おまいは南朝派or北朝派【Live or die】

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11
どっちら?
2日本@名無史さん:02/12/15 10:46
まだ、本読みかけだ。俺って誰なの?分からないよ。
どっちにつけば生きていけるの?生きていける方につく
3日本@名無史さん:02/12/15 10:50
自分が何者かも分からん。
4日本@名無史さん:02/12/15 11:10
金将軍サマの崇拝者ですけんど、どっちゃが儲かるの?
5日本@名無史さん:02/12/15 11:45
6日本@名無史さん:02/12/15 11:49

南朝鮮も北朝鮮もきらい
7日本@名無史さん:02/12/15 11:56
土地をイパーイくれる方。
8日本@名無史さん:02/12/15 12:08
俺を将軍にしてくれるほう。
9日本@名無史さん:02/12/16 11:23
室町時代の南北かと思ったけど、どっち?
10日本@名無史さん:02/12/16 11:44
朝が鮮やかな国のことだろ。
11名無しさん:03/01/03 00:50
           / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
Λ_Λ  | 君さぁ こんなスレッド立てるから          |
( ´∀`)< 厨房って言われちゃうんだよ             |
( ΛΛ つ >―――――――――――――――――――‐<
 ( ゚Д゚) < おまえのことを必要としてる奴なんて         |
 /つつ  | いないんだからさっさと回線切って首吊れ     |
       \____________________/

(-_-) ハヤクシンデネ… (-_-) ハヤクシンデネ… (-_-) ハヤクシンデネ…
(∩∩) (∩∩) (∩∩)

(-_-) ハヤクシンデネ… (-_-) ハヤクシンデネ… (-_-) ハヤクシンデネ…
(∩∩) (∩∩) (∩∩)

(-_-) ハヤクシンデネ… (-_-) ハヤクシンデネ… (-_-) ハヤクシンデネ…
(∩∩) (∩∩) (∩∩)
12山崎渉:03/01/11 17:01
(^^)
13山崎渉:03/01/16 09:01
(^^)
14宋学ノスヽメ:03/01/22 17:41
尊氏君には、やめとけって言ったんだよ。
それなのに‥‥
15日本@名無史さん:03/01/22 17:50
金正男 マンセー!
16日本@名無史さん:03/01/22 17:57
パスは何回までですか?どちらも世界の嫌われ者じゃん。
17日本@名無史さん:03/01/22 18:21
中間とって在日かな?
でも就職ないから、俺もパスね。
18日本@名無史さん:03/01/22 18:29
在日を差別しないで下さい。就職もありますよ。
19日本@名無史さん:03/02/16 18:03
>>14
尊氏は宋学と関係ないのでは?
それに尊氏は優柔不断で人がよくまわりからの頼みを断れず空気でながされるようなところがある。
「やめとけ」といわれて無理にでも押し通すようなタイプとは思われない。
20世直し一揆(コピペ推奨):03/02/16 18:04
<血液型A型の一般的な特徴>(見せかけの優しさ・もっともらしさ(偽善)に騙され
るな!!)
●とにかく気が小さい(神経質、臆病、二言目には「世間」、了見が狭い)
●他人に異常に干渉し、しかも好戦的・ファイト満々(キモイ、自己中心)
●妙にプライドが高く、自分が馬鹿にされると怒るくせに平気で他人を馬鹿にしようと
する(ただし、相手を表面的・形式的にしか判断できず(早合点・誤解の名人)、実際に
はたいてい、内面的・実質的に負けている)
●本音は、ものすごく幼稚で倫理意識が異常に低い(人にばれさえしなければOK!)
●「常識、常識」と口うるさいが、実はA型の常識はピントがズレまくっている(日本
の常識は世界の非常識)
●権力、強者(警察、暴走族…etc)に弱く、弱者には威張り散らす(強い者にはへつらい、弱い者に対してはいじめる)
●あら探しだけは名人級でウザイ(例え10の長所があってもほめることをせず、たった1つの短所を見つけてはけなす)
●基本的に悲観主義でマイナス思考に支配されているため性格がうっとうしい(根暗)
●単独では何もできない(群れでしか行動できないヘタレ)
●少数派の異質、異文化を排斥する(差別主義者、狭量)
●集団によるいじめのパイオニア&天才(陰湿&陰険)
●悪口、陰口が大好き(A型が3人寄れば他人の悪口、裏表が激しい)
●他人からどう見られているか、人の目を異常に気にする(「〜みたい」とよく言う、
世間体命)
●自分の感情をうまく表現できず、コミュニケーション能力に乏しい(同じことを何度
も言ってキモイ) 
●表面上協調・意気投合しているようでも、腹は各自バラバラで融通が利かず、頑固(本当は個性・アク強い)
●人を信じられず、疑い深い(自分自身裏表が激しいため、他人に対してもそう思う)
●自ら好んでストイックな生活をしストレスを溜めておきながら、他人に猛烈に嫉妬
する(不合理な馬鹿)
●執念深く、粘着でしつこい(「一生恨みます」タイプ)
●自分に甘く他人に厳しい(自分のことは棚に上げてまず他人を責める。しかも冷酷)
●男は、女々しいあるいは女の腐ったみたいな考えのやつが多い(例:「俺のほうが男
前やのに、なんでや!(あの野郎の足を引っ張ってやる!!)」)
21日本@名無史さん:03/02/16 18:25
金将軍サマ、マンセー!
22日本@名無史さん:03/02/16 19:55
私は、南朝派。後醍醐天皇大好きです。足利尊氏は大,嫌いです。
南朝派と言っても今の天皇陛下は大、好きです。
23日本@名無史さん:03/02/16 19:59
漏れは北朝派。吉野一味はDQNくさいから嫌い。
24日本@名無史さん:03/02/16 21:12
北朝が正統にきまってんじゃん!
25日本@名無史さん:03/02/16 21:16
>>15
正男は廃嫡されたぞ
26日本@名無史さん:03/03/07 21:18
保守
27金玉無副将軍:03/03/15 06:14
正男って北鮮に入国を許されていないってテレビのなんかでみた。
しっかし親父も息子も品のない顔だ。笑えるけどさ〜〜。
28日本@名無史さん:03/03/15 15:49
北朝鮮
29日本@名無史さん:03/03/15 17:23
マサオ
30日本@名無史さん:03/03/15 23:30
昔から心情的にはどっちかっていうと北朝派。
光厳とか光明とか、悲しい天皇が多くて同情する。
31日本@名無史さん:03/03/15 23:44
きめた、おれ平家につく。
32日本@名無史さん:03/03/15 23:55
おまいらとりあえず飯倉晴武「地獄を二度も見た天皇 光厳院」読めや。
33日本@名無史さん:03/03/16 00:30
時の政権と合体した系統が正統と呼ばれただけ。
一系と言っているが明治以降の宮家だけで11もあるし。
名家傍流は数知れず。
34日本@名無史さん:03/03/16 00:35
33は厨房。一系の意味は、そういう意味じゃないのは日本史板では常識だろ。
さらに、正統の意味も異なる。なぜ当時の南朝が正統で、
そのあとは後南朝のほうが正統でなく北朝が正統なのかをよく考えてみろ。
35日本@名無史さん:03/03/16 00:42
>>34
おまいの「正統」に対する理解も問題あるなあ。

そもそも北朝と南朝のいずれか一方が「正統」であるとするのは、
日本史板にふさわしくないんじゃないか?
36日本@名無史さん:03/03/16 02:07
>>34
おまいは韓国派or北朝鮮派
37日本@名無史さん:03/03/16 02:11
>>36
南鮮派or北鮮派の間違いだろう
38日本@名無史さん:03/03/16 02:13
おまいは大和ゴキブリ派(クソウヨ)or朝鮮ゴキブリ派(在日ウヨ)
39日本@名無史さん:03/03/16 02:19
軟弱サヨor変質的サヨも同意だな
40日本@名無史さん:03/03/16 13:35

↑チョンゴキ登場
41日本@名無史さん:03/03/16 15:22
難聴って天皇は(・∀・)イイ!と思うんだけど、ついてた公卿がDQNすぎたんだよな。
42日本@名無史さん:03/03/16 16:00
>>41
逆だと思うぞ
なんといってもゴダイゴ天皇がDQN
43日本@名無史さん:03/03/16 16:15
後醍醐天皇は北畠顕家から意見されたようだね。
公家ばかり優遇するなと。
後醍醐天皇はアフォ。
北畠顕家の忠告聞いていれば足利尊氏の出る幕はなかった。
44日本@名無史さん:03/03/16 18:20
というか、よく南朝vs北朝といわれるが、
実際には 親房vs直義vs尊氏             vs懐良              
だったのでは?
北朝は一回幕府に廃位されてるし、ただの傀儡。
45日本@名無史さん:03/03/16 18:27
地方では南北なんてどっちでもよくて、
自勢力の利益になりそうな方にとりあえず付いとけも多かった。
46日本@名無史さん:03/03/21 18:05
税金の無駄遣いを許すな。
こんな奴らを生かしちゃ置けない。
47日本@名無史さん:03/03/21 19:56
Live or die.
→Dead or alive.
48新世紀覇者伝説:03/03/22 00:28
おまいは南斗派or北斗派
49日本@名無史さん:03/03/22 01:46
元斗派
50日本@名無史さん:03/03/23 01:22
南朝も北朝もいらん
51日本@名無史さん:03/03/25 22:35
あのとき滅べばよかったものを
52日本@名無史さん:03/03/27 17:52
共倒れきぼんぬ。
53日本@名無史さん:03/03/27 20:21
最後の性戦。
54日本@名無史さん:03/03/27 22:00
南朝鮮も北朝鮮もきらい


55日本@名無史さん:03/03/28 01:02
天皇もウヨもきらい


56日本@名無史さん:03/03/28 08:55
将来朝鮮半島が統一されたら、
今の時代は「南北朝時代」って呼ばれるんだろうか。
57日本@名無史さん:03/03/28 09:03
>>56
今の韓国では渤海を朝鮮史に入れて新羅・渤海対抗時代のことを
「南北国時代」と呼んでいるから「第二次南北国時代」になるのでは?
58日本@名無史さん:03/03/29 16:00
室町時代の南北かと思ったけど、どっち?


59日本@名無史さん:03/03/29 17:17
皇居前に楠木正成像などがあるわけですが正成にしてみれば実に心外な話しだと思われ・・・。
結局の所、正成達と敵対していた北朝側に奉られても困るって所でしょう。

60日本@名無史さん:03/03/29 19:56
金哲男 マンセー!


61日本@名無史さん:03/03/29 21:52
南朝鮮も北朝鮮もきらい


62日本@名無史さん:03/03/30 21:41
おまいらは南朝派or北朝派
63日本@名無史さん:03/04/01 01:50
土地をイパーイくれる方。


64日本@名無史さん:03/04/03 02:18
現在の天皇制の意味とは何であろうか?一般国民にとっては、テレビの皇室番組くらいしか触れる機会がないのであるが…。
多くの国民に支持されているとはいえ、格段に昔にくらべたらその存在感は薄れつつある。といっても天皇の権限強化についても国民の大多数は「反対」しているし、このままではテレビという媒体を通してのパンダみたいな存在で終わってしまう。
65赤松 円心:03/04/03 02:56
私は、
「高 師直 & 佐々木道誉」派
66日本@名無史さん:03/04/04 00:23
日本のテレビにおける皇室報道を見ていると、
北朝鮮に近いものを感じます。
67日本@名無史さん:03/04/05 00:19
皇室マンセー=北朝鮮「共和国」嫌い  近親憎悪?

68日本@名無史さん:03/04/05 22:14
なぜサーヤが結婚できないのか?
皇族女子が最後に結婚できたのはもう何十年前になるのやら
69日本@不比等さん:03/04/07 23:23
>>68
もし、いき遅れたら、おれがもらってやるよ。
70日本@名無史さん:03/04/08 00:42
↑勇者ハケ―ン!!
71日本@名無史さん:03/04/08 21:36
仮に明治天皇が南朝(どっかのスレ)でも娘たちが(例えば北白川宮房子)
北朝に嫁ぐ事により結果的に明治天皇の血と北朝北白川の血が合わさり
南朝明治天皇の子孫も北朝になるから5代くらいたったら南朝なのか東武皇帝(北朝)
なのか中川宮(久邇宮)なのか徳川なのかわからなくなるんだよね。

血筋って面白いよ。「豪閥」という本に麻生太郎の娘、彩子って言うらしいが
1.鈴木善光の孫であり2.吉田茂の曾孫であり3.大久保利通の子孫でありおばさんは三笠宮に嫁ぐし

こう見てると名門家はさらに名門化して行く様子が見て取れるね。
72日本@名無史さん:03/04/08 21:58
>>71
まあ、釣り合いのとれるうちと親戚になりたいてのは人情の自然だわな
73日本@名無史さん:03/04/08 22:13

★一重★目が細いか小さい★目頭がほとんど無い★ツリ目かトガリ目★
★ヨリ目★眉毛がかなり薄い★目と眉毛の間が広い★ハの字眉★
★肌が茶色い★ヒゲが薄いか生えない(男性限定)★
★歯が大きい、または出っ歯★スネ毛など体毛が薄いかほとんど生えない★
★頬骨が強く張っている★彫りが極端に浅く、起伏に乏しい★
★うりざね型の面長★絶壁頭(過短頭)★


以上のうち4つ以上該当すれば朝鮮
74日本@名無史さん:03/04/08 23:24
軟弱ウヨor変質的ウヨも同意だな


75日本@名無史さん:03/04/12 21:39
金将軍サマの崇拝者ですけんど、どっちゃが儲かるの?


76山崎渉:03/04/17 14:10
(^^)
77日本@名無史さん:03/04/18 23:36
原点に帰ったレスだが、北朝の遠祖・後深草は陰気で人望もあまりなかったのに対し、
南朝の遠祖・亀山は豪放磊落なところがあり、公卿の間でも人気があったらしい。
こんなところから、兄弟の父の後嵯峨が亀山を贔屓するようになった。
78日本@名無史さん:03/04/19 17:24

 http://myhome.naver.com/purendo/cin.gif

おめでとうございます!!臣民としてお慶び申し上げます!!

天皇陛下マンセー!!



79山崎渉:03/04/20 01:50
   ∧_∧
  (  ^^ )< ぬるぽ(^^)
80日本@名無史さん :03/04/24 00:18
尊氏・義詮・後光厳天皇 VS 直義・親房・後村上天皇
81日本@名無史さん:03/04/27 14:26
おまいは大和ゴキブリ派(クソウヨ)or朝鮮ゴキブリ派(在日ウヨ)
82日本@名無史さん :03/04/28 06:54
おいらは統制派or皇道派 
83日本@名無史さん:03/04/28 07:13
北朝派だなぁ
南朝は原理主義くさくて嫌い
84:03/04/28 09:27
「銀英伝」のファンが
同盟派と帝国派に分かれて、
討論しているのを思い出してしまった。
85日本@名無史さん:03/05/04 15:01
光厳天皇の即位は誰がどう見ても認めるべきなのに、
どうしていまだに認められないのですか?

86日本@名無史さん:03/05/04 17:09
>>85
明治天皇=大室寅之祐を信じている人に聞きなさい。

俺は大日本史で徳川光圀が
南朝正統論を出したのが大きいと思うけどね。
後醍醐がどんだけアホなことを考え、やったかを見ず、
彼から皇位を奪ったことを頭から悪と考えればそういう結論になるが。
87日本@名無史さん:03/05/04 17:11
熊沢派でつ。
88日本@名無史さん:03/05/04 18:32
高師直派だね。あの時に天皇家と公家を皆殺しにして欲しかった。

ちなみに今の象徴天皇制には賛成。
俺が吐き気がするくらい嫌いなのは昔の公家社会だから。
何にもしない、出来ないのにプライドだけ高く
武士や庶民を見下してやがる。今の政治家とエリート官僚のようなもんだ。
89日本@名無史さん:03/05/04 18:39
能無しで自分一人でなにもできない 88
も一緒に殺してほすい。
90日本@名無史さん:03/05/04 18:39
>>88
室町-戦国期に日本が統一国家たりえた要因の一つに
朝廷の存在があったと思うよ。
江戸末期に至っては、朝廷がなければ分裂必至だったと思う。
91日本@名無史さん:03/05/04 22:59
>>89
能無しで自分ひとりでは何もできないのかもしれん。
しかし俺は公家みたいに他人を見下したりはしない。
92日本@名無史さん:03/05/04 23:08
>>90
懐良親王のような例もあるから、統一国家とは必ずしも
言えないんじゃないかな。
朝廷の存在が一つの原因だったということはありえるが、
要因と言うほどの問題じゃないと思う。
信長や秀吉の天下統一の過程で利用された
ということはあるかもしれないが、
それほど主として武力という実力によるものではないか。
朝廷の権威は箔をつけるという意味で戦国大名に
重んじられたことはあっても、屈服するか抵抗するか
という土壇場の決断において、
朝廷の存在が大きく左右させる効果があったかは疑問。
幕末は朝廷の存在が極めて大きかったことは確かだが、
それは朱子学の普及が大きかったからであって、
そもそもその前に朝廷が滅ぼされていたら、
その後に幕藩体制のようなものができたことはありえない。
信長や秀吉や家康が西洋における絶対王政
のようなものを作っていたか、近世のドイツやイタリアのような
諸侯が分裂した小国家の乱立状態になっていたかのいずれか。
93日本@名無史さん:03/05/06 10:45
>>92
同意あげ
94熊沢天皇:03/05/06 21:01
今の北朝の天皇は偽物
南朝が正統でござる!
95日本@名無史さん:03/05/07 08:32
「南北正統論の決定は一考を要す・・・・現に、自分の如きも北朝の血
 を引けるものにて、大筋には勿論変わりなきも、変なものなり。」(昭和天皇)
96日本@名無史さん:03/05/07 21:47
幕府という組織が政治の実権を握るようになってから幕府に従順な
天皇が正統です。
幕府に反抗する後鳥羽や後醍醐は滅んで当然。
時代の流れを無視したバカ天皇。
江戸幕末はこれまた時代の流れで仕方がないけど。
97日本@名無史さん:03/05/07 22:08
>>96
アメリカに従順な昭和天皇はやはり正統な世渡り上手ですナ。
98日本@名無史さん:03/05/17 23:16
後南朝を正当と認めるべきでしょうな
99日本@名無史さん:03/05/17 23:18
北朝が正統に決まってるだろーよ
100日本@名無史さん:03/05/17 23:21
長幼の序から言えば北朝が正統だし
後醍醐は大覚寺統の中でも傍流だし
DQNの後醍醐が誇大妄想しただけ
101日本@名無史さん:03/05/18 00:28
熊沢が正統
102山崎渉:03/05/22 03:07
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
103日本@名無しさん:03/05/23 00:49
山崎ぬるぽウザイ
104日本@名無史さん:03/05/23 00:53
光厳天皇>>>>>>>>>後醍醐天皇
105日本@名無史さん:03/05/23 02:35
楠木正成が格好いいから南朝派!
106日本@名無史さん:03/05/23 02:51
南朝は忠臣多し。北朝はいい加減な奴ら多し。
おれならいい加減だから北朝がいいや。
107日本@名無史さん:03/05/23 17:40
足利直冬派はいてないの?
108日本@名無史さん:03/05/23 18:49
>>107
分からないことがあったら博士に訊いてごらんよ?

      ↓ ↓ ↓ ↓

http://acdemy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1052236771/150
109日本@名無史さん:03/05/25 19:02
パスは何回までですか?どちらも世界の嫌われ者じゃん。

110日本@名無史さん:03/05/25 20:24
後醍醐天皇 護良親王 千草忠顕 名和長年 高師直 高師泰 佐々木道誉 
政治72   政治58   政治62   政治77  政治58  政治37  政治93
戦闘58   戦闘93   戦闘68   戦闘74  戦闘100 戦闘98  戦闘77
智謀87   智謀35   智謀72   智謀63  智謀64  智謀59  智謀97
野望100  野望81   野望71   野望62  野望93  野望89  野望95
魅力93   魅力77   魅力69   魅力68  魅力62  魅力50  魅力88

111日本@名無史さん:03/05/25 20:30
北条高時 長崎高資 長崎円喜 赤橋守時  金沢貞顕 北条仲時 北条時益 北条時行 諏訪頼重 
政治23   政治62  政治72 政治68 政治54   政治49  政治42   政治56  政治43
戦闘41   戦闘53  戦闘48 戦闘74 戦闘49   戦闘70  戦闘63   戦闘61  戦闘73
智謀52   智謀78  智謀85 智謀53 智謀63   智謀57  智謀49   智謀60  智謀44
野望74   野望83  野望85 野望58 野望55   野望62  野望58   野望71  野望48
魅力58   魅力32  魅力45 魅力67 魅力63   魅力65  魅力59   魅力69  魅力55
112日本@名無史さん:03/05/25 20:33
赤松円心 結城親光 赤松則佑 結城親朝 結城宗広 土岐頼遠 児島高徳 
政治73   政治60  政治58   政治57  政治53   政治33  政治72
戦闘88   戦闘86  戦闘72   戦闘64  戦闘79   戦闘70  戦闘63
智謀83   智謀72  智謀70   智謀66  智謀51   智謀54  智謀65
野望87   野望56  野望71   野望68  野望37   野望83  野望43
魅力79   魅力73  魅力68   魅力62  魅力66   魅力56  魅力68


113日本@名無史さん:03/05/25 20:35
足利尊氏 足利直義  楠木正成   
政治89   政治100   政治86  
戦闘91   戦闘60    戦闘95  
智謀86   智謀95    智謀100  
野望91   野望92    野望74  
魅力100  魅力71    魅力84  


114日本@名無史さん:03/05/25 20:38
楠木正行 楠木正季 楠木正儀 楠木正家 楠木正時 和田賢秀  
政治74   政治62  政治79   政治61  政治72   政治25  
戦闘83   戦闘88  戦闘73   戦闘71  戦闘70   戦闘90  
智謀76   智謀63  智謀86   智謀56  智謀73   智謀43  
野望61   野望56  野望69   野望53  野望60   野望50  
魅力71   魅力60  魅力62   魅力58  魅力64   魅力56  
115日本@名無史さん:03/05/25 20:40
在日がよく言ってる、混血が良いなんて大ウソ!

日本人の歯並びが悪いのは、在来種と渡来種が混血したせいである。
在来種は小さな歯と小さな顎、渡来種は大きな歯と大きな顎。

歯が在来系、顎が渡来系でも、歯が渡来系、顎が在来系でも、
歯の大きさとそれを受け止める顎の大きさが違うために、前歯の
がたつき、または八重歯が発生しやすくなり、日本人に歯並びの
悪い人が多いのである。

混血はむしろ肉体的に奇形が起こりやすいという良い具体例である。

http://village.infoweb.ne.jp/~fwik1362/haisha/ha03.html
116日本@名無史さん:03/05/25 20:42
懐良親王 今川了俊 菊池武光 少弐頼尚 一色範氏 阿蘇惟澄  
政治92   政治83  政治74   政治71  政治59   政治67  
戦闘81   戦闘89  戦闘89   戦闘56  戦闘63   戦闘62  
智謀86   智謀89  智謀72   智謀67  智謀60   智謀65  
野望89   野望75  野望70   野望64  野望58   野望61  
魅力87   魅力80  魅力77   魅力62  魅力59   魅力63  

117日本@名無史さん:03/05/25 20:44
大仏貞直 名越高家 阿曾治時 大仏家時 長崎高貞 宇都宮公綱 二階堂道蘊 
政治53   政治63  政治54   政治36  政治58   政治55   政治84
戦闘71   戦闘60  戦闘52   戦闘63  戦闘54   戦闘82   戦闘37
智謀54   智謀57  智謀49   智謀50  智謀62   智謀59   智謀70
野望60   野望62  野望55   野望57  野望70   野望68   野望78
魅力63   魅力67  魅力59   魅力56  魅力43   魅力69   魅力60
118日本@名無史さん:03/05/25 20:47
日野俊基 日野資朝 吉田定房 万里小路藤房 西園寺公宗 北畠親房 北畠顕家 
政治75   政治71   政治67   政治93      政治53    政治90  政治85
戦闘46   戦闘27   戦闘18   戦闘33      戦闘23    戦闘40  戦闘89
智謀83   智謀73   智謀63   智謀64      智謀61    智謀84  智謀80
野望67   野望59   野望44   野望52      野望79    野望70  野望71
魅力76   魅力64   魅力70   魅力73      魅力54    魅力72  魅力83

119日本@名無史さん:03/05/25 20:51
足利義満 足利義詮 足利直冬 足利基氏 細川頼之  
政治98   政治66  政治74   政治75   政治92  
戦闘78   戦闘61  戦闘78   戦闘63   戦闘59  
智謀96   智謀65  智謀73   智謀62   智謀74  
野望99   野望72  野望81   野望64   野望67  
魅力92   魅力71  魅力61   魅力75   魅力68  
120日本@名無史さん:03/05/25 20:54
坊門清忠
政治:16
武力:03
智謀:25
野望:43
魅力:23
121山崎渉:03/05/28 10:55
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎――◎                      山崎渉
122日本@名無史さん:03/05/28 17:09

徳川光圀が南朝正統論を出したのが大きい
123日本@名無史さん:03/06/05 21:06
懐良親王のような例もあるから、統一国家とは必ずしも言えないんじゃないかな。
124日本@名無史さん:03/06/05 22:14
南朝時代に楠一門として活躍した和田氏。(わだ)とは読まず本当は(みきた)と読む。(わだ)と読む親族もいたが、混同するとのことから岸和田氏を名乗ることになった。四條畷の戦いでの和田新発智源秀はマンセー
125日本@名無史さん:03/06/05 23:45
あれ、岸和田にいたのこそが「みぎた」の流れじゃないかい?
名前に「助」の字がつく人たち。
楠木氏の和田はそれじゃないから「わだ」と読むと思うてた。
あと、「新発智」→「新発意」と思う。
126日本@名無史さん:03/06/06 07:02
新発意でした。岸和田の岸城神社あたりを勢力にしていたのが(わだ)。堺市から和泉市にかけて支配していたのが(みきた)。堺市南部には字こそ違うが(みきた・美木多)という地名が残っています。
127日本@名無史さん:03/06/15 04:06
光厳天皇を歴代にくわえてくれー
128日本@名無史さん:03/06/15 15:17

        __,,,,_
      /´      ̄`ヽ,
      / 〃  _,ァ---‐一ヘヽ  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
      i  /´       リ} < これがアンナの痛み!
      |   〉.   -‐   '''ー {!  \_______________  
      |   |   ‐ー  くー |                  :.;'
     ヤヽリ ´゚  ,r "_,,>、 ゚'}  _ー ̄_ ̄)’,   .'  ,r'⌒  ⌒ヽ、   , ..  ∴.'
      ヽ_」     ト‐=‐ァ' !_- ― = ̄  ̄`:, . f ,, r' ̄ ̄ヾ. ヽ.   ; ' ;.'
       ゝ i、   ` `二´' 丿  = __――=,‘   ゞ‐=H:=‐fー)r、)         ・,‘
        /  _-―  ̄=_  )":" . ∵ ; ' ;. ゙iー'・・ー' i.トソ ; ' ;. ; ' ;. ∴.'
       /   ノ  ̄_=_  ` )),∴.  ;  ' ;.   l、 r==i ,; |'  ‘、
      /  , イ )    _ ) ̄=_) _)   ノリ^ー->==__,..-‐ヘ___  ~;ヾ
      /   _, \  )_ _ )=  _)∵   ノ ハヽ  |_/oヽ__/     /\
      |  / \  `、     = _)     \ /    /        /  |.
      j  /  ヽ  |          ______.ノ   y'   /o     O  ,l    | :
    / ノ   {  |   
   / /     | (_   
  `、_〉      ー‐‐` 
129日本@名無史さん:03/06/16 00:55
一休さんが好きだから南朝派
130日本@名無史さん:03/06/16 01:16
>>120
知謀と魅力が高すぎる気が・・・。
131日本@名無史さん:03/06/16 01:51
>>1
ちょんしね
132日本@名無史さん:03/06/16 04:56
信じるも何も浩宮は南朝(自身の大室家?)から養子を取れ!と右翼にハッパかけてるが?
133後醍醐天皇は:03/07/05 01:54
空気嫁
134日本@名無史さん:03/07/05 05:12
後村上、長慶、後亀山の3代は歴代からはずすべきです。
北朝こそが真の正統の天皇です。

96代 後醍醐院
97代 光厳院
98代 後醍醐院(重祚)
99代 光明院
100代 崇光院
101代 後光厳院
102代 後円融院
103代 後小松院
104代 称光院
135後崇光院:03/07/05 14:30
いーえ。後光厳流など所詮傍流。
我ら崇光流から皇位を簒奪していたのでおじゃる。
我が子、人皇105代、後花園院により、なんとか皇位は正統に復したのでおじゃる。
ご先祖さま、おもうさま、兄上、まろはやりましたぞ。

後小松院との約束じゃから、後光厳流を歴代からはずすことは
勘弁してやったのでおじゃる。
136山崎 渉:03/07/12 12:37

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
137山崎 渉:03/07/15 11:47

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
138日本@名無史さん:03/07/17 05:04
幕府に反抗する後鳥羽や後醍醐は滅んで当然

時代の流れを無視
139日本@名無史さん:03/07/20 17:31
後醍醐やとりまき公家は嫌いだが、楠一門や菊池一族がすばらしいので、断然南朝派。

140米CNN:03/07/23 22:07
1.武王の門
2.破軍の星
3.陽炎の旗
141日本@名無史さん:03/07/24 09:05
北朝が正統とか言ってるのって、クソサヨクと同類
142日本@名無史さん:03/07/24 12:39
後村上、長慶、後亀山の3代は歴代からはずすべきです。
北朝こそが真の正統の天皇です。

96代 後醍醐院
97代 光厳院
98代 後醍醐院(重祚)
99代 光明院
100代 崇光院
101代 後光厳院
102代 後円融院
103代 後小松院
104代 称光院
105代 後花園院
143日本@名無史さん:03/07/24 14:42
北朝支持の苦祖サヨはでーてーけ!
144日本@名無史さん:03/07/24 14:43
楠公一族に死をもって功に報いた南朝一派氏ね
145日本@名無史さん:03/07/24 14:45
南朝支持のバカウヨは日本史板から出てゆけ。ハン板でも行ってろ。
146日本@名無史さん:03/07/24 15:11
北朝なんてインチキ。そして>>144->>145はジサクジエーン
147日本@名無史さん:03/07/24 15:19
天皇明仁はインチキな北朝の子孫だろ。香具師もインチキなのか?
148日本@名無史さん:03/07/24 15:23
>>146>>147
後醍醐天皇は大覚寺統の傍流なんだが、
これについてはどう説明する?

つーか、もうちょっと
日本史勉強しろよ。
お前らの根拠のない感情論は聞き飽きたよ。
149日本@名無史さん:03/07/24 16:05
南朝は後醍醐院が独りででっちあげたインチキ王朝
150日本@名無史さん:03/07/25 10:30
北畠親房ってなんであんなに必死だったの?
香具師一人がさっさとあきらめてれば
上の人たちもさっさとあきらめて
(後醍醐天皇なくなった時点で後村上天皇がその路線を正しく継承できるとは思えんし)
両朝を利用する香具師も激減
不幸になる香具師も減っていただろうに
利用していると思いながら落ち目の武士団に利用されてるだけの
存在に成り下がっていると言う発想は浮かんでこなかったのだろうか?
151日本@名無史さん:03/07/25 14:56
同意。楠正行あたりマジ勿体無かった。
152日本@名無史さん:03/07/27 17:38
味覚党
153山崎 渉:03/08/02 01:31
(^^)
154日本@名無史さん:03/08/02 19:54
155日本@名無史さん:03/08/02 19:56
北であれ南であれ百済人の子孫であることに変わりはない。
156日本@名無史さん:03/08/08 01:05
157日本@名無史さん:03/08/09 19:43
北であれ南であれ税金ドロボーであることに変わりはない。
158日本@名無史さん:03/08/09 20:20


支配されるのが嫌なら天下を取ってみろw



159日本@名無史さん:03/08/09 20:27
後村上、長慶、後亀山の3代は歴代からはずすべきです。
北朝こそが真の正統の天皇です。

96代 後醍醐院
97代 光厳院
98代 後醍醐院(重祚)
99代 光明院
100代 崇光院
101代 後光厳院
102代 後円融院
103代 後小松院
104代 称光院
105代 後花園院
160日本@名無史さん:03/08/09 20:28
       __,,,,_
     /´      ̄`ヽ,
    / 〃  _,ァ---‐一ヘヽ
   i  /´       リ}
   |   〉.   -‐   '''ー {!     __________
   |   |   ‐ー  くー |    /  
   ヤヽリ ´゚  ,r "_,,>、 ゚'}  < ジュース買ってこいっ!!
   ヽ_」     ト‐=‐ァ' !    \__________      ...........
    ゝ i、   ` `二´' 丿                        /:::::::::::\
      イ l'' ー--‐f´.                          (::::λ:::::::::::)
    /        `\                       (|=| |=||) 
 ̄ ̄ i .i \     \ ヽ,   ___,, __ _ ,, - _―" ’.  ' ・,  ’・, | ̄し ̄/
── ヽ勿  ヽ,__    j  i~""     _ ― _: i ∴”_ ∵,     ヽ ∀ ノ
______   ヽ,, / / __,,, -- "" ─ "ー ・, ; ; - 、・   r=-,/⌒  ~ヽ~,
───────  ヽノ ノ,イ  ─── ― -            i y ノ>>158|
───────  / /,.  ヽ,  ──                i,,__ノ   //´
______   丿 ノ ヽ,__,ノ ___ _ _ _           ,'    ゝi
           j  i                        /   y ノ 
_____    巛i~ ____ _             /    /~/
                                   i   < /

          皇太子様はキリ番ゲットが大好きです。
161日本@名無史さん:03/08/09 20:44
162日本@名無史さん:03/08/09 22:56
北であれ南であれ最悪のクズであることに変わりはない。

163日本@名無史さん:03/08/11 08:58
変なあおりやってる香具師は少なくとも南北朝当時の情勢がわかってるんだろうな?
164山崎 渉:03/08/15 13:38
    (⌒V⌒)
   │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  ⊂|    |つ
   (_)(_)                      山崎パン
165日本@名無史さん:03/08/16 02:15
166日本@名無史さん:03/08/22 17:46
167日本@名無史さん:03/08/30 14:30
パスは何回までですか?どちらも世界の嫌われ者じゃん。

168日本@名無史さん:03/08/30 17:14
称徳女帝をエッチしたい
エッチしたい
169日本@名無史さん:03/09/10 21:24
>>150
後醍醐と親房も不仲だったらしい。
後醍醐は幕府&院政の権限を天皇のもとに集めようとした。
一方、親房は「神皇正統記」に見られるように村上源氏と摂関家のによる摂関政治の復権。
親房の本音は後村上を押し立てて摂関政治の復活を策した。
170日本@名無史さん:03/09/17 23:12
バカウヨは日本史板から出てゆけ。ハン板でも行ってろ。
171日本@名無史さん:03/09/21 12:28
正男って北鮮に入国を許されていないってテレビのなんかでみた。
しっかし親父も息子も品のない顔だな、天コロ一族といい勝負だよw
笑えるけどさ〜〜w

172日本@名無史さん:03/09/21 12:33
南朝派好きは、なぜか幕末史では勤皇派ではなく
佐幕派好きになる。ようは判官贔屓の方が多い。
そのくせ、禁門の変では長州好きになる。真田幸
村や石田三成も嫌いじゃない。

俺の周囲だけかいな?
173日本@名無史さん:03/09/21 23:04
俺は北朝派好きで幕末史は勤皇派好き。
禁門の変では長州好きだが石田光成は嫌い。
174日本@名無史さん:03/09/22 10:29
やっぱり話的には断然南朝がおもしろいよ。
腐敗しきった時の権力者を倒すため
異色の天皇ゴダイゴの下にこれまた多彩な顔ぶれのキャラが集結して、
幕府打倒に燃えるとこなんてとってもおもしろい!その後の内輪もめはやれやれだけど。

幕末も倒幕派ですよ。青年志士が幕府打倒に青春をかけるとこが好きです。おきまりの倒幕後のドロドロ政治劇はやれやれだけどね。
175日本@名無史さん:03/09/22 16:14
やれやれだぜ
176日本@名無史さん:03/09/22 20:37
俺はもちろん南朝派

177日本@名無史さん:03/09/22 20:38
俺は北条特捜家派
178日本@名無史さん:03/09/23 18:48
俺は中先代派
179ゲーム:03/09/23 18:50
南北朝時代をテーマにしたゲームって造りづらいんだろーか。
みたことないんだけど、どうなんでしょう。
造ったとしても売れないかもしれんが。
信長の野望みたいな国取ゲームにするのも違うしなぁ。
180ゲーム:03/09/23 18:56
アニメ「一休さん」にも末期の南北朝争乱が描かれてますね。
新衛門さんが仕える例のマヌケな将軍様ってのは足利義満ですが、
当時でも南朝方の残党が結構反乱を起こしてたようですね。
一休さんの先輩小坊主の新念さん(一番ハンサムなキャラ)が、
確か新田一族の出身で、寺を飛び出して反乱軍に加わるものの、
敗れて寺に戻ってくるっていう回がありました。子供心に、一休
さんってアニメやのに濃いな…と思った記憶があります。

その一休禅師は戦国時代まで存命したわけで…。南北朝から戦国
ってそんなに時間あいてないんだなぁ…と実感したのも覚えてま
す。室町時代が戦乱の時代と呼ばれるわけですな。
181日本@名無史さん:03/09/23 19:07
大河で太平記やってた時にメガドライブで出てます。

これね
http://page2.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/b27311467
182日本@名無史さん:03/09/23 20:08
南朝というより楠木一族の栄枯盛衰が感動的。
183日本@名無史さん:03/09/23 20:20
>>179
南朝北朝は幕府のように今は存在していないものではないから確実に無理。
北朝南朝どちらが正統とは庶民には評価できないからな。
184日本@名無史さん:03/09/23 20:23
いやもう発売されてるし・・・
185日本@名無史さん:03/09/23 20:23
>>183
庶民が評価しなかったら誰が評価するんだ?
186日本@名無史さん:03/09/23 23:08
浩宮は南朝(自身の大室家?)から養子を取れ!と右翼にハッパかけてるが?
187みんなでなかよく。:03/09/23 23:17
みんなでなかよく。(^^)
188日本@名無史さん:03/09/24 18:53
北朝が好きな人はどういう人?
政治がらみの思惑があるとしか思えない。
189日本@名無史さん:03/09/24 19:47
>>189
南朝が好きな人はどういう人?
政治がらみの思惑があるとしか思えない。
190日本@名無史さん:03/09/26 21:59
南朝鮮も北朝鮮もきらい


191日本@名無史さん:03/09/26 22:04
>>190
それガイシュツ
192日本@名無史さん:03/09/26 22:09
>>191
おまいは韓国派or北朝鮮派
193日本@名無史さん:03/09/27 20:19
俺の南朝好きは、先祖が南朝方だったから…。
194日本@名無史さん:03/09/28 03:58
後村上、長慶、後亀山の3代は歴代からはずすべきです。
北朝こそが真の正統の天皇です。

96代 後醍醐院
97代 光厳院
98代 後醍醐院(重祚)
99代 光明院
100代 崇光院
101代 後光厳院
102代 後円融院
103代 後小松院
104代 称光院
105代 後花園院
195日本@名無史さん:03/10/01 19:55
話的には絶対悲劇の南朝
196日本@名無史さん:03/10/02 23:03
熊沢派
197日本@名無史さん:03/10/04 21:43
物語としてみれば
誰もが南朝のが好きだろ。
北朝の創立者からして心情的には南朝派なんだから
198日本@名無史さん:03/10/04 21:52
客観的事実としたらどっちも正統だろ。
正統がふたつあったからこそ混乱した時代だったわけで。
「事実どうだったか」と「いかにあるべきか」をごっちゃにいう奴は厨以下の白痴。
199日本@名無史さん:03/10/04 22:46
>>198
それは>>1に言ってやれよ。
200日本@名無史さん:03/10/04 23:07
北畠顕家タンは後藤久美子似の美少女だったんたぞ。
この史実だけで南朝に味方したくなってくるだろ!
201日本@名無史さん:03/10/04 23:15
>>200
ネタが古いよ、それ。
大河ドラマ「太平記」なんて最近の若者は知らないよ。
202日本@名無史さん:03/10/04 23:38
逆に、なんで我々オヤジが若い香具師の知識に合わせなくてはならんのか禿げしく疑問。
203日本@名無史さん:03/10/04 23:44
いい年したオヤジが2ちゃんなんかにカキコするなや
オレモナーだけど(w
204日本@名無史さん:03/10/05 01:05
>>202
10歳で見ていましたが何か?
リアル戦争のあおりをくらった大河だったなぁ
(なお私は>>200ではない念のため)
205日本@名無史さん:03/10/05 12:21
親房=チオビタドリンク。
206日本@名無史さん:03/10/05 12:34
30そこそこで「俺はおやじ」なんて言うなよ。
情けない。

40以上だったら笑っちゃうけどな
207日本@名無史さん:03/10/05 21:29
私の、母方の祖父(次男で養子にでた)の家は北畠親房の家老だったそうです。
なんか、一族に郷土歴史家みたいなのがいて、どうも確からしい。
ちなみに、その田舎は伊勢にあります。
しかも、さらに私の父方のひいひい爺さんの奥さん(要するにひいひい婆さん)の家は、
南朝方で、後醍醐天皇を守って、笠置に移りそこに住み着いた一族です。
ということで、私はものすごーく、南朝に憧れを抱いています。
やっぱり、南朝が正統ですよね。
208日本@名無史さん:03/10/05 21:55
いや正統とかいう話はここではやめて。
ただどっちが好きかって話。
209日本@名無史さん:03/10/05 21:59
北朝のほうがおもしろい
210日本@名無史さん:03/10/05 22:59
ここで南朝派の人たちは楠木正儀についてどう思っていますか?
211日本@名無史さん:03/10/06 00:42
彼の立場を考えると仕方なかったんじゃないかな
212日本@名無史さん:03/10/07 22:26
老獪な道誉に騙されて愚かな香具師
213日本@名無史さん:03/10/13 11:22
細川清氏は?
214日本@名無史さん:03/10/18 14:58
楠正儀はすばらしい。太平記では心少しのびたる者と酷評だが、高々30万石にも
満たない勢力で京都を二度も奪還。いくら上手く隙をついたとはいえ、なかなかで
きることとちゃう。
215日本@名無史さん:03/10/18 15:19
南朝支持は現皇室に対する不敬!
216やよい:03/10/18 15:44
217日本@名無史さん:03/10/18 16:00
南朝方
218日本@名無史さん:03/10/21 20:29
今日逮捕された有栖川何とかの妻役だった女。
逮捕される直前に「うちは南朝ですから無実です」
とかのたまっておったそうな。わけわからん…。
219日本@名無史さん:03/10/21 21:17
>>218
は?なんの話?
220日本@名無史さん:03/10/21 21:20
北朝にすんでる。が、南朝方支援。
221日本@名無史さん:03/10/21 21:25
>214
楠正儀は別に南朝の大将ではないし、
都を制す全指揮をとったわけでも全然ない。
正儀を誉める人って、吉野朝太平記とかの影響?
わけわからん。
222日本@名無史さん:03/10/21 22:06
北朝系の現皇室が明治時代に南朝が正統と判断したことについてどう思う?
223日本@名無史さん:03/10/21 22:28
>>222
政治的妥協
224日本@名無史さん:03/10/21 22:53
>>222
水戸の御老公の遺徳の賜物だろう。
225有栖川宮殿下は偽者ではない:03/10/22 00:22
http://www.zakzak.co.jp/top/t-2002_07/3t2002071123.html
http://www.seinensya.org/undo/ryodo/senkakushoto/030204isihara.htm
http://members.at.infoseek.co.jp/YaYa/isihara.htm
http://www.uwashin.com/2001/masu/masu67.html
日本青年社の秋季全国代表者役員会議は、高橋和巳東海中部管区長の指揮による
国民儀礼に続き、大久保明行動副隊長の開会の辞で会議を開始、冒頭、挨拶に立った
松尾会長は恒例の教示の後に一呼吸おいた後、緊張した面持ちで次のように述べた。
「今日は、日本青年社にとって正に歴史的瞬間を向かえる日となった。この歴史的というのは、
旧皇族 有栖川 識仁 殿下が日本青年社の名誉総裁を受任して下さったということです。
皆もこの歴史的な出来事をしっかりと見届けていただきたい…」 
  この松尾会長の言葉に会場は一瞬水を打ったような静寂がただよった。
それもそのはずである。松尾会長がこの日この場で、
旧皇族 有栖川 識仁 殿下の日本青年社名誉総裁受任を発表するまで、
殆どの役員が殿下の受任を知らされていなかったからである。
 会長挨拶に続いて、司会者から「ただ今より、旧皇族 有栖川 識仁 殿下が
日本青年社名誉総裁受任の承認式を執り行ないます、
立会見届け人を代表して全国社友会代表・門家茂樹先生に承認証に御署名を頂き、
有栖川 識仁 殿下より松尾会長に承認証が授与されます」と述べられると
会場は割れんばかりの拍手が沸き起こると共に全員が起立する中で、
全国社友会代表である門家茂樹・忌部神社宮司が御署名を揮毫して朱印を捺印、
有栖川 識仁 殿下より松尾会長に承認証が授与された。
226日本@名無史さん:03/10/22 02:59
>>225
偽者でないなら何故逮捕されたんだ?
227日本@名無史さん:03/10/22 17:45
有栖川 識仁 殿下
228日本@名無史さん:03/10/22 18:48
224が正解
229日本@名無史さん:03/10/22 22:43
後村上、長慶、後亀山の3代は歴代からはずすべきです。
北朝こそが真の正統の天皇です。

96代 後醍醐院
97代 光厳院
98代 後醍醐院(重祚)
99代 光明院
100代 崇光院
101代 後光厳院
102代 後円融院
103代 後小松院
104代 称光院
105代 後花園院
230日本@名無史さん:03/10/24 00:32
>>222
南北朝は後に合一してるので、南北どちらが正統だろうが
その後の皇室から見れば無問題。
231日本@名無史さん:03/10/24 23:42
    /´      ̄`ヽ,
    / 〃  _,ァ---‐一ヘヽ
   i  /´       リ}
   |   〉.   -‐   '''ー {!     __________
   |   |   ‐ー  くー |    /  
   ヤヽリ ´゚  ,r "_,,>、 ゚'}  < ジュース買ってこいっ!!
   ヽ_」     ト‐=‐ァ' !    \__________      ...........
    ゝ i、   ` `二´' 丿                        /:::::::::::\
      イ l'' ー--‐f´.                          (::::λ:::::::::::)
    /        `\                       (|=| |=||) 
 ̄ ̄ i .i \     \ ヽ,   ___,, __ _ ,, - _―" ’.  ' ・,  ’・, | ̄し ̄/
── ヽ勿  ヽ,__    j  i~""     _ ― _: i ∴”_ ∵,     ヽ ∀ ノ
______   ヽ,, / / __,,, -- "" ─ "ー ・, ; ; - 、・   r=-,/⌒  ~ヽ~,
───────  ヽノ ノ,イ  ─── ― -            i y ノ>>158|
───────  / /,.  ヽ,  ──                i,,__ノ   //´
______   丿 ノ ヽ,__,ノ ___ _ _ _           ,'    ゝi
           j  i                        /   y ノ 
_____    巛i~ ____ _             /    /~/
                                   i   < /

          皇太子様はキリ番ゲットが大好きです。
232日本@名無史さん:03/10/25 09:12
だーーかーーらーー
南朝派。
ーーー終了ーーー
233日本@名無史さん:03/11/01 18:49
だーーかーーらーー
熊沢派。
ーーー終了ーーー


234日本@名無史さん:03/11/01 18:54
         , "⌒` 、 コタツの季節です〜
         ルハノルノノ〉
  "  ヽ.   ルレ! ゚ ヮ゚ノリ      へヘ
  ,'ノ(( ))〉  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄(;゚;;) \/〃⌒⌒ヽ
 v b^ -゚ノレ、       _,.,. 旦 \ノノ^ リ))
   く/jつ\|====== ´  ノノ=====| ゚ ヮ゚ノ||
   (_(  /     !(((!´゙リ))    と )
     \ノ ___/ノ リ.゚ ヮ゚ノリヽ___\
      ̄ ̄      〇旦〇  ~○~ ̄ 足利家しだいやん

235日本@名無史さん:03/11/01 21:29
南朝
236日本@名無史さん:03/11/15 15:42
小倉宮
237日本@名無史さん:03/11/17 21:43
北軍と南軍ならどっちを支持する?
238日本@名無史さん:03/11/18 07:34
だーーかーーらーー
南朝!↑南軍!
ーーーーーーーーーー終了ーーーーーーーーーー
239日本@名無史さん:03/11/18 08:24
やっぱり北魏だろ。
240日本@名無史さん:03/11/18 18:15
可愛い女の子が多くいるほうを応援したい。
どっち側に多いですか?
241日本@名無史さん:03/11/18 19:50
だーーーーーーかーーーーーーーーらーーーーーーーー
南朝派
ーーーーーーーーーーーーーーーー終了ーーーーーーーーーーーーーーー
242日本@名無史さん:03/11/18 20:14
>>240
可愛い男の子なら南のほうが多いぞ。
北畠顕家、楠木正行、阿新丸…
243日本@名無史さん:03/11/18 20:15
単純に考えれば、
南朝を正統とするとした明治時代の明治天皇は北朝の末裔のはずだ。
244日本@名無史さん:03/12/01 19:04
足利銀行も北朝が絡んでいたか。
245日本@名無史さん:04/01/02 17:49
246日本@名無史さん:04/01/02 22:09
後村上、長慶、後亀山の3代は歴代からはずすべきです。
北朝こそが真の正統の天皇です。

96代 後醍醐院
97代 光厳院
98代 後醍醐院(重祚)
99代 光明院
100代 崇光院
101代 後光厳院
102代 後円融院
103代 後小松院
104代 称光院
105代 後花園院
247日本@名無史さん:04/01/02 23:33
骨伝導携帯って、恥骨でも使えるのか?
248日本@名無史さん:04/01/05 13:01
南朝も北朝もどっちも正統だろ
249日本@名無史さん:04/01/30 14:53
そう
250日本@名無史さん:04/01/31 10:05
長慶って墓とかちゃんとあんのかな。
もしかして史上最も孤独に死んだ天皇かも。
251日本@名無史さん:04/02/07 18:17
現在 名目北朝、実質南朝が実態であるわけだし。
252日本@名無史さん:04/02/07 18:41
逆だろ。名目は南朝、実質は北朝だろ。
253日本@名無史さん:04/02/07 18:45
違う。名目は南朝、実質は北朝(偽物)だろ。
254日本@名無史さん:04/02/09 01:21
長慶、後亀山の2代は歴代からはずすべきです。
北朝こそが真の正統の天皇です。
255日本@名無史さん:04/02/09 01:31
時の権力が指示している方が常に正統だろ
256日本@名無史さん:04/02/09 02:13
なんとなく芸名っぽいよな
三遊亭後円融
桂後小松
笑福亭称光
257日本@名無史さん:04/02/09 02:28
わけわからんこのスレ
258257:04/02/09 02:30
スマソ。間違えたスレ違いだった
259日本@名無史さん:04/02/09 02:39
>258
あながち間違ってない突っ込みと思われ(w
260日本@名無史さん:04/02/09 02:41
南朝の末裔を名乗る雑貨商の熊沢寛道が
終戦直後
昭和天皇に退位を求めたらしいが
GHQは当初は面白がっていたが
国民が無関心なのを見て
相手にしなくなった。
261日本@名無史さん:04/02/09 02:42
>>260
一応自称天皇スレあるよ
262日本@名無史さん:04/02/09 23:28
>>260
昔広島カープにいた熊沢捕手ってこいつの子孫らしいな。
263日本@名無史さん:04/02/10 10:56
おまいらそれで南朝派北朝派どっちよ?
264日本@名無史さん:04/02/21 17:55
熊沢派
265日本@名無史さん:04/02/21 20:45
尊氏関東下向以降も
南朝(後醍醐帝)側は何度も
大勝してるんですね。
266日本@名無史さん:04/02/21 23:20
最近、新田君が思っていたより豪傑
だとわかった。
城攻めはダメダメだが。
267日本@名無史さん:04/02/22 09:56
腕に覚えのある義貞は尊氏に一騎打ちを
申し込むが尊氏はおそれて出てこなかった。
268日本@名無史さん:04/02/22 21:47
大室派
269日本@名無史さん:04/02/28 18:32
age
270日本@名無史さん:04/02/28 22:49

        __,,,,_
      /´      ̄`ヽ,
      / 〃  _,ァ---‐一ヘヽ  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
      i  /´       リ} < これがアンナの痛み!
      |   〉.   -‐   '''ー {!  \_______________  
      |   |   ‐ー  くー |                  :.;'
     ヤヽリ ´゚  ,r "_,,>、 ゚'}  _ー ̄_ ̄)’,   .'  ,r'⌒  ⌒ヽ、   , ..  ∴.'
      ヽ_」     ト‐=‐ァ' !_- ― = ̄  ̄`:, . f ,, r' ̄ ̄ヾ. ヽ.   ; ' ;.'
       ゝ i、   ` `二´' 丿  = __――=,‘   ゞ‐=H:=‐fー)r、)         ・,‘
        /  _-―  ̄=_  )":" . ∵ ; ' ;. ゙iー'・・ー' i.トソ ; ' ;. ; ' ;. ∴.'
       /   ノ  ̄_=_  ` )),∴.  ;  ' ;.   l、 r==i ,; |'  ‘、
      /  , イ )    _ ) ̄=_) _)   ノリ^ー->==__,..-‐ヘ___  ~;ヾ
      /   _, \  )_ _ )=  _)∵   ノ ハヽ  |_/oヽ__/     /\
      |  / \  `、     = _)     \ /    /        /  |.
      j  /  ヽ  |          ______.ノ   y'   /o     O  ,l    | :
    / ノ   {  |   
   / /     | (_   
  `、_〉      ー‐‐` 

271日本@名無史さん:04/03/10 21:19
天台座主、征夷大将軍
皇子にして武術の達人
山伏姿に身をやつし
倒幕のため諸国を行脚
272日本@名無史さん:04/03/10 21:33
これは、日本の南北朝時代?
それとも、現在の南朝鮮(大韓民国)と北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)のこと?
273日本@名無史さん:04/03/10 22:24
そう元日本サッカー協会の名誉総裁なしてスポーツの達人
高円殿下はじつはまだ生きておられます。
観光客に身をやつし
北朝打倒のため
白頭山山中に潜伏しておられます。
274日本@名無史さん:04/03/21 19:07
北朝が正当にきまっとる!
275日本@名無史さん:04/03/21 21:10
南北朝問題は
どちらの天皇の系統が正統なのかが問題ではなく、
どちらに属していた人々により共鳴するかということであらう。

いかなる事情があろうと帝を吉野の山奥においやったばかりか
皇子三人を次々と暗殺した
北朝、否、足利派に共感できる人はそういないだろう。
276日本@名無史さん:04/03/21 22:35
皇居前の楠木正成像を撤去して足利尊氏像にすべきである。
なにせ現皇室は北朝の末なのだから・・。
277日本@名無史さん:04/03/22 22:35
確かに!
278日本@名無史さん:04/03/22 22:40
>>275
後醍醐天皇にも共感できない。南北朝の天皇で一番最低。
どっちにしろ時代がわかっていない(武士の存在を)天皇。
むしろ、北朝の光厳天皇、光明天皇はかわいそうだ。
279日本@名無史さん:04/04/13 02:17
後醍醐院て麻原彰晃に似ているよな。
280日本@名無史さん:04/04/13 02:25
>>275
後醍醐院が吉野に行ったのは彼の自由意志。足利尊氏が追放したわけじゃない。
足利直義が護良親王を殺したのは事実だが、恒良親王については確証がなく、成良親王については反証がある。
281日本@名無史さん:04/04/13 02:25
>279
誰に同意求めてんだボケ
282日本@名無史さん:04/04/13 02:42
結局、亀山可愛さに後深草を退位させ、その後の両統迭立→南北朝の争乱の遠因
を作った後嵯峨が一番悪いと思う。南朝の天皇も北朝の天皇も、後嵯峨の気まぐれ
のせいで争いを余儀なくされた犠牲者たちのように思えてしまう。
283日本@名無史さん:04/04/13 02:46
>>282
いや、長男を差し置いて次男が嫡流に指名された例はほかにもいくつかある。特に珍しい話じゃない。
悪いのは、亀山院が息子の後宇多院に譲位したあと、後深草院の皇子(伏見院)を皇太子に据えた北条時宗のお節介だろう。
時宗がここで介入しなければ、亀山院の系統が唯一の皇統として定着していたはずだ。
284日本@名無史さん:04/04/14 07:26
誤差賀が亀を偏愛したのは

亀山=明朗快活
後深草=陰気で粘着

という性格の差があったからというのは本当ですか?
285日本@名無史さん:04/04/29 06:21
保守
286日本@名無史さん:04/05/01 15:29
ヤァヤァ我こそはフサ源氏の血を引く"北畠親フサ"なり〜
 今から熊谷モナ実に攻撃する次第突撃だゴルァ!!
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
           ∧∧
          ミ,,゚Д゚彡  /⌒\
     ━━╋⊂|  ̄|⊃/   ● \
         〜|  |/    __▲
      ミ ̄ ̄ ̄し` ̄   /
      (_______/
        ∪∪ ∪∪
       ┃       ┃
   ∧∧ ╋   ∧∧ ╋
  ミ ,,゚Дミ ┃  ミ ,,゚Дミ ┃
   ミ  つ┃   ミ  つ┃
 〜ミ  彡┃ 〜ミ  彡┃
   し`J  ┃   し`J  ┃
__∧_____∧____
   エイエイ、オー!

と、いうわけで南朝派
287日本@名無史さん:04/05/02 15:47
>>278
後醍醐天皇は武家だけでなく公家からも見捨てられた面がある。
南北朝が分裂したとき、南朝について吉野へ行った公家はごく少数。

なお、一般的には、後醍醐が公家社会の慣習である先例主義を無視したことが公家の支持をも失った原因とされている。
これは確かに事実であろう。
ただ、後醍醐のやり方は、自分が専制君主になってやりたい放題にやるための先例無視。
およそ「悪習を廃して合理的な政権運営をしよう」というような意味での先例無視ではなかった。
建武の新政の失敗によって、この本質が人々に完全に見透かされてしまった。

仮に公家社会で先例無視ということを行ったとしても、それが理にかなった措置であれば、
(例えば神器も治天の君もなしで後光厳の即位を敢行させた関白二条良基のように)
あまり非難の対象にはならないのが当時の現実だった。
288日本@名無史さん:04/05/02 15:54
>>283
つまり、大覚寺統の側にも、元々ある程度の正統性は保たれていた。
これは、北朝側の立場で書かれた梅松論なんかからでも伺える。
だから、もし後醍醐があんなに好き勝手をやらずに、もう少し多くの人の支持を得られるように活動すれば、
(最低限、摂関と幕府を認めるとかすれば)
公家も武家の大覚寺統による皇統を素直に認めた可能性が高い。
289日本@名無史さん:04/05/02 18:40
>>288訂正
× 公家も武家の大覚寺統による
○ 公家も武家も大覚寺統による
290日本@名無史さん:04/05/02 18:44
南朝が正統です。「皇統譜」という公文書にそのように記載されてます。
291日本@名無史さん:04/05/02 19:39
南朝が正統というのは血筋の問題じゃないんだよね。
大嘗祭で三種の神器から神霊力を受け継がなきゃ天皇と
認められない、ということなんだから。
だから安徳や弘文なんかも天皇として認められていると
いうわけ。
その意味では確かに南朝が正統。
292日本@名無史さん:04/05/02 21:58
後醍醐の吉野への逃亡から正平の一統までの間、本物の神器を持っていたのが南北どちらなのかは議論が分かれる。
293日本@名無史さん:04/05/03 00:33
>>291
あほですか。
三種の神器を受け継ぐ剣璽渡御之儀と大嘗祭はまったくべつの祭儀。
しかも大嘗祭をやってない天皇なんて北朝以外にもいくらでもいるぞ
294日本@名無史さん:04/05/03 11:36
>>293
例えば誰?
295日本@名無史さん:04/05/05 01:33
仲恭とか?
296日本@名無史さん:04/05/24 21:03
南北問題age
297日本@名無史さん:04/05/24 21:06
北朝のはずの天皇がなぜか明治以降南朝派に転向した。
不思議だね。
298日本@名無史さん:04/05/24 21:14
>>297
天皇がどっちであったかなどは問題ではない、天皇は天皇だ。
天皇制を守るものどもこそが天皇の家臣じゃ。
299日本@名無史さん:04/05/24 21:22
天皇自体はずっと北朝だったんだから、
どう考えても北朝が正統だよな。
300日本@名無史さん:04/05/24 21:26
天皇をないがしろにした北朝武士は逆賊。
尊王の南朝武士こそ真の武士。
301日本@名無史さん:04/06/07 07:15
その通り。
302日本@名無史さん:04/06/11 18:44
  _┃_
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 :¶::(※):¶:  錦旗置いときますね
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   ┃
303日本@名無史さん:04/06/17 12:56
ゴダイゴ天皇は好きになれんけど、やっぱり楠正成とかが好きだから南朝かな?
304日本@名無史さん:04/07/24 19:17
age
305日本@名無史さん:04/07/24 19:21
てかスレタイの【Live or die】 って何?きもい
それを言うなら【Dead or Alive】だろ。
306日本@名無史さん:04/07/24 20:00
天皇をないがしろにした北朝武士は革命家。
尊王の南朝武士はあふぉ。
307日本@名無史さん:04/08/20 22:00
308日本@名無史さん:04/08/20 22:14
後南朝も正統だ
309日本@名無史さん:04/08/20 22:21
明の第六代皇帝も「正統」だ
310日本@名無史さん:04/09/07 08:57
age
311日本@名無史さん:04/09/20 19:10:53
age
312日本@名無史さん:04/09/20 19:25:31
花園院とか光厳院とか北朝の天子には文化人が多い
南朝はDQN続きだからなあ
313日本@名無史さん:04/09/20 23:05:29
勝てば官軍、負ければ賊軍。
従って南朝=賊軍。これが決定稿。

ただし、南朝にとどめを刺したのは、
足利氏ではなく北朝だ。

義満の主張はあくまでも両統迭立であって、
南朝を完全に滅亡させることではなかった。

講和条件の最大の肝は、
「譲国の儀をもって神器を渡す」
つまり、「正統性を欠いた偽帝後小松に、
正当な天皇である後亀山が皇位を譲る儀式」によって、
公式に神器を渡すという条件が、北朝関係者をあわてさせ、
南朝関係者が京に入る前に襲撃して神器を奪うという暴走に発展した。

これに対し、「暴徒が勝手に持ち出していた神器を取り返しただけ」と
強く主張して、北朝関係者は襲撃を正当化した。(開き直った?)

付帯条件である「後亀山を上皇に」という件についても、
「皇位に付いたこともなく、天皇の父でもない人物に
 上皇の称号を与えることは妥当か?」と、
北朝関係者は真剣に審議したほど。
314日本@名無史さん:04/10/05 13:23:12
age
315日本@名無史さん:04/10/05 13:35:24
いや一休が止めを刺したんだ。
316日本@名無史さん:04/10/05 13:42:02
>>313
すべて義満の予定通り
317日本@名無史さん:04/10/05 23:51:49
一休は北朝の皇子ではあるけど、
権力ないじゃん。むしろ南朝同様の「逐われた側」。
318日本@名無史さん:04/10/06 00:25:11
>>317
弟である称光天皇が重態に陥ったとき、
父君であらせる後小松上皇が、次の天皇はだれか一休に尋ねた。
そこで一休が伏見の宮を指名した。
だから一休が止めを刺したと言ってる。
319日本@名無史さん:04/10/06 00:59:17
>>318
なぜ一休ではダメだったんだ?
一休には皇位継承権はなかったのか?
320日本@名無史さん:04/10/06 01:05:17
>>319
一度出家したら駄目なんだ。
だから一休が皇子をもうけるまで後小松上皇が復位
するという手もあった。
あと南朝も盛んに運動をしたが駄目だった。
321羽狗狸法師:04/10/06 01:07:29

日本国民は戦後、現代史上最大の変革を行ってきた。
日本国民は見事な意志力と学ぼうとする熱意、優れた理解力を発揮して、
戦いの跡に残された灰の中から個人の自由を尊厳を至高とする高い精神を築き上げた。
…日本が今後のアジアの動向にきわめて有益な影響を及ぼす事は十分に期待できる。
その証拠に日本国民は最近、国外からの戦火と不安と混乱の試練を見事乗り切っただけでなく
国内でも共産主義の膨張を押さえながら急速な進歩を成し遂げたのである。
…私は日本ほど安定し、秩序を保ち、勤勉である国、
日本ほど人類の前進の為に将来建設的な役割を果たしてくれるという希望の持てる国を他に知らない。

1951 04 19 米議会、ダグラス・マッカーサー 

322日本@名無史さん:04/10/06 11:21:10
>>320
還俗すりゃいいじゃんw
323日本@名無史さん:04/10/06 22:13:39
>>322
還俗しても慣習で継ぐ事はできない。
前例もない。
324日本@名無史さん:04/10/06 22:16:18
臣籍降下しても継承権があるが
一たび仏門に入ると継承権が剥奪される。
325日本@名無史さん:04/10/07 00:36:31
即位してからの出家は良いけど、
即位前に出家していたら即位できなかったわけか。
いや、立太子前に出家してたらダメ、ってとこかな?
326日本@名無史さん:04/10/07 01:38:05
そうそう
327日本@名無史さん:04/10/07 02:40:41
そんな筋のとおらないわけわからない前例は破ればいいじゃん。
328日本@名無史さん:04/10/07 14:56:34
そうは行かないのが皇室です。
329日本@名無史さん:04/10/08 22:44:47
皇室だからというよりも、
皇位を狙うライバルたちが多すぎたからかも。

ライバルが「筋の通らない前例」を持ち出して
自分の手に皇位を引っ張り込もうとするから、
そういう前例が生き残るわけでしょう。
330日本@名無史さん:04/10/08 23:54:31
この場合一休が自ら決断したんだけどね。
331日本@名無史さん:04/10/09 00:31:56
やりたい放題の後醍醐の以後なんだから、前例無視でもよかったんだろうけど、そこまで力がなかったんでしょ。

しかし後にアニメにまでなるとは本人も思ってなかったろうねえ。
頓知名人というはどっからきたんだろう。
332日本@名無史さん:04/10/09 00:59:22
いや弟である称光天皇が重態に陥ったとき、
父君であらせる後小松上皇が、伏見宮(兄)を勝手に指名した。
激怒した称光天皇は出家させた。
そこで再度一休が呼ばれてと言う話だったと思う。
称光天皇は兄である一休(またはその子孫)に継がせたかったようだ。
333日本@名無史さん:04/10/18 18:58:37
>>332
称光天皇って同母弟の小川宮を皇太子に指名していなかったっけ?
334日本@名無史さん:04/10/18 19:41:57




88 後嵯峨天皇→→→89→→
        ↓
        ↓
335日本@名無史さん:04/10/18 21:10:44
>>333
小川宮の死後の話だよ。
先に死んで後小松上皇が悲しんで
称光天皇(すでに死に掛けてる)に黙って、
伏見宮(父だか兄)に話を持っていった。
病床で称光天皇が激怒して出家させる。
そこで一休の登場というわけ。
336日本@名無史さん :04/10/26 01:47:39
中国では1368年に朱元璋が明王朝を建国し、日本に対して倭寇討伐の要請をするために使者を派遣する。
使者が派遣された九州では南朝の後醍醐天皇の皇子懐良親王が活動しており、使者を迎えた懐良は
九州制圧のための権威として明王朝から冊封を受け、「日本国王」となる。
337日本@名無史さん:04/11/12 20:20:59
age
338日本@名無史さん:04/11/12 20:39:15
>>297
南朝の天皇が本物の三種の神器を所持していたから(とされる)。
天皇の正当性を証明するには神器が必要。
だから南朝と北朝は幾度と神器の奪い合いをしていた。
339日本@名無史さん:04/11/12 20:48:12
私は南朝板に常駐してました。

あのときは、どうなったんでしたかね?
最後は北朝板もいっしょに滅んだんでしたっけ?
340日本@名無史さん:04/11/12 20:58:55
神器の渡御ない天皇を正等と扱うのは明治天皇でさえ、
認めがたいことだったんだろう。
341日本@名無史さん:04/12/01 15:35:42
保守
342パチャ:04/12/02 12:34:20
熊澤天皇
343日本@名無史さん:04/12/09 00:27:48
護良親王が好きなので南朝
344日本@名無史さん:04/12/29 00:21:07
難聴
345日本@名無史さん:05/01/10 17:47:36
後醍醐って隠岐に流された時点で廃帝だろ。
権力欲が強すぎる歴代最低レベルの天皇。
346日本@名無史さん:05/01/10 18:21:57
ガッツはあった。
347日本@名無史さん:05/01/10 21:36:27
>318
遅レスだが、足利義満と三条厳子が不倫して、生まれたのが後小松天皇だったと言う説もある。
足利義満が生きているうちは後小松−称光の流れは阻止できなったが、
足利義満が死んでからは、元の皇統に戻すために光厳上皇系の後花園天皇に譲位したといわれている。

足利義満と一休さんは祖父−(不倫の子が作った)孫の関係に当たるわけで、
そう考えるとアニメの一休さんって結構ディープな人間関係だな。

>323
天皇は無いけど上皇の前例はあるよ。
承久の乱のあとの行助法親王→後高倉上皇
348日本@名無史さん:05/01/10 23:50:44
天武天皇は即位前に出家していなかったか?
称徳天皇も孝謙上皇の時、出家していたと思うが。
349日本@名無史さん:05/01/26 13:15:44
禿
350熊沢菊理:05/02/05 23:49:00
もうすぐ北朝消滅、南朝が引き継ぎます。
351日本@名無史さん:05/02/13 15:30:45
軟調
352日本@名無史さん:05/02/13 15:48:37
金日成マンセー
353日本@名無史さん:05/02/27 10:33:22
保守
354日本@名無史さん:05/03/16 17:24:24
age
355日本@名無史さん:2005/03/29(火) 09:59:24
一休は天皇の孫ではなく、足利義満の孫だから皇位を継承候補から外された。
356日本@名無史さん:2005/04/03(日) 09:43:17
保守
357日本@名無史さん:2005/04/03(日) 11:06:04
南朝・盧武鉉
358日本@名無史さん:2005/04/03(日) 11:20:56
後小松−称光は、
元は、北朝亜流なわけで。
北朝本流は、崇光天皇の系統。
359日本@名無史さん:2005/04/03(日) 11:30:41
もともと、南朝(後醍醐天皇の系統)自体
大覚寺統の庶流なわけで。
大覚寺統の他の系統である、木寺宮(大覚寺統本流)常磐井宮(大覚寺統末流)は
持明院統(北朝)側についたわけで。

持明院統と大覚寺統で交合に皇位を継承していたから
大覚寺統の本流である後二条天皇の系統(後醍醐天皇の兄の系統)には
皇位が受け継がれるが、後醍醐天皇の系統は
後醍醐天皇一代限りで、自分の子孫には皇位が回らない可能性があったから、
後醍醐天皇が約束を破って、自分の系統で皇位を独占しようとした。

で、あういう動乱が起こった。
360日本@名無史さん:2005/04/18(月) 12:04:09
ゴダイゴage
361日本@名無史さん:2005/05/05(木) 12:46:34
保守
362日本@名無史さん:2005/05/05(木) 21:04:50
>>348
そういやそうだよな。>天武天皇は即位前に出家
いつから駄目になったんだ?
363日本@名無史さん:2005/05/05(木) 21:59:46
出家にも色々あるから
菩薩戒‥‥
続日本紀聖武紀にも苦心の跡が
364日本@名無史さん:2005/05/05(木) 22:05:02
俺はどちらでもない。ロイヤルファミリー派。以上。
365日本@名無史さん:2005/05/22(日) 11:19:03
保守
366日本@名無史さん:2005/06/02(木) 21:01:55
age
367日本@名無史さん:2005/06/10(金) 19:28:44
>>362
天武も称徳(元孝謙)も事実上の武力クーデターで皇位を奪った人だから「出家→皇位継承」の例に相応しくない。
368日本@名無史さん:2005/06/23(木) 01:05:07
なんで?
369名無し:2005/06/23(木) 02:19:04
南朝派兒嶋備後三郎高徳公の子息はおらんか? 話しお聞かせ願いませう。
370日本@名無史さん:2005/07/05(火) 01:01:03
生きてるわけねえだろ
371日本@名無史さん:2005/07/19(火) 03:20:15
なんで?
372日本@名無史さん:2005/07/19(火) 12:03:46
age
373日本@名無史さん:2005/07/19(火) 12:15:53
今の天皇家は北朝で?
374日本@名無史さん:2005/08/08(月) 12:18:38
保守
375日本@名無史さん:2005/08/19(金) 14:21:57
明治以降、楠木正成、新田義貞が忠臣とされ足利尊氏は逆臣として
扱われるのは何故?
北朝からすれば楠木正成、新田義貞は忠臣とは言えないなずなのに。

376日本@名無史さん:2005/08/19(金) 19:59:58
天皇の皇子たちを殺し奉ったから逆賊高氏です。
377日本@名無史さん:2005/08/20(土) 12:15:55
>>375
南朝が正統ってことになったからだよ。
378日本@名無史さん:2005/08/20(土) 13:58:16
>>377
現在の天皇家は正統じゃないってことでいいの?
379日本@名無史さん:2005/08/20(土) 14:21:03
>>378
一応、後亀山天皇が神器を後小松天皇に譲渡したので
それ以降は南北合一がなされた=実際は南朝が衰亡して
北朝が神器を受け、正統に戻った=ということになっている。
380日本@名無史さん:2005/08/20(土) 14:31:22
まあ、天皇家の血筋は北朝系なのに、明治以降
南朝正統論が公式化したのは、
江戸時代に南朝を正統とする説が水戸学中心に
広がっていき、明治維新を支えた武士層に支持されたからですね。

ただ、ある意味、南北朝に分かれていたために
天皇家が動乱の時代、結果的にリスクを分散して生き残ることが
できたという見方もできるかも知れません。
381日本@名無史さん:2005/08/20(土) 22:18:16
えーと、なんだっけホラ、南朝のガキ。
そうだ、北畠顕家。十五で陸奥守ってw舐めてんの?
奥羽平定に功アリって言うが実際どうなのよ?
382日本@名無史さん:2005/08/20(土) 22:22:06
顕タンは美少女だからおk
383日本@名無史さん:2005/08/20(土) 23:42:39
後醍醐天皇に敬意を払い、また光厳院その他北朝天皇をかついでいた尊氏は逆賊ではないだろう

あえていえば、土岐頼遠とか高師直こそが逆賊だな。
384日本@名無史さん:2005/08/21(日) 01:40:43
>>385
陸奥守・北畠顕家、多賀に国府を置く。
現実に北奥平定したのは、北畠顕家と共に奥州に下向した陸奥国府代・南部師行(根城南部家)の功績が大きいと思われます。
南部師行から五代に渡り、南部勤王五世として南朝方に尽力。
北畠顕家より拝領の錦の御旗、後醍醐天皇より拝領の白糸縅大鎧(共に国宝)が現存してます。
385384:2005/08/21(日) 01:45:32
アンカー間違った模様
正しくは>>381でつ
386日本@名無史さん:2005/08/21(日) 05:09:45
北斗太平記の読みすぎだろw
387日本@名無史さん:2005/08/21(日) 10:10:32
土岐氏は裏切りの血筋。
ムラムラと主君が殺したくなって寺に攻め入ったりします。
388日本@名無史さん:2005/08/21(日) 12:55:44
>>386>>384に対する書き込みか
無知過ぎるのは>>386だなw
389日本@名無史さん:2005/08/21(日) 15:10:43
同じバサラ系でも、佐々木道誉ならば、それなりの文化人でもあるが
高師直となると、ひたすら欲望丸出し・闘争本能の人間という感じだな
390日本@名無史さん:2005/08/26(金) 00:29:56
まぁ仕方がないなw

道誉は影が有りながら歌舞いて目立つが、師直は影が濃すぎて目立ってる感じだなぁ。




師直は顔グラ的に天下創世の深水長智系。
391日本@名無史さん:2005/08/30(火) 02:09:36
道誉って、本当は『導誉』じゃないっけ?
392日本@名無史さん:2005/09/04(日) 00:26:34
俺が小学生の頃、どうしても尊氏のサインが欲しくて、
御所で色紙とマジックを持って、幕閣の出待ちをしていた
尊氏が出てきて俺は「尊氏さんサインおねがいします」と叫んだがササッと馬に乗ってしまった
がっくりしてると、
師直が俺に「ワシのサインでもいいか?」とニッコリしながら声をかけてくれた
俺はびっくりしたが「もちろんです、お願いします!」と言うとスラスラとサインをしてくれた
その後「これからも尊氏と北朝の応援よろしくね」と声をかけてくれた。
あの師直の笑顔は、今でも忘れられない。
サインはすぐ捨てた
393日本@名無史さん:2005/09/22(木) 23:07:28
保守
394日本@名無史さん:2005/09/23(金) 00:37:44
http://blog.tanteifile.com/yumekibo5150/

北朝鮮問題を語ってるやついるぞおい。
395日本@名無史さん:2005/09/23(金) 00:38:48
正統の天皇家は北朝です。南朝は亡命政権に過ぎません。
396日本@名無史さん:2005/09/23(金) 12:54:19
>>395
氏ね
397日本@名無史さん:2005/09/24(土) 20:54:20
正統の天皇家は北朝です。南朝は亡命政権に過ぎません。
398日本@名無史さん:2005/09/24(土) 21:53:30
(´・∀・`)へー
399日本@名無史さん:2005/09/25(日) 14:27:43
もうすでに70年も前に南朝を正統とすることが決定してるのに
何をいまさらごたごた言ってるのか
400日本@名無史さん:2005/09/25(日) 14:32:02
       祝! 400get

☆       ∵∴∴☆※☆∴∵∴       ./
     \  ※∵☆☆★☆★☆★☆☆∵※
        *∵☆★☆☆*☆*☆☆★☆∴*
      ※∴★☆☆*°°|°°*☆☆★∴※
     *.∴☆☆☆°°°°|°°°°☆☆☆∴ *
    *∴☆★☆°\°☆☆★☆☆°/°☆★☆∴
   .. ※☆☆*°°★°° 人   ★ °°*☆☆※  *
   ∴☆★☆°°☆     (__)   ☆ °°☆★☆∴
   ∴☆☆*°°☆    (__)   ☆°°*☆☆∴
   ※☆★☆――★  ∩ ・∀・)∩  ★――☆★☆※   ⌒★
   ∵☆☆*°°     〉    _ノ   °°*☆☆∵ *
   ∵☆★☆°°☆   ノ ノ  ノ      ☆°°☆★☆∵
   ※☆☆☆*°°★ し´(_)  ★ °°*☆☆☆※ *
   *∵☆★☆°/°☆☆★☆☆°\°☆★☆∵
      ∵☆☆☆°°°°|°°°°☆☆☆∵    うんこーーー!!!
      ※∵★☆☆*°°|°°*☆☆★∵※
      *...☆∵☆★☆☆*☆*☆☆★☆∵☆    .ζ
         ※∴∵☆★☆★☆★☆∵∴※      ☆
            ∴∵∴☆※☆∴∴∵
401平泉澄:2005/09/25(日) 18:04:36
自身は北朝の子孫なのに、無理やり南朝正統説宣言させられた明治天皇はかわいそうに
402日本@名無史さん:2005/09/25(日) 21:09:33
南朝の帰順をうけた当時の朝廷では、

帰順した後亀山天皇を
「即位したことはないけど特例的に上皇」と決めた。

この決定が、以後、北朝の子孫代々受け継がれたわけで、
少なくとも明治維新までの天皇家では、
「南朝=亡命政権」、非正統と決めていたわけだが。
403日本@名無史さん:2005/10/07(金) 22:49:03
南朝を正統と決めたのは右翼を黙らせるための便宜的な措置。
早く北朝の天皇たちを正統として名誉回復し、南朝の偽主たちは歴代からはずすべきだ。
404日本@名無史さん:2005/10/07(金) 22:55:55
南朝を正統とする御前会議に
明治天皇は欠席することで本意を示したらしい。
405日本@名無史さん:2005/10/07(金) 23:10:14
南朝を正統にしたのは、三種の神器を持っていただけの理由
でしょ?
北朝も三種の神器の重要性がわかっているから姑息な手で
奪い返したのでは?
いくら明治天皇が北朝子孫でも神器がない北朝を正統にするのは
無理があったのだろう。
406日本@名無史さん:2005/10/08(土) 06:20:12
三種の神器の有無が正統性を決める決め手にならないことは、
南北朝の争いがつねに北朝有利で展開されたことにあらわれている。
南朝の存続は室町幕府の内部分裂による僥倖に過ぎない。
神器の有無に正統性の根拠を求めるのはそれ以外に根拠を持たない南朝側のプロパガンダでしかない。
当時の社会通念に一致するものではない。
407日本@名無史さん:2005/10/08(土) 08:36:16
北朝は足利幕府の傀儡だろ。
南朝を武力で追い出して作ったんじゃん。
408日本@名無史さん:2005/10/08(土) 14:51:57
俺の祖先は南朝方に良く出てくる武将の苗字なので,南朝に一票いれときます。
409日本@名無史さん:2005/10/08(土) 21:51:04
ゴダイゴがカスなので北朝
410日本@名無史さん:2005/10/09(日) 02:26:25
銀河鉄道999が名曲なので後醍醐に一票
411日本@名無史さん:2005/10/26(水) 02:03:30
そんな・・・。
412日本@名無史さん:2005/10/29(土) 17:56:10
南朝政権の内部組織ってどんな感じ?
太政大臣はいたのか?
将軍だけはいっぱいいるけど。
配下は、中級貴族が多いイメージがあるから、どういう政権運営を行っていたんだろう。
413日本@名無史さん:2005/10/29(土) 18:54:58
>>412
それについては、2005年6月に出た講談社選書メチエ334の森 茂暁著の「南朝全史」定価1500円を
読みなさい。「大覚寺統から後南朝へ」というS・Tがついており、政権運営、公卿の構成、文化活動等、
よく纏められている。
414後南朝スレより転載:2005/10/29(土) 19:36:56
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1009678345/
233 :後南朝信者さんの話しは置いといて :03/02/18 10:57
南朝正統の根拠として神器の所在を根拠にされる方がいますが
実は神器が無くても即位(皇位継承)できるという事になってます。

例えば後鳥羽天皇の事例があります。
源平争乱時に平家一門が西国へ逃れるときに安徳天皇と一緒に神器を持ち出します。
その間に後鳥羽天皇が後白河法皇の院宣によって即位するわけです。
後鳥羽天皇は神器を持たずに即位するわけですが偽帝という訳ではなく
正統な天皇として認定されています。
なので必ずしも神器が必須条件ではないわけです。
「後鳥羽天皇は神器を持っていなかったから偽帝」とはならないんですから
北朝系天皇にも同じ事がいえるわけです。
415日本@名無史さん:2005/11/17(木) 23:12:22
保守
416日本@名無史さん:2005/12/02(金) 00:13:42
本能寺の変は 南朝VS北朝
417日本@名無史さん:2005/12/02(金) 00:24:04
>>414
この問題はもうわけわからんよ。
後鳥羽帝が偽帝にならないことを承知の上で
江戸時代に南朝正統論が盛り上がるわけだから。
418日本@名無史さん:2005/12/02(金) 00:32:17
俺は北朝派だ。
419日本@名無史さん:2005/12/02(金) 22:03:40
俺は北周派。
420日本@名無史さん:2005/12/02(金) 22:09:32
俺は北一輝。
421日本@名無史さん:2005/12/02(金) 22:32:54
俺は北側国交相。
422日本@名無史さん:2005/12/02(金) 23:03:52
ここでは私がルールです。私のルールに従えない下郎に説教される筋合いは御座いません。
私に説教かましたいのなら、最低限のルールくらいは守ってくださいね。
<小学生でも出来ること>なんですから。それと、これも<規約>を読めばすぐに理解できることですが、
当ダイアリーの運営方針と、私の議論への姿勢にイチャモンつけることはここでは一切禁止です。
<嫌なら見なければいい>のですから。まったく、ここまで何度も何度も繰り返し繰り返し幼稚園生でも守れることを
教えてあげているのに未だに守ることも理解することもできないなんて、リテラシーの欠落した愚かな大衆が
相当インターネットに氾濫しているみたいですね。これはもう一刻も早く法整備を遂行して、国民に対するインターネットリテラシーの
教育を義務付けるべきですね。自動車の運転免許と同じようにインターネットを許可制にすべきとまで言っておきましょう。
そうすれば貴方のような馬鹿が沸く事も少なくなるでしょうし。貴方のようなアメーバ野郎は味噌汁で顔でも洗って出直して下さい。
どうせ貴方のような荒らしは懲りずに別のアカウントでまた私の名誉を毀損してコメント欄を荒らそうとするのでしょうが、
「iint」の時と同じように、<運営妨害>や<嫌がらせ>には容赦なく厳しい姿勢で臨みますので、私の警告をよく胸に刻んでおいて下さい。

ttp://d.hatena.ne.jp/yuichi_f/
423日本@名無史さん:2005/12/02(金) 23:35:28
祖先が南朝方だったようなので自分も南朝方。
紀伊半島の土着民を先祖に持つと大概南朝贔屓になると思う。
424日本@名無史さん:2005/12/03(土) 22:12:53
南朝は、宋・斉・梁・陳の華南に出来た4つの王朝。
さらに三国時代の呉と五胡十六国時代の東晋をあわせた時代のことを「六朝時代」と言います。
425日本@名無史さん:2005/12/03(土) 23:03:46
>>424日本史版だから・・・・まあ、意図が通じるということで大目に見ようよ
426日本@名無史さん:2005/12/31(土) 23:12:41
大晦日保守
427日本@名無史さん:2005/12/31(土) 23:58:52
俺はDQN揃いの南朝より教養ある天皇の多い北朝が好きだが
吉野で生まれ南北朝合一にも従わず山奥で果てた長慶天皇には
親しみを感じる
428日本@名無史さん:2006/01/01(日) 13:03:39
逆賊厨がうざいので北朝派
429日本@名無史さん:2006/01/17(火) 23:05:17
age
430日本@名無史さん:2006/01/17(火) 23:13:47
正統の天皇の系譜

92  後伏見  1298-1301
93  後二条  1301-1308
94  花園   1308-1318
95  後醍醐  1318-1331
96  光厳   1331-1333
97  後醍醐  1333-1336
98  光明   1336-1348
99  崇光   1348-1351
100 後村上  1351-1352
101 後光厳  1352-1371
102 後円融  1371-1382
103 後小松  1382-1412
104 称光   1412-1428
105 後花園  1428-1464

431日本@名無史さん:2006/01/18(水) 23:41:21
本能寺の変は 南朝VS北朝
432日本@名無史さん:2006/01/19(木) 05:07:38
後醍醐は真言立川流を信奉していていわゆる乱交パーティーを頻回に催していた。
今で言うなら麻薬やってたような不良天皇だ。(倒幕計画のカムフラージュだ
との説もあるが結構好きだったように思える)それでプライドだけズバ抜けて
高いので始末におえない。建武の親政も出鱈目で一番大切にせねばならぬ足利尊氏
の離反を招いた。こんな南朝が結構人気があるのは何故か?
水戸光圀の大日本史が犯人らしいが・・・・?
433日本@名無史さん:2006/01/19(木) 05:08:57
後醍醐は真言立川流を信奉していていわゆる乱交パーティーを頻回に催していた。
今で言うなら麻薬やってたような不良天皇だ。(倒幕計画のカムフラージュだ
との説もあるが結構好きだったように思える)それでプライドだけズバ抜けて
高いので始末におえない。建武の親政も出鱈目で一番大切にせねばならぬ足利尊氏
の離反を招いた。こんな南朝が結構人気があるのは何故か?
水戸光圀の大日本史が犯人らしいが・・・・?
434日本@名無史さん:2006/01/19(木) 20:59:30
むしろ、楠の人気に引っ張られて
それに牽引される感じで人気が出たんじゃないか。

いったんは消え去った南朝支持が出始めたのは戦国時代ごろで、
おもに軍学者とか講釈師の間で人気があったんだろ。
435日本@名無史さん:2006/01/20(金) 10:14:55
南朝北朝という区別自体が逆賊高氏史観である。
吉野朝時代を二分法でわけるなら、ただ忠臣と逆賊がいるだけだ。
436日本@名無史さん:2006/01/20(金) 20:11:22
たとえば楠正成や後醍醐天皇が逆賊の典型例です
437日本@名無史さん:2006/01/20(金) 20:22:26
俺は北朝派。
後醍醐天皇は不徳の君。
命懸けで御仕えしても使い捨てにされるだけだ。
438日本@名無史さん:2006/01/20(金) 20:25:27
北斗のケン
439日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:31:46
正統政権たる北朝と、
亡命政権である上に反乱軍で逆賊である南朝とが、
互いに自己の正統性を主張して争ったのが南北朝時代。

吉野朝という名称は悪逆無道だが、
南北朝でもまだ不十分。

吉野偽朝時代と呼ぶなら、まだマシかな。
440日本@名無史さん:2006/01/23(月) 03:35:21
南朝北朝二分論を排す

吉野朝時代を南朝と北朝とに二分し、それによって逆賊高氏の大逆の罪を相対化し、
挙句の果てに逆賊高氏も北朝にとっては忠臣だった、などという論があるが之は全くの誤りである。
又、後醍醐聖帝が持明院統を不当に否定した、だから後醍醐聖帝は間違っていたという論があるが之も全くの誤りである。
そもそも皇統の分裂というのは政治的混乱の過程に於ける鎌倉北條の策動であり、はじめから不当なものであった。
鎌倉北條の不敬ぶりと其の政治の悪を見た後醍醐聖帝の義挙ほど我々を感動させるものはない。
普通であれば帝は朝廷の奥深くで臣下に傅かれ育つものだ。ましてや当時の朝廷は平安以降の無気力の中にあった。
にもかかわらず後醍醐聖帝があれほどの強い意志でもって皇道を示し悪逆の鎌倉に立ち向かった事は後世の我々を感動させてやまない。
もっとも之は不思議なことではない。
思い返せば、皇国の歴史のなかでは、神武帝の肇国の大業、明治帝の御一新、昭和帝の聖断、何れも人臣の考えの及ばない、
まことに不可思議な力の働いた、言葉を以って説明することの難しい偉大なる意志があった。
後醍醐聖帝の義挙もその文脈で語られるべき聖業である。
此の御意志こそが総ての心有る日本人が『大御心』として他の何にもまして尊重してきたものであった。
後醍醐聖帝の大御心を誰よりも深く受け止めた日本開闢以来最大の忠臣が其の人、大楠公であった。
こうして発せられた大御心の下、悪逆の鎌倉は滅び不当なる両統迭立は拝され皇道が打ち立てられることとなったのである。
だから後醍醐聖帝が持明院統を不当に否定したというのは誤りである。

(続く)
441日本@名無史さん:2006/01/23(月) 06:43:48
俺、おマン朝
442日本@名無史さん:2006/01/23(月) 07:20:37
平氏は赤旗だから
倭人伝で倭人が体に朱塗ってたので先住民だよ。
鹿児島の平氏は日本書紀によると、
葦原中津国(九州)の日向にニニギが畿内から天下りし
阿多隼人(海人)の妻を娶ってる、この妻の名は「阿平姫」だよ。
つまり、平は先住民の一つの立派なステータス。

平は「たいら」とは読まない、「ひら」とよむ、
この「ひら」は中国地方の方言で「端」という意味があるらしい、
なお、アイヌ語でも「ビラ」は崖、端という意味がある。
つまり平氏は先住民の末裔を標榜してたわけだよ。
源氏白旗はもちろん朝鮮人の白装束だ。

源氏は半島に帰ってね★
443日本@名無史さん:2006/01/23(月) 14:20:38
花園天皇は後醍醐など足元にも及ばない有徳の天子だった。
惜しかった。
444日本@名無史さん:2006/01/23(月) 22:30:10
国賊尊治から天皇の尊号を剥奪しましょう
445日本@名無史さん:2006/01/24(火) 09:02:33
天皇より将軍のが上
首相より国防委員長のが上
国家主席より中央軍事委 主席のが上

なんか似てね?
446日本@名無史さん:2006/02/05(日) 12:12:21
帝が隠岐に流される時に
備前の志士備後三郎高徳が
木に漢詩を彫り、無教養な鎌倉方は意味がまるでわからなかったが
帝が籠の中から見て「うむ、そうか」
と納得して涙するシーンは名場面の一つだ。
447日本@名無史さん:2006/02/05(日) 12:31:08
鎌倉一のつわもの嶋津四郎が
戦わず降参して土下座したのはなぜ?
448日本@名無史さん:2006/02/09(木) 00:17:42
うちの田舎は何の証拠も無い新田の落ち武者伝説で、
そこの殿様が居住を許してくれたらしい
家紋が殿様といっしょだし戦国時代は地侍だった。
だから、勝手に南朝派だと思ってる
449日本@名無史さん:2006/02/09(木) 23:50:54
ところで光厳てどう読むの
(こうごん)それとも(こうげん)?
450日本@名無史さん:2006/02/09(木) 23:52:59
「こうごん」です。
451日本@名無史さん:2006/02/09(木) 23:53:40
こうごん
452449:2006/02/10(金) 00:07:04
>>450>>451

早速の御教授ありがとうございます!
453恵源:2006/02/10(金) 01:00:02
北朝なんか、兄上(尊氏)なんか、こうだっ










    人
   (__)
   (___)
  ( ,,・∀・) ウンコー
   /,   つ
プリ(_(_, )
   ● しし'
454日本@名無史さん:2006/02/10(金) 02:17:54
自治スレに書き込もうとしたが無くなってたので、注意がてらの書き込み
他のスレでもそうなんだけど根拠無しに高飛車に否定する奴が数名居ついちゃってるね。
自分の中での常識をさも凄いこととして、外れることを自信満々に否定していく。
それが常識的過ぎて当然専門板では通用しないのに。
相手にしないのが今までだったが、ここの所いるのはスルーすると噛み付いてくる。
どうしたもんかね?
455日本@名無史さん:2006/02/13(月) 00:52:24
後醍醐天皇は不法な謀反を企んで遠流に処せられたのだから
その不徳を生涯恥じて、流刑の地で生涯を終えるのが本筋だった。
諸将を扇動して乱を長引かせ国土を荒廃させた罪は重く、
諡号剥奪が妥当な重罪人といえる。
456日本@名無史さん:2006/02/13(月) 14:14:33
>>455 後醍醐天皇は不法な謀反を企んで
この不法がどこの法に則ってるかってのが問題になってるんだよね。
朝廷の法なら確かに謀反になるけど、幕府の法だからね。
そこで高時の評価が決まる。
457日本@名無史さん:2006/02/13(月) 19:55:34
鎌倉幕府の謀反人追討権は治承・寿永の内乱の過程で朝廷から与えられたもの。
後鳥羽上皇や後醍醐天皇が謀反人に指定されたのはその権限の行使。
458日本@名無史さん:2006/02/13(月) 23:38:38
鎌倉時代の統治体制を、東は幕府、西は朝廷なんていわれることもあるけど
実際の所どうだったのかだね。
承久の乱以降、朝廷はもはや武力で関東に抗しうる存在ではなくなっていたんだろう。

後醍醐帝はよく反幕勢力を糾合したけど、彼らは天皇御親政のために戦ったのではなく
得宗憎し、内管領憎し、で戦ったんだと思う。
だからたとえ天皇であっても「天皇御謀叛」というのが当時の風潮であったんだろう。

幕末の尊王攘夷論からすればおかしな話と言えようが。
459日本@名無史さん:2006/02/13(月) 23:46:33
鎌倉時代の国家体制は朝廷と幕府の連立政権というところだろう。
主導権は幕府が握っていたが朝廷の既得権を完全に奪取するにはいたっていない。
後醍醐の行動が「謀反」と言われたのはそのような二重権力体制を破壊する意図を持っていたからでは。
460日本@名無史さん:2006/02/14(火) 08:44:25
都に王と云人のましまして、若干の所領をふさげ、内裏・院の御所と云所の有て、馬より下る六借さよ。
若王なくて叶まじき道理あらば、以木造るか、以金鋳るかして、生たる院、国王をば何方へも
皆流し捨奉らばや

太平記の有名な一節。高師直が語ったという。
当時の関東御家人の多くはこういう認識が多かったんじゃないか
461日本@名無史さん:2006/02/15(水) 00:49:59
謀反=社会秩序の破壊行為
462恵源:2006/02/15(水) 11:29:40
北朝なんか、師直なんか、こうだっ










    人
   (__)
   (___)
  ( ,,・∀・) ウンコー
   /,   つ
プリ(_(_, )
   @ しし'
463恵源:2006/02/15(水) 15:19:57
北朝なんか、導誉なんか、こうだっ










    人
   (__)
   (___)
  ( ,,・∀・) ウンコー
   /,   つ
プリ(_(_, )
   : しし'
464日本@名無史さん:2006/02/15(水) 20:38:40
北朝こそ正統の天皇家です。後醍醐とその子孫は一介の謀反人に過ぎません。
465日本@名無史さん:2006/02/15(水) 21:08:56
今の天皇家は実は南朝に入れ替わってると何度言えばわかるんだ.....
466日本@名無史さん:2006/02/15(水) 21:09:47
ソースもないのにそんな与太話を信用できるか
467恵源:2006/02/16(木) 15:00:16
北朝なんか、義満なんか、こうだっ










    人
   (__)
   (___)
  ( ,,。∀。) ウンコー
   /,   つ
プリ(_(_, )
   」 しし'






                         ほとんど水
468日本@名無史さん:2006/02/25(土) 04:37:49
南朝の血筋の人たちって、奈良県の吉野に住んでいるって、2月24日の朝まで生テレビで言っていたけど、ホント?
469日本@名無史さん:2006/02/25(土) 08:06:34
明治時代に皆殺しになったよ。
日露戦争の時、南朝ゆかりの人を集めた部隊が編成されて、乃木に預けられた。
目立つように白いたすきをつけさせられてロシア軍の永久陣地に突撃。全滅。
470日本@名無史さん:2006/02/25(土) 11:49:05
今回の朝生で田原総一郎が、
「今の天皇家は南朝だとばかり思っていた」と言ってたし、
楠正成の像の話とか聞いてると、明治天皇は入れ替わったという説も
あながちトンデモ話とばかりは、言えないような気がした。」
471;:2006/02/25(土) 12:38:47
南北朝時の菊池氏が劣勢の南朝側につき大奮戦したのはなぜだろう?
教えてエロイ人。室町体制の一大名として残る道もあったのにね。
それから.今川了俊がもしいなかったら.全九州の兵を連れて上洛できたか
分析してほしい。
472日本@名無史さん:2006/03/01(水) 23:46:35
722 名前:日本@名無史さん 投稿日:2006/03/01(水) 10:43:16
「北朝vs南朝」と単純に考えるのは誤り。
大覚寺統は
後醍醐流(吉野南朝)、亀山流(常磐井宮)、後二条流(木寺宮)・後二条流(花町宮)
持明院統は
崇光流(伏見宮)、後光厳流(後期北朝)
に分裂して抗争していた。

(後宇多流(五辻宮)・光厳流(萩原宮)・順徳流(四辻宮)・順徳流(岩倉宮)
なんてのもいたが南北朝の頃には皇位争いには参加してない)
473日本@名無史さん:2006/03/02(木) 06:32:53
>>469
吉野十八郷の郷士は、江戸時代は庄屋などをしていて、日露戦争以降、太平洋戦争まで徴兵されなかった。
軍属として朝鮮経営などには参画した。
戦後、日本に戻り、朝鮮経営で蓄えた資産を基に証券会社など、事業を興した。

徴兵されなかったのはそれなりの理由がある。
474日本@名無史さん:2006/03/02(木) 06:58:58
ネタにマジスレするなよ
475日本@名無史さん:2006/03/04(土) 05:08:39
明治天皇の荒々しさ

ありゃ南朝の血じゃないか
476日本@名無史さん:2006/03/04(土) 05:31:28
>471藤原一族(僣称を含む)には、宮方がわりと多い。

宮方(南朝方) 工藤・伊達・白河結城・小田
 ・小山・井伊・菊池 他
武家方(北朝方) 宇都宮・那須・小弐 他
477日本@名無史さん:2006/03/04(土) 10:48:21
>468,>469室町期に赤松に誅戮された (ry
478日本@名無史さん:2006/03/05(日) 01:41:46
まず最初は、

ひたすら出家させられて、子供を産めなくさせた。

ときに、脱走して反乱を起こすものが出ては、
そのたびに殺戮された。

最後の反乱では赤松遺臣団によって殺戮された。

って感じだっけ。

これでほぼ絶滅した。
479日本@名無史さん:2006/03/05(日) 15:24:02
菊池氏は南北朝統一後、肥後の守護に任命されているよ。伊勢の北畠や
白河結城氏も室町幕府に帰順。まあ、旗印が消えれば戦う意味も無い。
480日本@名無史さん:2006/03/08(水) 10:23:57
北超賎、南超賎とも大嫌いです、今日にも滅びてください。
481日本@名無史さん:2006/03/29(水) 04:43:07
宮方(南朝方) 但し親王を除く

★奥羽
北畠顕家,(八戸)南部氏,工藤氏,伊達氏,(白河)結城氏,長井氏

★関東
新田氏,北畠親房,小田・関氏,小山・結城氏

★北陸・東山・東海
新田一族(小国・大井田),井上・高梨氏,井伊氏中院家,桃井家[後期],,諏訪氏[後期]

★畿内及び,その周辺
楠木一族,興福寺[一時期],千種家,北畠家[後期]

★山陽・山陰・四国
名和氏,小早川氏[前期],足利直冬[観応 後],宗家以外の河野一族(得能・土居 等)

★九州二島
菊池氏,阿蘇氏,伊集院(島津)家,禰寝氏

あとなんだっけ?
482日本@名無史さん:2006/03/29(水) 04:50:45
483日本@名無史さん:2006/04/06(木) 23:37:39
漏れものすごい南朝派
罵唖蚕曰く、「先祖は後醍醐天皇の側近(?)で(たぶん南朝方のみで通用する官位で)近衛大将
にまで出世した」らしい。ほんとかどうかは謎だけど。
玉井何とかっていう祖先らしいんだけど誰か詳細知らん?
ちなみに漏れはいまだに、笠置に住んで俟つ。
484日本@名無史さん:2006/04/06(木) 23:40:07
age
485日本@名無史さん:2006/05/08(月) 23:09:54
保守
486日本@名無史さん:2006/05/24(水) 00:30:45
点検
487日本@名無史さん:2006/05/30(火) 17:35:43
南北朝の動乱(1331〜1392)

第一期  元弘・建武の争乱(1331〜1339)

  後醍醐帝の挙兵から、後醍醐帝の崩御まで。

第二期  観応・文和の争乱(1350〜1355)

  尊氏派・直義派・南朝による三つ巴の戦い

第三期  仁木義長・細川清氏の離反と南朝軍の入京(1359〜1362)

  有力守護間の抗争・再編

第四期  土岐・山名の反乱、南北朝統一(1389〜1392)

  幕府による守護勢力削減
488日本@名無史さん:2006/06/05(月) 18:54:07
南北朝時代の後半は、地方が主戦場になっている。今川了俊による九州攻略戦、
関東では鎌倉府VS小山氏、奥州における吉良・斯波・畠山・石塔による探題
決定戦。中央では斯波と細川による二大政党政治が確立してきたから、わりと
安定した状況。
489日本@名無史さん:2006/06/06(火) 13:32:22
>>487
南北朝の動乱の開始は、正確には後醍醐帝の吉野脱出から。一帝両帝、南北京と
興福寺の門主が日記に書いている。四期に分けるのなら、この方がいいかも。

第一期  諸国悪党の蜂起、蝦夷の反乱〜建武政権の崩壊

第二期  南朝の樹立〜関・大宝城の失陥、四条畷の戦い

第三期  観応の擾乱〜大内弘世、山名時氏の帰順

第四期  細川、斯波の管領時代〜南北両朝合体

>>488
奥州は無政府状態ではあったけれど、それほど大規模な戦闘は起きていないはず。
490日本@名無史さん:2006/06/26(月) 02:33:39
ほう
491日本@名無史さん:2006/07/01(土) 23:08:44
南朝派は吉野へ行こう
492日本@名無史さん:2006/07/11(火) 21:27:42
>>491
桜と紅葉、どっちがおすすめ?
493日本@名無史さん:2006/07/14(金) 01:36:37
494日本@名無史さん:2006/07/14(金) 02:45:20
奥吉野
495日本@名無史さん:2006/08/05(土) 15:13:44
ウホ
496日本@名無史さん:2006/08/22(火) 18:47:47
難聴派
497日本@名無史さん:2006/08/26(土) 07:38:48
後嵯峨院が長子・宗尊親王に皇位を継がせていれば
持明院派と大覚寺派の対立など起きなかった

混乱と戦乱の火種を作った後嵯峨院の罪は重い
498日本@名無史さん:2006/08/26(土) 14:01:37
>>497
マジレスすると宗尊王は生母の身分が低くはじめから
皇位継承からはずれていた。
鎌倉将軍にならなかったら早々に寺に入れられて
坊さんで終わってる運命。

当時は次ぎの天皇をきめるのは鎌倉幕府の仕事と考えられていた上、
後嵯峨天皇が自分を擁立してくれた鎌倉に遠慮して
何も決めなかったのはムリもないこと。

悪いのはいきあたりばったりで
全部の皇族にいい顔しようとした北条時宗。
幕府も、承久の乱の処分でやりすぎたと思っていたので
少しでも心証良くしようと必死だったのだろう。
ーーーーーーー
要するにみんなで気を使い合って
波風おこさず誰もがいい子でいようとする
日本人の国民性が諸悪の原因。
499日本@名無史さん:2006/09/13(水) 16:17:30
現在、皇居前広場に楠正成の銅像があるつうことは、いまの天皇は南朝ですよ
と、それとなく広告してるわけだ。明治になるとき北朝から南朝に移ったのね。
どうでもいいけど。
500日本@名無史さん:2006/09/15(金) 13:33:21



8 名前:本当にあった怖い名無し 投稿日:2006/09/14(木) 11:12:31 ID:tgH0oicu0
今、鬼女板見てきたところなんですが、こんなところまで見てるなんて凄すぎw
大学の史学科とか行ってると、歴代天皇の御名まで全て覚えてるものなんでしょうか?

581 可愛い奥様 sage New! 2006/09/14(木) 02:16:18 ID:Ch3D+oMS
>>580
ホント奥が深いよ。
同音の久仁(ひさひと)というのは正統北朝持明院統の祖、後深草天皇の
御名。
小和田家と一緒の恒仁(つねひと)はその次代の弟君南朝大覚寺統の祖、
亀山天皇の御名。

小和田家は後深草と亀山併せて恒なのに「ひさし」と読ませる。なかなか
凄いキレ者。ただし南北朝起こしたからトラブルメーカーだね。
でも結局弟からの簒奪の大覚寺統、亀山天皇恒仁親王だった。

秋篠宮は北朝正統の正統皇室史観に従って「恒」の皇位簒奪を阻止するため
後深草の「ひさひと」に決定したみたいね。
後深草天皇(久仁)の方が亀山天皇(恒仁)の兄だから皇位正統は
持明院統、北朝にあるのは自明だよね。

これでは東宮家が親王懐妊してもつける名前まずないんじゃない?
ここまで秋篠家に主張されると。
秋篠宮殿下の典範改正問題に対する考え方が象徴的に現れてるような。

調べてみてわかったよ・・・


501日本@名無史さん:2006/09/16(土) 02:41:39
じいちゃんが吉野の出なんで南朝派。
502日本@名無史さん:2006/09/16(土) 17:01:30
スレのサブタイだけど「デッドオアアライブ」じゃだめなの?
何かひっくり返っててしっくりしない。
503日本@名無史さん:2006/09/28(木) 16:37:36
後嵯峨院はなんで後深草を嫌ってたの?
しかも父親だけじゃなくて生みの母の中宮も亀山の方ばかり可愛がってたってマジ?
同母兄弟なのになんかすごいカワイソス…
504日本@名無史さん:2006/09/28(木) 20:52:20
>>503
後嵯峨院が最も可愛がっていたのは長男の宗尊らしいね。
母親の身分をとやかくいう声を無視して宗尊に継がせていれば
持明院派と大覚寺派の争いなんて起きなかったのに・・・
505日本@名無史さん:2006/10/01(日) 13:12:10
>>503
後深草は体が病弱な上、性格も暗くてパッとしないやつだったらしいね。
506日本@名無史さん:2006/10/01(日) 23:49:46
昔、子供向けの足利尊氏の伝記物語の中で
南北朝の争いの話を知って以来の北朝派だよ。
理由は子供心に後深草が可哀想だったからorz
507日本@名無史さん:2006/10/02(月) 01:12:07
北朝も崇光統と後光厳統の二つに分裂してたけど。
508日本@名無史さん:2006/10/02(月) 18:55:50
>507

こっちの分裂の原因は、南朝方が崇光天皇を拉致ったからで、
やむを得ず急遽、擁立された後光厳天皇と、
その後、講和の結果として京都に帰った崇光院のどちらも、それぞれの立場があって譲れなかったんだろ。

当事者の恣意が原因の両統への分裂やら大覚寺統内部の分裂に比べたら、避けられない・やむを得ない点が多いと思うんだが。
509日本@名無史さん:2006/10/02(月) 22:54:47
>>508
原因はそうかも知れないけど、北朝の正嫡として践祚した兄の崇光が「皇位は
自らの皇子の栄仁親王に譲るように」と弟の後光厳に要求したが、
後光厳は細川頼之を頼って自分の子の後円融に急いで位を譲っている。
やっぱり皇統分裂は恣意的になされたと言えるのではないかな。
510日本@名無史さん:2006/10/02(月) 23:55:29
後醍醐統(吉野南朝)が正統性を主張する根拠は「帝徳・天命」による超越性。
常磐井宮が正統性を主張する根拠は「先帝の遺勅・聖断」。
崇光統(伏見宮)が正統性を主張する根拠は「長嫡(長幼の序)」。
ところが後光厳統が正統性を主張する根拠は単なる「既成事実」のみ。

常磐井宮・木寺宮・伏見宮などはもとから「両統迭立」を前提に運動している。
しかし、後醍醐統(吉野南朝)と後光厳統は、原理的にいって
「両統迭立」つまり複数の家系の並立(つまり皇位の平和的な
たらい回し)を許容できないという共通点がある。

1392年の南北朝合体も、北朝側が崇光統だったなら
「両統迭立」の約束が守られたはず。
(義満はそのつもりで南朝も合意してたのが
後小松帝の反対で南北朝合体は詐偽になった)

後花園帝以後(伏見宮系)の天皇・上皇は
木寺宮や常磐井宮を猶子にして親王宣下を何度もしてるし
光厳院の時代から南朝にもいくらか好意的な感じがある。
511日本@名無史さん:2006/10/03(火) 23:41:18
>510
そんなことはない。
南朝は偽帝という考えが、京都の公家社会の総意だったわけで、
天皇が別の誰かであったとしても、その実情はくつがえらない。

後亀山を上皇にする際にも、
「登極したことのない人物を上皇とすることの是非」という議題で
かなり揉めたと記録されているとおり。
512日本@名無史さん:2006/10/04(水) 03:12:56
>>511
なにいってんだよ
南朝が偽帝って話と大覚寺統が偽帝って話はイコールではない。
実際に南北分裂以前は両統迭立がまがりなりにも守られていたじゃんよ
513日本@名無史さん:2006/10/04(水) 03:25:37
>>503 後深草は好色アンド病弱だったらすぃいね。
獣姦したって本当かね?
それはそうと、最近光厳帝や後花園の親父を主人公にした小説があったりして、なにげに地味な時代にスポットライトがあたってきたYO!
514日本@名無史さん:2006/10/04(水) 03:46:32
「廃帝」森真沙子/角川春樹事務所/ISBN:4-7584-1029-1
「皇位の呪縛」原田隆之/叢文社/ISBN:4-7947-0536-0

これ↑?
出来はイマイチのようだけど売れてほしいですねー
515日本@名無史さん:2006/10/04(水) 04:29:24
>>514 それそれ。『皇位の呪縛』は称光帝とか出てきておもしろかったよ。
今度『廃帝』も読んでみるかな。
516日本@名無史さん:2006/10/04(水) 06:06:23
同じ戦乱期でも源平や戦国時代はあんなに人気があるのに、
なんで南北朝はマイナーなんだろうな。
戦前までならちょっと触れにくい時代だったのもわかる気がするんだが。
個人的には戦国時代より下克上みたいなカタルシスとかダイナミックな勢いは落ちるけど、
逆に言えば武士も貴族も由緒の知れた名門が多くて、閨閥や古い地縁を巡る楽しみとかは大きい気がする。
南朝まわりの他の時代の皇室には無い怪しさも魅力的だと思う。
517日本@名無史さん:2006/10/04(水) 16:24:38
明治天皇はなぜ南朝を正当としたの?
518日本@名無史さん:2006/10/04(水) 18:21:25
>512
多数派の公家にとっての価値観では、
都落ちして吉野に行った時点で偽帝、それ以前は正統の天皇ってとこだな。

もちろん、隠岐に流されていた期間の後醍醐帝は廃帝扱いされていた。
光厳天皇が正統な天皇として扱われていたわけだ。

>517
明治天皇の意志じゃなく、討幕運動を担った薩長(その他)の志士らの、ごり押しだ。
明治天皇としちゃ、祖先と敵対し、苦しめた南朝を正統視したくはなかっただろ。
519日本@名無史さん:2006/10/04(水) 18:24:43
>>517 南朝に神器があったから。だけど明治帝と南朝の血縁関係があったと言いたかったのではないよ。
南朝の後亀山帝から北朝の後小松帝に神器が継承された時点で、それ以後の天皇は北朝系だけど正当な天皇だからね。
つまり、神器がある方が正当という理論。
520日本@名無史さん:2006/10/04(水) 23:10:02
光厳・光明・崇光は神器もってたんじゃないの?
あとから南朝側が「あれはニセモノだ」と言い出しただけで。
でもそのニセモノも接収しちゃったんだから
もうどっちが本物だったか(今の神器がどっちなのか)わからない。
北朝はなんでこんなわざと混同させるようなことをしたのか?
(本当に北朝にニセモノを渡したのなら廃棄すればいいだけのはず)

結局、本当のところは光厳・光明・崇光は神器をもってたんだろう。
それしか合理的な解釈はない。

後光厳・後円融がもってなかったことは動かないが。
521日本@名無史さん:2006/10/04(水) 23:11:33
>>515
そうそう。「皇位の呪縛」はおもしろかった。
今の皇統の直系の祖なんだから、もっと宣伝したらいいのにね。
皇位断絶の感じも今とよく似てるし。
522日本@名無史さん:2006/10/04(水) 23:19:50
光厳天皇は本来、正統で歴代の数に入れるべきだよな。
光明天皇は微妙。
523日本@名無史さん:2006/10/04(水) 23:43:50
後醍醐帝が勝手に比叡山に逃げたんで、光明天皇が立った。
院宣もあるし、後醍醐帝はそれで諦めて戻ってきて
神器を渡しているし、光明天皇の正統性は問題ないよ。

しかししばらくして今度は吉野に逃げて「やっぱり認めん、渡した神器はニセモノだ」
と言い張った。けど>>520の通りこの段階での本物の神器は北朝にあったと思う。

吉野に移動しての後醍醐帝の「自分が正統」という主張は全然認められないと思う。

後醍醐帝は先に光厳天皇の在位を後から否定してなかったことにした。
そういうふうに力であったことをなかったことにしていいという先例を作ったのは後醍醐帝本人。
そういうことをすれば自分(または自分の子孫)が同じことをされるのは当然の流れでしょう。
524日本@名無史さん:2006/10/05(木) 00:43:03
でも、同時代の公家達の間では、
神器の有無よりも京都にいること、京都で政務・儀式を担当できることが重要だっただろ。

北朝の正統性について疑義を持っていたのは公家じゃなく、一部の武士だったと思う。たぶん尊氏も含めてな。

で、それ以外の、たいていの地方(小)領主達にとっては、
どちらも同程度に正統である2つの朝廷、って程度の認識しかなかった。
こいつらの場合、神器の有無はもちろん、京都を抑えていることさえも、限定的な意味しかない。

ただ、南朝の正統性を信じるヤツは、南朝関係者の一部だけで、全国的にはごくごく一部の限られた人間だけだった。
525日本@名無史さん:2006/10/05(木) 00:55:52
>>524
いつの天皇だったか忘れたけど、神器もなく上皇ではない女院の命令による
践祚は強引だろ。
526日本@名無史さん:2006/10/05(木) 01:40:02
持明院統の祖伏見天皇の表記は
俯見が正しいんじゃないの

伏見という字が使われるようになったのは
秀吉が伏見城を築城した時からみたいだから
527日本@名無史さん:2006/10/05(木) 02:04:02
>>525
そう。後光厳天皇だな。
光厳・光明・崇光は神器も院宣もあるから問題ない。

正平御一統の時から南朝が正統になり
後光厳天皇からの北朝は正統ではない、
と考えればいいでしょう。
ーーーー
後醍醐と光厳は、光厳をはさんで後醍醐の治世が二回あるとすれば
南北の言い分を半分づつ認めることになり、現実にも適合する。
528日本@名無史さん:2006/10/06(金) 01:09:39
>>527 正平一統の時代はヨクワカラン。
@1351年10月、尊氏は崇光を裏切って後村上についた。→1352年2月、南朝軍が京都を制圧。この4ヵ月の間、直義・義詮は何してた?
Aてか、この時、直義・義詮て仲間だったの?
B1352年2月、南朝軍が京都を制圧した翌月、義詮が京都を奪還。つまり尊氏・義詮の親子対立?
C1352年2月、南朝軍京都制圧、3月、義詮奪還、5月、後村上が賀名生へ帰る。この間の天皇って誰?
D1352年2月に尊氏が直義を殺してから、5月に後村上が敗走するまで尊氏は何してたの?
E後村上が3上皇を連行。義詮は止めなかったのかよ!そもそも何の為の連行?
F光明が1355年帰京で崇光が57年帰京。この時間差は何?          
Gそもそも1352年3月に義詮が京都を奪還してからは尊氏より義詮に実権があったの?(後光厳擁立してるし)
だれか詳しい人教えて栗!
529日本@名無史さん:2006/10/06(金) 03:07:37
>>528
1351年8月直義北陸に逃れ、10月尊氏南朝に降伏
1352年2月直義殺され、その後に南軍が入京
1353年6月楠木正儀入京、義詮後光厳天皇を奉じて逃走
       9月正儀退京、尊氏後光厳天皇を奉じて入京
1355年1月南軍再び入京、3月尊氏・義詮が京都奪還
530日本@名無史さん:2006/10/06(金) 03:14:41
3上皇を持明院から賀名生に拉致連行したのは北畠顕能
たびたび南軍が入京しているが後村上天皇自身は還御していない
531日本@名無史さん:2006/10/06(金) 09:10:00
> C1352年2月、南朝軍京都制圧、3月、義詮奪還、5月、後村上が賀名生へ帰る。この間の天皇って誰?

その期間中は後村上天皇による統一期間。なので北朝の天皇はいない。

1351正平六年11月7日後村上帝が崇光帝を廃位する(この段階では神器は崇光帝が保持)
1351観応二年12月23日、神器が崇光帝から後村上帝へ渡御
1352年2月、南朝軍京都制圧、3月、義詮奪還、5月、後村上が賀名生へ帰る。
1352正平七年8月19日、後光厳帝践祚(神器なし)
1353文和二年12月27日、後光厳帝即位

「地獄を二度も見た天皇」飯倉晴武/吉川弘文館では8月19日説
「南朝全史」森茂暁/講談社と「日本史辞典」角川書店は8月17日説
532日本@名無史さん:2006/10/06(金) 09:37:00
スレタイを見て、
南朝鮮or北朝鮮
だと思ったやつは俺だけじゃないはず。
533日本@名無史さん:2006/10/07(土) 00:17:51
>>531 二度地獄を見た天皇って誰が主人公ですか?
534日本@名無史さん:2006/10/07(土) 00:35:14
>>533
つ光厳院
535日本@名無史さん:2006/10/07(土) 05:38:58
>>534 ほうほう。『廃帝』といい光厳院め、人気ですな!
536日本@名無史さん:2006/10/07(土) 06:03:46
伏見宮はすげえよ
約600年もの間実系相続だもんな
537日本@名無史さん:2006/10/07(土) 09:21:52
>>535
光厳天皇の一生って、すごい面白いよ
小説にしたくなる気持ちわかる。
538日本@名無史さん:2006/10/07(土) 09:43:29
光厳天皇は文化人だしなあ
DQNの後醍醐とは大違いだ
539日本@名無史さん:2006/10/07(土) 20:23:52
花園天皇が一番の秀才と聞いたが。
540日本@名無史さん:2006/10/07(土) 20:34:05
南朝正統説は新田氏の子孫を自称する徳川家の陰謀。
541日本@名無史さん:2006/10/08(日) 09:46:16
後醍醐の寵愛した阿野廉子ってそんなに悪い女だったのか?
吉川英二の太平記では隠岐脱出のどさくさに紛れて
ライバルの妃を船縁から突き落としてたが(w
542日本@名無史さん:2006/10/08(日) 20:30:02
>>541 性格は分からないけど後醍醐のガキをぽんぽん生んでるトコを見ると美人だったのは間違いないね。
543日本@名無史さん:2006/10/09(月) 00:14:05
今の天皇は南朝の天皇を殺して三種の神器を奪った南朝の子孫
544日本@名無史さん:2006/10/09(月) 03:33:47
本物の神器は安徳帝と共に…
545日本@名無史さん:2006/10/09(月) 04:42:25
>>544 安徳帝は平資盛と共に薩摩硫黄島に逃れて66歳まで生きたんだよ!
現在もそこには帝の子孫が暮らしているんだ。
546日本@名無史さん:2006/10/09(月) 18:30:11
>>543
南朝同士で殺し合ったとは血生臭いな
547日本@名無史さん:2006/10/09(月) 21:11:11
>>542
北畠親房と仲悪かったってのも本当かね?
548日本@名無史さん:2006/10/11(水) 17:36:57
>>547
世代がちがいすぎて仲良くも悪くもなれないんじゃないか?

国家のあり方(公家の家柄主義など)は
意見がちがうってのは認識してたろうが
それが仲のよしあしに展開するには
もう少し議論しあえる程度の年功が必要だったろう。

二人のキャラからみて、
軍事や(幕府方との)外交などの戦術については
意見ちがっても仲悪くはならないと思う。
549日本@名無史さん:2006/10/11(水) 20:34:49
美貌の阿野廉子をめぐり、北畠顕信と楠木正儀が争う。それを苦々しく思う親房。
550日本@名無史さん:2006/10/11(水) 20:42:33
総受けの北畠親房をめぐり、後村上帝と楠木正儀が争う。父の愛を奪われ苦々しく思う顕信。
551日本@名無史さん:2006/10/11(水) 20:46:30
その様を和歌に詠んで興奮する腐女子の阿野廉子。
552日本@名無史さん:2006/10/11(水) 20:47:32
南北朝の本質は
天皇派対将軍派。

この構図では勝てないと
悟ったタカウジが
無理矢理、南北の朝廷の争いに仕立てた。

ゆえに今の天皇派は心情的には南朝派になるわけ。
553日本@名無史さん:2006/10/11(水) 21:13:41
ぶっちゃけ今現在南朝子孫がいて正統と主張しても、
ヨーク家の子孫が今更ランカスター系の現イギリス王室にケチつける様なもんだな
554日本@名無史さん:2006/10/11(水) 21:27:56
>>552
それは昔から安直にいわれてるだけの思考停止なただの俗説。

南朝にも武士がついていて、北朝にも公家がついていた以上、
そのような単純な割り切りはできない。

尊氏のライバルは
鎌倉幕府→護良親王→足利直義→足利直冬と続々現われ
常に武士たちは争い戦っていたのであり
尊氏は武士の唯一の代表ではなかった。

南北朝分裂の最初の光厳天皇は
別に尊氏が擁立したわけではないし

水戸學以後の天皇派の心情を根拠にそれ以前の
南北朝を分析するのは非学問的でバカげている。
(個人的には南朝正統だと思うけど)
555日本@名無史さん:2006/10/11(水) 21:41:04
個人的に、というから噛みつくこともないが、
後醍醐は自分とその系統の皇位を守るために
大乱を引き起こした張本人。
後醍醐さえ現れなければ両統迭立で平穏が
続いてたはず。
言わば「やったもん勝ち」の後醍醐の南朝が
正統とはどうしても思えない。
556日本@名無史さん:2006/10/11(水) 21:44:33
>>555
一番の張本人は後嵯峨天皇ですよ。
557日本@名無史さん:2006/10/11(水) 22:04:18
>>555
後醍醐が私利私欲のドキュンであるかのように思うのは
戦後民主主義的な矮小な人間観の中で
安直に言われてるだけのただの俗説。

かれにはかれの理想があってその実現に邁進しただけ。
主観的には私利私欲でやってきたつもりはないだろ。
それで世の中が付いてこなかったんだから
宇宙猿人ゴリみたいな気分だったろうけどw
でもゴリは受け入れられなかった天才なのであって、
ドキュンとはいえない。

やりたいことに突っ走ったという意味では
悪党やバサラに通じるあの時代の人間類型だったと思うよ。
楠木や北畠、足利も含めてな。
うらやましいとは思っても、バカにしようとは思わない。
558日本@名無史さん:2006/10/11(水) 22:14:43
>>554
大局を見よ。動機を知れ。
そして、光厳院を利用し、再び帝位に擁立したのは
まぎれもなくタカウジ
559日本@名無史さん:2006/10/11(水) 22:30:07
>>558
大局をみてないのはあなたですよ。>>554の中の諸要素のうち一つにしか答えてない。

尊氏ならずとも、天皇の権威は必要としたはず。
光厳院も自らの保護者を求めていた。
この当時は、幕府の存在自体を悪とする考えはない。
(南朝の内部ですらも)

天皇ぬきの幕府がありえないように
武士の協賛扶翼なしの天皇もありえない。

歴代北朝の中には傀儡的な天皇もいたけど
光厳院を傀儡なみにみなすのは
歴史事実に反しているばかりか甚だしく失礼。むしろ不敬。
560日本@名無史さん:2006/10/12(木) 08:38:23
>557
そうだな。
実際、大多数の公家が後醍醐政権の手法を受け入れなかった。
後醍醐天皇に付き従った公家の大半は、実家の跡継ぎ争いの関係で北朝に付けなかった連中で、北畠みたいに一家総出で南朝にいったヤツは滅多にいなかったんだよな。

おかげで、合一後は公家としての職務を完全に失って、子孫断絶となったヤツが大半だった。
ごく一部、分家筋の断絶したとこに養子入りして生き延びたヤツがいるぐらいか。
561日本@名無史さん:2006/10/12(木) 10:47:55
>>557
個人的に、教科書に載ってる一番有名な肖像が
あんなにも麻原に似てなければもう少しイメージは良かったかもしれないと思った>後醍醐
562日本@名無史さん:2006/10/13(金) 13:28:18
>>559
そこまで天皇が必要なものなら
像でもかまわないじゃないかと言った(らしい)のが高師直。
自分が天皇になればてっとり早いじゃないかと思ったのが足利義満。
563日本@名無史さん:2006/10/14(土) 04:43:13
>>561
麻原? どの肖像みて逝ってるのよ?

>>562
義満が天皇になろうとしたなんてのは俗説。もしくは井沢なみ電波。
義満は南北朝の統一を成功させ
(実際には北朝の我が儘で失敗)
自分は天皇を上回るそれ以上のものになろうとしていた。
564日本@名無史さん:2006/10/14(土) 20:46:55
>>559
いや俺がいいたいのは
この「南北朝」という呼び方は
本質的でないということ。
光厳院のこともかろんじてはいない。

少なくとも光厳院擁立以前は
「南北朝」の争いでなかったのは事実で
そして将軍派が負けていたのも事実。
違いますか?
565日本@名無史さん:2006/10/14(土) 22:44:51
>>563 後醍醐の肖像画っていったらあの密教道具もってる奴じゃない?麻原には似てないが。

それから義満は息子を天皇にしようとしたってのが井沢説。
566日本@名無史さん:2006/10/15(日) 14:04:21
>>564
後半は要するになにをいいたいのか不明なのでスルー。
(別に勝ち負けを論争してはいないと思うが?)

前半は「南北朝」の呼び方が不適当だというのは賛成するが
あなたは南北朝でなく「天皇派対将軍派」を提案したいわけですか?
そういう二分法がそもそもの間違いなような気がするが。

皇統の分裂としては二分じゃなくて五分。
藤原氏も最終的に五摂家になったし、
権門勢家内部の人間関係としてはその程度の分裂が崩壊のバランス点だったんだろう。

武士側も一元的なまとまりではない。楠木のような南朝についた武士もいたし
そもそも直義直冬派の存在に歴史的な意義は認めないわけ?
尊氏と直義が交互に南朝に降伏したこともある。
この時代は政治勢力の動きとしては三国志状態。

皇室は五分、武士たちも三分して複雑にからむ。
けして「天皇派対将軍派」ではない。そもそも両者ともに天皇を必要としたから
南北朝になったのだし、南朝にも必要に応じて将軍が置かれた。
「天皇派対将軍派」という安直で単純な解釈は賛同できない。
567日本@名無史さん:2006/10/17(火) 10:23:18
天皇で生まれた年が不明なのって後亀山と崇峻くらいだろ。
568日本@名無史さん:2006/10/17(火) 18:24:20
>567
天武を忘れてるぞ。
569日本@名無史さん:2006/10/18(水) 14:21:58
後花園院はかなり英明だったらしいね
この帝のおかげで日本の皇室は救われたといえる
570日本@名無史さん:2006/10/19(木) 20:52:51
>>568 天皇の本ってやつには631年生まれになってるお
571日本@名無史さん:2006/10/19(木) 23:24:38
>570
日本書紀には、天武の生年はないし、死亡年は分かってるが享年は載ってないだろ。
631年ってのは、推定値の1つであって、史料に記されたものではない。
572日本@名無史さん:2006/10/20(金) 00:10:59
>>571 そうだったのですか。勉強になりますた!

>>569 英明だったのは花園天皇では?
573日本@名無史さん:2006/10/20(金) 02:16:05
花園天皇と後花園天皇はどっちも英邁。

学者としては花園天皇の方がダントツ。
後花園天皇は民政に気配りしたり
教訓歌を残したり義政を諌めたりで有名。
574日本@名無史さん:2006/10/20(金) 09:35:29
北朝の本家本元、持明院統の祖後深草天皇は
乳母に筆おろししてもらった経験を忘れられなかったらしいし
575日本@名無史さん:2006/10/20(金) 10:53:28
後深草って病弱アンド好色だったらしいが、亀山よりもなぜか長生きしたな。
576日本@名無史さん:2006/10/20(金) 11:50:24
上流階級だと乳母に筆おろししてもらうのはデフォルト。
乳母雇えない庶民だと伯母・叔母が乳母役だな。
577日本@名無史さん:2006/10/21(土) 23:56:49
どーして長慶天皇は子供がいたのに後亀山に譲位したんだ?
578日本@名無史さん:2006/10/22(日) 23:11:34
>577
吉野の面々の間で、主導権争いやら派閥争いがあったんだよ。
579日本@名無史さん:2006/10/23(月) 02:14:08
>>578 詳細な資料が少ないのが痛いね。
記録も残せないほど当時の南朝ってやばかったのかね?
580日本@名無史さん:2006/10/30(月) 13:53:11
南朝より北朝の方が健全の血統な気がする
581日本@名無史さん:2006/10/30(月) 19:21:22
>>579
後亀山陣営がわざと長慶天皇をなかったことにしようとしたんじゃないか?
天武天皇が弘文天皇が即位していなかったとしたように。
582日本@名無史さん:2006/11/05(日) 19:04:11
>>514-515,>>521,>>535,>>537-538
「廃帝」も「皇位の呪縛」も近所の書店でとりよせて読んだ。
どっちもえらく面白かったよ。
583日本@名無史さん:2006/11/05(日) 19:08:29
>>577-579,>>581
大覚寺統の伝統文化から察するに、
おそらく後村上帝が後亀山を後継に指名したため
長慶は中継ぎ的に一代限りの約束させられてたんだろう。
584日本@名無史さん:2006/11/05(日) 19:29:34
俺の母方の先祖は後南朝の自天王を殺したそうだ……だから北朝!
585日本@名無史さん:2006/11/05(日) 19:32:18
南朝は、鎌倉公方を南朝の征夷大将軍にすればよかったんじゃね?
586日本@名無史さん:2006/11/05(日) 23:28:10
大覚寺統の将軍候補は五辻宮。
護良親王がでてからうやむやになったけど。
587日本@名無史さん:2006/11/06(月) 00:51:06
>>582 皇位の呪縛は読んだから次は廃帝読もうっと!
>>583 大覚寺統の伝統文化って何?長男より利発な次男をかわいがるってこと?
588日本@名無史さん:2006/11/06(月) 01:00:25
「廃帝」はよかった。小説としてもよくできてる。
589日本@名無史さん:2006/11/06(月) 10:59:53
でも出家遁世のあと諸国行脚したという太平記の話はやりすぎな気がする。
590日本@名無史さん:2006/11/06(月) 17:54:33
薬子の変も天皇家が割れる危機だったんだよな。
南北朝時代って
591日本@名無史さん:2006/11/06(月) 22:13:02
>>589
「廃帝」はさすがにそのネタは使ってなかったな。
個人的にはあってもいいと思うけど。
592日本@名無史さん:2006/11/06(月) 22:35:31
>>588
皇位の呪縛もおもしろかったよ。
著者は初めて見た人だけど、歴史時代小説コンテストの入賞作らしい。
593日本@名無史さん:2006/11/08(水) 00:51:18
>>592 称光たん父に命狙われたり、妻を寝取られたあげく子供作られたり
(´・ω・`)カワイソス
594日本@名無史さん:2006/11/08(水) 01:03:09
ドラマ化して欲しい>皇位の呪縛
信長の棺だってドラマ化したんだから
ありうるかな
595日本@名無史さん:2006/11/08(水) 21:26:51
>>594
2〜3時間ものならちょうどよい長さだと思うけどな。
596日本@名無史さん:2006/11/08(水) 21:30:37
余程売れないと局の目にとまらんだろう。
それともここから狼煙を上げるか?!
597日本@名無史さん:2006/11/08(水) 21:33:16
じゃなくて、天皇制自体がタブーだから。

だから南北朝もの自体テレビは少ない。
598日本@名無史さん:2006/11/08(水) 21:58:27
大人の世界はやだね。作品がよければそれでいいのに。
変に気をまわしてさ。
599日本@名無史さん:2006/11/08(水) 23:36:23
皇位の呪縛おもしろかったけど
後花園帝の描写がもっとほしかった
後花園帝を扱った本ないかなあ
小説じゃなくてもいいから
600日本@名無史さん:2006/11/09(木) 00:34:45
>>597
それを考えると大河ドラマ「太平記」は画期的だったな。
あんなに天皇が出まくりなドラマはそうそうない。
601日本@名無史さん:2006/11/09(木) 02:54:17
>>599 後花園を扱うなんて相当マニアックな本だなW
後南朝の本があったらでてくるんじゃない?

>>600 片岡孝夫ね。なんか好意的に描いてた印象がある。阿野廉子とのイチャイチャシーンもなかったし。
602日本@名無史さん:2006/11/09(木) 22:19:18
>514
文庫化したら読む
603日本@名無史さん:2006/11/11(土) 01:57:36
>>602 まずないだろうW
604日本@名無史さん:2006/11/11(土) 04:29:03
>>601
片岡後醍醐帝ほどのハマリ役は今まで見たことがない
605日本@名無史さん:2006/11/11(土) 13:34:49
>>604 柄本明の高師直もなかなか・・
606日本@名無史さん:2006/11/11(土) 23:31:27
武田鉄矢の楠木正成は?
607日本@名無史さん:2006/11/12(日) 01:06:47
>>606 うはっありゃハマリ役だよね。百姓みたいな格好が。
608安藤某:2006/11/12(日) 03:59:25
応仁の乱前後は記録が曖昧だから、フィクションとしてはヤリ放題ですよ
秀吉くらいになって、少しおちついて伝聞や写本が体裁を整え伝えられたと思われるモノがキチンとした家ですらあるんだから
新興のサムライ大将なんて、思いつきみたいなノリです
609日本@名無史さん:2006/11/12(日) 22:49:22
やっぱ陣内孝則の佐々木道誉でしょっ!
610日本@名無史さん:2006/11/12(日) 22:51:28
>>604
片岡北条高時ほどほどのハマリ役は今まで見たことがない
611日本@名無史さん:2006/11/13(月) 01:09:49
近藤北畠親房もなかなか、いやその前にゴクミか。
612日本@名無史さん:2006/11/13(月) 05:14:14
フランキー円喜を忘れるな!
613日本@名無史さん:2006/11/13(月) 07:10:08
南北朝時代はなぜ60年も続いたのか…
614日本@名無史さん:2006/11/13(月) 18:53:12
皇統の分裂対立と足利兄弟の対立が重なったのは混乱を長引かせた気がする。

615日本@名無史さん:2006/11/14(火) 03:00:31
後村上天皇は自ら刀を持ち戦ったのだろうか?
616日本@名無史さん:2006/11/14(火) 06:29:16
>>613
幕府の(政治的、軍事的な)実力不足が原因かと。
幕府の権力基盤が弱い上に、南朝という反幕府の立場を取る者にとっての
格好の御輿があったことが、権力の集中を妨げたと思われる。
617日本@名無史さん:2006/11/15(水) 19:54:33
>>615 ばりばり戦ってたよ。六歳で北畠顕家と陸奥に行ってから四十で死ぬまで戦いの連続だよ。
618日本@名無史さん:2006/11/17(金) 21:54:50
明治政府は南朝を正統としたのに北朝の末裔の宮家を次々に分家させた
のはなぜなんだ? 明治天皇が北朝の血統であるのは仕方ないにしても
宮家まで持ち上げるくらいなら、北朝を正統にしなければ論理的に破綻
してる気がする。
619日本@名無史さん:2006/11/17(金) 22:08:29
三種の神器を持っていたのが南朝だからと理由で明治天皇が勅裁を
下したからだろ。
明治天皇が北朝が正統と勅裁していれば、北朝が正統。
620日本@名無史さん:2006/11/17(金) 22:12:57
>>618
明治時代までに親王宣下などにより存続した皇族が北朝系のしか
いないからでは?
621日本@名無史さん:2006/11/17(金) 22:31:11
南朝が正統といっも、後醍醐から後亀山までの期間限定のはなしでしょ。

後小松以降は北朝が正統なんだし。
622日本@名無史さん:2006/11/18(土) 00:03:25
まあそうだな。
同時期に天皇が2人いた時期の話だな。南朝北朝と言うのは。
南朝 後醍醐天皇から後亀山天皇まで
北朝 光厳天皇(事実上は正統な天皇として即位していた)から
   後小松天皇まで

それ以前と以降は正統な皇統。
623日本@名無史さん:2006/11/18(土) 08:57:33
>>619-622
> 明治天皇が勅裁を下したからだろ

明治天皇が抗議の欠席をした枢密院会議の決定な
明治天皇自身は「南朝が正統でも南北朝合一後は関係ない」
などという詭弁を信じてはいなかったよ
624日本@名無史さん:2006/11/18(土) 17:31:07
>>621
よりによってその限定期間中に北朝から創設されたのが旧宮家ではないか。
625日本@名無史さん:2006/11/18(土) 19:56:45
>>617
それはすごい!
兄・大塔宮に勝るとも劣らない勇敢な皇子じゃん。

親父の後醍醐院よりも遥かに将兵たちの支持を得られてたのでは?
626日本@名無史さん:2006/11/18(土) 22:26:09
>>625 後醍醐の皇子はだいたい戦ってただろ。
宗良も尊良も恒良も成良も懐良も。
世良親王はシラネ
627日本@名無史さん:2006/11/18(土) 23:23:16
>624
いや、それは伏見宮家だけ。
ま、明治期に分出した宮家の半分ぐらいは伏見宮の支流だが。

江戸期にあった宮家4つのうち、残り3つは江戸時代になってから天皇家から分かれたんじゃなかったっけ?
628日本@名無史さん:2006/11/18(土) 23:24:38
>626
まあ、鎌倉後半から後醍醐期までは、武家の棟梁たる征夷大将軍だって皇族に限定されてたしな。
629日本@名無史さん:2006/11/22(水) 21:15:51
後村上帝カッコヨス!
それに比べて拉致された光厳・光明・崇光帝は少々軟弱じゃあないか!
630日本@名無史さん:2006/11/24(金) 09:38:46
南朝が正統ということは、一時期都は京ではなく吉野であった、
というのが政府の公式見解になるんですか?

631日本@名無史さん:2006/11/25(土) 06:37:10
明治天皇は北朝を滅ぼした長州人だから。
632日本@名無史さん:2006/11/25(土) 12:36:17
>>629
最前線で兵士たちとともに戦った戦士だもん。
内裏でふんぞり返ってた連中とは一味もふた味も違うさ。
633日本@名無史さん:2006/11/26(日) 20:25:29
後光厳・後円融の影の薄さといったら!
何かエピソードは・・・ないか。
634日本@名無史さん:2006/11/26(日) 21:08:47
>>633
この2人も大塔宮や後村上院みたいに戦っていれば
もっともっと有名になっていたかもな・・・
635日本@名無史さん:2006/11/26(日) 22:36:50
>>630
南朝自体、吉野を都としていないのでは?
都は京のままだが京は北朝に不当占拠されたので吉野に一時的行宮を
置いたと言う感じではないか?
636日本@名無史さん:2006/11/26(日) 22:37:50
>>633 後円融上皇は学問や伝統文化を愛し「後円融院御百首」を著しました。
637日本@名無史さん:2006/11/27(月) 23:10:59
>>633
後光厳は細川頼之に泣きついて後円融践祚を認めてもらい、
後円融は妻が義満と密通したといっては錯乱し自害しようとした。
>>629
軟弱なのは3帝を放り出して自分だけ逃げ出した足利義詮じゃないか?
638日本@名無史さん:2006/11/27(月) 23:35:20
現在の皇室は南朝系だと言うことがいわれたりしますが、
どういうことなのでしょうか?
参考文献、サイト等あれば教えてください。
639日本@名無史さん:2006/11/28(火) 01:11:43
>638
それ電波、信じる価値はない。
無視しておくこと。
640日本@名無史さん:2006/11/28(火) 09:19:23
>>639
お前は高校日本史未履修か?
641日本@名無史さん:2006/11/28(火) 16:33:18
電波でもいいので、
現在の皇室が南朝系という説のあらましを教えてください。
よろしくお願いします。
642日本@名無史さん:2006/11/28(火) 17:18:47
>>641
まずは「南朝」「大室寅之祐」で検索をかけてみてください。
「今の天皇は南朝」で検索してもかなり引っかかります。
643日本@名無史さん:2006/11/28(火) 20:53:30
今の天皇は南朝 の検索結果 約 3,940 件中 1 - 10 件目 (0.41 秒)
今の天皇は北朝 の検索結果 約 3,150 件中 1 - 10 件目 (0.43 秒)

たいして変わらんな
644日本@名無史さん:2006/11/29(水) 00:32:40
毛利ってたしか南朝どころか鎌倉幕府方だよな。
どっから替え玉説って出てきたんだ
645日本@名無史さん:2006/11/29(水) 00:58:10
>>637 義詮は軟弱どころか頭も良いし戦にも強い。
後光厳を帝位につけたのは彼が21才の時だ。
長生きしてれば南北朝統一も、もっと早く実現できただろう。
646日本@名無史さん:2006/11/29(水) 02:32:43
>>642

ありがとうございます。
「現在の皇室は南朝」とかで検索してもあまり引っかからなかったので、
お聞きしました。

もう少し検索ワードを工夫するべきでしたね。
647日本@名無史さん:2006/11/29(水) 02:56:14
>>637
後円融の正室からほぼすべての側室を
義満にレイプされていたのは確実。
そして後亀山帝は出産の時期から義満
の子供であることも確実。
648日本@名無史さん:2006/11/29(水) 09:44:25
レイプじゃないよ
後円融みたいにうだつのあがらないくせに
逆ギレで妻に切りつけるような駄目男より
日本史上稀に見るカリスマ政治家のほうに
みんな抱かれたがっただけの話だよ
649日本@名無史さん:2006/11/29(水) 12:47:57
不義とレイプは違うわな。
浮気は全部強姦か?
650日本@名無史さん:2006/11/30(木) 10:40:57
>>647 後亀山じゃなくて後小松だろう。
まあどっちにしろ称光で途絶えたからいいけど
651日本@名無史さん:2006/11/30(木) 19:50:15
>>632
最前線で戦っちゃいないだろ
輿に担がれて連れていかれただけ
鎌倉攻めの総大将が新田義貞じゃなくて
足利千寿王だと言うのと同じ理屈だ
652日本@名無史さん:2006/11/30(木) 21:18:07
大塔宮の場合は最前線(もしくはそれに近いところ)で
戦闘行為に参加していたのでは?
653日本@名無史さん:2006/11/30(木) 21:25:56
>652
だって彼は、武家の棟梁たる将軍様だったからね。
(就任より以前から前線に出てるけど)

当時は、皇族将軍の風習が定着してたから(何十年も続いてる)、
「次の将軍は自分だ」と思いながら戦ってたんじゃないかな。
654日本@名無史さん:2006/12/01(金) 10:21:53
>>651 鎌倉攻めの時の義詮って三歳だろ?
中先代もそのくらいだったろうし、それは分かるんだが、後村上は四十で死ぬまでずっと戦っていたわけだから前線にいた時もあっただろう。
655日本@名無史さん:2006/12/01(金) 15:11:05
義詮に比べて秀頼はorz
スレ違いsage
656日本@名無史さん:2006/12/02(土) 04:06:02
>>651>>654
足利義詮が鎌倉に入った日付は6/3で、鎌倉陥落から12日も後の話。
おそらく戦闘が完全に終結し、安全性が十分確認出来てから
ようやく鎌倉に入ってきたんだろう。
つまり、「輿に担がれて」新田軍に合流はしたものの、
その後は前線のはるか後方にいたわけで、あまり勇ましい話じゃない。
まぁ実際4才の子供が前線にいても足手まといなだけだが。
657日本@名無史さん:2006/12/04(月) 14:00:03
>>656 後村上が6才で奥州に行ったとか義詮が4才で鎌倉に行ったとか、そんな幼児を連れていってなんかいいことあるの?
万一戦死したらどうするんだろうか?
658日本@名無史さん:2006/12/04(月) 15:01:02
子供でも旗頭がいないと武士が集まらなかったり、士気があがらなかったりしたんじゃない?

例えば、関ヶ原の西軍に秀頼が居るのと居ないくらいの違いが出てくるかもね。
659日本@名無史さん:2006/12/18(月) 05:52:02
>>658
その違いは大きいだろうね。
福島正則らは「幼君をあやつる奸物石田三成を除く」という大義があってこそ家康側で戦えるんだし、
もし目の前の敵軍に当の秀頼が大将として現れたら戦えなくなるんじゃない?
もっとも>657の言う「万一戦死でもしたら」があったので、
プラス前田玄以だか毛利輝元だかが城を出させなかったので実現はしなかったけど。
660日本@名無史さん:2006/12/26(火) 00:09:30
大河ドラマ役交換後醍醐天皇(片岡鶴太郎)北条高時(片岡孝夫)これにて完璧。
661日本@名無史さん:2007/01/19(金) 19:51:36
木寺宮こそ大覚寺の嫡流
後醍醐南朝は所詮邪道に過ぎず
兼好が出家せずその後も後宇多上皇に仕えていたら兼好の後押しで邦良親王も即位してたかも
あるわけないか
662661:2007/01/19(金) 19:52:37
訂正
大覚寺の嫡流→大覚寺統の嫡流
663日本@名無史さん:2007/01/21(日) 22:24:21
>>661
常磐井宮が正嫡じゃないのか?
664日本@名無史さん:2007/02/26(月) 02:50:06
>>657
子供でもこんなに頑張っているんだから大人の俺たちが頑張らないと!とか
保護意識が沸いて戦意高揚、とはならないかな?
665日本@名無史さん:2007/03/21(水) 18:48:11
うーん
666日本@名無史さん:2007/03/23(金) 22:09:09
俺は北朝派。
北朝の天皇を歴代にして貰いたいと思っている。
667日本@名無史さん:2007/03/24(土) 14:43:13
うちは代々南朝だったよ
勤皇5世とか言われてたよ
戊辰直前に変な養子に入られたけど
668日本@名無史さん:2007/03/24(土) 14:50:45
じゃあお前はその変な養子の裔なんじゃないのか?
669日本@名無史さん:2007/03/25(日) 11:27:13
二系統に分立したのが、天皇家・公家の残っていた
余力を消耗させ
権威だけの存在に堕ちていった要因か
670日本@名無史さん:2007/03/28(水) 05:28:25
いろいろと調べる限り南朝側に筋があると思うのだが
ココでは北朝側が多いな
なぜ?
具体的にその理由を聞きたい
671日本@名無史さん:2007/03/28(水) 06:56:01
南朝偏重資料ばっかり調べたからじゃねえの。

正統性っつうのは、支持を集めてなんぼだ。
支持を失って京都を逃げねばならなくなった時点で終わってる。

両統迭立段階の話としては、
「先帝の遺言」(偽作だと判明してるが)によって成立したはずの大覚寺統において、
その次以後の「先帝の遺言」が常に反故にされているという歴史もある。
「先帝の遺言」を遵守していたら、後宇多上皇の末弟が即位できていたはずだし、
後醍醐の次は、その甥が即位するはずだったんだから。

「先帝の遺言など無意味」と、自らの行為によって証明した大覚寺統において、
その来歴である「先帝(後嵯峨)の遺言」もまた、現実的には無意味であったはずだと結論せざるを得ない。

たまたま、便宜的に、その「先帝の遺言」を活用せざるを得ない幕府の思惑によって、
便宜的に大覚寺統成立となったに過ぎなかったわけ。
672670:2007/03/28(水) 14:21:25
>>671
偏った調べ方はしてない
特に個人的に南朝に思い入れがあるわけでもないし

>正統性っつうのは、支持を集めてなんぼだ
という意見には異があるなぁ
滅亡させられない限り
支持を失って京都を追われたのなら
それを回復するという大義も名分も生まれる

>「先帝の遺言」によって成立したはずの大覚寺統において
後嵯峨健在時に亀山への譲位はおこなわれてるはずだが

両統の争いがおきて幕府に調停を頼み
両統迭立路線でいくことを決定したため
遺言よりそれを重視するのは当たり前かと

ここら辺に筋を感じるものがある
人間死んだらそこで生前の善悪が清算されると思う
結局死んだら死人にくちなしで
特に権力者などの話になれば
その意思をどうするかはその次に即位した者次第だと思う
徳川綱吉が遺言で生類憐みの令の継続を記してるが
死去後、早急に廃止されたのと同じで
善と思われるものは残し
悪と思うものは自ら変える
両統迭立を守ることが重要だったんだよ
遺言とは公では通用しないようなプライベートな願いであるという色合いが強いから

「先帝の遺言など無意味」という観点より
遺言をマル飲みできない時代性にあったと思う
673670:2007/03/28(水) 14:21:58
>>671
>たまたま、便宜的に、その「先帝の遺言」を活用せざるを得ない幕府の思惑によって、
>便宜的に大覚寺統成立となったに過ぎなかったわけ
で、この意味がいまひとつ判らないので具体的に教えて下さい
674日本@名無史さん:2007/03/28(水) 18:35:35
京都を追われた安徳天皇は、その瞬間に正統性を失ってしまっただろ。

壇ノ浦で入滅した時じゃなくてな。
(入れ替わりに即位した後鳥羽天皇の代になったわけ)


後嵯峨上皇が崩御した時点では、
後深草上皇と亀山天皇のどちらを後継者とするかについて、明確な意思表示はなかった。
むしろ、幕府の決定に委ねよとの意思表示だった。

これに対し、幕府は皇位継承問題にかかわりたくないというスタンスを出し、
後嵯峨の内意を探るように繰り返し要請した。

ここで、内意らしきものを提出し、「本心では亀山天皇を後継者としたがっていた」と、
内意をでっち上げる動きが出て、大覚寺統が成立するにいたった。

この「後嵯峨の内意/遺志」が、実はでっち上げだったとする告発により、
持明院統が成立した(ようなもの)。

この時代の皇統は、「天皇の地位」ではなく、「治天の君の地位」によって受け継がれるのが通例だったから、
後嵯峨の崩御段階では、後深草上皇と亀山天皇のふたりは「皇位継承権」(といっても、実態は皇統の継承権だが)は対等だったから。この点は非常に重要だが、初学者は見落としがちなんだよな。
675670:2007/03/29(木) 06:49:25
院宣で後鳥羽が安徳の代わりに即位してる
それは三種の神器を安徳が保有していたため
実際の在位期間はダブってるし
勝てば官軍負ければ賊軍で安徳が再び平氏に率いられ都を回復したら
後白河や後鳥羽が賊になるわけで
最終的に滅亡したからマルく収まっただけで
小康状態になったら南北朝状態になっただろう
これでは正統性を失ったのでなく
クーデターによって排除した感じだよな

後深草から亀山への譲位も後嵯峨の院政下で行われてる
つまり安徳と同じ状態
違うのは三種の神器が手元にあり
亀山に渡ったこと

続く
676670:2007/03/29(木) 06:50:40
続き

で、気になるのが
>後深草上皇と亀山天皇のどちらを後継者とするかについて、明確な意思表示はなかった。
>むしろ、幕府の決定に委ねよとの意思表示だった
遺言でも亀山の子孫に皇位を継承させるとい遺言を残したと認識してるが
明確な意思表示がない
幕府に決定を委ねる意思表示だった
と言い切るにはそれなりのソースがあるはずだろ?
それはナニ?

>これに対し、幕府は皇位継承問題にかかわりたくないというスタンスを出し、
>後嵯峨の内意を探るように繰り返し要請した
このソースもどこ?

>ここで、内意らしきものを提出し、「本心では亀山天皇を後継者としたがっていた」と、
>内意をでっち上げる動きが出て
このソースも

>実はでっち上げだったとする告発により、
>持明院統が成立した
このソースも

とにかくでっち上げたという裏打ちはどこにあるの?
幕府に頼った後嵯峨の意思の裏打ちは?
後嵯峨の内意を探るように繰り返し要請した幕府の裏打ちは?

今の状態ではなにひとつ納得できない
677日本@名無史さん:2007/03/30(金) 01:32:48
>>674は南朝全史から写してきたんじゃないかな、なんとなく見覚えがあるし
678日本@名無史さん:2007/03/31(土) 17:37:05
二系統に分立しなかったら。歴史だいぶかわってたね
強引にでも早期に統一していれば
679日本@名無史さん:2007/04/01(日) 03:17:54
結局、でっち上げと言ってることを裏付ける
明確なソースはないのか?
提示できないのか?

そのソースが南朝全史だとして
それを鵜呑みにしてでっち上げを語ってるわけ?

そうだったら正直話にならんぞw


680日本@名無史さん:2007/04/01(日) 22:19:52
>>674
>初学者は見落としがちなんだよな。

ここまでえらそうなこと言ったからには、きちんと説明してみろよ。
681日本@名無史さん:2007/04/01(日) 22:48:32
初学者は最初に読んだ本だけで全てをわかった気になりがちなんだよなw

682日本@名無史さん:2007/04/02(月) 04:09:21
>>674は初学者だとカミングアウトしてるのと同等の内容を主張してるのにも関わらず
しかも大手を振ってw
それなのに自分は博学気取り。

井の中の蛙とは、まさに>>674のこと
683日本@名無史さん:2007/04/02(月) 23:48:49
皆がスルーしてるから構うのもあれだが、

> 後嵯峨上皇が崩御した時点では、
> 後深草上皇と亀山天皇のどちらを後継者とするかについて、明確な意思表示はなかった。
> むしろ、幕府の決定に委ねよとの意思表示だった。

これに関しては五大帝王物語や伏見宮記録からの出典でしょ
南北朝研究の本はよほど古い物でない限りこれを踏まえて書かれてるはず
というか常識の類だから出典が書かれてないのが大半かと
684日本@名無史さん:2007/04/03(火) 01:56:23
>>683
大半がこれを元に書かれていて
更に常識の類であるというのに
一般的に言われてたり教えられたりすること異なるのは何故?
それだけ重要なポジションと題材性を持ってるのに
一般学問レベルにおいてそんなことひとつも触れられてないのは何故?
明らかに矛盾が生じるのだが?


確実に重要な内容だ
なのに何故それが表にでてこないでいる
685670:2007/04/03(火) 02:39:44
>>674
>>683
記憶で語るのでなく
実際そのものが書かれてる部分をコピペするか
リンク貼ってくれ
シッカリとしたソースの提示をしてくれよ
686日本@名無史さん:2007/04/03(火) 03:13:44
>>684
>683じゃないけど、それは一般に流布している太平記の影響が
大きいんじゃないかな?
他に増鏡、梅松論、神皇正統記なんかの影響もあるかも。
とりわけ増鏡は、五代帝王物語(五大ではない)を参考にしたと
いわれているのに
この件については全く違うことを書いているからね。
大覚寺統贔屓の太平記や神皇正統記はまだしも、
持明院サイドとされる増鏡や梅松論までが、
この件については同じような解釈をしているというところが
ミソだろうね。
まあいずれにしても、「常識」という一言で簡単に片付くような
問題ではない気はするな。
687日本@名無史さん:2007/04/03(火) 06:13:35
えっ!?
意味わからないんだけど

>大覚寺統贔屓の太平記や神皇正統記はまだしも、
>持明院サイドとされる増鏡や梅松論までが、
>この件については同じような解釈をしているというところが
>ミソだろうね。
ってなに?
なんか言葉のチョイスおかしくない?
一般教養とは逆な意味に取れるぞこれ
688日本@名無史さん:2007/04/03(火) 18:10:01
>687
後嵯峨院の継承問題に関しては「五代…」以外は
全て似たような解釈をしてるってことじゃないの?
言葉のチョイスって、あんたの言ってることのほうが意味わからん。
おかしいと思うならその点を具体的に指摘してくれ。
689日本@名無史さん:2007/04/04(水) 00:13:43
後嵯峨が崩御した時点で
後深草と亀山のどちらを後継者とするかについて、明確な意思表示はなかった
むしろ、幕府の決定に委ねよとの意思表示だった

と、いうことは
後嵯峨生前時に亀山への移譲がおこなわれてる状態で崩御するのが一般教養としてあり
この時点では南朝優位と捉えることができるのにも関わらず
>大覚寺統贔屓の太平記や神皇正統記はまだしも
って
最後の「まだしも」ってなに?
「持明院サイドとされる増鏡や梅松論はまだしも」
なんじゃないの?
「大覚寺統贔屓の太平記や神皇正統記までが」
じゃないの?
690日本@名無史さん:2007/04/04(水) 00:14:26
とりあえず同時代の史料の信頼度が
伏見宮記録&五代帝王記>梅松論や神皇正統記
とされている
加えて明治以前の古い研究が梅松論や神皇正統記に基づくもので、
古い本にはそれの影響が残っている
こんなところでは?

というかこういうことは図書館に行って調べれば直ぐにわかるから、
わざわざ喧嘩腰で書くことではないと思うが
691日本@名無史さん:2007/04/04(水) 00:26:34
その信頼度ってのは誰が順位付けしたの?
なにを持って信頼の基準にしてるの?

692日本@名無史さん:2007/04/04(水) 01:01:55
>>689
なんか、ややこしいこと言ってるなぁ。
後嵯峨院の遺志の話をしているんじゃないのか?

>後深草と亀山のどちらを後継者とするかについて、明確な意思表示はなかった
>むしろ、幕府の決定に委ねよとの意思表示だった

これが書いてあるのが五代帝王物語で、
他の4つにはそういうことは書いていないってことを言ってるつもり
なんだが。
これで「まだしも」の意味はわかるだろ?

>691
うーん‥‥なんか絡んでばっかりという印象を受けるな。
何が気に食わないのかわからんが、それならいっそ、
これについてのあなたの認識なり意見なりを書いてみたらどう?
693674:2007/04/04(水) 02:06:38
>683-692
フォロー dクス

小説やら太平記やら「国民の歴史」レベルのヤツよりかマシ程度な
初学のヤシとあまし大差ない状況なんで、行き詰まってしもてた。
677とか682が図星 ^_^;)
694日本@名無史さん:2007/04/04(水) 09:29:10
>>692
ややこしいこといってるなぁ
じゃないよ
大切なとこだろ?
逆ギレか?
自分の落ち度なのに・・・

オレの認識や意見は前から述べてる
一般教養としての歴史学を基準に
その範疇でオレ自身、南朝に正統性を感じている
それは過去レスで言ってるとおり
後嵯峨生前時に亀山への移譲がおこなわれてる状態で崩御してるということにある
一般教養でそう教えられてるには
様々な説があるなか説得力も信憑性も有力であるというチョイスからだろ?
歴史学ってもんはそういうもんだ
現在残ってる資料や遺跡、出土品などから多角的に考察して
その物事のを研究、検証して
その時代の前後関係を筋立てて繋げることができるものが最良とされる学問
つまり様々な観点から一番有力とされる説が歴史となるわけだ
一般教養においての歴史学はまさにその具現化だろ
そこで言われてる内容と>>674の言ってることはあまりに対照的
>>674の言ってることが事実なら明らかにその後の歴史認識は変わるくらいの重大なポイントになることだ
一般教養レベルに反映されて間違いない事柄だ
なのにそうではない
さっき述べた歴史学の観点から疑問が生じる
695694:2007/04/04(水) 09:30:59
>>692
オレは結構南北時代の本に関しては読んだつもりでいたし
それで更に南朝の正統性を確信した
なのに>>674の言ってる内容はその根底を崩すショッキングな内容だったために
ソースの提示を要求した
未だ完全なるソースとしての提示はないが
それを個人的に調べたいからなにに記載されてるかの確実な情報がほしかったのと
そこまで言い切る>>674の知識レベルと資料としての認識度合い、
それがどれほど>>674の物言いのバックボーンをなしてるものかという確認のためというのもある
696694:2007/04/04(水) 09:36:17
>>693>>674
てことは
その程度のレベルであれを言ってたってことだな?

真剣になって損したよ
697日本@名無史さん:2007/04/04(水) 14:23:58
ツリニマジレス
698日本@名無史さん:2007/04/04(水) 15:15:58
ヤツはどうみても釣りじゃないだろw
699日本@名無史さん:2007/04/04(水) 23:43:23
>>697
なんか悔しいことでもあったのか?w
700日本@名無史さん:2007/04/04(水) 23:50:20
まろは南朝派でおじゃる
701674:2007/04/05(木) 00:27:48
>695
「つもり」と言ってるものの、
それが全部、俗書の類じゃないのか? と感じられたので横槍を入れた。

いったいどんなシロモノを読んで、「読んだつもりでいた」のかを知りたいな。
702日本@名無史さん:2007/04/05(木) 00:57:43
なんか変な人がきてるな
後嵯峨の云々なんて30年も前に出た中公の日本の歴史シリーズにすら載ってるようなことじゃん
根底を覆すって水戸史観に凝り固まった戦前教育でも受けてたじいさんかよ
703日本@名無史さん:2007/04/05(木) 02:16:55
ちょっと待ってくれ!
根底を覆すっていってるのは「でっち上げ」だということに対して言ってるんだぞ
後嵯峨の崩御時の意思の所在、決定権を幕府にマル投げしたことも承知いる
なんか勘違いさせてしまったのかもしれないが
オレが>>676でそのことについてわざわざ聞いてるのは
"探り"のひとつだ
どこまでのことを>>674が把握し理解てるかを認識するためと
一般的にいわれてるこの部分に関してどのようにでっち上げを絡めるのか
もっと具体的に聞きたかったのと
最初に認識をシッカリ聞いておく事によって
後々あげてくるだろうと思われたソースとの兼ね合いにおける
この部分の関連性をキーに>>674の逃げ場を完全に塞ごうとしたことだ

オレは>>674がクロだと思ったからな
結局クロだったけどさ
704日本@名無史さん:2007/04/05(木) 03:01:40
>>701
梅松論
太平記
増鏡
神皇正統記
難太平記
大日本史
後太平記
保暦間記
読史余論
南北朝正閏論纂
今、思いつくのはこのくらい
これらは一通り読んでる
他にも読んでるが思い出せない範囲
だからそれほど重要じゃないはず

俗書レベルの本もそこそこ読んでる

一応はこれだけ読んでるからと思ってるんで
自分の基準で判断できるつもり

俗書だけを読んだだけで物事を断定的に言うなんて愚はしないね
705日本@名無史さん:2007/04/05(木) 09:20:48
>546
あんたさ、自分の言ってる説が現在の学界では異端、
もしくは主流ではないという自覚くらいあるんだろ?
ならば、ちゃんと定説を踏まえた上で、
その定説はこうおかしいというものを1つ1つ実証的に検証していく
しかないじゃないか。
それが「学問」ってもんだろが。
要は、定説と異なる説を主張するからには、
ちゃんと然るべき手順を踏めってことだよ。
おまえのは「自分はこう信じるんだ!!信じたいんだ!!」
と叫びたいだけだ。
そんなくだらない態度で、どうして学問板に居着いているんだ?

706日本@名無史さん:2007/04/05(木) 09:21:43

ごめん、誤爆です。
707692:2007/04/05(木) 09:50:57
>>693
せっかくだけど、俺はあなたをフォローしたつもりは無いんだな。
特にあなたの「大覚寺統のでっちあげ」という部分については
>694同様おかしいと思っているし、
>683のそれが常識レベルにあるという説にも疑問符を>686で付けた。

ただ、それ以上に>694、あなたのその喧嘩腰は何とかならんのかと。

> その範疇でオレ自身、南朝に正統性を感じている
それは過去レスで言ってるとおり
後嵯峨生前時に亀山への移譲がおこなわれてる状態で崩御してるということにある


どちらに正統性があるかを論じるのは
思想板か政治板が相応しいんじゃないか?
とりあえずここは歴史板なので、
当時の人々がどう考えたか、
どうとらえたかを論じるべきじゃないかと思うんだが。

‥‥って、そうか、もともとここはどっちが正統かを
争うスレなんだなw

>>704
それだけ読んでいれば、俺のレスの意味を取り違えたり、
誰かと勘違いすることは無い筈なんだが‥‥
言っておくけど、かく言う俺も実は南朝贔屓だぞw
708日本@名無史さん:2007/04/07(土) 00:26:09
難しい事は、わからん。
南朝さんが逃げてきはった俺等の先祖が匿った。
俺等、南朝さんて今でも日常で使ってる。縁あって、南朝さん
709日本@名無史さん:2007/04/10(火) 19:38:01
>>707
勘違いさせやすい文章だと思うが
それは自分で判らないかい?

710日本@名無史さん:2007/04/10(火) 20:31:20
公家の日記を読む限り、正統かどうか、という価値判断が当時にあったとは
思えないな。吉田経長なんかはバリバリの大覚寺統派で、持明院統にしっぽを
振る異母兄の中御門経任を批判しているが、それも兄貴にくさゆえで、持明院
統が正統にアラず、なんて全く書いてないよ。
711日本@名無史さん:2007/04/10(火) 23:06:31
>>704
>俗書だけを読んだだけで物事を断定的に言うなんて愚はしないね
あなたが読んでいる史料も、あまり良質なモノではないようだね。
712704:2007/04/11(水) 02:30:26
>>711
それなら良質な史料とやらを教えてくれ
謙虚に受け止め読んでみますんで
713日本@名無史さん:2007/04/11(水) 02:54:07
梅松論 太平記 増鏡 神皇正統記 難太平記 大日本史 後太平記
保暦間記 読史余論 南北朝正閏論纂

おいおい、同時代史料一つもないじゃんw
まずは大日本史料から始めてくれ。
あれは良質の史料(と一応は言えるもの)をならべてるから。
714704:2007/04/11(水) 04:35:10
>>713
同時代史料がひとつもないだ?
同時代と思って以上のものを挙げてるんだが
ま、いくつか後時代物も混ざってるけど
他になにがあるのか教えてよ

大日本史料だって同時代じゃないし
つーか、だいぶ前に既に目を通してる
他の>>711がいう良質で同時代のもの史料を提示してくれ
715711:2007/04/11(水) 08:50:20
>>714
言葉がちょっとどぎつかったね。
「良質なモノではない」というのは編纂物・物語の類だ、といいうこと。
こうしたものは当たり前だが戦前から読まれていて、正閏論に恣意的に
用いられてる。いまでも、佐藤っていうのか、ラスプーチンとか呼ばれ
てた元外務官僚、北畠親房で一旗挙げようとしているヤツ、彼なんかは
当然読んでるよね。天皇バンザイの人たちも。それが悪いとは言わないけどね。

ここ30年くらいの歴史学会でいわれてることは、研究者たるもの
そうした史料だけに頼らず、先ず当時の一級資料、古文書・古記録を
よもうよ。そこから当時の朝廷なり天皇家の様子をさぐってみよう、と
いうことなんじゃないの。正統、なんて後世の物差しをむりに当て嵌
めずにさ。

というわけで、良質の史料だが、
『花園天皇日記』『実躬卿記』『勘仲記』『吉続記』
などは活字で読める。チャレンジして下さい。
716日本@名無史さん:2007/04/11(水) 18:45:59
>>670
おーい、納得したのかあ〜。
717日本@名無史さん:2007/04/12(木) 00:14:13
「大覚寺統のでっちあげだ、という告発が持明院統側からあった」
っていうだけで、実際にでっちあげだったかどうかはわからんね。
そして仮にでっちあげだったとしても
後嵯峨天皇が持明院統に皇統を渡したがっていたという証拠もない。

後嵯峨天皇が後深草帝に親しまず亀山帝を溺愛したあげく、治天の地位の継承の象徴ともいえる
(と同時にいえるともいえない)荘園の大部分やその多の宝物を亀山帝に譲ったのは事実。

しかしこのことだけから亀山帝に皇統をわたすのが後嵯峨天皇の真意だったと即断もできない。
なぜなら、後嵯峨天皇は皇位をきめるのは幕府と公言していた。
幕府は機械的・事務的に長嫡にあたる持明院統だけを支持するかもしれないという危惧があり
そこでせめて亀山系の子孫には財産や宝物を残してやろうという意図だったのかも知れない。
実際、当時すでに岩倉宮とか四辻宮といった皇位についたことのない世襲宮家モドキが
存在し、後嵯峨天皇の皇位は自分の子孫に安泰に継承されるという保証のない時期もあった。
後嵯峨天皇が似たような発想(世襲宮家的なもの)で、亀山系を守ろうとした可能性はある。
もし持明院統の子孫が絶えた場合に、幕府は、持明院系の近縁の僧侶を還俗させるよりは、
多少遠縁でも皇族の名目を保持している亀山系から天皇を立てるだろうとは容易に想像できる。
718日本@名無史さん:2007/04/13(金) 00:03:12
荘園といえば最大の長講堂領&八条院領は地天下が所有すべきって遺言があるだけで、
誰に渡すかは明言されてなかったんだよな、五代記や伏見宮記録によると。

実際には後深草が先に長講堂領を相続、その後亀山が八条院領を相続したんだっけ?
719日本@名無史さん:2007/04/13(金) 01:56:02
長講堂領が持明院統のものになったのは後のことで
最初の頃は皇室領のほとんどは大覚寺統のものだったんじゃないの?
720日本@名無史さん:2007/04/14(土) 00:57:00
長講堂領は後嵯峨が後深草に相続させてるよ
一度も大覚寺統に渡ってないはず
721719:2007/04/14(土) 01:42:40
確かに。>>719は間違いです。撤回。
722日本@名無史さん:2007/04/15(日) 12:44:47
>>716
納得できるわけないじゃん
以降に納得できるようなレス誰もしてないし
やっぱ南朝が正統でおkね
723日本@名無史さん:2007/04/15(日) 15:57:57
明治大帝が南朝正統って決めたんだから南朝が正統なんだよ
724日本@名無史さん:2007/04/15(日) 16:53:10
「正統とはなにか」という定義次第でなんとでもいえること。
イデオロギーの問題は政治思想板で扱うべきテーマであり
歴史学の考察対象ではないね。

歴史学的にはただ皇室がふたつ(正確には複数)に分かれて
争った(正確には争ったり和解したりいろいろした)という事実があるだけ。
それ以上でも以下でもない。
725日本@名無史さん:2007/04/15(日) 17:10:29
そんなこと(正論だが)言う人はこのスレに来なくていいから。
726日本@名無史さん:2007/04/15(日) 23:34:26
>723
つまり今なお政府見解は南朝正統と。
でも明治天皇が決める前は別にどっちがどっちってことも
無かったんだろ?
あ、元号は北朝の方が一般的だったか。
727日本@名無史さん:2007/04/16(月) 22:18:55
>726
いや。
南北朝時代には、文書の提出先に応じて、適切な方の年号を使ったりしてる。

それ以後にも、北朝子孫が長く続いているわけで、
南北朝時代のことを書くにも北朝の年号が使い続けられた。

江戸時代中期、水戸史学の大日本史が出てから、だんだんと南朝正統論が復活していったんだよ。

討幕運動に関与した人間の中には、南朝正統論者が多くいたから、
それゆえに明治期に南朝正統と決められたわけ。
明治天皇自身は北朝の子孫であって南朝とは無縁だが、
もともと傀儡として担ぎ上げられただけの人形だったから、阻止できなかっただけ。
728日本@名無史さん:2007/04/18(水) 02:39:40
>727
大日本史は南朝年号なの?
729日本@名無史さん:2007/04/19(木) 02:11:02
そういえば三つの元号が並立した時もあったな
730日本@名無史さん:2007/04/19(木) 20:24:58
もし詳しい方がおられれば、ちょっと教えて頂きたいのですが…

南朝が正統と確定する以前には、北朝の天皇が歴代に数えられていたわけですよね?
その場合、南北分裂以前の後醍醐天皇が第96代であることは動かないとして、
光厳天皇が第97代となりますが、その後はどうなるんでしょう?

光厳天皇と光明天皇の間の期間は空位とみなして光明天皇が第98代なんですか?
それとも後醍醐天皇が重祚して第98代と数え、光明天皇は第99代なんですか?

北朝を正統としていた頃にはどっちの数え方をしていたのでしょうか?
731日本@名無史さん:2007/04/19(木) 21:22:45
>>730
俺も皇統譜がどうなってたか気になる
し号も元徳→光厳→後醍醐(元徳重そ)だったりするんだろうか?

しかし携帯だと漢字が変換できないな
732日本@名無史さん:2007/04/20(金) 02:14:46
>元徳→光厳→後醍醐

コレは当時そういう案があっただけで実現しなかったはず
733日本@名無史さん:2007/04/20(金) 02:45:56
15世紀の「本朝皇胤紹運録」と「続神皇正統記」とでは、違った数え方をしてますね。
ちなみに、両書とも仲恭天皇を除いているので、後醍醐天皇は第95代。
「続神皇」は、光厳を96代、後醍醐重祚を97代、光明を98代……とし、
「紹運録」は、後醍醐重祚を代数に入れず、光厳を96代、光明を97代……としています。
ただし、「紹運録」でも、後醍醐の治世年数は「前と後」で分けて数えています。
なお、代数の入っていない年代記として「皇代記」や「皇年代略記」がありますが、
こちらでも、後醍醐−光厳−後醍醐重祚−光明……という順番で並べられています。
734日本@名無史さん:2007/04/20(金) 03:13:18
後醍醐−光厳−後醍醐重祚−光明ー崇光ー後村上(正平一統)ー後光厳‥‥
てゆうのが多いし、それが最も自然。現代の研究者の叙述もそう。
但し系図や表などに書くときは宮内庁の数え方に従わなくてはならない。
735日本@名無史さん:2007/04/20(金) 08:33:03
最近の日本史辞典の類は、この辺が面倒くさいためか、「第○○代天皇」という
表記を避けているよね。かわりに「鎌倉時代中期の天皇」みたいに書く。
ただこれだと、「あれ?後宇多天皇と伏見天皇はどっちが先だっけ?」となるが。
736日本@名無史さん:2007/04/20(金) 11:07:14
ややこしいね。
ただ、元弘の乱終息当時の後醍醐天皇の振る舞いを見る限り、
光厳院の即位自体を認めていない、というスタンスだったような‥‥
そうなると「後醍醐重祚」ってのも後付けの解釈ってことになるな。
737日本@名無史さん:2007/04/20(金) 12:22:02
>南朝正統論

消滅した血筋を正統としてたなんて信じられないな。
738日本@名無史さん:2007/04/20(金) 18:41:19
>>736
「後醍醐重祚」ってのは北朝側の認識。
光厳天皇の在位を認めずその間もずっと後醍醐が一人で
天皇だったというのが南朝側の認識。
739日本@名無史さん:2007/04/20(金) 18:48:41
>>736
おいおい、
後醍醐天皇がいくら光厳院の在位を認めないと言い張ったところで
本人が吉野に引き蘢らざるを得なくなってからは北朝の認識が主流になったのだから
光厳院が認められなかったのはごく短いわずかの期間。

つか、後醍醐の「光厳院の即位自体を認めない」
という態度の方がよほど後付け解釈だろうが。
740日本@名無史さん:2007/04/21(土) 00:29:01
[95]花園天皇
[96・98]南96後醍醐天皇
[97]北97光厳天皇
[99]北99光明天皇
[100]北100崇光天皇
[101]南97後村上天皇
北101後光厳天皇
[102]南98長慶天皇
北102後円融天皇
[103]南99後亀山天皇
[104]北103後小松天皇
[105]北104称光天皇
[106]後花園天皇

「南北二朝の分裂」ではなく、常磐井宮・木寺宮などもあるのだから
「南北諸朝の分裂」というべき。
北朝といっても正平一統の前後では区別するのがよい。
正平一統の後に起こった後光厳系は、北朝の分裂を意味して
いるのであって、北朝が単純に復活したというわけではない。
正平一統を境に、それ以後は南朝で数えたらどうか。
後光厳系が続いてる称光天皇まではまだ北朝の分裂は続いており
「南北諸朝の統一」は後花園天皇の即位で実現した。
741日本@名無史さん:2007/04/21(土) 01:23:50
>正平一統を境に、それ以後は南朝で数えたらどうか。
京都を制圧していた政権を数えるのが自然。

>後光厳系が続いてる称光天皇まではまだ北朝の分裂は続いており
そんなこと言い出したら奈良時代の天武系と天智系とか、高丘廃位までの
平城系と嵯峨系とか、恒貞廃位までの嵯峨系と淳和系とか、朱雀即位までの
文徳系と光孝系とか、はたまた小一条院とか輔仁親王とか、後高倉院とか、
四辻とか、はたまた継体とか、履中系と允恭系とか、際限がない。
742日本@名無史さん:2007/04/21(土) 01:24:30
「朝」の意味わかってる?
743日本@名無史さん:2007/04/21(土) 04:08:33
>>741
際限はあるよ。代数問題に関係あるのは他にないよ。
744日本@名無史さん:2007/04/21(土) 04:40:37
とりあえず↓

[96]南96後醍醐天皇(元徳)
[97]北97光厳天皇
[98]南96後醍醐天皇(重祚)
[99]北99光明天皇
[100]北100崇光天皇
[101]南97後村上天皇(正平一統)

正平一統まではこれ↑で文句ないだろ。

その後は、こう↓すれば南北どっちで数えても代数は同じになる。

[102]北101後光厳天皇/[102]南98長慶天皇
[103]北102後円融天皇/[103]南99後亀山天皇
[104]後小松天皇(北103+南100)
745日本@名無史さん:2007/04/21(土) 06:32:32
南北朝はほんと難しい。
厳密にいえば、「重祚後醍醐」は、1336年11月に光明天皇へ神器を渡し、
光明からは後醍醐に太上天皇号が贈られ、皇太子には新たに成良親王が立っている。
つまりこの時点で、後醍醐譲位・光明一統が、一応実現されているわけである。
ところが後醍醐は、先の神器は偽物であるとして、12月には吉野に移って朝廷を開く。
これが南北朝の分裂であり、後醍醐はいわば「再重祚」したともいえる。
こんな波乱の時代であるが、代数の数え方は次のような形が史実的にも、伝統的にも、
便宜上も分かりやすいと思う。

96代  後醍醐天皇(1318−1331)
97代  光厳天皇(1331−1333)
98代  後醍醐重祚(1333−1336)
99代  光明天皇(1336−1348・北1)/南1としての後醍醐(1336−1339・南1)
100代 崇光天皇(1348−1351・北2)/後村上天皇(1339−1368・南2)
101代 後光厳天皇(1352−1371・北3)/長慶天皇(1368−1383・南3)
102代 後円融天皇(1371−1382・北4)/後亀山天皇(1383−1392・南4)
103代 後小松天皇(1382−1412・はじめ北5)
746日本@名無史さん:2007/04/21(土) 19:38:10
太平記に書いてある恒良親王の即位は無かったんだろうか?
747日本@名無史さん:2007/04/21(土) 21:33:47
唐櫃天皇二代
偽器すらない即位カワイソス
748日本@名無史さん:2007/04/22(日) 02:26:39
>>745
むずかしくないよ
後醍醐の立場としては重祚も三祚もなくて一貫して皇位にあった。
それは認められない。光厳・光明・崇光の三代は三種の神器も保有してたし
なんら後醍醐の主張には正統性がない。
南朝側が三種の神器を得たのは正平一統の時が初めてであり
神器の保有を理由にするなら北朝の三天皇は正統というしかない。
したがって理念上の南北朝分裂は後光厳天皇が立ってから。
749日本@名無史さん:2007/04/22(日) 02:40:55
だれかさんが一人で難しくしてるだけ。
745は正平一統が表れていないので却下。
733・734・744さんたちのが一般的。
750日本@名無史さん:2007/04/22(日) 19:39:19
>>746
>太平記に書いてある恒良親王の即位は無かったんだろうか?

そぉ? じゃ、>>744に恒良親王いれてみた

[96]南96後醍醐天皇(元徳)
[97]北97光厳天皇
[98]南96後醍醐天皇(重祚)
[99]北99光明天皇/[99]南97恒良親王
[100]北100崇光天皇/[100]南98後醍醐天皇(三祚)
[101]南99後村上天皇(正平一統)
ーーー
[102]北101後光厳天皇/[102]南100長慶天皇
[103]北102後円融天皇/[103]南101後亀山天皇
[104]後小松天皇(北103+南101)
751日本@名無史さん:2007/04/23(月) 08:12:55
かわいそうだから全部代数に入れてやれよ

[96]南96後醍醐天皇(元徳)
[97]北97光厳天皇
[98]南96後醍醐天皇(重祚・北97)
[99]南0恒良親王
[100]北99光明天皇
[101]北100崇光天皇
[102]南97後村上天皇(正平一統・北101)
[103]北102後光厳天皇
[104]南98長慶天皇
[105]北103後円融天皇
[106]南99後亀山天皇
[107]北104後小松天皇(合一・南100)
752日本@名無史さん:2007/04/26(木) 14:53:29
05/03【都内】「皇室と日本を考える」

◎五月のテーマ「『昭和の日』制定と昭和天皇」

今年はみどりの日がついに「昭和の日」と改まった最初の年。これを記念
して5月は特別企画として、昭和天皇の帝徳を偲び、多摩御陵参拝と、
昭和天皇記念館の見学を催します。見学後は昭和記念公園を散策しながら
青空の下で昭和天皇の御事績を語り合い昭和史を振り返ってみましょう。

日時&場所■平成19年05月03日(木)
第一部[多摩御陵参拝]:午前11時、JR高尾駅北口改札でたところ集合。
目印にミニ日の丸(手旗)もってる人がいます。
第二部[昭和天皇記念館見学]:午後2時、記念館前ロビーで集合。JR立川駅徒歩13分。
http://www.f-showa.or.jp/2_jigyo/accessmap.html

★イベントの詳細な案内はこちらでご確認ください→ http://nihon.lar.jp/

・オプションイベント(自由選択参加)
05/04午後1時半、池袋にて。詳細は、後日、下記の掲示板で告知します。
http://8809.teacup.com/imperial/bbs(当会の掲示板です)

主催■「皇室と日本を考える」実行委員会http://nihon.lar.jp/
(※お問合せ&連絡先&参加登録:[email protected]
共催■女系天皇に断固反対する会
http://mixi.jp/view_community.pl?id=334458

(2chスレ:議論用)
http://sports11.2ch.net/test/read.cgi/offmatrix/1166609691/l50
(2chスレ:事務用)
http://sports11.2ch.net/test/read.cgi/offmatrix/1167304783/l50
753日本@名無史さん:2007/04/26(木) 15:05:44
>>748
その理念でいくと、後光厳天皇が立ったとしても南北朝分裂は起きていないことになるよね。
754日本@名無史さん:2007/04/26(木) 16:10:46

後嵯峨天皇以前は、長子が引き付いていたのが
次男に引き継がれたのが、南北朝の分裂の始まりだろ?

最終的には、嵯峨天皇の長子の系統(北朝)に引き継がれたのだから
別に、北朝でかまわない。

南朝に引き継がれたとしたら、後嵯峨天皇の次男の系統になってしまうし・・。
755日本@名無史さん:2007/04/26(木) 16:34:42
>>754
>後嵯峨天皇以前は、長子が引き付いていたのが

ところが、そうでもない。
たとえば、後嵯峨天皇の祖父後鳥羽天皇は、第四皇子であるのに二人の異母兄を退けて即位しているし、
後嵯峨天皇の父土御門天皇は後鳥羽天皇の第一皇子であったにも関わらず、若くして退位させられて
弟順徳天皇、その子仲恭天皇と続く。
承久の乱前までは、天皇家の家父長が兄弟順に関わらず、天皇を決めていた。

後嵯峨上皇は弟亀山天皇を支持していたんだろうね。
上皇がなくなったとき、
幕府はその妃大宮院に政を兄後深草上皇、弟亀山天皇のどちらにゆだねるか尋ねたが、
大宮院は故院の遺志が亀山天皇にあったと述べて、亀山天皇の親政になっている。
そのあと後深草上皇の家系が復活するのは、
一重に後深草上皇の皇子(のちの伏見天皇)に娘をいれることを画策した西園寺実兼の力。
幕府はどっちが天皇になろうがよくて、関東申次を世襲していた西園寺実兼の判断如何であった部分がある。

後嵯峨の遺志が通っていたら、大覚寺統が正統となっていた・・・可能性は高いが、
後醍醐天皇は大覚寺統の異端児。
後醍醐の父後宇多天皇は、第一皇子の後二条天皇に期待をしていて、
第二皇子の後醍醐天皇は、後二条天皇の遺児が幼かったためのピンチヒッター。
仮に、大覚寺統が後嵯峨が望んだ皇統であったところで、
後醍醐天皇にはじまる南朝が正統だとはいいきれない。

結局、日本の天皇家の相続方法は定まっていなかったので、なんともいえない。
男系長子が即位する、ってきまったのは明治時代だから。

756日本@名無史さん:2007/04/26(木) 16:46:03
>>755
ふーん、そうなんだ。

個人的には、「後嵯峨天皇の長男の系統(北朝)」だろうが
「後嵯峨天皇の次男の系統(南朝)」だろうが、どうでもいいけどね。
757日本@名無史さん:2007/04/26(木) 19:59:32
>756
おまえ個人のことなんて、もっとどうでもいいわけだが。
758日本@名無史さん:2007/04/27(金) 06:38:45
やっぱ崇徳の系統だな、最善は。
759日本@名無史さん:2007/04/28(土) 06:09:59
いやいや、安徳の系統ですよ。
そうではない、淳仁の系統だ。etc...

喧々囂々の議論がはじまるわけですな。
760日本@名無史さん:2007/04/28(土) 07:28:10
後嵯峨上皇が強引にでも宗尊親王を後継者にしておけば・・・
761日本@名無史さん:2007/04/28(土) 21:19:28
岩倉宮にしとけばよかったんだ
762日本@名無史さん:2007/04/29(日) 06:23:30
尊治が即位しなければ分裂まではいかなかったかもな
763日本@名無史さん:2007/04/30(月) 21:42:12
>>755
後二条系が大覚寺統の正統だもんな
764日本@名無史さん:2007/05/01(火) 01:59:45
>763
いや、正統とかそういうのは解釈次第で何とでも変わるんだよ。
765日本@名無史さん:2007/05/01(火) 23:43:21
五月の「皇室と日本を考える」会 http://nihon.lar.jp/

05/03(木)本イベント
「『昭和の日』制定と昭和天皇」(多摩御陵参拝と昭和天皇記念館見学)
http://sports11.2ch.net/test/read.cgi/offmatrix/1166609691/280

05/04(金)オプション企画
「古事記を読む会」
http://8809.teacup.com/imperial/bbs
766日本@名無史さん:2007/05/16(水) 15:03:28
>>763-764
「解釈次第でなんとでも」、というのはその通りだが、
それぞれの解釈にそれぞれの事情があるってことは押さえないと
歴史としてはおもしろくないね。

後二条系(のちの木寺宮)は大覚寺統の長嫡ではあるが正統ではない。
大覚寺統の正統は常磐井宮。北朝からもそう認められていた。

後醍醐系は、それ自身が正統を自称していたが「帝徳」を根拠に
皇統としての正統を主張したのであって、大覚寺統としての正統を主張したのではない。
大覚寺統の正統性を主張したら自己否定に辿り着かざるを得ないから。

大覚寺統の持明院統に対抗しての正統性というのは
「先帝の勅定」のこと。
理由をつけて先帝の遺勅を反故にして即位するのは
大覚寺統の正統とはいえない(大覚寺統の自己否定になる)。
だから後二条も後醍醐も、理由をつけて
別の正統性を主張する必要があったわけ。
767日本@名無史さん:2007/05/16(水) 15:54:45
>>766
君が常磐井宮家を大覚寺統の正嫡といっているのは、亀山法皇の遺勅ということかな?
これは西園寺公衡が随分がんばったようだが、当の恒明親王は皇太子に立てられることはなく、
持明院統側(北朝は、一般的に後醍醐以降の南朝に対しての呼び名)からの擁立の動きもあがってはいない。
鎌倉幕府も関東申次西園寺公衡の恒明親王擁立の意向を反故にしているところを見ると、
生前、亀山法皇からの明確な意志表示があったとは思えない。
一方、後二条の系統は、子の邦良親王、孫の康仁親王が皇太子に立てられ、
後宇多や持明院統からも正嫡とみなされていたとみるべきだろう。
傍系の後醍醐天皇が自らの正統性を帝徳に求めたというのは、なにもこの天皇に限らないだろうが。
768日本@名無史さん:2007/05/17(木) 01:30:27
正統・正義‥‥、傍系・異端‥‥、どれもこれも主観的なもの。
だからこそ争いやまず、歴史は動く。
769日本@名無史さん:2007/05/17(木) 10:53:10
>768
それを言い出したら、このスレそのものの存在価値がなくなるぞ、お前。
日本史板くんなよ。
770「皇室と日本を考える」実行委員会:2007/05/17(木) 14:43:12
06/02【東京】旧皇族・朝香宮邸訪問@大正シック

旧朝香宮邸(現東京都庭園美術館)を訪ね、伏見宮皇統の存在を体感し、その
現状や未来に思いを馳せつつ、同会場で開催中の「大正シック」展の見学を通じ
て、大正文化の現代性や我々の生活文化の未来などを語り合いたいと思います。

日時■平成19年6月2日(土)午後1時集合
場所■JR山手線目黒駅、中央改札口みどりの窓口前に集合、徒歩で
東京都庭園美術館へ(連絡手段を確保できてる方は、中途合流可)

○見学先の詳細「東京都庭園美術館」http://www.teien-art-museum.ne.jp/
・会場入場費/一般1000円、学生800円

○事前の参加表明がなくても参加歓迎ですが、初参加で面識のない方は
人数把握のため、事前に参加表明した方が便利です(下記のmixiの関連
コミュや2chのスレで表明でも、または問い合わせ先へメールでも可です)

主催■「皇室と日本を考える」実行委員会http://nihon.lar.jp/
(※お問合せ&連絡先&参加表明:[email protected]
共催■女系天皇に断固反対する会
http://mixi.jp/view_community.pl?id=334458
(2chスレ:議論用)
http://sports11.2ch.net/test/read.cgi/offmatrix/1166609691/l50
(2chスレ:事務用)
http://sports11.2ch.net/test/read.cgi/offmatrix/1167304783/l50
ーーーーーーーーーーー
【オプション企画】(自由参加。オマケの追加イベントです)
★5月26日(土)、場所・内容などは、後日、下記の掲示板で告知します。
http://8809.teacup.com/imperial/bbs(当会の掲示板です)
771日本@名無史さん:2007/05/17(木) 15:38:57
>769
その通りだ。南朝こそ正統に決まってる!!
772日本@名無史さん:2007/05/22(火) 20:26:50
>>767
そもそも大覚寺統の治天の君って既に後宇多じゃなかったか?
治天の君である後宇多の意向が後二条系である以上、亀山の遺詔は意味が無いだろう。
773日本@名無史さん:2007/06/14(木) 02:43:46
なんで後小松は称光の後継に後花園を指名したのですか?
後光厳帝にはたくさん皇子もいたので、その血統の方が近いのに。
774日本@名無史さん:2007/06/14(木) 10:01:17
>773
後光厳の皇子は、即位した後円融天皇(後小松の父)以外、
すべて出家させられていたから。
一度、俗世を離れ、仏門へ入った人間が、天皇となって即位した例はない。
出家すれば当然、結婚しないため、子孫もいない。
775日本@名無史さん:2007/06/14(木) 10:27:17
>一度、俗世を離れ、仏門へ入った人間が、天皇となって即位した例はない。

もっとも、公家社会は前例らしきものをこじつけるの得意だから、
いざとなったら称徳天皇の例でのりきることはあっただろうけど
776日本@名無史さん:2007/06/14(木) 10:52:03
後小松のおじに当たる後光厳天皇の出家した皇子では、、
後小松より年上の者が多く、後小松の子である称光天皇が亡くなったときには
すでに死んでいた人も多い。
仮に還俗させても、後小松が院政を執るには、天皇が自分のおじでは使いづらい。
その点、後花園は即位したときまだ少年だったし、
後小松とその妃光範門院の養子となって、両者を父院、母院、と敬い、
後花園は元服の時には養父後小松の例をならって、わざわざ摂関を退いていた二条良基を再任して加冠したほど。
後小松も晩年にいたるまで心置きなく院政を執ることができて、本意であったのだろう。
777日本@名無史さん:2007/06/15(金) 00:48:20
後小松の猶子にする関係で、後小松より年長だとマズかったとか?

少なくとも、後花園は後小松の猶子となって皇太子宣下を受けたわけだし。
778日本@名無史さん:2007/06/15(金) 12:22:30
後小松は崇光流に皇位を奪われたくないという気持ちは無かったのかい?
後光厳院が苦労して手に入れたのに
779日本@名無史さん:2007/06/15(金) 12:40:45
後小松にとっては、おじに皇位を簒奪されるほうが屈辱だったのだろう。
どのみち、息子が自分より先に死んでしまったのだから、
誰かに皇位を譲るしかなかったのだし。
昔の養子関係は、今の養子関係と少し違うからな。
養子は子々孫々まで養父、養母を供養する義務を負う。
時には、実父、実母とは縁を切り、こっちは供養しないことまである。
780日本@名無史さん:2007/06/15(金) 12:53:00
伏見宮系に譲らずとも、血縁の近い後光厳の出家した皇子に・・・
という意見があったが、調べてみると、
称光天皇が死亡した正長元年(1428年)、生きていたのが確実なのは、
仁和寺宮永助法親王、妙法院宮堯仁法親王ぐらい。
しかも、両法親王の年齢は、
永助法親王 67歳、
堯仁法親王 65歳。
当然、出家した法親王に子はないし、堯仁法親王はこの2年後に死亡。
この年で即位しても子ができるか定かではなく(相当厳しいと思う)、
すぐにまた天皇空位の状態になってしまい、結局伏見宮系行きになった恐れが。
781日本@名無史さん:2007/06/16(土) 09:38:21
大覚寺統の本流で誰かいなかったのでつか?
そうすれば両統も皇位継承できるし、後醍醐に目茶目茶された大覚寺統も
再建できるのに
782日本@名無史さん:2007/06/16(土) 09:42:40
称光の皇女二人が女院になっていないばかりか消息さえ不明なのはなぜ?
783日本@名無史さん:2007/06/16(土) 09:56:46
卑母だったからだろ。
称光天皇の皇女は、内親王宣下すら受けていない。
南北朝動乱期、後伏見以降の北朝の天皇には、女御も中宮も立てられず、
女院号を賜った内親王もいない。
称光天皇にも、中宮、女御が置かれた形跡はないし、
天皇家に、それだけの金がなかったという証明でもあるが。
784日本@名無史さん:2007/06/16(土) 11:26:22
>>783 そうですか。
仲恭天皇の皇女さえ女院になったというのに…
(´・ω・`)カワイソス
785日本@名無史さん:2007/06/16(土) 11:32:46
>>784
784は、南北朝動乱期以降の北朝の天皇は・・・と書いている。
仲恭天皇は、鎌倉時代中期の天皇。
仲恭天皇の頃は、まだ、天皇家に中宮や女御、女院を養うだけの
経済力があった時期。
786日本@名無史さん:2007/06/16(土) 12:05:44
安倍内閣で北朝の名誉の回復を行ってもいいと思う
憲法改正時に合わせて、誰も気に留めないからこっそりやれば
2系統あるほうが継続性は安定する
787日本@名無史さん:2007/06/18(月) 19:37:50
>>783
中宮は江戸時代までたたなかった筈
788日本@名無史さん:2007/06/18(月) 19:42:04
>787
北朝系では、後伏見以降、中宮も女御もたたなかったんだから、それであってるよ?
伏見天皇の中宮は、西園寺金章子(女御より昇格)。
南朝系では、亀山天皇に中宮(西園寺公重女)があったとされるが、それが最後。
次に中宮がたつのは、後水尾天皇中宮徳川和子。
女御は、後陽成天皇女御近衛前子から。
789日本@名無史さん:2007/06/18(月) 19:44:12
>788
亀山→後亀山
790日本@名無史さん:2007/06/18(月) 19:58:10
称光帝の弟小川宮は殺されたんじゃ!
伏見宮に殺されたんじゃ!
791日本@名無史さん:2007/06/18(月) 20:06:53
「幕末維新の暗号」だね

明治天皇すり替えたとかなんとか
792日本@名無史さん:2007/06/20(水) 09:37:28
伏見宮貞成って長生きだな。
自分が皇位につきたいという野望はあったろう。
793日本@名無史さん:2007/06/20(水) 09:50:12
伏見宮貞成親王は、ゆえに、皇位簒奪におびえた
称光天皇から、常ににらまれていたんじゃなかった?
称光天皇の愛妾が懐妊したとき、称光天皇は貞成が胤付けしたと怒って、
ひと悶着起こしている。

実際、称光天皇が病に倒れた際、貞成に親王宣下がなされるんだが、
病のいえた称光天皇がこれに怒り狂い、出家、隠居に追い込まれているよ。
794日本@名無史さん:2007/06/20(水) 11:31:21
看聞日記に微に入り細に入り詳しく書いてあるよ
795日本@名無史さん:2007/06/20(水) 12:37:11
>>793 貞成親王って後小松と同じくらいの年令だよね?
称光の後釜に貞成っておかしくない?
彦仁王に親王宣下なら分かるけど
796日本@名無史さん:2007/06/20(水) 14:42:03
父親が親王宣下を受けていない「王」なのに、息子が親王宣下を受ける例は少ないんじゃないかな。
最終的には貞成の子にいくとしても、まず貞成が親王宣下を受けることが大前提。
称光天皇は病弱で、何度も危篤になったりしているみたいだし、
称光天皇より年上の貞成親王のほうが長生きすると考えたとしても不思議はない。
実際、長生きしたし。
称光天皇没後、子の彦仁王が親王宣下を受けて後花園天皇になったが、
後小松天皇の養子となることが絶対条件で、実父貞成親王は太政天皇号を受けたものの
政治的権力は一切もてなかった。
797日本@名無史さん:2007/06/22(金) 13:33:02
貞成親王って後小松院よりも五歳も年長かよ
伏見宮家の二代目が相続後すぐ死んだり、親王宣下の翌年に出家したりと何かと秘密がありそうだな。
798日本@名無史さん:2007/06/22(金) 14:47:01
伏見宮系は、南朝よりはまだまし、ってことで
将軍足利義教に擁立されたにすぎない
貞成の父栄仁親王は、父祟光院の荘園すら
伝領できなかったり
結構冷遇されてたみたいだしね
799日本@名無史さん:2007/06/22(金) 14:58:44
>798
訂正
栄仁親王は貞成の父→貞成の祖父
800日本@名無史さん:2007/06/22(金) 15:04:27
>>799 栄仁は父、治仁が兄じゃなかった?
801日本@名無史さん:2007/06/23(土) 02:25:15
>780
称光の弟はダメなん?
還俗させたらいいんじゃないの?

いくら母の身分が低いと言っても、他のなり手が少ない状況だし、
どうにかなったんじゃないのかなあ。

>781
いくらかいたが、こっちは全面排斥されてるな。
802日本@名無史さん:2007/06/23(土) 02:46:40
天皇暗殺の事実は、どう足掻いて覆えないだろ。朝廷に近い筋の目撃者が多数いるし、当の本人が冥土に逝ったのは事実だから。

枠外の維新右翼がいくら弁解しても信用性がない。
803日本@名無史さん:2007/06/23(土) 06:06:36
>何かと秘密がありそうだな。

だからあ、看聞日記に微に入り細に入り詳しく書いてあるよ
804日本@名無史さん:2007/06/23(土) 07:12:50
>801
称光天皇の弟って、同母弟の小川宮以外、いたっけ?
小川宮は「儲君」と呼ばれて後継と位置づけられていたけれども、
兄の称光天皇より早くに死亡。
一説に異母兄といわれる一休落胤説はほかにスレがあるようだから、
ここではやらない。
805日本@名無史さん:2007/06/23(土) 11:43:30
>>804 後小松の子供は称光、小川宮、皇女 の三人だけだから一休の事だろ
806日本@名無史さん:2007/06/23(土) 12:03:31
宗教染みた天皇マンセーの南朝なんざダセェ〜んだよww
公家野郎の分際で生意気に戦なんかするんじゃね〜ぜww
やはり武士中心の北朝こそ筋が通っているwww
だいたい糞撒き散らし楠木と高師直じゃ〜格が違うww
807日本@名無史さん:2007/06/24(日) 15:19:47
後小松天皇って体が弱かったわけでもないのに子供が一休を含めても四人て少ないな。
絶倫じゃなかったのね。
病弱なくせに好色な後深草院の血を受け継いでいるというのに
808日本@名無史さん:2007/06/24(日) 16:05:05
後小松天皇の皇子女としては、成人した称光、小川宮、理永女王のほかにも、
史料上では夭折した皇女があったようだね。
皇子女の数が少ないといえば、後小松の父後円融も少なくて、
男子は後小松と仁和寺に入った異母弟の二人だけ。
寵愛を受けたという女性の数も少ないし、
南北朝動乱期で、それだけの女官を囲うお金がなかったからかもしれない。
809日本@名無史さん:2007/06/24(日) 19:32:24
読史世論の中で後小松天皇が一休さんにどうするか聞いたが、
「辞退して伏見宮を推薦した」と新井白石が書いてた。
810日本@名無史さん:2007/06/26(火) 19:26:32
>>808 小川宮や理永女王が親王宣下を受けてないのも金が無いから?
この時代って葬式の費用が無くて一ヵ月以上遺体が放置されてた後土御門天皇の時代より貧しかったのかね?
811日本@名無史さん:2007/06/28(木) 09:15:02
>>810
これ以後、安土桃山時代の後陽成天皇の辺りまで、
親王宣下・内親王宣下を受ける皇子女が著しく減るのは事実だね。
天皇になれなかった皇子が、幼児のうちに寺に入れられる例は平安時代末期から顕れるけれども、
皇女については未婚を通せば扶養家族が増えることはないため、幼児期に出家する例はほとんどなかったが、
この頃からは、幼少時より扶持の削減を狙って寺に入れられる皇女も増える。
称光天皇の後、伏見宮家から迎えられて即位した後花園天皇(後土御門の父)は、
長命であったにもかかわらず、妃の嘉楽門院との間に一男一女があった以外、子供は確認されていない。
812日本@名無史さん:2007/06/28(木) 19:11:02
>>811 後花園天皇の一男一女は皇位の継承問題からしても危なっかしいよね。よく成仁親王は元気に育ってくれたもんだ。
しかし成仁ができたのは22才のやりたい盛りで、おまけに称光と違って健康体。
他にたくさんの子女がいないのは逆に不自然な気が…
813日本@名無史さん:2007/06/30(土) 11:17:27
後花園の皇子が早世したらまたぞろ後崇光院が出てきて、伏見宮家を継いだ次男の息子か誰かを帝位につけただろうな
814日本@名無史さん:2007/06/30(土) 23:41:35
北朝は真面目系、南朝はわがまま系と思うのは俺だけだろうか?
815日本@名無史さん:2007/06/30(土) 23:43:13
明治天皇が、長州に匿われていた南朝の子孫で維新の志士達によって、孝明天皇の息子と入れ替わったって言う
今一番ホットな話題がこのスレで取り上げられていないのは何故?

「幕末維新の暗号」読んだ人いないの?

http://fmono.sub.jp/aws/asin.php?asin=4396612869&c=01
816日本@名無史さん:2007/07/01(日) 01:08:42
>>814 北朝は後円融・称光みたいなひ弱系、南朝は後村上・長慶みたいな武闘派って感じ
817日本@名無史さん:2007/07/02(月) 16:16:56
後村上は自ら太刀を持ち戦ったようだが、長慶、後亀山も戦ったの?
馬にまたがって
818日本@名無史さん:2007/07/04(水) 14:22:51
長慶天皇は戦闘的な天皇だったんじゃないの?
和議に応じず、南北朝合一後も入京せず、
死亡した場所もいろんな説があって不明。

一方、弟の後亀山は和議に応じて入京。
しかし、生活が困窮し、称光天皇危篤の際、
武力での帝位奪回を試みて脱走、
伊勢の北畠氏を頼るも、やっぱり京へ戻ってきている。
819日本@名無史さん:2007/07/05(木) 21:11:52
>>818 後亀山には皇太弟がいたよね。
彼は消息不明?
820日本@名無史さん:2007/07/08(日) 14:41:18
>>819 南朝時代の皇太弟はどうなったか知らんが、南北朝合一後に後亀山の子の恒敦親王が後小松の皇太子となった。
しかし約束は反古にされ、称光が即位すると幕府は、恒敦親王の子で出家していた聖承を小倉宮とした。
しかし聖承の子教尊は禁厥の変に関係したため隠岐に流されて、小倉宮家は断絶。
南朝系もこれ以降不明。
821日本@名無史さん:2007/07/09(月) 01:29:43
応仁の乱で西軍が南朝の末裔を担がなかったっけ?
822日本@名無史さん:2007/07/10(火) 02:04:23
担いだよ。
823日本@名無史さん:2007/07/10(火) 10:21:48
護良親王はあっさり切っちゃったのに、何で後醍醐天皇をあぼんさせなかった
のだろう
大覚寺統の本流から見ても邪魔者だったのだから喜ばれて全て丸く収まったのに
824日本@名無史さん:2007/07/10(火) 10:39:00
>823
さすがに天皇はw
自ら甲冑を身につけて合戦に出、征夷大将軍を称した護良親王と異なり、
後醍醐天皇は武芸はやらなかったからね。
護良親王殺害は足利直義の横暴だったということになっているし。
足利尊氏は後醍醐天皇の菩提を弔うために天竜寺を建てたり、
一度は主君と慕った後醍醐に複雑な感情を持っていたようだからね。

後醍醐の皇子は、護良親王以外にも、
恒性王が配流中に鎌倉幕府方武将名越貞時に斬られている。
護良親王の同母兄尊良親王は金崎城陥落により自害、
恒良親王(後村上の同母兄・後醍醐皇太子)も幽閉の後、
足利方に毒殺されたといわれているけれどもね。
825日本@名無史さん:2007/07/11(水) 11:20:07
>>821 岡崎さきのナニガシって後南朝の末裔を担ぎ出したね。
これが資料に出てくる最後だ。
まぁ自天王自体存在が怪しいから、この末裔も本当に南朝の血を引いていたかどうか
826日本@名無史さん:2007/07/12(木) 03:44:07
歴史に興味がある人は、南朝好きなのかな。
827亀レスですが:2007/07/12(木) 20:44:00
>>811-812
後花園天皇の皇子女は、一男一女の他にも、数人が掲載されている系図もあるようです。
この時代の皇室には、存在したけれど記録には残ってない皇子女が、結構いるのかも。
828日本@名無史さん:2007/07/20(金) 23:09:15
>>827 後花園帝は禁闕の変で命を狙われるわ、晩年は応仁の乱で室町邸に避難せざるを得ないわで大変だったろうね。
そういう混乱もあって記録も残ってないのかもしれない
829日本@名無史さん:2007/07/26(木) 22:40:18
南朝信者はこういうキモイ悪い文章書いて悦に浸る人が多いので嫌いです
ttp://www5.ocn.ne.jp/~iyasaka/taiheik.htm
830日本@名無史さん:2007/07/26(木) 23:04:35
>>829
このページ見たあとに色盲のような症状が出てきてしまった
つかこの背景の色と書体は見づらいからやめて欲しいw
831日本@名無史さん:2007/07/26(木) 23:50:57
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832日本@名無史さん:2007/07/27(金) 23:19:41
私は逆賊高氏のファンですが、>>829は笑いながら一気に読みましたw
833日本@名無史さん:2007/07/28(土) 08:19:24
南北朝ってチョンとかキチガイを吸引しやすいテーマなのか?
何の芸もない馬鹿が多過ぎるんだが。
834日本@名無史さん:2007/07/30(月) 15:48:35
>>829
時代錯誤の老いぼれが老体に鞭打ってキーボード叩いて作成してる姿を想像すると切なくなる
こんなところに晒すな
835日本@名無史さん:2007/08/25(土) 09:22:34
称光天皇の次の天皇に小倉宮聖承を即位させて、皇后は称光の皇女にすればよかったのにね。
836日本@名無史さん:2007/08/25(土) 19:53:59
>>835
南朝は後醍醐天皇以来、天皇親政だからね。
室町幕府が絶対嫌がったらしい。
称光天皇には皇女が2人あったとされるけれど、うち1人は称光天皇自身が
自分の胤ではないと認知を拒否。
認知をうけたもう一人の皇女も、母親は御所で台所別当をしていたという卑母、
皇女は幼い頃に寺に入れられて出家させられてしまったため、どこにも嫁ついでいない。
837日本@名無史さん:2007/08/25(土) 23:03:53
>>836 ひどいなぁ女院くらいにしてあげればいいのに。
後光厳院流の血を受け継ぐ貴重な皇女なのに。
認知しなかったって、浮気でもしてたんかね?
838日本@名無史さん:2007/09/05(水) 23:51:32
>>837 称光天皇第一皇女は新内侍と伏見宮との不義の子であります。
839日本@名無史さん:2007/09/06(木) 01:58:24
称光天皇女を断ってたんじゃなかった?
840日本@名無史さん:2007/09/06(木) 09:54:11
称光天皇は新内侍との皇女を認知しなかったけれど、
(祖父の後円融天皇が、妃の三条厳子と足利義満との密通を疑ったような妄想かも)
台所別当をしていたという三井基親女との皇女は、認知している。
この皇女は後光厳天皇皇女見子内親王が創建した知恩寺に入って出家、
第二世住職となり、後柏原天皇の帰依を受けた。
正妃は立てられなかったけれど、女を断っていたということはなさそう。
841日本@名無史さん:2007/09/06(木) 20:21:48
>>840 いい年した天皇に正妃がいないとは…
おまけに皇女を寺に出すとは!
仏教に深く帰衣して女人を近付けなかったっていうのもあながち間違ってないのかも…
842日本@名無史さん:2007/09/06(木) 20:34:56
称光天皇の父親の後小松天皇、祖父の後円融天皇、曽祖父の後光厳天皇
中宮や女御などの正式な妃はいなかったね。
正式な妃がいなかったのは、経済事情では?
後光厳妃祟賢門院、後円融妃通陽門院、後小松妃光範門院も、
もともとは天皇の側に侍っていた女官(上臈局)の一人だったし。
843日本@名無史さん:2007/09/07(金) 18:30:10
皇女を寺に出すのは、別に珍しい事ではないのでは?
844日本@名無史さん:2007/09/10(月) 16:50:24
後小松の皇女理子女王もなぜか「女王」
これも金欠か?
845日本@名無史さん:2007/09/10(月) 16:59:38
>>844
後小松皇女、理永のこと?
内親王宣下を受けなかったから「女王」と呼称しているだけで、
女王は皇族の女性、ぐらいの意味だからね。
当然、名前も与えられず、理子などという名ではなかったはず。
「理永」は法名。
院政期ぐらいから、有力な生母を持たない天皇の子女は
親王、内親王に宣下されなかったから、何ともいえないけれどね。
しかし、称光天皇の実弟小川宮は、称光天皇と同母で、儲君の扱いを受けていたのに
親王宣下すら受けなかったから、金欠だろうね。
846日本@名無史さん:2007/09/10(月) 18:49:54
>>845 そうだ理永女王だ…
称光・小川宮・理永女王とみな日野資子から生まれたが、これだけ見ても貧乏だったと分かるね。
847日本@名無史さん:2007/10/16(火) 07:48:24
だね
848日本@名無史さん:2007/10/31(水) 17:39:43
>>1
俺は南朝派。
だって天皇の名前のバリエーション豊富なんだもの。
北朝は○仁のワンパターンでツマンネ
849日本@名無史さん:2007/11/06(火) 19:16:19
>>835-836
幕府がいやがるのは吉野南朝の系統の小倉宮。
大覚寺統であっても北朝寄りの木寺宮や常磐井宮は一応考慮の対象になった可能性はある。
伏見宮が採用されたのは、義教の個人的な判断で彦仁王(のちの後花園帝)個人を評価しただけかも。
850日本@名無史さん:2007/11/07(水) 18:03:03
>>849
称光天皇が没した頃まだ存在していた
木寺宮や常盤井宮が候補に挙がらなかったのはなぜだろう?
比較的早い段階で芽を摘まれてしまった常盤井宮はともかく、
木寺宮は亀山天皇の直系で、後醍醐天皇の兄の家系に当たり、
両統迭立の観点からも小倉宮よりも正統な立場にあった。
常盤井宮の当主には後崇光院の養子、後柏原院の養子になった者があり、
天皇家が絶えた場合のスペアのひとつに考えられていたように思う。
851日本@名無史さん:2007/11/09(金) 03:44:34
後亀山天皇像(佐藤和彦ほか『南朝と北朝』から)
http://fout.garon.jp/?key=GB2N7RnQbB7PRR6PKGeYdDO:V0x3&ext=jpg&act=view

この顔にピンときたら詳細希望(他の出典や肖像画の所蔵先など)。
見覚えはあるのだが、なぜか専門書にはほとんど採録されていない。
852日本@名無史さん:2007/11/11(日) 13:30:37
南朝!
853日本@名無史さん:2007/11/14(水) 00:31:25
この間の歴史読本にあった。
「後亀山天皇像」
854日本@名無史さん:2007/11/14(水) 10:10:08
南朝
855日本@名無史さん:2007/11/14(水) 14:36:40
南朝
856日本@名無史さん:2007/11/14(水) 15:44:51
白丁
857日本@名無史さん:2007/11/14(水) 15:51:30
店長
858日本@名無史さん:2007/11/17(土) 12:13:31
>>853
>>851がどうかは分からないけど、
歴史読本がよく載せてる天皇像は
明治に作られた石版画が多いよ。

御影は大体その天皇ゆかりの寺院に納められていると思うのだが・・
後宇多→京都・大覚寺
花園  →京都・長福寺、同・妙心寺
後醍醐→神奈川・清浄光寺、京都・大徳寺、同・廬山寺
後村上→大阪・来迎寺
光厳  →京都・常照皇寺
光明、後円融、後小松→京都・雲龍院
859日本@名無史さん:2007/11/30(金) 14:26:05
>>851
歴史読本7月号の92頁右下に載ってる肖像と同じと思われ。
所蔵先は書いてないんで、編集部に問い合わせてみては?
860日本@名無史さん:2007/12/11(火) 22:29:49
光厳天皇と光明天皇と崇光天皇って神器持ってたんですか?
861日本@名無史さん:2007/12/12(水) 16:46:29
>>860
光厳天皇=践祚時点では三種の神器を持っていない。当時、三種の神器は、幕府転覆の目論見が発覚して都を出奔
      していた後醍醐天皇が持っていた。しかし、光厳天皇践祚の同日、後醍醐天皇は笠置
      で幕府軍に捕らえられて三種の神器は没収、即位の礼の時点では光厳天皇が三種の神器を持っていた。

光明天皇=践祚時点で三種の神器を持っていない。当時、三種の神器は足利尊氏に追われて比叡山へ
      逃れていた後醍醐天皇が持っていた。その後、後醍醐天皇は和議に応じて比叡山を降り、
      三種の神器は光明天皇に渡されたが、のちに後醍醐天皇は幽閉先の花山院を出奔、
      南朝を開き、光明天皇に渡した三種の神器は偽ものだったと言い切った。

崇光天皇=光明天皇から受け継いだ三種の神器を持って即位。
      もっとも、南朝は北朝天皇の持つ三種の神器は偽ものだと言っていた。
862日本@名無史さん:2007/12/12(水) 19:33:24
>>アリガト〜。

光厳天皇が皇統譜にないのはおかしいデスネ。
863日本@名無史さん:2007/12/13(木) 22:22:23
後醍醐天皇が譲位したことはないと言い張っているからな。
864日本@名無史さん:2007/12/14(金) 00:00:20
そこが矛盾している。吉野に逃げた時、三種の神器があるから正式な天皇って言ってるのに。
隠岐にいたとき三種の神器持ってないじゃないかと突っ込みたくなる。
865日本@名無史さん:2008/01/05(土) 18:54:07
>>359
そうなの!。
だったら、現皇室(持明院統)と木寺宮家(大覚寺統)が天皇家の嫡流の血筋なんだね。
南朝や後南朝の行動は、天皇家庶流の反乱?。
持明院の嫡流の血筋に皇位が戻って良かったね。
木寺宮家は、今どうなってるの?。
866日本@名無史さん:2008/01/06(日) 13:35:57
木寺宮家は滅んでいるよ
867日本@名無史さん:2008/01/06(日) 15:23:12
木寺宮家
後醍醐天皇の兄後二条天皇の系統
後二条天皇の遺児邦良親王は祖父後宇多上皇によって後醍醐天皇の皇太子に立てられたが早世
後醍醐が隠岐へ流された際、即位した光厳天皇の皇太子に康仁親王が立てられたが
後醍醐が鎌倉幕府を滅ぼし、光厳天皇を否定した際、皇太子康仁親王も否定された

後二条天皇─邦良親王(後醍醐皇太子)─康仁親王(光厳皇太子)─
邦恒王─世平王─邦康親王─師煕親王

師煕親王の後は確認されず
868日本@名無史さん:2008/01/08(火) 21:19:26
家康の時代にも遠江にも、たしか木寺宮家が残っていたように思いますが・・・
869日本@名無史さん:2008/01/09(水) 12:02:47
>>868
遠江や甲斐には木寺宮末裔の記録が残るが
戦国期を最後に足取りは消滅し不詳

師煕親王以降、木寺宮家で親王宣下を受けた者はおらず
よって宮家としては機能しておらず
末裔が細々と居た可能性もあるが現代まで繋がる系譜は残っていない
870日本@名無史さん:2008/01/10(木) 22:38:09
王でもいいじゃない。
系譜は残っていないんじゃなく、
発見されてないだけかもよ。
871日本@名無史さん:2008/01/11(金) 08:34:54
系譜が途中で消えてしまっている家系は
現代まで繋がっている家系ということなのか
872日本@名無史さん:2008/01/28(月) 23:16:44
>>861-862
北朝の5代のうち、三種の神器の所持に関しては最初の3代(光厳・光明・崇光)は問題ない。

>>865
そうじゃない。
嫡流の定義によって何とでもいえること。
長男の家系という意味なら北朝及び現在の皇室が嫡流。
木寺宮は大覚寺統の中では長男の家系だが
大覚寺統というのは年長順を無視して
家父長が自由に世継ぎを決めるのが伝統だから
後醍醐の系統と比べて木寺宮の方がとくに正統だとは言えない。
大覚寺統の原理からいえば常盤井宮が正統。
年長を根拠にして嫡流を名乗るなら
そもそも持明院統が嫡流であって大覚寺統に出る幕はない。
873日本@名無史さん:2008/01/29(火) 09:03:43
>>872
北朝=長男の家系、というのも誤りがある。
もともと、持明院統の祖後深草天皇は後嵯峨天皇の第四皇子、
大覚寺統の祖亀山天皇は後嵯峨天皇の第七皇子。
この時代は年長順に皇位継承する伝統など、どちらの系統にもなかったのだよ。
北朝だって、はじめから長男の系統ではない。
874日本@名無史さん:2008/01/29(火) 09:08:55
>>872
北朝が嫡男の系統であるというのも誤りだしね。
北朝だって、庶子や弟宮が皇位を継いだ例も多く、
院政を執る家父長、あるいは女院が兄弟順に関わらず皇位継承者を決めていた。
木寺宮が嫡流だというのは、後宇多上皇がそのように決めていたこと。
北朝だって、大勢いる皇位継承候補者の中から、伏見上皇や後伏見上皇、
広義門院などが皇位継承者を決めていたのだし、同じこと。
875日本@名無史さん:2008/01/29(火) 09:54:54
>>872
常盤井は正統じゃないよね。
一説に、亀山法皇が最晩年の寵妃昭訓門院に産ませた末子の恒明親王を
天皇にしようと思い、昭訓門院の兄西園寺公衡に内々に告げていたとされているが、
結局、亀山法皇は恒明親王を東宮に立てることはなく、根拠が薄かった。
亀山法皇が没すると後宇多上皇は末弟恒明親王立太子に動いた公衡に蟄居を命じる。
そもそも当時は後宇多上皇の子二条天皇の世で、仮に恒明親王を擁立しようとすれば
甥の代から叔父の代へ皇統を戻すことになり、
亀山の皇后腹の嫡子であり院政を執っていた後宇多上皇の皇統を退けることが可能であったか、
あるいは亀山法皇が本気でそのように考えていたかは疑問。
恒明親王の家系は亀山法皇が残した遺領で何代か続いたが、嫡流であったとまではいえない。
876日本@名無史さん:2008/02/03(日) 12:29:29
後南朝スレより
 【木寺宮】
後二條天皇―邦良親王―康仁親王―邦恒王―世平王−承道法親王        
                                     |                       
                                     −明仁法親王
                                     |
                                     −邦康親王―帥煕親王(静覚法親王)
 
877日本@名無史さん:2008/02/03(日) 13:03:34
>>868
木寺宮の子孫の赤津某という武士が武田氏の軍役をつとめており、
その娘が遠州の大沢氏に嫁にいって生まれた子が高家大沢家の先祖。
878日本@名無史さん:2008/02/17(日) 09:54:54
いずれにしても南朝は父上皇の遺詔を反故にした不忠者後醍醐の子孫
であるから皇統から外れて良かったと思うぞ!
879日本@名無史さん:2008/02/18(月) 01:44:47
>861
光明天皇が持っていた神器は偽物で、本物は自分が持っている。
そのように後醍醐天皇は主張したが、実際には持っていく余裕など無かっただろう。
先帝後醍醐が虚偽宣伝をしただけで、実際には光明天皇の即位も有効だと思われる。
崇光天皇も(おおむね861の言うとおり)同様なので、
崇光天皇の即位も有効なはず。

>872
>大覚寺統というのは年長順を無視して
>家父長が自由に世継ぎを決めるのが伝統だから

でも、父親である先帝が「お前の跡継ぎは誰々にする」って意志を無視して、
自分の思うままに決めるって伝統でもある。

父親の遺志を無視しなかったのは後村上(以後)に限られているほどだ。
880日本@名無史さん:2008/02/18(月) 11:16:53
>>879
後醍醐天皇は笠置で捕らえられた際も、
三種の神器を入れた箱を首からかけていたらしい。

後醍醐天皇が比叡山へのがれる際は、
笠置出奔よりも時間はあった。
「新葉和歌集」で、このとき後醍醐に同行した
宗良親王が、しばしの別れを惜しんで異母妹の
懽子内親王(光厳妃)に会いに行っているのを見ても、
旧知の人に別れの挨拶をしにいく暇があった。

そもそも、比叡山へ後醍醐天皇は三種の神器はおろか、
女官すらも伴い、娘婿光厳院も伴う予定であった。
(尊氏に内通していた光厳院は途中で脱出)。
都の主だった人はすべて比叡山へ伴っており、
一番大事な三種の神器だけ都に置いて行ったとする根拠がない。
881日本@名無史さん:2008/02/19(火) 05:21:27
身につけておけるサイズのは、曲玉だけだろ。
鏡や剣は、かなり大きいぞ。誰かに持ち運ばせないと、単身では持ち運べない。

また、退位・閉門させられていた時点で神器を取り上げられていたはずだが。

比叡山へ行くときは退位させられていないし現役だからともかく、
笠置や吉野へ行くときには、それよりも以前の神器を取り上げられていたはず。
882日本@名無史さん:2008/03/06(木) 21:37:55
なして称光天皇の皇女と後花園を結婚させなかったのですか?
そうすれば崇光流と後光厳流の融合ができたのに
883日本@名無史さん:2008/03/06(木) 22:17:01
884日本@名無史さん:2008/03/06(木) 22:46:13
卑母がNGというのなら光格はどうなる。
そしてその流れを汲む現皇室は。
885日本@名無史さん:2008/03/07(金) 16:22:06
花園はどちらの皇女も
自分の胤ではないかも・・・と思っていた可能性もある
886日本@名無史さん:2008/03/07(金) 16:29:25
>>881
吉野へ脱出する際は内侍に神器を持たせていたとある
後醍醐は笠置へ行く際も吉野へ行く際も
相応の供のものを連れて行っている
着のみ着のまま単身で脱出したのならばともかく、
何人もを伴っていれば神器を持ち運ぶことは十分可能
鏡や剣は大きいったって、鎧兜に武具を備えた
武士に比べれば持ち運びは簡単。
887日本@名無史さん:2008/03/07(金) 20:42:02
>>885 なんで?
888日本@名無史さん:2008/03/08(土) 10:36:45
 後南朝派
889日本@名無史さん:2008/03/10(月) 17:43:22
>>882
後小松上皇も特にそれは望まなかったみたいだね。
台所番をしている女が称光天皇の胤を孕んだと噂になったとき、
女は急遽、典薬頭和気郷成の養女となり、ついで権大納言裏辻実秀の養女とされ、
男子転換の秘法まで施して啓嗣男子の誕生を願ったが、皇女が誕生したらしい。
890日本@名無史さん:2008/03/13(木) 00:26:27
西朝派
891日本@名無史さん:2008/03/14(金) 23:19:14
>>890
安徳天皇?
892日本@名無史さん:2008/03/22(土) 20:46:49
後醍醐ってトンデモ天子じゃん
尊氏も優柔不断だけどさあ
周りはいい迷惑だよなあ
893日本@名無史さん:2008/04/01(火) 21:25:52
>>889 称光は台所まで行って…
なかなか情熱的だ
894日本@名無史さん:2008/04/01(火) 22:28:15
宗良親王と護良親王好きだから南朝
895日本@名無史さん:2008/04/06(日) 18:28:09
平安時代はたくさんいる天皇の子が臣籍降下してるけど、ある時期から仏門に入るようになるけど何で?
896尾州男児 ◆7VELMWok.E :2008/04/06(日) 18:34:19
>>894
吉野朝廷と表記するのが望ましいと思います。
897日本@名無史さん:2008/04/07(月) 03:22:44
臣籍降下した子女を扶養する費用(人件費)がまかなえなくなったからじゃね。
仏門に入れたら、その寺の費用で扶養してくれるし。
898日本@名無史さん:2008/04/07(月) 08:18:22
僧籍にある者は結婚を禁じられていた
臣籍降下では皇子は貴族になったに過ぎず子々孫々まで朝廷が養わなければならないが
仏門に入れれば一代限りで終わるということもあるよね
899日本@名無史さん:2008/04/07(月) 19:26:31
>>897-898 しかし仏門に入れてしまうと皇位につけないじゃん
称光で後光厳流が途絶えた時に仏門に入ってた後円融の皇子たちが継げたのに
900日本@名無史さん:2008/04/07(月) 19:33:21
後円融の皇子じゃなくて後光厳の皇子だろw
称光天皇の祖父さんの兄弟にあたる後光厳天皇の皇子たちはこのとき相当な高齢。
院政をとりたい後小松上皇は自分のおじが天皇では嫌だっただろう。
もっとも、称光天皇の崩後、伏見宮から後継をとるよう命じたのは将軍足利義教。
天皇家が勝手に決めることができたわけではない。
901日本@名無史さん:2008/04/10(木) 21:43:25
>>900 義持じゃないの?
それに後光厳帝には皇子がたくさんいなかったっけな?
902日本@名無史さん:2008/04/11(金) 07:22:32
>>901 スマソ、後円融だった。
たしか後小松の弟がいたはずだが
903日本@名無史さん:2008/04/11(金) 11:41:08
>>902 道朝親王かな?
生没年は知らない
904日本@名無史さん:2008/04/11(金) 12:08:42
南北朝の全体像がよくわかる現在書店で買える良書教えて下さい
905日本@名無史さん:2008/04/11(金) 18:29:44
>>901
いや、足利義教だよ。
そもそも足利義持はこのときすでに死んでいるのだが?
足利義持は応永35年(1428年)1月18日没。
一方、称光天皇は同年年号が変わってからの
正長元年(1428年)7月20日没。
伏見宮家から養子をとるよう命じたのは将軍足利義教。
906日本@名無史さん:2008/04/11(金) 18:36:46
>>902
後円融天皇の男子は後小松天皇と出家した道朝法親王の2人だけ。
道朝法親王は1378年生1446年没でこのときは生きていた。
称光天皇没時、叔父に当たる道朝法親王は51歳。
候補にはならなかったが。
907日本@名無史さん:2008/04/11(金) 20:16:42
>>906 やっぱ出家してたんですか。
一人しかいない貴重な天皇の弟を仏門に入れるから後光厳流が…
908日本@名無史さん:2008/04/12(土) 07:30:59
>>905 後小松の猶子になったのも称光没後?
909日本@名無史さん:2008/04/14(月) 14:45:02
>>908
のちに後花園天皇となる彦仁王が後小松上皇の養子になったのは、
正長元年(1428年)7月17日。
前月より称光天皇は病に倒れ、7月に入っていよいよ危篤となったために、
将軍足利義教の通告によりこの日、彦仁王は後小松上皇の院御所に入り、
後小松上皇とその妃光範門院の養子となった。
称光天皇はその3日後、20日に没。

称光天皇はかなり早くから後光厳直系である伏見宮家の皇位簒奪におびえ、
応永25年(1318年)には自らの愛妾が懐妊したのを伏見宮貞成王(後花園実父)との密通によるものだと
信じて愛妾を追放、貞成親王は称光天皇に起請文を提出して難を逃れた。
さらに7年後、称光天皇が病に倒れた際、貞成王が親王宣下を受けたことを知ると、
病の癒えた称光天皇がこれを激怒、貞成親王は出家に追い込まれた。
称光天皇の同母弟で儲君にたてられ、後小松天皇と光範門院に期待された小川宮没後は
新たに儲君が立てられることはなく、称光天皇は自らに皇子が誕生することを期待していたようである。
後花園が後小松上皇の養子になったのは、称光天皇没の3日前。
910日本@名無史さん:2008/04/18(金) 22:59:54
>>909 なるほど、称光帝が認知しなかったのは皇位継承問題が絡んでいたんですか
911日本@名無史さん:2008/04/25(金) 23:22:00
>>906 道朝法親王も還俗して皇位継げや
義教共々元坊主で気が合いそうだ
912日本@名無史さん:2008/04/28(月) 09:14:05
出家→還俗して即位した天皇はいないのだが。
913日本@名無史さん:2008/04/28(月) 22:38:09
>>912 後高倉院は?
914日本@名無史さん:2008/04/29(火) 02:31:44
不登極帝だから即位してない
915日本@名無史さん:2008/04/29(火) 04:11:30
天武天皇
称徳天皇
916日本@名無史さん:2008/04/29(火) 14:36:29
>>913
後高倉院は後堀河天皇の父として太上天皇号を受けただけ。
天皇に祭り上げられた事実は一度もなく、不登極帝ですらない。
917日本@名無史さん:2008/05/02(金) 21:26:05
長慶天皇は南北朝合一反対派だったんだよね?
弟の煕成親王が後を継いだのは何らかの陰謀があったのでしょうか?
918日本@名無史さん:2008/05/02(金) 21:48:11
919日本@名無史さん:2008/05/04(日) 16:31:27
>>918
僧を天皇にしようとした称徳天皇以降、
出家した者と俗世は厳しく隔離されるようになったんだろ。
桓武天皇が最澄や空海を入唐させて僧侶に対する規律を厳しくしたのも
そのせいだと思われ。
920日本@名無史さん:2008/05/05(月) 13:52:01
いるにはいるってことか
>>919程度の理由だけが障害なら
称徳はともかく天武を佳例として
還俗天皇の線を推しきることも無理じゃなさそうだが

まあたぶん他にも理由があるんだろうね
921日本@名無史さん:2008/05/05(月) 21:40:33
>>889 称光帝には了山尼(1416〜1509)っていう子がいたという説が
922日本@名無史さん:2008/05/05(月) 23:03:46
>>921
889で触れられている通り、称光天皇には皇女があった。
この皇女は出家して尼となり、三時知恩寺開祖となった。
923日本@名無史さん:2008/05/05(月) 23:31:00
>了山尼(1416〜1509)
系図纂要か何かに拠っているのだろうけど、これは誤りで、
実際は1433〜1526の94歳没(実隆公記)。つまり称光皇女ではない。

ついでにwiki修正してきた。
924日本@名無史さん:2008/05/06(火) 09:39:51
>>919
白河法皇以後は出家しても政をして俗世との垣根は事実上なくなった
けどな。出家の身ながら女犯を犯す法皇もいたし。
まあ院政、治天の君が成立してからわざわざ皇位に復帰する必要性も
なくなったわけだし。
925日本@名無史さん:2008/05/07(水) 16:47:18
>>924
出家後も女犯した法皇の例は、院政期まで待たない。
宇多法皇は女犯もすれば醍醐天皇の治世に口出しもしていた。
宇多法皇は、899年、自ら開基として作った仁和寺で出家したのちも、
親子ほどに年の離れた京極御息所藤原褒子を溺愛していた。
平安時代中期の花山法皇もまた、親子丼など女犯には事欠かない。
926日本@名無史さん:2008/05/09(金) 02:54:43
>>925
爺さんと孫で穴兄弟な後醍醐はw
927日本@名無史さん:2008/05/09(金) 08:44:15
>>926
それを言い出したら持明院統(北朝)の天皇のほうがすごいぞ。
持明院統では結束を深めるために上皇や天皇、東宮が持明院に同居していたため、
同じ女官を寵愛して穴兄弟になることが多かった。

伏見天皇と後伏見天皇は親子で穴兄弟(正親町守子を寵愛)
後伏見天皇と花園天皇は兄弟で穴兄弟(東御方を寵愛)
花園天皇と光厳天皇は養父と養子で穴兄弟(正親町実子を寵愛)

さらにすごいのは、天皇たちを穴兄弟にした正親町守子、東御方、正親町実子の女官たちは、
いずれも権大納言正親町実明の娘で3人とも実の姉妹。
928日本@名無史さん:2008/05/09(金) 09:46:49
>>927
自己紹介乙w
929日本@名無史さん:2008/05/09(金) 14:35:05
>>928
何言ってるんだ?お前w
930日本@名無史さん:2008/05/09(金) 14:47:50
きっと>>927がやんごとなきお方なのじゃろうて。
931日本@名無史さん:2008/05/09(金) 19:30:59
後伏見天皇の第八皇子長助法親王と第九皇子亮性法親王は同じ1318年生まれの同腹の兄弟だけど双子?
932日本@名無史さん:2008/05/09(金) 19:36:31
>>931
ソースはwiki?
長助法親王は1318年生まれ
亮性法親王は1819年生まれ
両者は年子。
wikiの間違いだと思われる。
933日本@名無史さん:2008/05/09(金) 20:46:06
>>932 ウィキです。ありがとうございました
934日本@名無史さん:2008/05/13(火) 21:17:42
光明天皇って皇子女が一人もいなかった?
935日本@名無史さん:2008/05/14(水) 06:17:49
一次史料に確認できる皇子女は、
・長照院殿(尼)
・皇女某     の2皇女

長照院殿は『看聞日記』応永29年2月6日条に入滅記事あり。
この中で「此宮光明院宮、法華寺長老御姉也」と
述べられるから、法華寺長老の妹がいるはず。

『紹運録』所載の2皇女(母:入道大納言実躬女)がこの姉妹に当たるか?
ttp://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/h679/image/01/h679l0047.html

周尊は詳細不明
936日本@名無史さん:2008/05/14(水) 21:54:30
>>935 なるほど、いずれも仏門に入ったのですね。多謝(人)
937935:2008/05/18(日) 02:36:25
補足
法華寺長老の皇女某は、同日記の応永23年12月11日条に確認。
938日本@名無史さん:2008/05/18(日) 07:45:29
【韓国】「ごみ餃子」波紋、関連業界に拡大
ttp://japan.donga.com/srv/service.php3?biid=2004060858588

>1999年11月から最近まで、W食品から330t(およそ1億7000万相当)の納品を受けたA社は
>「今回摘発された不良具材は米国や日本への輸出用として製造されたため、国内には流通していない」と釈明した。
939日本@名無史さん:2008/05/24(土) 20:53:48
>>937 看聞日記はナイスな資料だね
でも貞成親王って女の子供に「おめこ」とか「ちょんちょん」て名前つけたよね
940日本@名無史さん:2008/05/26(月) 03:47:02
ちげーよww
941日本@名無史さん:2008/06/09(月) 00:25:19
age
942日本@名無史さん:2008/06/30(月) 14:47:53
>>939 めこことちよちよです。
943日本@名無史さん:2008/07/14(月) 21:44:39
幼名だけどね
944日本@名無史さん:2008/09/20(土) 20:56:25
何もかも大器晩成
それが貞成親王
945日本@名無史さん:2008/10/03(金) 17:39:02
懐良とか北九州でしぶとかったの、宗良が、新撰和歌集に何首も和歌を詠むほどの
どの文化人でありながら、あてどの無い漂白と戦を強いられたのと、小倉宮を擁立した後南朝の
擁立して、二度の蜂起をした見上げた根性などは評価するので、南朝、後南朝派なのだが、いかんせん
「長袖兵を語る」の感があるのでそこは割り引いてみてるよ。
946日本@名無史さん:2008/10/03(金) 18:02:33
スマソ 小倉宮を擁立した後南朝の擁立してーー→小倉宮を擁立した後南朝の
947日本@名無史さん:2008/11/22(土) 10:04:25
おお!
948日本@名無史さん:2008/11/24(月) 09:52:27
>>919
空海は入唐の1年前まで私度僧だったけどね、スレ違いだからやめるけど。
949日本@名無史さん:2008/11/30(日) 15:37:48
今の北朝天皇は、どこの馬の骨か分からない偽物。
これって、歴史的事実だよね。
950日本@名無史さん:2008/11/30(日) 16:51:42
バカじゃねーの?
951日本@名無史さん:2009/01/09(金) 04:03:45
南朝を支持した新田氏の末裔である美智子様と北朝につながる現皇族・・・

何か意味はあるのでしょうか??
952日本@名無史さん:2009/01/09(金) 18:54:45
なんで北朝か南朝かの二者択一なんだYO

木寺派・常盤井派・吉野派・伏見派・後光厳派
せめてこの五つくらいには分けないと。
その気になればもっと細かくも分けられるが
953日本@名無史さん:2009/02/02(月) 21:49:35
>>951
新田の子孫(自称)が将軍になっても天皇は北朝系のまま
あとは分かるな?
954日本@名無史さん:2009/02/11(水) 02:19:15
いや、わからんね
955日本@名無史さん:2009/02/14(土) 22:31:17
sage
956日本@名無史さん:2009/02/16(月) 17:27:00
後醍醐が現実乖離したクソだからしょうがないw 武士なら足利に
つくっきゃない。成り行き上、南朝に着いた新田楠らは成り行き上
これもしょうがないw 同情を禁じえない。
957日本@名無史さん:2009/02/19(木) 23:47:05
>>956
現実乖離したようなこと「理想」と称して勝負より優先するアホはいくらでもいる
今のウヨだのサヨだのも同じ。

でもウヨサヨをただクソ呼ばわりする気もないな。

目先の利益おっかけてるだけの自称現実主義者は
そもそも歴史なんていうアホな概念と関係なく
正しく(?)生きてるわけだし、別枠だろう。
958日本@名無史さん:2009/02/26(木) 23:46:24
>>957
どうせなら二条良基くらいにならないとな。
959日本@名無史さん:2009/03/14(土) 23:30:44
それもどうかと >nijo吉本興業
960日本@名無史さん:2009/04/02(木) 21:11:09
>>959
吉本は三国時代の人間だろうが
961日本@名無史さん:2009/04/04(土) 10:45:06
後南朝なんてデラーズフリートみたいなもんだろ
962日本@名無史さん:2009/04/26(日) 17:52:28
まずは天皇派か、鎌倉派かを
答えよ。
963日本@名無史さん:2009/05/08(金) 11:35:44
鎌倉派に決まってるだろ馬鹿
南朝なんて時代錯誤もはなはだしい
天皇はあくまでお飾りでいいんだよ
世界史みりゃ分かるだろ
964日本@名無史さん:2009/05/23(土) 22:08:53
そもそも帝国憲法は国体に反した憲法だから日本は太平洋戦争で負けた
965日本@名無史さん:2009/05/24(日) 20:47:30
>964
その「国体」って、どこで確立された概念なんだよ。
幕末期(の直前ぐらい)より古い文献では、まったく違う意味の用法しか存在しないんだが。
966日本@名無史さん:2009/05/26(火) 19:44:36
国民体育大会を略した言葉のことですよね。わかります。
967日本@名無史さん:2009/07/19(日) 23:16:48
鳩山邦夫先生は南朝派。
968日本@名無史さん:2009/09/02(水) 01:50:39
>>967
まさに今の自民党が、南朝みたいになったのがこの前の総選挙。
969日本@名無史さん:2009/09/03(木) 16:42:13
北朝派です
970日本@名無史さん:2009/09/05(土) 17:07:21
いやー、どっちかというと北朝だろ

いまは建武の時期か、もしくは正平か、どっちかにあたるんじゃないか?
971日本@名無史さん:2009/09/13(日) 11:55:43
dead or aliveだべ?
972日本@名無史さん:2009/09/14(月) 23:33:47
imasaraiwaremasitemo...
973日本@名無史さん:2009/09/14(月) 23:34:32
☆南朝皇族は、一体今何をしてるんだ?☆
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1198049378/
974日本@名無史さん:2009/09/14(月) 23:35:18
後南朝2【不滅の皇統永遠なれ】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1198341671/
975日本@名無史さん:2009/09/14(月) 23:36:23
南北朝時代に有名で、戦国時代は落ちぶれてた家系
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1156014756/
976日本@名無史さん:2009/09/16(水) 07:56:44
 
977日本@名無史さん:2009/09/16(水) 07:59:25
うめ
978日本@名無史さん:2009/09/16(水) 08:01:35
 
979日本@名無史さん:2009/09/16(水) 08:02:38
 
980日本@名無史さん:2009/09/16(水) 08:05:52
981日本@名無史さん:2009/09/16(水) 22:55:21
キタかミナミか
982日本@名無史さん:2009/09/16(水) 22:58:39
梅田か難波か
983日本@名無史さん:2009/09/16(水) 22:59:56
阪急阪神か近鉄南海か
984日本@名無史さん:2009/09/17(木) 00:51:49
ネズミかウマか。
985日本@名無史さん:2009/09/17(木) 01:36:50
俺はミナミかなぁ〜(´∀`)
986日本@名無史さん:2009/09/17(木) 01:55:10
ニダ
987日本@名無史さん
俺はキタだわ