●今川家の歴史●
初代当主:今川範国 1295?-1384
2代目:今川範氏 1316-1365
3代目:今川泰範 1334-1409?
4代目:今川範政 1364-1433
5代目:今川範忠 1408-1461?
6代目:今川義忠 1471-1526
7代目:今川氏親 1471-1526
8代目:今川氏輝 1513-1536
9代目:今川義元 1519-1560
10代目:今川氏真 1539-1614
品川高久 ???
今川範以 1570-1607
今川直房 1594-1661
2 :
日本@名無史さん:03/11/13 01:58
2
で、なにがしたいの? 歴代の当主の品定めでもすんの?
氏親とか、義元以前の当主がどんな大業を成したのか知りたい
6 :
日本@名無史さん:03/11/13 03:56
7 :
日本@名無史さん:03/11/13 23:57
8 :
日本@名無史さん:03/11/14 00:03
漏れは氏豊のファソです。
9 :
日本@名無史さん:03/11/14 00:27
五代範忠(のりただ)
「永亨の乱」の戦功者の第一は今川範忠であった。
この時、将軍義教は「天下一苗字(今川の苗字は範忠だけの家系にする)」という変った戦功を与えた。
これらのことから今川傍系(庶系)の一族は遠江今川氏が堀越氏になり、二男弥五郎は小鹿氏に、
また瀬名氏の家名ができるなど今川傍系の家臣化が図られた。
1471-1526 ×
1436-1476 ○
11 :
日本@名無史さん:03/11/14 02:47
漏れは今、腹減ったから冷凍の今川焼きチソして食ったぞ!
今川焼きってあんまし呼ばんなあ・・・
太鼓焼きって言ってる
13 :
日本@名無史さん:03/11/14 07:29
大判焼きっていわねえか?
14 :
日本@名無史さん:03/11/14 07:44
お焼き
とも言う。
15 :
日本@名無史さん:03/11/14 07:46
最後の当主範叙は若年寄。
ある意味、出世頭か?
大阪は「回転焼」という。
ここで了俊の話はNGですか?
18 :
日本@名無史さん:03/11/14 11:16
>15
若年寄格じゃないの?
|,、-----------------------┤
l,、-――――――‐ァ―――---;|
/⊃ ⊂⊃ (;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;',
. / ヽ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;l
.〈 ヽ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;|
'iェュ .ィェェ‐ ヽ;;;;;;;;;/r⌒ヽ
. ,' ';;;;;/ ゞ、 )| 今川幕府は儚い夢じゃったのか…
..| , -、 .V ノ , '/
. l ヽ‐ ‐'┘ヽ 、'',.イ
l l __ ヽ /''´,!
. ', '‐ === ‐'- / ト,
ヽ ''' ..: ' ∧ヽ
ヽヽ .. .: / / λ
. ヾー-‐ ' ´ ,. ' / / `'-、
/l`,''ー---‐ '´ .,、r'/ /
21 :
日本@名無史さん:03/11/14 16:55
22 :
日本@名無史さん:03/11/14 18:52
>15
若年寄なんてのは徳川家の古くからの家臣がなるので
名門の者がやるのは出世といいがたいのでは?
徳川慶喜に明治政府から県知事になってくれないか、
と話があったとき「俺に町奉行をやれというのか?」
と言ったのに通じるものがあると思うが。
|,、-----------------------┤
l,、-――――――‐ァ―――---;|
/⊃ ⊂⊃ (;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;',
. / ヽ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;l
.〈 ヽ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;|
'iェュ .ィェェ‐ ヽ;;;;;;;;;/r⌒ヽ
. ,' ';;;;;/ ゞ、 )|
>>21 ..| , -、 .V ノ , '/ とりあえずそちは打ち首じゃ
. l ヽ‐ ‐'┘ヽ 、'',.イ 覚悟いたせ
l l __ ヽ /''´,!
. ', '‐ === ‐'- / ト,
ヽ ''' ..: ' ∧ヽ
ヽヽ .. .: / / λ
. ヾー-‐ ' ´ ,. ' / / `'-、
/l`,''ー---‐ '´ .,、r'/ /
若年寄って、若いの?年寄りなの?
はっきりさせてくれ。
25 :
日本@名無史さん:03/11/14 20:42
>>24比較的若いよ。田沼意次の息子も若年寄だったし・・・。
今川さん?品川さんになったんじゃなかったの?
26 :
日本@名無史さん:03/11/14 20:43
27 :
日本@名無史さん:03/11/14 20:48
>>26 氏真が徳川家康を頼って江戸にすんだから、
天下人にはばかって姓を変更したと思ってたのに違うんだ・・・。
28 :
日本@名無史さん:03/11/14 21:52
>>1 今川って元々「範」が通字だったんだよね。
どうして義忠以降の今川本家は「範」を名乗らなくなったんだろ。
>>19 今川貞世(了俊)。
高校の教科書に太字で出てくるレベルの人物。
>>28 断絶があったんじゃないの?史料は恐らく捏造されて残ってないんだろうけど。
今川義範って居そうで居なかったね
ところで氏真は誰から名前継いだの?
31 :
日本@名無史さん:03/11/15 01:02
義忠と義元の「義」の字は、将軍からもらったものなんだろうね。
氏親の「氏」は、早雲の諱・長氏からか?
32 :
日本@名無史さん:03/11/15 01:20
今川家の菩提寺って杉並区にある?
33 :
日本@名無史さん:03/11/15 04:32
>>31 早雲の実名は確認できない。
足利氏の「氏」。
34 :
日本@名無史さん:03/11/15 12:58
今川氏豊は本当に義元の弟か?
>>32 京都のどこからしいです
義元って100人以上の子の中から氏真を選んで家督を継がせようとしたんですよね?
100人越えるって…どれだけ子作りに根を詰めたんだろ…
36 :
日本@名無史さん:03/11/15 19:28
37 :
日本@名無史さん:03/11/15 19:45
違ってるんかな…
史実には捏造がおおいから本当かどうか分からんのだけど
誤認だったらスマソ
39 :
日本@名無史さん:03/11/16 03:21
>>36 年齢的には義元の2歳下くらい下と考えられるのでそうおかしくはないらしいけど。
当時の那古屋今川領は駿河の今川領とははるか遠く、
当主の子が養子として赴くにはあまりにも不自然と考えられる。
40 :
日本@名無史さん:03/11/17 02:07
とりあえず、範忠以前にわかれた今川一族が今川姓をそのまま名乗っていることはないね。
41 :
日本@名無史さん:03/11/17 03:27
42 :
日本@名無史さん:03/11/17 03:54
>40
根拠はないでしょ。
本家しか今川を名乗れないとか言わないよね。
>33
盛時が有力
44 :
日本@名無史さん:03/11/17 04:26
>>42 永享の乱の恩賞で今川姓を名乗れるのは本家だけになったんだろ。
45 :
日本@名無史さん:03/11/17 05:03
>>44 それは俗説。
実際は多数今川を名乗っている。
46 :
日本@名無史さん:03/11/17 05:28
今川焼
戦国3大DQN
1、今川
2、足利
3、大内
48 :
日本@名無史さん:03/11/17 08:08
>46
今川焼きとタイヤキの違いがいまいちわからん。
49 :
日本@名無史さん:03/11/17 08:10
>>40 今川了俊の子孫が佐賀藩士として「今川姓」で維新時まで続いています。
50 :
日本@名無史さん:03/11/17 09:38
>49
あれ?
了俊の子孫って、秋永に苗字変わってないっけ?
たしか小城藩士だったとおもうけど。
51 :
日本@名無史さん:03/11/17 19:07
52 :
日本@名無史さん:03/11/17 19:11
>>51 鯛型はそのまんま鯛焼きなはず。変換されるし。
今川焼き、お焼きは円形。大判焼きは楕円型。太鼓焼きはしらん。
53 :
日本@名無史さん:03/11/17 20:05
たいこ‐やき
【太鼓焼】
今川焼の皮に巴形の焼き印を押したもの。
赤穂義士の打ち入りに鳴らした太鼓にちなんだもの。義士焼。
だそうだ
54 :
日本@名無史さん:03/11/17 21:16
あ、思い出した。太鼓だけじゃなくて、福の神の顔をしたヤシが太鼓焼きか。
食ったことあるわ。すれ違いもとい、板違いなわけだが。
回転焼とも言うわな
56 :
日本@名無史さん:03/11/17 21:42
>>49 一度、別の姓に変えたあとに再び今川に復姓したんじゃない?
尼子の子孫が江戸期に佐々木に復姓しているような例もあるし。
【日本史板トリビア】
今川焼きの名称は、発祥の地・神田今川橋(現今川橋交差点付近)に由来する。
今川氏との関係は不明。
58 :
日本@名無史さん:03/11/17 23:25
とりあえず今川焼きの呼称でガイシュツのものをまとめる。
今川焼き
お焼き
回転焼き
黄金饅頭
大判焼き
おれ静岡(駿府)だけど、黄金饅頭、大判焼きは使うが、
今川焼きはあまり使わない。
・応用編
太鼓焼き(赤穂浪士討ち入りにちなむ。巴形の焼印あり)
大判焼き(大判にちなんで楕円の形?)
タイヤキ(鯛の形をしている)
個人的には、タイヤキと今川焼き、皮は微妙に違うと思っていたが。
今川焼きの方が滑らで、半生くらいが旨いでしょ。
タイヤキは気泡が多いし、しっかり焼けてないと旨くない。
59 :
日本@名無史さん:03/11/17 23:30
狂いだした流れ
しかしオモロイ
お菓子板の住民として言わせてもらえばだな、
東京には「鯛焼き御三家」(麻布十番浪花家、人形町柳屋、四谷わかば)なるものがあって、
いずれも個性はあるが、単なる評判だけでなく実際非常にうまい。
ところが、「今川焼き」の人気店というのは東京には存在しない。
何と言うか、あの皮のパリパリ感が出ない気がするんだよね、今川焼きというのは。
これは素材というよりも、形の問題な気がする。
薄い皮の中に、良い餡が頭から尻尾まで詰まった鯛焼きというのは非常においしいものだが、
今川焼きの丸い形でそれをやると、餡が多すぎて単なるアンコ玉になってしまうんだな。
ということで、範国以下今川氏及び高家には悪いが、
鯛焼き>>>>>>>>今川焼き
として結論付けさせてもらう。
些かもスレ違いではないにせよ、板違いには違いないのでスマンが。
61 :
日本@名無史さん:03/11/18 00:29
お菓子な格付け開始さる。
62 :
日本@名無史さん:03/11/18 00:39
へぇ〜〜、へぇ〜〜、へぇ〜、へぇ〜〜、へぇ〜〜、へぇ〜、
へぇ〜〜、へぇ〜〜、へぇ〜、へぇ〜〜、へぇ〜〜、へぇ〜、
へぇ〜〜、へぇ〜〜、へぇ〜、へぇ〜〜、へぇ〜〜、へぇ〜、
へぇ〜〜、へぇ〜〜、へぇ〜、へぇ〜〜、へぇ〜〜、へぇ〜、
へぇ〜〜、へぇ〜〜、へぇ〜、へぇ〜〜、へぇ〜〜、へぇ〜。
30へぇ
俺は大阪人だが
こっちではあんまり今川焼きとは言わないな。
魚の形をしたのはたいやき、丸いのは回転焼きと呼ぶのが一般的。
まあ大阪でも地域によって違うのかもしれないが。
白餡とかカスタードクリームが入ってるのがあるが
やっぱり黒の粒餡が一番だな。
65 :
日本@名無史さん:03/11/18 01:50
66 :
日本@名無史さん:03/11/18 04:14
漏れは関東住民。
名前は今川焼きと大判焼きの両方使われてる。
だけど、大判焼きという呼び名のほうが多い。
ちなみに、俺はクリームと白あんが好き。
小豆あんを食べたいなら、鯛焼きを買う。
スレ違いスマソです。
太鼓焼きに一票
68 :
日本@名無史さん:03/11/18 18:06
名古屋ですが、こっちでは大判焼というのが比較的多い気がします。
あと関東では色んな味がありましたが、こちらにはノーマルな小豆餡が主流ですね。
ググった。
弥生時代
小豆が中国より伝来。
弥生時代に小麦を食料として育てるようになった。
奈良時代
754年 鑑真が黒糖を持ってきた。
室町時代
1339年 林浄因が奈良で饅頭を作る。
江戸初期
小豆に砂糖を加えた「あん」が発明されたのはこの頃であると考えられる。
1624年 江戸麹町の大木元佐治兵衛、助惣焼きを始める。現在の(どら焼き)の原型。
1730年頃 国内で砂糖づくりがはじまった。
1751年 平賀源内が白砂糖の精製に成功
1780年頃 今川焼き登場(江戸は神田の今川橋付近の露店で販売された)
ここら辺では「フーマン」って呼んでるぞ、
最近の若者は言わないかもしれんが。
「ふるいち」という店が売り出した饅頭(大判焼きのこと)
それがフーマンの語源らしい。
昔は今みたいに甘いものが沢山なかったので
みんなでフーマン食べたもんだ。
甘さ控えめの粒餡がしっかり詰まっていてどこから食べても
おいしかったもんじゃ。
いまでもフーマンあるんかなあ?
今川焼さいこう
73 :
日本@名無史さん:03/11/19 01:14
ホットケーキはキライだけど今川焼きは大好きなんだ。
どら焼き、鯛焼きもあんこを使っただけのシンプルなお菓子だけど
あんなに美味しいんだから昔の人にアイデア賞をあげたいw。
漏れは関西人だけど、スーパーの冷凍食品コーナーは今川焼とタイ焼しか置いてないなw
タイ焼は食えんけど今川焼は美味w
今川焼マンセースレはここですか?
76 :
日本@名無史さん:03/11/19 16:37
愛知だけど大判焼きとよぶよ。
形は楕円でなく丸しか見たことないけど。
77 :
日本@名無史さん:03/11/19 20:22
形が丸いのは今川焼きで、楕円形は大判焼きと呼ぶんじゃないのかなぁ?
やわらかいワッフルと味が似ているんだよね今川&大判焼きって。。。
埼玉だけど、今川焼きだな〜
実際に販売している複数の店でも大判焼きとして丸型売ってます。
どこかの漫画で休憩中に義元が家臣に今川焼き配ってるコマあった。
あれは真に受けると思う
81 :
日本@名無史さん:03/11/20 22:22
>>80 わははーw
でも「家臣に手作りお菓子を配る上司」って云うシーンは微笑ましいなあ。
>>80 俺その漫画家笑えない…
義元「まろは最近、歌や蹴鞠に飽きて、菓子作りなど初めてのう。
ほれ、そなたも一つ喰ろうてみんか」
家来「は、はッ。恐縮っス」
義元「どうじゃ。なかなか美味であろう」
家来「いや、これはまことに…して、この菓子、
名をなんと付けられました」
義元「そうじゃな…『今川焼き』とでも付けるかの」
家来「善き名にござる。当国の名物になりましょう」
↑みたいな由来だと思ってたんだよ本当に。
どこでこんな電波拾ったんだろ俺…
私も今川家を称えて駿河の町人が今川焼きを発明したのかと思った。
関係ナッシングだなヽ(´ー` )ノ
84 :
日本@名無史さん:03/11/21 01:13
兵庫県加古川には
「今」川に対して「過去」川だと
駄洒落でつけた
過去川焼きがあります。
85 :
日本@名無史さん:03/11/21 14:45
86 :
日本@名無史さん:03/11/21 16:10
>>84 ( ´,_ゝ`)つ〃∩ プゲラ プゲラ プゲラ
87 :
日本@名無史さん:03/11/21 18:59
静岡県民は今川氏や土岐氏より徳川氏のほうが好きなんだそうな
88 :
日本@名無史さん:03/11/21 19:06
お歯黒
89 :
日本@名無史さん:03/11/21 19:25
赤穂人ですが、播州では「御座候(ござそうろう)」と呼ばれていますよ
ぼくは、鹿児島県民です。
鹿児島では、義久よりもどちらかというと
義弘のほうが好かれてるきがする。
92 :
日本@名無史さん:03/11/21 20:11
鹿児島では大久保利通の人気が以外とある。
下手したら大久保>西郷
|,、-----------------------┤
l,、-――――――‐ァ―――---;|
/⊃ ⊂⊃ (;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;',
. / ヽ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;l
.〈 ヽ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;| 駿河の民は薄情じゃの。
'iィェィ .ィェィ ヽ;;;;;;;;;/r⌒ヽ
. ,' ';;;;;/ ゞ、 )| 義理と人情と次郎長に溢れた町はどこへ行ってもうたのじゃ
..| , -、 .V ノ , '/
. l ヽ‐ ‐'┘ヽ 、'',.イ
l l __ ヽ /''´,!
. ', '‐ === ‐'- / ト,
ヽ ''' ..: ' ∧ヽ
ヽヽ .. .: / / λ
. ヾー-‐ ' ´ ,. ' / / `'-、
/l`,''ー---‐ '´ .,、r'/ /
94 :
日本@名無史さん:03/11/21 22:35
鹿児島はむしろ かるかん
次郎長であふれてたら恐いわい。
96 :
日本@名無史さん:03/11/22 02:24
>>87 静岡で一番人気なのは、北条(塩田)義政です。
97 :
日本@名無史さん:03/11/22 03:42
>>87 静岡市民ですが、今川氏の足跡はほとんど残っていませんね。
大御所が安倍川の治水したり、あちこちから職人を集めてきたり
して、それ以前の文化的な背景が消えてしまったんだと思います。
桶狭間のお歯黒ネタは聞いていて地元民として面白くないわけで
子供の頃はやっぱり家康マンセーでした(藁
>>96 ネタ?
98 :
日本@名無史さん:03/11/22 04:40
ネタではありません。
今川入国以前の駿河守護です。
99 :
日本@名無史さん:03/11/22 04:51
>>98 「一番人気」の部分がネタじゃないのか?という指摘なんだが。
お気付きだと思いますが ウソです
101 :
日本@名無史さん:03/11/23 01:10
[今川]って名前は優しい女性的な印象を与えると思う。
なんとなくだけど・・・・。
102 :
日本@名無史さん:03/11/23 16:18
今川家ってサッカーの守り神になったの?
>>102 氏真はサッカーの神様として、静岡で祭られています。
サッカーといい、楽市楽座といい、今川家は時代を先駆けしている面があるね
アナクロニズム今川と呼びたい
>>89 御座候って店の名前じゃなかった?
回転焼そのものの事を言うの?
「ああ…だめじゃ。
なぜだか無性に今川焼きが食べたくなってきたでおじゃる…
よし!ここいらで休憩じゃ!皆の者、今川焼きを買って参れ!
まろはカスタード入りが良い。」
___織田軍、襲撃 (桶狭間の真実)
108 :
日本@名無史さん:03/11/24 02:30
>>103 それが本当ならトリビアになりそうだな。
109 :
日本@名無史さん:03/11/24 02:40
清水のサッカー神社は稲荷神社だったような。
110 :
日本@名無史さん:03/11/24 20:39
杉並区に今川って地名があけど関係あるのかな〜
111 :
日本@名無史さん:03/11/24 20:43
今川焼きとか言われると食いたくなるだろ!もう!ばか!
>111
昨日このスレ見たからちゃんと買いに行ったよ。カスタードクリームin今川焼。
おいしかった。
ところで1コ70円は高い? 安い?
113 :
日本@名無史さん:03/11/24 23:37
漏れも明日のおやつを今川焼きにしようw
たしか一個80円〜90円で売っていたはず。
クレープと比べれば一個70円は安いと思う。
今川焼きなんて祭りの屋台ぐらいでしか見かけんからな。
食べたい・・・
115 :
日本@名無史さん:03/11/26 00:02
そんな事より1よ、ちょっと聞いてくれよ。今川焼きとはあんまし関係ないけどさ。
このあいだ、やっと還俗できて駿府城に帰ったんです。駿府城。
そしたらなんか人がめちゃくちゃいっぱいで割りこめないんです。
で、よく見たらなんか家臣らがもめてて、「次期今川家当主は誰にするか」とか言ってるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、家督相続争い如きで普段来てない駿府城に来てんじゃねーよ、ボケが。
家督相続だよ、家督相続。
なんか福島とかもいるし。好期を見計らっての屋形来訪か。おめでてーな。
よーしパパ玄広恵深おしちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、高貴な茶器でもやるから居城へ帰れと。
今川家ってのはな、もっとまったりしてるべきなんだよ。
座敷の向かいに座った公方といつ歌詠み、貝合わせ、蹴鞠、茶会、が始まってもおかしくない、
勝つか、負けるか、立てるか飲み干すか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。荒武者は、すっこんでろ。
で、やっと落ち着いたと思ったら、今度は隣の寿圭尼が、「嫡子である義元を支持します」、とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、嫡子なんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。
得意げな顔して何が、「嫡子である義元を支持します」、だ。
お前は本当に支持したいと思っているのかと。問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、ただ正妻である事を強調したいだけとちゃうんかと。
京通の俺から言わせてもらえば今、今川家の間での最新流行はやっぱり、西に先進、これだね。
甲斐の武田、相模の北条、駿河の今川、共に不可侵条約を結び、後顧の憂いを絶つ。これ最強。
しかしこれを頼んでも今度は尾張が磐石になってくるという危険も伴う、諸刃の剣。
素人にはお薦め出来ない。
まあお前らド素人は留守中に奇襲でも掛けられてなさいってこった。
117 :
日本@名無史さん:03/11/28 21:20
ハッキリ言って京都などの多勢力都市では今川の方が武田よりもずっと立場は上だよ。
貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜い武田は今川のストレス解消のいい的。
今川は有名守護、九州探題を輩出してるし、武田はかなり彼らに見下されている。
(今川は管領には頭があがらないため甲州系料理店などの武田店員相手に威張り散らしてストレス解消する。
また、武田女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。
「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける今川男性も多い。)
彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない武田は滑稽。
>>114 最近は冷凍ものとかも出てるぞ。
味は知らん。
119 :
日本@名無史さん:03/11/28 23:19
120 :
日本@名無史さん:03/11/28 23:48
>>116 どうせなら、氏親と小鹿範満のやつも作ってくれ!
このスレは今川への愛に溢れてる
122 :
日本@名無史さん:03/11/29 01:47
このスレは今川焼きへの愛に溢れている
123 :
日本@名無史さん:03/11/29 01:54
お前ら、えらいわ。感心、感心。
今川焼きは江戸神田今川橋から因んだ名の食べ物だそうだ。
別名:太鼓焼き、太判焼き、どんどん焼き、義元焼き
125 :
日本@名無史さん:03/11/29 01:58
まったりしたいな、 今川焼きでも食べよう。
126 :
日本@名無史さん:03/11/29 02:00
じっくり読んだが、
>>116 は味がある。いいね。
127 :
日本@名無史さん:03/11/29 02:00
>>118
冷凍物はやめておけ
鯛焼きも今川焼きも冷凍は焼きたてと比べるとやはり
まずい。大事な皮がぱさぱさしてるもん。
ついでに、たこ焼きも冷凍はまずいな。
歴代今川氏の顔の焼き後がついた今川焼き、どっかにないかな。
あったら嬉しいな。
129 :
日本@名無史さん:03/11/29 02:15
>128
それは観光みやげにイイかもねw。
>128
凧ならあるがのう。
131 :
日本@名無史さん:03/11/29 06:13
>>124 義元焼きに萌え。
ついでにそれより砂糖150%増量した「氏真焼き」も発売キボンヌ。
あま〜い氏真焼き(*´Д`)ハァハァ
義元焼きは酒粕の味・・・氏真焼きは抹茶味っぽい
氏親焼きは小田原ちょうちんの形をしている。
135 :
日本@名無史さん:03/11/29 16:53
イマガワヤキ ドゾー
∧_∧ ○
(・ω・)丿 ッパ
. ノ/ /
ノ ̄ゝ
1519年(永正16) 駿河で誕生。
1522年(大永2) 善得寺へ出家。承芳と称する。
1530年(享禄3) 喝食となる。 大食にもなる(この頃から今川焼きに目をつける)
1536年(天文5) 笑いすぎで腸捻転になり、兄・氏輝死去。
異母兄・玄広恵探を蹴鞠大会で倒し家督を嗣ぐ。
承芳からお菓子ダイスキ☆義元と改名。
従四位下治部大輔に叙任。
1537年(天文6) 武田氏との対立関係を解消するため、
武田信虎の娘を娶る。
しかし、夜伽の最中に義元流おはぐろプレイを施したため、正室は甲斐に泣きながら逃亡。
武田氏の関係が悪化。
駿河に使い捨ての三条夫人を送る。
1548年(天文17) 三河・小豆坂で信秀軍を敗る。
小豆洗いを家老に登用したのが災いした。
残りのこなきジジイと枕返しは背走。
1549年(天文18) 松平広忠死去。三河一国を支配下にする。
松平竹千代を人質にし、今川焼きの良さを語りたおす。
1553年(天文22) 「今川焼き仮名目録追加」を制定。
駿河の城下町に今川焼きの店が幾つも設けられる。
1554年(天文23) 北条、武田、と同盟は結ばずに無視。
今川焼き同盟と手を結ぶ。雪斎の目論見はあっさり失敗に終わる。
1560年(永禄3) 5月19日、桶狭間山にて休憩中に今川焼きの食べ過ぎで
満腹で動けずにいる所を、織田信長軍に攻撃され討死。
享年42歳。
139 :
日本@名無史さん:03/11/30 20:52
今川焼
今川焼
今川焼
今川焼
今川焼
今川焼
今川焼
今川焼
このスレ見なきゃ良かった。
もうこの時間は店がやってない!
141 :
日本@名無史さん:03/11/30 22:12
142 :
日本@名無史さん:03/11/30 22:41
143 :
日本@名無史さん:03/11/30 22:44
>135
くいてー
144 :
日本@名無史さん:03/12/01 01:12
タイヤキ ドゾー
∧_∧ ◆<
(・ω・)丿 ッパ
. ノ/ /
ノ ̄ゝ
>>145 ムム、スマヌ・・・
∧_∧
(・ω・)
. ノ/ / l
ノ ̄ゝ
さあ、皆さんお手を拝借!
パパンがパン。あ、それ
だーれが殺した彦五郎♪
ここのスレってなんかほのぼのしていて良いなぁ〜♪
荒れてるスレからここにくると和むw
149 :
日本@名無史さん:03/12/01 04:22
>>148 とにかく今川焼きが食べたくなるスレだなw
150 :
日本@名無史さん:03/12/01 13:27
二引両の焼き印を押した今川焼はないのか?
152 :
日本@名無史さん:03/12/01 22:02
今日も今川焼き食えなかった。
明日があるさ
今川焼き探して三千里だ
今川焼きと焼き芋って冬に食べるおやつだよなあ
寒い日外で、立ち食いしながら食べると美味しい>今川焼き。
このお菓子を発明した人は天才!
スレタイと限りなく近くて遠い内容だ。
桶狭間古戦場にある義元の墓に今川焼き供えちゃ駄目ですか?
157 :
日本@名無史さん:03/12/01 23:31
158 :
日本@名無史さん:03/12/01 23:39
>157
どら焼きは氏真に供えようよ。
鯛焼きはどうしよう。
160 :
日本@名無史さん:03/12/02 02:55
161 :
日本@名無史さん:03/12/02 03:28
162 :
日本@名無史さん:03/12/02 03:35
範国 1295-1384 90歳
範氏 1316-1365 50歳
泰範 1334-1409 76歳
範政 1364-1433 70歳
範忠 1408-1461 54歳
義忠 1436-1476 41歳
氏親 1471-1526 56歳
氏輝 1513-1536 24歳
義元 1519-1560 42歳
氏真 1539-1614 76歳
今川家の当主って、当時にしては比較的長命な人が多いな。
163 :
日本@名無史さん:03/12/02 06:11
鯛焼き屋はあるのよそれも日本一有名な奴が。シクシク
164 :
日本@名無史さん:03/12/02 12:21
和菓子戦争勃発の悪寒
167 :
日本@名無史さん:03/12/03 01:36
168 :
日本@名無史さん:03/12/03 02:00
今川焼き・・・
ホクホクしっとりとした皮
ぱっくり割ると餡からゆげがほのかにわきたつ
ひとくちかじると、パリっとした皮の表面と、トロっと暖かい内側の皮
そしてほのかに甘い餡とがおりなす、めくるめく味の世界
ああ、今川焼き
今川焼き
170 :
日本@名無史さん:03/12/03 02:24
くいてー
今川焼きの中の人も大(ry
それはそうと漉し餡の今川焼きを見たことないんだがどこにあるんだ?
173 :
日本@名無史さん:03/12/03 03:20
白あんの今川焼き食った事あるぞ。こしあんで。
においにつられて来ました(AAありそう)
冷凍物だが、久しぶりに現在今川焼きを手にしている。匂いが最高!懐かしい香がします。
義元タンの香り・・・ハァハァ・・・
氏真タンの匂い・・・ハァハァ(´Д`; )
177 :
日本@名無史さん:03/12/03 19:53
*.。+・*.。+・*.。+・*.。+・*.。+・*.。+・*.。+・*.。+・*.。+・
*.。+・*.。+・*.。+・ハァハァ(*´Д`*)*.。+・*.。+・*.。+・*.。+・
*.。+・*.。+・*.。+・*.。+・*.。+・*.。+・*.。+・*.。+・*.。+・
範以 1570-1607 38歳
直房 1594-1661 68歳
氏堯 1642-1673 32歳 養子、岡山家から
氏睦 1668-1699 32歳 養子、品川家から
範高 1694-1712 19歳 養子、品川家から
範主 1698-1728 31歳 養子、範高の実弟
範彦 1716-1749 34歳
義泰 1728-1784 57歳 養子、範彦の実弟
義彰 1756-1818 63歳
義用 1786-1839 54歳
義順 1810-1841 32歳
範叔 ????-1887 ??歳
淑人 1854-1872 19歳
範叔の子淑人が早世し、跡継ぎが無く断絶。
>>175 今川焼き食いたいよぉー
クリームとしろ餡を買ってこよう。明日・・・
今日はミスタードーナツが晩御飯だったけど
やっぱ今川焼きがよかったぜ
181 :
日本@名無史さん:03/12/04 02:52
家庭用今川焼きキット発売キボン
182 :
日本@名無史さん:03/12/04 03:28
183 :
日本@名無史さん:03/12/04 11:23
クリーム今川焼き食ったage
184 :
日本@名無史さん:03/12/04 12:40
今川さんは西尾市出身です。
185 :
日本@名無史さん:03/12/04 12:40
くそー俺も今日こそ食う
186 :
日本@名無史さん:03/12/04 22:57
今、かぼちゃ餡入りの今川焼き作ってるところです。
12時には焼きあがる。楽しみ〜。
187 :
日本@名無史さん:03/12/04 23:18
うまいの?ちゃん事後報告もしろよ <<185。
188 :
日本@名無史さん:03/12/04 23:19
189 :
日本@名無史さん:03/12/04 23:27
>>1 今川初代って範国なの?
国氏・基氏は今川姓は名乗っていないの?
省略したと思われ
191 :
日本@名無史さん:03/12/05 20:12
>>186 うまかったけど舌をヤケドしてしまいました。
ヽ(`Д´)ノアチチチチ
193 :
日本@名無史さん:03/12/05 23:30
禿しく和むスレだな。
>>1の方針とは全く異なる上に板違いになっているが漏れはこういうの好きだ
今川焼食いてぇ・・・
195 :
日本@名無史さん:03/12/06 01:44
品川高久1576〜1640 64歳
品川高如1611〜1671 60歳
品川伊氏1668〜1712 44歳 品川高如の長男・松平重治の次男
品川範増1711〜1713 3歳
品川信方1683〜1749 66歳 品川高如の長男・松平重治の四男
品川氏如1731〜1780 49歳
品川氏長1763〜1788 25歳 前田長敦の三男
品川氏維 ? 〜 ? ?歳 竹中定弘の次男
品川高美1767〜 ? ?歳 松平近朝の次男
品川言氏
品川高尚
品川氏繁
品川氏恒
品川信 1924〜1942 18歳
品川氏清1891〜1947 56歳
品川氏茂1918〜1994 76歳
品川家の当主の方は現在は東京都で自転車屋さんをしている
196 :
日本@名無史さん:03/12/06 01:48
高家今川氏初代当主
今川直房(1594〜1661 享年68歳)
初名:五郎、主膳、主膳正、刑部大輔、左少将、範英
実父:今川氏真の嫡男・今川範以
実母:吉良義安の娘
正室:立花宗茂の養女
実子:今川範明、今川範興、女子(大久保忠高室)、男子、女子(松平勝広室)
養子:岡山弥清の嫡男(今川氏堯)
命日:11月24日
贈名:浄岑院
197 :
日本@名無史さん:03/12/06 01:49
>>195 へえ…
で、自転車屋をしている現当主の名前は?
198 :
日本@名無史さん:03/12/06 01:50
高家今川氏第二代当主
今川氏堯(1642年〜1673年 享年31歳)
初名:竜王丸、大学
実父:吉良義弥の次男・岡山弥清
実母:品川高久の次女
正室:土井利重の娘(妹を養女にしたという説もあり)
実子:なし
養子:品川高寛の長男(今川氏睦)
命日:11月15日
贈名:慈雲院
・範以・・直房==氏堯==氏睦
・ ・
今川氏真・・ ・女子 ・義冬
・ |・・
・ 吉良義弥 ・弥清 ・氏堯
・ |・・
・高久・・・・・・女子 ・常清
・
・高寛・・氏睦
199 :
日本@名無史さん:03/12/06 01:54
現当主 品川 誠氏
200 :
日本@名無史さん:03/12/06 01:59
高家今川氏第三代当主
今川氏睦(1668年〜1699年 享年31歳)
初名:彦太郎、吉太郎、刑部、範朝、氏勝
実父:品川高久の次男・品川高寛
実母:某氏
正室:北条氏平の長女(緑樹院)
実子:男子(幼冬童子)
養子:品川伊氏の長男(今川範高)
命日:6月25日
贈名:高徳院
201 :
日本@名無史さん:03/12/06 02:01
高家今川氏第四代当主
今川範高(1694年〜1712年 享年18歳)
初名:豊五郎、刑部
実父:松平重治の次男・品川伊氏
実母:蒔田定行の七女
正室:畠山義寧の次女
実子:山岡景之の妻(蓮操院)
養子:品川伊氏の次男(品川範主)
命日:2月15日
贈名:乾功院
202 :
日本@名無史さん:03/12/06 02:01
高家今川氏第五代当主
今川範主(1698年〜1754年 享年30歳)
初名:彦五郎、民部
実父:松平重治の次男・品川伊氏
実母:蒔田定行の七女
正室:なし(側室二人)
実子:女子(紅影童女)、女子(峻嶺院)、今川範彦、松平勝文、
赤井林幸の妻(安盛院)、西尾義泰、稲垣正庸の妻(智玉院)
養子:なし
命日:6月28日
贈名:浄修院
203 :
日本@名無史さん:03/12/06 02:02
高家今川氏第六代当主
今川範彦(1716年〜1749年 享年33歳)
初名:主膳
実父:品川伊氏の次男・今川範主
実母:側室某氏(映鏡院)
正室:秋月種輔の次女
実子:なし
養子:今川範主の三男(西尾義泰)
命日:7月5日(7月26日に亡くなったとする説もあり)
贈名:寂照院
204 :
日本@名無史さん:03/12/06 02:03
高家今川氏第七代当主
今川義泰(1729年〜1784年 享年56歳)
初名:彦三郎、主馬、西尾義泰
実父:品川伊氏の次男・今川範主
実母:側室某氏(林光院)
正室:喜連川茂氏の三女(千歌姫)、後妻(盛寿院)
実子:今川義彰
養子:なし
命日:閏1月10日
贈名:仰高院
205 :
日本@名無史さん:03/12/06 02:04
206 :
日本@名無史さん:03/12/06 02:04
高家今川氏第八代当主
今川義彰(1756年〜1818年 享年62歳)
初名:彦松、刑部、主馬、義幹
実父:今川範主の三男・今川義泰
実母:某氏(盛寿院)
正室:小笠原政方の五女(栄寿院)
実子:今川義用、男子、女子、女子、女子
養子:瀬名貞如の三女(お早知)
命日:8月11日
贈名:賢亮院
>>199 サンクス!
誠さんですよね、誠氏さんじゃないですよね、念のため。
どこでそんな情報を得たのですか?
できればソースを教えてください。
他にも品川家の情報がありましたらぜひ!
幕末から明治以降の動向などが知りたいです。
>>207 品川氏については現当主が資料(家系図など)をお持ちです
菩提寺は東京都中野区萬昌院功運寺にあります。
萬昌院は今川氏真の弟・長得の寺で、
今川・吉良・品川の高家三家の菩提寺です
品川 誠さんです
誠氏じゃないです(ややこしい・・・)
品川分家
品川高寛 品川高久の次男
品川高清
品川高房 原充活の子。品川高清の婿養子
品川高純
品川高政
品川高標 品川高純の次男。兄・高政の養子
>>208 サンクス!
寛政譜によると品川氏維は寛政10年に逐電した
とありますが、この原因とかわかりますか?
あと品川家の資料は図書館とかで一般に閲覧できないですかね?
>>211 それは私も気になってます。
萬昌院にじかに質問に行ったのですが、
あまり教えてくれませんでした
>>211 品川家の資料で本として出版されているのは
「萬昌院功運寺史」という物だけだと思います。
しかし、幕末などの詳しい品川氏の事については記述が乏しいです
>>212 私も同じような経験がありますw
年代にもよりますがプライバシーの問題もありますからね、
華族になった大名とは違い、旗本の行方を捜すのは難しいですな。
萬昌院さんは墓石のほうは見せてくれるんですかね?
質問ばかりで恐縮ですが…
>>209 本当にごめんなさい。
品川家の現在の当主は品川修さんでした。
萬昌院では品川家の墓に参れます。
今でもたまに子孫の方が来ているそうです
>>215 品川修さんですね、了解です。
208さんは「萬昌院功運寺史」を持ってるんです?
萬昌院繋がりで聞きたいんですが
吉良家の消息は詳しく書いてますか?
歴代当主とかわかればぜひ教えてください!
>>216 萬昌院功運寺史は非売品で檀家の人に配られたらしいです。
私は学校の図書館から、寺に頼んで学校に入れてもらいました。
吉良家は上野介義央が赤穂浪人に討たれた後、養子の義周の代で断絶します。
その後、吉良家の庶流である高家・蒔田義俊が吉良に復姓して名跡を継いでいます。
吉良義俊とは別に上野介の弟・東条義叔の系統が吉良に復姓しています。
こちらの系統は高家にはなっていません。
東条義叔
東条義武 柘植兄正の三男
吉良義孚 柘植影正の次男
吉良義勝
吉良義渡
吉良義質 吉良義勝の次男
蒔田の系統の詳しい当主は、今、思い出せませんが、
幕末に吉良源六郎義方という人がいます。
家禄は1425石で屋敷は本所林町五丁目にあったようです。
義方は明治になってから今川範叙の触下となっております。
萬昌院は今川氏真の弟・長得が開基で、
その縁から今川と品川の菩提寺となり、
今川、品川と深い婚姻関係にあった吉良家も菩提寺にしたようです。
218 :
日本@名無史さん:03/12/06 13:26
高家今川氏第九代当主
今川義用(1786年〜1839年 享年53歳)
初名:彦三郎、刑部
実父:今川義泰の長男・今川義彰
実母:小笠原政方の五女(栄寿院)
正室:某氏(霊光院)
実子:今川義順、西尾治左衛門
養子:なし
命日:12月28日
贈名:寛隆院
219 :
日本@名無史さん:03/12/06 13:27
高家今川氏第十代当主
今川義順(1809年〜1840年 享年31歳)
初名:彦松、太郎
実父:今川義彰の長男・今川義用
実母:某氏(霊光院)
正室:不明
実子:竜王丸、彦丸、今川範叙
養子:なし
命日:5月9日
贈名:瑞竜院
高家今川氏第十一代当主
今川範叙(1828年〜1887年 享年57歳)
初名:彦三郎、侍従、国寛、国広、得多郎
実父:今川義用の長男・今川義順
実母:不明
正室:肥前平戸藩松浦家の娘(桂林院)
実子:今川淑人、せん(松徳院)、女子(麗泉院)
養子:?
命日:11月3日
贈名:深信院
221 :
日本@名無史さん:03/12/06 13:57
>>220 範叙の長女、せんは「勢ん」と書きます。
戸籍・墓石ともにそうなっていますので・・・。
>>221 読みにくそうだったので「せん」としました
勢んの墓石ってどちらにあるんですか?
明治三十三年になくなって
今川家の菩提寺・長延寺に葬られたそうですが、
長延寺には今は二つの墓石しかないです。
223 :
日本@名無史さん:03/12/06 14:25
>>222 西武新宿線、都立家政駅近くの墓地です。
>>223 ありがとうございます
そこはもしかして篠家の墓所でしょうか?
詳しい住所を教えてくれるとありがたいです。
225 :
日本@名無史さん:03/12/06 14:59
>>224 墓地は現在、寺の所有ではありますが、江戸時代の名主数軒が
共同で作った墓地で実質私有地に近いので、ここに住所を
晒すのは躊躇われます。
yahooかhotmailのアドレスでも出していただければ
メールを差し上げますが?
227 :
日本@名無史さん:03/12/06 15:23
完全に外界と遮断されつつも進行しているスレはここでつか?
228 :
日本@名無史さん:03/12/06 15:32
今川焼き食うよ今日は。
今川焼きには玉露が合うのだ
230 :
日本@名無史さん:03/12/06 16:15
今川義順の三男で兄二人が夭折したため12歳で家を継ぐ。
範叙は1864年に名を国寛と改め、
1866年に国広、1870年に得多郎と名乗っている。
鳥羽伏見の戦いの後、範叙は奥高家と若年寄の職を兼ねるように命ぜられた。
江戸幕府はじまって以来、高家と若年寄の職を兼ねたのは範叙だけで、
旧幕府は朝廷との外交能力に特に長けた範叙に期待していたと思われる。
範叙らの活躍で徳川家は存続が決定し、慶喜は隠居する事になった。
明治元年五月に新政府から高家を中大夫とする命令が発布され、
今川範叙も中大夫となり、觸頭にも任ぜられた。
觸頭になれたのは範叙が若年寄に就任していたからであろう。
新政府は今川家の家禄を一千石から七十五石にした。
これにより範叙は明治三年から四年にかけて、
今川家の全家臣に対し、暇を出している。
その後の範叙の生活は資料がないため詳しくはわからないが、
明治二年に妻に先立たれ、明治五年には跡継ぎの淑人も世を去っている。
明治八年、没落ぶりを見かねた今川家の菩提寺・観泉寺の恵輪和尚が
旧今川家の領内から義捐金を募り、集まった二十円を範叙に渡している。
明治十三年頃には範叙は館も失ったらしく、
浅草の士族・森角蔵の館に居候させてもらっている。
この間に範叙は今川家文書などの今川家の資料を売って生活していたようだ。
そのため、範叙の晩年の資料は少ない。
範叙は明治二十年十一月三日五十七歳で没し、今川家は断絶した。
範叙の娘、せんは今川領内の名主の妻となっている。
231 :
日本@名無史さん:03/12/06 16:16
↑最後の当主・今川範叙の生涯をまとめてみた
>>208 昨日はいろいろと教えていただきありがとうございました。
お礼が遅れて申し訳ございません。
蒔田吉良家と言うのは武蔵世田谷に住んでいた吉良家ですよね、
義俊の後義所・義豊・義房と続いていますな。
今川家なんでスレ違いですが…
>>208 世田谷流とも呼ばれていますね。
吉良長氏の弟・義継の子孫です。
234 :
日本@名無史さん:03/12/07 04:00
仲秋の子孫は居ないの?
235 :
日本@名無史さん:03/12/07 04:01
了俊の子孫は?
236 :
日本@名無史さん:03/12/07 05:05
237 :
日本@名無史さん:03/12/07 05:10
仲秋の子孫続いてるの?
238 :
日本@名無史さん:03/12/07 11:56
>>235 了俊の系統は了俊の長男・貞臣の家系が瀬名氏を名乗った。
次男・貞継は名和氏、三男・貞兼は尾崎氏を名乗った。
今川貞臣
今川貞相
今川範将
今川貞延
瀬名一秀
瀬名氏貞
瀬名氏俊
瀬名氏明
瀬名政勝
瀬名清貞
瀬名弌明
瀬名俊光 瀬名弌明の養子・氏明と弌明の娘の子の婿養子となる
瀬名貞雄
瀬名貞如
瀬名貞陳
仲秋の子孫って那古屋今川とか秋永氏では?
了俊の直系って堀越氏では?
240 :
日本@名無史さん:03/12/07 16:43
氏直って本当に今川の養子になったのかな?
養子の約束をしたからって、それだけで養子だとはいえないからぁ
241 :
日本@名無史さん:03/12/07 21:22
今日、ついに今川焼きつーか大判焼き食べたのよ。
昔は小倉とクリームと白餡の三種類しかなかったのに今はチョコだの紫芋あんだの
栗餡だのと、種類豊富でびっくり。
漏れが食べたのは、紫芋餡。
あったかくて美味しかったぁ、でもクリームが一番好きだ。
242 :
乱世の奸雄:03/12/07 21:25
見直そう今川義元
目指そう大河ドラマ。BY静岡県民
243 :
日本@名無史さん:03/12/07 22:11
>>239 堀越氏は瀬名家の分家で貞延の次男・貞基が
遠江堀越城に入って堀越を名乗ったが
花倉の乱で不穏な動きがあり、後に今川と北条が対立したために
義元の命令を受けた天野虎景に攻められて、一代で滅亡した。
堀越貞基の妻は北条氏綱の娘で、貞基の娘は瀬名氏貞と結婚している。
ちなみにこの堀越を「ほりごし」と読むのは間違いで「ほりごえ」が正しい。
244 :
日本@名無史さん:03/12/07 22:20
★☆★もうすぐクリスマス★☆★おまんこプレゼント★☆★
そうだな
永井路子「姫の戦国」を原作に大河化希望
246 :
日本@名無史さん:03/12/07 22:52
>>245 「姫の戦国」よりも今川家の評価を見直すなら
赤城駿介の「天下を汝に〜戦国外交の雄・今川氏真〜」の方がいいと思う。
氏真かっこよすぎ。
義元はもういちど再リターンで中村勘九朗で決まりで氏真はどうするかだな・・・
248 :
日本@名無史さん:03/12/08 00:01
>>248 イイ!(・∀・)
でも配役がみんな歌舞伎役者か狂言師になりそうな悪寒
250 :
日本@名無史さん:03/12/08 02:33
むしろ、了俊の大河ドラマぎぼーん!なんだが。
タイトルは「続・太平記」とかで。
251 :
日本@名無史さん:03/12/08 02:39
>>243 遠江堀越は「ほりこし」だろ?
堀越公方と混同してるんじゃないの?
>>251 すまん。混同してた。
遠江堀越の地名から名乗ったんだった。
間違い指摘ありがと。
253 :
日本@名無史さん:03/12/08 03:34
254 :
日本@名無史さん:03/12/08 18:47
鎌倉に遊びに行って今川焼き食ったよー
↑
まじで!?
今川焼き、スーパーの冷凍コーナー探してもどこにもなかった!゚・゚(ノД`)゚・゚
挙句に今川焼き購入して喜んでる夢まで見ちゃった・・・もうほぼ病気。
257 :
日本@名無史さん:03/12/08 23:11
258 :
日本@名無史さん:03/12/08 23:47
品川に遊びに行って品川焼き食ったよー
259 :
日本@名無史さん:03/12/09 00:12
260 :
日本@名無史さん:03/12/09 00:16
大文字山に登って大文字焼き食ったよ
261 :
日本@名無史さん:03/12/09 00:37
しばらくすると外のほうが何やらうるさい。
「敵兵ー!敵兵ーー!」って騒いでる。
なんだなんだなんだーとみんな騒然としたわけですよ。
外はもう雨もすっかりやんじゃって、またお天道様が光ってる。
さっきと違って視界もよく見えたから、彼らには遠くの方が見渡せたわけです。
ちょうど頂上から真下がね。で、彼は思わず目を見張った。
向こうから一斉にガァァーーと敵が上ってくるのが見える。ありえない。もう尋常じゃない。
カマドウマの死体のえさに押し寄せるアリみたいなもんでね。どんどん迫ってくる。
Iさん、思わず背筋がゾォーッとしましてね。嫌なもん見ちまったなぁ〜って思った。
そんであっけなく、周りは敵にやられちゃってるわけですよ。
家臣の方もワーワー叫んで、どれが自分の仲間なのか見分けつかないまま切っちゃってる。
四方八方に散らばりながら懸命に「敵だー敵だぁぁあ!」って逃げてる。みんな考える暇もないんだ。パニックで。
Iさんは必死に馬走らせて残りの家臣を引きつれた。ナンマンダブナンマンダブ、必死に唱えながら。
ところが誰かいるんですよ。前に。誰かがこっちをじぃ〜っと見ながら待ってる。
よ〜くよく見るとその男、どでかい槍を持ってるんですよ。
で、ものすごい形相でこっちに槍を突いてくる。Iさん、夢中でその槍を薙ぎ払ってそいつを切った。
その後ろから不意に誰かに首を捕まれたんだ。死角だったから顔は見えない。
だけど確かにそいつは耳元でこう言ったんですね。
「そんな事しても天下は取れないよ!」
それ聞いた瞬間Iさんうわぁぁぁあああ〜〜〜って男の指噛み千切っちゃった。
そのまま意識がすぅーーーーっと・・・こういう事ってあるんですね〜。
キムタクが演じた「瀬名秀俊」は「瀬名氏俊」からとったヨカーン
265 :
日本@名無史さん:03/12/09 15:59
>>263 違うよ。パラサイトイブの作者からとったんだよ。
266 :
日本@名無史さん:03/12/11 05:43
>>1 範国以前の今川家当主。
今川国氏 1243-1282
今川基氏 1261-1323
267 :
日本@名無史さん:03/12/12 01:19
今夜は寒い
あったか〜い今川焼きが食べたい(クリーム味希望じゃ。
268 :
日本@名無史さん:03/12/12 03:48
楠木正成「六波羅が破れたぞ」
楠木正季「兄上!」
楠木正成「うむ!」
恩智左近「殿ー!」
楠木正成「うむ!」
兵士「申し上げます。敵陣に乱れが出ております。我先にと逃げて行きまする!」
楠木正成「北条勢め。都が落ちたと聞き及び。・・・正季、大がかりじゃ。城を出る!北条勢を追い討ちじゃ!」
・・・・・
名和長年「何から何まで帝のなさしめたる快挙にてそうらえば」
後醍醐帝「それだけではあるまい。足利がたたねば、こうも早う六波羅は落ちまい。のう廉子!」
阿野廉子「噂通りの源氏の棟梁でごさいましたな」
渋川の話はしないのか?
それと、今川の元祖の兄貴(尾崎氏?)の話は?
270 :
日本@名無史さん:03/12/13 12:32
昨日は今川焼きを三つも食べてしまった
激馬でしたw
クリーム2つに餡子1つ、太るの嫌なんで今日は一食で済まします。
271 :
日本@名無史さん:03/12/13 22:57
今川氏がなぜあんなに簡単に崩壊したのか
理由を述べよ
272 :
日本@名無史さん:03/12/13 22:58
今川焼きは冷めるとまずいというのが最大の敗因
今川焼きは冷めると皮が硬くなる
肉まんも同じ。
あつあつほかほかが美味しいのよ♪
確か、背がちっちゃくて無口なのがお兄さん。
おいおい、それは中川家だろう。…って誰かつっこんでやれよ。
276 :
日本@名無史さん:03/12/14 13:32
〉271さん
1.桶狭間で将来を期待される重臣クラスが討ち取られ、
各家で跡継ぎ争いが始まった事ですね。その為、弔い合戦ができる状況ではなかった。
2.三国同盟の瓦解。氏真は桶狭間の後に北条の依頼で関東に援軍を送っています。
状況から考えて、人の世話をするほど余裕がなかったのに、援軍を送ったのは
三国同盟を氏真が重視していたと言う事。しかし、武田が破棄してきたことで
その戦略構想が敗れてしまった。
3.氏親や義元が一門との戦の末に家督を取ったのもあり、当主以外の
一門にはあまり強い権限を与えなかった。
その為、氏真にとって義元の雪斎のような頼れる一門がいなかった。
義元や雪斎は家康を将来の氏真の片腕に…と考えていた節も見られるが、
それも裏切られる結果となった。
4.兵農分離もできていないし、今川家は連合政権的な性格をもっていたので大名家
の力の強弱だけで左右される脆弱な基盤でした。
また、足利の名門という矜持もあり伝統を重んじる家風から、家臣の能力主義などの
大きな改革や幕府権威の否定、などができなかったと思います。
ゆえに将来的には生き残るのが厳しい家だったのではないでしょうか?
277 :
日本@名無史さん:03/12/14 15:16
今川焼きを自宅で手軽に作れる方法をどなたか知りませんか?
278 :
日本@名無史さん:03/12/14 15:23
ωαγατα..._φ(゚ー゚*)
280 :
日本@名無史さん:03/12/15 07:02
おやきと今川焼きって、どう番うの?
東京の今川橋で売られていたからついた名前なんでしょ?
281 :
日本@名無史さん:03/12/15 16:35
282 :
日本@名無史さん:03/12/15 18:44
>>276 4以外は同意。
4については、戦国初期の今川家は極めて先進的なので、それはないでしょう。
今川家は、氏親の家督相続の時点で、室町体制下の守護大名から、一挙に戦国大名へと脱皮している。
検地(差出検地だろうが)などは、今川領内では明応年間くらいには既に行われている記録があるし、能力主義を重視していないのならば、そもそも北条早雲なんかが重用されることはない。
幕府権威については、今川家歴代の当主は、自らが足利一門出身の貴種であることを領国支配に最大限利用している一方で、室町幕府に対しての認識は、他の大名と大差ないと思う。
つまり、利用できる部分は最大限利用するが、必要以上に持ち上げることもないだろう。
283 :
日本@名無史さん:03/12/15 18:46
むしろ、今川(そして戦国初期には今川とほぼ一体だった後北条)が先進的すぎたことが、周辺地域に刺激を与え、関東・東海地方に典型的な戦国大名を多く生み出すきっかけになったと言えるだろう。
284 :
日本@名無史さん:03/12/15 18:56
今川と同様に、越前朝倉氏にもマターリしたイメージを持つ人は多いと思うが、
今川にせよ朝倉にせよ、信長世代の1世代以上前には、
「先進的戦国大名として有名な大名」だった。
朝倉孝景が、門閥に依らない実力主義を打ち出していたことは有名。
実力主義ということは当主に実力がない場合、崩壊することを意味する。
285 :
日本@名無史さん:03/12/15 19:38
≫282
返答ありがとうございます。
検地について、大変勉強されているようですが、今川家の
検地は二つあります。
一つは増えた田畑の分を自己申告させ、その分は恩賞として与える場合。
もう一つは「領地争いが起きた時に仲裁役として」行った場合です。
太閤検地のように自分の税収を増やすため、という性質のものとは若干
違うようです。しかし、検地を実行したと言う功績は大変素晴らしく、
今川家の進歩的側面として見れます。
北条早雲の重用についてですが、彼は氏親の母の血縁で、
叔父にあたります。幕府政所の伊勢氏の出で、氏親の父が
上洛して京都に滞在中に伊勢氏を懇意になったのがきっかけ
のようです。
つまり、今川家の一族なんです。それも中央や鎌倉府にもある程度
物を言える…。
史実かどうかわかりませんが、山本勘助が今川家の仕官を拒否された
という例があります。
これは、他国のものが紛れ込んでいる危険性を憂慮したのかも
知れませんが、実力を重視する家なら、こういう逸話が本当か
どうかは別として残らないと思います。
「幕府を利用できる部分は最大限利用するが、
必要以上に持ち上げることもない。」
おっしゃる通りです。
しかし、そこが今川家の限界とも言えます。
どんなに幕府が衰退しようと今川家は自分がとって
代わろうとはしないと思います。
「管領を」「副将軍を」と言われれば畏まって
拝領するでしょう。
つまり足利幕府と命運を供にしてしまうんです。
286 :
日本@名無史さん:03/12/15 20:22
桶狭間で討死した重臣ってそんなたくさんいたっけ?
あとお家騒動ってのも。
287 :
日本@名無史さん:03/12/15 21:44
>>285 いくら伊勢氏の一族出身でも、氏親の母の兄弟でも、今川氏の一門を一番の貴種と考える当時の今川家中において、早雲が活躍できたことが重要。
それに早雲は、伊勢氏の一族とは言っても傍流だし。
今川義忠が死んだときに小鹿範満を擁立した今川一族は、氏親の外戚として早雲が発言力を増すことで、今まで今川一族が保持していた既得権益が脅かされるのを嫌ったから、と言う側面がある。
しかし、結局小鹿範満が滅ぼされたことにより、一門を頂点と考えるような門閥主義は崩壊している。
なお、早雲や氏親が歴史に登場する頃には、鎌倉府は既に組織としての実態を完全に失っている。
鎌倉公方足利成氏は既に古河に移った後だし、山内・扇谷両上杉も既に鎌倉をほとんど放棄しているような状態。
288 :
日本@名無史さん:03/12/15 22:14
≫286さん
ご質問ありがとうございます。
今川家では馬廻衆という当主直属の家臣団を形成しています。
その中身は1万石以上の重臣の子息や、1万石以下の武将ら
が多く参入しています。
連携感を強めて、将来の世継さんたちと結束を高める上でも、
また大名独自の軍事力を確保する上でも、いい制度だったのですが、
それらが桶狭間山に布陣した本陣で義元と一緒に討ち取られています。
これは、かなりの損失で、立ち直りに時間がかかったようです。
≫287さん
たしかに言葉足らずでした。すいません。
早雲が活躍できた理由に、血縁というだけでなく、氏親擁立に大きく
貢献したためもありますね。
今川家の恩人ですから一目置かれたのでしょう。
修正ありがとうございます。
また、鎌倉府ですが太田道灌が健在だった頃くらいまでは、ある程度
力があったのではないでしょうか?
「小鹿or氏親」の家督相続の時、太田道灌と上杉政憲(でしたっけ?)
が仲裁に来たという事実がありますよね?
(あの時、早雲が単身で話をつけに両陣に赴いたというお話もあります)
289 :
日本@名無史さん:03/12/15 22:20
鎌倉府というより関東管領の上杉に、でしょうか。
すいません。正直な所、鎌倉公方や関東管領については
今川家についてほど詳しくありません。
もし、鎌倉府・関東管領の記載事項に誤りがあれば
教えて下さいね。
290 :
日本@名無史さん:03/12/16 01:11
>288
>>289 古河公方も山内上杉も扇谷上杉も、自らの本拠地で勝手にやっているだけで、享徳の乱以後の鎌倉には政庁としての実態はほとんどない。
小鹿の件のときに、両上杉が介入してきたのは、関東の西隣に位置する今川の動向は関東(つまり彼らの勢力圏)に影響する可能性があるからだろう。
特に小鹿範満は母方が扇谷上杉なので、まず扇谷上杉が範満支持で介入し、これを牽制するために山内上杉も介入という図式だと思われます。
>(あの時、早雲が単身で話をつけに両陣に赴いたというお話もあります)
これは司馬遼の『箱根の坂』での創作だったように思いますが・・・。
291 :
日本@名無史さん:03/12/16 20:20
≫290
あ、小鹿は上杉の血縁だったんですね。
そういえば、そんな気が…。
〉司馬遼の『箱根の坂』での創作だったように思いますが
そうなんですか?司馬氏の本は読んだ事がないものでわかりませんが、
私は確か小和田哲男さんの著書で拝見しましたので、事実関係に
基づいた物と思っておりました。
今、手元に本がないのですが、後ほど調べておきます。
少々時間がかかりますが、お待ちいただけますか?
久しぶりに今川に詳しい方とお話が出来て、大変嬉しく思います。
最近はゲームや漫画しか知らないのに、戦国が好きとかおっしゃる
方々が大変増えて…。
ここの掲示板がなくならないように、他にも話題を作ってお話できれば
幸いです。
>>291 > ここの掲示板がなくならないように
掲示板をなくさないためには●の導入がいいそうです
>>291 >最近はゲームや漫画しか知らないのに、戦国が好きとかおっしゃる
>方々が大変増えて…。
別に、ゲームや漫画だけで戦国が好きになってもいいのではないか?
あなたがどうやって戦国を好きになったのかは知らないが
ゲームや漫画から戦国に興味を持ち始めるのもいいとおもう。
初心を思い出して欲しい。
どういうきっかけでも自分の興味がある分野が好きという人を大切にして欲しい。
294 :
日本@名無史さん:03/12/16 21:20
雪斎って今川と血縁関係ないよな?
庵原出身と聞いたが。
295 :
日本@名無史さん:03/12/16 21:41
≫292
●って何ですか?
すいません。
≫293
おっしゃる事、ごもっともです。きっかけは私も似たようなものです。
無礼な発言をしました事、心からお詫びいたします。
実は漫画等の今川義元像があまりにも、ひどく扱われているため、
それを史実と受け止めてる方が多く、「今川」と聞くと軟弱大名だとか、
あんな格好の悪い武将、「おはぐろ」と言われるのが正直つらいんです。
また「戦国時代ではサナダ十勇士が好き」とか言う人も近くにいまして…。
きっかけはいいですよ。漫画もゲームもいいですよ。私もそう思います。
でも、史実も勉強してくれれば、もっと嬉しいです。
≫294
雪斎長老は今川と血縁です。
手元に本などがないため、記憶違いかも知れませんが、
庵原左衛門尉の子息で母親は興津氏の出だったと思います。
296 :
日本@名無史さん:03/12/16 21:53
私は、
>>292-294ではないですが、今川氏に以前から興味がありました。
何故かと言うと、周辺国のキングメーカーになっていることと、
家康が幼少期に人質として過ごした大名だからです。
家康の人質生活が本当に暗く陰鬱なものだったとしたら、
わざわざ嫌な思い出の残る駿府を隠居所にしないような気がします。
むしろ、大名家の当主としての重圧のない長閑な時間を経験できたのではないか
と、さえ思ってます。(これは、勝手な自分の予測です。)
>>294 幸田露伴の今川義元には雪斎が義元の叔父だと書かれていますが、
何かの間違いだと思われます。
正しくは295さんの言うとおり庵原左衛門尉の子です。
庵原左衛門尉の家系は絶家となったようで、
由比忠任の次男・忠胤が庵原家を相続しています。
>>296 私も家康はかなり今川家に感謝してたと思います。
氏真とも仲がよかったようです。
人質なのに屋敷を与えられて鷹狩りまででき、
自由に過ごせたのは今川家だけでしょう。
後に家康が今川義元の墓の前を通る時は
馬から下りるように命じていますし。
>>297 あー、やはりそうでしたか。自分は独自ソースがないため、
こうじゃないかなぁと、勝手に予想してました。
なんか、TVでは母親にお忍びで会えたとか言ってましたし。
あと、雪斎が竹千代の教師を務めるシーンを漫画で読んだのですが、
こういう英才教育的なことは実際にあったのでしょうか?
このエピソードだけは、さすがに信じがたく、
雪斎が竹千代の知能・人格を直接試験して、主君たる器かどうか
チェックしていたのではと思いましたが。
299 :
日本@名無史さん:03/12/16 23:53
父親の広忠が横死したとき、岡崎を乗っ取らず、曲がりなりにも家康を保護したのは、当時の戦国大名にしては珍しいという話はあったな。
>>298 阿古居城で母親の於大とも会っています。
それに母親だけでなく家康は祖母の源応尼とも駿府で会っていますし。
>こういう英才教育的なことは実際にあったのでしょうか?
雪斎が家康を教育したという説ですが、
実際の雪斎は義元の軍師としての仕事の方が忙しく、
家康につきっきりで教育できたかどうかは信じにくいです。
おそらく雪斎よりも義元の母・寿桂尼や家康の祖母・源応尼らが
教育していたのではないかと思います。
それにもしも雪斎に人を教育する時間があったとしても
家康よりも氏真の教育をしていたような気がします。
ちなみに、雪斎の竹千代への教育シーンが出てきた漫画は、
ちゃんとした歴史偉人シリーズの「徳川家康」です。(多分、有名どころ)
読んだのが15年以上前で手元にソースがないので、
その歴史漫画の出版元などはわかりません。
家康が大阪攻めを成し遂げた後、
達観した顔で「終わった・・・。」とつぶやく、渋い漫画でした。
以上、雑談になってスマソ。
302 :
日本@名無史さん:03/12/17 00:42
303 :
日本@名無史さん:03/12/17 00:46
今川焼き
304 :
日本@名無史さん:03/12/17 00:46
305 :
日本@名無史さん:03/12/17 02:00
家康を単なる人質と見ることに疑問をはさむような研究者もいるからね。
当時の今川勢力下の国人領主のなかには、あえて当主本人やその嫡子を駿府においているような例もあるようだし。
306 :
日本@名無史さん:03/12/17 02:10
国人領主以上の子弟を対象とする、駿府に学舎をおく全寮制の学校。
小中高一貫校で専攻は帝王学。
・・みたいな感じなのか?と言ってみるテスト
307 :
日本@名無史さん:03/12/17 02:15
もうちーとがんばれ、小和田哲夫。
308 :
日本@名無史さん:03/12/17 07:20
>>305 国人領主の被官化とその城下町への集住政策ってか?
309 :
日本@名無史さん:03/12/17 07:45
>>295 少し話しがずれるが、お歯黒は義元に限らず多くの武将がしてたんだよな。勿論戦場でも。
勇猛果敢なイメージのある島津一門もしてたそうで、沖田畷の戦いの時の島津の将、島津家久もしてたという話しがある。
ただ、今川義元の文化かぶれぶりや愚かさを強調するために
彼だけが「戦場でお歯黒」を強調されただけ。
310 :
日本@名無史さん:03/12/17 19:33
≫296−309
291、293、295あたりを書いていた者です。
皆さんの良識あるご意見に大変感動しています。
家康は今川家滅亡後、氏真に対し駿河を返そうとしたり、遠江に
一城与えたり、後の江戸幕府でも優遇しています。
氏真にというよりも、やはり義元や雪斎長老に対しての恩義の
形だったのではないか、と思います。
特に300さん。とても良い読みですね。
確かに雪斎長老は家康につきっきりで教育してはいません。
月に数回です。しかし内容は濃く、家康に多大な影響を与えました。
普段は源応尼や臨済寺付きの僧が担当したようです。
人質というよりは留学とでも言っていいほどの優遇だったと
思います。
今川家の将来を考えれば、氏真にこそ雪斎長老を教育に当てる
べきでした。
311 :
日本@名無史さん:03/12/18 07:15
>>309 まあ演出みたいなもんだね。
>>310 >>氏真にこそ雪斎長老を教育に当てるべきでした。
人間の能力は生まれつきの部分も多いと思うけど・・・
312 :
日本@名無史さん:03/12/18 21:57
>>311 確かに生まれつきもありますが…。
環境が人を育てるという事もありますし。
でも、ホントに皆さん今川家の事にお詳しいんですね。
今度、臨済寺と連絡取る時、「ネットでは今川家を
こういう風に評価して下さる方々がいるんですよ」って、
お伝えしておきます。
>>312 臨済寺って一般公開していないんですよね?
今川範叙筆の「今川神廟」という額があるみたいなんで
一度、見てみたいのですが。
314 :
日本@名無史さん:03/12/19 06:31
>>313 臨済寺は雲水の修行の場所なので一般公開はしてませんから
難しいかも。
どこかのお寺で修行している人が座禅会で中に入る、とか
古くからの檀家さんとかなら…。
もしくは普段から色々と貢献して「この人は観光目的でなく、
本当に今川家のためにして下さる方なんだな」とお寺に
信用していただければ、あるいは可能かも。
私は臨済寺から非売品の「臨済寺の歴史」という書物や、
義元公の木像・厨子、雪斎長老の木像の写真などを撮って頂いて
もらったりしてます。
「今川神廟」の額ですか?
寺には今川義元公の霊廟がありましたよ。
右手の受付入口から階段を登って受付までの途中に霊廟への道が
ありました。
ダメもとで受付でお願いしてみたらどうですか?
/;;;;;;;;;;;;;\
/\;;::::::::::::::::::ヘ
/,,;;;;;;\.;;;;;;;;;;;;::./;ヽ
L::;;,__ ヽ、::..ノ;. ..:::ゝ__
//;;;;::::::.. ̄ ̄ ̄ ̄ ̄..::::;;;|l
|l l;;;;;;;;;;;;;:::::::::... ...:::::::;;;;;;|l
〔l lllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllll〕
/j/ ヾ、
l::||:::: |l
|/ ̄\ (●) (●) ||
r┤ ト::::: \___/ || 皆の者、蹴鞠は好きか?
/ \_/ ヽ:::. \/ ,ノ
| _( ̄ l―---oo-――'"ヽ__
| _)_ノ ハ // / |
ヽ____)ノ \// / |ヽ、∧
まあな。↓お前はどうよ?
317 :
日本@名無史さん:03/12/19 16:12
>>315 昨日は「今川焼き」ありがとうございました。
一生の家宝です。
318 :
日本@名無史さん:03/12/19 17:04
>>315 今日、学校でサッカーやったけど、
蹴鞠の方が絶対いいね!
319 :
日本@名無史さん:03/12/19 17:18
このスレは良スレと堕スレの間を行ったり来たりしてるな。
「今川焼き」というキーワードが、良スレ→堕スレのスイッチらしい。
320 :
日本@名無史さん:03/12/19 17:24
今川氏と六角氏の分かれ目はどのへんだろう
>>320 今川氏と六角氏は違う。
今川氏は清和源氏吉良の流れで
六角氏は宇多源氏佐々木の流れ。
六角氏は戦国時代に信長によって滅ぼされ、
その後、行方不明となったが
江戸時代に公家の烏丸光広の二男の子孫が六角を称して
二千石の高家となり、幕末まで続いている。
322 :
日本@名無史さん:03/12/19 20:37
吉良と今川の関係って、六角と京極の関係に似てない?
323 :
日本@名無史さん:03/12/19 20:43
324 :
日本@名無史さん:03/12/19 20:47
>>323 分家のほうが幕府に重用されてて本家の肩身が狭い点とか。
325 :
日本@名無史さん:03/12/19 20:55
でも315さんに悪気はないですよ。
違う今川家の掲示板で盛り上げて頂いてます。
326 :
日本@名無史さん:03/12/19 21:04
家康は京都より駿府の方がいい町だと思ってたみたいで、
隠居地も駿府だった。
この町を自分の物にするのが若いころからの夢だったのでは。
そんな町を作った今川氏は評価されるべきだと思う。
327 :
日本@名無史さん:03/12/20 04:05
>>326 そりゃ、静岡は京都よりよっぽど住みやすいところだよ。
京都は盆地で夏は蒸し暑く、冬寒い。雪が降る。内陸で魚介類まずい。京野菜は美味いらしいが。
静岡は夏は夏らしく、冬は温暖で雪が滅多に降らない。魚介類は大変美味い。
あと、静岡は戦略的にも良い場所。西にも東にもにらみが利かせられる。
そして東海道という東西交通の要所に位置していながら、大井川や富士川など、
大きな川で防衛がしやすい。
328 :
日本@名無史さん:03/12/20 04:08
ただし、当時は安倍川という暴れ川があったおかげで、
町並みはお世辞にも良いとはいえなかった。
今の静岡市の基盤は、家康の安倍川治水工事(天下普請)で
形作られたもの。
そして、当時は南の山脈が要害として必要だったんだろうけど、
今となっては決定的に平野部が狭く発展性に乏しいことが欠点。
愛知とか東京に行くと、平野の広さに驚く。
329 :
日本@名無史さん:03/12/20 05:06
>>322-324 分家が勝ち組になって本家が貧乏くじを引いた例。
吉良と今川
六角と京極
仁木と細川
小山と結城
大崎と最上
など
今川家は、明治時代、最後の当主に、男子がいたが、男子は、若くして、死んだため、今川家は、断絶した。本当かな?
331 :
日本@名無史さん:03/12/20 13:44
>>330 本当だよ。
>>230 にも書いたけど
最後の当主・今川範叙(国広、国寛、得多郎)には
嫡子・淑人(竜稚丸)がいたけど、明治五年(1872)の
6月22日に十八歳で病死した。
ただし、この計算では淑人は安政元年の生まれになるが、
範叙が結婚したのは安政二年なので、
新政府に元服願いを提出した時に誤って書かれた可能性が高い。
淑人の没後、今川家は明治二十年に範叙の死によって断絶し、
範叙は一族の菩提寺・長延寺に葬られた。
333!
334 :
日本@名無史さん:03/12/21 00:19
今川は葛山氏のような在地領主ばかりだから
駄目だったのかな
信長の国替え強制はすごく(・∀・)イイ!!
335 :
日本@名無史さん:03/12/21 16:52
葛山氏の立場はどうだったんだろ?
北条からも領地もらってたみたいだけど・・・・・
336 :
日本@名無史さん:03/12/21 16:55
義元は桶狭間布陣前に一度落馬してるって聞いたんだけど
その後から馬には乗ってないの?
>>337 落馬した後は輿に乗ったという事になっているけど、
その記述が出てくるのは江戸時代の軍記物で、あまり信用ならない。
また、義元が馬に乗れなかったというのも後世の創作。
「信長公記」には退却する義元が馬に乗っていた事が記されている。
義元が輿に乗ったのは、馬に乗れなかったのではなく、
輿に乗れるほど、今川家の家柄が高いという事を内外に示すためと思われる。
339 :
日本@名無史さん:03/12/25 05:34
でも、義元に貴族趣味があったのは、ある程度事実でしょ?
340 :
日本@名無史さん:03/12/25 06:06
義元程度の貴族趣味は、当時の戦国大名の基礎教養だと思うが。
341 :
日本@名無史さん:03/12/25 08:14
義元が貴族趣味なのは今川家が庶子は全員出家
というのが関係してるのでは
織田信秀なんかも蹴鞠やったり連歌やったり、
結構、貴族趣味だった。
>>340氏もいっているように、それが当時の基礎教養だった。
でも白塗りにゴマちゃん眉でもなかったんじゃ・・・
それも愚鈍さを浮き彫りにするための後世の創作?
何を信じたらいいのやら(´・ω・`)
>>343 現在残っている今川義元の木像や画像なんか見てもちゃんと眉があるでしょ
有名人物などの像など作ったりする時は実物よりカコ良く作らないと
いけない慣習とかってあったの?北の将軍様みたいに。。。
>>345 そうでもないみたいだよ。
吉良上野介なんか自分そっくりの木像作らせて、自分で着色してるし。
必ずしもそっくりってわけじゃ無さそうだけど
あの切れ長の目はちと怖いな
348 :
日本@名無史さん:03/12/26 02:31
義元はブッチャーに似てたと思う
ブッチャーって誰??(´Д`;)
350 :
日本@名無史さん:03/12/26 12:35
アブドラ・ザ・ブッチャー?
ブッチャー義元に改名すればいい
クリーム
353 :
日本@名無史さん:03/12/27 02:56
徳川駿府城を撤去して今川神社を建てるべきです
掛川城も氏真篭城時の木造平屋建てに戻しましょう
354 :
静岡観光協会:03/12/27 09:37
>>353 そんなんじゃ、観光客は呼べん。
よって却下。
富士山は観光名所の一つに入っているのですか?
静岡なんてわてらの霊園だよ。
357 :
日本@名無史さん:03/12/27 18:33
>>353 314で書いていた者です。
実は義元公を祀る方々の間で密かに今川義元公の慰霊碑を
建立する計画がありますよ。
私も参加の声がかかりました。
土地を買い取って、の計画なので費用がかかります。
その為、地道な努力ではありますが…。
個人的には2010年の5月19日が完成の予定だといいと思うのですが。
450回忌になりますし。
でも、それが観光の目玉にはなりませんね。
あくまでもご本人の供養と義元公を敬う個人たちの慰めです。
358 :
日本@名無史さん:03/12/27 18:56
>>357 思うに、静岡空港を新たに開港する以上、観光客を海外からもよばんとな。
しかし、やはり徳川幕府のせいだ。。。
なんで、静岡に藩をおかんかった。。。
359 :
日本@名無史さん:03/12/27 19:02
>>356 所詮通り道。。。
地理的にも歴史的にも
360 :
日本@名無史さん:03/12/27 21:09
大名系図スレで話題になってるんですが、
先日のクイズミリオネアの「次の戦国武将のうち、細川護熙元総理の祖先にあたるのは誰? A:今川義元 B:織田信長 C:豊臣秀吉 D:明智光秀」 って問題が出たのですが、義元と細川さんは血がどこかで繋がらないんでしょうか?
今川や縁戚の吉良と縁組をしている旗本や大名家もありますけど
361 :
日本@名無史さん:03/12/27 22:23
フジ「太閤記〜サルと呼ばれた男」では、
とりあえずバカ殿スタイルじゃなかったからマシという事で。
なあ、静岡にある東照宮ってのはなんなんだ?
家康祭ってんの?アレ。
>>362 むしろバカ殿は藤木信長のほうでは(ry
>>363 久能山東照宮は家康が一番最初に葬られた場所(墓)です。
>>360 今川義元の血筋からはつながらない。
吉良家も義叔の代で今川の流れは絶えている。
367 :
日本@名無史さん:03/12/28 00:45
今川家と織田家の間に養子・婚姻はなかったと思うが・・・。
少なくとも高家今川氏と高家織田氏との間に養子・婚姻はなかった。
369 :
日本@名無史さん:03/12/28 02:27
>>368 織田と今川の話ではなく、織田と細川という意味だと思うのだが・・・。
>>360から続く話題なんだし。
370 :
日本@名無史さん:03/12/28 03:00
氏真の血は 品川、西尾、吉良、能見松平に、吉良家を経て 荒川、一色、岡山、米沢藩 上杉、更に上杉家を経て、
陸奥福島藩 板倉、秋月藩 黒田、日向国高鍋藩 秋月家 等には入ってるんですが 他にもあるかもしれません。
吉良家とは酒井家、津軽家等も縁組をしていますが、子供はいないんでしょうか?
これらの系統が細川護熙さんの先祖の 宇土藩細川家、岡山藩池田家、佐賀藩鍋島家、伏見宮家、近衛家あたりと繋がらないかと考えているのですが。
371 :
日本@名無史さん:03/12/28 03:07
ちなみに細川さんは信長の子孫です。
織田信長ー五徳(織田信長娘)ー熊姫(徳川信康娘)ー本多忠刻ー勝子(本多忠刻娘)ー池田綱政(岡山藩主)ー池田継政ー池田宗政ー相良長寛(人吉藩主)ー相良頼徳ー相良頼之ー池田章政(岡山藩主)ー池田詮政ー博子(池田詮政娘)ー細川護貞ー細川護熙
372 :
日本@名無史さん:03/12/28 03:49
>>363 久能山東照宮は、家康の遺言により建立され、家康が最初に
埋葬された場所です。
東照宮の名前の由来は、久能山から東を照らすという意味です。
日光に移送したのは三代将軍家光です。
日光が派手なのは、家光の趣味です。
373 :
日本@名無史さん:03/12/29 01:15
>>371 勝子って、忠刻と千姫の間に生まれた娘だっけ?
374 :
日本@名無史さん:03/12/29 01:24
てことは
松平信康の血が入っているということは
徳川家康正室築山殿の血が入っているってこと
とりあえず今川氏とはつながってるわけね
>>370 どこかで繋がってそうだね。
津軽と近衛は何度か姻戚関係があったはずだが・・・。
376 :
日本@名無史さん:03/12/29 03:09
>>370 江戸時代の伏見宮家の正妻は、鷹司が少しあるほかは、皇女が多いから、つなげるのが難しそう。
近衛家は、江戸の後半期に島津家や尾張徳川家から妻を迎えて子供が産まれているケースがいくつかある。
377 :
日本@名無史さん:03/12/29 05:27
今川義元と護熙氏の繋がりが判明するのも時間の問題だな。
378 :
日本@名無史さん:03/12/29 06:21
今川義元ー時空警察ー細川元首相
379 :
日本@名無史さん:03/12/29 12:42
380 :
:日本@名無史さん:03/12/29 13:31
羽ノ浦町は今川家縁の土地よ〜。さて何県でしょう。
>>380 阿波阿波阿波阿波阿波、何の関係があるんですか?。
382 :
日本@名無史さん:03/12/29 23:27
>>379 >なお細川家の家中には武田太郎義信と今川義元の娘の子孫を「自称」する、岩間家が存在します。
大河の武蔵に出てきた岩間ナントカが武田義信の子?
383 :
日本@名無史さん:03/12/29 23:42
蒔田家(武蔵吉良家)って今川了俊の血が入ってる?
>>383 入っている。
瀬名家の分家・堀越貞基の子・氏朝が蒔田家(当時はまだ吉良姓だった)
の養子となっている。
ちなみに蒔田家は後に吉良宗家が断絶すると吉良姓に復姓している。
385 :
日本@名無史さん:03/12/31 03:19
どうして吉良家って、三河吉良と武蔵吉良の2家があるの?
どちらも足利一門だから、苗字が同じだと、紛らわしくないの?
苗字の由来になった地名は、どちらも愛知県の吉良町?
あと、四国の吉良は足利一門じゃないんだよね?
>385
四国の吉良は、長曽我部に乗っ取られたね。
明日の午前4時からNHKで富士山特集やるらしいよ
388 :
日本@名無史さん:03/12/31 12:06
>>385 四国の吉良は源為義流。
為義―義朝―希義―希望―希仁―(略)―宣直
=親貞(長宗我部元親弟)―親実(絶家)
389 :
日本@名無史さん:03/12/31 23:35
希義って実在の人物なの?
390 :
日本@名無史さん:04/01/01 00:04
希義はガチ。希望以下はちょっとあやすぃ。
ちなみに吉良は希義の長男隆盛の子孫という説も。
>385
土佐吉良氏は初め平姓。室町時代後期に源姓吉良氏が登場。
なわけで、室町時代に平姓吉良氏と源姓吉良氏が混同・詐称・後継などで家系統一が図られた可能性がある。
本山氏により吉良氏は滅亡し、本山茂辰は一時吉良氏を僭称した。
その後長宗我部氏出身の親貞が吉良氏を称し、没後は息子親実が吉良氏を継ぐ。
1590年の史料で長宗我部盛親が「吉良千熊丸」の名前で登場するので、盛親は元服頃まで吉良氏を称していたようだ。
>388
吉良氏は絶家してない。
親実の死後その家族は離散するが、子孫は町氏を称して久武親直の子孫とともに肥後細川氏に仕えている。
江戸時代後期に吉良氏か長宗我部氏に復姓しているはず。
ややスレ違いsage
392 :
日本@名無史さん:04/01/02 03:35
上野介義央は、西条と東条のどちらの吉良の子孫?
393 :
日本@名無史さん:04/01/03 00:19
>>392 吉良上野介は血筋からなら西条家の子孫。
しかし、上野介の先祖・義安は東条家に養子となっているため、
系図では東条家の子孫という事になる。
ちなみにこの義安の娘が今川範以の妻となり、
義安の嫡男・義定には範以の姉が嫁いでいる。
394 :
日本@名無史さん:04/01/03 04:30
応仁の乱当時の三河の状況
東軍方
一色氏(三河渥美郡守護、前三河一国守護)
東条吉良氏
松平氏など
西軍方
細川氏(渥美郡を除く三河一国守護)
西条吉良氏
戸田氏など
>>394 戸田氏って今川の遺臣か?
なんかいろいろいるんで(戸田一西、勝隆など)わけわかめ
396 :
日本@名無史さん:04/01/03 19:18
初詣の屋台で喰ったよ
(・∀・)ノ○
397 :
日本@名無史さん:04/01/03 19:29
1506年に今川氏親・北条早雲の連合軍が三河に侵入した際は、松平・戸田両氏が共同で撃退した。
398 :
日本@名無史さん:04/01/03 21:43
399 :
日本@名無史さん:04/01/03 22:58
桶狭間の戦いがなければ、大河ドラマの主役になれただろうに。
あまりにも過小評価されすぎ。
当時最強の戦国大名なのに。
400 :
日本@名無史さん:04/01/03 23:16
胴長短足お歯黒大名って
あまりな評価ぢゃ
401 :
日本@名無史さん:04/01/04 00:50
>>399 確かに織田信長の方は、似たような死に方(相手(義元→信長、信長→光秀)より圧倒的に優位に立てるはずなのに慢心で敗死。子孫がバカで大きく家を傾けてるところまで同じ。)してるのに、扱われ方が違いすぎるよな。
まあ、自分の代で手に入れた領地の規模は違うけどさ。
雪斎主人公なら大河もありかも。
胴長短足役は誰になる?
403 :
日本@名無史さん:04/01/04 01:52
【タトゥー語録 全板にコピペ推奨】
タトゥーがデンマークのラジオ局のインタビューで日本での騒動について訊ねられて
「日本は物ばかりが進化していて人間は成長が止まってるのよ。」
「うん。ステレオタイプの人間が多いのは確かね。」
「番組の途中で帰ったくらいで騒いでるのよ。笑っちゃうでしょ?」
「プライベートで日本へ行きたいか?答えはNO!よ。」
あと有名なインタビューで
「日本人は不細工ばかり(ぷぷぷ・・・)」とコメントしてましたね。この話はかなり話題になりました。
ロシアのラジオ局
「日本はどうでしたか?」
「街にはゴミが沢山落ちてて汚かったわ」
「日本人はなんか動物っぽくて嫌ね」
「全員同じメガネを掛けて、同じファッションでダサい。それに臭いから好きじゃないわ」
イギリスの雑誌
日本の印象について
「先進国と思って期待していったらがっかりね、街に歩く人は全員無表情で
気持ち悪い」
「日本人って歯並び悪いし背も小さいし、かっこいい人が全然いないわ
環境(空気)が悪いせいかしら 笑」
アメリカのラジオ
日本にこないだ行きましたね
「行きたくて行ったんじゃないわよ 」
「騒動って言うけど、あんな下手糞な子供じみた歌番組出れないわ」
「私たちは一流よ!日本人の2流3流の素人歌手と一緒にされるのが間違いよ」
日本での騒動について
「あの人達って、工業製品で小型化得意でしょ、だから心も体も小型化してるのよ」
「だって、みんな唾を飛ばしながら、同じ非難しか言えないでしょ 知能の無いロボットみたい」
>>401 しかし、今川家では義元の代に一番、領土が拡大している。
また、子の氏真も楽市や塩留、港を直轄領とするなど、
内政面や文化面で活躍している。
俺の希望としては
義元・氏真・直房の三代を主人公にして、
今川家が最盛期から衰退に向かい、高家となって再興されるドラマが観たい。
405 :
日本@名無史さん:04/01/04 23:16
太源雪斎が軍師でいたころが最盛期といわれているけど
具体的にどう最盛期だったのかな
406 :
日本@名無史さん:04/01/04 23:17
今川義元と大友宗麟はどちらのほうがよりアホなんですか?
407 :
日本@名無史さん:04/01/05 06:40
氏真は戦国大名としては無能だったが
江戸時代だったら、名君として名前が残っていたかもしれない。
氏真はアホじゃないよ。
戦国時代を生きるには、性格がまろやかすぎただけ。
410 :
日本@名無史さん:04/01/05 19:55
>>406 大友のほうがアホ。
今川は死の直前まで全盛期だった。
大友は生きながら飼い殺し状態に陥っていった。
氏真については絵とか資料とかあんまし無いね
>>411 絵もいくつか残っているよ。
俺は烏帽子かぶっている氏真の画像見た事ある。
今川の家宝のほとんどは武田信玄の攻撃で焼かれたけど、
資料は残っているみたい。
本になって出版されていないだけだと思う。
静岡や東京の方の寺とかにはあるみたいだよ。
義元が幕府を再興した後の2代目としてなら
氏真は適任なのかもね。
つか、義元に京まで進む気があったかは
しらないけど。
じゃあ、力量的には「氏真=秀忠」って感じ?
単に尾張を統一しようとしたのか、将軍職を貰いたいから京へ行こうしたのか。
出陣前に西へ進軍しようとした理由は説明しなかったんでしょうか。
>>415 義元では将軍職には就けなかったと思われる。
いかに義元が天下の副将軍で公方が絶えれば継げるという家柄でも
足利義輝には弟もいるし、血の遠さから義元が継ぐ事はできなかっただろう。
義元の尾張侵攻には三つの説が出ている。
一つは織田家を滅ぼして、尾張一国を統一する事。
二つ目は敵に囲まれた鳴海城と大高城の救援。
もう一つは未だに反抗勢力がある三河の諸豪族を大軍をもって
服従させようとしていたという説。
信長公記や三河物語には「上洛」という言葉は出ておらず、
義元自身の書状や軍令などにも京へ上るという文字がないため、
最近では義元が上洛しようとした説は否定されている。
>416
今川幕府とは書いていないよ。
あくまでも再興。
俺も上洛には否定的なんだけれど
そうなるとなんで氏真なんだろうねぇ。
他の子がよほど酷かったのかな?
>>417 ごめん、勘違いでした。
今川家でも長子相続制があったと思われます。
長男以外の男子は全員、出家させられていますし。
氏真には弟が二人いたけど
一人は喚英長応(かんえいちょうおう)という人物で、
長延寺と萬昌院の開山です。
長延寺も萬昌院も後に今川家の菩提寺となっていて、
現在は長延寺に長応の開山塔が残っています。
しかし、記述などで不可解な部分も多く、
氏真の弟でないという説もあります。
もう一人の弟は一月長得(いちげつちょうとく)
一月長得(?〜1634)h長延寺で修行し、後に萬昌院の開基となり、
氏真夫妻の葬式もすべて彼が行いました。
墓は萬昌院功運寺にあります。
氏真も調べてみたら、言われているほど
暗君じゃないし、治世はよかったと思うよ。
領民にも楽市令や薬を振る舞ったりしてるし。
419 :
日本@名無史さん:04/01/06 04:32
戦国ものの時代劇の今川義元を見て思うのだけど、義元はどうして公家みたいな長い烏帽子を被っているのですか?
武士だったら、折れ曲がったやつを被るべきでは?
てか、そもそも武士が日常的に烏帽子を被らなくなったのっていつ頃から?
420 :
日本@名無史さん:04/01/06 05:51
>>419 義元は、公家風の格好をして化粧をしていたから。
最近の時代劇は、お公家さん役が化粧をしないけど、
昔、NHKで中村勘九郎が義元役をやったときは、しっかり鉄漿していた。
421 :
日本@名無しさん:04/01/06 07:40
>416
あの1560年5月の軍事行動は尾張奪取が目的だったと思う。その理由は2つある。
一つは尾張国が軍事的に重要だった事。義元というと駿遠三100万石の大名というイメージ
があるが、実際は70万石程度だった。これに対して尾張は国そのものは狭いが、
57万石もあった。これは当時兵農分離が進んでいなかった時代においては軍事力を
強化するという意味でも義元に意識があったとおもう。もう一つは尾張国が今川家
代々の本拠地駿府と同じ、商業が盛んだったことが挙げられる。
つまりは尾張は義元にとって軍事・商業的にかなり重要な国だったのだ。実際、信秀
が死んだ後(死亡年は1549,51,52と3説ある)義元は織田方の武将(一番有名なのは
山口親子)を寝返らせたり、尾張にスパイを放ったりしている。その結果、信長が
一族と争っていた間に尾張の一部(知多・海西郡など)を占領したり、まだ自分の
支配下にない地域においても、清州城に近い城や砦に兵を入れたりと尾張国の蚕食
に取り掛かっていた。そして、1559年に信長が最後の敵対一族信賢を討って、
義元の支配下以外全て統一した直後に一族との争いで疲れていた信長に力を蓄積
させないよう狙って軍事行動を起こしたと思う。
>418
それはその通りだと思う。ただ氏真には義元のような戦国時代を生き抜く
リーダーシップや人望が欠けていたと思わざるを得ない。それでも義元敗死後
なお国を8年保てたのは結果的に国を奪った信玄と家康がそれぞれ、川中島と
三河の一向一揆があり、手を放せる状態ではなかった事が原因だと思う。
>420
中井貴一主演の大河ドラマ「武田信玄」の事でしょう。
「武田信玄」の義元もそうだけど、時代劇ものに出てくる義元は
みんなお笑いキャラだね…悲劇の人物なんだけどそうは思えない(´・ω・`)
423 :
日本@名無史さん:04/01/06 10:27
島津が天下取ったら竜造寺が・・・
私は無学な
コピペ野郎です
425 :
日本@名無史さん:04/01/06 11:39
あの後、氏真がすぐさま兵をまとめて尾張に攻め込むべきだったな。
兵力はほとんど変わってないんだから、織田を討ち滅ぼして
武名を上げると共に、家中の支配力を強化すべきだった。
代替わりは大胆な再編成を行うチャンスだったんだから、
織田は滅ぼしたかったね。そうすりゃ、三国同盟も
存続しただろうし、伊勢、美濃方面へのチャンスも出てくる。
氏真が無能と言われるのは、しょうがないかもな
>>419 義元が公家のような格好ができたのは、それだけ家柄がよかったから。
後の江戸幕府高家も旗本でありながら、
狩衣を着て、輿に乗る事も許されていた。
>>425 義元が死ぬ前と死んだ後では、兵力、志気、武将の状態が全然違う。
桶狭間山の戦いでは、義元だけが討たれた訳ではなく、
由比正信、三浦義就、井伊直盛、松井宗信など
多くの今川の重臣や城主が戦死している。
また、桶狭間山の戦いがあったのは今の暦なら、
6月で田植えが終わったばかりの時期であり、
兵農分離ができていない当時、もう一度、大軍を率いる事になると
今川家の収入に大きな支障がでていた可能性が高い。
それに総大将が討ち死にして、逃げ帰ってきたのだから、
武将達の戦意もかなり落ちていたはずである。
当時の氏真としては領国の建て直しで手一杯で、
とても義元の弔い合戦などできなかったと考えられる。
427 :
日本@名無史さん:04/01/06 12:35
>>426 なるほど。説得力ありますね。
しかし、だからこそあえて織田を討たねばならないのではないでしょうか。
そこを乗り切り、もう一度いくさをするんです。
たしかに苦しいかもしれないけれど、織田を滅ぼすくらいの兵力は
あったと考えられるでしょう。実際に松平などが寝返るのは
わずか数年後のことですし、急いで敵討ちをする必要はあったのでは?
少なくともポーズくらいしといた方が…。
話は変わりますが、桶狭間の時の遠江はどのような
位置づけをされてますか?完全に今川の分国ですか?
それとも三河・尾張のような属領?氏真遠江積極移転なんてのは
メリットないですかね?
428 :
日本@名無史さん:04/01/06 17:30
>>427 遠江は、永正年間くらいに既に今川が一国守護になっている。
429 :
日本@名無史さん:04/01/06 17:46
16世紀初頭ですか。50年もありゃけっこう今川化してたんでしょうな。
なら、移転しても地盤は大丈夫そうですな。
ただ、実際には武田が怖くて無理ですよね・・・
三河に一門の松平、駿河にも一門の誰かを配して
尾張を完全に獲りにいきたひ。まさに氏真の野望。
楽市やる先進性があるんだから、もうちょっと頑張れば
何かできたよね。
>425
義元は未だしもね。
>427
426さんのように裏切らせないうちにすべきだったかも、弾除けに
もちろん松平を使う。
そうすれば武田も攻めてこんでしょう。
>429
楽市って信長じゃなかったの?
今川は信長より先に楽市やってる。
>431
それは意外だった。
ヤク市ヤクザ
今川家では楽市だけでなく検地も行われており、
年貢は4公6民を守っていたから、領内で一揆は起こっていない。
また、氏真は鷲頭法華堂などの寺院勢力に対し、
懐柔政策も行っており、一向一揆に対する対策もしていた。
その他、海賊衆を編成して駿河の港を統治させ、
そこから税を取ったりもしている。
信長が楽市を行うのは氏真の後。
>>429 駿河には港があり商業も活発で、
京都から逃れてきた公家衆も暮らしていたから、
遠江に拠点を移すのは難しかったかも知れません。
三河に松平をおいたとしても、松平一族内で同族争いがあったり、
今川に従わない諸豪族が、まだいたので不安定だったとも言えます。
義元が大軍を率いて西を目指したのも、
この諸豪族を降伏させる威圧のためだったとも、言われていますし。
>433
面白い。
>434
へー、氏真って案外優秀だったんだ。
436 :
日本@名無史さん:04/01/06 21:57
楽市は六角が最初
最初に424は私ではない。人の意見に聞く耳もたない人間の戯れ。
>428
1508年には氏親は幕府から遠江守護に命じられており、9年後の1517年には
完全平定に成功してる。三河についても、それ以前の1506年に叔父の北条早雲
と共に既に出兵している。なお、早雲というと、戦国大名のはしりとして名高いが
氏親に対しては生涯忠実な一家臣だった。
氏真は治世の名君であって
乱世では無能と言われても仕方がない。
でFA?
別に名君じゃないでしょ。
雑誌か文庫なんかの出版物か
それをそのまま乗せたHPを
コピペしました
私はアフォです
441 :
日本@名無史さん:04/01/07 01:08
>>430 >楽市って信長じゃなかったの?
もう少し勉強しましょう。
楽市は信長だけの専売特許ではありません。
>>434-435 今川家の検地(差出だろうが)は、明応年間くらいから実例がある。
氏真個人が優秀というより、戦国初期の今川家がかなり先進的だったというべきだろう。
>>437 1506年の今川・北条の三河侵攻は失敗している。
442 :
日本@名無史さん:04/01/07 01:16
半分ネタとして聞いてやって下さい。
今川は忍者持ってたの
443 :
日本@名無しさん:04/01/07 17:49
>438
氏真は平和な時代なら風流な文化人大名として、平穏な人生を過ごせたかも
しれない。しかし、簡単にいえば、信長包囲網を仕掛けるなど実行力のあった
足利義昭と同じで生まれた時代が悪かったと思う。でも、三国志の劉禅などみたいに
時の支配者の庇護の下で長寿を全うできただけまだずっとよかったのかもしれない。
>441
それは今川が守護大名から戦国大名への転向の成功要因の一つと見る事ができる。
正確にいえば、北条は早雲の時代はまだ自分自身を北条氏とは名乗っていませんが。
(名乗ったのは氏綱以降。記憶が正しければ、1522年ごろ)
>442
尾張奪取にあたって、あるHPでは忍者を使っていたのではないかと書いてあったけど、
実際はどうだったのでしょう?しかし、義元の信秀死亡後から桶狭間までの
対尾張戦略は用意周到なものだったため、(これは義元に限った事ではないけど)
もしかしたら使っていたのかも?
>>438 氏真は武田包囲網を作っていました。
上杉謙信の秘書官・山吉孫四郎のもとに書状を送り、
武田が駿河へ攻め込もうとしたら、
背後をついてくれるように頼んでいます。
また、後に氏真を中心として今川・北条・上杉の三国同盟も締結され
北条氏康の子・景虎が謙信の養子となり、
北条氏政の子・氏直が氏真の養子となっています。
しかし、武田信玄は上杉の動きを封じるために、
越後の豪族・本庄氏に謀反を起こさせ、
その間に駿河に攻め込んだのです。
掛川開城後も今川・北条・上杉三国同盟は効果があったようで、
氏真とともに相模に移った朝比奈泰朝も
相模から上杉に当てて、援軍を要請しています。
>444
1561年に上杉謙信が関東出兵したときには氏真は武田と共に北条氏康に援軍を
送っている。桶狭間で父義元や他の武将たちが戦死した直後だった事等を考えれば、
さっき、「氏真は生まれた時代が悪かった」と言ったけど、やはり、彼は
「無能な武将ではなかった」という事ですね。それ程の余裕があるなら、なぜ
父の弔い合戦をしなかったか疑問に残るところですが。そうした気概ある所を
見せれば、家康に父の仇敵と結ばれるなんて事は起こらなかったのではない
でしょうか?
446 :
日本@名無史さん:04/01/07 23:09
氏真が無能じゃなかったらしい、というのは何となく分かった。
でも、実際に滅びた。じゃあ滅びた理由は?
>>446 武田騎馬軍団で武名を轟かせていた武田信玄と
松平氏復興を旗印に勢いのある徳川家康に同時に攻撃を受け、
また、武田に寝返る者が多く、賤機山城を占拠されてしまった事で
駿府館で戦う事になり、
当初、賤機山城で籠城し、北条氏政の援軍を待つ作戦が
大きく崩れてしまったから
449 :
日本@名無史さん:04/01/07 23:54
450 :
日本@名無史さん:04/01/08 00:09
武田騎馬軍団なんて存在しなかったという話は
もはや常識ではないかと思うのだが・・・。
451 :
日本@名無史さん:04/01/08 00:12
なかったにしても、武田信玄が当時、
勢いがあったのは変わりないと思うが
452 :
日本@名無史さん:04/01/08 00:23
援軍などおつきあいで送っただけだろ。
上杉との同盟にしてもあたりまえすぎて評価に値しない。
このスレで人気の楽市にしても、氏真のオリジナルではないし、
今川家の先進性を考えればねぇ。
今川時代の行政官僚って有名な人いるか
>>453 天文中期頃から重臣になった三浦備後守正俊。
三浦正俊は氏真の守衆頭人となり、後に奏者に出世している。
正俊は氏真の荷物などを管理し、その荷物を運ぶ時には
正俊の判が必要とされた。
また遠江の一部の支配を委任されていたという説もある。
オオサンクス。ついでにもう一つ聞くと
一門衆(瀬名・関口・蒲原など)の中で一番有能だったとおもわれる人は誰だい?
主観も交えて頼む
456 :
日本@名無史さん:04/01/08 20:18
一門の堀越氏の子孫は、蒔田氏(武蔵吉良氏)の養子になって、ちゃっかり近世大名になってます。
457 :
日本@名無史さん:04/01/09 01:21
>456
世田谷吉良氏は
近世大名じゃないだろ
>>455さんは内政とか行政面で有能と思われる一門という事なんでしょうが、
今川家では今川仮名目録を当主自らが決めた事もあり、
あまり一門衆に活躍する機会がなかったのかもしれません。
有能といえるかどうかは資料が少ないのでよくわかりませんが、
一門に関口氏広の子・氏心(うじむね)がいます。
彼は林崎甚助重信に剣術を習い、長崎で中国拳法を習得して
関口柔術を開いて紀州徳川家に仕え、
氏心の長男・氏業も剣術の流派を開いています。
また、今川義元の弟と伝わる氏豊の孫・氏明は
氏真とともに上洛(もしくはすでに上洛していた祖父のもとにいたか)
して、氏真が信長に接近していた時に
信長の家臣となり、本能寺で明智軍から主君を守って討ち死にしています。
>>456 世田谷吉良蒔田氏は高家になってますね。
後に吉良宗家が断絶すると吉良に復姓しています。
吉良家は吉良義央で断絶しただろ・・
ハッ「よしなか」という名前は良くないのか?木曽義仲もそうだし
まぁ歴史に名を残してるから良しとするか
>>459 吉良上野介義央を「よしなか」と読むのは間違い。
「よしひさ」が正しい。
本人の書状に「義久」という署名があったり、
菩提寺の萬昌院功運寺でも「よしひさ」とフリガナがうってある。
ちなみに吉良家は義央の代で断絶したのではなく、
義央の養子・義周の代で断絶している。
江戸幕府高家であれだけ有名になったのは彼だけだろう。
461 :
日本@名無史さん:04/01/09 10:00
おもしろいことに義央・義周の吉良家が断絶したあと、
蒔田家(世田谷吉良家)が吉良に復姓して名跡を継いでいるんだよね
462 :
日本@名無史さん:04/01/09 10:45
>>460 >本人の書状に「義久」という署名があったり
ならば名前は義央ではなく義久が正しいことになる。
また、だからといって義央を「よしひさ」とよむことにはならない。
463 :
日本@名無史さん:04/01/09 10:53
464 :
日本@名無史さん:04/01/09 11:15
諱の場合、漢字だけ決まっていて読み方が決まってないケースもままあるからなあ。
女性だとそういう例が珍しくないんだよね。男性でそういう例があるのかわかんないけど。
>>462 義央を「よしひさ」と読む事は元禄年間に編纂された
易水連袂録にも記されている。
>>461 吉良家の名跡を継いだとされる家系は二家あって、
一つは蒔田家でもう一つは義央の弟の子孫・東条家が吉良に復姓している。
やべえ、吉良スレになってるw
今川家と協力した吉良家はいねーのか歴史的に
>>466 吉良義弥なんかは従兄弟・今川直房の姉を娶っており、
高家の職務でよく一緒に名前が出ている。
徳川将軍の将軍廟参拝なんかでは太刀の役、衣紋の役などを勤めている。
また、義弥の子・岡山弥清は父の従妹である品川高久の娘を娶り、
その間にうまれた子・氏堯(うじなり)を今川家の養子にしているため
江戸時代の吉良・今川は親族として仲がよかったと思われる。
また、吉良家の菩提寺もこの俗縁によって、
今川氏真の弟・一月長得が開基の萬昌院に移されている。
>>455 新野式部少輔:武田氏との薩土+垂峠の戦いに大将として出陣
新野左馬助親矩:永禄五年(1562)氏真に殺された井伊直親の遺子万千代(のちの直政)を養い
永禄十七年(1564)氏真に背いた引馬(のちの浜松)城主飯尾連竜を討った合戦で討ち死に。
〜いずれも駿河今川氏の一族で遠江新野(新?)城主〜 部将らしいな
469 :
日本@名無史さん:04/01/11 17:51
徳川四天王の井伊の親父は徳川への内通を疑われて殺されてるんだよな
裏切り→混乱 裏切り→混乱 で三河遠江失って
武田信玄のクリティカルヒットで死亡
>>458 今川孫二郎か。サンクス。見落とすとこだった
471 :
日本@名無史さん:04/01/24 01:35
472 :
日本@名無史さん:04/01/24 04:11
>>458 その孫二郎が氏豊の子というのはどこからくる話しなの?
氏豊は城を奪われた後、娘を頼って京に落ちたらしいけど…
473 :
日本@名無史さん:04/01/24 05:07
栗あんの鯛焼きを昨日食べたらおいしかった。
今川焼きも好き。
俺は冷凍物の今川焼きをそのままバリバリ食う
解かしながら食うと (゚∀。)ウマーイ
475 :
日本@名無史さん:04/01/24 08:35
476 :
日本@名無史さん:04/01/24 21:27
477 :
日本@名無史さん:04/01/24 21:28
アイスどら焼きも市販してるしね
新しいお菓子かもしれない
478 :
日本@名無史さん:04/01/25 00:12
大判焼きカスタード食った。
うまかったよ。
系図纂要か…w
480 :
日本@名無史さん:04/01/28 01:33
,,,,,..
( ´-`)
つ つ ○<今川焼きウマ−
ομο パクパク。
熱いお茶と一緒に食べるとおいしいんだよねー。
481 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/01/28 11:59
( ´-`)
つ つ ○<今川焼きウマ−
ομο パクパク。
482 :
日本@名無史さん:04/01/28 14:51
( ´-`)
つ つ ○<今川焼きウマ−
ομο パクパク。
483 :
日本@名無史さん:04/02/03 00:42
>>472 氏豊が頼ったのは娘じゃなくて、妻の斯波氏という説もある。
484 :
日本@名無史さん:04/02/03 12:35
斯波氏って当時京にいたの?
485 :
日本@名無史さん:04/02/03 22:17
( ´-`)
つ つ ○<今川焼きウマ−
ομο パクパク。
あんまり詳しく知らないけど、雪斎義元の威光が大きすぎたんじゃないか?
それで家臣をまとめきれず...義元自身討死するとは想像してなかったろうし...
487 :
日本@名無史さん:04/02/13 16:13
( ´-`)
つ つ ○<今川焼きウマ−
ομο パクパク。
488 :
日本@名無史さん:04/02/14 13:01
__
/::::ヽ、
/ヾ:::::::::::i
l;;;;;;;ヽ;;ノ:l
|l;;;;;;;;;;;;;;;;;;}
〃 ヾ
||| (● (●||
ヾ::.... ∀ ..;;ノ お世話になった人に今川焼きを贈ろう!
__/`ー-oo-‐'"ヽ___
「 ヽヽ ハ / / |
/^| \\ / / |ヽ、
489 :
日本@名無史さん:04/02/14 22:13
痛快! 石原都知事と日本を斬る(前半)2000/8/8
http://www.singu.com/tunahiki/nippon/isihara1.htm ●天皇の前で恥をかいたブッシュは大統領選に落ちた
竹村 天皇というのは本当に忙しいのよ。それが違う場所にいて、いつもいつも
出かけないといかんといったら、病気になるよ。
石原 まさに“人間・天皇”なんだから。しかも皇居をニューヨークのセントラル
パークのように開放しろとか、訳のわからない論調まで出て、滅茶苦茶だよ。
竹村 天皇制はいらないという人にいっておきたいけれど、外国のトップにとって、
日本にくる価値は天皇に会えるという、その一点なのよ。フォード大統領が訪日し
たとき、天皇に会って震えたというくらいだからね。
2000年も続いた伝統というのは、地球上を探しても日本にしかない。どこにも
ないユニークな、世界に誇れる、そして外国の元首が会いたいのが天皇陛下なんだ
から。それなのに天皇が首都にいないで、遠いからたまにしか会えないなんてこと
になったら、誰も日本にきてくれないんじゃない?
石原 アメリカ人が関心を持っているのは日本の皇室だよ。ブッシュが大統領選を
落ちたのは、それも原因のひとつなんだ。湾岸戦争で、日本だって大変な貢献を
していたことをあいつは知っていたくせに、「日本は何もしなかった」と偉そうに
いいやがって、それが、ニュージーランド、オーストラリア、タイ、フィリピンを
歴訪して、日本にこざるを得ない状況になった。それで最後の日本の宮中晩餐会で
ゲロ吐いた。
このとき、皇居なんてめったに入れないから、CNNがずっと放映していたのよ。
観ていたアメリカ人に聞いたら、みっともねえな天皇の前でと思っていたら、
黒人の護衛官が天皇の前でテーブルを跨いで飛び込んでブッシュを抱えた、と。
何という非礼な、ブッシュはアメリカを代表して恥をかいたという認識を、
アメリカのインテリは持ったというんだ。それで、やはり歳を取ったヤツは
ダメだといって、クリントンなんて訳のわからないヤツが出てきた。
今はむしろメロンパン
むしろ明治帝も好んだアンパンだろ
492 :
日本@名無史さん:04/02/15 11:22
大阪市東住吉区に今川と云う川が流れている
川周辺には今川、西今川という地名もある
近鉄線には今川駅もあり、今川小学校、今川公園というものある
当然の事ながら、今川焼きもある
こここそが本家本元の今川焼きじゃないの
静岡の今川焼きはここに住んでいた、今川が静岡へ行って
広めたんじゃないの?
493 :
日本@名無史さん:04/02/17 14:26
近畿での六角のように在地領主が強大化した後では大名権力は弱い
その点今川や織田は微妙な位置に国があってよかった。
武田や北条なんか論外ですな
竹やり持った文盲土豪の群れでしょうね
494 :
日本@名無史さん:04/02/17 22:04
>>492 今川焼きは東京の神田の方?(だったと思う)の今川橋が由来じゃないの?
アンパンマン市ジャムおじさん区にメロンパン川と云う川が流れている
川周辺にはメロンパン、西メロンパンという地名もある
アンパンマン線にはメロンパン駅もあり、メロンパン小学校、
メロンパン公園というものある
当然の事ながら、メロンパンもある
こここそが本家本元のメロンパンじゃないの
静岡のメロンパンはここに住んでいた、メロンパンが静岡へ行って
広めたんじゃないの?
496 :
日本@名無史さん:04/02/17 23:44
メロンパンスレに今川焼きのことなぞ書くほうが悪い
|;;;;;;;;;;;;;;;|
_|;;;;;;;;;;;;;;|_
,r';;;;;;;;;;;;;;;;;;ヽ
| ̄ ̄ ̄ ̄`'i まあ、落ちつけ
r't ー-、, ,、-- |┐そんな時こそお焼きの出番じゃ
|`| ー-,':. -‐ |''|
l .| ム,,、 | .l
`''l ,―‐、 !'"
,、イ^ヽ、,___,、-゙ソヽ_
499 :
日本@名無史さん:04/02/21 23:31
よしきた! 合点!
焼き饅頭市ミートパイ区にお焼き川と云う川が流れている
川周辺にはお焼き、西お焼きという地名もある
パンケーキ線にはお焼き駅もあり、お焼き小学校、
お焼き公園というものある
当然の事ながら、お焼きもある
こここそが本家本元のお焼きじゃないの
静岡のお焼きはここに住んでいた、お焼きが静岡へ行って
広めたんじゃないの?
すまん。オリジナルと見比べて書き直した。
焼き饅頭市ミートパイ区にお川と云う川が流れている
川周辺にはお、西おという地名もある
パンケーキ線にはお駅もあり、お小学校、
お公園というものある
当然の事ながら、お焼きもある
こここそが本家本元のお焼きじゃないの
静岡のお焼きはここに住んでいた、おが静岡へ行って
広めたんじゃないの?
ウナギパイは三河かな?
夜のおかし♥
|;;;;;;;;;;;;;;;|
_|;;;;;;;;;;;;;;|_
,r';;;;;;;;;;;;;;;;;;ヽ
| ̄ ̄ ̄ ̄`'i
r't ー-、, ,、-- |┐
|`| ー-,':. -‐ |''| い、いかん、洋菓子に負けそうな勢いじゃ
l .| ム,,、 | .l
`''l ,―‐、 !'"
,、イ^ヽ、,___,、-゙ソヽ_
504 :
日本@名無史さん:04/02/22 21:32
クリーム
クレープ
ワッフル
お菓子系
今川焼きは義元焼きの方が
いいんではないか
義元焼きに改名して果たして縁起の良いものかどうか…
程良く冷えた今川焼きに穴を開け
ぷすりと刺して自家発電。
by唐沢商会
508 :
日本@名無史さん:04/03/13 12:55
たい焼き
509 :
日本@名無史さん:04/03/13 13:13
上洛の人だね? ほんとに上洛できたのかな? とっくに議論終了してんのかな?
はい。
天下の覇権を目指して一路上洛する途中
狭い谷間で奇襲攻撃を受けて死にました。
そうだったノカー
(AA略)
それでも今川は好きだな
いや、敗れたから好きなのかもしれんが
いや、上洛なんて一度も試みていない。
今川焼きの話題が出ると、途端にクソスレ化するね
単に近隣にあった尾張を治めて置きたかっただけなんでわ
>510
奇襲つか強襲じゃねぇ?
今川スレもすたれたもんだ
518 :
日本@名無史さん:04/04/02 17:39
519 :
日本@名無史さん:04/04/02 21:22
すたれていても、途中のわけの分からないヲタ同士による
不気味で密室的な盛り上がりよりはマシ。
流石に、知名度が低い名門はすたれていくわな
知名度は高くないか?
信長のおかげだけれど
今川仮名目録って習わなかったっけ?
一応、名前だけは知ってるけどね
内容はまるで知らない
静岡県民ですら今川家を知らん人が沢山いるんじゃないの?
527 :
日本@名無史さん:04/04/09 23:04
静岡県民ですら今川家なんか眼中にないんじゃない
ちびまる子の方が遙かに有名。
富士山>ちびまる子>>>次郎長>>>>>>今川
こんなところか?
なぁ、そんな今川を有名にしようよ。
大河で放送するしかないんでわ
前田利家も唐沢で知名度上がったし
年の暮れに討ち死に・・・
もしくは息子が国を滅ぼす・・・
憂鬱な大河だな。
「彼の死が新時代の幕を開けた」
とかまとめれば良いのかな?
やっぱり憂鬱だ・・・
533 :
日本@名無史さん:04/04/16 14:54
むしろ今川氏真の流浪人生に絞った物語にして、最後は品川で
のんびり老後を過ごすマターリした話でしめる、と。
534 :
日本@名無史さん:04/04/16 22:27
義元=成田三樹夫
氏真=林与一
じゃあまりにも人相悪すぎ。
せめて
義元=角野卓造
氏真=えなりかずき
くらいにしろよ。
名門今川家も明治20年に絶えた・・・
「桐・今川三代」とかいう題名で
義元・氏真・直房の栄光〜没落〜再興を描いて欲しい。
537 :
世界@名無史さん:04/04/18 02:43
清和源氏age
陽成源氏sage
539 :
日本@名無史さん:04/04/26 23:16
大阪市東住吉区の今川焼きを食べに来てくれ
本場の味だけに、おいしいよ!
今川焼き食いたくなってきた
541 :
日本@名無史さん:04/04/27 00:04
>>541 今川氏真の血を受け継いだ華族は沢山いたけどね。
543 :
日本@名無史さん:04/04/27 02:02
今川焼き食いてー
544 :
日本@名無史さん:04/04/27 02:04
545 :
日本@名無史さん:04/04/27 05:44
>>544 上杉家が有名だな。
吉良上野介義央の息子・綱憲が養子入りして、そのまま続いてるし。
547 :
日本@名無史さん:04/04/29 02:16
秋月家
548 :
日本@名無史さん:04/05/20 00:31
549 :
日本@名無史さん:04/05/20 14:57
今川焼き
550 :
日本@名無史さん:04/05/28 17:33
age
551 :
日本@名無史さん:04/05/29 09:21
うなぎパイは浜松のような希ガス
552 :
日本@名無史さん:04/06/14 20:25
age
553 :
日本@名無史さん:04/07/03 17:47
554 :
お後がよろしいようで:04/07/10 10:38
ゴースンを配下に持ってたならライオン丸がいても天下統一・・・・か
555 :
日本@名無史さん:04/07/14 22:53
芋川義元age
556 :
日本@名無史さん:04/08/03 02:03
age
557 :
日本@名無史さん:04/08/03 02:18
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L::;;,__ ヽ、::..ノ;. ..:::ゝ__
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r┤ ト::::: \___/ ||
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| _( ̄ l―---oo-――'"ヽ__
| _)_ノ ハ // / |
ヽ____)ノ \// / |ヽ、∧
今川刑部大輔氏真:言わずと知れた駿河今川家当主。
お家は桶狭間の戦いで敗れた上、三河の松平に独立されたり、甲斐の武田家に国を狙われたりと苦難続きだが、
持ち前の明るさ(能天気さとも言う)と、そのあふれる知性?で混迷する現代社会を照らしている(多分)。
そのお茶目なキャラクターから、某プロ野球チームの監督の前世ではないかと噂されている。
. . .... ..: : :: :: ::: :::::: :::::::::::: : :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
Λ_Λ . . . .: : : ::: : :: ::::::::: :::::::::::::::::::::::::::::
/:彡ミ゛ヽ;)ー、 . . .: : : :::::: :::::::::::::::::::::::::::::::::
/ :::/:: ヽ、ヽ、 ::i . .:: :.: ::: . :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
/ :::/;;: ヽ ヽ ::l . :. :. .:: : :: :: :::::::: : ::::::::::::::::::
 ̄ ̄ ̄(_,ノ  ̄ ̄ ̄ヽ、_ノ ̄
今川家家臣:戦国らしからぬ発言に絶望にくれながらも氏真公と今川家を支える献身的な家臣。
癒し系なのか哲人なのか馬鹿なのか。氏真公の七色の発言に突っ込みを入れるのにも疲れているようだ。
「今日は負けないよ」→「出陣しねぇだろ・・・」はお決まりの黄金パターン
558 :
日本@名無史さん:04/08/03 02:18
かわいいな
このスレ面白いな
ディープな話→今川焼き(糞スレ化)→ディープな話→…
で見事にループしてる
560 :
日本@名無史さん:04/08/12 08:01
>>559 今川焼きでクソスレ化というのは納得いかん。
561 :
日本@名無史さん:04/08/12 08:48
うむ。今川焼きは大事だよな。
今川焼きという名に
今川家は苦情を言わなかったのかな?
563 :
日本@名無史さん:04/08/19 11:34
苦情を言う今川家はどこにあるのか
今川氏真の四代後の今川広太夫という人が考えたんだ。
566 :
日本@名無史さん:04/09/08 22:12
567 :
日本@名無史さん:04/09/09 00:27
東京在住の今川範道さんは一族の方ですか?
>>559 謝れ!お菓子板の住人に謝れ!(AA略)
569 :
日本@名無史さん:04/10/01 00:58:26
570 :
日本@名無史さん:04/10/04 19:54:59
もっと語りあおうよ
571 :
日本@名無史さん:04/10/04 20:10:34
今川義元焼き
572 :
日本@名無史さん:04/10/10 00:08:11
今川氏豊が義元の弟って系図以外で何か実証されてるの?
573 :
日本@名無史さん:04/10/11 00:53:50
ない
574 :
日本@名無史さん:04/10/11 11:22:42
/": : : : : : : : \
/-─-,,,_: : : : : : : : :\
/ '''-,,,: : : : : : : :i
/、 /: : : : : : : : i ________
r-、 ,,,,,,,,,,、 /: : : : : : : : : :i /
L_, , 、 \: : : : : : : : :i / 家督譲ったら
/●) (●> |: :__,=-、: / < 負けかなと思ってる
l イ '- |:/ tbノノ \ 武将(?・男性)
l ,`-=-'\ `l ι';/ \
ヽトェ-ェェ-:) -r'  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ヾ=-' /
http://ranobe.sakura.ne.jp/futaba/src/1094911940514.jpg
575 :
日本@名無史さん:04/10/11 23:39:00
576 :
日本@名無史さん:04/11/04 17:28:20
保守
577 :
日本@名無史さん:04/11/25 22:05:03
578 :
日本@名無史さん:04/12/05 15:34:30
義元新喜劇
579 :
信繁:04/12/05 20:02:28
今川氏真。築山殿にレイプ疑惑!!??実は、家康の長女、亀姫は、氏真の子供だった!!!?
580 :
日本@名無史さん:04/12/26 19:57:01
またあ
581 :
日本@名無史さん:04/12/27 21:46:37
age
信長のヤロ〜
583 :
日本@名無史さん:05/01/04 00:57:24
584 :
日本@名無史さん:05/01/04 01:39:53
スーパーで安売りしている、加ト吉の今川焼き二個パック100円は
結構うまいと思う。(但し、下手な解凍をすると表面が融ける)
冷凍タイヤキはときどき食べるが、うまく解凍するのが難しい。
ネタが無くなったら今川焼きに
今川焼きを騙り尽くしたら今川家に
一つのスレで二つの話題があるとは
色んな意味で美味しいスレだな。
587 :
日本@名無史さん:05/01/15 23:35:07
こっちに氏真の時の今川の歴史を書いてみます。
永禄4年1月 義輝、氏真と家康との和解を促す。
3月 北条氏への援軍を武田氏と共に送る。河越城篭城。
田峯菅沼貞吉を小原鎮実囲む。
4月 徳川軍、吉良義昭・酒井忠尚攻める。中島城松平好景、吉良軍に攻められ討死。
徳川軍牛久保城攻撃。 織田軍、梅ヶ坪城攻める。
西郷正勝・菅沼定盈・設楽貞通徳川方につく。(吉田城下西郷正好ら人質処刑)
武田信虎、今川家臣に武田に付くよう暗躍。庵原忠胤忠勤により関口氏広自害・信虎追放。
5月28日富永口戦い。今川方敗走。(稲垣重宗功績)
7月6日宇津山朝比奈氏泰攻め、五本松城西郷正勝・元正討死。(田島氏功績)
8月 長沢城小原鎮吉(鎮実の子)・糠谷氏、徳川軍攻め落とす。
鎮吉、渡辺守綱に討ち取られる。
9月12日宇利城戦い、(井伊方鈴木重勝功績)。
4日大塚戦い。鵜殿新平、稲垣氏連討ち取る。
10月 島田城菅沼定直を、今川方奥平貞能攻める。(今川方黒谷氏、奥平包久と相打ち。)
588 :
日本@名無史さん:05/01/15 23:36:13
永禄5年1月15日清洲同盟。
2月白鳥山城・武節城を徳川軍攻める。(武節城渡辺氏功績)。
広瀬戦い、三浦氏の先陣稲垣重宗功績。
4日徳川軍、上之郷城攻め落城。鵜殿長照討死。氏長・氏次生捕る。大塚城・中島城も落城。
3月22日岡部親綱没。
6月牛久保戦い。
7月一橋・堂山・岩代戦い。
9月北条方へ援軍。
21日牧野氏・岩瀬家久、中島城攻め取る。
22日今川方牧野氏、大塚城攻め取る。
29日御油台戦い。徳川方酒井忠次1千佐脇城板垣重定・八幡攻め御油台まで敗走。
(今川方三浦氏・牛久保牧野保成・野田菅沼氏・設楽氏・西郷氏・二連木戸田氏・御油台城主林氏。
徳川方松平氏ら60名討死。)家康1千合流。 佐脇城・八幡城落城。
(婿板垣氏、本多氏と相討ち・板垣重定・山下氏討死。稲垣重宗・長茂父子功績)
11月大代口戦い。徳川軍攻撃、奥平貞能防ぐ。 宇津山朝比奈氏泰没、泰充継承。
12月14日小野道好、井伊直親謀反訴える。新野親矩弁明、本人派遣。直親主従20名
掛川到着。朝比奈泰朝、駿府より戻り数百騎で討つ。27歳。
井伊直虎継承。朝比奈泰朝攻め、奥山城奥山氏落城。
589 :
日本@名無史さん:05/01/15 23:37:23
永禄6年2月大塚城主岩瀬家久。
3月家康1千5百、牛久保城牧野保成攻め落城。本多忠勝、城所氏と槍合せ。
(保成討死。稲垣重宗負傷。牧野貞成・成定父子、宇津山へ退く。)
5月鈴木重勝、大野郷を今川方につける。12日御油台戦い。三浦正俊功績。
見付城反乱。匂坂長能・糠谷氏・小原鎮実・三浦氏攻め落とす。
(堀越氏延、海蔵寺で自害。)
6月2日菅沼定盈に、野田城攻め落とされ、牧野方稲垣氏俊討死。
犬居城天野景泰・元景父子反乱。
9月5日三河一向一揆起こる。吉良義昭・荒川義広・大草城松平昌平・上野城酒井忠尚ら。
18日井伊直平、天野氏攻め時、飯尾連龍妻により毒殺、85歳。従者大石氏自害。
21日宇津山城、弟朝比奈真次(伊奈城本多忠俊の婿)、兄朝比奈泰充殺し城主となる。
12月引間城飯尾連龍反乱。20日飯田戦い、冨士氏功績、朝比奈信置、飯尾方小山氏討ち取る。
(飯尾方、渥美氏・森川氏・内田氏討死。)
尾上正良、天野氏鎮圧。天野藤秀継承。
590 :
日本@名無史さん:05/01/15 23:38:34
永禄7年2月21日引間口市野砦戦い。大村高信功績。28日三河一向一揆鎮定。
飯尾連龍、今川方に帰順。
4月8日家康・飯尾連龍会見。
5月7日氏真出陣。9日八幡砦1万入る。5千一の宮砦本多氏6百包囲。
飯尾連龍、吉田城引き払い引間城に戻る。
今川軍、吉田城引き払い5千で飯尾氏攻める。天竜川隔てて戦い。
飯尾方、一族飯尾氏・鷲坂氏3百・徳川援軍30騎。(一族飯尾氏を小野田氏討ち取る。
鷲坂氏討死。)
6月10日徳川軍、吉田城小原鎮実包囲。
9月15日新野親矩・朝比奈泰朝、引間城攻め新野親矩・井伊氏家臣中野氏討死。
弟新野之規3千攻め討死。
朝比奈泰朝・朝比奈秀盛・瀬名親隆・氏範引間城包囲。松井宗恒仲介で和睦。
高天神城小笠原春茂没、氏興継承。
591 :
日本@名無史さん:05/01/15 23:39:43
永禄8年3月吉田城小原鎮実、田原城朝比奈元智・天野景貫・岡部氏開城。
9月信玄、嫡子義信を東光寺に幽閉。
10月11日正親町実福下向。
11月信長の養女、勝頼に嫁ぐ。
12月20日飯尾連龍30騎、駿府に呼び寄せ、飯尾邸三浦義鎮百騎で攻め討つ。
(連龍妻奮戦、松井宗恒・連龍討死。)
引間城攻めで、三浦正俊討死?
592 :
日本@名無史さん:05/01/15 23:40:21
永禄9年1月6日引間城家老両江馬氏、家康へ記請文。
4月今川軍引間城攻め、江馬一成6歳・祖母人質として駿府へ。
5月11日匂坂長能没、76歳。吉政継承。
8月15日岡部貞綱没、62歳。22日朝比奈元長没。
9月吉良氏家臣、高橋政信、徳川軍に攻め落される。
10月11日正親町実福上洛。 冷泉為益下向。
12月使僧遊雲斎永順、上杉氏と交渉。
593 :
日本@名無史さん:05/01/15 23:41:17
永禄10年1月2日宇津山朝比奈真次、小原鎮実により討たれる。
3月8日冷泉為益上洛。
4月15日上杉氏重臣へ、三浦氏満・朝比奈泰朝より書状。
6月27日連歌師里村紹巴、駿府よりの帰路、気賀で山村氏と連歌会。
8月氏真、塩留命ずる。
10月19日義信自害。
11月19日義信夫人、北条氏の仲介で駿府へ送り返される。
594 :
日本@名無史さん:05/01/15 23:42:18
武田方
永禄11年12月 6日信玄、甲斐出発。9日武田軍大宮城攻撃。
12日北松野城萩清誉、内房口戦いで山県昌景により討死。
信玄内房布陣。
大将庵原氏。新野氏1万5千、薩た峠出陣。
(岡部政良・岡部晴豊・小長谷氏)
小倉資久・岡部直規八幡平守る。
氏真清見寺出馬。21武将裏切り6・7千(朝比奈信置・瀬名貞綱・葛山氏元)退く。
氏真駿府へ逃げる。川入城、山県昌景2千攻め落城。蒲原城落城。
高橋砦石川道信、武田軍にて落城。(道信,穴山家臣横山氏・下山氏討取る。
城兵松平助道・井伊利政・石川信明・葛山氏・神保氏百騎打って出る。)
今川館にて、日根氏・小倉資久、朝比奈信置反逆訴える。
朝比奈信置・元良父子・安東氏、武田方瀬名へ走る。
13日氏真2千、掛川逃亡。土岐清房案内役。地蔵峠にて家臣14名討死。
早川氏徒歩で脱出。江間氏の母戦死。21日子江間一成引間ヘ帰る。
武田軍先鋒馬場信房、駿府放火。
持舟城一宮元実武田軍にて討死。
武田軍5百、久能寺覚性坊ら(衆徒3百)と交渉。
今川水軍280名、久能浜漂着し戦い。(松平助道・加藤氏・酒井氏・小西氏・安田氏
大橋氏・牧野氏・有藤氏・上杉氏・上島氏・安東氏・岡部氏30名討死。
井伊利政・石川信明・朝比奈氏・蜂谷氏遠州へ逃げる。)
武田方3百の内、70名討死。
595 :
日本@名無史さん:05/01/15 23:43:06
徳川方
永禄11年2月16日穴山梅雪と酒井忠次交渉により同盟。
3月 宇津山城小原鎮実徳川軍に攻められ花沢城へ。24日寿桂尼没。
7日徳川軍、堀川城新田過房攻め引き上げる。
徳川軍久野城久野宗能攻め降服させる。
11月14日井伊谷3人衆(菅沼忠久・近藤康用・鈴木重時)井伊谷城小野道好攻める。
12月13日徳川軍7千陣座峠通り、井伊谷3人衆の手引きで井伊谷に入る。
本坂峠は、日比沢城・佐久城・堀江城・堀川城有り。
引間3家老の内、垣塚氏白須賀城戻る所、残りの両江馬氏により舞坂浜にて討死。
徳川方江馬時成、武田方江馬泰顕争い、時成討死、泰顕は時成家臣小野田氏に討たれる。
18日徳川軍引間城入る。
武田軍秋山晴近、二俣・久野城攻め、横地元次討死。見付へ転戦、徳川軍と戦い
引き上げる。匂坂政祐を秋山晴近が認めた為、匂坂吉政、政祐を斬り徳川につく。
19日久野宗能、天竜川に舟橋架け渡河。
高天神城・馬伏塚城小笠原氏興、二俣城松井氏・鵜殿氏長徳川方につく。
22日徳川軍、掛川城攻撃。
23日北条水軍3百清水氏・板部康雄、援軍に掛川城入城。
27日小笠原氏興、城下放火。家康見付へ退く。
596 :
日本@名無史さん:05/01/15 23:44:08
武田方
永禄12年1月5日氏政、三島着。18日氏政4万5千、薩た山、信玄1万8千興津川挟んで対峙。
2月1日穴山梅雪・葛山氏元、大宮城富士信忠・信通・井手氏に破れ、甲斐との往還路封鎖。
善得時焼失。
28日北条軍、蒲原城攻め、北条綱重城主とする。
北条水軍3百艘、三保海岸上陸。
信玄、里見氏・佐竹氏・宇都宮氏に小田原攻めるよう要請。義昭に謙信と和睦要請。
山県昌景1千5百、駿府城撤退。
4月19日久能城・興津城に人質、兵を置き堅守定め庵原山道切り開き甲斐へ退く。
20日氏政引く。
5月氏真・家康、森川氏・小倉勝久奉行に駿府城修復。岡部正綱・長秋経営・監督させる。
8日武田軍、八王子出陣。11日相模出陣。17日氏真、蒲原到着。
23日氏真戸倉城入り、氏政の子氏直養子とし駿河譲る。
597 :
日本@名無史さん:05/01/15 23:47:01
6月氏政夫人、武田氏没、27歳。16日武田軍、深沢城攻める。
17日武田軍、韮山・山中・三島大社焼く。北条軍夜襲、武田軍引く。
7月2日武田軍攻撃で、大宮城富士信忠降服。
9月武田軍針形城攻め、小田原放火。撤退時、北条軍に勝利。
12月4日北条軍、上杉軍と戦い。駿河より引き上げる。
4日武田軍、岩渕・蒲原放火。
6日蒲原城北条綱重1千、武田軍攻め落とし711名討ち取る。
13日駿府城岡部正綱・長秋・久野宗政・小原氏・三浦氏・安部元真・小長谷氏
小倉氏・森川氏・富永氏・沢木氏・長井氏・酒井氏4百。
信玄、臨斎寺鉄山宗純に説得させ投降させる。
安部元真・信勝・朝倉在重・海野氏は安部奥へ退き抵抗。
武田氏郷民に捕えさせ、安部元真・信勝・望月氏ら徳川方へ逃げる。
598 :
日本@名無史さん:05/01/15 23:48:10
徳川方
永禄12年1月2日犬居城天野藤秀徳川方につく。
11日菊川中山氏・浅羽牧野氏・勝間田大村高信徳川方につく。
12日徳川軍8千総攻撃、天王山落す。(掛川城兵3千)
20日久野宗信に家康攻めるよう河井氏使者。河井氏捕えられる。
久野宗益・宗常自害、宗政ら一族追放。 安藤氏天王寺出城攻撃。
21日西郷信房天王小路で奮戦。 23日天王山戦い。日比野3兄弟ら
(近松氏・大谷氏・日比野氏・日比野氏従者伊藤氏討死。讃井氏、菅沼氏討ち取る。)
金丸山砦久野宗信、今川軍に攻められ敗北、小笠原氏興救援も敗北。
26日石谷政清徳川方につく。
2月4日織田軍援軍。 5日徳川方鈴木重時、一番槍競って狙撃され討死。
名和城名和元達、徳川軍に攻められ自害。
日比沢城後藤直正、徳川軍に攻められ開城。撃たれ,後藤実久継承。
佐久城浜名頼広、家臣数人で甲斐に逃れる。徳川軍に攻められ開城。
(大屋政頼・大屋頼次・大野氏・中根氏・桐生氏・安万氏・石原氏)
家康17騎で堀川城を通過した時、城兵に打って出られる。
堀江城より城兵打って出て、徳川軍の海賊船半分以上取る。
599 :
日本@名無史さん:05/01/15 23:51:33
3月4日掛川城朝比奈泰朝・朝比奈秀盛・原川頼政兄弟・小倉氏打って出る。
(伊藤氏・笠原氏・朝比奈泰冬ら180名討死。菅沼氏、松下氏綱に討たれる。
徳川方60名討死。)
北条増援、掛塚到着、徳川軍攻め占領。
8日今川方小倉資久と徳川方高薗城浅原氏と講和交渉。
12日堀川城城外で斎藤為吉討死、35歳。
25日干潮時、堀川城1千5百を徳川軍3千攻め落す。(徳川方小林重直・永見為重・
平井氏ら16騎討死。今川方竹田高正・子西光・高直討死、山村氏引佐で自害、尾藤氏
堀江城へ報告。家康生き残った内184名獄門、7百赦す。)
25日徳川軍、堀江城大沢基胤攻め、近藤康用・大久保忠栄・平井氏討死。
4月中御門宣綱、掛川で没、59歳。
5日掛川本宮山戦い。北条家臣西原氏負傷。
12日堀江城大沢基胤・中安種豊・権田泰長降服、尾藤氏主従10名自害。
5月6日掛川城開城。氏真掛塚湊から蒲原城へ。
6月小笠原氏興没。
19日徳川軍に攻められ、天方城天方通興降服、飯田城山内通泰討死。
600 :
日本@名無史さん:05/01/15 23:52:57
元亀元年1月27日花沢城小原鎮実・三浦義鎮3千を武田軍攻める。武田方孕石泰時1番槍。
城兵小原氏・井伊氏・杉原氏・弓桁氏・原氏ら討って出る。
(滝吉之、強弓で岡部長秋・落合氏ら多数討つ。岩崎直重・鈴木氏討死)
923名降服。伊丹康直、武田軍海賊衆となる。
小原鎮実・三浦義鎮、高天神城頼る。四宮屋敷で小笠原氏より追手妻子家臣75名自害。
徳の一色城長谷川正長一族21人、3百、武田軍の攻撃で降服。
終りです。
>>217 「柘植」っていう家はどういう家なの?
吉良家とどういう血縁関係があるの?
602 :
日本@名無史さん:05/01/26 04:12:47
保守
603 :
日本@名無史さん:05/01/26 19:16:53
>>600 いや、北条氏直を猶子にして駿河の領有を放棄したところが最後だろう。
604 :
日本@名無史さん:05/02/18 13:27:05
なにが最後やねん
605 :
日本@名無史さん:05/02/20 14:57:41
606 :
日本@名無史さん:05/02/20 14:59:29
おっ そうだ
今川焼き食うか
607 :
日本@名無史さん:05/02/20 21:38:47
608 :
日本@名無史さん:05/03/04 22:44:29
この時期、植木市に行って今川焼を食べるのが乙。
609 :
日本@名無史さん:05/03/06 02:39:49
シンガポールの伊勢丹で今川焼きうってた
久々に今川焼き食べた。冷凍だけど…
大阪城に花見へ行った時にいつも食べるから1年ぶりだな…
611 :
日本@名無史さん:2005/03/27(日) 01:16:19
今川焼きって食べたことない。
612 :
日本@名無史さん:2005/03/27(日) 16:28:23
今川家が昭和61年に断絶したっていうのは本当なんですか
614 :
日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 16:34:59
age
615 :
日本@名無史さん:2005/04/22(金) 22:02:00
616 :
日本@名無史さん:2005/05/05(木) 22:40:58
マジ?
617 :
日本@名無史さん:2005/05/09(月) 16:23:20
618 :
日本@名無史さん:2005/05/10(火) 11:21:47
本筋以外ってどこ?
品川家とかは家名は続いているのかもしれないが、江戸時代の時点で
とっくに血統が入れ替わっているからなあ。
619 :
日本@名無史さん:2005/05/26(木) 01:55:49
義元の男系子孫はすべて絶えたのかね?
620 :
日本@名無史さん:2005/05/26(木) 02:05:17
田代政
621 :
日本@名無史さん:2005/05/26(木) 02:51:14
瀬名とか堀越とかどうなった
品川駿河守あげ
623 :
日本@名無史さん:2005/06/06(月) 01:44:45
なんやねん
624 :
日本@名無史さん:2005/06/22(水) 20:55:49
田代がどないした?
625 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 14:11:33
コレか。使い古されたネタだなもし
491 :無名武将@お腹せっぷく :04/07/03 15:20
559 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2004/06/27(日) 21:23
今川義元−今川氏真−西尾安信−酒井忠宇(庄内藩士)−酒井忠寧−石野信政−石野信和−石野信一−石野三和−石野宗孝−田代文兵衛−田代文也−田代孝明−田代和政−田代政
脈々と受け継がれる今川の血筋。田代政さんは芸名田代まさし、1980年シャネルズでデビュー。
その後グループ名をRATS&STARに改名、現代に至る。
562 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2004/06/27(日) 23:14
>>559 西尾安信は氏真の三男か四男だったと思う。その子供が庄内藩主の一族の養子になってる。
その家の五男が石野姓をなのってて家紋は先祖にちなんで二つ引両。石野家の子供が田代家(剣術師範)に婿養子に入った。
626 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 21:11:13
全人類が継続的に得る事ができるだけの食料が地球上に存在するのだろうか?
食料生産量以上に人口は増えないと言う学者も居るが、生物の数が食料で左右されるという言葉の意味は「食料の生産量以上に増えた分の固体は餓死する」という現実である。
人類は、途上国の人口増加や医療の発達、大規模戦争の減少による死亡率の低下で食糧増産が追いつくのか?
追いついたら、追いついたで、更に人口が増え、食料の増加を追い越し、大量の餓死者を出して、適正人口になるのか?
628 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 02:06:41
大塩平八郎がどうした?
629 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 21:48:05
意味不明だな。
630 :
日本@名無史さん:2005/08/10(水) 00:18:57
東京か神奈川か忘れましたが、今川範道という方がいます。直系の方ではないですが、今川一族の方でしょうね。
631 :
日本@名無史さん:2005/08/23(火) 02:07:55
違うと思うよ。
632 :
日本@名無史さん:2005/08/23(火) 08:58:09
自分は大阪の人間で、今、浜松に住んでいるんだけど、
浜松の人って、今川よりも徳川を重要視していると思うんだけど
何で?
633 :
日本@名無史さん:2005/08/23(火) 09:04:36
戦国最強で検索して一番上に来るやつが最強
634 :
日本@名無史さん:2005/08/23(火) 20:04:40
>>632 答えは簡単。遠江にとって、今川氏は侵略者だから。
635 :
日本@名無史さん:2005/08/23(火) 20:23:00
636 :
日本@名無史さん:2005/08/23(火) 20:40:36
大塩家は今川家の庶流。
637 :
日本@名無史さん:2005/09/13(火) 01:42:35
へえ、初耳。どういう系統?
638 :
日本@名無史さん:2005/09/13(火) 02:43:17
age
639 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 22:43:36
このスレすごいな。
どっかの、けんかばっかしてるスレとは大違いだな。
640 :
日本@名無史さん:2005/09/22(木) 02:33:26
>>632 駿河人だって徳川重視だよw
メジャーだから&幕臣の子孫が多いから
戦国オタ以外には美濃の土岐氏や尾張の斯波氏あたりと大して変わらん
>>640 徳川重視今川無視はオレも静岡市民(生まれも育ちも)から直接聞いた。
642 :
日本@名無史さん:2005/09/22(木) 05:33:56
>>640 だからさぁ、浜松は遠江。駿府とは別の国なのヨ。駿府・静岡人と一緒にしないで暮れ
浜松も駿府も家康ゆかりの地ですが?
644 :
日本@名無史さん:2005/09/22(木) 13:37:24
>>642 膝元の駿河人だってそうなんだから植民地遠州はなおさらって意味では?>640は
645 :
日本@名無史さん:2005/09/23(金) 14:45:13
>>621 「パラサイト・イヴ」で有名になった作家の瀬名秀明(静岡市出身)って
今川系の瀬名氏とは関係が無いようだね。あれはペンネームだから。
646 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 22:17:01 ID:O
信虎って今川に居るとき戦場に行ったような事本で読んだけどまじ?
静岡市出身だがガキの頃は今川無視で家康マンセーだった。
実家が臨斎寺の近くだったせいもあって。
648 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 20:37:46
ゆるせんな
649 :
健康おたくは長生きしないのか..:2005/10/10(月) 20:53:01
今川氏真は長生きしてますね。
イメージではおはぐろして、優雅な生活を楽しんでいた感じですが、
桶狭間の戦いでは、相手の指を噛みちぎったほど、
(毛利新助、服部小平太どっちか)勇敢に戦ってました。
足利義昭は豊臣の時代になっても1万石の大名をしていき続けた。
こうなると、どこで室町幕府が終わったのやら..
>>649 毛利新助の指を食いちぎったのは義元でしょ。
勇敢じゃなくって命惜しさに見苦しく抵抗しただけ。
651 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 16:36:40
抵抗しちゃいかんのか?
抵抗?大いに結構。でも指にかぶりつくって・・・w
見苦しすぎw
死に際の行動なんてどうでもいい。
654 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 13:21:16
静岡市の市議会で、市当局が今まで検討してきた総合歴史博物館
に替わって、徳川時代を中心とする歴史文化施設を検討したいと
答弁したそうです。
そろそろまた今川焼きの季節がめぐって来た。
656 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 12:55:30
今川揚げ
静岡市民にとっては、徳川家康>>>>>今川家なのか・・・
658 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 21:30:50
東京都民と逆だな。
659 :
日本@名無史さん:2005/12/20(火) 19:02:52
age
660 :
日本@名無史さん:2005/12/24(土) 20:01:09
>>654 つうかそんなに必要かね、静岡市に歴史施設。
登呂に、芹沢美術館に、文化財資料館に、埋蔵文化財センターでしょ?
しかも杓子庵だって考えようによっては「歴史施設」なわけだし。
まあ集約したそういうのが必要なのは認めるけど、徳川に特化させる必要はない。
芹沢_介美術館を移転して、登呂に集中させる方がいいように思う。
皆川博子の義元小説や、諸田玲子の築山殿新解釈小説「月を吐く」を読んで
今川氏関係の史跡探訪をしてみたいと少々調べたけど、
あまりに今川史跡が残ってないので交通費もったいないと止めたことがある。
三傑家康と大徳川に侵食されて、埋もれてしまっているのは予想してたけど
もう少し、かえりみても良いような気がする。
んで、今川焼きの語源って何なの?
662 :
日本@名無史さん:2005/12/25(日) 13:42:02
今川史跡って意味ではせいぜい臨済寺と増善寺ぐらいしかないですからね、静岡市内には。
しかも増善寺はまともにバスが走ってない地域にある寺だし。
司馬の「箱根の坂」でもドラマ化されればいいのだろうか。
少しは今川史跡も活気つくかもしれない。
でも北川殿と関係をもっちゃうような新九郎だからな。
665 :
日本@名無史さん:2005/12/31(土) 00:45:26
age
666 :
日本@名無史さん:2006/01/03(火) 03:03:20
今川仲秋の生没年ってわかります?
だいたいでもいいのですが。
667 :
日本@名無史さん:2006/01/03(火) 03:06:42
今川家最後の当主「範叙」って何て読むんですか?
668 :
日本@名無史さん:2006/01/05(木) 22:22:34
>>660 県外から来る人等には、まとめて見れる施設が在ると便利だと思います。
しかし今川もいれてほしい。
静岡市は、来年大御所駿府入城4百年祭開催するそうです。
基本理念に「家康が礎を築いた静岡市に暮らす市民が、家康を学び、
感謝し…」 礎に今川は関係無いんでしょうか。
>>666 更訂国史研究年表という中に仲秋没年が、宝徳2年(1450)と
有るらしいです。兄今川了俊が1324年生まれなんですけど。
670 :
日本@名無史さん:2006/01/07(土) 02:25:05
>>668 了俊・仲秋の父範国が1384年まで生きてるので、範国の最晩年の子ってことなんでしょうか。
でもそうだとしても仲秋ってかなりの歳まで生きてたことになるんですね。
まあ父親も兄も当時としてはあり得ないくらいの長寿ですから、同じ血筋である仲秋も長命である可能性はありますか。
671 :
日本@名無史さん:2006/01/07(土) 02:32:43
てかちょっと調べたら史料総覧にも宝徳2年のところに仲秋没の記事があった。
根拠は今川家譜とかみたいだが。
672 :
日本@名無史さん:2006/01/07(土) 09:27:16
>>668 静岡市の葵ひいきは今に始まったことじゃないですから。
駿府を作ったのは別に徳川じゃなくて、それ以前の今川やその他もろもろもあるわけだけど、
その辺の歴史をぶった切ってるのが現実だし。
まあメディアで取り上げられやすいのが徳川ってだけの話で、
それに安直に飛びついてるのが静岡市、ってことなんでしょ。
個人的には集約的な歴史施設は徳川の色が薄いところに作って欲しい。
それを考えると登呂か浅間神社周辺(これは今川以前からありしかも敷地から古墳が出てる)が無難な気がする。
あとは静大との協力で片山廃寺周辺だろうけど…
673 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 04:54:24
>>663 「箱根の坂」って司馬作品のなかでも古いせいか、
近年の研究成果が反映されておらず、
あの室町〜戦国初期くらいの歴史認識に対する情報がやや古い。
なかには明らかな事実誤認もある。例えば、北川殿の没年。
作品中では若年で死んだことになっているが、実際には氏親死後まで生きてる。
それにそういう細かいことを抜きにしても一般向けにはマイナーな時代だから、
ドラマ化するとしたら脚本を担当する人は相当苦労すると思う。
674 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 05:49:16
『箱根の坂』のもう一つの難しい点は、早雲の死で話が終わってしまっている
ことかな。
早雲だけではなく「小田原北条5代」とかってできればよいかも。
戦国時代の関東を扱った大河って以外と少ないし。
もしくは『国盗り物語』の発想(第1部:道三が主人公、第2部:信長&光秀の
ダブル主人公)みたいにして、ドラマの第1部は『箱根の坂』ベースに早雲を
主人公に、第2部は早雲の夢を継ぐ者として後北条と今川をダブル主人公で・・・
みたいなのはどうだろ。
最後は徳川家康が出てきて関東・東海の戦国時代が終わるって感じで。
もちろんドラマのナレーターは北条幻庵だね。
675 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 10:29:33
今川仲秋にちょっと興味を持ったので思ったんですが、仲秋は了俊の後
遠江守護になって、その子遠江守貞秋は永享5年(1433)駿河今川
の相続争いの時、一族長老という立場で奔走しています。
それが遠江今川といえば、了俊の子孫堀越氏になっていて、遠江におけ
る仲秋の子孫は消えてしまったような。
676 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 13:56:17
西尾市は今川市に改名汁…
677 :
日本@名無史さん:2006/01/09(月) 05:39:23
>>675 仲秋って遠江の守護になったことあったっけ?
了俊が失脚した後の遠江は斯波に守護が変わるんじゃなかった?
678 :
日本@名無史さん:2006/01/09(月) 11:39:31
仲秋は、了俊が九州探題を罷免され、駿河半国守護になった時
嘉慶2年(1388)3月頃遠江守護になっています。
了俊の諌めた書によって仲秋の政治が善政をし、天下に流布する
事で、江戸時代今川状といって教科書に用いられました。
応永7年(1400)1月、了俊が謀反を起こすことで、駿河守護
今川泰範が遠江守護になり、
管領になった応永12年頃に斯波義重が遠江守護になったと思います。
679 :
日本@名無史さん:2006/01/09(月) 20:07:35
>>678 一瞬、今川泰範が管領になったのかと思ったよ。
680 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 04:45:27
範政と範忠とか、氏親と氏輝・義元とかって、親子の割には随分歳が離れているね。
681 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 16:51:55
北条早雲と氏綱の年齢差は究極。
682 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 09:30:54
>>678 >仲秋は、了俊が九州探題を罷免され、駿河半国守護になった時
>嘉慶2年(1388)3月頃遠江守護になっています。
了俊が九州探題を罷免されたのって南北朝合一後じゃなかったっけ?
683 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 14:20:23
氏真は、桶狭間以降どうなったの?今川の家は絶えたの?
684 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 22:40:09
685 :
日本@名無史さん:2006/01/18(水) 18:25:06
今川が絶えたのは明治
686 :
日本@名無史さん:2006/01/18(水) 19:08:10
現在の静岡ではどうして今川は人気ないの?
今川と同じように、一時期は強かったけど最後の滅び方がヘタレな大名なら他にもあるけど、
静岡における今川ほど扱いが酷いところは他にないね。
大分における大友とか、山口における大内とか、福井における朝倉とか、
小田原における後北条とか、山形における最上とかは、地元ではある程度の人気はあるでしょ?
特に大分や山形なんかでは、江戸時代にこの地を治めていた大名より、
戦国時代の大友や最上の子孫のほうが現地では歓迎されるって聞くけど。
687 :
日本@名無史さん:2006/01/19(木) 05:43:21
「箱根の坂」だって、小田原市や神奈川県はずっと昔から大河ドラマ化を
NHKに働きかけているのに、静岡が非協力的だからなかなか実現しない。
前半はほとんど駿府が舞台なのにどうしてだろうね?
688 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 01:18:58
蛆座寝(氏真とも呼ばれたw)が 秀吉の前で蹴鞠をやらされたというのは本当ですか?
689 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 06:35:40
690 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 01:41:42
氏真って、近衛前久が家康のところに下向してきたときは、家康と一緒に接待してるね。
>>690 家康と仲良かったようだね。
良い人柄だったのだろう。乱世でなくて、江戸時代くらいの
殿様だったら、文芸に秀でた名君として名を残したかもね。
乱世は才覚と運がないと厳しい時代だからな。
692 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 15:57:45
運があまりにもなかった。
693 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 23:55:11
>>679 文章がうまく伝わらなくすみません。
>>680 氏親は、永正5年(1508)38歳で寿桂尼と結婚しているので
年の離れた子になります。前妻がいてもおかしくないような年齢です。
(1501年氏親夫妻が、三保見学をしていたような)
>>682 ありがとうございます。
九州探題罷免は応永2年(1395)でした。
694 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 01:20:04
>>691-692 でも大名家が滅亡するときの後始末という点では、氏真は結構うまくやったと
思うよ。
大名家としての今川家は滅んだけれども、最後は無血開城という形にしたから
氏真本人も含めて今川の一族・家臣団のほぼ全員が生き残れたし、今川の家名も
残せた。
大名家の滅亡の仕方としては、武田家の最期なんかよりもずっと評価できる。
武田勝頼の場合、大量の裏切り者を出した挙げ句、最後まで付き従った
一族・家臣団に関しては悉く巻き添えにして凄惨な最期を迎えたわけだし。
俺は武田勝頼の最期よりは、氏真の身の引き方のほうを支持する。
日本史で一番可哀相なのは今川義元だろうな
あのまま尾張を併呑していれば武田は従属的になるだろうし
一旦兵は返すだろうが美濃攻略は時間の問題だ
今川なら朝倉も友好的な関係を結ぼうとするかもしれない
一時的に今川が天下の時代になりはするが旧体制側の今川の天下では結果的に戦国時代が長引くことになるだろう
その頃には松平も有力な今川家臣に取り込まれていて独立はしにくいかもしれない
その後は島津、伊達などにも史実以上に天下のチャンスはやって来ることになるな
696 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 16:20:12
本陣を厳重に守ればよかったというのは結果論かな?
697 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 16:31:19
>22今川より名門の京極ですら、若年寄を務めてますよ
698 :
飛瀬:2006/01/31(火) 17:27:15
>>694 氏真は戦国大名にありがちな変なプライドがなかったんじゃないのかな?
だからこそ開場できたんじゃないのかなぁ・・・。
699 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 13:55:48
>>698 >戦国大名にありがちな変なプライド
って何ですか?
具体的に説明してください。
あと、それが普通の戦国大名には普遍的にあって、氏真にはなかったという
ことも説明してください。
何のことだが全然話が見えないので、教えてください。
700 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 14:12:57
699が鼻から蒸気を噴出してる件について
701 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 16:28:10
>>695 今川が旧体制側ってどういうこと?
戦国時代の前半期において、ある意味一番先進的だった大名って
今川や後北条あたりだと思うけど。
702 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 16:30:53
>>697 京極が今川より名門という根拠は?
室町時代で考えても、
今川=足利一門
京極=外様
だと思うけど。
703 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 16:54:11
>702【京極】鎌倉御家人。室町四職家。江北・飛騨・出雲・隠岐の守護職を世襲。江戸期は丹後と讃岐半国
宇多源氏(佐々木)の嫡流。道誉の子孫で、織田、豊臣、徳川とも親戚。
【今川】鎌倉期は三河の土豪。室町期 駿河守護職(遠江は,分家や斯波家も度々守護)。徳川期は高家
足利一門での序列は三管家、山名・一色・上杉の下
どうみても京極のが格上
704 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 21:27:47
>>703 今川は四職家には数えられてないけど、侍所をやってることもあるよ。
土岐なんかもそうだけど。
室町時代の三管領四職って、単に役職につく資格があるってだけで、家格とイコールではないんじゃない?
江戸時代の大名だって、家格という点では役職につけない外様大名で、譜代大名より家格の高い家はいくらでもあるのと同じ。
あと、宇多源氏の嫡流は公家の庭田(綾小路)家じゃないのか?
それに仮に武家になった家系(佐々木流)に限っても、六角が本家だし。
京極が嫡流というソースきぼんぬ。
五時間かけて反論の材料を掻き集めていたのか?テラワロス
706 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 21:33:49
707 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 21:57:46
>704官位も京極のが上では? それに江戸期の職制と比べられてモナ〜ww
室町政権は守護大名の連合体だから、役職が上なら格上でしょう。
佐々木家が二つに別れた時は六角のが上でしたが、道誉が京極を上位にしたんですよ。
お公家さんが本家??
つまりあなたは、桓武平氏の嫡流は高見王の系統と言う輩と同類ですねw
708 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 22:41:33
>>707 同じ三管領家同士でも斯波と細川は家格的には雲泥の差。
斯波が初めて管領になるときに
「管領(執事)は被官の家がやることだから、一族扱いの自分のやることじゃない」
ってことで何度も辞退したってのは有名な話。
幕府の役職につかず、守護職も持ってないのに、家格だけはやたら高い吉良みたいな例もある。
役職の有無と家格の上下がイコールではないからこういうことが起こる。
あと佐々木流は、いかに導誉が幕府に重用されようとも、南北朝以降もあくまで本家は六角のはずですが。
>お公家さんが本家??
>つまりあなたは、桓武平氏の嫡流は高見王の系統と言う輩と同類ですねw
何か間違ったことでもありますか?
日本史研究者の誰に聞いても、宇多源氏の嫡流は庭田・綾小路家に繋がる家系だと答えると思いますが。
桓武平氏の嫡流も同様に西洞院家です。
ついでにいえば、
藤原氏北家嫡流=近衛家
村上源氏嫡流=久我家
菅原氏嫡流=高辻家
など、みんな公家ですが何か?
709 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 22:55:44
>>707 >官位も京極のが上では?
これについては、具体的に手元に確認できるものがないんで、確定的なことは
いえないけど、官途でのイメージだと
今川に多い官途は、上総介、民部大輔、治部大輔
京極に多い官途は、加賀守、治部少輔、大膳大夫
あたりで、あんまり差があるようには思えないな。
室町期の今川が幕府の役職にほとんど就かないのは、
たぶん大内や上杉(越後守護家)が幕府の役職に就かないのと同じ理由だろう。
要するに、鎌倉府管轄の関東・東北や九州探題管轄の九州を除いた、幕府が
直接管理するエリアで、一番辺境に位置するから。
辺境(重要拠点)の守備という任務を負っているから、中央の幕政には
参画しないのだと思うよ。
家格が低いとかそういう問題じゃないだろう。
711 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 00:46:47
712 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 01:32:26
ほっとけ
713 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 02:23:26
>708斯波高経は家名(斯波)ではなく氏の名(足利)で文書を発給するほど自尊心が高かったからね。
吉良は奥州探題家だよ。畠山との権力争いに敗けて関東に逃げたけど…w (分郡守護も含めて)守護職も務めてるよ。
714 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 02:32:06
「兄の家の系統が本家」は江戸時代の考え。
それなら足利将軍家より山名のが嫡流になるw
715 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 13:44:34
>>713 奥州探題の吉良は三河吉良荘を本拠とする吉良とは厳密には別系統だよ。
どっちも足利一族には違いないけど。
>>714 それってどこに対するレス?
内容はその通りだと思うけど。
ついでにいえば江戸時代でも庶出の長兄と嫡出の弟なんかだと、後者が本家を
継ぐことはありだと思う。
>>716 714は六角と京極の関係を言ってるのでは?(足利と斯波ってことはないだろうし)
この2家は鎌倉時代はともかく、室町時代は別の家と考えていいのでは。
宇多源氏佐々木氏流としてまとめて扱われたりしてないと思います。
まあ、武田と佐竹みたいなもので先祖は兄弟だけど現代(当時の)は別の家という感覚だったのでは。
室町時代の家格の例として八家ってのがあったと思うのですが。
全部は忘れたけどたしか上杉の宗家(京都に残った家系)が含まれていた記憶があります。
だから幕府の役職とはリンクしていないようです。
この八家にならって関東府が関東八家を定めてこちらは
千葉・長沼・佐竹・小山・小田・宇都宮・那須・結城 です。
718 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 07:45:34
>717小山・結城・長沼って対等なの?
719 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 13:52:28
>>717 六角や京極は室町末期でも公式文書では苗字は佐々木で書かれるので、
武田と佐竹なんかよりは同じ一族という感覚が強いと思うよ。
>上杉の宗家(京都に残った家系)
それって本家じゃなくて越後守護家のことじゃない?
越後は鎌倉府のテリトリーじゃないので。
>>718 対等かどうかは分からないが、小山は若犬丸の乱で潰れたあとに結城氏出身の
人物が名跡を継いでるね。
720 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 22:11:50
豊橋の由来、今橋から、今川の橋で今橋。
今川義元の今川で、今川は西尾市今川庄からなんだよね。
西尾から名前をもらい、静岡人が名付けたそれが豊橋の歴史。
721 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 00:42:55
722 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 14:47:19
伊勢神宮領の荘園で今橋御厨とかってなかった?
723 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 18:26:47
724 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 18:44:45
豊橋市に関する重大事実。
この町は、牛川原人も捏造していたことが判明しています。
日本史の教科書からも抹殺されました。
東三河人の語る由来は、有名なモノにあやかる形が多く、当時の史料で
確認できないものばかりですね。
725 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 18:51:24
伊勢神宮領で、橋良御厨があると豊橋市は言ってますが。
橋良町は、豊川沿いにない愛知大学のそばです。
橋良御厨という命名自体、捏造の可能性が。
726 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 18:54:32
727 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 19:42:08
各種史料をあたっても東三河および豊橋が、伊勢神宮の所領支配下にあった
事実は確認できない。
ちなみに当時の豊橋市内(渥美郡に限る、八名郡のぞく)には、延喜式式内社ゼロです。
延喜式式内社は、平安時代の政府公認の神社です。
728 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 21:01:31
http://www.sala.or.jp/~mmasa/kousyou.html 三河百話、昭和26年刊行。戦後になって力説されても困るけどな。
東海道で聞えた吉田宿、その起りは神宮御領の吉田御園に初まり一千年唱えて来た名
>>>>>>>>>>>
吉田宿=吉田城の城下町だから。江戸時代以降のこと。
豊橋に吉田神社ってあるけど、京都にも吉田神社はある。紛らわしい。
神宮御領の吉田御園、伊勢神宮のお蔭参り(ええじゃないか騒動)から捏造した疑いがある。
吉田御園が、確認できません。
729 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 22:28:30
しんめい-しゃ 3 【神明社】
鎌倉時代以降、伊勢神宮の分霊をまつる神社。神明宮。神明神社。伊勢宮。
>>>>>>>>>
豊橋の中心地に、神明社があったので調べたら、荘園でも何でもないですね。
ほぼ捏造ですね。
730 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 23:54:59
>>727 国史大事典か角川地名辞典か何かで見たのだが、
渥美郡の荘園には伊勢神宮領が多いって書いてあったような気が・・・
731 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 01:43:01
>>714>>717 単純に長幼の順で兄の家系かどうかということを基準にしたら、
六角・京極よりも朽木なんかのほうが兄の家系になるよ。
六角が佐々木流の嫡流とされる理由は兄の家系だからとかではない。
代々の幕府から佐々木流の嫡流の扱いを受け、(ごく一時期を除いて)近江の
守護職を世襲し、佐々木氏発祥の地である近江国蒲生郡(沙々貴神社周辺)に
本拠を置いてきたことによる。
>>707 京極の家格上昇には導誉の存在も大きいけど、鎌倉期にも京極の初代の氏信が
評定衆になったりしているから、元々六角(佐々木本家)からは独立した
御家人として掌握されていたことも事実だろうね。
732 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 02:13:32
>>730 全部電波の可能性あり。
御厨が、伊勢神宮の所領という意味です。
橋良御厨というのを宣伝しているようですが、根拠不明です。
神戸、御園は、普通に神社の所領地という意味だけです。
豊橋が飽海神戸、田原が神戸があると称していますが、木簡で確認する限り、
伊勢神宮領である事実はないです。
当時、幡豆郡だった離島のサク・ヒマカ・シノ島は、伊勢神宮領であったようです。
木簡に、供奉・御贄という表記が多数あり。
ネットで検索多数ヒット。
>>>>>>>>>>>
鎌倉時代以降の一般の神明社による宣伝記述と思われます。
伊勢神宮直轄の荘園が、田原や豊橋にあるわけありません。
田原は、16世紀以降の戸田氏によって発展。
豊橋は、16世紀以降の吉田城から発展。
いずれも遅れた地域です。
荘園とは、墾田のことで、豊川用水のない当時に渥美半島に荘園があるわけないですよ。
渥美半島の先端に塩田があるのと、あと畑かな。
>>>>>>>>>>
豊橋は、牛川原人を捏造して、教科書に掲載させるような古代史インチキやったところですよ。
今は、捏造古代遺跡は全部抹殺されました、例の事件以来。
733 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 02:22:56
渥美が、海人族の安曇連にもとづくもインチキですよ。
あつみ、と、あずみの発音が似ているというだけの理由。
そもそも渥美半島は、漁の拠点でもないし。
渥美は、飽海なんだけど。出羽にも飽海あるけど、阿倍氏なんだよね。
734 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 02:45:18
735 :
717:2006/02/05(日) 09:51:58
736 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 13:11:01
扇谷は上杉一族内では元々そんなに格は高くないはずだよ。
本来的には山内と犬懸が両上杉だったが、禅秀の乱で犬懸が潰れたために、
その後に政策的に扇谷の家格が上昇させられたって感じでは?
737 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 18:50:53
最新50を見ると、今川氏に関係ないレスのほうが多い気がするのは気のせいでしょうか?
じゃ今川家に関連のあるレス。
今川焼と今川家に関連性は無い。
>>736 >扇谷は上杉一族内では元々そんなに格は高くないはずだよ。
>本来的には山内と犬懸が両上杉だったが、禅秀の乱で犬懸が潰れたために、
>その後に政策的に扇谷の家格が上昇させられたって感じでは?
両上杉ってのは関東府内の地位が他の上杉氏と比べて高いことを表現しているのでは?
幕府本体から見た評価は別な可能性がありませんか。
勢力は関東の上杉氏に遠く及ばないが、名乗りからみると八条上杉は将軍から諱を貰っているみたいだし、
上杉氏って京都出身ですよね?本貫も京都周辺にあるかもしれません。
まあ、そのへんのところが735のリンク先で議論になっているようですね。
扇谷が途中から地位が上昇したのはおっしゃるとおりだと思います、永享の乱後ですかね。
遠山の金さん
741 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 00:13:10
>>739 上杉氏って、もとの出身は勧修寺家の一族ってことでいいんだろうけど、
鎌倉期には独立した御家人として幕府に掌握されていたのか、足利氏の
被官扱いだったのか、ということでも議論があるね。
742 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 00:30:22
鎌倉期の今川は独立の御家人?
それとも足利氏の一族扱い?
743 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 01:34:17
今こそ神として氏真を祭れ
氏真大明神の御利益によって
ワールドカップの勝利がもたらされるだろう
>>742 >鎌倉期の今川は独立の御家人?
>それとも足利氏の一族扱い?
鎌倉時代はっきり独立した御家人といえるのは、足利本家、斯波(足利尾張)、吉良(足利上総)、畠山くらいでは。
今川氏は御家人だったとしても、幕府への出仕とか軍役とかは吉良氏経由で命令が来るような立場で
広い意味では足利一門、狭くいうと吉良一門という立場では。
745 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 23:12:23
>>744 上杉はどう?
鎌倉期には御家人なの?それとも足利の被官扱い?
そういえば斯波って鎌倉期には官途が尾張守なんだよね。
それなのに高経以降の斯波に尾張守を名乗ってる人物が全然いないのは何故なんだろ?
室町期に尾張守っていうと、畠山ってイメージだよな。
746 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 02:53:40
尾張守護は斯波だよ。
織田信長は斯波家の家来だったが下克上で倒した。
747 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 18:21:25
>>732 荘園フェチではないが、
三河の隣、遠江には御厨が数多く存在しています。
船で伊勢から遠州灘へ結ばれるルートが存在しました。
よって、渥美半島や三河と伊勢神宮が関係する可能性は
十分あったと思います。
748 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 18:58:59
牛川原人とかしょーもないレスをあげてるのは
地理お国自慢などの板を追い出された基地外です。
現在の通説を捏造と称し、根拠のない自説を次々と捏造しています。
749 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 21:51:11
政策科学大学院大学教授
御厨貴 あげ
750 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 22:44:40
>>746 鎌倉時代の武士が貰った受領名と、守護になった国とは関係ないんじゃ。
752 :
日本@名無史さん:2006/02/13(月) 23:51:06
753 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 04:39:48
754 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 05:35:08
>746織田弾正忠家は守護代家(半国だが)の家臣だろ。足利将軍家の陪臣の更に下。
こんなの常識だぞ!!!
>>754 織田信長の家(備後守家)が尾張下半国を支配した守護代家の配下だったのは事実だけど、
家臣とは断定出来ないないのでは?
斯波家臣の同僚の中の有力者に付いただけかもしれないし、
曽祖父あたりより前の家系がはっきりしないからこちらの意見も断言できないけど。
756 :
架橋も捏造豊橋:2006/02/18(土) 03:50:42
757 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 19:59:40
↑
捏造電波登場
758 :
YAP?:2006/02/18(土) 20:29:59
>>755
同感。
織田信長の家系が「織田弾正忠」の官途を称していることから考えて、
守護職織田伊勢守常松の老臣として、確か『満済准后日記』(だったと
思うが)に名前の出る在京していた「織田弾正」がその家祖である可能性は
高いだろう。
家系としてつながっているかどうかはともかくとして、「織田弾正」家の
「家職」というか、要するに、尾張守護代家「織田伊勢守家」(大和守家と
二分する前の一国守護代家としての「伊勢守家」)の、後代でいえば「江戸
家老」とでも言うべき京都に主に在住して、公家、寺院などとの折衝を担当
していたのではないか。
そう考えれば、応仁の乱以降、京を引き払っても、京との連絡の都合の良い
「津島」を領有し、且つまた、京の公家衆や連歌師などとの接触が深かった
のも全部説明がつく。
に
760 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 05:28:38
遠江は、元々今川のもの?
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>>760 遠江守護は斯波家が勤めることが多いです。
ただ、ほとんど独占していた越前や尾張と比べて今川氏が守護を務めることも度々でした。
今川了俊の子孫などは遠江に土着しているし。
戦国時代初期に今川氏が駿河から侵攻して、斯波氏を破ってからは
今川氏の領国といっていいのではないでしょうか。
>>759 斯波は応仁の乱で自壊した感じだよね。
その後織田守護代家に寄生するような感じで生き延びてた
だけで。
信長の頃はもう斯波家は「倒す」ような家じゃないもんな。
764 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 17:37:14
>>762 違うよ。
遠江は建武政権崩壊と同時に今川範政が守護になり、南北朝の頃はほぼ今川一族が守護を独占してる。
尾張は初期の頃は鎌倉期以来の中条氏とかがいるけど、その後土岐氏に替わり、土岐康行の乱の後は今川(仲秋?)に替わる。
ちなみに駿河の場合は室町幕府成立時の最初の守護は斯波一族の石橋和義だったが、後に今川範政に替わった。
その後応永の乱が原因で今川一族のの守護国は駿河以外全部没収ってことになり、尾張と遠江は斯波氏が守護になった。
765 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 17:52:23
要は今川氏にとって遠江と尾張は祖先が持っていた土地だった。
だから今川氏には失地回復を目指す意識がずっとあり、応仁の乱の最中には
今川義忠(東軍方)が遠江に攻め込んで戦死したりしている。
結局は明応〜永正にかけて今川氏親が遠江を完全に攻略しちゃったため、幕府も
それを追認して今川が遠江守護に返り咲くことになる。
遠江が手に入るとさらに遠くの失地回復も目指して尾張に攻め込むようになり、
小豆坂や桶狭間などの合戦が起こる。
あと遠江と尾張の間にある三河は、今川が守護だったことはないけど、今川の
名字の地(西尾市今川)があるし、尾張を手に入れるための戦略上併合した。
766 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 23:03:50
767 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 23:07:54
斯波氏の被官の中で一番家格が高い甲斐氏ってどうなっちゃったの?
>>764 内容は間違ってないでしょ。
応永の乱以降、室町時代の盛期は歴代の斯波氏家督が守護になっているんだから
遠江守護といえば今川氏より斯波氏のほうがイメージあると思いますが。
「遠江守護は斯波氏で今川氏ではありません」と書けば間違いだけど、ちゃんと今川氏も時々守護になったと書いているし。
今川氏が先祖の失地回復のため特別に遠江・尾張を欲していたというソースはあるの?
武田・北条と三国同盟組むまでは甲斐やら関東に出兵してさんざん戦ってるんですが。
桶狭間の戦いのあった年、義元は治部大輔より格下の三河守に(多分三河統治の名分のため)
任官しているけど尾張守や遠江守にはなっていないし、特別な目で遠江・尾張を見ていたとは
思えないのですが。
769 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 02:11:13
>>768 「時々」という表現だと
“基本的には斯波がずっと守護だが、政変の直後等で斯波が没落しているときだけ一時的に今川に代わることがあった”
というようなニュアンスに受け取れる。
室町幕府の遠江守護は、応永初年以前と永正以降は今川、その間の時期は斯波とするのが正確。
今川義元の三河守任官については、この時期に受領名が現地を支配するための名分として有効だったのか否かを巡って諸説あるが、これ以前に織田信秀が
三河守に任官していることは注目して良い。
またこの頃の織田信長は上総介を名乗っているが、この官途は本来今川の嫡流が代々任官していたもの。
信長が今川に馴染みの深い上総介を名乗ったために、それに対抗して信長の父の官途であった三河守に義元がなった可能性もあるかも。
あと遠江には今川は応仁の乱の最中から頻繁に軍事的に干渉していて、氏親の時代に完全に手中にしている。
今川は応永初年に遠江の守護職を奪われたことに後々まで不満を持っていて、その奪還にかなりの執念があったってのは、「静岡県史」でそんな記述を見た
ような気がする。
桶狭間の尾張失地回復説は、小和田哲男か何かで見た気がする。
770 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 02:37:49
斯波氏遠江における有力国人って誰?
771 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 03:27:46
朝比奈
772 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 04:28:52
773 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 08:37:32
>767甲斐氏は朝倉・織田より上位だったが、斯波家が三国守護職になると、越前守護代=朝倉氏、尾張守護代=織田氏、遠江守護代=甲斐氏となる。越前が朝倉に纂奪されると、西軍に加わり越前北部で朝倉と争う。
774 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 08:39:06
>770名門 井伊家
775 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 12:16:41
牧野や勝間田は?
776 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 22:28:29
>>773 斯波氏の時代の越前守護代は甲斐氏だと思うよ。
777 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 22:47:12
朝比奈って元々駿河国司の家系だったんだよね
>>769 >信長が今川に馴染みの深い上総介を名乗ったために、それに対抗して信長の父の官途であった三河守に義元がなった可能性もあるかも。
意趣返しのためだけにわざわざ現在の官位より格下の官位を貰うかな?
例えば信秀が三河介だったから上回る三河守に任官する、とかなら納得できますが。
九州支配のため、(少弐氏に対抗するため)大内氏が太宰大弐になったみたいに。
まあ、はっきりしたことは今後も判らないでしょうけど。
779 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 16:22:17
今川家って明治時代に断絶したんだっけ?
780 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 19:52:42
>>770 井伊・勝田・横地・奥山・浜名・原・大沢・天野かな。
781 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 00:55:04
782 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 01:09:57
>>778 >例えば信秀が三河介だったから
この時代に親王任国(上総・常陸・上野)以外の受領名で「介」を名乗る意味って殆どないと思うよ。
大内の太宰大弐については少弐氏を意識して意図的に名乗ったという説が強いのは確かだけどね。
今川の場合、義元が三河に進出する前後に三河守に任官しているのなら、
三河支配のための名分っぽい気もするけど、時期的にはすでに三河をおさえたあとってのが引っかかるね。
もっとも受領名の官位相当制なんてとっくの昔に崩れているから、義元が三河守を
それまでの官途より格下だとどれほど意識してたかも微妙だと思うよ。
官位相当制では大して高くもない「修理大夫」が戦国大名の間では大人気の
官途だったって話もあるし。
783 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 01:19:41
氏真にも朝比奈泰朝をはじめ家臣数名が最後まで従っていたしそんなに
悪い君主では無かったのかも
784 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 01:30:18
京で蹴鞠を信長に見せてほめられて喜んだんだろ
なんかかわいそう
785 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 01:40:03
信長に氏真を引き合わせたのは家康。
ちなみに信長としては、桶狭間では成り行き上あんなふうになっただけで、
今川に大してそれ以上の因縁とか敵対心は感じていなかったらしい。
氏真がどう思っていたかは知らないけど。
武田が三国同盟を破って今川領に侵入したときに、今川を支援する北条や上杉に
対して、信長は今川との過去は水に流すってあっさり言ってる。
もちろんこれは武田が信長にとっての最大の障害に成りつつあった時期って
こともあったから、武田によって国を奪われた駿河の旧領主今川氏真にある程度
利用価値があると思ってたのかも。
氏真は政治家として有能だと思うけど。
義元って、桶狭間直前に三河守に任官してなかったっけ?
788 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 08:24:05
斯波氏遠江における有力国人ノミネート
支配地域は?
牧野→
勝間田→勝田と一緒?→相良・榛原?(相良といえば、相良氏は?)
井伊 →浜松北西部?
勝田? →
横地 →菊川市?
奥山 →二俣???
浜名 →浜名湖辺???
原 →???
大沢 →???
天野 →都田出身の天野って友人がいたなあ。
大河内 →???
このうち今川の軍門に下ってたのは?
(一応スレタイに合わせて)
789 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 11:05:45
790 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 12:12:28
>>788 16世紀前半だと、ほとんどすべてが今川の影響下に入るか滅ぼされたかのどちらかだと思うよ。
791 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 16:11:45
>778上総も三河も足利氏が守護職だよね、鎌倉時代は。
高氏も三河守だよな。
792 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 17:03:49
幕府の守護職と調停からの官途である国守は違う。
でも三河は足利一族出身の大名にとっては結構意味はありそう。
793 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 18:20:33
今川家って、信長が子供の頃(元服前かな)、那古屋城主であった時期もあるよね
そのころって、駿河の今川が尾張の一部を支配していたということ?
家紋スレに駿河朝比奈氏の子孫が来てたな。
795 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 22:03:12
>>793 今川って義満のときに一時期尾張守護もやってるし、元々今川の所領が尾張にあった可能性はある。
796 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 22:35:56
井伊氏の子孫は彦根市長をやってたよ。
797 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 23:09:13
原=掛川、大沢=浜名湖辺、大河内=浜松領主?吉良氏の代官
こんな感じかな。
798 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 23:32:13
>>797 遠江は国人国家。特出した国人はおらず、「ドングリの背比べ」。侵略者・今川氏によって東遠の横地・勝間田から徐々に切り崩され、制圧or従下となっていく。
遠江の国人は、自分の領地の確保することに強い思いがあり、「誰の臣下であるか」はあまり感心がなかったはず。今川でも斯波でも、時代が下がれば徳川でも武田でも、力が借りられるのであれば誰でもよかったのです。
799 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 01:03:28
大沢はのちに明治維新のときにかなり間抜けなことをやってるよね。
800 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 01:22:31
>>798 斯波は遠江で積極的に現地の国人を被官化したりする気はなかったみたいだからね。
そういえば三河も似たような理由で守護の影は薄かったが、こっちは松平が突出してたってのが遠江とちがうところかな。
801 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 04:05:16
遠江における有力国人
氏 支配地域 今川時代 徳川時代 明治〜現代
牧野 →? →? →? →?
勝間田→相良・榛原?→支配下?滅亡?→? →?
井伊 →浜松北西部?→半独?瀕死? →被官化・大名→彦根市長
勝田?→? →? →? →?
横地 →菊川? →支配下?滅亡?→? →横地のペット?
奥山 →?二俣? →? →? →?
浜名 →浜名湖辺? →? →? →?
原 →掛川 →支配下?滅亡?→? →?
大沢 →浜名湖辺 →支配下? →? →明治維新活躍?→kwsk
天野 →?浜松? →? →? →?
大河内→浜松領主? →? →? →?
>>801 氏 支配地域 今川時代 徳川時代 明治〜現代
勝間田→相良・榛原?→支配下?滅亡?→? →社会党委員長
だな
勝間田→相良・榛原?→支配下?滅亡?→? →勝俣州和
804 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 14:22:41
>>801 牧野や天野は徳川譜代になった同姓の家とは違うの?
大沢は明治維新後に当主が禁固刑に処せられている。
大河内は松平一族から養子を迎えてその子孫は松平姓を名乗るのでは?
>>793 >今川家って、信長が子供の頃(元服前かな)、那古屋城主であった時期もあるよね
>そのころって、駿河の今川が尾張の一部を支配していたということ?
駿河の今川家とは別の家ですね。 滅んだのは信長が生まれる少し前。
最後の当主(信秀を招いて連歌会だっけ?やって城乗っ取られた人)氏豊は義元の実弟という説もあるので
まるきり駿河の今川家と無関係ではないかも知れません。
(でも、那古屋追われて駿河に行かずに、京へ上ったと言われるから駿河との縁は実は遠いかも)
>>785 信秀が三河守に任官したのは1541年、
安祥城を占領して三河に橋頭堡を築き、小豆坂の戦いとかあった時期です。
義元が1560年に三河守任官だから信長の(代々今川家が任官していた)上総介を称したことへの
対策としてはえらく古い話を持ち出したような気がします。 信秀が死んでから10年近く経っているし。
やはり三河支配の正当性を主張するという理由のほうが強いと思います。
それまで任官しなかったのは三河の国人の反発を考慮したのでは。
家康(松平元康)に養女を娶らせて身内にしたこと、織田氏の三河での勢力を減らしたことで
その反発を克服できると考えたのではないかと。
>もっとも受領名の官位相当制なんてとっくの昔に崩れているから、義元が三河守を
>それまでの官途より格下だとどれほど意識してたかも微妙だと思うよ。
>官位相当制では大して高くもない「修理大夫」が戦国大名の間では大人気の
>官途だったって話もあるし。
修理大夫などは鎌倉・室町前期に北条一門や幕府の有力者しか任官できなかった官職だから
戦国時代官位を持たない国人や、格下の官位にしか就けなかった大名に人気があったわけで。
今川氏が(足利尊氏も任官した武士にとって伝統と権威ある)治部大輔から三河守を望むのとは話が違うと思いますよ。
室町後期は官位序列が崩れたというより、インフレ化したといえるのでは。
律令の官位相当制と、武士の考える官位のランクが異なるのは、そのとおりだと思います。
807 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 22:42:20
>>791 足利尊氏が三河守になったことがあるのなら、今川が三河守になっても不思議はないね。
室町時代の今川の官途って、上総介にしても治部大輔にしても元々鎌倉時代に足利本家が名乗っていたものだし。
そう考えると、過去の例と今川の家格から考えて相応しいものの一つとして偶々三河守を名乗ったに過ぎないのかも。
もちろん三河支配のために何らかの意味を見いだしていた可能性も否定できないが。
>>805 南北朝の頃に尾張守護をやってた今川仲秋の末裔かもね。
808 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 02:41:32
>>806 能登畠山氏は室町時代には修理大夫に代々なっている。
809 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 08:54:58
牧野は、三河一色氏の被官。
遠江天野と三河天野は、藤原南家工藤氏の一族。
大河内から、知恵伊豆が出ている。
那古屋は、範国の父基氏の姉妹と結婚した時、今川一族へ。
大沢基胤は、木寺宮(誰の事だかわからないけど)の娘定姫と結婚している。
こうだったと思う。
810 :
YAP?:2006/02/26(日) 11:17:21
>>805
尾張今川氏は、今川一門中、特殊な立場を占める名児耶氏(那古屋氏、字はいろいろ書かれる)
のことのようだ。そこに今川氏親の末子氏豊が養子に迎えられたと考えるべきだろう。
まあ、ホ来尾張名古屋近辺の領主だが、織田弾正忠家に所領を横領され、当主も追放された
ということだ。
もっとも当時のことだから、名古屋近辺の領主は錯綜していて、初めから勝幡織田家も
それなりの権利を有していたのではないかと私は思っているが。
811 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 19:38:02
那古屋氏豊についての一説を書くと、氏親が、遠江を攻め取った時
斯波義達と和平の条件に、斯波氏の娘と氏豊が結婚して、那古屋氏
の養子となり、庵原安房守により那古屋城を築城し住む。
桶狭間で戦死した藤枝氏秋が、子という説が有り、それだとすると、
彼を尾張に帰すのも、義元の1つの目的だった考えられます。
孫にあたると思われる氏明は、本能寺の時、信長の小姓として戦死。
812 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 00:44:43
「氏秋」と「氏明」ってどっちも「うぢあき」?
813 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 21:16:49
814 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 12:39:15
45万部のベストセラー『嫌韓流』の第2弾
『嫌韓流2』発売中
駄作か傑作かは、買って自分で確かめよう
816 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 03:46:03
今川の治部大輔は織田の元々の主君である斯波を意識してるかも。
室町期だと斯波の当主に治部大輔が結構いる。
>>816 範忠以降の歴代当主(若死にした氏輝以外)はみな治部大輔になっているようだから
織田氏は関係ないのでは。
>>807 鎌倉大草紙に上杉禅秀の乱で鎌倉公方持氏に味方して戦死した武士で今川三河守ってのが出てきます。
(当時、本家の範政は駿河守)
分家が三河守を称しているということは、三河守が今川本家でも簡単に任じられないような名誉ある官途だったとは言えないと思います。
818 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 01:29:00
819 :
817:2006/03/13(月) 23:08:52
820 :
日本@名無史さん:2006/03/17(金) 00:27:50
てか今川で駿河守なんて見たことがない気がする。
821 :
日本@名無史さん:2006/03/17(金) 00:29:59
>>819 系図纂要などの系図類も基本的に範政は上総介。
静岡県史でも範政は上総介としてる。
822 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 00:12:47
武田の赤備えじゃないけど今川軍の最強(精鋭)部隊とかってあるのかな
823 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 10:04:38
>>820 駿河今川じゃないけど、因幡・但馬・丹後守護務めた
今川頼貞は駿河守だったと思う。
824 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 12:54:44
今川軍最強の武将は、北条早雲、太原崇孚雪斎、どっちですか????
または、松平元康(家康)か?
825 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 19:33:38
そういえば、木下藤吉郎もいるよ。陪臣だったけど。
826 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 21:36:17
福島綱成・本多忠勝・井伊直政・今川了俊は?
岡部元信
828 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 00:20:48
829 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 00:42:34
質問@ 西尾市に遺構はありますか?
A 大塩家が今川家の傍系とは真実?
宜しく御教授下さいm(_ _)m
830 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 00:45:57
今川より徳川に媚を売る静岡市民はバカ
831 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 01:10:35
静岡県の何かのパンフに「今川家は公家」って書いてあった。w
832 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 01:11:56
>>829 西尾市教育委員会が何かしらのパンフ等を作っていたように思う。
現地に行けば、碑か標識くらいあるんじゃないかな?
833 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 14:35:41
静岡人はどうして今川を抹殺したいの?
今川時代って静岡にとっては、むしろ栄光の時代なんじゃない?
834 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 14:49:00
今川は足利大名の中では文武両道でかっこいいのにな
835 :
YAP?:2006/03/21(火) 15:15:21
おそレスだが、809氏へ
「木寺宮」といえば、大覚寺統の邦良親王(叔父の後醍醐天皇の皇太子
だった)の系統で、本来大覚寺統の正統だったはずだが。
836 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 20:26:46
>>833 桶狭間で悪いイメージが出来上がったからじゃないの。
今川家は清和源氏の名門なのにな。
837 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 00:10:37
最後が惨めという点では、朝倉、大友、後北条なんかだって同じだが、
地元での扱いが不当に低いのは今川だけ。
纓田も豊臣も最後はあれだし、
徳川もイメージは悪いよな。
今川だけ・・・
でもなく、北条も陰が薄い。
839 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 01:37:47
小田原では後北条を題材にした大河ドラマを誘致しようという声が結構あるが、
静岡で今川についてそういう声は聞いたことがない。
840 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 02:00:20
静岡人だけど
今川が嫌いなわけではなく、徳川がメジャー過ぎて
陰に隠れちゃったってことじゃないか。
駿府の象徴、駿府城も家康が作ったものだし、家康関連のドラマもくるし
家康を差し置いて、今川を置くなんてよほどのひねくれものかマニアの類だろう
静岡人の今川(義元)のイメージは
・信長にやられた印象しかない
・悪い人ではなかったようだ
・今川焼き
くらいか
841 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 02:12:51
>>840 あくまで他の地域との比較だが、静岡における今川の位置づけは、
影に隠れて目立たないというようなレベルじゃなくて、
地元が意図的に今川時代の歴史を抹殺しようとしているようにすら見えるんだけど。
例えば駿府城だって、近世の駿府城の前に中世に今川氏の居城だった駿府城があるわけだが、
駿府城にある解説では、近世の徳川時代の駿府城のことしか書いてなくて、
中世の今川時代の駿府城について一言も言及がなされていない。
例え近世の解説がメインでも、中世について全く触れてすらいないってのは、
全国の城めぐりをしてても駿府城以外では見たことがない。
842 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 02:22:42
小田原では司馬遼の「箱根の坂」を原作にした大河ドラマの誘致に前向きだが、
そのために小田原とともに物語の舞台である静岡に協力を打診しても、
どうせやるなら徳川時代で・・・みたいな非協力的な反応しか返って来ないんだって。
江戸時代の静岡なんて初期を除けば城代が置かれているだけで城主もいないのに
静岡人ってどうしてそこまで徳川一辺倒なのかね?
たぶん静岡の学校では、郷土の歴史とかでも今川時代はほとんど何も教えていないんだろうね。
(ある程度有力な戦国大名がいた地域とかなら、ある程度は中世の歴史も教えてるのが普通だが)
843 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 03:05:03
やっぱ桶狭間かあ
そうだよな
日本最強の引き立て役なんて自慢したくないもんなー
844 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 03:12:11
>>842 城主はいなかったけど
将軍の隠居先だからでしょ
家康と家斉時代は徳川の中心地といって過言ではなかった
また静岡の国土開発の多くは家康が関わっている
島津土手とかもあるとおり、初期の江戸時代は盛んに外様に金を使わせて城下町を作らせてきたのだから
地元民にとってこれほどありがたい存在は無い
それに今川氏の居城は今川館であって駿府城ではない
まあ、今川より後の徳川時代のほうが、史跡が多かったりとか影響力が強いのは当然ですね。
徳川は大名でなくて、後に天下人になるし江戸時代は特に自慢の種だったろうし。
そういや愛知だと、地元の人は尾張徳川家と、織田・豊臣氏とどっちのイメージが強いのかな?
司馬遼太郎氏の作品がはやった後あたりから、後者のイメージが強いのかな。
846 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 13:33:53
越前にいた神主のオサーンの子孫・織田と関東の馬の骨・徳川に
正真正銘源氏の名門・今川が負けちゃったと。
下剋上とはいえ哀しいねぇ。
>>841 今川家の人々が主役の小説をいくつか読んで
史跡巡りしてみようと思い立ったけど、
今川関連の史跡は徳川という土に埋もれてしまったような印象で
見るべき場所があまり無いように思えて計画頓挫しました。
自分は八王子出身なんで身びいきもあるんだけど
武蔵国は家康の関東入りまでは後北条の支配地、
滝山城、八王子城が施政の重要地であったはず。
でもそんなこと、地元でも教えない事なんだよね。
848 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 15:48:37
>>847 静岡人には今川時代の史跡を保存する気が全くないからね。
朝倉氏の越前一乗谷とか、大友氏の豊後府内なんかとは、雲泥の差。
849 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 15:58:15
>>844 しかし今川氏の居館が近世の駿府城の前身であることに変わりはない。
そうしたことについての解説は全くなかった。
これが他の地域だと、
例えば、甲府城なんかは中世の武田氏の躑躅が崎館とは場所が
移転しているにもかかわらず、移転の経緯まで含めて解説していたし、
会津若松城では、城のある場所が中世の葦名氏の黒川城の跡であることが
ちゃんと解説されていた。
同じ静岡県内でも、掛川城の場合は、今川重臣の朝比奈氏の居館がその
前身であることがしっかりと明記されていたし、
駿府城と同様に家康との縁が深い浜松城の場合でも、この城が中世の
曳馬城を移転する形で成立したことがちゃんと書かれていた。
要するに今川を完全に無視した駿府城の解説は基地外。
850 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 19:40:33
徳川家康にとって人質時代・引退後に過ごした場所。
徳川忠長(駿河大納言)は三代将軍家光に謀反の疑いをかけられて自害。
徳川慶喜にとっては大政奉還後に逃げてきた場所。
これに比べたら、今川歴代の方が充実してると思うけどな。
>>849 >要するに今川を完全に無視した駿府城の解説は基地外。
激しく同意。
851 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 20:09:31
★ 倭寇の正体は朝鮮人だ!! ★
韓国朝鮮人は、
「日本の海賊=倭寇が、過去に何度も韓国を侵略し、我々韓国人に多大な被害を与えた!」と、
主張して、日本人をよく非難する。
しかし、韓国人のこういった主張は大ウソなのである。倭寇の正体は韓国人=朝鮮人なのだ。
韓国朝鮮人は、金氏新羅の時代から活発に海賊活動を行っていた。
そして、朝鮮海賊にとって、第一のターゲットは、常に日本人であった。
我々日本人こそが真の被害者であり、韓国朝鮮人は加害者なのである。韓国朝鮮人は侵略者なのだ。
新羅時代、朝鮮海賊が対馬海峡や九州西岸海域に出没し、日本人を襲って殺傷する事件が多発した。
大和朝廷は、大宰府の水軍に対し、海上警備の強化を命じた。大宰府の取り締まりが厳しくなった結果、
朝鮮海賊は「商売アガッタリ」状態になった。そのため、しかたなく、朝鮮海賊は自分たちの国の人間を
襲うようになった。
この時、彼らは朝鮮人らしく悪ヂエを発揮して、新羅王府の取り締まりから身を守るため、
自分たちが朝鮮人である事を隠し、日本人に偽装した。
「オレたちは倭人だぞォ!」と、アピールしながら海賊活動を展開したのだ。
これが倭寇の正体なのである。倭寇とは朝鮮海賊のことなのだ。
★きままに歴史 『元寇と高麗』★
http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/genko/genko.htm
852 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 21:45:50
日本人の倭寇は今川了俊がけっこう取り締まったしね
小田原は違うんだねぇ。
神奈川東部は北条を捨てて、頼朝様を崇めてます。
まぁ、地理的なものもあるか。
上の見て思ったけど、静岡県民があれだったら、
今川を消し去らないで、浜松市民や愛知県民に
謝罪と賠償を請求して大騒ぎだったんだろうね。
田楽狭間で、夫を殺されレイプされた
と自称する老婆が裁判起こしちゃうかもw
徳川家は江戸時代に静岡に大きな利益をもたらした
今川家は地元に何も恩恵をもたらさず、却って無計画な遠征で多くの農民を徴発し、国力を弱らせた
戦国時代後期の駿河って石高16万石だったっけ?
ひでえよな。一応今は県庁所在地で、気候も温暖でそこそこ恵まれた土地なのに。
甲斐ですらは当時30万石なのに‥
武田の侵略もあっただろうが、今川が内政がほったらかしであったのは否定できない事実だろ
>>845 名古屋は名古屋で三傑全員を賛美している
でもやっぱり第一番に信長だろう(岡崎や中村区周辺は除く)
秀吉をもっとも一番持ち上げているのは大阪じゃん。
家康は愛知より静岡と東京のイメージ強いじゃん。
857 :
日本@名無史さん:2006/03/23(木) 03:51:06
>>854-855 駿河って意外と平地が少ないので石高的にはあまり増えようがないでしょ。
戦国時代前半期においては、今川が全国で最も先進的な大名だったことは否定できない事実。
だいたい明応〜文亀くらいの時期には既に普通に検地とかやってる。
こんな早くからやってる大名は他には後北条くらいしか見当たらないし。
もっとも戦国初期だと今川と後北条は一体の勢力と考えたほうがいいけど。
858 :
日本@名無史さん:2006/03/23(木) 03:55:19
てゆうか内政的には武田のほうが今川よりかなり厳しいことをやってるだろ。
武田勝頼の凄惨な滅亡の仕方にもそれが現れている。
じゃあなんで
甲斐の石高>駿河の石高なんだろう
平地が少ないって言ったも甲斐ほどじゃあないだろ
気候も温暖で多雨なんだし、普通なら駿河>>>甲斐だと思うが
戦国時代なら貫高なのでは?
と、素人の素朴な疑問。
氏真同情論だと
桶狭間の後、名門今川家が、氏真一代で滅んだのは
氏真の責任ではなく、歴代今川当主の無理な外征によるツケがまわってきただけという論があるくらいだしな。
九州、関東、遠江、三河、尾張etc
まあ、それでも戦争に勝っているうちは良かったが、最後は、御当主討ち死にという最悪の結果だものなあ。
武田勝頼なんかもそうだが、氏真はそれ以上に悲惨な状況だったと思うよ‥
>>859 駿河のあたりの地図見てみな。平地はほとんどなくて
大きな河も少ない。東駿は比較的平地と大河はあるけど
富士山の麓で土質は良くない。
石高換算で甲斐を大きく下回るのは当然かと。
その代わり、港に恵まれ、米以外の物成は良いから
国としては豊かなんだよ。
駿河の東部、特に富士川から沼津周辺は巨大な三角州と湿地で江戸時代に堤防を作るまでは
稲作はおろか、人が住むのも難しかったんじゃなかったかな。
864 :
日本@名無史さん:2006/03/24(金) 08:22:59
>>841 そうだとすると、実は静大に小和田がいるのは奇妙な印象をうける。
やはり戦国時代の今川家研究という意味ではあれが一番だろうし、
仮に静岡という地域が今川を避けてるとするなら、静大だってあんなの囲いこまないでしょ?
あと、基本的に今の静岡という都市は、
今川時代に築かれた都市ってわけじゃないんだよな。
今川時代に存在していたものを、徳川になって新たに作り直したもの、と見ていい。
駿府城だって今の公園の下に34連隊の跡地があり、その下に徳川時代の遺構、
そしてその下に今川時代の遺構って感じになる。
メインルートですら江戸時代と今川時代で異なる。
(今川時代は丸子から木枯の森を経由して安西から市街地に入っていた、らしい)
結局、隠蔽している、ってよりも、発掘調査が追いついていない、ってのが現実のように思う。
865 :
日本@名無史さん:2006/03/24(金) 14:48:01
駿河の安倍金山の収入=今川氏。
武田は、金脈が尽きた。
越後の上杉も佐渡金山とか。
石高の低い大名は、カバーできるものがあった。
静岡って徳川を利用している割には歴史にあんまり力入れてないよね。
美術館はあるけど、歴史系の博物館て登呂くらいじゃね?登呂は古代というかそれ以前だし。
登呂遺跡もあれ以上ほってあるっぽいし。
浅間さんとこは?だし。
ヘンな事に金はかけるけど金のかかる文化的なことには知らん振りだろ
馬鹿はお前だろ
登呂遺跡は日本どころか世界レベルの遺産といっていいが
今川はそうでないだろ
文化的り水準は
登呂>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>.今川
静岡に住んで無くてもそんなことはわかる
868 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 00:05:29
>>866 資料に力を入れる傾向がありますわな>静岡
結構図書館の力の入れ方はすさまじいものがある。
逆に言うと各地域の図書館が歴史研究の拠点として強すぎるから、
総合的な歴史博物館みたいなものができないのかもしれませんな。
>>867 登呂は世界レベルの遺産じゃないでしょ。
つうか日本の弥生遺跡は世界的に見てさほど評価される代物ではない。
むしろ縄文集落遺跡のほうが評価が高い記憶がありますよ。
しかしそんな低レベルの今川よかもっと知名度が低いものもありますからね。
例えば安倍城と狩野氏とか建穂寺(平安から江戸期の文献には結構出てくる廃寺)とか、
国史跡なのに扱いが東名下の空き地でしかない片山廃寺ってのもある。
869 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 22:13:29
同じ場所に遺構が重なる状態(複層)は、発掘調査を難しくすることはご存知?
また、今川館と駿府城が直接結びつかないこと、
さらに今川館の正確な場所すら判明していない事実も理解しています?
870 :
日本@名無史さん:2006/03/26(日) 09:45:48
871 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 22:43:30
現代の静岡県人の今川に対する見方は、石川県人の一向一揆に対する見方と似ている気がする。
どちらも勝手に恥ずべき歴史だと思ってる。
他地域の人間からすれば、何をそんなに隠したがるのか、その心理状態が理解不能だが。
872 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 22:55:20
>>859 すでに
>>862-863でだいたい既出だが、駿河は稲作には全く向かない。
東部は平地だが既出のとおり条件が悪すぎる。
中部は海岸線まで山が迫った回廊地帯。このため現在の新幹線や東名高速も富士〜清水あたりは海岸線すれすれの所を通ってる。
西部は険しい山こそないが平地もないので、水田は作れず茶畑だらけ。
それに比べれば、甲斐の場合は周囲は山に囲まれていても甲府盆地のなかは平地だから、駿河よりはまともに稲作ができる。
あと今でも静岡県内の米の生産量は、圧倒的に遠江>>>駿河だと思う。
873 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 22:59:03
>>864 小和田さんは、静大の教授になってから今川の研究を始めたんだよ。
静大に中世史の先生として採用されたから、現地の大名である今川を研究のメインにした。
しかしせっかく今川を始めたのに、今川に対する地元の反応が鈍くて当惑することもあったらしいよ。
874 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 23:02:08
>>860 確かに米の生産高の統一的な基準として石高を採用したのは秀吉以後。
しかし太閤検地段階の石高から、それほど遠い昔ではない戦国時代の生産力を推測することは無意味ではないよ。
>>873 今川カワイソス
今川氏親なんて日本史上かなり重要な存在なのにな。
それを引き継いだ義元だって信玄、氏康に匹敵する存在だし。
桶狭間が恥ずかしいてのなら、本能寺の信長だって恥ずかしい
ってことになるとおもうが。でも信長は英雄。
おかしな話だ。このスレ見るまでまさか今川が地元民に
全く興味もたれてないとは知らなかったからショックだ。
公家のイメージがまずいんだろうね。
どういう公家のイメージがあるのかわからないけどwww
ドラマなどでの桶狭間シーンでの白塗り・お歯黒義元のイメージは
残念ながら根強くあるかもね。
武家の名流で都にも縁が深いので、都からの文化伝播は盛んで
(寿桂尼は公家の出だし)、下克上でない守護大名家が
都の影響を受けてることは普通のことなんだけど。
今川家の貴族化への傾きは他家よりは強かったのだろう。
プチ足利家的な面はあるよね。
>>871 石川の一向一揆も隠蔽されがちなんだ‥
てか、加賀の一向一揆は
あの時代の「生きた農民」を象徴し、むしろ戦後戦前問わず教科書ではプラス評価のはずだが‥
>>877 表面は足利的。まあそら足利でも宗家に準じる家格だから当然
だわな。
でもその実質は朝倉なんかとならんで、最も早い時期に戦国大名
に転化した家なんだよね。そして守護大名から戦国大名にスムース
に移行した稀な家系でもある。だからお歯黒の表面だけでイメージ
ができるのは気の毒すぎるし、不正確だよなあ。
880 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 12:19:42
静岡県人というか静岡市民にとっての今川時代=韓国人にとって日帝時代じゃないのw
良いこともいっぱいあっただろうに今川が負けてから忘れ去りたくて仕方がない
んだよww
881 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 13:58:19
>>879 小鹿範満の問題なんかもあったから必ずしもスムーズとはいえないよ。
でも他地域・他大名に比べてかなり早い段階で戦国大名としての地位を確立したことは間違いないけど。
あと足利一族内での今川の地位は微妙。
確かに家格は高いのだが、一方で室町初期の頃には吉良の分家という目で見られることも多かったらしい。
その結果、室町期の今川は家格的には元々大したことない細川なんかと連携することが多くなる。
>>881 小鹿の問題は、下手すれば今川家自体の滅亡ないし衰退の危機
だったね。しかしここは早雲の登場で危機を回避、むしろ戦国
大名化への契機になった。氏親は早雲の影響も大きく受けたの
だろうね。そういう意味では早雲自体が戦国大名という観念の
創始者かもしれないね。もちろん同時期に朝倉でも似たような
動きが進行しているから時代の波てのもあるんだろうけど。
883 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 14:39:40
早雲が生きてる間は、今川と後北条は殆ど一体の勢力といって差し支えないね。
今川と後北条の方向性にかなり違いが出てくるのは早雲の死後。
今川氏親は、自らの持つ権力の根拠をあくまで駿遠両国の守護職に求めた。
もちろん彼は仮名目録の中で守護使不入地の否定を宣言したりしているし、彼の権力は幕府からの承認がなければたちどころに崩れてしまうという性格のものではないから、従来の守護大名なんかよりは明らかに地域に根ざした自立性の高い権力を確立してる。
一方、早雲の後を継いだ氏綱は、苗字を伊勢から北条に改めたりして、鎌倉期の北条氏のように将軍(後北条にとっては関東公方)を推戴して、その大義名分の元に自らが関東の実質的な支配者になろうとした。
ただこれはそれまで関東管領として関東に居座ってきた上杉氏の強い反発を招くことになった。
884 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 16:38:16
公家っぽいのがとか書いてあったんだが
基本的に朝廷から官位をいただいているのが公家で幕府からもらってるのが武士?
885 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 17:13:54
公家=堂上貴族じゃないの?
この男は、あの武田信玄や上杉謙信すら一目おいた男‥
この男は、武田信玄が唯一畏怖した男であり、常に顔色を伺うように勤めなければいけない相手であった。
武田信玄は、この男に援軍を要請されれば牛馬の苦労を厭わずどんな遠地にでも援軍を買って出た
また、一方で信玄は信玄の良き理解者であるこの男を父親同然に頼りにし、親父を追放した時も川中島の際もこの男に頼っている。
桶狭間の結果を聞き、もっとも驚嘆したのは信玄であったのかもしれない。
某義元サイトからの引用
静岡人ですがさすがに持ち上げすぎ??
887 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 22:31:43
>>872 確かに米の生産高は遠江>駿河のはず。
あと、駿河の米生産地域ってのは基本的に安倍川流域と志太平野に限られる。
だからこの地域は今でも日本の中でもとびきりの地酒を出す地域と言われるわけでね。
満寿一とか初亀とか磯自慢とか。
888 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 23:00:37
>>886 今川義元は、川中島で衝突していた武田信玄と上杉謙信の仲裁とかもしてるね。
一向一揆はイメージしづらいから
盛り上げようが無いんじゃないか?
890 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 15:28:58
今川氏って、三河国の西尾市の今川庄発祥だから、静岡人にはさほどこだわりないんでは?
発祥なんてあんまり関係ないでしょ
もし発祥が三河だからなんて理由なら
豊臣秀吉を持ち上げる大阪人はいなくなると思われ
892 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 22:06:49
石川県人に一向一揆を恥ずべき歴史だと洗脳したのは、江戸時代の加賀藩によるところも大きい。
893 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 04:52:51
今でも北陸は信徒が比率的に結構多いよね
894 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 08:59:56
比較的というか圧倒的といったほうがいいかも。
しかし、その信徒達が一向一揆を恥ずべき歴史と思ってるのだから、洗脳とは恐ろしい。
895 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 10:52:07
今年の大河の今川義元を江守徹がやってたことについて、あるマスコミが
「今川義元は公家なのに江守徹ではアクが強すぎて公家風に見えない」
って批判してたよ。w
>>895 w
とうとう公家にされちまった義元カナシスww
897 :
895:2006/03/31(金) 11:18:10
因みにYahooニュースで見た。
情報源のマスコミがなんだったかは覚えてない。
898 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 11:33:02
そういえば昔、大河「秀吉」をやってたときには足利義昭を公家って
いってたな。
なんか立烏帽子を被っていれば公家っていう認識なのかな?
899 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 14:42:57
足利義昭は征夷大将軍と共に参議になってるので公家と呼んでもいいんだろうけど
今川義元は弾正忠止まりじゃなかったっけ?
弾正忠の先には公家と呼べる地位にいけたかもしれないが弾正忠を公家とは呼ばないだろ
>>899 つうか、どんな官位が高くても、「武門」の家を自認する
以上武家じゃないか?
ちなみに今川家は従四位下民部大輔ないし治部大輔が
極官だね。
一般的にすれば限りなく公家かぶれの武将という見方でしょうな、現実に。
902 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 17:46:34
公家スレどっかいった?
公卿と武士という定義にするとわかりやすい
実際官位も公卿と呼ばれるまで昇進していないし、自ら兵を率いて戦闘行為
をする当主だったわけだから立派な武士ですよ
903 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 20:58:34
そのとおり立派な武士だが
めんどくさいから公家でいいよ
もう
904 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 21:00:28
御輿乗って鉄漿、厚化粧してりゃ、どうみても立派な公家だろ
905 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 21:29:02
本当にお化粧とか鉄漿とかしてたの?
906 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 21:54:06
お歯黒や化粧は当時は実際には武家でも普通にやってるはず。
特に武将は戦場に出るときは普段以上に入念に化粧をする。
但しそれをそのまま時代劇で再現すると、現代人の感覚ではとても不気味な光景になってしまうから敢えてやらないことが多い。
あと輿に乗る理由は、単に自分が高い身分の出身であることを周囲に示して畏怖させることが目的だったというのが真相。
馬に乗れなかったというのは根も葉もない俗説にすぎず、同時代に近く比較的信頼の置ける『信長公記』(著者は信長の右筆)では
「義元は馬で桶狭間から逃げようとした」って書かれている。
つまり義元は普通に馬に乗ることができたのであり、輿に乗る場合でも緊急の際に乗り換えるための馬は常に用意してあったと見るべき。
まあ当時は公家でも女性でも普通に馬に乗っている時代だし、そこで義元みたいな身分の人が馬に乗れないと考えるほうが本当はあり得ないのだが。
907 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 22:02:56
つまりまとめると
こんな女臭いヤツなんだよ
と不当に貶められてるわけだよね
908 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 22:11:59
909 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 22:12:50
大内家とか北畠なんかは武家だけど、官位は高いよね。
息子の蹴鞠もマイナスイメージじゃね?
彼は治世なら結構優秀な大名だったと思うけど。
911 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 22:18:15
>>899 公家=公卿の意なら、今川義元は公家ではないが、織田信長は公家になったといえるね。
>>900 三位以上になっても武門の家なら武家というのは、当時の概念としてはあり得るね。
例えば、壇ノ浦の戦いの後の平家一族への処罰を考えれば、宗盛と清宗は武門の家の棟梁と跡継ぎということで処刑されているが、
時忠については元々武家ではないということで流罪になってるし。
>>907 そういうことだと思う。負けた相手が信長てのも運が悪いね。
どうしても悪役になってしまう。
>>912 さらに言うならば使い走りにしてこき使っていた相手が徳川家康。
徳川史観で悪く描かれない訳が無い。
>>913 そうだね。
使い走りというけど、当時力のない国人が大勢力の
傘下に入るなんて普通のことなのにねw
915 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 22:56:59
>>909 大内氏の官位は今川と大差ない。
大内氏で公卿に登った人物はなく、最高でも四位どまり。
北畠氏の場合は元々公家なので、地方に下って在地領主化しても代々公卿に登る。
916 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 22:58:43
>>912 信長に負けた大名でも、例えば浅井長政なんかはあまり悪く書かれないのは何故だろう。
917 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 23:07:29
>>913 しかし家康は今川に対しては恩義を感じていた部分もあったらしい。
のちに無一文になった氏真を保護して厚遇したりしてるし。
それから、家康は今川の庶流の家が今川の苗字を名乗ることを禁じたりしていて、
一応今川を特別な家として位置付けようという意識があった模様。
氏真の庶子である高房の子孫が今川を名乗らずに品川を苗字にしているのも、
嫡流ではないという理由で今川の苗字を禁じられたから。
ちなみに同様のことを家康は吉良に対してもやっている。
そのため関東にいた世田谷吉良氏(南北朝期の奥州管領吉良氏の子孫)は、
吉良の苗字を禁じられて江戸時代には蒔田氏となった。
918 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 23:16:20
家康はさすがに負い目はあるだろ
客観的にみれば謀反と同じ事やっている当本人だからな
だが、文治主義が浸透化するにつれ徳川幕府が謀反できた政権なんですなんて、いえなくなってきたものだから
主家の今川家を貶める必要が出てきた
919 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 00:17:56
なるほど。そうなると、公家かぶれ・岡崎武士をこき使ったと
しか、貶める内容に乏しかった。(蹴鞠はやりすぎなのかも)
ってことか。
920 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 00:29:35
てか義元レベルを公家かぶれとかいうのなら日本全国の大名は殆どみんな公家かぶれなわけだが。
例えば「葵徳川三代」では家康や秀忠が直衣&立烏帽子の姿で登場する場面があるが、これは公家かぶれなのか?w
ちなみに当時の家康の官位・官職は従二位内大臣だが。
>>915 大内と今川はまあほぼ同格といっていい存在だが、義隆の
時に極盛期をむかえ、義隆は従二位兵部卿太宰大弐になってる。
よって彼は公卿。
922 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 02:49:31
後、掛川篭城で粘り勝ちしたのは大きいね
講和条件は
氏真の助命と駿河国主の地位を取り返してもらうこと
無論、駿河は当時信玄の領地だったので約束は単なる空手形に過ぎなかったが家康は
勝頼から駿河を奪うときに、この約束を大義名分とすることが出来たので
家康に大分借りを作れた
氏実は最後の最後で家臣に恵まれたな。勝頼や氏政と比べても
>>915 大内氏は30代義興が従三位、31代義隆が従二位までのぼっている。
最高が従四位下の今川より明らかに上。
925 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 03:11:50
義隆の従二位は正直やりすぎた感があるね‥
大御所時代の家斉が、官位にはまって太政大臣になったような
むしろ良くない例として引き合いに出されがちなんだが
>>924 義興は事実上幕府を牛耳った時期があるからね。従三位は
家格というよりも実力だろ。義隆はその余波だな。
他の当主は従四位が基本だが、正四位上が何人かいるなど
やや今川よりは上かな。
927 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 13:21:58
義興と一緒に幕府を牛耳った細川高国は公卿になったの?
928 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 19:16:15
今川も徳川も三河発祥だろ??????????
929 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 23:27:43
徳川は上野国新田郡の・・・(以下略
世界のトヨタも発祥は遠州
931 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 09:55:05
>>916 秀吉の側室、家光の母の在所に対して悪口はいえないでしょ。
932 :
YAP?:2006/04/02(日) 12:24:02
義元が桶狭間の時に御輿に乗っていたのは、確か小和田氏の説では「屋形」号を
将軍家から許されたという家格の高さを示すためのものだったとか言うように説明
してあったように思うのだが。
つまり、「今川家」の家格の高さを織田家中に見せ付けるためだったという
ものだったらしい・・・。
933 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 12:43:23
「屋形」号ってなんですか?
>>932 そういうのはあるだろうね。当時は実力が全ての時代だった
けど、だからこそ、自分の優位性を示すことに余念がなかった
からね。信玄と謙信も信濃支配を巡って信玄は信濃守護職を、
謙信は関東管領職を獲得したりと、互いに少しでも優位に
立とうと必死になっているしねw
>>933 「お屋形様」と呼んでもらえる権利のことです。
正式な守護職にある者にその権利があります。
義元は駿河、遠江の守護職だったからこの権利
があります。
936 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 13:10:50
>>935 単に「殿様」を呼ぶ時の呼称の一つかと思っていたが違うのか。
守護職なら誰でも権利があったんですか?
>「屋形」号を将軍家から許された
というのを読むと、別途許されるようにも思えるのですが。
>>936 守護職と不可分一体かどうかはわかりませんが、
普通守護職の人間は「お屋形様」と呼称されますな。
別途許しが必要かもしれませんが、普通は守護の任命に
伴って許しがあったのかも知れませんね。
>>936 殿様とお屋形様は格が違うんですよ。
殿様<お屋形様<御所様
って感じですなか。
ちなみに上杉家では、関東管領の末裔というプライドの
ためか、江戸時代になっても当主はお屋形様と呼んでます。
語源的には、京都に屋形を構える資格のあるもの(=守護)
という意味です
もちろん室町の将軍に仕えるために
>>939 なるほど。だんだんわかって来ました。
室町時代では守護は京都在住が普通でしたからね。
941 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 14:47:46
942 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 15:05:06
>>934 信濃は鎌倉府管轄じゃないから、関東管領になっても信濃に権利を主張することってできるのか?
943 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 15:06:40
江戸時代だと、屋形号を名乗れるのは基本的に大名だけだが、例外として旗本でも山名家と最上家は屋形号が許されていた。
>>942 管轄じゃ無理。だけど一般の守護より関東管領が上なので
そういう権威を背景にしとる優位性じゃないかな。
それと甲斐の守護は関東管領の管轄内なのかな?そこら
へんはちょっと自信なし。ただ、一時信濃が関東管領の
管轄内だった時期があることはあるよね。
946 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 15:20:09
南北朝の一時期には信濃が鎌倉府管轄になってたこともあるけどね。
>>937 守護=屋形を称する資格 ではないと思うんですが。
別に将軍の許可が言ったような。
ウィキペディアにも記事ありますね。
>>917 >それから、家康は今川の庶流の家が今川の苗字を名乗ることを禁じたりしていて、
>一応今川を特別な家として位置付けようという意識があった模様。
これも室町時代に起源があったような。
永享の乱で関東出兵した功績で足利義教に許可されて、他の今川一門が名字を改めたんじゃなかったっけ
(了俊の系統が堀越氏を称するとか)
同じように庶流が本家と同じ名字を称するのを将軍に禁止された大名に豊後の大友氏があったはず。
>>947 そうですね。
家康は故事を尊重し、義教の政策を追認したんでしょう。
949 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 23:05:51
950 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 13:23:21
951 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 16:20:30
桶狭間の戦いは夜戦というより野戦だわな
上洛戦否定、大雨正面突破結果奇襲説といいところを書いてあるんだがその前
の夜戦だけは意味不明だな
>>951 小勢が大軍を破ったという共通点があるのと、厳島、河越が
野戦だったので、それに引きずられたんじゃなかろうか。
953 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 20:01:50
今川橋
今川橋が神田堀(別名神田八丁堀・龍閑川)に架設されたのは
天和年間(1682〜83年)との記録がある。橋名の由来は、
当時の名主今川氏の尽力による架けられたのでその名が残った。
>>>>>>>>>>>>>>
今川焼きの由来が、今川橋で、その由来が今川氏。
で、今川は、三河の西尾市の地名。
>>952 厳島って夜戦でしたっけ?
夜の内に上陸したけど戦闘は日が昇ってからだと思ってた。
>>954 嵐の夜中の行動が戦を決定づけたわけだから野戦で
良いのでは?
まあなにも野戦で括る必要は感じないけどw
956 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 00:43:29
まず野戦なのか夜戦なのかはっきりしろ。
957 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 01:35:30
>956川越のみ夜で、あとは日中かと
まず、日本三大○○って定義や根拠が怪しいトコあるよな。
昔、3大夜戦=富士川の戦い、河越の夜戦、あと何かと聞いたんだが、多分富士川は間違いなんだろうなあ。
960 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 03:54:22
なんでこのスレ最近人気あるん?
>>960 今川と関連の薄い話題でもOKだからでないの?
962 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 09:48:05
正直今川は語り甲斐があるからな
963 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 02:13:12
お笑い芸人の品川庄司の品川って今川と関係あんの?
965 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 14:04:36
966 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 16:17:45
今川や品川という苗字でも、品が無くて低学歴なの今川義元の子孫ではないと見なして良い。
967 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 03:57:29
( ^ω^)VIPから来ました
俺様が選ぶ日本三大夜戦
倶利伽羅峠、河越、根白坂
日露戦争の開戦時の奇襲も夜戦。
東京大空襲も夜戦だね
972 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 15:14:12
「夜戦」と「野戦」を間違えてる奴、たぶん鮮人だろ?
半島語ではどちらも発音が「야전」だから、漢字苦手な鮮人は間違えちゃうんだよね。
>>972 単なる変換違いだろ。なんでもかんでも朝鮮人扱いするなよ。
うぜえぞw
>973
朝鮮人云々がウザイのは同意。
が、変換間違いではないんだな。>949を見てみろ。
河越厳島桶狭間が日本三大野戦でもおかしいだろ?
もっと大規模な野戦は沢山あったんだから。
どうやら野戦と夜戦ではなくて、夜戦と奇襲を混同してる人がいるようなんだわ。
>>974 桶狭間は今や奇襲ですらないというのが最有力説だしな。
相手の意表をついたのは間違いないだろうけど。
その3大なんとかで共通するのは、少数が大軍を破った
という点のみなんだよね。
976 :
YAP?:2006/04/12(水) 16:52:45
小和田氏の『今川義元』を読んだのだが、その時の読後感は、
やっぱり、義元は負けるだろうというものだったのを覚えている。
つまり、氏の説では、(手元に本が無いので若干記憶違いがあるかも
しれないのでもし気付いたら訂正して欲しい)尾張進攻は、@弟の名古屋城主
氏豊が信秀に城を奪われたことへの意趣返し、A信長が尾張
半国を統一して更に、勢力を拡張して来るのを防ぐ、即ち、折角信秀の死後に
奪った今川領の尾張半国を確保する、
B更に織田信長の所領を奪う、というものだったという。
大体それが正しいのだろうが、それにしては、義元は油断しすぎたと思う。
そもそも、尾張半国を統一した信長は、父の時代と異なり、多くの織田一族
之連合体の「旗頭」ではなく、犬山織田氏を除き、清洲・岩倉両守護代家を
滅亡させ、守護斯波氏もなく、織田藤左衛門家を完全に傘下に置くなど、
戦力の向上は著しい。
その信長が、次に、父の有力な与力だった山口氏の領有していた鳴海城や、
或いは大高城の回復を目指して、沓掛城と、この二城の間に付城として五砦
を築いて、遮断したわけだから、今川としてはとりあえず、鳴海・大高両城の
解囲を行うのは当然だが、いわば、織田の縄張りに攻め込むのに、兵力も外交〜
調略などの準備も不十分だったとしか思えない。
不十分だったのではないか。
>>976 いやいや十分さ。
「大将の首か全滅か」なんてアレな戦争するんじゃなけりゃ。
>>976 >弟の名古屋城主氏豊が信秀に城を奪われたことへの意趣返し
これは、那古屋を織田信秀が奪った時期から大分立っているからないのでは?
名目としてはあるかもしれないけど。
というか、武田・北条と同盟結んでいる関係上、西にしか勢力伸ばせないですよね今川は。
979 :
YAP?:2006/04/12(水) 19:24:16
しかし、織田方の付城というか五つの砦のほとんどは、鳴海城や大高城の
東側にあり(遮断のためだから当然だが)、基本的に西側は織田領だ。
でそこに、2万5千の今川軍が、とりあえず「兵糧入れ」と解囲を目的に来るわけだが、
当時のこととて2万5千のうち、まあ、軍夫が多かっただろうから、それを除くと
戦闘に参加できる実人員というか兵数は半分以下、せいぜい1万が最大規模だろう。
で、これを各砦の攻略と兵糧入れに手当てすると、義元の護衛に当たり得る戦力など
まあ、一回の強襲で吹き飛ぶ程度のものだ(実際に吹き飛んだのだが)。
どう考えても、義元は、沓掛城に残留しているべきだったろう。
義元が、沓掛城を出て、鳴海城に向かっているという情報が入れば、尾張国内で苛烈な同族間
抗争を生き抜いてきた信長が、出てきそうなことは今川側にはわからなかったのだろうか?
>>979 >当時のこととて2万5千のうち、まあ、軍夫が多かっただろうから、それを除くと
>戦闘に参加できる実人員というか兵数は半分以下、せいぜい1万が最大規模だろう。
ソースもなしに断言する姿勢が素敵。
どっかで大高城への兵糧入れのときの松平軍の陣立て見た記憶あるんだけど見つからない。
>980
ソースは示してあるが?
まぁ『落穂集』を根拠とする小和田氏もアレだが・・・
>976
で?
その本にも書かれているが、義元にしてみれば示威行為を兼ねていたんじゃないのかな。
織田家内部では篭城策が主流だったという説を信じるなら、
それが義元による事前工作だったのではないだろうか。
まぁ結果論ならいくらでも言えるが、桶狭間以前にアノ信長と
今川家を比べれば保身に奔りたくなる織田家臣の気持ちもわかる。
義元の不運は、戦国史に稀な奇禍(悪天候を含む)が自らに及ぶことを
予見できなかったということだけなのではないだろうか。
982 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 01:14:17
>>981 確かにそうだ、もし俺が2万5千の軍を率いていて、敵軍がMAX5千だったら、
まさか攻撃されるとは思わんものな。
まあ、結果的には、いままでのように誰かを総大将にして(過去は雪斎)
自分は駿府にいた方がよかったのだが。
>>982 MAX5000だけど、砦とかにかなり人数さいて
いるから、動ける部隊は3000がいいとこじゃ
ねえかな。
でも、義元の本隊5000くらいを破ることだけを
考えると十分な人数なんだよな、これが。後から
考えればなんだけど。これが人数の錯覚だね。
夏の陣で徳川全軍が20万もいたのに1万にも満たない
真田に家康秀忠という二つの本陣が席巻されたのを
見ても、人数を過信すると結構ヤバいんだよね。
特に当時の軍はいろんな部隊の寄せ集めだからね。
秀忠?
985 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 02:30:53
なんかの本で織田側は人口的にMAXで一万ぐらいは集められたというのを読んだことがある。ただ、今川がかなり優勢なため五千しか集まってこなかったのだと想定してた。
>>985 太閤検地で尾張は50万石くらいだから、尾張全土を
完全に掌握しているなら15000くらいは動員できる。
だけど当時はまだ尾張を一応平定した直後くらいなので
完全掌握って感じでもなかったんだろう。現に尾張国内
に今川方の砦が沢山あったのが桶狭間の時点での現状
だからね。
987 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 03:26:14
桶狭間って実際には戦国期の大名領国の境界付近で普通に見られた小競り合いみたいなものなんだよね。
だから義元がここで戦死したのは完全に事故というか、偶然に偶然が重なったようなものらしい。
織田方は義元の首が取れるなどとは思ってなかっただろうし、今川方も尾張で織田方と総力戦をやって尾張を完全征服しようというレベルまでの意思があったのか、疑問らしい。
988 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 04:45:31
北条早雲が、参謀だったころの今川が最強。
>>988 2万5000って当時の今川にしたらフル動員であること、
義元直々に出陣していることから、単なる小競り合い
目的じゃないと思うよ。
最低でも尾張東部制圧、できたら清洲奪取くらいは
考えてのものだろ。
991 :
980:2006/04/13(木) 11:28:37
>どっかで大高城への兵糧入れのときの松平軍の陣立て見た記憶あるんだけど見つからない。
見つかった。ソースは「改正三河後風土記」、江戸後期の資料なのであまり信頼性は高くないかも。
護衛の人数800、小荷駄150匹(450俵)、牛馬1頭に対して軍夫2人が基準
(実際は3人/2頭が多かったらしい)ので約3割が軍夫。
ただ、このときの松平軍は兵糧の強行搬入が任務なので、
今川全軍に対してそのままこの比率は当てはまらないかも。
992 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 11:39:15
いくら今川本隊が薄くても織田家陣地からまっすぐ今川本隊に向かえば
周囲に散らばっているほかの部隊に気付かれると反対されて
それでも信長が正攻法を主張して進軍、大雨のため運よく本隊との戦闘
だけで済んでさらに運よく大将のクビが取れました
>>989 「最近織田信長が元気だから少し牽制しにきた」程度の認識だったんじゃないの?
互いに相手を牽制することが目的でも川中島みたいに結果的に大軍同士の
衝突になることもあるし。
994 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 14:01:28
>>993 北条の援軍も含めて2万5千とも4万ともいう軍勢で、
兵糧入れや、小競り合いを目的には行かないでしょ。
費用対効果が悪すぎる。
995 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 15:59:14
そもそも今川の2万5千という兵力は兵農分離が進んで常備軍化しつつあった後世の軍役から割り出されたものだが、
義元の時代だったら、農閑期ならばもっと動員できただろう。
>>995 農閑期の動員は年貢と交換だからね。動員されるのは
農民にとってはかえって利益だけど(年貢免除の他に
略奪利益も得られるから。おまけに万一戦死したら
補償としてその後の年貢免除なども得られる)、動員
する領主はその分年貢収入が減る。なので結局動員数
には限度があって兵農分離時代と数に大差はないと思
われる。
軍功をあげて領地が増えればウマーだけどね。
998 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 05:45:22
>>994 史料編纂所の先生が小競り合いだっていってたよ。
999 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 10:15:29
↓鮮やかに決めてくれ、1000getを
1000 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 10:22:48
うほっ!1000
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。