北畠 顕家!

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1日本@名無史さん
早熟の代名詞、わずか10代で東北制覇の北畠顕家卿についてマターリと語りましょう
2日本@名無史さん:02/11/27 00:10
2
3日本@名無史さん:02/11/27 00:11
>>1

お前がネタを振らないと始まらない。

質問でもしてみろ。
4日本@名無史さん:02/11/27 00:52
1318〜1338(文保2〜延元3・歴応1)

南北朝時代の貴族・武将
権中納言
従二位
親房の長男
1333(元弘3・正慶2)建武政権によって陸奥守に任ぜられ義良親王を奉じて任地に下向
35(建武2)鎮守府将軍を兼ね、足利尊氏の離反によりこれを追って上洛
尊氏が九州に敗走したので帰任し、陸奥太守義良親王とともに再び東下
36(建武3・延元1)後醍醐天皇の勅により上洛しようとして
美濃青野ヶ原で足利軍と戦って敗れ
各地に転戦ののち和泉石津で戦死した
5日本@名無史さん:02/11/27 00:57
公卿武将
 北畠親房・・・南朝の要となる
 北畠顕家・・・戦死
 千種忠秋・・・戦死
南北朝の公家ってたくましいな。
6日本@名無史さん:02/11/27 01:00
京都に突っ込めば勝てたものを・・何故に進路を変えたのか。
7日本@名無史さん:02/11/27 13:22
合流を嫌ったらしい
8日本@名無史さん:02/11/28 15:12
弟2人も結構優秀
9日本@名無史さん:02/11/28 15:21
南朝公家何人討死しているの?
箱根竹之下、笛吹峠石浜、筑後川でもかなりの数の南朝公家が
華々しい討死しているように見受けられるが。
10日本@名無史さん:02/11/28 20:07
ちょうど、「破軍の星」読み直しはじめたとこだ。

陸奥からの上京の件なんて興奮するね。
11日本@名無史さん:02/11/28 20:30
「破軍の星」ってどのくらい脚色されてるの?
12日本@名無史さん:02/11/28 21:13
漏れもあの破軍の星しか知りません。他に書かれた本ってないのかな?情報キボン
13日本@名無史さん:02/11/28 21:22
アマゾン検索で、
「花将軍 北畠顕家」横山 高治
14日本@名無史さん:02/11/28 21:34
でも15歳で従三位参議でしょ。摂関家でもないのに・・・
漏れは後醍醐の寵童と見るね。
15日本@名無史さん:02/11/28 21:36
建武の新政には親子ともども批判的だった。
でも忠義は人一倍尽くしている。
16日本@名無史さん:02/11/28 21:37
>>13
北方さんの南北朝三部作の第二作目「破軍の星」と読み比べました。
後の「三国志」を予感させるエキサイティングな軍記小説。

※ 南北朝三部作 主人公
 1.「武王の門」 征西将軍宮 懐良親王
 2.「破軍の星」 北畠顕家
 3.「陽炎の旗」 楠木正儀/ほか

たしか、講談文学に贈られる柴田練三郎賞を受賞したはずだ。
17日本@名無史さん:02/11/29 17:46
age
18日本@名無史さん:02/12/14 21:37
武王の門は、懐良親王より菊池武光の方が印象にのこってるなぁ
破軍の星は、安家一族っていうのが、ちと胡散臭そうだったけど。。。顕家公は颯爽としてかっこよくかかれてましたな
個人的には、新田義貞のほうが好きなんだが
19NHK太平記:02/12/15 01:06
後藤久美子が演じた北畠顕家の凛々しい武者姿は、鶴太郎の北条高時と同じぐらい
見るものを魅了すると共に、緊迫感を漂わせていて、思わず息を飲んで見ていまし
た。南部や伊達の武者達と滅んでゆく姿に思わず涙が…。
20日本@名無史さん:02/12/15 01:28
大阪石津川のローカルな川辺リに碑があります
こんな小さな川辺リで果てたのか!と思わず合掌なまんだぶなまんだぶ
21日本@名無史さん:02/12/15 10:56
陽炎の旗って、竜王丸とか月王丸がでてくる話だっけ?
そうだったら、楠木正儀ってあんまりでてこないやん(笑)
あれは、武王の門の続編みたいなので、足利義満の野望を懐良親王の子(水軍の長)
の月王丸が粉砕するって話じゃなかったっけ?
22しったかぶり:02/12/15 19:54
 顕家の二度の西上軍には、はるばる奥州の南部騎馬軍が参加しております。
現在の青森県、岩手県北部の侍たちです。どういうわけか影の薄い「南部氏」
ですが、石津で戦死した「南部師行」もどうかお忘れなくおねがいいたします。
「師行」と共に戦死した百数名の戦死者の名が残されているそうです。又二名の
生き残りが命からがら八戸根城(ねじょう)までたどり着き、戦の模様を報告し、
それを聞いて泣かぬ者はなかった、と記録されているそうです。
 
23日本@名無史さん:02/12/15 21:01
>>22
一回目の時は、南部師行は参加してなかったんじゃなかったっけ?
斯波家長がいたんで、その押さえのような感じで残っていたと思うんだけど。
2度目の時は、結城・伊達と共に主力だったはずだよね。
黒地川の合戦では、一番奮戦したのが南部の軍だったらしいね。
24しったかぶりさんこんなとこまで…:02/12/15 21:26
北畠顕家が死んだ後、陸奥国には、弟の子孫が土着し北朝および足利氏に抵抗し続けます。
陸奥国府から徐々に今の青森に追われながらも、『船越御所』、『浪岡御所』と北上する
場所に名前残しながら生き延びましたが、かつての盟友、南部氏によって滅亡させられた。
戦国時代を生き残った伊勢の大名の北畠氏も、信長の時代に滅亡している。
25しったかぶり:02/12/15 21:26
そうです。一回目の時「師行」は國府(多賀城)の留守番です。根城には、「政長」(師行の弟)が
いて、政長の息子の「信政」(20才前後か?)が従軍しました。その信政は後に吉野に「後醍醐」
の奥方(達智門女院)の護衛番としてはるばる吉野に行って(1346年)その後行方不明です。
(北朝に攻められたとき戦死したらしい)後、「政長」が孤軍奮闘して南朝の旗を守りました。
ところで、「黒地川の合戦」とはどこでしょうか?「太平記」にのってますか?

2623:02/12/15 21:37
字が間違ってるかも知れないけど、伊勢に転進する直前にあった合戦が黒地川の合戦
詳しい場所は知らないのだけど、美濃と近江の境か?、近江か?
その辺りの場所だと思うけどね
太平記にのってたような記憶が有るけど
奥州軍5万(だったと思うけど)vs足利軍(15万。対象は高)で、奥州軍が勝ったけど
損耗が激しくて、京に残る10万の足利軍には抗す事が無理になったので、泣く泣く伊勢に
転進したってような書き方だったと<太平記
軍勢数は、太平記らしくものすごく多く書かれてるけど
2723:02/12/15 21:39
対象=大将のまちがいだわ
恥ずかしいので、去ります
28日本@名無史さん:02/12/15 23:12
大河ドラマじゃ、ゴクミが演じてたなぁ。美少年だったのかなぁ。
29日本@名無史さん:02/12/16 00:55
>>28
髭面の体格のいい兄さん。
30日本@名無史さん:02/12/16 21:22
age
31しったかぶり:02/12/16 22:56
>23さん ありがとうございました。
>24さん、顕家とはずれますが「浪岡御所」を滅ぼしたのは
 南部氏と津軽氏双方がお前がやったんだ、と言い合っています。
 本当の所は未だ闇のなかです。
32ゑ゛じゃないか解放戦線伊勢派:02/12/16 23:01
戦国時代末に織田信長が次男信雄を養子を送り込んだ伊勢の北畠家は顕家の弟の子孫?
そうなら南朝方が何故室町時代を生き延びられた?
33源太が産衣:02/12/17 01:50
>>32
たしか、足利義満のときに恭順を誓って、伊勢守護職を認められたと思う。が
何度か反抗を試みたことがある…と記憶しているがさだかではない。
34日本@名無史さん:02/12/18 20:33
摂関政治・武家政治の一掃を目指す後醍醐に見込まれていたにもかかわらず、その発想の古さから期待に
応えられず、最終的には後醍醐を批判しつつ憤死した悲劇かつ喜劇の人。
35日本@名無史さん:02/12/18 20:46
発想の古さ?
何をもって、顕家公の発想が古かったといってるんだろう?
喜劇の人?
それはちゃうんじゃない?
36日本@名無史さん:02/12/18 23:07
たところが、企画倒れというべきである。上流貴族の若者だからしょうがないか。
37源太が産衣:02/12/18 23:56
南部氏は南朝が劣勢になってもしばらくは足利に寝返らず、
南朝支持を掲げて、陸奥に勢力を維持し続けた。(最終的
には、足利氏に従うが…。)北条氏亡き後の陸奥の経営を
北畠 顕家の庇護の下で任されていた様子が古文書などで
確認される。よっぽど顕家に恩を感じていたのかもしれま
せんね(この点はしったかぶりさんの独壇場でありますが…)
その子孫である、三戸南部と南部一族の津軽氏(大浦氏)の
どちらかが北畠顕家の弟の子孫である浪岡御所を滅ぼした
のは、悲しい歴史の現実ですねえ。
38しったかぶり:02/12/19 00:18
今日、「破軍の星」(集英社文庫 705円)
を買ってきました。(文庫ででていてよかった)

源太が産着さん、悲しいですね。
 (どっちが滅ぼしたのかは結構大きい問題みたいですよ。)
39日本@名無史さん:02/12/19 04:55
>>21
「南北朝の梟」か「楠木正儀」と混同していました。
懐良のジェネレーションの物語でした。 謹んで訂正します。
40あげます:02/12/19 13:49
2chで、ちと間違っても【謹んで訂正】なんて堅苦しいことせんでもw

北畠顕家って、ちと興味あるんで、あげときますわっ
41日本@名無史さん:02/12/19 20:36
鎮守府将軍に任命されるときに「従二位の俺が何故こんなシケた官職になるんじゃ!」といってマジ切れ。
結局、特例として鎮守府「大」将軍の辞令をもらって機嫌を直したという、エリート意識過剰厨です。
42日本@名無史さん:02/12/19 20:50
帝塚山に北畠神社だっけ?あるよ。
ああ、うるわしの美少年だっけ、石碑もある。
戦前は美少年の代表で全国の女性達に人気だったらしいぞ。
43日本@名無史さん:02/12/19 20:55
信長の野望ではいつも恐怖させてもらってます。
44日本@名無史さん:02/12/21 20:52
帝塚山で戦死したのか?それとも生まれたのか?
45日本@名無史さん:02/12/21 22:53
>>43
信INですか?(藁
彼には同じく恐怖させてもらってます
スレ違いスマソ、下げておきまふ
46日本@名無史さん:02/12/21 23:59
遠藤忠村age
47日本@名無史さん:02/12/22 01:24
北方厨房ばっかりだな、小説じゃなくて歴史研究書を読めよ、まったく。
あの頃は「公家がお風呂に使った湯を飲めば、どんな病も直る」というぐらいに
民衆に公家信仰があり、東北のような田舎では公家は生き神様のように扱われた。
無知な民衆にとって顕家は生き神、つまり後の一向一揆のような盲目的な信仰心に
支えられた宗教的なノリがあったがために、普通の軍隊より強かったし、
歩きながらバタバタと死ぬような無茶な強行軍にも文句も言わず従っただけ。
北畠顕家の軍事的な才能などとはまったく無関係、って言うより自軍の疲労を
考えないその無謀な猪突猛進ぶりはむしろ軍事的に無能であったことの証明。
天皇礼賛の明治以降に神格化・英雄化されただけで、実際は足利憎しの怒りに
かられた人生経験の浅い若い貴族に過ぎない。
48日本@名無史さん:02/12/22 14:37
>>47
前半部は、本気で言ってるのか?
本気だとしたら、間違った【歴史研究書】を読んでたんだな。可愛そうに
公家信仰ねぇ〜あったとしても、そんなのは顕家公の時代よりは、はるか昔の話だろ?
少なくても、鎌倉時代の前半まででしょ。公家がありがたがれてたのは。
その後は、まともな公家なんて、ほんの一部の公家だけでしょ
そんな公家を力のある地方の武士が相手にしてたとは思えないけど。。。
利用するだけして、利用価値がなくなったら、公家など相手にされなかったというのが真相では。
49日本@名無史さん:02/12/22 18:56
戦死の一週間前に、後醍醐天皇宛に意見書を書いたというところがエライ。自分は死ぬ、しかしこの
意見書は生き続けるなんて、自己陶酔に浸っていたであろう無駄さ加減&身勝手さが好き。
普通なら作戦会議で意見書どころではないと思うが、そんな浮世離れした性格もユニークで憎めない。
50日本@名無史さん:02/12/22 23:15
>48
横レススマソ。
場所にもよるんじゃないかな?
土佐一条氏なんて例もあるし。

逆に東北だと、朝廷に対する
反感は無かったのかな?とも思うけれど。
51日本@名無史さん:02/12/23 09:27
>>50
一条氏や姉小路氏は、自分の領地で武家化した公家ですね。
京にしがみつくしか能のなかった連中とは、ちと違いますね

朝廷に対する反感もあったかも知れないですねぇ
でも、鎌倉時代の東北って、得宗家の御家人や北条一族の領地が多かったので、
公家が口出しできるような場所ではなかったんではないかな?

むしろ、顕家公にとっての相手は、北条の残党+足利一族(東北だと斯波氏か?)
だけだったと思うが、、、
でも、>>47が言うような書き方をしてる史書は読んだことないなぁ
ソースを希望! でも、>>47氏には、ソースなどないんだろうなぁ?
52日本@名無史さん:02/12/23 09:42
>>47は、ちがうぞ。
【盲目的な信仰心に 支えられた宗教的なノリがあったがために、普通の軍隊より強かった】
この部分は、中先代の乱の諏訪一族と混同してると思われ。
【歩きながらバタバタと死ぬような無茶な強行軍】これは、1回目の上洛戦の事を
言ってるのだろうけど、この時の強行軍だって、後の秀吉の中国大返しよりは遅かったと思うぞ
それに、遅れた軍勢も居たのは事実らしいが、追いついて来れるように野営の場所を決めて
食事と野営の間の休憩は十分に取っていたと、、、、
2度目の上洛戦は、関東に入ってからずっと戦い続けてたんで、スピードは速くはなかったはず
53日本@名無史さん:02/12/23 12:36
いきなり滅んでしまった領主の北条氏の穴を埋める形で陸奥の
在地領主の求心的役割を果たしたのが、北畠 顕家。(鎮守府将軍)
その武力的裏づけを果たしたのが南部氏。北条の残党はむしろ
素直に顕家に従うことの方が多かったようです。在地領主が、
北条に表面上したがっていたことのあらわれでしょう。
54日本@名無史さん:02/12/23 12:37
>51
一条氏が土佐に下向したときは、尊貴な人として
豪族に無邪気に迎えられたと、司馬は書いていたなぁ。

47の風呂の残り湯の話も出ていた。
史実かどうかは・・・
55日本@名無史さん:02/12/23 17:14
一条氏が土佐に下向したのって、いつ頃なんだろう?
>>51は、鎌倉時代の前期くらいまでは、公家=尊貴という事を否定してないと思うぞ
鎌倉後期は、武家の力が増大していた時期なので、形だけの公家は相手にされなかったんでは?
と言ってるだけのような気がする
一条氏が土佐に下向したのが鎌倉末期〜南北朝期なら、>>48>>51は・・・以下略
56しったかぶり:02/12/23 22:50
当時、北奥の得宗領は現地に「地頭代」もしくはそれ以下の「現地管理人」
程度の被官として領地を知行してた者が多かったと思います。
(勿論「地頭」もいましたが) たとえば、糠部の九戸は北条茂時の知行地でしたが、
本人(茂時)は一度も現地に来たことはなかったと思います。いわば平安時代の貴族と
荘園の関係と同じふうになってたと思われます。
 北条氏が滅んで其の知行地を自分のものにしようとするのは当たり前の
動きだったと思います。(内心喜んだ人もいたかもしれません。)
 そういう利害関係で新政府側についた人たちが多かったと思われます。
だから、別に顕家が公家だから従ったとは思えません。
57日本@名無史さん:02/12/23 23:06
ゴクミ顕家に。ハァハァ
ゆ、弓を〜って絶命。ハァハァ
58日本@名無史さん:02/12/23 23:50
>>55
土佐一条氏の始まりは室町時代ですよね。
59日本@名無史さん:02/12/24 02:40
>58
うん、戦国時代になって荘園からの
あがりが京に届かなくなったので
直接荘園を治めに下向したら
あっというまに戦国大名化した。
60日本@名無史さん:02/12/24 21:38
一条氏は、荘園の管理に不誠実な事をしてなかったんだろうなぁ
だから、下向した時に領民から慕われたんだと思うよ。
公家だから受け入れられたというより、領主として受け入れられたに違いないと思う
それだけの何か(何なのかはわからないけど)を持っていたから、時代の流れにのって
戦国大名に転進できたのだと思う。
一条氏や飛騨の姉小路氏は、あおっちょろい無能な公家とはちがって、一本筋の通った
人たちだったと思うですよ。北畠顕家もね。
61日本@名無史さん:02/12/25 11:14
はいはいわかりました
62日本@名無史さん:02/12/27 05:18
大阪市住吉区にある阿倍野神社の祭神は、北畠顕家。
近隣の地名は「北畠」で、北畠公園には顕家の墓が静かに佇んでいる。
63日本@名無史さん:02/12/27 05:24
大阪の住吉区は南朝方の地域だったみたい。
地名の基の住吉大社の宮司の津守家は南朝方で、
津守家の住之江館は、後村上天皇の御座所が約10年間置かれ、
住吉三寺の一つの荘厳浄土寺で後村上天皇は、後醍醐天皇の
大法要を催している。
住吉大社は海神の住吉大神を祭り、瀬戸内の水軍や漁師に信奉者が
多く、南朝の情報網として重要な拠点だったらしい。
64日本@名無史さん:02/12/28 03:51
age
65日本@名無史さん:02/12/29 04:46
後藤久美子の北畠顕家がよかった。

>>62
阿倍野神社にも後藤久美子は来たよ。
66日本@名無史さん:02/12/31 20:36
ゴクミ顕家 萌え萌え(´Д`)ハァハァ
67山崎渉:03/01/11 17:04
(^^)
68山崎渉:03/01/16 09:01
(^^)
69日本@名無史さん:03/01/16 17:29
後藤久美子とやりたい
70南朝北畠軍団:03/01/18 22:37
建武の中興、天皇親政の昔(醍醐天皇・村上天皇)に返りました。北畠顕家も陸奥守
となり義良親王を奉じてみちのく経営の喜びの日々、しかし朝敵足利強欲軍団の謀反
により、あ、その前に北条の中先代の乱、そして足利による大塔宮暗殺そして謀反、
朝敵足利軍、対抗として北畠親房・顕信・顕能(顕家弟・初代伊勢国司)親子は伊勢
に入り後醍醐天皇拠点、京・比叡山・吉野への支援および攻撃基地として他の南朝軍
と連携した。陸奥顕家軍は軍勢10万にして鎌倉を背後から脅かす1大勢力にして、朝敵
足利軍攻撃の後醍醐天皇も信頼する軍団でありましたが、新田勢との合流に失敗し、敵
軍団への集中攻撃が出来ず、敵方の各個撃破の標的となってしまった。残念無念。
以後、伊勢北畠家は、後南朝時代を南朝勢力と共に戦う。よって北畠軍団は誇り高い
軍団であると思います。よって顕家公も誇り高いのです。間違ってたらごめんなさい。
71日本@名無史さん:03/01/19 20:08
北畠顕家議、後醍醐天皇に言上の議不忠也
72日本@名無史さん:03/01/19 23:38
>>69

アレジに轢かれるぞ。

73日本@名無史さん:03/01/20 00:07
北畠久美子とオマンコしたい。
74日本@名無史さん:03/01/20 00:15
北畠クミコ顕家は足利軍に破れた後、瀬戸内海に渡り、大三島で鶴姫様になったとさ。
75日本@名無史さん:03/01/21 23:28
全然関係ないが、漏れ自分の先祖のことなどまったく興味がなかったが、
どうやら北畠家だったらしい。
いぜん親父から話を聞いたことはあるのだが、「ふ〜ん」と聞き流してしまった。
親父が生きているうちに、いろんなこと詳しく聞いてみるわ。
ちなみに、出身は青森。家系図等はまったく見たこともない。
いろんなことわかったらまた報告します。
うちはひどいぞ。親父に聞いた話、根拠あるかないか知らんが先祖が・・・・





     平家の落ち武者だったらしい(マジレス)
77日本@名無史さん:03/01/22 09:34
>>75
浪岡さんっすか?
78日本@名無史さん:03/01/22 09:38
>>76
良いではないか、出自が推測できる分
79日本@名無史さん:03/01/22 19:35
75さん、顕家さんのご子孫ですか? だとすると新発見也か?
80日本@名無史さん:03/01/31 00:28
顕家様、北畠家執権に御座いまする。お久しゅう御座り間する。(ー、-)
660年振りに御座いますなー。まずはお茶・お菓子などお召し下され。
後ほど、ササなど用意させますれば、今日は、冷え込みますがお風邪
など召されては、ささ火鉢におあたり下されませ、積もる話を肴に、
ゆるりとなさりませ。今日は・・・お忙しい処・・・左様で・・・・・
・・・・・・・・・・・・   ・・・・・・   ・・・・・・   ・・・・。
81京童(きょうわらべ):03/01/31 23:30
顕家が大阪の石津川に出陣する際、
後醍醐天皇に対して「3年間税金を免除してあげてください」と
堂々と奏上したそうだ。

かつて後醍醐天皇の伴奏で「陵王の舞」舞楽を舞って誉められたことがあっただけに、
ストレートで堂々と奏上することができたのだろう。

ふつうじゃビビッてできないよなあ・・
82日本@名無史さん:03/02/06 23:42
神皇正統記(岩波)初めに載ってる3年無税、
亡くなる7日前にそっと手紙で出したんでしょ?
83京田辺:03/02/10 02:47
>>82
文(ふみ)を送ったんだっけ。
それにしても、堂々たるもんだ・・ 度胸あるよな・・
84日本@名無史さん:03/02/11 20:59
北畠親房様・顕家様・顕信様・顕能様、おひさしゅう御座りまする。北畠に関する
HP見てると、ミョ〜ニ片寄ったり、織田寄りだったり、重臣落としたり、見るも
無残で御座ります。ここは一ツ金旗を立て風林火山をたなびかせ、大御所様の
神皇正統記を御旗に誰か〜、HP立ち上げて!!だって他の南朝方HP掲示板で
「北畠・・・(笑)北畠・・・(爆)」等見かけたんで正統なHP欲しいなと思い
ました。ごめんなさい。
85ばさらだいみょう:03/02/18 17:22
東北地方には、いろんな時代に京都からの半独立政権が出来ますが,
最後は京都にすり寄る人に、内から滅ぼされてしまうのが残念です。
(前九年後三年の時の安倍、清原、藤原3代や、顕家の奥州軍団、奥羽列藩同盟など)
京都という権威に勝つ事の無かった東北の人の心は、グローバリゼーションという権威に
受身に立つ現代日本人の心の一部として、脈々と受け継がれております。
失礼しました.
86日本@名無史さん:03/02/19 01:13
>>85
何かを崇め奉って、その庇護のもとに走る者は、崇める対象物の存在を
凌駕することは出来ないということを言いたいんですよね。
ばさらだいみょう氏。
鎌倉武士は独自の支配権を求め新しい制度(幕府)を試行錯誤しながら
作っていった。京の権威にすがろうとした、鎌倉将軍たちを闇に葬って。
在東北でパイオニアを目指し、独自の価値観を育ててゆくアイデンティ
ティが東北人(特に北東北3県)には必要なのかもしれないね。
87後藤久美子:03/02/19 01:17
私の演技、よかったでしょ!
あれじ
88日本@名無史さん:03/02/19 04:38
>>85,>>86
あほか。
安倍氏とか奥羽同盟とか、東北人が何かやるとすぐ「日本にも反朝廷思想があった」
みたいな原住民史観みたいな期待をする奴はどうかしてるよ。関東人だって九州人だって、
朝廷の権威をこえるものを打ち立てた日本人なんていないだろ。
89日本@名無史さん:03/02/19 04:55
>>47
遅レスすまそ。
軍事的無能っていうけどさ、この時代の戦争って指揮官は大変なんだよ。
まぁ、いつの時代も大変だろうけど、特にこの時代は、みんな寄せ集め軍隊で、ちょっと旗色が悪くなると寝返るやつばかり。
指揮官の指揮通りに寸分の乱れなく軍が動く近代戦とはわけが違う。
しかも顕家は東北に土着してまだ日も浅かったから、信頼を得るのも大変だったろう。
それがあれだけの大軍をかき集めて、曲がりなりにも2度も上洛しているんだから無能じゃとてもつとまらんよ。
もっとも、2度めの上洛のとき、北陸からの新田軍との合流を避けたのは確かに失敗だったけどね。
90日本@名無史さん:03/02/19 20:55
>89
禿げ同。
>>47のいうのが本当なら、公卿なら誰でも良かったって話になる罠。
91ばさ:03/02/21 20:20
朝廷を倒そうとする反朝廷思想は、無かったといえると思いますが、
時の権威に対する対抗心は,いつの時代もあったと思います。そして、健全な対抗心が
歴史を面白くしてきたのだと考えます。
>>86さんのおっしゃる様に、鎌倉武士は独自の支配権を打建ていき、京の権威を自主的
に利用出来るところまでいきました。奥州人はそこまで行けませんでした。
今にかえって言えば、日本人は、アメリカという権威を、倒すのではなく、鎌倉武士の
ように自主的に利用するべきと思いますが、権威にすがろうとする人は、今も多くおります。
現代日本が奥州の轍を踏まない様にしたいと願ってます。
お邪魔いたしました。
92ばさ:03/02/21 20:24
ばさ→ばさらだいみょう
です。
93日本@名無史さん:03/02/22 18:04
>>91
>鎌倉武士は独自の支配権を打建ていき、京の権威を自主的
>に利用出来るところまでいきました。奥州人はそこまで行けませんでした。

平泉は朝廷に莫大な貢納して摂関家ともコネをもって
京から鎮守府将軍に任じられ奥羽の管理権も合法的に手にいれてたわけなんだがな。
86がいってるのは朝廷貴族に不必要に接近する源氏将軍を葬ったってことでしょ。
もう平家も義仲も平泉も滅んでライバルがいなくなった後の話だから、比較できる話じゃないよ。
94京童(きょうわらべ):03/02/23 21:55
第二次大戦中(大東亜戦争中)の出版物をひもとくと、
顕家に関する部分の表現は、少々つめたい表現が目に付く。

「石津川で流れ矢にあたってはかなくなりました・・」等。
苛烈、忠烈、といった表現がそれほど見当たらないように思われた。

これも後醍醐天皇に宛てた意見書のエピソードのせいだろうか?
95日本@名無史さん:03/02/25 03:15
親兄弟が生き残ってるからちゃうかな?
96日本@名無史さん:03/02/25 03:53
86はアホちゃうか。
源氏将軍を殺したから朝廷の権威から脱したとかいってるけど
源氏のかわりにもっと権威のある摂家将軍を迎え、
さらにはその格上の宮将軍を迎えていただろうが。
本当に権威を脱していたなら、いらないんじゃないの?
97日本@名無史さん:03/03/04 02:03
98日本@名無史さん:03/03/09 06:14
>96
宮将軍より摂関家の方が格上だったんんじゃないの?
99age:03/03/11 19:45
age
100日本@名無史さん:03/03/11 21:06
>源氏将軍を殺したから朝廷の権威から脱したとかいってるけど
86はそんな論理は使ってないな。日本語勉強しろよ。>>96
そういうのを『論理の飛躍』と呼ぶのだよ。メモッとけ?

朝廷の権威にすがろうとしたのは源氏将軍。(とくに晩年の頼朝と実朝)
頼朝は、後鳥羽天皇のもとへ娘2人の入内に奔走したし、実朝は官位の上昇を
ひたすら願い、鎌倉からの脱却を図った。

摂家将軍や、宮将軍をすえたのは、将軍と有力武家との婚姻で幕府内の政治力
学が狂わないようにする北条氏側の配慮と、幕府が、武家政権を京都の側から
正当化し維持するための方便。

将軍が独自性を持とうとしたり、長年にわたって御家人と交流を持つようになる
と、いとも簡単に京に送り返したり、その利用の仕方には露骨なまでの使い捨て
的な露骨な扱いが見えてくる。それを説明しないと君は分からんのかね?>>96
101日本@名無史さん:03/03/21 09:37
>>88
普遍的な意味をもつ抵抗権思想や革命思想なら日本にも昔からありますよ.
ただ,「反朝廷思想」なんていう日本特殊的な性格を帯びてはいなかっただけでね.
102日本@名無史さん:03/03/31 11:54
阿倍野神社(大阪市住吉区)にお参りしよう。
103日本@名無史さん:03/04/08 16:16
上洛しなかったらどうなったのかね?
104日本@名無史さん:03/04/08 18:33
そういえば、二回目は上洛しなくても
何事も変わっていないかもって気がしてきた。
彼が上洛してきたことで、後につながったことって
何があるんだろう?
彼に戦の才能はあったのかな?
転進して奈良で兵散逸させちゃったり、
最後のほうは、何で?っていうのが多い。
せっかくあれだけの身分と才能持ってたんだから、
長生きできていたらなあ・・・。
105山崎渉:03/04/17 14:29
(^^)
106山崎渉:03/04/20 02:08
   ∧_∧
  (  ^^ )< ぬるぽ(^^)
107age:03/04/20 23:38
age
108ゴクミ最高:03/05/12 13:46
大阪市住吉区の阿倍野神社に行ってきました。
北畠親房の「大日本は神国なり」の言葉が残っていました。
109山崎渉:03/05/22 03:28
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
110日本@名無史さん:03/05/26 21:58
親家の嫡子顕家は多賀国府から霊山に本拠を移し、東国における南朝の中心と
なったが、建武五年(1338)石津の戦いで戦死。二男の顕信も霊山・宇津峰の城
を守ったが、ついには吉野に帰っている。
三男が顕能で、建武二年伊勢国司となって一志郡多気に城を築き、多気御所と
呼ばれた。南朝の勢力が衰えてからも伊勢国を保った。以来、代々顕能の子孫
が代々伊勢国司を継ぎ、北畠氏の嫡流となった。

北畠家って普通、伊勢国司であり守護大名を指すのでしょう?
織田責めで、奥州に落ち延びたのが浪岡家でしょ?

私は木造家系の末家で、三重賢人ですが。
111日本@名無史さん:03/05/26 22:00

顕家も伊勢人じゃないの?
112日本@名無史さん:03/05/26 22:09
113日本@名無史さん:03/05/26 23:04
浪岡御所は、南北朝末期に顕家、顕信の子か孫が南部氏、安藤氏の庇護
の下に成立しました。1370年から1400年頃の間らしいのですが
はっきりしていません。二流ありましたが、戦国末に津軽為信の為に滅
ぼされました。
 木造系というのが津軽の木造と関係あるのでしたら、逆に
伊勢を頼って逃れたものと思われますが。
 木造系というのが詳しく分かりませんので間違ってましたらお許しを。
114日本@名無史さん:03/05/26 23:32
>>113
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/koz_kuri.html

余談ながら、幕末、鳥羽伏見の戦いで幕府軍の指揮者であった滝川氏は、
木造氏系滝川氏の最後の当主であった。
115日本@名無史さん:03/05/26 23:35
伊勢の国司大名北畠氏の一族である。北畠顕能の二男俊通が木造氏を称した。
俊通の早世によって弟の俊康(顕泰の子ともいう)が木造氏を継いだ。
俊康は応永二十四年正二位に叙し、同二十七年これを辞して出家している。
 木造氏は他の北畠一門とは違って、明徳四年(1393)に足利義満が伊勢神宮
参詣の時に、「北畠殿」と呼ばれ、さらに木造俊康は義満の烏帽子子となり、叙
爵されている。この時より、宗家北畠氏をはなれて将軍家に属することとなり、
京都油小路に屋敷を建てて、「油小路殿」とも呼ばれるようになった。
 このように木造氏は北畠一門でありながら、足利幕府に仕え、宗家に対して何
度も弓を引いているのである。良泰親王を奉じて北畠満雅が挙兵したとき、木造
俊康は幕府方にあって、留守にしていた木造城を満雅に攻略された。これを聞い
た幕府は土岐持益を先陣として木造城奪回のために出陣、木造城の城番である
義弟雅俊を破って城を取り返し、俊康が改めて入城した。

>木造系というのが津軽の木造と関係あるのでしたら、逆に
>伊勢を頼って逃れたものと思われますが。

逆だろ?
だいたい、南部の伊勢新刀流をどー説明する?
116日本@名無史さん:03/05/26 23:44
>>115

因縁ですな。滝川の一擲というかんじかな?
滝川は、楠家と同じく、伊賀忍者の家系ですが。
117日本@名無史さん:03/05/26 23:46
つい、木造と聞くと青森のそれを連想してしまいました。
浅学の恥でございますね。
118日本@名無史さん:03/05/26 23:56
>>114
>余談ながら、幕末、鳥羽伏見の戦いで幕府軍の指揮者であった滝川氏

鳥羽伏見の寝返りで名を上げた(つうか恥をかいた)藤堂藩(三重県)は、
国司の北畠、木造(伊勢神宮)、久我(公家)などと組んでいたので、
幕府軍の尖兵でありながら、咄嗟に寝返って、同国の桑名藩を撃った。
これが近代の始まり。

木造家(油小路)の裏切りは、受け継がれているわけだ。
奥州の有馬(北畠の別名)と藤堂とは維新後も仲良しだったし。
119日本@名無史さん:03/05/27 13:01
>>118

うちは、その寝返り藤堂の禁裏御灯櫨作り手御鋳物師で、かつ藤堂藩の鉄砲鋳物師
が先祖にいるらしいですが、鳥羽伏見の寝返りの件、おおいに頷けます。

そもそも北条から足利に政権が変わった際に、伊勢国の殆どの旧国司家臣が足利
政権に拾われてます。そして、江戸期になっても、北畠家臣は藤堂家に拾われてま
す。そういう土地柄ですので、寝返りと日和見は当たり前です。
でも北畠国司は公卿だったので、土建大名の藤堂より人気は今でもあるようです。

北畠親房が非難したように、「大和魂」とは臨機応変(利益優先の日和見)のことで
あり、それは忌々しいことであると。しかし、伊勢国は公家の大和魂の塊みたいな精神
風土の国であります。
120日本@名無史さん:03/05/27 13:12
続き

織田信雄が養子になり、伊勢国を奪取しましたが、その年代に、我が先祖は
禁裏鋳物師になっているみたいですので、もろに利権を享受した北畠家臣で
あったと思います(実際に家臣団に家名が掲載されてますし)
同姓の方々は全国(特に瀬戸内や秋田、青森、岩手)に散ったようですが。
そういうことから類推すると、殊更、寝返りが家訓だったのかも知れません。
禁裏鋳物師という資格も金で買ったのでしょう、きっと。

鳥羽伏見の藤堂の弾薬を作ったわけですが、幕府軍の滝川氏とは通じていた
のかも知れませんね。なにせ同根ですから。古代士族で、江戸期に藤堂領に
存在し、明治時代に大金を掴んだ、という経緯は、まさにドラマだと思ってます。
121日本@名無史さん:03/05/27 13:14
>>120 訂正
  古代士族で、→ 古代氏族(〇〇連、伊賀国発祥)
122日本@名無史さん:03/05/27 17:20
北畠顕家の2度目の上洛がなくて、奥州出羽を纏め上げたとして、
さらに九州で菊池武光が病死しなければ、どうなっただろう?
日本の北と西から じわじわと勢力を拡大してくる南朝方と足利方の争い・・・
面白かっただろうなぁ〜所詮ifだけど
123山崎渉:03/05/28 10:46
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎――◎                      山崎渉
124日本@名無史さん:03/06/03 01:23
さるべage
125age:03/07/07 22:18
age
126日本@名無史さん:03/07/09 17:40
ゴクミ顕家 萌え萌え(´Д`)ハァハァ
127山崎 渉:03/07/12 12:05

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
128山崎 渉:03/07/15 11:52

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
129山崎 渉:03/08/02 01:49
(^^)
130山崎 渉:03/08/15 14:38
    (⌒V⌒)
   │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  ⊂|    |つ
   (_)(_)                      山崎パン
131日本@名無史さん:03/09/14 22:05
北畠顕家の東北での拠点はどこだったんですか?
(どこに住んでたんですか?ともいう)
132日本@名無史さん:03/09/16 19:11
顕家の
悲壮な戦死
石津川
      堺カルタ
133日本@名無史さん:03/10/31 09:40
>>131
福島県の霊山じゃなかったか?
134日本@名無史さん:03/11/01 11:00
age
135日本@名無史さん:03/11/01 15:23
北畠顕家の誕生日ってわかりますか?
136日本@名無史さん:03/11/01 19:47
なるほど戦前は義経と並ぶ悲劇の美少年的なイメージだったのね。
137日本@名無史さん:03/11/27 21:52
公家で北畠系有馬氏というのが江戸時代にあったと、あるホームページで見たのですが、他の文献・ホームページなどにはまったくそれに関する記述はなく、信じられる話かどうか迷っています。どなたか詳しいお話をいただけませんか?
138日本@名無史さん:03/11/27 22:02
なぜ後藤久美子なのだ。
なぜゴクミがアキイエなのだ。
139日本@名無史さん:03/12/04 20:46
>>138
いいんだよゴクミと宮沢りえというアイドルシーン稀な共演が
あったのがNHK大河の太平記なんだから
140日本@名無史さん:03/12/04 22:33
>>131
青森県に浪岡御所がありますた。
141日本@名無史さん:03/12/05 02:45
>140
浪岡って顕家とは直接関係ないでしょ?
142日本@名無史さん:03/12/05 02:56
>>141
直接関係があったかどうかは思いのことよの。
143日本@名無史さん:03/12/06 01:27
破軍の星ついに読んだ。
東北地方出身の俺からすれば中世でこういう人物が
まだそのころ未開だった東北地方に
足跡を残したということが新鮮だった。

それから南朝とはいえ後の後村上天皇になる
義良親王が14世紀に東北地方に来たことも
新鮮だった。おそらく皇族で東北地方に来た
初めての人物ではなかろうか?
144日本@名無史さん:03/12/07 08:22
北方謙三なんて読んでて面白いか?俺は糞だと思うが。
それに当時の東北=未開っていう認識じたいも「???」なんだが。
145日本@名無史さん:03/12/07 09:42
いや小説としてはかなり面白いけどな。俺は。
細かい歴史考証云々はどうなのか知らんが。
146日本@名無史さん:03/12/07 19:53
俺も喜多方は糞だと思う。
しかし北畠顕家はカコイイ
147日本@名無史さん:03/12/07 23:14
面白い歴史小説家って誰よ?
148日本@名無史さん:03/12/08 00:28
>>147
俺的には圧倒的に森鴎外なんだが。
149日本@名無史さん:03/12/08 00:36
北畠顕家を書いた小説では。
150日本@名無史さん:03/12/08 00:37
>>149
やっぱ太平記だろ
151日本@名無史さん:03/12/08 17:33
>>150
太平記での顕家はそんなにカコヨクナイ
152日本@名無史さん:03/12/08 23:59
>>148
森鴎外って
153日本@名無史さん:03/12/09 01:06
>>152
ん?どこかおかしいか?
154日本@名無史さん:03/12/09 03:26
森鴎外って最近は叩かれているけど。
文学者としては優れていますよ。
155日本@名無史さん:03/12/09 06:02
>>151
確かに、顕家って大河の太平記ではえらく目立ってたけどw原典太平記では、そんなに目立つキャラクターではないよね。
名前だけは頻繁に出て来るけど、顕家個人の具体的な活躍なんて死ぬとき以外は大して描写されていなかったんじゃない?
156日本@名無史さん:03/12/09 06:17
>>151
顕家の息子って何て言ったかな?顕房?
大河ドラマの太平記ではなぜか今は亡き後藤久美子がこの役だった。
157日本@名無史さん:03/12/09 06:21
>>154
家庭ではいろいろあったそうだがな。
明治を代表する文豪にして陸軍軍医総監。東大医学部に保存されている彼の脳は常人よりかなり重いらしい。

ところで鴎外って、ご飯の上に二つに割った饅頭を乗せ、
上から熱いお茶をかけて食べる饅頭茶漬けが好物だったらしいね。
158日本@名無史さん:03/12/09 21:11
>>156
顕家に息子がいたなんて初耳。
ゴクミが死んでいたことも初耳。
159日本@名無史さん:03/12/10 00:46
>>1
東北制覇って‥‥それは意味がかなり違うんじゃないか?
160日本@名無史さん:03/12/12 11:34
>>155
えっ、そうなの???
だとすれば、顕家が勇猛な若武者だったというのは何を根拠とした話なの?
161日本@名無史さん:03/12/12 15:44
>>158
北畠 顕成っていうのが息子らしい。
162日本@名無史さん:03/12/12 15:46
http://www.oscarpro.co.jp/profile/goto/
まだオスカーに在籍しているぞ。
163日本@名無史さん:03/12/12 19:42
>>160
太平記では、ってことだろ
史実の戦績とか見れば立派なもんだし
164日本@名無史さん:03/12/12 20:09
戦績、立派か?
豪族たちをまとめた功績のほうは立派だけど、戦績となると、
最初のうちよかったのは単に運って感じがする。
二度目の上洛、あれだけの兵数持っといて、
あっさり四散させちゃうって、味方がっくりだろ。
楠木とか新田とか、それぞれ少数で頑張ってんのに、
何のために行軍してきたんだって感じ。
奥州軍も、道々ずいぶん行儀悪かったみたいだし、
「戦」って面では顕家誉めらんないなあ。
165日本@名無史さん:03/12/12 20:19
>>154
森鴎外って脚気の原因の論争で頑なに細菌説を唱えてて敗北したんだよな。
166日本@名無史さん:03/12/13 11:26
>>160
根拠は無いw
強いていうなら、顕家の父親が書いた「神皇正統記」だが、何ぜ親が身内贔屓しまくって書いているものってことであまり評判はよくない。
167日本@名無史さん:03/12/13 11:33
>>166
顕家は後醍醐天皇に正面切って諫言をしたってことで戦後になってから評価が急上昇。
「あれだけ堂々と言いにくいことを言うんだから、頭がきれるだけじゃなくて、さぞ剛胆な人物だったんだろう」ということと
21才という若さで戦場で儚く散ったということから小説家の妄想が限りなくふくらみ、
戦場でも勇猛果敢な美貌の「花将軍」wなんて話になったと思われる。
実際には、他の親王将軍方と大差なく、神輿として軍の中にいたってところだろう。
168日本@名無史さん:03/12/13 17:36
>>161
顕家ってケコーンしてたんだ?相手は誰なんだろ。
169日本@名無史さん:03/12/13 23:19
日野資朝の娘じゃなかった?
とにかく日野氏だった気はする。
170&ΩΨρ:04/01/05 08:10

  顯家さんには、顯信、顯能という2人の弟さんがいました。弟さんたちも
  南朝のために戦っていますね。親父(親房卿)の教育の成果ですね。
171あぼーん:あぼーん
あぼーん
172日本@名無史さん:04/02/08 19:42
私は北畠家一族分家と同じ姓。
同姓の人てあったことないけど(親戚以外)
先祖と思っていいのかなあ。。。
173日本@名無史さん:04/02/09 00:28
上の方で南部のことが結構書かれているが、後の秋田氏になる安東氏も棟梁
自身が北畠顕家と一緒に死んでいることをお忘れなく。しっかしすごいよね。
不倶戴天の敵である、南部氏、安東氏、大浦氏、伊達氏…東北地方の名だた
る武将がほとんど棟梁自ら戦闘に参加しているのだから。これって、北畠顕
家の人徳?
174ty270410:04/02/09 00:39
>>173
安東氏の棟梁の名前を教えてください!
175日本@名無史さん:04/02/09 02:09
北畠顕家の墓は、大阪市住吉区と阿倍野区にまたがる北畠公園にある。
近くには北畠という閑静な住宅街が続き、北畠顕家を祀った阿倍野神社がある。
176日本@名無史さん:04/02/09 07:50
>173さん
 安東氏が、石津の戦いに参加してたという資料を教えて下さい。
 安東氏と名乗るのもまだ先のことだとおもいますが。
 更に、大浦氏はこの時期まだ存在すらしてないはずですが。
 揚げ足とりのようで、恐縮ですが。
177日本@名無史さん:04/02/09 21:24
「今は言えない」
178日本@名無史さん:04/02/09 22:32
もし「外三郡誌」ならすぐに捨てて忘れましょうね。
179日本@名無史さん:04/02/28 18:28
age
180日本@名無史さん:04/03/03 05:06
>>173
不倶戴天の敵になるのはもっと後(戦国時代)の話じゃないの?
181日本@名無史さん:04/03/30 22:59
北畠 顕家 大河化希望
182日本@名無史さん:04/03/30 23:52
後醍醐のようなDQNに仕えたという点があはれを誘うなあ・・・・・
(貶しているだけではないつもり。才能も野心もあるDQNだと思っているけど)
183日本@名無史さん:04/04/05 19:46
北畠神社に参拝しよう!
184日本@名無史さん:04/04/06 22:35
大河ドラマ化しよう!
185日本@名無史さん:04/04/09 23:06
嗚呼っ…顕家っ…
186日本@名無史さん:04/04/24 14:21
南北朝時代に北畠顕家が奥羽の軍勢を率いて上洛した事があるが
焼き討ちやら略奪やら酷かったらしい。
187日本@名無史さん:04/04/27 11:27
何かの本で
所詮は理想にはやった血気盛んな猪公家とかこき下ろしてたな
188日本@名無史さん:04/05/04 22:47
このスレ立てた1です。うわーまだあったんですね、、、すべて通して読んだら勉強になりました、、皆様ありがとうございます。
189日本@名無史さん:04/05/05 17:14
福島の霊山神社とはどういう関係?
190日本@名無史さん:04/05/06 13:49
ゴクミはよかったな〜。カコイー。
191日本@名無史さん:04/05/06 18:19
ゴクミの北畠顕家はエロカワイイ
192age:04/05/16 01:04
age
193日本@名無史さん:04/05/27 02:17
>>187
それはちょっとひどいんじゃないかと。
妙に褒め過ぎているのも引くけど、そういう貶め方も好かんなぁ。

ってことで保守。
194日本@名無史さん:04/05/27 03:24
南朝の柱石として活躍した北畠親房は、南朝勢力扶植の為に日本各地を転戦する。
その足跡は、吉野をはじめ常陸や陸奥など全国各地に点在しているが、なかでも特
に親房が南朝勢力護持の為に力を注いだ地が伊勢であった。南朝本拠の吉野に近
く、また東国へ進出するに当たって良港を多数持つ伊勢の地は、南朝再起には不可
欠の地であった。
 親房ははじめ度会郡玉丸に田丸城を築き、伊勢での拠点とするが、その後田丸城
が北朝側の攻撃により落城したため、親房より伊勢を任されていた顕能は田丸より伊
勢と吉野の中間に位置し、四方を山に囲まれた要害の地、多芸に居館を移し、新たな
る活動拠点とした。以後、北畠氏は、この多芸御所と霧山城を中心に8代具教の時代
まで南勢を中心に勢力を振った。

 現在は北畠神社がかつての館跡地に鎮座する多芸御所。近年発掘調査が進み、
日本最古の石垣や館に付随する施設跡など次々と新しい発見が続く。居館の全貌が
わかる日もそう遠くのことではないかもしれない。また、神社内には居館の唯一の遺
構ともいえる北畠氏庭園が残る。作庭は北畠晴具の義父にあたる細川高国といわれ、
武家ならではの豪放な石組みによる庭園は、国の指定史跡・名勝にも指定されてい
る。霧山城址へは、多芸御所址から裏山の山道を登ること30分でいたることができる。
城址は本丸跡と鐘付堂跡の2つの郭からなり、両郭は尾根道で接続されている。
とくに本丸址にはその周辺部に土塁や堀切などの遺構が今もよく残り、霧山城の見
所となっている。

伊勢と陸奥は明治以降まで繋がっている。津軽藩は伊勢刀流。
195日本史@名無しさん:04/05/27 20:01
「破軍の星」は北方の中でも一番虚像が大きいからなあ・・・。
つうか、普通に東北勢力の傀儡だろ。正面切っては戦えないから、上手く懐に引っ張り込んで旗印を
得て、騎馬軍団をつけて中央に送り出す。まんま炎立つ!だよ。


>>178

裁判勝ってから言えよ。
196日本@名無史さん:04/05/29 21:36
>195
ここを最初からきちんと読みましょう。

http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1050575790/l50
197日本史@名無しさん:04/05/30 07:47
>>196

読んだよ。それで?
198日本@名無史さん:04/05/30 17:22
まあ結局は単なる凡将だったんだろう。実像は

猪公家か。言い得て妙かもな。
199日本@名無史さん:04/06/13 21:54
村上天皇−源師房−顕房−久我雅実−顕通−雅定−雅通−通親−中院通方−雅家−
北畠師親−師重−親房−顕能
顕能は顕家の弟。
顕能−顕泰−満雅−教具−政郷−材親−晴具−具教
具教は織田信長の次男信雄を養嗣子とする。
具教−具房−昌教−昌清−有馬昌範−範久−範忠−範行−重範−範顕−酉松−範治
昌教は流浪の末、津軽藩を頼る。昌範は、有馬姓に改姓し、公卿となる。
有馬範顕(1815〜1873)は公武合体・佐幕派として行動。相次ぐ政変に敗れ、津軽浪岡に隠遁。
新政府樹立後、華族への復帰を試みるもならず。
久我建通の四男通城が北畠姓を称し北畠家再興。男爵。
200-
201日本@名無史さん:04/06/18 23:57
どーでもいい話だが、ジャニーズの新グループ
NEWS(バレーの時に出てた香具師等)の内って子が
村上天皇の子孫だそうなんだが、子供の頃に坊主か霊媒師だかに
「この子は顕家が付いて(憑いて?)る!」と土下座されたとか。
その内くん曰く「顔も似てたらしい」と。ソースは不明だが。
本当に似てるとしたら、結構美男子なんじゃないかと
202日本@名無史さん:04/07/09 23:24
age
203日本@名無史さん:04/07/11 06:19
>>201
霊媒師が見たのはゴクミの顔
204名無しさん@そうだ選挙に行こう:04/07/11 07:21
霊山神社
205日本@名無史さん:04/07/19 03:46
顕家って子供いたの?
206日本@名無史さん:04/07/21 07:10
その子の父親はアレジ
207日本@名無史さん:04/09/05 16:40
>>199
それ大嘘な。信じないように。
208日本@名無史さん:04/09/12 18:46:58
>>199は何を根拠にした説なの?
某サイトでも見たけど資料がわからない
209日本@名無史さん
ゴクミと聞いて三日三晩走り続けやってきました