実際、どの位の力や財力、発言力を持ってて、
幕府や寺、公家社会とどんなバランスを保ってたのですか?
2 :
日本@名無史さん:03/07/28 20:32
2ダ!
時期によって異なります。ここでは院政期について述べます。
院政期には王家とよばれ「すべての中心」です。
荘園は原則的に院との関わりによって成立します。
武士は王権に奉仕するもの、として存在します。
寺社は「王法仏法は相互いに守りあうもの」とされているので、権威はありますが、
基本的に既得権益の防衛のときしか王権とは敵対しませんし、
上級僧侶は、仁和寺法親王(つまり皇族)を頂点とした
師子相承関係・人事体系によって組織されています。
貴族についてはやや微妙で、摂関家がやや独自の権威をもっています。
大納言以上になりうる層のほとんど、大臣になりうる層は全て、
藤原道長の子孫によって占められているからです。(村上源氏もそう)
しかし、その権威も保元の乱により失墜し、院に従属する存在になります。
院政期には、官司請負制に代表されるように、国政と家政が一致している、と
されています。
王家へ各家が奉仕することと、国政の遵行が一致している、
というと、「言いすぎ」の感はぬぐえませんが、「電波」の謗りはうけないでしょう。
4 :
日本@名無史さん:03/07/28 21:27
>>3 でも、実際に政治的力はなかったんですよね?
5 :
日本@名無史さん:03/07/28 21:29
「王家」なる単語は当時に生で使われていた単語ですか?現在の学会でのテクニカルタームですか?
6 :
日本@名無史さん:03/07/28 21:30
あと、
>>基本的に既得権益の防衛のときしか王権とは敵対しませんし、
上級僧侶は、仁和寺法親王(つまり皇族)を頂点とした
師子相承関係・人事体系によって組織されています。
これ、もうちょい詳しくお願いします
>>4 ありました。
天皇ではなく、上皇にのケースが多いですが。
>>5 「王家」は当時の史料にでてくる言葉です。
「王権」は学術用語です。
>>6 論文一本をコピペしろと?
冗談はさておき、ここでいえる範囲で書きますと、
当時の寺社が強訴を繰り返したことは有名ですが、
座主の人事や、末寺・所領に関する訴訟に関して
自らの既得権益を守るために強訴を行ったのであって、
特に王権を改変しようとしたり、自ら政権をとろうとしたりは
しなかった、ということです。
あと、仁和寺をはじめとする門跡寺院の
役割と地位については、専門家ではないので、
>>3以上のことは書けません。
8 :
日本@名無史さん:03/07/28 22:10
なんでそう言う位置付けになったのだろう。
それがマジでわからん。
9 :
日本@名無史さん:03/07/28 22:18
「中世」という設問は広すぎるよ。
院政期、鎌倉時代、室町時代、とそれぞれかなり違うし。
10 :
日本@名無史さん:03/07/28 22:26
律令国家の変質、解体と、天皇制の変化についてはどう?
11 :
日本@名無史さん:03/07/28 22:27
室町時代に、葬式代を命令しても将軍も大名も金を出さないで、
腐り始めた天皇がいたな。
あと、大嘗祭も金不足でやれないのが何世代もあったな。
12 :
日本@名無史さん:03/07/28 22:31
じゃあ、実質はやばやばな位置だったのか
13 :
日本@名無史さん:03/07/29 02:42
鎌倉時代の天皇の位置付けが易しく書かれてる本教えて下さい
14 :
日本@名無史さん:03/07/29 10:15
「王家」教えて下さいまして有難うございます。「王家」「王法仏法」の語を始めとして当時の人々の天皇・皇室認識は「王」観なのですか?「皇」観ではなかったのでしょうか?
>>14 中世においては、「王」と「皇」の字の使い分けに、
特にイデオロギー的な差異は見出されていないはずです。
中世人の対外意識を四捨五入していえば
「北は佐渡が島、東は外が浜、南は紀州、西は喜界ガ島までが『王土(史料用語)』で
そこより外は、皆、ケガレた異界」
といったところになるでしょうか。
中国とは自然な同格意識はあっても、無理に対抗しようという意識は
なかったように思われます。
16 :
日本@名無史さん:03/07/29 13:23
17 :
日本@名無史さん:03/07/29 14:45
>15ありがとうございます。
文字はいつから区別するようになったのでしょうか?
元の襲来や神国思想との関連はありますか?
むしろ天武天皇から遣唐使の時代は「皇」にこだわったと思うのですが、どうしてトーンダウンしてしまったのでしょうか?
それから私も放送大学テキストの詳しい情報を得たいです。
>>17 私が言葉たらずだったようです。
まず、「皇」と「王」の字についてですが、
天皇・上皇を「王」とよぶことは、まずありません。
詔書等では平安時代と変わりません。天皇・上皇と書かれます。
院宣・綸旨では奉者が署名するのみです。
武家文書では「公家(こうけ)」という表現が多いでしょうか。
直接朝廷や天皇・上皇をさす言葉はあまり使われません。
日記等では「上皇」と書かれることはありますが、「天皇」と書かれた例はあまり見ません。
「内裏」とか「禁中」というようにぼかして書かれることが多いです。
「王」は、「王家」とか「王土」とか「百王の世」とか、
今でいえば「皇室」「天皇家」といった概念を使った単語のときに使われるようです。
ただ、全部の中世文書についてあたったわけではないので、
例外は存在するかもしれませんが。
「王家」と言う概念は、院政期以降に成立した概念ですので、
「皇」のかわりに「王」が使われるようになった、ということではありません。
元寇や神国思想は鎌倉時代中期以降の概念ですので、
関係ありません。
放送大学の教材については、私は
>>16ではないので存じません。
19 :
日本@名無史さん:03/07/30 00:17
日本史板ってマタリしてて親切だね
20 :
日本@名無史さん:03/07/30 08:48
>17ありがとうございます。
いつも明快で納得させていただいております。
何を些末な事にこだわるのかとお考えでしょうがもう少しおつきあい下さい。
中世に「王」の字を用いる時に親王より下の王との兼ね合いは感じなかったものなのでしょうか?
神祇伯白川王家も存在しますし。
また院宮王臣家の「王」を私は親王の下の王と思い込んでおりましたが、今回のおかげで何か違うかもと思いました。
正しい所を忌憚なくご教示下さい。
>>20 主に日記の用例についてですが、
白川王家については「伯家」とか「伯」とか「神祇伯」と呼ばれ、
むきだしに本名が書かれているケースは少ないと思います。
院政期の親王より下の王についてですか。
これは私のイメージで、全ての例証にあたったわけではないのですが、
院政期の王家の子弟で、親王宣下もなく、臣籍降下もなく、法親王などとして
僧籍にも入らない人物というのは、政治的に存在感がない、という印象です。
いわゆる「廃れ皇子」ですね。
本人の関係者以外は、誰も注意を払わないような気がします。
こういう存在としては以仁王が有名ですが、彼が討たれたとき、
彼の生前を知る人がすぐに見つからず、確認がなかなか取れなかった、という
逸話が残っています。「以仁王?誰やねん?」というのが、当時の印象だった
ようですね。
「王家」の「王」の語感について、現在一番近い用法は、明治維新のときの
「王政復古」でしょうか。
この「王」が天皇をさすのは分かりきってますが、「皇」字をつかわないから
けしからん、とか言う人はいませんよね。
院宮王臣家の「王」は岩波日本史事典では「親王・内親王・諸王」となっています。
「明快だ」といっていただけるのはありがたいことです。
普段からそう書こうと心がけてるので。
ただ、私が言ってることが必ず正しいとは限りません。
所詮2ちゃんだから、という意味で責任が無い文章ですし。
分からない質問はスルーしてますし(笑
根本的に、「私の」王家観にしたがって述べているだけですから。
22 :
日本@名無史さん:03/07/30 12:08
>21
早速のお返事ありがとうございます。御謙遜ぶりにも頭が下がります。
おかげをもちまして自分の問題はスッキリした気がします。
特に王政復古のお話でストンと落ちました。中世の天皇として別の話題をつなげて引き続きご意見を賜ることわお許し願えますか?
山川ブックレット中世の天皇 にはお目を通されたでしょうか?
文章は簡明ながらも門外漢の私には分からない部分が多々ございましたものですから。
23 :
日本@名無史さん:03/07/30 15:59
中世って一番謎ですわ>天皇
今までは注目に値しないと思ってただけだけど、なかなか面白そうだね
>>22 その本は不勉強で読んでおりません。
河内先生でしたっけ。
私などは、口をはさめるような立場ではありませんが。
基本的な用語などの解説ならできるかもしれませんが、
前提が先生と同じとは限りませんのでご注意ください。
25 :
日本@名無史さん:03/07/30 19:29
>24
ありがとうございます。不勉強だなんて滅相もない。
専門書をひもとくのにお忙しすぎて一般書まで御覧になるお暇がないものとご推察申し上げます。
そんな中、貴重なお時間を頂戴しまして恐れ入ります。
天皇と摂政・関白との関わりにおける二神約諾思想に大変な興味をもっております。
お導きの程よろしくお願いいたします。
26 :
日本@名無史さん:03/07/31 00:33
あげ
27 :
日本@名無史さん:03/07/31 11:31
あげ
28 :
日本@名無史さん:03/07/31 13:16
天皇は藤原氏の権威を退けられなかった。
外戚として自分を擁立した人だからである。
あるとき藤原氏を外戚としない人が、王家の失地回復のため動いた。
藤原官僚群に対する院政である。
経済面では、藤原領家に対して院が取って代わった。
これで宜しいでしょうか?
院→天皇という権力関係では、直系の中に権力が保たれる。
平安期は母系的だったのに対して、家父長制的であり、武士的でもある。
王朝の最後の踏ん張りでしょうか?
29 :
日本@名無史さん:03/07/31 13:28
>28ありがとうございます。
院政期以降、大嘗祭神事で摂政が幼帝の代行を果たす事に関してはいかがでしょうか?
>>28 外戚が天皇を擁立できるかどうかは、判断を保留したいと思います。
そもそも、当今の外祖父と当時の摂関が同一人物であった例は、
良房(清和)、兼家(一条)、道長の3人しかいなかったような。
後は死後か、せいぜい叔父・甥くらいの関係かと。
後三条の母親は内親王とはいえ、道長の孫。
白川の母親はれっきとした藤原氏(閑院流)です。
むしろ後三条は冷泉・円融両統に分裂していた王家を
再統一させた存在である点のほうが、最近は重視されているのでは?
あと、閑院流は大臣になれますね。
>>2の「大臣になる家は全て道長の子孫」は「ほとんど」に訂正します。
(つづきます。)
>>28 (つづきです)
「藤原官僚群」とはなんでしょうか?そんな概念は聞いたことがありません。
小説家が現代の状況を過去に投影したキャッチコピーの類でしょう。
荘園制が全国に拡大・定着したのは鳥羽院政期とされています。
藤原氏にとってかわったのではありません。
院→天皇の関係については、「イエ」制度の確立にからめて論議されています。
「イエ」の当主の座は、先代の譲りによって保証されます。
先代は当主を挿げ替える権利があります。
こういった感じです。
>>29 28ではありませんが。
摂関家が、王権の一部を担う存在であった、という
ひとつの状況証拠になるかもしれませんね。
30・31は私の書き込みです。
>>28 追加です。
>>30>>31の内容は、
2が見た限りという制約のうえで、現在の学界で通用している説の一つに
すぎません。
あなたがもし、学生・受験生であれば、
私が書いたとおりのことを、テスト・レポートに書いても、
誤答とされる可能性があります。
ご注意ください。
老婆心ながら、今が夏休みということを勘案して・・・。
34 :
日本@名無史さん:03/08/01 00:32
>30-33
かねてより一連の質問をしている者です。
学部生ですが、試験とは関係ございませんので枠に捉われぬご意見をお聞かせ願いたく存じます。
あなたがずっとお答え下さっている方ですよね?ありがとうございます。
28さんは今までとは文調が違うなぁと思いつつも、確信はなかったものですから、お礼と次の質問は短めにさせていただいた次第です。
ではあらためて30さんに、天皇と摂関の関係(一例として大嘗祭神事代行)と二神約諾思想についてのお導きをお願い致したいのですが如何ですか?
もちろん28さんのご意見も伺いたく存じます。
>>34 「二神約諾思想」が何をさすのか存じませんが、
伊勢と春日の二柱の神の間での、現世支配についての
約束ごとがある、ということと拝察します。
中世神話一般についてになりますが、
基本的に中世の禰宜層は
自分の神社に都合のいい神話を創造していくようです。
伊勢神宮などでも、本来、丹波国から勧請された食物神にすぎない外宮が、
皇祖神である内宮に対抗するために、神職たちは、
記紀神話の「天御中主」こそ外宮の神である、
という神話を創造してしまいます。
春日社神職が、自らの権威を高めるため、
皇祖神と春日をなんらかの形で結びつける神話を創作したのでしょう。。
そして本人たちは記紀神話の「解釈を訂正」していると信じ込んでいたのでしょう。
実に「中世らしい」と思います。わくわくしてきますね。
中世神話については、山本ひろ子さんの『中世神話』(岩波新書)や
西山克さんの『聖地の想像力』などが面白いです。
>>34 天皇と摂関との関係ですか。
白川院政初期までは、摂関家の権威は王家と同格だったかもしれません。
もちろん、天皇にはかないませんが。
上皇に対しては同格くらいに思っていた可能性もあります。
平気で批判してますし。
ですが、鳥羽天皇即位の際、その外戚の閑院流の公実が
摂政の地位を望み、それを白川院が拒否して摂関家の忠実を指名した
(保元の乱の一方の主役ですね)あたりから、摂関家の勢威はかげり初め、
最終的には保元の乱で完全に院に従属します。
といったあたりが、政治史からみた見解です。
神事などからみた場合、大嘗祭のことは詳しく存じませんが、
即位灌頂の際、摂関(頼通からだったと思うのですが)が
高御座の中に天皇とともに座す(一緒の椅子では当然ないでしょうが)
ということもあるようです。
やはり、摂関は「王権を構成する不可欠な一要素」だったのでしょうね。
37 :
日本@名無史さん:03/08/01 08:55
>35,36有難うございます。
実はこの流れに持込みたかったので、本当にわくわくして下さるなら嬉しくてなりません。このお言葉に縋りつかせて頂きますね。
平気で院批判をしたのは忠実の父ですね?彼が急死せねは歴史は変ったかもしれませんよね。そして忠実は白河院の裁断で摂政になれた。この逸話は愚管抄以外にも書かれていますか?
二神約諾も愚管抄にありまして、山川ブックレットでは、
将軍頼経の祖父九条道家が公武の頂点に位置する状態こそ、神意にもかなう政治の理想形、後鳥羽院は余計な事するな!
というのが慈円の趣旨だとの事です。
38 :
日本@名無史さん:03/08/01 09:09
横スレ、スマソ。
1、摂関は道長などはさほど求めていない。摂関になると、実務権力
から外れてしまうことが多いので、左大臣とかの方が有利な面もある。
で、道長は何度か辞退してる。
2、藤原家と天皇家はともに王朝政府をになってます。車の両輪。
院政期にも、院に滑り込むのに成功しています。
39 :
日本@名無史さん:03/08/01 09:45
37続き
中世神話は山本氏の御本しか拝読しておりませんので、西山氏読みたく思います。ご教示有難うございます。
大嘗祭代行は忠実・忠通自ら記録に残しているのですが、摂関が政治面で院に従属した後に、このような展開となった点に(例えば約諾のような)思想面からも関心があります。
また同じ理由から、高御座登壇・即位灌頂(教通らしいです)も、中世の天皇を考察する上において、政治・思想両面から見てとてもインタレスティングなのですが、今後も一緒にお話を重ねて頂けますでしょうか?
あと最新研究では白川院が正しい表記なのですか?
40 :
日本@名無史さん:03/08/01 09:49
池袋のマットヘルス「乙姫マット伝説」では、19歳の本物の女子大生が、
チンポの裏側や、尻の穴まで丹念に舐めてくれる。
カミさんにさえ、してもらえないことを、12000円でしてもらえるぞ。
最後は、オプションで、顔に精液をかけておしまいだ。
どうだ?
41 :
日本@名無史さん:03/08/01 09:55
>38有難うございます。37、39です。
僕の書いた事に思うところお有りの際はどんどんご指摘下さい。お願いします。
仰せの「車の両輪」を思想的に昇華させたのが二神約諾、で問題はないのでしょうか?
42 :
日本@名無史さん:03/08/01 09:55
43 :
日本@名無史さん:03/08/01 09:59
44 :
日本@名無史さん:03/08/01 13:25
あげ
>>38 横レス、大歓迎です。いろんな方のご意見をいただきたいです。
で、道長については仰るとおりだと思います。
彼は関白になっていないですし、
道長の権威権力の源泉は、「3代にわたる天皇の外祖父」であったことが最大のものです。
(私は平安朝の政治構造は「ミウチ政治」だ、という立場にたっております。)
親権が強い古代においては、「天皇の外祖父」という立場は高級貴族の誰もが
欲しながら、それ以前にその立場を手に入れたのは、既述したように2人しかいません。
それを道長は3代にわたって独占したのですから、その権威たるやはかりしれません。
彼には摂関の地位など不要だったでしょうね。
けれども、摂関と外戚との分離以降の摂関家にとっては、かならずしも
そうではなかったのではないでしょうか?
あと、2についてですが、「藤原家」と名乗るような「イエ」は存在しないような。
それから、「天皇家」という言葉は中世には存在せず、「王家」と呼ばれているので、
お使いにならないほうがよろしいかと。
>>37 王権論については私などよりお詳しいのではありませんか(笑)
さて、天皇への漢風シ号の表記ですが、
現在の「なになに天皇」という形になったのは、明治時代からです。
それ以前は「鳥羽院」「後醍醐院」「花園院」といったように「院号」を送るのが
常でした。
(不勉強なので、初見年代は存じません。「嵯峨院」はたぶんそうだと思うんですが
「桓武院」なんて呼んでたんですかねぇ。お分かりの方がいらっしゃれば、ご教授ください)
ですから、当時のおくりなは「白川院」です。
生前は「上皇」とか「法皇」とか「一の院」とか「治天の君」とか「院」というように
呼ばれていたはずです。けれども「白河上皇」とか「白川法皇」とかましてや
「白川天皇」と呼ばれることはありません。ですから、「白川院」と私は表記したわけです。
シ号が「院」から「天皇」に変わったという点では面白い話があります。
江戸時代に「後西天皇」がいるのはご存知ですか。
でも系図のどこを見ても、「西天皇」はいませんよね。
これはシ号が「院」から「天皇」に変わったことと関係があります。
つまりもとは「後西院」だったわけです。では「西院」はいたのか、というと、
いたんです。「淳和院」は「西院」とも呼ばれていたのです。
つまり本来「後西天皇」は「後淳和天皇」もしくは「後西院天皇」と
呼ばれるべきところ、機械的に「院」と「天皇」を読み替えられてしまっているのです。
近代の官僚のやることも、ある意味面白いです。
>>37 なるほど、『愚管抄』の話でしたか。
とすると、慈円自身が九条家の出であることを勘案しなければなりますまい。
つまり、慈円自身にとって、実家の九条家が君臨するのが都合が良い、
そのための理屈付けであるということを忘れてはならないと思います。
つまり、王権論としては、王家の立場ではなく九条家の立場に都合が良い、
後鳥羽院からみれば、笑止な内容に見えた可能性もあります。
けれども、後鳥羽院時代は、公武関係も含めて全ての権門にとって
良い時代で、それが実朝暗殺を境に急激な変化が起こっていた、そしてそれが
後鳥羽院個人の意思によるものだった、というのが私見です。
『愚管抄』の牽強付会ともいえる所説も、その動きをとどめようとする
慈円の誠実な努力の現われとみることもできるでしょう。
49 :
日本@名無史さん:03/08/01 17:51
>46-48有難うございます。引続きお見限りなくお願いします。
シ号のお話興味深く伺いました。恥しい質問かも知れませんが「白川院」と「白河院」の表記区別を教えて下さい。
平安期のミウチ政治で権勢を確立した北家嫡流が、摂関と外戚の分離以降も、忠実の摂政就任を経て、院政期はおろか激動の中世を乗り越え近世(しいて言えば近・現代)まで五摂家として地位を保てた理由はどこにあるとお考えでしょうか?
天皇あっての摂関ですから、中世の天皇の位置付け抜きに考察できないと思います。
そこでまず即位儀礼に着目して御意見を賜りたいです。
50 :
日本@名無史さん:03/08/01 19:45
あげ
51 :
日本@名無史さん:03/08/01 20:08
明治以前の天皇の呼びかたは、「帝」じゃないかな。
天智帝、桓武帝など。
53 :
日本@名無史さん:03/08/01 20:11
正しくは「院」です。
54 :
日本@名無史さん:03/08/01 20:12
「院」と「天皇」の区別は厳然としてあったみたいだけど・・・
>>46 『岩波日本史辞典』によると、天皇追号としての院号は、村上天皇・安徳天皇・
後醍醐天皇などの例外を除き、宇多院から後桃園院まで続いたということです。
「嵯峨院」はというと、居所による太上天皇に対する称号で、冷泉院、朱雀院
などと同様に生前からの呼称。
>>47 歴代からすべての「院」字を省いたのは大正14年のことだそうで、
それまでは「○○院」「○○院天皇」と称していたようです。
56 :
日本@名無史さん:03/08/01 20:33
「院」は太上天皇尊号を贈られた上皇、法皇のこと
を指すのでは。譲位していない天皇は違うのでは?
天皇の使者は「勅使」、上皇(法皇)の使者は、
「院使」とわけているし。
57 :
日本@名無史さん:03/08/01 20:35
>>56 譲位しているいないにかかわらず、追号は「院」です。
天皇はすべて太上天皇として葬られるからです。
58 :
日本@名無史さん:03/08/01 20:45
平安時代以降はほとんどの天皇は譲位して、太上天皇
尊号を贈られているからなあ。しかし、譲位していない、
奈良時代以前の天皇を神武帝、継体帝と書いてある文献
は、あったと思うが神武院、継体院は見たことがないなあ。
>>49 すいません。「川」の字は誤植です。おっしゃるとおり「白河院」が正解です。
ご指摘いただくまで気付きませんでした。
回線切って(略
で、摂関家が生き残った原因ですか・・・。
それこそ一本論文がかけますね。
まず、五摂家と呼ばれるように、五つもの血脈があるためイエが断絶しなかったこと。
摂関の地位が後に五家のまわりもちになったように、政治上の実権をもたなくなったこと。
あとは即位のとき、新帝とともに高御座に上がることからもわかるように、
王権の欠かせない一部と化していたこと、でしょうか。
あと、>>2で荘園について、「原則的に院と関わる」と書いたのは、
実は院と関わらない、摂関家を本家とする荘園が存在するからです。
荘園の本家となれるのは、院・女院そして摂関家だけだということは、
良くしられているはずです。(寺社権門については、勉強不足で判断保留します)
なんども繰り返すようですが、摂関家は王権の一部を担っている、と考えます。
保元の乱以前は、それゆえに王家とも対抗できていましたが、
それ以降、王家に従属はしても、飲み込まれはしなかった理由は
そこにあったと考えます。
私は専門家ではないので此程度のことしか考え付きません。
あなたのお考えも、よければお聞かせください。
60 :
日本@名無史さん:03/08/01 20:52
>>58 最初の太上天皇が持統天皇だからね。それ以前の天皇はみな「天皇」。
>>59 どうでもいいけど、あなたは
>>2のひとじゃなくて、
>>3を書いた人じゃないの?
2 名前:日本@名無史さん 投稿日:03/07/28 20:32
2ダ!
ここの
>>2はこれだもん・・・
62 :
日本@名無史さん:03/08/01 20:59
俗に言う治天の君というのはいつ頃、どんな経緯で現れたのですか?
63 :
日本@名無史さん:03/08/01 21:02
>>62 ふつうは白河院が最初だとされていますね。
実質的に権力を握るのは関白藤原師通が死に、ついで息子の堀河院に先立たれたころから。
西暦で言うと1100年あたり。
>>61 ・・・コテハン名乗ったの初めてだったんです。
舞い上がってたんですね。とほほのほ。
ほんとの>>2の人ごめんなさい・・・。
>>49さん、見捨てないでくださいね。
>63
ありがとうございます。
ところでこのあと鎌倉幕府でも執権より得宗の方が実権握るわけですが、
治天の君を模倣したのでしょうか
66 :
日本@名無史さん:03/08/01 21:27
>>65 つか、どの家でも隠居が生きてるうちは隠居が実権を握っていたようです。
摂関家でも前関白が「大殿」と呼ばれて朝廷の政務に関与したりしてます。
>66
なるほど。ありがとうございました。
68 :
日本@名無史さん:03/08/01 21:34
>59,64有難うございます。49です。見捨てるなんてとんでもない、引続き御指導宜しくお願い致します。
てっきり2を書かれた上で3をお書きになったのかと思っておりました(笑)
スレも随分と盛り上がってきましたね。本当に良い勉強をさせて頂いております。
さて、僕自身の意見を、との事ですが学部生の分際でおこがましくて躊躇しますが、スレを転がすためにも少しだけ記してみます。
何分、白川院を単なる変換ミスだと流し読む事すらできないほど、自分の知識に自信が無い人間の書く事ですから、その点は御容赦の程宜しくお願い致します。続く
69 :
日本@名無史さん:03/08/01 22:01
68続き
僕の妄想ですので忌憚ない御批判お願い致します。
中世の天皇の位置付けを考えるに際して、その就任儀礼に集約的象徴がこめられているのではないかと思い、「即位」に着目したいと思った次第です。
すると大嘗祭神事・高御座登壇・即位灌頂いずれも摂関が重要な役割を果たしています。摂関と外戚の分離が進行し政治的権力が失われいく過程で、むしろ逆行する動きです。
天皇と摂関のこの密接不可分な関係は、言い換えれば王家と摂家のイエの関係であり、その思想的根拠が二神約諾かどうかを皆様にお尋ねしたかったのです。如何でしょうか?
横スレだが、
藤原不比等は剣か何かを、譲位した天皇から受け取り、
新たに即位した天皇に渡している。
これが、皇位継承の有力な正当性として不比等時代の天皇の
重要なアイテムとなっていた。
この剣の伝承書は正倉院に残っている。
あと、大嘗祭は空白期間がある。
16世紀初頭の後柏原天皇のときに中絶、17世紀末の東山天皇のさいの復活
とその後の中絶をへて、18世紀中葉の桜町天皇のときに再興。
>>69 平安朝以降の儀式が政治に占める役割から考えると、
確かに即位儀礼における摂関家の役割は無視できないものがあると思います。
目のつけどころは悪くないですね。
ひとつ質問です。
「二神約諾思想」について、『愚管抄』以前にその存在を示す史料は
あるのでしょうか。
今日はもう落ちますので、お答えはゆっくりで結構です。
お休みなさい。
72 :
日本@名無史さん:03/08/01 23:46
>71お忙しい中かまい続けて下さいまして有難うございます。
愚管抄以前の史料は、伊勢神宮祭主大中臣氏に関するものはあるそうなのですが、摂関にからめたものは無いようです。初めて慈円が九条家の為に援用したのかもしれません。
正に48で書いて下さった通りですね。ただ後鳥羽院から見れば笑止な内容だったかも、との御指摘は、自分では思い及びもしなかったものですから、改めて敬服致しました。今後もこのような警鐘を宜しくお願いします。
うーんと時代が下ると天皇サイドも二神約諾を根拠に即位灌頂を捉えていたようですが勉強不足でして。
73 :
日本@名無史さん :03/08/02 00:36
通りすがりです。
摂関の政治権力が失墜してからも、天皇即位儀礼における役割が変わらないのは
先例重視の「儀式」に、摂関が不可欠の「装置」として組み込まれていたからではないでしょうか。
政治的存在意義を失った摂関が、唯一、存在意義を持ちえたのが「儀式」においてだとすれば
「儀式」の「装置」としての意義を確固としたものにすることで、摂関は存続していったとも考えられます。
となると、二神約諾はむしろ摂関家にとって都合の良い論理ですよね。
(^^)
75 :
日本@名無史さん:03/08/02 10:01
あげ
76 :
日本@名無史さん:03/08/02 12:07
よいしょ
>>72 なるほど、祭主関連ですね。
となると、ますます摂関家の自己正当化のための言説である疑いが濃いような・・・。
前に「わくわくする」と書いたのは、中世人が、こういう「創造(ねつ造?)」を
行うあたりで、なんというか、現状を反映して神話が変化するあたりがいいんですよね。
この融通無碍さがたまりませんです。
なんにせよ、『愚管抄』だけでは史料が不足しています。
後代の史料をもうすこし集めるべきでは、と。
それから
>>73氏も指摘していらっしゃいますが、
朝廷儀式の性質とももう少しからめて考えるべきでは?
即位儀式を中心に論を立てるのは、大変結構とは思いますが、
その他の儀式における摂関の位置も確定し、比較しておいたほうが、
論に厚みが出ると思います。
78 :
日本@名無史さん:03/08/02 18:27
>72初めまして!有難うございます。もう御覧にならないかもしれませんが(汗)
>73今日も有難うございます。嬉しいです。御指摘一々ごもっともと頷いております。
仲良くお相手して下さいますので調子にのって少し自己紹介させて頂きます。前から書いております通り学部生でして、それもこの分野が専攻ではありません。
それが今回たまたま山川ブックレット『中世の天皇』を手にしてすぐ、このスレを知り、渡りに舟と御教示頂きおる次第です。
ですから実はスレ主でもないのに根をおろしてしまい1さんに申し訳なくも思っております。続く
79 :
日本@名無史さん:03/08/02 18:35
78を訂正致します。
73さん初めまして、
77さんいつも有難うございます、
です。失礼しました。
80 :
日本@名無史さん:03/08/02 19:04
78続き
ですから今まで記した事はブックレットの受け売りですし、読解すら間違っていたら申し訳ございません。そんなこんなで「王家」という用語から質問させて頂いております。
そして、二神約諾についても、ブックレットですから、愚管抄を中心にわかりやすい解説しか載せられておりませんので、この場で皆様から深く突っ込んだお話をお聞かせ願いたいと欲して書き込んだ次第なのです。
議論を回転させるために少しここで私見を加えさせて頂きます。
続く
81 :
日本@名無史さん:03/08/02 19:17
80続き
「摂家が政治権力を失っても、儀礼は先例重視だから、摂関の役割は変わらなかった」のでしょうか?
僕は変わったと思います。むしろ進化したと思うのです。
その例が即位灌頂をはじめとする儀礼ではないでしょうか?
そして、鶏と卵どちらが先?と同じかもしれませんが、そこに二神約諾などの中世神話がからみつく事を考えますと、僕もわくわくしてならないのです。
ですから、二神約諾の史料や、即位儀礼・その他の儀式での摂関の役割や位置付け、に関しても議論を重ねていければよいなと思いますが、如何でしょうか?
82 :
日本@名無史さん:03/08/02 20:19
73の書き込みをした者です。
少々話がずれてしまいますが、即位儀礼における天皇と摂関との関係について、「即位式」を素材として検討した
末松剛氏「即位式における摂関と母后の登壇」(『日本史研究』447、1999年)という論文があります。
それによると、摂関が高御座の上に円座を設け、そこに伺候する現象は院政期の師実・忠実の時期に現れてくるらしいのですが、
忠実といえば外戚と摂関が分離した状態で鳥羽天皇の摂政となりますよね。
末松氏はそのことに注目して、高御座登壇が「師実・忠実が『摂関家』の家職として王権に関与する姿を、強烈に示威した」
ものではないかと考察しておられます。
そしてもう一つ、その師実や忠実の登壇が「院の仰せ」によって可能となっている点も指摘されています。
忠実の摂政就任は、摂関職が御堂流の継ぐべき地位として確定した摂関「家」という家格の成立の画期とされますが、
逆に、摂関が単なる一貴族に転落したことを意味するともされているのは、すでにご存知のことと思います。政治権力を弱体化させているわけですよね。
しかし師実・忠実は「院の仰せ」で、即位式において幼帝をサポートする職務を与えられ、高御座に登った。
そのことがあって、以後、摂関家の「家職」として即位式での高御座登壇が定着していった…。
そう考えると、摂関はやはり「儀式」における役割を「家職」とすることで、成立し存続していったのかなぁと思うんです。
ですから中世における天皇と摂関の関係を考えるには、ご指摘の通り「儀式」の中での摂関の役割がどう変化していくのかが、かなり重要なんでしょう。
その中で、二神約諾がどのような絡みで持ち出されるのかは面白そうですね。
ちなみに末松氏は高御座の上を、天皇・院・摂関が強調協力する中世王権の象徴的空間として位置づけらています。
83 :
日本@名無史さん:03/08/02 20:45
>82有難うございます。もうレス戴けぬだろうと思っておりましたし大変嬉しいです。
末松氏論文は私も拝読致しました。ですから思いがけなくこの場でそのお話ができる事も感激です。
さて「摂関は儀式における役割を家職とする事で成立し、存続した」のは、僕も全くもってその通りと思います。81を書いてから舌足らずを後悔していたところでした。
僕の基本的解釈は82さんとほぼ同じです(ですが当然ながら僕の理解度は遥かに下、という事を前提に今後も御教示下さい)。
でも即位灌頂は中世に確立されていますから「進化」論を提言してみました。
84 :
日本@名無史さん:03/08/02 23:25
あげ
85 :
日本@名無史さん:03/08/03 00:24
よいしょ
86 :
日本@名無史さん:03/08/03 07:19
こらしょ
87 :
日本@名無史さん:03/08/03 10:58
平安時代末,鳥羽天皇の践祚に当たって,天皇の外戚であった大納言藤原公実が,
外戚でない摂政はいないとして,前代の関白だが外戚関係がない藤原忠実を退けて
みずから摂政に就任しようとしたが,
代々摂靭の子孫でない者が摂政になった例はないとしてその願いを排した。
以来,天皇と外戚関係はなくとも,代々摂政・関白の子孫が摂政・関白に補任された。
摂関は藤原氏の職能だね。
これは、鎌足ー不比等以来、藤原家が天皇即位を実質的に左右してきたことに由来する
のでは。
記紀神話では、藤原の祖は天皇家とどういう関係でしたっけ。
特別な関係だった気が。
88 :
日本@名無史さん:03/08/03 11:01
朝廷儀式の確立は9世紀。
これが後の、古来からの慣習とされ、中世・近世の手本とされた。
それ以前にはさかのぼらない。
9世紀は、儀式が中国風に完成した時期。
89 :
日本@名無史さん:03/08/03 11:31
>87有難うございます。81,83です。初めまして。
忠実摂政就任逸話は、管見した限り、愚管抄にしか書かれていないのですが、愚管抄以外にはどこにも書かれていないのでしょうか?是非知りたいです。
90 :
日本@名無史さん:03/08/03 11:38
>88有難うございます。81,83です。初めまして。
中世に確立した即位灌頂は、当然ながら9世紀の儀式にはありませんから、先例になく、マニュアル違反になってしまいますね。
そこで「進化」論をブチ上げてみたのですが、ぜひ御意見下さい。
91 :
日本@名無史さん:03/08/03 11:47
忠実の日記「殿暦」に書いてないかな?
92 :
日本@名無史さん:03/08/03 11:55
追加
「今鏡」あたりは?
93 :
日本@名無史さん:03/08/03 12:03
藤原摂関家の権力の反映でしょう。
外戚だからと言って権力者になれるのではなく、
権力があるから外戚になれる。
灌頂そのものは805年に最澄が始めた。
平城天皇や嵯峨天皇は、空海に灌頂を受けている。
即位灌頂は、藤原不比等に伝統を持つ、ある天皇の即位の正当性の
証しで、ある意味で藤原家の伝統で、天皇家もそれに権威の由来を
頼ってた部分があるのではないかと。
94 :
日本@名無史さん:03/08/03 12:06
>91,92有難うございます。
当方でも調べてみたらご報告しますので、そちら様も是非お願い致します。
95 :
日本@名無史さん:03/08/03 12:28
>93有難うございます。
中世は、摂家が外戚の地位も政治権力も失いゆく時代ですので、そこのところを詳しくお聞かせ下さい。
即位灌頂は、空海・最澄の「灌頂」とは別物、と理解しておりましたので、細かく教えて下さい。
3番目に書かれた事が、本スレで最も大切な事ですし、皆さんも1番関心をお持ちと思います。ぜひぜひ御教示下さい。
皆さんで議論を盛り上げていくために出処・ソースも宜しくお願い致します。
96 :
日本@名無史さん:03/08/03 14:13
82です。
盛り上がってますね、このスレ。
さて90さんの書き込みについてなんですが…
>中世に確立した即位灌頂は、当然ながら9世紀の儀式にはありませんから、先例になく、
>マニュアル違反になってしまいますね。
そう考えると、即位式における摂関の高御座登壇も9世紀のマニュアルにはないですよね。
で、末松氏はこの「新例」の発生した時期と、その意義について論じられた。
ということは、考察の順番としては、まず即位灌頂が即位式で行なわれるようになった時期を特定し、
なぜそれが行なわれるようになったのか、発生の契機と要因を考え、その上で、今、議論になっている
「思想的な部分」を考えるのが効果的ではないでしょうか。
あと即位灌頂は後三条が初例ということになるんでしょうか?
えっと、何から話せばいいのやら。
王家と摂関家の関係ですよね。
末松論文についてまずお伺いしたいのですが、
「摂関家の家職として、即位式での高御座登壇が定着していった」
というように
>>82氏は指摘しておられますが、
いわゆる「イエ」制度の発生と、どうからめて論じていらっしゃるのでしょうか。
個人的には、「イエ」制度はまず摂関家が成立し、次いで王家が成立し、
さらに下へ「官司請負制」という形で波及していき、
まぁ後鳥羽院政期にはだいたいの家格や家職が決定する、というイメージを
持っていたのですが。
98 :
日本@名無史さん:03/08/03 15:34
>97戻って来て下さり有難うございます。
>96有難うございます。90,83,81です。
先例マニュアルに本来無かったにも関わらず、院政期・中世以降に確立した儀礼として、このスレで俎上に上ったのは年代順に以下の三点です。
高御座登壇(末松氏論文)
大嘗祭神事代行(忠実・忠通が自ら明記)
即位灌頂(両統迭立の時代)
即位灌頂は、後三条天皇の関白教通が初例とされていました。
しかし、以降の記録が無いのは不自然であるとして、最近の定説では両統迭立期に確立、との事です。
ただ何天皇を塙矢とするか、は諸説紛々たる模様です。
99 :
日本@名無史さん:03/08/03 16:55
>>46 >さて、天皇への漢風シ号の表記ですが、
現在の「なになに天皇」という形になったのは、明治時代からです。
>「桓武院」なんて呼んでたんですかねぇ
違います。
漢風し号、天皇号の復活は、幕末の光格天皇のときからです。
「漢風し号+天皇号」は、光孝天皇から光格天皇まで中絶しています。
天皇号も後村上天皇から光格天皇まで中絶しています。
後村上は追号ですが。
桓武天皇は、元々桓武天皇です。
院号を直したわけではありません。
院号を天皇号に直したのは、明治以降です。
大正14年なのでしょうか?
>>99 >院号を天皇号に直したのは、明治以降です。
>大正14年なのでしょうか?
『国史大辞典』にはそうありました。ついでに百げっと。
101 :
日本@名無史さん:03/08/03 19:10
し号問題も無事解決!
それでは101からスレタイ通りの本題に戻るとしますか
102 :
日本@名無史さん:03/08/03 19:32
>97
末松氏は、忠実の摂政就任を以って摂関家の「家格」が成立したとする橋本義彦氏の論を援用し
高御座登壇が摂関家の「家格」を可視化する行為であったとされています。
ですから末松氏は摂関の「イエ」の成立について具体的には触れていらっしゃらないです。
あくまで「家格」について述べるに留めておられます。
この摂関家の「家格」の成立が、すなわち「イエ」の成立として捉えられるものかどうかが問題ですね。
摂関家という「イエ」自体の成立はそれ以前という考え方もあるでしょうし。
果たして、摂関家は「イエ」としていつ成立したのでしょうね…。
だれか研究なさっているとは思いますが、ちょっと思い当たらないです。
王家に関していえば、最近、伴瀬明美氏が論じられていますが、
成立要件として、院主導の皇位継承(父系継承)、経済基盤の転換(王家領)などを
挙げておられます。これ等の特徴は後三条・白河期に全て出揃うのだそうです。
(伴瀬氏は中世「前期」の王家について述べられているので、上記二点の他に准母立后と
皇子の幼年出家を挙げておられます)
少し話が脱線してしまいましたが、結局のところ、何を以って「イエ」の成立と見なすかは不透明ですよね。
何か決定的画期があるのか、あるいは段階的なのか…。ご意見伺いたいです。
>98
そうなんですか。ということは密教大好きの後宇多の存在なんかが面白そうですね。
後宇多の時は即位灌頂してましたっけ?確か伏見はやってると記憶してますが…。
103 :
日本@名無史さん:03/08/03 20:06
>102有難うございます。98です。100越えたのですね。
末松氏の論を僕に解説できようはずもなく、帰ってきて下さるのを待っていました。3さんのご意見が楽しみです。お二人の御蔭でアカデミズムの一端をほんのひとかじりでも実感することができ嬉しくてなりません。
即位灌頂の開始は丁度その辺りが争点らしいです。
>>103 そんなたいしたことはかけませんが。
>>102 「イエ」の要件には何を挙げるべきなのでしょうね。
「家職」は当然ですね。
「家格」は付随するものでしょうか。すくなくとも院政期では家格は上昇しうる
ものですからね。
「家産」、このへんが難しいですね。荘園制の展開期は鳥羽院政期とされてますから。
白河院政期にどれだけ「家産」と呼べるような実態が存在しえたのか?
忠実の家産集積は、白河没後の政界復帰後のことですよね。
ほかに挙げるべき要件がございましたら、ご指摘お願いします。
105 :
日本@名無史さん:03/08/03 21:51
「聖主御即位ノ日必ズ是ヲ受持シ給フ」は何時始まったのか。
平安後期の宇多上皇、鎌倉後期の伏見天皇にみられるが、恒例化するのは南北朝
あたりであろうと言われている。
南北朝合一直前の後小松天皇の即位は『後小松院御記 御即位日神秘事』に記され、
これを先例として以後引き継がれたらしいことは『近衛家文書』に遺されている。
南北朝の動乱は、後醍醐と光明の天皇としての正統性の主張の争いに始まった。
その両統の争いに終止符を打ったのが後小松であるから、後小松即位の正統性
こそが保証、認知されなければならない。
その正統性の保証、認知の一つが天台による即位灌頂であり、その有り難い由来
は広く知らしめる必要があった。
106 :
日本@名無史さん:03/08/03 21:53
1999年10月8日・日経新聞夕刊・社会面
「歴代天皇が密教秘儀」という見出しで、天皇即位の際に江戸末期まで
行われていた密教的秘儀「即位灌頂」の由来や実態を示す文書が発見さ
れたと報じられています。
この文書は、即位灌頂の儀式を天皇に伝授してきた二条家の当主宅に家伝
の宝物として保存されていたもの。
その儀式は、平安後期から、孝明天皇(1847年即位)まで行われていた、
とのこと。
108 :
日本@名無史さん:03/08/03 22:19
>104有難うございます。
うーん一学部生の僕にはついていけなくなりつつあります。でもとても興味深いです。お二人のヤリトリで更に学ばせて頂きます。
ですが、やはり「儀式」は重要なポイントとなりそうですね。
>105初めまして、でしょうか?有難うございます。色々教えて下さい。
冒頭の出典は何でしょうか?
平安後期の宇多上皇とは?
近衛家文書のどこですか?
後小松天皇の即位自体は南北朝合一以前では?
天台即位灌頂と実際の即位灌頂は全く別物では?
有難い由来はどのように広められたか?
以上、是非とも何卒ご教示下さい。
109 :
日本@名無史さん:03/08/03 22:31
>106有難うございます。
御指摘の資料は、江戸時代の京都大火の後に集積された近世史料ですね。
中世史料を御存知ないでしょうか?
他にも先述の通り、即位儀式・その他の儀式・二神約諾・忠実摂政就任逸話で、皆さんで盛り上がれる史料があれば御提示宜しくお願い致します。
議論にも是非参加していただきたいです。
110 :
日本@名無史さん:03/08/03 22:50
>>108 105に後小松即位は、南北朝統一直前と書いてあるよ。
由来は太平記などで広められたらしい。
即位灌頂は、もともとインド儀式から仏教へでないの?
インド王の世界支配の正当性の儀式が仏教に入った。
111 :
日本@名無史さん:03/08/03 23:23
>104
>「家産」、このへんが難しいですね。荘園制の展開期は鳥羽院政期とされてますから。
>白河院政期にどれだけ「家産」と呼べるような実態が存在しえたのか?
ですね。問題は摂関後期から白河院政期にかけての荘園の存在形態ですか…。
印象に過ぎませんが、摂関後期から白河院政期頃までは荘園は、後の「家領」のような
形ではなかったように思えます。宇治殿領や京極殿領など「個人」の所有物だったような
印象があります。つまり「個人」の所有物で、「イエ」の所有物ではないと。
勉強不足で、かなりこの辺りは思い込みですが…。
荘園については、いわゆる「女院領」の成立が重要な契機だと思います。
後の近衛家領や九条家領は、それぞれ高陽院領、皇嘉門院領を基盤に成立してますから。
「個人の所有物」から「イエの財産」への変化がこの時期にあって、女院領の存在形態が
その変化の過程に影響を及ぼしたのではないかなぁと、時々妄想しております。
あとイエの成立要件についてですが、家政機関の成立もその一つでしょうか。
ただこれには問題があって、現在の感覚で言ういわゆる「イエ」の他に、
身分の高い個人が設置を許される「公的家」という別概念のイエもあるんですよね…。
なにやらまた本筋から逸れてしまったうえ、わけがわからなくなってきました…。
即位灌頂についてはどうも知識が乏しすぎて、言及できません。
どなたか詳しい方、このスレに来てご教示いただけませんかねぇ。
112 :
日本@名無史さん:03/08/03 23:36
>110有難うございます。もしかしたら御本人様ではないのかもしれませんが宜しくお願いします。
仏教の即位灌頂(台密・東密のどちらも)と、摂家の即位灌頂は全くの別物ですが、太平記には同じものとして書かれているのでしょうか?
太平記は後小松天皇の正当性を広めるものだったのでしょうか?
太平記のどの辺りに書かれているのでしょうか?
恥ずかしながら太平記に関しては全く知識がありませんので宜しくご指導下さい。 先述の他の疑問にもお答え下さると嬉しいです。
113 :
日本@名無史さん:03/08/04 00:16
>111有難うございます。3さんの御意見楽しみです。
本筋脇道の区別も怪しくなり、煮詰りも生じ、少しややこしくなってきました。
重複を承知で整理し直してみたいと思います。
中世の天皇の位置付けを検討する
儀式運営と中世神話を手がかりとしてみる
まずは即位儀礼から
摂関が重要な役割を果たしている(新儀を年代順に)
高御座登壇(師実・忠実父子)
※忠実摂政就任による摂関と外戚の分離
大嘗祭神事代行(忠実・忠通父子)
愚管抄に二神約諾(慈円)忠通子・九条兼実弟
即位灌頂(両統迭立期)
そこで摂家の成立過程自体を検討
114 :
日本@名無史さん:03/08/04 08:40
あさげ
115 :
日本@名無史さん:03/08/04 12:52
ひるげ
>>111 毎度ご丁寧なレス、ありがとうございます。
私も即位灌頂については勉強不足で・・・。
「イエの財産」と「個人の所有物」がはっきり分けられている例なら
心あたりはあります。
保元の乱の戦後処理の際、忠通への相続が認められた荘園群と、
頼長の私領であると没官(とゆーか後白河がパクッた)された荘園群とがありますよね。
前者は「摂関家」のものであり「氏長者」に付随するもの、という認識があるからこそ、
こういう措置がとられた、といえるのではないでしょうか。
よって、保元元年には(家産の面において)「イエ」という概念は確立している、と。
まあ、これも「この時点以前ということは確認できる」という材料にすぎませんが。
家政機関については、13世紀はともかく、少なくとも12世紀ではかなり微妙でしょうね
>116
コテハン入れ忘れました。
118 :
日本@名無史さん:03/08/04 18:57
>116,117有難うございます。113です。全く興味深い限りです。
では即位灌頂はさておきまして、3さん、111さんにお願いです。
史学のプロでない方や、書込はされずに御覧になるだけの方もきっとご同感頂けると思うのですが、お2人レベルに憧れる一学生として以下の三点を御教示下さい。
今までの論議をふまえ、摂関家の成立に関して、お2人それぞれが達した現時点での総括
本件に関してお2人が必須とされる論考(吉川弘文館で最近刊行されたもの以外で)
僕が111に立てたアウトラインが適切であるとしたならばスレ展開の為に次は何を検討すべきか
119 :
日本@名無史さん:03/08/04 19:02
118の補足と訂正
本件に関する論考というのは、摂関家の成立に関する件です。
僕が111に立てたアウトラインというのは、113の間違いです。
宜しくお願い致します。
120 :
日本@名無史さん:03/08/04 23:07
ゆうげ
121 :
日本@名無史さん:03/08/05 01:56
111です
私も専門家ではないので、何ともいえませんが、とりあえず次のことは言えると思います。
「摂関家の成立がいつか」という問題は、イエの成立要素(家領、家職や家督など。祖先祭祀もそうか…)
のうちどれを考察するかで結論が異なるということ。
ただ摂関家の「家格」が成立したのは忠実期であることは確実ですね。
複雑な問題で、私は現段階ではこれ以上の理解には到達できそうにありません。
イエの問題を考えるならば、思文閣から出ている『公家と武家』(二冊)という本が面白かったです。
中世公家の家業や、五摂家の分立などをテーマにした論考が収録されています。
森話社の『院政期文化論集T―権力と文化』所収の小川剛生氏「知と血」という論文も興味深いです。
「家業」という観点から、摂関の「公事の説」について論じておられます。
とりあえず手持ちの本の中では以上ですかねぇ。いづれも最近のもので恐縮ですが…。
あと服藤早苗氏『家成立史の研究』(校倉書房)も必読かもしれません(何年に出たかは忘れました)。
他にも「これは良い」という研究書や論考がありましたらご教示ください。
今後のスレ展開ですか…。結局は、最終的に何を明らかにしたいかですよね。
二神約諾のほうに考察対象を持っていければベストなんですか?
付けたしです。実は上記した「知と血」という論文を書かれた小川氏が即位灌頂に関する論文を
確認できただけで2本書いてらっしゃいます。
興味があれば国文学研究資料館のHPの研究者紹介でご確認ください。
あるいはもう読まれました?だとしたらすみません。
私は未読なんですが、このスレで話が盛り上がっているので読んでみようと思います。
122 :
日本@名無史さん:03/08/05 08:17
あさげ
そう熱くなるなよ左翼共(w
>>118 摂関家の成立については、
>>121氏に付加えることはとくにありません。
この時期の本・論文について入門者むけにお勧めするならば、
佐藤進一『日本の中世国家』(岩波書店)
高橋昌明『清盛以前−伊勢平氏の興隆』(平凡社:絶版)
上横手雅慶『日本中世政治史研究』(塙書房)
元木泰雄『藤原忠実』(人物叢書。吉川弘文館)
あたりでしょうか。(敬称は略しました)
もう読まれていたらすいませんです。
今後のスレ展開ですか。
個人的には二神約諾思想は政治の道具、という印象があって、
その思想を支点に現実が転回した、とは思えない部分があるのですけど。
どうなんでしょう。
125 :
日本@名無史さん:03/08/05 13:54
>121有難うございます。
>124有難うございます。
学部生で専門外の僕も、お2人の御蔭で何とも言えぬ知的興奮を毎日味わえ嬉しくてなりません。
お2人を目指すにあたり、まず目標にしたい事は論理の明快さです。お2人のような文章を書きたいです。
その反省もふまえ、118「吉川弘文館で最近刊行されたもの以外で」と言う表現も舌足らずでした。
最近吉川から出版された山本信吉氏『摂関政治史論考』以外で、と書きたかったのに、題を失念したため、あのように書いちゃいました。
おまけに本書は摂関全盛期の研究ですから本スレに関係ないですね。
126 :
日本@名無史さん:03/08/05 14:19
125続き
と言う事で、118の僕の表現にとらわれず、摂関家成立に関する論考が他にもございましたら、改めて御教示下さい。
教えて戴くばかりで恐縮ですが、「最新の」論考も、吉川の書籍も、お願い致します。
佐藤氏御著書と小川氏「知と知」は読んだ事があるので何だか嬉しいです!
他のも是非読んでみます。
公事の説や儀式作法からイエの成立を検討した論を数点読みました。
題を確認できる状況に今おりませんので、確認次第ご報告します。といってもきっと御存知でしょうが。
続く
127 :
日本@名無史さん:03/08/05 14:42
126続き
「イエの成立」はファクターによって結論が異なるが、「家格の成立」は忠実期で確実、というのがお2人の共通見解ですね。
高御座登壇から見ても大嘗祭神事代行から見ても、忠実期は重要なターニングポイントです。
また、3さんの「二神約諾は政治の道具。思想を支点に現実が転回したとは思わない」は非常に興味深いところです。
以前話題に出た通り、中世神話がそのフレキシブルな側面を面目躍如発揮したのだと思います。
そして、小川氏の即位灌頂論文を1つだけ読みましたが、二神約諾は慈円以降しっかり定着していくようです。
続く
128 :
日本@名無史さん:03/08/05 15:00
127続き
そこでひとまず本スレでは、「忠実期をスタートラインにして、即位灌頂が確実に定着するまで」を検討年代としては如何でしょう?
まだ広すぎるでしょうか?
「即位儀礼・その他の儀礼における摂関の役割と、それにまつわる中世神話」を手がかりに、中世の天皇の位置付けを論じられたら楽しいと、僕は思います。
ですが、僕には思い及びもしないグッドアイデアを、お2人ならきっとお持ちでしょう。
ぜひ御提言下さい。
宜しくお願い致します。
御覧になるだけで書き込みはなさらない方にも、御意見をお聞かせ願いたいところです。
129 :
日本@名無史さん:03/08/05 22:42
ゆうげ
130 :
日本@名無史さん:03/08/06 08:39
あさげ
131 :
日本@名無史さん:03/08/06 08:50
>御覧になるだけで書き込みはなさらない方にも、御意見をお聞かせ願いたいところです。
これだけレベルの高いスレに首を突っ込むのはなかなか覚悟がいります。
132 :
日本@名無史さん:03/08/06 10:48
即位灌頂ってどういうの?
>>125−128
毎度過分のお言葉に冷汗をかいております。
検討事項は摂関家と王家の関係についてでしょうか。
私は王権のマジカルな側面や、中世宮廷儀式にはくわしくないので、
個人的には政治史とからめる方向でのレスになると思います。
まともなコメントができるのは後鳥羽院政期くらいまでと思いますが。
121氏については存じ上げませんが、
私は王権論については専門家ではありませんので、
「グッドアイデア」などは期待しないでくださいね(w
というか、誰か詳しい人、ぜひぜひカキコお願いします。
即位灌頂については何も知りません。
定着するというのはいつごろのことですか?
134 :
日本@名無史さん:03/08/06 12:45
ひるげ
135 :
日本@名無史さん:03/08/06 16:09
ゆうげ
136 :
日本@名無史さん:03/08/06 18:42
ばんげ
,,,--─===─ヽ/へ
/iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶
iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiii/ \iiiiiiiゞ
iiiiiiiiiiii/ \iiヽ
iiiiiiiiiiiiiii《 ━━━'/ ヽ━━━ ヽミヽ
...iiiiiiiiii彡/ __,.:: :: __ ヽiiiii|
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iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii 》━━━━《 |iiiii|
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140 :
日本@名無史さん:03/08/07 08:03
あさげ
141 :
日本@名無史さん:03/08/07 08:04
ひるげ
142 :
日本@名無史さん:03/08/07 08:06
ぞるげ
143 :
日本@名無史さん:03/08/07 19:05
121です。二日間留守にしておりました。
小川氏論文「即位灌頂と摂関家」(『三田國文』25、1997)読みましたが
即位灌頂が即位儀礼の中に定着するのは伏見院からのようですね。
面白いのは、少なくとも両統迭立期までは二条家の人たちだけが即位灌頂を
行なっていることでしょうか。
あと面白いのは両統迭立期は、ある意味で「二つの王家」が並立していたわけですが、
そのどちらもが、即位灌頂を行なっていることです。
大覚寺統と持明院統は対抗勢力同士のはずなのに、一方の統がおこなった即位灌頂が
対抗する別の統にも取り入れられたという点では、即位灌頂の即位儀礼における意味のほかに
当時の政治勢力のパワーバランスを考慮する必要があるのではないでしょうか?
即位儀礼を牛耳っていたような人物・勢力はいたのでしょうか?
>>143 そのころの政治勢力については
関東=後嵯峨院=西園寺家の枢軸、というイメージですね。
宝治合戦・四条帝の頓死により、隆盛を極めた九条道家の権威が後退し、
皇位継承を関東が左右したうえ、皇族将軍が実現する。
幕府の優位のもとでの公武融和が実現している、というところでしょうか。
そんな中での「二条家だけ」というのは確かに注目すべきですね。
九条道家から義絶され、西園寺家の後援(?)のもと、関白、その後も
内覧をつとめるなど、後嵯峨院政下で重きをなした良実の血統ですからね。
もし小川氏が触れておられるなら、教えていただきたいのですが、
後嵯峨、後深草、亀山は即位灌頂を行っているのでしょうか。
もし、後嵯峨がやっているならば、両統ともに行っても問題ないと思うのですが。
145 :
日本@名無史さん:03/08/08 21:06
>144
関東=後嵯峨院=西園寺家の枢軸…まさにそうですよね、この頃は。
ところで少し敏感になるのが「皇位を関東が左右した」という点についてなんですが、
「関東が積極的に皇位継承に介入した」ということではないですよね?
常々思っているんですが、関東が主体的に皇位継承に介入する際の行動原理は、
「順徳系の復活阻止」だけだと思っています。
それ以外の場合は、京都からのお伺いに対して反応しているだけで(その反応が皇位を左右するんですが)、
主体的介入ではないんだと思うんです。
ですから「皇位を左右する」=「皇位継承権のある意味での掌握」にはならないと思っています。
この点、144さんはどのような意味合いで「皇位を左右する」という言葉を使われたのかは大変興味があります。
で、即位灌頂についてですが、小川氏論文によれば「確実な所見」は伏見からでした。
ですので後嵯峨はやっていない可能性が高いですね。
ちなみに伏見院に即位灌頂を伝授した関白二条師忠に入れ知恵したのが道玄という摂関家出身の僧侶で、
法流としては慈円直系(慈円―道覚―道玄)であるというのが興味深いです。
九条流の流れを組む二条家、家を起して間もない二条家、慈円直系の僧侶の関わり…
二神約諾は政治的道具の意味合いが強いような感じがしてきました。いかがですか?
>>145 まず、「関東が皇位を左右した」についてですが、
私は「関東が主体的に介入したか否か」という点を重視せず、
「実質的に関東の了承なしで、皇位継承ができなかった」という点に注目しているから
こう書いた、とお答えしておきましょう。
後嵯峨登極・両統迭立、それぞれの経緯を見ても、
「王家」が(いわゆる「治天」の地位にある)院の意思だけで皇位継承を決定できず、
「関東の意思」を無視することができなかったことが明らかにみてとれる、
とするのが、私の立場です。
次に即位灌頂についてです。
そうですか、後嵯峨はやってない、と。
とすると、やはり二条家と慈円の法流あたりが怪しいですね。
二条家について付加えるとすれば、家祖良実が道家の次男とはいえ、
彼は道家から義絶され、家領は一箇所たりとも受け継いでいません。
政治的位置は九条流とは別とみるべきでしょう。
むしろ時頼と個人的に音信があったこと、西園寺公経の娘婿であったこと、
その後、二条家が持明院統の重臣となってゆくことなどを、
考慮にいれるべきではないかと。
147 :
日本@名無史さん:03/08/09 19:58
テンノー
148 :
日本@名無史さん:03/08/09 22:38
応仁の乱のドサクサで御所ごと焼き払ってくれりゃあよかったのに・・。
149 :
日本@名無史さん:03/08/14 22:00
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
151 :
日本@名無史さん:03/08/16 00:35
152 :
125,126,127,128:03/08/17 03:49
>146=144=133=3様
>145=143=121様
125,126,127,128です。御無沙汰致しております。
僕が仕切り過ぎた気がしましたので、お二人にラインを引き直して頂こうと自粛致しておりました。ですが、消滅しそうで悲しくなり思い切って登場しました。
まだ御覧になっていらして、ご不快でなければ、是非ぜひ戻って来て下さい。
スレ主でもないのに筋違いは承知ですが、お二人から良い刺激を戴きたいと思います。
正直、この数日間物足りなくて仕方がありませんでした。お願いします。
もちろん、他の皆様にもお願いしたいと思います。131さんも是非に!
153 :
125,126,127,128:03/08/17 04:24
>3=133=144=146
何を検討するにせよ「中世の天皇の位置付け」で盛り上がるには、後鳥羽院政期前後までの政治史抜きには語れないと、若輩ながらも存じます。宜しく御引率下さい。
以前ご提示いただいた佐藤氏ご著書に、九条道家は暗殺では?とチラッと出ていました。その真相や如何に?
二条家始祖の良実が道家に義絶された経緯
良実から西園寺家に婿入りしたのか西園寺家から取り込んだのか
良実が時頼と個人的に親しかった事情
以上4点にとても関心を抱きました。もっと詳しくお聞かせ願えないでしょうか?
即位灌頂定着は二条良基です。
154 :
125,126,127,128:03/08/17 05:06
>121=143=145
即位灌頂が「二つの王家」に取り入れられたのは、即位儀礼での意味以外に、政治的パワーバランスからも検討すべきで、二神約諾は政治的道具の色彩濃厚、との御意見にはカナリ興奮してきます。
前に灌頂開始は諸説ありと御報告しました。小川氏論文に批判的なのが橋本政宣氏『近世公家社会の研究』所収の論考です。
以前106でどなたかが書いて下さった時に、僕が109にレスした、江戸時代の即位灌頂の近世史料に関する研究です。
江戸期の灌頂は二条家が独占しますが、史料は二神約諾満載です。是非ご一読頂き御意見賜りたいものです。
155 :
125,126,127,128:03/08/17 05:28
154続き
橋本氏は、以前お話下さった後宇多院にからめて論じられていたかと思います。
ですから是非とも御意見伺いたいです。後、お伺いしたいのは、
慈円から道玄に至る法流について
小川氏のもう一つの論文について
です。宜しくお願い致します。
先のパワーバランス云々の御指摘に対し、3さんはスグ、後嵯峨院すら灌頂していれば簡単なのに、との御返事でした。こうしたヤリトリや、お二人の定義の明確な確認が本当にわくわくしてならないんです。
是非以前のように楽しいお話をお聞かせ下さい。僕以外のギャラリーも同じ思いと信じます。
あぼーん
157 :
日本@名無史さん:03/08/17 13:29
あげ
>>153 ご無沙汰しております。
ご丁寧なごあいさつ、痛み入ります。私の、かなり無責任な書き込みに
ご相手いただきありがとうございます。
正直、みなさんの書き込みに茶々を入れてるだけですので、
おかしい、と思うことや、事実の間違いがあれば、ぜひ、ご指摘頂ければ
幸いと存じます。
>153の4点について申し上げます。
まず、訂正からです。以前、二条良実を、「西園寺公経の娘婿」とカキコしたと思いますが、
これは、「公経の外孫」の間違いです。訂正いたします。
つまり、もともと頼朝との血縁で親幕府派だった西園寺家と、九条道家は姻戚関係に
あった、ということです。(その血縁で、摂家将軍が誕生したのはご承知の通りです)
で、二条良実は、もともと父道家とは不和だったにも関わらず、
外祖父たる西園寺公経の後見により、関白まで上ったわけです。
ただし、1246年、父道家の強制により、弟実経にその地位を明け渡しています。
それとの前後は定かではありませんが、同じ年に関東では前将軍頼経が追放され、
道家は関東申次を罷免され、西園寺実氏が代わってその地位につきます。
道家にとっては、頼経追放は単なる息子の失脚に止まらず、自身も謀反の
嫌疑をかけられるという、政治的な危機でもあったようです。
そんな混乱の中で、良実が西園寺家ひいては関東に通謀したのでは?
という疑いが、道家の中で起こってきた、というあたりがそのその事情といわれている
ようです。
もっと詳しい方がいらっしゃいましたら、補完・訂正のほど、お願い申し上げます。
良実と時頼との関係については、1251年に時頼が彼に送った親書から、
その良好なようすが推測されています。
159 :
152,153,154,155:03/08/17 20:10
>158=3
うわぁ早速の御返事、カナリ感激しちゃいました。有難うございます。
無責任な書込みだなんて滅相もない。茶々入れてるだけなのは僕ですから。
良実と西園寺家の単なる系図知識は、頭に残っていたのでアレ?とは思ったのですが、「白川」の時と同じで、自分の知らない説が専門的には常識なのではないかと、不安でならないんです。
野暮な質問ばかりしてお許し下さい。
1246年の一連の更迭劇の正確な日順を是非知りたいものですねえ。
あと、道家・良実父子はなぜ元来仲が悪かったのでしょう?
そして、道家暗殺を如何お考えですか?
それにしても橋本さんの本厚い
まあ、誰かさんと違って質も高いからいいけど
>160
本当に厚いですよねえ!是非ご意見もお聞かせ下さい。
162 :
日本@名無史さん:03/08/18 09:40
あげ
>>159 わかってらっしゃったなら、指摘頂ければ良かったのに(w
これでいかに私が、事実確認もしない、無責任な姿勢(wが
お分かりになったと思います。
159さんも、その他の方もどんどん指摘してください。
145さんも、お待ちしております。
で、1246年の一連の出来事の順番ですが、
1:良実関白→実経摂政への交代、
2:頼経追放
3:道家を関東申次から更迭,西園寺実氏就任。
の順番だったようです。
良実と道家との確執は、道家が1を望んだにも関わらず、良実が拒否したからのよう
です。(結局は良実が引き下がったようですが)
両者の不和がそれ以前からなのか、これがきっかけだったのかは
不勉強でわかりません。
「元来」ではなかったのかも知れませんね。
実経は数年後に摂関職を辞し、そのすぐ後か誰かを挟んだかは分かりませんが、
良実は摂関に返り咲いています。
その後、実経と良実は和解し、実経も関白になりますが、良実が内覧の宣旨を
うけ、実質、良実が政治を指導していたようです。
>>159 道家暗殺についてですが、
当時の道家に、「暗殺する価値」があったのか、無かったのか、が問題となるかと。
もともと道家の権勢は、
・四条天皇の外戚であること。
・鎌倉殿頼経の実父であること。
の2点にありました。
しかし、1246年の時点ではすでに帝位は後深草に移っていますし、
宮騒動により、頼経は鎌倉を追放、関東申次の地位は西園寺家に移っています。
承久時・後嵯峨践祚時と、幕府に対する失点を重ねていたわけで。
また、道家の嫡孫忠家が関白に任ぜられたのが、
後嵯峨院の死後であったことからみて、後嵯峨に疎まれていたのも確かでしょう。
王家・鎌倉殿、双方から疎まれている人物に暗殺するだけの価値があるでしょうか?
しかも、1251年には九条大御堂の僧了行が謀反が摘発され、決定的にその地位を
失っています。暗殺する価値がないと考えます。
まあ、この謀反の摘発自体が陰謀だとするとまた事情が違ってきますが、
詳細を知りませんので、コメントは控えます。
>>163 追加です。
実経が摂政を辞したのは、1247年。これを継いだのは近衛兼経です。
兼経は1252年、弟の鷹司兼平に摂政職を譲ります。
兼平は9年間摂政・関白を務めたあと、1261年に二条良実に関白職を譲ります。
そしてその4年後に1265年に一条実経が関白職に返り咲く、という流れになっています。
九条忠家が関白になれたのはさらに7年後の1272年のことで、
その間に近衛基平・鷹司基忠をはさんでいます。
166 :
日本@名無史さん:03/08/18 22:23
あげ
>>164 またも追加ですいません。
道家が死んだのは1252年2月、宗尊親王が関東に下ったのはその4月ですね。
ですから、道家が死ぬまでの時期は頼経の子、頼嗣が鎌倉殿です。
以下の通り訂正します。
訂正前:王家・鎌倉殿、双方に疎まれている
訂正後:院・執権の双方に疎まれている
この時点での時頼を「得宗」と呼んでよいかは微妙なので、
執権とよんでおきます。
168 :
日本@名無史さん:03/08/19 00:28
AGE
169 :
日本@名無史さん:03/08/19 12:26
あげ
>167,165,164,163
3さんは、後鳥羽院政までが御専門との事ですのに、お付合い頂き有難うございます。
おまけに僕は、自分の知識が正しいか誤りかの区別すらできない人間ですので、御迷惑をおかけしております。
すでにこれだけ甘えさせて頂いているのですから、気づいた事や疑問は、今後も胸をお借りして厚かましくぶつからせて下さいね。
145さんにも戻って来て頂きたいものですね。
1246年更迭劇にふと思ったのですが、保元前夜の状況と似た感じなのですか?
忠通vs忠実・頼長と、良実vs道家・実経(・頼経)は同じ構図でしょうか?
続く
170続き
3兄弟は全員同腹で、母は西園寺公経女綸子なのでしょうか?
良実だけ経の字がつかぬのはなぜでしょうか?
「1251年の了行の謀反発覚を契機に、1252年に九条家を背景とする陰謀ありとして、頼嗣から宗尊親王に将軍が変わった」これで理解は正しいでしょうか?
了行の謀反、九条家の陰謀とは、どのようなものだったのでしょうか?
宗尊親王は第一皇子なのに関東に下向させられたというのはどうしてでしょうか?
後深草(久仁)・亀山(恒仁)両帝とは異腹ですか?
仁の字がつきませんが、母親は同じく西園寺佶子ですか?
続く
171続き
九条大御堂とは東福寺ですか?
1251年謀反発覚の了行とは何者でしょう?
1252年、道家は鎌倉からの陰謀糾明?の使者に対面した直後死んだそうですが、切られたのでないなら自殺でしょうか??
ここから脱線。
大河『時宗』で近衛基平が自死しましたが、信頼性の有無にかかわらずソースは一応ある話なのですか?
また『葵・徳川三代』で、二条昭実が幕府の使者に難詰されて胸をつまらせ死にましたが、これもどうなのでしょう?
閑話休題、ちなみに彼は後水尾帝への即位灌頂「権」を近衛前久と争って勝ちました。
173 :
日本@名無史さん:03/08/19 21:18
>>170 また、もりだくさんですね。(w
なんか鎌倉中期の政治史にくわしくなれそうです。(w
ちゃんと回答しているつもりですが、前科がありますので、
孫引きの際には御自分で検証のうえ、ご利用ください。
保元の乱前後との比較は、私には中世政治史の論文が一本かけるような
ネタに見えます。
もちろん単純に両者を比較するだけではダメです。
「摂関家の内紛」という点では一致してますが、周囲の状況が
違いますからね。既に摂関家も近衛流と九条流に分立していますし。
公経女所生の道家男子は4人です。
それぞれ九条教実、二条良実、九条頼経、一条実経です。
摂関家は頼通以来、師実、師通、忠実、忠通と「実」「通」字が交代して
通字となっていますので、むしろ「実」が後ろにつくほうが通りが良かったでしょう。
了行は千葉氏の出身で、彼が勧進と称して鎌倉に入ったときに、まわした回文が
謀反に関わっていたとされたようです。
九条大御堂については、『鎌倉遺文』1448号文書「九条兼実置文」に
「九条堂并屋地等」とありますが、これと「大御堂」さらには東福寺との関係については
分かりません。
ただ、東福寺は当時造営中でしたから、了行の勧進もそれと関係あるかも
しれません。
宗尊親王は両帝とは異母兄弟になります。母の家格は西園寺家よりは低かった
ようです。
道家の死については以前に書いたとおりです。
基平の死因については、私も『時宗』を見てあわてて『国史大事典』をひいた
覚えがあります。病死だったという記憶があります。
175 :
170,171,172:03/08/20 00:29
>174有難うございます。
自分で読み直し、コリャ聞きすぎ、と反省していましたので、懇切なレスが尚更嬉しかったです。
前にも書いた通り、このスレに魅かれたきっかけは偶然読んだブックレットと重なっていたからですが、3さんのお導きの御蔭で、他の本や論文に目を通してまで夢中になるほど、ハマってしまいました。
文献を漁る楽しさまで知る事ができました。
でもこれはレポートや課題でないから楽しいのかも知れませんね。
ですから、その面からも無責任大歓迎という事で末長くお願い致します。
145さんが帰って下されば賑やかですのにね。
176 :
174,172,171,170:03/08/20 00:51
175続き
基平自死はやはり創作ですよねえ!
それでもやはり急死か何かで少しは怪しげだったのでしょうか?
174に少し書いて下さったので、話題を五摂家について転がしてみます。
基本的すぎる愚かな質問でしたらお許し願いたいのですが、まず五摂家はどうして成立しえたのでょうか?
舌足らずで申し訳ないですが、どうして五家にも別れてしまい、また逆に五家以上にはならなかったのでしょうか?
また五摂家内の序列はどのように確定したのでしょうか?
以上のような点もふまえて、五摂家の成立に関して、是非とも御教示を賜りたく思います。
177 :
日本@名無史さん:03/08/20 17:26
あげ
178 :
日本@名無史さん:03/08/20 21:07
AGE
179 :
日本@名無史さん:03/08/20 21:14
>>917 :日本@名無史さん :03/08/20 19:02
>>某スレに、即位灌頂、二神約諾、、などが書かれており、関心を持ったのですが、
>>今いちちょっと分かりません。
>>そのスレは割り込めない雰囲気でして、こちらで教えていただけないでしょうか?
>>参考文献や論文なども何卒御教示下さい。
>>宜しくお願い致します。
>>176 概説書をくってみました。
以下は近藤成一「鎌倉時代の分水嶺」(同編『日本の時代史9モンゴルの襲来』28P、
吉川弘文館、2003)を、参考にしております。
摂関家が分立した要因としては、「摂関の子は(長幼の順にかかわらず)摂関への
就任資格をもつ」ということが一番大きかったようです。
つまり、長子以外が摂関についたため、イエが分立したと。
たとえば九条道家の子は3人、近衛家実の子は2人、それぞれ摂関の地位について
います。
結果的には彼らの世代で5流に分立していますが、其の時点ではそれ以上に
分立する可能性があったとみるべきでしょう。
たとえば、鷹司兼平の息子は二人、基忠と兼忠が摂関に就任していますし。
しかし、イエとは本来直系相承されるべきものですから、それ以上には分かれなかった
のでしょうね。
要は5つに分かれたのも、それ以上に分かれなかったのも、
「偶然」の要素が大きいような気がします。
道家の子供がもう一人多いか、少ないか、といったレベルの偶然で
6家にも、4家にもなったような気がします。
>>179 そのスレで既に用語については解答がなされていますので、
そちらはおいておくとして、
参考文献としては、>176氏が最初に挙げられた
河内祥輔『中世の天皇観』(山川出版日本史リブレット)
がよろしいでしょうか。
(遅ればせながら私も読みました)
>176氏からも何かフォロー頂ければありがたいです。
あと、割り込み・横レスは大歓迎です。
質問についても、「これが分からない」とはっきり書いて下されば、
全てとはいいませんが、私にできる範囲でお答えいたしますので。
(答えられないご質問はスルーせざるを得なくなるかもしれませんがw)
182 :
日本@名無史さん:03/08/20 23:03
145です。お久しぶりです。
一時は誰も書き込みをしなくなってしまい、案じておりました。
(小生が流れを止めてしまったのでしょうか…すみません)
でも活気が戻ってきていて、なんだか嬉しいです。
さて五摂家の話題がでているので、その話題を少々。
やはり五摂家分立の契機は偶然性がかなり強いのかな…という印象ですね。
摂関職は形骸化しつつも、なお何らかの利用価値・存在価値があった。
ゆえに時の実力者(関東や西園寺など)にいいようにいじられた結果が
分立に繋がったのだと思います。
で、なぜ分立しえたのかというと、やはり「家」がキーワードになるんだろうと思います。
180氏が「『摂関の子は(長幼の順にかかわらず)摂関への就任資格をもつ』ということが一番大きかったようです。」
と書かれていますが、この点は重要ですよね。
『王権のコスモロジー』という本に河内祥輔氏が面白いことを書いているんですが、
院政期までは摂関の子たちは、嫡流以外(庶流)みな没落していくんです(あと源氏も…こちらは摂関流よりひどい)。
自身は大臣になれたのに、その子(孫)は納言クラスに留まり、更にその子(曾孫)になると
公卿にすらなれなくなる者も出てくる…といった具合です。
しかし「家」が成立する院政期以降、摂関庶流の子たちの没落は少なくなるようです。
これは公卿数の急増現象によっても説明がつきます。つまり「家」として成立し、「家格」を継承していくんですね。
「家格」は一定の地位へ「既得権」とも捉えられますから、たぶんこの事が、五摂家分立の底辺にあるんでしょう。
ただ、興味深いのは摂関家の初めての分裂、つまり近衛(基実)・松殿(基房)・九条(兼実)の三流の分裂なんですが
松殿家は断絶してますよね。これをどう捉えるべきなのでしょう?
近衛・九条両家はそれぞれ高陽院・皇嘉門院の所領を元手に「家領」を形成しますが、松殿家はどうだったのか。
「家領」=経済基盤がないことが、断絶の一因と考えられるでしょうか?
もしそうなら、鎌倉中期の五摂家分立は「家格」と、分立に堪え得る「経済基盤」の存在がポイントになりそうですね。
久々なので長文になってしまいました…ご容赦を。
マルチでごめんなさい。
初心者スレでも質問したのですが。
天皇家を「王家」と読んでいたのは何年から何年ごろまでですか?
古代・中世・近世と天皇家はなんと呼ばれていたのですか?
184 :
176,175,155ー152:03/08/21 18:08
>182=145とても嬉しいです!
戻って来て下さり本当に有難うございます。
僕では力不足で3さんにも申し訳なく思っておりました。
152ー155、特に154,155に僕から145さんへ書込みしてあります。
お忙しいとは存じますが是非ご意見賜りたく思います!
長文大歓迎です。
3さんと一緒に僕を良き方向にまた感化して下さるようお願い致します。
>181,180=3どうも有難うございます。
ブックレット読んで下さったんですね!
その関連で話が膨らむと楽しそうでわくわくします。
宜しくお願い致します!
>183
「王家」僕も3さんに御教示頂きました。
185 :
日本@名無史さん:03/08/21 18:35
182ですが…少々
天皇家の呼称をめぐっては、昔、黒田俊雄氏と奥野高広氏との間でちょっとした論争がありましたけど、
現在のところどういう具合になってるんでしょうね。研究はあるんでしょうか?
天皇家の呼称は「王家」の他にも「朝家」「皇家」「皇室」「王室」などがあるようですが、
それぞれどんな基準で使い分けされていたのかは、きちんとはよくわかっていないはずです。
(黒田・奥野両氏は若干考察されてますが…)。
浅学管見の限りでは、183氏のご質問に堪え得る研究成果は現在まだ無いのではないかと思います。
どなたかご存知の方がいたら教えてください。非常に興味がありますもので。
しかし一般に中世の天皇家を指すとされる「王家」と言う語は、そもそも史料用語ですが、
最近の研究を見ていると、すでにテクニカルタームになっている感がありますね。
つまり黒田氏の権門体制論を元にすれば、院政期前後に成立した
「それぞれ独立した一個の経営体である院宮ら諸権門が同族的血族的要素を背景に緩やかに結合した家系」
程度の意味で使われているように思います。
権門体制論は鎌倉幕府の位置づけ等を巡って色々問題が指摘されていますが、
王家の存在形態に限っては、その特徴を絶妙に言い当てているように思えてならないです。
特に近年、女院領の自立性が証明されたことなどは、権門体制論的王家論を強化していますよね。
すみません、反応しておきながら全然答えになっていませんね。
何分、浅学でして…。それならばレスするな、と言われると弱ってしまいますが…。
186 :
184,176,175:03/08/21 18:36
>180=3
>182=145
『日本の時代史9』は元襲来に興味なかったのでスルーしてました。ダメですね。
「摂関の子は長幼順に関わらず就任資格持つ」のが「当然」とされた時期に五家まで出揃ったが、
丁度「家・家格」を「重視」する時代に移行し、五家以上増えなかった、という感じですか?
五摂家内の序列はいつどのようにして成立したのでしょうか?
「家領」から松殿と比較するのも興味深いです。
基房は「作法」を自己の権威付けにしましたね?
二条家も所領問題がありましたよね?
そこで弱い二条家が即位灌頂を捻出した、が小川氏ですね?
182=185=145です
煩雑になってきたので、この辺りで145に統一させていただきます。
154および155の書き込みを拝見しました。
橋本氏の御著書は残念ながら未読です。いずれ時間を見つけて読んでみます。すみません。
何分、承久の乱頃までが守備範囲で、無理に伸ばしても後醍醐頃までが主な興味の対象期間でして…。
ちなみに「後宇多院にからめて論じられていた」ということは橋本氏は即位灌頂に関して後宇多の
密教趣味(といって良いのかな…)に注目しているんですか?
あと慈円から道玄に至る法流については小川氏論文で指摘されていたのですが、
この時期の法界については別個検討が必要でしょうね。
個人的には道家の子の法助を初例として、二例目の道玄以降定着した非皇族僧侶への
准后宣下が手がかりにならないかなぁ…程度のことしか思い浮かびません。
小川氏のもう一つの論文についてですが、論文名を失念してしまいました。
室町期の即位灌頂について二条家がらみで論じた内容です。
しばらく見ていなかったので、話題に遅れ気味ですね…。
>>182さん、お久しぶりです。またいろいろご教授願います。
>>183さんへ。
学術用語的な「王家」の意味あいについては、
>>185で言い尽くされていると
思います。
が、「回答する」と宣言した人間が何もしないのも何なので、
史料用語としての「王家」について、調べて(といっても辞典をひいただけですが)
みました。
初見は917年ころ成立(992年説あり)の
『聖徳太子伝暦』下巻、推古天皇26年のところに
「倭国之王家」とあるのがそれのようです。
終わりのほうについては、明治時代の歴史家で「王家」を使った方もいたようですね。
古代・近世の用法については、良く分かりません。
えっと、どれからレスをつければよいのやら。
とりあえず
>>186で整理いただいた論題について、できるとこから行きましょうか。
松殿基房の没落については、
個人的には家領の有無よりも、
関東との関係の有無の方が問題ではないか、と存じます。
以前挙げた九条兼実の置文で、明らかに荘園とわかる所領が40くらいに対して、
それから2代あとの道家の初度処分状(鎌倉遺文7250号)では
100箇所を超えています。
(個々の荘園の検討はしてませんので、数はあまり正確とはいえません)
つまり所領は、本人の権勢次第で増やすことは可能だったと思われるからです。
基通に後白河、兼実に関東という(特に前者にはいろんな意味でw)心強い
後盾があったのに対して、基房にはそれが無かった、というのが原因かと
思うのですが。
>>186 >「摂関の子は長幼順に関わらず就任資格持つ」のが「当然」とされた時期
これは、私の書き方も悪かったのですが、
「摂関の子は摂関への就任資格を持つ」のですが、
摂関の地位に「当然」つけるわけではありません。
やはり、自分の子4人のうち、鎌倉殿になった頼経を除く3人を
摂関に送り込み、さらに近衛家の御曹司兼経を婿にとったという、
道家の権勢が異常だったのだ、と思います。
その5家に分立した後は、摂関の「順番待ち」が多いうえ、
イエが直系相承が確立されていったのが、それ以上の分立を
抑える要因になったのではないか、と思われます。
五摂家内の序列ですが、さて、どうでしょうか。
近衛家が筆頭と言われていますけれど。
どうなんでしょう。特になかったんじゃないか、とは思いますが、。
良く分かりません。
もし分かる方がいらっしゃれば、ぜひ、ご教授願いたいです。
3様
145様
今後とも宜しくお願い致します!
3さんは後鳥羽院政まで、145さんは承久までが御専門との事ですし、
五摂家成立ネタが終われば、
忠実から後鳥羽あたりに話を戻しましょうか?
このスレでの僕の最初の疑問も「王家」でしたが、初学者はこの語にとまどうようですね。
>187
145さん、こちらにも早速のレスどうも有難うございます!
本当にお忙しいと思うのですが、お暇な折に橋本氏論文ぜひ御一読の上、ご意見お聞かせ下さい。
後宇多院に関するお尋ね、僕も読んだのは大分前で忘れてしまいました。
再読して備えておきます!
>>192 こちらこそよろしくお願いします。
>3さんは後鳥羽院政まで
いや、時期の問題でなく、政治史・王権論自体が専門外でして。
政治史もこのへんまでくらいしかわかってないんですよ。
逆に、このスレに書き込むことで、全く専門外の勉強ができて
ありがたく思っておりますです。はい。
ですので、時期についてはお気遣いなく。なんとなくの流れにまかせて参りましょう。
「王家」というタームについてですが、
学会でも一般的になったのは、90年代以降のようです。
いわば「最新」の用語ですので、ご存知ないのも無理はないかと。
>183氏の質問に接して、調べてみて驚いたのですが、
『国史大事典』にも『日本史大事典』にも『岩波日本史辞典』にも
「王家」の項目はありませんでした。
編集開始時には一般的な用語ではなかったのでしょうね。
小学館他はどうでしょう、持ってる方がいらしったら是非教えてください。
ちなみに『日本国語大辞典』の第二版には、一応、「おうか」で載ってました。
「国王の家筋」とありましたが、用例は明らかに天皇の家系として使用されている
ものばかりでしたが。
>189,190,191=3
3さん有難うございます。
190特に有難うございました!
道家個人が欲張りさんで、我が子全員を頂点に就かせたいという権勢欲の結果、こうなったのでしょうか?
二条家は荘園を相続できなかったのですよね?
前から思ってはいたのですが、基房って可哀相な人ですよね。
近衛家が筆頭とかはいつから言い出された事なのでしょうかね?
145さんの御意見も本当に楽しみです。
>189,190,191=3
3さん有難うございます。
190特に有難うございました!
道家個人が欲張りさんで、我が子全員を頂点に就かせたいという権勢欲の結果、こうなったのでしょうか?
二条家は荘園を相続できなかったのですよね?
前から思ってはいたのですが、基房って可哀相な人ですよね。
近衛家が筆頭とかはいつから言い出された事なのでしょうかね?
145さんの御意見も本当に楽しみです。
196 :
195,194,186:03/08/21 20:49
二重カキコ失礼しました。
>193
3さん、優しいメッセージ本当に有難うございます!
本当に宜しくお願い致します!!
「おうか」と読むんですか!?
またまたビックリです。
知らずに過ごしてどこかで大恥かいていたと思います。
知れてよかったぁ。
>>196 すいません、毎度言葉たらずで。
「おうけ」でいいんです。学術用語としては。
「おうか」なんて読まないでくださいね。
私のせいで恥をかかせちゃ申し訳ない。
『日本国語大辞典』には「おうけ」の項もありますが、
「おうか」の項を参照せよ、となってます。
つまり、「王家(おうけ)」という言葉自体が、
現在出ている事典・辞典類の編集方針決定時には
無かったOR読み方も確定していなかったくらい、新しい学術用語だ、
ということが言いたかったんです。
あー私のせいで196さんに恥をかかすところだった。
寝る前にリロードしてよかったです。
198 :
日本@名無史さん:03/08/21 22:20
>橋本氏論文ぜひ御一読の上
近世の即位灌頂については、前掲橋本論文の他に、以下のようなものがあります。
松浦辰男「御即位灌頂之事」(『史学会雑誌』2−18、1891年)
山口和夫「近世即位儀礼考」(『別冊文芸・天皇制』、河出書房新社、1990年)
高埜利彦「近世における即位儀礼」(『「即位の礼」と大嘗祭』、青木書店、1990年)
ただ近世にまで目配りされるのは結構なことなのですが
全般的に近世と中世の間には連続もありますが、断絶もあります。
恐らくよくおわかりのことかとは思いますが
古い方から新しい方を見るのは
オリジナルがどのように変容していくかですから
時代の変化などからわりとつかみやすいのに対して
新しい方から古い方を見るのは
オリジナルの復元ですから、こちらの方が困難を伴うような気がします。
したがって中世天皇制を論じるのなら
まず中世できちんと足場を固められた方が宜しかろうと思います。
199 :
日本@名無史さん:03/08/21 22:44
>現在出ている事典・辞典類の編集方針決定時には
>無かったOR読み方も確定していなかったくらい、新しい学術用語だ、
まあ少なくとも90年代に入れば、読み方は確定していると思うのですが。
例えば岩波の『日本通史』の総目次・索引(1996年)をみると
「王家」の語は
「扇谷上杉朝興」と「王権」の間に出てきますので
96年段階で読み方は確定していると思いますし
この語が登場する『日本通史』8巻(1994年)の144頁を見ると
公文所にふりがなが振られていますが、王家にふりがなはありません。
公文所がそんなに難読とは思わないですが
ともかくも、学会で「王家」の読み方が確定していないのなら
著者の立場を示すべく、当然ふりがなをつけただろうと思います。
少なくとも私ならそうします。
ちなみに大石氏は当然のことながら「おうけ」と読んでおられます。
ちなみに比較的新しい歴史事典としては
山川出版社の『日本史広辞典』(1997年)をあげることができるかと思いますが
ここにも「王権」はあっても「王家」は出てきません。
まえがきをみると、この時点は87年頃から編纂が開始されたようですが
私の記憶ですと、その頃には「王家」の語はそんなに珍しいものではなかったように思いますし
10年余の編纂途上でこの語がポピュラリティーを獲得した語であるなら
1巻ものの辞典ですから、新たに項目に加えることもさほど難しくはなかったと思われます。
したがっておそらく「王家」は「王権」概念に包括されるのであって
項目としては「王権」だけで充分であるという判断が働いているものと思います。
200 :
日本@名無史さん:03/08/21 23:15
五摂家のなかで近衛家だけが認められた特権があったそうです。
それは、当主・嫡子の元服に際して、近衛家に限って天皇から宸筆で諱を賜るのだそうで。
もっともこれは江戸時代の話なので、中世はどこまで遡れるものか存じません。
(下橋敬長「幕末の朝廷」より)
201 :
日本@名無史さん:03/08/21 23:25
申し訳ないが質問です。
他スレでこちらを紹介されましたので、お答えをもらえれば幸いです。
1、二神約諾は次のレスの事にかかわることでよろしいのでしょうか?
2、即位灌頂は大日如来(=天照大神の本地)を天皇の守護者とするという
王権法権相互依存の顕密体制な理解でよいのでしょうか?
3、伊勢神宮もまた大日如来の垂迹であり、神国思想も仏教思想の発露の一つである
との黒田俊夫氏の顕密体制論(「日本中世の国家と宗教」)は、現在も妥当性を持つのか?
4、このへんの仏教と中世天皇の関係が書かれているわかりやすい本があったら
紹介願えれば幸いです。
202 :
日本@名無史さん:03/08/21 23:26
>二神約諾
天照大神を祖とする天皇家と、天児屋命を祖とする藤原氏=中臣氏の関係
中臣とは,《中臣氏系図》の〈延喜本系〉に奈良後期の本系帳を引用し〈高天原
に初めて,皇神(すめかみ)の御中(みなか),皇御孫(すめみま)の御中執り持ちて,
いかし桙(ほこ)傾けず,本末(もとすえ)なからふる人,これを中臣と称へり〉とか,
《台記別記》の〈中臣寿詞(なかとみのよごと)〉に〈本末傾けず茂槍(いかしほこ)
の中執り持ちて仕へ奉る中臣〉とか,《大織冠伝》に〈世々天地の祭を掌り,
人神の間を相和す。仍ってその氏に命じて中臣と曰へり〉とあるように,天皇側近
の神官として神託を伝えるという職掌による呼称であろう。
祖神は天の岩戸や天孫降臨の記紀神話に登場し,春日神社などにまつられる
天児屋(あめのこやね)命。
>天児屋命
日本神話にみえる神の名。記紀神話に登場する。中臣氏の祖神。
天の岩屋戸の神話では,うるわしき称辞を読み上げて天照大神を引き出すことに成功し,
天孫降臨神話では天孫に随行した。名義については〈言綾根(ことあやね)〉
の意とする一説がある。
美しい言葉すなわち祝詞の奏上が役目だからである。そこには宮廷祭祀を主掌
した中臣氏の職掌の反映がある。
後には藤原氏の祖神として,枚岡,春日,大原野の諸神社に祭られた。
203 :
196ー194,192,186,184:03/08/22 03:43
僕も数字が煩雑になってきましたので、以降コテハン学部生を名乗らさせて頂きます。
宜しくお願い致します。
>197有難うございます。
いやはや僕がトンチンカンだからいけないのです。
恥ずかしながら本当に感謝感謝です!
>198
>199
>200
145さんでしょうか?別の方でしょうか?
バラバラな方々でしょうか?
スレを改めてレスさせて頂きます。
お読み頂けると嬉しいです。
>201,202初めまして。
僕とも仲良くして下さい。
続く
204 :
学部生203=196ー194,192,186,184:03/08/22 04:21
203続き
145=187様
187以降御覧なくば現況は下記の通りです。
ご意見お待ち致しております!
186(学部生)に対する五摂家レス
189ー191(3様),194=195(学部生),200(145様?)
王家レス
188・193・197(3様),199(145様?)
>198
近世諸論考ご提示どうも有難うございます。
本当に嬉しいです!
ですが仰せごもっともと素直に思いました。
まず中世を固めねばいけませんね。
そこで是非とも中世の論考の御提示も何卒宜しくお願い致します!
橋本氏は小川氏伏見院初例説に否定見解を述べておいでなので、御意見を伺いたく御一読願った次第です。
>>199 丁寧なご教授、ありがとうございます。
なるほど、『日本通史』では当然のように使われているのですね。
1980年代後半には一般的な用語だったのですか。
やはり同時代をみてらっしゃる先輩の証言は重みがありますね。
今後もぜひ、事実関係についてご指摘頂ければ幸いです。
私は、ついつい『国史大辞典』に頼ってしまいがちで、
それが危ういものであることは分かっていたつもりですが、
この件で認識を新たにすることができました。改めて御礼申し上げます。
しかし、このスレだけでも「王家」用語でつまずく方が最低2人はいらっしゃるわけで。
これが多いかどうかは判断が分かれるでしょうが、
今後編纂される辞典・事典類には「王家」の項が追加される必要があるのでしょうね。
はてさて、反映されるのはいつになることでしょうか。
>>201 1について。
思いっきり内容を四捨五入しての回答ですが、
それでいいとおもいます。
くわしくは、河内祥輔『中世の天皇観』(山川日本史リブレット22、2003)
56ページから77ページのあたりをお読みください。
私も学部生さんに質問されて初めて「二神約諾」という言葉を知ったのですが、
ただ、この本で河内先生は「ニ神約諾」という言葉はつかっていらっしゃいません。
ですから、上の部分は「学部生さんはここのことをおっしゃってるんだろうな」という
推測ではあります。
学部生さん、違ってたら訂正願います。
また、なぜ、この用語を使われるのか、私もお聞きしたいところではあります。
2・3については、私には判断がつきかねます。
4について
顕密体制論に直接言及しているわけではありませんが、私のおすすめは
美川圭『白河法皇−中世をひらいた帝王』(NHKブックス、2003)
ですね。
当時の王家と仏教界については第4章第2節あたりに詳しいです。
この本は仏教だけでなく、当時の政治史・都市史などを含めた
最新の研究成果がふんだんに引用されており、院政期のイメージをつかむ
ためにも、ご一読をすすめます。
>205
僕などの初学者が「王家」に躓くのは語感のせいでしょう。
皇帝=エンペラー=神聖性、王=キング=封建諸侯の首座、天皇はエンペラーです!
みたいな英語や世界史まで交じった、いい加減な先入観を、大学以前に植え付けられていますから。
ただ僕個人は本当に不勉強ですし、僕を基準にはできませんが。
それにしても専門分野となると用語一つとっても難しい事なのですね。
>206
その点からも「二神約諾」なる「用語」の是非は大きな問題ですよね。
この語に僕が初めて接した論考名は今やわかりませんが、小川氏は用いられていたかと。
(207続き)
、と思います。
この語が用いられている論考はきちんと再確認して書き込み致します。
用語の意味は、3さんが206でレスされた流れで、僕も解釈しておりました。
根本的に間違っていれば、どなたか忌憚なく御教示下さい。
209 :
日本@名無史さん:03/08/22 19:21
私、近世が専門ですし、政治史ではありませんので
門外漢の戯言と聞き流していただければと思いますが
このスレは一貫して寺社権門への言及がないことが少し気になります。
>>7>>59に見られるように
導師たる
>>03氏がこの方面を専門としておられないことに原因があるのかも知れませんが。
>199
「王家」は「王権」概念に包括されるので辞書の項目としては「王権」だけで充分であるという見解が
働いている…なるほど確かに。中世「王権」は中世「王家」の成立が端緒として、その前提になってますしね。
でも、ぜひこれからの辞書類では3氏のおっしゃるように「王家」の項目を立てて欲しいですよね。
「王権」という語については「鎌倉の王権」「室町の王権」などの表現もありますから、その場合、
「王家」=天皇家を頂かない「王権」の姿も想定されるわけですし。「王権」論も中々すっきりしないものですね。
>204
200のレスは私ではありませんよ。
しかし近世において五摂家筆頭の近衛家にそんな特権があったとは知りませんでした。
私なんかは、忠通の子のうち基実が嫡流だったからその流れを組む近衛家がずっと
摂家の筆頭だったのかな、程度にしか考えていませんでした…(w。
>>200 信尋が養子に入って以降の特権ってことはない罠?
212 :
日本@名無史さん:03/08/22 22:00
>>211 その可能性は確かにある。
ただ、それだと一条家にその特権がないことの説明がつかない。
213 :
日本@名無史さん:03/08/22 22:23
>>200 稙家は足利義稙から諱を1字もらっていますし
信尹は信長からもらってます。
ですからこういう特権があったとしても
中世にまで遡るものではないと思いますが。
214 :
日本@名無史さん:03/08/22 23:23
二条家は室町・江戸と将軍から一字もらいますよね?
でも武将関係と、皇室は区別して考えるべきでは?
おお、随分盛り上がってますね。
しかし、王家より摂関家の話題が中心になってる現状は
スレを立てた
>>1氏はどう思ってごらんになってるのでしょうか。
>>209 無責任に茶々を入れているだけの私が、導師なんてとんでもないです。
寺社権門ですか。寺領荘園なら多少文書も見てるんですけど。
人脈やら機構やら、ぜんぜん頭に入っていないもんですから。
ぜひとも、詳しい方がいらしたら、カキコ願います。
>>210=145
私も、近衛家の筆頭扱いについては、特に何も考えてませんでした。
ちなみに九条流の筆頭は一条家でよかったでしたっけ。
道家の置文には一条実経のほうを嫡流扱いしているような既述もありますし。
216 :
日本@名無史さん:03/08/23 11:53
>>206 3氏
ご返答ありがとうございました。提示された2冊を読んでみたいと思います。
>王家
黒田俊雄氏の論文「中世の国家と天皇」(「日本中世の国家と宗教」岩波、1975年に所収)
で、「天皇家(王家)」と( )書きで使用されてました。
1975年より幾分古い論文のようです。
「中世は政治的には権門勢家体制」論者ですから、京都の権門勢家・南都北嶺の
権門勢家・鎌倉の権門勢家と三分割しています。
その京都の権門の一つとして天皇家=王家と、とらえています、
王家とは天皇個人の家のみをさすのか、上皇・法王・女院・親王などを含んで王家
というのかは、まだ、読み取りかねています。どうなんでしょうかね?
>寺社権門
南都北嶺諸勢力は三大勢力の一つですが、京都や鎌倉の王権に依存ないし依拠
してた気がします。京都や鎌倉も寺社権門に依拠してましたが、法権が王権を
越えたり、独立したことはないと思われます。
王権(鎌倉・京都)を拒否ないし独立の姿勢を目指した宗教勢力が、
専修念仏系であったのでは。
217 :
日本@名無史さん:03/08/23 15:02
>>216 私、中世は専門ではありませんので、誤解しているかも知れませんが
(黒田先生の講義を聴いたのは大昔のことですので)
国家支配の諸権能が公家・武家・寺家の各権門に分掌され
これらが相互補完的に結びついて、総体としてひとつの国家を形成しているが
この国家体制のいわばセンターにあたるのが国王たる天皇である
権門体制論とはこのようなものだと私は理解しています。
したがって、「京都の権門」のなかに天皇を含むというとらえ方は、いかがなものかと思いますが。
また諸権門は相互補完する関係ですので
どれかがどれかに一方的に依存なしい依拠するものではないと思います。
>>216 改めて「顕密体制論の現状」について調べてみました。
今でも有効、というより現在の中世仏教研究の主流であるようです。
しかし、問題がないわけではなくて、「権門体制論」と同様に、黒田先生は
いつごろ、どういう風に成立したのかとか、どういう制度に支えられていたのか、
といった具体的な内容にほとんどふれてらっしゃらないので、
個別の実証研究による検証が不可欠であり、また現在の研究者も
それを行っているところである、といったところのようです。
詳しい方いらっしゃったら、補完・訂正お願いします。
権門としての王家については、
>>217氏とも少しかぶりますが、
天皇と院との関係をどう捉えるのかによって、論争があるようです。
>>217氏の仰る「国家体制のセンター」を
天皇(と朝廷太政官機構)のみとし、院を権門とみる説と、
もしくは、
院の圧倒的な権力と、院が律令制天皇の機能を吸収している史実を踏まえて、
院は天皇とともに中世王権を形成する一部である、という説です。
どちらにしても天皇は
>>217氏がおっしゃるように、いわゆる「権門」とは別ですけれど。
関係ないですけど、
>>217さん、多分私と同じ本を読んでいらっしゃいますね。(w
>>218 やはり近世史家が茶々を入れるべきものではないようですな。
あとは
>>03氏にお任せします。
220 :
日本@名無史さん:03/08/23 22:30
216です。
黒田氏はこう書いてます。一部要約。
「権門勢家といと、藤原氏を思い浮かべるが、それだけではない。
本質的には、まず天皇家(王家)であるが、女院・親王・内親王などは
いうまでもなく、院政を行う上皇・法王・さらに天皇個人も、それぞれ
権門勢家というものであったし、南都北嶺を代表とする寺社もそうである」
p10(「日本中世の国家と宗教」黒田俊雄)
1、
天皇(もしくは院)を中心とする京都権門が、武家権門(鎌倉)の力なしに、
いったいいかに中世の支配権力を維持できたであろうか?
2、
寺社権門は京都権門、鎌倉権門と依拠しあっていたが、
一度も法権は王権(京都と鎌倉)の上に立つことはなかった
と、黒田氏は述べてたように思いますが。
顕密体制については、戦国期で新興権力と専修勢力一揆によって崩壊させられたと
黒田氏は述べますが、個人的には鎌倉期に鎌倉仏教はかなり支配層に食い込んでる
ように感じはします。
221 :
日本@名無史さん:03/08/23 22:43
>>219 そんなことをおっしゃらずに書き込んで下さい!!
>>219 いや、そんなつもりじゃなくて、
中世史であるにもかかわらず、私はレベルが高くないですよ、というつもり
だったのですが。
むしろ、前の時代にも目配りが行き届いていらっしゃる点、
身習わねばならない、と思っておりました。
お気にさわるようなことを言ってしまったのでしたら申し訳なかったです。
ぜひ今後もカキコお願いします。
>>222 いえいえ、別に全然気にしてませんし
そんなに恐縮されると困ってしまいます。
ところで
>>220の指摘がありますので
とりあえず黒田氏の著作をもう1度きちんと読み直してみようと思います。
ただ拙宅にはこの本はありませんし
近くの公共図書館にも入っていないようなので
大学まで行かなきゃなりません(汗
>>223 良かった。今後もよろしくお願いします。
お忙しいところ、無理をなさらないでくださいね。
>>220の指摘ですが、おっしゃりたいのは、
>本質的には、まず天皇家(王家)であるが、女院・親王・内親王などは
>いうまでもなく、院政を行う上皇・法王・さらに天皇個人も、それぞれ
>権門勢家というものであったし、
つまり、「天皇も権門のひとつではないか」ということと拝察いたします。
この点について私見を述べさせていただきます。
中世の天皇は個人的な資産を持っているのでしょうか。
解答は「持っている」です。
在位中の天皇の財産は、「後院」という組織によって管理されます。(鎌倉時代まで)
(譲位後にはこの「後院」が「院」に移行するケースもあるようです)
そこで管理される天皇の財産・荘園は「後院領」と呼ばれます。
「後院」と「後院領」は天皇個人のものですが、他の権門と本質的には変わりません。
さらには「御厨」の住民は天皇個人に供御を貢進する存在ですが、
相論時等の行動は他の権門領住民とかわりません。
たしかに、「天皇個人」も権門のひとつである、という指摘は間違ってはいないのです。
(続く)
かなり盛り上がっていますね。
>215=3
道家の置文の内容は一条家を嫡流にするという意義よりも、二条家を排除しようという意義のほうを
重視してみたいです。二条排除→一条浮上という図式で。
>216
「王家」は上皇・法王・女院・親王などを含んでいる「家」だと思います。
「王家」が特殊なのは「家」の構成員が皆「権門」であるということだと思います。
ですので「家」というより「家系」という風に捉えたほうが個人的にはわかりやすいです。
「それぞれ独立した一個の経営体である院宮ら諸権門が同族的血族的要素を背景に緩やかに結合した家系」
というふうに考えています。
さて黒田氏の話が出ているので、少々。
権門体制論は旧来における鎌倉幕府の過剰評価(国家=鎌倉幕府)、顕密体制論は鎌倉新仏教(旧仏教の没落)の過剰評価に対する
アンチテーゼとして提起された概念ですから、ちょっと厳しく言えば通説批判の「道具」だったわけで、
旧来説の見直しや方向転換が図られれば、十分役割は果たしたことになるとの見方があります。
知り合い(とくに関東の人たち)と話をしていると「権門体制論は古い」「もうだめだ」といった
批判がかなり多いです。
どうなのでしょう?皆さんの周りでは、権門体制論の有効性や是非についてどんな雰囲気ですか?
武家研究をやっている人たちは権門体制論を否定しても痛くも痒くもないんでしょうが、
公家研究をやっている人たちにとっては、代替モデルがないという点で権門体制論を
受容せざるを得ない状況にあるように思うのですが。
>3
あ、すみません割り込んでしまいました…。
すみません。
いや、お気になさらず、145さん。
(
>>224続き)
しかし、天皇個人としてではなく(語弊がありますが)「公人・機関」としての天皇には、
宣旨発給・一国平均役賦課・新政公布・官位任免・年号制定など、
他の権門には決して担えない独自の権能を有していることが指摘されており、
院・幕府・寺社などの一権門が国王・国家機構たることはありえなかった、
と評価されています。
(参考:『日本中世史研究事典』:131P「権門体制」項(遠藤基郎執筆:東京堂出版、1995)
つまり、天皇はその個人資産の管理という側面からいえば、一権門ですが、
その権能からみれば、決して一権門に止まる存在では有り得ないのです。
黒田先生がこういう解釈をなさってその文章を書いたかどうかは
私には分かりませんが、217氏や私が「天皇は権門とはいえない」という
書いたことと、黒田先生の文章は、必ずしも矛盾はしないものだ、と私は思います。
あくまでも私見ですので、より詳しい方いらっしゃったら、訂正・補完いただけたら
幸いです。
>>225 私には関西の知り合いもいますが、彼の認識は全く逆ですね。(w
武士が院政期は、京都から土着・留住して、京都とかなりの
行き来をしていることや、鎌倉時代に入っても、主な御家人は、
鎌倉(西国御家人は京都)に集住しており、明らかに彼らは
都市住民の「不在地主」であった、というような実態が明らかになっているのに、
「在地」領主とは片腹いたいってな感じですね。
まあ、酒席でのヨタ話ですから、どこまで本気かわかりませんが。
私は、武士も公家・寺社と同様に都市に住む支配階級と理解してますので、
どちらかといえば権門体制論者ですが、在地領主の概念を無視して
中世は語れないとも思ってます。また、権門体制論の実証が不十分であることも
理解しているつもりです。
むしろ、関東でも井原今朝男先生は、権門も公権力の一つという
仮説を提示してらっしゃるわけで、まあ、権門体制論に近いというだけかもしれませんが、
「権門体制論は古い」とおっしゃってる方が、井原先生の研究を
どのように評価なさっているのか、が気になります。
>228
言葉が足りなかったようです。私はむしろ権門体制論に近い考えを持っています。
「権門体制論はもうだめだ」と主張しているのは私の知り合いの一部です。
主に中世前期の武家研究をやっている人たちに多いんですが、中世国家論に関して彼等は鎌倉幕府の存在を
非常に高く評価しています。で以前、私が権門体制論を話題にしたときに「鎌倉が軍事権門程度であるはずが無い!」と
猛烈に批判されたことがあったものですから…。皆さんの周りではどうなのかなと思いまして質問してみました。
井原氏の「国政と家政の共同執行体制」については、私は肯定的です。権門体制をある意味で継承してるわけですし。
私は関東居住ですが、関西出身のある知り合いと話をした時には「今は井原氏の仮説が一番しっくり来る」と言っていました。
一方、「権門体制論はだめだ」と言う人たちは井原氏の仮説を認識しつつも、鎌倉幕府を強く意識した新しい国家像を作りたいと
考えている人が多いように感じています。
>>229 結局、「権門体制論」自体に、未解決の問題点があるのでしょうね。
これは、一部人の受け売りなんですが、
「権門体制論」の問題点は、
権門体制の、成立と展開と崩壊、それぞれのプロセスが明らかにされていない、
という点につきる、と思うんですよ。
中世のどの時期をとっても、公家・武家・寺社のうちのどれかひとつ
(まあ、公家・武家のどちらかですが)が優勢であるので、
詳細に史料を検討していくと、3者が補完しあっているというよりも
承久以前なら公家が、弘安以降なら武家が他を圧倒しているように見える、
だから、145氏の友達の方のような「幕府が軍事権門に止まるはずがない」
という批判も、十分成立するのだ、と思います。
けれど、それは所詮は権門体制論の欠陥をついているということであって、
マイナーチェンジは出来ても、
根本的なパラダイムシフトにはなりえないのでは、と。
個人的には、そのようなパラダイムシフトの現場を見たいとは思いますけれどね。
231 :
日本@名無史さん:03/08/24 11:11
>>227 >つまり、天皇はその個人資産の管理という側面からいえば、一権門ですが、
>その権能からみれば、決して一権門に止まる存在では有り得ないのです。
そのとおりですね。黒田氏もそうふれています。
ただ、
「天皇家に生まれたものは家長になるために数年の儀式漬けの生活を
耐えねばならぬ」(要約)
「その皇位を入れ替える力を他の権門が持っていた」(要約)
などから考えるに、天皇の権能は、天皇自身に発すると言うより、
周囲がお膳立てしたとき初めて発するのであると言う相互補完性が
見られると思います。
天皇の権威・権能だけでは、全く統治能力はなかったでしょうから。
天皇の「新政」「元号」が各権門を通用するのは、寺社などの権門も、
その「新政」を利用し、内部浄化に活用するとのこと。
確かに活用しない場合、頼朝などは、一時期、京都の元号に従いません
でしたからね。
「国政関与は、国王・摂関・大臣の官職にあるものではなく、
まさに権門勢家たるゆえんを持って、国政に口入し指示圧力を加える」
と言う文もありました。
232 :
日本@名無史さん:03/08/24 11:12
「権門勢家論」と「2つの王権論(京都と関東)」も、両立するかもしれません。
鎌倉幕府は、守護の大犯三か条において、一応京都側勢力への支配介入の側面
を全国的に持ってたわけです。
また、承久の乱と元寇前後を通し、西国支配が2段階レベルアップしていきました。
「鎌倉時代は鎌倉幕府権門が、だんだんと全国を凌駕していく過程。
しかし、いつまでも未完の」(要約)
との表現もありました。
京都権門勢家は、鎌倉時代においては時系列につれて、鎌倉への依存を高め
てると思われます。
摂関家の権勢さらに皇位までも部分的に鎌倉に依拠してきています。
さらに、承久の乱後などは京都民衆が鎌倉軍の引き揚げをやめて、
治安維持のためにずっといて欲しいと要望しています。
京都権門にとっても年中行事や家格の安定のために鎌倉の存在を必要としてた
のではないでしょうか。
とくに南北朝期には、北朝武力による平和安定・家格安定・年中行事の無事な進行
を京都権門は望んでいたようです。
そこから義満への公卿詣でや皇室の依存が把握できます。
ちょっと話が飛びましたスマソ。
233 :
日本@名無史さん:03/08/24 11:30
>>227 >「公人・機関」としての天皇には、 宣旨発給・一国平均役賦課・新政
>公布・官位任免・年号制定など、 他の権門には決して担えない独自の権能
>を有している
ただし、この権能の発揮は天皇個人発案によるものではなく、幼年天皇もいましたから、
各権門の合議に基づいて発布されたのではないでしょうか。
そういう意味では、天皇個人は一つの権門勢家であり、
もう一つの国権権能の部分は、京都各権門が作り出す合意による
幻的権威執行儀式で、一種の年中行事の一つとも理解できるのではないでしょうか。
ただし、その性格上、後醍醐のような危険性は常に秘めていましたが。
その代わり、後醍醐が天皇制権威に与えた失墜は甚大でしたね。
>院・幕府・寺社などの一権門が国王・国家機構たることはありえなかった、
鎌倉幕府は、守護を通しての警察犬の全国支配、元寇を通しての外交主導権、
など、かなり国家機能たる部分もあったと思えますが。
で、再度ですが、「権門勢家論」と「2つの王権による、相互依拠しつつも東国
王権による未完の全国支配への道・論」は両立できるのではないかと。
それは室町での足利家への王家・公卿の依存などから逆推測されるのではないかと。
234 :
日本@名無史さん:03/08/24 12:33
お願いします!
番号でよいのでコテハン名乗って下さい。
どなたがどなたかわかりづらくて。
みなさん、一度どの数字が御自分のレスか番号を整理して書き出していただけませんか?
よろしくお願いします。
>>232 パラダイムシフトの話が出ていますが
公・武の相互対立→武が公を圧倒、という図式に対して
公・武・寺の3権門の相互補完を強調し
それら諸権門のうえに天皇をおいたのが、権門体制論ではないでしょうか。
したがって公の武への依存を強調するあなたの所説は
権門体制論と相容れるものではないと思いますし
また中世国家における天皇の位置が見えてこないようにも思います。
>>223 いや、黒田氏は著書の中で、権門体制について以下のような考察をしている
1、三権門が相互補完してる
2、寺社権門は王権と相互補完してるが、法権は王権の上に立ったり、
法権が王権から独立したことは日本の歴史では一度もない
3、鎌倉権門は、京都権門を凌駕しつつあった、しかし決して超えられぬ
「未完のそれ」である
4、「幕府が公家・寺家とならんで権門とされるのは、一つには互いに政敵であるという
側面を含んでいるが、
しかし、いったい幕府なくして「公家政権」は究極いかなる支配が可能であったろうか。
まして、独自に国家権力機構として存立することなどできたであろうか」
「(3つの権門は)こうして互いに国家権力を分掌し、相互補完的な関係にあったのであり、
幕府は国家次元的での検断ー内乱や外寇を含めてーに当たる権門であったのである」
論文:日本中世の国家と天皇(「日本中世の国家と宗教」岩波書店に所収p26)
各権門は相互補完しているが、
天皇は一権門のほかに、確かに国家装置的権威保有者であったが、
「天皇は古代に権威があったという理由で中世で権威を保ててる」(黒田氏要約)
「幕府なくして公家政権は究極いかなる支配が可能であっただろうか」(黒田氏原文)
という側面もある。
黒田氏の権門体制論は、少なくとも、こういう認識と問題意識を持ってると理解してますが。
>>236 >天皇は一権門のほかに、確かに国家装置的権威保有者であったが
したがって王権はひとつということになります。
2つの王権ではありません
>>233 >そういう意味では、天皇個人は一つの権門勢家であり、
>もう一つの国権権能の部分は、京都各権門が作り出す合意による
>幻的権威執行儀式で、一種の年中行事の一つとも理解できるのではないでしょうか。
ひとつだけ教えてください。
なぜ、「一つの権門勢家」にすぎない天皇がその「国権権能」を担うことについて、
中世を通じて、各権門の間での合意が例外なく保たれ続けていたのでしょうか?
>>237 黒田氏は、上皇や鎌倉殿をも王権と位置づけています。
足利氏そして織豊、徳川をさらに強烈な王権と位置づけています。
鎌倉幕府も、大犯三ヶ条や守護権断役や外交で国家装置的権力を行使してます。
黒田氏は、二重国家というのは権門体制論から批判してますが、
二重政権と言うのは、許容範囲内のようです。(この2行は前述本p62要約)
>>238 勉強不足でお答えになるかわかりませんが。
1、天皇は古代の権威者であることが中世の権威の由来
2、天皇が国権機能を担うこと(院に世俗権力は奪われていたが)は、
天皇を同心円としての家格の確認の由来となり、
各公卿の権威の確認の由来となる。
それで、京都勢力は、天皇の年中行事で、自己の権威・権門勢家の家格
を調整できる。
天皇との関係が京都勢力の安定装置であった。
3、その京都勢力と山門・鎌倉が補完しあうのであれば、天皇の装置は保たれる。
4、「ナゼ朝家(天皇家)ノコトノミ見グルシク思ゾ」(愚管抄)とうそぶく広常の
ような豪族ら御家人は頼朝の権威に心服しているか、実力による服属以外は権威を
認めないものどもであって、天皇が必要でもあり効果的でもあったのは、
伝統的な主従関係の外にある武士や住民を支配するにさいしてであった。
頼朝らは天皇を推戴したが、それは現実的な権力を伴う権門や個人としてでなく
抽象的な政治・宗教の権威としてであった。
そのことは、院や公家一般や寺社を認め、形式的に天皇を存続させることとなった」
(黒田前掲書p68一部要約)
5、頼朝及び鎌倉政権が天皇の国権機能を利用することによって
自己存在の権威を全国化する過程だったからと思われます。
よって、凌駕・圧倒はできても、抹殺はできず、鎌倉が永遠の一権門に
留まる事となります。もっとも何百年も鎌倉時代が続けばわかりませんが。
あるいは、後醍醐の叛乱が大何乱の末に敗北してれば抹殺もありえたかもしれません。
6、山門は京都に依拠しながらの補完勢力だったのではないでしょうか。
241 :
日本@名無史さん:03/08/25 23:37
九条道家は「(岩清水)八幡は公家の宗廟(天皇家の祖神)なり」と言っている。
天皇家を「公家」と呼んでいたようだ。
事典類には、
「本来、公家(こうか・こうけ)の語は,朝廷・国家ひいては天皇など(おおやけ)を指す」
と、あった。
232氏。
>>240のご意見をまとめると、
天皇は
古代以来の、他に異なる権威を保持し、
他の権門にとっての権威と正当性の源泉であり、
他の権門は天皇を抹殺するどころか、それに依拠せざるを得なかった、
ということでよろしいですね。
そんな存在を他の権門と同列に扱えるのでしょうか?
ある宮司が、
神は奉られてこそ神、厳しく奉ればこそ大御稜威がありがたい、と言った。
戦国時代においては、全くといって良いほど権力がなかったっていう説、面白かった。
特に信長の上京の時は酷く、信長に大して恐ろしいほど公家連中が気を使いまくり、それでも断られたりしていたという。
あの時代がもしかしたら一番酷い扱いだったかもしれないっていう話。
出典とか、具体的にどこから聞いたとか言われても困るけど。
色々混ざった上での話しなので
>>242 3氏
「ある権門が他の権門に意見伝達するときは御教書が発せられる。
上皇であれば院宣、天皇であれば綸旨、いずれも奉書様式の私文書であることに、
権門体制化の政治形態と権力が見られる」
「朝廷は各権門の調整を課題としていたが、政治の集中点ではあるが、集中的権力の府
ではない。人民支配はそれぞれの権門で行われており、権力は分散的であったと
言わねばならない。
諸権門の摩擦は調整するが、それが朝廷政務の中心任務であって、
それ以上のものではない。
朝廷内部では、議論がいつも慣例に依拠し、受動的にしか常に対応できず、
ほとんど儀礼に明け暮れていた。
もし、かりに朝廷が人民支配の新しい施策を次々に打ち出していたら
他の権門から激しく非難されただろう。
平安中期から室町の無為な朝廷なる権力の府が存在し得たのは、
人民支配の方法が、個々の権門ないし荘園の支配組織の中で、それなりにいくどか
変動改編を経ていたからである」(黒田氏、前掲書)
(続く)
(続き)
「現実の天皇は、個人として超権門的どころか反対に最大の権門である天皇家の
家長(惣領)であった。
ただ、彼は在位の天皇としては国王として超権門的に見える座でそれらしく厳かに
振舞うことが必要であり、かつそれだけでよかった。
政治そのものは慣例と諸権門の力関係で決められ、それが天皇の名の下に
布告され官人官兵に執行された。
例えば、四条天皇は数え5歳で摂政道長が地位を代行したと形式的にはいえるが、
ただしそれは実はほとんど無意味な論理であって、
事実は、道長は摂政として最高決定の責任者であると以前に、
最大の権門の一人であったがゆえに摂政であれたのである。
摂政と言うこと自体が天皇と同様、本来の意味を失っているのである」
「超権門的な国政次元の天皇の公的な決定が宣旨であるが、宣旨は
慣例や諸権門(含む幕府)の力関係によって決まったもの。
ただ、宣旨によって他の権門に介入でき、相互の関係を公的に変更できる」(黒田氏、前掲書)
(続く)
247 :
日本@名無史さん:03/08/28 10:22
(続き)
天皇は国政機関の衣をかぶりつつ、一権門に変身してたから生き延びられたのでしょう。
天皇の権威は、古代権威の後裔というのを各権門が利用し、力関係で優位な権門が、
便利なときにだけ使う、「国政機能もどき」という職能を持った一権門と
考えられるのではないでしょうか。
だから、後醍醐が新政を始め慣例を破った時、多くの公家権門は反発し、
足利側を支持した。足利は、年中行事と家格の保証(権門の安堵)をしてくれるからです。
慣例を破って家格を無視(権門無視)してやまなかった後醍醐は、天皇個人としても、
国政機関の特別職能者「天皇」としても、支持を得られず、滅びました。
権門体制における天皇の位置を誤って理解し、特別権威の源と誤解したからと
思われます。
もし、話がづれてるようなら、戻してください。
>>247 足利氏による「権門の家格の保証」とおっしゃいますが、
管見のかぎり、南北朝期にはそのような事例は確認できません。
該当する史料をご教授頂ければ幸いです。
あと御説に基づいて、
後鳥羽即位と、後光厳即位について
ご意見をいただきたいのですが、
お願いできますでしょうか。
250 :
日本@名無史さん:03/08/28 14:57
3さん、あなたがどんな方にも優しく公平にレスされるのには頭が下がります
でもこういう電波は無視されるのが一番かと
他のお二人は早々に相手するに足らぬ奴と見極めて、無視の態勢に入ってますよ
こいつは井沢信者なんですよ
たびたび井沢をソースにして自分の意見の如くに書き込む奴です。
今回のように専門書などを隠れ蓑にしているのも奴の特徴です。
この板にはよく現われるので、見る人が見ればスグ奴だと分かります。
もう相手しない方がスレのためですよ。
他の人が戻ってきませんから。
>>248 「○○年に誰々の家格を保証した」と言う意味ではないです。
足利氏の北朝は、平安中後期以来の年中行事を平穏に進めさせてくれる、
家格も先例にのっとって安定する。
と言う意味での「家格の安定の保証」です。
後醍醐は先例無視ですから、それへの対義語として使いました。
この考えのネタ本は、記憶違いでなければ、
「日本の歴史・11・太平記の時代(南北朝時代)」新田一郎氏(講談社)です。
手元にないので失礼ですが参考史料は巻末の参照をご覧下さい。
>>249 失礼ですが、意図がわかりません。
・後鳥羽は祖父、後白河法皇の詔によって践祚。
・後光厳は足利義詮に擁立されて践祚。
のことでしょうか?即位を指示する者が王家から武家に移ったと言うことですか?
ご存知名ことを教えていただければ幸いです。
なお、私は黒田氏の古い著作論文集を、今、たまたま借りて読んでいるだけで、
3さんたちの書き込みには勉強させていただく点ばかりですので、
私の書き方が失礼な印象でしたらご容赦を。
どうも、ぶっきらぼうなところがあるのでお許しを。
また、私を無視しても結構ですので、どんどん進めて、勉強させてください。
>>250 井沢氏のどの本に、こういう内容が書かれているのか教えてくだされば
幸いです。
私は、ただ、中世の権門体制と顕密体制と天皇家の仏教体質に今、興味があるだけです。
電波だと思うなら、大き目の図書館には該当本や黒田氏の著作が
あると思われますのでご参照ください。
253 :
日本@名無史さん:03/08/28 16:45
いや、あなたが黒田先生の本を読み込めてないからみんな引いてるんだけど
学部生君すら書き込みしてこないじゃん笑
もう少し勉強してから書き込む方がみんなの迷惑にならないよ
まぁ3さんが優しくて見捨てないのを言い事に粘着するのはやめれ
せっかくの良スレなんだからさ、野暮ったいこと言うなって。
流れを悪いほうに持ってってるぞ。
>>239 >黒田氏は、上皇や鎌倉殿をも王権と位置づけています。
>足利氏そして織豊、徳川をさらに強烈な王権と位置づけています。
黒田氏の著書のどこにこのように書かれているのかご教示願いたい。
>>251=232氏
えー
>>250氏もああ仰ってるので、これと次で、あなたへのレスは
最後にしますが、
新田氏の「太平記の時代」をお読みになったうえで、あなたの
御説のような考えをお持ちとは驚きいるばかりです。
もし、お手元にその本をお持ちでしたら、第四章2「内乱の再生産」の中の
「正平の一統」なかでも177ページのあたりをお読みください。
天皇・上皇が南朝に拉致されたという異常事態のなかで、北朝が無理に無理を
重ねて、後光厳の践祚にこぎつけた様子が書かれていますね。
つまり、天皇は公家社会の運営上、その正統性に疑問が持たれる形であっても、
必要とされる、代替のきかない不可欠の存在だったことがわかります。
「もし上皇が誰か一人でも残っていたら、上皇が天皇の代わりを
していただろう」という反論が考えられますが、
それは後鳥羽即位の事例によって否定されます。
後鳥羽即位の際は、安徳天皇が平家に拉致されたものの、
後白河法皇は京都に健在です。
にもかかわらず、後白河は後鳥羽を即位させました。
このことは天皇の機能が国家運営に不可欠であると同時に、
院によっては代替され得ないことをも意味します。
以上2つの事例から、天皇は、中世国家にとって、単なる一権門ではありえず、
不可欠の「国家機能のセンター」であった、といえるわけです。
なおもそうではない、と仰るのであれば、天皇の機能を他の権門が
代替した、という事例を挙げてください。
(続く)
>>255 索引のない500p以上の本で検索が大変なので、逆提示してくれると幸いです。
>足利氏そして織豊、徳川をさらに強烈な王権と位置づけています。
「室町幕府はいまだ弱体ながらも実質的に封建王制を志向したといえるのであるが、
しかし、全般的(単に形式的に出なく)には依然権門体制を克服しきらなかった」p43
「〜織豊政権、さらには江戸幕府は、大小あらゆる領主を国王(将軍)の直臣または
陪臣として従属させ、ほとんど世界に比類ない強力な封建王制として、天下万民に君臨した。
〜天皇が国王の地位になかったことだけは、ともかくは明言しておきたい」p44
>上皇や鎌倉殿をも王権と位置づけています。
これは、私の勇み足かもしれないが、
天皇・院・鎌倉などを同列の権門勢家と述べているのがp10
「天皇は権門の知行の体系の頂点、すなわち封建関係の最高の地位(国王)に
あったのであり、それゆえにこそ、天皇を操縦しうる権門が、その時その時
の国王であるかに見えもするのである。けれども、このことは、王権の
特殊性の問題としては要するに強力な王権が存在しないと言うことである」p32
『日本中世の国家と宗教』岩波・s50年・第一刷
(続き)
次に、御説について。>233の
>(天皇のもつ)権能の発揮は天皇個人発案によるものではなく、幼年天皇もいましたから、
>各権門の合議に基づいて発布されたのではないでしょうか
についてです。ここの「合議」は前後の文脈から「合意」の意味と解釈して話を進めます。
要は、
「天皇の権能は、各権門の合意によって支えられていたのだから、
所詮、天皇自身は一権門にすぎない」というお考えのようですが、
「王権」というのは社会がその正統性について合意しているから、
「王権」たりうる、ということをお忘れでは?
王権が、社会の合意に支えられているのはあたりまえであって、
問題は、どうしてその合意が成立しているのか、です。
そして、
>>256でも書きましたが、中世社会においては、
天皇を中心とした場合しか、合意が成立していないのです。
>>256 >>258 驚くのは自由だが、そのなんとしてでも手にした天皇は、足利氏の権勢に
よってのみ、権威を持てることは理解できるはずと思う。
その足利氏の権力に多くの公卿権門は期待を寄せていたことは読み取れませんか?
年中行事の遂行と家格の安定が保てると読みとれなかったでしょうか?
ちなみに、室町と鎌倉は少し性格が違う。室町は権門を脱しきれてないが、
封建王政を目指している。
どんな手を使っても、天皇は創出できたと、なぜそこから読み取れませんか?
天皇は一権門でもあり、超権門的王権でもある。
以前のいくつかのレスのどこかで両面あると書いたはずです。
「国家機能センター」は幕府もそうだと黒田氏は書いてますよ。
守護権断や大犯や元寇外交で「国家機能センター」を果たしたのは鎌倉幕府です。
「公家政権が武家政権なしに、いったいどうやって権力を維持しえたのか」
というのが権門体制の一面というのも黒田氏の述べた所と書きました。
繰り返しますが、天皇は国家機能センターかつ一権門です。
幕府も同様です。
ですから権門体制は相互補完と呼ばれているのです。
そこら辺が読み取れないとは驚きである。
失礼だが、3氏は、質問をすり替えたり、論点を移行させ、
ある一つの「中世の天皇観」に持って行きたがっているようだ。
煽りや自作自演もいるようなので、スレから失礼することにする。
3さん、こうまで書かれるとレスしたくなるだろうとお気持ちお察ししますが、必要ないですよ。
みなさん普通に分かっていらっしゃいますから、こらえて下さいね。
sage進行で行きましょう。
261 :
日本@名無史さん:03/08/29 02:29
260です。
あー俺って最悪。
いつもは見てるだけなのにたまに書き込んだらsage方法間違えました。
お許しあれ!
>天皇は一権門でもあり、超権門的王権でもある。
天皇は権門ではありません。王家が権門で、その家長が治天です。
テクニカルタームは正確に使って下さい。
理解不十分のまま振り回されると混乱の元です。
もうええやん
天皇家(王家)は一つの権門で、かつ内部に幾つかの権門勢家があるということらしい。
女院、親王、法王、複数の上皇、天皇個人などね。
それぞれ独自の経済基盤と独自の政治的な動きを持ってるから。
家長は治天で、天皇は惣領なのかな。
でも綸旨や院宣てのは私文書なんでしょ。天皇が確認しないと、
宣旨として公文書にならないんだよね。
家長という概念も、もう一分析を必要な感じもするね。
朝廷は認めなかったが、源頼朝は94年に征夷大将軍を勝手に辞任したってのは
なぜですか?
頼朝は朝廷(天皇)の権威が必要でなくなって、朝廷は頼朝に配下でいて欲しかった
ってことですか?
頼朝は天照大神も嫌ってたというか認めなかったんでしたっけ?
264・265としつこいね。
まだまだ書く気かな。
粘着だね。
失礼しますと言ったくせにね
ま、いいっか
よくないね
「天皇」がスレタイについてて荒れなかったのが奇跡だったか
私もこのスレ好きで勉強させてもらってましたよ
一応sageてはおきますが、元の雰囲気に戻ったら皆さんぜひ継続して下さいね
応援してます
横レスですが、前の話でいいでしょうか。
摂関家祖神と天皇家祖神の「約諾」について「愚管抄」に次のようにあるそうです。
トオクハ伊勢大神宮と鹿島ノ大明神ト、チカクハ八幡大菩薩ト春日ノ大明神ト、
昔今ヒトシ議定シテ世ヲバモタセタマウ也
愚管抄では天皇家を「朝家」と書いてるようなんですけど
「王家」と、どっちなんでしょうか?
270 :
日本@名無史さん:03/08/30 14:18
日本史板はキチガイだらけだから他所で聞いたほうがいいよーん
アーヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ
中世の天皇の位置付けってどうだったのか?スレ人名索引
日本@名無史さん編
悪ふざけ・1レス/本体201-250レス
学部生(本スレの田原総一郎)・・・203,204,207,208
3(本スレの宮崎哲弥)・・・205,206,215,218,222,224,227,230,238,242,248,249
145(西の権門)・・・210,225,226,229
209(近世史専門)・・・198?,199?,209,217,219,223,235,237
228(東の権門)・・・228,231,232,233,236,239,240,245,246,247
234のような要望もあるけど、こうゆう表現の仕方すると盛り下がるよね>>ALL
>>250さん(と、3さん)
これ以上の薮蛇はしたくないので、誰とはいいませんが
232さんは多分そんな人("井沢信者"と誹謗されるような)じゃないですよ。
「続本朝通鑑」
後光厳天皇即位の儀式についての関白二条良基の言葉。
天照大神を遥拝し神鏡にする、
尊氏、義アキラを宝剣とする、
良基を神爾とする。
天下草創とは新政権樹立などの大変革を当時は意味したらしい。
神武天皇「草創天基」(日本書紀)
源頼朝「天下草創」(吾妻鏡)
後醍醐の倒幕「草創」(吉田隆長)
尊氏の幕府創立「天下をも草創し給える」(二条良基)
寂しい結果ですね。
参加したくて、中公文庫の黒田氏の巻と、黒田氏『王法と仏法』(法蔵館)復刊を購入し、張り切ってほぼ読み終えたところなので実に残念です。
井沢氏御著書は読んだ事がないので何とも言えませんが、興味を持ったので一度読みたく思いました。
知らぬ事はでしゃばらぬよう、前回のように1週間ひっこんでましたが、余りにややこしく
>>234でお願いしました。
読んだ本と皆様のレスを照会するためにも、どれがどなたの書込みか整理し直そうとしたら
>>271さんが、先にして下さっていて嬉しかったです。
有難うございます。
続く
>>274続き
一読しての疑問もありますし、書込みと照会して読み直せば新たな質問も出るでしょうが、別の折にお聞きするしかないですね。
まずはスレが回転して欲しいです。
近世さん、145さん、3さん、皆さん戻って来て下さい。
井沢氏云々で不快な思いされた方も、別人のフリをして戻って欲しいです。2CHなんですからね!
僕がこのスレの田原総一郎と公認されたからには、誰かがケチつけられたり、スレが回転しなかったら、これまで以上に厚かましく仕切ります。
汚れ役は引き受けますから、3さん、145さん近世さん、?さん、戻って来て下さい。
即位灌頂は、1068年に後三条の即位に仁海僧正の弟子の成尊が授けたのが最初。
次に、1288年の伏見天皇の即位に准后が兄の関白二条師忠を通じてさずけ、
1382年の後小松天皇には摂政二条良基が授けた。
次の称光天皇は授かってないね。関白一条を二条家が批判している。
大江匡房の日記には天皇の手が大日如来の印を結んでるように見えたとかかれている。
二条家の即位灌頂伝授独占は、近世からのようです。
後小松は神器なしの即位だが、正当化のために即位灌頂が必須化してきたのでは
と推測されてる。
大嘗会米、一国平均役夫工米が天皇の官宣旨から上皇の院宣に掌握されだしたのが
鎌倉幕府開始ころ。1331年の鎌倉幕府のこの件の権限行使が朝廷の権限を排除するため
だったのかどうかは、検討の余地あり。
1466年の後土御門天皇の大嘗会では、この権限は、すべて足利幕府が握っている。
室町幕府は国家的権限を朝廷及び院から漸次、取り上げてたもよう。
>学部生
読んだ本の感想でも書けば、回転するのでは?
>>257 〜天皇が国王の地位になかったことだけは、ともかくは明言しておきたい」p44
こういう部分的な引用をされると困ります。
引用された文の直後に、以下の文が続きます
すなわち、権門体制、したがって鎌倉幕府・室町幕府の存在は、あくまで中世的なものとして、江戸幕府と峻別されるべき特質をもつと考えられるのである。
>>278の続き
ところが同書の35頁には
国家体制としての権門体制を最も特徴づけるものは、まず前章に述べた王権であり、ついで国家自体の機構であるが、
それは、一言していえば、きわめて弱体・形式的で、非集権的であったということができる。
これに対して、幕藩体制を結着点とする国家体制においては、
国王−幕藩体制においては将軍−の権力が封建社会において考えうる最高度に絶大であることを特色とする。
とあって、近世においては王権は将軍にあるとしているが
鎌倉幕府・室町幕府はこれと「峻別されるべき特質をもつ」のだから、
黒田氏は両幕府を王権とはみなしていないと考えられます。
それから
>>257の後段ですが
この引用部分で、鎌倉殿をも王権と位置づけていると見るのは無理だと思います。
天皇を操縦しうる権門は、国王であるかに「見えもする」のであって、実は国王ではないのです。
>>275 この1週間ほど、いろいろと多忙で、専門外のことにまで手を出している暇がありませんでした。
またちょくちょく寄らせていただきますので、ご安心のほどを。
そもそも232(というか元々のこのスレ)がいう公・武とは、鎌倉時代ではなかったか?
>>240だけを読んでも「5、」の最終行「あるいは、後醍醐の・・・」以外は
明らかに鎌倉時代を論じている。
>>247の前段においてもまだ中世一般を、後段で再びやっと後醍醐天皇・南北朝期に触れているのみ。
なのに
>>248以降の3は、意図的(?)に232の論点を室町時代を論じた物と曲解しているように見える。
>>278の指摘も
>黒田氏は、上皇や鎌倉殿をも王権と位置づけています。
>足利氏そして織豊、徳川をさらに強烈な王権と位置づけています。
を否定する材料にはなっていないんではないでしょうか。
引用の仕方をみても
>>257は室町幕府と織豊・江戸幕府は区別してるように読めます。
>>279 >>210も言うように、双方の持つ「王権」観が違うので、そこは今後の議論によるべきで
一つの考えもって今、片方を断じるべきではないでしょう。
「王権」のみに限るなら、3・223氏、145氏、201・228氏、三様のようです。
と、問題の著書を味読で、傍からロムってるだけの素人には読めました。
282 :
日本@名無史さん:03/08/31 16:43
>>259 >守護権断や大犯や元寇外交で「国家機能センター」を果たしたのは鎌倉幕府です。
とされていますが、あなたがその根拠とされている部分のひとつ前の頁(25頁)には
「大犯三ヶ条として知られる重犯については(中略)京都と官衙を除いて全国的に、
宣旨、つまり国王の名で幕府に所管させている。」とあります。
我々はこのような天皇の権能を「国家機能センター」と呼んでいるわけで
実質的な警察機能を誰が持っているかを問題にしているわけではないのです。
なお『国史大辞典』の「権門体制」の項目は黒田氏の執筆です。
まずこちらをお読みになった方が宜しかろうと思います。
>>281 「王権」という語の多義性については理解しておりますが
243氏は黒田氏の所説に即して論じておられるわけですから
黒田氏の王権理解をベースに考えていくべきだろうと思います。
私には243氏の想定しておられる「王権」と黒田氏のいう「王権」とはズレがあるように見えます。
243氏は黒田氏の所説を誤解あるいは曲解しておられるように感じられるのですが。
なお
>>282も私の書き込みであることを付け加えておきます。
284 :
日本@名無史さん:03/08/31 17:53
285 :
日本@名無史さん:03/08/31 18:21
まじれす。初めて書き込ませてください。
黒田氏が権門体制論を展開した当時、鎌倉幕府の朝廷研究といえば
竜粛氏の『鎌倉時代』くらいしかなかった。もちろん『鎌倉遺文』も
なかったし、記録類も今のように翻刻されていなかった。
そうした状況下において、黒田氏は各資料一つ一つを丹念に跡づける
のではなく、論理を以て中世朝廷像を把握しようとされた。
黒田氏のそうした研究は高く評価されるべきではあるが、いまは
当時とは研究状況が明らかに異なる。橋本義彦氏以来の分厚い
研究史の積み重ねがあるのだ。それなのに、いまだに黒田氏の論説の
枝葉の部分にしがみつこうとする意図がよく分からない。
中世の天皇の位置づけを考えること=黒田氏論考の検証、では
ないはずだ。
ささいな例)宣旨は公的な文書、綸旨・院宣は私的な文書、などと
いまどきどの大学の古文書学でも教えてないと思うが。
ごめんなさい。
二行目 鎌倉幕府の→鎌倉時代の、に訂正です
>>285 >橋本義彦氏以来の分厚い研究史の積み重ね
中世は専門外なので私の誤解かも知れませんが
氏の研究の中心は平安時代の宮廷・貴族にあると思っていたのですが。
>黒田氏の論説の枝葉の部分にしがみつこうとする意図がよく分からない。
鎌倉時代の将軍を王権と見るかどうかは、枝葉ではないと思います。
>中世の天皇の位置づけを考えること=黒田氏論考の検証、ではないはずだ。
ここは学部生の方もおられますので
研究史の出発点から議論することは重要だと思います。
ですから243氏の権門体制論に対する理解が妥当であるかどうかについて
いろいろと議論をしてきたわけですが
本来の筋道は別のところにあるというご指摘は十分理解できます。
素人が口を挟んでおかしなことになったらどうしよかと。
再びロムらせて頂きます。
>中世は専門外なので私の誤解かも知れませんが
誤解だと思います。中世朝廷の実証的研究は、橋本氏の研究を
端緒として積み重ねられてきました。例として挙げるのは
美川圭氏でも白根靖大氏でもいいわけですが、たとえば
大学のゼミで黒田氏の論を持ち出したときに「ちょっと古いね」と
コメントしない先生は、最近勉強を怠けてる、といわれても仕方ない
のではないでしょうか。
>鎌倉時代の将軍を王権と見るかどうかは、枝葉ではない
もちろんです。ただ、せっかくすばらしい問題を提起されているの
だから、最新の研究を踏まえるべきでしょう、と申し上げているのです。
中世の天皇の問題を考えるときに「権門体制論」に拘泥しすぎない方が
いいですよ、とお勧めするのには、一つテクニカルな理由があります。
それは、「権門体制論」は「中世国家論」抜きに語れない、という
性質のゆえです。
かつて石井進氏は「権門体制論は『中世に国家が存在した』という暗黙の
前提から出発している。しかし、本当に中世に近代国家に類似する国家が
あったのだろうか」と根元的な問いを投げかけました。黒田氏はついにこの
問いに答えることはなく、石井氏もそれ以後権門体制論に言及しませんでした。
つまり、中世の天皇とは何か、への答えとして「権門体制論」を持ち出すと、
天皇とは何か、という問いに重ねて、中世における国家とは何か、という
厄介な問題まで背負い込まざるを得なくなってしまうのです。
この二つの問題を包括的に捉え、意見を言うのは容易ではない。
だから、最近の実証的な研究(上川氏の即位灌頂論などはまさに好例
でしょう)をふまえて、とりあえず、天皇とは何か、を詰めた方が
いいのではないでしょうか。そう考える次第です。
>>289 おっしゃることはだいたいわかるのですが
>かつて石井進氏は「権門体制論は『中世に国家が存在した』という暗黙の
>前提から出発している。しかし、本当に中世に近代国家に類似する国家が
>あったのだろうか」と根元的な問いを投げかけました。
これはどうなんでしょうねえ。
近世の場合も、近代的な意味での租税は存在しませんから
「近代国家に類似する国家」はなかったと私は考えていますが
国家が存在しないわけではないと思います。
中世の場合も同様ではないでしょうか。
ちなみに近世史の立場から言うと
黒田氏の言うように、近世に入って天皇が王権の座から転落すると見ると
幕藩後期に至って天皇の地位が再上昇することが、どうも上手く説明できないように思います。
したがって私は権門体制論を擁護するつもりはありません。
議論は正しい理解のもとに行いたいと思うだけです。
>>223氏
1、王権については貴兄の理解が正しい。
>>257で書いたように勇み足だった。
網野氏の2つの王権が忍び込んでいたようだ。訂正する。
2、鎌倉・室町・織豊・江戸については区別しているし、書いたつもり。
3、「国家機能センター」については以下の引用の解釈の差でもあると思える。
「幕府が、公家・寺家とならんで武家とされるのには、1つは互いに政敵であるという
側面を含んではいるが、しかしいったい幕府なくして「公家政権」は究極いかなる
支配が可能であっただろうか。まして、独自に国家権力機構として存立すること
などできたであろうか。
繰り返し言うが、公家・寺家・武家は、こうして互いに国家権力を分掌し、
相互補完的な関係にあったのであり、
幕府は国家的次元での検断ー内乱や外寇の場合も含めてーに当たる権門だった
のである」p26
4、少し、黒田氏から離れるかもしれないが、
承久の乱や元寇では幕府の判断が国家機能センターといえないだろうか?
さらに、永仁の徳政令は、御家人と指定したにもかかわらず、御家人以外の
京都支配の人々をも動かした。あるいは、この法令は朝廷と幕府で進めた政治
改革の一環とも言われている(笠松宏至氏)。
鎌倉幕府は国家機能機構を部分的には手にしていたと見える。
>>281 あなたがいうようにずらされてると感じたので、失礼な書き方をしてしまった。
>>学部生さん
「三神約諾」までありましたよ。
慈円は「愚管抄」で、鎌倉幕府の成立を、伊勢・春日・八幡の約諾によると解説。
(日本古典文学大系86「愚管抄」p336以下)
>>291 >>292 も243。
294 :
日本@名無史さん:03/08/31 23:36
>>291 黒田氏は「イデオロギーとしての「天皇制の歴史」」(初出『大阪の科学者』65、1988年、『黒田俊雄著作集』1に所収)で
「近世では(中略)国家権力機構の頂点(国王)でなくなり」としています。
「国家機能センター」とは、この国家権力機構の頂点
つまり3権門が分掌している国家権力の上に立つもののことです。
黒田氏は応仁の乱までは天皇はこの位置にあったと見ていますから
もし将軍(幕府)を「国家機能センター」とすると
結局2つの王権ということになってしまいます。
>>294の続き
黒田氏の所説に拘泥するなという意見もあるので
この話はこれくらいにしたいのですが
243氏がご自身の王権理解に即して
2つの王権論あるいは室町幕府単独王権論を唱えられるのはご自由です。
しかしそれは権門体制論とは異なるものであると認識なさるべきでしょう。
黒田氏もこのように言っているというのは、牽強付会のように思います。
>>290に追加
『日本中世の国家と宗教』のあとがきを見ていると
石井氏の問いかけに触れた部分がありました。
黒田氏は石井氏の問いかけを「中世に統一的な国家を想定できるか」としたうえで
「ヨーロッパの歴史学をはじめ学説史上でも封建国家についてつねにそのような疑問が出されてきたにもかかわらず、
なお日本中世については具体的に「国家」があった事実をここで指摘したいのだというほかはない。」
と書いています。
まあ正面から答えていないと言われればそれまでですが
石井氏は「近代国家に類似する国家があったのか」と問いかけているのでしょうか?
「統一的な国家」と「近代国家に類似する国家」とでは、意味合いが違うと思うのですが。
>天皇の官宣旨から上皇の院宣
上皇の院宣に当たるのは天皇の綸旨。官宣旨ではない。
官宣旨は弁官下文とも言うが如く、太政官発給文書。
黒田はそれまで鎌倉幕府が中世国家の統治機関であったという通説に対して
そうではなく、幕府・王家・寺社の各権門がそれぞれの役目を遂行して、
競合対立しつつも、ともに封建領主階級として相互補完関係を保ちながら、
天皇と朝廷を中心に一つの国家権力機構を形成していたとする。
これは石母田が描いた、中世封建領主階級たる東国の武士が、古代貴族である
京都の公家を倒して、中世国家を倒したという、例の論理へのアンチテーゼでもある。
石井は国家といえば近代国家と思ってるのか。黒田はそんなことはない、
中世には中世の、古代には古代の、近世には近世の国家がある、
それらが近代国家と違うのは当然である、国家もまた歴史的存在なのだから
という至極当たり前なことを言っているに過ぎない。国民国家のみが国家で
近代市民のみが人間であるかのような、近代主義的な考え方が
後進国に文明をもたらすんだといって、悲惨な戦争につっこんでいくのは、
近日の某大国の中東での行動を見れば一目瞭然である。
>>297 詳細は以下のごとく。
本来、大嘗会の催促・免除は官宣旨で行われていた。
太政官上卿が天皇の勅を受けて弁に命令し、弁が史に作成させて発給する文書が
官宣旨。
ところが、この行事弁が院の指揮を受けるようになる。
具体的には、行事弁の奉ずる院宣によって大嘗会米の催促・免除が行われるようになる。
大嘗会と同じ一国平均約である役夫工米において、官宣旨から院宣への
転換は、ほぼ鎌倉成立頃。
幕府との関係は以下のごとく
1242年の後嵯峨天皇の大嘗会では、幕府は東国と関東御料でのみ大嘗会米を徴集。
1311年の花園天皇関係では、幕府は全国的に徴集権限を行使。
役夫工米については、南北朝の1380年頃まで朝廷が徴集免除の権限。
1466年の大嘗会では室町幕府が必要分を全負担、そのかわり諸国賦課の
段銭は全て幕府に納入。
石母田へのアンチテーゼ的ではあるが、黒田にもマルクス主義的なニュアンス
がひょこひょこ出てくるね。
石井は「日本中世国家史の研究」で、国家論関係を述べてないの?
読んでないからわからんが。
>権門体制(By平凡社大百科事典、文責は黒田俊雄氏)
権門体制は、国政の主導権を掌握した特定の権門の交替によって、ほぼ3段階
に区分される。
第1は院庁政権が主導権をもち、武士を従属させ寺社勢力と抗争した院政期であり、
第2は鎌倉幕府が成立して他の諸権門をしだいに従属させながらも、公・武・寺社の
権門が並立していた鎌倉期であり、第3は室町幕府が他の権門を従属させ癒着融合
の体制をとった室町期である。
そして平安中期のいわゆる摂関政治期は律令体制から権門体制への過渡期であり、
戦国期は権門体制から幕藩体制への過渡期である。
また荘園公領制を封建的社会関係と規定するならば、権門体制は日本における
封建国家の第1次的形態、幕藩体制は第2次的形態とみることができる。
けれども、この権門体制論にたいして、公家,武家の両政権をまったく異質な
対立的なものとみて、後者が前者を圧倒していくところに中世国家史の基調を
みる見解や、中世に統一的な国家機構の存在を認めない見解も行われている。
>>300は何のためのコピペなんでしょうかね?
権門体制とは何かという説明は
コピペされた部分の前のところに書かれているはずですが
それはこのスレの趣旨である、天皇の位置に関わる問題であるわけです。
そこを飛ばして時代区分だけを書くことの意味はどこにあるのでしょうか?
いやいやこういうコピペは私のようなド素人のROMにはたいへんありがたいです。
>300氏、できれば「権門体制とは何かという説明」の部分もコピペしていただけると嬉しいっす。
>>298 そんなことは分かってる。おれが注意したのは「天皇の官宣旨」という表現。
「天皇の」はおかしい。あえていうなら「太政官の官宣旨」。これとて
「白い白鳥」と同じで間違いだが。
>>299 もちろん黒田もバリバリのマル。てゆうか、あの時期マルの影響受けてない
やつさがすほうが難しい。しかしながら、同じマルでも石母田のような
観念主義者(結論先にありきの研究)でないところは評価できると思う。
>>302 297の第二段落ではダメっすか?
>>303 国家儀礼の核である大嘗会の組織主体が朝廷(天皇)から院へ、そして幕府へと
移行している点がポイントだね。
>>301 >権門体制は、国政の主導権を掌握した特定の権門の交替によって、
>ほぼ3段階に区分される。
権門体制といわれる時期において、国政の主導権を掌握した権門が
変化してるという点に関心を持ちコピペしたが、いけないのか?
天皇の位置も大なり小なりを影響を受けるだろうというのが関心の的。
また、武家と公家の性格の違い論や、国家はあったのか論も無視しきれ
ていないと言う必須な部分でもあり、話題に関係すると思うが、
何か不都合でも?
>>302 302さん、どうぞ。同じく黒田氏自身の文書です。
日本中世の国家機構を包括的に示すための歴史学上の概念。黒田俊雄〈中世の国家と天皇〉
(《岩波講座日本歴史》中世2,1963)ではじめて提唱された。この論文では、日本中世の国家
支配機構は、それまでのように幕府によって代表されるとみるのでなく、天皇家・
摂関家その他の公家、南都・北嶺をはじめとする大寺社(寺家,社家)、幕府(武家)など、
複数の権門的勢力の相互補完と競合のうえに成り立っているとみる。
これらもろもろの権門は、それぞれが結集している主たる階級や組織形態に差異があるが、
いずれも政治的社会的に権勢をもち、荘園支配など家産的経済を基礎とし、政所(まんどころ)
その他家政機関と家司(けいし)をもち、下文(くだしぶみ)、奉書など基本的に
同一様式の文書を発給し、多少とも私的武力を備えた門閥的集団であった。
中世の国政は、この諸権門の伝統と実力にもとづく強力な発言権と、権力の職能
的分担によって、矛盾対立をふくみながらも相互補完しながら、維持されていた。
この諸権門の勢力を調整する角逐と儀礼の場が朝廷であり、天皇は天皇家という
権門の主要な一員であるとともに、諸権門の頂点に立つ国王としての役割をもた
されていた。
>306
ありがとうございます。スレ鑑賞の参考にさせていただきます。
鎌倉時代においても、権門の補完のようすは変化してないのかな?
・頼朝の時代は、内乱の後だし、東国での政権を京都に、半ば力で認知させた時期。
・承久の乱以後は、鎌倉の天皇皇位への関与もおこり、西国への進出も増える。
・元寇及び徳政令時期は、幕府の権限が全国に伸びる。後半は幕府の全盛期であった。
となれば、天皇及び京都側の位置も、権門相互補完ながらも、幕府に比べ相対的に
下がってきているのではないかな。
どうなんでしょ。
>>306 >天皇は天皇家という権門の主要な一員であるとともに、諸権門の頂点に立つ
>国王としての役割をもたされていた。
天皇は、一権門であり、かつ、国王としての「役割を持たされていた」とある。
「役割を持っていた」でなくて「持たされていた」だ。
これは、「傀儡」とか「人形」とかに近いニュアンスなのだろうか。
そう理解すると、
>>300の
>第1は院庁政権が主導権をもち、武士を従属させ寺社勢力と抗争した院政期であり、
>第2は鎌倉幕府が成立して他の諸権門をしだいに従属させながらも、公・武・寺社の
>権門が並立していた鎌倉期であり、第3は室町幕府が他の権門を従属させ癒着融合
>の体制をとった室町期である。
という、
>時期によって、特定の主導権を掌握した特定の権門の交代
の意味がつかみやすい。
室町の天皇家は苦労してるね。
後土御門天皇ー譲位したかったが金がなく死亡。珍事・無念と書かれる。
後柏原天皇ー金がなく即位の儀式は践祚の21年後。
後奈良天皇ーこれも金がなく即位の儀は践祚の10年後。
大嘗祭は後土御門から東山まで9代にわたり、221年間も中断している。
これらは、天皇儀式あるいは天皇そのものが誰にとっても必要でなかったと
言うことを意味するのだろうか。
寄付による官位授与の商売で、地方戦国大名と持ちつ持たれつはやってるが。
中世の天皇の年齢(践祚)
白河20歳、堀河8歳、鳥羽5歳、崇徳5歳、近衛3歳、後白河29歳、
二条16歳、六条2歳、高倉8歳、安徳3歳、後鳥羽4歳、土御門4歳、
順徳14歳、仲恭4歳、後堀河10歳、四条2歳、後嵯峨23歳、後深草4歳、
亀山11歳、後宇多8歳、伏見23歳、後伏見11歳、後二条17歳、花園12歳、
後醍醐31歳、後村上12歳、長慶26歳、後亀山?、光厳19歳、光明16歳、
崇光15歳、後光厳15歳、後円融14歳、後小松6歳、称光12歳、後花園10歳、
後土御門23歳、後柏原37歳、後奈良31歳、正親町41歳
312 :
日本@名無史さん:03/09/06 10:12
平安期から宮中の密教化が進み、大内裏には真言院が設けられ、
天皇のための修法が盛んになった。
以後、皇室の真言宗への帰依は、そのまま中世・近世へと受け継がれ、
皇室は真言宗の檀家となった。
test
a
315 :
日本@名無史さん:03/09/07 22:45
後光厳天皇の即位
北朝の天皇の「必要性は、幕府の正当性の問題以上に、公家社会の運営上の
事情にこそ求められる」(新田一郎氏)
316 :
日本@名無史さん:03/09/07 22:48
秀吉の王政復古がなかったらどうなってたんだろうか。
秀吉の聚楽第に天皇は行幸してるな。
317 :
日本@名無史さん:03/09/07 22:50
孝謙天皇が好きで好きでたまらないんだが・・・・・
エッチしたいぽん
〜がなかったら、という推論は
思考実験として意味がある場合もありますが
基本的には歴史学ではとらない手法です。
319 :
日本@名無史さん:03/09/08 10:50
室町幕府に朝廷権力・権威が吸収された原因は後醍醐天皇にあるでよろしいか。
後醍醐の行動は「パロディだ」と言った学者は誰だっけ?
320 :
日本@名無史さん:03/09/08 23:00
源頼朝は、後白河院に秘伝の絵か何かを見せようと言われて、断ったとか。
天皇制の持つ虚構のブラックホールにまきこまれないようにしたらしい。
頼朝らしい慎重かつ賢明な判断と言われている。
322 :
日本@名無史さん:03/09/09 10:04
>>321 素人でスマソ。ケーコ先生のフルネームは?
中世の天皇の位置付けってどうだったのか?スレ人名索引
日本@名無史さん編
悪ふざけ・1レス/本体201-300レス
14(学部生)・・・203,204,207,208,234,274,275
3・・・205,206,215,218,222,224,227,230,238,242,248,249,256,258,262,266
145・・・210,225,226,229
201(243)・・・201,216,220,228,231,232,233,236,239,240,243,245,246,247,251,252,257,259,264,276,277,291,292,293,298
209(223)・・・198?,199?,209,217,219,223,235,237,255,278,279,280,282,283,287,290,294,295,296
241・・・241,265,270
285・・・285,286,289
297・・・297
272,273は241か201の気がするけど保留。
>>323 あーすごい!!
前回もだったのですが、僕が整理しようと思った日に必ず先にあなたがして下さってる!
何か不思議なものを感じちゃいます。
うーん、3さんと145さんがいらっしゃらないと僕は本当に寂しいです。
お2人には手取り足取り教えて頂いて、僕の中では大きな存在なんです!
スレも全然荒れていないですし、ぜひ戻って来て下さい!!
>>324 学部生さん。
皆さんのレスに好き勝手な茶々を入れていただけの私に、
過分なお言葉、ありがとうございます。
私がからめるような話題が出てくれば、又、レスを付けさせていただきますので
勝手な話ではありますが、よろしくお願いします。
・・・阪神の決着がつくまでは、何にも手がつかない状態ですんで、
あまり気のきいたレスはできないとは思いますが(笑
鎌倉時代の元寇以後になると、東国と九州では、幕府を「公方」と書き、
最高の裁判権を持つものと扱っている。
西日本でも、「公家・武家」と朝廷に六波羅を加えて書かれたものが、最高の
執行権を持つものとなってきている。
鎌倉時代後期になると、上皇・朝廷・公家関係は領地で事件がおきると
治安維持を、幕府勢力に依頼している。
承久の乱以後、執権の死は、くじの結果として、朝廷は天皇の死なみに扱っている。
元寇期後は、くじなしで、天皇なみに扱っている。
なぁんか、自作自演くさいスレだな
じゃあ、私から質問してもよいでしょうか。
「中世王権」って一体なんなんでしょうか。
辞書的にいえば、
天皇(上皇もふくむケースもあるんでしょうが)のもつ権力、権能
ということになるんでしょうが、
具体的に天皇のもつ権能のなかの、なにが「王権」なんでしょう。
また、関東についても「王権」とする説もありますが、
同様に、関東のなにが「王権」で、天皇のもつ「王権」と比較して、
何が異なり、何が一致しているから、「王権」といえるんでしょうか。
正直、私にはさっぱりわからんのです。
329 :
日本@名無史さん:03/09/11 15:13
羅列的だが、
自分の支配地における
1、最高裁判権
2、武力を伴う1の執行命令権
3、名目的命令権・叙任権
4、名目的徴収執行命令権
5、名目外交元首権
あたりが王権の基準??
「院政期→鎌倉前半→承久の乱→元寇→建武→南北朝→戦国前半→戦国後半」
で、天皇・朝廷の位置づけや、国政への関与も変化してる気がする。
それに対応して、武家政権の位置づけや国政への関与も変化するだろう。
京都大番役は平安後期から、鎌倉大番役は1225年から。大番に集まる御家人は
承久の乱で幕府が軍事動員した15ヶ国と一致。15ヶ国への王権的幕府権力の成立。
1191年の公家新制に海陸盗賊禁遏条項に源氏への委託が書いてある。
鎌倉が軍事権門の委託を、京都からされた。
1232年の公家新制にも書いてある。しかし、これを最後に以後は書かれなくなった。
かわりに1261年から武家新制に書かれ始めた。根拠は御成敗式目。
鎌倉幕府の治安維持の権能が、京都委託でなく、幕府自身の法に根拠を持つと表明された。
>>330 >大番に集まる御家人は
この大番とは鎌倉大番役のこと?
後醍醐天皇の倒幕宣言のとき、「天皇御謀叛」と称された。
これは、幕府体制に対抗する天皇の、バランスオブパワーを壊す行為が、
公権力への妨害とみなされていた。
後醍醐天皇の天皇位が長くなったので、花園院が譲位をするように仕向けて
欲しいと幕府に依願したが、両統の争いにあまり巻き込まれたくない幕府は、
「天皇自身の考えに任せる」と答えた。
それに対し、花園院は「譲位・後継は、今まで武家の声を神慮として行ってきた。
なぜ、今回は決めてくれないのか」と不満を漏らしている。
承久以後、さらに両統分裂以後、鎌倉の指示を神の声ということにして
天皇家は後継者争いを解決していた。話し合いで決めるように指示された
文保の和談も結局幕府が収拾した。
後醍醐後謀叛以後、持明院統は幕府・武家に接近をさらに強めて北朝となる。
333 :
日本@名無史さん:03/09/12 11:03
>>3=328
ぼくも賛成。その上での意見なのだが、よその時代、よその社会で形成された
「王権」概念を日本中世に安易に持ち込むのは、今の段階では不適当なのでは。
理屈をこね回すより、中世の天皇・朝廷、あるいは将軍・幕府の具体的なあり
方をつめていった方が、稔りのある議論になりそうな気がしている。
例)上の322の書き込みをみてかんじたことだが、鎌倉後期の皇位の認定は
誰が行っていたのか。幕府なのか。それとも最近河内祥輔先生がいってるように、
やはり朝廷内で定められたのか。天皇がどう決まるかすら議論が分かれている
状態で、「王権」も「権門体制」もないと思うがなあ。
334 :
日本@名無史さん:03/09/12 11:08
>>322 亀レスでスマソ。朝廷の下級官人をテーマにしている
ケーコ先生だと思われ。本でてるから嫁。
335 :
日本@名無史さん:03/09/12 12:17
武家〜当主たるゆえん= 源氏ゆえ
従って、ワザワザ家紋を汚すような思想は持たない。
信長 平朝臣信長 家康 源朝秦家康
天皇=権威そのもの
権威者の身分は 八色の姓 真人 朝臣 ・・・
職業者の身分は 士農工商
336 :
日本@名無史さん:03/09/12 12:20
歴代の謀反 をよく研究すると
謀反は、天皇制に向けられたものではなく、
自らの血にも天皇の傍流の血があるゆえ、現実の権力から言って
天皇をついでも良いだろう というものの 大小
>職業者の身分は 士農工商
横レススマソだが、近世社会において商人身分というものはない。
商人は町人身分の中に含まれる。
338 :
日本@名無史さん:03/09/12 17:59
横レスごめんね。門外漢ながら質問させていただきます。
今谷明の『室町の王権』で提出した、義満の皇位纂奪は
現在の日本史学の中で定説として定着してるんですか?
>>333 河内氏は、微妙な表現だね。
「この間、皇位継承者は幕府によって決められていたように見える。
しかし、肝心なのは、ついに幕府は次の「正統」を決定することができなかった
という点である。2つの系統のどちらを「正統」とするか、それは後嵯峨の
意思を確定しなければならないことになったが、もはや時間がたてばたつほど、
後嵯峨の意思の確定はますます不可能になった。幕府は解決能力を失いながら
、責任だけを重く背負う。この混迷が深まった果に、幕府は倒壊した」(「中世の天皇観」)
幕府は「正統」を決定できなかったと強調している。
皇位継承の仲介者(神の役)を否定はしてないようにも取れるが。
1317年の文保の和談も幕府が中に入っている。
さらに言えば、天皇家自身が「正統」を決められなくなり、
当事者能力を失ったのが、最大の原因というか要因。
>>338 講談社の「日本の歴史」シリーズでは否定されてる。
青木書店の「講座・前近代の天皇」シリーズでは、今谷氏はさらに主張している。
足利氏の幕府と、足利氏の天皇との両輪で政局を運営しようとしたのは、
後醍醐や南朝の悪夢が残るこの時期では自然かとも感じるが。
学会の状況はどうなんでしょうね?
3さん!
戻ってきて下さって有難うございます!!
よかった。嬉しいです。
では阪神の決着がついたら質問させて下さいね。
>>333 河内先生のどの論考ですか?
読んでみたいので是非ご教示下さい!
>>339 『中世の天皇観』をお読みになってるんですね!
3さんにはお願いして読んでいただいたのですが、リブレットだから他の方はあまりお読みにならないのかなと寂しく思っていました。
それとももしかして、3さんか、145さんか、近世さんか、今まで親しく導いて下さった方々の中のどなたかですかね?
京都側が、天皇の代替わりは鎌倉の助言を神仏の声とするとしてたみたいよ。
自分たちで、皇位継承を決められず、正統を決められなくなったことを合理化
してるのかもしれないけど。
後伏見上皇(1328年)
「承久の乱以後「天に代わった」幕府の統治は、計り知れない神仏の考えによる
ものであり、すでに公私にわたりよき例となっている。にもかかわらず、
末代になって、(譲位の決定を)「叡慮」=後醍醐の意思に任すというのは、
「天意」を失うものであり、「武威」を軽くするものとなりかねない」
園城寺学頭
「およそ、国の国たるは、関東の守護により、世の世たるは武将の徳政による」
「関東はすでに天下の父母なり」
承久の乱後の即位への幕府の関与
85代・仲恭天皇廃位←鎌倉幕府の決定
86代・後堀河即位←鎌倉と関係が深く、鎌倉の意思あり。
88代・後嵯峨即位←九条家が幕府にうかがいをたて、幕府が決定。
89代・後深草〜95代・花園までは両統でいったりきたり←幕府の助言
95代・花園の譲位直前に文保の和談で、幕府仲介の話し合いを持ち、
以後幕府は手を引こうとするが両統に話し合い能力なく不調の結果。
96代・後醍醐在位10年←譲位させてと花園上皇が鎌倉に依頼、断られる。
北朝1代・光厳天皇即位←後醍醐叛乱で幕府が擁立
関東の主の死亡に関する触穢の推移
・頼朝・義時の死に際しては、占いのせいにして「内裏触穢」
・泰時の場合は、すぐに「触穢」
・時宗以後は、「天下触穢」が定着
鎌倉後期において、得宗の死は、天皇・将軍と並列。
344 :
日本@名無史さん:03/09/17 22:22
保守
345 :
日本@名無史さん:03/09/23 21:53
革新
346 :
日本@名無史さん:03/09/24 18:57
中世天皇はおそるべき宗教的君主だよ。
日本のローマ法王。
承久の乱で一天皇廃位、三上皇配流。
348 :
日本@名無史さん:03/09/25 00:39
>>346 顕密体制にこだわれば、そういう見解になるが。
でも、幕府はご用宗教として禅宗を持っていたし、
浄土宗、真宗、時宗、日蓮宗などは
天皇とは結びつかない。
だから、天皇=宗教領主、という見方は
一面的とも言えるんじゃないかな。
>>348 顕密体制て何か知ってます?
その点以外は異議ないけどさ
350 :
日本@名無史さん:03/09/25 06:58
>>349 一応知ってるつもりだけど。
だけど、権門体制にしても、顕密体制にしても
「体制」っていってしまうところにものすごく
違和感がある。かりに権門体制論にのらないで、
東国国家論に準拠した場合、幕府はどうなる?
鎌倉でも顕密は大事にされてるけれど、律もあるし
禅もある。しかも大事なのは、そこには顕密からの
コントロールがきいて「いない」ということ。
これが「体制」なんてご大層なものなのかな、
という極めて素朴な疑問ですね。
私も素人ですが。
「顕密体制論」のキモは、いわゆる「新仏教」ではなく「旧仏教」こそが
中世における仏教の主流をなしていた、という指摘だと思います。
そういった「旧仏教」系の諸宗・諸寺院が国家権力と結びついて
その法会とか、人事体系とか、所領管理の方式とか、
そういった宗教のありかたを正統として作り出し、運営していったというのが
「顕密体制」という概念であって。
「顕密体制論」においていわゆる「新仏教」は、基本的にそういった「顕密体制」への
反発・異端の運動と意味づけられるので、それらがその「体制」の外側に
いたということを指摘しても、それは「当たり前」としか言われてしまうでしょう。
「正統に対する異端がいた」という指摘だけでは、
その「正統」の存在自体や「正統性」を否定する論拠にはならないのでは?
>>351 訂正します。
誤:それは「当たり前」としか言われてしまうでしょう。
正:それは「当たり前」と言われてしまうでしょう。
私も、顕密体制論については勉強中なので、
もし基本的な間違いがありましたら、ご指摘・訂正をお願いします。
以前の議論に戻りかねないけど、結局のところ黒田史観は主流派なのか時代遅れなのか「客観的位置付け」としてはどうなんですか?
また上横手さんの存在の位置付けはどうなんですか?
他に中世の研究でメジャーな位置を占める学者は誰でしょう?
354 :
日本@名無史さん:03/09/25 12:00
>>3 いや、だからさ。朝廷の内外で顕密が優勢なのは異論がない。
だけど、なんでそれが「体制」の語でかたられるの?肝はそこ。
体制というのは上が下を支配したりコントロールしたり、
要するに手を突っ込んで掻き回すわけでしょ。だけど新仏教と
旧仏教の相互関係にはそれがないわけじゃん。異端と正統という
教義問題すらそんなに真剣に議論されてない。
たとえば極端な例だけど日蓮は自分は日蓮宗を開いた、
なんて言ってない。法華経を重視する自分の教えこそ天台の
真髄だ、といっている。だけどそこでおしまい。
比叡山を改革しよう、なんて言ってないし、比叡山が日蓮宗を
自らの法流の中に位置づけようともしてない。
朝廷が受容しているのが顕密であって、当時の日本の中心は朝廷だ、
権門体制だ、だからこれを宗教的に見れば顕密体制だ、というだけ
のことでね。
だから、あなたのことばでいえば、少し勉強すれば「そんなの
当たり前じゃん」というような事象を、わざわざ「ナントカ体制」
と呼ぶことに意味はあるのか、ということなのですよ。
>>354 いわゆる「顕密寺院」はその構成人員の数もさることながら、
組織、法会、人事のしくみ、領する荘園とその支配、文書伝達のしくみ、
あらゆる点で量的・質的に「体制」と呼ぶにふさわしいだけの構造をもつ
体系を備えております。
その全国に数多存在する顕密寺院が、国家と癒着しつつ作り上げていた
自らを束ね、かつ社会的に正統なる仏教の担い手として自らを位置づけている、
そのしくみ自体を「顕密体制」という概念で呼んでいるのです。
単に「朝廷が顕密を受容している」というだけではなく、
顕密寺院群自体が、「体制」と呼ばれるだけの組織体系を備えていたのですよ。
誤解を恐れずに言えば、中世において顕密寺院はその内部に、独自の「社会」を
作り出していた、と表現することすら可能なんです。
顕密寺院の組織という点で例をあげましょうか。
たとえば、高野山の建前上のトップは誰でしょうか。
答えは「基本的に東寺長者が兼任」です。
で、その東寺長者も、必ずしも東寺に住んでいるとは限りません。
ほかの寺院に住んでることもあります。(詳しい方、訂正・補完願います)
さらに、東寺長者も本来は「法務」と呼ばれ真言宗や、国家的には仏教界の
名目上のトップに位置づけられますが、実際の権威は仁和寺の門跡のほうが
高かったりします。実際、訴訟の際には、仁和寺を通じて朝廷・幕府と交渉
したりしています。
これらは、一見無秩序に見えますが、史料を見る限り、
どうやら彼らなりの組織論理に基づいているらしいのです。
顕密体制論の不備を指摘するとすれば、
これらの具体的なありようが、いまだ明らかにされていない、という点でしょうね。
あ、それから、>354さん。
私はいわゆる「新仏教」が「顕密体制」の外側で、
「旧仏教」を克服するような教義を構築したり、
布教をおこなったり、自らの教団組織を作り上げたりしていた
ことや、その意義を否定しているつもりはありませんので。
いわゆる「顕密体制論」でもそこまで言ってるわけではない、
と思いますよ。
358 :
日本@名無史さん:03/09/25 13:38
>>3 うーん、いわんとしていることは分かるんだけどさ。
顕密寺院が荘園を持っているのは確かだしね。
でも宗教って、まあ魂の問題でね。経済じゃないじゃん。
下部構造だけで「体制」って呼んで良いのか、微妙だよなあ。
かりにね、荘園の諸職を媒介に旧仏教が新仏教を末寺化
する意図が見える、とかいうなら「体制」でいいんだろうけど。
おまけ
これは揚げ足とりになるから、気を悪くしないで欲しいんだけど、
例を鎌倉時代にとるとさ、東寺長者は東寺には誰一人として
住んでないよ。中世史の研究者なら常識ね。
3さんは古代史専攻かな?
顕密の有力寺院間の文書のやりとりとか人の移動も、
文書レベルでなら具体的にとっくに判明している。
顕密は史料がたくさん残っているから分かりやすい。
わかりやすいところだけ囓って「体制」とかいうのは
安易にすぎると思うなあ。くどいけど。
359 :
日本@名無史さん:03/09/25 14:17
傍観者の
>>353ですが、お二人に
>>353を、今は特に前半を、答えて欲しいです。
>>3氏は黒田史観守旧派で、お相手は逆の立場ですか?
顕密体制論が問題有りなら、今は誰のどんな説が有力なのですか?
>>353の後半にも通じますが。
素人の疑問ですみません。
360 :
日本@名無史さん:03/09/25 14:31
>>359のつけたし
平さんは黒田さんの継承者で、佐藤さんや横井さんも一応はその中に入るのかな?
黒田史観を全くふまえず全然違う枠外から切り込んでる著名な説はありますか?
上横手さんは別枠? 学界メジャーは何説ですか?
361 :
日本@名無史さん:03/09/25 16:06
>>360 それが分かれば苦労はない(苦笑)。
イヤ、マジに答えるとね、
権門体制にしても、顕密体制にしても、理論でえいやっ、と
説明していく訳じゃないですか。黒田さんの時代には、
なかなか史料の制約があって、そうするほかなかった、と
いうことができる。ぼくは黒田さんの論は全然当たって
ないと思うけれども、そうした方法論、努力はきわめて
高く評価できると思います。
(つづきますね。)
一方で、ここ十年余りは、たとえば朝廷なり大寺院なりの
実証的な研究が盛んに行われたわけです。だから、
黒田さんの時代に比べると、飛躍的に朝廷や大寺院の
具体的なありかたが解明されてきた。
ところが、じゃあ、そうした成果を統合して、権門体制論や
佐藤進一氏の東国国家論を乗り越える理論を誰か出しているか、
というとこれは「ない」のです。
(つづきますね)
だから、「メジャーな人は誰ですか?我とおもわん人は手を挙げて」
といえば、朝廷なりお寺なり、幕府でもいいや、
いままさに研究している学者はみんな「おれだおれだ」と挙手するでしょう。
だけど、はたで見ている人は「そうかあ?うそだろお?」と全然納得しない。
そんなところが今の研究状況なんじゃないかな。
360さんは挙げておられる研究者の名前から見て(笑)
京都の方だと思われますが、まあ簡単に言っちゃうと、
あなたが決めれば良いんですよ。あなたが論文でも本でも
読んでみて、これは一番良くできているぞ、と思った人が
エライ研究者なのです。そして、もしあなたが研究者の道を
歩もうとされるなら、そいつをやっつければいいんです。
364 :
日本@名無史さん:03/09/25 20:41
「朝廷の影響の及ぶ権門は、寺社なら別当クラス、幕府は京都出張職まで。
それ以外の寺社内部の支配関係や、幕府内部の支配関係には朝廷の権威は及ばず、
その意味では、権門体制というのは実際は、畿内の狭い部分的なものだ」
って批判が黒田氏に対してはあるけどね。
まずは負け惜しみから。
>>358 >例を鎌倉時代にとるとさ、東寺長者は東寺には誰一人として
>住んでないよ。中世史の研究者なら常識ね。
私が
>>356でああいう書き方をしたのは、あなたが「鎌倉時代」に対象を
限定したのと同じ理由になると思います・・・。
とまぁ見苦しい負け犬の遠吠えはこのくらいにしまして。
>354=358さん、寺社関連は私専門外でして、
やはり生兵法は大怪我のもとですねぇ。
よろしければ今後もご教示のほどお願いします。
で、話を「顕密体制」にもどしますと、これは>354=358氏と私で
「体制」という用語の幅がちがうんでしょうね。
私は「反体制・非体制派が存在したって、『体制』は存在するんだ」という立場。
354=358さんは「社会全体をカバーできていないものを、『体制』とは呼べない」
という立場といったところでしょうか。(違ってたら訂正・補完お願いします)
くりかえしにはなりますが、
黒田説の最大の欠点は、権門体制論にせよ、顕密体制論にせよ、
その『体制』の発生・展開・衰退の各過程について、全く明らかに
されていない点にあり、この立場の違いはここからくるもんだと思ってます。
あと、もひとつ。
>顕密は史料がたくさん残っているから分かりやすい。
この点は同意します。
荘園研究なんかも、結局寺領荘園に偏ってる気配がありますし。
史料自体が寺院伝来のものに偏ってる、という自覚は必要だと思います。
>>360 正直、平さんや佐藤さん、横井さんの名を挙げられる方に、
私から付加えて申し上げられることはございません。
あとは>361氏にほぼ同意。(=358氏でしょうか?)
付加えるとするならば、
「学界メジャーな説」にこだわる必要は全くない、と思います。
>361氏も仰ってますが、たとえば中世国家論については、
権門体制論と東国国家論しか現状存在せず、、
いわば「主要な先行研究は二つしかない」(かなり語弊のある言い方ですが)
といってもいい状態です。
これは、他のどんなテーマでも似たようなものでして、
普通の論文ならば、先行研究として論文が10本以上挙げられてるケースは
殆どないものと思われます。普通は3〜5本くらいがいいところでしょう。
そんな中で、「メジャー」といってもたかが知れています。
361氏もこう仰ってます。
>あなたが決めれば良いんですよ。
>>363 > あなたが決めれば良いんですよ。あなたが論文でも本でも
> 読んでみて、これは一番良くできているぞ、と思った人が
> エライ研究者なのです。そして、もしあなたが研究者の道を
> 歩もうとされるなら、そいつをやっつければいいんです。
至言ですな
360です
お二人とも素人の飛び入りに答えて下さってありがとうごさいました。
はい、西の人間でございます。
ちなみに東の御方ならどなたを挙げられるのですか?
素朴に知りたいです。
>>368 まだ人生経験が浅いので賛辞か皮肉かわからなかったのですが後者なら、お二人以外の方の具体的なご意見を聞いてみたいです。
>>369 別段、皮肉のつもりはありません。
>>370 確かに「研究者ならきわめてノーマルな発想」である、はずですね。
だからこそ「至言」と思うのですが、いかがでしょうか?
372 :
日本@名無史さん:03/09/26 23:48
>360
東の研究者というと、前の方に出てたケーコ先生の
朝廷下級官人の研究は面白かったよ。
貴族の家格の問題なら、立正大の百瀬せんせーとか
中央大に来られた白根せんせーとか、かな。勉強になる。
読んでみたら。
>少し勉強すれば「そんなの当たり前じゃん」というような事象を、わざわざ
>「ナントカ体制」と呼ぶことに意味はあるのか、ということなのですよ。
そんな当たり前のことを黒田以前の学者は気づかなかったわけよ(除平泉)
で、トンデモ説をさも通説の如く垂れ流してたわけ。
それだけでも意味はあるよ。「体制」だよ。黒田説は発表当時は
異端だったけど、いまじゃむしろ体制側だね。
374 :
日本@名無史さん:03/09/27 07:51
>373
このスレはめずらしく良スレなんだから、
そんな無責任なこと言っちゃダメだよ。
少し調べりゃわかる話だが、黒田氏が権門体制論を
提唱する時期に有力だった説は、二つ。
ごくごく簡単に言うと、永原慶二氏を中心とする
「中世は武士勢力によって推進されていく」説と
大山喬平氏や河音能平氏の「いやいや、朝廷の力が
いまだ根強い」説。それを止揚するようなかたちで
黒田説が登場する。
これらのどこが「トンデモ説」なんだい?
>平泉
おいおい、昭和天皇にまで嫌がられた万古不易国体論者の平泉と、
マルクス主義者の黒田を一緒にするなって。
黒田俊雄ー「権門体制は応仁の乱まで」
佐藤進一ー「鎌倉時代は2つの国家」論、「室町幕府は朝廷を吸収」
黒田日出男ー「鎌倉将軍も王である」
上横手ー「権門体制の衰退終焉は、建武を待たずに、得宗専制体制時」
網野は、角度が違うが、「天皇はなぜ存続しえたのか」に、いつも
切り込んでいるのでその点では、内部でも評価されてる。
黒田俊雄が平泉を嫌って京都帝国大学に進んだのは有名な話なのだが。
うろ覚えですが、今谷明さんが、黒田さんの「権門体制論」は平泉説の
模倣だ、みたいなことをどこかで書いていたと思います。
どなたか、ちゃんとご記憶の方はおられませんか
378 :
日本@名無史さん:03/09/27 22:02
>>377 間違いない。ソースが希望なら調べるけど。(月曜まで待って)。
ただなあ、スレ違いかもしれないけど、
最近今谷さん、ちょっとヘンじゃないか?
「京極為兼」も、国文方面でものすごく評判悪いらしいですぞ。
平泉の天皇による国政委任論と黒田の権門体制論は、似て見える面もあるが、
本質的には全く別物。黒田は平泉史観の批判者。
黒田と石母田は、マルクス系の同じ土俵の中の争い。今谷も同じ土俵。
この3人にとって平泉は、許すことのできない土俵外の絶対的天敵。
今谷は、それはわかってる。その上での批判。
今谷の戦国期天皇権威保持説も、批判者から見れば平泉もどき。でも本質は全く違う。
「〜、中世の天皇家の歴史や本質はけっして理解できないのである。
それは、ほんとうはたいしてむずかしいことではないのだが、
天皇家は「万世一系」であり、
天皇は最高権力の地位にある者と単純にみる見かたに災いされて、
一般には理解しにくくなっているのである」
黒田俊雄 「分裂する天皇家」(『蒙古襲来』中公バックス日本の歴史G)
>>379 「今谷は、それはわかってる。その上での批判」なのかどうか、
件の文献に即した識者の見解をお尋ねしたいところなのです。
「平泉の天皇による国政委任論と黒田の権門体制論は、
似て見える面もあるが、 本質的には全く別物」とおっしゃる
「似て見える面」と「本質」の関係についても、できれば併せて。
381 :
日本@名無史さん:03/09/28 15:22
ケーコ先生って何度か出てきたけどネタだと思っていた自分の無知ぶりがはずかしいっす
どなたかフルネームを教えて下さい
>>381 本郷恵子さんだと思います。
旧姓は・・・なんとおっしゃいましたっけ?
主著は『中世公家政権の研究』(東京大学出版会、1998)です。
383 :
日本@名無史さん:03/09/28 18:04
>>382 早速有難うございます!
では旧姓での本や論文もあるんですね
旧姓小泉だが、旧姓で公表された主要な論文も、
著書に収録されている、と思う。
ちなみに夫君は『中世朝廷訴訟の研究』の和人氏。
夫婦揃って東大史料編纂所助教授
>>380 おそらく「平泉澄と権門体制論」(上横手雅敬編『中世の寺社と信仰』、吉川弘文館、2001年)が話題になっているのだと思いますが
377氏はうろ覚えとのことですから、もう1度きちんとお読みになればどうでしょうか?
>>385 そうだ、それそれ。わたしからもサンクスあロット。
そうだ、このスレにも関係することを書こう。
細かい論点は置いておいて、ですな。
「義満の時に天皇の地位は一番低くなる。
そして信長の時には信長と丁々発止と渡り合えるままでに
盛り返す」何てことが一体全体あり得ると思うかい?
細かい守護の任免なんかの研究で功績は大きいと思う(といっても
これも岩波の日本史事典レベルでだいぶ直されてるね)が、
全体の流れをつかむセンスみたいなものを今谷さんには
失礼ながら感じないのだが。
388 :
日本@名無史さん:03/09/28 22:08
>>「義満の時に天皇の地位は一番低くなる。
>> そして信長の時には信長と丁々発止と渡り合えるままでに
>> 盛り返す」何てことが一体全体あり得ると思うかい?
ないと思う。
正親町院は信長べったりの主体性のない天皇だよ。
なんだかんだ言って信長の譲位要求に二度とも応えなかったし、
一線はあったと思う。
390 :
日本@名無史さん:03/09/29 08:48
正親町院は早く譲位したくてたまらなかったんだよ。
信長がなかなか譲位させてくれないのでイライラしていたのが実態。
391 :
日本@名無史さん:03/09/29 09:03
>>390 このあたりは専門じゃないので
これはどなたの説なのかお教え願えませんか?
392 :
日本@名無史さん:03/09/29 09:58
正親町院の譲位問題については桐野作人「真説本能寺」(学研)が詳しい。
その前提になるのが堀新の業績。
393 :
日本@名無史さん:03/09/29 10:04
>>391 譲位したかった派としたくなかった派の言い分はまるで違うので面白い。
まあ天正九年三月の流れからすると、正親町天皇は信長以外が政権を
握るのであれば譲位したかったというのは正しいのではないかな。
394 :
日本@名無史さん:03/09/29 10:20
>>392 桐野氏は小説家ですね?
前提となっているという堀氏の論文をご教示下さい。
395 :
日本@名無史さん:03/09/29 10:26
うーん、話が戦国になると、どうしてこう、
いっぺんにたこつぼ的になるかな。
格調が断然、低!!
だれが、どうした、というんじゃなくてさ、
戦国期の天皇について教えてよ。
396 :
日本@名無史さん:03/09/29 10:28
>>395 >戦国期の天皇について教えてよ。
何を?
>一体全体あり得ると思うかい?
近世の場合、
大坂の役の際に家康は勅命講和の動きを無視するわけだし
紫衣事件では、勅許より幕府の法度が優位に立つことを示したものとされているが
尊号一件以降天皇の地位は次第に上昇していく。
したがって中世でも今谷氏の主張することはあり得ないことではなかろうと思う。
398 :
日本@名無史さん:03/09/29 11:06
簡単に言えば天皇と覇王との関係かな。
政治、経済、宗教、文化。
いろんな切り口があるでございましょう。
個人的には
「どうして覇王は天皇制を壊さなかったか」
「その結果、天皇は国政上、どんな存在になったか」
とか、教えて欲しいなあ。
399 :
日本@名無史さん:03/09/29 11:41
>>397=209
私は近世のことはよく分からない。その点、初めにお断りしておきます。
で、天皇と武家勢力との関係を考える際に、軍事力の問題を抜きにする
ことは出来ないでしょう。あたりまえだけど。
その点で、元和エンブを経過して、江戸の将軍が一定の文化的権威を
身にまとい、武家礼節とかが成立してくる時期に、天皇の再認識が
行われるのは理解できるんですよ。
だけど、強力な軍隊を有して京都に臨んだ信長に対し、
天皇がナニを以て対抗するわけ?そんなに天皇の権威が「ある」
としたら、対立するにせよ、利用するにせよ、
信長も秀吉も、京都に城を築くんじゃないのかな。
それをしてない、ってことは
どうでも良かったんじゃないかなあ、って思うんだけどね。
400 :
日本@名無史さん:03/09/29 18:10
信長は安土城にわざわざ天皇を迎えるための御殿を天主から見下ろす
位置に作らせたという・・・
これは非常に明確に信長の天皇観を示しているのでは。
岐阜城にしろ安土城にしろ、信長の城の縄張は、彼の地位のあり方を
非常に明確に現している・・・
秀吉は聚楽第だの伏見城だの築いていたけど、これはわしゃよう知らん。
401 :
日本@名無史さん:03/09/29 20:20
堀新「織田権力論の再検討 −京都馬揃・三職推任を中心に−」(共立女子大学文芸学部紀要第44集)
堀新「織田信長と武家官位」(同第45集)
402 :
日本@名無史さん:03/09/29 20:23
戦国時代の天皇は武家べったりで主体性がない、と考えるのが適当かと。
織田信長から見れば、足利義昭の頭を抑えるのに使える、程度の認識だったのでは。
それ以下ではないがそれ以上でもない。
403 :
日本@名無史さん:03/09/29 20:52
足利義昭は1588年まで将軍やってるんですけど、
朝廷は何故彼を罷免しなかったんでしょうか。
信長は圧力をかけなかったんでしょうかねえ。
404 :
日本@名無史さん:03/09/29 20:55
>>403 信長は将軍職に就くつもりがなかったのでしょう。
「足利義昭の後継者」の地位に魅力があったとは思えない。
405 :
日本@名無史さん:03/09/29 21:11
罷免しておけば担ぐ馬鹿も出なくていいのに。
406 :
日本@名無史さん:03/09/29 21:15
>>405 義昭が毛利なり島津なりに担がれてもべつに怖くないと信長は思っていたのでしょう。
現実問題として、毛利は担ぐことができたのに担がなかった。担いでも意味がなかったのです。
>>399 >強力な軍隊を有して京都に臨んだ信長
寛永11年家光は30万の軍勢を擁して上洛しています。
幕府は朝廷に軍事的圧力を加えなかったわけではありません。
408 :
日本@名無史さん:03/09/29 22:16
>>407 家光が率いていた軍勢は朝廷を威圧する目的を持っていたのでしょうか?
幕藩体制の締め付けが主目的。
寛永3年に後水尾を二条城に行幸させたのも、幕藩における将軍権威の向上の為。
朝廷威圧が目的ってのは?だな。
このスレには手の込んだ自作自演がいるから、気をつけないとね。
>>409 もちろん威圧は主目的ではないと思いますよ。
だけど幕府はこれだけの軍勢を動員できるのですから
>一定の文化的権威
というように、将軍を軍事力抜きで評価するのはいかがかと思う次第です。
>>411 そういう意味なら軍事力は当然欠かせない。必須アイテムですね。
ところで、今谷の戦国期権威アップ説に対して「前近代の天皇・全5巻」での
永井か誰かの論文では、「戦国期天皇は、正親町以前と以後でわけて
考えたほうがいい」と天皇在位期間や年中行事などから比較して提言して
るんだが、専門家としてはどうですか?
413 :
日本@名無史さん:03/09/29 23:14
>>412 その論文は読んでませんが
上の方で名前が出ていた堀新氏は
「戦国大名織田氏と天皇権威」(『歴史評論』523、1993年)で今谷説を否定していますね。
414 :
日本@名無史さん:03/09/29 23:23
正親町から新しいスポンサーがついてやっと譲位ができるようになった
415 :
日本@名無史さん:03/09/30 08:16
うーん、話が戦国になると、がぜん盛り上がるなあ。
やっぱり鎌倉とか室町の前の方とかは人気ないのかなあ。
怖いのはさあ、それが案外募集教員の分野にも影響を
与えることだよね。
昔は中世ブームとか言われた時期もあるらしいけど、
もうだめぼ。
>>413 「講座・前近代の天皇」第2巻目の「応仁・戦国期の天皇(永原慶二)」でした。
>>414 後土御門は在位46年で死去
後柏原は在位26年で死去
後奈良は在位31年で死去
正親町は在位30年で譲位
後陽成は在位24年で譲位
後水尾は在位18年で譲位
長い在位と死去で天皇交代は誰も新天皇擁立で権威獲得を求めてなかったってことかな。
死去交代は奇異とか情けないとか、当時は思われてたような・・・。
>>415 ま、戦国も中世後期ってことでw。
良し悪し、好き嫌いは別として、網野氏とかの影響で中世ブームでない?
「日本の中世」シリーズも出てたし。
「日本の中世」「日本の時代史」の両シリーズとも、鎌倉時代2つの王権論
のようだけど。
正親町天皇は信長の野望に気付いていた。
すなわち、誠仁親王に譲位すればさらに五の宮へと継がれることによって
信長は治天の君となるのである。
それは阻止せねばならない。
故に、信長が死に誠仁も死に、無難に関白に収まって満足してくれる
秀吉の世となったところでやっと譲位したのである。
正親町天皇は譲位を望んでいたが、それは信長という危険分子が
消えてからなら、という条件付きのものであった。
信長側の都合で譲位がならなかったのだと主張する者もいるが、
『御湯殿上日記』天正9年3月9日条に「御そくいをやかて申さたし
候わんまゝ、その時くわんいの事は御うけ申へきよしかへり事なり」
とあるように、「譲位するなら官位を受けよう」とまで言った信長
なれば、天皇が望むなら万難を排して譲位を敢行したであろう。
むしろ正親町天皇側から「今年は縁起が悪い」と言って逃げたのである。
420 :
日本@名無史さん:03/10/01 19:30
>418
佐藤進一氏は「東国国家論」を提起したとき、
「幕府はなるべく朝廷と関わりを持ちたくないと考え、且つ行動した」
とされた。だが、その後に「東西相呼応しての徳政」などが
言われる(例:網野氏)ようになり、氏の論点は批判的に継承された。
そして現在では、五味文彦氏などがいわれる「二つの王権論」が
ほぼ定説として認められている。
こんなまとめで、OK?
421 :
日本@名無史さん:03/10/01 19:56
>>419 それ今谷明の「信長と天皇」のパクリじゃん。
今谷天皇史はいまやすでに破綻してると思うが・・・
永仁の徳政令は、日本史上初の、一つの法令に対する
全国民レベルの反応と誰かが言ってたな。
権門体制派の上横手氏もこう言ってるから、最近は似てきてるのかね。
「幕府が朝廷によって存在を保障されているという原則は、幕府の滅亡
にいたるまでかわりがない。
しかし実際は、承久の乱後、幕府は朝廷の権限をしだいに奪い、得宗
専制期においては「治天の君」の選定権までも掌握し、朝廷の政務への
干渉を強めた。
また荘園領主の領主権、御家人ら在地領主の領主権にも干渉を加え、
幕府への集権を進めていった」上横手雅敬
423 :
日本@名無史さん:03/10/01 20:07
>権門体制派の上横手氏もこう言ってるから、最近は似てきてるのかね。
権門体制の終焉は得宗専制期というのが上横手氏の主張ではなかったか。
>>423 そうだね。ただ、
>しかし実際は、承久の乱後、幕府は朝廷の権限をしだいに奪い、
って部分が気になった。特に
>しかし、実際は〜
ってあたり。
個人的には「2つの王国論」と「権門体制論」を弁証法的止揚で両立させて欲しいんだが・・・。
網野氏はこうだね、
「佐藤進一が第2次大戦前すでに「東国行政権」と規定した、鎌倉幕府のこの
地域に対する権限は、国衙に対する支配権・国の境あるいは2本所間の境相論
の裁判権、棟別銭賦課を含む交通路支配権などの統治権的、地域的な支配権で
あり、元号の制定、官位の叙任権は王朝の手に掌握されていたとはいえ、
これを東国国家と規定することは十分に根拠があるといってよい。
事実、元号については、頼朝のときの治承5、6、7年、幕府最末期の元徳3、4年
など王朝の元号と異なる元号(異年号)が使用され、官位についても、幕府は御家人
たちに強い規制を加えていたのである。
また幕府がみずからを「関東」といい、王朝の用語では九州を指す西国の語を、
畿内近国・九州全体を含む地域(鎮西探題成立前の六波羅探題管轄地域)を示す
語として早くから用いたことは、この地域をみずからの基盤である東国と異質
な地域とみなす意識が、幕府自体にはっきりと存在したことを物語っている」
>>421 今谷そのものはどうでもいい。
正親町天皇と信長の関係に関してのみ今谷は正しかったのだよ!
427 :
日本@名無史さん:03/10/02 09:12
>>426 逆だろ。義満のほうは正しかったかもしれんが、信長は今谷の間違い。
428 :
日本@名無史さん:03/10/02 10:52
あららら、今谷さん、散々じゃねー。
ぶっちゃけた話、先生とか先輩とか、批判しづらい、ってのはアルよね。
いいか悪いか、といえば、もちろん、悪いことなんだけどさ。
で、今谷さんって、京都から見るとどうなの?
オレ、東の人間なんでよく分からないんだ。
俺らの先輩、って感じで、がんがれーとかある?
>>428 揚げ足とりにとられてしまうかもしれないけど、
忠告として聞いてほしいんですが、
気を悪くされたら申し訳ないんですが。
そんなこと2ちゃんに書いたら、
「東は、いまだに先生とか先輩だと批判しづらい雰囲気がある、とはっきり認めた。」
って西の人間に決め付けられちゃうんじゃないでしょうか。
「西にはそんな雰囲気ないよ〜。東ってまだそんなことやってんの?」
なんてカキコされちゃうかもしれないじゃないですか。
そういうことは、西の人間とオフで仲良くなって、気心のしれてからきいたほうが・・・。
ま、逆に2ちゃんだからこそ聞けるっていう意見もあるとは思いますが。
いや気を悪くされたら申し訳ないです。
揚げ足とりのつもりはないんです。
けどこういう話題はできれば、
学会スレとか「学問としての日本史」スレとかでやっていただけると・・・
>>429 おっしゃるとおりですた。
ゴミンナサイ。
>>420 いいんではないかと。
勉強不足で恥ずかしいんだが、上横手氏の「権門体制は得宗専制まで」ってのの、
得宗専制って弘安の頃かと思ってたら(弘安前後とする人も多いが)、
上横手氏は得宗専制への移行の契機を1246年の宮騒動(寛元の乱)としてるんだね。
(「鎌倉幕府と公家政権」in『岩波講座日本歴史・中世1』)
となると、権門体制の時期ってのは、頼朝東国占拠時代後に京都に接近した
1185年から1246年までの62年間となるのかな。
残りの86年間が、鎌倉幕府が朝廷・寺社と並列ないし圧倒していく時期とすると、
権門体制の時期は短すぎて、ちょっと権門体制説自体が危うい気がする。
「公方」という言葉は、弘安ごろから関東と九州では幕府を指し、西国でも
徐々に幕府を指すようになる。また、畿内でも弘安ごろから、院宣・綸旨が
通用しなくなり、「公家・武家」という名目で六波羅の武家が院・朝廷・本所
の裁判に実力行使のために入ってくる。多くは本所や本所支配下の領主の要望。
(「鎌倉幕府と中世国家」古澤直人)
432 :
日本@名無史さん:03/10/03 20:15
>>431 イヤ、権門体制を支持する人たちは、平安時代後期から
たぶん権門体制で説明するんだろ?
京大の元木先生の「複合権門」なんてのもあるくらいだから。
逆に、東国国家論の立場の方にお聞きしたいのですが、
「東国国家」というのはいつ成立したとみなされているんですか?
434 :
日本@名無史さん:03/10/03 23:59
>>432 黒田氏本人は、摂関期は権門体制期への過渡期としてるね。
権門体制第一期が寺社と対抗するために武家を使っていた院政期、
権門体制第二期が幕府が次第に他を従属させながらも三者並列の鎌倉時代、
権門体制第三期が室町幕府の他の権門を従属させ癒着融合期、
としてる。
そして、戦国時代は、幕藩への過渡期としてる。
435 :
日本@名無史さん:03/10/04 00:01
>>433 頼朝が京都の元号改元を無視して治承を使い続け、独立国家成立に突き進む気配
も見せた1181年か、
東海・東山両道の行政権を獲得した1183年あたりですかね?
範囲は力関係で推移してるが、おおよそ三河・信濃・越後以東。
あと、弘安あたりから九州地方が、ぐんと幕府よりの印象。
>>435 頼朝の治承年号使用は、治承3年クーデターにより
平氏に擁立された高倉院政をみとめない、という意味で
独自国家を目指すとはとてもいえないのでは?
東海・東山両道の行政権というのは、最終的につめていけば、
国衙の人事権と年貢運搬権ですよね。
(このへん私の理解が浅いければ、指摘ねがいます)
でもそれなら、知行国主なら誰でももっていたと思うのですが
それと「東国国家」はどうちがうのでしょうか?
>>436 タイプミスです。スレ汚しスマソ。
誤:浅いければ
正:浅いようなら
438 :
日本@名無史さん:03/10/04 10:53
>>436 頼朝は養和への改元を使用せず、治承を使い続けましたが、養和元年=治承5年
は、1月に高倉院が亡くなり、後白河院政が再開してます。安徳帝への反感はありましたが。
頼朝は、東海・東山道行政権確保の寿永2年まで、治承年号を使い続けてます。
意図はわかりませんが、北関東の豪族や足利や新田のような一国単位の棟梁たち
を支配下に置くために、天皇制権威の取り込み=朝廷への接近を図ったと言われ
てます。(古澤直人氏)
439 :
日本@名無史さん:03/10/04 10:55
>>436 「81年(養和1)閏2月に平清盛が病死したのち、頼朝は後白河法皇に密奏して、
法皇への忠誠を誓うとともに源平の和平共存のことを申し入れたが、平氏側
に拒否された。
この年から翌年にわたり大凶作のため,軍勢を大きく動かすことが不可能で
あったが、その間に頼朝は家人の統制に意を用い、東国一帯の武力的支配を
すすめ、その簒奪的政権の基礎をかためることに努めた。
とくに御家人統制をみだす存在については厳しい態度をとり、83年(寿永2)の
暮れには独立性の強い態度を持していた上総介広常を誅滅している。
一方、この年の7月には源義仲が入京して平氏を西走させたが、義仲がやがて
後白河法皇と対立すると、頼朝はこの機をつかんで再び奏上して、法皇以下
公家政権の人々の歓心を買うことに成功し、ついに勅勘をとかれて本位に復
するとともに、彼が事実上の支配を実現していた東国諸国に対して、公的に
その沙汰権を認める宣旨をえた。
この「寿永2年の宣旨」は、頼朝による独自の東国政権が樹立されたことを意味
する」(安田元久氏)
440 :
日本@名無史さん:03/10/04 10:59
>>436 すでに東海・東山道では御家人が頼朝に本領安堵され荘園公領を支配してますから、
「行政権」は、租税徴収・住民支配・検断・裁判などの実質支配権です。
「すなわち、この十月宣旨で頼朝の東国軍事政権は王朝国家に承認された」(下向井龍彦氏)
治承4(1180)年に頼朝は、富士川合戦勝利のあと、御家人300人以上を集め、
本領安堵と新恩給与を行っている。
この儀式が、坂東軍事政権の誕生といわれてもいます。
「これ以後、東国武士は、頼朝を鎌倉の主として推戴する」(吾妻鏡)
441 :
日本@名無史さん:03/10/04 11:04
>>436 鎌倉幕府が樹立される。王朝国家の軍事・警察の機能を請け負う権門とする説
と、将門の伝統を負う自立した東国国家あるいは東国政権とみる説とが対立
している。幕府自体、この二つの方向の間で動揺したことは事実であり、その
基盤となった東国の範囲も、鎌倉時代を通じて変動している。
1183年(寿永2)10月の宣旨で、源頼朝の実力支配が及んだ国々と王朝が認めた
東国の範囲は東海道・東山道を指していたが、85年(文治1)には尾張以東、
翌年には三河・信濃・越後以東の東日本が東国とされた。
しかし承久の乱(1221)の勃発当時には、遠江・信濃以東の国々が「関東分」と
いわれており、かなり縮小しているが、乱後設置された六波羅探題の管轄範囲
は尾張・飛舞・加賀以西であり、1186年当時と比べると、北陸について能登・越中
が東国に入ったと推定され、この範囲は長く動かなかった。
ただ1319年(元応1)三河,尾張,伊勢,志摩,美濃,加賀が幕府の管轄下に入った
ことがあるが、翌年、三河を除き旧に復している。このように東国の範囲は、幕府
と朝廷、鎌倉と京都との間の力関係に応じて多少の変動はあったが、おおよそ
三河・信濃・越後以東については東国とする意識が強かったとみられる。
(網野善彦氏)
鎌倉幕府自体が揺れ動いていたようですね。遅くとも、承久の乱には、
もう確固として関東自立存在の意思があったとは言えると思いますが。
>>438-441 ありがとうございます。
>>438について
確認なんですが、頼朝は寿永2年10月宣旨まで治承年号を使用していた、
ということでよろしいでしょうか。
それならば、平家が都落ちし、後鳥羽が即位して、安徳の王権が
排除されたことを確認して、自分に有利な宣旨をとりつけたうえで
寿永年号を採用したわけですよね。
治承・寿永の内乱の直接の原因は、治承3年クーデターに伴う大量の
知行国主交代による、平氏家人と非家人との対立である、
という野口実氏や元木泰雄氏の説からすれば、
この寿永年号復帰のタイミングからいっても、治承年号使用をもって
東国自立の証拠とするのは無理なのではないでしょうか。
>>440について
>「行政権」は、租税徴収・住民支配・検断・裁判などの実質支配権です。
なるほど、ありがとうございます。
けれど改めてお伺いしたいのですが、
租税徴収・住民支配・検断・裁判などの「実質支配権」をもっているから
東国は独立政権なのだ、ということですが、
それはいままでの知行国主がもっていた実質支配権とどのように異なるのですか。
これらの「実質支配権」が、寿永2年10月宣旨によって認められたとされる、
国衙在庁の指揮権に由来するものであれば、知行国主も全く同じ権限をもって
いたのではないでしょうか?知行国主と同じ権限をもって「東国国家」とするのは
無理があるのではないか?という疑問があるので、
>>436での質問「知行国主の権限とどうちがうの?」になったわけです。
>>441について
鎌倉幕府の政治的な位置は、承久、元寇などの画期ごとに
変化しているのはおっしゃるとおりだと思います。
承久以降、幕府が朝廷にあるいみ優越、
後嵯峨即位以降はあきらかに、優越しているとは思います。
ただ、頼朝段階で「東国国家」だとか、「東国王権」と称するのは
かなり無理があろうか、と思う次第です。
445 :
日本@名無史さん:03/10/04 15:54
>3
ぼくなんかはあるまとまりを持った範囲が
そっくり頼朝に委ねられてるのだから、
それが「知行国主」の権限の集合体でも
「東国国家」と論じることはいいんじゃないか、
と思えてしまうんですが。
たとえば3さんは「治承3年の清盛のクーデター」
とか、「平家政権」は認めない?
あれなんか、別に何の新しい制度も官職も作って
ないですよね。全国の知行国を掌握しただけで。
あんまり「国家」「王権」ってところに神経質に
ならない方がいいような気がするけどなー。
>>442-444 まぁ、学界でも議論してる件ですから、このスレで結論が出てしまったら、
それはそれで大変な事態になってしまうとも思いますがw。
ちょっと、書き間違えもありましたので整理します。
1、1180(治承4)年10月、富士川合戦後、頼朝による大規模本領安堵・新恩給与
2、同年12月、頼朝が鎌倉移入儀式を決行。三百数十名の御家人を侍所
別当の和田義盛が一人づつ呼名し名簿記入。坂東軍事政権の誕生式典。
(「これ以後、東国武士は頼朝を鎌倉の主として推戴」by「吾妻鏡」)
ここで東国政権が誕生です。
3、1183(寿永2)年宣旨は、頼朝のほうから申し出たもの。
つまり、頼朝が東国における直接の支配下にない足利らの大勢力の棟梁支配
のために権威が必要なため、自ら京都に近づいた。
京都の元号に合わせたのは後白河の力でなく、頼朝の政策の一つ。
(続く)
(続き)
●「これは、東国独立国家として成立した幕府が、寿永2年の宣旨によって、
王朝国家の軍事・検断上の権門としての性格も持つようになった。
律令以来の単一国としての構成が、公武の複合的国家に移行したということ」
(佐藤進一氏、五味文彦氏、古澤直人氏ら)
あと、本所と頼朝の違いについてですが、本所もすでにこの時期には、
在地領主に一任という形でその支配を成立させてたわけですが、
この実質支配権を持つ在地領主が、御家人として主従関係に入って
いた点が違うのではないかと思われます。
本所に対し、在地領主は本所の変更などができますが、
頼朝に対し主従関係を破棄した場合は、所領没収か、一族滅亡などです。
その結びつきの強さが違うのではないかと思われます。
>445氏
>446−447氏
レスありがとうございます。
まぁ、このスレで結論を出そうなんて恐ろしいことは考えてません(w。
要は、権門体制論と同様に、東国国家論にも穴があるということが
いいたかったんです。
「どちらが通説か」という観点ではなく、
「どちらも乗り越えられるべき先行研究である」という観点で
みてほしいんです。
これは
>>361氏がおっしゃってることの言い換えにすぎませんが。
これから求められるのは、
>>424氏も書いてらっしゃる、
「東国国家論」と「権門体制論」を止揚するような国家論を
最新の実証研究の成果を取り入れたうえで構築することなんでしょうね。
弁証法的止揚になるかどうかわかりませんが・・・。
古澤直人氏は、以下のように分類し、検討しています。(「鎌倉幕府と中世国家」)
A:2つの国家論(東国政権・東国国家)=佐藤進一氏、網野善彦氏
B:権門体制論=黒田俊雄氏
C:古典学説(職制国家論)=石母田正氏、永原慶二氏
D:多元的国家論(地頭独立国論・中世無国家論)=笠松宏至氏、石井進氏、上横手雅俊氏
C・Dの源流たる幕府(主ー従関係)統治に対し、Bが公家・寺社も含めて支配階級
であると提示。
しかし、在地領主の自立支配力に頼っていた事実を見ずに、
視角を中央政治機構に限定したり、公・武・寺の相互補完を論ずるA・Bは、
根本的に難点を有している。
ここに、C・Dが強調される由縁がある。
しかし、初・中期の幕府は暴力機構としては未熟だった。
よって、頼朝の権力は「識の体系」「朝廷の官位システム」に媒介されて、
はじめて東国自立権力ありえた。
将軍・幕府権力は、公家権力と秩序に依拠しつつ、同時に「一定の距離を置く
ことで」はじめて相対的に独立した政治権力として成立しえた。
>上横手氏について
「一部自説を修正した」
「二者択一よりも(権門体制と東国政権)総合が大切と論じてきたが、さらに意を強くした」
「鎌倉幕府は鶴岡に鎮護国家の経典を講じさせ、鎮護国家の機能を担わせてきた。
寺院に鎮護国家を命ずるのは国家・国王であって、一権門の能くするところではない」
「頼朝は既存の顕密体制寺院を尊重したばかりか、新たに鶴岡をはじめ開設した。
幕府は鎮護国家の寺院を従属させ、鎮護国家の祈祷を命じ、ついに、承久の乱において
武家の鎮護国家仏教は公家の鎮護国家と仏教と対決し、勝利を収めた。
前述のように、このような幕府は単なる一権門ではありえず、独自の宗教政策を
持っており、すなわち一種の国家権力であったことは疑う余地がない」
要約「1180年8月に挙兵した頼朝は、以仁王の領事により東国支配を認められたと
主張し、その令旨は当時の朝廷を倒し、新朝廷樹立を宣言している。
頼朝の東国支配は、全く京都との妥協の可能性を持ってない。
したがって頼朝は、東国独立国家を形成した」
「寿永2年10月宣旨によって、頼朝は一権門となり、東国国家は消滅した」
「独立国家が消滅し、幕府が権門になったとしても、幕府は東国支配を実質行っており、
それは権門の家政といった次元を超えた内容である。
それは、朝廷から東国を与えられたのではなく、東国独立国家を持続してきた
ことに由来している。承久の乱に際し仁王会を始行し、勝った。
幕府は諸国守護権と東国支配圏を付与された権門であり、しかも、この2つの
権限には、いずれも超権門的契機が内蔵されていた」
「幕府祈願所における鎮護国家の国家とは、日本国を意味する場合と、
幕府のみを意味する場合があった」
「五味文彦氏の説明のほうが明快である。修正したい」
(「顕密仏教と権門体制」in『中世の寺社と信仰』2001年)
451 :
日本@名無史さん:03/10/05 00:12
>>450 他者の説を紹介する場合は、もう少し整理してもらえませんか?
このように断片的に引用されたのでは、非常にわかりにくいし
また引用は正確に行っていただきたい。
例えば最後にあなたが引用されている
「五味文彦氏の説明のほうが明快である。修正したい」という記述は
「独立国家が消滅し、幕府が権門になったとしても、幕府は東国支配を実質行っており、
それは権門の家政といった次元を超えた内容である。」
という引用(正確な引用ではないが)の注として書かれているものですが
その関連性に配慮がなされていません。
また「五味文彦氏の説明のほうが明快である。修正したい」という記述は一部省略されているので
何を修正したのか、この文章だけではわからない
省略せずに、正確に引用すべきでしょう。
いや、だいたいわかるよ。
上横手が東国国家論によってきてるってことはわかる。
本人は権門論と統一しようとしてるようだが。
五味文彦の代表作っていったら何?
近世史の立場から言うと
諸権門の上に王権としての天皇が立つという権門体制論の図式の方が
近世の天皇制、とくに近世後期の天皇の地位上昇を理解しやすい。
東国国家論では
東国国家にとっての天皇はどういう位置にあるのでしょう?
対立する西国国家(?)の長という位置づけなら
これを圧倒した段階で不要ということにはなりますまいか?
このあたりのことは不勉強につき、どなたかご教示下さい。
>453
学者がどーのという
話はよくわからないが
天皇は権門の上に君臨していたのではなく、
なかば権門体制の枠の外にあった存在であったと考えます。
枠の外にいたことで近世の身分制にとらわれるこがなかったのです。
東国国家論は成り立ってません。東国地域論にすぎません。
>>454 身分制という観点で話をしているわけではないのだが。
東国政権論でも、鎌倉幕府は一権門の面と、一権門以上の別政権の面の両面を
持つといわれてます。
ですから、鎌倉幕府にとって、天皇は、対抗する西国の王でもあると同時に、
権門の上に立つ王でもある2面性を持つのではないでしょうか。
東国政権論と権門体制論が融合しつうある気がします。
北条得宗が圧倒的になり、皇位継承を天皇家家長が鎌倉に頼る事態にまで来たが、
得宗の内部矛盾(反北条や悪党の創出)により南北朝となる。
そして室町期に朝廷は幕府(武家)に吸収されていく。といった感じではないでしょうか。
権門体制を長く引っ張って考える黒田氏でも室町幕府は他の権門を従属させる
癒着融合期で、戦国時代で権門体制は終焉ですから、近世とくっつけて考えるのは
厳しいのではないかと思われます。
個人的には天皇家は、その時代ごとに生き方を変えられる力を持つと思います。
ですから、古代・中世・織豊・江戸と存在形態が違う、別の存在といったら
言いすぎでしょうか。
五味文彦氏は「日本の時代史・8・京・鎌倉2つの王権」
「大系・日本の歴史5・鎌倉と京」あたりはどうなんでしょうかね?
「鎌倉・室町幕府と朝廷」の方が良いかもしれませんが、勉強不足です。
失礼、「鎌倉・室町幕府と朝廷」は「日本の社会史・第3巻」の中の上横手雅敬氏
でした。スマソ。
頼朝は田舎者すぎて、年号変わったの知らなかった
>>456 近世史から見れば、権門体制的なありようが、近世的再生を遂げるという見方もできるわけです。
>東国政権論でも、鎌倉幕府は一権門の面と、一権門以上の別政権の面の両面を
>持つといわれてます。
ならば権門体制論とどこが違うのかよくわからないですね。
室町初期に幕府は、三種の神器もないのに、かなり無理をして後光厳を擁立しますが
これは幕府支配の正当性を示すために必要だったからのように思えます。
すなわち天皇という王権が必要だったということではないでしょうか?
>>459 >近世史から見れば、権門体制的なありようが、近世的再生を遂げるという見方
>もできるわけです。
ご意見はわかりますが、戦国時代も権門体制が生き続けていたとの説は厳しいの
ではないでしょうか。それとも、一度つぶれたという意味ですか。
天皇権門は南北朝で自己崩壊し、足利幕府に吸収され、戦国で断絶同然になった
感想を持ちます。最後の牙城の京都の支配権まで奪われ、怒ったか譲位した天皇が
いた記憶がありますが。誰でしたっけ?
江戸時代では、天皇家・朝廷は権門と言うより、幕府の扶持でまかなわれていた
特殊職能集団程度の気がします。
幕末の権威向上も、光格や孝明の朝廷勢力と言うよりも、黒船や雄藩と幕府の
力関係など外部条件が1863年頃の逆転をもたらしたと思われます。それまでは、
まがりなりにも武家相伝や摂関家によるコントロールが効いていたと思われます。
>ならば権門体制論とどこが違うのかよくわからないですね。
歩み寄りつつあるのかもしれません。ポイントは、東国政府論は
「鎌倉幕府は、一権門以上の、京都とは別の政権の面も(を)持っていた」
という点でしょうかね。
>室町初期に幕府は、三種の神器もないのに、かなり無理をして後光厳を擁立しますが
>これは幕府支配の正当性を示すために必要だったからのように思えます。
>すなわち天皇という王権が必要だったということではないでしょうか?
誰かが同じことを言ってたような気が?
反後醍醐派の京都の公家・朝廷の多数派勢力の要望もあった点もあると思われます。
足利尊氏らが天皇を求めた側面は否定はしませんが、その擁立過程からして、
北朝は幕府への依存度・癒着度を高め、幕府なしには存在しえない存在に
なってしまったと思います。
武家による南北朝統一は、王権の武家への依存癒着の決定打では。
>>460 結局のところ、武家の意識の問題だと思うのですよ。
実態としては権門体制は姿を消すが
かつてのありようが意識なりイデオロギーなりとして武家社会に残り続けたのではないでしょうか。
秀吉が関白/太閤政権という、本来の武家政権とは異質な形を取ったことで
この意識は延命したように思います。
ちなみに天皇の地位の上昇は寛政期に始まるとされます。
また外圧も重要ですが、それだけが地位上昇の要因ではないと思います。
>>462 鎌倉幕府の意識を考えると、実朝は別として、頼朝・北条家・坂東武士いずれも
東国政権意識があった気がします。(東北も含んで)
それなしでは東国の政権基盤が納得しなかったんではないでしょうか。
意識として残ったというより、権威づけの為の作戦・方策としては残ったと思います。
>ちなみに天皇の地位の上昇は寛政期に始まるとされます。
>また外圧も重要ですが、それだけが地位上昇の要因ではないと思います。
そうですね。ただ、光格天皇から1862年までは、行事復活や朝議再興は、
幕府のお膳立てというか主導権は幕府というか、幕府が口も金も出してますよね。
それなりに幕府権威が保ててた気がします。
尊号一件でも幕府が直接処罰してますし。最も、これは下策で、以後、緊張関係と
なってしまいますが。
外圧だけとは思ってません、ただ外様や朝廷に意見を聞いて墓穴掘ったり、
征夷大将軍なのだから攘夷せよとか、契機にはなってるのではないかと。
「国学」の影響についてはどうお考えですか?
464 :
日本@名無史さん:03/10/11 23:48
上横手氏によると権門体制の時期は、1183年〜1246年みたいだね。
今谷明氏は権門体制における国王を、天皇ではなく「治天の君」としてるようだね。
実質実力者が国王となると、権門体制論としては苦しい気がするが。
465 :
日本@名無史さん:03/10/13 09:53
「一権門としての性格をもつ幕府は、他面、諸国守護という国家的機能によって、
権門の域を超えて公権力たりえたのである」←上横手氏は東国政権論でもあるのか?
五味文彦氏いわく
頼家殺害、実朝殺害、摂家将軍追放、親王将軍追放などの数度の王殺しによって、
東国政権は、数度再生を繰り返した(要約)
これは、数度の王殺しによって、京都の干渉を受けない東国政権を確立し続けていった
という意味かな?
「吾妻鏡の方法」とか言う感じの題名の本に出てた。本に名作と書いてあったが、
もうちょっと、はっきり書いて深めて欲しい印象が残った。
>>465 勝手な要約や都合よく自己解釈した引用を持ち出すのはやめようや
かなり以前に黒田史観についてもめてた時からずっと何度も感じてはいたんだが、
こういうのは引用じゃないし、自己解釈した要約なんてもっての他
一連の書き込みが同一人物なのかバラバラなのかは詮索する気もないが、
誰であれ慎むべき行いだと思う
このスレは、2CHとはいえ、非常にまじめな議論と進行が積み重ねられてるよね
参加者も、学者(の卵)と学究的社会人で構成されているようだから、
著者・題名・版元・年月・頁を明記し合い、お互い認識を深め合おうや
「従者たる御家人は将軍家領である関東御領の武士だけでなく、全国的に多数
の武士が荘園のわくを超えて組織されている。またその主従結合は、幕府を
自衛するだけでなく、ひろく諸国守護を担当している。御家人を守護・地頭など
に任命するのも、実は鎌倉殿の統率下に、御家人が諸国守護を分担するためなのである。
一権門としての性格をもつ幕府は、他面、諸国守護という国家的機能によって、
権門の域を超えて公権力たりえたのである」
上横手雅敬、平凡社大百科事典、「鎌倉幕府」の項目
「実は黒田氏の説では国王の地位にあったのは一貫して治天でなく天皇である
とされるのだが、筆者は今まで述べてきたように、治天の君と理解する方が
わかりやすく、説得力があると考える。
この点で治天=国王を主張されている富田正弘氏の説に従うものである」
今谷明『室町の王権−足利義満の王権簒奪計画』(中公新書、1990年)
「令旨にのっとって王権を守る武装集団として始まった幕府が、その後の歴代
の源氏将軍家の暗殺と承久の乱によって王朝権力からの自立をはかり、乱後
に派遣された宗尊親王を謀反の疑いで京都に送還することで、王朝権力から
の自立を完成した事実に依ってみれば、吾妻鏡の構成には根拠があることに
なる」
「王殺し=王権からの自立」
『吾妻鏡の方法ー事実と神話に見る中世』五味文彦 (吉川弘文館・1990年)
これについては、この本の構成上、正確な要旨を伝えるのには、
短文の引用では困難と考え、また要約を使用した。
>>466 これで満足かい?
あなたが誰か詮索するまでもないが、できれば反論でもいいから意見を書いて
くれないと2CHにさえならないのだが・・・。
読んでないなら、読んでからカキコすればいい。それだけの話。
469 :
日本@名無史さん:03/10/13 22:23
>>468 研究史整理というのは
A氏の説だとこうであり、B氏の説だとこうなるが
それぞれにかくかくしかじかの問題があり
だから私はこの視角で分析・考察を行いたい
とするのが作法です。
要約とか引用だけされても、議論は進まない。
あなたのオリジナルな切り口を見せていただきたいものです。
470 :
日本@名無史さん:03/10/13 23:43
ぼくは今まで同じ文体で書いてる者であるから、
「おまえ、○○○番だろう!」と当てられるかもしれんが、
それはそれでいいや。
もうちょっとまたーりといこうではないか。
ここは真面目なスレだが、学術雑誌ではない。
だれだれセンセがこういってるぞ、で構わないと
思うんだがなあ。勉強になるし。
ただし。以前の「黒田氏のこの論文の○○ページには
こう書いてあるではないか」式の「黒田原理主義(藁)」
は、もうたくさんだが。
まぁ
意識してマターリといきましょう、お互いにね。
ただ、ひとつだけ意識してほしいことはあります。
「だれだれはこう書いている」とか、
「だれだれの説に従うと、こういうことがいえる」
「こういう史料・事例があるから、オレは正しい・この人は正しい」
これは良いと思うんですよ。
けれど、
「だれだれはこう書いている。だからこの考えが正しい」とか
「だれだれの説はこうだ。だから私は正しい(貴方は間違っている)」といった論法は、
できれば控えていただけたらありがたいです。
そうすれば摩擦はかなり減るのではないか、と思います。
前にも書きましたが、先行研究は偉大であり、尊重すべきですが、
絶対ではありません。同時に克服すべき存在であることも確かですから。
>>466-
>>469 >勝手な要約や都合よく自己解釈した引用を持ち出すのはやめようや
>著者・題名・版元・年月・頁を明記し合い、お互い認識を深め合おうや
↓
>要約とか引用だけされても、議論は進まない。
>あなたのオリジナルな切り口を見せていただきたいものです。
コロコロ変わりますねw。
一応、ミニコメントはつけてます。
オリジナルな中世国家論は、専門家のあなたにご教授いただきたいと思います。
>>470 全く同意見ですね。
>>471 マターリしようは同意見。
権門体制論と東国政権論では、もめるに決まってるのだから、
天皇の話でもしてよ。天皇スレなんだし。
(個人的には自分の中で東国政権論の再整理ができて、レス相手に感謝してるけどね)
いろいろ工夫して大変ですね。
>>472 >>466は別人ですよ。
ちなみに私の専門は中世ではありません。
ここにいるのは近世史の立場から中世の天皇の位置が知りたいからであって
あまり権門体制論と東国政権論のバトルに深入りしたくない点は同感です。
近世の何が専門なの?
475 :
日本@名無史さん:03/10/15 00:26
>>474 朝幕関係論とかではありませんし、政治史でもありません。
ある種の地域社会論といったところでしょうか。
まあ、あまり細かいことまで書くと、特定される恐れがありますので
これくらいでご勘弁のほどを。
地域社会論?具体的には?
近世でのその方面は、多数いるから特定なんかされないでしょ。
どこかの村落の文献調査でもやってるの?
それなのに、なぜ、中世の天皇の位置を知りたいの?
477 :
日本@名無史さん:03/10/16 11:18
>476
いいじゃん、そんなこと。勘弁してくれ、っていってるんだから。
そういうことやっとると、書き込みなくなるよ。
478 :
日本@名無史さん:03/10/16 22:13
中世って言っても長いから、誰かネタ出して時期をしぼったらいいのでは?
中世の皇室財政の概略とか持ってる人はいないかな。
479 :
日本@名無史さん:03/10/18 22:34
「日本の中世国家」佐藤進一の評価はどうなの?
岩波モダンクラシックスに入ってるけど。
481 :
日本@名無史さん:03/10/19 09:46
>>479 あるネット書店のレビュー。再刊ってことは、ある程度評価があるんじゃない?
>日本中世において、西国の王朝権力と東国に誕生した鎌倉幕府は、相互に規定
>し合いながらもそれぞれに独自の道を歩んだ二つの国家であった。厳密を極め
>る史料読解と大胆な構想力とが「新しい日本史像」に結晶。83年刊の再刊。
482 :
日本@名無史さん:03/10/19 18:21
「相互に規定し合いながらも独自の道を歩んだ」じゃ、
日本語として成り立たないんじゃないか?(藁
「相互補完」「相互不干渉」がそれぞれの論の
キーワードだから、こんなまとめになるのかな。
483 :
日本@名無史さん:03/10/19 21:48
>>482 そうかもw。
相互補完はあると思う。
不干渉はどうかな。鎌倉がだんだん浸透していき、西が依存してきてる印象。
2つの政府論、2つの王権論の立場の本だね。
484 :
日本@名無史さん:03/10/19 21:55
位置ずけは、権力を奪われた。(今も)
485 :
日本@名無史さん:03/10/20 23:46
北条泰時死亡時の頃の様子を見ると、
鎌倉の訴訟制度の充実振りが広く王朝や本所に喧伝されていて、
本来は王朝や本所が行うべき訴訟の多くが鎌倉幕府に持ち込まれていた模様。
それに対し幕府の対応は、王朝のことは王朝でやってくれという姿勢。
寛元4年に王朝裁判に評定制を設置することを勧告し、
上下の民に好評だった京都の承久の乱後の治安維持から手を引いている(篝屋の停止)。
これは、鎌倉側御家人の負担の増加をさげるため。
しかし、時代が下ると対応に変化がある。
弘安4年に、以下の2条を王朝より宣下されるよう幕府から申し込みがあった。
・諸寺社掌人、本社を警護すべきこと
・寺社権門領、本所一円地の荘官以下、武家(幕府)の下知に随いて戦場に向ふべき事
蒙古壊滅の情報が京都に入った10日以上後に宣下されている。
対外戦争という契機はあるが、幕府が一つの段階を超えた印象を受ける宣旨ではないだろうか。
486 :
日本@名無史さん:03/10/21 15:28
はたして国家として独立してたと
言えるほどのものかな?
文化的にはあきらかに同一の文化圏=日本文化圏=天皇文化圏に
あるね
487 :
日本@名無史さん:03/10/21 19:54
中世において天皇とは
なお古代英雄(統一王)の子孫として畏怖された存在で
後鳥羽院を島流しにした
北条君も
「もし院自らが錦の御旗とともに
ご出陣されていたらこの北条は武器を捨て地ベタに土下座
して許しを乞う以外なかった」
と証言している。
この時代もなお正規の皇軍に歯向かう
ことは日本人にとってタブーであったのである。
東日本と西日本の差は、西日本と半島・大陸の差よりも大きいと言われてる。
独立した別国家という意味ではなく、2つの政権・王権。
京都側は文化を武力として用いていたからね。
新古今和歌集など後鳥羽の攻撃、和歌は政治の一種だのようなことを言ってた気が。
金塊和歌集は鎌倉の反撃かw?
北条は、後鳥羽の京都帰還嘆願が公卿から出たのを、一切認めなかった。
三上皇は死ぬまで流罪でなかった?
頼朝が宣旨なしで東北攻めをためらうのを、関東の豪族は、
戦では天子の詔を聞かず、と励ます。
また、なぜに天皇家を気にばかりするのかと頼朝に言ったのは有名。
>天皇文化圏
王朝国家の文化のこと?西日本と東日本では、穢れ意識がずいぶん違うようだけど。
西の武士は家族が死ぬと葬式をしに戦場を離れるが、
東の武士は家族の死体を乗り越えて戦闘を続けるとか言うし。
>この時代もなお正規の皇軍に歯向かう
>ことは日本人にとってタブーであったのである。
大江広元(京都から来て頼朝に貢献)、三善康信(幕府の宿老)
「一刻も早く軍兵を京都へ差し向けるべし」
「泰時一人でも出発すれば、東国勢は雲霞のように従うであろう」
後鳥羽上皇の追討の院宣への北条泰時の返書(承久記)
(使者に鎌倉勢の壮観ぶりを見せるため、わざと滞在を長引かせる)
「何の不足があってこのような院宣を出されるのか。
武士を召すというのであれば、一九万騎を差し向けるから、西国武士と合戦させ、
御簾の間から御覧あれ。
それでも不足なら、この義時が自ら十万騎を連れて見参しよう」
後鳥羽上皇の敗戦後の院宣
「今度の合戦は叡慮に起こらず、謀臣の申し行うことなり」
この院宣の影響は大きかったらしい。天皇と京都勢力が、もはや政治の責任を
負える主体でないこと、天皇は政治勢力のかつぐ玉に過ぎないこと、
を世に広めてしまった。
頼朝の娘の天皇家への嫁ぎ計画→男児ができたら鎌倉に連れて、東の王を作ろうと
したらしいとも予測されている。
実朝が皇子を養子に希望→後鳥羽は賛成。実朝は京都派だから鎌倉を操れると考えた。
実朝の殺害後は反対。「日本国を2つに分けるような事ができるか」と、東西の天皇擁立を
恐れた。
491 :
日本@名無史さん:03/10/22 19:50
ケガレ感の差とか戦闘中の行動とか
単なる地域差程度の
ものを挙げても説得力ないよ。
程度の差はあれ、同じケガレ感があったわけだし、
戦いも元軍との戦いのようなこともなく
同じ戦い方だったわけ。
よほど北条君の土下座発言がショックだったのかな?
ちなみに院側の勢力には院宣を
断りきれなかった在京東国武士が多数いたって。
492 :
日本@名無史さん:03/10/22 19:55
朝廷と幕府の関係は同じじ国の政治の重点が
どちらにあるかという問題に過ぎない。
政治の実権がいくら関東にあったと
力説しても関東が日本文化圏=
天皇文化圏の一地域であることは否定できない。
493 :
日本@名無史さん:03/10/22 20:31
鎌倉将軍家はいろいろな
確執はありながらも
尊皇の方針は曲げなかった。
山はさけ海はあせなむ世なりとも
君(天皇)にふた心わかあらめやも
源 実朝
494 :
日本@名無史さん:03/10/23 00:02
鎌倉将軍家っていうと、あと頼朝と頼家だけじゃん。
どーかなー。頼朝に尊皇とかあったかなー。
とはいえ、実朝に後鳥羽への忠誠心はあったと思う。
後鳥羽も実朝の官位を進めることでそれに応えてるし。
(官打ち、なんて後付の屁理屈だと思うなー)
但し、この路線は関東の武士の支持を得られずに実朝は
消されるんだろうなあ。それが一番無理がない解釈ではなかろうか。
『増鏡』
>「『今度の合戦は味方に後ろぐらい点など一つもない。心をつよくもって奮戦せよ。
>勝たずにはふたたび箱根・足柄の山をこえるな』と父義時から激励されて出発した
>泰時は、翌日、ただ一人もどってきて、天皇みずから京方の先頭に立って進撃して
>きた場合の処置についてたずねた。
>義時は、『よくぞたずねた。その際は天皇の御輿に弓を引くことはできぬ。
>ヨロイをぬぎ、弓の弦を切って降参せよ。だが、それ以外のときには、千人
>が一人になっても奮闘せよ』と答えた。
>このことばをきき終わるや否や、泰時はふたたび馬にムチをあてて西上した」
>すでに何人もの歴史家が疑っているように、この挿話はこうであってほしい
>という公家側の願望を示すものでこそあれ、とうてい事実ではあるまい。
(『日本の歴史F鎌倉幕府』石井進著 中央公論社)
増鏡は、南北朝時代の、公家側の記録だからね。京都の内幕は事細かいが、幕府の記述
はほとんどない。
作者は幕府側の情報は少なかったんだよね。
>>491 >院宣
「宣旨が出れば北条側は千人も集まらないでしょう」と後鳥羽上皇に答えた
人がいましたが、実際は院宣を無視した武士が19万騎でしたっけ。
上皇側は、1万9千騎でしたか。そのうち、御家人がどの位かはわかりませんが。
西園寺公経は父は内大臣。参議、従三位ながら鎌倉側につきましたね。
京都守護の伊賀氏は、三度の院宣を拒否して、千騎に囲まれても30人で戦いました。
後鳥羽をいさめようとした西の公卿や僧侶は多いですよね。葉室光親とか慈円とか。
>>494 >頼朝に尊皇とかあったかなー。
作る会教科書ではすごく強調されてました。足利義満と比較されてた。コラムで2ページもw。
ただ、実際は後白河を脅したり、院宣を出すようしくんだり、しむけたりして
ますからねぇ。
似たレベルの大豪族を、頼朝に従わせるために朝廷権威を利用しただけとは言われてますけど。
>>492 >関東は日本文化圏=天皇文化圏
不学なので、こういう言葉は聞いたことがないのですが、
関東も日本の内部ですから、当然日本文化圏なんでしょうけど。
天皇文化圏というのは何でしょうか。具体的にはどういう意味なのでしょうか?
承久の乱の後、鎌倉側は、史上初の天皇をやってない「治天の君」(後高倉上皇)
をつくりあげ、天皇でなくても治天の君(天皇家の家長)になれる先例を開いちゃったん
だけど、それでも結局は天皇家を滅ぼさなかったからだめだって事ですか?
京都文化が東日本にも影響を与えた。との意味ならわかりますが。
498 :
日本@名無史さん:03/10/23 13:45
荘園公領制に立脚している以上、承久の乱後に天皇制の否定までは
とてもいけないよね。だけど、白河天皇以来の強力な権力をふるっていた
後鳥羽上皇を島流しにしちゃったんだから、これはすごいことだと思う。
何でかっていうと、公家のもってる法源(ふくむ律令)に、天皇家の家長の
処罰規定なんてあり得ないわけじゃないすか。それをやっちゃう。
当時に生きてる人々の意識において、慈円の言葉でいうと
「ひしと武者の世になった」って認識されたと思う。
(ただし、慈円は保元の乱の評価としてこういっております。念のため)
キミたち、わかってないね。
平氏、源氏の棟梁は天皇の血を引くが
ゆえに棟梁となったものたちなわけで
彼等は
天皇をないがしろするわけにはいかなかったのである。
ゆえに頼朝も公の場では尊皇家ぶるしかなかったのである。
また、上皇が多くいたこの時代、天皇と
上皇ははっきりと
別のものと意識されており、
先述の伊賀某も敵(上皇)天皇を渡してなるものか
みたいな発言をしていたはず。
500 :
日本@名無史さん:03/10/23 19:46
まあ、後鳥羽院の挙兵はかなり
いきあたりばったりで
内部の反対も多かったわけで
むしろ、そんな急で適当な挙兵に
一万余もの兵力を動員できたことのがすごい。
501 :
日本@名無史さん:03/10/23 19:51
>>495 しかし、その話が創作であると断定できる根拠
もなく、その批評もまたそうであって欲しいという
願望の表れでしかない。
502 :
日本@名無史さん:03/10/23 19:56
なお、重時君は院を島流に奉ったのち
わずか二年ほどで急死。
鎌倉ではやはりやりすぎたため
天罰がくだったのだと人々はおそれおののいたと言う。
503 :
日本@名無史さん:03/10/23 19:57
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丶1 八. !/ < 肉棒戦士協会に入れ
ζ, 八. j \
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μuuULヽ__――――── ̄ ̄ ̄`――´\、ノ "\_―'ヽιノ Uuuヽ
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504 :
日本@名無史さん:03/10/23 20:19
>>502 重時はもっと長生きしてるだろ。義時のまちがいじゃないの。
505 :
日本@名無史さん:03/10/23 20:21
>>501 泰時は後年「幕府の意に添わない天皇は廃位しろ」と言い放っているから、
>>495の批評はそれなりに的を射たものだと思うよ。
>>498 >保元の乱
朝廷や摂関家が数年間ももめてたことを、武士が数時間で決着。
朝廷・公卿の受けたインパクトは凄かったようですね。
まさに「ひしと武者の世になった」ですかね。
>>499 >平氏、源氏の棟梁は天皇の血を引くがゆえに棟梁となったものたちなわけで
>彼等は天皇をないがしろするわけにはいかなかったのである。
平清盛は後白河を監禁して自ら軍事独裁政治を行ったけど。
高倉天皇に娘をくっつけて安徳天皇を生ませている。政権正当化の手段としてるようだが。
>ゆえに頼朝も公の場では尊皇家ぶるしかなかったのである。
本心は違うってことですね。頼朝の計算でしょう。
秀吉が尊王家ぶってた手段と似てるのかな。
>また、上皇が多くいたこの時代、天皇と上皇ははっきりと別のものと意識されており、
>先述の伊賀某も敵(上皇)天皇を渡してなるものか みたいな発言をしていたはず。
「上皇に天皇を渡さない」って意味ですか?出展を教えてくだされば幸いです。
上皇・天皇は高陽院にいて、伊賀光季は高辻京極の宿所で囲まれたはずですが。
この時代は治天の君(天皇家の家長たる上皇)の方が、天皇より上と認識されてたと思います。
仲恭天皇は、この時は4歳です。
それでも、幕府により退位させられ、後堀河天皇に変えています。
幕府側が天皇を守るとは考えづらいです。
ちなみに、北条氏は源氏と違い、朝廷の権威で政治的地位を築いてません。
幕府官僚機構における権威・権力です。
>>501 >しかし、その話が創作であると断定できる根拠もなく
1、「増鏡」以外には書いてない。京都側にとっては、喜んで書きたがる
内容なのに他の本には全くどこにも書いてないのである。
2、南北朝時代の公家である「増鏡」の作者が、他に出展が見つからないのに、
150年前の幕府内部の、しかも最高指導者2人きりの最高機密レベルの会話の
情報を手に入れるのは不可能と思える。この会話が漏れたら、幕府側は戦闘不能である。
4、「増鏡」は朝廷側の記録は男女関係までも細かく書いてあるが、幕府側の
記録は基本的に少なく、この話だけ細かい情報収集は不可能といわざるを得ない。
3、権威形式から言って、北条氏は天皇に恩がない。
4、後醍醐天皇が率先して行動したのに対し、後鳥羽天皇は最後は集まった
西国の武士に門を閉ざし無関係を演出しようとし、かなり手厳しい不満を浴びた。
後醍醐天皇との対比のために、なぜ自ら出陣しないのかと逆説的批判でもある。
5、武家に対する天皇権威の復権希望が南朝側にあり、「増鏡」は、後醍醐天皇
の京都への復権で終わっている。
6、4・5から、この話は作り話というのが現在の歴史学の地点かと思われます。
>>504 >重時
乱の後、40年くらい生きたんじゃないですかね。
義時は2〜3年後に死んだけど、60歳過ぎてましたしね。
平安時代から、事件や死亡があると、わりと何でも、
怨霊だろうかとか、仏罰だろうかとか記録されるますよね。
後鳥羽上皇の怨霊の話が出始めたのは、死去した1240年ごろからで、
乱の20年後くらいからでしたっけ。
510 :
日本@名無史さん:03/10/23 22:50
泰時が死んだときも後鳥羽院の怨霊の仕業と言われたらしい。
ところがあえて鎮魂の意図を込めない諡を贈ることで怨霊を否定しようとした形跡がある。
>>510 > ところがあえて鎮魂の意図を込めない諡を贈ることで怨霊を
> 否定しようとした形跡がある
というあたりに興味を覚えるのでその「形跡」のソースなど御教示
いただければ幸甚
>>511 510ではないが、鎮魂の意を込める場合は諡号に「崇」を付けることが
多いので(崇道、崇徳等)、それがない後鳥羽という諡号をつけたのが
「形跡」だということでわ。
>>510 >鎮魂の意図を込めない諡を贈ることで怨霊を否定しようとした
後鳥羽上皇は、死後に「顕徳院」称号を朝廷が与えましたが、これは怨霊慰撫の
ため生前の徳を讃美する称号です。
後鳥羽生存中から、朝廷で不幸が続いてますが、後鳥羽が朝廷に祟っていると
言われており、公卿から京都帰還要望が幕府に出され拒否されています。
鎌倉方の不幸も怨霊かとも言われましたが、これは、多分に京都側から出ていて、
朝幕関係逆転への不満からのようです。
もっとも、鎌倉でも北条経時の病気は後鳥羽の怨霊と考えられてたようで、
45年ごろ後鳥羽の菩提の供養を何度か行ってます。
しかし、後鳥羽上皇の怨霊話は、後嵯峨皇統系朝廷と公卿にとって都合が悪く、
1242年に朝廷は、「顕徳院」称号を「後鳥羽院」の追号に変えて、怨霊にはなれない
ということにしました。行ったのは朝廷側です。
後鳥羽上皇の怨霊は後嵯峨皇統の定着ともあいまって政治的意義を喪失し、
鎌倉末期までにはむしろ後鳥羽上皇は不徳の君主として京都側に定着していきました。
古代・中世は、怨霊の時代ですから、天皇権威との結びつけは難しい気もします。
伝染病や地震や飢饉が、みんな怨霊のせいですからねw。
崇道天皇(早良親王)、伊予親王(桓武天皇皇子)、藤原夫人(伊予親王母)、
橘逸勢、文室宮田麻呂、藤原広嗣、吉備大臣(吉備真備)など、みんな怨霊に
なってますし、彼らは朝廷の天皇家に対して、たたってますよね。
藤原氏がはじめた鎮魂儀式が恒例化してますね。
菅原道真なども朝廷に祟りましたね。将門はどうなんでしょうか。
道真や将門の祟り神は、庶民には人気が根強いですね。
>>513 早速のご教示有難うございます。私がお尋ねしたいのは
> 1242年に朝廷は、「顕徳院」称号を「後鳥羽院」の追号に変えて、
> 怨霊にはなれない ということにしました。行ったのは朝廷側です。
というその追号変更の意図の所在を示す史料です。
勿論、自分で調べればよいのですが、楽できるならしたいもの、という
不純な動機からのお尋ねです。
515 :
日本@名無史さん:03/10/24 14:40
>>514 よしよし、おぢさんが教えてあげよう。
意図の所在をばっちり示す証拠は「ない」。
ただし、崇徳、安徳、順徳と、京都でない土地で、恨みを
のんで没した天皇には「徳」の字を付けてるのは間違いなくてさ、
実際に後鳥羽も初めは「顕徳」だったわけ。それが急遽「後鳥羽」
に変えられてしまった。これはなぜだ?と考えると、
怨霊になるとかならない、とかのトンデモ説はともかくとして、
幕府は後鳥羽を通常の形で葬りたくなかった、と考えるのが妥当であろう、
というわけさ。
1239年、九条道家、隠岐院に顕徳の号を奉ず。
勘申者は道家のブレーン、菅原為長。(百練抄、皇代暦など。)
1242年、北条泰時が没すると、顕徳院の改号が企てられる。
道家の政敵、土御門定通、反対意見を押さえ込んで
後鳥羽と追号すること、顕徳の号を今後一切使わないこと
を決定する。(平戸記仁治3,6,26、皇年代略記など)
こんなところでいいかい?
ああ、ごめん。書き方が正確ではなかった。
>幕府は後鳥羽を通常の形で葬りたくなかった、
じゃなくて、幕府の意を忖度した朝廷が、だね。
>>514 511さんへ。
513ですが、私は510ではありません。
>>517 515さん
>幕府の意を忖度した朝廷が
>後鳥羽を通常の形で葬りたくなかった、
はじめは、怨霊を鎮める気持ちもあって、生前は良い天皇だったと言う意味で
の「徳」の入った「顕徳院」にして死霊にゴマをすったわけですよね。
それが、後鳥羽が生前は良い天皇だったということだと、後嵯峨皇統朝廷と幕府
の両方がむかつくわけですよね。
しかも、事件や不幸があると島流しの祟りとか言われるとさらにむかつく。
それで、「後鳥羽」に変えて、生前の良い天皇だった意味の「徳」の字を抹殺した。
それは、怨霊として祟ることを、京都も鎌倉も恐れない、後鳥羽の怨霊なんてないぞと言う
宣言に等しいと思うのですが。
中世人の怨霊を本気で恐れる思考回路を考えると、こんな印象を持ちますが。
この論理は変ですか?
>>519 全然ヘンではないと思います。ただ、気になる点が二つ。
一つ。「徳」にそんないい意味があったのか。
我々の常識で考えると、おっしゃるとおり。でも中世人にとってもホントにそう
なのか?いや、悪い意味だ、とはぼくも思ってません。でも、「有徳人=有得人」
で、「徳=得」だったりもしますでしょう。「徳」の字の意味する概念を
きっちりおさえる必要があるかな、と。
二つ。都立大の川合康さんなんかは泰時の施政と後鳥羽の怨霊の連関を強調され
ますよね。だけど、ホントに武士が怨霊こわがるでしょうか?朝廷人は怖がるで
しょうけれど。ぼくは人殺して恩賞もらう武士がそんなにやわだとはおもえない
んだけどなあ。
521 :
日本@名無史さん:03/10/25 18:30
現代人のものさしで考えてはだめ
>>519 ちょっと(私の頭の中が)混線していたようですね。失礼しました。
いずれにせよ有益な情報を有難うございます。
523 :
日本@名無史さん:03/10/26 04:45
九条道家って結局どの位の権力を持ってたの?
どんどん失っていったの?
じゃあ、それ以降の摂関てのは存在意義があったのかなぁ。
摂家の位置付け次第で他の公家の有り様も変わるよね。
鎌倉時代を通じて西園寺家は摂家をないがしろにできたの?
公家源氏の連中は?
博識な皆さんのご意見を広くお聞かせ下さい。
524 :
日本@名無史さん:03/10/26 04:46
>>520 どうもです。
>「徳」は、漢語から日本に移入され成語となった言葉。
>もっとも広くいえば、善い働き、と翻訳できる。
>個人の特性にも行為のあり方にも使われる。
>中世には徳=得であり,有徳人とは富裕な人をいった。
>四書の一つ「大学」の冒頭の「大学の道は明徳を明らかにするに在り」の「明徳」を
>藤原惺窩は、「明徳ハ君臣・父子・夫婦・長幼・朋友ノ五倫ノ五典ナリ」と言う。
と、使われていたようです。
「徳」は、中世では、金にまつわるマイナスイメージがついてきますが、
朝廷公卿は、古代中国の漢文から言葉を選ぶのでしょうから、
「顕徳院」の「徳」は、プラスイメージの意味で良いのかと思いました。
>武士が怨霊こわがるでしょうか?
確かに、なんでも怨霊のせいにしてるってのは京都側の日記や史料が多いですね。
ただ、中世人ですから、東国人や武士にも多少はあるのではないかと。
源頼朝は、奥州藤原氏を滅亡させた後、双方の死者を弔ってます。
また、北条経時の病気は後鳥羽の怨霊と考えられてたようで、1245年ごろ後鳥羽
の菩提の供養を何度か行ってます。
足利尊氏は後醍醐の冥福のために天竜寺を建ててます。
政治や経済の目的もあったでしょうし、朝廷・貴族ほどではないでしょうが、
やはり、中世人のレベル内では、武士にも多少の怨霊忌諱はあったのではないかと
思います。
>>523 >九条道家
承久の乱で摂政を降りましたが、28年に関白として復権。西園寺家とくんで
朝廷を仕切ったが、子の頼経・孫の頼嗣が将軍職を追われ、幕府が九条家排斥
の方針をとると政界を去り、38年に出家。
>じゃあ、それ以降の摂関てのは存在意義があったのかなぁ。
摂関家が5分裂したのは、幕府の作戦とも言われてますが、
一応、明治まで、5摂家でこなしてます。時代・時期で摂家の力は変化しますが、
江戸時代などは逆に、幕府が摂関を朝廷の押さえ役として、力を持たせてます。
>鎌倉時代を通じて西園寺家は摂家をないがしろにできたの?
西園寺家公経は従一位太政大臣に昇り、公武間のことを取り次ぐ関東申次の職につき、
孫を後嵯峨天皇の後宮に入れ、褐子の生んだ後深草・亀山両天皇の外戚となった
ことから、摂関家をしのぐ勢威を得るに至った。
公経以後も代々関東申次の職を継承し、持明院・大覚寺両皇統に分裂後も、皇位継承
のことを幕府に取り次ぐ家として、超然としていることができ、女子を両皇統の后妃
とすることにより、外戚であることを保った。
幕府の滅亡と、建武の新政で、うまく立ち回れなく、衰えたようです。
>公家源氏の連中は?
順徳源氏、後嵯峨源氏、亀山源氏、後二条源氏がいますが、
あまり勢力はなかった気がしますが、記憶に自信がありません。
くぐってみては?
>「徳」
吉田兼好の徒然草で、「徳」を良い意味で使ってますね。
鎌倉末期でも、良い意味が残っていたようです。
528 :
日本@名無史さん:03/10/27 21:52
>>526 少し勉強不足ですね。
九条道家、西園寺家、摂関家
どれについても最近はもう少し先まで説が出されてますよ。
529 :
日本@名無史さん:03/10/27 23:43
.,∧、 .,∧、
.r-‐i'''''''''''i''''‐-、 .r-‐i'''''''''''i''''‐-、
o| o! .o i o !o o| o! .o i o !o
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|_, ─''''''''''''─ ,、 / _ |_, ─''''''''''''─ ,、 / _
, '´ ` ‐、 , '´ ` ‐、
/ // ‐ー くー ヽ / // ‐ー くー ヽ
| ! ! ,r(、_>、 .| | ! ! ,r(、_>、 .|
.| ! j ト‐=‐ァ' .| .| ! j ト‐=‐ァ' .|
| ` `二´' | | ` `二´' |
'i _ ノ' 'i _ ノ'
`''─ _ _ ─''´ `''─ _ _ ─''´
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ 皇太子さまが 二匹あらわれた! ┃
┃ ┃
┃ ┃
┃ ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
530 :
日本@名無史さん:03/10/28 00:20
オナニーみちこ永井路子
531 :
援軍求む!:03/10/28 01:06
>>523です。
>>526さま、早速のお返事どうもありがとうございました。
お礼が遅くなり申し訳ございません。
>>528さま
浅学のため、専門分野すら手薄で、このあたりの朝廷研究の新しい成果となると恥ずかしながら全く把握していません。
ぜひとも詳しくお聞かせ下さい。
もちろん他のかたもよろしければお願いします。
526です。
>>528 確かに、私の頭は少し古いですw。
最近の研究成果を教えてくだされば幸いです。
>>532 ご丁寧なレスどういたしまして。
>>523 526です。
>公家源氏の連中は?
村上源氏の通親は、後鳥羽の側近でした。
後鳥羽天皇の第1皇子為仁が生まれると、通親はこの皇子を養育することに
なった。翌年,長年の政敵九条兼実一派を妓堂から追放(建久7年の政変)、
98年には為仁の践祚を実現(土御門天皇)、後鳥羽院庁の別当にも任じて政治
の実権を握った。その権勢は世に〈源博陸(みなもとのはくりく)〉(関白の意味)
と称されたほどで、99年(正治1)にも頼朝の死による動揺期をとらえ、京都政界
における残余の親幕派勢力を一掃したが、晩年は後鳥羽上皇の政治的成長によって、
その掣肘を受けることも多かった。
>>523 526です。
>公家源氏の連中は?
村上源氏の通親は、後鳥羽の側近でした。
後鳥羽天皇の第1皇子為仁が生まれると、通親はこの皇子を養育することに
なった。翌年,長年の政敵九条兼実一派を妓堂から追放(建久7年の政変)、
98年には為仁の践祚を実現(土御門天皇)、後鳥羽院庁の別当にも任じて政治
の実権を握った。その権勢は世に〈源博陸(みなもとのはくりく)〉(関白の意味)
と称されたほどで、99年(正治1)にも頼朝の死による動揺期をとらえ、京都政界
における残余の親幕派勢力を一掃したが、晩年は後鳥羽上皇の政治的成長によって、
その掣肘を受けることも多かった。
536 :
日本@名無史さん:03/10/29 20:28
○道家について 道家の権力の源は2つ。 1,関東との連絡を独占し、
事実上の関東申次であったこと(実際の業務は道家腹心の二条定高が行った)
2,政権担当の伝統を有する摂関家の人間であったこと どちらか、というと
1ですね。はじめ幕府は親幕派の道家が朝政をリードすることを歓迎するの
ですが、将軍頼経の成長もあり、だんだんその勢力の増大に危機感を持つ
ようになります。道家が後鳥羽の帰京を打診したことなどは、幕府の神経を
逆なでにしたのではないでしょうか。で、結局四条天皇の次の天皇を誰に
するかで幕府と道家の亀裂は明白になり、道家はやがて頼経の失脚とともに
幕府の援助を失い、後嵯峨天皇(上皇)に主導権を奪われるわけです。
537 :
日本@名無史さん:03/10/29 20:32
○西園寺家について かつて竜粛氏が西園寺家に注目し、上横手氏がそれを
引きついで西園寺家中心の政局を描き出しました。しかし、寛元4年の政変
以前の同家については、朝廷政治の中枢にいた、という史料は見あたりませ
ん。同家が関東申次として重きを為すのは、九条道家失脚以後でしょう。
とはいえ、むろん、それ以前も同家は親幕派貴族の代表として、非常に
裕福な存在だったようです。
538 :
日本@名無史さん:03/10/29 20:42
○摂関家について 基本的には九条道家以降の摂関家は、上皇の政治力
の高まりの前に、政治的リーダーシップを失っていきます。最後の
あだ花は鷹司兼平ですが、彼の家の鷹司家を含めた「五摂家」が確定した
ことは、摂関家がかえって政治的に硬直し、活力を失い、なかば故実の
中の「骨董品」と化したことを物語っているのではないでしょうか。
近衛家→五摂家筆頭だけど、代々ぼんくらばかり 鷹司家→兼平のみ
九条家→道家失脚後、上皇にも幕府にも監視され、青息吐息。
二条家→親幕色の最も強い家。室町時代も含めて、武家とよい。
一条家→かろうじて五摂家の一。 内経のころはホントに危ない。
こんな感じかな。
>>536 >はじめ幕府は親幕派の道家が朝政をリードすることを歓迎するのですが、
承久の乱に対する道家の曖昧な態度(乱に明確に反対してない)は、幕府からは
不満だったようです。乱後に摂関をおろされて、近衛家実と変えられてますね。
西園寺公経・実氏より、幕府の評価は低くいようです。
道家の関白復活は、乱の7年後ですね。
>>537 >西園寺家中心の政局を描き出しました。しかし、寛元4年の政変以前の同家
>については、朝廷政治の中枢にいた、という史料は見あたりません。同家が
>関東申次として重きを為すのは、九条道家失脚以後でしょう。
1221年に西園寺公経は内大臣となり、朝廷の実権を握ってます。
>>538 >九条道家以降の摂関家は、上皇の政治力の高まりの前に、政治的リーダー
>シップを失っていきます。
話の舞台が違うのかもしれませんが、江戸期には朝廷権力の中心の一つです。
>>523 >公家源氏の連中は?
1242年の除目では、源氏の躍進が目立ち、「源氏党の繁盛」といわれたようです。
540 :
日本@名無史さん:03/10/30 11:32
>538
江戸時代のことは全くの素人です。有り難うございました。
>1221年に西園寺公経は内大臣となり、朝廷の実権を握ってます。
は、納得できません。この時期、内大臣は公経の他にもたくさんいます。
内大臣以上の官職を有している人もいます。なにをもって
「朝廷の実権を握った」というのでしょうか。
何でこんな粘着みたいな事を言うのか、というと、現在の朝廷政治史
において、もっとも改めなくてはならない、と思うのがこの点だからです。
証拠はない、だけど前後から見てこう思えるから書いちゃおう、という
姿勢です。(その代表例は上横手雅敬氏です。)
2ちゃんならいいのですが、典拠なき叙述は論文になりません。
>>540 そうですか。お気持ちはわかりました。上横手氏は「鎌倉時代政治史研究」(1991)
ですか?読んでいませんので、評価は差し控えさせていただきますが、
私は、以下の西園寺公経の内大臣や太政大臣の経歴から、承久の乱前から権力を
持ち始め、承久の乱後は、道家失脚(1246年)以前から、「朝廷の実権」をにぎった
と考えました。
「建久七年(1196)に左中将で蔵人頭となる。同九年正月参議、十一月従三位と
なる。後鳥羽上皇院政期に坊門信清とともに関東申次。
公経はその姻戚関係から幕府寄りであり、承久の乱(承久三年)の折りに幕府
に通じたことはよく知られる。乱後に擁立された後堀河天皇の生母(北白川院陳子)
と公経の母は姉妹という関係から、朝廷内における彼の地位はますます強固な
ものになった。
承久三年(1221)閏十月に内大臣、貞応元年(1222)八月には太政大臣に昇任、
同二年正月従一位。
寛喜三年(1231)十二月二十二日出家。しかし、依然として関東申次の任にあった。
嘉禎二年(1236)、幕府御家人橘公業の所領・伊予国宇和郡を所望し、入手。
ここに西園寺領宇和荘が成立した。
仁治三年(1242)、後嵯峨天皇が即位すると孫娘を入内・立后させて外戚となる
基盤を作る。この後、西園寺家は建武の新政に至るまで持妙院・大覚寺両統に
女子をいれて外戚の勢を誇ることになる」
ちょっとした疑問
承久の乱の時にも錦の御旗ってあったの?
543 :
日本@名無史さん:03/10/31 21:56
最近の研究だと、「朝敵」概念が今みたいに
語られるようになったのは足利尊氏のころだ、
というじゃなかったっけ。(間違ってたらゴメン)
もしそうなら、「錦の御旗」、ありようがないね。
544 :
日本@名無史さん:03/10/31 21:59
>541
あまりやってると、みんなにひかれちゃうから、
一点だけ。承久の乱後に西園寺公経が関東申次やってる
史料は、僧侶の昇進を推挙した一点だけだと思いますよ。
質量ともに九条道家の方が多いです。
>>544 いや皆さん引いていないと思いますよ。
少なくとも私は興味深いです。
その他の点もお聞かせ下さい。
>>528さんは、論戦に参加していらっしゃるのでしょうか?
もし見てるだけなら名乗らずとも一石投じて議論を深める一助となってもらいたいですね。
私こそ無知なので傍観者に撤するしかなく寂しいのですが、色んな方々のお話をうかがうだけで楽しくなりますので。
>>544 では、私も一点だけ。
西園寺の権勢は九条道家の失脚後ということですが、承久の乱の後、道家は一時
幕府に不審を持たれ、復活から失脚は1228年〜1246年です。
西園寺は1242年に、後嵯峨天皇が即位すると孫娘を入内・立后させてますので、
すでに権勢はある程度あったかと思われます。
1228年の道家復活には、西園寺の力が多かった気がします。そして、道家の絶頂期
でも、西園寺は連携して活動していたのかと思われます。
形在るものとして「皇軍の旗」みたいな物はなかったんですか?
548 :
日本@名無史さん:03/11/01 22:11
>547
追討使に与えるものは「まさかり」だよね、たしか。
それだって形だけ、なんだろうから、実物はないんだよなあ。
「旗」って聞かないよ。早稲田の菅原正子先生が一時「旗を挙げる」
とかの論文書いていらっしゃったから、その辺から攻めてみれば。
549 :
山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/11/01 23:00
『承久記』の中で後鳥羽院が金地に日の丸の旗を追討軍に持たせたという話
があったと思いますが、特定の本にしか載っていないので少々疑わしい。
源頼朝は、以仁王の令旨を棒の先に縛り付けて進軍したような。
551 :
日本@名無史さん:03/11/04 19:47
さて、1の問いに戻れば
中世の天皇は古代王権としての
実権を失いつちはあったが
なお、その一言で国内に大乱を起こすほどの力を有していた。
日本中世が他の世界の中世にくらべ
比較的平和なのは
じつに歴代天皇のご人徳と
天祐のおかげなのである。
552 :
日本@名無史さん:03/11/04 20:08
>>551 これだけ蜿蜒と論じてきて最後は皇国史観なのかよ。
それじゃあいくらなんでも馬鹿馬鹿しすぎる。
553 :
日本@名無史さん:03/11/04 20:17
歴史的事実を述べただけで
皇国史観のレッテル貼りとは
つまらない。
そんな左翼ファシストのようなやり方
でなく、他の歴史的事実を挙げて反論すれば
よかろう。
554 :
日本@名無史さん:03/11/04 20:19
>じつに歴代天皇のご人徳と
>天祐のおかげなのである。
こんな根拠のない決め付けに「反論」もへったくれもあるかよ。
右翼ファシストが大人の議論に口をはさむな。
555 :
日本@名無史さん:03/11/04 20:31
単なる決めセリフだべ。
「月に代わっておしおきよ」みたいなもん。
そんなのにムキになるな。
内乱を起こしうる実力を有しながらも、
実際に内乱を起こした例は
世界史的にはきわめて少なく、
逆に
遊びほうける将軍義政をしかった
後花園帝のように時の幕府の行きすぎに
対して一種の抑止力として機能したのであった。
内乱も起こしているし、抑止力としては機能していないし・・・
557 :
日本@名無史さん:03/11/04 22:53
>>542=547
専門外なので聞きかじりですが。
当時の平氏軍制は、
「家人」と「駆り武者」の二重構造になっていた、と言われています。
精強で少数の平氏の「私郎従」や家人たちが、前衛部隊として先頭に立って戦い、
大規模だが士気の低い徴用された官軍が掃討を行うという形態です。
で、この「官軍」を構成するのが「駆り武者」ですが、彼等は諸国の国衙や諸庄園
の一般の武士で、本来は中立の立場であり、従軍する理由が本来ありません。
ここで必要になってくるのが、追討宣旨や院宣などの文書です。
これらの「王権より発せられた文書」を読み上げ、聞かせることにより、軍役として
一般の武士団を徴発することが可能になるわけです。
ひとことでいうと、当時は軍勢のシンボルとして「目に見える旗」ではなく、
「耳で聞く音声」が重視されていたのではないか、と愚考するわけです。
「遠からんものは音に聞け」というわけですね。
詳しい方がいらっしゃったら、補完・訂正方お願いいたします。
>558続き
源頼朝の軍については、
彼の軍勢ではいわゆる「根本家人」が存在しません。
それゆえの弱さは当然存在するのですが、
強みも存在しました。
頼朝に付き従うものを、みんな等しく家人扱いすることができるのです。
頼朝に関東武士団が付き従うのは、それぞれの所領を安堵してもらえた
から、ということになりますが、これは、
・彼にもともとの家人がいないので、利害が競合しない。
・もともと頼朝は反乱軍なので、利害とか正当性とか無視して、
「従うものすべて」に安堵を与える、という無茶が可能だった。
つまり、頼朝の軍の全員が
「頼朝が勝つことが、自分のトクになる」軍事集団によって構成されていたわけで、
「軍役として徴発された」平氏の軍とは比較にならない、
士気が高く良質な軍事集団を頼朝は手にすることができた、と考えられております。
>559つづき。
その後、御家人制は奥州合戦によって確立した、とされています。
その統制は厳しいもので、九州の御家人が出陣に間に合わず、
途中で引き返した場合には、御家人としての資格を剥奪されています。
軍制として私が現在知っているのはこのあたりまででして、
承久の乱のときの幕府軍制についてはあまり存じ上げないのですが、
基本的に、奥州合戦時と同じレベルの統制力はもっていたのではないか、
と考えます。
それに対して京都側の軍制は、平家時代と同じだったのではないか、と。
京武者とよばれる武士団の家人たちを中核に、追討宣旨によって
徴発された軍勢によって構成されていたはずです。
実際に、追討宣旨を持った院の使いが鎌倉でとらわれていますし、
基本的には前代と同じく、「王権より発せられた文書の音声による読み上げ」
が、「王師の象徴」であったのかなぁ、と愚考する次第であります。
以上です。
詳しい方がいらっしゃったら、補完・訂正のほど、よろしくお願い申し上げます。
561 :
日本@名無史さん:03/11/05 07:10
>559のあたり
3さんは説を紹介されてるわけで、3さんご自身への
イチャモンではないので、念のため。
頼朝には家人がいないから逆に強かった、というのは
すげー論理ですね。だったら木曽義仲も志田義広も
土佐の源希義だって、みいんな挙兵に成功してなくちゃ
おかしい。あ、木曽は成功したのか。
頼朝だけが勝ち残れたのは「たまたま」だったことになるの?
旗ではなく、音声の世界、はまさに卓見。感服しました。
>>561 >頼朝には家人がいないから逆に強かった、というのは
>すげー論理ですね。
変な書き方をしてすいません。本来強調されるべきだったのは、
当時の武士団の行動論理が「所領保全」にあったという点と、
頼朝が反乱軍だったという点の二つです。
・治承3年クーデターによる平氏の知行国大量獲得により、諸国では
平氏家人による、それ以外の武士団の抑圧が多発していました。
・頼朝はそれに反発する伊豆国や、三浦・千葉といった南関東の武士団の
支持を得て、鎌倉入りしました。家人を優遇する平氏への反発をもつ彼等の
ニーズにうまく乗っかったわけです。
・さて、頼朝には「根本家人」がいない、ということは、平氏とちがい
「根本家人」と対立したり、「根本家人」によって抑圧されたりする武士団も
いなかったわけで、味方しやすかったことを示しています。
・また頼朝は反乱軍だったので、理非を勘案することなく、従うものに
所領安堵を乱発することができた、逆に頼朝に従えば、無条件で所領安堵を
得ることができたわけで。
・よって、もともとの頼朝の支持者以外の武士たちも、所領保全のために
頼朝に味方するさいに、待遇に差をつけられたり、排除される惧れがなく、
味方しやすかったわけで、「頼朝は味方を増やしやすかった」と考えられます。
・さらにいえば、
「頼朝の敗北が所領を失うことに直結している」武士団を率いる頼朝と
「徴発されていやいや従軍している」武士団である官軍とでは、
士気に大きな差があった、ということが考えられます。
以上のような構図になっております。
もっと細かく知りたいかたは、
川合康氏、野口実氏、元木泰雄氏あたりのご著書・論文をご参照いただければ・・・。
つけたせば、前9年・後3年の役が、関東武者と源氏の物語としてあった。
ともに辛苦をなめ、関東が東北をうち、関東武士の礎となったと言う物語。
東北藤原氏への攻撃は、前9年・後3年の再来・総仕上げとして、
頼朝は義家らの先例にのっとって攻撃している。
564 :
日本@名無史さん:03/11/05 21:05
なるほど。
頼朝は関東という新開拓地で
まつりあげられた新天皇みたいなものだったわけですね。
>>564 さらにつけたすと、頼朝レベルの貴種はほかにもいた。
新田、足利らの頼朝と対等足りうる豪族を下に置き、
自己を源氏の棟梁とする必要があった。
だから寿永2年の宣旨を朝廷に出させ、東日本の王権となった。
一権門でもあるが、王権とも呼ぶべき一権門以上の権威と権力を手にできたのは、
3氏が言うように、反乱軍として出発し、
すでに東日本の一部を自力で軍事政府として支配していたことを
朝廷に追認させた点にある。
>3氏
すれ違いならスマソ。
平氏は知行国として多数の国々を支配するかたわら、
『国衙機構を通して』在地の武士たちを家人に組織し、そのうち一部は
荘郷の地頭に補任された。
ただし、平家の地頭は国主や荘園領主の好意として任じられたもので、
『平氏が補任の権を持たなかったから』、本主の命に従わない場合には
改替されるなど不安定であった。
また平安末期の内裏大番制は『国衙を通じて催促』が加えられており、
結果として平氏家人が大番を務めることがあっても、平氏家人制とは
別次元で実施されたらしい。
結局、平氏の家人制においては所領安概、御恩・奉公の関係は十分な発展
をみせなかったようで、鎌倉のそれと比較すると不徹底なものにとどまった。
源氏蜂起のとき、源氏のもとに帰りたいと申し出た平氏の家人のある源氏は、
源氏帰参を許され、なんと平家内部から以下のような声が出てた記憶が。
「源氏の人々は家礼とするのも憚るべきなのに服仕の家人として取り扱う
のは以ての外のことだ」
奥州合戦以前の頼朝の軍隊について、御家人制や「御恩と奉公の論理」を
高く評価するのはいかがなものか、と。
例えば義経に属した渋谷助重の例です。彼は相模国渋谷荘を名字の地としている
わけですが、父親が頼朝に帰属したあとも
平家→義仲→義経(頼朝)→自由任官で追放
といった感じで、あっちにふらふら、こっちにふらふらしています。
当時の武士のあり方はむしろ、こちらの方が普通だった、と考えられて
いるはずです。
また、承久の乱のときでさえ、頼朝の側近だった大江広元の息子で
京都守護を務めていた大江親広が、あっさり宮方に寝返っています。
淡路国だったと思いますが、一国の御家人全員が守護に率いられて宮方として
従軍しているケースも存在しています。
承久の乱時ですらこうですから、治承・寿永内乱、特に奥州合戦以前における
鎌倉における「御恩と奉公」の関係が、とても徹底しているとはいえないでしょう。
彼等が「御恩と奉公」を強調する必要があったということは、
その倫理を上から押し付ける必要があったからであり、
関東武士団と頼義との主従関係が強調する必要があったということは、
だれも河内源氏を「累代の主人」とは認識していなかったからだ、
という論理も十分成立するのですから。
ちなみに、ここでの頼朝の軍の評価は「奥州合戦以前」に限定しておりますので。
念のため。
的外れだったらすいません。
三浦氏や横山党は「根本家人」ではないんですか?
三浦氏、中村党、佐々木氏、加藤氏、箱根山別当一族Etc・・・。
「吾妻鏡」頼朝挙兵前後には、矢鱈と「六条廷尉」「左典厩」との由縁を枕詞に有力御家人たちが出てきてて
奥州征伐時の横山党や畠山氏も、前九年・後三年役の逸話を書きたてているような。
>>568 ちがいます。
正確にいうと、「義朝に臣従していたので、親近感はあったろうが、
『家人だから従った』のではなく、自らの所領保全という利害が一致したために
頼朝に呼応したにすぎない」といったところでしょうか。
というのは、本来の「源氏累代の家人」といえるような存在として、
波多野氏や山内氏が挙げられますが、
彼等は頼朝の挙兵よびかけを拒否しています。
特に乳母子の山内経俊に至っては、石橋山で追討軍に従い、
頼朝本人に矢を射掛けています。
実際に、家人全てが頼朝に味方したわけではなかったわけですから、
彼等が頼朝に味方したのは「家人だったから」では説明できないのです。
で、三浦・千葉が頼朝に味方した理由については、
>>562をご参照ください。
次に、彼等が過去の河内源氏との関係を強調するのは、
「利益保全のための反乱」を「貴種源氏の再興」にすりかえるためと考えられます。
単なる反乱行動よりも「一族郎党をほろぼされた頼朝による源氏の再興」の
ほうが、大義名分が立つじゃないですか。
これは反覆常ない武士団を統率するために、当時の幕府首脳が考えた、
後世をも視野に入れた「イメージ戦略」だと考えられています。
「真実ならば強調される必要は無い」のです。
わざわざ盛んに逸話を書きたて、当時と世間に対して喧伝する必要があったということは、
「真実の姿」ではなく、「こう見せたい姿」であったから、と考えるのが合理的です。
特に、『吾妻鏡』は幕府をつくった連中の子孫による『公式な』歴史書なのですから。
>>569の前半部、なにかくだくだしい書き方になってますね。
結論のみを簡潔に書き直します。
三浦氏など、過去に河内源氏に臣従した武士団が、
頼朝に味方したのは、
「かつて河内源氏の家人だったから」という理由ではなく、
自らの所領・権益保全のためには、頼朝に呼応したほうが
都合が良かったからである。
としておきましょう。
571 :
日本@名無史さん:03/11/08 01:04
>>567 >>566へのレスでしょうか?
>渋谷氏
イエで考えた方がよろしいのではないかと。
相模国渋谷荘を本領とする中世の武家。桓武平氏の一流秩父氏のうち南武蔵
に進出した河崎冠者基家の一族がさらに相模国に展開し、基家の孫重国が渋谷
荘司となって渋谷氏を称した。
重国は1180年(治承4)の源頼朝挙兵の際に平家方にくみしたが、かねてから扶養
していた佐々木一族が頼朝に参じ石橋山から敗走してくると、再びこれをかく
まい平家方の捜索から守ったという経緯や、頼朝の麾下に転じて以後の平家
追討戦における戦功によって、相模の〈大名〉の地位を維持し、一族も頼朝
から所領の年貢免除等の優遇措置をうけた。
平家に一度ついた後、頼朝についたのが一般的だったようです。
一度は平家に義理を果たしたから、気兼ねなく頼朝につくと。
頼朝も、彼らを咎めずに受け入れてますね。だからみんな安心して集まってきた。
572 :
日本@名無史さん:03/11/08 01:07
>>567 >承久の乱
院の近習、西面・北面の武士、検非違使、関東方の脱落者、僧兵の一部、
西国守護(在京御家人)らであわせて2万ほどですか。
東軍は19万ですね。かなり差がありますね。
大江親広は、上皇に呼び出されて参加を命じられて、断れずに引き受けました。
もともと公家ではありますがw。
もう一人の京都守護、伊賀光季は3度の院宣を無視して、囲まれても奮戦して
自害してますね。
それより、父親の京都公家出身の大江広元が、専守防衛主張の御家人たちに、
即時京都進撃制圧を主張し、実行させた方が驚きではないでしょうか。
>淡路国だったと思いますが、一国の御家人全員が守護に率いられて宮方として
>従軍しているケースも存在しています
淡路だけですね。珍しかったので、よく引用されます。
ちょうど京都大番で在京だった佐々木氏が北条氏との対立があったのが要因
と言われてるようですが。ただし、全てではなく、佐々木氏でも幕府方について
るものもいますね。淡路の参加御家人は、何騎ですかね。
573 :
日本@名無史さん:03/11/08 01:07
>>567 >奥州合戦以前の頼朝の軍隊について、御家人制や「御恩と奉公の論理」を
>高く評価するのはいかがなものか、と。
平氏の家人との相違は
>>566のとおりです。
頼朝は、1180(治承4)年、
『国衙機構』を通すことなく、
『国主や荘園領主の好意として』ではなく、
武士である頼朝が『補任の権を持』ち、
本所に『改替されるなど不安定』でない、
本領安堵と新恩給与を行いました。
これは、関東武士団が、100年近く、待ち望んでいたものです。
>>571 >平家に一度ついた後、頼朝についたのが一般的だったようです。
>一度は平家に義理を果たしたから、気兼ねなく頼朝につくと。
つまり、「御恩と奉公」の論理は関東武士においても機能していなかったわけですね。
「平家の恩」はあっさり無視されているわけですから。
どうも誤解なされているようですが、私は頼朝の軍制を低く評価しているわけでは
ありません。
奥州合戦以前と以降で段階差がある、と申し上げているのです。
頼朝旗揚げの当初から、強力な「御家人制」が存在していたわけではない、
ということです。
それから、
>>573に「本所に改替されるなど不安定でない」とありますが、
文書を丁寧に見ていけば、
幕府は、往々にして、荘園領主の求めに応じて武士を抑圧する判決を
下していることの方が多いように思うのですが?
575 :
日本@名無史さん:03/11/08 08:36
3さんは奥州合戦を画期として高く評価されてるけど、そうかなあ?
川合康さんの説に賛同されるわけでしょう?うーん。
奥州合戦が始まる時点でね、頼朝が軍事活動を起こして潰さなければ
ならない存在、って他にあります?ないでしょう?それがどうも・・。
いくつか討伐候補があってそのうちの一つとして平泉があった、というなら
川合説は成り立つのかもしれません。でも、「主従の論理」を確立する場として
奥州合戦は必要だった、といわれても、イヤ、そんなめんどーな理屈なくても
どっちみち平泉は潰さなきゃいけない訳なんですよね。
主従制確立が目標→それじゃあ、平泉だ、 というわけじゃなく、
平泉やっつけないと→それじゃあ、歴史の確認でもして盛り上げるかあ、
だと思うよ。どーも川合さんのやり方って、法学部のせんせーが良くやる、
事実があって、そこにもっともらしい理屈をくっつける、と言う手法に
似てるよね。好きになれないなあ。
もうひとつね。承久の乱の時、淡路の御家人が、という話。
それは3さんの勘違いだと思うので要確認。あれれ、手元にないな・・。
もとネタはあれでしょ?えーと、田中稔氏が紹介された紙背でしょ?
淡路の御家人がたまたま大番で京都にいた。そしたら守護に墨俣に
連れて行かれた、という話。大番で京都に行ってる御家人って
全体の10分の1にも満たないわけで、しかも戦争しに行くつもり
じゃないから家来も少ない。京方の兵力は少ないわけだよね。
577 :
日本@名無史さん:03/11/08 12:16
>>574 3氏
>つまり、「御恩と奉公」の論理は関東武士においても機能していなかったわけですね。
>「平家の恩」はあっさり無視されているわけですから。
平氏と頼朝との、家人との結びつきの強さの違いが導きだされるのが、
この件での通常の論理展開かと思えますが?
1180年からは頼朝との主従は鉄の規律です。
源平合戦で、京都から勝手に官位を受け取った御家人たちは、墨俣から
東に入れませんでした。所領からの追放、戻れば死罪。
頼朝が完全に、主従関係を把握しています。
当然、御家人側も武家棟梁によるの100%の所領の許認可権を望んでましたから、
合意の上に成立した鉄の規律システムです。
ですから、後白河が寿永二年宣旨で、東海道・東山道を追認せざるを得なかったわけです。
>どうも誤解なされているようですが、私は頼朝の軍制を低く評価しているわけでは
>ありません。
私も過大評価してるわけではありません。ただ平家と違うのは
>>566を参考にしてください。
578 :
日本@名無史さん:03/11/08 12:18
>>574 3氏
>奥州合戦以前と以降で段階差がある、と申し上げているのです。
>頼朝旗揚げの当初から、強力な「御家人制」が存在していたわけではない、
>ということです。
それは、御家人制が一般化した、裾野が広がったと言うことではないでしょうか。
石橋山の戦いの時点では、確かに、未成立です。
しかし、その年の内に鎌倉に入り、富士川で大勝し、政所を設置した時点では
かなり、成立してきていたと思われます。
関東武士の数世代にわたる長年の夢であった武家頼朝による所領安堵が行われましたから。
頼朝が組織の近代化・拡大のために、政所署名の所領安堵状に変えたとき、
頼朝書名の安堵状でなければ、子孫に安心して伝えられないと頼朝署名を
求めに来た御家人が発生したことはご存知と思います。
579 :
日本@名無史さん:03/11/08 12:20
>>574 3氏
>幕府は、往々にして、荘園領主の求めに応じて武士を抑圧する判決を
>下していることの方が多いように思うのですが?
事実、多いです。対京都権門への政策ですね。ただし、御成敗式目後も、
弘安ごろまで、判決に強制執行権はほとんどなかったそうです。
ですから、結果として、下地中分や地頭請けというように、地頭の勢力が
現実にはどんどん強まってきています。
本所も、地頭に頼らないと、米が一粒も来ない可能性もあるので、
武力装置として、あきらめながらか狡猾なのか知りませんが利用してたようです。
平家の補任が本所の意向で変えられやすかったのに比べ、
鎌倉側は、その点は断固としてたようです。
西国の領地の争いは京都で判断してくれと言うのは、頼朝の退却ではなく、
東国には京都が口を出すな・出せないないと言う点が本質であります。
承久の乱直前に、帝王たる後鳥羽上皇が直接に地頭の土地の返却を2ヶ所求めたのに対し、
鎌倉側は、完全に拒否したのは有名ですね。
上皇は激怒しましたが、鎌倉は無視。幕府の存在意義にかかわることですから。
580 :
日本@名無史さん:03/11/08 12:22
>>574 3氏
>平泉やっつけないと→それじゃあ、歴史の確認でもして盛り上げるかあ
「陸奥話記」と「吾妻鏡」を比べると、軍旗・泰衡の晒し首の方法・合戦集結日付・
経路など、前九年の役を模倣しているようです。河合氏が分析してますね。
頼朝は義家の伝説の鎧と太刀を引っ張り出して使ってます。
前九年の公戦の位置を意識したようです。終結後、奥州追討院宣はきましたがw。
物語の伝説化が大切だったようですね。
>淡路の御家人がたまたま大番で京都にいた。そしたら守護に墨俣に連れて
>行かれた、という話。
承久の乱の淡路の御家人参加の実態だそうです。
私は、佐々木氏の反北条意識(=将軍支持意識?)も、要因と思いますが。
>>575氏
正直に申し上げますと、私が国制・軍制の画期として高く評価しているのは
承久の乱です。
但し、御家人制の成立を考えた場合、奥州合戦の意義について、
川合さんのご説を無視はできないので、ああいう書き方をしました。
私はこのスレでは「通説の紹介役」(それにしては勉強不足ですが)を
努めようと心がけてますので、575さんのような
「通説への疑問のなげかけ」は大歓迎です。
今後ともよろしくお願いします。
>>577氏。
そうですね。1970年代に2ちゃんがあったら、私も貴方と同じような書き込みを
した、と思います。
私には、この30年間にあなたの書かれたような「階級闘争史観」を
どのように日本史学が乗り越えてきたか、を簡単に叙述する能力がないので、
申し訳ないですが、ご自分で勉強・研究してください。
そして、もし、私の認識が間違っていることが判明したら、ぜひ、ご教授くださいませ。
ひとつだけ申し上げときますね。
>源平合戦で、京都から勝手に官位を受け取った御家人たちは、墨俣から
>東に入れませんでした。所領からの追放、戻れば死罪。
『吾妻鏡』をじっくりご覧ください。彼等の多くは、その後、何くわぬ顔をして
御家人として活躍していますよ。
>>558(3さん)
ありがとうございます
幕末の鳥羽伏見の戦いを、幕府側から画く場合の言い訳(?)「錦の御旗」
このような物が承久の宮方にはなかったんだろうか?
または、あったのに当時の幕府軍は物ともせずに戦ったのか?
これが疑問の始まりでして
>ひとことでいうと、当時は軍勢のシンボルとして「目に見える旗」ではなく、
>「耳で聞く音声」が重視されていたのではないか、と愚考するわけです。
これは、おぉ!成る程ってかんじです。
>>582 3氏
>私には、この30年間にあなたの書かれたような「階級闘争史観」を
>どのように日本史学が乗り越えてきたか、を簡単に叙述する能力がないので、
>申し訳ないですが、ご自分で勉強・研究してください。
階級闘争史観とは懐かしい言葉ですね。
マルクス主義系内部の黒田氏などから武士も結局は支配者層ではないかという提起がなされました。
その後、権門体制論が実証的に弱いので影響力を薄め、幕府の主体性が実証されてきました。
東西2つの王権論が、2000年代では主流かと思われます。
幾つかの、2000年代の通史類や中世史文献をご参照ください。
東西2つの王権論と、階級闘争史観が全く別のものであるということは、
十分ご理解可能のこととは思いますが。
平家と源氏の家人の差は理解されたかと思います。これも階級闘争史観ですかw?
その件や、1180年の主従関係成立の件や、大江の息子が京都側についたいきさつや、
淡路の京都側についた御家人はたまたま京都に大番でいたのが無理に連れて
行かれただけという件や、奥州合戦が前九年役を異様に模倣している件など
に対して、すべて無反応なのが残念ですが、納得いただいたということで
よろしいでしょうか。
すべて、階級闘争史観とは全く関係のない次元での話と言うことはご理解
できているとは思います。
河合氏の「源平合戦の虚像をはぐ」を通説としているのでしょうか。
すでに、7年以上たっていると思われますが、近年の通説になったとは
あまり思えませんが。
>『吾妻鏡』をじっくりご覧ください。彼等の多くは、その後、何くわぬ顔
>をして御家人として活躍していますよ。
「その後」ですよね。その時点では、所領没収です。幕府側の許容が出たからです。
また、その命令が、その後の、東国武家官位をすべて頼朝が掌握したと言う
意味なのもご存知かと思います。
585 :
日本@名無史さん:03/11/09 13:32
あまり真面目にかかわらない方がいいと思うよ。
すごい自作自演基地外だから。
さらしてあげようか?
>
ひとことでいうと、当時は軍勢のシンボルとして「目に見える旗」ではなく、
「耳で聞く音声」が重視されていたのではないか、と愚考するわけです。
まさしく愚考だ。バカくさい。
586 :
日本@名無史さん:03/11/09 14:11
>
3に質問
>
何くわぬ顔をして御家人として活躍
吾妻鏡の何ページに頼朝の命令を知らんぷりしたようなことが書いてあるんだ?
出版社と発行年月日と版とページを書いてくれ。
手元にあるんだろ。すぐ教えろや。
「所領没収か斬罪と頼朝に布告された無断任官者たちは、直ちに非をわび
辞任し許された」
ってのが事実だろ。
捏造すんな!
まあまあまあ。ぼくは575で、3さんじゃないから。
自作自演じゃないからね。
ぼくは3さんと全然意見が合わないけど、それはそれで
いいじゃん。だからこそ議論が成り立つわけでさ。
3さんの書き込む姿勢、該博な知識には敬意を
表するものであーる。
まったりといきませう。またーりと。
588 :
日本@名無史さん:03/11/09 15:14
床の間の掛け軸
590 :
3は卑怯者の自作自演基地外:03/11/10 09:43
該博?
( ´,_ゝ`)プッ
新しく本が読み終わった順から、写してるだけじゃん。
だから、
無許可任官者が「あわてて官位を辞任したから許された」ことも読みとることができず、
「辞任してた?」ってHNつけてる。辞官を意味してるのもわからんとはバカ丸出し。
早く御家人が「頼朝の命令を知らんぷりした」という吾妻鏡の該当ページ出せよ。
誰かの本の孫引きだからできないのか(藁
「双方これは無視で行きましょい」だぁ?
爆笑。自分の間違いや無知は、徹底的にすりかえるな。
絶対答えられないに100ペソ。
過去レス見てみたら、こいつは、答えられる質問を自作自演してるだけ。
間違いを訂正されると、怒り出し、
違う時代のことを持ち出したりして、ごまかして逃げまくるだけ。
ほとぼりがさめた頃また出てくる。
自分のスレだから、何やっても勝手だと思ってるんだろうが、甘いね。
発信地点たどれる人は、たどってみてみ。
傑作だぞ。
最初は黒田信者、論破されると、ほとぼりさましてから、いきなり河合信者。
そして、また論破されたら、答えないで、すりかえとごまかし。
時代に取り残されてることに気づいていない。北朝鮮的思考人物。哀れ・・・
>>590 おいおい、そこまで書いたら、3がもう出てこられなくなっちゃうじゃないか。
ここは異様な3を見守って楽しむスレでもあるんだからほっといてあげなよ。
このスレのルール
3が答えられそうもないことを聞いてはいけない!
最近の通説や学界動向を話題にしてはいけない!少し古い話題にしてあげる!
天皇中心の歴史でなくてはいけない!
多少の間違いや電波は無視してあげる!
3が読み終わった本を話題にしてお愛想をふってあげる!
あまりにもひどい間違いでも、訂正してあげても3はごまかすから無駄なので
一応教えてあげて、それ以上は追い詰めない!どうせ答えない!
吾妻鏡の何ページだとか、3が読んだことのない本について聞いてはいけない!
ルールを守って、多重人格製造者の3を楽しみましょう!!
私、中世は専門外ですので文脈しか読めないのですが
>>577氏「鉄の規律」に対して、「何くわぬ顔をして」という発言があるのであって
御家人が頼朝の命令に対して「知らんぷり」したという意味ではないと思うのですよ。
近世になると主従関係は絶対的なわけですが
その一つ前の戦国とか室町だと、寝返りは日常茶飯事ですよね。
近世の主従関係のありようは、平和という時代性によるところが大きいのではないでしょうか。
ならば中世初頭の戦乱の時代
少々の寝返りは許すし、また許さざるを得ない状況ではなかったかとも思います。
しかしまあ、いずれにせよスレに趣旨からは遠いところでの議論のように思えますがね。
593 :
日本@名無史さん:03/11/11 06:17
主従制、任官問題と天皇とのからみでいえば、やっぱり義経の問題を
とりあげるべきなのでしょうね。
それから、承久の乱までに、後鳥羽上皇の北面とか西面の武士に
なっていた有力御家人が多く、そのまま京方についたことも
指摘されてるわけです。このあたりをどう整合的に捉えるか。
ぼくは一応、次のように考えます。頼朝の時代には「将軍=主人」
の図式がある程度徹底され、それを実現する過程で、義経は追放
されざるを得なかった。だけど、頼朝の没後、幕府の締め付けは
ゆるみ、かつてのように有力武士が朝廷に接近するようになる。
承久の乱後、朝廷は武士と密接な関係を保てなくなるから、
たとえば海津一郎氏が頻りにいわれる朝廷による「本所一円地の
住人」の組織、というような仮説はあり得ない。
えー、どうぞ叩いておくんなまし。(あんまりきついのはやだなあ)
>>592 >私、中世は専門外ですので
こんな前フリをする人間は普通はいなーい
>
>>577氏「鉄の規律」に対して、「何くわぬ顔をして」という発言があるのであって
>御家人が頼朝の命令に対して「知らんぷり」したという意味ではないと思うのですよ。
>>582:3 :03/11/08 13:44
>『吾妻鏡』をじっくりご覧ください。彼等の多くは、その後、何くわぬ顔をして
>御家人として活躍していますよ。
官位を朝廷に返却して謝罪してやっと許されたことが、「何くわぬ顔をして活躍」
と、どうしてなるんだ?
所領没収か死罪が恐くて、朝廷に大恥かかせて、頼朝に服従したんだろが。
吾妻鏡の何ページをじっくり読めばよいのか早く答えておくんなまし。
あ、これは聞いちゃいけないのか?
>>593 >義経の問題
義経追放の時期でも主従関係は、まだ不十分との意見でないの?
>頼朝の没後、幕府の締め付けはゆるみ、かつてのように有力武士が
>朝廷に接近するようになる。
院の武士になったのは、京都在住の御家人だけでないかな。
東国から、大番や西国所領経営赴任以外で、自ら京都に近づいた有力武士とは誰?
後鳥羽上皇の院宣でも2万も集まらなかったし、西国だけだし、守護レベル中心だし、
淡路の御家人総動員と言うのは、誤解に近い話しだし。
頼朝は、将軍在任中(2年位で辞官してるから先の右大将だが)から、
政所中心のシステムを構築し始め、生命線の所領安堵の権力を
個人のカリスマでなく、将軍職ないし政所の組織権力にして、
その後、北条派と将軍派の対立は根深いが、幕府と御家人との主従関係が
ゆるんだとは、思いにくい。武家棟梁に所領安堵して欲しのであって、
本所や朝廷の所領安堵は、もう、こりごりのはず。
緩んでれば、承久の乱で、日本の西半分に命令権があったはずの上皇側に
わずか2万以下しか集まらず、東国に19万も集まったとは思えないが。
しかも、東は院宣も綸旨も全く無し。しかし、戦意旺盛だった。
おそるべし、武家による所領安堵・新恩安堵の力。
>595
>東国から、大番や西国所領経営赴任以外
と言ってしまうと、あまり名前があがらないかも。というのは、
東国の御家人が西国に本格的に遷るのは、承久の乱以降だから
当たり前なのだ。 有力御家人の名は平岡豊氏の論文とかに
ずらっと出てるから見てみ。『国史学』だったかな。
>日本の西半分に命令権があったはずの上皇
これは何の資料を基にしての断言ですか?逆に言うと東半分の
軍勢徴集権は将軍にあったの?うーん、そんな資料しらんがなあ。
つづき。
>595
>わずか2万以下しか集まらず、東国に19万も集まった
まさかこれが実数だとは思ってないよね。関ヶ原じゃないんだから、
鎌倉時代にこんな大軍はあり得ない。
>武家による所領安堵・新恩安堵
それをいうなら、武家による本領安堵・新恩給与だね。
全体の文章から察するに、君はまだ学部の学生だろう?
だめだよ、人をこき下ろすことから始めると、
学力のびないよ。もっとまったりと行こう、まったりと。
>>594 私の専門は近世史です。
博論の予備審査とか、卒論・修論の中間発表などで
専門とは異なる時代の発表に何かコメントするときは
この時代は専門外だがと、あらかじめ言うことが多いので
同じように最初に書いてみたのですが
それほど奇異に感じられることなんですかねえ?
何か非常に品性の欠けた書き込みをしてる人に言いたいんだけど、3なり誰なり批判したいなら普通に反証すればいいんじゃないの?
ここは2ちゃんねるではあるけれど、だからといって2ちゃんねる的態度で雰囲気を悪くするのはみんな不快だと思うよ
現にこのスレがここまで伸びてきた中でこんな暴言をまきちらしたのは、君と黒田史観で逆ギレした人と後一人くらいだよね
まさか同一ですか?
こんな事を書いちゃったら、この書き込みも3の自作自演だと言い返されるのかな
反論・批判は議論に欠かせないからこそ節度正しく大いに盛り上げようよ、ね
ゴメンナサイ。私、594じゃなくて
593でした。
というわけで、3さん、気にしないで
また問題提起してくださいね。
601 :
ご苦労様w:03/11/12 15:00
>>596 :594(>594じゃなくて593でした)
>あまり名前があがらないかも。というのは、
>東国の御家人が西国に本格的に遷るのは、承久の乱以降だから当たり前なのだ。
おや?君はこう書いたはずだが?
>
>>593 :日本@名無史さん :03/11/11 06:17
>だけど、頼朝の没後、幕府の締め付けは
>ゆるみ、かつてのように有力武士が朝廷に接近するようになる。
>有力御家人の名は平岡豊氏の論文とかに
>ずらっと出てるから見てみ。『国史学』だったかな。
浅学なので、頼朝の死後に朝廷に自ら接近して行った有力御家人を具体的に教えてください。
もちろん、京都大番や、西国配置武士以外でです。彼らは西でのしきたりで、
院の命令で行動して普通でしたから。幕府から院へ接近したというわけではない。
>これは何の資料を基にしての断言ですか?逆に言うと東半分の
>軍勢徴集権は将軍にあったの?うーん、そんな資料しらんがなあ。
1186年に北条が頼朝の指示で西国と九州の45ヶ国前後にのぼる国地頭を
停止した。京都に権益を返上しつつ東国を固め、互いに距離をとる結果となった。
このとき、返さなかった東国にだけ義時は承久の乱の参加指令を出している。
西国には出していない。東国15ヶ国は、全て幕府の指示に従った。
602 :
ご苦労様w:03/11/12 15:03
>>597 :594
>まさかこれが実数だとは思ってないよね。
実数と出展を教えてください。
>それをいうなら、武家による本領安堵・新恩給与だね。
訂正しましょう。ありがとう。
>全体の文章から察するに、君はまだ学部の学生だろう?
かなり違います。
>だめだよ、人をこき下ろすことから始めると、
>学力のびないよ。もっとまったりと行こう、まったりと。
なぜ、こういう展開になってしまったのか理解できます?
ここ以外では、私は、かなーり、まったりです。
自分では気づいてないかもしれないが、自作以外の人間に対する、
レスの仕方に問題が大ありなんだよ。
自分だけが正しいような書き方をして、相手の意見には突っ込むくせに、
自分の間違いにはスマソも言えないし、訂正もできない。
そして、質問には答えないくせに、違うことを質問して、論点をずらす。
そこに気づかない限り、どこのスレにレスしても同じだよ。
そういう経験が多かったから、こんな変なことしてるんでしょ?
603 :
ご苦労様w:03/11/12 15:10
>>598 :209
>>594 >それほど奇異に感じられることなんですかねえ?
すごく奇異です。自分の発言責任を忌避しようとしているとしか見えません。
しかも、専門外の知識を2チャンで仕込んむですか?(爆
他にはどのスレに出てるのですか?不自然すぎて笑えます。
>>599 >この書き込みも3の自作自演だと言い返されるのかな
w
>反論・批判は議論に欠かせないからこそ節度正しく大いに盛り上げようよ、ね
突っ込まれたらソースを答える。間違ってたら自己訂正する。これが学問板のマナーです。
>>600 :593
>というわけで、3さん、気にしないで
>また問題提起してくださいね。
質問に答えるか、訂正するかが先だぞ。
↓
>>582:3 :03/11/08 13:44
>『吾妻鏡』をじっくりご覧ください。彼等の多くは、その後、何くわぬ顔をして
>御家人として活躍していますよ。
官位を朝廷に返却して謝罪してやっと許されたことが、「何くわぬ顔をして活躍」
と、どうしてなるんだ?
所領没収か死罪が恐くて、朝廷に大恥かかせて、頼朝に服従したんだろが。
吾妻鏡の何ページをじっくり読めばよいのか早く答えておくんなまし。
↑何でこんなに必死なんだ?
哀れだとか不憫だとか不毛な喧嘩になるような事するなってば!
おまえさんこそキターーーだって気付けよ、っつうの。
>>603 私、後期課程の院生なんですが
先に書いた博論の予備審査などでは
先生方も「この時代は専門外ですが」とおっしゃいますよ。
ちなみに旧帝国大学です。
>603
>頼朝の死後に朝廷に自ら接近して行った有力御家人を
>具体的に教えてください。
大内惟義、佐々木広綱、後藤基清、加藤光員あたりではダメ?
>もちろん、京都大番や、西国配置武士以外
率直に言って、これがよくわからん。大番役にいってようが、
西国に配置されようが、御家人は御家人でしょ?例えば京都守護
の伊賀光季は上皇の召しに応じずにやられてるわけだし。
>1186年に北条が頼朝の指示で西国と九州の45ヶ国前後にのぼる国地頭を
>停止した。京都に権益を返上しつつ東国を固め、・・
この辺は誰かの説?それともあなたのご理解?国地頭自体は北大の三田さんの
去年くらいの論文もあって、まだ定説ないんじゃない?まして国地頭がその国の
軍勢徴集権を有していた、ということになると、どうなんだろう?
発想自体は面白いけど、論証できるのかな?
>実数と出展を教えてください。
それは無理。軍記に誇張はつきものだから。ただ、保元の乱の時の
平清盛300騎、源義朝200騎。富士川の戦いの時、「古今未曾
有の大軍」と書かれた平氏遠征軍が(平家物語だと7万騎と叙述)、
実数は4000だという。それを考慮すると、『承久記』に書かれた
畿内近国の武士と僧兵あわせて1700、という辺りが実数に近い
んじゃないかな。幕府軍はその10倍いたとしても、19万という
ことはまずないと思うよ。
まあ、そんなところかな。2ちゃんは2ちゃんであって論文では
ないんだから、そんなに細かいところは目くじら立てなくていい
んじゃないかな。このスレは他に比べて断然良質だと思ったので
参加してるんだけどなあ。
>>604=
>>605 :209=3
相変わらず、爆笑なレスだ。
後期課程にまでいって、今までみたいなレスしかできないのかい?
209の名では図書館の本の引用しかしてないぞ。
分野違いと言い張るが、近世専攻にしては、近世朝幕関係の基礎知識もなさすぎ。
権門体制論で幕末の朝廷の権威向上が理解しやすいとか痛すぎる。
分野違いならなんでここに来るんだ?院生が中世天皇を知りたいなら本を読むはず。
近世専門なのに藤田とか辻とか米田とか読んだことないの?そうだ、君の好きな
リブレットで高埜が書いてるから、あれなら読めるだろ。4人の名前くらい知ってるだろ?
前は一人前の研究者の口調だったのに、今度はただの院生かよ。
偉そうな口調のわりにはたいしたことないな。普通レベルだ。
あと、なんで後期とか旧帝大とか不必要なことを書くの?
2チャンでそれ書くと電波扱いって知ってるでしょ。
旧帝大の院生だろうが講師だろうがそんなのうじゃうじゃいる。
そんなこと書かなくてもレスで、評価されるか電波か決まるんだよ。
学歴は学歴板へどうぞ。本物や嘘つきの友達がいっぱいいるよ。
相手より優位に立とうとしてるのかな?引用しかできない人が?
大学院って今は本当に入りやすいよね。全国で、ものすごい人数だよねw。
ま、実際は学部生ってとこだろw。そういえば、学部生クンも出せば?
質問がたまっちゃったよ?どうすんの?
・頼朝の死後、京都に接近した有力御家人は誰か?
・通説を否定して、承久の乱の実数を知ってるらしいので、その出展と実数は?
・>『吾妻鏡』をじっくりご覧ください。彼等の多くは、その後、何くわぬ顔をして
>御家人として活躍していますよ。
官位返却してやっと許されたはずなのだが、何食わぬ顔をして活躍とは、
吾妻鏡のどこの条をじっくり読めばいいのか?
・承久の乱で東国にだけ幕府側は号令をかけたこととその経緯が理解できたのか?
・平家と源氏の家人の違いは理解できたのか?
・2つの王権論と、階級闘争史観は全く関係ないことが理解できたのか?
・そもそも王権や東国政権論を質問してきたが、理解できたのか?
・宣旨や実態の解釈から、東国が一権門かつ一権門以上の存在だったことは理解できたのか?
・地頭への不利な裁決は、実際の執行を伴ってなく、地頭が力を蓄積して行ってたことは理解できたのか?
・弘安期まで、御成敗式目は強制執行権を持ってなかったことは理解できたのか?
・そもそも吾妻鏡を読んだことあるの?
さて、あんまり粘着しても可哀想だから、もうこのへんにしとくか。
以前のように、好きに自作自演してください。
ただし、他人へのレスには敬意を持って書きましょう。
あんまり電波飛ばすなよw。運動すると精神安定にいいぞ。
たまには書くと思うがなw。
>>606 >ダメ?
だめな気がする。西国に行ったら院の命令で動くのが普通なんだから、
頼朝死後に、心に何かを秘めて京都へ接近したとは言いがたい。
>まだ定説じゃないんじゃない?
東国にしか動員命令を出してないことは昔から知られてた。
静岡の山田が通史に採用している。国地頭自体じゃなくて、
国地頭設置権限が、その国の動員権の掌握と近い。
動員命令を鎌倉が出した範囲がほとんど一致しているという事実がそれを示している。
>目くじら
ほとんどの近年の文献が、1.9万と19万を採用してるよね。
それを、「まさか実数とか思ってないよね」とかの口調を使う以上は、
実数を出すべきだったね。
出せないならもっと謙虚な口調で書くべき。吾妻鏡が京都軍を誇張する理由はない。
あと、「承久記」をみんなが使わない理由も考えたほうがいいと思う。
>断然良質だと思ったから
もう、好きにやっていいよ。病気をうつされたくないからw。たまに突っ込むかもw。
>610
ぼくは3でも209でもない。それはお断りしておいて。
ぼくは良心的に答えているんだけど、ずいぶん失礼なレスだなあ。
>西国に行ったら院の命令で動くのが普通
そんな理解は全くないと思う。そんなバカなこと言ってる研究者いる?
>目くじら
ぼくが目くじらを立てなくても、といったのは兵力の事ではないんだが
それはおいといて。
前にぼくが書いたでしょう。あなたは学部の学生ですね、って。
あなたは否定したわけだけど。
きちんと史料に基づいてモノを言う、という訓練が出来てくると、
史料から直接「分かること」、他の史料から「推測すること」
逆立ちしても「分からないこと」の区別が自然についてくる。
もちろん素人の何気ない疑問が妙につぼにはまる、ということはあるわけだけど、
確率は極めて低い。そのへんがあなたは分かっていない。だから学部の学生なの
かな、と推測した。
中世の兵力が分かれば、それだけで本が書けるよ。応仁の乱の軍の実数とかね。
あんまり言われっぱなしなので、続けます。
きつい言い方をすれば、
>「武家による所領安堵・新恩安堵」
といってしまった時点で、あなたは終わりなんです。
ケアレスミスは誰にもある。出典を「出展」と書いてもそれは咎めない。
だけど、主従制を議論する際に、「所領安堵・新恩安堵」はダメだよ。
ああ、この人は基礎の出来てない人だな、って分かっちゃう。
未熟だとしても、自分の意見をいうならいい。反論するのもいい。
だけど人をこき下ろすなら、相応の学力を付けてからにしないと。
最後に純粋な質問。
静岡の山田、ってだれ?いま静岡大学に
検索かけてみたけど、山田先生っていないような気が。
>>608 どうしても自作自演と見なしたいようですね
困ったモンです。
自作自演であることも、そうでないことも、証明は困難ですから
そういうことにはあまり拘泥しない方がよいと思うのですが。
近世朝幕関係を研究対象としているのではありませんので
いろいろ間抜けなことを書いているかも知れません。
それについてはきちんとご指摘いただけると有り難く思います。
それではなぜこんなところにいるのかと疑問に思われるでしょうが
今やっていることから派生して、禁裏領に興味があるものですから
ここいらをウロウロしている次第です。
私は基本はマターリだから、普通に進むのであれば、気にしません。
では、書きます。
>>611 :593さん
>>西国に行ったら院の命令で動くのが普通
>そんな理解は全くないと思う。そんなバカなこと言ってる研究者いる?
承久の乱以前は、在京の強盗逮捕・謀叛事件・山僧の騒乱停止などの軍事行動は、
幕府でなく、事実として院の命令で行われており、在京武士は院の命令で動くことに
慣れていたと思われます。こういう意味では、多くの本に書かれていると思われますが。
上皇がもう少しうまく時間調整できていれば、承久の乱に九州からも、もう少しは集まった
と言われてるのはご存知と思います。
>中世の兵力が分かれば、それだけで本が書けるよ。応仁の乱の軍の実数とかね。
「まさかこれが実数だとは思ってないよね。関ヶ原じゃないんだから、鎌倉時代に
こんな大軍はあり得ない」と断言されたので知っているのかと思い驚いて聞きました。
>推測
推測は自由ですのでおまかせします。
>>612 :593さん
>あなたは終わりなんです。ああ、この人は基礎の出来てない人だな、って分かっちゃう。
所領→「鎌倉幕府は御家人となった武家領主の本領を下文によって安堵するとともに、
勲功・奉公に対する御恩として恩領を給与し、その所領の分限にしたがって軍役
等の御家人役を課する一方(御恩・奉公)、御家人の所領支配の秩序を守ることを
基本として、訴訟制度の整備を中心とする鎌倉幕府法を発達させた」
と、戸田芳実氏が使用しているような概念として使いました。
学力レベルの推測については、ご自由ですのでおまかせします。
>>613 :593さん
>静岡の山田、ってだれ?いま静岡大学に検索かけてみたけど、山田先生っていないような気が。
これは全く失礼しました。無駄な時間をかけさせて申し訳ありません。謝罪訂正します。
山「本」幸治氏です。静岡文化芸術大学。通史編集委員や古代・中世など書いてます。
ところで、「頼朝死後に、体制が緩み、朝廷に自ら接近した有力御家人が出た」
とは、現時点では、文献で確認できないと言うことでよろしいでしょうか。
>>614 :209=223さん
>今やっていることから派生して、禁裏領に興味があるものですから
>ここいらをウロウロしている次第です。
興味深いですね。実は、今、近世の朝幕関係に、はまってます。
よろしければ、禁裏領についてお聞かせください。
中世から近世にかけての変遷など興味があります。
今日のあなたの言い訳とレスっぷりを見ていたら、それこそあなたが指摘した3氏の特徴そのもので失笑を禁じえません。
でもあなたを排斥するするつもりで書いているのでもありません。
お互い、人のふり見てわがふり直せ、で仲良くいきましょう!と言いたいのです。
品性を疑うような反論ぶりで自分自身をおとしめる事なく、自分も相手もギャラリーも気持ち良く読めるスレにしましょう。
618 :
日本@名無史さん:03/11/15 08:47
>「頼朝死後に、体制が緩み、朝廷に自ら接近した有力御家人が出た」
>とは、現時点では、文献で確認できない
え?どうして?頼朝の時期には勝手に任官すると「死刑にするぞ!」
まで言われたわけでしょう。任官という「ご恩」を得て、天皇に「奉公」
されたら、将軍との主従制が相対的なものになり、幕府の主従制が揺ら
ぐから。他の諸々の思惑もあるんだろうけど、義経が排斥されたのも
「キモ」はそこでしょう?
ところが頼朝の死が直接の契機かどうかは定かではないものの、その後、
有力御家人は勝手に任官するようになる。『吾妻鏡』に出てるけど、
加藤光員が検非違使の少尉になってることについて、幕府は「その官職
に任じたのは上皇であって、幕府の沙汰に非ず」といってる。義経と同
じ官職だよ。実際に同様の、もしくはそれ以上の官を得てるやつはたく
さんいる。内ゲバでやられたけれど、平賀朝雅なんて知行国主だよ。
公卿なみ。所領がご恩なら、官職もご恩でしょう?前に書いた大内惟義
とか後藤基清とか、後鳥羽上皇に引き寄せられた武士の事例はどう
解釈するの?
ああ、613もぼくです、念のため。
>山「本」幸治氏です。静岡文化芸術大学。
>通史編集委員や古代・中世など書いてます。
うーん、また痛い名前を出してきたなあ。「幸司」だよね、たしか。
悪口書くと通報されて逮捕されるから(苦笑)、うーん。
一言で言うと「あの人は研究者ではない。」あなたがきちんと研究
できる環境にいるのなら、指導教官の先生にこの意味を尋ねてごらん。
苦笑いしながら解説してくださるから。
ゴメン。間違えました。
>ああ、613もぼくです、念のため
じゃなくて、
618もぼくです、念のため、です。スマソ。
621 :
日本@名無史さん:03/11/15 09:56
藻前らコテハンでやってくれ。
読んでて疲れるんだよ。
622 :
日本@名無史さん:03/11/15 11:15
>621
ごめんね。
ご無沙汰しております。
>>582を書き込んだあと、本日まで
ネット環境から離れておりましたので、状況を存じませんでした。
私の書き方に不手際があったようで、ご気分を害された方にはお詫び申し上げます。
さて、
>>609でまとめていただいたご質問のうち、私に関係ある分について、
ご回答申し上げます。
>官位返却してやっと許されたはずなのだが、何食わぬ顔をして活躍とは、
>吾妻鏡のどこの条をじっくり読めばいいのか?
『吾妻鏡』建久4年5月7日条をごらんください。
頼朝に「音様シワガレテ、後鬢サマデ刑部ナラガシ」とののしられた
刑部丞友景が、そのまま「梶原刑部丞友景」として登場しております。
この記載から、彼は官位を辞することもなく許されていることが
明らかです。
「鉄の規律」の存在否定史料としては、1例あれば十分ですので、
他の連中は調べておりません。
後学のため、「辞官により許された」という史料を教えていただければ幸いです。
(つづく)
(つづき)
>・平家と源氏の家人の違いは理解できたのか?
>>569で既にこの件については私の見解を述べております。
この点について、今まで貴方からの納得できる回答を見た覚えがないのですが、
もし、私の見落としならば、レス番号をお教えください。
>・そもそも王権や東国政権論を質問してきたが、理解できたのか?
>・宣旨や実態の解釈から、東国が一権門かつ一権門以上の存在だったことは理解できたのか?
私はかなり最初のレスのほうで、それを認める発言をしてきたつもりですが。
貴方との意見の違いは「時期の差」だけです。
(つづく)
(つづき)
>・地頭への不利な裁決は、実際の執行を伴ってなく、地頭が力を蓄積して行ってたこと
>は理解できたのか?
このご質問については、私も言い分があります。
私が
>>574にて、「幕府権力」が基本的に、武士抑圧策をとっていた、ということを指摘し、
貴説の幕府権力理解に関し、発生する根本的な矛盾である、
「武士の「長年の夢」の結果のはずの幕府権力が、むしろ武士を抑圧している」
という点に疑問を呈したのに対し、貴方は
>>579で、
>(幕府の)判決に強制執行権はほとんどなかったそうです。
>ですから、結果として、下地中分や地頭請けというように、地頭の勢力が
>現実にはどんどん強まってきています。(カッコ内は引用者補足)
と在地領主の成長の問題にすりかえてご返答なさったのはどういう
ことでしょうか。
わざとすりかえたわけではないのかもしれませんが。
以上です。
626 :
209=223:03/11/15 13:03
>頼朝に「音様シワガレテ、後鬢サマデ刑部ナラガシ」とののしられた
「刑部カヲナシ」だと思いますが。
627 :
209=223:03/11/15 14:07
>>615 戸田氏は「御恩として恩領を給与し」と書いているのでしょう?
だから新恩「安堵」は駄目なんですよ、新恩「給与」でないと。
戸田氏の概念とやらが正しく理解できているのですかねえ・・・
>>627 ま、その辺はもういいんじゃないの。
それに概念的には完全な矛盾だけど「新恩安堵」って言葉自体はそれなりに面白い。
「本領給与」と組み合わせると、なお由。
つうか、地頭職等への「補任」って、安堵なのか給与なのかが掴み難いので、
個人的には鎌倉時代は嫌いなのですが。
全開だなぁw。
>>618 頼朝の死後、京都に近づいたってのは、鎌倉政権に対抗しようと言う意図が
あったという意味でしょ?そうは思えないなぁ。
大内惟義は鎌倉に帰ってきてるし。
>>619 >一言で言うと「あの人は研究者ではない。」
評価は自由ですからw。西国に権益を返してない東国部分が、承久の乱の動員
命令国と、ほぼ一致と言うのは、説とかではなく、歴史的事実からの帰納ですね。
>>623 >ご気分を害された方にはお詫び申し上げます。
今後は普通に書くなら受け入れてもいいんだが・・・
>刑部丞友景が、そのまま「梶原刑部丞友景」として登場しております。
約8年後ですからね。頼朝に許されたからという理解が普通かと思います。
「何食わぬ顔をして」と、どこに書いてあるのでしょうか?「朝」景ではなかったかな?
>後学のため、「辞官により許された」という史料を教えていただければ幸いです。
範頼の三河守辞官は、ご存知かと思われます。
>>624 >レス番号をお教えください。
この件は、あなたが突発的に書き出しただけだよ。私のは
>>566 >貴方との意見の違いは「時期の差」だけです。
現在は、成立期から、一権門以上の一政権たる事実があったというのが多勢と思われますが。
それより、
>>582の「階級闘争史観」だと、的外れな侮辱をされた件のほうが気
になりますが、頼朝の政権が、階級闘争だという論者は、とっくにいないと思われますが。
>>625 >「武士の「長年の夢」の結果のはずの幕府権力が、むしろ武士を抑圧している」
>という点に疑問を呈したのに対し、貴方は
>>579で、
>在地領主の成長の問題にすりかえてご返答なさったのはどういうことでしょうか。
実は抑圧してないということです。確かに、何件か実例は出てます。
石母田氏あたりも、幕府は利益代表に立たなかったと言う理解だったかな?
しかし、実際には各地の地頭が抑圧されずに勢力を伸ばしています。
その理由は、弘安期ごろまで、幕府の判決は実は強制執行されないと言うことです。
本所側も、訴えはするが、むしろ収入確保のためには地頭と組んだ方が現実的と
判断し、そう行動しているようです。
古澤直人氏が「鎌倉幕府と中世国家」(校倉書房)において実証してるかと思われます。
>>627>>628 フル回転ですね。ご苦労様です。
別に言い訳はしませんが、『安堵』は中世ではもっぱら所領を中心とした
財産権の『移転に際して』、支配者・主人から被支配者・従者に与えられる
法的承認行為を意味してるのは、ご存知と思われます。
禁裏領の事は書けないのかな?なんでだろう?
>>631 俺は緩やかに君をフォローしてあげたつもりだったんだけどねえ(苦笑)
てか君には自分以外の書き込みは全て自作自演に見えるのか? 病気だよ、それ。
>別に言い訳はしませんが、『安堵』は中世ではもっぱら所領を中心とした
>財産権の『移転に際して』、支配者・主人から被支配者・従者に与えられる
>法的承認行為を意味してるのは、ご存知と思われます。
なかなか斬新な説をありがとう
でも、それだと「同一人物からの当知行安堵」は安堵じゃなくなっちゃうけどいいの?
(ちなみに「当知行安堵」は分かるよね?)
あんまり辞書とかの記述を鵜呑みしちゃだめだよ、と忠告しといてあげる。
ま、君が安堵の本質を理解してないことはもう分かったから、俺にはもう返事しなくて良いよ。
別に俺は他の人とは違って君をいじめたいとは思わんので。
633 :
209=223:03/11/15 18:38
>約8年後ですからね
じゃあもっと時期的に近い例を挙げましょう
国史大系本の147〜149頁にリストアップされている中に
左衛門尉景季(梶原景季)の名が見えます。
彼はこの年9月2日使節として上洛しますが
169頁には「梶原源太左衛門尉景季」と元の官途名のまま登場します。
この間わずか5ヶ月弱です。
また174〜177頁に同年10月24日の行列が出てきますが
梶原刑部丞朝景や後藤兵衛尉基清の名が見えます。
基清に対して頼朝は
「目ハ鼠眼ニテ只可候之處。任官希有也。」と罵声を浴びせていますが
行列にはその官途名のまま参加しています。
罵倒からわずか半年あまり後のことです。
634 :
209=223:03/11/15 18:45
>>631 それから、禁裏領の件ですが
私は禁裏領の研究をしているわけではありません。
「興味がある」と書いただけですよ。
それにここは中世のスレですから
近世禁裏領の話はスレ違いでしょう。
>>626 209さん、お久しぶりです。
私の対応が悪くて、209さんにまでご不快にさせて、
申し訳ございませんです。
引用ミス、ご指摘ありがとうございました。
孫引きがばれてしまいましたね。今後できるかぎり気をつけます。
これだけではなんなので
>>633 「兵衛尉基清」は、他に元暦元年5月17日条・元暦2年6月22日条で
「新兵衛尉基清」「兵衛尉基清」として登場していますね。
前者は、推測ですが鎌倉近く、後者は京都で活動しています。
636 :
209=223:03/11/15 20:22
>>635 文治元年5月17日条・文治2年6月22日条ですね。
『吾妻鏡』をきちんとご覧になっているのでしょうか。
それに元暦元年5月ですと
墨俣川より東には入らせないという話より前のことになってしまいます。
>>636 重ねがさね、申し訳ございません。
元暦2年は8月に文治改元ですので、
元暦2年5月17日条ですね。
繰り返しての引用ミス、恥じ入るばかりです。
>>590 私は3氏じゃないって、281なんだから。辞任してた?ってのは
無視と言ってる手前、本文中で疑問呈すもなんだから、名前欄に入れただけ。
で、自由任官組の、小山朝政、梶原景季、八田知家、中村時経、とか辞任してます?
同年10月の南御堂供養には、自由任官を咎められた人間が、かなり供奉してるけど。
(小山兵衛尉朝政、八田右衛門尉知家、梶原刑部丞朝景、後藤兵衛尉基景、梶原左衛門尉景季、中村右馬允時経)
既出ですね。余計なことしました。
この自由任官した御家人の官を頼朝が解く事を出来なかったために
頼朝ですら朝廷の権力を否定することは出来なかった、て人(何で読んだか忘れた)
もいるらしいけど、私は寧ろ、院の与えた官を咎め、一時でも行動を制限させたことで
頼朝(幕府)が朝廷に対して御家人の官を推挙するのではなく、朝廷の権威も
鎌倉の追認がなければ、意味をなさないってことになったと思ってます。間違ってます?
640 :
209=223:03/11/15 22:06
>>639 どうなんでしょうね。
どなたかの説のように
頼朝は自由任官を追認せざるを得なかったと見ることもできるわけですが
そのように見ない根拠はどこにあるのでしょうか?
>>629 >約8年後ですからね。頼朝に許されたからという理解が普通かと思います。
随分
>>603ととニュアンスが違ってきましたね。
>範頼の三河守辞官は、ご存知かと思われます。
そんなことがあったんですか。ぜひ私も知りたいので、
史料や出典など、詳細を教えていただけるとありがたいのですが。
>>630 >この件は、あなたが突発的に書き出しただけだよ.。
ではあらためて、
>>569(
>>570)についていかがお考えか、
教えていただけないでしょうか?
波多野・山内といった、父祖伝来の家人、乳母子までも
引き止めることのできなかった源氏の主従関係を
われわれはどのように評価すべきなのでしょうか?
642 :
209=223:03/11/15 23:44
>>629>>641 範頼は頼朝の推挙で三河守となっているのだから
自由任官を許すとか許さないとかの例としてはふさわしくないと思うが。
643 :
日本@名無史さん:03/11/16 06:06
えーと、「彼」はもうでてこなくなったのかな・・
そこで3さんに質問。
頼朝をかついだ在地領主たちは「反平家」が根本にあるから、
といってますよね。単に「平家」なのかな。ぼくはそこが疑問
なんですよ。
平家政権は朝廷政治の産物でしょう?だから、東国の在地領主の
指向は「反朝廷」と捉えるべきではないのかな。そうじゃないと
京都を目指さずに東国を固めよう、といった彼らの真意が読めない。
この場合、平氏のクーデターは、武力行使の呼び水になった、
というふうに位置づけるわけですけれど。
>>642=209氏
私も,仰るとおりと思います。
なぜ、ああ書いたのか、言い訳をさせていただくと、
>>629が新解釈とか、新史料とか、何か根拠を持ってるなら
聞いてみたいな、と思ったんです、はい。
>>643 ・・・一理ありますね。
けれど、「在地領主」といいますが、
彼等は農業経営のみをやっていたわけでなく、
都市と流通を基盤として、全国に展開もしていたでしょう。
かなり京都との往来・人的交流もさかんですよね。
水上交通による彼等のネットワーク
(伊勢平氏や肥前・薩摩平氏などの存在)
を考えた場合、彼等の視線が「東国」だけに止まっていたと
見てよいのか?とも考えるのです。
もちろん、彼等は「在地」の私領保全を第一の
行動原理としていたわけですが。
それから、本質的に東国武士団が「反朝廷」であれば、
12世紀に義朝・義賢や足利・新田などといった、
京都から下向した河内源氏の連中が、
相次いで東国武士団に推戴された、あるいは
武士団同士の調停を行った、というあたりが説明できないのでは?
>>643 >>644では、
>京都を目指さずに東国を固めよう、といった彼らの真意が読めない。
これに対する答えになってませんね。
(私のこういうところがいけなかったんでしょうね、反省します。)
私は富士川の時点では、頼朝がきちんと抑えていたのは
相・武・房・総・豆だったと思うのです。
『吾妻鏡』では甲斐源氏を駿河・遠江に置いた、とありますが、
その後、彼等の一部が義仲に従軍して入京するなど、独自の行動を
取っていますので、頼朝の統制に従っていたとは思えません。
下野は味方優勢、上野は敵対的中立、常陸は敵といったところでしょうか。
(このへん、細かいつっこみはあるかと思いますが・・・)
特に佐竹などのいる常陸の動向は、頼朝軍の主力をなす
千葉・上総両氏にとっては気になったはずです。
で、彼等の影響力のもと、富士川のあとそのまま、
軍を旋廻して佐竹攻めになった、と理解しています。
根本の家人がいなかったことの利は以前述べましたが、
(頼朝にとっての)害が、このあたりで出ていますね。
で、その後いったん動員を解くと、飢饉もあって動けなくなったのでは
ないか、と考えています。
結論をいいます。富士川のあと上洛しなかったのは、
彼等の「私領重視」指向がそうさせたのだ、と位置づけられるわけです。
「私領を脅かされたための、反平家蜂起」と、
彼等の行動原理を首尾一貫して説明できるあたりがメリットかな、と思います。
646 :
日本@名無史さん:03/11/16 16:59
あんまり馴れ合うとまた「彼」につっこまれるから、
やめときますが(笑)、ご意見はよく分かりました。
ありがとうございました。
647 :
日本@名無史さん:03/11/17 18:26
さて、中世天皇というのは
武家権力の台頭とともに倒された
旧王朝のイメージが強いのですが
実際、日本中世では
倒されたビックボス
天皇のばらばらに
散った肉片が
またそれぞれ小天皇として復活してくる
ような状況を呈します。
天皇権力に引導を渡したはずの
源頼朝自身ですら
じつは天皇の一部からできた小天皇だったのですから。。
648 :
日本@名無史さん:03/11/17 20:31
何を分けわからんことをいっとる。
そんなこといったら、板東のイノシシ武者だって、
先祖をたどれば天皇じゃY。
>>640 根拠というか、頼朝ですら追認せざるを得ないのなら、この後にも自由任官する御家人が
いてもいいはずだし、自由任官組に対して頼朝(幕府)側の妥協もないように思える。
それこそ、小山、八田、梶原、という、幕府草創の有力御家人(側近)と頼朝の仕組んだ
「朝廷に大恥かかせて、頼朝に服従(
>>603)」するための自作自演じゃないかって気も。
引き出しがないからROMに戻りたいんですが、人いませんね。
>>650 638も私(589=649)ですが?何が言いたいんだろうか。
>>618の面々は少なくとも、頼朝死後に院に通じたわけで
頼朝存命時に、幕府に抗するために自由任官した御家人はいますか?
大内惟義が院に通じたのも、惟義自身には血縁のないものの、縁戚であった比企氏の滅亡と
弟朝雅が殺されたことを契機とした、受動的なものじゃないですか?
光員は、院の計らいで廷尉になったことを笠に、神領を侵したから問題になってるんでしょう。
現に問題の起こるまでの半年は放置していて、押領の結果神官が訴えでたから問題になり
廷尉補任は幕府の意向ではない、しかし、押領はただちに止めさせる、と言ってるだけじゃありません?
自由任官が反幕府的な行動に結びついているようにも見えませんよ。
惟義兄弟の父義信は頼朝の推挙で武蔵守になっていますが、朝雅や惟義は自由任官なんですか?
惟義が院に通じるのは、比企氏の滅亡、弟朝雅の誅殺後だと思いますが。
>>651 頼朝一代の間に自由任官が罰された記事が見えない点についてですが
「既に任官済みの官職を追認してもらう」と
「新たな自由任官をうける」とでは全く別もののような気もします。
以下は単なる私見に過ぎませんが、
壇ノ浦後時点から奥州合戦までの間の頼朝の課題というのは、
反乱から平氏追討という流れの中で動員してきた武士たちを、
自らの統制のもと、いかに平時の集団として定着させていくか、
だったと思うんですよ。
その一環として、例の自由任官の御家人への罵倒と「追放」命令があった、
とみてはいかがでしょうか。
自由任官した御家人たちが、どのような経緯で許されたのか、は
結局のところ、不明としかいいようがありません。
けれど、これらが「武士団の統制強化策の一環」であったとすれば、
頼朝が彼等の復帰の際に官職の返上を強制できなかったことと、
その後、自由任官するものが出なかったということは
決して矛盾しないのではないでしょうか。
つまり、自由任官を咎めることにより、頼朝の権威は上がる。
しかし任官した時点では、それを罪と認識させられるほど頼朝は強くなかったため、
官職の返上まで強制することはできなかった、というシナリオです。
たとえ自作自演だとしても、京都むけでなく、
「旗揚げ以来の側近でも自由任官をすると、鎌倉殿は激怒するぞ」と知らしめるための
配下の武士団むけだったと見るのも可能ではないでしょうか。
653 :
日本@名無史さん:03/11/22 10:28
岡野友彦さんの講談社新書の本、見た?
中世の支配者は将軍ではなく、天皇だと説いておられる。
654 :
209=223:03/11/22 11:17
>>651 >頼朝存命時に、幕府に抗するために自由任官した御家人はいますか?
これは議論のすり替えではないでしょうか?
自由任官に関する議論は
>>577の
>1180年からは頼朝との主従は鉄の規律です。
>源平合戦で、京都から勝手に官位を受け取った御家人たちは、墨俣から
>東に入れませんでした。所領からの追放、戻れば死罪。
>頼朝が完全に、主従関係を把握しています。
この発言に端を発しており
1180年以降85年までの間は決して「鉄の規律」ではないことを示す例として
自由任官があげられていると私は理解しています。
うーん。人がいないですねぇ。
(といってageる度胸はないのですが)
別の話題をふってみてもいいでしょうか。
スレタイに戻って、王家関連の話になりますが、
「八条院」についての疑問です。
以仁王を猶子としていたこと、源頼政もその影響下にあったこと、
義仲の兄、仲家が八条院蔵人として以仁王挙兵に参加(討死)したこと
などから、
その家政機関が内乱期において、重要な役割を果たしたとされている
にも関わらず、管見の限り(というか御白河の在位期くらいしかみれてませんが)
では、不思議なほど史料にあらわれてこない彼女。
彼女はどのような地位を王権のなかで占めていたんでしょうか。
>>652 1185年の自由任官騒動が、仮に自作自演だったのなら、一石三鳥くらいの効果があると思うんです。
・3さんも言っている、御家人への締め付け強化
・朝廷の権威低下と頼朝の権威上昇(「自由任官を咎めることにより、頼朝の権威は上がる(>652)」)
・義経派排除の口実
>官職の返上まで強制することはできなかった
返上させる意味はありますか?武士が官職を埋めることは本来、朝廷にとって不都合なことだと思いますが。
そのため、時代が下ると、武士の官職は定数外ということになりますよね?
かなり混乱してきたし、論を続けられるような器じゃないのも分かるから、ROMに戻りたいんですが。
>>654 頼朝存命時に、その後も自由任官が続いたかどうかは、そうそうズレた話題でもないと思いますが。
頼朝が妥協(院の補任を黙認)したのなら、佐竹や甲斐源氏等が院に近づいても不思議じゃないんでは?
>>651は
>>649に対して付された
>>618が、649への返答として適当ではないと思ったので。
>>577に関するあたりから読み直しました。
私も、1185年までは鉄の規律は存在しないと思います。
幕府に従う御家人に対しては、この自由任官騒動を以って、一応の規律の完成でしょうね。
朝廷、幕府、御家人の関わりは、個人的には
>>593を基本に
>>595を折衷したものが一番納得できるかな。
頼朝没後、幕府の締め付けが緩んだというより、頼朝の死に伴い水を得た魚のように暗躍しだした時政(と広元?)に
よって滅ぼされた、梶原氏、比企氏、畠山氏、平賀氏などの、北条氏に対抗し得た有力御家人。
幕府の権を以って、半ば私的に追討を繰り返す北条氏によって、幕府の存在意義そのものが揺らいだんでは。
そのため、大内氏や佐々木氏など、院に通じる有力御家人も出たんでしょう。
でもこれは逆に、院に積極的に通じた御家人は、北条氏に対抗しうる有力御家人(>595「守護レベル中心」)であって
他大多数を占める地頭層の御家人たちは、今までどうり幕府(=北条氏)に従った(>595「武家による所領安堵」)、と。
自分の言ってること(頼朝死後云々)が
>>601氏(
>>629)に近くて、なんか驚いた(失礼。荒らしぽい言動なんで)。
>>650は誰なんだろう。593氏(618)ですか?
とすると、梶原らの辞任、範頼の引用には全く相容れないけど、私は601氏(=595)により近いのかな。
>返上させる意味はありますか?武士が官職を埋めることは本来、朝廷にとって不都合なことだと思いますが。
>そのため、時代が下ると、武士の官職は定数外ということになりますよね?
話題になっている官職はそれほど上位のものではないので
朝廷にとってさほどの不都合はないと思う。
豊臣期に武家が公卿のかなりを占めてしまうのとはレベルが違う。
やっぱりみなさん、武士の話の方がすきなんですね。
ここ5年ほどの武士論研究の成果を私なりにご紹介します。
いわゆる「武士団」の中の多くは、秀郷流藤原氏、高望流平氏、経基流源氏といった、
連中が、地方に「留住」(都での官職を失わずに、地方でも私領を経営している
形態)したものが、「土着」(留住していた武士が、いつしか都での官職を失った形態)
して在地で国衙・権門家産機構と結びつく、という形で存在しています。
河内源氏・伊勢平氏は、他の美濃源氏・摂津源氏などと同様に、地方に留住しつつ、
「侍品」と呼ばれる衛府尉クラスの官職を得たうえで、
主に京都で王権に奉仕する、という形で活躍していました。
彼等は学問上、「京武者」と呼ばれています。
清盛・義朝はその中でも、京都で摂関・院と結びつき、受領クラスの官を得て、
(清盛は既に諸大夫クラスといっていいでしょう。
義朝は、小国の下野守で、いまだ侍品でしょうね)
権門の家産機構をテコに在地に地域的な軍事権力を樹立していました。
その結果、彼等は中央でも政治的な自立が可能になり、保元の乱を期に、
諸大夫クラスの官位を獲得し、自らの政治的利害を代表する
「武家の棟梁」に脱皮していった、とされています。
平治の乱の結果清盛が勝利し、公卿層へその家格をさらに上昇させたのは
ご存知の通りです。
しかし全ての京武者たちが清盛の私的な統制に服したわけではなく、
それぞれに武力をもって権門に奉仕していたことは、源頼政や多田行綱の例を
見ればお分かりになると思います。
(つづく)
(つづき)
このように見たうえで、義朝(とその子である頼朝)と、関東の武士団との
最大の違いを聞かれたら、なんと答えるべきでしょうか。
それは、やはり「京都に官職を持っているかいないか」でしょう。
京武者がもっている、地方の領地・権門とのつながり・五位の位階は
在地の武士も持っています。もっていないのは「京都での官職」だけです。
つまり、それさえあれ在地の武士は京武者層へ一階、家格を上昇させるのが可能なのです。
そして、京武者にさえなれが、武功さえあげれは最終的に大臣までなれることを
清盛が証明してみせました。
つまり、頼朝にとって「自由任官」は単なる家人の統制の問題だけでなく、
「家人が自らと同じ家格にまであがってくる」
潜在的なライバルを増やすことを意味しているわけです。
で、これに対応するにあたって、「主従の人格的な結合」による統制、すなわち
例の叱責によるしかなかったあたりが、この時点での頼朝の限界を物語っている、
と私は考えているわけです。
上に補足して、「京武者」による王権への軍事的奉仕、という形態は
現在では承久の乱まで続いた、と考えられています。
幕府による京都における兵権の独占は、圧倒的な軍事的勝利によるしか
達成されることはなかったのですね。頼朝もあせるわけです。
で以上のようなことを前提にして・・・
>>656 上の3つはだいたい同意ですが、
・朝廷の権威低下
これは賛成しかねます。官職の交付は朝廷による一方的なものであることは
腰越のあと、義経が伊予守に任官されていることからも明らかです。
頼朝がその家人を叱ったからといって、朝廷とはなんの関係もありません。
もし、幕府にそのような意図があったとするならば、義経の伊予守任官により、
最終的には頼朝の面子は、朝廷によりぺしゃんこにされていることも
指摘すべきかな、と。
官職の返上のもつ意味については、上で語ったとおりです。
本来、頼朝は御家人の「自由任官」をとがめだてできる立場ではないのであって、
咎める論理として「主従の個人的なつながり」しかなかったことが
『吾妻鏡』での、あの生き生きとした面罵からもうかがえます。
>>657 そうおっしゃらずに、カキコに参加していただければありがたいです。
このごろ人が少ないので。
承久の乱におっしゃるような側面があったのは確かだと思います。
ですが承久の乱での京方を、「反北条氏」だけで一くくりにするのは危険だと思います。
もともと当時の軍権自体が、幕府によって独占されていたわけではなく、
中世において、二つや三つの主家をもつことは不思議ではないのですから。
結局、承久の乱において幕府がもっていた統制力について、
関東をまとめあげて王権を軍事的に圧倒できたという点を評価するか、
「反」というより「脱」幕府的行動(院と直結し、幕府を超えようとした)御家人の存在を
指摘するか、という点が焦点となるのでしょうか。
ひとつだけいえるのは、統制力がどうとかそういう以前に、
承久時点での鎌倉幕府という権門の軍事力が、国内の他の軍事力を
王権のもとに糾合したものよりも、もっと強力であったということでしょう。
ただし、その軍事力はある日突然、関東の地に現れたのではなく、
旗揚げ以来頼朝ほかが、ゼロから少しずつステップを踏んで、少しずつ
積み上げていった努力の結果だったのだと思います。
663 :
小泉純一郎:03/12/06 00:15
しかるべき時がきたらちゃんとレスします保守。
664 :
日本@名無史さん:03/12/06 15:37
>>661 >上に補足して、「京武者」による王権への軍事的奉仕、という形態は
>現在では承久の乱まで続いた、と考えられています。
>幕府による京都における兵権の独占は、圧倒的な軍事的勝利によるしか
>達成されることはなかったのですね。頼朝もあせるわけです。
頼朝は京都とは離れずつかずという政策。京都兵権を狙っていた説でもあるの?
>腰越のあと、義経が伊予守に任官されていることからも明らかです。
>頼朝がその家人を叱ったからといって、朝廷とはなんの関係もありません。
>もし、幕府にそのような意図があったとするならば、義経の伊予守任官により、
>最終的には頼朝の面子は、朝廷によりぺしゃんこにされていることも
>指摘すべきかな、と。
義経の伊予守任官は、頼朝の内奏がそれ以前にあったからという理解が普通では。
伊予は頼朝の介入で管理され義経は実質何もできなかったはず。
>「主従の人格的な結合」による統制
頼朝は、朝廷に、鎌倉からの奏上無しに任官しないようにと申し入れてあり、
奏上無しの任官への不満を京都に送っていたと思ったが?
つまり、個人的な主従の関係でなく、「システムとしての統合」を
模索し、かなり成功してたと思える。
はじめて読んだが、3さんは、勉強家だね。それにわりと率直だ。
最初は、3さんは中世は権門体制だったのが、しだいに承久以後の大部分の鎌倉時代を
幕府が全国支配を広げる過程と理解してきているようだ。
素直に学んで、意見を変えたところがいいと思う。
665 :
日本@名無史さん:03/12/06 21:36
>>664 >はじめて読んだが
それはご苦労様です。ここは読み応えあるでしょう?
最近はだいぶ寂しいな。
666 :
日本@名無史さん:03/12/08 21:00
朝鮮人が日本を不法占拠して大和朝廷をつくった
店長、くだらない煽りレス入りました〜
668 :
日本@名無史さん:03/12/09 11:00
>>665 確かに疲れたね。
でも、なんか異様な気がした。
例えば、「キモ」なんて日本語は、あまり使う人がいないけど、2人もいて不思議だな。
同じ人の気がする。
>>351 :3 :03/09/25 11:05
キモは、
いわゆる「新仏教」ではなく「旧仏教」こそが
中世における仏教の主流をなしていた、という指摘だと思います。
>>618 :日本@名無史さん :03/11/15 08:47
「キモ」はそこでしょう?
669 :
日本@名無史さん:03/12/09 12:29
618はぼくです。3さんではありません。
「肝要候」とかばっかり見てるからね(笑)。
気持ち悪かったら、ゴメンね。
なんでこーゆーしょうもないことするかな。
672 :
日本@名無史さん:03/12/21 22:48
673 :
日本@名無史さん:03/12/21 23:02
ごめん別ウインドウと間違えて書き込んじゃった。
675 :
日本@名無史さん:03/12/25 22:38
123 :日本@名無史さん :03/12/12 00:20
>>121 ロシアは黒船よりも前から北海道に出没してます。
興味があるなら北海道の歴史の本をひもといてみると面白いかと。
英仏はあれです、ちょうどその時他の戦争(普仏戦争とかボーア戦争とか)に煩わされていて、
極東の小国なぞに関わってる暇などなかった、といったところなのでは。
127 :日本@名無史さん :03/12/12 00:35
>>123に加えて、
もっとも日本の開国に積極的だったアメリカが、
幕末から明治初期に影響力をもっていない理由は、南北戦争(1861〜1865)です。
英仏だけでなく米も極東の小国なぞに関わってる暇などなかったわけです。
ちなみに米は、日本が日清戦争に全力を傾けている間に、
ハワイをちゃっかり併合しました。
676 :
日本@名無史さん:03/12/25 22:45
>>676 その127を書いた者ですが・・・・。
基礎知識なくてすみません。
事件の年号1つググるだけで断定する独善性が足りなくてすみませんでした。
前後の事件を判断対象にしないのが2CH基礎知識なんですね。
ペリー来航〜明治維新に至る過程を1868年の1年に圧縮する洞察力は卓越してますね、
>>676さん。
勉強になります。以後、気をつけます。
今後は、
>>676さんを見習います。
93年1月、合衆国は王国の支配権を武力でうばい、
アメリカ人宣教師の息子サンフォード・ドールを長とする地方政府を設置。
94年7月にはドールを大統領とするハワイ共和国がつくられる。
98年、連邦議会はマッキンリー大統領のハワイ併合案を承認し、
同年8月12日、ハワイは合衆国に併合された。
678 :
日本@名無史さん:03/12/25 23:56
>>676の確固としたデジタル発想こそ本流です。
アフォな
>>677のような、アナログな発想は厨のすることです。
>>676を見習いましょう。
明治維新は1868年だけです。大晦日を過ぎたら、もう明治維新ではありません。
>>678 私は、
>>677ですが・・・。
明治維新の期間をよく知りませんでした。反省してるのにひどいな(汗。
手元の小学館の国語辞典では、
その始期と終期については諸説あるが、
広義には天保の改革から明治憲法成立の明治二二年までとし、
狭義には元治・慶応の討幕運動から明治四年の廃藩置県までをさす。
とありました。でもここは、2CHだから国語辞典なぞ糞ですよね。
氏ねよ、
>>677。
真剣に明治維新はあいまいな期間だと思ってたの?
最悪だぜ、だとしたら。
高坊だって今時もっとマシな歴史観持ってるってのによ。
221 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:03/12/26 01:02
>>220 >義経の伊予守任官は、頼朝の内奏がそれ以前にあったからという理解が普通では。
>伊予は頼朝の介入で管理され義経は実質何もできなかったはず。
素朴な疑問なんだけど、そんなに頼朝は強いのに、なぜもういちど朝廷に頼んで、
義経の任官自体をやめさせなかったの?
それにそんなに強い頼朝が追放した義経を、
朝廷が、頼朝の意向を無視してまで伊予守に任官したのはなぜ?
素人の的外れな疑問かもしれませんが、教えてください、お願いします。
横レス失礼
>123 :日本@名無史さん :03/12/12 00:20
>英仏はあれです、『ちょうどその時』他の戦争(普仏戦争とかボーア戦争とか)に煩わされていて、
>極東の小国なぞに関わってる暇などなかった、といったところなのでは。
何回読んでも、
>広義には天保の改革から明治憲法成立の明治二二年までとし、
>狭義には元治・慶応の討幕運動から明治四年の廃藩置県までをさす。
は、必死な言い訳にしか読めんがなぁ〜。痛いなぁ。
>127 :日本@名無史さん :03/12/12 00:35
>ちなみに米は、日本が日清戦争に全力を傾けている『間』に、
>ハワイをちゃっかり併合しました。
>677 :日本@名無史さん :03/12/25 23:01
>93年1月、合衆国は王国の支配権を武力でうばい、
>アメリカ人宣教師の息子サンフォード・ドールを長とする地方政府を設置。
>94年7月にはドールを大統領とするハワイ共和国がつくられる。
>98年、連邦議会はマッキンリー大統領のハワイ併合案を承認し、
>同年8月12日、ハワイは合衆国に併合された。
これも相当に痛いなぁ。日清戦争も前後入れて5年間かぁ?
すみませんでした。
2つの政権論が主流とは知らずに権門体制を論破されたので、
他スレで初心者相手に近現代で自作自演しようとしたのですがばれて失敗しました。
明治維新も日清戦争もごまかそうとしたのですが、馬鹿丸出しでおしまいですねw。
義経の伊予守任官と頼朝の奏上の関係は全く知りませんでした。
調べたらそのとおりでした。義経が伊予を支配できなかった理由も知りませんでした。
朝廷は奏上どおりしただけなんですね。頼朝は奏上してしまったから止むを得なかったんですね。
恥ずかしすぎて穴があったら入りたいです。
もう2チャンはやめます。
ぺちゃんこにされたのは頼朝ではなく自分でした。
大学院生も学部生も全部僕です。ごめんなさい。
>>683 参考までに教えてほしいが
大学院生とはどの発言のことなのでしょうか?
>>683 >頼朝は奏上してしまったから止むを得なかったんですね。
朝廷が任命してしまった伊予守に支配をさせないことができるのに、
奏上が取り消せないってのはおかしくないですか?
1も2ゲットーも私です。
やっぱりばれますよね。
もう、恥ずかしくてたまりません。
>上に補足して、「京武者」による王権への軍事的奉仕、という形態は
>現在では承久の乱まで続いた、と考えられています。
>幕府による京都における兵権の独占は、圧倒的な軍事的勝利によるしか
>達成されることはなかったのですね。頼朝もあせるわけです。
頼朝は京都とは離れずつかずという政策。京都兵権を狙っていた説でもあるの?
特にこれは頼朝の政策への無知ばれで、恥ずかしい限りです。
頼朝の顔がぺちゃんこにされたなんて書いて恥ずかしくてたまりません。
しかも、自信満々に偉そうに書いてしまいました。
調子こくとろくなことがないですねw。m(__)m
ageたりsageたりも、混乱して失敗が多くて、これじゃぁバレバレですよね。トホホ・・・。
回線切って逝きます。2度ときません。
な、なに?この人?
ひょっとして触れないほうが良い質問だったの?
初心者スレでも暴れてるのはこの人だね。
さらっと過去ログ読んだけど、最近、板じゅうで自作自演って騒いでる
やつがいたのはこのスレのせいだったのか。
この人、よっぽど、ここの3に相手して欲しいみたいだね。あらゆるレスが
3にみえるなんてさ、3が大好きなんだよ
3よぉ、いぢわるしないで相手してやれよ、こんなに思われる経験なんて
めったにないじゃないw
689 :
日本@名無史さん:03/12/28 14:10
>朝廷が、頼朝の意向を無視してまで伊予守に任官したのはなぜ?
大天狗様は義経が頼朝の対抗馬になると思っていたから。
無理と見たら速攻で解官して見捨てたんじゃなかったか。
>>689 大天狗って後白河院ですよね。
時間関係は、頼朝が義経を追放、義経が伊予守任官でいいんですよね。
ってことは、頼朝が自由任官を理由に義経を追放した直後に
後白河院の手で義経が出世した、ということですね。
ってことはやっぱり頼朝の面目は丸つぶれになってるような。
プロ野球で例えたら、クビにした外人が大リーグで大活躍してるみたいなものですか?
1185年8月、義経に謀叛の風聞が立っていたが、春から頼んでた事だから今更停めらんねーよと伊予守に任命。
同年9月、義経への使者として梶原景季が出立。行家を探索即誅殺するよう触れ回り、義経のリアクションを見てくるよういい含められる。
同年10月、景季が鎌倉に帰る。義経には病気を理由に会うことすら断られ、再度訪問し面会したが「行家は同じ一族なんだから見つけ次第ぶっ殺死ってのは酷くねー?」って言われたと報告。
それを聴いた頼朝は「あんの野郎仮病使いやがったな」
すかさず景時が「メシ抜いて完徹すれば見た目はカンペキジャン、お灸の痕なんか一気にいくつでも点けられんジャン。景季と会わずに行家を逃がしたんジャン、仮病の偽装をしてから訪問を許したんジャン」
その後鎌倉ではどーやって義経をぶっ殺すか三日三晩謀議をつくして土佐坊らを派遣。
同年11月、義経が京都を追われ解官される。
伊予守に任じられた時は別に追放されてない。
1も2ゲットーも私です。
やっぱりばれますよね。
もう、恥ずかしくてたまりません。
>上に補足して、「京武者」による王権への軍事的奉仕、という形態は
>現在では承久の乱まで続いた、と考えられています。
>幕府による京都における兵権の独占は、圧倒的な軍事的勝利によるしか
>達成されることはなかったのですね。頼朝もあせるわけです。
頼朝は京都とは離れずつかずという政策。京都兵権を狙っていた説でもあるの?
特にこれは頼朝の政策への無知ばればれで、恥ずかしい限りです。
頼朝の顔がぺちゃんこにされたなんて書いて恥ずかしくてたまりません。
しかも、自信満々に偉そうに書いてしまいました。
調子こくとろくなことがないですねw。m(__)m
ageたりsageたりも、混乱して失敗が多くて、これじゃぁバレバレですよね。トホホ・・・。
回線切って逝きます。2度ときません。
687や690も私です。
ごめんなさい。
伊予守の件も、調べてやっとわかりました。
板とスレの区別がまだわかりません・・・。
あぼーん
694 :
日本@名無史さん:04/01/17 05:37
富士川の時点で、頼朝がきちんと抑えていたのは相・武・房・総・豆だった
695 :
日本@名無史さん:04/01/23 21:44
私はどっちかといえば、3さんたちより601さん(仮)に共感できる部分も多いんだけど
なんでこうゆー行為に出るかな。
もうこのまま落ちて消えそうだし誰か纏めてください。
結局、中世(*)の天皇の位置付けってどうだったんですか?
*)鎌倉、室町、15世紀末から16世紀末にかけて、区切りとしてはこんなかんじですか?
一応(もう見てないかな)
>>658 本気で鎌倉に対抗するには、あの一時の自由任官された御家人より大人数の抱きこみが必要で
実務官僚である三等官・四等官などを武士に占有されるような事態にもなりかねませんよね。
現に鎌倉御家人が多数、受領や諸大夫層に昇ったように、武士を繋ぎ止めるには、何時までも
下位の官職に留めるわけにもいかないし、豊臣政権のような公卿層の占有まではいかないまでも
元来朝廷に仕えていた官人の職(食い扶持)が奪われることに変わりはないんじゃないですか。
696 :
怨みの門番:04/02/02 22:54
1.このまま落ちる
2.もう一度やりなおす
AA略>お逝きなさい!
以下のような区切りが一般的では?
1、白河上皇(または後三条)〜頼朝台頭以前の後白河の時期
2、承久の乱まで
3、鎌倉の助言ないし模倣によるやや復活期から元寇まで
4、元寇期から建武まで
5、建武から南北朝
6、室町期の幕府による権威の取り込み
7、戦国期の窮乏
8、信長・秀吉の王政復古
698 :
日本@名無史さん:04/02/07 16:07
もうすでに名のみ
699 :
日本@名無史さん:04/02/07 19:51
>>698 それはいつものこと。「あり続ける」ことが重要かと。
700 :
日本@名無史さん:04/02/08 16:11
>>539 曖昧って、九条道家は仲恭の外祖父だから、反対とは言えんだろう。
701 :
日本@名無史さん:04/02/08 16:42
>>697 信長や秀吉が「王政復古」をしたなんて説はすでにほとんど破綻していると思いますが・・・
702 :
日本@名無史さん:04/02/16 22:48
正親町や後陽成が織豊政権内で後醍醐や明治みたいな位置付けだったってこと?
703 :
日本@名無史さん:04/02/16 22:49
704 :
日本@名無史さん:04/02/16 23:03
>>702 んなこたあない。
織豊政権下でも室町時代や戦国時代と同様のまったくの飾り物。
よくなったことといえば天下人から知行を与えられて経済的に安定したことくらいだな。
705 :
日本@名無史さん:04/02/16 23:09
織田信長時代はともかく、豊臣秀吉は幕府ではなく、
関白として、朝廷の官職に就任して政治を行ったのだから、
摂関時代と形では同じなので王政復古でもおかしくないのでは?
秀吉は後陽成天皇から日本全国の支配権をゆだねられたと称して、惣無事(全国の平和)をよびかけているし
天皇に見せるためとして、全国の大名に対して、その領国の検地帳(御前帳)と国絵図の提出を命じている。
単なる飾り物とは言えない。
707 :
日本@名無史さん:04/02/16 23:19
そういうのを「飾り物」というのです。
708 :
日本@名無史さん:04/02/16 23:21
まさに天皇の政治利用。
利用される客体にすぎない「玉」は、秀吉政権の飾り物です。
近世初頭の天皇を飾り物と見るのは
80年代以前の発想。
現在の学界の主流はそこにはない。
711 :
日本@名無史さん:04/02/16 23:32
>>709 >>706に挙げられている朝廷の「機能」は秀吉によって与えられた「役割」に過ぎない。
朝廷に実権がないのはそれまでともそれ以降とも変わらない。
712 :
日本@名無史さん:04/02/16 23:33
>>705 征夷大将軍も関白も朝廷の官職であることに変わりはありません。
713 :
日本@名無史さん:04/02/16 23:33
>>711 そういう役割を果たせるだけの下地があるということですよ。
715 :
日本@名無史さん:04/02/16 23:35
>>708 それなら、摂関時代以降の(院政時代も含む)村上天皇・
醍醐天皇・後醍醐天皇を除く現在の今上天皇までみんな
飾り物になるが。
716 :
日本@名無史さん:04/02/16 23:36
>>714 「下地」は室町時代も織豊政権期も江戸時代も大差ない。
朝廷はあまりにも無力。
717 :
日本@名無史さん:04/02/16 23:37
>>715 「天皇」と「朝廷」を取り違えてないかい?
718 :
日本@名無史さん:04/02/16 23:38
下地というか伝統的権威があることは誰も否定していない。
しかし、権威があるから実権があるというのは言いすぎではないのか。
719 :
日本@名無史さん:04/02/16 23:40
>>712 確かにそうだが関白と征夷大将軍とは全然役割が違う
からね。関白はあくまでも天皇の補佐役だからね。
帝国憲法時代の内閣もしくは軍部が天皇を輔弼したのと
形の上では同じ。
>>713 幕藩制国家論以前の近世国家像は、
戦前の皇国史観への反発もあって、
公家や寺家の存在は無視も当然だった。
幕藩制国家論はこれを大きく転換させ、
近世の国家権力は天皇・公家・門跡などを含めた広い意味での朝廷を圧倒・支配しつつ
「公儀の金冠部分」として必要不可欠な存在として組み込んだと見る。
721 :
日本@名無史さん:04/02/16 23:47
「金冠」はあくまで冠だあって、頭脳でも心臓でもないよな。
722 :
日本@名無史さん:04/02/16 23:48
訂正
「金冠」はあくまで冠であって、頭脳でも心臓でもないよな。
723 :
日本@名無史さん:04/02/16 23:49
つまり「お飾り」ってこった。
725 :
日本@名無史さん:04/02/17 00:06
┌────────────┐
│ V ▽ 日 客 |
│ ≡≡≡≡ ∧∧ が │
│● ∩ U (,,゚Д゚) 来 |
│ |つ∇) な |
│.3  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ い. |
│点 ――――――― |
└────────────┘
戦国時代になるとスレ進むね。
平安が古代なのもピンとこないけど、織豊も近世でよくない?
728 :
日本@名無史さん:04/03/07 10:08
朝廷が任命してしまった伊予守
729 :
日本@名無史さん:04/03/07 11:54
>>725 お前、馬鹿田大学の学生だろ。
深谷のは古いんだよ。
みんな騙されるな。
高埜利彦『江戸幕府と朝廷』(山川出版)の方が最新の成果が簡明にまとめられていて絶対イイぞ。
死霊変惨所の先生のHPでかつてここに似た雰囲気のBBSがあった。
読んでるだけだったけど色々勉強になったなあ。
今は閉鎖されちゃったけど。
それはさておき、なんで近世の香具師が参入すると荒れてレベルが下がるの?
またリブレット??
高埜さんは、幾つかの本で、以下のようなことを書いていたと思うが?
1、家康の朝廷封じ込め成功
2、紫衣事件におけるように、権威においても幕府側が絶対的優越を獲得
3、「天皇←幕府←大名←民」という尊王思想・朝廷儀式復権は、幕府側が広めた
4、尊号一件における寛政期の幕府の優越
5、民衆の御所周り事件での、朝廷が京都守護職に申し出たときの態度は、
まさにビクビクとへりくだっていた
>「公儀の金冠部分」として必要不可欠な存在として組み込んだと見る。
これは、幕府が武断から文治に移るときに、わざと仕組んで、組み込んだんだよ。
便利だけど、必要不可欠ではない。
必要不可欠になったのは、1860年代半ばあたりから。
光格天皇も王政復古など夢にも考えてないし、孝明天皇も佐幕論者。
尊王論が倒幕論に転換するのは、幕末のほんの数年。
尊王論を幕府が広める際に、江戸初期の儒者の危惧が当たった形となった。
高埜さんて、マルクス主義派なんだよね。
高埜さんが編集してる講座・前近代の天皇や、内容がかなりかぶってる
日本の近世の2(辻さんの天皇と将軍)あたり、読んでみたら?
講座・前近代の天皇の2巻めあたり読めば、信長・秀吉の王政復古も理解できるんじゃない?
同じ編集委員の今谷さんが否定されてて面白いよ。
>>732は研究史の読めないバカでした。
自ら低脳だってことを全世界に晒して、恥ずかしくないのかね、こいつ。
( ´,_ゝ`)プッ
正直、皇族の和歌のレベルは年々下がってるような気がするんだが・・・
中世とは比べ物にならん。単に昔はゴーストライターがいただけかも
しれんが。
735 :
日本@名無史さん:04/03/08 21:57
>>732 そうだね。
私もほとんど同意見。
リブレットって、初心者向けの、あの超薄い本のこと?
>>733 あぁ、3さん。お久しぶりです。
中世で完璧に論破されたので、近世に変えたのですね。
今度は逃げ出さなくて済むように、頑張って自作自演しぬいてください。
質問スレでは第三者を入れたり、工夫してたけど論破されて逃げましたね。
でも、本当に天皇が好きなウヨなところが好きです。
コヴァレベルなのに、論理が破綻してても言い張るのはえらいと思います。
近代でも事実確認が全然違うのに言い張り続けたのは偉いと思います。
近世で論破されたら、あとは古代しかありません!
検索で大忙しだと思いますが、私を導いてください!
737 :
日本@名無史さん:04/03/10 19:12
ところで
中世の天皇とは古代以来の政治的権力を残しながらも
その政治的権力が衰退に向かい始めたことから
より宗教的権威を強化していった時代ではないかと思います。
738 :
日本@名無史さん:04/03/10 19:31
中世史や近世史にまで天オタがしゃしゃりでるなよw
739 :
日本@名無史さん:04/03/10 20:48
こいつ面白いので晒しage
736と同一人物としたらすごい粘着だな。
34 :日本@名無史さん :03/08/01 00:32
>30-33
かねてより一連の質問をしている者です。
学部生ですが、試験とは関係ございませんので枠に捉われぬご意見をお聞かせ願いたく存じます。
あなたがずっとお答え下さっている方ですよね?ありがとうございます。
28さんは今までとは文調が違うなぁと思いつつも、確信はなかったものですから、お礼と次の質問は短めにさせていただいた次第です。
ではあらためて30さんに、天皇と摂関の関係(一例として大嘗祭神事代行)と二神約諾思想についてのお導きをお願い致したいのですが如何ですか?
もちろん28さんのご意見も伺いたく存じます。
78 :日本@名無史さん :03/08/02 18:27
仲良くお相手して下さいますので調子にのって少し自己紹介させて頂きます。前から書いております通り学部生でして、それもこの分野が専攻ではありません。
それが今回たまたま山川ブックレット『中世の天皇』を手にしてすぐ、このスレを知り、渡りに舟と御教示頂きおる次第です。
ですから実はスレ主でもないのに根をおろしてしまい1さんに申し訳なくも思っております。続く
>>739 736は騙りの荒し君。
範頼の三河守辞任や自由任官した御家人の事後等々
彼は自分が論破されたことには気付いていないのか。
>>740 本人は「論破した。」と思って勝ち誇ってるんでしょ。
哀れですな。
けどその程度の荒らしすら、あしらえないここの3は
ある意味もっとあわれかも知れんねw
742 :
日本@名無史さん:04/03/11 04:07
736にまんが日本昔話DVD「雉も鳴かずば」をお勧めする。
743 :
日本@名無史さん:04/03/11 08:34
岡野友彦氏が講談社新書で「中世日本のボスはやっぱり天皇だ」
という本を書いたでしょ?どういう感想持ったか良かったら教えて。
ちなみにおれは「ちょっと無理があるかなあ」と思わざるを
得なかったが。
744 :
日本@名無史さん:04/03/11 18:21
中世における天皇はは、依然として
ゴッドファーザーでありつづけたと言えよう。
平地の実体的支配力を失った後も
なお海や山、平地の権力に属しない人々
の支配権をもちつづけていたからである。
>>743 「源氏と日本国王」のことかな?
内容のまとめが
>「中世日本のボスはやっぱり天皇だ」
ではちょっとかわいそうとは思うが。
感想としては
『中世久我家と久我家領荘園』を読んだときは、
こんな人とは思わなかったのに、といったところかな。
>>739>>740>>741 そうそう、そうだよね。
義経の任官の件で赤っ恥の3は、もう出てこれないよね。
大リーグがどうしたとか、訳のわからないことかいてたしね。
つか、実はこのスレ立てたのが3なんだよね。
2ゲットーととか書いてたよ。
3=
>>733は「日本史の良書」スレにもいたよ。
>>733はまた論破されて脊髄反射しちゃってるね。哀れ。
469 :日本@名無史さん :04/03/07 20:51
勧告人って結局はそのパターンかよ。
頭悪いのを全世界に自ら晒して、よく恥ずかしくないな。
( ´,_ゝ`)プッ
661 :3 :03/11/30 14:11
上に補足して、「京武者」による王権への軍事的奉仕、という形態は
現在では承久の乱まで続いた、と考えられています。
幕府による京都における兵権の独占は、圧倒的な軍事的勝利によるしか
達成されることはなかったのですね。頼朝もあせるわけです。
で以上のようなことを前提にして・・・
>>656 上の3つはだいたい同意ですが、
・朝廷の権威低下
これは賛成しかねます。官職の交付は朝廷による一方的なものであることは
腰越のあと、義経が伊予守に任官されていることからも明らかです。
頼朝がその家人を叱ったからといって、朝廷とはなんの関係もありません。
もし、幕府にそのような意図があったとするならば、義経の伊予守任官により、
最終的には頼朝の面子は、朝廷によりぺしゃんこにされていることも
指摘すべきかな、と。
748 :
日本@名無史さん:04/03/11 22:03
あ、ほんとに論破した、と思ってたんだ。
バカは救いようがないね。
690 :日本@名無史さん :03/12/28 17:21
>>689 大天狗って後白河院ですよね。
時間関係は、頼朝が義経を追放、義経が伊予守任官でいいんですよね。
ってことは、頼朝が自由任官を理由に義経を追放した直後に
後白河院の手で義経が出世した、ということですね。
ってことはやっぱり頼朝の面目は丸つぶれになってるような。
プロ野球で例えたら、クビにした外人が大リーグで大活躍してるみたいなものですか?
>>748 あ、3さんですね。お久しぶりです。
>義経の伊予守任官により、
>最終的には頼朝の面子は、朝廷によりぺしゃんこにされている
これが間違いだと批判されてます。
>時間関係は、頼朝が義経を追放、義経が伊予守任官でいいんですよね。
これが事実誤認の高校生レベルの間違いと日本史板じゅうでで笑われてます。
>プロ野球で例えたら、クビにした外人が大リーグで大活躍してるみたいなものですか?
これは呆れられています。
早く、反批判してください。
あと、日清戦争とボーア戦争の事実誤認や江戸時代の桜の木に関する基礎知識不足も
言われてますから。それも反批判しちゃってください。
20分間の間隔あけて自作自演してるとも言われてますので、
2日間の間隔なら、ばれないと思うので、じっくりやっつけてください。
751 :
日本@名無史さん:04/03/11 22:18
粘着うざい。もうやめろや。
せっかく違うネタ出てきてるのに。
>>737 :日本@名無史さん :04/03/10 19:12
>ところで
>中世の天皇とは古代以来の政治的権力を残しながらも
>その政治的権力が衰退に向かい始めたことから
>より宗教的権威を強化していった時代ではないかと思います。
違うネタって、3の出したこれか?
相当痛いぞこれは。また爆笑って言われちゃうぞ。
話題をそらして、逃げる手もばれてるし困ったな。
>>751=3は、早く
>>750に、答えればそれでよい。
私の逃げの得意技「専門外ですが・・・」で、ごまかしてもいいが。
ついでに言えば、
>>743=
>>745の自作自演も使いすぎて、わかりやすすぎるから止めた方がいい。
スレ立て人の意地もいいが、退き際も肝心だ。
私は君のことは忘れないから幸せにな。
753 :
日本@名無史さん:04/03/11 22:52
>>750 そんなレスがあったのか。確かに笑えるな。
それで論破されたのは自分じゃないって言ってるのか。
痛すぎ。
日清戦争、江戸時代の桜も貼り付けてくれ。
笑えそうで興味がある。
754 :
日本@名無史さん:04/03/11 23:15
>>751 名前:日本@名無史さん :04/03/11 22:18
>粘着うざい。もうやめろや。
「や
め
て
く
だ
さ
い
。
お
願
い
し
ま
す」
だ
ろ
?
断
末
魔
の
泣
き
声
か
?
755 :
日本@名無史さん:04/03/12 23:53
>>746は日本史関係のスレを巡回している人間の屑。
言ってみれば蛆虫、ダニってとこかな。
そんなムダな時間があったら、まあお前の頭じゃ研究ノートは無理だろうが、
せめて研究メモくらいは書いとけ。
>>755 2ちゃんでも相手してもらえないうえ、
相手してもらえてないこともわからないやつに、
まともなレポートすら、書けるとは思えないけど。
>>754なんかみてみ、頭の悪さ丸出し。
>>755>>756 あ、3さんですね。お久しぶりです。
age&sageの自作自演の間隔が10分しか空いてないですよ。
いつもは20〜30分なのにどうしたんですか?我慢できなかったんですか?
気持ちはわかります。負け犬らしくて素敵ですよ!
答えられないのはつらいんですか?応援してます!
>義経の伊予守任官により、
>最終的には頼朝の面子は、朝廷によりぺしゃんこにされている
これが間違いだと批判されてます。
>時間関係は、頼朝が義経を追放、義経が伊予守任官でいいんですよね。
これが事実誤認の高校生レベルの間違いと日本史板じゅうでで笑われてます。
>プロ野球で例えたら、クビにした外人が大リーグで大活躍してるみたいなものですか?
これは呆れられています。
早く、反批判してください。
あと、日清戦争とボーア戦争の事実誤認や江戸時代の桜の木に関する基礎知識不足も
言われてますから。それも反批判しちゃってください。
ああ、どうやら、相手してもらえてないことは
わかってるらしいね。
760 :
日本@名無史さん:04/03/13 00:41
何だか荒れたスレだな。不愉快になるぞ。
ここや初心者スレやあちこちで自作自演やってる奴が原因だな。
そいつが日本史板から退出すれば解決するんじゃないか?
>>760 いやだ!
僕には日本史板しか自己表現の場がないんだ!!
絶対に自作自演は止めないぞ!
おまえらに天皇様の偉大さがわかってたまるか!
リブレットだったら理解できるんだぞ!
763 :
3=>>759:04/03/13 00:52
>>758 わかった。俺の負けだ。認めるよ。
完敗です。
もう一度、バカウヨ本で勉強してから出直してくるよ。
数年は逃げる。
サラバ!
764 :
日本@名無史さん:04/03/13 00:57
なんだこのスレは???
間違いは誰にでもあるんだから、あんまり3をいじめちゃだめだよ。
特に、若い高校生や大学1年生なら仕方ないじゃないか。
もうやめてあげなよ。
3という人が、かわいそうなのでネタを振ってやろう。
みんな、「大政委任論」について語ろうや。
変なメールアドレスだな
あ
768 :
日本@名無史さん:04/03/13 09:29
そうかあ、3はけっこう歳いってる人のように
オレには感じられたがねえ。文章とかが、落ち着いてたもん。
2ちゃん語は絶対使わなかったしさ。
そういう人をばかげたことで揚げ足とって苛めるんだから、
困ったもんだよなあ。(って、おれは3じゃないよ。)
>>768 横レス失礼します。初カキコです。
私としては、3氏の天皇偏愛史観による洗脳ぶりの非科学性には、幼さを感じられます。
もし、年配者であれば、精神的または知的に幼いのか、あるいは歴史を勉強したことのない
理系の人物の印象を受けます。
あと、次のようなレスからは、「2チャン語は絶対使わなかった」どころか、
精神的にもろく不安定な、自分だけが絶対に正しいという勘違い人間の印象を受けます。
733 :日本@名無史さん :04/03/07 22:57
>>732は研究史の読めないバカでした。
自ら低脳だってことを全世界に晒して、恥ずかしくないのかね、こいつ。
( ´,_ゝ`)プッ
469 :日本@名無史さん :04/03/07 20:51
勧告人って結局はそのパターンかよ。
頭悪いのを全世界に自ら晒して、よく恥ずかしくないな。
( ´,_ゝ`)プッ
>揚げ足とって苛めてる
3氏はいじめられてると思ってるようですが、たぶん幼いころからのトラウマでしょうが、
正常な質問に答えず、自作自演で逃げまくる3氏に全責任があると思います。
これでは、実社会でしたら袋叩きで、仲間ハズレやむなしです。
親や社会で教わってないようなので、教えてもらう必要があるのでは?
>>769 横からよけいな発言でスミマセンが、範頼は辞官してるようですし、
頼朝の命の恩人の広常でさえ頼朝に殺されているのですから、
関東武士への頼朝の権限は、京都を凌いでいたで、結論済みかと思います。
3氏が
>>757に答えれば、このスレも落ち着くんじゃないのですかね?
答えられないのなら、謝罪すればいいことだし、それがいやなら退却しかないですね。
自分で立てたスレに、いられなくなるなんてのは2チャンではよくありますから。
772 :
日本@名無史さん:04/04/04 19:29
>>770 違うスレまで熟覧して乙彼ですw
そんなヒマあったら作文の練習でもしてろ。ゲラ
773 :
日本@名無史さん:04/04/05 23:50
いくら
>>590でもこんなバカなことは書かないだろ
>頼朝の命の恩人の広常でさえ頼朝に殺されているのですから、
>関東武士への頼朝の権限は、京都を凌いでいたで、結論済みかと思います。
これは裏の裏の逆騙りか?
774 :
日本@名無史さん:04/04/06 00:39
775 :
日本@名無史さん:04/04/16 22:42
あ、3さんですね。現役学部生です。お久しぶりです。
我慢しきれなくなってカキコしちゃたんですね。
気持ちはわかります。負け犬らしくて素敵ですよ!
答えられないのはつらいんですか?応援してます!
>義経の伊予守任官により、
>最終的には頼朝の面子は、朝廷によりぺしゃんこにされている
これが間違いだと批判されてます。
>時間関係は、頼朝が義経を追放、義経が伊予守任官でいいんですよね。
これが事実誤認の高校生レベルの間違いと日本史板じゅうでで笑われてます。
>プロ野球で例えたら、クビにした外人が大リーグで大活躍してるみたいなものですか?
これは呆れられています。
早く、反批判してください。
あと、日清戦争とボーア戦争の事実誤認や江戸時代の桜の木に関する基礎知識不足も
言われてますから。それも反批判しちゃってください。
>>772は、自演と多重人格を認めちゃったってことですか?潔くて素敵です!
>>773は、また知らないんですね。早く図書館に行って論破してください!
3なら平家スレにいるよ。
777 :
日本@名無史さん:04/04/21 07:11
777げっと
778 :
日本@名無史さん:04/05/03 03:33
779 :
日本@名無史さん:04/05/07 15:39
折角の良スレだったのに、たった一匹の馬鹿のせいでこうまで荒れてしまうとは‥‥
>775には速攻で死んでほしい。
初めて読んだが、最初から最後まで、自作自演のクソスレだったで決定だな。
レベル低すぎ。
>>780 だから、おまえが早く死ねばいいんだよw
例えば、
>>413や
>>473が209であるとか、
>>451が3であるということは、自作自演と云えるのであろうか。
否、これは暗黙として皆が気づいている事なので、ことさら自作自演と批難されるような事ではない。
783 :
日本@名無史さん:04/05/20 00:14
>780
>最初から最後まで、自作自演のクソスレだったで決定だな
あんたのみっともない大量の自作自演レスさえ無ければ良スレだったんだよ。
負け犬は潔く消えればいいのに、恨みがましい粘着嵐で恥の上塗り。
これじゃ女にもモテないわけだ(w
784 :
日本@名無史さん:04/05/20 11:04
ぼくも「黒田俊雄と権門体制論のいま」に
触れることができて、とてもよいスレだと思ったがなあ。
785 :
日本@名無史さん:04/05/20 21:57
>>784 そうだね。途中までは2ちゃんには珍しいくらい良スレだった。
みんな異論に対しても節度のある大人の態度で議論を進めていたし、
このまま終わってしまうのは惜しい。
粘着荒らしをアク禁にして再開してほしいものだ。
>>784 >>785 権門体制論は、最近は崩壊しきったようですね。論争の歴史としては面白いけど。
自作自演対策に、近日中にIDが日本史板にも導入され、
全レスに、なにやら端末ナンバーがつくそうです。
これで、自作自演もできなくなっていいですね。
早く日本史板の正常化がこないかと楽しみです。
787 :
日本@名無史さん:04/05/28 23:30
今、欧米がもっとも崩壊したと思ってるのは権門体制論なんだけど
788 :
日本@名無史さん:04/05/28 23:32
私はむしろ逆で、目、権門体制論者の情熱あふれる目が重要だと思うの
>787
よく意味が分かりませんが、
欧米の研究者は「権門体制論はダメだ」と思っている、
ということですか?
もしそうだとすると、そうかなあ?と首を傾げざるを
得ません。ハーバードのマイケル=アドルフソンなどは
ばりばりの権門体制論者じゃありませんでしょうか?
ちなみに権門を英訳すると「power gate」
で、そりゃあねえだろう、と思いましたが。
790 :
日本@名無史さん:04/05/31 23:29
>>789 明日火曜日の深夜0時半頃からフジテレビつけとけばわかりますよ。
>>785 >負け犬は潔く消えればいいのに、恨みがましい粘着嵐で恥の上塗り。
そうだよね。同感だよ。
義経の任官のことも知らない恨みがましい粘着は、
スレ立てから全部が自作自演だってばれて恥ずかしいから消えるべきだね。
ところで、また自作自演が始まってるね。
初心者スレや平家スレじゃ足りないのかね。
ハーバードのマイケルとは、かなーり笑えるね。
マイケル氏の原文をアップしてください。
要約でなくて、そのまま原文ですよ!
アップすべき場所はわかってるんでしょw?
最近、鎌倉時代は権門体制って学者はかなーり消えたか死んだね。
2つの王権論派が、中堅若手ではほとんどだね。
なんで、黒田のようなあんな古いマルクス主義学者をいつまでも熱愛するかね。
吉川弘文館の近刊の日本の現代史の鎌倉部分は、
全員、2つの王権論で成立しているね。定説となったと言うしかないね。
もう、学界じゃ、終わった話で、論点はとっくに先に進んでるんだけどね。
なんで、天皇マンセーにこだわるか不思議だね。
643 :日本@名無史さん :04/05/26 21:58
>>639 横書きはすべて左からよみます。
右から読む横書きに見えるものは、一行一文字の縦書きにすぎません。
よって右から読む横書きは存在しません。
702 :698 :04/05/31 22:35
>699
江戸時代の官位って、朝廷が自主的に決めてたの?
幕府から依頼されるとかじゃなくて?
703 :日本@名無史さん :04/05/31 22:53
高い官位を取得する為に公家工作をする人はいた。
幕府政権は緩やかな中央集権国家だから直接天皇家に接するもあり。
715 :日本@名無史さん :04/06/01 21:01
江戸時代の長崎貿易で実学医学の蘭書は沢山入ってきたようですが、
政治思想、哲学系の蘭書は入ってこなかったのでしょうか?
グロチウスやエラスムスなどが入ってくれば日本も随分変わったと思うのですが。
716 :日本@名無史さん :04/06/02 06:46
勿論沢山入ってきてるよ。
幕末から明治にかけての動きにはそういう外からの知識も影響を与えてる。
でないといきなり変革なんてできない。
>>791 ”ハマダ”やけども、このスレと掠りもしない話題をコピペする意図が理解出来ませんね
797 :
日本@名無史さん:04/06/05 10:09
>>793 佐藤進一氏の「東国国家論」は、鎌倉を中心とする関東も
一つの国家と認めるべきものだ、と主張しているわけであって、
当然のことながら京都の朝廷を否定しているわけでも軽視して
いるわけでもない。
とするとね、「東国国家論」と「二つの王権論」は
どこがどう違うの?
798 :
日本@名無史さん:04/06/06 00:10
佐藤は独立国家として東国を評価していいといってた。
つまり、黒田と違って、天皇政府を相対化できていた。
佐藤は戦前から言ってた、これまた恐ろしく古い話だ。
2つの王権論を何も読んでないみたいだから、
誰かが出していた、吉川弘文館の「日本の時代史」の該当巻でも読んで見たら?
権門体制論が、すでに学界で無意味化している理由がよくわかる。
東国における独自の鎮護国家宗教システムなどは面白い。
しかし、黒田も五味も左っぽい。なんで左が多いのかね。
黒田の中世神国は仏教概念との論文はいいけどね。
>>794=795
はは、確かに爆笑な珍答・迷答だね。どこのスレなの?コヴァ板?
>>784 マイケルとやらの原文はどうなったのかな?
799 :
日本@名無史さん:04/06/09 23:18
>>800 ところで、マツモトも勝手に自由出家して禿げたときには、ヨリトモに叱られたのかい?
800 :
日本@名無史さん:04/06/10 12:38
792と798は同じ人かな?
何でも自作自演とか言うから困ったモノだね。
まあ、違う方だと考えて、
>792
「マイケル=アドルフソン」は何がそんなに
おもしろいの?アメリカの武士研究の第一人者
として評価が定まっている研究者、と考えて
全く問題がないと思うけどなあ。本くらい自分で
購入しなよ。
>798
「東国国家論」と「二つの王権論」のどこが違うのか、
全然答えになってないじゃん。
ぼくには「二つの王権論」というのは「東国国家論」を
詳述しただけのモノではないか、という疑念があるので
聞いたのだけれど?
>マイケル
論文出すとき、マイケルを使うの??
ありえないし・・・。
頼むから「キモ」部分の原文ウップしてくれ!
>2つの王権論
それこそ、読みなよ。何で読まないの?1日で読めるよ?
疑念があるって、あなた、もうここながらくの定説だよ??
>>801ゲットおめ!
それはともかく、まだ義経追放のタイミングについて
ぐだぐだいってる人がいるようなので。
『吾妻鏡』元暦2年6月13日条によると、
義経に恩賞として与えていた平家没官領を
頼朝はこの日、没収している。
これは義経が頼朝に会うのをあきらめて京都へと発った4日後のこと。
いわゆる「ご恩と奉公」の関係を頼朝の側から否定したわけだ。
さらにこの後、平宗盛を切るのを義経にさせず、わざわざ
ほかの御家人を随行させて処刑していることからも、義経の「頼朝の代官」
という立場は頼朝によって否定されている、と見るべき。
よって、この時点で義経が「鎌倉殿家」から追放された、という議論は十分成立する。
>>691の議論自体はともかく、上の史実を無視している姿勢に「?」。
それから、「義経追放」の条件を朝廷からの解官にしている時点で、
「追放=朝廷からの追放」
を前提として議論していることになるのは気付いてる?
それだと、「東国国家」がどっかいっちゃうよ?
たぶん
>>690は
>>691をみて、にんまりしてたんじゃないかな。
まさか半年も「彼」がそれに気付かないとはオレも思いもよらなかったけどさw
だめだこりゃ。まだ、わからないの?
朝廷に義経を解官させたのは誰だかしらないの?
そもそも、君の間違いは、義経任官が頼朝の意に反してると
勘違いあるいは、思い込みたがっていることなんだよ。
削除依頼でも出せば?
>>803 その答えでいいの?
その答えだと「東国国家」どころか、
頼朝が家人の統制すら朝廷に頼る存在になっちゃうよ?
それから、恩賞没収はスルーですか?
都合の悪い史実は無視する点で一貫してるね。
恥ずかしくない?
それから、オレ以外にも、どの書き込みも
みんな3氏に見えるようだが、いいかげんにしたほうがいいよ。
>>802 >>804 横レス失礼。
うーん、吾妻鏡の引用が自慢みたいだけど、
まるっきりポイントがずれてるよ。
>>803が言ってることは、頼朝が朝廷を動かしたって事ですよ?
それを頼る存在って理解しちゃうのは厨房レベル的にヤバイですよ。
あと、せっかく紹介された本を読んでからにしたほうがいいのではないかな。
いまどき誰も支持していない黒田説にすがって、
定説と言うか常識に挑戦してるのはあなたなんだから。
1ヶ月くらい落ち着いて勉強してからレスしてください。
>>805 >
>>803が言ってることは、頼朝が朝廷を動かしたって事ですよ?
私も横レス恐縮ですが、
実に興味深いご指摘ですね。
どうやって頼朝は朝廷を動かしたのですか?
もしよければ教えていただきたいのですが。
807 :
日本@名無史さん:04/06/11 22:01
>義経の伊予守任官により、
>最終的には頼朝の面子は、朝廷によりぺしゃんこにされている
>時間関係は、頼朝が義経を追放、義経が伊予守任官でいいんですよね。
>プロ野球で例えたら、クビにした外人が大リーグで大活躍してるみたいなものですか?
一言訂正すれば、それで済むことなのになぁ
もしかして、義経の伊予守任官を朝廷に依頼したのは誰だか本当に知らないの??
かなり、やばそうな予感・・・
>さらにこの後、平宗盛を切るのを義経にさせず、わざわざ
>ほかの御家人を随行させて処刑していることからも、義経の「頼朝の代官」
>という立場は頼朝によって否定されている、と見るべき。
同日条に「抑前内府宗盛者、其身備公家御外戚、其官昇槐門、内相府也。
然而朝敵罪名、無拠于宥歟・・・と始まり
総て平安遷都前となる大臣が誅殺された例を5人挙げ、その後平安遷都以降の例
しかし総て左遷・配流で誅殺はない、を5人挙げる。
つまり、元暦二年の時点で400年近く大臣の処刑は行なわれていないってことはいいですか?
果たして宗盛を処刑することは名誉なことだったんでしょうかねえ。
6月23日条で、梟首の差配は義経の家人が行なってますが、これはいかに
「頼朝の代官として京都に置かれていたのが、それを否定するように鎌倉入府を拒まれ
あまつさえ宗盛の処刑すらさせてもらえず、橘公長や浅羽庄司を付けられた」わけですね。
7月2日に橘以下は帰っちゃってますけど、これ以降京都での差配は誰がとっていたんですか?
7月12日条の「亦平家追討之後、任厳命、廷尉者則帰洛」はどういう意味ですか?
梶原景季が遣わされた9月2日条には
平時忠が流刑地に赴かずに京に留まっているが、婿になった義経が匿っているんだろう
とありますが、地位を除かれた義経にそんな権限あるんですか?(9月23日配地に下向)。
9月21日条には、範頼が8月中に参洛するよう命ぜられていたとありますが
これは義経に替えるためではなく、7月12日条の記事に関連してのもの。
義経が明確に頼朝の代官としての地位を追われていたのなら、範頼の上洛命令が同時期に下るか
他の誰かが鎌倉から上洛してるでしょう。
>それから、「義経追放」の条件を朝廷からの解官にしている時点で、
>「追放=朝廷からの追放」
>を前提として議論していることになるのは気付いてる?
鎌倉の軍勢が上洛して義経を京から追放し、それに併せて義経が朝廷からも解官されたんですねえ。
ちなみに俺も「彼」じゃないからあしからず。
>>805 あのさ、ポイントがずれてるのはあなた。
「頼朝が義経を追放する=朝廷による解官」とした時点で
「頼朝が私的に家人を追放する際に朝廷の権威を借りた」って解釈が可能なの。
あなたが「こう思う」って問題じゃないのよ。
ところで紹介された本って、「日本の時代史」のこと?
あれは、7巻を権門体制論者が、8巻を東国国家(二つの王権?)論者が執筆
っていう構成になってるんだけど?
あなたこそ、きちんと読んでないみたいだね。
それとも、「彼」と同じく「都合の悪いことは無視する」タイプ?
「失礼」っていったら失礼なことを言っていいわけじゃないんだよ。
>>808 >鎌倉の軍勢が上洛して義経を京から追放し、
>それに併せて義経が朝廷からも解官されたんですねえ。
はい、間違い。やりなおし。
812 :
日本@名無史さん:04/06/12 06:12
>>808 結局あんたは何が言いたいの?文章下手過ぎてよくわからないんだけど。
>810も確かに軽率かもしれんが、無理もないとも言えるぞ。
あと、他人の文章を引用するときはアンカーくらいつけてくれや。
当事者以外にはわかりにくくてかなわんから。
とにかく、ただダラダラ書き並べるんじゃなくて、論点をもっときちんと整理して書いてくれ。
813 :
日本@名無史さん:04/06/12 10:24
>>809 >「頼朝が私的に家人を追放する際に朝廷の権威を借りた」って解釈が可能なの。
ありえません。ギャグですよね?
>あれは、7巻を権門体制論者が、8巻を東国国家(二つの王権?)論者が執筆
>っていう構成になってるんだけど?
院政の話なんて誰もしてません。
しかし、2つの王権論を何も読んでないのにどうしてレスできるのかが不思議。
いまどき、読んでないなんてありえないし。50代なんですか?
>>813 >院政の話なんて誰もしてません。
あぁ、やっぱりこの人、きちんと読んでないね。
馬脚を現したな。
>>811 確かに俺は頭悪いね。
こんなやつを相手にした時点で、反論できないな。
「そんな解釈ありえない」って、酒の席での放談じゃあるまいし。
義経はもういいって(笑)。来年きっと大河がらみで
いっぱいスレが立つだろうから、そこでやんなよ。
それと誤解があるといけないけど、
時代史くらいは読んでるからご心配なく。
話を元に戻すと、鎌倉時代は武士の時代だ、という戦後の定説を
権門体制論はひっくり返してみせたわけだ。あくまでも天皇ー朝廷が
中心なんだよ、と。(黒田氏のそうした指向性は宗教にも適用されていて、
民衆の救済を説いた鎌倉新仏教は異端であって、天台・真言こそが
本流だ、といったわけだよね。)
これをもう一回ひっくり返したのが東国国家論であり、幕府は一つの
国家であって、幕府と朝廷は並び立っていたと認識すべきだ、と
主張した。じゃ、二つの王権論はどうか。佐藤説の否定じゃないよね?
東国国家論を「詳細に、もっと具体的に見ていきましょう」というに
すぎないんじゃないかな?
言い換えると、
1、権門体制論が正、東国国家論が反であり、両者を止揚するもの
として合の二つの王権論がある
2、二つの王権論は東国国家論の延長線上に存在するに過ぎない
と二つの理解があったとして、2がより正しいのではないかな、
とぼくは思うのだが如何でしょう?そう質問しているわけです。
どなたか、もしよかったら、ご意見お聞かせ下さい。
ただし義経の伊予守どうのは、謹んでお断り申し上げます。
シリーズ組むのに、そんな考えで構成したと本気で思ってるのw?
伊予守はかわいそうだから、初心者スレをキチガイのように荒らさないなら
許してあげてもいいよ。
そのかわり、王権論を数冊読んでください。お願いしまつ。
あと、論文も読める環境だったら、国会図書館サイトででも検索して読んでね。
東国国家論は戦前から出てるよ。
あと、マルクス主義者・黒田の論文は、平泉がバカウヨになる前の論文が下敷きだよ。
ほとんど似ている部分が多いの知ってるんでしょ?
>>815 >1、権門体制論が正、東国国家論が反であり、両者を止揚するもの
> として合の二つの王権論がある
>2、二つの王権論は東国国家論の延長線上に存在するに過ぎない
2に賛成。
もし貴カキコの趣旨に外れてたら、スルーしてもらってかまわないんだが、
「王権」って何をさしてるんだろうね。
いや、これは東だけじゃなくって、西の王権についてもいえるんだけど。
>816
いや、だからさ、ぼくは800であって、
そのあとには投稿してないから。何か勘違いしてない?
自作自演でもないから。もう勘弁してください。
>818
ああ、やっと話の分かる人がカキコしてくれた。
そうなんだよね。二つの王権論が危ういのは
「王権」とはこれだ、という議論が明瞭な形で
展開されないまま、京都になんとなく存在した王権が
なんとなく東国にも移ってきて成立した、と想定され
ているところなんじゃないかな。
「王様がいて、支配圏があって、王様を補佐する官僚群
があって、軍隊がある」というのが基本なのかな。
>>816 横レスだが、あんたみたいな人間って歴史についての解釈がどうこういう以前の問題なんだよな。
口の聞き方、文章の書き方、モノの言い方がとにかく傍でみていても不快きわまりない。
一体ここで何をしたいの?もっと普通に書けない?
議論をしたいんだったらそれに相応しい態度なり礼儀なり口のききようがあるだろっての。
どんなに知識があろうが、そういう態度では現実の社会じゃ誰も相手にしてくれないよ。
>>820 横レスだが、まあこんなとこで礼儀云々もないだろさ。少し餅つけ。
言いたくなる気持ちは分からんこともないが。
>>819 二つの王権論ってどっちかって言うと法・制度を最重視してるんでないの。
東西という領域ではなく、朝廷と幕府を頂点とする2種類の秩序と言うか、そんな感じで。
で、そう考えると、確かに東国国家論の延長線上といえば延長線上と言えないこともないけど、
後の室町へと続く展開については、ちょっと説明が変わってくるような気がする。
>821
>法・制度を最重視してるんでないの。
これについては賛成。ただ、ここをきちんとやっておかないと、
奥州藤原氏政権を賞揚する立場の人が「平泉政権も含めて
3つの王権だ」と言い出すかもしれない。いや、別にそれは
それでいいのだが。
>後の室町へと続く展開については、ちょっと説明が変わってくる
時間があるときで良いから、具体的に教えを乞う。
>>822 あ、いや「変わってくる」と言うと語弊があったかも。
要するに東国国家論だと、朝幕の一体化の他に京都・鎌倉関係も視野に入れなければならないが、
二つの王権論の方は、基本的には前者だけを見とけばよい、ということ。
なもんで、個人的には、二つの王権論は東国国家論の延長線上と言うよりも、
東国国家論の一部を煮詰めたもの、と言った方がしっくり来るのですが。
あー、あと、ちなみに分かってるとは思いますけど、ワタクシ818氏とは別人です。
言わんでもいいとは思いますが、一応念のため。
俺も「彼」の行為には辟易しているし、
>>815のような意見もあるので
「空気をよんだらどうなんだ!」と言われるようなことは避けたいですが
>>812 1)義経が6月13日に頼朝の代官としての地位を否定されていたのなら
7月12日条の「亦平家追討之後、任厳命、廷尉者則帰洛」をどう解釈するのか。
2)400年以上前例の無かった(前)大臣処刑を自らの手で執行できないことは不名誉な事なのか。
3)義経の京での頼朝代官としての地位が否定されていたのなら、平時忠を匿う事ができるのか。
(頼朝から義経への使者梶原景季の上洛後、平時忠は配地に下向している)
4)義経が頼朝代官としての地位を否定されていたのなら、それに代わる人物は派遣されなかったのか。
(9月21日条によって範頼に8月中の”参洛”が命ぜられていたことが分かるが
これは鎮西の武士による荘園押領問題のため(7月12日条)であって義経に替えるためではない)
これらのことにより、義経がその地位を否定されたのは梶原景季の鎌倉帰府後とし
頼朝もこのときまでは積極的に義経を解官させる意思は無かったと理解しますが。
義経他源氏の任官が頼朝の推挙によって行なわれたことは間違いなく
義経のみが関東分国外の伊予守に推挙されたのも事実ですねえ。
この伊予守は説明するまでもなく頼義流の源氏にとって特別な官で
義仲も越後守を伊予守に替えてもらいましたし、足利尊氏も執事の高氏を伊予守にしてる。
通常伊予守に任ぜられる人物の立場を調べれば頼朝が義経を伊予守に推挙したもう一つの意味と
頼朝からみた義経の置かれた位置付けがわかるとか、わからないとか。
>>824 漏れは素人だから、どっちが学問的に正しいかはわからんけど。
客観的に議論だけをみたら、あなたが勝ってると思う。
だから空気云々とはあえていわないけど
特に
>>810みたいな、煽りに乗る必要はないんじゃない?
時間の無駄だよ。
>>823 ひとつ質問していいですか?
室町時代の、鎌倉公方っていますよね?あれは「二つの王権論」では
どういう扱いになってるんですか?
>825
いや、それはむしろ俺が「二つの王権論」の人に訊きたいですw
というか、個人的には、二つの王権論ではその辺の視点が
スポイルされてるように見えるんで、823のように書いたのですが。
827 :
日本@名無史さん:04/06/21 22:07
おい!自演野郎のディスティ!
お前こんなところにも出没してやがるのか?
トリップつけたまま自演やっちゃったディスティについてはこちら
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1084186997/l50 905 名前:ディスティ・ノヴァ ◆o42sEUlX0o 投稿日:04/06/18 14:57
生物を知らないのはあなたでしょう(笑)
あなたが詳しいというならナチズムとダーウィニズムの関係について語って欲しいな。
わたしより詳しいとはおもえないが。
言っておきますがわたしは生物の教師。本職です。
プロを相手にしてよく言える(苦笑)
近現代ドイツにかんしてはおそらくわたしが一番くわしいですよ。
でないとコテハンなんかにはなりません。
2ちゃんねるに書き込むのは初心者ですが、馬鹿が多いという噂は本当ですね(苦笑)
906 名前:ディスティ・ノヴァ ◆o42sEUlX0o 投稿日:04/06/18 15:01
おれはディスティ・ノヴァにも一理あると思うな。
今騙りがはやっている。
彼もその被害者なんだろう。
本当に彼が書き込んだレスだけ見ればそんなやつとは思えない。
お前こそずっと彼に粘着していた張本人ではないのか?
ノヴァ、アホは無視してほどほどにがんばれや。
828 :
日本@名無史さん:04/06/28 21:44
保守しとくけど、このコピペはなんの意味があんだ?これも保守なのか?
おい!自演野郎のディスティ!
お前こんなところにも出没してやがるのか?
トリップつけたまま自演やっちゃったディスティについてはこちら
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1084186997/l50 905 名前:ディスティ・ノヴァ ◆o42sEUlX0o 投稿日:04/06/18 14:57
生物を知らないのはあなたでしょう(笑)
あなたが詳しいというならナチズムとダーウィニズムの関係について語って欲しいな。
わたしより詳しいとはおもえないが。
言っておきますがわたしは生物の教師。本職です。
プロを相手にしてよく言える(苦笑)
近現代ドイツにかんしてはおそらくわたしが一番くわしいですよ。
でないとコテハンなんかにはなりません。
2ちゃんねるに書き込むのは初心者ですが、馬鹿が多いという噂は本当ですね(苦笑)
906 名前:ディスティ・ノヴァ ◆o42sEUlX0o 投稿日:04/06/18 15:01
おれはディスティ・ノヴァにも一理あると思うな。
今騙りがはやっている。
彼もその被害者なんだろう。
本当に彼が書き込んだレスだけ見ればそんなやつとは思えない。
お前こそずっと彼に粘着していた張本人ではないのか?
ノヴァ、アホは無視してほどほどにがんばれや。
830 :
日本@名無史さん:04/07/13 05:28
なぜ自作自演なんかするんだろう?
しかもスレを盛り上げるためならまだしも、自分にさも同調者がいるようによそおうなんてのは
あまりにも虚しいじゃないか。
と言いながら保守w。
>>830 思う存分に自作自演やっていいですw。
君は根本的や基礎的な間違いが多いので、ツッコミが楽しいです。
雛祭りは爆笑でした!
なるほど、「近代日本における雛祭りの普及について−天皇制イデオロギーの国民教化の具体的事例−」なんて論文が書けそうですが、それは近代史の人に任せるとして、
左右大臣が左右大将というのは、そのとおりだと思いますね。となると、三人官女とか五人囃子というのも気になります。
それにしても、近年の「王権論」の発想からすれば、東国国家論者の御家庭では幕府版の雛人形を飾ったりしたらよいのではないでしょうか。並べ方、興味津々です。
××先生も『雛人形から読み解く、院政期の政務機構』なんていう本をお書きになって、お嬢さんにプレゼントされたら如何ですか。ぜひとも、教材に使わせていただきます。
833 :
日本@名無史さん:04/07/14 04:59
>>831 誰かと勘違いしているようだね。俺には何のことだかさっぱりわからん。
どうも自分がしょっちゅう自作自演をやっている人は、
相手も同じことをやっているように見えてしまうようだねえ。
と言いながら保守w
閑話
二段目は執権と連署
一番上は将軍家と御台
鎌倉版雛人形
三段目は老中
二段目は将軍
一番上はうっかり八兵衛
江戸むらさき版雛人形
>>835 ま、悔しがるな。
大間違いは、誰にでもあることだ。
天皇陛下万歳!!
838 :
日本@名無史さん:04/07/24 11:16
江戸時代の天皇スレはどこいっちゃったの?
このスレに山野さんがこないってのが不思議でしょうがない。
所詮お飾りだわな。
軍事力皆無だし。
843 :
日本@名無史さん:04/07/30 02:55
>841
ぷ
844 :
日本@名無史さん:04/08/03 18:16
今(といっても少し前になるのかな?)、池さんと今谷さんで
織豊期における天皇家の位置について論争がおこってますけど、
どっちの説に支持者がおおいのかな?
この件では、今谷氏は分が悪い
戦国期に天皇権威があがってきていたという今谷より、
正親町が信長によって権威復活できたと考えたほうが自然
よって正親町が譲位しなかったのは信長への抵抗ではなく、
財政その他の事情によるだけと考えたほうが自然
休み前に保守
公家社会の中での位置付け、武家社会の中での位置付け
例えば、公家社会なら平家の台頭前、平家政権、鎌倉初期、持明院統・大覚寺統での差異、南北朝、室町中後期
これを一つずつ進めて行けばどうでしょう
武家社会だと、軍事貴族・兵の家の成立期、台頭期、平安末〜鎌倉幕府成立頃、承久の乱前・後、鎌倉末、南北朝、室町
てなカンジでいいんでしょうか?
書いてて思ったんですが、室町幕府と豊臣政権の打倒以外は、後の明治維新も含めて、露骨に天皇権力が利用されてますよね
室町幕府と豊臣政権に挟まれた信長の殺害、本能寺の変には天皇・公家の影がチラつくともいわれます。
何を今更と言われるかもしれませんが、これって、室町幕府と豊臣政権は天皇権力を推戴せずとも崩せるほどグダグダだった
逆にいえば、鎌倉幕府と江戸幕府は弱体化していたとはいわれても、まだ天皇権力を借りなければ打倒できないほどの
余力や権威があったってことでしょうか。
もう一つ、天皇の位置付けとはちょっと違うんですが、『分脈』眺めていると平安末から承久の乱頃の武士
特に源氏諸流の譜に、○○(門)院蔵人・判官代というのをよく見かけます
これが当該期に多かった理由、その後殆んど見られなくなった理由ってなんなんでしょうか。
mL( ^∇^ )グッチャー!
849 :
日本@名無史さん:04/08/21 16:40
今谷は本人も認める信長嫌いだから、
信長と天皇の関係を語る時は眉唾もの
正親町に入れ込んで感情丸出し
今谷が言うとおり、戦国以降にだんだん天皇の権威が上がっているなら
紫衣事件とかは起きていない。
南北朝から信長の上洛までは天皇の権威は地に墜ちていた。
信長が足利義昭を追放するため、その後の天下平定の大義名分として
天皇の権威を利用することを実行しただけ。
戦国武将にとって天皇とは官職を発行してくれる神主程度の存在に過ぎない。
天皇の権威が飛躍的に高くなったのは朱子学と結びついた尊王論が広まったこと、
具体的には頼山陽の「日本外史」が広く読まれた頃から。
850 :
日本@名無史さん:04/08/25 01:46
>>849 >南北朝から信長の上洛までは天皇の権威は地に墜ちていた。
そういう大衆歴史小説みたいな表現はやめた方がいい。
もし本当に「地に堕ちていた」のなら
>その後の天下平定の大義名分として
天皇の権威を利用することを実行しただけ。
は矛盾している。
だって、天皇の「権威」は地に堕ちていたんだろ?
その程度の権威なら、利用したってほとんどメリットも効力も無い筈だし、
そもそも「利用」しようという気にさえならない。
普通に考えれば、確かに政治的権威はほとんど失われていたが、日本人にとっての精神的・宗教的な権威
として、天皇はまだまだ健在だったと見るべきだろう。
851 :
日本@名無史さん:04/08/25 02:05
>>849 紫衣事件って戦国時代に天皇権威が上昇していたからこそ起きた事件だよ。
応仁の乱後室町幕府が衰えると幕府が保護していた五山寺院の権威も衰え
皇室と結びついた大徳寺や妙心寺などの林下の勢力が増大した。
天皇の落胤である一休さんが大徳寺の僧だったことからもわかるが林下寺院は皇室との
結びつきが強かったのだ。
大徳寺や妙心寺は高利貸も収益源にしていた。その利権を朝廷に吸い上げるシステムが
紫衣制度。紫衣を認めるときに朝廷に献金させるのだ。
幕府が紫衣制度を狙い打ちにしたのは、それが天皇の権威と財力の
源であったから。
>紫衣事件
綸言汗の如しと言われ、絶対誰にも撤回はできないといわれた天皇綸言が
幕府ご法度でひっくりかえされた。
権威があったから狙い撃ちされたといわれれば、それもそうだが、
幕府法度以下のその程度の権威であったのも確か。
戦国時代では、信長が利用したから権威が利用できたのであって、
たとえば、細川や三好ではできなかった。
細川か誰か不正確だが、金ばかりかかってかなわんと、
儀式出費要請を断ってる。
つまり、利用すれば誰でも天下人になれる権威ではなくて、
天下人になれる力量がある人が天下取りの時点で利用できる程度の権威。
853 :
日本@名無史さん:04/08/25 23:49
>>852 >つまり、利用すれば誰でも天下人になれる権威ではなくて、
天下人になれる力量がある人が天下取りの時点で利用できる程度の権威。
こりゃもう屁理屈としか言い様がないなw
そもそもあんたにとって「権威」って何?
854 :
日本@名無史さん:04/08/25 23:57
>>852 元亀元年だったか、信長は浅井・朝倉と一時休戦するために勅命を下して貰っているが
あの時期の信長はまだまだ「天下人」とはとても言えない。
四囲に強敵を抱えていて、武田信玄も健在だった。
855 :
日本@名無史さん:04/08/27 22:52
で、なんで信長が支配権を広げられたと。
天皇のおかげとか言い出すのかな?
戦国末期のパワーポリティクスが信長に天皇を使わせ、
そこに金銭任官神主レベルだった衰亡天皇の権威が再生、いや、新生した
と考えるのが常道では?
今谷氏の大内氏の例とかはすでに批判されてるしね。
856 :
日本@名無史さん:04/08/27 22:52
>>851 そうかな?
戦国時代の天皇で、葬式も出せないくらいの貧乏で遺体が
腐って悪臭を放った人がいるくらいなんだが。
官位がほしいだけで献金した大名がいるからといって、
天皇の権威があったということにはならないし。
足利を否定するために天皇を担いだ信長が
足利を担いでいた細川や三好より、当時としては
斬新なアイデアというだけのこと。
857 :
日本@名無史さん:04/08/27 22:58
南北朝時代から幕末までの天皇・朝廷は、武家政権から与えられた役割を忠実に演じることで
生き残ってきたというのが実態だろ。
天皇の「権威」なるものは武家にかつがれていたからこそ発生した副次的なもの。
この点が変わるのは孝明天皇の出現を待たなければならない。
858 :
日本@名無史さん:04/08/27 23:04
孝明も最後まで左幕主義者で、慶喜好き。
で、最後は・・・?
859 :
日本@名無史さん:04/08/28 16:16
>>857 >天皇の「権威」なるものは武家にかつがれていたからこそ発生した副次的なもの。
じゃあ何で武家は天皇のことを担がなくちゃいけなかったの?
860 :
日本@名無史さん:04/08/28 16:28
>>859 いままでに「担がなくちゃいけなかった」ことを誰か証明してくれたか?
861 :
日本@名無史さん:04/08/28 19:47
>>860 餅搗け。まずは小学校で日本語の勉強からし直してこい。
>で、なんで信長が支配権を広げられたと。
天皇のおかげとか言い出すのかな?
少し冷静になれよ。誰もそんなこと言ってないじゃんw。
おまえの文章見てると、自分の願望で天皇の権威を実際以上に低く見たがっているとしか思えないぞ。
863 :
日本@名無史さん:04/08/29 20:47
>>857 孝明天皇だって薩摩や長州みたいな基地外侍どもが担いだから「権威」が上昇したんだろ。
お前アタマ悪杉。
自己矛盾してるのがわからんのか。
このクズレめが!
864 :
日本@名無史さん:04/08/29 21:23
孝明天皇の権威が上昇したのは孝明天皇自身の努力によるところが大きい。
薩長のキチガイ侍どもがかついだのは明治天皇。
>>864 ばか。
提灯もってヨイショしてくれる取り巻きがいなければ、滑稽な空回りにすぎないんだよ。
保守。
867 :
age:04/09/14 01:07:13
>>584 >奥州合戦が前九年役を異様に模倣している件
>大江の息子が京都側についたいきさつ
ここらへんひとつよろしく。
大江広元が頼朝、その没後は北条氏に過剰に肩入れした理由も知りたい
京での宮仕え時代に履物や教科書でも隠されたりしてたのか。
めっちゃ馬鹿な質問でごめんなさい。
戦国時代なんかに誰も天皇を殺して朝廷をつぶそうとしなかったのはなぜでしょうか。
前から疑問でした。
869 :
日本@名無史さん:04/09/14 02:27:27
天皇は審判
審判に勝ちだよって言って貰う事によって他の武士達も勝利者と認め従ってくれる
そういう暗黙のルールのうちに戦ってたのが戦国時代
日本のような狭い島国で審判もルールも無いまま争い続けてると
誰も彼も疲れ果て、土地も文化も荒廃し誰にとっても益無いからね
審判してないけど?
871 :
日本@名無史さん:04/09/21 23:27:53
872 :
日本@名無史さん:04/09/24 00:24:36
>>868 つぶしても何の得にもならないし、
圧倒的権力がないと
かえってつぶされる大義名分を敵に与える。
逆に言うと、圧倒的な権力を持っている人が天皇に取って代わろうとする時が一番危ない。
資料がろくにない時代を除いても、
曽我入鹿、藤原道長、足利義満などが一番皇位に近づいた。
(道鏡は天皇が譲ろうとした特異なケース、将門と純友は皇位を奪おうとする手前で滅びた。
頼朝は最初から朝廷と妥協しながら関東独立を成功させた人で晩年娘の入内を工作したくらいだし、
北条氏は朝廷をつぶしても身分的に天皇や皇帝を名乗ることが難しい。権力を極めてからも
将軍を担いだぐらいである。これらの人が強行しようとしたら、内部の反対勢力に滅ぼされただろう。
現に将門、純友はそうなった)つまり、信長ほどの実力者でもでも天下を統一するまでは
自重せざるをえなかったろうから、戦国時代では少なくとも秀吉以降でないと到底天皇をつぶすことはできない。
秀吉は出自に決定的な不利があり、しかも織田家を押しのけて天下を奪いかつての織田家の同僚を
家来にしているという事情があり、彼がもし天皇家を滅ぼそうとしたら、家康やかつての同僚たち、外様大名に
謀反の口実を与えるようなものだった。家康も豊臣家の天下を奪った手前、同じことが言える。
秀吉や家康にとって、天皇に関白や将軍として任官されることが必要だったのである。
その後の徳川将軍家は朱子学を重んじたから、なおさら朱子学で最高の地位に相当する天皇を滅ぼせるわけがない。
信長が潰せばよかった。
874 :
日本@名無史さん:04/10/08 10:36:46
本は読んだ?
東国独立論は、せまい東国の一部が日本から独立してたイメージ。
2つの王権論は、日本を大地溝帯前後で東西に分けたイメージ。そして、さらに
承久の乱や蒙古襲来を通して、東の王権が西の王権を狭めていき、九州など西国も
東国の所領が増えていき、西の王権が畿内に収縮していく。
機内の動きさえも東の王権に制約されていく。訴訟決断や警察権や皇位継承なども含めて。
そして、後醍醐反乱・南北動乱を通して、室町期に朝廷権力が武家権力に吸収されていく。
戦国動乱後統一政権ができ、完全に武家権力・権威の一部分として存在するようになる。
東国を「国家」と称するなら、奥州はどうなのか。
「東の王権」と称するなら、奥州藤原氏はどうなのか。
876 :
日本@名無史さん:04/10/09 12:31:49
奥州藤原氏も、一時期、北の王権だった。
だから、頼朝に滅ぼされた。頼朝は、天皇の裁可なしに滅亡させた。
だから結果として東の王権は統一された。
>>876 なるほど。
「二つの王権」論においては、頼朝が負けていた場合、
「三つの王権」になっていた、と考えるわけですか。
いや、それとも奥州藤原氏と朝廷で「二つ」と考えるわけですね。
878 :
日本@名無史さん:04/10/09 22:03:46
歴史にイフはないからわからないけど、
奥州藤原氏が東国に権威を確立でき、
朝廷から独自の距離を取れるのなら、
ありうるかもしれませんね。
879 :
日本@名無史さん:04/10/10 01:03:32
>>872 >将門と純友は皇位を奪おうとする手前で滅びた。
将門が天皇、純友が関白になろうと比叡山で・・・ってやつ?
>北条氏は朝廷をつぶしても身分的に天皇や皇帝を名乗ることが難しい。権力を極めてからも
>将軍を担いだぐらいである。
将門になれて?
天皇を配流にするぐらいだから摂関期の摂関と同等か、それ以上の権力があったんじゃないの?
天皇や上皇の島流し、皇位継承への介入など全盛期の藤原氏なみのことをやってのけながら
将軍を担いでいて、官位も四位・五位の大夫止まり。
考えてみれば北条の権力のバックグラウンドでなんだろ。
新皇将門は暦だけは制定できなかったけど、天皇になれなかった信長は暦に口出してんだよね。
>これらの人が強行しようとしたら、内部の反対勢力に滅ぼされただろう。
>現に将門、純友はそうなった
将門も純友も内部の反対勢力に討たれたわけじゃないでしょう
逆に内部の勢力、興世王等ににおされる形で謀叛したんじゃかったか。
880 :
日本@名無史さん:04/10/10 17:30:19
つか圧倒的力の差
鎌倉>奥州藤原
鎌倉は自立してたけど、
奥州藤原は京都に依拠してるようなところもあった感じ
881 :
日本@名無史さん:04/10/21 20:01:22
>>880 将門と純友が内部からの崩壊に遭わなかったら、京都へ攻め上って
朝廷を滅ぼし、どちらかが皇位に就いたはず。
将門は桓武天皇から5世の孫。北条氏は平氏といっても二十世くらいの孫。
北条氏ではもう本当に天皇の血を引いているか怪しく、皇位を狙えない血筋。
摂関以上の権力があろうとも、明確な革命思想
(たとえば劉邦が皇帝になった時のような、徳のある者にこそ皇帝の資格があるという思想とか)
がない限り、皇室の血を明確に引いているとは言えない北条には皇位につく資格がない。
東国の豪族である藤原秀郷や、海賊の副頭目だった藤原恒利の裏切りがなければ、
朝廷軍だけで将門も純友も討つことは無理だった。
882 :
日本@名無史さん:04/10/21 21:47:34
王権て天皇家とは関係ないんだよw
883 :
日本@名無史さん:04/10/23 22:02:17
>>882 そこが理解できないとね。
キモだから。
源平はもともと朝廷を守護する皇軍だったわけだが
かわいそうに、全く理解できてない。
理解する気もないんだろうが。
言われてみれば、王権が天皇家の独占だなんて
どこにも証拠がないですもんね。
なんか面白そうですね、もっと教えてくれませんか?
887 :
日本@名無史さん:04/10/28 05:39:17
>886
いやだね。自分でちゃんと勉強しろ。
888 :
日本@名無史さん:04/10/28 12:00:37
京都王権>鎌倉王権>平泉王権
↓
鎌倉王権>京都王権
↓
室町王権>>>京都王権
↓
江戸王権>>壁>>京都
>>887 そうおっしゃらずに教えてくださいよ。
同じことを周りにいっても、信じてくれないんですよ。
ぜひ、あいつらをギャフンと論破してやりたいんです。
ほんとお願いします。
まずこのスレを1から読み直すことかな。
>>888 それは結局、権門体制論と同じ。
単に定義無しに「王権」ってことばを鎌倉幕府と奥州藤原氏に使ってるだけ。
ではまず「王権」の定義とは?
>>890 >>1から呼んでみたけど、良くわかりません。王権が天皇家と関係ないって
書いてるのは、
>>882さんだけみたいだし。
天皇だから天皇権で、王じゃないってことですか?けど
キモの人は天皇だけど王でいいんだみたいなこと上の方でゆってるし。
ややこしすぎです。お願いします、教えてください。
クラスの連中は教科書しか読んでないくせに、天智天皇の暗殺のこととか、
法隆寺のこととか、真実を教えてやっても理解しないんです。
あいつらを見返してやりたいんです。
895 :
日本@名無史さん:04/10/29 12:06:31
>>891 権門体制論では、王権は天皇だけ。
知ってて聞かないでね大學教授君。
まだ、2つの王権論を読んでないのか・・・
なぜ権門体制論にしがみつくかなぁ?50歳以上?
あと質問だけど、
江戸時代の改元を、朝廷がどう全国の庶民に伝え広めたか
の答えをみんなが待ってるんだけど。
王権の定義は895の心の中にだけある。
>>895 ?
891だが、オレはどっちかというと2つの王権論者なんだが・・・。
>>888みたいに歴史を単線的かつ段階発展的に理解してると、
足をすくわれる、と言いたかったんだがな。
きみはあれか?ひょっとして権門体制論者のまわしものか?
中世における王権が、権威と権力と宗教と武力を統一したものであるなら、
京都と鎌倉と一時期の平泉に、それはあった。
十三湊の日の本将軍なんてのも入るのかね?
【定義その1】
中世における王権=権威と権力と宗教と武力を統一したもの
次の定義、どうぞ。
>>899 >>権威と権力と宗教と武力を統一したもの
そうだね、それなら京都と鎌倉には確実にあった。平泉は微妙と思うが。
でも、伊勢神宮、延暦寺、高野山、興福寺はどうなる?
「権威と権力と宗教と武力を統一したもの」としての資格は十分あるぞ?
902 :
日本@名無史さん:04/10/30 01:52:41
>>899 中世の王権というけれど、たとえば室町後期の朝廷に権力はあるのか。
権威とは何か、また権力とは何か
そのあたりの定義付けをもう少しはっきりさせる必要があると思う。
定義とは何か
議論を始める上での用語の使い方の約束事だな。
ま、自分で本読んでね。
906 :
日本@名無史さん:04/10/30 14:42:04
中世における王権
=
権威と権力と宗教と武力を統一したもの。
かつ、一定の支配範囲があり、行政機構が実質統治しているもの。
宗教団体は、朝廷か武家に寄生して自立してないから王権ではない。
>>902 室町前期は、京都王権が武家王権に吸収されていく過程。
室町後半は、その武家王権自体が弱まっていたから、多くの王権の輩出。
907 :
日本@名無史さん:04/10/30 15:04:18
908 :
日本@名無史さん:04/10/30 15:55:17
平安時代には土地のほとんどが天皇のもので、墾田永久私財法?以降耕した
土地が豪族のものになったのに過ぎなくて、それもたいしたものではなくて
都心部とかはすべて天皇の土地だったんだろ?それを平家とか源氏とか豪族
とかが管理を任されていただけ。頼朝が守護地頭をおいて源氏が一手に管理を
まかされることになったが、土地のオーナーは天皇だった。
結局天皇を倒そうと考えた人はいなかったんじゃないの?
909 :
日本@名無史さん:04/10/30 16:35:28
>土地のオーナーは天皇だった。
どこでそういうホラ話を聞いたのでしょうか?
例えば例の『新しい歴史教科書』は
10世紀以降、地方政治が変質していくにつれ、各地に有力農民が成長し、豪族として勢力を伸ばしていった。
彼らは税をまぬがれるため、自分が開墾した土地を荘園(そのころの大規模な私有地)として貴族や寺社に
寄進し、みずからはそこの荘官となって支配を強めた。
としているし、佐々木潤之介・藤田覚などが書いた『概論日本歴史』(吉川弘文館)は
開発された私領は収公されそうになると、開発領主によって権門勢家に寄進され荘園化(寄進地系荘園)され
ることになった。このため、公領は荒廃化し、荘園拡大の動きがふたたびつよまることとなった。中央の大寺社
は、こうした在地勢力の動きを積極的に利用して、一一世紀初めごろから荘園獲得にのりだし、一一世紀半ば
ごろから不輸・不入の権を政府に認めさせていった。
としている。
この件に関しては左右どちらも似たような見解なのだが。
>>906 >かつ、一定の支配範囲があり、行政機構が実質統治しているもの。
延暦寺も、高野山も、興福寺もこの条件を満たしてるぞ?
あと、中世後期になれば東寺も。
911 :
日本@名無史さん:04/10/30 18:56:40
>>909 国家はどこまでも王土であるっていう中国的理論をいっているんじゃないの?
912 :
日本@名無史さん:04/10/30 21:30:47
>権威
権力行使の正当性
由来は何であれ、集団がその正当性を認めれば権威となる。
>権力
強制力
913 :
日本@名無史さん:04/10/30 21:31:51
宗教団体は、朝廷か武家に寄生して自立してないから王権ではない。
914 :
日本@名無史さん:04/10/30 21:37:21
>>909 近代的な所有権の概念を持ち出しても意味が無い。
あれは、キリスト教がバックに有って生まれたものだし。
>>912 権力を強制力と定義するならば、
訴訟の裁許について、使節遵行システムをもたない
鎌倉幕府について、どう評価するつもり?
917 :
日本@名無史さん:04/10/30 22:06:16
>>912 権力を持たない権威とか、権威を持たない権力もあるわけで
権威と権力を結びつけて説明するのはいかがかと思う。
>909
ν速で聞きましたとか言って見る。嘘だけど。つか908でもないけど。
いやホントにいるんだけどね。現在でも土地は天皇の物で金を出して借りてるだけだ
だから有事には文句を言わずに差し出せって言ってる人は。
そういった人から見れば荘園も立派に天皇家の土地。領家も武士も名義を持ってるだけ。
919 :
日本@名無史さん:04/10/31 15:38:39
元寇期ごろからは持ってたよ。
つか、その幕府や六波羅探題に訴訟を頼みに来る朝廷の権力って何w?
>>919 そうだね。承久後は、畿内の訴訟も六波羅に頼ってるし、
弘安期には、強制執行し始めてるよね。
>>920 「弘安期以前には鎌倉幕府に権力はなかった」ことにしたいようだな。
頼朝をみて、そんなことを言えるあんたの気がしれん。
権門体制論者はこれだから・・・。
なんか静かになったな
そうだね。鎌倉時代は権門体制だという電波が消えたからね。
王権論が通説になってるしね。
>>923 あぁ、やっと戻ってきてくれましたね。
なんか、難しい話になってたんで口がはさめなかったんですが。
王権は天皇権と関係してないって言ってた方ですよね。古い話
を蒸し返してもうしわけないんですが、そのあたり、ぜひ教えて
下さらないでしょうか。
926 :
日本@名無史さん:04/11/05 22:00:54
2つの王権論という場合は関係ないよ。
つか、自演してる暇あったら本読めよ。
927 :
日本@名無史さん:04/11/05 22:03:13
鎌倉幕府が自立した王権ではないと思い込んでいる根拠は?
>>926 本読めだって。
自分じゃ説明できないんだね。
どこまで理解できていることやら。
それより、
>>894にこたえてやれよ。
>本読めだって。
>自分じゃ説明できないんだね。
オレもそう思う。
日本史板ってそういう人多いね。
傲慢な自意識だけは持っていて自論を他人に強制するくせに、
いざ人から説明を求められると本読めとかなんとかいって逃げる奴。
894です。変なこと言わないでください。これから教えてほしいのに。
>>926 2つの王権論の場合は、王権は天皇権と関係ないんですね。2つの王権って
のは、過去ログを読む限り鎌倉幕府のことですよね。鎌倉幕府に2つの王
権があるってことですか?それ聞いたことあります。特宗家っていうんですよ
ね。それとも過去ログにありましたけど、平泉?ってとこのことですか?過去ロ
グをみると日の本将軍なんてのもいるみたいですから、将軍も二人いたんですか?
なんか聞いてばかりで申し訳ないんですけど、お願いします教えてください。
自演乙。
鎌倉幕府が自立した王権ではないと思い込んでいる根拠は?
>>931 まずは王権の定義をしてもらわんと、
そのご質問には答えようがないなぁ。
あなた、
>>906で王権、
>>912で権威・権力を定義した人でしょ?
あなたの定義だと、
>>921のいうとおり、
「弘安期以前には幕府は権力ですらない」ことに
なるんだが、それでいいんだね?
934 :
日本@名無史さん:04/11/07 10:45:02
>>932 1180年から頼朝が東国軍事革命政権統治開始。
1181年から京都と別元号を使い始め別権力性を主張。
寿永2年宣旨で京都に公認され、東国王権は名実ともに確立。
訴訟執行システムがなかったてことは、地頭が西側の荘園を侵略していくことを、
現実には黙認していると言うこと。この逆説はわかるかな?
王権?自立した権威・権力。何か?
>>934 やっと答えてくれましたね、ありがとうございます。
なるほど、東国王権は天皇権に公認されて成立するの
ですか。だから天皇権とは別のものだ、と、よく分かりました。これで
クラスの連中をギャフンといわしてやれます。ほっとしました。月曜日
のあの連中の顔が楽しみです。それと鎌倉幕府は軍事革命政権な
んですね、ゲバラみたいでかっこいいです。是非今後も教えてくだ
さい。そうか、頼朝は別権力なんですね、別元号ということで。
>>935 1180年当時、朝廷への反乱軍であった頼朝軍が、東国で支配権を勝手に行使しだした。
寿永2年=頼朝暦治承7年=1183年に反乱政権頼朝が、東海東山行政権を獲得。
その後、木曽義仲・平家・奥州藤原氏を壊滅。
反乱軍であったという出発点が、平清盛と源頼朝の決定的相違点。
だから、頼朝と東国武士団は朝廷から自立した鎌倉政権を成立させられた。
これを、近年(と言ってもだいぶ前からだけど)、2つの王権とよぶ。
これがキモです。なお、クラスで、どう批判されても、私には一切関係ありませんので
レスしないように。ね、3さん!
>>936 つまり、朝廷に東国を認可される前に、
すでに実力で切り取ってたってことですかな。
>>936 ありがとうございます。
>>934さんと同じひとですか?
ぼくはこれでクラスの連中を見返してやれます。反乱政権頼朝って
かっこいいですね、それ使ってもいいですか?頼朝暦ってい
うのもSFみたいでいいです。これも使わせてもらいますね。
3さんも見てるんでしょうか、なんか違う考えみたいですけど、な
んか武士とか関東をけなすみたいで嫌いです。
939 :
日本@名無史さん:04/11/13 07:48:27
王権っていうことは、頼朝は王様になったんですか?
じゃあ鎌倉王・頼朝ですね。
英語だとカマクラ・キング。うわ、これ何かかっこいいですね!!!!
でも僕は革命っていうのはてっきり王制を打倒するもんだとばっかり思ってました。
頼朝は王制を黙認しつつ、自分が王様になったんですね。
何か、ずうずうしくてきらいです。
鎌倉頼朝
伊豆頼朝
942 :
日本@名無史さん:04/11/13 09:14:18
相模頼朝
943 :
日本@名無史さん:04/11/13 09:37:21
相撲頼朝
中世って単一国家だったんですか?
複雑だったんですか?
>>944 人に聞く前に新田さんの『中世に国家はあったか』でも嫁。
でた!大得意のリブレットすか!
次スレどうする?
王権の定義からいくの
948 :
日本@名無史さん:04/11/28 13:31:06
もう、この手のスレはいらない。
次は帝国スレ復活
>論敵にも最低限の敬意を持ちましょう。
新スレ立てるとき1に書いといてくれ。
『新中世王権論』て本を呼んだヤシいる?
952 :
日本@名無史さん:04/12/06 04:45:09
あ げ
953 :
日本@名無史さん:04/12/12 12:34:45
誰の本?
954 :
日本@名無史さん:04/12/13 00:51:50
955 :
日本@名無史さん:04/12/13 21:15:00
作者は?
956 :
日本@名無史さん:04/12/14 12:06:41
そんな本ないよ
957 :
日本@名無史さん:04/12/15 12:24:49
ないの?
H郷だろ
相変わらずのお気楽本だよ
959 :
日本@名無史さん:04/12/15 22:11:27
ないよ
960 :
日本@名無史さん:04/12/16 18:51:30
天皇ってほんとに不思議な存在だな。
世界でも類例が無い。
強いて近い例をいうならローマ教皇?でもやっぱり違う。
研究者は出来るだけイデオロギー抜きで研究して貰いたいものだな。
こんなおもしろい題材もそうは無いと思うから。
961 :
日本@名無史さん:04/12/16 21:58:11
そんな本ないよ
ここも一応保守
963 :
日本@名無史さん:04/12/30 20:28:13
H郷
964 :
日本@名無史さん:04/12/30 22:03:37
ttp://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/gakugei/dokusho/news/20041226ddm015070105000c.html 『新・中世王権論−武門の覇者の系譜』=本郷和人・著 (新人物往来社・1890円)
日本の中世国家の捉え方には権門体制論と東国国家論という有力な二つの学説がある。前者は広く
天皇を中心とする朝廷のあり方に基づいて国家を構想しており、
後者は鎌倉幕府の存在を中心にして国家を考えるものであるが、
本書はその二つの学説に挑戦してともに否定し、
「二つの王権論」を主張する。
南北朝時代に著された『源威集』を切り口にして、将軍と首長(「首頂」)の
二重性から権力構造を読み解き、そこから武士論や国家論を整理してゆく。
二項対立の問題 設定から、論旨を展開してゆく小気味よさが本書の魅力で、
それがアキレス腱にもなりかねない危うさも内蔵しているが、ここで提起され
ている問題はこれからの中世 の権力を考えるのに重要な論点になろう。(文)
>>964を貼った人は
(文)が誰だか、当然ご存じですよね?
966 :
日本@名無史さん:04/12/30 23:25:01
この人は、前から2つの王権論者だね。
968 :
日本@名無史さん:05/01/03 18:34:29
王権論なんていう不毛な議論をいつまでやってるんだ?
所詮は言葉遊びじゃないか。
解釈ごっこはもうたくさんだよ。
もっと中世の実態をビビッドにえぐり出すような論争してくれないものか?
969 :
日本@名無史さん:05/01/07 08:14:03
そのようです。H郷教授
970 :
日本@名無史さん:05/01/08 01:56:35
なんでわざわざ臥せてるわけ?
奥さんと混同しないように和タンでもいいじゃん
イニシャルでネタにするあたり身内臭がしていやらしい
971 :
日本@名無史さん :05/01/11 20:41:44
H郷先生、御本も結構ですが、
史料の公務をがんばってください。
972 :
日本@名無史さん:05/01/11 21:43:48
>>968 かなりビビッドだよね。王権論て。
知らないとわからないだろうけど。
973 :
日本@名無史さん:05/01/11 21:44:30
臣高山参上!
なんだ、彼は彼だったのか。
975 :
日本@名無史さん:05/01/13 00:55:13
やっぱ叩いてるの身内臭いや
それとも3がここぞとばかりに反撃してるのか?
ストーリーと登場人物は全て陳寿の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説
三国志のストーリーと登場人物は全て陳寿の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説
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977 :
日本@名無史さん:05/01/13 12:26:37
>>968 かなりビビッドだよね。王権論て。
知らないとわからないだろうけど。
978 :
日本@名無史さん:05/01/14 20:50:32
979 :
日本@名無史さん:05/01/14 21:04:10
やっぱ複数王権国家だね
H郷先生を苛めないで下さい!
981 :
日本@名無史さん:05/01/16 17:31:41
臣高山は、完全に論破されて逃亡したね
982 :
日本@名無史さん:05/01/17 19:37:16 ,
今の東宮殿下の御専攻は日本中世史だったんでそ?
学習院の先生のお弟子さんになるのかなあ。どんな内容だったんだろう
983 :
日本@名無史さん:05/01/17 19:47:38 ,
皇太子の日本史の先生は安田元久氏と児玉幸多氏。
児玉氏のもとで瀬戸内海の水運史を研究していたのではないでしょうか。
忝うござる
985 :
日本@名無史さん:05/01/17 21:26:58
話題変えなきゃ汗汗
>>983 瀬戸内海の水運史…地味な分野ですなあ。
帝王学は誰に学んでおられたのかな?
ぜってー東大のサヨ教授には学ばない気がする
987 :
日本@名無史さん:05/01/17 21:54:27
帝王学クククwww
帝王学は大学で学ぶわけじゃないですよw
989 :
日本@名無史さん:05/01/17 22:02:37
ゼミでやると思ってたようですw
990 :
日本@名無史さん:05/01/17 22:26:26
大学でやると思ってたんじゃないの?教授はw
991 :
日本@名無史さん:05/01/17 22:28:45
網野史観における中世の天皇の位置付けはどうなの?
992 :
日本@名無史さん:05/01/17 22:42:07
複数の王権のうちの一つ
993 :
日本@名無史さん:
王権論