1 :
日本@名無史さん:
南北朝以来から現代まで日本史の表舞台にしぶとく居残って
いろいろと茶々入れてきた細川家についてお話ししましょう
2 :
日本@名無史さん:03/10/11 21:26
良スレの予感
3 :
日本@名無史さん:03/10/11 21:27
肥後細川家が宗家ということでいいのですか?
4 :
日本@名無史さん:03/10/11 21:36
♪わたしバカよね〜 おバカさんよね〜
6!!
7 :
日本@名無史さん:03/10/11 23:00
本能寺の変に加担しなかったってのは
細川家の文書によるそうだな
一色氏との兼ね合いを考えると
絶対うそ臭い
8 :
日本@名無史さん:03/10/11 23:19
護煕氏は最近もっぱら陶芸をやっているらしいね。
他には坐禅とか、野口整体とか、そういうのが好きらしい。
9 :
日本@名無史さん:03/10/11 23:20
細川護煕にはもっと政界をかきまわしてほしかった
護煕は、近衛文麿を彷彿させた
11 :
日本@名無史さん:03/10/11 23:31
>>9 同意。
長い武家の歴史の中で、卓越した政治力をもって
常に高い位置にいた殆ど唯一の家だが、
恐らく彼が表舞台に立つ最後になるだろうと思うとちょっとさみしい。
12 :
日本@名無史さん:03/10/11 23:34
護煕の息子何やってんだろ?
13 :
日本@名無史さん:03/10/12 00:17
細川家には何か凄い秘伝がありそうだね。
14 :
日本@名無史さん:03/10/12 01:45
15 :
日本@名無史さん:03/10/12 04:24
京兆家の末路も興味あるが
備中・淡路・阿波各守護家や典厩家・奥州家の
系統はどうなったんだろ?
16 :
日本@名無史さん:03/10/12 16:31
>>14 京兆家の子孫は過去スレのどこかにあるよ。
昭元(信良)の子頼範が大坂落城後に、秋田家に代々つかえているよ。
姉か妹が秋田実季の正室で、後継ぎを生んでいるから。
17 :
日本@名無史さん:03/10/12 16:42
系図によると藤孝の長男忠興は幕臣細川輝経の養子になっているが、
和泉半国守護家の跡目は誰が継いだのだろう?
そこらへんは長岡氏に改姓したことで曖昧(ていうかチャラ)になったのか?
18 :
日本@名無史さん:03/10/12 17:06
一応両方を継いだことになるらしい。
でも実際は輝経とは名目上の養子らしい。
>3
宗家になったんでしょう、織田信長みたいに。
>9
そうですけどでも天下人になったので良かったんでは。
20 :
日本@名無史さん:03/10/13 18:09
21 :
日本@名無史さん:03/10/13 18:34
もう藤孝の話は本などで出尽くしておもしろくないなあ。
それ以外・それ以前の細川家のことが知りたい。
22 :
日本@名無史さん:03/10/13 18:48
細川家と親戚なるのは嫌だよな。
大事なときに裏切られるから
23 :
日本@名無史さん:03/10/13 18:52
裏切りか?
周りが勝手に落ちていっただけじゃないのか。
24 :
日本@名無史さん:03/10/13 18:57
権謀術数にたけて芸術に精通した家柄のイメージがあるね。
常に天下の権力者に取り入ってコバンザメのように生き延びた
一族って感じがする
おまいら 細川政元を忘れちゃ困るぞ
26 :
日本@名無史さん:03/10/13 19:48
政元は妖術使いだったって本当なの?
修験道の修行中に暗殺されたってきいたけど
27 :
日本@名無史さん:03/10/13 19:50
集英社の『漫画 日本の歴史』で代々、垂れ目、鼻デカに
描かれてたな。
28 :
日本@名無史さん:03/10/13 19:51
29 :
日本@名無史さん:03/10/13 20:34
奥州家は関が原のときに輝経が死んで断絶してる。
30 :
日本@名無史さん:03/10/14 15:55
31 :
日本@名無史さん:03/10/15 01:52
ageてみよう
32 :
日本@名無史さん:03/10/15 18:46
備中守護家の子孫は毛利家の客将。
33 :
日本@名無史さん:03/10/15 18:53
細川って足利時代の初期にはわりとたいしたことないイメージだな
35 :
日本@名無史さん:03/10/15 21:54
勝海舟が氷川清話で頼之の事とても誉めてたよね。
粘着管領・細川晴元こそ最強
37 :
日本@名無史さん:03/10/24 11:46
なんで藤孝が宗家継いだんだ?他に細川はいなかったのか。
全部滅亡したのか。
38 :
日本@名無史さん:03/10/24 12:00
おまえらもっと書き込め、馬鹿野郎!
39 :
日本@名無史さん:03/10/24 20:46
細川頼春、イイ!
40 :
日本@名無史さん:03/10/24 20:49
∧_ 人
(;´Д(__)
( つ (__)
) 「( ・∀・) いつものウンコカットでおながいします。
|/~~~~~~ヽ
41 :
日本@名無史さん:03/10/24 21:39
>>37 つか、藤孝は宗家継いでないだろ。
旧侯爵家は藤孝を初代として代数を数えてるしな。
宗家は昭元で断絶したんじゃないの?
42 :
日本@名無史さん:03/10/24 22:44
43 :
日本@名無史さん:03/10/25 03:04
>>41 たかが40くらいなんだから過去レスくらい嫁よボケ
44 :
日本@名無史さん:03/10/25 08:27
しかし言っていることは41が正しいと思うが
45 :
日本@名無史さん:03/10/25 08:41
宗家って、叔父さん。
『古今和歌集講座』の講師としてNHKに出たい漏れ
47 :
日本@名無史さん:03/10/25 11:53
>>44 たかが40くらいなんだから過去レスくらい嫁よボケ
48 :
日本@名無史さん:03/10/25 13:41
40くらいのちょうど
>>40があれなのが非常に悲しいスレだ・・・。
49 :
日本@名無史さん:03/11/15 07:50
忠興は、和泉上守護家と奥州家を合わせて嗣いだ。
∧_ 人
(;´Д(__)
( つ (__)
) 「( ・∀・) いつものウンコカットでおながいします。
|/~~~~~~ヽ
51 :
日本@名無史さん:03/11/16 16:40
頼有は頼元より年上なのに、どうして細川本家を継げなかったの?
52 :
日本@名無史さん:03/11/16 17:54
細川護煕って明智光秀の子孫?
53 :
気付き@幸せ掴む:03/11/16 18:40
人間として生まれて来た以上は、安心と平和と幸福は勿論のこと繁栄や成功を得なければ、何の
価値もないような錯覚に陥り、各々の価値観に基づいて目標を立て進んで行っているようです。
まあ、言ってみれば幸福感の追求ということに行き着くのかもしれない。
肝心な人生の生き甲斐である「幸福とは、一体何であるか」ということを学ぶことも有意義だろう。
今日まで多くの人々は、『幸福な生活を実現する』ことが出来るものは、『学力、知力、体力、金力、
権力』だと、間違った目先の「力」であると考え、これらの獲得を目標にして努力していると言える。
もう少し洞察力を高めてよく考えて見れば、それらは何ら私たちを幸せにする確固たる保障はない。
それらは確かに幸せな生活を保証するだろうと推定される一つの手段であり要素(ファクター)では
ありますが、あくまでも一つの手段であり要素にしか過ぎず、手段と目的を取り間違えないように。
この件に関する出典の説明があるHP↓に注目。参考にしよう。危機が近し心して暮らそう。
ttp://www.d7.dion.ne.jp/~tohmatsu/
54 :
日本@名無史さん:03/11/16 18:47
55 :
日本@名無史さん:03/11/16 19:53
>>52 確か何代か前に宇土の方から養子が来てなかったか?
56 :
日本@名無史さん:03/11/16 20:24
>>55 ありゃ、やはり繋がってなかったか
ちょっと残念
>>54 娘が細川家に嫁いでんのよ
てか細川ガラシャ
57 :
日本@名無史さん:03/11/16 23:29
細川ふみえは?
58 :
日本@名無史さん:03/11/17 02:02
59 :
日本@名無史さん:03/11/17 02:35
護煕さんが「いいとも」とかで先祖自慢したらすごいな。
あの人も、あの人も、って感じで
60 :
日本@名無史さん:03/11/17 02:42
旧武家を自慢してる奴は、護熙さんから見たら、はるか下であろうな。
まあ、彼らの将軍は徳川家だし、細川なんざどうでもいいんだろうが。
61 :
日本@名無史さん:03/11/17 07:16
>60
近衛の孫だしねぇ。近衛の現当主は弟だし。
家柄がいいといわれている鳩ポッポでも・・・美作勝山藩の士族でしょ。
日本史で藤原鎌足とか道長を習ったときに、
俺のおじいちゃんはこの人の直系の子孫だぞ、っていうのはかなりすごい。
63 :
日本@名無史さん:03/11/17 21:20
>62
残念ながら、近衛は江戸期に養子が後を継いだので天照大神の子孫
64 :
日本@名無史さん:03/11/17 21:38
>>63 女系では繋がる。
後陽成天皇の皇子で近衛家を嗣いだ近衛信尋は、母親が近衛前久の娘・前子です。
65 :
日本@名無史さん:03/11/17 22:16
>64
女系を入れれば、平安時代に現天ちゃんの先祖も・・・90%藤原氏に
女系オタうざい
67 :
日本@名無史さん:03/11/17 22:19
ちんこの大きさが気になります。
家老の松井さんのご子孫は熊本市内の神社で宮司さんやってるみたいです。
阿波細川はどうなったん?
傍流で、紹高系は残ったようだけど
71 :
日本@名無史さん:03/11/20 04:35
阿波細川は真之で無嗣断絶じゃない?
真之には隆之って子がいたはず
73 :
日本@名無史さん:03/11/22 17:46
全身これ肝、本番度胸なら戦国NO.1。
この稲富祐直が細川家の鉄砲隊を強化すます。
74 :
日本@名無史さん:03/11/22 19:11
細川はどこの家臣なのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、勝ちそうな方に恩を売っているだけちゃうんかと。
武士道通の俺から言わせてもらえば今、まことの武士の間での最新流行はやっぱり、
義、これだね。
義に生きる。これが通の生き方。
義ってのは道徳・倫理が多めにある。そん代わり損得の計算が少なめ。これ。
で、それに義に殉ずる。これ最強。
しかしこれをやると主家が没落したら、自分も没落するという危険も伴う、諸刃の剣。
素人にはお薦め出来ない。
まあお前らド素人は、細川コウモリ戦法でもやってなさいってこった。
75 :
日本@名無史さん:03/11/22 19:12
政権を途中で放り投げた、細川護煕・元首相は、
童話のコウモリのごとく、足利将軍家・織田・豊臣・徳川と次々に主家を変えた先祖に負けないくらいの、
見事なヘタレっぷりだったな。(w
77 :
日本@名無史さん:03/11/22 19:31
近世大名細川家の遠祖になる細川頼有は、京兆家を継いだ頼元の兄のはずなのに、どうして京兆家を継げなかったの?
78 :
日本@名無史さん:03/12/05 19:09
79 :
日本@名無史さん:03/12/06 13:51
>>71 阿波細川真之には長男の隆之以外に、
畠山高政の養子になった之照がいる。
80 :
日本@名無史さん:03/12/06 14:57
細川隆之って俗説の類?
81 :
日本@名無史さん:03/12/06 15:02
宗家・細川昭元の次男の元勝の系統は
元勝・・義元・・宣元と続いているみたいだけど、
その後はどうなったの?
82 :
日本@名無史さん:03/12/06 17:01
過去レス嫁
83 :
日本@名無史さん:03/12/06 17:03
84 :
日本@名無史さん:03/12/06 17:05
細川昭元って信良とどっちが正しいの?
いつ改名したの?
三好がいなけりゃクズ
86 :
日本@名無史さん:03/12/06 17:54
>>84 聡明丸→昭元→信良
昭元の「昭」は足利義昭から、後に信長から「信」をもらい信良と改名
87 :
日本@名無史さん:03/12/06 18:15
>>74 そこもとのいう武士道は江戸時代に出来上がったもの。
戦国の世には戦国の世の習いに従ったまでのこと。
88 :
日本@名無史さん:03/12/06 18:18
89 :
日本@名無史さん:03/12/06 18:22
(;゚д゚) 気づかんかった・・・。不覚。
91 :
日本@名無史さん:03/12/06 19:11
応仁記に出てくる細川勝元の猶子・六郎ってだれ?
細川教春の子で六郎勝之って人がいるけど
それの事かな?
92 :
日本@名無史さん:03/12/07 04:04
93 :
日本@名無史さん:03/12/07 04:07
細川幽斎以外の家系の細川氏ってどこへ消えたんだろう。
高家とか旗本に取り立てられたんでしょうか?
ガイシュツ
秋田藩士
96 :
日本@名無史さん:03/12/07 07:15
秋田家の三春藩士だろ?
>>92 その豊久とは別人。安富元綱らと相国寺の戦いで戦死している。
98 :
日本@名無史さん:03/12/08 02:40
勝信とか?
99 :
日本@名無史さん:03/12/14 19:27
常有です。
100 :
日本@名無史さん:03/12/31 01:42
聡明丸は何人?
101 :
日本@名無史さん:04/01/05 20:08
フランス人。
102 :
日本@名無史さん:04/01/07 06:39
和歌山県出身で細川家末裔を主張する知人が居るんだが、
信憑性はどうですか?
「明治以降引越しすればなんでも有りじゃー」というのはおいといてw
……出身だけでわかるわけねーべ。
その情報だけだったら、何とも言えんとしか言いようない。
104 :
日本@名無史さん:04/01/08 01:39
細川と今川ではどっちが上なの?
105 :
日本@名無史さん:04/01/08 01:44
足利家の家来としてデス
107 :
日本@名無史さん:04/01/08 01:47
時代によって違うからな、平成の現在では細川が上。
足利家と品川家?と細川家の子孫が現代でも集まることとかあ
ったらおもしろそう
細川&近衛一族は集るでしょう。
110 :
日本@名無史さん:04/01/08 04:44
>>104 はるかに細川家。
室町体制での管領家は足利一族の中でももっとも家柄の高い3家。
斯波、畠山も同様。
111 :
日本@名無史さん:04/01/08 04:55
細川はあくまで家臣だが、今川は一門と思う。
112 :
日本@名無史さん:04/01/08 09:25
どうして細川と今川をくらべるの?
113 :
日本@名無史さん:04/01/08 09:33
愛知県岡崎市細川町 : 愛知県西尾市今川町
将軍家に跡継ぎがないときは吉良、今川からでるんだろ?
115 :
日本@名無史さん:04/01/08 20:17
>>106 鎌倉時代の足利家においては、
今川>>>>>>>細川
室町幕府の制度が確立したあとなら、
細川>>>今川
>110
今川 吉良、斯波が一門での順、細川、畠山、一色は家来
斯波は管領になることは、一門から家来になることといって相当渋ったようだ。
一門と家来は、御三家と井伊みたいなれっきとした差
117 :
日本@名無史さん:04/01/08 20:53
>>113 愛知県刈谷市にも今川町があるが、ここは関係ないのだろうか?
118 :
日本@名無史さん:04/01/08 21:02
>>116 順番は吉良・今川・斯波。
もともと今川は吉良長氏の二男・国氏の子孫で、
吉良の分家でもあるから、吉良の方が優先された。
しかし、実際には格式が与えられていただけで、
足利義量や義勝に跡継ぎが絶えても、弟や一族が継いだため、
吉良や今川が継ごうとはしなかった。
>118
徳川も館林やら甲府などが先に継いだもんな。序列では筆頭の尾張は結局一人も将軍を出さなかったし
足利の最後の将軍も、足利(今川)義元になる可能性もあったんだしねぇ。
イマガワヤキ ドゾー
∧_∧ ○
(・ω・)丿 ッパ
. ノ/ /
ノ ̄ゝ
121 :
日本@名無史さん:04/01/10 00:49
>>116>>118 結局宗家からの血縁の近さによって決まっているんだよな。
徳川幕府においても、御三家なんかは明らかに一族扱いだが、家康以前にわかれた18松平の子孫なんかは家臣(譜代大名)扱い。
>>119 江戸の後半になると、御三家より御三卿が先に継ぐしね。
122 :
日本@名無史さん:04/01/10 03:57
>>119 しかも、江戸の後半期になると、将軍家(紀州系)からの養子によって尾張家自体が乗っ取られたような感じになるし。
結局、初期の頃の尾張分家である美濃高須藩出身で尾張家を継いだ慶勝によって、義直の血が回復するけど。
>122
残念ながら美濃高須藩も水戸の血に乗っ取られ済み
124 :
日本@名無史さん:04/01/10 13:05
尾張や三河の田舎者に京の都に未練を残して無念の九州の田舎都落ち。
片田舎で風流きどってんじゃねぇ!お前らはそれでいいんか?細川!
125 :
日本@名無史さん:04/01/10 15:46
仮にあったとしても、そういう事情が考慮された形跡はない。
127 :
日本@名無史さん:04/01/10 16:11
>>124 熊本県民のオレが読んだ「熊本の歴史」って本では京→福岡→熊本と配置替えされる度に石高が上がってるので「出世」となってたが、これってどう考えても熊本県民の悲しい見栄だよな。
明らかに日本の重要な地域からどんどん遠ざけられ、左遷されてる(;;) 熊本人は郷土を「田舎」と認めたくないのだ……。
128 :
日本@名無史さん:04/01/10 16:22
>>125 つながらんだろう。
水戸徳川家の分家とは婚姻関係があるが、
そこでも側室が子を産んでたりするからな。
129 :
日本@名無史さん:04/01/10 16:55
まぁ護熙の嫁さんは熊本では自分が主役のオペラやったり、
差別発言したり、馬鹿丸出しで評判悪かったね。
130 :
日本@名無史さん:04/01/10 17:48
>>129 護煕さんの妻って幕臣・寺島家の子孫だっけ?
従姉妹が徳川恒孝さんの妻になってたよな。
131 :
日本@名無史さん:04/01/10 22:32
>>110 管領は足利家の執事をそのまま幕府の役職にしたようなものだから、足利一門のなかでも名門とされる家は、執事は家臣のやることだということで、管領にはなろうとしなかったんだよ。
細川や畠山は、もともと一族のなかの位置付けが最低レベルの家臣同然の家だから、すんなり管領になったけど、斯波はかなり渋ったと言われる。
結果論から言えば、管領になった3家のほうが圧倒的に勢力は大きくなったのだけどね。
あと、細川や畠山の場合は、むしろ家臣同然の身分で足利将軍家にあまり反抗しなかったから、反抗的だった桃井や吉良が没落したのを後目に頭角を表したとも言える。
>>127 山本博文氏の『遊びをする将軍 踊る大名』では
細川氏の熊本転封は他大名から相当うらやましがられた
というような書き方になっておりました。
ちなみに細川の後に小倉にやってきやがった小笠原は
当時の藩主・細川忠利の妻の実家です。
133 :
日本@名無史さん:04/01/10 23:22
>>132 あの当時の肥後は米所でうまみのある国だからかな?
>>131 畠山は元が元だけに斯波や吉良並みかと思ってたんだが、違ったのね。
135 :
日本@名無史さん:04/01/12 03:51
細川家って、臨済宗?曹洞宗?真言宗?、それとも
ただの寺好き?
136 :
日本@名無史さん:04/01/12 14:43
>>135 仏教を宗派ごとに画然と分けようとするのは、
歴史家の弊だな。
修行する側になってみれば、
臨済だろうと曹洞だろうと大して変らん。
137 :
日本@名無史さん:04/01/17 23:36
政元が空を飛ぶ♪チャチャチャ
138 :
日本@名無史さん:04/01/25 00:30
細川総理ネタはここでOK?
139 :
日本@名無史さん:04/01/25 00:44
幕臣・寺島家ってどの程度の家柄?
140 :
日本@名無史さん:04/02/02 02:02
>>135 足利本家自体が真言宗から臨済宗に乗り換えているし・・・。
しかし護煕さんの祖先はたどっていけば天皇だからな
その他縁戚も教科書に出てくるような歴史上の重要人物がズラリ
マジで「笑っていいとも」に出て欲しい(今コーナーあったっけ?)
今現在最強の子孫といっても過言ではない
細川家の全盛期っていつぐらい?
1990年代あたり。首相になる前後だろ。マジレスすると。天下とったんだし。
144 :
日本@名無史さん:04/02/20 04:40
じゃそれ以外で。17世紀以後は除いて。
145 :
日本@名無史さん:04/03/15 02:14
そろそろage
近衛家にも連なる、
147 :
竹田丹後守 ◆gVkD2onhQc :04/03/15 06:20
細川隆一郎・細川隆元の名前がまだ出とらんぞ
もう過去の人か?(まあ確かにもうこの世におらんが)
148 :
竹田丹後守 ◆gVkD2onhQc :04/03/15 06:23
ググったら隆一郎の方はまだ生きているようで
149 :
日本@名無史さん:04/03/23 00:34
>>14 京兆家の子孫は今でも京都にいるよ。
結構お金持ちだよ。
この細川家は清和源氏足利支族として今でも京の名家になってる。
ちなみに今でも管領家とか京兆家と言われてて、
ニ家あるよ。
(数百年前に分かれた家同士だけど、今はまた血縁関係を持って、この両家は親戚になってる。)
足利将軍家子孫も(確か)右京区に住しているよ。
ただこっちはほんとかどうかちょっと怪しい雰囲気・・。
ちなみに肥後熊本の細川家は三淵氏一門として語られ、
京の上流社会の中では京兆家に比べ、あきらかに差が付けられてて格が低いらしい。
総理大臣を輩出してても関係ないみたいだよ。
150 :
日本@名無史さん:04/03/23 00:44
151 :
日本@名無史さん:04/03/23 01:00
>>150 これ、日本の名家ってテレビ番組で紹介されてたものだよな?
だとしたら俺も見た。
一家は細川済之の系統。一家は細川勝之の系統と確か言ってた。
共に京の名家として紹介されてたよ。
足利将軍家の子孫に関しては鹿苑寺住職は子孫として認めていたね。
152 :
日本@名無史さん:04/03/25 00:01
>>149 肥後細川家の細川藤孝は父親は三淵晴員だけど、その父親は和泉半国守護の細川元有、
藤孝は伯父の元常の養子になって和泉守護家を継いでいる。
これが何で三淵氏になるんだ?
この考え方からいくと、北畠信雄の子孫は織田一門じゃないってことだよね?
細川勝之って細川勝元の猶子らしいが、猶子ってことは相続権ないよね。
(細川済之ってだれ?)
この京都の細川家って戦前は華族だったの?
なんか凄く胡散くさいのですが。
(阿波公方に仕えた家系とかいわないよなー)
153 :
日本@名無史さん:04/03/25 00:04
つーか江戸時代は何やってたわけ?
京都の細川さんは。
154 :
日本@名無史さん:04/03/25 00:12
ひょっとして細川済之=澄之なのか?
あの人の子っていたんだろうか・・・
155 :
日本@名無史さん:04/03/25 03:35
明かに信憑性は無いね。
細川家の評判が悪いのはなぜですか?
157 :
日本@名無史さん:04/04/07 01:01
>>156 世渡りが上手すぎるからでは?
細川勝元 足利義視→日野富子
細川藤孝 足利義昭→明智光秀→豊臣秀吉→徳川家康
細川護煕 田中角栄→武村正義→小沢一郎
平気で裏切りあっちこっち。
応仁の乱のときの狂歌に
「細川の川の流れはあっちに流れ、こっちに流れ」とかいうのがあったが、
血は争えんね。
158 :
日本@名無史さん:04/04/07 01:15
>>154 澄之の子孫だとしたら、男系で元々の細川氏と血が繋がっていないことになるね。
澄之は九条政基の子で、細川政元の養子になったんだから。
それに対して、藤孝の子孫の熊本藩主家は、三淵晴員を介してもそれ以前の細川氏と男系で繋がる。
そうすると、
>>149の言うことって、かなり意味不明になるんだが・・・。
159 :
日本@名無史さん:04/04/07 01:17
>>157 一番凄いのは、やはり明応政変で一夜にして室町幕府の権威を失墜させた政元だろう。
160 :
日本@名無史さん:04/04/07 01:25
>>134 源姓畠山氏の祖である畠山義純は、母親の身分がかなり低かった(確か白拍子かなんか)らしい。
特に中世前期の武家社会だと、白拍子腹の子女は、忌み嫌われるべき存在だったらしい。
だから、義純にとっては、畠山重忠の名跡を継げただけでも奇跡的な大出世であり、足利一族内での序列は低かった。
逆に、庶家とは言っても斯波氏などは、初代・家氏の母親が名越(北条)氏出身なので、一族内での序列は高かった。
161 :
日本@名無史さん:04/04/07 01:30
明智光秀の娘が細川ガラシャになってるけど、
旦那の名字にあわせるようになったのはいつの時代から?
足利義政の嫁は日野富子だよな。
162 :
日本@名無史さん:04/04/07 01:39
>>161 当時は女には名字を与えられないでしょ。たとえ結婚しても。
日野何某の娘富子では。
163 :
日本@名無史さん:04/04/07 02:46
>>161 夫婦同姓の導入は明治31年から。
細川ガラシャの場合は単なる通称であり、彼女の本名はあくまで明智玉子。
164 :
日本@名無史さん:04/04/07 15:13
>>158 あまり追求するとかわいそうだよ
彼のは妄想なんだから
165 :
日本@名無史さん:04/04/07 18:13
>>160 ちょっち、違うような。
確かに義純自体は長男でありながら、扱いは低かった。
が、畠山重忠の未亡人を娶ったことで一気に格があがった。
なにしろ、北条時政の娘、政子、義時の妹であり、当時時政にとって婿になり。
事実上北条一族扱いされるに至っている。
鎌倉時代には吉良、斯波と並び、御家人にもなっている。
よって、畠山家は家格自体は高い。
166 :
日本@名無史さん:04/04/07 22:00
>>160 逆に親の身分が低かった足利義純が名門畠山氏の婿養子となり、
畠山家を継ぐことが出来たのはなぜでしょうね?
畠山の親戚筋(秩父党だっけ)の中から選ばれなかったのは
北条氏が畠山の勢力を自派のものにするためとしても
足利氏の庶子をわざわざ選ばなくてもよさそうな気もしますが。
後の斯波家氏みたいに足利家督者の代理みたいな幕府内でそれなりの
地位にいたんでしょうか。
167 :
日本@名無史さん:04/04/07 22:55
>>160 まあ、庶子とは言え、長男だからじゃないの?
やっぱり、嫡男の兄ってのは大きいよ。
源義平も嫡男頼朝の兄ってことで、それなりに官位などで優遇されているし。
あと斯波氏は足利家の代理なら、畠山氏は北条一族の扱い。
なにしろ、義純が重忠未亡人を娶ったときは、足利義兼以外は時政の婿、政子・義時の義弟は1人だけだし。
頼朝は落馬で死去、源全成、稲毛重成、畠山重忠、平賀朝雅とみーんな非業の死を遂げているわけで。
168 :
日本@名無史さん:04/04/08 02:39
四国や近畿には細川さん多いけど、彼らもやはり子孫なのか。
169 :
日本@名無史さん:04/04/08 15:18
長宗我部の家臣の細川定輔も土佐守護の流れというね。
>>161 基本的に昔の系図とかの女子は「○○氏娘」ぐらいしか書かれないから、
そこから「○○氏の娘〜子」という感じで
「日野富子」とか「北条政子」となった。
京兆家は後に秋田あたりの藩士だったはずだが。なぜに京都。
ちなみにかつて子爵さんという方がいらして、喜連川家の子孫は霞会には所属していないそうだ。
かつて日経新聞に有馬頼低さんが寄稿されていたのだが、その中で足利先生の逸話がでてきていた。岡崎あたりに居を構えていたそうだ。
奥さんは竹田宮家から嫁いできたそうだ。
>>165-167 足利一族内での序列は低かったというのは、ちょっと違っていたようです。
義純の子孫(畠山や岩松など)は、仁木や細川とは違った意味で、必ずしも足利家一族扱いをされていなかったというのが正しいようです。
畠山氏は事実上北条一族扱い、岩松氏は事実上新田一族扱いだったということでしょう。
ただ、この畠山氏や岩松氏も北条氏・新田氏の没落には結局殉じず、元弘・建武以後は足利与党として活動しているのは歴史の皮肉でしょうか。
176 :
日本@名無史さん:04/04/22 16:18
千田稔「華族事件録」(新人物往来社、2002)pp.342によると、細川護煕の実父の細川護貞は
学習院在学中に酒井忠博伯爵と男色関係を結び、当時の不良団「百足」に恐喝されて
数千円を支払ったことがあるらしい
177 :
日本@名無史さん:04/04/22 23:48
酒井忠博伯爵ってどこの酒井家?
178 :
日本@名無史さん:04/04/23 02:20
>>177 武家華族の酒井家で爵位が伯爵なのは、以下の3家。
出羽庄内藩主家(通称・左衛門尉家)
播磨姫路藩主家(通称・雅楽頭家)
若狭小浜藩主家(雅楽頭家分家、通称・讃岐守家)
179 :
日本@名無史さん:04/04/23 02:26
180 :
日本@名無史さん:04/04/23 03:50
和泉守護家の子孫を管領家とか京兆家とか呼ぶのはおかしいような
181 :
日本@名無史さん:04/04/23 06:50
前に細川総理(当時)が韓国を訪れた時
あの国の細川(何と読むかは知らない)という村に案内されたとか。
韓国人は細川家がその村をルーツとし日本に渡来して名族になったと
思っているらしい。
182 :
日本@名無史さん:04/04/23 20:39
まじかよ。韓国人も冗談きついな。
183 :
日本@名無史さん:04/04/23 20:46
184 :
日本@名無史さん:04/04/23 21:37
細川忠興の兄弟、細川興元は、何故? 大坂方について戦ったのか?
>>184 どっちが勝つか判断がつかなかったので、両方に分かれてどっちが勝っても家名が残るようにした。
>184
忠興の二男、興秋の間違い?
187 :
日本@名無史さん:04/04/24 00:07
>>181 「細川」って、普通に韓国語で読むなら、“세천(se-cheon)”じゃない?
そんな地名が実際あるのかどうかは知らないけどね。
興秋は戦後死刑だったな。大坂の陣では長岡監物という名で参戦していた。
>188
細川興秋≠長岡監物。長岡監物=米田是季。
逃亡して親父の忠興に殺されたんじゃなかったっけ?
191 :
日本@名無史さん:04/04/24 12:09
興秋が大坂方だったのは、忠利との家督争いがもと。
忠利は家康の人質であり、親徳川だったため。
このあたり最上家と通じるところがあるね。
192 :
日本@名無史さん:04/04/24 19:33
細川一族には、京兆家とか典厩家とかあるけど、
これって当主の官位の右京大夫と右馬頭の唐名が、
それぞれ右京兆と右典厩であることに由来するんですよね?
ところで、こういう言い方って、他の細川一族にはないのですか?
193 :
日本@名無史さん:04/04/25 00:57
右京兆家、右典厩家でもいいのにね。どうして右を省略?
194 :
日本@名無史さん:04/04/25 01:15
斯波宗家も武衛家だしな
195 :
日本@名無史さん:04/04/25 01:36
196 :
日本@名無史さん:04/04/25 01:53
だって、
左京大夫=左京兆
右京大夫=右京兆
左馬頭=左典厩
右馬頭=右典厩
左兵衛督=左武衛
右兵衛督=右武衛
じゃない?
それに、史料上だと、細川本家の当主を指して「右京兆」なんて言っている場合もあるよ。
どうせ、家のことを指して「京兆家」「典厩家」「武衛家」なんて言い方は、
研究者がつくったテクニカル・タームなんだから、左右を省略する意味がわからない。
197 :
日本@名無史さん:04/04/25 02:08
>>196 だからもともと左右はないってゆーとる。
198 :
日本@名無史さん:04/04/25 02:12
>>196 >研究者がつくったテクニカル・ターム
うーん。ちょっと違うけどね。
199 :
日本@名無史さん:04/04/25 18:22
>>198 どう違うの?
個人を指して「京兆」とか「典厩」とか言っている用例は、同時代史料に明らかに存在するけど、
家系を指して「京兆家」とか「典厩家」とか言っている用例って、同時代史料にあるの?
200 :
日本@名無史さん:04/04/27 00:20
良スレage!
201 :
日本@名無史さん:04/04/27 02:57
>>199 だからもともと左右はないんだっつーの!!!
202 :
日本@名無史さん:04/04/27 03:23
>>201のレスは的外れではないか?
>>198-199は左右云々を論じているのではなく「京兆家」「典厩家」「武衛家」
のような言い方がテクニカルタームか否かを論じていると思うのだが・・・。
……なあ、今までROMってたんだけどさ。
本来左右が存在しないんだったら、史料上の誤りを拡大して「右京兆」を一般化する方が、
よっぽど「研究者がつくったテクニカル・ターム」なんじゃないか?
204 :
日本@名無史さん:04/04/28 03:43
>>203 元々左右なんかないという話はよくわかりました。
有り難う御座いました。
そこで、今度はその話ではなく、
細川本家を指して「京兆家」と言ったり、斯波本家を指して「武衛家」と言ったりする言い方が、
テクニカルタームなのか、それとも同時代史料にも用例がある言い方なのかを教えて下さい。
>>198氏は、テクニカルタームではないと言っているようですが、
同時代史料に用例があるのなら、それをお教えいただければ幸いです。
205 :
日本@名無史さん:04/04/28 04:28
細川ふみえタンハァハァ
206 :
日本@名無史さん:04/04/28 06:33
そんな事より細川宗孝について語れ
207 :
日本@名無史さん:04/04/29 01:21
208 :
日本@名無史さん:04/04/29 08:42
暗いところ「便所)にいたため似た家紋(九曜と八曜だったっけ)の
人と間違われて襲われて死んだんですよね・・・。不幸だ。
そのため部屋住みから当主になったのが弟の重賢。
209 :
日本@名無史さん:04/04/29 12:25
>>204 今度は「家」がついたかどうかを問題にしてるの?
210 :
日本@名無史さん:04/04/29 12:49
>>209 >>198-199の時点ですでにそういう流れになってる。
とりあえず、俺の知っている限りだと、正しい使い方かどうかは別にして、
細川京兆家当主個人を指して「京兆」or「右京兆」と言ってたり、
細川典厩家当主個人を指して「典厩」or「右典厩」と言ってる例は、
当時の史料上にある。
しかし、家系を指して「京兆家」とか「典厩家」とかいう言い方は、
当時の史料上にはないので、テクニカルタームっぽい。
211 :
日本@名無史さん:04/04/29 13:00
212 :
日本@名無史さん:04/05/03 12:58
奥州スレにあったが、肥後細川家はあくまで奥州家の輝経の後継者であって、
和泉半国守護家の家督は地下官人になった元常の実子の系統に受け継がれたらしいな。
213 :
日本@名無史さん:04/05/03 15:47
違うだろ。
家督は幽斎が継いでいるし、奥州家の養子というのも系図上のはなしだけ。
つかぬことを伺いますが、なんでそんなに細川家のことに
ついて詳しいんですか?
215 :
日本@名無史さん:04/05/03 15:57
109 :日本@名無史さん :04/05/02 06:14
和泉上半国守護家も熊本藩主になったのは、実は傍流。
熊本藩主細川氏の祖・藤孝は、最後の和泉上守護・元常の養子(弟の子)であるが、元常には他に実子がおり、本来ならこの子孫が和泉上守護家の本流。
この家系は六位蔵人の地下官人として朝廷に仕えたが、明治期に華族への叙爵基準を微妙に満たさず、士族となった。
110 :日本@名無史さん :04/05/02 06:22
むしろ、熊本藩主細川家は、忠興が奥州家(細川顕氏の後裔)の最後の当主・細川輝経の養子になっているから、
江戸幕府においては、系図上は奥州家の子孫と見なされていた。
『系図纂用』なども、基本的に忠興以降の熊本藩主家を奥州家につなげて書いている。
216 :
日本@名無史さん:04/05/03 16:48
根拠がないね
217 :
日本@名無史さん:04/05/03 17:11
218 :
日本@名無史さん:04/05/03 17:24
忠興以降の熊本藩主家が系図上奥州家の子孫と見なされていたのは事実。
但し、藤孝の次男興元の子孫(谷田部藩)は和泉上半国守護家の子孫として扱われている。
219 :
日本@名無史さん:04/05/03 19:06
それも根拠がないな
220 :
日本@名無史さん:04/05/03 19:40
>>219 系図上での話だろ。
『系図纂要』とかそのへんの系図集の書き方を見て見ろよ。
221 :
日本@名無史さん:04/05/03 20:02
『系図纂要』なんか信用してるんだ
222 :
日本@名無史さん:04/05/03 20:05
信用していますが何か?
少なくとも江戸開府以降の時代に関しての系図纂要の記述はほぼ正しいと見て相違ない。
223 :
日本@名無史さん:04/05/03 20:05
超一級史料だろ?
系図の信用度
尊卑分脈>系図纂要>>>(超えられない壁)>>>その他
224 :
日本@名無史さん:04/05/03 22:16
そもそも実子かどうかは家の継承という点では重要じゃないでしょう?
あくまで家督をだれに譲ったかが大事な点だから。
庶子だろうが養子であろうが家督をついで主君
(和泉半国守護家からみたら足利将軍家)に
承認されたらそっちが正統ですよね。
主君の対応がころころ変わったために応仁の乱が起こったわけですし。
>>218 肥後細川家が和泉守護家(というか藤孝)の後継者ではなく陸奥守輝経の子孫と
考えていたというのは忠興がそう言い出したらしい。
(ソースは忘れたのですが江戸初期に家系の編纂かなにかで尋ねれられた際
そういう答え方をしたという話を聞いたことがあります)
忠興は気性が激しい性質だし、藤孝との関係もあまり良くなかったみたいですから
その辺に原因があるのかもしれないですね。(しかし輝経も誇れるような人物ではないような・・・)
興元の家系が和泉上半国守護家の子孫として扱われているとは知らなかった。
(祭祀は肥後細川家が継承しているかと思ってました)
いつ興元が継承者になったんでしょうね
忠興が養子に行ったときか、家督を継いだとき、それとも関ヶ原後興元が出奔して
別家の大名に取り立てられた後なのでしょうか。
225 :
日本@名無史さん:04/05/03 23:42
>>224 >(ソースは忘れたのですが江戸初期に家系の編纂かなにかで尋ねれられた際
> そういう答え方をしたという話を聞いたことがあります)
寛永譜の編纂のときですか?
226 :
日本@名無史さん:04/05/03 23:45
元常→藤孝は、室町将軍公認の上での相続だけど、
藤孝→忠興については、どの程度継続性があったのか微妙だよね。
織田信長にしても、細川家に丹後を与えるときに、藤孝ではなく、まだ幼い忠興に与えるという形式を取っていたりしますし。
227 :
日本@名無史さん:04/05/04 00:34
>>222 >はほぼ正しいと
ははは
「ほぼ」正しいんだろ?
それを鵜呑みにしちゃいけないよ。
228 :
日本@名無史さん:04/05/04 00:37
そうだよな
そもそも系図纂要っていつできたか知らないんじゃないの?
229 :
日本@名無史さん:04/05/04 00:41
どうして煽り的な議論に持っていこうとする御仁がいるのかな?
231 :
日本@名無史さん:04/05/04 01:30
>>176-178 霞会館発行の系図を見てきた。
酒井忠博伯爵というのは、若狭小浜藩主家だろう。
232 :
日本@名無史さん:04/05/04 01:58
事実のみ記せ。お互いの文句の言い合いは不要。
235 :
日本@名無史さん:04/05/04 11:07
>225
>
>>224 >>(ソースは忘れたのですが江戸初期に家系の編纂かなにかで尋ねれられた際
>> そういう答え方をしたという話を聞いたことがあります)
>
>寛永譜の編纂のときですか?
私は素人なんで詳細までは・・・。
たしか地元紙(熊本です)に連載されていた細川家に関する記事か、書店に売ってるような
本で見たと思います。
忠興の回答のニュアンスは今の(江戸時代の)細川家は自分が初代であって、藤孝までの家とは
関係ないというような感じだったかなー。
家柄や親の七光りではなく、自分の才覚で今の領地を得たと強調した言葉と私は受け取ったんですが。
236 :
日本@名無史さん:04/05/04 14:04
忠興は家督を継いだとき長岡姓だったから、
そういう意味ではそれ以前の細川とは断絶しているともいえるけど。
237 :
日本@名無史さん:04/05/04 14:53
>>234 自分の矮小な知識のみが事実だと信じてるような輩もいるからなぁ(w
238 :
日本@名無史さん:04/05/04 19:48
239 :
日本@名無史さん:04/05/04 19:59
240 :
日本@名無史さん:04/05/04 21:30
>>239 まいりました! 無条件降伏します!
なので、君のその教養あふれる博学ぶりを見せてくれ。
241 :
日本@名無史さん:04/05/04 21:43
242 :
日本@名無史さん:04/05/04 22:12
>>239 結局、反論できるだけの知識がないのかな?
243 :
日本@名無史さん:04/05/04 22:46
反論できないと反復コピペか
哀れだな。
244 :
日本@名無史さん:04/05/04 22:58
>>243 結局、反論できるだけの知識がないのかな?
245 :
日本@名無史さん:04/05/04 23:04
>>243 系図纂要がいつできたの?
だけで反論になっていることがわからないみたいだね。
246 :
日本@名無史さん:04/05/04 23:41
幕末に作られた系図を基に語られてもね
247 :
日本@名無史さん:04/05/04 23:59
あの〜。バトルはそのくらいにして、細川頼元(頼之の弟)について
詳しい人いない?1389年の5月に伊予に2万の軍勢を率いて侵攻した
事実があるかどうか、誰か知らない?
もしくは、この時期に京都にいたとかっていう証拠(アリバイ)でも
いいんだけど。
248 :
日本@名無史さん:04/05/05 00:03
ていうか、江戸時代の幕府や細川家がどう考えていたかってことだろ。
だったら幕末の系図で十分だろ。
実際のところ、奥州家の後継ぎっていうのは名義上、形式上にすぎないわけだし、
藤孝が近世大名としての細川家の初代ってのは間違いないわけだから。
焦点は細川家が「系図上」、自分の家系をどう位置づけてるかってことだろ。
249 :
日本@名無史さん:04/05/05 01:26
250 :
日本@名無史さん:04/05/05 01:28
>>231 興味本位のレスだったのに、わざわざありがとう。
252 :
日本@名無史さん:04/05/08 13:03
>>248 >江戸時代の幕府や細川家がどう考えていたかってことだろ。
>だったら幕末の系図で十分だろ。
間違い
少なくとも「幕末≠江戸時代」だからそれだけでも間違い
253 :
日本@名無史さん:04/05/08 13:27
幕末は江戸幕府も肥後細川藩も健在で、寛政譜の系図が公式の家系になってたから、
幕末の段階で細川家が主張していた家系なら、それで問題なし。
254 :
日本@名無史さん:04/05/09 00:20
>>251 ついでに言うと、
出羽庄内藩主家(左衛門尉家)は、家康に仕えた酒井忠次・家次父子の子孫。
播磨姫路藩主家(雅楽頭家)は、家康に仕えた酒井正親・重忠父子の子孫。
この両酒井家は、いずれも松平親氏(三河松平氏初代)の庶長子・広親を祖とし、広親の子供の代で2家に別れたとされる。
若狭小浜藩主家(讃岐守家)は、重忠の次子・忠勝が徳川家光に重用されて、老中まで上りつめ、新たに家を興したもの。
255 :
日本@名無史さん:04/05/09 03:44
256 :
日本@名無史さん:04/05/09 15:52
>>255 十分、意味はとおる。あんたの2行の方が意味不明。
そもそも江戸大名の系図は、織豊時代まではウソやデッチアゲだらけの内容だが、
幕府に正式に届け出て認められた以上、公式にはそれが通用しているわけだ。
忠興が実際には藤孝の後継ぎでも、幕府に提出した系図に輝経の養子と書いてあれば、
形式上は肥後細川家は奥州家の後継者ってことになる。
そもそも、ここでは現実の肥後細川家の流れではなく系図上の流れを語ってるわけで、
幕府が編纂した寛政重修諸家譜の内容が公式の家系であることに間違いない。
257 :
日本@名無史さん:04/05/09 16:00
>>248>>253は、江戸幕府の体制が続いている間は、幕府が公的に編纂した
寛政譜の内容が正式な家系として通用しているという意味だろう。
258 :
日本@名無史さん:04/05/10 02:50
>>256 もしかして、ここで粘着している奴は、
「熊本藩細川家は系図上奥州家末裔を称した」
という部分を、
「熊本藩細川家は忠興が輝経の実子であると称した」
という意味に誤解していたってことなの?
確かにそれじゃあ議論が噛み合わないわけだ。藁
素朴な疑問だが、系図上とはいえ、忠興はなんで奥州家の養子にされたんだろう?
261 :
日本@名無史さん:04/05/16 04:01
>>256 >幕府に正式に届け出て認められた以上、公式にはそれが通用しているわけだ。
事実かどうかとは別。
公式にどうだったか何て言うくだらない話はしていない。
また現在も江戸時代も、熊本の細川家は奥州家の末裔などと称していない。
>形式上は肥後細川家は奥州家の後継者ってことになる。
>そもそも、ここでは現実の肥後細川家の流れではなく系図上の流れを語ってるわけで、
そんな前提してないだろ。
いきなり自分勝手な展開はやめてよ、本当に。
それに養子だからって家督を継いだということにはならない。
>幕府が編纂した寛政重修諸家譜の内容が公式の家系であることに間違いない。
系図マニアの論理はやめてね。
『寛政譜』きちんと読んでね。
忠興が輝経の家督なんて一言も書いてないよ。
263 :
日本@名無史さん:04/05/16 05:52
ところで代代の熊本細川藩主は、兵庫県赤穂市坂越の秦河勝を祭る大避神社に
参勤交代のたびに参るの?実は秦氏ってこと?
264 :
日本@名無史さん:04/05/18 01:54
>>260 私も同じ疑問を持ってて三戦板で質問したけど答えはなかったなー。
忠興・興元と年の近い(母親も同じ)子供がいて、年長の子を養子に(多分名目とはいえ)
出したのは何故でしょうね。
陸奥守家が本家という立場ならならありそうな話なんですが違いますしね。
(和泉守護家と陸奥守家って同格かちょっと和泉守護家が上くらい?)
この養子縁組は足利義輝の命という話はネットで見たことがあるけど
義輝死んだときは忠興はまだ赤子なんだけど。
養父も名前(輝経)から考えてそれほど年寄りじゃないはずだし。
265 :
日本@名無史さん:04/05/18 04:36
最近偶々発見したのだが、奥州家と和泉守護との関係については、岡田謙一氏の
「室町後期の和泉下守護細川民部大輔基経」(『日本歴史』566号)1995年
の中になかなか興味深い記述があった。
この論文における忠興の奥州家相続についての要旨を以下に書く。
室町期の奥州家は、和泉下守護家と養子のやりとりをするなど、密接な関わりがあった。
そこで、奥州家がすでに断絶している忠興の時代に、忠興が奥州家の名跡を継ぐということは、下守護家の名跡を継ぐことにもなる。
つまり、この養子縁組によって忠興は、血縁的に繋がる和泉上守護家だけでなく、和泉下守護家の後継者ということにもなった。
よって、忠興が奥州家の輝経の養子となることは、和泉両守護家の統合を意味するものであった。
詳しくは上記論文を見てくれ。
266 :
日本@名無史さん:04/05/18 04:38
>>265訂正
× そこで、奥州家がすでに断絶している忠興の時代に、
○ そこで、和泉下守護家がすでに断絶している忠興の時代に、
267 :
日本@名無史さん:04/05/18 04:41
>>264 おそらく「輝」経は、「藤」孝よりも年下でしょうな。
足利義輝の初名が義藤であることを考えれば。
268 :
日本@名無史さん:04/05/22 03:13
てか藤孝に繋がる系統が和泉の一国守護だと思っている人も多いね。
269 :
日本@名無史さん:04/05/23 01:38
>>261みたいなアマチュア郷土史家みたいな奴が一番イタい。
専門的な教育を受けたわけでもないのに専門家づらするこういうやつが藤村新一みたいになるんだよな。
270 :
日本@名無史さん:04/05/23 02:26
輝経って関ヶ原の時に死んでるよね。
本当の養父だったならもっと優遇されてすはず。
271 :
日本@名無史さん:04/05/23 03:47
>>270には、歴史を論じる前に、まず日本語を勉強して欲しい。
272 :
日本@名無史さん:04/05/23 04:36
273 :
日本@名無史さん:04/05/23 08:15
274 :
日本@名無史さん:04/05/24 00:01
>>270の日本語がおかしいって教えてやってるんだから、素直に見直せばいいのに。w
275 :
日本@名無史さん:04/05/25 04:07
毛利家の客分になった備中守護家ってどうよ?
276 :
日本@名無史さん:04/05/26 23:38
話題が続かないね。
277 :
日本@名無史さん:04/05/27 00:26
じゃ毛利家の客分になった備中守護家ってどうよ?
278 :
日本@名無史さん:04/05/27 01:02
細川家党首って九州で陶芸家してるでしょ?なんて名前だっけ?
279 :
日本@名無史さん:04/05/27 01:09
舘林源右衛門
280 :
日本@名無史さん:04/05/29 10:13
281 :
日本@名無史さん:04/05/29 20:51
えらい先生 細川重男(釈由美子が好き)
282 :
日本@名無史さん:04/05/30 02:40
>>282 たしか、そうだよ。
この人、日本史の大学教授でイチバン優秀なのかな
284 :
日本@名無史さん:04/05/30 17:39
age
285 :
福島左衛門大夫正則:04/05/30 19:52
島原の乱のとき、細川家は幕府の命令で25000人の軍勢を差し向けているが、
細川の肥後54万石の高からすると15000人が限度だったと思うのですが、
細川は本当に25000人も派遣したんですか?
それより本屋にいけ。殿が本を上梓されたぞ。
足利先生を人生の師と仰いでいた。
ほかにも利休と三斎とのはなし、武蔵、大石倉之助(討ち入りの日は雪ではなかった)といったエピソード満載。
防空壕で父に漢文の素読をしていた。
287 :
日本@名無史さん:04/05/31 08:26
>>283 細川重男博士の名講義がきけるよ!!
立正大学・鎌倉時代史掲示板
288 :
日本@名無史さん:04/06/06 10:03
289 :
日本@名無史さん:04/06/12 15:04
細川定禅・皇海兄弟ネタは出てないのね(´・ω・`)ショボーン
290 :
日本@名無史さん:04/06/13 18:43
>>289 ネタって何?
ところで、定禅と皇海の兄弟って実名不明なの?
291 :
日本@名無史さん:04/06/29 06:06
ガラシャかわいいよガラシャ
292 :
日本@名無史さん:04/06/29 11:11
293 :
日本@名無史さん:04/06/29 12:06
>>53 なるほど。
当時の公卿(摂関家)たちには、人事権なんかを「奪われる」などという
認識ってなかったんでしょうか?
294 :
日本@名無史さん:04/06/29 12:09
295 :
日本@名無史さん:04/06/29 13:39
「京兆・典厩」論争って終わったのかなあ?
大学入試程度の知識でとまった者にとって、すごく新鮮な響きあるんだよな。
この言い方って、学者さんたちも使うの?
現在の細川一族の方も、当該系譜を指して「京兆家」なんて読んだりするのか?
297 :
日本@名無史さん:04/06/29 20:28
>>296 このスレで昔やってた論争。
「京兆」「典厩」以外に「武衛」論争もやってた。
>>192-参照
298 :
日本@名無史さん:04/06/29 21:13
>>297 うーん・・・結局のところ論点は何だったのでしょう?
煽りみたいのが混じっていて分かりにくい
300 :
日本@名無史さん:04/06/29 23:16
>>192-211は、左右云々にずっと拘っている奴と、テクニカルタームか否かを問題にしたい奴がいて、全然話が噛み合っていなかった。
そして、
>>212以降は、江戸時代の熊本藩主家が“系図上”(実際の血縁ではなく)、和泉上守護家と奥州家のどちらの子孫かを延々議論していた。