1 :
日本@名無史さん:
ttp://maoda.hp.infoseek.co.jp/mokko.html しかし、この「元寇」の文永の役の第一次蒙古来襲の時の10年前に既に北の樺太の地で
「北の元寇」ともいうような蒙古軍の侵攻が行われておりました。
1234年女真族の金が蒙古軍によって滅ぼされますと、沿海州が蒙古の 支配下に入りました。
1250年頃、蒙古は黒龍江の河口の奴児干(ヌルガン)に東征元帥府を置いて、
河口から樺太にかけての吉烈迷(ギレミ)を支配下に置くようになります。
1264年、樺太に住む骨嵬と吉烈迷の間に紛争が起きます。
吉烈迷は利あらず、蒙古に救援を求めました。
蒙古軍は樺太を攻撃して、骨嵬を占領します。
骨嵬は蒙古に降伏して、以後朝貢を約束します。
「元寇」の10年前に北でこの様な戦いが行われていたのに、当時の鎌倉幕府はなんらかの
危機感を持っていたものでしょうか?そのようには見えません。
2 :
日本@名無史さん:03/05/24 18:12
そうですね、私も同じ考えです。
3 :
日本@名無史さん:03/05/24 18:52
4 :
日本@名無史さん:03/05/24 22:00
>当時の鎌倉幕府はなんらかの危機感を持っていたものでしょうか?
持っていたと思うよ。日蓮を弾圧&保護していたしね(w
>骨嵬は蒙古に降伏して、以後朝貢を約束します。
蒙古側の公式発表だから、そのまま信じるのもねぇ。
実体は、朝貢で蒙古側の名分がたち、骨嵬は実利を得たというところだろ。
5 :
日本@名無史さん:03/05/24 22:27
この戦争(?)を元に、ユーカラがうまれた、
と言う説もあるが、どうなのかな?
レプンクル(海の人・外人?)との戦争の話だからなぁ、
英雄ポイヤウンペの話は。
6 :
日本@名無史さん:03/05/24 22:32
元寇時、南樺太がモンゴルの支配下に入っており、北海道と九州を同時攻撃
する計画もあったが、北方への兵力動員の困難さから見送りになった。
7 :
日本@名無史さん:03/05/24 23:02
クイ(樺太アイヌ)が元に敗れて降伏したのではありません。
戦闘では樺太に上陸してきた元軍をことごとく撃破してます。
唯一の敗戦は、1297年、クイの頭目・瓦英がギレミ(ギリヤーク)
の造った船で大陸に上陸し勢力を拡大しようとしたが、ギレミの内通者が
あり、元朝軍はその手引きによりやっとクイを敗ることができた。
1308年、クイは投降を申し出たが、それは元朝の支配に服すると
いうことではなく、ただ元朝とギレミに敵対しないという一方的和平の
表明にすぎなかった。
8 :
日本@名無史さん:03/05/24 23:29
鎌倉にこの情報は届いていたのだろうか?
大陸の情報と違って伝達スピードが遅そうなんだが。
9 :
山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/05/24 23:31
当時の地理感覚からして、元も日本も樺太から日本への侵攻ということは考
えていなかったようです。渡島なら安東氏辺りから何か伝えられたでしょうが。
10 :
日本@名無史さん:03/05/24 23:32
届いたとしても、そうとう後でしょ。アイヌの古老かなんかから。
樺太アイヌが松前藩を立ち上げた蛎崎氏に服属の意思を申し出たのが
14世紀だから。
11 :
パシッチ ◆mWYugocC.c :03/05/25 12:31
クイ=樺太アイヌってのは間違いないの?
そこら辺の民族同定ってかなり難しいと思うんだが。
>>8 環オホーツク海が交易圏として機能していたのではないか、という研究が最近でてるようです。
その一部が日本海側と交流を持っていたのは間違いないらしい。
でももっと南と強く繋がるのは……もう少し後の時代になってからのような気がするな。
12 :
日本@名無史さん:03/05/25 22:53
>>11 クイ=樺太アイヌは有力。和田清によると、「唐会要」および「新唐書」に
見える「屈説」が樺太アイヌ。屈説はKut−yetの音で、即ち庫葉
(Ku−yet)の別訳であり、つまり「元代には骨嵬と言い、明代には苦夷と
言い、清代には庫野、庫頁等と称した」アイヌを指していた。
13 :
日本@名無史さん:03/05/25 23:21
>>12 おおざっぱなところは骨嵬=アイヌでいいかもしれないけど、人名なんか
からみて混成集団だった可能性は高いと思う。
14 :
日本@名無史さん:03/05/25 23:46
現代アイヌ語って実は、このとき北海道以北に大量に入植したであろう
大陸沿海地域の諸民族の言語が起源だったりしてね。
15 :
日本@名無史さん:03/05/26 08:42
>>13 人名とは具体的には?樺太アイヌの英雄・瓦英は元がかってに当て字を
つけただけで、正真正銘のアイヌ。
アイヌの純血主義は有名。中部樺太で人質となったアイヌが混血したことは
あったが。
『元史』に出てくる骨嵬とは、北方民族ギレミ(ギリヤーク)、ゴリゴ(ナナイ)
オルチャ(ナニ)が樺太アイヌに対して用いた呼称kuki,kughiの
音写である。
>>14 それはない。沿海地方の言語との類縁性はありません。
単語が入ったことはあるだろうが。
13世紀の沿海地方の民族の言語が全て判明しているわけでもあるまいに
17 :
日本@名無史さん:03/05/26 15:51
スレ違いなのですが、詳しい人が多そうなので質問。
1482年、朝鮮に遣使した夷千島王・遐叉の正体って、もう結論がでたのですか?
安東政季説と対馬・宗氏説とで、ちょっとした論争になっていたのですが。
名前の語感通り、クイやギレミだった可能性もあるのかな?
18 :
日本@名無史さん:03/05/26 18:04
みんなどんな資料をもとにしてはなしてるの?
19 :
日本@名無史さん:03/05/26 20:53
元と戦った樺太アイヌを指揮していたのは安藤氏。
20 :
日本@名無史さん:03/05/26 22:45
21 :
日本@名無史さん:03/05/26 23:10
>>19 それはないのでは。樺太アイヌの酋長が松前家の始祖・蛎崎信広に
服属の意思を示しにやってきたのが1485年(文明十七)だから。
>>18 『元史』です。
22 :
日本@名無史さん:03/05/26 23:18
>19
は「津軽外三郡誌」にだまされている方でしょう。
誇大妄想ですな。
23 :
日本@名無史さん:03/05/26 23:34
北の元寇といわれる、一連の戦いは、
東北の安東氏にも影響して、例の
安東氏の内訌にもつながっていますね。
>>18 『地蔵菩薩霊験記』・『諏訪大明神絵詞』(南北朝時代に成立)。
25 :
日本@名無史さん:03/05/27 02:13
>>22 いや、東日流外三郡誌にはそんなことは書かれてない。
26 :
日本@名無史さん:03/05/27 07:23
クイはやはり元に支配されたのでは?樺太最南端に、中国風の館跡の遺跡が
発掘されているよね。
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
28 :
日本@名無史さん:03/05/28 19:58
>>1 北の元寇を知っていたから、最初から元の使者を
断首にしたのだろう。
29 :
日本@名無史さん:03/05/28 21:55
1308年、勇猛果敢で元を悩ませたクイが突然投降を申し出た。
その理由はわからないが、元の周辺国の動向をみると、1297年、クイの首長
が樺太から渡海して大陸側に侵寇したが、その翌年1298年にはチャガタイ・
ハン国ドゥアがアルタイ地方の元朝軍を攻撃し、1301年にもカイドゥ・ドゥア
連合軍がアルタイに進出して元朝軍と決戦している。クイの大陸への侵攻活動は
1306年が最後であり、カイドゥは1301年の戦いの後、没し1305年
から1306年にオゴタイ・ハン国、チャガタイ・ハン国は元朝と和睦している。
そしてクイの投降がその2〜3年後の1308年ということである。
クイとオゴタイ・チャガタイ両ハン国が通じていたかどうかは確認できないが、
元朝の西北方面での戦乱の終息という情報がクイに入っていたとすれば、
クイが元朝と戦う意思を阻喪させる材料となったはずである。
「クイ」サイドが中央アジアの戦乱収束の情報を知った上で
和平を望んだのかどうかを確かめる術は・・ないんでしょうね
31 :
日本@名無史さん:03/05/31 19:55
>>30 クイも、モンゴル並みに馬を使ってたらしいから、
移動距離一日70Km、二ヶ月で中東へいける。
当然クイも中央アジアの政情を知っていたと思う。
32 :
日本@名無史さん:03/06/04 02:35
樺太攻めたのは、婆さんジャブ(フビライ)ですか?
>>15 骨嵬人名 瓦英、玉不廉古、玉善奴、与不忽里、皮先吉について。
アイヌ語だという説では、英をaynuとするのかな。でも短すぎて怪しい。
玉不廉古はアイヌ語っぽいが、この当時アイヌ語kurがすでにkuhに変化
していたかどうか疑問。末尾の奴、吉については、
玉善奴(骨嵬)、多伸奴、亦吉奴(吉烈迷)
皮先吉(骨嵬)、奴馬失吉(吉烈迷)
など両集団に共通の字がある。骨嵬と吉烈迷とのどちらかが混成集団だった
可能性が高いと思う。「純血」をいうなら、ニヴフ人にも純血主義はある。
元史の骨嵬人名は日本資料のアイヌ人名とは事情が異なる。アイヌ語
だという証拠はない。玉不廉古なんかはそれっぽいけどね。それとも>15氏は
別の資料の別の表記をもとに断定されるのでしょうか。
失礼。sageてしまいました。
36 :
日本@名無史さん:03/06/04 20:51
チョンが人種工作のときに使うネタは、いつも必ず遺伝子ネタ。
なぜなら、
形 質 だ と 異 人 種 で あ る 事 が バ レ バ レ だ か ら
37 :
日本@名無史さん:03/06/04 22:32
>>33 混成集団ではないでしょう。クイの圧迫を受けたギレミが元に支援を依頼し、
元が軍事行動を開始しています。勿論樺太アイヌの中にギリヤークとの混血が
全くなかったわけではないですが。
『元史』によれば、ギレミの元への帰服を確認後、1264年ギレミ救援のため
元朝は樺太出兵を決意し、前年3千人の兵を現地徴集していて、この兵を救援軍
として派遣した。元軍は苦戦し、勇猛果敢なアイヌを平定できなかった。
38 :
日本@名無史さん:03/06/04 23:37
一般に日本人は朝鮮・中国・モンゴルなどに関心はあっても、
北方の諸民族(アイヌなど)については関心はおろか存在さえ知らぬ。
鎌倉時代から変わってないな
アイヌ民族マンセー!!
>>37 「混成集団」は言い過ぎかもしれません。骨嵬がアイヌに比定
できるのも確かでしょう。
ただ「人名がアイヌ語だ」という説が無批判にまかり通っている
ようなので(山川出版社も採用している)。それに私としては
-nがニヴフ男性名語尾なので気になるのですが。
それともうひとつ。
あの地域では、ニヴフとアイヌが完全に分離して対立していたとは
限りません。19世紀から20世紀にかけての記録からは、過去、西海岸
においてかなり密接な関係をもっていた可能性が示唆されています。
北海道においてもアイヌ人は一枚岩ではない。シャクシャイン戦争の
ときも和人と連合した諸集団がいた。「元と良好な関係にあった集団」
対「新興勢力」という図式が正しいなら、「民族」で分けられていた
わけじゃないと思います。
42 :
無料動画直リン:03/06/08 18:20
43 :
日本@名無史さん:03/06/08 20:33
>>6 シャクシャインの乱のとき、幕府は清朝の援助による乱の可能性を疑い(そんな事実は無かったが)、
朝鮮半島が清朝影響下に入ってたことも合わせて北方と九州から同時攻撃されては
たまらんと考え乱を徹底的に弾圧したのは有名な話だが。
44 :
日本@名無史さん:03/06/08 20:53
45 :
日本@名無史さん:03/07/06 02:22
アイヌ経由で鎌倉へ辿り着くほうが抵抗が多いの?少ないの?
46 :
日本@名無史さん:03/07/08 12:17
>>45 間宮→樺太→津軽と3回海峡を越えるアイヌ経由よりも、
玄海灘一回で長州に上陸できる朝鮮経由の方がモンゴルには楽。
47 :
日本@名無史さん:03/07/08 14:16
>オホーツク文化
奈良・平安期。元の襲来がその幕を閉じたと言われる。
でも、その後、江戸期まで中国南部⇔北部⇔沿海州⇔蝦夷の交易はあったけど。
>明にも朝貢
フビライはギリヤークの要請に応じて,1264年アイヌ征討のため樺太に兵を送った。
その後は日本攻略(文永・弘安の役)もあって,樺太への出兵を一時中止したものの,
日本攻略が失敗した後の84年以降は,3年連続して樺太出兵を行った。
その後もことあるごとに派兵したため,樺太のアイヌ民族は1308年ついに元に服し,
元朝に朝貢することとなった。
さらに明代に入ると,明朝は黒竜江下流のチルに東北地方支配の重要機関として
奴児干(ヌルガン)都司を設け,各地に下部機関である衛所を設置したが,
15世紀前半には樺太の西北端部リャングル,ツイミ川流域,ポロナイ川流域の
3ヵ所に衛を設け,地域住民の首長層を衛の役人に任じて明朝への朝貢を義務
づけた。
>シャクシャインの戦い
裏にはロシアがいると疑われたんではなかったけ??自信ないけど。
48 :
日本@名無史さん:03/07/08 15:24
>>19 海保嶺夫 『エゾの歴史 北の人びとと「日本」 -講談社選書メチエ-』
日蓮の遺文に”安藤太は寺を建立ほどの善人だったのに、どうして蝦夷に首を取られたのだろう”
とあることから導かれた仮説(鎌倉幕府の公式記録などには蝦夷管領安東氏が蝦夷に殺されたとの記録類は一切無いが)。
50 :
日本@名無史さん:03/07/08 15:35
東日流外三郡誌では、サハリンに元軍が侵攻してきて安東水軍と戦争になりそうだったが、
(安東水軍が中国貿易に入港していたという)揚州の知事マルコ・ポーロの取り成しで、フビライと講和して、
元軍の兵糧までもらうことができた、とある。
揚州が貿易港だったという話はしらないし、ポーロが本当に揚州の知事だったのかも確かな史料は無いはず。
それにどうして一知事が、大ハーンの対外講和条約に影響を及ぼせる権限があるのかも疑問だ。
51 :
日本@名無史さん:03/07/12 13:41
>>51 田中均がどうして日本外交を篭絡できるかが疑問だ。
地位はあやふやでもマルコポーロは田中均や児玉誉士夫見たいな感じじゃないの?
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
53 :
日本@名無史さん:03/07/18 19:49
あげ
54 :
日本@名無史さん:03/07/18 20:39
それにしてもモンゴルの侵攻は見境ない。
どんな利権を求めて平和な土地を侵そうとしたのか?
杉山さんあたりの本読んでるとずいぶん立派な民族のように思えるが、
最盛期の短さから見るとあまり物を考えていたとは考えられない。
55 :
日本@名無史さん:03/07/18 20:58
>どんな利権を求めて平和な土地を侵そうとしたのか?
住民を皆殺しにして農地を草原にし、遊牧をするため
56 :
日本@名無史さん:03/07/18 21:38
モンゴルに征服された土地は内部分裂していた地域がほとんど。
まあ、モンゴルが恐怖を煽って内部分裂させた面もあるから一方的に
征服された地域がDQNてなわけじゃないけど。
マムルーク朝や日本みたいに抗戦で一枚岩のところは簡単に征服できない。
またウイグルみたいに帰順で一枚岩のところは「色目人」としてモンゴル人に次ぐ
地位としておいしい目にあえる。どちらにしても分裂はロクなことはない。
57 :
日本@名無史さん:03/07/18 21:42
>>56 朝鮮も一枚岩で帰順したのでモンゴリと同等の地位ですた。
58 :
日本@名無史さん:03/07/18 21:47
モッコリ
59 :
日本@名無史さん:03/07/18 21:50
高麗だろ。結構しぶとく戦ってるぞ。
江華島や最後はサイシュウ島。
60 :
日本@名無史さん:03/07/18 22:23
ベトナムなんかは得意のゲリラ戦でモンゴルを撃退→
すぐに大都に使者を送り「いやあ、抗戦するつもりは無かったんですけど
何かの間違いがあってすんまそん。服属すますわ」→
モンゴルはベトナムの実力を思い知らされてるので
ベトナムの属国化は形式のみで、遠征に徴兵されることも
軍資金の負担も無し。
ベトナムは昔からゲリラ戦と外交がとても巧み。
61 :
日本@名無史さん:03/07/25 14:09
>>59 笑うところ?
南宋なんか断崖絶壁に皇帝が追い詰められても戦っているぞ。
即日降伏してモンゴル名もらって歓喜してる人外生物は駄目だな。
62 :
日本@名無史さん:03/07/25 17:44
元は、黒竜江下流域を「水達達」と言ったが、それは水辺の民という意味である。
元朝は水達達を経営するために、遼陽行省内に合蘭府水達達路を置いた。
黒竜江下流にいたギレミ(ギリヤーク)はその頃、クイ(樺太アイヌ)の圧迫を
受けていた。ギレミとクイは樺太、黒竜江でしばしば衝突して伝統的に敵対関係
にあり、4世紀から13世紀にかけ「オホーツク文化」が栄えた頃は、クイは
劣勢にまわっていた。やがてクイの反撃が始まると、ギレミは元に支援を依頼し
元は軍事活動を開始した。
63 :
山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/07/25 18:34
>>61 しかし恭宗を最後の皇帝だと考えると・・・。遺臣や一部の勢力が抵抗
して肝心の中央政府が早くに降伏した点では共通している。
64 :
日本@名無史さん:03/07/25 19:25
宋も高麗も分裂してたってことだろ。
両国とも分裂してモンゴルに征服された典型的な国家ってこと。
(朝鮮も三別抄と中央政府で分裂してた)
65 :
日本@名無史さん:03/07/25 19:33
ベトナム>マムルーク朝エジプト≧日本>>中国>>>>>>>朝鮮
(エジプトを日本よりやや優位に評価してるのはモンゴルが得意としている騎兵戦で
モンゴルを破ったため)
ベトナムってそんなに強かったのか?
67 :
日本@名無史さん:03/07/25 20:15
ベトナム>マムルーク朝エジプト≧日本=インドネシア≧アイヌ>>>ロシア>中国>>>>>>>>>>>>朝鮮
(インドネシアも日本同様海上戦でモンゴルを破っている、ロシアは征服されたが自治権を維持し後にモンゴル帝国ジュチウルスを
継承)
68 :
日本@名無史さん:03/07/25 20:22
>66
巧みにモンゴル軍をジャングルに誘いこんで落とし穴に落としたり、
後方の輸送部隊に奇襲をかけて前線の主力を飢餓状態に陥れたり
現代のゲリラ戦顔負けの抗戦を・・・。
69 :
日本@名無史さん:03/07/25 21:44
ギレミの元への帰服を確認後、1264年ギレミ救援のため元朝は樺太出兵を
決意し、前年3千人の兵を現地徴集していて、この兵を救援軍として派遣した。
元朝は苦戦し勇猛果敢なアイヌを平定できなかった。ギレミに対するクイの攻撃
は止まず、元4年、女真族3千人を新たに徴集した。そして元10年(1273)
9月に征東招討使の塔匣刺がクイを討とうとしたが、間宮海峡が荒れて実行でき
なかった。元はギレミを守るため船百艇が準備された。
70 :
日本@名無史さん:03/07/25 21:54
ジュチウルスとフラグウルスの対立を見てマムルーク朝はジュチウルスと組んで
フラグウルスを牽制するなど巧みな外交戦略も。エジプトが独立を維持できたのは
ただ戦争に強かっただけではない。
西方でマムルーク朝が頑張っているのを知るよしも無く、
当時の日本人が知ってる全世界がモンゴルに屈してたのか。
現代日本人には想像できない恐怖のなか一枚岩で抗戦した日本人は立派だな。
71 :
日本@名無史さん:03/07/26 16:08
1284年、樺太出兵は再開された。数千人規模という当該地方では大部隊を
率い樺太のクイの拠点に侵攻したが失敗し、翌年にも3千から5千の兵を渡海
させ、元の版図の中で極東北地の懸案を一挙に決着しようとしたが、クイの制圧
はまたも失敗した。この時動員した兵や船は、1281年、九州を襲った元寇
(弘安の役)が失敗の後に計画された第三次日本遠征用のものである。
72 :
日本@名無史さん:03/07/26 16:42
ハッキリ言える事は・・・
大阪人は、関西叩きも関東叩きもネタにできる。
恐ろしい奴らだ。
十一の奈良漬に、新商品「吟醸奈良漬」が加わりました。
徳島県板野郡産の瓜を厳選し、
灘の吟醸酒の酒粕を使って作り上げた一品です。
まろやかな風味を味わってください。
73 :
山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/07/26 18:49
>>65 でもエジプトは数で勝っていたでしょう。フラグの本隊と戦ったわけでもなし。
74 :
日本@名無史さん:03/07/26 20:37
>73
日本はクビライの本隊と戦ったと言えるのかな?
>>67 北インドのデリー・サルタナット(奴隷王朝やハルジー朝)も
度重なるモンゴルの侵入をよく防いでいるよ。
10万規模の大軍を負かしたあるいは撤退させた例は日本の他にあるのだろうか。
77 :
日本@名無史さん:03/07/26 21:06
1297年、今度はクイの頭目・瓦英がギレミの造った船で大陸に上陸
し、勢力を拡大しようとしたが、ギレミの内通者がり、元朝軍はその手
引きによりやっとクイを敗ることができた。しかし、依然としてクイの
本隊は健在で、1306年、元朝軍を攻撃してきたが、元軍は反撃するも
捕捉できなかった。
78 :
日本@名無史さん:03/07/26 21:14
>76
朱元璋の明軍かな。
79 :
日本@名無史さん:03/07/26 21:15
ドミトリー=ドンスコイのモスクワ大公国とかも。
80 :
山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/07/26 22:26
>>74 少なくとも全力でかかって来られたでしょう。
81 :
日本@名無史さん:03/07/26 22:39
文永の役は、脅しが目的で、すぐ帰国。
弘安の役は、病気蔓延と内部不調和があった。
モンゴル軍は少し、高麗軍と漢人軍、南宋軍が中心。
82 :
日本@名無史さん:03/07/27 06:27
陳朝聖宗>バイバルス>北条時宗>>>金通精>>>∞>>>高麗高宗
83 :
日本@名無史さん:03/07/27 06:59
84 :
日本@名無史さん:03/07/27 07:06
あと、沖縄も元軍が来たという話がある。
中国のほうに資料は残っているらしいが、台湾と沖縄を混同している可能性があり。
85 :
日本@名無史さん:03/07/27 09:13
元はついにクイを制圧できなかったが、1308年、勇猛果敢で元を悩ませた
クイが突然投降を申し出た。その理由はわからないが、元の周辺国の動向をみる
と、1297年、クイの首長が樺太から渡海して大陸側に侵攻したが、その翌年
1298年には、チャガタイ・ハン国ドゥアがアルタイ地方の元軍を攻撃し、
1301年にもカイドゥ・ドゥア連合軍がアルタイに進出して、元朝軍と決戦
している。クイの大陸への侵攻活動は1306年が最後であり、カイドゥは
1301年の戦いの後、没し1305年から1306年に、オゴタイ・ハン国、
チャガタイ・ハン国は元朝と和睦している。そしてクイの投降がその2〜3年後
の1308年ということである。クイとオゴタイ・チャガタイ両ハン国が通じて
いたかどうかは確認できないが、元朝の西北辺での戦乱の終息という情報がクイ
に入っていたとすれば、クイが元朝と戦う意思を阻壊させる材料となったはずで
ある。
86 :
日本@名無史さん:03/07/28 22:17
クイは投降を申し出たが、それは元朝の支配に服するということではなく、
ただ元朝とギレミに敵対しないという、一方的和平の表明に過ぎなかった。
ここで重要なのは、大徳年間の元とクイとの間の数々の戦役の中で、元軍が
樺太まで兵を進めたのは、1284年と翌1285年の2回のみということで
ある。しかも長く樺太に駐留した形跡がない。また戦果も明記されていないこと
からして、元は勇猛なクイ(アイヌ)に苦戦し、樺太に渡ったものの、クイを
威嚇するか、追い回すにとどまり、クイを捕捉、制圧するには至らなかったこと
である。そしてクイが元に投降したことにより、ギレミが樺太北部、クイが樺太
南部を住地とする両者の境界が、事実上画定した。
クイが樺太を元から守ったことは、北からも日本攻略を画策していた元にとって
大きな痛手であり、北方でのクイの果敢な戦いのお陰で、日本全体が救われた
と言える。
北からの日本侵攻案は兵站の点で大規模な動員が出来ないと、早々に却下されたと聞いたが。
(^^)
89 :
日本@名無史さん:03/08/02 19:02
あげ
90 :
日本@名無史さん:03/08/03 13:47
約3千のクイ(樺太アイヌ)が元の大軍に負けず、大陸反攻までしたことは
驚くべきことだ。蝦夷(北海道アイヌ)の支援があったものと考える。
91 :
日本@名無史さん:03/08/03 17:58
3千は元軍だろ
北方の地ではその位しか動員できなかったのかな
92 :
日本@名無史さん:03/08/04 01:01
和人進出前の樺太アイヌの人口は約3千で推移しいていた。
勿論、樺太の主要民族。ギリヤークは1200くらいで、オロッコは200。
論文の中ではアイヌが3千の兵力を動員したというのもあるので、北海道アイヌ
の援軍があったのではないかと類推している。
93 :
一文無し ◆IApAHNvIKg :03/08/04 02:58
,,,--─===─ヽ/へ
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100 :
日本@名無史さん:03/08/11 18:03
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
102 :
日本@名無史さん:03/08/17 13:43
樺太に住む骨嵬と吉烈迷の間に紛争
103 :
日本@名無史さん:03/08/26 23:24
???
アイヌには、日本アイヌ、マッカツアイヌ、シナアイヌの3つあり、
現在アイヌ人とされているのはマッカツだけです。
105 :
日本@名無史さん:03/09/13 22:43
あげ
106 :
日本@名無史さん:03/09/15 04:54
アイヌとは、おおまかにはアイヌ語で「人」という意味。
かつては、千島、樺太、北海道、北東北の4つの地域に分かれて住んでいた。
それぞれの居住地域でかなり気候風土に違いがあり、個性豊かな文化を独自に
発展させてきた。
107 :
日本@名無史さん:03/09/30 07:53
アイゴーってのは、アイヌ+モンゴルのこと?
sage維持
109 :
日本@名無史さん:03/11/02 08:39
age
110 :
日本@名無史さん:03/11/21 01:26
吉烈迷って、いまはどうしてるの?
うーん、ベトナムのゲリラ戦の強さは、先祖代々の物だったんだな。
アメリカも歴史に学んでれば良かったのに。
112 :
日本@名無史さん:03/12/15 00:31
age
113 :
日本@名無史さん:03/12/15 15:49
>>110 いますよ。サハリンから沿海集北端に。
前はギリヤークって言ってたけど、今はニブヒ。だいぶ近代化するもまだ
狩猟やているよ。人口はそういないだろう。
樺太ではアイヌの伝統的な敵だったね。
ノ\ /|
ゝ〃⌒⌒ヾ
,i iノリ )))ヽ
/リヽ゚ -゚ノヽ
《((⊃y_ノ||つ
く∧==ゝ
∪ ∪
age
ノ\ /|
ゝ〃⌒⌒ヾ
,i iノリ )))ヽ
/リヽ゚ -゚ノヽ
《((⊃y_ノ||つ
く∧==ゝ
∪ ∪
大自然のお仕置きです。
元寇って言葉は実に構造的におかしいんだってね。少なくとも漢語に
出典はなく、日本で国学の中から造られたという。それまでは蒙古
襲来が一般的。倭寇という言葉から国学者が作った造語だという。
で、倭寇は倭も寇も野蛮人という響きがあるが、元寇の場合、元と
いうれっきとした王朝名と寇という野蛮な意味の語が組み合わされ
ていて実に変だという。
だから蒙古襲来と呼ぶべきだという。
117 :
日本@名無史さん:03/12/25 00:01
和人の血の入ってないアイヌ人ってまだいるの?
118 :
日本@名無史さん:03/12/25 03:13
>>116 そんなことを逝ってる椰子はドキュンだから信じるな。
ただしリアルタイムでは「蒙古襲来」が使われていたのは事実。
「蒙寇」もありだが「元冦」でも問題ない。
そんな細かいこというなら天皇制以後の日本人は漢武帝を「漢主劉徹」と言わねばならないとか
朝鮮征伐をなんで日本人が壬辰倭乱と習わねばならんのだ、とか、いや正しくは「唐入り」だろうとか
ややこしい問題が無数に出てくる。
119 :
日本@名無史さん:03/12/25 03:15
120 :
日本@名無史さん:03/12/27 10:35
>>117 俺が北海道庁のアイヌ問題の窓口みたいなところに言った時には。
ほとんどいないがいることはいる。という表現をされたよ。
まあこういう質問自体が野暮なわけだが・・・
121 :
日本@名無史さん:03/12/27 19:54
>>118 「漢主劉徹」ってのはお前の造語なのかしらんがすごく恥ずかしいね。
元寇ってのは漢語じみているのに実際漢語らしくないから統一性なくておかしい
の。
モンゴル襲来がいいだろうと思う。お前のようにイデオロギーべったりの
糞が考えることは哀れでおかしい。
122 :
日本@名無史さん:04/01/15 14:55
サハリン南端のシラヌシにあったというグイの土城?には
元軍が駐屯していたのですか?
123 :
日本@名無史さん:04/01/23 14:49
ウイルタ民族は元兵の子孫か?
>>123 そうなん?
昔、海洋民族だと教わったが
渦と釣り針を元にした文様を見せられた。
昔のことなんでうろ覚え、詳しい人教えてくれ
125 :
日本@名無史さん:04/01/26 02:25
トナカイ飼いながら樺太を移動しているのが特徴だそうですが、
魚も獲るし海獣も撃つというような生活だったような。
>>121 あほか。元寇がおかしいなどと四角四面なことをぬかしてたら
そのうち漢武帝だっておかしいなどとエスカレートしかねないだろ、
といってるのだ。藻前自身の戯画なんだよw
鏡に映された自分の姿を見て怒りだす奴は滑稽だな。
ナコルルがいい
129 :
日本@名無史さん:04/02/07 15:26
辺境もいいとこだったし。
130 :
日本@名無史さん:04/02/22 03:56
吉烈迷って、日本人になれたの?
131 :
日本@名無史さん:04/02/22 08:35
ギリヤークとアイヌは敵対関係にあったので、ギリヤークを日本人にするという
発想は表向きなかったと思うが、近隣だったのでギリヤークが人質のアイヌを
育てたり、その逆もあったろう。
第二次大戦中、樺太国境地帯で調査活動をしていたギリヤークの一部が戦後
北海道に渡り生活している。近年亡くなったゲンダーユ北川は代表的な人である。
132 :
日本@名無史さん:04/02/22 09:25
でも元史には、アイヌ側に寝返ったギリヤークの指導者2名の名前が
出てくるね。アイヌの蝦夷錦だってギリヤーク側の何らかの協力がな
ければ手に入れることができなかっただろうし。
133 :
日本@名無史さん:04/02/22 14:56
134 :
日本@名無史さん:04/03/03 03:13
ニヴフとアイヌが敵対関係にあったというのは
モンゴル戦争前後の一時期だけだろうと思う。
少なくとも18世紀以降はかなり良好な関係に
あったにちがいない。
しかし
>>130の質問は突飛ですね。その時代
の「日本人になる」というのは何を指してる
のですか?質問意図不明…。
135 :
日本@名無史さん:04/03/07 10:12
青森とか秋田にはニブヒとアイヌの混血みたいな
顔の日本人もいるよな。
136 :
日本@名無史さん:04/03/07 10:24
ま、カラフトの土人ってことで・・・
137 :
日本@名無史さん:04/03/07 14:11
>>136 秋田藩とか弘前藩がカラフトで南下するロシアを警戒していたとき、
土人と馬鹿にして彼らから学ばなかったら、皆寒さで死んでいたよ。
結局、カラフトの寒さに対抗するには、彼らと同じように地面に穴を
掘って竪穴住居みたいなのを作るしかなかった。
138 :
日本@名無史さん:04/03/09 04:24
>>113 おいおい、ギリヤークは今は狩猟なんてやってないぞ。
昔から交易の民だよ。
もっともアイヌからは異様に恐れられてたから海賊みたいな奴らだったんだろうが。
>>138 そうだそうだ。
狩猟・漁労は重要だが、交易も自分たちでやっていた。
北海道では交易権を和人が独占しただけ。北方では
そんな事態にはならなかった。人口密度が低いところでは
交易は重要だ。ところで、
>>113の「アイヌからは異様に恐れられてた」
というのは間宮林蔵とかの証言のことだろうか?
あれは割り引いて考えるべきだ。アイヌ人たちは
(1)日本人を連れて行きたくなかった。
可能性が高い。さらに、
(2)あの地域は民族に関係なく血縁の無い集団同士仲が悪い。
ので、ニヴフ人だけが樺太西岸のアイヌ人と疎遠だったわけではない。
かなりの規模の交易拠点が西岸と東岸両地域にあったが、ともにニヴフ人と
アイヌ人の居住地域の境目あたりに位置する。片方が「海賊みたい」では
成り立たないだろう。
でも日本の水軍もそうだが交易で生きてる連中って
中世は海賊行為と交易ってそれほど大差なかったんじゃないの?
海賊で片付けるには可哀想だが交易民と呼ぶにはあまりに殺伐、みたいな。
俺の理解では水軍は基本的に関税を取っているのだと思う。
つまり「交換」をしないのでは。俺の知る限り北方少数民族は
いわゆる海賊行為はほとんどしていないはずだけど。
個人的な盗みはするけどね。
>>142 時代による。
大陸では3世紀の邑婁とか頻繁に海賊行為をしてたし。
日本側への被害でいうと6世紀の粛慎、10世紀の刀伊。
144 :
日本@名無史さん:04/03/10 02:14
>>139 もちろん間宮の証言もそうだけど、
伝統的にアイヌとニブヒは戦争ばっかしてるイメージがある。
(叙事詩とか)その上で間宮の読むとう〜んやっぱり仲悪いんだ...と思った次第。
>>144 アイヌ人の叙事詩にニヴフ人は登場しない。
「アイヌ人とニヴフ人の対立」という構図は元史にもとづく
のだろう。「骨嵬」にニヴフ人が参加している可能性がある
のは再三指摘したとおり。私の知っている限り、ウイルタ人
とアイヌ人の戦闘に関する伝承は数多いが、それでもおそらく
事件自体は複数回ではなく一度きりのものだった。むしろ、
民族抗争が起きないように常に調整していたというのが
俺の感想。
>>143邑婁、粛慎、刀伊をニヴフ人に比定するのはちょっと
やりすぎ。むしろトゥングースではないか。
146 :
日本@名無史さん:04/03/10 02:43
>>145 >アイヌ人の叙事詩にニヴフ人は登場しない。
それは意外だな。
カラフトでの戦争の話。
十勝アイヌのおばあちゃんからも直接聞いた気がしたが
漏れの思い違いかもしれないからちょっと調べてみるよ。
>>146 確かにねえ…。道央から道東にかけての伝承にあったりして。
釧路あたりの新しいテキストに樺太が出てくるかもしれない。
ただ、あそこは資料批判が難しいと思うぞ。
北海道のアイヌ人は明治以降大量に樺太へ往復している。
彼らは新しい叙事詩に「サンタン」「キリヤク」などを
登場させたかもしれない…。
今のうちに予防線はっとくと、
樺太のアイヌ人の伝承にニヴフ人との抗争話はほとんどない。
少なくとも樺太の叙事詩にはひとつもないはず。
でも新しいデータよろしくお願いします。
>>145 142で単に「北方少数民族」っていってたから
ニブヒに限らずの話かと思って。
149 :
日本@名無史さん:04/04/13 01:01
150 :
重大な質問:04/05/01 20:56
モンゴル人が敵を征服したときの、レイプの仕方を教えてください。
たしか、捕虜となった女を縛り横一列にずらりと並べ、尻を上げさせて一斉に
レイプするというのを聞いたことがあるのですが・・・
151 :
日本@名無史さん:04/05/16 17:15
>>150 そのやり方はシナから入ってきたと思われ。
史記によると、劉邦の時の匈奴はそういう行為をやった記事が無い。
もし当時やってたら、史記で夷荻の蛮行として大きく宣伝するから。
152 :
日本@名無史さん:04/05/16 22:49
>150
性欲処理目的にしては回りくどいし、風評拡大目的にしては間抜けだ。
指揮官の個人的な趣味じゃね?
154 :
日本@名無史さん:04/05/18 00:06
縄文人が弥生人と混血した場合の顔の変化では、まず最初に、
目 を や ら れ る 。
縄文人は四角い眼窩に高い鼻骨、弥生人は丸い眼窩に低い鼻骨。
近年、東北地方で縄文人と弥生人が混血したばかりの頃のものと思われる
約2000年前の男児の骨が発見された。
その混血児童と見られる頭蓋の鼻骨は縄文人と同様に高いのだが、
眼窩は弥生人のように完全に丸くなっていたのである。
縄文人が弥生人と混血した場合の顔の変化では、まず最初に、
目 を や ら れ る 。
>154
たしかに目を最初にやられただろうね。
西洋人が始めて日本にやってきた頃
人によっては日本人は西洋人のような顔つき
をしていることを書いている人がいる。
しかし、そういった顔つきの人も
唯一、目だけは西洋人のように
大きくないと書いてる。
156 :
日本@名無史さん:04/06/13 22:47
念仏じょんがら
157 :
日本@名無史さん:04/07/06 14:53
三味線
158 :
日本@名無史さん:
骨嵬
なんて読むの?