官名ってどうやって決まるの?

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1日本@名無史さん
安房守、伊豆守、主計守、等々どっから決まるの?
2日本@名無史さん:03/09/24 23:40
2げっと
3ぽちくん:03/09/24 23:48
空きができたら適当な人がそこにおさまるんだろ
4日本@名無史さん:03/09/24 23:52
3が答えを回答したので
終了。
5日本@名無史さん:03/09/24 23:55
何人もいるんじゃないのか
6日本@名無史さん:03/09/25 00:02
時代によって違いがありすぎるからなんとも言えないな
公家と武家とでも違うし。
7日本@名無史さん:03/09/25 08:42
じゃ、武家に限って。江戸時代以前で、教えて。
8日本@名無史さん:03/09/25 16:06
>>1 室町時代
左馬頭は、足利氏の家督相続者が初めて任官する際に用いられるものとして
認識されており、そのために他家の大名が望むことも、叙任されることもなかった。
また右京大夫は細川氏の帯びる官で、他の者には決して許されなかった。
細川氏こそが足利将軍家を推戴する実質上の権力者であったという事実が、
官位制度にも反映していたということであろう。
それ以外の官は、金を持参してくる大名小名に見境なく授与されており、
まさに朝廷が行う一大セールのようでもある。

http://frontierside.cool.ne.jp/research/class.shtml
9日本@名無史さん:03/09/25 21:15
成る程、室町時代の状況はわかり申した。
んでは、戦国時代は?同じような状況なの?
10日本@名無史さん:03/09/25 22:09
律令官制・官途系の良スレになってほしいが
ならないほうに5カノッサ
11日本@名無史さん:03/09/25 23:39
>>10
すいません、律令制における官位制度にはあまり興味はないのですよ。
しかし、そっち方面にもって行くのもあなた次第では?

私自身、至極単純な疑問からスレ立て致しましたが流れ次第では勉強してみたいだす。
12日本@名無史さん:03/09/26 02:37
1はスレ建てたんだから責任もって勉強してスレを引っ張れよ。
無責任だぞ。とりあえずググれば簡単なことはわかる。

ちなみに戦国時代は・・・
勝手に名乗っている奴が殆ど。
武田信玄など有力大名とその家臣の場合は将軍から正式に拝領していたが、
その場合は先祖になじみのある官位を受けることが多かった。
13日本@名無史さん:03/09/26 16:45
ふーん、戦国大名の官位ってなんか役得あったの?
14日本@名無史さん:03/09/26 16:54
戦国時代の官位は朝廷に献金をして買うものだが、
大名にとっては完全な名誉称号で1文の得にもならない
大名のステータスシンボルとしての価値だけ。
ちなみに銭30貫文が相場。
15日本@名無史さん:03/09/26 19:46
戦国武将で最期まで官位を辞退したのは
関ヶ原の前哨戦であった伏見城篭城で有名な鳥居元忠(家康家臣)。
秀吉が官位を与えようとしたが、「イラネ」と断った。
このように中には官位など欲しがらなかった武将も稀にいた。
16日本@名無史さん:03/09/26 21:13
>>15
丹羽長秀もな
17日本@名無史さん:03/09/26 21:28
信長の場合はどうよ?
18日本@名無史さん:03/09/26 21:54
>>17
上総介→・・・・→右大臣

最初は従五位下上総介(上総国の次官)。
上総、上野、常陸は親王が守(長官)に任官される為、介に任官。
実質、上総守に任官されたようなもの。
織田上総介信長。

途中は分らん。父親(信秀)は弾正忠だったから信長も任官されているかも。
でも、弾正忠は六位の官だから違うか。

最終的には正二位右大臣。死んだ時は前右大臣。
朝廷の下には付かない、との意味合いを込めて右大臣を辞任している。
19日本@名無史さん:03/09/26 21:59
上総介も弾正忠も自称だろ?
20日本@名無史さん:03/09/26 22:27
>>19
そうだった。上総介は自称だ。しかも最初は「上総守」と名乗って
>>17の理由で「上総介」に改めている。
駿河より東の国名を名乗ることで今川義元を牽制する目的があった
という説もある。

本来信長の系列は弾正忠→備後守を名乗っていた家系だそうだ。
そんな訳で弾正忠も名乗っていた。

その後は参議→権大納言→右大将→内大臣→正2位右大臣→太政大臣(追贈)
21日本@名無史さん:03/09/26 22:29
小栗が豊後守から上野介になってるように
親王任国の介は他の国の守より格上と見られていた
22日本@名無史さん:03/09/26 23:22
>>21
「他の国の守より」では説明不足
豊後は上国だから国守は従五位下相当。
上野は大国だからそもそも国のランク自体が上。
それに加えて,親王任国なので「介」が「守」に当たり,従五位上相当の官。
23日本@名無史さん:03/09/26 23:26
>>21
幕末の幕府内だからさ。
24日本@名無史さん:03/09/26 23:52
官途名が名字になっちゃった人と言えば

小弐氏,常陸大掾氏, ほかに思いつく??
25日本@名無史さん:03/09/27 01:50
朝廷の官位じゃないけど、武家の役職としては留守氏かな。
26日本@名無史さん:03/09/27 01:51
千葉介とか上総介は自称?
それとも正式な官途?
27日本@名無史さん:03/09/27 02:08
すいません、昔から疑問だったんで詳しい人いたら教えてほしいんですけど、
侍が勝手に官名なのる場合、どうやって決めてるの?
単純に高位のを選んだりカッコいい官名とったりしてたら、
だいたい皆が同じような名前になっちゃうよね?
28日本@名無史さん:03/09/27 03:55
>27
勝手といっても基準があります。
鎌倉武士が多く任官した衛門尉や兵衛尉クラスとか。
せいぜい五位クラスとか。
先祖にいわれがあるとか。
現代でもそうでしょ?
29日本@名無史さん:03/09/27 04:07
>>27
時代によって色々だからさ。
中央の力が弱い時代は勝手に名乗る輩が出てくる。
30日本@名無史さん:03/09/27 05:08
平安時代は推薦だったっけ?
31日本@名無史さん:03/09/27 12:05
>>30
そういうレベルなら初心者スレへいこう。

ずっと推薦ですが。
32日本@名無史さん:03/09/27 12:36
>>26
千葉氏って確かに疑問だった。
千葉なんて国はないが,介は国司の官だし。
ググってみると

>千葉介常重
>千葉氏初代。父は平常兼。母は常陸大掾家の一族・鳥海三郎忠衡の女。
>官位は正六位上・下総権介、千葉庄検非違使所。通称は千葉介。

下総国千葉郡にあった荘園を鳥羽院に寄進して荘官になったらしいのだが,
「千葉庄の領主であり,かつ当国の権介である」の意なのかな??

次第に介が省略されて,千葉氏となっていくのだが。
3332:03/09/27 12:54
あー変な文章になった。

下総国千葉郡にあった土地を鳥羽院に寄進して,その荘園の荘官になった

と書くべきだった。
34日本@名無史さん:03/09/27 13:24
大内介
35日本@名無史さん:03/09/27 16:36
>>32
もともとは千葉の土着民の親分。
朝廷に縄張りを寄進することによって、千葉庄の領主として
正式に認められた。
朝廷は寄進の見返りに正六位上・下総権介の官位を授ける。
権介は、国主(守)などが不在の場合に政務を行う官だから
(権守も同様だが下総では守は五位の官)、土着の千葉常重に
一帯の統治を任せた形となったわけだろう。

千葉介は「介(次官)に任官された千葉庄の領主」くらいの意味の通称名(でいい筈)。
ちょっと時代背景とか官位の意味合いが違うけど福島正則を清洲侍従と
言ったり、徳川家康を江戸内府と言うのに似ている。
福島→尾張清洲城主で官位が侍従、家康→江戸城主で内大臣
36日本@名無史さん:03/09/27 16:47
>>35
「土着」と「留住」の違いってわかってる?

「千葉庄の領主」とか「朝廷に寄進」とか
「権守」・「権介」・「大介」を混同してたりとか、

こんだけつっこみどころだらけのレスも珍しいな。
37日本@名無史さん:03/09/27 16:48
琉球守は勝手に作っちゃったんだっけ
3835:03/09/27 16:49
>>32
「千葉」の語源は諸説あるようだが、どうもアイヌ語から
来ているようだ。

国名は上総、下総、安房が千葉県域に相当するが
「千葉」はそれより古い起源を持つみたい。
常重が千葉氏を称したのも、相当古くからの土着民である事を
意識したのかもしれない。
39日本@名無史さん:03/09/27 17:48
>>36
>官位が侍従
侍従は官職だから、これもおかしいですね。
ちなみに領地+官職という呼び方は
四位以上の者に対してしか行わないので
千葉氏を説明するときに、引き合いに出すのはおかしい。
40日本@名無史さん:03/09/27 19:11
  ,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,         
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    !||||!       
41日本@名無史さん:03/09/27 20:43
>1の「主計守」に礼儀として突っ込んでおきます
42日本@名無史さん:03/09/27 22:32
さあ>>1 正解は?

1 主計卿
2 主計頭
3 主計督
4 主計帥
5 主計首
43日本@名無史さん:03/09/27 22:51
失敬、主計頭が正解ですね。
44日本@名無史さん:03/09/27 23:02
しかし、読みは同じ「かみ」ですよね。
どう違うの?
45日本@名無史さん:03/09/27 23:34
財務省や旧大蔵省にある、主計局や主税局は官名からきているの?
46日本@名無史さん:03/09/28 01:17
>>15
丹羽長秀は越前守名乗ってるよ。
47日本@名無史さん:03/09/28 03:00
>>45
元大蔵事務次官が若手のころ余りの忙しさに
生まれてきた子供の名前に主計(かずえ)と
付けそうになったとかいうエピソードを
どこかの本で読んだような記憶が。
48日本@名無史さん:03/09/28 10:56
清正は何で主計頭なんだろう?
49日本@名無史さん:03/09/28 10:58
>>48
とくに深い意味はない
50日本@名無史さん:03/09/28 11:15
吹石主計は?
51日本@名無史さん:03/09/28 14:23
>50
ははは
おもしろいね

満足?
52日本@名無史さん:03/09/28 16:07
中村主水も自称ですか?
53日本@名無史さん:03/09/28 18:46
>>52
自称。
つーかそもそも官職じゃないじゃん。
54日本@名無史さん:03/09/28 22:59
> つーかそもそも官職じゃないじゃん。

職ではないのは確かだが
官ではないとはどういうことだろう。
55日本@名無史さん:03/09/28 23:04
主水正なら官名、主水ならただの通称。
56日本@名無史さん:03/09/28 23:05
早乙女主水介はどっちなんだろう
57日本@名無史さん:03/09/28 23:08
介は国司の次官なので、中央の官職名には使わない。
だから、単なる通称でしょう。
58日本@名無史さん:03/09/28 23:10
主水寮の次官なら「主水佑」と書くはずだし
従五位下以上の位階を受けていないと官途名は名乗れないが
彼は無官のはず。
59日本@名無史さん:03/09/28 23:11
>>58の訂正
主水寮→主水司
60日本@名無史さん:03/09/28 23:17
「司」には次官(スケ)はないよ。
正(カミ)の次に 佑(ジョウ)で令史(サカン)
61日本@名無史さん:03/09/28 23:18
言っておくけど
早乙女某は実在しないからね。
中村某も。
ナンセンス。
62日本@名無史さん:03/09/28 23:19
>60
「佑」は「すけ」です。
63日本@名無史さん:03/09/28 23:28
あれ?
咄嗟に「佑・四等官」でググってみたけど
とりあえずヒットした3サイトとも
「佑」はジョウの欄にあるが。

ttp://www2.ocn.ne.jp/~kore32/kansyo1.html
ttp://www005.upp.so-net.ne.jp/fudenoato/kansyoku.htm
ttp://www.geocities.co.jp/HeartLand-Hanamizuki/5529/shiryo/b-word.html


64日本@名無史さん:03/09/28 23:51
つーか早乙女さん無役の寄合でしょ・・。
官位自体貰えないんじゃ。

先祖代々の役とか官があれば名乗れるけど・・。
65日本@名無史さん:03/09/29 10:47
冨樫介とか狩野介とか
66日本@名無史さん:03/09/29 22:17
近世においては、越前守などの官途名は通称に過ぎません。
位階を与えられているかどうかがポイントです。
67日本@名無史さん:03/09/29 22:30
どなたか「佑」について詳細解説を希望
68日本@名無史さん:03/09/29 22:43
佑は三等官ですね。
近世においては、左衛門尉、左近将監、弾正忠など三等官の官途名を名乗ることもありますが
主水佑など司の三等官を見た記憶がないです。

ちなみに柳川藩立花家は代々左近将監を名乗りますが
四品、侍従に任ぜられる、家格の高い家柄です。
6960=63=67:03/09/29 22:52
ありがとう。
62があまり堂々としていたのでグラついた。
70日本@名無史さん:03/09/29 22:56
ほう、家柄で決まっちゃうの?
71日本@名無史さん:03/09/29 22:59
>>70
お書きになっていることの意味がよくわかりませんが。
ある家がある官途名(先祖ゆかりの場合が多い)を代々使うのはよくあることです。
72日本@名無史さん:03/09/29 23:00
江戸時代は家格がはっきりしてる。
当主は代々
はじめがなにで 極位がなにって決まってるでしょ。
73日本@名無史さん:03/09/29 23:07
位階がポイントと書いた私の書き方も正確ではないですが
>極位
これも正確ではないですね。
近世武家官位の序列は
太政大臣−左大臣−右大臣−内大臣−大納言−中納言−宰相(参議)−中将−少将−侍従−四品−諸大夫(従五位下)
となっており、位階と官職が混在しているところに特色があります。
74日本@名無史さん:03/09/29 23:10
付け加えておきますと
多くの大名にとっては、諸大夫を仰せ付けられる
すなわち従五位下の位階を授けられることが重要であって
官名は通称に過ぎないということが
>>66で言いたかったことです。
75日本@名無史さん:03/09/29 23:10
極官と書くべきだったか。
76日本@名無史さん:03/09/30 21:51
大名旗本 代々当主官途名シリーズ1

初代 井伊直政 従四位下 兵部大輔
二代 井伊直勝 従四位下 兵部大輔
三代 井伊直孝 正四位上 左中将
四代 井伊直澄 従四位下 左少将 掃部頭
五代 井伊直興=直治=直該 正四位上 掃部頭 左中将
六代 井伊直通 従四位下 掃部頭 侍従
七代 井伊直恒 従四位下 掃部頭 侍従
八代(再) 井伊直興 正四位上 掃部頭 左中将
九代 井伊直惟 従四位下 左少将 掃部頭
十代 井伊直定 従五位下 掃部頭
十一代 井伊直※(示篇に是) 従五位下 掃部頭
十二代(再) 井伊直定 従五位下 掃部頭
十三代 井伊直幸 従四位下 掃部頭 侍従
十四代 井伊直中 従四位下 掃部頭 侍従
十五代 井伊直亮 従五位下 掃部頭
十六代 井伊直弼 従四位下 掃部頭 侍従
十七代 井伊直憲 従四位上 左近衛権中将
77日本@名無史さん:03/09/30 22:18
>>73に書いたように四品は侍従のひとつ下の序列になりますので
侍従以上に任ぜられた者については、位階を書く必要はないと思います。
なお『諸侯年表』によると
直通・直定は左少将、直惟・直幸・直中・直亮は左中将、直弼は権中将に任ぜられています。
また直憲も掃部頭を称しています。
78日本@名無史さん:03/09/30 22:43
よく知らずにコピペしてきてるだけです。
すいません。
79日本@名無史さん:03/10/01 07:26
>>76
シリーズ化して!
80日本@名無史さん:03/10/01 19:14
大名旗本 代々当主官途名シリーズ2

常陸笠間藩
初代 浅野長重 従五位下 采女正
二代 浅野長直 従五位下 内匠頭

播磨赤穂藩
初代 浅野長直 従五位下 内匠頭
二代 浅野長友 従五位下 采女正
三代 浅野長矩 従五位下 内匠頭


続いてたら采女正・内匠頭交互になってたかなぁ
81日本@名無史さん:03/10/02 16:09
内匠頭って従五位上じゃなかった?
82日本@名無史さん:03/10/02 19:19
>>81
近世武家官位は律令制下の官位相当とは無関係です。
その序列は>>73に書いた通りであり
官名は通称に過ぎません。
83日本@名無史さん:03/10/03 14:00
質問
> 官名は通称

そこは理解しました。
ところでその官名は,一応 申請→認可 の形をとるのですか。

たとえば
「うちは代々○○なので,
このたびの新当主も○○の名乗りをしたい」
という申請をするのですか。
84日本@名無史さん:03/10/03 14:07
大名旗本 代々当主官途名シリーズ3

讃岐高松藩

初代 松平頼重 正三位 讃岐守 左近衛権少将
二代 松平頼常 従四位下 讃岐守 左近衛権少将
三代 松平頼豊 従四位下 讃岐守 左近衛権中将
四代 松平頼桓 従四位下 讃岐守 侍従
五代 松平頼恭 正三位 讃岐守 左近衛権中将
六代 松平頼真 従四位下 讃岐守 左近衛権中将
七代 松平頼起 従四位下 讃岐守 左近衛権中将
八代 松平頼儀 従四位上 讃岐守 左近衛権中将
九代 松平頼恕 従三位 讃岐守 左近衛権中将
十代 松平頼胤 正四位下 讃岐守 左近衛権中将
十一代 松平頼聡 従二位 讃岐守


歴代もれなく全員が封地である讃岐守の名乗り
「もれなく全員」の家というのは案外珍しい
85日本@名無史さん:03/10/03 19:52
>>83
このあたりについては藤田覚氏の論文があったと思うのですが
いま手元にありませんので、少し時間を下さい。
86日本@名無史さん:03/10/03 20:16
讃岐守 安芸守
87日本@名無史さん:03/10/03 20:21
従一位 大隅守
88日本@名無史さん:03/10/05 15:43
保守
89日本@名無史さ:03/10/05 21:10
漢字ニ文字にしないと。
 保守→和保守
90日本@名無史さん:03/10/05 22:00
どうやら保守守に任じられたようですが、
正確を期すなら「保守頭」では?
91日本@名無史さん:03/10/05 22:04
大名旗本 代々当主官途名シリーズ4

三河 西大平藩

初代 大岡忠相 従五位下 越前守
二代 大岡忠宜 従五位下 越前守
三代 大岡忠恒 従五位下 越前守
四代 大岡忠與 従五位下 越前守
五代 大岡忠移 従五位下 越前守
六代 大岡忠愛 従五位下 越前守
七代 大岡忠敬 従五位下 越前守

七代全員大岡越前
(旗本の系図ってWEB上に見つからないもんだね。忠相以前がわからん)

92日本@名無史さん:03/10/06 20:29
>>83
藤田氏の論文を見てみました。
従五位下などの位階を授けられると
授けられた側は幕府に「○○守と名乗りたい」という改名の願書を老中に提出し
老中から許可が出されるという手順になっています。
93日本@名無史さん:03/10/06 23:18
その○○守って封地と無関係でも良いのですよね?
なんでもあり何ですか?
94日本@名無史さん:03/10/06 23:22
>>93
むしろ封地と関係あったらマズイ。
幕府から認めてもらったんじゃなくて朝廷から認められた領地のようになってしまい気まずくなってしまうので
封地と関係ある官位は遠慮するのが常識だった。
95日本@名無史さん:03/10/06 23:28
>>94
近世武家官位制研究の第一人者である堀新氏は
領国支配の正当性の根拠とする官位の在地効果説を否定している。
96日本@名無史さん:03/10/06 23:30
92へのレスで93の回答にもなっちゃいますが,

>>92
なるほど一応許認可性なんですね。
それで名乗っちゃダメな国守なんかを申請すると
(まあ普通申請前に調べるとか,既に常識なんでしょうが)
上から不許可って言われるんですね。

名乗っちゃダメなのは例えば
武蔵守=将軍居住地だから

国持ち大名家の国はその大名に独占権がある。
薩摩守・大隈守=島津家以外はダメ
土佐守=山内家以外はダメ

大老になれる家も独占
雅楽頭=酒井家
掃部頭=井伊家

御三家だと
右衛門督=尾張家
常陸介=紀伊家
97日本@名無史さん:03/10/06 23:30
効果のあるなしと関係なく幕府に対して遠慮するってことだよ。
98日本@名無史さん:03/10/06 23:33
いや別に遠慮してないと思う。
加賀前田家の嫡男は加賀守が通例だし
島津は薩摩守・大隈守を名乗る当主ほとんどだし。
99日本@名無史さん:03/10/06 23:37
大名旗本 代々当主官途名シリーズ5

安芸 広島藩

初代 浅野長晟 従四位下 但馬守 侍従
二代 浅野光晟 従四位下 安芸守 左少将
三代 浅野綱晟 従四位下 弾正大弼 侍従
四代 浅野綱長 従四位下 安芸守 侍従
五代 浅野吉長 従四位下 安芸守 左少将
六代 浅野宗恒 従四位下 安芸守 左少将
七代 浅野重晟 従四位下 安芸守 左少将
八代 浅野斉賢 従四位下 安芸守 侍従
九代 浅野斉粛 従四位下 安芸守 少将
十代 浅野慶熾 従四位下 安芸守 侍従
十一代 浅野長訓 従四位下 安芸守 侍従
十二代 浅野長勲 従四位下 安芸守 左近衛少将,正二位 権中納言


別に封地だからと遠慮しない例。
むしろこういうほうが普通。
100日本@名無史さん:03/10/06 23:40
>>97
すでに官位を授けられている者が別の受領名に改名する場合
全く朝廷は関与しないことを藤田覚氏が明らかにしている。
したがって位階はともかくとして
受領名を朝廷から与えられたという認識を
大名あるいは幕府が持っていたかどうかは疑問だ。
だから
>朝廷から認められた領地のようになってしまい気まずくなってしまう
こういうのはあり得ないことだと思う。
101日本@名無史さん:03/10/06 23:40
いかん。
>こういうほうが普通
は 言い過ぎた。

「決して珍しくない」くらいに訂正
102日本@名無史さん:03/10/06 23:43
福岡藩主の黒田家は「筑前守」が意外と少ない。
公的には松平姓なので、加賀前田家の嫡子の「松平筑前守」とかぶるからか?
10396=98=99=101:03/10/06 23:45
大名旗本 代々当主官途名シリーズ6

阿波 徳島藩

   蜂須賀家政 従五位下 阿波守
初代 蜂須賀至鎮 従四位下 阿波守
二代 蜂須賀忠英 従四位下 阿波守
三代 蜂須賀光隆 従四位下 阿波守 侍従
四代 蜂須賀綱通 従四位下 阿波守 侍従
五代 蜂須賀綱矩 従四位下 淡路守 侍従
六代 蜂須賀宗員 従四位下 淡路守 侍従
七代 蜂須賀宗英 従四位下 阿波守 侍従
八代 蜂須賀宗鎮 従四位下 阿波守 侍従
九代 蜂須賀至央 不詳
十代 蜂須賀重喜 従四位下 阿波守 侍従
十一代 蜂須賀治昭 従四位下 阿波守 侍従
十二代 蜂須賀斉昌 従四位下 阿波守 侍従
十三代 蜂須賀斉裕 従四位上 阿波守 参議
十四代 蜂須賀茂韶 従四位上 阿波守 侍従

もう一例
 
なんか同時書き込みしてどれが誰のレスだか
104うろ覚え:03/10/07 00:22
>>24
越後の城氏と鎌倉御家人の城(安達)氏

近世大名と官位については詳しいサイトがあるよ。
受領に関しては、前田家の場合、加賀守と肥後守・筑前守を名乗り
筑前守を名乗る優先順位は、筑前一国の大名黒田家よりも上。
諸侯の進める位階、官職をずら〜と書いてあるとこ。
105日本@名無史さん:03/10/07 00:28
ちなみにソコに拠ると極官の序列は
将軍家>尾張・紀伊>水戸>前田>御三卿>尾張・紀伊の嫡子・喜連川>会津・島津・伊達>以下略
106日本@名無史さん:03/10/07 00:37
>>105
喜連川は無位、官名は自称のはず。
107日本@名無史さん:03/10/07 00:46
ソコの書いてあったの不等号にしただけだから、おれにはわかんないです。
108日本@名無史さん:03/10/07 16:31
>>104

越後の城氏って、どこの城?
奈良時代の城かな。秋田城介みたいな。
109日本@名無史さん:03/10/07 17:31
>>108
まさしくそのとおり。
「城」は秋田城介の略。
戦国時代では織田信忠が秋田城介だね。
110日本@名無史さん:03/10/07 20:28
大名旗本 代々当主官途名シリーズ7

下野 喜連川藩

初代 喜連川国朝 右兵衛督
二代 喜連川頼氏 左馬頭
三代 喜連川尊信 右兵衛督
四代 喜連川昭氏 左兵衛督
五代 喜連川氏春 右兵衛督
六代 喜連川茂氏 左兵衛督
七代 喜連川氏連 右兵衛督
八代 喜連川恵氏 左兵衛督
九代 喜連川彭氏 左兵衛督
十代 喜連川煕氏 左馬頭
十一代 喜連川宜氏 左兵衛督
十二代 喜連川縄氏 左馬頭
十三代 喜連川聡氏 左馬頭


実高5千石で10万石格

>>106
江戸時代の大名では「自称」はありえないのでは。
92の内容からすれば,幕府公認の通称ということではないかと。
111日本@名無史さん:03/10/07 20:38
>>110
徳川実紀には喜連川氏に対する官位叙任の記事は一切出てきません。
したがって幕府が改名を許可したものではなく、自称なのです。
112日本@名無史さん:03/10/07 20:41
高家旗本とかってみんなそんな感じなの?
113日本@名無史さん:03/10/07 20:45
高家の官位はホンモノだろ?いちおう朝廷相手の仕事なんだから。
114日本@名無史さん:03/10/07 20:51
喜連川氏は、朝廷相手の仕事をしているわけではありません。
武鑑を見ると正徳期までは無位の高家として扱われており
享保期以降は10万石格の大名として扱われていますが、無位です。


115日本@名無史さん:03/10/07 20:54
なるほど。
無位の高家もあったのね・・・
116日本@名無史さん:03/10/07 20:56
(文政5(1822)年文政武鑑より)というのが検索ヒットした

高家
大沢右京大夫基之 従四位上侍従(高家肝煎) 3550石
戸田備後守氏倚 従四位上侍従(高家肝煎) 2000石
中条河内守信義 従四位上侍従(高家肝煎) 1000石
宮原弾状大弼義周 従四位下侍従 1140石
織田豊後守信順 従四位下侍従 700石
畠山飛騨守義宣 従五位下侍従 3100石
上杉中務大輔義長 従五位下侍従 1496石
由良播磨守貞陰 従五位下侍従 1000石
今川刑部大輔義用 従五位下侍従 1000石
横瀬駿河守貞征 従五位下侍従 1000石
前田信濃守長粲 従五位下侍従 1000石
大沢修理大夫基休 従五位下侍従 600石
武田左京大夫信典 従五位下侍従 500俵

表高家
畠山左衛門基利 5000石
織田主殿信味 2700石
織田大膳長孺 2000石
六角頼母 2000石
日野岩丸 1530石
京極采女高正 1500石
吉良中務義房 1425石
長沢大蔵資言 1400石
前田繁之助長晧 1400石
大友左京義智 1000石
土岐■之助 700石
有馬繁丸 500石
品川内記 300石
117日本@名無史さん:03/10/08 00:15

松平(越前)慶永(よしなが)
従一位 大蔵大輔 徳川(田安)斉匡の八男
118日本@名無史さん:03/10/08 01:48
>>116
それ過去スレにさんざんコピペされてるよ。
119日本@名無史さ:03/10/08 21:10
>>118
必要だから貼ったんだろ。意味のないレスはやめよう。
120日本@名無史さん:03/10/09 21:22
>>117
大蔵大輔?
121日本@名無史さん:03/10/09 21:46
>>120
元治元年2月京都守護職となると同時に大蔵大輔に改名しています。
122日本@名無史さん:03/10/09 22:46
少弐氏や大友氏竜造寺となった大蔵氏ってなんなの?やはり大蔵大輔の役職名?を授かった名族だったのかな?

話題とまったくかけ離れるが・・・。おせ〜て
123日本@名無史さん:03/10/09 23:27
議定になった松平慶永は維新後参議とか権中納言には任官されなかったの?
同じ議定の山内容堂は権中納言に任官されたようなことが
どこかで書いてあったような
124日本@名無史さん:03/10/10 01:26
>>122
大蔵氏とは自称中国系の帰化人で、秋月やら原田やらの御先祖さん。
少弐やら大友やら竜造寺は大蔵氏系ではない。
125日本@名無史さん:03/10/10 01:32
>>124 勘違いしてました。藤原系でした。スマソです
126日本@名無史さん:03/10/10 02:01
え?大蔵氏は倭漢姓で122の帰化人てゆうので合ってるよ
127日本@名無史さん:03/10/10 02:12
>>122
『古語拾遺』によると、大蔵の管理にあたった漢氏に「大蔵」と賜姓したのがはじまり。
128日本@名無史さん:03/10/10 03:06
国持大名とかの大大名の位階を見ても、親藩とか前田を覗けば
せいぜい従四位止まりだよね。
従四位の公家とゆーと、公家で言うと中の中から中の下くらいと思うけど
大大名であるかれらは、朝廷や公家からは位階が同等である中流公家並に
扱われていたのだろうか?それとも武家に公家とは違う基準が朝廷や公家社会
にはあったのでしょうか?
129日本@名無史さん:03/10/10 03:08
もちろん武家の官位は本来の官位の員数外ですが、基本的には同等です。
130日本@名無史さん:03/10/10 03:20
>>129
そうなんですか。仮に清華家とか大臣家の公家と御三家の藩主が同席するような
場面があったとしたら、御三家の藩主が下座についていたのですね。
ただ 清華家、大臣家の公家には尾張殿とか紀伊殿の上座につく勇気は
無さそうですが(笑)。
131保守頭:03/10/12 01:05
ほす。
132日本@名無史さん:03/10/12 23:20
大名旗本 代々当主官途名シリーズ8

大和 小泉藩

初代 片桐貞隆 従五位下 主膳正
二代 片桐貞昌 従五位下 石見守
三代 片桐貞房 従五位下 主膳正
四代 片桐貞起 従五位下 石見守
五代 片桐貞音 従五位下 主膳正
六代 片桐貞芳 従五位下 石見守
七代 片桐貞彰 従五位下 主膳正
八代 片桐貞信 従五位下 石見守
九代 片桐貞中 従五位下 主膳正
十代 片桐貞照 従五位下 石見守
十一代 片桐貞利 なし
十二代 片桐貞篤 従五位下 主膳正


御存知片桐且元の弟片桐貞隆の系統
別段,家系交互相続というわけでもなく,
きれいに 石見⇔主膳 が交互です。

十一代はお目見え前に死亡とかなのかな(推測)
133日本@名無史さん:03/10/12 23:24
>>132
お目見えと官位叙任は全く別の問題です。
134日本@名無史さん:03/10/12 23:43
言葉も出来事もよく知らんのだ。すまんすまん。
まあ要するに当主として名乗りはあげたけど
その叙任を受ける前に死んだということでよろしいか。

ところで,
2つの家系が交互に相続してる家があったような気がするのだが
どこのどちらさんか御存知ありませんか。

135日本@名無史さん:03/10/13 00:25
>>134
通常は家を継ぐかなり以前にお目見えは済ませます。
そして家を継いだからといって、すぐに官位に叙任されるわけでもありません。
136日本@名無史さん:03/10/13 01:18
>>134
葛西家のことか?
あれは2種類の系図を別のものとみた解釈の誤りで、2つの家系があったわけではないぞ。
137日本@名無史さん:03/10/13 02:00
>>135
「こちらがうちの跡継ぎでございます」って感じでお目見えするわけなのね。
そういえば徳川吉宗が将軍綱吉にお目見えしたドラマを見た覚えがある。
家を継いでから叙任されるまでって,普通どれくらいの期間がかかるもんですか?

>>136
さあ?葛西家だかどうだかもわかりません。
そんな話を聞いたような見たような見てないようなの
あやふやな記憶ですから。
138日本@名無史さん:03/10/13 02:40
>>137
家督を継いでからの年数で決まるのではなく
だいたい元服する頃には官位に叙せられます。
したがって家督を継ぐ前にすでに叙任されていることもしばしばあります。
139保守頭:03/10/17 22:57
ほす
140こたろーさん:03/10/17 23:30
う〜〜〜〜ん。。。まっとぅな解がないですなぁ
戦国時代末期(まぁ安土桃山以前というんでしょうなぁ)以前は自称・
あるいは個人的に朝廷に奉請し任官を受けるようなことも多々あったようです。
それ以降は時の権力者により正式に奉請→叙任
されるようになったようです。特に徳川体制になってからは幕府から
朝廷への奉請がないかぎり叙任されることはなかったようです。
141日本@名無史さん:03/10/18 17:01
でも官職は基本的に自称みたいんもんだからね。
江戸時代。
142保守頭:03/10/23 19:56
ほす
143保守頭:03/11/05 17:41
ほすあげ
144日本@名無史さん:03/11/09 16:02
期間的には南北朝〜室町末期にかけて
私称官での「前司」や、「居住国名+入道」てのはありますか?
将軍家や公方家・管領家の発給文書に「前司or国名+入道」とある場合
正式任官していたと見ていいんでしょうか?
145日本@名無史さん:03/11/10 01:25
私称の場合、通常居住国名は避ける。
146日本@名無史さん:03/11/10 02:33
尾張藩の別家だった川田久保松平家の場合
元服すると御目見得になって松平姓を賜り
約2ヶ月後に位階と官位を貰ったそうだ
147日本@名無史さん:03/12/16 21:57
あげとこ
148日本@名無史さん:04/01/04 14:38
>>134
絶対違うだろうけど、持明院統と・・・。
149あぼーん:あぼーん
あぼーん
150日本@名無史さん:04/01/11 22:56
>>149 何があったんだ?
151日本@名無史さん:04/01/12 15:23

従三位 右近衛大将

自称
してるけど何か?
152日本@名無史さん:04/01/14 05:22
無位ってことは喜連川は大名扱いだけど
朝廷が絡むとその辺の百姓とかとかわらないのか
公家に会うときとかは地べたに土下座させられるのかな?

あと○兵衛といった名前は明治後に官職名だからっていうんで
平民に就けるのは禁じられたというのはマジ?
153日本@名無史さん:04/01/14 09:54
うそ
154日本@名無史さん:04/01/15 17:40
検索でこんなのがかかった。↓

明治二年(一八六九)四月に、
森有礼は、通称を廃止して貴賤上下を問わず、すべて実名のみを用いるべきであると、
公議所に建議した。

官名に由来する衛門、兵衛などを通称とすることは、
実際の官名と異なったり、時には官名詐称ともなり問題が生じる。

また某何位などと官位を通称とすることは同姓同位の者が多くなり
識別が困難になるというのが、建議の理由であった。

森建議をめぐって、時期早尚とか、士分以上・以下
(ここでいう以上・以下は不正確な表現であるが、当時の表記に従った)
に分けて考えるべきであるとかの意見が続出した。

結局、同四月二七日に、士分以上は通称を廃して実名のみを用いることとし、
その他の者については追って検討すると、森案は修正されたうえで、
一六三対一一という圧倒的多数で可決された。
155日本@名無史さん:04/01/18 14:21
ドクロベェ
「おしおきだべぇぇ」
156日本@名無史さん:04/01/18 18:20
江戸以前、正式な任官の推挙は具体的な官名を挙げて頼むものなんですか?
また、位階や官職ごとに付け届けの金額は決まってたんですか?
157日本@名無史さん:04/01/18 18:34
>>156
時代ごとに違いますしケースバイケースですけど、
任官は志願者のほうから申し出るのが原則です。
付け届けについても必要な場合と不要な場合とがあります。
もともと不要なんですが、必要な場合の金額は決められていました
ちなみに戦国時代には天皇に銭30貫献上したそうです。
158日本@名無史さん:04/01/19 00:14
>>152はマジだったのか・・・
159日本@名無史さん:04/01/19 02:12
>>152
喜連川家は足利将軍家の嫡流だから、
徳川将軍家の家臣扱いにはしなかった。
だから禄高も表向きは無禄とした。参勤交代も免除された。
また、喜連川家が徳川将軍家より官位を与えられると、
他の家臣(大名)と同じ扱いになることからこれを避け、
官位を自称することになった。

まあ、喜連川家は他にも「御所の称」を許されたりしていて、
ある意味で幕府の席次の外にある家なので、
自称でも通用したんじゃないだろうか。
160日本@名無史さん:04/01/19 02:24
>159
>喜連川家は足利将軍家の嫡流だから、
間違ってるだろ?
関東公方の末裔だよ。
だから喜連川なんだよ。
しかも家臣扱いじゃなくて家臣なんだけど…
161日本@名無史さん:04/01/19 03:10
>>160
関東公方の末裔なんだけど、
他の足利氏が滅亡してしまったから、嫡流。
家臣扱いをしなかったというのは形式上の話。
162日本@名無史さん:04/01/19 03:54
>>161
喜連川家は足利の嫡流として残っているのではない。
将軍家の祭祀を行なってはいない。
だから足利名字でなく喜連川名字。
家臣扱いをしない形式って何?
家臣だから領地もらうんじゃないの?
163日本@名無史さん:04/01/19 04:04
>>162
> 家臣だから領地もらうんじゃないの?
だから、もらってない建前なの。
禄高が表向き無高というのは、そういうこと。
164日本@名無史さん:04/01/19 10:43
>>163
表向き無高ではないが。
家臣扱いをしない形式とは、表向き無高ってこと?
165日本@名無史さん:04/01/19 14:05
喜連川は表向き無高ではなく10万石格。
166日本@名無史さん:04/01/20 00:16
>>157
30貫で何位をもらえたんですか?
167日本@名無史さん:04/01/20 01:26
>>164
おそらく答えは出ない。
165が正しくて、おそらく159はどこかのHPからパクッただけ。
168竹田丹後守 ◆gVkD2onhQc :04/01/20 01:58

今で言うと大野和三郎みたいなオッサンが勝手に広島県知事とか国土交通省
総務課長とか勝手に自称するわけで、笑えてまうわ

ただ、まあ、官職名を自称し始めた初期は先祖がそういう官職に就いていた
というようないわれがあったのかも知れない 要は「俺んちはこういう芸・
家職があった」と誇っていたということで

ただ、官位(○五位とか)の自称はないようで、あくまでも芸・技能に重点
を置いていたのかも知れない
169日本@名無史さん:04/01/20 07:15
>>168
近世の武家の官職は自称だが、位階は幕府を通じて朝廷から与えられる。
ただし喜連川は位階を持たない。もちろん官職は自称。
170竹田丹後守 ◆gVkD2onhQc :04/01/20 12:39
>>168をちょっと修正
苗字の起こりと同じで官職も最初はちゃんと就いていたのかも知れない
「実際に左衛門尉に就いていたので左衛門尉殿と呼ばれていた」→「親父が
就いていた」→「爺さんが就いていた」→「先祖が就いていた」→「フィー
リングで好きなのを勝手に名乗るようになった」→「好きなのを選んでいいが
朝廷の許可無く名乗れなくなった(江戸時代)」という感じで
171日本@名無史さん:04/01/20 20:10
>>170
> 「好きなのを選んでいいが朝廷の許可無く名乗れなくなった(江戸時代)」

というより「幕府の許認可を経て」というほうが適切かと
172日本@名無史さん:04/01/20 20:15
>>171
官職名(受領名)については
基本的には幕府の許認可はないと思うのだが。
173171=83:04/01/20 20:28
>>83 >>85 >>92
この流れでそう解釈したのだが…
174日本@名無史さん:04/01/20 20:49
>>173
許認可制ではなく届出制。
175日本@名無史さん:04/01/20 22:27
江戸時代の武家の官職は員数外ということですが、それでは、江戸時代に
公家で国司の守とか介とか、あるいは掃部頭とか雅楽頭とかがいたので
すか?
176日本@名無史さん:04/01/20 22:33
>>175
そのとおりです。公家というよりはもっと身分の低い地下官人ですけどね。
177日本@名無史さん:04/01/20 22:37
>>172
受領名を名乗る前提として幕府から官位(従五位下以上)を認めてもらう必要があるから、
実質的には幕府の許認可がないと受領名は名乗れないね。
178日本@名無史さん:04/01/20 23:18
「武家の官位は、三家大中納言といえども、将軍家よりおおせつけられる。
その後、京都所司代へ位記口宣のことを頼み、頂戴する例である。だから、
位記口宣を持たずに、それぞれの官位を名乗ることになる。御三家の官位
は、上意にて任ぜられ、諸侯のそれは、老中列座、官位上意の趣を通達す
ることになる」(林董一「将軍の座」より再引)
 朝廷から位記口宣を受ける前(形式論では私称にあたるのか?)でも、将
軍から与えられた時点で正当な官位として認められていたということのよ
うですね。
 もっとも、「幕末の宮廷」あたりを読むと、公家は位記口宣などめった
に貰わなかった(貰うのに金がかかるから)とか、だから律儀に位記口宣
を出してもらう武家は上得意だったとかということのようですが。
179175:04/01/21 21:06
>>176
身分の低い地下管人で、伊豆守とか掃部頭に任じられた人って、いったいどんな仕事していたのですか。当然実体のない官職ですよね?
180日本@名無史さん:04/01/21 21:54
>>179
五摂家など高級公卿の家の用人とかやってます。
181日本@名無史さん:04/01/22 12:29
厳密ではないにしても2つの官途名を交互に名乗っている家が多いようですが、何か理由があるのでしょうか?
182日本@名無史さん:04/01/22 21:21
以前、伊予掾を名乗っていたが、飽きた。
蔵人頭を名乗ろっと。
183日本@名無史さん:04/01/22 23:34
ようは近世以降の官人は伊豆守になろうが国衙の仕事をせず
掃部頭になろうが掃部寮の仕事もしない、名ばかりの給料泥棒ってことか。
私称とかわらんな。
184日本@名無史さん:04/01/23 00:15
財務省の「主計局」と「主税局」は官名の名残ですか?
185日本@名無史さん:04/01/23 00:40
>>183

給料すら出ないんじゃない。
186日本@名無史さん:04/01/23 12:48
>181
父親と同じ官途名を名乗るわけには行かないから交互になるんじゃない?
187日本@名無史さん:04/01/23 14:39
>>186
>父親と同じ官途名を名乗るわけには行かないから
そんなことはない
188日本@名無史さん:04/01/24 09:57
>186

 交互に名乗る家はだいたいその理由みたい。田村家なんか、左京大夫と右京大夫交互
に名乗ってるね。

>187

 家によっては親が譲ったり、致仕した前当主の官名との重複を気にしなかったりするから、
例外を探せばいくらでも出てくる。
189日本@名無史さん:04/01/24 09:58
>>185
給料なんか出ません
190日本@名無史さん:04/01/24 10:06
そういえば幕末に「尾張大納言」が当時に2人存在した時期があったな。
191日本@名無史さん:04/01/24 10:15
尾張前大納言(慶勝)と尾張大納言(茂徳)だね。
192日本@名無史さん:04/01/24 10:26
>>188
>例外を探せばいくらでも出てくる。
むしろ交互に名のる家の方が例外だと思うが。
193日本@名無史さん:04/01/24 10:55
>>190-191
斉朝と斉荘という例もあるが
194日本@名無史さん:04/01/24 22:24
埋もれちゃったんでもう一回。
>>157
銭30貫文でどの位階(職)につけたんですか?
195日本@名無史さん:04/02/08 15:21
196:04/02/25 18:13
宮家には、今でも臣下に
太政官制(もちろん明治以前の)に
基づく官爵を賜う資格があるそうですね。
実際、さる宮家から山城少掾を賜った
長唄の家元がいらっしゃるそうで(@_@)
197日本@名無史さん:04/02/25 20:04
>>196

また詐欺師なんじゃないの…
198日本@名無史さん:04/02/25 21:42
長唄ではなく、義太夫の人間国宝豊竹山城少掾のことでは?
199:04/02/25 22:13
>>198
あ、豊竹流は義太夫でしたね。
どうもすいませんでしたm(__)m
200:04/02/25 22:22
大蔵官僚で大蔵次官・大蔵大臣などを歴任した勝田主計.
ややこしい名前でややこしい任官するな.
201日本@名無史さん:04/02/25 23:59
真田伊豆守信之
202:04/02/26 10:26
江戸時代の右衛門尉や治部少輔って,どうなんです?
203日本@名無史さん:04/02/27 15:43
(´-`).oO とりあえずお前1から読んで来いって人 減らないなぁ...
204日本@名無史さん:04/03/06 11:43
>>202

 いわゆる「忌諱官名」ってやつですか? まあ、確かに石田三成やら増田長盛の官名を
徳川の世でつけるのは勇気がいる。でも、治部が徹底的に嫌われたのに対して右衛門は
「督」だけど御三卿の田安家が使ってるんですよねえ。

 あと、「尾張(終わり)守」も縁起が悪いってんで使われてないけど、戦国時代には何人か
使ってるんですよねえ。これについては、江戸時代に入って言葉が変わったわけでもある
まいし、不思議といえば不思議な現象だ。
205日本@名無史さん:04/03/12 21:29
江戸時代四位の大名と五位の大名で官名に違いはあったのでしょうか?
あと、どうして武家の位には正五位上から従五位上まではなかったのでしょう?
将軍家世子はいきなり権大納言になっているように思いますがそれで正しいのでしょうか?
その場合、位はどう考えても三位以上だと思いますがどうでしょう?
足利将軍は確か五位からだったように思いますが、それだけ徳川家の力が強かったと言うことでしょうか?
摂家でも正五位下またはj従五位上からだったようですが、突出してますね。

また室町以前の武士の官で衛門尉は通常少尉でしょうか?
兵衛尉馬允は大少どちらもあったのでしょうか?
206日本@名無史さん:04/03/12 22:06
クエスチョンマークがいっぱい
207日本@名無史さん:04/03/24 02:03
一度にそんなたくさんのこと答えられませんよ。
208日本@名無史さん:04/03/24 02:17
           ´   ヾ
           ゛ (⌒) ヽ
           ((、´゛))
            |||||
            |||||||    ドッカーン!!
          / |   ∠|
      (゜\./,_ ┴./゜ノ(   「クエスチョンは差別用語ニダ!謝罪と賠償を求めるニダ!!」
       \ \iii'/ /,!||!ヽ
ファビョ━━ /V,,ニ..,ニ、、 ノ( \━━━ン!!!!
       \ヽY~~/~y} `/~,/
        | ,k.,.,!,.,.,r| ,!  く
      / <ニニニ'ノ    \

209日本@名無史さん:04/03/24 02:29
>>204
日向守や筑前守の場合も知りたいです
210日本@名無史さん:04/03/24 02:35
>>209
筑前守については既出ですよ。
211日本@名無史さん:04/03/24 18:25
日向守は幕末の旗本に柴田日向守という人がいたから、別に忌避されてない。

筑前守は前田家の嫡子や黒田家の当主がよく使用している。
212日本@名無史さん:04/03/24 18:54
さっと思いつくだけでも
水野日向守(備後福山/下総結城)・永井日向守(摂津高槻)・有馬日向守(越前丸岡)・毛利日向守(周防徳山)、といろいろあるが。
213日本@名無史さん:04/04/04 19:20
あげ
214日本@名無史さん:04/04/04 20:08
外様で三河守とか武蔵守とかいたんですか?
いくら実態がないとは言えなんだかやばそうなんですか。
徳川氏発祥の地とお膝元ですし。
215日本@名無史さん:04/04/07 21:06
武蔵守は、幕府が使うのを禁じてました。山城守も(朝廷があるので)。
三河守は、本多家あたりが使ってるのでは?
216日本@名無史さん:04/04/07 21:30
三河守は結城秀康の流れをくむ津山松平家の当主が使用しています。
津山の殿様は代々松平三河守か松平越後守と称します。

あと、水野忠邦の弟に大塩の乱で有名な跡部山城守という人がいたから、
山城守は禁止されていないと思います。
217日本@名無史さん:04/04/08 20:22
>>215-216氏情報提供ありがとうございます。
やはりさすがに外様ではないようですね。
218日本@名無史さん:04/04/08 20:41
>>217
山城守は、豊後岡藩中川氏など、外様でも称している。
219日本@名無史さん:04/04/08 21:57
>>204
小田原の役の際、北条の重臣・松田尾張守憲秀が土壇場で裏切ったため、卑怯者
というイメージがついた尾張守はその後忌避されるようになったと何かで読んだ
記憶がある。
>>215
田沼山城守意知も有名。
220日本@名無史さん:04/04/10 00:37
 武蔵守は、岡山の池田家が開幕当初と幕末に使ってる。二代目武蔵守利隆の子光政は
なぜか官名を使わず生涯新太郎で通してるんだけど、このあたり何となく深読みできそうで
おもしろい。

 ちなみに最後の藩主武蔵守茂政は水戸徳川斉昭の子供(すなわち慶喜の弟)だったりする。
221日本@名無史さん:04/04/14 20:03
近衛将監って鎌倉時代の御家人の場合衛門尉から昇進するわけで、
そうすると衛門尉より格上となると思いますが、江戸時代大名で左右近衛将監っていましたか?
左衛門尉がいるのは知ってますけど。
222日本@名無史さん:04/04/14 20:17
>>221
例えば、筑後柳川藩立花氏は代々左近将監を称する。
223日本@名無史さん:04/04/14 20:19
塩冶判官高貞
224日本@名無史さん:04/04/14 21:20
>>222
早速回答ありがとうございます。
225日本@名無史さん:04/04/14 23:38
>>221
有名どころでいうと、老中松平乗邑は左近将監、老中松平武元は右近将監
だったと思う。
226日本@名無史さん:04/04/19 15:38
吉川弘文館人物業書の「酒井忠清」を読んでいたら、
祖父の忠世が17歳で従五位下右兵衛大夫の叙任されたと言う記述がありました。
そのような官名は有り得るのでしょうか?
まだ制度が整っていない段階ならあったのですか?
右兵衛大夫だと、従五位下に昇進した前右兵衛尉みたいですね。
227日本@名無史さん:04/04/19 20:41
近世武家官位に
律令制の官位相当は当てはまらない。
228日本@名無史さん:04/04/19 20:49
右兵衛大夫が単なる名乗りなら納得できますが、
官名だとすると違和感があるんですよね。
229日本@名無史さん:04/04/19 21:00
禁門の変(蛤御門の変)で長州藩と一緒に戦っていた真木和泉は久留米水天宮の神官であって
久留米藩では家老のような立場にも無いようですが、なぜ従五位下和泉守になれたのでしょうか?
神官とかだと朝廷では特別扱いされる立場にあるのでしょうか?
230日本@名無史さん:04/04/19 21:20
>226
>右兵衛大夫だと、従五位下に昇進した前右兵衛尉みたいですね。

右兵衛大夫は「五位の右兵衛尉」の通称だから、別におかしくないのでは?
実際には右兵衛尉に任ぜられたんだろうと思います。
231日本@名無史さん:04/04/19 21:30
>229
神職の官位は武家の官位とは全く別の筈です。
(確か、吉田家かどこかが勝手に与えていたんじゃなかったかな?)
232日本@名無史さん:04/04/19 21:40
>>231
白川か吉田だね
233日本@名無史さん:04/04/19 22:17
>>231-232
え?神職の官位も、武家の官位を幕府が与えていたのと同じく
朝廷ではなく白川と吉田が独自に与えていたってこと?
234日本@名無史さん:04/04/19 22:21
うーん、世の中難しいわ。
235231:04/04/20 00:11
「勝手に」とだけ書くと変ですね…。

「幕末の宮廷」を見ると、
「(略)卜部家の吉田が神祇管領になってから、その株を奪い取り、神社の神階、
神官の官位は吉田家の執奏によって宣下ということになりました。その他吉田
家では無位無官の神官に国司の官を与えたり、装束を許したりして、莫大の収
入になったと申すことです。朝廷に関係なく吉田家限りで許す官ですから、こ
れを吉田官といって、音は同じでも文字を変える、山城守と書くべきところを
山城頭と書くという風に(以下略)」
とあります。「その株」云々は、白川家の権限を指しています。


要するに、神官が称する官名も、吉田家の執奏で宣下される正式の官位と、吉
田家限りで勝手に名乗らせる官名もどきがあり、後者は「吉田官」と称して字
を違えて書いたという事だそうな。
236日本@名無史さん:04/04/30 08:39
読み方教えてください。

正は「しょう」 正三位は「しょうさんみ」 四位は「しい」
五位は「ごみ」ですか?
237日本@名無史さん:04/04/30 10:31
ふつうに「ごい」だと思うよ
「位」が「み」になるのは「三位」の時だけじゃないのか
238日本@名無史さん:04/05/01 02:35
鎌倉期の成功については、
本郷恵子『中世人の経済感覚』(NHKブックス)がわかりやすいね。

六位くらいの官位であれば、ルートにもよるが十貫文くらいで買えたらしい。
239日本@名無史さん:04/05/04 11:37
三位は、sammi で、「三」の san の最後の n が m に変わってリエゾンしたものだな。
「五」の go に、それは有り得んな。
240日本@名無史さん:04/05/04 12:00
五位鷺(ごいさぎ)っていうからな。
241日本@名無史さん:04/05/04 12:34
>>239
「さんに」「さに」にはならないんだ。
242日本@名無史さん:04/05/04 17:25
>>241
なんでかね。
三位は本来「さんゐ」で sanwi だから 言いにくいし、w のところで、上下の唇を
近づけるから、m 音に変化したのかね。
それとも、「三」はもともと sam なのかね。
243日本@名無史さん:04/05/04 17:51
ネットを探ると、「三」は、現代中国語では、北京語では「サン」だけど、
広東語や客家語では「サム」らしいよ。
古くは、「サム」じゃなかろうかな。だから、「三位」は「さmみ」という訳だ。
244日本@名無史さん:04/05/04 21:43
「三」はもともと「さむ」だろうがよ
そんな基礎的なことは古典漢文板か言語学できけよ
245日本@名無史さん:04/05/06 16:46
>>241
「さんに」は散位
246日本@名無史さん:04/05/06 21:51
今から1000年もすれば、「9号俸事務次官」とか勝手に名乗るのかね。
247日本@名無史さん:04/05/06 22:12
現代の官名は味もそっけもないな。
あと公務員の等級も複雑でわかりにくい。
248日本@名無史さん:04/05/10 20:02
現代でも、主税局長のことを「ちからのかみ」とか全部和訓を作ると親しみが湧くのにね。
249日本@名無史さん:04/05/10 20:42
マジレス。
それで親しみが湧くのは歴史オタだけだ。
250日本@名無史さん:04/05/13 14:42
平安末期畿内近国の中小武士の昇進
 滝口・院武者所→馬允→兵衛尉→衛門尉→検非違使尉

 形部丞=兵衛尉に相当

棟梁級武士  兵衛尉→衛門尉→検非違使尉→国守
諸大夫  衛門尉→検非違使尉→国守

諸大夫の目安となる官職は蔵人尉

源頼政(父の仲正)
 院判官代→蔵人→兵庫頭(六位蔵人→従五位下→下総権守→下総守→兵庫頭)

平清盛
 従五位下左兵衛佐→正四位下中務大輔兼安芸守

源義朝
 下野守兼右馬助

源頼朝
 右兵衛権佐

貴種  棟梁=公達に至る可能性を有する諸大夫上層
良家  京武者系豪族的武士=侍上層から諸大夫下層
高家  在地系豪族的武士=侍下層

公達(公卿到達可) 諸大夫(四位、五位) 侍(五位、六位)
251日本@名無史さん:04/05/13 14:51
高家、四位の大名の官
職大夫、八省大輔、弾正大弼、吉井家は例外として左兵衛督、高家の隠居後の再勤で特に左衛門督が有り
五位の大名、五位の旗本の官
八省少輔、弾正少弼、四府佐、寮頭、職亮、司正、弾正忠、左衛門尉、例外として職大夫四家有り

鎌倉末期
 北条一門 得宗家 十代半ばで即執権
        得宗家庶子、有力庶家 引付頭人、六波羅探題から執権、連署まで
        その他 引付衆→評定衆→引付頭人
 歴代得宗の最高位、義時従四位下、泰時正四位下、貞時従四位上、時頼・時宗・高時正五位下
 時宗・貞時・高時の昇進パターン 左馬権頭→執権ないし連署→相模守
北条高時 従五位上→左馬権頭(兼国は但馬権守)→執権

 六波羅探題は引付頭人と同格、但し一番頭人よりは格落ち
  北方と南方は同格だが片方が朝廷との交渉担当の執権探題(初期七十年間は北方が独占)
 左衛門尉 一般御家人の場合正六位下の官のうちの最上位 ここ止まりの御家人も多い
  検非違使を兼ねて大夫尉へ昇進、近衛将監より格下、北条一門の庶子が就任
 北条一門の嫡子は近衛将監の初任が多い 従五位下昇進後近衛大夫将監
 中務大輔 殿上人、地下公達が就任する五位相当の官
 右馬権頭 越後守よりは格下、貞顕の任官は無官よりましという程度のとりあえずのものらしい
 武蔵守、陸奥守、相模守 執権、連署ないし就任予定者が着くべき官、貞顕は武蔵守就任後に連署に就任 
 陸奥守 武蔵守より格上
 四位 北条一門中、得宗家及び執権、連署に昇進可能な分家の要人が昇進可能

金沢貞顕 左衛門尉→従五位下→右近大夫将監→左近大夫将監→従五位上→中務大輔→正五位下→越後守→右馬権頭→武蔵守
       →従四位下→従四位上→修理権大夫→六波羅探題南方→引付三番頭人→二番頭人→六波羅探題北方→連署→執権
 金沢貞将(貞顕の嫡子) 従五位下(推定)→右馬権頭(推定)→評定衆→官途奉行兼務→引付五番頭人→四番頭人→六波羅探題南方→一番頭人
 金沢貞冬(貞将の弟) 右馬助→従五位上
 金沢家の被官 侍 正六位上 八省丞や左衛門尉が上限

252日本@名無史さん:04/06/11 13:43
検非違使別当参議正三位行左近衛権中将兼左衛門督
の場合、官位相当の無い検非違使別当と参議は位の前に記載するが、
官位相当の無いいわゆる「職」の記載順(序列)には何か規定があるのかな?
その根拠となるものがあれば併せて添えて欲しい。
253日本@名無史さん:04/06/11 16:38
205
また室町以前の武士の官で衛門尉は通常少尉でしょうか?
兵衛尉馬允は大少どちらもあったのでしょうか?
について
武家は衛門少尉が通常。大尉は基本的に公家の官職。
兵衛。馬も大少あり。
通常、左衛門尉なり左兵衛尉といえば、少尉のことである。
254教えてくん:04/06/11 18:28
すいません、親王とか王の定席といえば、
まず親王だと上野守・上総守・常陸守のいわゆる親王任国と
太宰帥、式部卿なんかがあったと思いますが、
この五つの他には、どんなのがありますか?

あと王の場合ももしあれば。神祇伯以外で。
255日本@名無史さん:04/06/11 20:37
中務卿とか兵部卿とかも親王の任官が多いです。
確か中務大輔は王の任官が多かったそうです。
ただし平安前期、それ以後は王自体が余り存在しなくなる。
あと奈良時代だと、内廷関係(宮内省とかの寮頭や司正あたり)もわりと王が多いそうです。
神祇伯の白川家は王と名乗る源氏のような気が……。
256日本@名無史さん:04/06/11 20:43
254
親王の場合、他に弾正尹、中務卿、兵部卿など八省の卿に
任官される。
概して正四位下以上の官位相当の官職に任官する。
なお、常陸・上総・上野のいわゆる親王任国の場合、守では
無く、太守と称する。(例)常陸太守。また、南北朝時代に
陸奥も一時、親王任国となった。
王は、諸臣と同じであるので簡単にいえば、何でもあり。
257日本@名無史さん:04/06/11 21:16
>中務卿

そういや「中書王」と呼ばれている人が何人かいたよね。
兼明親王、具平親王、宗尊親王・・・
258日本@名無史さん:04/06/11 21:30
神祇伯家の白川氏は昭和30年代当主(男子)が死亡したが、後継が
いないため、断絶している。
259日本@名無史さん:04/06/11 21:38
>>253
205ですがどうもありがとう。
260254:04/06/11 22:35
みなさんどうもありがとうございました。
ところで「太守」って普通の「守」と官位の高さは
同じなんでしょうか?
261日本@名無史さん:04/06/12 19:22
太守の官位相当は正四位下。つまり、中務卿を除く七省の卿と同じ官位相当。
因みに中務卿の官位相当は正四位上。
三品に叙せられた親王が上総太守に任ぜられた場合、三品行上総太守と記載。
256より
262日本@名無史さん:04/06/14 11:01
執権北條氏の中には左馬権頭に任官する人物がいるが、その時、正官たる左馬頭に任官した人はいたのであろうか?
263日本@名無史さん:04/06/14 11:58
どうでしょうね、多分いたとは思いますが、実例を当たってみないとなんとも。
ところで足利将軍の後継者が左馬頭って言うのはいつからでしょうね。
264日本@名無史さん:04/06/18 23:12
秀吉が関白の頃、公家の仕事・行事・決済の関係はどうなってゐたのだらうや。
秀吉が本来の関白の仕事をやってゐたとは思へぬが、
さりとて、他に関白は居らず。
265日本@名無史さん:04/06/18 23:15
平安時代は官位と職種が一致していたが、後世では官位の位いだけ。
266日本@名無史さん:04/06/19 01:13
>>264
左大臣がやっていたのだろ?
267日本@名無史さん:04/06/19 03:13
関白は常設じゃないしな
268日本@名無史さん:04/06/19 10:47
確か戦国時代に戦乱で公家の仕事(行事)はやり方がわかんなくなったんじゃなかったけ。
269日本@名無史さん:04/06/19 19:34
http://www.netlaputa.ne.jp/~kitsch/rekidai/setf.htm
確かに制度上は本来常設じゃないけど、摂政・関白は実際上はほとんど常設みないな
もんだな。それに秀吉は太政大臣もやっていた。
やっぱ、困ったんじゃないかな。

実際は、>>266 が言うように左大臣がやっていたのだろうが、
太政大臣・関白がいなきゃ当然それで良いのだが、秀吉というヤツが居る訳で、
やっぱ困ったと思うよ。
270日本@名無史さん:04/06/19 20:10
文禄4年8月から慶長3年12月までは
左大臣・右大臣ともに空席、内大臣は武家の徳川家康。
271日本@名無史さん:04/06/19 23:45
関白、太政大臣、内大臣、全部本来臨時の官ってところがイイね。
272日本@名無史さん:04/06/19 23:48
古代には職種であった官位が後代には位の意味しかないから。
273日本@名無史さん:04/06/20 00:11
>>272
官位とは官職と位階のこと。
位階は古代においても「位」の意味しかない。
274日本@名無史さん:04/06/20 17:19
>>272
官職は無意味ではないよ。キミが言っているのは、戦国頃の武家がやった自称官職
やら、江戸時代の武家の官職のことだろう。それらは確かに偉いだけで、具体的な
意味はないな。しかし、公家の官職は決して無意味ではないよ。
275日本@名無史さん:04/06/20 17:54
>>274
公家の官職も、中世以降の武官系の官職なんてほとんど名前だけじゃない?
単にそういう官職を世襲している公家のことを羽林家と呼んでいるだけで。
276日本@名無史さん:04/06/20 20:43
 江戸時代で古代以来の職名(官じゃないよ)で意味があったのは、
摂関・蔵人頭・五位蔵人(全部令外の存在)くらい。
 地下官人はともかく、堂上のつく官は太政大臣以下全部単なる肩書き。
 単に序列を現すものに過ぎないから、その意味で位階と言うのは現実
論としては間違っていないと思います。
 もちろん序列として公家社会内部では大切な意味はありますけどね。 
277日本@名無史さん:04/06/20 22:16
江戸時代の殿上人さん達は、そんなもんで充分具体的な意味があったというべきだろう。

実権がないのは天皇以下公家全体が置かれていたどうしようもない実態ではあるが、
その中における意味としては、形式的な文書に目を通したり、儀式に並んだり、
そんなことで意味があったと言うべきだな。

同じ官職を与えられた武家は、それさえもしない。
278日本@名無史さん:04/06/21 16:24
少なくとも正六位上より従五位下の方が存在意義があると
思うのだが。
279日本@名無史さん:04/06/21 16:34
 そのとおりですね。ただ時代により変化があり、江戸末期だと従五位
下と従五位上にも断層があったようです。
 地下官人でも中層(この表現がいいかどうかはともかく)以上は五位
ラインに到達可能だが、本来は従五位上になれない家がかなりあったそ
うです。
 もっとも実際には抜け道があって、うちは○○家並みですと言うこと
で、従五位上になれたそうですが。
 また三位はともかく、地下の四位は例外とは言いがたい状態ですね。

どうせなら、六〜八位に値段を付けて庶民に発給すりゃ良かったのに

しこたま儲かる
281日本@名無史さん:04/06/21 19:26
六位も七位も八位もよーく考えてみれば所詮魅力無し。
282日本@名無しさん:04/06/21 19:32
お稲荷さんよりずっと下ではね〜(笑)
283日本@名無史さん:04/06/21 20:27
かといって生ある限り正一位が欲しいとまでは・・・・・・・。
284日本@名無史さん:04/06/21 21:12
>280
>どうせなら、六〜八位に値段を付けて庶民に発給すりゃ良かったのに
 「幕末の宮廷」によると、それに近いことを実際にやっていたみたいですね。
 だから、六位まではいいけれど、七位、八位あたりをもらう位なら、無位無
官の方がよほどよいとか。

 「またその時分の七位はひどいものです。魚屋やあるいは蕎麦屋の親父、そ
んな者が皆七位になるのです。七位より無位無官の方がよほど良いです。」
だそうな。他にも、「七位になりますと、摂家と、親王と、大臣から、御目通
りを止められます」だとか、七位になると六位になれない(無位無官なら六位
になれる)とか、いろいろな話が出ています。
285日本@名無史さん:04/06/21 21:54
勲一等もらうより従三位をもらった方がよいけどね。私は。
286日本@名無しさん:04/06/21 22:10
>>284
そっか…位を上げるには、買い直さなければならん訳だよな。
しかもなまじ位があると、下っ端としてふるまわなければならん。
乞食同然の上位者にへいこらするなど、下らないよな。
287日本@名無史さん:04/06/21 22:38
>286
>そっか…位を上げるには、買い直さなければならん訳だよな。
 というか、六位以上と違って、七位などは売官売位に近いことをやっていたために、
284のような話になったんだと思います。
 そのとばっちりで、代々の地下の家柄で七位の人も六位になれなかったとか。で、
一旦辞して無位無官になった上で、あらためて六位になったとか。
 そういう具合らしいんで、六位以上を買うというのは、難しかったんではないかと
思います。
288日本@名無史さん:04/06/21 22:57
売官が横行したら、その分公家の価値が下がるから、
うまく自制したんだろうな。
289日本@名無史さん:04/06/22 22:25
>>285
今でも頑張れば、もらえるよ。
最近はダイタイ没後にしかもらえないようではあるが。
290日本@名無史さん:04/06/22 23:51
没後にもらっても意味無い。勲等は生前。位階は没後とすみ分ける制度は
何か意図的なものを感じるね。
291日本@名無史さん:04/06/23 21:24
生前に従三位以上をもらうと、清涼殿の殿上の間に昇ることがフリーパスになる訳だが、
そうすると、御所の管理が難しいからだと思うよ。
292日本@名無史さん:04/06/23 22:14
官位相当の制が無理だからだよ。
今では、位階だけしか与えられないからね。
293日本@名無史さん:04/06/23 22:50
俺、左大臣
294日本@名無史さん:04/06/23 22:59
勲章の位階は廃止されたのでないの。
295日本@名無史さん:04/06/23 23:02
>>294
勲位と勘違いしていないか?
296日本@名無史さん:04/06/23 23:03
勳何等とかはやめたけど、位階はそれとは無関係だよ。
今でもあるよ。
297日本@名無史さん:04/06/23 23:07
http://www8.cao.go.jp/intro/kunsho/kondankai/seiri/s-05.html
の下の方を見よ。

>位階制度は、約1400年の長きにわたって生きつづけてきた伝統ある制度であり、
>現在は、死没者を追悼する意味で運用されているものであるから、現行のまま存続させる。

と、ちゃんと書いてある。
298日本@名無史さん:04/06/23 23:27
中曽根元首相は間違いなく、死去したら従二位以上は
叙位される。
299日本@名無史さん:04/06/23 23:28
やっぱり勲章もらうより位階の方が良い。
処で生前に位階を。没後に勲章ではいけないのか?
300日本@名無史さん:04/06/23 23:34
オレも位階が良い。
ついでに官職もほすい。

従一位太政大臣がほすい。
もらったら名刺に書くっす。
301日本@名無史さん:04/06/24 00:12
死後に正一位を追贈される人って何をした人だろうね?
この前の外交官は従四位だっけ?
302日本@名無史さん:04/06/24 00:12
>>298
でも中曽根さんには残念ながら肝心の官職がないですねえ。
本日時点では小泉さんだけが「内閣総理大臣」だろうし。

「太政大臣」が追贈されたりする以上は日本国の官職は
死後も称号としては有効ってことになるんだろうけど
現職で死なないといけないとなると文句なく
「内閣総理大臣従二位大勲位」を名乗れるのは
大平さんと小渕さんくらいになっちまいますね。

でも「内閣総理大臣」って従二位の官なんですかね、
「太政大臣」の代わりならもう少し高くてもいいような…
303日本@名無史さん:04/06/24 00:20
>>302
中曽根さんは内閣総理大臣というより、「大勲位」だから。
戦後「大勲位」になったひとの慣例から従二位以上は確定
なんだよ。もっとも新しい人では三木元首相が死去後、
大勲位と同時に従二位に叙位されている。
304日本@名無史さん:04/06/24 00:24
>>301
歴代の徳川将軍は、慶喜公以外は全員、没後に正一位を贈られているな。
>>304
あれ?慶喜様も没後贈られてなかったっけ?
306日本@名無史さん:04/06/24 00:39
>>304
へー結局徳川将軍はみんな正一位なんですね。
慶喜公って「従二位公爵」でしたっけ?

位階は日本史のほとんどの期間に今にいたるまでずっと続いてるのが
いいですね。

主だった歴史上の人物の最終的な(追贈があるから現時点のか?)
官位を一覧表にしてみたくなってきた。
307日本@名無史さん:04/06/24 00:48
生きている内に正一位を贈られたのは有史上、豊臣秀吉だけ。
他は全て追贈。
所で神号ってのは何なんですか?位で言うと
308日本@名無史さん:04/06/24 00:50
なんでか知らないけど浅井長政も追贈されてた記憶が。
309日本@名無史さん:04/06/24 00:52
うちの爺さんは存命で従三位だぞ。偉いんだぞ。
310日本@名無史さん:04/06/24 01:40
>307
>生きている内に正一位を贈られたのは有史上、豊臣秀吉だけ。

橘諸兄や藤原仲麻呂は無視かよ。
311日本@名無史さん:04/06/24 01:50
大勲位は〜?何位なの〜?
312日本@名無史さん:04/06/24 09:32
>>310
三條実美は無視かよ。
313日本@名無史さん:04/06/24 09:44
正一位稲荷大明神などの神階は、良く知られていますが
仏僧の立正大師(日蓮大聖人)などにも位階勲等は
ついてくるのでしょうか。
314日本@名無史さん:04/06/24 11:16
>>307
生きている内に正一位を贈られたのは有史上、豊臣秀吉だけ。

サルも追贈ではないかい?
315日本@名無史さん:04/06/24 11:51
生き返ったら位階は取り消し?
316日本@名無史さん:04/06/24 18:37
307
生きている内に正一位を贈られたのは有史上、豊臣秀吉だけ。

というが、史料的根拠は?
317日本@名無史さん:04/06/24 20:27
仲麻呂だけでなく北家の永手も生前正一位だったはずです。
奈良時代では生前正一位は確かに稀ではあったが、特別なものではないです。
あくまで従一位より1階上の最上位位階でしかありません。
正一位を与えることを忌避する考えが生じたのはいつ頃からなんでしょうね?
318日本@名無史さん:04/06/24 20:49
319日本@名無史さん:04/06/24 21:44
307はもう氏ぬしかないな。
320日本@名無史さん:04/06/24 23:15
位階を授けるには、正式の「氏」が必要だよな。「名字」なんかじゃダメと思うが、
みんな大丈夫なんだろうか。
321日本@名無しさん:04/06/24 23:27
どれだけ偉くなれば正一位をもらえる?
http://www.asahi-net.or.jp/~BH3H-SMJY/rekisi/ikai.htm
322日本@名無史さん:04/06/24 23:39
>>320
まあその辺が定かでない人も初代総理のように
適当にあつらえるんじゃないのかな。
323日本@名無史さん:04/06/25 21:28
初代総理はなんかえらいマニアックな「氏」を名乗ってたな。
324日本@名無史さん:04/06/25 23:12
なんで藤原朝臣にしなかったんだろ。
325日本@名無史さん:04/06/25 23:32
なんかで署名する必要のあるとき苗字・名前で署名して、
「氏姓を書け」と言われて仕方ないので「藤原朝臣・・・」と署名した。
家に帰ってそのことを父親に言ったら「ウチは平氏だ!」って怒られたのは
大村益次郎だったかな。
326日本@名無史さん:04/06/25 23:37
橘っているのかしら?
327日本@名無史さん:04/06/25 23:41
>326
地下官人にいたような気が。
328日本@名無史さん:04/06/25 23:42
320
往古、位記は、確かに「氏」による記載だが、現今の死没者の
叙位は「氏」の記載になっていたっけ?
329日本@名無史さん:04/06/26 00:13
>>326
うちは橘朝臣
330日本@名無史さん:04/07/03 02:27
『職源抄』なんて書いてた割に、北朝より南朝のほうが官位のインフレが進んでしまう
北畠親房の苦労って結局なんだったんだろう。
331日本@名無史さん:04/07/03 03:43
ちゃんと朝廷にもらった官位ならそんなことはないんだろうけど、
戦国時代に勝手に私称してた官名って主君より上のをつけちゃう奴とかいなかったのかな?
332日本@名無史さん:04/07/03 03:57
自称する人たちは何を基準に官職を選ぶの?

各官庁っていつ頃まで機能していたんですかいの?

で、私称はいつ頃始まったんですかね?

「検非違使別当」の私称があってもいいが、これはない
何故か? 衛門督で済んでいたからか? それとも別の
理由があるのか?

ちょっと前までお上意識というかそういうものがあって、官というのは
正義+神聖+清い+無謬+神+高貴+栄光栄華+正統権力・・・・・が
ごっちゃになっているようなものだったと思うが、凡下(←ちょっと裕福
な)が官名を自称することによって、朝廷の一員?たりえると周囲から
認められたのか?
336日本@名無史さん:04/07/03 17:16
検非違使別当は宣下の補任。
しかも別当宣は勅に準じる扱いだから
さすがに潜称は出来なかったんだろう。
それに検非違使別当は左右何れかの衛門督が
兼務する原則だし、参議以上の公卿が兼務
する慣例だった。
337日本@名無史さん:04/07/03 23:42
潜称にもわりと人気不人気があるよな
○○守にしても
338日本@名無史さん:04/07/04 02:19
官名、なにを名乗っていいかわからん!って悩む侍とかいなかったのかな。
339日本@名無史さん:04/07/04 03:56
関白とか、征夷大将軍とかは駄目なんだろ。
340日本@名無史さん:04/07/04 11:11
337
例示せよ。
338
概して、先祖の官名を継承するから問題はない。
何せ慣例の時代だから。
339
検非違使別当と同じ。宣下の官職。
341日本@名無史さん:04/07/21 00:30
オレの親は亭主関白だけど、特に宣下は受けていない。
342日本@名無史さん:04/07/21 00:52
>341
あっ そう。
343日本@名無史さん:04/07/21 23:39
>>340
>337
>例示せよ。
亀井琉球守とかは
344日本@名無史さん:04/07/21 23:55
>343
琉球守は潜称といえば潜称にも感じるけれど
元々、諸国の中に琉球は入っていない。亀井茲矩が
秀吉に琉球守をねだったという伝聞はあるけれど
秀吉は認めなかったとも聞く。結局、武蔵守になった。
>337がいう人気不人気云々から考えれば、史上、
亀井のみが琉球守に拘ったともいえるのではなかろうか。
345日本@名無史さん:04/07/22 08:22
>>323
越智宿禰ですな。

>>326
楠木正成は橘朝臣だけど、
中央の橘氏と血のつながりなさそう。
徳川が源氏を称するようなもんか。
346日本@名無史さん:04/07/22 11:30
源平藤橘といわれるが、楠木が橘を称したのは
何となく新鮮に感じられる。
347日本@名無史さん:04/07/22 12:37
戦国の場合、勝手に名乗るというより所属する大名家によって
○○○を与えられるという感じではないか?
その大名家のなかでの序列を現していると思う。
他家にくら替えすると×××に変わると言うことになる。


348日本@名無史さん:04/07/22 13:42
>>347
具体的に鞍替えして変わった武将の例をあげて下さい。
349日本@名無史さん:04/07/22 18:51
田兵こと田中吉政も橘朝臣ですな。
とっても胡散臭いですけどね。

従五位下 兵部大輔

従四位下 筑後守 侍従
350日本@名無史さん:04/07/22 22:40
柿本人麻呂、大伴家持、太安万侶、とかいう有名人物の氏姓を名乗る者はいませんか?
351日本@名無史さん:04/07/22 22:51
堀田は紀朝臣?
352日本@名無史さん:04/07/22 23:09
毛利が大江ですが スレ違いですね
353日本@名無史さん:04/07/22 23:45
佐倉の堀田さんは紀朝臣のようです。ちょっと調べた↓

上野東照宮の銅灯篭寄進者名。
「従四位下侍従兼堀田加賀守紀朝臣正盛」

木戸陣屋の棟札(正篤は正睦の初名)
「下総佐倉城主従四位下侍従兼備中守紀朝臣堀田正篤」

正睦の墓石
「故佐倉城主侍従従位四位下紀文明公墓」

最後の佐倉藩主・正倫の墓石
「従二位勲三等伯爵紀正倫卿之墓」
354日本@名無史さん:04/07/22 23:49
寛政重修諸家譜を見れば、大名・旗本の姓は全部わかる。
355日本@名無史さん:04/07/23 00:21
養子に入ると、名字は変わるけど、姓は変わらないらしいね。
名字は家につくけど、姓は実父実子の伝えで家とは別ということらしいね。
名字は分家や本拠地の移動でも変わるからね。
356日本@名無史さん:04/07/23 00:25
>>355
法がないから、家々によってもその時代の力加減でもかわるし。

家を継ぐに正式なルールはないのだよ。
357日本@名無史さん:04/07/23 00:45
>>355
具体的な例えを示して欲しいな。
358日本@名無史さん:04/07/23 02:05
くら替え武将の変遷例
甲斐宗運の場合
民部大輔−大友
大和守−阿蘇
これはくら替えと言うより二重に仕えている状態です
阿蘇家で重きをなしていたことが伺えます

息子の場合
刑部大輔−大友
兵部大輔−竜造寺
相模守−島津
359日本@名無史さん:04/07/24 08:52
江戸時代、将軍居所の武蔵守を名乗った大名っている?
(鎌倉時代の北条得宗家は使っていたよな)
360日本@名無史さん:04/07/24 11:22
亀井武蔵守茲矩
361日本@名無史さん:04/07/24 11:26
池田武蔵守利隆
362日本@名無史さん:04/07/24 11:27
一膳飯屋の武蔵屋
363日本@名無史さん:04/07/24 16:25
池田左近衛権少将兼武蔵守茂政
364日本@名無史さん:04/07/24 16:42
江戸時代、武家が帯していた官名として極端に少なかったのは
この武蔵守。往々にして官位相当が従五位クラスだが。その他には、
尾張守。治部少輔。陸奥守。左馬頭。右馬頭。少納言。神祇大副。
などなどの従五位相当の官職も称する人はいない或いは少なかった。
365日本@名無史さん:04/07/24 17:06
従五位で一括りにするのは乱暴
従五位上と従五位下の区別はきちんとつけるべし
366日本@名無史さん:04/07/24 17:13
>>364
武蔵守は将軍居所だから遠慮して。
尾張守は「終わり」に通じる、松田尾張守憲秀から卑怯者のイメージ。
治部少輔は石田三成だから。
左馬頭は足利氏の家督相続者専用。

・・・てのがこのスレでは既出なのだが、
他のは何か理由があるのでしょうか?
367日本@名無史さん:04/07/24 17:24
>>364
近世の武家の官名は、律令制の官位相当とは一致しない。
大名の位階は外様大藩とか親藩を除けば従五位下から始まるのだが
左近将監(官位相当では従六位上)とか弾正忠(正六位)なんてのがいるし
大藩だと従四位下大膳大夫(官位相当では正五位上)なんてのもいる。
368日本@名無史さん:04/07/24 19:21
>364
まだまだ同様に従五位相当で称する人がいないまたは少ない官職
がある。
木工頭 諸陵頭 大舎人頭 斎宮頭 勘解由次官 鎮守府将軍
春宮亮 東宮学士 文章博士 大宰少弐 斎院長官 陰陽頭
典薬頭あたり。
369日本@名無史さん:04/07/25 12:14
>366

 陸奥守は、島津が独占している薩摩守と同様に伊達家が独占してる。石高No.2,3の大名に対する優遇ですね。
なぜか、No.1の前田家は加賀守を独占しなかったけど。

>368

 木工頭については、大久保忠朝、蜂須賀宗鎮、松平定邦あたりが隠居後に名乗ってるけど、確かに他のは
あまり見かけないなあ。黒田如水が勘解由次官を使ったくらいかな。役目との関わりがダイレクトすぎて使い
づらかったのかな?

 あと、征夷大将軍と同格と見られがちな鎮守府将軍はさすがにまずいでしょう。
370日本@名無史さん:04/07/25 12:23
前田家は筑前守を優先的に使える権利がある。
もともと、前田家は秀吉から羽柴の苗字と筑前守の受領名を賜っている。
このことから、前田家は羽柴筑前や松平筑前などと呼ばれていた。
371日本@名無史さん:04/07/25 13:08
>>370
利家以降、筑前守を名乗ったのは利常と光高だけ。
綱紀以降は加賀守。
なお一般には加賀中将とか加賀宰相と呼ばれた。
372日本@名無史さん:04/07/25 13:15
織田筑前守、永井筑前守、岡部筑前守、堀田筑前守といろいろありまっせ。
373日本@名無史さん:04/07/25 13:25
前田で筑前守を称したのは、他に幕末の慶寧がいる。
尤も、藩主として家督を相続する前の世継の段階では若狭守。
隠居後に肥前守に遷任している者もいた。利常は権中納言従三位
から隠居後、肥前守になっている。
374日本@名無史さん:04/07/25 13:46
>>370
福岡の黒田家も松平筑前と呼ばれていたぞ。
外様で松平姓もらっていたし、受領国も筑前だし。
歴代藩主の半数は筑前守を名乗った。

だぶることはなかったのか?松平○△守。
375日本@名無史さん:04/07/25 13:57
>尤も、藩主として家督を相続する前の世継の段階では若狭守。
必ずしもそうとは限らない。
綱紀:加賀守(幼年で家督相続)
吉徳:若狭守→加賀守
宗達:佐渡守→加賀守
重煕:但馬守→加賀守
重靖:上総介→加賀守
重教:加賀守(幼年で家督相続)
治脩:加賀守(幼年で家督相続)
斉弘:筑前守→加賀守
斉泰:若狭守→加賀守
慶寧:筑前守→加賀守
376日本@名無史さん:04/07/25 13:59
苗字+官名で呼ばれますから
苗字が同じなら、同時期に官名がダブることは許されません。
377日本@名無史さん:04/07/25 14:02
斉弘は斉広の間違いです。すみません。
378日本@名無史さん:04/07/25 14:31
>>371
>なお一般には加賀中将とか加賀宰相と呼ばれた。

それは,近衛中将や参議に任官してからだろ。
利常は、中納言になっているが,江戸時代に入ってからの
前田家の極官は,参議。
379日本@名無史さん:04/07/25 14:56
前田斉泰は権中納言まで昇進した。
380日本@名無史さん:04/07/25 15:31
>>378
私は中納言のことなど一言も書いていないが。
381日本@名無史さん:04/07/25 20:15
>>376
苗字は俗称に過ぎないのではないか?
382日本@名無史さん:04/07/25 20:21
>>381
老中奉書などは官名しか書きませんから
先任老中に同じ官途名の者がいる場合は
後で任命された者が官途名を変えます。
そういう特殊な場合を除けば
苗字が違えば同じ官途名は許されています。
383日本@名無史さん:04/07/25 21:09
苗字ではなくて、氏ではないかな。
384日本@名無史さん:04/07/25 21:26
氏って源とか藤原とかでしょ。
同じ氏で同じ官途名が許されないなら
源とか藤原の武家は困っちゃいますよ。
385日本@名無史さん:04/07/25 21:31
老中奉書は官名しか書かないということだが、
苗字と官名そして実名(諱)併記で署名している。
実例は、日本古文書学講座6近世編1雄山閣P88〜P89
に所載。
386日本@名無史さん:04/07/25 21:37
>>385
書く場合もあるだろうが、書かない場合もある。
例えば有名なところでは寛永12年の鎖国令(徳川禁令考4051号)をご覧なされ。
387日本@名無史さん:04/07/25 22:01
何で官名を名乗ったの?
遊び心?
388日本@名無史さん:04/07/25 23:33
老中奉書などは官名しか書きませんから
などという限定的な書き方をする処に問題あり。
老中奉書などは官名しか書かない場合もある。
とすればよかったものを。
389日本@名無史さん:04/07/25 23:36
>>388
その通りですね。申し訳ない。
390日本@名無史さん:04/07/27 21:50
しかし、なんだな。官名には本来役割を表す意味があるよな。
井伊掃部頭なんて、掃除の親玉だろ。そんなんで良かったのかね。
391日本@名無史さん:04/07/27 21:54
>390
仕方がない。先祖が代々、掃部頭だったからね。
392日本@名無史さん:04/07/28 00:41
大膳大夫なんてのも料理長みたいなもんだろ。
大名の官名としてそんなんで良かったのかいな。
393日本@名無史さん:04/07/28 01:12
じゃ、酒井雅楽頭は宮廷音楽の楽団長みたいなもんか。
ほかにもなにかないか?
394日本@名無史さん:04/07/28 01:33
修理大夫も・・・
395日本@名無史さん:04/07/28 08:43
>392
大膳大夫なんてのも料理長みたいなもんだろ。
むしろ、内膳正或いは内膳奉膳の方だろう?
396日本@名無史さん:04/07/28 08:46
それほど当時は気にしていないだろうと思う。
先祖の当主が称した官職を継承することの方が
重要なんだろう。
397日本@名無史さん:04/07/28 14:45
掃除の親玉と諸国の親玉の位がたいして変わらない方が驚きだ。
まあ、江戸期の武家の官位は律令制下の官位相当とは違うけど。
398日本@名無史さん:04/07/28 22:31
違うとはいっても、字を見りゃ意味は自然に分かるけどな。
先祖の官職を継承することは良いけど、初代はどう感じたかな。
399398:04/07/28 22:38
ごめん。>>397が違うといいたいのは、官位相当のことだね。
ちょい、論点がズレタが、まあ許せ。
400日本@名無史さん:04/07/28 22:43
官位と位階は連動しているし、官位の職種の意味など関係ない。
401日本@名無史さん:04/07/28 23:00
前にも書いたが近世武家官位制の序列は
太政大臣−左大臣−右大臣−内大臣−大納言−中納言
−宰相(参議)−中将−少将−侍従−四品−諸大夫
となっていて、位階と官職が混在しているので
官位相当の原則を論じるのは無意味。
402日本@名無史さん:04/07/29 05:14
朝散太夫ってどういうこと
403日本@名無史さん:04/07/29 05:20
>>401
侍従ってそんな上なの?
404日本@名無史さん:04/07/29 06:26
従五位下の唐名。○○守とか○○尉などと名乗ることができた。
朝散太夫浅野内匠頭長矩
405日本@名無史さん:04/07/29 06:39
>>403
だから侍従従五位下>従四位下ということになる。
幕府の役職で比較すると奥高家>大坂城代ってことになるのかな。
406日本@名無史さん:04/07/29 11:25
少将(官位相当は正五位下だが、実際の叙位は従四位下〜従四位上)
その次に 侍従(官位相当は従五位下だが、実際の叙位は従四位下)
その次は 四品と称される従四位下で侍従任官無し。
そして、諸大夫と称される従五位下。なお、その下に布衣と称される
無位があった。
なお、例外的には、高家のように、従五位下で侍従に任官する者も
いるが、幕府内での序列は、官位の序列によらない。
例えば、幕末に今川侍従刑部大輔範叙(従五位下)という高家が
若年寄になったが、序列は幕府若年寄の地位であった。
また、大坂城代は従四位下叙位。京都所司代になって侍従任官。
これは老中と同じ。これが慣例である。
407日本@名無史さん:04/07/29 11:37
朝散大夫は唐名(唐風の別称)で従五位下に相当。尤も浅野内匠頭長矩は
文官の内匠頭であったので、朝散大夫だったが、左衛門佐や右兵衛佐など
武官だったら、従五位下相当の武官の唐名である游摩将軍という言い方に
なる。
因みに、従四位下は文官なら 中大夫 武官なら 明威将軍となる。
408日本@名無史さん:04/07/29 11:39
素朴な疑問なんですが

>なお、例外的には、高家のように、従五位下で侍従に任官する者も
>いるが、幕府内での序列は、官位の序列によらない。
>例えば、幕末に今川侍従刑部大輔範叙(従五位下)という高家が
>若年寄になったが、序列は幕府若年寄の地位であった。



>前にも書いたが近世武家官位制の序列は
>太政大臣−左大臣−右大臣−内大臣−大納言−中納言
>−宰相(参議)−中将−少将−侍従−四品−諸大夫

は矛盾すると思うのですが・・・どなたか教えて。
409日本@名無史さん:04/07/29 11:41
幕府の役職は官位より優越ってことでいいの?
410日本@名無史さん:04/07/29 11:43
高家肝煎で少将の人と若年寄はどっちが上でしょうか?
411日本@名無史さん:04/07/29 12:00
世の中いつの時代も例外というものがあると心得るべきである。
412日本@名無史さん:04/07/29 12:20
>408
>若年寄になったが、序列は幕府若年寄の地位であった。
の意味がよくわからん。
413日本@名無史さん:04/07/29 12:23
>>408
高家は例外。

>>409
幕末期と井伊家を除けば
原則として、家格の高い、つまり官位の高い家柄は幕府の役職に就かない。
親藩を除けば、家格の高い家は外様の大藩が多いし。
414日本@名無史さん:04/07/29 12:28
>>410
「何」が上かと聞いているの?
若年寄は大名だから、禄高は若年寄の方が上。
若年寄は従五位下だから官位は少将の方が上。
家格は判断が難しいが、おそらく高家の方が上。
415日本@名無史さん:04/07/29 12:30
>>414
幕府内での序列だと思われ
416日本@名無史さん:04/07/29 12:38
高家の職務の一つに京都名代がある。高家は幕府使者として
上洛し京都つまり禁裏に謁見することもある。その時、官職
として主上側近く仕える侍従という官職を帯びていると謁見
しやすいということである。従って従五位下でも侍従に任官
する必要があった。京都所司代も京都駐留の幕府役人であり
やはり、主上と謁見することもあり、老中も重要な案件があれば
高家に託すことなく、自ら上洛する可能性もあるため侍従の
任官が必要であった。近衛少将も中将も禁裏守護の役目であり
主上近くに仕えていた。
417日本@名無史さん:04/07/29 12:45
>>416
武家の少将・中将は別でっせ。
例えば加賀前田家の当主はだいたい中将になっているが
主上近くに仕えていたわけではない
418日本@名無史さん:04/07/29 12:54
忠臣蔵の際、高家吉良義央は従四位上左近衛権少将上野介。
一方、側用人にして大老格に準じる柳沢保明(刃傷松の廊下
事変の時。討ち入りの時は吉保と改名していた)は従四位下
左近衛権少将出羽守であり、官位の序列から考えれば、当然
吉良の方が上位であるが、幕府内では、役職順で柳沢の方が
上位となる。
419日本@名無史さん:04/07/29 13:38
武家の少将中将には定員あるの?
420日本@名無史さん:04/07/29 13:55
ない。
ただしなれる家柄は決まっている。
421日本@名無史さん:04/07/29 14:22
高家の少将>国持大名の侍従でOK?
422日本@名無史さん:04/07/29 18:52
>>418
>幕府内では、役職順で柳沢の方が上位となる。

そうなんですか?
では、柳沢の方が上座に座るのか
423日本@名無史さん:04/07/29 19:01
太政大臣−左大臣−右大臣−内大臣−大納言−中納言
−宰相(参議)−中将−少将−侍従−四品−諸大夫

と言うのは,
侍従までは、位階ではなく官職で序列を決めて,
四位と五位は、官職の序列を問わず、また散位であろうと,
位階が一緒であれば同格として扱う
と言うことでよろしいのですね?
424日本@名無史さん:04/07/29 19:08
役職ですべてが決まるわけじゃないんだけど
柳沢家は帝鑑間詰、吉良家は雁間詰
ランクとしては柳沢が上
425日本@名無史さん:04/07/29 19:15
>侍従までは、位階ではなく官職で序列を決めて
諸大夫(従五位下)より四品(多くは従四位下)の方が上
四品より侍従の方が上です。
官職は関係ありません。

>散位であろうと,
隠居後はともかく、現役の当主で散位であった例はないと思います。
官職は自称ですので
職に空きがなくて散位になるということが起こり得ないからです。
426日本@名無史さん:04/07/30 05:02
>>407
>武官だったら、従五位下相当の武官の唐名である游摩将軍という言い方になる。
これスゲエカッコいいけど、使っちゃって良いの?
『将軍』って言葉 。
427 ◆UNEME6ko46 :04/07/30 18:27
>>407
>武官だったら、従五位下相当の武官の唐名である游摩将軍という言い方になる。
游撃将軍じゃないの?
428日本@名無史さん:04/07/30 20:13
とほほ、歳はとりたくないもんだ。游撃将軍でござる。>407より。
429日本@名無史さん:04/07/31 05:41
でどうなのよ。
江戸時代に征夷大将軍以外の武家が『〜将軍』って名乗って良いの?
単に唐名ではそうなると言うだけじゃないの。
430日本@名無史さん:04/07/31 07:43
>>407=>>428
見てるんだから答えて欲しい。
オイラは多分将軍家に遠慮して『游撃将軍』等の武官の唐名は使えないと思うんだけど。
使えるんだったら、使用例とか見てみたい。
単純に興味で聞いてます。
431日本@名無史さん:04/08/02 19:23
浅野大学
432日本@名無史さん:04/08/02 20:31
分からないなら、知ったかで書くなよ。
ケアレスミスは認めるが、分からないとは死んでも言えんのか。
433日本@名無史さん:04/08/02 21:12
 ∧||∧
(  ⌒ ヽ  すいません。わかりません。
 ∪  ノ
  ∪∪
434日本@名無史さん:04/08/02 21:23
高々従五位くらいの木っ端大名が「○○将軍」なんて使えんだろ、分からんけど。(藁
435日本@名無史さん:04/08/02 21:46
貧乏旗本の三男坊が暴れん坊将軍を称してるからいいんじゃね?
436日本@名無史さん:04/08/02 21:49
とほほ
437日本@名無史さん:04/08/02 22:10
>>435
>江戸時代に征夷大将軍以外の武家が『〜将軍』って名乗って良いの?
自称ではないが、将軍家じゃないのに将軍ってつけられている人がいるよ。

酒井忠清 従四位下 雅楽頭 左近衛少将 下馬将軍
438日本@名無史さん:04/08/02 22:47
   . . .... ..: : :: :: ::: :::::: :::::::::::: : :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
        Λ_Λ . . . .: : : ::: : :: ::::::::: :::::::::::::::::::::::::::::
       /:彡ミ゛ヽ;)ー、 . . .: : : :::::: :::::::::::::::::::::::::::::::::高時が隔離スレからお邪魔してスマソ
      / :::/:: ヽ、ヽ、 ::i . .:: :.: ::: . :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
      / :::/;;:   ヽ ヽ ::l . :. :. .:: : :: :: :::::::: : ::::::::::::::::::
 ̄ ̄ ̄(_,ノ  ̄ ̄ ̄ヽ、_ノ ̄
439438:04/08/02 22:47
ゴバ━━━━(゚∀゚)━━━━ク!!!!
440 ◆UNEME6ko46 :04/08/02 22:57
寡聞にして聞かないが、徳川将軍在職中に「游撃将軍」を名乗ったのは
游撃将軍谷梅之助くらいか?

実際使用されてなくても、当時の教養としては知られていたように思うんだが
藩公大事の高杉のことゆえ、敬親が従四位下大膳大夫だし
遺書とはいえ、それより上の称号は遠慮したのかと深読みしてみるw
死後に正四位贈位されてるから、忠武将軍か壮武将軍というのも有りかも
441日本@名無史さん:04/08/04 03:25
ネットで調べても大名の使用例は出てこないな。
戒名でも
442日本@名無史さん:04/08/04 03:28
443日本@名無史さん:04/08/04 04:00
将軍ネタ自慢ですか。
444日本@名無史さん:04/08/04 23:21
だから下馬将軍
445日本@名無史さん:04/08/05 05:33
下馬将軍は通り名だから、官名とは違う。分かってると思うけど。
目白の闇将軍みたいなもの。
446日本@名無史さん:04/08/05 05:50
源義仲が征夷大将軍になったのは、頼朝=夷として、頼朝に対抗するため、ってことでいいのかな?
447日本@名無史さん:04/08/05 06:36
>>445
暴れん坊将軍は官名ですよね?
 http://shuxx.hp.infoseek.co.jp/abarennbou.html


448日本@名無史さん:04/08/05 07:41
>>447
そう、きたか。
449日本@名無史さん:04/08/05 08:02
>>447
朝から笑いすぎて椅子から転げ落ちてしまった
450日本@名無史さん:04/08/12 04:27
夜食少々
451日本@名無史さん:04/08/12 16:15
ブラックソーン「ここジャパン?」
452日本@名無史さん:04/08/22 09:45
>江戸時代に征夷大将軍以外の武家が『〜将軍』って名乗って良いの?

徳川時代ではないが、
小早川秀秋は従四位下右衛門督になり、この官を唐名で金吾将軍というため、
「金吾殿」と呼ばれた。
453日本@名無史さん:04/08/22 12:36
日本の官名と唐名が一覧になったサイトとかないのかな?
454日本@名無史さん:04/08/22 12:54
>453

ttp://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/index.html

 こちらへどうぞ。律令官名の解説ページなので、江戸時代の武家名乗りについては言及有りませんが、
かなり参考になります。
455日本@名無史さん:04/08/22 14:17
>>446
薩長はアイヌ・・・じゃなくてアイヅを征伐して明治幕府を開きました。
456453:04/08/22 19:15
>>454
読み応えありそうなサイトですな。
感謝
457日本@名無史さん:04/09/07 22:18
age
458日本@名無史さん:04/09/09 17:01
age
459日本@名無史さん:04/09/09 17:43
「遊撃将軍」というと明清の武官だと思っていたが、唐にもあったんだ。
460日本@名無史さん:04/09/17 23:57:05
>>374
>だぶることはなかったのか?
そうゆう場合、前田が優先的に筑前守を名乗る。国持なのにかわいそうな黒田。
461日本@名無史さん:04/09/19 19:31:53
前田家で筑前守を名乗ったのは
3代利常(1605〜1629)
4代光高(1629〜1645)
12代斉広(1797〜1802)/家督相続後は加賀守
この3名のみ。

黒田家の場合は
6代継高(1714〜1769)
7代治之(1769〜1781)
8代治高(1782)
9代斉隆(1790〜1795)
以上4名。

17世紀前半は前田家が筑前守を名乗ったが
前田家が加賀守をもっぱら称するようになる18世紀なると、黒田家が筑前守を称する。
その後、家督相続前の前田斉広(将軍家から養子に入った)が筑前守を称すると
以後黒田家はまた筑前守を用いなくなる。
462日本@名無史さん:04/10/01 22:01:27
463日本@名無史さん:04/10/02 00:22:55
>>343
田中克行「亀井琉球守再考」呼んでみれ
464日本@名無史さん:04/10/16 20:30:32
備前の池田家は受領名が一定していないな。
伊予守と内蔵頭が2回使われてるくらいで、備前守は最後の藩主しか使っていない。
465日本@名無史さん:04/10/16 21:00:39
奈良時代や平安時代に大和守や山城守はいて国司として派遣されていたの
ですか?スレ違いですが教えて下さい。
466日本@名無史さん:04/10/16 21:09:46
『土佐日記』読め
467日本@名無史さん:04/10/16 21:10:31
>>465
紫式部の夫藤原宣孝や三跡のひとり小野道風は山城守に任ぜられていますが。
468日本@名無史さん:04/10/16 21:16:30
ああ 首都知事業務をしたかという問いだったか 早とちり
469465:04/10/16 21:22:27
そうでつ。
山城国府跡とかいう遺跡を聞いた事がないので、実際に地方行政を
していたのかそれとも平安京内で行っていたのか疑問に思ったのです。
470日本@名無史さん:04/10/16 22:09:57
>>469
山城国府跡は存在します。
http://hccweb1.bai.ne.jp/~hce79101/yamazaki.htm
471465:04/10/17 19:14:26
レスサンクスです。
見ました。おかげで疑問が解けました、ありがとうございます。
472日本@名無史さん:04/10/26 01:42:41
ググっても出てこなかったので、誰か知ってる人いたらおしえてください。

平将門ってたしか「上総介」名乗ってなかったでしたっけ?
たしか織田信長は、「平将門が名乗っていた武門の誉れ高き官職じゃ」とか言ってたような気が・・・
473日本@名無史さん:04/10/30 01:07:12
>>472

>将門ってたしか「上総介」名乗ってなかったでしたっけ?

名乗っていません。将門が名乗ったのは「新皇」です。

>信長は、「平将門が名乗っていた武門の誉れ高き官職じゃ」とか言ってた

信長が何と言っていたのかはわかりませんが、
若い頃の信長は藤原氏なので、藤原忠清のことかもしれません。
上総介忠清という、武勇の誉れ高い平家の侍大将がいます。
474日本@名無史さん:04/10/30 11:00:27
だいたい平将門を「部門のほまれ」と考えないよなあ
475日本@名無史さん:04/10/30 11:34:04
板東平氏の祖、平高望は上総介ですね。
これを意識しているのではないでしょうか。
476日本@名無史さん:04/11/18 00:10:29
なるほど
477日本@名無史さん:04/12/02 23:05:24
ふーん
478日本@名無史さん:04/12/28 22:49:19
ほほー
479日本@名無史さん:04/12/31 01:03:18
スレ違いだが、475に
従五位下上総介に叙任したい心境だ。
480日本@名無史さん:05/01/27 20:54:08
w
481日本@名無史さん:05/01/27 22:27:27
ω
482日本@名無史さん:05/02/18 13:34:22
え?
483日本@名無史さん:05/02/18 14:38:16
どうして衛門志とか兵衛志とか左馬属とか名乗る武士はいないの?
正直内匠頭とか大膳大夫、雅楽頭とかよりよっぽど武士らしいと思うんだけど。
484日本@名無史さん:05/02/18 16:49:47
そういう役職があること自体知らなかったりしてw
485日本@名無史さん:05/02/18 20:41:01
宮廷営繕局長
宮廷給食長官
宮廷音楽局長
486日本@名無史さん:05/02/19 07:15:28
何も知らなくてすみません。何とか介とか守って地名が付いていますが、
その地名となにか関係があるのでしょうか?
そこの役人という事とか?
487日本@名無史さん:05/02/19 07:29:38
〜守が長官
〜介が次官
488日本@名無史さん:05/02/19 08:08:12
変な風に日本に詳しい外国人が現代語訳のつもりで忠臣蔵をこう表現。
江戸城内で吉良上野副知事に浅野宮廷営繕局長が突然切りかかる。
その罪で浅野宮廷営繕局長が切腹した後、
家臣の大石宮廷会計次長が徒党を組んで吉良上野副知事の家に押し入り、
吉良氏を惨殺。
489日本@名無史さん:05/02/19 12:54:46
三河守とかってなると三河の長官みたいなもの?
そういう風に付く人は三河に住んでいたということでしょうか?
490日本@名無史さん:05/02/19 12:59:39
三河守は三河国司の長官だから、いまの愛知県知事みたいなものだが、
戦国武将の国司名は適当にフィーリングで名乗ってる例も多い。

ただ、家康の場合は正式に朝廷から任官したものだから、自称の連中とはちがう。
491日本@名無史さん:05/02/19 13:06:17
三河守は三河の官選知事、つまり東愛知県官選知事。
平安時代初期までは赴任してきていたが、それ以降は現地にほとんどこないことが多い。
江戸時代の定府大名に近いかも。
そのうちに完全に名目化、戦国時代は自称もあるし、朝廷に献金して実際に任じられること
もある。織田信秀とかは献金組みらしい。
江戸時代のは単なる身分をあらわす名誉称号で職名自体にはなんら意味がない。
492日本@名無史さん:05/02/19 13:31:26
大膳大夫:台所奉行
内匠頭:中奥小普請奉行
雅楽頭:歌舞奉行
掃部頭:掃除奉行
内蔵頭:中奥納戸奉行
多少間違っている気もするけどこんな感じか?そう思うとちと情けない。
まあ当時の人はそんなこと考えなかったんだろうけど。
493日本@名無史さん:05/02/19 14:35:33
どうも典薬頭を名乗る大名は居ないようだ。
幕府の典薬頭半井家等に遠慮したのかとも思ったけど、
大学頭は林家の存在にもかかわらず何人も居る。
そう思ってみると陰陽頭・助や神祇卿・大小副・大小祐も居ないようだ。
技術系や神様関係は忌避されたのだろうか?
あと外記・内記はいるけどなぜか史は居ないようだ。
幕末なのか羽前・羽後守が各1名居たが、なぜか陸前中後守は居ない
494& ◆xjZa72AaqY :05/02/19 22:34:51
>>493

典薬頭って律令の「典薬頭(てんやくのかみ)」の他に江戸時代は職制として幕府や各家中に「典薬頭(てんやくがしら)」っていたからでは?
技術系では西国大名に人気の修理亮とか、浅野内匠頭とかは?
495日本@名無史さん:05/02/20 00:25:49
>>493
江戸時代の官名って、律令時代の役人ごっこでしょ。
律令時代には出羽と陸奥で、まだ羽前、羽後、陸前、
陸中、陸後に別れていなかったから、その頃に無かった
国の守を名乗るのは変なんじゃないの。
496日本@名無史さん:05/02/20 10:24:48
>483
単に低すぎるからだろう。
周りが衛門大夫、兵衛大夫、馬大夫を称しているのに、わざわざ低いのを名乗るとも思えない。
497日本@名無史さん:05/02/20 15:47:12
江戸時代の大名は中将・少将・侍従でも○○守等と名乗っているようだ。
名乗らないのは御三家くらい?
御三卿の○○卿とかも名乗りの一種か?
それと四等官のうちで主典は外記くらいのようだ。
あとは判官以上か品官(内記など)。
498日本@名無史さん:05/02/25 10:48:47
親王の子とかそれに准ずる賜性源氏等の四位は別格として、幕末に至るまで臣下は五位
以下が最初です。それは摂関家でも例外ではないです。
ところが江戸時代になると将軍家世子はいきなり大納言(当然3位以上でしょう)、
尾張紀州両家の嫡子は従三位中将、水戸家前田家嫡子は正四位下少将、
尾張紀州両家の庶子でも従四位下少将が初任です。
国持大名なども四位や四位侍従等が初任のようですので、別に徳川家だけのごり押しでも
ないようです。
大名の場合その後大して昇進しないわけですが、先例墨守のこの時代どうしてこんな変化
が生じたんでしょうね。

あと布衣は六位相当とされていますが、どうして六位じゃないんでしょう?
官位があると水戸光圀見たいに朝臣だと言い出すのがでないか心配だった。
大大名の家老も通常無位、陪臣だからか?しかし前田家の家老など従五位下は存在。
このあたりどうなっていたんでしょう?江戸時代の官位は謎が多い。
499日本@名無史さん:05/02/25 11:05:04
ちょっと気になって、足利家の将軍またはそれに准ずる人の初位を家の資料で見ると。
3代義満、元服時従四位上(初位?)
義嗣(義満の子)元服時従五位下
5代義量元服時正五位下右近衛中将
7代義勝元服時正五位下左近衛中将
11代義澄還俗後正五位下左馬頭(初位か?)
12代義晴正五位下左馬頭任官の後元服?
義維(義晴の兄弟)従五位下左馬頭(初位?)
13代義輝元服時従五位下
15代義昭還俗後従五位下左馬頭(初位?)
初代2代は初位は5位以下と思われ、他の将軍も五位と思われる、
すると義満のみごり押しで四位か?それとも元服前に五位になっていた?
義満が四位だと、それが前例なのだろうか?
500日本@名無史さん:05/02/27 10:30:14
>497
御三家も一応中将までは尾張の「右兵衛督」、紀伊の「常陸介」、水戸の「左衛門督」など
名乗りは持っている。まあ、参議以上になれば××宰相としか名乗らないけど。

>498
他のは判らないが加賀家家臣に従五位があるのは、当主が参内時に従五位の家臣を引き
連れる必要がある参議以上に成る可能性がある家柄だからだそうだ。もちろん、当主が参
議になってから家臣を任官させればいいのだけれど、一度前例が出来るとあとはなし崩しと
いう形で、まあ、江戸時代お得意のパターンですな。
501日本@名無史さん:05/02/27 13:04:57
>>499に追加
4代義持元服時正五位下左馬頭
義維、義輝以後それまでの正五位下から、従五位下に落ちているようだ。
義満が摂家以上に押し上げたと思われる家格が、清華またはそれ以下に低下したのか?
江戸末期だと摂家は従五位上(現職関白の孫は正五位下)、清華も従五位下が初任らしい。
義嗣は一応は嫡子でないためか?

>>500
ご教示ありがとうございます。
なぜか紀伊だけかなり格下の官なのが不思議ですね。
前田家は主人の方の問題ですか、なるほど。
502日本@名無史さん:05/02/27 14:14:29
>>501
「常陸守」は「上野守」「上総守」同様親王が任じられることになっていたから。
これらの国の介は他国の守と同格。
上野介:吉良、小栗
上総介:織田、松平
503日本@名無史さん:05/02/28 00:38:40
>>501
叙任された年齢も入れて考えた方がいくない?
504竹田丹後守:05/02/28 09:11:25

昔の人間が勝手に官職名を名乗ったり、或いは正式に叙任されたりしたのは、
朝廷の官職に就いている人間=真人間という思想があったからですやろ?

ちなみに、本家の中国・朝鮮でこういう風習はあったんですかね?
505日本@名無史さん:05/02/28 20:35:42
便利なモノサシだったからじゃねーの
506日本@名無史さん:05/02/28 22:34:43
>498
尾張義直はじめ、光友、綱誠、宗睦等は、嫡男の場合でも従四位下右兵衛督からはじまっていたと
思いますが。紀伊も同じだったと思います。
507日本@名無史さん:05/03/01 15:40:35
>>502
それは、全てあなたの思い込みです。
508日本@名無史さん:05/03/03 08:38:15
豊臣期になると中納言とか参議とかに任ぜられる大名が出てきますけど
少納言になった武家っているんですか?
509日本@名無史さん:2005/03/29(火) 19:51:07 ID:
徳川将軍家世子って初任が大納言なのですか?
510日本@名無史さん:2005/04/10(日) 14:28:25
江戸時代に弁官を名乗る武家っていたのか?
511日本@名無史さん:2005/04/10(日) 17:13:34
>>508
少納言は侍従との兼務だから、侍従に任じられている家の中にはあるかもしれない。
>>501
紀州の初代は最初に水戸に封じられていることから常陸介を名乗るようになったのは有名ですよ。
>>509
大納言は時期将軍の官名
512日本@名無史さん:2005/05/02(月) 19:05:07
513日本@名無史さん:2005/05/08(日) 13:41:59
諸大夫(従五位下)の大名は衛門佐だったり、衛門尉だったりするけど、
衛門佐と衛門尉で家格に差があったの?
514日本@名無史さん:2005/05/08(日) 21:05:58
五位の左衛門尉で「左衛門大夫」などとよぶくらいなら
さいっしょっから左衛門佐にしりゃあいいと思うんだが。
福島正則とか。
定員がいっぱいだったのかね?
もしいっぱいだったとしても、そこまでして左衛門にこだわる事なかったと思うんだが。
515日本@名無史さん:2005/05/09(月) 09:14:21
院政時代の基準だと、国守>衛門尉>兵衛尉>馬允の序列だったらしい。
また鎌倉時代だと将監>衛門尉だったらしい。
すると徳川大名で初期に2、3例見られる左右馬允と言うのが、本来の官職の格では最下等だろうか。
むろん当時は誰もそんなことは意識してなかっただろうが。
ちなみに右兵衛尉・大夫と言うのは珍しくないが左兵衛尉は見たことがない。
なにか忌避される理由があったのだろうか。
516日本@名無史さん:2005/05/10(火) 00:12:51
兵衛尉と馬允は官位としては同格なのになんで差がついたんだろう?
517日本@名無史さん:2005/05/10(火) 10:15:39
馬大允は正七位上、少允は従七位上。
兵衛大尉は平安初期の改定後は従六位上、少尉は正七位上で衛門と同格、
それ以前は馬允とほぼ同格、と言うか兵衛府自体が寮級の官司だった。
しかし院政期にはなぜか衛門少尉>兵衛大尉だったらしい。
518日本@名無史さん:2005/05/10(火) 12:35:07
オマエラ全員に。

マジベンキョウニナリマス、アリガトデス。
519日本@名無史さん:2005/05/10(火) 18:51:13
春宮坊の主馬首を名乗る徳川大名がいないのはなぜだろう?
武士の名乗りにはなんたら主馬ってよくいるのに。
52052:2005/05/15(日) 17:48:03
>515

 江戸時代だと、鷹司松平や明石松平といった連枝大名や足利末流の喜連川が左兵衛督を使っているから、
「尉」とはいえ他の大名は使いにくかったんじゃないだろうか。 室町時代のことはよく知らないけど、喜連川が
使っていると言うことは関東公方に縁の官名とかあったのかもしれず。
521日本@名無史さん:2005/05/20(金) 14:42:48
age
522日本@名無史さん:2005/05/20(金) 20:16:27
>>520
確かどこかで鎌倉公方は左兵衛督って読んだ気がする。
それで斯波も兵衛督で武衛家、細川本家が右京大夫で京兆家。
けど細川本家ってなんで左京大夫じゃなかったんだろう?
523日本@名無史さん:2005/05/20(金) 20:33:56
俺の予想だけど

左京には京都御所と室町御所があるからじゃないか?
524日本@名無史さん:2005/05/27(金) 22:13:27
保守
525日本@名無史さん:2005/05/30(月) 09:23:59
昔大河ドラマで片岡鶴太郎演じる北条高時がタイシだかタイシュだとか呼ばれていたけど、
これってなんだろう?
とりあえず思い浮かぶ字、太子、大使、大志、大師、太守。

太子、実質的に日本国王となりつつあった得宗の称を国王に准ずるものとしたのか?
    さすがにちょっと無理があるか?
大使、征夷大将軍の前史または初期の別称であった征東大使の略。
    得宗を将軍になぞらえたものか?
大志、衛府の主典。いくらなんでも地位が低すぎ、ありえない。
大師、藤原仲麻呂が太政大臣を改称。不吉な先例なので多分違うだろう。
太守、本来は親王の国守のことだが、確か得宗は武蔵守とか陸奥守に任官することがあっ
   たはずで、単に大国の国守の意味でこう呼んだものか?
526日本@名無史さん:2005/05/31(火) 13:01:57
>>525
奥州の葛西氏も「太守」と称されたことがある。
単に大きな領主をいう俗称じゃないの?
527日本@名無史さん:2005/06/05(日) 20:20:46
官途名の場合蔵人佐とか隼人佐とか帯刀丞とか本来の制度にない変な名称がままある。
これは与えたほう(関東管領とか守護とか大名)の無知によるのか?
それともわざとだろうか?
528日本@名無史さん:2005/06/05(日) 20:33:00
朝廷から貰ったものじゃないから
529日本@名無史さん:2005/06/05(日) 21:31:44
>>525
北条得宗家当主の別称で官位ではない。
530日本@名無史さん:2005/06/23(木) 00:56:35
どうしてそう呼ばれたの?
531従八位下助平監爽太 ◆V1tIOWLYnE :2005/06/23(木) 01:26:00
決めた!
俺、橋から“従八位下 助平監”を名乗ることにするよ。
532日本@名無史さん:2005/06/23(木) 11:16:05
>>504
ない。それから朝鮮は本家じゃない。
>>527
多分そうだろう。
>>488
「新元史」という中国人が明治時代に編纂した史書があるけど、その中では天皇が最高権力者で、北条時宗は単に相模守と書かれている。
実際中国人から観ればそういう印象を受けるだろう。
533日本@名無史さん:2005/06/23(木) 15:52:06
北條家督者は相模守に任官しているから、
太守と称される。違和感はない。
534日本@名無史さん:2005/06/23(木) 16:33:13

北条の家督を得宗ということは知られているけど
二人称として「得宗殿」とか「得宗様」とか呼ばれることがあるのかな?
実際は何と呼ばれたのだろう?・・「相模守殿」じゃ並の家人みたいだし・・
差別化するためにドラマ作者が「太守」にしたのでは?
535日本@名無史さん:2005/06/23(木) 20:48:49
たしか、北条時頼が執権退任後自ら「太守」と称して、以来得宗家の当主は
太守と称するようになったと以前、どっかの本で読んだことがある。
天皇の「主上」「お上」や征夷大将軍の「上様」みたいな意味合いの
尊称なんでしょう。
536日本@名無史さん:2005/06/24(金) 00:27:50
太守はもともと、親王任国の上総・上野・常陸の
三箇国の国司の長官を指していたが、時代が下って
他の国の長官たる守もそれに倣って太守と
呼ばれるようになったという経緯がある。
その経緯を踏襲したということであろう。
得宗殿あるいは執権殿と当初は呼ばれていたが
得宗家の地位が上がり確立すると、もはや得宗殿
と呼ぶのは憚れる域まで達し、それと古来から呼ばれた
太守という呼び方がマッチしたということであろう。
得宗は、相模守に任官し、相模太守、
相模国にある鎌倉(幕府)の主という意味合いも兼ねている。

537日本@名無史さん:2005/06/25(土) 01:02:08
15世紀〜16世紀の話です。
毛利の陸奥守など朝廷に成功して貰った官職、幕府御教書にも記載されている官職。私称官はどこから私称なんでしょうか?
538日本@名無史さん:2005/06/25(土) 01:11:27
いわゆる官途書出といわれる古文書に
私称と思われる官職が見出せる。
領主から家来に出されるもので
朝廷には報告していない。通していない。
539日本@名無史さん:2005/06/25(土) 11:43:06
>>537

官位相当表にない官職はニセ
(ただし令外の官に注意)
ニセのほうは相馬百官とか引けば分かるよ
540日本@名無史さん:2005/06/27(月) 12:34:01
>>539
相馬百官って何だ?
541日本@名無史さん:2005/06/27(月) 12:48:53
>>540

辞書ひけって
542日本@名無史さん:2005/06/27(月) 14:08:30
室町時代以降は〜守と名乗っていても必ずしもその国の長官じゃない
そうだけど  戦国時代の武将で伊予守がついた人がいるけど(肥後国人)
何で伊予守かな? 先祖に伊予守がいたからかな
543日本@名無史さん:2005/06/27(月) 15:05:39
>>542
>先祖に伊予守がいたからかな

いれば良心的なほう。しょせん僭称だからな
544日本@名無史さん:2005/06/27(月) 15:34:50
何のゆかりもないのに 武士がそれを名前につけても良かったのだろうか
545日本@名無史さん:2005/06/27(月) 15:55:15

無政府状態で誰がとがめますか?
546日本@名無史さん:2005/06/27(月) 16:00:03
>>545
無政府状態か・・・それならそうかもね
547日本@名無史さん:2005/06/27(月) 18:00:57
宮本「武蔵」みたいなのが至る所うようよしてたってことだな。
548日本@名無史さん:2005/06/27(月) 19:10:26

おのおのの実力と運で
1国を斬り従えるヤシ
1郡を斬り従えるヤシ
2〜3ケ村を斬り従えるヤシ
1家だけを保つヤシ
没落し流浪するヤシ

それぞれ勝手な官名を名乗ってます
549日本@名無史さん:2005/06/28(火) 21:15:20
得宗家当主は代々相模守に任じられるんだっけか?
ちょっと記憶があやふやだが。
550日本@名無史さん:2005/06/30(木) 12:06:46
歴代得宗の相模守任官
北條義時 相模守
北條泰時 武蔵守
北條時頼 相模守
北條時宗 相模守
北條貞時 相模守
北條高時 相模守
というように相模守を歴任。
但し、北條泰時は官位に執心した叔父の北條時房や
弟の北條重時に相模守を譲る。
551日本@名無史さん:2005/06/30(木) 16:03:34
織田信長って上総介をなのる前に上総守をなのったんだけど、誰かに「上総‘守’は無い」って言われて上総介にかえたらしいけど…本当ですか?ソースは忘れました。
552日本@名無史さん:2005/06/30(木) 16:16:32
上総・上野・常陸の三箇国は親王任国であるから
長官たる守は親王が任ぜられることになっている。
従って、親王では無い織田信長は次官たる介を僭称するに至る。
553日本@名無史さん:2005/06/30(木) 19:12:36
常陸宮は、常陸国が親王任国だから、それにちなんで
宮号になったらしいね。
554日本@名無史さん:2005/06/30(木) 19:14:28
上総宮殿下
上野宮殿下
555日本@名無史さん:2005/06/30(木) 19:14:43
常陸製作所
556日本@名無史さん:2005/06/30(木) 19:25:50
何故に関東といふ僻地ばかりなのか?
557日本@名無史さん:2005/06/30(木) 19:57:50
西には太宰府がある。
長官の帥は親王任官専用。
東には太宰府に相当する高位の官職は無い。
鎮守府はあっても長官の将軍は従五位下相当。
帥は従三位。
だから、東国に高位の官職が必要だった。
都合よく、親王任国三箇国は何れも大国で長官の守の
官位相当は何れも従五位上。
親王任国三箇国の長官たる太守(守では無い)は正四位下の相当。
八省の内、中務卿を除く他の七省の長官たる卿と同列。
また、常陸国は北辺の陸奥国に隣接しているし。夷狄防衛の意味もある。
558日本@名無史さん:2005/06/30(木) 20:40:39
>>557
いくら親王を任官しても、実際に赴任しなければ防衛の意味がありませんが。
559日本@名無史さん:2005/06/30(木) 21:28:31
>557
親王任国の太守は正四位下と言っておるようだが、親王の位に正四位下と言う
ものは無いぞ。親王なら四品ではないか?実際の長官である介もあくまでも他の
大国の守と同じで従五位上の筈だが如何に。
>558
親王は帥も守も実際に赴任などする訳がないではないか。大宰府では権帥か
次官の大弐か小弐が実務を執り、国では介が実務をとるのだ。
560日本@名無史さん:2005/06/30(木) 21:39:03
平時に赴任する必要は無い。
抑えとしての存在感を示す効果がある。
親王の位階は確かに品位であるが、
官位相当上では正四位下。
勿論、品位なら四品となる。
現実には守の実務を介が執ることになるが、
制度上は、大国の介の官位相当は正六位下。
太宰府も同様である。
因みに、大宰帥の見任者がいれば、権帥は置かない。
権帥の見任者がいれば、次官の大弐は置かないという
慣例もある。
561日本@名無史さん:2005/06/30(木) 22:00:36
>560
権帥・大弐の件、その通り。権帥を大弐と言ったり、大弐を帥と言ったり、
つまり権帥と大弐は両職が長官のため、名称がよく混用されている。
大国の介は正六位下ではあるが、親王任国のため、介は五位の位を持ち、
これを大夫介と言った。また親王任国の介をたんに守とも呼ぶ事がよくある。
562日本@名無史さん:2005/06/30(木) 22:10:06
>560
追加だが、官位相当で太守=正四位下とあるが、親王任国の太守は
例外のため、律令官制の官位相当には当てはまらないはずだが如何に。
関係無いが官位相当による参議の正四位下も根拠の無いものである。
563日本@名無史さん:2005/07/01(金) 00:46:34
>>538
 守護クラスの大名が家臣に出す官途状が私称なのはわかるんです。
 成功して貰ったことが確実な官職などはどうなんでしょう。この時代でも武家官途は員数外なんでしょうか。
 守護クラスの大名はたいがい修理大夫、大膳大夫といったあたりの官職を称してますよね。
 で、その中にはちゃんと任官していた島津の修理大夫や、朝倉義景の左衛門督があるわけですが、こいつらが確実なんだから他の守護大名も(員数外だったとしても)正式任官だったんだろう、と出来ますか?
 近衛家から継室を迎えたらしい北条とかも私称なんでしょうか。
564日本@名無史さん:2005/07/01(金) 10:02:20
江戸幕府は武士が勝手に朝廷から官職に任命されてはならないと決めた割に私称については特に規制しなかったのか。
変な政権だよな。武家諸法度、公家諸法度、寺院法度による有力者統制、五人組に代表される庶民統制に結社の自由すらなかった。
その一方では官位の私称OK、職人受領・官途OK。盲人などのギルドでは勝手に官位を称する、、、
565日本@名無史さん:2005/07/01(金) 16:50:12
>538
その辺の事情は今谷 明氏の講談社学術文庫「戦国大名と天皇」に詳しく載って
います。結論を言えば正式任官です。人気のあったのが左京大夫、次が修理大夫で
何人もいます。東北の端から九州の端まで、献金のあった大名には官位の乱発があり
官位のインフレと表現されています。
566日本@名無史さん:2005/07/01(金) 17:26:22
>564
私称と言いますが、どのようなものですか。古い大大名の一族には伊達民部や
島津備後などの名乗りがありますが、それは少輔や守を付けない限り私称とは
言えないでしょう。正式官名は叙爵しないと名乗れません。それに、庶民の
名前である何兵衛や何右衛門や何左衛門も官名私称と言う事で規制していたら、
大変な事になりますからね。朝廷でも八省などで最下級の史生など、申し込めば
簡単に史生に補され、正七位下と受領名を名乗ります。盲人なども座を持つ
久我家を通じて、検校などの位を貰う事になっていると思います。
567日本@名無史さん:2005/07/01(金) 20:26:35
例えば、作左衛門尉とか蔵人佐といった純粋に
官職名と称しがたい通称名(仮名)を授ける場合がある。
これを仮名(けみょう)書出という。
戦国大名が家来に発行した古文書に見受けられる。
568日本@名無史さん:2005/07/01(金) 20:45:04
戦国大名が任官できる正五位下から従四位下の官位相当の
官職は決まっている。
修理大夫、左京大夫、大膳大夫、八省の大輔あたりである。
左近衛中将は足利将軍家。
左衛門督は斯波管領家や畠山管領家。
右衛門督と弾正少弼は山名所司家。
左兵衛督は鎌倉公方や斯波管領家。
右兵衛督は、畠山管領家。
右京大夫は細川管領家というように任官の家柄が慣例化している。
その中で、朝倉義景や大友義鎮が左衛門督に任官したり、
大内義隆が太宰大弐に任官出来たのは特記すべき例外である。
569日本@名無史さん:2005/07/01(金) 21:55:22
たぶんガイシュツなんでしょうが教えて下さい。
伊織とかの関東官位?って本当は何なんですか?
570日本@名無史さん:2005/07/01(金) 21:57:50
官位でもなんでもない、ただの名前
571日本@名無史さん:2005/07/01(金) 22:01:32
いや確かうえのほうで誰か解説してなかったかな
官職じゃないけど官職っぽいなんかそういうの
572日本@名無史さん:2005/07/01(金) 22:21:28
http://history.dot.thebbs.jp/r.exe/1057856159.182-184

今回はザのほうからひっぱたが、2chだと別のスレにあったな。過去ログ落ちしたかな?
573日本@名無史さん:2005/07/01(金) 22:21:32
伊織とは平将門が新皇を称し
百官を定めた時に設置した官職といわれる。
その職掌は不明であるが。
574日本@名無史さん:2005/07/01(金) 23:22:27
↑左膳、右膳、左門、右門、左内、十内、平馬、数馬など色々ある。
江戸時代には普通に名前として使われていた。時代劇なんかでよく
見るよね。
575日本@名無史さん:2005/07/01(金) 23:36:44
>>571

その手の官名もどきを総称して、相馬百官とか東百官という
576日本@名無史さん:2005/07/02(土) 00:23:29
参議には官位相当が無い。
正四位下だとか正四位上だとか
いかにも官位相当があるかのような記述を
している書籍が氾濫しているが、
参議に官位相当を付与した詔勅、宣旨、格式は
存在しない。
かの菅公は参議に官位相当が無いのは問題だから
官位相当を付すよう上申書を朝廷に奏上しているが
結局、沙汰止みになったようだ。
菅家文草に載っている。
577日本@名無史さん:2005/07/02(土) 00:29:54
なにげに良いスレすごいスレ・・・
578日本@名無史さん:2005/07/02(土) 08:52:51

百官名(朝廷の官職名、狭義には京官)
受領名(朝廷の官職名だが国司名)

相馬百官・東百官(官名もどきの総称、伝説に平将門が相馬に内裏を造った時
 定めたというので、かく言う)
・将門が関東を支配した期間から考えても、種々の官職を定めたとは考えにくい。
 「将門記」によると将門が弟らに与えた官職は朝廷のコピーでオリジナルではない
579日本@名無史さん:2005/07/02(土) 19:39:37
勉強になる・・・頼母とかユキ負とかの正体がわかったべ。
580日本@名無史さん:2005/07/02(土) 20:07:23
ョ母、源内、十内、左内、右内、左門、右門、求馬、久米、伊織、左膳、右膳、小膳、
左平、右平、左中、右中、中記、要人(かなめ)、男吏、数馬、司書、浪江、波門、
平馬、兵馬、丹下、衛守(えもり)、江漏(えもり)、兎毛(ともう)、古仙、藤馬、弾馬、牧太、
武極、蔵主(くろうず)、音門(おんと)、自然、男也(おなり)、清記、弥刑部、
大所化(おおしょけ)、小所化、多門、平角(へいつみ)、宮門(くもん)、一学、
采禰(うねね)、采殿、典礼、典女、遠炊、斎(いつき)、鵜殿、丹宮、将殿、主尾、
梅干(ほや)、信像、肥富、正遺、丹弥、門弥、矢柄、茂手木、喜内、軍記、諸領、
中(あたる)、求官、首令、愎馬、申芸、一問多(いっとうた)、喜問多、志津摩、能登路、
織之助、織居、文内、文庫、愛助、隼人助、小源太、左源太、亙(わたり)、恰(あたか)、
転(うたた)、此面(このも)
581創作文芸板住民:2005/07/02(土) 20:08:59
>>580
時代小説の登場人物命名リストに入れました。さーて、これから小説書くぞー。
582日本@名無史さん:2005/07/02(土) 22:01:17
>576
>562で既に参議が官位相当していない事を書いているけど、>576はその補足ですか?
それと菅家文草など持ち出して、かなり博学と見たが、それでは次の質問に答えられるかな?
平安初期から慣習として、正五位上と正四位上が越階される様になった事と、しかし例外として
両位が近世の名家の内、弁官、蔵人、蔵人頭になる家と羽林家の中で同じく蔵人頭になる家の多くに
見られるのは何故かご存知かな?
583日本@名無史さん:2005/07/04(月) 15:13:42
>>579
ユキ負は違うだろ。奈良時代の官名にあるぞ。読み方は「ユゲイ」だけど。
584日本@名無史さん:2005/07/04(月) 19:43:59
衛門府の官人は常に弓箭を身に着け、
箭筒という靫(ゆき)を背負っているところから
靫負(ゆげい)という。唐名というよりは別名である。
検非違使庁の官人は衛門府を兼帯するところから、
検非違使庁の別名を靫負庁ともいう。
江戸時代、名を忘れたが、靫負という名が気に入って、
左衛門佐に任官していたのに靫負佐と称していた大名がいた。
585日本@名無史さん:2005/07/05(火) 19:06:24
既出だけども、
彦根の家老で木俣土佐守。
 陪臣でも受領名を貰うんでしょうか。
586日本@名無史さん:2005/07/05(火) 19:11:07
加賀前田家の家老も受領名をもらっています。
江戸初期の前田家の当主の官位が公卿だったので、諸大夫が必要であり、
それがそのまま既得権になったようです。
587日本@名無史さん:2005/07/05(火) 19:16:58
かの有名な播州赤穂藩家老大石内蔵助良雄
は国司では無いが、内蔵寮の次官たる助
すなわち令制の官職を帯している。
基本的には、藩主が三位以上の位階を有すると
家老は叙爵し、従五位以下相当の官職を帯びることが
可能である。
彦根の井伊掃部頭家の藩主は、極位は正四位上だから
前述の慣例からすれば、例外と考えられる。
588日本@名無史さん:2005/07/05(火) 19:31:33
木俣土佐って戦国時代から代々土佐守だよね?
正式なものでないんとちゃう?
589日本@名無史さん:2005/07/05(火) 19:40:31
>>587
浅野長矩さんは従五位下どまりでは?
吉良さんが従四位上左近衛少将だから、それより上ということはないと思いますが。
590日本@名無史さん:2005/07/05(火) 20:41:51
吉良義央は柳営補任によれば、
正四位下の位階になっている。
591日本@名無史さん:2005/07/05(火) 23:38:11
前田家は天正18年利家の従三位参議任官時に年寄2人が叙爵したのが最初で、その後
昇進と共に叙爵者が増え、最高14人になつている。しかし、その後、幕藩体制の確立と共に
公卿相当の官位を持つ大名と雖も、御所に参内する事が無くなった。その結果参内に必要な
諸大夫が要らなくなった事と、幕府が陪臣への官位授与をしない方針を採った為に、前田家でも
元禄4年まで年寄の叙爵が絶えていた。綱紀の参議昇進が元禄6年の為、今回は当主の公卿昇進とは
関係が無く、加賀藩の待遇が御三家に順ずるものとされた為と指摘されている。
八家と呼ばれる年寄8人の中から4人が叙爵を受け、幕末に至っている。
592日本@名無史さん:2005/07/05(火) 23:38:10
>>587

それ書こうかと思っていたところ。大石内蔵助は私称。自署は「内蔵介」w
赤穂程度の家老に叙爵の資格はない
593日本@名無史さん:2005/07/05(火) 23:43:40
591
順ずるではなく、準ずるの間違いでした。
594日本@名無史さん:2005/07/06(水) 09:29:45
老中の定員以外で、老中と等しく、
同じ資格で政務に参画させるために老中格を設置した。
また、老中は、通常5万石以上の譜代大名が就任する規定があったが、
3万石以下の大名でも、老中同様に参画させるために老中格とした。
老中格は老中の発する奉書に加判、自書はしないが、
他実務は何ら変るものではない。
595日本@名無史さん:2005/07/06(水) 09:37:31
そうなると、若年寄並も同様のことが言えるのだろうか?
待てよ、このスレでよいのか。
596日本@名無史さん:2005/07/06(水) 09:44:03
加賀国金沢の前田家と同様に家老あたりを叙爵し任官した藩は、
尾張国名古屋の徳川家、紀伊国和歌山の徳川家、常陸国水戸の徳川家あたりだが、
薩摩国鹿児島の島津家の藩主の中には権中納言や参議に補任
あるいは従三位に叙せられた者がおり、
家老あたりは叙爵任官したのであろうか。
597日本@名無史さん:2005/07/06(水) 09:57:53
>>596

薩摩や仙台はいくら大藩でも家老は叙爵できない。
あとは三卿のみ。(もっとも幕府本体からの出向だが)
598日本@名無史さん:2005/07/07(木) 00:36:14
>>565
ありがとうございます。やっぱ正式任官なんですか。
ということは室町時代には既に、武家の官職は員数外だったてことなんですね。
599日本@名無史さん:2005/07/07(木) 16:43:41
>598
員数外ではなく、正式な任官です。室町末期から戦国にかけては、朝廷、幕府共に
組織的には殆ど壊滅しており、収入源としての官位乱発が行われた結果、同時期に
同じ官職を持つ大少名が何人も存在すると言う異常事態になっていました。
そう思うと江戸時代の様に、幕府の一元管理の下に完全な員数外の、謂わば擬官位で
ありながら各大名毎に非常に細かい官位の昇進規定があり、何とか家格を上げようと
多くの大名達が猟官運動に鎬を削っていたのも何か変ですね。官位の魅力恐るべし。
600日本@名無史さん:2005/07/07(木) 19:57:19
ここは唐名の話をしてもいいのですか?
601日本@名無史さん:2005/07/07(木) 20:34:23

まあ止めておいたほうが・・
602日本@名無史さん:2005/07/07(木) 21:00:18
>600
唐名、大歓迎ですよ。日本の官位を中国風に読み替える官職唐名は非常に
ポピュラーなもので、先進国であった中国に対する憧れもあり、日記や詩文など
私的な文書には、頻繁に散見出来る。これは朝廷の官職を用いた武家社会に措いても
同じで、大名、旗本の墓石に彫られた法号の中の官職名も唐名のものが多い。
日中の官職名対比は大変面白いと思います。
603日本@名無史さん:2005/07/07(木) 21:09:14
水戸黄門と小早川金吾ぐらいしか知らん
604日本@名無史さん:2005/07/07(木) 21:41:03
官職はともかく、官位制度は現在も続いているが(死後叙位で
中曽根康弘が死去したら、おそらく従二位か正三位が叙位されるは
確実。)過去の人の官位も法的に現在も有効なのかね?

605日本@名無史さん:2005/07/07(木) 21:44:56
皇居の称の内裏、禁中、参議の宰相、太政大臣の相国、相国と左右大臣を言う
三公、准大臣(本当は一位の事)の儀同三司、中納言の黄門、衛門の金吾、
近衛の羽林は、近衛の少中将に任じられる羽林家として公家の家格にもなっている。
これはごくごく一部で、昔の貴族は、大統領をプレジデントと言うように、唐名を
モダンな感覚で、且つ日常的に使っていた。
606日本@名無史さん:2005/07/07(木) 21:52:58
あー言われてみれば言うな
甲府宰相綱豊とか平相国清盛とか
607日本@名無史さん:2005/07/07(木) 23:35:44
参議は宰相より、相公の方が重みがあるような気がする。
宰相公の略だが。
608日本@名無史さん:2005/07/08(金) 18:38:07
太政官符
応親王任国守事
上総国 常陸国 上野国
右検中納言従三位兼行左兵衛督清原真人夏野奏状
(中略)
但件等国守官位卑下、宜改定正四位下官、以為勅任、
号称太守、(以下略)
天長三年九月六日
類聚三代格より

親王任国と定めても官位相当は正四位下とした史料である。
親王専任の官職だから、官位相当は四品と考えやすいが、
世の中、理屈通りにはならない例証でもある。
609日本@名無史さん:2005/07/09(土) 09:15:46
三浦介とか千葉介とか常陸大ジョウとかは私称ですか?
それとも一応歴代介等に任ぜられたのですか?
あと少弐氏は実際に歴代少弐に任ぜられたのですか?
610日本@名無史さん:2005/07/09(土) 09:26:16
三浦介は相模介に任官。
千葉介は下総介に任官。
このような苗字と官職(介)が一緒になった例が八家あるので八介という。
富樫介=加賀介。狩野介=伊豆介などなど。
少弐氏は太宰少弐や筑前守や筑後守に任官している。
611日本@名無史さん:2005/07/09(土) 09:38:39
「相国」で想い出したが、何故に支那に於いては、
男色を売る俳優・優伶の事を「相公」と称したのでありましょうや?
612日本@名無史さん:2005/07/09(土) 10:14:27
相公(シャンコン)とは旦那さんと言う意味。
そこで大相公は、大旦那さん(老相公(ラオシャンコン)とも云う)、
小相公(シャオシャンコン)は若旦那さんと云うことになる。
もっとも日本での大旦那、若旦那同様、
中国でも大相公、小相公はあまり使われなくなっているようだ。
因みに、相公にはオカマという意味もある。


613日本@名無史さん:2005/07/09(土) 13:01:34
 話を戻して悪いが、江戸の官名名乗りは中央官名は長官のみ官位者限定で次官以下は
自由に名乗れたはず。だから大石内蔵助は無官でも問題なし。

 あと国名名乗りは「守」「介」を付けなければ陪臣のみ可(旗本は不可)。木俣土佐はこの
ケースじゃないかな。でも、藩内の文書だと不可のはずの「守」が平気で付いていたりして
混乱する。幕府に気が付かれなければ何でもありだったのだろうか?
614日本@名無史さん:2005/07/09(土) 14:00:22
神道のほうの吉田家が官名を勝手(というか独自)に与えていて、
ただそれを正式のものと区別するために山城守を山城頭と書くとかって読んだことがあるけど、
国守の他に中央の官でもそういうのがあったのかな?内蔵守とか大膳介とかいう感じで。
615日本@名無史さん:2005/07/09(土) 14:03:46
現代の感覚でいえば細かいことに疑義を持つだろうが、
国語審議会があるわけでも無いし、
法制審議会があるわけでもない。
そのへんは、おおらかな時代である。
当て字が堂々と使われていた時代なのだから。
616日本@名無史さん:2005/07/09(土) 19:19:13
>>610
 ほかには、どこでしょう。城介、井伊介かな。

>>613 「陪臣のみ可(旗本は不可)」なのですか、さすが博識。
 長州の国司信濃もそれでしょうか。ちなみに、国司って姓も変ですね?
 ところで、「陪臣のみ可」とは、どこで決まっていたんでしょう、武家諸法度?
617日本@名無史さん:2005/07/09(土) 19:43:24
八介
秋田城介=出羽介=秋田城司介
三浦介=相模介
千葉介=下総介
上総介(千葉氏系統)=上総介
狩野介=伊豆介
富樫介=加賀介
大内介=周防介
井伊介=遠江介
618日本@名無史さん:2005/07/09(土) 21:10:02
>613
旗本は不可の典拠は?フィクションだとは思うが、番町皿屋敷の旗本は
青山播磨と言っている。(播磨守に任官していたかも)名乗りとしての
官名は、播磨や主水や右衛門や民部などと称しても問題無いのではないか?
619日本@名無史さん:2005/07/09(土) 21:32:51 BE:132121038-
守名乗りで検索汁
620日本@名無史さん:2005/07/09(土) 22:14:53
家督相続すれば代々の当主が称していた仮名を使うことになる。
たとえば、十左衛門が代々の当主が称する家名なら子孫の当主に伝承する。
主計が代々の当主が称する家名なら子孫の当主に伝承するの例である。
621日本@名無史さん:2005/07/09(土) 23:09:52
>>620
住友家もそうですか?
622日本@名無史さん:2005/07/09(土) 23:31:58
住友家は三代当主友信から、吉左衛門の仮名を継承しているようだね。
623日本@名無史さん:2005/07/10(日) 01:16:28
弁官、特に頭弁職はアホでは到底勤まらず、人物が判断基準だったから。
勿論、藤家の中の優れた者が多い。
(必ず最優秀という訳ではない、当然父親のポストも影響した)
また近衛大将も同様。
624日本@名無史さん:2005/07/10(日) 13:44:02
内覧、北面、帯刀、滝口、院武者所等の唐名ってありますか?
625日本@名無史さん:2005/07/10(日) 16:52:37
随身って唐名がありますか?
626日本@名無史さん:2005/07/10(日) 21:40:18
>623
何の事か分からん。何かの答えか?
627日本@名無史さん:2005/07/10(日) 21:47:22
628日本@名無史さん:2005/07/10(日) 21:50:19
>>627
ごばくった。今夜は野宿します。
629日本@名無史さん:2005/07/11(月) 12:25:15
遊撃将軍って従五品だっけ?従三品だと思ってた。
提督−総兵−副将−参将−遊撃−都司−守備−千総−把総−外委
630日本@名無史さん:2005/07/11(月) 13:17:15
名乗りで兵馬ってあるけど、兵馬司はなくなってる。
やはり武人っぽいから使われたのかな?

>>629
唐名の方の遊撃将軍は唐の武散官からですね。
中国の官名は時代によって地位も職掌もかなり違っていることがあります。
例、中書舎人、南朝では下層階級出身の秘書官(7品程度)
宋だと宰相候補の超エリート(確か従4品くらい)、明だと内閣の書記(7品?)
631日本@名無史さん:2005/07/11(月) 14:12:24
鎌倉時代当たりの関東の田舎豪族が先祖を顕彰するために立てた碑文で
右衛門尉だったらしい先祖を右金吾と書いているらしい。
すると田舎豪族の間にも唐名というものは浸透していたのだろうか?
まあ京下りの官人か誰かに文章は作ってもらったんだろうから、
書いた人が衒学趣味だっただけかもしれないけど。
632日本@名無史さん:2005/07/11(月) 19:27:06
>>631

僧侶なんかが教養ひけらかして戒名の一部に入れたりするよね
633日本@名無史さん:2005/07/11(月) 19:31:36
いや、別に教養ひけらかしてるんじゃなくって、
故人のためにかっこいい戒名つけてあげようと知恵を絞った結果だと思うわけだが。
634日本@名無史さん:2005/07/11(月) 19:41:06
お前ら、いつからこのスレは「戒名ってどうやって決まるの?」になったのですか?
635日本@名無史さん:2005/07/11(月) 19:44:35
>>633

あなたは善人ですね。衷心より敬意を表します
636日本@名無史さん:2005/07/11(月) 19:59:28
弾正尹、左京大夫、右京大夫、大宰大弐などなど
官位相当の変更がなされた事例があるが、
その理由は何なのだろうか?
637わしも知りたい:2005/07/11(月) 21:04:42
636 信長は織田一族の弾正忠家といわれるが、官名には弾正大忠と弾正少忠しかないし…
他にもあるが何故?
638日本@名無史さん:2005/07/11(月) 23:10:10
弾正尹は律令制度の中では元々、従四位上の官位相当だったが、
対象位階が低いため、余人は軽んじ、バカにし、
言う事を聞かなくなったそうだ。
そこで従三位相当に格上げしたということである。
さらに、親王を尹に任官させ、重職感を漂わせようとしたが
その後、検非違使の登場とともに、再び
形骸化してしまった。
639日本@名無史さん:2005/07/11(月) 23:17:21
>636
>582で問題を提示した越階(おっかい・位を飛ばして昇進する事)の答えと一対に
なるのが、この官位相当の変更です。慣習として越階は行われていましたが、正五位上と
正四位上が延暦年間ごろから、通例的に越階されるようになりました。これは、官人に
とって五位と四位と三位の権利待遇の差が大きく、早く昇進したいためのものでした。
それにより、実質正五位上は空位になり、相当官であった衛門督、左右京職の大夫、太宰大弐
などが従四位下に格上げになったのです。
640日本@名無史さん:2005/07/12(火) 00:06:47
正五位上官位相当の官職は、結局、
左中弁、右中弁、中務大輔、大膳大夫だけとなる。
正四位上官位相当の官職は、東宮傅、中務卿だけとなる。
なお、五位蔵人は、従五位下から正五位上まで。
蔵人頭は従四位下から正四位上までが相当となる、
因みに蔵人頭は正四位上の位階で補任されることが散見される。
641日本@名無史さん:2005/07/12(火) 21:10:19
>640
蔵人は関白などと同じで、官ではなく職である為、位とは相当していません。
蔵人頭は江戸時代に限れば、頭弁(頭中将は未調査)延べ106人中、正四位上で
頭になったのは7人です。殆どが従四位下での就任で、頭在任中に正四位上まで
昇っています。普通は正四位上は越階しますが、頭は殿上人の上首のため、
三位の頭はあり得えず、昇叙の限界として慣例化しました。
642日本@名無史さん:2005/07/12(火) 22:00:25
足利義持時代の小早川則平が朝鮮と通行した時に「九州総守・西海路美作太守」とか
「九州巡撫使・作州前刺史」とか名乗っています。
また息子で家督継承から排除された持平(偽者?)は同様に「関西路安芸州小早川美作
守持平」と名乗っているようです。
この場合の太守・刺史等は、守護なんでしょうか国守なんでしょうか?
総守・巡撫使ってなんでしょう?九州探題?
643日本@名無史さん:2005/07/12(火) 23:11:51
>642
朝鮮が相手なので分かり易いように、唐名に当てはめて名乗っているのと、
まあ後は自分を大きく見せる見栄でしょう。
足利将軍だって日本国王なんて名乗っているんだから。
644日本@名無史さん:2005/07/13(水) 00:14:05
唐・天竺はあこがれの国で、唐は海を隔てて隣国。
唐様の名を使ったわけです。
現代でいう欧米に憧れるどこぞやの民族に似たり。
645日本@名無史さん:2005/07/13(水) 00:24:46
蔵人頭は四位の位階に叙せられた者から
補任されるのであるから、四位相当と考えて構わないだろう。
ところで誰だったか忘れたが、参議になっても蔵人頭を兼帯
したいと駄々を捏ねた者がいた。
また、三位に叙せられても蔵人頭に見任したいという者もいた。
646日本@名無史さん:2005/07/13(水) 22:32:33
>645
>641で蔵人は摂関と同じく、職(令や格により相当が決められておらず、四等官制
から外れている)の為、位に相当しないと書きましたが、摂関においても初期の藤原
忠平から頼忠までは摂関就任後に太政大臣になっており、それが職である摂関の官的
裏づけになっていました。その後兼家は頼忠が関白辞任後も太政大臣に留まった為、
大臣も辞し、無官の摂政となり、三公の上に列すべしと言う「一座の宣旨」を得て、
摂関は三大臣の上位になったのです。この様に「官」は重く、蔵人頭も頭が四位に
相当していると言うより、本官の弁(大弁または四位の中弁)や近衛中将が四位に
相当していると考えた方がいいのではないかと思います。
647日本@名無史さん:2005/07/14(木) 00:39:13
こじつけでしょうね。官職の何を兼帯しようとも、
蔵人頭は蔵人頭。ましてや蔵人頭は殿上人の上首だからね。
官と職に差異を設けるとなどと難癖をつければ、
蔵人頭が殿上人の上首とは片腹痛くなる。
蔵人頭は卑下の官職ではないよ。
648金吾秀秋:2005/07/14(木) 03:14:26
官命は、本人の実力によって決まる(´・ω・`)
コネや縁故などというものが介在する余地はない。
649日本@名無史さん:2005/07/14(木) 09:56:07
>647
>646ですが、論旨を理解しておられますか?頭を卑下の職などと言った覚えは
ありませんよ。ただ蔵人は職のため、官位相当はしていないと言っただけです。
これはどう理屈を付けようとも厳然たる事実です。何度も言いますが、四位の
位を持った弁官や近衛中将が頭を兼ねるから、必然的に頭は四位なのです。
分かりますか?厳しい言い方になりますが、これが理解出来なければ、官職を
論じられませんよ。官位相当表の何処に蔵人が載っているかよく見て下さい。
650日本@名無史さん:2005/07/14(木) 12:52:57
>>649氏の言われるとおりなんですが、
便宜上は官位相当表で蔵人が載ってるのもありますよ。
651日本@名無史さん:2005/07/14(木) 13:48:53
蔵人頭でなにやら姦しいが、
結論から言えば、蔵人頭には官位相当が無い。
蔵人頭に官位相当を定めた詔勅なり、宣旨なり、格式は存在しない。
従って、四位相当ではない。
また、蔵人頭が四位の位階を有するものだけが
補されているというのも明らかに間違いである。
また、中弁あるいは中将を有するものが
必ず蔵人頭に補されるというのも同様に間違いである。
かの菅公は、従五位上式部少輔で蔵人頭になり、式部少輔も兼ねる。
中弁は兼ねていない。
その後、確かに左中弁をも兼ねるし、従四位下に叙されることにはなるが。
四位の位階を有する者の中で、しかも中将あるいは中弁の官職を有する者
の中から蔵人頭に補される傾向が高いということである。

652日本@名無史さん:2005/07/14(木) 14:54:34
>651
蔵人及び頭について、>641>646>649で意見を述べて来ましたが、私は公家の
家格と極位極官が定まり、固定した近世を前提にした心算です。(>641参照)
古代から中世にかけては、叙位任官は現実に即応しており、柔軟性があります。
蔵人所はその成り立ちからして、当然相当位が無く、道真の例に見る様に、五位の
頭があっても不思議ではありません。ただ言っておくと、道真も頭就任の翌月
補完するように左中弁に、翌年直ぐに従四位下になっています。また中弁、中将が
必ず頭に補されるのは間違いと言うのも当たり前で、頭は天皇の秘書官長であり、
誰でも官の資格を満たしていたらいいと言うものではなく、自ずから、なれる家格が
定まってきます。そして近世では、頭は全て四位の弁官(中弁と若干の大弁と
一人の少弁)と四位の中将から任じられています。
653藤原定価百円一種:2005/07/15(金) 21:53:48
室町以後、中納言、大納言、近衛大中少将は正官が無くなり、権官だけに
なってしまいましたが、何故?「幕末の宮廷」では、次の権では無く、権(けん)を
とる、つまり、大臣に亜いで権を執るので権大納言とか、謙譲の心から皆正では
なく権をつけた、などと書かれています。しかし、それでは中納言や近衛はどうなるにか。
また謙譲なら全部の官職に権が付く筈だし本当はどうなんでしょう?
654日本@名無史さん:2005/07/16(土) 08:38:12
大介ってなんですか?
655日本@名無史さん:2005/07/16(土) 10:01:21
>654
元木
656日本@名無史さん:2005/07/16(土) 10:32:39
元木泰雄先生のどの本に回答が載ってるんですか?
657日本@名無史さん:2005/07/16(土) 15:45:04
スレタイから外れますが、兵部省の兵馬司・主船司等五司と防人司の四等官(実際は三等
官ですけど)の官位相当ってご存知ないですか?
658日本@名無史さん:2005/07/16(土) 17:05:20
三河の豪族が
「正二位権大納言・征夷大将軍・源氏長者・奨学淳和両院別当・兼右近衛大将・ 右馬寮御監」
を名乗っていますが‥
659藤原定価百円一種:2005/07/16(土) 17:32:16
657>
兵馬司 正(正六位上)、祐(従七位下)、大令史(大初位上)、少令史(大初位下)
大同3年(808)廃止。

造兵司 兵馬司と同じ。寛平8年(896)合併して兵庫寮になる。

主鷹司 正(従六位上)、令史(少初位下)
貞観2年(860)以後官人を置かず、自然消滅。

鼓吹司 兵馬司と同じ。寛平8年(896)合併して兵庫寮となる。

主船司 正(正六位下)、祐(正八位上)、令史(大初位下)9世紀後半より不明。

防人司 正、祐、令史。正は大宝令では正七位上、奈良時代末期には従五位下の
二例がある。
          参考 吉川弘文館・有職故実大辞典    
 
660藤原定価百円一種:2005/07/16(土) 17:35:08
>658
権大納言ではなく、内大臣です。権大納言は世子の官職です。
661日本@名無史さん:2005/07/16(土) 22:43:26
>>660
徳川慶喜が将軍に就いたときは正二位権大納言。
のちに従一位内大臣になったがなにか?
662藤原定価百円一種:2005/07/16(土) 23:33:39
>661
そんな事を言ったら笑われますよ。慶喜はあくまでも、幕末での例外ですから。
慶応元年10月ごろ、朝廷は慶喜を政務輔翼を命じ、官位を従二位大納言に進めようと
しますが、彼はこれを辞退します。この時点で世子に準じると言う含みがあったのでしょう。
そうして慶応2年、将軍家茂の死後、すぐに将軍を継がず、徳川宗家のみを相続しています。
これを見ても慶喜がいかに例外の将軍であったかが分かると思います。
そして、12月5日将軍に就任しますが、官位が先年大納言を辞退しており、中納言であったために、
いきなり超越して内大臣になる事が出来ず、先ず正二位大納言になり、翌年9月21日に
内大臣に就いたと言う訳です。と言う事で慶喜は例外尽くしの将軍でした。
もし未だ疑問に感じるなら、平凡社の東洋文庫「徳川盛世録」第二章徳川氏叙任の次第を
見て下さい。非常に詳しく将軍就任の儀式が書かれています。無論官位の事も。
663日本@名無史さん:2005/07/17(日) 00:19:29
ようやく典拠史料や文献を添えて
陳述する内容の書き込みが出てくるようになった。
根拠不明な陳述が多いからね。
664日本@名無史さん:2005/07/17(日) 00:53:02
>657、こら>659が答えてくれとるのに礼ぐらい言わんかい。
常識やろう。人の事でも腹たつわ。
665日本@名無史さん:2005/07/17(日) 07:58:08
近衛大将に権官は無いはずだが…
666日本@名無史さん:2005/07/17(日) 08:37:36
>>659様へ
657ですがどうも早速に典拠付での丁寧なご回答ありがとうございます。
あの直後からここ覗けなかったんですが、直ぐに回答があってびっくりです。
防人司の佑・令史については資料がないんでしょうかね。

>>664
うっせーボケ、こっちとらてめえみたいに24時間ネットに張り付いてられねえんだ。
人の事情も忖度出来ない想像力欠如で瞬間湯沸器な短絡バカは書き込むんじゃねえよ。
お前みたいなやつに常識や礼儀の話なんかされたくねえよ。
667日本@名無史さん:2005/07/17(日) 08:55:26
辞典類に掲載されている官位相当表は延喜式の職員令をベースにしていることが多いが
延喜年間にはすでに防人は廃止されてしまっているので
相当表には出てこないのだと思う。
668日本@名無史さん:2005/07/17(日) 09:01:44
左近衛大将は左大臣の兼務が基本、右近衛大将も右大臣兼務が基本、それなのに権官は実際あるのか?
官位スレではないときっぱり言われていたが…
669日本@名無史さん:2005/07/17(日) 09:10:08
大将ってのは名誉職の色合いが濃いから、権官はないと思うけど。
気になるようなら『公卿補任』を見てみれば?
670日本@名無史さん:2005/07/17(日) 10:16:02
近衛大将に権官があるのならば、
事例を提示するべきだね。
671藤原政頼:2005/07/17(日) 11:18:17
>>藤原定価百円一種
 >>653のソースは?
室町以降に正官が無くなり権官だけになったソースを提示してほしいものですね。
672貧民史 ◆523AewEqzc :2005/07/17(日) 15:59:18
>>657
養老令では
防人佑 正八位
防人令史 大初位。
673日本@名無史さん:2005/07/17(日) 20:43:26
>室町以後、中納言、大納言、近衛大中少将は正官が無くなり、権官だけに
>なってしまいましたが
例えば、正平6年(1351)の時点で中院通冬は大納言。
674日本@名無史さん:2005/07/18(月) 08:16:56
だから近衛大将に権官があるのなら、例示をしてほしい。673よ。
675日本@名無史さん:2005/07/18(月) 09:19:28
>>674
何か勘違いしてないか?
私は近衛大将に権官があると主張したことはないので
例示する義務はない。

>正官が無くなり
これが間違っているということが言いたいだけだ。
676藤原定価百円一種:2005/07/18(月) 10:09:26
>666
ご丁寧に恐縮です。マニアックな官職に興味を持つておられるようですが、古い官職も
面白いでしょうね。どんな官人たちが、どんな仕事をしていたのか、ちょっとした
ロマンですね。私も刺激になったし、辞典を見て勉強になりました。
それと、>664の件は気にしない事。いろんな人がいますからね。
677藤原政頼:2005/07/18(月) 11:00:11
>>676
近衛大将の権官についてのソースまだぁ?
678日本@名無史さん:2005/07/18(月) 11:25:38
結局、なんだかんだと言って
近衛大将に権官があるということを
立証できないんでしょう。
679日本@名無史さん:2005/07/18(月) 11:29:34
>675は文作が下手。
誤解を受けるような表現をするから突っ込まれる。
680日本@名無史さん:2005/07/18(月) 14:16:37
頼朝って右近衛権大将だったよね
681日本@名無史さん:2005/07/18(月) 14:18:42
権大納言・右近衛大将だと思うが。
682藤原定価百円一種:2005/07/18(月) 14:36:51

すみません。昨日は仕事とエラーで接続出来ず、>676の後、ぼちぼち書きますので、
御猶予を。まず、権官の例ですが、公卿補任によれば大納言は応安5年(文中1年)1372年洞院実守の薨去を
もって、中納言は延文4年(正平14年)1359年大炊御門家信が権大納言になったのもって、以後両官共、権官
のみです。見落としが有るかも知れませんので、一度公卿補任を調べて下さい。
近衛権大将については、一部誤解が有る様ですが、正、権の両大将が並立していたのではなく、名乗りとしての
官名が権大将となるだけです。これは、「幕末の宮廷」の中で下橋敬長翁が、「近年はすべて正・権の区別なく
権官ばかりですから、少将・中将と申しても、実は権少将・権中将のこと」と中、大納言の事と共に解説してい
ます。ただ大将に関しては記述が無く、典拠を確認したいと思います。
>668で大将は左右大臣の兼務が基本と言っておられますが、大同2年(809)中衛大将が右近衛大将と改められた時、
左大将藤原内麿は右大臣、右大将坂上田村麿は中納言でした。その後ほぼ通例として、大納言で任官し、その後
内大臣で大将を辞任と言うのが多い様です。ばたばたと書き込んでしまいましたので、至らないと思いますが、
また、不明な点は再度調べてみます。
683日本@名無史さん:2005/07/18(月) 15:06:36
大納言・中納言については理解できたが
>名乗りとしての官名が権大将となるだけです。
これはよく理解できない。
近衛大将については『公卿補任』はどう記載しているのだろうか。
権大将と書かれているのだろうか?
私は朝幕関係とかをやっているわけじゃないので『公卿補任』を持ってない
あなたは持っているみたいだから、そのあたりを教えてほしい。
684藤原定価百円一種:2005/07/18(月) 15:25:23
>683
公卿補任では大将は兼官なので、大納言や大臣の下に、左大将などと書かれて
いるだけです。名乗りとしてと言うのは、単に、左近衛大将と書く所が
左近衛権大将となるだけで、身分としての実質は全く変わらないと言う意味です。
これは大、中納言も同じです。私はそれよりも、>653で疑問提起したように、
どうして、権官が正官を駆逐するような事になったのか、そこを知りたいのです。
685日本@名無史さん:2005/07/18(月) 16:07:23
>>684
室町期以降、大将だけじゃなく少将・中将も権官ばかりになるというのがあなたの主張かと思うが
手元にある「水無瀬離宮文書」を見ると
永享10年4月4日付けの足利義教袖判御教書には
水無瀬少将季兼雑掌申(後略)
とあって、「権少将」ではないし
また長禄22年12月2日付けの足利義政願文で義政は
征夷大将軍従一位行左大臣兼右近衛大将
と名乗っており、権大将ではない。




686日本@名無史さん:2005/07/18(月) 16:10:09
長禄22年→長禄2年
タイプミス、スマソ
687藤原定価百円一種:2005/07/18(月) 18:23:53
>685
大将に関しては、もう一度調べ直しますが、中、大納言と少、中将は文書、日記など
により表現の仕方はばらばらです。あなたも書いておられるように、水無瀬少将としか
書かれておらず、左右も分かりません。正式な位記ならいざ知らず、公卿補任、諸家伝、
補略なども、左少将などと書かれているだけです。ただ、近衛の少、中将については、
和田英松博士の官職要解も、石村貞吉教授の有職故実(官職、位階編)でも、はっきりと
「のちには権官ばかりで正官は置かなかったのです。」と述べています。>682で「幕末の宮廷」を
引用しましたが、下橋敬長翁は一条家の侍として、実際の公家社会で生きた人ですから、その言は
まさに生きた資料と言うべきでしょう。詳細な解説を担当された羽倉敬尚氏も異論を挟んでいません。

688日本@名無史さん:2005/07/18(月) 19:43:26
「幕末の宮廷」に書かれていることを否定するつもりはない。
ただ
>のちには
というのはいつからなのか。
室町と幕末とでは500年ほどの開きがある。
幕末は権官ばかりだとしても、それがどこまで遡れるのか。

689日本@名無史さん:2005/07/18(月) 20:49:55
山科言継って大納言?
690藤原定価百円一種:2005/07/18(月) 21:31:26
推察で申し訳ありませんが、中、大納言の例からして、やはり、14世紀後半頃と
思います。何らかの関係から、納言に習い、近衛少、中将も権官に移行したのでは
ないでしょうか。再度調べてみます。
それから、質問をされる方が複数おられるようですが、こう長引くと、内容と質問者の
関係が分からなくなるので、最低限のルールとして、藤原政頼氏の様に、ハンドルネームを
名乗るのが礼儀ではないかと思いますが如何。
691673:2005/07/18(月) 21:44:46
>>690
>>675>>681>>683>>685>>686>>688
以上は私の発言。
692藤原政頼:2005/07/18(月) 21:57:45
近衛大将についても調べてるけどまだかかるかも…
納言の正官・権官についてだけど簡単な文献には単に「○○大納言」というにしか書いていない…orz
693日本@名無史さん:2005/07/18(月) 22:03:50
丹波大納言
694日本@名無史さん:2005/07/18(月) 23:15:27
そいや、江戸時代に左衛門佐の官位についた人っているのかな?
なかなか度胸がいりそうだが
695藤原均等:2005/07/18(月) 23:48:27
673では味気ないのでコテを使うことにした。

>>694
『寛政重修諸家譜』を見てみなされ。
696藤原定価百円一種:2005/07/18(月) 23:53:38
>691
ネームの件、早速聞き届けて頂き、恐縮です。
試しに南北朝時代の花園天皇の日記である「花園天皇宸記」1と江戸時代の右大臣
久我通兄の「通兄公記」3を調べてみると、「宸記」の方は、正官の納言はいいのですが、
権官の方は、殆ど権を付けていません。しかし、たまに正確に書いてあるので、公卿補任で
確認する必要があります。「公記」の方も同じく、たまに権を付けている程度です。江戸時代は
全て権官なので、わざわざ面倒な権を付けずとも、中納言、大納言だけで通じたのでしょう。
しかし、これでは何の為に権官のみにしたのか、理解に苦しみますね。

697日本@名無史さん:2005/07/19(火) 00:20:23
「防人佑」に興味を持ってる人は「勇午」読んだなと(ry
698日本@名無史さん:2005/07/19(火) 20:58:05
>>694

いたよ
699日本@名無史さん:2005/07/23(土) 16:55:16
徳川幕府に正式に名乗るとき、島津は「松平薩摩守」
伊達は「松平陸奥守」かな。前田は「松平加賀守」ですか?
肥前守だか筑前守というのも見かけた記憶があるのですが。
700日本@名無史さん:2005/07/23(土) 18:28:39
松平姓での官位独占というのが有る。
前田の場合は嫡男は松平での加賀守独占
当主は筑前守の優先
(筑前守は黒田家も使うが前田家が優先される)
島津家は松平での薩摩守大隈守独占
他にも独占を許される家や専称、五位の四位称例外なんかも有る。
官位独占は官位に空きがあっても他が使用することは出来ない。

この手の優遇は徳川一門の一部と、有力外様とその支藩の一部
(田村→伊達家、岩城→佐竹家)、徳川四天王家が受けてる。
701日本@名無史さん:2005/07/23(土) 19:15:27
位の独占?
702日本@名無史さん:2005/07/24(日) 23:15:14
>700
疑問や質問あり。小生浅学の為、松平姓での官位(正しくは官職か官名でしょう)
独占の何たるかを知りませんでした。愚考するに、恐らく、松平姓多数の為、官名の
名乗りが複数になると、ややこしくなる為でしょう。だがそれは松平姓の大名に限った
ものなのでしょうか?前田家は、当主は筑前守、嫡男は加賀守との事ですが、
続群の「近世武家官位の研究」によれば、「将軍宣下記」など多数の資料に前田家当主は
「加賀守」、嫡男は「若狭守」が多いようですが如何に。それに、島津の薩摩守、伊達の
陸奥守も、独占と言うより、松平以外の諸大名も遠慮して名乗らないだけで、
絶対に駄目と言う決まりはありません。元禄12年将軍綱吉は、陸奥、薩摩、上総、越前、
山城、石見などの官名を名乗る事を憚る必要は無いと命じたため、廊下番頭の土屋基意が
薩摩守を、松前当広が陸奥守をそれぞれ名乗っています(第二期物語藩史3巻大名の格式
より)井伊家の掃部頭も他家は遠慮して名乗らないだけです。最後に、「独占を許される家や
専称、五位の四位称」とは何か教えて頂きませんか?それに、調べられた典拠を明らかにして
もらえれば、我々も今後の参考になると思いますので宜しく。
703日本@名無史さん:2005/07/24(日) 23:28:03
>>702
土屋や松前なら別に問題はありません。
この他、例えば加賀守の場合は、小田原藩大久保家が代々用いています。

苗字が同じだと区別がつかないので、同じ官途名は使えません。
だから松平は薩摩守とか加賀守を使うのを遠慮するのです。
それだけのことです。
704日本@名無史さん:2005/07/24(日) 23:47:32
>703
>702です。やはり、ややこしくなる為でしたね。でも、他の大名達も薩摩守や、
陸奥守を遠慮していたのは事実です。大久保家の加賀守は有名ですし、他の大名も
何家も加賀守を名乗っています。百万石の大藩の前田家に遠慮しないのは、前田家が
加賀地生えの大名ではないからでしょうね。
705日本@名無史さん:2005/07/25(月) 17:41:29
三河守と越後守は美作津山松平家の独占で、
他家は名乗れない。
706藤原定価百円一種:2005/07/25(月) 19:07:21
武蔵守の任官事例も見ないが、やはり、幕府お膝元の国名のため?
707日本@名無史さん:2005/07/25(月) 21:58:46
ガイシュツ
708日本@名無史さん:2005/07/26(火) 20:30:28
土佐守や備前守もダメ?安芸守も
709日本@名無史さん:2005/07/26(火) 20:44:14
武蔵守は幕府滅亡後の明治元年、池田章政が名乗っている。
710日本@名無史さん:2005/07/26(火) 21:02:45
あつかましいね
711藤原定価百円一種:2005/07/26(火) 21:41:13
>708
土佐、備前、安芸はOKです。
712日本@名無史さん:2005/07/26(火) 21:47:13
関が原以前から根付いていた大名はOKみたいな?
國もちでも差があるんすね。

真田は通称信濃守ですよね。
713709:2005/07/26(火) 22:03:20
訂正します。
幕府滅亡後、武蔵守を名乗ったのは章政の養父で前藩主の池田茂政でした。
彼は水戸家出身で徳川慶喜の実弟ですね。もちろん、はじめは「松平備前守」でした。
養子で最後の藩主となった章政は備前守のままです。

茂政が武蔵守を名乗ったのは、幕府に遠慮する必要がなくなったというのもありますが、
二代藩主池田利隆(元和2年没)が武蔵守を名乗っていたというのもあるでしょう。
714日本@名無史さん:2005/07/29(金) 06:01:46
>>712
気になったので、国持ち級の大名のざっと調べてみた

奥羽や格下を除くと名乗ってないのは、
岡山池田、藤堂、細川、鍋島(前半)、毛利(半々)

少し気妙なのは、岡山の池田と藤堂
池田は、鳥取との関係なのかな
藤堂は、松平姓や編諱も許されてないし、
京に近いので業と家格を上げないようにしたのかも
715日本@名無史さん:2005/07/31(日) 00:07:17
藤堂はたしかに「伊勢守」なんてみかけないような。

細川は「肥後守」を見かけたような・・・うろ覚えですが。

毛利は・・・名乗りたくないですよね。
716日本@名無史さん:2005/07/31(日) 07:12:40
細川って越中守が多いよね。忠興以来。
松平越中守(会津)だし
717日本@名無史さん:2005/07/31(日) 15:56:42
藤堂家は、いわゆる「大身国持」で丸々伊勢一国を領有していたわけではない。
伊勢には桑名藩はじめ小藩の領地が散在していた上、御三家の紀伊藩領もあった。
それで「伊勢守」を称さなかったのではないか。
718日本@名無史さん:2005/08/01(月) 18:47:14
ええと、ここでは

「じゃあ松平陸奥守は?」

というつっこみを入れるべきでしょうか?


(和歌山藩の伊勢領有に遠慮してという発想はおもしろいと思いますが)
719藤原定価百円一種:2005/08/01(月) 23:55:42
藤堂高虎はご存知の通り、その人生は転変に次ぐ転変で、主人、所領、官位共、
何度か変わっている。官職は最初佐渡守。その後、伊勢・伊賀に移封される2年前に、
和泉守になり、以後これが藤堂家の歴代の名乗りになった。高虎はその後、
侍従から少将にまで昇っている。所領の伊勢も最初は伊賀と合わせて22万9百石で、
一国支配には及ばず、2年前に和泉守に変更したばかりのため、
それで通したのではないか。松平姓の件も、藤堂家は井伊家と共に徳川の先鋒を勤めるという、
譜代の扱いを受けた為、井伊家や酒井家など他の譜代の重臣達が松平姓を受けない様に、
自分も「一徳川の臣に過ぎません」と言う態度を示したのだろう。保身と言えば言い過ぎだろうか。
変わり身の早いといった、自分に対する大身外様大名の妬みなども高虎ならば十分に、
承知していたであろうし、何よりも、千軍万馬、築城技術に通じるだけでは無く、
武道や文学、茶道にも志し、民政にも努め、自分の力だけをを信じてやってきた実利の高虎にすれば、
虚名でしかない、官位や姓の何たるかをよく知っていたのではないだろうか。
720日本@名無史さん:2005/08/04(木) 23:57:10
>藤堂家は井伊家と共に徳川の先鋒を勤めるという、
>譜代の扱いを受けた為
では、なぜ井伊家のように正真正銘の譜代にしてもらえなかったんだろう?
721日本@名無史さん:2005/08/05(金) 00:44:39
藤堂高虎の目的は徳川の譜代大名になる事ではない。
譜代と言えば聞こえは良いが、要するに主人に従属する奴僕と同じだ。
徳川家康をして、一外様大名に自軍の最も名誉ある先鋒を任さしめる高虎程の男としては、
お互い自分の力で成り上がってきた大名として、同等だと言う外様としての誇りが、
そうさせたのだろう。
722日本@名無史さん:2005/08/05(金) 09:32:43
藤堂家は譜代にならなくて後々成功してるしな。
幕末、藤堂家が徳川家を見限った時の言い草、
「藤堂家はもとは徳川の家臣ではなく、豊臣の家臣である。」
まぁ、この時ばかりは外様であることを最大限に利用したわけですね。
てか藤堂家って準譜代だったような気が…。
723日本@名無史さん:2005/08/05(金) 10:29:22
>準譜代
そういう概念はないと思うが。
724日本@名無史さん:2005/08/05(金) 12:57:14
脇坂とかが願譜代で老中になった例はあるけど。
725日本@名無史さん:2005/08/05(金) 14:08:34
願い譜代ならわかるが、準譜代というのは意味不明。
726藤原定価百種 ◆U2UnG/UZg2 :2005/08/06(土) 21:43:18
十八松平家って、徳川家の庶流な訳だが譜代の扱いだ。
その辺、彼らは譜代で完全に満足していたのだろうか?
俺達も親藩みたいなものだ、なんて内心思ってたりして。
727日本@名無史さん:2005/08/07(日) 00:43:45
中には親藩あつかいのところもあったのでは?
728日本@名無史さん:2005/08/07(日) 09:09:40
十八松平は譜代大名と旗本。
家康の子孫のみが親藩。鷹司松平みたいな特例もあるけど。

久松松平家は、譜代扱いのようでもあり、親藩扱いのようでもあり微妙。
729日本@名無史さん:2005/08/07(日) 09:38:28
久松松平は家康の異母弟ということで松平を名乗ることを許された。
通常は十八松平に入れないのではないか。
730日本@名無史さん:2005/08/07(日) 09:38:59
久松ちゅうても桑名,松山は別格じゃろ。
731日本@名無史さん:2005/08/07(日) 09:47:12
松平定信が老中になった時点では、親藩というより譜代っぽい感じがする。
葵紋とかも一代限りだったみたいだし。
732日本@名無史さん:2005/08/07(日) 20:29:59
エェ━.∧━━.∧━━!?
    /,_ ┴─/ ヽ      , 、  ,、
   (・_.,》.'(・_,》)ミ ヽ    . / L--/ l、エェーーーー!?
  / ,,__,ニ、、 ノ( |    (・;;》 (・;;》 |    /L--/l、 エェーー!?
  | Y~~/~y} `, ~ |   |y-,‐vi`ノl |   (・.》 (・.》 l   /L--/l、エーー!?
   | .,k.,.,!,.,.,r| ,! く    |, kl r| i ^<   | 'fT~ヲ x |  (・〕_(・〕x|   /L/l エーー
 / <ニニニ'ノ    \ / (二二‐ ' \ / l==_」 <  ,l fmヨ ! L 〔゚fヲ゚.〕 
733日本@名無史さん:2005/08/07(日) 20:43:51
>726

 従五位下の筆頭とされた滝脇家(代々和泉守を名乗る家)と桜井家(代々遠江守を名乗る家)あたりには、
いろいろ有ったような気もする。桜井家なんか一度岡崎城を乗っ取っているし、かえってそのことでみそを
付けているかも。
734藤原定価百円一種 ◆U2UnG/UZg2 :2005/08/07(日) 21:40:39
>>728
物語藩史7巻の松山藩の久松松平家の入部の様子を見ると、庶民が初めて見る「葵」の紋や、
「お殿様は権現様と言う神様の甥ご様なるぞと」と、うがい手水をして藩主の一行を
仰ぎ見たと言う状況を載せている。民を心服させるのに、家康の甥なる血筋と親藩と言う
毛並みの良さを最大限に利用している。
735日本@名無史さん:2005/08/07(日) 22:02:16
>>734
おまえうざい。
736日本@名無史さん:2005/08/08(月) 02:52:17
久松松平でも系統によって親藩かどうか分かれる
737日本@名無史さん:2005/08/08(月) 13:17:40
検索したら、松山や桑名も譜代に分類しているものがある。
確かに老中や京都所司代に就任しているわけだから、譜代扱いのようだ。
738日本@名無史さん:2005/08/08(月) 14:04:48
いずれも幕末期だから、例外と見るべき。
739日本@名無史さん:2005/08/10(水) 08:30:33
老中首座伊予国松山藩主久松定昭が伊予守に遷任したことも例外。
老中信濃国松代藩主真田幸貫が信濃守に遷任したのも例外。
ただ、真田が信濃守を称することが出来た理由は不明である。
740日本@名無史さん:2005/08/10(水) 15:34:49
>>724
元々脇坂氏と言っても二代か三代が譜代の堀田家(春日局ゆかり)から養子で入ってるから、幕府と
しては堀田の一族と考えていたのだろう。
741日本@名無史さん:2005/08/12(金) 17:18:24
武家の官と位は外官であって、
内官のように本来の職掌を任命されたもので無いのがほとんど。
言わばお墨付きを貰うようなもの。例えば実質地方知事だけど、
自称じゃなくて、〜守とか上総介として公認されたものとする。
実際に朝廷から任命されたかどうかはケースバイケースだろう。
江戸期における大名等の外官について語るには、
幕府内で発生した分かりやすいルールに基づいている。
無論、本来の官位とは明かに違う。因みに主計守ではなく主計頭。
名無しのごんべいは権兵衛で、
こいつは臨時に傭兵されたり徴発されて、その際に自称したり、
雇った現場の責任者が、給金不足とか何がしかの理由で、
勝手に兵衛府の下級役人だとしてそいつをチョロまかしてコキ使った。
臨時採用を解かれ故郷へ帰ったが、
そいつが騙されて使われたことをバカにしたと言うストーリ。
742日本@名無史さん:2005/08/13(土) 00:14:21
だから、なんだというのか。
743日本@名無史さん:2005/08/16(火) 12:03:28
最近書き込みがないようなのでひとつ。徳川の大樹様の官位の名乗りはこれでいいの?

内大臣守正二位行右近衛大将兼右馬寮御監淳和奨学両院別当源氏長者征夷大将軍源朝臣○△

御監は「徳川盛世録」では(ぎょかん)と読んでいるが「官職要解」では(ごげん)と
なっている。(ごげん)が正解の様に思う。 
744日本@名無史さん:2005/08/16(火) 12:17:09
>>743

んじゃ(みかん)説を支持してみる
745744:2005/08/16(火) 12:20:54
少なくとも家康は左馬寮御監だな。
746日本@名無史さん:2005/08/16(火) 13:16:22
>>745
家康は同列には扱えんだろう。なにせ内大臣で将軍になり同時に右大臣昇進だからね。
それと疑うわけではないが、家康「左馬寮」の典拠は?
747日本@名無史さん:2005/08/16(火) 19:16:11
>>741
何回読んでも難解?つうか意味不明。理解出来ない俺の頭が変かと思ったが
そうでもなさそうなので安心した。
748日本@名無史さん:2005/08/29(月) 00:10:44
征夷大将軍淳和奨学両院別当源氏長者右馬寮御監内大臣正二位兼行右近衛大将源朝臣
749日本@名無史さん:2005/09/06(火) 17:22:04
あげ
750日本@名無史さん:2005/09/06(火) 17:29:56
真田は定信の子だからと妄想
751日本@名無史さん:2005/09/19(月) 22:24:57
江戸時代に「駿河守」を代々引き継いだ一門っていますか?
752744:2005/09/19(月) 22:40:18
>>751

越後長岡藩牧野氏が5名
上総佐貫藩阿部氏が4名
753日本@名無史さん:2005/09/19(月) 22:52:45
徳川将軍の正式の官名と名はそれぞれの将軍の墓にある
墓誌に記されている。
754日本@名無史さん:2005/09/19(月) 23:05:00
正式には代々「引き継ぐ」という制度はなく
代々「名乗る習慣があった」ということになるんだろうがな
755日本@名無史さん:2005/09/20(火) 01:03:24
忠吉の子孫が続いたら薩摩守になったかな?
756日本@名無史さん:2005/09/21(水) 09:03:26
植村駿河守、牧野駿河守、
757日本@名無史さん:2005/09/21(水) 10:32:48
>>722
>幕末、藤堂家が徳川家を見限った時の言い草、
>「藤堂家はもとは徳川の家臣ではなく、豊臣の家臣である。」
これホント?
758日本@名無史さん:2005/09/22(木) 02:19:03
播磨守って江戸期あんまし使われてないよね。どこかに遠慮?
759日本@名無史さん:2005/09/23(金) 06:37:22
いや。武州忍の阿部侯は飛騨守または播磨守を名乗っていた。旗本にも中野播磨守清茂
760日本@名無史さん:2005/09/23(金) 23:02:41
幕末に滝川播磨守って旗本いたよね?一益の子孫で。
鳥羽伏見の戦いの幕開けに、砲弾でフッ飛ばされた奴w
761日本@名無史さん:2005/09/24(土) 13:40:35
>>760
その滝川は一益の子孫ではないよ。
762日本@名無史さん:2005/09/24(土) 13:47:37
織田信雄の家老の子孫?
763日本@名無史さん:2005/09/24(土) 13:52:57
そうそう実名具挙で分かるように、北畠一族の雄利の子孫。
764大納言:2005/09/24(土) 16:34:19
『官職名』は律令制で定められた官名を呼び名として用いた。
信長=上総介、秀吉=筑前守、家康=三河守などの官名ですが、同一の官名の者がいた場合は上下関係などの違いを考慮して『様』『殿』『呼び捨て』で呼び合っていました。
鎌倉時代までは官職名を私称することは禁じられ所定の手続きを経て朝廷から許されていましたが、室町時代になると更に規律は守られなくなり朝廷の奏請ぬきで将軍や守護が許可するようになりました。
戦国時代になると、こうしたルールも無視され武将達は我が身を飾り貫禄をつけるために官職名を勝手に用いるようになりました。
765日本@名無史さん:2005/09/24(土) 18:07:32
>>757
俺もその話は聞いたことがある。
藤堂家らしいよねw
766日本@名無史さん:2005/09/25(日) 00:36:03
>>753
だから墓には何と書かれているんだ。肝心のそれを書けよ。
767日本@名無史さん:2005/09/25(日) 12:18:38
>>766
だから、自分でも調べよ。人ばかりあてにするな。
768日本@名無史さん:2005/09/25(日) 20:28:03
スレ違いかもしれないけど、ガイシュツの阿部家のことで、
福山の伊勢守と武蔵の忍・播磨守の一族は同じ藩祖ですか?
全然別系統?
769日本@名無史さん:2005/09/25(日) 21:20:38
>>768
ともに阿部正勝の子孫。福山藩が本家、忍藩は分家。
770日本@名無しさん:2005/09/26(月) 02:52:39
771日本@名無史さん:2005/09/26(月) 23:47:45
良スレだ…(*´Д`*)
772日本@名無史さん:2005/09/27(火) 00:24:33
へー、阿部家面白い構成。
豊後守はあんまし名乗らなくなってるし。


外様大名からの養子多いし・・・
773日本@名無史さん:2005/10/02(日) 21:58:19
阿部家みたいに、ずーっと「正」の字を使い続けて江戸期を乗り切るって
なんだかすごい。

外様は名前の漢字使用の基準がぐちゃぐちゃになるね・・・前田とか島津とか上杉・・・
774日本@名無史さん:2005/10/02(日) 22:03:08
>>773
偏諱って知ってます?
775日本@名無史さん:2005/10/02(日) 22:19:44
スレ違い話題になるけど
大身大名ってそうだよな
通字1字と将軍偏諱の組み合わせってせいぜい伊達が「宗」と「村」でやってるぐらいであとはめちゃめちゃ感あるね
島津なんか光久・綱久まではその気ありそうなのに以後そうでもないし
776日本@名無史さん:2005/10/02(日) 22:19:54
詳細きぼん
777日本@名無史さん:2005/10/02(日) 22:39:12
>>775
通字ってのは上の字に使うのがフツーだから
下の字に使うのはしっくりこないからじゃないかな。
778日本@名無史さん:2005/10/02(日) 22:42:55
下の字を通字にしてる大名は・・・

島津(途中まで?)貴久、義久、家久(恒久)
池田(これも)輝政、光政
脇坂・安治あと知らない。 
779日本@名無史さん:2005/10/02(日) 22:50:12
脇坂は下の通字。

相馬と佐竹の北関東激戦同盟の家は系図を見ると清々しいぐらい統一されてるなw
780日本@名無史さん:2005/10/02(日) 22:54:58
秋田と秋月もそうだよ!
なんかすげーな。

名門ぽい。名門だが。禄高が少ない家が多いのは気のせいか?W
781日本@名無史さん:2005/10/02(日) 22:59:08
あ上杉がちょっと傾向あるな
4綱憲 5吉憲 6宗憲 9治憲 12斉憲 13茂憲

系図サイト数あるが 最近知ったこれが見やすいかな
ttp://daimyokeizu.hp.infoseek.co.jp/index.html
782日本@名無史さん:2005/10/02(日) 23:09:35
オレの実家である茨城県の誇る貧乏大名である新庄家も一気通貫だべ!

783日本@名無史さん:2005/10/02(日) 23:12:10
対馬の宗家も1人の突然変異を除けば見事なもんだ

つーか、この家は他家から養子取ってないのか?!そのほうがすごい!!!
784日本@名無史さん:2005/10/02(日) 23:36:26
>>781のサイトは見飽きないね。2ちゃんねらー恐るべし。

それで発見したのは、亀井(石見)・伊東(日向)・毛利(豊後)もコンプ。
・・・やっぱつつましい家ばかりだなあ。なぜに・・・

対馬は特別な感じが。独立とまではいかなくても、アンタッチャブルな雰囲気。
785日本@名無史さん:2005/10/02(日) 23:40:23
10万石以下は(r
なんてな。

多くの大大名は将軍家斉のときの、子沢山を押し付けよう政策の犠牲だしね。
ちんけなところは、まあいいか、とw
786日本@名無史さん:2005/10/03(月) 01:06:35
島津凄いな、3親等以内の相続しかないぞ
787日本@名無しさん:2005/10/03(月) 01:23:37
鍋島家なんかもう芸術の域ですよ。
788日本@名無史さん:2005/10/03(月) 03:43:13
ワロスw

政治はアートだと誰かが言ったような
789日本@名無史さん:2005/10/03(月) 03:49:17
分家があると便利だなあ。
それが名門クオリティ…(*´Д`*)
790日本@名無しさん:2005/10/03(月) 04:48:00
>>781
ただこれ、系図上の兄弟の順に必ずしも沿ってないから注意してね。
男系血縁優先の1さんルールで、「実男子」「実女子」「婿養子」「姻戚のない養子」の順に描いているから。
(例:柳沢吉保の妹の家があるように見えるが、実際は吉保の姉)
791日本@名無史さん:2005/10/03(月) 04:58:52
基準がないjから
792日本@名無史さん:2005/10/03(月) 09:05:24
>>746
左大将だったから左馬寮御監になってたのでは?
793日本@名無史さん:2005/10/03(月) 13:30:37
加賀金沢の前田家は当時の将軍から1字もらいでおk?
794日本@名無しさん:2005/10/03(月) 14:27:41
>>793
ほぼOKかと。
795日本@名無史さん:2005/10/03(月) 19:07:22
いろいろな点で微妙な格差がついてたりする
(こう話題が広がると偏諱・通字・諱スレかなんか要るかな)

国持十八家
前田、島津、毛利、池田、蜂須賀、黒田、浅野、備前池田、山内、
宗、藤堂、松江松平、伊達、細川、鍋島、有馬、佐竹、上杉


外様国主で松平十一家
加賀前田、仙台伊達、薩摩島津、福岡黒田、安芸浅野
長門毛利、佐賀鍋島、因幡池田、備前池田、阿波蜂須賀、土佐山内
796793:2005/10/03(月) 19:08:33
>>794 ありがとさんです

ずーっと「なんでこんな先代とあまりつながらない名前ばかり…」と思ってましたアセ
797日本@名無史さん:2005/10/05(水) 17:56:15
相馬一族はかっこええな!
苗字も通字も!

この家の世襲官位は何ですか?
798日本@名無しさん:2005/10/05(水) 19:00:11
>>797
こんな感じで官位は従五位下。通称はあまり一定していない。
http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/mutudewa/souma.html

数少ないモノホン平氏系大名ですし、何だか上に見てしまいそうですなぁ
799日本@名無しさん:2005/10/05(水) 19:03:36
>>795
これ(↓)やウチの姉妹スレとして立ち上げますか?
かつては名のスレがいくつかあったようですが…

■■「人名の読み方」問い合わせスレ■■
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1123501362/l50
800日本@名無史さん:2005/10/05(水) 19:26:11
       祝! 800get

☆       ∵∴∴☆※☆∴∵∴       ./
     \  ※∵☆☆★☆★☆★☆☆∵※
        *∵☆★☆☆*☆*☆☆★☆∴*
      ※∴★☆☆*°°|°°*☆☆★∴※
     *.∴☆☆☆°°°°|°°°°☆☆☆∴ *
    *∴☆★☆°\°☆☆★☆☆°/°☆★☆∴
   .. ※☆☆*°°★°° 人   ★ °°*☆☆※  *
   ∴☆★☆°°☆     (__)   ☆ °°☆★☆∴
   ∴☆☆*°°☆    (__)   ☆°°*☆☆∴
   ※☆★☆――★  ∩ ・∀・)∩  ★――☆★☆※   ⌒★
   ∵☆☆*°°     〉    _ノ   °°*☆☆∵ *
   ∵☆★☆°°☆   ノ ノ  ノ      ☆°°☆★☆∵
   ※☆☆☆*°°★ し´(_)  ★ °°*☆☆☆※ *
   *∵☆★☆°/°☆☆★☆☆°\°☆★☆∵
      ∵☆☆☆°°°°|°°°°☆☆☆∵    うんこーーー!!!
      ※∵★☆☆*°°|°°*☆☆★∵※
      *...☆∵☆★☆☆*☆*☆☆★☆∵☆    .ζ
         ※∴∵☆★☆★☆★☆∵∴※      ☆
            ∴∵∴☆※☆∴∴∵
801日本@名無史さん:2005/10/06(木) 23:50:24
 太郎 ◆ 日本人の名前 ◆ 兵衛 
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1094476112/

あ いや立てる前に検索してみてよかった
一応名前総合スレあったよ
802日本@名無史さん:2005/10/06(木) 23:55:11
過疎ってるけどな
803日本@名無史さん:2005/10/08(土) 22:41:28
>>766
徳川家綱の場合は、墓に
「征夷大将軍正二位右大臣右大将源家綱尊大君之棺
 贈正一位太政大臣
 賜号厳有院」
と記されている。
804日本@名無史さん:2005/10/11(火) 09:52:36
網野善彦氏の「蒙古襲来下巻」(小学館ライブラリー版だとP133)によると、
三重県四日市市中山寺で発見された親鸞の「教行信証」写本の出版奥書の中で、
正応3年の北条貞時を副将軍・相州太守と称しているそうです。
これは相州太守のほうは相模守でいいとして、副将軍のほうは、執権でしょうか?
得宗なのでしょうか?どなたかご存知でしたらご教示ください。
805744:2005/10/11(火) 11:26:25
実社会で取引先の課長補佐を課長と呼ぶように、おべっか使ってるだけだって
806大納言:2005/10/12(水) 09:37:30
《はじめに》
我が国の歴史は武士が興り、力を持ってからは永らく(明治維新迄)公家(型式的)と武家(実質的)の二重構造の支配体制が敷かれてきました
そうした中、公家と武家の間を繋ぎ止める為に大いに活用されたのが『官職』です。
この公家社会の官職は大宝律令=大宝元年(701年)によって“核”となる原形が作られ、つづく養老律令=藤原不比等により養老二年(718)に改正が加えられて以降は多少の変更(人員数等)が為されながらも根本的な機構については踏襲されて行くことになりました。
807大納言:2005/10/12(水) 09:52:22
《職階について》
公家社会の身分には大別して@親王(天皇の身内)A諸王B諸臣の三種類がありました。@については『一品』から『四品』までの四段階に分けてあり、尊卑(上下)を区別しました。
AとBの官位には最上位の『正一位』から始まり最下位の『小初位下』までの全三十階に分けられています。
一位〜三位(一位=太政大臣・二位=左大臣、右大臣・三位=大納言)までは『正』『従』の二階級で上下を表し、四位以下は『正』『従』と更に『上・下』を加えた四階級で尊卑を表しました。
また、この他に『勲位』という位があります。これは軍事上の功績に対して与えられる栄典で『勲一等』から『勲十二等』までの十二階級で区別されました※主旨は変わりましたが『勲?等』の栄典は現在も皇室行事として存在していますね。
ちなみに従三位までの階層を『貴』といい、総じて『貴族』と呼ばれ、多くの特権が認められていました。
808大納言:2005/10/12(水) 10:19:22
《任官について》
鎌倉時代までは所定の手続きを経た上で朝廷より官職名を授けられていましたが、室町時代になると、こうした規律が守られなくなり、朝廷への奏請ぬきで、将軍や守護が自己の裁量によって許可するようになりました。
『応仁の乱』以降、戦国時代になると、更にこうしたルールも無視されて、戦国武将達は勝手に官職名を自称するようになりました。
また、戦国武将達が好んで自称した官職名には地方長官にあたる『国司=守』や『副長官たる次官=介』
中央官なら国防・軍事関連の『兵部省』宮中や京の警備を担う『五衛府』や『弾正台』などを選ぶ傾向がありました。
809日本@名無史さん:2005/10/14(金) 15:38:01
誰の本だか忘れたんですが、中世史か古代史の研究者人の書いた本で清盛の家臣で
主馬判官盛国とかいう人が出ていて、これって東宮坊の主馬首兼検非違使判官って
ことなのでしょうか?この時期はまだ出鱈目な自称官職はふけないと思うし。
810藤原政頼:2005/10/15(土) 23:54:25
>>藤原定価百円一種さん
南朝では元中七年(1390年)の時点で花山院師兼が大納言になっています。
そして同朝において弘和二年(1382年)の十一月まで葉室光資が中納言になっています。

もっともあくまで南朝の記録ですから実際のところは番外編みたいな捉え方のほうがいいんですかね?
教えてエロい人!
811日本@名無史さん:2005/10/16(日) 00:32:50
>>809

平盛久の事だと思うが、右兵衛と左衛門の尉に任官してるから判官だね。
判官って検非違使の事を指すことが多いけど、元は次官って意味だから。
812日本@名無史さん:2005/10/16(日) 00:35:56
>>811

盛久の父が盛国じゃん
>>809には
http://www2.ttcn.ne.jp/~heike/izumi/jiten/heikejin-2.html
でよろしいか?
813日本@名無史さん:2005/10/16(日) 08:26:36
あれっ判官=次官って?
長官、次官、判官、主典の四等官制じゃなかったですか?
衛門・兵衛府で言うと長官=督・次官=佐・判官=大少尉・主典大少志。
けど督・佐・尉はともかく、志ってどこから思いついたんだろうか?
814日本@名無史さん:2005/10/18(火) 08:29:39
スレタイを官職名自体がどう決まったのかと誤解して、日本古代の官職名の由来を、知って
いる限りの知識を動員して推測してみた。ただし主として四等官だけ。

左・右大臣=古代尊貴の官職にあったものの称。中国の官名としては後世の清が初例なの
 で日本のオリジナルと思われる。
内大臣=本来は、側近の称号であった内臣に大臣の位を与えたものらしい。周礼に王后の
 側近取次役の内小臣という官名がある。
大・中・少納言=納言は古代の天子側近(舜の時の取次の官)の称。直近では北周の側近
 の官、隋の宰相の官名。大中少の別は、元は納言の中に身分・年齢等により自ずから序
 列があって、それが制度化されたものらしい。
参議=本来は官名ではなく参議朝政と言う職務の名称。なし崩し的に官職となったようだ。
大・中・少弁=物事を処理するとか言う意味から採ったらしい。官名としてはオリジナル。
大・少史=史は本来占いの官だったようだが、占いの記録保管を担当したことから、記録
 保管役、更には書記官に変わったらしい。この場合はこの時期の一般的な用例の通り書
 記官の意味と思われる。
大・少外記=記録官=書記官か?外は内記に対する称。官名としてはオリジナル。

神祇伯=伯は一般に長の意味。官名としては王莽の東・西伯、周の州伯など、また漢で侍
 中を常伯と称したらしい。唐には内寺伯があり、六部(各省)の尚書・侍郎(長官・次 官)
 を大・少常伯と改名したことがある。
神祇大・少副=単に助ける意味から採ったらしい。官名としてはオリジナル。
神祇大・少祐=単に助ける意味から採ったらしい。官名としてはオリジナル。

八省卿=元々宰相クラスの上級家臣を指した。秦漢以後閣僚クラス。三公九卿等。新羅で
 は中央官庁の次官。
八省大・少輔=単に助ける意味から採ったらしい。左輔・右弼の例はあるが、官名として
 はほぼオリジナルか?ちなみに新羅には州輔がある。また高句麗には左右輔(大臣クラ
 ス?)があったようだ。
八省大・少丞=秦漢以後補佐官・副官の称として多用されている。
八省大・少録=意味的には統べる。書記長程度の職名として使われていた録事当たりから
 採ったものか?
815日本@名無史さん:2005/10/18(火) 08:30:51
坊・職の大夫=上代では卿に次ぐ地位。直接には御史大夫や光禄大夫・中大夫あたりから
 採ったものか?
坊・職の亮=単に助ける意味から採ったらしい。官名としてはオリジナル。
坊・職の大・少進=由来不明?努めるとか励むといった意味がある。
坊・職・寮の属=漢以後官庁の内部部局で副主任クラス。

寮頭=単に一般に長の意味から採ったようだ。中国では火頭(十人長)とか官頭(百人長?)
 等隊長程度の使われ方をしていたようだ。
寮助=単に助ける意味から採ったらしい。官名としてはオリジナルか?ちなみに新羅には
 州助がある。
寮の大・少允=古代の官職名または氏族名だったらしい。誠とか公平なとか言う意味があ
 る。また魏晋以後東宮の属官に中允がある。

司・監の正=一般にかしら・長の意味があり官職名にも多用されている。
司・監の佑=単に助ける意味から採ったらしい。官名としてはオリジナル。
司・監・署の令史=本来は令に属する属官。その後は単に書記官の意味で多用されている。
署の首=一般に長の意味がある。官職名としてはオリジナルか?

弾正尹=古来長官の意味がある。楚の令尹など。漢以後官名としては余り見ない。
弾正大・少弼=単に助ける意味から採ったらしい。左輔・右弼の例はあるが、官名として
 はほぼオリジナルか?
弾正大・少忠=誠を尽すとか言う意味がある。官職名としてはオリジナルか?
弾正大・少疏=治めるとか義理を解き明かすとか言う意味がある。官職名としてはオリジ
 ナルか?
816日本@名無史さん:2005/10/18(火) 08:31:55
大・中・少将=一般に軍を率いるものを指す。ただこの時期の中国では○将というのはさ
 ほど高級な武官の称ではないようだ。今の軍隊で言うとせいぜい佐官から准士官クラス
 のことが多い。春秋時代は軍団長。
将監=中国には類例はなくオリジナルらしい。ただ監は長官の名称として使われている。
将曹=中国には類例はなくオリジナルらしい。また中国では本来曹は部屋で転じて部局の
 意味になり、その部局の責任者の略称(功曹掾の略として功曹等)としても使われた。
 なお漢の近衛部隊長である校尉の配下に下士官クラスの功曹がいた。随では県の課長級
 に法曹・戸曹(首都等は+功曹)が置かれた。

衛門・兵衛の督=三国時代以降部隊長の官職名として使用された。
衛門・兵衛の佐=中国には下級官吏に佐の官職名があるが、この場合は他の次官同様に単
 に助ける意味から採ったらしい。ただ春秋時代の軍団副司令官(将の次官)は○軍佐と
 称された。
衛門・兵衛の大・少尉=春秋時代の軍団幹部。また一般に武官の官名として多用された。
衛門・兵衛の大・少志=官名としてはオリジナル。書き記すとか旗竿とか言う意味がある。

太宰帥=率いる意味から軍司令官の官名となったもの。もとは太宰だけで官職名だったが
 官制が整備される時に官庁名は太宰府、長官名は太宰帥になったものらしい。ちなみに
 周礼に冢宰があり、以後晋の首相クラスに太宰、北周でも冢宰等の官名がある。
太宰大少弐=単にそえ、二番目の意味から採ったらしい。官名としてはオリジナル。
太宰大少監=監は長官の名称として使われている。
太宰大少典=主典から採ったものか?また典には司るの意味がある。新羅の下級官庁の
 名称として○○典がある。

国守=郡守・太守等から採ったものと思う。もともとは文字通り郡を守る者、つまり守備
 隊司令官か?
国介=単に助ける意味から採ったらしい。官名としてはオリジナルか?
国掾=属官の意味があり、官庁の内部部局の主任の官職名として漢以後多用。
国目=官名としてはオリジナルか?人の上に立つ人の意味がある。
817日本@名無史さん:2005/10/18(火) 08:32:32
郡大・少領=処理する、統べる、長の意味がある。楚の官職名に左領(職掌不明)がある。
 また国内では以前に地方長官の惣領があった。
主政=判官を政人と称していた。政治を司るものの意味か?官名としてはオリジナル?
主帳=帳簿を司るものの意味か?官名としてはオリジナル?中国では記録や文書を司る役
 職としてよく似た主簿が多用されている。

鎮守将軍=将軍は軍司令官として多用。常識だよな。
副将軍=将軍の補佐役。
軍監=軍の目付役として監軍は多用されているが、軍監はオリジナルらしい?
軍曹=中国には類例はなくオリジナルらしい。また中国では本来曹は部屋で転じて部局の
 意味になり、その部局の責任者の略称(功曹掾の略として功曹等)としても使われた。
 なお漢の近衛部隊長である校尉の配下に下士官クラスの功曹がいた。随では県の課長級
 に法曹・戸曹(首都等は+功曹)が置かれた。

家令=令は一般に中書令(宰相)の他部局長クラスの長官名として多用されている。直接
 には太子家令がある。
家扶=単に助ける意味から採ったらしい。官名としてはオリジナルか?
家大・少従=従う、副、家来の意味がある。従官など官名等にも使われるが、従のみでは
 官名にはないようで、オリジナルか?
家大・少書吏=文字通りの意味で下級書記。ただ地位が低すぎ官名とは言い難い。

侍従=職務の名称ではあっても官職名ではないようだ。官職名としてはオリジナル。
内舎人・大舎人等=側近・宿衛の官として舎人は散見される。
博士=漢以降教官の名称として多用。
助教=晋以降博士の補佐役として置かれた。
兵衛・近衛(舎人)等=隋・唐に親衛・勲衛・翊衛等の宿衛官があった。

尚侍・尚蔵等=後宮の局長級女官の六尚(尚宮・尚功等)から採ったようだ。
典侍・典蔵等、掌侍・掌蔵等=六尚の下に24司がありその長として司記・司簿等、補佐
 として典記・掌記等が置かれた。これからとったものらしい。
818日本@名無史さん:2005/10/18(火) 08:33:46
番外(初期に消滅した官職とか)
兵衛率(兵衛督の初名)=一般に率いる、長の意味はあるが、直接には太子の護衛隊長の
左右衛率等から採ったらしい。
兵衛翼(兵衛佐の初名)=単に助ける意味から採ったらしい。官名としてはオリジナルか?
兵衛大・少直(兵衛大・少尉の初名)=ただすとか事に当たるとか言う意味がある。官職
名では監察官的存在の司直がある。また南朝では護衛官に直○と言う官名が散見される。
国造の姓に直(あたい)があったことも関係するのか?

大・少毅=果毅都尉から採ったらしいがほぼオリジナル。
校尉・旅帥・隊正=随・唐の士官。各々二百人長・百人長・五十人長。

 長官は官職名で有る場合も多いが、長の意味が一般名詞、次官は補佐役・助ける意味の
一般名が多いようだ。これは中国では次官(通判官)は卿に対する少卿、監に対する少監
又は副監等であり、一字で次官を表わす字が無いためだろうか?なお丞は本来次官だった
が、この時期になると小官庁である署・県では次官だが、九寺五監以上の主要官庁では尚
書左右丞を例外として判官になっている。

 倉本一宏氏によると、本来有力豪族に国務を担当させ、○○担当の卿(マエツギミ)、
○○担当の大夫(マエツギミ)等としたものが、転じて省卿・職大夫になったのではない
かという推定がある。
819日本@名無史さん:2005/10/19(水) 13:45:57
「百官和秘抄」より拾った任官の原則
『親王』
第一の親王を任ずる。人臣は任じない。
 式部卿

親王を任じ、臣下は任じない。
 中務卿、太守、太宰帥

『一般』
摂関・大臣を任ずる。
 東宮傅

后に親しい人を任ずる。摂関・三家(清華)も任ずる。
 皇后・皇太后宮等大夫(権官有り)

第一の大臣を任ずる。
 蔵人所別当

摂関家・三家(清華)の人が成る。大納言の兼務。中納言は稀。
 左右近衛大将

しかるべき大納言以上を任ずる。
 春宮大夫

しかるべき大納言以上を任ずる。公達もしかるべき家の人も任ずる。
 内膳司別当

三家(清華)の人が成る。
 弾正尹
820日本@名無史さん:2005/10/19(水) 13:48:25
大納言を任ずる。
 左衛門督

大納言以下を任ずる。前官の大納言・中納言など。
 太宰権帥

しかるべき納言(宿老の納言)以上を任ずる。
 民部卿

中納言以上を任ずる。
 春宮権大夫

納言・参議・三位・四位以上を任ずる。
 右衛門督

中納言以下四位以上を任ずる。
 左右兵衛督

中納言・参議で衛門・兵衛督を兼ねるものがなる。
 検非違使別当

参議、散二位・三位の他、非参議の四位も任ずる。
 太宰大弐

三位以上のしかるべき人を任ずる。近来は儒者の名誉の人が任ぜられる。
 勘解由長官

三位以上の公卿、殿上の四位以上も任ずる。特に名家のものを任ずる。
 治部卿
821日本@名無史さん:2005/10/19(水) 13:50:43
大・中納言、参議・、位・三位も兼任、大臣兼任の例もある。近代初任とするのは過分。
 侍従

三位・四位の名家・儒家を任ずる。
 宮内卿

四位以上を任ずる。
 大蔵卿、修理大夫

殿上の四位のしかるべき人を任ずる。
 春宮亮

四位の殿上人を任ずる。公達・名家も任ずる。
 皇后・皇太后宮等亮(権官有り)、蔵人頭

四位の人を任ずる。名家・儒家などを任ずる。
 刑部卿

公達・殿上人の四位・五位を任ずる。
 左右近衛中・少将

中・少将が兼ねる。
 春宮権亮

名家の四位・五位を任ずる。
 兵部大・少輔(権官有り)

四位・五位の名家諸家を任ずる。
 民部権大輔

殿上の四位・五位を任ずる。
 弾正大・少弼、修理権大夫
822日本@名無史さん:2005/10/19(水) 13:53:03
四位・五位のしかるべき諸大夫の極官。
 治部大輔

雲客以下諸大夫以上を任ずる。
 中務大・少輔(各権官有り)

名家または諸大夫のしかるべき人を任ずる。
 治部権大輔・少輔・権少輔

殿上の四位・五位、地下も任ずる。名家・儒道の人々を任ずる。
 民部大輔

殿上・地下の四位・五位を任ずる。
 大膳大夫、勘解由次官

四位・五位の殿上人または諸大夫を任ずる。
 斎宮頭

四位・五位から得に人を選んで任ずる。
 左右馬頭(権官有り)、兵庫頭

四位・五位を任ずる。
 木工頭、内膳正、左右衛門佐

地下の四位・五位を任ずる。
 縫殿頭

三家(清華)及び名家から任命。(五位に限る)
 五位蔵人

五位の殿上人中しかるべき人を任ずる。
 左右兵衛佐(権官有り)
823日本@名無史さん:2005/10/19(水) 13:55:04
儒家・諸大夫などを任ずる。
 大内記

名家の五位を任ずる。
 皇后・皇太后宮等大進

殿上・地下の五位を任ずる。
 民部少輔(権官有り)、国守

名家・諸大夫の五位を任ずる。
 刑部大・少輔(権官有り)

名家の殿上人、地下諸大夫ともに任ずる。
 大蔵大・少輔(権官有り)

名家の殿上人、地下諸大夫の五位を任ずる。
 宮内大・少輔(権官有り)

五位を任ずる。
 太宰少弐(権官有り)、左右衛門権佐

諸大夫を任ずる。
 修理亮(権官有り)

地下の五位を任ずる。
 織部正、正親正

地下の五位を任ずるが、公卿・殿上人などの兼任もある。
 国介(権官もある)

五位以下を任ずる。名家の人でも成る。
 春宮大進(権官有り)
824日本@名無史さん:2005/10/19(水) 17:12:01
ごくろうさん
825日本@名無史さん:2005/10/19(水) 19:14:09
五位以下を任ずる。
 春宮少進(権官有り)

地下の五位以下の侍。
 大・中・少監物

地下の五位・六位を任ずるが、参議・雲客の兼任もある。
 権守

五位・六位を任ずる。
 近衛将監、左右衛門尉

諸大夫の五位・六位を任ずる。
 皇后・皇太后宮等少進(権官有り)

地下の五位・六位を任ずる。
 内蔵助、主計頭、主税頭、掃部助(権官有り)

諸大夫を任ずる。
 大学助

地下諸大夫を任ずる。
 雅楽助(権官有り)

地下を多く任ずる。
 隼人正

名家・儒家・諸大夫の重代の者を任命する。(六位に限る)
 六位蔵人

重代の諸大夫で蔵人になる前。
 非蔵人
826日本@名無史さん:2005/10/19(水) 19:15:50
しかるべき諸大夫の子などを任命。
 蔵人所雑色

六位諸大夫を任ずる。
 玄蕃助(権官有り)、木工助(権官有り)、大炊助(権官有り)

地下の六位を任ずる。
 兵庫助(権官有り)

六位諸大夫か、しかるべき侍を任ずる。
 兵部大・少丞

諸大夫・侍をともに任ずる。
 大膳亮(権官有り)

六位諸大夫・侍も任ずる
 弾正忠、左右兵衛尉

しかるべき六位の侍を任ずる。
 中務大・少丞、蔵人所所衆


 滝口

六位の侍を任ずる。
 大舎人大・少允、内匠助(権官有り)、内匠允、治部大・少丞、民部大・少丞、織部佑、
 主計大・少允、主税大・少允、隼人佑、刑部大・少丞、大蔵大・少丞、宮内大・少丞、
 大膳大・少進、掃部大・少允、左京大・少進、右京大・少進、勘解由判官、
 太宰大・少監、兵庫大・少允
827日本@名無史さん:2005/10/19(水) 19:17:28
六位を任ずる。
 縫殿助(権官有り)、縫殿大・少允、大学大・少允(権官有り)、正親佑、奉膳、典膳、
 左右馬助(権官有り)

地下の六位を任ずる。
 式部大丞、主計助(権官有り)、主税助(権官有り)

六位下品のものを任ずる。
 大掾(権官も有る)、少掾(権官もある)

六位以下を任ずる。
 采女佑(権官有り)、東市佑(権官有り)、西市佑(権官有り)、

下臈もなれる。侍も任ずる。
 内舎人

七位のものを任ずる。
 大目(権官もある)

『特殊』
名家の儒家。
 弁官

名家及び儒者だが、譜代のものを任じ、故実のないものは任命しない。
 少納言

儒者の才名の有るものを任ずる、中納言での兼務もある。
 式部大・少輔(権官有り)

小槻一門門徒。
 左右少史
828日本@名無史さん:2005/10/19(水) 19:19:13
安倍氏・紀氏、小槻の長者に与力するもの。
 左右史生

清三位家?、他家のものは任じない。
 主水正

近代六位地下史などを常に任ずる。
 少内記

六位蔵人などを任ずる。
 式部少丞

寮頭の推薦により任ずる。
 大舎人助(権官有り)

山科家を任ずる。
 内蔵頭

五位諸大夫を任ずる。近年は壬生官務家がなる。
 主殿頭。

弁・外記がなる。
 施薬院使別当

左右衛門権佐の兼任。
 検非違使佐

検非違使佐の兼任。
 防鴨河使

源平の武士。
 検非違使尉
829日本@名無史さん:2005/10/19(水) 19:23:12
滝口の侍が必ず成る。
 左右馬允

府督(別当)の任命。
 検非違使府生

随身を任ずる。
 近衛将曹、近衛府生

出羽介が兼ねる。
 秋田城介

太宰府中の有縁?のもの。
 太宰大・少典

武勇に耐えたる者。
 鎮守府軍監・軍曹

昔は三位・四位などを任じた。
 征夷大将軍

『諸道他』
白川家独占。
 神祇伯

大中臣(藤波)・斎部・卜部(吉田)の三氏、諸社の神主は任じない。
 神祇大・少副(各権官有り)、神祇祐

紀伝明経明法算道の儒士を任ずる。
 大学頭
830日本@名無史さん:2005/10/19(水) 19:27:31
紀伝道の儒士を任ずる。
 文章博士

明経道の儒を任ずる。
 博士

明経道のものを任ずる。
 助教、直講

明経道の末の儒を任ずる。
 音博士、書博士

法曹の儒を任ずる。
 明法博士

明法道の極官。他の人は任じない。
 大判事

明法道の人を任命。
 中・少判事

明法道の六位。
 衛門志で検非違使志を兼ねる。

諸道の四位・五位が成る。
 掃部頭、造酒正

地下諸大夫及び諸道のものを任ずる。
 玄蕃頭

五位諸大夫・諸道の者などを任ずる。
 木工権頭
831日本@名無史さん:2005/10/19(水) 19:29:16
番匠を任ずる。
 木工大・少允、木工大・少属、大工、権大工、少工、権少工、算師

賀茂(幸徳井)・安倍(土御門)両家の第一のものを任じ、他家のものは任じない。
 陰陽頭

陰陽道のしかるべきものを任ずる。
 陰陽博士

陰陽道の宿老を任ずる。
 諸陵頭

陰陽道の六位を任ずる。
 諸陵助(権官有り)

四位以下の地下、医道・陰陽道等のものを任ずる。
 大舎人頭

地下の五位で、医道・陰陽両道等のものを任ずる。
 内匠頭

諸大夫及び医道・陰陽両道のものを任ずる。
 雅楽頭

医道・陰陽道のものを任ずる。
 采女正

医道の極官。
 典薬頭

五位・六位をともに任ずる。(おそらく医道のみ)
 典薬助(権官有り)
832日本@名無史さん:2005/10/19(水) 19:33:49
医道の門徒を任ずる。
 典薬大・少允

近代は五位。(おそらく医道のみ)
 医博士

四位・五位がなる。(おそらく医道のみ)
 針博士(権官有り)

医道の四位・五位がなる。
 侍医

六位医師がなる。(六位の医師から昇格するの意味か?)
 権侍医

医道の四位以下、医道の重職。
 施薬院使

以上で終了。「続群書類従」収録、都道府県立図書館なら有ると思います。
 脱漏、間違いがありそうなのであらかじめ謝っときます。
 囚牢正・主鈴等近代任じないと言う官は省きました。
 なお国少目、国目等、当時の任官例がないのか最初から記載されていない官職も有ります。
833日本@名無史さん:2005/10/19(水) 19:34:57
>囚牢正・主鈴等×
 囚獄正・主鈴等○ 
834日本@名無史さん:2005/10/21(金) 19:07:10
佐については、官名ではないものの都督や将軍が府を開く時府主と称するのに対して、
補佐官を府佐と読んでいた。
また補佐官の、長史・司馬等上級者を上佐、部局長クラスの参軍を参佐(別名?)と
呼んだようだ。
督(都督)の補佐の佐だから、これが直接の元かも?
835日本@名無史さん:2005/10/23(日) 16:32:02
守・介・掾は多いのに目は居ないね。「上総介」や「常陸大掾」はよく出てくる

「隠岐目」おきのさかん・・・でいいのかな?「守」の次が「目」になっちゃうんだね
隠岐守は京極(佐々木)氏が名乗っただろうけど、現地トップの
尼子氏や隠岐氏は「隠岐目」名乗りななかったのかな?
836日本@名無史さん:2005/10/23(日) 19:08:51
江戸時代初期、水野と言う大名の家の次男坊がおったそうだ。
このままなら部屋住みで終わるところ、縁があって将軍様のご子息の側近に取り立てられたそうな。
そうしたらご子息が将軍になって、水野の倅も大名に取り立てられたんだと。
ところがどうしたものか、直ぐになんぞしくじりをしでかしておとり潰しになったそうな。
そんで世間ではこう噂したもんじゃ。
やはり名前が悪かった。なんせ水野阿波守じゃもんな。
全て水の泡って言うわけだ。
どっと払い。

笑点のキクゾウさんレベルだな。
実際には大名には水野阿波守も安房守も居ないようです。
旗本は不明。
837日本@名無史さん:2005/10/25(火) 17:46:47
>836

閑だから調べてみた。

旗本にも水野安房守もしくは阿波守はいなかったみたい。淡路守なら紀州家附け家老の
新宮城主にいたけど。

でも、旗本奴で有名な水野十郎左衛門の母親は松平(蜂須賀)阿波守家の出だったり、
奥方を斬って改易となった安中水野家が以前安房に領地を持っていたり、結構水の泡
は有るみたい。
838日本@名無史さん:2005/10/30(日) 15:33:00
三宅猫之介というヤシならワシしっとるで(みやけでなくみけ)
839日本@名無史さん:2005/10/30(日) 15:48:14
>>835
隠岐介はいるだろ。
840日本@名無史さん:2005/10/30(日) 17:15:24
隠岐介はいないよ
841日本@名無史さん:2005/10/31(月) 01:16:49
私称ならって意味では?
所謂八介や常陸大掾も世襲でほとんど私称みたいなもんなんでは。
842日本@名無史さん:2005/10/31(月) 19:33:23
>>820
>>大納言を任ずる。
>> 左衛門督
これは本当か???
間違いじゃないか?


843日本@名無史さん:2005/10/31(月) 19:48:37
原文は「大納言を是に任ずる」
和田英松「官職要解」では、「中納言・参議を任ずる。右衛門督は少し低い
ので非参議でも任じた例がある」と言うような書き方だったかと。
大納言以下の「以下」の書き落としではないかと勝手に推定?
ちなみに鎌倉公方は初任左馬頭、後従四位下左衛門督が通例。
歴代のうちには従三位に進んだものもある。
844日本@名無史さん:2005/11/01(火) 22:03:43
>>839
江戸時代の大名や旗本にはいないだろうな。

でも、なぜ武士は六位以下には任じられないようにしたんだろう?
ちょっと疑問。
845日本@名無史さん:2005/11/01(火) 22:13:37
>>844
旗本だと六位に任ぜられますよ。布衣と言います。
御先手は布衣の親爺の捨て所
などという川柳があったように思います。
846日本@名無史さん:2005/11/02(水) 00:09:19
布衣って、正式に六位に任じられるんだっけ?六位扱いではあったと
思ったけど・・・
847日本@名無史さん:2005/11/02(水) 01:25:15
布衣は六位相当だけど実際に六位を賜るってんじゃなかったんよ。
五位諸大夫で始めて五位に叙任。
これはもちろん江戸時代の武家(幕臣)のはなし。
848日本@名無史さん:2005/11/02(水) 01:30:34
五位に叙位って書かないとおこられるかな?
849日本@名無史さん:2005/11/02(水) 22:18:02
>>842
「群書類従第5輯」所収の
「官職秘抄」左右衛門督、中納言・参議中公達の輩を是に任ずる。
            近代諸大夫・大業の例有り。
「職源抄」左衛門督、中納言・参議の兼任。近代非参議はない。源頼家は例外。
     右衛門督、悲参議有り。近代非参議の四位は任じない。
「百寮訓要抄」左衛門督、大・中納言を是に任ずる。
       右衛門督、納言・参議・四位を是に任ずる。
 と諸説あり、時期により違うのかも?
850日本@名無史さん:2005/11/03(木) 08:59:25
室町幕府鎌倉公方
初叙任(従五位下左馬頭)。
極位極官(従三位左兵衛督)。

布衣=六位相当。
しかし、朝廷から六位叙位の口宣案・位記等の授与は無し。
851日本@名無史さん:2005/11/03(木) 20:16:45
鎌倉公方
 初代基氏25歳で従三位
 2代氏満、3代満兼は従四位下のまま死去したようだ。各40歳、32歳
 4代持氏は23歳で従三位(なぜか祖父・父より優遇)
 五代成氏は18歳で従四位(おそらく従四位下、多分同時に左兵衛督)
 その後は官位どころではなかったと思われ、おそらく従三位にはなっていないと思う。
2代、3代の段階でやや官位面では家格が低下しているようだ。
基氏は尊氏の子ゆえの特例なのだろうか?

ついでに、初期の細川一門で右馬助→右馬頭→右京大夫との昇進例があり。
 一門の分家の中に右馬助・右馬頭を世襲する家もある。
右馬助→右馬頭→右京大夫は、一連の上下関係として理解されていたかもしれない。
852日本@名無史さん:2005/11/05(土) 21:00:24
近世の武家官位は、
参議以上←中将←少将←侍従←四品(正四位下〜従四位下)←諸大夫(従五位下)
参議以上←中将←少将←侍従←その他の官職
 つまり四品・諸大夫に相当する官職が、
職大夫・職亮・寮頭・司正・衛門佐・兵衛佐・近衛将監・衛門尉・兵衛尉・馬允・国守等
 この中には本来の官位相当だと四位の左右京大夫から七位の馬允まで含まれる。
 そこで気になるのが、四品と諸大夫で官に差があるかどうか。
 諸大夫の大国守(五位)はともかく、四位で下国守(六位)を名乗る逆転現象も有ったのだろうか?
あと衛門・兵衛の佐・尉とか、職の大夫・亮でも。
諸大夫が一律従五位下って言うのも不思議?なんで正五位下や従五位上はなかったんだろう。
853日本@名無史さん:2005/11/06(日) 00:51:19
既出
854日本@名無史さん:2005/11/06(日) 02:02:27
>四位で下国守(六位)を名乗る
 毛利家の長門守とか島津家の薩摩守等々。いずれも侍従や少将中将などを兼ねて
いますが。他にも、例えば酒井左衛門尉家などもある。
 基本的に、そこの家に所縁の官を称するからということでしょう。
855日本@名無史さん:2005/11/06(日) 15:40:06
>四位で下国守(六位)を名乗る
 四位だと国持ち大名レベルだろうが
藤堂の「和泉守」くらいでね?
あと下国だと隠岐守・壱岐守・志摩守・淡路守としょぼい順に見ていっても・・・?
856日本@名無史さん:2005/11/06(日) 15:44:19
>参議以上←中将←少将←侍従←四品
国持ちに「左近衛少将」はいても「右近衛少将」が見当たらないのはなぜ?
「左大臣」>「右大臣」や「左大将」>「右大将」だろうけど
「少将」も「左近衛少将」>「右近衛少将」なんだろうか?
857日本@名無史さん:2005/11/06(日) 15:57:32
確か藤原忠実あたりが、
「摂関家は右少将を疎むように世間では言っているがそんなことはない」
とか言って子息(頼長?)を右少将にしたとかって読んだことがあるような。
笹山先生の本だったかな。
わざわざそう断ったってことはやはり左少将のほうが上という意識があったのかも?

それと話は変わるけど、武家のほうは結構大雑把というか細かいことには拘らない感じがある。
公家側は幕末でも上国介とか大国介とか一応区分していたみたい。
858日本@名無史さん:2005/11/06(日) 16:09:49
「左衛門尉(左門)」は大名(酒井や遠山)だが
「右衛門尉(右門)」は一介の岡っ引きや下っぴき(むっつり右門やからくり右門)

「左をむなしく」(上座を空けて貴人を迎える)
「左武」(武を尊ぶ)の慣用句にもあるように
中国の思想が影響してるのかな?
859日本@名無史さん:2005/11/06(日) 16:32:08
新人物往来社の「別冊歴史読本官位と組織の秘密がわかる本」に所収の
「江戸大名官職名(逆引き)人名辞典}佐々悦久によると、確かに圧倒的に左で、
右少将は、徳川頼房・光圀親子の他井伊直孝・福島正則・最上義光・松平忠直
(忠直は左右両方)程度。なんだか初期のみでしかも微妙な人が多い。
それで厭われたのだろうか?
あと浅野・池田・南部等左右不明が十数名。
860日本@名無史さん:2005/11/06(日) 16:51:33
同じ本によると、中将もほとんど左ばかり、
右は、徳川義直・光友以下継友までの尾張家5人・徳川光圀・綱条・松平光長
と徳川一門のみ。これはむしろ遠慮なのか?
左右不明が伊達家の5人を始め、前田利長・井伊直弼など10人くらい。
861日本@名無史さん:2005/11/06(日) 17:09:42
とんくす
みんな物知りでビクーリしたよ(^^)>
862日本@名無史さん:2005/11/06(日) 21:14:24
>>857
確認したらやはり笹山晴生先生の「日本古代衛府制度の研究」東京大学出版会した。
ただし少将ではなくて大将の話でした失礼。
中少将では、右→左と言う転任も多かったが、初期には左→右という転任もあった。
一応は左の方が格上だったようでもある。
ただ北家主流でも右中将のみ経験の例もあり、あくまで通過点なのでさまで左には
拘らなかったのではないかとのこと。
左右それぞれの前身官司である近衛府・中衛府の序列が影響しているのかもしれない。
863日本@名無史さん:2005/11/07(月) 20:19:12
俺は単純に、将軍が右大将だから避けたと考えていたんだが・・・
864日本@名無史さん:2005/11/07(月) 20:46:43
確かに右少将・右中将は徳川一門、それもかなり主流に近い人物が多い。
一般の大名は右を避ける気風があったのかもしれない。
それと将軍の右大将は確か頼朝の先例に倣ったんですよね。
865日本@名無史さん:2005/11/07(月) 23:56:55
将軍家が右近衛大将を兼任するから右近衛中将や右近衛少将を憚る
ということであるが、
序列上は、左近衛中将や左近衛少将の方が右より前列。
わざわざ後列の右を所望する必然性は無い。
憚るのをいいことに、前列が選べるということになる。
866日本@名無史さん:2005/11/08(火) 00:05:34
確か、何人かの徳川将軍は右大臣も兼任したが左大臣は
いなかったよな?
やっぱり「右」に意味があるような?
867日本@名無史さん:2005/11/08(火) 01:32:19
家光と家慶が左大臣になってるようだけど?
868日本@名無史さん:2005/11/08(火) 01:34:15
将軍には勅使を迎えて将軍宣下の儀があるけど、後に太政大臣に
昇進した場合とか諸大名も官位官職の叙位任官があれば勅使などを
迎えて宣下の儀とかするのですか?
869日本@名無史さん:2005/11/08(火) 08:08:23
左大臣兼右大将は義教の例が不吉と言うことで避ける気風があったとか、
読んだことがあるような。確か信長が左大臣にならなかったのがそれだとか。
870日本@名無史さん:2005/11/08(火) 08:46:50
朝廷は右大臣の次に順番として左大臣昇進を考えていたようだが、
信長としては左大臣くらいで納得するものでもあるまい。
官位などというものに頓着しなかった時期だし。
しかし、朝廷は信長の信条を理解していないから
左大臣を用意したのだろうが。
いっきに太政大臣を推薦すればよかったものを。
信長は、いちゃもんをつけて拒否し、その後、朝廷は
太政大臣でも関白でも征夷大将軍でも望みのものを
与えようとした。
871日本@名無史さん:2005/11/08(火) 08:50:16
徳川家光も徳川家慶は、生前中、
従一位左大臣兼左近衛大将
872日本@名無史さん:2005/11/08(火) 09:34:13
>>869
>左大臣兼右大将は義教の例が不吉と言うことで避ける気風があったとか、
>読んだことがあるような。確か信長が左大臣にならなかったのがそれだとか。

右大臣も源実朝の例があるから不吉といえば不吉ですね。
信長死後ならなおさら。

どう考えていたのでしょう?
873日本@名無史さん:2005/11/08(火) 09:38:26
足利家は義晴以降は別としても、義勝とか義量とか早死にした将軍は贈左大臣なのに、
徳川は家継でさえ判を押したように贈正一位・(贈)太政大臣なのはすごい。
慶喜が例外なのは当然だけどね。
874日本@名無史さん:2005/11/09(水) 19:29:10
信濃守っていまいち影薄い気がするけど、誰か有名人いますか?
875日本@名無史さん:2005/11/09(水) 19:56:02
>>874
永井信濃守尚政。
一般には有名ではないかも知れないが
学問の世界では、寛永期の上方支配の中核を担った人物として有名。
876日本@名無史さん:2005/11/10(木) 00:08:01
佐々木信濃守を忘れたらあかん!

「佐々木政談」でぐぐれ!
877日本@名無しさん:2005/11/10(木) 00:20:10
長野信濃守業政を思い出せよ…
878日本@名無しさん:2005/11/10(木) 00:25:06
あと江戸町奉行から外国奉行になってハリスとやり取りした井上信濃守清直。
879日本@名無史さん:2005/11/10(木) 10:03:44
>>857
>>「摂関家は右少将を疎むように世間では言っているがそんなことはない」
前に呼んだ近衛府の研究みたいな本に左は文官、右は武官が任命されることが多い
とか書いてあった記憶がある。
880日本@名無史さん:2005/11/10(木) 10:16:59
>>875-878
やはり大きい国の割に陸奥・武蔵・相模とかに比べると地味な人が多いな。
薩摩は変な意味で有名、越前は特別な有名人がいるし。
881日本@名無史さん:2005/11/10(木) 12:22:58
>>877
そんな田舎の土豪どうだっていいじゃん。
882日本@名無史さん:2005/11/10(木) 19:30:50
>>879
笹山さんの本で初期の近衛府大将について、
左は貴族的人物(後の摂関家に連なるような北家主流か皇裔)、
右は武人的人物が多い。とか書いてあったと思う。
883日本@名無史さん:2005/11/11(金) 09:05:56
>>882
補足ありがとう。
884日本@名無史さん:2005/11/13(日) 10:27:51
室町時代だと幕府が安定して、官位のインフレがなかった頃は
管領細川家が右京大夫、侍所頭人(四職家)クラスが左京大夫だったと
今谷明さんの「戦国大名と天皇」に記載されてましたけど
これだと幕府の役職のランクで考えると右>左ですね。
885日本@名無史さん:2005/11/13(日) 16:46:40
>四位で下国守(六位)を名乗る逆転現象も有ったのだろうか?>四位で下国守(六位)を名乗る
>>四位だと国持ち大名レベルだろうが、藤堂の「和泉守」くらいでね?

官位が四位以上(侍従から上)なのに官名が五位の例は、かなり有りますが
六位は流石に少ないですね。

 四位より上の国持大名クラスを調べると(数字は石高)
官名も四位相当という家は少なく

四位・・・弾正大弼(上杉15)、右兵衛督(尾張徳川61)、左衛門督(水戸徳川35)
     刑部卿(一橋徳川10)など

五位・・・筑前守(前田102が優先、空きがあれば黒田52)、陸奥守(伊達62)
     掃部頭(井伊35)、安芸守(浅野42)、
     肥後守(会津松平28が優先、空きがあれば細川54)など
   多くの国持ち大名が五位相当の官名を名乗ってますね。

六位・・・和泉守(藤堂32)、土佐守(山内24)
   六位の下国の守はやはり少ない 
886日本@名無史さん:2005/11/13(日) 19:54:16
四位相当の官は少ないので五位の官を名乗るのは仕方がないんでしょう。
衛府督、省卿など相当位は四位でも実質三位以上の人が任官されることが多い官になっていたし。
ただ不思議なことに江戸時代でも神官の場合は六位で国守ということもあったようです。
887日本@名無史さん:2005/11/15(火) 10:41:06
鳥取池田家
0代忠雄、従五位下宮内少輔→従四位下侍従→正四位下参議
初代光仲、従四位下侍従相模守→左近衛権少将、二代綱清、従四位下侍従ホウキ(伯鰭ー魚)守
三代吉泰、従四位下侍従右衛門督→相模守、四代宗泰、従四位下侍従出羽守→相模守
五〜七代は従四位下侍従相模守、五代の世子(相続前に死亡)は従四位下侍従右衛門督
八〜十代は従四位下侍従因幡守(八・九代は後従四位上)、11代は従四位上侍従因幡守
12代慶徳は従四位上侍従相模守。
 基本的には従四位下侍従相模守だが前藩主在世中の元服の場合は官名が異なる。
 綱清が生涯相模守を称さなかったのは父に対する反発のせいらしい。
 侍従から左近衛権少将に昇進するのが原則。
 早逝が続いたため相模守を因幡守に改めたが効果はなかったようだ。
888日本@名無史さん:2005/11/15(火) 13:22:29
あっ長々書いた肝心な理由を書き忘れていた。
つまり右衛門督→相模守って逆転が面白いなってことです。
それと従四位上は養子で実家の家格の問題らしいです。家の先例にはしないってことで。
889日本@名無史さん:2005/11/15(火) 20:21:42
右衛門督は思ってたより低く扱われてるな。

衛門督>>中将>少将>侍従>xx守
こんなイメージでいた。
890日本@名無史さん:2005/11/15(火) 20:53:31
本来の官職の格(公家側)で言えばその認識でほぼ間違いないようです。
官位相当は衛門督も中将も同じだけど、なんと言っても長官と次官の差は大きいし、
中将は定員が異常に増えていたさして有り難味がない。
けど武家官位は、中将>少将>侍従>その他だから。
さすがに省卿だけは別格のようだけど。
891日本@名無史さん:2005/11/18(金) 09:08:48
官位は空いていれば、けっこう無理きいてもらえたのかな?
同じレベルで、江戸時代の大名や旗本。

欲しい官位のために(位階上昇より名称目当てで)賄賂とか政界工作してたのかな?
892日本@名無史さん:2005/11/18(金) 12:49:23
>>891
越前系松平同士ライバル心があったみたいですね。
嫡子いるのに将軍家から養子もらって家格上昇狙ったり。
後は・・・
893日本@名無史さん:2005/11/18(金) 13:24:20
島津と伊達(仙台)とか南部と津軽とかも、かなりライバル意識が有ったらしい。
官名については同姓で重複しない限り原則的に希望が通ったらしい。
官位を上げるのは、相当激しく運動しないと無理だったようだ。
将軍の庶子を養子にでも貰えば別だけど。
894日本@名無史さん:2005/11/18(金) 21:37:14
官名で同姓の重複があった場合も、互いに同意したら譲ってもらえたみたい。
前出の池田(松平)家が因幡守を名乗ろうとしたときに、すでに松平因幡守が
いたので、分家の(因幡池田家は分家も松平姓)官名と交換すると言うことで
なんとか譲ってもらったらしい。
895日本@名無史さん:2005/11/19(土) 19:25:31
>>888
>つまり右衛門督→相模守って逆転が面白いなってことです。

相模守は歴代鎌倉得宗家が就いた官だし、武家の間では特別視したということは?
江戸時代だともう関係ないですかね。

戦国時代だと、大内義隆が太宰大弐(従四位相当)から伊予守(従五位相当)になったりしていますね。
最もこれは伊予に勢力を広げる一環として任官したみたいですけど。
896日本@名無史さん:2005/11/20(日) 15:11:40
大大名と官名(相当位)
前田102…筑前守、加賀守(五位)、島津77…薩摩守(五位)、
伊達62…陸奥守(五位)、尾張徳川61…右兵衛督(四位)、
細川54…越中守、肥後守(五位)、黒田52…右衛門佐、筑前守(五位)、
浅野42…安芸守(五位)、水戸徳川…左衛門督(四位)、
井伊35…掃部頭(五位)、鍋島35…肥前守、信濃守(五位)
藤堂32…和泉守(六位)、備前池田31…伊予守(五位)、
山内24…土佐守(六位)、有馬21…玄蕃頭(五位)、
上杉15…弾正大弼(四位)、姫路酒井15…雅楽頭(五位)、
柳沢15…甲斐守(五位)、榊原15…式部大輔(五位)、
久松15…隠岐守(六位)、小笠原15…右近将監(六位)、など
897日本@名無史さん:2005/11/20(日) 16:48:56
毛利の「長門守」も六位相当だね
それと島津の「薩摩守」は五位でなく六位
898世界@名無史さん:2005/11/21(月) 17:13:13
・内閣:明・清代の皇帝補佐機関(=政務総理機関)のこと(cabinetの訳語)。

・総督:明・清代の地方の最高長官。巡撫は1省を管轄する長官だが、こちらは2,3省
    を管轄する。

・提督:明代の提督東廠、清代の提督会同四訳館、提督学政というふうに様々な職名に
    冠されていたが、最も広く使用されたのは、明代の中央軍の京営の司令官の
    提督総兵官、清代の緑営(治安警察、地方軍)の司令官の水師陸路提督である
    (初めからadmiralの意味で使用されていたわけではない)。
899日本@名無史さん:2005/11/21(月) 18:11:59
>>898
提督軍務総兵官じゃなかったっけ?位は武従一品。
なんと六部尚書と同じ位。上には内閣大学士しかいない。
なのになぜか文従二品の巡撫と同じかやや下に扱われている。
900日本@名無史さん:2005/11/21(月) 19:19:29
板違いだから簡単に済ますけど、六品の千総が少尉級で七品の県令より官品上は上、
武官と文官の官品は同列じゃない。
武官八品・九品にいたっては下士官クラス。
901日本@名無史さん:2005/11/21(月) 20:10:39
平凡社の「官場現形記」所収の「清代の官制」によると、太平天国後は記名提督8000名とか。
記名提督・記名総兵(本来は少将級)でも営長(大隊長)代理がやっと。
守備(正五品・中尉級)・千総(正六品・少尉級)になると什長代理すら容易でなかった。
という酷い有様だったようだ。
902日本@名無史さん:2005/11/22(火) 18:45:42
皇帝率いるは元帥一個小隊ってのが確か銀英伝にあったけど、
皇帝率いるは提督一個旅団ってところか。
903日本@名無史さん:2005/11/23(水) 21:13:11
内大臣や右大臣で摂政関白になった場合、上位の左大臣より上座に座るの?
それとも一番上位の人からしか摂政関白には任じられないの?
904日本@名無史さん:2005/11/23(水) 21:19:46
平清盛や足利義満が太政大臣になったときでも、摂関はいたんじゃないのか?
905日本@名無史さん:2005/11/23(水) 21:21:57
あれ江戸時代の○○守って同時代に10人くらいいるだろ
何人いてもいいの?
906日本@名無史さん:2005/11/23(水) 21:23:24
構わない。ただし、武蔵守、三河守は完全なるNGであり、
また薩摩守、筑前守、肥前守、出羽守、掃部頭、雅楽頭にも一定の製薬有り
907日本@名無史さん:2005/11/23(水) 21:43:32
いや、三河守は秀康の子孫の津山松平家ならOK。
幕末の津山藩主斉民(徳川家斉の実子)は「松平三河守」だった。

武蔵守はさすがにNGだが、幕府が滅亡したとたんに岡山池田家が名乗った。
908日本@名無史さん:2005/11/23(水) 21:55:26
ふ〜んそうなんだ 知らんかった
909日本@名無史さん:2005/11/25(金) 20:28:04
武蔵守、初期には3例くらいあるみたいだが、
まだ制度的に整わない頃なので正式の官途かただの名乗りか不明。

910日本@名無史さん:2005/11/26(土) 10:19:51
綱吉、従四位下左中将のあと右馬頭→正三位→参議→将軍家後継で権大納言→将軍・右大将・内大臣→右大臣→贈正一位太政大臣
すると家光以降で諸大夫経験があるのは吉宗だけか?

南部、家督継承後一定年経過で従四位下
佐竹、家督継承と同時に従四位下侍従、50代後半から60代で左少将。
宗、家督継承と同時に従四位下侍従
毛利、家督継承後一定年で少将
伊達、嫡子元服時に従四位下侍従、家督継承時に従四位下陸奥守・少将→家督後10年で従四位上中将
911日本@名無史さん:2005/11/26(土) 16:45:18
南部が・・・石高もイマイチ、歴史はボチボチ。
どうしてそんな優遇なんすか?
912日本@名無史さん:2005/11/26(土) 19:36:00
官位の話なんだが、先日政府は亡くなった2人の元国務大臣に
従三位を叙位していたなあ。
国務大臣で従三位だったら、首相経験者は死亡したら従二位ぐらい
叙位されるの?
913日本@名無史さん:2005/11/26(土) 20:12:34
南部は10万石(一時分与により8万石、後高直しで10万石、後待遇のみ20万石)で、
柳沢の変わりに国持大名(大身国持=一国を領しないが大領土)に数えられることもあるので、
従四位下はそれほど厚遇ともいえないとおもう。
最初は従四位下からだし、半分は従五位下どまり。
宗家は明らかに外交上の問題からの優遇。そもそも10万石が下駄履かせすぎ。
また城持及び城持並は嫡子も従五位下なので、無常は当主のみと思われる。
ライバル津軽はここで、生涯従五位下。
914日本@名無史さん:2005/11/26(土) 22:06:22
>>912
http://www.geocities.jp/nakanolib/giten/ikai.htm
(参考) 平成11年以降の国会議員に対する叙位の例
【正二位】
小渕恵三(内閣総理大臣) 平成12年
竹下登(内閣総理大臣) 平成12年
鈴木善幸(内閣総理大臣) 平成16年
【従二位】
二階堂進(国務大臣、自民党副総裁) 平成12年
伊藤宗一郎(衆議院議長) 平成13年
桜内義雄(衆議院議長) 平成15年
坂田道太(衆議院議長) 平成16年
原健三郎(衆議院議長) 平成16年

首相経験者が正二位、議長経験者が従二位らしいです。
915日本@名無史さん:2005/11/26(土) 22:15:55
>>903
うろ覚えだけど、、
最初は摂政もしくは関白でめ右大臣なら、序列は左大臣より下。
後に摂関家がそれを嫌って大臣を辞しても摂政もしくは関白であり続けため最終的に他の官職より序列が上。
調べてみないとよくわかりませんが、、、うろ覚えで申し訳ないです。
916日本@名無史さん:2005/11/26(土) 23:13:16
うろ覚えなら書くな
917日本@名無史さん:2005/11/27(日) 10:02:18
席次は左右大臣の方が摂政内大臣より上、
初期はそう言うことがあっても摂関を直ぐに昇進させることで解決。
兼家の時は上が塞がっていて不可能だったので辞任して大臣を兼ねない例を開いた。
その後摂関は一座の宣旨を受け、席次が最高位になるのが慣例となった。
と言うことだったと思う。
918日本@名無史さん:2005/11/27(日) 12:41:31
>>915
>>917
ありがとうございます。
919日本@名無史さん:2005/11/27(日) 15:23:10
>>911-913
南部家は面積でかいが、厚遇とは言えないと思います
面積が南部の4分の1以下とはるかに小さい上杉家などは
10代で侍従になってる
(定勝19、綱勝14、綱憲12、吉憲19、宗憲10、宗房14など)
し、治広、斉定、斉憲などは少将から中将になってる。
 歴代当主の善政の表彰もあるが15万石の中大名にしては高い

南部家は19世紀初の文化年間に20万石に高直し、
それまでの従五位下止まりから従四位下に昇進するようになった。
それでも満足できない当主の利敬は侍従になるよう運動を続け
例の事件引き金となるのは諸兄ご存知のとおり。
920日本@名無史さん:2005/11/27(日) 16:01:00
35万石の井伊家は十代直定から南部とは
逆にそれまでの従四位下から突然、従五位下に落ちてる

五位「掃部頭」ではなく四位の官名(左衛門督とか)を
通称にしてたら五位に落ちなかったのだろうか?
921日本@名無史さん:2005/11/27(日) 19:57:32
井伊の掃部と酒井の雅楽は、助が通称だったから他との釣合(頭はあるけど助はない)
で頭にしたようだ。
そうすると釣合上酒井左衛門尉家は左衛門佐でもいいような気がするが、
あえて由緒のある尉で通したようだ。
922席次補足:2005/11/27(日) 20:21:10
実際の陣定(平安期)においては、「貫首(カンズ)」ともいった頭弁、
すなわち蔵人頭左中弁(或いは稀に左大弁など)が上位に座った。
現代の職制に無理やり当てはめると、
官房長官(の一部職)、同副長官(事務方)、法制局長官、首相主席補佐官、宮内庁長官などを
兼務した職といえる。
つまり当時においては極めて激職であったと思われる。
さすがに、アホでは務まらず相当の人物が任命された。
923日本@名無史さん:2005/11/27(日) 20:24:58
ところで増置された中国介と下国ジョウって官位相当は定められたのですか?
釣合からいって正七位下と従八位上くらいの気がしますが。
924日本@名無史さん:2005/11/27(日) 20:29:08
貫首は頭弁に限りません。てゆうか蔵人頭に限りません。トップと言うことです。
ですから出席公卿の中で一番上の人物を差すこともあります。
陣定は公卿定であって、蔵人は参加できません。
頭弁は大・中・少弁いづれの場合もあり得ます。
アフォや幼者が任じられる事もあります。
925日本@名無史さん:2005/11/27(日) 20:32:03
室町時代に管領頭(頭弁)と位階上臈の蔵人頭(通常頭中将)が席次争いをしたことがある。
足利義教の日野家弾圧の一環らしい。
926日本@名無史さん:2005/11/29(火) 10:00:40
鎌倉時代は、官職の序列は将監>衛門尉>兵衛尉>馬允
 例えば北条氏の主要人物は初任将監、やや主流から外れると初任衛門尉
しかし、成功(官職購入)の相場は、時期により違うが、
 衛門尉>兵衛尉>馬允>将監
 又は、衛門尉>兵衛尉>将監>馬允
このあたりどうしてこうなんでしょうね?
927日本@名無史さん:2005/12/02(金) 19:39:33
江戸時代は完了は管轄地域の受領は名乗ってはいけなかったそうだ、
奈良奉行の大和守とか、京都町奉行の山城守とかはNG。
佐渡奉行の佐渡守も当然駄目だが、前職なら問題ないので、
元佐渡奉行がおそらく記念の意味で名乗ったことがあるそうだ。
928日本@名無史さん:2005/12/02(金) 20:08:17
>>927
大坂城代で太田摂津守資次とか太田摂津守資始とかいるけど。
929日本@名無史さん:2005/12/02(金) 21:39:20
どうしてこのスレはこうレベルが低いのかね
930日本@名無史さん:2005/12/02(金) 21:50:25
俺には丁度いいから高レベルな人は来ないか親切になるかどっちかがいいと思うよ
931日本@名無史さん:2005/12/02(金) 22:23:54
>>926
その鎌倉北条氏の官職の序列は実際の(公家)の序列どうりじゃないですかね。
近衛府>衛門府>兵衛府>馬寮
天皇に近い場所の警備する近衛府の地位が一番高い。

成功の相場っていつの時代の資料なのでしょう?
室町後期、朝廷と地方の武士が幕府を通さずに任官していた
時期の資料だと官職による相場の差ってあまりないような。
大内氏とかは大金だしてますけど、他の武士だとほぼ同額だったと思います。


932日本@名無史さん:2005/12/03(土) 00:19:58
そもそも室町時代には成功は実施されていませんので比較になりません
933日本@名無史さん:2005/12/03(土) 13:25:38
紀伊徳川家ってなんで常陸介なの?尾張や水戸の衛府督ぬ比べて低すぎ。
分家の西条松平の左京大夫に比べても低すぎ。
常陸は親王任国だから介が受領で他国の守と同等ってのはわかるけど、
でも別に五位の官になったわけじゃなくて官位相当は六位のままでしょう。
やっぱり官途の中でも格下だと思うんだけど。なぜだろう?
934日本@名無史さん:2005/12/03(土) 13:28:34
江戸時代に官位相当を気にする武士はひとりもいない
官途に格下も格上もない
935日本@名無史さん:2005/12/03(土) 13:45:48
12世紀末で
衛門尉は10000疋(100貫文)、兵衛尉7000疋(70貫文)、馬允5000疋(50貫文)、将監2000疋(20貫文)
13世紀末ごろで
衛門尉は1500疋(15貫文)、兵衛尉1000疋(10貫文)、馬允600疋(6貫文)、将監800疋(8貫文)
あとのほうが安いのは値崩れ。

>官途に格下も格上もない
それは言い過ぎ、五位では名乗れない官途もあるし、衛府督はそう簡単には名乗れない。
936日本@名無史さん:2005/12/03(土) 18:02:42
>>935
>>官途に格下も格上もない
>それは言い過ぎ、五位では名乗れない官途もあるし、衛府督はそう簡単には名乗れない。

>>934 さんが言いたかったのは江戸時代
大国の守>下国の守 という意識を持ってなかったということでは?
衛門/兵衛督などは受領名とは同等とは思っていないでしょう。

これって鎌倉/室町時代の武家もそうでは?
鎌倉時代だと北条得宗家(相模守:上国)>北条一門の有力者(陸奥守:大国)という序列だし。
937日本@名無史さん:2005/12/03(土) 18:49:04
>>920
直定は当初は嗣子ではなかったので従五位下に任ぜられたのです。
兄直惟の嗣子となると、すぐに従四位下侍従に任ぜられています。
938日本@名無史さん:2005/12/04(日) 11:59:22
>933

なんか、肝心の質問に答えが出てないみたいなので、これは漏れの推測だが参考まで聞いてくれ。

紀伊家が常陸介なのは、頼宣の最初の領地が常陸水戸だったからでは?(ちなみに、頼宣が常陸介
になった時、青山常陸介忠俊が頼宣に遠慮して伯耆守に官名を変えている)

尾張家の場合、「尾張」の読みが「終わり」に通じて縁起が悪いということで避けたような気がする。
現に、「尾張守」は「武蔵守」(江戸のある国だが池田利隆が慶長12年より松平姓の名乗りと一緒に
使っている)よりも使用頻度が少ない、というか使ってるやついない。その代わり、なんとなく格上っぽい
右兵衛督を名乗ったのじゃないか?

この仮説の欠点としては、義直が任官したのが慶長11年で甲斐府中城主の時だから甲斐守を名乗
ればよかったじゃないかと言うこと。ひょっとして、尾張松平忠吉が死にそうと言うことで、その後に
義直が入ることがもう決まっていたのだろうか。

ま、ほとんど妄想ですが。

939日本@名無史さん:2005/12/04(日) 13:59:15
>尾張家の場合、「尾張」の読みが「終わり」に通じて縁起が悪い

あと、謀反人(陶尾張守隆房)や裏切り者(松田尾張守憲秀)
の悪イメージもあったと思われ
940日本@名無史さん:2005/12/04(日) 14:08:47
>上杉家などは 10代で侍従になってる
し、治広、斉定、斉憲などは少将から中将になってる。
歴代当主の善政の表彰もあるが15万石の中大名にしては高い

鎌倉・室町の両幕府にも仕えていた上杉家には
そのくらい普通だろう
定勝や斉憲が少将や中将なのは本人や正室の出自が良かったから
941日本@名無史さん:2005/12/04(日) 14:14:19
>直定は当初は嗣子ではなかったので従五位下に任ぜられたのです。

とんくす。大老なのに従五位下は変だと思った。
942日本@名無史さん:2005/12/04(日) 14:25:34
>>940
鎌倉・室町時代の上杉氏から侍従なんかひとりも出ていませんよ。
943日本@名無史さん:2005/12/04(日) 14:34:48
6代将軍宗尊親王の側近だった上杉重房って侍従じゃないの?
944日本@名無史さん:2005/12/04(日) 14:37:48
御三家でも水戸の武田信吉
紀州の徳川頼職(吉宗の兄)、尾張五郎太は無位無官
945日本@名無史さん:2005/12/04(日) 14:57:36
江戸大名には少納言や左大弁・右大弁てどうして居ないのだろう
琉球守や羽後守なんて実在しない官名名乗る阿呆は居るのに
946日本@名無史さん:2005/12/04(日) 15:03:31
>尾張家の場合、「尾張」の読みが「終わり」に通じて縁起が悪い
あと、謀反人(陶尾張守隆房)や裏切り者(松田尾張守憲秀)の悪イメージも

「上野介」は不遇な最期をとげる大名続出なのに大人気だぞ
次々に名乗る大名・旗本(本多、堀田、吉良、小栗)が現れ
みな悲惨な末路をむかえる。
947日本@名無史さん:2005/12/04(日) 15:04:03
>>943
なぜそう思う?
948日本@名無史さん:2005/12/04(日) 15:13:27
>それは言い過ぎ、五位では名乗れない官途もある

佐竹の右京大夫、上杉の弾正大弼、島津の修理太夫などの
四位官名は
五位の大名は名乗れない
949日本@名無史さん:2005/12/04(日) 15:22:36
>江戸時代に官位相当を気にする武士はひとりもいない
官途に格下も格上もない

大名は少なくとも気にしたと思うよ。
津山は「越後守」名乗るだけでなく
福井より上だと自負して常に越前家より上に飛び出ようとしてた

鳥取は岡山の分家ではなく準家門だという気概もって
岡山が侍従なら鳥取は少将に先になるぞと歴代は意識したそうだしの。
950日本@名無史さん:2005/12/04(日) 15:32:52
>>943
上杉重房は従四位下左衛門督のち修理太夫なので
侍従はなってないだろう?
951日本@名無史さん:2005/12/04(日) 15:50:48
左衛門督というのも眉唾だな
952日本@名無史さん:2005/12/04(日) 17:08:04
>>945
弁官は名家専用みたいなもので、まだ職務のなごりみたいなものがあって
名誉職には使いにくかったんでしょう。
その流で武家の官な員数外ってことになっても、名乗らなかったのでは。
少納言はよくわからないけどやはりいかにも事務官って感じで
武家にはふさわしくないって思ったんじゃないでしょうか?
武家の官は羽林か諸大夫・侍のつくような官が多いようです。
あと、950超えましたけど次スレ立てますか?
953日本@名無史さん:2005/12/04(日) 17:10:06
>>952
勉強になったよ。有難う(945)
954日本@名無史さん:2005/12/04(日) 20:58:32
>>952
そろそろ次スレ立てて。
955日本@名無史さん:2005/12/04(日) 21:34:51
>944
>紀州の徳川頼職
 紀伊家の連枝として、頼方と同じく従四位下少将だった筈ですが。
956日本@名無史さん:2005/12/05(月) 16:57:37
スレを立てるのはまだ早い。
まだまだ残っている。
957日本@名無史さん:2005/12/05(月) 19:22:40
>>944
頼職、従五位下内蔵頭(元禄8年)、翌年>>955氏のとおり従四位下権少将。
家督継承後あまりに早く死んだので名前も官位もそのままだったらしいです。
もう少し生きれ居れば最低でも従三位中将徳川吉○になったはず。
信吉は生来病弱のため無位無官だったらしい。初期のことゆえ制度的もかたまってないし。
五郎太は幼少過ぎる上に家督継承直後に死んでしまったためでしょう。
それでも当主には違いないためか、従三位参議を追贈されています。

それと次スレですが、970くらいで立ててはどうでしょうか?
958日本@名無史さん:2005/12/05(月) 22:45:50
つか、次スレいらない。
959日本@名無史さん:2005/12/05(月) 23:05:25
要るよ
980ぐらいで立てて
960日本@名無史さん:2005/12/06(火) 20:34:57
頼方は最初従五位下主税頭(ちからのかみ)
あの時代としては飛びぬけた大男で力持ちだった(力士を投げ飛ばした逸話有り)こと、
後年財政問題で苦労することを考えるとなんとなくおかしい。
961日本@名無史さん:2005/12/07(水) 13:58:45
忌避官名ではないようだが、実際には江戸時代に避けられていた官名。
神祇伯・大輔・同少輔、斎宮頭、諸陵頭、どうも神様関係は避けられていたらしい。
典薬頭、陰陽頭、医者・陰陽師専用で武士はいやがったのだろうか?
大舎人頭、医者・陰陽師が就任する官になっていたためかもしれないし、
単に長ったらしくて嫌われただけかも知れない。「まつだいらおおとねり」殿とか長すぎ。
囚獄正、公家時代に既に嫌われていて誰も就きたがらなかったそうだ。
春宮坊の諸官(主膳正のみ有り)、舎人正・主蔵正・主工首は何時の間にか絶えていたらしい。
主馬首・主殿首は基本的には六位の官だからだと思われる。
962日本@名無史さん:2005/12/07(水) 15:01:46
>>961
陪臣の通称でよければ仙台の家臣に古田舎人というのがいる。
数代前の先祖が朝鮮か中国から来て政宗に仕えている。最初は遠藤姓だったようだが良い資料がない。
「世臣家譜」の正編ではなぜか記載されておらず、続編にいきなり舎人良智が登場している。
963日本@名無史さん:2005/12/07(水) 19:39:15
諸陵頭も医道・陰陽道の長老が就く官とされていた。
あるいは墓守の字面が嫌われたせいかもしれない。
久能門番の榊原家も二代目が神官役を嫌がって門番だけになっているし。
神官を世襲していれば三位以上に昇れる稀有の旗本(初代はなんと従二位)
として続いていたかも知れない。
964日本@名無史さん:2005/12/10(土) 20:29:23
>961

典薬頭は、幕府の役職として半井家と今大路家が世襲してたからねえ。
やはり、医者は専門職というイメージがあったのだろう。もっとも、両家とも
名乗りに典薬頭を使ってるわけではないが。
965日本@名無史さん:2005/12/18(日) 21:48:55
結局幕府の制度だと、
従二位大納言>正三位大納言>従三位中納言>従三位参議>正四位下参議>
従三位中将>正四位上中将>正四位下中将>従四位上中将>正四位下少将>
従四位上少将>従四位下少将>従四位上侍従>従四位下侍従>従五位下侍従>
従四位上>従四位下>従五位下>布衣、の序列でいいのかな?
966日本@名無史さん:2005/12/18(日) 22:31:14
>>965
侍従ではない単なる従四位上っていう例がありますかねえ?
967日本@名無史さん:2005/12/21(水) 21:52:44
武家の大納言には正二位・従三位もあるようだ。
榊原の従二位は伊勢祭主への徳川側の対抗心かららしい。
968日本@名無史さん:2005/12/21(水) 23:51:42
やっぱり次スレいらないような気がする
969日本@名無史さん:2005/12/22(木) 23:29:42
食いつきが悪いし、既出もあるし。
やっぱり、続編は無用だね。
970日本@名無史さん:2005/12/23(金) 20:28:09
次スレは必要な者が立てる。
需要がなければ落ちるだけ。
971日本@名無史さん:2005/12/28(水) 10:49:33
次レスは必要です。
972日本@名無史さん:2006/01/07(土) 19:30:05
sage
973日本@名無史さん:2006/01/10(火) 04:57:31
sage
974日本@名無史さん:2006/01/11(水) 10:58:05
sage
975日本@名無史さん:2006/01/11(水) 11:19:15
埋めるんなら次スレたてれ
976日本@名無史さん:2006/01/14(土) 14:05:27
sage
977日本@名無史さん
プゲライオンwwwwwプオウオポウッポプオポポウwww