1 :
【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守:
について、多々良氏時代から滅亡まどを語りましょう。
因みに私の母方の祖父方の曾祖母方の先祖は室町時代初期に
周防山口から尾張に移住した大内氏分流の山口氏の分流です。
2 :
【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守:03/03/17 13:41
訂正:まどを→までを
4 :
【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守:03/03/18 10:22
>>3 確かに三戦板の方が適当だったかも・・・
でも、武将マンセー・スレではありません。
大内氏の歴史についてです。
室町期に多大な影響力を与えたにも関わらず
あまり語られないね
つか細川と寧波で戦争してるね…スゲ
6 :
【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守:03/03/18 10:57
>>5 何故か赤松氏や毛利氏の方がメジャー。
「寧波戦争」に勝利して、対明貿易を独占したんですよね。
7 :
【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守:03/03/25 09:57
私は消えますので、大内氏やその分家(陶氏、杉氏、尾張山口氏など)に
ついて教えて下さい。
8 :
日本@名無史さん:03/03/29 08:57
大内義長萌え。
9 :
日本@名無史さん:03/03/29 09:18
これこそ先祖がもろに朝鮮とわかっている名族じゃん。
ばればれでもシカトしてるもっと名族もあるけんどよう。
10 :
日本@名無史さん:03/03/29 12:08
百済王氏だったっけ>大内
ばれてもシカトしてる名族って?
11 :
日本@名無史さん:03/03/29 12:25
金さんだよ。 通名はないことになってる。
某正史にはちょっとひねって書いてあるけんどよぉ
12 :
【^▽^】ジーモン@ケー二ヒスベルク:03/03/30 14:11
百済王子が周防国多々良浜(防府市多々良)に上陸して、
聖徳太子から云々カンヌンという先祖伝承です。
13 :
【^▽^】ジーモン@ケー二ヒスベルク:03/03/30 14:24
>>11 百済だから金(キム)さんじゃないよ。
金姓発祥の地は金海加羅(現在の慶尚南道 金海市)。
因みに、私は父方の祖母方の曾祖母方(広島県出身)は
秦氏の末裔らしい(少なくとも秦姓)。
で、秦氏はもちろん始皇帝末裔ではなく、任那だか金海加羅だか、
どちらにしても朝鮮南東部の「加羅諸国」から移住してきた、
らしい。また、漢(あや)氏は劉邦の末裔ではなく、
これも「加羅諸国」からの帰化者。
余談なのでsage.
15 :
日本@名無史さん:03/03/30 15:00
>>13 琳聖太子のことを言ってるんじゃないよ。 琳聖太子は百済の
王族なので氏族としては扶余なので「余」、もちろん百済王族は
大内とか丸とか和とか西直とか いろんな姓を名乗ったけどね。
それから「金」氏は金海金氏以外にもあって加羅出身とは限り
ませんよ。 そしてシカトしてる名族で「金」さんは琳聖太子の
子孫の大内氏のことではありませんよ、繰り返すけど通名(姓)が
無いと言われてる名族といったら今では一つしかないでしょ
昔は無姓で「弾左衛門」とかいう名族もいらっしゃったけど。
16 :
【^▽^】ジーモン@ケー二ヒスベルク:03/03/30 15:02
17 :
ネットdeDVD:03/03/30 15:03
18 :
出会いNO1:03/03/30 15:03
19 :
【^▽^】土佐魂ジョーカーU世:03/03/31 00:36
陸奥国にも大内家はいました。
小浜城主で、伊達政宗に敗れ家臣になりました。
20 :
日本@名無史さん:03/03/31 01:11
弾左衛門家って苗字あったんじゃなかったっけ?
21 :
日本@名無史さん:03/04/06 13:15
チョンの末裔
22 :
日本@名無史さん:03/04/08 00:27
どうでもいいが、その朝鮮国王から、朝鮮王族の末裔なんだから領地くれ云々を無視されてるので朝鮮系は私称に過ぎん。
アホかおまえは。
李氏も呆れたことだろうな。
23 :
日本@名無史さん:03/04/09 19:19
足利義満はお気に入りの蜷川新右衛門と大内家のお姫様を結婚させようとしていました。
どう考えても嘘っぽい先祖伝承だが・・・国司系の地人だろう。
今川に従って海賊退治した時に半島から恩賞くれって主張した
辺りから百済説が出てくる。王族出身ってことにすれば領土くれ
てもいいだろって理屈。
26 :
日本@名無史さん:03/04/13 13:57
周防の国司家人だよな‥。陶の反乱も実は、領地保有に関して
どうこうだし。管理人上がりだろう。
>>25 実は大内が海賊だったと言う罠。
南北朝の終結に貢献しながらも将軍家の違約に憤った末に、
幕府に反旗を翻した骨のある武将もいたなあ。
28 :
日本@名無史さん:03/04/18 01:39
中国ださい。
29 :
【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守:03/04/18 10:10
30 :
実質支配権は大内:03/04/18 17:25
周防の介ですから。周防は天皇御料だけど(だから長じゃなく次官が最高位)
・・東大寺の運営費用に丸投げで大内とかが台頭。重源とかが東大寺再建で
ここから木材とか運んだのは、そういう理由から。
地下人ですな。典型的な。
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
32 :
陶も冷泉も大内一族:03/04/20 18:40
モウ デテクンナ!
( ・∀・) | | ガッ
と ) | |
Y /ノ 人
/ ) < >__Λ∩
_/し' //. V`Д´)/
(_フ彡 / ←
>>31
33 :
日本@名無史さん:03/04/27 01:54
荘園管理から実質支配者に
34 :
日本@名無史さん:03/04/28 23:27
幕府側の厚東氏を撃破
長門に覇権を確立。北九州に進出。
将軍家の激に応じ室町幕府設立にも関与。
南北朝期にその地理的重要度から重視される。
山陽山陰にも動員をかけられる存在。
35 :
日本@名無史さん:03/05/06 17:28
一時期、和泉や紀伊も領有してたよ。山名の時の論功で山陰山陽も。
36 :
日本@名無史さん:03/05/08 17:06
, "⌒` 、 そのとき〜♪
ルハノルノノ〉
" ヽ. ルレ! ゚ ヮ゚ノリ へヘ
,'ノ(( ))〉  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄(;゚;;) \/〃⌒⌒ヽ
v b^ -゚ノレ、 _,.,. 旦 \ノノ^ リ))
く/jつ\|====== ´ ノノ=====| ゚ ヮ゚ノ||
(_( / !(((!´゙リ)) と )
\ノ ___/ノ リ.゚ ヮ゚ノリヽ___\
 ̄ ̄ 〇旦〇 ~○~ ̄
37 :
日本@名無史さん:03/05/10 16:27
応仁の乱とかやりそうなものだが・・・
38 :
日本@名無史さん:03/05/10 20:46
大内のぉ〜 お殿様ぁ〜 恋をしてぇ〜
京の姫を嫁にした 恋に〜燃えてぇ〜る
築山御殿〜 殿様殿様お殿様 よいよ〜い
39 :
日本@名無史さん:03/05/17 17:04
実際は避難民受け入れしただけどな・・・。
40 :
日本@名無史さん:03/05/20 16:05
大内御堀
大内義隆卿は掘るのが御好きですた。
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
43 :
日本@名無史さん:03/05/23 05:22
ちまきやの前だな
44 :
((≡゜♀゜≡)):03/05/23 05:46
45 :
日本@名無史さん:03/05/24 01:01
Σ(・∀・;≡;・∀・)謀反!?
46 :
日本@名無史さん:03/05/27 02:43
結構計画的だったみたいだよ。大友とか知ってたみたい。
宣教師を呼び寄せてたり・・・
47 :
日本@名無史さん:03/05/27 03:21
領土が山口県と福岡県に半々づつまたがってるって、
典型的海洋国家だな。カコイイ!
淡路島を中心に畿内と四国の東半にまたがる細川と同じ構造。
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
50 :
日本@名無史さん:03/05/29 18:16
51 :
日本@名無史さん:03/06/01 14:13
紀伊とか摂津も一時期領有してたよ。
52 :
日本@名無史さん:03/06/01 15:46
尾張も領してたし下総も領していた。
さらには陸奥までも!!!
53 :
日本@名無史さん:03/06/02 01:41
それはまた別の大内の話。
54 :
日本@名無史さん:03/06/08 06:24
大内って意外と全国にいるよな。
大内氏の朝鮮系云々は確たる証拠もないので疑問視されてるよね。
本人がそうだと言ってんだから、あっそう?で十分だけど。
前に書いてる人もいるけど、利権のからみで系統詐称したのだろう。
文化面で定評のある大内氏だが、現代においてはイメージ悪いなぁ。
俺の場合だけどね!
56 :
日本@名無史さん:03/06/18 23:47
57 :
日本@名無史さん:03/06/21 22:10
百済聖明王から派遣された五経博士(漢字と仏教を伝えた人たち)が先祖と
称しているんでしょ。蘇我氏や天皇家などと同じ、百済系渡来系氏族ということで。
でも所詮、鎌倉武士が公家と一体化した氏族でないでしょうか。
鎌倉武士の末裔というと、支配下にある安芸武田氏(甲斐武田の分家)の
臣下筋になってしまうのでうまくなかったんでは。
58 :
日本@名無史さん:03/06/21 22:12
>>55 イメージ悪いとか言っているくせに、かばうような書き方だなw
60 :
日本@名無史さん:03/06/22 02:59
室町〜戦国時代の安芸武田氏・・・若狭武田氏の分家。せめてどこから分かれたかぐらいは調べてくれ。
安芸が分国であった時期から武田支族は国内にいたろうが、室町時代に入ると実質的な支配者は大内か山名だろ。
鎌倉時代では武田>大内かもしれんが、室町時代だと大内>武田だ。
臣下筋とゆうのもわけがわからん。
61 :
日本@名無史さん:03/06/25 02:40
明徳の乱による論功で領地拡大。
今川貞世失脚による九州探題職継承を期待するも、一時は探題職を任命されるも、
九州に行かず失職した渋川氏が後任になる。
確か、菊地・少弐氏追討を命じられて、討伐に向うも実は義弘討伐を菊地らに命じていたのが
発覚して(義満の挑発)、これに怒った義弘が関東公方満兼と通じて反乱を起したんでしたね。
結局、乱は鎮圧されて(義満の近衛兵の活躍)、領地削減。
しかし、その後落ち公方・義材を擁して上洛して。将軍に返り咲きをさせるなど中央政界に進出した義興。
結局、尼子氏の台頭で京を離れなくてはならなくなってしまったが…
大内家で一番の実力者は義興?義弘?
山陰の雄山名氏とは犬猿の仲?
mL( ^∇^ )グッチャー!
1.義弘、2.政弘、3.義興、4.盛見、5.義隆
かなあ。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
65 :
日本@名無史さん:03/07/18 23:07
66 :
日本@名無史さん:03/07/19 16:20
弘世の銅像建ってるな
67 :
日本@名無史さん:03/07/19 16:42
中一のときの初恋の女の子が大内瞳って名前だった。
任那からの移住者が先祖という説もあるそうです。
69 :
日本@名無史さん:03/07/27 13:38
山口市は大内氏の聖地。逆臣陶氏と侵略者毛利氏の墓所を撤去せよ。
(^^)
72 :
日本@名無史さん:03/08/05 23:34
,,,--─===─ヽ/へ
/iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶
iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiii/ \iiiiiiiゞ
iiiiiiiiiiii/ \iiヽ
iiiiiiiiiiiiiii《 ━━━'/ ヽ━━━ ヽミヽ
...iiiiiiiiii彡/ __,.:: :: __ ヽiiiii|
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iiiiiiiiiiiiiiii|, |iii|
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76 :
日本@名無史さん:03/08/13 12:14
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
78 :
日本@名無史さん:03/08/15 23:57
79 :
日本@名無史さん:03/08/22 17:45
>70
逆臣陶は未だしも毛利は敵をとったのでしなくても良いのでは。
読めない。。。
>80
毛利は陶とタッグ組んで義隆党を攻撃して勢力を拡大させただろ。
義隆党にとっちゃ陶も毛利も同じ逆臣。
83 :
日本@名無史さん:03/08/29 21:34
84 :
日本@名無史さん:03/08/29 23:46
大内輝弘が大友宗麟と組んで山口へ攻めたよね、確か。
↑ただのパシリ
大内義昭が藤谷美和子と組んで歌出したよね、確か。
87 :
日本@名無史さん:03/09/05 21:04
88 :
日本@名無史さん:03/09/05 21:09
大内輝弘は義興の弟・隆弘の子。
つまりは義隆の従兄弟にあたる。
89 :
日本@名無史さん:03/09/05 21:12
90 :
日本@名無史さん:03/09/13 17:46
91 :
日本@名無史さん:03/09/21 18:39
92 :
【^▽^】酔生夢死ジョーカー:03/09/26 20:24
陶は堪え性の無い逆臣。毛利は火事場泥棒。
93 :
【^▽^】鋳掛け屋ジョーカー@激闘編:03/09/27 08:19
大友はHOUND DOG。村上はショージ。
94 :
日本@名無史さん:03/10/04 11:18
なんか義長にあっさり代わるのは納得いかんな。
新しい信長の野望
95 :
日本@名無史さん:03/10/04 11:25
元就は別に義長を九州に逃がしてやってもよかったんでは?
96 :
日本@名無史さん:03/10/04 12:20
>95
元就は実際、義長を大友家に返そうとしたらしい。
でも、義鎮が拒否したとかって何かの本で読んだ事ある。
宗麟と義長って豊前の領有問題で確執があったとか。
詳しいこと知らんが。
98 :
日本@名無史さん:03/10/07 11:17
やっかいばらいとか見捨てたとか
見方はいろいろだな・・・
99 :
日本@名無史さん:03/10/13 16:47
宗麟って事前に陶の行動を容認してたらしいよ。
宣教師を府内に呼んだりしてるのは混乱に巻き込まれないように
するためだったらしいし。
100 :
日本@名無史さん:03/11/06 22:34
101 :
日本@名無史さん:03/11/15 04:37
>>82>>99 毛利も事前に陶の行動を容認していた(というよりむしろ加担していた)。
これは、吉川家文書等によって明らか。
このへん、毛利家文書では、この前後に陶との間で交わされた文書類を江戸時代に意図的に処分した形跡があるらしい。
102 :
日本@名無史さん:03/12/13 10:31
>>101 大内家の混乱に乗じて平賀(元・小早川)隆保を滅ぼした。
103 :
日本@名無史さん:04/01/01 01:56
あぼーん
105 :
日本@名無史さん:04/01/06 23:53
大内義長と大友宗麟は、大内義隆の姉が母?
大内義長には子がいないの?
>>105 >大内義長と大友宗麟は、大内義隆の姉が母?
正解。
>大内義長には子がいないの?
ぐぐったかぎりでは妻も子供も判明しなかった。
大内や大友にさらに詳しいネ申降臨キボンヌ
107 :
日本@名無史さん:04/01/07 00:47
>>105 大友宗麟の母親は伏見宮家の娘という説もある。
大内義長の母親は間違いなく大内氏の娘。
大内義長には男子がいたみたいだけど、詳細は不明。
名前は介丸とも助丸とも。
108 :
日本@名無史さん:04/01/07 00:54
>>106 大友宗麟の母親は特定されていない
少なくとも大内の方(義隆の姉)ではない
某城藤原某の女というのが有力
晴英(義長)は異母弟
だったはずだが
109 :
日本@名無史さん:04/01/07 01:02
>>107 義長の子は父親より先にどこぞの寺で自害
じゃ無かったかな
親子を別にして豊後に落とそうとしたけど
海を渡れずに(大友の受け入れ拒否)で
海辺の寺で親子別々に自害じゃ無かったっけ
110 :
日本@名無史さん:04/01/07 01:15
大内義尊は陶氏に殺されたんでしょうか?
111 :
日本@名無史さん:04/01/07 01:33
>>110 陶隆房は最初、義尊を当主にするつもりだったが、
方針を変えて、大友家から晴英を迎える事にしたので義尊を処刑した。
112 :
日本@名無史さん:04/01/07 01:40
111さんどもです。
>>107-108 ありがとうございます
やっぱりぐぐった程度の知識じゃ駄目です罠(苦藁)
クルスのチェーンで首釣ってきます。。。
>>113 たぶんチェーンの方がキレちゃうと思うよ。
もったいない。
みなさんありがとうございます。義長と宗麟の関係がよくわからないか。やっぱり
義長に子がいましたか。どっちのしても義長で大内氏滅亡は、動かぬか。
>>115 一応、大内義隆の子孫として豊田氏がいます。
義隆の遺児・亀童丸本義(もとよし)が船で伊予に逃れ、
黒田氏の娘・節姫と結婚して酒造業を営み、
現在でも子孫の方がいらっしゃいます。
ちなみにこの「大内」という苗字ですが、
広島大学の福尾猛市郎先生の研究では
地名やザビエルの残した文書に「オオチ様」と書かれている事から
読み方は「おおち」が正しいようです。
間違えました。
亀童丸じゃなくて幾代丸でした。
問田亀鶴丸と混同してました。
118 :
日本@名無史さん:04/01/08 01:25
どちらにせよ俗説
119 :
日本@名無史さん:04/01/08 01:34
>>118 豊田家には伝来の家系図や家伝なども残っており、
また、大内家と豪族豊田氏のつながりなどもあった事から、
信憑性が高いと思われ、研究が進んでいる。
これまで豊田氏が大内の子孫というのは一族だけの秘伝であり、
菩提寺の住職の薦めによって、資料などを公開するに至った。
120 :
日本@名無史さん:04/01/08 02:47
それが俗説だって。
伝来の家系図や家伝だけでは根拠になりません。
平家の落人伝説と同じ。
121 :
日本@名無史さん:04/01/08 23:16
>>116 大内は、今では「おおうち」と読むけど昔は「おおち」て読んでたってことか。
>>119 初耳なのは、秘伝だったからか。しかし120さんの意見も納得できるよ。
どっちにしても大内氏は、何でマイナーなんでしょう。
義弘、政弘、義興、義隆の生涯を考えると日本史的に重要な役割を果たしていると思うが。
122 :
日本@名無史さん:04/01/08 23:29
やはり教科書でも大河ドラマでもw信長・秀吉・家康が中心になるので
この3人に絡まない大名は影が薄くなる傾向が感じられます
室町時代を通して重要な役割を果たした大名なんだけどね>大内
123 :
日本@名無史さん:04/01/09 22:48
14代将軍足利義栄の母は、大内義隆の娘。大内氏が滅亡していなければ、
足利義栄・大内義隆・三好三人衆VS足利義昭・織田信長が実現して、わくわくかも。
>>123 義栄の母親は義隆の娘ではないと思われます
義栄の父・足利義賢(義維、義冬)は諸説ありますが、
1509年の生まれで大内義隆は1507年の生まれであり、
三好之長の没後、足利義賢が阿波に逃れ、
阿波守護職・細川持隆の妻の妹を妻に迎えた記述があり、
持隆の妻は大内義興の娘なので、
義栄の母親は義隆の娘ではなく、義興の娘というのが有力だと思います。
>>124 サンクス。義栄は、1538年生まれだよ。もうはずかしー。
大内と細川は、応仁の乱で対立関係だったのにいつの間に仲良く
なってんでしょ。10代義植の将軍復権の頃か。大内と山名とは、応仁
の乱後は、ぷっつりなんでしょうか。
いっつも、陶隆房が悪者にされるが、一番の悪者は私達が悪い印象を持たない毛利元就だと思う。
現に元就自身わかっているようで「おれを憎んでいるやつはたくさんいるよ」と話している。
戦国の当時は陶より毛利の方が人気(?)が無かったかもしれない。
やっぱり、儒教の影響で下克上の全否定をした江戸時代に評価が逆転したのかも
しかし、私はそんな悪者の毛利元就が大好きです。
あれっ 大内のはなしだっけ?
>>125 そうでしょうね。
あのころは細川家も高国派と澄元派に分裂していたし。
128 :
日本@名無史さん:04/01/10 00:48
山口県人は毛利氏よりも大内氏のほうが好きそうだ
盆踊りでも大内氏を称えているが
毛利氏を称える民謡、その他は無い
129 :
日本@名無史さん:04/01/10 22:08
>>128 そうでもない。たしかに大内の盆踊りはあるが、山口市内のみでしか踊られて
いないと思う。一方毛利は、踊りはないが地酒の銘柄やもなか饅頭など和菓子類
の土産に名前がついていて種類が多い。
毛利=明治維新のイメージがあるため、大内より毛利の方が知名度が高く、人気
がある。
130 :
日本@名無史さん:04/01/10 22:24
広島人の毛利のほうが人気あるのか。
131 :
日本@名無史さん:04/01/10 23:57
大内氏の出自って今だ決着してないんだよな
自らdでも説を主張すると
逆に自らの歴史を消し去ってしまうって言う典型だな
消してしまうほど恥ずかしい出自でも有るまいに
132 :
日本@名無史さん:04/01/11 21:07
大内義弘が百済の聖明王の第3王子の琳聖太子が先祖だって
いってるやつだろ。ただし、この人物大内氏の文献以外にま
ったく触れられていないのだから、うそだろうな。
133 :
日本@名無史さん:04/01/11 21:36
毛利って少なくとも形のうえでは主家に背いたんだと思うが。
134 :
日本@名無史さん:04/01/11 22:04
>>132 琳聖太子の墓とかあるけど、俺も創作面が強いと思う。
ただ、琳聖太子の一族から嫁をもらったとか、
多少の関係があったのかもしれない
135 :
日本@名無史さん:04/01/11 22:16
136 :
日本@名無史さん:04/01/11 22:19
133ちがうよ。
毛利輝元は大内家の娘を貰ってる。(一度大内に養女と入れてその後毛利に嫁がせる)
だから、陶の専横に反対できる立場だね。
138 :
日本@名無史さん:04/01/11 23:01
そうだね。
139 :
日本@名無史さん:04/01/11 23:19
140 :
日本@名無史さん:04/01/11 23:50
まあ、こういう事はよくある事で、宇喜多がよく豊臣家一門と言われるもの嫁が
(前田家)なんだけど豊臣の養女になって宇喜多に嫁いだからだとおもった。
141 :
日本@名無史さん:04/01/11 23:51
そう考えると、家康よく子供多く生んだよね。
>133
形の上じゃなくて明確に大内家(義隆派)を裏切っている。
まあ個人的には大内氏が毛利氏の主家だとは思ってない。
元就も義隆は主君というよりは盟主という見方をしてたんじゃないの?
143 :
日本@名無史さん:04/01/13 01:09
やっぱり毛利が大内義隆の仇を討つために陶を滅ぼしたという俗説を粉砕すべし。
>>144 先越されてしまったよ(´・ω・`)
>>143 隆元は早くから陶を討つことに熱心で
元就はあまりの力じゃなかった(というより、そういうふりしていただけかも知れないが)
ちう話を聞いたことがある。
ちなみに隆元はこの後大内義隆の菩提寺を建てたりして、義隆とは衆道の関係があったのでは
とも言われているが。。。
陶隆房と吉川元春も衆道の仲。
147 :
日本@名無史さん:04/01/13 17:26
>>145 隆元が義隆の寺を建てたりしたのは、
自分がいかにも忠臣で逆心・陶隆房を滅ぼしたという事を示すため。
秀吉だって、信長の葬式とかやってるでしょ。
148 :
日本@名無史さん:04/01/13 22:19
サビエルが、大内義隆に謁見した時に義隆の男色を厳しく非難したもの
だから、義隆がキリスト教の布教許可をすごく渋ったと聞いたことがある。
>145
隆元の陶討伐ノリノリ話はどうせ「吉田」か「陰徳」だろ?
隆元の山口時代、陶はしょっちゅう人質となっている隆元の家を訪ねて親交を深めているのが史料でわかる。
怪しいもんだ。
>146
お市の方に先越されてえらい恥かかされてたな>信長葬式
150 :
日本@名無史さん:04/01/13 23:32
当時の感覚で言えば
永代菩提を弔うとか葬儀を行なうって言う行為は
正統な後継であるって言う事を
内外に宣言するって言う目的のほうが強いんだな
つまり、『毛利こそ大内の正統な後継である』って宣言して
周囲もそれを認めるって事で
151 :
日本@名無史さん:04/01/13 23:39
朝鮮人の末裔を自称している大内の正統な後継か。
まあ、今でも山口県は朝鮮人が多いけど。
152 :
日本@名無史さん:04/01/14 23:00
大内義隆は、衆道の関係が派手やなー。一体、有名な人では誰と関係が
あったのかな。
153 :
日本@名無史さん:04/01/15 22:29
隆元は、義隆と隆房両方とも関係があったのか
154 :
日本@名無史さん:04/01/17 00:21
古川薫の「失楽園の武者小説大内義隆」を手に入れる、記念age
蟹小説?
156 :
日本@名無史さん:04/01/17 23:09
???
157 :
日本@名無史さん:04/01/17 23:43
陶氏って子孫はいるの?
158 :
日本@名無史さん:04/01/18 00:00
隆房の二人の子・長房と貞明は厳島の戦いの後、毛利との戦いで自刃。
長房の嫡男・鶴寿丸も殺害され断絶。
分家の陶持長(隆満)系とかは残ってるのかも知れないが、
持長自体は陶一族の誰の子か不明。
159 :
日本@名無史さん:04/01/18 01:49
陶一族がすべて大内義隆に反逆したわけでなく、義隆に殉じたものもいる。どっちにし
ても、陶氏は断絶なんでしょう。
陶も大内の庶流だが他の大内庶流の存在が目立たないなあ。
160 :
日本@名無史さん:04/01/20 00:22
大内氏は、戦国大名ですか?教科書とか1560年頃の勢力図しかなくて、1557年
滅亡だから出てこない。1550年ごろの勢力図と差し替えろ!!!!
>160
1550年頃の大内氏の版図って最盛期か?
長門・周防の本国はもちろん、筑前・筑後・肥前・豊前・安芸・石見・備後の一部にまたがる勢力範囲。
162 :
日本@名無史さん:04/01/20 02:24
>>149 毛利本家では毛利と陶の関係を示す文書を意図的に抹消している形跡があるからね。
逆に吉川家に伝わった文書なんかを見ると、毛利が陶の謀反を事前に知っていたのは明らか。
163 :
日本@名無史さん:04/01/20 23:27
>>161 サンクス。しかし、陶の反乱後から義長自刃までの間に急に勢力が、衰退するのは
どうしてだ。
>>162 子供向け毛利元就の本は、ニセ話でFA?
164 :
日本@名無史さん:04/01/23 23:46
大内持世、嘉吉の乱で無念の死でage
165 :
日本@名無史さん:04/01/25 21:08
大内義弘、応永の乱で無念の死でage
166 :
日本@名無史さん:04/01/30 00:38
応仁の乱、大内政弘大活躍age!
167 :
日本@名無史さん:04/02/02 16:40
三戦板の長寿スレなくなったのか・・・
168 :
日本@名無史さん:04/02/03 23:38
>>163 大内のような西日本型の大名の場合
関東や後の江戸時代のような領地支配に比べ
直接農地に根差す郷司、郡司、地頭、国人、豪族
などの力が強く、これら勢力の連合体の代表
と言う側面が強い
だから、これらの層が、もしくはそれらを統合したような
○○党とか○○一揆のような集団が
大内を見限って陶に付くと一気に陶が大内を潰してしまうが
同じように、陶晴賢が討たれてカリスマが消えると
次のカリスマ元就の元に雪崩を打って流れ込み
情勢が一転する
大友や竜造寺島津にも同じ傾向が見られる
169 :
日本@名無史さん:04/02/05 00:40
>>168 なるほどー。大内も早く陶を倒しておけば。ってもう無理だったのかー。
170 :
日本@名無史さん:04/02/08 00:42
172 :
日本@名無史さん:04/02/09 00:25
173 :
日本@名無史さん:04/02/11 14:36
174 :
日本@名無史さん:04/02/11 15:22
>>173 持世には男子はいない。
東北の大内(おおうち)氏は周防大内(おおち)氏とは別の流れ。
斯波氏の家臣・石橋氏の家臣であったと考えられている。
175 :
日本@名無史さん:04/02/11 16:28
177 :
日本@名無史さん:04/02/12 23:12
大内教弘は、盛見の子という説と持盛の子という説とがあるがまだ決着してないのか。
盛見の子の方が個人的にはしっくり行くような気がするが。
178 :
日本@名無史さん:04/02/14 00:50
六角征伐、大内政弘参陣age!
179 :
日本@名無史さん:04/02/18 22:41
大内氏滅亡の遠因は、大内義興の在京10年にありと見る。将軍義稙を奉じての
上洛であったが、その10年間は結局のところなんら大内氏とって得るものはなか
ったと言える。義興山口不在の間に、尼子氏の勢力拡大、財政事情の悪化したこと
である。義興が上洛しなければ、尼子氏をたたき毛利なんかも目が出なかったであ
ろう。という妄想をしました。
180 :
日本@名無史さん:04/02/22 22:12
もし、大内義隆が尼子征伐に成功していたら、晴持は死なずにすんだが次の家督は
どうなったのでしょう。やっぱり実子の義尊の方がいいな。晴持は、土佐一条氏の
出身だからだめだめだもんな。
>142
戦国時代は主君というより盟主みたいな感じだったんでは、
上杉氏が良き例だ、内乱が多発したのは主君だったらそんなに
おきてない。
mL( ^∇^ )グッチャー!
183 :
日本@名無史さん:04/03/02 11:38
>>180 大内晴持はかなり義隆に気に入られていたみたい。
学問・芸能・音曲だけでなく、武芸もできて家臣からの信頼もあった。
義隆はその死を悲しんで、将軍・義晴に頼んで、
晴持に「義」の字を与えてもらい、「大内義房」として供養した。
晴持が亡くなってなくて、義尊が産まれてたら、
たぶん、離縁されて土佐に帰っていたんじゃないかな?
あるいは、分家を継ぐとかも考えられるけど。
184 :
日本@名無史さん:04/03/03 00:45
晴持の晴も義晴からではなかったかい。
185 :
日本@名無史さん:04/03/03 01:08
1条氏がなんでだめななの?
秀吉の四国遠征後、長より格上の扱い受けてますが?
186 :
日本@名無史さん:04/03/03 14:13
↑
なにそれ?詳細キボンヌ。
っていうか、大内家の家督問題に、
何で長宗我部と一条の格の上下が関係するのかよーわからん。
>>184 同じ義晴の字でも、「義」と「晴」では価値が違う。
「義」は足利家代々の通字で、「晴」よりも価値が高い。
そのため、義隆は改めて義晴に「義」の字をくれるように頼んだ。
188 :
日本@名無史さん:04/03/03 21:22
なぜ最初のときは「晴」をもらったんだろう??
大内氏は義興、義隆と2代続けて「義」をもらってたのに。
養子だから、義隆に実子が生まれることも想定して、
権威付けが中途半端になったってことだろうか。
189 :
日本@名無史さん:04/03/11 23:15
大内晴持 20歳で没。当時のことだから、正室とかがいて子供もいておかしくないよう
な気がするがいないで正解?
190 :
日本@名無史さん:04/03/21 20:14
大内義興の子供
義隆
弘興(早世した?養子として貞盛がいるがこれも詳しくは不明)
土佐一条房冬室(義隆の養子になった晴持の母)
大友義鑑室(義隆の養子になり陶晴賢の傀儡政権の当主義長の母、宗麟の母とも?)
吉見正頼室(吉見広頼の母、のちに広頼は、毛利隆元の娘を娶る)
細川持隆室
足利義冬室(14代将軍義栄の母)
内藤興盛室
191 :
日本@名無史さん:04/04/04 21:01
hosyu
192 :
日本@名無史さん:04/04/04 21:19
大内氏が李氏朝鮮に朝貢していたとなると、
戦国期に大内氏の領域だった地方は韓国に返還するべきなのか?
193 :
日本@名無史さん:04/04/04 21:39
あたりまえでしょう。
山口県は全国でも有数の在日朝鮮人滞在者が多く、
日本からの割譲は問題ありません。
大歓迎です。
韓国軍の駐留を即刻認めるようにお願いします。
大内義隆の子供
晴持(土佐一条房冬の子、義隆姉の子)
義長(大友義鑑の子、義隆姉の子)
義尊
問田亀鶴丸
女子
195 :
日本@名無史さん:04/04/21 23:15
>>196 義隆とともに長門国大寧寺に眠る。享年15歳。
198 :
日本@名無史さん:04/04/30 22:50
あげ
199 :
日本@名無史さん:04/05/01 00:07
大内氏は傍系も残ってないの?
200 :
日本@名無史さん:04/05/01 00:27
>>192 じゃあ、日本を中国に返さなきゃいけないね
対馬や琉球などはなおさらだ。
202 :
日本@名無史さん:04/05/20 15:40
203 :
日本@名無史さん:04/05/23 18:14
>>115 推測だが、厳島の戦いの前年に宗麟の叔父で実兄・義鑑に反して肥後で自立していた菊池義武が宗麟に討たれている。
義長が大内の旧臣を集めて「第二の菊池義武」にならないとも限らないから、その芽を摘んだのでは?
大友宗麟って冷たいよな。こいつも晩年には、秀吉に助けを求めているからざまーみろ!
205 :
日本@名無史さん:04/06/12 00:51
保守新党
206 :
日本@名無史さん:04/06/12 11:03
楽勝だな!
 ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧
∧∧ ∧∧ ( ´Д`)
ミ,,゚Д゚彡 ミ,,゚Д゚彡/"ミ━━━──( ───
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| | | |
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| (__)_)
|
|
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| 川川川川川川
| ∧_∧ ○ ∧_∧
|(´Д` ) と⌒⌒つ´Д`)つ
|( つ
| || |
|(_(__)
|
|
フサ山砦の戦い
207 :
日本@名無史さん:04/07/02 01:02
あげ
208 :
日本@名無史さん:04/07/28 22:56
保守新党
209 :
日本@名無史さん:04/07/28 23:27
陶晴賢もやっぱり朝鮮人なの?
名前からして怪しいけど
210 :
日本@名無史さん:04/07/28 23:51
ウチも大内氏の子孫らしいです
自慢するようなことでもないので
ひとに言ったりもしてませんでしたが
今では逆に知られてはまずいとすら思うようになりました
(ほかの大内氏の子孫の方、ゴメン)
212 :
日本@名無史さん:04/07/29 12:09
213 :
日本@名無史さん:04/07/29 15:34
>>209 陶氏
周防国吉敷郡陶邑発祥、多々良氏大内氏流。ほか美作菅家党、陶津耳(和泉)など。
この当時の人間の先祖をとやかく言ってもしょうがない。
日本の有力豪族・土豪の祖先の大半が帰化人に関わっているし、関東の源氏・平氏なんて
百済などからの移住民が天皇家関係者を自分たちの棟梁に迎えることで
「源・平」を称しているのだから。
214 :
日本@名無史さん:04/08/08 08:21
山口重政
215 :
日本@名無史さん:04/08/08 08:41
陶氏って朝鮮人だったの?
216 :
日本@名無史さん:04/08/24 23:22
>>215 今までこのスレの何を読んできたのか…。
217 :
日本@名無史さん:04/08/24 23:24
陶晴賢朝鮮人
218 :
日本@名無史さん:04/08/24 23:26
陶朝晴鮮賢人
219 :
日本@名無史さん:04/08/25 02:26
大内氏は朝鮮・百済人の子孫
大内氏が滅んでから、山口は日本で最も人工が少ない県庁所在地になりました。
山口は下関、もしくは徳山、岩国方面のほうが栄えています。
221 :
日本@名無史さん:04/08/28 20:31
山口では関東出身の毛利は人気ないけど、
朝鮮由来の大内は大人気。
222 :
日本@名無史さん:04/08/29 21:55
うそつけ、毛利の方が圧倒的に人気で大内の事なんか誰も知らん。
223 :
日本@名無史さん:04/08/29 21:58
ヤフーなど世界のポータルサイトが「平壌(ピョンヤン)は約2000年間、中国の植民地だった」という内容を掲載したのに続き、
歴史チャンネルの「ヒストリーチャンネル(www.historychannel.com)」や百科事典の「ブリタニカ」など
世界的なインターネットサイトも同様の内容を掲載したと、サイバー外交使節団「バンク」が29日明らかにした。
同団体によると、「ヒストリーチャンネル」は説話を引用し
「平壌は紀元前1122年に中国商王朝の子孫によって誕生した都市で、平壌付近には都市の伝説的設立者である中国学者の箕子の墓がある」
とし、「紀元前108年に平壌は中国の植民地となり、文化の中心地になった」と説明した。
また、「ブリタニカ」と世界最大の情報ポータルサイト「インフォプリーズ(www.infoplease.com)」は、
豊臣秀吉の領土欲と日本国内の政局不安のため起きた「文禄の役」の原因について
「征明假道(明を征伐するため朝鮮の道を借りる)のため」と歪曲したと指摘した。
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/08/29/20040829000047.html
>「征明假道(明を征伐するため朝鮮の道を借りる)のため」と歪曲したと指摘した。
え?ちがうの?
>>224 違わない。
秀吉は、既に朝鮮を支配下に置いたつもりだったから。
そういう「事実」を認めたほうが「秀吉は傲慢な悪人だった」と、
ますますもって主張できると思うのだが・・・
226 :
日本@名無史さん:04/09/12 10:07:04
>>221 >山口では関東出身の毛利は人気ないけど、
>朝鮮由来の大内は大人気。
毛利は(関東→)広島からやってきたからね。
それと大内が朝鮮系というのもほんとは何も分かっていない。
地侍の大内が力をつけてきたのは、源平合戦で源氏に寝返った
時からだから。大内の主張は
百済からの亡命者→都→下級役人として周防→土着
→源氏でないが他の寝返り地侍と同様に源氏に優遇される。
227 :
日本@名無史さん:04/09/17 09:57:19
百済からの亡命者が来た時代は唐・新羅と日本は緊張関係にあり、
亡命者が日本の一地方に簡単に居座り、その地を支配するなどと
いうことは100%不可能。そんなことをしたら中央政府が出て行く前に、
地元の人間や東国からきている防人(さきもり)たちがただちにせん滅する。
防人はそのようなことのための軍事組織。(防人たちは日常は田畑を
耕していたから、領地にも敏感だった)
義隆の約してた風間トオルだっけ?
けっこうよかった、何年か前の話になるけど
義興の約してたの細川俊之だっけ?けっこうよかった
230 :
日本@名無史さん:04/09/20 20:10:32
231 :
日本@名無史さん:04/10/05 22:08:22
10月上げ
232 :
日本@名無史さん:04/10/05 22:11:35
陶晴賢朝鮮人
233 :
日本@名無史さん:04/10/24 07:48:18
弘中隆兼は名将だぞ
>>220 >大内氏が滅んでから、山口は日本で最も人工が少ない県庁所在地になりました。
滅ばなくてもそうなってた可能性が高いけどな。
戦国後期をみればわかるように大都市は商業の栄えやすい沿岸に移っていったわけだし。
大内が続いててもいずれ流通の便の良い沿岸に移っていったと思われ。
>>227 唐&新羅と緊張関係にあっても、百済が友好国であれば請け入れる可能性はあるだろ。
朝鮮戦争時プサンまで押し込まれた韓国に対し、日本政府が萩辺りに亡命政府&亡命者受け入れ用地を
準備してたように。
236 :
日本@名無史さん:04/10/28 22:12:54
>>235 あんまり出鱈目を言わないほうが良いですね。
朝鮮戦争時腐るほど朝鮮人の密入国があったのは地元では民間伝承的に
言われていることですが,古代に受け入れ用地を用意したという文献なり
根拠なりを示していただけないですか。せいぜい一部が坂東の地に開拓せよ
と追いやられただけでしょう.
>>236 おまえ読解力ないなw
>>235は古代に受け入れ用地を用意したとは書いてないんじゃね?
朝鮮戦争時受け入れ用意をしたように、友好国なら請け入れる可能性があると書いてあるだけと思われ。
239 :
日本@名無史さん:04/10/30 03:04:05
>>237 おまえ読解力ないなw
2ch風に おまえもなー(笑
そう あたしはちゃんとした根拠と論理と遺物と文献がある
ことを前提にしか考えられないから
おまえ(237)は論理がないから読解力あるよな(笑
ありえない可能性なんて過去の史実には無用
史実だけが歴史だと思うよ
講談ならべつだが
言っても無駄か あんたには難しいかなー
240 :
日本@名無史さん:04/11/18 01:09:00
なにを言う
241 :
日本@名無史さん:04/11/18 10:40:03
大友晴英萌え
243 :
日本@名無史さん:04/11/19 00:13:21
スーパーおおうち
244 :
日本@名無史さん:04/11/19 11:09:21
あっ、ごめーん。ついさっき滅ぼしたよ。太閤立志伝で。
245 :
日本@名無史さん:04/11/19 13:03:32
>>235 大内氏の出自で盛り上がっているけど
大内氏の前身は、京都から派遣された
下級の在庁官人、多々良氏。
これは文献が多く残っている。
その周防の在庁官人だった多々良氏の中の分家が
南北朝時代の混乱期に
足利氏に採り立てられて、周防の守護職についた。
それが大内氏である。
大内氏の百済王が周防に漂流して勢力を
拡大したという伝説は完全に嘘である。
これは、対朝鮮貿易で有利に進めるためのもの。
大内氏が創作した系図は、年数からいって一致しないし...
246 :
日本@名無史さん:04/11/20 00:37:25
>>245 >大内氏の前身は、京都から派遣された
>下級の在庁官人、多々良氏。
詳細キボンヌ。いつごろの、何つー人?
247 :
日本@名無史さん:04/12/02 23:08:39
多々良氏の前身は何者?
名前からすると多々良って渡来系だな
大内氏最強!
250 :
日本@名無史さん:04/12/23 02:26:28
>250
小学生のとき、多々良って大和朝廷で製鉄関係に長じた渡来人って習ったような?
大内氏は李氏朝鮮に朝貢していた!
253 :
日本@名無史さん:04/12/23 21:21:03
多々良は朝鮮人。大内は李氏朝鮮の臣下。
幕末に長州が割拠をとなえ日本からの分離・離脱を謀ったのは偶然ではない。
254 :
日本@名無史さん:04/12/25 12:23:42
多々良は踏鞴(つまり鍛冶で火勢を強める器具)が変化したもので
鍛冶技能を持った渡来系というのが俗説。周防の多々良氏は多々良ヶ浜に
本拠を持った陶が鎌倉期以後に地名から取った氏なのでほとんど関係ない。
在地の国人というのが地元の定説。周防は皇族の直轄地で(実際は東大寺
の運営費としてそのまま委任。)御家人とかが入れなかったので御家人系の
大名ではないだけ。多々良ヶ浜の語源だがこっちは踏鞴じゃなくてなにか
布関係の古語に由来するらしい。地元のケーブルテレビが特集やってたが
これも租庸調時代の特産物関係。あと肝心の大内だがこれは長門の内藤氏
(内大臣やってた藤原氏)の変化で長門に進出した多々良(陶)が幕府系の
厚東氏を倒すのに連携したのが始まり。名目上東大寺系の陶だとまずいので
(武家と対立した東大寺が焼かれる事件が源平時代に本当にあった)大内が
表立って使われることになる。余談だが陶が謀反に踏み切った原因の一つに
東大寺領(名目は天皇領)横領だから返せという大内側近の具申があったと
いう。後の毛利が朝廷に多額の献金をしてるのも周防領有で権益とかそういうのも
当然込み。
255 :
日本@名無史さん:04/12/25 20:55:29
大内つまり多々良は百済出身の朝鮮人だろ
こいつが朝鮮貿易を独占できたのも朝鮮人だから
??????????
>>地元の定説
てのにワラタ
258 :
日本@名無史さん:04/12/27 21:42:29
age
259 :
日本@名無史さん:04/12/28 20:59:19
苗字が大内ですが、西日本には親戚がいません。
ということは有名な大内氏ではないんだろうから
ちょっと残念だ。
260 :
日本@名無史さん:04/12/28 21:38:30
>>259 西日本の大内氏じゃないということは、
チョソじゃないということ。
喜べ。
陶一族はチョン?
262 :
日本@名無史さん:05/01/13 20:20:02
ぶっちゃけ土師氏ですよ。陶もその一族。後の時代に半島系の陶器職人が
流入したから勘違いされがちだけど土師氏時代は須恵器(弥生式土器っぽい
神棚とかにあるアレ)系で全然系統が違う。上薬とかなし。陶って姓も須恵から。
土師氏は、朝廷とわりと関係がよく、一族から菅原家とか出てる。
菅原道真とかも土師氏一族だから防府に天満宮があったりするのは
そういうこと。
263 :
日本@名無史さん:05/01/13 22:04:35
>>262 ソース希望。
何で随分時代が下ってから、分家筋がわざわざ「陶」を称したの?
264 :
七氏:05/01/13 22:05:57
毛利も土師氏だったのね・・・
毛利の場合、そもそも大江広元の流れを汲んでるってのが胡散臭いけどな。
268 :
日本@名無史さん:05/01/17 23:42:32
大江は、鎌倉時代初期に武家についた公家だから
大抵の御家人と縁戚を結んでるよ。安芸は重要拠点だから御家人系が
結構赴任してるので間違いみたい。守護にしても武田だしね。
土師氏は渡来系か微妙です。かなり土着っぽいけど須恵器とか神道
(後世のそれと違ってかなり供え物っぽい感じなので器が重要)で
皇室に仕えてた一族。時代が下って鏡とかが神器になると重要度が下
がってあんまり中央では振るわなくなりました。渡来系にしても蘇我とか
よりもかなり古い一族。秦や物部くらいなので。陶も一応、物部説ある
んでその辺かなり混じってると見て間違いないかと。周防の国は、皇室
の直轄地だから古来の氏族がそのまま名乗ってたりしました(武家が入って
くると通常そっちを名乗るんだけど)。東大寺運営用に天皇家が委託して
るから藤原(大寺院とは争わない)とかも入っていないですし、古い氏族が
そのまま残ったわけですね。戦国期の陶は、防府、周南を拠点にしてたから
ほぼ土師氏系で間違いないです。多々良(秦との説も)も須恵も基本的に
周防では、土師氏と姻戚結んでますから。今の天満宮が土師の拠点でここと
関わってない豪族は考えにくいです。室町期は、もう神道混合で阿弥陀や
修験とか混じって土師氏自体の氏族結束自体が低いから陶のように地名その
ままを名乗ってる方が多いですけど。(武家社会は土地所有の主張も兼ねて
その土地の名前を大抵名乗る)
, ' , ' f | l ', ヽ. ,' __ノヽ、_ノヽ_ノヽ_ノヽ、_ノヽ_ノヽ
. / ./ {. { j , } .! / )
,' ,' i ヽ、,\-┘ '-y、 i |, ' <
! , ! ! ./,, ==ゝ、 _ノ__,ヽノ 丿 i ! ! そこぉぉここ大内スレですよー!
t | t ヽ、/ '' 〃_)i. ` ´ rf´)iヾ,ヽ/ 丿ノ 丿
. \ t. ゝ-v’ { i、リ! |f_j| ,'_ / ´ ∠__
` ‐- !ゝf ‐、 -‐‐' ヽ .ヒタ .fノ ヽ,.-‐- 、,. -‐-、,. -‐- 、,. -‐-、,. -‐- 、,. -‐-
', l } .:::::::::. ,〜-┐ .::::::. }| ヾ、
l ゝ、_` / l ,.' ! }.} 、
ノ _. \ { ,' , イ ヽ ノノ 丿!
t ‐--‐' / `/"ヽ` 、 ヽ - ' _,-'⌒!`` =' '‐-‐' l
` ‐-ッ' ./ { .∧ ` ー ',-' !`i ヽ ノ
そもそも須恵器は半島伝来だし、土師氏は渡来系ってのが普通じゃない?
271 :
九州人:05/01/18 01:53:21
福岡県に「陶」という苗字の人がいました。
でも「すえ」ではなく、「とう」と読むそうです。
あと、九州大学の国史科では豊後守護の「大友氏」を
「おおとも」ではなく、「おおども」と呼んでいます。
>>270 しつこいよ。268への具体的反論はないのか?
土師氏は新撰姓氏録では神別氏族。帰化氏族ではない。
これを信じられないという証拠でもだせるのか?
通説でも渡来系とはいわれてないのに
藻前ごときが覆せるとは思えないが?
273 :
日本@名無史さん:05/01/18 02:57:53
通説では土師氏は百済系のチョンだよ
何故切れ気味w
少なくとも、268は渡来については否定も肯定もしてないと思うが
正直古すぎて分からないですから。風土記とか残ってれば
そのへん分かりそうなんですけど・・・周防は、古代重要拠点です
から大和政権を構成していた主立った氏族が軒並みそろってます。
防府に居着いたのが土師氏。防府は交易拠点だったんですね。
沿岸航海で行くと瀬戸内海では、伊予と周防、厳島辺りがかなり
重要となります。日本海側だと出雲が大きいけど。ちなみに長門
とか筑紫辺りは、大和政権の分断地帯です。周防から豊後の方が
むしろ結びつきが深い。おそらくコレは、反乱とか筑紫の有力氏族
が大和と拮抗もしくは、従順ではなかったからだと。太宰府に赴任が
左遷扱いなのもこの辺に理由があると思われますし。仲哀天皇時代
は、ここに最前線を築いたとかここまで敗走したとか死んだとか予言
無視して呪われたとか、物騒な伝承も残ってたりします。記紀では
違うことになってますけど。土師氏は兵站やっていたみたいでその関係
で神領の司になったみたいです。阿蘇宮司や宮島宮司とのつながりも
古代から(もっとも神社が流通を担うのは座や講となって江戸時代まで
続く)で陶と大内の反目の原因になった相良も肥後のあの相良です。山口
に仕官した理由が、阿蘇宮司の選定絡みだし・・・。
交易を担う一族なので渡来系の逸話が付いたりしますが・・・俗説レベルで
正直根拠がほとんど無いです。頼山陽が大内と陶の評価で王の末裔を
名乗ったってのを茶化している部分が後世の俗説根拠とも言えますが
これは、ほとんど皮肉の類なので。あと土師が百済系というのは、あまり
信憑性ないです。どちらかというと非仏教の方(物部と混同した伝承がある
のはおそらく廃仏側だから)で蘇我以前の渡来か土着でしょう。仏教とセット
になって渡来系が隆盛を誇りますが、中臣が蘇我を排除して以来その流れが
変わります。周防は、渡来系豪族の持ち込んだ仏教を廃した国分寺、その
発展系の東大寺が入ります。
276 :
日本@名無史さん:05/01/18 22:14:20
っていうか、「陶」だから土師氏系だとか、防府、周南を拠点にしてたから 土師氏系だって・・・
何で分家筋の一家に過ぎない陶を基に大内の出自を語るわけ?
源氏の一族に「新羅三郎」がいたからという理由で「源氏は新羅出身だ」、というようなものだ。
庇を貸したら母屋まで取られちゃったような話だね。
>古い氏族がそのまま残ったわけですね。
>多々良(秦との説も)も須恵も基本的に周防では、土師氏と姻戚結んでますから
ネタじゃないんなら、土師氏を中心に、周防国内の古い氏族の歴史を是非語ってみてください。
277 :
日本@名無史さん:05/01/18 22:48:06
後世になって土師が勢力を増しましたけど、久米、竹内、葛城系も多いです。
後の桂とか宇津美、真鍋の一族。その辺そのまま残って神功皇后伝承とか
残してます。記紀によると半島に出征したことになってる氏族ばかりの
ような気もしないでもないけど・・。案外九州辺りへの遠征を三韓征伐
とかに置き換えてるのかもしれないです。(なんか負けたとか託宣を無視
して死んだ天皇関連が多いので古代史やる人は注意。)託宣関係は、宇佐神宮
とか妙に力を持ってますが、これは託宣を無視して横死(となっている)
したという逸話から繋がる話です。(八幡宮系から軍費を調達したからその
経済面での影響を受けていたという説もあるんでもっと現実的だったかも
しれないけど)
大内は、長門の内藤氏ですよ。非源氏の藤原系。長門の厚東氏
を倒して勢力を拡大。今川の九州戦に従軍し実利を得て九州、西日本に
絶大なる影響力を誇ることに。陶は長門、周防の周防を本拠に勢力を
持った土着の一族。大内と縁を結んでその軍団主戦力となったが・・・
結局大内を滅ばす元にもなったのは皮肉。
278 :
日本@名無史さん:05/01/18 22:51:20
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l::::'´l、` `ー'′ `ー’ ´,!: ̄l:!
!::::. :l_,、 .,r‐、 /l :::::l:l おうっち
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. !:!::.: l::::i::::::i` ー-‐ '´i::::i::::l : :::l::i
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/ :. .i:i ! .`、:;:;`ー'´:;/ .l:l'i. :::l .; .i,
279 :
日本@名無史さん:05/02/05 22:53:38
大内はチョソ
281 :
日本@名無史さん:05/02/06 16:16:40
山口県人なのですが、このスレを読んで不安になりました。
山口県の朝鮮人混血率は何%くらいなのでしょう?
282 :
日本@名無史さん:05/02/06 18:33:39
日本全国で1割くらい。神戸、大阪が多めで3割くらい。コリアタウンは別ね。
283 :
日本@名無史さん:05/02/24 00:01:33
1割もいるの?
保守新党
285 :
日本@名無史さん:05/03/17 22:46:47
大内はチョン
286 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 23:56:23
そういえば、大内政弘が応仁の乱で、援軍にいかなければ
・・
287 :
日本@名無史さん:2005/04/05(火) 11:01:17
288 :
日本@名無史さん:2005/04/06(水) 00:16:47
細川方が勝っておったろうな。
289 :
日本@名無史さん:2005/04/06(水) 23:46:32
大内氏は、細川氏と交易の利権で対立してから衝突は
避けられなかっただろうよ
いまの半島がウザいってのはわかるが、
2千年とか前に来たのまでどうこう言ってるのは病気だな
291 :
日本@名無史さん:2005/04/07(木) 09:04:44
うん
292 :
日本@名無史さん:2005/04/07(木) 10:35:01
>>290 骨髄調べたら
韓国人のほうが
外部からの混血が
激しかったりする。
なんというかW
293 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 09:11:28
覆う津
294 :
長州藩閥の巨頭:2005/04/09(土) 21:06:00
お前ら、多々良ってタタール人のことだよ。
韃靼ともいう。
あと「たたり」の語源ともなっている。
ちなみにタタール星人はウルトラ・セブンな・・・。
ちうことはタルタル・ステーキとかタルタル・ソースの語源もそうか
297 :
大内塗り高い・・・:2005/04/10(日) 04:11:49
室町時代の周防山口(現・山口県山口市)は
当時では最高の人口10万を超え西の京都「西京」と呼ばれ繁栄した。
298 :
日本@名無史さん:2005/04/10(日) 13:22:04
蹈鞴じゃなくて多々羅織りからきてるから
あんまり渡来系とは関係ないそうだよ。
防府は交易拠点だから織物が古代集められた
場所だったわけ。古代は租庸調で庸は、つまり
布納付だったわけなのね。鉄器とか陶器は
出雲が主。時代が下ると瀬戸内海経由が
多くなるみたいだけど。調で須恵器を防府も
扱ってるから蹈鞴じゃないかって説もあるけど
このへんはハッキリしない。鉄器と違って
須恵器は蹈鞴使わないのよ。鋳銭司とかで
鋳造が始まった例あるからこっちが語源なら
蹈鞴説の有力な傍証になるけど。
宇佐とか厳島、出雲とかもそうだけど集積場は
古代では、かなーり重要拠点。防府は土師氏が
押さえてたから基本的にお金持ちなのよね。
ちなみに宇佐は秦氏。秦はハタ、機織りのいハタね。
そのへんで秦とか土師(菅原)とかは影響力が大きい。
299 :
日本@名無史さん:2005/04/10(日) 19:47:30
大内
._______ ___.___________________________
_,/___,.-‐'''" ,.-‐''"ヽ:|三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三 / / / 三|
// 'フ;;:::'' / ,/ |:|三 y. ,.-'/;;;:::::: 三三三三三三三三三三三三三三./ / /.====|
_,/.../ /..,.-''".................,ノ:|三 ,ゝ´ .ノ;;;::::::: 三三三三三三三三三三三三三 ./ / /.三三三|
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[;;] ! (・∀・ ) |[;;] |.| ,!|l .l |.:|三三三 ノ 」 _ノ ノ 」 ノ.レ .|.乂 / / / 三三三三三三|
ヽ| っ⌒'と ) l[;;]_! !-‐'''"~ |~~ ! |三三三三三三三三三三三三三三三 / / / 三三三三三三三|
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|‐-.,ニニニニ,.-‐y!l__/ /⌒ヽ;;;;;;;//⌒ヽ;;;;i、-ヾ---o----,、ヾi;;;;;;i;;;;;;;;;;;;;;;;iヾ. /__//⌒ヽ.ヽ‐!;iー――'
! ̄= [二] = ̄~ !二二|」;i ($).i二tiii ($).i;;;;|三||三三三三三||三三三三三||三;;;;;;|ii ($).i;;;;|二二二l]
 ̄ ̄ ̄ゞ;三ノ ̄~ゞ;三ノ''ゞ_,ノ 'ゞ_,ノ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ゞゞ;三ノ ̄ ̄ ̄  ̄ゞゞ,_ノ ̄ ≡3
すいません、ちょっと
>>300取りますよ。
301 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 19:09:32
おめ
302 :
日本@名無史さん:2005/05/03(火) 01:18:02
当時、朝鮮は日本の支配下にあったからな。おそらく大内氏も百済あたりを自分の領土として支配していた可能性が高い。
303 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 21:59:52
んなわけねえだろ
304 :
日本@名無史さん:2005/06/02(木) 23:29:13
んだな
305 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 16:06:07
大内義興上洛上げ
306 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 16:16:56
なーにが大内だw
コイツのせいで山口市みたいな辺鄙な盆地が県庁所在地になって
しまったんだ。
307 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 16:23:03
>>306 萩よりいいじゃん。
毛利が幕末に萩から山口に政庁を移したのは賢明。
下関に移せなかったのが痛いところだが。
308 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 16:27:39
309 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 16:28:54
下関は下関でなんかイヤだけどw
どーせなら徳山か防府当たりが良かったな。
310 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 20:44:48
中世以前の古都は、津波とかおそれてどちらかというと
盆地に作られていた。
津波を恐れた!?
歴史の古い氏族は、海の近くに都を置かない。
高潮や津波で大被害を受けた歴史を紡ぐから。ノア伝説とかもろ
そのフォーマットだけど。
単に内陸で田んぼ耕してたからその傍に都作っただけ。
ノア伝説って・・・中東だし。
つーか、難波に都作ってたし。
地震と高波であっさり遷都したけどな・・・。清盛時代も似たような理由で頓挫
聖武天皇のケースはもともと動揺してあっちこっちにふらふらしてたし
清盛のケースはもともと総スカン状態だったから還都しただけなんだけどな。
で、高波って?
つーか、なんで懲りずに何度も何度も海沿いに都作ったんだろ?
難波、難波、福原、大坂、江戸、東京・・・。
実際津波で都が被害を受けた、なんてことあったの?
日本神話で津波に絡みそうな話といえば、海幸山幸とか?
317 :
日本@名無史さん:2005/06/21(火) 22:21:49
地震国だから定期的に大被害を被る。で懲りて内陸に移動するのね。
中世の場合は、海賊とかそういう理由もあったらしいけど。
318 :
日本@名無史さん:2005/06/21(火) 23:31:07
地震はしばしばおきるけど、畿内で津波が起きて大被害、などという話は聞いたことがない。
ただ単に、商業が発展途上で
海上交易が盛んではなかったからでしょう。
ノアって津波じゃなくって洪水だろうに。
ってつっこみはヤボ?
実際は海だそうです。中東らしいので。
322 :
日本@名無史さん:2005/06/23(木) 23:29:31
モーゼが海を割った話も、津波前の引き潮と津波の暗喩ではないかという解釈も。
ノアの箱舟伝説はギルガメッシュ伝説を元ネタにした洪水の話だよ。
チグリスユーフラテス辺りの氾濫の記憶から作り出されたものだろう。
何で津波にこだわってるの?
洪水とか、火山とか他にもいろいろありそうなものだが。
でも、そういう理屈だと、
洪水の記憶・・・川岸に住めない
火山の記憶・・・山の麓に住めない
旱魃の記憶・・・川から離れたとこに住めない
落雷の記憶・・・高いとこに住めない
親父の記憶・・・親と一緒に住めない
ってな事になってしまうと思われ。
それが密教や天神信仰の元になってる。火の神も。
津波は、全部なので神仏では無理。
また頼らなくいても遠ざければ100%回避可能というのがポイント。
ぐぐった。日本書紀に記録されている、最古の津波は684年らしい。
もし684年以前の日本人が津波を知らなかったというのならば
当然都の所在地選定に津波を考慮することはないだろうし、
知っていたとしても、それ以前の数代の天皇が沿岸部に都をおいている。
津波の存在を知っているはずの684年以降、現代に至るまで、沿岸部の都は避けられてはいない。
ということで、津波は都選定に大した影響を及ぼしていない。
そもそも幕末の藩庁移転の話だったんだがな。
>>324 地震の記憶・・・日本に住めない
を追加してくれ
329 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 13:40:25
実際は、国防上の問題でしょう。海上から襲撃されたら
終わりなんだから都を内陸に設定するのは、当然。
330 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 14:57:16
どこの誰が襲撃してくるの?
331 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 15:37:09
大内氏が健在だったら、西京は大都市になってただろうな
筑紫、海賊、隼人、大和朝廷は、隼人の援軍で電撃的な勝利をおさめたという逸話もある。
・・・陸路とは思えないので普通に海路から強襲上陸で奇襲だろう。兵員の大量輸送は、
古代であっても海路なら可能。
隼人がはるばる摂津や河内を急襲?
おいおい、無理ありすぎだろう。
334 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 22:42:54
隼人は、何かある度に出てきて大戦果をあげてかえっていくよ。
楠木だか新田とかの大将を討ち取ったり異国の水軍総督を倒したりもしたそうな
??????
変なスレだ。
336 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 21:41:38
遠くから歩いては来ないよ。
337 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 06:26:22
人間の移動は徒歩が基本だよ。
走ったらなおよい。
338 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 20:47:44
船に乗っていくともっと早いからな。時間が短縮できれば食料とかも
少なくて済むのでいいことだらけ。
339 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 21:12:20
で、隼人はどこを船で襲撃したの?
340 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 22:41:51
湊川じゃなかったっけか・・・
341 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 23:28:46
隼人は援軍だよ。そのインパクトで敵は、仰天して戦意喪失。
大和朝廷は、大戦果をあげたことを顕彰してなんかそれに関連する
行事とかをずっと
続けていた
何の話してるか全然分からんのだが。
新田、楠木、湊川、異国の水軍総督って、島津か?
それとも単に九州人を隼人として一括りにしてるのか?
ネタにはしってるとしか思えん。
343 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 08:57:16
隼人は海彦系だから。神話時代から大和=山彦と関わりが深い。
海彦が従って山彦がって流れ。葛城は、摂津と大隅にも氏族が
いるからどっちかの伝承が混ざったと思われ。
大和に伝わってるのは、摂津、畿内の方だと思うけど。
344 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 09:57:29
>>343 あなたの言ってること訳ワカメ。
神話では隼人は海幸彦系になってるけど、だから何がどうするのかわからない。
山彦がどうするって流れかわからない。
なぜ葛城が出てくるのかわからない。
海幸山幸伝説は葛城氏の伝説だと言っているようにも思える。
何と何の伝承が混ざってどうなったというのかわからない。
大和に伝わっているのは摂津、畿内の葛城の伝承ということか。
でも葛城は孝元天皇の子孫だとされていたはずだけど。
深読みすると、本家筋の皇室では海幸山幸伝説は忘れ去られ、後世になって葛城一派によって
再び皇室の伝承に加えられたと。
あーわけわからん
隼人が畿内に連れていかれて門番させられたことを言ってるんじゃねーの?
346 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 11:04:47
大内氏は出雲族(北方騎馬民族)の末裔だろう。
出雲=韓国人ということでいいのかね?
348 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 12:29:11
倭(九州)は一環して漢と通交していたが出雲と統一してからは
一気に半島色が濃くなる、これは出雲が半島系だったからに他ならない。
349 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 12:41:27
出雲は漢にも一切使い送っていない、にも関わらず本州に着々と
領土を広げた。倭(九州)は何度も何度も漢に使者を送っているのに
出雲は韓に使いを送った。
351 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 18:14:36
スレちがいな話題が多いなぁ・・・
352 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 18:16:12
陶晴賢って朝鮮系なの?
大内自体が韓国系
百済王はいつから朝鮮系になったのだ?
355 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 23:39:09
朝鮮最高あげ
356 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 23:43:03
358 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 19:05:30
一字姓だし、焼き物がらみの姓だし、いかにもって感じだな。
360 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 19:24:09
ま、大内からしてチョンなわけだが。
361 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 19:29:56
192 :日本@名無史さん :04/04/04 21:19
大内氏が李氏朝鮮に朝貢していたとなると、
戦国期に大内氏の領域だった地方は韓国に返還するべきなのか?
193 :日本@名無史さん :04/04/04 21:39
あたりまえでしょう。
山口県は全国でも有数の在日朝鮮人滞在者が多く、
日本からの割譲は問題ありません。
大歓迎です。
韓国軍の駐留を即刻認めるようにお願いします。
362 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 19:30:06
_ __
. /.:.:.:.:.:.:.:.:.:.\
. /.:.:.:.:.:.:.:.:.:ハ:.:ト.:.:ヽ
i. :. .:: .:./l/-ヽl‐!:i.:.',
|.:.:.:_:.:/‐rッ ーッ l:.:ハ /
ゝ/ri:.:kに )ー('こ |:ij ′ | r―
|ヽ」.:.|:. リ r' _ノ
|:.:.:|:.:|、:._−,. ィl | l それはどうかな・・
lレ'l:.:ト ヾミ〈|:.:.:_l:| ) ノ
/ノヘl:.:.Lゝ ー|i:.:トミヽ 丿 (
片、 i |:.:.|;;/ヽr升|´ l/.| / _ノ
}: `l !:i:ト^ー┘ハj .丿 |,ッ´
. ハ ハ川 ヽ 〉 r-//
/.: ヽ iミヽ ハ {二. ヽ
人-、 ∧::. |. ト- /iァ
363 :
日本@名無史さん:2005/08/14(日) 00:03:31
なんやねん
364 :
日本@名無史さん:2005/09/01(木) 20:51:01
365 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 01:49:36
大内氏が健在だったら、西京は大都市になってただろうな
366 :
1:2005/10/02(日) 04:40:19
逆臣陶は焼き物由来じゃなくて周防の地名由来の姓。
多々良ももちろん周防の地名。
漏れの先祖は大内家臣。
その後 吉川氏に拾われ、岩国藩士。
毛利本家は氏ね。
多々良って地名だっけ?
今のどこなん?
大内は百済王の子孫だからチョンではないだろ。
百済人≠チョン
_ __
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i. :. .:: .:./l/-ヽl‐!:i.:.',
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片、 i |:.:.|;;/ヽr升|´ l/.| / _ノ
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/.: ヽ iミヽ ハ {二. ヽ
人-、 ∧::. |. ト- /iァ
370 :
日本@名無史さん:2005/10/19(水) 02:06:46
371 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 00:59:05
大内マンセー
三国史記 百済本紀 第三十一代 義慈王(在位641〜660)
二十年(660年)、王および太子の孝は諸城とともにすべて〔唐軍〕に降伏した。
蘇定方(唐の左衛大将軍)は、王および太子の孝、王子の泰・隆・演および
大臣・将軍八十八人、百姓一万二千八百七人を唐の都に送った。
373 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 05:06:53
保守
374 :
日本@名無史さん:2005/11/29(火) 12:50:51
375 :
ジーモン ◆.5DV4fMpf6 :2005/12/13(火) 23:24:41
良スレ認定age
376 :
日本@名無史さん:2005/12/23(金) 05:58:20
周防大内氏が滅亡したのは本当に残念。
周防・長門の大名として廃藩置県まで存続して欲しかった。
逆臣陶と火事場泥棒毛利は逝って良し!
とりあえず義長を切腹させた毛利元就は逝って良し
>>95-115では宗麟が意図的に殺したことになっているが
378 :
日本@名無史さん:2005/12/23(金) 09:32:53
age
379 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 08:53:29
愛媛に大内の子孫を名乗っている家があるそうな
380 :
山口県人:2006/01/14(土) 08:56:10
おっはよー 大内氏 これも当時、勢力日本1ぃ〜〜〜ww
381 :
素人ですんません:2006/01/23(月) 22:49:04
大内に詳しいみたいだから教えて。
桜畠(山口市)において大内薗殿誕生って文献にあるんですが、この大内薗殿って何ですか?
382 :
日本@名無史さん:2006/01/24(火) 08:54:30
牛久藩 山口家は、ホントに一族?
383 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 19:59:41
毛利は尼子義久の命は助けたくせに
傀儡だった大内義長や尼子勝久は殺してるんだよな
384 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 11:47:53
どうして誰もレスしないの?
385 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 20:12:10
白馬青牛
386 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 15:11:09
388 :
387:2006/03/29(水) 11:43:56
>>367,
>>387 すまそ。瀬戸内海側だった。
防府市の中で、国衙跡や国分寺跡のすぐ近く。
多々良山という山がありその裾野に多々良1丁目、多々良2丁目がある。
多々良氏の祖先が上陸したという多々良浜は
山口市・防府市・周南市の海岸線のどこかとは思うが
よくわからん。
389 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 21:07:10
ふうん
390 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 09:35:21
倭(九州)は一環して漢と通交していたが出雲と統一してからは
一気に半島色が濃くなる、これは出雲が半島系だったからに他ならない。
391 :
日本@名無史さん:2006/05/20(土) 14:31:21
そうともいいきれんだろ
392 :
日本@名無史さん:2006/06/05(月) 19:20:47
393 :
日本@名無史さん:2006/06/28(水) 00:08:26
hist
394 :
日本@名無史さん:2006/07/03(月) 22:00:16
色っぽい
395 :
日本@名無史さん:2006/07/13(木) 21:11:15
ん?
396 :
日本@名無史さん:2006/07/24(月) 15:45:05
あれだけ栄華を誇った大内家も毛利家に滅ぼされた。
同じように現在の層化学会も滅んでほしい。
現代の毛利家でてこないかな
398 :
日本@名無史さん:2006/07/26(水) 07:14:01
大内氏を滅ぼしたのは陶氏だろ
↑
あほ
>>396 大河ドラマじゃひたすら餅食ってたけどな
401 :
日本@名無史さん:2006/07/30(日) 02:24:01
大内氏って、守護大名じゃあ異色の大陸志向だけど
なんで?
402 :
日本@名無史さん:2006/07/30(日) 17:51:07
北九州の大半を影響下においたという地理的な問題でしょ
他には少弐氏とか宗氏とかも大陸志向っていえば大陸志向かな
404 :
日本@名無史さん:2006/08/11(金) 23:41:30
博多と境を領有し海外の物資が手に入ったから。
将軍家を後援してなんどか将軍にしてやってるので、後半は将軍家の印章とか
普通に使ってたらしい。細川家も似たような志向だけど。
405 :
日本@名無史さん:2006/08/27(日) 01:30:10
ほほー
406 :
日本@名無史さん:2006/09/08(金) 00:12:04
大内義隆と陶晴賢の対立が、大内家滅亡を早めたのは間違いない。
義隆による山口の町や文化を発展させた功績は、以外と知られていない。
義隆は、家督を継がずに京(京都)で書や和歌などを楽しむ方が幸せだったのかもしれない...
文化人大名のいう点においては、大内義隆は今川氏真と共通する部分が多々ある。
407 :
日本@名無史さん:2006/09/08(金) 02:20:10
実際は、信長っぽい感じだけどな。陶は光秀。
408 :
尼子:2006/09/26(火) 03:55:41
大内はチョンです。
だから筑豊、長州、広島などの大内の勢力下にあった地域はいまだに
チョンと思考が同じなのです。
明治維新はそんなチョンの長州人の反政府テロですよ。
東京から長州閥を排除してください。
でないとやつらは同胞のチョンに貢ぎ続けます。
長州人安倍が首相になって嘆かわしいです。
できるだけはやく安倍政権を倒しましょう。
南チョン人種だから岸信介も佐藤栄作もあんなに親米なのです。
大韓民国と同じなのですよ。アメリカは南チョンにとっては解放の父です。
マッカーサーの銅像が建ってます。
半島は、中国の一部です。
チベットも
南沙諸島も
台湾も
>>408 マジレスするけど、大内氏はチョンでは無いよ。
百済王の子孫と自称したのは事実だけど、
その自称は嘘だもんな。
413 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 20:14:13
言っとくけども毛利元就の先祖である毛利経光は越後の国の人だよ。
だから毛利家は関東出身ではなく新潟の出身である!・・・・と思う・・・。
415 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 00:33:56
でも毛利経光は越後国刈羽郡佐橋庄南条領主であるから
相模の人とも言い切れまへんで。
そもそも宝治合戦の時、越後にいたから毛利家は残ったんじゃけえのう。
毛利の先祖は京都出身。
経光の子孫も六波羅勤務。
417 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 12:43:45
じゃあ間を取って「新潟は毛利家にとって重要な地であった。」という事で。
418 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 18:13:06
京都と新潟は似ているが違うところだ。
419 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 23:16:39
どの辺が似ているの?
420 :
日本@名無史さん:2006/10/18(水) 21:31:07
まあ毛利についてだけども
一番「もし」と思うのは
もし、羽柴秀吉との和議の後、信長の死を知って追撃したらどうなっていたか?
もし、関ヶ原で吉川広家・毛利秀元が協力して戦っていたら結果はどうなったか?
まあ大内家の話からだいぶ脱線してきたけど・・・。
421 :
日本@名無史さん:2006/10/20(金) 23:02:20
案外本当は、毛利が羽柴に知らせたんじゃないの。
毛利家が損をせずに織田家勢力同士を戦わす。完璧じゃん。
422 :
日本@名無史さん:2006/10/24(火) 22:14:40
>421それなら清水宗治を助けられたじゃろ。
俺が考えた中国大返し・羽柴秀吉VS中国大追撃・毛利輝元・吉川元春・小早川隆景
@和睦の一日後に信長の死を知る。
A五万の兵を率いて中国路を走る。
B途中の難関は宇喜多秀家の岡山城と秀吉本拠地・姫路城。
Cとりあえず岡山城を押さえるため、一万ほど兵を備中に残す。
D山崎の戦いで光秀負ける。
Eその後毛利対秀吉の戦いが始まる。
Fまともな戦なら毛利が勝つ。秀吉敗走・・・。
G毛利は中国の太守として君臨。世は又戦国時代へ・・・。
どうですか?この予想?
京まで行くのがめんどくさい。大内に付き合った毛利の先代とかそれで早死にした。
まあ足利将軍もいるし、大内がやったみたいに権勢を振るえるのかもしれんが・・・。
424 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 22:59:52
しかし徳川の天下だけは阻止して欲しかったなあ。
毛利輝元か豊臣秀頼の天下の方が良かったよ。
ジーモン・ジョーカーさん ..
426 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 07:22:16
ジーモン・ジョーカーって誰やねん。
せめて大内・毛利・尼子の話にしろ
陶尾張守隆房殿を逆心と言う無かれ。
逆心は毛利少輔太郎である。
428 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 06:19:58
37:定ちゃん◆u/PWq663t2 11/18(土) 06:14 [ 【^∇^】 ]
ジーモン【^∇^】ジョーカーさん ..
もう、2chを見て居られないのでしょうか?
日本史板で、初めて定ちゃんにレスしてくれた
ジーモン【^∇^】ジョーカーさん
定ちゃんのトレードマークのAAをいつも可愛いと言ってくださった
ジーモン【^∇^】ジョーカーさん
もう、2chを見て居られないのでしょうか?
〃
(*´・π・)
( つ )) つ )) 【^∇^】
429 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 23:20:29
果たして晴賢は野望を持った謀反人だったのか・・・。
主君・大内義隆はそんなにボンクラだったのか・・・。
430 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 18:52:35
大友の陰謀だったらしいよ。宣教師がそれらしいことを聞いてたって記述がある。
事前に情報があったんだって。
431 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 07:20:52
そういえば広島東洋カープ〜ヤクルトスワローズでプレーした
小早川毅彦(現広島東洋カープ打撃コーチ)は
毛利元就の子孫って本当ですか?だれか教えて下さい。
432 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 10:36:15
小早川は源氏。
小早川は平氏
橘じゃないのか?
小田原
早川
根府川
真鶴
湯河原
熱海
436 :
日本@名無史さん:2007/01/01(月) 11:19:55
毛利は菅原氏だっけ?
437 :
日本@名無史さん:2007/01/01(月) 21:10:35
大江
土師
439 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 15:25:54
土師・菅原・大江って全部親戚じゃねーか。
440 :
回し者:2007/01/08(月) 21:55:34
コーエーの「毛利元就・誓いの三矢」は面白いなあ。
義教が生きていたら、赤松追討、主戦の山名が遺領の多くを獲得、
領地が肥大(因幡守護・山名熙貴は義教の近習なので除く)で、義教に睨まれる・・・
ちなみに山名領は但馬、備後、安芸、石見、伊賀で赤松討伐の功で備前か美作は獲得できそうな。
(別家に前述の因州家の熙貴と伯州家の教之がいる)
苛烈な性格の義教に覚えめでたき持世は山名を討伐軍の主力だったかもね。
ただ持豊もしたたかだろうから、明徳の乱のように挑発は受けないような振る舞いをしていただろうけど。
妄想スマソ。
442 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 17:47:24
そういえば教弘は前の前の当主盛見の子だけど
実子なのになんで父の跡を嗣げなかったんだろう
結局盛見の甥持世の養子になって跡嗣いでるけど
わからん。
家を離れて、将軍家に寄宿(要するに、幕府奉公人になって在京)してたとか?
で、家臣らと疎遠だったから、家を継げなかった。
または、家督相続の時期に実家から離れてたから、継げなかった。
もう一つ、母親の身分、血縁、地位あたりが原因って可能性もあるが。
分家して独立してたんじゃね?
445 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 16:58:04
教えてもらいたいのですが・・・
大内氏の遺臣が残した『不動智心流白打』とはどんな武術なの?
さて
447 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 15:25:03
なによ
448 :
日本@名無史さん:2007/03/31(土) 10:50:59
>>226 >それと大内が朝鮮系というのもほんとは何も分かっていない。
ということですが、ワレが太田亮著・丹羽基二編『姓氏家系総覧』の
「多々良公」の項目を読んだところ、
(平安初期成立の)『姓氏録』の「山城諸蕃」のところには、
「多々良公、出目御間名國主爾利久牟王也」なる記載が存在する、
と書かれてます。
後世の大内氏によって主張された百済出身説ではなくて任那出身説ですけれど、
また國主のような位の高い人の子孫だったかどうかは別としても、
大内氏の祖である多々良氏の朝鮮半島出身説は、
かなり信頼度の高いものでは…と感じるのですが。どうでしょ?
大内氏はすばらしいそれで良い
おおうちよしばか
その“多々良公”は、イコール多々良氏なの?
453 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 10:31:12
蓋然性は高いんじゃないの。
内藤興盛の子孫はどうなったの
455 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 03:58:54
名門多々良学園
>>454 大阪夏の陣で篭城した元毛利家臣の内藤某がいるが
ふううむ
458 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 00:27:39
459 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 00:31:36
山本勘助は元大内家臣だったらしいね 北条早雲みたいにはっきりすればいいのに・・・
460 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 02:52:20
>>456 レスありがとうございます
この事は萩藩閥閲録と別本吉川家譜にあるのは知っているんですけど
興盛の直接の子孫とは断定できないとは思います
親族である蓋然性は非常に高いと思います
でも大内家にとって興盛は結果的に陶晴賢以上の獅子身中の虫と言ってもいいじゃないかと思います
それもこれも義隆がちゃんとしてれば
461 :
定ちゃん改おにぎり梅ちゃん ◆uxE0/ELISE :2007/08/10(金) 03:54:29
ジーモン【^▽^】ジョーカー [ 高知少将 ] さん ...
V
(*^π^)つ ))
( つ ^▽^ ナデナデ
462 :
日本@名無史さん:2007/09/06(木) 05:53:12
毛利のスレ無いの?
探したけど見つからない
463 :
日本@名無史さん:2007/09/06(木) 09:40:58
がいぜんせい
って言葉の意味ちゃんと分かって使ってる?
大内義隆も足利義輝も信長と同じ
輝弘が女城主にやられた。
466 :
日本@名無史さん:2007/09/20(木) 04:56:39
467 :
日本@名無史さん:2007/09/26(水) 01:15:53
輝弘はヘタレ
468 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 13:52:52
そう?
旧臣団の誰も呼応してくれない輝弘ワロス(´・ω・`)
470 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 15:58:29
そう?
471 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 18:59:41
実は官位が天下人級
kwsk
横レスだが
どういう方法を使ったのやら、戦国期(初期)のどさくさに紛れて
正三位とかいう将軍なみの高位を手に入れてたね。
大内氏と足利将軍の他では、信長か秀吉かのどっちかが最初だ。
474 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 21:17:45
大内義隆もザビエルに会ってるんだね。で、そのときザビエルは男色はやめたほうがいいですよ
みたいなことを言って義隆の怒りを買って館を追い出される。
ザビエルの書簡で義隆のことが悪く書かれているのもそのせいかね。
475 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 23:01:05
大内義隆も毛利の小早川、吉川などの乗っ取りをよく認めたね
自分の一族でも送り込めば良かったのに
476 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 23:51:36
義隆は政弘、義興と違って領内統治に意を用いたようには見えない
陶、内藤、杉ら重臣を分断して互いに牽制させれば自分は安泰と思ってたのかな?
そのまえに相良をどうにかしろと
478 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 01:41:17
陶は大内一族だし内藤、杉は大内の承認のもと将軍直臣の扱いを受けていた
義隆脇が甘いよな
安部晋三かw
>内藤、杉は大内の承認のもと将軍直臣の扱いを受けていた
何それ?
480 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 16:20:19
陶・杉・内藤は守護代なの?
そうだよ
内藤、杉、飯田とか守護代になった家臣は、みんな
大内の一族だったんじゃなかったっけ?
義隆の男色の相手は、陶隆房。
一族をどう定義するかにもよるが、婚姻レベルではなく大内の男系分家という意味なら少なくとも内藤は無関係。
陶や問田は大内だが杉は出自不詳だし、守護代は他にも仁保やら神代やらから出ているはず。隆房はアッー。
>>483 サンクス。
へえ、内藤は無関係だったのか。
内藤は藤原氏系だな。
大内は韓国系らしいね。
日本は韓国人によって支配されていた。
488 :
日本@名無史さん:2007/11/02(金) 15:49:17
つまり大内は朝鮮人であることが公認され、朝鮮国王の臣下となっていたわけか。
日本のうち、朝鮮領土が確定済みの土地
関東 近江 大和、山城 周防 対馬 大阪
相手するんじゃなかった・・・('A`)
490 :
日本@名無史さん:2007/11/02(金) 17:03:14
朝鮮人ではなく、百済系
その百済系を称し始めたのも、朝鮮に「おれ王家の末裔だから、ちょっと旧百済領よこせよ」って強請ったときのが記録上最初の文献。
物欲ありきで急遽でっちあげた家系だから、始祖のなんたら太子は他の文献に出てこない大内オリジナルキャラクター。
ある意味では斜め上のさらに斜め上をいくgdgdっぷりだが、そんな自称王族の使節を歓待して馬鹿正直に権益与えちゃった某国は流石期待を裏切らない。
492 :
日本@名無史さん:2007/11/02(金) 17:59:52
百済系というのは新羅統一以後は半島ではずっと差別の対象だろう?
偉い王様が「百済地区の奴は生まれつき謀反人だから信用するな」
と遺言のこしたほどだ
493 :
日本@名無史さん:2007/11/02(金) 18:06:28
偉い王様(笑)
494 :
日本@名無史さん:2007/11/02(金) 19:11:55
>>492 そうだね。韓国の中でも旧百済領の全裸道?というところの連中はみな被差別民。
まともな人間は先祖がそんなとこ出身だと捏造することはない。
裏を返せば、大内の百済出自説は信憑性が極めて高い。
>>494 普通の日本人なら朝鮮で誰が被差別対象なのかなんて知りもしないよ。
あなたの母国では常識なのかもしれないけどね。
496 :
日本@名無史さん:2007/11/02(金) 19:36:33
>まともな人間は先祖がそんなとこ出身だと捏造することはない。
ところが大内はよりによってその出自を根拠に所領を要求してるんだな。
まともなチョンなら噴飯物のこの行動はひとえに
「『百済人』が朝鮮では高貴扱いされていると思い込んでいた」部外者の感覚だろう。
そもそもね、文献に多々良氏(大内氏)の名前が最初に出てくるのは仁平二(1152)年で、
その祖先を百済王家としているのは朝鮮側文献の定宗元(応永6/1399年)年が最古。
となると黎明期の少なくとも約250年間、何を称していたのかわからない時期があるんだな。
この時代の史料がもっと出てくればいろいろ議論ができるようになるんだろうね。
珍しく伸びてると思ったらまた百済の話かorz
大内スレは昔からこうだよな。盛り上がるのは在日認定と衆道とザビエル。
んじゃ修道の話でもするか。
要するに大内というのは人知れず周防に住み着いていた渡来人ということだな。
在庁官人やりながら地道に力を蓄えて南北朝の頃になって暴れ始めたと言うことだ。
貿易を円滑にする為と朝鮮の領土欲しさに詐称しただけだろ。
ほんとうは先祖何だろうな。
上の会話のどこをどう要約したらそういう結論になるんだよw
「大内は渡来人であってほしい」って願望ありきなのかね。
504 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 06:24:08
百済系だが王家との関係は捏造か伝説というのが真相だろう
505 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 06:44:44
大内が朝鮮との貿易のためにわざわざ百済人なんかを詐称するなど荒唐無稽。
つうか、そんなので貿易ができ領土がもらえるんなら、西日本の大名たちは
こぞって朝鮮系を主張するだろw
朝鮮系どころか中国系を自称して明に使節送るやつも続出だろw
506 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 07:36:36
>492
百済領地域が被差別の対象になったのは百済滅亡後の新羅の時代ではなく
新羅末期に勃興した後百済の滅亡後の高麗の時代。
507 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 13:06:41
>>505 他の大名が倭寇取締という交渉材料を持ち、六カ国守護を誇る大勢力ならそういう目論見も当たったかもしれんね。
実際にはそんな勢力は数えるほどしかなく、さらに多々良のように都合よく出自の知られていない本姓持っている奴となるとはどこにもいないけどさ。
ま、体よく交渉に成功した大内でも領土なんて全然もらえてないわけでね。そこまでシンプルじゃない。
大内 細川 毛利 尼子 宗 少弐 大友 龍造寺 松浦党
大名言えるかな♪
要するに大内が韓国系じゃないというのは現代人の根拠のない盲説なわけだな。
韓国人に統治されていたという事実が気に入らないネット右翼が日本人認定してホルホルしてるわけだ。
>盲説
根拠よろ
よく韓人が言う「秀吉の朝鮮侵略」って言葉だが、
「侵略」って言葉の辞書的意味は「強国が弱小国に攻め込んで領土を奪うこと」なんだよな。
「秀吉の朝鮮侵略」という表現は、「当時の朝鮮は弱小国で日本は強国だった」って含意があるわけだ。
日本人が「秀吉委の朝鮮侵略」と発言するなら、
「朝鮮が弱小だったとか言うなバカヤロ」って反発するなら判るが、
日本側では「秀吉の朝鮮出兵」と言ってるのに韓国側で「朝鮮侵略」と言い換えるんだから、
「秀吉時代の日本は大国で朝鮮は弱小国だった」と韓国人が自ら認めてるんだよな。
↑
スレタイが読めんのかキチガイ
おめーの巣はハングル板だろうが
大内出自についてもそろそろその手の板に移動してもらいたい
水掛け合いで議論にすらならんからな。
516 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 09:19:20
で、大内は韓国人ということでいいの?
517 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 09:34:14
大内氏の標榜した系図が正しいと仮定した場合でも、
大内氏の祖先が日本列島に来た時期って、
桓武天皇の母(百済遺臣の出身)の渡来時期と大差ないんだよな。
韓民族の民族アイデンティティが成立するより遥か以前。
つか、その頃に半島を制圧していた新羅って、もともとは中国から移入した人々なんだよな。
対するに、百済系は、半島じゃ被支配民族で被差別民。
半島の民族アイデンティティに寄与してない集団なんじゃないのかね。
本屋で雑誌物色していたら「陶工房」のタイトルが目に入って「…陶氏!?」とあわててしまったよ(´ー`)
よく見たらただの陶芸雑誌だったけど。陶○房って紛らわしい。
大内さんの家臣について調べたいんだけど
細かい事知るのに何か良い資料って何かありますかね。
小奉行 家老etc細かく家臣のその後を知りたいのですが。
文化・歴史全般を学問としてとても興味があります。
図書館は県外なので無理で困ってますorz
521 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 20:36:11
523 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 11:35:02
>>519 土器には陶器と土師器があって、
陶器は半島からの技術で造られているらしい
よ そ で や れ
>>518 >>桓武天皇の母(百済遺臣の出身)の渡来時期と大差ないんだよな。
桓武天皇の母は渡来人じゃなくて渡来人の子孫で日本生まれでは?
桓武天皇の先年から考えて百済滅亡のずっと後に生まれているし。
保守
528 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 00:18:53
大河でやってる島津家から、中国人の血が最近の天皇家に
入ってるんだから平安時代以前の昔のことは
あえてこだわらなくても・・・
529 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 05:29:02
私の姓は多々良です。百済王族(蕃族)の末裔と伝えられてきました。幕末は幕臣として徳川慶喜に従い静岡に来て以来定住しています。負け組と言う人もいますが、細々とでも受け継いでいきたいです
山口さんかね?確かに出自は諸蕃だけど、あまり気にすることはないよ。
531 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 16:48:13
私の名字は多々良ですが、山口さんとはどこかで繋がっていたのかもしれません。系譜をたどってみるのも壮大で自分を知る上で良いことかもしれません
532 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 15:52:50
百済王族の末裔の多々良さんと大内氏の関係は?
また、どのような経緯で徳川幕府の幕臣になったの?
533 :
日本@名無史さん:2008/03/18(火) 00:42:30
それをいつか調べたいと思っていました。何かご存じな事があったら、教えてください。
534 :
日本@名無史さん:2008/03/18(火) 18:59:38
ウィキペデアによると、多々良姓大内氏は「一般的には百済の聖明王の第3皇子
である琳聖太子を祖とする。」(中略)「周防国多々良浜に着岸し、その子孫が
大内村に住み姓を多々良、氏を大内としたといわれている。」とあります。
徳川幕府の幕臣であった多々良さんは、現代の苗字も多々良さんすよね。
姓がそのまま現代の苗字になっているということですよね。
例えば徳川家康の正式名は「徳川次郎三郎源朝臣家康」だそうです。(ウィキペディアより)
徳川家の子孫の方の現代の苗字は徳川であり、源ではないように、姓が現代の苗字に
なることがあるのでしょうか?
535 :
日本@名無史さん:2008/03/18(火) 20:52:22
多々良を称する氏として、三浦一族の多々良氏があります。
三浦義昭の四男義春が多々良氏を称したそうです。
氏として多々良を称しているのなら、その子孫の方の現代の苗字が多々良で
あることは理解できます。
三浦氏は桓武平氏の平良文の家系で坂東平氏の一つです。
おそらく、徳川幕府の幕臣であった多々良さんは、桓武天皇の末裔ではないでしょうか。
桓武天皇の母が渡来人の子孫であったということから、百済王族の末裔ということかも
しれませんが、大内氏とは直接関係ないのではないでしょうか?
wikiからとか(笑)
537 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 05:33:08
大内氏とは直接の関係はない話題かもしれんけど
「厳島の戦い」は実は奇襲戦じゃなかったって説が出てんだって
陶軍壊滅より前の段階で、
戦況不利を悟って実家宛の遺言状を書いた重臣の書状まで見つかってるとかって。
毛利軍の本隊が厳島に上陸したのは、
奇襲のためじゃなくトドメをさすためだったってわけだ。
538 :
日本@名無史さん:2008/03/26(水) 10:49:12
なるほど。おもしろい。
539 :
日本@名無史さん:2008/04/15(火) 02:00:51
>>116 亀レスですが、昔はおおちってよんでいたみたいですよ!
とある郷土史の大内のらんにおおちってふりがながうってある。
冷泉隆豊は蟹のような顔をしてたらしいけど、ソースある?
いかレスラーみたいなのを想像してしまったジャマイカ
542 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 09:43:48
大内義隆が寵童の陶に会いに行ったら寝てたので
和歌を残して去っていったそうですが、
その和歌について教えてください。
543 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 10:50:23
岡山の小学校に転校して、給食の豪華さに驚いた。
皿いっぱいの鰆の焼きもの、食いきれないほど盛られた桃、
ままかりの酢漬けは皿からこぼれそうだ。
それにジョッキに入った蒜山の牛乳、デザートには一ふさの
マスカットと山盛りのきびだんごまで登場する。
544 :
日本@名無史さん:2008/05/24(土) 21:15:29
∩___∩ /゙ミヽ、,,___,,/゙ヽ
| 丿 ヽ i ノ `ヽ'
/ ○ ○ | / `(○) (○)´i、 先生助けてっ!、
| U ( _●_) ミ 彡,U ミ(__,▼_)彡ミ 昨日まで動いていた晴持ちゃんが
彡、 |∪| ,,/ ,へ、, |∪| /゙ 息をしてないの!!
/ ヽ ヽノ ヾ_,,..,,,,_ / ' ヽノ `/´ ヽ
| ヽ ./ ,' 3 `ヽーっ / |
│ ヾ ヾl ⊃ ⌒_つ ソ │
│ \,,__`'ー-⊃⊂'''''"__,,,ノ |
545 :
日本@名無史さん:2008/06/07(土) 00:45:30
>>542 歌は
「もぬけなりとせめて残らばうつせみの
世のならひとも思ひなすべし」
です。(意味はよく分かりません)
海音寺潮五郎「悪人列伝」によると、
義隆と隆房二人で防府市松ヶ崎の寺に泊まり、一夜を過ごした時のこと、
朝になっても目覚めない隆房をひとり残して帰った義隆が、
後日、この歌を詠んで山口から富田へ送ったのだそうです。
>>545 アナルセックスってさ、チ○ポがクソまみれになるんじゃね?
むっちゃ不潔。
>朝になっても目覚めない隆房をひとり残して帰った義隆
先帰ったのかw
548 :
日本@名無史さん:2008/06/08(日) 21:40:35
>546
サックつけるやろ
当時は別に珍しい趣向でもないだろうに、なんで大内スレだけいつもアッー!!な展開に…( ・´ω・`)
ほもでほろびたおおうち
大内晴持や陶持長の事績について調べています。
現在知られている両名の事績の原典となる史料は
どういったものなのでしょう?
>>552 一次史料なら「棚守房顕覚書」や「萩藩閥閲録」だろうな。
前者には大内晴持関係の記述がある。
閥閲録は記録集だから該当する物を探し出す必要あるけど。
官位などに関しては「歴名土代」をどうぞ。
晴持は土佐一条氏出身だから高知県西部の地方史誌の資料編を覗くといいかもしれん。
軍記物でいいなら「陰徳太平記」「吉田物語」「大内義隆記」「雲陽軍実記」等がある。
>>553 教えていただけてありがとうございます。
基本はその三つを当たってみます。
555 :
日本@名無史さん:2008/09/01(月) 18:21:21
ほい
556 :
日本@名無史さん:2008/09/13(土) 04:35:28
ほい
557 :
日本@名無史さん:2008/09/13(土) 04:40:25
≧1 チョン乙
557≧1…
さっきテレビで大内義興が出てきたのでやってきました。
うちも母方が大内氏の子孫と聞かされています。
朝鮮人とかアッー!!とか読んで気持ちショック受けましたが
自分のルーツを知ることができるのはとっても楽しいです。
大内義興なんて何で出てきたの?>テレビ
561 :
559:2008/11/06(木) 23:27:46
>>560 他の作業をしながらなんとなく観てたので、詳しくはわからないですが、
源氏物語に関するドキュメンタリー(NHKスペシャルかな?)で、
なんだか源氏物語の有名な絵を描かせたのが義興ということで名前が出ていたようでした。
(ウロですみません…)
ほほう・・・
563 :
日本@名無史さん:2008/11/22(土) 01:03:37
ん?
564 :
日本@名無史さん:2008/12/27(土) 00:17:03
義弘以降の当主は戦死率が高いな。
天寿を全うしたのは教弘、政弘、義興の三人しかいない。
当主じゃないけど義房も
566 :
定ちゃん改おにぎり梅ちゃんAnything ◆UMEchan/Dc :2008/12/31(水) 05:57:56
567 :
山形人:2009/01/04(日) 17:22:26
大内晴持は、バカ殿一条兼定公の叔父上だよな。
分家牛久山口氏の子孫の俺が来ましたよ。
ぶっちゃけ多々良伝説は嘘だと思いたいんだけど
その辺りどうよ?;;
>>568 お前は朝鮮人なのか?
祖国に帰ってください。
そうそれ。
貿易特権を得るためだけの方便だと聞いてるんだわ。
さあ どうだろうね
大内の祖は多々良氏であり、多々良氏は平安後期すでに周防で権力を握っていた
この地方で「たたら」といえば、鉄と朝鮮貿易が権力の源であったであろうことが伺える
大内が百済の聖明王の子琳聖太子を祖とすることが仮にでっちあげだとしても
朝鮮縁の血族である可能性までは否定できない
まあ気にするな、藤原氏も朝鮮縁である可能性もある
だとすれば皇族含めて名家の大半は朝鮮縁だ
このスレが伸びるのは話題が朝鮮の時か義隆の男色ネタ
そう正しくそれ。
結局大内にしても藤原も蘇我も宮家も渡来系が多いのに、
現代だと自称『オラは清和源氏の流れ!』ってタイプの
田吾作に在日呼ばわりされるんだけど;;;;
数世紀代の渡来人は在日じゃないって扱いにしてくんない?TT
だいたい、その時代から血筋としてつながってるかどうかなんてもう判別不能だからね
そうそうそう
実際何度となく絶えて養子養子で今に至るだしね。
ありがとう何かスッとしたw
漂着王子様の血がそんなに嫌なのかよ、とか思いつつもさらに安心させてみる。
100年に4世代進んだ場合、単純計算で初代の父系の血が残ってる割合は実子でも
基点/先代誕生… 1
25年後/第 1世代…2分の1
50年後/第 2世代…4分の1
75年後/第 3世代…8分の1
100年後/第 4世代…16分の1
200年後/第 8世代…256分の1
300年後/第12世代…4096分の1
400年後/第16世代…6万5536分の1
500年後/第20世代…104万8576分の1
600年後/第24世代…1677万7216分の1
700年後/第28世代…2億6843万5456分の1
800年後/第32世代…42億9496万7296分の1
900年後/第36世代…687億1947万6736分の1
1000年後/第40世代…1兆0995億1162万7776分の1
と、日本の人口をはるかに超えた天文学的数字になる。
実際は狭いグループのなかでの婚姻が多いから母系でかなり稼ぐけど、
「血」よりも「家」を重視することの合理性が実感できる好例だと思うよ。
ひっく!確立ひっく!!www …それ隕石の衝突確立?
578 :
日本@名無史さん:2009/01/09(金) 18:46:16
百済人と今の朝鮮人をごっちゃに同一視する神経がわからん
579 :
日本@名無史さん:2009/02/10(火) 00:34:36
>>567 義興、義隆ときて何で義を貰わずに晴持なんだろうと思った
大内義房(晴持)
大内義尊
大内義長(晴英)
義隆の世継ぎだけで3人も義の字。大内は金かかるなあ。
581 :
日本@名無史さん:2009/02/11(水) 01:03:58
歓寿丸ってどうして麻羅切られたの?
殺すならそんなことするの無意味だよね。
命を助ける代わりに子孫を絶つっていうならわかるが…
582 :
【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守ジーモン ◆.5DV4fMpf6 :2009/02/11(水) 01:20:05
昔、山口に行って大内公の墓所に参った時には涙した。
先祖の一部が大内氏支流の山口氏だと思い込んでいたからなw
その山口氏とは同姓なだけで、ただの木っ端家来だったよ。何故か吉川氏に拾われて子孫は岩国藩士に。
岩国・吉川っていや、萩・毛利にとんでもない扱いを受け続けた。
何故か俺の先祖は毛利に煮え湯を飲まされいる。
大内氏家来→吉川氏家来、会津藩士・・・
ただし、萩は素晴らしい町だ。
吉田松陰も杉氏末裔だもんなぁ。
何で毛利は大内遺臣を追い出したり、落ちぶらせたりしたんだ?
おいらの先祖みてぇな雑魚はどーでもいんだけどよっ。
せめて土佐の山内公程度でも充分だから、分相応のそれに・・・
他の中国地方征服地の武士への扱いと防長武士への扱いに落差があり過ぎる。
>>583 ゴッサムシティーをみだすのはやめさない。
>>580 晴持はその死を嘆いた義隆が公家を通じて義輝から「義」の字を拝領して義尊と名づけられたらしい。
特殊な例だから運動費は少なかったかもしれん。
でも義隆のことだから大枚積んだとしても不思議じゃないが。
586 :
日本@名無史さん:2009/02/16(月) 19:13:42
晴持は義房。義尊は義隆の実子。
「義隆」と「義尊」では発音が被るが、なぜ名付けたんだろう。
>>586 義尊ってよしたかしか読み方はないのかな
人名としては苦しいけど「よしたる」とかかね。
590 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 23:37:41
「よしのり」と発音するのかな
大内よしのり
〃───、
/ _____)
/ /´ (_ _)ヽ
||-○-○-|
|(6 ゝ | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|ヽ θ ノ< 陶隆房はサヨク!
ヽ|\_/ \_______
そこは文治派の相良武任のほうが
594 :
日本@名無史さん:2009/04/20(月) 20:20:47
>>571証拠もないのそこまで言うのば暴論ってんだよ。
朝鮮縁(笑)。
朝鮮など存在しませんよ。
よく百済との関係を云々する人がいるが、新羅との関係の方が遥かに興味深い。
中国の史書では百済に関し、その元来の住民については倭人が頗る多いと記されているが、王族はツングース系の扶余であったという。
しかし新羅の場合、なんと日本列島から渡来した倭人が王になって王統をも伝え、述べ8代の王を輩出したとされる。
初代 赫居世居西干(朴氏)
*2代 南解次次雄(朴氏)
*3代 儒理尼叱今(朴氏)
*4代 脱解尼叱今(昔氏) ←倭人。丹波の国出身説が有力。
*5代 娑婆尼叱今(朴氏)
*6代 祗摩尼叱今(朴氏)
*7代 逸聖尼叱今(朴氏)
*8代 阿達羅尼叱今(朴氏)
*9代 伐休尼叱今(昔氏) 13代 味鄒尼叱今(金氏)
10代 奈解尼叱今(昔氏) 14代 儒礼尼叱今(昔氏)
11代 助賁尼叱今(昔氏) 15代 基臨尼叱今(昔氏)
12代 沾解尼叱今(昔氏) 16代 訖解尼叱今(昔氏)
.. 17代 奈勿尼叱今(金氏)
そしてさらに、それ以上に興味深いのが建国時に新羅の宰相となって影の王のように振る舞い活躍した瓢公という、
瓢箪を腰に付けて船で渡来したとされる倭人で、この人物は現代の朝鮮人のアイデンティティの根幹を揺るがしかねない問題を孕んでいる。
というのも、現代の朝鮮人の姓名は"中華"への服属意識を如実に表す、漢字/漢字音を用いた姓=一字、名=二字という漢族式で、
実際の姓自体も漢族が使用するものの借用が殆どという有様だが、新羅の初代王の朴赫居世に始まる「朴」という姓だけは、
辰韓の語の「バク」という単語を借字で音写した独自の姓とされ、特殊な姓と言える。
ではこの「バク」という辰韓の語が何を意味するかと言うと、「瓢」。宰相として影の王のように振る舞った倭人の"瓢"公となんと同じ。
このことから、瓢公と朴赫居世は共に倭国から渡来した同族、あるいは同一人物であるとも言われている。
ちなみに金氏の祖は、件の、倭人である昔氏初代にして第四代新羅王脱解の治世時に、これまた件の倭人宰相瓢公が拾って来たとされている。
瓢公(あるいは朴氏も)や昔氏一族といった倭人たちが新羅建国に深く関わり、王、宰相として支えたわけです。非常に興味深いですね。
(参考文献:「三国史記」、「三国遺事」、金素雲「三韓昔がたり」)
■人類学的なパースペクティブを簡単に説明
縄文人は、主としてバイカル湖周辺に発生した原モンゴロイドで、マンモスを追いシベリア、サハリンを経て日本列島に渡来。
弥生人は、越=タイ系民族が多数に分かれて居住し(楚・句呉・越を建てた)、百越の地と呼ばれた長江の流域〜南部から渡来。
一方、朝鮮半島にもともと定住していたのは日本列島の縄文人に極めて近い人々であり、遺物も縄文的。
その後弥生人が、長江の流域から北九州一円(半島南部含む)へ渡来。
このことから、古代の北九州一円の地域における定住者の間に、大きな人種的差異はなかったものと考えられる。
現在ある日本人と朝鮮人との間の人種的な差異は、その後の半島における、北方アジア人、主としてツングース系民族の侵入、移入による混血が原因。
※ 江南人骨日中共同調査団(山口敏・東京国立科学博物館名誉研究員が団長)は、
江蘇省の墓から出土した六十体(二十八体が新石器時代、十七体が春秋戦国時代、十五体が前漢時代)の頭や太ももの骨、
歯を調査。特に、歯からDNAを抽出して調査し、福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人と縄文人の人骨と比較。
結果、春秋戦国時代人と前漢時代人は弥生人と酷似。DNA分析では、
江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)の人骨の歯から抽出したミトコンドリアDNAの持つ塩基配列の一部が、
福岡県の隈西小田遺跡の人骨のDNAと一致した。
■国立科学博物館:日本人はるかな旅
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-14.html 渡来系弥生人は大陸のどこからやって来たのでしょうか。
最近の調査により、水稲耕作の発祥の地ともいわれている中国南部が有力視されています。
■【広開土王碑】より
百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭以耒卯年来渡海破百殘■■新羅以爲臣民
<訳> そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯の年(391年)に海を渡り、
百残・■■新羅を破り、臣民となしてしまった。
■【隋書】より
新羅百濟皆以倭為大國多珍物並敬仰之恒通使往來
<訳> 新羅・百濟は、みな倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す。
■朝鮮半島南部にある前方後円墳群
現在までに全羅南道に11基、全羅北道に2基の前方後円墳が確認されている。
朝鮮半島の前方後円墳はいずれも5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期に成立したものであり、
百済の国境に沿った伽耶の地のみに存在し、円筒埴輪や南島産貝製品、
内部をベンガラで塗った石室といった大和系遺物を伴うことが知られている。そのため、
大和朝廷から派遣された官吏や軍人、大和朝廷に臣従した在地豪族などのものと見られており、
大和朝廷による直轄的な経営の根拠とされる。
光州月桂洞古墳1号墳
ttp://21coe.kokugakuin.ac.jp/image.php?id=84 光州月桂洞古墳2号墳
ttp://21coe.kokugakuin.ac.jp/image.php?id=85 ※ 関連する大和朝廷側人物
タリの国守 穂積臣押山(ほづみのおみおしやま)
継体紀七年六月条に引く百済本紀には、委(やまと)の意斯移麻岐弥(おしやまきみ)とあるとされる。
■考古学的見地からの古代国家の考察
いわゆる前方後円墳体制論が主流。おもな提唱者は阪大名誉教授都出比呂志など。
三角縁神獣鏡の分有関係をもとに、近畿に発した「前方後円墳国家」が、
四世紀前半までに西日本の政治支配を確立したとする小林行雄説を継承し、
さらに「前方後円墳国家」が四世紀の後半代には「鉄の流通機構を掌握する」ために朝鮮半島に軍事進出し、
五世紀代には全国的国家統合を果たしたとする説。
長すぎて何がなんだか。
601 :
日本@名無史さん:2009/05/16(土) 18:32:25
そうやね
602 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 20:44:33
ヒロシマ原爆は
大内義長の呪い
>>602 350年も前から関わりのない旧領主宛ての恨みをぶつけられた広島市民涙目
604 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 01:08:29
山口市民は大内を忘れて
毛利に走った非国民
とはいえ百姓一揆は浅野並みに多いが
>>604 はあ?
日本中どこでもそうじゃん。
例外は島津が治める薩摩くらいで。
606 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 04:07:40
【韓国】 日本に号令した最高の名門、大内家は百済王の子孫だった[06/15]
http://www.allthatnews.co.kr/news/photo/200906/16031_15144_5151.jpg 「1400年の歴史の中で両親から受け継いだ家系図を通じ、歳をへてますます韓国が懐かしくなりまし
た。このような感情から、ご先祖様に必ずお墓まいりをしなければならないと考えるようになりました。」
去る8日KBS「歴史追跡」は自らを百済王の子孫だと主張する日本人夫婦の韓国訪問の話を扱った。
4月17日、昔の百済だった益山市(イクサンシ)を訪問したこの日本人夫婦は大内公夫(69、夫)と大内
タカコ(65、夫人)氏。彼らは1400年前、日本に渡ったという百済王族、琳聖(イムソン)太子が正に自
分たちのルーツだと紹介した。
空港で韓国取材陣に短い挨拶を終えた大内夫妻は先に琳聖太子の父親の聖王の墓の陵山里(ヌン
サンリ)第二古墳を訪れた。この日、近隣の文化院が提供した百済王の服に着替えた大内氏は聖王
に参拝した後「はるかに遠い先祖の百済王の墓の前に額づいて王の血孫45代子孫大内公夫、謹し
んで申し上げます。数多くの世代を経て、そして数多くの歳月をすぎて、いよいよ待望の先祖の土地
に今帰ってきました」という内容の祭文を読んだ。
礼拝を終わらせた後、彼は「ご先祖様に参拝する願いを成し遂げて、喜びと興奮が胸を込み上げてき
ます。琳聖太子が日本で見せた業績を大切にしながら、誇らしい百済の子孫であることを忘れないで
子々孫々生きていきます」と語った。(中略)印刷所のデザイナーをしている大内氏はこれまで訪ねる
ことが出来なくて申し訳ないいい、自分の財産の一部を整理して用意したお金3000万ウォンを文化財
管理に使って欲しいと、益山市と扶余郡に寄付して韓国での短い日程を終えた。
607 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 04:09:38
[続き]
琳聖太子の子孫、日本に号令する
琳聖太子を始祖に持つ大内一族は14世紀、荒涼とした山口を1万世帯以上が居住する日本最大の
都市として建設した名門の家柄だ。彼らは中国と朝鮮を相手に国際貿易を独占して富を蓄積するな
ど日本全域に強大な影響力を行使した。14世紀西日本の代表的な封建国家であった山口に首都を
たてて200年間、西日本を号令した大内一族の官邸は東西南北長さが200メートルに達し、室町幕府
将軍の官邸を規模面で圧倒する。
大内一族は当時、日本西部地域の周防、長戸など7ヶ国を支配したがこれは今日福岡県、島根県、
和歌山県、大阪一部に達する広大な地域に該当する。大内一族は一時この力を土台に当代の実力
者であった将軍をはね除けることもした。(中略)
百済の先進文化を日本に伝えた琳聖太子
韓国訪問を終えて帰国した大内公夫氏は琳聖太子の供養塔で「私たちは今回、時間を超越して世代
を繰り返し、いよいよ先祖の墓に太子の心を持って訪問して、墓まいりしました」と告げた。彼は「百済
は私たちを通じて、これからも息をするでしょう」と話した後、韓国から持ってきた百済の土を供養塔の
下に心を込めて撒いた。
イム・ジェヒョン記者
ソース:allthatnews(韓国語) [企画]日本号令した最高名門街は百済の子孫だった(抄訳)
http://www.allthatnews.co.kr/news/articleView.html?idxno=16031
李氏朝鮮には無視されたのに韓国には認められるのか。
スゲー。
で、こいつら一体誰なんだよw
扶余系らしい百済王家を滅ぼした連中の子孫(+蒙古+中国その他)なのに、
何なんだろうな、現代朝鮮人。
もう血統的には関係ないやんw
ムーミン
ムーニン
613 :
【^▽^】酔河豚ジョーカー周防守ジーモン ◆4FfyOtW0fiF5 :2009/08/19(水) 21:31:30
さすがは我が先祖の主家。
陶の墓所を余所に移せ!
誰だお前は
615 :
【^▽^】酔河豚ジョーカー土佐守ジーモン ◆4FfyOtW0fiF5 :2009/08/26(水) 02:33:00
土佐守にしちまったw
618 :
【^▽^】酔河豚ジョーカー周防守ジーモン ◆4FfyOtW0fiF5 :2009/08/26(水) 15:34:26
どういう経緯でかは知らんが吉川氏に拾われて、
関ヶ原後は岩国藩士だったよ。
岩国は萩から冷遇されて藩扱いされなかったけど。
大内氏が厚東氏を九州に追いやって長門国を手中に収めたのは1358年。
ずいぶん早いころから戦国大名みたいなことをやっていたんだなあと思いました。
確かに
尼子さえ・・尼子さえ・・・
623 :
日本@名無史さん:2009/11/09(月) 00:29:06
nn?
624 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 15:59:46
大内氏といえば代々貿易のスペシャリストと言ってよい家柄だし、
積載量の多い大船を持ち、海賊衆との付き合いも長い。
さらに西欧人が向こうから熱心にやってきて、その技術に触れるチャンスも大。
大内義隆にヤル気があってこれらの利点をフルに生かせば、
鉄砲を大量に仕入れて船に積み、京阪神方面を一気に制圧することも夢ではないハズ。
室町幕府を再興するも取って代わるも思いのままだ。
ああ・・・誰か天下人・大内義隆の仮想戦記を書いてくれないかなあ。
>大内義隆にヤル気があって
ヤルをカタカナで書くんじゃない。
ho
m
628 :
日本@名無史さん:2010/02/13(土) 01:18:13
ん?
>>624 なんどか中央に進出してるけど、芳しい成果を挙げることができなかった。
なんでだろうね。
ううむ
631 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 12:57:18
鑑定団に出てたな。
kwsk
かな
635 :
日本@名無史さん:2010/05/03(月) 11:14:03
それか
でしょうね
637 :
日本@名無史さん:2010/05/12(水) 03:32:12
大内政弘についてもっと知りたい
638 :
日本@名無史さん:2010/05/20(木) 05:27:34
大内政弘と言えば藤岡弘、
何故
640 :
日本@名無史さん:2010/05/30(日) 04:31:48
大内政弘
応仁の乱に際して西軍の主力(配下に中国地方の国人が多数参加)
乱の終結後撤退の仕方もしたたか
子の義興もそれを継承しチャンスを捉えて中央の政治を牛耳ったことも(実際は貿易を抜きにすれば象徴的意味しかないのだが)
なんだ義隆は
暗愚とは思えないが祖父、父に比べて余りにも見劣りする
義尊が死ぬまでは結構期待の新人的なとこあったんだよ?
642 :
日本@名無史さん:2010/06/01(火) 18:25:40
643 :
日本@名無史さん:2010/06/01(火) 20:31:55
16世紀に入ってから、勘合貿易の実権は幕府から大内氏に移って、
実際には大内氏が日本国王として明に遣使していたというが、
明は大内家当主を日本国王に冊封したのだろうか?
それとも大内氏が足利将軍の名を騙って、遣使していたのだろうか?
644 :
日本@名無史さん:2010/06/03(木) 02:09:32
義隆は政治的駆け引きにはかなり長けてる
重臣の陶、内藤、杉、そして新参の相楽などを相互に牽制させるようにしている(毛利のような外様の国人を含めて)
ただ尼子攻めに失敗して実益を与えられなくなれば破錠は必然だろう
>>640 象徴的って一時期は高国と一緒に畿内を支配してたんじゃないの?
あの時代の畿内の政権の体制ってどんな感じ?
上洛の時に京兆家の重要な分国の讃岐の勢力は義興に従ってたらしいけど
646 :
日本@名無史さん:2010/06/03(木) 21:40:42
>>645 中央統一政権との実質はすでに失われていたから
>>644 義隆が長けてたんじゃなくって大内がもともとそういうシステムだっただけ。
で、義隆はそれをコントロールできず破滅。
はっきり言って無能だな。
そうなの?
家督相続のときに毎回のように起きていた
陰謀発覚→未然に誅殺、の流れが義隆のときは起きてないよね。
対立候補が出なくて無投票で選ばれてしまった政党総裁、みたいに
足元の弱さが残ったまま体制が始まってしまったのも大きいんじゃないの?
650 :
日本@名無史さん:2010/06/03(木) 23:38:38
大内政弘は乱後山口に帰ってから民生に力を入れた(再生産力を強化)
また配下の国人への統制にも努力
雪舟を招くなど(その人脈に期待?)自己宣伝も上手
651 :
日本@名無史さん:2010/06/05(土) 06:44:24
>>643 大内が日本国王を自称したとか認められたとかたまに見るけど
出典はいったい何なんだろうね
実際は単なる日本国王(将軍)の代理で、寧波の乱で細川と争ったりしてるし
明もその辺は分かってたと思うんだけどね
652 :
日本@名無史さん:2010/06/06(日) 12:47:02
大内氏が日本国王印(偽造というか代用品)を持っていたので、
それがいま毛利家に残ってるらしい。
653 :
日本@名無史さん:2010/06/07(月) 04:59:17
義隆は最後まで重臣の統制が出来ると思ってたのかな?
内藤の娘を養女の形で毛利に嫁がせたり・・・
時代は実益(領土の拡張)を与えることが主君たる最終的な要件なのに
とはいえ隆房との関係は個人的には自信があったのかな?
側近の冷泉隆豊の進言をも退けた
654 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 01:35:57
応仁の乱時の大内の兵隊の数=三万
幕末の長州征伐の時の毛利の兵隊の数=二千
なんでこんなに差があるの?w
幕末の長州は百万石あったらしいのに
655 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 03:53:23
657 :
日本@名無史さん:2010/08/02(月) 22:16:10
age
658 :
日本@名無史さん:2010/08/15(日) 23:14:35
平安時代に編纂されたという新撰姓氏録によれば、大内氏の先祖は、百済の聖明王ではなく、任那の金首露王である。
大内義興が10年くらい私兵を率いて京都に滞在していたことがある。
軍事力を背景に将軍を担ぎ、天下人のさきがけのようなことをした人です。
だけど周防・長門の遠国が根拠地でありながら、よくもまあ軍馬の費用が
続くものだと感心します。日明貿易の力は恐るべしですね。
10年本拠地を空けていても下剋上など無かったのだから、統率力はあったのでしょう。
息子の義隆の代で大内氏は実質滅亡しますが、それは相手が毛利元就だったから。
運が悪かったとしか言えませんね。並のライバルなら束になっても勝てないでしょうに。