14代将軍・足利義栄

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1日本@名無史さん
「さて、そろそろ上洛するか」

足利義栄〜戦国三好氏〜阿波公方家を語るスレ
2日本@名無史さん:05/01/21 00:22:16
華麗に2ゲット
3日本@名無史さん:05/01/21 01:19:22
3好さん
4日本@名無史さん:05/01/21 01:53:26
  。
5日本@名無史さん:05/01/21 16:34:26
都にも入れなかった可愛そうな流浪の将軍様
6日本@名無史さん:05/01/21 16:40:44
えぇ6輔です
辛い時には浅田美代子
咳声のどに浅田次郎
7日本@名無史さん:05/01/21 17:10:50
都合よく死んだのが怪しい
8日本@名無史さん:05/01/21 20:45:53
征夷大将軍従五位下足利左馬頭源義栄朝臣
9日本@名無史さん:05/01/21 20:56:44
義栄が松永久秀に毒殺されたのでは?との仮説もあるようだが
久秀が義栄を毒殺する理由は何もない。
10日本@名無史さん:05/01/22 00:56:17
早く等持院に義栄公の木像を!
11日本@名無史さん:05/01/22 20:24:30
>10よ
いくら奉寄するのか?
12日本@名無史さん:05/01/22 21:07:33
室町幕府14代将軍。号光徳院。初名義親。義維の長子として阿波平島に
出生。平島公方,富田公方ともいう。1565年(永禄8)三好三人衆,松永久秀
らは将軍義輝のかいらい化に失敗して義輝を暗殺したが,そのとき将軍跡目
として嗣立されたのが義栄である。その後三人衆と三好義継・松永久秀の
間は確執を生じたが,三人衆筆頭の三好長逸(ながやす)の要請で66年淡
路に移り,篠原長房に擁せられて摂津越水城(現,西宮市)に入った。同
年12月,京都にほど近い摂津富田(現,高槻市)の普門寺に進出し,ここ
で朝廷より従五位下,左馬頭に叙爵され,義栄と改名。68年2月,将軍に
任ぜられたが,義輝の弟,義昭も将軍跡目を称し,美濃岐阜城主織田信長
に推戴されて京都に迫った。同年9月富田で病没。前後して義昭らも入京し
て幕府を再興した。このため義栄の将軍在位はわずか7ヵ月にすぎなかった。
                         今谷 明
13日本@名無史さん:05/01/22 23:49:17
義栄様は、まさに戦国!!って感じの頃の将軍様だな。
14日本@名無史さん:05/01/23 00:25:56
14代将軍様Get〜!
15日本@名無史さん:05/01/25 20:33:44
司馬遼は三好氏について下記の様に語っている。

三好氏は武勇もあり、風雅もあった。
ただ、天下をどうしようという野暮な経綸や大志がなかったのである。
五代も京にいながら天下人になれず、結局は信長のような田舎者が
やって来なければ歴史は旋回しなかったというのが、
三好氏を考える上で、もっともおもしろい。


16日本@名無史さん:05/01/29 10:43:33
義栄も酷いがその子(弟?)義助も哀れだよな。
阿波から上京を何度も目指したがそのたびに金欠で断念w
17日本@名無史さん:05/03/14 01:28:41
阿波つながりってことで義植もいいですか。
義植の正室は阿波細川成之女で良いのでしょうか。
18日本@名無史さん
たね・・・稙○  植×