1 :
日本@名無史さん:
まあ上杉謙信は関係無いってことで
2 :
日本@名無史さん:03/05/25 00:20
3 :
日本@名無史さん:03/05/25 00:20
2
4 :
日本@名無史さん:03/05/25 00:24
4get
5 :
日本@名無史さん:03/05/25 00:24
6 :
日本@名無史さん:03/05/25 00:29
大大名ネタだとあまり内容に変化がないので
全然話題にならないような小大名の話をしませんか?
島津は戦っていない事になっているが亀井から援軍を求められて援軍を派遣した記録が
あるらしいが、亀井って関ヶ原までいってたのか?
それと伊藤盛正はほとんどの本で無視されているがたまに石田、島津の間に布陣したと書かれ
ている場合がある。参謀本部の地図だと宇喜多の右翼なんだけどどっちが本当だろう。
8 :
日本@名無史さん:03/05/25 00:35
亀井って静香か?
|ハ☆∈
|▽^)<新スレおめでとうございまーす♪
⊂)
|,,)
|
11 :
日本@名無史さん:03/05/25 00:51
伊藤盛正
要衝大垣の城主の割には目立たない奴だな。
12 :
日本@名無史さん:03/05/25 00:57
岐阜に実際行ってみると
大垣って京と名古屋の中間の要衝にあって
岐阜は本当に入り組んだ辺鄙な所にあるのがよく分る
13 :
日本@名無史さん:03/05/25 00:59
最初は松尾山に陣取ったが
小早川秀秋に追い出されたらしい。
3万石程度の小大名が1万以上の兵力の小早川に対抗できるはずもないが
もしこいつが松尾山から動かなかったらどうなったかな。
14 :
日本@名無史さん:03/05/25 01:00
小早川次第って事かな 結局のところ
15 :
日本@名無史さん:03/05/25 01:03
松尾山に目をつけた秀秋って実は戦術眼があった?
16 :
日本@名無史さん:03/05/25 01:07
ただ単に大軍を置きやすい場所だったからだと思われ。
それか家老の稲葉・平岡あたりの助言だろう。
17 :
日本@名無史さん:03/05/25 01:09
>>松尾山に目をつけた秀秋って実は戦術眼があった?
松尾山は城。最近の調査により判明しているよ
18 :
日本@名無史さん:03/05/25 01:11
>>17 城ってちゃんとした城?
それとも長篠の時みたいな臨時のさくを連ねた
ような城?
しかしあの時麓に大谷たちがいただろ。戦力的には一万ぐらいになる。
伊藤が小早川拒否して粘れば何とかなったかもしれない。
20 :
日本@名無史さん:03/05/25 01:26
>しかしあの時麓に大谷たちがいただろ
「たち」といっても裏切ってるけどな。
21 :
日本@名無史さん:03/05/25 01:27
大垣城には7千〜8千ほどの兵がいたらしいが多すぎないか?
福原長尭や垣見一直ら三成と親しい連中を関ヶ原に連れて来ていれば
少しは役に立っただろうに。
鳥取二十万石の宮部長煕。東軍で佐和山攻めには参加しているのに関ヶ原合戦当日の配置が
まったく書かれていない。戦力的には東軍の中核になっても良さそうなのに。
23 :
日本@名無史さん:03/05/25 01:33
氏家行広キボンヌ
24 :
日本@名無史さん:03/05/25 01:37
桑名で籠城中?
25 :
日本@名無史さん:03/05/25 01:46
氏家は司馬さんの関ヶ原ではなんか不器用だけどかっこいい男ってかんじで
描かれてたな。最後は大坂の陣で豊臣方として死んでるし。
>>22 宮部は西軍について改易されてるはずだが・・・
宮部長煕は東軍だったが戦いが終わった後急に鳥取に帰ってしまい西軍から寝返った
斎村政広と亀井慈矩の攻撃を受けた。その際出火して鳥取の城下が焼け亀井慈矩はそのことで
徳川家康の詰問を受けたので斎村政広のせいにしてしまい政広は切腹させられ、その後
鳥取の町を幽霊になって徘徊したと何かのオカルトの本に載っていたが。
宮部長煕が田中吉政とともに佐和山城搦め手を攻撃したのはたしかだが。
東軍であれ西軍であれ無視できない戦力だと思うが不思議なことにどこにも
出てこない。
亀井慈矩って「琉球守」になった人だね。
「琉球の風」で、仲村トオルの秀吉に、指パッチンの叔父さんが「琉球を下され」って言ったシーンを覚えている。
子孫は今でも政治家だけど、地元では「殿」って呼ばれているのかな?細川みたいに。
あと関ヶ原にいたのに無視されているやつ、津軽為信。
まあ津軽の場合は参加することに意義があるという程度の存在だから戦力には
まったくならないから当然なのかもしれないが。
30 :
日本@名無史さん:03/05/25 10:25
増田長盛は東西両軍に対してコウモリの如く二重スパイしたとか片桐勝元も
そうだ。なんぞとの意見があるが漏れはどうかな?と言う立場だ。
当時の状況では一見三成の属する西軍こそ正当と見誤りがちだが、実のトコ
家康は豊臣自体に反逆してたわけじゃない。まして家康は大老筆頭にして天下
政務代行者(太閤遺命)で利家死後は秀頼を含めた豊臣家自体のの後見役。
家康が太閤遺命を無視して諸侯と縁組したりしたのも長年豊臣の仮想敵の
立場の家康が豊臣で巧く取り仕切っていく為の与党工作て見方もでき
前田征伐の一件に至れば利家没後も潜在的政敵の前田の意志統一される前に
介入し強引に自分の与党にしたが、似たような大老工作は他の2名にも成されている。
宇喜多のお家騒動と毛利の秀元問題で恩着せしてる。
そして家康は豊臣代表の立場で上杉征伐を挙行したのに対し、三成は火事場葉泥棒の
ように大阪を乗っ取り、三成は公式には隠居して政治的立場にないし、輝元は家康から
大阪留守居を依頼された立場が裏切り行為に等しい真似。
まあ客観的に見て西軍は賊軍に見えて不思議じゃない。そりゃ淀殿も完全には信用しない
だろう。まして前田玄以や増田長盛そして片桐の立場は微妙だろう。三成は豊臣の為との
名文で政権スタッフを抱き込んだんだろうが、東軍はそれなりの正当性はあるが不利だし
西軍は大阪押さえただけの微妙な立場、どっちにも簡単に味方しかねたろう。
>>25 司馬さんの関ケ原だと田丸直昌も筋が通ったいい男だよね。
単身西軍に下る田丸を見て福島等は自分の行動に疑問を持たなかった
のだろうか?
>>30 明らかに徳川の背信行為。
豊臣の仮想敵国と見なされていたゆえに行った与党工作ってのは無理あるなぁ。
もしそういう立場で本当に保身のみを第一に考えるのであれば、少なくとも敵対
勢力が動くまでは動かないと思うけど。先に目立った動きをすれば敵に自らを
討伐させる口実をつくるようなもんだし。
>>31 人質にされた妻子に後ろ髪引かれて反乱に加わった軟弱もの
>>32 福島正則にとって家康との縁組みは豊臣(福島)徳川の関係強化をおこない、仮想敵の
徳川を豊臣方に取り込むための政策のつもり。
>31
実際は小山評定に参加していないという話だが。<田丸直昌
35 :
日本@名無史さん:03/05/25 22:32
>大垣城には7千〜8千ほどの兵がいたらしいが多すぎないか?
大垣城の兵糧が尽きかけたはず。
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
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|川 :i|^'w|川k'w^ii/'"´WWW WW .|i: :ii| |i: l川| |:ii|
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|川 :i| `~~~^ wi゙|i: :ii| |i: l川| .|レ'
|川 :i|ww ll .`~~~^ !i: l川| .||
WWWiii||wW ヽ!l/ ∧_∧ |i: ll川|ii||/
|レ' ( ´Д`;) .wiiWWWiii||wW
wwwiiiiw .||. ( )
| ∩ | wWll||Www
.(_)(_)
誰かに見つめられている予感
39 :
日本@名無史さん:03/06/04 11:13
保守
40 :
日本@名無史さん:03/06/04 17:34
>>21 そだね。大事を前に小城の一つや二つ捨て置けばよいものを・・・
41 :
日本@名無史さん:03/06/04 18:03
ザコ武将が何人集まっても戦況は変わらないだろう
東軍は猛将ぞろいだし
42 :
日本@名無史さん:03/06/04 19:27
>>40 大事のまえって言っても当時たった1戦で勝負が決まるとは
思わなかったでしょ。
43 :
日本@名無史さん:03/06/04 19:44
東軍の猛将って誰?
45 :
日本@名無史さん:03/06/04 21:24
福島正則ぐらいか
46 :
日本@名無史さん:03/06/04 21:37
ザコ武将
47 :
日本@名無史さん:03/06/04 22:19
浮田隊に押しまくられる福島ダセェ
48 :
日本@名無史さん:03/06/04 22:23
天下分け目の戦い
マンコ分け目の戦い
50 :
日本@名無史さん:03/06/04 22:28
マンコ切れ目の戦い
たぬきの裏を見抜けなかった石田の無様な敗退
52 :
日本@名無史さん:03/06/04 22:49
学校って何を学ぶところ? 因数分解が一般的に暮らしてて何の必要があるの?
国語の俳句なんてやって何になるの? 歴史では罪深き日本の過去を知って何になるの?
理科の化学式って普通に過ごしてて何に使う? もっと勉強すべきことがあるんじゃないかい?
こんなことばっかやってるから日本が馬鹿にされるんだよ。
何が文部科学省だよ 何が教育委員会だよ? 一体何を教育するんだよ。 即答できるのかな?
53 :
日本@名無史さん:03/06/04 23:51
おまいはシャベルの使い方とかレジのうちかたやってろ。誰も止めん。
54 :
日本@名無史さん:03/06/05 13:30
>>52 一般教養を身につけておけば、
自分の書き込みが禿げしく板違い・スレ違いな質問である事
ぐらいは書き込む前に気付く人間になれるでしょう。
55 :
日本@名無史さん:03/06/08 03:03
56 :
日本@名無史さん:03/06/09 11:41
>>46 家康の家臣なら大名になっていたかどうか・・・
57 :
日本@名無史さん:03/06/09 18:03
58 :
日本@名無史さん:03/06/12 10:57
ケチな家康なら5万石貰えたかどうか
59 :
日本@名無史さん:03/06/25 11:24
福島正則はただのバカ
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
61 :
日本@名無史さん:03/07/15 17:00
>>59 そうだよな。福島正則なんて島津義弘より少しまし、程度だよな
62 :
日本@名無史さん:03/07/18 10:30
63 :
日本@名無史さん:03/07/18 13:59
福島正則、加藤清正が猛将であるのは事実としても、
石田三成が戦下手というのは、思い込みでしょう。
関ケ原は徳川史観で語られすぎ
64 :
日本@名無史さん:03/07/18 21:40
>>63 おまいさんのほうがよほど思い込みが激しいようだがw
65 :
日本@名無史さん:03/07/19 06:19
66 :
日本@名無史さん:03/07/20 02:59
三成に戦上手と言われるような功績ってあるの?
(^^)
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
mL( ^∇^ )グッチャー!
宇喜多秀家は西軍でガンガン戦うほど秀吉に可愛がられたのでしょうか、
具体的に何をしてもらったか書いてある本を読んだことが無いのですが。
それとも勝てると思っていたんでしょうか、八丈島で50年も生きるのって
なんか切ない。それとものんびり暮らせて良かったのかな?
>>71 むしろ宇喜多は五大老で再弱の勢力なので、自己の勢力拡大のため、積極的に
戦を起したのでは?
73 :
日本@名無史さん:03/09/07 17:27
岐阜が攻められた時、どうして本格的な援軍たてられなかったかな。
兵力不足なんていい訳にすぎないよ。
野戦するなら大垣の戦力を出しきり対峙しなければダメだね。
74 :
日本@名無史さん:03/09/07 17:56
岐阜が落ちなきゃ家康は出陣しないから長期戦必至だな。
すると全く違う展開も見られる。
ガイシュツだろうが。
>>73 福島の奇策にやられたんじゃないだろうか。池田隊の進路は、間違いなく岐阜
を向いているが福島隊は場合によっては大垣方面を向いているように見える。
西軍から見ると、池田隊が岐阜に取りかかり、福島隊は大垣からの援軍を待ち
伏せするように感じたのでは。しかも福島隊の全面にあった竹が鼻城は、既に
二の丸、三の丸が内応しており予想外の速度で岐阜に向かわれてしまった。
キタ━━━(^▽^)━( ^▽)━( ^)━( ;)━(^ )━(▽^ )━(^▽^)━━━シナイヨ!!!!!
77 :
日本@名無史さん:03/09/28 05:32
岐阜城の城主がおれなら西軍は勝ってました
へるたーすけるたー
78 :
日本@名無史さん:03/10/10 22:48
判る人がいたら教えて欲しいのですが。
伊賀・上野城ですが、守備していたのは筒井玄蕃で、彼は攻められて開城、
高野山に逃げた。
という認識で正しいでしょうか?
また、攻めた武将は誰なのでしょうか?
79 :
日本@名無史さん:03/10/15 01:56
>>78 攻撃したのは新庄直頼(摂津高槻城主)・直定の親子。
留守居の筒井玄蕃(定次弟)は高野山に逃げた。
西軍はそのまま伊賀に大軍を駐留させたようだ。
陣立書に「伊賀在番七千」とある(真田文書)。
帰国が間に合わなかった定次はそのまま関ヶ原の本戦に
参加し、その後で伊賀に戻ったらしい(寛政重修諸家譜)。
定次の上野城奪還にあたっては、伊賀の領内の雑人にいたるまでが
それぞれの得物を持参して加勢したといわれている(上野市史)。
80 :
日本@名無史さん:03/10/15 16:08
秀頼が俺なら西軍が勝っていました。
しかし元服後は酒と女に溺れて失脚します。
81 :
日本@名無史さん:03/10/15 16:17
後だしジャンケンなら太平洋戦争だって勝てる
>>79 解説、ありがとうございます。
新庄直頼でしたか。「関が原合戦写真集」に新庄親子の名前が記載
されていたのですが、少禄(合計4万2千石)なので疑問に思っていま
した。
彼らは所領没収の後、4年後に諸侯の列に復しており、禄高も3万石
ですね。(元々、家康とは近かったようですが・・・)
83 :
日本@名無史さん:03/10/16 10:45
丹羽は無実
84 :
関ヶ原前夜の主要大名の石高:03/11/15 07:40
1 徳川家康 武藏・江戸 2,557,000 東軍
2 毛利輝元 安藝・廣島 1,205,000 西軍
3 上杉景勝 陸奧・會津若松 1,200,000 西軍
4 前田利長 加賀・金澤 835,000 東軍
5 島津義弘 薩摩・鹿兒島 609,000 西軍
6 伊逹政宗 陸奧・岩出山 580,000 東軍
7 宇喜多秀家 備前・岡山 574,000 西軍
8 佐竹義宣 常陸・水戸 546,000 西軍
9 鍋島直茂 肥前・佐賀 357,000 西軍
10 小早川秀秋 筑前・名島 336,000 西軍
11 堀秀治 越後・春日山 300,000 東軍
12 加藤清正 肥後・熊本 250,000 東軍
13 福島正則 尾張・清洲 240,000 東軍
13 最上義光 出羽・山形 240,000 東軍
15 淺野長政 甲斐・甲府 225,000 東軍
16 長宗我部盛親 土佐・浦戸 222,000 西軍
17 前田利政 能登・七尾 215,000 西軍
18 石田三成 近江・佐和山 210,000 西軍
19 小西行長 肥後・宇土 200,000 西軍
19 筒井定次 伊賀・上野 200,000 東軍
19 増田長盛 大和・郡山 200,000 西軍
85 :
関ヶ原前夜の主要大名の石高:03/11/15 07:41
22 秋田實季 出羽・窪田 190,000 西軍
23 黒田長政 豐前・中津 182,000 東軍
24 蒲生秀行 下野・宇都宮 180,000 東軍
25 蜂須賀家政 阿波・徳島 177,000 中立
26 中村一氏 駿河・駿府 175,000 東軍
27 生駒親正 讚岐・高松 173,000 東軍
28 池田輝政 三河・吉田 152,000 東軍
29 吉川廣家 出雲・富田 142,000 西軍
30 森忠政 信濃・川中島 137,000 東軍
31 織田秀信 美濃・岐阜 133,000 西軍
32 立花宗茂 筑後・柳川 132,000 西軍
33 宮部長熙 因幡・鳥取 131,000 西軍
34 毛利秀包 筑後・久留米 130,000 西軍
35 丹羽長重 加賀・小松 125,000 西軍
36 岩城貞隆 陸奧・磐城平 120,000 西軍
36 堀尾忠氏 遠江・濱松 120,000 東軍
38 結城秀康 下總・結城 101,000 東軍
39 加藤嘉明 伊豫・松山 100,000 東軍
39 京極高知 信濃・飯田 100,000 東軍
39 田中吉政 三河・岡崎 100,000 東軍
39 南部利直 陸奧・盛岡 100,000 東軍
西軍の寝返りは見苦しいね。真田幸正は可愛そうだったな。
87 :
日本@名無史さん:03/12/15 16:34
age
88 :
還ってきた、疾風ウォルフ:03/12/15 17:42
真田昌幸では?
秀忠率いる徳川旗本主力3万8千を東山道に分派した理由は?
当時の補給は(世界的にも)現地調達中心だったため、一度大軍の通過した東海道の物資不足と理解しているが、
軍事関係雑誌以外では、同様の記述は見たことない。
日本史的にはどう?
ちなみに、自分は軍事板の住人だけど
直接佐和山城を狙うため
兵站でいえば、福島以下、豊臣系大名が城を提供したのは非常にいぎがある
味方の土地だから、城の設備はあまり関係ない、むしろ蓄えられている兵糧が、東軍にはありがたかったはず。
一度、大軍が通過すると、買い付けたとしても、当時の貧弱な物資の流通では、相当な品不足で、高騰していたはず
再び、買い付けや徴発やると一揆になっていたかも
山城国一揆でも国人衆が両畠山勢の通過を拒否している。
当時(というよりWW1まで)は軍勢がたびたび通行するだけで、物資が不足し疲弊した。
92 :
日本@名無史さん:03/12/17 12:28
>>89 >秀忠率いる徳川旗本主力3万8千を東山道に分派した理由は?
>日本史的にはどう?
日本史的には
「道を間違えた」
「秀忠のチン●が右曲がりだったため、右に重心が傾いて真っ直ぐ進めず右の道に入ってしまった」
という両説が最も有力です。
>>89 ヨーロッパでも同じ理由で大軍を同時に同じルートを通して戦場に送り込むのは無理だった
ようだ。そこで、複数のルートを通して予定戦場で合流させる。
これが、軍事用語で「分進合撃」というものである。
94 :
日本@名無史さん:03/12/18 20:16
,. -──- 、
/:::::::::::::::::::::::::::::ヽ
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,'::::;i:/レ' ヽiヽ:::::::::::::::::!
l::::|'r,:=; ,:=;、';i:::::::::::::!
.,r'‐;|.l !::::i i:::::i l |::::::::::::| あのー
,'.三ミi 'ー'゙ 'ー'゙ |:::::::::::::| 基地外がおるんやけど
| 'ri''ヾ:、 r‐┐ ,.|::::::::::::::|
l |i,__!:>'=''r‐''".i:::::r、:::::|
! l,|: |" ゙、'、 ;:/::;/ ヽ:|
l! |大" `''"/'"' ヽ
! | ヽ| 、i ,. イ'
>>93 軍隊の規模が大きくなってから使われだした、水運が利用できると補給は容易
朝鮮では水軍が劣勢で補給困難に、陸上の輸送は要の東西を問わず貧弱だった
98 :
日本@名無史さん:03/12/20 13:20
豊臣政権の戦争では兵糧・弾薬は公儀支給が原則。
軍勢が通過するだけで物資不足に陥ることは考えられない。
関ヶ原合戦の頃は収穫期にあたり、兵糧に困ることは無かったと思われる。
実は徳川軍は会津征伐の段階で2個兵団に分かれていた。
前軍は秀忠が司令で、徳川主力部隊を率いており、
後軍は家康が司令で、福島正則ら上方衆を率いていた。
家康としては会津征伐を秀忠アピールの場にしたかったらしい。
秀忠軍の中山道進撃はこの前軍を転用したもので、
離反した真田昌幸の討伐を目的としていた。
当初、家康は長期戦の構えで関東周辺を固めることを優先していたようだ。
上田城からなら上杉軍が南下してきても、引き返して対応できる。
その後、福島ら上方衆が岐阜城を攻略するなど事態が急変し、
美濃が主戦場となったが、秀忠はその変化に迅速に反応できず、
家康の督促の使者が来てからあわてて西に向かったが、
結局関ヶ原の決戦には間に合わなかった。
要するに、流動的な事態に対応して戦略を変えていったために、
結果的に分進合撃の形になったということなんだな。
>>98 公儀支給といっても、多くは金銭で現地で手配したのでは?
全部を携行したり後方から送る輸送力があったとは考えられない。
米だけでも白米1換算で日1人5合としても0.7kg約7万の軍勢では約50トン
実際は玄米やほしいだろうし、副食も入れればもっとあるだろうが、取りあえずこれで試算
WW2の陸軍でも駄馬1頭では180kgで1日24kmの輸送力、大阪と江戸約400km(でいいんだっけ?)として
往復で約9200頭必要、これに副食、資材それに膨大な体積の馬糧(全部道端の草ってわけないから)
これを考えればどう見てもこの2倍以上は要るでしょう。
水運が多用できれば別だが、(小田原攻めみたいに)
5奉行が完全に協力してないだろうし、そういう形跡も聞いたことない
したがって、多くは現地で買い集めたと推定できる。
現地で購入が通常なのは鳥取の渇泣かしでも例証できよう
したがって、一度東軍の通過した東海道ではいくら収穫期でも米価は高騰していただろう
収穫期に作戦行動が多いのも日本の戦国だけではなく、ほぼ世界共通
WW1初期までは補給品の大半が農産物のためどの軍隊も現地調達が基本(ナポレオンの発明というのは誤解)
兵站面の理由の記録がないのは当時の彼らにとっては自明の事だったからでは?
>>99 東海道筋の大名は城と備蓄米を家康に献上してしまったのだから、
わざわざ買い付けたり徴発したりする必要はないのでは?
特に尾張には蔵入地(豊臣氏直轄領)が多く設定され、
福島正則の清洲城には30万石の軍用米が集積されていたと言われている。
兵糧が不足するから東海道を避けて中山道を進軍したというのは考えられないな。
102 :
日本@名無史さん:03/12/21 00:38
会津征伐の際に黄金2万両、米2万石を秀頼から貰ってるよ>家康
福島等を先行させてたし、家康は尾張までの兵糧を用意してるだけで十分でしょ
それ以後は、東海道の諸将の備蓄米で食い繋げば良いんだし
秀忠は会津征伐に使うはずだった兵糧米を流用すればいいわけだしさ
>>101 清洲城の兵糧はその後の作戦にも必要だったのでは?
WW1までの軍隊は同じ地域に留まると補給が問題になってくる。
典型が城攻め、ヘたすりゃ、寄せ手が兵糧攻めになる
当時の輸送手段では策源地からの長い補給線はなく、短い多数の補給線しかない
例外は水運、毛利対織田でも水運の重要性はよく現れている。
兵糧が完全に不足するのは考えられないが、道沿いでは高騰しそう
もし、買い付け徴発をするなら(馬糧も)、行軍しながらでは
街道両側せいぜい10キロ以内だろうから、領国全体ではなく道沿いに物資が不足
もちろん、物流で緩和されていくだろうが、味方の領国の動揺はさけたいだろうし
それから、先の計算は超甘めに計算している。
>>102 2万石の米を全て陸路で携行できたとは考えられない。船を使う予定だったのか?
2万両の黄金は明らかに現地での買い付けのためだろう
2万石全部携行ないしとどけられたとしても、1人5合約7万の軍勢で6日分足らず
やはり、往路で相当の現地買い付けをしたのは明らか、物資は高騰していただろう
味方の領地だから、徴発刈田はないだろうが、
計算間違いしました。
2万石全部もっていければ往路は充分です、でも他の物資も入れると
運ぶ駄馬はまるで足りない、現代の馬よりかなり小さいし
>2万石の米を全て陸路で携行できたとは考えられない。
記録は残っていないんだけれども、普通に考えれば、
船で江戸に運んでそこからは陸路で運搬したんじゃないかな。
会津征伐では各大名の小荷駄(輜重)があまりにも多いため、
「軍勢と小荷駄を交ぜてはいけない」という軍令を7月7日に
家康がわざわざ出している。
>2万両の黄金は明らかに現地での買い付けのためだろう
買い付けのためというよりは路銀(旅費)でしょ。
家康はこの金をすぐに従軍将士に分配してしまったらしいし、
物資調達するなら大坂か京都でやるんじゃないの?
>2万石全部もっていければ往路は充分です
7万人なら2ヶ月分はあるでしょ。
>>106 金を分配したとすると、宿泊費、米以外の消費物資、塩、薪、その他にあてたのですね。
当時の軍勢の宿泊、露営ではどの程度の負担を生じたのでしょう
船をつかってなら、江戸だけではなく東海道沿いの港にも運んだはず、
小荷駄がいかに多くても大阪京都あたりから江戸までの量は厳しいのでは?
単に輸送力だけではなく、道路事情も考慮すればそう思える。
馬糧の方はどうでしょう?こっちは重量より体積の方が運搬に影響するけど、重量でも人間の10倍食べる
ヨーロッパではかいばが真っ先に不足しだすと聞いているが
おまいら素人か?
夫役で「陣夫役」があるだろ
街道沿いの百姓をフル稼働、足りなかったら範囲を広げるだけ
その為に東海道の諸大名を味方にしたんだろーに
>>108 素人ですよ、軍事板の住人って言ってるでしょ
とにかく、行軍路沿いの住民にかなりの負担になったという考えは間違っていないって事でいいんですね
>>109 夫役が負担といえば負担だがな
だが、それは街道沿いだけに限られた訳じゃない
「船役」「伝馬役」などあるが、どちらか従った大名は総動員させるだろうし
それが「かなりの負担」と言うなら、双方に言える事であり、行軍路沿いだけに限定されない
それと各大名の御用商人とそれによる物資調達・運用・運搬もあるし
>>110 やはり、1度大軍の通過した東海道には広い意味で負担はかなりあったと思うんです。
秀忠勢の分派には、そういう配慮が主因かどうかはともかく、影響してるのでは、ってのが
初めのレスでの問いかけなんですが。
東山道なら敵地ですし(別の困難は生じるでしょうが)現地の負担はあまり考慮せずにすむ
歴史関係の書物で軍略以外にそういう記述見たことないので問いかけてみたんですが
>>111 おいおい、
「大軍が通過したので物資不足」がいつの間にか、
「大軍が通過したので住民の負担」になっているぞ。
だいたい分進合撃って住民の負担を軽減するための戦法じゃないだろ。
>>112 > だいたい分進合撃って住民の負担を軽減するための戦法じゃないだろ。
一度とことん徴発したルートからはさらに後続部隊が徴発するのは不可能だからルートを
変えるという戦法(?)かと思われ。
114 :
日本@名無史さん:03/12/23 22:59
秀忠の辿ったルートで、一体何が徴発できると思ってるんだ?
自信をもって問いかけたわけではないが、
皆さんに楽しんでいただけたようで幸いです
>>116 まあ、最後の方の「住民の負担」云々は少々無理があったが、
関ヶ原合戦を軍事史的に分析するというのは面白い切り口だと思う。
そんなに落ち込まなくてもいいぞ。