●立花宗茂て最近までマジ知りませんでした。

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69日本@名無史さん
>宗茂は戦国最強と謳われた島津に屈せず、撃退した唯一の武将だった。

当時はそんなこと言われてませんがな。
あと島津と豊臣の決戦では少数の因幡や山陰の武将が
島津兄弟勢ぞろいの大軍を見事撃退してます。
70日本@名無史さん:02/12/19 22:04
>>66
そういう話キボンヌ
71日本@名無史さん:02/12/19 22:26
>>67
真弓は、熊本県玉名郡出身で立花家とは、直接関係ないと思われ。。
プロ野球といえば、オリックスの立花義家コーチのほうがなんか
関係ありそう。

>>69
確かに、島津を撃退できたのは豊臣の後ろ盾があったからだよね。
ところで、
>島津兄弟勢ぞろいの大軍を見事撃退してます。
というのは、何処での戦の話ですか?
72日本@名無史さん :02/12/19 22:39
晩年になってからは将軍家光のお気に入りで、合戦談義をせがまれていたとのこと。
病気になったときは、屋敷まで将軍が足を運んだり、蜜柑を届けたりしたそうだ。

島原の乱では70歳を過ぎて鎮圧に参陣しているから、若い連中にとっては戦国の
生き字引きとして尊重されたんだろう。
73日本@名無史さん:02/12/19 22:55
>>71
白根坂かな?豊臣秀長の下に山陰の大名がちらほらいたような。
でもそんな兵力差なかったような。
74日本@名無史さん:02/12/19 23:08
根白坂だね。
島津が兄弟一門の他、親類の北郷氏まで参加して20000人。先陣が義弘。
上方が宮部継潤の4000を基幹にした15000。
7566:02/12/19 23:09
>>70
立花家の家臣、小野和泉の話(ジョンレノンの妻、小野ヨーコの
ご先祖様)


関ヶ原の後立花家は改易となり、小野和泉等は加藤清正に預けられた。
ある酒宴で、加藤家の家臣達から
「宗茂公ご自身が奮戦して最も戦功があったのはどこの戦場ですか。」
と、質問された。さらに
「貴公は、どの様な武功をたてられましたか」と聞かれた。
しかし、小野は黙して語らずであった。
酒宴の後、加藤家の家臣たちは、立花家なんぞ大した事はないな
と話しあった。そして、旧立花家の家臣たちを見下した様な
態度をとるようになった。
小野は、この様子をみて一計を案じた
↓続く




7673 :02/12/19 23:21
うわ・・・白根坂じゃなくて根白坂だった。(恥
ぐぐっても妙にヒットしないからおかしいとは思ってたんだけどね。
7766:02/12/19 23:33
75の続き
次の酒宴の時、また加藤家の家臣たちが小野に同じ質問をした。
小野は
「私の参加した合戦は、数知れずいちいち覚えてはおりませぬ
そこで今夜は、その時の感状をお持ちしました」
そう言って懐から、感状の束を取り出すと、もろ肌を脱いだ。
その体は文字通り満身創痍、小野は感状と自身の傷を一つ一つ
指し示しながら自分の武功を語りはじめた。
加藤家の家臣たちは、すっかり感服して
「いや、貴公の話を聞いていたら夜があけてしまいす」
と、降参してまった。小野は言った。
「われわれは、主君に万一の事が無いよう戦の時には常に気を配って
参りました。従って宗茂公ご自身で手柄をたてられた事はござらぬ。
とこで、仏木坂において清正公が窮地にたたされた事があったと
聞いております。さて、そこで貴公等にお聞きしたい。貴公らは
主君がそういう状況にあった時、どこでどの様な活躍をなされて
いたのか、是非教えて頂きたい」
それを聞いて、加藤家の家臣達はなにも答える事が出来ず、赤面して
俯いてしまったという。

小野は、立花家が柳川へ返り咲く数年前に亡くなっている。
残念な話である。
7877:02/12/19 23:38
うわ‥俺も誤字脱字がイッパイ。鬱だ、逝って来ます。
でも、いい話でしょ。
79日本@名無史さん:02/12/23 15:53
連休揚げじゃ
80日本@名無史さん:02/12/23 23:27
原哲夫氏が描いてくれないかなあ。
81日本@名無史さん:02/12/24 23:40
>>80
イメージ的には
 島津義弘→ラオウ
 小早川隆景→トキ
 竜造寺隆信→獄長
 鍋島直茂→サウザー
 大友義統→ジャギ
か・・・いや、適当だけど。
82?@:02/12/25 06:31
>>59
なんせ、あの”まつ”の息子が十万石で召し抱えたがってたらしいし。
83日本@名無史さん:02/12/25 06:49
近畿か関東甲信越で生まれてたら、知名度あったろうにね。

84日本@名無史さん:02/12/25 09:30
生まれてくるのが遅すぎた。
85日本@名無史さん:02/12/25 09:35
ゲームだと武力だけの人物として使われているね。
86日本@名無史さん:02/12/25 09:36
maji
87日本@名無史さん:02/12/25 09:49
秀忠はなぜあそこまで彼を優遇したのだろう。
自分にないものを感じたからだろうか?
88日本@名無史さん:02/12/25 18:32
秀吉に習ったのでは?
89日本@名無史さん:02/12/29 22:10
90日本@名無史さん:02/12/29 22:11
91日本@名無史さん:03/01/08 12:46
勃起
92日本@名無史さん:03/01/08 22:31
>>65の文は信長の野望てんしょうき事典の丸朴李(パクリ)。
しったかクン万歳。

というかどう考えても生まれ育ちは長宗我部の方が何不自由なく
育ったお坊ちゃまだろうに。所詮高橋家は大友の一家臣

という妄想癖。
93【^▽^】足軽浪人ジーモン:03/01/08 22:38
立花宗茂は関ヶ原負け組の中では超マイノリティたる
本領(旧領)回復者。それだけでも凄い!!
94日本@名無史さん:03/01/09 18:35
>>74
何か勘違いしてないか?根白坂の戦いというのは
野戦ではなくて、豊臣軍の大軍に包囲されていた島津側の城を救援するために
島津軍が味方の城へ到達するルート上にある豊臣側の砦を攻略するための戦。
すぐ側には島津軍の何倍もの豊臣の大軍がひしめきあっている状況
そのため豊臣側の砦を一晩のうちにおとさなければいけないという島津側にはハンデがあった戦い
朝が来れば島津軍は砦を守備している豊臣軍だけではなく、島津側の城を包囲している豊臣軍とも
戦闘しなければならないからだ。
宮部側もよく戦ったが、島津軍が撤退を余技なくされたのはタイムリミットが来たことが理由だよ。
95日本@名無史さん:03/01/09 19:16
撤退じゃなくて敗退。
後詰の豊臣勢はすぐ側という表現が意味不明。

余技なくされたのは→余儀なく
96日本@名無史さん:03/01/09 21:31
>>94
そんなに数に差はありませんよ。
高城周辺は秀長の全ての軍勢が集結できる程広くない。
97日本@名無史さん:03/01/09 21:33
>>95
小姑のようにうるさい奴だな。
後詰の豊臣軍はすぐ側=地図で調べてみたら
根白坂戦場跡と高城の距離は1000メートルくらいだ。
豊臣秀長本軍がたった1キロメートル先で高城を包囲していた。
これで気がすんだか?
98日本@名無史さん:03/01/09 21:47
それに敗退ではなく、撤退だろう。
島津軍は負けたわけではなく、>>94で述べたように朝になり
豊臣秀長本軍が本格的に戦闘に加わる前に戦闘領域から撤退した。
それから豊臣軍が島津軍を追撃しなかったかということからも敗退ではないことは明らか。
人間はふつうに歩いて1時間で4キロ進むといわれている。
すると1キロ先から秀長本軍がやってくるのにゆっくり歩いて15分で来る距離だ
もしも島津軍が敗退していながら、こんな近距離なのに追撃しないはずがないではないか?
99日本@名無史さん:03/01/09 22:16
負けだろ、忠隣が戦死してるじゃん
秀長の目的は、日向の最重要拠点の高城を落とす事
圧倒的優位なのに、逆撃を得意とする島津に追撃する利はないと考える方が妥当

対して島津は目的である根白坂砦を落とせず、なんら得るものはなかった
しかもこの結果を聞いて、義久は降伏してるし
これを負けと言わずに撤退と言うのか?
100日本@名無史さん:03/01/09 22:23
秀長本陣
児湯郡川南町松山塁

高城
児湯郡木城町大字高城字城山

根白坂砦
児湯郡木城町大字椎木字新古場

1キロメートル先???????
101日本@名無史さん:03/01/09 23:09
>>99
豊臣家対島津家の戦争を大局的に見れば敗戦は間違いないが
根白坂の戦いだけを見れば島津家の大敗とは云えないと思う。
時間に余裕があれば島津軍が根白坂の砦を落とすのは間違いなかっただろうし、
島津軍が撤退した理由は豊臣秀長本軍が本格的に戦闘に参入する前に
軍を退いたことは間違いない。
>>100
児湯郡木城町大字高城字城山
児湯郡木城町大字椎木字新古場間は1000メートルくらいでしょう?
違いますか?

102日本@名無史さん:03/01/09 23:15
そろそろ戦術的には・・・、戦略的には・・・と語り出す香具師が現れそうだな
103日本@名無史さん:03/01/09 23:40
>>101
秀長の本隊は動いてません
時間的に余裕を見れば?という意味が分からない
「勝部兵右衛門聞書」には二の丸で忠隣が戦死して、小早川隊や黒田隊、藤堂隊が
側面を突いたので、平田や新納を殿に残して引いたと書いてあるが

それに大敗と書いてない、負けと書いてる
島津の目的は何?被害を考えても、その後を調べても負けに違いない
追撃しなかったら負けじゃないと言う考えがわからない

それと高城に秀長の軍勢が張り付いてたのではなく、51箇所の砦や陣所を築いて
包囲してたんですが
104日本@名無史さん:03/01/09 23:43
歳久の甥だけでなく沖田畷で有名な猿渡信光をはじめ
義弘直属の旗本も多数討ち死にしてるよ。

一方で上方軍にこれといった損害はない模様。
宮部も「討ち死に間違いなし」といわれながら無傷だし。
105日本@名無史さん:03/01/10 00:36
相手が悪いよ、仙石のへたれと違い、不敗の秀長だ。
義久も良いタイミングで降伏したもんだと思う。
106日本@名無史さん:03/01/10 00:39
東の本多忠勝、西の立花宗茂
107日本@名無史さん:03/01/10 00:57
最初の奥さんとのエピソードきぼんぬ
108くれよんシンザン:03/01/10 15:35
闇千代さん???
109日本@名無史さん:03/01/10 18:48
>>103
「時間的に余裕を見れば」ではなく、「時間に余裕があれば」
つまり島津軍の攻撃には1晩限りというタイムリミットが存在したということ。
1晩限りで砦を落とせなければ、撤退しなければならなかった。
先に書いたように朝になれば秀長の本軍が援軍を出してくるのは日を見るよりも明らかだからだ。
実際に貴方が書いているように小早川や黒田などの援軍が来ている。
もしもこのような状況下ではなく、相手が根白坂砦の豊臣軍だけだったなら
島津軍は損害もほとんど出さずに落としていただろう。
その辺りのことがよく理解されていないので>>69のような勘違いがまかり通っているのだろう。
私は島津軍は戦闘に負けたのではなく、根白坂で失敗したのだと言いたいのです。
その失敗を招いたのは島津軍に時間的な余裕がないことにつきる。
110日本@名無史さん:03/01/10 19:00
>>109
>島津軍は損害もほとんど出さずに落としていただろう。
「勝部兵右衛門聞書」でも読め
朝にならんでも援軍が着た

たらればで勝敗語るな、戦闘でも何でも負けだ
見苦しい言い訳ばかりだな
111日本@名無史さん:03/01/10 19:14
織田家の合戦スタイルは
長篠の合戦から様変わりしたよな
野戦がそれまでの野戦ではなく、強固な陣地を築き敵が攻撃してくるのを待つ。
豊臣秀吉はそのスタイルを踏襲している。
賤ヶ岳の合戦でも強固な陣地を築いて柴田軍と戦っている。
九州征伐でもそうだし、その後の北条征伐の時もそう。
豊臣の敵は攻撃したら必敗になってしまう。
しかし攻撃しなくても経済力の格差で真綿で首を締めるがごとくやられてしまう。
なんとも嫌らしい相手であるな。
112日本@名無史さん:03/01/10 21:44
>>110
朝にならなくても援軍が来たことぐらいは知っている。
しかし朝になり視界が利くようになれば本格的な援軍が来ることぐらいは
誰でも予想がつくだろう。
夜間に大軍を動かせば、少数の敵の伏兵にでもかく乱させられる可能性もある。
このようなリスクを犯してまで本格的な援軍は寄越さないだろう。
ゆえに島津軍は夜間のうちに砦を落としておくというタイムリミットがあった。
これは貴方でも理解できると思う。

「たられば」で語ったのは秀長の本軍の脅威なしで、根白坂の砦にいる豊臣軍の力だけ
で島津軍を撃退したと思っている>>69,>>74のような人達にも理解できるように説明を
試みただけのことで、イフを語って喜ぶようなことをしたかったわけではない。
113日本@名無史さん:03/01/10 22:26
「タイムリミットがあった」というソースってあります?
114日本@名無史さん:03/01/10 23:04
>>82
前田利長が、宗茂を10万石で召抱えたいと彼に使者を送った。
そしたら「裏切り者の家になど仕えることはできん」と即刻使者を追い返したらしい。
この辺を昨年の大河で取り上げてくれたらなぁ(藁
115日本@名無史さん:03/01/11 00:17
>>114
でもそれ言ったら宗茂だって大友家を見捨ててるよなぁ・・・
116日本@名無史さん:03/01/11 00:21
>このようなリスクを犯してまで本格的な援軍は寄越さないだろう。
本格的な援軍が来てますけど
配置からどこにでもすぐに援軍が呼べるように砦等を築いてたんでしょう?
宮部隊も1万以上の戦力を保持しながら、根白坂に篭ったのは
宮部隊が自らの役割を理解していたからと考えられるが

煽ったようなレスをしたのは謝罪するが
貴方は、失敗した、撤退だと言葉を変えて色々言ってるが
結局、何が言いたいんですか?島津が負けてないと言いたいんですか?

宮部隊単独で島津勢を撃退したのではないが、宮部隊は根白砦の維持に成功し
秀長は島津勢の脅威を高城付近から一掃するのに成功した
島津勢は夜襲による根白坂攻撃に失敗し、多数の犠牲をだして
義久は鹿児島へ、義弘は飯野まで引かざるをえなくなってるのは事実でしょう?
これは宮部隊にも秀長軍にも負けてると言う以外、なんと言うのでしょうか?
117日本@名無史さん:03/01/11 00:21
>>107
ァ千代は、自ら鉄砲五十丁をもってなる女鉄砲隊を組織したといわれている
立花道雪の勝気な1人娘。
ま、女鉄砲隊は伝説だろうけど、体格が良く、目のパッチリした唇の小さい
美人だったといわれている。

関ヶ原の時は、柳川城をでて宮永の館に住んでおり、宗茂とは別居状態。
夫婦仲は完全に冷え切っていた。
それでも、西軍につくべきか東軍につくべきかと、
立花家で討議されている時、彼女は徳川家に味方すべしと進言している。
女性ながらも今回の戦は徳川優位、と正しく情勢を見抜いていた当りは
さすが道雪の娘と云わざるえない。
しかし、宗茂は今こそ豊家の恩顧に報いる時として、西軍についてしまった。
西軍が敗れ宗茂が柳川へ戻つた時、なんとあのァ千代が
侍女たちを中心に二百名余りで、宮永の館をしっかりと警護し
進撃してきた加藤清正軍に備えていた。
しかも、失意のどん底にあった宗茂を少しも攻める事はなかったという。
けなげな女性だ。
118日本@名無史さん:03/01/11 10:28
>>115
大友家を見限ってはいるが、裏切ってはいないんですけど‥
119日本@名無史さん:03/01/11 11:07
120日本@名無史さん:03/01/11 14:10
他人が見れば裏切り者
本人いわく見限っただけ、と
121日本@名無史さん:03/01/11 16:01
>120
立花宗茂が、いつどのようにして大友家を裏切ったのか教えて下さい。
122120:03/01/11 16:08
>121
悪いね、宗茂のことを言ったんじゃないよ
一般的に裏切り者呼ばわりされている人物のこと

俺は最近宗茂に関心がある者だから
戦術考察だけでなく
知ってる人にもっとエピソードを披露して欲しいなぁ
123121:03/01/11 16:16
>122
なんだそれじゃ115は別人ですか?
それならあらためて

>>115
立花宗茂が、いつどのようにして大友家を裏切ったのか教えて下さい。



124山崎渉:03/01/11 16:36
(^^)
125日本@名無史さん:03/01/11 16:46

∧_∧  ∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄    
( ≧皿≦)( ̄^ ̄ )<まぁおちつけ!
(    ⊂     ) \_____
キィィィ!!!
126日本@名無史さん:03/01/11 16:51
秀吉が自分の生え抜きに優れた武将が少ないので、宗茂を大友家から
引き抜いて「九州一の勇者」と持ち上げて宣伝したから有名になっただけだ。
武人として優れていはいたが、後世の伝説ほどスゴイ奴ではない。

島津侵攻を食い止めた功績は宗茂よりも父の高橋紹運のもので、宗茂は
秀吉軍の到着を聞いて退却する島津を追撃しただけ。
小田原出兵時は三成に従って水攻めを行って失敗したし、関が原の伏見城
攻撃では大して活躍しなかったし、大津城攻めではあの人数で攻めながら
関が原に間に合わなかった。
それに大局を見る能力もかけていた。
戦略眼がある武将ならば、京極高次のわずかな兵しかいない大津城には
少数の抑えを残して大垣に向かうことを主張するはずだが、それを主張した
という事跡もない。
そのうえ領地に帰還しては降伏し、大坂から一緒に帰還した友軍の島津攻めに
参加している。
所詮は、言われたことは真面目にやり通すし、戦場ではそれなりに優れた武将だが
それ以上でもそれ以下でもない、といったところが妥当だと思われ。
127日本@名無史さん:03/01/11 17:08
ァ千代は秀吉に姦られたと思う?みんな
128>126:03/01/11 21:19
後世の伝説ってナニ?
"武人として優れて"いた立花宗茂の話をしようぜ
129123:03/01/11 23:55
>>125
私は、立花宗茂の事を良く知らないので、どういう事なのか知りたかった
のですが、それが何かいけなかったのでしょうか?
130鉄壁ミュラー:03/01/12 01:52
無類のいくさ上手だったが、政略面には疎かった。人徳があり、落ちぶれても家
臣が慕ってついてきたことや、入り婿なので嫁に頭が上がらなかったところがな
んかが秀忠に気に入られたらしい(秀忠も嫁の尻に敷かれてた)。マイナーな武
将だけど、魅力のある人だと思う。
131日本@名無史さん:03/01/12 20:52
>>126
あなたみたいに、マイナス面ばかり列挙していったら、戦国武将は
みんなヘタレになっちゃいますね。ま、いちいち反論しませんけど
参加してもいない伏見城攻めで、どうやったら大活躍ができるか
お伺いしたいもんですな(w

>>122
どういうエピソードがお好みですか?
132日本@名無史さん:03/01/12 21:00
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1041683559/l50

島津と豊臣の話は以降こっちで頼む
133日本@名無史さん:03/01/15 19:33
>>122
関ヶ原の趨勢が決まった後の撤退時に
某西軍武将が瀬田の大橋を焼き払おうとしたところを宗茂が阻止した。
後に家康が「この橋を焼かなかったのは誰だ?(w」と聞いて、
それが立花宗茂とわかり、家康の覚えがよくなった。

というエピソードを注入した小説を読んだことがあります。
134山崎渉:03/01/16 08:43
(^^)
135775:03/01/16 10:04
136日本@名無史さん:03/01/16 10:11
義士外伝大石東下りの泣かせ処の立花左近を知らぬとは。
137日本@名無史さん:03/01/16 23:33
>>133 を補足すると、
追撃してくる東軍の進撃を妨げるには、瀬田の大橋を焼き払うのが
てっとり早い方法であった。
しかし宗茂は、古来この橋を焼き払って勝利を得た例は無い。
橋を焼けばその後,民が難渋するだけだ、と言って制止している。

その話を聞いた家康は、
「立花は剛直だが情のある武将だな」と言って、感心したと言われている。
138日本@名無史さん:03/01/17 22:31
126のカキコを見て思い出したエピソード。
宗茂がまだ生きていた頃、ある人が宗茂という人物について書こうと思った。
そこで彼は、宗茂について知っている人に会い色々と聞いてまわった。
そのあと宗茂のところへ行き、宗茂の意見聞こうとした。
すると、宗茂は
「貴殿が、人から拙者の事について聞かれたのであれば、それが本当の拙者
の姿でござる。拙者のことについて書かれるのであれば、貴方が人から
直接聞かれた事を、そのままに書いて下され。
拙者は、それ以上の者でも、それ以下の者でもございません」
と言って笑ったと言う。

俺も、こんな事がいえる人間になりたいと‥‥無理か(w

139日本@名無史さん :03/01/17 23:39
133・138>>それ、童門冬二の本に書いてあったぞ〜。
 
140138:03/01/18 03:02
>>139
つーか、瀬田大橋の話は有名なエピソードなので、必ずといっていいほど
どの小説にもでてきます。ただし、童門の本は読んだことがないです。
138の話はPHPの本からの引用です。ソースは「名将言行録」だと
思います。
141日本@名無史さん:03/01/18 10:15
>戦略眼がある武将ならば、京極高次のわずかな兵しかいない大津城には
>少数の抑えを残して大垣に向かうことを主張するはずだが、それを主張した
>という事跡もない。
大津城攻略しか三成に指示されてなかったんじゃなかったっけ。
本人は確か「自分も(関ケ原に)応援にいきましょうか?」と申し出たけど
三成は断ったんじゃなかったっけ。
142日本@名無史さん:03/01/18 10:36
141>>
それは佐吉・紀之助の茶坊主上がりたちが、宗茂を関ヶ原に呼び寄せたら手柄を独り占め
を独占されると考えて呼び寄せなかったという説もある。
143日本@名無史さん:03/01/18 11:01
弟は宗猛と言います。戦国から現代まで生き抜いてる世界最長老兄弟です。
144日本@名無史さん:03/01/18 13:31
大坂夏の陣・岡山口の戦い(5月7日)では、秀忠の本陣で豊臣方の猛攻を
防いでいる。
後に柳川の旧領に復帰できたのは、この時の奮戦が将軍・譜代に評価されたから
だろうね。
145日本@名無史さん:03/01/19 10:12
見てみたい対戦 立花宗茂VS真田昌幸が実現したら屈指の好カードとして大観衆で埋まりそう。
146日本@名無史さん:03/01/19 15:05
>>143
座布団一枚w

>>144
宗茂は、大阪の役での功が認められて柳川藩主に返り咲く事ができたと
されているけど、大阪夏の陣では活躍した記録は見当たらない。
毛利勝永の攻勢を防いだという説があるが、宗茂は徳川秀忠の側におり
勝永が攻めたのは、家康のほうだ。
そもそも宗茂勢は500名と少人数で、損害も少なくあまり実戦では
戦っていないようだ。秀忠の戦場でのアドバイザー役だったようだ。

柳川へ復帰できたのは、秀忠が宗茂をすっかり気に入ってしまった事と
これほどの人物を小大名(3万石)で終わらせてしまうのは惜しいと
思ったからだと思う。
家康も死ぬ前に秀忠に対して
「こんごも、立花とは懇意にせよ。しかし決して15万石以上の大名に
してはならない。」と言っている。
寝返りや、下克上が日常茶飯事であった時代を生き抜いてきた、家康らしい
言葉だと思う。
147日本@名無史さん:03/01/19 15:31
大阪夏の陣5月7日の逸話

宗茂は戦闘の始まる前に秀忠の陣が前に出すぎているので、もう少し
後方にさがってはどうか、と提案した。しかし、誰も耳を貸す者は
いなかった。やがて戦いがはじまると、大阪方の猛攻撃をうけて、
結局十町ほど後退してしまった。
このままでは危険だ、もっと陣を後ろへさげようと皆で話あっている
と、宗茂が今度は、
「もはや敵は、攻勢にでる力は残っておりません。ここで陣をさげて
は、味方の士気にかかわります。どうか、このままで」
と、1人反対した。はたしてその後、大阪方は攻撃してくる事は
なかった。人々は、宗茂の戦局眼の確かさに感心したという。

148日本@名無史さん:03/01/19 16:12
145>>
これに独眼竜も絡んでたら面白いなあ〜
149日本@名無史さん:03/01/20 00:32
>>145
それを言うなら
 立花道雪VS真田昌幸
 立花宗茂VS真田幸村
を見てみたい
150144:03/01/22 22:56
>>146
勉強になります。宗茂が旧領へ復帰できたのは1620年。将軍秀忠といえど、
家康の存命中は彼を大抜擢できなかったという事ですな。
それでも、一介の浪人から旗本に取り立て、いきなり数千石を与えるのは
並々ならぬ期待と信頼を抱いていたんだなー。

151日本@名無史さん:03/01/24 05:32
喩が変だけど、こぶへーがヒロミに憧れるのに似てるのかも。

あと、奥さんに苦労してるところにも共感したのかも?(w
152日本@名無史さん:03/01/30 16:51
勃起
153日本@名無史さん:03/01/30 17:03
関ヶ原の敗戦後、加藤清正から
自分とこの家老になって欲しいと言われたらしい
154日本@名無史さん:03/01/30 19:08
至誠にして究極の意地っ張り。
浪人しても卑屈にならず、かけひきは下手というよりしようとしなかった。
天下を取る器量には欠けたものがあったかも知れないが、
意地を貫き通して本領復帰したこの人の物語はぜひ大河ドラマで観てみたい。
私のような立場の人間には勇気を与えてくれると思う。

#昔売ってしまった小説「紅い槍」もう一度読みたい
155日本@名無史さん:03/01/31 15:23
>>154
>小説「紅い槍」もう一度読みたい

それどんな小説?
156日本@名無史さん:03/01/31 21:59
>>155
20年程前に読んで処分してしまった本なので、記憶が不確かですが
著者名は失念してしまいましたが、たしか郷土史家(たぶん福岡or大分)の方で、
書名も「紅い槍」か「紅の槍」かあやふやです。
内容は脚色の少ない淡々とした宗茂の一代記です。

Googleと日本の古本屋さんで検索しても出てきませんねえ。
九州地域だけで販売された本なのかもしれません。
157日本@名無史さん:03/02/01 15:48
2005年大河ドラマの主人公
158日本@名無史さん:03/02/02 11:40
戦国期のすがすがしい好人物ナンバーワンだが,体制側にとって都合のよい人物像でもある.
柳川に返り咲いたのも徳川の人心収攬策っぽいしね.
159155:03/02/02 20:56
>>156
>脚色の少ない淡々とした宗茂の一代記です
淡々としたというところが、いいね。
派手に脚色されていると、かえって引いてしまう。

道雪の血ひくァ千代と、宗茂との間に子があったらとつくづく思う。
どんな武将がうまれていたろうか?
夫婦仲も違ったものになっていたろうに、、、
160日本@名無史さん:03/02/02 23:27
>>153
大友遺臣の取り込み策でしょう
後の肥後領主細川氏も
松野氏や田北氏を家臣に迎えていますし
黒田氏も一万田氏にラヴコールを送っています
161日本@名無史さん:03/02/02 23:30
>>156
確か「炎の軍扇」(道雪記)
の姉妹作(妹)でした

小説としては今一ですし
歴史資料としても
今一です
162日本@名無史さん:03/02/04 01:15
漏れも2005年の大河に宗茂をプッシュするよ。
ぜひ碧蹄館の戦いもやってほしいね
163日本@名無史さん:03/02/04 01:29
 けど、宗茂を大津城下に釘付けにした京極高次も
なかなかの男だなと言いたいが、あれはカミサンが
東軍に付けと言ったらしい。
164日本@名無史さん:03/02/09 14:48
>>156
原田種真著「火の槍」だと思われ。

>>163
カミサンと言えば、淀殿の妹で秀忠の妻の姉ですな。

大津城攻めでは、宗茂は浜町口を請け負った。
この時、あらかじめ一発分の火薬をつめた竹筒を、縄でつないで弾帯を
つくらせ鉄砲隊に肩からかけさせていた。この為火薬の装填時間が短縮され、
射撃速度が飛躍的に高まった。さらに土手を築いて敏速に移動させ集中射撃
を行った為、城方はたまらず、この方面の矢狭間をとじてしまった。
攻城軍は、13日に総攻撃をかけ城内に突入する事になった。その前日
城方の伊賀忍者が、毛利の陣に忍び込み、旗を奪った。13日の総攻撃の時、
城方は奪った毛利の旗をたて笑いものにしようとした。しかしそれを見た
宗茂は毛利勢に先を越されたと思い込み、激しく攻め立て、城内に突入
三の丸を占拠したと言われる。
165日本@名無史さん:03/02/10 20:48
皆の者出陣じゃー あげ
166 :03/02/11 04:28
hage
167日本@名無史さん:03/02/11 12:31
このタイプのスレではお約束の、大河ドラマ企画「立花二代記」

1月  立花道雪と大友宗麟
2月  二人の父、宗茂誕生
3月  宗茂少年時代、道雪との出会い
4月  立花家の養子となる、ァ千代との蜜月・初陣
5月  秋月・竜造寺戦、道雪の死
6月  岩屋城攻防・島津追撃戦
7月  柳川城主、肥後一揆鎮圧、西の立花・東の本多
8月  朝鮮出陣、碧諦館
9月  秀吉の死、関ヶ原
10月 牢人時代、ァ千代の死、徳川家召抱え
11月 大阪夏の陣、柳川城主復帰、秀忠御談判衆
12月 晩年、島原の乱、病没

立花道雪には、人を感動させる逸話が数多く残っており、これを初回から
放映すれば、視聴者は充分に引き付ける事が出来き、視聴率は稼げると思う。
とにかく見所泣かせ所一杯のドラマになると思うんだがなあ。

 
168144:03/02/11 13:29
>>167
一個人としてこれほど波乱万丈・七転び八起き・山あり谷ありの人生は
確かに稀有だな。
最後は見事にハッピーエンドだし、ドラマ化したら受けると思う。
169日本@名無史さん:03/02/12 00:54
立花道雪のエピソードきぼんぬ
170日本@名無史さん:03/02/12 00:59
差していた刀に落雷して腰から下が不随になる。
当時の事とて神罰だとか考えて普通なら隠居でもしそうなもんだが、
逆に輿を担がせて各地の戦線で陣頭指揮に当たる所とか?
171日本@名無史さん:03/02/12 04:30
立花道雪は部下の育て方が上手かったというエピソードもたくさん残っているな

平時に来客のいる席において、若い武士が不調法をしたとき、
道雪は、わざと客の前にそのものを呼び寄せ、笑いながら、
「道雪の家中の者はとかく平時の奉公はふつつかでありますが、
ひとたび戦場に出でれば火花を散らすがごとく見事であります。
このものの槍の入れようなどお目にかけたいほどでござる」
と言って、槍をしごく真似をして褒められるので、その者は涙を流して感激し、
この主人のためならいつでも命を捨てようと励んだのである。
172日本@名無史さん:03/02/12 12:22
道雪自身見事な武将だがその旗下の将もまた格好良い。

道雪の臣で立花四天王と呼び讃えられた一人・由布雪下は
本来は道雪と同格の大友家直臣であったが道雪を敬慕し、
所領を嫡男に継がせた後は道雪の旗下に入ってしまった。
その後は立花家の為に尽くし、彼が推挙した者を
雇い入れる知行が道雪に無かった時、由布は自身の知行を
割いてその者に与えるよう主に進言している。
(後その者は道雪の家老になって雪下と共に立花家に尽くした)
>>171の逸話が残るような道雪だからこそ雪下もこれほどまでに
道雪を敬慕し付き従い立花家に尽くしたのだろう。
道雪の没後は続いて宗茂に仕え、宗茂が所領を失った後も
彼に付き従った。
173日本@名無史さん:03/02/12 21:35
『碧蹄館の戦い』の勝利は−小早川・立花−どちらの手柄なのでしょうか?
174日本@名無史さん:03/02/13 00:54
>>167
どうせやるなら宗茂の実父高橋鎮種もメイン級にすえないと・・・
175日本@名無史さん:03/02/13 01:29
道雪や高橋ならともかくあの程度の戦歴で本多忠勝と同格というのは
絶対納得いかん!
176日本@名無史さん:03/02/13 01:48
例えどんなにドラマチックな人生でも、知名度がなくてはな。
177日本@名無史さん:03/02/13 18:11
宗茂は本当に朝鮮で加藤清正を救出したの?
178167:03/02/13 22:48
>>174
餅の論だよ。つーかしごく当然の事だから敢て書いて無いだけ。
岩屋城落城の時、敵将島津忠長が紹運の首を前にして、感服つかまつった、
惜しむべしと頭を下げたというエピソードは、いいね。
あと、立花家へ養子にいく宗茂に
「明日から道雪殿がお主の父。万一わしが道雪殿と敵対する事あれば、真っ先
にこの刀でわしを討ち取れ。卑怯未練な事は絶対するな」
と言って刀を授けた話は、是非やって欲しいよ。

>>177
蔚山城救援の時、宗茂は固城の守備についており、救出戦には
参加していません。




179日本@名無史さん:03/02/14 02:20
筆頭家老の小野和泉は守銭奴だけど大事なときに蓄えた金銭を
すべて宗茂に差出す。これもまた殿様想いの家来だよ。
180日本@名無史さん:03/02/14 02:35
オノ・ヨーコは小野鎮幸の子孫
181日本@名無史さん:03/02/14 11:29
あの・・ 碧蹄館のことは・・・
182日本@名無史さん:03/02/15 07:07
>>181
先陣を切ったのは宗茂であるのは確かだよ。
183日本@名無史さん:03/02/16 21:51
家老の十時摂津が江戸で無法者を斬って勾留されたのがきっかけで
宗茂は幕府に登用されたが、それを推薦したのは本多正信or忠勝どち
らなの?
184日本@名無史さん:03/02/17 09:07
>>183
忠勝のほうだよ。
185日本@名無史さん:03/02/17 10:30
>>184
サンクス
186日本@名無史さん:03/02/17 20:08
>>181
碧蹄館の何について知りたかったのかな?

ところで、岩屋城落城の日には、毎年遺族の人たちが集まって慰霊祭を
やってるって聞いたけど、今でもやってるのか知ってる人いる?
187日本@名無史さん:03/02/17 21:07
>>181
碧蹄館の何について知りたかったのかな?

ところで、岩屋城落城の日には、毎年遺族の人たちが集まって慰霊祭を
やってるって聞いたけど、今でもやってるのか知ってる人いる?
188186:03/02/17 21:09
かぶった、スマソ。
189日本@名無史さん:03/02/17 22:28
>>188
1時間も差があるぞ
不思議過ぎる・・・
190日本@名無史さん:03/02/17 22:30
>>186〜188
「碧蹄館の戦い」の勝因は、立花宗茂・小早川隆景の二説あるようですが
どちらのおかげで勝てたのですか?
191日本@名無史さん:03/02/17 22:43
>>190
石田三成のおかげで勝てたのが正解。
192188:03/02/18 01:25
>>189
PCの調子が悪かったんだよ。

>>190
結論から言うと、どちらが欠けても勝利はおぼつか無かった。

>>191
はいはい、お疲れさん。
193日本@名無史さん:03/02/18 09:36
サンクス!
194日本@名無史さん:03/02/18 13:14
立花宗茂の勇猛さが発揮された戦いが「碧蹄館の戦い」です。
日本軍の戦線は、伸びきり、兵糧の補給が、李舜臣率いる朝鮮水軍に敗られたため海上輸送が滞り、極度の兵糧不足に見舞われていた。
さらには、李如松将軍の明の対女真族用の精鋭部隊5万が、援軍として駆けつけて来たため戦線は、膠着化してしまう。
平壌には、小西行長が籠城していたが、李如松の直卒する4万の大軍に攻められ、城を放棄して撤退したのだが、
継ぎ城の鳳山城では、明軍迫るの報におびえた豊後の大友宗麟の子、大友義統は、すでに逃走しており、小西勢は、大損害を受けてしまう。
結局勢いに乗る明・朝鮮連合軍の攻撃を開城で迎え撃つと言う小早川隆景ら歴戦の武将と兵糧不足から籠城は、
不利として撤退を主張する石田三成とが対立、結局、大谷吉継・前野長康らの仲介で撤退と決まった。
これは、三成の考え方が正しかったものである。(何れ三成の紹介の時に詳細は、書きます)
次から次へと撤退を続ける日本軍を与し易しとみた李如松は、軽騎を中心とした2万の兵力でもって急追し、
三成の「引きつけて討つ」と言う策にまんまんとはまり、碧諦館で迎え撃つ日本軍と戦うことになる。
この戦いでは、やはり籠城によって戦おうとする意見が、多かったが、
立花宗茂は、城を出て戦うことを主張した。
この時、小早川隆景が「立花殿こそ、先手を仕られても決して過たぬ御仁でござる。」
立花勢の三千は余人の一万に劣るまい。」と言い、宗茂の策を推した。。。
結局この案が通り、全軍出撃と決まった。
立花勢は、先手として17000の明軍・朝鮮軍を迎え撃ち、先手が苦戦しているのを見て、自ら本隊を率いて横入れし、
敵軍を突き崩したのであった。
この時立花勢の上げた首は、2000に上ったと言う。。。僅か3000で、17000を撃破したのである。。。
195日本@名無史さん:03/02/18 19:49
立花宗茂て皆、過大評価してない?
196日本@名無史さん:03/02/18 20:31
つまりあの戦いの勝利は三成が作ったもの。
三成は「碧蹄館の戦い」でのディレクターみたいなもの
立花宗茂と小早川隆景は三成のシナリオ通りに好演した役者みたいなもの
と思っていれば間違いない
197日本@名無史さん:03/02/18 21:15
昔は「大明兵10万来たる」だったけど実際は2万ですな。
もっとも、立花家の資料では終盤に南方の砲兵隊の参戦もあったようですが。
(講談だと立花の3千が40万の明軍と互角に渡り合ったというのもあり)

日本側は5万前後で、敵の騎兵が泥濘に足を取られ身動きできなくなってからは
総攻撃で袋叩きにしたのは、どの資料でも同じ。
198日本@名無史さん:03/02/18 23:01
>>196
あなたのカキコは、194.195.196でしょうか。
>つまりあの戦いの勝利は三成が作ったもの。
すいません、そう言う説は初めて聞きました。是非ソースを教えて下さい。

>>197
碧蹄館の戦いの前の軍議で、漢城籠城論と主戦論に分かれたと理解している
のですが、日本軍五万に対し明軍二万だとしたら、籠城派は随分と臆病風
に吹かれていた事になりますが、この辺についてどうお考えですか?

199日本@名無史さん:03/02/18 23:25
200日本@名無史さん:03/02/19 00:47
碧蹄館って朝鮮半島のどこらへんなの?
201日本@名無史さん:03/02/19 09:48
>>200
漢城のチョイ上のあたり。
202日本@名無史さん:03/02/19 13:15
>>198
日本側は正確な数をつかんではいなかったと思われます。

また李如松が功を焦り軽騎のみで押し寄せるという事態
は敵味方の誰も想像しなかったのではないでしょうか。
203日本@名無史さん:03/02/19 18:48
>>201
38度線まではいかないの?

204日本@名無史さん:03/02/19 19:07
立花宗茂て誰よ?
205日本@名無史さん:03/02/19 22:39
>>199
そこ、凄い電波サイトですね。
>この戦いの後、彼の武勇は天下に轟き、徳川家康は「東の忠勝・西の宗茂」
>と言って、武勇を愛でたそうです。。。
>このお陰で、宗茂は、関ヶ原戦のあと改易されたのですが、旧領柳川に
>復帰することができました。。。
しっかり笑わせていただきました。しかし、ここから「引用」した
三成の功績説の人にもびっくりものですね。
三成は軍議の時は籠城派で、碧蹄館での迎撃には難色を示していたと思う
のですが。。。

>>202
日本軍は平壌落城がよっぽどショックだったんでしょう。逆に李如松
は、漢城の日本軍は、少数だと判断していたようですね。
ただ、碧蹄館へ出撃した日本軍は5万でなく4万で、このうち戦ったのは
ほとんど小早川隆景率いる前軍2万(宗茂はその先鋒)ではないかと思います。
後軍の2万は、敵の後方部隊(実際にはいなかったわけですが)にそなえて、
予備軍として後方に控えていたようです。
この戦いで、日本軍は六千の明軍を倒し、立花・高橋勢はそのうち二千を
討ち取ってるようです。
李如松が本国に「日本軍20万の大軍と戦って敗れた」と報告している
のは、笑えますね。



206日本@名無史さん:03/02/20 20:30
加藤嘉明>>>>>>>>>>立花宗茂
207日本@名無史さん:03/02/21 01:17
九州は戦争バカが多すぎだね〜
島津・鍋島・加藤・黒田しかり
208日本@名無史さん:03/02/21 14:20
>>205
あんなデムパなHPを論拠に三成は「碧蹄館の戦い」勝利の原動力みたいに書いてる
>>196は、思い込み厨の伊達遠江守家中。
209日本@名無史さん:03/02/21 20:08
>>208は豊臣びいきの木村長門守家中。
210日本@名無史さん:03/02/21 20:27
大友@御取り潰しが思うに
歴史と講談小説を同列に語っちゃいかんのだな
宗茂は作られたイメージが先行して
実像とはチョト違う風に語られてるな
両方の父親が輝きすぎで半ば神話状態ってのも
影響してるんだろうな
実際には吉弘統幸のほうがかっこ良かったりする
211日本@名無史さん:03/02/22 00:01
確か宗茂は泗川大会戦のとき義弘に援軍を送ろうとしたが辞退されてるよね。
212日本@名無史さん:03/02/23 02:49
宗茂は島原の乱にも参戦してるよ。
213日本@名無史さん:03/02/23 03:53
>>210
>実際には

って…(藁
214日本@名無史さん:03/02/23 16:38
一人アンチがいるな
215日本@名無史さん:03/02/25 07:16
大河でやるとしたら誰が主役かな?
216日本@名無史さん:03/02/25 19:28
宗茂は清正より親の敵である義弘を慕っていたようだ。
217日本@名無史さん:03/02/25 21:26
順天倭城で明・朝鮮連合軍に包囲され脱出できなくなっていた
小西行長を救うために露梁津の海戦で立花宗茂は島津義弘と共に奮闘しているんだよね。
宗茂の「行長を朝鮮の露とするには惜しい。皆が帰国しても私はここにとどまり、
生死を共にしよう。これは行長の為でなく日本の為だ」という言葉に義弘が感動し
共に戦ったそうだ。
カッコいい〜ぞ!
218日本@名無史さん:03/02/25 23:00
島津義弘と言えば

関ヶ原の後、宗茂は大坂から引き上げる時、敵中突破してきた義弘と
出合った。宗茂にとり島津は実父の仇だったから、家臣の1人が
「島津軍は少数。今こそお父上の仇を討つ絶好の機会ですぞ」と言った。
しかし宗茂は、その意見を退け義弘に使いをだし
「昔の事は少しも恨みに思っておりません。ともに力を合わせて九州へ
かえりましょう」と伝えた。
僅かな供回りしか連れていない義弘にとって、この言葉は心強く感激して
宗茂に対し
「国元へ戻られるには、途中黒田家の領内を通られねばならず、困難が予想
されます。一緒に薩摩に行き共に戦いませぬか」と提案している。

まさに、昨日の敵は今日の友ですね。
219日本@名無史さん:03/02/25 23:03
>>218
宗茂と義弘は>>217での朝鮮で共に命がけで戦った戦友意識が強かったのでしょうね。
何かいいなあ。
220日本@名無史さん:03/02/26 03:16
>>217
その言葉は確か義弘が言ったのではなかったかなあ〜?
221日本@名無史さん:03/02/26 06:34
宗茂には実子はいなかったんだよね〜。
222日本@名無史さん:03/02/26 09:23
>>220
そう言う説もあるようですけど、どちらが先に言い出したかはこの際
どうでもいいのでは。日本は李率いる朝鮮水軍に連戦連敗。
行長救出はほとんど不可能とさえ思えた事だろう。
過去の経緯を忘れ、生死を共にしようと誓ったところに、この話のいい
ところがあると思う。
223日本@名無史さん:03/02/26 11:32
>>222
確かにどちらが言ったかは別にしてこの二人が日本軍を救ったのは
間違いないね。
224日本@名無史さん:03/02/26 20:11
しかし、島津・黒田・立花らの九州の諸大名がまとまっていたら、
家康、三成どちらにも属さない独自勢力となり、二人にとっては
脅威になってただろね
225日本@名無史さん:03/02/28 14:59
宗茂が関ヶ原の帰途義弘を殺さなかったことは
ある意味間接的ながら宗茂も明治維新に貢献して
いるのでは・・
もし義弘が殺されていたら島津が取り潰されてる
可能性が大きいよ。
226日本@名無史さん:03/02/28 15:20
はぁ…春が近い
227日本@名無史さん:03/03/02 13:40
2005年の大河でやれ



228日本@名無史さん:03/03/02 23:17
>>225
義弘が殺されても、兄の義久が健在だよ。
こっちのほうが常識があるような w

もちろん宗茂が、
過去のことを水に流したのは、カコイイ!!と思うけどね。

229日本@名無史さん:03/03/03 13:02
>>228
義久に時代を見る目はないよ。
だって一度しか上洛したことがなくて、考え方も保守的だったよ。
230日本@名無史さん:03/03/03 13:36
しかも義久は優柔ふだんやし。
231日本@名無史さん:03/03/03 19:37
義久って北条氏政と被るんだよね。
232日本@名無史さん:03/03/03 20:43
隠居してからの義久は弟義弘への嫉妬が酷い。
233日本@名無史さん:03/03/03 20:58
>>232
そりゃ、小説の悪影響だなw
234日本@名無史さん:03/03/03 21:20
名将言行録に、
加藤清正が「島津義久殿の武辺には拙者など足下にも及ばない」と言
ったと書かれている。
235日本@名無史さん:03/03/03 23:08
236日本@名無史さん:03/03/04 19:25
来年の大友宗麟のドラマに宗茂は出てくるのかな〜?
道雪・紹運は出てきそうだけど・・
237日本@名無史さん:03/03/05 07:54
大友宗麟のドラマやるの?
238日本@名無史さん:03/03/05 09:06
239日本@名無史さん:03/03/06 00:08
伴天連による奴隷貿易や寺院の打ち壊しは隠蔽されるんだろうな。
240日本@名無史さん:03/03/06 17:18
いつ統虎から宗茂に名を改めたの?
241日本@名無史さん:03/03/06 18:01
>>239
下半身の節操のなさもカットされるだろな(w
242日本@名無史さん:03/03/06 21:14
>>238
王の挽歌がベースだと期待しないほうが吉
243日本@名無史さん:03/03/07 12:59
宗麟の弟が大内に養子に行ったんだっけ〜?
244日本@名無史さん:03/03/07 22:38
>>240
宗茂は、生涯何度も改名しています。統虎の後も何度か改名しています。
宗茂という名前をいつから名乗るようになったかはっきりしませんが、
慶長15年8月20日の宗茂書状に「宗茂」の名が初めて記されているようで
おそらくこの頃、宗茂に改名したものと思われます。なお、それ以前には
俊正と名乗っているようです。
245日本@名無史さん:03/03/07 23:47
>>244
もう改名ネタはやめろよ、伊達君。
またスレが荒れるじゃないか。ちっとも懲りてないんだね、君は。
246日本@名無史さん:03/03/07 23:53
大友宗麟て奴は、キチ外だったんですか?
247日本@名無史さん:03/03/08 01:33
>>246
キタ━(゜∀゜)━!!
キタ━━(゜∀゜  )━━━━━━ッ!!!!!
キタ─wwヘ√レvv~(゜∀゜)─wwヘ√レvv~─ !!!!!
キタ*・゜゜・*:.。..。.:*・゜(゜∀゜)゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*!!!!!

究極の荒氏
至高のスレスト
自作自演の神
その名も蒲池ストーカー
248日本@名無史さん:03/03/08 01:44
蒲池の子孫君、ウザイよ
249日本@名無史さん:03/03/08 09:19
248
つまらない煽りだね
250日本@名無史さん:03/03/08 10:40
>>249
荒らしは無視 完全放置
251249:03/03/08 17:48
>>250
了解
252日本@名無史さん:03/03/08 23:57
宗麟が飼っていたサルを斬った道雪
253244:03/03/09 09:59
>>245
あなたは、208?
何で自分が伊達君とやらになるんですか?
ちなみに自分の最近のカキコは、
>>205 >>218 >>222 なんだけど、伊達君はどんなカキコしてたのですかね。
254日本@名無史さん:03/03/09 22:43
>>253
気にすんな
>>245,>>246,>>248・・・・・)
以下、蒲池ストーカー君の煽り
蒲池ストーカー君がはっきりと正体を出した時点で
スレの命は終わり
まさに>>247の言うとおりスレスト
私も消えます
255250:03/03/10 00:08
>>254
>蒲池ストーカー君がはっきりと正体を出した時点で
>スレの命は終わり

べつに、無視して完全放置すればいいさ
他のスレにもヤシは出没してるよ
256244:03/03/10 00:38
>>254
サンクス。
道理で、変だと思いましたよ。
そういえば、あちこちで似たようなカキコ見ますね。

>>255
同意。
257日本@名無史さん:03/03/11 23:19
やはり宗茂を主役にした大河は難しいのかな〜?
258日本@名無史さん:03/03/12 19:18
>>257
武蔵みたいに、誰か漫画かいてブームに火を付けるとかしないと難しいとオモワレ
259日本@名無史さん:03/03/15 19:23
テレ朝で「吟千代物語」なら可能かもな
260日本@名無史さん:03/03/16 21:33
ァ千代「ァにまかせんね!」
宗茂 「お前にまかせるとな〜」

なんかコメディになりそw
261日本@名無史さん:03/03/18 19:10
大友宗麟て奴は家臣を謀殺してその妻を奪い取ったんだよね。
国営放送もいつもの大衆娯楽史観でいいようにもてあそんで
ここらは粉飾するんだろうね。
宗茂を主役にしたら粉飾するまでもなく、かっこよすぎるよね。
262日本@名無史さん:03/03/18 19:42
島津義弘を主人公にしる!
絶対にカッコいいから。
263日本@名無史さん:03/03/18 19:47
戦国武将は、1に島津義弘、2に宗茂、3、4、がなくて、5、に蒲生だわ。
264日本@名無史さん :03/03/19 01:12
大友家の家臣時代にキリシタンのドキュンぶりを目の当たりにしていた宗茂。
島原の乱では、高齢にも関わらず出陣し功をなした。
耳川の合戦 1578 天正六年 10月

木崎原の戦いに敗れた日向の伊東三位入道義祐は、豊後の大友義鎮(のち宗麟)に救援を求めた。 

それに応えて、天正六年(1578)十月、大友軍は三万余の軍勢で日向に侵攻してきた。
一説には、宗麟は日向にキリスト教の理想国家を建設するつもりだったらしい。
宣教師を同行し行く先々の村々の神社仏閣を破壊しつつの行軍であった。

〜略〜

大友軍の殿隊まで完全に渡河し終った頃、高城の山田有信も突出し
大友軍は川を背に完全に島津軍に包囲されてしまった。

島津軍の総攻撃が始まり、大友軍は散々に蹴散らされ豊後を目指し
落ちていった…。

しかも退却中には、神社仏閣を破壊された村人たちがここぞとばかりに
待ち構えていたのであった。
266日本@名無史さん :03/03/20 07:51
立花道雪がいなけりゃ、大友家なんぞカス
267日本@名無史さん:03/03/20 10:09
大友宗麟は結局追い詰められて秀吉に泣きついたんじゃん。
ところで大友家の四天王って誰でしか?教えてくらはい
268日本@名無史さん:03/03/20 10:26
>>267
大友三家老(豊州三家老)と立花四天王とごっちゃにしてるなw
ググったら、直ぐわかるよ。
269日本@名無史さん:03/03/21 13:32
立花四天王
由布惟信 十時連貞 安東家忠 高野大膳

大友三老
吉岡長増 臼杵鑑連 吉弘鑑理
吉岡長増の代わりに戸次鑑連(立花道雪) をいれる場合もある。

270日本@名無史さん:03/03/21 13:37
スマソ
臼杵鑑連 → 臼杵鑑速ですた。

271日本@名無史さん:03/03/28 23:00
2006年の大河になんないかね〜?
272日本@名無史さん:03/04/01 22:29
立花宗茂のスレがあったことに感動。
感動しますたッ!!(TーT)
273伊達政宗:03/04/01 23:14
俺もお前も生まれるのが遅すぎ
274真田幸村:03/04/02 21:31
おいらも忘れないでね・・
275日本@名無史さん:03/04/02 21:34
朝鮮武将の立花宗茂なんかを崇拝してる朝鮮人は氏ね!
276立花宗茂:03/04/04 15:00
いやー、人気者はつらいね。すぐ挑戦人にされちゃうんだから、かなわんよw
277真田幸村:03/04/07 22:14
池宮の馬鹿野郎のおかげでますます義弘や宗茂を主役にしたドラマが遠くなったなあ〜。
278日本@名無史さん:03/04/08 10:17
>>277
あいつの本読んで島津義弘ファンになった人たちは、さぞやがっくりきた
ろうな。
279日本@名無史さん:03/04/12 17:08
逝け宮逝ってよし・・・
280日本@名無史さん:03/04/13 15:41
それにしても九州の戦国時代を舞台にした大河やんねーのかなー
絶対おもしろいと思うけどなー
信長秀吉家康が中心の戦国って飽きたんだよねー
マイナーという声もあるけど『独眼竜政宗』は結構おもしろかったけどなー





あ、龍造寺隆信が主人公というのは無しな(w
281日本@名無史さん:03/04/16 19:05
立花宗茂最強伝説
282山崎渉:03/04/17 13:11
(^^)
283日本@名無史さん:03/04/17 15:37
島津三代やれ
忠良―貴久―義久
284日本@名無史さん:03/04/17 22:16
主人公が島津にしろ、立花にしろ、誰かが漫画にしてくれないと。。。(w)
誰かいい原作になる小説を書いていてくれたらいいんだが、
その肝心の小説は、逝け宮があんなことしでかしてしまったし・゚・(ノД`)・゚・
でもどっちにしても大河ドラマにしたら絶対受けると思うんだがなぁ


ところで立花氏は古代貴族の橘氏(橘諸兄とかの出身氏族)とは関係あるんですか?
しょうもない質問でスマソ
285日本@名無史さん:03/04/18 19:58
>>284
>古代貴族の橘氏(橘諸兄とかの出身氏族)とは関係あるんですか?
大友の一族が筑前の立花山で拠点を築いた時、立花と称するようになったもの。
つまり地名からきたものですな。
286日本@名無史さん:03/04/19 20:03
あんりまぁー
287山崎渉:03/04/20 01:47
   ∧_∧
  (  ^^ )< ぬるぽ(^^)
288284:03/04/20 20:34
そっかー。まあ、たぶんそんな所かなあとは想像してたのですが(w
レスさんくすこ>>285
289s:03/04/24 19:03
s
290日本@名無史さん:03/05/06 20:15
立花宗茂
291_:03/05/06 20:16
292日本@名無史さん:03/05/07 18:32
茂立花宗
293日本@名無史さん:03/05/22 11:27
宗重
294日本@名無史さん:03/05/27 21:28
宗茂の実父高橋鎮種について詳しく教えて欲しいな〜。
295徳川家康:03/05/27 21:29
立花道雪は知ってるのかな??
296日本@名無史さん:03/05/27 21:44
もつぃろんでつ。
こないだ梅岳時に墓参りしてきますた。
297山崎渉:03/05/28 10:44
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎――◎                      山崎渉
298日本@名無史さん:03/06/03 01:22
さるべage
299日本@名無史さん:03/06/03 01:42
宗茂の本物のオヤジ様の高橋紹運は人気ないの?
でも、紹運の子供で道雪の養子なんていかにも強そう。
なぜか宗茂にはさわやかさを感じます。
300日本@名無史さん:03/06/03 01:56
>>294
豊後・大友氏家臣。吉弘鑑理二男であるが、
謀反を起こし跡絶えた高橋鑑種の跡を継ぎ筑前・宝満城に入る。
1585年、侵攻する薩摩・島津軍5万余に支城岩屋城にて囲まれるが、
寡兵7百余にてよく守り降伏にも応じなかった。
しかし翌年、ついに残余の将兵50余名と共に、城内にて自刃して果てた。
宗茂は関ヶ原の後敗走する父の仇の義弘と出会い
討つどころか助け合って帰還しています。義弘はこの事に感激して
家康に攻められた時は援軍を出す申し出もしています。
宗茂と義弘。やっぱり魅力的だわな
301日本@名無史さん:03/06/03 22:55
だから秀忠も彼にお家再興をさせたのでしょう。
302日本@名無史さん :03/06/22 02:00
立花伯爵の後末裔
は島津興業の曲水の宴に招待されておりました。
303日本@名無史さん:03/06/22 12:18
>>300
道雪と共に戦争狂という説もあるね。
それはともかく、あまり統治を得意としていなかった印象があります。
304日本@名無史さん:03/06/29 06:22
だから大河で義弘と宗茂を主役でやれよ
305日本@名無史さん:03/06/29 21:10
島津奔る回収で不可能
306日本@名無史さん:03/07/02 00:22
みんなマイナーだよ
307山崎 渉:03/07/12 12:58

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
308山崎 渉:03/07/15 11:46

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
309日本@名無史さん:03/07/26 00:38
うほ
310日本@名無史さん:03/07/26 10:36
>>280
龍造寺が主人公→途中で主人公は鍋島へ→ラストはにゃんこ騒動
311山崎 渉:03/08/02 01:33
(^^)
312日本@名無史さん:03/08/06 02:35
そういや、山川出版のオレンジ色のカバーの日本史問題集の中で国学院大学が出した問題に
起こった戦いの名称を答えるヤツがあって、そこに、
「岩屋城の戦い」
って選択肢があった・・・他には長篠の戦・川中島の戦い・三方ヶ原の戦い・・・
この戦いと肩を並べることができてたなんて高橋紹運・・・すごいヤツだな・・・
感動した・・・同時に、なんて選択肢を作るんだ!!・・・とも思った
        ,,,--─===─ヽ/へ
      /iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ
     iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶
    iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ
   iiiiiiiiiiiiiiiiii/             \iiiiiiiゞ
   iiiiiiiiiiii/                \iiヽ
  iiiiiiiiiiiiiii《    ━━━'/  ヽ━━━ ヽミヽ
 ...iiiiiiiiii彡/      __,.::  :: __  ヽiiiii|
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316山崎 渉:03/08/15 13:56
    (⌒V⌒)
   │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  ⊂|    |つ
   (_)(_)                      山崎パン
317日本@名無史さん:03/08/31 20:55
はい
318日本@名無史さん:03/09/04 13:13
養父は、立花姓を名乗らなかったといわれてますが、
宗茂もはじめ戸次姓を名乗ったんですかね?
319日本@名無史さん:03/09/04 15:40
戸次は養子・鎮連が継いでいますよ。
320318:03/09/04 16:51
戸次氏の所領はそうなのでしょうけど、「道雪の地位は立花城督であって、
大友庶流立花氏の家督ではない。宗茂は立花姓を秀吉からあたえられた。」
などという話をどこかで見たことがあるものですから。そのあたりの事情を
知りたいのですが。
321日本@名無史さん:03/09/04 17:40
大友宗麟先生を先に大河しろ!ヘマヅなんてしなくて良し
322日本@名無史さん:03/09/13 11:59
大友宗麟は晩年の狂信ぶりをドラマにまとめるのが難しそう。
今年の武蔵も吉岡潰したあたりから視聴率がた落ちだから
大河ドラマ宗麟も二階崩れ以降は視聴率取れなくなるのでは?

日本史好きなら知らない人はいないが、そうでなければ
九州ですら、というか時として大分県民ですらよくは知らない
重要人物なので、大河ドラマ化はほとんど絶望・・・
信長みたいな苛烈さと奔放さがあって面白い人物ではあるんだけど・・・
323日本@名無史さん:03/09/13 16:12
筑前筑後豊前の勢力図ってどんなもんだったんだろう。
秋月、星野、立花高橋、宗像、香月、麻生?
324日本@名無史さん:03/09/13 16:24
原田・長野・千手・宝珠山・問注所
325日本@名無史さん:03/09/14 11:02
>>319
戸次家は謀反で潰されて宗麟が道雪に釈明したというのをどこかで読んだ気がするが。
326日本@名無史さん:03/09/14 19:57
宗麟じゃなくて義統ね。
島津の圧迫が強まる中、鎮連は謀叛の罪で義統により滅ぼされました。
327日本@名無史さん:03/09/14 20:03
言葉不足ですね。すんまそ。

鎮連の死亡時期は不明瞭。
1585年9月、南部衆の離反によって疑われ、やがて鎮連は義統により誅殺されますが、
この9月は養父の死去と重なります(道雪の死は9月11日)。

たぶん、道雪が宗麟に釈明するのは難しいんじゃないかな。
というより、逆に鎮連よりも道雪の死の方が先だと思う。
328日本@名無史さん:03/09/22 03:22
あれ、このスレ見ずに重複スレのほうに書き込んでしまった。
しかもここ今読んでたら、すげえ不勉強。
329日本@名無史さん:03/10/04 21:38
330日本@名無史さん:03/10/25 06:29
立花宗茂は剛毛の毛むくじゃら

  「群雲、関ケ原へ」より
331日本@名無史さん:03/10/25 17:12
みんな、もっと真面目に発言しよーぜ!
332日本@名無史さん:03/10/26 14:25
『立花宗茂』関連の
お勧めの資料(小説など)はありますか?
333日本@名無史さん:03/10/26 19:43
まずはググれ。話はそれからだ。
334日本@名無史さん:03/11/01 10:20
養父とか家臣とか、なんかジジイに気に入られて鍛えられた分
若年〜中年まではすごいけど、年上の家臣が死に絶えた晩年は
ぱっとしない。養子とは言え子供なんかぜんぜん器量不足だし。
年上はうまく使えても、自分より年下はうまく育てられない
感じがする。
335日本@名無史さん:03/11/01 10:32
>>303
戦上手の面ばかりいわれる道雪だが、内政オンチだったら立花山城は任せられんだろう。
貿易港博多の入口である立花山城主が博多の経営に全く関与しなかったとは考えられない。
九州屈指の商業都市・博多からの収益が大友家の財政をどれだけ潤すかということを考えれば、
内政にもそれなりに通じた城主を配置すると思うのだが。
336日本@名無史さん:03/11/01 13:01
俺が思う戦国最強戦闘武将の面々の一人。
○島津義弘(末弟・島津家久もかなりの実力)
○上杉謙信(鉄砲普及前なので割り引いて考える面はあるが)
○立花宗茂(立花道雪よりも実戦力は上と考える)
○真田幸村(真田昌幸は策略家であるが戦闘力ではやはり幸村)

福島正則、加藤清正・本多忠勝・井伊直政あたりは侍大将(今で言えば機動隊長程度)の印象。
337参考書籍:03/11/01 13:15
>>332
こんなところでしょうか。
『人物叢書 立花宗茂』中野等・吉川弘文館
『立花宗茂』八尋舜右・PHP文庫
『小説 立花宗茂(上・下)』童門冬二・学陽書房人物文庫
『立花宗茂』原田種真・広済堂文庫
『長編歴史物語 戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』古賀敏夫・九州出版社
338332:03/11/01 13:20
337さま、ありがとうございます。
339日本@名無史さん:03/11/24 00:33
立花宗茂の一番面白いところは「もし関が原に到着していたら」というところだな
340日本@名無史さん:03/11/24 11:22
>>339
三戦板にそのスレはある。

だが、関ヶ原の主戦場で戦っていたら、柳川復帰はなかったのでは?
341日本@名無史さん:03/11/24 11:36
寡をもって衆を撃つ
これに男はあこがれるからな
342日本@名無史さん:03/11/24 12:40
ようするに、朝鮮出兵で
経験を積みまくった(もしくは積まざるを得なかった)
連中が最強だね。
343日本@名無史さん:03/11/24 23:49
立花宗茂の朝鮮での戦果は?
344日本@名無史さん:03/12/24 20:41
4
345日本@名無史さん:04/01/06 08:17
正月時代劇見ました
立花道雪って大名クラスなんでつね
なんか宍戸梅軒みたいな武芸者かと思っていた
毛利退けたのはすごい
346日本@名無史さん:04/01/06 18:47
>>343
文禄の役では小早川隆景の配下で碧蹄館の戦いで先鋒を勤める
慶長の役では露梁津の戦いで島津と共に殿を勤める
、、、というのが主な戦果
細かい戦いにはもっと出ていると思うが今は思いつかね
347日本@名無史さん:04/01/07 08:42
>301
立花だけがもとの状態で復帰できたらしい、大抵は再興できても
石高は減らされてるしな。
348日本@名無史さん:04/01/25 01:19
栗のいがが刺さったのを、家臣由布雪下に抜いてもらおうとした
ら、逆に由布が「これでもか」と栗のいがをグイグイ押し付けた。

関ヶ原敗戦後、19名の家臣とともに放浪の旅に。飯に汁をかけ
て出した家臣に、宗茂、「飯だけでいい」。

家臣が干し飯を縁側に出したまま外出。大雨が降ってきたので
殿様(宗茂)が取り込んでおいてくれるかな、と言ったところ、同僚
が「そんなこまかいことに気づくようでは、殿様の御武運も尽きた
も同然だ」と答えた。案の定、宗茂はずぶぬれの干し飯には気づ
かず、読書をしていた。
349☆キキ+キ゚Д゚ ◆qpmo.OOqAo :04/01/25 01:44
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350日本@名無史さん:04/02/16 14:26
ちょっくらあげてみる

立花宗茂は秀吉の”島津征伐”後に大友氏配下から独立して大名に取り立てられるが
これっていうのは島津軍を追いかけて敗走させたことに対する功績なんですか?
大友宗麟が秀吉に「立花家は功績のある侍なので大名に取り立ててくれ」と陳情していたという説もあるが・・・
351日本@名無史さん:04/02/17 01:03
侍、って…
352日本@名無史さん:04/03/19 20:22
そろそろ出陣いたす
353日本@名無史さん:04/03/24 23:47
2月から3レスだけかよ
354日本@名無史さん:04/04/07 22:35
安東大膳だっけ? 四天王で業績が良く分かっていないの?
355日本@名無史さん:04/04/24 23:45
やはり九州の大名という事だけで
知名度は圧倒的に不利
356日本@名無史さん:04/05/15 20:19
知らないの?
357日本@名無史さん:04/05/25 07:37
雷切って現存してるの?
358日本@名無史さん:04/06/11 00:30
>>339
大津城をすばやく陥落させていたら、島津とともに家康の本陣に突撃でしょう。
359日本@名無史さん:04/06/11 01:18
342 名前:日本@名無史さん :04/06/11 00:20
 けどこの中での英雄は立花宗茂でしょう。
 秀吉は佐々に肥後一国を与える前に宗茂に肥後一国を打診していたという話もあるが

346 名前:日本@名無史さん :04/06/11 01:17
>>342
英雄ってほどじゃない。
子飼いに優れた武将を持たない秀吉が自分の配下に取り込むために、褒めあげ
おだてまくっていただけで、能力的には加藤清正以下。
せいぜい「硬派な池田輝政」クラスの人物。
家臣団も、大友系侍のうち優れた者が濃縮されていたから強かっただけ。
360日本@名無史さん:04/07/14 23:14
マジ?
361日本@名無史さん:04/09/01 19:53
フジ?
362日本@名無史さん:04/09/10 02:14
学研M文庫 『立花宗茂』発売記念age
小説だけど、学研だけど、面白いですよ(少なくとも童門よりは)
363日本@名無史さん:04/09/11 14:11:46
八尋の方が好きだがな…。
364日本@名無史さん:04/09/28 00:49:12
俺は原田種真のほうだな
365日本@名無史さん:04/10/04 12:38:13
>>358
東の本多忠勝、西の立花宗茂の対決が見たかった
366日本@名無史さん:04/10/29 15:23:40
立花理佐は子孫ですか?
367日本@名無史さん:04/11/01 17:59:09
>>365
そういう小説があったよ仮想戦記物で
368日本@名無史さん:04/11/06 21:49:44
369日本@名無史さん:04/11/10 00:17:30
立花宗茂・真田幸村・伊達政宗は同い年。
370日本@名無史さん:04/11/27 00:11:57
ほんとかよ
371日本@名無史さん:04/12/01 17:26:46
>>370
ほんと

372日本@名無史さん:04/12/25 05:46:31
三角氏
373日本@名無史さん:04/12/27 21:43:37
age
374日本@名無史さん:05/01/17 23:38:54
下がりすぎなのでage

いつかこの人を題材にした本を書いてみたい…
375日本@名無史さん:05/01/18 00:18:57
>374
今から書いてみなよ。
書き溜めて、推敲して、より自分の味のあるものに仕上げてみなよ。
他人に見せなきゃ恥ずかしい思いもしなくていいし、
今の実力なんて関係なく、やってみてよ。

けっこう小説類も、何年もかかるらしいから、気持ちのあるうちに
書いた方がいいよ。
376日本@名無史さん :05/01/28 02:02:34
宗茂が関が原に来てたら、島津の隣に布陣するな。島津も宗茂に触発されて参戦してただろう。
左近、蒲生浪人、立花、島津こんなラインで押してたら・・戦況を見た小早川はどんな判断を下していただろうか??

宗茂はそんな想像をたくましくしてくれるんだよ〜〜
377日本@名無史さん:05/01/28 12:37:38
>376
しないと思いまふ。
島津は父の敵ですよ。
378日本@名無史さん:05/01/28 13:34:56
>>377
朝鮮の役のエピソードを調べてみて。
宗茂は島津に対しても尊敬の念を抱いている様。
379日本@名無史さん:05/01/28 17:37:12
関が原から引き上げるとき宗茂の船に義弘を招いたときも
家臣が敵討ちしようといってきたけど、そんなのは卑怯者のすること
ってしりぞけたな
380日本@名無史さん:05/01/28 17:45:49
>379
だからですよ。

関ヶ原前なら重臣の反対にあって、無理だろうと思ったわけです。
そこに構えるという無理に押し通すどおりもありませんからね。
381日本@名無史さん:05/01/28 17:58:11
重臣もそんなにケツのあなちっさい連中揃いと思いたくないがな
382日本@名無史さん:05/01/29 01:23:31
当時の武家の発想としてはそっちが自然ですよ。
強い結びつきのあった人が殺されたのなら、なおさら。

強くて魅力ある武将同士が連携して・・・・というのは、
言い方悪いけれども、平和な現代人のエゴに過ぎない。

逆に宗茂も合戦前に家臣に反対者が出れば、押し通したりしないと思う。
名将だからこそ、戦前に家臣に不信感を持たれることが
いかに愚であるかわかるだろうし、第一実父紹運に教えられて育ってるはずだし。
383日本@名無史さん:05/01/30 06:55:52
立花宗茂と真田幸村と蒲生氏郷は知名度ないね。稀代の名将なのにな。黒田官兵衛もそうか。
384日本@名無史さん:05/01/30 08:39:06
幸村?
385日本@名無史さん:05/01/30 08:44:58
俺は真田昌幸のほうが好きだな
386日本@名無史さん:05/01/30 08:56:32
あえて真田幸隆
387日本@名無史さん:05/01/30 10:36:52
>>383
幸村は知名度あるだろ
信繁の知名度は低いが
388日本@名無史さん:05/02/01 00:02:37
 立花宗茂って改易される以前の戦上手ぶりが取りざたされることが多いけど
むしろ改易された後の方に凄さを感じるものがあると思う。

 もしあそこで改易されなかった場合大阪の役でも豊臣方に付くのが筋となるわけだから清正みたい
に急死するか真田信繁みたいに派手に散ってたかしてただろうし、例え徳川についても裏切り者
のそしりをうけざる得なかったはずだったんだけど改易されて徳川家に仕官したことで徳川方に付いて
当然の立場になっていた。しかも秀忠、家光の2代を通して御談判衆(将軍の相談役みたいなもの)を
勤め外様大名でありながら幕閣並に信頼されるという、明らかに改易されなかった場合よりも立場が
好転している。

 なんつうか人間関係の達人とでも言うのかな、親に期待され、主君に信頼され、他大名とよく友誼を
結び、幕臣からも頼られ、家臣はよく働き、領民にも慕われる。
 まあ運と実力あってこそなんだろうけど、ある意味究極の処世術を体現した人なのかもしれん
389日本@名無史さん:05/02/01 00:08:13
奥さんとの仲は…
390日本@名無史さん:05/02/01 01:02:12
>>388
>もしあそこで改易されなかった場合大阪の役でも豊臣方に付くのが筋・・・・・・
>例え徳川についても裏切り者のそしりをうけざる得なかったはず

福島正則でさえ豊臣方に付いてないし、その他多くの豊臣恩顧の大名及び
その子孫や西軍で改易を逃れた者が、家を守る為に豊臣方に付いてない。
よって裏切り者のそしりは受けない。宗茂も自身や家臣の為に徳川家に仕えて
家を再興している。当時は我々が考える以上に御家が大事だったと思われる。
豊臣方に付いた長宗我部ら浪人も、御家再興が狙いだったかも?
真田信繁は例外

>明らかに改易されなかった場合よりも立場が好転している。
確かに改易されなかった場合、或いは関ヶ原で東軍に付いていた場合は
幕府に信頼されず、あぼ〜んされてた可能性がある。
秀忠、家光の2代で結構あぼ〜んしたから、改易されて徳川家に仕官して正解
391日本@名無史さん:05/02/01 07:07:53
でも、立場的には長曽我部成親や真田幸村と一緒の浪人でしょ?
392日本@名無史さん:05/02/01 07:21:43
>>389
闇千代様は7歳で立花山城の城督となってた人だからねえ、プライドが高かったんだろうね。

個人的なイメージとしては、なかなかデレないツンデレって感じなんだが
実際どういう人だったんだろうね
393日本@名無史さん:05/02/02 20:47:33
頑固で我が強い性格だったんだろうね
当主をさしてでしゃばるなっていう意識が宗茂にもあっただろうし
闇千代にしても一度は家督を継いだっていうプライドもあるわけだし

磁石の同じ極どうしで反発しあっちゃったのかなぁ
394日本@名無史さん:05/02/02 23:31:08
闇千代は道雪が死ぬときまで当主だったということで、
婿である宗茂にもそのように接していたと何かで読んだことがあります。
ましてや2人は幼馴染ゆえ、遠慮もなかったことでしょう。

美人でありながら父譲りの気性の激しさ、今だと誰が
イメージに近いだろうか?
395日本@名無史さん:05/02/03 00:56:02
旦那を差し置いてというなら、ヒラリー・クリントン

父譲りの気性の激しさなら、田中真紀子かな
396日本@名無史さん:05/02/03 10:26:37
真紀子も若い頃は、父の美人秘書みたいな扱いだったよね。
397日本@名無史さん:05/02/19 16:32:28
志木沢郁の「立花宗茂」は久々のヒットだった
398日本@名無史さん:05/02/19 17:04:51
八尋や童門のと比べて面白い?
399日本@名無史さん:05/02/23 02:03:49
俺も結構面白くよめたよ
いままでの小説と違って他国の大名との関係もよかった
細川忠興とかいいけんか友達みたいにかかれてたしね
幕府に取り立てられてからの話も童門のと違って立花宗茂という人物がいかに特異な存在かわかる
400日本@名無史さん:05/02/25 14:59:16
>>397
秀忠が好きになった
401日本@名無史さん:05/03/07 18:01:14
大河祈願age
402日本@名無史さん:05/03/08 16:28:52
>>401
ん?ageとけばいいのか?
403日本@名無史さん:05/03/08 16:39:11
>福島正則でさえ豊臣方に付いてないし
正則は家臣を入城させようとしましたよ。
失敗しましたが。
404日本@名無史さん:05/03/08 19:20:46
高橋紹運の息子で立花道雪と養子縁組したんだっけ。
それでかつ有能なんだから、これほど文句なしな武将も珍しい。
405日本@名無史さん:05/03/09 00:07:03
道雪は宗茂を見込んで無理矢理婿養子にしたんだけど
道雪の一人娘・ぎん千代との中は最悪だったようね。
IF史になってしまうが、結局自分の血統を残さなかったことを道雪は草葉の陰でどう思っていたのかな。
406日本@名無史さん:05/03/09 02:04:44
道雪は息子が一人いたが坊さんになったんだよな
407日本@名無史さん:05/03/09 11:09:13
>>406
それは嫁の連れ子じゃなかったっけ?
408日本@名無史さん:05/03/10 12:35:21
宗茂には実子がいなかったから、甥を養子にして跡継ぎにした訳だが、
この時代、子供がいなかった為に取り潰された大名は、いっぱいいる。

立花家が安泰だったのはなぜかな?
409日本@名無史さん:05/03/10 12:51:18
宗茂存命中に跡継ぎを確保したからだろ?
後継者不在のまま没したら、当然立花家も取り潰されてただろ
410日本@名無史さん
age