北条早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直を語るスレ2

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1月と星より
スレッドを立てました。
どうぞ!
●前スレ★
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1031826684/l50
2月と星より ◆jaxQ5494pE :03/07/30 02:30
という訳でよろしくお願いします〜♪
3日本@名無史さん:03/07/30 02:32
小田原征伐の際の北条兵力はどれくらいだったのでしょうか?
又何万石?
4 :03/07/30 03:38
早々に上方の情勢を探知して恭順するしか手は無かったんだろうなぁ。
5日本@名無史さん:03/07/30 03:44
頭首が北条氏康だったら勝てたかも・・・

少なくとも大阪夏の陣よりは勝ち目があったと思うが・・・
気のせい?
6 :03/07/30 03:45
関ヶ原まで生き延びていれば天下も取れたかもしれないのに。
7日本@名無史さん:03/07/30 03:50
>>5
絶対に無理。
あの時には御家を守るしか無かった。
徳川家を信じ過ぎたために上方との連絡が遅れて、
特に外交が後手後手に回った面がある。
三方が原の戦いで秀吉に付けば良かった。
結局は徳川家に裏切られたと言えないだろうか。
8日本@名無史さん:03/07/30 03:51
>>3
250万石、兵力15万〜20万(常時の二倍動員)
9日本@名無史さん:03/07/30 03:55
小田原征伐は最後の、将棋で言えば詰みの段階。
其処にいたるまでに生き延びるチャンスはあった。
ある意味では北条は徳川に貸しを作った為に、
大阪で生き延びることが出来たといえるかもしれないが、
徳川家への信頼によって失ったものの方が大きかった。
10日本@名無史さん:03/07/30 03:59
>>9
秀吉が九州征伐にいってるとき北条はなにを?
出兵したくても徳川が同盟国で西には行けないだろうし。
11日本@名無史さん:03/07/30 04:04
>>10
関東の中小大名を相手に地域の覇権を狙うだけだった。
結局は徳川家に北条を食い止めたという実績を与えただけだった。
12日本@名無史さん:03/07/30 04:20
結局は関東の覇権という夢を手放す事が出来なかった故に、
情勢を読み誤ったと言える。
天下の中で先手先手で自国の位置付けをしようという意欲に欠けていた。
13日本@名無史さん:03/07/30 04:26
戦国無双で北条がどんな評価をうけるか疑問だ・・・

ゲームの話でスマソ。
14日本@名無史さん:03/07/30 12:01
関東は戦国時代以前より西の非主流、もしくはNO2と組んで
天下奪取を試みようとしたことが幾度かあり、小田原北条の
場合も家康がそのNO2を担ってくれるものと思いこんだ。
最悪でも、家康が戦国以前の今川のように北条(関東)の面子
が立つレベルで仲介ぐらいはしてくれると思っていたのでは。

15日本@名無史さん:03/07/30 13:52
小田原征伐の際、北条の当主が氏康さんでも
秀吉に降伏はしてないと思うよ。
氏政の読みの通りに秀吉軍が内部崩壊すれば
氏政は天才と言われていただろうし・・
結局は結果で判断されてしまう。
河越夜戦も氏康さんが負けてたら愚将扱いになってただろうし
歴史って難しいよな
16日本@名無史さん:03/07/30 13:56
単なる結果論ではないよ。
そこに至るまでの必然というものがある。
17日本@名無史さん:03/07/30 14:25
北条の子孫はどうなったの?
18日本@名無史さん:03/07/30 18:49
>>16
そういうが、かなり運に左右されている気がする
19日本@名無史さん:03/07/30 23:24
>>17
徳川の御家人格の狭山藩として明治まで存続。
20日本@名無しさん:03/07/31 19:36
>>18
その運が歴史における必然性と
密接な関わりがあるような気がする。

時代に求められている人が運を味方にして
やることがことごとく上手くいったり
どう考えても死ぬはずのところで生き延びたりするし
求められていない人が不運な死に方をするような

あるいは時代での役割を終えるとそれまでの幸運が
嘘のように不幸な殺され方をする
あるいは不可解なほど無防備になって殺される
大久保、信長、龍馬、井伊などの死には
そういう感が強い
21日本@名無史さん:03/07/31 20:04
>>20
長く生き過ぎた例として西郷と秀吉
22日本@名無史さん:03/07/31 20:06
>>21
家康もな。
23山崎 渉:03/08/02 01:13
(^^)
24日本@名無史さん:03/08/04 06:27
age
ひっそりといきます〜♪
1571年、甲相同盟が再締結されますと、
1572年に第一次羽生城攻防戦が開始されます。
さらに、1573年に第二次羽生城攻防戦、
そして、1574年に第三次羽生城攻防戦(攻略)と続きます。
この時期は上杉謙信の関東遠征、佐竹家&宇都宮家との多功原合戦(敗戦)、
第三次関宿合戦、小山城攻略と地道な戦いが展開されていますが、
この羽生城って要所なのでしょうか?
(1552年、1560年にも羽生城攻防戦があったようですが・・・。)
ただ単に佐竹家&宇都宮家の活躍に北条家側が攻め倦んでいるだけなのかも・・・?
26源氏:03/08/04 19:46
1574年の関宿城陥落は、関東戦国史上でも、大きな意味をもっているらしい。
関宿城主・簗田氏の自立の夢も消えたか。
謙信も武蔵の拠点はすべて失ったな。
今日もひっそりと♪
>>25で書いた以降は周辺の状況が大きく変わりつつあります。
1575年、武田勝頼は長篠合戦で織田・徳川連合軍に敗北してしまい、
その直後、織田軍の岩村城攻略、徳川軍の二俣城攻略で勢力を後退させてしまいます。
1577年、上杉謙信は七尾城攻略し、手取川合戦で織田軍を撃破します。
この状況下において関東では北条家の軍事行動が活発化します。
1575年、小山城攻略。
1576年、高道祖原合戦(敗戦)。三崎沖海戦。土気酒井氏が北条家に服属。
1577年、三船台合戦(対陣)。以後、北条・里見和睦。小山台合戦。
里見家の方は婚姻関係を結ぶことで一応は解決しますが、
佐竹家・結城家・宇都宮家・那須家の方は一進一退の攻防を展開しています。
北条家にとっては、
上杉謙信の援軍が無くても小国の連合は、
厄介な存在になってしまいますね。

>>26
私は、簗田氏もそうですが、野田氏・一色氏も気になりますよ。
1573年に深谷城も上杉憲盛が北条家に服属してしまいましたからね。
1574年以降は関東遠征もありませんし・・・。
28源氏:03/08/04 21:30
>>27 1574年以降は関東遠征もありませんし・・・。

それが今でも通説ですよね。ただ、以下の資料から、謙信の関東出陣はその後もあったのではないか、
という疑問も出されています。
それにしても、織田との衝突を目の前にして、もっと北陸戦線に集中しろよ、という気もしますね。
天正3年 2・5  沼田着陣・すぐに帰国か(「徳川黎明会所蔵文書」・群2812)
     9・8  沼田衆、桐生領黒川谷寄居・五覧田城攻撃(「集古文書」群2783)
          その後越山、
     9・21以前 新田領攻撃(「上杉文書」群2786)
    10・15 桐生領谷山城攻略(「太田文書」)
    11・7  桐生領猿窪城攻略(「歴代古案」群2795)
    11・9  赤堀陣より後退(「由良文書」群2797)その後帰国か。
天正5年 5・14 越山、新田領・足利領攻撃(「野呂徳男氏所蔵文書」)。
          同月末までに帰国か。
          (以上、黒田基樹氏・「謙信の関東侵攻」による)
29源氏:03/08/04 21:32
きちんと、そろっていなかった。少し見にくくなってしまった・・・
30日本@名無史さん:03/08/05 10:24
氏政がもっとも活躍する戦略、外交ではないか
>>27で書いた以降のお話。
1578年、上杉謙信、死去。上杉家の家督争い『御館の乱』が勃発。
それ以降については前スレで書かせて頂きましたので割愛します。
ただ、北条家は武田家と駿河方面と上野方面で戦闘状態に突入します。
この際、北条家は徳川家康と軍事同盟を結び、
武田家に対抗していきます。
一方、武田家の方は上杉景勝と同盟を結ぶも援軍は期待できず、
孤軍奮闘という状態で北条家と徳川家に対抗していきます。

ところで、この時の佐竹家、結城家、宇都宮家の動向がわかりません。
里見家の方は1578年に里見義弘が死去してしまったため、
こちらでも家督争いが起こり、混乱状態に陥ってしまいますが・・・。
佐竹義重や結城晴朝は武田勝頼と結んでいるようにはみえません。
結んでいたら北条家は四面楚歌の厳しい展開になりますし、
徳川家も戦力を集中することができる武田家相手に、
高天神城の奪回は難しくなっていたでしょうに・・・。

>>28
噂の関東遠征15回説ですね。
詳しくは知りませんでしたので、教えてくれましてありがとうございます。
もっと北陸戦線に集中しろよ・・・確かにそうですね。(笑)
32なによこのHP:03/08/05 23:52
http://www2.harimaya.com/hozyo/index.html
>>早雲の場合、箱根の早雲寺所蔵の北条早雲像によって窺われる早雲その人
の容貌は、まさに伊勢の土豪のそれであって、京都の柔弱な武家の容貌ではない。

早雲寺蔵の画像は江戸前期の土佐光起1617〜97が想像で描いただけやぞ。
33げっ:03/08/05 23:53
あなたの近所のあの娘が出てるかも
いつもすまして歩いてるあの娘が
乱れまくり!!
http://www.j-girlmovie.com/
        ,,,--─===─ヽ/へ
      /iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ
     iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶
    iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ
   iiiiiiiiiiiiiiiiii/             \iiiiiiiゞ
   iiiiiiiiiiii/                \iiヽ
  iiiiiiiiiiiiiii《    ━━━'/  ヽ━━━ ヽミヽ
 ...iiiiiiiiii彡/      __,.::  :: __  ヽiiiii|
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こんばんは〜♪
>>31のつづき(?)です。
御館の乱、武田家との戦闘、織田家の東進&本能寺の変、神流川合戦、若神子の対陣・・・。
北条家が西方の展開に巻き込まれている間も関東では小競り合いが続きます。
北条家と徳川家は双方の事情により和議を考え始めていきますが、
真田家が北条家から離反し徳川家の傘下に入ろうとしたため、北条家と真田家は戦闘状態に入ります。
その直後、北条家と徳川家は和睦し真田家は徳川家の傘下に組み込まれます。
和睦の条件については割愛しますが、
この和睦の条件が徳川家と真田家の反目につながっていきます。

さて、北条家の方は関東制覇に向けて行動を起こします。
1583年から下野方面で佐竹家、宇都宮家と戦闘状態に入ります。
1584年には小牧・長久手合戦の影響なのかな?
関東においても上野・下野方面で合戦が繰り返されます。
1585年に入りますと佐竹家の状況が厳しくなり、北条家の軍事力に押されていきます。
由良家や長尾家が北条家の完全支配に組み込まれてしまいます。
須花坂合戦で反北条派の佐野宗綱が戦死し、北条氏忠が佐野には入ります。
繰り返されていく多気山城攻防戦は宇都宮家の勢力衰退を著しくしていきます。
下野の南方は次々と北条家の勢力下に入ります。
(1586年、皆川家も服属。壬生家は元々親北条派かな?)

また、奥州では伊達政宗の台頭に巻き込まれ、
人取橋合戦で佐竹家の勝ち戦を逃してしまうという失態を演じてしまいます。
それでも、蘆名家に養子を送り込むことに成功していますが・・・。

あと、1585年は・・・、
紀伊平定、丹羽家騒動、四国平定、佐々成政討伐(以上、羽柴家の関連。)、
第一次上田城攻防戦(徳川家×真田家)、沼田城攻防戦(北条家×真田家)もあります。
38日本@名無史さん:03/08/09 02:36
>37
沼田城攻防戦(北条家×真田家)
城将は矢沢薩摩守頼綱。
上田の真田vs徳川よりも兵力差が大きいうえでの
真田の勝利なのに、真田贔屓でもあまり取り上げない戦い。
本城でない沼田だったからか、
北条が敵では盛り上がらないからか・・・
>>37のつづきです〜♪
小牧・長久手合戦以降、羽柴秀吉は武力による徳川家の討伐を断念し、
謀略による揺さぶりを仕掛けていきます。
それが真田昌幸の離反と第一次上田城攻防戦であり、
石川数正の離反、小笠原貞慶の離反と家臣団の動揺とつながっていきます。
(徳川家の信濃政策の危機。木曾義昌は親羽柴派かな?信濃北四郡は上杉家の勢力範囲。)
北条家と真田家の沼田城攻防戦は徳川家と真田家の対立に連動した戦略になります。
1586年、1587年と沼田を巡る戦いは続きますが、
その間、徳川家が豊臣家に臣従してしまい北条家の孤立化が決定します。
さらに、豊臣秀吉の九州平定は戦国時代の終わりを予感させるものになります。
1588年に関白豊臣秀吉と北条家は講和を結び沼田城を巡る攻防戦は終決します。
これにより、沼田城は北条家の手中に収まることになります・・・。

一方、佐竹家や里見家では代替わりが進み、
佐竹義宣と里見義康がそれぞれの家督を継承します。

>>38
沼田城攻防戦はあまり見ることができませんね。
真田家の書より北条家の書の方が取り上げているのかも・・・。(笑)
北条家の森下城攻略とかも取り上げてほしいと思います。(無理ですね。)
40日本@名無史さん:03/08/10 09:07
>39
そもそも、北条がああまでして
沼田城を欲しがったのは
何でなんでしょうねぇ。
真田が武略で切り取った城だし、
それをよこせ!ってのはお門違いだし。

沼田城攻防戦が大きく取り上げられないのは
北条家に対する評価が低いから・・・なんだろうなぁ。
まぁ天下様と比べられるわけだから仕方がないか。
>>40
北条家が沼田城を欲しがる理由?
歴史の流れは・・・
1578年、上杉謙信が死去しますと、北条家は沼田城を攻略します。
1579年、武田家と北条家が戦闘状態に突入しますと、
1580年、真田家は謀略により沼田城を奪取します。
武田家、織田家が滅び去った今、北条家の勢力拡大が沼田城の紛争になったと思います。
徳川家と北条家の取り決めで上野は北条家が領有し、
徳川家に属している真田家は沼田城退去を命じられてしまいます。
・・・こんな感じかな?

@関東制覇に向けて上野完全平定をしたい。(少しだけ国力強化。)
A徳川家と北条家が決めたことだから。(甲斐都留郡から退去もあるし。)
B上野を抑えることで下野の宇都宮家に圧力をかけたい。(佐竹家にもね。)
C信濃北四郡のような上杉家の進出を上野では避けたい。

後年、真田家は北条家と結ぶ徳川家と袂を分かち上杉家の傘下に入ります。
徳川家&北条家から上田城と沼田城を死守しますが、
徳川家の信濃政策の挫折と豊臣家への臣従が真田家勝利の原因ですね。
(ところで、何故、真田家は沼田城を北条家に譲渡することを許したのでしょう?)

1584年の小牧長久手合戦後の織田信雄と羽柴秀吉の和睦。
1585年の紀伊平定、四国平定、佐々成政討伐、第一次上田城攻防戦、沼田城攻防戦。
これにより、反羽柴連合の勝利の可能性は潰えてしまいましたね。

勝てば官軍、負ければ賊軍。
幕末維新の幕府、第二次世界大戦&太平洋戦争の独逸&日本、
敗者は完全否定になりやすいですから評価は低いでしょうね。(仕方がありませんが・・・。)
42日本@名無史さん:03/08/10 17:07
>41
何故、真田家が沼田城を北条家に譲渡したのか?
断ったら、四方が敵になるから。では、単純かな?

個人的な感想。
@沼田は重要拠点だから上野の安定確保の為ってのは有るかも。
Aこれが一番強いかもしれない・・・大人の対応ではないですね。
乱発された空手形みたいなモノですから、実力で取れない以上
こだわるのは自分が損するだけなのになぁ・・・
B下野はよく知らないからパス。
Cそれは、真田が徳川方なら防波堤になるから無いのでは?

真田昌幸を必要以上に警戒していたというのもないです?

まぁ、後を知っているから言える事かもしれないですが、
沼田にこだわったのは、「大局が見えていなかった」と
思われてしまっても仕方がないのかもしれませんね。
43日本@名無史さん:03/08/11 08:11
沼田は北条にとって重要拠点です。
地理的にも物理的にも・・
ここを押さえておけば、橋頭堡にもなるし防波堤にもなります
>>42
Aのこと。
 北条家からしましたら甲斐の都留郡を割譲するわけですので、
 徳川家(真田家)の上野の沼田を譲渡しましょうということなのでしょう。
 あと、北条家は沼田城を実力で取れるかなと思います。
 1582年当時、上杉家の援軍は望めないでしょう。
 羽柴家も柴田家と賤ヶ岳合戦を控えています。
 徳川家が上野へ援軍を送るには無理があります。
 彼なら甲斐・信濃平定に力を注ぐような気がします。(沼田を囮に・・・。)
Cのこと。
 北条家は真田家に裏切られていますから、
 徳川家も裏切ると先を読んでいたのかもしれませんね。(妄想。)

沼田の地・・・。
あの地に石高を求めていることは無いでしょうから、対外政策の一環と考えた方がいいでしょうね。
当時の北条家の対外政策は、徳川家と同盟関係にある以上、西への脅威はさほどありません。
実際、1583年以降、下野方面での戦闘が頻繁になりますから、
佐竹家、宇都宮家が当面の敵対者でしょう。(背後には羽柴筑前が・・・。)
下野方面で集中するには上野を固める必要があります。
上杉家への対策としても沼田は北条家の直轄地の方が安心と考えると思います。(北条氏邦が適任かな?)
1584年の小牧・長久手合戦以降、
真田家の不穏な動きは徳川家は勿論、北条家も無視できないと思います。
1585年の沼田城攻防戦は大きな意味があったはずなのに、
北条家の戦略が下野の方に向いているため、
中規模程度で終わってしまったのが残念と思います。

北条家にとっては沼田城は重要拠点ではありますが、
天下統一の野望に燃える豊臣秀吉にとっては、
取るに足らない城であったのも確かと思います。
国力が違い過ぎますからね。
45日本@名無史さん:03/08/12 01:14
>44
確かに北条が本気出せば、
沼田くらい取れるだろうけれど
その一点に集中できないのも事実だし。

とりあえず、一城を取り合う時代が
終わりかけていたことに気づくのが
遅かったように感じます
毛利はそこら辺がうまかったのかなぁ。
まぁ、現実に押されていたからこそ
見えていたのかもしれないけど。
>>45
一城を取り合う時代・・・。
織田信長の武田討伐は、
『一城を取り合う時代』の終わりを告げたと思います。
織田家の遺産を簒奪した羽柴秀吉は、
明智光秀に対しての『山崎合戦』(阿閉家滅亡と武田元明の誘殺を含む。)、
柴田勝家に対しての『賤ヶ岳合戦』(越中の佐々成政を除く。)、
紀伊平定、四国平定、九州平定は、
一城を取り合う合戦というより殲滅戦争といえるでしょう。
ただ、それが可能なのは織田信長の遺産を簒奪した羽柴秀吉だけで、
北条家をはじめとして、毛利家、上杉家、長曾我部家、島津家、伊達家、
さらには徳川家を含めて殲滅戦争を実行する力は無かったと思います。

『一城を取り合う時代』の終焉に気がつけることができる家は、
織田信長に滅ぼされかけた毛利家と上杉家だけ。
(勝てないと思った瞬間、羽柴家の軍門に下ってしまいます。)
北条家、長曾我部家、島津家、伊達家は、
一城の取り合いをしない限り勝ち残れないのも事実ですから、
気がついていても突き進むしかなかったと思います。
(島津歳久、北条氏規の心境は複雑だったでしょうね。)
47日本@名無史さん:03/08/12 11:11
>46
盆休みでのぞきに来たんだけれど、学生さん?

北条家は織田vs武田見ていたんですけれどね。
やはり、実際に戦うのと友軍として参戦するのは違うのでしょうね。
そういった意味での時代の変化もありますが、
秀吉による天下統一を目前に、戦乱の時代も終わりかけていましたよね。
対下野、越後と言う観点で沼田を欲しがったのなら
時代を見誤ったと思います。
都留郡との交換条件だから、と言うのなら昌幸を見誤った・・・
というか、徳川に反旗を翻した真田昌幸の決断は
通常では予想外の事なのかなぁ?
>>47
織田家と戦闘状態の毛利家、上杉家は勿論ですが、
織田家と好を通じていた北条家、長曾我部家も、
織田家の軍事力の強大さに警戒していたと思います。(情報は収集していたでしょう。)
武田家が天目山で滅亡してしまいますと、
長曾我部家の方は1581年から織田家との一戦を覚悟の上で望むつもりでいたでしょうし、
北条家の方も武田家滅亡後は織田家との断交をある程度考えていたことでしょう。
ただ、それぞれ織田家の軍事力の上限を測りかねていたと思います。
その中で徳川家だけが織田家の本当の恐ろしさを正確に知っていたと思います。
(知っていたからこそ築山殿の事件が起きてしまったと思いますが・・・。)

本能寺の変後、その織田家の遺産は羽柴秀吉の天下統一を助けることになります。
長曾我部家も北条家も相手が強敵と理解していたからこそ、
長曾我部家は反羽柴連合の徳川家康が背後から羽柴家を牽制してくれると思っていたでしょうし、
北条家もまた、反豊臣(羽柴)連合の伊達政宗の後詰や徳川家康、織田信雄の内応を期待していたでしょう。
勝敗の行方はご存知の通りですが・・・。

毛利家、上杉家、長曾我部家、島津家、伊達家と大国が生き残った中、
北条家だけが滅びの道を歩んでしまいました。
私はこの結果に満足しています。(笑)

真田昌幸の行動・・・
1582年の北条家から徳川家への鞍替えは、
本当のところ、どう転ぶか分からなかったでしょうね。
(保科家、諏訪家、小笠原家、木曾家の信濃の諸勢力も同様のことですが・・・。)
1585年の第一次上田城攻防戦と沼田城攻防戦は予想できる範囲だと思いますよ。
上杉家、豊臣家のこともありますしね。

いつも長文でごめんなさい。(ぺこり。)
49日本@名無史さん:03/08/13 01:23
>>48
謝るくらいなら長文を書かなければいいのに。

>>47
真田昌幸の離反はかなりの奇功では?
徳川に反旗を翻すと言うことは、
北条・徳川という東国屈指の大大名を同時に敵に回す事ですし。
また上杉に従属するといっても先年、一度反旗を翻してますから。
上杉に断られてしまえばまさに四面楚歌、
豊臣家とのパイプもまだ無いし。
50日本@名無史さん:03/08/13 04:45
おそらくは「礼」では。
「それでは御免!」って云ったでしょう?
51日本@名無史さん:03/08/14 20:40
遂に5体そろった半ズボン氏。ここに各氏の代表的画像を公開する!
半ズボン1号http://up.atnifty.com/img/200308012030_jpg
半ズボン2号http://www.wainet.ne.jp/~santa-m/torihada/kitigai/hanzubon.jpg
半ズボン3号(画像募集中)
半ズボン4号http://www.connect-wired.net/2ch-hariita/src/1059920522325.jpg
半ズボン5号http://abohanzubon.hp.infoseek.co.jp/cgi-bin/imgboard/img-box/img20030812174123.jpg
52日本@名無史さん:03/08/15 07:11
山中城って面白い城だけれど、
大軍を支えるには不向きな城ですね。
53モナー厨 ◆k26/KTYBr6 :03/08/15 11:15
|それは豊臣相手だと厳しいですね。
 ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  λλ
 (o´∀`)
54モナー厨 ◆zFewqfMONA :03/08/15 11:17
|ういろ〜ういろ〜
 ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
λ λ
(o´∀`)
55山崎 渉:03/08/15 12:25
    (⌒V⌒)
   │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  ⊂|    |つ
   (_)(_)                      山崎パン
56日本@名無史さん:03/08/15 23:14
>53
対秀吉用にああしたんじゃなかったっけ?
57日本@名無史さん:03/08/16 00:37
58日本@名無史さん:03/08/16 21:45
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59日本@名無史さん:03/08/18 20:02
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        ,__                          .zr   .,,_   .zn
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    .¨^'Wuilll「    ″    ..ll|     ′   ._yll″   |ll   .ll!   .|l|
      ,rl|ミ《iy        .|l|        _yill″     .|ll   .ll!   .|l|
     .,zl厂 .゙ア  )uyyvv=rー!巛!  ,  _,,yll厂       .ill^   .|l|   ll!
   _yl厂      .′        ゙リlllllミ¨′       .,i|「    ア   ll|
  .-(″                   `′        ,ノ″        ミ
60モナー厨 ◆ZO08cvMONA :03/08/20 04:19
今からここは「ういらう」を褒めちぎるスレに変更な!!(゚∀゚)
61モナー厨 ◆zFewqfMONA :03/08/20 10:52
北条時胸(;゚∀゚)=3ムハーッ
62日本@名無史さん:03/08/21 00:47
>>49
責任とってネタ振っとけよ。
63日本@名無史さん:03/08/21 01:07
49ではないが、風魔はどうだろ?
64日本@名無史さん:03/08/21 01:13
大河武蔵で小判撒いてる
65日本@名無史さん:03/08/21 20:52
>>3
豊臣方が対陣中に作った北条家人数付によると北条方の城は53、総兵数34.250騎
だったらしい
66日本@名無史さん:03/08/21 20:54
騎ってことはそれの三倍〜四倍くらい徒歩の兵がいるんだろう。
ってことはやっぱ十五万くらいか。
67日本@名無史さん:03/08/21 21:04
>>66
正確にはわからんらしい。農民や町人まで城の中に入れてたから。
68日本@名無史さん:03/08/21 22:19
34250頭も馬を持っていたのかねぇ。
69日本@名無史さん:03/08/22 02:08
この場合は篭城だから「騎」とは正規の武士のことだろうね
70日本@名無史さん:03/08/22 07:01
また非戦闘員の中間、小者なども入れるとやはり膨大な人数。
人改め令の成果か。。
71日本@名無史さん:03/08/27 23:40
72日本@名無史さん:03/08/28 15:40
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      ii::::::::::::::::::` -::-/     / .i     ヽ::::::::/
73日本@名無史さん:03/08/30 12:46
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1 :名無しさん :02/11/26 18:00 ID:Happy2chLife
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現在 通常のブラウザで読む事は出来ないです。
html化されれば読めるようになります。(通例、2〜3ヶ月ほどかかります)

2ちゃんねる Viewerを使うと、すぐに読めます。 http://2ch.tora3.net/
この Viewer(通称●) の売上で、2ちゃんねるは設備を増強しています。
●が売れたら、新しいサーバを投入できるという事です。

よくわからない場合はソフトウェア板へGo http://pc3.2ch.net/software/

2ちゃんねるプロバイダーで接続するとこちらで見れます。
74日本@名無史さん:03/08/30 18:26
今日、鎌倉から江ノ島へ自転車で走ったんだが、
小田原城を大きくするよりも
鎌倉自体を城塞化する方がすさまじく攻めづらそうだ。
75日本@名無史さん:03/08/31 20:14
三戦の某スレで大河ドラマ化の話が持ち上がってますね。
76日本@名無史さん:03/09/02 07:04
>>75
だからどうした?業務連絡書くスレじゃねーぞ。
77業務連絡:03/09/02 20:31
店長、店長、23番お願いします。
78日本@名無史さん:03/09/03 07:14
阿呆条
79日本@名無史さん:03/09/04 21:27
>>62
49は責任とらなきゃなんないようなことしたのか?
もしかして
49「謝るくらいなら長文を書かなければいいのに。」
母「コラ!先生に謝ってきなさい。」
49「えっ?『なんで?』って言われるよ。」
49「あの・・・先生すんませんでした。」
先「もうええねや。」
ってネタ?
名胡桃城攻略。北条家と豊臣家の合戦は決定的になります。
和平工作を展開していた北条氏直、北条氏規は、『もはやこれまで。』と、
豊臣家との一戦を覚悟し合戦の準備にかかります。
北条家の戦術は『篭城策』・・・
ここを見ているみなさんはご存知のことと思います。

さて、この『篭城策』・・・本当に愚作であったのでしょうか?
ここをテーマに書いていきます。

豊臣秀吉の戦術を調べていきますと、
圧倒的な大軍で攻めていることに気がつきます。
(豊臣家の石高を考えますと当たり前の数字ですが・・・。)
さらに、戦術の方にも注目しますと、
山崎合戦、賤ヶ岳合戦、小牧・長久手合戦&伊勢平定、
紀伊征伐、四国征伐、越中討伐、九州征伐と、
短期間で決着がついています。
山崎合戦、紀伊征伐、四国征伐、越中討伐の詳細は割愛。
賤ヶ岳合戦は1582年12月〜83年4月になります。
小牧・長久手合戦&伊勢平定は1584年3月〜11月になります。
しかし、6月〜10月まで膠着状態が続きます。
(この時、北条家は情報収集をしていると思いますが・・・。)
九州征伐は1586年7月〜87年5月になります。
こちらも、87年3月に豊臣秀吉の大軍が出陣します。
(石田三成の兵站線が登用されます。)
さらに、『野戦』で決着という戦術になります。
篭城策で豊臣家の大軍を迎え撃つ!
長期合戦・・・『後詰』がなくても充分に勝算がある合戦ではないのでしょうか?
ここまできて本気で伊達家や徳川家、織田家が、
最初から味方につくと考えていた訳ではないでしょうし。
(豊臣家が不利になれば別ですが・・・。)
当時の常識で考えた場合、必ずしも愚作ではないと思います。

つづきは、また、いつか。
つづき。
では、何故、北条家は小田原城包囲で豊臣秀吉に屈してしまったのでしょう?
それは、北条家が強敵であることを豊臣秀吉も認識していましたから、
北条家を滅ぼすための策を練っていたと思います。
策は二つ。
一つは経済力。豊臣軍総勢22万騎を支えた兵站線。
最初の段階で長束正家を奉行に兵糧米20万石を用意します。
さらに米の買占めを東海方面で実行します。
秀吉は最初から長期戦になることを覚悟しています。
実際は1590年2月〜7月(秀吉出陣は3月から。)という期間になりますが、
一年以上の合戦を想定していたと思います。
ただ、無尽蔵に蓄えがあるという訳ではありませんから、
悠長に戦をを続けている訳には行きません。(天下統一後のこともありますし。)
二つめは軍事力。強攻策の採用。
作戦は小田原城自体は兵糧攻めになりますが、
他の支城は強攻策で攻めさせます。(韮山城は兵糧攻めに変更。)
3月29日の山中城と韮山城の攻防戦から激戦が展開されていきます。
玉縄城、江戸城、松山城(?)の開城は別として、
韮山城、下田城、河越城、岩付城、鉢形城、八王子城、忍城、津久井城の攻防戦は、
それぞれ戦国の世の戦として充分なものと思います。
経済力と軍事力の二つの力で小田原城包囲に臨む秀吉ですが、
茶会を開いたり、一夜城を築いたり、淀君を呼び寄せたりと、
必要以上に策を弄しているのは、少し滑稽に見えてしまいます。
(味方に対する天下人のパフォーマンスかな?)

まあ、当時の常識では考えられない秀吉の戦い方に、
北条家の敗北の原因があったのでしょう。
北条家を無能と評するのは簡単ですが評価をするのは難しいですね?
83日本@名無史さん:03/09/14 05:30
戦略は置いておくとしても、
籠城末期の自己崩壊は無様ですね。
つづき。
秀吉と合戦する時点で敗北は決定されているようなものですから、
北条家の滅亡という結果にはこだわりません。(むしろ、これで満足♪)
また、北条氏邦や北条氏規の合戦ぶりは見事と思います。
さすが北条一族!

北条家は徹底抗戦を主張していたのに、
小田原城の開城という結末になってしまったのは、
抗戦派である松田氏の失脚が原因でしょう。
松田氏が謀叛を企てていたかどうかは分かりませんが、
これにより、抗戦派である北条氏政や北条氏照は、
開城派(誰?)に押さえ込まれてしまい、
城内の方針が大きく変更されてしまったと思います。
ちょっと話題が逸れますが・・・。
八王子城が陥落して間もなく、
豊臣軍の方で前田利家が謹慎するという事件が発生します。
徳川家康の方にも厳重注意があったとのことですが、
前田利家ほどの深刻な事態ではありません。
秀吉としては北条家と内通の噂がある家康に遠慮をしていたのでしょうか?

他方、前田利家といえば、
豊臣秀長が1月からの病気で参陣できない豊臣軍の中で、
一番頼りになる人物と思います。(北国軍の総大将)
豊臣秀長がその場にいない豊臣軍に、不安が生じた一場面ではないでしょうか?
そして、その場にいた家康は、何を思って見ていたのでしょう・・・。

天下統一後の1591年1月22日、豊臣秀長、死去。
豊臣家の迷走が始まった瞬間になります。
86日本@名無史さん:03/09/19 00:36
秀吉は城攻めが得意だったっぽいから籠城はやめといた方がよかったんじゃない?
おまけに籠城して待っても誰も助けにこないでしょ。
それとも秀吉が死ぬのを待ってた?
>>86
秀吉の兵糧攻めは当時でも有名だったと思います。
ただ、どこまで伝わっていたのかは分かりませんが・・・。
篭城戦は後詰があって初めて成り立つ策戦と思いますが、
この第三次小田原城包囲は後詰を無視した合戦と思います。

一般的には、
篭城して時が立てば豊臣軍が撤退するだろうという、
負けない戦を考えていたと言われていますが、
それだけではなく、私は、勝つための戦も考えていたようにもみえます。
北条氏邦の富士川合戦論もそうした動きの一つだったのかもしれません。
北条氏照が大人しく小田原城に篭城しているのも不自然に見えます。
また、北条氏規の韮山城攻防戦のように、
北条氏規3600騎×織田信雄44000騎という長期攻防戦が、
玉縄城、江戸城、岩付城、河越城、松山城、忍城(あっ、やってますね!)、
鉢形城、八王子城などで展開されていたら、
面白い歴史になっていたかもしれません。(所詮、ifですね・・・。)
残念ながら、玉縄城と江戸城の早期開城と碓氷峠戦線の突破で、
それぞれの支城は早期に落城してしまい、
残された鉢形城&八王子城も豊臣軍の形振り構わない力攻めで、
早期落城の憂き目に会ってしまいます。

あと、秀吉の死より、
山崎合戦、賤ヶ岳合戦、小牧・長久手合戦、紀伊征伐、
四国征伐、九州征伐と豊臣家の合戦に必ず参戦していた豊臣秀長が、
参加しない合戦に意味があったのかもしれません。
竹中半兵衛、蜂須賀小六も鬼籍にありましたから、
秀吉を支え苦楽を共にした人達がいない状態で合戦に臨んでいます。
徳川家康と織田信雄が北条家に内応という噂も、
こんな内情が背景にあったのかもしれませんね。

こんな答えでいいですか?(笑)
88日本@名無史さん:03/09/20 01:34
>87からは読みとれないのだが
勝つための戦って、どうやって?
>>88
考えようによってはという意味で・・・。
分かり難い表現でごめんなさい。
90日本@名無史さん:03/09/23 10:25
ageとこか。
91モナー厨 ◆ZO08cvMONA :03/09/24 13:47
ぅぃらぅ
92モナー厨 ◆ZO08cvMONA :03/09/24 13:52
うまそうだな冷凍おかゆ
93モナー厨 ◆ZO08cvMONA :03/09/24 13:53
>>92
スマン…
94日本@名無史さん:03/09/25 17:22
後詰めに関しては伊達政宗なんかどうよ?
当時北条と友好関係にあったらしいし。
150万石以上の大身、
この大兵力が後詰めとして出陣していればあるいは・・・

しかし、味方も狙撃してしまうような奴に頼らなければならないのか・・・。
95モナー厨 ◆ZO08cvMONA :03/09/26 06:23
ぅぃらぅ
96日本@名無史さん:03/09/27 02:42
ここら辺が定位置になったねぇ・・・
97日本@名無史さん:03/09/30 01:56
 
98日本@名無史さん:03/09/30 02:48
>>94
伊達政宗の石高を逆算してみる、伊達は豊臣期では58万石

葛西大崎一揆で加増された旧大崎葛西領は30万石
代わりに没収された仙道六群は蒲生に加増
蒲生は当初、政宗が没収された旧芦名領の42万石から92万石へ
で58万石から30万石を引いて、92万石をそっくり足せば120万石となり
大きく見積もっても130万石前後じゃないかと考えます

最上や大崎、相馬、それ以上に佐竹を敵に廻して
しかも急激に勢力拡大した分、とても北条の後詰の役割を果たせるような存在ではないかと
北条も関係があったとはいえ、いくらなんでも伊達を後詰に期待するほど
楽観的ではないでしょう
99日本@名無史さん:03/09/30 02:54
時代劇板では

「大河ドラマ 北条早雲」のあらすじが公開されている。
もう、35回までつくられている。
100日本@名無史さん:03/09/30 03:38
2007年大河は「北条早雲」希望
http://tv2.2ch.net/test/read.cgi/kin/1064405065/

これか
101日本@名無史さん:03/10/01 00:25
>>98
多分、政宗に臣従した連中の石高も足したんだろ。
102日本@名無史さん:03/10/02 18:35
あの、質問なんですけど、
北条氏は伊豆や相模、武蔵の守護職を受けているのでしょうか?
それとも、最期まで不法占拠を貫いたの?
>>102
受けていないと思いますよ。
もし、受けていても書簡等の資料は歴史の流れに埋もれています。
104日本@名無史さん:03/10/04 02:18
>>102
受ける必要がなかったと思われます。北条の支配下にあった
関東公方には武蔵、相模、常陸、上総、下総、安房、上野、
下野、甲斐、伊豆の10ヶ国の支配権があり、そして、北条家
は古河公方に管領代に任命されてたから。

幕府の役職では足利義輝に守護より格上の御供衆に任じ
られてます
105日本@名無史さん:03/10/04 12:05
というか、室町幕府には関東の守護を任じる権限ないよね。
106日本@名無史さん:03/10/04 14:57
>>105 あるよ
鎌倉府は、十カ国の武士に対して軍事上の命令を下したり、領地を保証したりする権限のほか、
神社や寺院の神官や住持の任命権などを持っていたけど、関東管領と十カ国の守護に対する
任命権は、室町幕府の将軍が持ってた。

107日本@名無史さん:03/10/04 15:01
2例ほど
 足利持氏を逸見有直を守護とし、再三、幕府に掛け合ったが、幕府は逸見有直を任命拒否。
幕府は信満の弟・穴山満春を武田信元とし守護に任命した。

 上総守護で見てみると鎌倉公方足利持氏はいったん認めた幕府補任の上総守護宇都宮持綱
を撤回し、隣国安房守護の上杉定頼に与えたが、宇都宮持綱が幕府に訴えて自分の守護を認
めさせている。
 上杉定頼が上総で守護職権を行使しできたのは一度だけなので、幕府が正式に補任した守
護の存在を鎌倉府がまつたく無視し、別のの守護をあらたに任命することが古河公方には実
力的にも不可能とみられる。
108105:03/10/04 20:44
そうなん?
幕府は関東には京都扶持衆を通じて間接的に影響力を行使しているだけだと思ってたよ。
勉強になった。サンクス。
109北条家由来のお宝:03/10/06 00:57
今川は公家文化で、北条は武辺と思ってたらいろいろコレクション持ってた

太平記・・・・早雲が愛読。足利学校に校訂してもらい、京都の壬生于恒に頼み、
朱点と片仮名で読み癖をつけてもらった。
文選・・・・六朝梁の昭明太子によって編纂された。元金沢文庫の南宋時代の明
州刊本の補修本を北条氏政が足利学校に寄贈。
吾妻鏡・・・・今日の北条本。北条氏直より黒田家に送られる。1604年長政か
ら徳川秀忠に献じられた。
羅漢図・・・・中国宋の禅僧画家牧渓の作。北条氏綱が長尾為景に送ったが、横
絵がほしいと送り返された。
寒山二幅一対・・・・牧渓作。元足利将軍家所有の絵。羅漢図の替わりに幕府
同朋衆・能阿弥の外題を添えて為景に贈られた。
遠浦帰帆図・・・・南宋の画僧玉澗の作 将軍足利義政が巻物瀟湘八景図を
切断し、幅装させた八景の一つ
酒伝童子絵巻・・・・サントリー美術館所蔵 氏綱が狩野元信に注文して描かせ

日光一文字・・・・国宝太刀。鎌倉時代に作られた備前福岡一文字派の傑作。
北条氏綱奉納の太刀・・・・重要文化財鶴岡八幡宮所蔵。綱広・綱家・康國作
北条早雲所有。北条氏直より黒田家に送られる
北条白貝・・・・北条氏直が黒田如水軒へ送った法螺貝
110日本@名無史さん:03/10/06 01:28
>109
鶴ヶ丘八幡宮も入れて良いような気もしないでもない。
111訂正:03/10/06 07:16
太平記・・・・早雲が愛読。足利学校に校訂してもらい、京都の壬生于恒に頼み、
朱点と片仮名で読み癖をつけてもらった。
文選・・・・六朝梁の昭明太子によって編纂された。元金沢文庫の南宋時代の明
州刊本の補修本を北条氏政が足利学校に寄贈。
吾妻鏡・・・・今日の北条本。北条氏直より黒田家に送られる。1604年長政か
ら徳川秀忠に献じられた。
羅漢図・・・・中国宋の禅僧画家牧渓の作。北条氏綱が長尾為景に送ったが、横
絵がほしいと送り返された。
寒山二幅一対・・・・牧渓作。元足利将軍家所有の絵。羅漢図の替わりに幕府
同朋衆・能阿弥の外題を添えて為景に贈られた。
遠浦帰帆図・・・・南宋の画僧玉澗の作 将軍足利義政が巻物瀟湘八景図を
切断し、幅装させた八景の一つ
酒伝童子絵巻・・・・サントリー美術館所蔵 氏綱が狩野元信に注文して描かせ

日光一文字・・・・国宝太刀。鎌倉時代に作られた備前福岡一文字派の傑作。
北条早雲所有。北条氏直より黒田家に送られる
北条氏綱奉納の太刀3口・・・・重要文化財鶴岡八幡宮所蔵。綱広・綱家・康國作
北条白貝・・・・北条氏直が黒田如水軒へ送った法螺貝
112モナー厨 ◆ZO08cvMONA :03/10/09 13:36
ぅぃらぅ
113日本@名無史さん:03/10/11 20:51
永享・享徳の乱以前と以後じゃ関東府の権限・ありようは全く別モンだろ?
114日本@名無史さん:03/10/12 01:48
誰か纏めてくれないか。
115日本@名無史さん:03/10/12 02:01
きたじょう
116モナー厨 ◆ZO08cvMONA :03/10/16 01:52
ぅぃらぅ
117日本@名無史さん:03/10/18 20:44
ttp://www.tamariver.net/jouhou/tamagawashi/parts/zu/040206.htm

━━━━線 家康入国当時(1590年)
--------線 寛永(1624年〜)初年
―‐―‐線 延宝(1673年〜)年間
つーことは、家康時代は北条時代と市域に関しては大差ないってこと?
118日本@名無史さん:03/10/22 02:06
>>117
北条時代は小さい丘がたくさん在ったらしいよ
119日本@名無史さん:03/10/22 13:06
>>102
叙爵はしてるみたいだね。上方の資料で1530年2月17日の後法成寺関白記
に北条左京大夫と出ている。

氏康、氏政は家督を譲ってからは官途名ではなく、受領名の相模守を名のっ
てる。
120日本@名無史さん:03/10/23 22:41
五色備えの赤色、北条高綱とかいう香具師の事を教えてくれないか?
いまいちこいつがパッとしないのだけど。。
121日本@名無史さん:03/10/24 01:51
赤って綱成じゃないの?
122日本@名無史さん:03/10/24 06:59
>>120
北条綱高・・・・高橋綱種、将監、常陸介、治部少輔、父高種、弟民部小輔氏高、息子北条常陸介康種、
伊豆衆二十一家の一つ。父高種が戦死したため、北条早雲に養育され伊豆韮山城に住んだ。氏綱の時、
江戸城攻略に大道寺方として出陣。戦功あって氏綱から養子として家号を賜い北条常陸之介綱種と改め
相州甘縄の城代となる。1537年上杉家深大寺城が修復したことを知った氏綱は、綱種と氏高に命じて、
牟礼と烏山にふたつの砦を築かせている。氏康のとき治部少輔と進んで江戸城主となる。
>>121
地黄八幡だから黄色
123日本@名無史さん:03/10/24 08:14
五色備えは四人まではそれなにり調べられるんだけど、
富永右衛門がまったくわからないんだよねぇ・・・

わかる人教えていただけませんか?
3年ものの穴なんですが・・・
124日本@名無史さん:03/10/24 14:47
>>123
富永四郎左衛門政直と富永三郎左衛門尉康景親子のことと思われ

富永直勝 1509-1564 四郎左衛門, 政直,実勝,政家,岩千代,神四郎。
富永政直の子。子康景。江戸衆。1383貫の知行。
1564年、第2次国府台合戦で富永三郎左衛門尉康景ともに死亡。
125120:03/10/24 18:56
>>122
綱高さんでしたか、ありがとう。
126日本@名無史さん:03/10/25 03:09
北条綱高とか綱種なんて実在しません
127日本@名無史さん:03/10/25 03:12
( ^∀^)ゲラゲラ
128日本@名無史さん:03/10/25 03:38
>>126
ソース出せ
話はそれからだ

調味料系のベタギャグは禁止
129日本@名無史さん:03/10/25 04:24
>128
相手にすんなよ・・・。
130日本@名無史さん:03/10/25 11:57
>>128
実在するソースを出せ。
話はそれからだ

調味料系のベタギャグは禁止
131日本@名無史さん:03/10/25 12:01
とりあえず北条綱高でぐぐってみた。

ゲーム系ばかりだった。

そもそも五色備えって本当にあったの?
真田十勇士みたいなもん?
132太田道灌:03/10/25 13:21
おいこらお前ら、だからお前らだよ、お前ら、北条!

俺がいなくなったと思って、関東を好き勝手にしやがって、頭にくるぜ。

俺がもう少し長生きしてればなあ。

だいたい、うちの主君が馬鹿なんだよ。いくらなんでも、俺ほどの優秀な家臣を謀殺するか?

裏切るかと疑ったらしいけど、裏切る気があるなら、それ以前にとっくに裏切ってるって。俺が、その気になればすぐにでも事実上の関東王だっての!

死ぬ前に思わず言っちゃったぜ「当方滅亡」ってな。

俺がいなくなったせいで・・・。

あ〜あ。ヤッパリだよ。

扇谷上杉は滅んで、お前らみたいな来歴不明のやつらに関東のっとられて、もうどうしようもねえな。

 
133日本@名無史さん:03/10/25 17:36
↑なんで?
134日本@名無史さん:03/10/25 18:29
北条綱高よりも高橋綱種のほうが有名みたいだなぁ。
135日本@名無史さん:03/10/25 19:15
馬具、刀槍、具足、鎧のすべてを統一したのかはわからないが、綱
成の黄色い旗指物は現存している。武田家が1569年に北条綱成の深
沢城に攻めたとき真田信尹が奪ったもの。攻めあぐんでた信玄は
喜び、信尹の旗にすることを許可したという。
また、北条綱高が赤を用いた具足で身を固めていたと言われている。
136日本@名無史さん:03/10/25 20:04
北条スレでは高橋兄弟、佐竹スレでは三十三館謀殺
定期的にでる話題、つーか定期的にふるやつがいんだな。
137日本@名無史さん:03/10/25 20:22
>>136
何度でも答えてあげるけど
138日本@名無史さん:03/10/25 20:36
大方自分で訊いて自分で答えてんだろ。
139日本@名無史さん:03/10/25 21:52
>>138 きみって根拠が一つもないね。┐(´ー`)┌
北条綱高なんて大学の図書館の人名辞典でも調べろよ
何で自分で調べないの?
140日本@名無史さん:03/10/25 22:42
>>138 ホント馬鹿だなぁー
三鷹市牟礼2丁目1045番地の牟礼天神社の由緒が北条治部小輔綱種だから調べろ
http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/syoukai/26_kitatama/26147.html
141日本@名無史さん:03/10/25 23:01
>>140
おひおひ
そこには>北条治部小輔綱種
なんてないぞ?
142日本@名無史さん:03/10/25 23:04
後北条氏なんてたかだか関東だけだろ。それに比べて北条氏はすごい。日本をよくまとめたよな。元は今のアメリカ 並だったろうし。
143日本@名無史さん:03/10/25 23:10
>>141

行けよ。
無理なら電話しろよ。由緒ぐらい教えてくれる
144日本@名無史さん:03/10/25 23:12
>>142 元は今のアメリカ並だったろうし。←?
145日本@名無史さん:03/10/25 23:17
>>143
はいはいよかったね。

鵜呑みにしてるんだw
146日本@名無史さん:03/10/25 23:19
軍事力とか。
147日本@名無史さん:03/10/25 23:21
>>145
(*゚д゚) 、ペッ電話もできないのかよ。努力のできないやつだな
人生失敗してるだろ( ´,_ゝ`)プッ
148日本@名無史さん:03/10/25 23:23
とりあえずソース出したんだから調べてきて
否定してみろ。
大学でディベートしたことないのか?
149日本@名無史さん:03/10/25 23:26
>148
おひおい
そんなのソースじゃねえだろ。

有栖川といっしょじゃねえか。
150日本@名無史さん:03/10/25 23:36
>>149
(´-`).。oO(中世史の寺社資料の重要性もわからん無学な人)
151日本@名無史さん:03/10/25 23:41
>15
おひおひ
>中世史の寺社資料
じゃねえだろw
152日本@名無史さん:03/10/25 23:56
>>136
前スレで北条綱高の話を振りました。
デジャヴみたいな展開で正直驚いております。
153日本@名無史さん:03/10/26 00:04
>>151 無学な人へ
郷土研究史料第1集小田原旧記
下山照夫
 出版烏山給田史談会
を読め
でかい口叩いたんだからこの本ぐらい手に入るだろ

154153:03/10/26 00:08
155日本@名無史さん:03/10/26 00:27
>153
おひおひ
小田原旧記っていつの史料か知ってるの?
そもそもどこにあったものか知ってるの?
156153:03/10/26 02:04
>>155
お前馬鹿だから
http://www006.upp.so-net.ne.jp/kmamiya0/fsubx1zz1kyuki.html
ここ読んで知ったかしてるんだろ。あさ知恵なんだよ。下等動物が。
作者言って見ろ アホが!!
157日本@名無史さん:03/10/26 02:13
>>156
おひおひ
もっとまともなこと書けよ

それで小田原旧記っていつの史料か知ってるの?
158153:03/10/26 02:45
>157
昔に決まっているだろ ボケが!!
159153:03/10/26 06:35
157 :日本@名無史さん :03/10/26 02:13
>>156
おひおひ
もっとまともなこと書けよ

それで小田原旧記っていつの史料か知ってるの?


158 :153 :03/10/26 02:45
>157
昔に決まっているだろ ボケが!!

自作自演 リンク先見ろよ
160153:03/10/26 06:54
>>157
江戸時代前期
ほれ、作者答えろ アホ
161日本@名無史さん:03/10/26 10:45
>>160
相手にすんなよ。前スレで小田原旧記読めって言われても今まで
読まなかったただの粘着君なんだから
162日本@名無史さん:03/10/26 19:29
>>160=161
自作自演はやめよう
163日本@名無史さん:03/10/26 19:48
作者が誰かと内容の正しさと関係あるのか?
読んだら内容が正しくなるのか?

訳わからんことばかりだな
164日本@名無史さん:03/10/26 23:52
たしかにそうだね。

北条の姓の裏付けが、後世に成立した書物ひとつだけではね。
165日本@名無史さん:03/10/27 23:15
父親の戦死で、一族ではなく主君に養育され
北条の名号を賜るというのは、遠山氏以上、綱成並
相当大身の家柄だと見受けました。役帳では?

常陸介(守)は氏繁、治部少輔は弟の某(康元?)
という具合に、綱成流の玉縄北条氏が名乗ってる
厳密に調べれば、時代が重なってないかも知んないけどね
166日本@名無史さん:03/10/28 03:10
>>157
おひおひ
153のアホくん
どうした
167日本@名無史さん:03/10/28 06:40
新九郎が病人に薬を与えたとか、年貢を減らしたってのは・・・
後世の創作くさいんだが、本当ならマジソンK。
168日本@名無史さん:03/10/28 11:46
少なくとも、なんらかの撫民策はとったはず。

他の大多数の大名と違って本貫地をもたない伊勢氏は
伊豆になんとしても強固な支配権を確立しなければならない訳で、
その為には民衆や豪族を手なずけるのも、有効な一手でしょう。
169日本@名無史さん:03/10/28 18:44
お、俺もソースが知りたいぼん
170日本@名無史さん:03/10/29 23:19
>>132
太田氏も充分来歴不明だと思う。
171日本@名無史さん:03/10/31 00:19
このスレも小田原評定か?
172日本@名無史さん:03/10/31 02:34
早雲の出自は?
173日本@名無史さん:03/10/31 02:39
>172
子宮。
そして、地球に帰っていった。
174日本@名無史さん:03/10/31 15:20
>>126
JR中央線の吉祥寺駅(東京都)から、井の頭線で2つとなりの三鷹台駅に行って、
さらに三鷹台駅から南側に行くと、砦址内に神明神社がある。

神明神社周辺の高橋家は、北条綱高(=北条綱種)の子孫。
北条早雲の娘婿の北条高種の子が、北条綱高(=北条綱種)。

だから、ここら辺の高橋家は、一等地に土地をいっぱい持っている。
(総本家に近いほど、より広大な土地を持っている。)

総本家は、高橋悠(北条悠)。

三鷹台駅の北側には、北条綱高(=北条綱種)らが建てた、神明神社と真福寺があるし、
砦址や、のろし台もある。

神明社
http://www.shougai.city.mitaka.tokyo.jp/mitaka/tekuteku1999/a_data/a_0210.html

http://www.no-za-wa.net/murasaki-kai/guidebook/29.html

牟礼砦
http://www.asahi-net.or.jp/~CN3H-KKC/shiro/mure.htm

真福寺
http://www.shougai.city.mitaka.tokyo.jp/mitaka/tekuteku1999/a_data/a_0270.html
175日本@名無史さん:03/10/31 15:29
>>174
訂正

三鷹台駅の南側には、北条綱高(=北条綱種)らが建てた、神明神社と真福寺があるし、
砦址や、のろし台もある。
176日本@名無史さん:03/10/31 16:32
>>172
備後伊勢氏
177日本@名無史さん:03/10/31 18:32
>>172
備前伊勢氏
178日本@名無史さん:03/10/31 22:39
>>172
備前伊勢氏
179日本@名無史さん:03/10/31 22:40
そう
>>172
備前伊勢氏
180日本@名無史さん:03/10/31 22:42
  /-二―   , -r''  _________/_____三三 \, -'''""""'''' --=-''-"- ̄ ̄' vニ、 ̄ ̄ \
`、二ニー .'、_ニ  l    ' 、::::::l,l   三三 ;;〉''三三 ゙̄`i:::::r--      〉三ニ/O
二\二_____,,.''コ'-{.     ' 、::::レ--/゙゙゙ri--〈;; r-- 、_____ノ::/       j三/_____三/
_../       i jj\  ,,..- \;j__-{.==`l========.i,--)/   。・======  \
      、 ___=ノ=====-- _`  〈---'-|   -i、__   __/ゞ、           そこを
      ` =-三ノノノ\三=--  -=・。 .j三:三:!三二ニ==― /―――― ,
 ・゚  _..- ''ノノノノノノノノ'' -..,__,,_ -ーr''::三三二゙::>ーッ-r---t'川ゞゞゞゞヾ>ニ___ノ ┌┐[][]┌┐┌┐    ┌┐    ┌┐┌┐
     て///ノノノノ川川i三. ` 、_゙o-ヾ、ニl::iニ:∠..-o'_.ノ -三|:;-、ゞゞゞゞゞゞヾノ.┌┘└─┐││││┌┐└┘┌┐││││
     ,.'/////////Λ::l 。  ,,..二ニ>'::i:/∠ニ二..,,    i/^!}川川ゞゞゞ く . └┐┌┐│└┘└┘││    ││└┘└┘
     i l 川ノノ川O il^i`,l.    三三   |::i  三三ニ  ・ .l/v/川川ゞヾ {⌒`  ││││    ┌─┘│┌─┘│┌┐┌┐
 ゚・   jノノノノノ川川ヾ'i i     ::三:::.. |::|  ニ三::    .リ/川川 i;ゞゞヾヽ,   └┘└┘    └──┘└──┘└┘└┘
  ・,,/´ノノノノノノ川川`-ゝ   .::ニ  |::|  ニ::.     /川川川。・゚ゞヾゞrー-='                       だ!!
    {! ノノノノ川oノ川川川 l、.       <..|::| .>       /川川_,,..ゞゞゞゞゞ`、_
/ __/彡ノノノ川 ド゙"''---|!ヽ・。    ゙j;;レ      ゚・'/i|-''   l'、ゞゞゞゞゞヾl  \
   '==ガ-ツン,イ川i|',    |! ヽ   ,=,...三,...,=,     /.. i|    .l \ゞゞヾi⌒リ
-..,,/   (:/ リ川|. !   |! ニヽ. -'^―'―'―^'ー  /ニ. i|   /   \!、;;:{   \
__..,,,ゝ,___/.__`_リj/ __l-ーt-i  三ヽ,.  ̄三三 ̄  /三ニ i--、/.  _____. \'ッ-、_/ ̄
181日本@名無史さん:03/11/01 00:31
伊勢宗瑞の娘婿ってことは青松院殿?
大凡の目安としては
宗瑞(1456生)―氏綱(1487生)―氏康(1515生)―氏政(1538生)
女子は幻庵同腹ともいわれているので
宗瑞(1456生)―幻庵(1505頃)―三郎(15??生)
高橋家
宗瑞(1456生)―女子(1505頃)―綱高(15??生)―康種(15??生)

無難な年代を想像すれば、綱高が1520±頃、康種は1540±頃って感じか。
182日本@名無史さん:03/11/01 02:09
まだ言ってるのか?
北条綱高とか北条綱種とかは存在しません。
183日本@名無史さん:03/11/01 02:21
つか、北条氏もいなかった。
あれは、秀吉が捏造した。
秘伝立川文庫に書いてあった。
184日本@名無史さん:03/11/01 03:41
>>182
必死だな。(ワラ

神明神社は東京都三鷹市の指定文化財になっている。

北条綱高(=北条綱種)と神明神社の関係とかは、神明神社の案内板にかなり詳しく書いてある。

少なくとも、どこの誰かも、わからん、あんたよりは、三鷹市の方が信用できる。(ワラ
185日本@名無史さん:03/11/01 03:46
すまんが、それが実在の証明なのか?>>184

天照大神も実在しそうな理論だな
186日本@名無史さん:03/11/01 03:51
>>181
北条綱高(=北条綱種)の母の兄が、北条氏綱だから、そんなもんらしい。
187日本@名無史さん:03/11/01 04:15
北条早雲の里という駅がローカル線(第三セクター?)の一駅として存在するが
JTB時刻表巻頭付録の地図で見るとあらためて備中といっても
備後により近い場所だということがわかる
なにか感慨をあらたにしました
188日本@名無史さん:03/11/01 04:17
備後といえば現広島県  
毛利元就の備後への進出は周辺地域に較べれば若干遅れたが
それでも備後鞆ノ津といえばその後の毛利家中国地方席捲の最重要地
戦国時代には室町将軍足利義昭の寄寓した毛利水軍の大軍港
189日本@名無史さん:03/11/01 04:20
北条早雲って三河で松平清康と戦ったり
扇ヶ谷上杉家の家宰として高名を馳せた大田道灌と折衝したり
今川家の客将として縦横自在の働きを見せています。
それ以前は相府に出入つまりおそらくは幕府に仕えていたのでありましょう。
また伊勢の関氏を親戚とみなしたり。
でもって自身の出自の里は西国。
これだけ当時グローバルな履歴と幅広い経験をした人間もいないのではないでしょうか?
190日本@名無史さん:03/11/01 04:31
>扇ヶ谷上杉家の家宰として高名を馳せた大田道灌と折衝したり
これは、確認できてない話でしょ?
太田道灌が堀越公方・扇谷上杉氏の意向を受けて小鹿範満を後見する為に
駿河へ派遣されたのは各資料で見受けられるけど、ここで伊勢宗瑞が出てくる話しは
逸話的なものだと思うよ
191日本@名無史さん:03/11/01 04:46
逸話とは言い切れないでしょう
大田家と伊豆の関係は深い
北条早雲と伊豆の関係もこれまたすごく深い
その両者が接点を持たないはずもないと考えられないでしょうか?

鎌倉の海浜玉澤から移された日蓮宗の玉澤妙法華寺という寺が三島付近にあります。
諸大名の箱根越えの本陣宿舎として利用されたという大伽藍。
数十万坪という広大な敷地が塀堀で囲われた城砦のような場所です。
ここが太田道灌家の直系の江戸時代の墓所となっているのですが
扇ヶ谷上杉家や大田道灌家との伊豆との深い関わりを語っています。
192日本@名無史さん:03/11/01 04:53
この妙法華寺。一時は鎌倉の戦乱を避けて越後に移されたこともあるのですが
最終的にこの地に落ち着きました。いずれにしろ開山由緒は扇ヶ谷上杉家の創建です。
このスレッドでも早雲が扇ヶ谷方だったのか山内方だったのか皆さん考察されていますが
基本的には扇ヶ谷方のスタンスであったと考えていいのではないかとわたしは思っています。


193日本@名無史さん:03/11/01 05:08
>>181
早雲の生年は1432年じゃないの?

>>189
>北条早雲って三河で松平清康と戦ったり
んな馬鹿な・・・。
早雲死亡時の清康の年齢は10歳に満たないぞ!
194日本@名無史さん:03/11/01 08:12
>>181
某資料だと、高橋高種が1558年8月に81歳で没(1478年生)、
高橋氏高が1596年11月に78才で没(1519年生)、だとか。
195日本@名無史さん:03/11/01 11:31
>>191
いや、やっぱり逸話だよ
伊勢宗瑞の駿河下向の時期と、太田道灌の駿河派遣の時期にかなりのズレがあるからね
196日本@名無史さん:03/11/01 12:30
興国寺城は存在を裏付けるモノが何一つないらしい
早雲が興国寺城を拝領した話も一次資料からは見られないんだとさ
197日本@名無史さん:03/11/01 16:06
>>193
宗瑞の享年には64歳説ってのもあって
それだと>>181であってる。

ちなみに88歳説だと宗瑞の干支が牛になってしまう罠。
198日本@名無史さん:03/11/01 21:05
>>139-140マジ意味わかんね。
俺は139=140が飽きもせずに、北条綱高様の話を振っては
自分で答えてんだろっつてんよ。
元々は北条綱高の実在だなんだなんてことはちっとも気にしちゃいない。
小田原旧記の中には存在してんだろ、北条氏綱養子の綱高様が。

>>122
>北条常陸介綱種(氏綱時代、大永年間頃か?)
>北条治部少輔綱種(氏康時代、1541年以降か?)
私称される官職内では、官途より受領の方が上とされ
初め官途を名乗っていた人物が、主君の許しを得て受領を称すのが一般的。

>>194
宗瑞の没年が1519年、父が戦死したために宗瑞に養育された綱高の弟も1519年。
北条高種て人はいつ戦死したんだろうねぇ?

北条家中で氏の諱を賜った武将
垪和氏続(1千貫以上)、太田氏資(7百貫以上)、北条氏繁(1千5百貫以上)
北条氏高(?貫)。この内、確実な氏資と氏繁は、これも確実に北条氏の女婿。

ちなみに、東京神社庁のサイトったって、寺伝、社伝に典拠してるだけで
それが真実を伝えているとは限らないし
由緒の所伝と、通常寺社史料といわれる古文書(安堵・寄進状や制札他)等とは別。
199日本@名無史さん:03/11/02 00:07
>198
社伝や寺殿には誤伝がよくあるな。赤松氏を調べてた際にさ、誤った伝承を今に伝えている寺社が10近くあったよ。
サイトで検索できる範囲でそれなんだから、自サイト持ってない寺社だとそれ以上あるだろうねえ。

名前間違えたり年代間違えたり…。
○○年に××の開基で…(←ウソつけぇ! そんとき××生まれてねえよ!or死んでるぞ!)とか、
△△を支配していた□□が再興…(バカなぁ! そのときは■■が支配してたはずじゃん! 年代ズレてんじゃねえの!?)
とかさ。
200181:03/11/02 00:39
宗瑞(1456生)―氏綱(1487生)―氏康(1515生)―氏政(1538生)
宗瑞(1456生)=高種(1478年)―綱高(1519前)―康種(15??生)

氏高の生年から、綱高母の大凡の生年を出してみると
出産可能な年齢等々から考えて、1489〜1504年頃までか
高種と同年代じゃ、氏高の出産が40歳を超えてしまう。
201日本@名無史さん:03/11/02 01:52
まあそう言うなよ。
おそらくご子孫の高橋厨房君なんだろ。
だからムキになってるだけなんだよ。
工房になればすこしは考え直すよ。

まあ有栖川識仁レベルだけどね。
202日本@名無史さん:03/11/02 03:13
>>197

享年64歳説・・・1456年(丙子)生
享年88歳説・・・1432年(壬子)生

どっちにしろ子年だぞ!
203日本@名無史さん:03/11/02 03:27
伊豆は難しい位置づけの国だから郷土史家や評価が分かれてくる
204日本@名無史さん:03/11/02 03:43
1、流人の国

古代律令制時代から政治犯や大物の流罪の対象になった
しかし中世以降の遠島配流のような現代的観点から見ても
実効が推定できるものと違い「何故伊豆で配流になるの?」と
おもわず首を傾げてしまう。現代に伝わる中で伊豆流人として有名なのは以下の5人か

役小角 (699三島明神の四国移祭に関係)
橘逸成 (841承和の変に連座 藤原氏の陰謀)
藤原秀郷(承平天慶で名を挙げた下野の武人 
     若かりしとき下野官人を撲殺したかどで十年近く伊豆配流)
源頼朝 (1160永暦元年当時十四歳の頼朝が1180年の三島大社祭礼時の挙兵まで
     足かけ20年も配流の身を過ごす) 
205日本@名無史さん:03/11/02 04:17
2、辺鄙な場所とされた時期と政治、運輸交通の要所となった時期の混在

律令制下では足柄路が東海道とされていたので
駿河駿東(駿東)から相模西部(西湘)へ直接抜けるルートが幹線
しかし平安末期から鎌倉時代にかけて箱根道の開発が進む
南北朝期や室町時代後半は箱根路と足柄路の併用
正式に箱根路が東海道とされるのは江戸時代
天下の五街道の一として街道奉行のもと整備開発される
明治期に御殿場線が長らく東海道本線として機能したが
丹那トンネル開通で再び熱海三島が東海道の座を奪い返す
しかし戦後の国道246号や東名開通で車両交通の大動脈は足柄路に再遷

海路においても平安末期の湯河原(土肥氏→小早川氏)、網代、伊東(日向伊東氏)、下田、
松崎、土肥、沼津(狩野氏、狩野介氏)、梶原氏など中世の大水軍が割拠した
頼朝の石橋敗戦後の真鶴から房総への船出は有名 この船中で
和田義盛が侍所別当の座を要請したと伝えられる
しかし小田原鎌倉といった旧都が滅び江戸時代に入ると伊豆の海路は
回船の寄港地として非常に栄えながらも
政治的観点からは江戸湾への玄関的な扱いに転落する
政治的に伊豆が再び脚光を浴びるのは幕末のペリー、ハリス来航
ここに奉行所や公館が設けられ幕末外交史の最重要地として記憶されることになる
206日本@名無史さん:03/11/02 04:26
>>204 + 源頼家 しかしこの人は配流ではないので4人に訂正しときます
207日本@名無史さん:03/11/02 04:35
3、関東か関西か

1、足柄関や箱根関所から見ても南の位置づけにあることと
2、湯河原、熱海のような実質西相と連続する同地域と
駿東沼津と連続平面の伊豆韮山を抱えることから
どっちに区分することも難しい

箱根伊豆山権現両社は鎌倉将軍家の厚い帰依を受けていた
室町期には伊豆甲斐は関東へ算入され関東十カ国と称される
しかし足利義満、足利義教の富士遊覧は事実上鎌倉府への軍事行動の一環であり
駿東、伊豆国府一帯は鎌倉討伐軍の前線基地として臨戦態勢をとることが多かった
208日本@名無史さん:03/11/02 04:38
>>204
橘逸勢の漢字表記が間違ってるよ。
209日本@名無史さん:03/11/02 19:45
>>197>>202
今川氏親が1471年生まれだから、氏親の母が早雲(1456年生)の妹だとすると、年代的にきつくないか?
新九郎のお姉さん説もあるみたいですが・・・。

私的には永享四年(1432年)の方がいいですね。
こちらも年代的に厳しいと思いますが・・・。
211日本@名無史さん:03/11/02 20:24
月と星よりさまいらっしゃいませ
続きをご教授願います
212日本@名無史さん:03/11/02 23:01
>>211
いらっしゃいませってあんた管理人かよ
213日本@名無史さん:03/11/02 23:52
210=211
214日本@名無史さん:03/11/03 00:03
早雲の生年は、いつのネズミ年にするかが問題なだけでしょ。
それだって、有名な三嶋大社でのネズミが杉を食い倒しちゃう霊夢の
逸話から来てるんだろうし。
没年88歳ってなんの文書に記録してあるのですか?
215日本@名無史さん:03/11/03 01:28
ワウワウ
(なんで鉄生は名前で宝生は苗字なの?藤なんとか先生の設定ミス?)
216日本@名無史さん:03/11/03 03:05
>>201
有栖川識仁って、単なる八百屋のせがれだろ。

旧家である牟礼高橋氏は、江戸時代、代々、名主で、
現在も一族は牟礼一帯に土地を多く持っている大地主。
比較にならんだろ。

見た感じ一家で1000坪近くか、それ以上持っている家もあった気がする。
住む場所がなくて困っている奴が多いのに反則だよな。(ワラ

烏山高橋氏とは元は兄弟という事になっていて、両家から関係、古文書が見つかっているという事になっている。
217日本@名無史さん:03/11/03 03:46
>>214
>早雲の生年は、いつのネズミ年にするかが問題なだけでしょ。

じゃあ、1432年説と1456年説の他に、1444年説があっても良さそうな気がするのですが、どうしてないのですか?
218日本@名無史さん:03/11/03 10:41
北条一族って一人の例外を除いて短命だから
宗瑞も32年説より56年説のほうが納得できる気がする。

いや、何の根拠もないけどね
219日本@名無史さん:03/11/03 12:08
>>213
月と星より氏はsageないと生きていけないので、それはあり得ない。
220日本@名無史さん:03/11/03 20:57
>>181
幻庵の生年は明応2年
221日本@名無史さん:03/11/03 21:00
>>218
>北条一族って一人の例外を除いて短命だから

氏綱・氏康あたりは当時の武将としては短命ってほどじゃないだろ。
それに北川殿の生年が1447年だから、56年説だと兄妹関係が逆転するよ。
222日本@名無史さん:03/11/03 23:50
>>221
いやいや、80歳越えする奴と50代で死ぬ奴とを比べれば、
氏綱・氏康は早雲(88歳説)・幻庵と比べて短命に見えるって話よ

それと、北川殿妹説もあるが、
姉説があることは前スレでも語られ、>>210氏もいってるだろう?
223217:03/11/04 03:00
生年を1444年とする説はないの?
224日本@名無史さん:03/11/04 03:34
>>222
しかし、早雲の場合、その一人の例外の実父だからわからないぞ。

あと家康の徳川(松平)家のように、家康の父・祖父・曾祖父はいずれも20代で死んでいるのに、それ以前の3代はいずれも70歳を越えるという家系もある。
225日本@名無史さん:03/11/04 10:03
>>224
松平家は、家康の前二代は他殺だろ。
長寿かどうかなんてそもそもわからない

でも早雲の場合、例外の実父だから〜てのには同意。
だが、例外は例外だと思うけどね。
ま、218でも言ったけど根拠も何も無いからな〜・・・
226日本@名無史さん:03/11/04 11:28
>>225 >>他殺 酒害と考えてもいいんでは?
227日本@名無史さん:03/11/04 15:04
>>189
それ、清康じゃなくて長親。
228日本@名無史さん:03/11/04 15:05
早雲時代は仲がよかった北条と今川。
蜜月が続いたのはいつ頃まで?
229日本@名無史さん:03/11/04 15:32
>>228
天文6年までと思われ
230日本@名無史さん:03/11/04 18:50
義元が武田と結んだのに氏綱がキレたんだっけ?
231日本@名無史さん:03/11/04 21:27
>>230
結果的に義元が武田信虎の女を娶ったのが原因となってるけど
実際はそれ以前から複雑だったと思うよ。

考えられるのは
・氏親死去後の北条(当時は伊勢か)氏の、今川家の跡目争いに過度の介入をした
・それによって今川家内部に増加した北条勢力の排除
・花蔵の乱の際に、恵深派の首魁だった福嶋氏等の一族を北条が匿った
これが北条への警戒を生んで、北の武田と婚姻を結ぶ行為になったのかもね
232日本@名無史さん:03/11/04 21:34
でも結局また三国同盟で同盟関係に戻るんだよね。
それにしても、桶狭間の戦い以後、没落しはじめた今川家を北条側はどう思っていたのだろうか?
233日本@名無史さん:03/11/04 21:50
興国寺城っていつまで北条領?
234日本@名無史さん:03/11/04 22:07
興国寺城は存在しないらしい。
235日本@名無史さん:03/11/04 22:13
236日本@名無史さん:03/11/04 22:41
すまん、抜群に書き方悪かった。
興国寺城を早雲が拝領した事はなく、興国寺城周辺の北条領は存在しないって事でふ。
237日本@名無史さん:03/11/05 03:17
桶狭間後、北条は今川と同盟通し続けてたの?
いや、ちょっと気になった。
238全てうろ覚え:03/11/05 16:30
氏真が武田徳川に攻められた時も援軍出したし、その後の氏真の退去先は北条だし。
氏政の親武田への方針転換で追い出されるまでだから、長いな。
239日本@名無史さん:03/11/05 17:38
>237
北条氏が、と言うよりは北条氏康が、って感じだな。>氏真支援
240237:03/11/06 00:47
>>238-239
なるほど、氏康が氏真支援してたのか。
色々thx
241日本@名無史さん:03/11/07 12:25
でも氏康って桶狭間以前に一度駿河に攻め込んでいるよね?
で、それがきっかけで甲駿相3国同盟ができる。
242日本@名無史さん:03/11/07 23:30
伊勢盛時生年56年説だと、駿河に行った時ってまだ子供なんだよな。
で、応仁の乱が終わり次第京に帰ってるんだよな。

…疎開?
243日本@名無史さん:03/11/07 23:54
優しい姉が疎開を進めたと好意的に解釈してみるテスツ
244日本@名無史さん:03/11/08 00:34
>>242
駿河下向は1487年頃と考えられてるので、おかしくはない
245日本@名無史さん:03/11/08 00:46
>>244
今川義忠が死んだ1476年には下向していないとまずいでしょ。
246日本@名無史さん:03/11/08 00:51
>>245
義忠死去後、小鹿範満が堀越公方の支援を受けて、今川家を相続してるので
全然OK
247242:03/11/08 01:58
>246
いや、むしろ個人的には
「戦乱を避けて疎開してきた弱冠二十歳の盛時が見事に調停し、その潜在能力を云々」
て展開の方がいいんだが。
248日本@名無史さん:03/11/08 02:50
>>247
実際は義忠が死んで、幕府側vs堀越公方・関東管領家で今川家の家督問題で
双方激しく介入、堀越公方の足利政知は上杉政憲、扇谷上杉家からは太田道灌を派遣、
結果、堀越公方側から支援を受けた小鹿範満が今川家の跡目を継ぎ、幕府の影響力が低下。
その状態が続くかと思われたが、1486年に太田道灌謀殺があるように、山内家と扇谷家が争い始め、
駿河における堀越公方・扇谷上杉氏の影響力を激減、小鹿範満は後ろ盾を失い、領内統治が乱れ始めた。
すると幕府は関東や駿河への影響力回復、堀越公方・両上杉氏の弱体化を狙い、
今川家と外戚にあり、奉公衆だった伊勢宗瑞を(他にも派遣された人物はいるだけど)派遣し、
小鹿範満を含む公方・管領勢力を排除する事に成功しました…。

という経緯らしい、これは後の宗瑞の伊豆侵攻が、彼の独断や今川氏だけの意向でなく、
堀越公方、そして扇谷上杉氏の弱体化を狙う室町幕府の意向によるものと繋がる訳で。
そう考えると非常に面白いと思うよ。

つか、ここまで書いたのは、あくまで学説の一つだから、別の意見や見解もあろうかと思うので、
突っ込みどころや、さらに詳しく知ってる人あれば、お願いねー。
249日本@名無史さん:03/11/08 12:24
小鹿範満は今川家の正当な家督になったんじゃないでしょ。
氏親元服までの後見人(代理)として駿府に入ったのでは?
250???:03/11/08 12:59
範満が滅んだからそういう風になった
251日本@名無史さん:03/11/08 17:38
>>扇谷上杉氏の弱体化を狙う室町幕府
伊豆侵攻って当の扇谷自身が協力してなかったっけ?
252日本@名無史さん:03/11/08 19:27
>>250
範満は10年間も駿府を占拠していながら、幕府は彼に駿河守護への補任状を発給しなかった。
範満サイドは当然幕府に対して、守護補任を促す工作をしただろう。
しかし、それでも補任されなかったのは、おそらく幕府内部に人脈のある早雲の暗躍の結果と思われる。

>>251
多分そうだと思う。
この段階では、古河公方成氏と扇谷上杉定正がくっついている。
古河公方にとっては、堀越公方の存在は関東公方としての自らの正統性を脅かす存在。
また、扇谷上杉にとっては、伊豆国は仇敵の山内上杉が守護職を持つ場所。
つまり、古河公方にとっても扇谷上杉にとっても早雲の活動は、伊豆侵攻の時点では歓迎されるものだった。
253日本@名無史さん:03/11/08 21:30
伊豆は扇谷より山内に縁が深いはずなんだけど。
254日本@名無史さん:03/11/08 21:40
>>253
それは、どれに対するレス?
255日本@名無史さん:03/11/08 22:04
あぁごめん。190らへんを読んでて書いたレス。
256日本@名無史さん:03/11/08 23:11
扇谷上杉は、氏親と範満の家督争いでは、範満を支援していた。
範満の母方は扇谷上杉に繋がる。
しかし、早雲の伊豆侵攻の際は、早雲に協力的だった。
257日本@名無史さん:03/11/08 23:17
伊勢宗瑞の伊豆侵攻は、室町幕府、古河公方、扇谷上杉家、駿河今川家の4者の利害が偶然にも一致した絶妙のタイミングで行われた。
258日本@名無史さん:03/11/09 02:26
ところで北条綱高は嘘ということでいいの?
259日本@名無史さん:03/11/09 07:30
早雲の生年と幻庵の歿年の差が物凄い・・・。

北條早雲
永享4(1432)〜永正16(1519)年
享年88歳

北條幻庵
明應2(1493)〜天正17(1589)年
享年97歳
260日本@名無史さん:03/11/15 03:58
>>259
親の生年と子の歿年の差が150年以上か・・・。
261839:03/11/15 18:10
北條家は親子2代で戦国時代を乗り切ります。
262モナー厨 ◆ZO08cvMONA :03/11/16 08:59
北条と北條どちらが正しいのですか?(*´Д`)ノ
263日本@名無史さん:03/11/16 12:12
龍と竜みたいな感じでしょ。
どちらでも間違いではない。

ただ、北條のほうがより(・∀・)イイ!!
264日本@名無史さん:03/11/16 17:02
>>262-263
「條」が正字体(康煕字典体)です。
265モナー厨 ◆MONA/EQ7K2 :03/11/16 17:09
>>259
ぅぃらぅのお陰でつね(・∀・)

>>263-264
どうもありがとうございます
266モナー厨 ◆MONA/EQ7K2 :03/11/16 18:28
シンクロ
267日本@名無史さん:03/11/17 18:44
>>258
北条綱高というのは高橋綱種の事だが、(高橋綱種は確実に存在し、問題は北条姓をもらったかどうか。)
高橋綱種の父、高橋高種は、征西大将軍・大蔵春実(大蔵春種)の末裔である御三家、原田・高橋・秋月のうちの、
筑後高橋氏の出で、(この系統の家は代々、名前に種を使用。)

一方の後北条は、5代100年続いた名門だが、出自は諸説あり、はっきりしない。

わざわざ下方偽称する必要なんてないと思うけどな。
268日本@名無史さん:03/11/17 21:59
後北条は備中伊勢氏の出身。
269日本@名無史さん:03/11/17 23:08
宗瑞自信、幕府の申次衆を努めるくらいだから、名門も名門だよな
270日本@名無史さん:03/11/17 23:38
>>269
幕府の申次衆って、ソースは司馬遼太郎「箱根の坂」?
271日本@名無史さん:03/11/18 00:16
>>270
んにゃ?
272日本@名無史さん:03/11/18 03:30
>>267
意味不明。

ではなぜ諸大名は秀吉から羽柴とか豊臣とか名前貰って付けてたんだ?
273日本@名無史さん:03/11/18 03:40
今月のライフP7を読んで
はぐヤンとか、ブクロ本部とか霊界の入り口
というフレーズが、脳に湧いてしまった

_| ̄|○……だめぽ
274日本@名無史さん:03/11/18 03:46
誤爆した…
275日本@名無史さん:03/11/18 13:02
>>272
なるほど、徳川家が松平姓をばらまいたようなものだな。
276日本@名無史さん:03/11/19 12:37
>>267
一説によると、高橋高種は足利義尚に拾われたとか。
で、足利政知と共に下向したが、政知の死後、跡を継いだ子・茶々丸に嫌われ、
その茶々丸が伊勢宗瑞に滅ぼされると、宗瑞に降伏したとか。
277日本@名無史さん:03/11/20 04:32
早雲は、今川氏親のことを御屋形と呼んでいるね。
278日本@名無史さん:03/11/20 07:22
そういえば後北条氏の一門衆の中に伊勢ナントカってのが何人かいたな。
279日本@名無史さん:03/11/20 13:24
室町幕府政所執事の伊勢本家は、江戸期にも旗本として残っているね。
280日本@名無史さん:03/11/20 17:06
>>277
伊勢備中守の系統やね、有名どころ(すでにマイナー?)では伊勢備中守貞運とか。
でも、以前どこかで誰かが言っていたんだが、伊勢氏で、しかも備中守とは奇妙な感じ・・・
281日本@名無史さん:03/11/20 23:02
>>267
高橋綱種・・・大蔵氏庶流の高橋氏の更に庶流。前代の系譜など詳らかな事は不明。
大蔵氏・・・征西大将軍・大蔵春実(大蔵春種)の末裔。
北条氏綱・・・室町幕府政所執事伊勢氏庶流。諸説あるが、出自はある程度確定しつつある。
伊勢氏・・・人皇五十代柏原天皇の末裔。

>わざわざ下方偽称する必要なんてないと思うけどな。
だったら何で一字書き出し貰ってんだよ? 高 橋 【綱】 種

高橋さんは北条スレじゃなくて高橋スレ立てたら?
>>219
今更ですが笑えます。

ふと疑問・・・。
北条家って負け戦もよくやっているのに、あれだけの大国に・・・。不思議ですね。
戦だけではダメということなのでしょうか?
283日本@名無史さん:03/11/24 23:28
戦場での失点は戦略や外交でカバーできるけど、逆はあり得ない。
人心掌握や統治が巧みじゃないと
幾ら戦で勝っても領国が減るという減少すら起きるしね。
伊勢新九郎の場合、
『権現坂合戦』で山内上杉家・扇谷上杉家の連合軍に敗北を喫しています。
でも、両上杉家はこの好機を生かすことができず、逆に相模を奪われてしまいます。
これも戦略や外交でカバーしたことになるのかな〜。
この頃の上杉家って何をしていたのでしょう?(不思議ですね!)
×権現坂合戦→○権現山合戦
286日本@名無史さん:03/11/26 14:22
>逆に相模を奪われてしまいます
それは結果論。
権現山の戦いの後、三浦勢が住吉城を落とし小田原付近まで侵攻を許してるし、
扇谷は相模鴨沢城を奪取されていたりと、苦戦を強いられています。
その翌年、宗瑞は扇谷と和睦して、当面の敵を三浦勢に絞り、
勢いに乗じている三浦勢が疲弊するまで守勢に徹しています。
これは戦術の失地を戦略・外交でカバーした典例では無いでしょうか?
287日本@名無史さん:03/11/26 14:24
扇谷は相模鴨沢城を・・・
ではなく
扇谷に相模鴨沢城を・・・でした
288日本@名無史さん:03/11/26 23:49
早雲寺って小田原攻めの際に燃やされたんだよね。
その割には結構史料がのこってない?
289日本@名無史さん:03/11/27 00:18
北条は最後の雄で好きです。
290いなかもん:03/11/27 23:07
田舎者唯一の自慢は北条早雲の生まれ故郷に住んでることでごわす。
えへへ(*’−`*)
291日本@名無史さん:03/11/27 23:08
生まれ故郷なんてわからんはずだが…
292いなかもん:03/11/27 23:19
寺に早雲の巻物があったのじゃ。前NHKかなんかでもやってたし。

ちなみに岡山県の広島よりの瀬戸内海側の市でスー。
293日本@名無史さん:03/11/27 23:55
>>291
備中高越山城(岡山県井原市東江原町)城主伊勢盛定の息子ってのが
今現段階での最有力なんだがな。

ていうか、出自に関しては散々語ているだろうが
294日本@名無史さん:03/11/28 00:17
>>279
伊勢貞丈もその子孫。
295日本@名無史さん:03/11/28 00:58
萩原健一で北条早雲。どうかひとつ、ご支持のほどを!
296日本@名無史さん:03/11/28 01:30
>272、281
>わざわざ下方偽称する必要なんてないと思うけどな。

ってのは、「自発的偽称の理由はなさそうだから、北條氏
から与えられたものだろう」
って言ってるんじゃないのかな?

267に聞かんとよくわからんし、「偽称でない」という意見
の根拠になっていないような気がするけどね、正直。
297日本@名無史さん:03/11/28 17:37
>>295
どうせ大河をやるなら、氏政−氏直あたりがいいんだがのう・・・。
やっぱり花がないか?
298日本@名無史さん:03/11/28 20:55
北条5代で大河をやるなら、二部構成にして、第一部の主人公を早雲、第二部の主人公を幻庵にすると良いと思う。
当然、第一部は「箱根の坂」を原作に使う。
299日本@名無史さん:03/11/28 22:36
そういや今年の夏、横須賀で歴史パレードがあったんですけど、
集合場所で整列する際、小田原北条甲冑隊と川越上杉甲冑隊の間に
横須賀甲冑隊が割って入ってたのは笑った。

それ以上に険悪だったのが、観光協会か何かが主催の長州奇兵隊と、
めちゃめちゃ真剣な会津白虎隊だったが。
#間に北条甲冑隊が割って入るように整列。
長州の奴ら、2つ隣に白虎隊を控えて官軍マーチ大音量で鳴らしてやがった。
あいつらの恐れ知らずにはまいった。
300日本@名無史さん:03/11/28 23:41
どなたか、前スレの過去ログうpしてくださるかたおりませんか〜?
301日本@名無史さん:03/11/30 00:36
>>299
河越で上杉だと〜。
扇谷でなく、長尾上杉だったら鶴ヶ丘八幡宮でその兜をたたき落としてくれる!
>>286
ああ、書きたかったことは、
伊勢新九郎の負け戦にもかかわらず、
北条家の躍進を止めることができなかったこと。

攻め滅ぼすことを選ばず、和議を結ぶ道を選んでしまった両上杉家と、
両上杉家と和議を結び・・・結果、相模を平定した伊勢新九郎を比較したかったのですよ。

で、何故、上杉家は三浦義同を見殺しにしてしまったのでしょうか?
303日本@名無史さん:03/12/03 02:50
幾つか要因はあるでしょうが
1−伊勢家の後ろには今川家がいる
2−両上杉の戦いの時には伊勢家は扇谷側
3−それまでの関東に於ける闘争は領地争いと言うよりは権力争いである

また、
4−伊勢氏に既得権益(領地)を直接侵されたのは扇谷家

1〜4より、
5−そもそも扇谷家には伊勢家を滅ぼす意志は無い

また、権現坂で
6−伊勢氏は大敗
7−その後、侵攻(報復)を三浦家受けているのは伊勢氏
8−伊勢氏から和睦交渉

6−8より
9−権現坂の戦いで伊勢家の増長に対する制裁は十分であると判断

5・9を理由として
∴伊勢氏を滅ぼさなかった
と推測します。

もちろんこれは穴だらけなので突っ込み歓迎です
304名無し@日本史板:03/12/04 00:05
>>302 義同は人望がなかったのと、上杉憲房と上杉朝良の対立が理由と思われる

三浦義同は扇谷上杉高教の息子で相模守護三浦時高の養子となったが,時高に実子
高教が生まれると不和に,時高,高教を攻め滅ぼし相模守護職と三浦家を手に入れた.
また,娘婿の太田資康とともに義同は一度山内上杉側に転じるなどしていたから,
絶対に助けないといけないほどでもなかった。

山内上杉は宿敵長尾景春の上野国白井城の奪還と,上杉憲房と足利
政氏の弟である関東管領上杉顕実の家督争いの最中でそれどこ
ろではなかった。

当時の北関東は

 足利政氏,上杉顕実 VS 足利高基,上杉憲房 

   の状態で上杉朝良は足利政氏の最大の支持基盤だったが、足利高基の方が優勢だった

扇谷上杉は一応救援にはいったんだけど、権現坂の戦いのような山内上杉憲房の援軍はなかった。
1513年扇谷勢は大将太田資康が討死
1516年上杉朝興が早雲の攻撃を受けた三浦義同救援のため出兵
したが敗れた.
>>303さん、>>304さん、共にThanks!

確かに、両上杉家は関東管領という地位しか見ていなかったのかもしれませんね。
そして、この相模での事態も伊勢新九郎と三浦義同の対立ということで、
傍観してしまったと考えた方がいいかもしれませんね。

三浦義同(実父、上杉高救)と上杉朝良(実父、上杉朝昌)の関係って従兄弟同士ですよね。
う〜ん、扇谷上杉家、荒んでいますね。あ、この頃って扇谷上杉家は朝興なのかな?

ついでに関連事項をまとめてみますね。
1493年、伊勢新九郎の伊豆平定?
1494年、三浦家の内訌(三浦義同の家督簒奪)、高見原合戦(扇谷上杉・伊勢乂山内上杉)。
1495年、伊勢新九郎の小田原城奪取?
1504年、立河原合戦(扇谷上杉・今川・伊勢乂山内上杉)。
1505年、山内・扇谷両上杉家の和睦。

1510年、長森原合戦(山内上杉顕定、敗死)、権現山城合戦(山内・扇谷乂伊勢)。
1511年、伊勢家・扇谷上杉家の和睦。
1512年、古河公方家の内訌。山内上杉家の内訌。
1513年、太田資康、戦死。
1516年、新井城陥落(三浦義同、敗死)。
1518年、古河公方足利家の内訌は政氏が隠居し、高基が勝利。

三浦家の内訌の際、三浦家の家臣たちの多くは義同に味方したと聞いていました。
人望があると思っていたのですが違うのかな?

久しぶりの長レス、ごめんなさい。
306日本@名無史さん:03/12/04 19:15
>>305
配下(縦の関係)からの人望と、同僚(横の関係)からの人望は別物かと。
石田三成や明智光秀なんかが典例でしょうが。

あと、この頃の血縁関係なんざ意味を為さない事もある。
佐竹義宣と伊達政宗だって従兄弟だし。
>>306
☆三浦義同・・・
 扇谷上杉家(上司)からみると疎んぜられて、
 三浦家臣団(部下)からみると慕われていたタイプかな?
 同僚はどう思っていたのかは不明。

☆佐竹家と伊達家の場合・・・
 伊達晴宗の息子(伊達輝宗)と娘(佐竹義重室)ですからね。
 佐竹義宣も佐竹家の当主となるべく育てられたのでしたら、
 伊達家(特に政宗)は身内にならないような気がします。
 それに時代が80年ぐらいずれちゃっていますしね。

☆扇谷上杉家と三浦家の場合・・・
 その頃(1500年前後)としては珍しいのかな〜と思いまして。
 1467年の応仁の乱での足利将軍家は日野富子と足利義視の対立のような気がしますし、
 河内畠山家のことも幕府の介入で酷くなったような気がします。(詳しくは知りませんが。)
308日本@名無史さん:03/12/05 13:30
お前いい加減消えろ>>307
全然詳しい話できないわ、中途半端な付け焼刃で知ったかするわ
上辺知識はいらねーんだよヴォケ
309(・∀・):03/12/05 16:23
>>308
お前が消えろw
310日本@名無史さん:03/12/05 17:53
文句言うだけの香具師なら(゚听)イラネ
311日本@名無史さん:03/12/05 19:34
このスレ潰すよ
312日本@名無史さん:03/12/05 23:30
>>311
カックイイ!
俺もリアルで「オマエ潰すよ」って言ってみたい。
(・∀・)ニヤニヤ
313日本@名無史さん:03/12/06 01:45
>>305
伊豆平定は1491年。
314日本@名無史さん:03/12/06 01:47
とりあえず、伊勢宗瑞は、山内上杉の守護分国である伊豆を武力で奪っている以上、山内上杉とは組めないと思う。
315日本@名無史さん:03/12/06 02:43
>>313
伊豆深根城攻略は1498年だよな?
伊豆狩野城も5年間早雲に抵抗し続けたんじゃなかったっけか?
316日本@名無史さん:03/12/06 06:58
んだね。
狩野氏は少なくとも1496年まで抵抗してるし。

ただ、伊豆討ち入りは知る限り二説あって、
それぞれ>>313の永徳三年説(1491)と>>305の明応二年説(1493)。
だから、五年間抵抗したとは一概に言えないと思うが、些末な事か。
317日本@名無史さん:03/12/06 16:19
北条氏直って最初、今川家との同盟強化のために
今川氏真の養子になってたよね。
いつ頃まで今川氏直を名乗ってたの?
318日本@名無史さん:03/12/06 17:00
なってない
319日本@名無史さん:03/12/06 17:51
1569年(永禄十二年)5月23日に氏真は氏直を養子にしてるよ
320モナー厨 ◆MONA/EQ7K2 :03/12/06 20:31
氏真と言えば蹴鞠
321日本@名無史さん:03/12/06 22:10
あれって確か対武田のための布石じゃなかったっけ?
氏直が今川なら、北条の駿河支配に正当性が着くから。
322日本@名無史さん:03/12/06 23:17
たまに本なんかで今川氏直と書かれているけど、
何年頃まで今川姓を使ってたんだろう?
323日本@名無史さん:03/12/06 23:47
今川氏真の妻は北条氏康の娘
武田義信の妻は今川義元の娘
北条氏政の妻は武田晴信の娘
324日本@名無史さん:03/12/07 01:14

???
それが今どのような関連があるのか、浅学な私には解りませぬが・・・
325武田太郎義信:03/12/07 02:25
川中島の戦いでは、父の命令を無視致しました。
326日本@名無史さん:03/12/07 17:04
川中島だ?武田騎馬軍団スレに(・∀・)カエレ!!

と、言いたいところだが
勝頼の滝山城の二の曲輪の攻防に免じて今回は良し。
信玄の小田原侵攻や駿河での攻防では北条は善戦してるよな。
327日本@名無史さん:03/12/07 23:43
上杉家の北条(きたじょう)とかいう武将は北条とは関係ないよね・・・?
328名無し@日本史板:03/12/08 00:21
>>327
大江姓毛利氏の一族。鎌倉幕府初代公文所別当大江広元の四男季光の子孫
毛利元就の遠い親戚。
329日本@名無史さん:03/12/08 00:30
>>328
越後毛利氏だね。
330日本@名無史さん:03/12/08 00:36
だから、北條に帰順したときに喜多条と苗を変えられている
331日本@名無史さん:03/12/08 08:46
>大江姓毛利氏
なんだ?この表現は???
ここは日本史板か?
332(・∀・) :03/12/08 12:30
>>331 あのなぁー、おまえ
豆相記

北條家中興、伊豆早雲。俗名、伊勢新九郎氏盛。後に長氏と改む。姓は平氏、
北條なり。謂う所の桓武天皇第五皇子葛原親王三代の孫、平将軍貞盛の苗裔なり。

こんなふうに姓は源氏、平氏をいうんだ。この場合、姓は大江、氏は毛利になるんだよ
足利だったら、藤原姓足利氏、源姓足利氏があるんだ。
333日本@名無史さん:03/12/08 13:48
331じゃないが、姓は朝臣だろう。
334日本@名無史さん:03/12/08 14:09
>>333 それは朝臣姓でしょ 
335334:03/12/08 14:23
平を血族(氏)とすると、慣例的に後ろに朝臣がつき朝臣が姓になるけど、
平を家格や尊卑(姓)とすると、姓は平でよかったんじゃ?

そもそも官途名のなかった早雲は朝臣なのれるの?
336::03/12/08 14:32
会社で抜いてしまった(汗

>ヤフーのブロ番ガイドで見つけた。
>クリスタル映像のAVがあったので、ちょいラッキー
http://www.crystal-online.tv/CRL_Showpage.asp?I=NIF&F=TOP
337日本@名無史さん:03/12/08 14:39
豆相記読むと
小豆相場に強くなりそうだね
338名無し@日本史板:03/12/08 19:45
>>331
大江姓毛利氏というのは、土師氏が大江を天皇から賜姓したものだから。
毛利というのは苗字。毛利元就も天皇の前では大江朝臣元就になる。
姓といのは天皇から新たに賜姓しない限り変わらない。

北条左京太夫平朝臣氏綱
苗字 職名 氏姓 諱
339名無し@日本史板:03/12/08 19:46
ずれた。。。。
340日本@名無史さん:03/12/08 20:34
>>338 土師は菅原に改姓して菅原からさらに大枝も分出したんでしょ
土師氏が大枝を賜姓したっていうんじゃまた別の話に聞こえるよ
341名無し@日本史板:03/12/08 21:33
>>340 ちょっと違う。
菅原古人の弟の真仲も大枝を賜姓したけど、ここでの大枝は大枝(土師)諸上の子孫。
音人の時に大江朝臣になってる。
342日本@名無史さん:03/12/08 22:52
そういえば、鎌倉北条も後北条も桓武平氏という点では共通なんだよね。
343日本@名無史さん:03/12/09 02:37
>>331-335
君たち基本的なことを混同しているね。
過去ログ等で散々既出だが教えてあげる。

「姓」(や氏)をどうとらえるかは時代によって違う。
本来「姓」は氏のランクをさもので、朝臣というのはそのひとつ。
例えば平という氏なら「朝臣」というランクであると固定されている。

また「氏(ウヂ)」は「姓(ウヂ)」とも表記するようになり、混同されていく。
さらには名字や苗字とも混同されていくため、大江姓毛利氏というのも間違いではない。
344333:03/12/09 09:05
>>343
それを暗に示唆したつもりだが、何か?
345モナー厨 ◆MONA/EQ7K2 :03/12/09 21:09
「氏ね」は「うじね」なんですか(*´Д`)ノ
346モナー厨 ◆MONA/EQ7K2 :03/12/09 21:11
北条うじね 
うじざねみたいで(・∀・)イイ!!
347日本@名無史さん:03/12/09 21:58
662 :無名武将@お腹せっぷく :03/11/26 14:40
氏直の子孫!?
・・・宝珠院殿か摩尼珠院殿に子供がいたのか・・・・

詳細希望!!
348日本@名無史さん:03/12/09 22:47
↑やめれ、それ、漏れの書き込み・・・
349日本@名無史さん:03/12/09 23:22
>>348
待ちくたびれたので すまん・・・
350名無し@日本史板:03/12/10 00:57
>>198

>私称される官職内では、官途より受領の方が上とされ
>初め官途を名乗っていた人物が、主君の許しを得て受領を称すのが一般的。

間違ってる。北条家では隠居するときに官途名を息子に譲り、受領名を
自らの役職名にする。北条左京大夫が氏政で、北条相模守が氏康になる。
綱成や松田氏もおなじようにしている。上総をなのり、康成が左衛門大夫
をなのってる。
受領名より官途名のほうが官位がうえ。

それと、綱成は北条為昌の養子になったのであって、北条姓を授かったの
ではない。それに対して高橋綱高は北条姓を授かったのであって、
家督を継いだわけではない。綱高の北条姓は江戸時代島津氏が幕府から
松平姓をもらったのと同じ。松平を名乗るときは幕府に誓紙をだすとき
ぐらい。
綱成=綱高ではなく、綱成>綱高になり、違いは綱高は城代になったが
城主にはなれない。綱成はなれる。強いて言えば綱成の弟と同格。

他には北条彦次朗がいる。山中彦次朗。
351名無し@日本史板:03/12/10 01:24
>>348
氏次6歳、氏貞4歳、政興3歳の三人の遺児がいた。
政興は家康に引き取られ、池田輝政の子新三郎に嫁いだ。
氏次、氏貞は父の死後、近臣菊地七兵衛武茂が京都にいた
重臣に届けている。その後、秀吉の命により、伊達政宗の元へ
氏直の遺臣と乳母ら17名に守られて送られた。仙台支藩
亘理藩の領内で別れ、現在まで続いている。

菊地武茂は文豪菊地寛の先祖にあたる人物。
352名無し@日本史板:03/12/10 01:32
>>66
北条家の軍役は7貫に対して1人、25貫で騎馬1人と足軽2人。
353名無し@日本史板:03/12/10 02:27
追記 1貫=4石 総高7万貫(28万石)、最大兵力1万人 

小田原役帳では総高7万貫しか記されていない。作成されたのが1559年
なのに28万石しかなっかた?
このときは北条綱重が上野沼田城におり、少なすぎるようにも思う。
残りは消失?
354日本@名無史さん:03/12/10 02:28
>>350>>351
まだ北条綱高とかいう妄想を粘着してる。
北条氏次も同様の俗説にすぎない。

そもそも江戸時代の松平賜姓は誓紙の時だけではない。
すくなくとも公式には島津→松平と改姓したもの。
つねに松平を名乗る。
355名無し@日本史板:03/12/10 02:52
>>354
薩摩の島津は松平なんだw
356名無し@日本史板:03/12/10 03:10
>>354
伊達藩鈴木文書ー北条氏直子孫伝承家譜川中島窪村氏文書 小田原市郷土文化館研究報告 27号 平成3年
後北条氏北条氏直後裔に関して さやま誌 大阪市狭山市文化財調査紀要 創刊号 大阪市狭山市教育委員会 平成4年

または、立花京子(戦国史研究会)

または、氏次後裔桑島家、氏貞後裔槻木北条家

に、自己責任で裁判でも起こしてください。
ご自由に・・・・・
357名無し@日本史板:03/12/10 03:19
伊達藩鈴木文書ー北条氏直子孫伝承家譜川中島窪村氏文書 小田原市郷土文化館研究報告 27号 平成3年

これは、小田原市役所の小田原市公益事業協会にどうぞ。
358名無し@日本史板:03/12/10 04:00
俺は小田原旧記読んだことないが
以下のページに北条綱高がのってる 頭にhttpつけて見てみな

://www.asahi-net.or.jp/~EX8A-INYU/meizoku/gimon.html
://www.city.shimoda.shizuoka.jp/form1.php3?pid=834&ky=
://www006.upp.so-net.ne.jp/kmamiya0/fsubx1zz1kyuki.html
://www.tpca.or.jp/toukou/tpcadayori-toukou019m.htm
://www.shougai.city.mitaka.tokyo.jp/mitaka/tekuteku1999/a_data/a_0210.html
://www.no-za-wa.net/murasaki-kai/guidebook/29.html
://www.tpca.or.jp/toukou/tpcadayori-toukou015m.htm
://www.m-network.com/sengoku/senproud.html
://www1.linkclub.or.jp/~rack/kakuyoku/busyou2.html
://pozyu.hp.infoseek.co.jp/kazu2.htm

削除要請するなり、訂正させるなり、裁判するなり
自己責任でどうぞ・・・・
359日本@名無史さん:03/12/10 04:18
>>355
・・・そうだが?

>>353
役帳は全家臣が掲載されているわけじゃない。
また、北條の全勢力圏を調べたわけでもない。
さらに、貫高石高換算は安易に算出が出来るものではない。
360日本@名無史さん:03/12/10 04:36
>>354-355
実際、江戸時代の史料だと国主レベルの大大名は、基本的にほとんど松平姓だもんな。(細川のみ例外か?)
まあ、明治維新に際して松平一族出身の者以外は、すべて旧姓に復せという命令が新政府からでて、みんなもとに戻しているが。
あと、松平一族でも大給家や瀧脇家は、明治維新の際に松平姓を捨てている。
361日本@名無史さん:03/12/10 04:57
>>358
ググってヒットしたものを上げてるだけじゃないだろうな・・・。

ちなみに、一番上のページの烏山城の項でも指摘されてるけど、
牟礼側の資料と烏山側の資料では食い違いがある。
そう言うことも調べた上で、引用した方が良いと思うけどね。

というか、何も語らずにここに書いてあると勝手にHPを貼りまくって、
それで反論があるならHPの管理人に文句を言えとは、
少々無責任ではなかろうか?
362日本@名無史さん:03/12/10 10:28
少々っつーか、何をしたいのか判らんね。
363日本@名無史さん:03/12/10 11:14
>>354
実在しなかった証拠持ってんだろ
小田原市役所の小田原市公益事業協会あいてに裁判しろよ

伊達藩鈴木文書ー北条氏直子孫伝承家譜川中島窪村氏文書 小田原市郷土文化館研究報告 27号 平成3年
後北条氏北条氏直後裔に関して さやま誌 大阪市狭山市文化財調査紀要 創刊号 大阪市狭山市教育委員会 平成4年

または、立花京子(戦国史研究会)

または、氏次後裔桑島家、氏貞後裔槻木北条家

全部訴えろよw
364日本@名無史さん:03/12/10 11:21
      ☆ チン     マチクタビレタ〜
                        マチクタビレタ〜
       ☆ チン  〃  ∧_∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
        ヽ ___\(\・∀・) < >>354 訴訟まだ〜?
            \_/⊂ ⊂_)    \_____________
          / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /|
       | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|  |
       |  愛媛みかん |/
365日本@名無史さん:03/12/10 12:08
354じゃないが、なんで訴訟なの???????
意味がわからんけど

漏れは北条関係は詳しくないんであれなんだが
氏次の実在の立証を簡単に説明キボン
366365:03/12/10 12:17
>小田原旧記
>昭和20年代の終わり頃に、三鷹市牟礼の、後北条氏の旧臣高橋家の文書を
>整理中に発見されたもので、今までよくわからなかった小田原北条氏の家臣
>団・軍事編成等が、急速に明確になったと云われているもの。......

えと、これを見る限り、成立年代等は全くわからないし
>>358のサイトの論拠は全て小田原旧記が元になってるようなんだが。。。
354も否定するなら、それなりに論拠くれー
素人にはわかりにくすぎる
367名無し@日本史板:03/12/10 14:16
>>366
小田原旧記は江戸時代に北条家の旧臣鈴木重秀によって書かれたものとされる。
早雲、氏綱、氏康を名将と称え、氏政、氏直の無能振りを嘆いたもの。
368名無し@日本史板:03/12/10 17:44
>>365
いきなり>>354は、何の証拠も示さず妄想、粘着って言ったんだから、
確実な証拠でも持ってんだろ。訴訟起こせばいいんだよ。

柴田郡槻木(宮城県)着いた氏次は亘理桑島家へ寄寓する。桑島家は代々馬医を
する。最近の立花京子氏の調査では現在の桑島家を訪問して家系調査など行われ
てる。
369名無し@日本史板:03/12/10 17:50
>>354
だいたい公式って何よw
島津斉彬がいつ松平斉彬になったんだ?
370日本@名無史さん:03/12/10 17:53
      ☆ チン     マチクタビレタ〜
                        マチクタビレタ〜
       ☆ チン  〃  ∧_∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
        ヽ ___\(\・∀・) < >>354 訴訟まだ〜?
            \_/⊂ ⊂_)    \_____________
          / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /|
       | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|  |
       |  愛媛みかん |/
371日本@名無史さん:03/12/10 18:12
>>369
公文書では常に松平薩摩守だよ。
>>354の表現はちょっとアレだけど。
372日本@名無史さん:03/12/10 21:01
>>371
まあ、近世の研究者なら常識なんだろうな。
三戦厨が相手じゃ仕方ないよな。
373日本@名無史さん:03/12/10 21:11
>>371
朝廷の公文書松平薩摩守なんてないぞw
374日本@名無史さん:03/12/10 21:16


朝廷の公文書松平薩摩守斉彬の証拠見せろよ


375日本@名無史さん:03/12/10 21:20
松平薩摩守斉彬
キタ.━━┓┏━┓┏━━━┓┏┓┏━━━━━┓┏━┓
  ┏━┛┃┏┛┃┏━┓┗┛┃┃┏━┓┏━┛┃┏┛
  ┃┏┓┃┗━┛┃┏┛┏┓┗┛┗┓┃┗━━┛┗┓
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  ┃┃┏━┛┃┗━┓┏ (゚∀゚).━┛┗━┓┏━━━┓
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  ┃┗┛┏━┛┏━┛┏━┛┏┛┗┓┏┓┏━━┓┃
  ┃┏┓┃┏━┛┏┓┃┏━┛┏┓┃┃┗┛┏┓┗┛
  ┗┛┗┛┗━━┛┗┛┗━━┛┗┛┗━━┛┗━━!!
376日本@名無史さん:03/12/10 21:23
     ∧_∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    ( ´∀`)/< 先生!島津斉彬は松平斉彬です。教科書は間違いです
 _ / /   /   \___________
\⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\
 ||\        \
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 ||  || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
    .||          ||
377日本@名無史さん:03/12/10 21:25

            ♪  松平斉彬! ♪
   ,, -,,    ,, -,,  ,, -,,    ,, -,,  ,, -,,    ,, -,,
   ;;, ,,ミ∧∧ミ,, ,;;  ;;, ,,ミ∧∧ミ,, ,;;  ;;, ,,ミ∧∧ミ,, ,;;
    "(ヽ ゚ヮ゚ ノ)"   "(ヽ ゚ヮ゚ ノ)"   ."(ヽ ゚ヮ゚ ノ)"
      |  |       |  |       .|  |
     ⊂__⊃    .⊂__⊃      ⊂__⊃
378北条ときまさ:03/12/10 21:26
北条早雲は元祖北条氏とは関係ないよ。バッタもん北条氏だ。
北条早雲は本名は伊勢氏だし。
379日本@名無史さん:03/12/10 21:27
\                              /
  \  松  っ  平  っ  斉  っ  彬    /
   \                        /

      ∧_∧ ∩_∩ ∩_∩ ∧_∧
      (・∀・ )(´∀` )(・∀・ )( ´∀`)
 |  ̄| ̄ ̄U| ̄U ̄U ̄U| ̄U ̄U| ̄U ̄U ̄|\
 | ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄|\|
 | ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄|\|
 | ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄|\
380354の主張w:03/12/10 21:36
★★薩摩に島津は存在しない★★


公式には島津→松平と改姓したもの。
つねに松平を名乗る。島津は存在しない
公式文書でも松平に改姓してる
381日本@名無史さん:03/12/10 21:52
ん?公式で松平を名乗ってるなんて当り前だろ
豊臣期には殆どが羽柴姓(家康ですら)名乗ってたんだから
382( ^∀^)ゲラゲラ:03/12/10 22:25
>>381
だったら何で徳川幕府なんだよ
改名したんだろ 羽柴幕府じゃないか

しかもおまえはあほか!!もらったのは豊臣姓だ ばーか( ^∀^)ゲラゲラ
頭腐ってんだろ。
383日本@名無史さん:03/12/10 22:28
     ∧_∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    ( ´∀`)/< 先生!徳川幕府は豊臣幕府です。教科書は間違いですw
 _ / /   /   \___________
\⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\
 ||\        \
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    .||          ||
384日本@名無史さん:03/12/10 22:30
なんか、急に変なのが沸いてきたな。
冬だからかなぁ・・・。

秀吉が羽柴性をばらまいたり、家康が松平姓をばらまいたのは史実だろが。

あと、訴えろとか言ってる奴、
虎の威をかる狐だと言うことに早く気付いた方がいいぞ。
論ずる・語る気がないなら書き込むな。
385日本@名無史さん:03/12/10 22:43
>>384
そんなこときいてないんだよ。ばら撒こうが関係ない
家康が羽柴って改名した証拠見せろ!!

もらったのは豊臣姓だ ばーか( ^∀^)ゲラゲラ

     ∧_∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    ( ´∀`)/< 先生!徳川幕府は豊臣幕府です。教科書は間違いですw
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\⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\
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    .||          ||
386354は馬鹿!!皿仕上げ:03/12/10 22:46
\                              /
  \  羽  っ  柴  っ  家  っ  康    /
   \                        /

      ∧_∧ ∩_∩ ∩_∩ ∧_∧
      (・∀・ )(´∀` )(・∀・ )( ´∀`)
 |  ̄| ̄ ̄U| ̄U ̄U ̄U| ̄U ̄U| ̄U ̄U ̄|\
 | ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄|\|
 | ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄|\|
 | ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄|\
387354は馬鹿!!皿仕上げ:03/12/10 22:51
>論ずる・語る気がないなら書き込むな。

逃げるなよばーか( ^∀^)ゲラゲラ

>虎の威をかる狐 

結局、北条綱高のいないという証拠もなし ばーか( ^∀^)ゲラゲラ
388354は馬鹿!!皿仕上げ:03/12/10 22:52
★★薩摩に島津は存在しない★★


公式には島津→松平と改姓したもの。
つねに松平を名乗る。島津は存在しない
公式文書でも松平に改姓してる

\                              /
  \  松  っ  平  っ  斉  っ  彬    /
   \                        /

      ∧_∧ ∩_∩ ∩_∩ ∧_∧
      (・∀・ )(´∀` )(・∀・ )( ´∀`)
 |  ̄| ̄ ̄U| ̄U ̄U ̄U| ̄U ̄U| ̄U ̄U ̄|\
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 | ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄|\

こんな馬鹿初めて・・・・
389日本@名無史さん:03/12/10 23:14
>>382
文禄4年の秀次切腹の一件での家康の署名は羽柴になってる
羽柴になってるって事は、本性豊臣・名字羽柴なんだよ
ちなみに福島正則は元和元年まで羽柴姓、豊臣滅亡後に福島姓に復帰
徳川が羽柴姓を捨てるのは関ヶ原以後で、同時に他の大名に松平姓をばら撒いた
最初に松平と姓を変えたのは池田輝政で、「松平三左衛門尉」「松平播磨宰相」と名乗ってる。
それまでは「羽柴播磨少将」

結城秀康も「羽柴結城宰相」から「松平越前宰相」になってる(徳川じゃないところが面白い)
390日本@名無史さん:03/12/10 23:20
>>389
は?
>羽柴になってるって事は、本性豊臣・名字羽柴なんだよ

馬鹿か?
391日本@名無史さん:03/12/11 00:08
>>350
自分のレス読み直せば?>>198と同じ事言ってんだけど。
高橋綱種は常陸介(受領)から治部少輔(官途)に改名してんだろ?
だ・か・ら・あ・や・し・い・の
392日本@名無史さん:03/12/11 00:22
はぁ・・・
高橋は新スレ立てろ。
姓名も別の所でやれ。
ここは北条すれですよ!?
393名無し@日本史板:03/12/11 00:39
俺に言ってるのか?


官途名を息子に譲り、受領名を自らの役職名にする。
おれは隠居するときは下がるって言ってんだぞ!!
綱高は昇進だろw



だ・か・ら・あ・ほ・な・の
394日本@名無史さん:03/12/11 00:49
だ・か・ら、受領を称すのは官途より後だなんだろ?
なんで受領から官途名乗りに移るんだよ。どっちがアホなだか。
395日本@名無史さん:03/12/11 00:52
えー
2人だけのスレではないので
意見・反論はアンカーをつけてからお願いしまふ
396名無し@日本史板:03/12/11 01:03
>>394 受領を称すのは官途より後だなんだろ←これが違う

俺が>>350で言いたかったのは、>>198のこれが違と言う事→官途より受領の方が上とされ

隠居するときは官途を譲るとは書いたが、受領を称すのは官途より絶対後なんて言ってない
397名無し@日本史板:03/12/11 01:07
昇進 受領名→官途名
隠居 官途名→受領名


こんな感じ・・・・
398名無し@日本史板:03/12/11 01:19
>>395

次回から気をつけますm(_ _)m
399日本@名無史さん:03/12/11 01:20
>>389
家康が他の大名に松平姓をばらまいて(というか押しつけて)いるなかで、国主レベルの大大名でほとんど唯一、松平姓を貰ってないのが細川だね。
やっぱり、足利一門出身である細川家には、押しつけるのがはばかられたのだろうか?
400日本@名無史さん:03/12/11 01:26
>>399 スレ違い そろそろ、キエロ( ゚д゚)、ペッ
401日本@名無史さん:03/12/11 02:00
北条二十八老将(架空)全部言える人いる?
402名無し@日本史板:03/12/11 02:03
>>401
なんですか?
二十八老将?
403日本@名無史さん:03/12/11 02:50
>>350

>最初は従五位下上総介(上総国の次官)。
>上総、上野、常陸は親王が守(長官)に任官される為、介(次官)に任官。

と某スレに書いてある。

常陸介より、治部少輔の方が、上なんじゃねーの?
404日本@名無史さん:03/12/11 02:58
>>399
細川は、名門・清和源氏足利氏流ということを自負していただろうから、
出自・素性がはっきりしない松平姓にはなりたくないだろ、普通。

断ったんじゃないの?
405日本@名無史さん:03/12/11 03:05
>>404
断れるものか?
406名無し@日本史板:03/12/11 03:12
>>403 そうです
そう書いてるけど。勘違いしてない?
従五位下治部少輔(官途名)正六位下常陸介(受領名)

ttp://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse010.html←ここに位階のってるよ
407日本@名無史さん:03/12/11 03:13
細川家は高家だったので、下賎な松平姓なぞいらなかったのでつよ
408日本@名無史さん:03/12/11 03:23
>>407
井伊直政は松平も羽柴も断ったよw
409日本@名無史さん:03/12/11 03:29
井伊氏は由緒正しい藤原南家で、
南北朝では宗良親王を奉って戦った名家だからね
410日本@名無史さん:03/12/11 04:04
>>407
熊本の細川家は高家?
411日本@名無史さん:03/12/11 04:14
細川はもともと国持大名じゃなかったから。
加藤家が潰された跡に移されてはじめて国主になったわけで。
412日本@名無史さん:03/12/11 07:13
>>401
氏康三家老と五色備えまでは解るんだが・・・。
二十将衆は大谷帯刀嘉信と山中主膳正(松山風流歌合戦の奴)しかしらない、
つうかこいつらが本当に二十将衆という確証もないしねぇ・・・
413名無し@日本史板:03/12/11 14:09
>>401
氏康三家老と五色備えに家老二十将衆加えれば二十八になるが・・・
414名無し@日本史板:03/12/11 14:52
家康との同盟のときに署名した家老20人の事ね
415日本@名無史さん:03/12/11 15:09
「北条二十八老将」の掛け軸や錦絵はないの?
武田と上杉・毛利なんかは見たことあるぞ
416日本@名無史さん:03/12/11 19:02
            ♪  松平斉彬! ♪
   ,, -,,    ,, -,,  ,, -,,    ,, -,,  ,, -,,    ,, -,,
   ;;, ,,ミ∧∧ミ,, ,;;  ;;, ,,ミ∧∧ミ,, ,;;  ;;, ,,ミ∧∧ミ,, ,;;
    "(ヽ ゚ヮ゚ ノ)"   "(ヽ ゚ヮ゚ ノ)"   ."(ヽ ゚ヮ゚ ノ)"
      |  |       |  |       .|  |
     ⊂__⊃    .⊂__⊃      ⊂__⊃
417日本@名無史さん:03/12/11 19:44
関戸播磨守吉信の子孫はやっぱり北条家には仕えてない?
残党とか今川家とかに行ってないのかな?
418名無し@日本史板:03/12/11 20:19
>>417 下田の山中で皆殺しにされたのでは?
419日本@名無史さん:03/12/11 22:20
>>415
ある。見たこと無いのはお前だけ。
420( ´,_ゝ`)プッ:03/12/11 22:24
>>419
( ´,_ゝ`)プッ
421日本@名無史さん:03/12/11 23:01
            ♪  松平斉彬! ♪
   ,, -,,    ,, -,,  ,, -,,    ,, -,,  ,, -,,    ,, -,,
   ;;, ,,ミ∧∧ミ,, ,;;  ;;, ,,ミ∧∧ミ,, ,;;  ;;, ,,ミ∧∧ミ,, ,;;
    "(ヽ ゚ヮ゚ ノ)"   "(ヽ ゚ヮ゚ ノ)"   ."(ヽ ゚ヮ゚ ノ)"
      |  |       |  |       .|  |
     ⊂__⊃    .⊂__⊃      ⊂__⊃
422日本@名無史さん:03/12/11 23:18
|  どうですか?
|  釣れますか?                  ,
\                         ,/ ヽ
   ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄          ,/     ヽ
   ∧∧        .∧_∧   ,/        ヽ
  ( ゚Д゚)        (´∀` ) ,/           ヽ
  (|  |)       (    つ@             ヽ
 〜|  |     .__  | | |                 ヽ
   ∪∪   |――| (__)_)                 ヽ
   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|                ヽ
  /⌒\/⌒\/⌒\/⌒\|彡~゚ ゜~ ~。゜ ~ ~ ~ ~~ ~ ~~ ~ ~~ ~~ ~~
  ⌒\/⌒\/⌒\/⌒\/⌒\彡 〜 〜〜 〜〜 〜〜 〜 〜
  _________∧___________

|   いやぁ今日はばかの入れ食いでした
|  明日は釣れないねぇ。もうそろそろ帰るよ。
423日本@名無史さん:03/12/11 23:28
     ∧_∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    ( ´∀`)/< 先生!島津斉彬は松平斉彬です。教科書は間違いです
 _ / /   /   \___________
\⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\
 ||\        \
 ||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
 ||  || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
    .||          ||
424日本@名無史さん:03/12/12 00:34
コテハン追い出してやることがそれカヨ……
425日本@名無史さん:03/12/12 00:54
釣られage
無知なやつ一人でがんばってるね
でもひとりだけで可哀想
426日本@名無史さん:03/12/12 01:02
380 :354の主張w :03/12/10 21:36
★★薩摩に島津は存在しない★★


公式には島津→松平と改姓したもの。
つねに松平を名乗る。島津は存在しない
公式文書でも松平に改姓してる
427日本@名無史さん:03/12/12 01:06
\                              /
  \  松  っ  平  っ  斉  っ  彬    /
   \                        /

      ∧_∧ ∩_∩ ∩_∩ ∧_∧
      (・∀・ )(´∀` )(・∀・ )( ´∀`)
 |  ̄| ̄ ̄U| ̄U ̄U ̄U| ̄U ̄U| ̄U ̄U ̄|\
 | ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄|\|
 | ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄|\|
 | ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄|\

428日本@名無史さん:03/12/12 01:11
がんばれw

でも恥ずかしくないのかな?
429日本@名無史さん:03/12/12 01:14


薩摩松平藩? そんなわけないだろ。
354は無知な拡大解釈w


430日本@名無史さん:03/12/12 01:19
>>354
>つねに松平を名乗る。


家臣に姓を与える意味を拡大解釈しすぎw



431日本@名無史さん:03/12/12 01:25
釣り師がほくそえみつつ、サクラも演じているようだな。
432日本@名無史さん:03/12/12 01:29
>>431
馬鹿にされて悔しいの?
433日本@名無史さん:03/12/12 01:38
>>432
え?
434日本@名無史さん:03/12/12 01:41
くやしいらしい
435日本@名無史さん:03/12/12 01:42
>>433
いいかげんにsageしろよ
436日本@名無史さん:03/12/12 01:47
ふふっ。さみしいんだな。わからんでもないが。
漏れは、>>431で初めてカキコしたんだが。
この釣り餌では、薩摩オタは釣れないんじゃねーか?
もうちと、ひねらんと。
松平姓は島津だけの事じゃないし。
むしろ、江戸期には名誉にさえなる事だからな。

必死になって、釣り餌を生き物のように動かす様は、
見てて面白いが、もう一工夫必要じゃないかね?
437日本@名無史さん:03/12/12 01:50
>>436
本当にくやしいんだね
438日本@名無史さん:03/12/12 01:51
>>429
>薩摩松平藩? そんなわけないだろ。
まあそうだな。
でも薩摩島津藩とも言わないからね。
知らないらしいけど、当時は藩なんて言わないからね。

無知の上塗りだったねw


439日本@名無史さん:03/12/12 01:51
>>436
当然家紋も変えたんだよねw
440日本@名無史さん:03/12/12 01:52
>>437
いや、マジで他人なんだけど・・・。
でも、レス返ってくるからおもしれーや。
なんかおもろいAAでも貼ってみそ。
441日本@名無史さん:03/12/12 01:53
無知な輩がここには貼りついているからね。
442日本@名無史さん:03/12/12 01:54
>>440
そんな暇人いないよw
443日本@名無史さん:03/12/12 01:54
>>439
また無知を重ねてらw
444日本@名無史さん:03/12/12 01:54
>>438は、何だ?
釣り餌にしては、リアルに動いてるみたいだが?
445日本@名無史さん:03/12/12 01:56
>>443
羽柴姓をもらった森家は家紋変えたの知らんのか?
446日本@名無史さん:03/12/12 01:57
島津姓を完全に松平に変えたら家紋も変えるでしょう
447日本@名無史さん:03/12/12 01:58
>>446
思い込みという無知のようだなw
448日本@名無史さん:03/12/12 01:59
人が集まってきた。良かったな、釣り師。
449日本@名無史さん:03/12/12 01:59
>>446 論より証拠
450日本@名無史さん:03/12/12 02:00
ぷぷぷ
釣られてらぁ
451日本@名無史さん:03/12/12 02:01
>すくなくとも公式には島津→松平と改姓したもの。
>つねに松平を名乗る。

>>354ってあほだね
452日本@名無史さん:03/12/12 02:02
>>446
不完全に変えるってどういう意味だろう?

もしかして釣られたか?
453日本@名無史さん:03/12/12 02:02
これ、釣り師の自作自演?
だとしたら、結構センスあるじゃん。
454日本@名無史さん:03/12/12 02:03
>>452
幕府にお願いする場合だけ都合よく変えるw
455日本@名無史さん:03/12/12 02:03
改姓などという、あまり魅力のない餌でよくやったよ、釣り師。
456日本@名無史さん:03/12/12 02:04
釣り師だとしたら354は天才だな
違ったら馬鹿
457日本@名無史さん:03/12/12 02:06
>改姓などという、あまり魅力のない餌でよくやったよ、

すれ違いなんだが・・・
458日本@名無史さん:03/12/12 02:11
マジレスすると松平姓は武家社会の権威秩序を維持する手段でしかなく
昔のように家柄を高家にするとかではないんだが・・・

通用するのは幕府内なんだろうな・・・
459日本@名無史さん:03/12/12 02:11
釣り師だとしたら456は天才だな
違ったら馬鹿
460456:03/12/12 02:14
>>354が釣れたw
461日本@名無史さん:03/12/12 02:18
>>460
(*^ー゚)b グッジョブ!!
462日本@名無史さん:03/12/12 02:23
自作自演ごくろうさんw
463日本@名無史さん:03/12/12 02:24
>>354がまた釣れたw
464日本@名無史さん:03/12/12 02:26
>>462
君面白いね
465日本@名無史さん:03/12/12 02:31
>>420-464
いい加減ウザイよ、新スレ立てろ。
466日本@名無史さん:03/12/12 02:31
>>463
つ〜れたっwwwwwwww
467日本@名無史さん:03/12/12 02:32
薩摩松平藩
これ万人の常識
468日本@名無史さん:03/12/12 02:34
>>466 そんなに悔しがってくれてうれしいよ
(´ー`)y─┛~~
469日本@名無史さん:03/12/12 02:39
>>465
自演乙。
470日本@名無史さん:03/12/12 03:55
>>467
>薩摩松平藩

ぷぷぷ
相変わらず無知丸出し
471日本@名無史さん:03/12/12 04:01
オチを言えば、〜藩という言い方はしない
薩摩藩やら島津藩という呼称は存在しないんだよね

だから薩摩松平藩って言い方自体ない
472日本@名無史さん:03/12/12 04:16
473日本@名無史さん:03/12/12 04:18
>>354
>つねに松平を名乗る。


家臣に姓を与える意味を拡大解釈しすぎw




474日本@名無史さん:03/12/12 04:24
藩の呼称が後付けなのを知らない素人がまだこの板にいるの?
475日本@名無史さん:03/12/12 04:28
>>474
「藩」という言葉も幕末にはつかわれてる
476日本@名無史さん:03/12/12 04:32
藩の呼称は歴史を語るの利便性において慣用句となっている。
477日本@名無史さん:03/12/12 04:37
>>474 馬鹿w
藩とは、藩屏という語に由来する。、「江戸幕府日記」には十七世紀に
すでに「紀藩」とある。また『越藩史略』のように書名にも用いられている。
478日本@名無史さん:03/12/12 04:45
江戸古地図での銘記では松平性をゆるされた大名家の表記はすべて松平○○守です。

毛利・山内・黒田・鍋島etc一杯いすぎ。みんな松平だ。
479日本@名無史さん:03/12/12 04:47
>>470=471=474 馬鹿すぎ・・・・・・・w
480日本@名無史さん:03/12/12 04:50
江戸時代には幕府の資料だけしかないのかよw
481日本@名無史さん:03/12/12 05:41
>>480
史料と言え!
482日本@名無史さん:03/12/12 06:27
>>481 はぁ?重要なことか
483日本@名無史さん:03/12/12 06:30
資料
あることをする上で、もととなる材料。特に、研究のためのデータ。
484日本@名無史さん:03/12/12 08:45
おまえら!50レス以上も無駄に使うな

伊豆の梅原氏や山本氏、村田氏に狩野氏・上村氏や
佐藤・鈴木氏についても語ろうぜ
485日本@名無史さん:03/12/12 09:21
>>438
当時も藩ていったよ。
486日本@名無史さん:03/12/12 09:25
中村半次郎が京都で他藩の者と話すとき
「尊藩」「弊藩」を逆に使って嗤われた事がある。
487日本@名無史さん:03/12/12 11:25
ああ・・・ID制キボンヌ
呼んでてわけわかめ何人が煽りあってるんだか?
488名無し@日本史板:03/12/12 14:18
なんだかなぁ・・・・・・・
489日本@名無史さん:03/12/12 16:14
北條家中興、伊豆早雲。俗名、伊勢新九郎氏盛。後に長氏と改む。姓は平氏、
北條なり。謂う所の桓武天皇第五皇子葛原親王三代の孫、平将軍貞盛の苗裔なり。

こんなふうに姓は源氏、平氏をいうんだ。この場合、姓は大江、氏は毛利になるんだよ
足利だったら、藤原姓足利氏、源姓足利氏があるんだ。
490198(1):03/12/12 21:07
>>403>>406
相当位階が六位だとしても、実際六位では常陸介になれないとおもうよ。

>>350
氏康と氏政は隠居をしたから受領を称したのではなく
家督を相続したから官途を称したともいえるし、元々の左京大夫は受領より上の官職。
加えて相模守は、鎌倉北条氏の中でも執権などが任じられた、北条氏にとって重要な
官職の一つ(氏照の陸奥守は連署の重時や政村など)で一概に比べられない。
北条家中に隠居前で受領を称した人物が一人もいないならまだしも
何人かが隠居と共に受領を名乗ったとして、単純に官途を受領より上だと見るのは早計。
北条一門でも、陸奥守氏照・安房守氏邦・美濃守氏規は隠居ですか?
便宜上は織田信長も佐竹義重も、嫡男の元服後数年で家督を譲渡(隠居)しています。
だからといって引退もしていなければ、信長はしっかり官位も進んでいる。

本来的には確かに、治部少輔などの八省輔には受領と同等か、それ以上のものもある。
でもこの場合、北条家中で受領を名乗る家臣と、官途や八省輔・衛門佐(ともに次官)を
名乗る家臣の位置付けを比べてみればいい。
491日本@名無史さん:03/12/12 21:09
2例ほど
 足利持氏を逸見有直を守護とし、再三、幕府に掛け合ったが、幕府は逸見有直を任命拒否。
幕府は信満の弟・穴山満春を武田信元とし守護に任命した。

 上総守護で見てみると鎌倉公方足利持氏はいったん認めた幕府補任の上総守護宇都宮持綱
を撤回し、隣国安房守護の上杉定頼に与えたが、宇都宮持綱が幕府に訴えて自分の守護を認
めさせている。
 上杉定頼が上総で守護職権を行使しできたのは一度だけなので、幕府が正式に補任した守
護の存在を鎌倉府がまつたく無視し、別のの守護をあらたに任命することが古河公方には実
力的にも不可能とみられる。
492198(2):03/12/12 21:10
当主・・・左京大夫(諸大夫上位の官途)→相模守(受領)。これは鎌倉北条氏の模倣。
一門(当主兄弟)・・・左馬助(氏規。下級官途)、受領、衛門佐(氏尭・氏忠など)。
一門(玉縄北条)・・・左衛門大夫→受領(玉縄当主)。八省輔(氏繁弟の治部少輔)。
家臣
遠山・・・隼人佐(=祐。下級官途)→甲斐・丹波守(受領)。
石巻・・・勘解由左衛門・馬允(下級官途)→下野守(受領)。
清水・・・衛門尉(下級官途)→上野介(受領)。
江戸衆筆頭の遠山氏や一門の氏規ですら、受領の前は下級官途を名乗り
玉縄北条氏では、八省輔が当主の名乗る受領より下の位置付けとみてとれる。
付け加えれば、治部少輔は氏勝らの左衛門大夫(佐)よりも下ということ。

ここで見た限りは一例だけだけど、玉縄北条氏の中では明確に
治部少輔(官途)よりも常陸守(=介。受領)の方が上だと位置付けられているのは重要。
同じ北条氏に仕えていながら高橋綱種は真逆、常陸介から治部少輔に進んでいる。
493198(オマケ):03/12/12 21:16
高橋高種(1478〜1558.8)
伊豆二十一家の一つ。別名北条高種。北条氏綱の妹婿。
始め京で9代将軍義尚(1489年没)に仕え、堀越公方政知に従い伊豆に
下向した。しかし政知の死後は跡を継いだ茶々丸とそりが合わず
伊勢宗瑞が茶々丸を滅ぼすと高種も降伏した。

高橋綱種
高橋高種の子。別名北条綱高。通称・将監、常陸介、治部少輔。
1558年、父高種が戦死したため、天国の外祖父北条早雲(1519年没)に
伊豆韮山城で養育された。1524年、江戸城攻略における戦賞として
北条の苗字を賜り、北条常陸介綱種を称して甘縄城代となる。
1537年、氏綱の命で弟氏高とともに、牟礼と烏山に二つの砦を築く。
氏康の時代(1541年以降)、治部少輔を称して江戸城主になった。

北条康種
高橋綱種の子。通称・常陸介。

高橋氏高(1519〜1596.11)
高橋綱種の弟。通称・民部少輔。
兄綱種と同様、父の戦死後40歳にもなって鬼籍の北条早雲に養育された。

参考>>122>>174>>186>>194>>276
俺だって別に高橋さんに恨まれたくはないし
へんに突っつかないで放置してくれてれば、こんな事はしなかったのに。
494日本@名無史さん:03/12/12 22:25
>>493
>天国の外祖父北条早雲(1519年没)に

天国っすか(笑)
長文乙。良くまとまってて読んでて楽しかったす
外野からのヤジでスマソ
495日本@名無史さん:03/12/13 00:04
>>493
高橋高種って80過ぎて戦死かよ。
すごいな。
496日本@名無史さん:03/12/13 00:40
>>481-483
史料=歴史資料の略。
497北条ときまさ:03/12/13 01:34
>>489

北条早雲は、鎌倉北条氏と関係ない。
よって、「桓武天皇第五皇子葛原親王三代の孫、平将軍貞盛の苗裔」ではない。
498北条ときまさ:03/12/13 01:36
http://tanutanu.net/roots/database/h/houjou1.htm
  ↑
ここにあるように
北条氏、阿曽氏 阿多美氏 伊具氏 大佛氏 金澤氏 極楽寺氏 熊谷氏
相模氏 桜田氏 佐介氏 名越氏 武蔵氏、および、その派生した流派のみ、
「桓武天皇第五皇子葛原親王三代の孫、平将軍貞盛の末裔」なのである。
499日本@名無史さん:03/12/13 01:39
>>497
伊勢氏も平貞盛の子孫にはなるだろ。
500日本@名無史さん:03/12/13 01:40
むしろ、平氏を出自とする系図の信憑性だと、鎌倉北条氏より伊勢氏のほうが一般的に信憑性が高いし。
501日本@名無史さん:03/12/13 01:49
どっちもどっち。細かい歴代では異伝もある。
しかしともに貞盛の子孫であることは事実。
502日本@名無史さん:03/12/13 03:00
>>479

ぷぷぷぷぷ
無知なアホだな
503日本@名無史さん:03/12/13 03:02
高橋はわかったから>>484のことも教えてくれよ
でもマジ知らなかったYO
高橋〜種って結構いる気がするな・・
504日本@名無史さん:03/12/13 03:32
<<479×502
無知同士の戦いすれば?
505日本@名無史さん:03/12/13 03:54
自作自演ごくろうさんW
506日本@名無史さん:03/12/13 03:56
広沢秀信って実在したの?
507日本@名無史さん:03/12/13 04:38
北条早雲って実在したの?
508日本@名無史さん:03/12/13 04:47
風間小太郎って実在したの?
509日本@名無史さん:03/12/13 05:06
俺は実在してる?
510日本@名無史さん:03/12/13 05:26
馬具、刀槍、具足、鎧のすべてを統一したのかはわからないが、綱
成の黄色い旗指物は現存している。武田家が1569年に北条綱成の深
沢城に攻めたとき真田信尹が奪ったもの。攻めあぐんでた信玄は
喜び、信尹の旗にすることを許可したという。
また、北条綱高が赤を用いた具足で身を固めていたと言われている。
511日本@名無史さん:03/12/13 05:34

>>509
架空です。
512日本@名無史さん:03/12/13 08:03
氏高の生年は、『大蔵系高橋氏考察』では1506年
513日本@名無史さん:03/12/13 08:05
 まず、氏高の生年は、『烏山系図』では、没年である1596年から享年78を引いて、1519年となるが、『大蔵系高橋氏考察』では、1506年の誤りであるとしている。
(1519年生まれとなると、父高種没後となってしまう。)

514日本@名無史さん:03/12/13 09:56
ttp://www.tpca.or.jp/toukou/tpcadayori-toukou11m.htm
>永禄元年(1558年)8月13日没・高竜院殿前左親衛校尉青雲日雄大居士(高種?)・81才で没している。

は『烏山系図』から引っ張ったものなんでしょうか?
書いた本人でもないのにお聞きして申し訳ありませんが。
515日本@名無史さん:03/12/13 12:46
>>508
風魔小太郎でしたスマソ
>>507は多分三十路を超えたヒキコモリ君でしょう・・
じゃなきゃ「仁科明子」http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1026209751/345
なんて単語が出てくるハズもない。

付き合いで昨晩荒らし行為をしてみましたが心が汚れた(けがれた)気がします。
彼は多分再起不能です。夜型生活をしている哀れな一言レスくんは、
彼のためにもスルーを推奨します。
516日本@名無史さん:03/12/13 12:58
北条綱成の弟の福嶋勝広の没年ってご存知ですか?
517日本@名無史さん:03/12/13 13:29
>>514信憑性はともかくとして

そんなこと書いてるHPもどうかと。。。
518日本@名無史さん:03/12/13 14:49
>>492
全然意味わからんが?
何がいいたいんだ?
隠居の意味わかる?
519日本@名無史さん:03/12/13 17:18
そもそも、北条がああまでして
沼田城を欲しがったのは
何でなんでしょうねぇ。
真田が武略で切り取った城だし、
それをよこせ!ってのはお門違いだし。

沼田城攻防戦が大きく取り上げられないのは
北条家に対する評価が低いから・・・なんだろうなぁ。
まぁ天下様と比べられるわけだから仕方がないか。
520日本@名無史さん:03/12/13 17:28
またか能無し
521日本@名無史さん:03/12/13 18:11
>>506 >>508 >>515 >>520

も俺です>>507は煽りだと思うが・・・
522日本@名無史さん:03/12/13 22:50
>>519
本能寺後、始めは北条に、次いで徳川に着いた。
しかし、北条と徳川が講和を結ぶに当たって沼田領は北条に明け渡す事が決定。
(ただし、代替え地は徳川から支給される予定だったはず)
駄々をこねた真田は徳川から離反して上杉、次いで豊臣に靡く。

真田から見れば、真田が武略で切り取った領土だが、
北条から見れば、北条が外交努力で勝ち取った領土。
双方言い分はもっともであり、領土問題がこじれることは現代でも当たり前の事。
523日本@名無史さん:03/12/13 23:11
伊勢氏とは「伊勢平氏」の別称なのですか?だれか知ってます??
524   :03/12/14 00:42
>>523
伊勢平氏は忠盛・清盛の系統だが、
伊勢氏はその端っこだから伊勢平氏の別称とはちょっと違う。
ちなみに漏れは教盛の末裔で壇ノ浦から南に逃げたクチでつ。対蝶。
525    :03/12/14 00:45
もうすぐ、平氏の赤い旗が日本を覆う。マジ。
赤旗といっても●糞じゃないよ。
526    :03/12/14 00:47
逃げずに現実と闘うぞ〜
527名無し@日本史板:03/12/14 00:54
これだけ荒らされると読むきなくなる・・・・

北条氏康が死んだとき、綱成は隠居する。家督と左衛門大夫を息子の氏繁に譲り、
仏門に入る。自らは上野入道と称す。

この時点で当主左衛門大夫氏繁、ご隠居上野介綱成になる。
528日本@名無史さん:03/12/14 01:31
>>527
つぶすぞわれぇぇぇ!!
529日本@名無史さん:03/12/14 01:58
>>528
お前では無理(´ー`)y─┛~~
530日本@名無史さん:03/12/14 04:27
>>528
つぶしてみろよ、口だけがw
531日本@名無史さん:03/12/14 04:59
北条家の一門が受名が最終官位なのは執権北条氏を真似てるのでしょ
大夫上層の官途が最上位で一門衆が受領を名乗る。
532531:03/12/14 05:00
訂正 受名→受領
533日本@名無史さん:03/12/14 09:53
>>181
伊勢宗瑞=北条早雲の生年が間違っている。

伊勢宗瑞=北条早雲は、
1432年〜1519年(永享4年〜永正16年) 88歳

北条幻庵は、生年不詳で、
1493年頃〜1589年(明応2年〜天正17年) 97歳くらい


伊勢宗瑞の娘婿ってことは青松院殿?
大凡の目安としては
宗瑞(1432生)―氏綱(1486生)―氏康(1515生)―氏政(1538生)
女子は幻庵同腹ともいわれているので
宗瑞(1432生)―幻庵(1493頃)―三郎(15??生)
高橋家
宗瑞(1432生)―女子(1487-1493頃)―綱高(1500-1510頃生)―康種(1520-1530頃生)

無難な年代を想像すれば、綱高が1500-1510頃、康種は1520-1530頃って感じか。
になり、


>>493
の矛盾はなくなり、北条早雲(1519年没)に伊豆韮山城で養育された。
という事になる。

高種が80歳で亡くなったという事は、年齢からして、戦死じゃなくて、寿命で亡くなったという事も考えられる。
534日本@名無史さん:03/12/14 10:28
>>276
某系図によると、高橋高種は高橋長種の弟になるらしい。

http://www2.harimaya.com/sengoku/kz/t_takaha.jpg
535日本@名無史さん:03/12/14 10:37
宗瑞の永享四年(1432年)生まれの88歳説は、江戸中期の軍記物が論拠。
全く信用出来ない代物。
現在では、伊勢宗瑞が伊勢盛定の子であり伊勢貞親の外戚が立証されてるので
享年88歳ではなく、康正年間(1455〜1457年)生まれが妥当。

ちなみに綱高の存在を裏付ける史料を希望。
小田原旧記以外に見当たらないので。
536名無し@日本史板:03/12/14 15:48
>>535 それ以前に
小田原旧記が手に入らないのよね・・・・
537名無し@日本史板:03/12/14 15:52
早雲の娘って言えば三浦氏員に嫁いだのもいたな
出展忘れたけど
538日本@名無史さん:03/12/14 16:47
小田原旧記は高橋某が先祖を飾ろうとして作成したもの。
史料的価値は無いに等しい。
539名無し@日本史板:03/12/14 16:58
>>538
お前が判断しても仕方がない
少なくとも小田原旧記で北条研究が進んだのは確か
540日本@名無史さん:03/12/14 17:12
>>538 おまえのこのスレでの価値もないに等しい。
氏ね
541日本@名無史さん:03/12/14 22:39
>>538
       , --- 、_
      /ミミミヾヾヽ、_
   ∠ヾヾヾヾヾヾjj┴彡ニヽ
  / , -ー‐'"´´,,,,,,,,,,  ヾ.三ヽ
  ,' /   ' ゚ ''/ ┌。-、    ヾ三ヽ < ちょ、ちょっとまって!
  j |   ` ノ(  ヽ  ソ   / }ミ i
  | |    /_` ”'  \ ./ /ミ  !
  } | r、  )ヾ三ニヽ     l ゙iミ __」
  |]ムヽ、_    __∠二、__,ィ|/ ィ }
  |    ̄`ミl==r'´     / |lぅ lj
  「!ヽ、_____j ヽ、_  -'  レ'r'/
   `!     j  ヽ        j_ノ
   ',    ヽァ_ '┘     ,i
    ヽ  ___'...__   i   ハ__
     ヽ ゙二二 `  ,' // 八
      ヽ        /'´   / ヽ
      |ヽ、__, '´ /   /   \
542日本@名無史さん:03/12/14 22:42
>>541 おまえ氏ね
543日本@名無史さん:03/12/14 22:44
_..                ,,.-'ヽ
ヽ "゙ー-、、         / : :!
 i 、 :. ヽヽ_,,.....、,,,....._;/ ,;'   ;,.!
  i.,  ..;;;ヽ       ヾ ,,;_ , /
  ヾ_:::,:'           -,ノ
  ヾ;.   ,         , 、;,  >>542
    ;;    ● , ... 、,● ;:  やんのかてめぇー
    `;.       C)   ,; '
    ,;'     '.、 -‐-ノ ,;'
   彡、      、`\
  / __     /´>  )
  (___)   / (_/
   |       /
   |  /\ \
   | /    )  )
   ∪    (  \
         \_)




544日本@名無史さん:03/12/14 22:51
>>538 >>541 >>543






おまえは所詮人生の負け犬┐(´ー`)┌
545日本@名無史さん:03/12/15 02:16
自作自演はやめようw
546日本@名無史さん:03/12/15 02:21
>>539
武功夜話で信長研究が進んだのは確か

と同じこと?w
547日本@名無史さん:03/12/15 02:37
>>546






おまえは所詮人生の負け犬┐(´ー`)┌
548日本@名無史さん:03/12/15 02:44
偽書武功夜話は偽書を唱えてる学者がちゃんといる
小田原旧記偽書を唱えてる者はいるのか?


>>546 まさかおまえだけw
549日本@名無史さん:03/12/15 02:49
>>545 AA貼ったのは、お・ま・え
550日本@名無史さん:03/12/15 02:52
北条氏康は内政、戦闘、智謀、が高いです。
氏政は内政が高いです。
氏照は戦闘は高いです。
氏邦は智謀が高いんですか?
北条が滅びたのは氏邦のせいなんだ。そうだそうだ
551日本@名無史さん:03/12/15 02:58
546じゃないが、「小田原旧記」の中で綱高が北条姓を賜って甘縄(玉縄)城代になってるらしいが
「小田原分限帳」では名前が載ってないんだよね、これおかしくない?
伊豆には高橋某がいて十貫貰ってるのは確認出来るんだが、
「小田原分限帳」での玉縄衆18人に載ってない

「小田原旧記」を読んだ事ないので、>>198氏の話を信じて見てみると
1529年に玉縄城代になって北条姓をもらってるので、1559年に書かれた「小田原分限帳」に名前がないとおかしいはずなんだけど…
その辺はどうなの?
552日本@名無史さん:03/12/15 02:58
>>550
氏ね
553550:03/12/15 02:59
>>552
うじ?
554551:03/12/15 03:00
あぁ、江戸城主になったってあるね
なら江戸衆103人に載ってなきゃ駄目だよね
555日本@名無史さん:03/12/15 03:04
北条姓名乗ってる山中頼元もそのまま
556日本@名無史さん:03/12/15 03:05
>>552
なんで泣いてるの?
557日本@名無史さん:03/12/15 03:06
シネだろw
558550:03/12/15 03:09
「氏」がポイントなんだろうね
559551:03/12/15 03:09
>>555
高橋綱種の名前で載ってるって意味?
560日本@名無史さん:03/12/15 03:10
>>558
おまえおもろいなw
561日本@名無史さん:03/12/15 03:15
>>559
高橋でのってたでしょ?
562551:03/12/15 03:19
>>561
高橋は伊豆衆の1人として、十貫の扶持を与えられてたよ
立場は海賊衆の清水康英配下としてね

それ以外は見当たらないんだけど…
563日本@名無史さん:03/12/15 03:25
>>562
少なすぎるという意味?
564551:03/12/15 03:31
>>563
伊豆衆は29名いるけど、その中で役高は下から2番目だよ
ここで「小田原旧記」による高橋綱種に対する解説からすると
少なすぎるし、武蔵ではなく伊豆に所領があるのも辻褄が合わないよ
565 :03/12/15 03:34
悪いんだけどここまでの論争を簡単にまとめてくれ

まとめてもらったとこで漏れはついていけないけどなw
566日本@名無史さん:03/12/15 03:42
北条家では一箇所になるべく所領が集まらないようにしてたからだと思われる

高橋氏では氏政が千葉家の母の隠居料にしたいから、丸子村の領地の
一部を交換してくれ、というてがみがあるから他にあったのは確かだと思う

北条氏所領役帳では、もう一ヶ所あったと思う

伊豆雲見は父のだいからの所有らしい。他の名家より少ないのは
当然かと。。

あと、北条はともかく簡単に名前あげるからかな
567日本@名無史さん:03/12/15 03:57
>>564

小田原旧記もってんの?
568551:03/12/15 12:37
>>566
「小田原分限帳」に載ってる伊豆雲見の高橋は高橋丹後守という人物なんですが
高橋綱種との関係はどうなってるんでしょうか?
>>493に書かれてる高橋氏と、全く別の人物だと思われるんですが

また高橋綱種が1524年に玉縄城代、1541年以降に江戸城主となってますが、
1532年には氏綱三男の北条為昌が玉縄城主となり、一緒に北条綱成も玉縄に入って
為昌死後は、綱成が為昌の養子・氏綱の娘婿となって玉縄城主になっています
ここで疑問なのは、1532年以降1541年までの間、高橋綱種はどうしていたのでしょう?

江戸城では遠山綱景・政景父子が奉行として江戸城代をしています
また江戸城は北条家の番城で、城主は置かずに城代を置いております
1541年以降に高橋綱種が江戸城主となったとするならば、これは前例のない事です
そして玉縄城や江戸城を任されるほど信任されてるにもかかわらず、一門衆どころか
評定衆にも名前を連ねてません、疑問が残ります
申し訳ありませんが、この辺りのご説明も願えれば…

>>567
持ってるどころか、翻刻本を読んだ事すらありません(TT
なので、このスレに書かれてる事が頼りなんです…
せめて翻刻本の出版社名でもわかれば、取り寄せ出来るのですが…
569日本@名無史さん:03/12/15 15:31
>>568 1537年に深大寺城攻めのために砦をつくってる。

高橋綱種が江戸城主になったことは僕では確認できま
せんでしたが、これは、一時的なことだとおもいます。
それに、実質的な江戸城主は太田氏ですし・・・・
江戸衆筆頭と言う事ではなかったのでしょう。

高橋綱種は雲見の出身ですから、関係者だと思いますが、
高橋氏高が烏山を領有したりしてるから、武蔵に
拠点を移したりしてるんじゃないだろうか?

小田原旧記は郷土史料として編纂されてるけど
非売品みたい( TДT)
570日本@名無史さん:03/12/15 22:48
ttp://www1.odn.ne.jp/~cem89780/houjyou.html
高橋頼元

  綱利頼元子将監高種北條綱高?甘縄城代伊豆衆10貫

  氏頼綱利子将監

  政信氏頼子丹波

  吉次政信子

  政重氏頼子

  六郎左衛門

  縫殿

  助三郎


これは関係ある?
571日本@名無史さん:03/12/15 23:23
>>570
高橋頼方 京極高氏の子?
定頼
基頼
頼元 基頼の子(顕種の子?)(光種の末裔?)(左馬将監高種と同一人物?)
綱利 頼元の子(北條氏綱猶子、高橋将監綱種と同一人物?)(高種と名乗った?)(北條常陸綱高の事?)甘縄城代伊豆衆10貫
氏頼 綱利の子 将監
政信 氏頼の子 丹波
吉次 政信の子
政重 氏頼の子
種長 頼元の子?
氏高 頼元の子?
六郎左衛門
縫殿
助三郎

という系図になってますね。
語尾に?がついてるのは編者の注釈で、真偽定かではない意味かと思われます。
572日本@名無史さん:03/12/15 23:51
解釈すると
綱利・・・頼元の子、官職将監 別名高種、北條綱高?ということになるのかな?


HPの制作者が自分で調べて書いたみたいだから、北條綱高のこともしってるかもよ
573日本@名無史さん:03/12/16 00:06
何気に松田康郷を忘れてませんか?

謙信が岩舟に乗った赤鬼と称した名将を!
574日本@名無史さん:03/12/17 13:46
結局「小田原旧記」なるものでしか北条綱高はいないんだな。w
575日本@名無史さん:03/12/17 14:09
>>574 消えろ 荒氏
576日本@名無史さん:03/12/17 14:29
>>575
いやだ
577日本@名無史さん:03/12/17 14:34
>>574 消えろ 荒氏
578日本@名無史さん:03/12/17 15:27
>>577
いや〜ん
579誘導:03/12/17 15:28
板違い。
三戦いけ
580日本@名無史さん:03/12/17 15:28
>>574 まだいたのかよw このスレに来なくていいよ 必要ないからw
581日本@名無史さん:03/12/17 15:30
>>579
行くのはおまえ!!
582誘導:03/12/17 15:35
>>579
スレ違いです。あなた。
583日本@名無史さん:03/12/17 15:35
>>574 自作自演多すぎw
584日本@名無史さん:03/12/17 15:37
氏政タソハアハア…
585日本@名無史さん:03/12/17 15:38
>>574タソハアハア…
586日本@名無史さん:03/12/17 18:27
まだいるのかよ。この厨房。( ゚д゚)、ペッ
587日本@名無史さん:03/12/17 19:59
戦国は板違い。
三戦板にいけ
588日本@名無史さん:03/12/17 20:41
>>587
荒氏の分際でいつから管理者になったんだw
589日本@名無史さん:03/12/17 22:56
ttp://www.city.kawasaki.jp/88/88bunka/home/top/stop/zukan/z0401.htm
川崎市エライ!虎の印判状五通と洗濯寺文書十三通(主に吉良氏関係)が読める。
北条と大して関係ない川崎市でこれだ、小田原市はもっと有用なことをしてくれて・・・

ちょうど高橋某宛も二通あるけど詳細不明としてる。
590日本@名無史さん:03/12/18 23:39
早雲って若いころ京の幕府で働いていたんだね。すごーい!
591日本@名無史さん:03/12/18 23:47
>>590 今更w 馬鹿だな( ´,_ゝ`)プッ
592日本@名無史さん :03/12/19 03:45
成田氏長の「氏」はやっぱり氏康からかな・・
593日本@名無史さん:03/12/19 21:03
>>518
518の考える隠居の位置付けは隠居=引退なのか?
当時の実態(織田・佐竹・北条など)としては、隠居=家政諸般からの引退ではないだろ。
その人物にいずれ全権を譲るという意味での、態度表明みたいなものじゃないのか?
越相同盟と甲相同盟を見てもわかるとおり、氏康は没するまで氏政よりも上位にいたと俺は思ってる。

>>527
受領=隠居の根拠はそれだけ?

てことで本題、受領と官途、どちらが上か。
>一つ、北条家では受領は隠居後に名乗るものであり官途よりも下なのか。
氏照・氏邦・氏規は隠居していない、当主が左京大夫を名乗るのは
室町末期の名門・有力守護層が広く名乗っていた官職だから、それに順じたんだろう。
(大内氏、佐竹氏、武田氏、岩城氏、などが京職の大夫)
相模守を名乗るのは鎌倉北条氏の模倣。
北条泰時は後北条氏と同じく、左京大夫(権官)→相模守。他の得宗も相模守。
>二つ、治部少輔は常陸介より上なのか。
氏繁の弟氏秀は、1574年頃から治部少輔を名乗っている。
氏繁が常陸守(介)を名乗るのは1575年頃。それ以前は左衛門大夫(佐)。
1578年に氏繁が没する前から代理を務めていた(家督済か?)氏舜も左衛門大夫。
つまり、治部少輔は左衛門大夫よりも下。では左衛門大夫は受領より上なのか?
氏政の兄弟のうち、氏照らは受領で、従兄弟(義兄弟)とされる氏忠・氏光は衛門佐。
治部少輔が常陸介より上なら、氏忠や氏舜の下に氏秀、その下に氏照らがいることになる。
そんなバカな話は聞いたことがない。
594日本@名無史さん:03/12/19 21:04
>これだけ荒らされると読むきなくなる・・・・
同意。

>>558
アレ(493)はこのスレに書かれた情報を纏めただけ。
595 :03/12/19 23:07
>>594
あれは、その前に「氏ね」って言われたから
ボケただけ
596日本@名無史さん:03/12/20 00:23
本筋ではないですが。
>593
「官職要解」では、衛門尉について「相当は従六位であるが、五位でなっている
のを衛門大夫といった」とあります。右近大夫、左近大夫も同じく、五位に進ん
でもそのまま(六位相当の)近衛将監でいるのをいうとあるんですが…。
597日本@名無史さん:03/12/20 01:07
>>593
お前馬鹿か?介と守の違いもわからんのか?
すれと京職は全官位にあるのも知らんのか?馬鹿だろw
598日本@名無史さん:03/12/20 01:46
>>597
氏繁は常陸「守」名乗ってたんだよw
599日本@名無史さん:03/12/20 01:52
>597
593は判っているといると思うよ!
だから相対的なんだろ!絶対的じゃない。

親王任官国ぐらい知ってますって!その証拠に相模守って位高いですか?w
何故、家康は武蔵守を大事にしたんですか?
文章読めばそのくらいわかるだろ普通!
それとも釣り?

600日本@名無史さん:03/12/20 02:53
>>599 わかってないね 馬鹿だからw
介と守は同列じゃないっていってんの

>その証拠に相模守って位高いですか?w←話し摩り替えんなよ馬鹿w
601日本@名無史さん:03/12/20 03:01
平塚為広って神奈川の「平塚」からとったんだろ?
厨房的想像力では三浦氏とか関係あるのでは・・と思う
602日本@名無史さん:03/12/20 03:04
いや・・・あのさあ君、ベルマーレ平塚や平塚ハウジングが
あるから平塚って名づけたっていうくらい暴論だわなw
603日本@名無史さん:03/12/20 03:05
>>602
なんとなくどっかのサイトにあったので・・
「平塚」なんてたしかにベタな名前だ・・
604日本@名無史さん:03/12/20 03:08
平らな塚でもあったんだろ。彼はそんな程度。
刑部の首埋めた人だっけ?
605日本@名無史さん:03/12/20 03:26
>>604
でも忠臣でしょ。裏切らなかったし
606日本@名無史さん:03/12/20 03:31
>>378
戦国時代に小田原を根拠地に関東一円を支配した北条氏は、
鎌倉時代の執権北条氏と区別して 『後北条氏』 と呼ばれます。
鎌倉時代の北条氏と戦国時代の北条氏とは、実は何の関係もありません。
607日本@名無史さん:03/12/20 03:39
>>605
忠臣だね。
608日本@名無史さん:03/12/20 05:10
忠臣って…
平塚為広は大谷の与力であって、家臣じゃないんだけど

つか大谷隊に従ってた小大名や大谷隊を指揮してた話って
何が元ネタだっけ?
609日本@名無史さん:03/12/20 13:08
平塚為広は三浦一族の流れ。
苗字の地は現在の平塚市で正しい。
610日本@名無史さん:03/12/20 20:32
>>596
五位の衛門尉が衛門大夫を称すのは分かってますが、以前玉縄系の当主を左衛門佐
とするサイトをみたことあったんで、そういう署名もあったのかなぁと、あぁ書い
た(一応氏舜氏忠ではなく「氏忠や氏舜の下に氏秀」という表現にしておいた)。

>>597-598
左右京職の大夫、これでいいか?ツッコミがどんどんセコクなってくな。
親王任国の介は守ともされ、源義光など介なのに守と記され・呼ばれた人もいる。
で氏繁の例は守護で常陸介を名乗る佐竹氏に対しての相対的なもの(佐竹義重は15
76年頃に常陸介に正式任官している)で、北条家中で常陸の受領を名乗るという意
味においては、介でも守でも違いはない。
それこそ常陸守は>>599の言うように相模守よりも上位になる。

>>600
相模守(氏政)、陸奥守(氏照)・・・鎌倉北条氏の模倣。
安房守(氏邦)・・・上野守護で関東管領の山内上杉氏が代々名乗った受領名。
美濃守(氏規)・・・不明。
上総守(綱成)・・・今川氏の上総介か、里見氏・上総国人への対抗。
常陸守(氏繁)・・・当時下総飯沼にも在城して常陸方面へあたっていたから。
単に令制下で位の上な受領を称すのではなく、その受領を称すことに意味があった。
故に守だから上だった、介だから下だった、というものではない。
こういった政治的な意味合いを強く含むから受領は重要で、官途より上ともされた。
611日本@名無史さん:03/12/20 22:53
>>610 正真正銘の馬鹿だな。相模守は受領の中で一番上なんだよ
相模守は左京大夫と一緒にほにんされてたんだよ。鎌倉北条氏は。
それ以来相模守別格なんだよ
氏綱は両方に補任されてたが位の高い左京大夫で京都の史料にも出てくる

上総国は親王任国。「介」まで。上総守などない
612日本@名無史さん:03/12/20 23:18
後北条氏では、北条氏春が最強だな
613日本@名無史さん:03/12/20 23:26
>上総守などない
なくても上総守と名乗ってると(ry
614日本@名無史さん:03/12/20 23:33
>>613
介だろ
615日本@名無史さん:03/12/20 23:36
官位スレでも立てろよ


それと、


今谷明 『戦国大名と天皇』 講談社学術文庫ぐらい読め
616日本@名無史さん:03/12/20 23:37
上総守が正式には存在しないものなのは誰もが知ってる
でも当時の地方勢力には、そんなの知らなかったか、構わなかったのかわからないが
守で名乗ってる事もあるんだよ

その一例
617日本@名無史さん:03/12/20 23:45
>>616
名乗ってる手紙でもあるのか?
618日本@名無史さん:03/12/20 23:57
>>616 全然わかってないw

>上総守が正式には存在しない

上総は親王任国で親王が上総守になるのw
619日本@名無史さん:03/12/21 02:12
>611
頼むから「ほにん」って言うな。「補任」のことだよな?
せっかくのツッコミなのに、もったいない・・・
620日本@名無史さん:03/12/21 05:33
>>619
無知だな デフォルトではほにんでしかMSは変換できないんだよ
621日本@名無史さん:03/12/21 09:04
>>620
登録しないお前が無知なだけで。
622日本@名無史さん:03/12/21 11:43
>>620
ここで人を罵倒する暇があったら辞書登録すればいいのに。
611のつっこみが台無しだよ。
623日本@名無史さん:03/12/21 15:47
>>610
上総介なんて信長で語れてる初歩的なことも知らんのかよw









アホすぎ・・・・・
624日本@名無史さん:03/12/21 15:58
>>623 ゲーム厨が多いからね
625日本@名無史さん:03/12/21 16:12
「補任」を辞書で調べると、「ぶにん」、「ふにん」、「ほにん」
と出てたわけだが。ま、どうでもいいけどな。
626日本@名無史さん:03/12/21 16:31
>>623
だから?
627日本@名無史さん:03/12/21 16:37
少なくとも北条綱成は上総介。
上総守ではない。
だいたい北条は自称の官職だから。
628日本@名無史さん:03/12/21 16:48
>>626
( ´,_ゝ`)ぷっ、開き直りかよw





他人を貶めようとして、自分を貶めたw
629日本@名無史さん:03/12/21 17:12
>>628
>他人を貶めようとして、自分を貶めたw
と、いいつつ

>( ´,_ゝ`)ぷっ、開き直りかよw

人の振りみて何とやら
630日本@名無史さん:03/12/21 17:55
>>629( ´,_ゝ`)ぷっ上総守さんくやしいんだねw
631日本@名無史さん:03/12/21 18:51
糞スレ発見。
いい加減、建設的な議論に戻れ、藻前ら。
632日本@名無史さん:03/12/21 19:18
>>631 自作自演たのしい?
633日本@名無史さん:03/12/21 21:24
昔の水戸黄門を見た
平塚ってスゴイ訛りだったんだねえ
関係ないけど
634日本@名無史さん:03/12/21 21:56
風魔衆がいたとすれば箱根のどのあたり?
635日本@名無史さん:03/12/21 22:06
風魔小太郎の本名てなんだった?
636日本@名無史さん:03/12/21 22:34
>>634 足柄山じゃなかった?
637日本@名無史さん:03/12/21 22:37
>>636それは坂田さん
638日本@名無史さん:03/12/21 22:41
>>632
自作自演じゃないよ。漏れは、>>631
現在、このスレだけ熱くなっているのでよく目立つ。
で、覗いてみたら、・・・なんだこりゃって思っただけです。
639日本@名無史さん:03/12/21 22:44
>>637 坂田さん?
640日本@名無史さん:03/12/21 22:52
足柄山は今の箱根山でしょ
確か金太郎も足柄山でしたな
641■■重要■■:03/12/21 22:57
運営ボランティア募集

以下の過疎板で案内人十名、削除人五名、復帰人三名を募集しています。
明朝に消す予定なので希望者は希望のボランティアを選択してください。
先着順に★を発行いたします。
最後に、このレスを絶対に他板にコピペしないでください。
混雑が増え、鯖が落ちる可能性があります

http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/gallery/1071501041/l50
642日本@名無史さん:03/12/22 03:36
>>611、618、620
 オマエ・・・本当にノーナイ(馬鹿w)だったんだな(釣り氏かと思ったよ)。
MS云々とか言う前に日本語をやり直せっ!間違ぁいないっw

>正真正銘の馬鹿だな。相模守は受領の中で一番上なんだよ
 オマエの文章?で言って差し上げる。この文章は普通に読めば、オカシイ!
ある説明が抜けている!そして正しいツッコミ文章に直すとこうなる。
「正真正銘の馬鹿だな。『鎌倉期以降』相模守は受領の中で一番上なんだよ」と
でもオマエの文章はそうともとれる。しかし、だれも本来の律令を持ち出し「相模守の位は高くない」と無粋なツッコミはしない。
 普通・・いや『分別ある人間』であるならば、『オマエの文章を汲み取って』読んでいるんだよ・・・。
その後で、鎌倉北條氏の事だと説明してはいるが、それは616の文章にも同じ事がいえる。
643日本@名無史さん:03/12/22 03:37

>上総守が正式には存在しないものなのは誰もが知ってる
文章を付け足すならば「上総守が『戦国期の地方では』正式には存在しないものなのは誰もが知ってる」
であるだろう。また、
>その証拠に相模守って位高いですか?w←話し摩り替えんなよ馬鹿w
 これは何だ?恥ずかしくないのか?折角、ある程度の知識(大学専攻か新卒レベル?w)がある様だが、知恵がない・・・。知恵がw
日本史板は過疎板でロクな知識がないやつが多いと思われているが、中には優れた市井の研究家や知識がある方も好奇心で目を通していたりする。そして殆ど投稿しない!ROMっているだけ!読まれているんだよオマエの文章を!
また、テメエ(611)の文章を読み返えしてから投稿することもできない・・・。
ココは良スレなのだから・・・。
644ネタに反応しちゃったw:03/12/22 03:39
 611よ。『文章を汲み取って』からツッコミw(マジレス?)ができないのですか?ここでは、
 オ  マ  エ  程  度  の  知  識  は  常  識  な  ん  だ  よ  !
その前に歴史を学ぶ者として、大事な何か見落としていませんか?
オマエの『レス』は、ツッコミもつまらないし、摩り替えるどころか・・・全く『論点』が違う!!

三戦板で修行して来い!まず日本語…やり直しっ!!!


※某芸能人のネタを敬意を表して使わせて頂きました。関係者及びにファンの皆様に、ご了承して頂けると幸いに存じます。
645日本@名無史さん:03/12/22 03:40
伊勢新九郎。今川氏親の母、北川殿の兄。
646日本@名無史さん:03/12/22 04:01
>>643-644 粘着度=引きこもり度





働けよw
647日本@名無史さん:03/12/22 04:03
>>643-644 粘着度=引きこもり度



















働けよw
648日本@名無史さん:03/12/22 04:09
>>642-644
結局親王任国知らなかったんだろ(´ー`)y─┛~~

649日本@名無史さん:03/12/22 04:28
>>642-644
               ,ィミ,        ,ィミ,    
                彡 ミ        彡 ミ,   
             ,,彡   ミ、、、、、、、、彡  ミ,     (⌒) 
            彡;:;:             ミ,    (  ヽ 
         〜三;:;:::::              彡〜  ノ  ノ      
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           ::::ミミミ:;:;:;:            ミ::      ,;' ̄ ̄ ̄ ̄|  
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    お前の言いたいことは北条綱成は上総守なんだろw
650日本@名無史さん:03/12/22 04:50
綱成が上総守を称した根拠はあるのか?
651日本@名無史さん:03/12/22 04:55
>>644が根拠を出してくれるよw
652日本@名無史さん:03/12/22 04:58
610 名前:日本@名無史さん 投稿日:03/12/20 20:32


>>597-598
左右京職の大夫、これでいいか?ツッコミがどんどんセコクなってくな。
親王任国の介は守ともされ、源義光など介なのに守と記され・呼ばれた人もいる。
で氏繁の例は守護で常陸介を名乗る佐竹氏に対しての相対的なもの(佐竹義重は15
76年頃に常陸介に正式任官している)で、北条家中で常陸の受領を名乗るという意
味においては、介でも守でも違いはない。
それこそ常陸守は>>599の言うように相模守よりも上位になる。

>>600
相模守(氏政)、陸奥守(氏照)・・・鎌倉北条氏の模倣。
安房守(氏邦)・・・上野守護で関東管領の山内上杉氏が代々名乗った受領名。
美濃守(氏規)・・・不明。
上総守(綱成)・・・今川氏の上総介か、里見氏・上総国人への対抗。
常陸守(氏繁)・・・当時下総飯沼にも在城して常陸方面へあたっていたから。
単に令制下で位の上な受領を称すのではなく、その受領を称すことに意味があった。
故に守だから上だった、介だから下だった、というものではない。
こういった政治的な意味合いを強く含むから受領は重要で、官途より上ともされた。
653日本@名無史さん:03/12/22 05:20
>>642-644
               ,ィミ,        ,ィミ,    
                彡 ミ        彡 ミ,   
             ,,彡   ミ、、、、、、、、彡  ミ,     (⌒) 
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           ::::ミミミ:;:;:;:            ミ::      ,;' ̄ ̄ ̄ ̄|  
_______________∧______________
    ツッコミがどんどんセコクなってくなw
654日本@名無史さん:03/12/22 06:49
>>610
綱成は今川氏の上総介と里見氏・上総国人への対抗のため上総守を
名乗ったという根拠だせよ

655日本@名無史さん:03/12/22 06:53
三戦板のやつも綱成が上総守なんて名乗ってないことぐらいわかるがなw
656日本@名無史さん:03/12/22 11:46
>>642-644
>※某芸能人のネタを敬意を表して使わせて頂きました。関係者及びにファンの皆様に、ご了承して頂けると幸いに存じます。


ツッコミ恐れてこれかよ(´ー`)y─┛~~
657日本@名無史さん:03/12/22 20:13
どーでもいいけど何で里見にとどめさせなかったんだ・・・
658日本@名無史さん:03/12/22 21:58
>>618
正確には上総守が任命されていれば貰えるであろう収入を親王の生活費にあてているだけで、親王が上総守になるわけじゃない。
659日本@名無史さん:03/12/22 22:53
上総守にはなるが赴任しないだけ。
天長3年(826年)9月、上総・常陸・上野の3か国の守に親王を任ずる制度
が始まり、正四位下相当の勅任の官とし、太守と称した。
660日本@名無史さん:03/12/22 23:14
北条綱高はどこいった?
661日本@名無史さん:03/12/22 23:47
風魔は
662日本@名無史さん:03/12/22 23:51
風魔やんわり
663日本@名無史さん:03/12/23 12:10
別に親王任国の守を名乗ってたっていいんだよ。
信長の例もあるように所詮自称だから。
でも実際に綱成が上総守名乗った根拠ってあるのかな?
系図以外でw
664日本@名無史さん:03/12/23 13:18
そーだそーだ
系図なんて自己申告の捏造モドキがイパーイなのを鵜呑みにするのは島津厨だけでお腹いっぱい
665日本@名無史さん:03/12/23 13:39
>>611
左京大夫(官途)が相模守(受領=隠居)より上だといったのは>>350
相模守が鎌倉・後北条氏で最重要な官職の一つだってことも
左京大夫との関係も>>493で既に言及してるし、>>593には泰時の例も出してんだろ。
自分に都合の良い所しか読めないのか?
介も守と呼ばれるときがある
常陸守って呼ばれてる野郎が今昔物語か宇治拾遺物語にでてるから読んでみ。
この説話の中で陸奥守は寂れた祠を整備し、御利益で常陸守(当然実際には介)に出世する。
言葉尻なんかとらえてないで、ツッコむべきとこは他にあんだろ。
綱種が称した天文初期と氏繁が称した天正期の北条家における常陸の政治的意味あいとかよ。

>>642-643
>『鎌倉期以降』相模守は受領の中で一番上
これも正しくない。どの受領が重要かは、氏族やだれの後裔を称すか、どこに住むかで変わる。
相模を本拠に北条を称したからこそ、後北条氏の中で相模守が諸大夫上層の左京大夫よりも重要。
>「上総守が『戦国期の地方では』正式には存在しないものなのは誰もが知ってる」
一番話しが理解できていない。私称としての受領と官途の話してんだよ。
正式任官どうのいいだしたら受領は治部少輔と同等、それが私称なら受領が上になると言ってる。
>オマエの『レス』は、ツッコミもつまらないし、摩り替えるどころか・・・全く『論点』が違う!!
自分のことだろ。
666日本@名無史さん:03/12/23 13:40
>>654
守名乗りしてないなら、そこから駿河の領主権への主張が除外されるだけ。
俺が言いたいのは↓の部分。
>単に令制下で位の上な受領を称すのではなく、その受領を称すことに意味があった。
>故に守だから上だった、介だから下だった、というものではない。
>こういった政治的な意味合いを強く含むから受領は重要で、官途より上ともされた
反論するなら、公卿兼官ではない頻繁に私称されうる官途が、受領より上な根拠
高橋綱種が北条を名乗った根拠、常陸介から治部少輔へと改名するということの妥当性
ここの説明よろしく。

話の本質が見えてないのか、ずらそうとしてるのか
私用末葉・言葉尻・揚げ足取りに拘ってて埒があかないからもう返答もしない。
気の済むまで罵倒すればいい。
667日本@名無史さん:03/12/23 13:49
>>666
やーいやーいヽ( ・∀・)ノ ウンコー
668日本@名無史さん:03/12/23 14:00
「伊勢貞遠」−観修寺尹豊室ー観修寺晴右ー藤原晴子(誠仁親王室)ー後陽成天皇

「畠山政煕」−万里小路秀房室ー藤原房子(正親町天皇室)−誠仁親王ー後陽成天皇

伊勢氏・畠山氏に詳しい方。この2人の系図を教えてください。お願いします。
(別のスレでも書いたんですが、ここなら、伊勢氏に詳しい方が見てると思うのでコピペしました。お願いします。)
669日本@名無史さん:03/12/24 03:38
>668
伊勢貞陸の弟に貞遠っていたと思うけど…
670日本@名無史さん:03/12/25 02:12
>>668
そういう史料に基づくものなら、
ご自身で調べた方が宜しいかと・・。
671日本@名無史さん:03/12/25 02:17
まだ受領がどうのこうのやってたのか・・懲りねえな
672日本@名無史さん:03/12/25 02:54
>>671
話に加われない君の方がかわいそうだよ
673日本@名無史さん:03/12/25 02:56
>>672
荒し君と同席する羽目になるとは・・
今5人もいないんじゃないか
674日本@名無史さん:03/12/25 13:31
>>673
自作自演ですか?
675日本@名無史さん:03/12/25 20:52
自作自演というより単なる粘着ともわれる。
676モナー厨 ◆MONA/EQ7K2 :03/12/27 09:06
ぅぃらぅ(´∀`)
677日本@名無史さん:03/12/27 22:33

北川殿って、兄早雲同様かなり長生きだね。

1447年生−1529年歿

享年83歳。
678日本@名無史さん:03/12/28 00:27
一応、弟、もしくは従兄弟という説もある

散々既出だが。
679日本@名無史さん:03/12/28 02:56
綱成ってどっちのほうの正成の子なんですか?
武田に攻めて死んだ方なのか今川の家督争いで破れた方なのか・・・。
教えて下さいな。
680日本@名無史さん:03/12/28 10:42
>>679
飯田河原の戦いの戦死者は官途名のみなので正成参戦の実否も不明の筈。
軍記物では綱成の弟・福島勝広が河越夜戦のとき18歳だったとされている。
確か勝広は氏直の時代に没している筈だから(北条関連の史料で氏直が勝広に諮問している文を見た記憶がある)、私は正成は花倉の乱で死んだという説を取りたい。
681日本@名無史さん:03/12/28 11:11
福島正成って系図類以外で存在するの?
682680:03/12/28 19:29
ちょっと文が変になったので…。
もし福島勝広が北条氏直の頃まで健在とすれば、河越夜戦の時18歳とするならば60前後に没した勘定になるのでほぼ、妥当な年齢ではないか?
とすれば、飯田河原で正成が没すると生年的に符合しなくなるので…ということです。
683日本@名無史さん:03/12/28 23:32
氏康、氏政の時の御由緒家ってどうなっていたんでしょうか。大道寺と多目は分かるのですが残りの家が…。スレ違いですいませんが、分かる方教えて下さい。
684日本@名無史さん:03/12/29 00:12
「北条氏直の侍大将の一人福島伊賀守云々」のくだりは
北条五代記に出てくるから、氏直の時まで生きていたっぽいね。

まぁ、北条五代記自体、史料としてあれですが
685679:03/12/29 03:46
>>680.682
なるほど、どうもご丁寧にありがとうございました。
686日本@名無史さん:03/12/29 22:52
          ドッカン
         ,、、  ドッカン
  ━━━━━) )=          ☆ゴガギーン
      ∧_∧ | |           /         / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     (   )| |_____     ∧__∧   <   氏康出てこいやゴルァ!
     r ⌒ ̄ ノ  __.  |    (`∀´ )    \ ___________
     |   イ   |__|   |    /     \   
     | 信 | |          .|    | |   /\\
     | 玄 | |         .|  へ//| 謙 |   | |
     |    | |       (\/,へ \| 信 |  | |
     | ∧ | |      ◎\/  \  / ( )
      | | | |.|          .|     | |
      / / / / |          .|     | |
    / / / /.| |三三三|  |     | |
    / / / /...|       |    ||


小田原篭城圖
687日本@名無史さん:03/12/30 01:46
氏政タンハアハアハアハアハアハアハアハアハアハアハアハアハアハアハアハア
688日本@名無史さん:03/12/30 02:37
>>686
禿しくワロタ。
689日本@名無史さん:03/12/30 10:28
>>688
やべぇ、的確だw
690日本@名無史さん:03/12/31 03:23
後北条は、化け物一族。

早雲 1432−1519 享年88歳
北川殿 1447−1529 享年83歳
幻庵 1493−1589 享年97歳
691日本@名無史さん:03/12/31 23:39
面白い唐揚げ!
692日本@名無史さん:04/01/01 01:46
上げるほどでもないし、
散々既出だが、早雲の年齢詐称疑惑があるから奴はなんともいえない。
693日本@名無史さん:04/01/01 15:21
でも北川殿も長寿だから、信憑性はあると思うよ。
694日本@名無史さん:04/01/01 16:17
過去ログ読まない奴だな。
寿命だけなら、後北条家は60までに死ぬ奴(除く戦死・自刃)の方がほとんどだし、
そもそも北河殿は実際の兄弟ではない説だってある。
695日本@名無史さん:04/01/01 20:05
>>694
過去ログは読んだ上であえて言っていますが何か?
過去ログに書かれていることは、すべての研究者が認める客観的事実なのですか?w
696日本@名無史さん:04/01/01 20:27
         上杉景勝
      ガンガン!.↓  |\
       ┏━━┓ |  \    <氏政タンハァハァ!!!
ア-ヒャヒャヒャ>┃(゚∀゚┃ |    \_
       ┗━━┛ |    | |ドンドン!! ゙!!゙!!
    .          |    | |             アヒャヒャヒャヒャヒャ!!
 ヒィィィィィ _______|  └ | |ヾ(゚∀゚)ノ ドンドン!!   アヒャヒャヒャヒャヒャ!!
 (´Д`;)        \  | |  (  ) ))       アヒャヒャヒャヒャヒャ!!
 (∩∩ノ)            \.| |(( < <         アヒャヒャヒャヒャヒャ!!
  ↑北条氏政            ↑豊臣秀吉
697日本@名無史さん:04/01/01 20:30
 ____________/
 _____             |
       || / 開けろやゴルァ!!滅ぼすぞぁ!!
       ||  よくも惣無事無視しやがったなゴルァ!!
  ドンドン!! 後陽成天皇も無視しやがってボルァ!
   ドン ||  \  _y゚.   |
    (( O)) |      ) ( .  |
    ガチャガチャ_( )   |
       ||  |. || ̄ ̄ ̄ ̄.||
       ||  |. || ´ ̄ ̄ `| ||
       ||_|. || |。     | ||
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  \|| |     | ||
 小田原城     Λ_Λ  ̄\
           (;TДT; )  ヒー、なんでこんな目に遭わなきゃ
    ̄ ̄ ̄ ̄ ̄(((⊃ ⊂))) ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\  いけないんだ?
             (___)__) ←北条氏直  \
698日本@名無史さん:04/01/01 20:53
チョットワロタ
699日本@名無史さん:04/01/03 16:39
朝鮮総連とYahoo!BB

ttp://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/1060/005.html

朝鮮総連青年部情報委員会通達 第98-09-02号

インターネットでの協力者育成ならびに、反動的人物・団体の調査について。

ttp://www.infovlad.net/underground/asia/nkorea/ref/circularnote.html

700日本@名無史さん:04/01/03 17:40
>>697
ワラタ
701日本@名無史さん:04/01/04 09:19
テレビ50年番組リクエスト大河ドラマ第1位
「独眼竜政宗総集編」
1月4日(日)13:00〜17:00 NHK総合
渡辺謙, 北大路欣也, 岩下志麻, 桜田淳子, 三浦友和


マジで見逃すな!!絶対見ようぜ!
702日本@名無史さん:04/01/05 00:50
北条氏には特別な軍装とかなかったん?
703日本@名無史さん:04/01/05 03:36
>>478

鍋島は松平姓は許されていないぞ
そのかわり二代藩主勝茂が江戸殿中で鍋島家のご由緒はと誰かに聞かれ
はったりで小弐家と答えたところ逆に相手の度肝を抜いたようで
これは類まれな名家の由、失礼つかまつった、と丁寧な返答をもらったとのこと。
704日本@名無史さん:04/01/05 04:01
初代藩主同士だったら
「え〜っと、う〜ん、あ!そうそう小弐っす」
「がはは〜誰じゃそいつ。知らねぇぞそんな奴」
「実は俺も良く知らねぇんでヤンスよ、今、思いついただけだからw」
「お前んトコもか〜、男はなぁ、家柄じゃねぇぞ若造!」
「心得たり、わ〜はっはっは」

初代は戦さ場で育った野獣。
二代は牙を抜かれた家畜。
705日本@名無史さん:04/01/05 16:05
>>702
五色備え、とかのたまってみる

確か、北条は軍装に口やかましく、そこまでとんでもな軍装は無いかったハズ。
706日本@名無史さん:04/01/05 16:09
最初に言っておく。ソースは本宮。


紙の鎧を着用してました。
斉藤道三が従軍して突き止めた衝撃の事実!!!
707日本@名無史さん:04/01/05 19:58
>>703
鍋島って桓武平氏じゃなかった?
708日本@名無史さん:04/01/05 20:20
>703
>鍋島は松平姓は許されていないぞ
「松平肥前守」を称していたのではないですか?
佐賀鍋島家を差して「松平肥前守」と記しているのはよく見かけますし、
切り絵図の類にも出ていますが…。
709日本@名無史さん:04/01/05 21:08
>>703
>>708
松平姓もらってるよ。初代勝茂(直茂までは形式的に竜造寺が主人
なので、初代としない)が信濃守だったので、その由緒から歴代藩
主の中松平信濃守と名乗ってるものもいる。あと丹後守を名乗って
る藩主もいたかな。ただ、江戸時代も後期になると歴代松平肥前守
だね。

710日本@名無史さん:04/01/05 21:39
>公卿兼官ではない頻繁に私称されうる官途が、受領より上な根拠
>高橋綱種が北条を名乗った根拠、常陸介から治部少輔へと改名するということの妥当性
誰も上の説明してくんないのな。それまでの喧騒が嘘のように静かだ。

>>668
貞長ー貞芳ー貞数ー貞遠ー女子(尹豊卿室、晴秀母)
711日本@名無史さん:04/01/05 23:32
>>710
貞宗の子(貞陸の弟)の方じゃなく、貞数の子の方だったんですか?
712あぼーん:あぼーん
あぼーん
713モナー厨 ◆MONA/EQ7K2 :04/01/07 19:26
今年もぅぃらぅで元気になろう(・∀・)
714モナー厨:04/01/09 16:51
小田原城のぞうタン元気になったかな
ぅぃらぅ飲んで元気になってくれよ
715日本@名無史さん:04/01/09 18:01
小田原の象なら普通に外(見る所)に出てたぞ。
元気なのか病気なのか分からないけどな。
今更ですが、あけおめ〜♪
300以上沈みましたので久しぶりに書きます。

冬休みのある夜、小田原城に行って参りました。
遅い時間ですから象さんの様子は確認することができませんでした。

あるHPを覗いてみましたら・・・
1552年1月10日
関東管領上杉憲政が北条氏康に追われて上野平井城を脱出、
越後の長尾景虎を頼る。
・・・とありましたが、本当なのかな?
717日本@名無史さん:04/01/11 01:34
ま、太陰暦か太陽暦かの差はありますが。
718日本@名無史さん:04/01/11 13:58
ゲームでもやるか
719日本@名無史さん:04/01/11 14:53
↑その前に三戦板にいけ
400以上沈みましたね。ついでですからお城の話。
今年に入って2週間。六つの城に行ってきました。
新年最初に行ってきましたのが興国寺城と小田原城!
最初から北条家所縁の城とは幸先がいいです〜♪(笑)

721日本@名無史さん:04/01/15 00:31
>>705>五色備え
赤備えとかですか?
722日本@名無史さん:04/01/15 11:45
>>721
「北条綱高」で検索してみ
723日本@名無史さん:04/01/15 12:59
>>721
あと、通説では黒備えは多米周防だけど、
どうも氏邦配下が黒一色の軍装だったらしい。
724日本@名無史さん:04/01/15 20:29
725日本@名無史さん:04/01/15 20:52
726モナー厨 ◆MONA/EQ7K2 :04/01/17 01:47
>>677
きっとぅぃらぅのおかげ
727日本@名無史さん:04/01/17 23:24
五色備は置いておくとして、
北条の重臣というとどんな方々がおられたんですか?
728日本@名無史さん:04/01/18 03:21
松田氏・大道寺氏・遠山氏・垪和氏・福島(玉縄北条)氏・清水氏
小笠原氏・伊勢氏・山角氏・板部岡氏・安藤氏・笠原氏・石巻氏・富永氏・内藤氏

ざっと挙げたけどまだまだいそうだ。
ぶっちゃけ時代によって異なるし、人によって見解は異なると思う。
>>727
名前だけを挙げますと・・・
松田憲秀
大道寺政繁
遠山綱景
北条綱成
垪和氏続
笠原綱信
清水康英
内藤綱秀
上田朝直(他国衆)
成田長泰(他国衆)
北条三郎
北条氏堯
伊勢貞運
小笠原康広
大和晴統
北条幻庵宗哲
・・・その他大勢(評定衆など)。

↑北条氏康の頃でいいですか?
730日本@名無史さん:04/01/18 10:48
幻庵はお茶飲んだの?
731日本@名無史さん:04/01/19 01:41
>>729
一門衆を挙げるならば、
氏照・氏邦・氏規あたりも入れるべきだと思う。
>>730
どうでしょうね?
本人に聞いてみないと・・・。

>>731
北条(大石)氏照、北条(藤田)氏邦、北条氏規、それに北条氏繁は、
時代が微妙に違いますから外しちゃいました。
私的な見解ですから・・・。
733日本@名無史さん:04/01/20 04:27
>>732
そんなに時代はおかしくないかと。
例えば氏照の元服は知らないが、生年が1540年頃なはずだから
少なくとも10年以上は氏康治世下で働いている。
氏繁に至っては氏康死後十年も生きていない罠。
今日はちょいとばかり早めに・・・。

>>733
補足です〜。
北条氏康の頃・・・永禄二年までで考えていました。(北条氏政が家督相続をする頃?)

☆北条氏照の軍事行動
 勝沼城攻略や第二次国府台合戦からかな?

☆北条氏繁の軍事行動
 やはり父様の北条綱成と行動を共にしていることが多いかな?
 どちらかというと補佐役って感じ。
 父様が出家されて、それ以降の行動が印象的かも。

まあ、軍事行動だけが全てではありませんが、
遠山綱景、笠原綱信、北条三郎、北条氏堯が選ばれている以上、
氏照、氏邦、氏規たちを含めてしまいますと違和感がありそう・・・
あっ!そう考えますと大道寺周勝(重興)の方が自然かな?
735日名:04/01/21 22:29
北条の重臣といえば、松尾憲秀
736天御:04/01/21 22:33
そして遠右直景
737日本@名無史さん:04/01/22 00:23
月と星より ◆jaxQ5494pE ウザイ消えろ
738日本@名無史さん:04/01/22 00:39
俺は昔っからの月と星のファン
よくこんだけ調べたと思うよホント
月と星ガンバレ
739日本@名無史さん:04/01/22 00:51
別にどっちでもいいけど、アンチは消えてくれ
740日本@名無史さん:04/01/22 00:52
大和晴統って初耳。どんな方ですか?
741日本@名無史さん:04/01/22 02:40
いわゆる、氏康の三軍師の一人だっけ?
でも他の二人、小笠原康広と伊勢貞運に比べると目立たないな・・・。

>>737
まぁまぁ、彼(月星)は話せばわかる人なんだから、そうじゃけんにせんでもいいじゃないか
数少ない同志、またーり逝こうぜ
742モナー厨 ◆MONA/EQ7K2 :04/01/24 06:25
おまいらぅぃらぅのありがたみが足りないぞ
743無お:04/01/24 21:19
麾下国人といえば岡治治広。
744モナー厨 ◆MONA/EQ7K2 :04/01/26 03:38
ぅぃらぅ
745日本@名無史さん:04/01/26 21:50
こいつ月★なみにウゼーな。

オレは2chのコテハンのファンになんかなったことねー。
試しに月★如きのファンになれる>>738のファンになろうかな。
746モナー厨 ◆MONA/EQ7K2 :04/01/28 05:41
ぅぃらぅは(・∀・)イイ!!
747745:04/01/28 23:08
かなり失礼な発言だった。
月★、738、モナー厨、ごめんな。
748日本@名無史さん:04/01/29 15:27
おれの脳内では小笠原艦隊が
伊豆諸島に遠征しあしたば茶を栽培しますた。
749日本@名無史さん:04/01/29 17:47
どんな脳だ、おまいさまの脳は・・・

伊豆諸島と言えば大島かどっかを貿易用に開港しようとかなんとか
北条上層部が考えていたってのは嘘?本当?
750モナー厨 ◆MONA/EQ7K2 :04/01/31 05:06
ぅぃ(ry
751日本@名無史さん:04/01/31 07:33
国会で可決・成立が確実となっている「外為法改正案」について
在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)が各地の地方本部に対し
地元選出国会議員に法案への反対に回るよう働きかける工作を
指示した文書を作成、配布していたことが三十日、分かった

ttp://news.goo.ne.jp/news/sankei/shakai/20040131/SHAK-0131-02-03-04.html 

752日本@名無史さん:04/01/31 11:47
だめだ、>>750にわらっちまった。
753日本@名無史さん:04/02/01 08:02
日本人幼稚園児がおので襲われた事件を捜査中のソウル水西(スソ)警察署は30日、
「11月にも日本人小学生が拉致されそうになる事件があった」と明らかにした。

 警察関係者は「当時、車に乗った女性が、ソウル日本人学校の前で、
小学生男児の腕を引っ張って連れて行こうとしていた」と述べた。

 02年11月には、ある男が保護者5人に
「われわれは日本人を殺す集団だ。お前たちを襲う」と、
たどたどしい日本語で脅迫電話をかけていたという。
記事:http://japanese.joins.com/html/2004/0130/20040130185113400.html
754日本@名無史さん:04/02/01 17:06
氏邦の三男、光福丸が慶長二年に秀吉より、
「十五歳になれば十万石を与える」とされているが
翌年慶長三年にに秀吉が亡くなり
その翌年には光福丸が病死

誅殺されたとしか思えないのだが
755日本@名無史さん:04/02/03 02:47
>>754
その与える話しが本当ならねw
756日本@名無史さん:04/02/03 03:27
誰に誅殺されるのさ?
757日本@名無史さん:04/02/03 06:45
太極旗が韓国の国旗として使用された過程を示す最古となる太極旗の絵が発見された。
しかし、その証拠の写真には、「大清国属」の文字が。(中央の写真)

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/01/26/20040126000072.html
しかも本国版ではこの「大清国属」の文字が消されているw

ハン板のネイバースレの有志により、
日本版の記事と韓国版の記事の比較画像がUPされています。
要保存!!
ttp://219.120.19.235/sio003/src/sp2091.jpg
758日本@名無史さん:04/02/03 22:51
やはり早雲がもっと再評価されるべきだ。
759日本@名無史さん:04/02/04 00:24
>758
十分評価されてないか?
再評価なら氏綱をキボンヌ。
760日本@名無史さん:04/02/04 02:34
氏政・氏直も再評価して欲しい。
もう少し言えば、世間での氏康の認知度がもう少し上がってくれれば・・・
761日本@名無史さん:04/02/04 02:39
そしてまた名前が挙がらない氏綱
762日本@名無史さん:04/02/04 06:59
>>759で名前が挙がっていたからあえて外したんだがな
763758:04/02/04 10:31
北条早雲なる人物がいかに素晴らしいか↓

戦国以前人々は「惣」という自治組織を作り村単位で自分達の身を守ってきた。
それが室町期横に繋がって国人(惣の代表者)とゆう富農階級が地頭(守護の代理人)を自分達の側に取り込んで
守護(室町政権の税徴収を主体とした支配者)に対抗したのが一揆で
国人達に奉じられて京に登り大会戦を行ったのが後に言う応仁の乱だ。

そうゆう地頭も結局頭に頂く地頭を自分達の守護者に頂きながら中央からの税徴収を免れる事が戦の主題で
応仁の乱もその延長上に有る現代で言う所のデモ行進に近いデモンストレーションの感覚が強く
自分達が奉じた地頭を優遇する中央の実力者(公方の代理人)の下に10年も離合集散する様な戦いだった。
つまり戦国期の様に武将一個が己の領地にすべく争う天下取りの戦いでは無かったという事だ。

しかし北条早雲という人物が駿河で出てからは様相が一変する。
彼はほぼ流人の境涯で50も後半を過ぎてか僅か12郷を預かる駿河の痩せ地頭から
親殺しの茶々丸を討つ名目で堀越御所を急襲し伊豆を侵略する。
更に小田原西相模を平らげ晩年には伊豆相模をほぼ自国の領地とし北条100年の統治の礎を築き上げた。

764758:04/02/04 10:32
まあ、細かいいきさつは長く成るので省くが彼の眼目はすでに形骸化して久しい室町幕藩体制を真っ向から否定し
今までのまず幕府を前提とした戦いから己の我欲(建前は民衆の自立自治)の戦いへとステップアップした事に有る。
これは自分のみでは無く日本という国の現状利害を的確に判断した結果とも言える。

これで建前上は戦国時代と言う武将一個が民衆(農民)の上に立ち直接それを統治しながら他国を切り取って行くとゆう
素地が出来上がりこの流れは全国に波及する。

ココまでは日本も正常な時代進化と言える形でアジア諸国では稀な近世化への幕開けがされ
その後の織田信長や豊臣秀吉などはある意味欧州の時代進化と重なる群雄割拠の中で商工業が発展していた。

話を元に戻すが前半生はまったく分からないこの流人同然の男がなぜ50も後半を過ぎてからこうゆう真似をしたのか?
司馬氏の小説では駿河今川義忠の妻北川殿の兄で伊勢氏末流の出 伊勢新九郎と名乗ってはいるが
その確たる証拠は何も無い。その繋がりが有るのならもっと以前から重用されて歴史に登場していてもおかしく無い。

実際の歴史上で早雲が登場するのは彼が興国寺城の地頭に成ってからの話だ。これはこの土地の寺領に
早雲が伊勢新九郎の名前で寄進をしているからでその僅かな形跡により彼がこの土地を治めた地頭だと断定できる。

しかも彼がこの城の城主に成った年は57歳だ。それ以前はまったくの無名で
これも司馬氏の小説では今川家の内紛を調停した功で〜と、されては居るが北側殿との繋がりなどは
司馬氏の創作がかなり入っていると思う。
今川家とはまったく関係の無い人間で伊勢氏とゆうのも大田道灌など対外的な便宜上
そう名乗っていたとも考えられるからだ。
765758:04/02/04 10:33
まあ、ともかく、なんでこんな男が初老に成ってからこうゆう真似をしたのか?それがどうも分からない所であるが 
世辞に長け、機を見るに敏 まったく抜け目の無い男だった事はその後の彼の行動を見ても明らかで 
なまなかな常人では無かった事は確かだ。

彼の革新的な所は幕府=守護=地頭=農民(国人、地侍)と言う4階建ての税搾取のシステムを完全に瓦解させた事だ。
上にも書いたが応仁の乱はあくまで農民の上に居る地頭を農民の側に取り込んだ上で守護に対抗し
最終的に自分達の側に取り込んだ地頭の合議により物事を決定し守護はそれを承認するだけの存在と成り
その守護或いは地頭を押し立てて京(中央)に進出して公方へデモ行進をしつつ自分達に有利な公方代理人(細川勝元、山名持豊)
どちらかの陣営に属し叩きあっただけの戦で

早雲が行った1地頭が他国へ攻め入ってその領土を支配し自分の直轄地にしてしまうとゆう戦いとは根本的に違う戦いだった。
早雲の上手い所は領土の税率を4公6民とゆう格段に安い税率にした事だろう。
今までは4階建ての論理で否応無く重税を取られ更に中間(守護、地頭)で大きな利鞘を抜かれるとゆう
とんでもない暮らしを強いられていた農民達(国人地侍)はもう先を争って早雲に付いた
「人は利によって動く」これを良く知っていたのだろう。

これによりその後僅か小10年で小田原城を攻め取ったのもこうゆう地頭連の馳走が有ったからだ
まあ、これより後の相模全域の平定はまた20年近く掛かった訳だが
ともかく彼は貴族(公方、公家、守護)の繁栄の根源は農民(国人、地頭)とゆう事を良く把握して
この農民をないがしろにしていた当時の室町幕府へ大きな憎悪と反感を抱いていたはずだ。
伊勢氏末流の出と名乗っていたのも単に都合が良いからでは無く 
かつて自分が席を置いていた貴族階級への面当てだったのではないかと思う。

こうゆう面から見れば司馬氏の「伊勢家鞍作り 新九郎」の図がしっくりと来る。

766日本@名無史さん:04/02/04 12:53
>>758
過去ログ見た方がいいと思う。
200台辺り。
767名無しさん:04/02/04 13:42
北条は上杉、武田が邪魔しなきゃ関東に覇権を確保出来たかもしれない。実際上杉憲政を潰しているし
768758:04/02/04 23:27
>>766
フムフム、似た様な事書いてあるね。
でも歴史は教科書通りには行かないよ。

漏れがどうしても分からないのは何で早雲が少なくとも40代前半まで何処の馬の骨とも分からない境涯から
60も過ぎて伊豆攻め取る所まで逝ったのか?だよ。
その動機はなに?

新九郎=北側殿との繋がりは信憑性が薄いよ。
足利義視の近侍って史術にはそんな証拠が無いでしょ。
伊勢新九郎って言う名前は彼が興国寺城の城主に成ってから出て来る名前
それ以前彼は歴史上に登場していないのだ
つまりこの前半生は箱根の坂で司馬氏が創作した作り話の公算が高い。

この早雲の前半生については史家も諸説紛々としている。
伊勢の国 関1族の出だとか備中伊勢氏の出だとか 最近だと備中高越山城主の伊勢盛定の子の中に
新九郎盛時って名前が有りこの人じゃ無いかとか言われてるが新九郎って名前は特段珍しい名前じゃ無いからね。
それが中央伊勢氏(伊勢貞高(貞藤?))の養子に貰われたとかって言ってるけど どうもなぁって感じだよ。

まあ、養子に行くって所までは貞高の妹がこの伊勢盛定の妻だから早雲のとっては母方の叔父に当たる。
だから貞高の養子に行くって所まではあながち嘘じゃ無いかも知れないけど
貞高がその後将軍義政から勘気をこうむって御役御免、家も取り潰しに成るんだよね。
ココで早雲も父と一緒に浪人したってゆうのが妥当な線だよ。

769758:04/02/04 23:28
それがまた当時義政の寵臣で有った貞高の兄貞親に一族で匿われてとかって始まるんだけどおいおいホントかよ?って感じ。
俺はこの貞高は兄の貞親に陥れられて失脚したんだと思うよ。実際そうゆう奴だし。
そこでこの若い早雲は権力への憎悪とか社会の歪さを学んだんだろうと思う。
それから仏門に入ったと言う線も有る。当時中央の武家貴族は失脚すると比叡山(埒外)とかに隠棲したからね。
何しろこの時期から今川義忠が討たれるまで20年近く有るし。
その間これだけの人物がまったく歴史に登場しないって言うのはやはり別世界で生きていたっていうのがしっくり来るよ。

確かに早雲の資質能力っていうのは尋常じゃあ無い。それ以上に彼の持っていた先見の明は
やはり後の斎藤道三とかの様に諸国を回るうちに世辞に長けた一介の素浪人が気に入られて出世したとゆう線か
いや、或いは当時の今川家の逝きっぷりを何とかして貰う為に中央の仏門から派遣された人間

俺はやはりこの仏門派遣の方が可能性としては高いと思う。
後々早雲庵宗瑞などと名乗っている所や今川の内紛を上手く静めながら大田道灌向こうに回しての鮮やかな外交術など
早雲のやっていた事は当時仏門の人間が受け持っていた役回り。
とゆう事で俺の説は浪人して何十年か仏門に入りそこで修行してたから前半生が謎に包まれたのだと思う。

あと、問題なのが北川殿と早雲の関係。実の妹だったと言うのは違うと思う。貞高の娘って可能性は無きしも有らずだけど
そうゆう史術は何処にも無い。つまりこの北側殿ってゆう人も出自が極めて曖昧なのだ。
京に遠征に来ていた義忠にみそめられて側室(正室?)に成ったとか随分安直である。自分の妹を早雲が斡旋したとでも言うのか。
大体その引きで早雲が食客となり義忠の死後竜王丸の後見人に成るとか苦しいと思うよ。話が出来過ぎ。
この辺は司馬氏の「箱根の坂」の影響が強くてそうなってしまってはいるが。
770日本@名無史さん:04/02/05 01:15
……なんか聞いたこともないような説がポンポン飛び出してくるんだが、
とりあえず根拠くらい示してくれ。
771日本@名無史さん:04/02/05 02:33
なんていうか、人に読んでもらう文ではないな。
まぁ、そう言う議論よりも先に周囲を良く見渡して欲しい。
有り体に言えば、sageて欲しい・・・。
772日本@名無史さん:04/02/05 12:43
応仁の乱って重税に喘いだ民草が京に上って一揆したものだったのか。
てっきり日野富子の焚きつけをきっかけに細川勝元と山名宗全が権力争いして
それに便乗した守護国人が云々…って話だと思ってたよ_| ̄|○
773日本@名無史さん:04/02/06 01:08
>770
「箱根の坂」だろ>根拠
いちいち史料を出さないとこからすると、ただの「ヘタな釣り師」と思われ。
774日本@名無史さん:04/02/06 02:07
>>772
多分、彼は土一揆と応仁の乱を混合して考えているのでわ?
文政元年(応仁の乱勃発の前年)の京都・奈良の土一揆か、
同年近江坂本の馬借一揆辺りを言っていると思うが、どうだろう。

しかし、木を見て山を知っているかのような発想が出来るのは凄いな。
775日本@名無史さん:04/02/06 17:09
氏政が好きだという女性に会ったことがあるんだけど・・・、
彼って女には結構人気あるの?

776日本@名無史さん:04/02/06 18:45
>>775
母性本能をくすぐられる所があるんじゃないか?
777日本@名無史さん:04/02/09 22:31
署名や宛名が略称のやつ(松尾=松田尾張守など)とそうでないやつの差ってなに?
778日本@名無史さん:04/02/10 01:30
>777
777ゲット!って言わなきゃ。
779モナー厨 ◆MONA/EQ7K2 :04/02/12 05:34
ぅぃらぅでしゃきっと健康+.(・∀・).+゚.
780日本@名無史さん:04/02/12 21:28
家格、もしくは正式任官かどうか、あるいは純粋な官職名か官職風(郷左衛門とか)かどうか
可能性としてはこんなもんしょ。
781モナー厨 ◆MONA/EQ7K2 :04/02/14 05:21
バレンタインにぅぃらぅを送ろう+.(・∀・).+゚.
782日本@名無史さん:04/02/14 23:10
八王子城、心霊スポットかよ・・・。
この際亡霊城として頑張ってくれよw

御主殿の滝って怖いねぇ・・。
783日本@名無史さん:04/02/15 12:41
>782
昔、暴走族が深夜に肝試で滝から落ちるというタタリが



ひっそりとお久しぶりです。
話の流れが北条氏政ですね〜♪

北条氏政の時代って、それまでの北条家の外交を考えた場合、複雑化しつつある難しい時代のような気がします。

山内・扇谷の両上杉家が滅亡した後も北条家の基本的方針は関東制覇。
ここで長尾景虎の関東遠征が始まりますが、今までの図式と変わりはありません。
この戦いは長期化していきます。
金山城の由良成繁が北条家に服属する。
箕輪城の長野業盛が武田家に攻略される。
さらに、厩橋城の北条高広が上杉家から離反する。
この一連の事件は勝負の行方を決定づけます。

この勝負を大きく変える事件が武田信玄の駿河侵攻。
三河の新興勢力の徳川家康を味方に巻き込み、
更には、仇敵の上杉輝虎までもが北条家と手を結ぶという外交革命に発展します。

この状況は北条氏康の死により瓦解します。
甲相同盟の成立により上杉家と対立していきますが、
多功城合戦、深谷城合戦、関宿城合戦、小山城合戦、高道祖原合戦、
三船台対陣、北条家・里見家の和睦、鬼怒川対陣、結城城合戦と、
関東諸勢力との地道な戦いが展開されます。
しかし、上杉謙信の死と御館の乱で再び混乱していきます。
武田勝頼は上杉景勝と結び北条氏政と対立していきます。
武田家は織田家・徳川家と長期抗争を展開していましたから、これにより危機的状態に陥ってしまいます。
北条家との抗争に全力を尽くした結果、高天神城は徳川家康に攻略されてしまいます。
そして、織田信長の武田征伐。

本能寺の変。
北条家は今までにない大規模な軍事行動を展開します。
神流川合戦では滝川一益を敗走させ、
若神子対陣と黒駒合戦では徳川家康と上野、信濃、甲斐をめぐって戦います。

徳川家・北条家の同盟が成立しますと、
徳川家は羽柴秀吉を相手に小牧・長久手合戦を展開。
北条家は佐竹義重を相手に小山合戦を展開。
さらに、信濃では上田城合戦、上野では沼田城合戦が展開され、真田家に対して共同戦線を張ります。

徳川家康が豊臣秀吉に臣従し、五代目当主の北条氏直も豊臣政権と和睦します。

そして・・・。

こんな感じかな?
北条氏政の時代っていろんなことがあっておもしろいですよね。
長文失礼。
786モナー厨 ◆MONA/EQ7K2 :04/02/18 15:04
昨日も小田原城を見た
ぅぃらぅ欲しかった
小田原城いいところにあるね
787日本@名無史さん:04/02/19 01:14
枡形は小学校の遠足で毎年のように行っていたし、
小机は現住所から気軽に行ける距離。
というわけで、って意味不明だけれど、
北条家の城をエピソード付きで紹介してくれると嬉しい。

つーか、関東に住んでいればたいていは
ソバに北条家に関わった城の一つや二つは
あるもんだよね。
788日本@名無史さん:04/02/19 02:28
北条氏政、そして城下町といえば、
世田谷のボロ市ですかね?
tp://www.tokyo-cci.or.jp/setagaya/to/boroichi.html
今川や織田などに比べれば遅いけれども、
氏政はやることはやっていますね。

実家の側にも二つ城があります(市だけなら三つ)。
リア消の時、母校の下で発掘調査をやっていたことが記憶に残っています。
初めて、堀(今思えば空堀)はやたら深くて広かったです。
敷地内に踏切があるのですが、
午前0時になると白馬にまたがった落ち武者がでるとかいう怪談もあったり。
ええ、悪名高い山口城ですが。
北条家の城というには抵抗がありますが、駿河の『蒲原城』を・・・。
武田信玄の駿河侵攻により北条氏康・氏政父子は武田家と敵対します。
北条家の軍事力により武田信玄の駿河経略が頓挫しますと、
第二次小田原城包囲・三増峠合戦と関東に大規模な軍事行動を起こします。
そして、その年の十二月六日に蒲原城合戦となります。
北条家の将、北条氏信以下、全員討死したとのこと。
その後、府中に侵攻し今川館で抵抗していた岡部正綱を説得、開城となります。
これにより、武田家は蒲原の塩田を確保したとのこと。

北条家の敗因は、武田軍の関東遠征に対し関東の兵力を集中し過ぎたため、
駿河方面の兵力が縮小されてしまったとのこと。

本丸跡から駿河湾を眺めることができます。
今年のお正月に見に行ってきました駿河の『興国寺城』を・・・。
伊勢新九郎の城として有名ですが、今回は垪和氏続が守将の頃で。
蒲原城が落城した翌年の五月、沼津千本松原合戦で武田家と北条家が軍事衝突を起こします。
そして八月、武田軍は黄瀬川に侵攻し、韮山城と興国寺城に攻めかかります。
武田軍の興国寺城の攻め手は馬場や高坂といった名将とのこと。
このときの合戦は、見事撃退に成功しています。

更に翌年、興国寺城は武田家の軍勢に再び攻められます。
武田信玄は撹乱戦法を図りますが、垪和氏続の冷静な判断により作戦は失敗します。
孤軍奮闘の末、垪和氏続は再度、武田家の軍勢を撃退することに成功します。
しかし、同時に攻囲されていました深沢城の方は善戦虚しく落城の憂き目に遭っています。

こんな激戦に耐えた興国寺城も甲相同盟が復活しますと、
武田家に編入されてしまったみたいです。
その後、織田信長の武田征伐の際に徳川軍が開城することに成功しています。

本丸跡から駿河湾を眺めることはできますが、少し遠いかも。
791780:04/02/20 21:24
探してみると、苗字と通称を略すのは1570年中頃から慶長頃までに多く
関東の大名国人はもちろん、徳川家や公家の日記とかでも略してる。
略し方も「苗字一字+官職一字」だけでなく
「苗字一字+官職or官職風or通称二字」というのもあった。
苗字+通称等の略称があるってことは、正式任官の線は消えるから
あとは家格か関係・書式の問題。
792日本@名無史さん:04/02/21 22:50
このスレアホばっか。何の話をしたいのか理解出来ない。
793モナー厨 ◆MONA/EQ7K2 :04/02/23 10:05
小田原と北条とぅぃらぅの話だよ
794日本@名無史さん:04/02/23 22:05
独り言ばっか
北条家と里見家の戦いって、
あまり取り上げられてないのは何故でしょう?
796日本@名無史さん:04/02/29 03:52
鶴ヶ丘八幡宮炎上
797日本@名無史さん:04/02/29 15:49
>>795
取り上げられるって何に?

個人的に中世は海を介しての交流が盛んだったってことで、もっと注目されてもいいと思うんだけどな。
798日本@名無史さん:04/02/29 17:21
>>795
友人曰く「花がない」だそうだ。
北条−里見に限らず、北条全般が。
799日本@名無史さん:04/02/29 23:32
八犬伝が盛り上がればあり得る!
大河ドラマでやってくれない・・・よなぁ。
800日本@名無史さん:04/03/01 00:39
八犬伝はさすがにないだろ・・・。
史実でもなければ、史実を元にしたって訳でもない。
西遊記とか封神演義とかと同じファンタジーだからな。
801日本@名無史さん:04/03/01 00:45
八犬伝で有名になっても里見だけのような。。

ところでおまいら、英勝院って姫の事に着いて教えておくれ。
よろしく頼むyp
北条家と里見家の戦いって、第一次国府台合戦と第二次国府台合戦はよく目にしますが、
三浦沖海戦や土気城攻防戦(酒井氏)、三船台合戦、北条家・里見家の和睦のことって、
大きく取り上げられてないかな〜と思いまして。
ついでに正木時忠の離反や里見家の内訌も。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と比べますと花が少ないですね。
803日本@名無史さん:04/03/01 11:09
三英傑に比べれば花があるはずないよ。
一般人にすれば、三英傑+武田・上杉・伊達・真田以外は眼中に無いかと。

関東に限らずだが、地方の覇者にもっと光を・・・
>>803
関東に限らす・・・本当にそうですね。

ところで、一般人に伊達や真田は厳しいような気が・・・。どうなのかな?
805日本@名無史さん:04/03/02 01:50
>804
真田より猿飛、伊達より後藤久美子の方が有名。
806日本@名無史さん:04/03/02 02:19
在日であることを盾にマスコミを脅迫する岩城滉一
http://society.2ch.net/test/read.cgi/mass/1061986603/l50
807日本@名無史さん:04/03/02 02:21
ロシア、北への軍事介入の可能性を示唆

ロシア外務次官、北朝鮮問題で軍事介入の可能性に言及=タス通信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040301-00000277-reu-int
同次官はタス通信に、
「このまま行けば、朝鮮半島では不信感が増大する。状況が悪化し、軍事介入の可能性が出てくる」と述べた。
808日本@名無史さん:04/03/02 10:25
>>801
家康の側室、お八・お勝・お梶のこと。法号が英勝院、鎌倉のお寺ね。
太田康資の娘、水戸頼房の准母になってる。
永井路子が小説にしてたりする目立つ側室だから、調べてみれ。

家康は武田、北条、里見、今川の旧家臣の娘を多く側室にしてるよ。
809日本@名無史さん:04/03/02 14:33
もしかしたら、そうやって旧○○家臣閥を形成・統率していったのかも。


とか無責任な事をのたまってみる。


>>804,805
伊達家・真田家というよりは伊達政宗・真田幸村の知名度って見た方がいいかも。
810日本@名無史さん:04/03/03 01:24
良く関八州っていうけど全部の名前教えておくれ。
初歩的な所で詰ってしまった。。
811日本@名無史さん:04/03/03 01:50
相模、武蔵、上総、下総、常陸、上野、下野、安房。
812日本@名無史さん:04/03/03 18:59
「4回の大粛清で日本人妻のほとんどが虐殺された。」そうです。
『北朝鮮という悪魔 青山健煕(元北朝鮮工作員)著 光文社』より


で、その虐殺の方法とは?

「女を処刑する朝鮮のやり方は局部にに太い火掻き棒を足で蹴り込み、
 内臓破裂で羞恥と苦痛のうちに絶命させる。赤ん坊、幼児は犬に食わせる。」
(「北朝鮮強制収容所」安 明哲 著 双葉社 より) 
813モナー厨 ◆MONA/EQ7K2 :04/03/08 13:36
ぅぃらぅ効く〜〜〜〜(;゚∀゚)=3
814日本@名無史さん:04/03/08 18:56
http://www.mkimpo.com/image/yasukunix/2003/P8150003s.jpg

日本人の右翼団体ならせめて「日韓友好」というべきだろう。
それもよりによって「韓日友好」なんて、冗談もほどほどにしてもらいたい。
これでは自身の国籍が韓国籍だって丸出しじゃないか。
韓国に不法占拠されている竹島問題や日本海の呼称を東海に変更する問題には一切触れず、
皇室のイメージを落とすだけの馬鹿げた街宣活動をして、一般的な日本人の顰蹙を買っている。
街宣右翼には韓国・朝鮮人が多数含まれているという話しはやはり事実だったんだな。
一体連中は何様もつもりでいるんだろうか?
もうキムチ右翼(在日右翼)はいらないから、さっさと在日は日本から出ていってくれ。
815日本@名無史さん:04/03/08 20:27
所領役帳って北条家じゃなくてどっかの家伝来だっけ?
氏直期のは作成されなかったんかね
816日本@名無史さん:04/03/13 18:07
写真で見る哀れなコリア

http://www.lastkorean.com/syashin.html
伊勢新九郎┬氏綱┬氏康┬氏政─氏直
(北条早雲)├氏時├為昌├氏照
        ├氏広├氏堯├氏邦
        |   |   ├氏規
        |   |   ├氏忠
        |   |   ├景虎
        |   |   └氏光
        |   └綱成┬氏繁┬氏舜
        |        └氏秀└氏勝
        └宗哲┬三郎
            └氏信─氏隆

※北条綱成
 北条氏綱の娘を娶って一門衆。
 次いで北条為昌の養子。
ひっそり書きます。

>>809
伊達政宗や真田幸村の知名度・・・。
やっぱり高いのでしょうね。ついでに上杉景勝とかも高そうね。
私的には、伊達晴宗や真田幸隆の方が気になるのですが・・・。

周りの友人は幕末維新モノが好きな人が多いので、
いまひとつピンと来ませんが。
819日本@名無史さん:04/03/22 01:42
>818
幸隆は凄すぎますね。
ただ活躍した範囲や、動かした軍勢の規模が
あまりにも小さすぎて・・・
昌幸や信繁のように全国的な戦に関わる
活躍がないからなぁ・・・

北条に絡めるなら、佐竹親父の凄さも際だっていますなぁ。
820外郎屋 ◆..A4f/JzwY :04/03/22 23:07
おひさ!!
>>817
氏直の弟達を忘れないで〜。
氏隆がいるなら、氏規、氏光の息子たちも…。
>>819
真田幸隆って少数精鋭の部隊の方が似合うかも。
大規模な軍勢は想像つきません〜。
佐竹は義昭の方?義重の方?どちらも興味ありますよ。

>>820
本当にお久しぶりです〜♪
氏隆が入っているなら・・・本当ですね。
家系図作りに専念し過ぎて忘れてしまった模様です。
では、花がない北条家と里見家の合戦を・・・。

1564年の第二次国府台合戦と岩付城攻略、
1565年の土気城攻防戦と第一次関宿合戦は、
北条家の対里見家政策の軍事行動と思います。
1566年の小田城攻防戦と臼井城攻防戦は、
北条家の軍事行動に対する牽制と考えてもいいと思います。

臼井城合戦に敗退した上杉輝虎に対し、
北条家は金山城の由良成繁を傘下に置き、
武田家は箕輪城の長野業盛を滅ぼします。
さらに佐竹義重が武田家と誼を通じ、北条高広が北条家に内応しますと、
上杉家の関東政策は挫折していきます。
いよいよ北条家と里見家の合戦が再開されます。
823日本@名無史さん:04/03/24 03:14
>821
鬼義重の方。
対北条だと義昭はちょっと違う気がするので。
>>823
了解。義重の方が対北条戦は長いですね。

前回の続き?
里見家の様子を簡単に見ていきますが、
第二次国府台合戦以降、
正木時忠が北条家に内応し里見家に反旗を翻しますが、
土気城の酒井氏を取り込んだりして勢力回復を図っています。
(でも、援軍・後詰は送られてはいません。)
里見義堯・義弘父子、がんばっていますよね。・・・多分。

佐竹家の様子も見てみますが、
小田城攻防戦以降、
佐竹義昭から義重に代替わりしますと、
陸奥へ度々出兵して北の安定を図ります。
また、下野の那須氏とも紛争をしています。

両家共に地道にやっています。
825クルブ ◆FQ2Izfm9To :04/03/29 23:22
北条といえば大阪狭山。
826日本@名無史さん:04/03/30 00:42
北条と言えば蟻の指物。   ・・・え?北条違い?
827モナー厨 ◆MONA/EQ7K2 :04/03/31 17:19
北条犬(ほうじょけん)

ぅぃらぅ残りわずかになっちゃった(´д`)
828日本@名無史さん:04/04/04 20:11
小田原かまぼこ桜祭記念。
829日本@名無史さん:04/04/05 00:14
小田原と言えば「めだかの学校」

ええ、北条と全然関係ないですよ?多分。
830日本@名無史さん:04/04/14 01:01
里見氏は新田氏の流れだよね?
北条の勢力圏にある鎌倉を二度も攻めたのか・・・
って北条違いだけれど。
831日本@名無史さん:04/04/17 03:30
小田原ではなく丹沢に籠もればよかった。
蛭が岳あたりならまず攻めては来ないであろう。
832太陽と雲より:04/04/20 02:51
荒縄城
833日本@名無史さん :04/04/21 13:36
>>720
高越山城は行ったことある?
眼下に山陽道と東荏原荘が一望。
漏れが行ったときは、
地元のオバサン達が眺めを肴に酒盛りをしていたw

ところで、過去ログで出たかもしれないけど、
宗瑞の父の肥前守盛定、兄の八郎貞興、
弟の弥次郎について知っている方、
詳しい情報キボン!
834日本@名無史さん:04/04/23 00:54
弥次郎は小田原城で戦死した!
くらいしか知らないな、役に立たなくてスマソ
835日本@名無しさん:04/04/23 09:34
>>833
盛定は備中守、晩年は備前守を称した。肥前守というのは初耳。
備中高越山城主で、伊勢貞国の娘婿となり、在京して申次衆をつとめる。

兄の貞興(貞守とする説も有力)は父が上洛して京に常住するように
なってからは、備中の所領を預かっていたらしい。弟新九郎の所領も彼が
預かっていたものと推測されている。応仁の乱では東軍についていた
らしいが、どのような働きをしたかはわかっていない。

弟弥次郎は宗瑞の小鹿範満討滅の時に共に下向したらしい。明応五年
(1496)七月、上杉顕定の命令で弟上杉房能(越後の守護)が
相模に侵攻したおり、扇谷方だった兄宗瑞の名代として、
援軍を率いて小田原城外の「陣城」に長尾景春らと共にいたらしい。
ここを攻める上杉軍との戦闘で戦死したといわれる。一説には戦死ではなく、
捕らえられて斬られたともいう。
通説では宗瑞の小田原城攻略はこれ以前で、城を取ったあと弥次郎を
城代にしていたと推測されてきたが、最近の研究では当時まだ小田原城主は
大森藤頼であり、したがって弥次郎は援軍の大将であることが
明らかになってきた。戦いの様子については宇津江氏所蔵文書にある、
七月二十四日付けの上杉顕定の書状にあるものから書いた。この時、
陣城の大将格だった大田六郎右衛門尉(大田資康の一族か)をはじめ、
三浦氏(道寸かその一族)、大森藤頼、上田一族らは逃亡して
相模西部の勢力図は一変した、と書かれており、この時弟を見殺しに
されたことで、宗瑞は扇谷朝良の了解を得て大森藤頼から小田原を奪った
と考えられる。大森氏が従来扇谷方だったこと、宗瑞はこの前からこの
8年後の立河原の戦いまでずっと扇谷方だったことからすれば、なんらか
の理由で扇谷朝良が小田原攻撃を宗瑞に許可したことは明らかで、おそら
くこの時に、大森藤頼が山内方に降伏か内通して敵になったからであろう。
836日本@名無しさん:04/04/23 10:02
今念のため確認したところ、
大田六郎右衛門尉は資康本人のこと。
ということは、大田資康、三浦道寸、大森藤頼がすべて
弥次郎を見殺しにしたわけで、この時の遺恨があとあとの
対立に影響していると見られる。伊豆攻略はあくまでも
新将軍義澄と細川政元から今川氏親と宗瑞への依頼によるもので、
独自の軍事行動(相模の攻略)を始めたきっかけが
この事件ではないだろうか。
837日本@名無史さん:04/04/23 18:13
>>834どの、
>>835=836どの、忝うござる!
盛定と貞興の没年、貞興の後嗣の有無、
弥次郎の諱などはまだ詳らかにはされて
いないのですね。
弥次郎の最期の状況がこれほど詳しく聞けたのは大収穫。
ありが10!
838日本@名無史さん:04/04/23 19:07
>>835
うお、目から鱗とはこのことか!
大変ためになりました、ありがとうございます。
839日本@名無史さん:04/04/23 19:30
後北条氏は、1万石の大名として明治を迎えてますね。何故? 大阪に配置されたのでしょうか?
840日本@名無史さん:04/04/24 19:13
小田原北条氏って鎌倉北条氏と全く無関係じゃないんだよね。早雲の母が鎌倉北条氏支流の子孫だとか。戦国武将の系図の捏造は実は母方でも親戚でもいいから○○氏の子孫との接点を強引に結びつけたのかも
841日本@名無史さん:04/04/24 19:16
井沢スレから着たんですけど、
現在井沢スレでなぜ北条は武蔵に力をいれず、
小田原を首府としつづけたのかを考えてるんですけど、
この件に関して皆様の見解を聞かせてもらえませんか?
842日本@名無史さん:04/04/24 21:31
>841
武蔵に力を入れなかったなんてことは無いでしょ。
まずは在地領主を整理しなきゃいけないんだから、時間が
かかる。それが済まないと首府移転なんて出来ないんじゃない?

後は費用と必然性の問題では?
843日本@名無史さん:04/04/24 21:48
北条が武蔵に勢力を伸ばしたのが氏綱の時代でしょ、
氏綱・氏康の二代を経ても出来ないことかな?
もし、武蔵に本拠をうつすなり、重点的に開発するなら
とっくにしていると思う。

疑問の中身がなぜ相模から武蔵へ移転する必然性がなかったのかだから。
844日本@名無史さん:04/04/25 01:41
>>840
早雲の母って?
845日本@名無史さん:04/04/25 04:20
氏直ってヘタレすぎ。徳川1万に、4万の兵で勝てないなんて。
846日本@名無史さん:04/04/25 11:23
>843
>北条が武蔵に勢力を伸ばしたのが氏綱の時代でしょ、
>氏綱・氏康の二代を経ても出来ないことかな?
>もし、武蔵に本拠をうつすなり、重点的に開発するなら
>とっくにしていると思う。

川越の合戦で上杉憲政ら旧勢力に大打撃を
与え、更に上野の平井城から追い落とした時点で
北条氏の関東制覇はほぼ確定した(約束された)といってもよい
と思う。それが謙信の登場により、振り出しに戻されて
しまった。

別にやる気がなった訳じゃないって。
847846:04/04/25 11:33
そもそも開発って表現がよくわからんし。
勢力圏全部が直轄地じゃないんだから。

武蔵についていえば、大石、藤田、太田
といった有力な国人を一族に取り込んで、
徐々に支配力を強めていってる。何をもって
力を入れていないというのかが、理解できない。
848日本@名無史さん:04/04/25 15:58
氏政が氏直に家督を譲った後に
江戸城に入り、近辺の施政を行っている。
現在も「ボロ市」として続いている吉良城城下の楽市とかね。
決して軽視していたわけではないけれども、
>846の言うとおり、武蔵は長い間紛争地域だったため
強力に行政を行える状況ではなかっただけ。
849日本@名無史さん:04/04/26 19:03
早雲の母名は知らないけど、「激禄日本大戦争・戦国武将の戦い」東スポ社。で早雲が伊豆を拠点としたときに父も平家だし、伊豆だし母の存原一族が鎌倉北条の流れだから。それにちなんで姓を北条にしたみたいなこと書いてあった!間違えてたらゴメン
850日本@名無しさん:04/04/26 19:17
>>849
桜井康雄(ペンネーム原康史。新日本プロレス中継の元解説者)
が書いたのだろ。そんな俗説だらけのもの、信用するなよ。
講談話すら採用しているくらいだから。
851日本@名無史さん:04/04/26 22:45
読み物としてはかなり面白い。
852日本@名無史さん:04/04/28 10:47
5/3(月)は小田原城址公園で「北条五代祭り」をやってるよ。
853日本@名無史さん:04/04/28 19:05
俺的には

早雲は母が伊勢貞国の娘で、貞国の養子。
北川殿は貞藤の娘で、貞国の養女がただしい気がする。
これだと兄妹で、姪の関係になるような気がするんだが
854日本@名無史さん:04/04/29 16:12
新高島駅の「高島」は高島嘉右衛門

高島嘉右衛門(1832−1914)は、「ハマの恩人」といわれ、天保3年(1832)、江戸三十間堀に材木商の子として生まれた。
後に開港後の横浜でガス・水道・電気事業のほか高島学校の設立・易学の普及など文明開化的事業を行い、
数多くの功績を残した人物。これらの事業の中でも代表的なものが、その後の横浜の発展に大きく貢献したといえる
鉄道用地の埋立事業。

現在の高島町、横浜駅一帯には「袖ケ浦の海」「野毛浦海岸」が広がり、神奈川から横浜の居留地まではかなり不便だった。
海沿いに「横浜道」も作られていたが、海に面した絶壁で、汽車を関内まで通すには地形的に無理があった。
そこで鉄道を通すために湾の部分を埋め立てる計画が浮上。
嘉右衛門は鉄道・国道用地の埋立てを請け負い、神奈川から横浜への湾の入口部分を幅63m、長さ1,400mにわたる築堤を造成。
ショートカットするように埋め立て、当時としては最新式の蒸気泥揚機などを用い鉄道線路を敷設する工事を135日で完成さた。
これにより明治5年(1872)、横浜(現、桜木町駅)から新橋(現、汐留)間に鉄道が開通。

嘉右衛門も後日談として「一坪を埋めるのに三坪を埋めるような苦労だった。」といっている。
鉄道、国道用地以外の土地は嘉右衛門の土地となり、「高島町」と名づけらた。町内に高島嘉右衛門の功績をたたえるものとして、
高島山公園と望欣台(ぼうきんだい)の碑(横浜市地域文化財)がある。


http://mm21railway.co.jp/www/yokohama/sintakasima/index.html
855日本@名無史さん:04/04/29 16:13
発メロは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだオルゴール調の音で鳴り響いて、
胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私は
みなとみらい線一日乗車券を指で千切る。細長く、細長く。紙を裂く耳障りな音は、
孤独の音を消してくれる。気怠げに見せてくれたりもするしね。
みなとみらい? 元町・中華街? ハッ。っていうこのスタンス。
あなたたちは「特急 元町・中華街」の幕をつけたY500系を見てはしゃいでいるみたいですけど(苦笑)、
私はちょっと遠慮しておく、だってここ、新高島だし。
ま、みなとみらいや元町・中華街ではしゃいでいるあなたたちを想像ながら
みなとみらい線一日乗車券でも千切ってますよ、
気怠く。っていうこのスタンス。

856日本@名無史さん:04/05/01 17:31
イラク戦争反対デモで「北朝鮮に核兵器を持つ権利を」てなプラカードを掲げている人がいました




http://www3.to/kokubou/demo_01.html



今回の事件に絡んだデモの写真ですが、なぜか「小泉首相は靖国神社に参拝するな」という文字が


http://www.nikkei.co.jp/news/main/im20040409IM749003_09042004.html
857日本@名無史さん:04/05/01 22:56
伊勢殿は朝廷に泣き付いて
関東ではったりの利く北条姓に改名しました
858日本@名無史さん:04/05/02 21:47
五代祭りの実況まだぁ?
859日本@名無史さん:04/05/03 00:12
>>857
根拠は?
860日本@名無史さん:04/05/03 09:08
改姓は氏綱以後でないかい
861日本@名無史さん:04/05/03 14:54
ま、
>関東ではったりの利く北条姓に改名しました
の部分はその通りかと。

いくら伊勢が名家とはいえ、関東では「誰それ?」レベルだからな
862日本@名無史さん:04/05/03 22:31
「誰それ」じゃなかったとしても「余所者」か「敵」だろうからな
かなり今更ながらですが・・・

>>833
岡山県は岡山城しか行ったことがないです〜。

>>852
GWにお城巡りをしました。
小田原北條五代祭りも見てきました!
人がたくさんいてビックリしました。
864日本@名無史さん:04/05/06 00:53
スレ違いかもしれないが、
飯にかける汁がおたま一杯分で済むって事は
結構大きなおたまだよね?
氏康在命当時ってそんなモノがあったのかな?
865八幡太郎 ◆HachiWePRs :04/05/06 10:44
わたしも五代祭行ってきましたよ。
市長のパレードが通り過ぎたらはれましたので、
雨男は小田原市長に決定です。

そもそも天気予報は晴れでしたから。
866日本@名無史さん:04/05/06 21:17
>>841
箱根と津久井(武田)、三浦半島(里見)、これに対応するには東遷しても鎌倉が限度じゃないか?
>>841
興国寺城を居城にするには何かと不便かな。
韮山城は伊豆の統治には向いていたと思います。その上、防衛力も高いから都合もいいかな。
小田原城は相模・武蔵の平定戦には向いていたと思います。

ここから先は上野・下野・常陸・下総・上総と戦略が拡がりますから、
岩付城辺りが戦略上都合がいいかも。
1564年の第二次国府台合戦(この後太田資正は追放)
1565年の第一次関宿合戦
1566年の由良成繁の北条家服属
1567年の三船台合戦(太田氏資の戦死)
この辺に地盤固めを感じます。

この後は越相同盟や対武田戦略のため一時頓挫してしまいますが。

江戸城は小山が多過ぎて大規模な城を築くには不向きかな。
868日本@名無史さん:04/05/10 23:52
武蔵への首府移動について聞いてんのになんで西に行くんだよ。
>>868
西には行きませんよ。
武田家との戦いがある以上、
駿河方面で軍事作戦を展開するには居城を小田原城から移すのは得策ではないと思いますし、
上杉家との同盟を(形だけでも)維持するには武蔵に居城を移すのは得策ではないと思います。

北条氏康の死後、氏政が後を継ぎますと、
深谷城を傘下に治めたり、関宿城を開城させたり、小山城を攻め落としたりと、
また、地盤固めを再開しています。
上杉謙信の関東における戦略も破綻しているように見えますし。
870日本@名無史さん:04/05/12 12:41
他の大名は何で首府移動をしないの?
871八幡太郎 ◆HachiWePRs :04/05/13 02:23
武田とかは移動していますね。調べれば結構あるのでは?
872日本@名無史さん:04/05/13 12:36
武田勝頼の事ですか?
あれって首府移動になるの?
873八幡太郎 ◆HachiWePRs :04/05/13 15:40
>>872
いえ、移転したのは信玄の父、信虎です。
ほかにも、毛利、織田、豊臣などが首府移転しています。
874日本@名無史さん:04/05/13 18:09
ほとんど参考にならないよ。
毛利が郡山から広島に移転したときは本領を外敵に襲われなくなってからだし、
豊臣は天下人の余裕、織田時代の居城移転はただの転勤命令。

唯一織田は尾張統一戦時代からころころ居城を変えているが、例外も良いところでは?
875日本@名無史さん:04/05/13 20:59
>>874
なんの参考にするの?
876日本@名無史さん:04/05/13 22:01
毛利・豊臣の本拠移転は戦国時代のそれとは事情が異なるから
戦国時代の、北条の本拠移転話とは切り離して考えた方がいいんでないか、っ事。
877日本@名無史さん:04/05/14 02:23
真田幸隆
真田の庄>砥石城

真田昌幸
砥石城>岩櫃城>上田城>九度山

真田昌幸
岩櫃城>沼田城>松代城

真田信繁
九度山>真田丸
878日本@名無史さん:04/05/14 02:24
#真田昌幸
#岩櫃城>沼田城>松代城

信幸だった・・・スマソ
879日本@名無史さん:04/05/14 04:31
…釣り?
さもなくば、阿呆だな。
880日本@名無史さん:04/05/14 09:24
>>876
武田は?
881日本@名無史さん:04/05/14 12:34
>>877
九度山に居城を移したというのか?
真田家を入れるなら柴田勝家や丹羽長秀といった家臣も入るな。

ところで長曾我部家はどうよ?
882日本@名無史さん:04/05/14 21:00
家臣の入封・転封はなしでしょ。

>>880
だから、わざわざ武田は外してるでしょ。
武田の例は織田同様、戦国期の首府移動のケースかと。
883日本@名無史さん:04/05/14 21:08
今日仕事で行った先の隣、(小田原の街中)に氏政、氏照の墓があった。
早雲寺だけじゃないんだ。鈴がおみくじみたいに柵のところに付いてた。

三日のパレード、三年前も途中で雨が止んだ。
(神輿担いでいるけど御神輿が出発すると止むんだ)
御神輿、小田原流の担ぎ方(木遣りを唄って、その後提灯を持っている人の
所まで走る)って他でもあるのかな?
884日本@名無史さん:04/05/14 23:22
主君の命令でなく、また、天下泰平になってからでもない本拠地移転って、
信長と政宗くらいしか知らんなあ。
まあ、大抵は本拠地から同心円を描くように領土拡大するからなあ。
海の近くだったり、同盟国があったりすれば別だけど。
885日本@名無史さん:04/05/15 02:56
>881
長宗我部は秀吉の時代に
岡豊城から浦戸城へ。
886日本@名無史さん:04/05/15 03:50
家康も岡崎から浜松へ。毛利も吉田から広島へ。北条は(以下略)
887日本@名無史さん:04/05/15 04:41
親子喧嘩が原因で伊達から米沢へ本拠を移した伊達とか
888日本@名無史さん:04/05/15 04:59
家康や信長は、領土全体から見て本拠地が西(あるいは東)に寄り過ぎていたからだろ?
毛利の場合も山間部という不便さからだと思う。
北条や朝倉は100年ぐらい移転なし。
この差はなんなんでしょうね?
889日本@名無史さん:04/05/16 19:38
信長が信玄の立場だったら、信濃に本拠を移しただろう。
信長が・・・氏康だったら、やはり小田原からは動かなかっただろう。
氏政だったら、思い切って関宿に入ったかも。
890日本@名無史さん:04/05/16 22:59
たらればの話なんか止めなよ
891日本@名無史さん:04/05/17 12:42
>>882 >>885
あんがと!
真田は家臣だから無しな。

>>889
なぜ関宿なんだ?
>>867>>869の意見と同じ考えかね?

>>890
批判しかでなきいのか?
まるで野党だな。
892日本@名無史さん:04/05/17 13:51
>891
で、あんたの意見は?
893日本@名無史さん:04/05/17 19:23
>>889
実際に氏政が入っているように、
小田原より江戸の方が関東経略に向いていると思う。
関宿は常陸・下野戦線の重要拠点だけれども、関東全域を睨めないかと。
894日本@名無史さん:04/05/17 21:23
>>891
あんた、場をわきまえよ!つまんないよ
895889:04/05/17 23:10
関宿城は睨みが利かないというけれど、関宿城の戦略的価値は相当高い。
現に氏康も簗田氏を古河に移して、公方を関宿に入れたりしてた
関宿なら下野常陸は勿論、上野にも出やすいから
信長が、西が万全な氏政時代の北条家当主なら、大胆に居城を代えたろうなと。
896日本@名無史さん:04/05/18 00:57
>891
真田は武田滅亡後に自立してるじゃん。
897日本@名無史さん:04/05/18 02:16
>>895
戦略的価値は認めているだろう?
しかし、関宿と江戸を比べれば、
海運・河運・陸運の面だけ見ても江戸の方が上だと思うが。

>>896
交戦権のない大名は自立しているとは言わない。
武田滅亡後は北条・徳川・上杉・豊臣と主を変えてるぞ。
悪いが、真田は一年と自立したことはない。
898日本@名無史さん:04/05/18 02:26
>897
真田vs徳川&真田vs北条
上杉や豊臣の指示で戦ったわけではない。

つか、これでも認めないと言うのなら
かなりの大名も消えることになるな。
899日本@名無史さん:04/05/18 02:41
>>898
消えると思うが。
900日本@名無史さん:04/05/18 02:57
>>898
消えるだろうね。
vs徳川、vs北条は、形としては上杉及び豊臣の外藩として戦っている。
何故なら、後ろ盾になってもらっているから。
この時点で独自の交戦権を放棄しちゃっているんだよ、真田は。

たぶん大名の定義で差異が生じていると思う。
後北条を語る以上、大名=戦国大名じゃないの?
901日本@名無史さん:04/05/18 06:52
最近、氏政の見直しがあるね。
そうだろう。氏政こそ北条家の最大領土・全盛期を築きあげた縦役者だしさ。
今まで凡庸だの暗愚だの言われてたのが馬鹿らしい。

氏政の落ち度なんてのは最後の滅亡の時の篭城策だけで、
それすらありがちな老いてからのミスでしかないよね。
さまざまな名将も老いると愚かな行動とる事があるしね。
というかあのケースは氏康でも篭城策をとって滅びてたと思うよ。
902日本@名無史さん:04/05/18 07:11
>>888
信長に関しては定説どおり、
彼の革新性や野心の現れと見て問題なし。
信長は最終的には大阪を目指したと思われる。
家康の信長に習ったんだろうね。
毛利は彼らとは違って
単に田舎すぎたから開けた所に移っただけの
旧来の発想だろう。
903日本@名無史さん:04/05/18 11:09
氏康は氏政に比べたらちょこっと中央政界気にしてたと思う
そういや氏康は伊勢を名乗ってた時代を知ってるんだよね
904日本@名無史さん:04/05/18 12:45
>>892
あんたの目は節穴かい?

>>894
正義の仕切り屋登場ですか?
わざわざageているあたり自己正当化を感じるね。

>>895
あんがと。
上野に出やすいとあるが、上杉に当たるには厳しい立地じゃないかえ?
あと、
信長が首府移動できたのはさ、清洲同盟があったからだろ?
同盟国の武田があんなんじゃさ、信長なら絶対にしないと思うがどうよ?
浅井長政が生きているうちに安土城へ移動していれば解るが。

>>896
真田があんなんで自立というなら、
柴田勝家や丹羽長秀も立派な大名だな。木曽義昌もな。

>>898
真田は豊臣・上杉に踊らされていたがな。
本人もその事承知だし。

>>892よ、これくらい解るように意見しておけば満足かい?
905日本@名無史さん:04/05/18 12:47
あ、わるい。
俺様もageてしまった。
鬱だ。
906日本@名無史さん:04/05/18 13:09
基本的質問ですみませんが教えてください。
徳川家は上杉景勝を倒そうと侵攻しましたよね?なのに何故豊臣と敵対して徳川と共闘しているのですか?
907日本@名無史さん:04/05/18 17:17
>>906
意味がよくわからん。
本能寺以降の上杉はずっと親豊臣だよ。
908日本@名無史さん:04/05/18 17:31
とにかく>>906はなにか勘違いをしているとしか思えん。
上杉が徳川と共闘して豊臣を倒そうとしたなんてケースは大阪の陣までいかないとないぞ。
909日本@名無史さん:04/05/18 17:35
「徳川と共闘して豊臣を倒そうとした」に
あてはまるのは大阪の陣を除いては佐々成正くらいだなあ。
北条は徳川と同盟関係だったけど、
そんな行動は起こしてないし小田原の陣で仲違いしたしな。
910906:04/05/18 19:07
すみません、大阪の陣のことです。
五大老の一人だったことは知っています。

直前まで徳川とは敵対だったはずですが、何故徳川側にいるんでしょうか?
911日本@名無史さん:04/05/18 19:34
関ヶ原の時は、徳川の上杉征伐は有力家臣同士の抗争って構図だったけど、
大坂の役当時の上杉は徳川に屈服しているから、逆らうなんてあり得ない。

ていうか、その程度のことくらい中学校の教科書でいいから見ろよ、載ってるから。
大体、直前って関ヶ原から大坂の役(冬)までは14年あるぞ。
912日本@名無史さん:04/05/18 19:42
>>910
は?
大坂の陣までいったら
いくらなんでも上杉家は徳川配下・江戸幕府の一大名にすぎないんだから、
幕府の命令を聞き出陣するのは当たり前でしょう。
上杉に限らず毛利、前田、佐竹、島津など豊臣に近い大名、関ヶ原で西軍についた大名全てが徳川方として出陣した。
豊臣についたのは豊臣家の家臣と関ヶ原で負けるなどして浪人になった武将だけ。

つーか、あんた根本的な知識が不足してるね。
上杉は関ヶ原で西軍として参戦し降伏、120万石の領土を30万石に削られ完全な徳川配下の一大名になってしまった。
関ヶ原以降は徳川家康が天下人で豊臣を除く日本のすべての大名が徳川傘下になってしまったの。
それに対して豊臣家60万石の一大名に転落したんだよ。
913日本@名無史さん:04/05/18 19:46
多分、ぬ>>906は子供なんだと思うよ。

まあ日本が第二次世界大戦でアメリカと戦って負けて降伏し、終戦後はアメリカの子分になったのと似ているかもね。
日本だけじゃなくイタリアもドイツ(東西分割されたが)も基本的には終戦後アメリカの子分になった。
戦って負けて降伏すれば子分にされてしまうんだよ。
914日本@名無史さん:04/05/18 19:52
まあ>>906の言っているのは
何故、日本は直後までアメリカと戦っていたのに、
太平洋戦争終戦5年後の朝鮮戦争では
アメリカを支援しているのか?
というようなものだな。
915日本@名無史さん:04/05/18 20:06
話しがえらくズレだな
916日本@名無史さん:04/05/18 20:58
今気がついた。
>>906の徳川の上杉侵攻は会津征伐の事なのか。
スレの流れから、本能寺前後に徳川が上杉を攻めたのかと思ったよ。

ま、あれだ。
三戦板で揉まれてこい。
その前に、しっかり勉強してな。
917日本@名無史さん:04/05/18 21:20
つーか、なぜ後北条スレでその質問をしようと思ったのか、それが分からない……
918日本@名無史さん:04/05/19 02:05
>911
影勝って、関が原の後も抵抗していなかった?
919日本@名無史さん:04/05/19 02:30
>>918
影勝はしていたかもね、景勝はしていないけど。

いい加減、北条に関係のない上杉話止めようや。
どうしても話したいなら余所へいけ。
920日本@名無史さん:04/05/19 10:39
>>906が言いたいのは細川・前田などが密かに傍流を大坂方で参陣させていたのに
なぜ秀吉に大恩ある上杉はそうしなかったのかが言いたかったのかもしれないぞ


ところで狭山北条は大坂の陣でどこぞの旗下に加わっていたのでしょうか
921日本@名無史さん:04/05/20 23:48
素朴な疑問なんですが、北条氏って上杉に攻められると必ず小田原城で篭城しますよね。
敵に本拠地まで攻められるってことは軍勢が弱いのですか?
篭城して兵力を減らさないほうがいいや、敵は兵糧つきるしさって感じなんですかね?
国境で上杉を迎え撃つという考えはなかったのでしょうか?
上杉を迎え撃ったがあまりに強いので篭城にしたのでしょうか?
たまにはレスしてみます。

>>921
長尾景虎の小田原城包囲戦は1561年だけで、その時の長尾家は10万の軍勢で包囲したとか・・・。
誇張があるにせよ、まともに戦うには厳しいような気がします。

兵糧が尽きるのを待ち、または襲ったりして心理戦を展開し、疲労させて士気を削ぐことが得策かと。
さらに武田家の北信濃での軍事行動もありますから、
小田原城包囲を続けることができないこともわかっています。

越後を攻め取るつもりが無い北条氏康からみれば戦っても意味が無いので、
わざと戦わなかったというのが本音のように思います。

他の関東遠征は小田原城どころか河越城にさえも攻めることができていません。
923日本@名無史さん:04/05/21 05:56
北条関連で詳しいHP教えて下され
924相模の某:04/05/21 06:49
>>923
「++がけっぷち(戦国北条氏のすべて)++」、「新・北条五代記(小田原市HP)」
この2つのHPがお薦め。基礎知識が身に付く。
925日本@名無史さん:04/05/21 12:36
上杉謙信は小田原から撤退する時、北条氏康の追撃にあって命からがら逃げ帰っているよね。
926日本@名無史さん:04/05/21 12:45
ところでよ、
謙信は何で小田原城を攻めたのは一回なんだ?
927日本@名無史さん:04/05/21 13:16
>>926
人にものを訊く態度じゃないな。
知識云々の前に礼儀を学べ。
928日本@名無史さん:04/05/21 14:51
>>926
一回しか攻めなかったんじゃない。
一回しか攻められなかった。
北条の防衛網の固さや
兵たんが頼りなかった。
小田原を唯一攻める事ができたのは
その時は関東の諸将が団結して上杉に協力したから。
929日本@名無史さん:04/05/22 01:38
ぶっちゃけ、
上杉謙信の人心掌握の下手さが原因。
国元では国衆に歯向かわれるわ、関東諸将に愛想尽かされるわ。

あとは、謙信に戦果を挙げさせないようにつとめた北条の戦略勝ち。
930最近荒れているように見えるが?:04/05/22 12:42
>>927
>>926のレスを読みましたが、
特に礼儀を逸しているように見えないのですが?
あなたの方が高圧的かと?
あと、北条のことを書いてないのもいただけない様に見えるが、
俺の思い込みかな?

謙信は関東へ何しに来ているんだ?
何か成果はあったのかな?
931日本@名無史さん:04/05/22 13:36
>>930
>謙信は関東へ何しに来ているんだ?
権威を失ったとはいえ、関東管領職。
義を重んじ、関東管領の威信を回復するべく、
関東へ出兵しちゃわるい?
932日本@名無史さん:04/05/22 17:54
略奪のため
933日本@名無史さん:04/05/22 18:46
威信回復も出来て無いしなぁ・・。
934日本@名無史さん:04/05/22 21:09
>>930
越後国内を治めるために何らかの権威に
すがろうとしたんじゃないかな。
一般的に義を重んじたといっているけど
それだけじゃないと思うんだよね、当然だけど。
関東管領の威信回復なんか二の次だと思ふ。
935日本@名無史さん:04/05/22 21:17
ちと、話が変わるが、江戸時代も北条家が大名家として存続し、明治まで健在だったことは、このスレに来るようなお前らなら全員知っているよな。
936日本@名無史さん:04/05/22 21:21
明治までですか?
今は存続していないんですか?
937934:04/05/22 21:29
今も確か狭山系の北条氏の末裔さんはいるよ。
墓参りには余り来ないけどね。
何処か忘れたけど北条氏の宝物などが
公開された時にセレモニーっぽいのに参加してた
938クルブ ◆FQ2Izfm9To :04/05/22 21:47
>>937
ふっふっふっふっふ
939日本@名無史さん:04/05/22 22:29
>>935
何の疑いも持たず「きたじょう」と読んで
「北条毛利家は大名として存在してたのか!?」
と思ってしまった。
940日本@名無史さん:04/05/22 22:50
……ここを何のスレだと思ってるんだ……

>>935
子どもの頃は遊園地という認識しかなかった。
941日本@名無史さん:04/05/23 02:00
秀吉に滅ぼされた北条家も、陶晴賢に滅ぼされた大内家も、斎藤道三に滅ぼされた土岐家も、江戸時代大名家として存続しました。
ただし、大内家は「山口」姓を名乗りました。
942日本@名無史さん:04/05/23 02:23
氏直も信玄の血が流れてるんでしょ
どうして信玄の子孫はバカばかりなの?
943日本@名無史さん:04/05/23 02:29
>>941
江戸大名の土岐家はもともと菅沼氏。もっともその前は明智氏。
同じく山口氏も自称大内裔。根拠は無い。
944モナー厨 ◆MONA/EQ7K2 :04/05/23 16:19
体調が悪いのでぅぃらぅホスィのぅ〜
945日本@名無史さん:04/05/24 01:13
前々から思ってたんだけど、そのぅぃらぅってなに?
946日本@名無史さん:04/05/24 02:03
〔純正生薬製剤 家伝霊薬 透頂香(とうちんこう) ういらう〕  〜以下説明書による

概歴

 祖先は 、元の順宋に仕へ大医院となり礼部員外郎といふ役であったが明が元を滅ぼすと二朝に
仕へる事を恥じて日本に帰化して陳外郎と称した。其の子宋奇が後小松天皇の御代足利義満の
命に応じて明国に使いして家宝の「霊宝丹」を伝えた。効能顕著であったから、朝廷、将軍家をはじめ
皆之を珍重した。これにより時の帝より「透頂香」の名を賜った。透頂香は時とともに益々霊薬の名高く
陳外郎の薬と申すところか此薬を外郎「ういろう」とも呼んだのである。上 述のごとく、五代目が早雲に
招かれて小田原に来住し「八棟造」の家屋と共に小田原の名物として有名になった。

又歌舞伎十八番の「外郎」としても十辺舎一九の弥次喜多膝栗毛によっても遍く知られる処である。
「ういろう」は日本で最古の歴史を持つ薬である。

特徴(一部抜粋)

 純正生薬製剤であるから副作用、習慣性がない。慢性病・胃腸・心臓・気管・乗り物酔い・感冒・食中毒等
その他広汎な薬効を有する。長年経っても変質する事なく遠路の地に携帯するに便利。

旧東海道 道草ハイクより抜粋
947日本@名無史さん:04/05/24 02:29
小田原評定で小田原の名を汚した北条
地元では知名度では名古屋に負け
毒にも薬にもならないし、うまくもなんともない
グニャグニャな外郎の名を借り
すげさんでいます。

小田原市役所市制便りより抜粋
948日本@名無史さん:04/05/24 18:15
いや、小田原市が恥ずべきは
小田原評定でもういろうでもなく、

あ の 動 物 園 だ
949日本@名無史さん:04/05/24 22:52
小田原は昔から地震が多い。
950日本@名無史さん:04/05/30 18:36
 _| |\ | _  |\     /         \     ./|  |/|  |
 |_   ̄| | |__,| |  \  .| ○    ○ |   /. .|  |  |  |
 _| .l二. | _  | | ̄ ̄ ̄|   .|___|    .| ̄ ̄ ̄| . |  |  |  |
 |_  _| L]\| .| \. ̄ ̄|    |  |     | ̄ ̄./ ...|_|  |_|
 \ | |\\  .| .|-'''"`ー-、|   ', /     .|、,, /  / /./ /
    |__,|  \r'' |___|ヽ,.r.・:,".\   ∨   /・:`)"`). /□ ./□
   ・., \ー'"\ ;・\,,.r─''"゙゙`‐-、/ r''⌒`/ ,--、・// .//,..
 ・''"⌒ヽ、 {"∴ \ r''`"r、r-'''`ヽ、,,  `)  /''"⌒r''"`` /r''"
   ,,.-\. /■\   ∧∧ ∧_∧  ∧∧  ∧_∧ -、,,_
 .",.r''" (´∀`∩) (*゚ー゚) ( ´∀` ) (゚Д゚,,) (・∀・ )   `・
      (つ  丿 とと ./ ⊂    つ(|  つ (    つ
      ( ヽノ 〜  / /  ∧ \ |  〜 .|  ト、 \
951日本@名無史さん:04/05/31 20:15
あんなに狭いとこに入れられた象さんがかわいそう
952モナー厨 ◆MONA/EQ7K2 :04/05/31 23:27
ゾウたんは1度ノイローゼになったでつ
953895:04/06/03 22:36
>>897
関宿は当時の河川流通の要(江戸湾=大日川=古利根川と銚子沖=現利根川の集結地)
鎌倉街道も近くを通っていて、陸路にも申し分ない。
>>904
当時の渡は妻沼(=長井)にあったから、上野に出るのにも問題ない。
関宿に首府があれば、由良や佐野への牽制にもなる。
信長は安土に居城を移した後、武田氏に東美濃を攻め取られているから
安土遷都と徳川との同盟は関係ないよ。
長政が生きてるうち、北近江が浅井朝倉の勢力圏だった間の安土遷都はどう考えても無理
鈴鹿ルートじゃ大軍動かせないからね。資質なんか関係ない。
954日本@名無史さん:04/06/03 23:24
保守age
955モナー厨 ◆MONA/EQ7K2 :04/06/11 08:44
ぅぃらぅ ドゾー(・∀・)つ∴
956日本@名無史さん:04/06/12 15:02
小田原開城まだー?
957日本@名無史さん:04/06/12 16:47
>>956
あと一ヶ月ばかしあとですよ、我慢しなさい。
そろそろ白装束を着た片目の奴が来るからそれでも見てニヤニヤしてなさい。
958日本@名無史さん:04/06/13 23:19
>>953
鎌倉街道って、街道はそれだけじゃないだろ。
東海道・甲州街道・鎌倉街道など四方へのびる陸運に
江戸湾の海運、北部関東への河川流通が集中している。
また前線からそれなりに近く、かつ行政に差し支えないほど離れている江戸の方が
首府としては最適だと思うが・・・。

ていうか、結局移転しなかったんだからもうよくね?
959モナー厨 ◆MONA/EQ7K2 :04/06/18 19:29
胃が痛いのでぅぃらぅで落ち着きたいところですなぁ
960日本@名無史さん:04/06/23 00:06
>>924
どっちも通説ばかりで、
最新の研究が入ってないのが不満。

足利茶々丸が甲斐へ逃げて
そこで滅ぼされたことや、
早雲の没年が88歳ではないことは
ほとんどわかってきているんだが。
961日本@名無史さん:04/06/23 17:07
>>961
>足利茶々丸が甲斐へ逃げてそこで滅ぼされたことや……

えっこれは知らなかった! 詳しく教えてください!
甲斐の誰を頼ってどこいらへ逃れたのですか?
甲斐で茶々丸を滅ぼしたのは、宗瑞が兵を率いて甲斐に攻め入ったのですか?
それとも葛山か小山田あたりでしょうか?
年月はいつ頃でしょうか?
質問君ですみませんが、お願いします。
962961:04/06/23 17:10
>>960でしたスマソ。
963日本@名無史さん:04/06/24 20:34
>>961
茶々丸については、家永遵嗣教授が
論文「室町幕府将軍権力の研究」で
発表した研究結果としては、茶々丸は
伊豆を脱出して山内上杉顕定と武田信縄
(甲斐の国主で信玄の祖父)に保護され、
武蔵の西部(はっきりした居住地は不明
だが、おそらく八王子の近辺)、ついで
甲斐郡内に住んでここから伊豆国内の
反早雲勢力(狩野道一、関戸吉信など)
らを糾合して巻き返す機会を窺っていた
ことが明らかになった。この間、早雲は
両上杉氏の対立において扇谷上杉定正、
その死後は養子の朝良に従っており、
山内上杉顕定が茶々丸を保護、支援
したのもそれによって扇谷方の重要な
戦力である早雲の勢力を削ごうとした
ものだろう。また、今川氏親と武田信縄
も国境でしばしば衝突しており、信縄も
氏親の後見人的な存在だった早雲を
叩こうとしたのであろう。早雲は明応七年
八月に甲斐に侵攻して茶々丸を攻め
滅ぼし、これによって伊豆の反早雲勢力
は旗頭を失って滅ぼされるか降って
早雲の伊豆侵攻は足かけ6年目に
ようやく平定させた。
化に入った。
964日本@名無史さん:04/06/24 20:42
詳しく言うと、武田信縄は父の信昌、
弟の油川信恵と対立して甲斐に内乱
があり、氏親と早雲は信昌、信恵を
支持していた。信縄の南下政策を
警戒したためだと思われる。

また、早雲の伊豆侵攻は彼の野心に
よるものではなく、明応の政変と連動
した一種のクーデターであることも論証
されている。つまり、京の足利義澄、
細川政元、伊勢貞宗(早雲の母方の従兄弟
で政所執事)によるクーデターと呼応し、
義澄の異父兄茶々丸を滅ぼしてしまおう
というものだったのである。
茶々丸は義澄の生母円満院と同母弟
潤童子を殺害して堀越御所を乗っ取って
おり、義澄にとってこれは母と弟の復讐
だったのである。
この論文は非常に面白いので、
早雲とその時代に興味がある方は
一読をお奨めする。東大の図書館か、
国立国会図書館にあるよ。
965日本@名無史さん:04/06/24 22:16
>>963-964
961ではないけどthx。

早雲の伊豆侵攻については一度このスレで上がってた気がするな。
966日本@名無史さん:04/06/28 21:51
廃墟スポット  天神山城主(秩父郡長瀞町岩田)
967961:04/06/29 17:37
>>963-964
>山内上杉顕定が茶々丸を保護、支援したのもそれによって扇谷方の重要な
>戦力である早雲の勢力を削ごうとしたものだろう。

早雲が堀越御所を攻撃した時点では、早雲はあくまで今川家中の
駿河守護代格の立場の人間であり、扇谷方の重要な戦力とはいえなかったのでは。
また堀越公方足利政知が京から下向して来たのは、山内上杉と対立した
関東公方→古河公方足利成氏の代わりの公方として、山内上杉が幕府に請うて
迎え奉り、自分の分国である伊豆に住まわせていたものであるから、
茶々丸を庇護するのは当然のことと思われ。

茶々丸は大森または三浦の許に逃げたという説は聞いたことあったけど、
ピンとこなかったので漏れ的には堀越で討たれてましたが、
甲斐の郡内に変更します(?)
963さん、ありがとうございました。
968日本@名無史さん:04/06/30 19:33

戦国北條氏少し調べてますが、時々「差別」の問題に遭遇したりしますね。
歴史研究では当たり前のことなんでしょうが。

最近はそっち系のほうが中心になってしまった。

皆さんはどうですか?
969日本@名無史さん:04/07/01 00:50
>>968
そんな物にぶち当たった覚えはないが具体的にどんな差別?
970日本@名無史さん:04/07/01 10:49
969に同意。抽象的な表現は混乱を惹起する虞がある。
具体的な史料を明示し、説明を求める。
971日本@名無史さん:04/07/02 22:09
>>967
963だけど、
たしかに堀越御所を攻撃した時点では
君の言うとおり、今川家の守護代、もしくは
後見人的な立場だし、早雲の代はずっと
そうだった。
ただ、早雲は攻撃の直後ぐらいには
すでに扇谷上杉定正に好を通じており、
扇谷方の援軍として高見原の戦いでも
出兵している。ちなみに高見原の戦いは
明応三年(1494)だよ。さらに、山内
上杉顕定は明応五年(1496)には
弟の上杉房能らと共に相模に侵攻して
早雲ら扇谷方と合戦して早雲の弟
弥次郎らが戦死している。
茶々丸が殺されたのは明応七年
(1497)七月だから、これらの点からも、
早雲が今川家との関係とは別に、
関東では扇谷方としての活動を
していたことは明らか。
もちろん、君の言うとおりの深い関係が
堀越公方家と山内上杉の間にはあった
から、敵の敵を味方にしようという
意図から、早雲と扇谷が手を組んだ
んだろうね。
972日本@名無史さん:04/07/03 02:23
今川本家は関東の方には全く関与せず?
973名無しさん@お馬で人生アウト:04/07/03 03:55
>>972
それ以前は
関東で騒乱があると、幕府の命令で
今川が関東へ出兵していた。
信濃の小笠原、越後の上杉(山内の分家)
と共に、幕府が関東公方への監視役と
いう役割を負わせ、そのおかげで中央にと
隔絶して当主が京都へ行く必要がよほどの
ことがない限りなかった。
おかげで斯波や一色や山名や京極のように
没落しなかったんだけどね。
だから今川と関東の縁は深いんだが、
今川氏親は関東のことは早雲に任せっきり
にしていた感じ。でも、立河原の戦いには
早雲と共に氏親も扇谷方に参戦している。
氏親自身が関東に出兵したのはその1回
だけで、以後今川家が関東に出兵したことは
なかったと思う。今川と北条が揉めていた
のは駿河東部(興国寺城などを含む
河東地域のこと)であることがほとんどだったし。
974日本@名無史さん:04/07/03 10:56
>>969,970
知ってるくせに。とぼけちゃって。
975三代目は氏康:04/07/08 00:27
次スレどうする?
タイトルの「早雲」はもういいんじゃないかってきがするけど、何を語るか。
通史的なもの、一門、家臣、外様衆、政治制度、、、まあ俺はロムるつもりだけど
そういう意味では、本城移動の話は面白かった。とおり一辺倒にならない話のネタがほしいね。
976日本@名無史さん:04/07/08 01:42
次のスレでは小机城について
一スレ使って徹底的に語ろう。
977日本@名無史さん:04/07/08 22:27
水軍についても知りたい。
978日本@名無史さん:04/07/09 01:27
後北条家総合とかそんなんじゃいかんのかい?
979日本@名無史さん
いいんじゃない、ただネタが欲しい。