2 :
日本@名無史さん:03/01/22 05:56
2
3
関ヶ原戦力テンプレート
[関ヶ原西軍甲]
主戦場にて対東軍との戦闘を基本的には行った部隊
{北国街道}----------8000
石田光成 (6000)
豊臣麾下 (2000)
{天満山}-----------21000
小西行長 (4000)
宇喜多秀家 (17000)
{中山道}------------5600
戸田重政 平塚為広 (1500)
大谷吉継 (600)
大谷吉勝 木下頼継 (3500)
-----------------------------
【純西軍計】 34600
関ヶ原戦力テンプレート
[関ヶ原西軍乙]
主戦場にて対東軍との戦闘を基本的に行わず、
戦闘中に東軍に寝返った部隊
{松尾山麓}----------4200
赤座直安 (600)
小川祐忠 (2100)
朽木元綱 (600)
脇坂安治 (900)
{松尾山頂}---------15600
小早川秀秋 (15600)
-----------------------------
【叛西軍計】 19800
関ヶ原戦力テンプレート
[関ヶ原西軍丙]
主戦場とは遠い南宮山山頂・山麓に布陣していたため、
いわゆる"関ヶ原の戦い"に西軍として参戦しなかった部隊
{北国街道}----------1500
島津隊 (1500)
{南宮山}-----------27900
吉川広家 (3000)
毛利秀元 (15000)
安国寺恵瓊 (1800)
長束正家 (1500)
長曽我部盛親 (6600)
-----------------------------
【不西軍計】 29400
関ヶ原戦力テンプレート
[関ヶ原東軍]
主戦場にて対西軍との戦闘を行った部隊
{北国街道方面}-----19200
黒田長政 (5400)
細川忠興 (5000)
加藤嘉明 (3000)
筒井定継 (2800)
田中吉政 (3000)
{天満山方面}-------12600
福島正則 (6000)
井伊直政 (3600)
松平忠吉 (3000)
{中山道方面}--------7800
藤堂高虎 (2400)
京極高知 (3000)
寺沢広高 (2400)
[関ヶ原東軍]
{家康本隊他}-------35000
古田重勝 (1200)
織田有楽 (400)
金森長近 (1100)
生駒一正 (1800)
本田忠勝 (500)
徳川家康 (30000)
{南宮山方面}-------13900
有馬豊氏 (900)
山内一豊 (2000)
浅野幸長 (6500)
池田輝正 (4500)
-----------------------------
【純東軍計】 88500
まとめ
西軍83,800のうち、
正面戦力の34,600(西軍の41%)が戦いました。
南宮山の29,400(西軍の35%)が遊んでました。
松尾山の19,800(西軍の24%)が裏切りました。
東軍88,500のうち、
正面戦力の88,500(東軍の100%)が戦いました。
プラス、松尾山の19,800(東軍の22%に相当する戦力)が味方につきました。
小早川らが前線で敵から味方に流れ、巨大な左翼を形成してくれました。
実際のところ、
・6,000の福島隊が2.83倍である17,000の宇喜多隊に対して撃破されかけながらも、
・藤堂・京極隊5,400が大谷ら中山道諸隊5,600といい勝負を演じている間に、
・北国街道方面(黒田・細川ら)19,200が約半数の石田諸隊をいじめまくり、
・しかも東軍には30,000を越える予備兵力があるにも関わらず、
・小早川ら19,800が返り忠をしてしまい、西軍右翼が崩壊し勝負が決しました。
10 :
日本@名無史さん:03/01/22 10:11
スレ立て乙! あげ
11 :
日本@名無史さん:03/01/22 10:13
む! いつのまにか天プレ太郎が新スレを立てたか!?
まずはお疲れじゃ!
12 :
日本@名無史さん:03/01/22 10:32
関が原の主役は金吾中納言だと思うが、どうじゃろうか?
13 :
日本@名無史さん:03/01/22 10:48
金吾中納言w
14 :
日本@名無史さん:03/01/22 22:00
関ヶ原の鍵を握ってたのは徳川家康,石田三成,福島正則、吉川広家,小早川秀秋
だろう。家康と三成は別として,残り三人の帰趨が戦いを決した。
このうち2人に絡んでる武将といえば黒田ですね。(金吾は状況でどうにでもなる)
黒田長政がもうちょっと違った動きしとれば西軍に勝機はあったんでは?
15 :
日本@名無史さん:03/01/22 22:19
黒田は西軍に味方することはあり得ないと思われる。
16 :
日本@名無史さん:03/01/22 22:41
というか関ヶ原の長期戦か。如水と清正そして薩摩の島津が巧く九州軍できて上方
に侵攻してくるまでどうにか西軍有利の東軍苦戦状況で引き伸ばし、如水長政と広家や輝元あたりが
いったん和睦の方向に持っていく。三成は隠岐流刑で重家に家督相続は許し,家康は大老辞任,芳春院は
加賀帰参くらいで。宇喜多は謹慎,安国寺は領地没収、小西は肥後から安国寺の所領(伊予)に転封、徳川の家督は
秀康に,秀忠は秀康の所領に移してくらいで。
三成を排除して家康を押さえ黒田長政と加藤清正が奉行。
うーんちょっと荒唐無稽すぎるが、できたら豊臣政権ももうちょっと長続きできたかも。
17 :
日本@名無史さん:03/01/22 23:00
三成が挙兵しなければ、徳川幕府は出来なかったと思うんだけどなー。
結果的に徳川の敵をすべてさらけ出しただけ。
なんだかんだしてるうちに、秀頼が大人になって関白になったと思う。
18 :
日本@名無史さん:03/01/22 23:03
>>17 その意味では徳川幕府創設の最大の功労者は三成ということになる。
19 :
日本@名無史さん:03/01/22 23:24
三成が家康の手中にはまった訳です。
20 :
日本@名無史さん:03/01/22 23:28
前田利長の腰抜けが、家康を調子付かしてしまったと思う。
21 :
日本@名無史さん:03/01/22 23:35
秀吉、死亡直後でこの権力
やはり家康はすごいな
23 :
日本@名無史さん:03/01/22 23:56
1番家康を抑えなければならないはずの利長の腰抜けぶりに、みんな落胆してしまったんじゃない?
24 :
日本@名無史さん:03/01/22 23:56
脳内情報だけ盛り上がっている家康マンセーな香具師がいるスレはここですか?
25 :
日本@名無史さん:03/01/22 23:59
結果的に三成が挙兵しなければならなくなったと。
↑17へ戻る。
利長の判断は正しいと言ってみるテスト
27 :
日本@名無史さん:03/01/23 00:09
前田利長・浅野長政・大野治長・土方雄久の家康暗殺計画の噂はどーなんだ?
28 :
日本@名無史さん:03/01/23 00:13
利長は国許に帰って一戦交えようとしたのに、
ほかの御歴々はあっさりヘタレたからな。
天下を敵に回すとなっては利長が腰をぬかすのも無理はない。
29 :
日本@名無史さん:03/01/23 10:59
利政は漢
30 :
日本@名無史さん:03/01/23 14:26
たった500で細川の3倍の戦果を上げた本田忠勝隊に萌え。
まあ細川の戦った石田隊が強すぎたからだが。
31 :
日本@名無史さん:03/01/23 15:21
>>30 石田隊って強かったんですか?
弱そうなイメージがあるが。
大谷隊・島津隊は強そう。
>>31 彼の内政力は抜群であり、自領民や家臣団から絶大な信頼を得ていたといわれています。
関ヶ原における石田隊の力戦奮闘は、自分にはない卓越した戦術眼を持つ左近や郷舎、兵庫らに対する全幅の信頼とそれに一丸となって応えた家臣団の大将三成に対する忠誠心の賜物でしょう。
だからこそ黒田隊は石田隊の枢軸である左近を狙撃して自軍の劣勢を挽回するしかなかったと聞いております。
大谷隊もそうですが、大将吉継は更に悲壮な覚悟を決めて戦場に臨んでいたようですし、島津隊は本国を抜けてまで義弘を慕い集まった連中でしたので、じつによくまとまっていたのでしょう。
ただ惜しむらくは両隊とも人数が足りなかったのです。
敦賀5万石の大谷隊はいまひとつ信頼のおけない与力衆に頼らざるをえませんでしたが(平塚為広は最後まで大学を支えましたけど、他は・・・)、もし義弘にあと2000の人数があったなら赤坂の夜討ちは採用されたかも・・・。
三成は、人数の少ない島津隊を脆弱にみてたふしがありますね。
33 :
日本@名無史さん:03/01/23 19:11
大谷は一方で東軍正面軍を押しつつ、数倍の人数で松尾山から攻め降りる形
の小早川軍を一時押し返したってのがスゴすぎる。
34 :
日本@名無史さん:03/01/23 19:42
>黒田隊は石田隊の枢軸である左近を狙撃して自軍の劣勢を挽回するしかなかった
こんな話しは初耳ですなー
どこで聞いたんですかねー
てーか小説かー
35 :
日本@名無史さん:03/01/23 19:48
人数が少ないといっても勝敗を決するほどの差じゃない。
真田昌幸の奮戦と比べるのは酷なのか?
36 :
日本@名無史さん:03/01/23 20:03
おそらく真田隊が関ヶ原にきていたら西軍が勝っていただろう。
37 :
日本@名無史さん:03/01/23 20:09
昌幸に秀信の岐阜城守らせたかったな。
38 :
日本@名無史さん:03/01/23 20:09
もし三成が挙兵しなかったら、まず上杉征伐によって豊臣の名文で全国の諸大名に
号令でき動員かけられる秀頼名代は家康であるという既成事実ができてたろう。
前田は屈服し母親人質に,上杉は征伐されとなれば残るは宇喜多と毛利。
いずれなんらかの形で宇喜多か毛利に難癖つけて(多分宇喜多だろう)征伐対象にしてしまうだろう。
大老を各個撃破してしまえば家康の天下も同じだし。
残る西の大敵・毛利処分がすんだあたりに朝廷から天下静謐に貢献したとかいって
征夷大将軍任命ってことになりはしまいか。
秀頼の家老である家康が将軍になってもソレ自体は秀頼への謀反にならない。
秀頼は将来の武家関白だし表面的には下位の官位でしかない。
そしてやがては・・・・・。
大阪の陣が終わる時点までには結局徳川の天下だったろう。三成が関ヶ原シテもしなくても。
家康を始末しようと思えば確かにあの時点で打倒家康の合戦するしかなかった。
39 :
日本@名無史さん:03/01/23 20:17
40 :
日本@名無史さん:03/01/23 20:19
つーか上杉さんよ、追撃しろよ。
秀康なんで、蹴散らしてさ。
そうすれば、歴史は変わっただろうに。
41 :
日本@名無史さん:03/01/23 20:25
>39
君、いいところにきずいたぞ。西軍の参謀になれるぞ。
じゃなくて秀信等に昌幸をちっとはみならえよと言いたい趣旨。
42 :
日本@名無史さん:03/01/23 20:35
西軍でいえば立花、毛利輝元もきていないな。十分間に合ったのに。
でも一番きて欲しかったのは秀頼であろう。どうせ滅ぼされるので
あれば関ヶ原の時点で勝負をかけてもよかったのでは。
43 :
日本@名無史さん:03/01/23 20:37
>>41 >秀信等に昌幸をちっとはみならえよと言いたい趣旨。
はぁ、なるほど、確かに秀信が昌幸なみに頑張れば確かにこの戦役全体が、
大幅に変わったでしょうね。
ところで、今思いついたんですが、岐阜城が落ちずに決戦場が美濃・尾張国境あたりになっていら、
西軍にはどんな利点があったんでしょうか?
44 :
日本@名無史さん:03/01/23 20:43
>>43 その場合家康本隊到着前に東軍先発部隊を潰さないと特にメリットはないな。
冷静に情報分析してれば潰すチャンスはあったと思うけど、、、
45 :
日本@名無史さん:03/01/23 20:57
関が原で涙をのんだ島津と毛利。
しかし、明治維新の主役は薩摩(島津)と長州(毛利)。
270年の時を経て、徳川への復讐を果たした訳だが・・・・・。
46 :
日本@名無史さん:03/01/23 21:00
>>45 その意味では徳川家も存外甘かった訳だが。しかし家康も
徳川を倒すのは島津か毛利かという位のことは分かってい
たと思うが。
47 :
日本@名無史さん:03/01/23 21:01
涙をのんだってーと悲劇的なニュアンスにもとれるが、島津も毛利も
自業自得じゃん。
48 :
日本@名無史さん:03/01/23 21:10
>>45 島津は西軍で唯一石高を減らされていません。
もっとも、痛みの少なかった西軍大名といえます。
49 :
日本@名無史さん:03/01/23 21:11
土佐藩は関が原の勝者山内氏だが、
維新で活躍した坂本龍馬や武市半平太は郷士。
郷士は徳川に潰された長宗我部の家臣の子孫。
因縁を感じる。
50 :
日本@名無史さん:03/01/23 21:14
>>48 毛利本家はどれ位削られたんだ?
吉川や小早川は?
51 :
日本@名無史さん:03/01/23 21:18
(゚Д゚;≡;゚д゚)ココニホンシバン?
/~~`'i
|;;;;;;;;;;l ____
l;;;;;;;;;;;l /,r---、::丶、
. l;;;;;;;;;;;|:::;' ヽ::::ヽ
l;;;;;;;;;;|:;' ゙;::::`,
. ,、;;'''''''''''‐‐‐-, . |::::::|
l;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;、-+、 . |::::::|
. /  ̄ ̄ |::::゙, . |:::::|
/ l::::::| |::::::|
. l゙゙'''' ''"~~`' ,.`':;;l !:::::|
. !tェ,' 、rェ、 "'"',ヾ l::::::l
l i -、 、 i ゙,‐'''‐┐ l:::::::i
| └ - :' -、゙ l;;;;/l、,,ヽ、⊥
゙゙゙゙゙/l ,,,、、--、,, ,_,,ノ:'";;,、!;;;;;;
;;;;/、'.、.  ̄ /l:/;;;;;//;;;;;;;
;;;;>,ヽ;;;;`'‐-、、、、、-‐'",、r';;;;;;/;;;/;;;;;;;;;
;;/;;;;;;\,;;;;;`゙゙''''''''''''''";;;;;;、r'";;;;;/;;;;;;;;;;;
';;;;;;;;;;;;;;;;;`'ー-,-、、、、r‐'";;;;;;;;;;;/;;;;;;;;;;;;;;;
;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,:';;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;/;;;;;;;;;;;;;;;;;
53 :
日本@名無史さん:03/01/23 21:28
>>50 ホントに知らないんですか?
えーとですね、私も正確な数字まで記憶してる訳じゃないんですが、
毛利本家はつぶされそうになりましたが、吉川が自分の恩賞分の領地を代わりに本家に
与えてくれと家康に頼み込んで、結局約90万石削られて30数万石。
小早川は50万石に加増されたが、その後秀秋が狂死して改易されました。
こんなとこだったと思いましたが。
ひょっとして、私ネタにマジレスしてしまいましたか?
>>53 本当に知らなかった。
小早川秀秋が狂死した事は知ってましたが、加増されてたのか。
どっかに左遷されて狂死したと思ってた。
毛利本家が吉川に助けられたのも知らんかった。
結局、幕末まで生き残ったのは、毛利本家と吉川か。
小早川隆景はさぞ無念だろうな。
55 :
日本@名無史さん:03/01/23 21:39
56 :
日本@名無史さん:03/01/23 21:40
>>54 もっとも毛利本家は吉川氏を白眼視していたようだが。吉川さえ
裏切らなかったら毛利幕府ができていたかもしれない。
57 :
日本@名無史さん:03/01/23 21:41
>>54 私もそれほど詳しい訳じゃないんで、ご自分でも調べてみて下さい。
そういや、吉川は毛利藩内に別家として残ったんだったか、
別藩を立てたんだったか?
59 :
日本@名無史さん:03/01/23 21:49
>>57 そうですか。
作者はあなたと同じ考えのようですよ、ギャグマンガですがね。
私は結構好きな作品です。
60 :
日本@名無史さん:03/01/23 21:52
61 :
日本@名無史さん:03/01/23 21:54
岩国藩は萩藩とは別の独立した藩として幕府は見ていたが
毛利宗家が許さず、幕末までは支藩として扱いますた
でも参勤交代は単独でしてたりしてますです
>>61 なるほど、さようですか。
レスありがとうございます。
63 :
日本@名無史さん:03/01/23 22:19
>43
利点といえば佐和山城からはなれていること位
しか思い浮かびまへんなあ。
三成が関が原で早期決戦した一因に守りの薄い沢山が
気になったのもあったんではないかとおもうから。
64 :
日本@名無史さん:03/01/23 22:30
>>63 あれは単に松尾山を包囲したかっただけなのでは?
65 :
日本@名無史さん:03/01/23 22:35
>>64 なぜですか?
もう少し説明していただきたいです。
66 :
日本@名無史さん:03/01/23 22:43
>>65 実際に大垣から動いて真っ先に包囲してるから
67 :
日本@名無史さん:03/01/23 22:47
>>66 三成が?
あれって包囲っていうの?
それから、包囲だとするとその目的は?
68 :
日本@名無史さん:03/01/23 22:50
岩国藩と幕府から認められたのは、明治維新前ぐらいです。
69 :
日本@名無史さん:03/01/23 22:54
>>48 佐賀鍋島藩も減らされてなかったと思う。
そういやこれも新政府の重鎮だな。
70 :
日本@名無史さん:03/01/23 22:55
陣形には問題は無かったが、中国衆の考えがバラバラすぎた。
71 :
日本@名無史さん:03/01/23 22:57
>>67 三成というか西軍全体かな。
包囲と言いきれるかは確かに微妙だな。松尾山周辺の詳しい地理にも疎いから。
目的は明白。
旗色不鮮明な小早川の寝返りを防ぐためかと。
72 :
日本@名無史さん:03/01/23 23:03
>>68 幕府から6万石の宛行を貰って、参勤交代も行なってます
幕府としては岩国藩は藩として認められてますが、毛利宗家がそれを拒否して
幕末まで支藩扱いです
だから岩国藩としては幕府から当初から認められてますよ
73 :
日本@名無史さん:03/01/23 23:06
小早川は松尾山の伊藤盛正を追い出したってのは?
74 :
日本@名無史さん:03/01/23 23:15
>>71 実際には、西軍は、比較的裏切りやすく、裏切られた場合最悪の結果になる最左翼に
小早川が配置されるように布陣しており、
結局裏切られて、壊滅しましたね。
仮にあなたのおっしゃる作戦だったとしても、結果は大失敗でしたね。
75 :
日本@名無史さん:03/01/23 23:18
島津維新が薩摩隼人を1万人連れて来てれば、西軍勝ったかな?
石高からいえば、1万人ぐらい軽いと思うけど。
76 :
日本@名無史さん:03/01/23 23:24
>64,65
東軍が沢山城をぬき一気に大坂へせめのぼる気配がある
との報告をうけた三成は寡兵の沢山(現に2日で落城)
が気になってしまって頭に血がのぼったんだね。
石田家御一門衆の身の危険を案じた三成君の気苦労をさっしてやってくれ。
これも毛利勢の加勢要請拒否の結果。
石田家一門
77 :
日本@名無史さん:03/01/23 23:29
>>75 あと8500増えて戦闘に参加するなら、勝つ確立は増えるだろうね。
誰の軍勢であっても。
78 :
日本@名無史さん:03/01/23 23:46
>>74 まさにその通りだと思うよ。
でも最悪のケースというが、他に策は思い付くか?
一連の動きを見ていると、三成に篭って長期戦というビジョンはなさそうだし、
そうなると小早川が寝返ることを前提にして成り立つ策は存在しないと思うが。
79 :
日本@名無史さん:03/01/23 23:49
援軍とかいうより、輝元本人が来てれば勝っただろう。
本陣に輝元がいれば、小早川は裏切れない。
三成は大垣に篭って長期戦ってプランだろ。
>>75 連れてくるつもりだったけど本国が送らなかったんだよ。
だから島津はあれ以上の軍勢は最初から見込めない。
82 :
日本@名無史さん:03/01/23 23:55
83 :
日本@名無史さん:03/01/23 23:56
島津の石高は誇張だからなあ、実際は半分程度と言われている。
幕末でも、表高まで達していなかったらしいから、どれだけ背伸びしていたのやら。
まあ一万ぐらいならなんとかなるだろうけど、それじゃあ戦況長期化して、
その間に黒田辺りに九州全土を抑えられたりしてな。
増田長盛宛の三成の書状と、松尾山城の構築。
てか、佐和山-大垣-松尾山ラインやね。
85 :
日本@名無史さん:03/01/23 23:59
だよな。実権は義久だもんな。
義久は、大の豊臣嫌い。唐入りの時も、維新は自分の家臣だけしか連れて行けなかった。
それでも、鬼島津っていうぐらい強かったが。
87 :
日本@名無史さん:03/01/24 00:00
野釣り伏せは最強。
88 :
日本@名無史さん:03/01/24 00:02
釣り野伏せ…
90 :
日本@名無史さん:03/01/24 00:05
まあ、鼻を切り落とせば不気味だな。
91 :
日本@名無史さん:03/01/24 00:06
>>84 その書状に関しては知らないや。無知でスマソ。
松尾山のは野戦陣地と聞いてたけど、城なんだ?
佐和山-大垣-松尾山ラインでの長期防衛戦線みたいな戦略があったなら、
もう少し最初から佐和山と松尾に人数割いていてもよかった気がするが、、。
>>91 「江濃之境目松尾之城、何レノ御番所ニモ中国衆入可被置、御分別尤ニテ候」
93 :
日本@名無史さん:03/01/24 00:19
>91
遺構も出てるよ。
94 :
日本@名無史さん:03/01/24 00:36
>>92 その中国衆を配置するつもりだったというのが真実なら、確かにそのラインでの
長期戦を考えてた可能性が強い、ていうか、それ前にどっかで読んだけどすっかり
忘れてたw スマソ。
だから、最初から野戦決戦の予定ではなかったけど、大垣を出る頃にはそのプラン
は破綻していたわけだし、出た原因は佐和山が云々ではないと思うんだけどな。
>>93 そう、俺が読んだ本だとその遺跡をさして野戦陣地って書いてあったという記憶
だったもんで。
出た要因は色々説があって
一番有名な説、いわゆる定説は
・東軍が大垣を無視して佐和山→大坂を狙った
他にも
・家康が大垣城を水攻めしようとする情報が入ったので、城を出た
・小早川隊が不穏な動きをし始め、毛利秀元隊や長宗我部隊が西軍本隊の急な動きに付いて来れず、孤立したから
・毛利輝元を待っての篭城策だったが、大坂で輝元が大坂出城したら、増田長盛らが大坂を乗っ取ると噂になったから
などあり
96 :
日本@名無史さん:03/01/24 01:23
松尾山には結構前から城があったらしい。
97 :
日本@名無史さん:03/01/24 01:25
すみません、厨房ですが聞きます。
天下分け目の戦いとは関が原のことですか?
他にはないのですか?
98 :
日本@名無史さん:03/01/24 01:31
99 :
日本@名無史さん:03/01/24 01:35
ついでな質問だが、天王山ってどの天王山のことだろ?
101 :
日本@名無史さん:03/01/24 01:41
(゚Д゚;≡;゚д゚)ココニホンシバン?
サンクス。やっぱそうだよね。
他にも天王山って記述を見たから、ちと不安だったんだよ。
103 :
日本@名無史さん:03/01/24 02:15
>一番有名な説、いわゆる定説は
( ´,_ゝ`)プッ
( ´,_ゝ`)プッ
105 :
日本@名無史さん:03/01/24 10:08
>>95 本当にそれが定説?豊臣恩顧の武将が多いのに一気に大坂攻め?
そういう流言を意図的に流しただけでは?
106 :
日本@名無史さん:03/01/24 10:14
司馬炎 ◆ocEa5z8sLQ
↑
三戦板の住人
ちょっと前だけどこいつが、三戦板で日本史版糞とかいって馬鹿にしていたよ。
107 :
日本@名無史さん:03/01/24 13:10
でも、佐和山城を、東軍が包囲してる所へ西軍本体と立花等、別働隊が横、背後を突けば
おもしろかったんじゃない?
利長も秀忠もまだ、来てないし。
金吾は松尾山に置いといて。
108 :
日本@名無史さん:03/01/24 15:14
109 :
日本@名無史さん:03/01/24 15:23
>>105 福島とか豊臣恩顧の大名の方が大坂攻めろって騒ぎそうだが。
「秀頼君を奪い返せ」って。
110 :
日本@名無史さん:03/01/24 16:00
>>109 目前の西軍を後にして大津城の攻城軍無視して
いつ戻ってくるかわからない丹後田辺城攻城軍に近づいて
大軍の篭る難攻不落の豊家のシンボル大坂城に攻めかかると?
いくら市松がヴァカでも無茶だと気付くでしょう・・・。
111 :
日本@名無史さん:03/01/24 16:50
113 :
日本@名無史さん:03/01/24 17:26
いますよ ( ´,_ゝ`)プッ
まじめに答えますので、貴方の
>>113以降のレスを答えてくれますか?
115 :
日本@名無史さん:03/01/24 17:39
( ´,_ゝ`)プッ
誰か114の日本語を解読してください
煽りと判断しましたので、これ以上の問答は不要だと判断しました。
さよなら。
117 :
日本@名無史さん:03/01/24 17:47
いや、本気で文の意味がわからないんだが
変な暗号文だけ残してさよならか 何物だよ
( ´,_ゝ`)プッ
三成が関が原で決戦に乗ってくれたので家康は勝利を得たが家康も三成も半日で
勝負がつくとは思っていなかったのでは?
お互い長期戦のビジョンはあったのだろうか。
もっとも長期戦になると家康は自分の領国にとっとと帰れば済むだけなんですがね
120 :
日本@名無史さん:03/01/24 22:32
>>119 自分の領国に帰らざるを得なくなった時に、東海道を
押し帰れると考えている時点で厨ケテーイ!
121 :
日本@名無史さん:03/01/24 23:08
家康が領国に帰れば上杉、佐竹が動き出し、伊達と黒田が天下を狙う。
122 :
日本@名無史さん:03/01/24 23:40
家康が領国に戻るなんてしたら一気に権威失墜しそうだな
それにしても上杉単体にビビってる伊達が天下を狙うって・・・
123 :
日本@名無史さん:03/01/25 00:15
伊達の場合天下狙う以前に自分の勢力と所領拡大の最優先するだろう。
家康が関東に戻って権威失墜させれば上杉とは和睦して,上杉が越後に伊達は奥羽で
の東軍側(最上や南部)を攻め落とし奥羽制圧を先にする。
そして勝ち馬探して自分を高く売りつけるだろう。
上杉と佐竹をたきつけ徳川征伐すをあおり、そのうらで家康と水面下で和睦交渉しつつ
石田にも直接使者を送って自分のアピールやって。
124 :
日本@名無史さん:03/01/25 00:21
最上や南部が簡単に潰れるわけないし、そもそも家康が長期戦に際して関東に
引き篭もる程アホじゃない。
長期戦になれば毛利輝元がキーポイントだな
126 :
日本@名無史さん:03/01/25 02:19
いや、前田だろう。しずがたけの再来なるか??ってとこだな。
127 :
日本@名無史さん:03/01/25 02:33
デムパが松尾山占拠した後でも長期戦には持ちこめたかな??
128 :
日本@名無史さん:03/01/25 09:15
伊達は形勢を傍観してただけ(地方に残った緒将は皆同じだが)
山形に寡兵を送ると同時に上杉にも恭順を誓ったみたいだ。
「意のあるところ承知した」という内容の上杉方からの返書が残っている。
津本陽の小説レベルの知識で知ったかするな。
生身の人間の世界は、三流小説のように薄っぺらい世界ではない。
人間のドロドロが結集した関が原の面白さはそこにあるんだ。
( ´д`)(´д`)(´д` )ヒソヒソ
130 :
日本@名無史さん:03/01/25 10:48
またイタイのが現われたな
131 :
日本@名無史さん:03/01/25 12:00
厨ほどIFに萌えます
132 :
日本@名無史さん:03/01/25 12:58
まぁ、正宗は不当に評価が高いんじゃないの?
133 :
日本@名無史さん:03/01/25 13:11
じゃ如水はどう?
如水は、先に九州を制圧しておいて、東西の勝った方に挑むつもりだったと思うが。
役1万人の兵力だが、長政にも6千人の兵がいる。
134 :
日本@名無史さん:03/01/25 13:12
秀吉も恐れた戦上手だぜ。
( ´д`)(´д`)(´д` )ヒソヒソ
136 :
日本@名無史さん:03/01/25 14:01
政宗については、一応自力で100万石以上を切り取って、石高は同時期の(小田原の陣の時の)
徳川家康をも上回っていたと聞いたことがあるので、一概に過小評価も出来ないと思いますが。
まあ、個人的には政宗嫌いなので、周りが弱かっただけだ、図に乗るな!
と言いたいところですがどうでしょう?
単純に石高で考えるなら、如水の方が難しかったんじゃないですか。
双方が何を目的に行動するかにもよるでしょうが、
仮に自分で天下を取るというのが目標なら、いずれにしろほぼ不可能だと思います。
137 :
日本@名無史さん:03/01/25 14:16
138 :
日本@名無史さん:03/01/25 18:26
天下を取ると言うイメージを持つと両名だめと思うが
天下を纏めると言うイメージなら如水ならできそうな気がする
長続きするかは別の問題として。
139 :
日本@名無しさん:03/01/25 19:11
ただし、如水は年齢がな。政略家としては秀吉が恐れたぐらいで、戦国でも一、二を争う
力があると思うし、緒戦は疾風怒濤で、あの勢いなら北部九州の制圧も不可能ではなかっ
た。当然持久戦になれば、ほとんどの大将が日本の中央部に貼り付けられているわけで、
関ヶ原どころでない消耗戦になったわけで、本国に兵を残している島津の攻略は難しいと
しても、万が一毛利一門がまとめて討ち死にでもすれば、西中国の帰趨もわからなくなる。
さらに、南下して関東中部まですすんだ伊達と協力すれば、東西両軍とも脅威なので、ど
ちらも味方にしようとするので、キャスティングボードとしても十分に役者として登場で
きる。
140 :
日本@名無史さん:03/01/25 19:20
>南下して関東中部まですすんだ伊達
いやぁ詳しくその過程を知りたいものですなぁ
141 :
日本@名無史さん:03/01/25 19:36
>139
なかなか個性的なご意見をおもちのようで・・
伊達と如水が手をくむとは、わくわくする展開ですなあ。
142 :
日本@名無史さん:03/01/25 19:38
伊達がそこまで兵站を補給し続けるルートと兵站そのものがあるかだな
家康にしたって東海道を下るとき鍋島の米を貰っているぐらいだから
(その結果鍋島は存続できた)
≫122、136さんのように自分もあまり伊達は好きじゃないのもあります
143 :
日本@名無史さん:03/01/25 19:41
毛利一門がまとめて討ち死に・・
こりゃすごすぎます。
144 :
日本@名無史さん:03/01/25 19:56
伊達が南下・・・上杉,佐竹は無視汁なのね。
145 :
日本@名無史さん:03/01/25 20:10
拝啓
139殿
大漁ですねプ
146 :
日本@名無史さん:03/01/25 20:11
政宗と如水が天下を狙っていたのは確かだろう。
家康が100万石のお墨付きを反故にしたのも、政宗に100万石を与えてしまっては
危険だった為だし。
147 :
日本@名無史さん:03/01/25 20:20
津軽為信が南部を滅ぼし、伊達も滅ぼし、最上も滅ぼし、上杉も滅ぼし
家康も滅ぼし、関東に上ってきた如水と対決さ!
148 :
日本@名無史さん:03/01/25 20:21
100万が60万とはねえ、漏れならぶち切れそう。
政宗の場合は自業自得だろ。
同じ東軍の南部領で一揆扇動してるんだから。
こんなのに100万石も与えてたら、
それこそ諸大名から徳川家への信頼感を疑わせることになるぞ。
150 :
日本@名無史さん:03/01/25 21:39
忠輝を使って、幕府転覆を狙ってたしな。100万石あれば、本当にやってたかも。
野心はあったかもしれないが
現実的には無理でしょう
152 :
日本@名無史さん:03/01/26 09:05
海外にも、援軍を頼みに家来を送ってたよな。
153 :
日本@名無史さん:03/01/26 09:13
伊達は家康が負けたら上杉、佐竹と組んで関東平野を席巻したで
あろう。司馬の関ヶ原の受け売りだが。そうなると伊達は東北、
上杉は越後、佐竹は関東を支配していたのでは。現実でもそういう
戦略をとらなかったのが伊達の器量の限界であろう。
154 :
日本@名無史さん:03/01/26 09:45
佐竹ってそんなに器量あるのか???
儀もーん
155 :
日本@名無しさん:03/01/26 10:16
如水の場合は、漏れも島津との決戦しか無いと思う。もちろん加藤と先に雌雄を決しないと
いけないが。中国・四国へは渡海作戦なので、大変でしょう。それに、毛利は領土が広すぎ
るので、全部取るのは無理だし、海から広島城落とすのも相当時間がかかりそう。
それよりも、関ヶ原で毛利が動いていたら、小早川どころの騒ぎじゃないわけだが。戦後も
たったの30万石に落とされた悲惨さを思えば、毛利こそ戦犯だな。
如水が過剰に評価されているな。
九州に残った大名で如水の指揮下に入ったのは、東軍についた
からであり、黒田家に臣従したからではない。
黒田・加藤の対決となれば去就に迷うだろうし、そこに島津が絡めば
薩摩に寝返る家が続出するだろう。
如水が率いた兵は正規軍ではないし、かれの謀略の才を恐れる者も
多いだろうけど、その能力は実戦力とは異なる異能でしかない。
157 :
日本@名無史さん:03/01/26 13:06
>>156 黒田は実戦能力も伴っていると思われ。それが本多正信との違い。
でも、過剰評価気味ってのは同意。やたらと幻想を抱く連中が多いこと。
158 :
日本@名無史さん:03/01/26 15:12
秀吉が天下統一できたのは、如水がいたから。
秀吉自身は、戦が巧いわけではない。
竹中半兵衛亡き後は、如水が豊臣軍師として腕を振るった。
159 :
日本@名無史さん:03/01/26 15:14
ただ、短期決戦の場合は分からない。
160 :
日本@名無史さん:03/01/26 15:24
毛利が弱小大名になったのは、広家が原因。
家康を甘く見すぎていたから。
如水の正規軍ってどれだけいるのよ?
加藤とか島津とぶち当たれないだろ?
163 :
日本@名無しさん:03/01/26 21:09
正規軍ではなく、予防線として、浪人者を組織したわけ。正規軍は別にいるが、名目上は長政の指揮下だから、
それを動かすに当たっては、中央の情勢の推移を見ながらになる。
164 :
日本@名無史さん:03/01/26 22:14
>>163 そんなハンデを背負ってる時点で脱落だな
165 :
日本@名無史さん:03/01/26 22:26
>>161 お前にお前って言われたくねーんだよ、はげ!
166 :
日本@名無史さん:03/01/26 22:33
如水が天下を狙うとしても、単独では戦わねーだろ。
島津軍は強いが、島津兄弟の考え方がバラバラで一致団結はしてない。
義久なんかは、秀吉嫌いだったから徳川の味方をするかも。
>>156 ん?
如水が東軍についたって、明確に態度表明したっけ?
168 :
日本@名無史さん:03/01/26 22:57
かけない
169 :
日本@名無史さん:03/01/26 23:26
>>167 如水本人が表明していたかどうかはよく知らないけど、息子は完全に東軍だし、
明確な中立宣言でもしない限り、周りは東軍と見るでしょう。
実際、如水は西軍側の武将相手にしか戦ってないですよね、確か。
ムリ
>>169 ああ、周りから見た感じ東軍についたというのはわかる。
でも長政が東軍だから如水もそうだということは言い切れないでしょう。
西軍側としか戦ってないというのは自分はよく知りません。
長政「内府と握手した」
如水「そのときお前の左手はどうしていた」
の逸話が頭にあったもんで、当時は仮に西軍側としか戦っていないとしても、
その後、簡単に態度を変える可能性ありかと。
断っておくけど、別に黒田を過剰評価しているわけじゃない。
172 :
日本@名無史さん:03/01/27 16:45
>>171 その父子の会話は何かで読んだ事あるけど、実話なんですか?
後世の創作ではないのですか?
173 :
日本@名無史さん:03/01/27 16:52
実話だとしてら、黒田は策士でもなんでもなく唯のDQNだよなw
174 :
日本@名無しさん:03/01/27 18:32
というか、一応大友総鱗の息子(だれか?忘れ・・)が細川領に領土拡大しようとしたのを救援したという名目なので、加藤からの援軍もあって、そこまでは
大儀名分はあった。そこで一気に大友を屠ってしまえば、その後はわからない。東軍優位であれば加藤と共に島津を攻めるもよし、毛利も切り取る対象となる
し、万が一西軍が優勢なら、もう独立するしかないが、すでに九州では敵なしの状態まで持っていこうと思っていた罠。
175 :
日本@名無史さん:03/01/27 18:53
>すでに九州では敵なしの状態まで持っていこうと思っていた罠。
ワロタ
三戦板からいらっしゃい
>>171 ですから、九州の大名が如水の指揮下に入ったのは、彼らが如水を「東軍」と見たからで、
もし、その後如水が態度を変えたら、彼らは如水の下を去ってしまい、
如水には急遽雇い入れた傭兵数千しか残らなくなってしまいます。
その程度の軍事力では天下を取るなど、およそ不可能。
つまり、如水が天下をねらうなんて事は、ほぼあり得ないということです。
ちなみに私は、
>>156とは別人なのでそもそも「九州に残った大名が如水の指揮下に入った」
などということが実際にあったことなのか、それ自体よく知らないです。
177 :
日本@名無史さん:03/01/27 22:04
君たちに聞きたいんだけど、明治25年発行の「関原合戦志」の関ヶ原布陣図なんだけど
長宗我部隊の、後方、伊勢街道牧田川前方に布陣してる三隊って一体誰なんだ?
一つは、多分、市橋長勝軍だと思うけど、後の二つが分からないんだ。おせーてちょ。m(__)m
178 :
日本@名無史さん:03/01/27 22:19
君達に聞きたいんだけど、明治25年発行の「関原合戦志」の関ヶ原布陣図なんだけど
長宗我部隊の後方、伊勢街道、牧田川前方に布陣してる三隊は一体誰なんだ?
一つは多分、市橋長勝隊だと思うんだけど。
後の二隊が分からない。おせーてちょ。m(__)m
>>177 手元に資料がないんで自信がないけど、残り2人のうちの片方は
徳永寿昌だと思う。
面子的にあと一人は西尾光教あたりか?(根拠なし)
181 :
日本@名無史さん:03/01/27 22:50
>>172 真偽は確定できないだろうけど、そんなことを喋るほど如水は馬鹿ではないだろう。
>>176 そう、それを言いたかった。
あえて長く書かなかったわけで。
184 :
日本@名無史さん:03/01/27 22:59
上方美濃口ニオイテ 御取リ相 当月マデモ御座候エバ 中国ヘ切上ガリ
花々ト見知リ返シト存ジ候ニ ハヤク内府御勝手ニ罷リ成リ残リ多ク候
185 :
日本@名無史さん:03/01/27 23:05
>180.181
参級!
東軍ですよね?
>>185 東軍に分類されていますね。徳永は美濃の小城を次々に落としたので、この合戦で
最も活躍した大名かもしれない。
彼らは撤兵する長曽我部軍に立ち向かってコテンパンにやっつけられたはずです。
187 :
日本@名無史さん:03/01/28 03:23
土佐兵、その強さを決戦で発揮しろや
188 :
日本@名無しさん:03/01/28 07:00
まあ基本構造として、東軍は家康にどれだけいいところをみせるかだが、西軍の場合、一物持って
三成らの戦いの様子見をしていた部隊が多かったからね。みんなが全力出せば、一気に家康の首も
取れたというのに・・・。
189 :
日本@名無史さん:03/01/28 09:00
>>187 土佐兵って四国の外でも強かったの?
九州征伐とか朝鮮出兵とか関ヶ原前とかでは活躍したの?(あまり聞かないけど)
190 :
日本@名無史さん:03/01/28 12:22
>189
九州では、権兵衛の拙策で活躍してないが
小田原、朝鮮では活躍してるよ。
191 :
日本@名無史さん:03/01/28 13:00
強くてもトップがDQNなら台無し
192 :
日本@名無史さん:03/01/28 13:30
>>190 朝鮮の逸話は知ってるけど
小田原は何だっけ?一行ぐらいの簡単な説明で良いから教えて欲しい。
>192
水軍の将として伊豆下田城を攻め功名をあげたよ。
って、さほど特筆すべき事はないかも。
>185
良くご存知なんですね。
大抵の布陣図を見ても長宗我部隊ぐらいで切れてるし、話題にものぼらないし。
ところで、何万石ぐらいの武将なんでしょう?
>186
すいません。まちがえますた。
ついでに、やはり西軍の押さえの為に長宗我部隊の背後に布陣してたわけですよね。
人数とかは分かりませんか?
196 :
日本@名無しさん:03/01/28 21:36
漏れのご先祖は、ちっぽけな城の城主だったが、西軍について滅んだ。確か南条って
名前だったと思う。
197 :
日本@名無史さん:03/01/28 21:47
>>196 豊臣の恩義が忘れなかったんだね。どうこういったところで日本中の
大名の内半分近くが石田方についたのだからそのこと自体は高く評価
すべきだろう。家康が三成の石高しかなかったら何もできなかっただ
ろう。
198 :
日本@名無史さん:03/01/28 22:47
石田に“ついた”w
そうらしい。秀吉の中国攻略の時の功で名字をもらったそうな。詳しくは、オヤジがよく酒飲んで
いってたけど、忘れた。でも、それでおもうのだが、東軍は家康=征夷大将軍だからともかく、西
軍が勝った場合の改易や減転封は、それほど厳しくならなかったのでは無いかという気がする。別
にご先祖の恨みとかじゃなくて。
200 :
日本@名無史さん:03/01/29 00:03
伯耆の南条?
201 :
日本@名無史さん:03/01/29 09:08
箒で何畳?
202 :
日本@名無史さん:03/01/29 19:14
三成は関が原で負けたとき、大阪に逃げることはできなかったのですか
立花などは大阪に戻り、ここでもう一戦と発言していました
教えてください
203 :
日本@名無史さん:03/01/29 19:52
>>202 大坂に逃げても再起はできなかったと思われる。
204 :
日本@名無史さん:03/01/29 20:06
>202
帰り道は大渋滞だったらしいからどうだろ。難しいんじゃないかい。
仮に大坂に戻れても発言権はないだろうね。澤山に篭城が関の山かと・・
・・・で腹をくくって最後まで力戦したんだろう。
205 :
日本@名無史さん:03/01/29 20:09
三成より毛利が籠城した方がよかった。家康の密約(実際は家臣だが)
を信じたばっかりに領土を削られた。あっさり開城したために家康に
軽く見られただろう。
206 :
日本@名無史さん:03/01/29 23:01
三成は強烈な下痢で苦しんでいた。気持ちは分かるなあ・・・・
天下を二分する戦の事実上の大将だもの。
裏切る輩のいるし、相当のストレスだったんでしょう。
ちなみに、毛利が籠城しても、先に広島を落とされてしまう可能性が高いと思われ。
207 :
日本@名無史さん:03/01/30 00:09
家康の事だから輝元が篭城したら先に広島落とそうとおもうだろうが、おそらく実行
不可だろう。福島とかが秀頼をかかえた輝元放置して広島にむかうとか容易く認めるか?
なによりヘタレ輝元も大阪篭城の覚悟決めてりゃm大垣と関ヶ原の状況知ってわざわざ大阪城でるとか、
改めて和睦とかせんだろう。おそらく朝廷を仲介にしての講和にもつれこんだんじゃないか。
208 :
日本@名無史さん:03/01/30 00:57
>207
それ以前に、安芸まですんなりいけないんじゃないか?。
209 :
日本@名無史さん:03/01/30 01:19
行けることはいけるだろう。抵抗できるやついないから。
210 :
日本@名無史さん:03/01/30 02:02
結局三成が秀吉死後から西軍召集、そして軍事行動開始に至るまでの経緯で
敵味方の判別ができなかったのが最大の敗因だと思う。
211 :
日本@名無史さん:03/01/30 02:12
面白いにゃー! 210もっと語れ!
秀吉がヨボヨボの時、三成はなんか行動してたのかなー?
仲間集めとか・・・
213 :
日本@名無史さん:03/01/30 02:59
とりあえず、もっと周りからの自分への評価を冷静に分析してりゃ、
吉川や小早川の離反に対しては何らかの事前策がうてるんじゃない?
例えば吉川-毛利、小早川-北政所&武断派に離間策とか。
あと小早川はこれと合わせ技で、早期に次期関白を自覚させて、始めから
秀頼後見という名目で大坂残留させるとか。
214 :
日本@名無史さん:03/01/30 03:22
妄想語る前に、史実を調べたらいいんじゃねーの?
215 :
日本@名無史さん:03/01/30 03:29
そうですかね すみません
216 :
日本@名無史さん:03/01/30 03:47
>>214 それっぽく書かれた史実じゃないもの史実と妄想するよりマシかと
217 :
日本@名無史さん:03/01/30 03:55
↑ワケワカラン
>>213 北政所が家康派でなかったというのは最早定説となりつつあるのだが。
219 :
日本@名無史さん:03/01/30 12:18
妄想するしかないんだよね。
史料がないか、あっても信頼しうる史料がないんだから。
しかし、秀秋は伏見城を落した後でよく東軍につけたよね。
220 :
日本@名無史さん:03/01/30 12:33
>>211
利家が生きている時は、三成は動く必要はなかった。
221 :
日本@名無史さん:03/01/30 12:42
>史料がないか、あっても信頼しうる史料がないんだから。
?はい?
222 :
日本@名無史さん:03/01/30 13:45
なんで小早川や脇坂が責められるのだろう?
彼らは三成が決起した時に運悪く西日本にいただけ。
もし周囲が三成に賛同する中で「東軍につきます」なんて言ったら即座にブチ殺されてた。
身の安全と家名の存続、家臣の保護のための内応なのだからなんら恥じる事はない。
223 :
日本@名無史さん:03/01/30 14:50
首謀者は石田三成ではないと言ってみる。
理由は、三成の動き出し、増田長盛・長束正家・前田玄以や安国寺、輝元や宇喜多秀家が動いた日にちより遅いから。
三成は後から参加して、現場指揮官的立場だった秀家の参謀役を担ったのでは?
と新説を述べてみたがどう?
224 :
日本@名無史さん:03/01/30 16:43
一番の阿呆は吉川広家だろうな。
225 :
日本@名無史さん:03/01/30 19:03
>>222 九州の黒田や加藤も周囲が西軍ばっかりなのに東軍につきましたが。
最初から東軍だったら何も責められることもないが、途中で裏切る
ものは何度でも裏切る。秩序を保つために小早川は見せしめとされ
たのだろう。
227 :
日本@名無史さん:03/01/30 22:41
三成や行長が関ヶ原での敗北後、無事に大坂城に逃げ込んでいたらどうなっただろう。
輝元に捕殺されてたかな?
>>227 輝元だって人の子だからね(´・ω・`)
229 :
日本@名無史さん:03/01/30 22:58
あふぉは吉川じゃなく輝元
>>223 お、最近言われてるヤシだな
ここは見ての通り初心者&ネタスレだから、別の場所でやれば?
231 :
日本@名無史さん:03/01/31 12:36
>222
金吾は、先に人質を関東に送ってたはず。
232 :
日本@名無史さん:03/01/31 12:37
233 :
日本@名無史さん:03/01/31 12:43
吉川も人質送ってたはず。
長宗我部は東軍に就きたかったのに、西軍になっちゃた。
おかげで、お家断絶!きっついねー!
234 :
日本@名無史さん:03/01/31 13:11
>232
すまん。忘れた。が、確か母親だったかな?
老中の平岡とかも出してたと思うけど・・・
ちょっと調べてみるから、待っといて。
235 :
日本@名無史さん:03/01/31 18:10
>>235 同意いただき光栄です。三成は高級官僚みたいとよく言われていますが、
今の官僚と違い私心がなく仕えている主君に忠義を尽くした点はもっと
評価されるべきだと思います。
238 :
日本@名無史さん:03/01/31 20:27
239 :
日本@名無史さん:03/01/31 22:48
小早川とか島津義弘が伏見に入城できてれば・・・違う展開もあったのでは・・・
確か義弘も家康と伏見入場約束してたはずだし、伏見の城代は木下何某で・・小早川秀秋の兄貴か親戚だったはず・・。
んで北政所に和睦斡旋してもらえば早いうちに騒乱の目も詰めてた。
家康の後詰めの兵達が城代の木下とか追い出して暴走しなければ。
241 :
日本@名無史さん:03/01/31 23:03
>239
維新は元忠に命を救われたようなもの。
伏見城に入っていたら、死んでたな!
242 :
日本@名無史さん:03/01/31 23:11
維新じゃねーな。惟新だな。
243 :
日本@名無史さん:03/02/01 00:17
馬鹿な奴ランキングin関ヶ原
福島>>>>>三成>広家
腰抜けランキング
安国寺>>秀信>>長曾我部
>>243 秀信は腰抜けより馬鹿の方がしっくりくるなあ。
245 :
日本@名無史さん:03/02/01 10:01
>>244 結果論でしかないけど、野戦はマズかったね。
閻魔堂で一戦して気概をみせれば、後世の評価も違ってたかも・・・
246 :
日本@名無史さん:03/02/01 20:50
秀信はいるだけでよかったんだよ。
西軍にいるだけで、福島や黒田の戦意はナエナエだ。
247 :
日本@名無史さん:03/02/01 20:56
長政や忠興といったスレた連中はともかく、
正則や清正たちについては「秀頼に忠誠を誓っていたけど家康に騙されて徳川の天下に貢献してしまった」という意見が多いようですね。
でも、それは彼らを馬鹿にしている事になりませんか?
彼らは曲がりなりにも数十万石の大身者。
良い意味で政治の世界に慣れていたはずです。
ですから、彼らはもう豊臣家を見限った上であのような行動をとったのではありませんか?
248 :
日本@名無史さん:03/02/01 20:57
>>246 は?
その、福島に一瞬で粉砕されてませんでした?
249 :
日本@名無史さん:03/02/01 20:59
同意
250 :
日本@名無史さん:03/02/01 21:27
>>247 もちろん板ばさみを感じながらも豊臣の没落傾向を実感し、
明確に自分可愛さに家康についたということは考えられますよね。
251 :
日本@名無史さん:03/02/01 21:37
>>247 >彼らは曲がりなりにも数十万石の大身者。
>良い意味で政治の世界に慣れていたはずです。
その割には、幕府にあっけなく取りつぶされちゃいましたね。
実際には、彼らは関ヶ原以後も豊臣よりの態度を取って幕府に目を付けられています。
だから、大坂の陣の時正則は警戒されて江戸に留め置かれたんです。
252 :
日本@名無史さん:03/02/01 23:47
age
254 :
日本@名無史さん:03/02/02 11:05
戦意旺盛な大軍に攻められたら、どんな城でもひとたまりも
ありません(除く小田原城)
逃亡兵が続出する中、大手口では見事な戦ぶりをみせました。
戦術的には責められて当然だけど、感状云々の逸話も含めて
結構良将だったと思うよ。>秀信
255 :
日本@名無史さん:03/02/02 11:36
福島は秀信の立てこもる城を包囲したら、戦意旺盛ではなくなると思う。
256 :
日本@名無史さん:03/02/02 12:16
>>255 なぜ?
野戦では何の遠慮もなく叩きつぶしているのに、
籠城戦になったら急に気が引けるってことはないと思うけど。
だいたい、信長の子どもを利用して天下を簒奪した秀吉の腹心が、
今更、信長の孫に遠慮するはずないでしょう。
257 :
日本@名無史さん:03/02/02 12:59
主に主があるを知らず
だっけ?福島からしたら織田に対する忠義は薄いでしょ。
秀頼が出てくれば話は別だけれど。
258 :
日本@名無史さん:03/02/02 13:06
三成決起の心境
「やべえーっ。イエヤスに挑戦しちまった。」((( ;゚Д゚)))ガクガクガクガク
259 :
日本@名無史さん:03/02/02 13:08
そして家康の心境
「やべえーっ。ミツナリに挑戦されちまった。」((( ;゚Д゚)))ブルブルブルブル
260 :
日本@名無史さん:03/02/02 13:19
それをいうなら、近江派閥の三成が淀殿に忠誠心を持つというのもありえないでしょ
>260
長政の娘だが?
262 :
日本@名無史さん:03/02/02 13:32
三成は浅井家家臣ではなかったし
秀吉に攻め滅ぼされた。
秀信は一応秀吉が気を使って大名にしている。
>262
同郷だから親近感を持つんじゃないか?
他にこれといって寄る辺もないわけだし。
264 :
日本@名無史さん:03/02/02 17:02
そもそも三成は淀殿に忠誠心なんか持ってないでしょ。
あくまでも、秀吉、秀頼に対する忠誠心です。
まあ、秀吉の側室、秀頼の母という意味で二次的な忠誠心はあったかもしれないけど。
基本は秀吉、秀頼へのもの。
265 :
日本@名無史さん:03/02/02 17:59
>>259 それをいうなら、
「やべえーっ。三成だけかと思ったら毛利もかよ。」((( ;゚Д゚)))ブルブルブルブル
の方が正確では。
266 :
日本@名無史さん:03/02/02 18:53
>>264 淀に対する憧れや尊敬
VS
おねに対する忠誠
が関ヶ原の構図として一般的な見方だとおもうが??
最近はそうでもないと言う説があるが
267 :
259&260:03/02/02 19:37
関ヶ原の中途半端戦隊オロオロファイブ
毛利輝元― 「えっ広家内応してたの?それで戦い負けたの?どうしよう・・オロオロ」
小早川秀秋―「えっ西軍負けたのって俺のせい?そんなたいそれれたコトしたつもりは・・
どうしようオロオロ」
伊達政宗― 「えっ関ヶ原もう終わったの。俺南部にちょっかいだしたり,かってに上杉と
和睦したり・・どうしようオロオロ」
徳川秀忠― 「えっ関ヶ原もう終わったの?俺まだ戦場に参加してないよ。まずいーっ遅刻だ
どうしようオロオロ」
上杉景勝― 「えっ三成って長期戦に持ちこむって保証してたよね、なあ直江。お前も聞いたよな・・
まずいどうしようオロオロ」
で余談だが関ヶ原の後、最後に一番得したのはオロオロファイブの徳川秀忠。戦に参加もせず何の功績も無いのに
2代目将軍,大阪の陣にも殆ど貢献しとらんのに。
268 :
日本@名無史さん:03/02/02 19:47
>>266 それ一般的ですか?
普通は、天下の簒奪を狙う家康VSそれを阻もうとする三成
の対立に、
三成嫌いの諸将が家康に付いたってのが、関ヶ原の対立の構図では?
269 :
日本@名無しさん:03/02/02 19:55
だからいいのよ。2代目将軍は馬鹿の方がいいという方針。いくさだって下手に強かったりしたら、
将軍直々に何を言い出すかわからんし。
270 :
日本@名無史さん:03/02/02 20:46
天下の簒奪を狙う家康VSそれを阻もうとする他の大老と奉行だろ
三成嫌いというのは、徳川の捏造で、実際は武断派と奉行らの官僚との対立を
家康が利用したのでは?
271 :
日本@名無史さん:03/02/02 21:10
>>268 その家やすが北の政所に手を出していたのは、オネ派閥の武将を手中にいれるためでしょ、お馬鹿さん。
>>271 は?
あなた
>>266の人?
石田三成が、淀に対して憧れや尊敬をいだいていたから、
おね派の福島や加藤と対立していたと思ってるの?
273 :
日本@名無史さん:03/02/02 21:58
ひょっとして、釣られたってやつですか?
確かに馬鹿だった、
普通に考えりゃ当然ネタだよね。
275 :
日本@名無史さん:03/02/02 23:52
てゆうか、なんでもAだからBだ。と短絡的な思考がお馬鹿さん。
AだからBだと相手に言わせて、
そうともいいけれないとでもいいたいのでしょーか?
276 :
日本@名無史さん:03/02/03 15:17
>>247 清正はどうか知らんが福島は本気で関ヶ原が徳川の
ための戦争ってことがわかってなかったっぽい
戦闘終了直後に家康にくだらない因縁ふっかけて恨みを買ってる
井伊に抜け駆けされた時点で気づかないもんかね?
277 :
259&260:03/02/03 21:53
そういう以前に最初から家康は関ヶ原並みの天下分け目を意図していたのか?
家康の、あの地味で保守的な農民志向の堅実政治家な家康が最初から意図してたとはオモエン。
家康は豊臣恩顧が分裂してるのを良い事に、豊臣家中での多数派工作し,前田利家の死で
豊臣の執権気取りになってたのを,三成がガツンとやった。
三成の宣戦布告ぐらいは承知してたろうし、秀秋や島津義弘そして吉川広家への工作も最初は
三成造反への抑止力としか考えてなかったろう。
家康にしてもあんな大戦になりうると考えて暗躍しとらんはず。
最初から下心の無い奴の考えを見ぬくのは正則の猪には無理だろう。後の事は何とかなるさ、ぐらいにしか思わんかったのでは?
まだ三成を首謀者にしてるのか
279 :
日本@名無史さん:03/02/03 22:27
正則が家康の野心に気づいていなかったのは、ほぼ間違いないと思います。
もし、最初から徳川につくつもりでいたなら、せっかく小山評定で点数を稼いだのに、
関ヶ原の直後にいきなり家康と対立するような事はしないでしょう。
>>277 天下分け目の戦いを予想していなかったとしても、
いずれは簒奪するつもりだったのは間違いないし、
下心がないってことはないのでは?
280 :
日本@名無史さん:03/02/03 22:31
>>278 そういう説があるのは知ってるけど、
それで確定ってほどの有力説でもないでしょ?
>>280 10年前から確定的に有力な説なんだが
三成は首謀者ではなく、参加後に主動的立場になった
誰が首謀者なんですか?
詳しくお願いします
283 :
日本@名無史さん:03/02/04 02:40
∧∧
⊂(・∀・)つ-、 詳しく知りたかったら図書館逝けや。
/// 本 /_/:::::/ それとも単なる教えて君か?
|:::|/⊂ヽノ|:::| /」
/ ̄ ̄旦 ̄ ̄ ̄/|
/______/ | |
| |-----------|
284 :
日本@名無史さん:03/02/04 03:33
三成が動いたのはあと
それでも並み居る大老や大名が実質的な主導者として三成を重するわけだから
わずか十九万石足らずの男としては破格だよな
これは贔屓目なしでみても、よほど切れる男だったのだろう
そう言う意味では三成に人望がなかったというのはやはり大袈裟なつくりごとではないか?
で、家康としては会津征伐の時点では天下分け目の戦いまでは想定してなかったように思う
あれだけ冷静で策略家の家康にしては江戸に留まってからの慌てた書状の乱発などを考えると
家康なりにそうとうな危機感を抱いて決戦に望んだのではないだろうか
285 :
日本@名無史さん:03/02/04 04:34
だ〜か〜ら〜
関が原の勝敗を決めたのは、南蛮甲(略
286 :
日本@名無史さん:03/02/04 07:52
>>284 >冷静で策略家の家康
根拠がないよね、この形容詞って。
冷静だなんて小説の中の話だし、策略家というのは関が原と大阪の両陣での話でしょ?
287 :
日本@名無史さん:03/02/04 11:10
冷静な人はビビッてうんこ漏らしたりしません。
288 :
日本@名無史さん:03/02/04 12:53
>>281 では、誰が首謀者ですか?
宇喜多かな?
289 :
日本@名無史さん:03/02/04 12:56
増田長盛。
290 :
日本@名無史さん:03/02/04 13:00
利家と家康が対立していた時にも宇喜多が一番やる気満々だったし。
291 :
日本@名無史さん:03/02/04 14:11
>>290 それは常識的に考えたらないだろ。
だって、過去スレ見たら同じことを思い込み厨の伊達遠江守家中が書いてたもの。
ヤシのカキコは、「それは全てあなたの思い込みです」だっていうのがここの定
説ということになってる。
だから、その説は捨てて良いと思われ。
292 :
日本@名無史さん:03/02/04 22:07
>>291 ここのじゃなくてお前の定説な(ワラ
ただ、宇喜多が首謀なわけがないのには同意
そんな腕があるなら家臣団が分裂したりしないし
293 :
日本@名無史さん:03/02/04 22:08
三成の場合,家康を敵視していたんじゃなく,豊臣政権の運営ルールに逸脱したり
突出してた奴を掣肘・けん制していたに過ぎない。
秀吉晩年の構想は、石高・実力・経歴とも実力ある家康が天下の政庁・伏見で政務代行し、
その他全国諸侯という世論を大阪に集め、利家の声望+秀頼の権威で双方を分断していく。
それが利家の死で家康に政務代行ばかりか声望も権威も世論も集まり政権運営に支障をきたすから
排除はかっただけ。相手が家康だからじゃなく横紙破りの糾弾に過ぎない。
関ヶ原に至ったのも、そこまでの実力行使でなきゃ糾弾しきれないから。
三成の人望とか他の首謀者以前に、豊臣政権のシステム護持とその正論で周囲の賛同を得たから
西軍の集りも結構あったが、いかんせん正論でも指揮者もいなかった。
なまじ正論ナだけに正攻法に拘らざるを得ず,家康のなにふりかまわぬ攻略にしてやられた。
たんに三成はいいだしっぺの一人として言いように責任取らされた。
295 :
日本@名無史さん:03/02/05 13:30
>>292 >ここのじゃなくてお前の定説な(ワラ
それはあなたの思い込みです。
これまでの実績がヤシは思い込み厨だって証明してるじゃん。
そうでなければ普通あそこまで叩かれないぞ。
伊達叩き厨うざい!!
そんな話しはよそ逝ってやれ!!!
保守あげ
299 :
日本@名無史さん:03/02/08 10:46
伊達さんってよく名前入れ忘れるんですね
300 :
日本@名無史さん:03/02/08 22:38
急激に駄スレに移行・・・
301 :
日本@名無史さん:03/02/09 00:27
なんか話の内容がおかしい流れになってきたな。
ちょっと話を変えて・・・、よく三成の西軍が勝ってたら戦国に逆戻りとか
西軍の内輪もめで終わるといった主旨のIFが多いが、
西軍勝利の場合で天下の安定(徳川並に)をもたらすのはまったく無理だったのか?
どうにかして西軍勝利後の天下を静謐に導けないか?
例え豊臣が滅んだとしても徳川以外でそういった結末は・・・・。
>どうにかして西軍勝利後の天下を静謐に導けないか?
三戦板へどうぞ。
303 :
日本@名無史さん:03/02/09 00:38
>301
秀頼が大きくなって、どうにかして
実権握ったら安定するんじゃないかな?
304 :
日本@名無史さん:03/02/09 09:43
戦国に逆戻り?
そのためには群雄割拠状態になるしかないが、毛利と上杉を取り込んだ
豊臣政権は安定するだろ。
島津は軍事行動起こせる財力なし、伊達・佐竹が暴れたら恩賞目当ての
諸将を先頭にすぐに討伐されるわな。
徳川万歳、三成人望なし厨の妄想でしかない。
( ´д)ヒソ(´д`)ヒソ(д` )
306 :
日本@名無史さん:03/02/10 14:04
>>304 同意。ついでに暫定お飾り関白の金吾は(家康の亡霊に祟られて?)
早々に失脚するでしょう。
307 :
日本@名無史さん:03/02/10 14:54
日本史板でも三戦板でも、可能性を否定したがるやつが多いな。
どうして肯定的な可能性を考えないのだ?
308 :
日本@名無史さん:03/02/10 15:25
君の
可能性=妄想
だから
309 :
日本@名無史さん:03/02/10 15:39
そーれ♪
∩ ∧_∧
\ヽ_( ) ←
>>1 \_ ノ
∩_ _/ /
L_ `ー/ / /
ヽ | |__/ |
| ̄ ̄ ̄\ ノ
| | ̄「~| ̄( 、 A , )
| | | | ∨ ̄∨
し' し' . 人
. (_.)
. (__)
310 :
日本@名無史さん:03/02/10 15:50
>>307 「可能性」なんて言ってると、思い込み厨が湧いて出るから。
折角一匹退治したところなのにまた増えられては迷惑だ。
311 :
日本@名無史さん:03/02/10 17:15
304の妄想期待age
312 :
日本@名無史さん:03/02/10 19:49
あの〜、大谷ってめっちゃカッコヨクないですか〜?
なんかの本でも、秀吉が驚くほどの軍才を持っていたって書いてありました。
その大谷の兵力はなんであんなに少ないんですか?
あと、当時、兵を分けてあげるみたいな発想は無かったんですかね?
三成が大谷に1000貸すみたいに。。。
313 :
日本@名無史さん:03/02/10 20:07
昔の武将の兵隊は、自分の領地からスカウトして入れる。しかも自分の血縁や
親戚などから多く編入される。その方が結束力が強く進退が機敏になる。
他から急に編入されても、軍団として機能しなくなる。
ちなみに大谷は石田より領地が少なかった。
314 :
日本@名無史さん:03/02/10 20:17
>>304 >毛利と上杉を取り込んだ 豊臣政権は安定するだろ。
この発言がまず、妄想。
強力な力を持ったリーダーがいなければ、彼らは政権内部で主導権争いを起こすでしょう。
そして、彼らが元々戦国大名であることを考えると、
その対立が容易に軍事衝突に発展することが予想されます。
>島津は軍事行動起こせる財力なし
これも根拠無し。
ついでに言うと、佐竹が暴れたらといってる時点で
関ヶ原の戦いに対する基本的な知識がないことも明らか。
>>314 >強力な力を持ったリーダーがいなければ
漏れがいるからダイジョブ(´・ω・`)
316 :
日本@名無史さん:03/02/10 22:00
金吾は実績不足。というか彼の史実での死因がキャンタマ蹴り上げられて悶絶死だったとかいう
仮説聞いて思った事。こんなのが関白になってたら徳川幕府の将軍家斉なみの種馬関白となってたのでは?
ト思った。
予想シるに側室は60名,子供は男女合わせて90名以上うーん豊臣家の家門増大には貢献するかも。
317 :
日本@名無史さん:03/02/10 22:05
>316
ひょうたんから駒が出る確立は意外と高い。
318 :
日本@名無史さん:03/02/10 22:07
確率と確立を間違う奴は意外と多い
319 :
日本@名無史さん:03/02/10 22:48
確率と確率の間違いに突っ込む奴は意外と少ない
320 :
日本@名無史さん:03/02/11 00:06
確率と確率の間違いに突っ込む奴は以外と少ない
321 :
日本@名無史さん:03/02/11 00:08
意外と以外を間違う奴は意外と多い!?
322 :
日本@名無史さん:03/02/11 00:11
>>314 佐竹が暴れないという根拠キボンヌ。
まさか三成の無二の親友とかいうんじゃないだろうな?
厨房は三戦板に帰れや。
323 :
日本@名無史さん:03/02/11 00:11
>321
確立的には底いと思われ
324 :
日本@名無史さん:03/02/11 00:16
>>322 314じゃないが。
でも、敢えて挙げるには値しないっていうか、西軍が勝ったら
そのまま恭順路線とる確立が高い方にはいるでしょうに。
他に暴れそうなのはたくさんいる。
325 :
日本@名無史さん:03/02/11 00:32
誰に恭順するんだ?
326 :
日本@名無史さん:03/02/11 00:41
>>325 (勝った場合の)西軍構成メンバーによる中央政権・・?
327 :
日本@名無史さん:03/02/11 00:56
中央政権…(・∀・)ヘェー
漏れに恭順するなら裏切らないyo
恭順しないなら、西軍に横槍入れちゃうからね(´・ω・`)
なんでやり込めようとしたり、「三戦板いけ」なんていうのかな。
気楽に歴史の可能性を語ってもいいじゃないか。
どうして他人の意見をつぶすことに血眼になるやつがいるんだ?
史学は事実考証であって、妄想を繰り広げるものじゃない。
可能性で言えば、その他の選択がなされてない以上、可能性は0。
くだらん“たられば”語る前に、基礎知識を身につけろ。
なぜ如何様な選択がなされたのか、如何様な結果になったのかを考証してみれ。
自己満足の自慰妄想やりたい香具師の為に三戦板があるだろ、ここまで出張って来るな。
>330
君のような人にはトロイを見つけれないだろうな。
330みたいな奴ばかりじゃない。
面白い仮説なら語っていいぞ。
>>331 >君のような人にはトロイを見つけれないだろうな。
if語る例えにトロイを持ち出すとはバカか?
例えが当てはまってないな、出直せ。
ここは学問板だっての>厨
333 :
日本@名無史さん:03/02/11 10:47
仮説は語ってもいいけど、少し知識をつけてからにしてね。
小説やマンガ、テレビだけでなく少しは本を読め。
ちょっとの聞きかじりで知ったかぶりしたければ、三戦板にいけ。
>>322 西軍よりの態度をとった大名を、暴れる可能性のあるものの例としてあげるのが
おかしいってこと。
>>329 何らかの根拠を挙げ、
このような理由から、こうなる可能性もあったという仮説(この場合は西軍勝利後の安定)
をあげるのは、意味がないとは思わないけど、
先に結論をあげておき、それを証明する根拠を探し出すというのはあまりにも不毛でしょう。
まあ、それでも有力な根拠が見つかったなら別にいいけど、
不利な事実を無視して、ありもしない根拠を持ち出してくるのは妄想以外の何ものでもない。
この板の住人はそういう妄想が嫌いなのよ、一応ここは学問板なんで、
だから、そういうことがしたいなら別の板行けってことになる。
もっとも、他の板にも他人の妄想が好きだなんてのはいないと思うけど。
ここは「歴史好きの人が気楽に語る板」じゃないということだね。
そう思い込んでいた俺が間違っていたよ。
じゃあ去るわ。
関が原での負傷者は大半が鉄砲傷で、次は槍、弓の順、刀傷はごく少数
だったそうな。
大銃撃戦が繰り広げられ、つぎに槍による集団戦が中心だった事が想像
できるね。
普通、歴史好きな人は根拠のない妄想は嫌いだと思うけど・・・・
念のため言っておくけど、実際には起きなかったことの可能性についてでも、
しっかり根拠をあげられるなら、相手をしてくれる人はいるはずですよ。
339 :
日本@名無史さん:03/02/11 22:33
西軍勝利後の金吾の心境
ああ家康をやっちまった・・まあそんな事はどうでもいいや。三成とかに後の事は
まかせといて・・そんなことよりおばちゃん(高台院の事)怒るぞーっ
どうしよう……((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
>>338 堅苦しくない?
俺ははっきり言って、豊臣は秀吉一代きりのものだと思ってるよ。
関が原で徳川方が負けて勢力を減らし、秀頼が無事に成長しても、
恐らく頼朝亡き後の源家の将軍のような危うく、象徴的な
存在になるのが関の山だったと思う。
ただ、秀頼政権を確立するための方策をあれこれ想像して論じるのも
面白いと思うんだが。
ま、これも厨房の意見なんでしょうけどね。
>340
俺は面白いとは思うよ。
いろんな意見が出てくれば、
各大名の状況も詳しく判るだろうし。
あー、つまんないこと書いちゃった。
欝だ。
俺は別にこのスレの趣旨で主張したいことはないんだよ。
関が原で西軍が勝っても、磐石な豊臣政権なんて無理だと思ってる。
ただ、「三戦板いけ」だの「思い込み厨の妄想」だのと切って捨てる
のに引っかかって、レスを入れていただけだ。
343 :
日本@名無史さん:03/02/12 01:24
漏れとしては、石田三成の戦下手が敗因の一つだと思う。持久戦にもって逝ければ、上杉や恭順が曖昧だった佐竹がもそっと活躍出来ただろう。関ヶ原と東北で家康を挟んでたんだから。
後は毛利輝元が家臣団の意思を統率出来ていなかった。輝元は主将の器では無かった。黒田官兵衛が100万石だったらなぁ・・・
344 :
日本@名無史さん:03/02/12 01:25
思い込み厨の妄想以外の何?>IF
>>343 官兵衛が100万石だったら自分で天下を取ってしまうんじゃない?
主旨が違うだろうに。
たらればで想像するのが楽しいと思うなら、学問板じゃなく趣味板の三戦板でやるべきだろう。
板の使い分けぐらいしてくれよ。
戦国系だけだぞ、たらればで楽しもうとするのは。
347 :
日本@名無史さん:03/02/12 01:35
348 :
日本@名無史さん:03/02/12 01:36
>>343 というと、西軍は大垣城に篭もるということかな。
それよりも美濃を放棄して三成は撤退して大阪城に入り、
有力諸将も大阪入りかもしくは近辺の城を固めた上での持久戦なら、
いけたかもしれない。
豊臣恩顧の武将も、まさか秀頼に刃を向けることは出来まいしな。
>たらればで想像するのが楽しいと思うなら、学問板じゃなく
>趣味板の三戦板でやるべきだろう。
>板の使い分けぐらいしてくれよ。
向こうでも史実を盾にする小うるさい人がいるんですけど。
じゃあそいつらはこっちに追い出してもいいのか?
>戦国系だけだぞ、たらればで楽しもうとするのは。
そりゃ断言しすぎだ(藁
仮にそうだとしても、それほど人を惹きつける時代だってことさ。
>>349 >ここは「学問・文系」の日本史板です。
>戦国時代・武将をネタとして楽しむ→戦国英雄・三国志・戦国時代板
日本史板のルール。
ついでに三戦板のルール。
>三国志・戦国時代板 分国法(ローカルルール)
>一、三国志・戦国時代を娯楽とする輩、誠実に追究する輩、各々立場を尊重し相争うべからず。
352 :
日本@名無史さん:03/02/12 07:49
>>348 大垣城に”篭もる”のは物理的に無理ですってば。
354 :
日本@名無史さん:03/02/12 22:48
だぁーっ。なんか楽しい仮説の立て方してもいいと思う。だから307の意見もまあいいでしょと思う。
ってわけで(どの辺が?)家康打倒に成功した西軍果たして秀頼政権までこぎつけるのか?
毛利と上杉の内紛、徳川残党や弱体化したものの生き残った豊臣武断派そして高台院
の怪しい動き。何とか罪を逃れた如水の謀略。天下の狙う政宗はイスパニアとの密約に動く。
淀殿の暴走。家康を失ったあと柳生一門は伊達に密約の手を伸ばし宇喜多に謀略の手を、しして
宇喜多家臣宮本武蔵(そんときゃ名が違ったろうが)は翻弄されあわれ浪人の身に。
知己をえた島左近の庇護をえて柳生を抱えた伊達家に挑んでいく。
うーん、なんか夢想の世界だ・・・・。まあソレはさておき西軍勝利後考えた方が断然面白そうだとは思うが?
勝利の仕方によって随分変わるのに、勝利後を考えるなんてナンセンス。
三戦板へ逝け
357 :
日本@名無史さん:03/02/12 23:12
史学は事実考証であって、妄想を繰り広げるものじゃない。
可能性で言えば、その他の選択がなされてない以上、可能性は0。
くだらん“たられば”語る前に、基礎知識を身につけろ。
なぜ如何様な選択がなされたのか、如何様な結果になったのかを考証してみれ。
自己満足の自慰妄想やりたい香具師の為に三戦板があるだろ、ここまで出張って来るな。
・・・sageの方向でよろしいんで?w
三戦板へ逝け
360 :
日本@名無史さん:03/02/12 23:52
>359
有難うございます。
さらりと読みましたが、なぜか非常にはずかしいのです。
それでもあなたはいけというんでしょうか。
酷すぎます。
361 :
日本@名無史さん:03/02/12 23:59
まあ堅いこといわずに楽しくやろうや
362 :
日本@名無史さん:03/02/13 00:01
楽しくない
>史学は事実考証であって
(笑
では、西軍が勝利の後どのような政権を考えていたのか、
西軍に参加した諸将がどのような思惑を持っていたか?
について、事実を検証しよう。
364 :
日本@名無史さん:03/02/13 06:45
>西軍が勝利の後どのような政権を考えていたのか、
>について、事実を検証しよう。
はい?そんな事実はありませんが?
365 :
日本@名無史さん:03/02/13 09:17
364
考えてもいなかったってこと?
考えてはいたけど実現できなかったというのが事実なのでは?
>365
個々に皮算用はあったはずだよね。
あった「はず」なら、それを裏付ける状況証拠なりを示せば、議論にもなるぞ
それがなければ、妄想の言い合いだな
ながながと オナニースレ化 ひた走り
307さん、
皆が、秀頼政権を確立するための方策をあれこれ想像して論じている、という状況を、
具体的に想像してみて下さい。
本当にそれを「面白い」と思いますか?
>367
戦後について何も考えてない方が怖いぞ。
>>367 つーか、思い込み厨多すぎ。
第二、第三の伊達遠江守家中を生む予備軍の集会かよ(w
>>369 それがつまらなくとも、わざわざ物言いをつけることもないだろうと
言うのが俺の主張だよ。
それともこのスレで「想像で語ろう」と言うレスが全部俺の発言だと
でも思ってるから、俺に振るわけ?
374 :
日本@名無史さん:03/02/14 01:42
>373
まあいろんな奴がいるからね。
批判する奴に、じゃあ君が学問的で興味深い論争できるのかと
問えば答えは否。批判する事は猿でも出来るっていうしね。
想像でもいいんじゃないの?
板全体見渡したって、学問的な雰囲気はあまりかんじられないしね。
それしか言えないのかよ。
その仮定の話題が嫌ならほっとけばいいだろうに。
板違い、三戦板へ帰れ。
荒らしていいすか?
お前ら歴史好きじゃなくて、歴史に詳しい自分に酔ってるだけか?
こんな厨房どもを苛立たせたくなってきたよ。
あ、俺は元々粘着だから、そのつもりでね。
俺は話し合えるならそうしたいがな。
歴史好き>史実が好き
IF好き>キャラ好き
自分がこうなって欲しいという願望を他人に押し付けたがる厨は三戦板へGO
ていうか、すでに荒らし>307
381 :
日本@名無史さん:03/02/14 09:34
・・・うーん。だんだん荒れてきたなこのスレ。
ちょと西軍の敗戦における一番の責任者だれだろと聞いてみる。
北政所(高台院)−淀殿への嫉妬心から家康に天下を渡すべく加藤や福島・小早川を家康に
渡したといわれてる。事実は違うようだが。
淀殿 −私的にはこいつが一番の気がする。愛人の大野助ける為、会津征伐に秀頼
のお墨付き渡すわ、秀頼出陣にもチャチャいれ,最ごにゃ大阪の陣引き起こす。
安国寺エケイ −こいつが毛利対策,吉川の動向もうちょいしとれば勝ち目はあったんじゃ?
毛利輝元 −大将の癖にヘタレすぎ。こいつがやる気も薄いのに大将なったから。
石田三成 −こいつももうちょい秀吉亡き後に備え人気取りとかし取れば。
まあ,その真面目さが敗因かも。
大谷吉継 −関ヶ原の陣容で小早川の裏切りを予期してとあったが、そんなの予期し取るなら
もっと具体的な方策とれってきが。
さいごに>>307あまり外野のつっこみ気にする必要ないんでは、それが2ちゃんねるだし。
勝手に書きたい(但し史実的にありそうな)IFかいてけば同意する奴もいるかもよ。
西軍の敗戦における一番の責任者は、秀吉なんじゃないかな。
383 :
日本@名無史さん:03/02/14 16:19
>>382 それも言えるねぇ。生前に最大の政敵だった徳川を排除できなかったのはシパーイ。
小田原征伐が終わった時点で、家康の利用価値は無くなったわけで。
その時に排除できてれば・・・
秀吉の晩年の暴政が、人臣の排除に向かってれば(劉邦のように)違っただロウ。
384 :
日本@名無史さん:03/02/14 16:33
誰かが関ヶ原の勝利は小牧長久手の戦勝にありとかいってたが,あの時点で
純軍事的には秀吉に勝った事実(政略・外交的には完敗しとったが)は大きいね。
そのご家康の律儀さに安閑として東国対策より朝鮮出兵優先したのは痛かったかも。
385 :
日本@名無史さん:03/02/14 20:39
>>381 責任者というか敗因の根元は「西軍=豊臣」ではなかったってことだよね
家臣どうしの争いごとにされたのでは250万石を備える家康にかなうはずもない
豊臣は公家としての立場が重かったから調停工作失敗が大きい
西軍は家康討伐の勅命をなんとしてでも取り付けるべきだったと思う
386 :
日本@名無史さん:03/02/14 20:49
豊臣家の純粋な領土は何万石くらいあったの?
387 :
日本@名無史さん:03/02/14 21:53
>>386 関ヶ原前は約200万石で関ヶ原後は65万石だった。関ヶ原の時
豊臣対徳川で戦った方が勝ち目はあったのにね。
388 :
日本@名無史さん:03/02/14 22:26
>>385 朝廷より家康討伐の勅命、うーんなんか無理だと思う。当時の朝廷は風見鶏的立場強いし
勝ち目ありそうなトコに色味使うだろし,家康の方も朝廷に裏工作しそうだ。
>>387 豊臣対徳川の構図に持ちこむには,家康に豊臣へのよほどの謀反の証明しなけりゃ無利だと思う。
関ヶ原前後の状況は家康の野心を垣間見せるが、とりあえず秀吉から遺命をうけた
天下政務の代行者で,利家亡き後は豊臣の表看板・秀頼の後見役をも兼任し
まさに秀吉代行みたいな立場。家康イコール豊臣って見方も出来る。
秀吉の正妻北政所が大阪城西の丸を家康に明渡したのは効果絶大だったろう。
北政所の大阪城西の丸明渡しが秀吉代行,芳春院の江戸下向と利長の屈服が秀頼後見
を追認した絶好のデモンストレーションに当時の人々に映ったろう。
385のいうように西軍=豊臣になりえなかったのは、北政所や豊臣武断派の支持うんぬん
というより秀吉代行の家康の留守中に火事場泥棒やらかした連中という認識を豊臣恩顧諸侯の
一部が持ったから(三成の存在が「やっぱりあいつは天下を狙ってたのか,あの小ざかしい官僚メ」
て感情にもなったろうし)。
389 :
日本@名無史さん:03/02/14 22:37
まー秀吉の外征が、かなり諸大名の恨みを買ってたのは事実。
ついでに秀吉の建築狂いも恨みを買ってた。
秀吉個人は、明るい性格で憎めない所があったから恨みは買わなかったけど、
その取り巻きの官僚団は、かなり恨みを買ってただろう。
秀吉の政権運営のまずさが、諸大名が争って東軍につく結果になったと思う。
簡単に豊臣対徳川と言いますが、
誰が、豊臣家の意志を代表するかという問題があるでしょう。
当主が幼少である以上、誰かが代理をしなければならないわけですが、
公的にそれが出来るのは、守り役の利家か政務代行者の家康のみ、
利家が死んで前田家が家康に屈服した段階で、
豊臣家の意志を代表出来るのは家康だけになっており、
(だからこそ、上杉討伐を豊臣家の意志として行う事が出来た)
豊臣対徳川という構図は極めて成立しずらい状況だったわけです。
>>390 その為に残り三大老の存在があるのでは?
前田と徳川の相互牽制による二頭体制こそが前提だったといえ,片方(おそらく前田)
になにかあってもう片方(恐らく徳川)が暴走した際のブレーキ役としての役割、
徳川に代わる豊臣代行を期待されたからこそ−毛利輝元は秀吉の九州征伐の際,大阪留守居役
として仮称で天下殿とすらいわれてる。宇喜多は歴然たる豊臣家門扱いだし―西軍における大将になりえた。
それと豊臣と毛利・吉川・小早川と宇喜多と前田と徳川の縁戚関係は無理と思いつつ五大老の枷に徳川を押し込み
縁戚関係ではフリーの上杉が自由な立場から徳川牽制とことでは?(そのへんは詳しくは無いが)
後の江戸幕府のように親藩・譜代は中央で政権運営に携われるが
領地は小さめ、外様は大領地の者もいるが中央では役職につけない、
というふうにできれば、豊臣政権も長く続いたかもしれないね。
大領地を持っている者を政権の中で実権のある地位につけたのがまずいよね。
まあ徳川が上記のような仕組みを作ったのは、自身がやったことを
反面教師にしたのだろうけど。
393 :
日本@名無史さん:03/02/15 01:04
ちょいと疑問なんだが、秀次が生きていたら手こずったのではという
意見を他スレで聞いた。
それはそれとして、秀次は秀頼が生まれたときに、将来は関白の地位を譲る
と秀吉に申し出なかったのかな?
わかる人いる?
394 :
日本@名無史さん:03/02/15 03:09
>>387 豊臣家の収入源が各大名領内の蔵入地や商業、鉱山の利益だったって話はよく聞くけど、
これって関が原の後からぱたっと入んなくなったの?
>>393 それをしなかったんで殺されたと思われ
生きていても今度は秀次付きと太閤派(または秀頼派)が争いそうだから結局崩壊しそう
>それをしなかったんで殺されたと思われ
なんでだろうね。
まさか一旦後継者になったからには、その地位が保証されるべきだと
思っていたのか?
実子(怪しいが)が生まれたら、引いた方が無難だろうに。
396 :
日本@名無史さん:03/02/15 03:55
秀次本人の事があまり残ってない(殺生関白みたいな俗話はともかく)んでよくわからんが、
相当見通しが甘かったんだろうね
秀次には山内一豊、堀尾可晴、渡瀬繁詮、田中吉政と四人付けられてたと思うんだが、
渡瀬以外はいつの間にか離れちゃってるね
余程仕えがいがなかったのか、身の危険を感じたのか…(w
397 :
日本@名無史さん:03/02/15 07:48
淀を利家(亡き後は利長)に嫁がせれば、家康は手も足も出なかったよね。
これを実行できなかったのはどうしてだと思う?
秀吉の立場からしたら、秀次が譲るといっていても、
自分の死後その約束が本当に守られるという保障はないんだし、
ひと思いに殺しちゃった方が後腐れが無くていいと思ったのでは。
ところで、秀次は実力的にはどんなもんだったの?
長久手の戦いの印象しかないんで、かなりダメだったように感じるんですが。
399 :
日本@名無史さん:03/02/15 13:17
>>398 武将としての能力と行政能力が一致しない例は多々あるようだよ。
まあ武将としては駄目でも行政能力とかよかったんじゃないかな。
殺生関白の称号も秀吉当たりの世論操作のようだし。
400 :
日本@名無史さん:03/02/15 15:02
>>398 本当に関白を降りちゃえばどうだろう。
当たり障りのない公家を後釜にすえるとか。
でもそうすると豊臣政権ではなくなってしまう。
>>399 若いときの負け戦は誰でもあるだろうしね。
老練な年齢でそれをやったらまずいが。
401 :
日本@名無史さん:03/02/15 15:06
島津惟新が伏見城に入る事が出来てたとしたら、西軍相手に敵中突破してたかな?
それとも、切腹?
402 :
日本@名無史さん:03/02/15 15:10
維新公を殺すことは政治的−
たかが1000程度でも維新公は慕われている。
敵中突破とかいうけど維新公を攻撃しなかった武将多いいいし。
西軍としては、家康の本隊が到着する前に、
福島ら先発隊を叩くということはできなかったんだろうか?
各個撃破のチャンスだったと思うけど。
惟新なんて、漏れに比べりゃ屁みたいな存在だな(ププ)
味方もそう多く無かったからね
307はカス、塵、生きる価値無しの腐れヒキコモリ
おいおい、せっかく良スレになりかけていたのに(以下略
409 :
長宗我部盛親:03/02/16 16:26
そろそろ、わしの出番かいのう。
あんた何もしてないだろが !w 嗚呼、信親が生きてれば・・・
411 :
日本@名無史さん:03/02/16 17:18
利長がまつを見殺しにして、西軍に就いてれば・・・
412 :
日本@名無史さん:03/02/16 17:23
>>409 ま、確かに旗色不鮮明な、毛利・吉川勢を背後の南宮山に置いたまま
無闇に東軍へ突入は出来ん罠。
ところで、そもそも西軍側の仕掛け人は三成ではなく増田等だった
と言う話、もう一度検証してみませんか?
413 :
日本@名無史さん:03/02/16 18:27
>>412 >そもそも西軍側の仕掛け人は三成ではなく
全くのでたらめか思い込みだな。
思い込み厨の伊達遠江守家中も過去スレで似たようなことを書いていたから。
というか奉行のなかで二股かけてなかったのが浅野(徳川)と石田(反徳川)だった
点があると思う。後の三人は・・・・前田玄以と増田なんぞ平気で家康に内応してた。
でも確かに三成単独とは思いがたいし、第一三成は途中から佐和山に蟄居してたのに
ちゃっかり西軍は決起してたのはどうしてという疑問に対しての仮説として想定しても
増田と長束は家康と二股。
宇喜多は共犯としては納得できるが,積極的に(あの当時お家騒動と財政再建で積極戦争は無理)
上杉・直江は家康の誘い出し役だし。会津から上方挙兵の指図は無理。
毛利は史実でもあるが姑息に漁夫の利望んだヘタレ。
大谷・島津は途中から参加組
長曾我部は成り行き参加
淀殿・北政所は論外
うーん影の首班とやらは想定しにくいか。なんか説得力ある首班とやら
提示できますか?
415 :
日本@名無史さん:03/02/17 00:00
>影の首班
家康だったりする
416 :
日本@名無史さん:03/02/17 09:24
輝元が大坂から動かなかったのは、
増田内応の噂があったからだと聞いたのですが。
>影の首班
そう言う話になると、必ず妄想厨がわいてでるから止めよう。
馬鹿息子余計な事するな。
419 :
日本@名無史さん:03/02/17 15:10
西軍は、見事に釣られたということで
関ヶ原で負けた時点で、輝元は籠城して残存兵力の収集と
再編成を待つ選択肢は無かったのでしょうか?
渋々西についた連中が皆東に寝返って瞬殺だろうけど(w
大阪城は豊臣家の城だから、大坂にはこもれないと思う
勅命で「家臣同士の争いには不介入」ということになってしまってるんで、
東軍がきたら追い出されるだけかと
422 :
日本@名無史さん:03/02/17 23:25
江戸期の長州藩の人たちは、吉川広家や安国寺をどう評価したんだろう。
売国奴&破壊僧
424 :
日本@名無史さん:03/02/18 07:23
西軍の中には、三成の決起時にたまたま大坂に居合わせたためしかたなく西軍に付いた、という人も多いと聞きます。
もし各自が完全なフリーハンドを与えられていたら、三成に付いた人はいるのでしょうか?
426 :
日本@名無史さん:03/02/18 08:13
もともと西軍に「三成に付いた」意識の人はほとんどいないでしょ
総大将は毛利なんだし、五大老の宇喜田もいるし
427 :
日本@名無史さん:03/02/18 10:09
といって、毛利や宇喜多に付いた意識の人もいないでしょう。
弾劾は当時奉行の増田や長束が発しているしね。
内府側と奉行側っていう勢力の分け方のようにね。
それに、大谷、宇喜多、小西、安国寺、直江らは明らかに三成に「付いた」わけでしょ?
428 :
日本@名無史さん:03/02/18 10:20
>>427 大谷はいざ知らず、宇喜多も小西も安国寺も三成に付いたわけじゃないだろ。
直江なんて尚更だ。
>>422 江戸時代吉川家は毛利一族から、総スカンを食らってたそうだ。
子々孫々まで祟った訳だ。
430 :
日本@名無史さん:03/02/18 11:24
毛利衛さんと吉川晃司は仲が悪いのだろうか?(w
431 :
日本@名無史さん:03/02/18 12:54
広家が毛利家の為に、とやった事はすべて毛利家の崩壊へと進んで行く所だったんだから
そりゃ怨まれただろうな。
大体、広家は家康を甘く見すぎなんだよ。
釈迦の掌中で走りまくってる孫悟空みたいだ。
432 :
【^▽^】多々良太郎ジョーカー周防守:03/02/18 12:57
大内氏を滅ぼしたのだから、当然の報い。>毛利氏
434 :
日本@名無史さん:03/02/18 21:48
安国寺が単独で家康の本陣を突くべきだった
流石に秀元は見捨てておけず弁当を置いて駆けつけたと思う。
435 :
日本@名無史さん:03/02/18 22:54
みんなが言うほど輝元はヘボじゃない。現実に毛利家大躍進の一歩手前まで行ってたんだから。
毛利家の天下も夢じゃなかった。あの絶好の布陣で、明らかに勝てた状況で家康に味方する広家こそ
ヘボ武将。
436 :
日本@名無史さん:03/02/18 23:09
だから、毛利輝元は家臣団の統率すら出来なかったからヘボなんだって。
それで西軍の統率しようってんだから、無理がある。
>>432 一応、陶氏の仕業ってことになってるけどね。
今、436がええ事言うた!
>>437 大内義隆を殺したのは陶だけど大内氏を滅ぼしたのは毛利だよ
話が横道にそれとるぞ。
ちなみに大阪城では全般的にアンチ家康の機運が高かったのではないか。
それが三成の打倒家康の動機じゃないか。何しろ秀吉にとって家康はいくら律儀
といっても最大の仮想敵国。死の間際に自分の代行はこいつだ、といってもそれまで
の経緯が豊臣家中でのそこはかな不安を。更に大阪入場の名文は紊乱な綱紀粛正だが
それが、小うるさい厄介爺との周囲に映る。
それでこれでは政権運営できないとみた三成がいいだしっぺに。ようは周囲の空気が
三成血気をあおって、そのくせ自分は責任取るのを恐れ二股かけたり知らん振り。
三成は決起したあとで思ったんじゃないか「おまえらだってそうおもってたんだろ
家康ウザイって」
無責任で誰も責任取りたがらんのはワンマン成長組織のよく陥りやすい(特に日本人)点
皆さんどうお思いか?
私的には秀吉にとってワンマン企業として育てた以上家康に後任せる以外選択肢は無かった。
たまたまイエヤスなだけで前田利家,小早川隆景,蒲生とかが唯一生き残った場合でもにたような
(秀吉に後事を託され)権力闘争生じて、違う誰かが天下を再統一したんじゃないか?
441 :
日本@名無史さん:03/02/20 00:05
さっきのNHKで言ってた「家康は250万石を担保に戦った」っつーのは納得できたな
442 :
日本@名無史さん:03/02/20 20:24
三成も豊臣家を担保に出来てれば・・。豊臣の場合蔵入地石高200万石より
大阪城内の金銀と大義名分が魅力的だな。そのうえで朝廷と上方商人抱え込めれば
最高なんだけど、どっちにしても無理だな。輝元秀家とか三成じゃ。
それが西軍の限界かも。
443 :
日本@名無史さん:03/02/20 22:50
よく徳川率いる東軍が勝って徳川幕府による鎖国になった。三成率いる西軍が
勝ってたら開放的な重商主義の通商立国になったろうという,予測が立ってます。
が三成以下西軍が勝ってたら徳川以上の鎖国状態(それもかなり破滅的な)
に陥ったんじゃないか?と思える。
なぜなら豊臣政権が一応残り朝鮮出兵による後遺症は半島や明とのまともな交渉も
できなくさせ,加えてキリシタン禁止でイスパニアポルトガルを排斥,徳川にように
オランダ・イギリスとのパイプ役も十分にいない。
明が倒れ清が建国した際が対中国との関係改善のチャンスだが多分鄭成功の支援に
答え第二の朝鮮出兵みたいな泥沼に陥り・・・・。
通商相手の満足に居ない通商立国など成立しない。ましてなまじ中途半端に貨幣経済
どっぷりなんだから米経済に最初から優先的に足場固めた徳川にように内需拡大とか
になりにくい。秀吉まがいの豪壮建築乱発し商工階層にのみ良い顔し・・・。
とりあえず地政学的好条件が日本の殖民地化こそ阻止してくれるだろうが・・。
三成の最大の失敗って、退路を確保して置かなかったことだよね。
通常、勝つにしろ、負けるにしろ、いちお退路の確保くらいするのに
その準備を怠って、結果逃げ隠れてる所を見つかって処刑だもん。
大阪城まで戻れれば、もう一戦できたのに。
<<443
漏れもそう思う。三成がトップじゃ朝鮮と中国と、うまく行くはず無い。
446 :
日本@名無史さん:03/02/20 23:39
>>445 三成がトップ?秀吉が死んだ時点でそれはないだろ
たかだか19万石程度の大名だぞ
当時はやはり石高の後ろ盾がないと政権は切り盛りできん
関ヶ原でのトップ扱い(先任参謀)は明らかにのちのスケープゴート用だったと思われ
447 :
日本@名無史さん:03/02/21 11:54
>>43 西軍が勝ったら小西行長がそれなりに台頭するのでどうだろう?
>>447 小西財閥グループとして後世に発展するかも。
あげ
西軍が勝ったら政権のトップは小早川秀秋
451 :
日本@名無史さん:03/02/21 16:35
も一度戦国乱世の時代がくるのでは?
452 :
日本@名無しさん:03/02/21 19:54
ありえないですよ。
やはり西軍勝利の場合,豊臣政権は室町幕府の二の舞になるのはさけられんか?
>>453 同感です。西軍の成り立ちから考えて、有力諸大名の発言力がそれまで以上に高まり不安定な政権となるかと。
三成は奉行衆のトップに返り咲く事は可能でも政策決定権を持てたか疑問。能力の持ち味でみても人気でみても。
455 :
日本@名無史さん:03/02/22 00:14
>>454 三成は行政官であって政治家じゃないからね
西軍勝利時の五大老予想
小早川秀秋 前田利政 毛利輝元 宇喜多秀家 上杉景勝
小早川と徳川が入れ替わるぐらいでたいして変わらないね
あえて「五」にこだわらないとしてみると
暫定関白:小早川秀秋
七大老:島津義弘(島津領内で領土と発言権拡大)
丹羽長重(旧領+前田利長旧領から少しパクる)
真田昌幸(信濃・甲斐)
前田利政(大前田家の家督と領土を得る)
毛利輝元(中国・豊前・飛び地で尾張に吉川)
宇喜多秀家(関東)
上杉景勝 (会津・越後)
どうすかね・・・
島津と真田?
豊臣政権の序列を知れって感じ
459 :
日本@名無史さん:03/02/22 10:58
>>458 そっとしといてやれ。
丹羽長重を入れたことで得意満面になってると思われ(w
立花宗茂が抜けてるぞ
戦闘力の高さから考えても大老になって不足はないだろ
関ヶ原の戦いの後、大津で福島正則が徳川家康をやってしまった場合も
西軍の勝利と認定してもかまわないでしょうか。
>>457 丹羽と前田が同列で大老?それと真田が・・・。
あえて現代でいえばイラクとクウェートの関係に等しい両者の関係ぐらいは
ご存知でしょう。
まして丹羽に利長の旧領の一部を切り与える?うーん地域紛争起してくだ
さいといわんばかりに思えます。
それと真田の大老?ジョークでいってるとは思いますが本気で反論すると
戦功と三成との姻戚関係から行けば侮れんが、大阪の陣の幸村イメージで大老
就任させたのなら・・・あの当時は真田は「表裏ひきょう」とか称され伊達政宗
のように基本的には信用は低い。
信濃と甲斐を恩賞にすら怪しい。まあ真田の事勝手に切り取り勝手やって居直り
するだろうが。ソレなら尚更無理。
それにどっちも武家清華じゃないんじゃなかったっけ?
武家清華=大老とはいわんがそういうステータスも大老就任には必要では?
>>460 うーん立花宗茂・・・島津義弘なみに無理。あえていうが彼等との同列を毛利や
上杉が承諾するのか?自分のステータスさげるに等しい行為だし。 あえて外様の
発言力と混乱強める人選だし、そんなのいくら三成でもやらないだろ。
464 :
日本@名無史さん:03/02/22 20:00
家康:会津征伐の時点で関ケ原の合戦は計算していなかった
三成:打倒家康の決起の首謀者ではなく途中から主任参謀格となった
とすると打倒家康の決起はまんまと西軍大将におさまった
毛利の参謀安国寺が描いたものでは?
465 :
世直し一揆(コピペ推奨):03/02/22 20:17
<血液型A型の一般的な特徴>(見せかけの優しさ・もっともらしさ(偽善)に騙され
るな!!)
●とにかく気が小さい(神経質、臆病、二言目には「世間」、了見が狭い)
●他人に異常に干渉し、しかも好戦的でファイト満々(キモイ、自己中心、硬直的でデリカシーがない)
●妙にプライドが高く、自分が馬鹿にされると怒るくせに平気で他人を馬鹿にしようと
する(ただし、相手を表面的・形式的にしか判断できず(早合点・誤解の名人)、実際に
はたいてい、内面的・実質的に負けている)
●本音は、ものすごく幼稚で倫理意識が異常に低い(人にばれさえしなければOK!)
●「常識、常識」と口うるさいが、実はA型の常識はピントがズレまくっている(日本
の常識は世界の非常識)
●権力、強者(警察、暴走族…etc)に弱く、弱者には威張り散らす(強い者にはへつらい、弱い者に対してはいじめる)
●あら探しだけは名人級でウザイ(例え10の長所があってもほめることをせず、たった1つの短所を見つけてはけなす)
●基本的に悲観主義でマイナス思考に支配されているため性格がうっとうしい(根暗)
●単独では何もできない(群れでしか行動できないヘタレ)
●少数派の異質、異文化を排斥する(差別主義者、狭量)
●集団によるいじめのパイオニア&天才(陰湿&陰険)
●悪口、陰口が大好き(A型が3人寄れば他人の悪口、裏表が激しい)
●他人からどう見られているか、人の目を異常に気にする(「〜みたい」とよく言う、
世間体命)
●自分の感情をうまく表現できず、コミュニケーション能力に乏しい(同じことを何度
も言ってキモイ)
●表面上協調・意気投合しているようでも、腹は各自バラバラで融通が利かず、頑固(本当は個性・アク強い)
●人を信じられず、疑い深い(自分自身裏表が激しいため、他人に対してもそう思う)
●自ら好んでストイックな生活をしストレスを溜めておきながら、他人に猛烈に嫉妬
する(不合理な馬鹿)
●執念深く、粘着でしつこい(「一生恨みます」タイプ)
●自分に甘く他人に厳しい(自分のことは棚に上げてまず他人を責める。包容力がなく冷酷)
●男は、女々しいあるいは女の腐ったみたいな考えのやつが多い(例:「俺のほうが男
前やのに、なんでや!(あの野郎の足を引っ張ってやる!!)」)
466 :
日本@名無史さん:03/02/22 20:33
家康打倒を画策し、毛利や増田らを唆して挙兵させたのは
原田喜右衛門を中心とする大坂や京の政商たちです。
だめぽ・・・
島津義弘・丹羽長重・前田利政は抜きます、はいはい。
468 :
日本@名無史さん:03/02/23 12:04
大老なんて作ったのが諸悪の根源のような気がするな。
江戸幕府みたいに政権運営は譜代の小領主達にやらせといた方が
安全じゃない? 豊臣家にそもそも譜代がどれほどいるかとも思うが、
大領主を政権の中枢に置くのは、それがどんな人物であれ危険だと思う。
469 :
日本@名無史さん:03/02/23 12:52
徳川幕府成立前の全国規模の政権を、江戸時代のイメージで語るのは
無謀ですよ。
って、こんな常識的なことも知らずに議論してる人間に言っても仕方ないが
一言多いよお前
>>469 その徳川幕府だって作られ始めたのは関ヶ原後なのだから
条件は同じだろうが。
条件は同じらしいw
>>471 悪いことは言わん。ひと晩じっくりと考えてから書き込め。
474 :
日本@名無史さん:03/02/24 15:11
三成は嫌われ者
>>471 東軍と西軍の条件の違いは、
東軍には家康という強力な主導者がいて、そいつに明確な戦後の目的があって、
その実現のために強権を行使出来たって事でしょう。
対して西軍は、本当の首謀者が誰だったかすら、このスレで議論されているとおり、
はっきりせず、戦後、同程度の実力者が並び立つのも明白で、
誰が指導的立場に付くのかもよく分からない、
その上、実力者達にはそれぞれの目論見があり、対立する可能性も高い。
簡単にいえばこんなものです。
まあ、もう分かってると思いますけど念のため。
477 :
日本@名無史さん:03/02/24 19:47
それでは西軍が勝っても、その政権は早々に滅びるだろうという結論になるね。
かりに関ヶ原で勝っていたとしても最終的に勝利を確定しないまま
なし崩しに終わってしまっていたかもしれない。
三国志の董卓討伐軍のように。
479 :
日本@名無史さん:03/02/24 21:14
ちなみに役柄としては、袁紹=毛利輝元 曹噪=石田三成
480 :
日本@名無史さん:03/02/24 22:27
たけぞう=伸々
またはち=竜々
なあ、わしはどうすれば良いのだ?
そう言えば、広家がおらぬのう・・・・・
482 :
日本@名無史さん:03/02/25 01:03
三成は凄く頑張ったよね。それだけは認めてあげていいんじゃない。
>>482 私も認めてあげていいと思いますよ、
実際良くやったと思います。
三成の立場とか考えたらあれ以上は無理だったのでは。
484 :
日本@名無史さん:03/02/25 03:04
一番評価できる点が最大の弱点と思われた戦場での戦術面というのも皮肉
なことで。
でもこれって案外ありがちだよね。受験とかでも力入れてた苦手科目が結果
的に一番できたとか。
485 :
日本@名無史さん:03/02/25 03:10
同じifでも戦後体制考えるより前に戦後処理から考えるべきなのでは。
そう安易な作業じゃないだろうし、その過程が戦後政権形成に大きく影響する
はずだし。
戦後処理を考える為には
どのような勝利になったのかが問題な訳で…
それを考えると
>>478の言うような、なし崩しの勝利という可能性もあり
推測する幅が広すぎる訳で…
487 :
日本@名無史さん:03/02/25 03:19
>>486 手っ取り早いのはやはり金吾が全く逆の出方をして東軍壊走っていう
シナリオかな。あとは家康自体の安否だな。
でも安否といっても安易な2パターンで考えることもできないし、やはり
推測の幅は広い罠。
488 :
日本@名無史さん:03/02/25 03:28
東軍敗走→全国諸侯に戦勝報告&追討ローラー作戦という流れに移行したいとこ
だけど、遅れて到着する徳川本軍と北陸の前田の存在考えると、美濃から東南
方向には進軍できないだろうから関ヶ原で討ち取らない限り生き残りそうだな、
家康タソ・・まあ、今挙げた二つの出方次第でもあるわけだが。
そもそも西軍は信濃から徳川本隊が来るってこと知ってたのか?
490 :
日本@名無史さん:03/02/25 11:12
>>488 関ヶ原で家康が負ければ前田は日和見になりそう。
芳春院が人質でなければあっさり西につくのでは?
491 :
日本@名無史さん:03/02/25 20:44
関ヶ原の時点では既に芳春院は人質として江戸にいるからなあ。
>>491 ”関が原で家康が負ければ”という前提があれば、芳春院に手出しできる訳はないわな。
妄想年表
1600年 家康江戸城で降伏 家康切腹、秀忠は武蔵一国を安堵
同年、毛利&宇喜多&上杉の三大老及び石田&大谷&吉川広家&増田&長束の五奉行の新体制が始動
1601年 黒田の乱(翌年鎮圧)。小早川秀秋が関白就任
1602年 大谷吉継死去、後継に佐竹義宣、毛利輝元隠居、後継に結城秀康。石田筆頭奉行に就任
1603年 小早川秀秋と伊達政宗の共謀による政府転覆計画が発覚。小早川秀秋改易、伊達政宗は減封
新関白に公家が就任
1604年 結城秀康死去。後継に真田昌幸。
1605年 小早川の乱。小早川家滅亡。
1606年 石田、徳川残党及び旧東軍の奸計に陥り奉行職を解かれる
あとしらね
494 :
日本@名無史さん:03/02/25 23:18
>>490 確かに前田はそもそも一枚岩じゃないし、日和見の可能性は高いかも。
それと関ヶ原で勝ったとなれば、機能しなかった毛利系の軍勢が恐らく協力的
になるだろうから、美濃に抑えの人数残して追いこみかけられるかも。
まーでも家康が無事関東に帰ったら、長期戦は必至ですな。
>>493 ツッコミ所満載だな
オレモナーw
西軍が一丸になったらの話だな>全て
つか妄想書きたいなら三戦板へ帰れ
497 :
日本@名無史さん:03/02/26 00:20
自治厨必死だなw
関ヶ原の西軍勝利の場合,前田が処罰されるか?。多分処罰されまい。
まず西軍で主力を担った宇喜多が巨大化する毛利や上杉に対抗し自分の
地盤固めるため、なんとしても処罰回避させるだろうし、へたすれば
利政に家督譲らせ大老滑り込みぐらいさせかねまい。
それと豊臣政権が大領主を政権上位固めさせ,徳川は・・・。
豊臣の場合は足場弱い(秀吉は成り上がり、利で敵を取りこむ外交で安心感)
だから巨大な版図を持てなかった。直轄都市とか鉱山は確保してるにしても
全国政権だから各地に大きな領国を持つ大領主を政権に丸抱えにし、豊臣家領
が満足に確保できない代償とし政治の相談役とした。
信頼してるから協力してくれという秀吉の捨て身のスタンスになるし、なまじ
反旗を起せそうな実力者を丸抱えにし相互牽制と政策協力とりつけさせる効果。
秀吉は直轄領に米作の場じゃなく各地に睨み聞かせる拠点として見ていたんでは。
なにせ秀吉は交易と独占鉱山の利があるし。
家康の場合、秀吉の統一した天下ゆえに天下分け目の合戦だでき、しかも予想外
に敵の規模が大きかったんで,一度で全国政権に十分な基盤を確保でき、協力的な
外様に大封あたえ与党にした効果、全国規模の配置転換で諸侯に,新しい領国の
法的根拠は家康様の認可にありとできた。
と思うんですが?
499 :
日本@名無史さん:03/02/26 18:35
小早川が西についても(西につくのは十分ありえたが)、そもそも西軍は勝てるかな?
結論はおいといて、
小早川秀秋 勢が動いたのは正午頃デスネ。そのときの戦況を把握しないと、小早川軍が西軍として動いた場合の妥当な想像は出来ん。ごくおおざっぱなんだけど、東軍右翼の状況…
この時間、東軍右翼をずっと支えていた石田隊はかなりきつかった。
でも、黒田・細川・嘉明・田中らがあいかわらず三成憎しで笹尾山に殺到するあまり、人がひしめきすぎて仕事にならず、
(黒田なんかは10時頃にはコリャマズイと感じていたにちがいないが、不味いことに転進するにも自隊が最右翼かつ前線で、しかも右翼の督戦役だしおまけに人大杉で無理なのね。
家康に「根回し大丈夫だろうな?あ?」とつつかれて「知るかヴォケ!」とキレたのはたぶん、
そんなひしめき状態でやってるのに、野戦上手なはずの家康が本陣前進させて変に煽るから、確かに押しまくりはできても人大杉も解消されず、それによほどむかついてたんじゃないか?)
加えて傾斜地の有利でなんとか支えていた。
でも南隣にいた島津はどんなに石田隊がきつそうでも横槍入れてくれない。
これも逆に言うと、石田隊はこの時点でまだ崩れない、と、惟新もたかをくくってたんだろうネ。
本当にやばくなったら「それ見たことか」と加藤勢(筒井勢か?)をえぐって助けてやるつもりだったんだろう。
正午時点の東軍右翼・笹尾山方面はこんな状況かな、と。
>>499 田中は三成憎しで戦っておりませんが、何か。
>惟新も
>助けてやるつもりだったんだろう
根拠は?
501 :
日本@名無史さん:03/02/26 19:25
502 :
日本@名無史さん:03/02/26 19:36
>499
あのー西軍中央や西軍右翼も注意するべきでないの?
それと、「こういう戦況」だという事で何がいいたいわけ?
>501
あんたどのスレにも時々出てくるね。何も言わずに水だけ差すやつ。
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 通報しますた d | 悲しみに耐え通報しますた
\ \ __________
 ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ∨ /
∧_∧ | 怒りに任せ通報しますた
∧_∧ ( ´Д`) \_ ___________
( ´Д`) /⌒ ⌒ヽ ∨ /
/, | /_/| へ \ | 笑いと共に通報しますた
(ぃ9 | (ぃ9 ./ / \ \∧_∧ \_ ___________
| 丶、 / ./ ヽ ( ´Д` ) ∨ /
| ∧_二つ ( ( ∪ , / | 哀愁に包まれ通報しますた
| / \ .\\ (ぃ9 | ∧_∧ \ ______ ∩__
/ ( \ .\\ / / ,、 ( ´Д` ) ∨ ∩ / /
/ /~\\ > ) ) ./ ∧_二∃ (ぃ9/ ∧_∧ __ | |/ /
/ / > ) / // ./  ̄ ̄ ヽ | |ヽ∩ ( ´Д` )ヾ \ | |
/ノ // / / / ._/ /~ ̄ ̄/ / / __/ヽ/ (ぃ9 / / ̄ ) γ )∧_∧ シマスタ
// . //. / / / )⌒ _ ノ /./ / / ヽ ヽ / / /// ( ´Д` )
// ( ヽ、 ( ヽ ヽ | / ( ヽ、 / ///\\\ // /// (ぃ9 | |
( _) \__つ \__つ). し \__つ(_// \つつ 巛< (_二二二へ ∪
504 :
日本@名無史さん:03/02/26 19:44
>>499 最近の研究では島津が動かなかったのは
島津隊は二番備の部隊だったからと言われてます
二番備の部隊は味方が優勢になった時に一気に勝ちを決めるために投入される部隊です。
西軍は優勢になる前に小早川の裏切りで島津の二番備え部隊の投入の時期を失ってしまった。
最近の研究じゃなく、一研究者の説だっての。
506 :
日本@名無史さん:03/02/26 19:54
『旧記雑録後編三』より
「雨天にて霧深候て、方々見得かね候、此方御備二備に御座候」
「此方の御陳の前備前中納言殿、東は石田殿請取の陣場、此方は二番備にて候処」
「石田三成、八十島助左衛門を遣わし、豊久之陣において曰く、三成先陣を進み敵軍に対し一戦に勝ちを較ぶべし、後陣の軍衆速かに待ち前進して合戦を致さん」
「一番槍石田殿、二番中書様 (島津豊久)、三番備備前中納言殿、その続き惟新様 (島津義弘) にてこれあり」
>>504 その説だと、島津軍は三成の再三にわたる参戦の要請にもかかわらず、
「二番備えだから」という理由でそれを拒否したってことですか?
それは結局戦闘不参加を決め込んだというのと同義だと思うのですが。
508 :
日本@名無史さん:03/02/26 20:48
>三番備備前中納言殿
宇喜多秀家の事だぞ。
三番隊の宇喜多隊は奮闘してるが、島津は何してんだ?
いくら何でも、隣の部隊が三倍もの敵に押しまくられているのに、
優勢になるまで待つってのはどうでしょう。
義弘がそこまで事前の予定どうりにしか行動できないような愚将だったとは思えないんですが。
>>502 キショいコテハンを一人この方法で叩いてこの板から追い出したのだが、う
まく行き過ぎて少々退屈しておるのだ(w
511 :
日本@名無史さん:03/02/26 20:54
隣の部隊なのかなあ?
確かに図上では隣なんだけど
>>504-
>>505 どっちも正解。最近の説でもあり、桐野作人のM文庫で紹介されている説でもあり。
そこそこ支持されてもいい解釈だと思うが。
>>507 業を煮やした三成本人が島津陣所にでばった時にはもうだめぽ状態となっていたらしい<その説では
513 :
日本@名無史さん:03/02/26 20:55
「石田三成、八十島助左衛門を遣わし、豊久之陣において曰く、三成先陣を進み敵軍に対し一戦に勝ちを較ぶべし、後陣の軍衆速かに待ち前進して合戦を致さん」
これ続きがあって、下馬しないのを無礼という事で追い返した事や、
三成が出向いたのを豊久が追い返した事が書いてないか?
>>511 旧参謀本部が作成した布陣図をそのまま信用しない方がよい
516 :
日本@名無史さん:03/02/26 21:08
>>516 小早川裏切りの前なのに?
だとすると、島津は西軍全体がダメになるまで三成の使いが来ても、
自分の判断ででも動かなかったってことですか?
>500 切り番おめ。
>501のようなレスは当然だと自分でも思います。言われるように書いたし。
>500 田中のじいさんはたしかに三成憎しが先に立ったりはしないやね。
しかし、むかし仕えてた関白の家中たちと敵味方に分かれたのは言わば三成のせいだったし、連中が哀れだったんじゃないかな。
あと忠興の奥さんとか元忠さんだって、西軍反乱起こさなきゃ死ぬ必要なかったろうし、
“大体石田は息子が会津仕置に大谷と一緒に参加するはずが、あの排斥癖でとうとう内府様を相手にするとは、じいさま呆れてしまいます”てなもんで。
島津が「石田を助けてやろう云々」と考えたと想像する根拠は、それが島津義弘だからどす。記録にそういう心境は残っていないにしても。
あと、ある記録によれば義弘は敗北が決定的になってから家康本陣に切り込もうとしてらあね。
519 :
日本@名無史さん:03/02/26 21:35
>>517 小早川の裏切りの前に三成が来たという前提が違っているのでは?
三成め、豊臣のための戦だとぬかしおって大嘘じゃねえか。
豊臣の連中(注:福島、小早川等)全員じゃないか。
騙された。こんな戦やってられるか。
旧知の福島を頼ってさっさとずらかるぞ
521 :
日本@名無史さん:03/02/26 22:03
明治の初めドイツから陸軍の養成のため招聘したメッケルは、関ヶ原の地形と兵力の多寡を見て、西軍の勝ちと断定した。
522 :
日本@名無史さん:03/02/26 22:52
メッケル?だから何なんだ?
西軍有利なのはドシロウトでも分かると思われ。
>>515 「山田晏斎覚書」によると、
「手備に帰着され候はんと存じ候時節、はらはらと敗軍候事」
(三成が陣所へ帰り着く前に、石田勢が敗軍したぽ)
だそうだよ。
標高293mの松尾山を1万数千の小早川軍が駆け下りるのに必要な時間を想像すると
三成が島津陣所に出向いてage依頼をしてる最中には、既に山中村の大谷諸勢は
裏切りの軍勢にメタメタにぶちのめされていた(だから島津も見切りをつけた)と漏れは考える。
524 :
日本@名無史さん:03/02/26 23:00
三成は相当島津に気を使ってたと思うよ
前哨戦で置き去りにしちゃったポカはあったけどね
525 :
日本@名無史さん:03/02/26 23:10
桐野作人説は島津側の史料に偏りすぎ。
その島津側の史料ですら
>>506のように矛盾してるんだが。
526 :
日本@名無史さん:03/02/26 23:20
>>525 東軍側に資料にも島津は2番備という記述があるらしいよ。
527 :
日本@名無史さん:03/02/26 23:26
>>525 じゃあなんでそんな記録を残したんだろう?
528 :
日本@名無史さん:03/02/26 23:34
>>527 あほすぎて捏造ミスったから。
島津家中の方々はびびりまくって戦況がつかめていなかったから。
529 :
日本@名無史さん:03/02/26 23:37
>>528 またまた自作自演ですかぁ?
なんでそんなもの捏造する必要があるのかな?
2番備とされるよりも三成に愛想尽かして不戦の姿勢取っていたの方が
島津にとって対徳川へのいいわけには都合がいいだろう?
530 :
日本@名無史さん:03/02/26 23:41
敗者の記述なんて信用できませんなーw
同じく勝者のも信用できませんなーw
よって信用できる物なんてありませんなーw
531 :
日本@名無史さん:03/02/26 23:42
>>530 すると歴史を学ぶなんて、ほとほとバカらしいですなぁ
532 :
日本@名無史さん:03/02/26 23:43
>>530 そんな隅のほうでぶつぶつ言ってないでこっちへおいでよ
533 :
日本@名無史さん:03/02/26 23:45
ってことは
終 了 〜
か?
534 :
日本@名無史さん:03/02/26 23:48
>>529 旧記雑録って徳川への言い訳のためにまとめられたのか?
夜間、雨中のなれない土地での行軍の末、陣を敷いたため状況の把握が困難だったのではないだろうか。
先陣石田 二陣島津 三陣宇喜多(小西は宇喜多の御用商人なので宇喜多勢のうち)の順で並んでいたのは問題ないでしょう。
ただ東軍の進入路が北よりなので先陣から順番に戦闘が開始されていくと思っていたのが戦巧者の東軍福島の絶妙な位置取りで、本隊を先に直撃されてしまったのではないでしょうか。
536 :
日本@名無史さん:03/02/26 23:55
ネタなのか本気なのか・・・
537 :
日本@名無史さん:03/02/26 23:57
538 :
日本@名無史さん:03/02/27 00:00
>>534 いや、
>>528が捏造というから
捏造するなら対徳川に対してのものだろ?
俺個人は捏造だなんて思っていないよ
539 :
日本@名無史さん:03/02/27 00:03
540 :
日本@名無史さん:03/02/27 00:05
ネタとしてはできが少々・・・
>>537 すまん。元を入れ忘れた。宇喜多がかつて毛利を裏切って羽柴秀吉に
下ったときの宇喜多の使者が、御用商人をしていた小西行長。
平塚や戸田が大谷との縁で大谷隊の扱いだから、小西も宇喜多隊
の一部と考えてもよいように思えた。
age
しかし関ヶ原戦の徳川は情けないの一言につきるよな。
本隊は真田に惨敗し合戦にすら参加できず、関ヶ原方面の徳川勢は
戦わずに傍観、挙げ句の果てに井伊、松平、本多の参照はやけくそで突っ込んできた島津の暴走の煽りをくって悶絶、そのなかでも剛勇で慣らした本多は完全にのびていたらしいし。
('A`)ハァ
546 :
日本@名無史さん:03/03/01 21:12
>>544 うーむ・・・。
・秀忠が真田に苦戦したのは確かだが、それが遅参の直接の原因ではないぞ。
・関ケ原で徳川家康本隊が全く戦闘を行わなかったのは、戦況に余裕があり、戦う必要がなかったから。
・島津にやられたのは、島津隊が死兵と化していたためと、不意をつかれたからで、
その後体勢を立て直した本多隊や井伊隊によって、島津は壊滅させられている。
以上オワリ。
547 :
日本@名無史さん:03/03/02 06:18
>>544 関ヶ原の徳川はもう兵の屈強さに頼る必要はなかったからね
それでも福島を出しぬいて井伊に戦陣きらせたりおいしいところは抑えてる。
548 :
日本@名無史さん:03/03/02 06:31
関ヶ原のときの義弘ってかなりカッコ悪くない?
西軍についてたとも日和見だったとも言われてるけど
西軍についてたのだとしたら大局眼がなかったってことだし
日和見だった場合結局徳川に追撃されて壊走してるし
どっちにしても甥の豊久ほか家臣の多くを無駄に死なせたのは間違いない
まぁ義弘自身は当時の島津家にとって欠く事の出来ない
存在だったろうから一人で逃げ帰ったのはしょうがないけど
549 :
日本@名無史さん:03/03/02 06:33
にっくき輩は何といっても「田中吉政」よ。
殿のお陰で取り立てしてもらいながら、隠れた裏切りを
繰り返したのだから・・・。
最初は秀次公へ
の讒訴裏切り。2回目が伊吹山中の三成狩りの時の
お助けごまかし。挙句の果ての即罪人扱い。
家康への延命直訴なんて全くなし。
太閤没後わずか2年での三成の死は、せっかくの
合議制国家の芽をつばまれた日本の文明停滞への
悲劇だね。
如水も別の意味で、もうひとつの悲劇だったけど・・
なりきり厨が表れた
春の到来を感じさせるね
>>550 結局、前野家文書はニセモノなのでしょうか?
教えてください。
553 :
日本@名無史さん:03/03/03 11:55
シラネーヨ
554 :
日本@名無史さん:03/03/03 12:53
・豊臣秀頼の名代で毛利輝元が禁裏に上奏して、徳川討伐の詔勅ゲット
・秀頼は伏見城まで出陣、輝元関ヶ原まで出陣(西軍に2万ほど追加)
・福島など外様集4万が西軍に
東軍15万余、東軍は秀忠加えても8万余
徳川あぼーん
それだったら福島が西軍参加を表明した段階で家康は関東に立てこもって長期持久戦になるだろう
大津城落としたときに立花宗茂だけでも
関が原に来れば松尾山に小早川秀秋なんて配置せずにすんだものを。
大津が落城した時、松尾山はもう既に小早川に制圧されていたよ
558 :
日本@名無史さん:03/03/03 17:48
小早川は配置されたんじゃなくって、西軍の別部隊を追い出して
松尾山に居座ったんですよ
559 :
日本@名無史さん:03/03/03 20:47
>>554 それってどれも、試みたけど実際には成功しなかったものばかりでは?
560 :
日本@名無史さん:03/03/03 22:51
つーか、なんで大阪方は家臣同士の争いってことで手を打っちまったんだろう
細川と和議せよという勅命はあったようだが
誰が中心に「秀頼関知せず」という話をまとめ上げたの?
561 :
日本@名無史さん:03/03/03 23:59
妄想中すまんが、立花宗茂は大津城落城後、守備を命じられたので
関が原には到達できない。
562 :
日本@名無史さん:03/03/04 11:38
>>561 毛利元康の指示なのか? ヴァカがっ!
563 :
日本@名無史さん:03/03/04 20:02
毛利元康?
564 :
日本@名無史さん:03/03/04 20:16
>>563 そういう名前の人がいたの。
ほんとだよ。
そういや毛利秀頼とか毛利秀秋とかもいるよな。
566 :
日本@名無史さん:03/03/04 23:47
>>563 元就の8男。小早川秀包のすぐ上の兄に当たる。出雲の末次氏を継いだので
末次元康として名前が出てくることもある。
江戸時代の厚狭毛利氏の初代になり、萩に置いた屋敷の長屋は現存して国の
指定文化財になっている。
ただし、ソースによっては厚狭毛利氏の初代を1585年に歿した兄(5男)元
秋にしているが、萩移封前どころか広島築城前に死亡した人を初代にするの
は少々強引かと思われ。
>>565 彼らは安芸の毛利一族ではありません。
567 :
日本@名無史さん:03/03/04 23:49
豊後佐伯の毛利さんはなんとなく微妙
568 :
日本@名無史さん:03/03/05 11:30
大津城攻撃隊の大将はやっぱり毛利元康だったの?
569 :
日本@名無史さん:03/03/05 19:11
>>566 >ただし、ソースによっては厚狭毛利氏の初代を1585年に歿した兄(5男)元
>秋にしているが、萩移封前どころか広島築城前に死亡した人を初代にするの
>は少々強引かと思われ。
それは全てあなたの思い込みです。
もう書き込むのやめろよ、伊達君(w
いいかげんしつこい。
氏ね。
571 :
日本@名無史さん:03/03/06 11:38
じゃ大津城落城後、立花以外の武将はどう動く予定だったの?
572 :
日本@名無史さん:03/03/06 17:26
釣り師君、釣りやってて楽しいでつか?
>>573 いや、毛利家文書によると実際計画してたらしいよ。
輝元直筆の書状が残ってる。
兵糧集めに益田元祥が派遣されてたらしいし。
>>574 お、スマソ。最近ソースも示さず煽りカキコしてる、厨が多いもんで。
しかし、鳥取城なんて戦略的価値あったのかねー。
板坂ト斎が、「今一日持ちそ候らへば‥」と書いているように、高次が
大津城開城をあと一日遅らせていれば、と言われている。
ともかく高次が14日まで持ちこたえた為に、大津城攻城軍は関ヶ原に
間に合わなかった、というのが通説だと思っていたのだけど‥
577 :
日本@名無史さん:03/03/08 08:37
蒲池ストーカー=粘着伊達叩き厨
暴れてます
>577
蒲池ストーカーと粘着伊達叩き厨は別人だよ
>>578 別人だろうがなんだろうが、どちらも粘着ドキュソの基地害だから
同じじゃん
>>579 伊達叩きしているのは、二人いてドキュソのほうがストーカーだよ。
>>580 二人ってどこでわかるんだ? 漏れには何人いるやら見ていてさっぱりわからんが。
まあ、そもそも叩かれている伊達がもっとドキュソだから仕方あるまい。
徳川に秀頼成人までの政権を委ねたのは秀吉自身であり、それを反古にしようとした
三成を逆臣であると豊臣の武将たちが判断したのは当然でしょう。
実際に西軍についた武将の多くは外様大名たちで、豊臣の身内や家臣の殆どが東軍になっている。
小早川ですら最初は伏見城に立てこもろうとし成り行きでやむなく西軍についたみたいだし。
結局三成が豊臣のための戦いと世間にアピールしきれなかったのが敗因でしょう。
それと三成の考えが甘すぎだと思う。八月十五日の真田宛の手紙で清洲に入れてくれるように
福島正則を説得中と伝えていますが、清洲の留守居に開城を要求して福島正則が帰城するまで
待ってくれといわれて待ってしまっている。つい先日自分を殺そうとした人間が快く城を
明け渡してくれるわけないのだからさっさと攻め落としてしまうベきだった。
一昔前のネタ。
584 :
日本@名無史さん:03/03/09 09:02
三成が正則を殺そうとしたというのは新説だな。
まぁ、ガンバレや。
>>585 >つい先日自分を殺そうとした人間が快く城を
明け渡してくれるわけないのだからさっさと攻め落としてしまうベきだった。
お前、大馬鹿か?
てにおは
春だねー、お花畑がきれいです。
591 :
日本史@名無史さん:03/03/11 19:24
三成が清洲城を落しておく事はとっても大切な事だったのです。
鍋島家が買い占めた米を東軍は食いながら西へ向かって行った後は
清洲城にあった備蓄米を食っていますから。
もし清洲城の米が無かったら東軍の行動はかなり制約されていたのでは
と思いますが?
592 :
日本@名無史さん:03/03/12 15:01
>>591 東海道筋の武将が東についてたから食料的には
(兵站も)あまり困らないんじゃない?
確かに清洲には豊臣家の備蓄米があったらしいね。
593 :
日本@名無史さん:03/03/12 22:15
秀頼からたくさんお駄賃もらってるもの。
594 :
日本@名無史さん:03/03/12 22:17
なんだこの厨房どもの会話は
595 :
日本@名無史さん:03/03/12 22:18
596 :
日本@名無史さん:03/03/12 22:20
やっとYahooBB人が書き込めるようになったよ。ひさしぶりですなーみなさん。
597 :
日本@名無史さん:03/03/15 10:10
age
田中吉政って佐和山城でも、和議の最中に突っ込んで来たんだよ。
599 :
日本@名無史さん:03/03/17 23:37
たしかに戦争反対の国際世論を押し切り、米国(幕府)が
強行にイラク(長州)を攻めようとしているところは
似ているなぁ
600 :
日本@名無史さん:03/03/18 23:33
万が一三成が家康&関東徳川の完全打倒に成功した場合の心境
「どっどうしよう。始末までするつもりは全然なかったんだ・・
ほっほんとだよ。ただちょっとおとなしくなってもらおうって・・
それだけだったんだよ。
これで前田は発言力低下し豊臣恩顧も半分以上消滅、基本は外様の
毛利や上杉、島津に宇喜多、佐竹がドでかくなって、、こっちは
幼稚な母子かかえて・・・鬱だ氏にたい・・あーっほんとにどうしよーっ」
(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
>>582 まるでその時代を生きていたかのような、書き込みだ。
前田が徳川を暗殺していれば、今の日本はどうなっていた?
首都が、金沢?大坂?
602 :
日本@名無史さん:03/03/20 13:02
大坂ですな。でも前田が生まれ故郷の尾張に帰るかも。
603 :
日本@名無史さん:03/03/25 09:09
保守あげ
604 :
日本@名無史さん:03/04/03 10:27
おまいら昨日のNHKみなかったのかよ・・・
まぁ確かに目新しい事は無かったわけだが・・・
605 :
【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守:03/04/03 10:35
よく三成の傲慢な性格が問題とされているけれど、
それ以上に三成には恩賞を与える権限・財力(土地)が
無かったことが求心力の無さの第一原因ではないのかな?
606 :
【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守:03/04/03 10:36
やっぱモノを言うのはカネですよ。
607 :
日本@名無史さん:03/04/03 12:57
福島正則も後悔したんじゃない?三成の言う事は正しかったんだって。
608 :
【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守:03/04/03 13:17
>>607 もしかしたらね。
ただ、戦国時代の人は即物的でドライだから、
十年もいくらも先のことよりかも当面の安全や
利益を優先するもの。家康や秀吉のような天下を取る者
となると別だろうが。
609 :
日本@名無史さん:03/04/03 13:31
三好政勝を語り部にした「三好盛衰記」
春 政勝の父政長&細川晴元VS三好長慶の抗争〜江口の戦い〜長慶入京
夏 三好全盛期&連歌など長慶の文化人としての描写〜久米田の戦い〜安宅冬康謀死&松永久秀暗躍&長慶病死
秋 足利義輝暗殺〜三好三人衆VS久秀〜信長と三好一族〜三好宗家滅亡
冬 三好長治・十河存保兄弟VS長宗我部元親〜中富川合戦〜讃岐復帰〜戸次川合戦〜(時は流れて)〜大坂夏の陣(西軍政康VS東軍政勝)
あとは脚本家が肉づけを汁!!!!!!!
610 :
【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守:03/04/03 13:32
三好と蜂須賀と対決、長宗我部と山内の対決、
なるフィクションも面白い。
誤爆スマソ
訂正:三好と蜂須賀の
613 :
日本@名無史さん:03/04/03 13:49
中学のテストで
石田三成を石田光成って書いてペケされちゃいました。
あと、卑弥呼を卑弥子って書いたこともありました。
614 :
かつての受験生:03/04/03 13:57
615 :
日本@名無史さん:03/04/03 20:08
三成は如水の子供にも
勝てなかったわけだが
616 :
日本@名無史さん:03/04/07 19:34
保守あげデス
617 :
日本@名無史さん:03/04/07 20:49
猿帝國崩壊
618 :
日本@名無史さん:03/04/07 21:13
狸王国台頭
619 :
日本@名無史さん:03/04/08 11:26
狐派閥壊滅
620 :
日本@名無史さん:03/04/08 11:46
厨房時代、黒田幸弘作の超名作ボードゲーム『関が原』を
たった一人で気が狂うほどやりまくりましたが何か?
尾張系の豊臣ゆかりの大名が東軍に取り込まれている時点で、
豊臣政権内部の混乱は相当ひどかった。
前田はもともと豊臣の家臣でもなかったのだから豊臣政権自体と心中する義理はないし、
(秀吉夫妻と利家夫妻の人間関係の方が強かったので、二人が死亡するば義理は解消される)
ましてや、毛利島津等の西国大名は、豊臣政権を支える義務はない。
西軍が勝利したとしても後生よろしく秀頼と三成を指導者と仰ぐとは
思えず政権の混乱は続いたと思う。
それよりも北条が小田原評定なんかやらかさずに、そのまま残っていたらもっと展開は
違っていたろうと思う。五大老筆頭は北条だったし、朝鮮出兵の様子も変わっていたと思う
つくづく北条4代目の無能さが徳川を助けたと思う
623 :
日本@名無史さん:03/04/10 01:37
>>622 ちょっとあんた!!
それはみな誰しも思ってるのよ!!
そっからもうちっと面白い天海はないかと語ってるスレなのよ!
624 :
日本@名無史さん:03/04/10 01:40
いくらなんでも五大老筆頭が北条ってのはないと思うぞ。
>>620 ダミーカウンターやら情報カード(だっけ?)やら恩賞カードやらあるゲームで
ソロプレイとは、なかなかの二重人格ぶりですな
626 :
日本@名無史さん:03/04/10 02:28
くぅっっ・・・さすが2chよ!!
>>625の如き在野の士がいるもんだなぁ!さすがだよ!
小早川隊の士気カードを引く興奮! 6が出た日にゃ
東軍に襲い掛かる快感よ! 人はいるもんだなぁ!!
恩賞カードまでがっちり抑えてはるし・・・。
黒田如スイ活躍の情報カードによる毛利隊削減・・・たまらぬ!!
かなりの手練の方とお見受けしました・・・>>625
627 :
日本@名無史さん:03/04/10 11:33
628 :
日本@名無史さん:03/04/10 23:16
>>624 でもそのまま生き残っていたら関八州は北条のままで
最大の大名は北条になるんだから、家康の下風に立つとは思えないが
629 :
日本@名無史さん:03/04/10 23:33
>>628 石高ではそうなるけど豊臣政権下での主流派と非主流派があるから
織田→豊臣の天下の実権の推移における徳川の功績の歴史と北条のそれでは
徳川の方が重くないか?天下人の豊臣家から見たら北条家は外様だし。
なんにしろ北条家が早々に上洛して秀吉に従ってれば豊臣家の未来も
変わったものになっていたかも。
許せ!!>>627よ!!
皮肉にも気付かぬ俺の間抜けぶりよ!!
歴史板でゲームに狂った過去を得意げに語るスレ違いな馬鹿すぎる俺!!
板汚し・スレ汚しを謝す!!
631 :
日本@名無史さん:03/04/12 13:02
三成あげ
,、-.'"´ ` 、
,、-'" .ヽ ` 、
. / ヽ 、 `ヽ,
. / \ ', , i
't-''"´ ̄ ̄ ̄``''‐;,、 ヽ ', `'|
r,ト、 .,、ェ== i;;;;;`';,、 i | .l ゙i
,|_` , __,,, l;;;;;;;;;;;''ヽ ヽl | ヽ
,`゙`,' '"゙'´ l;;;;;;;' ,イ、゙, .j .| ヽ
', i .';;;;' .=ノ/レ'゙ マ゙
', `,, ニ゙ ''_ / ';;'..___,,、-'
. __,、イ,ノ-ヾ`'‐、 ', `'゙ .|7バ,
. `''''"゙,. ≡ ``'-`=ェ、. ,.' /.l |.ヽ
ハ、. .. ... ... / ./ ! ヽ、
.,、r''7゙//ソノルrリ;iレ- ./ ./ l ヽ`ー-
;;;;'y' /,ソノ川;|ソ' ' / / ! .|
`'/ / ハソノリリハ / / / |
/ ./ レ;川ノリ';,`゙ /、 / |
/ ヾソ川;リ, / \ /
632 :
日本@名無史さん:03/04/13 01:30
まず、三成の失敗は他の大名を軽視した事でしょう。
秀頼が出馬なんてありえません。なんたって大阪城には淀君がいますし。
それと輝元出馬もありえないでしょう。大阪城を守るにはあの軍勢は割けません。
一番には丹波や伊勢に出陣した軍勢は無駄でしょう。
伊勢には西軍に味方する大名も居たから致し方ないと思いますが
丹波・細川に兵を割くのは無策としか言えません。
それと、織田秀信が守る岐阜城をもうちょっと巧く使えなかったでしょうか?
丹波に送った軍勢を岐阜(美濃)の守備隊と置いておけば
いくら福島正則とは言え簡単には落とせないでしょう。
その隙に伊勢に侵攻すれば伊勢の軍勢は主力として使えます。
633 :
日本@名無史さん:03/04/13 01:36
そうなれば秀忠の遅陣はなかったかも知れませんが。
秀忠が多少の遅れを取ったとしても岐阜城が落ちていなければ美濃侵攻には
時間の遅れが出るはず。北陸では丹羽長重だけが意気込んで前田はやる気なし。
会津上杉も最上と伊達相手には江戸には侵攻できないでしょう。佐竹とて同じ事。
こうなれば関ヶ原ではなく大垣城周辺の戦になります。
しかし、岐阜城が落ちていなければ東軍は兵を割かなければなりません。
織田家が信長・信忠・信孝・秀信と治めていた城ですので防備につとめればそうそう
簡単に落ちる城ではないでしょう。ここで重要な働きをするのが真田昌幸。
秀忠の後を追いゲリラ作戦か、それとも信濃周辺を切り取るか。
ひたすら繰り返した議論だが、632の如き意見、漏れは大好きだ!!
635 :
日本@名無史さん:03/04/13 01:40
関ヶ原の合戦が1ヶ月でも延びていたら。
九州はとんでもない事になってるかもしれません。加藤清正と黒田如水の荒れ放題。
島津はどう言う行動に出るか?弟・義弘は西軍として出兵。
兵力には問題がありませんが加藤清正と黒田如水相手には苦戦するかもしれません。
しかし、加藤と黒田はお互いをけん制しあって九州三国志の再来になるかもしれません。
さて、中央に場を戻して見ましょう。
徳川家康なら九州の状況を知って小早川秀秋にこれを言うはずです。
もちろん吉川広家にも。しかし、吉川広家には帰陣する事はできないはずです。
何故ならどちらに転んでも毛利家は存続しなければならないからです。
636 :
日本@名無史さん:03/04/13 01:44
ここまで拮抗すれば会津の上杉が危機に立たされる可能性があります。
東北には東軍派が多いのです。最上・伊達だけではないのです。越後騒動で宿敵になった堀家。
2方向から攻められればいくら戦国屈指の軍団でもそうは行かないでしょう。
しかし、堀家の兵(国人)はいづれも謙信崇拝者。これを直江山城がなんとかできれば
南からの脅威は無くなるかもしれませんが逆の方向では結城秀康が控えています。
これには多少の兵を割かなければなりませんし佐竹と共に撃破しなければなりません。
会津関ヶ原は相当な時間がかかるでしょう。
中央では岐阜城の防備に徹しているので秀忠率いる3万では足りないですが
三成と軍を構えている以上、これ以上兵を割けません。
こうなるとおもしろかったのですがね。
637 :
日本@名無史さん:03/04/13 01:52
面白い!! でもどう1ヶ月伸ばすよ!?
基本は大垣篭城かや? 三成・宇喜田・島津連中が大垣に篭城かや?
638 :
日本@名無史さん:03/04/13 01:52
小説家になったら?
これをまともに書いたら結構売れるかもよ。
おもしろそう。頑張って☆
639 :
日本@名無史さん:03/04/13 01:56
>>638 チミが書け! チミの意見も聞きたい!!
皮肉でなしにチミの構想も聞かせれ!!
前田の存在を忘れてないか?
前田が一ヶ月もすれば南下するぞ
しかも北陸街道を南下されれば岐阜・大垣ラインの裏を突かれる
641 :
日本@名無史さん:03/04/13 01:57
面白いですか。ありがとうございます。
なんとなく書いてみましたので。1ヶ月は難しいですかね。
岐阜城が落とせないであれば福島正則はじめ豊臣恩顧の将は常に居なければならないという設定で。
実際、岐阜城が落ちてから家康が動き出しましたから。
そうなれば岐阜城落城前に出陣する可能性が出てくると思いまして。
これだけでも半月は遅れさせる事は出来ると思います。
後は秀忠が岐阜城攻めを変ります。
何故、岐阜城が落ちないのかというのは、これは現実にはありえないですが
宇喜多・島津の奇襲戦法で美濃各地で暴れると言う事しかできません。
文才がないので誤字脱字はご容赦願います。
642 :
日本@名無史さん:03/04/13 02:03
>>640 あ・・・普通に忘れてました。
じゃあ、利政が反乱・・・てか西軍に寝返るってのは無理ですかね・・・。
実際、丹羽長重が守る小松城は堅城ですし・・・。
643 :
日本@名無史さん:03/04/13 02:06
面白いにゃー!!!
640の意見にしびれたよ!! その通り!! 前田を
すっかり忘れていたよ!! 上杉に匹敵するほどの巨大大名なのに!!
でも、そうすっと大谷シンパも黙ってねーべなー。
前田の戦闘力はハンパでないと思うけど、北陸街道沿いを抑えきれる
もんなのかなぁ・・・。
面白いなぁ!!
利政が西軍に寝返るのは厳しいと思うが、小松・大聖寺の加賀中南部の拠点が
どれだけ持ち堪えるかにかかってるだろうけど
兵力差を考えれば、一ヶ月も持ち堪えるのを期待するのは酷だと思う
加賀を抜かれたら越前は厳しいだろうし
あと傍観して動かない小早川はどう扱いましょうか?
伏見攻め以降、三成の出陣要請も拒否してるけど
645 :
632から書いてみた人:03/04/13 02:18
やっぱり前田家は強敵ですね・・・。越前の小大名じゃ相手になりませんね・・・。
西軍から兵を割くしかありませんかね。
対・前田を見通しての丹波制圧だったのでしょうか?
小早川については帰っていただきましょう(笑)
1万5千が居なくなりますが変りに西軍には丹波・伊勢侵攻軍がおりますので。
小早川秀秋は九州に帰って黒田如水と戦う?それとも秀吉の縁で加藤清正と・・・。
でも秀秋は朝鮮出兵の件で秀吉を嫌ってたとか・・・・。
646 :
日本@名無史さん:03/04/13 02:23
結局そうなっちまうだよなー。
小早川をどう見るかってのはむずい! もうすでに644
は嶋左近の域に達してるよ! どうするよ?! 伏見時点で
使えねえと言えたのかなぁ・・。 でも毛利一派だし、切れねぇよ!
647 :
632から書いてみた人:03/04/13 02:27
反・関ヶ原でしたっけ?あの小説では九州騒乱で秀秋は帰りましたよね。
自分はあの小説にかなり影響されておりまして。
三成があんなに素直だとは思いませんが。
若干21歳の若者ですから、どちらに転ぶかってのは分かりませんよね。
天下の落とし所は結局のところ家康だったのでは?
つまり大体の大名から「まあ、あいつなら将軍でしょうがないや」
と、思えるのは関が原の時点で家康しかなかったと…
信長は時代の先を行き過ぎた、秀吉は軟弱な基盤の上の政権で
尚且つ生まれが…
649 :
日本@名無史さん:03/04/13 02:34
俺的には648の意見がお年どころだなぁ・・・。
説得力があるせ・・・。
家康に前田・上杉なんぞが反抗不可能だったんだろうかねぇ・・?
648の言うとおり、おとしどころは家康だったか・・・。
650 :
632から書いてみた人:03/04/13 02:35
>>648 そうですよね。豊臣恩顧の武将と言えど関ヶ原の時代では大名ですし
簡単に家を潰せませんもんね。
結果的には家康にかなう武将はいなかったんでしょうね。
信長・秀吉・信玄と歴戦の大名と戦ったんですし。
利家亡き後には家康と対等に戦える武将はいませんもんね。
僕はそこにあえてifの世界を楽しみたいと思いまして気分で書いてみただけです。
651 :
日本@名無史さん:03/04/13 11:23
全て結果論でしかないけど、久しぶりのネタ投入サンクス。
丹後討伐軍が無駄だというのは言い過ぎ。
豊家恩顧の大名中、最も気に障るのは忠興の動きだと思うし、老人を
処理しとかないと離反する勢力が出る危険がある。
反旗を翻した家は即座に潰しに掛かるのが基本。右府の例を見るべし。
それに丹後に向かった兵は、多方面に向けたところで役に立ったか・・・
主将が徳善院の息子だしな。
652 :
日本@名無史さん:03/04/13 15:24
age
厳しい展開だと思う。
岐阜城にどれだけの兵を投入?
福島・池田・黒田・藤堂・細川らの豊臣大名が襲うのだから
いくら堅城・岐阜城と言えど無理でしょう。
654 :
日本@名無史さん:03/04/13 23:57
最初から篭城するなら岐阜城はかなり持つと思うけど、
岐阜城に増援の兵を増やしても、立場からして秀信が主導することになるよね。
敵がせまって来たら彼は野戦に打って出ちゃうんじゃあないかな?
史実ではそうだったんだから、兵が増えればなおさらだと思う。
それで、勝ってくれればいいんだけど福島らが相手では・・・・
なんか、初戦の痛手がでかくなるだけのような気がする。
岐阜城ってそんなに堅固な城だったの?
経歴見たら、かなり簡単に落ちてるようだけど
656 :
日本@名無史さん:03/04/14 22:26
>>655 仮にさほど堅固でないとしても、それなりの兵力で城に篭るなら、
ある程度は持ちこたえられると過程するのが公平なのでは?
具体的にどのくらい岐阜城の兵を増強するかにもよるだろうけど、
仮にも篭城する相手を、鎧袖一触粉砕できるとするのはいくらなんでも東軍に
有利に状況設定をし過ぎでしょう。
少なくとも史実のように一日で陥落ってことはないと思うが。
もっとも、秀信ちゃんが素直に城に篭ってくれればのはなしだけど。
657 :
日本@名無史さん:03/04/14 23:22
岐阜城、ぱっと見だけでも、難攻不落の城でしょう。
その城を落とされるとは情けない。
えーっと道三が造ったんだっけ?
659 :
日本@名無史さん:03/04/15 19:47
どっちにしろ徳川に勝る物なしですよ
岐阜城難攻不落とはいわないまでも天守閣までいくのは簡単じゃないよ。
実際金華山登山してみればわかるけど、馬でたどりつけるのはいちばん楽な登山道
のみで、七曲登山道や百曲登山道のような道を完全武装で行くのは大変に違いない
内部の裏切りを利用しないと平城よりは確実に落とすの大変だと思われ
661 :
日本@名無史さん:03/04/16 15:00
663 :
動画直リン:03/04/16 15:16
664 :
日本@名無史さん:03/04/16 18:14
実際に岐阜城に篭られたとしても続々と徳川軍が迫ってくるのは事実。
家康本隊3万、秀忠本隊3万。
江戸には2万の予備軍が居たはずだし、いざとなれば前田も来る。
重要なのは上杉・佐竹に対する結城軍、伊達・最上だと思う。
真田も重要になるかもしれないが、いかに堅固な岐阜城と言えど
10万の軍に囲まれればすぐに落城するだろう。
だが、疲弊と言う点では西軍有利に働くかもしれないが
九州の事も頭に入れなければならないので、三成は戦を急ぐはずでは?
665 :
日本@名無史さん:03/04/16 22:01
>>664 岐阜城は斜面は急だし道は細い。大軍集めてもあんま意味ないと思われ。
攻撃側も大軍でかかれない代わりに防御側も兵力を集中できない。
史実程度の兵力がちょうどよいのでは。
(^^)
668 :
日本@名無史さん:03/04/17 19:50
岐阜城が持ちこたえ、双方の動員兵力が全て濃尾平野に終結していたら、
いったいどのくらいになっていたのだろう?
669 :
日本@名無史さん:03/04/17 22:20
>>688 かなり面白かったかも。
でも、実際に徳川本隊は戦ってないし屈強でしょ。
いくら立花がいようとプラス4万だろうと西軍の勝ち目は薄いと思う。
長期戦だったら上杉や九州はどうなってたのだろう?
>>669 徳川本隊を破りうる兵力を持っているのはかろうじて毛利くらいかな。
やはり西軍に攻撃的勝ち目は薄いか・・・
三成も守りを固めつつ、秀頼や天皇を利用して豊臣系東軍武将の動揺
を誘い、政治的決着に持ち込もうと考えていたのではあるまいか。
そして金吾の松尾山占拠が全てをご破算にしてくれた・・・と。
結論、伊藤盛正は徹底抗戦すべきだった。
673 :
日本@名無史さん:03/04/18 02:01
でも小早川ってもともと合戦中に寝返るつもりだったとは思えないのだが。
戦後、小早川家が世間から白眼視された、松野主馬の行動、などが事実と
すると、合戦中の寝返りはとんでもなく卑劣な行為との認識が当時もあった
わけでしょ?
いくら金吾がバカでもそんなことを意図するかねえ・・・
案外、当初は「松尾山で傍観しているだけでいいから」と言われていたのに、
家康に「ヤバくなってきたからお前も参戦しろっ!」と言われて「話が違うよー
そりゃマズいよー」と思いながらもシブシブ大谷に突入した、というのが真相では?
更に妄想をたくましくすると、金吾は「なんとなく東軍」くらいのつもりで稲葉
正成ら以外には何も伝えていなかったのに、小早川はすでに東軍の旗を立
てている、と家康が思い込んでノコノコ関ヶ原に出てきてしまい、それで黒田
に「話が違うぞー!」文句たれたとか。
日本史板と思えないほど低レベルだ。
675 :
日本@名無史さん:03/04/18 07:17
>>674 ゴメン、知識ないです。
やはり通説どおり寝返りのつもりはあった、でいいのかな。
676 :
日本@名無史さん:03/04/18 08:28
陣立てだけ見ると西軍が勝つよ。
立派な鶴翼の陣。
しかし、翼が折れてちゃなぁ
677 :
日本@名無史さん:03/04/18 11:21
>>676 しかし南宮山の方面の奴等は西軍だったとしたら主決戦場まで遠すぎる。
南宮山方面は鶴翼に含まない
勝手に陣取った小早川を含んで形成された鶴翼の陣が
果して立派な陣形といえるのだろうか……
戦略で劣勢なのを戦術で挽回しようとした西軍。
限界があった罠。
金華山(岐阜城)
要害堅固でごわす。北東から南西にかけて長良川が流れ、城の南東部は狭隘地になっており
包囲殲滅可能な地勢。攻城ルートは基本的に南側になりルートが限定される為
寡兵での守備に向く。兵糧そのた兵站の備蓄と旺盛な士気さえ保てれば長期篭城が
可能なお城。
大垣城の周囲は揖斐川、長良川、の支流が多く現世でも水都(みと)と呼ばれる
水資源が豊富な土地柄。叉地下水脈も豊富。
そのような地政学的な条件の中、逆に水攻め等には滅法弱い。
叉大垣城自体が規模が大きくなく、西軍主力が篭城するのは兵糧、広さ、規模
等から適当でなく、最初から篭城など論外のお城。
死傷者を与えた武器ランキング
@鉄砲
A弓
B槍
C刀
だけどだからといって壮絶な鉄砲の打ち合いが展開され白兵戦が少なかったとは
全くいえません。
現代の戦争の地上戦で死傷を与えた武器は
@大砲、野砲、迫撃砲
A機関銃、小銃
等ですがといって壮絶な砲撃戦が行われたとは全く仮定できません。
特に第一次世界大戦。逆に壮絶な白兵戦が行われていました。
砲弾は当時生産が追いつかなかったんですが。。
戦国時代も同様、鉄砲の弾はその発射速度、生産数により、主力は弓
のように考えられます。ただ、鉄砲は少数でもその威力及び音により
相手に対する威嚇、士気の低下などが引き起こされたと思われます。
その証拠に三成は大砲(オオヅツ)を持ち込み発射してます。
とうぜん当時は炸裂弾ではないので威嚇ていどですが。。
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
age
686 :
日本@名無史さん:03/04/22 17:12
「いしだかずしげ」でいいのけ?
688 :
日本@名無史さん:03/04/23 01:03
関ヶ原で何人死んだの?
TVでやってたが忘れてしまった・・
690 :
日本@名無史さん:03/04/23 11:01
双方10万近く参加して、死者7万人もいたら
どんな兵器が使われたんだと思っちゃうね
双方で死傷者2万人位だったと思うけど・・
死傷者2万人でも多いと思う
全体の1割もあるから
戦闘したのは10万に満たないのに
694 :
日本@名無史さん:03/04/23 23:58
テレビで確か3万ちょいだといってたな、NHKで。
695 :
日本@名無史さん:03/04/29 19:18
age
696 :
日本@名無史さん:03/05/07 09:37
697 :
日本@名無史さん:03/05/08 14:30
アホか?南宮山は東軍の背後にあるんだぞ。
敵の背後に部隊を配置しないと鶴翼の陣にならんのか?
ご冗談を。
699 :
日本@名無史さん:03/05/08 18:24
徳川本隊が屈強だって?
この本隊ってどっちのこと言ってる?秀忠のほうか?それとも家康か?
当然秀忠だろう。
701 :
日本@名無史さん:03/05/08 21:31
常識。
702 :
日本@名無史さん:03/05/09 17:08
てことは、真田はやはりすんげー強いって事か?
関東移封ごの徳川勢が活躍したことはない。
また小牧長久手の戦いの時の徳川勢はまだ甲信の軍は殆ど動員できず主力は
旧今川領の三国だった。徳川勢の質はは甲信併合後低下したのではないだろうか。
705 :
日本@名無史さん:03/05/09 17:57
>>703 でも家臣に旧武田家臣が大量に入ってる井伊直政は
長久手以降から活躍してるぞ?
706 :
日本@名無史さん:03/05/09 18:08
>>704 小牧長久手以後そんなに派手に戦ってないからね。
北条攻めにしても、関ヶ原にしても、圧倒的な兵力差があったり、
本隊として参戦したために後方待機だったり。
上田城攻めは三遠駿の兵が主体となったときも失敗してるし。
708 :
日本@名無史さん:03/05/09 19:52
家康自身が”戦わずして勝つ”みたいな方針だからなー
関ヶ原や大阪攻めもほとんど外様
709 :
日本@名無史さん:03/05/12 11:54
狡猾ですな
710 :
日本@名無史さん:03/05/12 15:56
秀吉子飼いの大名は家康のために従順によく働いたな。
711 :
日本@名無史さん:03/05/13 11:36
所詮大局を見抜けぬ猪武者よ・・・
712 :
日本@名無史さん:03/05/13 20:49
やっぱ家康はすごいね
>>711 大局を見抜いて家康に忠勤を励んだものも多かろう。
福島は違うぞ
715 :
日本@名無史さん:03/05/14 09:43
加藤清正はどうだったのか?
感情の起伏は激しそうだがただのバカではないような・・・
716 :
日本@名無史さん:03/05/15 10:04
ただのバカだろ
717 :
日本@名無史さん :03/05/15 10:31
ただのバカなら暗殺されなかったんじゃ?
718 :
日本@名無史さん:03/05/15 11:44
忠誠心はあったみたいね
719 :
日本@名無史さん:03/05/15 11:52
家康なんかが勝つから、関東が栄えてくるんだ
家康が負けていれば、今頃、京都か大阪が日本の中心だった
いまからでもいい。遷都しろ
じゃあ大津にしよう
721 :
日本@名無史さん:03/05/16 10:38
いや、佐和山(ただの山?)にしよう。
一応ここは石田三成を応援するスレだからかんと遷都さきとして彦根を押すのが
正のしいだろうが、長束正家の水口(将来の甲賀市)もよいだろう。
現在首都機能移転候補の一つ三重畿央地域の一つで新市名の最終候補に畿央市という名前も
あったようだから。
723 :
日本@名無史さん:03/05/16 15:05
忍者市にならなくてガカーリ。
724 :
日本@名無史さん:03/05/19 13:19
保守あげ
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
726 :
日本@名無史さん:03/05/22 20:09
一杯目は大きな茶碗に冷えたポカリス●ェットを・・・
ちょっとカキコしるが・・三成の敗因は根本的には素直すぎた・・・
より詳しーく、語れば秀吉に忠実過ぎたんだろね。
例えば千利休や秀次の件とか蒲生の件とか三成が悪役だが率直にいえば
秀吉命で忠実に愚命でもきちんとこなし泥を自分でかぶりすぎです。
はあーっ秀吉がもちっと先の読める武将なら彼の違った面をアピール
させたろうね。潔白とは言わんが生真面目でまっすぐ過ぎた忠義の臣・・
まあ惜しい点は彼は権力志向が強すぎた点だが・・まあ能力的には
十分だし・・
728 :
日本@名無史さん:03/05/23 10:24
二杯目は中ぐらいの茶碗に冷えたアイスコーヒーを・・・
729 :
日本@名無史さん:03/05/26 15:16
三杯目は小さい茶碗にり●ビタンDを・・・
四敗目には死を
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
732 :
日本@名無史さん:03/05/29 23:45
家康が三成の決起を見通した上で上杉攻めに向かったって本当だろうか?
譜代の老臣鳥居元忠を捨石にするというのも家康らしくないと思うのだが・・・
他にそんな手を使ったことってあったっけ?
733 :
日本@名無史さん:03/05/30 00:32
>>732 確かに。漏れも思う。
順繰りに五大老つぶしていこうとしただけなのでは?
734 :
日本@名無史さん:03/05/30 01:41
>>譜代の老臣鳥居元忠を捨石にするというのも家康らしくないと思うのだが・・・
>>他にそんな手を使ったことってあったっけ?
家康の残虐性が見え隠れするエピソードだね
本当に家来思いなのかね(w
735 :
日本@名無史さん:03/05/30 01:44
ついでにこのとき家康は秀吉がかつて座ってた場所に座り
にこにこしてたそうだ。これは某の日記にかいてあることだから
ほぼ真実と見てかまわないだろう。
孫の千姫も平気に見捨てるし
息子・妻は殺害・・・・
やっぱ家康は残虐だわな
736 :
日本@名無史さん:03/05/30 02:22
>>順繰りに五大老つぶしていこうとしただけなのでは?
たぶんそう。上杉のあとは毛利だろ。
凡庸な毛利は家康の敵ではない。そのあとで誠意大将軍に任ぜられる
まあそんなストーリだよな
737 :
日本@名無史さん:03/05/30 02:39
毛利の枝葉入れてどんくらいかな?
本家120万石+小早川+毛利系弱小。吉川は120込み?
東の徳川に対抗できるだけの数揃うのかな?
徳川は家康+秀忠で7万近いのでは?
しっかし秀吉もおっそろしいおっさんを残して逝ったもんだよ!
738 :
日本@名無史さん:03/05/30 03:07
おそらく
家120万石+小早川(50)+吉川(30)
実際小早川は30に減額されているからな200弱
しかし輝元・秀秋のあほコンビが家康に勝てるわけがない(w
739 :
日本@名無史さん:03/05/31 07:06
>>順繰りに五大老つぶしていこうとしただけ
とすると、西軍の挙兵は実は家康にとって誤算だったのかな。
後に関ヶ原の自慢話をしていたとき、大久保彦左に、
「西軍挙兵の報を小山で聞いたときには真っ青になっていたじゃん」
と皮肉られたと「名将言行録」にもあるそうだし。(実話かは知らないけど)
勝った人間は
最初から「勝利を計算していた」ことになってしまう。
これが名将なるものの実態
小早川秀秋は天下の名将。
広い視野で情勢を読み、西軍加担を装って要衝、松尾山城を占領。
決戦当日は、深夜の雨中行軍で疲労困憊の両軍が死闘を繰り広げるのを尻目に
兵を休めて冷徹に戦況を見定め、戦機が熟すると見るや、果敢に山を攻め下って西軍の大軍を壊滅させた。
この活躍により、袋の鼠となって討死は確実と思われた徳川家康は九死に一生を得、
ながきに渡った戦乱は終わりをつげた。
その智謀は韓土の興宣大院君李是應にも勝り、その武勇は三道水軍統制使元均をも凌ぐ。
秀秋公の偉名は唐天竺まで轟いた。諸蛮は公の武威に恐れおののき、
公の薨去後も日本は長く他国から侵略を受けることはなかった。是当に公の御遺徳也。
742 :
日本@名無史さん:03/05/31 12:37
>>740 しかし、事前に勝利を計算せずに戦に挑む人間はいないだろ、
当然敗者の側も計算していたはず、ただ結果が計算どおりにいかなかっただけで。
結果として、計算どおりにいった割合が高い人物が名将なのでは?
745 :
日本@名無史さん:03/06/01 07:56
>738
もう少し調べて欲しいな。
毛利輝元 120万石(吉川11万石込)
小早川秀秋 52万石
毛利秀包 13万石
安国寺恵慧 6万石
+α 商業・貿易の利
合計 191万石+α ・・・だろ!!
746 :
日本@名無史さん:03/06/01 08:33
合計だとあってるジャンw
小早川秀包の十三万石も小早川隆景の違領だから小早川秀秋の五十二万石の中に
入っているのでは。
748 :
日本@名無史さん:03/06/01 14:10
家康の250万石は家臣その他全部込みなのかな?
秀康とかはどうなってたんだ。
749 :
日本@名無史さん:03/06/01 14:20
実質は毛利対徳川の争いだったのに、
大将が裏切ってりゃ世話無いな。
石田三成は合戦当時は参謀格なのに、
合戦後に棚ぼた式に大将になった観がある。
三成にとっては負けて命を落したとしても、
これはこれで望外の幸せだったろう。
751 :
日本@名無史さん:03/06/01 14:26
その結果が領地の半減や時間を掛けた御家断絶。
当時の人達も順当な措置だと思ったろう。
松井主馬を持ち出すまでもなく、
小早川家中にも嫌な雰囲気が広がったろうな。
一方の大将として切崩しを仕掛ける徳川家康は流石に名将だけれど、
仕掛けられて裏切る小早川秀秋は弁護の余地が無い。
松野主馬が忠臣だったとは限らないぞ。安国寺のような主家をないがしろにする
策謀家だったかもしれない。
753 :
日本@名無史さん:03/06/01 15:44
>>752 安国寺がどう主家をないがしろにしたんだ?
754 :
日本@名無史さん:03/06/01 15:59
しかし毛利の戦略はどんなものだったんだ?
吉川、小早川も皆ばらばらに動いてるようなんだが。
こんな西軍を指揮する三成も大変だったろう。
だから、三成には指揮されてないんだよ。
756 :
日本@名無史さん:03/06/01 16:57
豊臣秀頼の意に反して私闘しているという点で
全国の将が主家をないがしろにしているといえる。
757 :
日本@名無史さん:03/06/01 17:46
上手い事を言う。
758 :
日本@名無史さん:03/06/01 19:54
>>西軍挙兵の報を小山で聞いたときには真っ青になっていたじゃん」
それは毛利がでてきたからだろ。三成挙兵ぐらい家康は十分察知していた
>>小早川秀秋 52万石
これも実際は秀吉に逆鱗にふれて領地は半分に。しかし秀吉死去のため
不明(いろいろ説があるが)
>>秀康とかはどうなってたんだ。
十万石未満の大名
>>しかし毛利の戦略はどんなものだったんだ?
>>吉川、小早川も皆ばらばらに動いてるようなんだが。
広家はおそらく隆影を自分のイメージに重ねていたんだと思う
本能寺の変のとき秀吉追撃を止めたことにより秀吉に好意をもたれ
50万大名に。こんどは自分がと・・・・
しかし、実際家康はそんな甘くはない。毛利家から冷遇され家康から
相手にされず(いちおう戦功として30万石といわれたが)
やっぱ叔父隆影とは器が違うんだろうな(w
759 :
日本@名無史さん:03/06/01 19:56
>>実質は毛利対徳川の争いだったのに、
>>大将が裏切ってりゃ世話無いな。
どこの世界に大将が寝返るんだ(w
家康が西軍にねがえるのと同じ。
秀秋以上のあほか?
760 :
さるでもわかる:03/06/01 22:06
輝元がこないんだもん。バラバラにもなるよ。
来たことで何もできないのですけど・・・・。BY輝元
しかも三成は愚痴ばっかりだし。BY島
戦う前から勝敗はついていたが、戦をできるくらい兵を
集められた三成にもそこそこの能力はあったとみえる。
三成では百戦錬磨の家康にはかてないのです。
761 :
日本@名無史さん:03/06/01 22:30
恵瓊は親の仇毛利氏を討ったのである。
762 :
日本@名無史さん:03/06/01 22:39
>>760 当時誰も1戦で終わるとは考えていなかったからな。
輝元が大阪城にいることで西軍の大将は豊臣ってこと
を印象ずけたかったんだろ。
763 :
日本@名無史さん:03/06/01 23:04
関ヶ原で吉田栄作みたいに鎖鎌で戦った人っているの?
764 :
日本@名無史さん:03/06/02 18:31
ってことは、家康は秀康込みで約250万石、
これが一族郎党全部含めての数字ってことでいいのかな。
>>764 あと家康、秀忠の在京領が近江あたりにあったような。うろ覚えなんだが十万石くらいには
なったかもしれない。
766 :
日本@名無史さんよ:03/06/02 22:35
>762
1日で勝ちきったところに家康のすごさがある。
入念な下準備も含めて、まさに天下を取れる人だよ。
767 :
日本@名無史さん:03/06/03 14:54
誰か763の質問に答えてやれよ!
768 :
日本@名無史さん:03/06/03 15:15
769 :
日本@途中下車:03/06/03 22:45
オレッチのご先祖様達は10人ほどの鎖鎌部隊を率いて戦ったんだ。
770 :
金吾秀秋(´・ω・`):03/06/04 00:53
三 成 は 負 け 犬
悔 し か っ た ら 漏 様 の よ う に
輝 け る 勝 者 に な っ て み ろ
771 :
日本@名無史さん:03/06/04 11:10
>>770 輝ける勝者? プッ
金吾のその後を知らないのね・・・
772 :
日本@名無史さん:03/06/04 17:32
三成が生きていたら、今の時代も変わっていたのに・・・・。
774 :
日本@名無史さん:03/06/05 13:32
重商主義な政策を執って鎖国はしないだろうな。
775 :
日本@名無史さん:03/06/05 17:27
>>774 そうかなあ
小西行長とかは職業柄もあって貿易重視だったけど
三成はなにより「豊臣家大事」で貿易とかグローバルなことは
頭が及んでなかったような気がするんだけど
『関ヶ原合戦と近世の国制』読んでたら蔚山城の攻防後の三成の行動って
余りにも人心掌握とか外交が見渡せてなくてDQNで萎えてしまったよ
やっぱり西軍は負けるべくして負けたような気がする
776 :
日本@名無史さん:03/06/07 00:00
>>775 著者が元来三成に対して否定的なのでは?
他の著作を読んでみて、俺はそう思ってるんだけど。
三成を好きか嫌いかで、かなり論調は変わってしまうからね。
どうでもいいじゃん、こんな昔の話なんて。
400年も前の事をほじくり返して何かメリットがあるの?
>>777 日本史板の存在を否定してはいけません。
779 :
日本@名無史さん:03/06/07 22:41
三成もいくらバラバラな西軍でも長期戦に
持ち込んだほうがよかったのに。
勝ちはしなくても惨敗はないんでは?
ってか、オマエラ三成をかっこよく考えすぎ。
小説の影響受けすぎじゃねーか?
もっと冷静に考えろよ。
性格が傲慢で他人を見下し、情を解さず、好き嫌いが激しく、小心で、
戦音痴のくせに他人の口出しを好まず自分のやり方を押し付け、
派閥を作って自分たちの権威を守ろうとする。
現代で考えれば東大卒のキャリア官僚の典型だろ。
おまえら、財務省や外務省のお役人を尊敬するのか?
オレは嫌だね、そんな奴は尊敬できないし、知り合いにもなりたくない
そもそも、三成は能力があり、なおかつ自分にとって
都合の良い相手しか認めないわけですが、おまえらが
「三成さん好きです、尊敬しています」と言ったところで
向こうはオマエラなんかゴミにしか見てくれないぞ。
三成が好きなら2chなんかやってないで勉強して東大逝け
>>773
780 :日本@名無史さん :03/06/08 00:15
ってか、オマエラ三成をかっこよく考えすぎ。
小説の影響受けすぎじゃねーか?
もっと冷静に考えろよ。
性格が傲慢で他人を見下し、情を解さず、好き嫌いが激しく、小心で、
戦音痴のくせに他人の口出しを好まず自分のやり方を押し付け、
派閥を作って自分たちの権威を守ろうとする。
現代で考えれば東大卒のキャリア官僚の典型だろ。
おまえら、財務省や外務省のお役人を尊敬するのか?
オレは嫌だね、そんな奴は尊敬できないし、知り合いにもなりたくない
そもそも、三成は能力があり、なおかつ自分にとって
都合の良い相手しか認めないわけですが、おまえらが
「三成さん好きです、尊敬しています」と言ったところで
向こうはオマエラなんかゴミにしか見てくれないぞ。
三成が好きなら2chなんかやってないで勉強して東大逝け
>>773 馬鹿馬鹿しいので晒し。
>>781 いちいちコピペしているおまえが一番バカだ
783 :
日本@名無史さん:03/06/08 10:18
どーでもいいのだが、そもそも780が小説の影響を強く受けているのが笑えるな。
784 :
無料動画直リン:03/06/08 10:20
785 :
日本@名無史さん:03/06/08 10:54
>>780 なんかは主に武断派の同僚の評価。
逆に例えば丹波や坂本の民衆の評判は良かったりする。
部下との確執の話もないし。
地方有力大名は多くが西軍に味方している。
大谷吉次とは友情の逸話もある。
786 :
荒島 正(アラシマ ショウ):03/06/08 11:28
まず、政治家に情などいらない。
見せかけるのは必要かもしれないが、まずもって年貢が安く
誰も飢えさせない、犯罪がおこらない国家を作る事がたいせつ。
あとは、景気が良ければ文句なし。
ただ、家康でもできないことが、秀頼の威光だけでできたかは
びみょーしょ
>>785 なんか明智光秀のはなしと混ざってるな。
それに大谷吉継自信が三成に態度が悪いから人望がないとはっきり言っている。
(▼_▼)y−~
ハァ?三成? あいつ、自分勝手で全然人望ないじゃん。
態度もデカイから嫌われてるよ。
>>785 ( ゚д゚)ポカーン 頭おかしいんじゃないの?
武断派の同僚の話じゃなくって、
>>787の言うとおり、同じ官僚仲間の大谷も「三成は嫌われ者」と
認めているし、増田長盛も加藤清正に「三成は恐ろしい権力者なんだからあやまれ」って言って
清正に絶交されている。
木喰上人も「三成は自分に逆らう者には、陰険で粘着質な恐ろしい奴」と評している。
三成マンセーの奴らがどう弁護しようと、性格の悪い嫌われ者であることには間違いない。
それに、官僚政治家は自分の選挙区の地元民の評判が良いし、子飼いの部下に対しては面倒見がよい。
友達の大谷吉継だって官僚仲間に過ぎないし、朝鮮で自分を無視した黒田如水をビビらせるほど
気に入らない奴を讒言しかねない性格の人物と見られていた。
嫌われ者の官僚同士の友情を美化したところで、三成の評価は覆しようがない。
そういえば歴史雑誌の対談でも、「普段の生活で周囲から孤立している人ほど三成に思い入れが深いと
書いてあったのを思い出すなあ。
友達がいない引き篭もりほど自分を三成に擬すのだが、三成は嫌われ者であっても実務能力があり、
信念があったがゆえに評価されているであって、能力がないしヘタレな単なるリアル嫌われ者が
三成に親近感を抱くのは間違いなんだよネ。
790 :
日本@名無史さん:03/06/08 16:21
>>789 貴殿の指摘が一番当てはまりそうなのが、思い込み厨の伊達遠江守家中。
794 :
日本@名無史さん:03/06/08 22:23
>>792 本人的には、「三成に思い入れはない=普段の生活で周囲から孤立していない人」だと思
っていると文脈からは読み取れるのだが。
ま、自分で思っている自画像どおりに他人も見ているかどうかは完全に別の問題なのだが。
人間知らない方が良いこともあるそうだから、そう思わせてあげた方が
>>789の精神衛生上
はよろしいかと(w
795 :
金悟秀秋(´・ω・`):03/06/09 05:57
三成は、優秀な嫌われ者
漏れも、優秀な嫌われ者
似た者同士、仲良くしようぜ
796 :
日本@名無史さん:03/06/09 11:39
金悟って誰だよ?
797 :
日本@名無史さん:03/06/09 13:00
金庫
799 :
日本@名無史さん:03/06/09 15:48
三成を好きなやつは嫌われものだとおもう。
卓球を好きなやつがくらいやつだとおなじように。
おれはサッカー部だからめちゃ明るいよ。
800 :
日本@名無史さん:03/06/09 15:59
歴史しきな人はオタクなんでしょ?
801 :
日本@名無史さん:03/06/09 18:03
802 :
日本@名無史さん:03/06/09 20:15
漏れは中2なんだけど、ボクがみても
最近のカキコミはとっても痛いよ。
みんな何歳なんだろ。
804 :
日本@名無史さん:03/06/09 22:24
805 :
日本@名無史さん:03/06/10 00:35
俺は8歳だが、三成好きだね。
福島とか清正とか、営業優秀っていうかたんに下品で、秀吉の遠い親戚筋
ってだけで出世してきた連中でしょ?
賢い三成からしたらウゼーし、クセ-し、物も知らねーDQNとしか思えなかった
んじゃねーの? それが正直に顔にでちゃっただけでねーの?
タネ無しの猿関白に代わり、淀殿との間に秀頼を仕込んだのは三成。
同じ近江者だからね。
807 :
日本@名無史さん:03/06/10 09:40
>>806 釣るなよ。三成にはアリバイがあるって知ってんだろ?
808 :
日本@名無史さん:03/06/11 23:17
わしも8歳じゃが、三成は好きだぞ
まあ痴的レベルは確かに8歳だね
810 :
日本@名無史さん:03/06/11 23:28
↑お前がな(プ
811 :
日本@名無史さん:03/06/12 10:55
>>806 同郷というだけでやれるんなら俺だって・・・
813 :
日本@名無史さん:03/06/12 22:15
何この低脳スレ
814 :
世界@名無史さん:03/06/12 22:36
三成がすきという奴はヒッキーである。
ヒッキーはくずである。
くずはいますぐ北朝鮮に行け
815 :
日本@名無史さん:03/06/12 23:02
家康好きな奴なんているのか?
816 :
日本@名無史さん:03/06/12 23:04
いるんだわ、これが
817 :
日本@名無史さん:03/06/12 23:08
家康好きはスレ荒らす事でしか、話しできないのか?
818 :
日本@名無史さん:03/06/12 23:34
東軍から西軍に裏切ったのは宮部だけ?
819 :
日本@名無史さん:03/06/12 23:35
820 :
日本@名無史さん:03/06/13 00:55
>818
そんな奴いたのか 初めて知ったよ
裏切りじゃないけど小山会議のあと、東軍の西征の参加拒否したのがいる
○丸だったような 忘れた
あと小早川の配下で松尾山を下らなかった侍大将もいた
田丸直昌、松野主馬?
松野は最前線で矢玉に身をさらしながら傍観だったはず。
「漏れは戦わんけど臆病者じゃないぞ、ゴルァ!」って。
822 :
日本@名無史さん:03/06/13 22:01
俺がみっちー
チミがイッチー
まあ三成が東大卒の官僚とすれば、おまえらは三流大卒のフリーターか
中卒高卒のヒッキーなわけで、三成をマンセーしたところで
向こうは低脳なオマエラをゴミとしか見てくれないわけだ。
>>806は、またいい加減な三次資料のネタをさも事実らしく知ったかで語る伊達遠江守家中
思い込みもいい加減にしろよ。そのうちアク禁になるぞ。
825 :
日本@名無史さん:03/06/15 16:56
>>823 自分をそこまで卑下しなくてもいいぞ(ぷ
826 :
日本@名無史さん:03/06/15 23:05
一方そのころ奥州では・・・
827 :
日本@名無史さん:03/06/16 00:15
伊達政宗使えねー!
828 :
日本@名無史さん:03/06/16 00:17
伊達政宗は最初から騎馬鉄砲があるし
かなり使える。東北勢は最上義光や津軽為信など案外知略が高い武将が多い。
829 :
日本@名無史さん:03/06/16 00:23
(゚□゚;ハウッ! コーエーゲームの話だったのか!?
830 :
日本@名無史さん:03/06/16 00:35
最上もなさけねーなー。
てゆうか直江ってヤパーリ強かったの?
831 :
日本@名無史さん:03/06/16 00:46
安東家もそこそこ知略が高い奴がいたような・・・
833 :
日本@名無史さん:03/06/16 01:26
安東愛季だったかな。
あと戸沢なんとかも優秀だったような。
834 :
日本@名無史さん:03/06/16 01:48
835 :
日本@名無史さん:03/06/16 01:56
東北はほとんど東軍だよ。
でも、家康が関東引きこもり策にでてたら面白いなー。
箱根あたりで西軍を迎え撃って。そしたら東北大名も活躍
の機会が多くなりそう・・・
836 :
日本@名無史さん:03/06/16 11:47
(゚□゚;ハウッ! コーエーゲームの話だったのか!?
837 :
日本@名無史さん:03/06/16 22:01
佐竹って西軍だよね?結城ヒデとにらみあっていたんだっけ?
839 :
日本@名無史さん:03/06/17 00:07
一方そのころ信州上田では・・・
840 :
日本@名無史さん:03/06/17 00:44
真田親子すげぇよ!
841 :
日本@名無史さん:03/06/17 00:49
運も良かった、敵軍の大将が初陣でしかもボンクラだし。
副将格の榊原と本多が犬猿の仲じゃあネ。
秀忠じゃ真田親子の相手は無理だよな。
843 :
日本@名無史さん:03/06/17 01:19
戦いが長期化したら真田親子の評価も変わっていただろうに・・・
844 :
日本@名無史さん:03/06/17 01:24
今一度長谷堂へ押寄せよ
845 :
日本@名無史さん:03/06/17 01:29
榊原と本多をセットにした家康が悪い。
846 :
日本@名無史さん:03/06/17 01:31
戦いが長期化したら真田は滅んでたと思うのだが・・・
孤立無縁の状況だし。
847 :
日本@名無史さん:03/06/17 01:36
>>846 そうなる前に信幸&本多忠勝が助けたでしょ?
実際そうなったし
848 :
日本@名無史さん:03/06/17 01:47
関が原に参戦した田中氏の領地はいずこ?
849 :
日本@名無史さん:03/06/17 01:47
>>847 助けるってことは真田親子が東軍に降伏するってこと?
850 :
日本@名無史さん:03/06/17 01:50
漏れも長期化してたら現在ほど真田親子の評価は高くないと思う。
九州の黒田みたいに兵力が多いわけでもないし、まわりに西軍大名
はいない。
援軍のない城はいずれおとされ・・・
851 :
日本@名無史さん:03/06/17 01:51
三河の岡崎じゃなかった? >>848
852 :
日本@名無史さん:03/06/17 01:58
>>851
詳しく教えてくさい
853 :
日本@名無史さん:03/06/17 02:02
>>849 あー。秀忠軍単独で攻め落としてたってことね?
忠勝は関ヶ原だし、信幸にそれほど政治力(ゲームじゃないよ)あったとは考え
られねーもんな、滅亡の可能性あるは。
854 :
日本@名無史さん:03/06/17 02:11
>>853 いや関ヶ原が長引いて全国の大名が東西にわかれて
応仁の蘭や南北朝のようになったらってことだが・・・
855 :
日本@名無史さん:03/06/17 02:28
>>854 あーやっと意味がわっかたぜ師匠
地理的には孤立無縁だわな。一番近い友軍でも会津ぐらいか?
劉備みたいに放浪するしかないね。 会津まで
>>852 多分岡崎であってる。田中兵部ってもともと近江武士で治部の親友だったような気がしたが?
>>853 関が原遅参のこともあって秀忠に嫌われつつも、長生きして家光の
信頼を勝ち取り、また晩年も家督相続にまつわる幕府の介入を
防いで、なかなか政治力の長けた人物として評価されてるけど?
真田太平記を書いた池波正太郎も信之がお気に入りで、父昌幸を
凌ぐ人物として、様々な長編短編に登場させています。
>>855 田中兵部が親友ってのはオーバーだけど、三成が有能として評価して
いた武将の一人。
彼が失脚していたのを推挙して、東海道の守将の一人に加えられる
まで引き上げてやったり、略して「田兵(でんぺい)」と呼ぶほど
親しかった。
859 :
日本@名無史さん:03/06/17 05:50
>853
信之ごと、お取りつぶしはありえない。だから、滅亡はしない。
昌幸の切腹はあり得たかもしれんが
ところで、秀忠、遅刻自作自演説は、どう。外様で互角に戦い。三河勢を温存。
860 :
日本@名無史さん:03/06/17 07:20
861 :
日本@名無史さん:03/06/17 11:49
>>858 ついでに言えば皮肉な事に関ヶ原の後
三成を捕らえたのは田兵の手の者
862 :
日本@名無史さん:03/06/17 12:51
863 :
日本@名無史さん:03/06/17 16:33
前田利政って動かなかったよね。
結果は取り潰し。
島津と比べるとあまりに政治力ないような気がする。
動いた毛利、上杉さえ減俸処分なのに。
利政は暗愚だったのかな?
864 :
日本@名無史さん:03/06/17 18:41
国力が違くないかい。
865 :
日本@名無史さん:03/06/17 18:54
>>853 >>857 いやー別に信之のことを実務的政治手腕が無いと言いたかったわけではなく、あオレ853ね
秀忠軍が単独で上田城を落城寸前まで追いやったと仮定して、信幸が家康の婿
だという理由だけで秀忠軍の榊原や本多相手に攻撃中止&真田親子の助命までもっていけたかどうか?と言いたかったんだわ。
家光時代の老練な信之とは違い、関ヶ原の時の若い信幸は名声・貫禄・経験などを加えたTotalでの
政治力はそれほど高くはなっかたと思う。確かに政治力では昌幸&信繁を凌いでいたような気がする。
>>859 そのとうりです。
今のアメリカの状態って、
関ヶ原には勝ったのに西国の占領が上手く行かずに、
上杉も白旗を挙げない状態か。
家康が隠居して秀忠に家督を譲り、
秀忠が豊臣に忠誠を誓って西国から撤兵して一大名に落着くと。
867 :
日本@名無史さん:03/06/17 20:11
>>866 ちがうんじゃないか? 小さな村の一揆を見過ごせず、大国が一揉みに揉み潰してあとに多少の火種はあるが、まあまあうまく収まっている状態だろ。
ただし、周辺小国の嫉妬をあびている、っていう感じだろ。
868 :
日本@名無史さん:03/06/17 20:25
日本はアメリカについていくしかないよね。
869 :
日本@名無史さん:03/06/17 22:24
おい、そろそろ九州に舞台を移さんか?
870 :
日本@名無史さん:03/06/17 22:50
一方そのころ九州では・・・
871 :
日本@名無史さん:03/06/17 23:03
日和見組のなれ合い戦が続いておりました。そこへ勘違いDQNの黒田官兵衛
が一人張り切って暴れておりました。しかし東西どちらが有利とも形成が
判明するまもなく、決着がついてしまい日和見組も勘違いDQN漁夫の利を
取り損ないました。
872 :
日本@名無史さん:03/06/17 23:32
清正って家康に九州在住を命じられてるじゃん。
ってことは家康も戦いは長期化するって見てたんだ
だろうね。
873 :
日本@名無史さん:03/06/17 23:40
九州で東軍って黒田・加藤・細川だっけ?
874 :
日本@名無史さん:03/06/18 00:11
細川って九州じゃなないだろ。
鍋島ってどっちだっけ?
876 :
日本@名無史さん:03/06/18 00:25
877 :
日本@名無史さん:03/06/18 01:08
豊臣秀頼の兵が西軍に参加したのに
罰っせられないのはなぜだったかしってる?
879 :
日本@名無史さん:03/06/18 01:49
>>877 独逸みたいにナチスに罪をなすりつけたんだろ。
もしくは大阪城明渡しの時の条件とか。
>>874 いやね、細川の本領は丹後だろーけどさ、九州にも所領があったような・・・
だとしたら守将がいたのかなーなんてね。あと鍋島は東軍だったと思う。
>>880 確かに細川の所領は九州にあったはずだよ。
どこだったかは忘れたけど・・・
882 :
日本@名無史さん:03/06/18 02:20
鍋島は西軍じゃなかったかな。
細川って小倉にもあったような・・・
883 :
日本@名無史さん:03/06/18 02:29
勝茂=西軍
直茂=東軍
今調べた
884 :
日本@名無史さん:03/06/18 02:57
小倉は小早川だろが。
885 :
日本@名無史さん:03/06/18 03:01
細川は中津だよ。
886 :
日本@名無史さん:03/06/18 04:55
887 :
日本@名無史さん:03/06/18 18:54
888 :
日本@名無史さん:03/06/19 00:10
オレはあの時の如水の行動が好きだ。
889 :
日本@名無史さん:03/06/19 00:12
次はどこ行くの?
890 :
日本@名無史さん:03/06/19 00:45
結局細川の飛地には武将はいたのか?てゆうか城はあったのか?
891 :
日本@名無史さん:03/06/19 01:11
>>890 木付城の城代、松井康之が黒田如水軍に加わっています。
892 :
日本@名無史さん:03/06/19 01:34
なんで清正は九州にいたんだよ。主戦はだろ。
893 :
日本@名無史さん:03/06/19 13:34
894 :
日本@名無史さん:03/06/19 19:10
>>892 戦いが長引いた時のため。
南北朝の時だって九州は激戦区だったからねー
895 :
日本@名無史さん:03/06/19 19:15
>>892 大嫌いな小西の居城(宇土城だっけ?)を攻め落としたかったから
なんてね
896 :
日本@名無史さん:03/06/20 08:25
万が一さぁ、毛利輝元が幼君秀頼を奉じて美濃へ進出、なんてことになったら、
家康としてはどう戦うことになったろう?
九州から話をそらせてスマソ
897 :
日本@名無史さん:03/06/20 13:08
>896
万が一になってしまうのか?
でも家康は出撃しないこともありうるよね。
秀頼には表向き逆らえないから、いざとなれば
福島らに責任おわせて穏便にすましちゃうとか。
898 :
日本@名無史さん:03/06/20 17:57
>>897 まあ「万が一」だろうな(w
関ケ原の局面の前に出てくれば、
>>897の言われるように穏便にって
こともあるだろうな。
もし、関ヶ原に布陣し終わったところへ到着、なんてなったら、東軍の
大名達はどう動くだろうか?
899 :
日本@名無史さん:03/06/21 14:04
900?
「こうなりゃ敵中突破だ!」
902 :
日本@名無史さん:03/06/22 01:33
意味わからん。
904 :
日本@名無史さん:03/06/22 14:06
おまえら、茶化すだけなら小学生同然だぜ。
日本史板はヒキコモリのゲームおたくか、ただのバカ
野郎の集まりか?
その冷やかしさえ何ひとつひねりもないのでおもしろくない。
素でバカなんだな。
906 :
日本@名無史さん:03/06/22 14:31
>>904 レス番教えれ。気の利いた冷やかし入れてやるから。
907 :
日本@名無史さん:03/06/22 15:27
>>905 ギャハハハハハーーギャハギャハハハハアハハーー。
だからお前のその低脳な書きこみをどうにかしろ
といってんだよ。
>>907 うぜぇ釣りだな、おい。
日本史板じゃ浮くだけだぞ、っと。
909 :
日本@名無史さん:03/06/22 17:35
>>904 また逆ギレかよ。いい年して恥ずかしいぞ、伊達君。(w
>>909 なんで私が伊達だって分かったんですか?
ぜひ教えてください。いや、まじで。
912 :
日本@名無史さん:03/06/22 19:55
本多忠勝兵500って少なすぎない?
913 :
日本@名無史さん:03/06/22 20:33
本多の主力は息子の忠政が率いていた。忠勝は手勢のみ。
ちなみに忠政は秀忠に属して中山道に。
>>911 バレたくなかったら、その打たれ弱いところ直した方がいいよ。
つーか、ここの板でそれだけ思い込みで書き込む人他にほとんどいないしね(w
>914
ウヒャハヒャアハッハギャハハハハアハハ。
904はオレだよ。
思いこみはお前だったなあ。
>>915 じゃぁ、やっぱり伊達君じゃないか。笑ってごまかすなよ、このチンカス野郎。
蟻と白蟻の化かし合い
918 :
日本@名無史さん:03/06/23 01:13
919 :
日本@名無史さん:03/06/23 01:15
>916 びっくりするほどユートピア!
>916 びっくりするほどユートピア!!
,rrr、
⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y| |.l ト⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y/つ))) _ _ _
⊂ ヽ | __ ☆ __ _/ 巛 / /-LLl
ミミ彡彡彡彡 ,`ー \ | |l / \ __つ /_/ |_|
/ 彡/|| , \.|||/ 、 \ ☆ ロ /l
/ ∠ヾ ''∠ヽ / __从, ー、_从__ \ / ||| /__|
| ( 。、 / / / | 、 | ヽ |l _ _ _
| \____/(/ ) `| | | |ノゝ☆ t| | |l \ / /-LLl
| ヽ__ノ / `// `U ' // | //`U' // l /_/ |_|
\____/ / W W∴ | ∵∴ | ロ /l
/ ☆ ____人___ノ /__|
/ /
920 :
日本@名無史さん:03/06/23 01:21
一方そのころ四国では・・・
921 :
日本@名無史さん:03/06/23 02:10
先月、初めて関が原に行きました!歴史の風が吹いていた!
いにしえの思いにふけっていました23歳
923 :
日本@名無史さん:03/06/23 12:20
924 :
日本@名無史さん:03/06/23 17:27
,,(::(:ヾヾ//ノ;;ノ;;;::ヽ,,
l ;/  ̄ ̄ ̄ ヾヾ、
l ;l = 三 = .|;;;i / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
l / ,--―'、 >ー--、 ヽl | おーい、脳内伊達君でいっぱい君、また
i^| -<・> | | <・>- b |. < 会える日を楽しみにしてるよ。wwwwwww
||  ̄ | |  ̄ |/ \__________________
| /(oo)ヽ | (⌒)
ヽ ヽ____ノ / ノ~ レーr┐
__ ヽ ニ /i、__ノ_ | | ト、
::::::::::/::::|ヾー--/ |:::::(_ `八人_レ
::::::::/::::::|/〈_〉\ |:::::::|::::::`ー‐---‐
925 :
日本@名無史さん:03/06/23 18:26
おい
>>920から四国に移ったんじゃねーの?伊達は東北がろーが
>>925 不勉強。伊達は東北から四国に移りました。
929 :
日本@名無史さん:03/06/23 22:15
>>928 お、早速クググ゙ったか。感心感心。
930 :
日本@名無史さん:03/06/23 22:32
四国ではなんか戦いあったの?
四国の東軍・西軍分布情報キボンヌ
931 :
日本@名無史さん:03/06/23 23:31
>>930 阿波の蜂須賀が嵐で関ヶ原に間に合わなかったが、家康に許された。
違ったかな?
932 :
日本@名無史さん:03/06/24 10:23
>>930 毛利水軍と御家再興を目論む某の連合軍が加藤嘉明の居城、
伊予松前(まさき)城を攻めた。
933 :
日本@名無史さん:03/06/24 11:01
一方その頃とうほぐでは
と思いきや、いせでは
935 :
日本@名無史さん:03/06/24 18:11
富田信高、古田重然、福島正頼、分部光嘉が西軍にアボーんされました
936 :
日本@名無史さん:03/06/24 18:12
終了
937 :
日本@名無史さん:03/06/25 00:40
ひと昔前はこのスレはここまでくだらなくはなかったよな。
思うに、頭のかたいバカがいちゃもんつけて妄想野郎は戦国板
へ行けとかほざいた結果がこれだ。
要するに2chに学者先生は存在しないんだよ。
あーあ、どう責任とるんだ?
三戦住人としては、戦国板って言われると如何ばかりか哀しいでござる
939 :
日本@名無史さん:03/06/25 08:39
あーあ、やっぱりあの時九州で100万石もらっとけば良かった。
941 :
日本@名無史さん:03/06/25 20:52
>>940 それをすると前田、上杉の代わりに石田が討伐の対象者に指名されて
しまう罠
オイオイほんとにもらえると思ってたのかよ、おまえ。
アマちゃんだな。カーッ、ペッ!
ネタだよ、ネタ。
943 :
日本@名無史さん:03/06/25 22:22
ちょーそかべ、出てもダメだったかな?やつらじゃ変化ナシ?それとももーりと
モメて大混乱?
944 :
日本@名無史さん:03/06/25 22:50
いや、100万石じゃなくても、40、50万石ぐらいでも状況は全然違ったと思うよ。
>>944 うんそうそう(´・ω・`)
大国の主ともなれば、漏様のように冷静に的確な状況判断が
下せるようになる。 なんたって器が違うから。
946 :
日本@名無史さん:03/06/25 23:29
50万石ったら宇喜田なみの大大名じゃんか!
そんな大領どっからひねりだすのじゃ?
947 :
日本@名無史さん:03/06/25 23:31
偏狭の地じゃ無理無理。
948 :
日本@名無史さん:03/06/25 23:31
949 :
日本@名無史さん:03/06/25 23:45
>>948の話はよく小説にでてくるけど、ホントにそういう動きがあったの?
950 :
日本@名無史さん:03/06/26 00:39
もういいだろ、自作自演も疲れるだろ、君はよく頑張った。
怒らないで聞いてほすい。
君はおもしろくない、才能ないかもよ。
951 :
日本@名無史さん:03/06/26 00:41
>>950 素人が自作自演を見破るのは難しいだろ。
952 :
日本@名無史さん:03/06/26 00:57
もし本当に100万石持ってても武功派の嫉妬はますます大きくなり、
家康としては謀略をかけやすくなるんじゃないですかね?
953 :
日本@名無史さん:03/06/26 01:04
しかし石田に誰も味方しなければ豊臣家は守れる四.
954 :
日本@名無史さん:03/06/26 01:23
>>950 漏れは930と949だけど、どれとどれが自作自演なの?
マジわからんかった・・・教えてちょ。
955 :
日本@名無史さん:03/06/26 01:34
豊臣を守るって本気で思っていたヤツって当時いるのかな?石田くらいじゃないか?
個人的には明石とか好きだけどねぇ。戦として考えれば日和見なヤツもいたと思うので、
やはり西が戦略的に間違ったか?俺さ、関ヶ原に行った事あるけど、かなり広いし、情報
なんか簡単に伝わる雰囲気でもなさそうだったように思う。じゃあどう布陣して、どう
戦えばよかっただが、何故あの布陣なのかってもわからんしなあ。オマイらだったら
石田と毛利の陣があんなに離れている事や、小規模以上の戦力持った連中が何故かたまって
いたかってどう思うよ?知ってる人教えて
956 :
日本@名無史さん:03/06/26 02:04
>>955 そもそも南宮山の連中は、関ヶ原の戦闘に参戦するために布陣していたのではなかった。
マターリ滞陣してたら、突然戦場が西に移動して関ヶ原になってしまった。きゃ〜びっくり〜
小規模以上の戦力云々は意味わからん。
957 :
日本@名無史さん:03/06/26 09:43
三成、島津、小西、宇喜多、大谷らが関ヶ原まで行かずに
南宮山の北側に陣取ったら吉川はともかく、秀元はどうしただろう?
九州の小早川領を召し上げて三成領にするとかどうとかいう話は
この論文が典拠になってるんじゃないかなあ
「九州の豊臣蔵入地の構造と機能−筑前・筑後地域の検討−」森山恒雄
『熊本大学教育学部紀要』24−2初出その後『九州と豊臣政権』所収
朝鮮の役でのあまりのこき使われ方に泣きが出始めた西国の諸大名を
三成を使って監視するのが主目的だったようだが・・・
織豊時代が専門じゃないので、詳しい方補足よろしこ
959 :
日本@名無史さん:03/06/26 11:14
三成は政権の中枢にいる人物なので九州に領土を持っても
自ら行くわけではないので九州に領土を持つことには深い
意味はないでしょう
>>959 結局小早川領の中に大量に秀吉の蔵入地が設定されて
三成はそこの代官という形になったので、
「名前より実を採った」
と言う形になったようですね。
三成は慶長の役では筆頭奉行として朝鮮にも渡っていたように
記憶しているから、九州に本拠を持つことはそれなりに意味は
あったと思われます。でも三成本人が
「佐和山手放すのはいやだ〜」
と言ったので(手紙が残っている)結局秀吉直轄領の代官と
いうところで収まった様子。
三成が代官になった後の蔵入地の状態は、あまりの収奪ぶりから
百姓は逃散し、人身売買が横行したりと、悪化したようでつ。。。
961 :
日本@名無史さん:03/06/26 12:51
でも領主と大寒じゃ大違いじゃん。
962 :
日本@名無史さん:03/06/26 12:53
963 :
日本@名無史さん:03/06/26 19:09
>>955 毛利等は勝手にあそこに布陣したわけで三成が命令したわけでは
ありませんよ。
964 :
日本@名無史さん:03/06/27 01:59
>963
そう!だからさ、ろくに軍議も開けない立場だった石田が徳川に勝てる見込みなんか
皆無なのではと、三成は好きだが、関ヶ原という戦いは軍団としてまとめあげた徳川と、
三成の甘さにおける悲劇もあったのではないかとね。もーりは総大将なのだが、働きは
なかったわけだしね。
良く考えて見たら西軍が優勢だったと言っても午前中だけで
のちに言われているほど東軍が苦戦したわけでもない気がする
家康が来るまで他の部隊を夜襲とかで叩いておくべきだったのでは
おまえ見たんかい。
そら午後に裏切りがあったらしいから、優勢なのは午前中だけだ罠。
968 :
日本@名無史さん:03/06/27 15:11
そういう状態で石田が勝つには、敵が殺到するであろう自陣の前にキンゴのヤロを
おいてみたりしちゃうしかなかったんじゃないかね?自分が矢面に立たなければ、
まわりが動かないと思っていたのかもしれないが、交渉の中で関白に推挙まで出して
いるのだし、その条件で鼓舞させて戦陣を!と名誉までくっつけさせりゃ、案外
ノったんじゃないか?で、キンゴは英雄になったりしてな。希代の策士とか。
969 :
日本@名無史さん:03/06/27 19:20
>>968 いやだからキンゴもゲームのこまじゃなくて
人なわけでそんなことするはず無いだろ。
970 :
日本@名無史さん:03/06/27 19:36
プロの人は大変だろうけど。
こんな餌でええんか?
このスレをみる日本史好きな人がもーと
増えないと魅力は出てこないだろうね。
971 :
日本@名無史さん:03/06/27 19:43
>>968 やだね(´・ω・`)
輝ける勝者の漏れ様と負け組の三成とを一緒にすんな
三成の前衛なんかになるくらいなら、フルチンで町歩いた方がまし
三成とは器がちがう
973 :
日本@名無史さん:03/06/28 13:43
974 :
日本@名無史さん:03/06/28 15:03
>>972 そのとおり。検死結果によると、三成のは短小でしかも恐怖のためかちじこまって皮かぶってたらしい。
975 :
日本@名無史さん:03/06/28 19:52
西軍優勢だったのは東軍は坂の下から攻めたからと思われる。
実際関が原に行くとわかるが坂は結構勾配がある
>>972 阿呆か(´・ω・`)
輝ける勝者の漏れ様と金吾秀秋とを一緒にすんな
鉄砲うちかけられてようやく裏切るくらいなら、フルチンで町歩け
金吾とは器がちがう
977 :
日本@名無史さん:03/06/28 22:53
978 :
金吾秀秋(´・ω・`):03/06/29 00:39
殺されるのが決まってからも柿は胆の毒とかいって、最後まで命
を惜しんで、そのあげく京都で町中引きずりまわされて斬首された
三成が、何をほざいても意味ねーよ(´・ω・`)
あのねぇ、三成ねぇ、お前才能無いの。人望も無い。運も無い。
無い無い無い。わかった?
漏れ様のように的確な状況判断が出来るなら別だが、三成には無理。
979 :
日本@名無史さん:03/06/29 01:39
>>978 大将は最後まで望みを捨てないってのを実践しただけでしょ。
人望も十分あったから家康ともわたりあえたわけだし。
秀秋って関ヶ原のちすぐ死んで取り潰されてるよね。
980 :
日本@名無史さん:03/06/29 01:48
なんか、金吾秀秋ってたまに出てきては煽ってくるけど、
なんかかわいい;^^)
981 :
日本@名無史さん:03/06/30 20:25
おらおら自作自演屋さんよ、気を
抜くとこんなにサガルじゃんよ。
寝ずに書き込んでくれ。
982 :
日本@名無史さん:03/06/30 20:51
金吾秀秋って狸にいいように利用されただけじゃん
ばかじゃん( ´,_ゝ`)プッ
983 :
日本@名無史さん:03/06/30 21:21
石田三成は?
石田三成だよ