぼされなかった。
これは平安時代の話じゃないね。
源平争乱の頃は、多少、その傾向もあったかもしれないが。
>>456 いや、失礼ながらその解釈は古い。
この時点で義経の政治的立場は「後白河院近臣」。
義経の行動は、後白河院の意向を反映していた、と
考えられている。
460 :
日本@名無史さん:04/04/12 19:28
>>451 >朝廷に対する畏れって、現実の力に対するガクガクブルブルじゃない。
神仏を畏れるに近い。
ちょっと違う。
この当時は朝廷の命令にこそ動員力があったわけで、
朝敵となることの恐怖は「官軍に征伐されてしまう」というきわめて現実的な恐怖と直結している。
>>459 その新しい解釈とやらが>456のどこを否定することになるんだかさっぱりわからんのだが?
>>461 >>456の
>義経は都にいたわけで、頼朝は東国。つまり、後白河院の身近には武力
>を抱えた存在は義経しかいないというわけだね。だとしたら、ここは義経
>の意に沿うようにして刺激しないようにしておこうということ。後白河院だって、
>情勢から見て義経は、そうは長くはないと見ていたはずだね。その証拠に、
>義経が都を落ちてからの行動がすばやい。
ここ。
463 :
日本@名無史さん:04/04/12 20:48
>朝廷の命令にこそ動員力があったわけで、
その朝廷の命令そのものが、天皇の意志というより
「勝ち馬」に乗る的なものではないかな。
武将は旗印として朝命を求め、
その条件が「勝ち馬」であることだったと思うが・・・
逆に「勝ち馬」であれば、朝命はゲットできて当然、という
暗黙の了解があったように思う。
情勢によって、朝命の朝令暮改なんて、当然だしね。
>>439 うーん、相変わらず>だろうし>と思う>じゃねえの?と・・・
伊達遠州さん?
思い込み厨じゃないんならちゃんと説明してよ。
それから高倉院政が一年も持たずに終了したのは高倉上皇が病死したから。
頼朝がそういう流れというか、空気を読むことは難しいと思うぞ。
たぶんエスパーじゃなかったと思うから。
そもそも揚げ足取りにもならん揚げ足取りをはじめたのはおたく自身。
何をいきりたっとんのかしらないけど、こちらはおたくの間違いを指摘しただけだが。
>朝敵とされた途端、世の武士はどう対応するか。木曽殿や鎌倉殿は窮地に追い込まれますね。
当時右大臣だった九条兼実の「玉葉」での頼朝の扱いは、賊軍以外の何者でもないとおもいますが。
あと平治の乱のとき、慈円って何歳でしたっけ。
466 :
日本@名無史さん:04/04/12 21:37
>>465 何歳か知らんがちゃんと日記残してるんだからそれなりの歳だろ。
それがどうしたんだよ。
九条兼実は親平氏派だからそんなやつのいうこと真に受けてどうするんだよ。
>>464 頼朝が高倉上皇の死まで予見してたなんて誰が言ってる?
反平家という気運の流れを読んでいたって言っているだけだろ。
で、どうなの?それは間違いなの?
>うーん、相変わらず>だろうし>と思う>じゃねえの?と・・・
じゃあどういう言い方すりゃいいんだよ?
そんなこと言う前に、そっちが明確に反証でも挙げてさっさと否定してみせりゃいいだけだろ。
>>463 >逆に「勝ち馬」であれば、朝命はゲットできて当然、という
暗黙の了解があったように思う。
>情勢によって、朝命の朝令暮改なんて、当然だしね。
「思う」ならこのお方も使ってるんだが、これってオタクじゃないの?
だったらこっちにも言えよ。それとも意見が同じなら言わないのか?>464
>頼朝がそういう流れというか、空気を読むことは難しいと思うぞ。
つか、自分も使っているわけだがw
469 :
日本@名無史さん:04/04/12 21:48
>そんなこと言う前に、そっちが明確に反証でも挙げてさっさと否定してみせりゃいいだけだろ。
立証責任を丸投げ??
>>468 ごめん。だって頼朝がエスパーだったって史料みたことなかったんだもん。
471 :
日本@名無史さん:04/04/12 23:33
463すが、個人バトルの方々とは無関係ですよ。
思う、うんぬん。
当たり前でしょ。あくまで私論なんだし、
立証なんてできるなら、2ちゃんにかき込まず、
論文にする!
と思う。
>>471 立証もできないくせにでかい口たたいてたわけだw
きみはオタクだねw
>>456 >義経は都にいたわけで、頼朝は東国。つまり、後白河院の身近には武力
>を抱えた存在は義経しかいないというわけだね。だとしたら、ここは義経
>の意に沿うようにして刺激しないようにしておこうということ。
よくわからないな。義経が法皇を圧迫したのかな?
法皇ともあろうものがそんな卑屈な態度をとらなきゃいけないんだから
ずいぶんひどかったんだろうね。
>後白河院だって、情勢から見て義経は、そうは長くはないと見ていたはずだね。
何で長くないの?権威抜群の院宣をだせば一発逆転も可能じゃないの?
それとも院宣では頼朝の家人たちを切り崩せない?
>この経過を見れば、義経に下した院宣が、どういう性質のものか想像がつくだろうよ。
院宣では畿内すらまとめられず、義経が逃げ出すとあわてて(ry
474 :
日本@名無史さん:04/04/13 02:21
横レスすまんが、俺の手元にある日本史年表では
後白河が義経に下したほうは「宣旨」で
頼朝に下したほうは「院宣」となっているんだが
両方「院宣」が正しいの?
そもそも院宣と宣旨の違いって何?
院の宣旨=院宣ではないの?
宣旨とか令旨とか綸旨とかむずかC
>あと平治の乱のとき、慈円って何歳でしたっけ。
確かに慈円は、リアルタイムで経験していないはずだけど、周りに保元・平治の乱
の経験者がたくさんいて、彼らから見聴きした話しをもとに書いていると思うから、
信憑性は高いと思うんだけど。第一、彼は保元の乱の当事者の忠通の息子だし。
いくらでも聞く相手はいたんじゃない?
まあ、普通、保元・平治の乱の話をするときは愚管抄と兵範記がメインの史料に
なると思うんだけどな。でも、兵範記には平治の乱の頃の記事は欠落してたっけ。
保元・平治の乱で武士の持つ武力が権力確立のキーになったことが大きいな。
ここで時代が変わったわけだ。
で、後白河院は、武士の武力を掌中に納めようとしたけれど、平家は成長しすぎて
院を凌駕しちゃった。
で、源氏が出てきたんで、今度はこいつらを使おうとおもったけど、義仲、頼朝と
いろいろいて、しかもめまぐるしく情勢が変わるものだから、結局、どの武士も支配
できなかった。最後に残った頼朝は、院を警戒してか、終始、一定の距離をおいて
いたし。
479 :
434=439=467:04/04/13 19:40
>>469>>470 やれやれ、ほんとどうしようもない人だね。
おれのレスが「思い込み」とか「妄想」とか言いたいのなら別にいいっての。
ただし、そう決めつけるからには、こっちのレス
>>434>>439の
どこがどう間違っているのかってことを明確に説明してくれって
そう言ってるだけだろが。同じこと言わせるなよ。
要するにグズグズされるのが一番気分が悪い。鮮やかに論破されるくらいなら寧ろすっきりするってことね。
さあ、いい加減さっさと説明してくれよ。
おたくは立証責任だのとご大層な文句まで持ち出すくらい、あかでみっくで物知りなんだから簡単だろ?
480 :
日本@名無史さん:04/04/13 19:44
なぜ頼朝は平家のように京で政権を打ちたてようとしなかったのだろう?
平家の轍を踏みたくなかったということもあるだろうが
関東で割拠することを主張した上総介広胤が殺され、
平家が滅亡し、大天狗こと後白河院もこの世を去ったあと、
坂東武者達は京での栄達を欲しなかったのだろうか?
>>479 後白河院は院政を停止させれて政権から外れてたってことじゃないの?
>>481 じゃないの?ってきみは誰?
おれが訊いているのは立証責任がうんぬんとか言っている人なんだけど。
立証責任ねえ(pu
法廷でも学会でもないのに、いちいちそんなこと言ってたら
2ちゃんのほとんどのスレが成り立たないだろうにw
根拠なかったら議論にならんだろうに。
馬鹿?
485 :
日本@名無史さん:04/04/13 20:31
>>480 早いうちに平家と同じ運命を辿る事になる。
>>479 思い込み
妄想
グズグズシコシコ
>>484>>486 やれやれ、ついに逆切れか‥‥
説明出来ないんなら最初からえらそうなこと言わなきゃいいのに。
バカ相手にして損した。
488 :
日本@名無史さん:04/04/13 21:54
>説明出来ないんなら最初からえらそうなこと言わなきゃいいのに。
これ笑うとこ?まさに自分のことじゃん。
>>487 うわ・・・この人ホントに思い込み君だよ・・・。
俺あんたの喧嘩仲間じゃないのに・・・。
しかも逆切れしてるのはあんたの方だし。
>>489 くだらんこと書き込んでいる同類には変わりない(ジエン臭いけどな)
間違えられたくないならコテハンにしろよ。
>>488 立証責任がどうたら言ってるようだが、そっちがこちらの推測を「思い込み」だの「妄想」だのと決めつけたんだから
そっちの方こそそれが思い込みや妄想であることを証明するべきなんだよ。
それとも何か?推測を書いてはいかんという決まりでもあんの?
>>490 推測するのはいいんだけどその推測の根拠を述べなきゃ。
>>491 情勢。状況。その結果として生じたこと。などを交えて推測したが、それじゃ駄目なのか?
493 :
日本@名無史さん:04/04/13 23:53
壇ノ浦age
494 :
日本@名無史さん:04/04/13 23:55
ところで何をもめてるの?駄レスの応酬でわけわかんないんだけど。
>>495 ガクガクブルブルの話はもう終わったのか?
そもそもこの問題の原点に戻るなら、
1頼朝は朝敵となることなんか恐れてはいなかった
2朝廷の権威なんてその程度のもので、武士たちはこれを利用すりゃいいと思っていただけだった。
3みんな結構度胸あんじゃん(=朝廷にガクブルなんかじゃないじゃん)
といった意見に対し、「それは違う」という反論があったこと、
で、その反論におれが賛同する形で割り込んだわけだが、
1〜3を主張する人たちがちゃんとした根拠を挙げた上で書きこんでいるものは
このスレではまだ見たことがないんだよな。
498 :
日本@名無史さん:04/04/14 00:55
>>497 それはどのへんで出た話なんだ?
何番あたりを読めばいいんだ?
とはいっても、確かに堕レスの応酬になっているな。反省。
仕方がないから反省をこめ、少しは建設的な議論となるように、
もう1度こっちの前レスを箇条書きでまとめるんで
>>464はYesかNoで回答し、Noの場合は解説しておくれ
(横レスも歓迎するけど>464及び立証責任うんぬんの人だけはコテハンでお願い)
1頼朝挙兵の頃は、鹿ヶ谷事件などに象徴されるように
後白河院やその近臣勢力が平家を煙たく思っていることが世間でも公然の事実となっていた。
2頼朝が伊豆に挙兵した時は、清盛は幼帝とはいえその外祖父として権勢の頂点に立ち
しかも娘が中宮として嫁いだ高倉上皇が院政を布いていた。
しかしその実体は清盛が前の後白河院政を強権(クーデター)で停止させて強引に成立
させたものであり、そういった経緯ゆえに、世間はもちろん朝廷の内部にも平家の強引さに
対する反発や怒りがくすぶり始めていた。
3そんなわけで、表向きは平家が朝廷を牛耳ってはいたが、頼朝も義仲も内実は
挙兵することが平家に圧迫されている後白河院の御心に沿うことを見越し
また、以仁王からの催促には後白河院の内意があることを、頼朝も義仲も察したので
決起しても大義名分は成り立つと考えた。
4平家にとっては不運なことに、そうした中で高倉院が崩御、清盛は反平家派を
宥める意味で、再び後白河院に政務復帰を要請したが院の本心は
平家追い落としへと傾いていた。
5頼朝はエスパーではないからw高倉院崩御や、更にその先の清盛の死まで
予知していたわけではむろんない(そんな阿呆なことは>464が言い出した妄言にすぎない)。
が、当時の朝廷は表向きはどうあれ、大半は平家によって強制的に政務を
退かされた後白河に同情していること、また平家の専制化に対する反発が
高まりつつある情勢くらいは頭に入っていた。
6よって、頼朝の対平家挙兵は、世の反平家の気運を察してのものであり、
また、朝敵になることを恐れていなかったというわけではなく
平家の圧迫に苦しむ後白河院の宸襟を安んじまいらせるためという大義名分が
掲げられることを見越してのものであった
(言っておくけど、それだけが挙兵の理由だなんておれは言ってないからね。
あくまで「朝廷に対する認識」って問題に限定して書いているから)
さて、どの部分がおれの「妄想」?
今書いていても、わりとオーソドックスな解釈だと思うんだけど。
もう1度言っておくけど、明確な論拠のある指摘で間違いとされるんだったら
おれはいっこうにかまわないからね。
>>498 おれが参加したのが確か400くらいで、さかのぼって読んだのははっきり覚えてないが
300番台前後までだったように記憶している。
502 :
日本@名無史さん:04/04/14 02:27
頼朝、というか北条は、朝廷を畏れないというよりも、
西国は西国、邪魔しなければどうでもいい。
おれらは東国で勝手にやるからよ。
というスタンスでないか?
東国を固めるだけでも、大変だったわけだし。
北条が日本全体を意識したのは、はるか先の元寇のあたり。
>>502 まあその傾向はあったよな。
初期の九州の守護なんかは現地まで行ってなかったりするし。
>以仁王からの催促には後白河院の内意があることを、頼朝も義仲も察したので
>決起しても大義名分は成り立つと考えた。
ここの根拠は?以仁王の令旨は有名だけど以仁王は院の指示で動いていたのか?
また頼朝も義仲も院の意を察したとしたらそれを大いに使ったと思うが?
>>497 反論に賛同する形で割り込んだ ×
↓
言葉尻を捉えて難癖をつけた ○
480>なぜ頼朝は平家のように京で政権を打ちたてようとしなかったのだろう?
伊太利亜の牧阿部理が「反抗的な都市を治めるためには、滅ぼしてしまうか、
そこに住め」って言うとります。
関東の武士達って実際は、治めにくい、ゴンタくれのヤクザ的な人々だったの
でしょう。放っておいたら、互いに争う。争いを裁定しようとしたら「不公平だ」
と反抗的になる。・・・・そこに住んで、日々、目を光らせ、紛争には、迅速な
対応をする必要があったんでしょう。
>>438>>443 自分で朝権よりも時勢って認めてるじゃん。
天皇(高倉) 対 治天の君(後白河) 治天の君勝利 理由;天皇より治天の君のが偉いから
治天の君(後白河)・義経 対 鎌倉殿(頼朝) 鎌倉殿の勝利 理由;義経がヘボかったから
508 :
日本@名無史さん:04/04/14 21:01
480>なぜ頼朝は平家のように京で政権を打ちたてようとしなかったのだろう?
基本的に屁タレなのだろう。平家に命を救われ、
流刑中は坊主の真似事。
北条というバックができて、はじめて挙兵できた。
北条が口を歪めるようなことは、したくないんだよ。
カミさんが恐くて、愛人一人守れないんだからな。
監視役の伊東の娘に手を出して殺されかけたと思ったら
またまた監視役の北条の娘に手を出し、
今度はその北条の娘の監視をかいくぐって愛人をこさえる。
頼朝、(・∀・)イイ!
510 :
日本@名無史さん:04/04/14 22:38
/;;;;;;;;;;;;;\
/\;;::::::::::::::::::ヘ
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L::;;,__ ヽ、::..ノ;. ..:::ゝ__
//;;;;::::::.. ̄ ̄ ̄ ̄ ̄..::::;;;|l
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〔l lllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllll〕
/j/ ヾ、
l::||:::: |l
|::||:::::::.. (●) (●) ||
|::||::::::::::::: \___/ ||
ヽ\:::::::::::::::. \/ ,ノ ショーグンなんざぁ、お飾りでエエんじゃ。
 ̄`ー―---oo-――'"
ハ
>>507 おれは438でも443でもないが。
「高倉院政期」って言葉の意味をもっぺん
先生に聞いて、
御自分のレスを20回よみなおして、
それからまたおいで。
↑
???????????
513 :
日本@名無史さん:04/04/16 22:46
>>455 せめて佐々敦行ぐらいにしてほしいねぇ。
京都の治安責任者義経、内閣官房付の佐々敦行
パトカーがスピカーを鳴らしなが巡回します「陛下の意にそぐわない首相を討つよう、佐々氏に勅命が下りました。賢明なる国民の皆さんは・・・」
おれは佐々なんか信用しないけど、このぐらいのストーリー性がないと近頃の視聴者はついて来ないよ。
そうだ、淳行さんです。佐々さん失礼。
以仁王の背後に院がいたってのは通説、というか、確かなんですか?
今まで何となく、以仁王蜂起の背後には八条院のサロンがあり、そこに関東を中心に八条院に所領を寄進していた武士と諸源氏がいて、其々が密接に関与しており、どれか一つのイニシアチブによって蜂起したのではない、と考えていました。
>>513 あんたが中世のことを何も知らない、ということはよくわかった。
↑
ものしりなあんた、解説しろ。
>>518 あらしに反応するのもあらし。
無視が一番。
しっかし、頼朝って大した奴だ。領地も私兵もゼロに近く、あるのは、名家の出身
という事だけ。
もし、後の石田三成が、名家の出身だったとしても、家康に勝てただろうか?
こう考えると、頼朝って大した奴だと思う。
>>516 いや、通説なんかじゃないだろ。初耳だ。
そっちの説の方がむしろ興味深い。
523 :
日本@名無史さん:04/04/17 22:34
このスレは頼朝が関東に残った理由を書かねばならぬレベルなのか?
東海を軍事占領して、それを朝廷が事後追認しただけだから、
頼朝は朝廷に五分の態度でいられたって言うのは、もはや通説と思うが・・・
524 :
日本@名無史さん:04/04/17 22:41
あ、3さんですね!!現役学部生です。お久しぶりです。
自分で立てて自作自演しまくってた中世の天皇スレから逃げ出して、
悔しくてたまらなくて、我慢しきれなくなって、また、たてちゃたんですね!
気持ちはわかります。負け犬らしくて素敵ですよ!
また負けそうですね!応援してますYO!
そうそう、このレスが批判されてるので、早く返答をお願いします!!
↓
>義経の伊予守任官により、
>最終的には頼朝の面子は、朝廷によりぺしゃんこにされている
これが間違いだと批判されてます。
>時間関係は、頼朝が義経を追放、義経が伊予守任官でいいんですよね。
これが事実誤認の高校生レベルの間違いと日本史板じゅうでで笑われてます。
>プロ野球で例えたら、クビにした外人が大リーグで大活躍してるみたいなものですか?
これは呆れられています。
早く、反批判してください。
あと、日清戦争とボーア戦争の事実誤認や江戸時代の桜の木に関する基礎知識不足も
言われてますから。それも反批判しちゃってください。
初心者板の自作自演も、逃げ出したんですか?
いつも初歩的な間違い探しが楽しいので頑張ってください!!
525 :
日本@名無史さん:04/04/18 00:48
鎌倉で挙兵したんだっけ。
その地を離れなくなかったというのも
ありそうだな。
この数日、見ていなかったけど、
>>464氏、まだ回答してくれないみたいね。
あれだけ豪語していたんだから
瞬時に回答してくれると思ったんだけどなぁ。
>>504 一応、その部分はおれの推測って断わってあるので、
それが間違いというなら、その理由を書いてくれませんか?
これは>464氏にもお願いしていることですが。
>>516 これは興味深い話ですね。もう少し詳しく説明してくれると有難いです。
>>524 おまえ誰にレスしてんだ?わけわかんないこと書いてんじゃねーよ。
>>528 結局根拠なしかよ
で、いっちょまえに人には説明を要求するか
変わった人だね
高倉宮(以仁王)は憲仁親王(高倉天皇)の対抗馬と目され、親王の生母、建春門院(平滋子)に
疎まれた。そのせいか、親王宣下もなく、八条院の猷子にされた。
また、高倉宮は、幼少時に天台座主最雲の弟子となっていたが、最雲の死により、出家せず、十
五歳で元服している。更に、最雲からのつながりで九条の城興寺を伝領するが、これは、治承三年
の後白河院鳥羽殿御遷幸により院政が停止に追い込まれた際に、没収されている。
更に、翌治承四年二月、高倉天皇の皇子が践祚して安徳天皇となると、高倉宮の皇位継承の目
は完全に絶たれたことになり、それがきっかけとなったのか、四月に高倉宮は令旨を出して、諸国
の源氏に決起を促したが、五月に入って発覚、平家軍に攻撃され敗死した。
源三位は八条院の蔵人で、位階などから、八条院出仕の武士たちの棟梁格であったろうと推察
される。平家追討は源三位が勧めたものか、あるいは高倉宮が源三位を巻き込んだものか、実際
のところはわからないが、八条院のつながりで両者は関係があったことは確かである。
新宮十郎が、令旨をもって全国の源氏に回る際には、八条院の蔵人という官を賜っている。
また、木曽殿の兄の仲家、足利義康の息子の義兼も八条院蔵人、義兼の兄弟である義清は八条
院判官代になっている。これは足利荘が八条院領であった関係からきている。
ちなみに鎌倉殿は保元四年に上西門院の蔵人、その後、内蔵人になっているが、八条院には出仕
していないようである。
八条院とは、鳥羽上皇と美福門院(藤原得子)との間に生まれたワ子内親王のことで、近衛天皇
とは同母姉となる。近衛天皇崩御の際は、美福門院はワ子内親王を女帝にするか、雅仁親王(後
白河天皇)の子の守仁親王(二条天皇)を帝位につけるかを主張したらしい。この守仁親王は美
福門院の養子になっていた。ワ子内親王は美福門院に寵愛されたようで、十歳で准三后となり、
守仁親王が保元三年に即位した際には准母とされている。永暦二年、前年の美福門院崩御を受け
て院号宣下があり、八条院と号した。
平治の乱後、二条天皇親政派と後白河院政派の対立があったが、八条院のもとには、上記のつ
ながりで親政派の人間が集まっていたようである。二条天皇崩御後は反平家・反後白河院の拠点
の一つにもなっていたようだ。
八条院は、鳥羽上皇、美福門院の双方からの荘園を伝領したので、その数は膨大で、二百二十
箇所以上に上るとされ、その経済力は屈指のものであったらしい。また、これだけの荘園を抱えて
いたので、現地で荘園経営をしている多くの武士とのつながりも無視できない。荘園を寄進して、
関係ができた武士は、侍や蔵人などで呼ばれて八条院邸に出仕すると言うこともある。
保元・平治の乱から八年ほどで入道相国は従一位太政大臣にまで昇りつめたわけだが、高倉天皇
即位後の承安元年(1171)には平徳子を入内させ、安元二年(1176)には建春門院が亡くなり、除目
では後白河院が院の近臣を登用するなど、平家と後白河院の間に対立が芽生えるようになる。こ
れは、平家一族が、成長し過ぎて院と並び立つようになってきたことによる必然の結果か。
そして安元三年五月、鹿ケ谷での平家追討の陰謀が発覚する。この事件には後白河院が深く関わっ
ていたことが明白であり、院政が平家によって一時停止されるという事態にまで発展した。
治承三年(1179)七月小松殿死去、この時、嫡子維盛相続の知行国越前を没収ということも起こっ
ており、入道相国一族と後白河院との対立はのっぴきならないものになる。そして、十一月、福
原より六千あまりの大軍で都に入った入道相国は、反平家の公卿、貴族を一斉に解官、配流、更
に後白河院鳥羽殿御遷幸及び院政停止という措置を強行する。
この時点で、後白河院側は決定的な敗北を喫したように見えたが、翌治承四年、高倉宮は令旨を
下して平家追討の行動を起こす。
ちなみに源三位のこのときまでの動きは、
承安二年(1172)嫡子仲綱が伊豆守任官、伊豆に下向。この時、鎌倉殿と面識ができたかは不明。
安元二年(1176)嫡子仲綱に家督を譲る。
治承二年(1178)入道相国の働きかけで従三位に昇進。
治承三年(1179)出家。
源三位は長治一年(1104)生まれなので、治承四年のときは七十代半ば。既に家督を譲って出家した
老武者が、一世一代の蜂起をするわけだが、どうも、この流れでは高倉宮が源三位の力を借りて
乱を起こしたという感じに思える。源三位は巻き込まれたという感じか。
鎌倉殿に令旨が来たのが、四月末。ところが、五月半ばには発覚して、追い詰められた高倉宮側は
挙兵するも、約一週間後の二十七日に宮側の敗北で決着する。この間に諸国の源氏に対する追討令
が出され、鎌倉殿も追討対象になってるわけで、黙っていれば、討たれるという状況に追い込まれた
鎌倉殿は、六月二四日になって伊豆、相模の武士に動員をかけ、八月に挙兵した。
動員をかけた直後に、京から帰国した三浦次郎、千葉六郎大夫らから乱の経過報告を受け、何事か話し
合ったようだが、この時、どういうことが話題に上ったんでしょうね。対平家戦の戦術論か、それとも後白
河院や都の政情を考慮した長期戦略か。
[吾妻鏡治承四年六月二七日]
三浦次郎義澄、千葉六郎大夫胤頼等、北条に参向す。日頃京都に伺候せしが、去月中旬の頃下向せん
と欲するの刻、宇治合戦等に関わるによって、官兵のために抑留せらるるの間、今に遅引す。数月の
恐鬱を散ずるため、参入の由これを申す。日頃参役によって在京せるなり。武衛、件の両人に対面し
給ふ。御閑談に時を移す。他人これを聞かず
ちなみに、胤頼は都では上西門院に仕えていた。この上西門院には、鎌倉殿もかって蔵人として出仕
していたこともあるんですよね。偶然でしょうけど。
537 :
日本@名無史さん:04/04/19 21:25
あ、3さんですね!!現役学部生です。お久しぶりです。
自分で立てて自作自演しまくってた中世の天皇スレから逃げ出して、
悔しくてたまらなくて、我慢しきれなくなって、また、たてちゃたんですね!
気持ちはわかります。負け犬らしくて素敵ですよ!
また負けそうですね!応援してますYO!
そうそう、このレスが批判されてるので、早く返答をお願いします!!
↓
>義経の伊予守任官により、
>最終的には頼朝の面子は、朝廷によりぺしゃんこにされている
これが間違いだと批判されてます。
>時間関係は、頼朝が義経を追放、義経が伊予守任官でいいんですよね。
これが事実誤認の高校生レベルの間違いと日本史板じゅうでで笑われてます。
>プロ野球で例えたら、クビにした外人が大リーグで大活躍してるみたいなものですか?
これは呆れられています。
早く、反批判してください。
あと、日清戦争とボーア戦争の事実誤認や江戸時代の桜の木に関する基礎知識不足も
言われてますから。それも反批判しちゃってください。
初心者板の自作自演も、逃げ出したんですか?
いつも初歩的な間違い探しが楽しいので頑張ってください!!
538 :
日本@名無史さん:04/04/19 21:40
↑
?????????
>>528 自分は素人なもんで何も知りませんが、まあ適当に書きます。528さんもよければ以仁王挙兵の背後に後白河院がいたと推察する根拠お願いします。
以仁王は八条院の猶子、源氏には頼政一家・足利氏・行家など八条院に祗候した武士が多い、女房の高階氏を介して九条兼実も八条院と少なからず関係があったはずで
平氏が倒れて後鳥羽摂政となった1186年には高階氏腹の息子(北陸宮と同腹?)を八条院の猶子にしている。
1186年までに、源頼政の家人だった下河辺氏が美福門院(又は鳥羽院)領だった下河辺荘を八条院に寄進し直してもいる。
美福門院・八条院の院司には藤原俊成もいて、息子の定家は九条兼実の家司、この家は鎌倉御家人、特に後年ではあるが宇都宮氏との繋がりも深い(宇都宮氏は久我家との繋がりも窺われるが、通親の母も八条院女房)。
平家の一門でありながら許された頼盛も八条院との結びつきが強い。
>どれか一つのイニシアチブによって蜂起したのではない
は、要は自分には判断つかないっつーことで。源氏の蜂起と八条院の関係って珍しい説なんですか?
他に、千葉庄(千葉氏)や大井荘(小笠原氏)も1186年までには八条院領になっている。
532〜536の後にこれは、さすがに恥かしい。
>>源氏の蜂起と八条院の関係って珍しい説なんですか?
おれは通説だとおもてた
542 :
日本@名無史さん:04/04/21 01:57
あぶらあげ
鹿ケ谷の事件で流された俊寛僧都だが、同母姉妹に池殿の妻がいる。で、この女性は
八条院で女房をしていたらしい。
また、池殿が、都落ちする一門から離れて八条院の元に身を寄せる下りを愚管抄では、
忍テ八條院辺ニ候ヘト御返事承リニケリ。元ヨリ八條院ノヲヂノ宰相ト云寛雅法印ガ妻
ハシウトメナレバ。女院ノ御ウシロミニテ候ケレバ。サテトマリニケリ。
と書かれているのだけど、ここで出てくる「八條院ノヲヂノ宰相ト云寛雅法印」というのは
実は俊寛僧都の父親だったりする。
鹿ケ谷の事件は後白河院が深く関わっており、この事件に八条院に連なる俊寛が首謀者
の一人として参画しているのは、興味深い。
鹿ケ谷事件は実行前に発覚して失敗、三年後には後白河院は入道相国の強行策で
決定的な敗北を喫して、ほぼ再起不能の状態に陥るのだが、その翌年に、高倉宮は
令旨を出して打倒平家の行動を起こす。
直接的な動機は城興寺領を没収された翌年に安徳天皇即位で皇位継承が完全に絶
たれたことによるのだろうが、それにしてもタイミング的に、かなり無謀な感じがする。
頼みの武力とした諸国の源氏も、確固とした権力基盤を築いている平家の軍閥に比
べれば未知数の弱小勢力である。
更に不思議なのは、源三位が与力したことである。彼のそれまでの生き方を見れば、
ここで、無品の王を戴いて、一族の命運をかける無謀な賭けに出るというのは理解し
がたい。
当の高倉宮について言えば、憲仁親王の対抗馬と見られたものの建春門院を中心と
する平家の妨害で親王宣下もなく不遇な生活を送っている。こういう境遇から当然、反
平家派であろうが、いかんせん、政治的には無力な存在だからだ。
さて、平治の乱後の世の中は、
二条天皇親政派vs後白河院政派
↓
後白河院政派vs入道相国一族
で推移している。
そして、治承三年の政変で後白河院政派は完膚なきまでに打ちのめされた。後白河院
は鳥羽殿で幽閉の身である。
しかし、この時点で、なおも入道相国一族打倒を目指すとすれば、やはり、後白河院を
担ぎ出すのが最適であろう。院に連なる公卿、貴族は解官、配流になっているが、大半
は生き残っている。
源三位は、あるいは、これを狙っていたのかもしれない。
各地で源氏を蜂起させ、平家軍を地方の反乱にひきつけ、その間に都で平家の本拠を
叩き、後白河院を担ぎ出す。高倉宮の令旨は、それまでのつなぎに過ぎない。
高倉宮の弟君、円恵法親王は園城寺の長吏であり、更に興福寺も味方につけている。そ
れに源三位の摂津源氏を加えれば都周辺の武力としてはとりあえず確保できている。平
家の武力を地方の反乱に割かせれば、なんとかなるかもしれない。
高倉宮は八条院猶子、源三位は八条院蔵人等、治承四年の乱では八条院を舞台に形成さ
れていた人的ネットワークの上で決起された感がある。
しかし、俊寛僧都がそのネットワークに連なる人物だとすると、鹿ケ谷で一旦失敗した
後白河院の反平家の行動が、八条院のネットワークを介して、今度は高倉宮のもとで挙
行されたと見ることもできる。
それは、また、八条院のネットワークを介して、後白河院と高倉宮、源三位がつながって
いる可能性も匂わせるものである。高倉宮はともかく、後白河院と源三位がつながっている
とすれば、高倉宮が主導して起こしたと見える乱が、平家物語や吾妻鏡で書かれているよ
うに、源三位が高倉宮をそそのかして乱を起こさせたと言うのもありえる話になってくる。
はいはい。自分でサイト開いてやれば?
人名を「入道相国」とか「源三位」とか書いてるところが厨くさくてイイね。
>>547-548 くだらん煽りやってないで文句があるならきちんと反論してみ。
ま、どうせ出来ないんだろうけどw
>>530(たぶん464)の反応にすっかりウンザリしてしまったもので、また数日来ておりませんでした。
>>540さん、わざわざレス有難うございます。
>>532と
>>543さんも面白いレスどうも。どれも興味深いです。
これらに比べれば、私などが今更モノを言うのは恥ずかしいのですが、
>以仁王挙兵の背後に後白河院がいたと推察する根拠お願いします。
とのお訊ねがありましたので、一応出てきました。
これについては、私が
>>499>>500でやった問い掛けに
>>464がちゃんと応じてくれてから書き込もうと思っていたのですが、今になっても何の音沙汰もないので、
これはもう時効決定ということでお話しします。
平家のクーデターによって後白河院幽閉、その翌年に高倉天皇が譲位して安徳天皇が即位、
高倉院政がスタートするわけですが、弱冠十九歳の若い上皇に2才の幼い天皇では、
政治の実権が天皇の外祖父である清盛にあることは誰の目にも明らかだったでしょう。
しかも高倉院が、上皇としての初の社参を、前例を無視して厳島神社にすると発表したことで
(これも当然清盛の差し金と見られます)比叡山も南都も三井寺も一斉に猛反発し、
反平家勢力となっていきました(これがやがて大不評の福原遷都にもつながっていきますが)。
「治天の君」を武力で幽閉、更には当時の三大宗教勢力を向こうに回しての、先例無視の社参‥‥
清盛のこうした強引な手法が、当時の人からどう思われていたのかといえば、
早い話が、親平家以外の全てといってもいい人間が、その横暴に反感を覚え出していた、と
言ってもいいわけです(まぁ私個人の心情を言えば、清盛には同情的ですが)
こうした状況下、つまり、反平家勢力が尖鋭化しつつある情勢のまっただ中に、頼朝のもとに「打倒平家」をうたった以仁王からの令旨が届く。
いうまでもないですが、以仁王は後白河院の実子です。
しかも、父の法皇は幽閉されているわけだから、実質的に手足をもがれたような存在で、
もしかすると、この皇子がひそかに父法皇の内意を受け、理不尽な横暴を続ける平家を打倒するよう言って来ているのではないか、
と頼朝が考えるのは、きわめて普通の思考ではないでしょうか。
また、タイミング的にいっても、以仁王単独の実力(以仁王一人の立場からすれば、あまりに大それた計画という意味)からいっても、
背景には後白河院の意図が隠されている、と想像する方が、
ごく自然な見方であるように思います。
もしも後白河院の政界引退が、あくまで院の自発的意志という形がとられ
表面だけでも円満そうな手続きを経ての「禅譲」であったなら、
頼朝にしても「この令旨って、以仁王の個人的な怨恨による挙兵?」と疑った可能性もあるでしょうが、この場合は全くそうではないわけですからね。
つまり、これが実は以仁王単独の挙兵であり、後白河院は一切関知せずであったにせよ
令旨を受け取った側としては、そうは考えにくい情勢になっていたのではないか、と。
もしかしたら、令旨をもたらした源行家なども、口頭で「この令旨は、
院の御心に沿ったものである」くらい言ったかもしれません。
何せ強大な平家政権相手に挙兵を促すわけですから、そのくらい大風呂敷を広げるのは
これまた当然の流れってことです。
なお
>>504にあったような、
>また頼朝も義仲も院の意を察したとしたらそれを大いに使ったと思うが?
についてですが、これは大っぴらには出来ないでしょう。
何せ「玉体」は平家の手の内にあるわけですから、そんなことをやってしまっては後白河の御身にどのような危険が及ぶかわからない。
また、正式な院宣でもないのに、そういうことを呼称するのは恐れ多かった、ということもあるでしょう。
ただし、武士を招集する際には、あくまで口頭でですが、令旨が後白河の内意であるという含みは持たせていたのではないか、と思います。
また、そうした四囲の情勢を察すればこそ、清盛も再び後白河に政権の座に
返り咲くよう求めたのではないでしょうか。
つまり、甚だ政治的なポーズではありますが、そうすることによって
「平家と院は完全に和解した。以仁王の令旨など、もともと後白河院は認めていないし、令旨と院とは一切無関係である。それが証拠に、
こうして再び平家の乞うまま院政をとっていただいているではないか」と天下にアピールし、後白河の意を体して挙兵したと思っている人々の反平家活動の沈静化を狙った。
逆説的ですが、これは、平家にそうした政治的ポーズを取らざるを得ないような情勢に世の中がなっていた、ということに他ならない、と思うわけです。
さもなければ、高倉院の病死があったからって、平家が後白河に再び院政を
依頼する理由は無いでしょう。
情勢が平家にとって順調ならば、そのまま安徳親政に移行してしまえば
平家にとってはメリットが大きい筈ですからね。
‥‥まぁ、いずれにせよ、「根拠」というほど、はっきりした明確な証拠があるわけではないのは認めます。
前にも断わったとおり、あくまで当時の情勢や、前後の流れから見て、そのように推測することが自然ではないか?ってことです。
以上は全く素人の推測ですので、アカデミックな人には片腹痛いところもあるかもしれませんが、明らかに間違いとか、他に意見があればご教示下されば有難いです。
再三言ってるように私は素人なので、私なんかより詳しい人から間違いを指摘されるのはいっこうにかまいません。
むしろ、それについてきちんとした説明をしてくれるのであれば、歓迎したいくらいです。それでは。
555 :
日本@名無史さん:04/04/24 20:44
厳島御幸あげ
556 :
日本@名無史さん:04/04/25 13:12
高倉天皇age
政治的な失策というより、頼るべき協力者(近衛基実)や、後継者(重盛)の早死が大きいだろ。
基実の早世により、摂関家領の早急な処遇を求められ、それによって公家の反感を買う事になり
また、基実の死によって台頭した基房等の追い落としのため、更なる反感を買う事になる。
運命だよ。女婿基実が早世した時点で平家の終末は殆ど決まっていた。
558 :
日本@名無史さん:04/04/29 13:31
>>550−
>>554 相変わらずコピペ厨房は基本がないな。
珍説本を読んだら誰かに話したい気持ちはわかるが、
2チャンしか相手がいないとは・・・
559 :
日本@名無史さん:04/04/29 13:32
>>479
あ、3さんですね!!現役学部生です。お久しぶりです。
自分で立てて自作自演しまくってた中世の天皇スレから逃げ出して、
悔しくてたまらなくて、我慢しきれなくなって、また、たてちゃたんですね!
気持ちはわかります。負け犬らしくて素敵ですよ!
また負けそうですね!応援してますYO!
そうそう、このレスが批判されてるので、早く返答をお願いします!!
↓
>義経の伊予守任官により、
>最終的には頼朝の面子は、朝廷によりぺしゃんこにされている
これが間違いだと批判されてます。
>時間関係は、頼朝が義経を追放、義経が伊予守任官でいいんですよね。
これが事実誤認の高校生レベルの間違いと日本史板じゅうでで笑われてます。
>プロ野球で例えたら、クビにした外人が大リーグで大活躍してるみたいなものですか?
これは呆れられています。
早く、反批判してください。
あと、日清戦争とボーア戦争の事実誤認や江戸時代の桜の木に関する基礎知識不足も
言われてますから。それも反批判しちゃってください。
初心者板の自作自演も、逃げ出したんですか?
いつも初歩的な間違い探しが楽しいので頑張ってください!!
560 :
日本@名無史さん:04/04/30 23:39
>相変わらずコピペ厨房は基本がないな。
>珍説本を読んだら誰かに話したい気持ちはわかるが、
>2チャンしか相手がいないとは・・・
なんか、こいつ、さみしいやつだな・・・
>>559のコピペってお前だったのか。コピペ厨房、ごくろう!
で、他に書くことないの?
561 :
日本@名無史さん:04/05/07 15:48
>>558 >2チャンしか相手がいないとは・・・
連休の真っ昼間からこんな駄レスしか書き込めないおまえこそ2chしか相手いないんじゃないの?
あ、その2chでも相手にされていないってかw 惨めだねぇ(プ
もともとは、源氏の方が勢力は大きかったんでしょ。
江戸時代の田沼意次もそうだが、出る杭は打たれ、新興勢力は嫌われるのが日本の常。
それが、大規模な改革を伴えば、まず潰される。後継者や後ろ盾は、むしろ遠因でしかないんじゃないかな。
それと、どうでも良いことだが、どうせなら、
>>550-554 こう書いた方が親切だよ。
563 :
日本@名無史さん:04/05/08 17:06
三大寺院勢力が反平家になっていたというけれど、そのうちの三井寺と比叡山が犬猿の仲だってことは天下公然の事実。
高倉院の厳島社参で面目をつぶされたのは確かに大きいが、しかしそれだけの理由で開山以来の長年の対立を捨ててまで協調するかどうか、
源頼政や以仁王側にとって不安要素もかなりあったと思う (結果からいえば、その不安通りになってしまったわけだが)
一番の疑問はそういう誰でも考えられるような大きなリスクを犯してまで、
すでに年老いた頼政が単独で平家討滅などという大それた画を描くのか?ということ。
やはり頼政よりもっと大物(後白河院?)が頼政に指令を出していた、と考える方が自然な気はする。
基実が早世しなければ平家の滅亡だけでなく、五摂家なんてもんも成立しなかった。
565 :
日本@名無史さん:04/05/08 23:13
>>563 単独?諸国の源氏に以仁王の令旨で蜂起を呼びかけたんじゃなかったか?
566 :
日本@名無史さん:04/05/08 23:13
あ、3さんですね!!現役学部生です。お久しぶりです。
自分で立てて自作自演しまくってた中世の天皇スレから逃げ出して、
悔しくてたまらなくて、我慢しきれなくなって、また、たてちゃたんですね!
気持ちはわかります。負け犬らしくて素敵ですよ!
また負けそうですね!応援してますYO!
そうそう、このレスが批判されてるので、早く返答をお願いします!!
↓
>義経の伊予守任官により、
>最終的には頼朝の面子は、朝廷によりぺしゃんこにされている
これが間違いだと批判されてます。
>時間関係は、頼朝が義経を追放、義経が伊予守任官でいいんですよね。
これが事実誤認の高校生レベルの間違いと日本史板じゅうでで笑われてます。
>プロ野球で例えたら、クビにした外人が大リーグで大活躍してるみたいなものですか?
これは呆れられています。
早く、反批判してください。
あと、日清戦争とボーア戦争の事実誤認や江戸時代の桜の木に関する基礎知識不足も
言われてますから。それも反批判しちゃってください。
初心者板の自作自演も、逃げ出したんですか?
いつも初歩的な間違い探しが楽しいので頑張ってください!!
567 :
日本@名無史さん:04/05/08 23:37
家にいて飽きないの?
バイトとかもしてないの?
568 :
日本@名無史さん:04/05/17 01:53
>>565 いや、形としてはそうなったけど、
そもそもの計画の絵を描いたのは誰なのかってこと。
源頼政が以仁王に持ちかけたのか、それともその逆なのか。
或いはもっと大きな黒幕(後白河院とか、または他の誰か)が?っていう話でしょ。
以仁王が頼政を誘った。
平氏は、頼政を以仁王追討に任じようとしていた。
情報が遅れていたのか、頼政が手だれだったのか?
誘引は、父の後白河の幽閉だが、最大要因は自分の知行地が没収されたこと。
これは平氏の凡ミスだねw。窮鼠にしちゃいかん。
つか、頼政は六波羅政権で生き延びたただ一人の源氏。
そこの心理読みでないの?キモは。
キモ?どっかで誰かが使いすぎて逃げ出したキーワードだったけな(自爆。
570 :
日本@名無史さん:04/05/27 00:50
age
>>569 >つか、頼政は六波羅政権で生き延びたただ一人の源氏。
w
572 :
日本@名無史さん:04/06/03 22:34
ここまでのまとめ。
平家を打倒したのは後白河院の走狗たる源氏たちであるから、当然最も評価されて然るべきは後白河院である。
つうか本気で強い東国武士に本気で向かってこられたから。源氏とか関係ない。
575 :
日本@名無史さん:04/06/05 21:15
--------------------------------------------------------------------
朝廷史研究 第48号
朝廷史研究会編集 A5判 並製 48頁
本体780円 4-642-08920-9
--------------------------------------------------------------------
本誌は、朝廷史研究の進化を着実に進めていくことを目的にした機関誌です。
内容は、論文のほか、新発見の史料や新事実の確認など、
個々の成果を発表する場として「羅針盤」と名付けた研究余録等、
毎号充実した編集を図っているユニークな雑誌です。年2回発行。
品切=1〜9・12・14・16・17号。
〈主な目次〉
武士は朝廷にガクブルだった…日本@名無史さん(343)/
いっぺん中世以前の軍記物でもちゃんと読んでみるといい…日本@名無史さん(351)/
上皇自ら出馬していたら北条父子は旗を巻いて降参していただろう…日本@名無史さん(353)/
朝廷に対して行動をおこした武士は全員、滅ぼされている…日本@名無史さん(399)/
以仁王の背後には後白河院の存在があった…420(434)/
義経に下した院宣の性質…日本@名無史さん(456)/
鎌倉幕府成立の最大功労者は後白河院…日本@名無史さん(572)/
俺は歴史マスター、学者の言ってることは出鱈目…日本@名無史さん(379)/
朝廷史関係スレッド目録
576 :
日本@名無史さん:04/06/09 03:45
577 :
日本@名無史さん:04/06/09 08:43
源氏も脆いじゃん。
頼朝亡きあと、あっという間に滅んだじゃん。
武士の多くは源氏です。
579 :
日本@名無史さん:04/06/09 23:58
桓武平氏age
580 :
日本@名無史さん:04/06/13 02:00
降服したフリして射掛ける源氏と共産主義者の平氏。源平合戦=卑怯者対ドキュンの戦い。
院政という政治体制の中で平家の政権を立ち上げて
維持しようとしたものの、そもそも、無理があって、リー
ダーの清盛亡き後、途端に崩壊。院政という政治体制
と同居しようとしたのでもろに衝突してしまった。
長続きさせるには、院政とは離れたところで政権基盤
を確立し、並立するような形に持って行くべきであった。
582 :
日本@名無史さん:04/06/14 17:36
それは、結果論。
583 :
日本@名無史さん:04/06/14 18:47
>>581 >長続きさせるには、院政とは離れたところで政権基盤を確立し、並立するような形に持って行くべきであった。
まるで頼朝のことを言っているようだが、結果論だな。
頼朝にそれを可能にさせたのは、院にとっても強大な「敵」である平家がいたればこそ。
要するに「平家を追討してやる代わりに東国支配を認めろ」みたいな朝廷との駆け引きができる状況にあったから可能になった。
しかし平家がそれをやるにしても、頼朝にとっての平家的な存在が欠けているのでかなり無理がある。
584 :
日本@名無史さん:04/06/25 06:13
平家蟹って本当にいるんですか?
585 :
日本@名無史さん:04/06/26 07:02
平家盛なら本当にいた。
586 :
日本@名無史さん:04/06/26 23:06
耳なし芳一は?
587 :
日本@名無史さん:04/06/26 23:44
戦国時代まで引きずる
西日本と東日本の対立と
社会構造の違いを考えないとね
西日本は連合国家みたいなものだから
集まるときも早くて大きな勢力になるけど
いったん分裂し始めたら終焉も早い
瀬戸内海祖中心に西日本を根拠地とする平氏は
一大勢力を築くのも早かったけど
いったん崩れはじめると歯止めが利かなかった
秀吉が西を先に治めたのは
このあたりを見切っていたからだろうね
↑
東日本の鎌倉政権は急にでかくなって急につぶれた
589 :
日本@名無史さん:04/06/28 00:08
>>588 平家筋の北条によって、長く保たれたと思うが?
室町の足利政権の方が、早くから制御不能になっていく気がするぞ。
591 :
日本@名無史さん:04/06/28 19:35
>587
仮説としては‥‥いや、思い付きとしては面白いところもあるが、もっと具体的に語ってくれんことにはな。
例えば西国の「連合国家」とはどういう意味?
対する東国は?
2つの社会構造の違いとやらもあわせて説明キボン
592 :
日本@名無史さん:04/06/28 19:53
593 :
日本@名無史さん:04/06/29 17:37
義経という軍事的天才がいなかったら平家は、平知盛が中心となって
大宰府に平家幕府を作っていたと僕は、思う、そして宗国との貿易に
よって鎌倉や京より数倍豊かな都になってたと僕は思うんだよ、日本
は、九州、四国、中国を押さえている平家、奥州の藤原、関東の頼朝
の三国志状態になっていたと私は信じている
594 :
日本@名無史さん:04/06/29 21:10
信ずるものは救われる、ってね。
595 :
日本@名無史さん:04/06/29 23:25
平家物語のせいで平家は、戦が弱かったと思われているけど
実際は、そうでもなかったんだよね、知盛や教経のような猛
将もいたんだしさ、義経のような天才がいなければ簡単には
、滅びることは、なかったよね。
平家政権は何故にあんなに脆かったのか?
答え>
運がなかった。
平家にあらずんば人に有らず。
奢れる平家は久しからず。
こう言われてる時点でもはや救済の余地が…
1 重盛が早死にせず、清盛の後白河法皇の閉じ込めを阻止続けてれば…
2 清盛がもう少し長命… 首を獲られただけか?
3 義仲との和睦、この連合軍で義経&頼朝に勝てるのか?
4 義経との和睦、この連合軍で頼朝に勝てるのか?
ともかく源氏に平家討伐の大義名分を与えない事が最重要かと。
598 :
日本@名無史さん:04/06/29 23:54
>>595 ってゆーか、平家物語よりも源平盛衰記のせいだ。
599 :
日本@名無史さん:04/06/30 00:04
知盛や教経って使えるのか?
600 :
日本@名無史さん:04/06/30 01:21
平知盛や能登ノ守教経は、貴族化した平家の公達の中にあって極めて異色
の存在だったと思う、知盛は、宗盛の代わりに平家軍を統括してた存在だ
ったし、教経は、個人的武勇なら源平通じて最強だったと本に書いてあっ
た、平家物語でも壇ノ浦の戦いはこの二人が主役と言ってもいいと思う
601 :
日本@名無史さん:04/06/30 05:31
>>595 >平家物語のせいで平家は、戦が弱かったと思われているけど
普通に平家物語を読んでいれば、敗れた原因が「戦が弱かった」からなどと思うはずないのだが‥‥
602 :
日本@名無史さん:04/06/30 07:07
平氏は随所随所では戦に勝っていて、戦が本当に
弱かったわけでないのは、明白。が危なくなると
すぐ逃げちまったりなんというか、粘りが感じんな。
戦略上の撤退だけでない、この戦負けてもまたつぎがあるさ。
そんな安易さ、を感じる。
603 :
日本@名無史さん:04/06/30 15:55
あと、平家武者って凄い情け深かったと思うな、身内が死んだら
涙をながし戦線離脱みたいな
604 :
日本@名無史さん:04/06/30 20:35
>>603
敵に襲われてる身内を見捨てて海にトンズラ
606 :
日本@名無史さん:04/07/01 04:05
>>602 安易というのは違う。
なぜなら、平家の武者にとっては安徳天皇とそれを取り巻く女性たちの存在が戦闘するに際しては
常に足手まといになっていた。
とはいえ、平家にとって唯一の大義が安徳帝の存在でもあるので、
これを敵の手に奪われてまで戦い続けるわけにはいかない。
だから、帝の周囲が危なくなると皆でそれを守って退却するしかなかった。
いわば将棋でいえば「玉」が安徳帝。他でどれだけ優勢でもこれを取られたら平家は即負け。
一方、源氏方の「玉」である後白河は戦場からは遠い都の空の下だから、
戦をすれば平家が不利なのは当り前なのだ。
都落ちを選択せざるを得ない時点で、すでに平家は負けていた。
あとは最終的な敗北をどれだけ引き延ばせるか、という戦いになった。
平家政権のもろさは、後白河院やその周辺の勢力を取り込めなかったこと。
平家政権は都で政権基盤を確立したのだから、中央の諸権門をうまくとりこむことは必須。
それができなければ、政権基盤が不安定になるのは必至。
清盛は後白河院派をクーデターで抑えつけることに成功したが、絶滅させることまではしなかった。
取り込んだのではなく、単に力で抑え込んだだけ。力がなくなれば復活する。
後白河院を生かしておいたのは失敗だったかもしれない。
平家だけじゃ無く、義仲も義経もしゃぶり尽くしましたからね>後白河。
あの妖怪には頼朝みたいに近づかないのが一番だったのかも…
609 :
日本@名無史さん:04/07/02 01:21
∧ ∧
|1/ |1/
/ ̄ ̄ ̄`ヽ、
/ ヽ
/ ⌒ ⌒ |
| (●) (●) | ふぅ〜ん
/ |
/ |
( _ |
(ヽ、 / )|
| ``ー――‐''"| ヽ|
ゝ ノ ヽ ノ
610 :
日本@名無史さん:04/07/02 05:17
>>607 一旦都落ちしたとしても、後白河院を同行できていたならだいぶマシだったんじゃないかな。
後白河院に逃げられてしまった時点で、平家の運命は決まったと思う。
あと、後白河を清盛が弑逆していたら‥‥という仮定については、
ひそかに毒でも盛って病死という形を取れればともかく、
そうでない場合はかえって逆効果になったろうし、
どの道、あの時代の人間がそこまで冷酷さに徹することが出来たのか?という疑問もある。
そうやって天皇家の尊厳を否定することは、安徳天皇の外戚として権力の座にある平家一門の尊厳も否定することになるわけだし。
606,おまえ俺の書いた事なんか勘違いしてないか。後がなくなった
壇ノ浦じゃ平氏も決死で戦ったろ。一の谷や屋島でも後がなければ
いくら奇襲に驚いても、帝を守るためでも拠点をすてられたか。
特に屋島では海に一回逃げてから源氏と戦っているだろ。で源氏の
後詰がきて完全にひく。その退却ぶりに戦略眼はみいだせないし、
そのままなぜ戦えなかったのだ?帝、女はもう海上にいたわけだろ。
形勢不利だったからか?勝てる可能性が一パーセントもなかったか。
やはり、まだ壇ノ浦があるさ、そんな気分が宗盛たちにあったので
はないか?
>>611 君はイノシシ武者かね?
勝てる可能性が一パーセントあったら戦わんといかんのか?
全くだ。戦争というのは本来「後がある」ためにやるもんだろ。
いよいよ後がなくなったという時、意地を見せるために最後の一戦をやる場合もあるが、
それを毎回やれというのは無理。
>>611 つまり、屋島奪還を目指してもっと必死に戦っていればよかったのに、なぜやらずに引き上げてしまったのか、と言いたいの?
まあそれには一理あるが、でも時間的制約もあるからね。
つまり、日暮れまでに決着をつけなけりゃいけないってこと。
で、平家はそれは試みたでしょ?結果は失敗だったけど。
日没までに上陸できなかった以上、一旦兵士を収容し、夜の間ずっと海上に漂っているわけにもいかないし、武器や食料も補給しなくちゃならんしで、ひとまずどこか安全な港まで退却するしかないよ。
言っておくけど、現代の船に乗っているんじゃないからね。
ちょっと天候が悪化でもすれば、下手すりゃみんな沈没であぼーんだし。
まあ、宗盛だって君が考えるようなことは考えていたってこと。
歴史上の人物はみんな机上の空論ではなく、現実と対処しながら頭使っていたんだから、
君こそ「安易」に単純化するような言い方はしない方がいいよ。
↑
602?
>>615 すまん、606と入れたつもりだった。間抜けスマソ
平家滅亡前、平家蟹は何と呼ばれていたんですか?
618 :
日本@名無史さん:04/07/06 22:36
中世の人間はそもそも蟹なんか食わなかったのでは?
蟹工船、蟹缶が発明される以前は腐りやすい蟹は流通しなかったはず
619 :
日本@名無史さん:04/07/06 22:39
∧ ∧
|1/ |1/
/ ̄ ̄ ̄`ヽ、
/ ヽ
/ ⌒ ⌒ |
| (●) (●) | 自作自演も疲れるなぁ・・・
/ |
/ |
( _ |
(ヽ、 / )|
| ``ー――‐''"| ヽ|
ゝ ノ ヽ ノ
お耳がズレてますよ!
621 :
日本@名無史さん:04/07/10 03:30
カルシウムが足りなかったのだ。
622 :
日本@名無史さん:04/07/11 06:47
源氏が平家打倒の挙兵をしてから5年近くも持ったんだからあながち脆かったとは言えないだろ。
むしろ逆によく持ったという気もする。
例えば、後醍醐帝が討幕の挙兵をしてから2年後に鎌倉幕府滅亡。
江戸幕府も長州が反幕府の旗幟を鮮明にしてから4年足らずで終わっている。
まあ政権としてどうだったのか、となるとまた話は別だが。
623 :
日本@名無史さん:04/07/21 02:00
>>617 源氏螢、平家螢についてもあわせて知りたい
624 :
日本@名無史さん:04/07/21 02:04
スレ違いですが、
「平家みちよ」って「ひらやみちよ」だと思ってた時期があった。
ファンには怒られるかもしれないが、こういった人たちに全く興味ないんで。
でもほんとに「へいけ」って読むんだと妙に関心したな。
625 :
日本@名無史さん:04/07/30 02:53
沖縄によくある平良(たいら)さんは平家の末裔ですか?
626 :
日本@名無史さん:04/07/30 07:27
退却の仕方が京⇒兵庫では中途半端すぎる。
西日本はちょうど飢饉だったのだから、源氏が攻めて来ようにも兵糧の調達を不可能になるように、
陸上部隊は焦土作戦を実行しながら、主力は思い切って海路で厳島まで下がればよかった。
「京から兵庫へ退却」って・・・
「厳島まで下がれば」って・・・
「夏」としかコメントしようがないなぁ。
アンニョン!
629 :
日本@名無史さん:04/07/31 01:15
>>387-391 「平=ピョン、源=ウォン、清=チョン、盛=ソン、頼=ルェ、朝=ジョ、時=シ、政=ジョン」
平(北条)時頼=ピョン シルェ
平(北条)朝時=ピョン ジョシ
源(平賀)朝政=ウォン ルェジョン
藤、原、信、長、宗、経、は?
630 :
日本@名無史さん:04/07/31 01:25
平家の女官はレイ−プされたの?
631 :
日本@名無史さん:04/07/31 01:26
木曽義仲に美女は戦利品にされたの?
632 :
日本@名無史さん:04/07/31 01:27
そこらの記録は無いの?
巴御前、城氏の板額は戦利品にされたという記録がある。
徳子は義経の女になった
634 :
日本@名無史さん:04/07/31 05:47
春本の世界だなw
635 :
日本@名無史さん:04/07/31 20:56
平家の首を須磨の海岸に紐つけてさらしたそうな
そこで泳ぐDQNカップル(w
636 :
日本@名無史さん:04/08/04 01:35
まあ、夏休みだからな。仕方ないか(ニガワラ
ロリであらずんば、人にあらず。
638 :
日本@名無史さん:04/08/04 11:20
義経は母をされたでムスメをし
639 :
日本@名無史さん:04/08/11 18:27
能登殿かわいいよ能登殿
640 :
日本@名無史さん:04/08/12 23:22
後白河と建礼門院は?
なにかなかったっけ?
>>640 嫁入りの話があったといわれているな。
これは史料にあったっけ。
642 :
日本@名無史さん:04/08/13 23:34
643 :
日本@名無史さん:04/08/13 23:34
644 :
日本@名無史さん:04/08/17 23:13
>641 そうそう、あったよね。その史料、
というより永井路子の小説を読んだときに
知ったわけだが、「現代ではありえん!」
とちょっとね。。。
>635
空襲の後の死体おき場が現在プールになってますが何か?
646 :
日本@名無史さん:04/09/01 02:19
夏休み中糞レスばっかりw
647 :
日本@名無史さん:04/09/13 17:14:38
話題が無いねえ。
648 :
日本@名無史さん:04/09/13 23:53:25
そうでもないよ。
>>617 ゲンジボタルとヘイケボタルもどうなんしょ。
650 :
平家一門:04/09/22 18:45:43
世間では、源平の争いとか源平合戦とか申すようであるが、
我々から言わせればあくまで平源の争いであり、平源合戦である。
651 :
日本@名無史さん:04/09/23 23:05:21
まるで慶大生が「早慶戦ではない。慶早戦だ」といっているのと
同じだなw
>>650 ではなくて「源氏が天皇に逆らった謀反」では?
>651
または、チョソが「日韓共催じゃない。韓日ニダ」と言うようなものw
×長州征伐
○長幕戦争
655 :
日本@名無史さん:04/10/08 05:12:32
平家が赤旗だったってのはいつから?
坂東八平氏の畠山氏なんかは違うしな。
656 :
日本@名無史さん:04/10/09 18:13:11
657 :
日本@名無史さん:04/10/09 21:06:11
658 :
日本@名無史さん:04/10/09 21:09:38
平家は保元の乱とか平治の乱とか、喧嘩程度の合戦の経験しかなく、
一族に、大合戦のマニュアルがなかったからだよ。
源氏は前九年の役、後三年の役で、万単位の兵を動かし数年がかりの合戦経験があるからね。
659 :
日本@名無史さん:04/10/11 01:24:03
>658
マ、マニュアルですか!?
660 :
日本@名無史さん:04/10/11 02:06:10
さすがに100年も離れてりゃあマニュアル云々はないだろな。
その仮説では、戊辰戦争で徳川幕府が見るも無残に敗れた事実を証明できない。
しかも、当時の合戦は個々の豪族が好き勝手に戦う形で行われていた。
総大将の下、整然とした指揮系統が築かれていた軍隊ならばマニュアルがあったら役立つだろうが、
平安末期の合戦様式では、仮にマニュアルが存在したとしても役に立たなかっただろう。
それに、鎌倉殿の側近は北条氏はじめ平氏が多いんだがな。
>>660 > その仮説では、戊辰戦争で徳川幕府が見るも無残に敗れた事実を証明できない。
逆でしょう。惨敗したのは、色々の要素が絡んでいて単純ではないとはいえ、「古い合戦
マニュアルを金科玉条にしていた」ことも敗因の一つであったことは隠れもない事実。
662 :
日本@名無史さん:04/10/17 11:28:19
みんな源氏を過大評価しすぎ。
頼朝なんて,義経・義仲を追い詰めて身内同士で勢力を弱めるような真似をしていたわけだし,
結局は北条に躍らされていただけの大した器ではない。
それに対し,平清盛は保元の乱のときも,敵側に付いた平家一族の助命に奔走し,
結局は叔父の忠正一人の犠牲だけで済んだ。
戦乱終結後は,かつて自分に刃を向けた人々にもフェアに接した。
頼朝の命も助けたしね。
あと,鎌倉武士に愛読された十訓抄でも,敵方であるはずの平清盛が,
家臣のことを思いやり,
非常に細やかな心配りをする理想的な上司として書かれている。
清盛(=藤原から武士への政権交代と,貿易による国富向上の2大視野のもと,
慣習や面子にこだわらず行動した)と
頼朝(=変な面子を気にして,北条に踊らされるまま,義経や義仲と血みどろの争い。
結局は源氏滅亡のきっかけを作った。)
とでは,ぜんぜん器のスケールが違う。
ただ,清盛の決定的な弱点は,西国に気を奪われ,東国支配が疎かになっていたことだろう。
たぶん,頼朝を処刑していたとしても,遅かれ早かれ平家は滅ぼされる運命に遭ったと思う。
663 :
日本@名無史さん:04/10/18 01:50:13
>>662 >平清盛は保元の乱のときも,敵側に付いた平家一族の助命に奔走し
これは初耳。具体的に誰の命を助けたの?
664 :
日本@名無史さん:04/10/30 08:06:23
>663
叔父の平忠正とその一族は斬った筈だしな
665 :
訂正(662):04/10/30 09:56:42
662です。
>>663-664ご指摘ありがとうございます。
そのとおりでした。
ちょっと調べてみれば、
分かるいいかげんなことを書いてすみませんでした。
平姓の者だけ追っても
1156.7.30
平忠正、平忠綱、平忠正、平長盛、平正綱を六条河原で処刑(by平清盛)
1156.8.15
平家弘、平頼弘、平康弘、平盛弘、平時弘、平光弘、平安弘を処刑(by足利義康)
と、結構殺されています。
平姓以外の平家も入れればもっと多いかもしれません
しかも、もののホームページを見ると、
清盛がかねてから不仲だった叔父の忠正一派の粛清と、
義朝に親兄弟を殺させる魂胆を兼ねて、
死刑制度を復活させたとかありますし
(死刑制度の復活は清盛ではなく信西の強い主張だったとの説もありますが)。
666 :
訂正(662):04/10/30 09:57:39
第一に、別のホームページに
> (清盛)
> 「ついでに、処罰の話もしておいてもらおうか。
> 源氏方には厳しい罪を与えてもらわねばな。
> こちらは忠正に犠牲になってもらえばよい」
>
> 戦の終わった翌日、早くも後白河天皇による戦後処理が執り行われた。
> 崇徳上皇は捕えられて、讃岐国に遠流と相なった。
> 上皇方に付いた源平両氏の主立った者たちも厳しい処罰を受けた。
> 源氏方では、義朝の父為義が斬罪、
> また、弟の為朝も伊豆大島へ配流となった。
> 一方、平氏方は、清盛の叔父である平忠正が斬罪となっただけで済んだ。
との記述があったこと。
第二に、源氏に同情的で平家に厳しい『保元物語』においても
義朝の残虐ぶりが批判される一方、清盛への批判がないと記憶していたこと
源義朝の親不孝ぶり(助命どころか為義を騙して殺そうとした)
や、崇徳上皇側に参戦した兄弟5人の斬首に加え、
まだ幼い4人の弟たちまで船岡山に連れ出して処刑したことの残忍さが
厳しく批判されていたこと。
(でも、後で考えてみれば、清盛は親兄弟を殺していないわけだから、
批判は無くて当然ですね)
667 :
訂正(662):04/10/30 09:58:23
第三に、源頼政が敵方であるにもかかわらず、
清盛は彼の文武に秀でた才能と実直さをに尊敬し、
当時病にふせっていた頼政を気遣ったこと。
天皇に対し、頼政の人柄を褒めるとともに
「せめて生きているうちに三位をお授けください」と奏上し、
結果、源頼政は異例の大出世を遂げたこと
清盛嫌いだった九条兼実でさえも、
『玉葉』の中で、源頼政の大出世を驚くとともに
清盛の行動を絶賛していること。
(にもかかわらず源頼政は裏切った!!
新・平家物語にもそのことへの言及あり)
668 :
訂正(662):04/10/30 09:58:54
第四に、平治の乱の際、藤原忠通・基実親子
(基実は関白だが、乱の首謀者である藤原信頼の義理の弟)が
六波羅に参集した際、
一同基実に疑惑の目を向け、追い返そうとするところ、
清盛は「天皇のもとに関白が来るのは当然のこと」とこともなげに言って、
快く忠通・基実親子を迎え入れたこと。
(並み居る公卿たちは納得すると同時に、清盛の度量の大きさに感心。)
以上のようなことがあり、あのように間違ったことを書いてしまいました。
あくまでも言いたかったのは、源氏を過大評価しすぎだということであって、
清盛を評価する意図ではなく、また、ここはそのようなスレではありませんが、
ついつい大幅に脱線してしまいました。
↓それでは続きをドゾ
669 :
日本@名無史さん:04/10/30 10:58:18
義朝に親殺しの汚名を着させるための噛ませ犬として
あぼーんされた忠正一家はほんといい面の皮だよね。
ちなみに四男の平通正も>665に追加ヨロ。
670 :
日本@名無史さん:04/10/30 16:15:52
>>658 マニュアルはあったようなのですが、それを使って平家を前九年の時と同じやりかた
で滅ぼしたのは、天皇から報奨金をもらうためだったとか本に書いていたよ。
同じやり方をとったならケチをつけようがないから
671 :
日本@名無史さん:04/10/30 16:21:45
平家が政権をとったこともおどろきだよね。言ってみれば、警備会社の一族が
これまで警備して来た官庁の大臣になるようなものだからね。
672 :
日本@名無史さん:04/10/30 16:23:53
平安時代には国民皆兵制度をとっていたのじゃないの?防人とか。
どうして、特定の団体だけに任せるようになったんだろう?
>>671 >言ってみれば、警備会社の一族がこれまで警備して来た官庁の大臣になるようなものだからね。
こんなの別におどろきではないが・・・。
>>635 鎌倉の市街地で数千という人間が血を流したそうな
そこで観光するDQN旅行者(w
675 :
日本@名無史さん:04/11/07 07:09:53
>>671 警備会社って何だよw
そりゃセコムが政権取ったらおどろきだ罠
676 :
日本@名無史さん:04/11/07 16:45:06
そのうちマツキヨが政権取ったりしてな。
いや、麻生の方が可能性は高いか。
677 :
日本@名無史さん:04/11/07 23:57:17
>>672 確か軍団にとられたのは奈良時代じゃなかったっけ?
678 :
日本@名無史さん:04/11/21 15:32:26
防人っていつ無くなったのかね?
◎桓武天皇(737〜806)
↓
○葛原親王(786〜853)・・桓武天皇の第三皇子。
↓ 大蔵卿、式部卿を経て一品太宰師に至る。
○高見王
↓
○平 高望・・・桓武天皇の曾孫。889年に平姓を賜り、従五位下上総介に。
↓ 桓武平家の祖。
↓
↓→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→
↓ ↓
○平 国香(?〜935) ○平 良将
高望の子。甥の将門の殺される。 高望の子、将門の父。良持ともいう。
↓ ↓
↓ ↓
◎平 貞盛 ◎平 将門(?〜940)
国香の子。父が従兄弟の将門に殺されると、 検非違使を望むも成らず、憤慨して関東に東帰。
直ちに官を捨て 叔父、国香を殺して近国を侵し939年居館を下総猿島
京から国に帰り、940年に藤原秀郷と共に下総猿島で 建て文武百官を置き、新皇を称して関東に威を振るう。
将門を討つ。 940年、藤原秀郷・平貞盛に討たれる。
後、鎮守府将軍に任ぜられた。世に平将軍という。
↓
↓
↓
↓
○平 維衡 ○平 忠常(?〜1031)
貞盛の子。武勇に優れ、 開祖・高望の曾孫。上総介、武蔵押領使。
平 致頼、源 頼信、藤原保昌と共に四天王を称。 1028年に謀反して四天王・源 頼信に討伐により降伏。
子孫は伊勢国に住み、伊勢平氏を形勢する。 都に送られる途中病没
<伊勢平氏>
・
・
・
○平 正盛・・・平安末期の武将。清盛の祖父。
↓ 白河法皇に信頼され、検非違使・追補使として
↓ 諸国に賊を討ち、伊勢平氏興隆の基礎を築く。
↓
○平 忠盛・・・(1096〜1153)
↓ 平安末期の武将。正盛の子、清盛の父。
↓ 白河、鳥羽上皇に信頼され1129年に山陽、南海2道の海賊を追補し、
↓ 35年に再度西海の海賊を平らげ、累進して刑務卿に進み内昇殿を許された。
↓ また、日宋貿易に尽力。
↓
↓
↓→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→
↓ ↓ ↓ ↓
◎平 清盛・・・(1118〜1181) ○頼盛 ○教盛 ○忠盛
↓ 保元・平治の乱を戦い、源氏を破る。 ↓
↓ 累進して従一位太政大臣となる。 ↓
↓ 娘・徳子を高倉天皇の后につけ、 ↓
↓ 皇室の外戚として絶大な権勢を誇る。 ↓
↓ ↓
↓ ↓
↓→→→→→→→→→→→ ↓
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
○重盛 ○宗盛 ○知盛 ○重衡 ○教盛
↓ ↓
↓ ↓
○維盛 ○敦盛
681 :
日本@名無史さん:04/11/23 01:18:58
防人は、はじめは全国の兵士の中からの選抜で、730年からは東国兵士限定。
8世紀に廃止。150年ぐらいしか続いてないね。
682 :
日本@名無史さん:04/11/23 13:39:11
桓武平氏は朝鮮臭いよね。
そもそも天ちゃん自体
684 :
日本@名無史さん:04/11/28 02:28:56
それを言うなら、臭素的には藤原臭さのほうが100倍ぐらいありそうだが?
(近衛臭い、西園寺臭い、橘臭い、足利臭い、徳川臭い etc...)
685 :
日本@名無史さん:04/11/30 19:49:48
>>680を訂正
○平 忠盛・・・(1096〜1153)
↓ 平安末期の武将。正盛の子、清盛の父。
↓ 白河、鳥羽上皇に信頼され1129年に山陽、南海2道の海賊を追補し、
↓ 35年に再度西海の海賊を平らげ、累進して刑務卿に進み内昇殿を許された。
↓ また、日宋貿易に尽力。
↓
↓
↓→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
◎平 清盛・・・(1118〜1181) ○経盛 ○教盛 ○頼盛 ○忠度
↓ 保元・平治の乱を戦い、源氏を破る。 ↓ ↓
↓ 累進して従一位太政大臣となる。 ○敦盛 ○通盛
↓ 娘・徳子を高倉天皇の后につけ、
↓ 皇室の外戚として絶大な権勢を誇る。
↓
↓
↓→→→→→→→→→→→
↓ ↓ ↓ ↓
○重盛 ○宗盛 ○知盛 ○重衡
↓
↓
○維盛
686 :
日本@名無史さん:04/12/15 00:44:43
平忠盛 正四位上 刑部卿の叙任は侮れない。
687 :
日本@名無史さん:04/12/22 07:19:28
平家の興隆は、正盛と忠盛に商才があったことが大きい。
伊勢の津を抑えて裕福になり、同時に武力も養った。
そして、その経済基盤と商才は清盛に受け継がれていく。
688 :
日本@名無史さん:04/12/22 15:16:17
頼朝を暗殺したのは誰だ?????
689 :
日本@名無史さん:04/12/23 13:15:10
平氏は平国香の流れ、すなわち伊勢平氏と鎌倉北条氏族だけで十分w
690 :
日本@名無史さん:04/12/26 11:22:04
ところで平家はなぜ六波羅に拠点をもうけたのだ?
あそこらへんは当時は葬送の地だったというが
仮面ライダーが2人もいるから
692 :
謹賀新年:05/01/02 06:27:07
あげましておめでとう
693 :
日本@名無史さん:05/01/05 07:31:36
694 :
日本@名無史さん:05/01/05 13:38:19
正当論?で平氏は従来の天皇=貴族=官僚=摂関の流れで政治を行おうとした。
で失敗し、新しい統治方法が必要だった。
そこに源氏がはまっただけ。
大江何とかってーのが動かしてただけだと思うよ。
平家が太宰府落ちした理由って、奥州藤原と同じように
地方分権国家の設立を清盛が計画してたからなんでしょ?
696 :
日本@名無史さん:05/01/09 08:46:20
平家はいっそ武力による朝廷乗っ取りを行えば良かった。
将門と同じように我らも桓武天皇の子孫。皇位を次いで何の不足があろうといって
後白河法皇を追放し、三種の神器を強奪して清盛自らが帝位につくことを夢想
697 :
日本@名無史さん:05/01/09 11:54:52
義経軍と武田軍が同数の兵力で激突したらどっちが勝つ?
698 :
日本@名無史さん:05/01/09 12:52:03
携帯電話は通話中だけでなく待機中も、位置情報を近くの中継基地局と交換するため、
電磁波を出している。
(朝日新聞 2002/06/03)
699 :
日本@名無史さん:05/01/10 16:46:49
平家みちよの平家はヒラヤと読むらしい・・・・
しかも出自不明・・・
2ちゃんねらーは2ちゃん中だけでなくOFF LINE待機中も、逝ってしまった自我を維持するため、
電波を出している。
(N速+ 2005/01/10)
>>699 三重県名張らしいから伊勢平氏の流れを汲むかも・・・といってみる
>>701 残念だが
平家は明治新姓。
要は、北村やら西村やらと一緒でヒラヤに住む〜さんという意味。
源氏はいつ滅んだの?
>703
先週の火曜に滅びましたが
ツマンネ
706 :
日本@名無史さん:05/01/23 07:27:15
>>690 武門である平家は、血の穢れを嫌う平安貴族から忌まれていたから
そういう場所でないと屋敷を構えられなかったんだろ
707 :
日本@名無史さん:05/01/23 07:42:56
六波羅の辺りは清水に近いから非人(IMEで変換されない…)がたくさん住んでおり、
死牛馬の処理に携わる彼らから武具の材料である皮革を大量に調達することができたため
…というのはないかな?
708 :
日本@名無史さん:05/01/23 22:01:06
源為朝が生き延びてどこかで落ち延びていたらどうなってたでしょうか?
結局行家みたいに頼朝にアボンされただけか
709 :
日本@名無史さん:05/01/25 01:03:58
>>629 北条時政(法名明盛)=ピョン・シジョン(法名ミンソン)
北条高時=平高時=ピョン・コシ
赤橋英時=平英時=ピョン・スシ
源頼朝=ウォン・ルェジョ
源頼政=ウォン・ルェジョン
平清盛=ピョン・チョンソン
平頼盛=ピョン・ルェソン
平永盛(貞盛孫)=ピョン・ヨンソン
細川頼元=源頼元=ウォン・ルェウォン
武田元明=源元明=ウォン・ウォンミン
>>706 多分、正盛、忠盛あたりが官位の低い頃から六波羅辺りに屋敷を持ってて、
出世しても移転しないでそのまま拡張していった、
ということで複雑な理由はないと思う。
711 :
日本@名無史さん:05/02/07 00:52:28
712 :
日本@名無史さん:05/02/09 00:54:59
安芸の国いつく島の大明神は平家の氏神なり。
平家ををごらせし失に、
伊勢太神宮・八幡等に神うちに打ち失はれて、
其の後平家ほどなくほろび候ひぬ。
>>710 補足すると忠盛は白河上皇に仕えていた院の近臣。
当時の院政の拠点は主に鴨川の東側で、
後に後白河上皇が法住寺殿を作る辺り。
白河上皇の警護にあたった忠盛が、
その近くの六波羅に屋敷を構えるのはごく自然と思われる。
ちなみに白河上皇が愛人宅を訪れた帰り道、
八坂神社で灯籠に火を入れようとしていた人を
鬼と勘違いして警護の忠盛に斬れと命じたが、
忠盛が人と気づいて止めた。
上皇は無益な殺生をせずに済んだと感謝して
愛人の一人を忠盛にあたえたが、その女が清盛の母という伝説もある。
714 :
690:05/02/17 13:27:35
納得。御教示ありがとうございました。
で、その平家の空き家をそのまま政庁に転用したのが六波羅探題?!
715 :
日本@名無史さん:05/02/17 20:57:16
平家まだぁ〜
>>714 平家の都落ちは1183年、
いわゆる六波羅探題が成立するのは、1221年。
40年近くも空き家が残っていたとも思えません。
717 :
日本@名無史さん:05/02/20 01:45:59
だ か ら
議題は
宗盛は傘職人の子であったか否か
718 :
日本@名無史さん:05/02/20 02:17:42
平家の人ってどんなのが居るわけ?
719 :
日本@名無史さん:05/02/20 05:12:05
>>719 その時子さんの実家が時国家として能登半島に細々と残ってるあたりはロマンだよな。
いつか行こうと思ってるが東京からだと不便すぎてね。
確かにあんなところに押し込められてたら二度と日の目を見ないと見ない訳で、
配流場所としては最適なんだろうな。
721 :
日本@名無史さん:05/02/23 21:22:12
時忠って能登に配流じゃなかったっけ
722 :
日本@名無史さん:05/02/23 21:31:11
あと数年の生命があれば時忠も帰京できただろうにな
>>721 そう。能登は能登でも曽々木というところで超奥能登。
今でも地の果てという感じ。景色はいいとこなんだけどね。
724 :
日本@名無史さん:05/02/25 01:55:55
>>720 上時国家と下時国家とがあるんだよね。
ところで上と下っていうのは何か身分のようなものなの?
それとも表千家と裏千家みたいなもので、特にどっちが上ってわけじゃないのかな?
725 :
日本@名無史さん:05/02/25 06:44:38
安芸の国
いつく島の大明神は
平家の氏神なり。
平家ををごらせし失に、
伊勢太神宮・八幡等に
神うちに
打ち失はれて、
其の後
平家ほどなく
ほろび候ひぬ。
726 :
日本@名無史さん:05/03/10 19:27:26
で、結局何故脆くも滅びたのか?
727 :
日本@名無史さん:05/03/10 20:02:44
そうか?結構長く繁栄してし・・・。豊臣も徳川も滅ぶときは数年で滅んでる。
728 :
日本@名無史さん:05/03/10 20:29:35
関東武士は馬にのって弓を撃つのが上手かったから。
平家はなすすべがなかったのです。
729 :
日本@名無史さん:05/03/10 22:16:16
それが理由なら初めてから滅亡間際まで追い詰められていないわけで。
730 :
日本@名無史さん:05/03/10 23:36:23
西日本は大飢饉だったりしたからかなぁ?
平家に「脆い」という印象はないなぁ。
第一に、
おそらくは、中世ではじめて、国家の中枢たる畿内を軍事支配というか
今の言葉でいえば、戒厳令をしくことに成功している点。
現在ではこの平家の畿内惣官制が、後の鎌倉幕府による支配の前提というか、
基礎となったとされてるはず。
第二に、
大きな戦い、というか「決戦」をするにはそれなりの準備がいるわけで、
決戦ができるということは、それなりの勢力があったことを示すといってもいい。
それでみると平家は、まず富士川、それに負けた後に北陸遠征、
さらにそれに負けて都落ちのあとも、盛り返して一の谷、と
都合3回の決戦を行っている。
2回、「戦略的敗北」を喫しながら、なおも立て直して、決戦ができるまでの
余力というか、勢力をもっていたわけで。
一の谷で負けた後も、それで即アウトなわけじゃなかったし。
ちなみに同時期のライバル勢力は頼朝のほかに義仲・奥州藤原・北陸の城氏などが
いるけど、藤原・城氏は一度の敗戦でアウト、義仲は平家に1度敗れて、2回目に
頼朝軍に勝てずにアウト。頼朝だって富士川段階で負けてたら1度でアウトだったろう。
平家を「脆い」といっちゃぁ太平洋戦争の日本軍だって
「脆い」っつーことになると思う。
732 :
日本@名無史さん:05/03/12 19:20:50
頼朝は石橋山の戦いでいきなり敗北してますよ。
○平 重盛(1138〜1179)
清盛の長子。
保元・平治の乱に功があり平家興隆に大きく貢献。
特に待賢門の戦いで源義平(悪源太)との一騎打ちは有名。
左近衛大将と内大臣を兼ねた。
性謹直・温厚で武勇人に勝れ、忠孝の心深かったと伝えられる。
源平抗争のはじまる前年に死去。41歳。
○平 知盛(1152〜1185)
清盛の子。重盛、宗盛の弟。権中納言。
1180年(冶承4年)源頼政を宇治で戦い、以仁王、源頼政を敗死させる。
81年(養和元年)源行家を美濃に破った。壇ノ浦で「見るべき程の事は見つ」と入水。33歳。
○平 敦盛(1169〜1184)
参議・経盛の子。従五位下。
官職はなく、世に無官の大夫と称。夜、陣中にあって笛を奏し、
その音色は対陣する源氏側でも好評であった。
一の谷の戦いで撤退に失敗し、熊谷直実と戦って討たれた。15歳。
○平 忠度(1144〜1184)
清盛の弟。正四位下薩摩守。
歌人として有名。源氏追討で各地を転戦。
平家都落ちの際、藤原俊成に和歌を託しその後、一の谷の戦いで岡部忠澄により戦死。40歳。
『千載和歌集』に作品が選ばれる。
○平 重衡(1156〜1185)
清盛の子。従三位左近衛中将。
1180年(冶承4年)源頼政を宇治に滅ぼし、12月に敵対する東大寺・興福寺を攻めてこれを焼いた。
その後、一の谷の戦いで敗れて、須磨の浦で捕らえられ奈良の木津川の辺で斬。29歳。
○平 頼盛(1132〜1186)
忠盛の子。清盛の弟。
母、池の禅尼が源頼朝を助けた功により、平家滅亡後も頼朝に厚遇された。54歳。
○平 教盛(1128〜1185)
忠盛の子。清盛の弟。
平治の乱の奮闘により越中守、正三位権中納言に。源行家を播磨に破ったが
壇ノ浦の戦いで兄の経盛と共に入水。57歳。
平 教経(1160〜1185)
教盛の子。正五位下能登守。
勇敢でたびたび木曾義仲の手勢を破り、屋島の戦いでは源義経の四天王・佐藤継信を
一矢で射止め、壇ノ浦では義経を追い、敵兵二人を道づれにして入水。25歳。
○平 維盛(1157〜1184?)
重盛の子。左近衛少将。その容姿が美しかったことから桜梅少将と通称される。
源頼朝と富士川で対陣、水鳥の羽音に驚いて敗走。
1183年、源義仲を討とうとして砺波山で火牛の計により敗北。
屋島の敗戦後に出家して那智で入水したとも病死したとも。27歳?
○平 景清(?〜1196)
藤原忠清の子。もともとは藤原氏。
200年前に藤原氏と平氏が協力して将門と戦った縁故で平家方の武将となる。
怪力で知られ悪七兵衛と称された。
屋島の戦いでは美尾谷十郎と接戦してその兜のしころを断ち切った話は有名。
壇ノ浦の後、源氏に降りのち絶食して没。
以上、勝手にプロフィール作ってみました。
>>732 石橋山の合戦をどう定義しても「決戦」とはいえないでそ?
737 :
日本@名無史さん:05/03/13 18:11:22
あ、そうだった。
あれは決戦じゃないな。頼朝勢300人くらいだっけ?
『吾妻鑑』の記述で頼朝勢300人、
三浦が300ほど(『源平盛衰記』)兵を出していたが、
合流できず。
それに大して大庭勢は3000人だったかな。
結局のところ、石橋山の合戦は「頼朝の伊豆脱出戦」であって、
彼が生きて、三浦あるいは千葉という主力武士団と合流できれば
「戦略的に勝利」ってやつ。
両軍の主力が戦局の雌雄を決するために激突する
「決戦」とはいえない。
もちろん、頼朝が討たれたら終わりだから、重要性が
低いわけじゃないんだけどね。
実際、土佐の希義や、以仁王はこの段階で戦死して、
蜂起自体が終わっちゃったわけだし。
739 :
日本@名無史さん:05/03/14 08:16:01
教えて君でスマソだけど、清盛の娘(常盤御前に生ませた娘なども含む)などはどうなったのですか?
殺されはしなくても、生んだ子供は全員源氏に殺されて、血統を絶たれたりしたのですか?
740 :
日本@名無史さん:05/03/14 08:39:50
>>739 角田文衛「平家後抄」上、下巻をお読み下さい。
741 :
時忠:2005/04/14(木) 01:00:27
>植草
手鏡没収しないでいいから腕を斬れ。
>金保
チンポ切断。
>建長寺放火犯
獄門。
742 :
日本@名無史さん:2005/04/14(木) 22:53:04
建長寺放火されたの?
743 :
日本@名無史さん:2005/04/15(金) 14:41:56
こんな時に、熊谷直実の子孫が来てやりましたよ
744 :
日本@名無史さん:2005/04/30(土) 06:45:45
あげてみよう
745 :
日本@名無史さん:2005/05/26(木) 01:16:43
なら対抗して
伊勢系桓武平氏季衡流の末裔が来ましたよ
747 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 01:22:58
知らんなあ
季衡流は名家でしょ
義経は建礼門院のおまんこに何回ぐらいぶち込んだのでしょうか?
750 :
日本@名無史さん:2005/06/24(金) 00:52:12
0回
江戸期に
そんな類の歌や本が流行ったよね〜
義経が孤立したのって、県令門院をレイープしたのがばれたからでしょ?
いや、司馬遼の「義経」では少なくとも1発はやったことになっている。それどころか兄の
宗盛(傘職人の息子説を採用)とも何回かやったことにしている。
754 :
日本@名無史さん:2005/06/25(土) 14:54:16
755 :
達こ:2005/07/05(火) 10:22:02
義経が強いからそれに平氏が逃げたから
756 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 01:05:59
なにいうとんねんw
>>113 >もっとも金玉掴まれて殺された源氏二代目頼家のほうが悲惨な気がする。
まじっすか?
ソースは?
759 :
日本@名無史さん:2005/09/03(土) 15:15:07
自殺しとる
761 :
ミユ ◆MIYU/7A.SM :2005/09/04(日) 21:59:09
762 :
日本@名無史さん:2005/09/04(日) 22:03:20
>>757 俺もそれ聞いたことある。
日本史とかを授業で取るとほぼ確実に先生からそこの部分で話が出る
>>739 清盛の女たちは清盛存命中にそれぞれ
摂家に2人、高倉天皇、冷泉家、七条家、宇佐八幡宮、などに嫁いでいる。
この中で先に摂家に嫁いだ盛子と七条家には後妻だから子供がいなかったはず。
確か七条家は後鳥羽天皇の生母の家系だと思ったが記憶違いか?
この中では冷泉家にはほぼ確実に清盛の血が残ってると思う。
あ、七条家の前妻の女が確か後鳥羽帝の母
>>763 摂関家に嫁いだ娘二人には子供なし。
七條家(ではなく坊門家だと思うが)に嫁いだ娘にも男児がいて公家として活動。
冷泉家に嫁いだ娘にも子供がいた。
また、花山院家に嫁いだ娘にも子供がいて宮廷で活躍するが
清盛娘のひ孫の母親は義朝の娘が産んだ子だったらしい。
つまり花山院家で源平両方の血を引く子供が誕生していた。
それから教盛の娘の血筋が皇室に入って天皇に即位したりする。
女は強くしたたかである。
767 :
763:2005/09/05(月) 21:43:00
>>765 詳しくありがとう。
つまり清盛の孫と義朝の孫が結婚したと言うことか。
その血は今も花山院家に受け継がれているの?
そういえば後白河院に嫁いだ清盛の女と
義経に嫁いだ時忠の女もいなかったか?
>>767 花山院家がその後養子無しでつづいたかどうかはすいませんわかりません。
ただし、男系でなくても女系で続いている可能性は大です。
後白河院に嫁いだ娘は寵愛を受けることなくいつの間にか消息不明。
時忠の娘も義経没落後の消息は不明
義経と最後を供にしたという説もありますが、
義経と最後まで一緒だったのは正妻の河越氏の娘という説の支持が強いですね。
頼朝は、数回、運が良すぎ。
頼朝・秀吉・小泉は、運が良すぎだよ。
それも、何回も続くもんなぁ....
漏れにも、1回くらい 運をくで〜♪
>>769 > 頼朝は、数回、運が良すぎ。
> 頼朝・秀吉・小泉は、運が良すぎだよ。
> それも、何回も続くもんなぁ....
> 漏れにも、1回くらい 運をくで〜♪
小泉はどうかしらんが、その分子供は運がなかったけどな。
頼朝と秀吉の死後はともに家来に滅ぼされてる。
>>769 運がいいが、
13歳で母死没
14歳で父だまし討ち
その後20年間流人生活
最初の子供舅に殺される
娘と険悪、娘先立つ
運は強いがこんな人生送りたいかあ?
772 :
日本@名無史さん:2005/09/22(木) 06:45:58
>>771 しかも、権力の座についたとはいえ、
嫉妬深い妻に頭が上がらず、清盛や秀吉のようにきれいどころを身辺に侍らすことも出来ず、
弟を殺し、従兄弟を殺し、叔父を殺し、娘の婚約者を殺し、
最期は寒空の中、橋供養に行って脳溢血で死亡。
ま、凡人にはかなりしんどい人生かもね。
>>771 14歳で同母弟(希義)と引離されその後1度も会えず も加えれ。
774 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 20:37:16
ウホ
頼朝は最後は実は暗殺説も有る位だからな
運が良いとは言い難い気がするし
貴族の時代から武士の時代になれば武士にとって良かったんであって別に源氏
や平家に厚い忠誠があった訳でもなかったんじゃない。頼朝が死んでも別に
看板が変わっただけとで思ってたんじゃない。
777 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 03:46:16
でも、鎌倉時代は平氏(北条氏)の時代だったし、血筋はないけど信長も上総之介を名乗ってたし。
源平藤橘っていうけど、橘性で、天下とった人物っているのかな?
778 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 04:21:08
>777
橘諸兄
779 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 08:18:24
源平の姓の時、たいらの、みなもとの、っていうじゃない
どうして源平の姓では「の」が姓と名の間にはいるの?
>>779 「姓」にはすべて姓と名の間に「の」が入ります。
ふじわら の みちなが
き の つらゆき
すがわら の みちざね
おおえ の ひろもと
一方名字には 「の」 がはいりません
あしかが たかうじ (姓では みなもと の たかうじ)
ほうじょう ときまさ (姓では たいら の ときまさ)
もうり もとなり (姓では おおえ の もとなり)
くじょう かねざね (姓では ふじわら の かねざね)
つう事は元々は姓と苗字は違ってたって事だな
何時から姓=苗字って事になってきたんだ
やっぱり明治以降か?
>>781 明治になってからですね。
「姓」か「苗字」どちらかしか名乗ってはいけないと決まったらしいので。
「岩倉具視」さんもいままで「源」姓の併用をそれまでしていたのを
「岩倉」一本に絞ったようです。
>>782 そう言えば明治時代になってから元々姓が無かった人達
にも姓を付ける様になったんだよな
それ以前は名前しかない人達が多くて
〜村の〜とか〜の子供の〜とかそう言う表現だったとか
こうしてみると明治って色んな部分で一大革命だったんだな
784 :
日本@名無史さん:2005/10/21(金) 20:13:42
>783
「元々姓が無かった人達」というのが実際どの程度の割合いたかは知らんけど、
関ヶ原で負け組に入って帰農せざるを得なかった人の子孫なんかも相当いて、
そういう人々は元々は苗字があったわけだし
江戸時代は「公」に名乗れなかったというだけで
実際には内々で苗字を保ち続けていたって話もある。
785 :
日本@名無史さん:2005/10/21(金) 20:19:22
基盤を西日本に置いたからでしょう
西日本型の組織は大きくなるのも
潰れるのも早いですよ
戦国時代まで、その余韻は残ってますよ
786 :
日本@名無史さん:2005/11/10(木) 03:50:21
>>785 西日本型の組織?何それ?
東日本とどこがどう違ってるの?
787 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 01:10:48
>>785 アメリカ=西日本型
ソ連=東日本型
それでもソ連のほうがつぶれるのが早かったですよ?
まあ日本の中では西日本型の方がつぶれるのが早い
かもしれませんが・・・
788 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 11:25:18
789 :
日本@名無史さん:2005/12/07(水) 12:45:11
もしも清盛が源頼朝と義経を殺していたら、平家の時代はもっと長く続いただろうね。
ただし、武家社会ではなく、平安時代の社会がそのまま続き、平家は平安時代の藤原氏のような
位置を占め続けたような気がする。
それだと蒙古と戦えないな。
791 :
日本@名無史さん:2005/12/20(火) 20:09:55
age
792 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 12:06:20
平氏が頼朝を殺しておかなかったために
逆に滅ぼされる結果になった。
もし殺してれば確かに平安時代はもっと長く続いてだろうね
となると鎌倉時代はないわけだから、信長の時代まで平安時代が続いたはず
793 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 12:16:20
平氏が頼朝を殺しておかなかったために
逆に滅ぼされる結果になった。
もし殺してれば確かに平安時代はもっと長く続いてだろうね
となると鎌倉時代はないわけだから、室町時代まで平安時代が続いたはず
>>793 790 :日本@名無史さん :2005/12/07(水) 12:54:18
それだと蒙古と戦えないな。
795 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 07:23:01
平氏は赤旗だから
倭人伝で倭人が体に朱塗ってたので先住民だよ。
鹿児島の平氏は日本書紀によると、
葦原中津国(九州)の日向にニニギが畿内から天下りし
阿多隼人(海人)の妻を娶ってる、この妻の名は「阿平姫」だよ。
つまり、平は先住民の一つの立派なステータス。
平は「たいら」とは読まない、「ひら」とよむ、
この「ひら」は中国地方の方言で「端」という意味があるらしい、
なお、アイヌ語でも「ビラ」は崖、端という意味がある。
つまり平氏は先住民の末裔を標榜してたわけだよ。
源氏白旗はもちろん朝鮮人の白装束だ。
源氏は半島に帰ってね★
系図だけ見れば梶原景時も平氏なんだよな
798 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 14:46:29
799 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 15:15:33
平家は朝廷の実権を握り、日本の半分を知行国にしながら5年で滅亡。
最後になると、ほとんどの西国の武士もそっぽをむいた。
武士団を馴致or締め付ける必要があったと思われ。
人質をとって福原に住まわせてもよい。
逆に頼朝は朝廷政策に失敗した。
源通親にはめられ、朝廷の親鎌倉派一掃を黙認してしまった。
800 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 16:42:27
800
801 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 13:42:09
そうかなあ
802 :
日本@名無史さん:2006/05/16(火) 22:07:27
803 :
日本@名無史さん:2006/06/11(日) 16:50:36
あげ
804 :
日本@名無史さん:2006/06/18(日) 03:29:12
ハゲ
805 :
日本@名無史さん:2006/06/20(火) 01:40:45
単なる人材不足。
清盛の後、院の専制権力と対峙できる人物がいなかった。
なのに、同じ京都にいて、同じ政治体制の中で共存としようとした。
清盛亡き後、院の近臣としてなら生き残る道はあったかもしれないが、
清盛政権によって、もはや、大きくなりすぎた平家には、共存できる道
なし。いずれ、正面対決は避けられず、結果、敗走。
距離を置いた鎌倉政権は、なんとか生き延びることができた。
806 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 22:23:24
政権基盤が弱かったんだろ?
807 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 01:22:10
その弱い政権基盤で難局を打開し、政権を盤石にできるほどの人材がいなかったということ。
808 :
日本@名無史さん:2006/07/09(日) 23:29:32
あほな
809 :
日本@名無史さん:2006/07/10(月) 00:31:56
ことあらへん
810 :
日本@名無史さん:2006/07/10(月) 01:26:40
・時代に合致しない貴族政治への固執
・地方武士団の利害を代表する立場になかった
・清盛も含めて人材が決定的に不足
・味方よりも敵をつくる政治手法
・御輿を担いで天下を取り、御輿を失うことで天下を失った
平治の乱における源氏の没落と
治承寿永の乱での平氏没落は似ている。
平治の乱までの源氏はあくまでも
『日本に多数ある武家の中で一番大きな一族』であり、
他家を完全に支配下に組み込むことができていたわけではなく、
『武家の棟梁の家柄』と言われても、その基盤や他家との繋がりは弱かった
源氏がもっていた古い支配体系が見える
その失敗から頼朝は武家連合体をつくりあげ、
新しい支配体系=幕府にまで昇華させた
古い支配体系のまま天下を掌握し、
その弱点をさらに古い貴族政治で補った清盛は
並外れた政治力があったとはいえ、
やはり旧時代の人物であろう
811 :
日本@名無史さん:2006/07/23(日) 12:58:58
812 :
日本@名無史さん:2006/07/30(日) 17:57:14
平敦盛について教えてください
生涯や本名等
..
>>810 平治の乱の前、保元の乱以前に河内源氏は没落しているぞ。
正盛の代に伊勢平氏は、巨大になり。忠盛の代に源氏を抜いている。
すこし調べれば、解ること。
その当時源氏は、義家以来の威勢はない。そのため、源氏は摂関家に近づいた。
平氏が、院に近づいて成功したのを手本にして。けど、源氏没落の原因である同族間の争いのため。
平氏を超えるほどにはなっていない。
その中でも一番没落してたのが、頼朝の父、義朝だよ。
義朝は、義家ゆかりの地である関東に都落ちした。これが頼朝に大きくプラスになった。
なぜなら義家以来、関東を支配した源氏だが、現地に永住していない。
京に近い河内にこだわっていたから。
初めて関東に永住した義朝に。関東の武士たちは、本物の忠誠を誓ったのだよ。
だから関東の武士たちは、源氏の御曹司、頼朝の元に集まったのではなく。
義朝の嫡子、頼朝の元に集まったの。
その義朝も保元の乱で。中央に返り咲くキッカケをつかんだ。そして平治の乱で没落した。
関東の武士たちは平家に忠誠を誓ったが、頼朝挙兵で手の平を返すのも。
平家が関東に永住してないからだと思う。
鎌倉御家人が、義経や義仲などではなく。頼朝にこだわったのは、義朝の嫡子というブランドと。
頼朝の関東にこだわった姿勢を支持したのだろう。
幕府は、武家連合というより。関東武家連合が、全国に拡大しただけ。
北条執権体制も、鎌倉が関東武家連合だから成功したのだろう。
微妙に言葉の違いだが、武家連合でなく。関東武家連合であることを理解しないと。
>>813 清和源氏が摂関家に近づいたのって多田満仲の頃からでしょ。
安和の変で摂関家に密告して左大臣源高明を追い落としてからずっと。
多田荘も摂関家の荘園じゃなかったけ?
花山天皇退位の時も、満仲は藤原兼家の手足として働いているし。
息子の頼信は平維衡、平致頼、藤原保昌らと共に藤原道長の四天王だし、
頼光も道長に仕えていた。
院の北面の武士としてとりたてられ、白河院に気に入られた、正盛&忠盛の代で、
何故か白河院に嫌われた「武家の長者」八幡太郎義家に取って代わり、
特に義家嫡男、義親を正盛が討ち取ってから、武者の第一となった。
院政により摂関家が衰微した事で、それに仕える清和源氏が衰え、
院に近侍する伊勢平家が勃興したと。
それはそうと、平氏政権と言うが、清盛が専権を握ったのって、
藤原忠通死後?摂関家横領後?
専権を振るったのは鹿ヶ谷事件でだろうけど。
>>814 平家政権の始まりだよね。わたしの勝手な私見を言わせてもらうと。
平家が、院寄りから天皇寄りに転換した時期が、始まりではと。
最初に本格的に天皇に近づいたのは、 応保二年に新造した二条天皇の皇居に、清盛が警護の武士を派遣して宿直させている。
これは武士が交替で内裏を守護する「大番役」の起源といわれてるよね。
これが朝廷内に平家の存在を大きくアピールしたのじゃないかな。
平家政権とは言わないが、平家が閣僚入りした時期ではと。
当時、天皇・上皇の対立状態の中を清盛は両派と微妙な距離を保ちながら、
巧みに政界を遊泳して、着実に力をつけていった。
わたしの意見は摂関家横領後の仁安二年に清盛は太政大臣に就任したのが、平家政権と見ている。
だってさ。摂関家横領の時、清盛は「夢のお告げ」なんて言って、まわりの避難をかわしている。
これって、むちゃくちゃな理屈だよ。けど、これに対して、まわりはどうすることもできない。
それだけ清盛の存在がでかくなったということでは。
又は、それ以前に女婿である基実を裏から操っていた時からかも。
基実の急死が、清盛を摂関家横領に走らせた原因なんだし。
そして仁安二年、清盛が太政大臣に就任して、名実ともに平家政権の誕生。
正確には、平家寄りの公卿たちとの平家公卿連合政権かな。
平家独裁政権は、鹿ヶ谷事件以後だとわたしもおもう。
あくまで私見ですが、どうでしょう。
816 :
814:2006/08/23(水) 21:44:19
>>815 政権の枢要を担うようになって13年、
独裁権力を握ってから3年で頼朝挙兵。
特に悪しざまに言われる平家独裁となってからは、短いですよね。
ただ、清盛の独裁権力を握ってからの王朝政治の壊しっぷりは、
次の時代への抵抗を減らすのには役に立ったのかなあと。
817 :
813:2006/08/23(水) 23:51:26
似仁王挙兵の挙兵からだと、五年で滅んでいる。
それを永いと思うか、短いと思うか。
わたしは、けっこう頑張ったと思ってる。
たしかに清盛の破壊は、次の時代にとってはプラスとおもう。
けど、わたしは、清盛は中世の扉を開いた人というイメージ強い。
だから破壊というより、大きな改革としたいね。
スレを考えてみると。平家は強すぎたのではないだろうか?
清盛は、貿易を重視した。それは死後も平家の基本スタイルであり。
当時、巨大な国際貿易をできるのは、平家しかいない。
その力が、平家を狂わせたのかも。
福原放棄の時の破壊、都落ちの時の六波羅炎上といい。やること派手だ。
なにもかも破壊しても、また造れる。造ればいい。そんな考えがあったのかも。
どれだけ破壊しても造れる力が平家にはある。
しかし、破壊だけして、創造する前に戦いに敗れた。
それが脆く見えるだけなのではないか?
818 :
日本@名無史さん:2006/08/25(金) 13:32:11
そうかなあ
太政大臣は、議定に参加しないから実権のない名誉職みたいなものになっていたらしい。
清盛としては、後継者の重盛に内大臣を譲って福原に引っ込み、趣味と実益を兼ねた
日宋貿易に没頭したかったのではないか?
後白河院と近臣たちが平家を弱体化させようと策動したので(清盛派の基通を無視して
基房の子・師家を昇進させる、重盛の知行国を院近臣に移す)、院政を停止したが
清盛としては本意ではなかったと思う。
福原遷都も、延暦寺・興福寺・園城寺に囲まれて危険な京都からの脱出という消極的な
対応と言える。それを一転させたのが「富士川の戦い」の大敗だろう。隠居の身だった
清盛が京都に戻って、直接指揮を開始した。興福寺を焼き討ち。美濃・近江の反乱を鎮圧。
九州の菊池や熊野別当の投降を認めて、反対勢力を一掃している。
しかも平家の荘園だけでなく、他の貴族の荘園からも兵を動員させて、総力戦体制を築いた。
このことは、自分たちは無関係だと考えていた貴族には衝撃的だったらしい。
清盛の残した戦備体制のおかげで、しばらくは東西均衡が続いた。
それを打ち砕いたのが、北陸で木曽義仲に大敗したことだろう。
これで、東西のパワーバランスが崩壊してしまった。
821 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 02:58:37
清盛がもうちょい長生きすればもっと面白いことになってたかね
>>821 清盛が生きてても時代の流れは変えられないよ。
仮に頼朝・義経が討ち死にしたとしても、東国武士団は代わりの神輿を
探してくるだけだと思う。
清盛の政策は時代のニーズに合ってなかったってことだな・・・
>>822 後白河と信頼と義朝がバカすぎただけだろうな。
結果的に朝廷と距離を億事が出来た頼朝が以仁王の宣旨を巧みに利用して
担ぎ上げられていったって感じかな。
でも、頼朝も後白河の寵童だったみたいだけど。これはトンデモ説か。
保元の乱以前の頼朝、どこで生まれ育ったかもはっきりしないよね。
頼朝の生まれはしらないけど。
そだちは都じゃないの?
826 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 02:37:30
>>822 なんとか公方とか神輿担ぐの好きな連中ですね。
平家は土着の日本人
源氏は韓系日本人
828 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 11:28:03
>>826 神輿を担ぐのが好きなのは、日本人共有の特性ですよ。
冗談じゃなくて、天皇だとか源氏の御曹司だとかの権威(正当性)を前面に
押し出さないと、他の連中が黙っていないからね・・・
平安時代は、天皇をお飾りにして藤原氏が、
鎌倉時代は、将軍をお飾りにして北条得宗家が、
室町時代は、足利将軍をお飾りにして細川や大内といった有力大名が実権を握ったでしょ。
829 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 13:29:59
鎌倉頼朝 伊豆頼朝
>>828 日本史板にいるのに平安時代の太政官政治についてまともに勉強してないの?
831 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 15:02:09
>>822 東国武士団にそんな力はない
各地の豪族個々の力は大したことないからね
糾合するシンボル自身が招集を呼びかけなければ集合体にならないし
それは源氏の正統な棟梁たる頼朝以外にない
832 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 18:44:17
>>830 それでは、太政官政治とは何かを教えてください。
まさか、天皇がお飾りじゃなくて絶対権力を持っていたなんていいませんよね?
>>831 こやつらなどは、勢力でかいから強い。
上総介
三浦介
大勢力から小勢力まで様々。
>>830 おーい。言いっぱなしかー?
平安時代の太政官政治をしっかり勉強している830さーん。
836 :
813:2006/10/06(金) 23:13:35
830じやないけど。
太政官って、行政機構の長官。今で言うと内閣総理大臣のようなものじゃないの?
かならず設置された役職じゃなく。左大臣・右大臣が最高位の時は、左右の大臣が、
太政大臣の権限を行使できるのだよね。
だから、太政大臣は、だんだん名誉職的な役割になっていった。
摂関政治に入ると、完全に形骸化した。
平安時代は弱いので、自信はないが。こんな説明ではどう?
830さんは、完全スルーのようだし。
これで終了して。
平家の話をしましょう。
837 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 11:29:42
原点に戻って平家が長期政権を築くためにはどうすれば良かったのかを考えてみる・・・
朝廷内の要職を一門で固めるやり方は、藤原氏のやり方の焼き直しでやっぱり拙かった。
歴史の結果から見れば、朝廷から分離した幕府の開設というのが正解のようだが
当時の時代を生きている清盛達には、なかなか思いつかないことだろう・・・
あくまで朝廷内の枠組みの中で長期政権を築こうとするなら、
朝廷の軍事部門のトップに平家が立ち、全国の武士に命令を下す権限を天皇から譲り受け、
合わせて武士に対する人事権・褒賞権を手に入れれば5〜60年くらいは持つかも・・・
>>837 たしかに平家幕府なんて選択肢は、平家にはないだろう。
革命的な改革が、平家の手によって成功したとしても、大和王朝の焼き直しにしかならない。
長期政権の鍵は、院政をどこまで封じられるかだろう。
または、都落ちの後、太宰府を中心に勢力を盛り返している平家が、
京都にこだわらず、太宰府に安徳帝を祖とする新王朝的な西国政権というのはどうだろう。
南北朝の後醍醐帝のごとく。東西朝両立による長期政権というのは。
>>838 確かに、鎌倉に対する大宰府政権を立ち上げるチャンスはあったね。
確か都落ちの時に三種の神器も持ち出してたんじゃなかったかな?
大義と正当性は充分にある。
後は、西国の武士の支持をどれだけ集められるかだね・・・
西国武士の支持は難しそうだろうね。
けど、能登殿六度合戦をみるかぎり、武力制圧で統治できそう。
太宰府朝の可能性は高いと思う。
問題は、史実でも安徳帝と鳥羽帝の二帝両立していた。
院が、太宰府朝の存在は認めないだろうから。あらゆる陰謀を仕掛けてくるだろう。
あの後白河から、いかに抵抗できるか。
京都奪還を断念したとしても、鎌倉が攻めてこないとは限らない。
けど、一ノ谷での兵力や武将は温存されているわけだから。いい戦いはできるかも。
それとも義経に撃破される???
なんか、逆転架空小説になってきた。
「一ノ谷の戦い」に勝利していればねえ・・・。足利尊氏は、九州で勢力を挽回して
「湊川の戦い」に勝利して京都を奪還しているし、ここが平家復活の正念場だった。
忠度、通盛、経正、経俊、敦盛、知章が戦死。重衡が捕虜。なんで、ここまで
被害が甚大だったんだろう?息子三人に死なれた経盛が哀れでならない。
一ノ谷の戦い。戦死した武将を改めて、書き並べられると。大惨敗だな・・・・・。
これ以外にも戦死者多いしね。
そりゃ、命がけで知盛を護らないといけないわな。
この戦いの敗北の原因は、後白河の陰謀だよ。法皇の停戦交渉で、平家は欺かれたから。
他は、義経の奇襲もそれなりに被害を拡大させられたかな。
843 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 02:37:14
元々の力は源氏>>平氏なんですか?
844 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 05:39:23
全くのド素人ですが、流れぶったぎって質問させてください。
知り合いに、「お爺ちゃんが桓武平家平清盛直結の子孫だ」って言ってる人がいるんです。
平家の末裔って、まだいるんですかね?
ウィキペディアの系図見たら、もう終わってるような気がするんですけど・・・。
教えてください。
845 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 09:08:54
平家が脆かったのは、武士の心が理解できんかったからだろう。
武士の望みは、自分の土地の所有権を完全に得ること。だけど平家は朝廷内の官職に就くなど
貴族的になってしまった。
だからいくら大宰府に政権を立てても、はたして武士に支持されるかどうか心許ない。
おそらく平将門のように失敗する可能性の方が高いだろう。
平治の乱以降ならば。
平家>>源氏だな。しかも圧倒的に平家は巨大。
なのに・・・・・・、大事な場面で負けちゃうだな。
単純に弱いと言ってしまえばそれまでだが、よく調べるとそうでもない。
どこの軍隊でも弱点なんてものはあるものだ。
そこを攻撃されまくり。
平家の末裔はいる。有名な末裔の方は信州で旅館している人かな。
平清盛直結の子孫は怪しいでしょうね。
それぐらいの血筋ならば、信州の方のように家系図あるはずです。
実はわたしも平家の末裔だそうです。調べました。
間違いないのはたしかです。ただ、平家に従った兵士の末裔だな。
これが結論になりました。
平家の末裔は多いですよ。ほとんどが私の家のようにマユツバものですがね。
しかしこれを誇りに気品高く、ほそぼそと生きてる田舎の人を非難する気はありませんが、
夢幻として。楽しんでます。
847 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 12:12:11
南北朝の時もめちゃくちゃだったし
堅固な城がほとんどなかったからだな
848 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 19:50:18
建礼門院徳子の子、安徳帝について。
前の大河ドラマで、弟親王と入れ替わって
幼帝は実は助かっちゃってましたっていうストーリーに
なってた。十分ありうると思ったけど、みんなどう思いますか?
>>848 江戸時代に流行った時代物狂言じゃあるまいし、
ネタならともかく、本気でトンデモ説語る奴は頭がお花畑としか思えない。
どれだけ自分で当時の文献を読み解いてきたんだよ。
トンデモ説というのを批判する気持ちはわかります。おっしゃるとおり、お花畑くんですね。
でも一度、釣られて。盛り上がってみてはどうでしょう。
それをいろいろ推論するのも楽しいですよ。
>>848さんの話を考えると難しいと思います。
中央に戻れば、安徳帝の顔を知っている者も多いでしょう。
バレるのも時間の問題のでは。いつまでも隠し通せるとは思えない。
地方の落人の里で生きていた。という方が、まだ説得力あると思う。
大河での入れ替わりは、たぶん。
作り手側が義経に安徳帝を入水させてしまった罪をなかったコトにした。
そんな作為をわたしは感じました。
dでも説はここのスレに合わないような希ガス。
ましてや去年の低視聴率大河なんて見てない奴が多いか
もうみんな忘却してるんじゃ・・・
大河の電車男w
853 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 02:56:17
やはり驕りからじゃないのか
854 :
850:2006/10/15(日) 03:02:43
>>851 たしかにそのとおりですね。反省します。
基本に戻りましょう。
官軍である平家は、大和王朝の軍事システムを掌握しているので、
全国に兵を招集できます。反乱地域は別ですが。
そんな平家に源氏が対抗するには、手段を選べません。
悪い言い方をすれば、チンピラややくざを中心とした集団にならざるえない。
「武器を持ちたる輩」という言葉があるように。
武士でなくても、戦闘力のあるものならOKというのが、鎌倉軍の主力であった。
そんな鎌倉軍は平家の敵ではなかったはずなのだが・・・。
連敗により、正規軍の兵力不足に陥る。そして平家も「武器を持ちたる輩」を招集することにより。
戦闘要員の階級の拡大がおこってしまい。源平合戦が、数万規模の戦闘になる要因になった。
源平合戦は、日本軍事史の転換期とも言える。
その流れに乗り切れなかった平家の弱さがあったのでは。
855 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 06:46:50
清盛の平氏政権は、正しくは伊勢平氏(もとは多氏)政権。坂東の多く
の平氏(千葉氏、三浦氏、畠山氏)はルーツが異なり、伊勢平氏より
清和源氏に味方してきた。ちなみに、三浦氏のルーツは出雲国造、
畠山氏は壬生吉師(難波吉師)。
伊勢平氏(多氏)の宗祖は神武(天目一箇神、スサノオ)で、大和王権
から排除された少数派。安定政権は古来、源氏・藤原連合政権。伊
勢平氏政権(壬申の乱後の天武政権、清盛政権、信長・秀吉政権)は、
長期政権にはならない。
856 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 08:29:18
平家の脆さを考えると、頼朝はやはりすごいな。
御家人に所領を完全に保障してやり、新たなシステムを作ったんだから。
まあ、平家にそれを作れって言っても酷かな。だいたいそんなシステムはシナにも
天竺にも日本の歴史にもなかったので、参考のしようがなかったからね。
普通なら従来からあるシステムを見習うので、平家が貴族社会に近づいたのも無理は無い。
平家都落ちの際に、宗盛が後白河に逃げられたのが致命的失策。
これで平家一門は、幼帝を拉致し三種の神器を奪って逃走した
反逆集団になってしまった。こんな状況では、平家に味方する
奇特な人間はいないだろう。
>>857 逃げられたことが致命的なことは正しい。
なんで、後白河に逃げられたら反逆集団なんだ?
歴史の勉強を一からやり直せ。
君の理屈で言うと。頼朝を支持した奇異な鎌倉軍はどう説明する。
鎌倉軍も当初は、流人頼朝に率いられて東国を不法占拠している反乱軍だったが
「寿永二年十月宣旨」で東海道・東山道諸国の支配権を認められ、頼朝も右兵衛佐に
復帰したことで、官軍となった。
>>859 そこが後白河法皇のズルガシコイ所だよ。
頼朝にも義仲にも平家にもいい顔をして、自分の保身と
三者を操ってやろうという打算が見え見えだ・・・
最終的には、頼朝が法皇より一枚も二枚も上手だったってことだが・・
861 :
858:2006/10/16(月) 20:39:24
>>857 後白河法皇が、実質的にどれだけ実権を握ろうとも。古来より、天皇が最高権威者である。
平家が安徳帝を拉致した。というのに引っかかるが、ここは拉致をしたしよう。
けどね天皇が平家の手にあるかぎり、平家は官軍である。
だから後白河法皇は、鳥羽帝を即位させ。安徳帝を否定しようとしたのだろ。
執拗に三種の神器にこだわったのも。鳥羽帝に正当性がないからだろう。
平家にしても、安徳帝の存在こそ。自分たちが官軍である証であるから。
壇ノ浦で、強引に幼帝を入水させたのだろ。
平家を反逆集団とする理由も説明してください。
だだ、どれだけ平家に正当性があろうとも、西国武士が支持するかは別問題。
862 :
858:2006/10/16(月) 20:49:01
間違えた。
鳥羽帝でなく。後鳥羽帝です。
すみません。
863 :
日本@名無史さん:2006/10/18(水) 03:36:27
平家って単に源氏が弱ってたときに成り上がっただけじゃないのか?
>>863 源氏にしても平家にしても、天皇の子を祖とする武家の名門ではあるけど
公家から見たら犬畜生のような扱いだよ・・・
源義家とか、東国武士に影響力はあったけど官位は低かったと思う。
武士が多少なりとも発言力を持つようになったのは、清盛が太政大臣になってからだな。
清盛没後、宗盛は「故入道の所行など愚意に叶はざることなどありといへども
諌争することあたはず。ただ彼の命を守り罷り過ぐる所なり。今においては万事
ひとへに院宣の趣を以って存じ行ふべく候」と後白河法皇に謝罪して、政権を返上
した。平氏政権は消滅して、京の政界は治承3年クーデター以前の体制に復帰する。
宗盛は、後白河法皇を最高主権者と認めたことになる。一方で宗盛は、源氏追討に
ついては和平を求める法皇の意向に従わず、法皇と平家の間には隔たりが生じた。
どれだけ実権あっても天皇が最高権威者。
法皇の和平と言う名の陰謀は、安徳帝の権威の低下につながり、
後鳥羽帝の容認につながる。
そりゃね隔たりできるよ。
安徳帝の権威だけが、唯一の救いなんだから。
安徳天皇は、後白河法皇幽閉・関白基房以下の反平家公卿・近臣を追放・解官した
治承3年クーデターで、平家の軍事力を背景に即位した。これに反発したのが、
後白河法皇の第二皇子、以仁王。八条院の猶子だった。八条院は、鳥羽法皇と寵妃
美福門院の間に生まれた皇女で、近衛天皇の同母姉。鳥羽法皇・美福門院の正統な
後継者として膨大な荘園を保持していた。
八条院・以仁王にしてみれば、平家が後白河法皇を幽閉して擁立した安徳天皇は
非正統にして不当な簒奪によって即位したものだった。以仁王は挙兵にあたり自らを
天智天皇の皇太弟として正統な皇位継承者であったにもかかわらず、大友皇子に不当に
皇位を奪われた天武天皇になぞらえている。
結果的に以仁王は戦死したが、安徳天皇の皇位は平家の軍事力に依拠したもので、
正統性に疑問があることが露呈することになった。後白河法皇が出家を遂げ、密接な
関係をもつ園城寺、基実没後の摂関家領横領と関白基房配流に反発する藤原氏の氏寺、
興福寺は公然と反平家活動を起こした。
平家は都落ちに際して、安徳天皇と三種の神器を擁していた。しかし、安徳天皇の
即位には当初から反発と疑問があり、安徳天皇の権威で平家が自己の立場を正当化
することは困難だった。結果、源氏に官軍の宣旨が下る一方で、平家には追討宣旨が
下ることになる。
当たり前の文章ですね。
だからといって、安徳帝の正当性はゆるがないでしょ。
高倉帝も否定します?
わたしは後鳥羽帝の正当性を否定はしません。
ただ、平家一門は認めていなかったということをいってるだけです。
それから、以仁王について勉強してください。
宣旨についても勉強してください。
正当性と効力は認めます。しかし源氏に平家追討宣旨ですよ。
あいまいな命令ですよね。なんで宣旨なのでしょう。
871 :
日本@名無史さん:2006/10/26(木) 10:40:50
重盛が生きてたら義経や頼朝はうんこだったろうな
公家や朝廷や京の人々に唯一愛された平家の男
武勇に優れ政治眼もあり美丈夫であった
重盛が後継者だったら追討の院宣なんかださなかったろうし
872 :
日本@名無史さん:2006/10/26(木) 11:05:56
平家は水軍のが得意だったんだから
>>871 今時そんな化石なこと言ってる奴居るのか。重盛マンセーは清盛を貶めるための伝説だろ。
戦後重盛の評価はガラッと変わってしまった。平家視点でも作家が良く書かなかったり。
重盛ってどんな評価?
>>874 公家から見れば旧体制(律令制下での治天体制)の理解者で、保護者。
実際に旧体制を理解するが故に、
同体制下に伊勢平氏を組み込もうと矛盾した努力をした人ってところ?
876 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 08:20:38
手元に詳しい資料が無いので何とも言えない。
877 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 18:14:52
豊臣秀長みたいな役割だったか
878 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 22:23:46
昔は息子が恥をかかされて報復した事件は祖父の清盛主導で行い、重盛はそれを諫めたととされてきたけど
今は重盛主導で報復したということになってるんだよな。
879 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 11:52:30
重盛が死んだあと、院は領地の越前を召し上げた。
平家は総領息子の遺領も守れなかった。
下って頼朝は義経から平家旧領24ヵ所を取り上げた。
(院の命でなく頼朝自身の命で)
その差が出たのでは。
自分が地方豪族だったら、どっちに付く?
>>878 今はというか、当時の史料(玉葉だったと思うが)にはすでに重盛主導だと書いてあったが、
平家物語や盛衰記では清盛のせいにされてるんだよな。
881 :
日本@名無史さん:2006/11/27(月) 22:34:37
平氏政権とはなんぞや。
これをのちの豊臣政権や江戸幕府と同じ視点で見たらあかんで。
清盛を中心とした平家一門は政務を担当してたんやない。
政務はあくまでも従来どおり権門が取り計らった。
平家は国内最大の圧力団体であり、
その軍事力と経済力を背景に院に圧力をかけ、
朝廷人事を掌握し、平家に有利な政策を実施させたわけや。
この圧力団体が院政を停止し、政治団体へと脱皮したとたん清盛が死んでもうた。
総帥の死と東国の新たなる圧力団体の出現により、平家は一旦政権を返上し、
新興勢力の粛清に専念することにした。
治承三年(1179年)までの概略や。
882 :
日本@名無史さん:2007/01/04(木) 03:28:31
保守
883 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 12:57:13
>>881 日本の歴史の中で、長い藤原政権から、身分が低くても政権の座に登りつめたのは平家だった。
そういう意味で、当初は、かなり受けたというか、民衆の支持を受けたんじゃないかな?
大義名分で、源頼朝が関東で担ぎ上げられたが、
伊豆山の戦いで、源頼朝でなく、北条一族を九州に飛ばすなりしたら、
黒幕を失い、源頼朝は急速に失速した可能性は高い。
平家が滅んだのは、本当の敵を間違えたからだよ。
884 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 15:08:10
史実と逆に頼朝が土佐に希義が伊豆に流されてたら?
885 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 18:19:49
というか、義経も含めて、三人を伊豆に流した方が良かったかもね。
頼朝の子供達が滅亡したように、
身内で仲間割れという源氏の血で、自滅したかもね。
離して流刑にしたのは間違いだったかも。
886 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 13:13:41
平家が滅んだのは、全国の武士の待遇を改善してやれなかったからだな。
正規軍を持たない朝廷にとっては、平家や源氏を始めとする全国の武士の力が必要だったのに
平家を取り込んだのはいいが、相変わらず各地の地方武士は自分の土地ですら正式に認められていなかった。
だから平家はまず朝廷から、全国の武士に対する指揮権・人事権・褒章権を手に入れて
平家の名で全国の武士の土地所有を認めてやることによって、朝廷軍として取り込むべきだった。
結局それが出来ずに頼朝や義仲の反乱が起こって、頼朝がそれをすることによって長期武家政権の基礎を作ることが出来たんだと思う。
>>883 当時弱小だった北条氏なんぞいなくなっても、頼朝に影響はないとオモ。
三浦氏とか比企氏が台頭するんじゃね?
あと、もちっと清盛以前の平家について調べたほうが・・・。
888 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 09:56:52
>>886 朝廷すら蔑ろにして、調子に乗ったアホの織田信長や平将門と、平清盛は大きく違うよ。
>>887 三浦氏とか比企氏には、頼朝の眼に叶う美人の娘はいたのか?
あの頃は、美人が女性の出世の第一条件だからな。
889 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 10:01:51
平家は、後に鎌倉幕府を滅ぼした楠木正成的な方向に向かうべきで、
源頼朝の真似や、将門や信長からは離れた方がいいね。
貧しい奴は、権力や金に執着するが、
家柄が良いと、現在の五摂関家みたいに、表に出ないよ(笑)
>>888 結局、清盛は負け犬となった訳なんだが・・
892 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 18:40:27
鎌倉幕府を滅ぼしたのは、足利、新田、北畠、楠木だよね。
893 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 18:43:44
>>890 貨幣経済は、日本では清盛から始まっている。
世界遺産も、清盛の大切にした厳島神社は認定されたが、
まだ藤原の飛鳥や頼朝の鎌倉は認定されていない。
894 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 21:09:55
895 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 21:26:37
896 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 02:49:59
ますらおで読んだ程度だが、源氏と平家では食が違うかったからじゃないの?てか平家は平氏とも言うが何故、源氏は源家とは言わないの?
源家とも言ってたよ
>>893 それが、平家が脆かったことと何か関係があるのか?
結局、一言で言えば、利益を全国の武士に分配する独自の仕組みを作れなかったことが、
もろかった理由だと思う。
その点源頼朝は、うまくやったよ。
・土地の所有を認め。
・上総・千葉両氏と利害のぶつかる佐竹の粛清。
・平氏の没官領の分配。
・地頭職の設置。
・奥州藤原氏の領地も分配。
・官位官職の斡旋。
あまり知られてないけど、平家の貿易でいい思いをした武士は、
かなり後まで頑強に抵抗を続けているんだよね。
お疲れw
>>896 当時の「家」と言えば、イコール「名門貴族」
朝廷で位を上げた清盛んとこのみを平「家」と呼び
貴族な清盛んちVS各地の身分低い源さん だから平家VS源氏
源氏は内輪もめで一つの家が他を掌握するほどじゃなかったし
頼朝の家は三代で滅亡
京に残ってた貴族の源氏には源「家」もいたかもしれんが
>1
>清盛没後わずか2年で都落ち
>重盛らは挽回することは不可能だったのか?
重盛死んでたからね。
903 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 18:38:09
ほー
>>896 源家とも平氏とも言っていると思うが、敢えて分けるとすると、
清和源氏は、嫡流たる頼光流も、主流となった頼信流も(大和の頼親流も?)官位を貰っているから各家を併せた氏で称され、
一方の桓武平氏は、白河院に抜擢された嫡宗貞盛の庶流である伊勢平氏の正盛を除いて、
貞盛嫡流、良兼流、良持流、良文流はほとんど土着、伊勢平氏のみだから平家なのかな。
905 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 18:21:52
藤原氏の焼き直しみたいなことやってたから
906 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 18:45:34
>>899 実質的に共産主義革命だった「大化の改新」いらい400年、
私有財産の完全保障をおおっぴらに実施できた頼朝が、
公地公民体制にとどめを刺したわけか。
平氏と平家ってどう違うんですか?
>>119 と被るかもしれないけど、
・身分不明または不詳の女が産んだ長男を嫡男とした。
・正妻は元気で長生きで、その実家は親類が多い。
・正妻の生んだ男児も複数いる。
・嫡男と正妻の男児の一番上は年齢差が小さい。
これって結構、悪い意味での緊張感あると思う。
これを忠盛、清盛、重盛と三代続けてやってしまったから、
家族の数は多くても、結束が悪くなってしまったのではないか。
終盤は、源平の一対一の対決になったから
一度大敗したらバランスが崩れて挽回できなかったのだろう
木曾を援助して鎌倉に対抗させて上手く三国時代をつくれたら簡単には滅びなかったんじゃ?
福原遷都→半年でまた元に の流れで力落ちたんじゃね?
911 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 02:58:53
強かったのは一時的だろ
912 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 05:19:49
平氏は政治的に優れた忠盛・清盛がいなけりゃ大して強くないだろ
むしろ源氏が内ゲバの繰り返しと政治的に無能の当主が続いたために
勝手に自滅したから平氏に天下が転がりこんできたわけで
頼朝は紛れもなく源氏の棟梁だが
頼朝以前と以後の源氏は全くの別物と言ってもいい
557 [名無し]さん(bin+cue).rar sage 斧 14 28969 平家 お早めに 2007/05/26(土) 20:08:29 ID:P2N0+43a0
新・平家開始記念
脳内妄想の極左・野口実かよw
金魚痛杉・・・と言っても3年以上前のレスか。
成親age
918 :
日本@名無史さん:2007/09/10(月) 01:07:41
>>917 下げてるやん
ならば男色シリーズ続こう 忠実age
吾妻鏡を最近までアガツマキョウと読んでいたよ
920 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 07:30:57
しねや
921 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 21:44:43
「平家はなぜ脆かったのか!」
「坊やだからさ」
過疎スレ
924 :
日本@名無史さん:2008/02/07(木) 13:58:02
頼朝の流刑先が、亡父の本拠地近くの伊豆というのが異常。
結局、亡父の威光で関東武士団まとめて、亡命の身で東軍の総帥なった。
流刑先が、壱岐か隠岐だったら東軍決起・平家滅亡は無い。
伊豆は源頼政の知行国でしたっけ。頼朝は頼盛の郎等・平宗清に捕まっているので、
配流先の選定には、池禅尼と頼盛の意向があったのかも。他には上西門院や熱田宮司家の
働きかけとか。「平治の乱」の関係者の処罰は、全般的に軽いですしね。藤原成親は
武装して参戦しているのに、処分は解官だけ。確実に参戦していた平賀義信、三浦義澄、
上総介広常、斉藤実盛も生き延びてます。
まあ、頼朝が平氏政権を倒したのも結果論ですよね。平氏にとって頼朝は数ある敵対勢力の
一つですから。距離的に近い、園城寺や興福寺の方が重大な脅威でしょう。他にも近江源氏、
石川源氏がありますし。
926 :
武陽隠士:2008/02/07(木) 23:43:49
>>925 元木泰雄氏の著作をそのまま敷き写ししたような書き込みなんだけど
どこで拾ったの?
気悪くしたらすまないんだけど、どうせ適当にネット上から切り貼りしたんでしょ?
もし元木氏なりの著作から引用したのなら、ちゃんとその旨書いてね。
>>926 元木泰雄氏の「保元・平治の乱を読み直す」「院政期政治史研究」
五味文彦氏の「人物叢書 平清盛」を参照にしてます。
平氏のことに興味を抱いてから、まだ日が浅いので失礼な部分があれば
ご容赦願います。
928 :
日本@名無史さん:2008/02/10(日) 13:04:33
どっちにせよ権力厨陰謀厨の後白河に嫌われたら終わりの時代w
武家が居る限り後白河と近臣の陰謀ネタは尽きないから
頼朝義仲がいなくても平家内部を切り崩し共食い、勢力弱めようとしただろう
清盛存命中ですら頼盛他が院の罠にかかってるし
清盛が死んだら源氏の力が弱かろうが勝手に崩壊してただろう
実際都落ち以降も内輪もめに励んでるし。
929 :
日本@名無史さん:2008/02/10(日) 13:24:36
そうみれば頼朝が早々と上洛しなかったのもわかる
京に出てしまえば有力御家人やら一族の連中に院側の手が回って
自分に敵対させ権力を弱めようとするに違いないからな
官位奏請権を独占したのも
院の薦めに断りきれず勝手に官位を貰ってしまった義経を異常に迫害したのも
第一には武士を貴族の道具に使われるのを恐れてのことだろう
実際父親も信頼(笑)の政治ごっこに体よく使われて殺されたようなものだし
(清盛は内裏側の一棟梁に過ぎなかった)
清盛に義朝の息子どもを助命する権力があったのも
信西やら頼長やら政治が出来る貴族が藤原家の馬鹿な内輪もめで次々と死亡除官されて
清盛の存在が勝手に浮かび上がっただけだしな
こう考えると頼朝にとっての父の仇は
清盛でなく摂関政治の残滓と院政システムそのものだな
930 :
日本@名無史さん:2008/02/10(日) 13:51:43
>>927 ブヨーの嫌がらせ的粘着書き込みに、そんなに丁寧にレスすることないのに・・・
931 :
武陽隠士:2008/02/10(日) 14:09:16
932 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 07:54:48
平家の悪政・権限の集中がひどかったから各地の大名が見放した。
もし善政施してたら関東の大名達が東軍決起に参加せず、
西国の大名が平家に味方したはず。
933 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 11:24:35
>>932 大名www
豆腐の角に頭ぶつけて、うどんで首をくくりやがれw
934 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 09:02:31
関東の諸大名が、流浪の青年・頼朝を盟主に仰いだ理由は?
935 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 10:17:50
>>934 何という時代錯誤・・・・。
平安後期の日本には『大名』なんていません。
寄進地系荘園の隆盛から地方における武士団の発生に至るまでの一連の流れを勉強しましょう。
これは日本史の理解にとって非常に重要なポイントです。
936 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 12:58:52
次スレは要らないな
937 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 13:08:31
>>908 重盛は嫡男。
重盛の母は、院近臣高階基章の娘で、清盛正室。
時子の父平時信のほうが身分は低い。
また、時子の母は御所で水仕事をしていた庶民の娘で、
父時信が正室をめとるとほかの男に嫁した。
時子は時信の庶子で、妹建春門院は正妻腹。
建春門院の母は中納言藤原顕頼女。
938 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 22:01:44
流刑の客将が、東軍の盟主に担がれた理由は?
関東武士団の利権代表として誰でもいいから中央政権に
強い物言いのできるシンボルとなる貴種が、バカでもチョン
でもいいから必要だったというのが定説じゃなかった?
大名 小山
小名 熊谷
941 :
武陽隠士:2008/02/27(水) 23:27:59
942 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 01:23:49
いやなるべくならバカの方がいいお
943 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 15:56:05
バカの流人に北条政子が惚れたのか?
>>942 平安後期-鎌倉前期の武家の棟梁なら、頼むべき人を担ぐんじゃないか?
義家がそうであったように。
担いだ後の北条時政は、担いだ神輿が馬鹿である事を歓迎したかも知れんが、
普通の御家人なら棟梁には力と公正さを求めるでしょ。
>>945 たしかにそういう積極的な理由も必要だろうが、頼朝の場合は、
消極的な理由も大きかったんじゃない。
つまり、積極的に反対する人間がいない、もしくは少ない。
そして特定の有力者とズブズブの関係ではないところ。
北条氏は、とても大豪族とは言いがたいし、長い流人生活で
周囲から哀れまれこそすれ、恨まれたり、怖れられたりしな
かった。
947 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 11:01:04
流刑の頼朝に従うの関東豪族もお人よしだ。
後に北条家は幕府を転覆したが。
しかし、東軍が決起したのはやはり平家の悪政の不満が日本中にあったからだろう。
でなければ、覇者である平家に反逆するわけがない。
948 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 11:06:19
戦乱起きるとすぐに、日本中の豪族が平家見放した。
これも悪政の報いだろう。まだ盛り返せそうな時点でも
誰も平家に忠義尽くさないのは、平家憎しが世論だったせい。
949 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 12:00:08
公家に成り変わった平家は武士の代表ではなかったから
「平家にあらずんば人にあらず・・」
平家が築いた様々な、高度な洗練された文化などを持ってして
平家達に京都の都人や源氏、民衆などは見下げられていたんだろうな。
平家離散後も、日本の格式伝統文化として受け継がれることなるが・・
951 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 15:44:26
>948
源氏3代が滅んだ時には戦にすらならずに、
多くの御家人たちは、都から迎えた形ばかりの将軍+
実質的な執政者である世襲制執権北条氏を
あっさり受け入れてしまったのだが。
源氏3代って、いったい?
団結力 平家>>源氏
戦闘力 源氏>平家
政治力 平家≧源氏
>>951 北条氏が他の有力御家人を順々に滅ぼしていったからじゃん。
北条氏に従うより他ないだろ。
1200 侍所所司:梶原景時討伐される。
1203 外戚:比企能員 〃
1205 頼家の補佐:畠山重忠 〃
1213 侍所別当:和田義盛 〃
954 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 00:09:15
北条家は外戚の威光で次々に、頼朝恩顧の武将を処刑。
熾烈な骨肉の争いで一族の減っていた源氏の滅亡は必然。
一方、平家は外戚どころか、亡命の客将の率いる東軍に滅ぼされた。
東軍決起にいたる過程は悪政への日本中の不満。
日本中から見放された原因は一族の専横、悪政ゆえ。
悪だったから滅びた・・と言う考え方は間違ってるな。
確かに、平家以外の武士からそっぽ向かれるような政治だったのは間違いないが
平家の支配力は清盛が死んだ時点でも西国を中心にして絶大だった。
これを引っくり返そうと思ったら、いくら頼朝が優れた政治家であっても数十年単位の時間がかかっただろう。
それが、あっさり滅びてしまったのは抵抗勢力の源氏に義経という戦術の天才がいたから。
山と海に挟まれ多くの兵がこもる一の谷の要塞を、一日にも満たない時間で落とすという奇跡的勝利。
平家自慢の水軍を満足に働かせる間も与えず、奇襲によって一気に追い払った屋島。
頭数だけは揃えたものの、寄せ集めで、錬度においても団結力においても格段に劣る水軍を率いてのガチ勝負で、
壇ノ浦で勝てたのは、まさに神懸り的。
この時代に義経がいなかったら、こんなにあっさり平家が滅びることは無かっただろう。
後白河法皇の暗躍ぶりも見逃せないだろう。
台頭する武家勢力の争いを利用して自分の政治権力を維持しようとした狡猾なヤツだが、
古代と中世のはざまの中で、一応日本国の元首として意地を見せたといえよう。
後白河法皇はともかく、義経という正確な所業がはっきりしていない人物に
要因を求めるのは歴史を考える姿勢としてどうかと思う。
958 :
武陽隠士:2008/03/10(月) 23:34:56
癒し系
960 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 00:47:44
961 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 01:26:29
短期間にあっという間に滅び去ったのは結局、後の幕府のとってよかったのか
悪かったのか。
結果的に良かったと思うけどね・・
実際は安徳天皇も幼いままで都落ちした平家を、一気に押しつぶせたから良かったものの
これが下手に膠着状態が続いて、平家が京を奪回し、安徳天皇を頂点に置いた朝廷の仕組みというのが形作られるようになると
奥州の藤原氏、関東の源氏、それ以外の朝廷(平家)というように、完全に3つに割れてたと思う。
そうなってしまったら、頼朝に平家を潰す大義名分は無くなり、それどころか単なる逆賊・・
しかし、関東の武士団も自分たちの独立を掛けて、潰されないように必死に頑張る・・
100年続く内乱になりそうな予感。
963 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 19:10:41
関東の豪族が、流刑の難民を東軍の盟主にした理由を詳しく。
荘園の不在地主層に対する在地領主層(関東武士団)の利権闘争という背景があって、
頼朝がその神輿に担がれたというのが通説じゃなったかな。
その時たまたま不在地主層を象徴する権力が平家(というか平清盛)だったというのも
源氏の嫡流である頼朝が都合よかった点だったと。
だから鎌倉幕府の成立時期として1185年の守護地頭の設置とする見解があるけど、
まさに東国武士団の荘園利権を中央貴族から勝ち取った瞬間とも言える、
そんなところだったと思う。
詳しい方でもいれば訂正よろしく。
965 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 19:48:04
関東にはもともと畿内とは全く別の文化があった
将門が乱を起こす悠か以前から
中央とは違う独立国精神があった
地元豪族の独立運動が
将門の乱であり頼朝の蜂起であった
頼朝のはるか前の時代から
東国は異郷の地だったのだよ
幕末の孝明天皇が東夷と嫌ったように
それは明治時代に東京が首都になるまで続いた
966 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 19:17:14
そんなことより蝦夷地に行こうぜ
>>963 1.源頼朝は、朝廷の責任ある役に就ける貴種である
2.源義朝が家来にした家は関東に多い。
彼らは担ぐ相手としてたまたまそこにいた源頼朝を選んだ
3.平将門登場以降、関東地域の一体性が関東武士に意識されていた
968 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 00:53:12
疑心暗鬼で身内を殺しまくり、戦上手の弟の使い道を
思いつけなかったところが器の小ささだが。
969 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 03:36:24
ドドンガドン!
ヨヨイノ ヨイ! ___
‖ ∧_∧γミ ヽ::ヽ
∩(# ・∀) /7 |:::|Σ
ヾ冫祭⌒lつ |:::|
(___八__ノ_ノ
)_)_) 凵凵 凵
ソレソレ ソレソレ
∧_∧ ∧_∧
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♪ドンドンドン タカタッタ
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源義経は、本人が馬鹿であった、という他ない。
武士の開墾した土地の権利を院から守ることが鎌倉幕府の中心命題であったにもかかわらず、
進んで院から位を得て喜んだ。
平家も似た部分がある。平家の支配の下では、武士は朝廷の権威の下にあり、
自らの開墾した土地も、院や荘園領主のものであったのだから。
その意味で鎌倉幕府は画期的だった。
義経の使い道は、平家を滅ぼすまでで充分だな・・
戦は上手だが、KYだし。
「コウト死して、走狗煮らる」ってやつだな。
義経は美化されすぎ。実像は風采の上がらない小男、そして性格も悪い。大したことない
973 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 06:43:13
何を今更
975
埋め
>>1 平相国清盛に御落胤という事情がなければ
清盛存命中に滅ぼされていたとも言えます