1 :
日本@名無史さん:
専用スレです
古河公方様でもいいでつか?
sex
堀越公方さま
足利茶々丸て殺されたの?
小弓公方は?
7 :
日本@名無史さん:03/11/02 00:20
持氏←モチウジ→茂氏←シゲウジ→成氏
8 :
日本@名無史さん:03/11/02 01:34
ったく、古河も堀越も鎌倉公方だろうが(元々)
つか
>>1はどこから話を始めたいの?
京都、鎌倉の2元将軍制?それとも鎌倉が割れて公方が3人も4人も
できた話?それともその元になった尊氏、直義の2頭政治?
鎌倉がおかしくなった上杉家の内紛?
専用スレの意味は?
古河公方だって、
古河を鎌倉に見立ててたから、
気分は鎌倉公方だったんだよな。
10 :
日本@名無史さん:03/11/02 01:57
関東公方といほう
11 :
日本@名無史さん:03/11/02 02:52
12 :
日本@名無史さん:03/11/02 04:39
稲村御所、篠川御所はダメ?
13 :
日本@名無史さん:03/11/02 04:40
ふと思ったのだが、この時代の「〜公方」と「〜御所」は同義?
14 :
日本@名無史さん:03/11/02 04:44
別だろ?
そもそも公方って将軍といういみだし。
関東公方だってもともとは関東の管領がインフレしたんでしょ?
15 :
日本@名無史さん:03/11/02 04:48
いや公方というのはもともと天皇および朝儀を指していったもの
公方自体がインフレしている
16 :
日本@名無史さん:03/11/02 07:38
政氏、高基、義明、基頼。
この辺の親子兄弟の相克史は近親とは思えない、
いや近親であるからこその憎悪がむき出しで
なかなか凄まじくてヨイ。
17 :
日本@名無史さん:03/11/02 07:47
古河公方の居城した古河城は徳川江戸城より縄張りの大きさはデカかった
18 :
日本@名無史さん:03/11/02 08:20
関東公方が正式に消滅したのはいつ頃?
上杉謙信は関東管領を称してたけど誰かを関東公方に擬してたのか?
19 :
日本@名無史さん:03/11/02 08:52
どうやら日本の史学界は上杉謙信の関東管領を認めていないようだね
関東管領職はあくまで京都に任免権があるし
まして上杉家がどうのこうのできる筋合いのものでもなかった
ということはあくまで戦国動乱期の例外的措置
>>19 京に上杉謙信は上がって、足利義輝から正式に任免受けてなかったっけ?
21 :
日本@名無史さん:03/11/02 09:00
関東公方に擬すうんぬんは凄くいい視点だけど
その必要はないんじゃないかな?
関東公方が無くなっても関東管領は存続できうる職だろうから
関東公方が任免する関東執事と京よりスタンスの関東管領の対立がそもそも問題な訳だが
22 :
日本@名無史さん:03/11/02 09:50
関東執事と関東管領の対立って…?
23 :
日本@名無史さん:03/11/02 11:50
関東管領→関東公方
関東執事→関東管領
じゃないの?
24 :
日本@名無史さん:03/11/02 11:52
越州公方 足利藤氏
25 :
日本@名無史さん:03/11/02 11:59
いや関東管領と関東執事は別だよ
中央でも管領と執事は別
ただ執事は常置のようではないようだが
それにしたって政治上の要職だから重要だが
26 :
日本@名無史さん:03/11/02 12:05
公方がいなくても管領は統治できる
ただ執事は文字通り足利家の個人的な内向きの用を承っているだけ
とはいいつつ室町将軍家も鎌倉公方家も超巨大な家なので内向きも結局は外向きの政事になってしまう
27 :
日本@名無史さん:03/11/02 12:31
京都にいる執事って誰?
上杉朝定のこと?
少なくとも関東管領と関東執事には本来区分はないのでは?
関東管領と関東執事という明確な区別があり、対立した人物って誰のこと?
28 :
日本@名無史さん:03/11/02 16:36
29 :
日本@名無史さん:03/11/02 16:38
>>14 この時代の公方と御所は同義じゃないの?
鎌倉御所と言おうが鎌倉公方と言おうが同じこと。
30 :
日本@名無史さん:03/11/02 18:10
31 :
日本@名無史さん:03/11/02 19:14
足利成氏の関東公方就任は、
将軍が認めたの?
32 :
日本@名無史さん:03/11/02 19:18
>>30 歴史的仮名遣いでは「藤氏」は「ふぢうじ」なので大丈夫です。
33 :
日本@名無史さん:03/11/02 22:14
>>29 少し違うとおもう。
御所というのは高貴な血筋なら誰でも御所。
きちんとした職制はない。
しかし関東公方には関東独自の職制がある。
34 :
日本@名無史さん:03/11/03 19:04
小弓公方 VS 北条氏綱
35 :
日本@名無史さん:03/11/03 19:35
堀越公方 VS 北条早雲
36 :
日本@名無史さん:03/11/03 20:52
鎌倉
古河
堀越
小弓
稲村
篠川
他にはある?
37 :
日本@名無史さん:03/11/03 21:05
入間川殿
足利基氏がそう呼ばれていた
武蔵上州方面の情勢が落ち着かなかったので
武蔵入間川に十年ちかく退陣していて鎌倉に帰還できなかった
38 :
日本@名無史さん:03/11/04 02:24
結局関東管領と関東執事は同じでいいの?
39 :
日本@名無史さん:03/11/04 02:58
将軍義満は、九州探題今川了俊を更迭していながら、鎌倉公方足利満兼を更迭しなかったのは何故?
南北朝合一の時点で、京都の幕府から見て、鎌倉府なんて無用の存在になったんじゃないの?
40 :
日本@名無史さん:03/11/04 04:22
そういえば室町時代の関東史って全然教科書に出てこないな。
鎌倉時代とは扱いが対照的。
41 :
日本@名無史さん :03/11/04 06:11
最後の古河公方である足利義氏には氏姫という娘があり、
義氏の死後もしばらく遺臣達とともに古河城に滞在していました。
1590年、豊臣秀吉は北条氏を滅ぼして天下を統一すると、
氏姫を小弓御所の足利国朝と結婚させ、古河に加えて下野の喜連川も所領として与えます。
これによって古河公方の子孫は代々喜連川氏を名乗るようになります。
42 :
日本@名無史さん:03/11/04 15:10
>>41 秀吉は当初、氏姫を側室にしようとして離さなかったが、いつまでたっても懐妊しないので、やむなく国朝と結婚させた。
その後、氏姫と国朝の子孫が喜連川氏になった。
43 :
日本@名無史さん:03/11/04 20:17
喜連川家て現在も続いてるの?
44 :
日本@名無史さん:03/11/04 20:35
>>43 この人ですけど。
足利惇氏博士(1901-1983)はインド・イラン学の第一人者で、1959年に学士院賞、
1972年に勲二等瑞宝章を受章。日本オリエント学会の会長も勤めた。足利尊氏の末裔で足利家26代当主。
学習院初等科の頃、昭和天皇と同級生であった。
1927年同志社大学英文学科卒、1950年京都大学教授、1962年文学部長。1965年京都大学を定年退職
惇氏氏の後に足利家はどうなってるか、という話なら、俺は知らんが。
45 :
日本@名無史さん:03/11/04 20:48
足利尊氏の末裔で足利家26代当主てことは、
喜連川が足利嫡流??
46 :
日本@名無史さん:03/11/04 21:06
48 :
日本@名無史さん:03/11/04 21:24
>46
血統的には護煕元首相
49 :
日本@名無史さん:03/11/04 22:18
足利惇氏氏は血統的には水戸徳川家でしょ
50 :
日本@名無史さん:03/11/04 22:29
水戸光圀か誰かがこの名家の行く末をはかなんで
もし将来喜連川家が絶えるなら(貧乏所帯の)
喜連川家にはどこの家も養子に行きたがらない
であろうから我が家から率先して養子を出すように
と言ったとか
51 :
日本@名無史さん:03/11/04 22:33
それと足利惇氏氏が幼いときの回顧談。
鎌倉にある尊氏墓を近所の学童が
にっくき尊氏めがといって足蹴りにするのを見て
心を痛めたとか
52 :
日本@名無史さん:03/11/04 22:52
それをお父さんに泣きながら訴えたら、
「お前は先祖の尊氏公を誇ってよいのだぞ」
と諭されたとか。(つД`)
53 :
日本@名無史さん:03/11/04 22:57
おっと系図みると江戸時代の喜連川家は
さらに他家からの養子をとっているみたい
なので足利惇氏氏が実際どの家の血かはわかりません
訂正します
54 :
日本@名無史さん:03/11/04 23:07
ちなみに細川護煕氏は由比ガ浜に育ちともに現在は
鎌倉市内にある清泉小学校と栄光学園に通いました。
(ただしその当時栄光学園は横須賀にあり、しかも細川護煕氏は
高校で学習院へ転入。実弟の近衛氏は栄光学園を中高とも卒業)
清泉小学校は右大将頼朝公の大倉居館の敷地跡の真上に建っていて
一方、栄光学園は北条早雲直々の縄張りと伝えられる玉縄城の跡地の
ひとつの丘の上にその校舎を構えています
もちろんこれらの源氏と北条は意味が違いますが
なにか源家平家の両家の血を濃く受け継いだ足利家の
歴史との不思議な結びつきのようなものを感じます
55 :
日本@名無史さん:03/11/05 10:18
56 :
日本@名無史さん:03/11/05 17:28
>>47 源義家の子で足利家を興した義国か、その子の義康あたりから数えてるんじゃない?
江戸期の喜連川家当主を除いて。
57 :
日本@名無史さん:03/11/05 17:32
義康を初代とするなら、尊氏は8代目。
58 :
日本@名無史さん:03/11/06 19:12
ふーん
59 :
日本@名無史さん:03/11/06 19:30
アホだと一言言われただけで数百レスの自作自演で丸二日煽りっぱなし
大した祭じゃないけどなかなか面白い。
ttp://life.2ch.net/test/read.cgi/hage/1067586927/46- このスレの43が、46に頭が悪い人みたいなことを一言言われたのに激怒して
丸二日?ぐらいずっと張り付いて自作自演して「バカはお前だろ」「激同」とかやり続けて煽ってる。
で、自作自演丸出しだから、通りすがりの人なんかが呆れたように書き込みすると
「46キター」とか、全部46だと妄想して更に勢いをつけて煽り出す。
昨日も一昨日も徹夜で自作自演。
通りすがりに一言43を煽ると、数時間後にはおそろしく(レス数も執念も)反論がついてます。
学校や仕事に出掛ける前にたちよって一言煽って出掛けると
帰って来た時にスレをひらいてみるのが楽しいかもしれません。
そんなミニゲームとして楽しむスレですが、よかったらどうぞ。
現在新展開。43が昼寝から起きてきて、怒りの自作自演で反撃中です。
「 稚 拙 」を「 せ っ し ゃ 」 と 読 ん で し ま い 、ますます火に油をそそいでしまったマヌケな43からますます目が離せない
60 :
日本@名無史さん:03/11/07 12:22
室町期の公方(御所)の官位ってどのくらい?
61 :
日本@名無史さん:03/11/07 20:02
62 :
日本@名無史さん:03/11/07 20:21
>>61 大納言まで昇れるのは京都の公方だけじゃないか?
63 :
日本@名無史さん:03/11/07 23:46
>62
和歌山と名古屋の田舎者も大納言
64 :
日本@名無史さん:03/11/08 02:59
>>63 徳川幕府の話なら、武家諸法度には「武家の官位は公家相当官の外たるべき事」とあり
官職名が同じだが、朝廷の官職とは全く別物扱い。将軍家は公家相当官だけどね。
65 :
日本@名無史さん:03/11/08 03:17
>>64 まあ武家の官位なんて中世の頃だってかなりの部分が自称なんだから、実態に法度を合わせただけという面もある。
>>65 実態に合わせたんじゃなく、幕府が家格によって朝廷の裁可を得ずに
独自に官位を与えられ、それによって統制していくと言う枠組みを作っただけ。
全く逆の自称を禁止する法だよ。
67 :
日本@名無史さん:03/11/08 12:02
藤蛆→ふぢうぢ
痛そうな名前だ
68 :
日本@名無史さん:03/11/08 12:35
>>66 朝廷から見れば、自分のあずかり知らぬところで朝廷の官位を自称している連中がいるということに変わりはない。
69 :
日本@名無史さん:03/11/08 12:38
>>68 あずかり知らぬどころか、幕府が勝手に与えた官位を追認して口宣案や位記の作成にいそしんでいたのが実態だがな。
やってることは下請けの印刷屋と変わらん。
70 :
日本@名無史さん:03/11/08 12:41
>>68 ちょいと待て
66じゃないが、武家諸法度による武家官位は朝廷が認知した官位だぞ
武家と公家の官位分けをしただけでは?
71 :
日本@名無史さん:03/11/08 12:47
>>70 認知といっても事後だけどな。
任命は将軍が行う。朝廷はそれを追認した書類をつくるだけ。
72 :
日本@名無史さん:03/11/08 18:52
足利持氏
73 :
日本@名無史さん:03/11/08 19:01
74 :
日本@名無史さん:03/11/09 01:47
>73
ことばあそびですか?
鼬害ですよ
75 :
日本@名無史さん:03/11/09 17:27
>>62-63の63のツッコミ以降話がずれすぎ
関東公方は左馬頭と左兵衛督が基本ラインです
>>60 >>65 そう?親房とか将軍家が結構推挙してたような気がするけど
76 :
日本@名無史さん:03/11/10 00:44
>>75 守護クラスの大名官位は幕府公認で朝廷から正式に任命されたものがほとんどだが、その家臣達のはかなり怪しい。戦国期になると大名が勝手に家臣に官位を称する権利を与えている。
77 :
日本@名無史さん:03/11/10 04:23
>>75 >関東公方は左馬頭と左兵衛督が基本ラインです
なんかそのへんの守護大名と大差ないな・・・。
78 :
日本@名無史さん:03/11/10 12:25
>77
へえじゃあその大差ない守護大名を具体的に挙げて見てよ
79 :
日本@名無史さん:03/11/10 21:28
80 :
日本@名無史さん:03/11/10 21:45
age
81 :
日本@名無史さん:03/11/11 00:47
>>79 守護大名ではありません
ツッコミこれでOK?
82 :
日本@名無史さん:03/11/11 01:56
83 :
日本@名無史さん:03/11/11 02:03
>>82 そのへんの守護大名ではありません
ツッコミこれでOK?
84 :
日本@名無史さん:03/11/12 20:34
ネタスレですか
85 :
日本@名無史さん:03/11/13 02:09
77を思い込み厨に認定してもいいですか?
86 :
日本@名無史さん:03/11/13 08:07
関東足利氏といえば佐藤博信
87 :
日本@名無史さん:03/11/13 10:33
たまには簗田氏も語ろうぜ
88 :
日本@名無史さん:03/11/13 13:28
何故、鎌倉公方の家臣の中で台頭してきたのか?
89 :
日本@名無史さん:03/11/13 21:01
関東足利氏といえば足利高基
90 :
日本@名無史さん:03/11/13 21:10
>>86 渡部世輔大先生も忘れずに・・・。
今だに基本文献である「関東中心足利時代の研究」
91 :
日本@名無史さん:03/11/13 23:29
>>83 足利直冬は長門守護になった事実があります。
>>90 × 関東中心足利時代の研究
○ 関東中心足利時代之研究
です。
92 :
日本@名無史さん:03/11/14 02:21
93 :
日本@名無史さん:03/11/14 11:19
>91
>足利直冬は長門守護になった事実があります。
いつごろ?
確かに鎌倉公方以外で左馬頭・左兵衛督ってあんましいないねえ。
面白そうなんで軽く調べてみたけど、南朝の楠木正儀と初期の義満くらいしか見つからんかった。
ま、右馬頭とか左兵衛佐とか右兵衛督などの文字面が似てる官職は、
確かにそこらへんの守護大名クラスなんで、
その辺から77みたいな感想も出て来るんだろうと推測。いや、知らんけど。
95 :
日本@名無史さん:03/11/14 20:35
うひょー、えのかみ
> 左右馬頭
テンキュー
97 :
日本@名無史さん:03/11/15 02:49
足利直義って、尊氏の将軍就任と同時に左兵衛督になってなかった?
98 :
日本@名無史さん:03/11/15 07:01
それで公方か。おめでてーな。
>>97 いや、鎌倉公方っていうから、基氏以前はいいかと思ったんだが。
つうか直義―基氏と左兵衛督だったので、その流れで、
代々の鎌倉公方は左兵衛督が一つの目安になったのかな、とも思ってたんだけど、
そういうわけでもないの?
俺は鎌倉公方にも官職にもうといので、誰か詳しい人解説プリーズ。
ああ、ついでに義詮も一時期左馬頭だったっけか。
ま、どうでもいいことだが。
101 :
日本@名無史さん:03/11/15 18:52
>>100 観応の擾乱の頃の史料で左馬頭殿って出てきたら、義詮。
102 :
日本@名無史さん:03/11/16 10:30
佐藤博信『古河公方足利氏の研究』(校倉書房)
103 :
日本@名無史さん:03/11/17 00:37
左馬頭は将軍家占有の官職じゃない?
>>101、103
ハイ。そう言えば左馬頭は将軍と鎌倉公方だけでした。ええ。
しかも、この辺の詳細は某國學院の人がしっかり活字にしてるっぽいし。
なんつうか無知がバレバレ。恥。
小学校時代の歴史の授業で足利は逆賊だと先生に言われて
うつむいたまま顔を上げられなかったという。
あつ氏さんはそれより」以前から父親より足利家の系図を毎朝書写するようにいわれていた。
その逆賊発言の後も書写を続けるうちに足利家の重みを感じることになった。
奥さんは竹田宮家の次女だったはず。子供がいなかったので、断絶したかも。
鎌倉、古河、堀越以外(笹川、稲村)にも、公方府としての機能はあったん?
107 :
日本@名無史さん:03/11/19 08:47
あったかもしれないが早期に消滅している
108 :
日本@名無史さん:03/11/19 21:31
戦時中、足利先生の御尊父が庭に家庭菜園を作ろうと思ったが、庭の木が邪魔で日当たりが悪いので切り倒した。その木は楠木だった。
109 :
ty270410:03/11/19 22:11
小弓御所というのもありましたね!
110 :
日本@名無史さん:03/11/19 22:17
成氏が古河に走った後鎌倉は荒廃したが
その後も地元の農民たちは報国寺近辺を耕さず
その一帯を御所と尊称していた
111 :
日本@名無史さん:03/11/19 23:11
晴氏は後北条に敗れた後、秦野の田舎に幽閉されていた。
その後当主として古河に在った義氏の心境というのは、
いかほどのものがあっただろうか。
112 :
日本@名無史さん:03/11/20 11:39
小弓義明は意外と武勇の人だったらしい
113 :
日本@名無史さん:03/11/22 03:33
左馬頭って足利家に縁が深いね。
足利義康が保元の乱の恩賞で左馬頭になったのが初例?
114 :
日本@名無史さん:03/11/22 12:38
喜連川家の氏姫が義親を妊娠したのと、
国朝と死別して頼氏のところへ嫁いだタイミングが微妙だった。
よって義親の父親はどっちなのか微妙。
国朝と頼氏は実の兄弟でありながら*兄弟でもあった。
鎌倉と京都の関係っていつから悪くなったの。
直義・義栓は別にしても、基氏と義栓(ごんべんでない)のときは問題なかったの
かな。従兄弟同士になってからもめはじめたのかな
116 :
日本@名無史さん :03/12/03 03:02
>喜連川家とは別にもう一家、古河公方の血脈を伝えた系統があります。
>それは古河公方四代晴氏の弟である晴直の子孫宮原氏です。
>晴直ははじめ上杉憲房の養子となって憲広を名乗り関東管領を務めましたが、
>のち復帰して足利晴直を称し上総宮原に住して宮原御所と称しました。
>その孫義照は旗本となって千百四十石を知行して宮原を姓とし、その子孫は
>高家に列し維新まで存続しました。
>この宮原氏からは二度喜連川家に養子を送りこんでおり、そのつながりの深さを感じさせます。
117 :
日本@名無史さん:03/12/03 03:27
>>115 「せん」で変換すれば普通に出るぞ。「詮」
118 :
日本@名無史さん:03/12/03 03:34
詮索とか、詮ずるところとか、所詮とか
119 :
日本@名無史さん:03/12/05 23:37
>>105 惇氏氏は子供無し、その後実の甥夫婦が後を継いだが、
ただし、この夫婦も子供はいないそうです。
120 :
日本@名無史さん:03/12/06 00:31
義氏藤氏の兄弟は子孫いないんかね
121 :
日本@名無史さん:03/12/06 00:53
>>109 甥というのは惇氏氏の弟の息子ということか
その甥の実父は誰?
123 :
足利家時置文:03/12/06 02:00
故あらばこそ、こゝに書き置くなれ。
死するに當たり、我より後の子に託す。
我に代はりて天下を取り、遠祖の遺託を成し遂げよ。
我、盛運を思ふや多年。
然れども、我に徳なく、夢むなしく破れ、僅かに家名を守らむがため、一命をなげうつのみ。
我より後の子に託す。
我が意を繼げよかし。
我に代はりて、天下を取れ!
124 :
日本@名無史さん:03/12/06 14:45
>>55 どうして尊王派の水戸斉昭が自分の子を
逆賊・足利尊氏の子孫・喜連川の養子に入れたのですか?
>>116 足利聡氏の実父・宮原方斎を調べているのですが、
幕臣辞典にものってないし、辞書で宮原氏を調べると
宮原義路(方斎、南洋)とか書いてあって、よくわかりません。
宮原も岡部から養子をとったりしているようですし、
足利の血筋は繋がってないのでは?
125 :
日本@名無史さん:03/12/06 14:58
>>124 ???
>宮原義路(方斎、南洋)とか書いてあって
宮原方斎って書いてあるじゃん
126 :
日本@名無史さん:03/12/06 15:05
>>125 他の資料を見ると宮原方斎は義路の弟とか書いてあるんです
127 :
日本@名無史さん:03/12/06 17:02
>>124 >どうして尊王派の水戸斉昭が自分の子を
>逆賊・足利尊氏の子孫・喜連川の養子に入れたのですか?
光圀の遺言に基づく。
128 :
日本@名無史さん:03/12/06 17:06
尊氏が逆賊になったのは明治になってからだろ
129 :
日本@名無史さん:03/12/06 21:26
>>128 幕末に尊王派の志士によって逆賊として
等持院の足利尊氏、義詮、義持の木像が斬首された。
志士達は三代・義満木像の首を斬るつもりだったが、
義満の木像と義持の木像の順番が逆になっていて、間違えたらしい
子爵様によると、霞会に足利家は存在しないそうな。絶家したのかな。
あつうじさんの弟さんは近畿コカコーラの会長やったのか?
>>129 そいつら維新の志士じゃなくて中国(地方)人
日本人なら死者を冒涜するようなことはしないよ。
132 :
日本@名無史さん:03/12/09 05:44
>>129 義満は死んだ後まで運がいいな。一番売国奴のくせに。
134 :
日本@名無史さん:03/12/09 22:22
>>132 売国奴もなにも帝位簒奪を計画していたんだからな。
北条長時カッケー
136 :
日本@名無史さん:03/12/10 01:01
長時を殺せ!時輔を殺せ!
137 :
日本@名無史さん:03/12/10 06:25
>>114 喜連川義親の生年は1596年、これに対して国朝の没年は1593年。
ちっとも微妙じゃない。
138 :
日本@名無史さん:03/12/10 17:52
139 :
日本@名無史さん:03/12/10 23:20
>>121殿
NHK「花の乱」の,NHK出版の特集本を読んでくれ。その本の中で
その甥夫婦が足利の末裔と言うことで山名、細川、足利平島公方家の末裔たちと
一緒に紹介されてるよ。
140 :
日本@名無史さん:03/12/11 01:24
>>139 その細川は京兆家の子孫?
それとも熊本?
>>139 サンクス!!
古本屋とか捜してみますね。
142 :
日本@名無史さん:03/12/14 15:54
足利晴氏についてどう思われますか?
143 :
日本@名無史さん:03/12/14 18:52
144 :
日本@名無史さん:03/12/14 19:51
持氏、成氏は直情型の馬鹿だったから、推して知るべし。
145 :
日本@名無史さん:03/12/15 18:58
146 :
日本@名無史さん:03/12/15 20:52
>>144>>145 昔から
特定の人物を恨み、
その一挙一動速に憤りを感じる人がいたんですね。
まるで2ちゃんでコテ叩きしている奴と一緒だ(w
147 :
日本@名無史さん:03/12/17 02:06
古河公方と小弓公方はどうして分裂したん?
148 :
日本@名無史さん:03/12/20 10:19
>>147 これといった史料がありませんね。
下々が分裂に呼応するエネルギーを投入するほど
この時代に政治的な存在価値があったとは思えないのですが。
149 :
日本@名無史さん:03/12/20 13:18
150 :
日本@名無史さん:03/12/20 15:11
そんな答えでいいの?
151 :
日本@名無史さん:03/12/20 22:16
足利義明は下総国高柳に来る前はどこに住んでいたの?
152 :
日本@名無史さん:03/12/20 22:33
153 :
日本@名無史さん:03/12/21 15:34
154 :
日本@名無史さん:03/12/22 11:27
春王丸、安王丸も鎌倉公方か?
156 :
日本@名無史さん:03/12/22 21:29
結城氏朝マンセー!
157 :
日本@名無史さん:03/12/27 13:53
158 :
日本@名無史さん:03/12/27 16:24
>157
恥ずかしい名前だね。
159 :
日本@名無史さん:03/12/27 16:34
佐倉市。
160 :
日本@名無史さん:03/12/28 01:24
>>157 なんじゃそりゃ
喜連川はなくなっちゃうの?
しかも「さいたま」みたいに平仮名で「さくら」かよw
161 :
日本@名無史さん:03/12/28 02:57
しかも、その「さいたま市」には、「桜区」がある。
理由は、サクラソウの産地だかららしい。
はっきり言って、馬鹿らしい。
埼玉を馬鹿にしないで下さい。
163 :
日本@名無史さん:03/12/28 11:21
第1位は氏喜市だったらしい。
これも頭文字を合わせただけのいい加減だけどね。
164 :
日本@名無史さん:03/12/28 11:42
>>163 まだそっちの方がいいよ。
読みは「うじき」だよね。
165 :
日本@名無史さん:03/12/28 14:13
さくら判官鑑
166 :
日本@名無史さん:03/12/28 20:21
馬鹿でもしないと存在価値がないyo
167 :
日本@名無史さん:03/12/28 22:28
168 :
日本@名無史さん:03/12/28 22:57
169 :
日本@名無史さん:03/12/30 16:35
170 :
日本@名無史さん:04/01/02 11:29
>>169 房総関係の郷土史書では最初は会津に逃れて、真里谷武田氏に迎えられて上総に入っている。
171 :
日本@名無史さん:04/01/02 11:32
古河公方と葦名は意外と縁がある。
小弓公方よりやや時代が下るが、古河公方に仕えていた田代三喜斎が葦名盛氏に医学の奥義を伝授したという伝説もある。
172 :
日本@名無史さん:04/01/03 20:16
あぼーん
尊氏"やい、おまいら!!幕府ができますた。室町に集合しる!
後村上"詳細キボンヌ
義満"1392は南北朝合一ですが、何か?
後小松"南北朝合一キターーーーーーーーー
後亀山"キターーーーーーーーーー
後醍醐"南北朝合一程度で騒ぐ厨は逝ってヨシ
尊氏"オマエモナー
義持"--------勘合貿易終了-------
義教"--------勘合貿易再開-------
富子"再開すなDQNが!それより息子うぷキボンヌ
赤松"嘉吉の乱うp
義教"↑誤爆?
義昭"将軍age
義政"ほらよ息子うぷ>富子
↑の弟"息子?降臨!!
義昭"将軍age
義輝"15第将軍ageんな!sageろ
義昭"将軍age
義輝"将軍age厨uzeeeeeeeeeeee!!
朝倉"ageっていれればあがると思ってる香具師はDQN!
細川&三好&松永"弱い将軍がいるのはこの幕府ですか?
義晴"氏ね
義栄"むしろ生きさせて
義昭"将軍age
義輝"義昭必死だな(w
出典
http://academy.2ch.net/history/kako/1014/10144/1014489813.html
175 :
日本@名無史さん:04/01/20 00:22
>>147 古河公方が分裂(父・政氏と子・高基)してぐちゃぐちゃに
したら出家してた義明も参加して兄・高基VS弟・義明基頼という構図に。
>>151 鎌倉
176 :
日本@名無史さん:04/01/20 00:35
>>174 のおかげで日本史室町時代赤点はないと思われ。
(゚д゚)カマクーラ
>>176 落ち着いてよく見たら、応仁の乱入ってない……
179 :
日本@名無史さん:04/02/16 23:09
>>18 謙信たちは義氏の兄藤氏を擁立。この藤氏は永禄中期にアボーン
その後謙信は勝手に北条と和睦して義氏を公方に追認。頭にきた
里見義弘は、藤氏の弟で義氏の兄にあたる藤政を独自に立てた。
保守
平島公方を5%も信じていない人間の抱く素朴な疑問
一応、喜連川のほうは8割ぐらい信用してんだけど
喜連川公方と宮原家は本当に古河公方の末裔なんだろうか?
寛政・寛永譜をもとに宮原家について述べているサイトを、宮原氏の事跡として参照した。
宮原晴直(上杉憲寛)?〜1551
高基長男。三郎、左馬頭、従四位下。母は宇都宮正綱女。室は足利義明女。
大永五(1525)関東管領となる。享禄四(1531)管領職を義弟憲政に追われ古河に逃れる。
その後、真里谷信濃入道信政を頼り上総海上郡宮原に移り、天文廿(1551)没。
まず、左馬頭は古河公方の専有官と呼べるもので、これを称すのは疑問。
母を正綱女とするが、宇都宮氏の系図をみると正綱女は高基の御台であり、晴氏の母とある。
晴氏の生年は1508頃とされており、元服は1528年という。庶兄が他家を継ぐならわかるが
宮原氏の系図でいう「弟」晴氏も既に生れており、正室腹の長子が他家を継ぐものか疑問。
宮原義勝1530〜1594
晴直長男。弾正少弼、弾正大弼。母は足利義明女。
父晴直と共に真里谷信政の庇護を受け、その女婿となる。
文禄三(1594)下野駒場で没。
晴直・義勝を上総に招聘したという武田氏について。
上総武田氏内では家督騒動から、舎兄信隆=北条氏、嫡男信応=義明、と分かれて対立していて
信政の父信隆は1536年には足利義明に攻められて峯上、1537年には北条を頼り小田原まで逃れ
1538年に北条の国府台合戦勝利で椎津城主に復帰したという。
当時の椎津城主としては、後世の著作だが「里見記」に信政が1542年に椎津城主としてみえ
「笹子落ち草紙」では1543年にいまだ信隆が椎津城主。
晴直・義勝の上総移住は1540年代前半〜1551年迄とするのが妥当か。
晴直室という義明女の実在にも、年代と義明と公方・管領との関係から疑問があるけど保留。
宮原義照1576〜1602
義勝長男。勘五郎。母は真里谷信政女。
天正十八(1590)家康が関東に入り、父義勝を召出して下野駒場に1040石を給す。
天正十九、駒場に移住し、家康の命で足利を宮原に改め、初代宮原氏となる。
慶長七(1602)駒場で没。
宮原義久1577〜1630
義勝次男。勘五郎。義照同腹。室は武田勝頼三女、貞。
家康の命で勝頼女を娶る(嫡子に宮原家、次男に穴山家を継がせるという意図があったという)
義照・義久の母とされる武田信政女について。
武田信政は1552年に里見氏に攻められ自害していて、前述の通り祖父晴直の上総移住は1551年以前。
宮原氏の上総移住を下限の1551年だと仮定すると義勝は数えで22歳。信政女が義勝と同年代なら
兄弟を生むのが40代半ば。結婚適齢期の10代前半だったとしても、出産は30後半〜40代にかかる。
信政女が1551年に当年生まれなら兄弟を生むのが26歳になるが、当時の感覚では女の盛りも過ぎ
家も滅び後ろ盾を失った女を何時までも室として寵愛するものか。
上総海上郡といえば後年北条領になったが、上杉の侵攻に備えて義氏や吉良殿など、政治利用
されかねない人物の所在に気を配っていた北条が、公方、義明、信政の血を引き、北条からみても
決して利用価値の低くない兄弟を放置するものか。
とりあえず、喜連川公方・宮原家関係の人物に関して出自を裏付ける同時代の史料
または天正十八年以前の彼らによる発給文書なんかは存在しますか?
183 :
日本@名無史さん:04/03/22 23:14
落ちちゃう落ちちゃう、なんかネタないかね〜
184 :
日本@名無史さん:04/03/23 00:46
>>183 京都の公方は鎌倉公方に娘を貢いでご機嫌うかがっていたんだよ
185 :
日本@名無史さん:04/03/24 23:26
186 :
日本@名無史さん:04/04/16 01:54
鎌倉の桜もおおかた散ってしまった
187 :
日本@名無史さん:04/04/17 12:08
大河ドラマで太田銅管やってほしいと思うんだけど、やっぱりネックになっているのは
関東の政情が複雑怪奇に乱れていて視聴者が理解できずついてこれなくなるのが
想像に難しくない点でしょうか?
↑
ちがう。一番のネックは土管がマイナーな点。
189 :
日本@名無史さん:04/04/26 23:48
>>184 もうちょっと詳しく頼む。
誰の娘が誰に嫁いだの?
190 :
日本@名無史さん:04/04/27 02:14
古河公方と小弓公方って結局どうなったんだっけ?
191 :
赤いミニタイト:04/05/21 20:04
足利将軍なら、大臣の官職にも就けるけれど、鎌倉公方は従三位左兵衛督が極官極位。これじゃやってられないよ。せめて従二位中納言くらいは遇してもよいのに。
192 :
日本@名無史さん:04/05/22 00:30
でも、徳川幕府は喜連川氏のほうを足利家の嫡流のように認識しているみたいね。
喜連川氏はまがいなりにも10万石格だが、平島家は完全に黙殺。
193 :
日本@名無史さん:04/05/24 19:12
>>191 近世・近代には、立場が完全に逆転するよ。
近世
鎌倉公方系喜連川氏・・・実高5千石だが10万石格
京都公方系平島氏・・・500国の捨て扶持で徳島藩の飼い殺し
近代
喜連川系足利家・・・華族に列し、子爵。
平島系足利家・・・華族どころか士族にもなれず、平民籍に編入。
194 :
日本@名無史さん:04/05/24 20:25
>>193 平島家が平民籍に編入されたというのは本人の意思?
195 :
日本@名無史さん:04/05/24 20:38
>>194 岩倉具視に華族への昇格を訴え、明治12年(1879)、
堂上家出身の押小路実潔が名家の末流を華族に取立てるよう
三条実美に提出した請願書にも足利家は含まれていたが、
南朝を正統とする政府の方針と合わなかったこと、家柄華族の
増設に否定的な意見が多かったことなどから、結局実現せずに終わった。
足利を名乗れない時点で負け犬。
197 :
日本@名無史さん:04/05/24 22:41
>>195 華族が駄目でも士族という道はなかったのかな?
198 :
日本@名無史さん:04/05/24 22:45
華族でも士族でもなくても足利は足利氏。
政治が変われば歴史も変わる。
>>198 平嶋は足利姓を名乗れなかったんでしょ?
200 :
日本@名無史さん:04/05/25 03:38
http://wolfpac.press.ne.jp/kazoku10.html 清和源氏 平島公方
室町幕府11代将軍足利義澄の2男義冬の子孫。
阿波国平島に住して平島公方と呼ばれた。
義冬の嫡子義栄は永禄11年(1568)、三好一族に擁立されて14代将軍に就任したが、織田信長の上洛で将軍位を失い、阿波へ逃れてほどなく没した。
跡を継いだ弟の義助は、阿波国主蜂須賀家の客分となるが、蜂須賀家はわずか100石の捨扶持しか与えず、4代義次の時には家号を足利から平島に改めさせるなど冷遇した。
9代義根はこの処遇に耐えられず、文化2年(1805)、阿波を去って京に移住、再び足利を称し、等持院など足利家所縁の諸寺から援助を受けて生計を立てた。
明治維新後、主家を持たない浪人であったため、華族はおろか士族にもなれず、平民籍に編入される。
11代義孝はこれを不服として岩倉具視に華族への昇格を訴え、明治12年(1879)、堂上家出身の押小路実潔が名家の末流を華族に取立てるよう三条実美に提出した請願書にも足利家は含まれていたが、
南朝を正統とする政府の方針と合わなかったこと、家柄華族の増設に否定的な意見が多かったことなどから、結局実現せずに終わった。
201 :
日本@名無史さん:04/05/25 22:15
義助以降の薄幸な歴史は、明治維新による時代のリセットでも消せなかったと。
ある意味平嶋最強だな。
202 :
日本@名無史さん:04/05/25 22:33
ある意味シーラカンスだな。平島
203 :
日本@名無史さん:04/05/25 22:59
以前よくテレビに出ていた足利子孫の爺様は何処の家の人ですか。
204 :
日本@名無史さん:04/05/26 23:33
お亡くなりになられた。息子さんは義●さんで九州のほうの短大の教授だよ。
シンゴさんて中央卒なんだね。葬儀は等持院でおこなわれた。
206 :
日本@名無史さん:04/05/30 15:37
足利義弘氏
207 :
日本@名無史さん:04/05/30 23:00
ご先祖が応永の乱で討ち果たした逆賊の名を子供に付けるとは・・・。
208 :
日本@名無史さん:04/05/30 23:36
鎌倉公方は大内殺してない、むしろ加担しようとした。
細川元総理の人生の師があつ氏先生。
>>206 おちつけ、それは平嶋家の当主だ。
関東公方家は絶家。
211 :
日本@名無史さん:04/05/30 23:57
足利平島公方家の「晋吾」氏は
どうして「義◎」って名前じゃなかったのかな?
養子だったのか?
じゃ、男系断絶してるんじゃないの??
212 :
日本@名無史さん:04/05/31 00:19
193 :日本@名無史さん :04/05/24 19:12
>>191 近世・近代には、立場が完全に逆転するよ。
近世
鎌倉公方系喜連川氏・・・実高5千石だが10万石格
京都公方系平島氏・・・500国の捨て扶持で徳島藩の飼い殺し
近代
喜連川系足利家・・・華族に列し、子爵。
平島系足利家・・・華族どころか士族にもなれず、平民籍に編入。
213 :
日本@名無史さん:04/06/06 10:12
平島と喜連川は、両方とも公爵でも良かったと思うよ。
徳川一族なんて、大名扱いではなかった三卿まで伯爵を貰っていることを考えれば。
ニ両引に萌える。
215 :
日本@名無史さん:04/06/14 03:16
「二引両」では?
ちなみに新田は「一引両」(通称「大中黒」)です。
216 :
日本@名無史さん:04/06/14 11:20
鎌倉公方の官位は従三位左兵衛督が極位極官であった。
一方、将軍は義満の例の如く従一位太政大臣まで昇進
可能。官位の差は歴然である。せめて権中納言の極官
であってもよかったのではなかろうか。
217 :
日本@名無史さん:04/06/14 16:43
平島公方家の祖・足利義冬って、11代将軍義澄の子供だけど、
父のライバルの10代将軍義植の養子になった、と記憶してたけど、
その詳しい経緯を誰か説明してちょ。
あと、12代将軍義晴と義冬って、義冬の方が兄って話もあるらしいけど、
その辺てどうよ?
鎌倉〜室町スレって結構盛り上がってるよね
220 :
日本@名無史さん:04/06/14 23:48
>>219 大半が糞レスという悲しい現実に目をつぶればね。
221 :
日本@名無史さん:04/06/17 04:09
あつ氏さんに子供がなかったらしい。現在霞会館には登録はされていないらしい。(かつて子爵さん談)
223 :
日本@名無史さん:04/06/27 22:47
足利姓ね
225 :
日本@名無史さん:04/06/27 23:28
平島家って大阪の陣のときに、豊臣家から誘われたんだって。
226 :
ここは関東公方スレ>平島オタ:04/06/28 21:37
________. | ・・・「からけ」?
||| | \____ __
||| | )\ ∨
||| 空 気. <⌒ヽ ヽ
||| \ ( ´ー`) ∧∧
|||_________V( 丿V^ ●Д゚,,)
|,,| |,,| ヽ ( と ,)
ノ ) | |〜
∧ .し`J
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄\
空気読めてネーヨ
鎌倉公方スレなのに禅秀のぜの字もでてこねーな
228 :
日本@名無史さん:04/06/29 21:16
氏憲age!
229 :
日本@名無史さん:04/07/03 15:49
本屋で幻冬舎発売の日本の名家という本に喜連川足利家のページがあった。
足利惇氏氏の後を継いだ現当主は浩平(こうへい)氏。血縁関係等の記述は無かった。
以前このスレで甥が後を継いだとあったし、惇氏氏には2人弟がいるので
その子供あたりが継いだのかな?
結城合戦が結構がんばってる割に持氏ってあっさり負けたような気がするんだが
231 :
日本@名無史さん:04/07/03 23:47
どうなんだろう。あっさりもくそも結城合戦は持氏没後だし。
tikusyou /
となりの・・・・・・奴・・・・・おッたか・・・・・
浦飯屋?
233 :
日本@名無史さん:04/07/05 18:43
まあ、結城合戦や享徳の乱であれだけ頑張るのなら、持氏存命中にもっと頑張れば良かったのかも。藁
234 :
日本@名無史さん:04/07/05 19:25
持氏は堪え性がない
235 :
日本@名無史さん:04/07/26 23:40
>>233 持氏は(国人討伐を)頑張りすぎたから追討されちゃったんじゃないの?
鎌倉って要塞都市といわれるわりには、攻められると即日陥落しているような。
236 :
日本@名無史さん:04/07/27 00:38
鎌倉って、包囲されてもしばらくは持ちこたえられるけど、籠城戦をやっても最終的に勝ち目がないときは、さっさと放棄するのが、南北朝以降の鎌倉攻防戦の基本。
勝ち目がないのに籠城して、逆に自らの逃げ道を塞いでしまった北条高時という先例があるからな。
同志社大学かのパンフレットに足利義●という男性がのっていたが。
238 :
男女男る【なぶ-る】:04/07/27 23:40
頼氏国
氏姫朝
関宿町ってなくなっちゃったらしいぞ。
239 :
日本@名無史さん:04/07/27 23:43
240 :
日本@名無史さん:04/07/28 18:22
平島と鎌倉以外の系統って残ってないの?
義昭の子孫とかいう家があったような
鎌倉公方じゃないじゃん
243 :
日本@名無史さん:04/07/30 22:00
>>200 南朝を正統とする政府の方針と合わなかったこと、家柄華族の増設に否定的な意見が多かったことなどから、結局実現せずに終わった。
阿波公方の子孫なのに、不幸ですね。
南朝正当ならなんで、喜連川はOKなんだろ。
それどころか、天皇家自体が北朝系なのに。
いい加減な明治政府だね。
政府高官が系図偽造集団なだけあるよね。
244 :
日本@名無史さん:04/07/30 23:10
利用するものは何でもござれ。今も昔も変わらない。
阿波公方がなんちゃってバッタもんだったからだろ。
246 :
日本@名無史さん:04/07/31 00:18
なんでいつも平島に脱線するんじゃい
ひっそりと通字を復活させている現代の阿波公方様。しかし九州へ都落ちとは。
248 :
日本@名無史さん:04/07/31 11:46
平家の落人と同じだね。
250 :
日本@名無史さん:04/07/31 21:56
平島スレを創設してあげましょう。そうすれば義孝公の御霊も浮かばれましょう。
義昭の子孫という家は
喜連川の子孫や平島さんから相手にされてるの?
253 :
日本@名無史さん:04/08/02 22:13
あれ?子供は僧籍に入ったからそのまま断絶じゃないの?
254 :
日本@名無史さん :04/08/02 22:51
それより同志社ビジネススクールみろよ。足利義●さんがのってる。
今日まで、とある大学で足利義●先生の
国際●●論の講義を受けていました。
(支障があるとまずいので講義名は
伏せます)
授業後に足利氏の子孫かという質問が出て
お答えくださったのですが、応仁の乱以降
阿波に逃れていたそうですね。
ここの通りでした。たった4日間でしたが
穏やかな口調でお人柄の良い先生でした。
259 :
日本@名無史さん:04/08/05 20:13
ちなみに某先生の父親は検索すると出てくる。鬼籍に入られている。等持院で葬儀が営まれた。
260 :
日本@名無史さん:04/08/06 00:05
平島騙り公方うぜーんだけど。ここは本物の鎌倉・古河公方スレですよ。
261 :
日本@名無史さん:04/08/06 00:10
まあしかし
蜂須賀も大名になってお国入りしてみたらびっくりだったろうな
なにしろ公方様が居るんだから
262 :
日本@名無史さん:04/08/06 00:35
自称足利なんつーバカがいて驚いたろうな。
263 :
日本@名無史さん:04/08/06 00:56
>>256 おいらはその大学で長曽我部○親という奴と同じクラスだったぞ。
>>260 知らないんだ。本物の阿波公方子孫なのに。
今日セミナーに行ってきたら
東京大学の喜連川教授が講演してますた!
266 :
日本@名無史さん:04/08/06 23:53
>>264 系図以外に証明できるものは?
例えば室町時代のまとまった家伝文書とかでもあるんですか。
267 :
日本@名無史さん:04/08/07 09:08
>>266 室町時代じゃそもそも平島公方というものが存在しない。
268 :
日本@名無史さん:04/08/07 16:24
てか、平島が足利将軍家の子孫であるってことを否定する奴がいることに驚いた。藁
>>264,267,268
で、その阿波公方とか平島公方とかいうのは鎌倉公方とどう関係が?
ス レ 違 い で す よ
>>270 平島公方と鎌倉公方の関係=同じ人間(足利尊氏)の子孫。
それ以上でも以下でもない。大した関係はないと言ってしまえばそうだが、
鎌倉公方の話題をしているうちにそこから派生してきた話には違いない。
ていうか、そこまで懸命に平島公方の話題を退けようとするよりも、
そのパワーを使って鎌倉公方の話題を提供し、
スレの流れを変えていくほうが建設的だと思いました。
関東公方ではなくて?
273 :
日本@名無史さん:04/08/08 02:07
関東公方は、鎌倉・堀越・古河・小弓などの各公方を包摂する概念。
274 :
日本@名無史さん:04/08/09 01:59
稲村・篠川も
275 :
日本@名無史さん:04/08/09 14:28
鎌倉は当初関東管領と言っていたと思うけど(関東管領は当初は関東執事)、
いつから鎌倉公方になったんですか。
それって、鎌倉が勝手に名乗っていただけで、京都はいつか認めたんですか。
義教の弟が下ったときは、鎌倉公方と名乗ったの?関東管領だったの?
276 :
日本@名無史さん:04/08/09 14:51
守護代とは、幕府の正式職ではなく、守護の私的なものとの私的がありました。
関東執事も、私的なものだったんでしょうか。
277 :
日本@名無史さん:04/08/09 20:26
堀越・古河・小弓・稲村・篠川の御所さんにも、
執事、管領が居たの?
278 :
日本@名無史さん:04/08/09 20:28
なぜ、喜連川氏は、秀吉にもそれなりに遇されたんでしょうね。
逆に、阿波公方はなんで、秀吉に遇されなかったんでしょう。
秀吉は義昭の養子になろうとしますが、
阿波公方には、アプローチしなかったんでしょうか。
喜連川には、どうしたんでしょうね。
どなたかご存知ですか。
279 :
日本@名無史さん:04/08/09 20:35
>>243 彼らが系図にこだわった理由:
もともと、それなりの家(源氏とか藤原とか)でないと、
先例がなく、官職につけられないことになっていたから、仕方なかったと思うよ。
明治政府がそういうばかばかしいことやめたの いつくらいからかな。
280 :
日本@名無史さん:04/08/09 20:47
明治4年の廃藩直後の官制改革のときに公卿・諸侯の省卿が一掃されてる。
281 :
日本@名無史さん:04/08/09 21:12
282 :
日本@名無史さん:04/08/09 21:50
大和に下ったよねー
283 :
日本@名無史さん:04/08/09 21:52
で、鎌倉公方を名乗ったの?
284 :
日本@名無史さん:04/08/09 23:29
280
そうですね。
でも、各藩の士族は、一応、藩士であったころに、系図を作っていますよね。
武家は仕官するとき、必要だった見たい(でっち上げでもOK)。
だから、平民が、役人になったときがポイントだと思うけど。
そもそも、前例が必要ということ自体、明文であったわけではないのかもね。
永享の乱のあと、つまり、足利禅秀の乱のあと、下らなかったっけ。
鎌倉には入れなかったけど。
違ったらごめん。
286 :
日本@名無史さん:04/08/09 23:53
>>285 関東に下向したのは足利義政の庶兄政知(堀越公方)
それと足利禅秀ではなく上杉禅秀ですよ^^;
時系列でいうと、
禅秀の乱→永享の乱(持氏あぼん)→結城合戦(春王安王あぼん)→嘉吉の乱(義教あぼん)→成氏下向→享徳の乱→政知下向
政知って処刑だったのか。
弟だとおもてたよ。
いやん、勉強になったわ。
288 :
日本@名無史さん:04/08/10 18:21
277 :日本@名無史さん :04/08/09 20:26
堀越・古河・小弓・稲村・篠川の御所さんにも、
執事、管領が居たの?
すくなくともほしかったと思うよ。
狙っていたのが、結城であったり、里見であったり、だね。
289 :
日本@名無史さん:04/08/12 02:14
古河公方の執事は簗田?
290 :
日本@名無史さん:04/08/12 04:20
ん?処刑?
政知は甲斐に逃げているだろ?
↑
よーく思い出せ
処刑→庶兄ってだけの話だろ
293 :
日本@名無史さん:04/08/14 16:20
>>280.284
そうそう、百姓医者の村田蔵六先生も
長州に使える段で、居住地を名字の地として、大村益次郎
そして、本姓は藤原ということで藤原長利として藩に提出してます。
だから、明治維新後の朝廷では藤原氏ということだったんでしょうね。
足軽出身の伊藤博文(百姓から足軽の家へ養子)も、その点では、
維新政府成立時点で 既にしっかり由緒ある姓があったわけで。
294 :
日本@名無史さん:04/08/14 16:25
阿波公方って、土佐一条家みたいな気がします。
長曾我部氏の全四国席巻の際は、どんな感じだったんでしょうね。
時代はくだって、秀吉による四国の仕置きの時、
それから、蜂須賀入部の時はどういう状態で、そしてどう対応したんでしょう。
あれっ、スレ違いかな。
平島ヲタは氏ね
296 :
日本@名無史さん:04/08/15 02:02
297 :
日本@名無史さん:04/08/15 10:34
298 :
日本@名無史さん:04/08/15 17:12
間違えた奴が逆ギレか
精霊流しの灯りを見ながら、今宵は足利禅秀について語り明かそうか。
301 :
日本@名無史さん:04/08/16 20:48
>>295 鎌倉オタの意地悪! 平島さんのおうちを作ってよ。
自作汁
鎌倉公方
キャバクラ公方
>>294 その頃はまだ僭称するまえの農民でしょ。
だよね。
阿波公方の系図って佐竹氏と名前の被ってるやつ多すぎねえ?
義種・・・佐竹義重の甥。佐竹南家。
義俊・・・佐竹義憲の子。
義武・・・系図では佐竹行義の孫、または甥に置かれる彦二郎義武と、義舜の弟又二郎義武。
義人・・・佐竹義憲の改名後の名前。
刑部・・・佐竹貞義の子師義の官途でその子孫、佐竹氏の有力庶家山入氏の通称(上総と併用)。
義宣・・・佐竹貞義の孫で義憲の(義)祖父にあたる人物と、義重の子の2人。
義継・・・系図では佐竹行義の弟(小川義継)、または孫(貞義の庶長子月山周枢の俗名)。佐竹義重の末子も同名。
義廉・・・佐竹義舜の甥。佐竹北家。
義辰・・・佐竹義重の甥。石塚氏後継。
義孝・・・佐竹貞義の子。大山氏祖。
いや〜奇遇なんでしょ、たまたまなんでしょ
まっさか系図をコピーしたわけじゃないでしょうよ
ほとんどイチャモンすよ
"鎌倉公方"スレ保守
310 :
日本@名無史さん:04/09/12 22:04:10
age
311 :
日本@名無史さん :04/09/13 17:59:10
1415(応永22)年 関東管領 上杉氏憲(禅秀) 、持氏の怒りに触れ隠退。
1416(応永23)年 10月 鎌倉公方 足利持氏の執事 上杉禅秀が公方に反乱。翌年敗死。
1438(永享10)年 持氏、先例を無視し義久に加冠。上杉憲実、諌めるが聞き入れられず出奔。
8月 永享の乱 鎌倉公方 足利持氏、将軍 足利義教に反乱。
1439(永享11)年 上杉憲実が足利持氏、義久を攻め滅ぼす。鎌倉公方滅ぶ。
1440(永享12)年 3月 結城合戦 持氏の遺子春王丸、安王丸を擁した結城氏朝が反乱。翌年敗死。
1447(嘉吉7)年 万寿王丸(足利成氏)、鎌倉公方に復権。上杉憲実の子憲忠、関東管領に就く。
1454(享徳3)年 12月 享徳の乱 足利成氏、上杉憲忠を誘殺。
1455(享徳4)年 成氏下総古河に敗走(古河公方のはじめ)。
1457(長禄元)年 4月 太田道灌 、江戸城を築く
12月 足利義政、弟の政知を伊豆堀越に遣わす(堀越公方のはじめ)。
1467(応仁元)年 5月 応仁の乱 始まる 〜1477(文明9)年
1478(文明10)年 足利成氏、上杉氏と和睦。
1482(文明14)年 足利成氏、幕府と和睦。
1486(文明18)年 上杉定正(扇谷)、太田道灌を殺す。
持氏の血書願文に萌える
313 :
持氏:04/09/15 23:53:25
>赤松満祐
おまえバカ、もう2年早く義教殺せよ、ほんとバカ、救いようねえ。
あと2年長生きすればチャンスあったかもしんないね。
315 :
日本@名無史さん:04/09/18 00:33:02
呪詛怨敵
316 :
満祐:04/10/08 20:54:38
二年前は土岐とか殺されなかったからなあ…
足利基氏はなんで上杉氏を重用したのかな。父親達には従兄弟なんだろうけど。
318 :
日本@名無史さん:04/10/26 18:34:25
上杉本家は尊氏に仕えてたみたいだし、単に親父の尊氏が
比較的関係が強い家系の人を付けただけじゃないんですか?
初期だと上杉じゃなくて、高とか畠山が筆頭格の家臣
(執事)になっているし。
吉良とか一色もいつの時代にかわからないけど鎌倉府に
仕えてる一門がいますよね。
上杉氏は、足利家と姻戚関係があって足利の被官になってるから、執事になってたんだろう。
ただ関東管領上杉家の祖になる憲顕は、直義派でいったん執事職から追い出されてるよね。
太平記には「幼い頃面倒みてくれたから」みたいな理由で基氏が呼び戻してるが義詮とかが
反対しそうだけど。
上杉氏は関東に力があって呼び戻した方が得だったからなのか、それとも復帰してから力つけて
いったのかな。
ともかく関東は公方と管領をはずしては語れない。
>>315 ぃやー!おばけ怖いぃーっ!!たすけてー
>>311 持氏がもう少しおとなしいヤツだったら、義教死後に勢力を増す機会があったかもな。
成氏がもう少し分別の分かるヤツだったら、上杉氏とも協力して応仁の乱に参戦できたかもな。
>>128 でも、明治の南朝正統史観の起源は水戸学。
小弓公方関係の本って何かあるの?
検索してもまったくないのだが。
323 :
日本@名無史さん:04/11/20 20:33:29
ない
324 :
日本@名無史さん:04/12/03 17:39:03
325 :
日本@名無史さん:04/12/10 11:55:00
足利茶々丸って何でちゃんとした名前がないの?
初めて聞いたとき一休さんみたいな茶坊主(茶々丸)が
伊勢新九郎(俺的には寺田農みたいなエロい顔のイメージ)に殺されたみたいなイメージだったけど
326 :
日本@名無史さん:04/12/10 12:59:41
>>288 小弓を担いだ真里谷武田や里見が房総管領を名乗っていたはず。
俺が見たドラマでは
新九郎・・・北大路欣也
茶々丸・・・志垣太郎
だった。
以来、このイメージで固まっている。
328 :
日本@名無史さん:04/12/10 20:18:19
うむ、おじさんが小さいときに放送していたのだよ。
堀越の御所様とか関戸播磨守は誰か忘れた。
330 :
日本@名無史さん:04/12/11 08:28:11
>>325 茶々丸は元服前の名乗りです(徳川家康を徳川竹千代というような感じ)
父親の堀越公方と弟を殺したため、伊勢長氏にあっさり殺されたというのは俗説で、
実際には甲斐で結構長期間抵抗していたという説があります。
ちゃんとした成人名で呼ばれないのは、政権(室町幕府)に対する反逆者だから
茶々丸側では元服後成人名で呼んでたんだけど、幕府側では認めなかったから
公式にはずっと茶々丸と呼んでいたからです。
(同じような例に南北朝時代、小山若犬丸という人がいます。成人して隆政と自称したんだけど
ずっと若犬丸と呼ばれていた)
331 :
日本@名無史さん:04/12/11 10:27:00
茶々丸の成人名は何といったのかな。分かってないから茶々丸なのか。
332 :
日本@名無史さん:04/12/14 22:10:40
333 :
日本@名無史さん:05/01/02 02:18:08
334 :
日本@名無史さん:05/01/02 02:50:11
北条氏康って「関東八カ国の戦国大名」だと思っていたけど、
あくまで足利義氏の補佐って立場だったんだね。
足利義氏…右兵衛佐(頼朝の征夷大将軍前の官位)
北条氏康…左京大夫・相模守(義時以降の北条得宗家当主の官位)
関東管領を継いだ上杉謙信に対抗して、北条執権を名乗っているのが面白い。
335 :
日本@名無史さん:05/01/02 12:44:41
336 :
日本@名無史さん:05/01/02 18:43:22
337 :
於義丸:05/01/14 21:40:41
338 :
日本@名無史さん:05/01/14 23:40:47
足利子爵って鎌倉公方様の末裔だよね。他スレからのコピペだが。
大正10年8月田中恒子(17歳)犬吠埼で入水
子爵足利於兎丸の次女で水戸烈公の玄孫、大森の海苔問屋田中家の養女となる
足利家は家司に騙され資産を失い当時4畳半と3畳の借家に6人が住んでいた
田中家は事業に失敗し主人は惚け妻はヒステリーを患い恒子に当たる毎日とか
喜連川出身のボクですが、ふるさとのイメージを壊すような書き込みを読むと心が傷みます
340 :
日本@名無史さん:05/01/16 16:30:51
>>339 「さくら市」なんていう
DQNネームを採用する自治体出身者は賎民扱い
死ぬまでロープウェーを上り下りしてろ。
ところで、数年前の事件ですが
季節は今時分。時は深夜〜明け方。ところは新潟市内。
雪降る、真冬の凍結した国道八号線を(なぜか)歩いていた
学生カップルが車にはねられ即死、という事件がありました。
なぜそんなところにいたのかはよくわからないのですがそれはともかく、
死んだおねーちゃんのほうの苗字が
喜 連 川
だったと記憶しているのですがこれって・・・
姓が喜連川という事ですね。
342 :
日本@名無史さん:05/01/18 22:06:05
>>340 喜連川氏は足利に復姓したんでわ?それとも分家?は
喜連川で通したんだろうか?その死んだ人は一族かな?
限りなく違う気はするが・・・。
343 :
日本@名無史さん:05/01/19 15:29:18
ニュー速とかでも話題になってたなぁ、と。
んーと確か別系統の喜連川さんもいたはずよ。
345 :
日本@名無史さん:05/01/19 20:46:06
>>344 どんな系統?源姓足利氏と藤姓足利氏みたいな感じ?
347 :
日本@名無史さん:05/02/07 12:43:40
>>134 口では天皇制を讃えながら、足利家最大の犯罪である義満の皇位簒奪の野望を糾弾するどころか抹殺をはかった平泉澄はとんだ逆賊歴史学者。
348 :
日本@名無史さん:05/02/17 17:57:12
349 :
日本@名無史さん :05/03/11 17:50:53
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 。。。。。誰もいな(ry
\_ _________________
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日 ∨ U A V | そりゃ禁句です!
≡≡≡≡≡≡≡≡ ∧ ∧ <__________
V ∩ [] W 目 (゚Д゚,,)─┛~~
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( ,,)日  ̄ ̄ ̄ ̄
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〜(___ノ
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 ̄ ┻  ̄ ̄ ̄┻ ̄ ̄ ̄ ̄
350 :
日本@名無史さん:2005/03/28(月) 17:39:17
351 :
日本@名無史さん:2005/03/31(木) 23:27:54
352 :
日本@名無史さん:2005/04/03(日) 12:39:58
檀家やってる寺の住職が、公方家の子孫だ。戸籍上の苗字はなんと足利。
353 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 00:00:10
政氏の子孫だな、きっと。
354 :
日本@名無史さん:2005/04/13(水) 23:04:51
喜連川は市町村合併でなくなる。
戸籍上の苗字って、通称は違うのか?
>>352 詳しく。
あつ氏先生の家系以外ですか?
357 :
日本@名無史さん :2005/04/30(土) 08:28:02
長尾景春
嘉吉3年(1443年)山内上杉家・家宰の長尾景信の嫡男として生まれる。
父景信も名君であり、長尾家は代々主君山内上杉家の家宰として信頼を得ていた。
景信が死去すると、山内上杉家の家宰職が息子の景春ではなく景信の弟(景春の叔父)が任命される。
その人事に不満を持った景春は鉢形城を拠点とし、古河公方と組み関東管領・山内上杉家に叛乱する。
関東を動乱に導いた「景春の乱」である。
しかしこの野望は、太田道灌により阻止される。
一度は、関東管領・山内上杉家と和睦はするが、太田道灌が死去すると扇谷上杉家、相模の北条早雲、
越後の長尾為景と同盟を組み、終始、関東管領・山内上杉家相手に関東で暴れまわる。
永正11年(1514年)に没する。
358 :
日本@名無史さん:2005/05/16(月) 00:03:42
age
359 :
宣伝アゲ:2005/05/24(火) 20:53:17
( ト / / \ ヽ / /
\ \ | ; | / / ゲッチュ!!
__ /\_ `‐- \__;;/_/ /ヽ / ̄\
./ ○ ヽ、/ `-___________________,,,_/ / ○ \
/ \,,,--―――''''''''''''''''''''――-/ ヽ
..⌒‐-,/ ̄\/ヽー―――-、,,__,,,,-―――:|| _,,;-‐''"⌒~~~
r┤ ト:::::::::: (●) (<) ||/:::::::ヽ ライバル・持氏タンも大活躍!!
/ \_/ ヽ::::::::::::: \___/ ||:::::::::::::::: ヽ
| _( ̄ l::::::::::::::::::. \/ ノ__/
| _)_ノヽ 「足利義教と共に苦難を乗り越えるスレ」
ヽ____)ノ >>
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1108995407/ ・・・・シナリオ職人さん、誰か助けて〜!!(宣伝スマソ)
360 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 21:27:23
361 :
日本@名無史さん:
保守上げ。
陰山、平島、三淵、本多、義昭の子孫。将軍家の系譜を侵すとはいい根性してる。