>>930 朝鮮半島での照葉樹林は南端部の低地だけだよ。
それに実際に行ってみれば分かるが、
照葉樹林成立には温度より降水量がギリギリとなってしまうので
照葉樹そのものの生育が釜山あたりでもあまり良くない。
それに照葉樹林は世界的には亜熱帯(sub-tropical)常緑樹林の一種の扱い。
日本は南西諸島の植生との区別を付けるため
「暖帯」という独自概念を立てているが、これは日本語だけ。
モンゴリナラ主体の朝鮮半島の落葉樹林は
照葉樹林より林内が明るく見通しも立つ。
しかも日本の降水量の多いブナ林などと違って下草も非常に少ない。
大興安嶺周辺のフヨの故地と比較してもそんなに彼らが動きにくい環境ではない。
その証拠に、百済は明らかに照葉樹林を嫌がり北へ北へと
高句麗からの危険に晒されながらも北上指向をずっと持ち続けている。
南方のほうが「同盟国」倭国に近いはずなのに。
(南方は追い詰められてしまうので地政学的によくないんだがな)
おまえさんは古代朝鮮半島に偉大な造船術があったと思いたいようだが、
古代の倭人の造船技術は明らかに朝鮮半島より上だよ。
そもそも対馬も五島列島も隠岐も佐渡島も
倭人の完全なテリトリーの中にあった。
どれもこれも外海渡海術が無ければ辿りつくことは出来ない。
五島を除く3つは古事記の最古の部分にも出てくる。
倭人がたどり着いただけではなくて政治的にも力を及ぼせていたということだ。
倭人がたどり着いただけと言うなら、南西諸島西端まで弥生時代には到達していたらしい。
同時期に朝鮮半島の勢力は済州島さえ抑えられていない。
済州島は随分後世まで独立国(タムラ国)であり続ける。
逆に言えば、そうであるがゆえに白村江敗戦は衝撃だったわけだ。
日本の朝廷に「勝ち戦のはずが負けた」というパニックが走っている様子が良く分かるw
それに中国が大陸国であるがゆえに、
前近代東アジア世界ではほとんど本格的海戦そのものが存在しない。
それに、大陸民は川舟以外基本的には苦手だよ。
女真の来寇は突発的なものに過ぎないし、
渤海の日本海渡航も、冬の季節風に乗って荒れる日本海を
エイヤーと一か八かで来る渡海術としてはあまり上等なものではない。
倭寇は前期倭寇だけでも、女真入寇などとは比べ物にならないほど
長期間に渡って黄海と東シナ海を股に掛けて荒らしていたけどなw
933 :
日本@名無史さん:2005/11/22(火) 13:18:28
>>922 >あのー。すでにこれが限りなく妄想に近いんですがw
扶余が騎馬戦術を持ち込んだというのは、単に発掘成果の話をしている
だけなんだが。
>ただ、後の百済領域まで確実に南下していたフヨと交流があっただけの
>可能性も高い。
それが「文化受容」説。ただ、武器や生活用具ならまだしも、墓の作り方
や「殉葬」まで、なんのために「受容」しなくてはならないのか、わからない
のが弱点。
>これだってフヨ自体がその小国家を乗っ取ったのかどうか皆目分からない。
それまでの王墓を破壊してその真上にじぶんの王墓を築いたのだから文字どおり
「乗っ取った」のだ。
934 :
日本@名無史さん:2005/11/22(火) 13:26:11
>>923 >これはおそらく満州の川(牡丹江?)で、馬を連れているフヨにとっては
>川を渡ることさえ一大事だったことを雄弁に語っている。
逆に河に慣れ親しんでいたからだ、という解釈もできる。
「照葉樹林は通れない」というのと似ているが、扶余のいた満洲東部は、
山と密林と湿地帯とで、およそ陸上の遠距離移動は不可能だった。
17世紀でさえ、康煕帝は満洲北端のロシヤ人の城を攻めるのに、なんと
吉林を基地として第二松花江〜松花江〜黒竜江と、延々と河上輸送して
攻めた。つまり、満洲東部の唯一の交通手段は河だった。
広い領地を治めるのに、扶余もまた河を利用しただろう。
「治める」というのは軍事力の輸送を含むから、恐らく馬の水上輸送の
ノウハウも持っていただろう。
935 :
日本@名無史さん:2005/11/22(火) 13:30:43
>>925 >海に馴染みのない民族が船を扱えるようになるのは本当に大変なことだが、
いわゆる「騎馬民族」の仕事は「支配する」ことだ。
任那の扶余は、彼等が支配した半島倭人の、君の言う「得意の操船術」を
存分に活用できただろうね。
>いわゆる河内王朝は、九州のヤシが対岸の半島南岸で馬と扱う技術を習得し
時系列が合わない。君は河内王朝が朝鮮半島に進出した話をしているが、
倭がはじめて朝鮮半島に進出して、任那を「服属」させたとされるのは
4世紀中葉で、まだ河内王朝は存在してない。
改めて聞こう。4世紀中葉、三輪王朝はどうやって朝鮮半島に進出したのか?
>>933 その墓を壊して上に自分の墓を立てたフヨが、
どうして日本でも同じことをしなかったのかな?
同じ連中なら同じことをして当然のはずだが。
それに、河内王朝の大王墓の古墳は
半島のフヨの古墳とはそもそも形も規模も全然違う。
任那では自分流を貫き、河内では在来倭人の方法を受け入れたとは
行動様式としてなんとも首尾一貫せず珍妙だね。
>>934 川舟では玄界灘を渡れないよ。洛東江は下れるだろうし博多湾内も大丈夫だろうが
玄界灘は無理だ。川舟と海洋船ではそもそも要求されるものが全然違う。
>>935 そんなに三輪王朝と河内王朝の時期を厳密に特定できるものかね?
完全な資料として伝えられているのは日本書紀の数字(在位年数と崩・立の干支)だけ。
だがこれはそのままでは人間生理に反して信憑性に欠けると考えられる為
いろいろな説が飛び交っているが、いまだ定説はない。
4世紀半ばが三輪王朝の時期だというのも、憶測の一つに過ぎない。
憶測を前提に憶測を重ねる仮説は説得が無くなってしまうのは理の当然。
937 :
白馬青牛:2005/11/22(火) 23:29:17
>>931932 低地と高地では植生が違うのは、日本の本州でもそうであろう。
照葉樹林帯は、温帯の南部に見出される森林じゃないんか。世界的にと
抽象的表現はせず、具体的に照葉樹林が亜熱帯のモンスーン林の植生と
同じじゃと誰の意見か研究者の名前を言えいや。
大興安嶺の森と朝鮮、日本の森の下草の種類の違いも言えい。
百済が遼西二郡を占拠し高句麗と戦争したことだけで、北上指向か。
百済の南朝文化の影響を考慮せんのか。華北の漢人は、照葉樹林の江南に
移住しとるど。
倭人の方が造船技術があったんなら、船の構造に違いはあったんか。
なんで帰化人系に船を作らすんか。
中国が大陸であっても、中国南東部は海洋文化圏であり、呉越の時代から
明代の鄭和の南海遠征は無視か。
日本の遣唐使船も難破して新羅船のお情けで、刀伊に拉致された日本人も
女真を撃退した高麗のお情けにすがり、平安期新羅人に襲われ高麗が
国力が弱まって、ようやく倭寇(商)となったが、倭寇も済州島や朝鮮の
賤民で構成された集団であり、倭寇も交易民に過ぎん。近代地政学の
大陸国家概念と言う先入観で、妄想をたれるとはのう。
938 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 00:14:20
>「韓国人のルーツは中国中北部の農耕民族」
>
ttp://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/05/11/20040511000078.html >また、韓国人と日本人が遺伝的に近いということは、2300年余前、日本列島に定着した弥生民族が
>韓半島に移住したことを示す遺伝的証拠と見ることができると説明した。
本当の事を教えてやろう。
日本人と朝鮮人が遺伝的に近いのは弥生人が渡来したせいではなく、約8000〜10000年前まで
日本列島と朝鮮半島がつながっていて、そこに共通の古モンゴロイドの祖先が住んでいたから。
半島と列島とに切り離された後、列島は古モンゴロイドが維持されたが、
半島の古モンゴロイドは中央モンゴロイドに変化していった。
弥生人はモンゴル東部あたりの北方新モンゴロイドであり、
満州と朝鮮半島を短期間のうちに突き抜けて日本に渡来した種族で、
この種族は朝鮮半島には定着しなかった。
>>937 火病で顔が真っ赤だぞ。
照葉樹に関しては、適切な英語訳すら存在しないようなものなので
(北米東部などのほぼ同気候の地帯は照葉樹林に欠ける。東アジア固有の植生なのだ。)
これ以上論ずるのは避けるが、ヤシ科植物が自生するところは温帯ではないという
伝統的な考え方がある。この考えだと地中海性気候も亜熱帯扱いになるが。
シュロは-10℃まで楽々耐えるなど、東アジアの常緑広葉樹は異様に寒さに強いらしく
そのため照葉樹林という特異な植生が見られるんだけどね。
日本では地形の関係で亜熱帯常緑樹林と暖帯照葉樹林の境界は明確だが
中国大陸では全く不明瞭に連続して徐々に変わっていくので、
中国の植生分類では亜熱帯常緑樹林帯に今でもひとくくりのはずだ。
旧共産圏でロシアの分類の影響が強いというのもあるけどね。
なお温帯常緑樹林と言えば普通は、ニュージーランドやカナダ西海岸などの
「温帯雨林」を指す。
また、亜熱帯常緑樹林と、厳しいモンスーン地帯に典型的な
亜熱帯・熱帯落葉樹林とははっきり区別される。「亜熱帯モンスーン林」とはこれのことだ。
照葉樹が旱魃により落葉したら、それは枯死したということだろw
さて。改めて本当に火病になっているな。
ゆっくり反論してやろう。
まず、百済が後に中国南朝と関係を持ったのは
高句麗との対抗上の話だろ。実際、後期百済は
このルートで江南六朝文化をかなり摂取しているが、
これは「フヨが4世紀に日本を征服した」ことの何の論拠にもならない。
それに実際、百済はどうも今の京畿道付近を
出来るかぎり自国領としたいという一貫した意志で動いているように見える。
次に、漢末から晋の南遷に至る時期に中原の漢族は長江流域にかなり移住したが、
生活様式は中原のままだったらしく、かなり疾病などで苦しんだらしい。
長江流域はマラリアと日本住血吸虫の一大発生源だからね。
さらに次。
鄭和の艦隊はモンゴル帝国時代のムスリム商人の海洋交易ノウハウの全てを
そのまま流用して船を進めただけ。だからムスリム商人の行けるところまでしか行けていない。
あんなもので「漢族は偉大な海洋民族だった」などと言えるのは北京のアホどもだけだ。
最後に。
遣唐使船の時には実は機能面での造船技術は退歩したらしいからね。
この時期の貴族の住居は無理に中国風で実に暮らしにくく、
庶民の竪穴式住居のほうが暮らしやすかっただとか
中華風最優先の見た目の体裁重視でいろんなことがむしろ退歩しているようだ。
奈良朝の衣服も決して日本の気候にあってはいない。
941 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 16:36:02
>>936 >その墓を壊して上に自分の墓を立てたフヨが、
>どうして日本でも同じことをしなかったのかな?
>行動様式としてなんとも首尾一貫せず珍妙だね。
狗耶韓国に来た扶余は、そこにあった狗耶韓国式の木郭墓を破壊して
その上に扶余式の木郭墓を築いた。
高句麗、百済に来た扶余の一派は、恐らくはそれぞれの土地にあった
中国文化などに影響されて、それぞれ積み石塚、または磚室つき墳丘墓
を築いた。
倭国に来た扶余は、すでにあった巨大前方後円墳に影響されて、超巨大
前方後円墳を築いた(と推定される)。
扶余の墓は征服した土地の事情に影響される、という点で行動様式は
一貫している。
>川舟では玄界灘を渡れないよ。
だから、支配した狗耶韓国人に海の船を作らせればよい。
真正の遊牧騎馬民族である蒙古人も、支配した高麗人に船を作らせて、
ともかくも日本への上陸は果たしたではないか。しかも馬を連れて。
>そんなに三輪王朝と河内王朝の時期を厳密に特定できるものかね?
苦しくなるとごまかしか。
王朝の名称はどうでもよい。君は4世紀中葉に、畿内の倭王朝がすでに
騎馬戦術を持ち、しかも九州も統一していたと主張しているわけだ。
そんな無理なことを言わないと、君のすじがきはなりたたないという
ことはよくわかった。
943 :
白馬青牛:2005/11/23(水) 21:48:22
>>939940 長々と言い訳はええわい。ナラ林のことは書いとらんが。
百済は船航に容易な黄海道が欲しかったのであろう。後に渤海が、
山東半島の登州を襲った様に。また魏志倭人伝の航路でもある。
扶余についてわしは、一言も言うとらんが、4世紀前後の北方民族の
南下は世界的現象であろう。西洋のゲルマン、中央アジアのエフタル、
中国の五胡も含め。鈴木秀夫氏によると気温の低下が民族移動を
もたらしたそうであるが。逆に日本だけが例外といえる根拠もない。
マラリアは、日華事変においても華中、華南で我が国の兵士も苦しんどる。
イスラム商人のノウハウ以前漢代の楼船等の技術や呉の南海交易の歴史を
無視しとるが、イスラム商人の行けるところまで?南海交易路以外に
何処へ行け言うんか。利益はあるんか。イベリア半島の連中がアフリカ
喜望峰を経由したんは、オスマン・トルコに中継利益を取られるゆえ
じゃろう。あんたの「日本民族は偉大な海洋民族だった」と言うのも
根拠のない地政学的先入観での妄想であろう。遣唐使船で、造船技術が
退歩したとするんなら、その根拠(技術内容)を書け。
>>941 無茶も糞もないだろ。
普通に記紀を読めば、三輪王朝のどまんなか、
景行年間に熊襲討伐(ということは筑紫は既に押さえていたことになる)、
仲哀帝は筑紫の香椎という明確な地名に行在したと明記してあるわけだ。
畿内政権はその後も伝統的に
東国支配より西国支配のほうを先を確立する傾向があるので
(これは豊臣秀吉に至るまで常にそうなる。畿内の地理的位置からくるもの)
かなり具体的な記述があって信憑性が高いヤマトタケルの東国遠征の時には
すでに筑紫(九州北部)の支配はほぼ確立していたと見て良い。
仲哀帝の筑紫行在の延長線上に神功皇后の新羅征服があり、
いわゆる河内王朝はその後になるわけだ。
仲哀帝と神功皇后との関係をどのように解するにしても、
三輪王朝後期の筑紫に新羅遠征を可能にするだけの一定の軍事的蓄積があって
それを前提に新羅遠征が行われ(て成功し)たことは確実ということだ。
ベクトルは九州→新羅の軍事侵攻だからね。逆ではない。
要するに騎馬民族説にしてもフヨの日本征服説にしても、
記紀の神功皇后新羅征服のくだりをなんとしても否定したいと言う
朝鮮朱子学大義名分論(日本が朝鮮を支配するなんてことは
大義名分論に反する自然界にあってはならないことニダ)が議論パトスの源泉なので、
記紀の主要な部分を完全に無視しつくさなければ議論が成立しないわけで。
945 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 02:07:13
日本語って難しいよな。
「自分のこと」を表す単語にしても
「俺」
「僕」
「わし」
「わたし」
「あたい」
「わて」
ほーらこんなに
946 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 06:17:35
日本史板なんだからせめて
「麻呂」
「わらは」
「拙者」
「拙僧」
「てまえ」
「それがし」
「あちき」
「おいら」
「おいどん」
だろう。
>>929 あほか。鳥越みたいな昔の学者がたいした根拠もなくいっただけだろ。
鳥越がいえばなんでも正しいのかw 鳥越信者しか納得しないよ。
あなたはただ「鳥越はこういってる」って紹介してるだけでそんなのは
ただの「情報ソース」であって「論拠」ではない。
あなたは鳥越がなぜそういう結論に至ったのかわかった上で鳥越説を
もちだしてるのか。それならちゃんと「なぜそれが正しいといえるのか」
説明しなさいよ。
>>930 おれは「新羅は韓系」までしかあってないといってるんよ。
ものすごく細かくいえばいろいろな混血だよ。ただ辰韓自体がすでに
在来と新来の混血だから、大雑把に「韓系」といったのよ。
めんどくさいから「在来系の」と限定してる部分はスルーした。
もちろん正確にいえば純粋な土着系ではぜんぜんない。
948 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 22:35:49
>>944 日本書紀は6、7世紀になってから、つじつまの合う物語を作ったのだから、
すじがきが通っているのは当たり前だ。
君はそれを全面的に信じているわけか。
井上光貞も君ほどナイーブではないよ。
949 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 22:50:48
もれは944じゃないし
>>948が何いってるのかわからないけど
井上光貞はむちゃくちゃ「日本書紀を信じない」派だろw
951 :
日本@名無史さん:2005/11/25(金) 13:54:28
>>1 地名や固有名詞でなくて動詞や形容詞の活用が似ているのなら同系の可能性が
あるだろうが、そんなものは資料もないようで、証明不可能だろう。
952 :
日本@名無史さん:2005/11/25(金) 20:12:08
>>950 井上光貞がむちゃくちゃ「日本書紀を信じない」派だというのは、君が
彼の書いたものを読んでない証拠だ。
井上は一応、アンチ江上派で、任那に扶余が来た、という江上の説を
「証明されてない」の一言で片づけていた。
現在、任那の扶余は考古学的に証明されてしまったが、井上はそれに対して
態度表明をしないうちに死んでしまった。
953 :
日本@名無史さん:2005/11/25(金) 20:31:53
井上光貞はそれなりに記紀の記述を尊重してるぞ。
あとの世代の研究者に比べたら崇神・垂仁・景行を明確に実在の大王とみてるし、
景行から応神までの女系の系譜も信用している。
井上以後の研究者なんて、人によっては、崇神系の系譜をてんで信用せず、
恣意的にいじくってマイ王統譜を「創作」してるヤツもいるし・・・
954 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 18:38:39
955 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 18:42:28
江戸時代にかえってほしいのか?
儀式のときは直垂や狩衣でもいいよ。相撲の行司みたいに今風にアレンジしてもいい。
957 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 00:49:53
958 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 03:27:25
パクリ→無努力→またパクル
勉強→学習→吸収→自力発展
959 :
日本@名無史さん:2005/11/29(火) 15:45:07
少し古いが、問題の時代について井上光貞が「日本の歴史・神話から歴史へ」
に書いていることを私なりにまとめれば、
●倭がはじめて半島に進出した4世紀中葉において、畿内王朝はまだ九州
を統一していなかった。
●全国を統一した勢いで半島に進出したのではない。半島への進出と全国
の統一はいわば同時に進行した。
●広開土王との戦いを「契機」として全国統一が起こった。
ということになる。以上は具体的なすじがきとは言えず、しじがきの
条件に過ぎないと思うが、井上はそれ以上踏み込んでいない。
この条件から、どんなすじがきが考えられるだろうか?
960 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 17:18:49
日本と百済が同系民族という説には賛成だが、
それはどちらも倭人=日本人という意味だよな。
フヨだの高句麗だのは関係ないだろう。
「ヤマト王朝は外来系(半島系)だが、その事実を隠している」と
主張する工作員がいるが、これはまさに朝鮮人の発想(W
自分たちの出自を、現地の人間に対し隠そうとする思考形態・行動様式は
朝鮮人特有のものであり、朝鮮人以外の民族にはない。
メキシコを征服したスペイン人は、自分たちが外来であることを
メキシコ人に対し隠さなかった。
ブラジルを征服したポルトガル人も隠さなかった。
ふつう、征服者というものは、自分が征服した土地の住民に対し
優越感を持ち、自分が外来であることをアピールし、勝者意識に酔うものだ。
現地の住民を怖れ、自分が外来者であることが現地の住民にバレるのではないか、
と、ビクビクするのは朝鮮人特有の心理だ。
ヤマト朝廷外来説は、朝鮮人が好んで唱える説だ。
朝鮮人は、自分たちの立場と心理を天皇家に投影し、
天皇家が自分たちと同じ立場にあると思いたいのである。
だから、天皇家は朝鮮人であると主張したり、古代日本は朝鮮人が建国したと
妄言を吐きたがる。
苦笑を禁じえないね。
961 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 17:24:00
>>960 >自分が外来者であることが現地の住民にバレるのではないか、
>と、ビクビクするのは朝鮮人特有の心理だ。
外来者であることを知られたくないから、
通名を使いたがるわけだ(笑
962 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 17:28:05
在日朝鮮人が通名を使って生活しているのは、彼ら在日朝鮮人の強い希望によるもの。
べつに日本人が強制しているわけではない。
どちらかと言えば、日本人は、朝鮮人の通名使用に反対の立場だよね。
963 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 18:04:05
「隠蔽」「捏造」「歪曲」を取ったら日本史は消滅するだろwwww
964 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 18:21:15
天皇家が外来だったら元朝や清朝の皇帝のようにモンゴル名、満州名のよう
に百済名とか高句麗名が記録されているはずだろうが、そんなものは無い。
・・・・
>>963 ここまでホンモノと確信できたのは初めてだ。。
967
>>960 百済と倭人が同系民族? 誰がどういう根拠でいってるの?
百済は王族貴族が夫餘系で庶民階級が馬韓系で系統がちがうわけだが、
倭人と同系民族というのはどっちのことをいうのかな?
969 :
日本@名無史さん:2005/12/08(木) 18:13:20
970 :
日本@名無史さん:2005/12/08(木) 18:32:38
百済の貴族は楽浪漢人か倭人だろ。
夫余は主に高句麗だろ。
971 :
日本@名無史さん:2005/12/13(火) 20:09:07
夫余って、朝鮮人じゃあないよね。
972 :
日本@名無史さん:2005/12/14(水) 00:17:17
満州北東部あたりが起源の北方モンゴロイドの一派だろうな。
土着の朝鮮人は二重で彫りの浅くない中央モンゴロイド。
朝鮮人は血の7割くらいを外来種に占められてしまった。
>>969 もまえの願望とちがうからって根拠もあげずに
ウソと決めつけるのはいかがなものかね。
>>970 そんな珍説はもまえの脳内にしかない。
百済貴族の姓は20近くも記録が残っているが
明らかに中国系(漢人系)とわかるのは
國氏だけ。(國氏は山東系の漢人)
他に王氏と高氏がでてくるがこれは貴族ではなく
学者だから、日本の帰化人と似たようなもの。
「高句麗が夫餘系だ」というのと「百済が夫餘系だ」というのは
ちょっと次元のちがう話。
高句麗の場合は、高句麗人と夫餘人がもともと穢という同一民族で
玄菟郡ができた時に北に逃げたか玄菟郡から独立したかという
建国の経緯のちがいで二つに別れただけ。
百済の場合は、百済王家が夫餘王家からの分家という意味。
従って庶民層(馬韓系)の民族系統とは関係ない。
貴族層にも夫餘系と馬韓系の両方がある。
974 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 19:52:15
百済王家というのは、久多良(クダラ)を征服して、
クダラの地に百済を建てた連中のことか?
後に、ヤマト本国から来たヤマト軍によって処刑されたようだが・・・。
975 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 21:33:57
もっと簡単に言えば、支配者だった楽浪と帯方の中国系は高句麗と
馬韓に滅ぼされてその支配下に入った訳だから、貴族になるはずが
ないという事だな。
だから、もとの支配者だった中国系は学者か技術者になっていく
しかなかったってところだろ。
976 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 22:33:12
しかし分からないのは百済の建国のあたり。
313年、楽浪を滅ぼしたのが高句麗の扶余族、帯方を滅ぼしたのが馬韓の韓族
という事になっている。
なのに346年、馬韓の地に誕生した百済の支配層は扶余族。
となると、百済は高句麗を裏切った元高句麗人の扶余族が馬韓を乗っ取って
建国されたんじゃないのかね?
977 :
日本@名無史さん:2005/12/16(金) 21:34:31
百済の謎。
>>976 正確にいうと楽浪郡の滅亡は資治通鑑など中国の資料から判明するが
帯方郡の滅亡についてはよくわからない。
(三国史記の記述は信用できない)
それと百済はべつに346年にいきなり発生したわけではない。
帯方郡を滅ぼしたのは
1)高句麗、2)百済、3)韓人(馬韓)、4)韓人や穢人
などいろんな説があるが、どれも確実な根拠があるわけではなく
たぶんこんなもんだろうくらいの軽い仮説。
中国側の史料に記述された伝説を信じるならば
第一に百済王家は夫餘王家の分家であって高句麗は関係ない。
第二に馬韓の北部の諸国はずいぶん早くから伯済国を中心と
する連合体としてまとまっていたんだろう。
979 :
日本@名無史さん:2005/12/17(土) 15:01:18
久多良人(クダラ人)は帯方郡を滅ぼしたの?滅ぼしてないの?
どっちなの?
久多良人と百済人の戦争は、どう展開したの?
最後に勝ったのは久多良人だよね。
百済人の王族は皆殺しになったの?
あほか。クダラも百済も同じだw
>>974=979は電波。まぁみんな言わなくてもわかってるだろうけど。
たぶん昔いたコマ厨や最近の「白木」厨と同一人物だろうけどw
過去の経験からいうと
↓以下、
>>974=979の自演多数派工作がはじまりますw