393 :
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY :03/06/09 01:49
最近他板で忙しくご無沙汰しております。
>>392 大化の改新はタリシホコのパクリ。・・・・現実味がないので貧しい内容。
天武の改新は実際にあったこと。・・・・・事実を記録したのですざましくなる。
395 :
日本@名無史さん:03/06/16 21:12
396 :
日本@名無史さん:03/06/16 21:20
>395
時系列の証明出来たんか?先生。
397 :
日本@名無史さん:03/06/17 22:39
>>395 アイヌ人は毛が濃い。
朝鮮人は毛が薄い。
縄文人は毛が濃そうだ。
「寒冷地適応=毛が薄い」で線引きすれば、縄文人は朝鮮人のはずが無い。
>>395 >>396 アイヌ人は低温湿潤気候に適応した顔です。
前間氷期に北方大陸部湿潤地方に生息し、
氷期の到来と共に樺太回りで日本列島に南下して来た、
1〜2万年以上低温湿潤気候に適応した顔です。
体毛の多いことも、色の白いことも、その適応型。
縄文人は、2〜3万年前にはアイヌ人と先祖を同じくし、
同時期西回りで東シナ海(当時は陸地)に南下し、
最終氷期終了期に、日本列島に東進北上した。
だから、アイヌ人と縄文人は似ているのです。
沖縄人は、縄文人の日本列島侵入によって、
1万3千年前にアイヌ人と南北に分断されました。
それから九州王朝の曙まで1万年余の時間が流れました。
以上、九州王朝仮説の導入部前編です。
get 400
>398
ハヤトの存在を知らんらしいな。1万3千年前も沖縄人とは、笑いが出る。
>>401 ハヤトは縄文期の鹿児島県地方に住んでいた人々のことを指すのでしょうか?
もしそうであるなら、彼らもアイヌ人・沖縄人に近い人々です。
ハヤトが消滅した人々であったなら、
沖縄人とハヤトは共通の祖先を持つ人々ではないかと推測します。
ハヤトが現代にも遺伝子を残している人々であったなら、
ハヤトは、縄文人に琉球列島に押しやられて、沖縄人になったとも考えられます。
>402
今でも、祭りやとりまんがな。民俗学的な古層は深いよ。
>>398 縄文と、アイヌや沖縄は言語的に違うところもあったようだけど、そこらへんはどうなん?
405 :
嫌韓厨弐号:03/06/26 00:05
初カキコ&妄想200%で申し訳ないが
薩摩藩支配下の琉球王国は、清の朝貢国でありながら
日本国の一封建領主に仕える、二枚舌。九州王朝と境遇が似ている。
間違いなく九州王朝末期は、大和朝廷の国司クラスだったのだろう。
大宰府=総督府で、倭王自体も天皇家の宮様を貰い受けていたのかもしれない。
実態は無く、過去の栄光で食いつなぐ状況が200年続き、あぼーーーん!かと。
九州王朝説の有力な状況証拠は、白村江の戦いでヤマト朝廷が対外的ダメージを受けず
唐と国交を回復できたこと。秀吉の文禄・慶長の役で、豊臣家が崩壊したように
九州王朝が前面に立つことによって、大和朝廷が存続できたのかもしれない。
・・・とまあ、ガキの頃読んだ「九州王朝説」が、しぶとく残っていて御同慶のかぎりです。
ヨカッタ。
406 :
日本@名無史さん:03/06/26 11:17
それでは吉備や毛野と同格なのでは
>>405 >実態は無く、過去の栄光で食いつなぐ状況が200年続き、あぼーーーん!かと。
この200年はいつからいつまでですか?
私は、白村江の敗戦後(664年)から桓武天皇即位前(780年)の117年間が、
実態のない九州王朝と見ています。
九州王朝の失墜は663年。
唐による九州王朝占領は671年。
新生九州王朝(飛鳥朝)の成立は773年。
九州王朝(筑紫朝)の滅亡は699年。
傀儡九州王朝(飛鳥平城朝)は天武天皇(673年)から780年迄。
408 :
日本@名無史さん:03/06/28 12:37
西都原(宮崎県西都市)である証拠。
1、地名の語末に「都」という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
類例、京「都」、東京「都」。宇「都」宮のような音借とは違う。西都の「西」、方位のことではなく、西洲(九州)という固有名の
地の都という意味(原文に沿わせるとこうなる。)
2、西都のオサホ・メサホ塚は宮内庁の管理化であるため発掘ができない。
9割5分以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。
3、現在、長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都である邪馬台国の所在が何故特定できないのか?政治的意図
(天皇制)による組織的な隠蔽工作が行われたと思量する。これに荷担する畿内説は不快である。
4、国内最大級の古墳群が西都にはある。また、九州で一番大きな帆立貝式古墳(オサホズカ)がある。
5、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は西都。
6、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。
人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。
7、朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書のウワサ」は、畿内説による歴史改竄を思わせる。
オサホ塚に後方部をつける改修は、卑弥呼の墓が円墳であることから、これを隠蔽する行為である。
8、好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も歴史改竄であろう。記紀による天皇家の出自も歴史改竄、現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきた。
これの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。西都の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。
409 :
日本@名無史さん:03/06/28 12:47
無数のスレでコピペしまくりの西都連呼はもう飽きた。100回以上見た。
>>407 歴史はシロートなので、ROMってようかと思ってたのですが、つい。。。
倭の五王まで東王朝>西王朝、550年の磐井の乱で大和介入傀儡化。
まあバリバリ妄想なので、スルーして下さい。
411は西王朝(倭)>東王朝(大和)の間違いでした。
過去ログを読んでいますが(ここ以外も)終わりません。
2ちゃんねるで、飛ばし読み出来ないのは、この板だけですw
413 :
日本@名無史さん:03/06/28 17:25
おそらく大和を頭にして吉備、毛野、筑紫、丹波、尾張、古志、
出雲等が緩やかな連合国家を作っていたのが少しずつ大和の支配
権が強化されていった、というのが大和朝廷による統一ではない
でしょうか
>>413 同意です。
各王国のルーツからの直系の子孫・保守本流が
「筑紫」や九州に散在する一族で、対中外交権を持っていた。
大和が越から、後継者を連れて来たことからも
幕府・水戸・紀伊・尾張・御三家のようなネットワークがあったと思われる。
吉備、毛野は閨閥でしょうか?政略ケコーンもあったかも。
ソースを出せない素人の佐賀
東征だ東征!
>>415 現人神、天孫降臨、愛子様はかわいい・・・etcは至極当然&同意ですが
万世一系だけは疑問符です。
鎮西将軍&中華朝貢通商を代々世襲していた王と
国内の任官権を統括していた王・・・
古代の国内ソースが無いですから、妄想炸裂w
景行天皇の九州遠征は何を意味するのか?
遠征した人物名は「前君」と書かれています。
この「前君」はどのような人物なのか?
最初の遠征攻撃地は山口県です。
次いで、大分県(宇佐)、宮崎県、鹿児島県と遠征が続きます。
熊本県に入ると住民の歓迎を受け、既に支配地であることが判ります。
最終帰着地は筑紫平野(浮羽)です。
続く
418 :
日本@名無史さん:03/06/29 02:09
確か継体天皇時代の筑紫の乱のとき火は大和方についているから
熊本は昔から筑紫と仲が悪かったのかもしれない。
6世紀中期以降の大和側は、日露戦争に至るまでの明治政府を連想させます。
挙国一致・富国強兵・法整備・西洋技術の導入などの内政重視。
白村江の戦いの評価は低いみたいですが、当時としては高度な作戦だと思います。
防備を固めた海岸線への上陸作戦は、ノルマンディーまで成功してませんね。
これらの点から、6世紀中期には九州王朝は支配力を失っていたと考えます。
古田氏の著作は、白村江の戦いで九州王朝がジ・エンドでしたっけ?
それと、九州王朝の痕跡を抹消したのは『唐』だと思います。
文盲率高かったですから簡単ですね。大和の帝紀は脳内ですからw
朝鮮半島を中国側に囲い込むために、痕跡を抹消したのでしょう。
旧唐書と唐会書の食い違いですが、記紀編纂にハケーンした唐人情報の
フィードバックの有無で食い違いが生じたのでは。
420 :
日本@名無史さん:03/06/29 03:16
唐に日本の史書を書き換える力はないだろう。それに大和軍も
白村江で全滅した訳で無く余力を残して半島から撤退したのだ
から新興国で国内もまだ完全に治めきれていない唐としては、
出来るだけ事を構えたくはなかっただろう
唐側は、九州倭と畿内大和の関係を把握していなかった。
それ故、畿内大和は九州倭を隠れ蓑にして戦争遂行し
敗戦後、架空の主従関係をでっちあげ、アリバイ作りをして免罪された。
中世出雲の銀精錬に、半島から技術導入した事から見られるように
九州よりも畿内側の方が、半島を死守する必要があったと思う。
(大和〜丹波〜舞鶴)
422 :
日本@名無史さん:03/06/30 18:58
http://inoues.net/yamataikoku/korea/buneiou.html 武寧王は5世紀初めに20余年(在位502(501年説も。)〜523)在位したが、この間高句麗の侵略をくい止め、
一方では508年に耽羅(済州島)を征服した。
日本では継体天皇2年にあたる。さらに512年には任那国4県の割譲を日本に要求し承認させた。
これに対する返礼として、百済は五経博士を日本へ送る。
百済にとっては領土拡大の代償であったが、日本にとっては漢学文化の輸入という、文化史上画期的な招聘制度となった。
百済の領土要求はその後も続き、先に獲得した4県東部の蟾津口の上流・下流を要求し任那へ侵攻する。
任那はこれを不服とし、日本に対して恨みを抱き新羅に接近するが、新羅はそれをよいことに任那を征服しようとする。
危機感を抱いた大和朝廷は、527年、近江毛野臣(おおみのけのおみ)を派遣して
新羅に征服された任那の失地を回復しようとするが、筑紫の国造磐井に遮られる。
いわゆる「磐井の反乱」である。ここから磐井は新羅と通じていたという推測が生じる事になる。
日本では継体天皇21年にあたり、武寧王の死後4年目の事であった。
磐井の乱については現在でも様々な憶測がなされているが、見てきたように朝鮮半島の政治情勢が複雑であった事、
半島と筑紫は殆ど同一地域のような地理的環境にあったことなどを考えると、
この乱そのものも朝鮮半島の政治情勢と深く関わっていたという可能性も捨てきれない。
大和朝廷⇔百済
九州王朝(磐井)⇔任那⇔新羅⇔唐
妄想スレやのう
オマエモナー
電波だと前置きしておきます。
神功皇后の三韓征伐の伝説ですが、「九州王朝はなかった」ではスルーでしたが
俺は実話だと思います。北伐派と南進派の対立があったのでは。
北伐派:九州を中心に、ゆるやかで封建的な分割統治、半島も同様な「王国連合」を目指す
南進派:まず日本列島に強固な「中央集権」を樹立し、国力を高めた上で半島進出
仲哀天皇は南進派の中心人物で、畿内中央集権国家を理想としていた。
熊襲を下した後、一挙に北上し九州内の勢力を一掃しようとした。
そこで、連立派の神功皇后と武内大臣はクーデターを決行した。
そこから後は。。。怖くて書けません(w
426 :
日本@名無史さん:03/07/02 17:54
食べちゃった
>>417の続き
「前君」(景行天皇)が支配していたのはどの地域か?
遠征前の敵対地域
山口県、大分県、宮崎県、鹿児島県が敵対地域であった。
遠征の最終凱旋地域は筑紫平野(浮羽)であったことから、
支配地域は、遠征地域を除くところの福岡県、佐賀県、熊本県、長崎県となる。
即ち、支配地域の東側と南側が敵対地域であったと云える。
又、支配地域の西と北は海で敵地はなかった。
続く
>>427の続き
前君(景行天皇)の遠征には、出発地の記載がない。
最初の攻撃地は山口県であるから、
出発地は山口県に隣接する地域となる。
それは、島根県、広島県、愛媛県、福岡県のいずれかとなる。
遠征の最終帰着地が筑紫平野であるから、
遠征出発地は、筑紫平野もしくは筑紫平野に隣接する福岡県の北部沿岸部となる。
ここで、最終帰着地(筑紫平野浮羽)から見て、出発地を島根県、広島県、愛媛県とすることは、
敵地の背後が出発地となることになる。
敵地を挟む形の支配地域を持つことは、ありえない。
また、それらの地域には3〜5世紀に強力な権力があったことを示す遺跡はない。
一方筑紫平野東部(浮羽以東)は5〜6世紀の遺跡の宝庫である。
この地域は前君の九州統一後に、政権の中枢部となったことを遺跡が示している。
続く
429 :
日本@名無史さん:03/07/03 00:49
ぼく、南北朝期の
懐良親王が九州王朝をつくればよかったのにと思います
431 :
日本@名無史さん:03/07/03 01:02
>>425の、「九州王朝はなかった」は「失われた九州王朝」の誤りでした
景行天皇の章は、日本書紀に九州帝紀を挿入した、痕跡を検証していなかったので
少々弱いかなと思います。長州から豊後への上陸は
太閤九州遠征の長曾加部の上陸を連想します(伊予から出航してますが)
433 :
世界@名無史さん:03/07/03 08:02
>>433 韓国語の日本語訳が理解不能です。
また、僕は韓国語が解りません。
と、言うことで、なす術がありません。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
436 :
日本@名無史さん:03/07/15 04:03
西都原(宮崎県西都市)である証拠。
1、地名の語末に「都」という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
類例、京「都」、東京「都」。宇「都」宮のような音借とは違う。
西都の「西」、方位のことではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味(原文に沿わせるとこうなる。)
2、三角縁神獣鏡も出土。(魏鏡説らしい)
3、西都のオサホ・メサホ塚は宮内庁の管理化であるため発掘ができない。
9割5分以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。
4、現在、長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都である邪馬台国の所在が何故特定できないのか?
政治的意図(天皇制)による組織的な隠蔽工作が行われたと思量する。これに荷担する畿内説は不快である。
5、国内最大級の古墳群が西都にはある。また、九州で一番大きな帆立貝式古墳(オサホズカ)がある。
6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は西都。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。
人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。
8、朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書のウワサ」は、畿内説による歴史改竄を思わせる。
オサホ塚に後方部をつける改修は、卑弥呼の墓が円墳であることから、これを隠蔽する行為である。
9、好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も歴史改竄であろう。
記紀による天皇家の出自も歴史改竄、現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきた。
これの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。
西都の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。....
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|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
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西都くんは 荒らしに近い もう うんざり
439 :
日本@名無史さん:03/07/16 20:21
>>439 428の「続く」は多忙の為しばらくお待ちください。
441 :
日本@名無史さん:03/08/01 17:58
(^^)