もし、平 清盛が長生きしていたら
源平合戦はどう推移したのでしょうか。
2 :
日本@名無史さん:03/07/14 20:51
それより、重盛卿が生きていたら…。
平家は滅亡しなかった。
3 :
日本@名無史さん:03/07/14 21:26
もし、頼朝が急死していたら・・・
4 :
日本@名無史さん:03/07/14 21:30
んなわきゃねーよ
5 :
日本@名無史さん:03/07/14 22:25
商工業国家、海洋国家が成立していたと言う人もいるが。
6 :
日本@名無史さん:03/07/14 22:27
奢る平家は久しからず
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
test
馬場椛椛椛椛椛椛椛椛椛椛椛椛かばかばかばかばかばかばかばかばかばか
10 :
日本@名無史さん:03/07/23 17:36
あげ
11 :
日本@名無史さん:03/07/23 18:45
こんなゲイ集団上げんなや
>>1 がちゃんと高校の教科書を読んでたらこんなスレ立たなかったろうな。
平家打倒の陰謀も頼政の反乱も源氏一門の決起も福原遷都もすべて清盛存命中の話。
合戦を左右する影響力はもうなかったと思われ。元々が政治家肌の人だし。
貴族化、特に藤原氏に取って代わろうとした時点で
貴族からも武士からも浮いた存在になっていたし。
長生きしてもせいぜい畳の上でなく壇ノ浦で土左ェ門になった程度だろ。
これが、もし平治の乱のとき頼朝が殺されてたらっつうネタのほうが
三国志板だったらイケてたかもな。
っつうことで、
□□□□□□□□□□□□□□終了〜〜〜□□□□□□□□□□□□□□□□□□
13 :
日本@名無史さん:03/07/27 21:52
>>2 その可能性は充分にあったね。
清盛の子供の中で、平治の乱に直接参戦したのは重盛だけだし
(つまり若い頃に実戦経験があり、源氏を撃破した実績の持ち主)
その上後白河との関係も良好だったから、朝敵にされる心配もないし
清盛が死んでも重盛が平家一門の総帥だったら、頼朝でも勝てなか
ったろうから、平家は安泰だったと言えるね。
それと重盛は内大臣になってるから、重盛卿ではなくて重盛公。
卿は参議から大納言までの貴族につける敬称。公は大臣につける敬称。
公と卿と公卿という事です。
14 :
日本@名無史さん:03/07/27 21:55
いや、今現在まで長生きしてたらって話だろ
>>12 「頼政の反乱」は実は以仁王から持ちかけたと考えた方が自然なよう
です。清盛が人望を失っていなくても起こったでしょう。そのほかの
勢力については仰る通りですが。
「清盛」ではなく「重盛」でやってほしかった…。
>>16 軍記物とはかなり性格が違ったようですが。清盛の方が良かったかも。
18 :
日本@名無史さん:03/07/27 23:22
>>17 平重盛といえば、息子が侮辱されたと勘違いして、悪口を言った(?)公家を襲撃したとかって話がありますな。
それは1179年7月29日、重盛の子資盛が関白藤原基房とすれ違い、
道を譲らずボコボコにされた報復に後で待ち伏せて従者の髷を切ったという
話だろ。この話がマジだとすると
「忠ならんと欲すればば孝ならず…」っつう名場面もあやしい。
じつは良識派ではなくかなり凶暴だったという根拠になってる。
清盛の後こういうのが総大将になっていたら重衝の焼き討ちどころでは
なかったような・・・平治の乱のとき悪源太に追い掛け回されたのが
よほどこたえたのか・・・
20 :
日本@名無史さん:03/07/28 00:39
>>14 なるほど
南北朝ではどっちかと言えば南朝方
応仁の乱では西軍
信長の京進出にはいち早く従順
関ヶ原では西軍についたけど所料は安堵
大阪の陣で東軍として活躍し所料が少しだけアップ
幕末では鳥羽伏見以降に官軍として活躍
日露戦争で軍功を上げ
大平洋戦争では関東軍として終戦を迎える
戦後事業に成功し巨万の富を得る
しかしバブルで事業が大失敗し破産する
今、無職で1日の大半を2chで過ごす
21 :
日本@名無史さん:03/07/28 13:06
>>19 あれは作戦。御所に立て篭っていた源氏を誘き出す為に、重盛は
ワザと義平を挑発して逃走。
追撃して来た義平を中心とする源氏の軍勢を、要塞とかした六波羅
で迎撃。
源氏の旗色が悪くなるのを見て、同じ源氏の頼政も、義朝・義平を
を攻撃して源氏軍壊滅。
結論。御所から源氏軍の主力を引き出した重盛は、平治の乱における
平家大勝利の最高殊勲者。
22 :
日本@名無史さん:03/07/28 13:18
重盛は即時決戦に消極的だった清盛に、
「時は平安、年号は平治、我らは平氏、朝敵を平らげること間違い無し」
(平治記より)と、即時決戦を主張。
源氏側は二条天皇と後白河上皇の身柄を確保してたから、長期戦になった
ら平家側が不利だから、重盛の即時決戦主張は正論でした。
23 :
日本@名無史さん:03/07/28 13:22
平治記×
平治物語○
>>21 頼政の裏切りだが、そもそも裏切りではないし、戦局不利によるものではない。
もともと「源氏の棟梁」に従っていたわけではなく、
義朝が天皇・上皇を握っていたから従っていたにすぎない。
むしろ決定的だったのは二条帝の六波羅行幸(御所脱出)。
これにより清盛は「官軍」となり、後白河が近臣を見捨てて
自分で六波羅にやってきたこともあって、義朝にしたがってきた頼政や光保といった連中
も離反。結局義朝の手元に残った兵力は自前の数十騎しか残らなかったわけで。
この時点で勝敗は決している。
義朝に残された手段は万に一つの可能性に賭けて
六波羅の二条・後白河の奪還を試みるしかなかったというわけ。
よって、平治の乱における最高殊勲者は、六波羅行幸を成し遂げた
藤原経宗と藤原惟方の二人、ということになるが、平氏じゃないしねぇ。
やっぱり、清盛がうまいこと立ち回った、ってことになるんじゃない?
>>22 >源氏側は二条天皇と後白河上皇の身柄を確保してたから、長期戦になった
>ら平家側が不利だから、重盛の即時決戦主張は正論でした。
?
天皇・上皇を確保している相手に即時決戦したら、
「 朝 敵 」
にされちゃうんじゃないの?
なのに有利なの?
26 :
日本@名無史さん:03/07/28 13:53
>>25 だから朝敵の詔勅が出る前に、源氏の撃破を重盛は主張したの。
実際平家は朝敵にされる前に、源氏を撃破したから。
詳しく書くと、清盛は直ぐに都に入らずに一時的に、自分達の勢力圏
である西国に落ち延びて、軍勢を整えたから都で攻め上ろうと考えだ
ったのを、重盛がそんな悠長な事をしてたら、我々は朝敵にされてし
まいますよと、即時決戦論を主張したのです。
まあこの時の平家は、熊野詣での帰りだったから、率いる軍勢が少数
だったので、常識的には清盛の考え方で間違いではないけど、重盛は
軍勢の多寡よりも、朝敵にさせる危険性の方を重視した訳です。
27 :
日本@名無史さん:03/07/28 14:08
平治の乱は巴戦
平清盛: 伊勢平氏
源頼政: 摂津源氏
源義朝: 河内源氏
頼政と義朝は、同じ源氏だが、頼光流=摂津源氏と頼信流=河内源氏と系統が異なり、もはや同門の源氏というより、別の源氏。
頼政は、義朝を裏切ったのではなく、摂津源氏の棟梁として独自の判断をして動いたにすぎない。
>>26 ・・・即時決戦でも朝敵にされるのは代わりないのでは?
29 :
日本@名無史さん:03/07/28 16:29
つまり
>>22の言ってることは
清盛の熊野帰りで六波羅に帰るちょっと前の話なんだよね?
スレの流れから、六波羅御幸後ぽく思ってしまうよ
>>29 そうです。ちょっと説明不足だったけど、清盛が一門を連れて熊野詣で
に出かけた隙に義朝が挙兵、その知らせを聞いた清盛が、都にとって
返して義朝と戦うか、いったん根拠地である西国に落ち延びて、そこで
軍備を整えてから都に攻め上るか思案した時、重盛が直ちに都にとって
返して源氏討つべしと主張したって事です。
>>28 詔勅や院宣はそう簡単には出ません。
朝廷の作法・儀式に則ってのモノだからね。
だけど西国に落ち延びて、義朝側に時を与えたら、詔勅を出されてしま
った可能性があったから、即時決戦で良かった訳です。
幕末の鳥羽・伏見の戦いでも、錦の御旗が薩・長側に立ったのは
確か開戦三日後だったはず。
>>31 別に院宣なしでも、天皇を守護している官軍を攻撃したら、
天皇を攻撃することになって、賊軍にされちゃうんじゃないの。
清盛が京都へもどったのは、もちろん兵力を確保できたのが一番大きいけど、
乱の対立構造からみて、彼が中立的な立場にあったことも
要因のひとつとして挙げられてるよ。
33 :
日本@名無史さん:03/07/28 20:06
それより、清盛が池禅尼の命乞いを無視して頼朝を殺していたらどうなったのかのほうが面白い
>>12 そうでもない。邪魔な興福寺、東大寺を焼き払い、
源行家を墨俣で破って反撃の態勢を整えた矢先に
棟梁の清盛が死んだんだから、平家の打撃は相当なもの
35 :
ミラクルバード:03/07/28 20:21
清盛が生きていても軍事能力の面で源氏のほうが
上だったろうからいずれは負けてたね。
頼朝が平治の乱で死んでても北条氏あたりが中心
になって関東から平氏討伐の兵をあげただろうね。
そして義経とかも呼応して平氏討伐に加わるっと。
基本的にはなんもかわらんようなきがする
36 :
日本@名無史さん:03/07/28 21:25
>>35 頼朝が居なかった場合、伊豆小豪族の北条辺りではとうてい無理。
坂東武者にとっては、貴種だった頼朝が居たからこそ、彼を御輿に
団結できた訳だからね。
37 :
日本@名無史さん:03/07/28 21:56
↑その通り。
身分が明確だった当時では、関東の田舎侍が団結してわめいても、討伐されるだけだよ!
38 :
日本@名無史さん:03/07/28 22:08
>>31 様子を見て、薩長を官軍とした。勝ち馬のり。
あと、作るのに手間取っていた。
伝説で聞いただけの旗だから岩倉が考えて作らせた。
頼朝ともう一人義経がいなきゃ勝てなかった。
ゆきいえは誰とやっても負けているといってみるテスト。
43 :
日本@名無史さん:03/07/28 23:06
清盛も美女とやりまくってたんだろーないいなー
常盤とか静とかかなりの美人だったんだろ?
頼朝の傘下に結集したのは土着した坂東平氏ばかりで、
新田や佐竹その他の土着した坂東源氏は頼朝とは距離を置いていた。
だから源平合戦というのは源平の戦いではなく、
西国武士を統率した平家=伊勢平氏の平清盛家と、東国武士を束ねた源家=河内源氏の源義朝遺児家の戦い。
46 :
日本@名無史さん:03/07/29 01:21
>>45 今谷明著作の新書はカナーリ過大評価してるね。>源平合戦
厳島神社にでも流して、神主でもさせとけばよかったものを。
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
/ \
/ ヽ
/ ̄\ l \,, ,,/ |
,┤ ト | (●) (●) | 頼朝なんて
| \_/ ヽ \___/ | 僕が生きてたら
| __( ̄ | \/ ノ 一蹴してるよ
| __)_ノ
ヽ___) ノ
(言ってやった言ってやった)
清盛死後の平家には政治力のある人物が見当たらない。
一軍の指揮官なら、知盛や重衡もなかなかだと思うのだがあ。
三種の神器をネタに講和交渉を行う、という発想はなかったのだろうか?
朝廷は平家滅亡よりも源平の勢力均衡を望んだだろうし
頼朝も平家殲滅というハイリスクハイリターンな戦略より
平家から取り戻した神器と引き換えに東国の支配権を朝廷に
認めさせることを狙っていたと思う。
神器と引き換えに九州一円を平家の地盤として認めさせる、というような
交渉はやってみる価値があったのでは?
>>49 >三種の神器をネタに講和交渉を行う、という発想はなかったのだろうか?
平家が一の谷までやってきたのは、講和交渉がほぼ決まっていたから、
と考えられています。
>朝廷は平家滅亡よりも源平の勢力均衡を望んだだろうし
後白河は平家都落ちの際に彼等を裏切りました。
平家の帰還したあと、ただちにではなくとも報復が考えられます。
そのため、詐術として講和交渉を行い、油断した平家を撃つ。
一の谷の合戦については、後白河のこのような意向があった、と
現在は考えられています。
平氏の人材が無能だったんじゃないし
まして平氏の戦略が大間違いだったわけじゃない
ようするに義経の戦争能力が異常だったわけだ
いま源平時代の資料を読んでてあらためて思ったんだけど、
安徳と後鳥羽は在位がかぶってる(いわゆる南北朝より150年ほど前にすでに
2年ほど南北朝があった)
歴史の授業では崇峻天皇が「臣下に殺された」唯一の天皇と聞かされてきたが、
安徳帝も2位の尼に無理心中で殺されてる。
うっかり見落としてたよ。漏れだけか?
(^^)
54 :
日本@名無史さん:03/08/05 00:28
55 :
日本@名無史さん:03/08/06 06:59
>>52 他にも何人かいるらしいけどな
殺された人
孝明帝ですか?
それはいっちゃだめだって…
,,,--─===─ヽ/へ
/iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶
iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiii/ \iiiiiiiゞ
iiiiiiiiiiii/ \iiヽ
iiiiiiiiiiiiiii《 ━━━'/ ヽ━━━ ヽミヽ
...iiiiiiiiii彡/ __,.:: :: __ ヽiiiii|
..iiiiiiiiiiiii》| ::: |iiiii|
iiiiiiiiiiiiiiii|, |iii|
..iiiiiiiiiiiiiiiiii, ( ● ● ) .|iiii|
iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii 》━━━━《 |iiiii|
iiiiiiiiiiiiiii《《《ヽ 》 / ̄ ̄\ 《 |iiiiiiii|
iiiiiiiii《《《《《《《《 《《 \ ̄ ̄/ 》》 |iiiiiiiiiii|
iiiiiiiiiiii《《《《《《《《《《《 》》  ̄ ̄ 《《 》》》》》iiiii|
iiiiiiiiii《《《《《《《《《《《《《《《《《《《《》》》》》》》》》》》》》》iii|
iiiiiiiiiiiiiii巛巛巛巛巛巛巛巛巛》》》》》》》》》》》》》》IIII
iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii巛巛巛巛巛巛巛巛》》》》》》》》》》》》iiiiiii
■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■ 〜〜 ■■■■■■
■■■■■■〜〜〜〜〜〜■■■■■■
■■■■■ 〜〜〜〜〜〜〜〜 ■■■■■
■■■■■ ■■〜〜■■ ■■■■■
■■■■■ ■■■■〜〜■■■■ ■■■■■
■■■■ || ■■■■
■■■■■ 〓〓〓〓||〓〓〓〓 ■■■■■
■■■■ 〓〓 || 〓〓 ■■■■
■■■■ // \\ ■■■■
■■■■ //( ●● )\\ ■■■■
■■■■ // ■■■■■■ \\ ■■■■
■■■■■ / ■■■■■■■■ \ ■■■■■
■■■■■ ■/〓〓〓〓〓〓\■ ■■■■■
■■■■■■ ■ /▼▼▼▼▼▼\ ■ ■■■■■■
■■■■■■■■■ ▼▼▼▼▼▼ ■■■■■■■■■
■■■■■■■■■ ■■ ■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
□□□□□□□□■■■■■■■■■■■■■□□□□□□□□□□□
□□□□□□□■■■■■■■■■■■■■■■□□□□□□□□□□
□□□□□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□□□□□□□□□
□□□□□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□□□□□□□□
□□□□□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□□□□□□□
□□□□■■■■■□□□□□□□□□□□■■■■■■□□□□□□
□□□□■■■■□■■■□□□■■■■□□■■■■■□□□□□□
□□□■■■■□□□□□□□□□□□□□□□■■■■■□□□□□
□□□■■■■□□■■■□□□■■■□□□□■■■■■■□□□□
□□□■■■□□■□□□□□□□□□■□□□□■■■■■□□□□
□□□■■■□■□□■■■■□□□□□■□□□■■■■■□□□□
□□■■■■□□□□■□□□□□□□□□□□□□■■■■■□□□
□■■■■□□□□□■■■■□□□□□□□□□□■■■■■□□□
□■■■■□□□□□□■■■■■■□□□□□□□■■■■■■□□
□■■■□□□□□■■■□□□□■■□□□□□□■■■■■■□□
□■■■□□□□□■□■■■■■□■■□□□□□■■■■■■□□
□■■■■□□□■■□■□□□□□□■■□□□□□■■■■■□□
□■■■■□□■■□□■■■□□□□■■□□□□■■■■■■□□
□■■■■■■■■□□■□□□□□□□■■□■■■■■■■■□□
□■■■■■■■■□□■■■■■□□□■■■■■■■■■■■□□
□■■■■■■■■□□□□□□□□□■■■■■■■■■■■■□□
□□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□□□
□□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□□□□
□□□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□□□□
□□□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□□□□□□
□□□□□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□□□□□□□□
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
61 :
日本@名無史さん:03/08/14 00:30
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
63 :
日本@名無史さん:03/08/16 00:47
64 :
日本@名無史さん:03/08/20 18:39
65 :
日本@名無史さん:03/08/26 17:52
吉川「新・平家物語」を初めて読んで思ったのだが、
やたらに重盛の点が辛いな。
学会でも重盛がそんなまともな人物な訳ねーだろ、と言う話らしいが、
一体本当の所はどうなの?
元本の平家物語は信憑性に乏しいのか?
>>19が本当だとして、「重盛の進退谷まれり」は完全な創作なのか?
66 :
日本@名無史さん:03/08/26 21:45
>>55 安康天皇もなあ
>>20 信長は清盛にとっちゃカワイイ子孫やん。
従順も何も、そりゃモロ手を挙げて歓迎でっしゃろw
67 :
日本@名無史さん:03/08/26 23:42
鎌倉幕府ができなかったか遅れただろう
68 :
日本@名無史さん:03/08/27 16:47
源平の対立ばかり取り上げられるんだけど
後白河の院の勢力もあったわけで
鼎立の構造と考えたほうがよさそうなんだが
後白河さん影が薄い
69 :
日本@名無史さん:03/08/27 19:20
>>65 「平家物語」はあくまでも物語だから、創作部分も多いだろう。
だからといっても、「平家物語」の芸術性が損なわれるということは、もちろんないわけで。
当時のことを知るには、「玉葉」とか読んだ方がいいと思う。
重盛のことがどの文献に詳しく書かれてあるかは知らん。
長生きだろ?
71 :
日本@名無史さん:03/08/28 08:02
72 :
日本@名無史さん:03/08/28 16:39
平家物語は鎌倉時代に書かれているから
史実性についてはかなりの歴史的制約がある。
73 :
日本@名無史さん:03/08/28 16:43
清盛と無関係な発言で申し訳ない。すぐ逝きますから。
「平家物語」で一番好きなのは「木曾最後」です。
「日本一の剛の者の自害する手本!!」
カッコイイーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!
74 :
日本@名無史さん:03/08/28 21:25
木曾最期
75 :
日本@名無史さん:03/08/28 23:57
>>71 平家物語の史実性は、歴史学の観点からは、低いといわざるを得ない。
平家物語が、あくまでも文学作品であるということを忘れてはいけない。
いわば、三国志と三国志演義との関係にも似ていなくはない。
77 :
日本@名無史さん:03/09/11 01:16
宗盛って実は平家じゃないのか??
79 :
日本@名無史さん:03/09/19 21:26
80 :
日本@名無史さん:03/09/21 16:04
>>66 淳仁も廃位後、淡路脱出に失敗した翌日に死亡。
まともな死因ではないだろう。
81 :
日本@名無史さん:03/09/21 17:37
重盛は大将の器であったと思います。
さっさと上皇に毒を盛っていれば、源氏の世は来なかったでしょう。
82 :
日本@名無史さん:03/09/28 19:02
あと10年健康でいれば、まず源氏のクーデターは成功しなかったでしょう。
83 :
日本@名無史さん:03/10/08 20:52
もし清盛があと20年長生きしていたら、確実に頼朝は殺されていただろうな。
もしくは、池の禅尼がもっと早く死ねば、清盛はヤマキ兼隆に暗殺を命じたかも
しれない。
どちらにしても頼朝はアポンされる。
ただし、それでもノーマークで戦の天才だった義仲、義経はたぶん生き延びるから、
平家に反感を持つやつらに担がれた可能性はあるね。
84 :
日本@名無史さん:03/10/16 21:50
85 :
日本@名無史さん:03/10/18 11:26
「担ぐ」というのなら義仲や義経では知名度不足。
各地に源氏の嫡流を称する勢力が割拠し、
平家も含めたバトルトワイヤル状態に陥っていた予感。
平泡盛
平どぶ盛
平酒盛
87 :
日本@名無史さん:03/10/18 23:16
清盛が生きていても、結局壇ノ浦に沈んだのでは。
平家と源氏では戦争観に根本的な違いがありすぎる。
そして京の貴族文化にはまり過ぎた平家ではどう転
んでも、源氏方(東国流)の戦法・戦略に対抗でき
なかったのではないでしょうか。
88 :
日本@名無史さん:03/10/18 23:56
>>87 でも、西国落ちしてからの平家って、それほど弱くなかったと思うんだけどな。
西国では義仲軍は負けまくったし、範頼軍は一年以上もこう着状態だったし。
でも結局、負けてんだけどさ。
89 :
日本@名無史さん:03/10/19 00:38
>88
曖昧な記憶になるんですけど、入京後の義仲の軍勢は精彩を
欠いていたと思います。おまけに米不足に陥っていたはず。
私が兵だっとしたら、速攻で逃げます。院と対立すれば、
京人の支持は受けられないでしょう。つまり、平家が強いの
ではなく、義仲が弱くなりすぎたのではないでしょうか。
いろいろ考えると、やはり頼朝の戦略眼の凄さが際立ちます。
これも結局、途絶えてしまったわけですが・・・。
ところで、「吾妻鑑」の文庫版って、存在していますか?
90 :
日本@名無史さん:03/10/19 17:52
義仲軍は、京都に来てからずいぶん兵が減っちゃったみたいですねー。
でも元々、平家より少ない兵力でも、地形を生かしたり、上手く奇襲を使ったりして勝っていた訳だし、西国でも何とかなんなかったんでしょうかね。
まあ、何とかなんなかったから負けたんでしょうが。
兵力の数的優位を覆すのは基本的に難しいでしょう。
おまけに義仲の軍勢は中国方面に相当分散してしまったのでは?
ここから兵站の困難さが窺えます。
また、地形と言っても土地勘の無い中国方面の山地と、故郷の
中部地方の山地では相当違いがあるのでは?
とすると、義経はどうして成功したのだろうか?という問題が
出てくるんですけどね。
92 :
日本@名無史:03/10/19 22:24
清盛が生きて源氏が負けていたら、元寇に勝ててたかな?
と〜っても難しいifですね。
清盛といえば日宋貿易。日宋貿易が朝貢形式であったとすれば
平氏政権は元王朝に対しても、朝貢方式の貿易のために友好関係
を続けることを優先したと考えられます。
つまり、「元寇が起こらなかった」可能性が考えられます。
こんな答えはずるいですかね〜。あまり知識が無い状態で
様々なシミュレーションを行うのは難しいです。
94 :
日本@名無史さん:03/10/25 17:51
要するに、元の属国になっていたと?
日明貿易は朝貢方式ですけど、歴史学がどう評価しているんでしょうかね。
96 :
日本@名無史さん:03/10/31 00:07
じゃ、鎌倉幕府はアフォ?
97 :
日本@名無史さん:03/11/02 02:31
うーん。
喧嘩を売る気はないんだけどね、
89のコテハンの人って工房か同人女のどちらかでつか?
例えば
>>93のレス。
>日宋貿易が朝貢形式であったとすれば
>平氏政権は元王朝に対しても、朝貢方式の貿易のために友好関係
>を続けることを優先したと考えられます。
>つまり、「元寇が起こらなかった」可能性が考えられます。
中国の歴代王朝は清が滅亡するまで朝貢貿易しか認めてないんだよね。
あったとすればじゃなくてそれしかなかったの。
あと、清盛の日宋貿易は親父の忠盛以来のいわば公然の密貿易で、
そこで得た莫大な資金を公家連中に撒いて黙らせてたわけ。
言って見れば清盛は瀬戸内の海賊商人の親玉であって、当時の
日本人同様外交感覚など微塵も無かったから、あのまま平家が
落ちぶれないで貿易を続けてたら元寇どころじゃ済まなかったと
思うよ。そのいい例が朝鮮じゃないの。
宋が落ち目になったとき宋に付くが元に付くかでまず国内で
殺し合いになった挙句に日本行きの先鋒をやらされたし、
宋は滅んだ訳ではなくて南宋として正統を自称してたろ。
フビライの日本進行の目的は親書でも分かるように
中国の正統王朝を元と認めろ。っていうことだけだったんだから、
もし宋が負けた後に元に忠誠を誓ったとしても、朝鮮同様
南宋派の人間は粛清され、誠意を試す目的で南宋討伐軍の
派遣命令くらい出てたと思うぞ。そうなったらフビライのやりかたからして
隋の二の舞になっても日本を本気でつぶしに来たと思うが。
そのへんまで考察しての「元寇が起こらなかった」でつか?
いろりろあるけど眠いからつづく(w
98 :
日本@名無史さん:03/11/02 06:34
もし基盛が長生きしていたら
99 :
日本@名無史さん:03/11/02 23:17
いや、むしろ重盛が清盛没後まで生きてたら、面白かったんじゃないかな。
重盛派と宗盛派がどんぱちやってたかもしれん。
日宋貿易って私人貿易だったはず。だが?
ちがったか?
>>100 その通り。
正確にいうと、日本にやってきた宋の人間は「商客」などとよばれてますな。
11世紀であれば、大宰府の官衙と、「宋商」・「商客」と呼ばれてる連中との
間での、貿易決済のトラブルに関する訴訟に関する史料が一番多いかな。
宋王朝が、「商人」に日本との通交を行った賞として、
銭貨うん万貫文を下賜した、なんて記録も中国側にあるらしいし。
そもそも、
いわゆる「朝貢貿易」とは、現代の感覚での「貿易」ではなくて、
「えらい中華」に「卑しい蕃夷」が蕃夷なりに心のこもった貢物をささげ、
「えらい中華」が貢物の何倍ものご褒美を与える、といった形式の「国交」でなかったっけ。
歴代王朝が「国交」としてその形式しか認めていなかったのは確かだけど、
それ以外の通商や通交、交渉は、当然ながら存在していたわけで。
まぁ、元に朝貢したからといって、モンゴル襲来が回避できるとは限らん、
という>97の論旨には賛成だけど。
>>100-
>>101 サンクス!
後で読み返して「ヤッチャッタ」って感じ。
何か清盛が勝手に朝貢貿易やってたみたいに自分でも見えまつ…
101の仰せの通り、当時は私貿易が中心でしたが、交易の存在自体は
両国とも把握していて、大宰府が窓口として管理報告してました。
それをかっさらったのが鳥羽院の威を借りた忠盛で、
仮に平家が凋落せず高倉ー安徳時代が安泰だったら
清盛は勅許か院宣を出させて大宰府を廃止するか
平家一門に固めさせるかしてもっとおおっぴらにやったかもと。
そうなれば建前はともかく形の上では国家間の貿易になってしまうわけで、
元(当時モンゴル)から見れば日本も朝鮮同様宋の朝貢国と
みなされても文句は言えんと…。
これが抜けてました(汗
>いわゆる「朝貢貿易」とは、現代の感覚での「貿易」ではなくて、
>「えらい中華」に「卑しい蕃夷」が蕃夷なりに心のこもった貢物をささげ、
>「えらい中華」が貢物の何倍ものご褒美を与える、といった形式の「国交」でなか>ったっけ。
これもその通りで、あえて補足すれば、
「中国は世界の中心で中国以外は蛮族だからそもそも貿易などという
対等な関係自体存在しないし(一応)何でも揃っているから貿易そのものが
無用の行為。欲しけりゃくれてやる」
という発想でした。
103 :
日本@名無史さん:03/11/04 22:57
>>99 時忠辺りが重盛を殺っていたかも知れん。
維盛、清経は父の死を悲しみ入水。
資盛以下残りの兄弟は時忠一派に屈し、
ともに壇ノ浦で滅ぶ。(´・ω・`)
104 :
日本@名無史さん:03/11/08 04:06
あのー、
このスレ自体は面白いんですけど、スレタイの答えって
すでに
>>12の人が出してません?
これはこれで面白いのでスレタイ変えて新スレ立てるとか、どうでしょう?
105 :
日本@名無史さん:03/11/11 21:30
>>104 まだレス可能容量に余裕があるからもうちょっとこのスレ使いましょうよ。
106 :
日本@名無史さん:03/11/11 21:45
源氏の家紋=竜胆 平家の家紋=揚羽蝶 ってなってるけど、あの頃家紋なんてあったの?
107 :
日本@名無史さん:03/11/11 22:24
108 :
日本@名無史さん:03/11/12 00:35
のぼりが目印
旗の色だね。平家が赤で源氏が白。
110 :
日本@名無史さん:03/11/12 09:32
とりあえず火の鳥の生き血を飲んでしまう
電撃クライながら
それで地球爆発後も宇宙を漂うのよ
というか頼朝を殺しておけばよかったんだけどな
伊豆に流さないでさ
112 :
日本@名無史さん:03/11/14 00:12
113 :
日本@名無史さん:03/11/16 03:42
>>112 確かに消防かも知れないけど、そう的外れのレスでもなくないか?
義家流の嫡男だし。平家のたがが緩んだ20年後に彼以上に
求心力のある名前の武将が誰かいたかな?
もちろん頼朝自体が追い詰められて挙兵したから何ともいえないけど。
あえていえば殺さなくてもわざわざ坂東に流さなくても良かったとは
思うけど。
114 :
日本@名無史さん:03/11/16 04:56
伊豆に流すより興福寺にでも入れとけばよかったな。
115 :
日本@名無史さん:03/11/16 05:55
>わざわざ坂東に流さなくても良かったとは思うけど。
これについてだけど、立命館大の杉橋隆夫という人が、
池禅尼の姪が北条時政の妻の「牧の方」で、平治の乱の時
既に二人は結婚してる。で、池禅尼の懇願で助かった頼朝は
尼の縁続きの時政の監視下に置かれたんだ、という説を出したよね。
これに対して、二人の結婚はもっとあと、源平合戦後だから
成立しない、という考え方も出てるみたいだけど、
どっちが優勢?
当時の伊豆の国守は、摂津源氏の源頼政だった。
117 :
日本@名無史さん:03/11/27 19:55
>>115 立命館の先生は何かソースがあってのことなんだろうけど、
池禅尼と牧の方が身内とは知らなかった。
有名なの、それ?
118 :
日本@名無史さん:03/11/28 20:09
今頃、太平洋戦争かな?
>>115 東京大学史料編纂所の本郷和人氏は
北条時政と牧の方の結婚を
頼朝政権発足後としている。
>>115 杉橋さんのは「牧の方の出自と政治的位置」という
やつですね。
牧の方=池の禅尼の姪説は、禅尼と姉弟の藤原宗親=牧宗親が証明されて始めて成立するようですが、
反論を見ていると可能性は薄いようですね。
121 :
日本@名無史さん:03/12/03 22:17
スレスト、かかったの?WWW
122 :
日本@名無史さん:03/12/03 22:31
清盛が生きていれば、平家は少しは寿命を長らえたと思う。
しかし、武士の「自分が開拓した土地を自分のものにしたい!」
という要求に応えられない限り、平家は滅んだのでは?
(源氏が相手かどうかは分からないが)
123 :
日本@名無史さん:03/12/05 17:01
清盛が生きていても敵が多すぎたからもうダメポ
それにしても平家の政権基盤は脆弱だと思う。
125 :
日本@名無史さん:03/12/05 18:02
清盛の死で流れが決まった、というのは否定できんのじゃないか?
あれで「平家、もう駄目ポ」って雰囲気になった。
もし長生きしていたら、平家滅亡も少しは先に延びたと思う。
126 :
日本@名無史さん:03/12/05 18:03
>>122 その辺りは清盛なら
>>49のいうような状況を政治的につくり出して
何とか切り抜けるかもしれない、と思ったりもする。
清盛が生きてたら・・・義経の憎しみパワーが倍増してもっと凄惨な戦いになってたかもね。
平家関係者全員火あぶりとか。
128 :
日本@名無史さん:03/12/06 03:50
清盛は血も涙もある男だよ。よく考えてごらん、義朝以下実際平家の手に掛かって
死んだのは悪源太1人だけだよ。義朝の首を持ってきた長田親子は侮蔑してるし。
もちろん情けだけではなく何らかの計算の上のことだろうけど、当時は俺等が思っている
以上に清盛御落胤説は影響があったんじゃないかな?
129 :
日本@名無史さん:03/12/06 04:18
>>128 悪源太かっこいいなぁ。
よ し ひ ら 燃 え !
130 :
日本@名無史さん:03/12/06 04:30
清盛が生きていれば、は少しは寿命を長らえたと思う。
131 :
日本@名無史さん:03/12/06 18:30
平家の血を引いてなかったら将軍にはなれなかった?
132 :
日本@名無史さん:03/12/06 18:35
なんで清盛は幕府でなくて天皇の外戚をとったんだろう。わかるひと?!
133 :
日本@名無史さん:03/12/06 20:22
幕府という概念がまだなかったから。
134 :
日本@名無史さん:03/12/06 21:34
平家落人部落って何?
>>125 経営的にはもうダメぽな会社でも、
知名度&人脈のあるじいさん社長の存命中は
取引先が切らないという例もあるからな。
136 :
日本@名無史さん:03/12/09 05:41
>>135 そうだね。ましてや会社の経営のように、業績の悪化を客観的に示す具体的な数値があるわけでもないから、
周囲もなかなか手を切る決断がつかないだろう。
思うに、平家政権の短命は清盛が自分の後継者たるべき政治家を一門の中に作っておけなかったことが大きいかと。
源氏の決起が無くも、清盛死後の平家は院と渡り合えるだけの人材がいないので、遅かれ早かれ失脚したって気もするんだけどどうよ?
137 :
日本@名無史さん:03/12/09 12:35
宗盛じゃダメな客観的根拠は?
138 :
日本@名無史さん:03/12/09 12:48
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/sports/10137/1069985528/-100 ●麻原彰晃 →オウム真理教教祖 父親が朝鮮籍。サリンを撒き無差別殺人。坂本弁護士一家惨殺
●宅間守 →大阪 池田小学校の児童殺傷。8人殺害 15人が重軽傷。朝鮮人部落出身
●東慎一郎 →酒鬼薔薇聖斗。神戸の首切り小僧。生首を校門に飾る。2人殺害。元在日朝鮮人
●林真須美 →和歌山 毒入りカレー事件。4人毒殺 63人が負傷。帰化人
●織原城二(金聖鐘) →神奈川 帰化人、英国人 豪州人女性を強姦、ビデオ撮影、バラバラ殺人
●関根元 →埼玉の愛犬家連続殺人犯。4人を殺害。肉片を削ぎとりドラム缶で焼却、川へ流す
●丘崎誠人 →奈良 岩を数回、少女の頭部に投げつけて絶命させた 在日朝鮮人
●キム・ミンス →韓国人留学生 強盗殺人犯。大分 日本人老夫婦を刃物で殺傷
●李東逸 →韓国人 檀国大学教授。芝居観覧のため来日中、東京で日本人女優Nを強姦
●金允植 →韓国人 強姦罪で指名手配中に逃亡目的で来日。大阪で主婦を100人以上連続強姦
●金大根 →韓国人の強姦魔 連続児童虐待暴行殺人。6名の女児死亡
●李昇一 →韓国人 東京 テレビ「ガキの使い」関係者を名乗り少女140人をレイプ
●沈週一 →韓国人 鳥取 大阪 和歌山 ベランダから女性の部屋へ侵入し9人を強姦
●張今朝 →韓国人 長野 「一緒に猫を探して」と小学校4年の女児をレイプ
●ぺ・ソンテ →韓国人 横浜 刃物で脅し、女子小学生14人をレイプ
●宋治悦 →韓国人 東京 ナイフで脅し手足を縛り下着で目隠しの上、主婦19人を強姦
●崔智栄 →北朝鮮籍の朝鮮大学校生 新潟 木刀で傷を負わせ、18歳少女2人を車の中で強姦
●金乗實 →北朝鮮籍の朝鮮大学校生 同上、共犯者。他にもう一人19歳の共犯者(朝鮮籍)あり
●鄭明析 →韓国人 カルト「摂理」教祖。日本人1000人、台湾人100人、米英仏人などを強姦
●徐裕行 →韓国籍 オウム真理教幹部・村井秀夫刺殺事件の刺殺犯。裏で北朝鮮が関与か
●国松孝次警察庁長官狙撃事件。現場近くから北朝鮮製のバッジ、韓国のウォン硬貨などを発見
●世田谷一家惨殺事件。採取された指紋が韓国人の男と一致。韓国警察からは協力を得られず
●東京資産家強盗殺人事件。奪われた腕時計が韓国で販売。韓国人グループの犯行とみて捜査中
139 :
日本@名無史さん:03/12/09 18:14
>>137 都落ちに際して後白河院に逃亡されるという致命的な失策を犯してしまった宗盛が
清盛に匹敵する政治家とはとても思えない。
客観的な根拠というよりは俺の主観だけどね。
逆にきくけど、宗盛が清盛クラスの逸材だったという客観的(君の主観でもいいけど)根拠ってある?
>>136 重盛が生きて入れば・・といいたいけれど
若死にとはいえこの人も一応40過ぎまでは生きたからなぁ
源氏がそうだったように、いずれは北条氏みたいなのに乗っ取られていた可能性大だね
>>139 いや、たんに人物の大小で歴史が変わるのかなあ、と漠然と
思っただけ。
ただ、都落ち後の平家だけど、一の谷前夜までを考えると
けっこう健闘してるわけじゃん。海上戦は連勝で西国は抑えてるし。
宗盛がただバカだったわけでもあるまい、とつい思ってしまって。
142 :
日本@名無史さん:03/12/10 06:37
>>141 俺も宗盛は馬鹿ではないと思う。
ただ、実績からいうと清盛には到底及ばないのも事実。
偉大な父を持った後継者の悲劇だね。
ただ、清盛晩年の院との関係悪化は清盛本人の失策と言えなくもない。
清盛はよくも悪くもワンマンだった。
その意味では、宗盛は清盛の失政の煽りを受けなければならなかった、ともいえる。
143 :
日本@名無史さん:03/12/10 06:53
>>142 清盛みたいにハングリーなところがなかったのがまずかったかなぁ。
生まれたときからすでに「平家の御曹司」だったせいで。
144 :
日本@名無史さん:03/12/10 07:00
貴族になりたがる武士はアホ
頼朝マンセー
>>144 晩年の頼朝を見ると、結局は頼朝も貴族になりたかったんじゃないかと思うんだけど。
それまでは、東国武士たちに遠慮していただけで。
146 :
日本@名無史さん:03/12/10 21:53
>>143 御曹司は御曹司だろうけれど、重盛の存在がなあ。
オヤジ清盛は重盛を嫡男として扱っていたわけでしょ?
おふくろさんは当然自分が産んだ宗盛を推すわけだ。
けっこう家庭環境が複雑っていうか、
清盛の後継をめぐって、もまれてたんじゃないかなあ。
147 :
日本@名無史さん:03/12/11 04:09
>>144>>145 尊氏、義満、信長、秀吉、家康なんかも公卿になっているわけだが‥‥
やっぱりアホなんですか?
148 :
日本@名無史さん:03/12/11 07:38
>>144 武士といえど、高位者を目指すのは当然だろう。平安時代の印象が強いのか、貴族化
という言葉からなぜか非軍事化を連想する人が強いが、奈良時代までは貴族が武力を
もっていたのだが・・。そうじゃなければ日本統一も蝦夷征服もできない。
149 :
日本@名無史さん:03/12/11 09:24
>>146 重盛にはすでに成人していた嫡子維盛がいたのに、
平家を統括したのは宗盛だったね。
てことは、一門の総意が宗盛当主だったってことかな?
それとも清盛の遺言がそうだった?
いずれにしても、そうなると宗盛にもそれなりの風格というか、一門に抑えがきくような何かがあったんだろうね。
「平家物語」でのへたれイメージが強いので、ついつい馬鹿に思えてしまうけど。
150 :
日本@名無史さん:03/12/11 17:58
維盛の場合、二代にわたって婚姻を重ね、取り込んだはずの
藤原成親に裏切られてるからねえ。あれも痛かったと思うな。
彼が入水自殺を遂げたのも、後継がらみなんだろうねえ。
151 :
日本@名無史さん:03/12/11 19:04
いやぁね、私は思うんですと!!
南都焼き討ちは最低だって!!!
貴様!!どれだけの人ががんばって大仏作った事か・・・る
清盛がたいした力もないくせに太政大臣になったのはアホじゃん!
テメーが安徳天皇を即位させなければ東大寺は残ってたんだよ!
安徳天皇は決して悪くないよ。かわいそすぎ。
バカ!
平氏も負けるならさっさと負けろよ…わざわざ焼き討ちなんてすんなよ!
少しは俺らの事も考えろよ!聞いてるのか?重衡!
もう清盛が長生きしてたら大変だったよ!
というかコノ人見てたら、この時代で1番恐ろしいのが
病気ってのがよくわかるよ。
つーか戦犯は 行 綱
お前なにちくってんだよ!!
後白河様をあんまなめんなボケ!!
というか笑えないよ、おまえさえ…おまえさえ
以上、興福寺仏頭でした。
152 :
日本@名無史さん:03/12/12 03:06
>>150 だいたい成親はなんで平家を裏切ったんだろうね?
この人って平家とのつてで出世したようなものでしょ。
平治の乱でも反平家の立場を取ったのを一度許され、平家の嫡男と婚姻まで結んでの裏切りは、
幾ら政治の世界のこととはいえ、仁義にもとるよな〜。
153 :
日本@名無史さん:03/12/12 08:07
>>152 平家物語によると、官位の昇進が平家の誰だかに先を越されたからじゃなかったか?>成親の裏切り
154 :
日本@名無史さん:03/12/16 22:25
清盛に長生きしてもらいたかった。頼朝は左翼だよ。
156 :
日本@名無史さん:03/12/20 23:12
幕府の定義を勘違いしてる香具師が多いな。このスレに限ったことではないが。
平頼綱として平時宗に仕えていました。
158 :
日本@名無史さん:03/12/24 01:11
義経は清盛本人を決して憎んでないよ。憎しみパワーではない。所領がほしいから首を取る訳で、
「玉葉」では、捕虜になった宗盛親子を「私の故(助けられた)もあるなり」
と積極的に朝廷に進言してる条があり、常盤と自分たち兄弟の世話をしてくれたことを
明らかに感謝してると思われる有名な条がある。
初めて玉葉研究して発見したが、同情的だったことが判明してる。
159 :
日本@名無史さん:03/12/24 08:05
>>158 >義経は清盛本人を決して憎んでないよ。
そこまで言い切るのはどうかな。愛憎という感情は結構移ろいやすいものだからね。
宗盛に同情的になれたのも、平家がほとんど滅んだ後だからこそなれたのかもしれない。
一の谷の合戦後には、討ち取った平家の名だたる武将の首を都大路にさらしものにしたいってことを言い出して、
後白河法皇とか朝廷が渋っていたにもかかわらず、強硬に要求してそれを実現させたりしている。
まぁ、それも憎しみからではなくて、単純にそうしたほうが戦略的にいいからって解釈も出来るけど。
あぼーん
161 :
日本@名無史さん:04/01/22 21:28
寄与守り
162 :
日本@無名史さん:04/01/23 03:31
例え清盛が長生きしていようとも源平合戦の黒幕である後白河によって遅かれ早かれ滅ぼされていたはず
163 :
日本@名無史さん:04/01/28 02:10
いやいや、実は清盛夫人の弟(時忠、親宗)が法皇サマの間者で、清盛に失策を献じ、頼朝のもとに
うまく潜り込ませた信時(?)・清盛夫人の甥に、頼朝を操らせて、んで、
平家はおしまい。チャン、チャン。
164 :
日本@名無史さん:04/02/11 17:22
165 :
日本@名無史さん:04/02/11 17:57
平一族の千年王国
166 :
日本@名無史さん:04/02/14 10:26
清盛の子のうち六男以降の事績に興味があって調べています。
維俊、知度、清房、清貞、清邦、覚隆。
この辺りの人達について何かご存知の方は教えてください。
167 :
日本@名無史さん:04/02/23 21:06
子供の頃学研の学習マンガ「人物日本の歴史」で
「源頼朝」における清盛はタコ入道みたいな顔だったのに、
「平清盛」ではいきなり美男子になって出てきてワロタ。
作者は同じなのに。
>167
それは清盛が主人公になってるからですよ。
怒り心頭になって陣頭指揮をとり頼朝討伐にいくのでは、
義経や義仲は後回しだ。
169 :
日本@名無史さん:04/03/14 00:36
時間の問題
171 :
日本@名無史さん:04/03/26 23:43
意外と戦上手だったのでは?
頼朝が親類兄弟を片っ端から殺しているから印象は薄いが、平家も必ずしも
一枚岩ではなかった。重盛も粗暴だったためか、異母妹の徳子が入内して宗盛の
発言力が上ったのか、おそらく後者だと思うが、重盛が生きていたら完全に分裂
していたろう。また一門、例えば頼盛にしても戦線離脱したり平家滅亡後に旧領を
安堵されたりしているところを見ると間接的にでも源氏にパイプを持っていたようだし、
水面下では色々な思惑が交錯していて、綺麗に平家vs源氏vs院とも言えなかったと思う
仮に頼朝以下源氏一門を清盛が皆殺しにしていたとしても下手をすると清盛存命中にでも
平家分裂→より多くの武士の信頼を集めた一門の誰かorどさくさで一時的でも公家政権が
続いていたかも知れない。自信ないけどw
173 :
日本@名無史さん:04/04/01 03:15
172の仮定のもとで、宗盛は重盛に対抗しうる存在になれるかどうか、平家物語の
先入観もあって疑問に思ってしまう。
でも、頼盛の行動から一枚岩でないのは史実。これは惣領継承した清盛系と
池禅尼系という分類で考えればいいのかな。
174 :
日本@名無史さん:04/04/07 19:32
嫡子云々という争いは母親によって決まるものだから・・・
腹違いの兄弟は初めから仲が悪いと決まっている。
当腹の頼盛と一応先腹の清盛とでは、うまくゆかんのも当たり前。
清盛と頼盛のどちらを惣領にするべきか、と忠盛は悩んだろうね。
又、重盛は先腹、宗盛は当腹。
しかも重盛の母は早世し、重盛自身も早世だったから、母が健在だった宗盛がノサバルのは当然。
二位ノ尼の権力が絶大だった。
その実家の人々は最強。
頼盛はもとからそっぽをむいて源氏とのつながりもあり。
重盛の遺児達は孤立化、というか不遇。
二位ノ尼一族が牛耳って、でも院とのパイプもあり、早くから頼朝の側近になる者もいた。
で、江戸時代になっても都で公家のままでいられた。
平家は分裂一家です。
175 :
日本@名無史さん:04/04/25 10:43
結局は清盛より後白河の方が一枚上手です
176 :
日本@名無史さん:04/05/05 21:06
177 :
日本@名無史さん:04/05/06 13:44
平朝臣清盛は、英雄ですた。有能な人ですた。彼が病気で伏せることさえなければ、平家物語の
中身は大きく変わっていたでしょう。
>>175 そうかねぇ?後白河法皇って、平家憎しのあまり頼朝に気前よく権益をやり過ぎているし、院宣の内容もコロコロ変わったりして権威の低下を招いたし、
何だか目先の損得しか見えていない人って気がしてしょうがないんだけど。
179 :
日本@名無史さん:04/05/06 20:46
>>178 ほぼ同位。
日本の政治経済に対するビジョンがあったとは感じられないし、
単なる策士だったのではないか?
清盛の方が神戸を港にして中国と貿易をし通商国家を目指して
いたから、もし清盛の体制がその後も続けば、日本だけでなく、
東アジアは諸国は違った歴史を持ったのではないか?
1)平家が海外との通商国家を目指す
↓
反対勢力に破れる
↓
大きなビジョンのない反対勢力は内向きに政治をする
↓
政権が安定して、長続きする
2)織田信長(後継者の秀吉も)が海外との通商を目指す
↓
反対勢力の家康が天下を握る
↓
大きなビジョンのない家康は内向きに鎖国をする
↓
政権が安定して、長続きする
なんだか、1)と2)は似たパターンだね。
180 :
日本@名無史さん:04/05/20 00:33
だいたい後白河院はなんであれほど平家が気にくわなかったんだろう?
まぁ気にくわないのは別にいいとしても、その平家を追っ払いたいあまりに
東国に軍事政権が成立するのを認めてしまうなんていうのはなぁ。
平家以上に朝廷にとって厄介な事態になってしまうという見通しは無かったんだろうか?
181 :
日本@名無史さん:04/05/20 14:32
信西が言ってたように、後白河は基本的にバカだから。
182 :
日本@名無史さん:04/05/20 21:43
>181
身も盖も無い言い方するなよ(w
183 :
日本@名無史さん:04/05/21 00:43
>>179 平氏の通商戦略だけど、頼みの宋がモンゴルに征服されることを考えると、
土地支配を中心とする源氏の農業政権の方が結果的には良かっただろう。
そして、やがて商品経済が発達していった。
それに引き換え、時代的には、徳川政権よりは織豊政権の海外志向の方が良かった。
あそこで閉じ篭って、日本は西洋諸国に外堀を埋められたからな。
184 :
日本@名無史さん:04/06/18 00:20
185 :
日本@名無史さん:04/06/18 00:35
清盛が生きていても源氏の天下。
義経が殺されなくても鎌倉幕府の天下。
これが歴史の潮流ってやつさ。
福原遷都だの検非違使任官だの
自ら流れを手放してる奴に運は味方しない。
186 :
日本@名無史さん:04/07/19 00:42
187 :
日本@名無史さん:04/08/20 01:23
清盛や重盛が死んだのも歴史の潮流だな
歴史上の人物って悲惨やのう
189 :
日本@名無史さん:04/09/10 23:52:25
190 :
日本@名無史さん:04/09/11 19:12:16
清盛が生きていても平家が滅びるのが何年か延びただけじゃないの。
平家が都落ちした時には池殿頼盛が途中から重盛の息子である維盛が離脱したよね
一族の統制がとれなくなったてことでしょう、頼盛は母の池禅尼が頼朝を助命したことで
重盛は平時子の子ではなく清盛亡き後に宗盛、知盛、時忠を抑えることは疑問です。
191 :
日本@名無史さん:04/10/01 22:17:08
192 :
日本@名無史さん:04/10/24 21:38:58
>重盛は平時子の子ではなく
そうなんだ?
193 :
日本@名無史さん:04/10/24 22:00:59
>>192 重盛、基盛は先妻(高階基章の娘の子)の子。
宗盛、知盛、重衡、徳子が時子の子。
194 :
日本@名無史さん:04/10/25 01:15:59
時子に嫌われたら、やっていけなかったのねん。
だから、重盛は時子の妹(彼御方)、維盛は時子の姪(親宗の娘)とも通じなきゃ
ならなかったのかな。
宗盛でさえ、時子の妹(中納言三位)と結婚してたしね。
敦盛って弁宰相っていう女房と通じてたとかいう伝説があるけど、
親宗の娘のことだよね。
時子の身内と結婚すると平家内での地位が上がるから、
もしかして、経盛家勢力アップ計画だった??
経盛家って隅に追いやられてるから。
意外としたたか者じゃん、敦盛。
195 :
日本@名無史さん:04/11/17 23:12:34
196 :
日本@名無史さん:04/12/02 21:12:01
197 :
日本@名無史さん:04/12/02 21:28:44
オダ話を真に受けちゃいけないよ
age
199 :
日本@名無史さん:04/12/28 00:03:52
宗盛が傘職人の子ってのは真偽の程どうなのよ?
200 :
日本@名無史さん:04/12/28 03:01:26
201 :
日本@名無史さん:05/01/10 14:24:50
age
202 :
日本@名無史さん:05/01/10 19:06:49
まぁ。現在でも首都は西日本だろうな。
203 :
日本@名無史さん:05/01/10 19:11:03
太宰府朝が現実のものとなってたかもね。
204 :
日本@名無史さん:05/01/10 21:46:31
足利さんはこの頃どうしてたの?
足利さんて一応、濃い源氏なんでしょう?
頼朝とかのサポートとかしなかったの?
205 :
日本@名無史さん:05/01/10 21:51:24
>>204 頼朝のバックは北条家をはじめとする坂東平氏の豪族たち。
結局、頼朝は坂東平氏に持ち上げられただけなのよ。
足利が出る幕もなかったさ。
206 :
日本@名無史さん:05/01/10 21:53:50
源平合戦は実は
平家一門VS坂東平氏
という裏がある。
207 :
日本@名無史さん:05/01/10 21:54:43
清盛が長生きしていたとしても後白河法皇を敵にまわしてしまった以上平家滅亡は避けられなかっただろう。
208 :
日本@名無史さん:05/01/10 22:11:08
>>204 足利はいとこだからすぐに来た。(母親が姉妹。)
さらに二人の母親は名門熱田大宮司家。
ほかのどこの馬の骨とも知れない兄弟を自称する連中より仲が良く、
そのまま側近となり、北条政子の妹と結婚。
義兄弟になる。
209 :
日本@名無史さん:05/01/10 22:22:09
>>208 サンクス!
結構協力してた訳ですね。
勉強になりました。
210 :
日本@名無史さん:05/01/10 22:56:04
>200
それって、傘職人と時子との子?
と釣られてみるw
211 :
重複:05/01/11 07:59:30
清盛はそれ以前に死にかけたことがあるので
長生きした方だと思う。
死んだタイミングが最悪だった、という問題ではなかろーか。
214 :
日本@名無史さん:05/01/14 02:27:45
>1
もし平重盛が長生きしていたら
源平合戦はどう推移したのでしょうか。
215 :
日本@名無史さん:05/01/14 02:49:11
もし平治の乱で二条天皇の脱出が失敗していたら
源平合戦はどう推移したのでしょうか。
216 :
於義丸:05/01/14 21:43:13
217 :
昔、名無しありけり:05/01/14 21:59:40
平社員になっていたんだろうな。
218 :
於義丸:05/01/14 22:00:32
>>217 は〜。清盛がいても源氏の世になった感じがするんだけど、
219 :
日本@名無史さん:05/01/14 22:36:30
>218
私もそう思う。
福原遷都で,もうテンパッテたもんね。
ろくな後継者もいないし
後白河は狸だし
三種の神器ごと奪われてるかもしれん。
平清盛が牛若を養子にする
平氏としてアイデンティティを確立する牛若
元服して平朝盛と名乗った牛若は平氏の将として源氏を追討
なんてどうか
涙も出ないような情けない平家
涙も出ませんむしろ笑いが先に来ました
あきれはててここまでひどいとは思いませんでした
監視一つすらできない 世界中に言いたい、北条時政にはまかせるな!
頼朝を助けないほうがいい、と平家の人に言いたい
頼朝を助命するということは、のちに復讐されることです
敗者としか扱われない
涙も出ない、笑いが先に来る哀れな平家だ
清盛の最大のミスは源氏の遺児を助命したことだよね。
頼朝はその求心力で反乱軍の御輿になったし、
義経は天才的用兵で平家に直接とどめをさすことになった。
他はどうでもいいけど、この二人を生かしておいたのが命取りに。
今さら改めて言うことではないんだけど、でもやっぱりそれに尽きる
んだよね〜、ほんと。
ん〜ドラマティック!!
お下品だが、実は源氏皆殺しを考えていた清盛が常盤とやりたいばっかりに
子供の助命を約束してしまい、常盤の子供だけだとバレバレなので何となく他の遺児も
助けてしまった(池の禅尼の話しは誰かが後で考えた)としたら、
個人的にはそんな清盛が好きだ。
225 :
日本@名無史さん:05/02/17 06:48:52
常盤のことは関係ないんじゃない?
226 :
日本@名無史さん:05/02/17 12:26:30
残虐過ぎると求心力を失うからね。制圧者から統治者にならないといけない。でも結局は統治で求心力を失って巨大な残留勢力が盛り返しちゃた。
227 :
日本@名無史さん:05/02/17 14:10:26
しかし何で以仁王は親王宣下を受けられなかったんだろう?
責任は後白河院にあるのだが王はその後ろ盾の平家を名指しした。
鹿が谷の一件で懲りてるからこの人さえ親王に上げておけばそれこそ清盛の存寝意中は
何事もなく過ぎたように思えるのだが・・
教えて、エロいひと
>>224 その可能性も充分あるな。
実際常磐は清盛の子まで産んでいるわけだし。
229 :
日本@名無史さん:05/03/12 00:54:24
可能性ないよ
231 :
日本@名無史さん:2005/04/08(金) 00:00:49
なんだよ?
232 :
日本@名無史さん:2005/05/03(火) 00:24:51
しらん
233 :
日本@名無史さん:2005/05/27(金) 01:43:00
意味わからん
234 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 21:29:03
だねえ
235 :
日本@名無史さん:2005/06/23(木) 01:04:18
うほ
236 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 02:14:41
なんやねん
237 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 14:20:47
>>227 超亀ですが、以仁王の親王宣下が無かった件について。
当時「親王宣下される」ということは「皇位につく可能性の高い皇子である」
という宣言のようなものだったのです。
親王宣下がない=皇位につく可能性がほとんどないということです。
まず、後白河天皇の即位自体が、子である二条天皇を即位させるための
「やむをえない措置」であったので
二条天皇の子以外に皇位が行く可能性は無し。
その後政局の流動と二条天皇の死去にともなって
建春門院所生の高倉天皇が即位。
その際、以仁王も一瞬天皇候補になりましたが外され
その後は皇位から遠い存在となってしまったので
「親王宣下」はなし。
238 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 14:28:44
>>224>>228 頼朝の助命は池禅尼の嘆願というより
後白河院や上西門院の意向が池禅尼を通して伝えられたとの説が最近は
濃厚です。
その他の子供たちは嫡男が助かった以上殺す必要がなくなったとの事。
また、「死刑」が減刑された場合は「流刑」になりますが
流刑になったのは頼朝と希義だけ。
(二人は同腹)
常盤の子供たちは「出家」させられますが
「出家」は刑罰ではないので彼女の子供は「無罪」扱いだったと考えられます。
彼女の子供たちが「死刑」を逃れたのであるのならば「流刑」になるはずです。
希義の場合、捕まった時点では「元服前」でしたが
「流刑を執行するために元服」させられています。
そして今若と希義は1歳しか違いません。
もし、本当に今若が死刑対象者だったならば
無理やり元服させて流刑るすることが可能だったわけです。
また、牛若の鞍馬入りに関しては義父の一条卿の肝いりという説もあります。
つまり、出家を条件に助命ではなく
最初から殺される心配がなかった可能性も強いと思います。
それに、常盤と清盛の関係や娘の存在も疑問視する説もありますし。
つまり、常盤の嘆願はあったでしょうが「決定打」ではなかったと思います。
239 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 01:48:33
240 :
日本@名無史さん:2005/08/15(月) 22:30:34
今年の大河ドラマで、平清盛の役を演じていることは言うまでも無い
だって本人だし。
242 :
日本@名無史さん:2005/08/16(火) 07:55:36
>1
別に大したことありません。歴史の流れはそう変わりません。
クレオパトラの鼻が低かろうが、徳川家康が伊賀で死んでようが
その後の歴史に大した影響はないのです。
243 :
日本@名無史さん:2005/08/16(火) 08:31:19
>214
局地戦はあっても凄惨な殲滅戦にならなかったんじゃないの?
カリスマ頼朝による武家の時代の到来は避けられなかったろうが、
平家も滅びずに代々公卿を出せる家柄で存続し、清盛の子孫は清華家に一家(重盛裔の嫡流)、
大臣家以下に数家(宗盛以下庶子の裔のいくつか)を擁して明治を迎えられたんじゃないかな。
244 :
日本@名無史さん:2005/08/16(火) 15:27:48
倶利伽羅峠の敗戦の後、即座に京からの撤退を決断。勢力を温存し後白河法皇も連れ出すことに成功する
義仲は北陸宮を天皇と名乗らせる
西国で勢力を立てなおすのは宗盛よりも速くできるから、義仲とニセ天皇を平家が追い出すことになる
義仲は多分、鎌倉の敵を残すため滅ぼさずに北陸へ追いやるだけになる
西進した義経軍と京都付近で戦うが、戦いになれている清盛は義経の奇襲によって宗盛ほど混乱した判断をしないだろうから戦況は膠着状態に、逆に罠にはめて小人数で行動する義経達を討ち取ることもできるかもしれない。
>>244 都落ちの時に後白河院さえ逃さなかったら、清盛がいなくても
そんな展開になっただろうね。
清盛は福原還都後のことを練っている時に倒れたので、
長生きしていたら、平家物語よりドラマチックな歴史が
あったかもしれない。
246 :
日本@名無史さん:2005/09/03(土) 15:29:24
そうかもな
247 :
日本@名無史さん:2005/09/09(金) 23:23:16
>>1
実は400年の時を経て、清盛は甦っている。
同じ平家の血を引く地方領主に仕える下層武士として出発し
ついに再び天下人、太政大臣そして関白となった清盛。
しかし彼は再び前世と同じ過ちを繰り返してしまうのであった。
そう、まずは武家でありながら公家の権威に寄りかかるという過ちを。
遷都の夢を忘れられない彼は、福原に程近い大坂の地に新たな都を建設する。
しかし堂島への皇宮移設も「難波のことも夢のまた夢」と消えた。
そして同じく400年の時を経て甦った憎き頼朝。
なんと清盛はまたしても彼を殺さず、源氏の本拠たる東国へ追いやる愚を犯すのである。
しかも今度は流人としてどころか、250万石の大大名として。
奇しくも前世とほぼ同じ年齢で、再び清盛は一門の行く末を憂いつつ病に倒れる。
そして残された一門は頼朝により壇ノ浦ではなく大坂の地で、水ではなく炎の中に
またしても春の世の夢のごとく消えていったのであった。
249 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 19:05:35
なんやんえ
250 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 00:17:30
251 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 01:54:58
清盛は知力、体力、戦闘力を持った英雄だった。
彼は、それだけでなく、日本を大陸との交易によって立国するという
夢とロマンを持っていた。その目的のために一貫して行動する持続す
る意思もあった(福原遷都)。経済的な感覚にも優れており、関東武
士たちと違って、大金持ちだった。
さらに、清盛は敵の男子である頼朝や義経を斬らなかった。各地の源氏
一族の反感を和らげ、平家の偉大さを示すためであったと思うが、清盛
は経済人であり、人柄は明るく、寛容な精神もあった証拠だ。
おれは、そういう清盛はちょっと好きだ。
ただ、根回しは苦手だった。そのため、寝業師ばかりの朝廷の公家
との関係がぎくしゃくするようになった。さらに、平家一門は、
重盛、知盛など一部を除いて、出来の悪い親戚ばかりだった。
要するに、清盛以外は凡人だった。
また、清盛は各地の源氏の動きを監視し、離間を図るという手間
を惜しんだ。今でいえば、株の値動きに気をとられているうちに、
政権交代が起こってしまったようなものだ。
一言でいえば、清盛は、早すぎた信長だと思う。
252 :
三瘡宮:2005/11/05(土) 02:10:55
光秀に見捨てられた信長では不足
清盛に匹敵する大人物は家康だろう
253 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 02:40:43
大人物である点では家康もそうだ。
ただ、家康は鎖国を志向した(完成させたのは家光だが、その路線
を敷いたのは家康だといえよう)のに対し、清盛は徹底的な開国
(大陸との交易)を志向した点で正反対のベクトルをもつことに
注意が必要だ。
平家が源平合戦に勝利していた場合、日本史は全く違う展開にな
っていたかもしれない。保守・土地神話路線か改革開放路線かの
分かれ目は既にこの時代にあったといえよう。
その意味で、徹底的に既成勢力を打破し、天下布武(天下を統一
し、政治に安定をもたらす)の理想をかかげた信長に近いと思っ
た。
ただ、信長の路線は秀吉に継承され、その遺産は家康に引き継が
れた。
しかし、源平合戦の結果、平家の方向は完全に否定されてしまっ
た。
その意味で、清盛は、日本史のアンチテーゼであるといえよう。
254 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 02:45:48
PS
清盛だったら、元の使者を、よく親書の文言の意味を調べもせず、
斬り捨てるということはしなかったであろう。
255 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 02:57:22
福原遷都って,董卓が長安に移ったのに被ってみえるんだが‥
256 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 04:09:33
それは歴史が勝者の視点で書かれているための刷り込みだ。
清盛は経済的に対外交易に最も有利な地点として福原を選んだのだ
と思う。また、遷都に伴う経済効果も見込める。
もちろん、政治的な意味もあって、それは、都の公家たち、特に
院政を目論む法皇の影響力を低下させる目的もあっただろう。
清盛は強い武士であると同時に卓越した経済人であり、
合理主義者なんだよ。
257 :
日本@名無史さん:2005/11/22(火) 03:01:04
あげもの
258 :
日本@名無史さん:2005/11/22(火) 04:04:26
京都以外に政権をというのはよかったんだが、福原ではまだ近い。
やはり頼朝を待たなければ鎌倉なんて発想は出てこないかな。
その点でいえば、宗盛の大宰府というのは、意外に先見性ありかも。
259 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 13:38:51
260 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 19:15:28
二位の尼と熟年離婚していた
261 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 21:27:25
age
262 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 01:16:13
>>238 希義は挙兵に失敗してあっけなく死んでしまったし、記録もほとんどないので
人物はよく分からないが、仮に挙兵に成功して頼朝に合流した場合どうなったんだろうか?
〈義経〉
・末弟にして妾の子。富士川で会うまで恐らく見たこともないはず。
・鞍馬を脱走したまではハッキリしてるが、富士川に参陣するまでの行動はほとんど謎。
範頼に変わって総大将になってからも単身どこかに消えることしばしば。
・正規の教育を受けていないからか根っからの戦屋なのか手段を選ばず一部御家人からは顰蹙を買う。
・平家打倒しか頭になくまた勝手に官位を受けるなど鎌倉の神経を逆撫でする無邪気ぶり。
・戦功第一にも関わらず殺される。
〈範頼〉
・同母ではないが素性ははっきりしている。
・大器ではないが人物が出来ていたのか頼朝にはかなりの厚遇を得る。
・平家追討前半の総大将だが戦功芳しくなく解任。平家公達同様実戦経験のほとんどない故か?
・平家滅亡後はこれと言って功績はないが鎌倉殿の弟としての待遇はしっかり受ける。
・このまま終るかと思いきや曽我兄弟の仇討ちの時の舌禍で殺される。
〈希義〉
・頼朝の同母弟。人物が並以上ならかなりの信頼を頼朝から得た可能性大。
・(挙兵に失敗して死んだので功績は未知だが仮に範頼程度としておく)。
ここで質問。奥州を滅ぼした後、頼朝に不満を抱いた御家人は
当然頼朝並の毛並みの希義に注目すると思うのだが〈頼朝と同母が両刃の剣になる〉
猜疑心が手足を付けた様な頼朝は奥州平定後希頼をどうしていたろうか?チトスレ違いなんだが。
263 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 10:21:14
源平の戦いと言うより
八条門院、以仁王 vs 清盛、高倉天皇の戦い
後白河院、上西門院が八条院側に付いた時点でOUT
>>65 亀ですが・・・。
戦後の歴史小説で重盛をボロクソいう傾向があるのは、「平家物語」
の重盛の有名なセリフ、「忠ならんとすれば、孝ならず」のおかげで、
戦前には忠臣の鑑みたいに祭り上げられてた反動だって
聞いたことがあるな。
永井路子も重盛叩きをずいぶんと熱心にやってる。
「愚管抄」あたりでは性格温厚で、優秀な人だったけど、
唯一マジギレしたのが殿下乗合だとか何とか書いてあったと思う。
265 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 15:23:54
266 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 15:34:24
>>262 それでも希義は頼朝の同母弟だしね。一緒に育ったかもしれないし、殺したりはしなさそう。甘いか?
後の弟たちは妾腹だし大人になるまで会えなかったし、弟だという感情そのものが涌いていたのかどうかもあやしいな。
268 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 15:39:15
269 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 16:58:06
>>267 漏れは現実に別腹の弟いるけど、「弟」っていう認識はゼロ。
むしろ敵に近い感じ、やはり。
270 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 17:01:46
271 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 17:44:51
つかおまいらこの時代、源氏や平氏が武士だと思ってる時点でおかしい
平氏はそれまでの政権継承の手順を順当にこなして見事に婚姻政策に徹しているし
頼朝は担がれた坂東武士の手前さすがにおおっぴらに言えなかったが
実朝の時代に見事貴族意識が出ている
あまりに昇進に夢中になりすぎて殺されたという説まであるくらいだろ
272 :
日本@名無史さん:2006/04/20(木) 00:35:06
平氏政権が続く。
東国は半独立の豪族達の天下。
奥州平泉政権も安泰。
元寇。
東に敵を抱える平氏は対応とれず大混乱。
九州は元+高麗連合軍に占領される。
日本は、
元朝:九州
平氏政権:近畿
関東武士:関東
藤原政権:奥州
の4つに分裂。
273 :
日本@名無史さん:2006/04/28(金) 16:20:59
>>246 愚管抄とかでも評価は高い。ただ、宗盛以下とは母親が違うため、
やや孤立気味だった。案外生きていたら宗盛らに追い落とされて
結局池殿みたくなったかもしれん。たしか資盛も都落ちの一門から
離れようとしたことがあったらしい
274 :
日本@名無史さん:2006/04/28(金) 19:29:10
清盛って良く生きた方じゃね?
確か1118〜1181でしょ
275 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 22:53:25
日本の文化が間違いなく、今より数段レベル・アップしてたでしょうネ。
276 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 23:37:33
先進的な本物の都会人・・・・・・・平家一族。
清盛は早く死ねてラッキーだったな。
後世にまで名声が保てて。
頼朝もかなりラッキーだと思うがな
天下人になるには才能だけでなく
超ラッキーであることが必要
280 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 00:54:34
平家の洗練された文化は『海洋絢爛な文化』!
281 :
日本@名無史さん:2006/06/21(水) 22:08:08
海洋国家
282 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 23:43:34
283 :
日本@名無史さん:2006/06/30(金) 03:11:30
なんか頼朝はお馬鹿な雰囲気だからしねー
284 :
日本@名無史さん:2006/07/09(日) 20:06:56
清盛が生きていても同じ結果だっただろう
285 :
日本@名無史さん:2006/07/23(日) 11:12:32
そうか
286 :
日本@名無史さん:2006/07/23(日) 11:14:59
多少粘ったろうが同じ結果だっただろう
287 :
日本@名無史さん:2006/08/21(月) 00:02:41
そうかもな
288 :
日本@名無史さん:2006/10/22(日) 11:45:37
清盛が生きていても同じ結果だっただろう
289 :
日本@名無史さん:2006/10/22(日) 12:36:13
清盛が生きていたら,京から落ちる前に頼朝と和睦したと思う。
なんと言っても頼朝の命を助けたのは清盛であり,頼朝もこの
事実は無視できない。
我々は,その後の歴史を知っているから,いかにも頼朝が平家
を滅ぼすつもりだったと思っているが,当初頼朝にはその気は
なかったと思う。平家に自分の地位の合法化を認めさせれば十
分だったと思う。
290 :
日本@名無史さん:2006/10/22(日) 13:23:13
確かに清盛健在なら、諸国の武士が反平氏に流れたかどうか疑問だし、
源氏が平氏を完全に滅ぼすことは困難だっただろうな。
もし、最終決戦があったとしても数代あとに持ち越されたかもしれん。
291 :
日本@名無史さん:2006/10/22(日) 13:30:58
>>289 頼朝は清盛の遺児たちを皆殺しにしてるわけで。
清盛に恩を感じてたら息子や孫たちは助けただろうよ。
将来自分みたいに反旗を翻すかもしれないと思ってたから全部殺したんだろ。
292 :
日本@名無史さん:2006/10/22(日) 13:57:24
それは平氏勢力を完全に滅ぼしたあとだから。
清盛が健在で平氏が勢力を温存してる状態なら、完全に滅ぼそうとは思わず、
とりあえず和睦して共存をはかるだろう。
平氏の都落ち後
神器返還を条件に、鎌倉側から和睦交渉を図ったが、平氏側が受諾拒否してる。
和睦により何らかの政治的メリットが得られるなら、頼朝それでよしなんだろうし…
皆殺しって結果論じゃね?
>>291 ひ孫の六代は殺してないんじゃないの?
「平家物語」では殺したくてしょうがない風に書かれてるけど所詮は物語だし・・・
それに頼朝って本当に平家と和睦しようとしてなかったっけ?
あと最近では頼朝を助けたのは平家でなく朝廷(後白河&上西門院?)
とも言われているね。
295 :
日本@名無史さん:2006/10/22(日) 15:05:15
清盛の男系は全滅している。女児は知らね。
寿命が延びたとしても当時の年齢考えてみると十年ぐらいでしょう。
その間頼朝との間には均衡を保てたとしても、義仲の侵攻によって京都からは
追われていたのじゃないかなあ。
清盛:四国か太宰府に拠点を置いて西国を支配。
義仲:京都に拠点を置いて北陸〜近畿北部を支配。
頼朝;鎌倉に拠点を置いて関東〜近畿南部を支配。
この状況で一旦落ち着いたとしても最初に崩れそうなのは・・・義仲かねえ。
297 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 13:07:01
重盛が長生きすればずいぶん変わった結果になったと思う。
298 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 18:35:18
福原幕府が出来ていたと思う
299 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 21:57:11
関門海峡に屍晒してたと思うプカプカ
300 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 11:09:20
>>298 そしたら将軍は平氏しかなれない役職になり信長も将軍になっていたと思う
301 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 12:20:39
清盛の限界プカプカ
302 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 21:17:28
>>300 結果的に鎌倉、室町、江戸と源氏が将軍になったという事実があるだけで
別に源氏でなければ将軍になれないということはない。
秀吉も生まれが悪いからなれなかったのであって、源氏じゃないからなれなかったわけじゃない。
信長 打診されたけど断った(権力と権威の両方を握る国王になりたかった?)
秀吉 出自がバレバレなので無理
家康 系図を捏造して源氏に
平氏でもいいってのは実際そうらしいけど生き残ってる家自体少なかったんだろう
織田家もほんとに平氏かどうか怪しい気もする
武田、今川はちゃんとした源氏だろうけど徳川は…
304 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 18:04:46
清盛と常盤御前の間に男子が産まれてたらその男子はこじつけを言って平氏の西行に同行せず義経か能成の厚遇を受けていたかも
>>302 >秀吉も生まれが悪いからなれなかったのであって
でも関白にはなれたよ。
将軍の方が関白よりはるかに格下なのに、関白にはなれて将軍にはなれないっておかしくね?
306 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 15:39:06
>>304 それゆえに頼朝と義経の不和の影響で頼盛とは不仲になってたと思う
>>305 関白になったのは近衛前久の猶子になったから
源氏の末裔を称するものの猶子になってたら将軍にも就任可能だとおもうのだが
307 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 15:40:47
基盛が溺死してなかったら平氏は変わってた
308 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 15:42:29
基盛が溺死したのは頼長の怨霊のせいだとは言われてるけど保元の乱で討ち取った親治の怨霊もあったと思う。
309 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 15:44:49
小宰相が懐妊してた子を産み、通盛に子が出来てたら通盛と小宰相もまた違った運命をたどっていたと思う
310 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 16:08:15
小宰相が懐妊したのは通盛が一ノ谷で戦死した後だから通盛の運命は変わらないだろうw
通盛と小宰相の話ってどのくらい信憑性があるんだろう・・・
常磐と清盛の子とか・・・
312 :
日本@名無史さん:2007/01/04(木) 05:49:14
>>306 確か足利義昭に養子だか猶子になりたいって申し込んだよね。断られたけど。
義昭がOKしていたら、やっぱり将軍になっていたんだろうか?
313 :
日本@名無史さん:2007/01/04(木) 05:55:46
>>1 晩年の清盛は切れ味欠くし、すでに存命中に反平家の機運は出来上がっていたから、
ちょっとくらい長生きしても何も変わらんかったと思う。
清盛個人としては下手に長生きして戦場で非業の死を遂げるより、一応妻子にみとられながら畳の上で死ねて良かったんじゃないかと。
314 :
日本@名無史さん:2007/01/04(木) 21:05:28
>>306 清盛、頼盛の不和は
後白河院派と八条院派ってことでしょう
315 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 12:54:43
でもなんで重盛とは仲がそれほど仲が悪くなかったんだ?
316 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 20:50:40
>>166 清貞は中原師元から清盛に養子入りした
そして一ノ谷で清房や経俊と共に敵陣につっこんで戦死
317 :
日本@名無史さん:2007/02/18(日) 21:27:01
>>313 もっと早く平家の天下の内に無くなったほうが幸せだったかもなあ…。
318 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 02:00:45
huun
知盛が居ても何とかならなかった時点で終わってる
320 :
日本@名無史さん:2007/05/07(月) 10:37:34
>>294 平家滅亡の際、
幼少だった六代は斬られずに寺へ入れられたけど、
成人後、頼朝の命で斬られているよ。
やっぱり不安だったらしい。
これによって清盛の男系は絶えた。
平清盛の女系は残っているよ。
都で貴族に嫁いでいた娘達は、源氏の世も生き延びた。
特に出世したのが、藤原隆房の妻となった清盛の娘の家系で、
清盛の女系の曽々孫が後深草天皇と亀山天皇ということになる。
平清盛ー娘 −後深草天皇
1ー四条隆衡ー貞子 −女吉子(後嵯峨天皇中宮)ー
藤原隆房 1ーーー1 −亀山天皇
西園寺実氏 −公子(後深草天皇中宮)
321 :
日本@名無史さん:2007/05/07(月) 10:46:53
>320の図が分かりづらいので整理。
平清盛ー娘(藤原隆房室)ー四条隆衡ー四条貞子(西園寺実氏室)ー女吉子(後嵯峨天皇中宮)−後深草・亀山天皇
藤原隆衡室となったこの娘は、清盛と、壇ノ浦で入水した二位の局平時子との娘。
建礼門院の同母妹にあたり、都に戻った建礼門院が洛外の寺へうつされるまで、
藤原隆衡夫妻が世話をしていた。
322 :
日本@名無史さん:2007/05/07(月) 11:26:12
>321
訂正。清盛の娘は、
藤原隆衡室→藤原隆房室
323 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 04:51:41
木曾義仲には負けると思う
亀レスだけど、
>>269 漏れも現実に同腹の妹いるけど、「妹」って認識はゼロ。
むしろ恋人に近い感じ、やはり。
326 :
日本@名無史さん:2007/05/10(木) 02:14:57
清盛は天皇になろうとしてたと思う。清盛の行動を見てるとそう思う。
ご落胤話も真実ではないかと。一門もそっち方向にしたかったと。なんか苦労人
だったんでしょうね。ただただ家族が幸せになってくれれば良かったと。
頼朝殺さなかったし好い人だったと思うよ。勝手な想像だけど。子供たちが
死んでいくのを見なかったのは良かったんじゃないかと思う。
天皇になんかなるもんか。
あんなもんになったら実権を振るえない。
なってもすぐ退位して上皇になるのが賢い。
ならば最初からならないほうがいい。
清盛の時代は、荘園公領制が微妙に完成していなくて、
微妙に律令体制が生きてる時代。
清盛としては、律令体制を利用して、
国主に平氏一族を任用して、国主を上手に使いつつ、
国主たる平氏の総領権の拡張を目指すって感じの戦略ではないのかな?
おいらはそういう文脈で読むけど。
>>326 天皇にはなろうとしてないでしょ。娘を天皇に嫁がせて生まれた孫を天皇に据えるというやり方は
藤原氏がやってきたやり方だ。
天皇を手中に収めて実権を振るうということで、身分の低かった武士でも政治に口出し出来る方法を切り開いたとは言えるけどね。
また清盛も初めは「禍根を残すわけにはいかない」ということで頼朝を処刑しようとしたが、
義母に「死んだ息子に似てるから・・」って泣きつかれて、命だけは助けたってことだったと思う。
>329
頼朝を処刑するとかしないとか、そんな権限があの当時の清盛に
あったの?
そりゃある程度まで発言権はあっただろうけど、
最終的な決定は朝廷だろ?
>>330 武士の成り立ちは自衛集団
武士同士の争いは朝廷は無関心
332 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 01:51:26
>331
何をバカなこと言ってるんだか
334 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:16:37
>>312 亀だがそれって江戸時代の創作じゃなかった?
>>330 保元の乱は天皇家内部の争いに武士が介入して争ったから、処分の仕方は勝者の天皇が下したけど
平治の乱は武士同士の争いだからね。
朝廷と関係ない私闘だから、朝廷は口出ししてないよ。
>335
釣りでしょ?まさか本気で言ってないよね?
>>336 本気で言ったつもりだが・・
間違ってたら、本当のところをキチンと論理立てて説明してくれるか?
あなたの意見を聞きましょ。
「平治の乱」に積極的に関与したのは、義朝や清盛よりも信頼・経宗・惟方などの
反信西派の貴族だろう。義朝は信頼にいわば従属した形だし、清盛も当初は中立派。
>>335 義朝・信頼はクーデターによって院の寵臣である信西を殺し、
更に天皇・上皇を御所に軟禁して除目まで行なった。
清盛も帝が義朝らの掌中にある間は積極的な攻勢に出られなかった。
その後経宗らの手引きにより‥‥以下略。
これのどこが「朝廷と関係ない私闘」になるわけ?
340 :
335:2007/05/19(土) 13:13:56
そっか。朝廷内部の争いに、義朝と清盛が絡んだのか・・
マジで知らんかった。スマン
処罰については清盛に実質的な権限あったんじゃないの。
保元の乱の時は、義朝が父為義を助けようとしたが命により処刑させられてしまったが、平治の時は
武家の(清盛の)発言力が飛躍的に上がっていたからなぁ。
清盛が積極的に助けたいと働きかければ、朝廷もそれを無視できない状況ではあったはず。
それも敵の大将ならまだしも、その子というのであれば。
藤原成親なんか武装して参戦していたのに、重盛室の兄という理由で
助命されているからね。
343 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 15:43:32
平家は朝廷の影響逃れるために、広島(氏神の厳島の地元)に幕府開くべきだった。
源氏が鎌倉を本拠としたように
344 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 15:47:13
清盛は、後白河の猶子として出世、
妻の異母妹滋子が後白河の寵女であったことで不動の地位を築いた。
清盛が娘を高倉天皇の中宮に据え、安徳天皇の外戚として
権力を握ろうとした時点で無理。
清盛は出世の初段階から、朝廷と結びつきすぎ。
>清盛が娘を高倉天皇の中宮に据え、安徳天皇の外戚として
>権力を握ろうとした時点で無理。
それは幕府を開くという発想まで到達できなかったため、藤原氏のやり方を踏襲するしかなかったわけで。
その平家の失敗が、頼朝の開幕に少なからず反面教師として影響及ぼしているだろうから、清盛にそこまで
求めるのは酷だろう。
346 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 17:38:42
平家が滅んだのは畿内の福原港を改修して外国船が直接入港できるようにしたから。博多港から陸路で京まで運んで利益を得ていた瀬戸内沿岸という平家の地盤の人々は中抜きされ、平家を支持しなくなった。
347 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 01:04:19
福原朝廷が続いていたら、神戸は千年の都となっていたかも
>>344 清盛は、祇園女御の猶子として出世、の間違いでは?清盛は政治的には
二条天皇に接近していて、後白河とはそれほど親密ではない。時忠・教盛が
憲仁(高倉天皇)立太子を画策した時も、同調はしなかった。
349 :
日本@名無史さん:2007/07/24(火) 19:33:50
>>348 清盛が二条天皇側についたのは、信西、源義朝との対立が原因では?
清盛は、平治の乱のときこそ二条天皇側についたが、
その後、二条天皇が前近衛妃皇太后藤原多子を後宮に召しだし、
二条天皇即位の根拠であった妃の中宮女朱子内親王(鳥羽と美福門院の皇女)
が出家、二条天皇の地位が危ぶまれだすと、義妹を母とする高倉天皇に肩入れしたよ。
二条天皇の後継者である、六条天皇を擁護してないし。
平治元年(1159年)12月26日、藤原信頼が処刑されて乱が終息すると、29日に
二条天皇は六波羅の清盛邸から、八条の美福門院邸に行幸、翌年正月に多子が
再入内します。この流れを見ると、美福門院が多子の入内を推し進めたと見るのが
自然です。
理由は、近衛天皇の後継者であることを示して二条の立場を強化すること、多子の
出身である徳大寺家との関係改善を狙ったものでしょう。
二条天皇は永万元年(1165年)7月に死去、9月に二条により配流されていた時忠が
召還され、12月に憲仁(高倉天皇)に親王宣旨が下り、清盛は勅別当になります。
二条が死去、時忠が復権したことで憲仁立太子の動きが再開され、清盛も母の身分が
低い六条天皇では先行きが不安だったものの、六条の准母・藤原育子が忠通の養女で
六条の摂政・基実が娘婿だったことから、とりあえず六条を支えることにします。
ところが翌年7月に基実が急死して状況は一変、後白河院政が復活して弟の基房が摂政に
なったことで、清盛の構想は変更を余儀なくされます。清盛が事実上管理していた
基実の摂関家領が基房に移動することになれば、清盛にとって大打撃は必至です。
そこで基実の未亡人・盛子に摂関家領の大部分を相続させることで実質的に横領することに
成功。この時の恨みが基房に強く残り、「治承のクーデター」の伏線となります。10月に
憲仁親王が皇太子となり、清盛は春宮大夫になります。
つまり、清盛は二条在世中は憲仁に見向きもせず、六条が即位してもしばらくは摂関家との
協調関係から様子見を決め込み、基実の死により六条を見限って憲仁に鞍替えするわけです。
352 :
日本@名無史さん:2007/07/27(金) 20:30:09
>>350 美福門院が、藤原多子を二条天皇に勧めたなんて、ありえないよ。
なぜなら、二条天皇の中宮女朱子内親王は、美福門院の実の娘。
娘婿に他の女をあてがう母親などいるわけないでしょ。
現に、多子の入内後、女朱子内親王は突発的に20歳の若さで出家、
二条天皇の後宮を自ら去っている。
美福門院の支持を得られなくなった二条天皇は劣勢となり、
平清盛は再び後白河法皇に接近している。
二条天皇は死ぬ際に、六条天皇のことを、女朱子内親王出家後に入内した
中宮藤原育子とその義兄摂政藤原基実に託したが、そこに清盛の姿はない。
多子の入内した永暦元年(1160年)正月は「平治の乱」の直後です。京都は戦乱で
荒廃して、残党狩りが続くなど情勢は緊迫していました。このような不安定な状況で
二条天皇が美福門院の反対を押し切って、多子を入内させるのは非現実的です。
『平家物語』の「二代の后」の章は、二条が多子に艶書を送ったり、公卿が中国の
例を引き合いに出して難癖をつけたりと、「おいおい、そんな事してる場合か。都の
復興はどうするんだ?」とツッコミを入れたくなります。多子が嫌がったのは
事実かもしれませんが、やはり美福門院と二条親政派の面々が画策した政略結婚と
するのが妥当と思われます。
多子が入内したのは正月で、中宮・姝子(よしこ)が出家したのは8月。7ヶ月の
開きがあり、多子の入内が姝子の出家の原因になったとするのはどうでしょうか?
姝子は多子の入内後も、中宮の地位を保持しています。美福門院にすれば、養父の
頼長が死んで後ろ盾のない多子は、姝子の地位を脅かす恐れのない安全な存在でした。
永暦元年(1160年)12月に美福門院が死去すると、後白河院政派はしだいに勢力を
盛り返して、応保元年(1161年)9月、後白河上皇と平滋子の間に生まれた皇子を
皇太子にしようと平時忠・教盛が画策します。これに対して二条は、時忠・教盛・
藤原成親・藤原信隆を解官して、後白河の政治介入を停止しました。
二条は親政確立に向けて11月、押小路東洞院に内裏を造営しますが、『愚管抄』に
よると清盛は武士を派遣して、宿直所を設けて警護しています。清盛は時忠・教盛と
行動をともにせず、二条に奉仕しているわけです。
12月、二条は鳥羽法皇と美福門院の間に生まれたワ子(あきこ)内親王に八条院の
院号を与えて「准母」として後見を頼み、忠通の養女・育子(むねこ)を入内させて
中宮にすることで摂関家との関係を強化します。応保2年(1162年)2月、出家していた
姝子にも高松院の院号を与えて厚遇しています。多子は院号を与えられていないので
待遇の差は明白です。
清盛は忠通の死を契機にして、基実を娘・盛子の婿に迎えて摂関家の政所別当には
平宗盛・重衡が就任します。基実は清盛の傀儡といっても過言ではありません。
355 :
日本@名無史さん:2007/07/28(土) 15:07:26
ちゃんと歴史の流れを追っていますか?
美福門院唯一の男子であった近衛天皇に藤原頼長が養女の多子をいれたとき、
その兄忠通は美福門院の養女呈子を養女にして、近衛天皇に入内させた。
近衛天皇は美福門院の後見する呈子ばかりを寝所に召し、
これと対立する多子はほとんど召されることがなかった。
近衛天皇が亡くなったとき、中宮呈子はこれに準じて出家したけれども、
ほとんど召されることもなかった多子は出家することもなく里に帰った。
長年対立関係にあり、さらには息子の死後出家もしなかった嫁を、
美福門院が突然に召しだして娘婿のもとへ入内させたなどと考えることは不可能。
美福門院の娘姝子の地位が中宮であるのに対し、先々代の帝の妃であった多子は、格上の太皇太后。
美福門院が、娘の気持ちも考えず、長年対立した多子を召しだすなどありえない。
一次資料でも、周囲は二条天皇の横暴ととらえており、美福門院が後押ししたとするものは何もない。
356 :
日本@名無史さん:2007/07/28(土) 15:22:59
多子が二条天皇に再入内したとき、養父頼長はなくなっていたが、
多子の実父藤原(徳大寺)実能は生きている。
平家物語でも、実能は、多子が二条天皇の皇子を産むことを期待、
あなたが皇子を産んでくれればこの上ない親孝行、といって、
多子入内を積極的に推し進めたとあり、多子には里の徳大寺家がついていた。
多子の里は後白河法皇の外戚にあたる家柄、
頼るべき里を持たない美福門院にとって脅威であったことは間違いない。
二条天皇の在世中、姝子が高松院の院号を貰ったのに、多子が院号を受けなかったのは当然でしょう。
天皇の寝所に侍る現役の妃が、院号を賜ることはこの時代にはありえず、
逆に、東三条院のように、出家すれば后号を辞して院号を受けることはありましたから。
二条天皇の在世中、出家した中宮姝子に院号が贈られるのは当然、
逆に、二条天皇の在世中、ずっと俗世にあった多子に送られないのは当然。
多子が出家したのは、二条天皇の死後。
357 :
日本@名無史さん:2007/07/28(土) 15:34:26
多子は太皇太后にまでなりながら、出家後も院号を贈られなかった辺り、
二条天皇の死後、政界から遠ざかっていたのでしょうね。
八条院は、異母兄後白河法皇とも大変仲がよく、
たがいに行き来したり、後白河皇子以仁王を養子にしたりしていますからね。
二条天皇派としての動きは何もない。
むしろ、養母美福門院の怒りを静めようと、
二条天皇が一方的に妻の姉である八条院に准母の待遇を贈ったような気がしますね。
近衛天皇の入内競争が「保元の乱」の原因の一つであることは、いまさら言うまでも
ありません。だからこそ、美福門院はかつての敵対陣営の象徴である多子(なお、多子の
父は徳大寺公能ですね)の取り込みを図ったと思われます。「平治の乱」の直後でもあり
不安要素はどんなに小さくても、取り除きたかったはずですから。ところで、多子の入内が
二条天皇の横暴とする一級資料とは、中山忠親の『山槐記』でしょうか?平信範の『兵範記』
でしょうか?教えていただければ幸いです。
当時、美福門院は鳥羽法皇の遺領の大半を相続した最大の荘園領主であり、二条天皇の即位が
「仏と仏との評定」(『兵範記』)、つまり信西と美福門院の協議により決定するなど、強大な
政治的発言権を有していました。一方、後白河上皇は院領が少なく頼長から没官した荘園を
後院領に組み込むなど、経済基盤の整備に悪戦苦闘しています。徳大寺家の力も摂関期に比べて
外戚の影響力は格段に後退していますから、過大評価は禁物です。後白河と徳大寺家が
連合しても、美福門院にとってさしたる脅威になるとも思えません。
中宮よりも太皇太后の方が上位ということですが、一条天皇における中宮・彰子、
皇后・定子、近衛天皇における中宮・呈子、皇后・多子の例を見ると、中宮の方が
優位に思われます。
永万元年(1165年)憲仁に親王宣旨が下された12月、以仁王が元服していますが、
生母の藤原成子(なりこ)は他に守覚法親王らを産むものの、女御にもなれず
冷遇されます。以仁王は親王宣旨さえ受けられず、翌年4月には後見の藤原公光が
解官されています。後白河は成子の産んだ子には見向きもせず、後白河と以仁王は
敵対関係ともいえるのです。
以仁王が八条院の猶子となったのはそのような状況下であり、このことをもって
後白河と八条院の関係が良好だったとするのは無理があります。むしろ、後白河と
憲仁に対抗するための切り札として、八条院が以仁王を庇護したともとれるわけです。
これ、全部一人が書いているの?
361 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 11:46:30
>358−359
1.当時、徳大寺家が非常に弱い勢力であったのならば、わざわざ取り込む必要がない
2.多子が美福門院の命令によって二条天皇に入内したという一次史料は何か(具体的な書名)
3.太皇太后は中宮より下であるというのは間違い。
後一条天皇のときの藤原道長の娘の后位は、太皇太后彰子、皇太后妍子、中宮威子。
太皇太后彰子は中宮威子の実姉かつ威子の夫である後一条天皇の実母で、まぎれもなく目上。
4.近衛天皇の世、美福門院は、多子が入内していたところに呈子を押し込んだ。
そこまで徳大寺家が大事ならば、呈子よりも先に入内していた多子を冷遇する必要がない。
5.美福門院が養女にしていた呈子は、美福門院の愛息近衛天皇の死と同時に出家した。
愛息が死んでも出家もせずに暮らしていた妃の多子を、美福門院が支援する理由がない。
6.徳大寺家と手を結びたいのならば、多子である必要がない。
太皇太后多子ではなく、未婚の別の娘を差し出させればよい。
362 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 12:03:39
7.以仁王と後白河が敵対していたというのは誤り。
後白河の第八皇子である高倉天皇誕生前、二条と不和になった後白河にとって、
以仁王は二条天皇に代わる駒であり、以仁王はそれによって出家を免れている。
8.藤原成子は、後白河が今様狂いの居候皇族であった頃の妃であったため、
本人華々しい出世はしなかったが、成子が生んだ4人の皇女はすべて伊勢斎宮、賀茂斎院を勤め、
特に、第一皇女の亮子内親王は、殷富門院の院号を受けて后腹にも劣らぬ待遇を受けており、
成子の子供が冷遇されていた事実はない。
9.八条院が甥の以仁王を猶子にしたのは、美福門院に仕えていた女房が以仁王の子を生み、
たまたま八条院の手元で育てられていたから。
以仁王が八条院の女房に手をつけていなかったらそれでも猶子となっていたとは思えない。
そもそも、八条院と以仁王が後白河法皇の敵対勢力であったのならば、
とっくに後白河の命により平清盛によって以仁王は斬られ、八条院は荘園没収などになっていたはず。
10.後白河が、異母妹八条院を定期的に訪問、とても親しかったことは、当時の一次資料や女房日記にあり、確実。
不和であったと記述している一次資料をだしてほしい。
徳大寺家は崇徳天皇の外戚として勢力を伸ばしていましたが、近衛天皇の即位と
待賢門院の出家で、衰退の危機にありました。実能は打開策として、娘の幸子を
正室としていた頼長に接近、内大臣に昇進します。公能(実能の子)の娘・多子は
頼長の養女となり、両家は親密な関係でした。しかし、近衛の急死と雅仁(後白河)の
即位で皇位が待賢門院系統に戻り、頼長室・幸子も没したことから徳大寺家は
頼長派から離脱、実能は皇太子・守仁の東宮傳となり、公能の娘・忻子(よしこ・
多子の姉)は後白河の後宮に入ります。
徳大寺家は美福門院との関係修復に向けて動きますが、その時に問題となったのが
多子の存在だったと思われます。美福門院や二条親政派にしても、多子をそのまま
放置して冷遇するのは、得策ではないと判断したのではないでしょうか?美福門院が
多子の入内に積極的だったとする一次資料は見当たりませんが、『平家物語』の
「二代の后」のように、二条の独断とするのも考えにくいことです。
まず二条は美福門院の邸にいて、その強い影響下にあったこと。二条の側近、経宗・
惟方は信頼を倒して政治の主導権を握り、多子の入内という重大問題に関与しなかった
とは思えないこと。二条が若年で判断能力が充分であったか疑わしいことなどが、理由
です(これが、美福門院の死後、経宗・惟方の失脚後、二条の成長後なら話は別ですが)。
太皇太后の地位についてですが、藤原彰子は後一条・後朱雀の母・後冷泉の祖母であり
禎子(よしこ)内親王も後三条の母・白河の祖母ですから、大きな権威を有していたのは
言うまでもありません。しかし、その後に太皇太后になった章子(あきこ)内親王・
藤原寛子(ひろこ)・令子(よしこ)内親王は、天皇の母・祖母ではありません。
令子内親王は皇后からいきなり太皇太后になっていますが、これは藤原泰子(やすこ、
忠実の娘)が皇后になったので押し出されたものの、皇太后になるのは崇徳生母の
待賢門院がいるので適当ではない、鳥羽の准母だから太皇太后でいいじゃないか、と
いうことのようです。
后の乱立が太皇太后の重みを失わせているわけですが、多子の場合も天皇の母・祖母で
ないのはもちろんですが、統子(むねこ)内親王が皇后となったため(立后の必要性が
あったかどうか疑問ですが)、皇后だった呈子が皇太后となり、皇太后だった多子が
太皇太后に移ったという玉突き人事でした。この頃は、太皇太后の権威はすでに失墜して
いたといってもいいでしょう。
もともと、後白河は皇位継承の可能性がゼロに等しく、美福門院の養子・守仁までの
中継ぎであることを条件に、信西が鳥羽法皇に訴えたことで即位が実現しました。その
唯一の支持者・信西までが後白河を「暗主」と評していたのですから、周囲の評価も
似たようなものです。後白河が二条に対抗することが不可能だったのは、平時忠ら側近が
配流されてから二条の死まで、政治から排除されていたことから明らかです。以仁王は
母の身分が低く有力な外戚もいないので、二条に対する駒として役に立つか疑問です。
後白河が平氏の支援を期待できる憲仁に傾くのも、無理からぬことです。
成子が女御になれず、以仁王も親王宣旨が下されなかったのに対して、亮子(すけこ)が
女院(殷富門院 )になれたのは、彼女が安徳天皇の准母だったからでしょう。なぜ、生母の
建礼門院がいるのにわざわざ准母が立てられたかは、推測になりますが後白河が、平氏一門の
手中にある安徳を自らのもとに奪い返す狙いがあったと考えられます。准母が女院となるのは
二条の准母・八条院の先例があるので、特に優遇ということではないと思われます。
後白河が八条院を定期的に訪問していたことは事実で、不和であったとする一次資料も
見当たらないようです。ただ、上西門院のように親しかったと言い切れるかどうかは疑問
です。八条院は当時最大の荘園領主であり、後白河にすればその機嫌を損ねることは
はばかられたはずです。後白河は後鳥羽の即位について、八条院を訪問して承諾を取り付けて
いますが、親しみよりも配慮が先に立っているように感じられます。八条院にすれば、
高倉天皇に長く皇子が生まれなかったことから、以仁王の即位も見込みがあると考えて
後白河と協調していたのではないでしょうか?安徳の誕生と「治承のクーデター」で
水泡に帰してしまいましたが。
以仁王を斬り、八条院の荘園を没収するのは、当時では困難です。皇族に対する危害は
タブーであり、崇徳の配流も本来なら有り得ないことでした。これは信西だからこそできた
ことで、通常なら輔仁親王(すけひと、白河の異母弟)のように謹慎、もしくは出家が
限界です。以仁王を源以光に改名した処置も、皇族の追討が事実上不可能だったことからの
苦肉の策といえます。
また、八条院は鳥羽法皇の正統な後継者として所領とともに、北面の武士も継承していて
その武力は侮れないものでした。八条院領の没収を強行することは、もともと直属武力の少ない
後白河ではおそらく無理だと思われます。平氏でも相当の犠牲を覚悟しなければならないはずです。
367 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 22:21:00
>364-366
史料が一切出されていませんねえ〜
それでは信憑性ないですよね〜
否定する史料も一切ないようだが
369 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 10:25:45
史料がなければ空想でおkってことかい?
2ちゃんねるは素人が来るところだが
一人で長文書いてる奴は相当イタイな・・・
371 :
日本@名無史さん:2007/10/14(日) 22:05:29
わ
372 :
日本@名無史さん:2007/12/04(火) 21:05:09
んだスレ
375 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 17:40:50
基本的に平家の悪政が原因で民心が離反してた。
平家政治への不満あったから関東武士団の決起起きる。
これで全国の御家人の大半が源氏を支持して状況で、
何をやっても無駄。
都落ち後に、平家一門が九州まで庇護求めて落ち延びたら、
現地の土豪たちが拒絶したのが証明してる。
清盛入道存命ならと言うけど、その入道の政治への不満が原因。よって存命も再興は無理。
376 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 18:18:26
平家が悪政をしたというのは平家物語の
「奢れる平家」に影響されすぎ。
九州に落ちたのは平家一門ではなく
平家の家臣でしょ
源氏の世になれば強いほうに味方するのが
世の習い
源氏も3代で絶えたし悪政が原因?
377 :
日本@名無史さん:2008/02/14(木) 08:36:00
ふくはら遷都しっぱいaaaaaaおわた
悪政かどうかは知らんが
鎌倉幕府の成立当初の内輪もめは中国史にもまれに見る醜さだなww
379 :
日本@名無史さん:2008/02/15(金) 03:29:38
朝鮮まで逃げ込むとかは考えなかったのかな
380 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 08:04:53
平家が悪政しなければ
板東平氏が頼朝に同調するはず無い。
381 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 13:09:27
坂東=平氏というのは誤りでは?
もともと、平氏の地盤は西国。
そのために、都落ちした平氏はひたすら西へ落ちて行った。
坂東はもともと源氏の地盤。
頼朝の父義朝は長年鎌倉に住んで相模国を中心とする
地場を固めていた。
北条氏が平氏であるというのはおそらくガセ。
もともとは伊豆国の土豪であった可能性が高い。
382 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 22:13:14
高望王以来、平家は関東に土着してる。
将門の乱参照。
383 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 23:44:37
南北朝の前に東西朝の並立があったかも。
384 :
武陽隠士:2008/02/26(火) 00:04:06
>>379 『延慶本平家物語』に、
源氏方の船が、平氏が「唐路」辿るかもしれない航路を抑えた……
という意味の記述がある。
真偽はともかく、平氏朝鮮半島避難も、だからありえない話ではないんだろう。
現に対馬守の藤原某は、平氏の攻撃を避けるべく高麗に逃げている。
385 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 01:32:15
386 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 01:44:22
平氏が奄美や宮古島まで逃げたってのは実話なのかね?
奄美の平氏は平家残党の末裔といわれてるが。
沖縄本島は源氏の支配下にあったので、宮古島にも平家が落ち延びた
という伝説が残ってるし、それを記す御嶽もある。
もっとも沖縄本島が源氏の支配下ってのは、源為朝が運天港に
落ち延びて舜天王になったという伝説の影響と思われるが、
この伝説はあくまで尚氏王朝の権威付けのための創作といわれてるわけで
こちらはあまり信憑性はないんだが。
387 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 16:45:21
質問です!
もし平治の乱、てか源氏が藤原信西を倒した後すぐ清盛・重盛もろとも平家を滅したとして、義朝中心の源氏の社会になっていた場合、後継者は義平・頼朝のどちらになるのでしょうか??
まぁ義仲や頼政・仲綱もいますが…
388 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 16:57:37
>>387 平治の乱の首謀者は藤原信頼と摂家の連中だから
源氏の社会にはならないだろ。
その場合
源氏は相変わらず摂家の番兵→摂家の内輪もめで源氏も分裂抗争
関東でも中央関係なく武力闘争が続く
で武家社会の成立は相当遅れたと思われる。
反平家で頼朝中心に関東武士団が団結できたのがある意味歴史の奇跡。
389 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 17:07:32
>>388 把握ww
では単純に義朝の嫡男は誰だったんですか??
390 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 17:16:44
義平は土地争いから
15歳のとき、叔父の義行(木曾義仲の父)を
殺しているほど凶暴な男だからな。
父親の義朝が平治の乱で敗走し、処刑された後も
単身、報復しようとして京都に舞い戻っている。
狂暴な関東武士から「悪源太」などと呼ばれたほどの男だから
やすやすと嫡位を渡したかは疑問。
っつーか、熱田神宮の神官の娘だった母が正室だったという
頼朝の主張、本当かどうか疑問だな(笑)
義朝の場合、母親は大武士団の三浦氏から来てるんだからな。
武田信玄も公家の三条氏から生まれた義信を廃嫡し
信濃の名門武士団諏訪氏を母に持つ勝頼を嫡子としたしな。
義仲の父親は義賢じゃなかった?
義行って義親の子供でしょ。それとも最近新説が発表されたんですか?
392 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 17:29:52
義平が大蔵合戦で義賢を討った件で義朝は義平を褒めたと聞いたが…
てか悪源太=狂暴という解釈でいいんですかね?
京都に戻ったのも父・義朝や弟・朝長、頼朝が平家のせいで討たれてしまっては武士の子として報復するのは妥当な気がww
しかし頼朝が右兵衛佐の位や名刀・髭切を貰ってるところを見るとやはり義朝から特別扱いされていたのでしょうか…
「悪党」という言葉の解釈もだけど、「悪」という言葉の持つ意味が今とは
違うんじゃなかったっけか?
昔の悪は強いと言う意味だたーよ
395 :
日本@名無史さん:2008/02/29(金) 13:09:02
悪党=朝廷の命令以外の命令系統によって
独自の軍事行動を起こす集団
強く、強暴でも、それが朝廷のために尽くしていることなら
悪党とはいわないんだよね。
義平の行動は私闘。
義平は独自の軍事行動を起こしたから悪源太と呼ばれた。
396 :
日本@名無史さん:2008/02/29(金) 13:52:14
>>390 義朝の嫡男は頼朝。
頼朝は母の出自がもっともよく、
義平の弟であるにもかかわらず義平の官位を超えていた。
義平が源氏の棟梁を名乗るなら、自力で異母弟頼朝を殺すしかない。
頼朝を討って初めてその称号を得ることができる。
母の出自の低かった父義朝が、母の身分の高い異母弟たちを殺そうとしたように。
しかし、義平はあっさり平氏に負けて死に、弟頼朝はその平氏を討ち、
結局義平、頼朝兄弟の殺し合いにはならなかったが。
なんにしても390がどこから突っ込めばいいのか分からない程の
バカであることは確かか。
398 :
日本@名無史さん:2008/02/29(金) 20:52:38
相手にするなよ
義平・朝長の母親についても中級の公家出身という説もある。
義平・朝長の二人には、三浦・波多野という義朝を支える相模の
有力者が付いている。
でも、義平・朝長の母親はすでに死んでいる点は不利だ。
結局、一人の息子が全部相続するというより、何人かの有力者が
並立するという感じになるんじゃないの。
>>1 源九郎義経公を懐柔して、平家の味方につけて
最低でも源頼朝や北条時政らを滅ぼしたと思う。
401 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 22:53:49
強かった頃の巨人に悪太郎ってあだ名のピッチャーが居ましたね
・・・
大蔵合戦当時の武蔵守が藤原信頼
後に上総曹司義朝を下野守にしたのは摂関家
当時はまだ嫡流と言う考えはまだない(しいて挙げるなら氏長者)
義朝がなぜ上総曹司と呼ばれたかと言うと、源為義が管理していた摂関家の上総の荘園(河内源氏相伝の土地の1つ)
で幼少から上総氏(上総の荘園の現地責任者)を後見人として過ごしたから
そして本拠地鎌倉は為義(頼義が平直方から譲ってもらった土地)から譲ってもらった土地
義朝は摂関家の命で西国で非合法な手段を使っても荘園を増やしに行った義親(対馬守であるが義朝と違い失敗)
と似た意味合いであったと思われる
為義と義朝が徐々に離れいくのは地盤の違いから摂関家主流より
武蔵守をしたり坂東に繋がりのあった右衛門督信頼と行動を共にする事が多かったと言える
義朝の相馬御厨、大庭御厨など数々の非合法活動の中で摂関家で誰が義朝のケツ持ちをしたか考えると見えてくると思う
そして平治の乱後、捕縛された頼朝の助命懇願をしたのが
熱田大宮司家
義平に比べたらはるかに中央政界に顔の利き姻戚関係のある母の実家であったといえる
頼朝が若くして官位を持ち義平が無官だったのは
嫡男、庶長子などという違いでなく官位が必要な場所に生きているか、いないかの違いと
(坂東では摂関家の武力の行使役、河内源氏の息子の肩書きで良し)
例上総曹司義朝
母の実家の実力の差である
熱田大宮司家をちゃんと調べると母方での頼朝の朝廷での立ち位置が見えてくると思われ
それからこの時代まだ嫡男、嫡流という意識や考えがない
源氏の氏長者もちろん公家の源氏(河内源氏の棟梁などより官位は高いし、彼らに官位などを与える機会を設けたのも氏長者)
あえて軍事貴族を生業としている源氏の中で棟梁なる者、家の基準があったとするなら
より朝廷の中心に近い摂関家の人物と行動を共にしている者が、それであると言える
軍事貴族としての源氏の人間なら各世代すべてこの共通点があり
軍事貴族源氏の代表者としての条件である
なので後の頼朝の鎌倉殿や将軍のイメージからくる嫡流や武家の棟梁とは別物である
だから偉い学者さん達が平安時代と鎌倉時代という区切りを設けて違う時代とした
406 :
日本@名無史さん:2008/05/07(水) 15:40:19
>>405 源氏の「棟梁」というものを全く無視した言い分だな
>>406 歴史的事実として源義家が武家の『棟梁』と風聞で囁かれた事実は存在するが
数多い源氏の中で源氏の『棟梁』なる者が平安時代を通して存在した史実がないね
あえて平安時代に存在した源氏の棟梁とは何で、何者であるか?
と逆に質問したら返答に困るのではないかな?
その時代に存在しない物、事をした事にしてもしょうがないだろう
平安期を通して源氏と名乗る者達に氏長者と軍事を生業とした者の中に
摂関家と結び後の惣領権の様な物をもった代表者はいた
前者はほぼ不動の持ち回りで後者は摂関家の栄華により近かった者で世代により流動的だった
つまり源氏の棟梁なる名称を持つ者は平安期の史実では存在しない
百歩譲って河内源氏としても同じ
>>406 読みづらいだろうから補則しよう
後々河内源氏と呼ばれた者達を含め軍事貴族を生業とした源氏には
土地を我が物に出来るだけの権力を持った者が平安期には皆無なので
軍事の1指揮官=棟梁と考えるなら成り立つが
土地の支配権を含めた意味の物=棟梁など存在しない
河内源氏の所有する土地も、摂関家かその他の公卿、寺社、天皇家の土地でしかない
それが平安時代
荘園娑婆代 金
410 :
日本@名無史さん:2008/05/09(金) 15:57:21
>>407−408
そもそも君の主張は平安時代には武家に嫡男、嫡流という意識や考えがないとするもの
母親の身分にかかわらず平等に扱われたとしている
ところが実際には母親の身分の差が息子の叙位に影響している
東国の武士が官位を必要としなかったというのはお廉違いだし
頼朝の叙位が母親の実家によるもので父親の意思ではなかったというのも錯誤はなはだしい
陰位は父親から子に影響するもので母方が父親を無視して孫に叙位できるものではない
つまり頼朝の叙位は父親の影響によるものであり父親が長兄義平よりも三男頼朝を高位におくことに
同意していたからにほかならない。
父為朝が都に生まれた軍事貴族であり叙官を競ったのはまぎれもない事実であり、
源氏の嫡男は官位を欲しなかったとするのはおたくの見当違い。
>>410 坂東の武者が官位を欲しなかったとは言わないが
君の例に出した頼朝なら父の義朝は摂関家の引きで官位に付き(為義の摂関家への口添えがなかったとは言わない)
坂東の生活から都へ戻る事になる
そもそも頼朝が官位に付いたのは都暮らしの時であり義朝の希望や要望があれど
義朝が子の頼朝に官位を与えた訳でない
そんな力は河内源氏にない
頼朝の官位は母方の家の格で摂関家がこれくらいの地位であろうとやったもの
そもそも父の義朝が幾つで官位に付き誰が義朝にそれを与えたかわかってるかな?
父義朝の力で頼朝を兄弟の中で一番いい官位につけたと思ったら大間違い
頼朝にはあの年で、あの官位を摂関家がくれてやるだけの血筋が生まれた時から備わっていただけの事だ
河内源氏の代表者なら高い官位を欲して自由につけるくらいの力があるなど思うなら、為義が検非遣使のままで
義朝を含めたその兄弟達がいつどのような官位についたか調べてみなよ
君達の言うりっぱな源氏の『棟梁』なる者だろうが
>>410 ちなみにな摂関家の意向で為義に命を下し坂東に下向し
摂関家の命でまた官位を与えられ使役する為都に呼び戻された
この時代を生きた上総曹司義朝には熱田大宮司家の子供である頼朝が
その年齢がくれば摂関家に、それなりの官位を貰える事は、わかりきった事だったろうな
身分制度!血のカースト制の時代なんだよ
>>410 後、私のレスをちゃんと読んで反論して欲しいのだが
軍事貴族達が官位を欲しなかったと言ってるんじゃなく
彼らが欲する欲しないに関わらず河内源氏であれば、その者に官位が必要かどうか決めて
それを与えたのは摂関家だと書いてるんだよ
つまり摂関家が義平には官位が必要ないと判断した
それだけの事
父義朝は摂関家が息子義平に頼朝より高い官位を与えてくれると言うなら平服してありがたく頂いたろう
すべて摂関家しだいなんだよ
414 :
日本@名無史さん:2008/05/09(金) 18:40:00
>>413 院政期に院より力を持っていた摂関って誰?
北面の武士を愛用したのも院
武士の登用を図ったのも院
時代考証がなっていないよ〜
>>414 河内源氏の誰が院に官位をくれてもらったか書き込んでもらおうか
摂関家がクシャミをすれば風邪をひく河内源氏の誰が摂関家の人間を差し置いて院に直接話が出来たのか書き込んでもらおうか
保元、平治の乱で何故、都の河内源氏が壊滅したのか書いてもらおうか
義家、義忠の意向で為義が検非遣使になり
為義の意向で義朝が下野守なり
義朝の意向で頼朝が
とならなければ通らない支離滅裂な理論を書いてトドメに、それらは院がそうしたのか
平安時代の事だぞ
平安期の社会制度や身分制度、時代の不文律や史実から
なぜ義朝親子だけ抜き出して考えるか
しっかりと説明して貰おうか
>>414 後、君のレスの文面から、とんでもない勘違いをしてそうだから書いとくな
農民だとかを院が北面の武士に登用して
武士に仕立てたんじやないんだぞ
少なくとも軍事貴族を生業と出来た者は清和源氏にしろ(一応書いとくが河内源氏とは清和源氏の一つだ)
桓武平氏(伊勢平氏などな)など読んで字の如く天皇に繋がる家柄だし
秀郷流藤原氏も読んで字如く摂関家に繋がる家柄だ
平安期の軍事貴族は院政などよりも前に出現してる
院が誰でも彼でも北面の武士として登用し、それが軍事貴族になった訳じゃないぞ
後、武士と侍の違いも、この際、調べてみ
それをわかってくれてると、おそらく君がするであろうトンチンカンな反論に対しての
返答が半分の労力ですむ
ここまで書いてもまだ理解が足りないんだから、これが武陽陰士あたりだったらケチョンケチョンに書かれてたぞ
417 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 03:36:04
>>414 そして院の軍事力である北面の武士は軍事力として何の役にも立たなかった
だから伊勢平氏が出てきた
そして摂関家の軍事力は河内源氏
平安期に摂関家の浮沈と共に摂・関・家・の・軍・事・力として大活躍したな
この喧嘩腰の議論といい、ひょっとして元木先生が降臨してないか?
>>418 つい辛辣な書き込み方になってしまった事は謝ろう
ただせっかく河内源氏(義朝とその子供達だけかもしれんが)に興味を持ったんなら
思いつきや狭い視野に彼らを当てはめるんじゃなく彼らのの生きた時代をもう少し掘り下げてみてはどうかな?と言ったんだ
平安時代は院政に始まり保元、平治の乱があって源平合戦で締めくくりではないから
まず平安時代を象徴するような人物(各個人の趣味、趣向に左右されるかもしれんが)から調べてみたらどうかね?
平安時代には河内源氏は決して時代を代表する権力の中枢にいた者達ではなかった
頼朝とその子達の事を意見するなら源満仲、その子の頼光(摂津源氏の祖)頼親(大和源氏の祖)頼信(彼が河内源氏の祖)の三兄弟
それらと藤原道兼、道長(この世をばの人だ)頼道などを調べれば摂関家と河内源氏の関係(義朝が死亡するまで続く)が見えてくると思うし
平安期藤原氏による摂関政治の確立に清和源氏、河内源氏がいかに関わり摂関家のおこぼれに与りながら生きて来たかわかると思う
それで頼信の子頼義、その子義家と進めば、ここでのレスとは違う河内源氏、義朝や子供達の姿が見えてくると思う
最後に一つ
平安時代、源満仲から義朝まで皆、摂関家に名簿を差し出していた摂関家の立派な家来であった事は
紛れもない事実で
彼らの軍事貴族としての生涯は源氏として独り立ちして権力中枢で軍事力を奮ったのでなく
摂関家の家来として、その浮沈と共にあった摂関無しでは軍事貴族として成り立たない存在であった事だ
420 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 19:26:06
>>415、416、417、419
随分熱くなって無駄な長文書いてる馬鹿がいるな
清和源氏が摂関家に接近し、藤原氏の他氏排斥に加担したり
藤原道長に賄賂を贈ってごますっていたのは事実だろう
だが院政期、摂関家の内紛に乗じて院に近づいたのではなかったのかな?
軍事貴族がなんたるか、わかってないのはお前だろうw
そもそも源氏は嵯峨〜後三条あたりまで臣籍降下する皇子に与えられた姓
のちの公家の清華家にも源氏はいるのだから。
421 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 19:38:06
>>420 だから清和源氏、河内源氏と書いてるだろう
良く読めバカ
422 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 20:01:41
>>421 源氏は天皇の子孫だなどと長々と駄文書いていたのはお前さんだろう?
むしろ河内源氏が摂関家べったりだったのは摂関全盛期、特に藤原道長なんかにはへこへこ。
院政期にも摂関家に賄賂贈って官位上げてもらうしかなかったのかい?
天皇との姻戚関係の薄さから一時ほどの勢力を失った摂関家に代わり、
派手な軍事活動を展開して、なんとか院に認めてもらおうと頑張ってるじゃない。
423 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 20:33:34
>>422 軍事貴族の清和源氏、河内源氏も天皇に繋がる血筋だって書いてだ
事実だろうがこのバカ
どこに源氏全体の事を言及してるレスがあるこのアホ
少しはちゃんと読んでから反論しろ
424 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 20:35:44
>>422 ちなみに河内源氏が独断で起こした軍事行動はどんな軍事行動だ
425 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 20:44:55
>>422 =423
いいかげん、苦しくなってきたなw
初心者のようなので、まずは日本史の概説でも読もう。
東北で河内源氏がどんな軍事行動をしていたか。
話はそれからだね。
426 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 20:46:21
>>423 バカとかアホしかいえんのか
日本史を語る以前にまず人間性がおかしいわな。
427 :
425:2008/05/11(日) 20:50:33
428 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 21:04:09
>>425 前九年、後三年の役が河内源氏単独の軍か?
一体だれが陸奥守るや鎮守府将軍にして河内源氏を陸奥で行動できるようにしてやったんだよ
院か?
少しは勉強しろよ
なんで河内源氏が陸奥で軍事行動を起こす事が出来
なぜ見返りがなかったか?って事を
だからバカだって言われるんだよ
429 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 21:08:06
430 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 21:15:33
>>428 分かってないなw
なぜあんなパフォーマンスをする必要があったのか?
摂関家への忠誠のみで行動していたのならば
これまで通り摂関家へ陸奥守で得た収入で賄賂おくってりゃよかっただろ。
摂関家があんな軍事行動を望んでいたとでも?
431 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 21:41:46
>>430 河内源氏の思惑がどうだろうと
結局、摂関家に陸奥を取ればこんなうま味がありますよと
摂関家に陸奥で河内源氏が軍事行動をとれるお膳立てをしてもらって出来たことでしかないだろうが
河内源氏単独で利益を追求したものじゃない
そんな事をしたら源義家の乱とか名で歴史から河内源氏など早々に消えていたろうが
ちなみに河内源氏が単独で起こした軍事行動の話してんだぞ
432 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 21:55:54
>>431 源氏が陸奥をとると摂関家にどんな利益があるの?
陸奥を「とる」ってどういうことか分かってる?
陸奥を平定して名声があがるのは源義家なんじゃないの?
君の説は脳内でしかない。
433 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 21:58:59
>>431 陸奥を「とる」んじゃないよね。
源氏はどう頑張っても朝廷の下で働く下僕に過ぎず、
源義家がでしゃばって陸奥を平定、朝廷や院に恩を売ろうとしただけ。
武士による支配権も確立していない時期に何を言ってるんだかw
434 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 22:35:28
>>433 本当に一から十まで言葉にしてやらないとわからない脳みそなんだな
河内源氏は摂関家の荘園を増やす活動をその軍事力でして来たんだろうが
じゃあなんで河内源氏は陸奥で軍事行動を起こした?
>>433の自分のレスが自分の首を締める事になるなよ
それと朝廷の為に前九年、後三年の役を戦ったなんてトンチンカンな反論はするなよ
435 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 22:36:08
436 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 22:36:14
>>431 源義家は若いころ、白河天皇に命じられて、行幸の護衛を勤めている。
後三年の役の後、白河法皇によって院昇殿も許された。
摂関家とも近い姻戚関係を持つ右大臣藤原宗忠(藤原道長の曽孫)による中右記には、
「義家朝臣は天下第一武勇の士なり。昇殿をゆるさるるに、世人、甘心せざるの気あるか」
とあり、義家の武勇をほめた法皇の独断によって義家に院昇殿を許されたことに対し、
公家たちは冷やかに見ていたことが分かる。
これでもまだ、義家は法皇によってとりたてられたのではないと言い切るの?
随分大見栄きってたようだけど。
頼朝や為朝なんかが出てくるよりずっと前の話なんだけど?
437 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 22:37:27
438 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 22:40:52
439 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 22:42:33
>>436 その院によって義家は荘園を持てなくされたりと摂関家から院政に移る過程で
義家自身がどうゆう扱いを受けてる?
義家に義親討伐の命を出し後三年の役を私戦として褒美も恩賞も出さなかったのは誰だよ
早く前九年、後三年の役が河内源氏の単独軍事行動だった説明をしろよ
苦しくなったらネタを変えるって思いつきでレスしてるだけだろ
440 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 22:48:20
>>439 白河法皇は源氏の力を利用したり削減したりして
思うままに操ったため。
摂関家すら源氏の助長をこの時期快く思ってなどいなかった。
お前の主張は、摂関家を通さずして河内源氏は
なにもできなかったという話のはず。
行幸のお伴を義家に命じたのは摂関家のどこの誰?
院昇殿を命じたのは摂関家のどこの誰?
史料に反論できないからって、話をそらすなよ。
441 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 22:58:35
>>439 お前の主張は431で
>摂関家に陸奥を取ればこんなうま味がありますよと
>摂関家に陸奥で河内源氏が軍事行動をとれるお膳立てをしてもらった
と主張している。間違いないよな?
ところが後三年の役の後の摂関家のあの冷やかな態度はどうか。
誰もかばってくれない。
いったい、誰が義家に「陸奥をとっていいですよ」などと
お膳だてなどしてやったものか。
摂関家のどこの誰?
442 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 23:11:38
>>441 河内源氏がそう言って得た陸奥守、鎮守府将軍だろうが
摂関家になんのメリットもないのに河内源氏になんで与えるんだよ
それがあって初めて頼義が陸奥で軍事行動がとれたんだろうが
後の摂関家の知らぬ存ぜぬは、頼義、義家親子のあの不手際じゃ当たり前だろう
だから陸奥でなにも得れなかったんだろうが
それで義親討伐に最終的に誰を差し向けたかわかってて書いてんのか
院と河内源氏が良好な関係なら伊勢平氏の台頭はあるまいが
443 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/11(日) 23:22:10
後三年の役で朝廷が恩賞を与えなかったのは
他ならぬ受領たる義家が私戦に明け暮れ徴税を滞納してしまったことによるものだ。
ちなみに白河院は源氏を重用している。
義親の追討は源氏への抑圧などではなく義親の罪(出雲の目代殺害)によるもので
原則に則ったものに過ぎない。
444 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 23:24:55
>>443 あなたの意見なら、まず間違いなどないから
こっちが間違いだったと認めよう
445 :
日本@名無史さん:2008/05/12(月) 07:12:14
446 :
日本@名無史さん:2008/05/12(月) 07:13:16
>>442 全く質問に答えてないだろ。
バカ野郎。
447 :
日本@名無史さん:2008/05/12(月) 07:17:39
>>442 義家の白河法皇への接近、あれは何だ?
いつまでも摂関家べったりだったのならば
院政期の院と摂関の対立で河内源氏などやられてしまっていただろう。
白河法皇はなぜ義家に院昇殿を許し、
義家は藤原氏一族の冷視を受ける中それを受けたのか。
摂関が天皇家をも上回る人事権を手にしていた藤原道長時代とは異なり、
明らかに院にすり寄った結果だよ。
お前の主張する為朝や頼朝の時代より前ね。
448 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/13(火) 22:47:04
伊勢平氏たる正盛が義親追討を命ぜられたのは、単に正盛が近場である因幡国の国守であったからと見たほうが自然だろう。旧来の説は深読みと言うべきだ。
449 :
日本@名無史さん:2008/05/14(水) 12:20:46
源氏物語の主人公が光源氏じゃなくて光平氏に
なってた。
>>445 そいつは美人に弱いんだろう
とヨイショ
451 :
日本@名無史さん:2008/05/17(土) 12:07:34
で、論争はどうなった?
452 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 13:10:02
>>444が本屋に元木泰雄氏の本を買いに行って終了
>>262 足利尊氏も弟・直義と最終的には対立した。
一時的に共存し協力関係になったかもしれないが、最終的には並び立たないだろう。
範頼と同じ末路ではないか。
ただ、信長は信行以外、たくさんいた弟達と対立してはいないな…
そりゃ源氏の嫡流や、名門足利家と違って、織田家の血が尊重されてたわけじゃないから信長の場合。
たいしたことない家の、それも分家だし。
455 :
日本@名無史さん:2008/09/02(火) 16:59:23
んんん
456 :
日本@名無史さん:2008/09/04(木) 19:59:03
>>453 対抗馬になりえない兄弟など無駄に殺さんでもよろしい
信長は14歳の時に父を亡くし家督をついだ
そのとき元服していたのは庶兄の信広と同母弟の信行ぐらい
あとは夭折したかまだ幼く信長の庇護を受けねば生きていけない弟たちばかり
信長の対抗馬にはなりえない
457 :
日本@名無史さん:2008/12/15(月) 13:28:17
清盛と重盛どちらも生きてたら源氏は勝てなかっただろうね
重盛が重要なわけですね
重盛は嘉応2年(1170年)殿下乗合事件で基房に喧嘩を売り、承安2年(1172年)
郎等の伊賀国住人が春日社神人を殺害しても責任逃れをするなど、摂関家と
無用なトラブルを起こしている。重要問題が起こると清盛の判断に任せるケースが
多く、政治的手腕にも疑問がある。
幼主・高倉天皇を後白河・建春門院・清盛の三頭体制で支えていたのが、建春門院の
死でバランスが崩れて後白河と清盛の関係が急激に悪化。この状況で重盛がしたことは
安元3年(1177年)の強訴で神輿に郎等が矢を当て延暦寺の怒りを買ったことと、義兄の
藤原成親が逮捕されたときに慌てふためいたことだけ。
その後、政治的活動をすることもなく現実逃避。重盛が生きていたところで、どうにも
ならない気がする。
459 :
日本@名無史さん:2008/12/18(木) 02:46:56
>>458 そうそう!重盛による基房への暴力沙汰で、高倉天皇の御元服の儀が延期されてるんだよね!
父院としての正統性を固めちゃいたい後白河にとっては、まさに水をさされた感じだったと思うよ。
重盛が没した直後に、その知行国の越前があっさり後白河に収公されたことの背景にも、粗忽な重盛に対する後白河院の侮蔑みたいな悪感情があったりして。
460 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 22:17:18
461 :
日本@名無史さん:2009/05/02(土) 19:00:22
ぽんとにぽんと
462 :
日本@名無史さん:2009/05/03(日) 12:42:47
もし清盛の遺体が発見されて
晒し首にされてたら
随分歴史的評価も変わってただろうな
463 :
日本@名無史さん:2009/05/05(火) 01:58:54
仮に清盛が生け捕りで頼朝の前に出されても
晒し首は考えにくいなぁ
一度命を助けられてるわけだし
464 :
日本@名無史さん:2009/05/05(火) 02:31:09
相国入道は頼朝の首を墓前に供えろって言ったけどね
465 :
日本@名無史さん:2009/05/05(火) 03:10:36
中宮の父親で安徳天皇の外祖父で准三宮だからね
宗盛が斬首されたのは扱いが違うと思う。
466 :
日本@名無史さん:2009/08/30(日) 23:41:13
>>457 虚弱な平家方ではどちらにせよ止められんよ
468 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 01:19:04
そうか
469 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 21:14:56
清盛が長生きして
それでも平家が負けていたら
清盛斬首→獄門は確実だろうな
頼朝は自分を生かしてくれた恩義は感じたんだろうかな
頼朝は「平家を助けたら自分と同じように
いつか挙兵するかもしれない」と考えて斬首だろ
頼朝が恩義を感じるのは清盛ではなく、頼盛や宗清じゃないかな?
472 :
日本@名無史さん:2010/02/16(火) 13:59:32
日本史の上では、清盛始祖平氏政権と鎌倉幕府が長期間並立することは無かった訳だけど
世界に目を向けてみると、(推定含め)同一言語圏内で
「国際派・重商派・文治派」と
「国内派・重農派・武断派」が
長期間並立・競争関係にあった例というのは、結構ありそうだね。
一番分かりやすそうな例とすると、近代欧州のドイツ語圏での
「ハプスブルク朝オーストリア 対 ホーエンツォレルン朝プロイセン」が典型的かと思う。
ウィーンが京・福原で、ベルリンが鎌倉のような。
ハプスブルク家の家風を表した有名な言葉を言い替えて、
「戦は外なる者どもに。なんじ幸いなる平家一門よ、婚姻せよ」
にしてみても、平家の家風や方法論に、けっこう合ってそう。
マリア・テレジア張りの女統領は、日本では平氏政権じゃなくて鎌倉幕府に登場した(北条政子)けど、
オーストリア継承戦争みたいな派手な合戦がその後起こったとすると、
援軍ハンガリー騎兵隊に当たる勢力は・・・瀬戸内や熊野の水軍かな?
(二位の尼が安徳帝を抱いて、援軍を懇願する大演説・・・というような場面は、日本ではあり得ない?)
473 :
日本@名無史さん:2010/02/16(火) 16:38:48
>>470 処刑は確実なのかもしれないが
さらし首までする可能性はあるのか?
家康→秀頼と同じで
同情しそうだけど
474 :
日本@名無史さん:2010/02/17(水) 12:32:37
平氏政権の特徴でもある、海洋貿易を経済基盤にした領主たちが同盟を組んで建てた政権っていえば
現代だとさしずめアラブ首長国連邦(UAE)政府だな。
7首長国の連邦でそのうちのアブダビ首長が連邦大統領兼務っていうUAEの体制は、武家政権期の日本にも似てるけど、
鎌倉幕府も室町幕府も江戸幕府も、基本的には重農主義的で国内志向の政策路線だったから、
平氏政権やUAE政府の、重商主義的で国際志向の政策路線とはやや違うし。
室町幕府は、むしろ清盛の目指した政権に近いのでは?海外との貿易拡大とか
本拠地を京都に置いたこととか。
476 :
日本@名無史さん:2010/02/17(水) 16:42:48
>>475 軌道修正を掛け始めたのは三代目の義満と言えばいいのかな。
南北朝の対立が収拾された頃から、
重商主義的な政策が打てるようになったと見るべきだろうか。
まあ室町時代の場合、幕府より地方領主のほうが強力かつ対外開放的になりはじめて、
しまいには重商主義・国際志向の権化みたいな大名も登場するわけだけど。
典型例が織田信長で。
>本拠地を京都に置いたこととか。
辛気臭いハッタリ閉鎖文化でたいして進歩のない
山に囲まれた盆地風習京都に置く訳がないだろ
清盛は日本史上、最っとも洗練された
開かれた海洋文化思考の持ち主だからこそ
都を海に面した神戸・福原に移したり
瀬戸内に荘厳な厳島神社を造営したりと
海洋を通して海外との貿易に主眼を置いたりと
積極的で海に開かれた精神を通して
荘厳な平家文化が日本文化の礎を作り出したんだよ。
478 :
日本@名無史さん:2010/02/17(水) 17:14:14
福原という「海辺」に首都機能を置いたのは、
浪速宮以来だったといっていいかもなあ。
もしも福原京がそのまま首都として維持されていたら、
今頃「西のイスタンブール・東のフクハラ」なんて言われていたのかな。
しかし・・・どうなんだろうなあ。
近畿に住んでる親戚の人に、以前こういう話をしたら、
「神戸の辺りは大きな川が無いからなあ。
ずっと都をやっていこて思たかて、水の確保に困ったんやない?」
って意見が出たことがある。
実際、水の確保はどうやってたんだろうな、福原では。
井戸を掘ろうにも、ある程度大きな川が近くにあるような環境じゃないと、大きな水脈は見込めそうにないし。
もしもその後の歴史の中で、数百年単位の首都機能を維持できるほどの水を確保しようとしたなら、
・・・武庫川から用水路を引くか、讃岐の満濃池みたいなでっかい溜め池を福原の近くに掘るか。
今の神戸とはかなり違った地形・水系になってそうだ。
>>478 >神戸辺りは大きな川が無いからなあ。
当時、神戸・福原に湊川って比較的大きな川があったんだよ。
今は大正時代に市街地開発で川流を強引に変えられてる。
当時の川筋は埋め立てられて、新開地って歓楽街になってる。
480 :
日本@名無史さん:2010/02/17(水) 17:34:44
或いは、厳島や大宰府の存在も勘案するなら、
今の広島か博多あたりに再遷都していたか。
地形的な拡がりでも、交通の便でも、水の確保でも、かなり有利だから。
イスタンブールのような地形と言えば、まさに関門海峡がそうだが、
もしも下関あたりに再遷都していたとしたら・・・、
「壇ノ浦」は「平家の栄耀栄華」という、まるで正反対の意味合いになっていたんだろうか?
・・・しかし、当時の関門海峡周辺だと、やはり水の確保が難しいか。
481 :
日本@名無史さん:2010/02/17(水) 17:40:46
>>479 ああ、それって、今の新湊川の前身なんだね。
483 :
日本@名無史さん:2010/02/17(水) 20:15:25
>辛気臭いハッタリ閉鎖文化でたいして進歩のない
>山に囲まれた盆地風習京都に置く訳がないだろ
今の京都に対する偏見で、平安末期の国内唯一無二の大都市を語ろうとする阿呆がいるな。
どこの山猿だろう。
京都が平安末期日本の突出した巨大都市だったのは、間違いないところだろう。
そういう状況から、あえて遷都、それも直接の海浜地域へというのは、
当時のアジアではかなり画期的な発想だったんじゃあるまいか。
海洋貿易立国という構想そのものは、
その当時の東アジアではかなり一般化された発想ではあっただろう。
五代十国から宋代に掛けて、中国では、海洋貿易が大いに発展した。
後にマルコポーロによって欧州人にも知られるようになる泉州が貿易中心地となったのも、11世紀のことだった。
また高麗も、首都の開城の近隣に、碧瀾渡という河畔貿易港を設けていた。
ただ、当時の東北アジアでは、中国でもどの国も直接の海浜地域には首都を置いていなかった。
日本の平安京、宋の開封、高麗の開京、大越の昇竜は、いずれも内陸だった。
五大十国の頃の中国も、海浜を抱える国は多かったが、海浜を都にした国は無かった。
(ヴェトナム南部のチャンパの都は海浜だったんだろうか? やや内陸だったんだろうか?)
こういう中で、あえて海浜の福原に都を置こうと考えたのは、相当に独創的な構想だったと言えるのではないか。
逆に、鎌倉以降、日本では海浜に政治的都市を建設する例も増え、近世以降はそういう都市が非常に多くなるのだが。
現在の日本の人口百万人以上の都市のうち、内陸にあるのは京都と札幌だけではなかったか。
>>484の訂正
誤 ただ、当時の東北アジアでは、中国でもどの国も直接の海浜地域には首都を置いていなかった。
正 ただ、当時の東北アジアでは、どの国でも直接の海浜地域には首都を置いていなかった。
「伝統的に内陸に首都を置き、かつ、比較的安定した情勢にある国が、海浜地域に遷都する」
という例は、世界史にもあまり例が無いのかもしれない。
防衛上の理由から、実行が難しかったのだろうか?
数少ない例があるとしても、かなりの巨大国家の場合に限られているようだ。
この点から考えてみても、福原遷都は当時としてはかなり独創的構想だったのかもしれない。
上の場合での、日本以外の例
ローマ帝国(コンスタンティヌス帝時代) ローマ 〜 コンスタンティノープル(現イスタンブール)
オスマン帝国(メフメト2世帝時代) アドリアノープル(現エディルネ) 〜 コンスタンティノープル(現イスタンブール)
ロシア帝国(ピョートル1世帝時代) モスクワ 〜 サンクトピーテルブルフ(現サンクトペテルブルク)
他にもあるだろうか?
そういえばポートアイランドも
独創的構想で当時、かなり注目を浴びたな
488 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 06:54:15
>>1 きっと、顔のデカい唇がひっくり返った、ギョロ目のボザ髪の沖縄県並みに、キモメンだらけの国に成ってただろうね‥。
489 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 06:55:56
鼻は団子で、思いっきりのいきり鼻‥
490 :
日本@名無史さん:2010/03/24(水) 23:19:11
だれが?
491 :
日本@名無史さん:2010/03/25(木) 00:02:39
>もし清盛が長生きしていたら
平家が勝利していたかもしれない
492 :
日本@名無史さん:2010/06/03(木) 08:37:41
>>486のレス記載からしばらくして、
世界史カテで聞いてみたら、
平氏政権期と同時期のチャンパの首都は、これも内陸だったそうだ。
やはり海浜首都というのはよほど珍しい存在だったのか。
ただ、海浜首都が少なかったのは、
ひょっとすると、当時の船舶メンテナンスの都合だったんだろうか。
貝の一種・フナクイムシによる。木造船への食害の防止のために、
川を遡っていって淡水に船をしばらく浸すというのが、昔はよくあったそうだけど。
493 :
日本@名無史さん:2010/06/03(木) 08:40:03
「
>>486のレス記載からしばらくして、」じゃなくて
「
>>484のレス記載からしばらくして」だった。
494 :
日本@名無史さん:2010/06/03(木) 08:41:34
貝の一種・フナクイムシによる。木造船への食害の防止のために
↓
貝の一種・フナクイムシによる、木造船への食害の防止のために
たびたびごめん。
495 :
日本@名無史さん:2010/07/26(月) 00:05:02
宗盛じゃなく重衡を後継者にしていれば
戦の展開も違っていたかも!
平家重代の宝刀 小鳥とか現存してるけど
凄く 個性的で 格好いい
唐皮の鎧とかも 虎皮使用でさぞ格好良かったと推測してしまう。
497 :
日本@名無史さん:2010/07/26(月) 01:00:11
源平と一語で言うけどどちらも武士であって公家では無いから、
武士のための政治をしなければならない。
例えるなら平治の乱は武家の政権交代だったわけで、
全国の武士の総元締めが源氏から平氏に変わったという意味合い。
だから平氏も同じ武士である源氏のことをただ排除するのではなく、
源氏のために施策を行っている。源氏の根拠地である東国の土地が、
平氏に横領されたなんて話は聞かないでしょう?
平氏の政治がもう一方の同業者である源氏の方を向かず、貴族化
を指向している限り、清盛の力でも源氏は抑えられない。
清盛はどうしても朝廷から離れられなかったのでしょうね。
頼朝でさえ晩年は娘を後鳥羽天皇に入内させようとしているから、
朝廷の権威というものに人を狂わす魅力があったのでしょう。
499 :
日本@名無史さん:2010/07/29(木) 18:22:35
清盛が再来年の大河ドラマの主人公に決まったってマジ?!
500 :
日本@名無史さん:2010/07/29(木) 21:18:44
>>497 厳密にいえば源平は「軍事貴族」だよ。
武装した貴族集団と考えれば良い。
彼らは朝廷から官位を受け、朝廷から仕事を与えられて、朝廷のために働いていた。
源氏だって頼朝の4代前ぐらいは受領の地位を得るために
藤原摂関家のために私的警護を引き受けたり、
藤原道長に家財道具一式賄賂として贈ったりしていた。
保元・平治の乱といった都での争乱にも勿論、貴族の一員として参加している。
「武士だから武士のための政治をしなければならない」
って、源平はどちらも正統な貴族。
朝廷の官位を持つ貴族であるがゆえに地方に言っても貴人が来たともてはやされ、
地方の人々を率いることができた。
頼朝は幕府を作ったが、表向きは朝廷の下に入っていた。
武士と公家が明確に分かれたのは江戸時代ぐらいじゃないか。
室町〜戦国頃は半農半民の武士や朝廷にも幕府にも属さない武士、
貴族が没落して武装、武士となる〜なんて例が散見されるし。
享年63は当時としては長寿だと思うが・・・
502 :
日本@名無史さん:2010/07/30(金) 23:47:34
清盛より高倉天皇が亡くなったほうが平家にとっては痛かった
503 :
日本@名無史さん:2010/07/31(土) 21:38:41
平氏政権の陰りは建春門院(後白河女御・高倉天皇母)の死が一番じゃないだろうか。
建春門院は平時子の異母妹で、建春門院存命中の後白河と平氏の蜜月ぶりは大したもの。
建春門院は姉時子が清盛との間に儲けた平徳子の裳儀の紐結い役を務め、
高倉天皇と徳子の仲を取り持った。
建春門院が35歳で没した後の清盛と時子のあわてぶりは尋常ではなく、
高倉天皇が亡くなって未亡人になった娘の建礼門院(平徳子)を
えらく年の離れた後白河と再婚させようとしたほどだ。
504 :
日本@名無史さん:2010/08/04(水) 15:35:30
清盛たん大河ドラマ主役おめでと
505 :
無双立花宗茂:2010/08/18(水) 06:13:48
院政を基盤にのしあがった平家が、中心人物後白河院と対立し幽閉した事は自殺行為
だから駄目だよ!
東国の挙兵で、義仲から都を終れて、逃亡先の太宰府に知らん顔されて出目は無くなってる
まあ、義経の屋島チャ-タ-便攻めはどうにか根回し出来たかもしれないけど
チャ-タ-船だねm(_ _)m
この敗退で平家のダイナモである協力会社の水軍が手を引いた訳だが
後に提携解消される熊野水軍をTOBすればよかったんだ
しかし延命にすぎないけどね
高級輸入平家商社が滅んでも一般人は関係無く、世の末でも無かったって事だよ