宇都宮氏

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184日本@名無史さん
豊前宇都宮市(城井氏)に関して。

地元の築城町に伝えられている説

・国替えを命じられた殿様は「背くつもりはないが、わたしは代々住んで来た、この土地が好きだ」として
 一度は明渡した城を周辺の国人と共に奪回。その後、山城へと退き、黒田軍と壮絶なゲリラ戦を繰り広げた。
 櫟原(いちぎばる)にある峠には名前の有る兵士だけで1000人が討ち取られて中津の方を向けて首を竹やりに括られて晒された。

 また、三丁弓の岩(地元名ち○ぽ岩)から射掛ける仕掛けなど、天然の要害に阻まれ、容易には攻略が出来ない。
 あるとき、それで、黒田勘兵衛の息子長政は功を焦ったあまり、攻め込みすぎて黒田軍は総崩れとなり、長政がとらえられた事があった。
 そのとき、宇都宮側は刀を首筋に当てつつも「我々は秀吉様には何の恨みも無い、と伝えてくれ」と解放された。

 長政はこの時の悔しさを忘れず、父勘兵衛と謀略をめぐらし、鶴姫(当時7歳)との婚儀を決め、中津城に誘い出して謀殺する事に決めた。
 宇都宮鎮房についていった寒田の10人の家来は城の近くの寺で待機を命じられ、鎮房と孫?の鶴姫は婚儀のために、中津城へ。
 鎮房が酒に酔ったところを、釣り天井で殺された、とも槍でトドメを刺された、とも言われている。(注1)

 そして、その後、寒田の10人の家来は、その寺で血みどろの戦いを繰り広げ、その寺の壁は塗り替えても塗り替えても生赤くなるので
 「中津の赤壁」と呼ぶようになり、彼らを「寒田十勇士」と呼ぶようになった。
 そして、追及の手は城井谷へ。熊本にいた宇都宮朝房も討ち取られ、城井宇都宮家は一族郎党女子供までも山国川の河川敷で
 磔刑に処せられた。

(注1):この時に生まれたのが黒田節であり、我々を愚弄する歌なので決して歌ってはいけないし、歌ったものは村八分とすること、
     という集落が存在する。

で、その後、中津黒田氏は殿様ご乱心の為おとりつぶし、黒田家本家も不運続きの為、「宇都宮の呪い」といわれたので、
中津城内に城井神社を祀った。そこに白蛇が現れるので、菊姫白蛇変化、とよばれる、とも。
185日本@名無史さん:05/02/12 14:54:40
>>184
勘兵衛→官兵衛

追加。後年、秀吉が朝鮮を攻めるに当たり、「必勝の舞」」とやらを探したそうなのだが、
それを伝えていたのは城井宇都宮氏だけであり、それは一子相伝だったので、既に滅ぼしてしまった事を知って
たいそう悔しがったという。

以上が、地元の伝承。で、実際には上のレスにもあったように、「絶えてない」し、宇都宮姓の人は近隣にもいる。
何でか。
たしか、傍系は見逃されたし、宗家も1人の妊婦(朝房の嫁)が助かって逃げ延びたから、らしい。

で、他にも数多くの「創作」が入り混じってるんだそうな。

参考文献:呪詛の時空―宇都宮怨霊伝説と筑前黒田家
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4874152678/249-9997138-4386743

戦いが終わってから20年〜40年くらい経った江戸時代初期、右近という名の「山師」がいた。
彼は、様々な話を創作したそうな。

で、確認されてるのは、
・鶴姫は7歳じゃなくて14〜17歳
・釣り天井は関東の方での出来事をパクった?
・「黒田節の起源」はもちろん、加藤清正からとの酒比べなので、「愚弄説」は右近の創作。
・赤壁は大陸からの寺のからみなので「あんまり関係ない」(戦いがあったことなど一部は本当)