天皇の先祖はどこから来たの?

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440日本@名無史さん
継体帝 は 漢皇帝の順帝である

正史では、477年に死を前提に宋最後の帝位につく 
478年 11歳の順帝は、倭王武から表をうけ安東大将軍位を与え、
そして、12歳の時 一族諸共 廃絶された 宋は終わる。

解説
順帝は、漢の皇帝であるが、倭王武からの、代々の漢帝への忠臣である事を
訴えられた時、自らの一族の運命が来年には閉じる事を知っていたのである。
これほどの事実が軽く扱われているのである。

誰しも知っているとおり、 500年あたり境に、
倭は、継体天皇の代から全く別の国の展開を始めるのだ


441日本@名無史さん:03/09/23 15:59
そもそも、 順帝以降、倭は突然、
歴代の南朝参りを止めてしまう。
漢の正当性から言えば、確かに宋以降は漢帝の血ではない
継体帝以降、突然漢人が朝廷にリードして、陳が廃絶して漢帝が廃絶したとたん
継体帝の子孫は、 隋に天子宣言するのだ。
漢が消滅したとたん、 北方異民族国家に天子宣言など 漢の血でもない限り
発想する事すら不自然である。
もし 466年生まれの順帝が 531年に没したら 65歳程度なのだ





442日本@名無史さん:03/09/23 16:04
>>437
根拠があって断言するならまずくない。現実には何もないけどね。
443日本@名無史さん:03/09/23 16:05
順帝の身になり考えてみよう。

漢の天子でありながら、来年には一族皆殺し決定の自分に、
「私は先祖代々、帝の忠臣です・・・高句麗征伐したい」という表をもって
 大将軍の倭から使者が来たのである。
倭王のもとに身を寄せよう と思わないだろうか?

ちなみに、 南朝とは 古来 越 ともいう
継体帝は 越出身である


444日本@名無史さん:03/09/23 16:17
大和民族そのものが渡来人だし。
445日本@名無史さん:03/09/23 16:22
宋の順帝が倭列島に逃れて継体天皇になったのか
446日本@名無史さん:03/09/23 16:32
>>445

当時の倭は、 5代に渡って南朝の忠臣であり大将軍である
倭王としても、帝がやってきたのであるから、反発は難しいだろう

有名な継体の先代 武列や武略の記述が、宋の順帝の先代あたりの記述と
そっくりなのである。 明らかに南朝の宋記の影響を受けている
447日本@名無史さん:03/09/23 16:53
もちろん、全て推測であり、
正史とは、日本生まれの神武が東を征していき、継体に続くのだが、
誰しも不思議に思う点が2つあるのだ。

継体帝で突然、独立皇国日本の様相 と漢人達、漢文化の浸透がおきる。
今となっては当たり前のようだが、
漢字のかもない古墳大王国が突然、漢字の国に変貌し、大陸的な天子思想と
大陸に反発した独立天子国家の様相をとる。

継体帝が只者じゃないのは誰もが感じるところなのだ。
448日本@名無史さん:03/09/23 17:52
朝鮮人の亡命政権が大和朝廷
449日本@名無史さん:03/09/23 20:23
>440
おもしろい説です。
「継体」というのもじつは漢の正統を継ぐという
意味だったのかもしれませんね。
450日本@名無史さん:03/09/23 20:26
越は呉のような海洋民族ですか?
451日本@名無史さん:03/09/23 20:40
呉と越は、ともに南朝 今で言う、上海や南京 
蘇州辺りのことだね。 

日本の古代の漢読みは殆ど、呉読みといって南朝の影響が大きいとはされている
日本の和服も 呉服 といって、南朝
452日本@名無史さん:03/09/23 21:01
あぁ「呉越同舟」っていう熟語があるね。
453日本@名無史さん:03/09/23 21:21
なるほど、 武略の残虐ぶりの違和感も 宋史からと思えば納得がいく
順帝は劉氏だから、本当に最後の正当漢帝であるね
次の斉は、漢の武将の子孫というだけだもんなー

本当にそうなら、漢の劉邦の流を組む天子の中の天子ってことか
454チョソ天:03/09/23 22:33
天皇も認めてしまったしさ、ウヨは諦めなってこった。
455日本@名無史さん:03/09/23 22:35
>>454
韓国の新聞にはそういう誤報が載ったらしいね。
さすが捏造国家だ。
456日本@名無史さん:03/09/23 22:38
正直言って世界中捏造国家だろ。
457日本@名無史さん:03/09/24 08:55
なるほどー その説で、漢人の謎に説明がつくなー

日本に来てる東漢氏や秦氏って漢人なわけだから、
言わば 蛮域に来てる文明人 な訳だよね、
その文明人集団がなぜ、蛮族の王である天皇に完全なる忠誠で
仕えているのか不思議でならなかったんだが、
天皇=漢帝 と考えれば合理的ではあるね、
続日本紀あたりで、東漢氏祖先などが日本に来た理由を
日本にいる聖王を助けに来た と言ってるんだよね、
聖王ってなんだ? っと思っていたんだが・・

まー 信じちゃいないけど
458日本@名無史さん:03/09/24 11:36
天皇がこんなに長い歴史にわたってつづいてたら途中で誰かが
入れ替わってたとしてもわからない罠。
しかも、朝鮮の血も混じってるし、血統なんて意味も無い。
459日本@名無史さん:03/09/24 12:05
朝鮮の血は一滴も入ってないよ。 百済は倭人
460日本@名無史さん:03/09/24 18:47
順帝=継体帝 説
おもしろいです。
なかなか説得力もあるし。
この日本史板で埋まれた新説としても意義深いのでは?

呉や越の漁民あたりだと刺青の風習も
あったんでは?
だとすると例のヤマタイコクの記述に
ある刺青の風習に近いのでは?
461日本@名無史さん:03/09/24 19:52
一番不思議な事

秦の始皇帝が万里の長城を作った事でも判るように、
万里南の漢民族に対し、万里北は異民族である。
1000年の漢民族の歴史ではじめて漢帝を廃した、異民族の帝それが
隋の煬帝である。
 漢帝はこの時、歴史で初めて空位になったのだ。

なぜ、日本の王がこの隋に、いきなり天子宣言などしたのだろう。
独立意識だけで説明がつくだろうか?
漢帝が空位になったタイミングで、異民族の王へ倭王が天子宣言したのだ。
本来ならば、その宣言をすべきなのは、新たな漢帝の役割なのである。

しかしこの時の漢の陣地は、 2つの大将軍位の国 百済と日本だけである
もし、漢の帝位を継ぐつもりのある勢力が逃げ潜むなら、
そのどちらかの国しかないのだ。 漢帝はどこにも逃げずに滅んだとするなら
話は終わり。 もし逃げたら? もし逃げれたらどこにいくだろう?
日本に逃げた正当漢帝勢力が、
陳の漢帝が空位になったタイミングで、北方の隋に天子宣言した としたら
この天子宣言はぴったりなのだ。

462日本@名無史さん:03/09/24 20:52
>>461
隋の文帝の中国統一前に、ずっと異民族の人間が
万里の長城の南(淮河の北)で皇帝を名乗ってきたが。
当時の中国の中心地は北朝の支配地。
463日本@名無史さん:03/09/25 09:15
>>462

???  おいおい、瑣末なところで話のスレ違いをおこすなよ、
 
万里北の異民族が五胡十六国時代に、漢を南に押しやった
という話で、北方異民族の隋帝がとうとう、南の漢帝を廃した
そういうことだろ。

今となっては隋も中国だが、当時は南朝だけが漢だよ
464日本@名無史さん:03/09/25 09:32
>>463
>今となっては隋も中国だが、当時は南朝だけが漢だよ

当時(南北朝時代)は「漢」というのは民族名ではなくて中国の北半をさす地名。
中国の南半は「呉」といった。南朝と北朝を地名で表わした言い方が「漢」と「呉」。
「中国」というのはひとつしかないので、
漢の地の「中国」(北朝)は呉人(南朝)を「島夷」という蔑称でよび
呉の地の「中国」(南朝)は漢人(北朝) を「索虜」という蔑称でよんだ。

ここでいう漢人は、もちろん鮮卑系の北方民族の子孫ではあるが
漢の地(中国の北半)の住民だから「漢人」というので正しい。

「漢人」が漢族だけをさし異民族をいうのではない、というのは宋代以後の認識にすぎず、
当時の認識ではない。
465日本@名無史さん:03/09/25 10:19
あらら、 明らかに俺の中国史の常識が違うね
この問題は、お互いの確信的な見識の違いという事になるかな?
恐らく、お互い自分の見識が常識 と思ってるだろう

説得は無理だと思うが、
中華思想     中原を制した国が中国である(異民族であtっても)
漢族選民思想  秦帝制定の呉を含む万里南の漢族に対し、
           万里以北は鮮卑など蛮族である

この2つを混同している人は非常に多い
南朝の漢帝を支持するものにとっては、中原を日本人や鮮卑に奪われて、
南京政権、台湾政権を作ってもその場所が中国である。

北朝を支持するものにとっては、日本人であっても鮮卑であっても
中原を制すれば 即ち中国である

三国史や南朝の代においては、事実上、中原中華思想は全く存在しない
というのが俺の見識であり、それは常識だと思っている





466日本@名無史さん:03/09/25 10:43
はたから見てると、465の個人的な思い込みはこの際どうでもよいのではと思われるが。
467日本@名無史さん:03/09/25 11:09
はたから見てると、465が常識だと思われ (w
どちらにしろ、 スレとは無関係な話
468日本@名無史さん:03/09/25 13:21
常識ならどうして「説得は無理だと思う」んだ?
自説の方が非常識だからそう思うんだろ。
469日本@名無史さん:03/09/25 14:24
まさか天から降臨したなんて本気で信じてませんよね。
(ただし、キチガイウヨは除く)
470日本@名無史さん:03/09/25 14:57
>>468
はたから見ると、君は知能が低いね。

バカの壁 を引いてみろ
471日本@名無史さん:03/09/25 15:04
僕は、歴史は素人なんですが、下の掲示板で、チョンをからかってやろうと話をしていたんですが、
http://bbs2.enjoykorea.naver.co.jp/jaction/list.php?id=enjoyjapan_8
日本(倭)と百済と高句麗は関係が深そうなんですが、どうなんですか?
天皇家は高句麗の系統なんじゃないですか?
遺伝的に日本人に近いと言われるツングースにも近いし。
言語的にも、基本的な単語が、高句麗と掠ってるような感じがします。
(今の朝鮮の言語とは、同系だとしても、基本語が異なっていて別グループ
のようです。高句麗の言語は。)
高句麗の滅亡と百済の滅亡が比較的近接して起こってるんですよね。
高句麗滅亡の後、残党が作った渤海と日本は、直ぐに渤海使で連絡取り合っている
古代の秋田の港の謎の繁栄なんかも説明できそう。(秋田と朝鮮を結びつけるのは
遠くて無理があります。しかし、渤海・高句麗となら近いし、自然ですよね

472日本@名無史さん:03/09/25 15:07
>>470
ちんぽこ。
473日本@名無史さん:03/09/25 16:29
>>470
知能の低さのよくわかるレスだね
474日本@名無史さん:03/09/25 16:51
まあ、ともかくこの説に基づけば
少なくとも継体帝から聖徳太子までの
朝廷には我こそが漢の正統を継ぐもの
という強烈な意識が残っていたはずである。
一つその痕跡をみなで探ってみてはどうだろう?
475日本@名無史さん:03/09/25 17:27
せっかくの良説が、466以下で荒れてるね、

当時、漢族の側からすれば、南朝でも北朝でも
多かれ少なかれ隋帝を侵略者と当然見ていたんじゃない。
漢代の名家の氏族ならみなそうでしょ
漢帝が史上初なくなったのは確かだから
指摘どおり、本来 隋帝に天子宣言するのは、漢の天子の役目なんだよね
476日本@名無史さん:03/09/25 17:46
キチガイウヨ
477日本@名無史さん:03/09/25 20:07
古代の朝廷の 漢字読みは全て 呉読み これ常識

継体帝以降、古墳文化が漢文化に突然変異。
卑弥呼の代の俗習も、全て消えてしまう
478日本@名無史さん:03/09/25 20:55
>>475
晋が匈奴に追われて陳が滅びるまで300年ちかくたってるのに、
北朝の人間が南朝のほうを正統勢力と思ってたの?すげえ疑問なんだが。
479日本@名無史さん:03/09/25 21:27
隋帝を、正統と認めない割合

南北 劉氏一族  100%
南  漢族家臣   90%
南  漢族一般   50%
北  漢族没落家臣 50%
北  漢族一般    10%
北  漢族登用家臣 10%
南北  異民族      0%

こんな感じでは?

北朝の人間・・・さすがに、漢帝勢力は絶滅してるだろうね
ただ、漢族選民思想の歴史をその後も継続してるから知識階級の
漢族は知ってるんじゃない?


   
480日本@名無史さん:03/09/25 21:50
ろくな基礎知識もないくせに、勝手な思い込みや想像だけでどんどん話をすすめてる奴は
ここが一応学問板だったってことを忘れてるんだろうな。
481日本@名無史さん:03/09/25 21:53
そんな基礎知識のない奴に、
矛盾点のひとつも出せない無学な君は、
ここが一応学問板だって事を忘れてるんだろうな。
482日本@名無史さん:03/09/25 21:57
◎弥生人は朝鮮を経由していない!!

「土井が浜の弥生人骨は、160センチメートルを遙かに超えた長身、華奢な四肢骨、
細面の顔に低い鼻、のっぺりとした、それでいて端正な顔立ちで、いわゆる北方系
「新モンゴロイド」の特徴がありました。
彼らのルーツを求めて朝鮮半島南部の慶尚南道金海と南部の勅島(ヌクド)の人骨、
中国は山東省の漢代の人骨を対象に調査されました。ところが、朝鮮半島2ヶ所の
人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨は、極め
てよく似た形質を持っていることが確認されました。弥生人のルーツはやはり中国
だったのです。」
http://sakezo.com/shumi/rekisi/keta1.html

ところが、朝鮮半島2ヶ所の人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず
ところが、朝鮮半島2ヶ所の人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず
ところが、朝鮮半島2ヶ所の人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず
ところが、朝鮮半島2ヶ所の人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず
483日本@名無史さん:03/09/25 21:59
天皇家は土着の王族に決まってるじゃないの。
縄文時代から身分制度が有った事が分かってきてるだろ。
484日本@名無史さん:03/09/25 22:01
なんだ、1は例の江南ヴァカか。
工作に余念が無いねw
485日本@名無史さん:03/09/25 22:12
思うに、このスレに意義があるとすれば、
実証が不可能である以上、

ただただ、矛盾点や疑問点を浴びるだけだろう。
矛盾点により消えてった説に対して、生き残る説が
生き残ってという意味の範囲で有望な説といえる

486日本@名無史さん:03/09/25 22:15
しかし天皇は朝鮮人とか言ってる香具師って
朝鮮人の定義を語らないから困るな〜

だいたい古代朝鮮半島は大陸移民の
コロニーがいくらでもあるしさ。

そもそも朝鮮人自体があからさまに
諸民族の混血じゃん。

天皇が渡来したとして
渡来した頃の半島南部にいた民族を
朝鮮人というなら
いまの住人は朝鮮人じゃないよ。
487日本@名無史さん:03/09/25 22:19
仮説はいくつか立つんでしょ?
幾つあるんですか?
488日本@名無史さん:03/09/25 22:29
>だいたい古代朝鮮半島は大陸移民の
>コロニーがいくらでもあるしさ。


意外だが、朝鮮半島人は中国大陸人に似ていない。
ただし、朝鮮半島の平壌以北の北西部あたりだけは大陸人に似る。
朝鮮半島人に人種的に近いのは日本人と満州人。
489日本@名無史さん:03/09/25 22:35
>>488
現代中国人や現代半島人で比べても無意味では?
490日本@名無史さん:03/09/25 22:38





朝鮮人は、人種的にはモンゴル系の黄色人種で、形質的には日本人に
もっともよく似ている。身長、頭形、顔形、血液型、指紋などでは、
日本人と満州族とにもっとも関係が密で、中国人とはそれほど類似して
いない。北部の朝鮮人は満州族に、南部は日本人に似ているが、
例外として、モンゴル帝国の占領下にあった済州島人の頭形は満州族に
近く、平安南道・南北黄海道人の頭形はもっとも華北型に近い。
ツングース族に属する満州族や東部シベリアの古アジア諸族などが、
前40世紀ごろから朝鮮半島に移住し、これより前に南方から移住してきた
人々と共存していたとも考えられている。(世界大百科事典/平凡社)



491日本@名無史さん:03/09/25 22:42
これより前に南方から移住してきた人々というのは、縄文人の事だろうね。
492日本@名無史さん:03/09/25 22:48
モンゴル帝国の占領下にあった済州島人の頭形は満州族に近く=短頭〜過短頭

平安南道・南北黄海道人の頭形はもっとも華北型に近い=中頭


つまり、弥生人は朝鮮半島では平壌付近でしか広がらなかった。


493日本@名無史さん:03/09/25 23:33
>>491
縄文人は普通は北方系と考えられているみたいだけど。
494日本@名無史さん:03/09/26 09:01
1万年の集落地域である日本のトップになるには、
それなりの力が必要だ。

A土着    BC10000  日本は世界一古い集落地域
B稲作    BC800  日本の豪族は稲作による・  ・大陸から 
C春秋時代 BC300  王権武等派豪族の到来・・・   呉越から 
D徐副    BC200  男女2000人が日本にきた・・・  秦から
E魏志    AC200  楽浪郡と魏の崩壊での独自・・・・公孫系 
F継体    AC500  宋帝が廃帝粛清から逃げてくる・ 順帝 
G天武    AC700  白村江の敗戦・・・・・・・・・    新羅系

諸説はこんなもんだろう。
 




495日本@名無史さん:03/09/26 10:23
漢字文化の熟成を考えると、Dはなし 
もっと古い代から漢字読みの王の名や文献が出るだろうからね
もしEなら 倭王の記録にそれらしき話があっていい ので Eはなし
496日本@名無史さん:03/09/26 12:31
G ありえん。 天武は新しい姓制度を設け、その目玉は皇族のランク訳。
第一位の真人=継体帝からの5親等とする それにより継体帝ゆかりの地方豪族も
真人になった。 天武が外来なら、植民地の古王の親戚が一番偉いなどとはしない。

したがって、天武から継体までは繋がっている

F ロマンはある が継体が即位してから都入りの20年間は504年あたりから。
 この20年の空白を埋める謎は、むしろ 宋末の順帝ではなく
斉末の和帝のほうがぴったり。和帝が禅譲させられ殺される運命となるのは
502年ころ。倭王のもとに逃げるなら和帝もあり、継体帝の即位年と近い
実際の都入りが20年遅れたのも説明がつく

E 十分ありえるが、 500年ころまでの歴代大古墳の継続性からいって、
  500年代ころまでは、一豪族といったところだろう。200年くらいかけて
  列島の中で勢力を伸ばしたということか

497日本@名無史さん:03/09/26 13:52
倭王が、直接 使節を使わしたのは表を送った順帝の時が最後じゃない?
その後王朝が変わるたびに、大将軍に奉じられているけど・・・
498日本@名無史さん:03/09/26 20:31
順帝=継体帝説
おもしろいんだがなあ。
499日本@名無史さん:03/09/26 20:34
おもしろいからといって正確であるとは限らない
500日本@名無史さん:03/09/26 21:04
今宵も天スレで萌えましょうぞ!!